日本周遊奇談

諸言


本書掲ぐるところの数百項の談片は、  一場の諧誹にして、 酔前茶後の一笑話に過ぎず。 ただ、 余が日本帝国を出陳海隅まで周遊巡了せし記念として、 地方の実況につき親しく見聞せる興味ある事項のみを、 記憶せるままに口述し、 人をしてそのいちいちを筆記せしめたるものなり。 その意、 明治の天地にもなおかくのごとき奇事珍聞あるかを、 世間に示さんとするにほかならず。  ゆえに、 その中には失策談もあり、 滑稽談もあり、  一九的なるもあり    一休的なるもあり、 馬吟もあれば鹿詠もあり、 阿語もあれば房説もあり、 自慢もあればうぬぼれもあり、

要するに八百屋的談片集なり。  わが国今日の読書社会が、 あまり理屈に流れ道理に偏する弊あるに対し、  かかる八百屋談も、 あるいは久渇に一杯の水を得たるがごとき場合なしというべからず。

しかりしこうして、  その談片はもとより実事談にして、 決して自ら小説的に作為し、 故意に誇張せるにあらずといえども、 実際の伝説そのものの針小棒大になりたることなしとせず。 また、 今時の現況にあらずして、 旧夢に属せしこともあるべし。 あるいはまた、 余の記憶および聴取の偶然的誤謬も全くなしというべからず。  ことにかくのごとき伝説は、 とかく極端または異例外の事項を唱道する傾向あれば、  この奇例をもって一般を推定することあたわず。 よって、  読者は多少の取捨を用いて一読あらんことを望む。

今後、 教育の普及と交通の開達とにより、 全国の言語、 風俗、 習慣等の一定すべきは自然の勢いなれば、 かくのごとき笑い話が五十年ないし百年後には、 あるいは世の考古の参照に資することなしとも計り難しとは、 余の空想するところなり。 あるいはまた、 演説、 講話に興味を添うる一談柄となることなしというべからず。

本書は全国周遊の際、  おもしろ味を感じたるもののみを収集せしも、 別に教育、 宗教等に関し、 まじめなる事項も多々あれば、 他日、 別表題の下にさらに編述するつもりなり。 また、 地方の風教に対する学術上の盲評、 卑見のごときも、 他日に譲ることとなす。

余が明治二十三年十一月、 全国周遊の途に就きてより、 さきに哲学館拡張の名義の下に東洋諸学を振興する急務を開説し、 後に修身教会拡張の名義の下に御詔勅の聖旨を普及する方法を演述して、 今ここに明治四十四年ニ月に至る。  その年月は満二十年三カ月間にて、 その開会せし場所は八十四国、  四百五郡、  一千五百四十三市町村に達せり。 左にその総計表を掲ぐ。〔ただし台湾、 樺太、 朝鮮、 遼東(合計三十六市町村)は割愛した。〕

(五畿内)  山城国三、 大和国二十八、 河内国四、 和泉国三、 摂津国五、 合計四十三市町村。

(東海道)  伊賀国五、 伊勢国十六、 志摩国八、 尾張国九、 三河国六、 遠江国七、 駿河国四、 甲斐国十六、 伊豆国二十五、 相模国七、 武蔵国二十一、 安房国六、  上総国二十二、 下総国五、 常陸国十二、 豆南諸島付小笠原島十一、 合計百八十市町村。

(東山道)  近江国七、 美濃国三十四、 飛騨国二十一、 信濃国八十五、  上野国十二、 下野国六、 磐城国七、 岩代国六、 陸前国十二、 陸中国二、 陸奥国九、 羽前国七、 羽後国十七、 合計二百二十五市町村。

北陸道)  若狭国七、 越前国二十八、 加賀国三十五、 能登国四十四、 越中国六十三、 越後国百五、 佐渡国、 合計二百八十五市町村。

(山陰道)  丹波国十、 丹後国三、 但馬国二、 因幡国十八、 伯者国二十二、 出雲国三十四、 石見国三十七、 隠岐国八、 合計百三十四市町村。

(山陽道)  播摩国四十四、 美作国三、 備前国三、 備中国二、 備後国三、 安芸国二、 周防国九、 長門国十七、合計八十三市町村。

(南海道)  紀伊国三十四、淡路国三、阿波国五、讃岐国三十、伊予国六十七、土佐国六、合計百四十五市町村。

(西海道)  筑前国四十二、 筑後国二十七、 豊前国四十三、 豊後国四十一、 肥前国五十九、 肥後国八十八、 日向国三十七、 大隅国十二、 薩摩国二十三、 合計三百七十二市町村。

(西南諸島)  壱岐国六、 対馬国二、 琉球国四、 合計十二市町村。

(北海道)  渡島国四、 後志国十二、 天塩国六、 北見国十、 根室国三、 釧路国三、 十勝国二、 石狩国十五、 日高国四、 胆振国五、 合計六十四市町村。

以上総計八十四国、  一千五百四十三市町村(その郡数四百五郡)。

世に足跡天下にあまねきもの多々あるべしといえども、 舌跡の全国にあまねきもの、 けだしすくなかるべし。余は全国各方面において演説を開会したれば、 足跡のみならず、 舌跡またあまねしと自画自笠するところなり。その間に見聞せし奇談珍聞を集録せるもの、  すなわち本書なり。 しかして、 その談片の西南に関するもの比較的多く、 東北に少なきは、 東北の方は二十年以前に巡回せしをもって、 記憶に存するもの少なく、 西南の方は近年周遊せし故、 いまだ失念せざるによる。 また、 東京近県および東海道筋の事項の少なきは、 東京の言語、 風俗と似同せるところ多ければなり。  これに反して離島の事項の多きは、 風習の大いに異なるところあるによる。

すでに全国を巡了したるも、  いまだ舌跡の各郡各郷にあまねきに至らざれば、 今後余命のあらん限り、 南船北馬、 雲棲露宿の境界を送り、 村々落々の農夫蚕婦、 漁人樵子に大道の一端を知らしめ、 大勢の一角をうかがわしめんとの本望なり。  この素志を達するには、 南洋諸島、 南米諸州の風教視察の必要を感じ、  ここに意を決して遠航に就くこととなせり。 その告別の拙吟三首もあわせ録す。

東去西来知幾年、 壮心一片老途堅、 微衷聯欲レ扶二皇運    遥上南洋万里船。

(東に行き西に行くこと幾年であろうか、  一片のさかんな志をいだき、 老いてますます堅い。 わずかな忠心で少しでも国運の隆盛をたすけようと思い、 はるかに南洋万里に向かう船にのったのである。)

北馬南船送二老涯{  今年又背墨堤花、 死レ山斃函匹何須>厭、 天地元来是我家。

(北では馬、 南では船に乗って老いのきわみをすごし、 今年はまた墨田川の土堤の花を背にして行く。 山に死し海にたおれるともなんのいとうところがあろうか、 天地は元来わが家なのだから。)

老来拗去百家書一 意気揚揚鵬不如、 樺海台山猶覚狭、 垂天翼向二遠洋一舒  ゜

(老いにしたがってもろもろの書を投げすて、 意気揚々として鵬もおよぶまい。 樺太の海、 台湾の山もなお狭さを覚え、 空の果てまでおおう翼をもって遠い海洋に向かっ てゆったりとゆくのである。〔哩」は掲却、「奮闘哲学」は拗郷につくる。〕)

「南半球五万」昨今は右の旅行準備のために忙殺せられ、 緩々本書を校訂するいとまなきは遺憾とするところなり。 ただ、  数百項の談片をしばらく類に従ってその門を分かちたるも、 もとより精細の分類にはあらざるなり。 もしその疎漏誤脱のごときは、 読者請う、  これをゆるせよ。

明治四十四年五月 しるす

 


第一類 天時地理


第一話    太陽の出入り

昔、 越後のものと駿河のものと相会して、 梅花の開く時節を論じたという話がある。 越後人が「汝の国にては梅はいつさくか」とたずねたれば、 駿州人は「十二月中に咲く」と答えた。 そうすると越後人が驚きて、「それはあまりおそい。 われわれの国では四月中に必ず咲く」と申した。  これにひとしき話は、 信州人と八丈島のものと東京の旅店にて相会し、 信州人が申すには「太陽は山より出でて山に入るものである」、 八丈人がいうには

「海より出でて海に入るものである」と、 双方互いに論じ合った。  それを聴きたる旅店の小僧は、 東京市中に生まれて田舎のことを知らぬから、 両人の間へ立ちて、「太陽は山より出入りするにあらず、 また海より上下するものでもない。 毎朝家屋の間より出できたり、 毎夕家屋の間に沈むものである」と申したそうだ。 けだし、 学問上の考説もこれに類したることが多いであろう。



第二話    雪の味

琉球の子供の間に、 雪の味は塩辛いというものと甘いというものと互いに論じたことがある。 同島は幾年たっても雪のふることがないから、 子供は全く雪を知らない。 よって小学校にて教師が生徒に説くに、  一人は「雪は塩のようなるものである」といい、  一人は「砂糖のようじゃ 」という。  ゆえに、  このようなる考え違いが起こるのも無理はない。

 


 

第三話 天より雲がふりくる

 

小笠原島には馬がおらぬ。  近年、 はじめて馬をつれて渡ったものがある。 子供らはこれを見て、「角のない山羊が来た」と申した。  これと同様に琉球人は雪を知らぬから、 はじめて東京に来たり雪の降るのを見て驚き、

「天から雲が降ってきた」と申して、 大いに人に笑われたそうだ。第四話    寒地の酒・醤油、北海道にて客に酒を出ださんとするには、 樽のままこれを入湯さするといい、 満州辺りでは醤油をのこぎりで切り、 寸尺で売るといっても、 内地にては信ずる人がない。  かの地方は極寒のときに醤油も酒もみな凍るから、醤油を売るに升で計ることができぬ。 また、 樽の中より酒を酌み出だすにも、  一度これを湯の中へ入れてあたためなければならぬ。  ゆえに、  その話は決して法螺ではない。

 


第五話 一年中の気候

欧米中多くの国々は一年中、 夏と冬との二季ありて、 春秋の気候がない。  これに反して日本にては春夏秋冬の四季ありというも、 台湾、 沖縄、 小笠原のごときは、 四時紅花緑葉の絶え間なければ、 春夏の二季ありて秋冬がない。 また、 樺太のごときは秋冬ありて春夏がない。 余の樺太に遊びしは八月中なるに、 日中二、 三時間単衣着するも、 朝夕は袷衣を要するほどであった。 樺太雑詠の句に「八月車窓昼猶冷樺南一路已秋風」(八月であるのに車窓は日中でもひややかに、 樺太の南部の道はすでに秋風が吹いている)とよみたるはその訳である。

 


第六話 内地のアラピア

加州〔石川県〕河北郡木津〔現・七塚町〕地方は一帯に砂漠にして、 濯漑水はもちろん、 飲用水も欠乏し、  一村百戸以上に対し、 共同用の井戸一個あるのみである。  この水を運搬するに、 その遠きは一戸につき十銭を要し、一家の運水費、  一年およそ十五円を要するということじゃ。  ゆえに、 毎戸雨水を貯蔵する方法を設け、  一滴の雨もむなしく消失せざるようにする。  これ、 内地のアラビアである。  かくのごとく水に乏しき場所なれば、 火災の節、 水の代わりに砂をもって火を消すというが、 これは新工夫であって、 実際井戸より水をくみあぐるよりも軽便なれば、 他地方にても消火用の砂をたくわえおくがよいと思う。


第七話    地形の影響

同じく四国中にありても、 土州〔高知県〕の山は険しくて角があり、 讃州〔香川県〕の山は穏やかにしてまるくある。  しかして二州の人気のよくこれに類する風あるは、 全く自然に地形が人心を感化する故であろう。 また、 関東より奥羽へかけて土地広闊なるも、 風景に乏しく、 畿内、 中国は地形狭きも、 風景に富んでおる。 東北人の思想はやや粗大にして、 美術のオを欠き、 関西人の注意のむしろ細密にして、 優美の風を帯ぶるは、 やはりこの地形の影響なるに相違ない。 また、 利根両岸に接したる地方の殺伐なる人気は、 冬分にカラ風と称して、 強き風が毎日吹き荒らすためである。  これみな自然より受くる教育である。

 


第八話 雲石二州の相違

雲州〔島根県〕は平地多くして湖水を腹となし、 石州〔島根県〕は山地多くして岩石を骨となす地形なれば、 余は

「石見山衡レ石、 雲州水帯>雲」(石見の国の山は石をふくみ、 出雲の国の水は雲をおびている)と詠じたることがある。 あたかも余が播州〔兵庫県〕明石にありて「明明明石海、 淡淡淡州山」(あかるくかがやくような明石の海に、  すっきりした姿を見せている淡路島の山波)と詠じ、 伊予大洲にありて「山立直如レ法、 水奔曲似>肱」(山の立つこと如法のごとくすなおに、 水のほとばしること曲がるには肱のように)と詠じ、 信州〔長野県〕下伊那にありて「風越山難>越、 大平路不レ平」(風越山は越えがた<、 大平駅の道は名とはことなり平らかではない)と詠じたると同じ句調じゃ。 如法寺山と肱川とは大洲の名所である。  また、 風越は山の名、 大平は駅の名である。雲石二州の人気もまたこれに類し、 雲州人は水のごとく、 石州人は山のごとき相違がある。 あるいは、  一は雲のごとく、  一は石のごときと申してもよい。 いいかうれば、 雲州人は文の方にして、 石州人は質の方じゃ。  この二者を合わせて、 はじめて彬々たる君子を見ることができる。


第九話    災害の偶合

人ありて「大和の地名を付したる軍艦に災害多きはいかん。 畝傍艦、 初瀬艦、 吉野艦、 三笠艦、  みな災難にかかれり」と申すに対し、 余は「これ偶然にして、 別に天意ありてしかるのではない。 あたかも哲学館の三大厄と称する風災火災および認可取り消しが、  いずれも十三日に限られたると同様じゃ。 明治二十三年九月十三日夕、風災のために講堂転覆し、  二十九年十二月十三日夜、 全校焼失し、 三十五年十二月十三日、 事故ありて教員免許の特権を取り消されたことがある。 年日そのものに意味あるにあらずして、 偶然の出来事に過ぎない。



第一〇話    北海の離れ島

北海道天塩の付属島に焼尻、 天売の二島があり、 北見の付属島に利尻、 礼文の二島がある。 焼尻は全島一本の樹木なきほどに濫伐して、 薪炭に用い尽くした。 よって焼尻に来りて見れば樹木なし、 山の尻まで焼き尽くしけりの狂歌を作った。 また、 利尻島は北海富山と称する名山がそびえ立ち、 その四辺に漁村ありて、 そのうち小都会を成せるものは鬼脇港だが、 いたって淳朴の村である。  ここにても、鬼脇と聞きて地獄の隣りかと、 思の外で極楽の里という狂歌をよんだことがある。一つは名実相応、一つは名実不相応の一対じゃ。

 


第一 〇話    若州は頭国なり

北陸道七カ国中、 古来の順序は若狭を第一に置き、 越後、 佐渡を最後に置く。 余の若州〔福井県〕にあるとき、人みな余が郷里の越後なるを知りて、 越後をほめ、  若狭の及ぶところにあらずという。  これに対して余は、「もし北陸道を人身に比すれば、 若狭は頭部に当たり、 越後は臀部、 佐渡は足部に当たるべく、 若州は北陸の頭脳のやどる所なれば、 越後の及ぶところにあらず」と答えた。 しかるに若州人は、「若州は北陸中の最小国にして、越後の十分の一に足らざるにあらずや」と申すから、 余は弁明して、「若州の小なるはその頭部たるゆえんにして、 越後の大なるはその臀部たるゆえんである。 いまだ頭部の臀部より大なるものあるを見ず」といいたれば、一同大いに笑ったことがある。



第一二話    尾州は腹張国なり

尾州〔愛知県〕丹羽郡客中、 余は演説して、「当国を尾張の国というは間違いである。 むしろ腹張の国と改むるがよい。 今、 かりに日本全国を人の身にたとうるに、 奥羽は頭部に当たり、 武相両野は胸部に当たり、 東山道の山脈は背骨に当たり、 北陸道諸国は背部に当たり、 房総および伊豆の両半島は左右両手に当たり、 九州を足とし、  四国、 中国を両脚として考うるときは、 尾州はまさしく腹部の張り出でたる所に当たるわけじゃ。 ゆえに、今より速やかに尾張を改めて腹張とし、 尾州を変じて腹州となすべし」とは、 余が一場の滑稽談である。

一方にても、 従来は山の雲を晴雨計の代用にしたものじゃ。第一四話    玄海航路

 


第一三話    日薩肥の天気予報

日薩両州〔宮崎県・鹿児島県〕中、 霧島山に接近せる地方は、 雲のかかりぐあいを望みて晴雨を卜するに、 ほとんど百発百中なりと申しておる。 よって、 余は「日薩の地には晴雨計無用なり、 霧島山のあらん限りは」とよみたるが、 その後、 肥後にては阿蘇の噴煙を望みて晴雨を知ると聞きて、「熊本の地には晴雨計無用なり、 阿蘇の噴火のあらん限りは」とよみかえたことがある。  すべていずれの地先年、 余が大連より帰航の船中、 船長に問うに、「玄海は海上有名なる難路であるから、  一年中にはたびたび危険の場合もあるであろう」と申したれば、 船長笑って曰く、「遠州灘や玄海灘を海上の難路と思いたるは昔時の夢でありて、 今日進歩したる汽船にては実に平易の航海である。 しかるにこれを難海と思っておるようでは、日本の発展はおぼつかない」と聞いて感心し、  ひとり海上の航路につきてのみならず、 われわれの思想中には、鎖国時代の旧夢のいまださめざる点が多々あるであろうと思った。

 


第二類 動物植物


第一五話    ふくろうの鳴き声

ふくろうの鳴き声は一定せるも、 聴く人の心の迎えようによりて種々の声となる。  それゆえに、 各地方伝うるところ一様でない。(北陸)テレッ クホー セ(南信)ゴロスケバー  カ(三河)ホロスケドー  シタ(伊勢)フルッ クフー フー  (土佐) ポロキテホー  コー  (安芸)レッ コボー  ホ(岩代)ノロスケホー  ホー  (羽後)

このとおり違っておる。 ほととぎすの声も、 所によりて聞き取り方が同一でない。  犬の声や猫の音の言いあらわし方が、 西洋と日本と違っておるのも同じ道理である。  すなわち、 声そのものの相違にあらずして、 聴く人の心の相違より起こるのじゃ。


第一六話    草木の異様

松は常葉と称して、  四時緑なるが当然なれども、  北海道にては松に紅葉落葉がある。 余は十一月上旬、 石狩原野を通過したが、 はるかに山色の赤きを望み、 なんの色かと問えば、 松の色なりと聞きて、 北海道七不思議の一つに加えた。 信州〔長野県〕軽井沢辺りにても秋になると松が落葉するのは、  北海道と同じ種類である。  これにして小笠原島には、 唐辛〔子〕の木や茄〔子〕の木の柱に用いらるるほどのものがあり、 琉球には芋の木がある。 ただ今では、 南天の床柱などは珍しくない、 唐辛〔子〕や芋の床柱を作ることができる。


 

第一七話 琉球と北海道の鶉

琉球にては 雅がおらぬ。 たまたま暴風のために流れてくることがあれば、 人々これを愛して見る。  ゆえに、小学読本に「鶉はいたずらの鳥である」と書きてありても、 児童はその意を解せず、 むしろ鴻は愛らしき鳥であると思っておるそうだ。 小笠原島には鶉のみならず雀もおらぬ。 これに反して全国中、 雅の最も多くして最も害をなすは北海道である。 作物をあらし、 屋根を破るばかりでなく、 児童が食物を手に携えて歩くときに、 雅来たりてこれを奪い去るという。 野菜類を作るにも、 網を張りて鴻を防ぐ設備をしなければならぬ。 同じ日本国の中にても、 南北両端の腸にかかる相違がある。


第一八話    蚊の名所

世間にて「力」の字の付きたる地名には蚊が多いと申しておる。 香川県のごときその    つである。 同県下の都会は、 みな「力」の字の加わりておるは妙だ。 例えば高松、 丸亀、 坂出、 観音寺、 いずれも蚊の名所である。 先年、 高松一等旅館可祝楼へ宿りたるとき、 昼夜ともに蚊に攻められたれば、

蚊川なる多蚊松町の蚊祝楼、 蚊に攻めらる    も道理なりけり

とよみて楼主に贈った。 能州〔石川県〕鳳至郡内に兜〔現・穴水町〕と名づくる村があるが、 その蚊の多きこと高松以上である。 蚊帳は二重に吊らなければ眠ることができぬ。 その村の者が申すには、「村名がカプトであるから当然である」といっておる。  日向国高鍋〔現・町〕に蚊口浦と名づくる所があるが、  これはだれも蚊が多かろうと想像しておるも、 その割合に多くない。



第一九話    岸和田の蚊

泉州〔大阪府〕岸和田は「力」の字は付かざれども蚊の名所にして、 毎年三月中に蚊帳を用うる家がある。 余の岸和田に客居せしときは三月なるに、 夜中果たして蚊に襲われた。

三月泉陽暖、 偶来宿草堂、 去年蚊未死、 深夜襲吾林。

(三月の和泉の南は暖かく、 たまたま来たりて草ぶきの家に宿泊す。 去年からの蚊が死なずにいたのであろうか、 深夜になってわが寝床を襲ってきたのである。)

三月中に出ずる蚊は去年の蚊のいまだ死しざるものにして、 春暖に応じて出でてくるのである。 暫時にしてその蚊死し、 さらに今年の蚊の出ずるにいたるということじゃ。


第二〇 話    赤カブラ

伊予松山近在に八幡社があるが、 その氏子の畑にカブラを作るときはみな赤くなり、 氏子にあらざるものこれを作るときは赤色を失うと申しておる。 けだし地質の異同によるならんも、  これを松山の不思議の    つにかぞえてよい。  また、 飛騨にても赤きカブラを食し、  これを漬けて沢庵漬けの代用とする。 江州〔滋賀県〕彦根の名物も赤カプラである。 ただし、 松山のカプラは漬ける前には白くして、 漬けた後に自然に赤くなるだけが妙じゃ。


 

第二一話 植物の珍名

石州〔島根県〕大国村〔現・仁摩 町 〕竜岩神社の山林に産する樹木の中に、 ヒョンと名づくるものがある。  その形 瓢 に似て瓢にあらず、 実に名のごとくヒョンなものじゃ。  また、 房州〔千葉県〕鋸  山日本寺のそばに、 ナンジャ モンジャ と名づくる珍木がある。 だれもその名を知らぬから、 かくいい伝えたと申しておる。 外国より入り来たりたる木に相違ない。  一説に娑羅樹ならんと申すも判然せぬ。


第二二話    日薩人、 蓮根を知らず

薩摩、 日向の地には蓮池なく、 したがって蓮根を知らぬ人が多い。 ある田舎の老婆が鹿児島の寺に参詣したるとき、 蓮根を煮て皿につけてあるを見て、「大層念の入った料理じゃ。 よくこのように同じ大きさの穴を、 同じようにあけたものである」といい、 実に感心したそうだ。



第二三話    記念樟

余が肥後巡遊中、 鹿本郡千田村〔現・鹿央町〕明蓮寺に一泊したことがある。 住職が余に「記念のために樟樹を庭前に植えられたし」と申すから、 余は即座に一首をよみ、とく(不徳)なるわしが庭木を植えたなら、 人はクスクスいひて笑はとと書し、  一本を門前に植えて宿泊の記念とした。 定めてその後、 クスクスと笑っておるであろう。



第二四話    大樹名木

豊後日出町松屋寺に大蘇鉄がある。  その幹の周囲が一丈二尺にして、 堺・妙国寺のよりも大きく、 日本一に相違いない。 また、 福島県三春町外に桜の大木がある。 その高さ四丈二尺、 周囲三丈二尺ある由。  これを滝桜ととなえておる。  これも桜として日本第一であろう。 伊豆大島にも桜の大木がある。 また、 栃木県塩原温泉八幡社内に逆杉と称する杉の古木が二株あるが、 いずれも周囲三丈前後の大樹じゃ。 伊予越智郡宮浦〔現・大三島 町 〕の社内に老樟の骸骨を露出し、 千年以前の古木がある。 筑前の宇美八幡社〔宮〕内に大樟の周囲八間余にわたるもの数株ある。 伊豆熱海、 来宮社内にも大樟の名高きものが存しておる。 豊後玖珠郡内に断株山と名づくる岩山がある。 その由来を聞くに、 古代にありて樟樹をきりたる株の残りなりと伝うるはおもしろい。 余は日本中の大木、老樹の番付けを作ってみたいと思う。

 


第二五話 田植え、  稲刈りの期節

沖縄にては二月上旬、 大寒の明くるを待ちて田植えをなし、  一年に両度米の収穫がある。 内地にても利根沿岸に二度米のできる所があるという。 佐賀県は反別に割合して、 米の収穫高の最も多いと申す。 なかんずく白石郷〔印    ら  ぅ〕のごときは、  一反につき三石五斗の収穫ありというが、 田植えの時日の長いことは日本第一じゃ。  よそ四十日間もかかるそうだ。 越中は米の最もはやくとれる所じゃが、  二百十日の厄日に、 新米にて牡丹餅をこしらえて祝するきまりである。  ゆえに、  二百十日の風は稲作に害にならぬ。

 


第二六話    孝行芋

中国の一部にては薩摩芋を琉球芋といい、 九州にては一般に薩摩芋をカライモと称するが、 対馬に限りて孝行芋というはおもしろい。 その確かなる由来は知れぬけれど、 多分、 貧民がこの芋によりて親を養いし故事より出でたるならんとの説じゃ。 孝行については、 和泉国泉南郡に孝 子村〔現・ 岬  町 〕あり、 飛騨国益田郡中山〔七里・下呂町〕に孝池水あるがごとき、 いずれも親に孝行せし事跡を伝えたものである。第二七話    小笠原島の虫類

小笠原島には蛇も住せず蛙も生ぜず、 蚤も 風 もおらぬ、 珍しき島である。 内地より蚤・風を衣類につけて入り来たりても、 十日を経ざるうちに消滅してしまうと申しておる。 もし、 身に風を帯びたるものは、 小笠原へ旅行するがよいと思う。 その代わりに蠅と蚊と蟻のすこぶる多いには閉口じゃ。  ついでに鳥類について申さば、 鶉も雀もおらぬ代わりに、 年中うぐいすが歌っておるは、 なかなか風流である。 余が小笠原の実況をよみたる七絶を掲げてみよう。

仙源赤路自岬蝶、 銑足人穿二牛糞一行、 緑樹陰深山寂寂、 厳霜時節聴二唸声

(仙人の住むような地の赤土の道はおのずと高く険しく、 はだしの人は牛糞にぬかるがごとくして行く。 緑の樹々の陰も濃く、 山はものさびしく静かに、 きびしい霜のおりるこの季節にうぐいすの声をきいたのであった。)



第二八話    豆の種

日本にては足にできるものをマメと名づくるが、 西洋にてはこれをコー ンと名づけ、 あるいはオニオン(玉ねぎ)と名づくるは妙である。 いずれもその形より起こりたる名目に相違ないが、 東西ともに植物をもってその名を定めたるは、  おもしろいことではないか。 ただし、 わが民間にて足に豆のできたときに、 その上に「馬」の字を書けばすぐになおるという。 その理由を聞くに、 馬が豆を食べる故と申すはすこぶる滑稽である。 その滑稽は西洋になかろうと思う。

 


第三類 牛馬舟車

第二九話 北海道の馬

北海道の旅行には人力車の代わりに馬を用う。 往々、 人を荷車の中に入れて、 馬にひかしむることがある。  その土地の人は隣家へ行くにも乗馬する故に、 馬を指して下駄の代用といっておる。 また、 馬を使うものを馬引きといわずして、 馬追いという。 北海道の馬は前より引くときは動かず、 後より追えば進むからである。 冬になると馬を雪の中に放ちおきて、 庖の設備がない。  これを馬の寒ざらしと申して、  北海道七不思議の 一つに加わりておる。  また、 旅人が馬に乗りて数里先に出かけ、 その馬を放ちおけば、  ひとりで自宅へ帰りて行く。  手紙や荷物を付けておけば、  それを届けてくれる。 実に調法の馬である。


第三〇話    小樽の三者

北海道にては一般に人力車を用いざる所なれば、 都会にして腕車を見ざる所が多い。  小樽のごときも人力車に乗るものは医者、 芸者、 役者に限ると申して、  これを三者と名づけておく。「者」と「車」と音相通ずるはおもしろい。  この三者にあらずして人力車に乗るものあれば、 かえって人の笑いを招くとのことじゃ。


第三一話    自転車と馬

北海道後志国の山間にて、 はじめて自転車を見たりしときに、 人みな鵞きて、「今日は羽なくして飛び、 足なくして去る怪物を見たり」と申したる由。 先年、 石見国美濃郡石谷村〔現・匹見 町 〕の小学生徒が浜田町〔現・市〕へ出でて、 皇太子殿下を奉迎したることがある。 そのとき生徒は、「馬を見たのが最も珍しかりし」と申したそうだ。 羽後酒田〔市〕の海上数十里を離れたる飛島の老婆が、「死ぬまでに一度馬を見たいものだ。  そのほかになんも望みはない」といいたる話も、 決して怪しむに足らぬ。


第三二話    能登の駕籠渡し

ある友人が、 余が能州〔石川県〕に遊ばんとするを聞き、「能登の名物は駕籠渡しなれば、 よろしく行きて試むべし」といいたれども、 余はこれを怪しみて、 飛騨は日本第一の山国なれば、 古来駕籠渡しの険あるを聞きしも、 能州は海国にして山国にあらざれば、 決して駕籠渡しの険あるべき理なしと思い、 出でて能州に至るに、 山もなく谷もなく、 ただ丘陵のみである。 そのほかを跛渉すること数日なるも、 いまだ駕籠渡しあるを見ない。

日海浜にありて海路より隣村に移らんとするときに、 炎天やくがごときも、 舟に日光を障うる道具がない。 船頭たちまち駕籠を担ぎ来たりて、 これを舟に載せ、 その中に座せしめしに、 日光頭上を照らさずして、 清風左右より入り来たり、 爽快極まりない。 そのときに、 能州の海上にて炎天または雨天の節に客を渡すには、 必ず舟中に駕籠を用うというを聞きて、 はじめて能登の駕籠渡しの虚言ならざるを知った。


第三三話    馬車の渡船

宮崎県は川あれども堤防なく、 大河にはいまだ橋をかけざる所が多い。  ゆえに、 国道筋の河には馬車の渡船を備えてある。 米国の汽車の渡船と日州〔宮崎県〕の馬車の渡船とは好一対じゃ。 米国の大河には汽車の渡船があり て、 川岸に汽車の着するとき、 たちまち汽船がその汽車を載せて対岸へ渡る。 ある人の詩の結句に「汽船忽載二汽車一行」(汽船はたちまちに汽車を載せて行く)とあるが、 日向にては「馬船忽載二馬車一行」(馬船はたちまちに馬車を載せて行く)といわねばならぬ。 美濃の郡上郡にも馬車の渡船がある。

 

第三四話 馬車の異様

壱岐・対馬の乗合馬車は欄干をめぐらし、  一見神輿のごとくみごとである。 薩摩の馬車はズッ クをもって覆い、  その内側に赤幕を張るは奇観である。  定期馬車と称して、 時間どおりに発着する馬車がある。 大分県、 熊本県の馬車は粗悪である。 木曾街道、 北海道の馬車は危険である。  飛騨にては夏時の馬車が冬時に馬橡に変わる。所によりて馬車もいろいろである。


第三五話    馬車の転覆

北海道岩内より余市に出ずる間に、 危険の山道がある。 屈曲数回、 なおよく馬車を通ずることができる。  余、先年馬車の転覆にあいしも、 幸いに負傷を免れた。  その後、 多人数を乗せたる馬車が絶壁より谷底に落下せしことがあった。 御者だけは早く飛び下りたるために無難なりしも、 彼は乗客はみな即死せしと思いて、 大いに恐れ、 身を隠して罪をのがれんと欲し、 そのまま逃亡して跡をくらましてしまった。 しかるに、 その馬車が樹木の間にかかり、 乗客みな無事なることを得たるは天幸であった。


第三六話    車路ありて人力車なし

隠岐には往々車道を開きたる所あるも、 人力車を業とするものなく、 したがって車行するものを見ることができぬ。  飛騨地方などにも車道ありて人力なき場所あれども、 日本全国中、  一国として全く人力なきは、  北海道を除けば隠岐のみである。 志州〔三重県〕のごときは車道も人力もあるが、 人力を業とするもの少なく、  その車夫も雨天には休みて車をひかぬ。 余が先年、 同国波切〔現・大王 町 〕を立ちて、 三里離れたる村落へ行かんと欲し、車夫を呼ぶも、 雨天なりとて応ずるものがない。 よって、 余儀なく素人を頼みて引かせたことがある。 そのときに、 本職でないから途中転毅させるかも知れぬと断られたが、 じょ うだんと思いて聞き流しにしたるに、 果たして転覆して閉口したことがある。 熊本県葦北郡も、 車道ありて車夫の乏しき所である。 したがって車夫の方に権力がありて、 容易に客の命に応じない。  そのために乗船の時刻におくれたことがあった。


第三七話    車夫に見捨てらる

ある年の夏、 炎天をおかし、 秋田県院内峠を人力に駕して登りたることがある。 山上の茶店に休憩する間に、車夫曰く、「今日は暑さにたえかぬるから御免こうむりたい。  賃銭もいらぬ」といいながら、 車を引きてにげ出した。 呼び戻そうとしても、 いずれへか去りて見えなくなった。  トウトウ徒歩して山を下ったことがある。 欲のなき車夫にであっては、  金銭で釣ることができぬから閉口じゃ。



第三八話    海中の人力車

天草の本渡〔現・市〕、 肥後の長洲〔町〕、 伊予の西条〔現・市〕などは、 海浅くして舟のきかぬために、 海中に人力車を用いて渡る。  すなわち汽船に乗降するごとに、 海上里ばかり、 客を人力に乗せて送迎する。  これ、 他に見ざるところである。 伊予の壬生川にいたりては、 車にて泥中を渡るは一層奇である。 乗客は車中にありて、 戦々恐々の思いをなさねばならぬ。

 


第三九話 山中医者とみなさる

伊予宇和〔 町 〕山中にては、 舟車の代わりに輻に駕して旅行せしに、 その地方は医者のほかに輌を用うるものはないということじゃ。 よって、 途中わが一行の過ぐるを見て、 老婦問うに、「いずれの所より医者を迎えきたれるか」という。 輻夫答えて「東京より」といえば、  老婦大いにその遠方より聘し来たるに驚きておる。 ときに一作を案出した。

輌行数里度二崖鬼{ー穿尽予山雲幾堆、 野婦不>知壮遊事、 問従二何処血ザ医来。

(かごにのって行くこと数里、 石や岩のあるけわしい山をすぎ、 伊予の山と雲のいく層にもつみかさなる地をうがつようにすすんだ。  このいなかの婦人は私の意気ごんでの講演の旅であることを知らずに、  かごにのる人は医者と心得えて、  一体、 どこからまねかれてやってきた医者かと問う。)



第四〇話    腕車の異様

佐渡および越後の海浜において、 明治十年前には、 婦人にして人力車を引きたることがある。 鹿児島にては坂道多きために、 車の柄長くしてそり上がり、 車夫はその横木を額にかけて引き上げたことがある。  土佐にては車の腰かけが浅くして窮屈であり、 また高く 提 灯を竿につるし、 乗客の面前にかけておいたことがあった。 その後、 各所ともようやく改まり、 今日はその特色を失うに至ったけれども、 なお国々多少の相違がある。 関西はすべて車の両側に金の環形をなしたるものが付けてあるが、 山陰道にては足を置く台の所の両側へ細き鉄棒が出でておる。 また、 車の幌および蒲団のぐあいも各地いくぶんかの相違がある。 また、 車の構造の粗にしてかつ廉なるは沖縄県である。  一里間の車賃二、 三銭、 十丁五厘ないし一銭くらいである。

 


第四一話 牛力、 馬力、  犬力

山陽道より山陰道に越ゆる所は車道あれども、 険峻にして人の力だけにては車を動かし難い。 よっ て、 人の代わりに牛を用いて先引きをなさしむ。  また、 馬を用うることもある。 因幡にては牛馬のほかに婦人の先引きする所がある。 大和吉野郡内にも馬に先引きさせる所がある。 また、 近年は犬の先引きが流行してきた。 わが国にて人力の先引きに犬を用うることを始めたるは大和国桜井町〔現・市〕でありて、 爾来、 大和各郡および伊賀地方にその風、 流行するようになった。 ただ今にては岡山県の一部、 木曾街道などに、 犬の先引き流行せるように見受けた。



第四二話    犬     税

人力車の先引きに犬を使用することが、  一時盛んに奈良県下に流行するに至り、 先引き犬に県税を課せしことがあった。  これこそ真のケン税であるとの評を下したものがある。 その後、 大和より伊賀に入りて流行せしも、危険の場合多きために、 三重県にては県令をもって禁じ、 ただ今にては荷車のみに用いておる。



第四三話     人馬と山人力

越前より江州〔滋賀県〕に出ずる山路にて、 むかし旅客を運ぶに、 輛の代わりに人馬なるものを用いた。 人馬とは横木のシリンダー 形のものに、 蒲団を巻きつけ、 これに客を腰掛けさせ、 人の背の上に負うものである。  すなわち、 人を馬の代わりに用うるの意じゃ。  ひとたび鉄路の全通以来、 人馬は自然に消滅したであろう。 また、 越中国東嘱波郡五箇山中には、 山人力と名づくる一種異様のものがある。  その形はひじ掛けの付きたる椅子に足を置く所ができておる。 やや 曲 象のごときものを人の背上に負う仕掛けである。 客はその人夫と背中合わせになりて、 後ろ向きに乗っておるから、 観音や地蔵を負ってある< 六部の姿じゃ。 余はこれを背楊と名づけ、 左の一詩を作った。

五箇山中俗、 日移又月新、 腕車難レ進処、 背楊運二行人

(五箇山の風俗は、 日移りまた月の新たなるも変わらない。 人力車の行けぬところでは、 椅子に似たものを背に人を運ぶのである。)



第四四話    腕車と脚車

人力車が腕車と名づくるからは、 自転車を脚車と名づけたいと思う。 余が熊本県漫遊中、 同所にて自転車が大流行でありて、 医師はもちろん、 僧侶が法事、 葬式に出かけるにも、 人力の代わりに自転車を用うるほどであった。 高瀬町〔現・玉名市〕客舎にありて高瀬川の橋を渡るものを見るに、 腕車は十分の一にして、 十分の九は自転車である。「一帯清流橋影長、 脚車如>織送迎忙」(帯のごとく流れる清らかな水に橋の影が長く落ち、 橋上には自転車が機織りの稜のように忙しく往来している)と賦したるが、 その脚車とは自転車のことじゃ。



第四五話    琉球の輻

沖縄県すなわち琉球は道路の改修いまだ行われず、 郡部の旅行は旧式の輻によらなければならぬ。  その輌が迅速なること内地の比でない。 輻夫のかつぎ方が内地と違い、 杖を用いず、 肩を換うるに足をとどめず、 そのつど輻の向きを変じて走る。 よって、 乗客はたちまちにして表向きとなり、 また後ろ向きとなる。 その点だけはすこぶる奇じゃ。 両人前後相連なりて輻に乗りおるに、 ときどき向かい合わせとなりて話しかけるに、 その途中、 後ろ合わせとなりて話をたたれるから、 ずいぶん滑稽じゃ。



第四六話    伊豆七島の牛

伊豆大島の名物は戸々みな牛をかう一事である。  ゆえに牛乳の価、 小売り一合一銭五厘、 卸一升七銭、 全国無比であろう。 ただし牛糞と蠅の多きには、 旅人をして閉口させる。 よっ て、「大島に蠅と牛糞なかりせば、 不寒不熱の極楽の里」と戯れた。 全島に牛糞多きのみならず、  土石までが牛糞の形をなすは奇妙じゃ。 火山の名を三原山というが、 文字に雅味がないから、 余は仙原山と改めたいと思う。 山上の所見を賦したる一絶は左のとおりである。

十里暉原一望開、 石如二牛糞一土如>灰、 仰見天半雲竜躍、 峰頂登臨呼快哉

(十里四方もあろうかと思われるほど広々とした砂原は一望のもとに開け、 そこは石が馬の糞土のごとく点在し、 あるいは灰のようでもある。 仰いで空をみれば、 天の半ばは噴煙におおわれ、 竜のごとく勢いよくたちのぼる。 峰のいただきに登り、  四方の景観を目におさめて、 思わず快哉をさけんだのであった。)

八丈島も牛が多いから、 乗り物は牛に限られておる。 その乗り方が内地と違う。 男子が西洋婦人の乗馬のごとく、 両足を一方に垂れて、 横になりて乗っておるも奇態じゃ。

 


第四七話 一馬あわせて食らう三州の草

余、 先年能州〔石川県〕河合村〔現・津幡町〕および加州〔石川県〕種谷村〔現・津幡町〕に至りしが、 その地は加能越三国の境に当たりおれば、 演説の聴衆中に三国の人をあわせ見ることができた。 よって「一堂併見三国人」といいたれば、 その国境の点に標木がある。 通行の者、 馬をこの木につなぎて休むに、 その馬、 三国の草をあわせ食すということじゃ。 よって、 さらに「一馬併食三州草」と題した。



第四八話    異様の船

琉球に丸木のくり船があるが、 なかんずく異様なるは、 小笠原島の加納船である。 元来、 南洋より伝えたるものの由に聞いておる。 その形は大小二個の鰹節を二間ばかり相離して、 前後ニカ所にて横につなぎ合わせ、 そのな盛用こ大はかるをしのななシなら方いかヤさえ。早モし‘内くジめ小部走のてのをるごあ方とるはぼ普き゜転め通もこ覆てののれせ人和にをぬの船て動た乗の水かめら及をすのれぶかに浮るとくはきよこ  が  飯  木   う。



第四九話    山水命名

耶馬渓はもと中津辺りにて、  その地が山の谷間なる故、 ヤマ(山)と称したのを、 頼山陽これを耶馬と改めた。  また、  小 豆島の古来神掛ととなえたる地名を、 ある人これを寒霞渓と改めた。 余もそのまねをして、 豊後大野郡沈堕ととなうる瀑布を鎮蛇として、 この瀑布は前後二流のかかりて落つるものにて、 高さは、一つは十五間、 一つは二十間なれども、 幅は三十間もある。 あたかもナイアガラの小模型である。  また、 西国東郡鍋山の絶勝を南屏峡とし、 姫島その形軍艦に似たれば艦島とし、 飛騨益田川中山七里の間に、 岩石相重なりて一大岩となり、 天然に奇形をなせるものあるも、 その名のなきを聞き、 あたかも十六羅漢の列を成して天より降下する状に似たれば、 羅漢岩と命名した。  北海道網走にニクル山の地名あれども、 漢字をこれにあてはめてないから、 新来山と定めた。 そのほか豊後佐伯〔現・市〕の煙草峰のごとき、 壱岐郷〔之〕浦〔武 生 水村、 現・郷ノ浦 町 〕の多景峰のごとき、 余の雅名を下したものがたくさんある。



第五〇話    島と川との名称

九州五島大浜村〔現・福江市〕の海上に赤島、 黒島、 黄島の鼎立するを見る。  これ、 島の色につきて名をつけたに相違ない。 また、 美濃国加茂郡西白川村〔現・白川 町 〕にも白川、 黒川、 赤川と名づくる三とおりの川がある。いずれもその水の色につきて名づけたる由。 小笠原群島は、  一家の脊族をもって名をつけてあるはおもしろその大なる方は父島といい、 小なる方を母島といい、 父島に付属せる方に兄島、 弟島があり、 母島に付属せる方に姉島、 妹島がある。  一家脊族相集まりて、 茫々たる太平洋のいと広き海座敷で、 団槃の楽を営みておるは、  ホントおもしろいではないか。



第五一話 三太郎の険

肥後葦北郡は熊本領の鹿児島領に接する所なれば、 古来、 三太郎の険をもって天然の防御線と定めてあった。

すなわち、 赤松太郎、 佐敷太郎、 津奈木太郎の三険である。 近来、  この三路を開竪して車道を通ぜしために、 旧時の険を想出することができぬ。 余の所吟を左に紹介する。昔聞太郎険、 今見嶺如>螺、 路転渓千変、 峰高隧一過、 山連自成>浪、 車走漫飛レ稜、 看二尽風光美一 投来水俣阿。

(昔より聞こえた津奈木太郎峠の険はいま見れば嶺は巻き貝のようである。 道は曲がりくねり、 谷は千変万化し、 峰の高いところをぬける。 山々は連なって波浪のごとく、 車の走ること左右にむきをかえてまるで機織りの稜のようである。  ことごとく風光の美しさを目に納めながら、 水俣の村に入ったのである。)

この間、 山光水色はなかなか明媚である。 水俣村〔現・市〕は薩肥二州の国境に接したる所じゃ。



第五二話    島原半島

肥前島原半島の尽くる所に、  口之津と名づくる港がある。 形は口を開きたる状をしておる。  ゆえに、 余の詩中に「海湾深入津如>口、  一喝欲レ呑天草洲」(海湾は深く陸地に入りこみ、 港は口をあけたような形である。  一喝して天草の島をのみこもうとするかのようである)の句がある。  口之津をさること一里にして加津佐村〔現・市〕に至る。 海を隔てて一帯の丘陵に対するが、 長崎はその丘後に当たる。 村名をカヅサと聞きて上総を思い出だし、「カヅサにて海を望めば向ひなる、 岡は武蔵の山かとそ思ふ」とうそぶいた。 半島の首府は島原町〔現・市〕であるが、 小島の多いことと、 噴水の清らかなることはその名物といわれておる。 今より二百年前、 雲仙岳の大噴火のために、  二万八千の生霊を奪い去られ、 その代わりに清水が所々に噴出するようになったという。 非常に高価を払った噴水である。

 


第五三  話 九十九と八百八

千葉県に九十九里、 高知県に九十九浦、 能登珠洲郡に九十九湾、 肥前平戸に九十九島、 島原にも九十九島、  上総鹿野山に九十九谷があるという。 九十九と限りたるはなにゆえであるか。 東京に八百八町ありといい、 大阪に八百八橋ありといい、 新潟に八百八後家ありといい、 木曾に八百八谷ありというも、 なにゆえにかく限りしや。つまり、 数の多きを指したるものであろう。



第五四話    望岳の歌

余が駿州〔静岡県〕清水にありて、 富士を詠じたる珍歌がある。富士の山、 雪の衣に雲の袈裟、 青天井を笠にかぶりて

また、 伊豆伊東行きの船中にて浮かびたる二首は、大島の山で織り出す白煙り、 流れて富士の衣とぞなる笑ふは富士、 眠るは天城、 大口を、 あけて煙草を吹くは大島また、「雪の富士」と題してよみたる一作もある。

 摺鉢を 倒 につるし頭より、  ゴフンをかけたる雪の富士かな第五五話    紀の国と岐の国箱根芦ノ湯に紀之国と名づくる旅館がある。 余、  ここに宿して左のごとくよんだ。谷の暗いのに白雲がみゆる、 あれは紀の国湯気の色また隠岐客中、 漁火を望みて一首を浮かべた。沖の暗いのに明りがみゆる、 あれは岐の国烏賊の船第五六話    上州温泉の詩歌

上州〔群馬県〕伊香保温泉滞在中、 榛名山をよみて、こは如何(伊香)に夏になりてもハル(春)名山、 雨が降りてもハル(晴)名山とは

また、 伊香保は山によりて市街をなし、 街路を行くには数階の石段を登降せねばならぬ。  ゆえに、 街上の散歩たちまち両脚をして疲労を感ぜしめ、 毎日あんまを呼びて療治を頼む。

街路高低脚易レ疲、 出>楼散>歩歩遅遅、 帰来一浴呼二会枕    復使三按摩摩二四肢

(街路の高低はとかく足を疲れさせ、 旅舎を出てのそぞろ歩きも遅々として、 帰りて一浴し、 会枕を用意させ、 按摩を呼んで四肢をもませたのであった。)

伊香保より吾妻川を渡り、 谷川の傍らを行くこと数里にして四万の温泉に達す。  ここにても狂歌をよんだ。海にのみシマあるものと思ひしに、 山の奥にもシマぞありつる

 


第五七話    草津温泉入浴の実況

草津温泉は天下一と称せらるるが、 その入浴の情態は実に奇々妙々だ。 はじめに一同小板をとり、  二十分ないし三十分間熱湯をかきまわす。  これは全く湯の熱度を減じ、 かつ柔らかにするためである。 また、 入浴者の運動を助けるためにもある。 そのかきまわすときの歌を聞きておもしろく感じた。腰は柳に杖をつき、 ヒ 杓 手に持ち時間の湯、  かよふお客のしかみ顔、 それも昔の罪かいなまた、 入浴のときに湯長が一分ごとに掛け声をする。 その言葉もおもしろい。

(第一)ソロッテ三分、(第二)カイセイノニ分、(第三)カギリテ一分、(第四)チックリノ辛抱、(第五)辛抱ノシドコロ。

また、 その実況を長編にて写しておいた。

嗽肌一声報硲  時一 衆客扶レ杖携レ杓之、 前後入場衣著レ白、 各執一小板螂竺熱池ヘー作列一斉似レ漕レ艇、 漕罷灌レ頂自有>規、 熱漸減時人漸浴、 湯気如>刀欲  裂レ肌、 満場守レ黙寂無レ語、  一分二分時相移、 湯長号令如軍律    一言発処衆皆随、 辛抱一令殆難>忍、 出浴令下始開>眉、 三三五五排台戸去、 全身感レ痛歩遅遅、 綿布纏レ体暫安臥、 多年宿病一朝医、 草津温泉天下一、 函嶺香山何足レ奇、 只恨山深路険悪、 往復車馬使二人疲一 将来鉄路全通日、 必為二大都ー有誰疑  ゜

(暇肌一声、 入浴の時を知らせば、 衆客は杖をつき柄杓を手にして行く。 前後して浴場に入り白衣を着け、おのおの小板を手に熱湯の浴池を攪拌す。  並んで一斉に小板を操るさまは漕艇に似て、 漕ぐをやめて頭より湯をそそぐにもおのずから法がある。 熱気しだいにさめて人のようやく入るに、 湯はなお刀刃のごとく肌を切り裂かんばかりの熱さ。 満場沈黙を守り寂として声なく、  一分二分と時移る。 湯治の長の号令は軍律のご一言令を発すれば衆みなしたがう。 辛抱の号令にほとんど忍びがたく、 浴池より出よの令にはじめて眉を開く。 三々五々扉を押して去るも、 全身に痛みを感じ歩みも遅々として。 綿布を身にまとい、 しばらくは安臥し、 多年の持病は一朝にして医ゆ。 草津の温泉は天下第一にして、 函嶺〔箱根〕、 香山〔伊香保〕もこれに比すれば奇とするに足りぬ。 ただ惜しいことには山深く道は険悪で、 往来する馬車が人を疲労させることだ。 将来鉄道の開通する日がくれば、 必ずや大都会となること、 だれも疑わぬであろう。)


第五八話    箱根温泉のありさま

箱根温泉は昔時七湯と称せしも、 今日は十余の泉場がある。 余は歌をもってその名を列した。湯本より塔の沢へと宮の下、 底倉木賀の次は芦の湯其外に堂ヶ島あり小涌谷、 剛良湯の花姥子温泉その最も浴客多きは、 夏時七、 八月の候である。 余の詩吟を左に示す。

八月函山賑似臼京、 浴余呼>酒万人傾、 貧生買函楽銭無>用、 盗聴隣楼糸竹声。

(八月の箱根の山はみやこのようなにぎわいをみせ、 入浴のあとは酒をとりよせてすべての人は杯をかたむけるかのようだ。  そして貧しい書生は楽しみを得るにも金銭を使わずに、 となりの宿から聞こえてくる管弦の音をぬすみ聴くのである。)

また箱根嶺頭を渡るに、 西洋人は椅子輻にのり、 日本人は山輻にのり、 昇夫は箱根八里を歌って行く。路回頭憶旧年ー、 輌夫歌過白雲嶺、 箱根八里馬猶越、 欲渉難能大井川。

(ただひとすじの道にふりかえって昔を思えば、 かごかきの歌が白雲のたなびく山のいただきをすぎてゆく。 箱根の道程八里はいまなお馬で越すこともできようが、 大井川はかちわたりしようとしても無理であろう。)



第五九話    有馬の旅館

摂州〔兵庫県〕有馬の温泉旅館は、 多く坊名がついておる。 御所坊、 池の坊、 中の坊、 奥の坊、  二階坊、 下大坊等である。 よって狂歌を作った。

温泉の中で天狗の有馬なる、 宿は何坊何坊と呼ぶ

有馬にて酒呑坊となっ たなら、 酔天狗と人やいふらん余の宿せし旅館は池の坊なれば、 また左のごとく戯れた。

馬のなき里も有馬といふならば、 池なき宿も池の坊なり温泉の色は泥に似ておる。 よって、  さらに一吟を試みた。

馬山扶病遠攀蹄、 驚見霊泉色似泥、  一浴忽知仙薬混、 忘応叩日日歩深渓

(有馬の山に病いの身をささえてよじのぼる。 なんと、  この霊妙な温泉は泥に似た黄赤色なのだ。  ひとたび浴びればただちに仙薬の混じっていることがわかる。 それ故に杖を忘れて日々深いたにを歩きまわったのであった。)



第六 〇話    温泉の特色

薩州〔鹿児島県〕の温泉にては、 客一人につき一個のひしゃ くを渡しおき、 入浴のときこれを携えて浴場に行き、  そのひしゃ くにて全身に湯をくみかけ、 別に小桶の備えがない。 群馬県草津温泉もこれと同じく、 客一人につき必ずひしゃ く一個ずつ所持せねばならぬ。 また豆州〔静岡県〕吉奈の温泉は、  おのおの木の枕を携えて入浴する。  このわけは、 温度の低きために、  一時間以上湯槽の中に身を浸し、 横臥しておるためじゃ。 肥後山鹿の温泉は 温泉中に特に洗濯に専用するものありて、 町中、 各戸みなここに来たりて洗濯をなすきまりである。  ゆえに、 古来「山鹿千軒たらいなし」と伝えておる。 また紀州〔和歌山県〕熊野の湯〔ノ〕峰温泉は、 野菜を煮るにみな来たりて、 湯の出ずる所に浸し罹く。 鍋いらずの温泉と申してよい。 温度の非常に高きためである。  また豊後の別府は、 海浜の砂の中に湯の出ずるのをもって、 その温泉の特色としておる。 しかして、  温泉の沸騰せる勢いの猛烈なるは、 北海道登別の温泉であろう。 浴室の構造の壮大なるは、 伊予道後の温泉と思う。 各温泉、  みないくぶんかその特色を持っておる。



第六一話    川の話

伊豆大島、 八丈島、 小笠原島などには全く川がないから、 小学校にて生徒に説明をするに、 川の話が最もむずかしいということじゃ。 壱岐にも川らしきものがない。 また、 伊予の東部すなわち周葉郡、 新居郡、 宇摩郡には川多けれども、 平常水が流れておらぬ。  すべて水無川である。  これは東予の一奇であろう。  また、 伊予大洲を流るる川に肱川と名づくるものがある。 源泉地と港口の距離はわずかに三里に満たざれども、 曲折迂回せるために、 その流域の里程は三十二里以上あるという。  これはほかに例があるまい。



第六二話    峻坂険路

北海道にて雷電山道、 増毛山道〔雄冬山道〕、 斜里山道を三大険ととなえておるが、 余は海路を取りたるために、 その一っをも越ゆることできなんだ。 内地にては、 紀州〔和歌山県〕熊野地と四国の土佐境と飛騨の全部が最も峻坂険路が多い。 熊野にては、 辞職山、 思案坂などの名がある。  辞職山は、 巡査がその山の険阻にして、  上下往来の困難にたえず辞職を申し出でたる由来より起こり、 思案坂は、 辞職までに至らざるも、 辞職の思案をしたというより起こった名である。 ただし、  これは明治以後名づけたるものじゃ。  その以前より伝わりし名に、 犬戻り・猿戻り・馬ころがしなどという坂がある。 犬や猿ですらも登りきらずに戻りて来たという。 そのいかに険阻なるかを想像することができる。 余ら、 西牟婁より東牟婁に出ずるときに通りたる一日の行程に、「四十八坂、永井坂まだもあります馬ころび」という所があった。 坂の多いのが熊野の名物じゃ。 大和の吉野郡もこれと同様である。

つぎに、 東予と土州〔高知県〕との間に、 むかし竪包 丁 と名づくる峠があった。 士族が刀を差して上がることができず、  これを腹にそいて竪に差したと申しておる。 阿波と土州の境の大ポケ〔大歩危〕小ポケ〔小歩危〕、 またはハネ石トビ石なども非常の難路であったが、 近ごろは開竪したということじゃ。 飛騨にはビックリ峠、 金チヂミ坂という所がある。  金チヂミとは、 男子がこの坂を登れば、 睾丸が縮み上がるとの意である。 いったい飛州〔岐阜県〕は山ばかりの国であるから、 余のよみたる狂歌がある。うね/\ る峰を袴のヒダとして、 仕立上げたる飛騨の国かな



第六三話    ニコセの険

石州〔島根県〕邑智郡都賀村〔現・大和村〕に、  江 川の急灘ニコセと名づくる険がある。 行舟多くここにて破損する。 ニコセとは、 船の荷をあげて通行せよの義である由。 今より十年前、 客船がここに至りて破壊し、 乗客は幸いに救助せられしも、 舟子のうち一人だけ見当たらず、 定めて溺死せしならんと信じ、 死亡届を出だして葬式を行った。 しかるに本人は対岸へ泳ぎつき、 山を越えて逃れ、 その足にて九州へ渡り、 諸方を巡り、 十年の間音信せずにおったそうだ。  このごろに至り突然郵書を送りきたりて、 はじめてその者の存命を知りたれども、 戸籍上にては無籍ものになりおるということじゃ。 もし、 維新前にありてかかるものが再びたずね来たらば、 必ず幽霊の出現と申すに相違ない。



第六四話    お仙ころがしの険

野州〔栃木県〕塩原に 朝 仙転がしと名づくる坂がある。  それは朝仙と申す僧がころげて死んだために起こった名である。  これと同じく房州〔千葉県〕東海岸、 小湊より上総勝浦に至るの間、 断岸絶壁の所にお仙ころがしと名づくる難場がある。 近来車道を開竪したるも、  上下ともに懸崖千初なるうえに、 太平洋の激浪が岩根に打ち寄せきたる恐ろしき所じゃ。  ここにお仙と名づくる婦人が、 暴風のために車とともに海中に投げ出だされて即死せしより、 人が呼びてお仙ころがしというようになった。 しかるに余は昨年二月、 暴風雨の日この難所を通過して、車と身とともに吹き倒されしも、 幸いに海中に投げ出だされざりしために無事であった。 よって、 狂歌一首を作りて記念とした。

名にしおふお仙の険も今よりは、 円了転がしと人やいふらん

 


第六五話 球磨川の舟路

肥後人吉より八代までの間に球磨川の急流あれば、  一悼を用いずして半日間に十六里を舟行し得るその中間に、 槍たおしの絶勝がある。 両岸の風光すこぶる美しい。 今より二百年前までは、 岩石水中に突出して、 舟路を遮りたりしも、 ある人、 夢の告げによりて岩石の上に火を焼き、 十分熱したるところへ水を浴びさせ、 ようやく岩石を砕きて舟行の便を開きたりと伝えておる。 火の力で十分熱したところへ、 急に冷水をそそぎかくるは、 その当時にありての新工夫に相違ない。  近年は八代より少々上がりたる所に、 舟を巻き上ぐる工夫をしてあるが、これも珍しい。 最近に鉄道全通したために、 舟の来往は定めて大いに減じたであろう。



第五類 名勝旧跡

第六六話 耶馬渓と寒霞渓

 余が耶馬渓に遊びしは、 十八年を隔てて前後二回である。 その怪岩奇石は依然たるも、 往々山林を濫伐せしために、 いくぶんの風致を損じたるように感じた。 よって左の一絶を得た。

一別已経二十秋、 再来復与此山遊、 水眉石目猶依旧、 只恨美人多二禿頭

(ひとたびこの景勝をたずねて以来、  すでに二十年の歳月を経た。 いま再びこの地に来たり遊ぶ。 水の流れ石の姿はすべてもとのままなのだが、 残念なことに美しい景観も、 山林が伐採されてはげ山と化しているのだ。)

今、  一首の拙作がある。

渓上風光総不凡、 水心山腹錬二奇晶一人言造化無二偏愛 何向二豊陽五四秘函

(谷ぞいの風景はすべてにすぐれ、 水流の中、 山腹にも目を奪う岩がきざみこまれるようにならび立つ。  人はいう、 造化の神は万物を造り育てるうえで平等であると。 しかし、 それならば一体どうしてこの豊前の地にのみ秘密の函を開いて、 その美しさをみせているのであろうか。)

岩石の勝は耶馬渓をもって日本一とするが、  これに次ぐものは寒霞渓である。 余がかつて遊びたる節、 人より耶馬渓と優劣いかんをたずねられた。 余が申すには、「おのおの一長一短がある。 渓谷に水なきは、 寒霞の耶馬に及ばざるところにして、 汽舶の海上に走るところを望み得るは、 耶馬の寒霞にしかざるところである。」よって一吟した。

霞渓一路入二仙源ー  遠近奇観共奪五魂、 耶馬不品如斯活画、 望中汽舶吐煙奔  ゜

(寒霞渓の道をたどって仙人が住むような所に入る。 遠近のすばらしいながめに全く魂を奪われる。 耶馬渓もこの生きた画には及ばぬ。  一望のうちに汽船が煙を吐いてはしるのが見える。)

小豆島はいたるところみな海湾曲折、 風光絶佳なれば、  ひとり寒霞渓のみをもって名勝とすべからずと思い、さらに詩をもっ てその意を述べた。

水緯山経一路縫、 林密無処不二青松ー  湾頭風物渾如>画、 何只寒霞渓上峰。

(水緯山をぬうような一本の道、 林も山もすべてに青々とした松がある。 湾のあたりの風物はすべて画のようで、 どうして寒霞渓の峰だけが画のようだといえようか。)

豊後の鍋山、 会津の東山、 飛騨中山の一部などに、 耶馬渓に似たる所あるも、 奇石怪巌の十里以上連続せるにいたりては、 耶馬の天下に得たる特権であろう。



第六七話    熊野の三勝

世人は「日光を見ずして結構を説くなかれ」というが、 余は「熊野に至らずして山水を談ずるなかれ」といおうと思う。 熊野の山水中その最も殊絶なるものは、 第一瀞 峡、 第二那瀑〔那智の滝〕、 第二橋杭である。  これを熊野の三勝と名づく。 日本三景の一たる天 橋〔天橋立〕は、 一帯の地峡、 その形あたかも橋梁のごとく海湾中を横断するものなるが、 橋杭の奇勝は岩石の形、 橋杭のごときものが、 海中に並列しておるのである。 もし、 天橋をしてこの杭の上に載せしむれば、 はじめて天然の橋梁を大成するを得るわけだ。 しかるに、 天これを分かちて百里の外に置きたるは、 遺憾の次第ではないか。



第六八話    瀞八丁

紀州〔三重県〕南牟婁と和州〔奈良県〕吉野郡との境を流るる北山川に、 瀞八 丁 と名づくる名勝がある。  この八丁の間に道路がないから、 舟にて上下せねばならぬ。余、 最初その名を聞きしときには、 ドロは泥にして、  泥道八丁の間歩行し難ければ、 舟にて泥中を渡るならんと思いおりたりしが、 その地に至りてはじめて己の想像の誤れるを知ると同時に、 ドロの文字は「泥」にあらずして「瀞」なることを知り、 大いに笑ったことがある。  その地方の言にて、 渓流のよどみて淵をなす淵をドロという。 文字は「瀞」の字を配してある。  この奇勝は耶馬渓以上なりとの評もあるが、 ただその耶馬渓にしかざる一は十五里にまたがり、  一は八丁に過ぎざる点であろう。 とにかく世の観光に志あるものは、  一度討尋せなければならぬ名所である。



第六九話 四国の風景

 

四国の風景は主として讃岐と宇和島とにあるように思う。 なかんずく内海の景は讃岐をもって第一とし、 讃岐の景は屋島をもって称首とするとは余の説である。 屋島は名所旧跡を兼ねたる勝地なれば、 四国第一と称してよい。  そのつぎは琴平、 そのつぎは観音寺、 そのつぎは詫間、 そのつぎは津田、 これを余は讃州〔香川県〕の五勝と定めた。 別に奇勝としては寒霞渓があり、 庭園としては栗林公園がある。 屋島の山上には無水の井と不解の雪が名物となっておる。  これは屋島七不思議の    つであろう。 先年屋島寺に一泊し、 懐古の談をしておる間に汽笛の声が聞こえたれば、 詩をもっ て所感を述べたことがある。

屋島峰頭日欲レ傾、 松風洗>熱覚二神清明余沢及一山寺懐古談中聴二汽声

(屋島の峰に日もかたむこうとして、 松を吹く風は暑熱を払って、 ひときわ清らかさを覚えさせる。 文明の恩恵はこの山寺にも及び、 昔をなつかしむ談話のなかに汽笛の音が聞こえてくるのだった。)



第七〇話    南信の勝地

信州〔長野県〕南部にては木曾の寝覚〔の床〕、 犀川の三清路、 伊那の天竜峡、 ともに名高いが、 そのうち天竜峡がいちばんよろしかろう。 寝覚は評判ほどでない。 天竜峡は紀州の瀞八丁に似ておるも、 到底瀞には及ばない。ただし、 小舟にて急流を走り、 両岸の十勝を瞬息の間に看過するが、 あたかも天然の活動写真をみるがごとく、すこぶる壮快に感ずる。  そのとき作った拙作が二首ある。

小舟破レ浪浪生函風、 十勝看過一瞬中、 忽下二急瑞ー更回>首、 孤橋懸作二峡間虹

小舟は波浪を突き破るかのごとく、 激波は風を生みだし、 多くの景勝も一瞬のうちに見送る。 たちまちに早瀬を下り、  こうべをめぐらせば、 ぼつんとかかる一本の橋が谷間に虹のように見えたのであった。)

天竜峡上一橋懸、 両岸怪巌奇石連、 水走舟飛急二於矢一 左応右接目将レ眩  ゜

(天竜峡には一本の橋がかけられ、 両岸には怪奇な姿の岩石が連なる。 激流に舟は飛ぶように矢よりも早いかと思われ、 左右に目をもって応接するもくらまんばかりであった。)



第七一話    日本のスイス

西洋人は飛騨を称して日本のスイスというそうだ。余、 飛騨を一過せしに、 人みな中山七里を称賛するも、

その第一は白川郷の越中五箇〔山〕へ出ずる道筋である。そのつぎは野麦より朝日村に出ずる道、 そのつぎは中山七里、 そのつぎは宮川および高原川の沿岸であると思う。 しかし一国として渓山の豊富なるは、 飛騨の右に出ずるものはない。 山の形、 水の色も別天地の観を呈しておる。 しかしてこれをスイスに比するに、 山勢の雄大なると湖水の多きとは、 飛騨のかれに及ばざるところであるが、 また渓流の美なると岩石の奇なるとは、  スイスのこれに及ばざるところである。  これに加うるに、 飛騨には秋期紅葉の殊絶なるものがある。 余の客中の作を左に示す。

路入二飛州一望転迷、 高峰群立覚ーー天低此中摂二尽東西勝一 山似二瑞西一渓馬渓  ゜(道は飛騨の国に入って、 みわたせばいよいよまどう思いがし、 高い峰がむらがりたち、 天も低くなったかと思われる。  このなかに東西の景勝のすべてがとりこまれ、 山はスイス、 谷は耶馬渓のごときである。)

また、 白川郷にて雨中の紅葉を詠じたる一首がある

飲レ馬武陵源上津、 半渓秋色勝二三春    雨遮二紅葉一却多趣、 恰似隔レ簾窺二美人

(馬は伝説の理想郷である武陵源のわたし場でみずかい、 谷のなかばを占める秋の景色は春の三カ月にまさる。 雨は紅葉をさえぎって、 むしろおもむき多く、 あたかもすだれをへだてて美人をうかがうがごときをたのしんだのであった。)

 



第七二話 塩原と箕面

 紅葉の名所は全国いたるところにあるが、 余は関東にては塩原、 関西にては箕面を第一に指名したいと思う。

京都の嵐山と江州〔滋賀県〕の高野は地形よく似ておるも、 ともに風致においてあまり感服できぬ。 高雄〔京都〕は楓樹の多いだけでおもしろみが少ない。  日光や妙義も評判ほどでない。 よって、 余は塩原と箕面に賛成の手をあげるつもりだ。 左に箕面の拙作一首を紹介しよう。

電車窮処石渓通、 両岸秋光映元水紅、 此景誰疑天下一、 未>観一箕面尻ク談>楓  ゜

(電車の行きつくところから岩の多い谷に通じ、 両岸を照らす秋の日差しは水にうつってあかい。  この景色が天下第一であることをだれがうたがおうか。  まだ箕面のこの景観を見ていないならば楓について語ってはならぬ。)



第七三話    湖水の名勝

本邦中、 湖水の名所は江州〔滋賀県〕琵琶湖を第一とし、 そのつぎは雲州〔島根県〕宍道湖、 そのつぎは北海道大沼湖、 そのつぎは箱根の芦ノ湖、  そのつぎは日光の中禅寺湖、  そのつぎは会津の猪苗代湖、 そのつぎは信州の諏訪湖ならんとは、 余が風景の点よりひそかにきめた順序である。 宍道湖は松江市の城台より見下ろすところ、 もっともよい。 はるかに大山を雲際に望むところは実に妙じゃ。

密是枕屏湖是盆、 芙蓉一桑挿一天門ー、 古神曾構二此仙殿一 結得八重垣上婚。

(山をもって枕屏風とし、 宍道湖をもって盆と見なし、 蓮の花の一枝を天の宮門にたてる。 いにしえの神〔素箋嗚尊、 奇稲田姫の二神〕はかつてここに宮殿をかまえ、 幾重にもつくられた垣根のうちにすまわれたのであった。)

この宍道湖に十六ハゲと名づくる所がある。 懸崖が崩れて赤土をあらわしたる場所のことじゃ。  すなわちハゲとは禿頭の意なるが、 その名前がすでに滑稽である。


第七四話    北海道の八景

余は北海道の八景を選定せんと欲し、 種々苦心の結果、 左のごとく東西に分けてみた。

(一)大沼晴嵐(大沼の晴天にたちのぼる山の気)、(二)軽川夕照(軽川〔手稲〕の夕ばえ)、(三)余市西八景    果林(余市の果樹林)、(四)小樽汽笛(小樽港の汽笛)、(五)雷電断崖(雷電山の断崖絶壁)、(六)利尻岳雲(利尻岳にかかる雲)、(七)羽幌夜雨(羽幌の夜来の雨)、(八)宗谷秋月(宗谷の秋の月)。

(一)根室観漁(根室の漁)、(二)厚岸尋寺(厚岸の古寺をたずねる)、(三)釧路橋影(釧路の橋の東八景    姿)、(四)十勝悼声(十勝のふなうた)、(五)石岳暮雪(石狩岳のくれなずむ雪)、(六)神渓秋暁 祇 局谷の秋のあかつき)、(七)浦河翻濤(浦河の怒濡)、(八)登別沸泉(登別の地獄谷)。以上は余の歴遊せし場所につきて定めたるものじゃ。  これにいちいち拙作を添えてある。

湖上清風払ーー暁煙一 駒峰一角欲>衝>天、 青密点点看堪>野、 紅葉軒前画幅懸。(大沼晴嵐)

(湖上の清風は夜明けのもやを吹きはらい、 かなたに見える駒ヶ 岳の一角は天をつかんばかりである。 青い山なみは点々として目をとどめるにあたいし、 紅葉館の前には一幅の絵をかかげてあるのにひとしい。)

鉄車数里日将袖『、 駅外清風払二暑気路入二軽川一闊如レ海、 余暉猶在二遠山雲(軽川夕照)

(汽車で行くこと数里、 日もまさに暮れようとし、 駅のそとは清らかな風が吹いて暑気をはらう。 道に従って軽川に入れば、 その広いことはまるで海のようであり、 空に残る夕暮れの光は、 遠い山にかかる雲を染めている。)

余市湾頭福海深、 家家漁得幾千金、 又将二余力面四荒野一 村外青山多二果林  (余市果林)

(余市湾のあたりは利益をもたらす海が深く、 家々の漁利は数千金を重ねるほどである。 その一方で余力をもって荒野を開墾し、 村をとりまく丘山には果樹が多くうえられている。)

小樽湾続二小雀鬼ー、 街路高低屋作レ堆、 汽笛相応声不レ断、 百船忽去百船来。(小樽汽笛)

(小樽湾は起伏のはげしい山々にかこまれ、 街路にも高低があり、 家屋は積み重なるように建ちならぶ。 船舶の汽笛はたがいにこたえるように鳴らされて絶えることなく、 多くの船がたちまちに出航したかと思えば、  また集まり来るのである。)

寿都湾外一帆風、 沙上形茫朝気籠、 山霧断処雷電出、 懸崖高在二半空中  (雷電断崖)

(寿都湾の外、 帆は風をうけて、 波の上に果てしなくひろがる朝もやのなかをすすむ。 山霧の切れるところに雷電山がそびえ、 その断崖の高いところはなかば空中にうかんでいるように見える。)

波際蝋然利尻山、 秋晴今日接二届顔一 雲容樹色非二人境恰似二蓬莱島上関(利尻岳雲)

(波うちぎわより利尻山が高だかとそびえ、 秋晴れの今日、  その高く険しいさまを間近にみた。 雲の姿や樹木の色さえ世人の住むところとも思われず、 それはあたかも蓬莱神仙の島への関所のようであった。)

原頭一夜宿一茅楼一 風雨爾爾羽幌秋、 灯影無>人滴声冷、 天涯孤客思悠悠。(羽幌夜雨)

(野のほとりに一夜をかやぶきの二階家に宿泊した。 風と雨がものさびしい羽幌の秋である。 ともしびの光に人もなく、 雨のしずくの音が冷ややかにきこえ、 空の果てのような地で孤独な旅人はおもいまどうのである。)

北海尽頭寄ーー此射    秋寒宗谷峡間風、 雨過今夜天如>洗、 月満鵬山蜆水中。(宗谷秋月)

(北海道の北端にこの身を寄せているが、 秋の冷たさが宗谷海峡のあたりに吹く風にはこばれてくる。 雨あがりの今夜の空は洗われたように澄み、 月の光がおおとりの翼をひろげたような山や蜆のような大魚のおよぐ海に満ちみちている。)

浦上秋風日欲>斜、 漁歌声裏喋二寒鶉へ  釣舟帰処人成レ市、 携二去鮭魚うか酒家ー。(根室観漁)

(海べのあたりに秋風が吹き、 夕暮れを迎えようとして、 漁夫の歌声のなか、 冬のからすがかまびすしい。漁舟のもどるところには人が集まってあきないの市がたち、 鮭魚を手にして酒を売る店に入ってゆくのである。)

景運山根路一条、 林間認得寺門標、 緑苔紅葉_無一人掃唯有  泉声破二寂蓼(厚岸尋寺)

(景運山のふもとにひとすじの道があり、 林の間に寺門のしるしがあった。 緑の苔と紅葉が地をおおうも掃く人なく、 ただ泉水の音が静寂を破っているのみである。)

釧路街頭鉄路通、 汽声断続夕陽風、 長橋一帯人如>織、 影入二晴江咋ザ彩虹  (釧路橋影)

(釧路の街頭に鉄道が通り、 汽笛の断続するうちに夕暮れの風が吹く。 釧路川にかかる長橋のあたりは織るように人がゆきかい、 光が晴れた川に差しこんで反射し、 いろどりも美しい橋に作り上げている。)

一水悠悠十勝長、 秋郊如レ海望蒼茫、 山風不レ到悼声穏、 舟入暮煙凝処郷。(十勝悼声)

(長い十勝川の水は悠々と流れ、 秋の郊外は海のようにひろびろとして果てしない。 山から吹きおろす風もなく、 さおさす声ものんびりとして、  かくて舟は夕暮れの煙たなびく村についたのである。)

行過二郊野うな林繍只  木落草枯天地寛、 石狩山頭雲断処、 満空雪色夕陽寒。(石岳暮雪)

(行きて町はずれの野をすぎ、 林と山々のある地に入った。 木の葉は落ち、 草は枯れて天も地もひろやかである。 石狩山上の雲の切れるあたり、 空に雪の気配がみちて、 夕日はさむざむとしている。)

侵暁尋来神谷秋、 何知夜雪掩二林邸生歎ー、 昨日紅顔今白頭。(神渓秋暁)渓山亦有二人

(早朝に神居の谷に秋を求めて来たのであったが、なんと、 夜の雪が林や丘をおおうとは思いもよらなかった。 谷や山にも人生のなげきに似たものがあるのであろうか、 昨日は紅顔〔紅葉〕、 今は白髪〔白雪〕となったのである。)

鯨海長風眼界開、 浦川一路気雄哉、 幾千万頃波頭雪、 都_自一太平洋上ー来。(浦河翻濡)

(鯨の遊ぶ海は遠くから吹いてくる風に視界は大きく開けて、 浦河の一路はなんと気象もたけだけしいことよ。 この限りない大海原から打ち寄せる波がしらの雪、 すべてが太平洋上から来るのである。)

揚煙活浩気何豪、 沸出泉声似二怒濡一 今夜客楼吟意動、  一痕寒月印 湯槽  (登別沸泉)

(たちのぼる煙は一帯にひろがり、 そのいきおいのなんとたけだけしいことよ。 沸き出る温泉の音は怒濡のようである。 今夜の旅館に吟詠の情が動き、 さむざむとした月が一っ、 湯槽にうつっている。)



第七五話    因州の仙巖浦

山陰奇勝中、 天橋と肩を比ぶべきものは因州〔鳥取県〕網代の外浦である。 しかるに、 いまだこれに雅名をつけたる人がない。 よって余に命名を依頼されて、  二十勝を選び、 その総名を仙巌浦と定めた。

 仙巌浦

(一)弁天嶼(六)菩薩苓(土)灯明嶺(其)浮木橋(二)鬼住窟(七)雅児岬懸帆岡(宰)菜花(三)烏帽島(八)天狗崖(士)観音礁(大)仙遊澗(四)渡猿峡(九)夫婦湾(西)摩尼洞(文)古城浜(五)鳳松巌)鼎足密(去)鴨眠磯達磨島

 この奇勝はいまだ他県に知られておらぬけれども、 全国名勝の    つに加えて篭も遜色なきものなれば、 因州通行の人士は必ず車をまげらるるように、  ここに紹介するところである。第七六話    石州の琴ケ浜と断魚渓石見の国には一貫せる大道ありて、 海山の間を縫い、 出没上下三十余里の長きにわたっておるから、「合>海又離>海、 出>山還入>山、 軽車石州路、  尽日水雲間。」(道は海にあい、 また海を離れ、 山より出たかと思えば、  また山に入る。 軽やかな車が石見の道を行けば、  一日中、水と雲の間を抜けてゆくかのようである。)と詠じたことがある。 その他の名勝としては、 琴ケ浜と断魚渓が世間に聞こえておる。 琴浜にて砂上をふめば、 琴のごとき音がする名所である。

馬路浜頭傍>水行、 曾聞此地有二琴名一 白沙一帯清如>洗、 歩歩自成二天楽声

馬路の浜辺を海にそって行く。 かつてこの地には琴の名がつけられていると聞いた。 白い砂のところは清らかにあらったかのごとく、  一歩一歩の足もとからその名のごとく天然の琴の音が起こるのであった。)

なかんずく、 最も名高き絶勝は断魚渓である。  これは山間の渓流をさかのぼり、 渓路の窮まらんとする所に十二の奇勝がある。  その中心は千席間でありて、 ここにて回望すれば、 十二勝を両眼の中に入るることができる。

路入二断魚一心欲五馳、 鬼峰神澗眼前披、 停応叩歎賞天工妙、  一石刻成十二奇  ゜

(道は断魚渓に入ってわが心は馳せめぐりたい思いにかられた。 馬背山の峰や千人敷きの広い渓谷が眼前にひらける。 杖をとめて自然のたくみな造形に感嘆した。  この岩場には十二の景勝があるという。)



第七七話    伊豆七島の名勝

伊豆七島中、 大島の三原山上より富岳を対望するところ、 さらに壮快だが、 八丈島の大坂隧道の口にて、 西山と小島を望むところも美妙である。 西山は八丈富士ととなえ、 芙蓉をさかさまにかけたる形しておるが、 小島もやや類似の形をそなえておる。 よって左のごとく詠じた。

馬上吟行身欲仙、 青椿密与二碧湾一連、  一過 隧 道  更相望両染倒蓮懸 海 天

(馬上に吟じ行く身は世俗をはなれた仙人になるかと思われた。 青い椿の山とみどりの湾とが連なり、  ひとたびトンネルをぬけてさらに望めば、 ふたつの蓮をさかさまにしたような山が、 海と天との間にかけたように見えたのであった。)



第七八話    高千穂の古跡

日向の高千穂といえば、 なにびとも天孫降臨の地なることを知るであろう。 実に山間の僻郷である。 ここに高天原や天の岩戸のあるは、 淡路に天の浮橋やオノコロ島があると同じく、 神代史にもとづきて設けたるものじゃ。 山また山、 渓また渓の間に人家が点々散在しておる。 しかし、 高千穂の名に連想して懐古の情を喚起した。

神跡尋何処ー、 問山山不巳言、 石渓断橋下、 挙首望天原

(神の跡をいずこにたずねようか、 山に問うも山はもの言わぬ。 石の渓谷と、 とぎれた橋のもとで、  こうべをあげて高天が原をのぞみ見たのであった。)



第七九話    笠置の奇勝

名所旧跡中、 世の中へ紹介したきは笠置山である。 世人はまだ後醍醐天皇の行在所のありし所とのみ知りて、その岩石、 その眺望の特殊なるを知らぬ。 巨石においては日本のみならず、 世界一といわれておる。 弥勒石、 文珠石、 薬師石がその魁なるものじゃ。 昔時、  この石をいるるために大伽藍があったそうだ。  その大きさ、 奈良の大仏殿以上と申しておる。  そのほか金剛界石、 胎蔵界石、 太鼓石、 釣鐘石、  エルギ石、 兵等石、  蛙石、 弁当石、 貝吹石、 鯰石等、 枚挙にいとまなしである。



第八〇話 桜井駅の遺踏

楠公〔楠木正成〕の遺跡として、 桜井、 湊川、 四条畷が最も大切なる場所であろうが、 湊川と四条畷は壮麗なる構えありて、 厳然たるものであるけれども、 桜井駅は実にあわれなるものじゃ。 山崎より十五、 六丁離れたる所に、 大道にそって石碑が立っておる。  その表に「楠公訣児之処」と刻してあるのみだ。  その傍らに古木の朽ち去りて、 骨のみになったものが残り、 その周囲に草ばかり生い茂りておる。 その荒涼のありさまは、 余の所感をつづりたる詩の中に含めてある。

楠公訣児地、 只有二  碑残ー、 斜照入二荒径ー、 秋風石影寒  ゜

(楠公が子と訣別した地には、 ただひとつの石碑が残るのみである。 西にかたむいた日が荒れた小道を照らし、 秋風のなか碑石の姿も寒々としている。)

この旧跡は忠孝の大道を教授するに活きたる標本であるから、 楠公父子の銅像でも建てて、 修養的公園にしたいものと思う。



第八一話    長崎の所感

長崎は文明の初陣にして文明のしんがりなりとは、 同市人の自ら公言するところである。 わが国文明の曙光は長崎より発したるは、 なにびとも疑わざるところなるが、 今日はその保守のはなはだしきより、 かえって他府県に凌駕せらるるに至った。 余が客居中の作二首を左に示す。

客舎深更夢未成、 汽声喚起古今情、 崎陽一線文明火、 焼尽徳川三百城。

(旅館で夜も更けたがまだ眠らずにいると、 汽笛の音が古今の思いを呼び起こす。 長崎にひとすじの文明の火がともり、 やがては徳川三百城を焼き尽くすがごとく維新を迎えたのだ。)

海入鎮西山尽辺、  一湾三面市街連、 崎陽胎内驚二神仏一 産出維新明治天。

(海の鎮西に入りこんで山の端の尽きる所、  一湾の三面に街並みが連なる。 長崎一帯は寺社が破毀されて神仏を驚かせる歴史もあったが、 維新が生み出され明治の世となったのである。)


第八二話    風景に富める旧城

全国中、 余の歴観せる大名の旧城にては、 江州〔滋賀県〕彦根と肥前唐津と鹿児島との三カ所をもって、 最も風景の秀霊なるように感じた。  これに次ぐものは福岡の旧城であろう。 彦根はなにびともよく知っておるが、 唐津は知らぬ人が多い。  その地の名勝は覚林〔虹の松原〕である。 老松の蝠屈せるものが、  二里の長き海浜に弓形をなして連なっておる。 到底須磨、 明石の比ではない。 その形虹に似たりとて寛林の名称がついた。  つぎに、 鹿児島城の風景のよきは眼前に桜島があるからだ。 左に拙作を掲げて、 その一斑を紹介しよう。

吟身漂泊似浮舟、 探勝今年入薩州    攪海暮潮揺客思、 鶴城朝雨浸春愁 花埋照国社前路、  人椅西郷墓畔楼、 水色山光何処好、  湾風月在桜州

(吟遊の身として漂泊することたよりない浮き舟のごとく、 景勝をもとめて今年は薩摩の国に入った。 鹿児島湾の日暮れのうしおは旅人の思いを揺り動かし、 鹿児島城〔鶴丸城〕の朝の雨は春のものおもいをしっとりとぬらす。 花は照国神社まえの道を埋めるように咲きみだれ、 人々は西郷墓にいたり、 かたわらの楼による。 山水の美観はいったいいずれの所がよいのか、  おそらくこの湾の風月景勝はすべて桜島にあるといってよいであろう。

そのほか、 播州〔兵庫県〕明石の城跡もなかなか絶景である。



第八三 話    島国の風景

島国は海と山とがいたるところに入り込んで、 いったいに景色のよきものである。 隠岐のごときは海湾深く山の間に忍び入りて、 なかなか絶景である。 対馬も山と海と相映じて風光明眉である。 佐渡も河原田〔佐和田町〕、夷港辺りはよき眺望を持っておる。 淡路も洲本辺りはかなりよい。  ただ、 さほどでなきは壱岐である。  これは、つまり山らしき山がないからじゃ。 全島丘陵より成り立っておる。  そのうち最も高きを「岳の辻」というも、 雅名なければ余は多景峰と命名したが、  この地の特色は人家が点々田圃の間に散在し、  一所に集合隣接せる村落のなき一事である。  ゆえに、 毎戸避病院のように思わる。 その国の中央に当たる那賀村〔現・芦辺町〕に、 名高き鬼の岩屋がある。 古代、 鬼の住みし跡なりと申せど、 多分豪族の墳墓であろう。 余は戯れに、「極楽と思ひし壱岐の山里に、 鬼すむ穴を見るぞ怪しき」とよんでおいた。 またここにも、 壱岐客中の作を掲げておく。

遥到蓬莱島上関、 波光密影異人衰一半城湾上舟宜迂、 多景峰頭路易攀、 鬼窟猶存那賀里、 神霊如在釣魚山、 看来勝本又郷浦、 我愛壱州風月閑  ゜

(はるかに仙人が住むような島上の関に至れば、 波の輝き連なる山々の姿は人境とは異なるものがある。 半城湾の海上に舟をただよわせるべく、 多景峰頂上への道はのぼりやすし。 鬼の窟はいまなお那賀の里にあり、 神霊は釣魚山にいますがごとくである。 勝本や郷之浦もみたが、 私はなによりも壱岐の風月ののどかさを愛するのである。)

 


第六類 名物七奇


第八四話    長州の名物

余は先年長州〔山口県〕に遊び、 萩町〔現・市〕に滞在すること数日に及んだ。 人みな「萩は僻地にして交通便ならず、  ただ物産としては夏蜜柑あるのみ」という。 余思えらく、 長州の名物は夏蜜柑にあらずして人物である。明治維新の元勲はいずれより起こりしや。 長州なかんずく萩の地より出でたるは、 天下の熟知するところではないか。 世間では今日の政府を薩長政府、  または長州内閣といっておるではないか。  すでに人物をもって国産となす以上は、 世の中に対して大いに誇りてよろしい。 決して夏蜜柑の比ではない。  ついては今後永く人物を養成して、 既得の名誉を失わぬように願いたいと申して演説したことがある。



第八五話    鹿児島県の特色

鹿児島県は鹿児島市を除くのほかはみな村のみにて、 市無町の県は全国に類がなかろう。  また、 各小学校に壮大なる講堂の設備あるも、 他県にあまり見ざる国だ。 また揖宿郡のごときは、 郡内にわずかに五カ村あるのみ。  これも珍しい。  谷山村〔現・鹿児島市〕は、  一カ村にて人口三万を有するも異例である。 嘲眠郡〔現・曾於郡〕のごときむずかしき文字を用いたる郡名もほかにあるまい。 役場員、 教員はほとんど士族で持ち切り、 平民の加わらざるもその特色である。

民家の屋根に煙出しのなきこと、 壁なくして戸障子のみなること、 飯をたくに釜を用いざること、 道路にはだし者多きこと、 馬車を御するものが赤帽を着すること等、 その特殊の点はいちいちかぞうるにいとまなきほどである。



第八六話    薩摩の名物

世間にて薩摩といえば、 芋を連想しきたり、 芋とは薩州〔鹿児島県〕の異名のごとくとなえきたるも、 薩州の名物も芋にあらずして人物である。

余が鹿児島客中の一作をここに挙げん。

鹿城高処立二長風 薩海隅山気象雄、 此地由来出二人傑大成明治新功。

(鹿児島市の高いところ、 はるか遠くより吹いてくる風に立てば、 薩摩の海と大隅の山のおもむきは雄大である。  この風景の地はそのゆえか、 むかしからすぐれた人物を輩出し、 明治一新の功業を大成したのである。)



第八七話    上州と越後との名物

上州〔群馬県〕の名物に三つある。 曰く雷鳴、 曰くカラ風、 曰く 娘 天下じゃ。 その娘天下なるは、 養蚕、 製糸の業盛んにして、 したがって婦人に収入多く、 自然に権力を有するに至ったためである。 しかして雷鳴とカラ風とは前にも一言せるがごとく、 よく上州人を感化して一種の気風を化成し、 いわゆる侠客ハダなる資性を造り出だしたに相違なかろう。  つぎに越後の名物を挙ぐれば、 夏時の午睡と冬季のこたつと、 年中毎朝の雑炊である。前二者はナマケものの楽しむところなるがごときも、 その実しからず。 すなわち、 夏時は日中暑気耐え難き間に眠息をなし、 その代わりに朝早く起き夜おそく寝ぬれば、 実際労働の時間を多くするの益があり、 また、 こたつは大いに炭の経済を助くるものじゃ。  ゆえに、 北越にこの名物あるは、 その勤倹の一端を示しておる。 雑炊もむろん倹約のためである。


 


第八八話 伊賀の名物

伊賀に入りてその国の名物を問えば、 茶粥と午睡と置きごたつなりと申す。  そのほか漬け物に羊羹漬けというものがある。 瓜の中にしそをはらませて漬けたもので、 その色羊羮に似たるゆえに羊    漬けというのである。 また、 石ヅキ歌と名づくる俗謡がある。 東京のキャ リに代用するものだ。  また盆踊り、 盆歌も、 その地の名物の一つである。



第八九話    佐賀県の名物

余が佐賀県滞在中、 その名物を数えきたるに、 第一ははだし、 第二は赤 揮、 第三は水たまり、 第四は泥道、第五は水揚げ機械と思う。  これに次ぐものは奇形のムツ魚である。 ただし、  一般に勤倹の風あるも、 その名物のつであろう。 全国中はだし者の多きは沖縄県を第一とし、 小笠原島を第二とし、 佐賀県を第三とし、 鹿児島県  を第四としたい。 佐賀県にては車夫もたいていはだしである。 しかして道はいたって滑りやすい地質なるも、 巧みにつまずかずしてよく走るは、  一種の技術と見てよかろう。  ムツ魚は他地方のムツ魚にあらずして、 東京のダボハゼに似て、 眼球の突き出でたるものじゃ。 泥海にばかりすんでおる。 熊本県にては食せざるも、 佐賀県にてはこれを喜びて食す。 あるいは倹約の結果かも知れぬ。

 

第九〇話 佐渡と若狭との名物

真野の御陵と相川の金山とは佐渡の二大名物なるは申すまでもないが、 余はこれに本 荘  了 寛氏創立の明治記念堂を加えたいと思い、 先年記念堂落成式に、「佐渡の地に過ぎたるものが三つある、 真野と金山、 記念堂なり」とよみて祝詞に代用したことがある。 佐渡に準じて若州〔福井県〕の名物をかぞえきたらば、 小浜の弱瑞と天徳寺の沸泉は例外とし、 そのほかに左の三種をかぞえ上げた。  すなわち、「若州に名高きものが三つある、 景色、 藪蚊と午睡なるらん」の三名物である。 天徳寺の沸泉は瓜わり清水と称せられ、 森林中の岩根より非常なる勢いをもって湧き出でて、 その清くしてかつ冷ややかなること、 夏中にても氷と同様である。 その中に 甜 瓜を投げ込めば、 自然に割れるところから、 瓜わりの名称が起こってきた。 余はここへ暑き気節にたずね来たり、 ビー ルを冷やして傾けたが、 その味今に忘れない。

 

第九一 話 讃岐と赤穂との名物

「香川県は讃州にあらずして、 三白なり」という諺がある。  すなわち、 その県の特産は食塩、 砂糖、 綿花、 もしくは米、 塩、 糖の三白である。 しかして塩は讃州よりも播州〔兵庫県〕赤穂の名が、  一層世間に高い。  また、 赤穂は塩のほかに義士の名物がある。  二者ともに潔白の標本である。 余ここに遊びしときに、

義者心之養也、 塩者身之養也、 身無塩則難保レ生、 心無義則難レ成名。

(義なるものは心の栄養であり、 塩は身の栄養である。 身に塩がなければすなわち生を保つことは難しく、心に義がなければすなわち名誉を得ることは難しい。)

の語を題したことがある。 そのとき、 はじめて生鯛の塩蒸しを試みたが、 なかなか美味であった。 また、 義士につきて作った詩がある。

我国由来誇義勇、武威圧倒満韓州、 忠臣蔵是其標本、 正気徽然千百秋  ゜

(わが国はもとより義勇を誇り、 武威は満韓の国を圧倒す。 忠臣蔵はまさにその見本であり、  その正しい気性はいかめしく千百年も保持されているのである。)

 


第九二話 甲州およぴ飛州の特色

甲州〔山梨県〕にては他地方とその風を異にするものが三種ある。 曰く切り破風、  日< 四角箸、 曰く三升桝。 切り破風とは、 民家の建築に屋根の両側を鉛直に切断するがごとくになりおるものという。  これ二階にて養蚕をなすに便ならしめんためである。  しかるに近年鉄路開通以来、 ようやくその特色を失いつつあると申しておる。   ぎに飛州〔岐阜県〕の特色は、 民家の粗大なること、 板ぶきのみにて茅屋のなきこと、 便所は上下を通じて屋外に設くること、 水田中に稗を作ること、 茄子はすべて長茄子なること、 桑はすべて立ち木にして、  しかも老木の多きこと等である。



第九三話    諏訪の七不思議

昔より信州〔長野県〕諏訪の七不思議と称して、 越後の七不思議とともに世に名高いが、 余は諏訪客中、 新七不思議を案出した。

一、 男女ともにタッツケをうがつこと。

二、 繭倉の三層以上にして城楼のごときものの林立せること。

三、 製糸場の煙筒はみな赤色なること。

四、茶菓子に漬け物香々を用い、あるいは煮物を添うること。(この風、九州地方に同じ)

五、 小学校の時間の合図に太鼓を用うるものあること。

六、 海抜三千百三十五尺の高地に停車場を有すること。七、 中学校舎内に峻坂険路あること。

以上は珍しく感じたる事項を掲げたるまでである。

 


第九四話 島根、 鳥取両県の七奇

島根県巡回中、 奇異に感じたるものを集めて、 左の七奇を定めた。

第一は、 赤色を帯びたる瓦を用うること。

第二は、 人狐の住する家あること。

第三は、 樹木を防風塀に作り立つること。

第四は、 朝飯の饗応に蕎麦を用うること。 

第五は、 鯉の糸作りを刺身に代用すること。

第六は、 椀に二階つきのものあること。

第七は、 人力車の横に鉄棒の出でたるものあること。

つぎに鳥取県周遊中、 奇異に感じたるものは、

一、 香の物をチョ クに入るること。

二、 米俵の標本を路頭にかかぐること。

三、 神に賽するに米をまきちらすこと。

四、 屋根瓦の赤色を帯ぶること。

五、 人力車の前に鉄棒を横たえること。

六、 人力の先引きに牛馬もしくは婦人を用うること。

七、 人狐、  トウビョウの迷信の行わるること。

そのうち二、 三は、 島根県と共通しておる。



第九五話    能州八景と七奇

能州〔石川県〕は風景の美なると空気の清きと人気の穏やかなるとは、 ともに誇るところである。  そのうち風景にては九十九湾の勝あるも、 これ世人の熟知するところなれば、 余の紹介を要さない。 余が先年能州を一巡したるとき、 その経由せる地につきて左の八景を選定したことがある。

(一)七尾の汽笛(二)中居の隧道(三)珠洲の塩田  (四)南志見の盆踊り

(五)輪島の明月(六)七浦の断巌(七)鈍打の駿雨(八)高浜の炎暑

また旅行中、 見聞上奇異に感じたるものを集めて七不思議を選定した。  その中に小木〔現・内浦町〕法融寺のランプと徳田〔現・七尾市〕照明寺の大すずりとを加えた。 法融寺には、 題するに「不許輩酒入山門」(輩酒山門に入るを許さず)にあらずして、「不許蘭弗入山門」(ランプ山門に入るを許さず)の規則があって、 山内には一切ランプを用うるを禁じてある。 箱根底倉湿泉旅館蔦屋もこの一類である。 照明寺の大すずりは、 長さ一尺八寸、幅一尺二寸あって、 男二人にて運ぶほどの重量を有し、 珍しきものじゃ。



第九六話    北海道の七奇

余は北海道七不思議を選び、 左のごとく定めた。

(一)船の土用ぽし  (二)馬の寒ざらし二)鶉のいたずら(四)御馳走のおかわり(五)葬式の張り込み  (六)呉服もののかね尺  (七)松の紅葉

北海道の漁船はにしんのとれる期節これを使用し、 そのほかは船小屋の中に入れておき、 暑中になれば、 虫ぼしするがきまりである。 船の虫ぼしは全国無類であろう。

つぎに馬の寒ざらしと松の紅葉とは、 前に話したはずじゃ。 人を招きて食事を出だすときには、 皿でも平でも、  サシミ、 茶碗むしにいたるまで、  おかわりをなす風習である。  また、 呉服類はすべて呉服尺を用いずして、かね尺を用うることになっておる。



第九七話    琉球の七奇

琉球にて他国人の見聞に触れて、 珍奇に感ずるものは左の七種である。ハプと豚、 芋と泡盛、 ュタ墓場、 赤き瓦を七奇とぞ知るハプは有名なる毒蛇にして、  これにかまれたる場合には一命もおぼつかない。 ュタとは女巫すなわちミコにして、 人の依頼に応じて死者の消息をかたるもののことじゃ。 芋は民家の常食、 泡盛は常飲である。 墓場の壮大は世界一にして、 瓦の色も一種特別だから、 ともによく人の目を引く。



第九八話    伊豆大島の二十無

伊豆大島の特色を「無」の字をもって列挙すれば、  二十項となる。

島無米、 野無菜、 山無狐、 渓無水、 路無橋、 田無蛙、 邸無井、 居無壁、 家無階、 内無厠、炊無釜、 婦無帯、 歩無鮭、 寺無法、 婚無式、 会無礼、 人無等、 村無争、 館無浴、 径無凸  全島に河川なく、 したがって水田も橋梁も、 蛙、 蛍、 菖蒲の類、 皆無である。 家に井戸なければ、 旅館に浴場を設けない。 風強きために二階造りなく、 道を歩するにはすべて草履を用うる風である。 寺院あれども法を弘めず、 結婚を行うも極めて簡単なるものだ。 あまり貧富の別なければ、  上下の等差がない。  人情は質朴なれば、  喧嘩、 争論が少ない。 道路は一般に粗悪にして、 凹形をなすものが多い。  これ、 その島の特色とする国である。

 



第七類 市町村里

第九九話    町村の珍名

肥前唐津町〔現・市〕に表坊主町、 裏坊主町という町名があるも、 その町内に坊主の住するにあらず、 普通の街路である。  これを単に表坊主、 裏坊主と呼ぶはおかし。  紀州〔和歌山県〕日高郡には御坊町〔現・市〕という町名がある。 讃州〔香川県〕香川郡には仏生山町〔現・高松市〕と鬼無村〔現・高松市〕とがある。 対州〔長崎県〕にケチ(鶏知)村〔現・美津島 町 〕、 飛騨にゲロ(下呂)村〔現・ 町 〕、  ホイト(保井戸)村〔現・下呂町〕、 琉球にオンナ(恩納)村があるが、 いずれも珍しき町村名じゃ。 今一ツ奇なるは、 北国の三大都といわるる加州〔石川県〕金沢と越中富山と越前福井とは、 互いに申し合わせるがごとく、 金・富    福の縁起のよき名を有することである。



第一〇〇話 蓮根町

豊後竹田町〔現・市〕は日本中最もトンネルの多き市街である。 市の周囲に九カ所の隧道ありて出入しておる。

ゆえに、 人呼んで蓮根町というはおもしろい。 竹田より熊本に通ずる道路には十六のトンネルあり、 三重町より入る所にも七カ所ありて、 山上より市街をのぞむに蜂の巣の形をなしておる。  ゆえに蜂窟街と名づけてよかろう。 ときに、 余の作った詩がある。

隧道縦横穿二断崖一 人車出没市如砿蝸、 臥牛山下旧城跡、 今作二蓮根孔裏街

(隧道〔トンネル〕は縦横に断崖をくりぬいて竹田の町に通じ、 人と車の市街への出入りはあたかもかたつむりのようである。 臥牛山のもと、 旧城下町は、 いまや蓮根のあなにかこまれた街となっている。)

欲訪武陵源上臆 幾重隧道僅通車、 我来駕見竹田巷、 人住蜂窟深裏居

(武陵桃源のような別天地に宿を求めようとし、 ようやく車が通れるほどのトンネルをいくつもぬけた。 到着して竹田の町をみて驚いたことには、 人々は蜂の穴にかこまれたような深いなかで住みなしているのである。)



第一〇一話    火風の有無

伊豆の妻良港には、 古来火災の起こりたることがない。  これ、 市街の形が「水」の字状をなせるによると申しておる。  これに反して越中の氷見町〔現・市〕は、 古来火災多きをもってその名が高い。  その町名を昔時は火見町と書きしによるという。  その後氷見に改めたるも、 なお火災がある。 火災の有無、 決して町形や町名に関するわけはあるまい。  また越中井波町は、 その形「風」の字に似たるために風が強いというも、  おかしいではないか。



第一〇二話 越後のアヤ町

越後西頸城郡名立町は海浜に沿いたる小駅である。 余ここに至り、「当地は町なりや村なりや」と問えば、「村にあらずしてアヤ町と称する町である」という。「されば名立町にあらざるか」とたずぬれば、「本名は名立町なれども、 最初町村制を実施せらるるに当たり名立村とするが当然なるに、 誤ちて名立町としたから、 その異名をアヤ町と呼ぶ」と答えた。



第一〇三話 丹波の分水駅

いずれの地にありても、 河流の水源は必ず一帯の山脈より発し、 分かれて両面に向かいて流るるを常とするから、 その山を分水嶺と名づけてある。 しかるに、 丹波国氷上郡石生村〔現・氷上 町 〕は郡内の一小駅なるも、 街路の北側より流下する水はようやく流れて北海に入り、 南側より流下する水は別に流れて南海に入る。  その中には一棟の家屋にして、 屋上より落つる雨水が前面は北海に入り、 後面は南海に入るものがある。  ゆえに、 余はこれを分水駅、 または分水街、 または分水棟と名づけたいと思う。

 


第一〇四話 陸上の孤島

 余は北海道に陸上の孤島ありというを聞きて、 最初その意を解しかねたが、 西岸を一巡してはじめて知ることを得た。  すなわちその場所は陸地にあれども、 三面険山をもって囲まれ、 いずれに向かうも通ずる道路がない。ただ一面、 海路によりてほかと交通するのみである。 飛騨山中にこれに類する所がある。 対岸に行くに、 昔は〔駕〕籠渡しを用いたそうだが、 余は鉄索を両岸につなぎ、 これに軽便の輌に似たるものをかけ、 自ら縄を引きて渡る器械がある。  これを釣り越しと申しておる。 あたかも陸上の孤島にひとしきものじゃ。  これを詠じたる拙作がある。

吟笥何厭路岬蝶、 明山媚水忙ーー送迎ー、 絶壁津頭舟不レ見、 人懸二鉄索如 レ空行。

(吟詠の杖をついて行くのに、 どうして道のけわしさをいとおうか。  すっきりした山と美しい水はいそがしく送迎してくれるのである。 絶壁のわたしには舟は見えず、 人は鉄索にかけられたかごにのって空を行くのだ。)

 


第一〇五話 熊野および吉野山中の村落

紀州〔和歌山県〕熊野山中は一村が五里ないし七、 八里にまたがり、 二十戸、 三十戸くらいをもって一大字となす所がある。 たまたま病人ありて医師を迎うるに、 峻坂険路を越えて五里、 十里の外に出でざるを得ない。 しかしてその送迎には熊野特有の輌を用う。  その形は他地方にて棺を運ぶに用うる蓮台に類するものにして、  四人の肩でかつがねばならぬ。  ゆえに    一回医者を聘するに少なくとも十五円以上を要すという。 そのほかの諸事に不便なるを、 推して知ることができる。  これと同じく吉野山中にても、 谷川の水のあふるる場合には、 十日以上も交通遮断し、 対岸の人家に糧食の尽くることが起こる。  かかるときに糧食を運ぶ設備に、 渓流の上に針金を懸けおく所がある。 吉野郡内にして熊野に接する所に、 十津川と名づくる一村がある。 大字五十余に分かれ、 長さ三十里にまたがる。 ほとんど一国の面積を有し、 村立中学校を設けておりて、 全国無比の大村である。  これに反して、  その隣村に野迫川村があるが、 高野山と境を接しておる。  この村内には 二戸をもって一大字となせる所がある。 聞くところによれば、  この辺りは山林一丁の地価、 わずかに四十銭以内ということじゃ。



第一〇六話    肥後の鹿児島

昔、 はじめて会津地方を旅行せしとき、 野婦に向かい「途中これより若松まで幾里ありや」と問いしに、「知らず」と答えた。「城下まで何里ありや」と問うて、 はじめて知ることを得た。  これ、 城下の名を知りて、  若松の名を知らざる故である。  これと同じく、 薩州〔鹿児島県〕の者が肥後に来たりて、「鹿児島はどこにあるか」とたずねたそうだ。  その者の意は、 県庁所在地はみな鹿児島というものと思ったからである。



第一〇七話    伊予の仙郷

伊予国久万山中は一仙郷である。 生涯平原を見ずして死するものが多い。  この山間に入るには、 有名の坂路たる三坂嶺をこえなければならぬ。 山中のものは、 この嶺頭よりはるかに松山の平原を望みて、「日本は広大なり」というそうだ。 松山を見て日本と思うは、 いわゆる「管中の天」である。 常食はトウモロコシにして、 極めて粗食に安んじておる。  この山間の僻邑にいたりては、  一村落中に提 灯わずかに一個、 畳わずか十二、 三枚さえ所有せざる所があるという。 また、 その奥の石槌山の麓に至れば、 人力車はもちろん、 荷車も知らざるものがあるとのことじゃ。  これ、 明治の仙郷と申してよい。



第一〇八話    山中無暦日  (山中暦日なし)

日露戦役後、 余、 大和吉野山中に入り、 深山幽谷を祓渉して大峰山麓に至った。 村民中には旧暦を知りて新暦を知らざるものが多い。  これ、  いわゆる「山中暦日なき」の仙境である。 しかして村々落々、 凱旋門を設けざる

所はない。  ゆえに    一詩を賦して所見を述べた。

日露和成後、 人呼二万歳一喧、 山中無伝暦処、 猶見凱旋門。

(日露の和平が成立してのち、 人々の万歳を呼ぶ声がかまびすしい。  この奥深い山中の暦もなく時を忘れたかのような所にも、 今や凱旋門が見られるのである。

そのとき、 小川村〔現・東吉野村〕にて凱旋せる軍人に感謝状を贈りたいから起草せよとの依頼に応じ、 言文一致流の長編を作りて授けた。

日露交后兵已二年、 海戦陸闘共空前、 皇軍所レ孵如二破竹一 陥ーー落旅順一屠ー奉天一 大挙将砿衝浦塩険、 全軍士気益揚然、 時有=ー海軍報ーー大捷一 敵艦全滅無二余船    終局勝敗於レ是定、 婿和声自ーー米国ー伝、 戦争元来非二我意一唯期皇礎千載堅、 平和条約忽締結、 皇国威名震二乾坤ー 朝野士民歓何極、 万歳高呼動二山川一 畢覚軍人決ニ死    或侵二弾雨ー或砲煙、 皆知二勇進示'レ知玉退、 連戦連勝其功全、 完ーー了任務匹郷里村民井舞迎二凱旋一如>此偉勲何以謝、 誠意捧来詩一篇  ゜

(日露の干文を交えることすでに二年、 海に陸に空前の戦闘をくりひろげ、 皇軍の向かうところ破竹のごとく、 旅順を陥落させ奉天をほふる。 大挙してまさに浦塩〔ウラジオストク〕の険塁をつきやぶらんとし、 全軍の士気はますますあがる。 ときに海軍の大勝が報ぜられ、 敵艦は全滅して残余の船もないと、  この戦争の勝敗はここにおいて定まり、 講和の声は米国より伝わる。 戦争は元来わが国の本意ではない、 ただただ皇国の礎の千年のかたきをねがったのみである。 平和条約はたちまち締結され、 皇国の威名は天地をも震撼させた。 官吏も民間人も全国民のよろこびは極まりなく、 万歳の声は高く山川をもゆり動かさんばかりである。それも結局のところ軍人が決死の覚悟で、 あるいは弾雨をおかし、 あるいは砲煙をおかし、 みな前進を知るも退くを知らず、 連戦連勝してその功を成し遂げたからである。 任務を全うして郷里に帰り、 村民は手を打ちおどりあがって凱旋を迎える。  このような偉大な勲功に、 なにをもっ て感謝の心を示そうか、 誠意をもって詩一編を捧げるのである。)

 


第一〇九話  秋山のろうそく談

昔年、  眼鏡の初めてわが国へ渡来せしとき、 ある人その一個をあがない、  これを田舎の者に贈りたれば、 村内の者相集まりて評議を凝らすも、  そのなにものたるを知ることができぬ。 甲がいうには「これ、 だるまの目の寒ざらしであろう」、 乙が申すには「これ、 魂暁の乾物であろう」と異説紛々であったという話を聞いておるが、これと同じく信越二州〔長野県・新潟県〕の境界に当たる所に、 秋山と名づくる一郷がある。 昔時にありては村内ろうそくを知るものがない。 ある日、 他方よりろうそくを贈りきたるを見て、 衆議決せず、 そのうちに「これ、植物の苗ならん」といえる説をとりて、 地中に植え付けたという奇談がある。 越中五箇〔庄〕村〔現・朝日町〕にても、 昔はろうそくがなかった。 ある人ろうそくを携えてここに入りたれば、 村内みな集まりて見物しておったそ


第一一一話    飛騨白川の薪火

飛騨白川郷にては毎戸必ず一坪以上の地炉を設け、 昼夜炉火を滅することがない。  一家の一カ年間に焼き尽くす薪木は、 少なくも十三立方坪以上を要するとのことじゃ。  ゆえに、 今日の炉火は拝火教の神火のごとく、 数百年前より火の種を滅せずとて伝えおるものだという。

子供、  父親を知らず美濃国郡上郡下川村〔現・美並村〕にて聞くに、 同村には毎日深山に入り、 薪をきり炭を焼きて生活をなすものが多い。 戸主は朝、 子供の寝ておる間に家を出でて山に入り、 夜、 子供の寝たる後に家に帰るから、 子供の中には父親の顔を見たことのなきものがあるそうだ。 樵夫の生活は、 いずれの地にてもこのようなものであろう。 余は郡上山中の実況を詩につづりておいた。

続屋青山雨後新、 采レ薪人踏白雲行、  一条渓水無二橋路渡頭呼舟晩有声。(家屋をめぐる青々とした山は雨のあと新鮮さを増し、 薪をとる人は白雲をふむようにして行く。  一条の谷川には橋もなく、 渡るには舟を呼び、 日ぐれて呼ぶ声が聞こえてきたのであった。)



第一 一 二話 土地の盛衰

伯州〔鳥取県〕日野郡黒坂村〔現・日野 町 〕は郡の中央に位せる要路に当たり、 昔時は一都会をなせしも、 駅路の変更によりて漸次衰微し、 全村疲弊の極に達し、 他地方にて鍋釜の金気を抜くマジナイに、「黒坂」の文字を書きおくほどに至ったそうだ。  マジナイの意味は、  黒坂村に金気なしとの謂である。 しかるに近年、 養蚕業を始めし以来、 ようやく類勢を挽回し、 今日にては鍋釜に黒坂と書きても、 金気を抜くマジナイにならずということじゃ。  土地の盛衰はひとり黒坂のみでない。



第一一三話    小楊子の産額

上総久留里町〔現・君津市〕にて小楊子を作るが、  その産額、  一年に一万三千円に上るという。 余これを聞きて驚きしに、 ある人の統計に、 日本国内にて楊子に消費する金高は、  一日につき一千円の割合なりというを聞きて、  さらに大いに驚いた。 小も積もれば大となることが分かる。  この町の小学校にて生徒にときどき楊子けずりの競争を行わしむるに、 子供ながらも非常に熟練したものだそうだ。



第一一四話 ー州の人物

三河国岡崎町〔現・市〕に康生町と名づくる一街がある。 これ〔徳川〕家康の生まれたる地を記念するより起こった名である。 余、 先年ここに遊び、 演説して曰く、「明治の家康もまたこの地より出でなければならぬ」と。 演説後の茶話会の席に列するものが、「家康公は三河全国中の知恵の粋を抜きて世に出でられたれば、 その後糟粕のみ残りて、  さらに人物ができない」と答えた。 余思うに、  この語一理なきにあらざるも、 あえて家康公が他人の知恵を紋り取ったるにはあらず、 後の人がみなこの地より家康のごとき大豪傑を出だせしを、 己の名誉として誇り、 かつこれに安んじて、 自ら奮励せざるためである。 もし、 彼なにびとぞ、 われなにびとぞ、 なすことあるものみなかくのごとし、 との気力をもって奮励するに至らば、 続々明治の家康を輩出し得る道理である。

 


第一一 五話    太古生活の実現

小笠原島の南に南中北三個の硫黄島がある。 その間、 各四、 五十マイルも離れておる孤島にして、 近年まで無人島であった。 その南硫黄島に明治二十年ごろ、 北海道の漁船が風波に押し流され、  数十人のうちわずかに男二人、 女一人が、 生命を全うして漂泊した。  そのときには三人とも衣類を失いて裸体であった。 幸いにその島は年中衣類を要せぬほどに気候が暑いから、 裸体のままにて岩下樹陰に住しておった。 しかしてその食物は、 魚類と野生の植物のほかにない。  これに加うるに、 火種を失ったために火食ができぬ。 また、 鍋も釜も一切の器物がない。 魚を釣らんとしても釣り針がないから、 婦人のさしておったるかんざしを曲げて釣り針に用いたほどである。  ここに約三年間住居を継続し、 その三人は血縁なき間柄なるも、 互いに申し合わせて父子夫婦の約を結び、一家族を形づくりていたそうだ。  かくして三年目に、 内地より汽船がこの島に立ち寄り、 万死に一生を拾って、三人とも無事に北海道に帰ったということを小笠原島客中に聞いたが、 実に明治の今日において、 太古の生活を実現したる珍しき話である。

 


第八類 衣服飲食


第一一六話    衣服の異風

飛騨の白川郷にて夏の田植えのときに、 婦人は五ツ紋の衣服を着てたすきをかける風がある。 伊豆大島にては田植えにかぎらず、  ふだんにても紋付きにたすきを用いておる。 同島の結婚には、 たすきと前垂れ付けて労働の姿のままにてよろしきも、 子供が成長して七歳になると、 身代不相応の美服を作り、 そのとき必ず紋付きを作るきまりである。  また、 近年は昔のカミシモはすたれて、 羽織袴だけにてよいようになりたれども、  北国地方にては葬式のときに、 必ずカミシモを用うることになっておる。 ある村落にて葬式の最中、  にわかに大雨が降ってくる。  そうするとカミシモを着けたる連中が、  みな衣服のぬれるを恐れて裸体になり、 揮一つになりて儀式をすましたという奇談がある。 余が能登を巡回せしときに、 歓迎に出かける人々が、  みなカミシモを着けていたのは珍しかった。



第一一七話    婦人、 裁縫を知らず

鹿児島県は従来衣服に構わぬ国であって、 婦人なども粗服をもって自ら足れりと思っておる。  ゆえに、 中等以下のものは自宅にて衣服をしたてることをなさず、 必ず町へ出でて出来合いの着物を買い入れて着ることになっておる。 したがって、 婦人に裁縫のできるものがいたって少ない。 日向地方もすべて鹿児島県に似ておるが、 都城町〔現・市〕にて聞くところによれば、 その近在の一村にて取り調べたるに、 村中にて絹類を縫い得るものわずかに二人、 木綿類を縫い得るものわずかに六人に過ぎないそうだ。 今日は小学校において裁縫の教授をなすゆえ、 将来はかくのごときことなきに至るであろう。 余思うに、 将来もし分業のますます進むに至らば、 裁縫も分業となるべき理なれば、 あえて都城近在の婦人を見て笑うには及ぶまい。



第一 一八話    香の物の不足

日・薩.隅いずれの地に至るも、 酒肴に余りありて香々に不足を告ぐ。  その実、 茶をのむときには菓子の代わりにたくさん香々を付けて出だすが、 飯のときには香々を付けぬ。 よって、 俗調をつづりて人に示した。

酒肴何んの不足はなけれども、 只香々のなきぞかなしきこの歌を示して以来は、 各所にてほとんど香々攻めにあおうとした。



第一一九話    わが好むところの飲食

人、 余に好むところのいかんをたずねしときに、 三十一文字をもって答えたことがある。吾すきは豆腐味噌汁香の物、 とはいへなんでも人のくふもの吾すかぬものは間食ばかりなり、 御茶の外には間飲もせぬ

また、 余は近年酒の禁を解きて、 ときどき少量を用うるも、「吾酒有レ量何及>乱」(自分の飲酒は量を決めているので、 どうして乱れることがあろうか)の主義をとっておる。 その歌に、朝はいや昼は少々晩たっぷり、 とはいふもの    上戸ではなし

 


第一二〇話  碗道人、 半煙居士

余はむかし三禁居士と称して、 禁酒、 禁煙、 禁筆であったが、 近年は不禁居士にて、 酒ものみタバコも吸うようになった。 しかし、 今日にても別に禁則を設けておく。  すなわち、 飯は毎回一碗を限り、 タバコは午後半日だけ用うることに定めておる。 よっ て、  このごろは自ら一碗道人または半煙居士と号を改めた。  さきごろ木曾地の寝覚〔の床〕へ遊び、 午後二時ごろ名物の蕎麦にて昼食を喫したが、 空腹に任せ五膳を重ね、「一椀の眠りも蕎麦にさまされて、 寝覚めて見れば五椀道人」と戯れた。  ついては毎食一椀、 ただし蕎麦はこの限りにあらずときめねばなるまい。



第 一ニ三話    地方特殊の料理

地方によりて、  おのおの多少特殊の料理がある。 例えば伊予宇和島固有の料理にサツマと名づくるものがあるが、 東京のサツマ汁とは全く違って、 白味噌をかきてこれをすり、 魚や玉子等を混入し、  これを飯にかけて食するのである。  これをサツマと名づけたる由来は明らかに分からぬ。 珍客を饗応するときにこしらうものである。また、 長州〔山口県〕には珍客をもてなすに、 茶漬けを出だす。 その茶漬けは他地方の茶漬けと違って生鯛を刺身にし、  これをあつき飯に付け、 茶にて蒸すのである。 ある遠来の客がひるどきにたずね来たり、「なにもいらぬ、ただ茶漬けをちょ うだいいたしたし」といいて、  一家を困らせたとの話がある。 福岡県、 長崎県などにも、 かかる茶漬けを用いておる。 鹿児島の鳥飯、 越後の麦飯なども一種特別のものだ。



第二二話    名物うなぎ

九州にては柳河〔現・柳川市〕のうなぎは名物なりとて、 毎食備えられたるに対し、 詩を賦したことがある。

車到柳河城外郷、 茅楼時解旅中装、 勿巳言名物無二滋味    一皿鰻魚四壁香。

(汽車は柳河町はずれの村に至り、  かやぶきの宿に旅装を解いたのであった。 名物には深い味わうべきものはないなどとはいわないでほしい。  この一皿の鰻は四方の壁にまでその香りをうつしているのだ。)

また、 山陽道にては雲州〔島根県〕揖屋村〔現・ 東 出雲 町 〕と伯州〔鳥取県〕東郷村〔現・町〕とのうなぎ、 最も名高くある。 揖屋客舎にて作った詩も、  ここに挙げておこう。

客舎呼>杯坐、 鰻魚上>膳時、 香来先動>鼻、 未>食舌将>馳  ゜

(旅館に酒を頼んで座す。 名物のうなぎが膳の上にのぼるとき、 においがやってきてまず鼻をうごかされ、まだ口に入れる前に舌が先に向かっていこうとするのであった。)



第一 二三話    異様の食物

越前勝山町〔現・市〕の名物は鮎の刺身なることと、 佐賀県のムツ魚を食することと、 信州〔長野県〕南部にて蜂の子を飯にまぜてたくことはさきに述べたが、 因州〔鳥取県〕日野郡石見村〔現・日南 町 〕にて山椒魚の味噌汁をたべたことがある。  その魚をハンジャ ケと申しておる。 また飛騨の国府村〔現・ 町 〕にて、 なまずのアライをたべてみた。 また美濃国郡上郡にて、 清水にすめるどじょ うを味わってみた。  これをアジノと申しておる。 また琉球にては、 薩摩芋の葉を食しておる。 また小笠原島にては、 阿房鳥の卵とパパ〔イ〕ヤと名づくる果物を試みたる。  その国その国に異様の食物のあるものだ。



第一二四話 北海の珍味

北見国宗谷郡稚内町〔現・市〕には風波のために一週間滞留しておったが、 ここに量徳寺と名づくる寺がある。一夕、  北海道固有の料理の饗応を受けた。 その中にて三平汁とミフンとが、 最も好むところに適した。 三平汁はにしんの吸い物にして、 ミフンは鮭の塩カラじゃ。 しかして、 ミフンの文字は分かっていない。 よって、 余はこれを味芽と訳して詩中に入れた。

客中一夜酌一僧房{  卓上佳肴積作レ岡、  二品最能適二吾好一 三平汁与二味芽漿

(客として一夜を僧房に酌みかわす。 卓上にはよい肴が山のごとく出された。 そのうちの二品は最も私の好みに合うもので、 それは三平汁と味芽の汁であった。)    そのときに、「味芽」の文字は余の新案であるとの評を得た。



第一二五話    ふぐの異名

ふぐの異名は鉄砲と称して、 あたればそれきりといい、「ふぐはたべたし命は惜しし」といいて、 多くその発売を禁じたるものなるが、 大分県の一部と島根県とは、 古来公然これを食品に用いておる。 鳥取県のごときは、ふぐといわずして、 異名をつけて売りあるくとのことじゃ。  すなわち、 因州〔鳥取県〕にては黒羽織と名づけ、  伯州〔鳥取県〕にてはナイショモノというそうだ。



第一二六話    自然の経験

昔、  シナにて豚をあぶりて食する法を知らざりしが、  一夜、 豚小屋に火を失して、 豚がみな焼死したそうだ。ことごとくこれをすつるもおしいと思い、 試みにその焦げ肉を味わいたるに、  すこぶる美であった。  これより後は、 豚を食するために、  ことさらに豚小屋に火を放ちて焼き殺したと伝えてある。  この例にひとしき奇談が加州〔石川県〕金沢にあった。 ある山間の一農夫が金沢へ出でて、 初めて数の子を見、  これを買って帰りしも、 かた<て噛むことができぬ。 よって、 これを戸外の雪の中にすてておいた。  翌朝に至れば、 終夜雪に浸されて、 その質自然にやわらかになりたれば、 試み食するに、 その味極めて結構である。  その後数の子を買うごとに、 必ず一夜、 戸外の積雪の上にすつるを例としたそうだ。 けだし古来の発明は、 多くかかる偶然の 出 来より起こったものであろう。



第一二七話    酢と酒との相違

豊前地方にては、 上等酒をヨイスといい、 下等酒をワルイスという。  かつてその地方より京都に上り、 酒店に入りてヨイスを命じたれば、  上等の酢を飲まされたりとの話がある。  かくのごとき相違は多々あることじゃ。 昔時は、 酒の名所は摂州〔兵庫県〕灘にあらずして伊丹であったから、 越後地方にては、 よき酒をすべて伊丹酒と申していた。 ある越後人が佐渡へ渡りて、 酒店に「イタミサケを持ち来たれ」と命じた。 ところが、 酢気がありて飲めない酒を持って来た。 よって、 大いに怒りてなじりたれば、 酒店が申すには「イタミ酒のご注文であったから、  イタミたる酒を差し上げました」という話がある。




第一二八話    牛馬と人と食物の比較

余が某地方にて演説中に、 牛馬と人とを比較して、「牛馬は草葉を食し、 人は木頭を食す」と述べたることがある。  その木頭を食するとは、 毎日味噌汁を食するに、 その中にすりこぎの粉末のいくぶんかが混じておるに相違ない。 長時間すりたるほど、 汁の味はよくなる。  すなわち、 木頭の粉末の加わること多きほど、 その味よき理である。  されば、 人は木頭を食するといってよろしい。 さらに、 余がこれにつきて計算せるものを挙ぐれば、 日本全国に一千万戸の人家ありしとし、 毎戸すりこぎ一個ずつ有するものと定むれば、  一千万個のすりこぎある割合となる。  このすりこぎ、 毎日いくぶんずつすりへりて、 百年に全木を摩滅すべしと見れば、 毎年十万個のすりこぎを摩滅しおわる割合である。 その摩滅したるものは、 味噌汁とともに人の腹中に葬るに相違ない。  されば、日本人は毎年平均、 十万本のすりこぎを食するものといわなければならぬ。 実に驚くべきではないかと説きて、大いに喝采を得たことがある。



第一二九話    酒の安価

内地にては飛騨が米のできぬにもかかわらず、 酒の価がもっとも安い。  一升三十銭ならば、 かなり上等の酒で、 東京の七、 八十銭ぐらいに飲める。 琉球の泡盛は一升二十五銭である。 いかに大酒でも、  一日泡盛五合はのみかねる。  それよりももっと安き所は八丈島であろう。  この島にては芋焼酎のみ用いておるが、  一升上下にかかわらず、 十銭のきまりである。 小笠原島にては砂糖にて製したる焼酎があるが、  これは売買ができぬから、 無代にてのむことができる。

 



第二一三話 パン茶

京都辺りにてはバン茶をプー という。 しかるに熊本辺りにては水をプー という。 佐賀県にてバン茶を嬉野茶といい、 熊本県にて木部茶といい、 新渥県にて五泉茶というは、 所産の地名を用うるのである。  また、 海浜に生ずる草を取りて茶に代用することがある。  これを伊予にて豆茶といい、 石州〔島根県〕にて浜茶といい、 隠岐にて太師茶という。 所変われば名も変わるものじゃ。

第二三一話    山地の粗食

全国中、 米の産せざる地方は、 概して粗食する習慣を有しておる。 陸中国、 飛騨国、 阿波国などは、 いずれも粗食をもって名高い。 なかんずく飛騨のごときは、 常食は稗なれども、 種々の雑食をする所じゃ。 粟飯、 芋飯、大根飯、 菜飯、 蕪飯等いろいろあり、 そのほかに団子にも二十とおり以上もある。  これ、 米を節約するためである。  また、  四国および九州の山間には、 トウモロコシを常食とする所がある。 高千穂や阿蘇地方が最もこれを多く用うるが、 余はその色の美なるを見てこれを試みたるに、 その味のまずきことは実に意外であった。  トウモロコシの熟したるのを粉末にして、  これを飯に炊くから、 色だけは立派であるが、 なかなかたべきれるものでない。 陸中では松の実で団子を作るといい、 鹿児島県下の大島では蘇鉄の団子があると聞いておるも、 ともにいまだ試食したることはない。

第二二二話    山中のサイダー

信州〔長野県〕南部下伊那の山間、 車馬も通じ難きほどの僻地に至りしに、 茶店にビー ルはもちろん、 サイダーを販売していたるは意外であった。 そのときに文明の恩沢のありがたきことを思って、 詩を賦してみた。  サイダー の漢字不明なれば、 斎配と訳した。

文明余沢可ーー謳歌    四海蒼生浴二穏波一 昔日山中無>暦地、 今時茅店翠二斎配

(文明の恩恵を謳歌すべきであろう。 世界中の人民は平和にどっぷりとつかっている。 むかし、  この山中には暦さえかかわりなかったのだが、 今やこのかやぶきの店ではサイダー を売っているのである。)


第九類 住家庭園

第二三三話 わが国最高の建築

わが国京都東本願寺の本堂は四十八間四面なりとて、 木造の建築物では世界第一と申しておるが、 最高の建築は出雲の大社であろう。 余が大社参拝のとき読みたるが、 旧記によると、  上古の制は高さ    十二丈なりしが、 その後十六丈に減じ、 さらに八丈に減じたりと書いてある。 その古代の建築は必ず木造ならんと思わるるが、 木造としては世界最高の建築であったに相違ない。 しかし、 今日これを見ることのできぬのは残念である。

 


第二二四話 わが国最大の石碑

福島県耶麻郡猪苗代町外に、 峰山と称して眺望の非常によき所がある。 うしろに磐梯山を負い、 前に猪苗代湖を帯び、  その風光の美なるは県下第一といわれておる。  ここに土津神社の社殿があり、  その前に石碑が立っている。  その台石として亀の形の石が、 高さ三尺、 長さ一丈六尺、 広さ一丈一尺三寸にして、 その上にのせたる石碑は、 高さ一丈八尺、 広さ六尺、 厚さ五尺であるが、  これ、  おそらくは日本第一の大石碑であろう。 日光の保光会の碑もこれには及ばぬ。  ついでに、 余がこの社頭秋光を詠じたる七絶を掲ぐ。

荒径履霜登二社皐湖山一望気何豪、 風空秋水万波穏、 雲尽暁天孤岳高。

(荒れた道に霜をふんで土津神社のたかみに登る。 湖山を一望にして意気豪快、 風空秋水のすべてが平穏に、 雲もない暁の空にただ    つの山のみが高くそびえている。)

 


第一三五話    十千年荘

出雲国宍道村〔現・町〕の富豪木幡久右衛門氏の山荘は、 老樹鬱蒼たる間に一小亭を構え、 その名を十千年荘と称し、 柱礎、 梁棟ともに、 みな歴史的の古木を集めて造ってある。  その年代を合すれば一万年に達する故に、 十千の亭名が起こった。 その構造の説明を聞けば、 歴史を読むがごとき心地がする。 よって、 拙作を壁上にとどめて去った。

結得十千年古薩、 観来如レ読史家書何図汽笛穿林処、 有二此毅皇以上居

(十千年荘なる古いいおりが建てられて、  みるほどに歴史家の書を読む思いがする。  こうした所に、 なんとしたことか汽笛の音が林をぬけてきこえてきた。  それにしても、 これは古代の伏義氏の質素なすまいの上に出ずるものであろう。)

その後まもなく主人の訃音に接したが、 いかに十千年荘に住しても、 人寿の短折を防ぐことはできぬ。



第一三六話    全国中の大旅館

昔は中仙道にて熊谷の小松屋、  日光街道にて宇都宮の手塚屋などは、 大旅館としてその名高かりしが、 今はみな廃業するに至り、 讃岐琴平の虎屋、 備前屋のごとき、 信州〔長野県〕善光寺の扇屋、 藤屋のごとき、 昔も今も大旅館たるに変わりがない。 近来は伊勢山田〔現・伊勢市〕には宇仁館をはじめとして、 壮大の旅館ができておる。しかし、  これらはその土地に相応したることなれば深く驚くに足らぬが、 時によりて、  土地不相応の美大なる旅館を見ることがある。 例えば、 信州上諏訪〔現・諏訪市〕の牡丹屋のごとき、 出雲杵築〔現・大社町〕の因幡屋のごとき    その一例であるが、 なかんずく驚きたるは、 豊後杵築町〔現・市〕の錦水楼のごときは、 楼屋極めて粗なるに反して、 庭園の美なること日本一と称せられておる。  また、 伊賀名張町〔現・市〕の寿楽園のごときは、 庭宅ともに美を尽くし趣を凝らしたるも、 天下一であろう。 岡山市の錦園も、 庭宅ともになかなか凝っておる。  この三者のごときは、  わざわざ見物にゆく価値があると思う。 もし月ケ瀬の梅を見るついであらば、 寿楽園に泊まって見るがよい。 同園には月ケ瀬以上の梅がたくさんある。 その紹介として、 拙作をここに掲げておこう。

路春風払二暁霞 来投寿楽主人家、 満園培得梅千樹、 風骨奇於月瀬花。

(ひとすじの道に春風があかつきのかすみを吹きはらい、 寿楽園主の家にきたる。 園内を満たすように梅樹が数百株もうえられて、 そのけしきやおもむきは月ケ瀬の観梅よりもすぐれているであろう。)



第一三七話    異様の風呂

伊勢度合郡南海岸一帯を南島と呼ぶが、 風俗おのずから他と異なるところがある。  そのうち風呂の構造は一種異様のものだ。 風呂はその大きさおよそ三尺四方にして、 戸棚造りである。 人その中に入りて浴するときは、 棚の戸を閉じておくから、 頭の方は蒸し風呂に入ったと同様じゃ。 しかしてその装置は、 五右衛門風呂と同じい。それよりもなお奇なるは、 江州〔滋賀県〕固有の風呂である。  その装置は丸桶の大なるものにして、  上方をふさぎ、 横に直径一尺ばかりの窓穴をあけてあり、  その穴より湯の中に入るしかけである。 よって、  これに入るにはおのずから秘伝がある。 頭をさきに入れんとすれば必ず失敗する。 ぜひとも脚の方をさきに入れなければならぬ。  しかして桶の中には、 湯の量はわずかに下腹を浸すまでにして、  上半身は湯気にて温むるようになっておる。 元来、 江州の倹約主義より起こったそうだが、 近来はおいおい改良するようになってきた。

 


第一三八話    屋根瓦

島根県石州〔島根県〕は赤瓦の本場にして、 光沢ある赤色の瓦をもって屋根をふくものが多い。 雲州〔島根県〕も同様である。  これは、 積雪のために普通の瓦が用をなさぬからである。 琉球も赤瓦を用うるが、 石州よりは薄くしてもろい。 しかし、 赤瓦の間を塗るにシックイをもってしてあるから、 紅白相映じてみごとにみゆるは、 琉球の景色を助けておる。  これらは雪のなき地方なれば、 いかに瓦が薄くても構わない。  北越や北海道に至らば、  すべての瓦が役に立たぬから、 板ぶきにして上に石を載せて置く。  この地方に大火の多いは、 瓦の代わりで板片を用うるためである。  この石を載せたる板屋根は北国のみならず、 信州〔長野県〕の南部、 飛騨の一円、 隠岐全部、出雲の飯石郡、 そのほか長崎県下の島原地方および五島にもたくさんある。  この方は火災に不利なれども、 いたって経済むきによい。



第一三九話    屋壁の種類

瓦ぶき、 板ぶきのことはすでに話したが、 そのほか異様のふき方がある。 同じ茅屋にても、 琉球の農家は篠竹の最も細きものを用いてふき、 小笠原島はしゅ ろの葉を結びてふく。 その風は同島へ漂泊せしものの偶然思いつきたるものの由なれども、 暑気を防ぐに最もよろしいとて一般に用いておる。 また、 熊本県の阿蘇山中および豊後の玖珠郡内にては、 竹屋根が多い。 玖珠郡森町〔現・玖珠町〕のごときは、 全部竹屋根と申してよい。 小学校まで竹屋根にしてある。 そのふき方は普通の竹を二つ割りにして、 交互に上下を重ね合わせたるものである。 また、 対州〔長崎県〕の村落にも見たことがある。  つぎに、 壁は土を用うるが常であるが、 そのほか、 琉球の民家は細竹を締めくくりて壁を作り、 北海道アイヌは茅を寄せて壁の代わりとする。 しかして、 屋根の茅ぶきに段々がついておる。 紀州〔和歌山県〕、 薩州〔鹿児島県〕、 飛州〔岐阜県〕、 伊豆七島などには、 板のみにて土壁を用いざるものが多い。 屋根でも壁でも、 所かわれば品かわるものじゃ。



第一四    話    異風の居宅

飛騨白川郷にては、  一家に家族四十人ないし五十人も住しておるから、 家屋の大なるものは間口十五間、 奥行八、 九間もあり、 その上に四階、 五階になっておる。 家の構造は 種特別であって、 すべて切り破風づくりにして、 下よりは上の方が横に長くなっておる。  また、 前後両面の屋根が地面に連接して、 軒のなき家がある。 いずれも太古のつくり方であろう。

また八丈島には、 毎戸必ず庫と名づくる物置を別置してある。 その構造は、  四本の大柱およそ五、 六尺ぐらいを礎として、 その上に建てたるものである。 住家は、 屋根の形は小さき寺か社のようであって、  一見いたるところに堂宮があるかと思わる。 伊豆大島にいたっては、 座敷に掃き出しのできる戸口がなく、 すべて腰かけ窓になっておる。  これは風の強いためであるということじゃ。 薩摩の民家はすべて床下が高い。  これは衛生によろしかろう。

また伊予の宇和島地方は、 民家を稲荷社のごとく赤く塗る風がある。 柱はもちろん板までみな赤く塗り、 一見村落ことごとく稲荷社のごとくに思わる。 同国吉田地方に入れば、 黒色に塗りたるが多い。 佐渡のごときは、 室内を飴色に塗ることがはやる。  これ、 防腐と装飾とをかねたるものであろう。



第一_四    話    神棚、 仏壇の位置

琉球には各戸必ず霊位と称して、 祖先以来の位牌を置く室がある。 そのほかに神棚もあるが、  この棚にはあるいはうちわを立て掛けて、  これを神体としてあがめ、 あるいは石を三個並べて置く家もある。  つぎに、 伊豆大島は各戸必ず神棚と仏壇を備えてあるが、 その仏壇をオトリサマと申しておる。

最後にアイヌは、 あるいは炉中、 あるいは壁上に、 小木をけづりて幣束のごとくに作りたるものを立て掛けておくが    これが神様であるそうだ。

 

第一四二話 雁木と亭仔脚

北国なかんずく越後には、 町の通りの両側の店頭に、 幅四、 五尺ぐらいのひさしが出ておる。  これを雁木と申すが、 雨の降る日または夏の炎天にはその下を通行するから、  傘がなくてもよい。


 

第一四三話 越前の奇観

先年越前を一周して、  七奇を選定したことがある。  その中の つは、 今立郡上池田村〔現・池田 町 〕の一旧家である。  その家の柱はけやきの一尺五寸角を用い、 いかなる劇震でもこの家をたおすことは難しかろうと思うほど、 丈夫にできておった。 今    つは三国 町 の小学校である。 その小学校は町中最も地位の高き所に、 あたかも城楼のごとく、 天守閣のごとく、 四階もある高層の建築物より成り立っておる。  これ、 越前の二大奇観である。

 


第一四四話    北海道の箪笥、 長持

北海道にては諸国より寄留者多く、 かつ以前は永住を目的とするものなく、 金さえたまればすぐ内地へ帰るつもりなれば、 筑笥、 長持を所持せる者すくなく、 婚礼には柳行李と風呂敷包みを携帯すれば足ることとなっ ておった。  ゆえに、  女児にして童笥、 長持のなんたることを解せざるものが多い。  かつて小樽の女子小学校生徒七百名に対し、 策笥、 長持はいかなるものかとの問題を出だしたるに、 答案のできたものはわずかに二人であったとの奇談がある。 今日はおいおい永住者ができると同時に、 童笥、 長持を備えるようになったから、  そのようなことはあるまい。



第一四五話    便所の構造

武州〔埼玉県〕秩父の山奥に三峰山という名高い山がある。 その山上に壮大なる坊舎がありて、 千人ぐらいを客泊せしむることができる。 飲用水は八丁を下りたる所よりくみ上ぐるというが、 ずいぶん不便のものじゃ。 便所にいたりては、 絶壁の谷に掛け出だして架設してある。  上よりのぞむに数丈の深さありて、 見るも恐ろしく感ぜらるる。 臭気のきたらざるはよけれども、 あまり心地のよきものではない。 大和の吉野にもこれに類したる便所がたくさんある。

そのほか、 伊予の宇和郡内にては、 戸ごとに地面に二間四方もある大下水のため池を作り、 その上に両便所および湯殿を架設してある。 もし誤りてその中に落下せば、 くそ池におぼるるの不幸を免れ難い。  これ、 便所に入るものをして不安の念を抱かしめ、 ほとんどくそ地獄へ堕落するような心地を起こさしむる。 飛騨の白川地方なども、 直径六、  七尺もある大桶の上に板を並べて便所にあてはめてあるが、  上より助け縄をつるしてあるものの、 やはり不安の念を免れない。



第一四六話    便所の装飾

地方の開けざる所に至れば、 便所の不潔なるものが多い。 しかし、 まれには驚くべき立派の便所を見ることがある。 中には便所をもっ て書斎に代用し、 見台を備え、 毎日の新聞や雑誌などはかわやに入りて読む人がある。これまで余が周遊中、 旅館として便所の内に掛物をかけたるものを見たことがある。

 


第一〇類 教育学校

第一 四七話    新聞と学校

ある地方にて、 余が「学校以外の教育」という題にて、 学校の時間と新聞の時間とを比較して演説したことがある。 今、 仮に人寿を五十歳とし、 もし十五歳より五十歳まで、 毎朝十五分間ずつ新聞を読むと定むれば、  その総数三千二百八十五時間となる。  しかして、 学校の修業時間は毎日平均四時間、  一年二百日間と定めて比較すれば、 人間一生の新聞を読書する時間は、  学校にて四年間以上の修業に相当する割合となるわけである。 もし中学校に比較して計算したならば、 その学費一カ月平均十円    一カ年百二十円、  四カ年につき四百八十円になるが、これを三十五年間の新聞に割り付けてみると、  一カ月一円の代価に定めて相当である。 しかるに一カ月三十銭とは、 実に新聞は安いものじゃ。



第一四八話    投機事業の解釈

宮崎県のある小学児童が、 読本中に「投機事業によりて失敗云云」とあるを説明して、 機械を投げる仕事によりて、 怪我をなしたといいし話がある。 ある学校の試験問題に「隈を得て 蜀 を望む」の意味を解説せよとあるを、 ろうそくを得たれば燭台がほしくなったと答えた話もあるが、 双方とも好一対の奇談ではないか。



第一四九話    国憲の字解

千葉県にて小学校の児童が勅語の話を聞きて、「その中の国憲とはなんのことなりや」と問いたれば、 教師答えて「国のノリ」なりと説いて聞かせたそうだ。  そうすると、「「国のノリ    と浅草海苔といずれが上等である」とたずねたる滑稽談がある。 余はこの話を聞きて、 いつもながら教育家に説いておる。「小学校にて勅語の話をしたから、 勅語のことは国民に貫徹するであろうと思うは大間違いである。 国のノリと浅草の海苔との区別のつかぬものに、 勅語の深き意味が分かるはずはない。 どうしても学校卒業以後において、 たびたび説いて聞かせねばならぬ。」



第一五〇話    但馬の小学児童

但馬の国は山ばかりで成り立っておる。 したがって峻阪険路が多い。 車夫が車を引きてかかる坂に向かえば、車体を背上に負って登ることになっておる。 あるとき、 そのほかの小学校にて、 児童に「人力車はいかなるものか」との問いを掲げたれば、 その答案に、 背中におぶって歩くものとなりと書いたりとの奇談がある。




第一五一話    山顧の小学校

大和国吉野郡南芳野村〔現・下市 町 〕に至る途中に、 峻嶺を登ること十八丁の所で、  ひとり一大家屋の猟然としてそびゆるを見たから、  そのなんたるを問えば、 小学校なりと答う。  けだし、 各部落の位置競争のために、  そのまさしく中央に当たれる地を選定し、  ついに民家をさる半里の山顧へ学校を設くるに至ったそうだ。

芳山五月雨霧罪、 春入二深渓  碧四囲、 樵径攀来将>尽処、  学童時踏二白雲一帰。

(吉野山の五月は雨がしきりとふり、 春は深い谷に入って四囲を緑にする。 きこりの小道をよじのぼり、  その道の尽きるところに学校がある。 それ故に学童は、 ときに白雲を踏んで帰るのである。)

福岡県企救郡東谷村〔現・北九州市小倉南区〕にても、 野中の一軒家同様の学校で開会したが、 宿泊すべき人家ある所へは半里以上あるとて、 学校の当直室で一夜を明かしたことがある。  かかる一軒家の学校は往々見受けるが、  みな部落感情より起こっておる。 児童はつまりその感惜の奴隷となりて遠き道をあるき、 高き山へ登るのは、 気の毒千万である。



第 一五二話     久万山中の学校

伊予の久万山中のごとき僻地にても小学校は普及し 児童よく峻阪を上下して通勤するは感心である。  その 部落にて、 生涯風呂に入らざる所がある。  しかるに、  学校にて慈善的に浴場を設けて児童に入浴させたるところ、 児童はいかにも珍しく思ったということじゃ。 余はまさしくその学校に入りて演説をした。  かかる山間に教育の行き渡れるは、 明治の天恩として喜ばねばならぬ。

しかし    山間ほど人の熱心には感心した。 余が小田 町と申す所で演説をしたが、 あいにく大雪であったにもかかわらず、 峻阪険路をこえて、  四里五里の遠きより、 雲日のごとく集まり来たったことがある。

 


第一五三話    普通語、 普通服

琉球にては内地語を普通語と呼び、 内地服を普通服と名づけておるが、 児童の学校にある間は普通服、 普通語を用うるも、 家に帰ればたちまち琉球の服と語とを用うるそうだ。 もし学校以外にて普通服、 普通語を用うるものあらば、 その者を指してハイカラと呼びて軽蔑すると聞いておる。 鹿児島にては、 東京語すなわち小学校の用語を普通語ととなえ、 郵便局に、「電信の用語は普通語を用うべし」との注意を掲示してあるを見たことがあるが、 内地としてはめずらしい。



第一五四話    小学校の戒名

明治十八年、 伊豆大島にてはじめて小学校を開設したそうだが、 そのとき教師に困りて、 臨時寺院の住職を頼んで教えてもらった。  それ以前には寺子屋のごとき習字を教うる所ありしも、 草書、 行書のみを習わしめ、 楷書を教えたことはなかったということじゃ。 それゆえに、 楷書は葬式の戒名に限るものと心得ておった。 しかるに、 小学校にては楷書のみを教うる故に、 父兄が評して「先生が僧侶であるから、 児童に戒名ばかり習わしむる」といい、 不平を起こしたという話を聞いた。



第一五五話    小学児童の正直

ある小学校で教師が、「教授時間の間に席を去りて室外へ出ずることはできぬ」と命令した。  そうすると、 小便をもらしたる生徒があったとのことじゃ。 また、 ある小学校で生徒が遅刻したから、 正直にその理由を話せと責めたれば、「今朝、 オトー サンとオカー サンとが喧嘩して、 飯をこしらえることがおくれたためである」と泣きながら答えたそうだ。  またほかの小学校にて、「キセルはなにに用うるものか」とたずねたれば、「オトー サンがオカー サンの頭を打つ道具である」と答えた話もある。  右は地方巡回中に聞き込んだ事実談である。



 

第 一五六話    哲学の誤解

哲学につきての誤解は世間にすこぶる多い。 余、  かつて若州〔福井県〕小浜〔現・市〕にありて聞いたが、 同所に歌原一次と名づくる人がおる。 先年東京に遊学中、 たまたま哲学館の開校に会し、  これに入学し、  そのことを郷里に伝うるや、 父兄親戚大いに驚き、  一次は坊主になりしと信じ、  上京して差し止めんとする相談まであったそうだ。 あるいは、 哲学は鉄のごとく堅い学問であると申したものもある。 長州〔山口県〕へ先年参りたるとき、 余を呼びて鍛冶屋の先生だといっておった。  そのわけは哲学の先生の意味じゃ と聞いて笑ったことがある。 あるいは哲学は禅学のことであるとか、 あるいは幽霊の学問であるとか、 はなはだしきは化け物の学問のように思っておるものがあるは、  おかしいではないか。



第一五七話    階上の講義、 階下の算用

明治二十九年十二月、 余の経営せる哲学館が全焼の天災にかかったことがある。 ときに漢学専修科を開くことを予告しおきたれば、 急に本郷竜岡町の勧工場の階上を借り受け、 夜間開講することに定めた。  その時刻は、 あたかも階下にて日中の売上高を結算するときにして、「一円なり、 五十銭なり、  これに加えましては七十五銭なり云云」と読み上げおるに、 階上にては先生厳然として、「なんぞ必ず利を言わん、 また仁義あるのみ」と講じておったのは、 いかにも奇々妙々であった。

 


第一五八話 英・漢・数

余がある地方を巡回したる際に、「現今の学問の中にて英・漢・数がいちばん重要なりと聞いておるが、 何年ずつその修学にあてはめたれば成熟するであろう」とたずねられた。 余はこれに答えて、「諺に「桃栗三年、 柿八年、 柚子は九年でなりかぬるとあるがごとく、「数学三年、 英八年、 和漢は九年でなりかぬると心得たらよろしかろう」と申したれば、 その人「よく分かりました」とお礼を述べて去った。



第一五九話    鹿児島の社会教育

鹿児島人は最も武勇の気象に富み、 最も軍人に適しておるが、  そのよってきたる原因がある。 毎年旧暦五月二十八日に、 曾我の笠焼きをする。 また九月十四日に、 伊集院参りをする。 また、 十二月十四日は、 義士伝読みをするきまりである。  これすなわち社会教育である。 あるいは琵琶歌なども、 やはり忠勇義烈の精神を養うところの社会教育と見てよい。



第一六〇話    余の家庭教育

余は演説中、 たびたび家庭教育の急要を述べる故、 ときどき自身の家庭教育の仕方をたずねらるることがある。 あるとき、「余は自家の家庭のことは全く知らぬ」と答えた。  その人怪しみたる風が見えたから、 余はさらに話をつづけて、「家庭のことは全部を挙げて妻に一任し、 奄も干渉せぬ。  これすなわち余のとるところの家庭教育法である」と申したことがある。  またあるとき、 余の家庭教育の一例を聞きたしとたずねられたるにつき、子供に間食の時間を限るの必要ありと思い、 午前は十時、 午後は三時に菓子またはほかの間食物を与えることにきめた。 そうすると子供は間食物に異名をつけ、 時間のきたるを待ちて、 十時のものを下さい、 または三時のものを下さいといって請求する。 いずれの子供も正直のものだ。


一類 宗教社寺

第一六一話    神社と森林

すべて神社は森林の中にある方が、 奥ゆかしくして祁そうに感ぜらるる。  その点については、 出雲の大社も熱田の大社も筑前の大宰府も物足らぬようである。  これに反して豊前の宇佐は、 森林のために自然に神粛に思われる。

駐車宇佐社頭林、 樹擁二門庭昼自陰、  鳥不紐叩山寂寂、 何人不起敬神心。

車を宇佐神宮の前に茂る林にとどめた。 樹々は門や庭をおおうように昼おのずからかげをおとしている。 鳥の声すらなく、 山はひっそりと静まり、 なにびとも敬神の心を起こさずにはおられぬ。)

この詩は余、 宇佐参拝の節、 所感を詠じたのである。伊勢の大廟や奈良の春日も鬱葱たる森林のあるために、誠に結構である。 余の今日まで参拝したる神社中では、 勢州〔三重県〕渡会郡野後の滝原神社が最もみごとの社林を持っておる。 大廟よりも春日よりも、 社林だけはそれ以上であると思った。



第一六二話    名実不相応の社寺

房州〔千葉県〕鋸山に乾坤山日本寺と称する寺がある。 名前はスバラシイものだが、 登って見ればさほどの寺でもない。 ただ今ではずいぶん荒れておる。 ただし、 その寺畔の風景だけは名前相応であった。

鋸峰高処尋禅寺    春霰潔檬山欲睡、 般若談中望漸開、 風光如酒使一人酔

(鋸山の高所に禅寺をたずねれば、  春がすみがたちこめて、 山はねむりこもうとするかのようである。 悟りを開く知恵などを談じているうちに視界がようやく開けた。 その風光はあたかも酒の人を酔わせるがごときおもむきがある。

これは登山のとき詠じた拙作である。 飛騨国吉城郡を通過せしとき、 途上大国寺の門標を見たるが、  これも名実不相応である。 また、 福島県田村郡に大元帥神社あるを聞きて拝詣したが、 どんなエライ社かと思いしに、 実に荒れ果てたる宮であった。 ただ、  一枝の楓樹を賞して一絶を浮かべた。

石階尽処祠、 言是大元帥、 古殿秋光冷、 霜庭紅一枝  ゜

(石のきざはしの尽きる所に社がある。  これを田村大元帥神社という。 古い社殿に秋の光が冷たくさし、 霜をおく庭に紅葉の一枝がある。

因州〔鳥取県〕鳥取市外に武 内 宿禰を祭れる名高い社がある。 五円紙幣の中にその写真が印刷してあるが、 これも極めて小社であった。 ただ、  一枝の桜樹が石門を守って咲き乱れておったのを見て    一詩をとどめてきた。

祠門桜独護、 花下寂無>人古春。一拝堪二追想\  二千年

(宇部神社の門は桜だけがまもるようにたち、 花のもとは静かに人影もない。  ひとたび礼拝して二千年前のいにしえの春を追想したのであった。)

伊予温泉郡桑原村〔現・松山市〕に繁多寺と名づくる寺があるが、 山により林に接して寂々蓼々であった。 よって、「繁多寺却不二繁多  」(繁多寺の名にかかわらず、

えって繁多ではないのだ)の句を壁上にとどめて去ったことがある。 また、 同国大洲町〔現・市〕に法華寺と名づくる寺があるが、 その実、 曹洞宗であった。  かくのごとき名実不相応は、 ほとんど枚挙にいとまなきほどである。


 


第一六三話 名実相応

福島県須賀川町〔現・市〕に観水寺という寺があった。その寺が零落して、 ただ今では場所に料理屋ができ、 その名を観水楼とつけたそうだ。 観水の名は寺院よりも料理屋の方に適しておる。 熊本の阿蘇郡に山田寺という寺があるが、 実に名のとおり山田の中の寺である。  また、豊後国玖珠郡山田村〔現・玖珠町〕に広妙寺という寺がある。 その寺の住職の苗字が山田寺と称する由来がおもしろい。 昔、 明治の初年には一時廃寺が盛んに行われた。 そのときの住職が己の寺も廃せらるるに相違ないと信じ、 せめて山田村に寺があったということを苗字だけに残したいと思って、 その姓を山田寺と改めたということじゃ。



_第    六四話    寺院の奇名

京都の宇治に遊戯山園林寺と名づくる寺院があるが、 公園のような名前である。 また、 北海道十勝国大津港に郵電山大林寺というがあり、 伊予八幡浜に大黒山吉蔵寺というがあるが、 いずれも珍しい名である。 遠州〔静岡県〕には可睡斎、 知恩斎、  一雲斎のごとき、 斎名を有する寺がある。  これを遠州の三斎といって名高い。  ここに一つ奇談がある。 余が対州〔長崎県〕客中、 竹敷軍港〔美津島 町 〕の一寺院の名をテッポウサン・ゾウセンジというを聞き、 その字は必ず鉄砲山造船寺ならんと察し、 軍港相応の寺じゃ と思っていた。 しかるに後に聞けば、 鉄宝山蔵泉寺であったそうだ。



第一六五話    薩州の宗教

薩州〔鹿児島県〕にては維新前、 真宗を厳禁し、 ヤソ教同様に取り扱われしが、 その際、 よく真宗の法脈を伝えしものは番役である。  番役とは仏像を守護するの意であろう。  その家には仏像を秘蔵し、 人の死したるときには、  ひそかにその像を拝せしむ。 万一発覚せる場合には死刑に処せらるる規律なるも、 よくその禁を犯してこれを守り、 父不幸にして死刑に処せらるるも、 子また番役となり、 身命を賭して仏像を死守したということじゃ。

今日、 鹿児島県に真宗のひとり盛んなるに至れるは、 全くその余慶である。  かく維新前には厳禁せられし真宗が、 明治九年以来公許せられしために、 真宗大いに興り、 今日にては真宗のほかに仏教のなきほどの勢いを有しておる。 しかしてその信仰の状態が、 他国に比して大いに違うところがある。 例えば、 葬式などはいたって簡略にして、  その多くは寺僧を招かずして葬儀を行い、 寺院にては仏前にて読経するのみである。  これをカケ葬式といっておる。  また、 時によりては檀那寺より戒名(法名)を記したるもののみをもらい受けて、 埋葬を行うものもある。 寺に来たりて法名を請求するときに、  手形をいただきたいというものもあるそうだが、 手形とは死者の法名のことじゃ。  しかし、 寺へ金を上げることは他国以上である。



第一六六話    宮崎県の仏教

宮崎県は諸県郡を除くのほかは、 仏教皆無のありさまである。 なかんずく南那珂郡を最もはなはだしとする。その郡内のある真宗寺院に、 本山より使僧の来たりしことがあった。  そのとき住職出でてこれを迎えぬから、 使僧叱責して、「いやしくも仏のおかげで衣食する以上は、 本山の命を伝えて来たるものを迎えざるは不都合ではないか」と申したれば、 住職怪しみて答えて曰く、「わが一家は毎日労働力作して糊口の道を立て、 もって仏を養いおるものにして、 決して仏より養われおるにあらず」と。 使僧これを聞いて、 驚いて帰ったとの話がある。この一例に照らして、 他を推し知ることができる。



第一六七話    壱岐の宗教

壱岐は九分どおり禅宗なるが、 その実、 無宗教のありさまである。 寺院に入るも、 仏前に合掌して賽銭を投ずることをなさず、 ただ父祖の位牌を拝礼するのみである。 したがって、 祖先崇拝の風は一般に行われ、 毎戸位牌に供うる食物を炊くために、 必ず別に鍋釜およびかまどを設け、 すりばち、 すりこぎまでを別置してある。 ゆえに、 いかなる貧家にても、 普通用、 精進用二様の台所道具を有し、  一戸にして二戸の世帯道具を兼備しておると同様じゃ。 寺院の方では賽銭をもらえない代わりに、 位牌の場所代を徴集するそうだ。 いずれにしても、 壱岐中に珠数を所有しておるものが一軒もないというを聞いても、 その無宗教の程度が分かる。



第一六八話    伊豆七島の宗教

伊豆大島の寺院は貧地が多く、 内職をなすにあらざれば糊口することができぬ。 葬式の礼は二十五銭、 法事の礼は四銭をきまりとし、 法事はたいてい死後四十九日目に、  一周忌、 三年忌等の法事を繰り上ぐる由。 寺院の窮するも無理ならぬことである。  かく無宗教の地なれば、 葬式に宗派を問わず、 浄土宗の葬式を日蓮宗の僧侶が代わりて「南無妙法蓮華経」で済まし、 日蓮〔宗〕の葬式を浄土僧が引き受けて「南無阿弥陀仏」の引導を渡しても構わぬとか、 奇体ではないか。 ただし忌中を謹慎し、 墓場を大切にする美風がある。 忌中は棺につけたる縄を帯とし、 五十日の間は外出せず、 職業を休み、 近隣の者が食料を贈りくるということじゃ。  これに反して新島は宗教信仰が盛んであって、 寺院と墓場は大層きれいであるそうだ。 しかして八丈島の方は、 維新前は神主、 僧侶、船渡と称して、  この三者は大いにいばりたる由なれども、 今日はその反動で、 宗教は無勢力である。 もし各島の宗派を挙ぐれば、 大島は曹洞、 浄土、 日蓮三宗、 利島、 新島は日蓮宗、 神津島と八丈島とは浄土宗、 三宅島は日蓮、 浄土、 御倉島は神道である。

 

第一六九話 土佐の宗教

 土佐は無宗教の国と申してよろしかろう。 千戸以上の檀家を有する寺でも、 内職に提 灯や傘を張って生活しておる。  もし小地小庵にいたっ ては、  漁業をなして糊口しておるそうだ。  群馬県、  埼玉県なども無宗教地にして、  寺院はみな糊口のため養蚕を勉強しておる。  また茨城県なども農業を兼ねておるが、  土佐はそれ以上であって、  殺生罪を最も重しと立つる仏教にして、  漁業を本職とする僧侶ありとは、  驚かざるを得ない。  なるほど無宗教の証拠には、  土佐ほど墓場の粗末の国はない。  小さい石を立てて置くばかりだ。  ただ感心なるは、  弘法大師〔空海〕を尊信する一事である。  大師様といえば神様以上のごとくに思っておる。  ゆえに、  余は土佐に仏法なくして大師ありと評した。  伊予久万山中は土佐に接しておるが、  無宗教の程度はよく似ておる。  下等の者は家に死人ありても寺に告げず、  僧を招かず、  自ら埋葬し、  日三日過ぎて寺に至り、  戒名だけをもらい受くるとの話である。  日本中にはずいぶん、「仏ホッ テおけ、  神カマウナ主義」のものが多い。



第_    七    話    隠岐の排仏

維新当時は全国一般に排仏毀釈論流行し、  往々廃寺合寺を断行したる所ありしも、  隠岐ほどにはなはだしきはなかったらしい。  島内の寺院は、  村民四方より雲集してたちどころにこれをこぽち、  経文はもちろん、  古文書類までもこれを焼きすて、  境内は小学校の敷地と化し去り、  洪鐘はこれを売却して汽船建造の資に充てたと申すことじゃ。  かく極端なる廃寺の行われたりしは、  維新前、  朱子学の盛んに行われて、  排仏を主唱せしによるというも、  その直接の原因は、  維新前、  島民は一般に勤王を唱え、  義兵を挙げて長州に応援したりしほどなるに、 寺院は佐幕主義をとりたるによると聞いておる。  しかし、  古文類になんの罪あるか。  僧を憎んで古文書に及ぶとは隠岐の島民であろう。


 


第一七一話    熊本県の寺院

肥後は真宗多けれども、 檀家の寺を取り持つこと薄く、 ために寺院の生計は概して困難の方である。 その地方の寺では「正損盆得御忌一パイ」と申しておる。 その意は、 正月は損あり、 盆は得あり、 御正忌は損得相償うといえる寺院の収入を述べたるものじゃ。 これを佐賀県と比較するに、 大なる相異がある。 佐賀県にては檀家より寺院に納むる永代経代は、 金五円十円、 米一俵二俵等、 多々あるも、 肥後および豊後の一地方にては、 十銭二十銭ないし五十銭の少額の多きを見る。  ゆえに、 熊本県の檀家五百戸と佐賀県の百戸と相敵すと聞いておる。 けだし、 寺院収入の多きは九州中、 佐賀県を第一とし、 鹿児島県これに次ぐとの評判である。



第一七二話    神社の賽銭

神社に賽するに銭を投ぜずして米を散ずるは、 古代の風習に相違なかるべきが、 今日もなお山陰道または伊豆大島、 その他にも往々見たことがある。 しかし八丈島にいたりては、 米の代わりに砂をふりまくをきまりとしておるはめずらしい。  ただしその砂は、 海浜の波にて洗い上げたる清潔の砂に限る由である。 もし、 寺の狂銭も銭の代わりに砂を用うるに至らば、 僧侶にして飢渇を訴うるに至るもの、 必ず出でてくるに相違ない。



第一七三話    浅草と芝山

浅草の観音は本尊に勢力ありて、 門番の仁王は無勢力であるが、 上総の芝山の観音はまさしくその反対である。 本尊の観音は微々たるもので、 門番の仁王が大いばりをしておる。 諺に「牝鶏の 晨 するは家の衰うる基」というが、  これと同じく門番のいばるも家の衰うる基と見えて、 芝山は浅草と異にして、 漸次衰退の方である。


 

第一七四話    僧侶は羅漢

世人中いやしくも識見あるものは、 今日の僧侶の無見識、 無勢力、 無精神、 無活動を慨嘆せぬものはない。 よって余が地方巡遊中も、  たびたび人より、「なにゆえに僧侶は働かざるか」との問いを発せらるることがある。そのときに余は答えて曰く、「彼は羅漢なるが故に」と。 また問うに、「なにゆえに彼は羅漢なるか」というから、  これに答えて「ハタラカンという羅漢である」と申したれば、  一座ナルホドと感心して、 また問いを起こさぬであった。  余はかつて日蓮上人を気取り、「今日の「四箇格言法華骨なしである」と申しておる。は、 真宗識なく、 禅宗銭なく、 浄土情なく、

 


第一七五話 北国は仏国なり

 

北国は仏国である。 越中新川郡某村にて村内の青年相会して、 夜学を開きたしと願い出でたれば、 役場はその篤志に感じ、 喜んで許可した。  そうすると、 その夜学は世間普通の読書をなすにあらずして、 宗旨のお経を読習する夜学であったということじゃ。

また、 余が能州〔石川県〕を巡回せしときに、 洋服を着し長髪を被るにもかかわらず、 途中往々老婆が走り出でて、 余に向かい合掌するを見たことがある。  その後、 越前を巡回して池田地方に入るや、 児童走り来たりて、 余に向かい合掌するを見たが、 老婆の合掌よりも、 無我無心の児童の合掌は、 誠に殊勝に感じた。  この一、  二の例に考えても、 仏教繁盛の一端が知れるであろう。



第一七六話    読経の戦争

越後国中魚沼郡十日町〔現・市〕にては、 毎年盆時には町内にある十力寺が競争して、  二日間に千戸以上の各戸を読経し回るきまりであるが、 ニカ寺同時に一戸に入るときは、 先入者の勝利となり、 なるべく多くの戸数を回り得たるを大勝利とする由にて、 各寺が多数の僧侶を出だして読経の競争をなさしむるはおもしろい。 各僧が他僧を排して自ら入らんとする状は、 あたかも戦争のごとくであるそうだ。  これはおそらく全国無類であろう。

 


第一七七話 異様の本堂

余の見たる寺院の本堂中異様なるものは、 越前丹生郡四ケ浦村〔現・越前 町 〕善性寺である。  その建築は二階造りにして、 階下に庫裏を置き、 階上に本堂を設けてある。  そのつぎは長崎県南高来郡堂崎村〔現・有家 町 〕称名寺である。  その外観は経蔵のごとく、 内観は洋館に似ておる。  そのつぎは日向国北諸県郡庄内村〔現・都城市〕願心寺である。 前面神殿を模し、 側面劇場を擬するものに見ゆる。 そのつぎは北海道岩見沢町〔現・市〕願王寺である。  これ全く公会堂に類しておる。 そのつぎは肥後小島町〔現・熊本市〕専照寺である。  その形、 寄席に近しと申したい。 今後は続々、 新意匠の本堂を見るに至るであろう。



第一七八話    秘事法門

佐賀県三養基郡の一隅に、 真宗のいわゆる秘事法門の結社がある。 その社中のものは、 秘密に深谷または幽洞の中に集まり、 合掌して「タスケタマエヤ南無阿弥陀仏」を繰り返して唱え、 人をして催眠の状態に入らしむ。そのときに仏の光を見、 または仏の声を聞くというが、  これ今日のいわゆる催眠術である。 その社中の伝うるところによれば、 本山および寺院の伝うるところは、 真宗の表の法門にして、  この秘事は裏の法門なりという由。今日にても、 その結社はなかなか強固にしておるとのことだ。

 


第一七九話    五島のヤソ教徒

長崎県下の五島の島には、  二百年前よりヤソ教徒が住居して今日に至り、 ただ今にて一万人以上ありと申しておる。  これを居付きと名づけてある。  つまり寄留の義であろう。 聞くところにては、 寛政九年に大村領よりここに移されたりとの伝説である。  これらの居付きは別に一部落をなして開墾に従事し、 ほかと雑婚することなく、一般より排斥せらるる風である。 その財産、 知識の程度も一般の人民よりも低く、 したがって勢力はない。

 

二類 妖怪迷信

第一八話 妖怪の説明

 

世間の人は余に異名を与えて、 あるいは妖怪博士、 あるいは化け物先生、 あるいは幽霊の問屋と申すほどでるから、 地方巡回中、 各所において妖怪の説明を請求せらる。 余はこれに対していつも、「天狗幽霊非二怪物    清風明月是真怪」(天狗、 幽霊は怪物にあらず、 清風明月これ真怪なり)の主義をとりて説明しておる。 左に、 余が十七文字につづりたるものを示しておこう。

化物の正体みれば我心臆病の家はお化の問屋なり妖怪の受売いつも掛価あり

また、 三十一文字につづりしものもある。

不知火の不知火よりも日や月は、 不知火中の真の不知火活眼を開きて観れば天も地も、 水も空気もすべて妖怪



第一八_    話    天草の妖怪

余、  かつて肥前島原にありしが、 そのときたまたま不知火の出ずる期節であった。 世に名高き天草灘の不知火は、 島原にて望むが最もよいという。 余、 ときに詩を賦して所見を述べた。

波間有>怪鎮西唾、 天下相伝名二不知一 日月星辰皆火塊、 微光如>此登>言>奇  ゜

(鎖西のあたりの波間に怪しいものがある。 世間はこれを伝えて「しらぬい」という。 日月星辰もみな火の塊であるが、  このようなかすかな火も不思議といえよう。)



第一八二話    壱岐の迷信

壱州〔長崎県(壱岐)〕には狐がおらぬ。 しかれども、 野狐つきととなうるものがある。 河童つきもある。 なかんずく田河村〔現・芦辺 町 〕の狸つきと称する怪物は、 佐州〔新潟県(佐渡)〕の団左衛門のごとく、 妖怪の巨魁であるそうだ。 もし村内に病人あれば、 狸つきに悩まさるるなりと信じておる。 また、 人の旅立ちせんとする場合には、 鍋また釜のふたを頭上にいただき庚申を拝礼して、 家を出ずるをきまりとしてある。  これ、 道中災難よけのまじないだということである。  また、 家をあけて出ずるときは、 入り口に「鬼」と書したる符を張り付けて出ずれば、 盗難の恐れなしと信じておる。  これらは壱岐の迷信の主なるものだ。



第一八三話    大島の迷信

伊豆大島に狐なき代わりに、  馳 が人をばかすと信じておるものが多い。 死霊、 生霊、 方位、 山男、 船幽霊を恐るるものもある。 婦人が発熱して精神に異状を起こし、 ときどきうわごとを発し、 内地のいわゆる狐つきのごとき状態になるを風オリというそうだ。 同島中特筆すべきは、 毎年正月二十四日より五日にかけて、  イミととなうる迷信がある。 その夕は船幽霊が襲いくると信じ、 家ごとに深く戸をとざして外へ出でず、 牛を庖内に置くことを忌み、 これを山林に放つそうである。 また讃岐の一離島のごとく、 大島にても昔時は月経かかれる婦人は、隔離室を設けてここに入らしむるきまりであった。  これをヨグラというが、 けだし汚蔵の意であろう。 維新後これを廃して、  その跡に小学校を建てんとしたれば、 不浄なりとて村民の反抗を招いたとのことじゃ。



第 一八四話     琉球の迷信

琉球にて魂のことをマブイというが、 身を守るの義であるそうだ。 小児が途中にてたおるるときは、  マプイをコメルと称して、 地から物を拾い上げて懐中に入るるまねをして、 これを三回繰り返すがきまりである。 また、病気にかかりたるときには、 魂が外へ出でて身の守りを失いたるによると信じておる。 また琉球には、 ュタと名づくる巫女のごときものがたくさんおる。 あたかも八丈島の付属たる青島は、  一村に満たざるほどの小島でありながら、 八十人ばかりの巫女がありて、 医者の代用をすると同じく、 琉球人は己の家に病人あれば、 ただちにユタに見てもらうことになっておる。  これらは琉球の迷信の一例である。

 

第一八五話 日本は迷信国

 

世界中いずれの国にても、 多少の迷信のなき所はないが、 わが日本などはすこぶる迷信の多い国の中に数え込まねばなるまい。 雲州〔島根県〕美保関に名高い神社があるが、  これに参詣する人は、 籾米の種子をもらい受けて帰り、  これを田畑に植うれば、 なんでも所望の植物ができ、 かつよく実ると信じておる。  また、 肥後上益城郡の六嘉村〔現・嘉島町〕には、 足手荒神の小社がある。  これに参詣するものが、 板にて足の形を作りて献上すれば、すべての足の病気がよくなると信じておる。  また、 筑後の善導寺に産婦が参詣し、 門に入りて初めて出会したる人、 男ならば必ず男子を産し、 女ならば女子を生む。 また、 本堂の戸を開くときに、 その戸重ければ難産にして、 軽ければ安産なりと信じておる。 また、 伊予宇和島の和霊社は旧藩臣山家清兵衛〔公頼〕の霊を祭りたるものなるが、  その一代記が佐倉宗吾のごとく芝居に組み立てられておる。 その芝居を興行するときは、 必ず雨が降るといわれておる。 東京にて水天宮の日には必ず雨がふり、 また近来は水曜日にはきっと雨がふるなどと申すものがあると同様の迷信だ。  これらの迷信はいちいち挙ぐることはできぬ。



_第    八六話    復讐の変則

余が上州〔群馬県〕磯部温泉に入浴せしこと前後三回であるが、 そのときこれを人に聞いた。 先年失火のために、 林屋と称する温泉旅館と、 その隣家の菓子屋とを全焼せしことがある。 焼失後、 両家の間に火元につきて争論を起こし、 林屋の方が勢力あるために、 奔走の結果とうとう勝訴となり、  菓子屋が火元なりということに決定した。  しかるに菓子屋の主人は深くこれを遺恨とし、  一度そのうらみを晴らさんと心掛け、 林屋の再築落成の期を待ちおり、 いよいよその期に達し、 大いに広告して落成式を挙ぐるや、  菓子屋の主人、 夜ひそかに新築の座敷に忍び入り、  上段の間において割腹して自害を行った。 その後、 林屋に止宿すれば菓子屋の亡魂が出ずるとの風評が立ちて、 なにびとも恐れてその家に宿泊するものなく、  ついに廃業のやむをえざるに至ったということを聞いておる。  これ、 世の迷信を利用したる復讐であろう。



第一八七話    犬神の勢力

四国は犬神の本家本元である。 犬神はその形見るべからざるも、  一種の妖怪にして、  そのものの住する家とは一般に結婚するを嫌っておる。 もしその家の人が、 だれにてもにくしと思わば、 犬神たちまちその人を悩まして病を起こさしめ、 またその家の者が、 人の美食を見てこれを好むの念を生ずれば、 犬神来たりてその人に取り付き、 あるいはその食物を腐敗するに至ると信じておるものが多い。 犬神の家は四国中阿波に最も多く、 阿波中池田町に最も多しとの由にて、 先年池田町に至り取り調べたことがあるが、 近来小学教育の普及するに当たり、 大いに犬神の勢力を減じたりと申しておる。 普通教育の効果の大なること、 この一例を見ても分かる。  この犬神が大分県、 宮崎県の一部分と、 山口県に伝わっておるが、  これは四国より伝染したるものに相違ない。 元来四国が犬神の本場で、 ほかはその出店である。

 

_第一八八話 出雲の人狐

 出雲の名物は人狐である。 百五、 六十年前よりその地に入り、 次第に繁殖したと伝えておる。  その実物なりと称して保存せるものを見るに、  馳 の一種である。 多分雌腿ならんという説じゃ。  このもの一定の家に住し、  七十五頭同居し、  その家と結婚すれば、 その人狐移りくると信じておる。 余は雲州〔島根県〕に入るにさきだちて、左の予吟を試みた。

曾揮ーー哲剣庄諸魔一 跛渉妖山与ー怪河 、 我入ーー雲州ー先欲如問、 人狐消息近如何  ゜

(かつて哲理の剣をふるってもろもろの魔ものを打ち払い、 あやしげなる山や河をふみわたったものである。 私が出雲の国に入ってまずたずねたいのは、 人狐についての消息はちかごろどうなのであろうかということなのだ。)



第一八九話    隠岐の猫つき

隠岐は島前島後の二部に分かれおるが、 島前の方には人狐持ちの迷信が流行しておる。  そのはじめは今よりおよそ百年前、 出雲より伝えきたりしとのことだ。 近来はその勢力出雲に下らず、 現に人狐派、 非人狐派ありて、社交上に影評あるのみならず、 政党までに影響を及ぼしておるそうだ。 しかるに、 島後の方には人狐の代わりに猫つきなるものがある。 けだし、 隠岐には野猫が多い。 昔時は野猫の人を害することがあったために、 猫つきの迷信を呼び起こしたらしい。



第一九    話    石州およぴ因州の迷信

石州〔島根県〕の迷信は犬神、  トウビョ ウ、 外道である。 犬神は長州〔山口県〕より入り、  トウビョウは芸州〔広島県〕より入り、 外道は備後より入りきたったものらしい。  トウビョウとは蛇持ち、 蛇つきのことである。 また、石州にて口寄せ、 神寄せを「教え」と名づけておる。 浜田辺りにて海上に難船あるごとに、 人の呼ぶ声がする。その声にて「アカトリをくれよ」と叫ぶ。  これは、 海中にて溺死せし幽霊の呼び声であると信じておる。  つぎに、 因州〔鳥取県〕にてはやはりトウビョウの迷信がある。  しかし、 そのトウビョウは蛇持ちにあらずして、 一種の獣類で出雲の人狐に近い。 その住する家には、 人狐のごとく七十五頭同棲すると信じておる。 同じ鳥取県でも伯州〔鳥取県〕の方は雲州〔島根県〕に接しておるから、 人狐の迷信が多い。



第一九一話    河太郎の怪

九州にては河太郎すなわち河童が人につくと信じておる所が諸方にある。 なかんずく五島と対州〔長崎県(対馬)〕とに多い。 五島の富江村〔現・ 町〕には河童の築きたる城壁が残っておる。 また、 鹿児島にては河童の鳴く声を聞くと申しておる。 また、 同所にて毎年五月十六日は河童の御前迎えと称して、 その日に決して水中に入らぬ。 もし入らば、 必ず水難にかかると信じておる。 御前とは妻のことにて、 婚礼を意味するのである。 肥後天草にも河童の怪があるが、 その災を免るるには、 熊野の十二社に三社を加えて十五社にしたるものである。  これを信仰すればよいと申しておる。 薩州〔鹿児島県〕にては河童のことをガラッ パと申す。 伊予および石見ではエンコまたガンゴウという所もある。 佐賀ではカワソウという。 川僧の意味らしい。 出雲ではカッ コというが、「河児」の字に当たる。 あるいは熊本県葦北郡にてはカゴという。 しかし、 カゴはすべての妖怪を意味しておる。  この河童が夏時に川に入りて住し、 冬時は山に移りてすむ。  その山にある方を山ワロウと申すそうだ。 山童のなまりであろう。 その形は見えざれど、 足跡と鳴き声で分かるといっておる。 足跡は爪の数三つあるのみ。鳴く声はのこぎりを引く声に似ておるそうだ。  このカゴは、 ほかの地方の天狗話と同一である。



第一九二話    つきものの種類

以上述べたるつきもののほかに、 佐渡には 絡 つきがあり、 群馬県、 埼玉県にはオサキつきがあり、 木曾には管 狐 のつきものがおる。  この管狐は出雲の人狐と同じく、  七十五頭同棲しておると申す。  その家と結婚せざるのみならず、 その家にて所有する田地は売ろうと思っても、 買い手がないそうだ。 飛騨にてはこれを牛芳種と名づくるはおもしろい。 牛芳の種は人の衣服につきやすいから起こった名に相違ない。 東濃にてはトリッ キ筋と申しておる。  これみな大同小異である。



第一九 ー話    願成否の占い

青森県にて池中に銭と米とを紙に封じて投入し、 その紙速やかにうずむときは願い事かなわずと申しておる。しかるに、 島根県八重垣神社には銭一文を紙に封じて池中に投じ、 ただちに沈むときは願い事かなうというは、双方正反対である。 肥後阿蘇郡宮原町鏡池に、 銭の形がときどき水底に見えてくる。 その数が毎日違うと申し、これにつきてもいろいろの迷信をとなえておる。 また、 美濃国稲葉郡各務村〔現・各務原市〕および揖斐郡谷汲村に石地蔵がありて、 これを持ち上げ、 その軽重によりて願の成否を卜するが、 この軽重の占いも諸方にあることじゃ。 また、  これと少々違うけれど、 佐賀県三養基郡内綾部八幡神社の秋季皇霊祭の日にのぼりをかけ、 そののぼりの風に巻かるるありさまによりて、 風災の有無を判断し、 また同郡千栗八幡宮にては、 旧暦正月粥を炊き、その釜の上に箸を十字形に渡し置きて、 これを肥前、 肥後、 筑前、 筑後の四カ国に分配し、 もって各方面の豊凶、 水旱いかんを判知する古来の慣例である由。 現今にてもこれを行っておるそうだ。



第一九四話    異風のマジナイ

志州〔三重県〕鳥羽地方にては、  四月八日に煎じたる甘茶をもって墨をすり、  この墨にて白紙に卯月八日とかきて、 戸壁に張り付くれば、 むかでが来たらぬと信じておる。 越後魚沼郡では、  この甘茶は目の薬になると申しておる。 佐賀県にては百日咳をチコズキと名づくるが、 これを直すマジナイは、 しゃ くしに人の顔をえがきて、  これを路傍にたて、 千人に見らるれば全治すると信じておる。 熊本県にては畑の芋を盗むを防ぐマジナイに、 板の上に人の手の形を印してたておけばよいという。  房州〔千葉県〕鋸山に石に刻したる五百羅漢があるが、 その首はたいていなくなっておる。 昔より博徒のマジナイに、 この羅漢の首を懐中すれば、 必ず博突に大勝を得るとの迷信が伝わりておったために、  ひそかに山上に登りて盗み取りたる故であるとのことじゃ。 また、 長州〔山口県〕大津郡大寧寺の古きすりこぎは、 その長さ五、 六尺余もあるが、 このすりこぎを削りて、 その木片を持ち帰り、 これを治病のマジナイにする。 あたかも信州〔長野県〕諏訪明神社の仏柱を削りて、  嬉 を落とすマジナイにすると同様じゃ。  マジナイの種類も、  いちいち述べ尽くすことはできぬ。

(妖怪の奇談はあまりたくさんありて、  ここに掲げ尽くすことができぬから、 別にその類話を集め、 異なりたる表題の下に発行するつもりである。)

 



第一三類 俗説俗解

第一九五話    妖怪、 迷信の俗解

シナの文字は形象字にして、 文字の形を分析すれば自然に意味が分かる。 よっ て、「妖怪」の文字につきて、余の憶説を述べて人に話したことがある。「妖」の字は若き婦人の義にして、 妖術を行うものは若き婦人に多いから、 妖は若き婦人より起こるの意であろう。 また「怪」の字はあるいは「性」と書き、 心に在るの義にして、怪は心より生じ、 心の中に存在するの意であろう。 また迷信は、ィ ンド、  シナ、 日本のごとき米食本位の国に多い。 これ、「迷」の字は「米」の字を体としておるわけじゃ。  かくのごときは、 余の漢字につきての俗説俗解である。



第一九六話    精進の字義

余がときどき話すことだが、 昔、 瀬戸内海を小蒸気に乗りて渡ったときに、 隣に座しておる二、 三の連中の一人が、「魚肉を食せぬことを精進というはいかなるわけか」とたずねたれば、 ほかの一人が答えて「「精」の字は米偏に青いという字をかくから、 精進日は魚も鳥も牛も食せず、 ただ青物と米のみを用うる故であろう」と申した。 余は傍らにおって、 はからずも吹き出だすに至った。  これも俗説俗解である。

 

第一九七話 唐津寛林

九州の絶勝は耶馬渓と虹〔の〕松原とをもって第一とする。 虹〔の〕松原は雅名覧林と称し、 唐津より浜崎に至る間にありて、  二里の松林である。  これを虹と名づけしは、  二里より転じたりとの説と、 その形虹寛に似たるによるとの説と二様がある。  近傍には名護〔屋〕城をはじめとし、 豊臣秀吉に関する旧跡が多いが、 寛林も秀吉に付会して、 夏時蝉声を聞かざるは、 秀吉が練兵の節、 号令をして聞こえやすからしめんために、 蝉の口を封鎖せしによる。 また、 松樹が地に向かいて平伏するがごとき状あるは、 秀吉の威勢をおそれしによるといえる俗説があるは、 笑うべしである。



第一九八話    彗星の俗説

本年一月、 連夜彗星の見えたるより種々の俗説を喚起し、 愚民を騒がすに至った。  その当時千葉県を巡回せしに、 各所にて、 今年は婦人の厄年に当たり、  若い婦人は病気にかかる年である。  その厄払いするには赤飯を携えて、 石の鳥居七箇所をくぐり、 各所へ赤飯を差し上げねばならぬとの風説が伝わり、  若き婦人は互いに誘い合い、 三々五々列をなして、 石の鳥居のある社をたずねて参詣する最中であった。 その説の起こりたる原因は不明なれども、 昔より彗星の出ずるときには災難があるとの迷信が根本となり、  これに枝がさき葉がつきて、  かかる妄説を流伝するに至ったらしい。 明治の今日なお、  このようなる迷信騒ぎがあるとは、 奇怪千万ではないか。



第一九九話    丙午についての俗説

明治二十九年の春ごろ、 大和地方を巡回せるに当たり、 京都より二、 三の有志がたずね参り、 本年は 丙 午の歳なれば必ず大火あるべしとの評判が立ち、 京都中丸焼けになると申して、 各町寝ずに火の番をする騒ぎであるから、 京都の市会議事堂において、 丙午の迷信打破の演説をしてくれとの依頼を受けた。 よって、 帰路京都へ立ち寄り、  一席の演説を試み、 丙午の恐るるに足らざるゆえんを説明したことがある。 京都の大都会すらかくのごとしであるから、 山間僻地に至ったらただに火災を恐るるのみならず、 その年内に生まれたる女子は成長の後に人に嫁することができぬとて、 出産の届け出を見合わするものすらあったとのことじゃ。  つまり、 古来より丙午の女子は男子を殺すとの俗説が伝わっておるためである。 その由来は、 十干の方にて丙は火の気の強い性であるのに、 十二支の方では午は火の気の盛んなる性である。 その二者が合体したからその年に大火がありとの俗説が起こり、 また、 女子はその性柔順なるをよしとするに、 丙午の気を受けて生まるるときは、 火の気の盛んなるがごとく、 男子を圧倒するに至るとのものより、 丙午の女子は男子を殺すなどの俗説を起こしたのである。



第二 灯台の幽霊

昔、 越後の出雲崎の海岸にはじめて灯台を設け、 毎夕点火しきたりたれば、 遠方にありてこれを望むものは、海上にて死せし亡者の霊魂が出現せるなりと思い、  一時海亡魂の評判が立ちて騒ぎたることがあった。 古来、 火

につきての俗説、 迷信はすこぶる多い。 しかして、 燐火を見て幽霊となす俗説は、 今日なお各所に信ぜられておる。


第二〇_    話    守り札の滑稽

播州〔兵庫県〕明石町〔現・市〕に人丸神社のあることは世間に知れ渡っておるが、 その社は申すまでもなく、 歌よみの聖人といわるる柿本人丸〔人麻呂〕を祭った社である。  この社より火よけの御札と安産の御守りを出だしておる。 余そのことを聞き、 なにゆえに歌神と関係なき守り札を出だすかとある人にたずねたるに、 その人笑っていうには、「これ愚民の誤解より起こった。 音便上、 人丸は「火止る」または『人生まるに通ずるから、 火止まる神様と解する点より、 火よけの御札を出だすに至り、 生ける神様と解する辺りより、 安産の御守りを出だすに至った次第である」と。 かく聞けば、 守り札にも滑稽のあることが分かり、 互いに笑ったことがある。



第二    二話    友引の俗説

世に六曜と称して、 日を六日ずつかぞえ立つる方がある。 その二日目に当たる日を友引という。 その日葬式を行うときは、 友を引くために七人相続きて死亡するの不幸を見るとて、 東京などにては大いにこれを恐れておる。 もし、 その日に葬式を行うのやむをえざる場合には、 人形六個を棺中に入れて葬れば、 その災いを免るるを得べしといい伝えてある。  ゆえに、 現今でも人形をもって代理させることを実行しておるが、 文明の今日、 日本第一の都会になお、 かかる迷信、 俗説の行わるるは、 嘆ずべき次第である。



第二    三話 天狗の祟

越前池田地方は美濃に接し、 山間の一僻郷である。 地位僻遠なれば人知したがって開けず、 日清戦役後うんか多く発生して、 秋穫を見ざることがあったが、 そのとき村民相伝えて申すには、 戦時中は山々の天狗がみな満韓へ渡りて、 日本軍の応援をなし、 そのおかげで百戦百勝の大勝利を得たのである。 しかるに、 めでたくわが国の大勝利となりて局を結ぶに至り、 軍人にはそれぞれ勲章を授けられたれども、 天狗に対して礼祭を行わざれば、天狗大いに怒り、 うんかを放ちて国民を苦しむるのであるとの妄説を唱えたそうだ。 しかし、  かくのごとき愚民の妄説は、  ひとり池田地方に限ったわけではない。



第二    四話    山神の相談

池田地方の妄説に類した話が東北にもあった。 余が先年、 山形県庄内地方を遊説中に聞いた話であるが、 それ以前国会のはじめて開設せらるる当時において、  一夕光物が響きを伝え、 鳥海山の方より月山の方に飛ぶのを見た。  そのとき愚民らは、  これ、 鳥海山の神様が国会の運命に関し相談せんとて、 月山の神様の方へ立ち越されたのであると申したそうだ。



第二    五話    志州の米食

志摩の国は日本中の最小国にして、 三面海をめぐらし、 耕地に乏しければ、 村民多く漁業に従事しておる。 常食は甘薯と麦のみでありて、 米は盆正月にあらざれば用いぬ所である。 しかるに、 他国よりその地に来たりて小学教員を勤めておるものがある。 彼は麦飯を嫌い、 毎日米食のみをいたしておった。  そうすると、 近隣の者が争ってその家の下水両便を与えられんことを頼みに来る。 そのわけは、 百姓らは、 平素米食をなすものの下水両便は、  これを肥料に用うるも一層効験のあるべき道理なりと信じておるためだ。 米の貴重せらるることこのとおりであるから、 毎日米食をなすものは、  一粒たりとも粗末にせぬように心がけねばならぬ。




第二    六話    伝染病についての俗説

明治十二、 三年ごろにコレラ病の流行したことがある。 そのときに群馬県を旅行して、 ある村落に入ろうとするとき、 路傍に仮小屋をかけ、 その中に神棚をかざりてある所に呼び止められ、 幣束を取りておはらいを行った。  これが今日の消毒法に当たるとはおもしろい。  そのつぎに再びコレラ流行せしときは、  おはらいをやめて、人の頭から衣服までことごとく石炭酸をふりかくることになったが、 これは一段の進歩とはいえ、 ずいぶん乱暴の消毒法だ。

 


第一四類 産婚葬祭

第二    七話    大島の産婚

伊豆大島にては出産のことについて別に記すべきほどのことなけれども、 出産後七夜に達するときに祝いがある。  そのほかに最も盛んなるは七五三の祝いである。  そのときには、 子供のために衣服を新調し、 紋付きまでをこしらえて宮参りをなし、  かつ人を招きて会飲をなし馳走を配付する等、 莫大の出費がいる。  ひとたびその祝いをなすときは、 平均八十円ぐらいもかかるとのことにて、 そのために負債を起こすものあるほどとのことじゃ。毎年正月には、 十二日間は家族の生まれ年の十二支をくりて、 まさしくその日に当たれるときに祝して酒を飲ませる風習である。 平素は山に入りて炭薪を取り、 倹約して蓄えたる金銭を、 ときどき祝酒を傾くるためになくしてしまうと聞いておる。 人を招きて会飲するときには、  一人の酒量平均一升二合ぐらいを要すとの話じゃが、 話半分と見ても大層のものである。 よって余は、

炭を焼き薪を売りて米を買ひ、 残るオアシで酒をたっ ぷり

とよみて、 笑ったことがある。  すべて大島にては「会飲ありて会食なし」と申すが、 食物の方はあまり客に差し出ださぬ由である。  つぎに結婚の模様を聞くに、  一層奇怪に感ぜらるる。 婚礼の節は、 新郎外に出でて家におらず、 新婦はその実家にありて、 タスキ、 前垂れにて働きおる。 いよいよ親類、 友達、 客人打ちそろったときに、その働いておる新婦を引き来たり、 その家の土間の所に立たせ、 決して座敷には上げぬが礼である。  これより客人に対して饗応が始まる。  その間に新婦は逃げ出だして実家に帰るそうだ。 その夜は新郎の方で新婦の方へ泊まりに行き、 その翌朝、 新婦が水をくみて持ち来たるとのことじゃ。 大島にて、 嫁入りのことを足入りと申しておる。  これらはよほど古代の風が残っておるに相違ない。 結納にはてぬぐい、 草履等七品を用うる由である。


 

第二    八話 新島および八丈島の嫁入り道具

伊豆七島中の新島にて、 婦人が他家に嫁するときの三道具は、 花桶と水桶と糞桶との三品である。 花桶は、 新婦の役目たる毎朝墓場の掃除をなすときに用うるためとのことじゃ。  この島では祖先の墓をいちばん大切にし、新婦の仕事は毎日の墓掃除であるそうだ。 水桶は飲用水をくむためなればよろしいが、 糞桶にいたってはチトびっくりする持参品である。  つぎに八丈島にては入婚の際、 箇笥、 長持の代わりに屏風を持ち行くことが古来のきまりであるもめずらしい。 しかして、 新婦の衣服はふだんのままにてよろしいということだ。



第二    九話    掠奪結婚

古代の結婚に掠奪結婚と申して、 男子が婦人を奪い去りて自家につれ来たり妻とする風があったが、 現今にてもわが国に残っておる。 熊本県の阿蘇郡内に、 毎年一月中に嫁を盗むということがある。 少女が田畑に働いておるのを奪い来たりて自宅につれ行き同棲する。  かくして三月に至り、 正式の結婚を行うとのことじゃ。  これと同じく八丈島にても、 今日掠奪結婚の風が伝わっておる。



第ニ 話    琉球の葬式および墳墓

琉球にてはシナのごとく、 葬式のときに人を雇いて泣かしむる風習なるが、 これに一升泣き、 二升泣き等の別ありと聞く。  すなわち泣き者に対し、 その泣き方の度に応じて、 あるいは泡盛一升、 または二升を給与する意味であるそうだ。 また世界中、 墳墓の壮大なるは琉球の右に出ずるものはなかろう。 いかに長崎の墓が立派でも、到底琉球の比較にはならぬ。  一家の墳墓の建築費、 その粗なるものにても二百円に下らず、  その高価なるものにいたりては、 五、 六千円以上をかけるということじゃ。

遠くこれを望むに、 石造の居宅または土蔵のごとく見ゆる。 その家窮困して田畑、 家屋を売却するも、 墓所は売却せず、  これを最上の財産としてある。 もしこれを売却すれば、 その地には住居ができぬ。 また、  死人のある場合には死骸を棺に入れたるまま墓場に置き、 三年経て洗骨式を行い、 骨を洗って瓶に納める習慣であるが、  これは埋葬にもあらず、 火葬にもあらず、  その中間の葬法であろう。

 


一話 葬式の号泣

琉球の葬式には泣き 婦 をして伴行せしむるも、 伊豆大島にては泣き婦の代わりに、 各戸の女子に幼少のときより泣哭の稽古をなさしめ、 葬式の読経始まるや、 大声にて泣き上ぐということじゃ。  その語は「なにがしのカネンボシ、 ニシャ ナゼウチンダヨ」と叫ぶ由。 カネンポシとは愛すべきの意である。  この泣き声が盛んなるために、  お経の声も打ち消さるるほどににぎやかだそうだ。いよいよ葬式が済むと、 会葬者の中で、 たれがしの泣き方がよいとか悪いとかの品評があるとのことだ。 寺の住職の話に、「島の葬式に慣れて内地に行くと、 あまり葬式が寂しく、 物足らぬように感ずる」と申しておる。  すべて婦人は、 葬式のときには五ツ紋の衣服を着し、 紫色の鉢巻きをなし、 帯は前の方にて結び、 男子は白衣をはおり、 白吊を三角形に折りて頂につくるをきまりとしてある。



第ニ 二話    八丈島の葬式

八丈島にても、 葬式のときに棺の家を出でんとするに当たり、 婦人の号泣するを例としておる。 棺には長く「善の綱」を結び付け、  これに親類は連なりて行く。  死骸をいるるに棺桶を用いず、 その代わりに大瓶を用い、その底に穴をあけてあるということじゃ。  これは、 死体より出でたる水を下へ漏らすためであろう。



第ニ 三話    北海道および小笠原島の葬式

全国中、 葬式に多大の資を投ずるは北海道、 なかんずく函館を第一とする。  上下貧富を平均して、  一回八十円ぐらいと聞いておる。 琉球の墓場と好一対である。  すべて新開地は、 意外に葬式をにぎやかにする風がある。  北海道では人が死すれば、 多数寄り合って通夜をする。 そのときは酒肴の仕出しでにぎやかである。  若いものが死ねば 一層にぎやかにするそうだ。  また北海道では、 人が死んでも墓場を設けぬのが多い。 必ず死骸を火葬にして、 白骨を寺にあずけておく。 それゆえに、 各寺に骨堂を設けてある。  これは、 いつ内地へ帰るかも知れぬから、 帰るときに骨まで持って行くためである。 小笠原島の葬式も、  このとおり酒肴を出だしてにぎやかにする。

かつ葬式のときには一村みな親戚同様であって、 だれもかも集まって会葬するそうだ。 新開地としては、  さもありそうなことだ。 しかるに、 東京の葬式、 通夜に酒肴を用うるは例外である。



第_二    四話    人の死を意味する語

伊予温泉郡にては、 人の死したることを「広島へ綿買いに行けり」と申す。  また同じ国内にても、 越智郡にては「広島へ茶買いに行けり」といい、 新居郡にては「広島ヘタバコ買いに行けり」といい、 豊前および石見にても、 人の死したるときに「広島へ綿買いに行った」という。  けだし、 死ということを忌みたるためなるも、  これを広島に限りたるは、 その理由解し難し。  また、 長州〔山口県〕萩にては「長崎に茶買いに行った」というも、 長崎ときめたるわけが分からぬ。

 

第ニ 五話 海を隔てて葬式を行う

 石州〔島根県〕美濃郡鎌手村〔現・益田市〕に属する孤島にして、 海上三里を離れたる所に、 高島と名づくる小島がある。 周囲約一里にして、 戸数わずかに六戸に過ぎぬ。 冬期は船の通ぜぬこと数十日に及ぶことがある。 その時節に死人ありたるときは、 海岸に出でて火をたきて報知をする。  その火を見て陸上の寺院より僧侶出で来たり、 はるかにその島に向かい、 海上三里を隔てて読経引導をなすというが、 三里離れての引導はめずらしい。



第ニ 六話    自葬祭

信州〔長野県〕松本領内にては維新の際、 廃仏廃寺を実行し、 民家の葬式は神式にあらず仏式にあらずして、 その戸主たるものに一定の弔文および祭文を作りて渡し、 これを朗読せしめたそうだが、 これは自葬祭と申したらよかろう。 その後寺院は復活せしも、 安曇郡のごときはほとんど無宗教同様である。 僧侶は各宗の読経を一通りずつ記憶して、 禅宗の家に入れば禅宗の経を読み、 真宗の家に入れば真宗の経を読み、 祈禰も行い、  マジナイもなし。「八宗兼行するにならざれば糊口ができぬ」と申しておる。



第_二    七話    奇    祭

日本全国中、 神社の祭礼に奇怪なる古俗を伝うるものが多い。  その中に三大奇祭とも称すべきは、 豆州〔静岡県〕伊東の尻 摘 祭り、 紀州〔和歌山県〕日高郡丹生神社の笑い祭り、 遠州〔静岡県〕見附天満宮の裸体祭りであろう。 伊東にては毎年十一月十日の夜、 音無明神の祭りがある。 そのときは灯火を用いず暗黒の中にて執り行い、神酒を賜るときは、 尻を摘みて次へ次へと杯を回すから尻摘祭りの名が起こった。  また、 日高郡上和左村〔現・川辺 町 〕にては毎年十月初卯の日に、  一同幣を捧げて丹生明神の社前に至る。 その中で年長者が発声して「笑え笑え」というに応じて、  一声同音に笑う。  その笑う由来は、 十月は神無月と称し、 諸神みな出雲の国に至りたまうに、  この神ひとりおくれて行きたまわざりしを笑うのである由。 見附の天満宮は古来の遺風にして、 神輿をかつぐものも送り迎えするものも、  みな裸体になりて奉供する故に、 裸祭りといい伝えた。 そのほか肥前唐津町〔現・市〕をさること三里、 港町に灰を吹き散らす祭りがある。  これを灰降り祭りというが、 これまた奇祭の一っである。 そのほか全国の祭礼を取り調べてみたなら、 奇祭もたくさんあるであろう。


第一五類 風俗習慣第ニ 八話    会津の正月と飛騨の正月

会津若松にては正月元旦に餅を食せずして蕎麦を食し、  二日はトロロを食し、 三日に至りてはじめて雑煮を食する風なるは珍しい。 しかして大晦日には塩鮭を食し、  これを残して新年三カ日間、 少々ずつ食いつづくのがよいとしてある。  つぎに、 飛騨の正月は必ずブリ魚を食するきまりである。 またその奇なるは、 大晦日は歳暮に回るのみにて、 元旦は終日戸を締め切り、 松かざりもせずシメ縄も張らず、 平臥して休養しておるというおもしろき風習である。



第ニ 九話 土佐の風俗

今より二十年前、  土佐を一巡せしことがあるが、  土佐の風俗習慣は他国と大いに違っておる。 まず土佐人は、暗夜しかも深更に提 灯を用いず、 山坂をこえて歩くことを少しも苦にしない。  また、 婦人が進んで演説を聞き、しかも理屈ばりたる話を喜ぶ風がある。 旅行中、 奇異に感じたるは、 夜具の敷蒲団が煎餅よりも薄きこと、 旅館に急須、 茶碗を有せず、 茶釜の中より湯のみに茶をくむこと、 食事の香々は必ずチョ クに入るること、 チョクを香々入れと申しておる。 この風は鳥取県と一致しておる。  かつおのナマを半焼きにして刺身の代用にすること、便所は住家を離れて設くること、 墓場の粗末なること、 人力車の構造と提灯とがヒトフウ変わっておること等、いろいろ珍しく感じたることがあった。 しかし今日は、 そのころよりは大分変わったそうだ。

 


 

第二二話    宮崎県の風俗

日向宮崎郡にては、 従来稲を刈り取り、  これを籾のままにしてカマス(藁 筵 にて作りたる袋)に入れてた<わえおき、 小遣い賃を要するときに、  これを白米に仕上げて町に売り出だす習慣であるから、 古来米俵を用いたることがなかった。 近来郡役所の奨励によりて、 ようやく俵を用うるようになったと申す。 実に太古の風である。 村落に警報のはしごがあるが、 その上に半鐘の代わりに板木をかけておく。 また、 川あれども堤防がないなど、  ずいぶん文化の程度がおくれておるように感じた。



第二_二    話    球磨の風俗

肥後球磨郡は地勢上、 自然に別天地を形づくりておる所なるが、 人の他郷に出ずるときは、 たとい書生が遊学に熊本へ向け出発するにも、 男女相伴い太鼓、 三味線にて、  二、 三里先までも見送る風がある。 また、 旅立ちする人が人吉より川舟に乗り込むときに、 水を振りかけるが礼であるそうだ。 余の出発のときは、 他国人であるから幸いに水を掛けらるる難を免れた。 酒は琉球の泡盛と同様のものを用う。  これを球磨焼酎と申しておる。 その杯がいかにも小さくして愛らしい。 しかし、 ただ今では汽車が開通したから、 風俗もおいおい変わるであろう。

 


第二二二話 伊吹島の風俗

讃州〔香川県〕観音寺町〔現・市〕をさること海上四里、 伊吹島と名づくる一島がある。 戸数約三百、 昔時は物差しなく、 衣をつくるに糸縄を用いて寸法を定めたそうだが、 明治十九年小学校を開設せし以来、 はじめて物差しを用うるに至ったと申す。 また、 その島にては年長者を貴ぶ風ありて、 先年村役場にて、 村長の年齢よりも小使の方が長者であったために、 小使が村長の実名を呼びすてにし、 村長が小使を様付けにしたという奇談がある。

 


第二二三話    はだしの習慣

日本中、 はだしの最も多きは琉球、 小笠原島にして、 そのつぎは鹿児島県、  そのつぎは佐賀県であろう。 琉球人にして天然痘にかかりしものありて、 全身痘を発したるも、 足の底のみに発せぬ。 いよいよ痘の全快せんとするころ、 足の底一面離れて落ちたそうだ。 これは、 子供のときよりはだしの習慣ありしために、 足の底の皮が鉄のごとく堅くなりおり、 痘が外部へ発することのできざりし故である。



第ニ二四話    蚊帳の習慣

琉球および小笠原島は、 終年蚊帳を用いておる。  かかる土地に久しく住して内地に帰るものは、 蚊帳なき所にては安眠し難しと申す。 そのわけは、 臥床中、 天井より蛇、 むかでのごとき毒虫の落ち下らんかの疑憚心が起こるそうだ。  これも習慣である。 しかし実際、 内地より右らの島に行くときは、 冬期大寒のときでもいろいろの虫がおるから、 ヨシ蚊がおらなくも、 蚊吸なしでは安眠ができぬように感ずる。



第二二五話    坂路上下の習慣

伊勢山田〔現・伊勢市〕の旅館にて、 客の歩き風を見て、 ただちに大和吉野郡内の人なるを判知すという話がある。 けだし、 吉野郡内は人家点々、 山また散在し、 隣家に行くにも数十間の坂道を上下せざるを得ざれば、 自然に足を高くあぐるの習慣がついておる。  ゆえに、 平地を行くにも高く足を上下する風がある。  この風を一見して、 たちまち吉野郡内の人たるを察するのである。



第二二六話    隣家用語を異にす

筑後三瀦郡大川町〔現・市〕の内に、 旧柳川領と旧久留米領と比隣したる所ありて、 西隣は人の問いに答えて「エー  」といい、 東隣は「ナイ」という。  また、 佐賀県の鳥栖町〔現・市〕の中に旧佐賀領と対州領とが混じておるに、 今日なお言語が違っておるそうだ。  つまり、 古来の習慣、 怠力のしからしむるところである。



第二二七話    田畑の輪耕

世に輪耕と称して、 年限を限りて山林と畑とを転換して耕す法があるが、 隠岐のごときはその    つである。 隠岐にては牧場と畑とを転換し、 畑地として四年間耕作すれば、  さらに牧場として四年間牧畜をなす。  すなわち耕牧輪転法を用いておる。 伊豆大島にても畑地と山林とを輪転し、  およそ十四、 五年間、 山林として薪木を培養すれば、 さらに十四、 五年、 畑地として麦薯を培養する習慣である。  これを切り替え畑と名づく。 八丈島もこの切り替え畑を用いておる。 そのほか飛騨の白川郷がこの輪耕法により、 十五カ年間山林にし、  これを焼き払って五カ年間畑とするきまりである。  そのことを焼け畑と唱えておる。



第ニ二八話    婦人の労働

沖縄県すなわち琉球と伊豆大島とは、 婦人のかえって男子よりも労働する所である。   者ともに婦人労働して、 亭主を遊ばするをもって己の名誉とする。 しかして婦人に権力なく、 男子の圧制の下に屈従するの風である。

また、 大島は婦人の体格、 姿勢のよきは、 他に多く見ざるところにして、  その屈強なるものにいたりては、 頭上に米二俵、 すなわち二十貫以上を載せて運び得ると申す。  このように両島ともに似ておるところあるが、 また違うところがある。  すなわち琉球の婦人は被髪、 左 祖 なるも、 大島は一般に結髪しておる。 また、 大島婦人は鉢巻きをなし前垂れを締める風あるも、 琉球にはこの風がない。



第二二九話    頭戴の風俗

婦人の頭上にて物貨を運搬するは、 琉球、 伊豆七島のみならず、 紀州〔和歌山県〕の熊野、  志州〔三重県〕の東海岸、 薩州〔鹿児島県〕の枕崎、 京都の北山、 伊予の松前、 豊後の臼杵(鶴村)等、 諸方にある。  けだし、 南洋の風俗を伝えたるものであろう。  北海道アイヌ人は額の力にて背上の物を運ぶもまた異風である。 その中にてことに珍しく感じたるは、 熊野山中の婦人が、 米一俵を頭上にいただき 一筋の縄でカジを取りつつ峻阪を自在に上下することと、 伊豆大島の婦人が、 両人調子をそろえて長き材木を頭上にて運搬することと、 琉球の婦人が、 頭上に豚の子をいただき、 小便かけられながら走ることと、 志州海岸の婦人が、  糞桶を頭上にいただきて歩くことであった。  糞桶にいたっては、 万一桶の底が抜けたら大変であろう。  また、 大和吉野郡天川村にては、 婦人が頭戴はせざれども、 背上で重量の物を運搬する力は、 男子も及ばぬほどである。



第二三    話    男女不同席の風俗

琉球の男女間の関係は儒教主義にして、 男尊女卑はもちろん、 互いに席を同じくせず、 男子の客来には男子ひとりこれに応接し、  女子の客来には女子のみこれに接見し、 公道を通行するにも、 男女列を異にする風である。結婚の約束は、 幼少のときに定めおくのきまりである。  そのほか、 俗謡に猥褻にわたるものなきは美風といわねばならぬ。  また、  女子に再婚を許さざるは、「貞女二夫にまみえず」の教えにもとづくものであろう。

第__二  二  話    戸口の割合

日本中、 土地の面積に比して人口の最も多い国は淡路ということだが、  二戸の人口としては飛騨の白川村が一である。 現今にても、   二戸の家族四十五、 六人の家がある。 その大字御母衣のごときは、  二戸平均十五人半の割合になる。 そのつぎは越前国坂井郡鷹巣村〔現・福井市〕字清水谷であろう。 その一戸平均が十三人三分余に当たる。  これに反して伊豆大島のごときは、  一戸平均三人ぐらいの割合である。  その少なきわけは、 親子別居する習慣があるからじゃ。 八丈島も、 親は別に隠宅を構えて別居するきまりである。



第二三二話    隠岐の実況

隠岐の風俗、 習慣、 物産等は、 余の耳目に触れたるだけを集めて詩中に納めておいた。碧湾多二出入有レ余  ゜全島事ーー農漁風定海垂>釣、 天晴家晒>魚、 山田当ーー牧畜一 土窟蔵二甘薯一 生計皆豊富、 年年食

(みどりの湾に出入りする舟は多く、 全島は農と漁とを仕事としている。 風が静かなときにはつり糸をたれ、 晴れた日には家々では魚を干す。 山の畑は牧畜によく、 土ぐらは甘藷を貯蔵するによい。 生活はみなゆたかであり、 毎年食糧にも余裕がある。)

隠島多ーー名物{  錫魚為ーー最優一 野猫狡ーー於犬一 蹄石澗如>油、 菱浦聞二盆曲一 中条見二闘牛一 風光明且美、 到処_洗一吟眸

(隠岐の島には名物は多く、  スルメは最もすぐれたものである。 野猫は犬よりも狡滑であり、 馬蹄石は油のように潤滑である。 菱浦では盆のうたを聞き、 中条村では闘牛を見る。 風光明媚、  いたるところで吟詠の目を洗うごとく楽しませてくれたものである。)各所に土窟を見るは、 常食たる甘薯を貯蔵するためである。  その第一の名産たる錫魚は、 穴のあきたるをもって特色としておる。 生暖、 磨墨の名馬を出だせし地より、 黒光石のその形馬蹄に似たるものを産出する。 盆踊りおよび闘牛また、  その地の名物である。 毎朝茶粥を食する風習は、 京都、 奈良に似ておる。



第 二三三話      五島の実況

肥前五島の民家は、 戸ごとに石垣をめぐらすは防風のためである。 路上農夫に遇えば、  この帽を脱し頭をたれて過ぐるは美風である。 山に樹木なく道に茶店なきは、 暑中の旅行には困難に相違ない。  その実況は詩に写しておいた。

五島窮辺転ーー法輪一 草鞘竹杖_説一修身{  耶蘇教夙開ーー荒地ー 河太郎時悩二賤民一 船有二幽霊一人有レ礼、 路_無一茶店一酒無>醇、 我来驚見山皆禿、 唯喜寒村校舎新。

(五島の窮まる所、 仏法を説いて衆生を救わんとし、 わらじに竹の杖をついて修身を説く。 ヤソ教徒は以前から荒地を開いて住んでいる。 河童がときどき無知の村民を悩ませ、 船には幽雲が出るというが、 ここに住む人々には礼儀がある。 道には茶店もなく酒の芳醇なるものもない。 私が来て驚いたのは、 山がすべて禿げ山であったことだ。  ただ喜ぶべきことに、 豊かでない村にも校舎が新築されていることである。)



第 二三四話 帽子の見せ物

余、 むかし奥州〔福島県〕白川より会津に入る途中、 勢至堂嶺をのぼり、  一茶亭に休憩したることがあった。  そのときは夏の土用中にて、 東京より風変わりの帽子をかぶりて旅行したが、 いよいよその茶亭を去らんとするに、 傍らに置きし帽子見当たらず、 いかにも不審に堪えずして、 しきりにあちらこちらを捜索するうちに、 茶亭のカミサン、 帽子を携えて帰り来たり、 あまり珍しき帽子であったから、 近辺のものに見せに回ってきたと申したが、  この一例に考えて、  いかに朴直なるかが分かる。


 

第 二三五話 楯岡の旅館

山形県に楯岡〔現・村山市〕と名づくる町がある。  この町に昔、  一等旅館が二軒あるのみにて、 そのほかに三の旅店あれども、 極めて下等であった。 余は、 同町の青年会の主催にかかる講演に出席するために、 天童町〔現・市〕よりここに移ったが、  二軒の一等旅館が平素大競争を構えおる由にて、 青年会が余の宿所を定むるに、双方おのおの己の方にて引き受けんとの競争を起こし、 有志者が仲裁して一方へきめんとするも、 なかなか承知せぬ。  その結果、  二軒のうちへはいずれへも宿所を定めぬということになり、 下等の旅亭へ余を案内して宿泊せしめた。 旅館がたきの感情のために、 無関係の余まで迷惑を受けたるは残念のようなれども、 余のごとき無位無官のもののために、  これほどまで競争したりしかを思えば、 うれしきようにも感ぜられた。



第二三六話    淡路の結髪

今より二十年前、 余が淡路国を一周せしことあるが、 各演説会場において、 聴衆中に結髪者がたくさんおるように見受けた。 後に発起者の話を聞くに、 男子の一割は今日なお結髪しておるそうだ。 その原因は、 島国にしてほかと交通の少なきと    いったいの風が保守的なるとによる。 淡路人は日本先開の国と称して、 自ら誇りておるくらいなれば、 なにごとも自然に保守に傾く勢いである。

 


第一六類 娯楽遊興 第_二    七話    闘    牛

世界中に闘牛の娯楽といえば、  すぐにスペインを思い出だすけれども、  スペインのは人と牛との闘いである。しかるに牛と牛との闘いは日本に限る。 そのうちに最も世間に多く知れておるのは、 越後古志郡の山間二十村の闘牛である。  これを牛の角ヅキと申す。 そのつぎは伊予の宇和地方である。 その名を牛相撲という。 そのつぎは隠岐にして、 名は牛ヅキととなえておる。 八丈島にも昔は闘牛ありし由なれども、 今はすたれてない。  右のうち、 実際最も盛んなるは隠岐である。 余は島後の中条村〔現・西郷 町 〕にて実見した。 その闘牛のやり方は越後などと違って、 双方タヅナをとりて闘わしておる。 毎年、 全島中の牛が集まりて大試合をなし、 その勝負に応じて番付を作ることになっておる。  これは実に隠岐の名物である。



第二三八話 土佐の闘犬

阿波人は競馬を好み、  土佐人は闘犬を好むと申すが、 土佐の闘犬はなかなかに盛んなものだ。 平日、 特に犬を養いおき、 闘犬の場合に各所よりその犬をつれ行き、 双方より一頭ずつ出だして柵の中に入れ、 まさに倒れんとするまで闘わすそうだ。 余が巡回中にも近村に闘犬ありとて、 聴衆みなその方に吸収せられ、 演説会の成り立たぬことがあった。 しかし、 その闘犬の実況を見ざりしは、 今に遺憾に思っておる。



第二三九話    琉球の野遊び

琉球にはモ遊びと名づくる遊びがある。 モは毛にして、 野原で草をむしろとして遊ぶのである。 夏の月夜に多くこの遊びをするそうだ。  その島の風として、 男子が三味線を弾いて歌い、  女子は集まりてこれを聴くだけである。  それゆえに、 男子にして三味を知らぬものはない。 平常にても、 男子は家におって三弦を弾じ、 泡盛を傾くるがなによりの楽しみであるとのことじゃ。 酒に強きものは、  一度に泡盛五合ぐらいをのみ尽くすそうだ。

 

第二四    話 八丈の踊り

 

八丈島では踊りが名物であって、 なかなか盛んである。 芋焼酎をのみながら環状をなして踊る。  そのありさまは船の波にゆられておるように、 身を高くしたり低くしたり、 浮きつ沈みつ動揺しつつ踊り行くのである。 けだし、 船の黒潮にただよっておる形に似せたものかと思わる。 その歌い方のかけ声調子は、 全く東京のキャ リに似て、 極めて楽天的である。 しかしてその踊る人は男子にして、  女子はただ見物するだけだ。  右は八丈固有の普通の踊りだが、 そのほかにトノサ踊り、 ヒチャヒチャ 踊りなど、 いろいろの踊り方がある。 また、 音曲としては太鼓を打つ遊びがある。  その打ち方が一風かわりておもしろい。

 


第二四一話 隠岐の盆踊り

盆踊りは日本中に各所にあるが、 いわゆる豊年踊りである。  そのうち、 隠岐の盆踊りはひときわ盛んなるものだ。 余が同島の菱浦〔海士 町 〕に滞在せしとき、 有志家数名相集まり、 最初に有名なるドッサリぶしが始まり、後に盆踊りが起こった。 いよいよ盆踊りに移りたれば、 国会議員も村長も名誉職も出かけ、 下女下男みな打ちまじりて、 客舎の二階も落ちるばかりに盛んなる大踊りとなり、 極めて楽天的で、 壮快を感じたことがある。

 


第二四二話 奥州の盆踊り

 盆踊りは奥州〔東北地方〕の方にも行われ、 青森県はことに盛んである。 余は鯵ケ沢に滞在中、 盆踊りに会し、終夜安眠を妨げられて閉口したことがある。  その中で黒石が第一との評判である。 津軽の名物は、 弘前のネプタと黒石の盆踊りと並び称せらるほどじゃ。 また、 福島県の磐城平辺りにて盆踊りの代わりに、  ジャ ンガラ踊りというものがある。 新仏(死人)のある家の前にて踊るということじゃ。



第二四三話 越後の食いだおれ

余の郷里は越後であるが、 越後ぐらいに食事の盛んなる所は少なかろうと思う。  上方では、 京都の着だおれ、大阪の食いだおれ、 堺の建てだおれととなうるが、 越後は食いだおれの方でありて、 比較的食物はおごっておる方である。 いな、 無芸大食が多い方である。 その大食には原因がある。 昔よりオタチととなえて、  一とおり食事のすんだ後にお客に対し、  さらにお鉢を改めて食べさするきまりである。  ゆえに、 人に招かれたるときには、   度に二、 三度の分の大食をするわけじゃ。  これをオタチというは〔上杉〕謙信の遺法だと申しておる。 むかし、 謙信がいよいよ戦場に向かって出発する際に、 世間でいう 鞘 酒の代わりに鞘飯をたべさする規則であったということじゃ。  その遺風からオタチの名が起こったとの伝説である。  すなわち、  オタチとは出発の義らしい。 余もこのことで生長したから、 無芸大食の方であったが、 近ごろはその罰で、  ごくごくの少食家に変わってしまった。

 


第 二四四話 浮立と狐はなし

 佐賀県にては田植え上がりまたは稲刈りの後、 もしくは旱天つづきの場合に、 人気を引き立つるためにとて、太鼓を鳴らし、 鐘をたたきつつみな打ち、 仮面をかぶりおどりつつ騒ぎ立つる風がある。  これをフリュウと名づく。 その文字は「浮立」とかく。  すなわち、 人気を浮き上がり立たしむるのであろう。 肥後にては、  お祭り騒ぎの後に酒宴をなすを「狐はなし」と申すが、 騒ぎの熱をさます意味だということじゃ。 狐のつきたるを離して、正気にかえらしむるの意であろう。  これを豊前ではイタジキバライと申しておる。



第二四五話    拳    戦

酒興のときにケンを戦わすことはどちらにもあるが、 九州には特に拇戦というよりは、 むしろ拳戦というべきものがある。  これをナンコという。 鹿児島に最も流行しておる。 そのつぎは熊本である。 後者は前者より複雑にしてその趣が違う。  その調子は目を丸くし、 声を怒らし、 喧嘩のごとき態度である。 また熊本県内にても球磨郡は一種異なりて、 拇戦の方である。 その方法はほかと同じからず、 親指を出だすものは五手を握るものに勝ち、人差し指を出だすものは親指に勝ち、 中指は人差し指に勝ち、 五指開くものは中指に勝ち、 五指握るものは開くものに勝ち、 そのほかは無効にして勝負なしという規則である。 そのやり方がいちばん学術的であると思う。



第二四六話    キセルの種類

タバコは人生自然の要求であるものと見えて、 みなタバコをのんでおる。 そのキセルにつきて余のめずらしく感じたるは、 志摩国の海岸で用いておるキセルである。 その首は小さきサザエ貝を拾いきたり、  これに穴をうがち、 竹管を差し込んでキセルにする、  ごく簡単にしてみな手製である。 また、 紀伊の熊野地方と肥前の五島三井楽地方とはキセルを用いず、 その代わりに椿葉を用い、  これにタバコを巻き込み、 巻きタバコのごとく吸入する風である。  その両所とも、 婦人がみな喫煙しておる。  これは、  キセルを用いざる昔の風を伝えておるのであろ



第二四七話 五爵、一堂に集まる

 千葉県地方にして八名、 旅館に会して晩酌せしことがあった。  その館の規則として、 下女をして客の酌をなさしめぬきまりである。  ゆえに、 列座互いに酌をなして、 これ男酌であるという。 その席に郡視学ありて酌をなし、 これ視酌であると申す。  余また酌をなす。  人評して、 博士の酌なれば博酌であろうという。  また、 校長座にあり酌をなして曰く、「これ校酌なり」と。 最後に村長立ちて酌をなして曰く、「余は公吏の一人たれば、  その酌は真の公酌なり」と申したれば、  みな笑って曰く、「公侯伯子男の五爵、  一座に集まれり」と申したことがある。



第二四八話    泉声と語声

鳥取県八頭郡安井駅客中、  一夕村内の有志家数名と会飲し、 座談大いに熟して、 夜のふけるを知らず。 人々散ずるとき、 時計二時を報ずるに至った。 その家の庭前に飛泉の落下するあるも、 酔後にはその音も聞こえぬほどに盛んであった。 ときに詩を賦して、  その実況を述べておいた。

未>酌泉声圧ーー語声ー  已酔語声圧二泉声一 夜深酒尽人将>散、 更漏報来第二声。

(まだ酒をくみかわさぬうちは泉の音が話し声を圧するようにきこえ、  すでに酔ったのちの話し声は泉の音を圧倒した。 夜もふけて酒も尽き、 人々も帰ろうとするとき、 時刻は二時をつげたのであった。)



第二四九話    江差の西洋料理

先年、 北海道桧山郡江差町に滞在中、  一夕懇親会に招かれて出席せしに、 西洋料理のつもりなりしも、 江差に肉がないから、 その前日、  二十里離れたる函館へ、 翌朝の馬車便にて牛肉を送れとの注文を電信にて申し込んだそうだ。  当日の六時ごろ、  一番馬車が着したるも、 牛肉来たらず。 よって、 八時に着すべき二番馬車に積み込んだであろうと思い、 これを待たんとするも、 来賓の方にて空腹を訴うるものありて、 とにかく鶏卵のスー  プはできておるから、  これを差し出だしてビー ルを傾くる間に肉が着するであろうというので、 食事を始めた。 すでにスー  プをすすり終われど、 なかなか肉が来たらぬ。 さらにスー  プのお替わりをせよとのことにて、 二杯すすったけれども、 肉いまだ来たらず。 さらに今一杯ということで三杯まで重ねてスー  プをすすり、 いまだ終わらざるに、 八時に着すべき二番馬車が一時間後れて九時に着した。 しかれどもなにかの間違いにて、 肉を持ち来たらざることが分かり、 当夕の西洋料理はスー  プ三杯とビー  ルのみにてすましたことがある。 流動物のみの西洋料理は、  このときが空前絶後であった。



第二五     話    鯨魚の饗応

長州〔山口県〕大津郡川尻村〔現・油谷 町 〕は捕鯨の地にして、  一村ことごとく鯨猟に従事しておるが、 先年その気節になりて一カ月余り、  さらに鯨来たらず。 大いに失望せるところへ、 余が巡回して来たり、  二日間演説を開会することに申し合わせ、 いよいよ演説を始めんとするとき、 海岸にて法螺を吹き立て来鯨を報ずるや、 聴衆先を争って海浜へ走り行き、 暫時ののち一頭を捕獲し、 その価三千五百円にて売買をおわった。 村民一同の喜び一方ならぬ。 その翌日もまた捕鯨し、 さらに一千五百円を得、 村中お祝いをするほどのことであった。 そのときの風説に、 井上博士の来遊のために鯨魚が来集したるのであると申し、 意外の歓待を受け、  二日ともに演説もせずに、 鯨魚一色の調理をもって饗応されたことがある。 余と鯨魚とはなんらの関係なきも、 妖怪博士、 化け物先生などの異名から、 世のいわゆる吉凶禍福の縁起に関係があるがごとくに考えらるることがときどきある。 世の中はおかしいものじゃ。

 


第一七類 人名地名

第二五_    話 土地と人名

土地と人名とは自然に関係ありて、 人名を見てその郷里の分かることがある。 例えば、 土佐人に「馬」の字の付きたる人名多く、 長州〔山口県〕人に「槌」または「介」の字の付きたるもの多く、 薩州〔鹿児島県〕人に「熊」または「彦」多く、 豊後竹田には「夫」または「雄」または「男」が多い。 また薩州に一種特別なるは、 男女ともに「ケサ」の名が多い。「今朝」とも書き「袈裟」とも書くが、 その最も多きは「田衣ケサ」である。  すなわち「販」の字をケサとよまず、 多分造り字であろう。 婦人には「鶴ケサ」「松ケサ」「万ケサ」「千代ケサ」というがごとき名がたくさんあるはめずらしい。



第二五二話    珍奇の苗字

伊予宇和島に「九」の一字姓があるが、  これを「イチジク」とよませる。 けだし、「一字九」の音より出でたるよみ方であろう。 伊豆に「月出」と書きて「ヒクチ」とよむ姓がある。 播州〔兵庫県〕の真宗寺に「尺一」という姓と「睾采」という姓がある。「尺一」は寺の字が「十一寸」すなわち「一尺一寸」なるより考え出だし、「睾采」は「釈」の字を分析して作ったのである。 また、 石州〔島根県〕大田町〔現・市〕に「面白」という姓があるも、 実におもしろい。 また諸方にあるが、「東海林」と書きて「ショ ウジ」とよむは無理のよみ方である。 また、上総東金町〔現・市〕の酒屋にて「富泉屋」を「ヨシイヤ」とよむは奇怪である。

 


第二五三話 同姓同名

伊豆大島には同姓同名の者多く、 ために間違いを起こすの恐れあればとて、 親の実名を冠して呼ぶ風がある。例えば、「勘八伝」といえば勘八の子の伝のこと、「伝吉岩」といえば伝吉の子の岩のこと、「オボナガ」とはオボの娘のナガのことである。  かくして区別しておるもおもしろい。

 


第 二五四話 余が姓名の偶合

長野県上高井郡須坂町〔現・市〕近傍に井上村〔現・須坂市〕と名づくる一村がある。 余を聘して一会を開かんことを申し込んだから、 余その招に応じてここに至れば、 会場は円了寺と名づくる寺院である。 村すでに井上と呼ぶ。 寺院また円了と称す。 かかる場所にて井上円了が演説するは、 不思議の因縁といわねばならぬ。 その後北海道に遊び、 黒松内駅の開会に出演したるに、 止宿所は有志家井上徳之助氏の宅にして、 会場は旭円了氏の寺であった。  これまた奇遇と申してよい。



第二五五話 同名異人

世に同名異人が多いが、 井上円了の名は日本にただ一人と心得しに、 先年京都において書翰の間違いより、 井上因了といえる別人あることを知った。 また東京にては、 同音の姓名本郷区内にありしために間違いをひきおこせしことがあって、 その人の名は井上延陵にして文字は違っておる。

また、 余と井上哲次郎氏とはその名異なれども、 ともに哲学を専攻せる故、 ときどき混同せらるることがある。 あるいは父子兄弟の関係あるがごとくに想像するものもある。 あるいは二人その実 人にして、 哲次郎は名、 円了は号なりと考えておるものもある。 あるいは両名を混じて井上円次郎と書いた書状を手にしたことがある。 ある人が、 井上円了は兄で、 井上哲次郎氏は弟だと考えておったそうだ。 そのわけを聞くに、  一方は次郎というからは弟に相違ないと思ったということじゃ。



第二五六話    地名の読み方

地名に、 同名のために間違いを生ずることが多いが、  この誤りを避けんために自然に読み方を異にするに至ったのがある。

例えば、 神戸の地名を摂津にてはコウベといい、 伊勢にてはカンベといい、 美濃にてはゴウドというがごとき、  東京付近にて甲州街道の新宿はシンジュクと呼び、 水戸街道の新宿はニイジュクと呼ぶがごとき、 また市中の本郷区の田町をタマチと読み、 神田区の多町をタチョ ウと読むがごとき、 また東京の日本橋はニホンバシと称し、 大阪のはニッポンバシと称するがごとき、 また伊豆の熱海はアタミととなえ、 出羽のはアツミ〔温海〕ととなうるがごとき、 福島県の福島はフクシマ、 木曾地の福島〔現・木曾福島町〕はフクジマといい、 北海道の松前はマツマエ、 伊予の松前はマサキといい、 奥州〔岩手・青森県〕の南部はナンブ、 紀州〔和歌山県〕にてはミナベといい、 また三州〔愛知県〕にて村名の豊川〔現・市〕はトヨカワ、 川名の豊川はトヨガワといい、 尾州〔愛知県〕の長島町はナガシマにして、 美濃の長島町〔現・恵那市〕はオサシマとよみ、 加州〔石川県〕にては金沢をカナザワ、 武州〔埼玉県〕にてはカネザワ〔現・皆野町〕とよび、 播州〔兵庫県〕にては赤穂をアコウ、 信州〔長野県〕伊那にてはアカホ〔現・駒ケ根市〕ととなうるがごとき、 河内にては八尾をヤオ、 越中ではヤツオといい、 越後では高田をタカダ、 肥後ではコウダ〔現・八代市〕というがごとき、 みなその類である。  また、 川について出雲に簸川〔斐伊川〕があり、  伯者に日野川があるが、 ともにヒノガワとよむべきなれども、 雲州〔島根県〕にてはヒノカワといい、  伯州〔鳥取県〕にてはヒノガワと呼ぶも、 やはりその類である。



第二五七話    難読の村名

余の聞き込みたる村名中、  その読み難きものを列挙すれば、 左のとおりである。

豊後日田郡月出山村〔現・日田市〕をカントウとよむ。

筑前宗像郡上八村〔現・玄海町〕をコウジョウとよむ。

同筑紫郡日佐村〔現・福岡市博多区・南区〕をオサとよむ。

同嘉穂郡目尾村〔現・飯塚市〕をシャ カノオとよむ。

肥前佐賀郡飯盛村〔現・ 東 与賀 町 〕をイサガイとよむ。

日向東臼杵郡祝子村〔現・延岡市〕をホウリとよむ。

出雲簸川郡十六島〔現・平田市の岬・漁港〕をウッ プルイとよむ。

同八束郡出雲郷〔現・東出雲町〕をアダカイ〔アダカヤ〕とよむ。

 隠岐周吉郡津井〔現・西郷町〕をサイとよむ。

讃岐多度郡塩生〔現・詫間町〕をハプとよむ。

大和吉野郡西川〔虹河、 現・川上村〕をニジッ コとよむ。

上総君津郡廿五里〔現・市原市〕をツイヘイジとよむ。

同不入斗〔現・市原市〕(東京市外大森にもある)をイリヤマズとよむ。

下総木下風町近在に神々廻〔現・白井町〕をシシバとよむ。

越中の村名中に餅の字〔岩絣・芦絣、 現・立山町〕をクラとよむ。

羽後院内領下の及位〔現・真室川町〕をノゾキとよむ。

信濃下伊那の神稲〔現・豊丘村〕をクマシロとよむ。

そのほか全国をたずねたらば、  かかる難読の村名が多々あろうが、 改名してもらいたいものだ。


 

第二五八話 勧学の村名

 石州〔島根県〕三瓶山麓の温泉場に志学と名づくる所がある。  その由来は明らかならざれども、 なかなか結構の名である。 余は旅館に一詩をとどめて去った。

三瓶山腹沸泉清、  一浴初知志学名、 洗去身塵与心拓、 何人不起読書情。

(三瓶山の中腹に清らかな温泉が湧き出ており、 入浴してからはじめて志学〔論語の為政篇に、 吾、 十有五にして学に志す、 とある〕温泉の名であることを知った。  かくて身の塵と心の垢とを洗い流せば、 いかなる人も読書への意欲を起こさずにはおられぬ。)

これと好一対の村名は信州〔長野県〕西筑摩郡読書村〔現・南木曾町〕である。  これをヨミカキ村とよむ。  その名の起こりは、 もと与川、 三留野、 柿園の三カ村を合して一村とする際、  一字ずつを結び付けたのであるそうだ。いずれも美名である。



第二五九話    おもしろき村名

能州〔石川県〕鹿島郡に大呑村〔現・七尾市〕という〔の〕がある。 また、 薩州〔鹿児島県〕伊位郡に大口村〔現・市〕という〔の〕がある。  ずいぶん牛飲馬食の行われておる村のようだが、 その実反対である。 また、 三州〔愛知県〕東加茂郡に酒呑村〔現・豊田市〕という〔の〕がありて、 その村の校名を酒呑小学校とつけたるも、  おもしろからぬとて、 村名も校名も 鱚 の海と改めたそうだが、 これもおもしろい。



第二六    話    村名の滑稽

大和国宇陀郡内には餅五つ、 落し、 拾つといえる村名がある。 ただし四カ村の名を結び付けたるものである。また、 隠岐にはウッ カリ、  スッカリ、 ネムレバ、 タタクという村がある。  これも四カ村の名を合したものである。  また、 信州〔長野県〕佐久郡の町村を合すれば、  臼ダ、 杵ダ、 望ツキダという名前ができる。

そのほか、 信州下伊那郡大平嶺の谷間に、 村落の小字に入道、 牡丹餅、  スカンと申す名があるも珍しい。 また、 北海道後志国にビクニ村〔現・ 積 丹 町 〕がある。 その文字は比丘尼にあらずして美国なれども、 最初は尼の住める村と思った。

名を聞きて尼すむ里と思ひしに、 来りて見れば美国なりけり



第二六一話    合併の村名

近来、 合併村には種々の珍しき名がある。 千葉県長生郡に十一カ村を合して一カ村にした。  この十一が互いに睦じくするようにとて、 土睦村〔現・睦沢町〕と名を定めたそうだ。 また、 甲州〔山梨県〕北巨摩郡に清哲〔現・韮崎市〕と名づくる村があるが、「哲」の字の村名に加わるは他に類例少なければ、 その由来をたずねしに、 先年、水上、 青木、 折江、 樋口の四カ村を合して一カ村とするときに、 水上の「水」と青木の「青」と折江の「折」と樋口の「口」とを合して新たに組み立てたる村名であると聞こえたが、 この考案もおもしろい。

 


第二六二話    村名の矛盾

出雲八束郡にては玉造村と湯町村とを合して、 玉湯村〔現・ 町 〕と定めてあるが、 玉造村には天然の温泉があ


り、 湯町村には甥瑞の物産がある。 すなわち、 玉造に湯ありて玉なく、 湯町に玉ありて湯なきは奇である。  これに似たる話は、 大阪に坂なくして、 山梨に山があり、 肥後の阿蘇に名高い坂がありながら、 坂なし町と名をつけてある。 武州〔東京都〕の田無町〔現・市〕にも田があり、 信州〔長野県〕下伊那の大平村〔阿南町〕は山ばかりである。  ずいぶん名実不相応の町村はあるものだ。



第二_六__   話    東京人の矛盾

東京人はすずり箱をアタリ箱と呼び、 梨をアリノミと呼び、  すべて縁起をやかましくいう所なるが、 神保町をビンボウ町といい、 富坂をトビ坂というは、 少々矛盾しておるようだ。 三田に御化横町と呼ぶ所がある。  これは、 大場健次郎と名づけたる人の住せし横町より転じきたったということじゃ。 また青山の幽霊坂も、 ある寺の名より転訛したと聞いておる。



第二六四話    霧多布の名称

北海道東岸に霧多布と名づくる地名がある。 その名称はアイヌ語に国字を当てはめたるに相違なきも、 そのヘん一体に霧の最も多き所なれば、 霧タッ プリと解してもよい。 しかるに、 余は別に三十一文字をもってその解を付会した。

霧多く昆布の多き土地なれば、 霧多布とぞ名をつけにける実際、 その地は昆布のたくさんとれる場所である。

 


第二六五話    山の珍名

豊後日田郡内に一尺八寸と名づくる山がある。  その名すでに奇なるが、  これをミオヤマとよむにいたっては、すこぶる珍といわねばならぬ。 また隠岐の島前に、 家督山とかいてアトド山とよまするも奇名である。

 


第一八類 百語文字

第二六六話    各地方の方言の一致

長崎県、 新潟県、 和歌山県等にて、 語尾にノー  シまたはノー ンシを添うる所がある。  また九州と奥羽にては、

「どこへ行く」を「どこサ行く」と申す。 奥州〔東北地方〕なかんずく南部にて、 名詞の下に「コ」をつけて話す。例えば、「馬の子の足の裏に金が付いておる」というべきを、「馬コの子コの足コの裏コに金コが付いておる」というの類じゃ。 しかるに、 伊豆大島にても名詞にコを付し、 茶碗コ、 姉コと申しておる。  また、 人に呼びかけられたるときの受けことばに、 佐賀、 久留米、 熊本、 彦根にて、「ナイ」といっ て返事する。  これみな、 東西数十里または数百里を隔てて方言の一致を見るものにして、 奇怪といわねばならぬ。 そのほか、 出雲人と奥羽人との発音の似ているのも妙である。



第二六七話    奥州および天草の方言の一致

奥州にては「出る」と「出来る」との相違がある。 例えば、「月が出来た」「団子が出た」という類である。  これと同じく、 肥後天草にても「出る」と「出来る」との相違がある。  すなわち、「家の出来る」を「家の出る」といい、「日の出る」を「日の出来る」といっ ておる。  これ、 偶然相合したるものならんも、 東西五百里も隔てて互いに一致する語のあるは、 不思議ではないか。

 


第二六八話    宮城県の方言

東北地方はすべて発音が鼻にかかり、  シの音はすべてスとなる。  ゆえに、 東北人は発音上シとスとをいい分<ることのできざるのみならず、 文字の上にかき分くることのできないものが多い。  これにつきて種々の奇話があるが、 その一例を申さば、 宮城県下のある町の湯屋に、「シリ御用心」とかいて張り付けたる紙がある。 湯屋にて尻用心せよとは、 いかなる意味か了解し難い。 あまり奇怪に思ったから、 後に人にたずねたれば、「スリ御用心」の意なることが分かり、 大いに笑ったことがある。



第二六九話    岡山県の方言

岡山県は備前、 備中、 美作の三カ国より成るが、  この三国おのずから方言の相違がある。  すなわち語尾において、 備前はカラ、 備中はケー、 美作はケンという。 例えば、「ソー ダカラ」というは備前、「ソー ダケー  」というは備中、「ソー ダケン」というは美作である。  また、 備前の語にて他国に通ぜざる言語は、 病気を「閉口」ということじゃ。「ご病気なされましたか」というべきを、「ご閉口なされましたか」という類である。



第二七〇話    出雲の方言

出雲人はシとス、 チとツ、 ヒとフの音を言い分けることができぬ。 また、 皆無をカイシキといい、 大層または大変をズンドといい、 始終をコシリンといい、  すりこぎをメグリ、  すりばちをカガツといい、  一休みすることをタバコスルという。  これについて奇談がある。 中学校の生徒が修学旅行のときに一休みせんとて、 先生に「タパコしてようござりますか」とたずねたれば、 大いに叱責を受けたそうだ。

 


第二七一話    隠岐の方言

隠岐にて放蕩のことを玉タレというが、 心霊の堕落を意味するに相違ない。  たくさんのことを天保という。 隠岐の「天保」とは他国にも知れ渡るほどである。 下流の人の母を指してメメといい、  上等の妻をゴレンザンといい、 自分のことをダラアー といい、 同等のものをノシといい、 できぬことをガッ タリ、 疲労したるをガメタ、 寝ることをガメコム、  ころぶことをクドレルというの類、 枚挙にいとまなきほどである。



第二七二話    福岡県の方言

福岡市およびその近在にては、 ダをラと誤り、 ドを口と誤ることが多い。 また、 筑前にて人の話の受け答えに、 同等に対してはハイといい、  上等に対してはヘイという。 また筑前にて、  ここを指してココモトという。 越後地方の方言に同じい。 また、 筑前の方言は熊本に似ておる。  しかし、 三瀦郡は違うところがある。 例えば、 人に対してわが方をオドンといい、 人の方をワガと呼ぶ。 他人をワガと呼ぶ。 他人をワガと呼ぶことは豊前にも行われておるが、 豊前では上より下を呼ぶときに限ることになっておる。



第二七三話    佐賀県の方言

佐賀県の旧佐賀領にては、 兄をオバー サンといい、 叔母をオバサンといい、 祖母をババサンという。 しかして兄をオバー サンと呼ぶは、 弟または妹よりはなしかけるときに限る。 もし他人に向かって兄を指すときは、 アンザイモンという。 他国人が、 佐賀県人同士相対して談話せる語中に、 アンザイモンをたびたび繰り返したるを聞きて、  これを人名なりと思い、 佐賀県にはアンザイモンといえる名がそんなにたくさんあるかとたずねたと申すことじゃ。 余が佐賀県方言を集めたる一句がある。

ハイをナイ、 兄を バー サン、 アグラをばイタマグリとは佐賀の方言である。

また、 貴様というべきをワンサンという。 もし佐賀を離れて久留米領に入れば、 兄をオヤカタまたは バンチャンと呼ぶも奇妙である。 そのほか、 佐賀にて牡蠣を雪の衣といい、  塩を潮の花というはすこぶる雅である。 同じ佐賀県でも唐津は発音が違っておる。  すべて唐津領では、  サシスセソをチャ チッ チェチョと聞こゆる。 例えば、見エテオルを見エチョルというの類である。 山口県にもこれにひとしき音調がある。



第二七四話     熊本の方言

熊本に入りて第一に耳に触るる方言は、  クサイ、  バッ テンである。  クサイとは京阪のサカイまたは東京のカラ、  すなわち「ゆえに」の意であるが、 時によりては助語に使用しておる。 例えば、 ヨカクサバイ、  バッテンクサイというの類である。  バッテンは長崎でもいうが、 ケレドモの意じゃ。 また、 センをシェ ン、  すなわちアリマセンというべきをアリマシェンといい、 はなはだというべきをイサギエー といい、  お疲れというべきをオッ ケナリマシタといい、 気持ちのよいを身がンガヨイという。  かくのごとき類は、 いちいち挙げ尽くすことはできぬ。また、  一丁ということをすべてのことにつけていう風がある。  一丁のもう、  一丁歩こう、  一丁休もうの類である。 同じ熊本県下でも、 葦北郡にてはフとヒとの相違がある。 笛を吹くをヒ工をヒクといい、 三味線をひくをフクという。 出雲や越後にてもヒとフとの相違がある。 雲州〔島根県〕では一ツ、 ニツを、 フトツ、 ヒタツと申しておる。



第二七五話    薩州の方言

薩州〔鹿児島県〕にては太鼓をテコといい、 大根をデコという。 豆腐をオカベ、 急須をチョ カ、 あちらこららをイッ ペコッ ペという。 また、 鯛をテノイオというが、 ある旅人が旅宿にありて、  てぬぐいを買いきたれと命じたれば、  鯛を買って帰りし奇談がある。 酢をアマンといい、  アマンタモシとは、 酢を下さいの意である。 天気のよきときの挨拶がヨカハダモチ、 新年の祝詞がワカナリマシタ、 人と別れるときにイマデゴアンス、 またはアスデゴアンスというの類、  いちいち挙げ尽くすことはできぬ。



第二七六話    伊豆七島の方言

伊豆大島方言には、 納戸をチョウダイ、 濁り酒をゴンク、 食器をジョウゲ、 猫をネホ、 病気をカナシイ、 赤子をポコ、 汝をニシ、 桶をオヘコ、 座敷をデー、 来年をライセンという。  力行をハ行になまることが多い。 また八丈島にては、 井戸をユド、  泥をドル、 水道をセイドー、 蚤をヌミなど、 仮名違いがたくさんある。 また、 他国の人に全く通ぜぬ語は、 忘れたことをヒッカスッタといい、 知らざることをショクナー ケというの類である。 そのほか、 子供を呼ぶに、 太郎、 次郎、 三郎、  四郎を、  タロー、  ジョ ウ、  サポー、  ショウといい、 長女、 次女、 三女、  四女、 五女を呼ぶに、 ニョ コ、 ナカ、 テコ、  クス、 アッ パというはおかし。  北国では糞のことをアッ パという。  また然諾の語が、 下へ向かってはヤ、  上へ向かってはヤー、 同等の間ではオー というもおかしい。



第二七七話    氷柱および結珈の異名

氷柱は普通ツララと呼ぶも、 石州〔島根県〕ではナンジョウといい、 雲州〔島根県〕ではサイといい、 隠岐ではセイといい、 肥後ではホダレといい、 北国ではカネコリというの異同である。  つぎに、 俗に足を組みて座するをアグラカクというが、 越後ではアグシカクといい、 飛騨ではイツナカクといい、 雲州ではイズマを組むといい、 隠岐ではアプタをかくといい、 佐賀ではイタグラミといい、 熊本ではイタマグリ、 またはヒウチガネ、 または一丁ナワナウというごとく、  さまざまである。


第二七八話    ラ行と夕行との相違

鹿児島と熊本とはラ行を夕行にて言いあらわすが常であって、 六をドク、『論語』をドンゴというけれども、議論はキドンといわずしてギロンというは例外である。  また、  タ行をかえってラ行で言いあらわすことがある。すなわち、  ワタクシをワラクシといい、 土瓶をロビン、 承諾をショウラクというの類である。  またここに、 九州にて多く「原」を読みてバルという。 例えば島原をシマバルというものが多いが、 ハルというべきをかえってハラと呼ぶ所がある。  すなわち、 豊前田川郡の香春をカハラととなえておるは奇である。



第二七九話    雲天万里

佐賀方言の一つに、  ウンテンバンテンヒシチガッテルという語がある。 天地雲泥の相違の義なれば、 雲天万里より転じたる語ならんとの説あれども、 長崎のバンテンが英語の バッ トより転じたりとの説にひとしい。 また、同県三養基郡旧対州領にては、  ゴー  ホンバサラカという言葉があるが、 大層多くあるの義である。  それゆえに、ゴー ホンは豪放の音よりきたと申しておる。



第二八    話    同音異実

東京にては盗賊のことをドロボウといい、 大阪にては放蕩家のことをドロボウという。 佐賀にては人の兄をオバー サンといい、 羽前米沢にては人の妻をオバサマといい、 越後にては人の弟をオジという。 東京にては買ってくるをカッテくるという。 尾州〔愛知県〕にてはゆくことをイカー  ズといい、 越後にて歩くことをサワグというの類はたくさんある。 また尾州丹羽郡にて、 夜中人に会するときにオハヨー というも奇である。

 

第二八一話     結尾の語と然諾の語

雅言にてナリと結ぶべきところを、  国々によりて異なりたる語尾を用いておる。 東国にてはダといい、 西国にてはジャ という。 ただ東海道筋、 名古屋熱田の辺りはデー  ヤという。 鳴海辺りまではダ、 桑名よりジャという。美濃路にても、 東はダ、 西はジャ ということに聞いておる。  また、 人の問いに対して答うる然諾の語が、 国々多少の相違がある。

ヘー、 オ、ー、  ナイ、 ナーナン、 ヤー 等である。 加州〔石川県〕にては一般にヤー といいて答うるが、 そのヤー を重ぬるほど、 相手を貴ぶことになる。  ゆえに、 旅館にありて手をうつときは、 ヤー ヽ— ヤー の語重ねて起こり、 あたかも撃剣道場に入りたるがごとき心地する。 奥羽はナー ン〔の〕方じゃ。



第一九類 童謡俗歌

第二八二話 お月様の童謡

童謡に「お月様イクツ」ということがある。 その年につきては全国一様ならず、 普通「十三七ツ」というも、四国や山陰道にては「十三九ツ」といい、 大阪府下にては「十三一ツ」といっておる。 しかるに、 余が沖縄県に伝うるところを聞くに、 十三と十七である。 月は十三日をもって美となし、  女は十七歳をもって美となすの意だそうだ。 内地の「十三七ツ」はこれより転化したるものならんかと思う。



第二八三話 百姓流の歌

昔、 水戸の烈公が上京せらるるに際し、 ある百姓が歌をよみて祝したという話を水戸で聞いたことがある。筑波山つくばつてさへでつかいに、 立っ たら天をつんざくだんべ

また、 越前にて春岳侯〔松 平 慶永〕を詠じたる歌なりというを聞いた。春岳が按摩のやうな名をつけて、  上をもんたり下をもんたり余はかくのごとき歌を好むものである。



第二八四話 方言詩歌

余が熊本巡遊中、 その方言を詩中に入れて作りたるものがある。

肥南何処試  吟峨一 数日山行気削多、  幸浴二霊泉一与嘉潔、  一丁傾如酒一丁歌。

(肥後の南、 いずこにか吟詠を試みようか、 数日の山行は疲労することが多かった。 幸いにしてこの霊妙な温泉につかって、 はなはだ快く、  ひとたび酒を傾け一首を吟じたのであった。)

気削は疲労の意、 与嘉潔は快甚の意、  一丁は一回の意である。 また、 歌を作った。

イカギエー、 ソー ニャー、ォッ ケナリマシタ、 イタマグリして飲めや赤酒

ソー ニャー とは大層の義である。 また熊本人は、「大事の所があいていた」というべきを、「デヤー ジの所がイャ イテッタ」という。  すべてこのようの発音が多い。



第 二八五話 熊本の方言歌

熊本人が東京にありて郷里を思い出だし、 方言にてよみたる歌なりとて、 同県にて聞いたままを掲げておく。オヤネー、 ダッ テ、  デスよして、 ジャ ロー、  バッ テン、  クサイこいしい

すなわち東京語をやめて、 熊本語が慕わしいの意である。



第二八六話 出雲の方言歌

なにびとか知らざれども、 雲州〔島根県〕の方言を集めてつづりたる俗歌がある。

ワスハ雲スノフラタノ生レ、  ヅー ルニ ヅー  ル三ヅー  ル、 フクズル、 フッ  パル、  ステオイテ、 今カラフマトハ、  ツ、ガナイ云々

このうち、  スをシに直し、 フをヒに直し、  ヅをジに直して見れば、 たいてい分かる。 余が伊予を去りて出雲に移る際に作った七律がある。

誰_使二吾曹進二教軍如今大道乱紛紛、  已培一徳樹玉__ム伊予一 再転二法輪ー来二出雲友愛情深人易迄叫、 志須音混語難五分、 宍湖依和旧明如レ鏡、 照見三千年古文。

(いったいだれがわれらに教えの軍を進めさせたのであろうか、 いまや人のふみ行う大道は紛々と乱れはてている。  すでに道徳の樹ともいうべき種をまいてから伊予の国を去り、  ここに再び仏法の法輪をめぐらして出雲に来たのである。  この地の人々の友愛の情は深く、 人を受け入れる。 ただ、「し」と「す」の音が混ざってわかりにくい。 宍道湖はもとのままに鏡のごとく明る<、 三千年の古い文化を照らしているのである。)

実に「し」、 「す」の音混じて聞き取ることはむずかしい。



第二八七話    長崎の方言歌

「長崎の山の端に入る月はよか、 コンゲン月エッ トナカ バン」との歌は、 長崎の方言をつづりたるものとして伝えてある。  コンゲン以下は、「このようなる月はめったにないよ」との義である。 世に長崎 バッテンといいて、バッテンの接続詞は長崎に限るがごとく伝うるも、 長崎よりも熊本の方が多く バッテンを用いておる。



第二八八話    薩摩方言の歌

「桜花ナゼサシタカシランナイ、 伊集院ノ箕作リガ見付ケタラ皮ヒッ ツンクリラリウダイ」とは、 薩州〔鹿児島県〕の方言にてつづりたる歌である。 その意は「桜花ナゼ咲イタカシラナイガ、 伊集院ノ箕作リガ見付ケタナラバ、 皮ヲヒキサクデアロウ」の義であるそうだ。  すべて薩州の語は、  この一例にて知らるるごとく、 容易に聞き取ることができぬ。



第二八九話    日向の椎葉郷の方言歌

日向の椎葉郷は、 肥後の五家荘〔現・泉村〕と山脈の向背を異にして、 互いに隣接せる僻地である。 その言語、他へ通ぜざるものが多い。 今一例を挙ぐれば、 左のとおりである。キノフミテケフミンシャー  ガケヤー  シカ、 ィッ チゴミズバ死ノウナシンジ

その意は、「昨日見て今日さえもかなしいが、  一生見ざるにおいては死ぬであろう」の意味であるとのことじゃ。



第二九    話    木曾の俗謡

余が木曾巡遊中、 俗謡の有無をたずねたれば、 最も世間に知れ渡れるは「御岳ぶし」なりとて、あわせ木曾の御岳夏でも寒い袷 やりたや足袋添へてといえるを聞き、  これを詩に訳してみた。

俗曲由来吾所>愛、 方歌却好知二民態一 木曾御岳夏猶寒、 欲>贈袷衣添ーー足袋

(俗謡はもともと私の好むところであって、 その地方の歌はその地の民情を知るうえでかえってよくわかるのだ。  その俗謡に「木曾の御岳は夏でもなお寒い、 あわせやりたや足袋添えて」とある。)

 


第二九一話 諏訪の糸取り歌

 信州〔長野県〕諏訪は日本第一の製糸場のある所にして、 幾千人のエ女、 他地方よりここに来たるほどである。なかんずく平野村〔現・岡谷市〕がその本場と申してよい。 そのエ女の「糸とり歌」なりというを聞いたが、 すこぶるおもしろい。

米は南京、 御菜はアラメ、 なんで糸目が出るものか実際、 食事が悪くてはよき糸が出ないとのことじゃ。

 


第二九二話    飛騨の国歌

飛騨客中、 固有の歌をききたいと申したれば、メデタ/\ の若松さまよ、 枝も栄えて葉もしけるこの歌は飛騨の国歌ともいうべきものにして、 なんの宴会がありても、 必ず第一番にこの歌の出でざることはないと聞いたが、  これは飛騨に限った歌ではなく、 他国でもめでたいときに歌った唄だ。  つぎに、 飛騨のナマリをよみたる歌なりというを聞いた。飛騨のナマリはオバサンアバヨ、  ムテンクテンにオリヤ、 オッ カナイムテンクテンとははなはだの義、  オリャ とは己のことである。 また、 美濃路より飛騨に入る所に、 中山七里という名所があるが、 昔はその間に人家がなかったと申しておる。  ここの歌に、ういよつらいよ中山七里、 川の鳴瀬を鹿の声とあるが、 ただ今では人家があるのみならず、 ところどころに茶店も旅店もあり、  ことに山水の風致にいたりては、 木曾峡以上との公評である。 左に、 余が入飛州〔岐阜県〕途上作一首を掲ぐ。

曲曲渓回路自迂、 雲来林堅白将征無、 巌頭停>杖望二前岸    似>対二雪舟山水図

(曲がりにまがる谷の道はおのずからくねるがごとく、 雲がかかれば林も谷も白く無に近くなる。 岩上に杖をとどめて前の岸を望めば、 あたかも雪舟の山水画に対面しているようである。)



第二九三話    白川の俗謡

飛騨の白川郷は平家の遺族と伝えきたり、 別天地の仙境であると同時に、 方言、 俗謡また一種特別である。  まず白川の祝い唄というを聞くに、コ、ノヤカタはメデタイヤカタ、 鶴が御門に巣をかけるまた、 田植え唄を聞くに、一夜御出と言ひたいけれど、 未た力、マの傍に寝るかかる類である。



第二九四話    伯州の俗謡

伯者の国巡回中、 宇野村〔現・羽合 町 〕に一泊せしことがある。  その村は海岸の一漁村に過ぎぬが、  この村について世間一般に伝われる俗謡あるを聞いて、  おもしろく感じた。宇野の沖から貝がらが招く、 カ、よマ、よたけ出にやならん歌中の「ママ」とは飯のことで、 自然に天真爛漫の趣ありて実に妙だ。第二九五話    隠岐の俗謡隠岐の俗謡に「ドッサリ」と名づくるものがある。 その一例を挙ぐれば、「大仙オ山カラ隠岐ノ国見レバ、 島ガ四島 二大満寺」の類である。 大満寺とは全島第一の高峰じゃ。 余、 これを詩に写してみた。自ーー大仙山一_望一隠州一 波間点点四洲浮、  四洲浮処見二頭角一 角是高峰満寺頭。

(大仙山から隠岐の島を眺めると、 波間に点々として四つの島が浮かんでいる。  四島の浮かぶところにぬき出るものが見える。  それこそが島の最高峰大満寺山なのである。)

また、 狂歌を案出した。はるばると隠岐の都に来て見れば、 酒も肴も歌もドッ サリ「ドッサリ」の文字明らかならず。 余、 これに「突去」または「毒去」の漢字を当てはめたが、 ある人の説に、「隠岐の方言にて、 ドウナリコウナリというべきをドッサリクサリという故に、 ドッサリはこの語より出でたるものにして、 ドウナリコウナリ世の中を渡る楽天の意であろう」と申した。  この歌がいたるところで名物として御馳走に添えて出でてくる。 隠岐を去りたる後も、 その歌ばかりは耳の底に残りおるように感じ、 これを詩に作った。

探尽隠州風月清、 穏晴波上一舟軽、 帰来連夜眠難>熟、 耳底猶留突去声。

(隠岐の島をたずねつくせば風月も清らかに、  おだやかに晴れた波の上では舟も軽やかにすすむ。 帰りきたれば連夜熟睡しがたく、 耳の底にはなお突去の声が残っているのである。)第二九六話    大島の挨拶語および方言歌

伊豆大島にては、 朝人に会するときに「オキタナー  」または「クッ タナー  」といい、 夜別れるときは「ウンネライ」といい、 正月正旦には「イワッタナー  」というべきままだ。   内地コトバヂヤ、  オヤスミナサイ、 島ノアンコラハ、  ウンネライアンコとは娘のことじゃ。 大島固有の俗謡がたくさんあるが、 そのうち二、 三首だけ左に掲ぐる。わたしや大島荒浜そだち、 色の黒いは親ゆづりわたしや大島雨水そだち、 胸にボー フラ絶えはせぬ大島の島といふ字は山偏に鳥だ、 鳥が飛んでも山残る




第二〇類 世態人情

第二九七話    日本人の気質

日本人の気風性質につき、 余かつて謎を案出せしことがある。日本人の気質とかけてなんと解く。 貧乏人の嫁入りと解く。  そのこころは長持がない。日本人とかけてなんと解く。 書翰の文章と解く。 そのこころは候(早老)が多い。一つは忍耐力の乏しきをいい、一つは早老の弊あるをいったのだ。



第二九八話     犯罪と人心

いずれの地方にても、  犯罪の統計によりて、 その土地の人心の傾向が分かる。 余が島根県にありて聞くところによるに、 雲州〔島根県〕には比較的詐欺窃盗罪が多く、 石州〔島根県〕には比較的殴打強盗犯が多い。  この一例によりて右二州の気風性質の相違が分かり、 雲州は知的にして石州は武的である。  つぎに長野県にて聞くに、 従前殺人犯のごときは、 佐久郡に限るありさまなりしが、 近年は一変して佐久に少なくして、 以前最も犯罪の少なしと知られたる伊那方面に、 かえって多くなるに至ったとのことじゃ。  これ、  一方は自ら戒め、  一方は自ら安んじたるためであろう。  ゆえに油断は大敵である。



第二九九話    札幌の有志家

札幌の一有志家が余が寓居に来たり、「わが家は一方に寺院があり、 他方に芸妓家がある。 よろしくその意を含みて一句をしたためられんことを請う」と申したから、 即座に思い出でたるまま、我やどは恋と無常の間の駅、 朝は鐘の音夜は三味の音(幻堂付句)

右の句を書して贈った。  これを見たる人は、「この句は浮世の真面目を写しておる」と申した。  でたらめを吐きて人より好評を得たるは、  これがはじめてである。

 

第三〇〇話  秩父山中の実況

数十年前、 武州〔埼玉県〕の名山たる三峰へ登山せんとて、 秩父山中に入り、 小茶店に憩ったことがある。 山中米麦を産せず、 ただ炭を焼きてこれを運び出だし、 その代わりに米を買い入るるをもって渡世としておる。 余が老婦に向かい、「米一俵の価なにほど」と問うに「知らず」と答え、「米一俵が炭何俵に当たるを知るのみ」と申しておる。 実に太古の民と思った。 全国中にはかかる物価貿易をしておる所は諸方にあろうけれども、 東京よりわずかに十三、 四里離れたる所に、 このようなる太古の民ありとは意外であった。



第三〇一話    車夫の天真爛漫

豊前国駅館村〔現・宇佐市〕を発して宇佐町〔現・宇佐市〕に至りしときに、 車夫自ら有するところの扇子を取り出だし、 余に揮篭を請うた。 その所望をたずぬれば、「己にあしき癖がある。  すなわち毎朝酒をのむことと、 ときどき妻と喧嘩することのニツである。 よって、『朝酒のむな」『カカと喧嘩するな」としたためられたし」と答えた。 天真爛漫の車夫と申してよい。



第三〇二話     漁夫の所望

余、  かつて南海を巡遊して、 紀州〔和歌山県〕の海浜に至りしに、  一村挙げて漁民である。  一漁夫、 紙片を携え来たりて申すには、「この紙に一語を書せよ。 表装して永く一家の宝物となさん」と。 余問うに「いかなる語を書すべきか」をもってすれば、 漁夫曰く、「別に望むところはないが、 ただ漁猟のたくさんあるようの文句を書していただきたい」と。 余その文字を思い出ださず、  一夕工夫を凝らしてようやく一句を得、「漁願成就、 漁来如>山」(漁願成就、 魚の来ること山のごとくあれ)と書してこれを与えしに、 漁夫大いに喜び、 多謝して去っこ。

その後、 船問屋の来たりて一語を授けられんことを請うたから、 余また一考して、「満船載>福帰」(船いっぱいに福をのせて帰る)および「神仏護二船運いに満足の体であった。」(神仏は船運をまもらん)の二句を書して与えたが、  これまた大

 

第三〇  一話    大は小にしかず

大は小を兼ぬるというも、 しゃ くしは耳かきの用をなさず、 長持は枕の用をなさざるがごとく、 世間には大の小にしかざることが多い。

その一例に奈良の大仏を見よ。 浅草の観音は身長わずかに一寸八分なるに、 人の信仰帰依すること府下第一である。  これに反して、 奈良の大仏は身長五丈三尺にして、 浅草観音より大なること三百倍であるのに、  これに帰依する信徒講中いたって少ない。 大仏参詣としてその地に至るものに、 崇信の意をもって拝礼するではなく、   種の見世物的観念をもって仰視するのみだ。  ゆえに、 大仏保護の任に当たる東大寺は、 大仏では飯が食えぬと嘆じておる。  されば、  すべての物は大小に程度あるものと心得ねばならぬ。

 


第三〇四話     篤志と不篤志

薩州〔鹿児島県〕枕崎にては、 余の演説を聞かんために、 東京相撲の興行を一日見合わせた。 また北海道岩内にては、 余のために芝居を三日間中止したことがある。  これに反して越中射水郡某村にては、 演説よりは相撲の方がおもしろいとて、 余の演説を謝絶して相撲を興行した所がある。 世間には、 なにごとにも篤志と不篤志とあるものだ。 孔子様をしてこれを聞かしめたなら、 必ず「われ、 いまだ演説を好むこと相撲を好むがごときものを見ず」といって嘆息せらるるであろう。

 


第三 〇五話 吝薔家

 余が群馬県客居中に聞いたが、 某村の吝 薔 家が数十万の大金を有しながら、 粗衣粗食、 奄も博愛の心なく、慈善の挙なく、 ただ高利をむさぽりて己の腹を肥やさんことをのみ、  これつとめとしておる。 しかして児童の教育のごときは全く放任して、 さらにかえりみざるありさまである。 近隣の者忠告して、「粗衣粗食はあえて不可なるにあらず、 慈善の挙なきもなおゆるすべしであるが、 児童の教育をすてて問わざるにおいては、  一家の財産をいかにして与えんか、 よろしく児童教育に意を注ぎ、 君の死後、 児童をして永くその遺産を守らしむるように訓育せよ」と申せば、 当人笑って、「余はただ財産を増殖する一事をもっ て無上の楽とするものである。  その遺産のごときは、 己がすでに味わいおわりたるかすに比すべきものなれば、 子孫のこれを守るも守らざるも、 余が関するところにあらず」と答えて平気でおる。 余このことを聞き、「吝薔もここに至れば一種の豪傑であろう」と申したことがある。

 


第三〇六話 天保銭の出世

 世間にて人並みの顔をして役に立たぬものを呼んで「天保銭のようだ」というが、 天保銭は表に当百とありながら、 八十文にさえ通用せぬ故なれども、 今日にては天保銭一枚の価は五銭ないし十銭に上がっておるは驚くべきである。 自今、 役に立たぬものに天保〔銭〕の異名を廃せなければなるまい。



第三〇七話    人の防波堤

余が先年、 越後親知らずを経て越中に入り、 泊町〔現・朝日町〕に泊まりしことがある。 そのとき聞くに、 維新前、 加州侯東上のときには、 町内より壮丁三百人を選抜して、 親知らずの海中に屏立せしめ、  これを防波堤として、  その内側を通行せられたりとのことじゃ。  人をもって防波堤に代うるは、 世界万国に類なきことであろう。しかしこの一例によりて、 その当時の大名の勢いを察することができる。

 


第三〇八話 日露戦役の死者

 余が薩州〔鹿児島県〕加治木にありて聞くところによれば、「国分および加治木などにては明治十年、 西郷戦争に十人中七人は戦死した。  されば今度の日露戦争には、 十人中無事にて凱旋するものは一人くらいのものならんと覚悟しいたりしに、  死者は一割に満たざるにはみな意外に感じ、 少し物足らぬように思う」と申しておった。いったい薩州は軍人的であって、 戦争に最も適しておる国民なることは、  この一例に考えても分かる。

 


第三〇九話 士族と平民

 

鹿児島県にては士族と平民との懸隔はなはだしく、 役員はもちろん、 教員も士族に限るがごとき勢いである。平民は呼びすてにし、 士族は某ドンとドンを添えねばならぬ。  また、 士族はロヒゲを有するも、 平民はヒゲをのばさず。  ゆえに、 車夫にしてロヒゲあるは必ず士族にして、 人みな何ドンと呼び、 尊称を用いておる。 平民が士族の大工を層うときには、  その道具をにないて送り迎えをなすとのことじゃ。 ことに奇なるは、 士族はみな紺足袋を用い、 白足袋は平民の所有なりとて排斥すると聞いておる。 たまたま平民にして小学教員に奉職するものあらば、 たちまち排斥運動が起こるそうだ。 近年、  おいおいその懸隔が減じきたるも、 なお他国に比すると大なる相違がある。

 


第三一類 修養訓戒


第三一 〇話    道徳上の模範村

余がかつて山形県酒田港に滞在せしとき    一夕まさに灯を点ぜんとするころ、  四、 五十人の農夫、  蓑笠にて余が旅宿をたずね来たり、 あたかも百姓一揆のごときありさまなれば、 取りつぎの者大いに恐れ、「いかなる椿事の起こらんも計り難ければ、 面会の拒絶を申し渡してはいかん」というに、 余は「拒絶に及ばず、  この席へ案内すべし」といいて面会せしに、  みな田夫野人である。 しかるに、  おのおの名刺の代わりなりとて、 大道社会員章を出だして見せた。 その来訪の旨趣を聞けば、 酒田をさること約五里の山間の小村落のものにして、 人家わずかに百戸余りなるも、  みな大道社員である。  その村の小学校の前校長が大道社会員なれば、 村民に勧めて一戸を漏らさずその社員とならしめた。 しかるに、 余が大道社の顧問にして酒田に来遊ありというを聞き、 村内のもの申し合わせ、 昼食を終わるやただちに出発して、 ただ今ここに着したのである。 その用事は、 ただ御機嫌伺いをなすのみなれば、 幸いに面会を得たから、  これより帰村すべしという。 ときに日すでに暮るる。「一泊してはいかん」と問いたれば、「農繁の時季なれば、 今夕徹夜しても帰り、 明日の家業に従事すべし」といい、 ていねいに礼をなして去った。 その質朴にして純良なるに、 深く感動したことがある。  これ、 道徳上の模範村としてもよい。 今その村名を失念せるは遺憾である。

 


 

第三一ニ話 今日は今日の主義

 因州〔鳥取県〕若桜町に一泊せしとき一人ありて、「私は、 今日は今日、 明日は明日という主義をとるものであるから、  これにちなめる語を記されたし」と頼まれた。 よって即時に、今日は今日、 昨日は昨日、 明日は明日、 其日其日を大切にせよの歌を書して与えたれば、 その人大いに喜んで帰った。 実に人間はその日その日が大事である。 もし、 過ぎたるものは追い難く、 来るものは測り難しと知らば、 その現在を大事に思って慎むがよい。



第三一二話    不得要領

千葉県東金町〔現・市〕にて、 書斎の額面に「不得要領」の四字を記せんことを望まれた。  かかる文字を額面に掛くる人の心底こそ不得要領なりと思い、 その理由をたずねたれば、「年来世人の言うところ、 っとして己の意に通ぜず、 不平に堪えず、 ために平素煩悶に苦しみしが、 あるとき友人の忠告に、「君は世間をもっ て要領を得たるものと思う故に、 自ら招きて苦悶するのである。 しかるに、 世間は真に不得要領のものである、 人間万事不得要領と思っておるがよいといわれて自ら大いに悟り、 その後は不平も煩悶も起こらぬようになった。 よって、  この語を書斎に掲げて慰安するつもりである」との答えであった。 広き世間には、 奇なる慰安法もあるものじゃ。



第三一三話    自彊不息

山間の村落にて、 水車の代わりに一本木の一端をくぼめて、  これに水のたまるようにし、 他端に杵をつけて米のつけるようにした簡単なる米つき器械がある。  これを出雲にては僧都というと聞きて、「山里に僧都はだかで米をつく」とよんだことがある。  これを九州にては バッタン車と申す。 飛騨ではカラウスといい、 奥州ではバンカラと呼ぶ。  これを見ておるに、  ひとたび米をつくになかなか長き時間を要するようなれども、  一昼夜に二斗以上はつき上ぐることたやすくあるとのことじゃ。  このことを思っても、 人は自 彊 息まざるようにせねばならぬ。



第三二 四話 江州の倹約

先年、 近江巡回中に聞いたが、 江州〔滋賀県〕は勤倹の風に富めるをもって全国に知られておる。  まず、 江州足袋はその形大なるを用い、 十文にてもほかの十文よりひときわ大きくある。  二、 三回洗濯してようやく足に適するように仕立てたるものだとのことじゃ。 また、 家屋は窓が少なく、 光線が不十分で、 陰気の風がある。  かく陰気にするのも、 やはり倹約のためと申しておる。 あまり陽気にすると、 自然おごりの傾向を生ずるようになると申しておる。  その国の第一等に位する財産家で、 衣服は木綿を限りとし、 朝に粥をすすり、 古傘の破れたるあれば、 紙を蓄えて物をつつむ用に備え、 竹骨は削りて串にこしらえ、 柄は保存して竹のほうきの柄にする等、 すべて廃物利用に注意してあると聞いたが、 このくらいにすれば、 なにびとも金のたまらぬはずはない。


第三二五話    人は活動せよ

余は平素学生を戒めて、 人は十六丁ないし三十二丁あるを要すと申しておる。  手も八丁、 口も八丁なれば、 合計十六丁である。 しかしこれに目と足との八丁を加うれば、 三十二丁となる。 とにかく、 余は浅学非オであるけれども、 健康のつづく限りは働きたいとの精神である。  この精神をよみたる歌は左の一首じゃ。

生きて居る間にウンと働きて、 死んでユッ クリ休め世の人

一休は「門松は冥土の旅の一里塚」といったが、 余は「門松は出世の旅の一里塚」と改めた。  また、 働くについては時間の貴重なることを忘れてはならぬと思い、 時々刻々新陳代謝前去後来、 瞬息もとどまらざることをよんでみた。イマといふ今の今なる時はなし、  マの時来ればイの時は去る



第三一六話    今楽不レ忘一昔苦  (今の楽、 昔の苦を忘れず)

少時眼苦をなめたるもの長じて安逸を得るに至れば、 旧苦を忘れて栄華にふけるものが多い。 よって、 余はこれを戒めんために、「今楽不レ忘玉日苦  」(いま楽なるも昔の苦しみを忘れてはいけない)の語を作りて成功者に与えたことがある。 しかるに余の門下生の一人たる日高某氏は、 先年東京留学中、 学資を補充せんために、 毎夜車夫となりて辻車をひいたことがある。 成業の今日、 なおその旧苦を忘れざらんために、 人力の鑑札をはこに入れて座敷の床の上に、 あたかも秘仏か守り本尊のごとくに奉安しておくというを聞き、  これすなわち「今楽不>忘 昔 苦」ものと思った。



第三一七話    公徳の欠乏

 わが国民に公徳なしとは近来の一問題なるが、 都郡ともに多数の会合する場合には、 下足などの紛失すること多きは、 国民に公徳なきためである。 寒村僻郷と称せらるる地方は、 夜中戸をとざさずして眠り得るかというに、 比較的戸締まりを厳重にする所が多い。 紀州〔和歌山県〕熊野地方のごとき、 伊豆大島のごとき、 その一例である。 大島は毎戸、 納戸を設けてこれに錠を下しおく。 越後国松山温泉にて、 その持ち主より聞くところによれば、 旅館の蒲団を失うこと、 毎年数回に及ぶと申しておる。 日向の高千穂のごとき、 非常の深山幽谷の間と申してよいが、 宮崎県にて聞くに、 県下中いちばんの人気の悪い方だと聞いて意外に感じた。 しかし、 平均すれば山間僻地は人情純朴の方である。  その証拠は、 今日のいわゆる模範村は山間僻地に多いのを見て知れる。



第三一八話    伊藤家訓戒の一節

余が播州〔兵庫県〕巡遊中、 富豪伊藤長次郎氏の宅に宿せしに、 先代の家訓五十四条を示された。 いずれも処世の要訓である。 その中に左の一節はすこぶる珍しく感じたれば、 ここに抄録しておく。

寺はずいぶんなかよくせよ、 敬せよ。 布施はわが身上相応に上げよ、 軽きは経を直ぎるの罪なり。 僧もまた布施だけには読経せずば、 経を盗む罪なり。 自己に罪の心得あるべし。



第三一九話    森田徳太郎氏

尾州〔愛知県〕丹羽郡東野村〔現・江南市〕に森田徳太郎と名づくる人がある。 余の最も懇意したるものなれども、 不幸にしてすでに不帰の客となった。  その人の来歴はほかには知られてあるまいが、 実に感心のことが多い。  その一例を挙ぐれば、 同氏が十五歳のときに父に別れ、 その遺産として後に残れる金がわずかに五、 六円であった。  この些少の金を資本として、 なにをやろうかと工夫を凝らし、 染め物屋を始めた。 そのときに織物一反染めて売り出だすと、 平均十銭ずつの純益がある。  この純益を己一人の所有にするは、 あまり欲張りたるわけじゃ。 畢 党、  かかる利益を得るのも、 世の中の多くの人々のおかげである。  されば、  この純益の半分は世の中へ分けてやるべき道理であると考え、 その分ける方法についていろいろ考えた結果、 五銭だけ念を入れて染めるがよいと思い付き、 そのとおりに実行したれば、 たちまち世の信用を得、 同じ染め物ならば森田で染めたのを買うがよいと、 買い手が競争して注文するようになり、 十五、 六年の間に、 数万の財産を作るに至った。  これは、    わゆる公徳商法というものであろう。

 


第三二 〇話    比叡山と高野山

余、 滋賀県巡遊中、  一日比叡山に登りしが、  一人の参詣者を見ない。 後に紀州〔和歌山県〕高野山に至りしが、毎日登山の人群れをなし、 年中絶ゆることなしと聞いた。 叡山はその地京都に近く、 野山は遠き僻諏にあり。  しかして人の参集のかくのごとく異なるはなんぞや。  これ一大疑問である。 要するに、 その山を開きたる祖師の遺徳の、 民間に及ぶと及ばざるとによりて起こりたるに相違ない。 叡山は伝教大師〔最澄〕の開くところ、 野山は弘法大師〔空海〕の開くところにして、  この両大師は前後ほとんど時を同じくして世にあり、 かつともに非凡の傑僧なりしも、 伝教大師は高く君側に侍して民間に下らず、 弘法大師は天下を周遊して、 もっぱら下民の教化に尽力せられた。  ゆえに、 伝教の徳は世に知られず、 弘法の恩は人これをそらんじておる。

今、 余のごときはもとよりそのオ学といい性行といい、  この両師の百分の一にも及ばざるものなれども、 願うところは伝教よりも弘法を学ばんとの志望を起こしたことがある。 近来、 全国行脚を仕事としておるのも、 その志望の実行にほかならぬ。

 

第三ニ一話    大石と逆流

 信州〔長野県〕は山国にして、 渓谷の間激流が多い。 余ここに遊びて、 大石の渓流の中央に屹立するを見たことがある。 よって案内者を顧みて、「いかなる激流もこの大石を動かすことはできまい」とたずねたるに、 その者が申すに、「この大石は過般の大水に、 数間動きて上流にさかのぼりました」と。 余、 怪しみてその故を問えば、案内者が申すには、「小石は大水ごとに下流にくだり、 大石は上流にさかのぼるものである。 しかしてその逆行するゆえんは、 激流の大石に触るるときは、  その石の前面にある土を洗い去り、 自然に水底に穴をうがち、 石は己の重量にて自然に上流に向かい、 転進するようになる」と。 余これを聞き大いに感じ、  これひとり大石のみしかるにあらず、 世のいわゆる棗傑にして心に重量あるものは、 よく逆流に向かってさかのぼることができる。 よって格言一句を作った。

大石能潮ーー逆流一 大人能渕ーー逆運

(大石よく逆流にさかのぼり、 立派な人物はよく逆運をのりこえる。)



第三二二話 女子の成功

余、 かつて九州を巡遊して小倉〔現・北九州市〕に至りしが、 小倉は蓮門教本部の所在地である。 その教祖島村みつは長州〔山口県〕豊浦郡貧家の女子にして、 維新前より小倉藩士某の家に使いて下婢となり、 元来教育なく文字なきものなるも、 明治四年より自ら天啓を得たりと称し、 蓮門教を開設し、 爾来二十年を出でずして、 数百万の信徒を得、 数十万の財産を積むに至れりというを聞き、 その教義は世のいわゆる淫祀の類にして、 愚民の迷信を買うに過ぎずといえども、 微賤愚昧の一女子にして、 なおよくかかる成功を見るは、 実に驚くべき一事と思い、  女子すでにかくのごとし、 いわんや堂々たる男子をやと感じ、 大いに意志を強くせしことがあった。 天理教も同じく一婦人の力によりて、 偉大なる勢力を有するに至れるは驚くべきである。  一時はこの両教互角の勢いでありしが、 いかなる原因か蓮門教は漸々衰退し、 天理教は大いに発展するに至った。




第三二三話    罷難人を王にす

播州〔兵庫県〕明石海峡の魚類は、  その味美なるをもって世に知られておるが、 明石の友人の話に、 これ潮流の強き間に身を苦しむる故であるそうだ。 讃州〔香川県〕小豆島の芋もその味よしというが、  これも地質細石多く、その間に苦しめらるるによるとのことじゃ。  されば、 人もまたしかり。 蝦難によりて練磨せらるるにあらざれば、 人物とはなり難い。 諺に「蝦難人を玉にす」とはこのことである。



第三二四話    災難を見て自ら戒めよ

能登鳳至郡の海上数十里離れたる所に一孤島がある。 全島ことごとく漁を業としておる。 余が昔年、 能州〔石川県〕輪島に滞留中に聞きたるが、 その少し以前、 この島において漁期の最中、 老衰したるものと幼児とを家に残し、 全島挙げて数里の外に漁業に出でしに、  一民家過ちて火を失し、 全島一戸をも残さず、  ことごとく類焼してしまった。 大漁の後、 家に帰りて大いに祝せんと思い、 喜び勇みて帰り来たれば、 各戸一物を出ださずして全焼せしを見たそうだ。  そのときの落胆いかばかりかは想像のほかであろう。 広き世間には、 ずいぶん不時の災難にあい、 極端の不幸に陥るものがあるから、 それを思い合わせて、 己のしあわせを喜ばねばならぬ。




第三二五話    猫にもなお情あり

明治四十三年秋は関東にも水害があったが、 美濃の東部には大水害ありて、  二、 三時の間に一部落の民家を滅した所がある。 たまたま余はその近郷を巡回しておったから、 見舞いに立ち寄りて見たが、 実に悲惨のものであった。  そのときに実況を賦した詩がある。 その罹災地は七宗山と名づくる山の麓であった。七宗山下歩堪レ移、 災後荒涼風物悲、 訪到二人家流失跡一 慇懃老婦話二当時

(七宗山のもとようやく歩を移し、 災害の後は荒涼として風物ももの悲しい。 人家を訪ねるに流失して跡もなく、 うれいいたむようすの老婦人はそのときのことを話すのであった。)

この地方に家族九人ことごとく溺死し、 ただ残りしものは猫一匹のみの家があった。 その猫が茫然として落胆の情をあらわし、 いかに食事を与えても篭も食せず、 自ら殉死を祈りおるもののごとくであるというを聞いたが、 猫にも人情あるものと見ゆる。




第三二六話    娑婆の地獄

箱根に大地獄小地獄あれども、 地獄を思わするに足らぬ。 越中立山に地獄あれども、 余いまだ実視せぬ。 しかして余が今日までに実視せるうちにては、 足尾銅山にて銅鉱のありさまを見たるときと、 北海道登別温泉にて沸騰の実況を見たるときこそ、 地獄はかくのごときものならんとの想像をよび起こした。 田舎の老婆にこれを見せて、 説法して聞かせたいと思う。




第三二七話    修養的詩

詩は心的美術にして、 よく人の心を動かす力のあるものだ。  ゆえに、 歴史上忠君愛国に関係ある旧跡をたずぬるごとに    なるべく所感を詩中に含めるようにしておる。  ここにその二、 三を挙ぐれば、 筑前太宰府に至りしときの作が三首ある。

身似ーー浮雲石些去来{  鎮西為>客此三回、 馬渓風月非ーー吾意一 欲>訪菅公遺愛梅  (わが身は浮き雲にも似てせわしく行ったり来たり、 九州に旅をすることもこれで三度となる。  このたびは耶馬渓の風月をめでるのは本意でなく、 菅原道真公を慕って太宰府に飛んだと伝えられる遺愛の梅、 飛梅をたずねたいのである。)

菅廟門前寄二客身一 雨窓唯与二社灯一親、 滴声誘起梅花夢、 結得一千年古春。

(菅公廟の門前に旅の身で立ち寄れば、 雨うつ窓べに社灯のみが近くにまたたく。 雨のしずくの音は故事にいう梅花の夢をいざない、 千年のむかしの春にひたる思いをさせたことであった。)

菅聖社頭月破レ雲、 清輝照処絶ーー塵祭一 満庭梅樹千年影、 写出経忠緯孝文。

(菅聖人をまつる社のあたりに、 月が雲を破るように出て、 その清らかな光のさす所は塵の気配もない。 庭のすべてに梅樹千年の姿がみられ、 文書館には忠義をたて糸とし、 孝行をよこ糸とする文章が書き出されている。)

大和吉野所感の詩は、

延元陵下歩二新晴    俯仰何堪懐古情、 山寺無>花春寂寂、 緑陰堆裏聴二残鴛

(延元陵のもとを歩むに新たに晴れて、 俯仰しては懐古の情にたえず。 山の寺には花もなく春はものさびしく、 緑陰の重なるうちになごりのうぐいすの声をきく。)

笠置山所感の詩は、

探>勝来投笠置城、 風光何事使ー一人愁一 元弘遺恨千年涙、 染出満山紅葉秋  ゜

景勝をたずねて笠置城に至る。  ここの風景はどうしたことか人の心を愁いにとざす。  それは元弘の遺恨に千年の昔から涙し、 山をみたして紅葉に染まる秋だからであろう。)

隠岐後鳥羽上皇の御陵を参拝したる詩は、

古陵寂寂鎮二林輝只  一拝拝終千感生一 絶海潮風孤島雨、 当年天子御魂寒  ゜

(後鳥羽上皇の御陵は古色ただよい、  ひっそりと林や山をしずめたまい、  いくたびか拝礼しおわれば多くの感慨が起こる。 絶海の潮風と孤島の雨は、 その当時、 天子のみたまをこごえさせたことであろう。)

同じく後醍醐天皇行宮所における所感は、

黒木湾頭丘一堆、 皇居跡古樹将>推、 想来遷幸当時事、 松籟波光亦涙媒  ゜

(黒木湾のほとりの丘にうずたかくなっていて、 行在所の跡もいまや古樹がくだきさろうとしている。思えばこの地にうつられた当時のことは、  おそらく松風の音も波にきらめく光も涙をさそうものであったであろう。)

肥後菊池神社にて賦するところは、

家門累代唱ーー勤王    欲社即遺縦 淫ぎ社岡一恵みをもたらしているのであろう。伯者名和神社にて作りたるものは、

満目美田桑麦色、 英霊千載有二余光

(菊池家は代々勤王を唱えてきた家柄であり、 その残された跡をたずねようとして神社のたつ丘に登った。  みわたすかぎり美しい田と桑と麦の色にみち、  すぐれたいにしえの人の霊魂が千年の後にも、

一道桜林自作レ葉、 拝>神人距二落花一過、 何知孤憤当年涙、 滴滴結成焦粟多。

(ひとすじの道に桜の林が枝葉をのばしておのずからトンネルの体をなし、 神社に詣でる人々は落花をふんで行く。  いったい孤立無援のいきどおりや当時に流した涙についてどれだけの人が知っているであろうか。したたり落ちた無念の涙はやけこげた粟の多さとなって結ぽれているのである。)

また、 伊予脇屋義助祠畔にて詠じたるものは、

山寺春深花落時、 尋来脇屋義公祠、 南朝千古忠魂色、 残在二皇松百尺枝

(山里の寺に春は深く、 花も散り果てるころに、 脇屋義助公の墓所をたずねる。 南朝永久の歴史に忠魂の色は、 天皇松の百尺の枝に示されているようだ。この類は、  みな自他修養の一助となさんとの微意である。


 

第二二類 吟詠語句

第三二八話 笑門福来

 某地方にて一人あり、 来たり請うて曰く、「わが家、 近来不幸にして病患続きて起こり、  一門鬱憂に沈んでおるから、 願わくは愁眉を開くがごとき語を授かりたい」と。 余、 左の詩歌を書して与えた。

泣面蜂時蟄、 笑門福自開、 欲>求二多幸道一 両頬寄レ波来。

(泣き面は蜂にさされ、 笑う門は福おのずから開く、 多幸の道を求めようとすれば、 両頬に笑いをうかべよう。)

福は笑ふ主人の門に住む、 飽くまで笑へ、 頬の落つるまでそのほかに「笑門福来、 泣窓鬼窺」(笑う門には福来たり、 泣いてる窓には鬼が窺う)の語も書いてやった。



第 三二九話     余が和歌俳句

余は全く和歌俳句を知らぬ。 不知歌斎道人にして、 また不知句斎道人である。 しかるに、 ときどき人に責められて余儀なく十七文字、 あるいは一辛抱の棒で怠惰の鬼を打て

ヘー ゲルの哲学こそはくさからう文字を並べてみることがある。  ここにその二、 三首を連ねてみた。貧乏は稼ぐ足には追ひつかぬ、 いそきてあるけ福の宿までのまさかづきは人の好みにまかすべし、 酒を呑ふとお茶をのまふと忠孝の道は鳥にも知られけり、 雀は忠々、 雅は孝々

 

第 三三〇話 余が得意の詩

 余、 いまだ詩味を了せず、 したがって詩人の詩を解せず、  すべて自己流の俗調もって得意としておる。 その一例を示さば、  みな左の類である。

夜来鼻汁幾回垂、 恰是風邪欲レ起時、 購一得正宗一代二医薬一 一傾百病忽平治。

(昨夜から鼻汁が何回も垂れ、 まるで風邪のひき始めの時のようだ。 そこで清酒正宗を買い求めて医薬のかわりとし、  ひとたび杯をかたむければ百病もたちまちなおってしまうのだ。)

団子由来人所>嘉、 皆云其味美二於花一 墨堤今日看堪>笑、 千客争登言問家。

(団子はもとより人のよろこぶところであり、 みなはいう、 その味は花よりもよいと。 墨田の堤は今日も笑うべきことに、 多くの客は争うように言問団子の店にあがるのである。)

虚栄懸処衆情鍾、 私利来時万客従、 浮薄如レ斯君莫>怪、 世間多是拝金宗  ゜

(虚栄のあがるところに大衆の心があつまり、 私利のあるところ多勢の人がつきしたがう。 風俗や人心のうわついていることかくのごとくであやしむまでもない、 世間には拝金主義が多いのである。)

来者相迎去不>追、 守>誡只与ーー此心一期、 人生褒貶軽如レ屁、 声大臭高皆一時。

(来る者はあい迎え、 去る者は追うまい。 誠を守ってただこの心とともにあることをねがう。  人生の褒貶なぞの軽いこと屁のようであり、 音の大きさ、 臭いのすごさはみな一時のことなのだ。) 

麦酒寝前傾こ  瓶酔来半夜臥ー一高庁一 夢尋二便所一排』扉去、 将知少尿時眠始醒  ゜

(ビー ルは寝る前に一ビンを尽くし、 酔えば夜半に立派な表ざしきにねむる。 夢の中で便所をさがし、 扉を押し開いて入り、 尿を放たんとするとき眠りよりはじめて醒めるのである。)





第三三一話    辞世の詩

余は南船北馬、 東去西来の身なれば、  いつ山に倒るるか?海に果てるか?知れぬから、 あらかじめ辞世の二首を作ってある。

世事由来幾変更、  老余只喜会二昇平一 非>僧非>俗心常穏、 無>位無>官身自軽、 淡以相親何択>友、 斃而後已不如炉成、 吾生幸得込ぎ天寿一 笑向二黄泉深処一行。

(世の事どもはもとよりいくたびか変遷し、 老いての余世はただ太平の世に遇ったことを喜ばしく思う。 僧侶でも世俗の人でもなく、 心はいつも穏やかに、 位もなく官吏でもない身はおのずから気楽である。 淡々として親しむにも人をえらぶことなく、 死ねばそれまでのこととなにかを成功させる気はない。 わが生は幸いにして寿命をもっておわるならば、 笑いつつ黄泉の深いところに行くまでのことである。)

身似二浮蔀一去就軽、 茫茫世海任面風行、  一男二女児皆健、  四聖六賢堂漸成、 千載栄誉尋二古道一 半生恥辱売二虚名、 瞳吾逝芙復何惑、 彼岸高辺有二喚声

(身は浮き草にも似て去就は軽やかに、  ひろびろとした世の海を風のままに行く。  一男二女の子らはみなすこやかであり、 四聖堂・六賢台もようやく完成した。 千年の栄誉はいにしえの道を継ぎ、 半生の恥辱は虚名を売る。 ああわれゆかん、 またなにを惑うことがあろうか、 彼岸の高みのあたりに喚声があがる。)

 

第 三三一話 西郷墓前作

鹿児島城客中、  一日浄光明台に登り、 西郷南洲〔隆盛〕翁の墓前に詣し、  一吟を試みた。 そのとき三月上旬であった。

探>勝二月入二攪陽{  城外已見春色央、 好折二  枝残梅一去、 浄光明台吊二西郷一 翁去三十一星霜、  香花不>絶骨自芳、 回ーー想城山自匁日一 何人不>起感無量、 皇軍海外駆二虎狼ー、 功成国威震二八荒一 当年遺志今始徹、 須下向墓前挙*祝腸

(景勝をたずねて二月に鹿児島市に入った。 郊外ではすでに春もたけなわである。  そこでひと枝の残りの梅を折って行き、 浄光明台に西郷翁の霊をなぐさめる。 翁が世を去ってから三十一年、 香花の絶えることもなく、 遺骨もまたおのずからかぐわしい。 城山に自刃した日を回想すれば、 いかなる人も感無量の感慨を起こすであろう。 皇軍は海外に虎狼のごとき敵を追い払い、 功成って国威は世界の辺境をも震い動かした。 当時の遺志がいまはじめて達せられたのだ。  当然、  墓前に祝いのさかずきをあげなければならぬ。)



第 三三三話     広瀬中佐

豊後竹田町〔現・市〕は広瀬〔武夫〕中佐の出身地にして、 余のここに至るの日、 まさしく銅像の除幕式があった。  その実況も詩をもって写しておいた。

軍神像成挙一盛儀{  是日晴風翻二国旗一 人埋二林堅一満山黒、 奏楽声中幕正披、 眉目如レ活使レ人想ー、 悠悠含>笑上伝船時、  七生報国君自誓、 誰疑千載二護ーー皇基

(軍神広瀬中佐の銅像が完成して盛大な除幕式が挙行された。  この日は晴れて、 風が国旗をひるがえす。人々は林や谷を埋め、 山も人の波で黒くなり、 音楽の奏せられるなかでまさしく幕は開かれた。 銅像の眉目は生きているかと人々に思わせ、 のびやかな笑みをうかべて船にのるとき、  七たび生まれかわって国恩に報いんと君はみずから誓ったのだ。 だれが一体この永遠に皇国の基をまもろうとすることを疑ったりするであろうか。 だれもが信じて疑わぬ。)

 


第 三三四話 凝然大徳

哲学堂内に奉崇せる三学中の一人たる凝然大徳は、 伊予の出産なりしも、 予州〔愛媛県〕人これを知らぬ。 よって、 余が予州客中に賦したる長編一首中にそのことを述べた。

海南風月明且美、 凝然大徳生 秘弁哭   該覧博識誰能敵、 内典外書無レ不>窺、 著作一千二百巻、 文章雅麗如ーー古詩一 資性温良行篤敬、 仏祖遺戒常自持、 不涵守ーー人爵畜デ天爵    身潜二顔巷ー下ーー茸帷一 東大寺畔学林茂、 戒壇院上徳華披、 古徳又有ーー長寿福一代八十二春移、 予州出二此大人物我来問  人皆不>知、 只言藤樹先生在、似灯台不>照>基、 従>今願明ーー其事跡一 百世永崇此国師。

(四国の風月は明るくかつ美しく、 凝然上人はここに生をうく。 その学問知識の広いことはなにびともかなわず、 内外の典籍で目を通さないものはない。 著作は一千二百余巻、 その文章は典雅華麗で古詩かと思わせる。 天性温良で、 その行為は誠実でつつしみ深く、  み仏の残された戒律を常に堅持している。 人の与える尊位などを問題にせず、 天より与えられる徳性などを重んじ、 身を孔子の弟子顔回が住んだというようなむさくるしいところにひそめるようにおいて、 仏法をただす塾を設けて人々を教えた。 東大寺のほとりに学問が盛んに、 戒壇院の上に徳の華がひらく。 高い徳の僧にはまた長寿の福があり、  一代八十二年の生をうけたのである。 伊予の国にこのように大人物がでたのであるが、 私が来てこの人のことをたずねてみるとだれもが知らぬという。  ただ中江藤樹先生がおられたというのみで、 あたかも「灯台もと暗し」のたとえにも似てかえって知らぬのであろう。  しかし今からは凝念上人の事跡を明らかにして、 百世の後までもながく国家の師としての高僧をあがめん。)

〔中江〕藤樹先生は予州の産にあらざるも、 その予州に縁故あることはなにびとも熟知するところなるが、 凝然にいたりてはほとんど一人のその出身たるを知らざるは、「灯台下暗し」といわねばならぬ。



第三三五話 四国遍路

四国にて弘法大師〔空海〕の旧跡八十八カ所を一巡するを遍路と名づく。 俗にヘンドという。 生涯一度は必ず巡拝すべきものとしてある。 余が四国にあるや、  まさしくその期節であった。  一年中、  四月の交が最も多いときである。 そのありさまを詩をもって写した。

行旅幾群来去頻、 看過八十八場春、 草鞘木杖君休レ笑、 我亦今年遍路人。

(旅をゆく人々の群れがしきりと去来し、 霊場八十八カ所の春をみる。 わらじゃ 木の杖をみて笑うのはよそう、 私もまた、 今年もお遍路の一人なのだから。



第三三六話    鼠軍破二扇心  (鼠軍、  扇心を破る)

豊前国曾根村〔現・北九州市小倉南区〕に宿泊せしとき、 夜中鼠軍に襲われ、 安眠することができぬ。 よっ て、マッチをつけて探り見るに、 扇子の中央を鼠のために破られたるを認め、 左の詩を賦した。

物音驚客夢灯暗夜沈沈、 磨レ隧探二窓底鼠軍破二扇心

(物音が客の夢を驚かす。 いまやともしびも暗く、 夜はひっそりとふけるときである。 火うちをもって窓のあたりに物音を探せば、 ねずみ軍が扇子を食い破ったのであった。)

その前に豊後日田町〔現・市〕大蔵某氏所蔵、 平野五岳筆書画帳に「野狐禅」の題字ありしが、 鼠その首字を食い去りて、「狐禅」の二字だけ残った。  そのことを記せよとの依頼に応じ、 左の詩を賦して与えたこともある。

野狐失ーー其首一 狡鼠以医レ飢、 問>我是何兆、 吉凶天独知。

(野狐はそのこうべ〔野の字を欠く〕を失った。 わるがしこい鼠が野の字を食って飢えをみたしたからである。 私にこれはいったいなんの兆しかときかれても、 吉か凶かは天のみが知るとしか答えられぬ。)



第三三七話    酔仏の歌

大隅国 財 部〔村、 現・町〕に一僧ありて、 はなはだ酒をたしなむ。 余に雅号を付せんことを請うたから、 酔仏と命名した。  かつ添うるに和歌一首をもってし、「酔過きて無念無想の境界に、 入りし人こそ仏なりけれ」といて与えたことがある。

 


第三三八話 柿の贈り物に答う

九州を巡遊しおわりて、 門司よりまさに帰京の途に上らんとせるに際し、 知人より柿の実を餞別に贈ってきた。 よって、  これに狂歌を賦して答謝した。字をかきて恥をかきたる紀念とて、 柿の土産をもらいけるかな


第三三九話 五色の歌

去る歳四、 五月のころ、 和州〔奈良県〕宇智〔現・五條市〕吉野両郡の山間を旅行せしが、 野外の景色が自然に五色に染め上げたるように見えたれば、樹は黒く、 麦は緑りに、 菜は黄なり、 桃紅李白春の山里とよみたることがある。  また、 信州木曾地を通過の際、 蕎麦の畑にあるを見て、根は赤く、  茎は黄色に、 葉は青く、 花の白きに結ぶ実は黒とよみ、 五色の歌を作った。



第三四    話    目出度句

人あり、 余にめでたい語にして、 しかも一読、 人をして笑わしむる句を書せんことをもとめた。 よって、 左の語を記して与えたことがある。

口を開けばアンコロ餅が飛んでくる、 門を開けば福の神が舞い込む



第三四一話    森林の西洋洗濯

北海道客中、 根室より厚岸に出ずるの間、 丘陵起伏し、 森林繁茂し、 馬上にて林中を通過するに、 枝葉顔を摩し、 頭をうち、 帽を飛ばすこと数回に及ぶほどであった。  人呼びてこれを西洋洗濯と申しておる。 ときに余の一吟がある。

一路乗>風入二翠微    雨過澗底水声肥、 深泥没>脚馬難>進、 低樹摩>顔帽欲>飛、 楓葉秋高酔二霜酒一 岩根雲冷擁云早竺   遥聞二足響五交熊到 、 何料牧童引涵祖帰。

(一路風に吹かれるように山の緑にけぶるもやのなかに入れば、 雨後の谷ぞこに水声が高い。 深い泥のため足をとられて馬も進みにくく、 低い樹の枝が顔をなでて帽子をはねとばそうとする。 楓の葉は秋たけて霜のためにあかく、 岩の根に湧く雲は冷た<苔をおおう。 はるか遠くに足音の轡くを聞いて熊の近づく音かと疑えば、 なんとそれは牧童が小牛を引いて帰るおとであった。)



第三四二話 世界一周の詩

明治三十五年より三十六年の間、 世界一周、 当時の詩がある。 左に掲げてみよう。

立玉志曾辞文字関、 凝>眸先認対州山、 紅日沈辺或呉越、 白雲宿処是台湾、  数帯広東山作レ波、  一条香港峡如嚢、 安南海上風波悪、 印度洋中日月長、 舟入二亜丁ー山漸見、 路過二蘇士一暑将>無、 客身猶在ーー地中海夢境已開欧米都、 花明巴里城頭路、 月照倫敦橋下船、 獅子岡頭尋二古跡一 海牙街上訪二前賢    伊国三冬草已青、 瑞山八月雪猶白、 吟裏坐>花維納春、 酔余歩>目伯林夕、 露北野如>姻海闊一 大西波似二乱山堆一 看尽米山加水勝、帰舟更向二日東ー来。

(志を立てて日本に別れを告げ、 眸をこらしてまず対馬の山をみる。 紅い夕日の沈むあたりは呉かあるいは越の国であろうか、 白い雲のとどまる所は台湾である。 とりまくような広東の山々は波のごとく、  ひとすじの香港のせまい海は袋のようである。 安南の海上の風波はあらく、 印度洋では長い日をすごした。 船は亜丁に入港してようやく山をみ、 航路は蘇士をすぎて暑熱はおさまる。 旅の身はなお地中海にあるも、 夢のなかではすでに欧米の都市をたずねる。 花の咲きほこる巴里の街路、 月の光のもと倫敦橋で船を下りる。

獅子が岡のほとりで古戦場(ワー テルロー )の跡をたずね、 海牙の街では先人賢者(スピノザの銅像)をおとなう。 伊国の冬の三カ月は草もすでに青々として、 瑞の山々は八月にもかかわらず白く雪が残っている。 吟詠しつつ花をめでた維納の春、 酔っては月の下、 伯林の夕に歩いたのである。 露の北の野はけぶる海のごとく広く、 大西洋の波は乱れたつ山のかさなるがごときであった。 米の山と加の湖水の景勝をみて、 帰国の船はいまあらためて日本に向かって行くのである。〔「南半球五万哩」では



第 三四三話 自作の格言

 古来の格言訓語が今日に適せざるもの多きを見、 浅学ながら自ら格言を作り、 集めて一小冊子とし、「自家格言集」の表題にて、 世に発表してある。  ここにはその中より数句を抜いて掲げておく。

浮世非>夢、 事事皆真。

(浮世は夢ではない、 あらゆる事はすべて本当のことなのだ。)

楽而迎老、 笑而迎レ死。

(楽しんで老を迎え、 笑いて死を迎えん。)

鶏告>晨、 犬守>夜、 人而無伝用則不レ及二鶏犬一遠突。

(にわとりは朝を告げ、 犬は夜を守る。  人として用なしとせば、 鶏犬にも遠く及ばないことになる。)

花落留玉実、 人死留"功。

(花は散って実を残し、 人は死んで功績を残す。)

月欠則__有  満時一 人窮則有二達時

(月欠ければすなわち満月の時があり、 人の窮地におち入ればすなわち望みの達する時がある。)

人情如>海有二深浅一 世路如レ山有二高低

(人情には海のごとく深浅があり、 世の中の路は山のごとく高低がある。)

善人為ーー悪人五庄租税

(善人は悪人のために租税を払う。

   悪人如ーー猫眼一 向レ明則縮、 向レ暗則張。

(悪人は猫の眼のように明るさに向かっては眼をほそめ、 暗さに向かえば大きく見開くものだ。)

官吏啜二農夫之汗    富人呑一貧民之涙

(官吏は農民の汗をすすり、 富める人は貧民の涙をのんだのだ。)

心為 形 役一 是駄馬耳、 身被ーー名牽一 是時籠鳥耳  ゜

(心を肉体の奴隷となせば、  これ駄馬としかいえない。 身の名誉にひかれるならば、  この時は籠の鳥でしかない。)

少時貪>暖則老後寒突。

(わかい時に暖(楽)をむさぼれば、 老いて後に寒(苦)となる。)

紺屋不>染>衣、 医者不>衛>生、 僧家不>修>身。

(紺屋は衣を染めず、  医者は生命を守らず、 僧侶は身を修めず。)

日出則勤二随上    日入則笑 灯 前一 是農家之日課也。

(日が昇れば畑のうねの上で勤労し、 日が沈めば灯火のまえで談笑する。  これが農家の日課である。)

不>労而衣食、 是盗二衣食一者也。

(働くこともなく衣食するのは、 衣食を盗む者というべきである。)




第二三類 滑稽頓知

第 三四四話 心理療法

 

余、  かつて医家の生理療法のほかに心理療法あることを主唱した。 その後、 神経衰弱症にかかり、 自ら経営せし学校を退隠するのやむをえざるに至った。 人あり、 詰問して曰く、「なにゆえに心理療法を実施せざるや」と。余曰く、「この退隠の一事すなわち心理療法である」と。 ある人これを評して、「この一問答は禅家の好公案なり」といった。

 

第三四五話 不動の字解

 旧哲学館の敷地を広げるに当たり、 その地内に成田不動を祭れる小宇がある。  これを命ずるに、 ほかの地に移転せよというをもってした。 講中総代来たりて、 移転はできぬとの挨拶である。 なにゆえかとなじれば、 不動様なるが故にと答えた。  余、  一案をめぐらして曰く、「動かざるが故に不動なるの理はもっともである。  されど「成田不動」とあるはいかん。  この四字は「田になすならば動かずと読むべきである。

 しかるに今回は学校の敷地にするためにして、 田にするにあらざれば、 たとい不動といえども動かざるべからず」といいて、 互いに大笑いしたことがある。

 


第三四六話 伊豆の説

 先年、 余が伊豆半島を周遊せしとき、 伊豆人問うに「伊豆の名称の由来はいかん」と。 余、 戯れて答えて曰く、「伊豆の義たるや古来二説ある。  その一は、 伊豆は出ずるの義にして、 その国長く海中に突出するによるとその当を得ない。  わが国の半島国は決して伊豆に限らぬ。  房州〔千葉県〕、 能州〔石川県〕みな半島である。 その二は、 伊豆は湯出ずの義にして、 出湯の多きによるというも、 これまたおもしろくない。 なんとなれば、  上州〔群馬県〕のごとき出湯の多きこと豆州〔静岡県〕の比にあらざれば、 湯出ずの名を伊豆のみに与うるはずはない。 また俗説に、 伊豆はこれ豆と訓じ、 その国の小なること豆のごとしとの意なりというも、 よろしくない。 その故は、 日本中最小国は志摩にして、 伊豆にあらざるを見ても知れる。 余案ずるに、 伊豆の国たるや、 山多く道険なること本邦中第一位におる。  かかる山地を旅行するには、 下駄も靴も用をなさず、 必ずわらじをつけなければならぬ。 わらじをつけて旅行すれば、 必ず両足にマメのできるはのがれ難い。  すなわち、 足に多く豆のできる国なりと解するが最も適切と思う」と。  これは余の滑稽である。



第三四七話    門前の掲示

禅寺の門前には多く「禁ーニ菫酒入二山門  」(鷲酒山門に入るを禁ず)の禁碑石がある。 先年、 余はじめて某禅寺の境内を借りて居を営みしに、 ときどき薪炭や食料を運ぶもの、 山門を通過して余が居宅に至る。 寺僧これを喜ばずして、 門前に「荷車を引き入るるを禁ず」と掲示した。  その後、 荷車依然として山門に入る。 寺僧大いに怒り、 余が宅に来たりて厳しくその不都合を責む。 余曰く、「門前に掲示ありても、 そのとおり実行するは難きものである。 例えば「董酒山門に入るを禁ず    と題しても、 ときどき酒肉の門内に入ることあると同様じゃ。  ゆえに、 かかることはゆるしておかれんことを望む」と申したれば、 寺僧赤面して去った。

 


第三四八話 気のきかぬ間ぬけ

世の中に気がききて間のぬけたものがあり、  また気がきかずして間のぬけたものもある。 越後三条町〔現・市〕は毎朝夕、 川水をくみ取りて飲料とする所で、 下男に雇わるるものは、 必ず毎朝、 水を 荷 桶にて運ぶのが常業である。  一人の愚鈍なる下男ありて、 水を運ぶに慣れず、 途中過半を外へこぼしてしまう。  主人これに教えて、尻を振ればこぼるることなしと注意を与えた。 下男謹んで諾し、 その後水を運ぶに、 途中桶よりこぼるるごとに、 その桶を地上におき、 独り自ら尻を振り、 暫時にしてまた桶をにない、 水の外に落つるごとに、 前のごとくして、 大いに人に笑われたという話がある。 間のぬけたというものならんか、 いな、 それ以上である。

 


第三四九話 哲学堂の判じ物

 和田山哲学堂前に小便所を設け、 これに標記するに「尾無毛泉不白」の六字をもってした。  ここに遊ぶもの、一人もこれを判じ得ぬ。 よって、 いちいち説明する必要が起こった。 尾に毛なきは戸なり。 泉の白を欠けば水となる。  これを合すれば「尿」字なるわけで、 尿の字を代表したのである。

第三五〇 話 理屈家

日本人は概して理屈家の方である。  しかも屁理屈に長じておる。 汽車中に「車内禁煙」と掲示しおけば、 窓より顔を出だして喫煙するものがあったそうだ。 また、 電車中の注意の一箇条に「フト股出スコト」と記してあれば、 太い股を出だすことできぬも、 細い股は出だしてもよかろうと話し合った人もあったということじゃ。



第 三五一話 偶然の滑稽

出雲にて、  人の問いに対し然諾するときは「ソー  デス」といい、 否定するときは「イヤデス」というが、  かの方言のきまりである。 余、 ある小学校教員に向かい「君はこの村の出生か」とたずねたれば、「イヤデス」と答えた。 余は松江近在に揖屋駅あるを知れる故に、 揖屋の出生なりと心得、 されば「松江在の停車場の所在地が君の郷里か」といえば、 また「イヤデス」と答えた。 後に、  イヤデスは打ち消しの語なるを知りて、 ようやく領解した。  これも偶然の滑稽である。



第三五二話 仮名の読み違い

上州〔群馬県〕伊香保温泉にて聞きたる話に、 高崎近在に「南たかさきみち、 北かねこみち」と刻したる道標がある。 旅客これを見て、「ナンダカ先道、  キタカ猫道」と読んで、 さらに解し得なかったと。  これも一場の滑稽である。

 


第三五三話 車夫の誤解

 余、 先年京都にありて、 某月十三日に教育会を訪わんとし、 その事務所の三条裏通りにあるを聞き、 人車を雇ってここに至ったことがある。 車夫曰く「どこへ行きますか」と。 余曰く「教育会」と、 車夫曰く「十三日なり」と。 余は車夫がなんのために十三日といいたるを解せず。 かくして走ること数十歩、 また問いて曰く「檀那、 なんという家に至るか」と。 余曰く「教育会」と。 車夫また曰く「十三日なり」と。  ここにおいて、 はじめて車夫の余の言を誤解せるを知った。 すなわち、 車夫は教育会ということを聞きて、「今日はいつか」と解したのであった。

 


第三五四話 忠孝主義

余は食事に香々を好み、 間飲に焼酎を選ぶ。 人その故を問うから、 曰く「余のとるところは忠孝主義にして、酎は忠に通じ、  香は孝に通ずる故なり」と答えた。  これは余の独特の滑稽である。

 


第三五五話 誤読の僻解

 ある人、 義捐金を義損金と読み、 義理にて損をする金なりと解し、 演題未定を末定と読み、 末に定むるの義なりと解せしもおもしろし。

 


第三五六話 クサイの理由

 

肥後人は言葉の尻へ、  クサイという語を添えて話をする癖がある。 例えばヨカクサイ、 ソー ダクサイ、 ゞノッテンクサイというがごとく、 語尾の添え言葉にクサイを付ける。 ある人が肥後人に向かい、「なにゆえに談話中にクサイ、  クサイをたびたびいうか」とたずねたれば、  その答えに、「他国人は返事にヘイ、  ヘイと繰り返す故である」といえるもおもしろい。


第三五七話    余の書風

余、 生来書を学びたることなく、 したがって無類の悪筆である。  ゆえに固く禁筆を守りて、 揮奄のもとめに応ぜざりしが、 明治二十九年、 自ら創立せる哲学館が全焼の災にかかり、 百計ここに尽き、 本意に背きて禁筆を解き、  学館再築を助成せらるる諸氏に、  お礼として揮憂を呈するの内規に定めた。 その縁故で哲学堂維持費を集むるにも、 字を書いて差し上ぐることにした。 爾来、 人より「なにびとの書風を学ばれたりや」とたずねらるば、 余はこれに対して「 提 灯屋流なり」と答えておる。 他日、 和田山哲学堂内に筆塚を築きて、 揮奄罪を謝する心得である。

 


第三五八話    師匠兼弟子

大和宇陀郡内巡遊中、 余に「幾人の弟子ありや」と問うものがあった。「なんの弟子か」と聞けば、「書の弟子のことだ」という。  ツマリヽ      たくさんの弟子を有する書家と思ったらしい。 余これに答えて、「師匠も一人、 弟子も一人」と申した。  さらに「その一人の弟子はどこにおるか」と問うに対し、「その弟子はここにおる。 すなわち師匠兼弟子であって、 余のほかには一人の師匠もなく、  一人の弟子もない」と答えて、 笑ったことがある。


第三五九話    大仏の比較

八王子のものが奈良に遊び、 大仏を見て評して曰く、「この大仏はわが小仏よりも小さい。 小仏の長さ一里あり」と。 小仏とは甲州街道の小仏峠のことじゃ。 また、 五島の者が奈良の大仏を拝して曰く、「その身長、 わが漁するところの大魚に及ばざること、 たしかに二寸なり」と。  人その故を問えば、「一は金〔曲尺〕にして一は 鯨鯨尺〕なればなり」と答えたる由。



第三六    話    オソメ風

明治二十四年一月ごろ、 東京にインフルエンザ病の大いに流行したことがある。 俗間にこれをオソメ風と名づけ、  これを避くる法は家の入り口に「久松は居らず」と書きて張り付けおけばよいとて、 ところどころにその張り出しを見た。  これ、「オソメ久松」より出でたる滑稽である。



第三六一話    日本中の山なしの国

余、 戯れに学童にたずぬるに、「日本中の山のなき国あるを知るか」というをもっ てした。  学童答えて曰く

「下総である」と。 余曰く「下総には成田山あり、 流山ありて、 山の数すこぶる多い。 しかして真に山のなき国は甲州〔山梨県〕一国あるのみ」と。  学童曰く「甲州には白峰山、 天目山、 身延山等ありて、 日本中最も山の多き国である」と。 余曰く「されど、 甲州を山なし県というにあらずや」と。  これまた一場の滑稽である。


第三六二話    漢字の調法

漢字は音の似たるもの多く、 ために誤解を招くことあるも、 また調法の場合もある。 先年、 日露開戦の際、 九州の一人がたずぬるには、「このごろ日向の国に、 天より灰を降らせし一怪事があった。 日向は日本の根源地にして、 神の天降りし場所である。 その地に降灰ありしは、 必ず深き神意の存するに相違なかろう。  すなわち、 わが天祖が日露の勝敗をわれらに示されしものと思わる。 案ずるに、 灰は敗と音相通じ、 降は降参と熟する字である。  されば、 わが軍敗れて露に降参する前兆であろう。  これ、 不吉の兆しではないか」と申した。 余これに答えて、「これ、 大いに祝すべき吉事である。 なんとなれば、 灰は破夷と通じ、 灰降は破夷降の意にして、  ロシアの夷秋を破りて降参せしむるの前兆である」と申したが、 戦争の結果を見れば、 余の判断の当たれるを知った。


第二四類 失策笑語

第三六三話    蕎麦の薬味

薩摩および日向にては、  蕎麦に薬味を添うることがない。 東京人が先年、 日向の旅店に一泊し、 蕎麦を命じたるに、  蕎麦は結構にできたるも、 その味を助くべき薬味なき故、「山葵か唐辛〔子〕を持ち来たれ」と命じたるも、さらに言葉の通ぜぬようなれば、 語を換えて「辛いものをすりて持ち来たれ」といいたれば、 ようやく分かりたる様子にて、 しばらく過ぎて白色を帯びたるものを、 たくさん皿に盛りて持ち来たった。 試みにこれを味わうに、  甘味あるも辛味がない。  さらに聞きただして、 はじめて甘薯をすりたることが分かった。 九州にては甘薯をカライモと申す。 よって、「カライモノをすって持ち来たれ」との命に応じて、 カライモをすりたるのであった。ずいぶんあり得べき間違いである。



第三六四話    サイダー  の誤解

余が近年、 九州筑後川の沿岸を巡遊したるとき、 ある旅館にてビー ルもあり、 ラムネもあるから、  サイダー もなかるべからずと思い、 下女に向かいて「サイダー  はここに来ておるか」とたずねたれば、「四、 五日前においでになりました」と答えた。  これ、 下女がサイダー の名を知らざる故、 その地に斎田と名づくる人がある、 その人の去来をたずねたるものと解したるも、  おかしかった。

 


第三六五話 鳥栖停車場

九州鉄道の長崎線と熊本線との分岐点に鳥栖と名づくる駅がある。  この名は元来、 田畑の小字同様の地名にして、 その地方の人にも知られざるほどなりしが、 鉄道を布設せられて以来、 にわかに市街をなし、 枢要の駅となった。 しかるにその地方の文字なき老婆のごときは、 鳥栖とは停車場のことなるとのみ心得、 福岡に至りしとき、  人に向かって停車場の所在を問うに、「トスはいずれにあるか」とたずねたという奇談がある。



第三六六話    電報の間違い

奥州人が病人をつれて病院に入るの手続きをなし、 その実家へ向け「イマ入院シンダ」との電報を発したるに、    一家大いに驚きて、 急に親類と申し合わせ、  死骸を引き取りに行きたれば、「入院すんだ」の間違いであった。 奥州人はシとスとを混同して、 弁別するあたわざれば、  スンダとシンダと誤りて打電せし故である。 また雲州〔島根県〕にては、 人の来たりたるをキラレタという語習がある。 同国人ある地方に在勤し、 県知事汽船に来着せるを県庁へ打電して、「イマ知事、 船ニテキラレ」と伝えたるために、 大いに県庁を騒がしたという話もある。



第三六七話    精進と西洋人との間違い

曹洞宗管長一行十四人が、 九州巡教の途次、 長崎市に臨時一泊する都合となり、 旅館へ打電して、「今夜精進十四人トマル用意セヨ」と命じた。 けだし、「坊主十四人」とも書き難ければ、 精進としたためたるものらしい。つまり、 精進料理十四人前用意せよとの意を含めたのである。 しかるに、  この電報を受け取りたる旅館は精進を西洋人と解し、 急にコックを雇い、 西洋料理の準備をなして待ちおりたりとの奇談もある。


第三六八話    演説の誤解

余、 長崎県南高来郡内にありて、 演説中、 霊魂の説明をなせしことがあった。 聴衆は露魂の語を解せずして、蓮根のことと誤解した。  また、 恒河の流域二千マイルと述べたるに、  マイルを解せざるものありて二千万里と誤解した。 演説の用語は、 聴衆のいかんによりて加減する必要がある。



第三六九話     記憶の誤り

記憶の誤りは、 多く連想の混同より起こるものだ。  一米人はじめて日本に来たり、 朝時人に会するとき、 グッドモー ニングというべきを日本語にてなんというかをたずね、 オハヨウということを教えられた。  翌朝人に会するごとにオハヨウといわずして、 ニュー ヨー クといいて挨拶したりとのことじゃ。 オハヨウもニュー ヨー クも米国の地名なれば、  二者を誤りて記憶したためである。  これにひとしき話は、 ある人余に向かい、 越後に雑炊町と名づくる所ありというも、 余は解することができぬ。 しばらくありて、 小千谷町〔現・市〕を雑水町と誤りて記憶せるを知り得た。  これみな、 連想の相違より起こる誤りである。



第三七〇話    寝言の功能

ある別荘が四隣家なく、 田園中に孤立しておるために、 ときどき窃盗の忍び入らんとすることがある。 ここに住する番人の中で、 深夜高調をもって寝言を発する癖のものがあった。  その癖を知らざるものは、 なにごとの起こりたるやと驚かさるるほどである。 ある夜、 窃盗が戸をはずして忍び入りたるに、 たまたま大声にてどなるがごとき寝言に会し、  その寝言なるを知らざれば大いに恐れ、  一物を窃取せずして逃れ去った。 しかるに、  一家全くこれを知らず、 翌朝起きて戸の開きおると、 室内に足跡あるとによりて、 窃盗の入りたるを知り得た。  これ、寝言の功能と申すべきものじゃ。

第三七一話    地蔵の本願

予州〔愛媛県〕桑原村〔現・松山市〕字畑寺に、  泥打ち地蔵と名づくる石地蔵が田中にある。  そのそばを通過するもの、 必ず泥を握りて地蔵尊に打ちかくることになっておる。  これ、 地蔵尊の本能であるというはおかしい。 千葉県に石地蔵を橋にかけて、  これをふみ渡るをもって地蔵尊の本願なりととなえおるに同じ。 また、 予州道後村

〔現・松山市〕に粉付け地蔵がある。  これを礼拝するもの、 オシロイの粉をふりかくるも奇怪である。 粉付けとは、  子好きより転訛したるものならんとの説じゃ。

 


第三七二話 温泉の失策

 余、  かつて長州〔山口県〕大津郡〔現・長門市〕深川温泉〔湯本温泉〕に入浴を試みしことがある。 時まさに厳冬であった。「湿泉にオン湯、  レイ湯の二種あるが、 いずれの方に入浴するか」を問われたれば、「むろんオン湯に浴すべし」と答えた。 しかるに、 温度低くして寒気にたえ難い。 さらにレイ湯の方を探れば、 温度すこぶる高い。怪しみてその理由をたずねしに、 オン湯は恩湯と書き、  レイ湯は礼湯と書き、 湯冷の意にあらざるを知り、 思わず一笑を喫した。



第三七三話    田舎老婆

田舎より東京に上りたる老婆が、 街上の自動電話所を小便所と心得、 尻をからげてその中に入りたりとの話があるが、  これは維新前はじめて西洋に行きたるものが、 街上の郵便函を小便所と心得たると好一対の失策談である。

 


第三七四話    吉野山中の弥次喜多

和州〔奈良県〕吉野郡内に高見村〔現・東吉野村〕という〔の〕がある。  その村の人家を離れて約五、 六丁の山腰に禅寺がある。 夜中ここに開会せしに、 演説会の終わるや、  にわかに課雨が降りきたった。 ときに旅宿に帰らんとするも、 雨具の用意がない。 その寺に備うる傘は、 すでにほかの人がさして去った。 よって、 住職がわが家には雨を防ぐの好具ありとて、 葬式に用うる赤色の大傘を持ち出だし、 これを下男にささげさせ、 洋服のまま送られて帰舎せしは、 吉野山中の弥次喜多談である。


第三七五話 トウ馬車

奥州〔東北地方〕の青森および南部地方は、 旅行に多く馬または馬車を用うる所である。 余の浅虫温泉を発して、 野辺地に移らんとするや、  その当時いまだ鉄道の便あらざれば、 馬車によらねばならぬ。 旅館にて馬車の用意を命じたれば、  一トウ馬車かニトウ馬車かとたずねきたった。  その賃銀を聞けば、  一トウの方が安い。 価安くして一等ならば、 むろん一トウ馬車を用意すべしと命じた。 後に聞けば、  一トウとは一頭引きの馬車のことであった。 悪道かつ遠路にて、 馬車浚巡として進まざるには閉口した。



第三七六話    箱根の旅館

余が箱根温泉の某旅館に滞在せしとき、 毎日食事の給仕に来たる女中の一人は、 その名をコメといい、  一人はその名をミソというを聞き、  おもしろき名を付けたものだ。 世の中はコメとミソとがなくては、  一日も生きておられぬと思ったが、 よく聞き正してみたれば、  クメとミスであった。

 

第三七七話    茶話会

近年、 地方にて懇親会に酒食を廃し、 茶菓のみを用うる風が行わるるが、 これを茶話会と申す。  ここに一奇談がある。  北国の某村にて、「演説後に沢会あり」と掲示してあっ た。 余はその意を解するに苦しみ、 再三熟考してはじめて、「沢」は「茶話」と音通の点より誤れるを知った。  これ、一つの判じ物である。 もし茶話を沢と書するならば、 哲学を鉄学と書し、 博士を墓世と書してもよい。 昔、 田舎の者が酒代の催促に、「大」の字をさかさまに書き、「せ」の字を横に書いて請求したという話がある。  すなわち、  これをサカダイヨコセと読むつもりじゃ。  また、 ある百姓が、「「音」の字はザツにかくよりも、  ていねいに書く方が価がやすい。 ザツにすれば七百とかくべきを、 テイネイにすれば六百とかく」と申したとの滑稽もあるが、 今日なおこれに類したることが多い。

 


第三七八話    風呂の立ち往生

先年、 長州〔山口県〕美祢郡の某寺に行きて、 雪中宿泊せしことがある。 その寺に風呂場がないとて、 ほかより風呂桶を借り来たり、 庭前の雪の中に置いて湯を沸かし、 余に入浴せよとの案内を受けた。 その日は雪のふる<らいであるから、 非常に寒い。 早く一浴してあたたまりたいと思い、 急ぎて湯に入ると、 桶の底に損所を生じ、二、 三分を待たぬうちに、 湯が外に流れ尽くし、  一滴もないようになり、 桶の中にて立ち往生したことがある。昨年、 信州〔長野県〕下伊那客中にも、  これにひとしき弥次喜多を演じた。



第二五類 雑談雑類

第三七九話    円了と遠慮

余の実名は円了である。 円了と遠慮とは発音が似ておる。  ゆえに、 人は余に酒食を勧めるときに、「お名前が円了であるから、 遠慮なさる」という。 余はこれに答えて、「名実不相応のことは世の中にたくさんある。 例えば、 昼寒くてもヨ寒といい、 朝のむ茶を バン茶といい、  一羽いる鳥でもニワトリといい、  一本かかりたる橋を  ホン橋といい、  一ツにてもマン頭、  一枚にてもセンベイ、  一箱にてもジュウ箱、 晩につけたる漬け物をアサ漬けといい、 秋とれる魚をサンマー といい、 早ツケギの数が少なくともマッチというの類、 みな名実不相応である。これと同じく、 余の名は円了なれども、  トント遠慮のできぬ方であって、 名実不相応である」と申した。


第三八 〇話    太古の遊び

先年、 北海道一周の際、 北見の沿岸を数日間かかり、 馬上にて旅行したことがあるが、 ある日湖畔のめずらしき絶景の所に出でたれば、  一休みせんと思うも茶店がない。  そのうちに一軒の貧しき漁屋を見受けたれば、 これを借りて休息した。 時すでに正午に近ければ、 喫飯せんとするも食品の備えがない。  幸いに米のあるを聞きて、老婦にこれを炊かせ、  さらに老爺に命じて魚を釣りに遣わし、 暫時ののち飯と 肴 とを得、 炉を囲んで板の間にアグラをかき、 老爺が山に入りて、 たびたび熊に遇いて九死に一生を得たる実験談を聞いて遊んだことがある。これ、 太古の遊びというべきものであろう。

 


第 三八一話 風流の遊び

先年、 長崎市小島の寺院に寓居したことがある。  たまたま秋晴春のごとき好天気に会したれば、 その寺の住職と医師と余と三人申し合わせ、   二箪食一瓢飲を携え、 八景の峰と名づくる所に登った。 天をやねとし草をむしろとし、 住職はかまどを築き、  医師は包丁をとり、 余は薪を拾って、 終日の壮遊を試みたことがあるが、 近来めずらしき風流の遊びであった。



第 三八二話     残念の遊ぴ

余がある山間に滞在せしとき、 好風晴日、  一天雲なき秋期の彼岸日和に会したれば、 茸狩りを試みんとて、 両三人相伴い、 道すがらきのこを探りつつ高峰の下に達した。 やがて山上にてきのこ料理で喫飯せんとて、 鍋、釜、 酒、 醤油を人夫にかつがせて行ったから、 幸いにきのこも取れ、 腹もへりたれば、 これより峰頂の見晴らしのよき所にて一休みせんと、  勇を鼓して絶壁を攀じ、  まさに絶頂に達せんとするとき、 人夫が石につまずきてたおれ、  その携帯せる食器、 飲み物ことごとく谷底へころげ落とし、 酒も醤油も茶もきのこも、  みな谷川の急流にながしてしまったことがある。 その残念さは今に忘られぬ。



第 三八三話 雲助と慶安

旧友荒川義太郎氏が長崎県の知事をしておるときに、 三十年ぶりに長崎において面会した。 昔時、〔東京〕大学寄宿舎にてともに焼き芋を屠ったことあるを思い出だし、 今日にありて、  一方は知事の栄職にあり    一方は南船北馬、 東去西来、 雲助同様の生活をなしおるの相違あるを見て、  一詩を工夫した。

崎陽一夕相逢処、 想起当年同食>薯、 歎息人生転変多、 君為二知事ー吾雲助。

(長崎の地であるタ ベ面会したが、 想いおこせば 二十年も前のこと、 ともに薯を食べた仲間であった。 しかしながら人生には変転の多いことを嘆息する。 なぜならば、 君はいまや県知事となり、 われは東奔西走の定めない浮き雲のような生活を送っているのだ。)

荒川氏これを読みて、「君が雲助ならば僕は慶安だ。 知事の役は慶安のようなものじゃ 」といわれて、 互いに笑ったことがある。

 


第三八四話 達磨と美人

 

ある人、 一幅の達磨と美人と背座する図を携え来たりて、  これに賛をせよといわれたから、  一詩を賦して題したことがある。

世間多是競豪奢 憐殺少林貧達磨、 九年面壁背花坐、 不知春色在誰家

(世間では多く豪奢を争う、 憐れなり、 少林寺の貧達磨、 九年壁に向かい、 花に背をむけて座し、 春の景色が一体いずれの家にあるかもわからない。)

また一人あり、 同じ図を持ち来たりて賛をもとめられた。 よって、

達磨与二美人ー相背坐、 此間消息亦教外別伝也。

(達磨禅師と美人とたがいに背をむけて座す、 この間のうつりかわりは教えの外、 別の伝承であろう。)と題したれば、 大いに喝采を得た。

 


第三八五話 音通の間違い

先年、 余が一論を草し、 これを題して「排孟論」と定めたが、 その意は「孟子」を排する論というつもりなるに、 人これを見て、『孟子』と『論語」とを排するものと解した。  これはまださほどの間違いにはあらざるも、その後「破唯物論」を著したるに、 音通の間違いより「廃仏論」と誤解せられ、 わざわざ書面をもって、「君は平素仏教の保護者として歓迎していたが、 今度「廃仏論」とかいうものを書いたそうだ。  果たしてしかるか」と詰問されたことがある。

 


第三八六話 街上の売り声

 街上の売り声は、 その土地に永住せるものにあらざれば、 聴き取り難きものである。 地方よりはじめて東京に移住し来たり、 街上に「オワイ、 オワイ」と呼び歩く声を聞きて、 野菜か魚類の売り声と思い、 呼び止めて買わんとせしに、 肥桶をかつぎいたるに驚いたという話がある。


第三八七話    糞紙の代用

今日なお僻地にては、 拭糞に紙を用いぬ所がある。 あるいは藁を用い、 あるいは草の葉を用いておる。 鹿児島県および宮崎県の山間部にては、 竹のヘラを用うる所が多い。 飛騨の国にては木の小片を用うるが、  これを仏木と名づくるは奇怪である。 その理由をたずねても知る人がない。  一説に、  この木片を使用したる後、 川の中へ投げ込むにだんだん流れて越中に入れば、  これを拾い取りて、 仏にさし上ぐるご飯を盛るシャ モジに用うる故であるというも信じ難い。 また、 他国にて糞をぬぐうに紙を用うるに対し、 カミは神と音通の点より、  ホトケと名づけたりというも滑稽であろう。