5.解説:高木宏夫

   解  説                     高木宏夫  

     一 出版当時の影響

 井上円了は東京大学在学中の学生時代に、仏教界キリスト教界ひいては思想界に名を知られるようになっていた。彼は、卒業の前年・明治十七年の十月、「ヤソ教の畏るべきゆえんを論ず」を隔日刊の『明教新誌』に書き、次号から「ヤソ教を排するは理論にあるか」「ヤソ教を排するは実際にあるか」「仏教は知力情感両全の宗教なるゆえんを論ず」を翌年十月まで連載、これらを『真理金針』初編、続編、続々編の三冊に分けて二十年一月までに刊行した。翌二月には『仏教活論序論』を刊行し、これらはいずれも当時のベストセラーとなって、思想界・宗教界に井上円了の名は一躍有名となった。有名となったのは二つの点に関してであった。その一つは、その当時のもっとも新しい進歩的なヨーロッパの理論つまり進化論を武器として、当時流行していたキリスト教を批判したこと、他の一つは、同じ手法で仏教は進化論的批判に十分耐え得るのみならず、ヨーロッパ哲学を通してみた「真理」を「真如」という形でそなえていると主張したことである。詳しいことは後述することにして、まず当時の記述の中から、その反応をみてみよう。なお、『真理金針』については、本選集第二巻の「解説」に、小林忠秀が意をつくして述べておられるので、ここでは『仏教活論序論』を主としながら述べてみたい。

 『明教新誌』(明治二十一年六月十日号)に記載された「真理金針を読て感あり」(菊岡考槃)では、「けだしその論の正確なる、その筆の雄抜なる、なんぞそれ快爽なるや。一読まさに識者をして大いに感動を抱かしむるところあり。輓近また駁邪の書世に出る。汗牛充棟もただならずといえども、かくのごとき大一公明無偏無党の活論あるは余未だ見聞せざるところなり。ああ、深く君が精神のあるところを察せば、ために血涙眠に浮かび悲憤胸にふさがりて、鉄腸まさに裂けんとす。君と共に国のため、法のため戮力同心して、たおれて後やむの胆力を勃起せざるを得ず。ああ、君がこの論を提出するや、一管の筆三寸の舌、侃々諤々慷慨悲憤のこれを論弁せるをもって、その紙面を繙覧すれば、肉もって墨となり、骨もって筆となりたるには非ざるか。だれかこの論を読みて決起奮発せざる者あらんや。」(現代表記化し、句読点を入れた。引用文については以下同じ)と述べ、排ヤソの数ある中では客観的である点を強調し、同時に仏教のための行動を「決起奮発」とうながしている。

 つづいて『明教新誌』(明治二十年五月十日号)の『仏教活論序論』についての論評をみると、「その論たる、偏せず倚せず公平無私を主とし、よく仏教の真理に適合するを説く。予輩、局外中立者といえども、真にその活論の二字に負かさるに服す。」「ああ、仏教の広大深遠なる、いずれかこれを信ぜざらんや。しかれども、澆季の世弘法伝教その人に乏しく、沢を民に致すことあたわず。わずかに愚夫愚婦の間に行わるるは、あに遺憾に耐えざらんや。しかしてたちまち今にして井上君その人あり。仏教の興隆をはかることかくのごとく周到なり。これ余が仏教衰頽の中において欣喜雀躍するゆえんなり」と、ここでも前述の『真理金針』の場合と同じように、記述は客観的で、仏教者が鼓舞されたといっている当時の様子をうかがい知ることができる。

 これに対して、この論稿の批判対象となったキリスト教側の反応はどのようであったのか。その代表的見解は『国民之友』(第三号)の高橋五郎にみることができる。「天地の精気凝って仏教活論序論の中に非憤す。これを読む者だれか感涙を流さざらん。志士は必ず身を忘れ、懦夫もまた志を立てん。外教は好敵手を得たるを祝し、内教はチャンピオンを得たるを喜ぶならん。これ一読胸中に浮かぶの感慨なり。」といい、「しこうしてその同志を他方に尋ねて、援助を学者社会に求めらる。その心情実に憐れむに堪えたり。」「けだし井上君の護法は愛国を骨として仏理を体とするものにして、その目的は仏法をわが国産として海外に輸出し、貨物の上に失いたる権衡を宗教哲学において回復せんとするなり。」「その時を待ちてさらにこれが価値を評定すべし。」という論旨を述べ、この文章をつなぐ間に痛烈な皮肉の言辞を用いて、宗教界における主流派的余裕のある態度をもって論評している。

 『六合雑誌』第八六号(明治二十一年二月)では、『仏教活論本論』の論評で、「在一居士評」として、「今や東洋の仏教まさに西洋の文明に圧倒せられて、滅亡の期にせまらんとす。」と時代状況を示した上で、「井上君さきに仏教活論序論を著して世間の感情を引き、感慨満ちあふるるの語をもって己が仏教の謀士勇将たるを広告せられたり。」「この挙たる全く愛国心に基づくものにして、国家を愛するの情一転して真理を愛するの情となり、真理を愛するの情一転して名誉を求むるの情となれり。名誉を求むるとは一身のために非ずして、日本国のために求むるをいうなり。これによりて考うれば、君の目的たる寸毫も非難すべきところあるなし。君はこの三箇の美情を鍛練して一箇の金鉄心を作り出せり。」論法も皮肉も同様で、紙面の三分の一をこの種の内容に当てている。内容的にいえば、井上円了が進化論を武器として、哲学的にみたキリスト教批判を行っているので、この論評に正面からは答えず、すでにヨーロッパでうけた論評の枠を出ないものだということで、論争を避けた形となっている。現在のアメリカでも新教のいくつかは進化論を拒否しているほどであるから、この時代としては当然の解答とも考えられる。そして、「ただし君はこれらのことを主張するに当たりて、すこしも仏教の説を用いず、全く西洋古今の唯物論者無神論者等の説を一括しきたりて四方八方より攻撃を加う。これをもってこの書をひもとけば、旧識なる泰西の無神論者に東洋において再会するの感あり」と述べ、創世記の神話について「たとい神天地万物を造れりというとも、決して人類のごとく手足を運用して造作せしというに非ず。いかんとなれば創世記には、ただ神の大能を称賛するの語を書したるのみなればなり。」「君は二三が六、三三が九をもって必ずしも動かすべからざるものとなさずして、この星の中には二三が七を許し、かの星の中に二三が十を許せり。」という前後を読んでもすこし分かりにくい論法も用いている。

 最後に教育界の論評の一つを、『教育時論』第六八号(明治二十年三月)記載の「記者」の記事にみると、井上円了の願っていた影響が表れている。「君はもと仏家に生まれ、まず仏を学び、ついで儒を学び、さらに進みて西洋の哲理を極め、すなわち再びその本をたずねて仏書を読み、大いに悟るところあり。仏教の諸教に卓越せるところを知り、明治十八年以来この創見の著作に従事せらるる由なるが、このごろついに仏教活論序論の一巻を出版されたり。これを通読するに、その仏教を説明せるところ、いちいちその比を西洋の哲学にとりきたり、立論全く論理の順序にそうが故に、仏縁濃ならざる記者のごとき者に至るまで、一読して爽然得るところあるがごとし。」そして仏教活論本論がつぎつぎ出るようなので、「記者はその書の出づるを待ち、仏理を極むる門階をなさんとす。読者この序論一巻を読まば必ず記者と同一の感を起こすべし」と結んでいる。この紹介によって、教育界にも読者が広がったであろうし、仏教への理解者が増えたとも推定される。

 以上は、「ヤソ教を排するは理論にあるか」の連載から『破邪新論』が生まれ、それが『真理金針』となり,論旨は同じであっても破邪スタイルから脱して主体的な仏教論を展開した『仏教活論序論』に対する反応である。通観してみると、鹿鳴館時代の時代思潮がよく表れていて、キリスト教陣営の高姿勢と、やっとそれへの反論らしいものが現れたことへの感情的親近性をもって仏教界はこれを迎え、教育雑誌の例のように、一般社会における知識人には、仏教理解の一助という仏教への近づきの姿勢を誘発したことになった。

     二 後代における論評

 柘植信秀は『現代仏教―明治仏教の研究・回顧―』(一〇五号、昭和八年七月)所収の「明治仏教徒のヤソ教攻撃」において、「わが破邪顕正の大著として仏教徒の忘れられない当年の名著として洛陽の紙価を高めたものは、わが井上円了博士の著 真理金針(一巻)破邪活論(一巻)である。これはおそらく破邪書中の白眉であり、圧巻であった。仏教徒も非仏教徒も、これを読んで動かされないものはなかったのである。それから間もなく仏教活論一巻がでたが、これも一世を風靡した名著で、筆者のごときは教科書のように毎日誦しつつ暗記したものである。この破邪活論に対してキリスト教徒の名高い高橋五郎氏が反対攻撃をしたが、とても角力にはならなかったことほど、圧力の強い大作であった。」と述べて、経験的な懐古をしている。

 常盤大定は東洋大学の教授時代の昭和五年に、『東洋大学学報』(第一号、第二号)の「創立者への思慕」のコラムにおいて、「仏教活論序論について」「真理金針に就いて」と題した一文を寄せている(この内容とほぼ同じ文章を『明治文化全集』第十九巻、昭和三年にも掲載)。『真理金針』について「仏教そのものの価値、外教に対する地位は本書ひとたび出でて始めて明らかにせられ、仏教者はこれを手にして血潮を湧かし、ヤソ教者はこれを手にして戦慄し、心なき一般民衆もこれを手にして初めて仏教の存在を知った。」と述べ、また、『仏教活論序論』については、「すでに前に『真理金針』によって、全く心酔せる後において、この論文に接したのであるから、世間の白熱的歓迎があり、当時何人も第一の著作として、この書を推したのであった。また事実このころこれほど世間および仏教界を動かしたものはなかったのである。」と記している。

 これらの論評は、明治二十年代の状況に関して、四十年あまり後代に書きながら、きわめて現実的な実感をもって説明されている。この点では、仏教界における印象の強さを物語っているとみることができよう。

 これに反して、マルクス主義または唯物論者の側からみると(井上円了時代の唯物論者は進化論者も含んでしまっているのでこれを省く)、昭和十年の鳥井博郎『明治思想史』(唯物論全書)をあげることができる。「井上円了は、井上哲次郎と同じく、すでに二十年前において宗教と科学とを結合する意図をもって活動を始めている」と前提しているところから推定すると、明治四十年代に書かれた文章かと思われるが明らかではない。「『仏教活論』、『破邪新論』、『破唯物論』は、それぞれ、仏教再組織のために、キリスト教および唯物論に向けられた弾丸であった。彼の神秘主義も、井上哲次郎のそれと同じく、封建的、官僚的性質を極度に露出させているが、円了の場合は一層非科学的な混乱がはなはだしい。」と決めつけて、「井上哲次郎と井上円了の哲学思想が、明治維新以来西欧より流れきたった功利主義的思想、唯物論的思想に対して,あらゆる過去の封建的イデオロギーを・最新科学の思想・の衣の下に再組織せる観念論であった」と述べて、両井上を封建的イデオローグと位置づけている。

 この論文よりは大分遅れて書かれた、戦後の昭和二十三年の永田広志『日本哲学思想史』は、右の見解に近い立場をとっている。「井上哲次郎の門下井上円了は明治十九―二十年には『真理金針』や『仏教活論』を発表し始め、進化論やエネルギー恒存律を援用してキリスト教を攻撃する傍ら、仏教理論をヨーロッパの哲学で浄化し始めた」と記述した上で、つぎのように論評している。「彼がそうした自然科学的思想を用いてキリスト教的有神論や開闢論を批判し、仏教を・無神論・として規定したのは、流行の自然科学主義的風潮に浅薄に迎合したまでであって、」「三世因果や六道輪廻の観念を擁護するのを妨げなかった」と、鳥井博郎のいう「非科学的混乱」と同じ見解をとっている。その上で、社会に果たした役割を、「自由民権イデオロギーに対抗する」ものとして、つぎのようにいっている。「ところで新型の護法家井上円了が・護国愛理・をスローガンとし、もっぱらキリスト教排撃に努めたことからも察せられるように、再興仏教は自由主義的傾向をもっていたインテリゲンチヤ間に幾分流行の勢いにあったキリスト教に直接には対抗し、それを通して自由民権イデオロギーに対抗するという役割をもったものであった。民権論者の一部にヤソ信者があり」と名前を挙げている。この見解は、当時の仏教が置かれていた状況を無視ないし軽視したもので、逆な意味で井上円了の思想的影響を過大評価したものといえよう。

 唯物論者の論評は多くないのでここに並列したのであるが、永田広志を除く他の論評は戦前のものである。井上円了は『仏教活論序論』における「護国愛理」を一つの頂点として超国家主義者に称揚されたのであるが、出版当時の感情的なものを含む護国愛理への共感はこの時代になく、常盤大定が「『金針』においては、常に護法愛国の成語を用いているが『序論』の最初において・護国愛理・の成語を用いた。これが、その後氏一生の規範標語となったものである。」そして、その内容を「護国愛理の丹心に駆られて、この書を成すのであるが、この二者は時に表裏先後をなすけれど、学者としての自分は、愛理を先にして護国を後にする。真理に癖する自分はあくまで偏僻の真理を排去して、無私の真理を開発せんことを務むる。」と説明しているだけである。

     三 戦後における論評

 ここにとりあげた資料は、書評的なものではなく、思想史・仏教史・宗教史的な立場から井上円了に論及したものである。まずはじめに、増谷文雄の『近代の宗教的生活者』をみると、「井上円了の著述は、大小実に百二十二部に及んでいる。その中でも、最も多くよまれ、かつもっとも意義ふかい著述は、『真理金針』および『仏教活論』の二著であった。」と前提して、二書を説明し、「この二著の中では『真理金針』の初編もよく読まれたが、更に『仏教活論序論』に対する世間の白熱的歓迎は大したものであって、当時の何人もが、当代第一の著作としてこの書を推したものであった。また実際において、仏教関係の書物の中でこの書物ほど、仏教界および一般社会をうごかしたものはなかった。後の文学博士境野黄洋のごときも、この書をよんで非常な感激にうたれ、上京して仏教を学ぶに至ったのであるという。」「その内容を概括すると、学者の目的は国家を護り真理を愛するにあること、まことに真理はヤソ教中にあらずして仏教中にあること、仏教を今日に護持拡張することは愛国の一策たること、および、仏教の真理が純全にして理哲諸学に合するゆえんを説いたものである。その背後に西洋哲学のふかき造詣をもち、その学的態度の堂々たりしことは、従来のこの種のものに全く見ざるところであった。また、その文章は、当時にあっては確かに一新生面を開いたものであって、明快暢達、ひとたびこれを読んだものは、覚えず掌をうって快哉を叫んだものであった。」という。大変長い引用になったが、ここでは戦後においても高い評価が与えられ、その文章までがその対象となっていて、一つの見方の典型とみられる。

 この系統に属しながら批判点を明らかにしているものは、吉田久一の『明治宗教文学集(一)』(『明治文学全集』87)の「解題」である。「その論旨はキリスト教が科学的真理に反するというもので、理論上および事実上から仏教とキリスト教の比較を行った、当時としては学問的な態度に基づく卓越したキリスト教批判でもあり、同時に西洋哲学の論理を背景に仏教哲学の体系化を試みたのであった。」そしてその影響については、「円了の影響は大別して二方面にみられる。その一つは近代仏教教学の形成上哲学的な基盤を提供したことであり、他の一つは仏教革新運動の展開を促したことである。」そして井上円了の思想に欠けているのは「仏教の宗教性や信仰性」であると指摘し、「円了の思想は『真理金針』をあらわした明治二十年代より更に顕著な進展が認められないが、とにかく廃仏毀釈以来の消極的な一途をたどりつつあった仏教に対して蘇生の活力を与えたことは特筆に値する。しかし近代信仰の確立は、円了の宗教と哲学との一体化の主知主義的な立場からは期待し得なかったのである。」と結んでいる。そして、村上専精の見解を引用し、「哲学および科学の論理のみによって仏教を説明し、そこからキリスト教の非倫理性を批判することが不適当である。」「このような批判は現代の学界においても円了に対する評価と適合するものであり、その点に円了の啓蒙思想の限界が存したのである。」と評価を一般化して述べている。この見解は後述のようにほぼ定評化された見解と思われるが、明治二十年代ではとくにこの二著に関しては妥当と思われるとしても、それを井上円了全体という形で一般化してしまうことには問題があると考えるのであるが、本編は限定された文献の解題なので、この点を指摘しておくにとどめたい。

 なおまたここで、若干の誤りではないかと考えられる記述についてふれておきたい。川崎庸之・笠原一男編『宗教史』では、「円了の著作のうち最も影響力の大きなものは『真理金針』と『仏教活論』である。」「特に『序論』は欧化主義に打ちひしがれた仏教に、蘇生の思いをさせた著作であった。」「また哲学館の校是にみられる護国愛理という標語もこのころの流行となった」と述べている。しかしながら、井上円了は著書で述べ、講義でも「護国愛理」を説いているが、「哲学館」という名称の時代には(彼が学長をしていた時代に当たる)、制度的にはとり入れていないし、「校是」というものはつくっていない。昭和時代の「東洋大学」時代に入って、超国家主義の台頭と共に「建学の精神」としてとり入れられた歴史をもっている。井上円了は個人の思想を制度に一般化し、押しつけるようなことはなかったのである。

 また田村円澄は『日本仏教思想史研究 浄土教編』においてつぎのようにいっている。「井上のキリスト教排撃の動機に、ナショナリズムの影響があったことを拒むことはできない。」「・ヤソ教のごときはすでに強国の宗教にして、ことにその国の政体と密接なる関係を有するをもって、最も戒めざるべからず・とするキリスト教排撃論に結びつく。・愛理・は・護国・にその席を譲り渡したのである。」そこで「井上の遍歴は、明治前期の日本仏教の遍歴に外ならなかったが、しかしその遍歴の帰着点が・護国・であったことは注目に価する。」として「仏教からの呼びかけが、・個人・の覚醒ではなく、・国家・の護持に置かれたことは逆にいえば、近代意識に目覚めた日本人を、キリスト教に接近させる結果となった。」という。この見解は二つの点で問題があると考えられる。第一点は、護国よりは愛理が円了にとってはより重視されるもので、本人の記述だけでなく定説となっていて、そこから第二点の宗教を哲学に置きかえたという論点に導かれているのが、これまでの一般論であった。この第一点については、田村説で定説をくつがえすことはできないと考えられる。第二点については、後述の池田英俊の見解が妥当と思われるし、この見解は仏教界全体についてみても妥当とは思われない。

 ここでわざわざとり上げるのもいかがかと思われるが、かなりのスペースをさいて井上円了論を展開しているので、戸頃重基の『近代日本の宗教とナショナリズム』にふれておきたい。戸頃は「折衷主義哲学者井上」とか、円了の序論における文章の詠嘆調の部分を引用して、「このような巧妙に似て、実際は拙劣な哲学的表現をするくらいならば、・私は天皇制に忠誠を誓います・とだけいえばいいのである。」と表現し、また「護国愛理は、上代から中世を経て徳川期におよんだ鎮護国家の哲学化された開化版にすぎない。」ともいっている。この表現が示すように、必ずしも科学的研究の成果として述べられていないという理由ばかりでなく、ここは反証をあげる場でもないので、一応このような見解もあるという指摘をしておくことにとどめたい。

 明治仏教研究の専門家として、池田英俊は『明治の仏教・・その思想と行動・・』(昭和五十一年刊)において、井上円了の代表的な著作として明治十年代には『真理金針』をあげ、二十年代には「なんといっても名著『仏教活論序論』である」という表現している。そして『真理金針』について、「従来の心情的な排ヤソ教観を超えようとする姿勢と、仏基両教が宗教として原理を同一にするゆえに、理論上枝葉末節についての破斥はできても、その根本原理については動かすことはできないとする学究的態度とが窺われるのである。それゆえに円了は、キリスト教のみならず仏教自身についても破邪顕正が行われなければならない」と述べたと本文を引用し、きびしく自己批判の姿勢をも持した点を指摘している。この点の指摘は、これまでに紹介した諸論評があえて無視しあるいは軽視した点であるが、井上円了が唯物論と仏教やヤソ教との間ではっきり一線を画していた点である。

 しかし、「円了の宗教理解の態度は、聖道門が哲学であるのに対して、浄土門とキリスト教とは宗教であって、知力の低い愚夫愚婦の情感を高める一つの段階に過ぎないという点にみられるのである。したがって初編・続編はキリスト教に対する破邪顕正の観点から論じられたものであるが、一方、続々編本論第二編は、初編・続編で得た確信のうえに立って仏教の思想を・哲学の理論に基づき理学の実験による・との視点から体系的にまとめられている。第二編の論旨は、明治二十年代における円了の代表作、『仏教活論序論』と同じような内容であり、しかもその発想と理論の構築とは『真理金針』の破邪顕正観の骨子を出るものではなかったことは明らかである。」と述べ、『序論』を「貫く中心思想は・護国愛理・の主義である」という把握をし、円了の特徴をつぎのように述べている。「維新期の仏教では護法即護国の観念が仏教復興の中心課題とされていた。しかし、維新仏教には、円了にみられるような仏教と哲学の観点に立つ護国と護法、すなわち、愛理の面からの学的な考察を期待することはできなかった。そこで円了は従来の仏法が、仏法国益の立場から世俗の権力に追従するところに護国の意味を見出していたのに対して・護国愛理・における護国が、愛理すなわち西洋哲学における愛知に基礎づけられたものでなければならないと主張したのである。」「円了は、当時の時代思潮で重要視されていた国家・教育・護国の課題を、護法即護国というような十年代の仏法国益観と対比しつつ、さらに進んで真理・宗教・愛理との関係において捉えなおし、近代国家にふさわしい国民の教育、真理に合致した宗教観および護国愛理の主義を体系的にまとめている。」仏教学者の中には、護法護国(円了は真理金針ではこの語をつかっている)と護国愛理とを同義語として扱うものが多く、愛理についても単なる哲学や理性として修飾語的扱いをした論評が少なくないのであるが、この点の問題指摘は的確である。そして右の文章の後段における「近代国家」形成が急務とされていた時代の適合性の指摘には鋭いものがある。

 井上円了のいう仏教について、池田英俊は「円了が・仏教と日本国・の論説で、・現今わが国に流伝せる宗派は、二三を除くの外みな日本人の開立せるところなり、(中略)シナ伝来と称するも、日本にきたりて以来日本別流の宗風をなし日本固有の宗教となれり・と記している点については高く評価されてよいであろう。」「排仏思想の系譜には、つねに仏教が日本固有の思想でないという点が強調され、外来宗教としてしりぞけられてきたのであった。仏教は廃仏毀釈から十数年後、政教社の国粋主義運動によって、日本固有の宗教としての位置が与えられたのである。特に円了はその著述活動において日本の仏教が、日本文化の固有性をよく表すものとして、また世界宗教としての内容を具備していることを力説したのである。」と述べて、井上円了が「仏教の日本化した云々」といった点を評価している。そしてその背景には鹿鳴館時代における主体性の回復を目指す時代思潮のあったことを、つぎのようにいっている。「この日本主義を基調とする学問の独立の精神は、福沢諭吉・大隈重信などの在野精神とも相通ずるものがあった。円了の啓蒙活動は、欧化主義に心酔する人々に、自己の存在についての自覚を促し、日本人としての主体性の回復を目指し、批判精神とともに、国粋保存の主義を主張したものである。このような彼の批判的精神は、教学の面では破邪顕正運動として展開されることになるのである。」

 このような分析と思想史的位置づけは「仏教の哲学的形成と破邪顕正運動」という章に書かれた文章である。したがって井上円了の二十七歳から三十歳ごろの著書と活動が研究の中心となっていて、その限りにおいて、この「解題」には適切な分析であったといえよう。つぎの一文はこの章の冒頭に書かれたものであるが、この章の中に後代の円了の著書を挙げているので、右の年代と著書が井上円了を代表していて、井上円了の一生をこれで評価している点は、思想史や宗教史上はやむをえないことであろう。しかしながら、『井上円了選集』は全集を前提として編集されているので、一言付記しておくとすれば、『哲学新案』(明治四十二年)『活仏教』(大正二年)『奮闘哲学』(大正五年)には「安心立命」「信心歓喜」が重要な意味をもって扱われ、『南船北馬集 第十六編』では「現世利益和讃」「改悔文」の円了版が記されていて、信仰が重要な問題となっている。したがって、明治二十年前後の井上円了にとっての最大関心事が仏教の哲学による「顕正」にあって、時代思潮に対応した思想的役割を果たしたが、信仰と無関係であったとは思われないのである。

     四 社会的背景

 右の論評にもしばしばとりあげられてきたように、井上円了が『真理金針』と『仏教活論序論』の二著によって、一躍当時の有名人となった背景には、日本の仏教界に置かれていた状況があった。

 明治維新から日本の近代化がはじまったといわれているのは、政治権力が徳川封建制の徳川家から天皇家に移ったためで、ヨーロッパ史がたどった、「絶対主義」的王権が成立するような産業資本の成立や初期資本主義的生産があったからではない。むしろ、明治政府は国家の実質的な独立をどのように実現するか、不平等条約をどのようにして解消してゆくか、そのためにどのように工業資本を育成し、資本主義的生産を育成するのかという問題をかかえて、短期の過大な「上からの」変革を任務とし、近代国家の育成は独立のための不可欠の条件と考え、明治四年の「廃藩置県」と同時に「地券交附」という大きい変革をはじめた。地券は当時の主要な生産者ともいうべき人口の八割を占める農民を、「地租」という形で商品貨幣経済にまき込む政策であり、またそこから初期資本主義の原始的資本の蓄積を国家的に行おうとしたものであった。職業をもたない解体過程の下層武士や農民がつぎつぎに反乱を起こして、西南戦争が終わるまで各地に一揆が激発している。この内乱の終結によって、外来思想にもとづく「自由民権運動」が下からの変革エネルギーを吸収していったが、憲法発布と国会開設を政府が日限を切って公約したためにこれが分散してしまった。憲法発布を前にして鹿鳴館時代があり、教育勅語が絶対主義天皇制の思想の体系をうちだしたことが、宗教界・思想界に決定的な役割を果たしてゆくのである。

 井上円了は維新政府と武力で戦って破れた長岡藩の再建をはかる学校と深くかかわりながら育って、右の歴史的な過程を経験し、エリートとしてのコースを最後に東本願寺から与えられ、東京大学の哲学科を卒業した。この在学中に『真理金針』にまとめる文章を発表した。円了自身がすこしオーバーな表現でいっているように、真理を求めて仏教、儒教、キリスト教、西洋哲学と遍歴し、そしてもう一度仏教へともどる形で真理を発見したというこの仏教は、当時としては、思想界・宗教界のもっとも遅れた部分であった。

 維新政府は、右の経済政策をうちだすまでは、藩主を知事とし、天領に新しい若い下層武士の知事を任命した以外には、思想・宗教の対策以外の大きい行政措置をとっていない。維新政府は、政治のイデオロギーを国学に求め、「王政復古の大号令」という名でよぶ理念を発表した。「神武創業にもとづき」「祭政一致」の政治を行うと宣言し、神仏混淆の状況を変えるために「神仏分離令」を施行して、神社神道か仏教かどちらかを選んで所属を明確にすることを求め、神官と僧侶のいずれかを選ばせると同時に、寺院・僧侶は本末関係を明らかにしないものはとりつぶし、「上知令」を出して寺院のもつ知行を一時的ではあるがとりあげて経済的に打撃を与えた。この一連の政策は末端において「廃仏毀釈」運動を起こしたために、仏教界はさらに苦しい状況に追いこまれた。明治六年に政府は大教院を設置し、「大教宣布運動」をはじめた。全国の寺院を、大教院、中教院、小教院にして、僧侶は教部省の命じる「大教」(天皇制の宣伝)を宣布しなければならないというのである。

 高楠順次郎は「明治仏教の大勢」(『現代仏教』一〇五号所収)において、この間の事情をつぎのように述べている。「王政維新の初頭におけるわが国の精神界の世相は如上の乱舞を演じたのであるが、国家財政の窮乏はまた格別で、儀礼、政務の進行も困難を感ずる状態であった。当時唯一の頼みとせしところは両本願寺やその末寺興正寺の多大の献金であった。御即位の調度より初めて、宮城六門の警護、宮門に通ずる橋路の修復、関東鎮撫の輔翼、官軍糧食の補充まで本願寺の手を借らざるを得ざる有様であった。」

 一方で弾圧を加えながら他方では金をとるという、手段を選ばない維新政府の宗教政策の一面がここには具体的に描かれている。「仏教迫害」と表現しながら、高楠順次郎は二期に分けてつぎのように述べている。「仏教迫害の第一期は、全く仏教の形式破壊の方面に向かって動いたのであった。しかも仏教の献金支援の実力ある方面をも一律に迫害し得ざるはもちろんであり、かつ普遍的に迫害を徹底し得ざることも明白となったので、明治五年に至っては、形式破壊の迫害から、一転して内容破壊の迫害を準備するに至った。僧位僧官の永宣旨を廃し、僧侶の肉食、妻帯、蓄髪の禁を解き僧尼の托鉢を禁じ、平服を許し、苗字を称せしめ、ついで尼僧の蓄髪、帰俗、入室を許し、神祇省を廃して教部省を置き、三条の教憲を定め、教導職十四級を置き、各宗管長の職を設け、各宗各派一斉に自己の説法を止めて教憲を説かしめ、文明維新の旨を体し、僧風の釐正、人材の教養を務めしむ。ついで神仏合併大教院を創立し、各宗寺院をもって小教院となし、善光寺その他由緒ある寺院を中教院となす。相国寺荻野独園師を大教院教頭となし、本願寺大谷光尊師を副教頭となす。これ実に仏教の機関を総動員して教部の意志を実行せしめんとする間接射撃に外ならざるものであった。」「仏教迫害の第二期は、明治六年より十年に至るの期間であった。その中心問題は実にかの大教院に在ったのである。明治六年の初頭には新設の大教院において神祭を執行した。増上寺の大殿を献ぜしめ、大教院をここに移転した。四月に至っては増上寺本尊たる仏像を他に移し、皇祖天神を安置し、六月には大教院開院の公式を行った。」「仏教迫害の歴史は、大体において明治十年教部省の廃止をもって、その幕は閉じられつまり失敗に終わったのである。」

 この第二期以後の僧侶の状況がどのようであったかは、井上円了が『金針』においてもきわめて具体的に述べているが、円了とほぼ同年で仏教の近代化に力をつくした中西牛郎はその著『仏教大難論』(明治二十五年十一月刊)において、「大政維新政教分離の端緒ひとたび開くや、仏教各宗の風紀大いに弛廃して、肉食妻帯の法網たちまち解け、滔々たる海内多数の僧侶は、自ら法度の外に超逸して、浮世の快夢を貪ること、あたかも餓虎の鉄檻を出でて棄肉を争うがごとく、放縦無状たとうべからず。その円顱すべきものは髪を長じ、その禁酒すべきものは酒を飲み、その潔身すべきものは妾を蓄え、はなはだしきに至りては、手に神聖なる珠数を繰り、身に神聖なる袈裟をまとうて、権門俗家に媚を献じ、阿諛逢迎至らざるところなく、幇間社流をもって自ら任ずるものもあり。維新以来多数僧侶の自処するゆえんのものすでにかくのごとし。またなんぞ仏教の感化国民に及ぶや否やを問うにいとまあらんや。」と嘆いている。

 ところで、キリスト教界はどのような状況であったか、比屋根安定は『日本宗教史』(大正十四年刊)において、キリスト教をめぐる状況変化を、福沢諭吉の変わり方や統計数字をあげて、つぎのようにいっている。「キリスト教の勢力の盛んなる、十四年『時事小言』に、キリスト教の伝播は日本の国権を妨ぐ、と記した福沢諭吉をして、十七年には『時事新報』に、斯教は国家のため必要なり、と唱えしむるに至った。統計に徴すと、十一年には、教会四十四・信徒千六百十七人であるが、十五年には、教会九十三・信徒四千三百六十七人になり、ついに十八年になるや、教会百六十八・信徒一万一千人を数えるという好況であった。」「世は欧化主義が全盛であったから、当時のキリスト教は順風に帆を揚げて一瀉千里の勢いであった。国会開設運動が激烈になり、同運動のため石川島監獄につながれた志士の間には、キリスト教徒が少なからずいた。一方また廟堂の諸公にして、キリスト教を日本の国教としようと真面目に考えた人もいて、文部大臣森有礼は米国で洗礼を受けた人ゆえ、自らキリスト教の便宜を計った。二十二年二月十一日憲法が発布され、信教の自由を宣言し、キリスト教徒は名実ともに日陰の身でなく、大道を闊歩するに至った。したがってキリスト教会に出入したりパプテスマを領する者がはなはだ多く、十九年には教会百九十三・信徒一万三千人であったが、二十三年には教会三百・信徒三万四千人に増加した。信徒は真顔にて、日本が数年ならずしてキリスト教国に化すに違いない、と信じていた。」「当代の政治家は、条約改正問題を円滑に解決せんとて西洋人の歓心を求め、明治維新このかた西洋文化に眩惑した人々は西洋に心酔するほか他事なきがため、十九年頃より二十三年頃にかけて、欧化主義が盛んに流行した。この風潮に乗じて、キリスト教界は非常なる勢力を増加した。かつてスペンサア哲学を祖述してキリスト教を嘲笑した外山正一すら、『社会改良と耶蘇教との関係』なる書を公にして、キリスト教によらずんば社会改良は望むべからずと論じ、同書に・すなわち孔孟の教をして封建制度を助けしめたるごとく、ヤソ教をして今日の社会改良を助けしむるは、決して失策にあらざるなり。ヤソ教の輸入すべき理由は、西洋人と交際する必要上のみにあらず、音楽の進歩のため、同情発達同心協力のため、男女交際のためなり……社会改良はかる者は、舞踏だの園遊会だの区々たる方便のみを用うべきにあらず。西洋風俗に恋々としてこれにならわんことを欲しながら、最も親密の関係ある宗教を採用することを務めざるの有志輩は見識なき者か、また勇気なきものか。二者その一たるのそしりを免るることあたわざるなり・と結論した。外務大臣井上馨は条約改正を遂行せんとて、宣教師や牧師を招待し、部下を教会に出入せしめて、ひそかにキリスト教徒の歓心を迎えた。二十年に徳富猪一郎が創刊した『国民之友』や巌本善治が主幹した『女学雑誌』が思想界を風靡した原因は、いずれも進歩主義とキリスト教趣味とを混じたからである。」ここにはキリスト教の降盛が、政治、世論、信者や教会の統計などで語られていて、仏教界とはまさに対比的に両極の状態にあったことが分かる。

 他の一面からみれば、日本仏教が「宗門改制度」によって、仏教が思想統制の役割を果たし、僧侶が徳川権力の特高警察的役割を担ってきたことへの大衆の反発があり、また出家仏教として俗人と僧侶との間に行や教学の上での断絶があったことも、仏教界の沈滞とこれへの対抗としてのキリスト教界の隆盛があったと思われる。とくに幕藩体制下において僧侶が右の二重の意味で特権階級化していたことは、来世願いの葬式儀礼と祖先祭祀との二面でしか接触をもっていなかった当時の人々に、宗教の教義上での問題からは遠ざからせてしまっていたし、国家の政策と相まって、仏教の影響力は急速に喪失していったと考えられる。したがって、近代化にともなう新しい価値体系としての思想が、キリスト教の形でヨーロッパの文物・制度と共に、カルチャーショックを与えながら入ってくると、仏教は対抗してこれに応えることはほとんどできない状況であったことは、上述引用の通りである。ここに井上円了がキリスト教を背景として成立してきたヨーロッパの哲学を武器として「破邪顕正」を展開したことの思想史的役割があったと考えられる。

 

   真理金針

 井上円了が『明教新誌』に連載をはじめたのは、明治十七年十月二十四日号で「ヤソ教の畏るべきゆえんを論ず」と題し、井上甫水の号を使っている。十月三十日号では「ヤソ教を排するは理論にあるか」と題し、十一月六日号からは「余が疑団いずれの日にか解けん ヤソ教を排するは理論にあるか」と変えて、この二つの題を時により変えて使っている。翌十八年七月三十日にこれを終って、十九年一月六日から「ヤソ教を排するは実際にあるか」を六月三十日まで、四十回に分けて掲載している。そのはじまりは同十九年七月ではないかと推定されるが、現在分かっているところでは八月四日に第三回の「仏教は知力情感両全の宗教なるゆえんを論ず」をはじめとして、十月三十日の第二十八回をもって完了している。「ヤソ教を排するは理論にあるか」を十八年十一月に『破邪新論』という題名の単行本で刊行し、二十年十二月に『真理金針 初編』と改題刊行している。「ヤソ教を排するは実際にあるか」の連載は、二十年十一月に『真理金針 続編』として刊行され、「仏教は知力情感両全の宗教なるゆえんを論ず」は翌二十年一月に『真理金針 続々編』と題され、出版された。

 この題の「金針」をどのように読むのかについて、この本の編集委員会には、二つの見解があった。その一つは「きんしん」という漢文読みで、他の一つは「こんしん」という仏教用語としての読み方であった。「きんしん」は「秘法を伝授する」という意味で、「こんしん」は曼陀羅の胎蔵界第十虚空蔵院二十八尊の一つ金剛針菩薩を指すということなので、ここでは単純に「きんしん」と読むことにした。なお、前述の増谷文雄は「きんしん」と、池田英俊は「こんしん」とルビをつけていて、このいずれにも「金針」の説明はなく、他の論評のすべてについて、「金針」の読み方も説明も書かれていなかった。

 この当時は活字本の仏教書は少なかったらしく、禿氏祐祥は「明治仏教と出版事業」(『現代仏教』一〇五号所収)において、特に装丁の新しさも加わった出版について、つぎのように述べている。「時代は少々降るが、明治十六年十二月出版の十善法語は洋紙刷洋装本で異彩を放っている。表紙はボール紙入、背は黒布であって、この種の装丁は明治十三年出版の橘顕三訳述春風情話に見るところであるが、仏教方面の出版としては珍らしい。井上円了の破邪新論(明治十八年)や真理金針(同十九年)なども同様の装丁である。」「この時代の出版物で特色あるものを少々拾い出してみよう」と前提した上で、明治十四年から明治二十三年までの間に刊行された仏教書を掲げ、「以上の書目を一覧して仏教の出版物が二十年前後から大いに面目を改めてきたことを知り得るのである。それから前田慧雲、織田得能、加藤熊一郎、清沢満之などの著書が出版されて世人の注意するところとなったとはいえ、井上円了はやはり著書の多い点で、また議論が斬新な点で人気を集めていた。」と述べている。

 また、明治十四年の藤島了穏著『耶蘇教の無道理』を例にあげて、「今日残っているのを較べて見ると活字の組方がいろいろになっている。紙型を利用しない時代にはこういう場合に幾回も組直したのである。」といっているが、『真理金針』についてもこの例に該当する点があるばかりでなく、印刷技術上の問題もあったのではないかと思われるつぎのような特長がある。その第一は句読点のないことである。全文にわたって詠嘆調の修飾語や対句的な表現があって、しかも句読点がないので、現代表記化には二度三度にわたる全巻的検討が必要であった。第二は同じ行の中にでてくる同一語であって濁点のあるものとないものとが無原則に出てくることである。第三は動詞や形容詞、副詞の送りがなが同一行の同一語でちがう点である。たとえば「何の」とあるのを、「なんの」と読むのか「いずれの」と読むのかは、前後の文章から判断できない場合があり、その他にもこのような例は少なくなかったが、判断に苦しむ場合もあった。これらはいずれも、行の最下端に一語がまとまって、二行にわたらないように配慮したからではないかと推測される。読みとる上で意味上のちがいが出ないような簡単な問題、たとえば同じかな文字が一方で変体がなで他方が普通のかなという活字の使い方も少なくなかった。これらはすべて『仏教活論序論』にも適用される条件であるが、『序論』の方に変体がなが少なく、また組み方のせいか、読みやすいという発展的なちがいがみられる。

 『真理金針』の内容および思想史的意義については、本選集第二巻の「解題」において、小林忠秀が詳論されているので、ここでは省くことにしたい。

 

   仏教活論序論

 「仏教は知力情感両全の宗教なるゆえんを論ず」(『明教新誌』)の連載が明治十九年十月三十日号の第二十八回で終わって、単行本にまとめて発行したのが『真理金針 続々編』(翌年一月十四日)で、翌月の二月(日未詳)の『仏教活論序論』の後半にはこの続々編の後半がそのままに近い形で再録されている。そして、翌二十一年二月に改訂版が刊行された。この『序論』は、『仏教活論』四部作の序に当たるもので、本論第一編『破邪活論』(明治二十年十一月)、第二編『顕正活論』(明治二十三年九月)、第三編『護法活論』(『活仏教』名で出版)(大正一年九月)がこれに続いている。この本は、これまでの論争にあったように、仏教界に勇気を与え、立ち直りのきっかけをつくったといわれている点と、「憂国の情」があふれた文章と「護国愛理」ということばとに表わされた時代感覚との二点で一世を風靡した本である。

 冒頭の文章が「人だれか生まれて国家を思わざるものあらんや。人だれか学んで真理を愛せざるものあらんや。余や鄙賎に生まれ」云々からはじまっているように、この本を書くに至るまでの自分の思想遍歴を語り、病気になってしまったほどに仏教界の不甲斐なさを語るなどしながら、その当時の国家的危機とそこからの脱出における精神性の重要さを開陳している。現在考えられる学術書とは異なっていて、しかもそこには、当時としては新しい学説に基づくキリスト教批判がこれにからんで展開されている。

 「護国愛理」ということばは、本文に書かれている通りであるが、現在では「天皇主義者」「右翼」などというレッテルはりの要因となった井上円了の創造したことばなので、レッテルはりの当否はいうまでもないことながら、ここにこめられている時代思潮をみておく必要があろう。円了は明治十八年を「仏教改良の紀年とす」といい、はじめは一つの新興宗教を起こす気であったが、仏教の「説の真なるを知り」、「仏教を改良して、これを開明世界の宗教となさん」と決定した。ところが「論者ありて、西洋人は仏教を奉ずる国を野蛮国とし、これを信ずる人民を下等人種とするをもって、万国交際上西洋人と同等の交誼を開かんと欲せばヤソ教を奉ぜざるべからずという。」日本人がキリスト教信者となれば「国憲の拡張を助け、条約改正の目的を達する方便」となるという。「去る十四年国会開設の詔ひとたび発してより上下競うて泰西の学を講じ、政法の理を究めて立憲の政度ようやく全し。」「ああ、明治二十三年も近きにあり。」しかし僧侶は昔のまま無気力で時代の変化に対応できないでいると嘆き、さらに「東洋人のさきに立ちて、国家の独立を世界に公布せんことを熱望するものなり」と述べて、実質的な独立国としての日本を、東洋の他の国に示したいと述べて現状に対する危機意識を明らかにしている。

 この当時は政府側の主導権によって、鹿鳴館時代という一種の「アナクロニズム」が流行し、キリスト教がこれに便乗する形をとっていたことに対し、「政教社」の国粋主義が反体制運動をはじめ、「主体性」の確立を主張し、井上円了も創設時にはこれに加わっている。井上円了が「一国の独立するゆえんのものなんぞや。その国固有の政治、宗教、人種、交情、言語、文章、学問、技法、風俗、習慣の存するによるや明らかなり」といっているのは、この間の事情を反映する思想が表明されているものとみられる。『序論』が明治二十年に仏教界はもちろん一般知識人にも評価されたのは、このような時代の具体的な危機意識に対応した記述があったからで、逆にいえば、あまりにも現実的課題が表明されていたために、村上専精がいうように、日清戦争が終了したころになると、過去の新聞をみているような気がするという流行性をもって読まれなくなったのである。

 ところで仏教の真理性についてはどうであろうか。これまでの論争は宗教を哲学で評価することの誤りという指摘はたしかに妥当するものであろう。しかし、「仏教は聖道浄土の二門ありて、聖道門は哲学の宗教なり、浄土門は想像の宗教なり」と分けた「知力の宗教」と「情感の宗教」の二門があるために、あらゆる階層の人に対応できて救われるといっている。そして西洋哲学との照応は、西洋哲学には唯物、唯心、唯理があって、それは哲学史に対応していると説明し、三つは別々であるが、仏教ではこれらすべてが一つで、「中道宗と名付けて唯物唯心を合したる唯理論」すなわち華厳天台両宗のいうところの「真如の一理」であり、「大乗の奥義」であるという。そして、「上来は主として仏教中哲学に属する部分すなわち純正哲学に関する部分のみを論ぜしをもって、これよりその理を宗教の上に応用するゆえん、および仏教の目的を略言するを必要なりとす。およそ仏教の目的は転迷開悟とも断障得果ともいうて、その要安心の二字に外ならず」「禍害を去りて幸福を求むるにあるゆえんを知るべし」といっている。つまり、井上円了は、『序論』における論述の重点を西洋哲学からみた真理が仏教にあると証明することに置いたのであって、それがすべてだと断定しているのではない。

 当時の仏教界は、出家仏教として宗派別に「行」を経た僧侶と一般大衆との間に超えられない一線をひいて特殊化し、在家仏教としての真宗系を愚夫愚婦の宗教として軽蔑し差別していた。そして宗派別に僧という専門家にのみ仏教が論じられ、儀礼が神秘化されて伝承されていたのに対して、思想界・宗教界の人々や知識人が宗派ではなくて仏教一般として教学を論じることができるように道を開いた業績は大きかったと考えられる。それは、『序論』の本文にあるように、宗派別に特徴をつかみながら、それらの全体を仏教として扱うことによってキリスト教との比較を行ったために、また仏教教学に入りやすい道をひらいたからであり、近代思想との比較を可能にしたからである。

 なお最後に、初版本と一年後の「改訂版」との間の改訂部分について付記しておきたい。改訂版には、百字以上にわたる削除が六カ所にわたってあって、その内容は、ヤソ教に対する「非真理」という激しい表現部分、ヤソ教は西洋で利益を与えてもアメリカに渡ると害ありと記した部分、激しい僧侶批判の部分、科学的説明に関する部分二カ所、極端な比喩を用いた部分等である。つぎに長文の加筆部分は三カ所で、国家の独立を保つ条件を述べた部分、独立を失うと指摘した部分、涅槃を真如の理体として進化論によって説明しようとした部分である。この他にも小さい修正や加筆はかなりの部分にあって、この時期はつぎつぎに原稿を書いて別の本や論文を発表しているので、『序論』に細心の注意を払っていたことがうかがわれる。