1.南船北馬集 

第十三編

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南船北馬集 第十三編

 

1.冊数

 1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)

 188×127㎜

3.ページ

 総数:122

 目次:〔1〕

 本文:121

(巻頭)

4.刊行年月日

 底本:初版 大正6年6月11日

5.発行所

 国民道徳普及会

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山形県巡講第一回日誌(村山地方)

 大正五年六月中旬、急に休養を思い立ち、四、五日間豆州熱海に入浴す。ときに浴客稀少、客舎寂寥たり。滞留中の所吟、左のごとし。

  熱海泉場冠日東、景光明媚四時同、春吟念仏山頭月、夏嘯観魚岬角風、

(熱海の温泉は日本で第一と称せられ、景色の美しさは四季を通じて変わらない。春には山の端の月に念仏をとなえ、夏には観魚岬の風にうそぶくのである。)

 また、学生訓一首を得たり。

  春花開処夏風来、秋月懸時冬雪催、嘆息光陰疾於矢、人生日々亦忙哉、

(春の花の咲くところに夏風が吹ききたり、秋の月がかかるときにはやがて冬の雪の気配が起こる。嘆息す、歳月は矢よりもはやく、人生は日々またいそがしいと。)

 長男玄一南洋より帰京するとの電報に接し、十七日、急に帰京す。

 六月十九日。夜九時四十分、上野発にてまず越後に向かう。随行は松尾徹外氏なり。

 二十日 晴れ。暑気強し。午前九時、新潟県三島郡塚山村に着し、親戚長谷川弥五八氏の宅に休憩し、午餐の厚意に接す。本村は杜氏の産地にして、年々醸酒期節には諸方へ出稼ぎをなすという。午後、車行約一里、刈羽郡千谷沢村〈現在新潟県刈羽郡小国町、三島郡越路町〉小学校にて講演をなす。校内の休憩所は明治十年前の建造にかかれる考古〔学〕的校舎なり。この地方は渋海川の両岸にまたがり、東西に山脈を襟帯せる山郷にして、通称小国といい、むかしは製紙を業とするもの多かりしが、今は時勢に伴い養蚕に変ぜりと聞く。当夕は親戚湯本寛治氏の宅に宿す。発起者は湯本氏および校長小熊義質氏、助役内山啓吉氏等なり。当時、農家の挿秧、春蚕ともに全く終了す。

  渋海渓頭路一条、両崖田是総青苗、耕余皆復勤蚕事、生計無家不富饒、

(渋海川のほとりの道がひとすじ、両岸の田はすべて青い苗におおわれている。耕作の余暇にはみな養蚕に力を入れ、したがって生活はすべての家がゆたかなのである。)

 二十一日 雨。朝、塚山駅より乗車し、来迎寺にて換車し、平沢駅にて降車し、北魚沼郡小千谷町〈現在新潟県小千谷市〉に至り、午前、中学校、午後、小学校にて開演す。小学校舎の壮大なるは実に中学校以上なり。当夕は県下屈指の富豪西脇済三郎氏の宅に招かれ、晩餐の饗応を受く。目下、新座敷建築中なり。夜に入りて、旧友医師山本晋氏の宅に宿す。小千谷町は越後縮の産地にして、魚沼三郡中の都会なり。ある人その名を誤りて記憶し、雑炊町と呼びたる奇談あり。また、当町には天竺町、地獄谷、極楽寺の名称あるはおもしろし。主催は西脇、山本両氏なり。中学教諭戒能栄三郎氏、小学校長河本勇治氏等これを助く。郡長武田武門氏来訪せらる。

 二十二日 曇り。汽車にて来迎寺村の実家に至り、亡父二十三回忌の法要を営む。舎弟円成、本年二月一日病没せしにつき、その仏事をも兼修す。

 二十三日 雨。午前九時半、来迎寺駅を発し、新津にて換車し、午後一時、東蒲原郡津川町〈現在新潟県東蒲原郡津川町〉に着す。各地ともに挿秧をおわりて、すでに除草に着手す。また、春蚕もすでに終わりを告ぐ。津川は郡内唯一の都会にして郡衙所在地なり。郡長村井八郎氏は愚息玄一の学友なる由。市街は常波川と阿賀川との中間にあり。その傍らなる山は麒麟の形に似たりとて麒麟山と称す。これにちなみて、停車場と市街との間に架する橋梁を麒麟橋という。郡内は木材、薪炭の産地なり。また、桐樹すこぶる多し。鉱山もまたすくなからず。宿所菱屋には種々の鉱石を陳列す。その町名を狐戻横町と呼ぶ。この街のつき当たりに峻坂ありて、狐も登り得ずして戻れりとの伝説より起これる由。当夕、大善料理店にて郡長、署長等と会食す。警察署長は中村信治氏、税務署長は松田徳三郎氏なり。余は今より三十七、八年前、会津よりきたりてこの地に一泊し、翌朝、和船に駕して新潟に至りしことあり。そのときの旅館菊屋はすでに廃業せし由。本郡は県下の僻陬なりとて、これを新潟県の沖縄と呼ぶ。関西にては僻郡を北海道と呼ぶが、新潟県にては北海道に近くしてかつ交通頻繁なるために、僻郡を呼ぶに沖縄をもってするは、またおもしろからずや。

 二十四日 雨。午後、津川町浄土宗新善光寺にて開演す。主催は郡教育会および慈教会にして、発起は郡長、署長のほかに、視学長谷川政治氏、刑事五十嵐庫治氏等なり。しかして会場住職は清野徳寿氏なり。津川地方の方言は越後語と会津語との混和にして、ツとチとの相違あり。例えば津川をチガワといい、小豆をアジキというの類なり。また、子供をヤヤといい、子を産むをヤヤナスというは方言なれどもおもしろし。風俗としては、学校生徒はみな会津袴すなわちモンペを着用す。また、飯酒は大いに流行し、葬式のときのごときは大酔するをよしとす。客人が酔倒するほどにあらざれば、死人が浮かば〔れ〕ぬというよし。津川より五里山間に入りたる所に、室谷と名付くる僻郷あり。酒を飲むことはなはだし。婦人、子供に至るまで、一人につき五合以上を飲まざるものなしと聞く。

 当日午後四時半、津川を発して山形県に向かう。当町は若松と新潟との中央にありて、いずれへも十五里を隔つ。前後左右、山また山、渓また渓の間を一過し、阿賀川岸をさかのぼりて、会津に入る。車窓所見一首を賦す。

  阿水源頭幾翠屏、越山為緯奥山経、津川一路蕭々雨、万壑帯烟青更青、

(阿賀野川の源のあたりは幾重にもみどりの山々がたち、越後山脈を横糸とし、奥羽山脈をたて糸とす。津川町の道にはものさびしげな雨がふり、すべての山はかすみをおびていよいよ青い。)

 夜半、郡山にて奥羽線に乗り換えて進行す。

 六月二十五日(日曜) 晴れ。早暁四時四十分、山形市〈現在山形県山形市〉に着し、県庁前通りの杉山館に入る。本館とホテルと後藤とは、当市鼎立の三大旅館と称す。杉山館の特色は、吉野定吉と名付くる唖人を湯番に用うるにあり。聞くところによるに、二十年間勤続すという。山形方言にて唖をアッパと呼ぶ。午後、専称寺にて開演せるに聴衆満場、一千二、三百人を算す。教務所管事渋谷智淵氏、浄善寺住職松沢観了氏、見聞寺住職日野了蔵氏の主催なり。三氏ともに真宗大谷派にして、哲学館出身たり。専称寺は東北第一の大伽藍にして十八間四面なり。元禄十六年の建立、今なお茅屋にして巍然林頭に聳立す。檐端四隅に力士の彫刻物あり。左甚五郎の作と称し、すこぶる古雅珍奇を極む。藤井法幢氏が住職代理をなす。この夕、宿所において哲学館同窓会を開催せらる。出席者は前記の三氏のほかに、角張東順氏、畑栄明氏、藤原宏道氏、高橋長五郎氏、長瀬盛氏等十名なり。

 二十六日 晴れ。午前、渋谷氏の案内にて車行一里、当地方の名所、千歳山万松寺境内、阿古耶姫および実方中将の遺跡を訪尋す。その山その寺ともに、名のごとく清風千古の趣あり。ただし堂宇はやや廃頽の色を帯ぶるも、かえって懐古の情を誘起するによし。余、一作をとどめて去る。

  千歳山頭気鬱蒼、万松堆裏坐禅房、欲尋古跡知何処、惟有清風無尽蔵、

(千歳山はうっそうと茂り、幾万の松にうずもれるような禅坊に座す。古い跡をたずねようとするも、それがいったいどこであるのか。ただ清らかな風が限りなく吹くのみであった。)

 住職阿古耶祖山氏は茶碗と竹筍とを恵与せらる。筍は当寺の名物と称し、暑期まで新筍ありという。寺は曹洞宗に属す。帰路、知事添田敬一郎氏、理事官卜部正一氏を訪うに、ともに不在なり。つぎに県庁に至る。新築まさに成りて共進会開催の準備中なれば、庁員多忙を極むるがごとし。これより女子師範学校に転じて講話をなす。校長は西山績氏なり。午後また、同校において市教育会のために通俗講話をなす。市長林兎喜太郎氏、幹事平賀吉治氏等の発起にかかる。山形県は近年、西洋桜実の産地として世に知らる。市内にても各戸の庭内、空地ある所には西洋桜樹を培養す。あたかも長州萩の柑樹におけるがごとし。市街の家屋に瓦ぶきなく、多くはトタンぶきなり。瓦屋根には冬時、その上にさらに防寒の設備を施すを要すという。もって寒気の強きを知るべし。余は明治二十四年夏期、この県下を一巡して講演をなせしことあり。山形市のごときは、その後の大火によつて全く一変せるを認む。

 山形にて聞きたる俗謡を紹介せんに、

  千歳山から納豆餅なげた、花の山形糸だらけ、

 納豆は山形の名物なり。餅を食する場合には必ず納豆餅をつくるという。更に方言をもって山形の名物尽くしをつづりたる俗謡あり。

  山形名物イナゴにガムシ、立って小便ツカミバナ、モンペスガタヤ女按摩、ヌス梅、甘露梅、納豆モツ、

 山形県は庄内地方を除くの外はイナゴとガムシを食用とす。これに醤油と飴とを加えて佃煮のようにこしらう。半年間ぐらいは保存し得るという。市中にてこれを発売す。その原料は山形地方だけにては不足を告げ、庄内や仙台より輸入するに、イナゴ一升およそ十銭ぐらいなる由。ガムシとは水中に浮かべる亀の形をなせる小虫なり。ツカミ鼻は、鼻液をかむに紙を用いず、指をもって一方の鼻孔をふさぎて他孔より吐き飛ばす術なり。モンペは袴と股引とを折衷したるものにして、庄内を除く外は男女をわかたず一般に常用す。按摩に婦人の多きも名物の一なり。ヌス梅はノシ梅の訛音、モツは餅の訛音とす。すべて東北地方はシスヌノチツの発音相混ず。また、市中にて物を売るときに、イラヌカというべき〔を〕イラヌと呼ぶ由。葬式をジャラボウというも一方言なり。

 二十七日 雨のち晴れ。早朝、汽車にて北村山郡楯岡町〈現在山形県村山市〉に移る。山形市はもちろん、全県各郡の開会に対し、渋谷氏の尽力せられたるは大いに謝するところなり。楯岡町は山形市をへだつること約七里、仙台より十六里、新庄へ九里、中央の要駅にして、汽車開通前は毎夕百人以上の宿泊者ありし由なるが、今日は一カ月を総計しても百人に満たずと聞く。しかし旅館は依然として従来の面目をとどむ。宿所笠原館内に掲示せるところによるに、上等宿泊料一円二十銭、中等八十銭、並等六十銭とあり。余が先遊の際、旅宿につき一大奇談ありしもこれを略す。午前、本覚寺(浄土宗)において開演せるは、各宗協和会の主催にして、住職松岡白雄氏および山辺了恵、本田恵了、高橋禅竜等、諸氏の発起なり。午後、第二小学校にて開演す。郡教育会の主催にして、郡長宮本五郎氏、視学細谷代助氏、書記須藤邦明氏等の発起にかかる。

 二十八日 雨。朝気〔華氏〕六十七度、日中また同じく冷気を感ず。汽車にて大石田駅に降り、更に腕車にて行くこと約一里、尾花沢町〈現在山形県尾花沢市〉に至る。楯岡より直行三里と称す。当地は県下第一の積雪多き地にして、毎年丈余に及ぶという。日本全国中、飛騨の高山、越後の高田と並び称せられ、雪地の三傑の名を有す。また、この町に柿本人麿の足をとめし跡ありて、そのときの歌が石碑に刻されて今なお伝わる。

  陸奥の尾花が沢の人なれば、おもたかすりの衣きなまし、

 当地方は雪の名所だけありて、他に見ざる俵靴と名付くるものあり。米俵の中に足を入れ、前に縄を付け、手にて引き上げつつ歩く仕掛けなり。越後のスカリとその用を同じくす。会場は念通寺、主催は青年会、宿所は渡会孫兵衛氏宅、発起は住職花邑法観氏および渡会氏等なり。念通寺の堂側に雪橇〔そり〕四、五台を備えおく。これまた、雪の名所を証するに足る。

 二十九日 晴れ。この日やや暑気を覚ゆ。車をめぐらして大石田町〈現在山形県北村山郡大石田町〉小学校にて開会す。校長は羽賀治郎七氏なり。宿所浄願寺住職永尾覚竜氏は哲学館大学出身とす。しかして町長は安孫子時之助氏なり。連日の霖雨のために最上川満漲し、まさに町内に浸水せんとす。羽州に入りて当夕はじめて蚊帳を用う。このごろは久雨のためにミズが悪いと聞き、飲用水の濁れるかと思えばしからず、道が悪いの意なり。

 三十日 晴れ、ただし日中雷雨きたる。汽車にて楯岡に降り、これより車行一里にして西郷村〈現在山形県村山市〉字名取に至る。休憩所たる医師須藤芳郷氏の邸宅は庭園閑雅にして眺望に富み、遠近の群山雲を抱きて起伏するを見る。また、秧色、蝉声の耳目をたのしましむるあり。会場は時宗蓮化寺なり。午後、更に行くこと二十余丁にして字川島に移る。会場小学校は山腹を切開して建てたるために、眺望また佳なり。当夕、村長工藤伊惣治氏宅に宿す。氏は真宗篤信家にして、自ら宗祖大師法会紀念文庫を宅内に設く。また、庭内に天然ガスの発生ありて、これを点灯および炊事に用う。発起は村長の外に奥山俊栄、杉島智秀、太田実(校長)等の諸氏なるも、福行寺住職那須哲丸氏、主として奔走せらる。この日は旧暦六月一日に当たりて村内みな休む。あるいはヌケ日とも称し、人の皮膚が抜けかわるとの俗説ありという。歯固めのために堅餅と氷をかむを常例とし、また、必ずトロロを食する由。けだし皮が抜けるとか歯を固めるといえる俗説は、蛇より起こりたるものならん。途上吟一首あり。

  一水滔々最上川、梅霖漸霽羽陽天、月山旭岳茫難認、終日猶封雲又煙、

(大地に一水とうとうと流れるのは最上川であり、きりのようにふる梅雨がようやくあがった羽前の空である。月山も朝日岳もはるかにぼんやりとして、一日中、雲とかすみに封じこめられているようだ。)

 七月一日 晴れ。午前、車行一里弱にして大久保村〈現在山形県村山市、西村山郡河北町〉に至る。途中、最上川の渡橋あり、その名を碁点橋という。橋上より川上を見るに、巨石の水中に点在するありて対碁の観あるによる。山形県も過日来、挿秧、春蚕をおわり、昨今除草に着手す。また、所在みな麦刈り最中なり。大久保村は郡内の模範なりと聞く。会場は小学校、主催は丙午会、宿所は村長森直秀氏の別館とす。しかして発起は森氏のほかに助役芦野長内氏、校長小角七之進氏等なり。夜に入りて大雨きたる。

 七月二日(日曜) 晴れ、ただし強風。車行一里半、西村山郡谷地町〈現在山形県西村山郡河北町、東根市〉に移る。会場は小学校、発起は安楽寺住職縄香雨氏、校長高梨利雄氏、町長宇井半左ヱ門氏等なり。宿所対葉館は葉山に対向す。昔時、子供の釜おどりの歌に「浅山葉山羽黒の権現、後先くぼんだ御釜の神様」と唱えしが、葉山はすなわちこの山なり。ただし浅山の名はこの地方になしという。当町の特産は草履にして、一年の収入四万円以上とす。また、本式の水道を有するも名物の一なり。

 三日 晴れ。車行四里、寒河江川の渓間にさかのぼりて西山村〈現在山形県西村山郡西川町〉に至る。道路、佳ならず。山間の僻地なれども鉱山あり山林あり、養蚕地ありて、民家の生計はかえってゆたかなり。村内にては電灯をも使用す。この地は月山の山麓にあり、これより登る道を裏口と名付く。絶頂まで八、九里あるも、一日にて達すべし。登山者は村内の旅館に一泊す。みな精進潔斎をなすという。また、登山の道筋に日月寺と名付くる大伽藍ある由。これ珍寺号なり。開会主催は西山村長奥山小次郎氏、川土居村長荒木勤也氏にして、会場は西山小学校なり。その所在の字を海味とかきてカイシュウとよむ。校長は設楽新蔵氏なり。この村内の迷信は、牛を飼うときは災難ありと信じ、馬のみを用うる一事とす。また、この地方にて家の入口に馬の字をさかさまに張り付けおくを見る。これ、子供の馬脾風〔ジフテリア〕を防ぐ禁厭なりという。

 四日 晴れ。早暁、鵑声に夢を破らる。旅館を発し渡橋して対岸に移り、車行三里半にして郡役所所在地たる寒河江町〈現在山形県寒河江市〉に入る。余の曾遊地なり。昼間は小学校において開会す。その校舎はすこぶる壮大の建築なるも、窓戸はすべて紙張りにして、一枚のガラス戸を用いざるはその特色なり。一見質素の風を示して大いに趣味あり。主催は郡教育会にして、郡長池田繁治氏、視学大沼永造氏等、大いに尽力せらる。町長鈴木廉氏、郡書記鈴木重治氏等助力あり。夜間は真宗大派以速寺において開演す。その主催として哲学館出身藤原宏道氏、もっぱら尽力あり。氏の住職せる寺は本願寺と称す。時宗なり。氏は学進館を設け、町内の青年を教育す。以速寺住職熊谷覚静氏も助力あり。聞くところによるに、当地には特別の方語ある由。氷を売るものは弘法水ヒャツコイと呼び、納豆を売るものはトーワカオワイトと呼ぶ。また、親達が子供に向かいてナカナイデナイテコイという由。これは泣かずして早くきたれの意と聞く。郡内の地名中読み難きは、左沢をアテラザワといい、百目木をドメキというの類なり。寒河江より最上川の渓間に入ること六里にして、大沼の沼地あり。数十の小嶼が水上に浮かび、風なきも自然によく動き、風あればかえって風に逆らいて動く。これを大沼の浮き島と称す。実に一妖怪なり。余、遺憾ながらこれを実視するの時間なく、人の話を聞きて一詩を賦す。

  大沼渓頭有怪池、浮洲出没望中移、逆風能動無還動、造化秘工難測知、

(大沼というところには奇怪な池があり、浮き島が出没するかのように目前に移る。風に逆らって行くかとおもえば、じっと動かずにとどまり、造化の神秘の妙はまことに人知では測りがたい。)

 五日 曇りのち雨。車行約二里、途中最上川を渡橋して、東村山郡豊田村〈現在山形県東村山郡中山町〉字柳沢、曹洞宗柳沢寺に至り、開会かつ宿泊す。この寺は先年火災にかかり、再築ようやく成る。住職は高橋仙応氏なり。主催は温知会にして、会員西塔満寿太氏、同彦治氏、鎌上半兵衛氏、今野、志田、野口諸氏の尽力により、哲学堂維持金のごときは望外の好成績を得たり。山形県は一般に火事要慎周到なるが、本村はことに注意の至れるを見る。平均三十戸ごとに必ず常設夜番小屋を置く。街路二、三丁の間に必ず夜番ヤグラありて、火盗要慎と標榜す。初めてここにきたるものは、いかに火盗の多き村なるかを想起せしむ。物産としては梨実を出だす。

 六日 晴れ、午後小雨。車行約一里、山辺町〈現在山形県東村山郡山辺町〉に移る。宿所は専念寺、その住職山野辺寛伝氏、昼間の会場は小学校、その校長武田荘六氏、夜間会場は了広寺、その住職武田智蔵氏なり。当町の主催は寺院にして、山野辺、武田両氏の発起にかかり、町長、校長、署長これを賛助すという。夜会の方は正信会および婦人会の主催なり。町内の物産としては、従来より蚊帳を産出する由。この日終日、鳥のカッコウカッコウと鳴くを聞く。

 七日 晴雨不定。車行二里、出羽村〈現在山形県山形市〉字漆山に至り、小学校において午前開演す。校長菅野一治氏、明治校長公平重朗氏、篤志家遠藤義作氏等の発起にかかる。午後、高擶村〈現在山形県天童市〉小学校に移りて開演す。宿所は願行寺なり。しかして発起は住職菅生教満氏、村長荻野清一郎氏、校長高橋長五郎氏とす。高橋氏は哲学館出身のかどをもって、開会に関し諸方奔走の労をとられたり。当夜、宿寺において更に一会を開く。願行寺開基は菅生願正坊と称し、蓮如上人の直門にして、蓮師より奥羽教化を一任せられ、錫をこの地にとどめられしとて、今なお遺跡歴然たり。よって一絶を賦す。

  誰教両羽仰悲光、願行開基願正坊、四百年前留錫跡、依然今日徳風香、

(だれが羽前、羽後において仏の慈悲を教えたもうたのか。それは願行寺開基の菅生願正上人である。四百年前の上人が錫杖をとどめられた跡は、そのまま今日に至っても仏のめぐみが香り高くのこっている。)

 本村は八百戸のうち、大字高擶に五百戸あり。そのうちにて小作米三百俵以上を有するもの四十人、土蔵の数百余棟、県下第一の富村をもって称せらる。村内に俗称大名小路ありて、大地主の集合せる所なり。しかして佐藤荘右衛門氏を富豪の長とす。その小作米一万俵ありという。会場傍聴者中に結髪者数名を見受けたり。これまた本村の特色なり。本日、渋谷智淵氏、山形より来訪せらる。

 八日 雨のち晴れ。車行一里半、蔵増村〈現在山形県天童市〉小学校に至り午前開演す。助役佐藤太馬治氏、校長渡辺吉之助氏、僧侶村井了慶氏の発起なり。これより更に行くこと約一里にして天童町〈現在山形県天童市〉に入る。郡会議事堂において開演す。郡長永井秀蔵氏、助役木口市之助氏、校長小杉豊次郎氏、善行寺住職三森智融氏の発起にかかる。演説後、約十町を隔つる津山すなわち鎌田温泉場二見館に移る。明治四十四年、田間に掘貫井をうがたんとして、図らず〔も〕温泉を発掘せし由。越前芦原温泉に似たり。田頭に新設旅館九戸あり、そのうちにつきて二見館を第一とす。四面秧色青々、これに連なるに夏山の蒼々をもってす。吟眸もまた青く染められたるがごとき観をなす。

  繞屋秧田連夏山、入軒青色映吾顔、客楼幸有神泉湧、一浴人医百病還、

(家屋をめぐって青々と田が広がり、夏の山々の濃い緑に連なる。軒に入るその青みは私の顔にも映るように思われた。旅館では幸いにして霊妙なる温水が湧きでて、ひとあびすればもろもろの病をいやすのである。)

 今夕、郡長、校長、助役、局長等と楼上にて会食す。夜に入りて、蛙声耳を破るもまた一興なり。宿泊料一等一円、二等七十銭、三等五十銭、その廉なるに驚く。天童より山隈に入ること二里の所に、山形県第一の霊場宝珠山立石寺あり。俗に山寺と称す。慈覚大師の開基にかかる。奇石怪岩の間に仏堂点在し、人目を眩せんとすると聞くも、これまた時間なきをもって登拝するを得ず。ただし絵葉書に接して所見を述ぶ。

  奇巌兀々樹蒼々、林際無家不仏堂、借問羽陽何寺好、皆言立石古霊場、

(奇怪な岩々がそびえ、樹々も青々と茂る。林のそばにたつ建物はすべて仏堂である。ためしに羽前においてどの寺がよいかと問えば、みなは立石の古霊場であるという。)

 山形市よりこの寺まで三里ありという。その間、腕車を通ずる由。

 七月九日(日曜) 晴れまた雨。午前、天童駅より乗車、上山駅に降り、これより車行二十五町、南村山郡中川村〈現在山形県上山市〉小学校にて午前開演す。郡視学芳賀秀雄氏は肥大の体躯を動かして案内せらる。校長成橋平三郎氏等の主催なり。午後、車をめぐらし上山町〈現在山形県上山市〉法円寺にて更に開演す。当寺住職上月信暁氏、願成寺住職亀井隆慶氏の発起なり。この地の温泉には一昨年入浴せしことあり。名物は饅頭なり。明治維新当時の俗謡、今なお伝わるという。

  出羽にて庄内、最上にて上の山、こゝは会津の東山、

 宿寺法円寺にて按摩を雇いしに、上下十五銭なり。

 十日 曇り、ときどき細雨きたる。このごろの寒暖は〔華氏〕七十度より七十五度の間なり。上山駅より金井駅まで汽車、更に腕車にて行くこと十五丁、堀田村〈現在山形県山形市、上山市〉成沢小学校に至りて午前開会す。東部教育会の主催にして、校長木村喜蔵氏の発起にかかる。この字より山間に入ること二里半にして、高湯温泉あり。夏時、入浴の客すこぶる多しという。午後、腕車にて走ること一里半にして、本沢村〈現在山形県山形市、上山市〉明円寺に移り、昼夜二回開演す。住職本沢徳秀氏の主催にして、東谷励学氏、佐藤顕正氏、半田源作氏、悪原長蔵氏これを助く。本村には悪原の姓あり、平将門の後裔と伝聞す。本村は耕作一色の農村にして、田地一反の収穫六、七俵、小作料は三俵、一反歩売買相場は三百五十円ぐらいとす。農家一戸につき、一丁ないし二丁歩を耕すという。冬時の副業としては、蓆および畳表を織る由に聞く。

 十一日 晴れまた雨。車行一里、途中大雨に遇う。一山あり、その形円錐状をなす。これを富神山と称す。山形市を挟みて千歳山と対立する霊山なり。その麓に柏倉門伝村〈現在山形県山形市〉あり。小学校において開演す。西部教育会の主催にして、村長伊藤忠氏、校長渋谷光雄氏の発起なり。校内に炭積みて山を成す。一年の消費高二千百貫目の定額なりと聞く。しかして一貫目の価は八、九銭なり。宿所は長泉寺なり。夜に入りて、久しぶりにて月色を見る。

 十二日 晴れ。およそ十日ぶりにて晴天を見る。車行約一里半、山形駅にて乗車して上山駅に降り、南部教育会のために上山小学校にて開演す。校長中村能好氏等の発起にかかる。郡長木村忠恕氏出席せらる。休憩所は温泉旅館近江屋なり。哲学堂講習会出講のために、当夕十時発にて帰東の途に就く。

 ここに村山地方にて聞ける県下の方言を列挙せんに、

醤油をタマリという。イナゴをナンゴ、蛙をヒキ、ヒキカエルをガマ、シャモジをヘラ、マムシをクッチャビ、氷柱をボンダラ、嘘をズホといい、嘘ツキをズホツキといい、ソレハ嘘ダロウをソレハズホダロウという。ジャガタライモをヤコロ芋(弥五郎芋ならん)または四国芋とも四石芋ともいう。

婦人が雪中にかぶる頭巾をオコソという。

食物にきのこの飴色にて滑らかなるものをナメコといい、山菜にショウデ〔シオデ〕というものあり、浸し物に用う。

 西村山の山中にては飯をオヤワラというはおもしろし。オコワ飯に対する語ならん。汁をオハシリというは解し難し。また、山形県は宮城県などと同じく、できると出るとの相違あり。子供が学校へ出ていることをできているといい、家を出たことを家をできたという。語尾にノスまたはナスを添う。ソウダというべきをソウダノスまたはソウダナスという。山形市にて奇談あり。朝、黄瓜売りが街上をキュウリハイリマセンカナスといいつつ歩くを聞き、他県より寄留せるものが、キュウリとナスとを売ることと思い、キュウリはいらぬが、ナスをくれといいたれば、ナスはアリマセンナスと答えたる由。この語尾にナスを添うるは、かえって敬語なりと聞く。

 つぎに風俗の目に触れたる二、三点を挙ぐるに、外来人に第一に注目せらるるものはモンペなり。また、婦人が田畑にて除草するときに用うる笠代用の帽子あり、すこぶる異風なり。また、木皮にてあみたる釶袋ありて、男子はこれを帯びて行く。住家につきては、土蔵中に座敷を設くる家多し。屋上には市街と村落とを問わず、必ず鎮火貯水桶を置く。村落ところどころに夜番小屋、軽便ポンプ、消火器を備うるなど、人をして山形県ほど火災を恐るる地方は他になかるべしと思わしむ。ことに特色とすべきは、漆の赤塗りの多き一事なり。家屋の柱はむろん、風呂桶、水桶、柄杓、杓子、便器に至るまで、薄く赤黒に塗りたるものを用う。小学校の校舎にガラス窓の代わりに紙を用うるもの多きも、特色の一に数うべし。農家の食事は年中を通して一日三回を限りとする由。他県の五回、六回食するに比すれば少量なるを感ず。つぎに迷信につきては、さきに西山村の下に掲げたるものの外、物の軽重を計りて吉凶を判断する方法あり。北村山郡大高根村字白鳥に銅製の不動尊あり。西村山郡西里村字畑中に石像の弘法大師あり。同村字ネキサトに観音の像あり。いずれも手にてこれを挙げ、その軽重によりて吉凶の判断をなす。

また、北村山郡富本村字湯之津にては、土蔵を建つれば必ず災いありとて、これを建つるを禁じおる由。米沢市内の古田町にも、これと同様の迷信ありと聞く。また、民間にて狐につかれたるものある場合には、必ず宮城県岩沼の竹駒稲荷へ参詣するを常例とす。かくすれば必ず落つると信ず。県下の宗教に関しては、曹洞七百カ寺、真宗百五十カ寺を最も多しとし、真言、浄土、天台、日蓮これに次ぐ。寺院に財産なく、単に檀家の信施にて生活することはすこぶる困難なり。葬式の礼金が五銭以上一円を普通とする由に聞く。今より寺院の収入を増加する道を講ぜざれば、宗教を振起すること難し。

 七月十三日。朝、帰京。

 十六日より二十二日まで一週間、哲学堂において講習会を開く。講題は「活仏教」にして、細目は左のごとし。

  十六日(理論)教史論    (応用)人心観    (実際)教会法

  十七日(同)教理論    (同)社会観    (同)布教法

  十八日(同)万法論    (同)国家観    (同)行事法

  十九日(同)真如論    (同)文明観    (同)葬祭法

  二十日(同)因果論    (同)戦争観    (同)慈善法、慰問法

  二十一日(同)小乗論、大乗論(同)教育観、迷信観(同)教養法

  二十二日(同)諸宗論、世間論(同)衛生観、実業観(同)自活法、教財法

 二十三日。相州逗子養神亭に遊び、海浜に散策を試みて一首を浮かぶ、「逗子口占」と題すべし。

  清沙浅水幾湾々、逗子之浜連葉山、七月都人来避暑、浴潮諷汐楽忘還、

(清らかな砂と浅い水浜がいくつかの湾をなし、逗子の浜は葉山に連なっている。七月は東京からの客が避暑にやってきて、みちしおに浴び、ひきしおにうたい、楽しんで、かえることを忘れるかのようである。)

 昨今海水浴の季節にして、客室満員の盛況を呈す。ただし宿泊料の高価なるには一驚を喫せり。朝食八十銭、昼食一円、夕食一円二十銭、ほかに席料一円、合計四円なり。翌日帰京す。

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山形県巡講第二回日誌(置賜、最上、庄内地方)

 大正五年七月二十八日。夜、大雨をおかし、十一時上野発にして再び山形県巡講の途に就く。随行は大富秀賢氏なり。

 二十九日 雨。午前十時、山形県米沢市〈現在山形県米沢市〉に着す。車中の所見を賦すること左のごとし。

  奥野無涯望渺茫、千山自遠百川長、車経福島途初険、隧道三過入羽陽、

(奥羽の野はかぎりなく広く、望めばいよいよ果てしなく、山々はおのずから遠く、もろもろの川は長々と流れる。車は福島をへて、道はようやくけわしさを増し、トンネルを三たびすぎて羽前に入ったのであった。)

 午後、議事堂にて開会。主催は市学事会にして、女学校長近新次郎氏、同教諭富永周太氏等の発起にかかる。公園および上杉神社等の名所は、先年すでに巡覧せしことあり。宿所は茜屋なり。近氏、鷹山公〔上杉治憲〕の小伝を示さる。一読の後、所感一首をつづる。

  米沢由来生計豊、昼耕夜織自成風、再遊今日読遺訓、想起鷹山公徳洪、

(米沢の地はもともと生活が豊かで、昼は耕作、夜は機織りをしておのずから風俗となっている。ふたたび来遊して、いま遺訓を読み、上杉鷹山公の徳の偉大さを思うのである。)

 米沢の俗謡を聞くに、「吾妻山から納豆餅ブンマイタ、米沢一面糸ダラケ」というあり。前掲の山形俗謡と相同じ。また、米沢特殊の発音ありて、リをイという由。すなわちリンゴをインゴ、草履をゾウイ、隣家をインカと呼ぶの類なり。哲学館出身者神津包明氏は米沢中学に奉職す。

 七月三十日(日曜兼明治天皇祭) 晴雨不定。車行一里余にして、南置賜郡窪田村〈現在山形県米沢市〉に至る。会場および宿所千眼寺は、境内に保呂羽堂ありて遠近より信者来詣すと聞く。故をもって、門内に魚類を入るるを許さず。開会発起は住職鈴木哲眼氏、村長石沢清作氏等なり。境内蝉多く、その声午眠を破るのみならず、夜中は群蝉火を見て室に入りきたる。置賜地方の風俗を聞くに、イナゴ、ガムシを食するのみならず、トンボのいまだ羽化せざるものを食す。これをアケズカツカという。トンボの子の義なり。小トンボをアケズといい、大トンボをヤンマという由。また、コウモリも婦人の血の道の薬なりとて食するものある由。

 三十一日 曇りのち晴れ。車行一里余、糠野目駅にて汽車に駕し、赤湯駅にて換車し、西置賜郡長井町〈現在山形県長井市〉に降り、午後、小学校にて開演す。校舎すこぶる壮大なり。主催は郡教育会および仏教講話会連合にして、郡長伊藤大三郎氏、郡視学高橋貞太郎氏、校長相馬雄作氏、法讃寺住職井上豊忠氏、薬師寺住職佐藤智猛氏等の発起にかかる。宿所は角万旅館なり。前は茅屋にして奥に高楼あり。風呂桶は重箱形にして赤塗りなると、湯殿、便所みな赤塗りなるとは、やや異彩を放つ。

 八月一日 炎晴。郡書記馬場直記氏とともに車行三里、最上川に沿いて下行し、荒砥町〈現在山形県西置賜郡白鷹町〉に至る。所在みな養蚕地にして、桑林多きもすべて立木なり。その高さ往々屋棟以上なるあり。途上吟、左のごとし。

  両脈青山一帯川、茅軒桑樹岸頭連、仙源今日勤蚕事、繭欲就前人不眠、

(二つの山脈が青々として、一本の川がよこたわり、かやぶきの軒に桑の木がのびて岸べに連なる。仙人が住むようなこの地は、今日、養蚕に励み、まゆが作られようとするときには人もまた眠らずに守るのである。)

 主催は郡教育会、発起は助役本間猪吉氏、織物組合長長岡不二雄氏等なり。宿所梅川は旅館にして呉服商を兼ぬ。本町は山間の小市街なるも、山形県下養蚕最盛地の中央にあるために遊廓を有す。この町内に属する大瀬部落に、維新前より唱えきたれる妖怪寺あり。宝蔵坊と称し、真言宗なり。その寺に入宿するときは、夜中必ず妖怪のために悩まさるるという。その由来は、今より百年前の住職が白狐を愛することはなはだしく、あたかも猫のごとく近づかせおきたりしが、住職死してのち二、三年の間にその狐全く姿を隠せり。これより妖怪寺の評判高まり、明治維新の際のごときは米沢藩士ここに宿して、妖怪に襲われし怪談もあり。その後久しく無住となりおるありさまなれば、四、五年前、山形新聞社の発起にて探検せしことあるも、なんらの怪物を発見せざりしと聞く。

 二日 炎晴。車をめぐらすこと二十五丁、東根村〈現在山形県西置賜郡白鷹町〉永泉寺に至りて休泊す。住職迎田奕雲氏は哲学館出身なり。また、前住の弟子富永宗明氏も同出身なりしも先年死亡せり。昼間は小学校、夜間は宿寺にて開演す。当夕、伊藤郡長来会せらる。発起は迎田氏の外に村長紺野格堂氏、校長中村哲次氏あり。宿寺は山腰に踞し、人家を離るること三丁、蕭森かつ清涼なり。よって一吟す。

  山寺蕭森夏日長、蝉声松影繞禅房、講余閑酌傾般若、煩悩熱鎖心自涼、

(山腰にたつ寺はもの静かに落ちついて、夏の日は長い。蝉の声と松の姿が寺院と僧房をめぐっている。講演の後に、しずかに酒をかたむければ、俗世の悩みも暑熱も忘れて、心もおのずから涼しいのである。)

 門側の薬師堂に、天然の孔あき石を糸にてくくり、これを格子戸にかくるもの数十個あり。これ、聾者が耳のきこゆるようにとの祈願なりという。この界隈は養蚕地にして、目下夏蚕最忙期のために聴衆いたってすくなし。対岸に蚕桑と名付くる一村あり。これをコグワとよむ。実に名のごとく蚕と桑を本業とする由。

 三日 炎晴。今朝、山形県名物納豆餅を一喫して永泉寺を発し、車行二里余にして長井駅に至り、これより汽車に駕し、東置賜郡宮内町〈現在山形県南陽市〉小学校に移りて開演す。発起は町長鈴木幸松氏、正福寺住職高橋善隆氏、助役梅沢亀之助氏、新聞記者茂出木源太郎氏等なり。宿所得月楼は料理を本業とす。主人宮沢三郎氏も発起の一人なり。本町には製糸場多し。また、町内の熊野神社は祭礼をもって聞こゆ。毎年七月二十五日の大祭には非常の群集をなし、社より出ずる獅子面の額を撫し、その手を己の額に付す。これ、年中頭痛を起こさぬマジナイなりという。

 四日 晴れ、午時小雨きたり、のちまた晴るる。須藤大道氏とともに車行一里余、赤湯町〈現在山形県南陽市、上山市〉小学校に至りて開会す。校舎新築中なり。宿所湊屋は当地第一の温泉旅館にして、一名御殿守という。これまた目下改築中なり。余は一昨年ここに宿せしことあり。その家の外戸に「鎮火水婆大神」と書したる紙片を張りおけるを見る。これ、防火のマジナイなるべし。丘上に登りて一望するに、稲田往々新穂の抽出せるを見る。この日、郡長武水速水氏の代わりに視学毛呂百人氏来訪せらる。

 五日 炎晴。午前八時、赤湯発、正午、新庄〔町〕〈現在山形県新庄市〉着。この距離二十四、五里の間、約四時間を要す。新庄は旧城下なるも、一時衰微に傾きしが、鉄路開通以来、その中枢に当たりてにわかに発展す。壮大なる日本式ホテルあり、これに休泊す。その名を新庄ホテルという。午後の開会は郡教育会の主催にして、郡長井下多美雄氏、首席郡書記舟生成美氏、郡視学小川茂之氏、小学校長隠明寺常太郎氏等の発起にかかる。会場小学校は、校内の清潔と、女生徒の運動に鎗術を行わしむるをもってその名高し。夜に入りて、仏教徒の依頼に応じ、大谷派善竜寺において更に開演す。聴衆満堂。発起は会場住職本沢徳重氏、会林寺住職梅津桂堂氏等なり。聞くところによるに、郡内の僻陬たる小国郷にて春来チブス蔓延せしことあり。郡衙および警察にて検閲に出張したるに、毎戸の入口に「吉三は居らぬ」との張り紙あるを見、その故を問えば、この地方にてミコをオナカマという由。そのオナカマが教うるに、本年は八百屋オシチの年忌に当たれるために、その霊が地方をめぐりて人に取りつき、病気を起こさしむるなり。故にこれを防ぐには、「吉三は居らぬ」と張り出だしおけばよろしといいし由。また、他のオナカマが語るに、一度に餅三合食すればその病を免るといいし由。今日かくまで教育の開き、知識の進みたるにもかかわらず、かかるマジナイを信ずるものありとは奇怪千万ならずや。そのために病気蔓延せるに至れりと聞く。迷信もここに至りて極まれりというべし。

 最上郡は村山と庄内との中間にあるも、方言、風俗の特殊なる点すくなからず。村山地方にて語尾に付くるナスの代わりにジューを付くる由。例えば、ユカネカというべきをユカネカジューというの類なり。人の家を訪うて、今日はというべきをハイトといい、去るときにサヨナラというべきをボダラという由。街上に物を売り歩くに、イリマセヌカをエキスカといい、イリマセヌをエキスという由。トンボをアキコといい、氷柱をスガという。また、風俗中にて最も珍しきは、郡内一般に正月元日に餅を食せざる一事なり。正月三カ日間はみな普通の米飯を食し、十日後に至りて餅を食すと聞く。しかして七月の盆には餅の代わりに赤飯を用うる由。また、俗謡としては「佐渡と越後の境の桜、花は越後で実は佐渡に」と唱うるものあるも、その歌の起源を知るものなし。ただし伝説には、その桜は婦人の帯三本つなぎてまわすほどの大木なりという。

 八月六日(日曜) 晴れ。暑さはなはだし。午前すでに〔華氏〕八十四度に上る。炎暑をおかして郡書記渡部大信氏とともに車行二里、鮭川村〈現在山形県最上郡鮭川村〉に至る。途中、丘陵多く荒原ひろし。しかして渓谷間に水田あり。最上川の鮭が渓流をさかのぼりてこの村に至る。よって川名、村名ともに鮭川という。会場は小学校、宿所は八鍬小助氏宅、発起は村長荒木仁右衛門氏、校長鈴木義光氏等なり。この隣村に安楽城村あり。これをアラキとよむ。珍名なり。その村に大日如来あり。その画像はすこぶる古きものにして、見る人に応じてその形異なりとて、遠近より信者群参すと聞く。これ妖怪の一種なり。

 七日 炎熱やくがごとし。朝七時、小舟にて鮭川を下るに、水緩にして舟すすまず、水路二里の間、三時間を費やし十時ようやく津谷駅に達すれば、汽車すでに発せり。小店に憩うこと三時間、午後一時、乗車して飽海郡南平田村〈現在山形県飽海郡平田町、酒田市〉に向かう。ときに驟雨と迅雷と一時にきたる。砂越駅に降車し、更に行くこと十余町にして南平田小学校に着す。ときまさに四時ならんとし、聴衆、わが行のおそきために待ちかねおれり。演説後、同村飛鳥梅木旅館に入宿す。発起は村長斎藤岩吉氏、書記佐藤清次氏、軍人分会長阿曾正作氏、学校訓導伊藤吾尋氏なり。この夕、本間惣太郎氏酒田より来訪ありて、ともに会食す。本村に古来迷信ありて、その氏子中には鳥獣の肉はもちろん、鶏卵までも食することを禁ぜられ、もしその禁を犯さば必ず神罰ありと唱えおれり。その当時、鶏卵を食するときは必ず口中がはれたりという。しかるに今日その禁を解かれたるに、鳥獣肉を食しても神罰を受くるものなしとの話を聞く。この地方は庄内中、蚕業最も盛んなる地とす。村内は井水赤くして泥色をなし、飲用すべからず。

 八日 炎晴。車行約二里、渓山の間に入る。会場および宿所は竜雲寺〔田沢村〈現在山形県飽海郡平田町〉〕にして、新築の禅寺なり。終日、鴬語、鵑声の相交わるを聞くは、大いに趣味を添う。昨今秋蚕期にして聴衆いたって少なし。発起は村長土田石之助氏、校長尾形直吉氏、青年団長阿部寛造氏等なり。この地より松嶺町まで一里半あり。庄内に入りて山河を一望し、一首を浮かぶ。

  荘内山河堪仰望、風光自使人心壮、月峰如虎鳥峰竜、恰似両雄相対抗、

(庄内の山河は仰ぎ望むべく、光風はおのずから人の心に壮快な思いをいだかせる。月山は虎のごとく、鳥海山は竜のごとく、あたかも両英雄が対決するに似ている。)

 九日 晴れ、炎熱、午後小雷雨きたる。車行二里半、稲田二、三分どおり出穂す。会場は東平田村〈現在山形県酒田市〉生石小学校、宿所は池田旅店、発起は村長高橋直蔵氏、校長渡部年綱氏なり。当地方は旧暦を用う。本日は旧盆十一日に当たり、地方の慣例としてこの日、山に入り草を刈りて肥料をつくるために、聴衆はなはだ少なし。

 十日 炎晴。車行三里半、遊佐村〈現在山形県飽海郡遊佐町〉に至る。鳥海山麓に位す。頂上まで九里と称するも、実際五里、健足のものは一日に登降するを得。また、この地より吹浦を経、国境有耶無耶関まで三里半あり。会場は小学校、主催は七カ村連合、発起は村上専之助氏、高橋惣右衛門氏、高橋儀三郎氏および藤原良智氏なり。藤原氏は東洋大学出身のかどにて、大いに尽力あり。しかして宿所は土門旅館なり。医師堀文悦氏は古代石器を貯蔵す。本村にも本願寺あり、浄土宗なり。京都には東西両本願寺あり、山形県には南北両本願寺あるはおもしろし。前記の寒河江町本願寺は南に当たり、本村の本願寺は北に当たる。また、この地方に日向川と月光川との二流あるもおもしろし。

 十一日 晴れ、ただし風ありて涼し。車行四里、砂丘にそって酒田町〈現在山形県酒田市〉に入る。この日、旧盆十三日に当たり、民家は軒前に藁にて造れる馬と馬引きとの人形をかかぐ。これ亡霊を迎うるの意なりという。午後、公会堂にて演説をなす。主催は各宗寺院、仏教青年会および弘道会にして、発起かつ尽力者は菊池秀言氏、本間惣太郎氏、向山政直氏、白崎良弥氏、大滝宗淵氏、松井権平氏、前田了恩氏、鈴木義範氏、久村慶作氏等なり。なかんずく本間氏、最も尽力あり。菊池氏は大本間菩提所浄福寺の住職にして、余の旧識なり。その令息公導氏は東洋大学出身たり。また、大滝氏は大仏寺をもって知らるる持地院住職にして、旧哲学館出身たり。宿所村上旅館は大鳳閣と称す。その楼はまさしく鳥海山に面する故、余は「対峰楼」と書して館主に贈る。あるいは鳥海の雅名を鳳岳と称する故、対鳳楼と名付けても可なり。この夕〔華氏〕七十七度、やや秋冷を覚ゆ。しかして清風明月ともに座に入りきたる、あに一詠さぜるを得んや。

  酔余客窓詩欲題、未秋今夜気凄々、四山雲尽天如水、明月高懸鳥海低、

(酔って旅館の窓べに詩を得ようと思うに、いまだ秋というには早い今宵に、気配がさむざむと起こる。四方の山々に雲もなく、空はすみわたり、明月が高くかかって、下に鳥海山がのぞまれる。)

 旅館は村上の外に三浦屋、渡辺等あるも、みな大ならず。酒田には蚊、蝿ともに稀少なり。

 十二日 晴れ。午後、高等女学校講堂において講演をなす。郡学事会の依頼に応ずるなり。しかして発起は郡長藤沢無則氏、郡視学向山政直氏、小学校長五十嵐三策氏なりとす。この夜また、一天四海月一輪の観あり。

 酒田の名所としては、日和山公園、日枝神社、即仏堂ミイラなり。しかして日本第一の豪農の評ある本間家の別荘も名所の一に加わる。本間家はその邸宅本町一丁目にあるをもって、人呼びて単に一の町という。むかしは「本間さんには及びもないが、せめてなりたや殿様に」との俗謡ありて、小作米十万俵と聞きいたりしに、このごろでは小作米三万俵との評なり。ただし庄内にては米五斗を一俵とす。ここに庄内地方中、酒田固有の方言を列挙せんに、弟をウジャといい、赤ン坊をボンボという。人の家を訪うとき、今日はというべきを、男はナーといい、女はネーという。帰るときにサヨナラというべきをタダイメという。その他、庄内一般に通ずる方言は後に譲る。俗謡としては酒田名物オバコ節あり。左にその一、二を抄録す。

酒田サンノ山でエビ子とカジカ子が相撲とたば、エビ子なぜにコシャまがた、カジカ子と相撲とってなげられて、それでコシャまがった、

オバコ心持、池のはた蓮の葉のたまり水、少しさわるてと、コロコロころんでソマおちる、

水がくるかやと田甫のハンジレまで出て見たば、水もくるくる月もすみ、花も流れてナミナミと、

「(注)サワルテトとはサワレバの意、ソマとはスグの意、ハンジレとは端の義。」

オバコくるかやと田甫のハンジレまで出てみたば、「コバエーチャ、コバエーチャ。」オバコ来もせず、用のないタンバコ(煙草)ウリなどふれて来る、

 右は秋田県のオバコ節と大同小異なり。これを酒田名物と称すれど、山形県一般に行われおれり。また、最近酒田流行の俗謡は左のごとし。

  仰げば高き鳥海の、俯せば流るゝ最上川、日本海には真帆片帆、ホンにゆかしき酒田港、

 さきに秋田県紀行中に掲げたる飛島は飽海郡に属し、酒田より二十海里、夏時毎日汽船の往復あり。ここにその風土、方言につきて伝聞せるところを記さん。飛島方言としては母をアバといい、父をマーといい、アナタをンガといい、夜寝に就くときにお休みなさいという代わりにヌクアツマレという由。消防隊は婦人によりて組織せられおるは天下一品なり。昔時、男子はみな漁業に出かけ、婦人のみ家を守りし際に大火ありしために、婦人に消防を教うることとなれりという。また、仏前に礼拝を行うに拍手を用うるも異風なり。酒田にて客がいとまごいして後、再びきたりてとどまることを飛島挨拶と称する由。その意は、飛島のもの酒田にきたり、親戚知人を訪問し、すでにいとまごいして発船所に至れば、風波天候のために出船せぬ場合多し、そのときは再び戻りきたる故なり。

 八月十三日(日曜) 炎晴。風やや強し。過般来、連日東風吹ききたる、これをダシという。しかして西風をクダリという由。山形県は秋田県と同じく風は東か西を常とし、北風南風はいたってまれなりと聞く。朝、酒田を発し、最上川第一の長橋、竜雲橋(長さ百八十間)を渡り、迂回して西田川郡東郷村〈現在山形県東田川郡三川町〉に至る。入村の所に赤川の渡船あり。行程約五里。本村は庄内三郡中、唯一の模範村なりという。村内には一戸の旅店も飲食店も商店もなく、一人の車夫もおらず、すべて耕農のみなるに、戸々みな電灯を用うるは真にその特色とすべし。しかして会場小学校の建築の堅牢なると、教員住宅の完備せると、校内に図書館の設備あるなどは、模範村の一端をうかがうに足る。この日、本郡視学桜井好敏氏が郡長黒川良知氏に代わりて来会せらる。開会発起は村長小川又次郎氏にして、宿所は佐藤助右衛門氏宅なり。この夕はまさしく七月十五日に当たり、満天の月光昼を欺く。

 十四日 炎晴。東風ようやく収まりて西風となる。車行二里、西郷村善法寺に詣す。曹洞宗としては東北第一の名刹なり。堂塔壮観を呈す。奥院に竜王殿あり。その山上に竜池ありというも登覧せず。これより約一里にして、大山町〈現在山形県鶴岡市、酒田市、東田川郡三川町〉素封家加藤長三郎氏別邸に入る。当地は古来、造酒をもって名あり。加藤氏も造酒を業とす。老樹庭をめぐり、清風堂に満ち、ほとんど夏を知らず。また、庭内に巨石相連なるところも一奇観なり。会場小学校は堂々たる大建築にして、校長船山辰次氏は県下の模範校長なりと聞く。発起は加藤、船山両氏の外、町長大滝清三郎氏、勝安寺住職藤田空澄氏等なり。講後、本町予定公園の太平山に登る。古城跡にして眺望大いによし。広く庄内の平田を一瞰し、あわせて月山、鳥海〔山〕の雲際に巍立せるを望む。山背に周囲一里の沼池ありて青蓮茂生す。また、その面積一反歩ぐらいの浮き島ありて、二、三年ごとにその位置を転ずという。地方の迷信として、その移動せる年には町内に災厄ありと伝う。

 十五日 炎熱はなはだし。車行一里、山脈を横断して加茂町〈現在山形県鶴岡市〉に入る。途中、百八十間の隧道あり。当町は小港にして汽船ここに出入す。午前、更に車を走らせること二十町にして、大字湯之浜温泉に遊ぶ。この間一条の車路、崖下に連なり、海水路傍を浸す。湯の浜は庄内三大温泉の一にして、一名亀の湯という。砂浜中より噴出す。旅館は亀屋を第一とし、岩本これに次ぐ。すべて内湯なく、二カ所の共同浴場ありて、これを上区、下区と名付く。余一行は亀屋分店万歳楼の屋上座敷において休憩し、即吟一首を得たり。

  崖下家連自作衢、潮風洗熱暑将無、沙頭又有霊泉湧、消夏客来併養躯、

(崖の下に家が連なり、おのずから道をつくる。潮風が暑熱を洗い去ってほとんど暑さを感ずることもない。砂浜からは霊妙な温泉が湧き出し、避暑の客があつまり、養生をもかねているのである。)

 その地は山と海との間の崖下にあり。これより車をめぐらして、加茂町秋野信右衛門氏宅に入る。同氏は京北中学出身なり。その庭内には泉水かかりて軒下を浸し、人をしておのずから熱を洗うの思いをなさしむ。会場は少林寺、発起は町長松山真中氏、住職小関素元氏、その他足達慈明氏、渡部三吉氏、秋野幸吉氏等とす。

 十六日 炎熱。朝七時、秋野氏宅を辞して汽船に駕し、陸路七里の行程を海上二時間にして、温海村〈現在山形県西田川郡温海町〉の浜頭に着岸す。沿岸数里の間、石屏巨巌の異容を呈して断続せるありさまは、佐渡外浦の景にひとし。浜温海より行くこと約十八町にして、湯温海越後屋に入る。一昨年入浴の際、宿泊せし旅館なり。午後、小学校にて開演す。青年会長遠藤源助氏、教育会長佐々木蔵右衛門氏、小学校長大森豊雄氏等の発起にかかる。温海は越後の国境に近く、方言も庄内と異なるところあり。かつこの地にてはウの発音がオとなり、クがフとなり、牛をオシ、車をフルマ、栗をフリという由。夜に入りて草虫喞々、涼味掬するがごとく、秋のすでにきたるを覚ゆ。本町は街路梯〔子〕の形をなし、五段梯子より成る。よろしく梯子街と異名すべし。秋田県人京北出身佐藤大八氏来訪あり。

 十七日 炎晴。未明より街上に市場を開き、その声夢を破りきたる。よって一吟す。

  温海泉場冠羽州、四時浴客満層楼、市声破暁驚残夢、新菜鮮魚任意求、

(温海温泉は羽前第一の湯であり、四季を通じて客は旅館に満ちあふれる。市場の呼び声は朝早くひびき、客の夜明けの夢を破る。しかし、そのおかげで新鮮な野菜も魚も意のままに求められるのである。)

 早朝六時半、温海を発し、車行約七里、途中三瀬に一休して上郷村〈現在山形県鶴岡市〉小学校に至り、午後開演す。五十嵐駒吉氏、長谷川徳次郎氏等の発起にかかる。講後、本勝寺に立ち寄り、児童に十分談話をなす。住職は石原智良氏なり。この村内の曹洞宗寺院に不二軒という寺号あり。寺号に軒を用うるは、けだし天下一品ならん。当夕は湯田川温泉場に入宿す。上郷校より約二里あり。館名は霊泉閣、通称御殿、実名今野玉記という。当所第一なり。これに次ぐを白鷺軒、通称七内とす。湯の浜を亀の湯と称するに対し、温海を鶴の湯、湯田川を鷺の湯という。湯の温度高からざれば、夏時の入浴に適す。桃羊羹の名物あり。

 十八日 炎晴。午後、一丘を上下し、隣村田川村〈現在山形県鶴岡市〉小学校にて開演す。教育会長五十嵐卯三郎氏、青年会長久留福弥氏等の発起なり。

 十九日 炎晴。ただし朝夕は秋涼を催す。湯田川より一里半、鶴岡町〈現在山形県鶴岡市〉に移る。庄内の稲田は県下第一にして、その長さ十四、五里にわたる。八、九分どおり耕地整理を行い、その井然たるありさまは日本第一と称す。途上吟、左のごとし。

  鶴岡城外望山河、風過稲田飜穂波、連日炎晴人苦熱、農家独喜見嘉禾、

(鶴岡城跡より山河を一望すれば、風は稲田を吹きすぎて穂波をひるがえす。連日の晴天は炎熱をもたらし、人々を苦しめているのであるが、農家のみは稲の成長を喜んでいるのである。)

 庄内の田地一反の収穫平均二石五斗、小作料一石三斗、三郡を合して九十万石の収穫ありという。午後、鶴岡議事堂において開会す。教育会の主催にして、郡教育会長黒川郡長および町教育会長林茂政氏の発起なり。講後、当町富豪風間幸右衛門氏の創設せる紡績工場に至り、工女三百人に対して談話をなす。ときに本県地方指導長沢則彦氏に会す。宿所は鶴岡ホテルなり。その名を地主広治という。地主の姓もまためずらし。このほか伊勢屋、兼子屋両旅館ありて、互いに鼎立の勢いをなす。この近在の黄金村洞春院開基傑堂能勝和尚は、その俗籍楠正儀の長子、俗名従四位下右馬頭楠二郎左衛門正勝にして、楠正成公の孫に当たるというを聞き、一詩を賦呈す。

  楠氏一門跡、洞春院裏存、傑堂観世変、帰仏吊忠魂、

(楠氏一門の血脈は、洞春院のうちに存する。傑堂能勝和尚は世の転変をみて、仏に帰依して一門の忠魂を弔ったのである。)

 八月二十日(日曜) 炎晴。朝気〔華氏〕七十二度、日中〔華氏〕八十五、六度。午時、監獄に至り囚徒に対して教誡的講話をなす。分監長は渡辺順次郎氏なり。つぎに昼夜二回、郡内第一の大坊常念寺(浄土宗)において、庄内仏教同交会のために演説をなす。夜会は聴衆、堂にあふる。無慮一千五百人と目算す。県下第一の盛会なり。会場住職佐藤霊山氏、会長今田栄次氏、広済寺御橋義海氏、大昌寺川崎顕光氏(哲学館出身)、および小笠原関光氏、梶原境山氏、三浦霊猷氏、高力善知氏、志摩崇法氏、斎藤、日向、菅野、井上、平井、柳川七氏等の発起にかかる。みな各宗寺院なり。なかんずく佐藤、御橋、川崎三氏、最も尽力せらる。これら諸氏の厚意により、哲学堂維持金は望外の多額を拝受し、県下第一の好成績を得たり。

 二十一日 炎天、連日のごとし。車行三里半、車上一望するに田頭穂すでに垂れて、過半実を結ぶ。会場兼宿所は東田川郡長沼村〈現在山形県東田川郡藤島町〉長雲寺にして、発起は住職佐藤霊功氏、村長岩崎安蔵氏、校長成沢伊三郎氏等なり。久旱のために村内飲用水欠乏す。

 二十二日 炎晴。車行約一里、午前、横山村〈現在山形県東田川郡三川町〉字横川宗蓮寺にて開演す。住職の発起なり。午後、車行更に一里、同村字横山勝楽寺に移りて更に開演す。住職木曾忠恕氏、村長菅原美顕氏等の発起なり。日暮れて蚊声雷のごとし。

 二十三日 炎天。東風やや強し。車行一里余にして郡衙所在なる藤島村〈現在山形県東田川郡藤島町〉に入る。午前、郡教育会の主催にて農学校において開演す。郡長中里重吉氏不在なれば、郡視学五十嵐正義氏、同会幹事池田泰円氏等の発起に出ず。農学校教諭後藤直吉氏は哲学館出身なり。阿部旅館に一休して更に車を駆ること一里、東栄村〈現在山形県東田川郡藤島町〉小学校に移りて開演す。当夕は村長横山藤右衛門氏宅に宿す。発起は横山村長および上林富三郎氏、原田久光氏なり。

 二十四日 曇りのち晴れ。東栄村は羽黒山の麓なれば、にわかに思い立ち、横山氏の案内にて早暁登山を企つ。五時出発、車行一里余にして手向村に至る。その途中、産婆の看板に桃の中より桃太郎が出でたる図を掲ぐるを見る。これ新案なり。手向には登山者の旅館あり宿坊あり、街路に六字橋あり、黄金堂あり。社務所より徒歩して石壇をくだり、秡川を渡りて五重塔を一覧するに、後光厳天皇の御代に建設せるものにして、関東および東北における最古最秀のものと標示す。これより急坂数カ所あり。そのうち最峻なるは油コボシ坂という。登路すべて十八町の敷石より成る。その階段の数五、六千あるべし。山頂に茅堂の大なるものあり。その中に官幣大社月山神社、国幣小社羽黒神社、同湯殿神社を併祀す。神前に参拝して榊を捧げ、堂側の社務所内に一休して帰る。本社よりくだること一丁にして、祈祷申し込み所あり。その中に香嵐亭ありて眺望最もよし。庄内の山河を一瞰するのみならず、飛島および弁天島も眼下に浮かぶ。羽黒山より月山絶頂まで五里半ありという。芭蕉の句に「凉しさやほの三日月の羽黒山」とあり。秋田県にては、婦人この山に登りてのち歯を染むる由を聞く。羽黒は歯黒と音相通ずるによる。昔時、羽黒山全盛時代には、寺院の数七千余坊ありと伝えらる。余が登山紀念の一首は左のごとし。

  払暁遥攀羽黒峰、崔嵬石路老杉封、神壇已在半空上、猶隔月山雲幾重、

(夜明けにはるかに羽黒山の峰にのぼれば、ごつごつした石の道に老いた杉がふさがるようにたつ。祭壇はすでに空にかかるほどの上にあり、なおへだたる月山には雲が幾重にも重なっている。)

 山をくだりてひとたび東栄村に帰り、朝餐を喫して更に車を駆ること一里、渡前村〈現在山形県東田川郡藤島町〉に至り、午後、小学校にて開演し、延命寺にて宿泊す。村長斎藤真三郎氏、住職上野透宗氏の発起なり。

 二十五日 炎晴。朝、斎藤村長の宅にて喫飯し、車行二里、大和村〈現在山形県東田川郡余目町〉古関玄通寺に至りて開演す。住職内藤秀善氏、教員小野源吉氏の発起なり。終日、蒼蝿の多きに苦めらる。先年、酒田宿所へ大道社会員なりとて、四、五十名の農夫、簔笠をかぶりて訪問せしことあり。本村内廻館のものなりと聞く。

 ここに庄内三郡を巡了せしにつき、その言語、風俗、人情につきて一言せんに、山形県下にても庄内人は一種の特性を有し、東北の薩州と称せられしが、余は前後両回庄内に遊び、その人の素朴淳良なる点は鹿児島に似たるところあるを知る。昨年以来鉄道全通せるをもって、今後多少の変動あるは免れ難きも、醇厚俗を成すの風は永く維持せられんことを望む。飲酒は一般に行われ、宴会の場合には平均一人につき酒一升の備えを要すと聞く。これ気候の寒冷なると、他に娯楽の道なきとによるべし。物価は比較的安く、一日の賃銀、弁当持ちにて大工は六十銭、左官は四十五銭、人夫男は三十銭、女は二十五銭、人力車一里二十銭、按摩上下十五銭なり。方言につきて聞きたるものを挙ぐれば、

  子供が父をダダー、母をガガーまたはナナーという。あるいは下等にて父をウマ、母をンナという。カワイソウナをミジョケナイ、大層驚いたをゼッタオボケタ、最もをデッテ、汝らをワダまたはワネともいう。赤ン坊を入るるツブラをイズメまたはイーズミという。藁布団をコモチブトンまたは吉原ブトンという。

 そのうちにて他地方より入るものの耳に第一に触るるは、返事のハイをナイという一事なり。また、語尾にノを付くるも庄内に限る。例えばソウダノーの類なり。また、スグをソンマという。例えばスグニクルをソンマクルというがごときは越後に同じ。余が前回の紀行に庄内名物は婦人の鉢巻きと黒帽子と掲げしが、この黒帽子を加賀帽子と呼ぶ由。越中フンドシ、加賀帽子は好対句なり。また、庄内のタバコ道具も名物の一に加わる。農夫は今日なお燧石とホクチを用う。タバコ入れをズングリと呼ぶ。俗謡として最も名高きものはイザヤブシ〔イザヤマキ〕なり。その文句の一節を掲げん。

  いざやいとたけのしらべ、波もつゞみも拍子を揃へて、ゆたかなる世のたのしさよ、

 すべての宴会にて、イザヤブシの始まらざるに他の歌をうたうこと〔は〕できぬきまりなりと聞く。料理につきては蕎の皮ぬきを用う。他になき料理なり。村山および置賜地方にては毎日鯉魚を備えられしが、庄内にては毎日小鯛を用いらる。また、野菜としては毎日茗荷を食せざるなし。余の健忘症が更にその度を進めたるを覚ゆ。庄内の盆と正月には餅を食し、お祭りには赤飯を用う。また、正月元旦は一般に精進料理にして、雑煮には豆腐、油あげを入るる由。これまた異風なり。食事の間に出だすウドンやソバやソーメンをハサミという。酒の間に挟みて更に飲むの意なりと聞く。屋根は石を載せたるもの多く、風呂は桶風呂または鉄砲風呂を用い、五右衛門風呂なし。迷信談に関しては、西田川郡の海岸浜中より湯之浜に至る三里の間に、往々身体の自由を失うことあり。これを餓鬼が付くと称す。そのとき所持せる握り飯を海中に投ずれば、はじめて蘇生の思いをなし、自由に歩くことを得るに至るという。これ一種の心理作用なるを知らずして、海中に溺死せし亡霊のたたりのごとくに信じおるなり。また、最上川沿岸の名物として、獅子舞と神楽歌あり。その緩急の度がまさしく川流の緩急に順じ、川瀬の急なる村落にては舞歌ともに急にして、緩なる場所にては緩なりと聞く。

 二十六日 炎晴。古関より車行半里余にして狩川駅に至り、これより古口駅まで汽車を用い、更に車行三里、大蔵村〈現在山形県最上郡大蔵村〉字清水に入る。途中、鳥海の山頭雪なお残るを望む。その雪の形が鶴と亀とに類すという。毎年この残雪のいまだ尽きざるうちに新雪のかかるを見る由。昨今、稲田ことごとく実を結びたれば、大仕掛けにて雀を追い払う装置をなす。この地方はいかに雀の多きかを推想するに足る。開会主催は修証会、大山文雄、小林円成、斎藤仙鳳等の諸氏にして、会場は小学校、宿所は旧家小屋十右衛門氏宅なり。その家、造酒を業とす。これより山間に入ること四里にして肘折温泉あり。その名は武州の膝折村の好対なり。夏期は僻地にもかかわらず、浴客充溢すという。本村は長さ十二里にわたり、月山と相連なり、その面積は東村山郡よりも広く、小学校は七箇所にある由。最上風俗の補充として紹介したきは、三月節句の餅なり。その切り方は菱形にあらずして長方形なるものを用う。これを鯨餅という由。また、方言としては墓場をラントと呼ぶという。

 八月二十七日(日曜) 霧のち晴れ。車行三里、新庄駅にて汽車に駕し、大石田にて降車し、更に腕車を用い最上川橋を渡り、渓谷の間に入ること二里、北村山郡大高根村〈現在山形県村山市、北村山郡大石田町〉小学校に至りて開演す。校舎は茅ぶきの大建築なり。宿所高木辰五郎氏は醸酒を業とす。客室は二階建ての新築にして、すこぶる清美なり。哲学館大学出身沼沢孝英氏とここに相会す。

 二十八日 炎晴。早朝、大高根を発し、大石田駅より赤湯駅まで鉄路による。朝気〔華氏〕六十八度、秋冷を覚ゆ。午後〔華氏〕八十四度。会場は東置賜郡沖郷村〈現在山形県南陽市〉小学校にして、発起は青年団長安日長雄氏、微笑会長鈴木通鑑氏、村長青木長内氏、助役伊藤永次氏なり。しかして宿所は赤湯駅前小関旅店なり。この駅は沖郷村の地内にありという。須藤大道氏ここにきたりてわが一行を迎えらる。

 二十九日 炎晴。午前、約二里の間、汽車にて梨郷村〈現在山形県南陽市、長井市〉に至り、小学校にて開演す。建高寺楠勇山氏、竜雲院渡部活玄氏等十八名の発起なり。村名は梨郷なるも梨を産せず、ただ林檎を水田中に培養せるを見る。けだし水田中に土を盛り、果樹を培養するは山形県の特色とす。この地方にては、垣根に多くウコギと名付くる木を用う。午後、更に車行約一里、大塚村〈現在山形県東置賜郡川西町〉高徳寺に移りて開演す。発起は隣村伊佐沢との連合にして老梅会の主催なり。会長は大崎巨岳氏、会員は島津大恵氏、長谷川恵記氏、須藤大道氏、大城虎童氏とす。高徳寺は堂内広くして消暑によろし。その新設庭園内に墓地を加えて趣向を添えたるは、すこぶる新意匠なり。伊佐沢村には希世の古桜、幹の周囲三丈五尺、高さ四丈八尺、枝十六間四方なるあり。また、著名の巨石は花崗石にして、高さ二丈三尺、幅三間四尺、長さ七間五尺ありという。その石は須藤氏所住の大石山洞雲寺境内にある由。

 三十日 炎晴。高徳寺を発し、車行一里半、小松町〈現在山形県東置賜郡川西町〉に移りて開会す。会場は小学校、主催は至誠会、発起は会長金子顕吉氏、助役小関郁太郎氏なり。宿所米屋旅館の浴室は、やはり重箱形、赤塗りの風呂桶を用う。当夕はじめて名物イナゴを試食し、七十五日の延寿をなす。町家は一般に質素の風ありて、茅ぶきと板ぶきと相半ばす。また、町内に一戸の湯屋なく、洗濯屋なしという。中央の地位に市神碑あり。市場繁昌を祝する意ならん。

 三十一日 晴れ。午時少雨あり。本月七日以来はじめて雨を見る。午前、小松より車行約三里、西置賜郡萩生小学校〔豊原村〈現在山形県西置賜郡飯豊町〉〕に至りて開演す。主催は役場、学校、寺院にして、発起は村長屋島久米之助氏、僧侶金子隆昌氏、小笠原英進氏、有志石田伊兵衛氏、同隆氏等十名なり。みな尽力あり。この村は旧駅にして市街の形をなす。村内田地多く、富有との評なり。宿所は手塚旅館とす。

 九月一日 曇りのち晴れ。二百十日の厄日なるも平穏なり。車行約二里、長井町〈現在山形県長井市〉法讃寺に至り、昼夜とも講話をなす。伊藤郡長、高橋視学、相馬校長等みな来会せらる。仏教会の方面にては住職井上豊忠氏、最も尽力あり。佐藤智猛、阪竜粲、工藤宥清三氏これを助く。山形県巡講わずかに一、二日を余し、まさに越後に入らんとす。よって所感を賦す。

  梅雨晴時入羽陽、稲田今見緑将黄、七旬巡了都兼鄙、路聴秋声向越郷、

(梅雨の晴れ間に羽前の地に入り、青々とした稲田もいまは緑から黄色みをおびようとしている。七十日をかけて都会もひなびた田舎にもめぐり、道に秋の気配を感じつつ越後に向かったのである。)

 二日 晴れ。朝、法讃寺を辞し、車行一里半、豊田村〈現在山形県長井市、東置賜郡川西町〉白川橋畔橋本屋楼上に休憩す。江風簾をかすめて炎氛を払う。会場小学校建築は高壮なり。主催は役場、学校、寺院連合、発起は村長鈴木文右衛門氏、校長梅津清芳氏、地主阿部与右衛門氏、僧侶山岸宗道氏、同神尾高殿氏等十余名とす。当村金鐘寺前住職平大岳氏は哲学館出身なれども、今すでになき人となる。よって所感を録して、その徒弟久保海竜氏に贈る。

  飛錫来開講、金鐘寺畔村、故人今已逝、裁句吊芳魂、

(錫杖を手にこの地に来たりて仏法を説く。ここは金鐘寺のある村である。昔なじみの人はいまやすでに亡く、一詩を作ってかの人の美しい魂を弔うのである。)

 午後五時より更に車を走らすこと二里半、暮煙蒼茫の中に豊川村〈現在山形県西置賜郡飯豊町〉手之子旅館山形屋に入る。所在稲田すでに熟して、やや黄色を帯ぶ。途上、男女ともに山形名物のモンペをうがち、草をになって山より帰るに遇う。これ来年の堆肥を造るためなり。当夕、高等小学校において講演を開く。聴衆満堂、村長横山敬治郎氏、校長熊野昌千代氏の発起にかかる。須藤大道氏は昨年秋田県一日市にて相識となりしが、今回置賜地方各地の開会につき照会の労をとられ、かつ各所を案内せられしが、ここに至りて一別を告ぐることとなる。

 九月三日(日曜) 晴れ。朝冷、単衣のやや寒きを感ぜしむ。手之子駅より車行三十町にして宇津峠にかかる。これ分水嶺にして、前面の水は流れて最上川に合し、後面の水は荒川となりて越後に注ぐ。峠の登路は二十五、六丁あり。二人びきならば腕車にても登り得べし。余は草鞋をつけて登躋す。昔日は米沢より越後に入るに、嶺を上下すること十三回、これを十三峠と称し、非常の難道をもって聞こえしが、今日は十三嶺中ただ宇津峠の一嶺存するのみ。その他は渓流に従って道を開き、車道坦然たるに至る。これ全く文明の余沢なり。途上吟、左のごとし。

  宇津渓上歩晨晴、向野人穿紋屏行、昔日十三峰上下、今踰一嶺路皆平、

(宇津峠の谷のあたりを朝の晴れ間に行けば、野に向かう人はモンペを身につけて行く。かつて十三峰の上りおりをしたものであるが、いまや宇津一峰のみ上下し、ほかはすべて平坦な道となった。)

 嶺頭に樵家一戸あり。これより沼沢、伊佐領を経て小国本村〈現在山形県西置賜郡小国町〉字小国町に達す。手之子より沼沢まで約四里、沼沢より伊佐領まで二里半弱、伊佐領より小国町まで二里半弱、よってこの日の行程は約八里半となる。これに五時間半を費やせり。沼沢より伊佐領に至るの間のタバネマツと名付くる地に一大奇勝あり、これを片洞門という。あたかもトンネルの一方を開きたる形を有するによる。渓間の絶壁岩頭を鑿開して、車道を通じたるものにして、頭上には巨巌をいただき、脚下に急湍または深潭を帯び、半隧道兼半桟道のごとき所を一過するなり。その道およそ四、五町相続き、中間に石橋あり、これを眼鏡橋という。この橋上にて前後を回顧し、上下を俯仰するときは、なにびとも戦々兢々の思いをなさざるを得んや。実に奇景にしてかつ危景なりというべし。かかる絶勝が小国山中に潜伏して、世に知られざるは風景のために遺憾とせざるを得ざれば、余は天下に紹介するに一筆の労をとるをいとわず。まずその準備として雅名を命ずるを要す。よろしく片洞門を隻洞路とし、眼鏡橋を仙眼橋とすべし。車上吟、左のごとし。

  隻洞戴岩々幾層、奔湍衝岸々将崩、駐車仙眼橋頭路、俯仰何人不戦兢、

(隻洞路は岩をのせて、幾層にも重なる。奔流は岸をうち、岸べはいまにも崩れさろうとしている。車を仙眼橋のそばの道にとどめて、上をあおぎみ下をのぞいては、だれもが戦々恐々とおびえるであろうと思ったのであった。)

 要するに小国山中は杉、桧まれにして、大抵みな薪炭林なれば、秋期の紅葉は日光や碓氷以上なりという。

 小国は西置賜郡山間の一郷にして、四カ村より成る。人口一万に満たざるも、三十七方里の面積を有す。小国町は二百四、五十戸ばかり集まりたる小市街にして、小国唯一の市場なり。町の中央に十余間の木造懸け橋あり、これを大橋という。山間にてはややめずらしき堅牢の橋なり。この小国郷の深山幽谷の間に住するものは、小国町を東京のごとく思い、大橋を日本橋のごとく考えおることとて、ある老婆が存命中に一度大橋を見たきものなりと語りしという奇談あり。小国本村中に町より三里を離れ、峻坂険路二里を隔てて、越戸と名付くる小部落あり。ここへは郵便を配達することなしと聞く。小学校は教員が十日ごとにここに出張して、十日間教授をなすという。よろしくこれを遊動教員、出張教授と名付くべし。その名を学校と呼ばずして家庭教場と名付く。小国山中には、かかる家庭教場が数カ所にある由。越戸には国税を納むるもの全くなしという。実に寒村中の僻地なり。小国の産物は米と繭なるも、これに次ぐものは炭なり。その価、一貫目六銭、十貫目すなわち一俵六十銭ぐらいなり。また、ゼンマイの名物あり。渓間に菊面石と名付くる珍石を産す。個々みな菊花の形をなす。民家はすべて越後式の石を載せたる板ぶきなり。小国町の旅宿料の高価なるには驚かざるを得ず。宿所越後屋に掲示せるものと手之子の分とを対照すべし。

       特 等    一 等    二 等    三 等    四 等

  手之子―一   円  七 十 銭  六 十 銭  五 十 銭  四 十 銭

  小国町―二円五十銭  一円五十銭  一   円  七 十 銭  五 十 銭

 小国町より山路七里を隔てて、三面と名付くる仙郷あり。その地は越後国岩船郡に属す。戸数十四戸、寺一カ寺(曹洞宗)、学校一棟あり。すべて平家の遺族と称す。そのうちに旧庄屋に当たるものを小池大炊之介という。各戸獣猟をなし、猪、熊等を獲て他郷に売る。これを主なる財源となす。醤油なく味噌のみを用うるも、その臭その味一種異なりて、他方よりきたるものはよく食し得ず。故にここに遊ぶものは、すべての食用を携帯するを要す。今より二十年前には畳を敷きたる室を有するは寺院のみにて、その他には小池の家にもウスベリあるのみ。言語、風俗ともに異なり、言語中には女を女御というがごとき、かえって上品なる語ありとは、その地を踏査せし人の話なり。近年は夏時往々、探検者のここに入るものあり。通路は小国より入る道と越後村上より入る道と二道あるも、小国の方が入りやすし。北小国村字折戸より二里の嶺を越えればこれに達すという。余も都合により探検せんと思いしも、渓流に橋なく、大雨きたらば通行杜絶すと聞きて断念せり。

 四日 晴れ。蒸熱、夜に入りて雨となる。午後、小学校にて開会するに、聴衆満堂。三、四里の遠路より集まりきたる。主催は役場および学校、発起は村長今新吉氏、校長渡部芳蔵氏、分署長関繁太郎氏、助役小林周策氏等なり。小国は山間僻地というも魚類に乏しからず。荒川の上流にて鰌、鮎、鯉、鰻および雑魚を産す。その味すこぶる美なり。

 ここに山形県を去りて越後に入らんとするに当たり、置賜地方にて聞きたる特殊の方言を列挙するに、

  ジャガタラ芋を紀州芋またはカラ芋とも二度芋ともいう。イタドリ草をドーグエという。氷柱をボンガラ(米沢にてはカネコホリ)という。下等の者は母をダツツアまたダダという。咳嗽〔せき〕をジャブキ、百日咳嗽をシリジャブキという。嫁入りをムカサヘ〔ムカサリ〕という。むかえ行くの義ならん。葬式をダミという、荼毘のなまりならん。淫売婦をバンボという、蛮婦なるか。強盗をオシという、押し込みの義ならん。暑いことをヌクイという。時計の進むことを運ぶという。例えば、この時計は十分進んでいるというべきを、十分運んでいるという。

 五日 晴れ。午後、驟雨きたる。早朝、小国町越後屋を発し、渡部校長の案内にて車行約三十町、赤芝の絶勝地に達す。一鉄橋の荒川に架するあり、赤芝橋という。その色また赤し。この橋下の碧潭赤岩は、これを一瞰するものをしてほとんど目くらまし神飛ばしめんとす。これより数里の間、同一の奇景連続し、往々、耶馬渓的巌山の両岸に並立せるあり。また、その石間に草樹鬱蒼たるあり、あるいはまた桟橋の深谷に架するあり。車路羊腸のごとく曲折せる間を一過するときは、自ら画中の人たるを感ぜしむ。もし耶馬渓をしてその前にはべらせしむれば、必ず顔色なからんかと思うほどなり。余は更に雅名を下し、この数里にわたれる渓を赤壁峡と名付け、赤芝橋を紅霓橋と名付けて一詩をつづる。

  紅霓一帯半空懸、赤壁千尋両岸連、吟賞荒川峡間景、紫山明水互争妍、

(紅霓橋が一本なかぞらにかかり、赤壁は高々と両岸に連なる。荒川の谷間の景色を吟詠し、賞讃すれば、山紫水明たがいにあでやかさをきそう。)

 赤芝橋より約一里にして、羽越両州の国界に達す。これより三里余にして、越後岩船郡女川村字鷹之巣温泉場に至る。蛛網を張りたるがごとき釣り橋と、蓬莱を写せるがごとき鷹巣山とは、泉場の二大美観とす。

  荒川渓上沸泉台、求浴人攀橋索来、当面鷹峰笑将語、松眉石骨是蓬莱、

(荒川の谷のほとりに温泉が湧き出て、湯治の客は釣り橋をわたってくる。正面にそびえる鷹巣山はほほえんで語りかけるがごとく、松を眉とし、石を骨格としてまさに仙人の住む山である。)

 京北出身平田三男司氏、余を迎えてここにきたる。これより更に一里半にして関谷村〈現在新潟県岩船郡関川村〉字下関に達す。この日、行程七里弱、駅路多少の高低あるも概して平坦なり。午後、関小学校にて開演す。素封家渡辺三左衛門氏、校長中村駒吉氏、助役渡辺道四郎氏の発起にかかる。しかして本村開会の紹介は郡長寒川卯之七氏、郡視学小田切禎助氏なりとす。村長渡辺善俊氏は非常の名望家なりしが、昨日頓死せられしと聞き、松に寄せて弔詩を賦す。

  関頭老松秀、卓然見高姿、一夜秋風急、吹倒竟難支、

  忽失此霊樹、村民愁且悲、我来過其巷、賦詩代吊詞、

(関谷村のすぐれた老松は、ことにぬきんでた姿を見せていた。ところが、一夜、秋風が急激に起こり、この老松を吹き倒してついに支えることができなかった。いま、忽然としてこの神霊の宿る樹を失い、村民は愁いかつ悲しむ。われこの地をよぎり、詩を作って弔辞にかえたのであった。)

 対岸女川村には温泉三箇所に湧出す。鷹之巣は炭酸泉、高瀬は鉄泉、湯沢は硫黄泉なりと聞く。すでに北越後に入りたれば、語尾のナスが変じてネシとなる。人のカミサンを指してアネヤと呼ぶ。

 六日 雨。この日、関の市日なりとて朝来人雲集す。車行四里半、坂町金屋を経て北蒲原郡乙村〈現在新潟県北蒲原郡中条町〉乙宝寺に至る。住職内山正如氏は旧知なるかどをもって歓迎せらる。午後、大出小学校にて開演す。内山氏および村長斎藤道蔵氏、校長山崎順氏等の発起なり。大日堂の背面、松林砂丘の間に公園開設中なれば、一詩をとどむ。

  乙宝山頭大日林、万松深鎖昼蕭森、風過葉々奏天楽、併聴経声養道心、

(乙宝山のあたり大日堂がそびえ、松の木々が深くとざして昼なおもの静かである。風が木の葉をすぎるとき天然の音楽をかなで、あわせて読経の声をきけば求道の心が養われる。)

 門前桂屋の一昨年、余の命名せし月桂松は依然として繁栄す。

 七日 雨。乙宝寺を発し、車行約二里、中条町〈現在新潟県北蒲原郡中条町〉素封家丹呉康平氏の宅に少憩して、松月庵に移る。午後、小学校において開演す。基建築すこぶる宏大なり。発起者は丹呉氏の外、分署長高橋庄五郎氏、教員織田石太郎氏、医師相馬杏平氏、同柳沢啓之助氏なりとす。

 八日 雨。中条駅より汽車に駕し、岩越線を経て当夕十時、上野へ着す。

 九日より旅労をいやせんと欲し、相州鵠沼東屋に至り、三泊して帰る。

 

     山形県開会一覧

 市郡    町村     会場    席数   聴衆     主催

山形市          寺院     二席  千三百人   大谷派有志

同            女子師範校  一席  六百五十人  嚶鳴会

同            同前     一席  五百人    市教育会

米沢市          議事堂    二席  四百人    市学事会

北村山郡  楯岡町    小学校    二席  一千人    郡教育会

同     同      寺院     二席  三百人    各宗協和会

同     尾花沢町   寺院     二席  五百人    仏教青年会

同     大石田町   小学校    二席  四百人    同窓会

同     西郷村    寺院     一席  二百五十人  寺院、役場、学校

同     同      小学校    二席  三百五十人  同前

同     大久保村   小学校    二席  四百人    丙午会

同     大高根村   小学校    二席  四百人    仏教会

西村山郡  寒河江町   小学校    二席  七百人    郡教育会

同     同      寺院     二席  五百人    寺院有志

同     谷地町    小学校    二席  四百人    町有志

同     西山村    小学校    二席  三百人    両村連合

東村山郡  天童町    議事堂    二席  六百五十人  郡役所、役場等

同     山辺町    小学校    二席  五百五十人  寺院

同     同      寺院     二席  六百人    正信会等

同     豊田村    寺院     二席  四百人    温知会

同     出羽村    小学校    二席  四百人    学校連合

同     高擶村    小学校    二席  四百五十人  村長、校長

同     同      寺院     一席  四百人    寺院

同     蔵増村    小学校    二席  四百五十人  役場、学校、寺院

南村山郡  上山町    寺院     二席  三百人    有志者

同     同      小学校    二席  五百人    郡教育支会

同     中川村    小学校    二席  四百五十人  村有志

同     堀田村    小学校    二席  二百人    教育支会

同     本沢村    寺院     二席  六百五十人  寺院連合

同     同      同前     一席  五百人    宿寺および檀家

同     柏倉門伝村  小学校    二席  六百人    教育支会

南置賜郡  窪田村    寺院     二席  六百人    村役場

西置賜郡  長井町    小学校    二席  八百人    郡教育会

同     同      寺院     四席  三百人    仏教講話会

同     荒砥町    小学校    二席  四百人    郡教育会

同     東根村    小学校    二席  二百五十人  村長

同     同      寺院     二席  二百人    青年会

同     豊原村    小学校    二席  三百五十人  村長、校長、住職

同     豊田村    小学校    二席  三百人    役場、学校、寺院

同     豊川村    小学校    二席  六百人    村教育会、役場

同     小国本村   小学校    二席  八百人    役場、学校

東置賜郡  宮内町    小学校    二席  九百人    町教育会

同     赤湯町    小学校    二席  四百人    自彊会

同     小松町    小学校    二席  四百人    至誠会

同     沖郷村    小学校    二席  三百人    青年団および微笑会

同     梨郷村    小学校    二席  四百人    寺院

同     大塚村    寺院     二席  四百人    老梅会

最上郡   新庄町    小学校    二席  五百人    郡教育会

同     同      寺院     二席  四百五十人  仏教徒有志

同     鮭川村    小学校    二席  三百人    青年会、教育会

同     大蔵村    小学校    二席  三百人    修証会

飽海郡   酒田町    公会堂    二席  四百人    寺院、青年会、弘道会

同     同      高等女学校  二席  三百五十人  郡学事会

同     南平田村   小学校    二席  三百五十人  役場および軍人会

同     田沢村    寺院     二席  二百五十人  青年団

同     東平田村   小学校    二席  百五十人   青年団

同     遊佐村    小学校    二席  三百五十人  七カ村連合

西田川郡  鶴岡町    議事堂    二席  四百五十人  教育会

同     同      寺院     二席  千五百人   仏教同好会

同     同      紡績工場   一席  三百人    工場持ち主

同     同      監獄署    一席  二百人    分監長

同     大山町    小学校    二席  五百人    教育会、青年会

同     加茂町    寺院     二席  三百人    青年倶楽部

同     東郷村    小学校    二席  三百人    教育会

同     温海村    小学校    二席  四百人    村教育会

同     上郷村    小学校    二席  二百五十人  村教育会

同     同      寺院     一席  五十人    住職

同     田川村    小学校    二席  五百人    教育会、青年会等

東田川郡  藤島村    農学校    二席  五百人    郡教育会

同     長沼村    寺院     二席  三百人    村役場

同     横山村    寺院     二席  二百五十人  住職

同     同      寺院     二席  百五十人   宿寺

同     東栄村    小学校    二席  二百人    同窓会および軍人会

同     渡前村    小学校    二席  百五十人   村役場

同     大和村    寺院     二席  百人     住職

 合計 二市、十一郡、五十五町村(十八町、三十七村)、七十六カ所、百四十四席、聴衆三万二千六百五十人

 

   付

越後国一部

刈羽郡   千谷沢村  小学校    二席  三百人    役場、学校

北魚沼郡  小千谷町  中学校    二席  三百人    講演会

同     同     小学校    二席  六百人    同前

東蒲原郡  津川町   寺院     二席  六百人    郡教育会および慈教会

岩船郡   関谷村   小学校    二席  四百人    軍人会、教育会等

北蒲原郡  中条町   小学校    二席  五百五十人  町有志

同     乙村    小学校    二席  四百人    役場、寺院、学校

 合計 五郡、六町村(三町、三村)、七カ所、十四席、聴衆三千百五十人

  演題類別

   詔勅修身     六十五席

   妖怪迷信     四十一席

   哲学宗教     二十九席

   教育         九席

   実業         七席

   雑題         七席

 

〔次の「青島および泰山、曲阜紀行」については、日本国内巡講部分を残して割愛し、表題を「愛知、岐阜、山口三県一部紀行」として掲載した。〕

P57--------

〔愛知、岐阜、山口三県一部紀行〕

 大正五年九月、わが軍が一昨年占領したる膠州湾青島を視察せんと欲し、三十日夜九時、東京駅を発す。三河、美濃、長門に立ち寄りて臨時講話をなし、門司より乗船することに定む。

 十月一日(日曜) 晴れ。朝五時半、岡崎駅に降車し、駅前旅館清風軒にて朝飯を喫し、随行静恵循氏とともに腕車にて行くこと五里余、下山村〈現在愛知県額田郡額田町、東加茂郡下山村〉字富尾に至る。本村は三河国額田郡に属す。その道の一半は平にして佳、一半は険にして悪し。渓流に沿って登るに、約二里の間は三人引きにてようやく車を通ずるを得。昨今、稲穂すでに熟して黄色を帯ぶ。田頭に往々、赤花燃ゆるがごときものあるを見る。その形、花かんざしに似たり。雅名これを蔓珠沙華という由。山陽道辺りにては方言〔にて〕狐花ということを聞きしが、三河にては雷花といい、遠江にては彼岸花という。また、渓上には水力電気工事と綿を製する工場あり。午後の会場兼宿所は富尾の寺院すなわち説教場にして、その名を法性寺というも公認を得たる寺にあらず。本堂は禅宗にして、住職は浄土宗なり。しかしてここに組織せらるる会は知恩会と称し、ときどき真宗僧侶を招きて説教をなさしむ。堂内の構造装置は五分曹洞宗にして、三分浄土宗、二分真宗の趣あり。実に八宗共通の寺なり。つまり村内の宗教倶楽部と見るをよしとす。よって余は、「禅浄元一味法楽豈有別」(禅、浄は元より法の理趣は一つ。法楽にはいかなる区別があろうか。)の扁額を贈る。開会発起は知恩会にして、その尽力者は大谷派門徒柴田安五郎、松次郎、利蔵、伝四郎四氏および小野玉次氏なり。

 二日 秋雨蕭々。午前八時半、富尾を発し、保久より本道たる登峠を上下す。これを一名、銭モウケ坂という由。けだしこの坂を上下して荷物を運搬すれば、金がモウカルの意ならんか。街路に樹立せる仁王門のそばを過ぐ。左甚五郎の作なりと称す。これより岡崎町を経て駅に達す。ときに十二時なり。即時に汽車に転乗し、大垣を経て岐阜県揖斐郡池野駅に着す。池野は小市街なるも、旅館、料理店六、七十戸ありという。これより腕車にて行くこと約一里、揖斐町に隣接せる小島村〈現在岐阜県揖斐郡揖斐川町〉字和田西蓮寺に入る。ときに午後四時半なり。当寺は邸宅清美、後庭清水こんこんとして流出し、昼間は百煩を洗うに足り、夜間は疑雨来を思わしむ。また、村外稲田すでに熟し、その早きはすでに収穫せしあり。本郡にては田間の曼珠沙華を蛇の枕と称する由。その点々たる赤色は一段の野趣を添う。よって一吟す。

  揖斐江辺秋雨濛、曼珠花発稲田紅、駆車尋入西蓮寺、聴水看雲万慮空、

(揖斐川のあたりに秋雨がけむるように降り、曼珠沙華が花ひらき、それ故に稲田に紅の色を添えている。車を駆ってついで西蓮寺に入れば、水の音に雲をみて、あらゆる思いも空としたのであった。)

 この地方にては石の軽重によって吉凶禍福を判定する迷信行わる。その石をオモカルという由。重い軽いの意ならん。この石、諸方にありと聞く。

 三日 雨、午後晴れ。西蓮寺にて開会。聴衆、堂に満つ。主催は住職窪田霊洞氏にして、門徒総代窪田悟三氏、同倭一氏、坪井謙二氏これを助く。当地より西国第三十三番谷汲の観音まで二里、腕車の便あり。また、本村より越前の国界まで十七里を隔つ。昔時、武田耕雲斎はこの山道を経て越前に遁入せりという。

 四日 晴れ。朝八時半、西蓮寺を発し、大垣十一時発にて山口県に向かう。

 五日 晴れ。午前八時、山口県小月駅に降車す。来島好間氏、自動車をもってここに迎えらる。一走五里、豊浦郡西市旅館松田屋に一休す。道路平坦なるもその幅狭く、これに加うるに荷車絡繹として自動車の障礙をなし、五里の行程一時間を費やす。この駅路に納涼橋、月招橋あり。その名すこぶる雅なり。西市より更に渓間に入ること一里半にして、豊田前村〈現在山口県美祢市〉長福寺に達す。かかる山村まで自動車の出入するは、実に文明の恵沢なり。よって所感一首を賦す。

  一道晴風秋亦暄、満田黄稲繞渓村、山陬猶浴文明沢、自動車奔入寺門、

(ひとすじの道にうららかな風が吹き、秋であるのに日ざしはあたたかく、田にみちる黄色に実る稲は、谷あいの村をとりまいている。この山深い片いなかの地でも文明の恩恵をこうむって、自動車は長福寺の門にかけ入ったのであった。)

 この日は宿寺前住職の頌徳碑建設につき、祝賀演説会を開催せらる。門には緑門を作り、庭には紅灯彩旗を掛け、露店あり桟席あり、一見大祭典の挙行あるがごとし。現住職来島氏は先年山口県下巡講の際、随行の労をとられたる縁故をもって、余はその式場に出演することとなる。午後開会、聴衆、堂にあふる。後に堂内にて撮影す。宿寺の客席は田に臨み巒に対し、清風座に満つ。目下稲みな熟し、収穫期のすでに近づきつつあるを知る。

 六日 晴れ。滞在。午後演説。その前後揮毫、深更まで忙殺せらる。両日とも主催は来島好間氏、助力者は県参事会員江本美潔氏および長福寺檀徒総代来島哲彦氏、今城作之進氏、塩田重吉氏、山本蔦松氏なり。

 七日 晴れ。未明四時に晨起。四時半、暗を破り灯を点じ、馬上にて早発す。山路約二里、大嶺駅に達し、これより六時半発の汽車にて門司に向かう。来島氏、余を送りて馬関に至る。門司にては郵船会社支店に小憩し、午前十時、西京丸に乗船す。船長は土岐悦蔵氏なり。午十二時半、解纜。海門を出ずるや、風ようやく強く波ようやく高く、船また揺動す。日暮点灯のころには、すでに対州沖に入る。

 〔以下、十月八日(日曜)から十七日までの中国山東省青島、泰山、曲阜紀行は割愛した。〕

 十八日 晴れ。黄海を過ぎて朝鮮海に入る。

 十九日、晴れ。午時、門司入港。これより馬関に移り、夕七時の急行に乗り込む。二十日、夕八時半、東京駅着。今回は単身にて言語も通ぜざる異域に遊び、全く風土をことにせる地方を跋渉しながら、各所において望外の優待を受け、ときによりては護衛兵までを付せ〔ら〕れたるがごときは、わが同胞文武官民の友情の深厚なるによれるはもちろんなりといえども、帰極するところ一として国恩の恵沢ならざるはなし。幸いに海陸ともに無異にて帰着するを得たるもまたその余沢なれば、日夜感謝の意をもって国家のために尽瘁するところなかるべからず。

 

    山東省および他地方開会一覧〔中国山東省分は割愛した。〕

〔国郡      町村    会場  席数   聴衆   主催〕

三河国額田郡  下山村   説教場  二席  四百人  知恩会

美濃国揖斐郡  小島村   寺院   二席  五百人  住職

山口県豊浦郡  豊田前村  寺院   四席  六百人  住職

〔合計 三郡、三村、三カ所、八席、聴衆一千五百人〕

  演題類別〔ただし、中国山東省巡講分を含む〕

   詔勅修身     十席

   妖怪迷信     一席

   哲学宗教     七席

   教育       一席

P62--------

丹後国巡講日誌

 大正五年十一月七日。午後七時、東京駅発、丹後巡講の途に上る。

 八日 快晴。午前七時半、京都駅着。八時半、山陰線に転乗し、午後一時、但馬国豊岡に着駅す。ここに随行森山玄昶氏と相会し、熊野郡視学柴田広信氏および仏教同盟会幹事習田義徹氏に迎えられ、車を連ねて丹後国熊野郡に向かう。国境に横臥せる河梨嶺をこえ、午後三時、久美浜町〈現在京都府熊野郡久美浜町〉古谷旅館に入る。楼名を愛月楼という。行程三里半、車上にて一望するに、櫨および柿の紅葉点々たるを見る。稲はすでに刈り尽くし、木に掛けて風に乾かしつつあり。方言にてその木を稲木という。藁だけを積み上げたるものをニフという。当所は直径一里の湾に面す。これを松江湾と称しきたる。その周辺に林巒の起伏せるありて、風光すこぶる美なり。古来十二勝の雅題あり。また、当面に白砂青松の連なれるあれば小天橋の名を有す。よって一絶を浮かぶ。

  但山丹水客程遥、尋到汲浜風月饒、当面松青沙白処、由来呼作小天橋、

(但馬の山、丹後の水、旅人の行程ははるかに、久美浜の風と月のゆたかさをたずねた。当面の松の青さと砂の白いところは、昔から小天橋と呼ばれているのである。)

 久美浜の雅号を玖浜というを聞くも、余は俗字を用いて汲浜となす。夜に入りて過暖、温度〔華氏〕七十四度に上る。故に雨を催しきたる。

 九日 風雨。朝気〔華氏〕六十二度。湾内の風光は雲煙にとざされて望むを得ず。郡長山中実氏は実母の訃音に接して帰郷中なり。首席郡書記村岡治郎蔵氏、代わりて斡旋せらる。町長稲葉宅蔵氏は詩画をよくす。当地の真言宗宝珠山如意寺は行基以来の古刹にして、その観音は眼病者遠近よりきたりて信願すという。また、浄土宗本願寺、臨済宗宗恵寺(習田氏所住の寺)等の古刹あれどもすべて訪尋せず。午後、小学校にて開演す。その前後は揮毫に忙殺せらる。本郡は三面山をめぐらし一面湾を抱き、天然の城廓を有す。産業としては養蚕一般に行わる。久美浜の名物はコノシロ寿司なりと聞く。

 十日 風雨。午後、車行二里半、海部村〈現在京都府熊野郡久美浜町〉小学校に至りて開演し、当夕、古谷に帰宿す。

 十一日 晴れ、ただし風強し。午後、郡教育会副会長今西喜代蔵氏の案内にて、湾頭にそい勁風をつき、車行二里、田村〈現在京都府熊野郡久美浜町〉関小学校に至りて講話をなす。宿所真言宗永徳寺は庭内清くかつ閑なり。本郡三カ所開会は教育部会と仏教同盟会の主催にかかる。尽力者は前記の諸氏の外に警察署長村上憲氏、技師川上義人氏等あり。

 十一月十二日(日曜) 快晴。柴田郡視学とともに関を発し、車行一里、郡界桜尾峠をこえ、更に半里にして竹野郡木津温泉場に着す。本泉は温度低きために、人工を加えてその度を高むという。並等一人二銭、中等四銭、特別二十銭とす。竹野郡役所よりは視学井上菊之助氏ここにきたりて迎えらる。これより更に車行二里余にして網野町〈現在京都府竹野郡網野町〉に至る。会場は小学校、主催は町育英会、尽力者は会長柴田勝治氏、副会長室井助三郎氏、幹事森田、梅田両氏、町長松村伝之助氏等なり。本郡は機業盛んにして、網野だけにてもこれに従事するもの一千人、女工は大抵他地方より入りきたるという。また、この地は古跡を有し、銚子山は四道将軍丹波道主命の御陵なり。その傍らに浦島太郎の宅地跡あり。また、町内に浦島神社、および垂釣の磯、澄之江、水之江、蓬莱島等あり。郡内にて日下部姓を有するものは浦島の末裔なりという。宿所井徳屋に表示せる宿料を見るに、一等二円、二等一円五十銭、三等一円、四等七十銭とあり。これを見て物価の比較的高きを知る。車夫は一里およそ二十五銭を請求する由。当地所吟一首あり。

  農事漸閑工事忙、更無吟客弄秋光、昔年浦島釣魚地、今作千機万織場、

(農事がようやくひまになると工事に忙しく、ことさらに吟詠の人の秋の光景を賞することもない。昔、浦島が魚を釣るの地であったが、いまや幾千万の機織の動くところとなった。)

 十三日 快晴。穏暖春のごとし。朝時、郡長栗山透氏来訪あり。この日、井上郡視学、随行に代わりて同行せられ、車行一里、琴弾浜に出ず。郡内の名所なり。一帯の砂浜、歩するごとに琴音を発す。石州の琴浜に同じ。また、足にて打てば太鼓の響きをなす所あり。風光大いによし。これより更に一里半余にして間人村〈現在京都府竹野郡丹後町〉に入る。これをタイザとよむは奇なり。途中、岩石の間に鉱泉場あり。会場小学校は懸崖の上にありて千里一碧の眺望を有す。この地旧来の港湾なるも、汽船を碇泊せしむべき湾口なし。当地の主催は間人、徳光、八木、竹野四カ村連合にして、発起かつ尽力者は間人村長泉雄次郎氏、同校長田中重雄氏、その他三カ村長および校長なりとす。宿所は城島と名付くる海中に突出せる松巒にして、山水明媚、ことに琴弾浜と相対し、宛然蓬莱に遊ぶの趣あり。また、日夜奔涛の岸頭を洗う所、実に浩然の気を養うに足る。巒上の旅館は郡内第一と称するも、その名を炭平別館というははなはだ俗なり。よって余は、これに浦島の竜宮にちなみて竜城館と命名す。所詠、左のごとし。

  行尽琴沙一帯浜、来攀城嶼景全新、風涛日夜和松籟、洗去人間万斛塵、

(琴砂の一帯にしきつめる浜辺を行き、城島にのぼれば景色は全く一新する。風と涛が日夜松に吹く風音に和し、人の世のあらゆる塵を洗い流すのである。)

  十四日 曇りかつ風。ときどき雨きたる。市街を出でたる所に玄武岩あり。車行三里にして上宇川村〈現在京都府竹野郡丹後町〉字平に至る。その間に一嶺あり、乗原峠ともまた筆石峠ともいう。この嶺を下る所に画を欺くがごとき絶景あり。しばらく車をとどめてすずろに愛して可なり。このごろは穫稲すでに終わりて、芋掘り蕎刈り最中とす。会場は小学校、主催兼発起は村長岡田佐兵衛氏、校長松井芳之助氏、訓導森本幸次郎氏、収入役増田六太郎氏にして、宿所は登富屋なり。名物香魚の粕漬けはその味すこぶるよし。開会地より経ケ岬灯台までなお二里を隔つ。この地方は丹後牛の産地にして労働用のものを飼育す。全国中、純日本種はこの地に限ると聞く。

 十五日 晴れ。上宇川より鞋をうがちて山行一里半、坂下より車行二里にして深田村〈現在京都府竹野郡弥栄町〉に達す。途中、群山の松間に点々紅葉を挟めるを望む。役場前の旅店にて一休し、小学校にて開演し、曹洞宗福昌寺に至りて宿泊す。当寺は江湖会中なり。聞くところによれば、郡内寺院の九分どおりは曹洞宗に属すという。主催兼発起は村長松村同氏、校長森辺氏等とす。本夕は栗山郡長とともに会食す。本郡は山また山の山郷なるが、深田辺りをもって第一の平坦部と称せらる。この日は十月の亥ノ子日とて、農家一般に休業という。夜に入りて雨きたる。

 十六日 曇り。村内に車なきをもって徒歩すること約一里、溝谷村〈現在京都府竹野郡弥栄町〉に至る。会場は竜淵寺、主催は溝谷、吉野、鳥取三村連合、発起は本村長金久信治氏、同校長西井米治氏および他村長校長にして、宿所は小林楼なり。終夜、水車転々の声枕頭に響く。この日また恵比須講なりとて、機業家みな休む。

 本郡内にて聞くところの方言を記せんに、

湖をカツミ、そばをホテ(例えば火鉢のそばを火鉢のホテという)、物の後部(シリの方)をシリケツ、落ちるをアザケル、ドウシテモをカッタニ(例えば魚がドウシテモとれぬをカッタニとれぬという。すなわち絶対にというごとし)、狐をケツネ、兎をオサギ、卵をタガモ、体をカダラ、手伝いをゴウリキ(合力ならんか)、ヒキガエルを福ガエル、アグラをアクラともアブタともいう、ザルをテツツキ、カボチャをカラウリ、桑の実をヒナビ、饑饉をガシン(出雲もまたしかり)、いたどりを竹ダンジ、狐花(曼珠沙華)をナベハジキ、木をキンダ(宇川村)、草をクサンダ(同上)、男をオッチャン、われをウラ。

 以上は郡全体の用語と一部分との別あり。人を呼ぶに姓と名との頭字を合して呼ぶ風あり。例えば坂田清平をサカセイと呼ぶの類なり。この風は伊豆大島に同じ。また、名詞にゲを添うることあり。例えばわれをウラゲというの類、他人の家を訪うてハイ今日はというべきをただヘイヘイと呼ぶ。また、ソウダロウというべきをソンダナという。人の死したるときに、お気の毒というべきを「阿房ゲナコトヲナサレタ」というはおもしろし。うらやましいというべきをイカナカルという(これを山城にてはケナルイという)。また、シクジッタすなわち失敗のことをジョサイシタという。世間普通にいうところの如才ないとはこれと同意ならん。すなわち如才ないとは失敗ないの意に当たる。あるいはいう、如才の字は女才ならんとの説あり。親類というべきを親子という。方言につきてよみたる歌あり。

  大根とはぬべきンをはねもせで、イラヌゴン房にチヤン袋かな、

 大根をダイコといい、牛房〔ごぼう〕をゴン房といい、茶袋をチャン袋というによる。つぎに丹後の風俗につきて一言せんに、正月のみならずすべて餅はまるきを用い、三月節句の菱餅の外には切り餅なし。雑煮は味噌汁に限る。婚礼などのめでたい席にては必ず伊勢オンド、または石場ツキ歌(東京のキヤリ)を歌うものとす。子供のお月様の歌を、

  御月サンいくつ十三七ツ京の町ホイトコセ、

という由。以上、伝聞のままを記しおく。

 十七日 雨。郡書記新田貫一氏に送られて車行一里半、中郡峰山町〈現在京都府中郡峰山町〉に移る。余が明治二十五年五月巡講せし地なり。その当時の稲葉郡長はすでに故人となり、校長中西良蔵氏は今なお健在し、郡内開会の主動者なり。午後、前後二回小学校にて開演す。前回は生徒に対し、後回は公衆に対しての講話なり。主催は郡内全部とも郡役所および郡教育会にして、当町の発起は校長兼教育会長中西氏および高木鍵吉氏等にして、郡役所員および町長谷口甲子郎氏これを助く。郡長高辻巌氏も出席せらる。峰山町は丹後縮緬の本場としてその名世に高し。宿所は中重旅館なり。

 十八日 曇り。中西校長および首席郡書記栗田正彦氏とともに車を連ねて行くこと一里半、丹後第一の高山たる磯沙山下の五箇村〈現在京都府中郡峰山町〉小学校にて開演す。校側に四道将軍の遺跡あり。また、この山中に天女降臨、三保と同じく羽衣の伝説あり。その子孫今なお存す。これをタナバタの子孫と呼ぶ。ツマリ、星の降臨せしものと信ずるなり。また、弥助と名付くる頓智頓才をもって名高きもの、この村より出ずと聞く。中西氏も本村の出身なり。村長は後藤佳重郎氏、校長は松本庄三郎氏とす。演説後、峰山中重旅館に帰宿す。

 十一月十九日(日曜) 快晴。車行一里半、河辺村〈現在京都府中郡大宮町〉小学校に至りて開演す。校舎の大部分は本年火災にかかる。新築いまだ成らず。村長は矢谷金次郎氏、校長は急津菊次郎氏なり。村内に哲理療法所の看板を見る。当夕、近藤旅館に宿す。

 二十日 晴れまた雨。車行一里、口大野村〈現在京都府中郡大宮町〉小学校にて開演す。村長は小牧英太郎氏なり。当地は四通八達の要路に当たれるも、麦まき最中なりとて聴衆はなはだすくなし。郡視学入江熊吉氏ここに出張せらる。本村の特色は全部日蓮宗興門派にして、一戸の他宗を交えざる一事なり。

 二十一日 陰晴。車行一里半、途中、周枳嶺をこえて五十河村〈現在京都府中郡大宮町〉小学校に至り、午前開演す。村長は矢野為蔵氏、校長は蘆田義資氏なり。この辺りの山林には紅葉少なくして黄葉多し。村外には稲架縦横、眺望を遮る。これ中郡晩秋初冬の実景なり。午後、更に車行約一里にして三重村〈現在京都府中郡大宮町〉に移る。会場は小学校、宿所は曹洞宗万歳寺、村長は矢野想吉氏、校長は糸井恵治氏なり。当地には哲学館出身永浜宇平氏ありて尽力せらる。また、安井熊蔵氏も助力あり。郡内は各所とも郡役所および教育会の主催なれば、中西会長と入江郡視学と同行してここに至り、本夕、宿寺において送別会を催し、その余興とし〔て〕中西氏独得の秘芸義太夫を演ぜらる。その妙、実に本職をして三舎を避けしむ。ときに余、一絶を賦して答謝す。

  忽雨忽晴丹後天、秋過稲架鎖山田、禅房一夜聞声楽、与酒相和養浩然、

(たちまちに雨ふり、たちまちに晴れるように変化の激しい丹後の空である。秋の稲架で遠く山や田の景色はさえぎられている。禅院の僧房に一夜の声楽を聞いたが、酒ととけあって浩然の気を養ったものである。)

 丹後の天候は秋より冬へかけ、朝時晴天にても陰雲急に起こりて雨を醸すこと数次に及ぶ。これをウラニシ(裏西)という。この天候より転じきたりて、丹後にては人のたびたび変説するものの異名を裏西という由。中郡の方言としては、薪をバイタ、例えば薪でなぐるをバイタデドヤスという。バカリまたはノミというべきをゴロという。例えば酒ばかりのむを酒ゴロのむ、肴のみくうを肴ゴロくうの類なり。イタドリをダイジンバという。また、この辺りにて人がたずねきたりて暫時用談せんとするときに、他地方にてちょっと耳を借して下さいというべきを、目を借して下さいという。耳と目との相違あるはおもしろし。また俗謡としては、中郡の山中に平家の落人と称する人家二十戸ばかりの小部落あり、これを大路という。

  大路の山のキージーの子泣くと鷹がツーカムヨ、

 子供が常にこれを歌うと聞く。また、子供が物の数をかぞえるときに、東京にてはチウーチウータコカイナというが、中郡にては、

  チウジ、チウジ、タコノ、コアイガ、十町、

という由。本郡は史跡として誇るべきは伊勢外宮の根源地にして、豊受大神宮はむかしこの郡内にありしという。郡内の宗教は八、九分どおり禅宗にして、なかんずく天竜寺派大多数を占むる由。この地方には民家の屋根に笹をもってふきたるものあり。山笹を刈り取りてふくという。これ茅屋にあらずして笹屋なり。

 二十二日 晴れ。今朝、車夫きたらざるために万歳寺を発し、永浜氏の宅に少憩し、徒歩すること半里余にして腕車を得、与謝郡加悦町〈現在京都府与謝郡加悦町〉に移る。行程二里余。この日、町教育会発会式あるために、郡長岸田豊久氏は視学小牧時蔵氏を伴いて出席せらる。会場小学校講堂は御大典紀念の建築にして、長さ十四間、幅七間、千人をいるるべく、かつすこぶる清麗なれば実に模範講堂というべし。開会発起は町長鈴木需氏、校長道家勉氏、青年会長細川竜仙氏なり。しかして細川氏は哲学館出身の一人たり。宿所旅館の名を油佐という。当町は織物を専業とし、戸々機声相連なる。この町より大江山鬼窟までわずかに一里半に過ぎず。故に鬼窟を一見せんとするもの必ず、この町に一泊し登山すという。「大江山鬼の岩屋も近ければ、先づ一服と休む加悦町」とでもいうべき地なり。

  十一月二十三日(新嘗祭) 晴れ。車行一里半、岩屋村〈現在京都府与謝郡野田川町〉に至る。途中、倭人社前を過ぐ。これをヒトリとよむ。この界隈はすべて織工なり。行く所として機織の声を聞かざるはなし。本年はことに好景気のために機声一段高しという。会場および宿所は臨済宗西林寺、主催は青年会、発起は会長四方為之助氏、副会長浪江喜太郎氏、理事池田喜多蔵氏等なり。

 二十四日 快晴。夜来寒気にわかに加わり、今朝、新霜田に満ち野に敷く。早朝岩屋を発し車行二里、吉津村〈現在京都府宮津市〉江西寺(臨済宗)に至りて、午前開演す。村長尾関重吉氏、住職尾関恵薩氏、医師由里保幸氏、校長萩野秀蔵氏等の主催なり。会場の庭前に菊花壇ありて、満架の秋色座に映ず。聞くところによるに、当寺にては代々の住職菊を栽培し、八十余年の久しきに及ぶ。故に世間にては菊寺としてその名を知らるという。よって一詩を賦す。

  江西寺主愛秋葩、八十年来培菊花、今日来遊吟賞甚、幽香和酒興逾加、

(江西寺の住職は秋の花を愛し、八十年来、菊の花をつちかう。今日来遊してここに吟賞すれば、ほのかな香りと酒とでおもむきはいよいよ深まるのであった。)

 午後、車行約三十丁にして岩滝村〈現在京都府与謝郡岩滝町〉西行寺に移る。浄土宗の名刹にして、堂内庭前の結構ともに整備せる寺院なり。門側に銀杏樹あり。よって書院を銀樹閣という。また、古桜の名高きものありしが今は朽廃せる由。ただ、庭際に紅於の花ありて三春を欺かんとす。当夜、小学校にて開演。主催は村長三谷宗兵衛氏、校長坂倉十一郎氏なり。この村より一里にして西国二十八番成相寺の観音あり。その途中の笠松は天橋を一瞰するに最も妙なりと聞くも、時間なきをもって果たさず。哲学館出身中野宗広氏本村に寄住せるも、病臥中の由を聞く。

 二十五日 雨。車行四里余、海岸にそいて養老村〈現在京都府宮津市〉に至る。風光明媚、空気清新、真に養老に適す。海上に両小島の並立せるを望む。右を冠島、左を履島という。その形、実に名のごとし。また、男女に配して雄島、雌島ともいう。会場は真宗願性寺にして、主催は養老、日ケ谷二村連合、発起は養老村長白神孫次郎氏、助役松井勝蔵氏、日ケ谷村長尾上庄兵衛氏、助役岡本市左衛門氏等なり。これより二里を隔つる所に朝妻村あり。その字新井は全く漁村なるが、今なお産屋の設備ありて、産婦分娩の際はこの屋に移りて出産をなすという。また、婦人月経中は自宅内土間の一隅に別居する遺風もありという。

午後、演説を終わるやただちに腕車を駆り、雨をおかして四里、途中日すでにくらく、天橋一里の松林を暗中に一過し、切戸の渡りを越えて文殊堂〔吉津村〕に至れば、聴衆すでに堂に満つ。住職文珠浩然氏は哲学館大学出身なり。小牧視学は郡内各所を案内せられ、養老より先駆してここに至り、前席の演説をなせり。余も一席の談話をなし、門前の対橋楼の三階にのぼり、晩食を喫しつつ額面に「天橋如酒其景能使人酔」(天の橋立は酒のようにその景観は人を酔わせる。)と題す。これより一走すること三十町にして、宮津町〈現在京都府宮津市〉劇場万年座に至る。聴衆満堂、立錐の余地なく、千三、四百人と目算せらる。講演二席の後、荒木別館に着するときはすでに夜十一時なり。この日は三カ所の開会にてやや疲労を感ず。文殊寺は天橋山智恩寺なるも、寺号を知る人少なし。その寺の特色は、智慧の守り礼を出だすと、仏前に酒を供するとの二件なり。堂前の茶屋には智慧団子もあれば智慧餅もありて、すべて智慧尽くしなるはおもしろし。なるべくは智慧酒も発売ありたきものなり。昔の俗謡に「二度と行くまい、丹後の宮津、縞の財布がからになる」とある由に聞く。

 十一月二十六日(日曜) 雨。荒木別館は昨春一宿せしかどにて得意客をもって遇せられ、前回の拙作を壁上に掛けられたり。余、更に五絶二首を賦して主人に贈る。

  丹海天橋景、世間誰比肩、松洲与宮島、相顧共茫然、

(丹後の海の天橋立の景色は、世のなにともくらべられぬ。松島と宮島とは、互いに顔を見あわせて茫然とするであろう。)

  松沙如一字、横劃海湾中、造化神工妙、天橋名不空、

(松と砂が一の字をえがき、横ざまに海湾を区切っている。造化の神のたくみさは絶妙であり、天橋立と名づけられたのはもっともなことである。)

 楼上煙を隔てて天橋を望むところ、かえって一段の趣を添う。

  晴れてよし曇りてもよし雨降れば、猶もよしとは天の橋立、

 かく歌いつつ午前八時半宮津を去り、十八人乗りの新造大自動車に駕し、走ること五里にして八田に至り、これより腕車を駆ること四里にして、加佐郡河守町〈現在京都府加佐郡大江町〉浄仙寺(浄土宗)に至る。ときすでに十二時なり。会場は小学校、主催は仏教会支部、発起は住職古寺義準氏、および中江円守、水野秀雄、越後義天、室寺霊雄四氏なり。郡役所よりは書記田中勲道氏出張、仏教会本部よりは理事桐野単道氏出張あり。

 二十七日 曇りまた晴れ。浄仙寺を去りて車行二十町、その間に由良川の渡船あり。河東村〈現在京都府加佐郡大江町〉小学校に移りて、午後開演す。主催は青年会、発起は校長兼会長小墻近太郎氏、副会長塩見幸太郎氏、村長友繁松蔵氏、助役塩見信十郎氏、宿所は曹洞宗常楽寺なり。同村は養蚕を本業とす。

 二十八日 曇り。気候にわかに寒く、午時ミゾレの降れるを見る。朝、河東を発し、由良川の沿岸をさかのぼること三里半にして福知山駅に着し、これより汽車にて新舞鶴町〈現在京都府舞鶴市〉に移る。午後、劇場稲荷座にて開演す。加佐郡仏教会の主催にして、立太子礼紀念講演会の名義なり。故に郡役所も大いに助力せらる。しかして発起者は芳滝智銈、一盛大諒、村木格宗、柴田清道、楳林静雲、堀尾祐義、日紫喜観暁諸氏とす。当夕、水交社にて晩餐を賜り、のち将校諸氏に対して講話をなす。司令長官名和中将も出席せらる。宿所は篤志家神谷吉郎氏の本宅なり。その新築別座敷に命名して鶴雲堂とす。

 二十九日 曇り。自動車にて四里余を一走して若狭国大飯郡高浜町〈現在福井県大飯郡高浜町〉に至り、公会堂にて開演す。宿所は園松寺(住職勝峯素定氏)なり。しかして主催は各宗寺院連合会なり。当町は八百戸の所に寺院十八カ寺あり。その多数は臨済宗にして相国寺派に属す。釈宗演氏はこの地の出身なり。会場において郡長蒲八郎氏に面会す。哲学館出身長谷修之氏(旧名良光)、本郷村より来訪あり。余は明治三十五年夏、若州を一巡してこの地にきたりしことあり。物産は海産物にして、夏時は海水浴場に適すという。風光明媚もまた当地の特色なり。青葉山は一名若狭富士と称し、兀然として聳立せるところ、すこぶる風致あり。小浜の雅名を雲浜というに対し、高浜を雪浜という。当夜は、専能寺にて聖徳太子祭を挙行せらるるにつき、一席の談話をなす。住職宮崎最勝氏は活動家の評あり。客中作、左のごとし。

  客裏送迎秋又冬、北浜窮処曳吟笻、霜風染出若州路、青葉山成紅葉峯、

(旅をしているうちに秋を送り冬を迎えようとしている。北の浜辺の尽き果てるような地に詠吟の杖をつく。霜をふくんだ風が吹きつのって若狭路を染めていく。まさに青葉山に紅葉の峰をつくりあげているのだ。)

 三十日 勁風強雨。午前、高浜を発し車行一里、腕車風のために顛覆す。これより芒鞋をうがち、泥途を攀ず。激浪岸を打つ。その響き雷のごとし。鞋行二里の間、道路狭くしてかつ高低曲折多し。頭髪雨に浸され、全身ためにうるおう。内浦村〈現在福井県大飯郡高浜町〉役場に一休して、大字山中西林寺に至る。住職久山竜田氏は哲学館出身なり。大飯郡は相国寺派の勢力地なれば、西林寺もまたその派に属す。本村は山と海とより成り、農漁相半ばす。車道いまだ通ぜざれば、出入すこぶる困難を極む。目下ブリ漁の最中という。一村十大字より成り、戸数三百の所に学校四校、寺院十一カ寺。この辺りは寺院の数の豊富なるには驚かざるを得ず。会場は宿寺の門前の小学校にして、主催は村教育会、発起は久山氏の外に村長大野充太郎氏、校長堀口寅蔵氏、区長寺田久三郎氏、郡会議員藤田利吉氏等なり。当日の所吟を左に録す。

  路脱泥靴著草鞋、梳風沐雨渉懸崖、忍寒尋到西林寺、般若湯中温客懐、

(道に泥まみれの★(靴の旧字)を脱いでわらじにはきかえ、風にくしけずり、雨にさらされて天からつりさげられたような崖をわたる。寒さをさけて西林寺にたずねいたる。般若湯は旅客の心をも温めるのである。)

 この日、演説中に降霰あり。

 若州の方言および風俗の一端を記せんに、

恐ろしいをキャウトイ、コレアレをコノワラアノワラ、アノナというべきをアノネヤカという。父をトトンまた〔は〕チャン、母をカカン、われをウラ、オタマジャクシをアタマイカイ、曼珠沙華を狐花とも、シンビリとも、彼岸花とも。新年をヤラタラシまたはヤラメテタ、波をノタ、飯をママ、氷柱を高浜にてはナンリョ、内浦にてはイテガリ、切ることをハヤシ、例えば正月餅を切るをハヤシゾメという。神職をホリという。釜のフチのなきをテンドリという。

 つぎに迷信の一としては、正月松飾りの松を焼き、その余燼の灰を取りて家の四辺にまきおかば、蛇が屋内に入らずと信ず。また、その燼木を屋端に差しおかば、悪疫家に入らずという。また、節分の豆まきのときに、もし投げ出だせる豆を拾ってこれを蓄え、初雷のときに食すれば雷に打たるることなしという。

 十二月一日 晴れ。鞋行一里にして松尾山に至る。この間の途上、海山画図のごとく眼前にかかり、遠く越前の高峰に白雪の冠するを望むところ、天然の大庭園に対するの観あり。松尾寺は西国二十九番の観音にして、仏前に掛くる額面に「そのかみはいくよへぬらんたよりをは、ちとせをこゝに松の尾の寺」と題せるを見る。これよりくだること半里にして本道に合す。昨日の暴風のために稲架のたおるるもの多し。これより更に車行一里半にして再び新舞鶴町〈現在京都府舞鶴市〉に至り、板根氏の宅に休泊す。主人は今夏死亡せりという。当夜、第二小学校、幅八間、長さ十五間の大講堂にて講演をなす。主催は保護会、会長は町長五藤兵司氏なれども病中なれば、助役西村幸平氏代わりて斡旋せらる。副会長は神谷氏なり。しかして幹事は校長野村喜之助、坂根正美両氏なり。この日、駆遂艦樫の進水式あり。よって一吟す。

  舞鶴曾誇風景美、渓山今已為兵塁、我来知得海防忙、駆逐艦成時進水、

(舞鶴はかつて風景の美しさを自慢としたのであったが、谷も山もいまや軍の施設となった。私はここに来て海防の重要さを知ったのであるが、ときに駆逐艦が完成して進水式が行われたのであった。)

 二日 曇り。午前中、汽車にて舞鶴町〈現在京都府舞鶴市〉へ移る。郡長折田有彦氏、視学小林源之助氏等の歓迎あり。会場は公会堂、主催は仏教会にして、立太子礼紀念講演なり。会長は楠霊瑞氏にして、その寺瑞光寺は細川幽斎翁の創設にかかるという。余ここに宿す。理事桐野氏は高野村永福寺住職にして、楠氏とともに尽力あり。その他の発起は林巍観、沢田宣静、田淵惟喬、内海碩天、滝本賢英諸氏なり。

 ここに丹後五郡を巡了したれば、前記中に漏らせし方言、風俗を摘載せんに、気の毒をイゲチナイといい、巫女をミコまたはヨビダシミコといい、中座にいて神の乗り移るものをノリクラという。丹後の茅屋に往々階段を付けてふきたるものを見る。アイヌの家屋に同じきは奇なり。また、船の置き場にいちいち屋根を設置するも丹後の特色なりとす。

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丹波国巡講日誌

 大正五年十二月三日(日曜) 晴れ。丹後舞鶴より三里の間を汽車に駕し、丹波何鹿郡東八田村〈現在京都府綾部市〉字梅迫に移り、午後、小学校の大講堂にて開演す。主催は村教育会、発起は村長四方貞蔵氏、校長遠藤和吉郎氏、宿所は小石亭なり。安国寺住職梅垣謙道氏も助力あり。本郡にては各村とも養蚕をもって本業となす。また、各学校に闊大なる講堂を有す。今日、首席郡書記橋本太郎氏来訪あり。

 四日 朝霧、のち晴れ。丹波にては年中霧多く、朝より晴るる日には必ず雨あり、朝霧ある日は必ず晴るるという。その霧のまさに消せんとするや、山まずはれて渓なお白し。これを霧の海という。あたかも海中に島あるがごとし。備後の三次町とその趣を同じくす。故に余、一作を試む。

  千渓水走万山堆、車路縦横閉又開、有霧則晴無則雨、中丹天候亦奇哉、

(あらゆる谷に水がはしり、あらゆる山はうず高く、車で行く道は縦横に行き止まりかと思えばまた行く。この地では朝霧があれば晴れ、霧がなければ雨がふるという。中丹波の天候もまたかわっているのだ。)

 梅迫を発して車行二里、山渓の間を上下して吉美村〈現在京都府綾部市〉に入る。宿所および会場は曹洞宗琴松山清絃寺なり。すこぶる詩的寺号なるも、境内に一株の松なきは奇というべし。主催は報徳社および寺院、発起は村長兼社長四方寅之助氏、住職立身禅灯氏等なり。当寺は綾部町をへだつる約二十町、郡視学高畑角治郎氏来訪あり。本郡長は藤正路氏なり。夕刻より雨きたる。綾部町には金神教盛んに行わるという。その教祖は老婆にして今なお存す。天理教にひとしとの評なり。

 五日 朝霧、のち晴れ。車行三里、山路を昇降して志賀郷村〈現在京都府綾部市〉に至る。会場は小学校、発起は村長志賀覚兵衛氏、校長梅垣喜蔵氏、および興隆寺日下乗木、竜昌寺井上俊瑞、長松寺英泰霊、宝満寺松本大恵、真福寺河口哲丸五氏なり。この諸氏はいずれも多大の尽力あり。興隆寺は真言宗にして休憩所にあてられる。晩食後、多数の揮毫を完了して、朦朧たる雲月をいただき車行約一里、物部村〈現在京都府綾部市〉に移る。宿所河内屋に着せしは夜十一時なり。

 六日 晴れ。早朝より揮毫と奮闘し、午後に至り小学校にて開演す。発起は村長大槻万世氏、青年会長塩見清太郎氏、校長野田貞二郎氏等にして、諸氏の尽力ただならず。哲学堂維持金もいわゆる記録破りの好成績を得たるは、特に深謝せざるを得ず。晩食後、更に車を馳せ、一里余を隔つる以久田村〈現在京都府綾部市〉小学校に移りて更に開演す。当地は臨時の申し込みにして、かつ大字栗壮年会の主催に過ぎざるも、会員の非常なる尽力により、聴衆も揮毫もともに予想外の多数に達せり。その主なる尽力者を挙ぐれば、村長永井重次郎氏、校長緒方文三郎氏、壮年会長川北盛一郎氏、幹事加藤玄一郎、永井忠蔵、猪岡太一、永井武一郎、村上安太郎、高橋周吉、村上八郎諸氏なり。当夜は医師武田善哉氏の宅に宿泊す。邸宅ともに清美なり。かつ主人菊を愛し、秋色のなお窓間に映ずるあり。昨日今日の両日ほど多忙を極め疲労を感ぜしは、ほとんど前例なしといいて可なり。

 七日 朝霧、のち晴れ。その温、春のごとし。早朝より揮毫に従事し、午時以久田村を発し、車行一里余、佐賀村〈現在京都府綾部市、福知山市〉に移る。会場は小学校、休憩所は村役場、発起は村長大志万誠太郎氏、助役東田徳治氏、校長四方順三郎氏等なり。当役場は西洋館にして、本年新築せるところ、郡内無比なるのみならず、府下においても稀有の役場なりという。

 何鹿郡は府下第一の養蚕地にして、春蚕、夏蚕、初秋蚕、晩秋蚕、晩々秋蚕までを養う由。本年は大好景気なりと聞く。晩食後、佐賀村を去り、月をいただき車行約一里、天田郡雀部村〈現在京都府福知山市〉頼光寺に移りて夜会を開く。当寺は源頼光、大江山鬼退治に関係あるもののごとし。主催は住職立身秀峰氏なり。

 八日 雨。夜来の暖気、雨を醸しきたる。車行一里余にして福知山駅に着す。天田郡仏教団長久昌寺水野道秀氏および郡視学川島貞良氏と相会し、ともに汽車に駕し、上川口村〈現在京都府福知山市〉に至る。会場は小学校、宿所は教念寺、主催は西部仏教団、発起は金岡宜庸氏、本田寿信氏、矢野孝道氏、大江黙外氏なりとす。しかして宿寺住職は矢野氏なり。村上専精氏は七、八歳より十六、七歳までこの寺に寄留して教育を受けられ、そのときは信丸と称し、人みなノブサンと記憶しおれり。

 九日 曇り。北風強く寒気とみに加わり、二、三回雨を送りきたる。この日は腕車を用い、行程一里半、福知山町〈現在京都府福知山市〉に入る。途中、車上吟一首あり。

  丹陽連日雨濛々、木落桑枯野色空、回首福知城外路、大江山在白雲中、

(丹波の地では連日雨がけぶるようにふり、木の葉も桑も枯れて野の色もあせて見える。福知山の郊外の道をふりかえれば、大江山が白雲のなかにあるのであった。)

 会場は惇明小学校講堂、主催は仏教団、発起は久昌寺、法鷲寺、明覚寺、永領寺、海眼寺、正眼寺、成徳寺、谷垣喜六、藤井伊兵衛、越山益三等の諸氏なり。郡長竹沢徳蔵氏は会場に出席せらる。宿所堀忠は四階楼にして堤防の上に踞す。したがって眺望大いに佳なり。夜に入りて風全くやみ、寒月高くかかり、その光由良川の波上に照映するところ、実に世外の趣あり。当地にてシナ泰山登覧の一行に加われる明永秀峯氏に会す。氏は庵我村醍醐寺に住する由。福知山旅館は堀忠の外に、加寿儀および船橋等ありと聞く。当所弁護士八木栄造氏より南洋の珍石を寄贈せらる。

 十二月十日(日曜) 晴れ。朝寒〔華氏〕四十三度、野外降霜あり。車行一里半、全く平坦なり。西中筋村〈現在京都府福知山市〉字石原洞玄寺に至りて開演す。発起かつ尽力者は住職立身禅嶺氏、村長塩見文吉氏、校長大西庄太郎氏、郡会議員大槻喜之助氏、青年副会長中村秀治氏等なり。丹波は置き炬燵流行し、各所とも毎夜寝具の中にこれを入るる。

 十一日 穏晴。洞玄寺を去り六人部村字長田野陸軍演習地を横断し、渓山の間を一貫して細見村〈現在京都府天田郡三和町〉字千束に至る。車行約四里、この地は福知山より京都へ通ずる山陰街道にして、福知山へ四里、園部へ八里の地にあれば、余は明治二十五年に一過せしことあり。会場は小学校、休憩所は役場楼上、発起は村井文格氏(広雲寺)、金子原教氏、新福寺、昌福寺、長川寺、久法寺等なり。当夕、大鍋旅店へ宿す。

 十二日 晴れ。霜気をおかして出発。石原駅まで車をめぐらして汽車に駕し、午後一時半、船井郡園部町〈現在京都府船井郡園部町〉に着す。駅より公会堂まで十七町あり。開会主催は教育部会にして、発起は郡長大場義衛氏、視学高畑角次郎氏、書記桐甚太郎氏、幹事塩田栄次郎氏、および仏教団理事徳雲寺三浦慈光氏なり。当夕は公園内の六花亭に宿し、郡長等と会食す。しかして料理は綿儀旅館の仕出しなり。園内には松巒桜林あり。また、当町には府立淇陽学校および私立精華塾あり。この塾は当地の教育家、故井上半介氏の門弟の設立にかかる。郷社天満宮はむかし菅公の別邸ありし旧跡なりという。本町の名物は桑酒と名付くる薬酒なり。

 十三日 快晴。霜白く雪のごとし。桐、塩田両氏と同乗して世木村〈現在京都府船井郡日吉町〉殿田駅に着す。車中の電灯の光は糸よりも細し。会場は小学校、発起は村長湯浅虎三郎氏、校長内藤直次郎氏、仏教団理事横井鉄宗氏なり。この地は北桑田郡へ出入する関門にして、物産、薪炭、駅内に堆積す。炭一俵三貫目の価二十五銭という。また、この地にはマンガンと名付くる鉱石を産出す。製鉄と染料と肥料とに用うる由。宿所は田丸屋。今夜、月光霜よりも白し。

 十四日 晴れのち雨。朝気〔華氏〕三十九度、冬寒を覚ゆ。汽車にて下和知村〈現在京都府船井郡和知町〉青年会倶楽部に至り、午後開演す。発起は村長片山常市氏、校長晴枝巌氏、仏教団広田俊保氏にして、宿所は松屋旅館なり。高木周慶氏、自作の彫刻物を贈らる。今夜、暖急に加わりて〔華氏〕六十度にのぼる。ランプの下に蝿の飛ぶを見る。当地は丹波栗の真の本場とて、旅館主人より多量の寄贈を受く。聞くところによれば、一時は栗木をきりて鉄道の枕木に用い、その代わりに桑園を設くるに至り、大いに栗の産額を減ぜりという。よって一詠す。

  丹山深処有農村、戸々終年蚕事繁、名物亦難免時変、栗林今日化桑園、

(丹波の奥深い地に農業の村があるが、家々は一年を通じて養蚕に忙しい。丹波栗と称せられる名物もまた時代の変化はのがれられず、栗の林はいまや桑園となっているのだ。)

 十五日 晴雨不定。汽車にて胡麻駅に着し、高畑視学もきたり会し、ともに車を連ねて走ること二里半、桧山村〈現在京都府船井郡瑞穂町〉に至り、小学校にて開演す。発起は村長太田源次郎氏、校長田中慶次郎氏、仏教団鬼頭垣山氏なり。宿所本陣旅館には銀杏料理の名物あり。よって戯れに「和知の栗ひのき山なる銀杏は、土地にすぎたる珍味なりけり」とよむ。

 本郡の主催はすべて教育部会にして、仏教団これを助くることとなりおれり。全郡にわたりて丘山多く、みな雑木林にして松林最も多し。しかして谷間には水田すくなからず、水旱のおそれなしという。近年は副業として製茶および養蚕盛んなるに至れる由。また、郡内の西本梅村にてはトクサを専業に培養するという。全国無類の産業なり。酒名に「大江山」(園部町)および「鬼コロガシ」(須知町)あり。ここに郡内の旅宿料を記せんに、一等一円五十銭、二等一円、三等七十五銭、四等五十銭、五等三十五銭なり。その他、郡内の賃銀表を掲げて丹波の物価の一端を示さんとす。

  大工八十銭、左官八十銭、人夫男五十銭、女四十銭、斬髪十二銭ないし十五銭、按摩十五銭。

 十六日 晴れ。ただし暁天、微雪の翩々たるを見る。これ初雪なり。腕車にて胡麻駅に戻る。途中、日光暖かなるも風気寒く、手足痛みを感ず。また、遠山雪のために白きを認む。胡麻より汽車にて南桑田郡亀岡町〈現在京都府亀岡市〉に着し、午後、議事堂にて開演す。主催は南桑鴻恩会にして、会長田中無事生氏(郡長)、主事松平寿賀吉氏(首席郡書記)、理事小塚霊堅氏等の発起にかかる。当夕、宿所改開楼にて田中郡長等と会食す。本町には余が明治二十五年五月、丹波巡講の際厚意をにないたる医師遠山末一郎氏、今なお健在、互いに相見て久闊を述ぶ。

 十七日 快晴。松平書記と同行し車行約一里、篠村〈現在京都府亀岡市〉小学校に至り、午後開演す。村長隅田耕太郎氏、校長木村作次郎氏等の主催にかかる。当夕晩餐後、亀山駅六時半発、京都駅八時発急行に乗り込む。十八日朝八時半、東京駅着。

 南桑田郡内は米産地にして農業本位なるが、山の産物としては松茸あり。その一年の産額五万円以上という。山は全部松林なり。村名としては東別院村、西別院村あり。その村には本願寺の別院はもちろん、真宗寺院一カ寺もなしとは奇なり。

 丹波四郡を巡了したれば、ここに方言、風俗につき一言を費やさんに、言語は九分どおり京都弁なり。ただし特殊の方言なきにあらず。

  マムシ(蝮)をハメといい、狐花を仏花または死人花といい、車一台を車一杯という。

 民家の茅屋はすべて破風造りにて、煙出しと空気流通とによろし。風呂は五右衛門式にて湯は浅き方なり。およそ座して臍までを浸すに過ぎず。ただし江州の睾丸までに比すれば深き方なり。暦は丹後は旧正月を用うるも、丹波は全部新暦を用う。各学校にみな講堂の設備あり。また、校舎の建築も比較的上等の方なり。寺院は丹波丹後を通じて九分どおり禅宗、臨済と曹洞とはおよそ相半ばす。人民の信仰力はいたって乏しきも、寺院の修繕だけはできおり、あまり荒廃せるものを見ず。各寺とも従前は葬祭のみを専業として、布教の方には力を用いざる風なりしも、このごろは各郡とも仏教団、または仏教会の設置ありて、社会に活動の緒を開きつつあるは大いに喜ぶべし。朝酒につきて、他地方にては多く妻を質に入れてのめというが、丹後にては五割金を借りてのめといい、丹波にては八割金を借りてのめという。丹波の方が三割高いはおもしろし。左に余の旅行中によみたる歌を録す。

  丹波路は鬼すむ里と思ひしに、仏に近き人心かな、

  丹波名物お存じないか、鬼栗杜司と霧の海、

 

     丹後国開会一覧

   市郡    町村    会場  席数   聴衆     主催

  熊野郡   久美浜町  小学校  二席  五百人    教育会および仏教同盟会

  同     海部村   小学校  二席  四百五十人  同前

  同     田村    小学校  二席  三百五十人  同前

  竹野郡   網野町   小学校  二席  四百五十人  町育英会

  同     間人村   小学校  二席  四百人    四カ村連合

  同     上宇川村  小学校  二席  四百人    同村

  同     深田村   小学校  二席  三百人    同村

  同     溝谷村   寺院   二席  三百五十人  三カ村連合

  中郡    峰山町   小学校  二席  四百五十人  郡役所および教育部会

  同     同     同前   一席  四百人    同校

  同     五箇村   小学校  二席  三百人    同校

  同     同     同前   一席  三百人    同前

  同     河辺村   小学校  二席  二百五十人  教育部会

  同     口大野村  小学校  二席  百五十人   同前

  同     五十河村  小学校  二席  三百人    同前

  同     三重村   小学校  二席  三百人    同前

  与謝郡   宮津町   劇場   二席  千三百人   町有志

  同     同     寺院   一席  百五十人   同

  同     加悦町   小学校  二席  四百人    町教育会

  同     岩屋村   寺院   二席  四百人    青年会

  同     吉津村   寺院   二席  二百五十人  同村

  同     岩滝村   小学校  二席  五百五十人  村長、校長

  同     養老村   寺院   二席  四百人    二カ村連合

  加佐郡   舞鶴町   公会堂  二席  七百人    仏教会

  同     新鶴舞町  劇場   二席  七百五十人  同前

  同     同     水交社  二席  百五十人   同社員

  同     同     小学校  二席  四百五十人  保護会

  同     河守町   小学校  二席  五百人    仏教会支部

  同     河東村   小学校  二席  三百五十人  青年会

   合計 五郡、二十四町村(八町、十六村)、二十九カ所、五十五席、聴衆一万二千人

     丹波国開会一覧

  何鹿郡   東八田村  小学校  二席  二百五十人  村教育会

  同     吉美村   寺院   二席  三百人    報徳社および寺院

  同     志賀郷村  小学校  二席  六百人    村有志

  同     物部村   小学校  二席  四百人    村長

  同     以久田村  小学校  二席  三百五十人  壮年会

  同     佐賀村   小学校  二席  四百人    同村

  天田郡   福知山町  小学校  二席  六百五十人  仏教団

  同     雀部村   寺院   二席  三百人    同寺

  同     上川口村  小学校  二席  三百五十人  仏教団

  同     西中筋村  寺院   二席  四百人    役場、学校、寺院

  同     細見村   小学校  二席  三百五十人  仏教団

  船井郡   園部町   公会堂  二席  四百人    教育部会

  同     世木村   小学校  二席  二百人    同前

  同     下和知村  倶楽部  二席  三百人    同前

  同     桧山村   小学校  二席  三百人    同前

  南桑田郡  亀岡町   議事堂  二席  八百人    鴻恩会

  同     篠村    小学校  二席  三百五十人  同村

   合計 四郡、十七町村(三町、十四村)、十七カ所、三十四席、聴衆六千七百人

     (付)若狭国一郡

  大飯郡   高浜町   公開堂  二席  五百人    各宗連合会

  同     同     寺院   一席  一百人    聖徳太子会

  同     内海村   小学校  二席  二百人    村教育会

   合計 二町村、三カ所、五席、聴衆八百人

    以上演題類別

     詔勅修身     三十七席

     妖怪迷信     二十六席

     哲学宗教      十五席

     教育         六席

     実業         八席

     雑題         二席

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大正五年度報告

 本年中の余の事業経過を発表せんに、著作の方は、

  迷信と宗教  全一冊   大正五年三月  至誠堂発行

  哲窓茶話   全一冊   大正五年五月  甲陽堂発行

  南船北馬集  第十二編  大正五年六月発行

 本年七月十六日より二十三日まで、哲学堂において「活仏教」の題にて夏期講習会を開けり。御大典紀念図書館は本年六月より毎日曜公開することとなり、碑文を日下寛氏に依頼せり。

  大正四年十一月国家挙大典靡地弗表其慶哲学堂図書館亦成基于茲矣初

  甫水井上博士欲設游息之園相攸于和田山攬其形勝嘆曰此不足以養心身

  乎乃築堂於中央以祀孔子釈迦瑣克剌底韓図曰四聖堂祀聖徳太子菅公荘

  子朱子竜樹大士迦比羅仙曰六賢台祀平田篤胤林羅山釈凝然曰三学亭篤

  胤取於神道羅山取於儒道凝然取於仏道也命其庭曰唯心其園曰唯物統而

  名焉曰哲学之堂至是図書館巋然告成所蔵和漢旧籍凡六千七百九十弐種

  四万壱千五百八十五巻弐万壱千壱百九十三冊可謂盛矣夫道無古今之変

  教有東西之異博士志在合東西文明以拡充斯道於宇内万里壮遊既極東西

  両洋足跡殆遍坤輿到今猶跋渉海内風餐露宿以導斯民不敢寧処而標其神

  者哲学堂是也故予併記之俾入斯館者有所観感興起焉

 大正五年十一月上澣            勺 水  日 下  寛 撰

(大正四年十一月、国家は大正天皇御即位の大典が挙行せられ、日本国中がそのよろこびを表した。哲学堂図書館もまた基をこの御大典とする。初め甫水井上博士は遊思休息の園を設けようとされ、和田山を手に入れ、その形勝をとられたのであるが、先生は嘆息して、これ心身を養うには不足するところがないといわれた。そこで堂を中央に建て、その中に孔子、釈迦、ソクラテス、カントをまつり、四聖堂といい、聖徳太子、菅公〔菅原道真〕、荘子、朱子、竜樹大士、迦比羅仙をまつって六賢台といい、平田篤胤、林羅山、釈凝然をまつって三学亭という。篤胤を神道より取り、羅山を儒道より取り、凝然を仏道より取ったのである。その庭を唯心庭と名づけ、その園を唯物園と名づけ、統括してこれに名づけて哲学堂というのである。ここに至って図書館は高くそびえて竣工を布告す。所蔵する和漢の古籍すべて六千七百九十二種、四万一千五百八十五巻、二万一千一百九十三冊、盛んなりというべきであろう。そもそも人のふみ行うべき道や真理は古代も今も変わらぬ。しかし、教育には東洋と西洋の違いがある。博士がこころざすものは東西の文明を合わせて、この道を天下に拡充しようとするにある。ゆえに博士は万里のかなたにさかんに出かけられ、すでに東西の海洋の果てまで行かれ、その足跡はほとんど地球上の大地にあまねく印されている。しかも、いまに至るもなお国内をくまなく歩き、風に食し露に伏して国民を導いて、あえて安寧に身をおこうとしない。その精神を如実に示すものが哲学堂そのものなのである。ゆえに私はあわせて博士の志を記し、この館に入る者に、見て興味を起こさしめようとするのである。)

 哲学堂庭園経営の方は唯物園の川向こうの地所数十坪を購入して星界洲を開き、これに望遠轎と観象梁との二橋を架せり。

 巡講の方は前掲を再録して総計を示す。

  二市、八郡、六十三町村、七十七カ所、百四十九席、四万七百二十人 (伊勢国)

  一市、八郡、三十七町村、三十九カ所、七十六席、二万百人 (美濃国西部)

  二市、十一郡、五十五町村、七十六カ所、百四十四席、三万二千六百五十人 (羽前国)

  五郡、二十四町村、二十九カ所、五十五席、一万二千人 (丹後国)

  四郡、十七町村、十七カ所、三十四席、六千七百人 (丹波国)

  一省、八郡、十三町村、二十一カ所、三十六席、七千七百五十人 (その他合計)

   総計 一省、五市、四十四郡、二百九町村、二百五十九カ所、四百九十四席、十一万九千九百二十人

  (備考)この美濃国合計が前編表記に合せざるは、秋期巡講の揖斐郡と合算せしによる。したがって山東省その他の合計表の方よりその一郡を除去せることになる。

 もしこれに明治三十九年以来の総計を合算すれば左のごとくなるべし。(重複せる市郡町村を除去して精算せり。また、区は市に合し、街は町に庄は村に合して算せり。)

   総合計 四十四市、三百八十六郡、一千八百三十七町村、二千四百七カ所、四千四百七十八席、一百十四万九千八百七十人

右は余が満十一年間の事業と自ら称するところなり。

   (付)哲学堂会計報告

一、収入合計 金一万二十六円十六銭

  内訳 金三千七百三十二円五十四銭 前年度剰余金

金六千百十八円三十四銭 揮毫謝儀

金七円也 篤志寄付

金百六十八円二十八銭 銀行利子

一、支出合計 金四千二百四十三円九十二銭

  内訳 金二千七百円也 基本財産へ移す(第二回)

金百六十九円三十八銭 地所購入および測量費

金三百六十七円四十銭 建築費および器具代

金三百六十八円二十八銭 書籍、報告、規則印刷代

金六百三十八円八十六銭 事務費(俸給、手当、郵税等)

差し引き 金五千七百八十二円二十四銭 剰余金

 以上 大正五年十二月三十一日

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相州湯河原迎歳記事

 大正五年十二月二十五日より身心休養のため東京を発し、その夕、箱根塔之沢鈴木に一泊し、翌朝、小田原より軽便に駕し、湯河原温泉に入浴す。宿所は中西屋なり。当所の旅館は十四、五戸あるも、そのうちにて大なるもの四戸あり。

  湯河原の宿はいづれと計ふれば、中西藤屋伊藤天野屋、

 客中賦したる除夕および元旦作は左の三首なり。

  湯原迎歳此三回、守夜浴楼漫挙杯、欲餞流年詩未就、一声寒柝報春来、

(湯河原で新年を迎えるのはこれで三回目である。夜を通して温泉宿ではほしいままに杯をあげている。ゆく年へのはなむけとして詩を成さんとしたが、まだできぬうちに、一声、寒さのなかの拍子木が新春のきたるをつげたのであった。)

  南船北馬送生涯、歳在丙丁将換街、吾志未成身已老、一杯年酒寄残懐、

(南では船にのり、北では馬にのる旅に生涯を送る。年は丙から丁になり、街もかわろうとする。わが志はまだ成功せぬうちに身はすでに老いたり。一杯の年越しの酒にあまりの感懐を寄せるのである。)

  大正年華此六更、物豊財満万家栄、欧土戦塵猶未鎮、喜吾傾酒頌昇平、

(大正の年月はここに六たびあらたまり、物は豊かに、財も満ちて、すべての家は栄えている。欧州の戦乱はなおしずまらないが、私は酒を傾けて喜んで太平をたたえているのである。)

 新年御題「遠山雪」に対する所感一首あり。

  暁歩望春光、遠山白堪仰、帰来照鏡看、雪満吾頭上、

(暁のもと歩を進めて春の光を望み見る。遠い山頂は白雪におおわれて仰ぐべく、帰りきて鏡をみれば、雪のごとき白さがわが頭上に満ちているのであった。)

 大正六年一月四日、土肥村および吉浜村連合青年大会の依頼に応じ、土肥村〈現在神奈川県足柄下郡湯河原町〉字門川劇場にて講演をなす。演題は「迷信論」なり。

  神奈川県  足柄下郡  土肥村  劇場  一席  六百人  二村連合

 発起者は土肥村長室伏勝蔵氏、吉浜青年会副会長浅田岩次郎氏なり。

 この両村は従来東京墓地に用うるシキビの産地にして、一年の産額四千円に上るという。六日快晴、緩歩二十五町、城願寺土肥実平の古墳をたずぬ。七日、久野昌一氏と相伴いて帰京す。入浴中、御詔勅の聖旨に基づき国民道徳訓数十首を賦す。

    教育勅語道徳訓十二首

      一、孝于父母(父母に孝に)

  生人天地育人誰、教養全帰父母慈、和漢雖殊道無二、皆言孝者徳之基、

(人を生むは天地、人を育てる者はだれぞ。教え養うはすべて父母の慈愛にもとづく。日本と中国では教養は異なるも、二つの道があるわけではない。人はみないう、孝は道徳の基であると。)

      二、友于兄弟(兄弟に友に)

  骨肉雖分気本同、弟兄須互務和融、一家親子団欒楽、在此友情親愛中、

(骨肉は別々であるがうけた気はもとより一つであり、兄弟は当然和やかにとけあうべきである。一家親子の団欒はまことに楽しく、この友愛親情はこのなかにこそある。)

      三、夫婦相和(夫婦相和し)

  異体同心互輔依、福来災去復何祈、先賢一語君知否、夫婦和時家自肥、

(肉体はそれぞれ異なるも心は同じく、互いにたすけあい頼りにすべきである。福の来て災の去るはまたなにに祈ろうか。いにしえの賢者の一語を君は知るや否や。夫婦の和合するときには家もまたおのずから豊かになるのだと。)

      四、朋友相信(朋友相信じ)

  友朋相信協其心、香気如蘭利断金、管鮑貧時交最厚、今人斯道棄無尋、

(朋友あい信じてその心をあわせれば、そのかんばしいこと蘭のごとく、その利は金をも断つ。管仲、鮑叔の貧しいときの交誼は最も厚いものであったが、今の人々はこの友情のありようを棄てて求めようともしないのである。)

      五、恭倹持己(恭倹己を持し)

  以恭持行倹持身、即是堂々君子人、嘆息世間浮薄士、留連荒怠自称紳、

(つつしみをもって行い、つつましく身を保つは、すなわち堂々たる君子である。しかるに、世間の軽薄の人が、粗雑怠惰に流れていながら自らは紳士と称するをみて、嘆息するばかりである。)

      六、博愛及衆(博愛衆に及ぼし)

  与人相背又相憎、我食我衣何処徴、博愛至情須及衆、普天之下本同朋、

(人とあいそむき、また、あい憎んでは、わが食と衣をいったいどこに求め得ようか。博愛と至情を衆におよぼすべきであるのは当然、広い空のした、もとよりはらからなのだ。)

      七、修学習業(学を修め業を習い)

  日就月将文運新、幼童稚女与書親、修成学業尽人事、不背為真大正民、

(日に月に文化は新たに開け、幼童も稚女もともに書に親しみ、学と業を修めて人事を尽くさば、まことに大正の国民たるにそむかないであろう。)

      八、智能徳器(知能徳器)

  講学只要養性情、読書須冀樹功名、研磨徳器身円満、啓発智能心闡明、

(学問はただ人の性情を養成しようとするものであり、読書するのは功名をたてることをねがうべきである。立派な人格にみがきあげ、身を円満に保ち、知力能力を開発すれば心は明確なものとなろう。)

      九、公益世務(公益世務)

  完成智徳立何功、経国済民存此中、人若一誠開世務、対親為孝対君忠、

(知と徳を完成してなんの功績を立てようとするのか。国家を経営し、民を安定させることがこの中にふくまれる。人がもし誠を専一にして世の務めとなさば、親に対しては孝、君に対しては忠となるであろう。)

      十、国憲国法(国憲国法)

  物有準縄人有規、国家無法豈能支、六千余万至安道、遵守偏能護帝基、

(物事には規準とすべきものがあり、人にはのっとるべき規範がある。国家に法がなければいったいどうして国を保持できようか。六千余万の人々が最もよく安心して生きられるのは、規範を守り、ひとえに皇室の基をまもるにあるのである。)

      十一、義勇奉公(義勇公に奉じ)

  四海万邦交版図、争権逐利互奔駆、他年大事若相起、義勇奉公扶帝謨、

(世界の国々はその版図が交錯し、権力と利益を争って互いに奔走している。いつの日か国家の大事なことが起こるようであり、義勇をもって公に奉じ、天子のはかりごとをたすけなければならぬ。)

      十二、扶翼皇運(皇運を扶翼し)

  連綿一系幾千秋、卓立高凌欧米洲、億兆臣民能淬砺、皇威当与大陽侔、

(連綿として皇統は幾千年にも及び、かくのごときすぐれた国情は欧米の国々をしのぐ。億兆の臣氏がつとめみがけば、皇国の勢威は太陽とひとしくなるのである。)

     戊申詔書道徳訓八首

      一、上下一心(上下心を一にし)

  日東人士気皆雄、兵已雖強財未豊、上下一心能淬砺、何憂国運不興隆、

(日本人の士気はみなさかんであり、兵はすでに強きも資材はいまだ富豊とはいえぬ。上下心を一にしてよくつとめみがけば、いったい国運の興隆しないことを心配する必要があろうか。)

      二、忠実服業(忠実業に服し)

  先皇遺詔意尤深、句々真為処世箴、百業成功無別事、只要忠実尽其心、

(先帝の残されたみことのりの意味はまことに深く、一句一句は真に処世のいましめである。もろもろの業の成功は格別のことがあるわけではなく、ただ忠実にその心を尽くすのみにあるのだ。)

      三、勤倹治産(勤倹産を治め)

  国本依誰能養成、六千余万此蒼生、熱誠興産食常足、勤倹持身家自栄、

(国の本はだれによって養成できるのか。六千余万はこれ人民であり、熱い誠心で産業を興せば食料は常に足り、倹約につとめて身をおさめれば家はおのずから栄える。)

      四、惟信惟義(これ信、これ義)

  友邦今日乱将亡、願使皇基万載康、信義常為富強礎、不論文武与農商、

(友邦は今日乱れてまさに滅亡せんとす。願わくば皇国の基礎を永遠に安康ならしめん。信と義とは常に国を富強にするいしずえであり、文武と農商とを論ずるまでもない。)

      五、醇厚成俗(醇厚俗を成す)

  難奈人心与世移、堪憂道義逐年衰、若非醇厚成民俗、焉護邦家不朽基

(人の心と世の推移はとどめようはないが、道義の年を追うように衰えるのを憂える。もし醇厚の民俗をなすのでなければ、どうして国家の不朽の基礎をまもれようか。)

      六、去華就実(華を去り実に就き)

  倹素難持奢易伝、先皇遺誡可拳々、去華就実堅相守、富国興家得両全、

(質素倹約の美徳は守りがたく、奢侈には流れやすい。先帝の残された誡にはねんごろに従うべきである。華美を去って実質について固く守らば、国を富まし、家をおこすことはふたつながら完全にできるであろう。)

      七、荒怠相誡(荒怠相いましめ)

  天道禍淫唯輔仁、古来君子慎其身、怠招貧困荒招病、百鬼何侵篤行人、

(天道は禍淫についてはただ仁者をたすけるのみ。いにしえより君子はその身の行いをつつしむ。怠けは貧困を招き、すさめば病を招く。もろもろのあやしげなるものも、いったいどうして篤行の人を侵すことができよう。)

      八、自彊不息(自彊してやまず)

  日動水流無暫留、暑寒来往幾春秋、有情人亦当如是、昼夜自彊長不休、

(太陽の動き、水の流れはしばらくもとどまることなく、暑さ寒さの去来は幾春秋であったことか。喜怒哀楽などの情ある人も、また情の去来することかくのごとく、昼夜、自彊につとめて、つねにやすまないのである。)

     軍人勅諭道徳訓六首

  我軍忠節孰能争、所嚮山河草木傾、報国義如千岳重、殉難身似一毛軽、(一、忠節)

(わが軍の忠節はだれかよくこれと争うことができよう。むかうところの山河も草木もためにかたむく。国恩に報いる義は山々よりも重きがごとく、困難に身を捧げること一毛の軽きに似る。(一、忠節))

  人文漸進道心衰、風紀不厳国欲危、位有尊卑年長幼、其間須守礼兼儀、(二、礼儀)

(文化が進歩するにつれて世の道義心は衰えて、風紀を厳しくしないときは、ひいては国家も危いことになる。位には尊卑があり、年齢には年長者と幼年がある。その間に当然礼と法を守るべきである。(二、礼儀))

  皇国男児勇無比、護持千載精華美、民間一語味尤深、花是春桜人武士、(三、武勇)

(すめらみくにの男児の勇はほかにくらべるものはなく、千年の精華の美しさをまもる。民間に流布する一語は味わいがもっとも深く、花はさくら木、人は武士という。(三、武勇))

  信為冠履義為笻、跋渉世途波又峰、縦有風雲遮我眼、身安心泰自従容、(四、信義)

(信をもってかんむりとはきものにして身につけ、義をもって杖となし、世道の荒波や山岳をふみわたる。信義あればたとえ風雲がおこってわが目をさえぎろうとも、心身とも安泰でおのずからゆうゆうと落ちついている。(四、信義))

  堪歎豪奢自作風、須敷徳教啓群蒙、身持質素家先富、兵必能強国亦隆、(五、質素)

(なげかわしいのは豪奢をもっておのずから風気となす。すべからく徳教を広めてこれらの蒙昧をひらくべきである。身を質素に保持すれば、家がまずゆたかとなり、兵は必ずや強くなり、国もまた隆盛となるであろう。(五、質素))

  志士何時決死生、軍人勅諭五条明、身軽義重豈唯戦、百業成功在一誠、(六、一誠)

(こころざしある者はいつかは死生を決心するときがくる。軍人勅諭の五カ条は明確であり、身は軽く義は重く、ただ戦いにのみ必要であるのではなく、もろもろの事業の成功はまさにこの一つの誠心〔まごころ〕にあるのである。(六、一誠))

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三河国西部巡講日誌

 大正六年一月二十二日より二月六日まで、相州海岸鵠沼旅館東屋に滞在して、『奮闘哲学』を起草す。二月十五日夜十一時、東京駅を発して、三河西部巡講の途に上る。

 二月十六日 晴れ。朝八時半、三河蒲郡駅に降車し、これより腕車に移り、塩田を一過して額田郡に入り、幸田村〈現在愛知県額田郡幸田町〉字菱池西光寺に着す。車行二里、午後開会。護法会の主催にして、発起者は上杉竜温、橘円海、佐橋徳母三氏なり。この日、風ありて寒し。随行大富秀賢氏、江州よりきたりてここに相会す。今回、当地方各所照会の労をとられしは静恵循氏なり。

 十七日 穏晴。幸田駅より鉄路に駕し、碧海郡刈谷町〈現在愛知県刈谷市〉に降車す。会場および宿所は西勝寺、主催は同寺講中、発起は鈴木彦五郎氏等十三名なり。当所は旧土井家の城下なれば、士族会の組織あり。その依頼に応じ、公会堂において夜会の講演をなす。会長は小谷静也氏なり。

 二月十八日(日曜) 晴れ。午後、風起こる。刈谷より大浜町〈現在愛知県碧南市〉まで四里の間、三河鉄道の便あり。その線路に沿いたる地方は三州瓦の産地にして、新川が中心に当たる。会場および宿所は大浜西方寺なり。十二間四面の大堂、海に背き衢に面して立つ。旧友故清沢満之氏所住せしことあり。当町の一等旅館海月楼は夏時、海水浴の客雲集すという。開会発起は住職清沢法賢氏にして、斎藤茂七氏、大河内見敬氏助力せらる。

 十九日 曇り。大浜を去り、矢作川渡橋棚尾橋を渡り、煉瓦の産地を一過して、幡豆郡一色村〈現在愛知県幡豆郡一色町〉赤羽別院に入る。行程二里、午後開会。当別院は大谷派三河三別院の一なり。発起は津田獅吼氏、高須彦三郎氏、同清五郎氏とす。この地方には三州名物コノワタを産出すという。

 二十日 晴れ。ただし風寒し。これを伊吹オロシという。江州伊吹山より雪風の吹ききたるなり。今朝別院を発し、五、六町にして村社諏訪神社に参拝す。当社は大提灯をもってその名高し。提灯の直径三間一尺、これを掛ける柱は周囲二抱え大、長さ九間、これに点ずるろうそくの直径一尺、提灯総じて十二個、これを六倉庫に納む。一個の価額二、三百円、ろうそく一丁の価十五円ないし二十円という。毎年八月二十六日、七日の大祭にこれを点用す。他町村にてこれを一色の馬鹿提灯と呼ぶ。馬鹿に大なる故なり。これ日本一はむろん、世界一の大提灯なれば、祭日には遠方より提灯見物にきたるもの群集する由。これより一里にして吉田村〈現在愛知県幡豆郡吉良町〉に入る。普通これを吉良吉田と称す。西尾鉄道の終点なり。ここに海水浴の良地あり。また、本村には製塩場あり。会場兼宿所は浄土宗西山派専長寺なり。聴衆、堂にあふる。村内には金蓮寺の不動尊、正楽寺の子育地蔵尊あり。ともに仏様中のハヤリ役者なりと聞く。昨日は不動尊の祭日にして、非常の雑沓を極め、一日の賽銭だけ百円以上と称せらる。両寺ともに曹洞宗に属す。しかし全村としては西山派八分どおりを占むという。この日午後、雪片の空に舞うを見る。主催は護法会にして、発起は各宗寺院なり。当村西山派真福寺住職判治勝全氏は、哲学館出身のかどをもって大いに尽力せらる。その他、宿寺住職鈴木諦教氏、正覚寺桜部公馨氏、宝珠院加藤全祐氏等も尽力あり。隣村原田慶鱗氏もまた哲学館出身なり。

 二十一日 晴れ。朝気〔華氏〕四十度、西北風凜烈、戸外水氷を結ぶ。吉田より西尾を経、三江島駅まで三里半の間軽便に駕し、これより更に行くこと約六、七町にして、三和村〈現在愛知県西尾市〉字西浅井遠慶山宿縁寺に至り、午後開会す。本村には板倉家の菩提寺たる曹洞宗万灯山長円寺あり。その寺畔の山上には、毎年旧盆の際万灯を点ずる慣例ある由。松枝柴草を百八カ所に積み、これに火を点ず。海を隔てて志州地方にてその火を望み、その光の形を見て年中の豊凶を占うという。郡内にて一色の大提灯と好一対の名物なり。本日の発起は長円寺、専念寺、福成寺、正光寺とす。

 二十二日 寒晴。ときどき寒風、雪片を吹き送る。車行三里にして碧海郡矢作町〈現在愛知県岡崎市〉に至る。途上、矢作川の木橋長さ二百二十間の美矢井橋を渡り、大谷派三河三大寺の一たる佐々木上宮寺の門前を過ぐ。三カ寺とは針先の勝鬘寺、野寺の本証寺と上宮寺なり。矢作町の会場は曹洞宗蓮華寺にして、由緒ある名刹なる由。その境内には景行天皇の皇子気入彦尊の御陵ありと聞く。当夕、同寺を発し、一里余にして安城駅に達し、十時半の夜行にて大阪に向かう。矢作の主催は報国会、発起は平田覚了氏、山田賢了氏、ほか数氏なり。当町より三州味噌を産出する由。

 ここに三州方言の一、二を列挙せんに、幡豆郡内にては藤井、浅井、桜井、古井等の村名あり。これを方言にて、

  フジー、アゼー、サクレー、フリー、

と称す。よって「フジーのジーの字と、アゼーのゼーの字と、サクレーのレーの字と、フリーのリーの字と、みんな呼び方が違ふも、文字は一つだぜー」と申す由。また、休日のことを正月という。今日休暇することをキョウハ正月するという。他地方の呑沢〔どんたく〕に同じ。つぎに三州の異風を挙げんに、醤油に色なく、一見酢に似たり。その色あるをタマリという。味噌は白にもあらず、赤にもあらず、黒味噌なり。これをすらずして湯の中へおとし、実を入れず、吸い物とするは三州に限る。会場は大抵寺院を用う。演説の前後に拍手の代わりに念仏を唱うるは、また三州の特色なり。各所とも聴衆の満堂するも、他に多くその例を見ず。宿所はすべて寺院なるが、食事を出だすに給仕を付けぬも特色とすべし。

 余が三州名物につきてよみたる三十一文字あり。

  家康の次は万歳、味噌瓦、是れは三河の名物と知れ、

  其外にまだもあります名物は、煙火コノワタ吉田薯なり、

 

     三河国西部開会一覧

   郡    町村   会場  席数   聴衆     主催

  額田郡  幸田村  寺院   二席  四百人    護法会

  碧海郡  刈谷町  寺院   二席  五百人    宿寺

  同    同    公会堂  二席  五百人    士族会

  同    大浜町  寺院   二席  九百人    宿寺住職

  同    矢作町  寺院   二席  八百人    報国会

  幡豆郡  一色村  別院   二席  九百人    同別院

  同    吉田村  寺院   二席  八百五十人  各宗連合会

  同    三和村  寺院   二席  七百人    仏教連合会

   合計 三郡、七町村(三町、四村)、八カ所 十六席、聴衆五千五百五十人

    以上演題類別

     詔勅修身     八席

     妖怪迷信     一席

     哲学宗教     六席

     教育       一席