3.哲窓茶話

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哲窓茶話

     序   言

 近時の学生の弊として、学校といえば、単に知識を授くる所と思い、学は月謝で買うもののごとく考えているらしいが、学校は決してさようなものではない。学校とは、人の人たる道を学ぶ所で、学問とは、人の人たる道を求めることである。すなわちいわゆる朝に道を聞かば、夕に死すとも可なりという心得がなくてはならぬ。しかるに今の学生には、その心得がないために、学校においても、勢い厳重なる規則を設けて、生徒を取り締まらなければならぬこととなり、規則の束縛を受くるが故に、生徒の方では、わが意に背きながらも、規則の網をくぐって、自由の巷に遊ぼうとのみ工夫するようになる。知識の有無はともかくとして、道徳品行などのことは、実に学校では見ることのできない有様である。そこで余の教育法は、特に有形の知識を授くる外に、無形の道徳をも養成しなくてはならぬという主意で、特に寄宿舎に重きを置き、それによって平素の主張を貫徹せんことをつとめ、したがって寄宿舎には、細密なる規則の網を設けず、かえって寛大なる徳門を開き、これを出入りすることは、学生の意志の制裁に任すこととしたのである。これにおいてか、朝夕、時のよろしきを計って、茶会というものを開き、道徳もしくは知識に関する談話をなし、あるいは遊戯し、あるいは談笑し、愉快にしてかつ親密なる学校生活の間に、学生の徳性を涵養し、実学の練習にも資することとした。本書はすなわちその茶会における談話を、佐村八郎氏が筆記せられたものである。近頃これを上梓せんとて、余に序言をもとめられしにより、その請に応じて一言を題するのである。

  大正五年四月                    演述者誌  

     知育のみに偏すべからず

 わが国の教育制度は、明治維新以来ようやくに普及して来て、今日は日本国中至る所として校舎の結構を見ない所なく、またその設備の整頓を聞かざる所なきに至り、したがって町村に不学の家なく、家庭に無学の子弟なしといってもよろしいほどである。ここにおいて人知はとみに進み、制度文物の改良より、農業にまれ、工業にまれ、商にまれ、その他諸般の芸業にまれ、歳月と共に発達して、山村も僻地も異口同音に文明開化を唱うるようになったのは、国家のため何人も慶賀するところである。しかれども事物の一得一失は、定まれる数であって、人力をもって容易にこれをいかんともなすべからざるものが、これを一人の心性に例えてみれば、情感の強きものは知力意志共に弱く、知力の盛んなるものは、情感も意志共に衰え、三の者が同時にその力をたくましうすることのできないようなものである。今や眼を開いてわが国の社会状態を観察するに、人知の発達と共に人情は漸を追うて薄らぎ、これと共に道徳はまさに地を掃わんとするは、国家のために嘆ずべきの至りではないか。翻って欧米各国の状態を見るに、その文明を唱え富強を称するものは、ひとり制度文物の改良と、農商工芸の発達整頓とのみによるのではない。必ず教育宗教の力をもって、その国民の道徳品性を高め、各個の独立と、社会相愛の精神との,確固として抜くべからざるによらないものはないのである。わが国明治の維新はおおむね政治上の改正にして、未だ道徳品性の改良に至らず。明治二十三年十月三十日、教育勅語の煥発ありて以来、臣民一般に国民道徳の標準を得たるものなるが、その中には「わが臣民よく忠によく孝に億兆心を一にし、世々その美をなせるはこれわが国体の精華にして、教育の淵源また実にここに存す」とあり。これによるもこれ決して知育のみに偏するを得ず、教育の任にあるものはいうまでもなく、青年子弟にして、いやしくも志あるものは特に反省留意すべきところである。

     学生の境界

 人間一生のうちにおいて、その愉快なるときは、学生時代に及ぶものはない。これ青年にとりては、身体強健、心神爽快の時代であるからである。青年の前途はなお未だ定まらず、他日あるいは公侯たらんか、将相たらんか、はた紳士富豪たらんか、その位置はあらかじめ期することはできない。されば希望も高く、抱負も多く、したがって愉快もまた大なり。妻があるのでなく、子があるのでなく、家政に関せず、職業に従わず、なにごとをなすにもなんらの妨害なく係累なく、ことに当たりてすこしも羈絆を受けず、束縛を被らず、言語動作共にその意のままである。したがって思うこと、なすこと、見ること、聞くこと、食うこと、衣ること、ことごとく爽快ならざることなく、垢面蓬頭にして貴顕の門も叩くべくもとがむるものなく、汚衣破帽にして縉神の人に接するもすこしも怪しむものはない。非人や乞食と交わるも、またあえて恥辱となすことなく、学生中の幸福愉快なることは、とても言語筆紙をもって形容し尽くすことはできないのである。もしもなお年少なくして、少年の時代ならんか、前途はいよいよ長しといえども、未だ知力意志の活動作用に乏しければ、すべて愉快を感ずることも少なく、さればとてまた数年を過ぐして壮年の時代たらんか。家を持ち妻子を有し、家政を執り、職務を治め、倹約して、仁義もし、ときにあるいは心にもなき追従をもし、意を曲げて人の鼻息をも伺わざるを得ないこともあるのである。これを思えば青年の時代こそ実に人間一生の春というべく、これを一年に例うれば百花爛漫、奇香馥郁として、至る所春風の駘蕩たる覚ゆるがごとし。しかも前にも述ぶるがごとく、青年学生の時代は比較的無責任のものであれば、したがって東西にも屈曲しやすく、南北にも漂流しやすく、一朝不慮の嵐にかかりたるときは、畢生なすなきの枯木となり、終身絶海の漂浪者とならざるべからざることなきにもあらざれば、その危険なることもまた思わねばならない。要するに終身の幸不幸は、全く人生の基礎を作るべき二十歳前後から二十七、八歳に至るまでにある。すなわち青年学生中にあるものであるから、努めなければならず、また慎まなければならない。

     わが国の山水

 日本の山水は、その風景の明媚なる、その韻致の雅趣ある、筆にもこれを写すことはできず、口にもこれを言うことはできない。仰いで富士の岳を見れば、聳然として清高無垢なる気韻を示し、俯して日本三景を望めば、艶然として優麗なる雅致をあらわしている。その他山となく川となく、一として明媚と雅趣のないものはない。外国人がわが国の自然の美を称して天下無比となすもの、また実に偶然ではないのである。私がかつて海外諸国に漫遊して、帰航するとき、ドイツ人の某氏と同船したが、船のようやくわが領域に入らんとするや、某氏は頻りにわが国の気候が中和であって、水の風光の明媚なことを称し、沿岸なる港湾島嶼を見るに至りては、羨慕嘆賞してやまず、神志恍惚として眠食も忘るるもののごとくであった。その神戸に着するや、日本料理店に入りこれを饗するにあたり、庭園の築造をもって、いよいよ気韻の高妙に驚きしが、実にさもあるべきことである。西洋にありては、山にまれ、川にまれ、ロッキー山、アルプス山のごとく、ナイル川は、ミシシッピ川のごとく、その山はまことに高く、その流れはまことに長いけれども、更に景色として眼を楽しましむべき山水なく、また寒暑の気候が常にその中を得ず、したがって人畜の強弱、草木の栄枯、特にその常を得ず、春秋の好時節も、山水の風光も、ことごとくみな平凡ならざるはない。吾人は幸いに天与特に厚かったのであるか、つとにその風光明媚の国に生まれ、この雅致ある山光水色の中に成長するのは、あに天幸天福の莫大なるものではなかろうか。しかるに吾人にして、もしわが国家としてこれを楽しむことを知らず、これを愛することを知らざるときは、和歌の浦も松島も、富士も吉野も、ただ外国の一分地たるとなんらの違ったところはないのである。金銭その用を得ざれば塵芥にひとしというもまた同一の道理であろう。

     手帳学問

 およそ天地の間の森羅万象は、一として人を利し、人を教えざるものはない。されば青年学生はいうも更なり。何人も旅行をなし、あるいは野外運動をなさんとするときは、必ず手帳を携え、見るがまにまに聞くがまにまに、これを筆記しておいて記憶に供えなければならぬ。その記録が積もって厚くなったときには、ついに一の大先生をも作り出したのと同じことである。私はこれを称して手帳学問と名付けるのである。およそ現代の学問と称するものは、一方には演繹的なる理論につきてこれを講じ、一方には帰納的なる経験によりてこれを究むるをもって通則としているけれども、昔はこれと違っていて、単に書を読みこれを講じ、いたずらに字句をせんさくするのをもって学問とし、ただ多くの書籍をさえ読めば、いかなることをもなし得べく、いかなる道理をも解し得べしとなし、しかして書籍の選択のごときは、すこしも気付かないほどであった。スペンサー氏がいっていることがある。野蛮人の食物は、鳥獣の餌を食らうがごとく、善いものも悪いものも殻も糟も、これをあわせて食い、ただ満腹さえすれば可なりとのみ思うていたのであるが、だんだん世の開化するに伴って、食物の養分を選びて食らうの有様となった。これによって後世開け行くに従いて、人の胃腸がだんだん狭小になるのもまた当然のことである。書物を読むのもまたその通りである。昔は玉と石とが混淆して、これを選択することなく、ただ多く読み多く講ずるのをもって目的としていたのであるけれども、今はようよう開化に趣き、社会の煩雑と共に、無用の文や、不急の学は、これを講ずるのいとまがない。のみならず、有用のものの中でも特に適切なるものを選びて、これを研究するときとなったと。しかしながら、吾人の滋養となるものは、ひとり選択したる書籍のみではない。ニュートンがリンゴの墜下するのを見て物の重力を発見し、ダーウィンが人為によりて鳥獣の変化と、植物の変化を企つるを見て、自然淘汰の理を発見したるがごとく、書物の外において、また滋養になるべき食を求めねばならない。これは私のさきにいわゆる外界の経験をいうのである。これをあつめこれを記憶するには、必ずこれを記録すべき手帳を供うることが肝要である。手帳の効用もまた大なりというべきである。

     不便を知るは新発明の基なり

 西洋人の説にいえることがある。世間ありとあらゆる万物は、一つとして不用のものあることなしと。ただ人々の一方に不便を感ずることなきがゆえ、用あるものも不用として放棄せられているだけのことである。およそ事物の新発明の起こるのは、旧物の不便を感じてその不用なるものと知り、これを便利有用の所に移すの結果に外ならぬ。かの汽船の発明は、帆船櫓船に不便を感ずるところから起こり、汽車の発明は、人車馬車の不便から起こり、石油灯の不便を感じたる結果としてガス灯電気灯を工夫し、郵便の不便を感じたる影響として電信を工夫し、その電信すらもまた不便なるがためについに電話器、蓄音器等の発明となった。これらはみな事物の不便を感じたところから起こったのである。しかしてその新発明の品が世に現るるや、人は始めて郵便よりは電信、馬車よりは汽車、帆船よりは汽船の方が、これを比較してよほど便利が広大であることを知るのは、あたかも人が衣を着て暖かさを感じ、食を食らいてその味を感ずるのと同一である。しかるに人々は、それを着ざるれば凍え、それを食らわざれば飢えるということは、同じくこれを前に感ずることがあっても新発明品の出ない前において、事物の不便を感じないのはいかなるわけであろうか。けだし注意の足らざるがためである。ことばを換えてこれをいわば、人々は従来のものに満足して、その不自由を感じないからであろう。今より十数年前、私のかつて欧米を漫遊したるとき、イギリス、スコットランドよりエジンバラに達するの汽車は、十二時間を要することになっていたが、これは毎停車場において汽缶に水を汲み入るるがため、多くの時を費やすによるものなれば、水は常に軌道のそばなる高所の水槽に貯え置き、ゆくゆく水を汲み取るの法を工夫して取るのだということを聞いた。また同時にアメリカにおいては、更に汽車の速力を増さんとし、その両輪を一輪とするの企てもあったのである。しかし一輪にしては転倒の恐れがあれば、これを防ぐために、上に抑えを置き、あたかも敷居と鴨居との間に汽車を走らすようなことをもっぱら工夫中なりしというを聞いた。このことは今日に至るまで未だ発明されないが、要するに西洋人の忍耐熱心は実に驚くべきものである。これもまた汽車につきてその不便を感じたる結果ではなかろうか。

     人生の目的

 人のこの世にあるのは、おのおのその目的がなくてはならない。もし人にして更になんらの目的もないとせんか、その生存すべき理由が分からないのである。すでに生存する以上は、必ず一の目的なかるべからずである。されば知識も身体も、全くこの目的を達するための道具であって、法律も宗教もこの目的を達するの方便たるに過ぎないのである。しかしてこの目的はその種類が一様ではないけれども、要するに幸福の二字に外ならぬであろう。されどその幸福は仁のために身を殺して幸福とするものもあるべく。道のために困厄して幸福とするものもあるべく。あるいは百万の剣芒に当たるをもって幸福とするものもあるべけれども、通常人の幸福として希望するところのものは、愉快と強健と長寿との三つであって、憂欝と病苦と短命とは、何人も好まぬところであろう。しかしてその長寿は強健よりきたり、愉快もまた強健より得られるものであれば、人は体育を重んじなくてはならない。体育がすでになるとはいえども、知徳がこれに伴うて備わらざるときは、禽獣も同様であれば、体育と徳育と知育との三つのものは同時にこれを発達せしめざるべからざるものである。されば数千年の前において孔子の「身体髪膚、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり、身を立て道を行い、名を後世に揚げて、もって父母の名をあらわすは、孝の終わりである」といわれているが、業にすでに徳育、知育、体育の三つを兼ねたるものではなかろうか。古今その目的を同じうせること、ほとんど符節を合わすがごときものがある。

     目的を達するの方便

 人にはすでに目的があるとすれば、これを達せんには、必ず適当なる方便を選んで、秩序的にその域に進むことを考えなくてはならない。例えば旅行をするがごときものである。飢ゆれば食らい、疲るれば休らい、日が暮るれば宿を取らなくてはならない。もしもこれに反して、一足飛びに目的の終点にばかり着目して、更にその他を顧みることなく、軽挙妄進するときには、到底その目的の地に達することあたわざるのみではない。ついには中途にしてことを廃し、かえって後悔慚愧に堪えざるものあるに至るであろう。かの臨終の間際に至って己がこれまでの所為を悔い、死後の汚名が気に懸かって、安心することを得ず、恐懼戦慄、号泣しつつ死につくもののごときは、畢竟みなその方便たる秩序を失いしが故である。決してその人の目的ではない。故に人たるものは、すべからく平生の行為を慎み、業務に励んで、いつ死んでも仰いでは天に恥じず、うつぶしては地に恥じず、また人にも恥じず、朝に道を聞かば、夕べに死んでも可なりといえるがごとく、泰然として瞑目するように、平生から確固たる目的を定めて、これに適当なる方便を選ぶことが肝要である。

     花より団子

 東京の人は、陽春駘蕩のころとなれば、老若男女、いずれもおのおのさきを競いて、墨堤の花見に杖をひかざるものはない。これはほかでもない、年中塵芥の中に疲労している身心を、花の間の新鮮なる空気にさらし、爛漫紅白の美に慰め、その爽快と強健とを得んがためであろう。しかるにある一部の人に至りては、花よりも団子といえる諺を直ちに実行し、まず団子屋に入り集い、花を見て積日の憂欝を散ぜんとするよりも、かえって団子を食うて多日の餓をいやさんとするもののごとき有様で、ついには胃病のもとを作るに至るものがある。これは決して花見の目的ではなかろう。全くその目的を誤りたるものといわねばならぬ。東都に遊学せる学生は、つとに地方なる閑静の地に生まれ、新鮮清澄なる空気中に長じて、神身常に爽健であれば、気慨勃々として自ら奮い、男子志を立てて郷関を出づ、業もし成らずんば死すとも帰らずと大唱しつつ、門出せる当初は、いかにも勇ましく雄壮なる男子として、多くの人々より嘱望せらるることなれども、これらの遊子がはるばる上りきたれるこの地は、人家稠密して紅塵万丈の有様で、空気の常に腐敗していることはまた地方の比ではない。いわんや寄宿舎等におりて、学窓の下にて日夕苦学するにおいてをや。これ折角遠大なる希望を抱き、隣里郷党より多くの望みを属せられながら、肺病、胃病等にかかり、業未だ半ばならざるに、顔色憔悴して不治の病を得て帰るの不幸者あるゆえんである。これあにその人の目的ならむや、本意ならんや。身体の壮健なるはひとり学をなすの重要条件なるのみならず、君に忠を尽くして、親に孝を尽くさんとするもの、これを人情に訴うるも、これを事物に訴うるも、一として重要なる原動力たらざるはない。さればこそシナ人も古き昔に健康は幸福の母といい、西洋人も活発なる精神は、健康の身体に宿るといいしゆえんである。これ私が常に学生諸君に休暇のとき、野外運動を促して、積日の欝を散じ、苦学の疲労を医し、神身を強健にせんことを切望しておかざるゆえんである。そもそも運動の効用は、食物の消化を助け、血液の循環をよくし、精神を活発にし、気風を爽快にし、勇気勃々として、後日の勉強を助くるために、大なる効力を有するものである。されば学生たるものは、これが目的を誤ってはならぬ。

     儒学を修めざるべからず

 それ儒学は、千数百年の前、わが国に伝わってからこのかた日本の国と共に成長し、日本の国と共に発達し、今では一種の国学となり、吾人が身を修め家をととのうることから、国を治め、天下を平らかにするに至るまでの骨髄となっている。故に人心を維持し、国体を保存するには、一日も欠くべからざるものである。しかるに今の学者は、おおむねいえらく、漢学は古の学問である、儒学は世渡りに迂闊なる学問である、今の人間の勉強すべき学問ではない、文明の男子の学ぶべき学問ではない、いやしくも学に志あるものは西洋新奇の実用科学に及ぶものはないと。ああ、その考えの愚かなるはもとよりこれを哀れむべきであるが、またもってこの学の衰微を思うべきである。各人にして果たしてこのごとくならば、各自の人心を維持し、また一国の独立を保存することは、思いもよらないのである。嘆かわしいことである。学者なるものはよろしくここに注意し、この文を講じ、この学を興し、東洋の哲理をして発揮せしめなくてはならない。これひとり儒学の忠臣たるのみではない。また実にわが国の功臣というべきである。

     哲学祭の起因

 いにしえから釈奠といい、法会ととなえて、儒者は孔子を祭り、仏者は釈迦を祭るは、これみな追遠の情をのべ、慕徳の意を現すために行うものである。しかるに千古の哲学者にして、未だこれを祭るもののないのは、文明の一大欠点である。ひとり哲学祭のない道理はないのである。私は先年すでにこの祭祀を起こし、もって年々いささか追遠供養をなしきたっている。これはひとり哲学者その人を祭るのみにあらずして、また哲学そのものを祭るゆえんである。しかして私は哲学祭の戸主となすべき者を定めて、東洋哲学者と西洋哲学者との二つに大別し、東洋にありては、更にこれをインドとシナとに分かち、釈迦と孔子との二聖人をもって、あらゆる哲学者を代表せしめ、西洋にありては、これを古代と近世とに分かち、ソクラテス、カントの二聖人をもってこれを代表せしめるのである。今その年代、年齢等を考うるに、釈迦はヤソ紀元前一〇二七年に生まれ、九四九年に死す、その寿七十八(日本算にすれば一を加う、以下三聖の寿また同じ)、さすれば大正五年をさること二千八百六十六年。孔子は紀元前五五一年に生まれ、四七九年に死す、その寿七十二、大正五年をさること二千三百九十六年。ソクラテスは紀元前四六九年に生まれ、三九九年に死す、その寿七十、大正五年をさること二千三百十六年。カントはヤソ紀元後一七二四年に生まれ、一八〇四年に死す、その寿八十、大正五年をさることわずかに百十四年である。これによってこれをみるに、紀元前六年は四聖の平均紀元一年にして、年齢を同一と仮定して計算すれば三百日となる。それであるから、一年のうちで三百日目、すなわち十月二十七日をもってこの祭式を行うことにした。

     東洋のカントは果たしてだれか

 哲学者を選ぶには、あるいは古代にあってはアリストテレス氏をとり、あるいは近世にあってはスペンサー氏をとるものもあるけれど、私は特に孔子、釈迦、ソクラテス、カントの四聖を選ぶのである。四聖はいずれも哲学の中間に起こりて、前歴史を統一し、また後歴史を開成したるものであるからして、中興の主とすべきである。今この四聖を比較してみると、はなはだ相似たるものがある。すなわち釈迦の門派には達識ある馬鳴、竜樹があり、孔子の門派には、大賢孟子・曾子があって、その孟子は竜樹に比すべく、曾子は馬鳴に比ぶべく、またソクラテスの門派にはアリストテレス、プラトンがあり、近世カントの門派にはフィヒテ、ヘーゲルがあって、いずれも曾子、孟子、馬鳴、竜樹に比すべく、霊心敏腕なるものである。吾人は右の四聖の祭祀を興し、この儀式を挙ぐるに当たり、これを記念として、朝夕その情を抱き、この学を研究し、その一部一部を補いつつ、もって後の学者を待たんとするのである。西洋哲学は、今日大いに発達しているけれども、なお新説の起こらんとするものがある。しかるに東洋にありては、未だ発達せざるものの多きにかかわらず、更にこれを興そうとするものがない。こんなことではならぬ。更に進んで東西両哲学を合体折衷するものがなくてはならぬ。思うにこの学者の出るや、位置といい、時期といい、日本の現今以後をおいて他に求むべからざるものであれば、吾人この学を研究するものは、大いに努めなくてはならないのである。

     唯我独尊は説法の根基なり

 釈迦は今からほとんど三千年前、インドにおいて、時の大王浄梵〔飯〕王の夫人、摩耶の腹に出でたるものにて、その生まれ出づるや否や、現に行くこと七歩するに、光明顕耀して、あまねく十方を照らす、四顧し終わりてひとり天上を指し、言を発して、天上天下唯我独尊といえりと伝えられている。ああ、誠に絶世の英傑、人天の師たることは、すでにこの一語のうちにみえている。むべなるかな、やや長ずるに及んで百味の飲食妻子眷属はいうに及ばず、万乗の王位をすら捨ててしまって、跡を檀特の深山に潜め、難行苦行十二年を重ね(十九にて出家し、三十にして成道せり)、出でて小乗、大乗の教えを説き、一切の衆生済度に従事せられたことは。しかしてその法を説くや、徹頭徹尾、唯我独尊を根基としたるは、全くその自ら信ずるの深きによるとはいうものの、またその人が真に唯我独尊の人であって、自ら顧みて恥じるところなきによるのである。爾来何千年の後、何億の人をして傾羨せしめ、尊崇せしめたものは、けだし偶然ではないのである。吾人は口では釈迦も人なり、われも人なりとはいうものの、実はその万一にも及ばないのであって、吾人の口にはなんとしても、唯我独尊の語を発すべからざることを悟るであろう。しかるにややもすれば、わずかに理化の書をひもとき、この高大無辺の真理に向かって、批評を試みんとするものがある。浅薄愚痴の至りではなかろうか。そもそも理化の学は、有形世界の一部分を研究するものなれば、その分子元素に至れば、それでもはやとまりである。これを一歩進めて説かんには、ぜひとも仏法の真理、すなわち釈迦の哲学によらなければならぬ。ああ、実に釈迦は一大豪傑である、一大学者である、一大道徳家であるのに、今の釈迦を説くもの、釈迦の道を伝うるものは肝腎な釈迦の人物、釈迦の道徳真理をつまびらかにせず、ただ僧侶は念珠を持ち、法衣をつけ、経文を読誦する職人のごとく、はなはだしきはいたずらにお世辞の道具となりて、唯々諾々人にいれらんことのみを求め、人もまたそのお世辞の上手下手をもって、僧侶の価値を定めんとするもののごとき有様である。なんぞ唯我独尊のことばを省みて超然たらざるや。予輩はまことに慨嘆に堪えないことである。

     釈教をもって単に知力の宗教となすべからず

 釈迦は更にこの変化極まりないところの娑婆世界は、これを生死の苦海となし、難行苦行、実践躬行によりて涅槃、常往の彼岸に達することをもって目的となすのであるから、仏教家たるものは、よろしく精神をここに凝らし、心をここに注がねばならぬ。しかるに浅はかなる考えの世の人は、ユダヤ教、ヤソ教をもって、単に意力の宗教となし、釈教をもって単に知力の宗教とのみなすがごときは、その一を知って未だその二を知らざるものというべきである。深く意を注いで釈迦の一代を研究するに、その大意力、大知力、大勇力を兼備することを知る。さればこそこの大道徳、大宗教をも成就したるなれ。けだし仏教が知力に傾き、ヤソ教が意力に偏したるもののごときは、だんだんその時勢によりてしからざるを得ざるをもって、かくなったのである。未来の仏教は、また未来の時勢によりて活動しなくてはならない。

     利己利他教

 孔子は名を丘、その字は仲尼といって、魯の昌平郷の人である。その父母が尼丘山の神霊に祈って孔子を生んだ。故にその名をこれにとって丘と付けたのである。孔子は一世の豪傑であれば、ひとり学者、道徳家として知られたるのみならず、また政治家としても、宗教家としても、その時代に貴ばれたことは疑うことはできない。しかして孔子ののちに、荘子が出で、荀子が出で、また楊朱、墨翟の輩も出でて、おのおの一家の学識をたてたのではあるが、みな孔子の学の反動に過ぎない。もしも孔子がなかりしならば、それらの学の世に出でんことはおぼつかなかったのである。孔子の時世は、春秋戦国と称して恐ろしき戦乱殺戮の時代であったから、人々浅ましき利欲の巷に迷う者多きを見て、孔子は慨然として奮起し大いに仁義の大道を示し、身を殺して仁をなすとまでいうて、これを救わんとし、主として博愛を唱えられたのである。さればこれを他愛主義と認め、楊子はその自愛の説をもってこれに抗し、墨子はその兼愛の説を唱えて撃ちたれども、孔子自身は、決して利他に偏したるにあらず。自利と利他と、平等と差別とをもって道を立てたるものである。また孔子は、世人が理論にのみ偏したることを憂え、言に訥にして、行いに敏ならんことを欲すといい、またわれいうことなからんことを欲すなどというて、これを制したるも、孔子自身が理論に明らかであったことは、晩年喜んで読まれた易の、韋編三たび絶ちたるを見ても知ることができる。しかして孔子の学は、曾子、子思,孟子に伝わり、孟子に至りては孔子を賞賛して聖の時なるものなりといい、またよくいうて楊墨をふせぐものは聖人の徒なりなど、声をからして異端に当たり、大いに孔学を明らかにしたのである。のち唐宋の時代に至りて、この学ますます隆盛を究め、今日まで東洋の宗学として、特にわが国学として伝わりたるは、歴史上にまれ、実際上にまれ、ありがたきことといわねばならぬ。しかるに世人がただに孔子の書を誦するのみにて、自ら孔子の道を学びたりとなすがごときは、これ全く孔学の衰微といわざるを得ない。徳川の世、一時孔学は盛んなりしも、主として字句のせんさくにとどまり、これを実行に現すことを務むるものの少なかったことは、孔子を知るものの少ない証拠である。

     同権の裏には異権なかるべからず

 墨子の兼ね愛するという説は、人もわれも、人の子もわが子も、同じように愛するという、平等一方の説である。この説を誤解するときは、財産も共有にすべし、妻子も共有にすべしというとんでもないことに至り、夫婦は名分を定めず、子を育つるには政府の費用をもって育つるというに至るべく、これ全く社会主義の唱うるところと同様になる。近世フランスにおいては、この平等説が起こって、天下は一人の天下ではない、天下の天下であるとの主義をとりて、大革命を企てはなはだしきは、一酒店の亭主まで、殿内に進入して、天子に窮迫したることさえありて、大いに上下の権衡を乱した次第である。しかしこれは政府の権力があまりに強くして、人民を圧制し過ぎたるにより、その反動として起こったのである。さればこの平等説をもってすべてのことを貫徹せしめんとするのは、大なる誤りといわざるを得ない。なんとなれば、理論上平等はやや可なるに似てはおるけれども、実際上において大いに不可なるものがあるからである。すべてものは原因上よりみれば、平等であるけれど、結果上よりみれば差別であるからである。仮に全国中のものがことごとく平等同権の説を唱うるとせんか、屑屋も総理大臣たるべく、乞食も大蔵大臣たるべく、下婢も貴嬪、奴僕も大将たるべしというに至らん。かくのごときはこれ平等主義の誤解であって、もしもこれが実行されんか、その国の一大変たる、実に恐るべきものがあるであろう。よって平等同権を論ずるものは、その裏面に差別異権を相伴うて立てなければならない。墨子のわが父も人の父も同じく愛すべしというは、平等一方の説であって、孔子が平等の裏にも差別を供えて、親は同じく親であっても、人の親とわが親とは差別があって、同じでないとなせるにしかないのである。

     なんぞ皮相をもって人を評せん

 彫刻師を父とし、産婆を母とせる、ソクラテスは、その容貌は見苦しき方であって、頭の髪は少壮のときからはげ、突き出た眼、低い鼻、口は大きくして、唇は厚く、腹はもっとも肥満している。加うるに氏は性質素朴を好み、常にはだしで露頭であって、夏冬同一の着物を着し、実に見る影もない田舎翁の姿であったのである。しかれども氏が飲食を節制することと、運動をよくすることとは、今に至るまで、古代哲学の泰斗として、尊崇せらるるだけの哲学を完成するに堪うるだけの健康を保たしめたのである。また氏の道徳品行は、万世ののちにおいてとってもって模範となすべきものが多い。今の世の人には、人を評するのにその容貌の美醜、粧飾の善悪をもってして、その学業徳行を顧みざる者がある。なんぞソクラテスを見て慙死せないのであるか。

     文武の功は一のみ

 戦国騒乱のときにあたりて、有形上の軍事に力を尽くすのも、異説百端の中において、無形上の文事に心を尽くすのも、その理その功は同一である。学問はそのものが、もとより無形であるといえども、その世間人事に関するの大なることは、何人もすでに知るところである。さればかのナポレオンが有形の武略をもって欧州の大陸を一統したるも、カントがその無形の学問をもって、近世哲学を一統したるも、その功績は同じといわなければならぬ。故にナポレオンをもって一世の豪傑となさば、カントもまた一世の豪傑となさざるを得ないのである。西洋哲学は、カント以前にありては、あるいは唯物論を唱うるものがあるかと思えば、あるいは唯心論を唱うるものがあり、あるいはまた虚無論を唱うるものがあり、ほとんどその定まるところを知らなかったのであるが、カントはひとたび出でて、四方の異説を排除し、これ統合分解して、その長短を斟酌折衷し、そして純然たる一個の批判哲学を大成したのである。これを例えてみれば、一個の果物があって、人々これについてその一部分一部分を味わっておりしを、カントはたちまち鋭刀をもってこれを割き、もってその全体の真味を味わったというようなわけであるから、これを近世哲学史上の一大功績といわざるを得ないのである。のちの学者が、純正なる哲学の光を得て、その真理の道を照らし得るものは、全くカントの恩恵といわねばならぬ。その事業は決してナポレオンのにはないのである。

     わが国独立の学を起こすべし

 ここに私は丁重に孔子、釈迦、ソクラテス、カント、四聖の肖像を掲げ、四聖を祭るにあたりて、実に慙愧に堪えないものがある。それはなんであるか。その徳行に至りては、凡俗のわれわれがなんぞ聖人に比するを得ん、これは恥ずべくして恥ずべきことではない。その学またもとより大賢に比すべからず、これまた恥ずべくして恥ずべきにあらず。気風功業四聖に及ばざることは、人すでにこれを許している、これまた恥ずべきにあらず。しからば吾人の慙愧するところは果たしてなんであるか。曰く、吾人が四聖に恥ずるというのは、あえて吾人の恥をいうのではなくして、日本全国を代表してこれを恥ずるのである。思うに吾人の祭れる四聖は、みな遠き外国の人ばかりである。わが国人にしてこれと同じく祭るべきの人なきを恥ずるのである。わが国においても昔から学者がないのではないけれども、今これと同じく祭るべき人を得ないことは、実に慙愧せざるを得ないのである。わが国は昔から武をもってしては、神功皇后の三韓征伐における、北条時宗の元寇掃蕩における、豊臣秀吉の朝鮮征伐における等、実に枚挙にいとまあらざるものがあるけれども、文章をもって外人の耳目を刺衝したるものは、未だかつてないのである。あに恥ずべきことではなかろうか。しかれども時すでに去れり、既往はとがめたところで致し方がない。よろしく将来を待って、右四聖と同様、否これに勝るべき人の出できたらんことをこそ望むべきである。およそ古今の歴史を閲するに、始め盛んなるものは末に衰え、始め衰うるものの末に盛んになるは、勢いの免れざるもののごとし。外国にありても昔盛んであった、ギリシア、ローマが近世に至って衰え、これに代わって英独〔イギリス、ドイツ〕が現今に盛んなるがごとき、みなこの盛衰の理に基づくものである。わが国は古来文事大いに劣っていて、かつて盛んにして、外国まで響きたることなければ、向後において大学者、大発明家の起こるべきは、天運循環の規則である。吾人は誠意専心この道の輔翼となりて、これが素地を作らなければならないのである。思うに英独諸国の世界に重きをなすものはひとり商工のみにあらず、また金力、兵力のみに非ず、イギリス風、ドイツ風と称する一種の学風をもって重きをなせるものである。わが日本にありても、他日大いに鳴らんとするには、決して商工農のみあらず、理学、哲学共に日本風を組織しもって鳴らざるべからざるのである。従来のごとく、西洋の学問を修めるばかりをもって目的とするがごときことでなく、将来はよろしくわが国独立の学問を起こし、吾人が今日この四聖を祭るがごとく、西洋の各国において、東洋なるわが国人を戸主となして、わが国学を羨慕せしむるようになることを務めなければならない。わが日本が小国をもって大東洋の表に屹立せんことは、あたかも非常非凡なる小英国が、欧州大陸の権力を占めたるがごとくならなければならぬのである。

     四聖を祭る文

 後学円了ら謹んで四聖の尊像を講堂に掲げ、『大学』『中庸』『論語』『易経』『法華経』『浄土三部経』『ソクラテス伝記』『純理批判哲学』各一部をその前に供し、仰いで尊容を拝し、俯して遺教を思い、もって先聖、釈迦、孔子、ソクラテス、カントの四大家を祭る。釈迦はインド哲学を代表し、孔子はシナ哲学を代表し、ソクラテスはギリシア哲学を代表し、カントは近世哲学を代表す。故に四聖その人を祭るは、哲学そのものを祭るゆえんなり。それ哲学は一種の別世界にして,その中に天地あり、日月あり、風雨あり、山海あり。釈迦の知はそのいわゆる日月なり。孔子の徳はそのいわゆる雨露なり。ソクラテスの識はそのいわゆる山岳なり。カントの学はそのいわゆる海洋なり。その知はわれを照らし、その徳はわれを潤し、その識はわれを護し、その学はわれを擁し、わが父となり、わが母となり,君主となり、師友となり、日夜われを愛育撫養せり。ここをもって不肖円了ら、幸いに哲学界の一人となるを得たり。我が輩あにその恩を報謝せざるべけんや。四聖の寿、これを合算すれば三百歳となる。一歳を一日に配すれば、三百日となる。もし一月一日より起算して、その日数を尋究するときは、十月二十七日を得べし。これ本日すなわち十月二十七日をもって、祭儀を行うゆえんなり。四聖の順序は、釈迦を第一に位し、カントを最後に置く。しばらく年代の前後に従うのみ。今ここに祭日を定めて、祭典を挙ぐるは、その意四聖の余徳を追慕し、師伝の厚恩を感謝するにあるも、また他に期するところなきにあらず。

 我が輩すでに先聖の撫育によりて、一個の成童となるを得たれば,これよりわが先聖に対する義務として、更に後進の子弟を啓導して、この哲学界裏に誘入し、これをして別天地の風雲山海の間に逍遥泳浴せしめざるべからず。これ不肖円了らが本年より、年々哲学祭を設けて、その学の将来、ますます振起発達せんことを祈るの微意にして、すなわち四聖その人を祭るのみならず、哲学そのものを祭るゆえんなり。某年某月某日。

     ヤソは宗教家なるも学者にあらず

 吾人が四聖の中に、ヤソを加えないわけは、四聖は全く哲学者としてこれを選びたるものであるからである。もしも宗教家としてこれを選びたらんには、ヤソもまたもとより大家として数えざるを得ないのである。釈迦の教えは、ときとしてはあるいは宗教を説くこともあるが、またときとしてはあるいは哲学を説きたるもある。いわゆる八万四千の法文につきてこれをみれば、自らこれを知ることができる。孔子の教えは、ときとしてはあるいは道徳を説くこともあるが、またときとしてはあるいは哲学を説いている。すなわち易だの中庸だののごときは、その哲学的真理のひそむところのものである。これ純然たる哲学者として、これを選びたるゆえんである。しかるにヤソにありては、わずかにその歴史として『バイブル』が一部にあるのみにて、しかもその『バイブル』は哲学としてはみるに足らない。それであるから、ヤソを哲学者として選ぶことはできない。しかし宗教家としてのヤソは、その賛称すべき価値あるこというまでもなく、欧米諸大陸において、今に至るまで、赫々たる光明の下に、帰依崇拝するものの多きを見てもこれを知るべきである。したがってその人物もまた英雄といわざるを得ないのである。

     人知はよく神を造る

 宇宙の間にありて、最も霊妙不可思議なるものは人間の知恵である。人知は一瞬間に千里に達する電信をも作り、一躍して空に走るの飛行機をも作り、その他あらゆる諸器械をも作ると同じく、草木をも人畜をも作ることができ、また神をも仏をも作るべきものである。世界に多数の信者をもっているヤソ教の神というものも、また人知をもって造ったところの製造物に外ならないのである。ヤソはその生まれない前からして、すでに前の予言者からして予言あって、その言葉に曰く、まさに神の子生まるべしと。よってすべての人々は何時神の子が生まれるのであろうかと待ってる折りふし、東の方にちがった星が現れたのを見て、万民はいよいよもって瑞兆となし、東方に行って神の子を求めた。たまたま馬槽の中に産み落としたるひとりの男子あり。もって神の子となしたるものにて、その教育のごときはいかにこれをなせしや明らかならむれども、長ずるに及んで彼自ら信ずること誠に篤く、ついに多数の信徒を得、二千年の今日なお幾億の信徒を得て崇拝せらるるがごとき、これ通常人間のよくすべきことではない。全くかの予言と、異星の出現とによりて、人民がこれを信仰するの厚かったのと、ヤソ自身の信仰の深かったとによりてついに神の子とし、また神となすに至ったものである。これ私がヤソの神は、人知の製造物であるというゆえんであって、また人間の知恵は神をも仏をも作るべしというゆえんである。のちの世に神を作らんと欲するものも、また前に確信するに足るべきよき予言をおいて、四方八方からこれを神として教育するようにしたならば、神を作ることもまた決してむずかしいことはないであろう。けだし自他の信仰は、その一原因として欠くことはできないのである。

     祈ること果たして理あるか

 昔の人は神や仏やに祈るということを盛んにしたもので、あるいは病の癒えんことを祈り、あるいは富貴になりたいといって祈り、はなはだしきは人の死生をさえ祈ることもあったのである。孔子の父母が尼丘山の霊に祈りて、孔子を生み、楠正成の母が毘沙門に祈りて、正成を生みたるがごとき、その他由井正雪、大塩平八郎等のごとき、みなその父母が神仏に祈りて得たるものなりと伝えられておる。また歴史の示すところによれば日本武尊の妃は、身をもって海神に祈りて、波涛をしてつめたまい、北条時宗は風神に祈りて、元寇を皆殺しにし、また平重盛は熊野社に祈りてついに死したりと伝えられておる。祈るということは、果たして道理のあるものであろうか。吾人哲学を修むるところのものは、よろしく研究すべき問題である。思うに病気のために祈るものは、運動、謹慎、安心、食事等のことによりて、あるいは病気の癒ゆることもあるべく、また富貴を祈るものは、それがために節倹力行の効を積むが故にその目的を達すべく、生死を祈るものも、またこれに類するの事情があるに相違ない。しかしてその祈り子が賢かったり、また他に異なるのは、全くその養育と、またその教訓の懇篤にして丁重なると、その境遇と遺伝とによるものである。これを要するに、祈りてその効のあるのは、全くその神仏を信ずることが深いのと、自分の熱心なるとに基づくのであって、帰するところは、精神の力が天地を感動するより生ずるのである。

     文事あるものは武備あり

 私が孔子、釈迦、ソクラテス、カントの四聖を選んで、これを尊崇するゆえんのものは、単に学者としてこれを尊崇せるにあらず、人物としても、知者としても、知徳完備の人としても大いにすぐれたところがあるからである。その知なり、行いなり、今に残されておる高恩は、実に感佩すべきものがあるではないか。右の四聖の学と知と行とは、仮にこの人々をもって政治界に立たしむれば、立派なる政治家たるべく、もって軍人たらしめば、あっぱれなる軍人たるや疑いなきところである。近世ドイツ国において哲学者として有名なるハルトマンは、その父が軍人なれば自分も若いときからその道に志し、あっぱれなる軍人となりて、美名を天下に輝かさんとするの覚悟であったが、惜しむべし彼は足に不自由の点あって、体格が不合格であったために、宿昔の望みもとても達することは出来ないと断念し、よってこれより更に文海に遊泳し、学事をもって世に立たんことを期し、それからのちは全く著述にのみ従事したということである。

 先年、鳥尾小弥太、浜尾新の両氏がドイツに至りし際、井上哲次郎氏の紹介を得て氏を訪いたるときも、鳥尾氏はその容貌の堂々たる、またその眼光の炯々として人を射るの風采は、一見してその識徳武勇あるに驚いたということである。

     空海の勇は太閤の勇をしのぐ

 わが国真言宗の開祖として、最も尊敬せらるる弘法大師も、今日はただ宗教家として、道徳家として尊崇せらるるのみであるけれども、もしも大師をして保元平治の世、源平争闘の時代などに生まれしめたならば、彼の知や、彼の勇は必ず軍人ともなりて、あっぱれ大英雄、大忠臣の名を成して、人から仰がれたかも知れないのである。しかるに大師のときは、あたかも天下太平に属したれば、知をもってや、勇をもっては、功を成し名を遂ぐるの場所がなかったのである。

 さきに某の貴顕は紀州高野山に詣で、空海の遺業の高大なるを見て、驚き評して曰く、太閤秀吉の築造なりとて古今の大事業と称せられているところの大阪城も、この空海の開きたる高野山の工事にはとても比することはできないと言ったということである。さもあるべきことである。

     仙薬なんぞ蓬莱に求めん

 健康ということが人間にとって最大の幸福であることは、すでに人の知るところであるが、これを求めんがために、飲食運動を要することもまたすでに人の注意するところである。しかれどもなお別に仙術とも名付くべきものがある。これを修めて不死の境界に入るのもまたよいではないか。

 何人も毎朝床を出でて盥漱するときに、裸体となりて全身を水に浴びるか、もしも全身を水浴することができないものは、手拭を冷水に浸し、これにて全身を拭い、もって排泄物を洗除し、皮膚の毛穴を開くがよい。その皮膚を強くし、その気管を健全にすることによって感冒や肺病などにかかる憂えがないであろう。

 また毎朝太陽に向かい、しばらく呼吸して新鮮の空気を吸うも、あるいは毎朝一時間ほどずつ屋外散歩するのも,または屋外に出で大きな声を出すのも、みな寿命の洗濯になり、仙境に入るべき秘伝である。仙薬は必ずしも蓬莱に求めるには及ばない。これ予が実験するところであるから、特に諸君に勧めたいと思っている。

     無風流の中に風流を学ぶべし

 古来風流を目的として、世人の間に行われたる詩や歌などの文学は、今日実業の世の中にありては、無用の長物であるに似たれども、ときにあるいは一詩を賦して、胸中の奇を吐き、また一歌を詠じて満腔の不平を訴え、あるいは憂えを慰め、欝を散ずるなど、その効能は誠に少なくない。いわんや、これらはみな老後の無上なる快楽事たるにおいてをやである。

 ことに少壮のときに学び得たることを、年老いて復習し、これをなにかに応用する等は、非常に快楽を覚ゆるものである。古語にも幼にして学ぶものは、日の出の光のごとく、老いて学ぶものはろうそくの明かりのごとしといってあるがごとく、とりわけてこの詩なり歌なりは、少壮のときにこれを修むることはやすいけれども、老いて学ぶことは決してやすきことでないのである。しかれども普通実用の学をのちにして、もっぱらこの風流的不急の詩歌にのみふけることは不可である。かくては専門学科を妨ぐること多くして害になる。

     人間いかにして禍福の間に身を処すべきか

 昔シナに塞翁といえる人があった。一日名馬を得て喜んでおったところが、ある日その馬が逃げ出したれば、翁は大いに力を落としていた。しかるに図らずもその馬は、また別に他の名馬を伴うて帰りたれば、翁は大いに喜び、父子で同じく乗って楽しんでいたうちに、その子が馬から落ちて傷つきたれば、翁はまた大いに嘆いた。されどその子は負傷のために、兵役に出ることを免れしかば、翁はまた大いに喜んだということで、今に至るまで世の人、人事の不如意なるをかこちて「人間万事塞翁馬」といっている。人はよろしくこれに鑑み、不幸が至らばかえってのちの幸福を楽しみて、阻喪することなく、幸福が至らばまたのちの不幸をおもんぱかりて油断してはならぬ。

 またあるとき長寿のものがあった。ある人がこれについて長生きの術を問いしに、その人答えて、わがこれまでの経験にては、ただ務めて事物の極端に走ることを避け、常にその心をして安くならしめるのみで、別に長寿の術を知らずと答えたそうであるが、さることもあるであろう。

     今日は革命の時にあらず

 わが国維新革命の時にあたり、いわゆる志士と称するものは、一剣家を忘れ、妻子を捨てて奔走したるもので、その風なお今日に残りて、これを学ぶものがある。壮士的気取りの人はすなわちこれなれども、またなんぞ思わざるのはなはだしきやである。思うに今日は革命の時ではない。維新は時季すでに過ぎたり。壮士必要の時ではないのである。前途に横たわれる大事業大難路は、すべからく着実忍耐、奮発精励に待つところがなくてはならない。革命の時にありては、工にまれ、商にまれ、一攫千金を得たるものも多かったのであるが、今日および将来の世間にありては、西諺にいわゆる正直は政策の最上なりとの言葉のごとく、品行と信用とをもって、秩序的に一銭、二銭を蓄うるの心掛けがなくてはならないのである。

 従来東洋人は老ゆれば子に養わるるを目的とすれども、西洋人は老いて子に養わるることは、かえって恥ずべきこととして、壮年の時に自ら務め蓄え、子の世話にならざるよう覚悟しておる。けだし子の親を養うは子の義務なれども、親の壮時に自ら老後の計いをなすも、また親の義務である。親たり子たるもの、よろしく壮士的の軽挙をやめ、独立にして着実に勉強をなすの方法をとらねばならぬ。

     古今の兵制

 兵をもって鳴り、軍をもって聞こゆるドイツにありては、国民の気風を呼び起こし、その勇壮を鼓舞するため、兵の必要を知らしめ、国家の大切を思わしむるため、毎朝隊をそろえ列を整えて、市中を行軍するとは実に盛んなりというべきである。英仏〔イギリス、フランス〕の盛んなるも、また多くこれに劣らないであろう。

 わが国は古来勇をもって知られ、各人もまた武をもって栄えとしたるも、近時に至ってはあるいは兵役に出づるを嫌うものあるは、そもそもなんの心であろうか。しかして昔はよし兵を好みて学ぶものも、匹夫の勇、虎狼の勇多く、個人的に先陣を争う等のことであったが、現代の軍法は決してさることを許さない。今日は団体の兵制となり、百方の駆け引き、進退、その指揮その指揮によりて行動すること、あたかも手足を意に従いて動かすがごとし。実に勇ましきことである。

     哲学の応用

 地震、津波等の天災については、ここに一つの問題がある。すなわち金満家は金を出して罹災者を救助し、医者は手術をもって負傷者を治療し、宗教家は供養して死者を弔慰し、労力者は大工、米屋等みな応分のことをなすに、ひとり哲学者のみはなにをもってこの惨澹たるものを救い、この薄命なるものを助け得るであろうか。ことばを換えていわば、哲学はかかる場合になんによって、世を益し人を利するのであろうかということである。

 かかる大切の場合において、果たして金円のごとく、医薬のごとく、また労力のごとく、これを救うの効能がないといわば、哲学は禍害に際してはすこしも益のないものともいわれるようなものである。

 かの大地震のごときは、実に名状すべからざる天災の一にして、あるいは家を倒し、あるいは人畜を殺し、あるいは財宝を焼き、あるいは田をつぶし、畑を埋めなどして、誠にいうべからざるの大惨事であるから、損害を受けた人々は一同失望落胆して,途方にくれ、ために野に出でても耕す所なく、家に入りても織るものなく、昼は萱からず、夜は縄なわず,なにごとをするにも更に手も着かず、茫々としてなすところを知らないのである。もしもこれをその失望のままにまかせて打ち捨てて、過ぎ去らんか。その不利益損失は、かえって震害以上であるのであろう。されど何人かがこれを慰安し、これを奨励するのでなければ、災民はただ茫然として自失し、無為にして日を過ぐるのみであろう。

 この時に当たりて哲学者たるものは、進んで災民の惨境に入り、天変の逃るべからざること、地妖の予知すべからざることを説き、過去のことは是非もないが、現世のことはいやしくも打ち捨ててはならぬ。未来のことについては計画せざるべからざることを諭し、吉凶禍福は循環するものであることを納得せしめ、このたびの災害に、かえって将来の幸福を準備するよう、慰諭し奨励すべきである。これ哲学の効用であって、また哲学者の本領であろうと思う。

     吉凶は循環

 昔、痘瘡が大いに流行し、ひとたびこれに感染したものは、紅顔の少年たちまちにして白骨となり、艶麗の美人もたちまちにして粗凹の醜婦となったのである。されば天は長く人をして痘瘡に苦しましむることをなさず、種痘の法を発明せしめて、天下の宿禍を一掃し、今日はほとんどこの病を知るものもないようになったのである。

 しかるにまたコレラ、ジフテリア等のごとき、昔にはなかった病気が流行する。されどジフテリアのごときは、血清注射の法が発明せられて、また恐るるに足らざることとなった。これによってこれをみるに、天は必ずしも凶をのみ下すをもって務めとなすものではない。例えば先年水害のため堤防をつぶし、人家を流し、人畜を殺し、田園を埋めたる等の災いにより、官ではこれがために幾年かの租税を免除したる土地に、その翌年翌々年とも引き続きて豊作があるなど、天運の循環は実にこのごときものである。もとより一凶のために失望すべきものではない。

 また紀元前の昔にあってイタリアのポンペイにおける地震の変動のごときは、一市ことごとく土中に埋没し、家は建てながら地獄世界の家となり、人は生きながら地獄世界の人となり、聞くも酸鼻の至りであるが、その後二千数百年の今日に至りて、この地を発掘して、人畜の乾燥したるもの、または材木の腐朽したるもの、あるいは種々の器物等を得て、大いに考古学者の参考となり、学問上の材料となるがごとき、これまたさきの不幸が、かえってのちに利益を得しむるものというべきであろう。

     宗教心はいかなる時に起こるか

 かつて京都の本願寺の建築用材を、越後国頚城郡の山中から取り寄せるとき、積もった雪が崩れ落ちたるため、圧死されたるものが四十余人あった。しかしてまたその建築中に棟木が落ちて圧殺されたものが三十余人あって、この普請のため命を失いたるもの、前後七十余人を出した。そののち濃尾の震災に当たりても、一寺の下に二百余名を圧死したるが、これみな天災であって、人力のいかんともなすべきところでないのである。この不幸こそとりも直さず大いに宗教心を感発せしむるものである。

 「人盛んなるときは天に勝つ」の意にて、もしも平生、無病息災ならんか、その心は天に勝ちて、とても宗教などに頭を傾くるの念は起こらないのである。しかしながらかく本山のことに働くも、また仏堂に入りて後生を願う間においても、天災にかかりたるときは、一層人生の果報なき、娑婆の頼みなきを感じて、自然に宗教心を起こすようになるものである。

     無形の盗賊

 このごろ古雑誌を閲するに、その中にかつて慶應義塾から発兌せる家庭叢談という雑誌があった。その中に盗賊のことを掲げて曰く、盗賊には二種ある、すなわち有形の盗賊と、無形の盗賊とこれである。その有形の盗賊というのは、法律の明文がこれを罰する故、なす人が少ないけれども、無形の盗賊に至りては法律なく、したがってこれを罰するものもなければ、多くの人々は大抵これをなさざるものは少ない。けだし知らず知らず行いつつあるものである云々とあった。

 しかり今その例をいわんに、かの下等なる野郎輩が人からごちそうを受けたるときに、その前後の食事の補助として非常にたくさん飲食をなし、二、三日分を一度に飲みかつ食するがごとき、その一例である。しかしてこれに反して、また無形に施与することもある。例えば人に菓子を送るに、箱や水引きのごときは、言葉の外、時礼の外に施与するものといってよい。この無形の施与をもって、かの無形の盗罪を償うに足るであろう。とにかく、無形の施与の多からんことこそ望ましいのである。

 古人も陰徳あるものは必ず陽報ありといっているが、予はこれに対して、陽徳あるものは必ず陰報ありということばのないのを疑っている。例えば危険なところを冒して忠義を尽くし、艱難を忍びて孝行を致す等は、みなこれ大なる陽徳である。たとえこれに対して陽報なしとするも、わが心においてすでに楽しく、すでに喜ばしいのであるから、すなわちこれを陰報といってよい。これに反し、無形の盗賊は法律これを罰せず、人またこれをとがめずといえども、わが心になんとなく安ぜざるものがあって、陰にこれを罰するものである。

     盗賊の自首

 徳川幕府の末に、二人の大盗賊があった。あるときこれを捕らえて吟味した。けだし盗賊としてこれを吟味したのではなくして、ひそかにわけがあってしたのである。しかるにこの者は突然羽織を脱いで、役人の目前に撞座し、大声をしていうに、私は三十年来の盗賊である、速やかに捕縛されたしと。役人も唐突のことに大いに驚き、その子細を尋ねたるにおもむろに語りていうに、われ盗賊を始めて以来、すでに役人の詮議を受くることはたびたびであるけれど、未だかつて言葉が滞ったことなく、滔々として流るるがごとく言い抜けたものであるが、今はなんとなくおじけがついて、言葉も滞りがちでいうことができない。これは全くわが天命の尽きたところ、天網は恢々、疎にして漏さずの意であろうと。役人のいうに、おまえがこれを自首するのははなはだよいが、しかし今問うところはこれに関係したことでなければ、おまえもまた語るの必要はない。ただ今日吟味するところだけに答えてよいのであると。盗賊の曰く、今日ここを逃れたところで、とてもどこまでも逃れることはできない、どうぞこのまま捕らえ給え。しかし私がこれまで賊をなしたのは、父母、妻子といえどもこれを知るものがなければ、請う、彼らは許し給え。ただしわが邸内に盗賊明細記の帳簿がある。私が盗み方は、世間の上位にたちてみだりに賄賂をむさぼり、おごりにふけるものの金を奪い、これを路傍の窮民に恵んだのである。決して他に無用に費やしたのではないと。よって役人もやむをえず事をただして獄に下した。この者、維新の前獄中にあったということである。かくのごときは自然、わが心に安んぜざるところから、ついにかくは自首したるものであろう。

     天狗に書剣を学ぶ

 ある所に一人の少年があったが、徳島県脇町近傍にて、一日忽然として見えなくなった。しかしてしばらくして、また忽然として帰り、自らいうに、私は山林に入りて天狗に従い、書と剣とを学んだのであると。これによってその父兄はこれに命じて字を書かしめた。子はそのいうところに従って字を書き、筆跡も特に優麗である。また命じて剣を撃たしめた。これまた敵するものないほどに巧みである。しかるにこの子は生来剣も書も習いたることのないのみならず、生来の白痴なるに、かくのごとくにわかに字を書き剣を用いて、特に人にすぐれたるには、何人も驚かざるものはなく、ついに世上の評判ものとなった。よりて藩主はこれを召して禄を与え、一家中剣道の師範とした。

 十数年ののち、人々これに妻を迎えんことを勧めたるに、白痴の曰く、天狗は私に妻を持ったり、また女に触れてはならぬといって戒めているとて承諾せぬ。のち数年、人々が強いて妻を迎えることをすすめたが、このときに至りては、自分も大いに禁を守るの心が緩んでいたとみえて、ついに妻をめとったのであるが、不思議なるかな、これまで剣術の達人なりしものがたちまちにして剣をとるの法をも忘れ、書もまた一画をも引くあたわず、全く生来の白痴となってしまったということで、実に不思議といわざるを得ない。その人は近年まで存命していたそうである。これによりてみるも、人の心性作用というものは、非常なる複雑のものであることが分かる。

     散歩旅行の利益

 東京に住む人が、飛鳥山、滝の川、道潅山などにときどき散歩して保養するのもよけれど、またある田舎、農家の近傍につえをひきて欝散するも愉快であって、農談俗話というようなものもまた利益するところが多きものである。かつてある新聞紙を見しに、ある家の一人子が、アメリカに留学し、博士の学位を得て帰った。近隣の人々はこれを祝して、ご令息のご栄花立身は祝するにあまりある。向後村長さんに選ばれ給うことは期して待つべしと言ったという話がある。かくのごときは、学問の価値も知らず、ただ村長の栄職たるを知って、その他を知らざるがためである。この話たるや、もとより簡単なりといえども、また農夫の心知を知るに足らんか。

 また私が先年旅行中、会津から新潟へ越す途中において、岐路に迷うておまけに日は暮れかけた。とまらんとすれども家なく、また道を尋ねんとすれども人もなく、ほとんど進退きわまったのであるが、ようやくにして山中で一人のきこりに会い、これについて道を問うた。ときはあたかも酷暑であったから、きこりは裸体になっていたが、おもむろに着物を着てねんごろに道を教えてくれた。それより行くこと数町にして人家に至り、宿を頼めば、家の主人の曰く、この川を渡れば宿屋があるから行って泊まらるべし。されどこの川に渡るべきの橋がないから、若者を雇い船を出して、お渡し申さんとて、非常に心配してくれた。私はいたく同家の親切に感じ、謝礼のためとて茶代として一包の金を置きしに、やがて追ひきたりて、茶店にあらざれば茶代は受け取るべからずとて、またこれをも返した。そこで渡してくれたる渡し人にその賃銭をいくらか払わんとせしに、また営業にあらざれば、その賃金はもらうべからずとて、強いて辞してとらないから、やむを得ず私は本意に背いて、一厘の金をも費やさずして,この恩を受けたことがある。今の世に当たりて、なおかかる質朴なるところのあるのは、誠にゆかしいことである。これ全く旅行して知った経験である。

 またあるときの旅行にて、五、六名相伴いて共に大雨にぬれて宿をとり、着替えの衣服を借用したいと頼みたるに、男子の衣服の足らないため、女子の衣服をもあわせて借用したることもあった。また賊につけられて困ったることもあった。すべて道中は艱難のことどもの多いものであるけれども、のちになればかえって話の種子となるものである。故に諺にも「かわいい子には旅をさせよ」ということがある。

     無名すなわち有名

 昔、京都の加茂村において、村中の人々が異名を付けることが流行して、全村異名のないものはほとんどなきほどであった。ときに一人の異名嫌いがあって、村中の人々を招き、酒肴を饗して曰く、自分だけはなにとぞ異名を付けないようにしてもらいたいものであると。みなのもののいうに、図らざりきこのご饗応を得て、だれか尊意に背いて異名などを付くるものがありましょうと、みなみなこれを承諾した。ここにおいて村中の人はことごとく呼ぶに異名をもってすれども、その人だけはこの異名なきゆえ、いつしか「異名なし」という異名を付けて、その人を呼ぶに至ったという話がある。これその実際の上から自然につきし異名ともいうべきである。

 またあるとき東京に有名会という一つの会があったが、のちこれに対する無名会なるものができたことがある。無名すなわち有名というべきである。ある哲学者は、スペンサーのいわゆる不可知を評して、すでに不可知ということのあるのを知れば、これすなわち不可知にあらずして可知であると言ったのも、その意は同じことである。

     無芸は有芸の門

 俗間に行わるるところの芸能は、糸竹、管弦、小歌、浄瑠璃、その他種々のものであって、人はおのおのその好むところに従ってこれを学び楽しむのである。されどこれを一生涯の目的として、専門に修めるのでなければ、その割合に人より抜きんでて名をなし、また利を得ることもなきのみならず、かえってまさになさんと志す事業も、この遊戯のために妨げくじかれて、ついにはなにごとをも果たすことあたわざるに至ることがある。

 私は生来の無芸無能であるが、それがかえって今日の事業のいくぶんを助けたるもののごとくである。かの糸竹、管弦、小歌、浄瑠璃をもって楽しみたる私の郷里の朋友中には、かえって今日に至るも区々ろくろくのうちに平々凡々たる生活をなすものなきにあらず。されば無芸は有芸の門ともいうて差し支えなかろう。

     不具は完全の門

 無芸をもって果たして有芸の門とすることができれば、更に一歩を進めて、不具は完全の門ともいうことを得ようか。それ不具なるものは、盲、聾、唖、その他手や足の不自由なるもの、また面体の醜陋なるもの等であって、いずれも一般の人に及ばざるところの不具なることを恥じ、なにとぞ他に長所を得て、もってこの足らぬところを補わんとするの心が自然に起こってきて、あるいは学術に、あるいは芸能に励み務むるものである。故にその業は必ず果たして、その芸は必ず達し、韓退之のいわゆる目に盲なるものは、芸に詳しのたぐいとなるものが多い。してみれば不具なりとてなにも悔やむべきではない。否、不具の人に対して、かえって恥じることのないようにすることを務めなければならない。

 シナにおける漢の高祖、日本の豊太閤等はみな一種の不具であり、西洋においてもスペンサー、ハルトマンのごとき、これまた一部の不具である。されどかれは大英雄をもって万世に鳴り、これは大学者をもって世界に響いているではないか。不具はすなわち完全の門たることは少しも疑いはない。

     遊芸酒色

 ある人が論じていうに、英雄は色を好み、豪傑は酒を好むという言葉もあり、あるいは糸竹管弦を愛する君子あり、あるいは花鳥風月を弄する徳行家あり、してみれば遊芸酒色をもて、業務風俗の害物とはいうことができないのであろうと。私の思うのに、英雄豪傑にして酒色を好み、君子徳人にして糸竹管弦、花鳥風月を弄することはあるかも知れぬが、酒色を好むからといって、必ずしも英雄豪傑というわけにはゆかぬ。糸竹管弦、花鳥風月を愛するからといって、必ずしも君子徳人というわけにはゆかぬ。英雄豪傑であって酒色を好み、君子徳人であって糸竹管弦、花鳥風月を弄するものがあるのである。さればとて英雄豪傑にもあらず、君子徳人にもあらざるわれわれ凡夫にありては、みだりに酒色を好み、またいたずらに糸竹管弦、花鳥風月を弄するというようなことをしてはならぬ。この酒色、この糸竹管弦、花鳥風月が、直接に吾人を害し、吾人を損すということはあらざるにもせよ、これより間接に生ずる弊害は、実に恐ろしき毒物である。すなわち酒色にふければ、これがために風俗品行をみだり、糸竹管弦、花鳥風月にすさめば、これがために有為の精神をくじき、遠大の事業を誤る。これは古今に通じ、東西にわたりての実験によりて、みな人の知るところなれば、最も慎むべきことである。特に将来に高大なる希望を抱いているところの青年学者にありては、最も深く戒めねばならぬことである。

     己のためにすべし

 論語に「君子は己のためにし、小人は人のためにす」ということがあるが、いかにもその通りであって、これを実際に徴するに、己のためにするものは、いつも己を忘るることなくして勉強する。己を忘るることなくして勉強するが故に、ついには己の志を成就することができる。これに反して、人のためにするものであっては、常に己のあることを忘れてしまい、善いことをなすにも悪いことをなすにも、目の前に人のいるいないによって、その挙動を変えるが故に、人のいる前では君子善人のようであっても、人のいないときには小人悪人の行いをやるようになる。これ全く眼の前に人あることを知りて、心の中に己あることを知らざるによるからである。故に人はよろしく、己を標準となして、己のためにし、暗いところで人がいないからといっても、自身すなわち自身を見るの心をもて事をなし,事を処せなければならない。

 かつて某医師の言えることがある。およそ世間多数の患者について経験するのに、宗教信徒と無宗教者とは、その最後が大いに異なるものがある。すなわち平生、宗教信徒たりしものはその臨終がとりわけてみごとであるけれども、平生、宗教に冷淡なるものは、いまはの時に臨んで迷い苦しみ、見るに忍びざることがあると。これによって考うるに、信徒にして常に神あり仏あることを信ずるものは、たとえ人の見ざる所でも神仏はこれを見ている、人の在らざる所にも神仏はあるものだと信じ、陰でも日なたでも、時間にも空間にも、私するところがない故に、いわゆる安心を得て往生するによるのであるが、無宗教者は平生の動作がことごとく人のためにしているのである故に、最期に及んで過去を思い未来をおもんぱかりて、多いか少ないか、快よからぬ感じが起こり、いわゆる安心を得るあたわざるによるのである。かえすがえすも慎むべきは平生の動作である。忘るべからざることは、己のためにするということである。

     学問の効用

 学問ということは、ひとり人間に限られているので、他の動物の仲間には、学問なるものはあらざるのみならず、たとえ人類の上においても、未開野蛮の世には学問というものはないのである。しかして学問の目的は、一に人類の性質思想を改良して、その人物品性を高尚にし、精神上の快楽を得しむるにある。もしも人類にして精神上の快楽を思わなかったときは、ただに肉体上の快楽に偏して、最下等の情欲を満たすにとどまり、その極禽獣と分かたざるに至るであろう。

 世の開化といい、文明というは、ひとり制度文物の改良進歩のみをいうにあらずして、精神の高尚にして、人品の善良なる、道徳の盛んにして、風俗の敦厚なるをいうので、学問の効用一にここに存する。

     余暇をもって学ぶべし

 多くの人は、学問をなすには、必ず完全なる年月をこれに費やすのでなければあたわずとするが、これは誤りである。昔の人のいっている通り、夜は昼の余りであり、冬は年の余りであり、陰は晴の余りである。また古人の言葉に晴れては耕し、雨ふりては読むということがある。これはもっともな話で、何人といえどもこの余暇のないものはない。しかれども世人はこの余暇を用うることを知らず、あるいは談話のためにこれを費やし、あるいは眠食のためにこれを費やし、または遊興宴楽のためにこれを消費する。故にこの価値ある三余は、ひとり学をなすの用に当たらざるのみならず、かえって風俗を損し、健康を害するの媒介物となるのである。あに慨嘆すべきではなかろうか。心あるものはよろしくこの余暇をもって、文を講じ学を習い、もって精神上の快楽をとるべきである。

     貴人の解釈

 昔の人のいうところの貴人とは、多くの動産を蓄え、多くの不動産を有し、広い宅をもち、高い家を建てて、その中に住し、錦繍を着、金玉を飾り、出るには駟馬あり、入っては臣妾あり、これをこれ貴人というたものであるが、実ははなはだ誤っているのである。

 それ貴人なるものは、自ら道徳の先導者となり、世を化し人を益し、金銭のために心を動かさず、錦衣玉食を夢みることなく、一意専心その人品を高め、精神上の快楽を本とするもので、これをこれ真の貴人というのである。

     農商業の学

 地方の人には往々にして、大いに学問の方向を誤り、商家の子弟は高等商業学校に入り、農家の子弟は農科大学に入り、もって数百の金と数年の日月とを費やし、商業学者、農学者となるものがある。これはもとより賀すべきことであるが、されど高等商業学校はわが国最高の商業教育を施す所にして、また農科大学はわが国最高の農学を授くる所であることを忘れてはならぬ。顧みて地方の商農を見るに、商はわずかに一村一町、もしくは千人、二千人の人、千金、二千金の金の間に業をなせるものにて、幾何代数を要せず、外国語はいうに及ばず、簿記すら未だ用うる所が少ない。加減乗除に従来の帳付をもって足れりとするものが多い。

 また農家はわずかに数反の田畑を有し、米麦桑菜を作るものにて、北海道のごとき新墾の大地面があるのでもなく、いずれの地方に行って見ても多量の穀類を産出すべき地所もなければ、したがって種々新発明の器械などを施すの余地もない。これを要するに、学問のあまり高尚なるは農商実業の実際に応用し難きこと、九尺の小室にて二間槍を使うよりもなお困難である。故についには折角の教育を悔ゆるに至る。けだし方向を誤りたるものというべしであろう。

     法律学者

 地方の有志者にして、はるばる東京にきたり、数年の日月と数百千円の金銭とを費やし、そして法律学者となるものがある。これまためでたいことには相違ないが、しかしこの学者が地方に帰って、法律学をもって官吏たらんか、人望もなければ、経験もないから仕方がない。弁護士たらんか、信用がないからだれも頼みにこない。ここにおいてかせっかく学んだところの法律の学問も、これを現して応用する所がないから、ついに去って壮士らの仲間に入り、反対に演説会等を公会し、ときには刑法に触れ、あるいは拘留などされ、あるいは禁錮され、ついに一身の安堵を失い、不平のうちに一生を過ぐすに至るものもある。これ当初の目的に非ずして、全くその方向を誤ったものである。

     退いて財産を守れ

 地方の青年、往々高等教育の名に欺かれ、地方に農商工の学校あるにもかかわらず、これを顧みずしてみだりに東京に集まりきたらんとするのは何故であるか。各地方の適当なる実業学校を終え、退いてわが財産を守り、わが家名を保ち、わが徳望を高むることをなさないのは何故であろうか。これを例えてみれば、昼夜朝夕接するところの日光や、空気や水などは、この上もない宝であるけれども、人はこれを尊重することを知らないで、みだりに金剛石を遠方から求めて、大金をこれに費やすようなものである。世の中には金剛石のみがひとり宝ではない。東京ばかりひとり財産を興し、名誉を博するの地ではないのである。学問をなす者は、請う、退いてその郷里に帰り、祖先以来の財産を守り、家名を保ち、徳望を高むることを忘れぬようにするが肝要である。

     師を聘すべし

 およそ子弟を遠方に遊学させたいという心のあるものは、その同じ主義の人々が同心協力して、一の師を聘することが得策であろう。例えば二十人の子弟を一の地方から遊学せしめんとするには、少なくとも毎年千円ないし二千円の資金を投ぜねばならぬ。しかるにもし相当の教師一人もしくは二人を聘して、そしてもっぱらその二十人の教育に従事せしめたならば、その費金はかえって少なくして、その人品を養成し、学力を増進する上においては、大いに遊学させるのに勝るものがあるであろう。予は切に将来この主義の私立学校が地方に起こらんことを望むものである。

     衣 食 住

 西洋のものと、わが日本のものとは、同じものもあるけれども自然に反対表裏のものが多い。今そのうちの衣食住についていわんに、概して西洋の服は気候の上より寒さに適するように作られているが、日本服はいわば暖地を目的として作ったもののごとくである。故に西洋人も熱いときおよび夏日の航海等には多く日本服を用い、また身体寛裕のために、浴衣寝衣等にも日本服を用いているものがある。

 夜具は日本にては表面に立派なる切れを張りて、洗濯などすることは実にまれであるけれども、西洋にてはこの立派なる切れの上を白の天竺木綿などをもて包み、毎度はずしてこの上包みを洗う。また肌着のごときも毎週これを洗う。けだし衛生の上より清潔を尊んでするのである。されど全身の沐浴は、日本人のごとく毎日することはない。彼らは一カ月に一回、もしくは一年中にわずかに数回入湯するのみである。

 また食事は、西洋人は脂肪の多いもの、すなわち肉食を最とすれども、日本人は淡泊なる蔬菜穀類を主とする。前者は寒中には至極適当であり、後者は暑中に適している。西洋人は食べるのに匙をもってし、日本人は箸をもってし、西洋人は腰を掛けて食い、日本人は座して食す。

 しかして住所の構造も西洋にありては、その家が寒さに適するがごとく作り、窓も少なくし、また障子もガラスを用いて冷気の流通を防ぐ。故に空気の流通が悪いといって喋々するものもあるけれども、日本にありては、四季の気候によろしきように作り、障子も紙を張りたれば、空気の流通も自在であるが、西洋のごとく注意することを要しない。すべて衣食住のごときは、国々おのずから、その風土に適するところありて起こりたるものなれば、その原因事情を明らかにせずして、みだりに変更すべからざるものがある。

     気候および手工

 イギリスは夏でも、その温度はわが国の冬服を着ていて、ちょうど適当なるくらいの気候なれば、夏は年中の好時期であって、天気もまたよいのである。故に夏期の休業はその目的もわが国とは異なって、かれは遊ぶのに好適なる時候なるをもって休みとし、わが国では暑さのため業務に堪えないという理由をもって休みとする。またかれにありては常に湿気と風気とが多く、冬は全く霧をもって覆わるるが故に、病気といえばつねにリューマチである。イギリスが牧畜をするに適しているというのは、太陽の勢力が弱くして、かつ冬分に至れば、霧が多いため生草をうるのをもって、野草はその質が柔軟である。故にその地は天然に牧畜に適している。

 また手工品も、西洋人は堅牢を主とし、日本人は風韻を貴ぶ。日本人は器具の上等なるものは、雅客貴賓等のきたったときに用うるを常とすれども、かれは日本より輸入したる陶漆器の類も、これを宝として壁にかけて飾り、茶器のごときも床の装飾となして楽しみ、平素用うるところのものは、客の高下にかかわらず無骨粗造なるものである。

 また西洋人は己が食堂へ靴ながら入り、靴ながら寝室に就くところは、いわば犬猫も同様なることには気が付かずして、ひとり日本人の足にて踏むところへ座して食い、またここに寝るのを見て、これを卑とす。またかつて日本婦人が歯を染むるの習慣あるを見て、衛生上害ありとして笑いたりしも、己が婦人の耳に輪をさげるの愚は顧みず、また日本人の豆類を箸にて挟み、足に木履をはく等はかれの最も怪しく思うところである。

     時間、茶会

 イギリス人は時間を守ることが最も厳重であって、眠るにも食するも必ず規則があり、朝は八、九時の間に朝飯をすまし、昼は二時より一時の間に午飯をすまし、夕には六時より七時までの間を夕飯の時間と定め、午後四時には茶を喫し、午後九時にはコーヒーをすするの習慣がある。その他タバコを吸うにも、茶を飲むにも、決して日本人のごとく不規則なることはない。したがって用事のために人を訪うにも必ず食時を避け、また客を待つにも食事の外には食物を饗することはしない。すべて人を訪うには午後三時をもって定時間とし、もし談話に一時間も要するときは、あらかじめそのことを述べて、先方の都合を問いおくのである。また人を饗応せんとするときは、必ず前もってその意を通じて客の都合を尋ね、時間を定めてこれを招く、これ全く時間を貴重にするによるのである。故に車夫馬丁などが時計を持っているのも、日本人のごとく装飾半分にするのではなく、分秒を誤らざらんがための用意である。かくのごとくイギリス人の時間を守るに厳重なることは、世界第一ともいうべく、これについではアメリカ人であろう。その他は隣国のドイツといえども、かく厳重なることはない。イギリスの人が時間を守るに、かくのごとくなるは畢竟社会の繁忙に迫られて、寸時も無益に時間を費やすことを得ざるによるのである。

 わが日本人は大いにこれに反し、起きるにも一定の時間がなく、寝るにも一定の時間がなく、食時もまた一定せず、人を訪うにも人に訪わるるにも、更に一定の時間というものがなく、はなはだしきは夏は人の所にて昼寝をなし、冬はこたつ休みをなし、ときならぬ食物の贈答をしたり、かつ人の往来、送迎、冠婚、葬祭には必ず飲食を供し、しかも過飲過食するのをもって、交誼を温むるに最も好き方法としている。それであるから平生といえども、一日に五度、六度ずつの食事をなし、種類も分量も少しも選ばず、優々閑々、飽きてそしてやむもののごとく、その時間を浪費すると、飲食に際限なきとは、未だかつて他国にその比を見聞せざるほどである。この不利益、不養生なる悪風俗は、早く改良せなくてはならない。

 しかしてイギリスにありては、常に一家のだんらんを貴び、屋外においてはたとえ地獄のごとき苦痛にあうも、家内にありては相和し相楽しみ、実に極楽のごとき暮らしをなし、昼間には非常の労働をなしても、夜分には意のままに休み、特に毎夜家内の茶会を開き、和気あいあいたるうちに楽しむ。かかる習慣風俗は欧州大陸にありても、みなこれをうらやみ尊ぶところである。私が私の学校に茶会というものを設けたのも、全く英国のこの主義によりて考え出したものである。

     風俗習慣

 道徳が盛んにして、品行の方正なる西洋にありては、人々だれでもその腹の痛むことを人に語るにも、消化が悪くてなどと、なるべく間接の言葉を用いて、直接に腹が痛むなどということは、卑しみ恥じてこれを避けるほどである。したがって淫汚の話や、わいせつの話などを人の前でするものはない。

 しかるに日本にありては、令嬢、夫人と称せらるる人々も平気で、腹が痛いなどというてはばからぬはもちろん、両便のこともこれを語るにためらうことなく、中には人の前をもはばからず、便所へ行く準備をする人さえあり。すべての人は、汚穢の談、淫猥の話などをもってむしろ誇り顔に公然とこれをなし、更に怪しむところはない。しかのみならず、わいせつの書画を売りて利益を計るものもある。路傍の落書きを見るに、多くは淫猥のことのみである。これみなわれのかれに劣りて、かれのわれより高尚なる証拠である。

 要するにわが国にありては、不品行の勢力が社会の大部分を占めているからである。西洋にてもまれには春画の類がないでもないけれども、社会の制裁が強い故に、これを発表することができないのである。

     廃娼論

 娼妓の存廃については、世上に盛んに議論するところであるが、私は今例を西洋にとりて、試みに論じてみたいと思うのである。そもそも貸席ということは西洋の諸国中にて二、三の国にはある。されど、その数極めて少なく、かつみな隔離隠蔽して、人目に立たざることを務めている。これ社会の制裁力が強い故である。

 日本にては、貸席というものは多く都会の四隅、市府の近郊に地位を占め、その所在地はかえって市街繁栄の大部分を占めているらしい。これすなわち西洋人をして、堂々たる日本帝国をもって道徳上未だ開明の域に進まざるものとみせしむるの一大原因である。今日わずかに心あるものが廃娼の論端を開きたりとはいえども、その実際を顧みるに、もしも廃娼を行うときは、やがて密淫売の種となる等のことより、廃娼反対の保守的勢力も強ければ、いよいよ廃娼を行うことは、果たしていずれの日にこれを見ることを得るであろうか。思うにわが国においては公然たる売淫も社会の制裁としては、今日だれも恥じざる有様であれば、なによりもまず廃娼論を唱えて、社会の制裁力を呼び起こさなければならぬ。もしも社会にして更に風儀を挽回するの制裁力がなき以上は、学校の徳育にも、千言万語を費やしたところで、更になんらの益もないのである。

 徳川時代は久しく太平の続いたために、おのずからその流弊を極め、酒に狂い、色にふけるものがいたって多かりしも、今日繁忙の社会においてはかかることはあるまじきことで、将来の事業において、大なる害あるものと知らねばならぬ。西洋人のわが国に渡来するや、その文学芸能の進歩いかんは、一朝一夕にしてこれを見尽くし、わが文野を判ずることはできないが、道路を行きて落書きのみだりなるを見、市街を過ぎて貸席の盛んなるを見、その帰るや港口には日本醜業婦の輸入さるを見て、その悪風俗醜習慣にひんしゅくし、この点においては、わが日本の未開を脱せざるを唱う。存の娼論者たるものは、大いに顧みなくてはならないと同時に、廃娼論者たるものは、大いに努めなくてはならない。

     飲 酒 論

 酒というものは人の嗜好品の一つであって、東西を通じ古今にわたり、これをたしなみて飲むものが多い。されどこれを飲みて酔狂し、あるいは蹌踉として横行し、あるいは酩酊して転倒し、あるいは悪口し、あるいは怒鳴り、また不道徳を働き、醜行をなす等のごときは、多く日本人の悪風俗陋習慣であって、諸般の事柄の日に開明に趣くにもかかわらず、こればかりは遅れてなおその跡を絶たざるは慨嘆の至りである。さればとて西洋諸国の人といえども、酒を飲んではときに酔うことがないのではない。またときには狂わざることなきにもあらず、されど平生道徳を重んじ、品行を慎むの深いところからして、決してわが国人のごとくかかる所行には至らないのである。わが国人の大酒をたしなむもの、常に酒は百薬の長なりということを口癖とし、競争的に大酒をするのをもって楽しみかつ誇りとするものがある。もしも酒をもって百薬の長とするならば、最も深く節制注意して、これを飲まなくてはならない。なんとなれば人を生かすの良薬も、その適度を失えば、かえって人を殺すの毒薬となるものであるからである。されば酒は百薬の長なりというその反対に、また酒は百毒の長なりともいうことができる。とにかく昔時の風流的世界にありては、飲酒の競争も、あるいは一興となりたるべけれども、今日の繁忙なる世界にあり、前途困難のときに当たりても、飲酒蹌踉の酔いが、なおさめないとは、そもそもなにごとであろうか。酒癖家たるものは猛省せずんばあるべからざるところである。

     狡猾怜悧

 西洋人が金を貯蓄するのは、他人の遊んでいるときや、他人の閑暇なときを見て、自分にはますます勉強し、ますます辛抱するによるもののごとくである。これらは古風の人よりいわば、あるいは狡猾ともいうべきであるかも知らぬけれども、今の世の中は太古とは全く異なって、一に競争の社会であれば、かくのごとき行いは狡猾とはいうべからずして、むしろ怜悧とも称すべきであろう。

 これに反して、日本人の金もうけを思うや、務めもせず稼ぎもせず、かえって赤手にして一攫千万金を得、ぬれ手にて粟をつかむの機期をのみ待てるがごときである。これらは決して怜悧にあらずして、むしろ狡猾というの外はないのである。

 例えば、かの維新前後に際しては、その革命の気運に乗じて、一夜に万石の倉を立て、一朝に千金の庫を作ったものも、ずいぶんたくさんあるけれども、これは千載の一遇、いわゆる水上のカモメ、浮雲の千鳥であれば、あてにして待つべからざるものである。

     節   倹

 人間行うべき多くの徳行中にあって、節倹といえることも、また大切なるものである。しかるに近年わが国にありては、この節倹の徳がようやく廃れ、都といわず、田舎といわず、老人と若いものとの差別なく、貴賎貧富にかかわらず大かたの人は、住居を飾り、衣食におごり、ただ他人に及ばざるを恥ずるがごとき有様で、その停止するところを知らず、心あるものは何人といえども嘆かざるを得ないのである。昔はこの弊風を矯むるに、政府の干渉をもってしたることさえあったが、今は昔とは時勢が違って立憲政体の世の中となり、かかる干渉のないのをよいこととし、ほしいままに驕奢淫逸を極めるのは、あに嘆かわしいことではなかろうか。

 西洋人はこれと異なり、社会の競争につれて節倹力行し、粗衣悪食、これを当然のこととして恥じず、否、その足らざるを恥ずるがごとき有様は、吾人の実にうらやむべきところである。先年、故高崎正風氏の談話のうちに、かつてわが留学生数名が西洋人の某経済学者について学んだ。その教師はさすがに経済学者だけありて、常に粗衣悪食をこととし、勉強と節倹とをもって起臥していた。あるとき右の学生数輩が相談をして珍膳美味を設け、その先生を聘して馳走をしようとせしに、先生きたらず。辞して曰く、予は今夕すでに夕飯の用意をしたれば、これを不用に帰せしめてはならぬと。ここにおいて書生は大いに失望すると同時に、いよいよその質素に感じたりという話がある。

     正   直

 西洋の語に、「オネスト イズ ザ ベスト ポリシイ」(正直は最善の政略なり)ということがある。彼らにとっては正直がいかに貴きものであるかを知るに足る。欧米諸国の開化の根元も、けだしこの正直を貴ぶことに兆せるものであろうと思われる。

 今その数例を挙げんに、西洋にては、停車場にて賃銭を定めないで馬車に乗っても、後にて多くの金を取られるような不都合のなきことは、大いに日本の車夫とちがっている。またニューヨークの往来中には、新聞を出してその傍らに金箱を置き、この新聞を一枚とらばいくらの金を投入すべしと記したるばかりにて、別にこれを売る人が付いているわけでもないのは全く買う人々の正直で、買ったならば必ず金を入れておくからであろう。かつて土佐の国において、この法に類したところのミカンの売りかたをしていたのを見て、私は大いに土佐人の正直なるに感じたことがある。されど近来はその価を全く払わざるものさえあるということである。思うに土佐の人の正直の徳が、ようやく下落したるを知るに足るのである。

 イギリス、ロンドンにては、料理屋にてその代を払うに、出口において客のいうがまま払うがままを受け取りて、その多寡をいわない。また洋服をあつらえるにも書籍を注文するにも、先方からかつて金の催促をするなどのことのないのは、全く人を信用するの厚きによるのである。かかる空気の中に住みたる西洋人のことなれば、かつてシナ人の奸智にたけたるを見て、日本人もまたその通りであろうと予想したることもあったという。けだし東洋人の不文なことを挙ぐれば、エジプト、アラビア、インドなどが最もはなはだしく、東洋の航海中に港口にて通船に乗るとき、舟人が遠く舟を沖によせて、賃銭をむさぼる等のこともある。されど悪には染まりやすきものか、西洋人も東洋にきたりては、かの国にありて紳士徳義家といわれていたものも、乱暴家、不徳義家となるものが多いということである。

     運   動

 西洋人は、平生から勉強することに慣れていれば、しばらくの間でも無為徒然に過ごすことなく、停車場で汽車を待っている間にも、東に行き西に行きして運動しつつ待つがごとき、いわば遊ぶうちにも仕事をなすともいうべきである。

 ところが日本人は大いにしからずで、遊ぶときは飽食安臥するのをもって常とて、運動すらもなすことをしない。かれとこれとの差は果たしていかばかりであろうか。西洋にありては、運動することが常に右のごとくなれば、その結果は婦人の体育も大いに進んでいる。イギリスにては近年婦人の運動を奨励して以来、婦人の手足が大いに他国人より発育したということである。故にイギリス婦人の着ける手袋は、アメリカ婦人には大き過ぐるという話を聞いた。その手袋はただにアメリカ婦人のために大き過ぐるのみならず、日本男子の手にすら大き過ぐるという。かく英国人が婦女子までも体格の発達したのは、全く運動の好結果である。

     なにをか独立という

 日本国人の多数は、かのイギリス人を見て、驕奢である、ぜいたくであると考えているけれども、イギリス人は最も節倹を貴ぶ習慣を有するもので、その美を尽くし、飾りを極むるものといえども、決して己の分に過ぎたところの驕奢にふけるものはない。自分の富と、自分の身分とに相応したるものである。総じてイギリス人は官途にあるものといえども、多くは資産に富み、内証が豊かであって、薄給の官吏と称せらるる巡査のごときすらも、概して内に相応の蓄財があれば、官の給料をもって糊口する等のことは少ない。

 しかるにわが国にありては、大いにこれに異なり、かりそめにも役人と名のつくものの多くは、俸給によりて生活するものなれば、一朝廃官とか非職とかにあいたるときは、たちまちその生活の路を失い、妻子をして飢寒になかしめ、昨日は高官であったものも、今日は餅屋となることがある。故に官にありても、自然長官のひげのほこりを払い,重役の鼻息をうかがわざるを得ず、また名利のために道義を曲げざるを得ないことがある。あに恥ずべきの至りではなかろうか。これをしもなお独立の人といい、独立の国といわば、なにをか独立ならずといおう、ああ。

     日本主義

 由来日本主義を唱え、保存主義をいうものは、なんでもかでもみだりに日本のことや、日本のものをよいとし、日本をもって絶対的の上等国のごとく考うるものあれども、これは非常なる謬見といわざるを得ない。なんとなれば、西洋の今日の文明は、容易に日本人の企て及ぶべきところではなくて、その学術にまれ、事業にまれ、富にまれ、道徳品行にまれ,はた知力情感にまれ、いちいちわが日本に、否、全地球上に屹立して超然たるものがあるからである。

 しからばわが国人はなにもかもことごとくわが国の事物を放棄してしまって、かれに従い、かれにのっとらんかというに、これまたはなはだ不可なるものがある。いやしくも東洋独立の帝国と称せられ、特にいにしえから君子国として賞賛せられているわが大日本国であるからは、いくらかかれにまさり、かれに長じたるもののないわけはないのである。

 上には万世一系の皇室があり、下には臣子一門の民族があって、そして絶世の至徳、千古の日本魂がある。その他美術にまれ、工業にまれ、農商にまれ、地理気候にまれ、人為といい自然といい、かれにまさるものもまたはなはだ多いのである。故に、いやしくも愛国心のあるものは、たとえ日本主義とか、保存主義とかいうことを唱えずとも、わが国のかれにまさっているものをもって基本となし、その上にかれの長じたるところをとりて、われの短きところを補い、もって漸次隆盛の域に進めて行かなければならぬ。これが日本主義、保存主義の本分ではなかろうか。可なることも不可なることもこれを打ち混ぜ、日本をもって絶対的の上等国とするがごときは、真の日本主義、保存主義ということはできないのである。それのみならず、たとえかれの長をとり、かれをまねるにしてもまた大いに注意せざるべからざるものがある。

 例えば、ドイツのベルリンに東洋学校なるものがあり、その学校には自国すなわちドイツの学を本科として、東洋の学はこれをその付属として置いている。しかるにわが国にてはこれをそのままにまねて、同じく自国すなわち日本の学を付属として大学を設けたこともあった。これらはかれをまねるのに不注意なるものであって、誤謬の最もはなはだしきものである。なおその外にかれをまねて誤りたることも多いけれども、これは過去に属することであれば、深くとがむるにも当たらない。今後はかれの長を取りてわれの短を補うに、必ず先後の取捨において非常の卓見と注意とを加えなければならない。この卓見と注意とありて、始めて日本主義、保存主義を唱うることができるのである。

     気候と人身

 常に寒さに慣れているものは、いかなる厳寒にも堪え、常に熱さに慣れたるものは、いかなる酷暑にも堪えるものである。これは鍛冶屋が夏に烈火を恐れず、漁者が冬に寒氷を恐れざるのと同じわけである。されば常に慣れざる所の寒さにあいて、熱国の人は非常に困苦することがある。これを過去の歴史にみるに、南の方より来て北方を攻めたものは負け、北の方より来て南の方を撃ちしものは勝っていることが多い。これすなわち南方の暖地に育ちたるものが、にわかに北方の寒地に向かいては不便利を感ずるに反し、北方の寒地に育ちたるものが、南方の暖地に向かえば一層の便利を得ることあるによりて勝つのである。これすなわち気候が人の身の上に及ぼせる影響結果である。東洋においてロシアが強いのも、一に寒烈なるロシア風にさらさるるによるので、西洋諸国の強いのもおおむね寒国なるからである。

 私が先年、スコットランドに滞在しているとき、夜の明けたることを知らざるもの連夜であった。これは全く朝霧が深くして、太陽の光線を見ないからである。西洋諸国にてはイタリアを除くの外、常に寒気が強く、したがって霧が深く、特にイギリス、ロンドンのごときは雲霧がはなはだしくて、点灯の光をも見分けることができざれば、汽車の通行は常に砲声をもって報ずるのである。かくのごとき地はかえって人をして身体健全にして、耐忍勉強力に富ましむるものである。

     社会の進歩

 およそ世間の人情をみるに、親たるものは熱気に焦がされても、寒風にさらされても、粗衣を着、粗食をしても、その通りにして、身は常に辛苦と艱難とをなめながら、子のためには資財を惜しまずしてこれを与え、書物を買わしめ、学問をなさしめ、遊歴せしめ、修学せしめ、そしてその上達と立身とを願うものである。けだしこれは自分の不学と無経験なりしとを悔ゆるによりて、せめて子供にはこの不自由なからしめんことを思うより出づるのであるから、子たるものはよろしく親の意を思い、刻苦と精励とを積み、忍耐してそのことを修め、立身出世して人にすぐれ、その親の望みを満足せしめなくてはならない。しかしてわれまた親とならば、自ら修め、自らなしたるところを不足とし、もってその子を育て、その子に重き望みを属すべきである。

 かくのごとく親より子に対して漸を追いて向上の路をたどるときは、社会もまた漸を追いて知らず知らずのうちに進歩するものである。

     孝行

 今日の人情は、いつしか理屈の一方に走り、はなはだしきに至っては、親が子を育てるのは天に対する義務であり、子は親に対して教育してもらうべき権利があるなどというものさえあるに至った。いやしくも一片孝行の心あるものは、この言を聞きてだれかその面に唾せざるものがあろうか。試みに思え、吾人が学問をなすも、はた事業を務むるも、愉快も娯楽も、みな親があればこそ、その喜ぶ色をも見ようと欲するのである。されどこれに反してもしも親がなかったならば、事業をなすにも、その愉快が少なく、かえって親あらば喜ばしめんものをと涕泣するであろう。すなわち父なくんばなにをかたのまん、母なくんばなにをかたのまんといういにしえの詩の心となり、出でてはすなわち憂いを含み、入ってはすなわち至るところがないというような寂し味を感ずるのである。

 吾人の親は常に郷里にありて、吾人の健康と立身とのみを祈り、雨につけ、風につけ、夢にもうつつにも、片時もその子のことを忘るることなく、その一生の間、子を思うの厚きは、なかなか子が親のことを思うような薄いものではないのである。とりわけわが腹に宿し、わが懐に育てたる母は、格別に子を思うものであるから、吾人遊学中のものはその務めとして、真に親に孝行を尽くさんと欲するならば、時々書翰を投じて安否を報じ、親を慰め、品行を正し、立身をなし、もって父母を郷里に喜ばしめねばならぬ。「子を持って知る親の恩」とは、実に真情をうがち得たる名句であれば、学生たるものはその心して常に親のことを忘れてはならぬ。

     心学

 今をさる百年の昔に、儒仏神の三道を合体して、一の心学なるものを起こし、道徳修身に関することを平易通俗に解釈したるものがある。その開祖たる中沢道二は、俗称を亀屋久兵衛といい、京都新町の生まれにて、享保年中の人である。家は日蓮宗の信者にて、常に織物を業としておった。道二、あるとき、わが邸内に祭れる鬼子母神に参詣する人が多くて、あるいは賽銭を投げ、あるいはろうそくを献じなどして祈っているのを見て、ここに疑いを起こして思うに、あの偶像が果たして人の祈祷に感ずるものであろうか、果たして人の禍福を支配するものであろうか、これ恐らくは信仰祈祷する人の心の作用によるものであろうと。かく思いついてのち、所々に至りて、人を集めて自分の信ずるところの心説を披露した。

 その説くところを聞くに、常に曰く、スズメはチュウチュウ、カラスはガーガー、人には人の妙法あり、鳥には鳥の妙法ありて、畢竟儒道も仏教も神道も、これらは一体にみな心より起こるものであると言うた。京都にて大いに人の傾聴を得、のちに江戸に入って組合を設け、盛んにその説が行わるるようになった。その著せるところの書に『道二道話』なるものがある。享和三年六月十一日、七十九歳をもって江戸に没した。従来世の学者は、道徳を説くに孔孟の書などを引ききたりて、字々句々の解釈にとどまっていたが、道二の心学は種々実地に適切なる例証を引ききたりて、通俗に解しやすきを務めた。

 これよりさき、有名なる学者貝原益軒などが種々の著述をなし、何人にも分かりやすく道徳を解釈したるに、それをさえ当時の学者は卑しみたるくらいなれば、この心学はいうまでもなく、学者の顰笑するところとなった。されど有益のことが多ければ、これより漸を追うて話してみよう。

 道二の門人に、植松自謙、俗名を出雲屋和助というものがある。最もこの学説に深く帰依したるものである。あるとき隣家から出火して、のちわが家に移るに及び、裸体跣足にて逃れ出で、家財衣類一物も残さずことごとく焼失した。人のこれを見舞い慰むるあれば、曰く、これにて安心したり、家財があれば、常に気にかかること多かりしと。これより更に家をも作らず、家財をも求めず、人の食客などになり、小児など相手に一生を暮らして、その間に研究したる心学は伝わりて世間にある。すなわち現に存する『鳩翁道話』である。ついて見るがよい。

     正直と孝行について

 およそ心学は極めて通俗的に、手近かなることより説き起こして、人に感動を与うることが多い。今これを例せんに、正直は諸徳の本になるということを説くにも、曰く、金のなる木のその幹は正じ木、慈悲深木、万ほどよ木より成り、その左右に油断のな木、家内むつまじ木、潔よ木、費えな木、朝お木、かせ木等の諸枝あり云々と、実に平易にして適切なる比喩というべきである。また親に孝行すということを、平易なる歌に作りて、

無二膏や万能膏の奇特より 親孝行はなんにつけても

関取も親にはまけてみごとなり

子を思う親ほど親を思いなば 孝行の身と人やたたえん

父母の恩山より高く底深き うみの親ほど貴きはなし

親の恩あおげば高し逆らわず 仕うこころは涼しかるべし

逆らわぬ風に柳の言の葉は ただあいあいというが孝行

二親の眼鏡でそだつわが身をば 毎日お目にかくる気でもて

孝行のしたい時には親はない 親あるうちに孝行をせよ

云々と。その数は少なくないけれども、いずれもかくのごとく平易にして人情に通じやすきものばかりである。

     堪忍のことについて

 堪忍ということも、古来貴ぶところの美徳である。

錦にも綾にもあらで堪忍の 袋は見てもみごとなりけり

堪忍の徳たることを数うれば 持戒苦行もこれに及ばじ

されどいずれのときも堪忍はむずかしきものと見え、

堪忍のなる堪忍はたれもする ならぬ堪忍するが堪忍

堪忍はかならず人のためならず つまるところは己が身のため

人のまたくぐりてはじのかしこさに ちしゃのかがみと人にほめられ

あの人は弁慶よりも強いとは 堪忍強き人をいうなり

まけてのく人を弱しと思うなよ ちえのちからのつよき人なり

あらそわぬ風に柳の糸をもて 堪忍袋を縫うべかりけり

堪忍の棒で心の鬼を打て 強いものでもまけてのくなり

たえしのぶ心しなくばたれもみな 欲と怒りの身をば保たじ

わが心みがきみがきて世の中の 鏡となりて人に見られよ

もろ人の教えとなりし一言は 千々の小金にかえぬものかは

和合せずなかあしければ地獄なり なかがよければいつも極楽

など、その他多けれど略すことにするが、世事万端、堪忍という己を制する意力のあるとないとによりて、事業の成就するとせざるとを知ることができる。韓信の股をくぐりたるがごとき、張子房の靴を取りたるがごときは、堪忍中の極端なるものである。堪忍の本質は、唯々諾々黙々としてやむをのみいうのではない。すなわち知仁勇の三徳中にては、その勇に属するものなることを知らなければならぬ。

     心について

 心学というものは、もと心を本としたるものであって、これを説いたところの歌がたくさんある。そのうちに、

なせばなるなさねばならぬなにごとも ならぬというはなさぬなりけり

身はやしろ心の神をしらずして 外を願うは愚かなりけり

ちはやぶる神の社をよそにして 出で入るいきは外宮内宮

大空はただわが心一つにて 月日も星もあらわれにけり

もろ人の直き心ぞそのままに 神の神にて神の神なり

世の中はきょうより外はなかりけり きのうはすぎつあすはしられず

たのしみは春の桜に秋の月 家内なかよく三度くうめし

月かげのわけてそれとは照らさねど ながむる人の心にぞすむ

心とはいかなるものと思いしに 目にも見られず天地一ぱい

風はいき心は虚空日はまなこ 海山かけてわが身なりけり

ああらくや虚空を家とすみなして しゅみを枕にひとり寝の春

わが宿は柱をたてずふきもせず 雨にもぬれず風にもあたらず

いつの時いつの月日と思いしに 今年のきょうの今のただ今

怠らず朝起きをしてはんじょうの 時を作りて歌う鶏

朝寝坊ひるねむき坊夜寝坊 おりおり起きて居眠りをする

などがある。

     演説の心得

 演説ということは当時の流行となっていて、至る所に学術演説、政談演説、宗教演説等があって、冠婚葬祭の席上にも、また卓上演説などをする。実に流行の至りというべきである。そもそも演説の目的たるや、わが満腔の思想を吐露し、直接に多数人の心情に訴えて、あるいは志望の賛成を請い、あるいは意見の批評を請うに過ぎない。されば熱心をもって誠意を発表し、その意志のあるところを貫徹せしむるこそ肝要である。

 その演説の主意は種々あれども、その感情に訴うるものは、最も衆庶の注意を引くものであれば、いわゆる一言これを泣かしむるの熱心がなくてはならぬ。しからざれば、たとえ音声をからして饒舌するも、満身に汗を流して口説くも、聴衆にして馬耳東風に受け流し、擾々笑々のうちに聞き去る等のことあるにおいては、畢竟徒言徒労、くたびれもうけの骨折り損となってしまうのみである。特に教育家、宗教家のごとく、終身講演に身を委ねんとするものにおいては、深く注意すべきことどもである。

     平均は天界にも得難し

 ここに人があって、貧富や、貴賎や、善悪や、美醜や、大小や、強弱や、高低や、遠近や、上下や、左右や、長短や、方円や、軽重や、硬軟や、厚薄や、はた有形にも無形にも、時間にも空間にも、諸事万端について一切平均なることを望んでいるときに、一朝よい機会に際して、天界すなわち平均界に至ることを得て、もろもろのものを見れば、人種も、風俗も、大小長短も、みな同じ型に鋳たるもののごとく、一として平均ならざるものはない。よって大いにこれをうらやみ、その国の人に向かってこれを賀した。されどその国の人は嘆じていうに、否、われらもなお不平均の多いのには苦しんでいる。第一手の強弱からして、左と右とは平均しない。心臓もまた一方にのみありて不自由であるといったそうな。

 不平均のない世界は、果たしていずれにあるものであろうか。平均を得るということは誠にむずかしいことである。

     天狗化され

 人間がややもすれば天狗になることがある。これは心性作用の最も複雑なるものであるが、今一口にこれを解してみれば、人がある一時機に当たりて、自ら自身を天狗であると確信せしより、精神がついにその一方に集中し、ついにはそれがために発して、平生天狗のことについて聞いたり見たりせるところの、巧みなるもろもろのまねをなすようになるのである。その最初は夢を見ることがあるか、あるいは常に天狗のことにつきて恐懼の心を抱いているかの事情がなくてはならない。その事情があってその機会に乗じ、天狗なるものにもせよ、その他の狐狸にもせよ、玩弄することもあるであろう。それはかの犬がまず吠えついて人の胆力を試しておき、しかしてのちにかみあるいは恐懼して去るがごときものである。

     人相術

 発顕ということと心情ということとが、最も親密なる関係を有することは、身と心との相関の理からしても、万般の経験からしても、すでに明らかなるところである。さればこれを研究して、武官や文官の登用に用い、教員の検定に用い、その他人を雇うときも、金を貸すときにも、罪人を吟味するときにも、および病者を診察するとき等に利用せば、ただに人相家が路傍や四つ辻の真ん中に立って、下等なる愚民を瞞着するにまさるのみならず、真理によりてこれを活用せば、かえって糊口的人相家は跡を絶つようになるであろう。

     なんの現象ぞや

 国の東西、時の古今を問わず、吉凶禍福を予知するというの方法があって、わが日本にては干支、卜筮、人相、家相、手相、骨相、五行、九星、墨色等の諸術が、古来盛んに民間に行われていたのである。

 しかるに明治維新の革命に際し、教育や学術の変遷したるにより、かくのごとき学理に反したる牽強付会の諸術はことごとく跡をおさめて、わずかに田舎などの下等の民間にひそんでいた。しかるにいかなるわけであろうか、この法は近来に至りて再び興起し、しかもわが国文化の中心たる東京、横浜等において、看板を掲げ、張り紙をなし、新聞雑誌に広告するものが多く、はなはだしきは会を設けて雑誌発行するものあるに至った。この術がもしも真理にかなうものならんには、学術と並行すべきことはもちろんである。されど学理にも合わぬものが、今日この勢力を占めて、ほとんど学理と並行せんとするの有様を呈しているのは、全く学術の退歩といわざるを得ない。そして彼らはいえり、これは東洋の哲理である、真理であると。かかるものが果たして東洋の哲理なり、また真理なりとせば、吾人哲学者はいよいよ黙々に付することはできないのである。

     シナの神

 世界いずれの国にも、国という国の歴史には神のことを書かぬものはない。しかるにシナの歴史に限りて、これを書かざるがごときは、いかにも不思議なようであるが、シナの神は他国でいう民の歴史的の神ではなくして、シナの神は霊妙不可思議のものであるか、そうなくば精神のごときものであるかにて、すなわちこれを鬼神ととなえている。『左伝』に「ただ徳これよる」といってあるのは、すなわちこの霊妙不可思議の鬼神をいうたものであって、わが国の菅公が、

  こころだにまことのみちにかないなば 祈らぬとても神や守らん

と詠んだところの神と同じ意味である。ギリシアなどにいえる神は人間の賞罰の権をほしいままにするものにして、大いにシナの神とは異なっている。孔子は「怪力乱神を語らず」といい、また「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」といっている。これによってこれをみれば、シナには神といわずして天といい、天は神よりも重いものとしてあるらしい。孔子は孟子があるとき「天われを欺かんや」といい、あるときは「天徳をわれに生ず、桓■それわれをいかにせん」といい、「罪を天に得れば祈るところなし」といい、「天心なく人の心をもって心となす」といい、「天に口なし人をして言わしむ」といえる等の言葉がシナにあるのは、あたかも輿論の帰するところは、いかんともすることはできないというのと同じようである。しかして各国の歴史には、みな同じく自国の創造説を主とせるものであるが、ひとりシナに限ってはこれあることなく、人間の始めもだれが作ったか、なにから出てきたのかなどの疑いもなく、死後のことを、「魂は天に帰し、魄は地に帰す」といって平気でおるがごとく、これらのことについては更に介せざるもののごとくである。荘子は少しく死後のことを語っているようなれど、これまた形体は地に帰し、魂魄は天に帰すといえるをみれば、死はそのいわゆる無何有の郷に帰するもののごとく思っているらしい。

 孔子があるとき、門人子貢を使いとして、荘子派の人の死を弔わせしめしに、死者の家人行って見るに更に喪家の有様はなく、かえって非常に慶喜しておったので、使者は茫然として帰ったという話がある。これは荘子派の教えのしからしむるゆえんである。通例シナの礼としては喪は最も憂うべきものであって、はなはだしきは人を雇いて泣かしむるものさえある。けだしかくのごとくなりしが故に、人の死にたるのちを大切にすることを努めるので、すなわち「死に仕うること、生に仕うるがごとくす」というて、今なおこの礼の丁重なることは万国に勝っている。シナに鉄道を敷設せんとするに当たり、その線路が墓地にかかるからというので、これを否決したことがある。その遺風は大いにみるべきものである。

     京都論

 人間に分科専業ということが行われて、始めてその事業が進むると同じく、土地においてもまた米、麦、桑、楮等に適する分科等業があって、その土地が開けるものである。その意味を少し広めていわば、一村一郷においてもことごとく分業の道が立てば、おのおの盛んなるものとなる。すなわち東京は政治における専門の都であって、大阪は商業専門の都である。かくて三府の中にあって京都は、すなわち宗教上の専門をもって都となすものというべきか。すでに京都をもって宗教の都とするからには、予輩はいささか京都に向かって論ぜざるべからざるものがある。

 東京は政治の中心であって、政治の都となり、大阪は商業の咽喉として、商業の都となり、京都には全国宗教の本山があり、その他寺院や仏像などの併立充満する所であって、全く宗教の都と立ててもよろしい。特に京都はひとり仏教のみならず、ヤソ教においても国中屈指の神学校などもあって、とにかく京都は宗教をもって、日本、否、世界に鳴らさるべからざる土地である。

 しかるに今日の京都の有様を見るのに大いに衰微するところがありて、寺院や仏堂やその旧態を維持するものなく、あるいは破れ、あるいは倒れ、棟梁は腐り、障壁は朽ちて、見るに忍びざるものがあり。その土地にいる人には、日夜これを見ながら、さながら越人が秦人の肥瘠を見るがごとく、衰微のままに過ごし去らんとするのは、そもそもなんの心であろうか。聞くところによれば京都が仏教のために繁盛せるは、全く他国の参詣者や巡礼者などのお陰であって、土着のものはかえって宗教に冷淡にして、寺院に注意を払わず、寄付金をなしおよび世話をする等のものはないということであるが、これは将来における京都の盛衰にかかわる大なる事件ではなかろうか。

 ここにおいて私は言う、イタリアのローマは、古跡に富んだ地である。その市民は奮発興起して、古跡や旧址を修復し、もってローマの隆盛を回復したのである。京都もまたこれにならうところがあって、寺院を興さし、仏像を修復し、京都将来の振起、否、日本における宗教の都は将来をして隆盛ならしめ、世界に鳴らなくてはならぬ。なお今日のままに過ぎ去らんことは、日本のため、宗教のために、この上もなく嘆かわしいことといわねばならぬ。

     唯心主義をとるべし

 哲学には唯心と、唯物、すなわち先天論と経験論との二様がある。しかして今日は進化経験の説が盛んに行われて、唯物論が大いに勢力を占めている。

 しかしながら人もし唯心を捨てて、この唯物論にのみよるときは、外界の事物に倚頼するの心が起こり、わが心は常にその外物の所動者となりて、高尚なる精神は起こすことができなくなってしまう。

 これに反して唯心論によるときは、わが心は能動の位置に立ちて、外界の事物を支配するの根基となるものであれば、自ら吾人の思想をして広大ならしめ、精神をして高尚ならしむるものである。

 吾人が平素尊崇しているところの孔子、釈迦、ソクラテス、カントの四聖は、共に唯心論者である。すなわち釈迦の大事業をなして、万世ののち、赫々たる光明の下より、尊敬さるるゆえんは全くこの唯心の理を信じて、これを事業に努めしによることは疑いない。孔子も常にこの心を根基として、心正しければ身修まり、身修まれば家斉う、家斉えば国治まり、国治まれば天下平らかなりとまでいっておる。ソクラテスの当時においては未だ唯物だの、唯心だのという説が判然と区別のないときであったが、氏が知すなわち徳なりといいし一言は、純然心を本とせしもの、すなわち唯心論者なることを知るに足る。カントは近世唯心論の祖である。イギリスにバークリーという人があって唯心論を唱えてはいるけれども、極めて浅近なるものであれば、カントの高尚なる唯心論には、とても及ばないのである。その後にカントの論が十分にならずして、唯心論者のフィヒテが起こったけれど、畢竟はカントに呼び起こされたものである。

 要するに以上の四聖は、みな唯心の理を信じて、この上に学問を組み立て、行いを努めたるものなれば、その業ついに一世を圧倒し、その名のついに万世を轟動するに至ったるものである。畢竟するに各人が唯物主義によるときは、注意が外界の事物に通達する故、物理的思想に長ずることはあるべけれど、唯心主義によるもののごとく、精神一到なにごとか成らざらんというがごとき、広大なる思想をもって、大事業を成し遂げるというようなことは、とてもできないのである。故に公平なる眼から見て、唯物唯心の二論はいずれも同じく一理ありとするも、吾人はあくまで唯心主義をとらなければならない。

 当今世人の多くは、浅薄なる唯心主義をとれるものであって、すなわち過去のことをも思わず、未来のことをおもんぱからず、ただ現在の一世のことのみを知り、わずかに目先における肉体の快楽にのみ汲々として、高等なる精神の快楽は、永遠の幸福を望むことはない。世人がかかる唯物主義を信ずるに至りたるは、ひとりその物の不幸のみならず、それが一国一社会に及ぼすところの不幸は、実に大なるものがある。それ故に唯心論によって、精神中に別世界を形成し、外界における肉体の痛苦と困難とのいかんに頓着せず、奮発興起して大功業を成さなくてはならぬ。しかし唯心もその極端に走りて、心で思うだけのことはいかなることでも直ちに実行し得べしというがごとき弊に陥り、ついにはかの大塩平八郎のごとき失策があるかも知れず、ただ熟慮考究、忍耐精励して、高等なる精神上の快楽と、永遠の幸福とを求むることこそ、吾人の希望するところである。

 私の平素尊崇するところの四聖は、唯心論者の特に大なるものであればとってもって模範とすべきであるから、それについての所感をいささかここに述べた次第である。

     不徳もまた孤ならず

 西洋人が物事を節倹することは広く行われて、非常に努力のあるものである。しかしながら吝嗇ということは大いに違っておる。その証拠にはいかなるものといえども、有益の事業とあらば、どこまでも大金を投じて、これを成就せしめることに努める。その無益の金を費やさず、また過分のぜいたくをなさないのは、社会今日の制裁であって、もしも過分のぜいたくをなすごときことがあれば、社会に用いられず、世間にいれられぬほどである。

 わが国の人はこれに反していて、節倹と称せらるるものは、多くは吝嗇に陥り、しからざるものは常に驕奢をなしているから、とても西洋のごとく大なる事業をなしたり、資産を作ったりすることはできない。これかれのすでに発達して、われの未だ幼稚なるゆえんであろうか。

 すべて物は、縦に長ければ横に短く、横に長ければ縦に短き道理であって、美服美食をして一方に過分の快楽をとれば、たちまち貧乏痛苦に至って一方に非常に困難を生ずるものである。故におごるもの久しからずの例えのごとく、たちまち貧乏になる。したがって貧すれば鈍するといって、肉体上の貧乏が直ちに精神上に影響を及ぼし、知力意志の道理力をも失い、ついには悪心を起こして不義不道の人となり、人にまで迷惑をかくることあるに至る。「徳孤ならず必ず隣あり」とは論語のうちにある孔子の言葉であるが、これ等しく不徳孤ならずして、必ず隣ありといわねばならぬ。これみなおごりに本にするものなれば、かえすがえすも慎むべきことである。

     才子すなわち馬鹿

 日本にて才子と呼ばれるものは、多くはかなたこなたに奔走しみだりにかれこれに心を馳せ、あたかも薄紙のごとく、ペラペラとして、更に一定の方向もなく、一定の精神もなきものを指すので、真に名をなし事業を成就する等の人物をいうのではない。悲しむべきの至りである。

 才はもと材の字より出でて、用の義を意味するものなれば、必ずや一定の方向を定め、一定の精神をもって、ある事業をなす上についての活用がなくてはならない。しかるに今の世にあっては、若きうちに才子と呼ばわれたものは、年の老ゆるに従って零落するのは何故であろうか。これ今の才子はすなわち馬鹿者なるゆえんにして、世人がよく「才子才をたのんでかえって愚にしかず」というもこれである。いやしくも一事業をなさんとするものは、すべからくかれこれ自他に心を動かさず、一心にわれ志すところの一方に向かって、歩一歩を進めて、誤らざらんことに注意しなくてはならない。

 例えば階段を降るがごとく、もしも一階を踏みはずさば、数段を誤るの用心がなくてはならぬ。またかつて中村敬宇先生のいえることがある。曰く、一口の虚言をもいうことなかれ、一言軽きがごとしといえども、一言の虚を成立せんとするときは、その連絡によりて、百言の虚を構造しなくてはならないことになると。至言というべきである。今の才子たるものは最も深く慎まなくてはならない。

     ヤソ教者に一難を呈す

 ヤソ教者はみな曰く、アダムは天帝の造り出だせしものである。別に父母があってその胎内から出産したるものではないと。果たしてしからば、ここに一の難問がある。アダムはへそを有するや否や。その世間に伝うるところのアダムの図を見るのに現にへそを有すること、尋常一般の人に異ならざるがごとき有様である。もしもそのへそが真にありたりとするときは、母の胎内から出産せない人に、何故にへそを備えて置くの必要があるか。けだしそのへそあるは母の胎内より出産したることを証するものであって、天帝の造出にあらざるゆえんを示すものである。ヤソ教者もっていかんとなすか。

     世に唯物宗ありや

 従来宗教といえば、必ず霊魂の不滅を唱え、未来の賞罰、未来の苦楽を説けるものであって、その説たるや、あらゆる宗旨の目的を同じうするところである。しかるに世間には、唯物主義を唱うるものがあって、霊魂は肉体と同生同滅のものであって、肉体を離れては別に霊魂なく、肉体の死するときは、すなわち霊魂の消滅するときであって、霊魂の消滅するときは、すなわち肉体の死するときである。人の死んだのちに霊魂ばかりとどまって、地獄極楽の境界に彷徨するというようなことのある道理はないと主張する。

 この説はすこぶる薄弱であって、純然たる学術的唯物論というほどのものではない。かつ宗教として現れたるものにもあらざれど、世の中にはひそかにこの主義を信ずるものも少なからざれば、今仮にこれを唯物宗と称うるも、またいわれのないことではなかろう。しかるに元来宗旨なるものは、心を根本として立てたるものであれば、霊魂の不滅、未来の禍福は、徹頭徹尾、これを主張しなくてはならない。しからば唯物宗は、果たして宗旨として成り立つことはできないか。あるいはまたあながち成り立つあたわざるものにもあらざるか。そのことたる学者の考究を要するところであろう。

 今日宗教の定義として普通に唱うるところによると、無限絶対の本体を根拠として、これに帰向し、あるいはこれに依憑して、もって安心立命を営むものとなっているも、もしその意味を一層広く説ききたりて、いやしくも人の心を信ずるところがあって、これによりて安心立命することを得るものは、みな宗教であると定むるときは、唯物論もまた一種の宗教とならざるを得ないのである。しかるに古来その説は学術上の一論として存するのみにて、未だ宗教となりて世に現れざるは、いかなる理由によるか。また古来、唯物宗を立てんと試みたるものもなきにはあらざれども、実際社会に勢力を占むることあたわざりしは、また必ずそこに道理の存することであろう。私は論理の上から唯物論はいたって薄弱にして、宗旨を開立するには足らざるものだと信ずるものであるけれども、すべて事物は反対の刺激によりて、活動もしまた進歩もするものなれば、幸いにこの宗旨の起こったならば、久しく太平世界に長夜の夢を結んでいる宗教家、および信徒のため、一服の刺激剤となりてかえって奮起勇進の結果を見ることも得べく、またこれによりて、従来、世間に唱えているところの浅薄なる唯物論を打ち破りて、更に高尚なる唯物論に接することをも得べく、したがって唯心論が勃興して真正なる宗教をも見るに至るべければ、この一種異様なる宗旨の起こらんことは、かえって宗教進歩のために望むべきことであろう。

 かく論ずるときは、人必ず予を評して、好みて宗教の敵を誘い起こしたのであるというかもしれないが、しかし私は決してこれを好むものではない。ただ今日社会の人にして中等以上に位するものは、大抵唯物主義を信ずるものであって、中等以上の学識あるものに至りては、なおさら唯物論者である。その論者は未だ教会を組織したり、宗教を開立するほどには至らないけれども、早晩その議論が従来の宗教に反対して、戦旗を論場に掲ぐるの日あるは疑うことはできぬ。しかるときは、宗教はいかにしてこの敵に当たらんとするのであるか。故に宗教家たるものは、今より唯物宗が、世に起こりたるものを仮定して、これに対する防御策を講じなくてはならない。

 私の考うるにはこの敵には仏教やヤソ教も、共同して防御せざるを得ざるものであろう。なんとなれば、霊魂不滅、未来賞罰は両教の共同して唱導するところであるからである。しかるに今日の宗教家は、この大敵が世上に隠見して存在することを知らず、泰然として自ら安んずるは、私の了解することあたわざるところである。もしもこの点に注意して、早く防御の策を講じようと欲せば、哲学上、唯心哲学を講究せなくてはならない。世の宗教家たるものは、その何宗何教たるを問わず、よろしく今より哲学の専攻に従事することが大切である。

     香典は生命保険の一種なるか

 近年盛んに流行するところの生命保険会社は、その組織もほぼ完全にして文明の現象の一種となっている。人がもしこれに入社しておくならば、一朝不虞の死にあうことがあっても、葬式ができないで屍を原野にさらすような憂いなく、遺族のものが道路に凍餓するような憂いがない。実に結構なる会社なりといわねばならぬ。およそ中等以下の者にありては、平素より将来のことを心掛けて、毎月あるいは毎日若干ずつの貯金をなし、不意の費用、または死後の入用に供えんとするは、ずいぶんむずかしいことであるけれども、この会社に入り、強制的に毎年もしくは毎月にいくばくずつかの金銭を投入することは、さほどむずかしいことではなくして、他日巨額の金となるはあらかじめ期して待つべきである。

 わが国には古来、頼母子講なるものがあって、すこぶるこの保険会社に類している。すなわち平生塵芥のいささかなる遺利を拾い、衣食の冗費を省き、もって少しばかりずつの掛け金をなしておかば、ついには田も買うべく、家も作るべく、死にたるときには、遺族を養うの資となるのである。すなわち塵埃のごとき掛け銭も、山岳のごとき取り金となりて、かえって驚くことがあるのである。

 またわが国には葬祭の礼があって、親族朋友の間には、人の死んだことを聞けば必ず弔い、これを贈るに香典と称する金銭をもってするがごときも、保険とその性質を同じうするものである。自分がその生きているときにあって、人に香典を贈っておけば、自分の死んだときには、他人から香典を贈ってきて、それによって鰥寡の人も葬送の儀を欠くことなく、孤独のものも供養の礼を尽くすことができ、かつて不自由と粗略とを見ざるのである。これは畢竟生前に贈遺せる一封ずつの香典が、死後一時に集まり帰りて、その費に供せらるるものであって、その組織には保険会社の仕組みなく、また明文の規約はないけれども、父祖伝来の習慣は自ら確固たる不文の法律となって、広く民間に行われていることは、とりもなおさず生命保険会社の一種である。西洋にも古代は頼母子香典の風俗ありしも、今は一変して保険会社の制度を見るに至り、また香典の風習を見ない。

 わが国近来、保険の制度やや発達したりといえども、これを西洋にくらぶれば、その組織未だ完全ならざるをもって、なお頼母子講や香典の風俗を存している。この二つのものはいずれも必要有益として並存すべきであるが、その規律的約束と徳義的約束とは、到底日を同じうして語ることはできない。その徳義的約束のごときは、あるいは未来の遺風という者もあるかも知らぬが、また古代の純朴の美風を保存するものであれば、今日のごとく規律的一方に流るる弊を防ぐの一端ともなるのであろう。

 しかるに現今における中等以上の葬祭を見るに、香典や供物等の贈答が、ついにその極に走り、いたずらに生花、造花、放鳥等の美麗と過多とを競いて、その葬儀を装うに至った。これは決して香典の本旨ではない。また弔慰の真意ではなかろう。生花は美なりといえども数日を出でずして枯れ、造花は麗しといえども雨露にあえばたちまち朽ちてしまうのである。したがって贈る者からいえば、ずいぶん費えも多いのであるけれども、喪家の方からいえば、利するところは決して多くはないのである。もしかかる虚飾の悪弊を廃して、これに代うるに相当の香典をもってしたならば、その葬者の仕合わせは多くして、かえって純朴の美をなすことになるであろう。故に私は現今主に中等以下に行われるところの香典の方法をして、今一層発達せしめ、上下を通じてもっぱらこの純朴なる徳義的贈答として、その生命保険会社の効用に一歩を譲らざるに至らしめんことを望むのである。

     厭世教の必要

 宗教のうちでも厭世的の宗教は、はなはだ不都合であるとの議論は、今日盛んに行わるるところである。しかしながら私のみるところをもってすれば、宗教は必ずしも世を愛するものたらざるべからずということでなかろう。かえって宗教の真相よりいえば、厭世の分子を含まなければならぬ。厭世であってこそ始めて世間をも利し、また宗教なるものの本旨をも達することができるのである。ただ恐るるところは、あまり極端の厭世に走るときは、社会の要務をも放棄するに至らんも知れざることである。

 されば何故に宗教に厭世が必要であるかというゆえんを説かんには、吾人は常に俗塵の間に奔走して、朝から晩まで名利のために使役せられ、また愛欲のために纒縛せられているのであるから、商人はおのおのその商業によりて相敵視し、工人はおのおのその工業をもってまず己を利せんとし、互いに人目をかすめて己一人の利益を計ることのみ汲々とするの常にて、それがためには寝食をも忘れ、いわゆる愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑しているものである。かくのごとく日夜精神を労し、肢体を疲らすといえども、それのみをもって人間たるの目的を全うすることはとてもできないので、精神の疲れたるときには、しばらくこれを休めてまた業務に就かなければならぬ。故に一週間のうち五日間、もしくは六日間は競争場裏に立って、世俗と交わり、生存競争のために身心共に汚れるのであるから、そのつぎなる一日の休暇を得て心思を休め、精神を清め、永く志気を持続せしめんことを要する。

 しかしてそのよくこれをなすには、浮世の塵を脱離したる閑寂なるところにおいてせなければならない。してみると、その世俗を脱離したる地というものは、どこにあるであろうか。また汚穢を洗浄すべきものはなにものであろうかといわば、清浄閑寂なる地は寺院であって、これを洗浄すべき法水は、宗教であるといわなければならぬ。しかるに、その寺院たりその宗教たるものが、もしも俗気をもって満たされているならば、いかでか身や心の汚穢を洗浄して、安心立命の楽地に達せしめることを得ようや。これすでに俗なるが上になお俗をかさね、すでに汚れたるが上になお汚れを重ねしむるものである。故に宗教は必ず超絶的であって、また厭世的でなければならぬのである。

 それしかり、しからば厭世教なればこそ、農業にも、工業にも、あるいは商業にも、政治においても、その心を労し、その思いを乱しおるところの世人を救済することを得るのである。しかるに世人の唱うるところを聞くに、宗教はよろしく愛世主義でなければならぬ。社会の問題に触れなくてはならぬ。しからざれば宗教としてなんらの実なきものであるというが、これは一方に偏したること実にはなはだしきものである。私ももとより愛世の必要なることを知らざるわけではないけれども、前述のごとく濁りたる世を救わんとするには、適度に厭世の分子を加えなくてはならないと思う。今日の人々が厭世教を嫌忌するゆえんは、厭世教は、ややもすれば世計をいとい競争場裏に奔走するを嫌い、財産や妻子のいかんをも顧みざるに至り、社会の成立を害せんとするの傾きあるによるのである。しかしながらかくのごときは、宗教の厭世的分子が極端に偏したるものであって、厭世の裏面には愛世あることを知らざるによるのである。およそ宗教は厭世の位置に立ちて、世の愛世の極端に走るところの弊を制止して、もって世道の権衡を保ち、もって世間を利するものであれば、その厭世であるということのみを挙げて、もってこの宗教は徹頭徹尾世に害ありと断定するのは、不当の評たるを免れないであろう。

 故にもしも宗教をもって世を利せんと欲するならば、その厭世主義を世間に利用しながら、その裏面に愛世あることを記憶せしめ、もって両者の中を得せしめなければならぬ。東洋の宗教には厭世主義が多い。これは大いに原因のあることである。そもそも宗教は社会の有様に応じてあらわるるものであって、世の流弊を救うて、人に安心立命を与うるのを目的とするものである。世人は常に利欲のために奔走し、迷路に彷徨し、心の平和と安楽とを得ることができぬ。故にこの不満足と不安心とを医せんとするには、勢い厭世の意味を加えなければならぬ。故にいずれの世、いずれの国にしても、圧制政治の行わるるところにおいては、宗教はますます厭世的に傾く風があることを見る。これ東洋に厭世主義の宗教の興ったゆえんであろう。しかれども、その厭世の裏面には必ず愛世のあることを忘れてはならぬ。

 日本現今の仏教中において、天台宗、真言宗、禅宗のごときは、厭世主義の極端に走りたるもののごときも、その実決して厭世一方に偏するものではない。これを目して厭世のみを説き、破壊のみを唱道するものなりとするのは、これただ皮相より論定したる浅見である。その他日蓮宗、浄土宗、真宗のごときは、厭世をはなれて、世間的すなわち愛世を説いているけれども、その裏面はやはり厭世をもって本意としている。その愛世の最たるものとみらるるところの真宗のごときも、また真俗の二諦を分かちて、王法為本を教えているが、その実は出世間道を真実とするのである。

 かくのごとく、仏教は厭世のはなはだしき禅宗のごときすらも、愛世を離れず、愛世に傾きたる真宗のごときすらも、厭世を離れず、愛厭相合してその中を得たる宗教である。以上述ぶるがごとく、宗教は徹頭徹尾厭世のみにては、その功を奏せざると同様に、愛世のみにてもまたいづくんぞその効を奏するを得んやである。吾人が日常の経験に徴しても、厭世主義の必要なことは知られるも、かの熱湯紛擾の市中に雑居し、愛欲の街頭に奔走して、苦悩の海中に沈淪するときは、自然に人跡の遠い山中に入りて、精神を養わんと欲する念、おのずからうちに動きて禁ずることあたわざるものである。しかして緑樹蓊蔚として、閑雅幽邃なる地に存する寺門に入るときは、一種いうべからざる異様の思想を誘い起こし、あたかも仙郷に入るがごとく、一日ここにとどまれば、百年、千年の寿を長からしむ思いがある。けだし今日にありては、各宗の寺院、特に禅宗の寺院は、多く山間幽邃の地にあって、風景も美しく、四囲の事情は静閑あまりありて、地霊なれば、その人また霊なるの趣あるは、深く道理の存するところである。

 今よりしてのち、社会はますます多事多忙の世となり、人をして一週間もしくは十日間も競争場裏に奔走せしめたならば、つぎの一日間は終日かかる霊境に遊んで、精神を養わんことを思わしむるようになるのは必然である。故に私は宗教が世を益し、社会を利するのは、その厭世の風を帯び、厭世の味わいを有する点にあると思うが、ただただ宗教を奉ずるものをして、厭世の裏面に愛世あるゆえんを忘れざらしむることを務めなければならぬ。

     真宗にてはよろしく仏式結婚を組織すべし

 ヤソ教においては、人間が生まれてから死に至るまで、ことごとくその教えの儀式によりてことを行う風がある。故に人の生まるるや、まず教会において洗礼を受けしめ、結婚には神前において結婚の式を挙げ、死んだときにもまたその式をもって葬らるるのである。しかるに仏教においてはこれらの儀式がはなはだ少なく、寺院はただ死後を支配するのみであって、生時には更に関することなき有様である。

 それ宗教というものは、その真意から論ずるときは、世の中の平和を保ち、人に安楽を与うるにあるので、決して儀式をもって目的とするものではないのである。故に仏教を一の宗教としてみるときには、安心立命を講ずるをもって足れりとするので、あえて世の中の儀式に関係することを要さないのである。ただに生きてるときにおけるのみならず、死にたるのちにおいても、多くの金をなげうちて、葬祭を行い、香花や灯明を供え、読経や法会を営むことを要さないのである。これをなしたりとて、死にたる者はこれがために、一時に今までの重悪を減じて善人となるにもあらず、また地獄に墜落するのを転じて極楽に生まるるわけでもない。しかしながら、思いが内にあれば色が外に現るる道理にて、心に宗教を信じておれば、その思いが必ず形体に現れて儀式となるのである。例せば、その親が生前仏教を信ぜしものならば、その子たるものは親を追懐するの情より、葬祭の儀式には仏式をもってなさんとするに至るのである。

 またこの儀式なるものは、大いに人の感情を動かすものであって、宗教を弘むるにも、知力のみによりて信仰を起こさしむるよりも、むしろこれらの儀式によりて、感情の上よりも信ぜしむべきである。今日世人の信仰の多くは、この感情に基づきて成立しおるのである。故に宗教を弘めんと欲せば、死にたるのちにおいて葬祭をなすのみにとどまらず、生きてるときにおいても仏教的の儀式をもってすべきである。

 ヤソ教にはこれらの儀式が、すでにその条例に現れていて、人の結婚をなすがごときも、神意によるものとなし、結婚に当たりては神に向かいて、固くその命を守り、永く夫妻の契約を保たんことを誓いてその式を挙ぐるのである。

 しかるに仏教においては、これらの儀式に関することは、更に経典のうちに存することはない。もとより宗教の真相からいえば、あえて儀式などを要さないわけではあるが、これを弘むる一の手段としては、また儀式をもって人情に訴うるを必要とするのである。さて仏教の諸宗中において、真宗のごときは、弥陀を立ててその弘願の力によりて、成仏得脱するものなりと説き、ほとんどヤソ教に相類せるがごとくであるけれども、他の聖道自力の諸門に至りては、独立独行の見識を立てて、自力をもって修行し、他の力をからずして無上覚を得、成仏得脱をなさんとするものである。それであるから、決して神仏に対して奉灯だの供養だの礼拝だのをすることを要さないのである。しかるにこれらの諸宗も、みなヤソ教のごとく、さかんに死後におけるところの儀式を張るのは何故であるか。これはその死者を思う情が、あふれて生前信仰せる宗教に及び、したがってそれをもって、祭式を行い、それに満足を与えんとする心から出るのである。

 されば結婚のごときは、ここに仏式的の儀式を設けてこれを挙げたからといっても、決して仏教上の教義に違戻するわけでもなかろう。すでに結婚を仏式にて行い、葬祭も仏式にてなすときは、その信仰を固うし、一層信仰者を増すに至るであろう。もしも仏教には結婚式等を設くるを要さないとせんか、将来世の進むに従い、結婚は宗教の式によりて挙ぐべしという者が出てくるときは、なんとするであろう。

 しかるに仏式には結婚式なるものの設けがないとしたならば、いかにしてこれを行うことを得ようか。勢いヤソ教によらなければならぬ。結婚すでにヤソ教の式をもって挙げらるるに至らば、死後の葬祭式のごときも、またヤソ教をもってせなければならぬようになるであろう。かくのごとくして、これらの者がみなヤソ教信者となる以上は、すなわち仏教の衰頽を招くものである。はや数年前のことであったが、ある所において一人の仏教信者があって、仏式をもって結婚を行おうと思い、これを寺院の僧侶に計ったけれども、未だ仏式においてはそれらの式典がないによって、いかにして可なるやを知らずといって、せっかくの思い付きもついに意を果たすことができなかったとの話を聞いた。思うに将来はかくのごとく、寺院に請うて仏式をもって結婚式を行おうとするものが、続々出てくるであろう。しかるに前陳のごとく、仏式にはこれらの式典なく、ひとりヤソ教にのみその式ありとするときは、仏教はその信者を減じて、ヤソ教の信者を増すに至るであろう。これ、私が仏式結婚の組織せられんことを望むゆえんである。

 そもそも今日まで仏教が人の生時の儀式などに関係せざりしゆえんを考うるに、私をもってみるときは、日本には古来神仏の二教が並立していて、主時における儀式、その他の祝うべきことには、神道がこれに預かり、死後また悲しむべきことには、仏教がこれに関する習慣である。しかのみならず、仏教は厭世を説き、出世間道を講ずるものであれば、ついに人種の習性となり、仏式は縁起の悪いものとして、祝事等には嫌忌せらるるに至りしものである。

 しかれども、仏教の真相から観察すれば、厭世のみを説くわけでもなく、その裏面には愛世をも説くのである。ことに弘法布教の手段としては、進んで社交的の結婚式にも加わらなければならぬ。故に仏教家も、今よりまず一定の結婚式を組織すべきである。しからば、いずれの宗派をもって最もこれを組成するに便利であるかというに、すなわち真宗は仏教中最も世俗に近き宗旨であれば、よろしく真言宗をもって仏式結婚の嚆矢たらしめなければならぬ。

     天台宗はあくまで保存主義を守るべし

 およそ世の進歩は、改進の一方にても、また保守の一方にても、共に完全を期することは難い。必ずやここに改進があればかれに保守があり、かれに保守があればここに改進があり、この二つのものは相待ち、相伴うて、始めて進歩を全うするを得るのである。故に世の進歩は日に新たにまた日に新たなる。その間においても、一定不変の保守の精神がなくてはならぬ。政治の上においても、改進と保守との二つの主義があって、国家は始めてその目的を全うするではないか。これを国家全体の進歩上について論ずれば、学術のごときは改進の方向をとるものである。けだし学理は知新の方向をとり、一歩より一歩を進めて、昨日より今日、今日より明日と、日に月に変遷し、昨日は真理なりと認めたることも、今日にては非真理となり、今日は真理なりと許すところも、明日に至らば、あるいは非真理とならんも計り難い。かくのごとく、日に月に新たにして、ついに一大真理を発見するに至るもの、これが学術の任務である。宗教はこれに反して、二千年、三千年のいにしえに一人の偉人が出でて、唱道したる説を今日に奉持し、これをもって万古不易の真理であるとして、永くこれを保持せんとするものである。故に学術は改進の主義をとりて、国家を文明に進め、宗教は保守の主義をとりて、国粋を保存し、この二つのものが相待ちて、世の文明社会の平和を得しめ、完全なる進歩を見ることを得るのである。

 しかるに保守をもて任ずべき宗教にも、その一局部においては、また自ら改進と保守との二主義を併有するものである。例えば三千年のいにしえにおいて、釈尊の説かれた法をもって、これを今日の学理に照らして応用せしめんとするものは、いわゆる改進主義であり、これをそのままに存しておいて変せず改めざるはいわゆる保守主義である。今日仏教上の有様を見るに、少しく志あるの士は宗教の改革を計り、組織を変じて学術に適応せしめんとしている。これは畢竟今日までの保守の反動であって、仏教を活動的宗教となさんとするの趣旨から起こったものである。

 しかれども一国の上に改進と保守との二つの主義があって、一方に日新を計ると同時に、他方には国粋を保存せんとするがごとく、宗教にも改進と保守の二道があって、その目的を全うすべきである。決して改進にのみ走ってはならぬ。

 今これを仏教各派の上について区別してみるに、真宗のごときは最も改進の方向をとるもので、これに反して天台、真言のごときは保守の性質を帯ぶるものである。すなわち真宗のごとき改進主義があれば、また天台のごとき保守主義のものもあって、もってその権衡を保つことが必要である。しかして仏教の全体からいえば、もとより保守であって、この保守は大いに一国の盛衰に関係を有するものである。けだし宗教そのものが本来保守をもって世に立ち、学術と相対して国家の権衡を得るものであるからして、いずれの宗派にかかわらず、あくまでその専門たるところの保守主義を貫かなければならないのである。

 しかるにある一派の論者ありて曰く、今日の時代は改良進歩の時代である、なにごとに限らず、決して保守主義をとるのときではないから、仏教もよろしく改進の方針をとらねばならぬと。その論法たるあたかも器具は新しきを良しとすというがごとくである。新しきものはもとより可なり、しかれども世には数百、千年の前、未だ鉄器の発明もなき時代の古物を珍重愛玩し、これがためには数千万金をなげうちて、あえて高価なりとせざるものがある。もしも器物に新しきもののみをもって可なりとするならば、なんぞ無用の古物に、この莫大の金を費やすを要せん。その他布帛、織物、書画等も新しきを良しとすれば、古代の製作を求むるの必要はないはずである。これけだし古物なるものは、また世の進歩に欠くべからざるところがあるによるのである。

 しかるに宗教はなかんずく保守をもって世に立ち、学術と相対抗して世の権衡を保たんとするものであれば、わが国の仏教はその創設以来の有様より、相伝えて中古の文物習慣を保存し、これによりてわが国体を護持すべきものである。もしもこれに反して、宗教をもって学術のごとく、日新進歩の趨勢に任せておくならば、かえって国家を破壊するの結果を見るに至るのである。とはいえ時勢が時勢であるからには、今日の宗教は昔日のごとく頑陋一方の保守をとるべからざるものであれば、よろしく保守のうちにも多少の改進を交えなければならぬ。かつ同一の宗教中においても、改進をとるべきものと、保守をとるものとは、よろしくその専門の傾向を分かたねばならぬ。

 果たしてしからば、仏教中にありては、真宗はその性質保守中の改進をとるものであるから、これを改進派とし、天台宗のごときはわが国最古の宗旨なれば、保守中の保守をとりて保守派となすべきである。故に天台宗はあくまで古風を墨守し、旧を保持し、いたずらに改進にならわずして、仏教の真相を相伝せねばならぬ。これその宗派の本色なるのみならず、宗教全体の精神にして、あわせてその国家を利する要訣である。

     真言宗は八宗兼学宗たるべし

 宗教の最も国家に必要なるゆえんは、それによって一国の人心を一致結合せしむるにあるので、一国の人心を結合し、国家をして独立を全うせしめんとするには、必ず宗教の力をもってせなくてはならないのである。これは宗教のうちに、人の心を一致結合せしむべき力が存在しているによるのである。

 しかるに仏教には多くの宗派があって、ややもすると一致を欠くの有様がある。これは大いに理由のあることである。なんとなれば、仏教は随機応変の法であって、ことさらに種々雑多なる宗義を説き示してあるが故に、これに応じてその宗派も数派に分かれたからである。仏教がかく分離したのは、すでに千百年のいにしえのことで、爾来相伝えて各宗各派ただその一部内の宗義をのみ真実とし、余宗もまた共に一大仏教海中の波瀾であることを忘るるに至ったからである。これ仏教が宗教の第一要旨たる一致結合に適せざる事情である。左にその理由を述べてみよう。

 仏教とヤソ教との両教は、おのおのその開祖として立つるものは一人であって、ヤソ教はヤソを祖とし、仏教は釈迦を祖とする。しかしてヤソ教は今日数派に分かれているけれども、各派同じくヤソの誕生や昇天を祭らざるはない。しかるに仏教においては、数百年の習慣によりて各宗みなこの教祖あることを知ってはいるけれども、その降誕を祝したり入滅を祭ったりするのは、わずかに禅宗のごときに過ぎずして、その他の諸宗はその一宗の開山祖師を祭るのみであるらしい。これが仏教の一致を欠くの第一点である。

 またヤソ教はその何派なるを問わず、基づくところの経典は『バイブル』一巻である。しかるに仏教では、各宗相違せるところの経典を奉じ、天台宗のごときは『法華経』をもって所依の経としているかと思えば、真宗のごときは『浄土三部経』をもって本典となすがごとき、これまた仏教の一致を欠くの一原因である。

 またヤソ教は、その教うるところがあくまで一つの主義をもって貫徹せんとしている。しかるに仏教ではこれに反して、同一金口より出でたる説であっても、法門は八万四千の多きに分かれていて、いずれの説もその根機に応ずるの真理であれば、互いに一部をとりて宗派を別に立たして、諸宗の並行するを許さざる風がある。これまた各宗割拠孤立の原因である。かくのごとく仏教とヤソ教とは、大いにその性質を異にするところがあるけども、その今日仏教各宗孤立の風あるは、要するに従来内外の事情のしからしむるところと断言してよかろう。

 すなわち日本における仏教は、泰平無事の社会にありて、外国の交渉なき別天地に成長したるが故に、おのおの分立して一致をなさなかったものである。ヤソ教は一つの主義をもって貫くものであるけれども、なお各宗が互いにそれぞれ異なりたる信条を奉じているゆえんのものは、その今まで弘まりし国々が他方との交通頻繁にして、各国共に人心を結合するには、各国それぞれ自国に適する信条を立つるの必要あって、アメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、ロシア、おのおのその国に一種の宗派があって、一定の信条を唱え、もって人心を団結することを務めている。

 しかるに仏教のごときは、昔年敵視していたときの余弊を国家的団結の必要ある今日にまでも及ぼしている。もしも今にして一致の運動をなさなければ、人心を結合することはできない。したがって一国の衰頽を招き、したがって宗教そのものもまた勢力を失うに至るであろう。兄弟牆に鬩げども、外はその悔りを防ぐとの語は、今日の仏教者たるものよろしく鑑みるべきところである。

 人あるいは曰く、ヤソ教はその自然の性質として人心を結合するに適し、仏教はこれに適していないと。私の思うには、その適不適は性質の上に存するのではない。なんとなれば、ヤソ教は性質上一致すべき宗旨であるけれども、実際上ことごとく一致しているわけにはゆかない。かの旧教と新教とが、互いに相いれないごときは、むしろ仏教中の各宗各派よりもはなはだしいほどである。しからばその一致はなんによりて起こるかというに、古人のいえるがごとく、人よく道を弘む、道の人を弘むるにあらずといったように、一致するも一致せざるも、全く人にあるのである。今人によりて一致の政略を行わんと欲せば、まず各宗ともに奉戴する釈尊を祭るの風を各宗の間に起こすことが、その一手段である。学問上において八宗兼学を置くのも、第二の方法である。当今においては、各宗とも多少の兼学をなしてはいるけれども、一宗一派の経典教義を根元として、これに親密なる関係を有するもののみ選びて研究するものであって、決して一宗一派を離れて、公平に八宗を兼学するものではない。実に八宗兼学は八宗の気脈を通じて、一致の運動をなすの要法である。

 果たしてしからば仏教中いずれの宗旨をもって、この望みを達せしむるに可なるかというに、私をもってこれをみるときは、仏教中在来の宗派においては、真言宗に如くはなかろうと思われる。これその宗の十住心の判釈によっても明らかである。すでにその宗においては、従来倶舎、法相、華厳、天台を兼学したるものであれば、八宗兼学は、真言をおいては、他にこれを求めることはむずかしい。

 かつて北畠氏が釈迦宗なるものを興して、八宗を合一せんことを試みられたけれども、ついに成功することあたわず。思うにいずれの日かその目的を達するを得るであろう。されば当今においては、真言宗は学問上にて仏教の一致をなすべき中心である。ただに学問上においてのみならず、これを拡充しては、仏教実際上の一致、および国家の団結を実行し得べき重要の問題なれば、私はこの真言宗に向かって、今日より八宗の中心となりて、兼学の目的を達せられんことを望むものである。

     禁酒論

 近来禁酒論が盛んに民間に行われて、あるいは禁酒会だの、あるいは節酒会だののごときものが、続々として起こっている。これらの禁酒説は多くヤソ教者によりて唱えらるるが故に、ある地方に至ってはこれらの説を唱道し、これらの会を組織するものをもって、ヤソ教者のごとくに思い、仏教者はこれに反対して禁酒論を唱え、ヤソ教者が廃娼論を唱うれば、仏教者は存娼論を主張するに至っている。

 しかれども禁酒はかえって仏教の持ち前である。現に寺院の門前には「葷酒山門に入るを許さず」と刻したる禁酒石を立てているではないか。また戒律中には禁酒の戒があって、飲酒を厳禁しているではないか。されば仏教者もまた努めて禁酒を行うべきである。しかるになんぞや、禁酒をもってヤソ教主義のごとくに考え、はなはだしきはこれにみだりに反対を唱うるがごときは、識者の笑いを免れないことである。

 私は今禁酒を分類して、二種となさんとする。その一を絶対的禁酒といい、その一を相対的禁酒というのである。絶対的禁酒というのは、いかなる場合、いかなる事情なるを問わず、一切禁酒をなすものであって、これはすこぶる困難なることである。相対的禁酒というのは、時と場合と、またその事情とによりて、禁酒するものであって、その範囲を広めていうときは、世人はみな相対的禁酒家でないものはないのである。

 またこの相対的禁酒を分かちて、時間的禁酒、空間的禁酒、事情的禁酒の三つとする。時間的禁酒というのは時間に制限を設けるので、あるいは一年間とか、あるいは三年間とか、あるいは一月間とか、あるいは十日間というがごとく、時日を限りて飲酒をやめ、あるいは夏期中酒を禁じ、あるいは昼間これを廃するがごときをいう。空間的禁酒というのは場所によりて禁酒をなすものであって、あるいは自宅においては禁酒をなし、あるいは宅外に出でては一滴も酒を口にせず、あるいは料理店に行きては盃觴を手にせざるの類である。事情的禁酒とは時間および空間にまたがっているものであって、祭祀には酒を禁じ、あるいは忌中、あるいは仏事等には酒を廃するがごとき、あるいは病気のため、あるいは養生のために、これを絶つがごときの類を事情的禁酒というのである。

 もしも禁酒の部類をかくのごとく分かつときは、世に一人として禁酒家でないものはなかろう。なんとなれば、いかなる好酒家といえども、昼夜朝暮一刻片時も休まずして、酒を用うる者はないはずであるからである。しかれども、禁酒の目的は、なるべく時間空間の範囲をして大ならしむるを努むるにある。しかるに絶対的禁酒なるものは前にも述べたるがごとく、はなはだ困難であって容易になし得ないであろう。もしも相対的禁酒から、漸次にその歩を進めて、一日間の禁酒を一週間となし、自宅の禁酒を宅外にも及ぼし、病中のみなりし禁酒を、更に進めて平癒ののちにも行い、しかしてついにいずれの場合、いずれの時間、いずれの事情においても、禁酒をなすように、漸進的の方法をとるならば、だれにても禁酒することができるであろう。

 そもそも人々すでに好酒の癖を生じたる以上は、一時にこれを廃せんとするときは、かえって害を招き、到底行うべからざることである。故にまず昼間には飲酒を廃して、日没休業後にこれを用うることとし、三度なりしものは一度となし、あるいはその量を減じて、漸次相進みて、相対的より絶対的に至らしめるがよろしかろう。例せば、十里の行程を一またぎに達せんとせば、はなはだ困難であって、到底望むべからざることであるけれども、一歩より一歩と漸進するときには、容易に目的の場所に達することができる。禁酒におけるもまたその通りに、よろしく漸進的方法を用うべきである。

     海水潮汐の古説

 海水の潮汐について、文明進歩の今日、なお科学の理を知らざるものは、これに対して種々なる疑いを抱けるくらいであれば、未開の人民がこれを不思議とし、種々なる付会の言をもって、これを説明して、その安心を求めんとするももっともなることであろう。

 なかんずく最も奇怪なるは、海中に大魚があって、それが洞穴に出入するために、海水の潮汐をなすといい、また潮汐は天地の呼吸であるという。今その呼吸説を聞くに、人の呼吸はその寿命によりて異なるけれども、百歳の寿を保つものは、一昼夜の呼吸が一万三千五百である。しかして神は昼夜に六呼吸をなす。天地も寿命ありて、一昼夜に二呼吸をなす。これが海水の潮汐をなすゆえんである。すなわち天地の呼吸が上がるときは潮にして、下がるときは汐なりという。けだしこの天地呼吸説は一舟夫の説であるがごとくなりしが、未開の人民はかかる説にても安心することを得たものとみえる。

     竜 宮 界

 海の中に竜宮があるとは、古来シナにもインドにも日本にも唱えられていることであるが、これは全く海外において未だ知られざりし島のことであろう。

 わが垂仁帝のころ、丹波の与謝郡に浦島太郎という者がいて、竜宮へ行ったと伝えるのは、おそらく今のインドであったろうともいう。シナにても、海外に竜宮があるとして尋ねたることがある。仏教にては、竜樹菩薩が竜宮に至りて、大乗教を持ち帰ったという。しかしこの竜宮はあるいは竜樹の作ならんともいう。とにかく竜宮というは、いずれにしても海底の瑠璃世界ではなくして、海外におけるやや開けたる国なりしことは疑うの余地はない。もしまたしからざれば、山間僻地であって、人跡の絶えたる所であろう。

 竜樹がいうところの竜宮というのも、あるいは海外の諸国か、または山間僻地のことであって、大乗、インドに盛んならざりしころ、この山間僻地、海外等に伝わっていたことを尋ねて、竜樹が伝えたのではなかろうか。

 すべていにしえは海上または山間などにて、異人に会えば仙人と思いたることなどは『蒙求』の中にもあまたこれがある。武陵桃源の談のごときもまたその一である。また山中の仙境に遊んで、一席の囲碁を見て、七代を過ぎて帰りたるなどのことも、みな竜宮説と似たようなものである。

     神憑

 神憑(カミガカリ)ということについて、よほど以前に私を訪うてその説を求めた人がある。その人の言うに、いかなる神といえども、みなこれを人に乗り移らしめ得るものである云々と。私は折節他に用事があって、これと問答することも得なかったが、のちにその人の宿所を尋ね、同道してその師の家を問うた。その師は本多九郎といえる老人であって、常に白衣を着けている。

 その人のいうに、余は十六歳から神憑のことを研究し、いかなる人にも神を乗り移らせて、神の通りにいわしめる。しかしこの法は古来わが国に伝われることであって、その祖はすなわち天鈿女命である。歴代の帝王もまたこれを伝え給うた。そのことは『日本紀』、『続日本後紀』、『文徳実録』等に載りていて、所々に散見していると。

 私はこの人によりて始めてその方法を聞くに、神憑には三十六の法がある。すなわち正神界に、有形界、無形界ありて、おのおの自感法、他感法、神感法等の十八法あり、妖魅界にも右と同じく十八法あり。しかしてこの術は一人祈る人と神を憑らしむる人との外に、更にその間に立つ人がなくてはならない。これを審判者(サニハ)という。これその問答を取り次ぐものである。その神感法について、感悟覚察の四つがある。感は自感、悟は判断、覚は過去、現在、未来のことを判断し、察は天地万物の有様を観察するのであると。

 また氏のいうに、天地間に神は常に充満している。されどそれをみることのできないのは、万物に宿りて作用をなすによるからであると。

     霊魂の古説

 霊魂のことについて、日本の古説にては、これを大別して、荒御魂と和御魂との二つとしてある。荒御魂というのは小さくして悪しく、和御魂というのは大きくして善いのである。それであるから、荒御魂には勇猛と粗暴との性があって、和御魂には温柔と和合との意がある。吾人がその二つの魂を持つには、初めまず荒御魂を受けて、のちに和御魂を受ける順序になる。しかしてこの二つの魂の分量はおのおの異なっているけれども、一度これを受けたる以上は始終わが心のうちに相並んではたらくものである。例えてみれば、荒御魂が五つであれば、和御魂も五つであり、荒御魂が四つであれば、和御魂は六つ、荒御魂が三つであれば、和御魂は七つというがごとく、絶えず続いて両方共にあるものだという。それであるから、勇猛粗暴なる人にはこの荒御魂の方が多くて、温柔和合なる人にはこの和御魂の方の分量が多いということになるのである。

     鬼神の説

 霊魂のことをいうと、そのつぎには鬼神の説がある。シナでは鬼神のことを説くのに、魂魄と唱えて、魂は天に帰し、魄は地に帰すとしてある。これはけだし五行に配当するからである。男と女との陰と陽とが相結合したところで人間ができる。故に魂は陽の気であって、魄は陰の気である。精神は魂の気であって、肉体は魄の気である。それ故に人が死ぬるときは、魂は天に帰するけれども、魄は地に帰するという。しかして鬼神という神には三種あって、すなわち天地人の神の区別がある。天の神のことをば神といい、地の神のことをば祇といい、人の神のことをば鬼という。それ故に鬼というのは魄の帰したるものであって、魂は神となるものだといってある。日本にては鬼を「おに」といって、恐ろしいものとしてあるけれども、シナにては鬼は人間の霊である。人が死ぬれば鬼となるのだとしてある。

 また人間を気と形とに分けて、吾人の呼吸は気であって、形は五体なる結合の間に活動しているものであるから、もしも互いに離れるときは死んでしまう。魂は気に属し、魄は形に属している。生きている間は人間は、呼吸をするが故に、気というものと呼吸とは、同じように思われるけれども、気は天にありては形をなさない。木火土金水も、地にきたって始めて形をなすのであるというのである。

     古代の天地始終説

 シナのある時代の天文説に、一元ということがある。一元というのは天地ひと仕切りのことであって、すなわちその年数は十二万九千六百年である。これを十二会に分けて、これを十二支に配する。すなわち一万八百年をもって一会とし、一会を三十に分かち、これを運という。最初軽きものは上に上がって天となり、重いものは下に下がって地となり、その未だ天地とならざる混沌たるときを一元の始め、すなわち天地の始めとする。

 この十二会はこれを十二支に配して、天はすなわち子の会のときであって、その間は一万八百年である。丑の会のときに地が始まり、次第に成就して、今日のような形をなすに至った。しかして十二万九千六百年を経て天地が終わり、そののちまた十二万九千六百年を待って、天地のできる時があるべきものだとなっている。

 ただしかくのごとき説は各国共に行わるることであって、西洋は六千年以前に始まれるものとし、なかんずくギリシアは火をもってその元なりと想像している。とにかく神代のことといえば、各国ともほとんど相似ているのは、人間の思想というものは本来大同小異であるということを知るべく、また衣食住の製法などもほとんど相同じようであるのは、同じ人種の、その分かれない以前に当たっては、おのおの互いに知り合っていたのによるのであろうか。

 西洋各国の人種がもと同じ人種であったということは、その言語をもって知ることができる。人種を分けるに、今日まではその皮膚の色をもってしたのであるけれども、言語の同一なる以上は人種も同一なるべきはずである。インドの言語が西洋の言語と相近きは、もと同人種であったことを知るに足るであろう。

     古代の天文地質説

 天文について、シナにては、陰陽の二つの気の交換を本として説を立てたるものであって、雷電のごときも、つとにこれを陰陽の理に帰している。その辺の大体の考えは至極おもしろいものであるけれども、その細密なる点に至りては実に誤謬のことが多い。

 例えば虹のことを説明するに、虹はハマグリの吐くところのものであるといい、また蛇の息なりともいい、また蛇が酒を味わうためなりともいうがごとき妄想がある。しかして近世物理学の示すがごとき、光線反射作用なりというに至っては、彼らの思いも染めざるところである。また雲雨のことも、初めは更にその道理が分からなかった。また火山より煙の出るのも、山の上が日に照らされて熱するが故に、水気が蒸発するのだとなし、あるいは霧雪または風霜などの説明にしても、ほとんどこれらの付会に類したものが多く、また温泉は地中に硫黄の気があって、太陽の熱を受けて湯をわき出すのだといいて、地球の内部に火あるがためなることには心づかぬ。わが国伊豆の熱海に、毎日四時間ずつ湧出する温泉があったれば、一方が海に通ずるものであって、それ故に海水の潮汐によりて温泉がわき出したり、止んだりするのだと解釈していた。理学のない世の中と、理学のない所とは、大抵かくのごときものである。

     五行記

 近来もなお世間に、五行、干支、九星等によりて、人の吉凶や禍福を占い定める法が大いに行われていて、これを東洋の真理だとか、あるいは東洋の哲理だとか称して、愚民を惑わすものがある。しかして愚民はその道理を弁じないのをもって、これを事実と信じ、それをたのみて手を懐にして利益を握らんことを望む者もあるようになった。これらは大いに世の進歩を妨ぐるものであれば、一言そのみだりなることを弁じて、その惑いを解かなくてはならない。

 そもそも五行家や、干支家や、九星家などの談ずるところは、おのおの多少の異同はあるけれども、人の吉凶禍福を説くに当たりては、もっぱら五行、相生、相剋というようなことをもってするのである。九世家と称するものも、また相生、相剋のわけによりて、吉凶を判定するのである。しかしてこれによりて判定したところのことが、往々にして事実に適合すると否とは別問題として、今まず相生、相剋の説が文明の学理に合わないものであるというゆえんを示そうと思うのである。

 相生、相剋ということの説明は諸書に見えているけれども、今その一を挙ぐれば、近頃民間に行わるるものに『八門九星初学入門』と題する一書がある。その序に曰く、

 およそ天地の間万物を生じて、水火木金土の五行の気を布き、万物その気を受けざるはなし。なかんずく人は小天地なるが故に、五行の正気を得て生育すれば、五徳ことごとく身に備わらざるはなし。それ天地は万物の父母、五行は天地の用にして、四方四隅に配居して、年々気節運気の循環によりて、五行生殺の座を布く。故にその気に順うときは恵福を蒙り、その気に逆らうときは禍害を受くること、自然の理なり。天に順う者は栄え、天に逆らう者は亡ぶとはこれをいうなり。元来方位は河図洛書より出でたるものにして、すなわち季節を定め教うる天の賜なり。これによりて男女の相性、嫁娶、修造、家相を選ぶも、みな相生を吉とし、相剋を凶とし、しばらくも離るることなし云々。

と、かくのごとく五行は天地万有に普遍していて、かつその根本のものであると伝う。相生、相剋とは、木生火、火生土、土生金、金生水、水生木大吉、水剋火、火剋金、金剋木、木剋土、土剋水大凶をいうのであって、古代人知も未だ開けず、学問も未だ進まざるのときにありては、この五のものをもって、万物の原体としていたのである。かのインドおよびギリシアにおいて、地水火風をもって原体と信ぜしものと同じことである。

 しかるに今日は、物理の学大いに開けて、万物の理大いに明らかになりたれば、またかくのごとき古説を唱うる必要のないことは明らかである。

 今この五行と地水火風の四大とを比較するに、五行の中に風を説かなかったのは、その四大説に一歩を譲っているところである。なんとなれば、五行中の水火土は四大中にあり、金は四大中にはないけれども、地の中に摂することを得、木は四大中にはないけれども、四大は無機物のみの分類であれば、木の加わらざるを当然なりとする。しかるに風は一種その性質を異にしていれば、これを五行中に加うべきであるのに、これのないのは、畢竟その分類にまだ十分でないところがあるといわざるを得ない。また五行中に木を加えたのは、はなはだ惜しむべきことである。もし草木のごとき有機物を加うることになれば、鳥獣をもこれに加えてしかるべきである。故に万有を分類するに、五行をもって尽くしているとなすのは、実に不当のことたるを免れない。ましてこれをもって万物の原体となすに至っては、誤れるもまたはなはだしといわなければならぬ。

 古代にありてかくのごとき説をなすのはやむをえないことであるけれども、物理学の発達せる今日に当たりて、なおこれを唱うるごときは、実に愚といわざるを得ない。例えば五行家の、火は南をつかさどりて、夏に応ずるというのであるが、これは日本、シナ等のごとく、赤道以北の国のみを見て想像したるところの言葉である。今日のごとく赤道以南にも国のあることを知るに至っては、この道理を赤道以南の国に応用して説明することはできない。

 また水は東に流れるものであるとなすがごときも、けだしシナの国の地勢のみを見て想像したるところの妄説であって、シナの国の地勢は西方に山を帯び、東方に海を抱いているのをもって、もろもろの川はみな東流して海に入る。故にシナにあっては、日は西に動き、水は東に流るるをもって、世界一般の常則なるがごとくに想像していたのである。その他五行論について評すべきことは多く、ことに相生、相剋の弁に至りては、実に抱腹に堪えざるものが多い。

     相生相剋

 五行、相生、相剋というようなことの不道理であるわけは、多少にても物理学を修めたるものにとっては、すでに弁を待たざるほどであるけれども、世の中の学理を解せないもののためには、いささか弁ぜねばならぬことがある。

 水生木というのは、木は水によりて生長するが故であるとの説明であるけれど、木が生ずるのにはひとり水を要するばかりではない。その外に、日光も空気も土地も共にこれを要するのである。もしもそのうちに水生木ということを得るとすれば、これと同時にまた土生木ともいうことを得べく、また日生木(火生木)ともいうことを得べき道理である。ことに水は木を生出するのではなくして、むしろその生出の媒介をなすのである。いずくんぞ水生木とのみいうことを得んやである。

 つぎに木生火というのは、木がなくては、火は燃ゆることがないとの説明であるけれども、油がなくてはまた火の燃ゆることがなく、石炭がなくてはまた火の燃ゆることがないのをもって、それと同時に水(油)生火ともいい、もしくは土(石炭)生火ともいうことを得べき道理ではないか。また木を摩すれば火を生ずるとの説明であるけれども、金と金とが相摩しても、石と石とが相摩しても、共に火を生ずるではないか。そうしてみれば、金生火ともいうべき道理ではなかろうか。

 つぎに火生土というのは、火にて物を焼けばみな灰となりて土に帰するというのであるけれども、これをもって直ちに火生土の説明とはなし難いのである。例えば枯葉を火の中に投ずるときは灰となるけれども、枯葉はそのまま土に埋めて腐らせても土に化するわけではないか。たとえ火でなければ枯葉を化して土に変ずることがないとしたところで、これはただ火は変化の媒介をなすのみであって、決して土を生ずるの意味ではないのである。かつ火は水を温めて、これを蒸気に変ずることはできるけれども、これを土に変ずることはできない。また火は金をとかすことはできるけれども、金はやはり金であって、火のために土となることはないではないか。

 つぎに土生金というのは、土中から金を掘り出すということを引ききたりて説明するのであるけれども、土を掘れば水を出すことを得るのをもって、土生水ともいうことができる。地震のために地の裂けたるときはそこから火を吹き出し、また噴火山は常に火を吹き出しているのをもって、土生火ともいうことを得べき道理である。

 つぎに金生水ということについては、金を火でもってあぶれば水をその上に浮かべるといい、沙石をうがてば水が出るといい、金をとかせば水のごとくになるというがごとき説明もあるけれども、そのみだりなる説たることは、余の弁を待たずして明らかであろう。

 つぎに水剋火というのは火は水によりて滅すとの説明であるけれども、水はまた火によりて蒸発してその形を失うのをもって、火剋水ともいうことを得べき道理ではなかろうか。火剋金というのは金は火にあえば形を損ずるとの説明であるけれども、火には木も水もその形を損ぜしむるの力がある。故に火剋木ともいうことも得べき道理である。金剋木というのは木は金によりて斬らるるとの説明であるけれども、木を殺すものはひとり金のみではなかろう。かつ金はこの外に土石をも破ることを得るをもって、金剋土ともいうことを得べき道理である。木剋土とは木は土を圧し、また土をうがつことを得るとの説明であるけれども、土をうがつものは鋤とか鍬とかいうがごとき、金器に越したものはないではなかろうか。土剋水というのは水は土にあえばその行くことを止められるとの説明であるけれども、水の流れを止むるものは土のみには限らない。金も木も、土と同様に水の流れを止めることができる。それのみならず、水はよく堤防を破り、また山を崩す力があるではないか。かくのごときは水剋土といわなければならぬ。

 これを要するに、古来五行について種々の説明はあるとしても、大抵みなこの類あって、今日の学理に照らすときは、更に厘毛の価値のなきものである。なお一例を挙げて、つぎにそのみだりなることを示そう。

     五行の母説

 『天地或問珍』と題する書物の中に、雪の色の白いのはいかなることにやとの問いがあって、これに答うる文にいうに、およそ五行の色というときは、木は青く、火は赤く、土は黄に、金は白く、水は黒い。そうしてみれば、雪もまた水であるによりて、その色の黒くあるべきはずなるに、それが白いのは、これは母の色であるからである。母の色というのは、それの生ずるところの木を母というので、例えば木生火というて、錐をもって木をもむときは火が出るのである。故に火の母は木である。火の燃ゆる所を見ると、その中に必ず青い所がある。また灯の根の所も色が青い。これが母の色である。火生土というて、万物はみな火に焼かるれば土となる。故に土の母は火である。土の色は黄であるけれども、その中に赤土がある。これは母の色をあらわすのである。金は土より生ずる。故に金の母を土とする。金は色の白いものであるけれども、母の色をあらわして黄色なのが、すなわち黄金である。また金生水というて、水は地中の金より生ずる。故に水の母を金とする。さるによりて、水の色は黒いけれども、母の金の色をあらわしている故に、雪の色はみな白いのである。消ゆるときは水となりて、本体の黒色をあらわすは必然の理である云々と。

 この説明に至りては、実に付会もまたはなはだしといわねばならぬ。畢竟するに、五行の説はその原理が全く現今の学理に合わないことは明らかであれば、その応用の信ずるに足らないことも、また言を待たざるところである。もしも五行家にして、人の吉凶を判断せんと欲するならば、今日の学理を根拠としてこれを研究せんことを、余は深く望んでやまないのである。学理の上から五行を考えてみるに、五行のうちに空気を加えないのは一の大なる欠点である。故に土と金とはその種類が同一であれば、これを合して一つとなし、その代わりに風を加えるがよい。しかるときは、今まで木火土金水といったのが変じて、木火土風水ということになる。

 その他相生、相剋の配当も、よろしく今日の学説に基づきて変更しなくてはならない。私はこれについても、一の考えはあるけれども、今ここに述べない。他日を待って述べることとしょう。

     無為の長寿は成功者の夭死にしかず

 およそなにものでもこの世に生まれたからには、命を惜しまないものはない。またなにものでも長寿を欲しないものはないが、その中にも、人は特にこの長寿を欲するものである。

 けだし人がこの長寿を欲するところの心のうちには、必ず一つの事業を遂げ、もしくは功名をなさんとするの意味を含蓄しているものであって、すなわち目的の事業をなすがために、長寿を欲するものである。もしもこの意味がなくして、いたずらに長寿をむさぼるものがあったならば、これこそ俗にいうところの穀つぶしとか、世ふさげとかいうものであって、すこしもその生存する必要をみないのである。

 人たる者が、もし遊逸であって、生きて世に功をなすことができなければ、勉励して死んで人に惜しまれるがよい。語をかえていわば、無為遊閑にして長生きをするよりは、むしろ肺病にでもなって犬死にするとも、刻苦精励するの勝れるにしかないのである。世界は一人の世界ではない。なんぞ碌々としていたずらに長生きをなし、文明を妨げ、開化を損なうことをせんやである。その親たるものが遊逸無為にして飽食すれば、その子たるものまたこれにならい、自分が放閑徒然にして安臥しておれば、その友またこれを習うということになれば、遊逸とか無為とかいうことは、社会の毒物、文明の妨害物といわなければならぬのである。

 故に無為にして長寿をむさぼらんよりは、勉強して夭死する方がよいの語は、いささか危激の嫌いがないでもないが、しかしながら私が従来の持説と、対照斟酌するところあらば、諸君の修学上、処世上において、あるいは参考となすべきものなきにあらざるべしと思う。由来このことについて、私は久しい以前より感ずるところがあれば、あえて一言する次第である。

     経験実習を望む

 それ飲み食いの欲はみな人の持っているところであって、中にも匹夫下郎と呼ばるるごとき下等の人に至りてはこの欲が特にはなはだしいのである。その故は人たる者はこの世に出でて、道を行い業をなさんがために、この食物を受けているものであるということを知らないで、生きんがために飲食をするものであると思うによるのである。実に誤解のはなはだしいものといわなければならない。

 およそ道業をなさんとするものは、飲食のいかんのごときは、これを顧みるいとまのないものである。語をかえていわば、飲食のことなどは少しも顧みないような人であってこそ、始めて道業を成就すべきである。さればこそ、孔子も、「一箪の食、一瓢の飲、人は陋巷にあって、その憂えに堪えざるも、回はその楽しみを改めず、賢なるかな回や」と称賛せられ、また「悪衣悪食を恥ずるものは、もって共にはかるに足らず」といわれたのである。故に孔子の学問を修むるものは、いにしえなら、錦を着たり、玉の器で食べたりするようなことはなくて、あるいは豆腐のかすを食い、あるいは豆をかみて、飲食のことなどは顧みない人々の中に、その道は伝えられたのである。

 今の学生たるものは、あながちにこの苦しみをなむる必要がないのみならず、かかる生活法はかえって健康を害することをも、おもんぱからなければならないから、あえてこれを学ぶべしというのではない。しかしながら、当今の学生のならいとして、上は帝国大学より、下は私立の借屋学校に至るまで、あるいは食料に不平を唱え、あるいは食料の不適当を鳴らして、賄い攻撃だの、賄い征伐だのというようなことをする。これらもまた食欲をたくましうして、口腹に一時の快さをとり、あるいはまた無用の生命をむさぼらんとするものではなかろうか。

 およそ食を取らんとするものは、その粒々みな民の辛苦からきたれるものであることを思うと同時に、また米一升が幾十銭、この飯を幾椀食べれば日に幾合、菜に幾銭を要すべく、料理するに味噌、醤油、いくばくを要せん、その価は幾銭ならん、これを煮炊きするの薪炭いかん、魚獣の肉は果たしていずれよりきたるか、当時の物価はいかようであるか、料理の手間はいかん、賄い方の利益はいかんなど、ときには巨細に計算を立て、またときには大いにその道の人について尋問研究するがよい。そうするときは、ただに食料の不平を唱え、食事の不適当を鳴らして、みだりに賄い攻撃などをなすべからざることを知るのみならず、あわせて食事の貴重なるゆえん、食料の不適当ならざるゆえん等をも知り、ことに他日家政をとるの経験実習ともなるであろう。私は切に学生諸君に向かって、その実習経験の必要あることを感じている。

     寄宿舎の信用

 私がさきに哲学館を創設すると共に、寄宿舎をも設置したるの主意は、有形の学術を授くるの外に、無形の徳性をも涵養せんとする目的を達せんがためであった。故に無益の贅費は申すまでもなく、食物も学生としての健康を害さない限りにおいて、その料を低廉にし、別に茶会などをも設けて、積極と消極との両面から、学生の品性を高め、その知識を増進せしめんことを企てたのである。これ私の微力をも顧みずして、熱心に奔走尽力した次第である。

 しかしてその後専門科を創設することについて、各地方巡回中、直接または間接に世人の談話を聞くに、哲学館に寄宿舎のあるということは、最も地方における父兄の信用を厚うしたわけであって、彼らの父兄は曰く、「従来子弟をして、東京に遊学せしめんとしても、第一下宿料の高いこと。第二には間食が自在にできるために、贅費を多く要すること。第三には出入外泊の自由なるにつれて、品行をも乱ること。第四には無頼なる書生の悪風に染みやすいこと。第五には得るところは口論をなすに達者となるのみにて、帰郷ののちはかえって父兄をしのぎ、その父兄をしてむしろ東京に遊学せしめなかった方がよかったと、後悔せしむるに至ることを恐れておった。しかるに学校付属の寄宿舎があり、ことにまた茶会などというようなものもありて、右らの心配がないのみならず、かえって予想外の人物たるべき望みがある云々」といったこともある。

 誠にかくてこそ、他人の子弟を教育する希望にもそう次第である。近来は学校付属の寄宿舎も、よほどたくさんできたようではあるが、学生は窮屈であるとみえて、これに入ることを好まないらしいが、学生たるものはよろしく設立者の微意のあるところを体し、父兄をして郷里にあって安心せしむるようにし、その身もまた在学の目的を誤らざらんことをくれぐれも望む次第である。

     観察上太陽の遠近説

 孔子がかつて諸国を遊歴したとき、あるところに二人の少年があって、大いに太陽朝午の遠近を論じていた。

 甲のいうには、「太陽はわが世界をさること、朝は近くして日中には遠くなる。その次第は、朝は大きくして、日中は小さくなるをもって知ることができる」と。

 乙のいうには、「太陽のわが世界をさることは、朝は遠くして日中には近くなる。その証拠には、朝は寒冷であって、日中には温熱なるをもってこれを知ることができる」と。

 ちょっと聞くと、この両説はいずれも道理があるらしくみえる。ここにおいて判断を孔子に求めた。されど、孔子もこの解釈には大いに苦しんだということがある。

 物理学の未だ明らかならざる世にありては、けだしさもあるべきことである。されども、今日においてこれを説明するのは、更になにほどのことでもないのである。すなわちそれが朝大きくて、日中に小さく見えるのは、朝は太陽が地上なる山や河の間から出づるにより、吾人これを見るものはその四辺の外物、すなわち樹木や、その他の万物と共にこれを見るが故に、比較上大きく見え、日中には太陽が中天に懸かっているから、天に向かっては一つの比較して見るべきものがない故に、自然に小さく見ゆるのである。それはちょうどはるか向こうの人を見るに、四辺に物のない所におれば、さほど小さくは見えざるも、もしその人が同じ距離において、大樹大石の下にでも並び立つならば、見るものが自然にそれと比較する故、大いに大小の感覚を異にするようなものである。

 また朝は寒冷であって、日中の温熱であるのは、地文学上、朝は万物が未だ太陽の熱を得ず、朝日は輝けども、未だ急に温まらざれば、したがって吾人に反射する熱が少なく、空気もまた冷ややかであるが、日中に至れば、万物があまねく太陽の熱を受けて温まり、吾人に反射する熱も、したがって強く、空気もまた温かになるによることは明らかである。

 これらは理学上の小事ではあるけれども、ときにあるいは研究しておくべきことである。

     富と学

 わが国にては、富有と学問とは大いに平均せざるもののようである。富める人にて、学問を好むものは少なく、学問を好む人には富を得ないものが多い。これはわが国今日の通弊である。

 西洋にありても、必ずしも富と学とは平均するものとは断言することはできないけれども、そのいくぶんかは相伴うことになっていて、はるかにわが国の不平均なるにまさっている。故に学問をなす者は、みないくぶんの富を有するものであれば、多くの学資を要することがあっても、さまで苦しむことなく、したがって中学に入り、大学を終うるも、生活の方法、糊口の術に汲々たるというようなことはない。

 わが国にありては、富と学とは常に一致せざるがため、たまたま天才のものや、篤志の人があっても、正則の階梯を経て、多分の学資を要する学校には入ることができなくて、いたずらに天才の利器を懐抱しながら、槽櫪の間に朽つる者が往々にしてこれあるのである。たまたま機会を得て一つの学校に入ることを得れば、まず卒業ののち最も需要の早い所得の多いものを選び、いわゆる計算的利のための学問であるから、農工の科を選ばんにも、医科法律を選ばんにも、みなその時々の流行、否、売れ口のよきものを選び、活計の道に適切なるものを修めんとするので、これもとより勢いのやむをえざるところである。

 西洋各国においては、官公立の外に私立学校が多くあって、月謝もまた比較的に高いけれども、各相当の入学者があるのは、畢竟みないくぶんかの富を有するによるのである。またその学問を修むるにも、真に学術の研究に専一であって、活計の術に汲々たるものがないからである。

 わが国の私立学校のごときは、もとより基本財産とても少なく、また別に収入の道があるでもなく、わずかに月謝をもって維持するものである。さればとて、少しく高い月謝を要するときは、入って学を修むる者なく、中学より大学に至るまで、月謝の多少は常に一問題となり、もしも高い月謝を要することになれば、これに入学するもののまれなることは分かっている。これみな富と学とが平均しないところの通弊である。わが国においては何故こう平均せざるかというに、あるいは他にいくたの原因もあることであろうけれども、要するに封建時代の余弊がその大いなるものである。

 そもそも封建の時代にありては、士と農工商との間には、実に天地の隔たりがあって、学問をなすものは、みだりに世襲の高禄をはみ、長袖安臥して、かつて米穀の由来をも知らず、弊衣寒暑の苦しみをも知らざるの士に限り、その富を作るものは、朝に牛馬を引きて出で、夕に鋤をにないて帰る農夫、または東奔西走して、眠食もその常を得ざる工商等であれば、別に学問の必要もなければ、おのずから学問は士人以上のものとなり、富は農工以下の致すところとなった。これがわが国の富と学問との平均しないところの一の大原因である。その余弊がひいて今日に及んでいるので、あに慨嘆すべきことではなかろうか。

 今試みに、富と学とが平均しないところからして生ずるところの利害を論じてみように、それが平均を得て、富者は学を好み、学者は資金に差し支えないということになれば、利ありて害なきことは火を見るより明らかである。その反対に平均を失うも、必ずしも利なくして害ありとは断言することはできないけれども、またときとしては大害あること疑いを入れないのである。

 およそ遠大の事業をなさんとするものは、もとより学と知と才とを有するものであって、多くは貧者の列にあり、したがって財産を有せない。故にややもすれば狡知を弄して非道のことをなし、もって富を求むることがある。これすなわち大非道の仕業は、金がなくして知恵のある者から出づることの多いゆえんである。これによってこれをみるに、富と学との平均しないのは、ときとしては泰山ほど大いなる害あるも、砂石ほどの小さい益もないことがある。戒めなければならない。しかしながら、積年の余弊は一朝一夕にしてこれを洗除するわけにはゆかないから、学問をするのはいにしえの士分以上のこととするも、これらの階級には今日なお貧者が多くして、学資に乏しく、錦衣の富者は、多くは学を好まないのである。

 さすればこれをいかにすべきやというに、西洋の文明国においては、未だ学資を供給し、あるいはこれを貸与するの例がないのは、その富と学とが常に平均を得ているから、これを設くるの必要がないによるのであるけれども、わが日本にてはいくぶんか貧賎であっても、天才もあって、学問を好むところの篤志の青年があるならば、力を合わせてこれを助け、その学資を供給して、学に就かしめるようにする道を講じなくてはならない。これはひとり本人のためにそうするのみならず、ひいては国家のためである。

 明治維新の前後にあたりては、官公立学校には、一時給費生の制度があったこともあるが、今や世は立憲の世となり、民は自治の民となり、上には経費の節減を唱え、下には民力の休養を叫び、余裕の出納を自由にすることができないから、ついにこの制度を廃するようになった。さればとて、篤志にして学に就くあたわざるの憂いは、一般の不利この上もあるまじければ、向後は地方の有志者にして、この任を負うようにしたいものである。これ誠に郷国の急務である。

 およそ人間が学者とか豪傑とかにならんとするには、みだりに外面からつぎ込むところの知恵ばかりにてはとてもだめである。是非ともその天賦の性質の美点を磨き出さなければならない。故に性質の美ならざるものをして、いかほど学ばしめたところで、益のないことは、なお土塊を磨いて珠玉の光沢を得んとするのと同じことで、その磨いて光沢を発することのできるものは、もとから玉の本性を有せなくてはならない。人間はいくぶんか学問によって知能を磨き上げることは明らかであるけれども、本来天性の賢愚によることは、疑いを入れない。学びさえすれば学者となり、英雄となるなどと、一概にこれを論ずることはできないのである。故に給費とか、貸費とかをして、学問をさせんとするには、よろしくその天才を発見しなくてはならない。これを発見するには、小学校の教育をおいて他に求めることはできない。故に地方の教育者たるものはその天才を発見し、これを養育する道を考究することが大切である。しからざれば、世間一般に教育の必要を云々するも、未だ教育の実を挙げたりということはできない。

 故にもしも一村一郷のうちにおいて、農工の業をもって、その郷里を盛んならしめ、または商売の道をもって、その村落を富ましめんとするには、必ず前もってしかるべき人を作り出さなければならない。文学の上においても、宗教の上においても、いやしくもその地方の名誉を揚げようとするには、必ずその人を得て学ばしめ、みがかしめることが肝腎である。これは今日の財産家たる者の義務であって、かつ日本における急務である。また一国の上よりこれを考察するも、日本の将来はずいぶん困難なる事情に出合うことであろうから、この困難を救わんには有為の人物を作るの外はない。今日はこれに乏しいために、みだりに泰西の侮慢を受け、かれの糟粕をなめ、わが国の威光を減じ、臭味を失うことのあるのは、七千万同胞の認めて遺憾とするところである。

 しかしてその学者となり、人物となり、郷里を潤沢し、国家を栄光せしむる者は、必ずしも人家稠密の都会に限らず、人口百万の市街に期せず、かえって山間僻地から出づるものが多く、しかしてその山間僻地においても、千金の門に出でずして、筲斗の家に出づるものが多いから、これに給資し、これに貸費して、その天才を全うせしむることは、実に富者の職務であって、国民の義務である。しかして従来政府の設けたる給貸費の制度は、貧富とか、性質とか、天才とかいうことについて選ぶことはなかったけれども、今後は大いに天才と人物とを選んで、給貸を施さなければならぬ。

 もしも一村一郷のうちに一、二の天才ある篤志者を得て、給費か貸費かにしてこれを養成したならば、その効力は、その村その郷の幸福はほとんどいうべからざるほど大いなるものであろう。すなわちその郷村において、ひとたび抜群の人傑を造り出だしたらんには、それが向来百年の模範となり、これを慕い、これをまねて、英傑たり、豪傑たるものが、続々として出づることになるべく、たとえ英傑豪雄たらざるも、いわゆる驥尾に付して、名を成し身を立て、郷里を益する人が出るであろう。

 これを宗教にしても、もしも名僧知識の出づることがあるならば、その効はひいて後世に及ぶべく、またその学とその徳とを慕うて、四方より訪問参詣する人も多く、数年を出でずして門前市をなすに至らば、その影響はその村をにぎわし、その郷を潤すのはきまっている。ついにそこに都市をなして、その地を潤沢することにもなるであろう。故に一人の英雄は、遠くその地の名声を伝え、長くその郷の栄名を残すことあるものである。

 これによってこれをみれば、人物英雄を造るということは、一地方一郷国の必要であって、かの天才篤志のものに給費し、貸費して、これに修学せしむることは、富と学とが平均していないところの日本国においては、真に一つの義務である。ことに政府において、給貸の制度なき今日にありては、地方の有志とか富豪とかは、進んでこれを受け持たなくてはならない。衣服のおごり、食物のぜいたく等に費やすところの財貨は、よろしくここに転致利用しなくてはならないのである。私がこの説を唱えるわけは、せっかく非凡の天才を抱きながら、それをして茅屋破窓の下に空しく一生を送らしむることが、いかにも国家の不利不幸であるからである。それであるから、あえてこのことを天下に告示し、あわせてこの不幸の人に代わりて、いささか民間の富有者に訴うる微意に出でたのである。