3.南船北馬集 

第十五編

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南船北馬集 第十五編

 

1.冊数

 1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)

 188×127㎜

3.ページ

 総数:131

 目次:〔1〕

 本文:130

(巻頭)

4.刊行年月日

 底本:初版 大正7年11月18日

5.発行所

 国民道徳普及会

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群馬県巡講第二回日誌

 大正六年十一月三日、午後五時、池袋駅を発し、東上線にて埼玉県入間郡川越町〈現在埼玉県川越市〉に至り、今福旅館に宿す。四日、大雨。午前、曹洞宗長喜院にて揮毫をなし、午後、町役場内議事堂にて講話をなす。聴衆稀少なり。開会発起は住職山本国隆氏とす。余の郷友たる郵便局長松下定雄氏も助力せらる。演説後、山屋料理店にて晩餐を喫し、その夜、男爵高木兼寛氏と同車して帰京す。

 十一月五日、東洋大学へ宮内省より御恩賜のご沙汰あり。同十一日、快晴。東洋大学において創立三十年の祝賀会あり。当日における余の拙作、左のごとし。

創建以来三十霜、開筵先祝育英長、釈迦成道孔丘立、斯歳吾黌亦必昌。

(東洋大学は創建以来三十年、宴を開いてまず俊英の育つを祝う。釈迦の成道、孔子の而立の年であり、この歳を期してわが校もまた必ずやさかえん。)

  おまへ百までわしや九十九まで、但し学校は八千代まで。

 十一月十六日。未明、暗を破りて家を出で、六時半、随行静恵循氏とともに上野発車。九時、群馬県高崎〈現在群馬県高崎市〉駅に着す。これより中学校に至り、校友会のために講演をなす。校長伊藤允美氏と余と同県の出身なり。午後一時、飯塚より電鉄に駕す。はるかに浅間山の雪をかぶりて一面に白きを望む。渋川より馬鉄に移り、走ること五里、日暮れて吾妻郡中之条町〈現在群馬県吾妻郡中之条町〉に着す。刈稲すでにおわり、桑葉ことごとく凋零して、野色の空しきを覚ゆ。ただし途中、岩井堂の奇勝、巌隙に紅楓の点綴せるは一美観なり。この日、風寒く凍気衣に徹す。宿所鍋屋旅館は昔時、十返舎一九の宿泊せし所なりという。

 十七日 快晴。厳霜満地、庭白く雪のごとし。午前、浄土宗清見寺において教育家の追弔会あり。ときに一席の談話をなす。その寺は渓上の腰部に踞し、市街より坂を下りてこれに入る。その眺望は与津清見寺に似たりというも、海と山の相違あり。住職は長田台麟氏なり。午後、小学校に至りて開演す。主催は教育会、発起は郡長藤崎正義氏、視学関新平氏、書記佐藤喜与平氏、校長小代伝三郎氏なり。当所には県立農業学校あり。本町の名物は梅羊羹、栗羊羹、椎茸羊羹なりと聞く。余の郷里来迎寺村より小野塚熊吉と名付くる人、ここにきたりて永住す。

 十一月十八日(日曜) 快晴。朝気〔華氏〕三十四度、潦水氷を結ぶ。厳寒のときに同じ。馬車行程三里、吾妻川に沿いてさかのぼり岩島村〈現在群馬県吾妻郡吾妻町〉に至る。途中、岩櫃山の奇勝あり。車上所吟、左のごとし。

霜風時節入吾妻、紅葉代人迎馬蹄、穫稲已終焼炭始、行看煙影抹晴渓。

(霜風の十一月に吾妻郡に至った。紅葉が人に代わってわが馬車を迎える。稲の刈り入れもすでに終わって炭焼きが始まり、行くゆくその煙があかるい谷間にたなびいているのが見える。)

 世間一般に群馬県のカラ風というも、吾妻郡にはその風なしとのことなり。この日、藤崎郡長と同乗す。岩島会場は公会館なり。すべて演説にも、芝居にも、集会にも、これを応用する由。赤塗りの新築なり。発起は村長小池甚一郎氏、助役日野豊三郎氏、校長山池富次郎氏、同山口留吉氏、岩島銀行日野太七氏、応永寺住職古川了真氏にして、みな大いに尽力あり。当夕、応永寺に宿す。郡内第一の大坊にして、山門蔚然として立つ。住職古川氏は哲学館出身なり。

 十九日 晴れ。馬車行約四里、長野原町〈現在群馬県吾妻郡長野原町〉に至る。途中、吾妻川の峡間一里の間は関東耶馬渓と称す。奇巌縦立横臥、その石間に松楓の介立するあり。紅葉七分どおり落下せるも、なお三分をとどむ。よろしく車をとめて、そぞろに愛すべし。ことに吾妻川の激流が両崖わずかに一間幅の狭路を落下してほとばしるところ、大いに趣あり。また、弁天橋の中央に岩石兀立して、自然に橋杭をなせるもまた奇なり。その川上に円山あり。形状、豊後玖珠郡の岩扇山に似て、岩壁中空にかかるもまた一奇なりとす。会場は長野原小学校、発起は町長宮崎亀三郎氏、助役佐藤政吉氏、校長川村新治郎氏、休憩所は大津屋なり。これより草津まで三里、その道馬車を通ずべし。草津より更に山間に入ること二、三里の所に、入山と名付くる寒村あり。利根郡の藤原に比すべき僻地なり。常に杓子をつくりて外へ輸出す。よって「恐れ入山メンパの杓子」との語、世間に伝わる。メンパは飯をいるる曲げ物なり。今はその村、六合村の中に入る。六合をクニとよむ。演説後、馬車を馳せて下行すること二里、川原湯の敬業館に宿す。客室六十以上ありて二百人をいるるに足る。浴室も数カ所あり。これに次ぎて山木屋、山木星、養寿館、おのおの内湯を有す。当夕の所吟、左のごとし。

吾妻川上試吟遊、雲態岩容奇更幽、看尽関東耶馬渓、湯煙凝処宿仙楼、

(吾妻川のほとりに吟遊を試みるに、雲と岩の姿かたちはすばらしく、またおく深いおもむきがある。関東の耶馬渓をじっくりと鑑賞し尽くす。あの湯煙のかたまりのぼる所はみやびな宿なのである。)

 吾妻郡の四大温泉と称するは草津、四万、沢渡、川原湯なるが、前三泉は数年前入浴を試みたり。ただ、いまだ知らざるは川原湯のみなりしに、今夜にて全部卒業するを得たり。よって一詠して曰く。

  川原湯にあびたる今日こそうれしけれ、吾妻の湯は是れで卒業。

 当夜、寒威凜として衾に徹し、終宵熟眠するを得ず。そもそもこの峡間を関東耶馬渓と称するはおもしろからず。その景、決して耶馬渓の付庸にあらず、すべからく独立の名称をもって世間に伝うべし。余思うに、川原は仙源と音通なれば、爾来、仙源渓と改めたきものなり。

 二十日 快晴。川原湯を発し、馬車にて下行すること四里にして原町〈現在群馬県吾妻郡吾妻町〉に至り、小学校にて開演す。他所はすべて郡教育会の主催なるも、当町だけは郡内各宗寺院の組織せる樹徳会の主催なり。目下、農家は稲コキと麦まきとに着手して繁忙期なれば、聴衆いたって少なし。発起は星野亮石氏(副会長)、深井法庵氏、長田氏、河原田寛澄氏、坪井全勇氏、天野霊真氏にして、校長遠藤清造氏、町長田村直次郎氏助力せらる。郡役所よりは佐藤書記、各所へ案内せられたり。東洋大学出身荒井雪堂氏は尻高村より来訪あり。

 吾妻郡巡講中見聞の一端を記せんに、その特有の方言、

  アチャ  ガラ  モーゾウ  ベーガンス

 アチャはソレナラの義、ソレナラオミセナサイというべきをアチャオミセナサイという。ガラは過失の義、誤りてコワシタをガラコワシタという。モーゾウは早速の義、早速出掛けたをモーゾウ出掛けたという。ベーガンスは語尾に添うる言葉なるべし。また、語尾にムシを付けること利根に同じ。タビタビをトロピョウといい、自然をオノガテーという。郡内の宗教は曹洞宗を第一とし、浄土宗これに次ぐ。一般に民家の信仰薄く、葬式の外には僧侶を聘することなく、死後の七日にも三十五日にも寺へきたることなく、盆正月にも寺を訪うものいたってまれなり。檀家の宅には棚の中に位牌を置くのみにて、仏像を安置せず。すべて寺や仏は、縁起の悪いものとして忌み嫌う。これに反して神道は縁起がよいと聞きて、神葬祭に改むるものもすくなからず。ある村落には天理教の盛んなる所ありという。あるいはまた老人においては、途中にて寺の住職に会することすら不快に感ずるところあり。その意は、住職が過去帳の中に記入して死を祈るを恐るるによるという。以上は伝聞のままを記せるのみ。

 二十一日 快晴。原町より車行約一里、四万川を渡橋して中之条に達し、午前八時発の馬鉄に駕し、渋川より電鉄に転じ、飯塚より汽車に移りて十二時後、碓氷郡安中町〈現在群馬県安中市〉に着す。会場小学校は建築壮高なり。開会主催は郡教育会にして、郡長田中正三氏、視学佐藤錠太郎氏、書記中林広次氏、校長小井戸方三郎氏、同吉田源次郎氏の発起にかかる。当地は新島襄氏の出身地の故をもって、ヤソ教に固結せる団体ありという。午後より上州名物カラ風起こる。宿所は安中館なり。旧知柏木順映氏来訪あり。余の当町にて開演するは第四回目と思う。

 二十二日 穏晴。車行約一里にして原市町〈現在群馬県安中市、碓氷郡松井田町〉に至る。中間に県立蚕糸学校あり。校長山中良治氏は東京大学予備門の同窓なるが、三十五、六年ぶりにて相会す。駅路の両側に老杉並立せるは、旧中山道なるによる。午後、原市小学校にて開演す。発起は校長柳沢弁造氏、後閑校長小林岳二氏、磯部校長上原信太郎氏なり。当節は郡内一般に稲コキ、麦マキ最中にて繁忙を極むる由。山林の紅葉は満を持していまだ落ちず、いくぶんか旅中の目をたのしましむるに足る。当夜、真下嘉蔵氏宅に宿す。哲学館出身金田宥円氏来訪あり。氏は当町満福寺の住職たり。昨日の車上吟を左に掲ぐ。

車入碓氷川上関、雪風如矢射吾顔、三山猶帯蒼々色、独有皚然是浅間。

(車は碓氷川上流の碓氷の関所に至った。折しも雪風は矢のごとくわが顔を射る。赤城、榛名、妙義の三山はなお青々とした緑色を帯び、ただ白雪の輝いているのは浅間山のみである。)

 今夕は東京より御恩賜に奉答せんとて東洋大学、京北中学相合し、学生生徒一千五百名提灯行列を行い、二重橋前に整列して、陛下の万歳を三唱せりとの報あり。

 十一月二十三日(新嘗祭) 晴れ。車行一里半にして松井田町〈現在群馬県碓氷郡松井田町〉に至る。途中、旭旗の軒前に翻るを見て大祭日なるを知る。会場は小学校、主催は郡教育会、発起は校長須藤和四郎氏、休憩所は坪井旅館なり。町長村山初太郎氏は今より二十年前、当地開会の主催者なりしを記憶す。本日は田中郡長も出席せらる。今夕、東京上野公園梅川亭において大学予備門当時の夜話会を開くを聞き、左の三十一文字を電報にて通知す。

  旅に居て又夜話会を欠席す、我には許せ旅行道楽。

 演説後、特に佐藤視学の厚意により、汽車にて磯部に移り、磯部館に入る。同館の前身三景楼は、余が三十二年前、二カ月間滞在せし旧跡なり。懐旧の一作、左のごとし。

毛西一路日将曛、懐旧尋来碓氷濆、妙義観楓時已晩、鉱泉楼上坐看雲。

(群馬西毛の一路に日はたそがれんとし、往事をおもい碓氷川のみぎわをたずねた。妙義山の観楓の時節にはすでにおそく、鉱泉の旅館階上に座して雲を眺めている。)

 磯部館は大ならずといえども、客室の設備と待客の方法ともによしとの公評なり。その他に鉱泉旅館として鳳来館、林屋、山城軒等あり。夜に入りて碓氷川の水声枕頭に触れ、客眠を催進するなどすこぶる幽趣を覚ゆ。

 本郡の方言を聞くに、前橋、高崎と大差なし。左に二、三を挙示せん。

  男の児をガキ、女児をアマ(下等社会)、氷柱をアメンボー、ヒキガエルをベットーとも、オヒキベットーとも、虎杖〔いたどり〕をトッカンボー、杜鵑の鳴き声をオトガノドヲツッキッタという。

 子供が物の数をかぞうるときに二個ずつを取りて、

  ヤナギノカゲカラオバケガデタヨ、

という。これ三十をかぞうるときなり。もし四十をかぞうときは、これにマタデタヨを加うるという。

 二十四日 快晴。厳霜地に敷き、紅葉日にあぶり、紅天地白世界を現ず。これに加うるに、浅間山の白粉を装い、雲衣を帯びつつ碧空に巍立するところ、暁望極めて壮快なり。北甘楽郡視学福田啓作氏わが行の先導となり、平岡の上、桑林の間を一過して富岡町〈現在群馬県富岡市〉に至る。車行二里半、途中、洗粉原料採出所あるを見る。山底にあなをうがち、粘土を採出し、これを乾燥せしめて製粉するなり。本日の会場は富岡小学校にして、聴衆中には中学校、実科女学校生徒も加わる。主催は郡教育会および学事会にして、郡長丹後斉治氏、視学福岡氏、町長古沢小三郎氏、校長田中美名人氏、および矢島太八、中山雄、加藤延次郎三氏の発起にかかる。宿所大和屋旅館はその姓を橳島という。これをヌデシマとよむ。当夕、郡長、町長等と会食す。古沢町長は春秋七十七、県下町村長中の高老なるも、矍鑠としてよく飲みよく語る。その元気、青年を圧倒す。この日は旧十月十日に当たる。本郡の慣例としてこれをトウカン夜と呼び、藁を束ね、これを縄にてかたくまとって棒のごとくにし、この藁棒をもって地面を打つ。その言葉に「トウカンヤヨイモノダ、朝蕎切り、昼団子、夕餅食って遊ブンベ」と叫ぶ。これ翌年の豊作を祝する意なる由。その日は必ず蕎〔麦〕と団子と餅を食すという。つぎに、十月の恵比寿講には焼き餅を食すと聞く。その他本郡の風俗として、十二月八日に目かごをさかさまにつるし、これを軒前に立つることあり。その日には子が親を招きて饗応をなす。また、二月八日も目かごをつるす。このときは親の方で子供を招くという。以上の慣例は隣郡にもある由。

 十一月二十五日(日曜) 温晴。午前、原製糸場を一覧す。工女約千人、そのうち四分は越後、六分は本県および他県なるやに聞く。工場は明治三年の起工、五年の開業にして、政府の創立にかかれり。本邦にて蒸気力を工場に応用せしはこれを嚆矢とす。実に明治文明史上に特書すべき工場なり。工場の一棟に幅七間、長さ八十六間、工女五百二十人をいるるものあり。政府の事業とはいえ、五十年前の経営としては驚くべし。支配人大石保佐一氏、場内を案内せらる。即吟一首を記して同氏に寄す。

甘楽渓頭訪富岡、大名物是製糸場、壁間古色蒼々裏、留得明治史上光。

(甘楽の渓流に沿って富岡を訪れる。大の名物は製糸場である。その壁はところどころ古色蒼然として、明治史を飾る輝きをよくとどめている。)

 その建築はすべて木柱、瓦壁にして、和洋折衷なるはおもしろし。これより車行一里、鏑川を渡橋し、丘陵を上下して小幡村〈現在群馬県甘楽郡甘楽町〉に入る。当村はもと小藩の城下なりという。茂木旅館にて昼食するに、女中団扇をもって傍らに座し、終食の間たえず蝿を払う。冬時の蝿払いは珍し。会場小学校には本日、物産品評会あり。演説発起は校長木暮兵三郎氏、村長高橋一郎氏、助役遠藤誉次氏、書記柳沢房蔵氏等なり。当夕、郵便局長田中歌吉氏の宅に宿す。

 二十六日 穏晴春のごとし。車行二里、釣り橋を渡りて一ノ宮町〈現在群馬県富岡市〉に移る。途上、いたるところ桑園ならざるはなし。桑葉ことごとく凋落して、野色ためにひろし。農家なお納稲耕麦に忙しきがごとし。開会前、国幣中社貫前神社を参拝す。町名のごとく本県第一位の宮なり。門前の街路は丘上にありて、社殿は石階をおりたる渓間にあり。門前より堂を見下ろすは、佐渡の妙照寺とともに異例なり。社殿小なりといえども、その彩色の美は日光に髣髴たり。門前の紅楓はわずかに残葉をとどむるのみなるも、社後に老杉直立数十丈の大樹あり。俵藤太秀郷卿の植うるところ、周囲二丈五尺余、境内ために森然たり。ときに所感一首を賦す。

林丘堆処有祠門、宮是上毛第一尊、降到神前心自寂、老杉千古鎖塵煩。

(林の丘の高い所に総門がある。この貫前神社は上毛の第一尊である。石階を下って神前に至れば心はおのずから静かに、老杉は千古の世俗の煩わしさをとざしている。)

 会場小学校は丘下にあり。主催は諸会連合、発起は町長今井梅次郎氏、校長高橋亀吉氏、および山崎金次郎、田中寅之助、大里武志、石井泰蔵、田村茂十郎、佐藤繁松、矢野間徳次郎七氏なり。この地方には黛の一字姓あり。当夕、社前亀嶋屋旅館に宿す。

 二十七日 晴れかつ風。朝、一ノ宮駅を発し、軽便にて渓間をさかのぼり下仁田町に至る。その中間にナンジャイという地名あり。文字は南蛇井と書す。昔時、幕府代官出張の際、村名をたずねられしに、その答え判明せざれば、代官よりナンジャイと問い返されしにより、ただちにその語を取りて地名とせし伝説あり。下仁田より馬車に移り、渓路を自然に登ること二里半、道路大いによし。月形村〈現在群馬県甘楽郡南牧村〉に至りて馬をとどむ。当所は蒟蒻の名所にして、山はみなコンニャク畑、家はみな蒟蒻を切りて煎餅のごとくし、これを串にさして軒前に掛け乾燥せしむることに従事す。畑一反歩の収穫百円以上、桑よりも米よりも利益あり。故に畑の売買は一反六百円ないし八百円という。欧州大戦以来、蒟蒻大いに騰貴し、この地方にては多く蒟蒻成金を出だせりとの評あり。とにかく下仁田以上には米田全くなし。昔時、米を筒に入れて蓄えおき、人の死せんとするとき枕頭にてこれを振り、米の音を聞かしめたりというは、この山間部を形容したる話なり。また、駅路より横道に入ること一里半、大塩沢に黄檗宗の名刹黒竜山あり。その界隈の奇勝、やはり関東耶馬渓と称す。月形会場は小学校、主催は同村と尾沢村連合、発起は月形村長小金沢喜与治氏、校長小須田健次郎氏、尾沢村長安田百平氏、校長飯塚悦太郎氏、および有志小金沢英夫氏にして、みな大いに尽力あり。聴衆の過半は婦人なるは異例なり。宿所千歳屋は下女を置かず、男子をして給仕せしむるもまた異風なり。当夕、旅館において村長、校長協力して、即座に蒟蒻を製造せられたるを一見せるも、また旅中の一興なり。諺に薬九層倍というが、蒟蒻粉一合が三十倍になる、故に蒟蒻三十倍といわざるを得ず。畑地より掘り出だしたるときは、その形大芋のごとし。信州人この地にきたりこれを芋と心得、購入して家に帰り、そのまま煮て大いに失敗せりという話あり。当日の途上吟、左のごとし。

南牧川源多蒟田、冬来収得曝軒前、停笻欲問渓何白、即是水車成粉烟。

(南牧川の源あたりは蒟蒻畑が多く、冬になるとき収穫して軒さきにさらす。杖を止めて渓がなぜ白くなっているかをたずねようとしたところ、それは水車の粉煙を上げたものであった。)

 渓上ところどころに水車にて蒟蒻を粉に製する工場あり、あたかも石灰を製するごとく白煙をみなぎらす。月形は長野県と境を接す。その国界に屋形をなせる奇山あり。海抜四千五百尺、妙義の左背に当たりて横座し、遠方より望むを得。これを荒船山と名付く、あるいは一名破風山ともいう。山の形、破風造りの屋形をなせるによる。その山の北辺より流出せる水を北牧川といい、南辺の方を南牧川という。月形は南牧川の渓頭にあり。渓狭く山急にして、家屋を建つるに平地なきほどなり。国境の連山はすでに雪をいただき、ときどき山風雪片を吹き送る。今秋以来、初めて雪を見る。夜に入りて天全くはれ、寒月皎々たり。詩思忽然として動ききたる。

客窓寒夜有朋来、対酒三更月作媒、山里風流人解否、炉烹蒟蒻尽残杯。

(窓に寒さのしのび入る夜に友の来訪あり。酒に対して三更ともなれば月がなかだちとなる。この山里の風流を人が解するか否か。炉に蒟蒻をにて、なお杯を尽くさんとする。)

 二十八日 晴れ。今朝、室内寒気〔華氏〕三十八度、水みな凍る。馬車をめぐらして下仁田町〈現在群馬県甘楽郡下仁田町〉に至り、午後、小学校にて開演す。校舎新たに成り、内容よく整備せるを見る。発起は町長湯浅武之吉氏、校長北沢靖三郎氏、学事会長茂木松次郎氏、副会長高井新之助氏にして、上野鉄道会社長佐藤量平氏および有志松本伝蔵氏助力せらる。下仁田につきては、「町が九の字で市がクサイ」といえる俚言あるはおもしろし。町の形が「く」の字なりで、市日は毎月九サイなるを意味す。実にその町は全く千岳万立、両渓合流の中点にあり。宿所は新杉原旅館なり。福田視学は月形山中まで案内の労をとられたり。本郡開会の特色は、神職会が教育会に加わりて開催せられしにあり。聞くところによるに、郡内は飲酒の流行するところにして、毎年、下仁田には一升会ありという。

 北甘楽の方言を聞くに、疲れたことをセッチョウという。アーツカレタというべきをアーセッチョウという由。予想外のことをアテツコトモナイといい、学校へ行くを学校セユクという。また、言葉の間にコを入るることあり。牛がくるというべきを牛がコークルといい、菊がさいたというべきを菊がコーサイタという由。また、本郡内の地名四カ所を合すれば、ナス、ナンバ、イヤイヤ、カブリとなると聞く。

 二十九日 快晴。早朝、凍気をおかして下仁田を発し、高崎駅にて小山行きに移り、佐波郡伊勢崎町〈現在群馬県伊勢崎市〉に入る。会場小学校は生徒二千四百人、県下第一の大校にして、八間十五間の大講堂を有するも、生徒全員を収容するを得ずという。邸内に煉瓦造り、直立六、七間の時報鐘楼あり。開会主催は町青年会にして、会長加藤末吉氏(校長)、副会長戸谷清一郎氏(助役)、主事石川重一郎氏、同石川国太郎氏等の発起なり。当夕、料理店銭屋、一名白水楼において、町長石川泰三氏、郡視学斎藤完二氏、および発起諸氏とともに晩餐を喫して、旅館新井屋に入宿す。室は土蔵中にあり。当夜、満月清輝、窓に映ずるを見て一首を浮かぶ。

三山帯雪午風寒、農圃桑枯野色寛、入夜客窓浮白影、何知霜月掛軒端。

(上毛の三山は雪を帯びてま昼の風も寒く、畑の桑も枯れはてて野もひろやかに見える。夜になって客室の窓に白い影が浮かぶ。なんと霜夜の月の光が軒端にかかったのである。)

 本郡長は岩本俊卿氏なり。

 三十日 晴れ。風起こり気寒し。午前、工業学校に至りて校友会のために講話をなす。校長は斎藤吉広氏なり。これより車行約一里、三郷村〈現在群馬県伊勢崎市〉小学校にて開演す。村長石田勝馬氏、校長遠藤宗作氏等の発起なり。宿所平田源助氏は造酒家にして詩画をよくす。その名酒「鳳泉」は毎年の品評会に一等賞を博すと聞く。一絶を賦して主人に贈る。

毛野山風烈、晩来寒徹身、鳳泉時一酌、忽覚暖如春、

(上毛の野に山おろしの風ははげしく、暮れがたからの寒さが身にしみとおる。名酒「鳳泉」をひとたびくめば、たちまちに暖かきこと春のような思いがするのだった。)

 当家にて伝聞するに、造酒に従事するものの名称に種々ある由。第一はオヤカタ(杜氏)、そのつぎはカシラ(副杜氏)、そのつぎはニバン、そのつぎは麹屋、船頭(酒漉し掛り)、釜屋なりという。

 十二月一日 穏晴。車行約一里半、赤堀村〈現在群馬県佐波郡赤堀町〉に至る。途上、仰ぎて赤城山を見るに、夜来の寒風雪を醸し、頂上白雪をいただけり。よって一詠す。

佐波原上路塵稠、夜漸深時風漸収、暁対赤城山頂雪、始看冬色入毛州、

(佐波の平野の道は塵埃が濃く、夜もようやく深まって風も次第に収まった。夜明けに赤城山頂の雪に向かいあい、はじめて冬の気配が上毛の国に入ってきたのを目にしたのだった。)

 会場は小学校、主催兼発起は村長茂木元氏、助役千吉良啓八氏、収入役町田善太郎氏、校長萩野国松氏、僧侶堀祐源氏、および生形、町田両訓導等なり。みな大いに尽力せらる。宿所大光院は学校の隣地にあり、堀氏その住職たり。本村旧家赤堀鉊三郎氏の先代の女子にて、身を赤城山上の池に投ぜしものあり。そのとき携帯せる鏡の遺物ならんとの評ある古鏡の破片、湖畔より出でたり。余これを一見して、「欲知伝説昔、問鏡々無言、観此蒼々色、黙中如有言」(言い伝えるいにしえを知らんとねがい、鏡に問うも鏡は語らず。この青々と光る鏡を見つめていると、物言わぬうちより言の聞こえてくるような思いがする。)と書す。本村は中島徳蔵氏出身地なり。村内に牛房〔ゴボウ〕の姓あるは珍し。隣村の東村は国定忠治の出生地なるが、従来その墓石を砕き取り、これを粉末にして中風の薬に用うる迷信ありと聞く。

 十二月二日(日曜) 温晴。車行一里半、赤城山頂の新雪を背視しつつ行き、殖蓮村〈現在群馬県伊勢崎市〉に至る。大光寺を去りて数丁、田圃の間に数株の樹木あり。その中に薬師を刻したる古石碑あり、これをキンマラ薬師という。毎年一月十四日はその祭日にして、近郷より参拝者雲集す。これに祈願すれば、腰部以下の病は必ず平癒すと伝う。後日平癒すれば、木にて男根の形を作りたるものを奉納すと聞く。これ奇異の迷信なり。殖蓮の会場は小学校、休憩所は役場、発起は村教育会長川田勇作氏、副会長高橋由太郎氏、村長古郡仲三郎氏、校長櫛原忠次郎氏等なり。本村には機業家多し。郡内も稲コギ、麦マキいまだ全く終わらず、農家なお多忙なり。当夕、車行一里弱、伊勢崎町新井屋に入宿す。

 三日 穏晴。暁霜雪のごとし。車行一里半、采女村〈現在群馬県佐波郡境町〉に至りて開演す。会場は小学校、主催および発起は村長岡崎清次郎氏、助役新井潤造氏、校長五代直四郎氏、訓導吉田弁次郎氏、妙真寺住職三品宥勝氏にして、いずれも多大の尽力あり。当夕、妙真寺に宿す。真言宗豊山派なり。本村もやはり機業地という。

 四日 温晴。車行一里半にして、剛志村〈現在群馬県佐波郡境町、伊勢崎市〉に入る。これをタケシとよむべきを、一般にゴウシとよむ。本村もまた機業地なり。故に田畑に一人の婦女子を見ず。すなわち男耕女織の地なり。本村だけにても、婦人の機織賃一カ年二万円に達すという。午後、小学校において開演す。村長石原清助氏、校長長谷川卓郎氏、助役和佐田角太郎氏、訓導天笠栄茨郎氏、有志高木平馬氏、ほか七名の発起かつ尽力による。黄昏、車行わずかに十五丁、境町〈現在群馬県佐波郡境町〉小学校に移りて夜会を開く。校内の作法室は華族の御殿に類する設備を有し、県下にはもちろん、関東の小学校において、いまだかつて見ざる作法室なり。開会発起は町長内田平次郎氏、校長五十嵐留吉氏、署長野俣喜三郎氏、職員五代規信氏等とす。本町は恵比須講にて一般に休業するために、聴衆比較的多し。聞くところによるに、商家は毎月一日、十五日、二十八日には恵比須大黒に灯明を掲ぐるを例とす。しかして十月の恵比須講には、特別に頭付きの魚を付けたる御膳二人前をそなえ、そのお下がりは必ず主人夫婦の食するところとする由。維新志士村上俊平氏この地より出でたりと聞く。宿所中沢屋は維新前よりの旅館にして、今なお茅屋なり。しかれども玄関には、宮殿下の御休憩所たりしことを掲示しおけり。本町は前橋をへだつる六里、伊勢崎を離るる二里の地点にあり。

 五日 穏晴。暁寒すこぶる厳、霜気また烈なり。車行一里、例幣使街道すなわち高崎より日光に通ずる旧道をさかのぼりて豊受村〈現在群馬県伊勢崎市〉に至る。半機半農の地なり。休憩所にあてられたる役場は新築まさに成り、郡内第一の役場と称す。会場は小学校、発起は村長松本完蔵氏、助役多賀谷荘蔵氏、校長神戸直一郎氏なり。日まさに暮れんとするとき車を走らすこと一里、名和村〈現在群馬県伊勢崎市〉に入る。夕照なお余紅をとどむる中、正面に浅間山の煙を吐きて聳立せるを望むところまた壮観なり。夜中、小学校にて開会あり。村長大和杢右衛門氏、校長大和栄八氏の発起にかかる。しかして宿所は有志家小此木康昌氏宅なり。当所駐在巡査下山作造氏は哲学館に在学せし由。本村には昔より首切り畑と名付くる所あり。これまでその畑にて首を切られたること数回ありとて、これを耕すものなく、多年荒地になりいたりしが、耕地整理のためにこれを耕地に編入せりとて、迷信家が苦情を鳴らせりと聞く。斎藤視学は毎日各所へ出席せらる。

 六日 快晴。瓶水氷結、石のごとし。寒気厳冬に異ならず。車行一里、例幣使街道に従い、利根川を渡りて芝根村〈現在群馬県佐波郡玉村町、伊勢崎市〉に入り、午後、小学校において開演す。発起は村長新井佐太郎氏、助役今井得一氏、校長武井文之助氏、僧侶紅林孝潤氏等なり。当夕、高見屋旅館に宿す。

 七日 穏晴。車行一里、玉村町〈現在群馬県佐波郡玉村町〉に至る。会場小学校は堅全の建築なり。主催は各宗協会にして、観照寺真山宥啓氏、西光寺西園実如氏、称念寺宇尾達道氏、観音寺真木孝良氏、神楽寺福井栄覧氏の発起にかかる。町長町田市之助氏等助力せらる。当町は昔時、遊廓地をもって世に知られしも、今は全く農本位の地となる。本夕、観照寺に宿す。真言宗なり。余が毎回飯一杯というを聞き、大ドンブリに飯を盛り上げて出だされしは、またおもしろし。

 八日 穏晴。早暁、霜気をおかして玉村を発し、下の宮の船橋を渡り、宮郷村〈現在群馬県伊勢崎市〉勝念寺に至る。途中、連取天神の社前を過ぐ。境内に有名の笠松あり。地に平伏して笠形をなす。その枝域の周囲五十間余。午後、勝念寺において真宗青年会のために講話をなす。平田源助氏その会長たり。この寺は本郡唯一の真宗寺院にして、桑林の間に孤立す。規模大ならざるも新築全く成り、堂内を一見すれば進歩的構造たるを知る。余の所吟一首、左のごとし。

環境桑林鎖俗塵、中間巍立仏堂新、従今勝念山頭月、照及佐波全郡人。

(この辺りはすべて桑林で俗塵の入るをはばみ、その中に仏堂も新しくたかだかと立っている。これよりのちは勝念寺の上にかかる月は、あまねく佐波全郡の人々を照らすであろう。)

 当夕、小学校に至り、更に村教育会のために講演をなす。聴衆、堂にあふる。岩本郡長も出席せらる。発起は村長森村鍋太氏、助役栗原清作氏、校長篠木謙吉氏、職員斎藤、伊原、森、宇野、根岸、須田、鈴木、常見八氏なり。演説後、勝念寺に帰りて宿す。その距離二十丁余。住職は多賀堂竜天氏なり。また、本村には哲学館出身の金田賢幢氏あり。これらの諸氏奔走尽力の結果、哲学堂維持金は本県中最多額を拝受するに至れり。したがって昼夜揮毫に忙殺せられ、夜半後まで筆を擱せず。また、一郡全体を合計するに、哲学堂維持金の最多額を拝受せしも本郡とす。これ、ここに大いに深謝するところなり。

 本郡の方言を聞くに、驚いたことをタマゲタといい、大いに驚いたをブッタマゲタという。大きいをデッケー、すばらしく大きいをスデッケー、嘘らしいをデンボーという。

 十二月九日(日曜)。朝、勝念寺を発して行くこと十丁、新伊勢崎駅より汽車によりて邑楽郡館林町〈現在群馬県館林市〉に移る。会場小学校は千八百人の生徒を有す。この日、郡教育会の総会あり。開会発起は郡長塙任氏、視学高瀬泰作氏、町長熊谷直方氏、校長長沼亨氏、その他堀口、小林、清水、増毛、島田、杉本、矢島諸氏等総じて十五名にして、みな大いに尽力せらる。当所へも二十年前に来講せしことあり。名物は麦落雁と干しうどんなり。余が本郡の名物を集めて作りたる俗謡あり。

  邑楽名物御存じないか、分福茶釜と干饂飩〔うどん〕、麦落雁と鮒鯰、方言デンポウ、イシ、オゾイ、花山ツヽジと善導寺、まだもあります大谷休泊。

 塙郡長は雄大の体躯を有す。酒量もまた豪なり。当夕、美名伝旅館に宿す。相応の大館なるも、女中一人のみ。機業の盛んなる結果、下女の払底を知るに足る。

 十日 晴れ。車行約一里、六郷村茂林寺を訪う。茅屋の禅寺なり。門内寂として人なし、再三呼びてようやく取り次ぎの出ずるあり。書院に入りて分福茶釜を一見す。およそ水一斗ぐらいをいるるべき茶釜なり。往昔、この釜にて茶を沸かし、千人の客に飲ませしに、なにほどくみても尽きざりしという。これより妖怪の一物となる。これを分福と名付くるは、この釜の茶をのむ人は福を分与せらるるの意ならん。かつて明治維新後、一度博覧会に出品せしことあり。その際、伝説の真偽をためさんとて、湯を沸かして衆人にのましめたるに、たちまち尽きしという。昔日の妖怪は今日の妖怪にあらず。即時一首を賦す。

車入野蹊霜色新、茂林寺古寂無人、当年福釜今猶在、何不煎茶分衆賓、

(車が野の小道に入ると霜の色も新たに、古刹の茂林寺は寂として人影もない。当時の福釜は今日に伝えられてある。どうして茶をたてておおぜいの客にふるまわずにおられようか。)

 これより更に一里を走りて佐貫村〈現在群馬県邑楽郡明和村、館林市〉に至る。これ郡内の模範村なり。小学校開会の発起は村長田口真三郎氏、校長清水民治氏、書記渋川広一氏なり。当夕、館林美名伝に帰宿せるに、高瀬視学の配意により、名物の鮒のアライを試食す。天下一品の美味なり。その他、蓴菜もまた当地の名物という。

 十一日 晴れ。館林の揮毫数非常に多きために、午前滞在、午餐後ようやく塙郡長とともに軽便に駕して小泉町〈現在群馬県邑楽郡大泉町〉に至る。客車の内部はハイカラ式なり。行程三里を三十分にて達す。会場は小学校、発起は町長金井椎吉氏、助役長谷川定次郎氏、校長島田友蔵氏、教員木村専一、森戸良作、服部儀次郎、川上茂太郎、森権次郎五氏にして、みな大いに尽力あり。宿所は中村屋旅館なり。当町より新田郡太田町へ一里、休泊村は十五丁に過ぎずという。本郡の地面は米田と松林のみと称して可なり。松林だけ六百町歩あり。これみな大谷休泊の経営せしところと聞く。その神社は館林町外にあり。

 十二日 晴れ。車行二里、永楽村〈現在群馬県邑楽郡千代田町〉に入る。佐波郡と本郡とは全く平坦部にして、小丘すらもなく、車行すこぶる便なり。まず光恩寺において休憩す。真言宗豊山派なり。住職永柄行全氏は一時、哲学館に在学せしことありという。会場は小学校、主催は青年会、発起かつ尽力者は村長塩田栄太郎氏、校長増尾福三郎氏なり。夜に入り灯を点じて光恩寺を発し、行くこと数丁にして利根川を渡船し、これより田間の新道を一走して熊谷駅に達す。その里程三里、塩田村長わが一行を送りてここに至る。途中、児童走り出でて、お嫁サンきたれりと呼ぶ。この辺りにては、嫁入りは必ず日暮れの後なる由。八時半乗車、十時半上野着。これにて群馬県第二回の巡講をおわる。

 邑楽郡の方言の二、三を挙ぐるに、バカゲタことをモウゾウといい、嘘言をデンボウといい、氷柱をカナンボウ、サヤエンドウをブドウまたはサヤブドウ、うどんをメンコ、利口をオゾイ、貴様をイシ、たくさんをエイラ、ハゲシイことをガショウキ、ソウカイをソウケ、チットをチットンベー、化物の出でるをザトウがきたるという。また、婦人の秘所をオカマという。鹿児島のオハコに同じ。奇姓につきては、本郡に二十里とかく苗字あり。これをチリヒジとよむはすこぶる奇なり。邑楽郡の俗謡中おもしろきものを摘載せん。

足尾の深山の白雪がヨ、霞の奥より流れ来て、渡瀬井堰に揚げられてヨ、田植の乙女が袖ぬらす。(田植え歌)

古河の二丁目油屋の娘、油とろとろ腰までつけて、腰の光で古河町をてらす。(同上)

分福茶釜に毛がはへた、とんだ狐のいきみあひ。(大津絵ぶし一節)

そろた、そろたヨ、踊子がそろた、稲の出穂の様によくそろた。(盆踊り歌)

 群馬県人の宗教信仰の薄弱なることと、寺院の振るわざることは前すでに述べしが、そののち聞くところによるに、寺院の収入は檀家一戸につき平均五十銭以下なりという。その代わりに寺院は大抵多少財産を有せざるなく、糊口に窮するの憂いなし。したがって布教をつとめずという。檀家の仏壇は粗末のものにして蜜柑箱ぐらいを用い、これを勝手の棚の上に置くもの多し。しかしてその中には位牌を置くのみという。また、寺院に入り仏像を拝むに、拍手を用うるもの多しともいう。かく宗教の信仰なきと同時に迷信すこぶる多し。さきに挙示せしものの外、本県一般に厭忌するものはサンリンボウなり。その日に贈り物をするときは、これを贈りたる家は栄ゆるも、これを受くる家は滅亡すと信ず。その文字は三隣亡とかきて、一軒のみ栄えて他の三隣はみな亡ぶの意に解するは笑うべし。また、六三の迷信あり。六三とは一種の占法にして、己の年齢より九を引き去り、残れる数によりて吉凶を判ずるなり。例えば残数が一か三ならば足に痛みを起こすと判じ、二か六ならば腰に痛みを起こすと判じ、五か七ならば肩、四か九ならば腹、六か三ならば全身に苦痛を起こすと定め、六と三に当たれる年を大凶とし、その年は必ず神社に参詣して、病気除けの祈祷を請うという。モー一つ聞き込みたる迷信を述ぶるに、一般に切り火(石を打ちて出だす火)は縁起の悪いものとして厭忌す。これ、その火はただちに滅する故なり。しかるに婚礼に際し嫁が家を出ずるときは、必ず切り火をなす。これは、かえるなかれの意を示すという。その火を打つと同時に玄関へ塩をまくを例とす。これ、前橋方面にてもっぱら用うる旧慣なる由。

碓氷郡にては嫁の家を出ずるときには、切り火の代わりに箒にてはき出だすを慣例とすと聞く。これまた、かえるなかれの意を示すものとす。これに反して普通の客来の節、客の去るを見てただちにはらうを不吉とし忌むという。また、前橋の旧士族の家にては、正月三カ日間は包丁を使うことを忌む。その意は、切ることを嫌うより起こる。よって大晦日の夜において、三日間の食物をことごとく切りおくを例とすという。以上、伝聞のままを記しおく。

 群馬県巡講は多野郡を除く外、二市十郡を一周したれば、ここに余の鄙見を開陳するに、その県人は概して才あり智あり、旧習になずまず、情弊に陥らず、快活にして進取の風あり。なにごとにもよく成功すべき資格を有す。しかりしこうして、明治の新天地において、その割合に成功したる人物の出でざるはいかんというに、堅忍持久、自彊不息の精神において欠くるところなきかを疑わしむ。いわゆるカラ風的にして、たちまち起こりたちまちやすみ、長く持続せざる風あるように感ぜしむ。果たして忍耐力の不足ありとせば、これを補修する方法を考えざるべからず。余の見るところによるに、教育方面にては通俗講話を盛んにして、知識上よりこれを啓発する道を講じ、宗教方面にてはその本分たる布教を興して、信念上より随機開導する方針を取るより外に良法なかるべしと信ず。今回三カ月にわたり、その県二市十郡を巡講し、各所において多大の厚意をかたじけのうするを深謝するとともに、鄙見の一端を表白して高評を仰ぐところなり。妄言多罪。

 十三日 晴れ。自宅にて休養し、十四日午後三時半、池袋発に乗り込み、東上線にて五時、的場駅に下車し、これより車行約一里、埼玉県入間郡霞ケ関村〈現在埼玉県川越市、鶴ケ島市〉発智庄平氏の宅に入宿す。同氏は池袋より同乗せらる。

 十四日 晴れ。発智氏は郡内の旧家にしてかつ富豪なり。大いに力を村治および教育の上に尽くさる。その邸めぐらすに喬杉数十株をもってす。命名して養神園と号す。その中の書院を静観という。庭内に二十八勝あり。九曲水、摩天杉等これなり。よって一詩を賦呈す。

一園二十八風光、最好養神又洗腸、九曲水声動詩思、摩天杉影護書堂。

(養神園には二十八の景勝があり、もっとも精神を養うことと世俗に汚れた腸を洗い流すのによい。九曲水の水音は詩情をつき動かし、摩天杉は書院をまもっているのである。)

 本村は田畑あり山林あり、養蚕製糸ともに盛んなり。また、甘藷、薪材をも輸出すという。午後、開会。会場小学校の境内に大廟遥拝所あり。発起は弘道会支部長発智氏、幹事山畑武七氏、崇台講社長延命寺住職幡宥順氏、執事新井宥延氏なり。村内有志家中に奇姓あり。御菩薩池と書し、これをミゾロケとよむ。また、本村の特色は年々村暦を作りて各戸に配布することなり。その暦によるに、正月は新暦一月を用い、盆は七月二十四日より三日間をあてはめ、四月三日、四日を三月の節句とし、二月末を年中の勘定日とする等の特色あり。演説後、的場駅より乗車、当夕七時、帰宅す。

 十二月十五日 晴れ。午前、東洋大学において教授内田周平氏還暦の賀筵に出席し、狂歌一首を賦呈す。

  貧乏といふは野暮なり君が身は、読書万巻腹は福々。

 内田氏の演説中、わが家は貧乏であるとの語を繰り返されしにつきて、かくよみたるなり。

 

     群馬県開会一覧

  (市郡)  (町村)  (会場)  (席数) (聴衆)   (主催)

  前橋市         師範学校   一席  三百人    同校

  同           中学校    二席  六百五十人  学友会

  同           臨江閣    一席  七百人    市教育会

  同           郡会議事堂  一席  三百五十人  郡教育会

  高崎市         劇場     二席  一千百人   市教育会

  同           寺院     二席  五百人    修養会

  同           高等女学校  二席  五百人    同校

  同           中学校    二席  五百五十人  校友会

  新田郡   太田町   小学校    二席  四百五十人  郡町教育会

  同     同     中学校    二席  四百五十人  校友会

  同     尾島町   小学校    二席  六百五十人  郡教育会

  同     木崎町   小学校    二席  四百五十人  郡長、町長、校長

  同     藪塚本町  小学校    二席  六百人    郡教育会

  同     九合村   小学校    二席  四百人    村長

  同     沢野村   小学校    二席  四百人    郡村教育会

  同     世良田村  小学校    二席  七百人    郡教育会

  同     宝泉村   小学校    二席  四百五十人  郡村教育会

  同     鳥之郷村  小学校    二席  四百人    同前

  同     強戸村   小学校    二席  五百人    同前

  同     生品村   小学校    二席  四百五十人  同前

  同     綿打村   小学校    二席  七百人    同前

  同     笠懸村   西小学校   二席  三百五十人  同前

  同     同     東小学校   二席  四百人    同前

  利根郡   沼田町   小学校    二席  五百人    郡教育会

  同     同     中学校    一席  二百五十人  校友会

  同     白沢村   寺院     二席  四百人    郡教育会および役場

  同     川場村   小学校    二席  三百五十人  同村

  同     東村    小学校    二席  六百人    郡教育会および役場

  同     水上村   小学校    二席  二百五十人  郡教育会

  同     桃野村   劇場     二席  五百人    教育会および役場

  同     新治村   村役場    二席  四百五十人  教育会および役場

  群馬郡   総社町   小学校    二席  六百五十人  協和会および学校

  同     金古町   小学校    二席  三百五十人  郡学事会

  同     渋川町   小学校    二席  五百五十人  同前

  同     室田町   小学校    二席  四百五十人  同前

  同     塚沢村   小学校    二席  三百五十人  同前

  同     箕輪村   小学校    二席  五百人    寺院および学校

  同     同     寺院     一席  三百五十人  協和会

  同     滝川村   寺院     二席  六百人    三カ村連合

  勢多郡   木瀬村   劇場     二席  九百人    青年会

  同     粕川村   小学校    二席  五百五十人  四カ村連合

  同     南橘村   小学校    二席  三百人    青年会

  同     北橘村   小学校    二席  二百五十人  同村

  同     横野村   寺院     二席  三百五十人  青年会

  山田郡   桐生町   小学校    二席  二百五十人  郡教育会

  同     同     高等女学校  二席  四百人    校友会

  同     同     織布会社   二席  四百人    同会社

  同     大間々町  劇場     二席  二百人    町青年会

  同     同     小学校    二席  百五十人   学事会

  同     同     旅館     一席  二十人    青年会幹部

  同     川内村   小学校    二席  五百人    青年会

  同     境野村   小学校    二席  二百人    青年会

  同     広沢村   小学校    二席  三百人    同窓会

  同     韮川村   小学校    二席  三百人    学事会

  同     休泊村   小学校    二席  二百人    青年会および法恩会

  吾妻郡   中之条町  小学校    二席  五百人    郡教育会

  同     同     寺院     一席  二百人    樹徳会

  同     長野原町  小学校    二席  二百五十人  郡教育会

  同     原町    小学校    二席  百五十人   樹徳会

  同     岩島村   小学校    二席  三百五十人  郡教育会

  碓氷郡   安中町   小学校    二席  三百人    郡教育会

  同     原市町   小学校    二席  五百人    同前

  同     松井田町  小学校    二席  二百人    同前

  北甘楽郡  富岡町   小学校    二席  五百人    郡教育会

  同     一ノ宮町  小学校    二席  二百人    教育会および神職会

  同     下仁田町  小学校    二席  二百五十人  同前

  同     小幡村   小学校    二席  三百人    軍人会、青年会等

  同     月形村   小学校    二席  四百人    二カ村連合

  佐波郡   伊勢崎町  小学校    二席  一千人    町青年会

  同     同     工業学校   二席  百五十人   校友会

  同     境町    小学校    二席  三百人    青年会

  同     玉村町   小学校    二席  四百五十人  各宗協会および町役場

  同     三郷村   小学校    二席  三百人    学校、役場、寺院

  同     赤堀村   小学校    二席  六百五十人  学校、役場、寺院

  同     殖蓮村   小学校    二席  二百人    教育部会

  同     采女村   小学校    二席  三百五十人  役場、学校

  同     剛志村   小学校    二席  三百五十人  役場、学校

  同     豊受村   小学校    二席  五百人    青年会

  同     名和村   小学校    二席  四百人    村教育会

  同     芝根村   小学校    二席  四百人    役場、学校、宗教会

  同     宮郷村   寺院     二席  百五十人   住職

  同     同     小学校    二席  六百人    教育部会

  邑楽郡   館林町   小学校    二席  九百人    郡教育会

  同     小泉町   小学校    二席  三百人    同町

  同     佐貫村   小学校    二席  二百人    村長、校長

  同     永楽村   小学校    二席  三百人    村青年会

   合計 二市、十郡、六十七町村(二十五町、四十二村)、八十六カ所、百六十五席、三万五千九百七十人

 

     付

埼玉県二カ所

  〔郡   町村    会場     席数  聴衆     主催〕

  入間郡  川越町   町会議事堂  一席  七十人    修証会

  同    霞ケ関村  小学校    二席  二百五十人  弘道会支部および崇台講社

   合計 一郡、二町村、二カ所、三席、三百二十人

    演題類別

     詔勅修身     七十一席

     妖怪迷信     四十六席

     哲学宗教     二十三席

     教育         八席

     実業         七席

     雑題        十三席

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大正六年度報告

 例により本年中の余の事業経過を発表せんに、著作の方は、

  奮闘哲学   全一冊   大正六年五月  東亜堂発行

  南船北馬集  第十三編  大正六年六月発行

  未知句斎集  全一冊   大正六年六月発行

  新記憶術   全一冊   大正六年八月  文昌堂発行

 哲学堂経営の方は、星洲界中に半月台を建築し、図書館前に紀念碑を設立せり。本堂将来の目的は『東洋哲学』をもって発表せり。(雑誌第六月号)

 巡講の方は前掲を再録して総計を示す。

  一郡、一村、一カ所、一席、六百人(神奈川県土肥村)

  三郡、七町村、八カ所、十六席、五千五百五十人(三河国西部)

  一市、八郡、四十三町村、五十三カ所、百席、一万八千九百五十人(大阪府)

  五郡、十五町村、十六カ所、二十六席、三千六百二十人(山城国)

  二郡、六村、六カ所、十二席、一千六百人(丹波大和一部)

  一市、二郡、二町村、三カ所、四席、一千人(甲州一部)

  二郡、九町村、十カ所、十九席、四千七百人(宮城県一部)

  一市、十三郡、六十七町村、七十七カ所、百四十八席、三万一千七百三十五人(岩手県)

  一郡、八町村、九カ所、十八席、五千五百人(新潟県一部)

  一郡、一村、一カ所、二席、四百五十人(福島県白江村)

  二市、十郡、六十七町村、八十六カ所、百六十五席、三万五千九百七十人(群馬県)

  一郡、二町村、二カ所、三席、三百二十人(埼玉県一部)

   総計 五市、四十九郡、二百二十八町村、二百七十二カ所、五百十四席、十万九千九百九十五人(聴衆)。

 もしこれに明治三十九年以来の総計中より重複せる市郡町村を除去して通算すれば、左のごとくなるべし。(重複せるものは、市郡の方は大阪市北河内、三島、足柄下、岩瀬、入間、碧海、幡豆、額田八郡、町村の方は交野、土肥、茨木、川越四町村なれば、これを除く。)

   総合計 四十八市、四百二十七郡、二千六十一町村、二千六百七十九カ所、四千九百九十二席、百二十五万九千八百六十五人(聴衆)。

 (区は市に合し、街は町に、庄は村に合して算せり)

 以上は余が満十二年間の事業と自ら称するところなり。

  (付)哲学堂会計報告

一、収入合計 金一万四千百四十七円八十六銭

  内 訳 金五千七百八十二円二十四銭  前年度剰余金

金八千百七十五円六十五銭   揮毫謝儀

金十六円也          篤志寄付

金百七十三円九十七銭     銀行利子

一、支出合計 金一万九百九十八円八十四銭

 内 訳 金五千円也        基本財産へ移す(第三回)

金四千円也        同上     (第四回)

金六百八十円八十二銭   建築費および器具購入代

金百九十一円九十二銭   庭園手入れおよび修繕費

金二百六十四円六十八銭  書籍、規則等印刷費

金八百六十一円四十二銭  事務費(俸給、手当、郵税等)

差し引き 金三千百四十九円二銭   剰余金

 (備考)基本財産は十年間貯金据え置きとす。

 以上 大正六年十二月決算

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南船北馬集 第十五編

伊豆伊東迎歳記および群馬県一郡巡講日誌

 大正六年十二月二十二日 晴れ。朝八時半、東京駅を発し、伊豆伊東温泉に向かう。これ、一カ年間地方巡講の疲労をいやせんためなり。午前十一時、国府津に着するも、汽船いまだきたらず。正午出帆の規程なるも、午後三時半、ようやく国府津を発し、熱海、網代を経て夜七時半、伊東松原に着し、猪戸桝屋に入宿す。七、八年ぶりにてここに至る。市街の面目は多少一新せるを覚ゆ。その翌日より毎日、西風吹き寒気強し。滞在中所吟、左のごとし。

相海煙舟破凍風、岬頭三過到伊東、温泉未浴身先暖、知是満場湯気篭。

(相模の海を汽船は凍てつく風を破ってすすみ、三つの岬をよぎって伊東松原に着いた。温泉にはまだ入らないのに身体があたたまるのは、旅館すべてに湯気がこもっているからなのだ。)

天城山北浴霊泉、街上停笻歎変遷、七百年前興廃跡、昇平今日酒楼連。

(天城山の北で霊妙な温泉を浴びる。街並みに杖を止めてそのうつり変わりを嘆息する。七百年前の伊東氏が興廃の跡も、太平の今日では料亭が軒を連ねているのだ。)

 伊東につきて俗謡をよむ。

  伊東に風がないならば、こんなよい処あるものか、温泉景色共によし、魚は沢山名物は、蜜柑椎茸自然生、春は山辺へ草つみに、夏は海辺へ水あびに、秋は月見に冬は湯に、四時の楽み多ければ、いつまで居てもあきませぬ。

 十二月三十一日(日曜) 穏晴。暖香園に至りて古谷忠造氏を訪い、相伴って葛見神社の巨樟を見る。周囲五丈三尺、熱海来宮のものに比すべき大樹なり。音無神社、東林寺、伊東祐親墓、物見松等を巡覧して帰る。

 大正七年戊午元旦、伊東迎年の一作あり。

政海風波総不関、豆南迎歳酔忘還、吾身雖老心猶壮、荷得皇恩重似山。

(政界の風波とは一切かかわりもなく、伊豆の南で新年を迎え、酔ってかえるを忘れる思いである。わが肉体は老ゆるとはいえ、心はなおさかんに、皇恩の山のごとき重さを背負っているのである。)

 伊東の旅館は猪戸にては桝屋を第一とし、そのつぎに湯本館、東京館、山田屋等あり。玖須美にては暖香園、伊東館等あり。

 三日、東洋大学へ向け、新年会欠席の断りを左のごとく打電す。

  電信に代理たのみて伊東より、年賀を述ぶる我は井上。

 また、新年勅題につきて賦したる野吟二首あり。

大東浜上一株松、葉似鳳姿骨似竜、欧土戦塵飛不到、依然翠色四時濃。

(大東浜の上に一株の松があり、枝葉は鳳翼のひろげた姿にも似て、樹幹は竜の舞う姿に似ている。はるか欧州での戦塵もここまでは至らず、昔のままに翠緑は四季を通じて濃い。)

東海富峰下、老松千古青、経年益繁茂、樹骨有神霊。

(東海富士の峰を見上げるところ、老松は千古の緑をたもち、年を経てますます繁茂している。これは樹身に神霊が宿っているからであろう。)

 四日 晴れ。にわかに帰京を思い立ち、定期の自動車に駕して伊東を去り、冷川を経て大仁駅に至る。道程五里を一時間半にて走れり。大仁より汽車にて帰京す。

 大正七年一月十一日。朝八時半、上野発、午前十一時、群馬県多野郡新町〈現在群馬県多野郡新町〉に着。駅前丸竹旅館に入りて憩い、午後、公会席共楽館にて開演す。主催は青年会、発起は町長高橋房吉氏、助役椎名保三郎氏、校長浜野熊吉氏、軍人副会長安野豊作氏なり。この日、郡長堀太郎作氏、視学伊藤新作氏出席せらる。本町には製糸場および紡績場ありて大いににぎわう。本郡は県下各郡中、新暦採用の先鞭をつけし地なりとて、一般に新正月を用う。本日は十一日正月なり。

 十二日 晴れ。車行二里、美九里村〈現在群馬県藤岡市〉に至り、午後、小学校にて開演す。発起は村長斎藤幸市氏、校長針谷台作氏なり。本村は養蚕本位だけありて、四面桑園のみ。当夕は造酒家かつ旧家田島文太郎氏の宅に宿す。

 一月十三日(日曜) 晴れ。朝、田島氏の名酒「竹に雀」を傾けつつ、「田島なる竹に雀に誘はれ、我も朝から千代千代と呼ぶ」とうそぶく。車行約三里、吉井町〈現在群馬県多野郡吉井町〉に至る。旧藩所在地なり。午後、小学校において開演す。学事会長新井巴氏、教育会長橳島福七郎氏、青年会長江原定七氏の発起にかかる。宿所は金子旅館なり。当地には篤志家堀越文左衛門氏ありて、古稀および金婚の紀念のために、小学校へ講堂全部を寄贈せられたりと聞く。この地方にはタバコを産出すという。先年兵庫県にて相しれる小林正義氏に再会するを得たり。町内より二十丁離れたる所に、日本三碑の一たる多胡の碑あり。

 十四日 晴れかつ風。昨夜来、松飾りの松を集めて未明にこれを焼く。これを道祖祭またはドンドンヤキという。その松飾りの跡へ木花と称するもの(ニワトコの木を削りて造る)を立つるなり。午前、車行約五里、鬼石町〈現在群馬県多野郡鬼石町〉に至り、午後、小学校にて開演す。本町は神流川の咽喉を占め、その地勢は下仁田に似たり。しかして町名の起源は、神社の奥院の縁の下に鬼石あるによる。その直径四尺、高さ三尺、神座となりおる由。これより狭隘なる峡路をさかのぼり、信上国境十石峠まで十三里あり。この間には茶盆石、雲石、姥石等、奇石の数四十八個ありと聞く。余、これを詩中に入るる。

路入峡間車漸遅、一渓風月好題詩、神流川上水清処、四十八岩奇更奇。

(道は谷間に入って、車もゆっくりとしか進めぬ。しかし、この渓の風月の美しさは詩を詠ずるにはまことによい。神流川上流の水清き所には、四十八個の奇石、奇岩がある。)

 この川源に高天ケ原および神ケ原と名付くる地名あり、乙父、乙母と名付くる部落あり。また、その下流には木ノ宮、土ノ宮、金ノ宮等、木、火、土、金、水の地名ありという。開会発起は町長岩城善郎氏、校長川端安蔵氏なり。当夕、三島屋旅館に宿し、本町の名酒「鬼面山」を傾く。

 十五日 穏晴。下行三里、郡衙所在地たる藤岡町〈現在群馬県藤岡市〉に至る。途中、八塩鉱泉あり、塩泉なる由。藤岡より二里、旅館には桜雲閣、通称浦部あり。藤岡会場は中学校、主催は青年会、発起および尽力者は町長作宮久太郎氏、町会議員島崎芳太郎氏、社司須川虎之助氏なり。しかして中学校長は長沢開右衛門氏、教育副会長は星野兵四郎氏なり。本町には造酒家多しと聞く。当夕、柏屋旅館に宿す。

 十六日 朝降雪。車行一里、新町より汽車にのり、午前十一時、上野へ着す。今回の随行は角田松寿氏なり。

  多野郡  藤岡町   中学校  二席  六百人    町青年会

  同    新町    公会席  二席  三百人    町青年会

  同    吉井町   小学校  二席  七百人    学事会、教育会、青年会

  同    鬼石町   小学校  二席  五百人    町長

  同    美九里村  小学校  二席  四百五十人  同村

   合計 一郡、五町村、五カ所、十席、二千五百五十人

 

 一月二十日(日曜) 温晴。東洋大学すなわち哲学館創立の際、特に尽力をかたじけのうせし故伯爵勝海舟先生、故男爵加藤弘之博士、故真浄寺住職寺田福寿師に対し、先般三十年紀念会の報告をなさんと欲し、境野哲氏、郷白巌氏等総じて七名、墓前に拝跪し、報告文を読み、かつご在世中の恩義を謝す。

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南船北馬集 第十五編

下総銚子紀行 付

還暦記事

 大正七年一月二十八日 晴れ。野外の散策を思い立ち、両国駅午前十時四十分発に乗り込み、午後二時十分、下総国海上郡銚子町に着し、停車場より四、五丁離れたる一等旅館大新に入る。楼名を江月楼という。利根河口に面し、太平洋をあわせ望むを得て、楼上の眺望絶佳なり。ただ、臨時管弦の声の喧囂なるを欠点とするのみ。その他、旅館としては観音前に吉野屋あり、停車場前通りに川安館および銚子館あれども、江月楼と比眉するを得ず。

 当町は県下の大市街なるも、半分は漁家にして海産を主産物とす。これに次ぎては醤油なり。山サの醸造所のごときはすこぶる大規模にして、その一年の醸造高五万石と聞く。町内の名所の第一は観音堂なり。飯沼山円福寺と称し、真言宗に属す。市街の中央に位置を占む。気候は東京よりもいくぶんか温暖にして、年中雨を見ることまれなりという。しかし、風のある日は東京以上の寒気を感ず。滞在中、拙作二首あり。

帆舟烟艇影分明、江月楼頭忙送迎、望裏自知古今変、海螺城作瓦光城。

(帆をはためかす舟や煙をたなびかせる艦艇の姿がすっきりと見え、江月楼にいてその送り迎えを見ればせわしない思いがする。一望するうちに、おのずから昔と今の変わりようが知られる。かつては貝殻を屋上にのせた人家であったものが、今や瓦屋根に光る屋並みとなっているのだ。)

沙丘鎖海巨川長、知是坂東第一郎、日落漁舟帰入港、連檣林外望蒼茫。

(砂丘が海をさえぎるようによこたわり、巨大な川がとうとうと流れている。この川こそ坂東第一の川、利根川である。日暮れて漁師舟が港に入り、帆柱が林のごとく並びたって、あとは海が果てしなく見えるのみ。)

 当所は毎戸屋上に貝殻を載せて置くより海螺城ととなえきたりしも、今はその多くは瓦ぶきに変じたり。よってこれを詩中に入るる。ついでに『銚子案内記』中より俗謡二、三を摘載せん。

  泣いてくれるな出船のさきで、さをも櫓櫂も手にのかぬ(船唄)。

  お前ゆくならワシをも連れて、下は奥州のはてまでも(同上)。

  わしは磯辺の船頭の娘、舟ぢや櫓も漕ぐ櫂も引く(同上)。

  水の流れは土俵でとめる、船の流れは碇でとめる。主の浮気は誰がとめる(盆唄)。

  盆の踊に踊らぬ奴は、木仏金仏石ほとけ(同上)。

  おらが隣りの千松は、近江の軍に頼れて、一年たつてもまだ来ない、二年たつてもまだ来ない、三年たつて首が来た(童謡)。

 銚子駅より一里余ぞ隔てて犬吠崎の灯台あり。その高さ九丈、海面を抜くこと十六丈八尺、その光芒の達する距離十九浬余と称す。これ明治五年の起工、七年よりの点火にして、明治文明史に録すべき灯台なり。拙作一首を左に録す。

犬吠岬頭立夕陽、危礁翻浪勢荒凉、楼灯忽点竜神火、照射五千余里洋。

(犬吠岬のさき、夕日にてらされて立ち、危険な岩礁にさかまく波、あたりは荒れはててものさびしい。この灯台には忽然としてわだつみの火がともり、五千余里の海洋を照射するのである。)

 同所には海水浴旅館暁鶏館、御風館および快哉楼等あり。これより十余丁を離れたる犬若浦には犬若館あり。この海岸一帯は危礁怪岩多きをもってその名高し。二月五日、帰京す。

 ついでに還暦の記事を掲げん。余は戸籍面によるに安政五年二月四日の出生なり。(実際より一年多きも)されば本年は還暦に当たることになる。およそ世間の慣例として祝宴を開き、祝品を贈るを常とすれども、余は一切これを廃し、人より祝賀を受けず、自らも祝意を表せず、その代わりに貧嚢を傾けて公共事業の方へ寄付することに定む。

  一金五百円也  東洋大学へ

  一金三百円也  哲学会へ

  一金一百円也  真宗大学へ

  一金一百円也  郷里中学校(長岡中学和同会)へ

  一金一百円也  郷里小学校(来迎寺村)へ

  一金二十円也  江古田小学校へ

   合計 金一千百二十円也

 右のほか、家族および親類等へ金三百八十円を分配し、総計金一千五百円となる。

 つぎに、還暦の拙作を左に録す。

皇沢由来潤我身、忠衣孝食養天真、齢迎還暦誰言老、人寿猶録四十春。

(もとより天子の恩沢をわが身にこうむり、忠孝を衣食として、自然に飾らぬことをつとめてきた。よわい還暦を迎えて、だれが老いたりといおうか、寿命はなお四十年を記録できるであろう。)

寿当華甲復何求、陋巷一生心自休、無趣味中蔵趣味、不風流処是風流。

(よわい華甲〔六十歳〕にあたり、また何も求めるものはない。路地裏でのひっそりと暮らすような一生は、心もおのずからやすまる。無趣味のうちに趣味があり、不風流とみられるところこそ風流なのである。)

 人は不平満々欲望無涯、あくまで功名場裏に逐鹿してその欲をみたさんとするも、余は明治大正の昭代に際会せるをもって無上の光栄、至極の幸福とし、朝夕ただいかにしてこの恩に報答すべきかを思うの外、なんらの欲望もなければ、名誉心もなきものなり。今や幸いに還暦を迎うるを得たれば、余命のあらん限り邦家のためにますます奮励努力せんのみ。

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南船北馬集 第十五編

尾張国巡講第一回日誌

 大正七年二月十五日、夜九時の急行にて東京を発す。

 十六日 寒晴。朝六時半、名古屋に着して関西線に移り、弥富駅より尾西線に転じ、海部郡津島町〈現在愛知県津島市〉に着す。ときに九時を過ぐ。随行は大富秀賢氏なり。この日、風強くかつ寒し。遠近の諸山は雪をいただきて皚々たり。会場および宿坊たる成信坊は郡内の大寺にして、俗に御坊と称す。住職佐竹法津氏は旧哲学館出身たり。また、蓮慶寺住職長尾如雲氏も同出身なり。この二氏主催者となりて、大いに開会に尽力せられ、講話会員も奔走の労をとらる。余は明治二十三年に当地にきたりしことありしが、約三十年を隔てて再遊す。県社天王様すなわち津島神社は依然として参拝者多し。ことにこのごろは旧正月の七草祭りとて、年中最もにぎわうときなれば、電車も汽車も賽客をもって充溢す。熱田は関西に信者多く、津島は関東に信者多しという。津島名物は蚊と瘧と蓮根なり。また、天王社の名物はアカダとクツワ(ともに菓子)なり。このアカダは瘧を除くに特効ありと信ぜらる。揮毫所望者すこぶる多し。

 二月十七日(日曜) 晴れ。朝寒強く瓶水みな凍る。午後一時の電車にて津島を発し、甚目寺村〈現在愛知県海部郡甚目寺町〉に移る。道程二里。会場は村役場、宿所は性徳院、発起は村長奥田信氏等なり。村内には村名と同じき甚目寺観音あり。旧正月十七、十八日は参詣者大群聚をなすという。山門は八百年前の建築にして、保護物に編入せらる。その柱に貝殻のつきたる跡あり。往昔、海水のこの地まで及ぼせしを証するに足る。本村は千五百戸の大村にして、野菜の速成栽培を業とするもの多く、一カ年の産額十五万円に上るという。

 十八日 朝晴れのち曇り。午後降雪、寒気の強度、東京以上なり。冬時のカラ風の厳しきは上州に譲らず。これを尾州にては伊吹オロシという。道程一里の間電車をとり、午後、美和村〈現在愛知県海部郡美和町〉小学校講堂にて開演す。演説中に校庭、飛雪のために全く白し。所吟一首あり。

雲色冥々鎖四隈、尾陽平野望難開、車窓忽認乾坤白、風自伊吹送雪来。

(雲がくろぐろとして空をとざし、尾張の平野を一望することもできない。車窓からはたちまちに天地とも白くなる様子が見え、風は伊吹から吹いて、雪が風にのってくるのである。)

 発起は村長木全銀治郎氏、校長木下佐太郎氏等なり。本村は桑苗の産地にして、一カ年に三百万本を輸出すという。一本一銭と見積もりても三万円となる。当夕は酒造家生田佐平氏の宅に宿す。

 十九日 晴れ。寒威凜冽。早朝美和を去り、車行半里余にして神守村〈現在愛知県津島市〉に至る。途中民家の機声を聞き、「機織の声まで寒し雪の朝」とうそぶきつつ養源寺に入りて、午前開演す。室内の寒温〔華氏〕三十二度、墨を磨せんとするに硯水凍りて墨を成さず。主催は自彊会にして、発起は養源寺住職神守空愷氏なり。午後、車を馳すること約一里、七宝村〈現在愛知県海部郡七宝町〉小学校に移りて開演す。聴衆七、八分は児童なり。本村は七宝焼の根源地と聞く。当夕、曹洞宗広済寺に宿す。村長は林領吉氏なり。

 二十日 晴れ。早暁車行一里余、蟹江町〈現在愛知県海部郡蟹江町〉に至る。途中、霜気耳をつく。会場は小学校講堂、町長は佐藤峯太郎氏なり。午後、郡書記大野秀夫氏とともに車行一里、十四山村〈現在愛知県海部郡十四山村〉小学校に至りて開演す。村長は浅野常蔵氏なり。演説後、西北風強く寒威加わる。この寒風と奮闘しつつ車行一里半、弥富駅にて汽車に駕し、夕七時、再び津島〔町〕に着し、藤浪旅館に泊す。

 二十一日 晴れ。ただし名物のカラ風強し。早朝、佐竹氏の案内にて津島神社を参拝するに、本社は素戔嗚尊〔すさのおのみこと〕を主神とす。ときに一絶を浮かぶ。

海東津島是霊畿、社廟儼然神徳巍、万客殿前三拝後、皆賒名物赤陀帰。

(海部郡の津島町は神霊の地であり、素戔嗚尊〔すさのおのみこと〕をまつる神社はおごそかに、その威徳はたかくそびえる。幾万の参拝の人は社前に三拝したのちに、みな名物である赤陀をあがなって帰るのである。)

 午前、郡会議事堂にて開会す。主催は郡教育会および青年団にして、発起は郡長伊藤喜平氏、郡視学村手源次郎氏なり。午後、車行二里半、富田村〈現在愛知県名古屋市中川区〉高等小学校にて開演す。主催は村長中村新治郎氏および岡田秀氏等なり。当夕は字戸田有志家山田弾一郎氏宅に宿す。当所は味醂の産地と聞く。

 本郡は純然たる平坦部にて、丘陵すらも見ることを得ず。総じて水田なり。往々蓮池あるを見る。宗教は真宗大多数を占む。方言につきて二、三を記せんに、亀(スッポン)をトチといい、藁塚をスズミという。語尾にナモを付くるは尾州の方言なり。例えばソーダというべきをソーダナモという。一説にはナモを南無にして、真宗繁昌の地なれば語ごとに南無を添うるというも信じ難し。カ行の発音が牙音を含む。例えばカをキャ、帰ルをキャエルというがごとくに聞こゆ。姓に毛受というあり。これをメンジュとよむは奇なり。中島郡内の村名にもこの字あり。風俗につきては、抹茶(ヒキ茶)の流行を掲げざるを得ず。車夫、馬丁に至るまで茶席を設け、朝夕マッチャをたててこれを楽しむは実に尾州の特色なりとす。故にヒキ茶と菓子は村落に至るまですこぶる上等の品を用う。これに反して酒と煎茶には良否を問わざる風あり。座敷に北向き多く、ことに障子が二重になり、暗くしてかつ寒きにはやや閉口せり。また、尾州の用語として、一センといえば煎茶を意味し、一プクといえば抹茶を意味するなり。前述の方言と風俗とは尾州各郡に共通せるものと知るべし。

 二十二日 晴れ。車行一里、午前、南陽村〈現在愛知県名古屋市港区〉に至りて開演す。会場は小学校、休憩所は役場、発起兼尽力者は村長見田彦太郎氏、校長角田猪太郎氏、議員加藤仙太郎氏、石塚一治氏なり。本村は海湾と庄内川の間にあり。午後、車行半里余にして海部郡を去り、愛知郡下之一色町〈現在愛知県名古屋市中川区〉に入る。この日、正雲寺において正色修養会の発会式あり。その席にて講演をなす。町長森治郎氏、住職寿台順悟氏、大いに尽力せらる。町長令息森敬作氏は京北中学校出身なり。町内には漁業家多し。当地より名古屋までの間、電車の往復あり。

 二十三日 温晴。早朝、宿坊正雲寺を辞し、車行二里、愛知町〈現在愛知県名古屋市中川区・中村区〉に入り、臨済宗長松寺において開演かつ宿泊す。主催は教育会および青年会にして、会長は町長高田善之助氏なり。しかして発起は町長の外に高等小学校長宮田滝氏、尋常小学校長小林佐兵衛氏、長谷川治郎氏、原田道太郎氏、および役場員全部にして、いずれも多大の尽力あり。故をもって哲学堂維持金のごときは県下第一の最好成績を得たるは、大いに感謝するところなり。揮毫の所望者非常に多く、昼夜これに忙殺せらる。本町は名古屋市に接続し、戸数五千と称し、尾州中にては一宮町と伯仲の間におるも、新開地にして労働者および寄留者多く、転籍転居常ならず。したがって風教においても大いに警戒を要する地なりと聞く。この日の途上吟一首あり。

平郊如海望茫然、万落千村繞麦田、靄気四遮山不見、金城一閣聳春天。

(平らな郊外の様子は海のように一望すれば広々として、千万の村落は麦と田にとりまかれている。もやがあたりをおおって山もみえず、名古屋城の天主閣が春の空にそびえているのである。)

 二月二十四日(日曜) 温晴。車をめぐらすこと約一里にして常磐村〈現在愛知県名古屋市中村区・中川区〉小本西生寺に至り、午後開演す。当村は哲学館出身田中善立氏の出生地なれば、氏は東京より帰省して歓迎せらる。宿所は同氏の親戚荒川信一氏の宅なり。主催は教育会、仏教会の連合にして、村長浅井忠七氏、会場住職山内智誠氏、助役寺沢篁氏、書記田島仙二氏等の発起にかかる。みな多大の尽力あり。本村は盆栽の産地なり。また、名物大根をも産出す。宿所において大根料理を供せられしが、砂糖を用いずして甘味あるがその特色とす。

 二十五日 春晴穏暖、靄気朦々たり。車行一里にして名古屋市に入り、知事松井茂氏を官邸に訪うも不在なり。これより更に行くこと半里余にして千種町〈現在愛知県名古屋市千種区〉駅前□□〔欠損〕旅館に休泊す。会場は劇場武田座にして、主催は東華会なり。しかして発起兼尽力者は会長夫馬雅楽吉氏(陸軍中佐)および副会長加藤清隠氏なり。本町は名古屋市の東北部に連なり、その地内に高等商業学校および曹洞宗中学林あり。

 二十六日 穏晴。日に増し春暖相加わる。車行一里半、新道坦然、その間に高等学校、高等工業学校および中学校あり。また、旧東海道をも一過して呼続町〈現在愛知県名古屋市南区・瑞穂区〉曹洞宗長楽寺に至る。境内に稲荷堂あり。午後、同寺にて開演す。発起は町長坂野喜之助氏、助役横江、近藤両氏、および住職久崎機外氏なり。

 二十七日 曇り。宿所長楽寺を発し車行二里半、旧東海道、大道といしのごときを一走して豊明村〈現在愛知県豊明市〉に入る。途中、笠寺観音に詣す。これ尾州四観音の一にして、賽客たゆることなし。その寺は真言宗に属す。四観音とは前述の甚目寺、愛知郡荒子観音、東春井竜泉寺とこの笠寺なり、また、染物の名所なる鳴海、有松をも一過す。熱田より有松までの間には電車の便あり。会場は豊明尋常小学校にして、発起は村教育会長代理細川皆吉氏、校長恒川銅重、土屋儀三郎、土井準平三氏なり。本村には浜島伊三郎氏の発起にて乃木神社を創立せりと聞く。この隣村に天白村あり。伊勢一志郡の村名に同じ。その名を川名より取れる由。当夕は山田旅店に宿す。

 二十八日 雨。朝時雪を交え、田頭ために白し。車行一里、鳴海町〈現在愛知県名古屋市緑区〉に至り、午後、小学校にて開演す。発起かつ尽力者は町長下郷竹三郎氏、教員深谷民蔵氏、同勝川韜氏、有志家山口惣兵衛氏、寺島治三郎氏等とす。宿所は下郷町長の宅にして、室広くかつ美なり。町内に曹洞宗瑞泉寺の大坊あり。また、本町の名物たる絞りの年額は百七十万反を輸出すという。この近傍は桶挟間の古戦場にして、遺跡所々に存す。校庭内にも紀念碑あり。余、所感一首を賦す。

鳴海村頭桶挟間、松邱断続麦田斑、昔年兵馬跡何在、惟見電車忙往還。

(鳴海村のあたりに桶挟間がある。松の丘が断続して麦や田がいりまじっている。昔の戦いの跡はいったいいずこにあるのであろうか。いまやただ電車がいそがしく行き来しているのが見られるのみなのだ。)

 愛知郡役所は熱田にあり。郡長は古橋卓四郎氏、郡視学は石黒栄三郎氏なり。

 三月一日 晴れ。午前八時、電車に駕し、熱田にて換車し、一時間にして知多郡横須賀町〈現在愛知県東海市〉に至る。鳴海より直行すれば三里あり。午前は生徒に対し、夜分は公衆に対して講話をなす。本町には少年少女会あり。毎月開催しきたり、百五十五回を重ぬという。その席においては生徒一同、異口同音に勅語を奉読す。毎月常会は神社と寺院と学校と交代して会場となり、寺院の場合には神官これを主宰し、神社の場合には僧侶これを主宰するなど、その方法すこぶる斬新にして、実に他地方の模範とするに足る。開会発起者は町長久野尊資氏、校長成瀬涓氏および佐治大謙氏、大野徳三郎氏等にして、みな大いに尽力せらる。佐治氏の寺内には幼稚園および子守学校ありと聞く。宿所は高田旅館なり。町内に木綿の工場あり。横須賀の地名が三州にも遠州にもあるは奇なり。

 本日、知多郡に入りてまずその名物を聞けば、冬は風、夏は蚊なりという。本郡は長さ十四、五里、幅二、三里の半島にして、丘陵の起伏あるも、山と名付くべき山もなければ、川と名付くべき川もなきをその特色とす。また、郡内は十五町十一村より成り、町数の村数より多きも全国無類ならん。つぎに、方言につきて知多特殊なるものを聞くに、ああ痛イというべきをアチカといい、途方モナイというところをヘートモナイという由。人の家を訪問するときに、ご免ナハンショウというも方言なり。郡内には川なければ田水はすべて貯水による。晴天続けばたちまち旱魃を感じて雨を呼ぶ。故に県下にては知多の雨ガエルと称する由。横須賀付近に寺本と名付くる部落あり。万歳の産地なり。よって尾州にては三河万歳といわずして、寺本万歳という由。

 二日 晴れ。ただし風強く寒また厳なり。道程三里の間を電車にて大野町〈現在愛知県常滑市〉に移る。その町に入る前に新舞子と名付くる名所あり。旭村に属す。白砂青松相連なり、加うるに伊勢海を隔ててはるかに連山の雪をいただけるを対観するところ、真に対画の趣あり。自然の一大公園というべし。よって一詠を試む。

尾陽舞子亦仙関、車過松青沙白間、映海春光明似画、天辺雪是勢州山。

(尾張の新舞子はまた仙人の住む里への関所かと思われ、車は青々とした松と白い砂のあいだを行く。海は春の光を映して明るいこと画のごとく、はるか天にかかる雪は伊勢の山々である。)

 夏期に至れば浴泳の客雲集すと聞く。旅館には舞子館あり。大野会場は小学校、主催は町教育会、発起は会長石井愛吉氏、理事辻、加藤、早川、水野四氏なり。今より三十年前、当町光明寺にきたり、哲学館拡張の講演をなせしことあり。町民は商工漁より成り、工業としては種油の製造をもって世に知らる。これに次ぐものは木綿織なり。知多半島の木綿の三分の一は本町より出ずという。菓子には一口香と名付くるものあり。これも旧来名物としてかぞえらる。当夕は旅館金谷園に泊す。

 三月三日(日曜) 晴れ。暁寒強く、瓶水氷を結ぶ。電車に駕すること一里半にして常滑町〈現在愛知県常滑市〉に入る。宿所泉屋は三階楼上の遠望大いによし。伊勢の海、志州の山を一握するの慨あり。余は今より二十年前、当地の仏教講習会にきたり、浄土宗西山派正住院において演説をなせしことあり。夜に入りて、小学校にて開会す。聴衆千人以上、満堂立錐の余地なし。町長肥田吉次郎氏、校長中村文三郎氏の発起なり。この日、県庁より町内青年会を表彰せられたる由。本町は戸敷一千七百のうち、その八分どおりは製陶に従事す。すなわち常滑焼これなり。水瓶、土管最も多し。一カ年の産額八十万円という。当地における特殊の方言を聞くに、鳥が舞うを働くといい、人の休むを勇むという由。また、尾州方言のナモにヘを添えて、ナモヘというと聞く。

 四日 穏晴。春暖一時に催す。朝、陶器学校を一覧す。常滑より武豊町〈現在愛知県知多郡武豊町〉まで二里半の間、約一里は海岸に沿って南走し、西浦より左折して高原を横断し、松林桑圃を通過す。会場は小学校、主催は青年団、発起は校長竹内秀雄氏、中川八平氏等、宿所は医師小出重太郎氏の宅なり。その邸宅は海湾を隔てて三州幡豆郡の連山と相対し、夕景ことに佳なりとす。本町の物産は耐火煉瓦とたまり醤油(味噌よりとりたるもの)なり。

 五日 夜来の降雨、暁来晴るる。自動車により二里半を二十分にて一走し、河和町〈現在愛知県知多郡美浜町〉へ入る。途中に富貴村あり、また小須磨あり。対岸の大浜に新須磨あるに対抗せるより起こる。この間に別荘隣比す。雨後春暖のにわかに加わりたるために、鴬声の喈々たるを聴く。河和の会場は全忠寺、発起は町長久松吉之助氏、校長は千賀慶三郎氏なり。宿所岩本弥左衛門氏邸宅は向陽堂と称し、山海の眺望絶佳なれば、晩饗のとき即吟一首を浮かぶ。

遊到知多岬尽辺、海天風色更加妍、松遮夕日波光碧、幡豆山頭返照懸。

(旅ゆきて知多岬の果てにいたれば、海と天と風の景色はいよいよ美しさを増す。松影が夕日をさえぎり、波はみどり色にかがやき、幡豆の山波のいただきに夕ばえがかかっている。)

 当所より内海まで一里半、師崎まで三里と称す。名物としては蕎麦饅頭あり、風味大いによし。この地方は近年、蚕業勃興せりと聞く。知多半島には、新四国と称して弘法大師の八十八カ所あり。春時には巡拝者、陸続として群来すという。

 六日 晴れ。春暖のために野梅香を放ち、鴬声車を送る。行程約三里半の間を、腕車一時間半にて成岩町〈現在愛知県半田市〉に達す。当町は武豊より一里、半田に接続す。この三町を合すれば市制を敷くに足るという。会場は成岩小学校、発起は助役山本貞次郎氏、校長山田熊三郎氏、休憩所は北村橘蔵氏宅なり。晩食後、風をきりて車を駆ること三十余町、成岩町字板山に至り、浄土西山派安養寺において夜会を開く。住職横井是旭氏は哲学館出身なり。主催は甲寅読書会にして、横井氏および岩橋権三郎氏の発起にかかる。哲学館出身中村是隆氏も本町内に住す。

 七日 晴れ。午前、半田町〈現在愛知県半田市〉農学校において講話をなす。校門内に梨樹の隧道あるを見て農校たるを知る。校長野村勝三郎氏は熱心家なる由。その帰路、小学校の成績展覧会を一覧す。作法室と講堂は県下第一に数えらる。当日、校内に台湾および琉球の陳列所あり。岡戸理七氏、数年間蕃界に出入して収集せしものなる由。その熱誠と努力とは察するに余りあり。夜に入り、小学校講堂において公会を開く。聴衆、堂に満つ。発起は町長中野半助氏、校長日比格氏、有志家小栗三郎、中島養吉、小栗平三諸氏なり。当夕、滝利旅館に宿す。半田は造酒家と資産家の多きをもって知らる。本郡郡役所は当地にあり。郡長は内藤兼雄氏、郡視学は今村貞太郎氏なり。

 八日 晴れ。暁寒料峭、田水なお氷を結ぶ。車行約二里、阿久比村〈現在愛知県知多郡阿久比町〉に至る。純農村なり。半田より熱田に通ずる駅道に当たる。会場は字阪部洞雲院、主催は青年団、発起は住職坪井諦堂氏(哲学館出身)、村長土井初太郎氏等とす。開会は午前なり。午後、車行一里半、亀崎町〈現在愛知県半田市〉字乙川小学校に至りて開演す。発起は僧侶石川文竜氏、校長大杉初太郎氏、医師堀田俊造氏等なり。当夜、亀崎十時発に乗り込み、九日午前七時に東京に着す。十日に挙行する京北中学卒業式に臨場するためなり。

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南船北馬集 第十五編

尾張国巡講第二回日誌

 大正七年三月十一日、夜十一時、東京駅を発し、再び尾州巡講の途に上る。

 十二日 晴れ。午前十時、名古屋駅着。これより腕車を雇い行くこと半里余、豊太閤誕生地すなわち中村公園を一覧す。まず加藤清正誕生地をたずぬるに、日蓮宗妙行寺の境内にありて清正公を祭れり。その隣地に豊公神社あり。これ太閤誕生地なりとて、今なおウブユの井、手植えの柊を存す。この二者は太閤山常泉寺の境内にあり。これまた日蓮宗なり。その他紀念館、茶店等あるを見る。この日、風寒きこと厳冬に異ならず。ときに所感一首を賦す。

車上霜風烈透裳、春寒太閤誕生郷、遺蹤今日堪瞻仰、古井老柊猶有光。

(車上に霜をふくんだ風をうけてゆけば、寒気ははげしく衣服をとおし、この春の寒いなか豊太閤が生まれた里を訪れた。豊臣秀吉公の遺跡は今日なお人々にあおぎみられ、うぶゆの井や手植えの柊などはいまに残されている。)

 午前十一時、再び名古屋駅より乗車して批杷島に降車す。これより約一里にして西春日井郡清洲町〈現在愛知県西春日井郡清洲町〉に入る。会場は劇場衆楽座、主催は武田鋹太郎氏(銀行頭取)なり。当夕、同氏の宅に一泊す。本郡郡役所は批杷島町にあり。郡長河野省一郎氏は先年三河地方巡講当時の相識なれば、本日来訪せらる。

 十三日 晴れ。朝食後、緩歩して清洲城趾を訪う。五条川と鉄道線との間に林木の蔚然たるもの、これ城墟なり。その樹間に「右大臣織田信長城跡」と題する碑と、斎藤拙堂撰文の石碑あるのみにて、実に荒涼を極む。そのときまた懐古の一作を試む。

清洲城擁五条川、風入荒墟春凜然、松籟誘来千古夢、碑陰回首憶当年。

(清洲城址は五条川にまもられており、風はこの荒れ果てた城跡に吹きこみ、春とはいえ寒さはきびしい。松に吹く風の音がむかしのことをおもい起こさせ、碑石の陰をみては当時のことを思いみたのであった。)

 これより腕車を用い、批杷島町、名古屋市を経過して東春日井郡守山町〈現在愛知県名古屋市守山区〉に至る。行程四里、その道瀬戸街道なれば、陶器輸送の荷車陸続として相連なる。町内には連隊の兵営あり。会場は小学校にして、本日青年会の開催あり。発起は町長吉田鈴栄氏と校長川島作太郎氏なり。郡視学佐藤文之正氏来会せらる。氏は三河巡講中の旧知なり。当夕、曹洞宗大永寺に宿す。

 十四日 晴れ。春寒料峭、瓶水薄氷を浮かぶ。車行二里半、郡役所所在地たる勝川町を経て小牧町〈現在愛知県小牧市〉に至る。小牧はなにびとも知るごとく家康当時の古戦場にして、町外に蔚然孤立せるもの、これ小牧山なり。余、たまたまこの地にきたる、あに一吟なきを得んや。

桑麦田間駅道長、尾陽三月見氷霜、蔚然小牧山依旧、大正年来古戦場。

(桑と麦畑の間を通る町への道は長く、尾張の三月にはなお氷と霜がみられる。こんもりと茂る小牧山はむかしのままに、大正の御代にこの古戦場に来たのであった。)

 会場は劇場甲子座にして、聴衆満場の盛会を呈す。発起兼尽力者は町長江崎信次郎氏、助役早稍田退輔氏、校長後藤六郎氏および町会議員諸氏なり。当日は丸屋旅館に休泊す。聞くところによるに、小牧町近在に間久野観音あり。乳の出でざるもの、ここに来詣して祈願をなす。男子もこの寺にて祈願をかくれば乳の出ずるに至る。すでにその乳にて子を育てたる実例ありという。また奇怪ならずや。

 十五日 穏晴。四望春天靄然たり。早暁客舎を発し、左に小牧山を見、正面に尾州富士を望みつつ、車行一里半にして篠岡村〈現在愛知県小牧市〉小学校に至る。途中桑園の多きは蚕業の盛んなるを推知するに足る。また村内には丘陵多く、陸上には矮松の点在せるのみなるも、この地下にては石炭に類似せる亜炭を産出す。これを岩木と呼ぶ。すなわち木の化石の意ならん。尾州にては一般に石炭の代わりにこの炭を用う。篠岡小学校において、午前開会す。郡長河合誠氏来会せらる。発起は村長伊藤兵蔵氏、校長宮地鎌吉氏なり。午後、更に車行一里半、丹羽郡羽黒村〈現在愛知県犬山市〉に入る。途中、楽田村を一過す。これ前海軍大臣八代〔六郎〕将軍の出身地と聞く。羽黒会場および宿所は臨済宗興禅寺にして、発起は村長保浦清右衛門氏、校長宮田庸雄氏等なり。黄昏より雨を催しきたる。郡役所より視学原乙三氏来訪あり。氏は三河以来の旧知なり。

 十六日 雨。車行一里にして犬山町〈現在愛知県犬山市〉に入る。午後、劇場真栄座において開演す。発起は町長高田慶次郎氏および岩田大法、樋田謙二両氏なり。当町の名物は犬山焼と忍冬酒とす。その酒は焼酎に味醂を加えたるもののごとし。当夕、浅見旅館に宿す。

 三月十七日(日曜) 晴れ。朝食後、本竜寺の案内にて犬山城を登覧するに、城は丘陵の上にありて、木曾川を脚下に一瞰すべし。山翠水碧、風光明媚、日本ラインの称あり。また、城楼の巍立する所、一段の風致を添う。城内に桜楓多きもまた春秋の遊客を引くに足る。

木曾渓上樹峨々、一帯長流翠影多、遥自犬山城角望、皆称日本来尼河。

(木曾谷のほとりは樹々が高々とそびえ、一帯のとうとうたる流れにはみどりの色彩が多い。はるかに犬山城の一角より望めば、人々がこの川を日本のライン河と称しているのももっともなことである。)

 犬山より車行一里半にして扶桑村〈現在愛知県丹羽郡扶桑町〉に入る。本村は蚕業最も盛んにして、四面桑園あるのみ。途中に名古屋水道の源流溝を一過す。これより七里の間を流れて名古屋市に入る。扶桑の会場は小学校、宿所は浄土宗専修院、発起は村長大薮勝蔵氏等なり。

 十八日 晴れ。車行十余町にして大口村〈現在愛知県丹羽郡大口町〉臨済宗妙徳寺に入り、ここに開演しかつ宿泊す。村長野田正昇氏、助役福富浜吉、酒井金作両氏の発起にかかる。本日は彼岸の初日にして、鴬語囀々、春闌を報ずるもののごとし。

 十九日 温晴。春靄四面をとざす。車行約一里、桑林間を一過して古知野町〈現在愛知県江南市〉に入る。会場は小学校、発起は町長岡野直方氏、校長長谷川昭氏、宿所は松蔭館なり。余は今より二十四年前、哲学館館賓森田徳太郎氏の依頼により、当町報光寺において哲学講義をなせしことあり。同氏はこの地の出身にして、哲学館のために大いに力を尽くされしが、今はすでに隔世の人となられ、ここに相見るを得ざるを遺憾とす。

 二十日 夜来の降雨、暁に至りて晴るる。ただし風強し。車行三里余、郡衙所在地たる布袋町〈現在愛知県江南市、一宮市〉に入る。これまた再遊の地なり。会場は臨済宗松岩寺、発起は町長村瀬準次氏、樹徳会幹事加藤得随氏、校長伊藤鍵次郎氏とす。しかして宿所は竹葉楼旅店なり。郡長国宗鹿太郎氏は出張中にして面会するを得ず。

 三月二十一日(春季皇霊祭) 晴れ。朝寒強く田間に氷を見る。午前、車行半里余、千秋村〈現在愛知県一宮市、江南市〉小学校に至りて開演す。休憩所は養蓮寺なり。住職中村一氏、村長長谷寿三郎氏、慶円寺藤原巍顕氏、校長鈴木竹三郎氏等の発起にかかる。午後、車行半里、岩倉町〈現在愛知県岩倉市〉小学校に移りて開演す。町長山川浩氏の発起にして、町青年会の主催なり。当夜は教員住宅に宿す。

 二十二日 晴れ、ただし風あり。山風寒を送りきたるといえども、地気暖をもって満たさるるより、梅花まさに落ちんとし、桃花すでに蕾を破らんとす。車行約一里、田間の小径をわたりて丹陽村〈現在愛知県一宮市〉に至る。本日は小学校において各宗連合の公道会発会式あり。会長佐々深氏、吏員松本助三郎氏、主として斡旋せらる。哲学館出身石黒万逸郎氏、この村内の学校に奉職すと聞く。午後、車行約一里にして西成村〈現在愛知県一宮市〉に移り、小学校において開演す。助役伊藤竜太郎氏、篤志家鈴木市太郎氏、校長今井太蔵氏、僧侶若林董温氏等十名の発起にかかる。しかして休泊所は本村の素封家谷喜兵衛氏の邸宅なり。鈴木氏は居士にして僧服に似たるものを服し、一切肉食をなさず、一見律僧のごとし。

 二十三日 晴れ。風強くかつ寒し。早暁西成を発し、車行一里余、木曾川に浜せる葉栗郡宮田村〈現在愛知県江南市〉に入る。途中、飛行機の空中をかけるあり、家々みな出でて天を仰ぐ。会場曼陀羅寺は浄土宗西山派六檀林の一にして、郡内第一の巨刹なり。後醍醐天皇の勅願所という。門庭広闊、堂塔儼然として一大本山の構えを有す。岡村弁礼氏その住職たり。本村の開会につきては村長溝口徳太郎氏、草井村長神谷芳太郎氏、大いに尽力あり。また、草井村伊藤東瑞氏、宮田村伊藤義光氏も助力ありて、揮毫所望者すこぶる多し。郡役所は葉栗村にあり。この日、郡長堀江貞二氏に代わり郡書記出席せらる。午後、車行二里、風に逆って走り一宮町に入る。たまたま市日にて雑沓す。これより尾西線に駕して森上駅に降車し、更に車行半里にして中島郡祖父江町〈現在愛知県中島郡祖父江町〉に着す。本郡は苗木の本場にして、あわせて大根の本場なり。いわゆる宮重大根なるものは郡内より出ず。故に停車場の立て札に「名物大根苗木」と表示せるを見る。会場善光寺は信州長野の出張所なるもののごとし。主催は教育部会にして、校長榎元寛太郎氏、森茂樹氏等、諸教育家の発起にかかる。宿所は千勝亭なり。

 三月二十四日(日曜) 温晴。連日のカラ風ようやく収まりて、暖気にわかに加わる。この日、初午なりとて稲荷社に参詣するもの多し。早朝、尾西線に駕し、新一宮駅に降り、これより車行約一里にして今伊勢村〈現在愛知県一宮市、尾西市〉に入り、小学校にて開演す。教育部会長棚端鉞次郎氏、隧村校長神谷蓮次郎氏、粟田末吉氏、村長則武義夫氏等の発起にかかる。午後、自動車により、約一里の間を十分間に疾走して奥町〈現在愛知県一宮市〉に入る。会場および宿所は了泉寺なり。真宗大谷派第六組の主催にかかる。浄流寺住職武鹿照船氏および組合寺院、みな大いに尽力あり。宿所は木曾川堤防を負いて立つ。この地方は機業盛んなりという。

 二十五日 風雨、午後ますますはなはだし。午前中、車行一里半、本郡第一の都会たる一宮町〈現在愛知県一宮市〉に移る。戸数六千、市の資格あり。会場公会堂は建築、庭園ともに佳なり。大雨のために聴衆いたってすくなし。主催は教育会にして、町長森巌氏、助役春日井鎌太郎氏、校長上田米一氏、評議員土川弥太郎氏等十余名、みな尽力せらる。本町の紡績工場は数千の工女を使用す。場長中村重平氏はシナ竹彫刻、豊干禅師の像を恵与せらる。宿所桜寿司は寿司屋にあらずして大旅館なるは奇なり。けだし一宮七不思議の一ならん。

 二十六日 晴れ。尾西線に駕すること三里、平和村〈現在愛知県中島郡平和町〉法立小学校にて午前の講話をなす。教育部会の主催、会長は内藤順次郎氏なり。午後、更に十町を走り、同村字六輪大谷派願応寺に移りて開演す。主催の会名、遊楽会なるはおもしろし。発起者は校長伊藤利得氏ほか八名なり。

 二十七日 曇り。尾西線にて一里半を隔つる萩原町〈現在愛知県一宮市〉に移り、小学校にて開演す。教育部会長日下藤五郎氏、校長森義賢氏の発起なり。当日は本町の市日に当たり、街上人群をなす。この地方はすべて苗木および切り干しを特産とす。当夕の宿所は有志家早川勘次郎氏の宅なり。

 二十八日 晴れ。車行一里半、郡衙所在地たる稲沢町〈現在愛知県稲沢市〉に至り、小学校にて開演す。郡長吉川一太郎氏出席せらる。郡視学吉井好信氏は各所にて相会す。発起は教育部会長安藤復次郎氏、校長桜井含英氏なり。当町は国府宮の裸体祭りをもってその名高し。旧正月十三日をその祭日とす。本郡は県下における山なし郡の一にして、尾濃平坦部の中心を占む。午後六時半の発車にて帰東す。東洋大学卒業式に出席するためなり。

 ここに尾州八郡を巡了したれば、耳目に触れたる諸点を掲げんに、方言につきてはさきにすでに述べしも、その中に漏れたるものは、恐ロシイことをオゾナイといい、ヒックリカエスことをアカラカスという。また、人に社会制裁を加うることを八分にするという。この語は信州南部にても用う。風俗につきては、尾州は天下第一の茶三昧の地たることは前すでに記せり。食事に会席風多く、なににても一品あればただちに膳を出だし、おいおい酒肴を添うる風あるは、茶の流行せる結果なり。しかるに他府県にては全部揃わざれば膳を出ださず。そのために食事を命じても非常に時間を要す。よろしく尾州風を学ぶべし。茶は薄茶と称すれども、実際濃茶なり。尾州人は毎日数回飲用するために、薄くしては舌にこたえざる故ならん。杯の献酬のときに杯洗に杯を浮かべたるまま差し出だすも特色なり。茶碗蒸しを朝でも昼でも晩でも差し出だす風あり。けだし茶碗蒸しは客を優待するときに用うるものならん。故に今回巡講中、優待のあまり各所において毎日二、三回ずつ茶碗蒸しを進められ、まさに蒸し攻めにされんとせり。その中に入るるものは一定せず。各所みな異なるは、やはり特色の一に加うべし。学校の校舎は美濃地と同じく四方より支柱を添うるは、尾濃震災以後、地震の予防なることを知る。概していえば学校の建築に完備せるもの少なく、講堂を有するもの実にまれなり。

しかして寺院には各宗を通じて比較的完備せるものあり。これ尾州人の仏教信仰の厚きを証するに足る。最後に下等の一話を紹介せんに、尾州にては年の暮れに尻餅をつくという。この語は名古屋市より起こる。同市の慣例として各戸の大便を農家に売り渡すに、納金の代用として年末に餅米を納めしむ。家族一人につき餅米何升との約束あり。町家はこの米をつきて新年食用の餅とす。よって尻餅をつくというが、実際は糞餅をつくといわざるべからず。新年早々糞餅を食するは一笑のあたいあり。妄言多罪。

 

     尾張国開会一覧

   郡      町村     会場  席数   聴衆     主催

  海部郡    津島町    寺院   二席  七百人    講話会

  同      同      議事堂  一席  百人     郡教育会および青年団

  同      蟹江町    小学校  二席  五百人    同前

  同      甚目寺村   村役場  二席  三百人    村教育会

  同      美和村    小学校  二席  五百人    村教育会

  同      神守村    寺院   二席  五百人    自彊会

  同      七宝村    小学校  二席  四百五十人  村教育会

  同      十四山村   小学校  二席  四百人    郡教育会および青年団

  同      富田村    小学校  二席  四百五十人  村教育会

  同      南陽村    小学校  二席  六百人    村教育会

  愛知郡    下之一色町  寺院   二席  三百人    修養会

  同      愛知町    寺院   二席  六百人    町教育会および青年会

  同      千種町    劇場   二席  七百人    東華会

  同      呼続町    寺院   二席  二百人    同町

  同      鳴海町    小学校  二席  三百人    町教育会

  同      常磐村    寺院   二席  三百人    村教育会および仏教連合会

  同      豊明村    小学校  二席  三百五十人  村教育会

  知多郡    半田町    農学校  一席  二百人    校長

  同      同      小学校  二席  一千人    町教育会および仏教講話会

  同      横須賀町   小学校  一席  三百人    少年少女会

  同      同      同前   二席  三百五十人  役場、学校、寺院

  同      大野町    小学校  二席  三百人    町教育会

  同      常滑町    小学校  一席  一千百人   町教育会

  同      武豊町    小学校  二席  二百五十人  町青年団

  同      河和町    寺院   二席  四百五十人  町教育会および土曜会

  同      成岩町    小学校  二席  四百人    町教育会

  同      同      寺院   二席  三百人    読書会

  同      亀崎町    小学校  二席  四百人    乙巳会

  同      阿久比村   寺院   二席  五百五十人  青年団

  西春日井郡  清洲町    劇場   二席  五百五十人  有志家

  東春日井郡  守山町    小学校  二席  四百五十人  青年会

  同      小牧町    劇場   二席  千百五十人  町有志

  同      篠岡村    小学校  二席  五百五十人  教育会

  丹羽郡    布袋町    寺院   二席  三百人    同町

  同      犬山町    劇場   二席  六百五十人  町有志

  同      古知野町   小学校  二席  四百人    町教育会

  同      岩倉町    小学校  二席  六百五十人  青年会

  同      羽黒村    寺院   二席  六百人    三村連合

  同      扶桑村    小学校  二席  四百五十人  青年会

  同      大口村    寺院   二席  三百五十人  村役場

  同      千秋村    小学校  二席  四百五十人  役場および寺院

  同      丹陽村    小学校  二席  三百五十人  公道会

  同      西成村    小学校  二席  四百人    村役場

  葉栗郡    宮田村    寺院   一席  二百五十人  二カ村連合

  中島郡    稲沢町    小学校  二席  二百五十人  教育部会

  同      一宮町    公会堂  二席  二百人    郡および町教育会

  同      祖父江町   寺院   二席  九百人    教育部会

  同      奥町     寺院   二席  四百人    真宗寺院組合

  同      萩原町    小学校  二席  七百人    教育部会

  同      今伊勢村   小学校  二席  四百五十人  教育部会

  同      平和村    小学校  二席  三百人    教育部会

  同      同      寺院   二席  二百人    遊楽会

   合計 八郡、四十七町村(二十七町、二十村)、五十二カ所、九十九席、聴衆二万三千八百人

    演題類別

     詔勅修身     五十三席

     妖怪迷信     二十八席

     哲学宗教       八席

     教育         三席

     実業         五席

     雑題         二席

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和歌山県巡講第一回(北部)日誌

 大正七年四月一日。午後七時の急行にて東京を発車し、和歌山県巡講の途に上る。車中にて知人下田義照氏、杉本恵氏と偶然相会す。

 二日 温晴。朝七時、京都着。ときに随行来島好間氏のここにきたりて迎うるあり。ともに同乗して奈良、高田を経、午後一時、和歌山県伊都郡橋本町〈現在和歌山県橋本市〉に着す。これ高野山麓にありて、昔時は登山客のために大いににぎわえり。隣村は学文路村あり。これを経て山上まで五十丁一里にて四里と称す。しかるに鉄道開通以来、その勢力を高野口に奪いとられ、昔日のごとく盛んならず。ただし郡役所および郡立女学校あり。校長重原慶信氏の発起により、女学校にて午後開演す。校舎は新築中なり。宿所橋本館は停車場前にあり。その奥座敷は店口より三十間を隔つるは一特色なり。郡長関屋延之助氏にも郡視学岩本隆美氏にも面会せず。

 四月三日(神武天皇祭) 朝雨のち晴れ。道程一里半の間を汽車により高野口町〈現在和歌山県伊都郡高野口町〉に移り、小学校において午後開演す。校長兼青年会長岩田幸三郎氏の発起なり。小学校は神社と寺院との間に介立す。旅館は駅前に東雲館と葛城館と軒を並べ、互いに大競争をなしおるが、余の一行は葛城館に入宿す。昨今、高野登山最中にして、本年はことに雑沓を極むとのことなり。当所の特産は再織と名付くる織物にして、一年の産額二百万円という。客中所吟、左のごとし。

峡間一道鉄車通、巡礼成群西又東、紀水悠々野山近、霊場深在翠雲中。

(谷あいを行く一本の道に汽車が走り、巡礼の人が群をなして西に東にとゆく。紀ノ川は悠々と山野を流れ、霊場は深くみどりの雲なすなかにあるのである。)

 四日 晴れ。約二里の間を汽車を用い、笠田村〈現在和歌山県伊都郡かつらぎ町〉小学校に至り午後開演す。村長木下甫氏、校長東平四郎氏の発起なり。当所は高野の表口と称し、大門まで五里ありという。村内の十五社の森に幹囲七間の大樟あり。宿所は駅前旅店三景楼なり。楼小なるも、眺望ややよし。

 五日 温晴。汽車にて約二里の間を一走して、那賀郡粉河町〈現在和歌山県那賀郡粉河町〉に移り、小学校において開演す。発起は町長三宅進一郎氏、校長中谷貞助氏、粉河寺内田村貫雄氏等なり。当町の物産は鋳物と酢との二者とす。昔時は渋うちわを出だせりという。昨今は梅花落ち尽くして桃花満開、桜花もまた笑みを含み、柳緑花紅の候に入る。休泊所は本町の有力者恩賀氏の別荘なり。駅畔の丘上にありて、山紫水明の風致を専有す。一絶を賦して壁上にとどむ。

春風四月在南涯、留錫粉河寺畔家、望裏未傾一杯酒、江山使我酔烟霞。

(春の風吹く四月に南の果てに杖をとどめ、粉河寺の近くの家に宿泊する。一望して一杯の酒も傾けぬうちに、河と山の景観は私をけむるかすみに酔わせたのでありました。)

 粉河より紀の国川を隔て、当面に紀州富士あり。本名を竜門山という。その形富士に似たりとてこの異名あるも、すこしも富士に似たる点なし。よって余は「ドウシテモ富士トハ見エヌ竜門山」と詠じたるもおかし。当夜過暖、はじめて蚊声を聞く。本町には県立中学校あり。松扉得悟氏その校長たり。

 六日 暁天少雨、後たちまち晴るる。朝時、粉河寺に参詣す。天台宗なり。停車場より約七町、先年登山せしときに異ならず、境内の山桜満開、賽客雲のごとく集散す。本堂は宏壮異様の建築なり。この寺の創開は宝亀元年にして、今より一千百四十余年前なれども、現今の本堂は享保年中の建築なりという。西国第三番の札所にして、御詠歌は「父母ノ恵ミモ深キ粉川寺、仏ノ誓ヒタノモシノミヤ」と掲げてあり。これより汽車により、一里の間を逆行して名手駅に降り、更に腕車にて走ること半里余、川原村〈現在和歌山県那賀郡粉河町〉小学校にて開演す。村長前田勝之進氏、校長根本梅楠氏の発起なり。野外の春光、菜花のすでに黄を吐くを見る。この地方は温州蜜柑の本場にして、丘山すべて柑林をもって満たさる。宿所は名手駅前の岩辰旅館なり。これを田舎不相応の大旅館とす。宿料は一等一円五十銭、二等一円二十銭、三等一円との掲示あり。

 四月七日(日曜) 雨。名手駅より乗車、粉河を過ぎて打田駅に降車、午前、田中村〈現在和歌山県那賀郡打田町〉小学校に至りて開演す。名手より里程二里を隔つ。発起は校長宇田利一氏、青年会長有本与一郎氏なり。午後、更に一里の間を汽車によりて岩出町〈現在和歌山県那賀郡岩出町〉に移る。郡衙所在地なり。郡長村地信夫氏は出張不在、相会するを得ず。その代わりに郡視学山本喜平氏、各所へ同行せらる。会場は岩出小学校、発起は町長井谷孫三郎氏、校長片山竹之助氏、僧侶北生文深氏、宿所は井谷町長の宅なり。その家、造酒を業とすと聞き、「井谷より湧きし泉を飲む人は、孫子の代まで一家万福」の狂歌をとどむ。

 八日 晴れ。車行半里余、紀ノ国川仮橋を渡り、午前、小倉村〈現在和歌山県和歌山市、那賀郡岩出町〉小学校にて開演す。途上、春光駘蕩、山腰に桃花のもゆるがごときを望む。発起は村長寺田鬼子右衛門氏、校長早川敏氏なり。午後、再び岩出町に帰り、これより更に行くこと一里にして根来村〈現在和歌山県那賀郡岩出町〉に至る。市街より根来山本坊大伝法院まで七、八丁あり。山門よりも本坊まで五、六丁あり。境広く地幽に、樹木森然、堂塔巍立、真に一大霊場たり。ことに目下は桜花満開、観客雲集す。本日の会場および宿坊は伝法院なり。石橋伝澄氏その執事たり。しかして開会発起は村長西堀幸三郎氏、校長小川芳高氏なり。当夕、大阪講中なりとて、婦人連四、五十名本坊に入宿す。深更まで談笑、歌舞の声を聴く。老婦酔余の楽天にして、いわゆる命の洗濯をなせるものならん。この日の所吟、左のごとし。

一渓松樹擁山門、万朶桜花繞浄園、喜我春遊好縁熟、根来寺裏洗塵煩。

(谷の松が山門をいだくようにして、さきみだれる桜花がこのきよらかな園域をめぐっている。喜ばしいことに私のこの春の旅はよい縁にめぐまれ、根来寺のうちに俗塵の汚れを洗い流したのであった。)

 九日 穏晴。春靄天にみなぎり、遠山朦として認め難し。朝時、山内の多宝塔、金堂、不動堂を巡拝す。多宝塔は興教大師当時の遺物、大治五年の建築(七百九十年前)にして、保護建造物なり。塔前に大師手植えの松あり。仙骨竜身、一見八百年前の老樹なるを知るべし。不動堂は信者遠近より来詣し、四時たえずという。これより大門に出ずる間に散らずの桜一株あり。これまた大師手植えと伝えられ、換骨脱胎、実に仙桜なり。境内には桜樹の外に楓樹また多く、秋季も観光者群来すという。根来は粉河へ四里、和歌山市へ四里半、泉州樽井駅まで山越え三里と称す。汽車にては和歌山線岩出駅を最も近しとす。その距離一里余あり。根来を去りて車行約二里、海草郡川永村〈現在和歌山県和歌山市〉に入る。会場小学校は田間にあり。村長山口楠之助氏、校長木村亀之進氏の発起なり。当夕、山口村長の宅に宿す。

 十日 雨。車行一里、紀ノ国川を渡橋して和佐村〈現在和歌山県和歌山市〉に移り、午前、午後にまたがりて開演す。会場および休憩所は報徳寺にして、青年会、軍人会、仏教協同会の主催にかかる。住職長谷川義英氏、大いに尽力あり。村長は久保田甚七氏なり。会場の客席は松巒に対し、風光ややよし。よって一詠す。

紀川隄上暁光清、鴬語相追入梵城、麦圃松巒春雨緑、一軒風月養吟情。

(紀ノ川の堤の上に暁の光が清らかにみち、うぐいすの声を追いかけるように報徳寺に入った。麦畑と松の丘が春雨に洗われていよいよ緑あざやかになり、ここに風月をめで、吟詠の心を養うのである。)

 野外、桑樹のすでに芽を吐きつつあるを見る。午後、更に車行一里半、岡崎村〈現在和歌山県和歌山市〉小学校に至りて開演す。海草郡視学松浦利雄氏きたり会せらる。発起は青年会長岡本健一氏および森政右衛門、井辺一乗両氏なり。当夕、川崎善三郎氏宅に泊す。

 十一日 寒晴。車行半里余、宮村〈現在和歌山県和歌山市〉海草中学校に至りて、午前講話をなす。校長三沢糾氏転任の際なり。当所には官幣大社あり。この隣村宮前村は郡役所所在地にして、郡長は月沢増男氏なり。午後、車行半里余、和歌山市〈現在和歌山県和歌山市〉に入り、市立実科高等女学校に至りて講話をなす。校長は須藤丑彦氏なり。東洋大学文学士佐々木祐定氏、本校にありて教鞭をとらる。市内の開会に関し大いに尽力あり。午後、更に車行半里、中ノ島村〈現在和歌山県和歌山市〉に移り、小学校にて開演す。青年会の主催にかかる。村長は織戸孫之丞氏なり。当夕は県下における真宗大派十七カ寺の一たる入願寺に宿す。本村は和歌山市と相連なる。

 十二日 晴れ。午前、まず商業学校にて講話をなし、つぎに師範学校および付属小学校にて講話をなす。師範校長は三井政善氏、付属主事は宮沢健作氏なり。午後、工業学校にて更に講話をなす。校長は高北良一氏なり。最後に鷺森別院にて開演す。夜に入りて、由良染料工場にても一席の談話をなす。取締役は由良浅次郎氏なり。終わりて旅館有田屋に入宿す。この日は六カ所の講演なり。東洋大学出身橋本義雄氏は県立図書館に奉職す。また、哲学館出身今井豊稚氏は監獄教誨師として当市にあり。

 十三日(旧三月節句) 晴れ。午前、まず高等女学校にて講話をなす。校長は園部倭氏なり。つぎに中学校にて講話をなす。校長は吉村源之助氏なり。午後、市教育会および各宗協同会の依頼に応じ、実科女学校の講堂において開演す。教育会理事海野勤氏、協同会幹事原田延造氏、斡旋の労をとらる。両氏ともに市役所吏員なり。当夕また有田屋に帰宿す。本日午後、知事池松時和氏、内務部長竹井貞次郎氏、学務課長笹井幸一郎氏を訪問したるも、みな不在なり。市長遠藤慎司氏には面会せり。和歌山市へは二十年前二回来遊せしことあるが、今日は非常の盛況を実現するに至る。

 四月十四日(日曜) 温晴。午前、車行一里、海草郡雑賀村〈現在和歌山県和歌山市〉小学校に至りて開演す。主催は各宗協同会、発起は円明寺住職雑賀婉亮氏なり。午後、車行半里、和歌浦町〈現在和歌山県和歌山市〉小学校に移りて開演す。発起は町長高内真賢氏なり。この日、旧三月四日に当たり、海辺遊びの客、老弱男女群集し、旅館も料理店も寸席を余さず。近年新和歌浦開け、旧和歌よりも繁盛すという。その距離半里ばかり、宿所は旧和歌芦部別館なり。余のここに遊ぶは四回目とす。なんぞその因縁の深きや。新和歌の方には旅館望海楼あり。

 十五日 夜来少雨一過して、暁天全く晴るる。浦よ〔り〕の春望大いに佳なり。紀三井寺の桜花すでに落ち尽くして新葉を発生し、鵑花点々、草間に相交わり、一望紫明の世界を現出す。偶然一絶を得たり。

芦部楼頭暁望清、煙汀水満覚潮生、紀三井寺真如画、新葉残花春紫明。

(旧和歌芦部別館のあたり、夜明けのさわやかさがひろがり、けぶる波うちぎわに潮が満ちている。紀三井寺はまことに画のようなおもむきで、新しい木の葉に名残のつつじの花と、春はまさに山紫水明の世界を作り上げている。)

 和歌浦より一里半の間、電車にて黒江町〈現在和歌山県海南市〉に至る。和歌山より三里、電車の終点なり。会場は劇場朝日座にして、発起は町長渡辺和雄氏、校長多田高吉氏、漆器学校長岡田喜太郎氏等とす。宿所浄国寺は黒江御坊と称す。丘上に立つ。街路より登ること約一町、その書院に座して海湾を望むを得。住職荻野孝雄氏は哲学館大学出身なり。今回の開会に関し大いに尽力あり。本町は漆器の産地にして、全町挙げてこれに従事す。その産額一年百万円と称せらる。漆器陳列所あり。余は木下重蔵氏の商店にて日用の膳碗を購入す。

 十六日 快晴。車行約一里、亀川村〈現在和歌山県海南市〉小学校にて午前開演す。主催は各宗協同会にして、村長桑原林之助氏の発起にかかる。本村は資産家多きをもって名あり。午後、車をめぐらして日方町〈現在和歌山県海南市〉に移る。黒江と市街全く相連なる。会場小学校は県下第一の建築と称す。本県に入りて、はじめてかかる整備せる校舎を見る。講堂また大にしてかつ美なり。昨日来、郡書記鋤初靖夫氏出張あり。宿所永正寺は浄土宗なるが、これまた壮大にしてかつ清麗、各宗寺院中まれに見るところとす。庭前には天然の断巌に老樹の茂生せるあるも一奇観なり。主催兼発起は町長青木英一氏、校長辻巍氏、住職辻恭全氏、神職塩崎主税氏とす。昨今咽喉カタルにかかり、医師笠松喜一郎氏の診察を受く。

 十七日 晴れ。暖気大いに加わる。道程約三里の間、軽便に駕し、野上駅より更に腕車に転じ、行くこと二里、再び那賀郡に入り、東貴志村〈現在和歌山県那賀郡貴志川町〉小学校にて開演す。村長中西馬之助氏、校長保田定一氏の発起なり。野外の春色麦緑菜黄、実に染むるがごとし。那賀郡役所より郡書記出張あり。宿所は旅店菊屋なり。宿泊料一等一円二十銭、二等九十銭、三等六十銭と掲示せり。

 十八日 暖晴。車をめぐらすこと一里半、東野上村〈現在和歌山県海草郡野上町〉小学校にて開演す。村長西里亀樟氏、校長小林順治氏の発起なり。この地は山間の小都会にして、警察分署、裁判出張所あり。村外、桑園多きは養蚕地たるを知るべし。宿所は油屋旅館なり。

 十九日 快晴。早朝、渓流をさかのぼること一里半、下神野村〈現在和歌山県海草郡美里町〉小学校にて開演し、松葉旅館にて休憩す。村長新谷大次郎氏、校長中谷宇吉氏、有志池田広吉氏の発起にかかる。この地は高山幽谷の間にあるも、また山中の市場なり。昔時は高野街道の表口と称し、登山客の通路となれりという。高野山上より流下せる水はこの渓間を流域とす。聞くところによるに、高野山は不浄を嫌うとて、人体の廃泄物はすべて谷川に流し込むに、その水はこの渓間両岸の飲用水となる。浄穢不二、穢即浄というべし。この地方は棕櫚の産地にして、これを運出する荷車絡繹としてたえず。また、毎戸棕櫚縄を造るを副業とす。下神野より高野山へ十里、竜神温泉へ十二里という。午後、下行して再び東野上に至り、これより更に行くこと一里、南野上村〈現在和歌山県海南市〉小学校に至りて開演す。村長中山信之助氏、校長稲田正太郎氏の発起にかかる。宿所は会場を去る約半里の中野上村田中旅店なり。この地には県社八幡宮あり。

 二十日 晴れ。道程一里半の間を電車にて一走し、再び海草郡に入り、巽村〈現在和歌山県海南市〉小学校にて開演す。慶証寺、称名寺、妙福寺、西光寺等の発起なり。当夕は有志家山本勝之助宅に宿す。その三層楼上は朝夕の眺望すこぶるよし。棕櫚縄製造を本業とせらる。当夜、宿所において青年会のために更に一席の講話をなす。妙福寺住職三輪諦忍氏は西山派にして、哲学館専修科出身なれば、当地の開会に尽力あり。

 四月二十一日(日曜) 晴れ。暖気日に相加わる。午前、電車一里を走り、大野村〈現在和歌山県海南市〉小学校に至りて開演す。村長三上保太郎氏、校長中井孝之氏の発起にかかる。しかして休憩所は有志家富永織楠氏の宅なり。午後、車行十丁にして内海村〈現在和歌山県海南市〉に入る。休泊所にあてられたる浄土寺は、浄土宗にあらずして時宗なり。その堂内に地蔵尊を安置す。これを日限〔ひぎり〕地蔵と呼ぶ。日限を切りて祈願をなすによる。石階数十級の台上にありて、山海の風光えがくがごとし。平日、遠近より賽客雲集す。ことにその庭内には桜樹並立せるをもって、桜花の節は一層雑沓を極むという。大縁日は旧暦三月二十四日なる由。余は一作を賦して柱上にとどむ。

桜雲台上有僧門、山媚水明朝又昏、賽客登壇先唱起、南無日限地蔵尊。

(桜雲台の上に僧門があり、山水ともに美しく朝な夕なにくりひろげられる。参拝の人々は壇にのぼって、まず唱えるのは南無日限地蔵尊である。)

 夜に入りて、小学校講堂にて開演す。校舎全部新築まさに成る。発起は村長川村政雄氏、校長根来仁三郎氏、宿寺住職根来了澄氏、如来寺(浄土宗)住職千葉台雲氏等なり。当地に画工青木梅岳氏寓居をなす。本村は黒江、日方両町とほとんど接続せるをもって、この三町村を合して市制を敷くべしとの説あり。

 二十二日 晴れ。風あれどもかえって暖なり。はじめて蝉声を聞く。車行二里余、海岸を迂回する間に山水媚明、車をとめて吟賞せんと欲するところあり。更に田頭には緑麦のすでに穂をぬきんずるを見、山畔には柑林一面に青きを望む。会場は加茂村〈現在和歌山県海草郡下津町〉小学校、主催は各宗協同会、休泊所は字小松原往生院なり。しかして発起者は加茂村長岡本芳輔氏、塩沢村長橋本光三郎氏、宿寺住職小山善績氏、極楽寺主中山恵教氏、福蔵院主野口貫孝氏なり。黄昏より降雨となり、夜に至りて風雨はげしく、暖気大いに加わり、蚊声の耳朶に触るるあり。この渓間は総じて加茂谷と称す。柑橘の産地なり。満山の柑樹一目幾万株なるを知らず、ほとんど山頂まで柑林をもって覆わるるほどなり。村内に温州蜜柑元祖の碑ある由。加茂村の隣に仁義村あり。これ美名なり。昔時の庄名にしてこれをニンギとよむ。

 二十三日 晴れ。車行一里にして大崎村〈現在和歌山県海草郡下津町〉小学校に至り、午前開演す。更に車行一里弱、浜中村〈現在和歌山県海草郡下津町〉小学校にて、午後開演す。その校舎は海岸に浜し、波上はるかに淡州の山を望む。本日の発起は前日に同じ。浜中村は郡内第一の難治村にして、村会の議論の囂々たるは国会以上との評あり。毎度傍聴満場。宿所森亀旅館の下女らの話に、芝居、相撲を見物するよりもおもしろしという。あに驚かざるをえんや。本郡は県下において最も開会地多きにもかかわらず、郡役所より書記を各会場に遣わし、いちいち便宜を与えられたるを謝す。

 ここに和歌山県北部一市三郡を巡了したれば、その間に見聞せる事項を記せんに、まず方言につきては、

藁塚をスズキ、ヒキガエルをゴトヒキ、オタマジャクシをガエルコ、氷柱をツラレ、虎杖〔いたどり〕をアナポ、マムシ蛇をハビ、アグラをオタグラ、茶釜をカンス、漬け物の香々をコンコ、尻をオエド、身体(カラダ)をカダラまたはカララという。できないことをデキヤンまたはデヤン、ご免くださいというべきをゴイサリマセ、茶を出だすことを茶をコス、恐ろしいことをオトロシイ、縁起の悪いをゲンワリ、大キイをガイナ。

 紀州語にはアルとオルとの相違あり。例えば、ここに人があります、タバコ盆がおりますという。ある人が紀州にて道を尋ねしに、このさきに道がオリマスと答えりとぞ。意味を強める場合に滅法界の語を多く用う。下等の者が人に向かいてオマエというところをオンシャという由。オヌシのなまりならん。紀州方言中の最も有名なるは、語尾にノシを添うる一事なり。ソーダノシ、コーダノシという。尾州のナモシに当たる。

 風俗に関して一言すれば、結婚の翌日に懇意のものを招きて酒をのませるをヨメナレという。すなわちヨメを紹介して懇意に慣らすの意なる由。その後に手伝いせしものの慰労に酒を出だすをホネサバキという。肴の残物をサバクの意なる由。あるいは楽作〔ラクサク〕ともいう。学校の建築、設備の完備せるもの少なきは、政争のはげしき結果なりと聞く。宗教方面を見るに、これまたあまり振るわざるように見ゆ。ただし近年は各宗協同会が各町村において社会に活動する端を開きたるは、大いに賀すべき一事とす。更に付記すべきは、県下において昨今、犬の先引きの大いに流行することなり。これを他県に比するに、やや時候おくれの感あり。

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南船北馬集 第十五編

和歌山県巡講第二回(南部)日誌

 大正七年四月二十四日。朝、海草郡浜中村を発し、車行一里半、坂路を上下して有田郡箕島町〈現在和歌山県有田市〉に入る。余の紀州南部巡遊は二十年目なり。山川には異同なきも、人には代謝の変あり。箕島の会場は小学校、主催は町長米富与三郎氏にして、実業学校長勝丸一視氏、小学校長音無新太郎氏等の助力あり。宿所すし忠は尾州一宮のごとく、すし屋にあらずして旅館なり。その楼は有田川の清流を枕として、眺望すこぶるよし。郡視学梶原政雄氏、ここにきたりて迎えらる。この有田川両岸は「アレハ紀ノ国蜜柑船」の本場にして、一カ年にこの川を下す蜜柑箱は五百万個との算定なり。もしこれを内地の戸数に配合すれば、二戸につき一箱ずつの割合となる。

 二十五日 晴れ。車行一里、長堤を一走して宮原村〈現在和歌山県有田市〉に至る。水は碧、山もまた碧、実に仙郷の趣あり。車上吟一首を録す。

車破有田川上嵐、両崖山色緑於藍、幾回挙首望前後、一目万株都是柑。

(車は有田川のほとりの山もやを破って行けば、、両岸の崖の山色は藍色よりも緑である。いくたびかみまわし、前後をはるかに望めば、みわたすかぎり幾万かの株はすべてみかんなのである。)

 両岸の丘上に石垣にて階段を作り、山麓より絶頂に及ぶ。壇々みな柑樹並列す。真に満山の柑林なり。また、田間には除虫菊を栽培することおびただし。その圃は麦田よりも多し。本郡は蜜柑のみならず除虫菊の本場なり。会場は宮原小学校、発起は村長三木新四郎氏、校長岩崎勝氏等とす。午後、車をめぐらすこと約半里、仮橋を渡りて保田村〈現在和歌山県有田市〉称名寺(浄土宗)に至り、青年団のために講話をなす。住職良山秀山氏は先遊当時の旧知なるをもって、今回も大いに尽力あり。村長島津半氏および校長西山豊吉氏も発起の中心に立たる。

 二十六日 雨。午前、宿所称名寺において三協会のために講話をなす。本村は県下唯一の模範だけありて、神官、僧侶、教員、相結んで一会を設置せらる。すなわち三協会なり。午後、同所において婦人会のために講話をなす。会長は江尻一枝氏なり。

 二十七日 晴れ。午前、車行三里余、糸我村〈現在和歌山県有田市〉得生寺に至りて開演す。発起は村長照島正信氏、校長川口恵水氏、僧侶東山賢良氏等なり。得生寺は雲雀山と称し、浄土宗西山派に属す。中将姫が継母のそしりに遇い、ここに謫居せし旧跡なり。午後、車行一里にして藤並村〈現在和歌山県有田郡吉備町〉吉備実業学校に至り、教育部会の依頼に応じて講演をなす。部会長小坂昇之助氏、実業校長明渡喜十郎氏、藤並校長武内一郎氏等の発起にかかる。本日この地に至る途上、有田公園を一覧す。有田川岸の丘上にあり。今より三百三十年前、肥後国八代より柑種を持ち帰り、有田蜜柑の開祖となりし伊藤孫右衛門翁の碑あり。風光の秀霊なる郡内第一と称す。余、偶成一首あり。

長隄一道客車奔、満目柑林是富源、邱上登臨堪喟歎、碑光今日照千村。

(車を走らせて長い堤の道を行けば、みわたすかぎりみかんの林であって、これこそ富の源である。丘の上にのぼって嘆息す。碑の伊藤翁の遺徳は、こんにち、幾千の村をうるおしているのである。)

 有田川両岸を一望するに、民家に一棟の茅屋なく、すべて瓦屋白壁なれば、いかに民のかまどのにぎわえるを知るべし。概して紀州には茅屋少なくして瓦屋多し。藤並の隣村御霊村には明恵上人の誕生地ある由。東洋大学出身菅原得水氏は対岸の田殿村より来訪あり。藤並より本郡の首府たる湯浅町まで延長二里の軽便鉄道あり。黒江より勝浦に至るまで五十余里の間にただこの鉄道あるのみ。よってこれを鉄道の標本と称す。山間の小学児童を伴いきたりて、鉄道の一端を示すに便なりという。夕刻これに駕して湯浅町〈現在和歌山県有田郡湯浅町〉に入り、古碧楼すなわち広屋に宿す。先年の宿所なり。

 四月二十八日(日曜) 晴れ。午前、郡役所議事堂にて開演す。町長平木秀雄氏、校長佐々木信章氏の発起にかかる。この日、郡長柳瀬謹三氏に面会す。午後、男子小学校において、児童のために更に一席の講話をなす。当町の妻木僧暢氏は先年の知友なり、

 二十九日 晴れ。早朝、広村〈現在和歌山県有田郡広川町〉耐久小学校において講話をなす。湯浅より十丁以内なり。哲学館大学出身近藤寿治氏その校長たり。当村は資産家多く、醤油の製造元なり。世に湯浅醤油として知らる。これより車行一里にして山麓に至り、草鞋をうがちて徒歩す。その嶺を由良坂という。上下一里の間、眺望の絶佳なるあり。また、躑躅花の草間に点在するも詩味あり。道険にして車馬ともに通ぜず。嶺を下りて更に一里の間徒歩を続けて、日高郡由良村〈現在和歌山県日高郡由良町〉臨済宗鷲峰山興国寺に着す。山門に関南第一禅林と標榜せるを見る。堂塔は純然たるシナ風の建築にして、境内は山に踞し林を擁し、緑葉の森々たる、紅花の点々たるあり。これに加うるに清泉涓々たるありて、実に禅味掬するに堪えたる霊界なり。書院にありて午眠中、一絶胸中より噴出す。

南遊初見日高山、林壑春過紅緑斑、留錫枕肱興国寺、新蝉声裏午眠閑。

(南のかたに客となり、初めて日高の山をみる。林も谷も春のすぎたあと花の紅と緑とがいり交じっている。杖をとどめて興国寺にひじを枕によこたわれば、新たな蝉の声のきこえるなかで、ひるねの静けさを得ているのである。)

 当寺は法灯国師開基の古禅刹にして、本山の資格あるも専任住職なし。午後開演。夜に入りて車行更に半里、字横浜光専寺に移り、夜会を開く。宿所は旅館中屋なり。掲示には宿泊料一等一円、二等八十銭、三等六十銭、酒一本十五銭とあり。発起は村長楠山芳松氏、校長前田周助氏なり。郡役所より視学木村克彰氏ここに出張せらる。

 三十日 曇り。風ありてときどき雨を吹ききたる。由良より犬の先引きにて一嶺を越え、湯川村〈現在和歌山県御坊市〉字小松原浄土宗九品寺に至る。これまたこの地方の大寺なり。現今の住職は谷性順氏とす。先遊の際も当寺に宿泊せり。本郡セメント会社長楠本武俊氏は海外にて相識となりしが、本日宿寺へ来訪せらる。午後開演。主催は藤田村牧野万之助氏(兄)、同安之助氏(弟)両人なり。万之助氏は湯浅町まで出でて迎えられ、安之助氏は郡内開会につき各町村へ照会の労をとられたり。黄昏より雨天となる。

 五月一日 晴れ。菜花すでに尽き、麦穂ことごとく秀で、満目蒼々たり。昼食後、車行半里にして矢村天音山道成寺に詣す。安珍、清姫の遺跡をもってその名高し。天台宗にして、堀口観海氏住職たり。本尊千手観音、その他多数の国宝あり。山門も保護建造物なり。安珍の塚は境内、清姫の墓は田間、両人の木像は堂内にあり。当寺は創立以来千二百二十一年を経、安珍は九百九十一年前なりという。実に郡内第一の古梵刹なり。境内掃除行き渡り、四隅塵影をとどめず。拙作一首あり。

道成寺在茂林中、登入山門万慮空、安珍清姫跡何在、松風柏月護蓮宮。

(道成寺は茂る林のなかにある。のぼって山門に入れば、すべての心にかかることは空虚なものとなる。安珍、清姫の遺跡はどこにあるのであろう。松の風と柏の月が蓮宮を護っているのである。)

 これより五、六丁、藤田村〈現在和歌山県御坊市〉小学校に至りて開演す。青年会長玉木光一氏の主催なり。更に行くこと七、八丁、牧野氏宅に至りてこれに宿す。その家は農を本業とし、父子ともに農事改良に力を尽くさる。父の名は与市という。一家団欒、兄弟和合、世の模範となすに足る。牧野安之助氏、孝子堂を設立する挙あるを聞きて一詩を賦呈す。

風清月白日高郷、創設古今孝子堂、堪喜紀山深遠地、永教公衆仰余光。

(風は清らかに月は白くかがやく日高の里である。古今をまとめて孝子堂が創設されようとしている。この紀州の山深い地に、永く公衆に教えを垂れ、その仰ぐべき影響を喜ばしく思う。)

 また、同氏の熱心を称揚して一絶を作る。

信仏最深事父醇、一家和気暖於春、満身只有至誠動、君亦紀陽一偉人。

(仏に帰依すること極めて深く、父につかえるにまことにてあつい。一家の和同のあたたかさは春にもまさる。全身、ただ至誠をもってつとめるのみであり、こうした君もまた紀州の一偉人である。)

 この辺りは郡内第一の平坦部にして、約二里四方の米田あり。

 二日 快晴。車行約一里、御坊町〈現在和歌山県御坊市〉真宗本派別院に至りて、午後開演す。聴衆満堂。町長白井藤樹氏、校長玉置蔵太郎氏等の発起にかかる。別院内には幼稚園あり。また、その境内に太鼓楼と老銀杏とあるは曾遊を追懐せしむ。晩食は保田屋旅館、宿所は別院なり。当町には郡役所あり。郡長は伊藤信平氏なり。また、本町には紡績工場あり。

 三日 快晴。車行三里半、海岸に沿いて走り、印南町〈現在和歌山県日高郡印南町〉に至り、浄土宗印定寺において開演す。郡書記同行せらる。発起は町長森徳太郎氏、校長井上浅吉氏なり。本町は海に面して汽船の出入あり。この地方は暖地にして、蘇鉄のすこぶる大なるもの多し。神社仏閣の庭内には必ずこれを見る。本郡には蜜柑なし。その代わりに金柑を産出す。除虫菊の培養は盛んにして、その畑、麦田と相半ばする勢いなり。昨今は藤花の期節に入り、ところどころにこれを見るもまた旅中の一興なり。

 四日 曇り。海上風波あり。よって舟行を見合わせ、車行に決す。西牟婁郡田辺町〈現在和歌山県田辺市〉まで五里の中間に南部町あり。曾遊の地なり。この地方には床の間の置き物用、自然に山水形をなせる古屋石を産出す。午前中に田辺中学校に至り、校長寺尾支鹿氏の依頼に応じて講話をなす。同校は田辺湾絶勝の地にあり。先年この校にきたりし際、佐渡河原田中学校と雲州松江中学校とともに中学の三大勝と称すべしと論じたることあり。午後、高等女学校において講話をなす。校長脇村民次郎氏の主催なり。当所五明楼は扇ケ浜に面し、湾内の風光を一握するの大観を有す。宿料の掲示を見るに五等に分かち、一等二円五十銭ないし五等一円とあり。海浜にそい古松の並列せるは、須磨、舞子以上なり。午後、風強く雨を帯びきたり、夜に入りてことにはなはだし。一吟あり、左のごとし。

車入牟婁第一関、扇浜開処認仙寰、客窓終夜聞風雨、松籟涛声喧却閑。

(車は牟婁郡の最初の地に入る。扇ヶ浜に面し開けたところは、仙人の住まいするところと思われた。旅荘の窓べに夜を通じて風雨の声がきこえ、松風の音と波の音のかまびすしさはかえってしずけさを思わせた。)

 この海浜の港村に闘鶏と名付くる神社あり。昔時、熊野の別当これに住し、源平の時代にいずれにくみすべきやに惑い、鶏を闘わして去就を決せしよりその名起こるとの伝説なり。また、弁慶はその別当の子にして、この地に生まれたりと伝う。

 五月五日(日曜) 晴れ。田辺をへだつること陸路五里、海路三里の所に湯崎温泉あり。田辺湾を隔てて延長せる岬端の外面に当たり、京阪の客多くこれに入浴す。旅館としては有田屋、酒井屋を第一とし、その他十二、三戸ありという。風景としては五景七奇ありと聞く。田辺より朝夕、発動機の往復あり。更に温泉として紹介すべきは竜神なり。その地日高郡内にあれども、田辺より路順最もよしという。大和の十津川に接近せる地なれば、田辺よりも御坊よりも岩出よりも黒江よりも十六里ありという。ただし田辺よりは実際十二里ぐらいなる由。聞くところによるに、深山幽谷の間にありて、幽邃きわまりなし、実に仙境にしてかつ霊泉なりとの説なり。旅館は戎屋を第一とす。これに次ぎて上御殿、下御殿、加治屋ありという。本日は昼間、招魂祭および小学校連合運動会あるために、夜に入りて公会を開く。会場は郡会議事堂にして、発起は郡長松田巳之吉氏、町長武田円吉氏等なり。本町の素封家岡本庄太郎氏、本郡県会議員久村盛助氏は先遊当時の相識にして、ともに来訪あり。また、旧知堀政吉氏も奔走あり。郡視学は奥村信一氏なり。

 六日 穏晴。車行約一里、下秋津村〈現在和歌山県田辺市〉臨済宗宝満寺に至りて休泊す。寺は丘山の上にありて、書院より田辺市街および海湾を一瞰するを得る勝地を占む。この日、湾水鏡のごとし。開会は養蚕期に入りたれば夜間に講演をなす。村長目良小蔵氏の発起にかかる。隣村上秋津は金柑の本場なりという。

 七日 晴れ。車行一里半、渓流に沿いて渓間に入る。途中、昨秋洪水氾濫の跡を見る。三栖村〈現在和歌山県田辺市〉は村長富家勘七氏、校長広畑庄太郎氏の主催、小学校において夜会を開く。昼間は養蚕および苗代のために繁忙なるによる。夕刻より雷雨きたり、夜に入りてなおやまず。聴衆ためにすくなし。宿所は那須善吉氏の楼上なり。蛙声枕頭に聞こゆ。この隣村栗栖〔川〕村字真砂は清姫の出生地にして、その血族はすべて庄司姓を有す。今なお美人を出だすという。本村の尋声寺は山腹にある曹洞宗にして、その寺内に妖怪室ありと聞く。これより山間に入れば炭の産地あり。三貫目を一俵とすと聞く。

 八日 快晴。夜来の雷雨収まり、暁天晴朗となる。徒歩約二里、岡阪隧道を過ぎ、富田川を渡りて市ノ瀬村〈現在和歌山県西牟婁郡上富田町〉大雄山興禅寺に至る。臨済宗なり。途上一望するに、渓山の残紅ようやく尽きて、積翠雨後一段新たなるに当たり、往々桐花と藤花との紫を帯ぶるを見るは、大いに詩趣を催さしむ。午後開会。発起は村長三栖富蔵氏、助役三栖弥七氏、校長池田俊隆氏および隣村村長なり。会場興禅寺は山腹にありて民家を隔つ。蝉語泉声、全く別天地の感あり。よって一吟す。

富田川上一渓深、積翠横天熊野岑、歩入禅房聴衆坐、修成色即是空心。

(富田川のほとりに一渓谷が深くきれこみ、かさなる緑の空に熊野の峰がよこたわる。興禅寺の僧房にあゆみ入れば聴衆は座をしめて、すでに色即是空の心を修めているのである。)

 当夕これに宿す。住職の名、★(麥+來)〔こむぎ〕恵舜氏という。奇姓なり。俗説には、興禅寺は昔時、大徳の禅師を輩出せしめたる名刹なりしが、今より五代前の住職友山和尚が庫裏を新築し、その棟をして本堂よりも高からしめしより、名僧の出でざるに至れり、これ仏罰なりというはおもしろし。今なおその大庫裏あり。余は二十年前、本村より犬猿も攀じ難き峻嶺を上下して川添村に至りしを記憶す。近年はすでに山路を改修せりと聞く。

 九日 晴れ。富田川の堤上を下行すること一里余、朝来村〈現在和歌山県西牟婁郡上富田町〉臨済宗円鏡寺に至る。これまた巍然たる大堂なり。庫裏の新築まさに成る。客席は台上にありて眺望またよし。郡内には臨済宗の巨刹多し。午後開演。村長宮本啓三郎氏、助役木村小四郎氏、その他役場員、みな尽力あり。隣村岩田村に組合立実業学校あり。根来喜一氏その校長たり。住職(姓名失念)氏は詩を楽しみ、村長宮本氏は俳句をたしなみ、本郡内にては郡役所より各所へ書記を出張せしめて注意を与えられたり。昔時、田辺は熊野の入口と称し、これより本宮に至る道路に中辺地と大辺地の二条あり。一は山路にして十八里、二は海岸線にして三十六里と称す。郡内の山奥に豊原村あり。急坂を越えて出入す。これを辞職峠というは近年の名称にして、昔時に金〔きん〕カツギといいし由。その意は、前に立ちたる人の金玉を後に登る人がカツグというより起これり。防州錦川の上流にある金チヂミ坂と好一対なり。四国にて土佐より伊予へ出ずる峻嶺に竪包丁の難所あり。士族がこれを登るに刀が前へつかえて歩するを得ざれば、その刀を腹部に竪に差したりというも好一対の話なり。

 十日 夜来の風雨、暁来ようやく劇甚となる。汽船停船と知りて陸行に決す。車行二里、富田に少憩す。これより脚半と草鞋をつけ、風雨を冒して富田坂を上下す。その里程三里。山上に本県の経営にかかる樟の模範植林あり。安居の小旅店にて昼食を喫し、更に日置川を渡り、勇を鼓して絶壁のごとき安居坂の峻坂を攀じ、下行して周参見村に至る。この里程二里半、合計七里半の里程なり。旅館大黒屋に泊す。大いに疲労を覚ゆ。本日の途上吟、左のごとし。

牟婁一路自崚嶒、登嶺忽降々忽登、熊野三宮問何処、白雲猶隔幾千層。

(牟婁郡の一路はおのずからけわしく、嶺に登ればたちまちにしてくだり、くだればたちまちにしてまた登るのだ。熊野三宮はどこにあるのかと問えば、白雲のいくえにもかさなりへだつところという。)

 この地方は山林をもって名あり。連山森林鬱蒼、その色まゆずみのごとし。空気もまた青きを覚ゆ。本日上下せし富田嶺の、海山を眸中に浮かばしむるところもすこぶる壮快を感ず。往々万緑中に躑躅花の一紅をはさめるもまた雅趣あり。旅館の掲示によるに、一等金一円、二等八十銭、三等七十銭、四等六十銭とあるは安価ならずや。草鞋代は三銭なり。

 十一日 快晴。早朝、周参見を発し、旧時の「四十八坂永井坂マダモアリマス馬コロビ」と唱えし有名の難路にかかる。しかるに今日は海岸に沿いて車道を開通せり。ただ、曾遊当時の困難を回想するのみ。されど県道十里の間に腕車は二台あるのみ。よって徒歩して江住村に向かう。その道は海浜を屈折上下すること数回、ようやく進むに従い、風光対画のごとく眼前にかかり、ときどき笻をとめて吟賞す。なかんずく黒島二嶼の並立せる所、全く蓬莱の模型かを疑わしむ。この二島を地の黒島、沖の黒島と称するはおもしろからず。よって余はこれに命名し、黒字に大の字を冠して大黒島とす。その形もまた大黒に似たり。沖の黒島を大黒とする以上は、地の黒島は恵比寿島と名付くべし。その他にもこの沿岸小嶼あれば、いちいち弁天島、布袋島、福禄島、寿老島と名付け、これを合して七福神島となさざるべからず。余の歌に「福神が斯くも一所に集らば、江住も永く栄えゆくらん」という。この日、行程五里の間、三里半歩行、一里半駕篭を用う。この乗り物は江住の有志者の好意によりて差し出だされしものなり。途上吟一首あり。

岸頭回望海天開、脈々洪涛捲雪来、難認士州山起伏、只看潮岬聳灯台。

(岸べからかえり見れば、海も天も大きくひらけ、たえまなく打ちよせる大きな波は雪をともなってきたる。土佐の山の起伏も見えず、ただ潮岬のそびえたつ灯台が見えるのみである。)

 江住村〈現在和歌山県西牟婁郡すさみ町〉会場は潮音寺、主催は村役場、尽力者は村長城起吾老氏、助役辻恒民氏、収入役浜徳兵衛氏、校長西清吉氏、有志家山田滝三郎氏等なり。宿所藤屋旅館は海望大いによし。千里一碧なれば一碧楼と命名す。

 五月十二日(日曜) 穏晴。昼食後、江住を発し、二人引きにて四十八坂の新道を一過し、途中、昔遊の田並村を経、串本町旅館和田金に入宿す。行程六里。この日、薄暑を覚ゆ。途中、蝉吟鴬語に送迎せらる。麦色すでに黄を帯ぶ。

 十三日 晴雨不定。車行一里にして潮岬村〈現在和歌山県西牟婁郡串本町〉に至る。その地長さ一里、幅半里の半島にして、自然に丘陵をなす。その岬頭の灯台は明治三年の設置にして、本邦最初の灯台なり。本日、倶楽部にて休憩し、小学校にて開演す。村長鈴木喜兵衛氏の主催なり。灯台は会場よりなお十三丁を隔つ。本村は海外労働者の多きをもって名あり。今日なお五百戸余に対し、一戸平均一人強は海外に住す。また、長寿者の多きも特色なり。大字上野の戸数三百八十の中にて、七十以上九十八歳までのもの百六十四人ありという。また、女子の男子より多きもその特色なり。人口二千百人のうち、男九百人、女千二百人あり。村内の常食は甘藷なり。この夕、串本〔町〕〈現在和歌山県西牟婁郡串本町〉に帰宿す。

 十四日 晴れ。午前中に和田金より海運楼に移る。海岸の旅館なり。当夕、修養会、青年会主催の下に、臨済宗無量寺において開演す。住職平今梅渓氏、田島喜之助氏、神田万吉氏等の発起にかかる。演説前、旧知神田佐一郎氏の宅にて少憩す。主人は現今銀行家なれども、その余暇に盆栽と詩作を楽しむ。俗中に雅あるものなり。

 十五日 晴れ。車行二里、西牟婁を去りて東牟婁郡古座町に移る。その中間海峡に沿い、大島を眺めて進行する所に、橋杭の奇勝を一見するを得。すなわち巌骨の橋杭に似たるものが海中に並列し、一直線をなせるものなり。余が先年の熊野紀行に述べしがごとく、もしこれに天の橋立をいただかしむれば、天然の橋梁を完成することを得たるに、天、なんの意ありてこの二者を天涯百里の外に置きたるや、人をしてその意を解するに苦しましむ。これを一望して一首を賦す。

岩身一列海中欹、世俗呼為橋杭奇、熊野由来多勝地、奈何駅路不平夷。

(岩の骨のごとく一列に海中にそばだつ。俗世間の人々はこれを呼んで橋杭の奇勝という。熊野は以前から景勝の地は多いが、なんと町村をつなぐ道の平易でないのはどうしようもないのだ。)

 世に熊野八勝と伝うるものあり。

田辺の扇浜、湯崎の円月島、潮岬の灯台、串本の橋杭岩、古座の一枚岩、那智の瀑布、本宮の十二社、瀞の奇嵓。

 もし細かにかぞうれば百勝ありという。橋杭を一過して東牟婁に入ることとなる。かくして海岸に沿いて進行すれば、古座川に達すべし。その対岸に山と川とに挟まれて、一帯の市街をなせる所、これ古座町〈現在和歌山県東牟婁郡古座町〉なり。郡書記ここにきたりて迎えらる。会場は劇場老松座、主催は古座、高池連合、発起は校長植野民平氏、助役土山甚左衛門氏、その他有志三名なり。宿所今夜楼は曾遊当時の屋号にして、もと紺屋より起こりたる由。余はその楼に題して「今夜とまるなら今夜楼に泊れ、コンヤ★★(原文では、くの字点表記)と待て居る」と書す。楼上に座して湾内の風光を一望するを得。

 十六日 快晴。古座より上流にさかのぼること三里半にして、いわゆる一枚岩の奇勝あり。幅三百間、高さ百間の竪岩なる由。余は遺憾ながら時間なきをもって探見するを得ず。ただ、古座川の岸頭に材木の堆積、山を築けるを見て古座を去り、車行四里半、昔遊の地たる田原下里を経、坂路を上下して太地村〈現在和歌山県東牟婁郡太地町〉に入る。途中、麦すでに熟し、水田に挿秧せるあり。東洋大学出身橋本隆氏に迎えられて水産事務所に一休す。太地は漁業本位にして、一年の漁得二十万円に達す。捕鯨に至りては紀州第一の漁場と称せらる。よって水産事務所を設置せるに、その新築まさに成りて昨今落成式を挙行したるのみ。軒前に海湾を開き、左右に丘山を望み、風光絶佳、壮快極まりなし。ときに即吟一首あり。

山脚為屏鎖海門、一湾潮水静如盆、軒前不止風光美、満目青波是富源。

(山のすそが屏のごとく湾の入口をとざし、湾の潮は静かなること盆水のごとくである。軒の前に広がる風光の美のみならず、見わたすかぎりの青い海は富の源でもある。)

 本日の会場は小学校、発起は村長村上準氏、有志寺本正市氏、塩崎勝夫氏、和田井氏、神前太器彦氏なり。宿所東明寺は臨済宗にして台上にあり。堂前の眺望またよし。当夜過暖、蚊声枕頭を襲いきたる。

 十七日 風雨。海路発動機あるも、風波のために陸路を選び、腕車二人びきにて風雨をつき、坂路を上下すること数回、その中間に湯川温泉あるを見る。直行勝浦町に着すべきところ、更に勇を鼓し、風雨と奮闘しつつ車行二里、那智山に登り、本邦第一の瀑布を一見す。豪雨のために水量を増し、瀑勢一段の雄大を加え、直下八十四丈、李白のいわゆる銀河九天よりおつるがごときにあらず、天破れて大河空際よりおつるかを疑わしむるほどなり。そのときの拙作、左のごとし。

那山瀑布勢何雄、仰見大河懸碧空、落作万雷千震響、歩来崖下耳将聾。

(那智山の瀑布の勢いはなんと雄大なことか。あおぎみれば大河が青い空にかかるように見える。落下しては万雷の振るい響くがごとく、歩を進めて崖下を行けば、水音はまさに耳を聾せんばかりであった。)

一渓風雨望難分、遥隔林泉万籟聞、近見滔々那智瀑、水烟騰作数峰雲。

(渓谷につのる風雨は瀑布の故か否かはわからぬが、はるかに林や水をへだてて万物のひびきが聞こえてくる。近くに行って見れば、それはとうとうと落下する那智の滝であった。水けむりが奔騰して、いくつかの峰にかかる雲となっているのである。)

 これより石径を攀ずること七丁にして、西国一番の札所那智観音を拝詣す。観音台は遠近の海山を一瞰して、風光雄壮なるべきに、雲煙に封鎖せられて吟眸を凝らすことを得ざるは遺憾なり。

那山穿破翠雲繁、欲訪観音第一番、風雨冥濛人不見、独攀岩壁拝慈尊。

(那智山のみどりの雲のごとくかさなるなかを踏破して、西国第一番の札所那智観音を訪ねたいと願った。ところが、風雨で天地ともにくらく人も見えず、ひとり岩壁によじのぼって弥勒菩薩をおがんだのであった。)

 先年登山の際は勝浦より腕車通ぜず、往復とも徒歩によりしが、今回は瀑布の下まで車行するを得たり。これより車をめぐらし、勝浦町〈現在和歌山県東牟婁郡那智勝浦町〉劇場寿座において開演す。大雨に妨げられて聴衆鮮少なり。発起は町長小出伊勢三氏、校長千葉状之助氏、助役小倉耕氏等とす。しかして宿所は渚屋旅館なり。館主鈴木斉一氏は那智案内の労をとられたり。

 十八日 晴れ。勝浦より新宮町〈現在和歌山県新宮市〉まで五里の間は汽車の便あり。午前は高等女学校にて講話をなす。校長は石川弘氏なり。午後、公会堂において開演す。町長遊木保太郎氏、新聞社主幹池田晋氏、助役山根兼蔵氏等の発起にかかる。夜に入りて、再び公会堂において講話をなす。修養会員小野芳彦氏、坪井基太郎氏、井口純二郎氏等の発起なり。公会堂は御大典記念の新築にして、聴衆千二百人をいるるべしという。本日は県社速玉神社を参拝す。晩食は某料理店に招待せられて、有志諸氏とともに座談を交ゆるを得たり。郡長谷口秀峯氏、郡視学久保寅次郎氏、その他十余名の諸氏来会あり。新宮は県下における第二の都会にして市の資格ありという。新聞のごときも四種ある由。先遊の際はこれより熊野川に沿いて上行し本宮、湯之峰、瀞八丁等を巡覧せしも、今回は新宮だけにとどめて帰京することに定む。宿所は宇治長旅館なり。

 五月十九日(日曜) 雨。午前十一時、新宮を発す。谷口郡長よりは着発ともに迎送をかたじけのうせり。郡書記野中友太郎氏、有志総代池田晋氏は勝浦まで送行せらる。新宮駅前の田間に徐福の墓あり。その傍らに七塚の碑あり。これ徐福の従者なりという。所感一首を賦す。

曾聞熊野是蓬莱、徐福遠尋仙薬来、世事堪驚千古変、今看墓畔漲塵埃。

(かつて熊野は神仙のすむ蓬莱であり、徐福が中国より遠く長生の仙薬をもとめてやって来た地であると聞いた。しかし、世の移り変わりは驚くばかりで、あらゆるものが変化し、いまや主従の墓のあたりも塵埃がみなぎるありさまである。)

 新宮より海浜に沿いたる所を七里の浜という。鎌倉の七里ケ浜と同じく、洪涛砂を巻きて浜頭に翻える、やや壮快の感あり。勝浦にては温泉旅館赤島屋に休憩す。湾内を渡りてこれに達すべし。午後五時乗船、鳥羽に向かう。熊野地は江住より新宮に至るまで、特別なる歓迎優待に接したるをここに深謝す。終夜、船中にあり。夜中、三重県南牟婁郡木本町と、北牟婁郡尾鷲町とへ寄港す。ともに昔遊の地なり。海上には多少の風波ありたるも、はなはだしき船動なし。

 二十日 曇り。早朝、志州波切に停船し、午前七時、鳥羽に着岸す。波切も鳥羽も今より約二十年前、志摩巡講の際遊寓せし所なり。鳥羽入津懐旧の一絶を賦す。

帰舟暁入志州津、回想曾遊二十春、風月依然人事改、鉄車載客去来頻。

(帰京の舟は暁に志州の港に入った。思い起こせばかつて二十年前に旅した地である。風月はむかしのままであるが、人にかかわるところは変わり、汽車が客をのせてしきりと往来するのである。)

 港頭の長門館にて朝餐を喫す。三層楼なり。その隣に錦浦楼あり。ともに一休するに足る。それより汽車に駕し、亀山、名古屋を経、二十一日午前五時、東京駅に着す。

 紀州南部の方言、風俗につきて所聞のままを記せんに、

  浅漬けをドブヅケ、カボチャをボーフー、虎杖〔いたどり〕をゴンバともイタズラともいう。

 始終とかたえずとかいうところをイナガラといい、一日というべきをヒテという。夜に入りて人をたずぬるときに、「今晩は」という代わりにオシマイナという。晩食が済んだかの意なる由。また、熊野の方言のホートクナイという語はツライとか、サムシイとか、バカラシイとかいう意に用う(山口県のホートクナイはキタナイの意に当たる)。バン茶をヂャラ茶という。紀州は一般に語尾にノシを添うる風なるが、串本辺りにてはノンシといい、串本と江住との間にてはノインという。ただし古座と大島だけはノシの代わりにニーという。太地辺りもニーという由。風俗としては、椿葉を巻きてタバコを吸うことと、婦人が頭上に物貨を載せて運搬することなり。周参見より以東に至れば、婦人が頭上に物品を載せ、口に椿葉の巻きタバコをはさみつつ歩くを見る。椿葉に刻みタバコを入れてこれを巻き、その一端を口にはさみ、舌の作用にてこれを回転し、手を借りずして口角より唾を吐く、実に自由自在なり。

  熊野名物お存じないか、椿煙草に頭の荷。

 はなはだしきに至りては、婦人が肥料桶を頭上にて運ぶ。男女一般に椿タバコを用うるために、市中には椿葉を売る店あり。三十枚を一束とし、その価一銭なり。迷信につきても種々あり。その一を挙ぐれば、丑の日を不吉としてこれを厭忌するという。火災のときにはヒキウスがなくなること多し。ヒキウスは石臼のことなり。神棚の神様が石臼に乗りて逃げ出だせるものと信ず。子供の謡に「お月様イクツ十三七ツ」というを、紀州にては「アトウサンイクツ十三一ツ」と称す。泉州地方に同じ。子供が物をかぞえるに「チュウチュウタコカイナ」というを、紀州にては「チュウチュウタコカイトー」と唱う。

 つぎに、食事につきても一言せんに、紀州は一般に大和のごとく茶粥を常食とす。有田郡内にては労働者は一日六回の食時あり。朝飯、四ツ茶、昼飯、茶のみ、夕飯、夜食(秋に入りたるとき)。西牟婁郡にては年中を通じて一日四回、朝飯、四ツ茶、八ツ茶、晩飯。朝飯は粥に沢庵漬け、四ツ茶(午前十時)のときは麦飯に味噌汁または野菜煮、一週に一回ぐらい魚類を用う。八ツ茶(二時)と晩飯とは茶粥に香々のみを用う。風呂は五右衛門風呂多く、寺は臨済宗多し。学校の設備は南部の方、北方よりも良きを覚ゆ。終わりに一笑話を掲げん。和歌山県は言語の終わりに必ずノシを添ゆるにつき、紀州人曰く、これ客を優待する厚意を表するものなり、品物のみならず、言語までに熨斗〔のし〕を添ゆる故にと。山水の奇勝多きにつきては、余が先遊紀行中に掲げり。その冒頭に曰く、日光を見ずして人工の美を談ずるなかれ、熊野を見ずして天然の美を説くなかれの一言をもって足れりとす。

 

     和歌山県開会一覧

   市郡    町村    会場    席数   聴衆     主催

  和歌山市        師範学校   一席  五百人    校長

  同           付属小学校  一席  三百人    同前

  同           実科女学校  一席  四百人    校長

  同           工業学校   一席  百五十人   校長

  同           商業学校   一席  四百人    同校

  同           別院     一席  三百人    同院

  同           高等女学校  二席  六百人    校長

  同           中学校    一席  八百人    校長

  同           実科女学校  二席  四百人    市教育会および仏教会

  同           由良工場   一席  二百人    同工場

  伊都郡   橋本町   高等女学校  二席  三百人    同校

  同     高野口町  小学校    二席  二百五十人  青年会

  同     笠田村   小学校    二席  二百五十人  村役場

  那賀郡   岩出町   小学校    二席  二百五十人  青年会

  同     粉河町   小学校    二席  二百人    寺院および教育会

  同     川原村   小学校    二席  二百五十人  青年会

  同     田中村   小学校    二席  二百人    青年会

  同     小倉村   小学校    二席  二百五十人  同村

  同     根来村   寺院     二席  三百人    村長、校長

  同     東貴志村  小学校    二席  二百五十人  村役場

  同     東野上村  小学校    二席  四百五十人  村役場

  同     下神野村  小学校    二席  二百人    教育部会

  同     南野上村  小学校    二席  三百五十人  同村

  海草郡   和歌浦町  小学校    二席  百人     町役場

  同     黒江町   劇場     二席  七百人    青年会

  同     日方町   小学校    二席  三百五十人  町長、校長、神職、住職

  同     川永村   小学校    二席  二百人    同校

  同     和佐村   寺院     二席  三百人    青年会、軍人会、仏教会

  同     岡崎村   小学校    二席  五百人    青年会

  同     宮村    中学校    一席  五百人    同校

  同     中ノ島村  小学校    二席  二百五十人  青年会

  同     雑賀村   小学校    二席  二百五十人  各宗協同会

  同     亀川村   小学校    二席  三百人    各宗協同会

  同     巽村    小学校    二席  三百人    各宗協同会

  同     同     民家     一席  百人     青年会

  同     大野村   小学校    二席  二百人    宏徳会

  同     内海村   小学校    二席  四百五十人  同村

  同     加茂村   小学校    二席  五百人    各宗協同会

  同     大崎村   小学校    二席  四百人    同前

  同     浜中村   小学校    二席  三百五十人  同前

  有田郡   湯浅町   議事堂    二席  二百人    町長

  同     同     小学校    一席  五百人    校長

  同     箕島町   小学校    二席  四百人    町長

  同     宮原村   小学校    二席  三百人    村長

  同     保田村   寺院     二席  六百人    青年会

  同     同     同前     二席  二百人    婦人会

  同     同     同前     二席  百人     三協会

  同     糸我村   寺院     二席  百五十人   同村

  同     藤並村   実業学校   二席  三百人    教育分会

  同     広村    中学校    一席  三百人    同校

  日高郡   御坊町   別院     二席  七百人    町役場

  同     印南町   寺院     二席  二百人    町村連合

  同     由良村   門前寺院   一席  二百人    村長

  同     同     横浜寺院   一席  三百人    同前

  同     湯川村   寺院     二席  四百人    有志

  同     藤田村   小学校    二席  百五十人   青年会

  西牟婁郡  田辺町   中学校    一席  四百人    校長

  同     同     高等女学校  一席  三百人    校長

  同     同     議事堂    二席  五百五十人  郡長

  同     串本町   寺院     二席  四百人    修養会および青年会

  同     下秋津村  寺院     二席  二百人    同村

  同     三栖村   小学校    二席  百五十人   村長、校長

  同     市ノ瀬村  寺院     二席  五百人    村長

  同     朝来村   寺院     二席  四百人    村長

  同     江住村   寺院     二席  五百人    村役場

  同     潮岬村   小学校    二席  三百五十人  村長

  東牟婁郡  新宮町   高等女学校  二席  四百人    校長

  同     同     公会堂    二席  四百五十人  同町

  同     同     同前     二席  八百五十人  修養会

  同     古座町   劇場     二席  七百人    修養会

  同     勝浦町   劇場     二席  二百人    修養会

  同     太地村   小学校    二席  五百人    軍人会および青年会

   合計 一市、七郡、五十三町村(十六町、三十七村)、七十二カ所、百二十八席、聴衆二万五千百五十人

    演題類別

     詔勅修身     五十四席

     妖怪迷信      三十席

     哲学宗教      二十席

     教育         十席

     実業         六席

     雑題         八席

 

 〔次の大正七年五月二十四日から七月三日までの「朝鮮巡講第一回(西鮮および中鮮)日誌」「朝鮮巡講第二回(南鮮および東鮮)日誌」、および七月四日から七月二十一日までの「朝鮮巡講第三回(北鮮)日誌」(第十六編掲載)は割愛した。〕