1.南船北馬集 

第九編

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南船北馬集 第九編

 

1.冊数1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)188×127㎜

3.ページ

 総数:129

 目次:1

 本文:128

(巻頭)

4.刊行年月日

 底本:初版 大正3年7月31日

5.発行所

 国民道徳普及会

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山口県巡講第二回(周防国)日誌

 大正二年十一月十六日(日曜) 快晴。暁霧あり。午前八時半、新橋発、特急に乗り込む。東海道は刈稲最中なり。尾濃地方は大演習の最終日にして、兵なお各所に屯在す。楓葉は霜を経て二月の花よりも紅に、柿樹は葉すでに落尽して、紅実のみを枝上にとどむる期節なり。

 十七日 晴れ。午前十一時、山口県豊浦郡小月駅に着し、随行来島好間氏とともに車行一里半、小嶺を上下して豊東村〈現在山口県豊浦郡菊川町・豊田町〉字田部に着す。会場および宿坊は延竜寺なり。その前隣、教念寺泉鉄崖氏は先年来の旧識たり。農家の麦まきも大半終了せり。主催は助役藤本嘉右衛門氏、校長河本亀寿氏、医師石丸又蔵氏等の有志とす。晩に池田旅館にて会食を設けらる。

霜風一路入豊東、穫稲時過野色空、幸有残楓猶未尽、紅於花繞梵王宮、

(霜をふくんだ風のなかを、一路豊浦郡の東の地に入った。稲の刈り入れも終わった野の色はむなしい。幸いにして名残の楓葉がなおまだ落ちつくさず、花よりもあかい色をもって寺院をめぐっている。)

 十八日 快晴。小月駅に出でて乗車、吉敷郡大道村〈現在山口県防府市〉に移る。当方は麦まきいまだ終わらずして農繁期なり。会場諧光寺住職松本同三氏はもと九郎と称し、哲学館に在学せしことあり。氏は妖怪的天然石を有し、余に題詩をもとめらる。よって一詠す。

此石元何物、河原漂泊身、有人来救汝、咄勿作魔因、

(この石は元来なにものであったのか。河原にさまよう身となっていたものを、ある人がきて汝を救いとったのである。さて、もはやあやしげなるもののもととはなるなかれ。)

 当夕は当地の旧家にしてかつ多額納税者たる上田寧二氏の宅に泊す。その屋名を不昧居という。庭前に薩州侯手植えの松樹あり。これを延齢松と名付く。昔時、頼山陽九州行の途次、この宅に滞留して松樹の記を作れりとて、その墨跡、今なお存す。余は山陽所吟の周防途上作の次韻を試みて当家に贈る。

延齢松下独低回、吟賞満庭翠色堆、最好清風明月夜、蒼竜握玉入窓来、

(薩摩侯が手植えという延齢松のもとで、ひとり立ち去りがたい思いで歩き回り、庭園に満ちあふれるようなみどりが、うず高くもり上がっているのをじっくりとめでる。清らかな風と明月のこの夜は最もこころよく、東方の神が玉をいだいてきたごとく、窓より差しこむ月の光はいよいよ明るい。)

 その夜、清風明月、この詩意を実現す。主催は大道会にして、村長高和一氏、神職林豊宣氏、助役能野源治郎氏等の発起にかかる。この地は故大村兵部大輔の出身地なり。

 十九日 穏晴。午十二時、大道村を発し、湯田駅に降り、これより車行一里、吉敷村〈現在山口県山口市〉小学校に至りて開演す。本村は教育および青年会、大いに発展せりと聞く。主催は村長佐々木正一氏、教育会副会長谷川熊五郎氏等なり。夜に入り、円正寺にて更に開演す。宿所は田中甚吉氏宅なり。

 二十日 晴れ。朝気〔華氏〕五十度。車行二里強、山口町を経て宮野村〈現在山口県山口市〉常栄寺に休泊す。この寺は雪舟の築きたる林泉あるをもって世に知らる。往古、大内氏全盛時代、京都金閣寺に擬して築営せしものなりという。池形は心字状をなす。池畔に一株の楓樹あり、その色、三春を欺く。日々来観者あるよし。余、一詩をとどむ。

三呼嶺下有禅堂、泉石自含般若光、聞説雪舟揮妙手、築斯色即是空荘、

(三呼嶺のもとに禅院があり、泉も石もおのずと悟りの知恵の光をたたえている。聞くところでは、雪舟がその妙手をふるって庭園を作ったという。築造はまさに色即是空〔万物は本来空無〕のみちを示している。)

 三呼嶺は庭外の高峰なり。会場公会堂は村役場と棟を同じくし、教会堂の形を有す。主催かつ尽力者は村長中島丹氏、助役藤野莞爾氏、校長国重音之進氏、および長井徳次郎氏、沖田治郎氏、桑原秋成氏、山崎金蔵氏等の諸有志なり。朝鮮総督寺内〔正毅〕伯の旧家は本村にあり。

 二十一日 雨。常栄寺より二里、坂路を経て仁保村〈現在山口県山口市〉に入り、小学校にて開演す。この日、青年会発会式あり。途上の村落なお秋色をとどめ、銀杏黄、楓葉丹、その間に菜緑柿紅を交え、また、籬辺に残菊の霜に傲るあるは、いささか吟賞するに足る。その夜、信行寺に宿し、かつ各宗寺院の依頼に応じて夜講を開く。住職桃林皆遵氏は哲学館大学出身にして、今回大いに尽力あり。その他、発起および尽力者は皇徳寺住職井原道隆氏、村長吉富恒輔氏、青年会長山根勝一氏、信用組合長吉富寅市氏、および西島治三郎氏、岡田幾三郎氏等なり。山口県にてはミコ口寄せのことを仏呼び出し、または仏起こしというが、本村にその術に熟練せるものありて、遠近よりきたりて亡者の音信を聴くとの話を聞けり。

 二十二日 晴雨不定。渓川に沿いて下行二里、大内村〈現在山口県山口市〉に至る。渓頭の秋色、松竹の間に紅葉の点々たるは愛すべし。本村には大内氏の遺跡多しという。佐々木旅館に少憩し、小学校講堂にて開演す。主催は青年会にして、村長荒川信介氏、校長今井勇熊氏、助役佐田実蔵氏、青年会幹事宮原恒一氏等の発起にかかる。当夜、宿坊光円寺にて更に講話をなす。順教会の主催なり。山口町より戸田、岡原、佐波、名護谷諸氏来訪せらる。その距離一里ありという。

 十一月二十三日(日曜兼新嘗祭) 晴れ。車行約一里、小鯖村〈現在山口県山口市〉景好寺にて開演す。主催および尽力者は住職滝沢清行氏、村長篠原栄之進氏、村会議員渡辺清治氏、助役矢野植之進氏等なり。当夕、同寺の書院に宿す。その洗手鉢の台は天然石の角柱、その高さ一丈二尺なるは驚くべし。山口県七不思議の一に加えて可なり。佐波郡役所より書記佐内令作氏きたり迎う。この界隈は麦まき終わりを告げ、隴頭芽色青々たり。

 二十四日 晴れ。景好寺を発し車行三里、佐波郡三田尻駅に向かう。郡界まで桂木郡視学の送行あり。氏は先後約二週日の間、各所へ案内の労をとられたるを深謝す。ここに佐波山洞道あり。その長さ約二百間、洞中数十カ所に点灯あり。洞道を一過して佐波郡内に入れば、気候寒温を異にし、風光したがって明媚、冬より春に転じたる心地をなす。途上吟一首あり。

二百余間洞道長、行過身入佐波郷、水明山紫冬猶暖、霜月防南未見霜、

(二百余間のほら道は長く、ここを通過して佐波郡に入った。山紫水明の風光美しいこの地は、冬も恐らく暖かいのであろう、十一月の周防の南部はまだ霜もおりていない。)

 農家は目下麦まきの最中なり。三田尻駅前石田旅館三層楼上に一休したる後、郡視学河村敏衛氏の先導にて車行一里、華城村〈現在山口県防府市〉光宗寺に至り開演す。郡長水野尚一氏も来会せらる。当寺は防州屈指の大坊にして、檀徒千戸以上を有す。住職神保達元氏は哲学館館賓にして、副住職神保達見氏は東洋大学出身なり。また、本村は模範村にして、かつ民家豊富なるよし。村内の田地平均一戸一町歩以上に当たるという。主催は信用組合にして、その長は徳光良策氏なり。しかして村長は吉武虎太氏とす。当夕点灯後、石田旅館に帰りて宿す。

 二十五日 晴れ。車行約二里、華城村を経て西浦村〈現在山口県防府市〉に至り開演す。途上、一望群山起伏するも、松樹これに冠し、樹間に赤土を露出し、紅葉の目に触るるなきは秋色の乏しきを感ず。会場信行寺副住職久保玄又氏は哲学館大学出身なるも、目下京都にあり。当住職は奇石を好む。一石その形、観音に似たるものを自ら拾得したりとて、これを愛重することはなはだし。余、その嘱に応じて一首を賦す。

主人愛奇石、拾得聖観音、如笑又如語、対来養道心、

(住職はめずらしい石を好み、聖観音に似た石を拾って大切にしている。その姿は笑うがごとく、また語りかけるがごときようすで、この石に対していよいよ求道の心をつちかうのである。)

 村内には製塩を業とするもの多し。主催は村長柳寛三郎氏、助役柳雅利氏、収入役椎木東一氏等なり。夜中、寒風に対抗して石田旅館に帰行す。

 二十六日 曇晴。車行一里半、中関村〈現在山口県防府市〉小学校に至りて開演す。校舎美ならずといえども、校内清潔にして諸備整頓せるを見る。本村はいわゆる三田尻塩の本場にして、その産額は全国中第二に位す。すなわち第一は香川県坂出、そのつぎは本村なりという。村名を中関というは、昔時、防長米を運出する海関に上中下三関ありし、その一なるによる。主催は村長加藤勉二氏、助役吉武丑雄氏、校長奥田乙治郎氏等なり。当夕、村内の富豪家尾中郁太氏の宅に宿す。主人は大阪藤沢門下より出でて、詩文をたしなむ。

 二十七日 晴れ。この日再び三田尻に帰り、防府町〈現在山口県防府市〉成海寺において開会す。その寺もと宝成庵と称せしを、故伊藤〔博文〕侯爵より授かりし額面の文字に基づきて成海寺と改め、住職有田玄法氏の托鉢の力によりて大伽藍を新築せり。主催兼発起は郡長、郡視学をはじめ、町長長野範亮氏、有志家下瀬真輔氏、山内和輔氏等なり。山内氏は旧知にして、もと哲学館館賓たり。演説後、宮市天満宮前の大明閣三層楼上において晩餐を供せらる。眺望、大いに佳なり。防府町は三田尻、宮市二町より成り、宮市は天満宮をもって知らる。その大祭は毎年十一月中の望日〔陰暦十五日〕をもって行う。昔時、遠州見付の天満宮祭と同じく裸体なりしが、近年は下に白シャツを着け、その上を白木綿にて巻き付くることになりて、白衣祭りに変ぜり。しかし、万余の男子みな同装をなせる情態は勇ましきものなりという。当日は遠近より来観するもの山を築くに至る由。宿泊所はやはり石田旅館なり。

 二十八日 晴れ。車行一里、佐波川を渡り右田村〈現在山口県防府市〉に至りて開会す。本村は農村なるも比較的士族多く、大村なるもよく円満を保ち、産業組合最も発達せりと聞く。会場は乗円寺、主催兼尽力者は村長山本喜熊氏、助役藤井安熊氏、信用組合理事大尾敏尾氏、実業家中村源兵衛氏等なり。当夕は村内の富豪田中稔氏の宅に宿す。主人不在、老母その齢八十に近きも矍鑠たれば、主人に代わりて来客の接待をなす。

 二十九日 晴れ。朝気〔華氏〕四十五度、地上霜を見る。水野郡長来訪あり。宿所を出でて行くこと十余丁、右田小学校の背面に奇嵓突兀として屹立し、行人をして顧視せしむる奇山あり。これを石船山という。これより更に行くこと十余丁にして毛利男爵の邸宅あり。会場は小野村〈現在山口県防府市〉小学校なり。行程二里に余る。佐波川にそいてここに至る。開会は助役岡村久一氏、校長吉田京亮氏等の発起にかかる。当夕、校側の宿舎に宿す。

 十一月三十日(日曜) 雨。河村郡視学の案内にて堀駅を過ぎ、島地村〈現在山口県佐波郡徳地町〉に至る。渓山の間に渓川にそいて一条の駅道ありて、車行自在なり。行程約四里。本村は故島地黙雷師の住せられし地なりとて、村内の有志相集まりて紀念堂を造営せり。これを雨田草堂と名付く。その堂は方丈に過ぎざる小庵なるも、渓崖の上にありて自然の風致に富み、蒼々たる山色顔前にかかり、潺々たる水声枕頭に鳴る、これ小仙関なり。同師の遺作を次韻して二首を賦す。

泝渓逾遠境逾清、泉石作媒詩自成、今夕吟身何処寓、白雲堆裏雨田城、

(谷をさかのぼることいよいよ遠く、あたりのようすはますます清らかとなり、泉石の自然さは詩作のなかだちとなって、詩はおのずから成る思いがする。今夕、この吟遊の身をいったいどこに寄せようか。ここは白雲がうずたかくかさなるところの雨田荘である。)

渡水崖頭草径斜、雨田荘在此渓涯、水声洗浴心還浄、知是上人遺愛家、

(水べの崖を渡ったあたりに草しげる道がななめにつづき、雨田荘はこの谷のきわみにある。谷川の水の音は洗うがごとく、心は清浄になる思いがして、こここそが上人遺愛の家なのである。)

 黙雷師の出生地はこれより更に三里の山奥なる和田村字升谷なりしも、本村にきたりて妙誓寺に住職せられしという。会場は小学校、宿所は雨田草堂なり。主催かつ尽力せられたる人々は村長宇多田都二郎氏、助役田中要蔵氏、書記永村孫三郎氏、藤田助一氏等とす。宇多田村長は大いに雨田草堂の経営に尽力し、目下、堂背の高所に一大紀念碑を設置することに着手せり。村内の副産業は製紙なり。その紙を徳地紙と呼びきたる。また、蒟蒻玉を産出す。都濃郡よりは郡視学斎藤彦一氏、ここにたずねきたりて迎えらる。

 十二月一日 雨。島地村を発し、途中、人夫を雇いて先引きをなさしめ、郡界嶺を登り、車行二里半、都濃郡湯野村〈現在山口県徳山市〉に入る。雨ますますはなはだし。本村は四面山をめぐらし、すりばち形の地勢なり。天然の温泉あるも温度低しという。会場は常照院、主催は住職田中鉄道氏なり。氏は哲学館出身者たる縁故をもって会主となられたり。しかして村長永末雄次郎氏、校長御手洗祐氏等これを助く。ときに一首を案出す。

攀尽佐波渓上峰、泥途衝雨入都濃、時尋禅寺傾般若、酔後忽為円悟宗、

(佐波の谷をよじのぼって峰にいたり、泥深い道を雨のなか都濃郡に入った。ときに禅寺をたずねて般若湯〔酒〕をかたむけ、酔った後はたちまち円満に真理を悟る第一人者となったものである。)

 山号を円悟山という。故に結句、これに及ぶ。大雨、夜を徹す。

 二日 雨。車行二里、渓頭なお霜後の残葉をとどめ、紅点々たり。〔福川町〈現在山口県新南陽市〉に入る。〕宿所は停車場前中村旅館、会場は曹洞宗真福寺なり。その寺は防州三福の一なりという。その意は、山口町の竜福寺、防府町の長福寺と、この寺とは、防州における曹洞宗内の大寺院なるによる。開会は町長田中栄太郎氏の発起にして、校長河村卯作氏これを助く。本町の生産は農、商、漁の三業より成るという。

 三日 曇晴。この日、雨やみて風寒し。ときどき微雲雪片をもたらしきたる。車行約一里、富田村〈現在山口県新南陽市、徳山市〉善宗寺に至りて開会す。村長道源権治氏、助役久楽東一氏、書記徳原甚造氏の発起なり。道源氏はもと貴族院議員たり。善宗寺は故香川葆晃氏これに住せり。宿所は新設劇場の正面なる丸万客舎なり。

 四日 晴れ。朝寒〔華氏〕四十二度。昨日以来、にわかに冬に入りたる心地をなす。途上、はるかに高嶺に白雪の積めるを望む。実に本年の初雪なり。車行一里、富田より徳山町〈現在山口県徳山市〉に移る。午後零時半より中学校に至りて一席の講話をなし、ただちに無量寺(浄土宗)に転じて開演す。時間厲行なり。主催は町長粟屋鉄太郎氏にして、助役吉田乙雄氏、書記藤井為次郎氏、ともに尽力あり。粟屋氏は余の旧識たり。当地は昔遊の地なれば、多額納税者野村恒造氏、私立高等女学校長赤松照幢氏等、みな旧知たり。当町小学校は萩に次ぐ大校にして、生徒二千三百人を有す。この地方の名物は沢庵漬けの大根なりとて、野外一面に青し。また、当町は故児玉〔源太郎〕大将の出身地なれば、紀念図書館を開設せりと聞く。宿所は広瀬旅館なり。

 五日 晴れ。ただし風ありて寒し。徳山を発し、馬の先引きにて栄谷の嶺に登る。嶺頭十余丁の間、道路改修のために徒歩して須々万村〈現在山口県徳山市〉に入る。この道程三里。村外に八幡社あり、社前に妖怪石あり。直立約七尺、なにびとその下に立つも、身長の高下にかかわらず、その頭上に余すところの石の高さは同一なりと伝う。本村は地位高きために、郡内最寒の地とす。故に田はみな一毛作なり。田間に藁塚(これを山口県の方言にてノウまたはトシャクという)の林立せるは一奇観たり。会場は善徳寺、主催は郡役所、発起は助役竹村一農夫氏、校長伊藤駿馬氏等とす。一農夫といえる名は希有なり。宿所小松屋には各室炬燵を設く。もってその寒気の程度を知るべし。前日までは地上に雪の点在を見たりという。室内に、旅宿料は特等一円、上等七十銭、中等五十銭、下等三十五銭と標示す。また、もって生活程度を推測するに足る。この日、途上吟一首あり。

霜気満天風裂顔、路懸菜圃麦田間、嶺頭一望前峰白、初雪已侵防北山、

(霜のきびしさが空にみなぎり、つめたい風に顔も切りさかれるかと思われた。道を行けば野菜をかけた畑に麦の田がまじる。嶺の頂きに立って望めば、前方に見える峰々は白く、初雪はすでに周防の北部の山々をそめているのである。)

 この地は三百年前の古戦場なりという。これより更に山間に入ること三里、鹿野村より招聘ありしも時間なきをもって謝絶せり。

 六日 晴れ。朝気〔華氏〕三十九度、瓶水やや氷を結ばんとす。須々万より米川村を経て末武北村〈現在山口県下松市〉字花岡に至る。途中一里余、道狭くしてかつ険、車馬を通ぜず、よって徒歩して下る。行程三里、会場小学校は八幡社の前にあり。社は岡上に立ちて門堂ともに風致に富む。なかんずく多宝塔は国宝に編入せらる。午時、急雨一過す。開会主催は交誼会にして、その会長は郡内の富豪文学士堀正一氏なり。村長堀喜代彦氏、助役田村寿美彦氏、校長原田多寿雄氏等助力あり。哲学館館賓石津太助氏、米川村より来訪せられ、郡長法学士田中省吾氏、徳山より来会せらる。この地は徳山をへだつること二里、農家は昨今、麦耕最中にて繁忙を極む。

 十二月七日(日曜) 晴れ。花岡より車行一里、下松町〈現在山口県下松市〉に移る。会場周慶寺は浄土宗なり。主催は郡役所にして、町長岩本五郎氏、助役上利玖逸氏、校長林友之氏等助力せらる。哲学館出身宝城崇仁氏、久保村より来訪あり。この町内の妙見社は前に鳥居を構えて一見神社のごときも、鷲頭寺これを有し、真言宗の所属たり。郡内巡講一週の間、斎藤郡視学の各所へ伴行の労をとられたるを謝す。宿所は停車場前磯本旅館なり。

 八日 快晴。下松より乗車、玻窓より虹ケ浜の絶勝を傍視す。下松より室積に至る三里の間、浜頭一帯の白砂青松あり。肥前唐津の霓林と東西相対抗す。松林の広くして樹幹の大なるは虹〔ケ〕浜は霓林にしかず、松林の細くして長きは彼これに及ばず、しかして風光の秀霊なるは両者伯仲の間におる。車中吟一首あり。

冬晴今暁穏如春、村外麦田霜色新、路入熊毛海開畵、松青沙白是虹浜、

(冬晴れの今朝はおだやかで、あたかも春のようであったが、村外の麦畑にはあらたに霜のおりたようすである。道は熊毛郡に入り、海は画巻をひろげたように展開した。この白砂青松の美観は虹ケ浜である。)

 島田駅に降車し、熊毛郡視学木原茂也氏の先導にて三丘村〈現在山口県熊毛郡熊毛町〉に至る。この地には前日三、四回の降霰ありとて、山上に雪痕をとどむ。開会主催は村長有馬荘助氏を筆頭とし、小川恵次氏、小幡武祐氏、三輪慶二郎氏、沢米吉氏等、村内の有志家なり。会場は小学校、宿所は有馬真氏の宅にして、氏は郡会議員たり。村内円満、教育上の成績ことによしという。もと毛利家支藩の所在地なり。地勢水利に便なるがために水車多し。終夜、その転々の声、睡媒をなす。この地方にては、米のモミを脱するに水車を用う。本村より二里を隔つる郡内の最北村なる八代村には、年々期節を定めて白鶴群来すという。

 九日 晴れ。午前、約一里、周防村〈現在山口県光市、熊毛郡熊毛町・大和町〉西恩寺にて開会す。主催は同寺および真行寺と村長樋山嘉七氏なり。水木宇一氏の宅に一休して塩田村に向かう。その距離二里あり。途中、故伊藤〔博文〕公爵誕生地の前を過ぐ。車をとめて邸内に入れば、松樹をいただける小円邸の傍らに古井あり。碑石に「伊藤公うぶ湯の井、天保十二年九月生」と刻せり。紀念館として一棟の西洋館あり。公の旧姓は林と称せり。その村内に今なお林姓を有するもの七十五戸ありという。所感の詩一首を浮かぶ。

防山一路入寒郷、停杖松巒円処荘、探得藤公誕生跡、碑陰古井有余光、

(周防の山波に一路寒村に入り、杖を松の小丘まどかなるところの別邸にとどめる。伊藤公誕生の跡をたずね、いしぶみの裏やうぶ湯の古い井戸にも何か残りの光があるようであった。)

 村名は束荷と呼ぶ。随所松巒起伏し、渓狭く道迂なり。塩田村〈現在山口県熊毛郡大和町〉の会場は小学校、主催は青年会、宿所は正讃寺とす。しかして発起かつ尽力者は村長田中邦五郎、校長石川健輔、住職矢田観浄、素封家熊野久兵衛、医師井上栄、助役田熊吉之進等の諸氏なり。夜また、婦人会のために一席の談話をなす。

 十日 晴れ。正讃寺より車行三里、光井村〈現在山口県光市〉真福寺に至る。寺は丘上にありて虹〔ケ〕浜を一瞰するによし。本村は実に青松白砂三里の中間にあり。村長渡辺義雄氏は文をたしなみ詩をよくせるをもって、虹〔ケ〕浜紀勝を編集する計画ありと聞く。開会主催は渡辺村長にして、住職金山蒙恩氏、僧侶浪山清真、渡辺流情、医師中本慎吾、山田一甫、教員相本相助、村吏中野文右衛門等の諸氏、みな大いに尽力せらる。金山氏の父は桃谷と号し、画をよくせるも、すでに隔世の人となる。同氏のもとめに応じてその遺墨に題す。

桃谷投毫去、今猶遺墨存、主人懸一幅、相対憶親恩、

(金山氏桃谷は筆を投じて世を去り、いまもなお遺墨が残されている。主人はその一幅を掛け、これに向かって親の恩愛を思うのである。)

 本村および近村は醸酒のトウジの産地にして、近県および九州はトウジの供給をここに仰ぐ。全国中にてトウジを出だすことは丹波に次ぐという。

 十一日 晴れ。虹〔ケ〕浜を一過し、松影波光の間を一走すること里許にして、余の旧遊地なる室積町〈現在山口県光市〉に達す。海上に島嶼隣接せるは大いに風光を助く。会場および宿所は長安寺なり。門側に喬松一株ありて、その標木となる。室内の装飾品は多く台湾産を用う。農家は麦作最中なり。地気すこぶる温暖、ために十二月中旬、蒼蝿なお群をなす。主催は住職村上達玄、町長小川英作、校長生駒芳雄、僧侶志熊勝道、助役福間直輔等の諸氏にして、みな大いに尽力せらる。本郡に入りて以来、連日揮毫に忙殺せられんとす。郡内の山田は芸州式にして、絶頂に近き所まで耕作を施せり。

 十二日 雨。夜来暖気に過ぎ、ために雨を催しきたるも、午後に至りて晴るる。早朝、長安寺隠宅楼上にのぼるに、全湾眼下に落つ。峡角の突出せる所を蛾眉山という。これより車を駆り、熊毛半島の南端を一巡して曾根村〈現在山口県熊毛郡平生町〉に至る。その間海上の風景絶佳なるも、列島半ば雲煙に遮られて望むことを得ず。車上の所見を詩中に入るる。

虹浜尽処室湾開、挟水松巒翠影堆、遺憾朝来雨蕭颯、雲烟為壁鎖蓬莱、

(虹ケ浜の尽きるところに室積湾が開け、水をへだてて松の山、みどりの茂る姿がうず高く望まれる。ただ残念ながら朝からの雨がものさびしくさっとばかりにふりしぶき、雲ともやが壁のごとくたちふさがって、神仙が住むようなところをかくすのである。)

 この地方は気暖にしていまだ霜を見ず、故に籬菊なお残る。行程三里、麻郷の渡船を経て曾根村字水場教相寺に入りて開演す。青年会の主催なり。住職宝城行仁氏、村長加藤彦作氏、会長布浦松太郎氏、ともに尽力あり。晩食に鯛飯を食す。これを長州にて鯛茶といい、この地方にてヒュウガという。日向国より伝えしによるならん。もし茶の代わりに味噌汁をかけるときには薩摩という。宿寺は海に面し、海潮門前に寄せきたる。深夜起きて庭前を歩すれば、月まどかに風白く、一輪霜月照寒潮の趣あり。ときに旧十一月十五日なり。

 十三日 晴れ。車行約一里、佐賀村〈現在山口県熊毛郡平生町〉に移る。これより二里半にして室津港に達す。この港と相対する所に防長三関の一たる上ノ関あり。佐賀の会場浄福寺は山腰にありて、風光明媚、眺望絶佳なり。一帯の峰巒海をめぐりて大湖のごとく、天然の大庭池をなす。この地、冬最も暖にして、その温度、防州第一と称す。主催者住職伊東慈薗氏、村長岡本五麓氏、校長白坂精一氏、僧侶中尾真了氏、佐竹霊瑞氏等、みな多大の尽力あり。本村は郡内において模範とすべき村なりという。聴衆、堂に満ち外にあふるるの盛会を得たり。その夕、浄福寺の別亭に宿す。夜に入れば晴空片雲を認めず、明月独朗を極む、あに一吟せざるを得んや。

峰巒断続海相従、雲水無心自作容、況復今宵一輪月、室津岬角照仙蹤、

(峰々が断続するに従って海が現れ、雲と水は無心におのずからかたちづくる。ましてや、また今夜の一輪の月は、室津岬先端の仙人が住み暮らした跡かと思われる地を照らしているのである。)

 十二月十四日(日曜) 晴れ。午前、佐賀村を去り、東行二里、郡役所〔所〕在地たる平生町〈現在山口県熊毛郡平生町〉に至る。途中、塩屋ありて製塩の煙を吐くを見る。主催は青年会、会場は習成小学校の講堂なり。その堂内には千数百人をいるるべき面積を有す。郡長岡村勇二氏も出席せらる。開会につき特に尽力ありたる人々は、町長平田昌之進氏、校長浅海香一氏をはじめとし、佐々木諄氏、土谷太次郎氏、西田小一氏、西川馴治氏、その他七名の諸氏なり。

 十五日 晴れ。木原郡視学に送られて玖珂郡柳井町〈現在山口県柳井市〉に移る。里程一里、柳井町は近年大いに発達し、その盛況は馬関に次ぐという。玖珂郡役所より郡書記福光禎太郎氏、ここにきたりて迎えらる。主催は青年会にして、会場は小学校講堂なり。着駅および開会を煙火をもって報ぜらる。長さ十八間、幅七間の大講堂なるにもかかわらず、満場立錐の地なく、その数少なくも千五、六百人以上の目算なり。発起かつ尽力者は青木栄太郎氏(町長)、佐村清一氏、土肥敏雄氏、平井国三郎氏、その他十一名の諸氏とす。当地は甘露醤油をもって特産とす。また、大島郡の商権はここにて握るという。晩に至り雨を催す。中国旅館にて晩餐を喫し、ただちに大雨をつきて車を走らせ、半里余を離れたる新庄村〈現在山口県柳井市〉小学校に転じ、講堂にて夜講を開く。風雨ともに強き中、聴衆よく集まりきたる。本村は旧来の模範村にして、ときどき通俗講話を開催すという。主催は同窓会にして、発起者は校長上司主計氏、村長森本今次郎氏、助役清水誉治氏とす。しかして宿所は志熊旅館なり。

 十六日 曇り。車行三里、渓間を上下して伊陸村〈現在山口県柳井市〉小学校に至り、講堂にて開演す。主催は仏教青年会、発起は会長兼重宇佐槌氏、村長星出斎氏、助役榎田政記氏等なり。この辺りの山田は二毛作をなす所いたって少なし。演説後、車を走らすこと二里、祖生村〈現在山口県玖珂郡周東町〉善徳寺に移る。日すでに暮れて、寺門の前路数丁の間の田頭には、青年会の寄付にてろうそくを点火しおけり。当夕、開演。聴衆の半数は女子なり。室内には炬燵の設備あり。

 十七日 曇晴。雲間ときどき日光を漏らすかと思えば、たちまちまた雪花をもたらしきたる。そのありさまは北国の天候に同じ。この山間の地勢は山ようやく高く、谷ようやく広く、したがって米田多し。午前、小学校において談話をなし、午後、宿坊において講演を開く。青年会の主催にして、住職井上将興氏、村長玉井修氏、郡会議員高林太次郎氏、軍人会長藤中高次郎氏、校長田中浩介氏の発起にかかる。三時より雪にわかにくだる。郡書記河野栄氏とともに車を連ねて雪をおかし、走ること二里、玖珂村を経て高森村〈現在山口県玖珂郡周東町〉に達す。その前すでに地ことごとく白く、衣もまた白し。

一路天寒客跡稀、朔風醸雪晩霏々、玖珂渓上駆車去、未達村時白満衣、

(一路は天気寒く、道を行く人もまれである。北風は雪をもたらして、夜にははげしいふりようとなった。玖珂の谷のほとりに馬車を駆って行けば、いまだ村に到着せぬうちに、雪は白くわが衣をそめかえてしまったのであった。)

 宿所は受光寺なり。夜に入りて天全くはれ、風かえって寒く、雪気凜として衣衾に徹す。

 十八日 晴れ。暁窓よりうかがうに地みな白く、水すでに氷を結ぶ。しかして室内の寒気〔華氏〕三十五度に下る。午時開会。主催は藤島豊良氏なり。収入役三坂浦助氏、書記長倉、杉本、玉井、坂本等の諸氏、みなともに助力せらる。演説後、更に車を駆り一嶺を上下し、二里半を走りて錦川沿岸杭名渡頭に至る。これより軽舟に棹し清流にさかのぼる。水路一里強、二時間を費やせり。両岸は断崖千仭、山峻に渓深し、故にその水は潅漑の用をなさず。ただしその風光は「蘭亭記」のいわゆる「崇山峻嶺茂林修竹」(高い山、けわしい嶺、うっそうたる林、長くのびた竹)、また清流の激湍するの趣を有す。ときに舟中吟一首あり。

雪後更加錦水寒、舟中坐擁火炉看、風光自似蘭亭記、修竹崇山夾激湍、

(雪の降った後はいよいよ錦川は寒く、舟中に座って手あぶりをかかえるようにして周辺を見る。景色は王羲之の「蘭亭集序」に述べられるありさまに似て、長くのびた竹、高い山が激しい流れをはさんでいる。)

 薄暮、北河内村〈現在山口県岩国市、玖珂郡周東町〉天尾に着し、岸頭なる郵便局長広田伝太郎氏の宅に泊す。当夜の会場は宿所より七、八丁を隔つる小学校なり。その主催は校長浴一良、高木直太郎両氏とす。

 十九日 晴れ。朝気氷を結ぶ。舟中に炬燵を設け白幕を張り、箪食瓢飲を携え、郡役所農業技手林豊助氏、桑根村長重野小六氏とともに錦川をさかのぼる。寒中の舟遊なり。舟子一人は棹を握り、一人は縄を引く、船徐々として進む。天尾より桑根村〈現在山口県玖珂郡美川町〉字南桑まで二里弱の間、二時間を要す。目下、車道開鑿中にて陸上通行し難し。錦川は本県第一の大川にして、往々奇巌突兀、茂林鬱葱、最も風光に富む。両岸の奇勝三十三カ所ありという。その山勢の屹然として林色の蒼然たるは、紀州熊野山中の趣あり。この日の舟中吟、左のごとし。

構炉船底棹渓流、温酒篷窓礙吟眸、三十三奇看未尽、南桑繋纜入仙楼、

(手あぶりを船底に用意して渓流をさかのぼり、酒をあたためて、とま舟の窓から詩情の目をこらして眺める。両岸に点在する三十三カ所のすぐれた景勝を見尽くすことなく、南桑村にともづなをつないで、仙人のいるような楼閣に入ったのであった。)

 南桑に入る所に岩腹をうがてる隧道あるも、いまだその名を有せず。よって重野村長のもとめに応じ、碧雲洞と命名せり。その意は、洞門の対岸に植林茂り、その樹影錦水に映じ碧雲の色を現ずるによる。会場は小学校、宿所は平田屋旅館、主催は村長の外に河村禎蔵氏、田立俊一氏等の村内有志なり。この日、正午の寒暖〔華氏〕四十四度以上にのぼらず。

 二十日 晴れ。南桑より広瀬村〈現在山口県玖珂郡錦町〉中央なる市まで三里の間、腕車を通ず。錦水にそいて進行するに谷狭く山急に、ときどき岩石の累々たると杉、桧の蒼々たるを見る。また水底に赤石の敷けるあり。ここを赤瀬と称す。村役場所在地に至りて、はじめて耕野麦田を見る。本村は、面積長さ七里、幅四里、人家千三百戸、学校十一校、寺院九カ寺、開業医四人あり。物産は薪炭、材木、山葵、蒟蒻玉等とす。村外の山上にはみな雪を冠す。その最も高きものを馬糞山と呼ぶ。奇名なり。その山上の地質馬糞に似たるより、この名を生ずという。数年前より石州津和野および日原に通ずる車道開通しおれり。よって鹿足郡内の竹木は本村まで車送しきたり、これより筏を造りて錦川に流すよし。便船も広瀬より岩国まで八里の間通ずべし。客中の所見を詩に寓す。

山経水緯路相縫、蹈破渓頭雲万重、積雪昨来埋馬糞、錦源十月已深冬、

(山をたて糸、川をよこ糸とするような地に、道はたがいに交錯しており、谷をゆきつめて雲の幾重にもかさなる所を踏破してきた。昨日からの積もった雪に馬糞山はうずもれ、錦川の源となるこの地の十月は、すでに冬にふかぶかと入っている。)

 当地開会は会場長栄寺、主催青年団、発起村長堀江転氏の外に堀江保氏、隅精作氏(校長)等なり。しかして宿所は素封家堀江茂一氏の宅なり。当夕、分外の厚遇に接す。堀江村長は山葵漬けをもって本村の一物産となさんと欲し、その命名を嘱せらる。よって余は錦漬と名付け、狂歌一首をつづる。

  たべて見よ広瀬ワサビの錦漬、辛味ほどよく風味たつぷり、

 この辺りの渓流にはヒラメと名付くる魚を産す。その形、海産のヒラメと全く異なりて、皮膚に斑紋を有す。

 十二月二十一日(日曜) 雨。未明早起き、暁寒を破り馬背にまたがりて峻嶺を跋渉す。道険にしてかつ狭く、雪泥いまだ乾かざるに雨泥また加わる。随行来島氏は不幸にして落馬の悲劇を演じたるも、余は幸いにその厄を免れ、三里の山道をつつがなく一過して本郷村〈現在山口県玖珂郡本郷村〉に達し、小学校において開演し、米沢旅館において休憩す。たまたま村長水谷治作氏病死の際にて、助役馬頭哲氏代わりて主催せらる。午時、本郷を発し、更に馬上に駕し峻坂を上下し行程二里、郡内の北海道と称せらるる秋中村〈現在山口県玖珂郡美和町〉に移る。屋上および田野には点々〔と〕雪のなお残るあり。しかして山上は皚々の色をとどむ。会場は小学校、主催は村長玉田竜作氏、校長坪井三郎氏、玉田専一氏、助役貝嘉作氏等、宿所は広兼佐兵衛氏宅なり。終日雨やまず、四面車道いまだ開通せず。交通すこぶる不便なるも、山隈渓頭には米田ありて、その量、村民の糊口を支うるに足るという。一反の収穫高はおよそ一石五斗にして、俵は三斗をもって一俵とするよし。風俗淳朴にして一仙郷なり。

 二十二日(冬至) 穏晴。早晨、天いまだ全く明けざるに旅装を整え、馬蹄厳霜を踏みて宿所を発す。ときに残月霜と相映じて白し。いわゆる「鶏声茅店月、人跡板橋霜」(暁を告げる鶏の声とかやぶきの店を照らす残りの月、板橋の上の白々とした霜に人の通った跡が残る)の光景を現ず。行程七里、その間、坂路を登降すること数回、最後に松尾坂を下る。峻坂険路二十丁の長きに及ぶ、県下第一の難路と称す。一名これを眩〔メマイ〕坂と呼ぶ。坂路のあまり峻急なるによる。嶺下に腕車の余行を迎うるありてこれに転乗し、右方に天下に名高き錦帯橋を望見しつつ岩国町〈現在山口県岩国市〉市街に入る。ときに午後一時半なり。六里馬背、一里腕車を用う。本県に入りし以来、この両三日ははじめて南船北馬を実現せり。岩国会場は小学校なり。その建築費十万円を費やし、校舎の壮麗なる県下第一のみならず、山陽第一の評あり。旅館松声館は昔遊当時の宿舎にして、熊谷最勝氏および二、三の有志はそのときの旧知なり。当夕、郡長松浦誠氏、中学校長金子幹太氏、町長森生惟輔氏、高等女学校長太田義弼氏、裁縫女学校長隅竜童氏、小学校長山県有氏等と会食す。発起は教育会長大塚謙三郎氏等の諸有志にして、吉田泉氏、雑賀実氏等尽力あり。郡視学岡乙熊氏は昨今退職せられたり。朝夕、日蓮太鼓枕上を襲う。

 二十三日 晴れ。錦帯橋は遊覧するの時間なきも、先年一見せしにつき、詩を賦してその一斑を模す。

誰教厳島芸陽驕、伯仲相争錦帯橋、此霓喩竜猶未尽、吾疑蜃気架雲霄、

(だれが厳島の景観は安芸〔広島〕のほこりであるとつげたものであろうか。その優劣は錦帯橋と争う。橋はにじにくらべ竜にたとえるも、なおいい尽くせるものではなく、私には蜃気楼の大空にかかる姿と思われたのだった。)

 午後一時、岩国を去り、腕車一里半にして灘村〈現在山口県岩国市〉に達す。会場小学校は高燥の地にありて、海に面し島に対し、眺望大いによし。主催は村長村重虎之助氏、助役木村幸太郎氏、藤本加図太郎氏、井上要蔵氏等の村内有志にして、ともに尽力あり。晩景に至り北風寒く、晴天に雪片を散らしきたる。村内は漁家多く、ナマコをもってこの地方の特産とす。宿所は藤生駅前藤洋館なり。旧儒にして陽明家の泰斗なる東沢写翁は、この地に居住せられし縁故をもって、所在その門生いまなお多し。

 二十四日 晴れ。灘より由宇村〈現在山口県玖珂郡由宇町〉まで二里の間汽車にて移り、丘上の社側なる小学校講堂において開演す。建築壮麗なり。今より旬日前に新築落成式を挙行せりという。海山の眺望また佳なり。主催は青年会にして、尽力者は村長山本元太郎氏、助役高本喜代助氏、校長井本為熊氏、および玉田隆義氏等とす。宿所三国屋別館は旅館風にあらずして別荘風なり。軒下に古色を帯びたる小庭池あり、その閑雅愛すべし。余はこれに苔香庭と命名す。本村は岩国、柳井両町の中間にありて、いずれへも四里を隔つ。人家相集まりて市街の形をなす。村内の特色は、神葬祭を行うもの比較的多き一事なりという。由宇駅より二十八町を離れたる所に大将軍と名付くる神社あり。福島県田村郡の元帥神社と好一対の社名なり。

 二十五日 晴れ。農業技師林氏は一週間渓山を跋渉して、案内の労をとられしが、今朝手を分かち、汽車に駕して再び熊毛郡に入り、田布施〈現在山口県熊毛郡田布施町〉駅に降車し、円立寺婦人会に出演す。会場および宿所とも同寺なり。住職および吉見延次郎氏奔走せらる。この日、寒温、朝〔華氏〕三十六度、午後〔華氏〕五十一度なり。

 二十六日 快晴。朝八時半、田布施を発し、大島駅に降車す。これ大島郡渡海の津頭なり。郡視学岡乙治郎氏、小松志佐〈現在山口県大島郡大島町〉村長吉田紋治郎氏の和船をもって迎えらるるあり。これに同乗して対岸に移る。この海峡の最も狭き所はわずかに八丁なりという。約一時間にして開会地に着岸す。会場は明新小学校なり。宿所は収入役長久素彦氏宅にして、村役場とその棟を同じくす。村内塩田多く、製塩を主なる物産とす。県立商船学校は本村内にあり。気候暖かなれば、農家いまだ麦まきを終わらず。主催は村長吉田氏にして、屋代村長西村庄兵衛氏、同助役村田栄太郎氏これを助く。西村氏は明治二十一年、余の米国渡航の際、同船に乗り込みしという。

 二十七日 穏晴。小松志佐より久賀町の間、陸路三里、海路汽船の便あれども、未明四時の出航なれば陸行に決し、朝八時、草鞋をうがち、橋霜を踏みて出発す。坂路を上下すること三回、渓谷の間には村落あり田畑あり。民家は瓦屋白壁のみなれば、生計の豊かなるを知るべし。海山の風光、画図を欺く。厳島および能美島、眼前に蒼々たり。午前十一時、久賀町〈現在山口県大島郡久賀町〉に着す。これ本島の首府にして、郡役所ここにあり。会場覚法寺は故大洲鉄然氏の寺にして、鉄也氏、今その住職たり。宿所は福田屋なり。主催は郡長横山素輔氏、県会議員秋本孝太郎氏、町長升井五郎左衛門氏にして、尽力者は岡郡視学および郡書記児玉徳太郎氏、林年若氏、太田鶴一氏等とす。当地の名産は温飩と饅頭なり。温飩は油を用いずして製するを特色とし、饅頭は大阪虎屋の本元なりという。大島郡の本島を古来、屋代島と称せし由。丘山多く平地少なく、力作勤耕するもなお生計を立つるに困難なりしが、今より数十年前、外国出稼ぎを開始して以来、年々巨額の金を送りきたり、目下すこぶる富裕の郡となる。勤倹にしてよく労働に耐うるは郡民の特性なりとす。全郡七万人余の人口に対し、五、六千人は今なお海外にありて労働に従事する由。婦人、小児に至るまで、故郷を去りて海外に遠航するをいとわざる風あるは、他県人の及ばざるところなり。よろしくこの風を模範とすべし。

 十二月二十八日(日曜) 晴雨不定。早朝六時、起床。七時、微雨の中汽船に駕し、志佐、柳井、室津の諸港を経由して平郡村〈現在山口県柳井市〉の一離島に向かう。ときに風強く波高く、船体大いに揺動せるも、幸いに無事にて東部落に着岸す。岸上多数の人々に迎えられて宿所浄光寺に入る。時針、一時を報ず。少憩の後、小学校にて開演す。老弱男女群集し、校内にあふれて校外に及ぶ。その聴衆と戸数とを比算するに、一戸より三人ずつ出席せる割合となる。当夜、宿寺において更に開会す。これまた満堂なり。本村は他所にてヘグリと呼ぶも、当所にてはヘーグンという。周回七里半、面積二方里、本島を去る最近の所にても海上約二里を隔つ。戸数五百戸、東西両部に分かる。東部三百戸、西部二百戸、その部落は島の両端にありて、中間二里八丁の間人家なし。村役場は年度を定めて東西転換する規則なり。東部に五年間、西部に四カ年を置く。かくのごとき役場の転換は、ほかにいまだ聞かざるところなり。産業は農業と畜産なるも、農業は山険にして地狭く、畑一枚ごとに一方に石垣を築きてこれを平らかにするほどなれば、肥料の運搬すこぶる困難なり。わずかに麦と薯とを作りて食料となす。昨今、山田麦色すでに青し。その名を平郡と呼ぶも平地なきは奇というべし。牧牛は第一の物産にして、一年の輸出三百七十頭に達す。従前はいわゆる切り替え作の方法を用い、牧場と畑とを五、六年目に転換し、畑には肥料を施さざりし由なるも、今日はようやくこれを廃するに至る。一村の美風として伝うるところは、牧牛に与うる草はなにびと所有の山林に入りて刈り取るも自由なる一事なり。本村は毛利家の当時御船手役を命ぜられ、水兵に備えられし由来より、今日にても全村みな士族にして、一戸の平民なきは全国中無類ならん。村民概して体格よく、軍人なかんずく海軍志望者多しという。寺院は東部に二カ寺、真宗と禅宗あり、西部に一カ寺、浄土宗あり。学校、東西おのおの一校ありて、尋高〔尋常高等小学校〕を併置す。開業医は東西おのおの一人あり。人気は一般に淳朴なるもやや偏執の風あるは、地勢の影響上やむをえざるなり。一言にて評すれば、防南の小蓬莱なり。ここに一奇談あり。ある年、徴兵検査に壮丁の学術試験を行いたるに、山口県には何々の郡ありやと問う。某壮丁答えて曰く、熊毛郡、大島郡、平郡の三郡ありと。また、平郡に郡役所、郡長ありやと問うに、答えて曰く、郡役所も郡長もなき郡なりと。これ伝聞のままを記するのみ。井水に白色を帯ぶるは地質のためならん。山林に松樹のみなるは、石質にして潮風強きためならん。山腹には石骨を露出せる所多し。小学校の生徒名を探るに、ハルヨ、キクヨ、ウメヨなどの、ヨの字を添えたるもの三割の多きを占むるは異例なり。

 二十九日 晴れ。午前十一時半、汽船に駕す。壮丁二隻の端船を競漕して送行せるは一大快事なり。平郡主催は村長井上豊治氏、伊藤孫太郎氏、生田蔵之助氏、伊藤嘉十郎氏、宗野金槌氏等なるも、井上村長前後とも迎送し、最も尽力せらる。宿寺住職神代知聞氏も主唱者なり。郡役所よりは児玉書記案内の労をとらる。午後二時、柳井町に着し、駅前亀田旅館に休憩し、来島随行と東西に相わかれ、余は十時半の特急にて帰東に向かい、三十日午後、新橋に安着す。

 ここに大島郡を一括して述ぶるに、その本島すなわち屋代島は周囲二十六里、面積十四方里、全郡の町村数は一町十一村、校数は二十三、外に分教場十五あり。その特色の一は、全郡に一個の腕車なき一事なり。従前は薯畑多かりしが、今は大抵柑園に変ぜり。ただしカンコロと称する名物あり。薯を乾燥して粉にしたるものなり。これを固めて団子となし、更にふかして食用に備う。外国出稼ぎは本郡の特色なるは、前すでに述べたり。家室西方村字外入〔とのにゅう〕にて日露戦争以来、目に一の字の竪横を知らざる老婆の教育を開始せる一事も特色なり。今日なお継続す。その生徒数七、八十人ありて、その中には七十歳以上の老婆も加われる由。新年正月に各戸の神棚に懸くるに、掛鯛と名付くるものを用うるも異例なり。その物たるや、縄をもって二尾の乾鯛を大の字の形に結ぶものなり。東京のウラ白の飾りに比すべし。また、郡内は一般に酒の流行する所にて、その地にて製する酒はアルコール分強き故に、鬼殺しという由。宴会の席にはその鬼殺しを、一人平均一升あてにのむと聞く。ただし、いくぶんか誇大の話ならん。また、本郡にて魚を商うに、婦人が籃を頭上にいただきて行く、これをノジと名付く。阿武郡にてはカネリという由。本郡客中作二首あり。

纔隔潮流一島長、風清気暖是仙郷、民家勤倹自成俗、進向天涯万里航、

(わずかな距離で潮流にへだてられた島が横たわり、風は清らかに気候は温暖で、これは仙人の住むような里である。民人は勤勉で倹約を重んずることがおのずからならわしとなり、進んで天のはてのような遠い外国に万里の海をわたって働きに行く気概の風があるのである。)

屋代島南平郡浮、崇山一帯麦田稠、一村生計冬猶暖、半在耕雲半牧牛、

(屋代島の南に平郡島が浮かび、高い山の一帯は麦畑がしげる。村の生活は冬なお温暖で、半ばは雲に耕すように高い土地をたがやし、半ばは牛を飼っているのだ。)

 方言、俗謡のごときは、対岸地方と別に異なるところなし。

 ここに四カ月を費やして山口県各郡を巡了したり。その風土、人情もまた一括して述べざるを得ず。まず本県の特色を挙ぐるに、食物の鯛茶、サシミの酢醤油、馬車の黒塗り、風呂の大釜、鍋に三角形の口の付きたるもの、腕車台の両側に網を張ること、俵に縄を結び付けて轎に代うることなどなり。これ防長の七不思議ならんか。釜風呂は東京にて長州風呂というが、本県にては金〔かね〕風呂という。昔時は大甕を用いしと聞く。俵轎も、昔時山中旅行に用いしも、今は車道の開けしためにほとんど用うるものなきに至れる由。本県人の言語は判明にして難解の点なく、ハイおよびゴザリマスの語調にて、すこぶる丁寧の語に聞こゆ。そのうち方言の独特なるものを挙ぐれば、歌調にて綴りたるものあり。

山口なまりはアノソニコノソ(あれこれの義)、オヌシヤドウカチウカ(君はドウデスカの義)、ウチヤイヌル(私は帰るの義)、チュウニゴツポーサバケン(チュウは宙にして非常または大ソウというがごとく語を強むる言葉なり、ゴツポーとはたくさんの義、サバケンとはツマラヌの義)、ニーマニネーマニゴーマニ(ニーサン、ネーサン、嬢サンの義)、ツバイシヤンスナイケンチーヤ(フジャケテワイケヌの義)、インダラオカカニユウチヤゲル(帰ったならば母にいいてやるの義)、ホートクナイニヨーソケナイ(キタナキありさま)、ヤニクモ(たくさん)、ホロケタ(たおれたこと)国なまり、長州防州。

 その他、萩町に限れる独特のナマリにワとアとの相違あり。ワタクシをアタクシといい、鷲をアシというの類なり。独木水車をサコンダという。浜茶をザラ茶といい、間がわるいを符がわるいというがごときも、その県の方言なり。ゾウの発音がドウに聞こゆるも一種のナマリならん。冬日朝、客が寒をおかして出発せんとするときに酒を出だす習慣あり、これを霜消しという由。されば夏時はなんと名付くるかと問えば、汗消しという由。つぎに、姓につきては、伊藤、井上、犬の糞と称して最も多し。名に槌の字を付くると、スケに介または亮の字を用うるとは、ほとんど防長人に限る。教育につきては、校舎の設備は広島県よりも大いによし。小学校に講堂を別置せるもの多き、校内に図書館を併置するものの多きも本県の特色ならん。広島県は靴のままにて校内に入るをいとうも、本県は兵庫県のごとく、靴を脱せずして出入するを許す。宗教につきては、長州に真宗多く、防州に曹洞宗多し。したがって仏教信仰の力は長州にあり。防州は吉敷郡と熊毛郡の南部とを除くの外は、神道かえって勢力あり。真宗は本派のみなるも特色の一なり。その寺院数七百カ寺のうち百カ寺以上は玖珂郡内にありながら、その郡内にかえって真宗の振るわざるも一異例ならん。神社に八幡社最も多く、ほとんど七、八分を占め、しかもその社のいずれも比較的美大なるは、また特色の一に加うべし。迷信に至りては、犬神すこぶる多し。その源は四国より伝えたるものなれども、その本元よりもかえって盛んなるもののごとし。以上、旅行中見聞に触れたる諸点を叙記せるのみ。

 つぎに、山口県人の産業および性格を述べ、かつ将来に望むところを一言するに、本県は一般に農業本位、米麦主産にして、蚕業いまだ発達せず、工業の著しきものあらず。しかし民家の生計はいたって豊かにして、かつ財産も比較的平均せる方なり。衣食住ともに、これを他県に比するに上等に位す。したがって書画美術に対する趣味も大いに発達しおれり。その人となり概して機敏怜悧なるは、衆評の許すところなり。しかして長州人は比較的武にして防州人は比較的文なるは、気候地形の影響ならん。その県人が王政復古の先鞭をつけ、明治維新の成功を遂げたるは、将来ながく天下に向かいて誇るに足るべき至大美事なるが、必ずその性格に起因せるところなかるべからず。余、これを薩州人に比するに、かれは石のごとく、これは泉のごとし。かれは薩摩薯に似て、これは夏蜜柑に似たりといわんとす。もしその意味のいかんに至りては、読者の判断に任せんのみ。もしその欠点を挙ぐれば、忍耐の精神に乏しき一事ならん。従来、政治家および軍人に偉大なる人物を輩出し、その方面に大成功を現じたりし割合に、実業家に成功者なきがごときは、その長所短所の存するを知るに足る。ただし自彊やまざるの忍耐力に乏しきは日本人一般の弱点なり、なんぞ防長人のみに限らんや。

 今日までのわが歴史上には防長二州の名は赫として全巻を照らすも、今後果たしてその光輝を継続し得るやいかんは一疑問ならん。余かつて曰く、己の歴史をもって誇る国民は衰亡の兆しなりと。インドのごとき、ギリシアのごとき、スペインのごとき、みなしかり。この事実は日本国内につきてもたやすく証明するを得べし。余、先年、三州岡崎に遊び、康生町において演説せしことあり。町名を康生と名付けしは、家康公の誕生せし事実を紀念するためなり。余、ときに明治時代における三州出身の人物を問いたるに、主催者答えて曰く、むかし家康公があらゆる三州人の知恵をしぼり取りて世に出でられたるために糠粕のみ後に残り、今日に至るも更に人物なしと。これ家康公が知恵をしぼり取りたるにあらずして、三州人がその歴史をもって自ら誇りたるために人物なきに至れるのみ。しかるに防長人士に対して万々かかる杞憂を述ぶるの必要なきを知るも、青年の人々に一言を呈せんとす。諸氏は明治維新の歴史をもって自ら安んずべからず。明治は維新の柱礎のみ、これに屋壁を加えて大成せしむるは大正年間にありと自覚し、始めあるものは終わりをよくするを要す。よくその終わりを全うするの任は山口県今日の青年にありと自信し、感奮一番、厲声蹶起し、勇往邁進して、先輩の成功をもって足れりとせず、自彊やまざるの精神を発揮して、戊申詔書のいわゆる国運発展の大任をまっとうせられんこと、これ余が邦家百年のために渇望してやまざるところなり。防長巡講百日間、各所において分外の優待と深大の厚誼をかたじけのうせるに対し、ここに一片の婆心を述べて謝辞に代えんと欲す。賢明なる防長人士が海天の寛量をもって、無礼なる余の蕪言を快受せらるるあらば幸甚。

 

     山口県開会第二回一覧

 市郡   町村     会場  席数   聴数     主催

豊浦郡  豊東村    寺院   二席  六百五十人  村役場

吉敷郡  大道村    寺院   二席  四百人    大道会

同    吉敷村    小学校  二席  四百人    村長および青年会

同    同      寺院   二席  百五十人   有志者

同    宮野村    公会堂  二席  四百五十人  村長

同    仁保村    小学校  二席  六百五十人  青年会

同    同      寺院   二席  四百人    各宗連合

同    大内村    小学校  二席  六百人    青年会

同    同      寺院   一席  二百人    順教会

同    小鯖村    寺院   二席  五百人    同寺

佐波郡  防府町    寺院   二席  七百五十人  同町

同    華城村    寺院   二席  四百五十人  村役場および信用組合

同    西浦村    寺院   二席  三百五十人  村役場

同    中関村    小学校  二席  五百五十人  同村

同    右田村    寺院   二席  八百五十人  同村

同    小野村    小学校  二席  二百人    同村

同    島地村    小学校  二席  七百人    同村

都濃郡  徳山町    寺院   二席  七百五十人  町長

同    同      中学校  一席  四百人    校友会

同    福川町    寺院   二席  五百人    同町

同    下松町    寺院   二席  六百五十人  郡役所

同    湯野村    寺院   二席  五百人    同寺

同    富田村    寺院   二席  五百五十人  同村

同    須々万村   寺院   二席  七百人    郡役所

同    末武北村   小学校  二席  五百人    交誼会

熊毛郡  平生町    小学校  二席  七百人    青年会

同    室積町    寺院   二席  七百五十人  有志者

同    三丘村    小学校  二席  六百人    同村

同    周防村    寺院   二席  四百五十人  村長および寺院

同    塩田村    小学校  二席  七百人    青年会

同    同      寺院   一席  四百人    婦人会

同    光井村    寺院   二席  七百人    村長

同    曾根村    寺院   二席  七百人    青年会

同    佐賀村    寺院   二席  千二百人   同村

同    田布施村   寺院   二席  四百人    婦人会

玖珂郡  岩国町    小学校  二席  千人     町内有志

同    柳井町    小学校  二席  千六百人   青年会

同    新庄村    小学校  二席  五百人    同窓会

同    伊陸村    小学校  二席  五百五十人  仏教青年会

同    祖生村    寺院   二席  六百五十人  青年会

同    同      小学校  一席  二百人    校長

同    高森村    寺院   二席  五百五十人  村長

同    北河内村   小学校  一席  五百人    小学校

同    桑根村    小学校  二席  六百人    同村

同    広瀬村    寺院   二席  八百人    青年団

同    本郷村    小学校  一席  三百人    同村

同    秋中村    小学校  二席  七百五十人  同村

同    灘村     小学校  二席  六百人    同村

同    由宇村    小学校  二席  六百人    青年会

大島郡  久賀町    寺院   二席  六百人    有志者

同    小松志佐村  小学校  二席  四百五十人  村長

同    平郡村    小学校  二席  九百五十人  同村

同    同      寺院   一席  五百人    同寺

   以上合計 七郡、四十六町村(九町三十七村)、五十三カ所、九十九席、聴衆三万一千百人、日数四十二日間(東京往復日数を除く)

(この七郡中、豊浦郡を除くの外はみな周防国なり)

    演題類別

     詔勅および修身に関するもの      三十九席

     妖怪および迷信に関するもの      二十四席

     哲学および宗教に関するもの       十六席

     教育に関するもの            十一席

     実業に関するもの             五席

     雑題(旅行談)等に関するもの       四席

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大正二年度報告

 余の本年度における事業を報告せんに、著述の方にては左の二種の小冊子あるのみ。

  哲界一瞥 全一冊 大正二年六月二十八日発行  大正菜根譚 全一冊 大正二年十二月十八日発行

 哲学堂経営としては、小講堂(宇宙館、皇国殿)を建築せり。外に石門を新設せり。なお引き続きて図書館の建設に着手する予定なり。

 つぎに、巡講の方は前掲の合計を再掲せんに、

  六郡、二十五町村、二十五カ所、五十席、一万一千人(埼玉県第二回)

  一市、九郡、十町村、十四カ所、二十五席、六千五百五十人(徳島県)

  六郡、十三町村、十四カ所、二十七席、六千三百五十人(兵庫県第二回)

  一市、八郡、五十三町村、五十八カ所、百十五席、三万一千四百五十人(広島県第一回)

  一市、一郡、一町、四カ所、六席、一千九百人(帰行途上)

  一市、八郡、五十九町村、六十五カ所、百二十五席、三万八千七百人(広島県第二回)

  一市、一郡、一町、四カ所、四席、二千百人(近江国一部)

  一市、一郡、一村、五カ所、十席、二千五十人(馬関および付近)

  六郡、四十八町村、六十一カ所、百十八席、三万七千八百七十五人(山口県第一回)

  一市、一郡、三町村、七カ所、十席、四千百三十人(大阪市および三河国一部)

  七郡、四十六町村、五十三カ所、九十九席、三万一千百人(山口県第二回)

  (この表中に豊浦郡、吉敷郡の重複せるところあれば、これを除きて総計す)

   総計 七市、五十一郡、二百六十町村、三百十カ所、五百八十九席、十七万三千二百五人

 すなわち演説五百八十九席を重ねて、十七万三千二百五人に対し、精神修養上の講話をなせり。

  (付)哲学堂会計報告

収入、金八千九百七円二十六銭

   内訳 金八千八百六十五円七十六銭    揮毫謝儀

金四十一円五十銭         篤志寄付

支出、金四千二百十四円七十一銭

   内訳 金四百四十三円七十八銭      前年度不足分

金二千八百三十二円四十八銭    建築費、修繕費

金二百八十円三十銭        書籍、報告、規則印刷代

金六百五十八円十五銭       事務費(俸給、手当、郵税等)

差し引き、金四千六百九十二円五十五銭     過剰

  この剰余金は大正三年度より着手する図書館建設費中にあてはむべし。

 以上  大正二年十二月三十一日決算

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湘南春遊記

 年末より持病再発したれば転地療養せんと思い、大正三年一月三日東京を発し、相州湯河原温泉に入浴す。途中、電車および軽便は非常の雑沓を極む。湯河原は今より三十四年前および十年前、両度入浴せしことあり。その都度ごとに大いに発展せるを見る。三十四年前には小田原より五里の間、腕車いまだ通ぜず、客舎四、五軒ありしもみな茅屋、内湯なくして共同湯のみなりしが、昨今は小田原より軽便に駕し、湯河原駅(門川)に降車し、これより上等馬車ありて約十里の間二、三十分にて往復するを得。客舎十四戸、おのおの内湯ありて五、六百人をいるるの設備あり。天野屋、中西屋、藤屋、伊藤屋のごとき、その主なるものなり。余は先年両度藤屋に止宿せしが、今回は中西に滞留す。知人としては古市公威氏、古賀貞長氏、片山国嘉氏、土子金四郎氏等、同時に入浴中なり。この地は神奈川県相模国足柄下郡土肥村中の一部落にして、戸数七、八十戸渓流の岸頭に隣列す。散歩としては清滝、不動滝、養生園をよしとす。別に公園あれども庭園の設備いまだ成らず、保善院、土肥兼平墓所、屏風滝等へも杖をひきて可なり。健足のものは日金山へ登るもまたよし。その里程三十丁あり。温泉場としては海に近くして海を望むことを得ざるを遺憾とす。また、その地の特色としては、旅館の屋根が大抵瓦ぶきにあらずしてトタンぶきなる一事なり。地気暖にして野梅すでに開くも、ときどき日金山頭より吹き下ろす風の強くしてかつ寒きを一欠点とす。

  また今日もさむき日金の山おろし、腹の底まで冷え渡りける、

 当地客中作二首あり。

  地僻渓深境自閑、湯河原亦一仙寰、霊泉浴後無他事、臥聴泉声坐視山、

(ここは僻地にして谷は深く、おのずからしずかであり、湯河原もまたひとつの仙人の住むような所である。霊妙な温泉に入ったあとにはなにごともなく、臥しては泉の音をきき、座しては日金山をながめるのであった。)

  迎年大正第三回、養病湘南湯谷隈、半夜客楼人定後、一痕梅月入窓来、

(大正三年の春を迎え、病をこの湘南の温泉湧き出す谷の一隅に養生す。夜も半ばの旅館では人の寝静まったあとは、ただわずかに梅の香と月の光が窓より入ってきたのである。)

 このとき毎夜月明に会す。別に東京より大内青巒氏の所吟を寄せられたるに対し、その韻に和して新年所感を述ぶ。

世路重迎暦日新、寿山猶遠幾由旬、身雖衰去心常壮、書毎読来気自伸、欲見𣵀槃峰頂暁、却迷生死渡頭春、今賢古聖皆吾友、何与風花雪月親、

(世道は重く、暦の新たなる日々を迎え、いのち長きはなおとおく、どれほどの道のりであろうか。身は衰えに向かうとはいえ、心は常にさかんに、書は読むごとに気宇はおのずからのびやかとなる。涅槃の峰頂に暁を見ようとして、かえって生死に迷いを生じてこの春を迎えた。古今の聖人、賢人はみなわが友であり、なんぞ風月雪花に親しむことがあろう。)

 また客中、『本朝三字経』に擬して、「大正三字経」を作る。

  我日本、在大東。 地膏腴、気和融。 人勇敢、克尽忠。

  俗醇厚、克奉公。 有皇室、万古隆。 与天壌、永無窮。

  昔神武、開皇基。 数千載、星霜移。 四方海、無敵窺。

  徳川末、覇政衰。 唱開港、論攘夷。 民心動、国将危。

  勤王士、決死生。 内訌治、復昇平。 明治帝、察民情。

  五条文、誓神明。 破陋習、立府県。 起学校、開知見。

  敷鉄路、置郵電。 発憲法、設議院。 前清役、後露戦。

  武威震、国光遍。 帝勲業、洵絶倫。 徳比聖、智如神。

  挙俊才、恤窮民。 普天下、率土浜。 誰不仰、其至仁。

  寿未久、遽崩殂。 百姓哀、如身屠。 今上帝、継大謨。

  賢良臣、下相扶。 改暦号、為大正。 五千万、本同姓。

  一其心、奉君命。 防外患、助内政。 我国運、必当盛。

  使万邦、致崇敬。 曩先帝、下詔勅。 諭軍人、以護国。

  忠礼武、此三徳。 加信質、為五則。 其精神、在一誠。

  義是重、死乃軽。 守之者、真干域。 以張軍、以錬兵。

  於教育、別有言。 皇祖宗、養道根。 以忠孝、為徳源。

  其徳中、倫常存。 凡百行、是為元。 在平常、研智術。

  広公益、遵法律。 若国家、危急日。 以義勇、護皇室。

  爾臣民、咸相率。 使其徳、与朕一。 此聖語、仁将溢。

  戊申書、説人文。 列国間、排戦雲。 共福利、建文勲。

  有綱目、八条分。 信与義、倹与勤。 挙国民、常実践。

  戦役後、日猶浅。 如庶政、必改善。 至国運、亦発展。

  斯遺訓、須服膺。 兵雖強、産無恒。 農工商、未振興。

  与欧米、焉能競。 大正業、全在此。 億兆民、冝奮起。

  捧至誠、守聖旨。 尽人事、済其美。 皇徳高、如大洋。

  国恩深、似海洋。 欲報之、須自彊。 使百業、必更張。

  任愈重、途猶長。 読之者、冀勿忘。

(わが日本は大東にあり。地味は豊かに美しく、大気はなごやかにとけあう。人々は勇敢に、よく忠を尽くす。風俗は醇厚に、よく公に奉ず。皇室あり、万古よりさかんに、天地とともに、永久に窮まりなし。そのむかし神武、皇室の基を定めてより、数千年、星霜うつる。よもの海に、敵のうかがうことなし。徳川の末に、覇政ようやく衰う。開港を唱えて、壌夷を論ず。民心動揺し、国まさに危うし。勤王の士は、死生を覚悟し、〔ゆえに〕内紛は治まり、ふたたび太平の世にならんとす。明治帝は、国民のようすを察せられ、五箇条御誓文を宣布され、神明に誓われた。いやしい習慣を打破し、府県の制度を確立す。学校を開設し、知見を広める道を開く。鉄道を敷き、郵便、電話を設置す。憲法を発布し、議院を設く。さきには清と戦い、のちにはロシアと戦い、武力の勢いは世界を震わせ、国の輝きは世界にあまねし。帝の偉業は、まことにたぐいなく、徳は聖人にならび、智は神のごときである。俊才を挙げ用い、窮民をすくい、あまねく天のもと、大地にゆきわたる。すべての人民が、その深いめぐみを仰ぎみる。〔しかるに〕よわいなお久しからざるに、にわかに崩御せらる。人民のかなしみは、あたかもわが身を失うがごときであった。今上帝は、この国家の大計を受け継がれ、賢良の臣が、下にいてあい助け、暦号を改め、大正とされた。五千万の人民は、もとより姓を同じくし、その心を一にして、君命をつつしみ受く。外患を防ぎ、内政を助け、わが国運は、かならずや盛んなるべく、あらゆる国をして、崇敬せしめるであろう。

さきの帝は、詔勅を下し、軍人をさとして、もって国をまもらしむ。忠、礼、武は、これ軍人の三徳、信と質を加えて、五つののっとるべき条となす。その精神は、一に誠にあり、義は重く、死はすなわち軽し。これを守る者は、まことに国を守る武人、もって軍をつらね、もって兵を錬成す。教育については、別にお言葉あり。皇祖のおおもとは、道の根本を養成しきたり、忠孝をもって徳の源とし、その徳を中心として、人のみちは常にあり。すべての行いは、これを本元とす。平常においては、智術をみがき、公益を広め、法律を遵守す。もし国家において、危急の日あれば、義勇をもって、皇室をまもるべし。なんじら臣民は、みなたがいにみちびきあい、その徳をして、朕と一つならしめよ。これ帝のお言葉にして、仁徳あふれるものである。戊申詔書は、人文を説き、列国の間の、戦争をしりぞけ、福利を共有し、文化のいさおをたてんとす。綱目あり、八条あり。信と義、倹と勤、国民すべてが、常に実践す。戦役の後、日なお浅く、庶政のごときは、必ずや改善し、国運に至っては、また発展す。この遺訓は、かならずよくわきまえて忘れてはならぬ。兵は強くも、生活に安定なく、農工商の、いまだ振興することなければ、欧米とどうして競うことができようか。大正の御世の大業は、すべてここにある。ゆえに、億兆の民は、よろしく奮起すべきである。至誠を捧げ、ご聖旨を守り、人事を尽くして、その美を完成せん。天皇の仁徳は高く、大洋のごとく広く、国の恩恵の深いこと、海洋に似ている。この恩徳に報いんとねがうならば、自らをつよくするべきである。多くの産業を、さらに発展せしめよ。その責任はいよいよ重く、みちはなお遠い。これを読む者は、こいねがわくば忘るることなかれ。)

 右は『本朝三字経』の例に倣い、隔句韻をふめり。また、真宗の白骨の御文に模して、奮闘文を作る。

夫れ人間の盛んなる相をつら★★(原文では、くの字点表記)観するに、おほよそ楽しきものはこの世の始中終、極楽の如くなる一期なり、さればいまだ地獄の苦みを受けたりといふ事をきかず、一生送り易し、今の世に於て誰れか悲観の淵に沈むべきや、我やさき人やさき、苦を厭はず労を厭はず、互に競うて働く人は必ず福禄を招くといへり、されば朝には貧困ありて夕には紳士となれる身なり、すでに成功の春来りぬれば、すなはち艱難の氷とけて歓楽の花を開きぬれば、霜枯も忽ち変じて桃李のよそほひをなしぬるときは、六観眷属集りて天に舞ひ地に躍るも更に其喜を尽くすべからず、たとひ寿命窮りて此世を去るに及びても、功名は千歳の後にまで残るべし、うれしといふもなか★★(原文では、くの字点表記)おろかなり、さればたれの人もはやく成功の一大事を心にかけて、己れの力のあらん限りを尽くして奮闘すべきものなり、あなかしこ★★(原文では、くの字点表記)、〔原文のまま〕

 十六日は土肥村〈現在神奈川県足柄下郡湯河原町〉青年会発会式なりとて、依頼に応じ戊申詔書に基づきて講話をなす。

  会場  小学校  演説一席  聴衆五百人  主催青年会

 本村は四部落より成る。その各部落に実業補習学校ありて、毎年秋より春まで八カ月間、毎夜講習を開き、十三歳以上二十歳までの青年を教授す。その青年は大抵校舎内に宿泊し、教員中にて監督をなすという。しかしてその経費は青年の労働より支出す。第一に村内の夜番を引き受け、各戸の集金を引き受け、その他臨時の労働を引き受け、これによりて得たる入金をもって支弁する由。十七日朝、湯河原を発して東京に帰る。

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滋賀県巡講第一回(湖東)日誌 付 三河国西部

 大正三年二月五日 晴れ。夜十一時、新橋発にて滋賀県に向かう。東京大相撲一行が名古屋市にて興行せんとて同乗し、車内雑沓を極む。

 二月六日 雨。午後一時、神崎郡能登川駅に着す。随行は静恵循氏なり。これより車行一里、南五個荘村〈現在滋賀県神崎郡五個荘町〉に入る。会場兼宿坊は同村字金堂弘誓寺なり。これ真宗大谷派の大寺にして、本堂は十二間四面の広袤を有す。本村は戸数六百、すべて商業を本位とし、農業を副業とするありさまにして、その商業は村内において開店せるにあらず、遠く他県他国に出でてこれに従事す。概してみな呉服商なり。村内第一の資産家塚本定右ヱ門氏は県下第一の富豪にして、その財産一千万円以上と称す。これに次ぎて五、六百万以上の資産家数戸あり。けだし日本全国中、一村としてかかる資産家の多きは他にいまだ聞かざるところなり。この地は世に近江商人と称する本場にして、由来江州の商業地を日野、八幡、中郡と唱え、愛知、神崎二郡を中郡と呼びきたれり。しかして五個荘はすなわち中郡の中心に当たる。開会発起者は村長川島与左ヱ門氏、助役北川笘治郎氏、住職那須厳侍氏等なり。

 二月七日 曇り。朝来北風雪を醸し、寒ことに厳なり。遠山は夜来の降雪のために一望皚然たり。しかしてときどき断雲、日光を漏らしきたる。また、野梅のすでに笑みを含むを見る。車行約一里半、伊庭村〈現在滋賀県神崎郡能登川町〉に至る。村内を三分して農、工、漁となすを得という。しかしてその工はみな麻布製造なり。会場は妙楽寺、宿所は法光寺住職梁瀬渓浄氏の宅なり。梁瀬氏は哲学館第一期の卒業にして、本願寺派の司教たり。同氏および村長川原崎伝五郎氏等、開会を発起せらる。ときに梁瀬氏の還暦を祝する七絶を賦す。

  卜居湖畔伴烟霞、念仏声中送老涯、六十一年生死夢、心頭已発𣵀槃花、

(すまいを湖畔に定むるに、この地はけむるかすみがただよい、念仏を唱えるうちに還暦を迎えた。六十一年の生死は夢のごとく、心にはすでに解脱の花を咲かせているのである。)

 二月八日(日曜) 降雪。午前雪蕭々、午後白漫々。車行七丁にして能登川村〈現在滋賀県神崎郡能登川町〉阿部市太郎氏の宅に着す。氏は県下屈指の豪商にして、元哲学館館賓たり。会場は真宗仏光寺派善明寺にして、主催は村長山本宗三郎氏、区長沢熊太郎氏等なり。郡視学丸山万次郎氏来訪あり。当日の即吟、左のごとし。

  昨夜湖東雨、今朝醸雪来、忽開銀世界、晩望白皚々、

(昨夜、湖東の地にふった雨は、今朝は雪となった。たちまちにして銀世界をつくりだし、晩には望むかぎりしらじらとかがやくのであった。)

 九日(陰暦一月十五日) 晴れ。この日、風和し日あたたかにして、街雪みな解く。行程約一里、八幡村〈現在滋賀県神崎郡能登川町〉に移る。隣郡に同名の町あれども、読み方を異にす。村の方はヤハタと呼び、町の方はハチマンと呼ぶ。会場兼宿所たる弘誓寺は真宗本派中の大坊にして、庫裏また広し。夜中、鼠軍の襲来に会す。住職は那須野乗照氏なり。主催は三村連合にして、八幡村長小島弥助氏、栗見村長富江善八氏、栗見荘村長樋口兵助氏および青年会諸氏、みな尽力あり。村内は清泉ところどころに噴出し、各戸これをくみて飲用となす。

 十日 雪。夜来北風再び雪をもたらしきたり、暁窓一面また白し。この日、雪道を避けんために鉄路により、八幡〔はちまん〕駅を経て迂回して八日市町〈現在滋賀県八日市市〉に至る。八幡駅と八日市との間に軽便鉄道を架設し、一カ月前より客車の運転を開始せり。八幡村より八日市まで約三里の行程を、鉄路によれば五里以上となる。余は数年前、高野永源寺観楓の際、通過せしことあり。郡内中央の小都会なり。会場は公会堂修交館、宿所は宮川楼、主催は町長横畑耕夫氏、ほか他村長なりとす。この地に瓦屋寺と名付くる寺院あり。聖徳太子の当時、瓦を焼きたる古跡なりという。郡長平塚分四郎氏来会せらる。

 十一日(紀元節) 晴れ。八日市より一里余、雪泥をわたりて北五個荘村〈現在滋賀県神崎郡五個荘町〉字宮荘に至る。途中、桑田多し。今より二十三、四年前、両度この地に来遊せしことあり。当時県会議員たりし野村閑氏の邸宅に宿せり。氏は八十余歳の長寿を得て、三年前すでに永眠せられたり。かつて八十歳の元旦作一首を寄せられたることあり。その中に自ら子供と称する語ありしを見て、「八十の君が子供であるならば、五十の我は赤ん坊なり」とよみて返歌せしを記憶す。本村は郡役所所在地なるも、旅館としては小学校の前に一館あり。各室は清新にして東京風の建築なれども、常置女中なく、客の多き場合には、臨時〔に〕近隣より女中を徴発して給仕せしむる常例なりという。浴室は江州固有の風呂にして、その構造すこぶる奇なり。風呂桶の上をふさぎ、横面に一尺ぐらいの窓口を開き、これより桶内に入る。その桶の総高三尺ぐらいなれば、頭をあぐることあたわず。湯の深さ一尺以下なれば、膝を浸すに過ぎず、腰より以上は湯気にて蒸さしむる仕掛けなり。よって入浴者はその桶内に入るに、後ろ向きになってまず脚部を入れ、つぎに腹部を入れ、最後に頭部を入れざるべからず。すでに入りたる後はたち上がることはもちろん、身を自在に伸ばすこともできず、実に窮屈千万なり。しかしてその釜の構造は五右衛門風呂なり。聞くところによれば、江州の倹約主義より起こりたるものなりという。会場は小学校、主催は青年会にして、村長松居喜右ヱ門氏その会長たり。しかして副会長は助役山西与曾次氏なり。当夕、旅館において郡長、村長等の諸氏と会食す。

 十二日 晴れ。近江鉄道に駕し、神崎郡を去りて犬上郡彦根町〈現在滋賀県彦根市〉に移る。この鉄道は株券の安きことにおいて全国に名あり。一株五十円が三円までに下落せしことあり。その当時の評に、汽車の走る響きが他と異なりて、カブタダカブタダ(株ただ)と聞こゆといえり。しかるに今日は相当の価格を占むるに至るという。午前は高等女学校にて講話をなす。有元久五郎氏その校長たり。午後は中学校にて演説す。校長小早川潔氏は二十四年前鳥取市にて相識となり、ここに再会を得たれば、鳥取舟遊を追懐して一絶を賦呈す。

  山陰一夢去匇々、共棹吟舟嘯海風、再会喜君猶未老、愧吾已作白頭翁、

(かつて山陰来遊のことは夢のごとく、歳月はあわただしく去り、その折はともに棹さし、吟詠に興じ、海風にうそぶく舟遊びであった。いまここに再会すれば、君はなおいまだ老いずの感あるを喜び、われのすでに白髪の翁となっていることをはずかしく思う。)

 校舎は明治二十三年、余がここにきたりし当時の建築にして、すでに老朽せりとて目下別に新築中なり。演説後、城山に登る。四山雪をいただきて白く、湖色深碧にして染むるがごとく、湖山相映じて晩望最も佳なり。なかんずく城頭の迎春館は皇太子殿下を迎え奉らんとて天下の良材を集め、わずかに一カ月間にて造成したりといえども、清美を尽くしたる新館なり。その建築費十六万円、伊井家より支出す。よって人みな殿様工事と称す。望中の所吟一首あり。

  湖上看疑対畵屏、四山雪満水逾青、迎春館外更相望、天地風光自作庭、

(湖上の眺めはえがかれたついたてにむかっているかと思われ、四方の山雪に満々たる水はいよいよ青い。迎春館の外にさらに一望すれば、天地風光はおのずから庭を作り上げているのである。)

 その夕、楽々園において同窓会あり。ときあたかも盆梅を陳列して衆人の観覧に供す。会するもの同窓としては、

  岡見宗信 松尾玄澄 那須凌岱 永坂有然 藤川吉次郎(中学校教員)松藤喜平(高等女学校教員)

の六氏なり。この挙を賛成して出席せられたるは、小早川中学校長と郡長武田豊蔵氏、郡視学天方章三郎氏なり。しかしてその発起は藤川、松藤両氏とす。当夜、鑓屋旅館支店に宿す。

 十三日 晴れ。彦根町滞在。午後、明性寺において開演す。彦根教育会の主催にして、会長柳瀬銀蔵氏(町長)、副会長岩山才三郎氏(校長)、助役勝弁蔵氏、婦人会係紙屋幸平氏、教育会理事、近村村長等、みな尽力せらる。その夕、更に発起者諸氏と八景亭において会食す。亭上の即吟、左のごとし。

  雪風飛錫入湖東、一夕囲炉八景宮、採勝何須携杖去、瀟湘浮出酒杯中、

(雪風のなか巡遊して湖東の地に入った。一夜、いろりを八景亭に囲み談笑す。景勝を求めて杖をつきながら行く必要がどこにあろうか。瀟湘八景のごとき名勝はこの酒杯の中に浮かんでいるのである。)

 彦根の名物は赤蕪なり。その実、大根にもあらず、蕪にもあらず、両者の中間に属し、菜も皮も根もともに赤く、普通これを赤菜と称す。伊予松山名物の赤大根とはおのずからその類を異にするも、ともに好一対の名物たり。彦根をへだつること数里の湖上に、白石島と多景島の二小嶼あり。多景島は竹の茂生せるより起こりし名なりという。

 十四日 晴れ。車行一里、高宮町〈現在滋賀県彦根市〉に移る。町内に大鳥居あり、全部石より成る。その周囲一丈三尺、高さ約三丈と称す。日光の石鳥居以上にして、天下第一の評あり。徳川三代将軍の多賀神社に奉納せるものなりと伝う。会場は小学校、主催は町教育会、発起は町長吉田羊治郎氏、校長辻勝太郎氏、社掌車戸宗吉氏、前川、馬場、北川、治部等の有志諸氏にして、ともに尽力あり。辻校長は奏任待遇にして、模範校長なりと聞く。当町は旧中山道の要駅にして、約千戸の市街なるも、湯屋を業とするもの一戸もなく、向こう三軒両隣の間に順番をもって風呂を沸かし、各戸相集まりて入浴すという。当夕、発起諸氏と割烹店松月楼にて会食し、妙蓮寺に帰りて宿す。

 二月十五日(日曜) 穏晴。朝、高宮寺に立ち寄りて一休す。住職永坂有然氏は哲学館大学出身たり。その寺は時宗に属し町内第一の古刹なり。境内に古杉、大中小三株の鼎立せるあり。これより車行三十丁にして多賀村〈現在滋賀県犬上郡多賀町〉に達す。この間、軽便鉄道布設中なり。多賀村は官幣大社の所在地にして、伊弉諾尊〔いざなぎのみこと〕を奉祀す。旧識岡部醸氏、その宮司たり。大祭は四月二十二日にして、そのときに神幸式あり。遠近より参拝するもの群れをなすという。一カ年中の参宮客十七万人と算せらる。県下に官幣大社三社あるうち、参客の多きは多賀を第一とす。古来の俗謡二首を左に録す。

  伊勢に参らは御多賀に参れ、御伊勢御多賀の子ぢや孫ぢや、

  伊勢へ七度熊野へ三度、御多賀様へは月詣り、

 余はこの第二首を漢詩に訳す。

  神徳古来人所推、俗謡一誦我初知、七回伊勢三熊野、只要月参多賀祠、

(いざなぎのみことの神徳はいにしえより人の推戴するところにして、俗謡にうたわれるのを聞いて初めて知った。伊勢には七度、熊野には三度の参詣、しかし多賀の神宮には毎月参詣するのであると。)

 会場は本社総本部、主催は村役場、発起および尽力者は村長清水仙治郎氏、助役古川卯吉氏、書記北川仙助氏、夏原栄吉氏等なり。演説後、本社に参拝す。壮大なる能楽堂あり。また、大梵鐘ありて時辰を報ず。土産ものとしては寿命杓子あり。当夕、旅館かぎ屋に宿泊して更に一吟す。

  欝々松杉繞社頭、林禽無語境逾幽、拝神帰去天将暮、報時鐘声入客楼、

(鬱蒼としげる松と杉に神社は囲まれて、林にはさえずる小鳥の声もなく、いよいよ幽遠なおもむきがある。参拝して帰るころは日も暮れようとして、時を告げる鐘の音が旅館の中にひびいてくるのであった。)

 武田郡長ここに来会せらる。村内に県社胡宮あり。また、行基開基の西徳寺あり。今は真宗大谷派に属す。本村字土田は米国移民者多しと聞く。これより一里を隔てて杉坂と名付くる嶺あり。その頂に鬱立せる老杉は日本第一の大樹と称し、神代以来の古木と伝う。

 十六日 穏晴。車行一里、西甲良村〈現在滋賀県犬上郡甲良町〉に至る。会場小学校には、庭内に旅順の地形を模したる築山あり。本村は水利悪くして年々旱魃に苦しむ。戸数六百の内、井戸は公私を合わせ十五、六カ所あるのみ。その深さ、いずれも五丈以上なる由。主催は三村連合にして、西甲良村長上野仲次郎氏、東甲良村長上田徳太郎氏、豊郷村長西山喜兵衛氏、宿坊正行寺住職藤辺義高氏、校長西村令三氏等尽力あり。連日の春晴にて、山頂を除くの外は雪みな消尽せり。

 十七日 晴れかつ暖。今朝、百年前に漬けたる古梅干を得てこれを食す。車行一里半、日夏村〈現在滋賀県彦根市〉新築小学校講堂にて開演す。郡長は郡視学とともに出席せらる。主催は数カ村連合にして、発起および尽力者は日夏村長北川吉郎平氏、亀山村長田中耕次郎氏、河瀬村長高橋千代松氏、南青柳村長神谷岩松氏、磯田村長疋田外吉氏、日夏校長奥田千太郎氏等なり。磯田村は明治二十九年度の大水害によりて田畑を失い、非常の窮境に陥りしが、爾来一戸一人あてに米国へ渡航して労働に従事し、今日は翻って富裕の村となれりという。当夜は日夏村長北川氏の宅に宿す。壁上に一作をとどむ。

  一望湖東篭暖霞、麦田春水挟梅花、朝鮮街道坦如砥、走入白雲山下家、

(一望すれば湖東のこの地は春の暖かいかすみにとりこまれて、麦畑と田をめぐる春の水に梅の花がまじって咲いている。朝鮮使節が通ったという朝鮮街道は平坦で、まるでといしのごとく、道は白雲山のふもとの村に向かっているのである。)

 本村を一貫せる駅路あり。これを朝鮮人街道と名付く。伝説によるに、昔時、朝鮮人入貢のときに通過せし道なりという。また、村外に一帯の丘山あり、その雅名を白雲山という。本村は噴泉ところどころに湧出して水利よし。また、本村は一般に農作を本業となす。聞くところによるに、一反には平均米四斗入り七俵の収穫あり。小作料三俵余、肥料五円を要し、売買の時価五、六百円なりという。本郡は各所とも書の所望者すこぶる多く、日々揮毫に忙殺せられたり。

 十八日 曇り。この日風寒し。車行一里、途中、荒神山下を一過す。山上に神社あり。登路十八丁、昔時は寺院にして奥山寺と称し、登山参詣の客、年中絶えざりしと聞く。山上の眺望は彦根の金亀城以上との評なり。犬上郡に属す。当日の会場は愛知郡稲村〈現在滋賀県彦根市〉長生寺にして、主催は郡教育会、発起は村長岡田伊太郎氏、校長建部権一郎氏等なり。村内に祭礼用の大太鼓あり。直径六尺、長さ七尺、毎年祭典のときにこれを運出す。その人夫四十人を要する由。郡内は各村みな競争して大太鼓を作り、これより一層大なるものもありという。この日、郡役所より視学勝見要太郎氏出張あり。

 十九日 春雨蕭々。車行二里、愛知川町〈現在滋賀県愛知郡愛知川町〉に至る。午前、郡立実業学校に立ち寄りて一覧す。郡長今井兼寛氏その校長を兼ぬ。種々の特色を有するうちその一を挙ぐれば、校内にては小使を用いず、生徒をして僕婢の用を兼ねしむ。その他、すべて実習的なり。校の内外ともに清潔にして、かつ整頓せり。午後、宝満寺にて開演す。郡内第一の大寺にして、余のこの堂内に演説するはここに三回目なり。主催は郡教育会にして、郡役所および町長細野繁明氏、助役西村元次郎氏、校長井崎角左ヱ門氏等の発起にかかる。当夕また仏教演説をなす。有志家塚本貞次郎氏等の依頼による。宿所は魚吉楼なり。

 二十日 曇り。車行一里、秦川村〈現在滋賀県愛知郡秦荘町〉に移る。本村は戸数千二百を有する大村にして、地勢上自然に東西二部に分かれ、その間互いに対抗する形勢ありという。会場は西部なる目加田区光明寺なり。男爵目賀田種太郎氏祖先の出身地にして、その屋敷跡いまなお存す。しかして宿所は東部なる北蚊野区京屋にして、田舎不似合の旅館なり。会場をへだつること三十丁、この地は名のごとく夏時に蚊ことに多しという。途中、最も目に触るるものは、田頭に枯木を立て、その周囲に藁を積み立てたるもの、すなわち藁塚なり。これを方語にてスズキという。一目数千の林立せるを見るは奇観というべし。発起は村長代理中村嘉一郎氏、校長赤野左吉氏等なり。

 二十一日 晴れ。車行一里、東押立村〈現在滋賀県愛知郡湖東町〉に移る。昨今、朝夕の寒暖は〔華氏〕四十度より〔華氏〕五十度の間を昇降す。途中、水なし川をこゆ。その名を宇曾川という。川の形ありて一滴の水なきは嘘川なりとの意より起これりと伝う。会場小学校はやや壮大なる設備を有す。宿所藤井甚助氏の庭園は狭少なるも雅致あり。発起は村長岸善平氏、助役沢田善八氏、校長川瀬皎氏なり。この村より山間に入ること四里にして、茶の名所たる政所の郷あり。諺に「宇治は茶所、茶は政所」と呼び、宇治と並び称せらるる由。

 二月二十二日(日曜) 曇りのち雨。朝、宿所を発し、行くこと十丁にして字花沢の珍木、花ノ木を訪う。聖徳太子の手植えなりと伝う。これに二株ありて、一は田間に横傾し、一は社頭に樹立す。二者ともに囲一丈一尺余、高さ六、七丈あり。その傍らに「今上陛下賜寵木」と掲記せり。春時に花を開く。その形小にしてその色紅を帯ぶ。あたかも梅花の弁を取り除きたるがごとし。しかして秋期に至れば紅葉す。形と色とは蔓の葉に似たり。その雅名は花カイデなりという。全国無類と称す。この分木の一株が宝満寺堂前にあり。余、題するに一詩をもってす。

  佳木千秋勢未衰、春花秋葉両相宜、社頭駐駕堪瞻仰、今上天皇賜寵枝、

(美しい木は千年もその樹勢は衰えず、春には花、秋には紅葉とともに結構なものである。神社のほとりに車をとどめて、今上天皇賜寵の枝をあおぎ見るのであった。)

 これより更に行くこと里許にして豊椋村〈現在滋賀県愛知郡湖東町〉小学校に至る。椋の字をクラと訓ず。開会発起者は村長中沢徳左衛門氏、助役西村勘左衛門氏、収入役林半之烝氏等なり。しかして郡内各所の主催はすべて郡教育会なり。宿所小林吟次郎氏は郡内第一の豪商にして、その本店は東京にあり、屋号を丁子屋と呼ぶという。本郡には一種特別の人名あるを見る。すなわち皇という姓あり、玉王という名あり、また三公という名もあり。

 二十三日 晴れ。滋賀県のいわゆる湖東地方は二月末を大節期と称し、年中の諸勘定を取りまとむるために、町村ともに多忙を極めて開会し難きを聞き、にわかに今日より三河国を巡回することに定め、早朝七時、豊椋を発し、車行二里半、能登川駅八時半の東行に乗り込む。主席郡書記大谷賢海氏ここに送行せらる。かくして午後一時、岡崎駅に着し、更に電鉄に駕し、額田郡岡崎町〈現在愛知県岡崎市〉に至る。ときに梅花すでに満開の期を過ぎ、麦色ひとり蒼然たり。途中、是字寺の門前を過ぐ。これをゼノジデラと読む。寺号としては奇名なり。曹洞宗に属す。もと家康公の菩提寺なりという。電車をおり、行くこと四、五丁にして、岡崎町字十王西照寺に入る。住職和田円什氏は約四十年来の旧知なれども、ここに十余の星霜を隔てて相会す。着後早々開会。聴衆、堂にあふる。主催は大谷派婦人法話会にして、尽力者は和田氏の外に安田運撮氏、岩瀬鉄尊氏、佐々木祐馨氏、本郷竜円氏、三浦徳英氏等なり。哲学館大学卒業三矢藤吉氏来訪あり。岡崎は三州味噌の本場なり。他国にては三州味噌と称し、三州にては岡崎味噌と唱え、岡崎にては八丁味噌と呼ぶはおもしろし。あたかも薩摩薯を江州にて三州薯と称し、三州にて吉田薯と呼ぶに同じ。さすが味噌の名所だけありて、三河にては味噌の汁を食用す。味噌の汁とは世間のいわゆる味噌汁にあらず、湯の中へ味噌のみを落とし込み、他の野菜類は一切これに加えずして食用するなり。

 二十四日 好晴。朝、第二師範学校に至りて講話をなす。藤沢茂登一氏その校長たり。これより車行一里半、福岡町〈現在愛知県岡崎市〉真宗三派共立説教場に移りて開演す。町教育会、青年会、興徳会の主催にして、教育会長筒井晋造氏(町長)、青年会長兼興徳会長加藤司馬治氏の発起にかかる。なかんずく加藤氏最も尽力せらる。この市街の旧名は土呂と呼ぶ。都路の字より転化せりという。元亀年来市場を開き、遠近よりここに集合して貿易をなす慣例なりしが、今なお市場をもってその名高しという。その市日は毎月三、八の日にして六回なり。岡崎駅をへだつること十町余あり。夜間もまた開演す。

 二十五日(陰暦二月一日) 晴れ。車行二里、美矢井橋を経、矢作川を越えて碧海郡に入り、桜井村〈現在愛知県安城市〉字小川に至る。矢作川は三州第一の大河なれども、河身水浅く砂多くして、舟行に不利なり。ただ、川上に多く水車船あるを本川の特色とす。この日、堤上の所見を詩中に入るる。

  一帯悠々矢矧川、沙深水浅艇難前、春風習々長堤上、行見帆光映細漣、

(一本の帯のごとく悠々たる流れは矢矧川であるが、砂地が多く、水は浅く舟艇はすすめがたい。春風はそよそよと長い堤の上に吹き、ゆくゆく帆の白さはさざなみに映じて美しい。)

 川を渡る前に六美村を一過す。これをムツビ村と読む。六カ村連合したる村名ならん。また、田頭に藁塚多し。これを三州方語にてスズミという。すなわち江州のスズキに当たる。主催は小川青年会にして、会場兼宿所は蓮泉寺なり。しかして発起および尽力者は住職石川了整氏、会長稲垣孫一郎氏、幹事大屋延次氏等とす。前住職石川了因氏は大谷派の講師にして、学徳、名望ともに高し。晩来雨を催し、暖にわかに加わる。夜に入りて蚊影を見る。聞くところによるに、三河は蚊の名所にして、終年蚊の滅ずることなし。ただし冬時は人をさすの力なしという。

 二十六日 晴れ。夜来の春雨暁に至りてやみ、鴬声囀々、枕頭に向かいて新晴を報じきたる。ただし暫時にして西風起こり、いわゆるカラ風となる。車行三里、再び矢作川を渡り、西尾を経て幡豆郡寺津村〈現在愛知県西尾市〉に至る。海岸に連なれる小市街なり。京阪以西の人は本郡にきたりて幡豆をハリマメ郡とよむもの多しという。幡の字を播摩の播と誤読せる故ならん。寺津会場養国寺は浄土宗西山派の中本山なれば、堂宇壮大なり。主催は清話会にして、校長名倉平三郎氏、助役渡辺政孝氏、住職近藤慶学氏等の発起にかかる。本村は一帯の海潮を隔てて知多半島に対し、商家、漁家相半ばす。午後、車行一里余、福地村〈現在愛知県西尾市〉に移り、浄徳寺にて開演す。主催は在郷軍人分会にして、会長鈴木七郎次氏の発起にかかる。会場兼宿寺住職は松平芳雄氏なり。哲学館出身者名倉周文氏来訪あり。

 二十七日 晴れ。西風強くしてかつ寒し。三州にてこれを伊吹オロシという。車行半里にして本郡の首府たる西尾町〈現在愛知県西尾市〉に入る。松平氏の旧城下なり。明治二十三年度に余はじめてここにきたりしことあり。主催は和敬会、会場は大谷派説教場、宿所は聖運寺、発起は住職泉恵岳氏の外に島津隆界氏なり。随行、静氏は町内字丁田玄照寺に住す。当夕、更に宿寺において夜会を開く。

 この西三河は真宗の最も勢力ある地なるが、これと対抗する宗旨は浄土宗にして、従来この両宗の間にお経の競争を生じ、法事に当たりて浄土三部経を通読するに、その謝儀の少額なるは全国第一との評あり。その低きは二十銭なりという。ただし寺院にて堂宇の新築修繕を要する場合、または子弟の学資を要する場合に頼母子講を発言すれば、檀信徒なるものは喜びてこれに加盟すという。これ他地方と異なるところなり。また、幡豆郡の農作所得を聞くに、田地一反の収穫平均米六俵(四斗俵)、小作料三俵、しかして売買の相場は五、六百円なりという。労働賃銀は食事自弁として、一日五十銭、大工は八十銭を常例とする由。名物三河万歳として他府県に出ずるものは、三河人よりも尾州人の方多しと聞く。

 二十八日 快晴降霜。早朝六時前に晨起し、七時の軽便に駕して、行程三里、岡崎駅に至る。朝来霜色田圃を染め、遠く三河富士の称ある御嶽山の白衣をかぶりて高く中空にそびゆるを望むところ、すこぶる壮快なり。ときに途上吟一首を浮かぶ。

  麦田数里暁霜封、一道風光未脱冬、御嶽衝天々亦白、尾三呼作玉芙蓉、

(麦畑や水田の広がる数里は暁の霜にとじこめられ、道すじの風光はなお冬のおもむきを残している。御嶽山は天をついてそびえ、白雪は空の一角にかがやく。尾張、三河の人々は玉芙蓉とよぶのである。)

 更に岡崎より転乗して江州蒲生郡に向かう。以下、巡講第二回に譲る。

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滋賀県巡講第二回(湖南)日誌

 大正三年二月二十八日、三河より西行して午後一時過ぎ、滋賀県蒲生郡八幡駅に着し、これより腕車にて走ること二里余、鏡山村〈現在滋賀県蒲生郡竜王町〉に至り、小学校にて開演す。途中、馬淵村外に住蓮房、安楽房の墓所あるを見る。また、本村には古歌に出でたる鏡山あり。村名これより起こる由。義経元服の鏡池もこの村内にありという。当夕、更に宿坊光浄寺において開演す。主催かつ尽力者は宿寺住職石山義宣氏、円覚寺住職藤谷宗円氏をはじめとし、僧侶寺本婉雅氏、村長前田雪太郎氏、助役竹内儀三郎氏、収入役鵜川貞三氏、校長横山鼎次郎氏等なりとす。なかんずく藤谷氏は最初より照会の労をとられたり。

 三月一日(日曜) 晴れ。朝気〔華氏〕三十九度、霜色地に満ち、瓶水氷を結ぶ。車行二里半にして八幡町〈現在滋賀県近江八幡市〉に入る。会場西別院は本堂、山門ともに壮大なり。主催は郡教育会にして、郡役所諸氏、町長西川仁右衛門氏、有志者児島亀太郎氏、田附寛治氏、野村又三郎氏等、みな大いに尽力せられる。宿所は歴史的の旅館兵四楼なり。兵四郎の名より起こる。更に雅名を付して瓢城とす。頼三樹三郎氏の扁額あり。維新前の文人墨客は多く、この楼に遊寓せりという。三層楼上より望むに眼下に郷社八幡社あり、すこぶる壮麗なり。目前に鶴翼山あり。その形、鶴の翼を張りたるに似たり。山上に城跡ありという。当夕、郡長鹿山虎蔵氏、課長小堀徳太郎氏、視学角田亀次郎氏、および町長等と会食し、酔興に乗じて「八幡に過ぎたるものが三つある、やしろ別院兵四楼なり」とよみたるもおかし。当町は商業をもって全国にその名を知らる。ことにこの湖畔一帯は麻布織物の産地にして、いわゆる近江蚊帳はこの地方より輸出す。当町は揮毫所望者ことに多く、深更までこれに従う。

 二日 曇り。午前、県立商業学校に至りて講演す。校長は倉西松次郎氏なり。本校は明治十八年の創立にして、卒業生を出だすこと約九百名の多きに及ぶ。これより更に腕車を駆ること一里余にして武佐村〈現在滋賀県近江八幡市〉に達す。郡書記東弥一氏案内せらる。会場は小学校、主催は青年会、宿所は広済寺なり。宿寺住職武信之氏はもと田中泰麿といい、哲学館第一期の出身にして、数年間幹事の職をとられたり。また、その寺は親鸞聖人の旧跡にして、かつ、南北朝のときに後光厳帝の行在所となりしことありと聞く。維新後(明治十年)には明治天皇両度、鳳輦をとめさせ給えりという。実に一寺院としては無上の光栄なり。よって拙作を賦して武氏に与う。

  武佐村頭宿梵城、主僧話旧笑相迎、往年先帝駐竜駕、印得仏堂千古栄、

(武佐村のほとりの広済寺に宿泊す。住職の懐旧談に笑いつつ迎えらる。すぐる年、明治帝が立ち寄られた所であり、寺院としては千年もの後世に栄誉を得たといえよう。)

 この日、梁瀬渓浄氏も来会せらる。演説後、更に宿寺において小話をなす。暮天、雨を醸しきたり、夜に入りて雷鳴数次に及ぶ。本年の初雷なり。尽力者は武氏および村長岩越弥市郎氏にして、校長会田小太郎氏、助役平尾信次氏、書記森為蔵氏これを助く。

 三日 曇り。車行二里、本郡の中央に位せる桜川村〈現在滋賀県蒲生郡蒲生町〉に至る。会場は小学校にして、宿所は敬円寺なり。岸本寛氏その住職たり。主催は郡教育会にして、尽力者は村長木村武兵衛氏、助役望田庄三郎氏、校長芝田普氏等なり。

 四日 晴れ。桜川より近江鉄道に駕して日野町〈現在滋賀県蒲生郡日野町〉に移る。日野駅より町の中央点まで二十丁を隔つ。町名は全国に知れ渡りたるも、その市街を見るに軒を閉じ店を開かず、隠宅同様にて寂寥たるありさまなり。要するに日野商人は遠く他府県に出でて商店を設け、自宅には留守居のみを置くによる。昼間の開会は郡教育会の主催なり。その会場たる小学校はただに宏壮なるのみならず、すべて理想的建築にして、その経費十五万円以上を投ぜりという。実に全国希有の新校舎なり。尽力者は郡役所諸氏の外に町長野田東三郎氏、助役東与市氏、小学校長橋本岩記氏、女子手芸校長水谷捨太郎氏(哲学館出身)等なりとす。四時後、更に宿坊本誓寺において敬愛婦人会のために講話をなす。住職野田現浄氏の発起なり。当夜は鮒吉旅館において鹿山郡長、角田視学、野田町長等の諸氏とともに会食す。聞くところによるに、江州の商業地たる日野、八幡、中郡の三カ所はおのずからその種類を異にする点あり。中郡は呉服ものを主とし、八幡は雑貨を主とし、日野は薬種と酒、醤油とを主とすという。日野の感応丸は越中富山の反魂丹とともに、その名全国に知らる。当町第一の豪商高井佐右衛門氏は頃日死去せしに、その遺言により、時価四万円以上の債券を技芸学校の基本財産として寄付せられ〔し〕なりという。実に近代の美挙たり。当町近傍に蒲生氏郷の遺跡ありと聞くも訪問せず。

 五日 快晴。春暖にわかに催し、ほとんど花期の気候となる。宿所本誓寺は堂宇壮麗にしてかつ完備せり。県下にこれ以上の大伽藍を有する寺院多々あるも、堂座敷のかくのごとく整備せるものは全国中にも多く見ざるところなり。ただしその位置の眺望風致を欠けるを遺憾とす。しかして門前に一老松の、あたかも鶴の翼を張りたるがごとき形をなして、地上に平敷せるは一美観たり。行人その下を通過するときには、必ず帽を脱せざるを得ず。よって一絶を賦す。

  堂塔聳衢天欲摩、光風霽月入門多、鶴松張翼傲然立、自使行人脱帽過、

(堂塔は高くそびえて天にせまり、きらめくような風とはれた月はともに寺門に入る。鶴の翼をひろげたような松がうそぶくようにたち、行く人のその下を通るときは脱帽させられるのである。)

 宿寺を発して行くこと十三丁にして北比都佐村〈現在滋賀県蒲生郡日野町〉照光寺に至り、午後開演す。主催は仏教青年会にして、発起かつ尽力者は住職花木憲雄氏、村長鈴木仙右衛門氏両名なり。蒲生郡は人口といい、町村数といい、資産といい、県下第一に位すという。夜に入りて蚊影を見る。

 六日 曇り。朝気〔華氏〕五十度、春眠暁を覚えざるの候に入る。この日、汽車にて蒲生郡を去りて甲賀郡に入り、水口町〈現在滋賀県甲賀郡水口町〉にて開会す。日野町をへだつること三里あり。会場は高等小学校にして、主催は郡内各所ともに郡教育会なり。故に郡長兼教育会長藤谷永三郎氏、理事杉江謙三郎氏(視学)、同馬場懿之助氏、青木楳雄氏(以上郡書記)、西岡慶次郎氏、菅克寛氏(以上校長)、もっぱら諸事を斡旋せらる。町長西田繁造氏、助役植村良太郎氏も助力あり。当夕、旅館において懇親会を催せらる。県立農林校長成田軍平氏も出席あり。その館名を多祉楼または多志楼と書くは、多四郎の名より出ず。余はむしろこれを済々館多士楼と名付けんとす。一見旅館風にあらずして別荘風なり。もと当地豪家の邸宅なりという。本町は旧加藤家の城下にして東海道の要駅たりしも、今日は昔日と大いに盛衰を異にす。物産は籐細工にして、これを水口細工と称す。その一カ年の産額十万円と算す。しかして郡内としては製茶と売薬とを特産とす。これに次ぐものは陶器なり。本郡は滋賀県下十二郡中、湖水に浜せざる唯一の郡たり。故にこれをウミナシ郡と呼ぶ。隣郡のごとく商業地にあらざるも、政治思想の発達は県下第一にして、一時は滋賀県の高知をもって目せられしという。夜に入りて雨はなはだしく至る。

 七日 開晴。夜来の驟雨、暁に至りて全く晴るる。ただし風あり。車行三里、藤谷郡長とともに土山村〈現在滋賀県甲賀郡土山町〉に至る。本村は旧東海道にして、余は明治二十二年に一度通過せしことあり。近ごろはこの間に乗合自動車を開設す。駅路の両側には茶園多し。その中間に大野と名付くる小駅あり。昔日は大野のハギトリと称して、土山街道の人気悪き代名辞に用いられしが、一説に、ハギトリは大野の名物たる焼鳥より転化せりという。しかるに今日は大野も土山も寥々たる寒村に化しきたる。会場土山学校は明治十六年の建築にして、異風の西洋館なり。その柱礎の粗大なると堅牢なるとは今日の新校舎中に見ざるところなり。しかして玄関の宮殿式なるがごときは、なにびとも一見して異様なるを感ず。休憩所は平野屋なり。これより鈴鹿嶺頭まで一里半ありと聞き、昔時徒歩して上下せしを想出す。村長は藤本総一郎氏にして、校長は福山蕃氏なり。演説後、旧本陣土山平重郎宅を訪う。この宅は明治元年九月二十二日(陰暦なれば陽暦の十一月三日に当たる)先帝の行在所となり、初回の天長節の賀筵を開かせ給いし所なり。今なお当時の玉座を奉置し、御酒殽を下賜せられし目録を保存す。山村の一民家として、かくのごとき恩栄を拝するは空前絶後というべし。余、そのことを聞きて所感を賦す。

  鈴鹿山西古駅亭、秋風一夜鳳輿停、維新正是天長節、恩賜酒殽今尚馨、

(鈴鹿山の西、旧本陣の館に、秋風の吹く一夜、明治帝の輿がとどまられた。その日は維新の年の天長節である。恩賜の酒殽は今日に至るもなおかおり高く目録に残されている。)

 その家には元禄以来の宿帳を保存せるは実にめずらし。当主の名は種蔵という。そのほか本村には田村将軍を祭れる神社あり。旧時は厳寒中、遠近より裸体にて参詣せるもの群聚せりとて、その名大いに高し。土山の隣村の大字に山女原と名付くる村落あり。これをアケビハラと読むは奇なり。当夕、水口町に帰る。

 三月八日(日曜) 晴れ。車行一里、佐山村〈現在滋賀県甲賀郡甲賀町・水口町〉小学校に至りて開演す。校舎は三年前の新築にして規模大ならざるも、設備完全す。その庭内に小池を設け、その中に日本帝国の形を模成せる小嶼を造れるは新意象なり。校舎新築費はことごとく三万二千円を算す。もしこれを一村の戸数七百に配当するに、一戸約五十円の負担となる。郡内にて本村だけは教育会にあらずして養老会の主催にかかる。宿所は浄土宗祐宝寺にして、住職は鵜飼実純氏なり。しかして尽力者は村長田村惣吉氏、助役藤原喜久太郎氏、校長宮西久三郎氏、養老会幹事河合藤十郎氏、同仲蔵氏とす。本村の田地はすべて粘土質にして、かつ水利に不便なれば、田ごとに水を貯え、他より用水を引かず。故に一毛作なり。地中に貝類の化石せるものを出だす。その形すこぶる大なり。

 九日 雨。車行一里、午前、寺庄村〈現在滋賀県甲賀郡甲南町〉尋常校に至る。校長藤井準一氏が教鞭をとること三十余年、文部省より選奨ありたりとて、祝賀会を開かる。余は「三十余年久、専心勤育英、今春当選奨、文部眼分明」(三十余年の久しきにわたって、心を専一に育英につとめられ、今春、文部省より選奨を受けたのは、文部の眼の明瞭である証である。)の五絶を賦して祝意を述ぶ。本県師範学校長も出演せらる。これより更に行くこと半里、組合高等校に至りて公会を開く。発起者は村長栗林孝太郎氏、校長林正俶氏等なり。哲学館大学出身松尾玄澄氏、油日村より来訪あり。演説後、車を走らせて水口に帰宿す。行路二里、昨秋の洪水にて橋渠ことごとく落ちたりしために、意外に時間を要し、旅館に着するときに天全く暗し。この日、蕭雨凄風、これに加うるに空腹時を移し、やや疲労を覚ゆ。

 十日 晴れ。風寒し。杉田視学とともに腕車を連ねて行くこと五里、長野村〈現在滋賀県甲賀郡信楽町〉に達す。途中、上下二里にわたる坂路あり。これを小野坂という。一名ウシカイ山と称す。すなわち牧牛山なり。両崖の峰巒赤肉黒骨を露出し、その間にまた土質の白くして雪のごときもあり。奇嵓の屹然群立して羅漢のごときもありて、一大奇観を呈す。あるいは羅漢山と名付くるも可ならん。実に鈴鹿の筆捨山と対抗すべき勝景なり。牛車絡繹として絶えず、みな陶器を載せて運出す。その過半は小便壺のアサガオ器なり。聞くところによるに、昨今は便器輸出の時期なりという。会場は小学校にして、村長杉原清三郎氏、助役山中光治氏、校長浅野密之助氏等の発起にかかる。一村の産業は製陶にして窯の数七十カ所あり。世に信楽焼と称するものはみなこの地より出ず。演説後、陶器陳列館を一覧して旅館小川亭に入る。これまた別荘的なり。かかる信楽焼の本場なるにもかかわらず、旅館の食器茶器に一も信楽焼を用いざるは、外来の客をして異様に感ぜしむ。この日の所吟、左のごとし。

  信楽渓頭一路横、牛馬絡繹載陶行、山村生計左焼器、煉土化金家自栄、

(信楽の谷のあたりに一路が横ざまにのび、牛馬の車が連なるように陶器をのせて行く。この山村の生活は陶器を焼くにかかる。土を練って黄金にかえ、家々はおのずから栄えているのである。)

 この隣村朝宮地方はもっぱら製茶を業とし、信楽茶の名をもって世に知らる。

 十一日 曇り。朝、模範製陶所を一覧す。これより雲井村字勅旨村を過ぐ。これをチョウシと読むは奇名なり。これより雲井小学校にて少憩す。校長より製陶の名工明山作の茶器を恵せらる。再び牧牛山を登降す。その前後、砂防工事を施さざる所なく、山はみな防砂山となる。この日また行程五里、三雲村〈現在滋賀県甲賀郡甲西町〉小学校に至りて開演す。校は三雲駅を去る二十丁の所にあり。その間に大砂川あり。砂川とは名のごとく砂のみの川なり。その川下に通路あり。村内には万里小路藤房卿の遺跡を存す。その寺を妙感寺という。妙心寺派に属す。また、停車場付近に天保義民墓あり。天保年中、地頭の苛政に抗して佐倉宗吾的挙を企てしものなりという。開会発起は村長長谷計氏、校長徳地三省氏なり。藤谷郡長も出席せらる。日暮、寒風を破りて水口多祉楼に帰宿す。

 十二日 雨のちに晴れ。水口より車行一里半、貴生川駅より汽車に移る。同駅は信楽陶器の輸送駅なれば、各種の陶器積みて山を成す。これより草津駅に至り、休憩約二時間の長きに及ぶ。名物姥ケ餠を喫して午餐に代う。更に乗車して野洲郡に入る。野洲駅より腕車をとり、一里半にして北里村〈現在滋賀県近江八幡市〉に至る。途中、堤防の高くして大なるに驚く。湖を隔てて正面に比良山を望み、背部に三上山を控うるは大いに吟情を動かす。会場は小学校にして、主催は郡内すべて郡教育会なり。しかして本村の発起は村長川端岩蔵氏、校長坂本義雄氏なり。宿所江頭長光寺の書院は東南に開き、階下に水田を帯び、軒前に遠山を望み、すこぶる風致あり。夜に入りて天ようやくはれ、旧十六夕の満月を仰ぐ。住職は板倉了瑞氏にして浄土宗なり。

 十三日 好晴。ただし夜に入りて雨となる。車行一里にして中里村〈現在滋賀県野洲郡中主町〉に達す。昨来暖気大いに加わり、菜花すでに黄を吐き、柳葉また青を放ち、春色おのずから田頭に浮かぶ。本日はじめて蛙声を聞く。会場は真宗の一派本山たる本部錦織寺なり。境内に大師堂、阿弥陀堂、毘沙門堂を並置す。真宗寺院に毘沙門を祭れるは異例なり。その末寺はわずかに三、四十カ寺、檀徒総じて千余戸なるも、一派の本山だけありて堂内すこぶる広闊なり。現法主は本派光瑞上人の連枝にして、賢明温良の評あり。他宗派のものもその徳望を慕って来帰すという。開会発起は村長伊藤甚作氏、校長若井治之助氏、助役田中宇之助氏なり。

 十四日 雨。北風強くして寒し。車行一里、河西村〈現在滋賀県守山市〉に移る。途中、野洲川をこゆること二回、その水面は人家よりも高く、堤防は屋棟よりも高し。かくのごとき河堤は越後蒲原郡の外にいまだかつて見ざるところなり。河底は平地よりも七尺ぐらい高き所ありと聞く。故に一朝破堤の場合には米田たちまち泥海となる。たまたま水害地を一過す。昨年十月三日夜、野洲川氾濫し、堤防決潰せしために、字笠原にて十二、三戸流失し、三十二人溺死し、田三百反埋没せる惨状を現ぜし由。かかる水害の多き代わりに、本郡は県下第一の小郡なるも、米麦の収穫比較的多し。一反につき米六俵ないし八、九俵を常とす。しかして小作料は三俵半、肥料は八円、売買の相場は六百円ないし八百円なりという。この日途上吟、左のごとし。

  渡橋行過野洲川、一路斜通万頃田、回首連山多赤土、映顔三上独蒼然、

(橋を渡って野洲川をこえて行けば、ひとすじの道は広々とした水田を斜めに横切る。ふり返って見れば連山は赤土が多く、顔に映ずるがごとく三上山のみが青々としているのである。)

 会場は尋常小学校講堂にして、発起兼尽力者は村長小島代助氏、助役木戸脇丑之助氏、尋常校長国松栄太郎氏、高等校長桜井徳次郎氏、資産家仁志出五右衛門氏等なり。国松校長は文部〔省〕より選奨せられたりと聞く。当夕は仁志出氏の宅に宿す。その令息は京北中学校の卒業たり。同家の床の間に狸と狐との対幅を掛けおかれたるは、妖怪専門の余には大いに興味を喚起せり。当夕は特に哲学館大学出身田中了恵氏の依頼により、円立寺にて仏教上の講話をなす。同氏は京都に寓居中のところ、帰省して余が行を迎えらる。郡内は各所へ郡視学駒井正氏の来訪あり。

 三月十五日(日曜) 好晴。ただし風寒し。車行二里、野洲郡を去りて栗太郡草津町〈現在滋賀県草津市〉に移る。車上の所見は近江富士と呼ばるる三上山の外は、連山みな赤土を露出して殺風景なるを覚ゆ。ただ、湖を隔てて比叡山四明岳の巍立せるは壮観なり。会場小学校は壮大なるも、増築工事いまだ落成せず。宿所は旅館魚寅楼なり。一名二葉館ともいう。この日の主催は町教育会にして、町長山田耕氏、助役馬場孫七氏、校長深尾平八氏、青年会長金沢好三氏等の発意にかかる。郡長沢信次郎氏、視学喜多村治郎氏も来会せらる。草津は昔時、東海、中山両道の分岐駅にして、人馬絡繹、客楼櫛比、非常の繁雑を極めしも、今日に至りてはその当時の客楼一として残存せるものなしと聞きて所感を賦す。

  憶昔草津人作群、中山東海路相分、客楼今日尋無跡、姥餠依然味独芬、

(昔をおもえば、草津は人の群がる所であった。中山道と東海道のわかれる地であったのだ。そのころの宿屋も今日では跡かたもなく、ただ老婆の焼く餅のみにかつてのよいかおりがあるのである。)

 当地は江州中、冬期第一の暖地にして、健康地と称す。ただ、井水の不良なるを欠点とするのみ。

 十六日 快晴。暁寒〔華氏〕三十八度にくだり、瓶水薄氷を浮かぶ。車行二十五丁にして大宝村〈現在滋賀県栗太郡栗東町〉に達す。村内の郷社は大宝神社と称し、大宝年間より伝われる古社なり。昔時は京都の祇園、尾州の津島、播州の広見とともに四天王と称せられし名社なりという。その社の狛〔こまいぬ〕は日本第一の妙作なる由。この村はもと綣村といい、これをヘソとよみしは奇なり。本郡内には足と手と臍ありと言い伝えり。すなわち芦浦、手原、綣の三村を指していうなり。会場は西琳寺、主催は村教育会、発起は村長西田哲太郎氏、校長川辺幾太郎氏等にして、当夕、西田村長の宅に宿す。竹林、庭をめぐりて俗塵を遮る。この日、哲学館大学出身藤林信教氏来訪あり。

 十七日 晴れ。車行二十丁余にして葉山村〈現在滋賀県栗太郡栗東町〉に移る。旧東海道の街路に当たる。村内には新善光寺ありて、年中賽客絶えず、なかんずく春秋彼岸最も群参をなす。会場光円寺は書院の軒前に三上山の対立せるありて、眺望佳なり。奥村霊淵氏その住職たり。主催は村長小関豊吉氏にして、大いに尽力せらる。助役森文治氏、村会議員奥村寅吉氏、僧侶三宅了明氏、里内教照氏、医師金沢三郎氏、書記本馬、北野両氏等、みな尽力あり。当夕は奥村氏の宅に宿す。庭内盆石多き中に、船形石の洗手盤は特に来客の目を引くに足る。夜に入りて降雨あり。

 十八日 雨。車行一里、道路佳ならず。会場は金勝村〈現在滋賀県栗太郡栗東町〉小学校にして、この日、青年会総会を開催せり。その発起は村長三好房吉氏、会長服部清太郎氏とす。しかして宿所は青木捨吉氏の宅なり。本村は三百九十戸の小村にして、学校一校、医師一人なるも、寺院の数は十八カ寺ありという。一カ寺平均二十戸ぐらいの檀家を有する割合なり。そのうち金勝寺は歴史的古刹にして国宝を有するも、廃頽を極むという。村内に松丘多きために松茸の産地となる。

 十九日 晴れ。風寒し。金勝より志津村〈現在滋賀県草津市〉まで一里の所を車道なきをもって、草津町を経由してこれに至る。行程二里半となる。本村に宇野弥三郎と名付くる篤志家ありて、多年の貯金を寄付し、これを講演会の資に充つることとなり、今回その第一回を開きたりという。当夕、発起者村長青地重治郎氏の宅に宿す。同氏の家は非常の旧家にして、その先代に余の号と同名の人あり。青地甫水と称し、元禄時代の人なり。その家に余の偶然宿泊せるは奇縁というべし。本村は水田多くして、一戸平均一町一反に当たるという。郡内はすべて二毛作にして、麦菜相交わる。

 二十日 快晴。暁窓降霜、結氷を見る。車行一里、老上村〈現在滋賀県草津市〉小学校に至り、午後開演す。やや風邪の気味あり。主催は村長近藤卯三郎氏なり。しかして助役は深尾八左衛門氏、校長は奥村末吉氏なり。本村は薩摩薯の産地にして、これを老上薯と称す。当夕は草津魚寅楼に至りて宿す。たまたま同所に近在の結婚の披露をなすに会す。来賓みな徹夜の豪飯をなせるに驚く。

 二十一日 温晴。車行約二里にして瀬田村〈現在滋賀県大津市〉に至る。旧街道に並木松の今なお存するあり。会場兼宿所は万福寺、主催は青年会にして、尽力者は村長本郷菊太郎氏、校長小林金兵衛氏、住職山本安千代氏、青年会幹事久保久一郎氏なり。小林氏はもと岩井巳之助と称し、哲学館出身なりしをもって、諸事につき斡旋の労をとられたり。当夕晩食に際し、この村内の俗謡および方言の主要なるものを聞き取りす。まず俗謡を挙ぐるに、

  早く此田の草取しまうて、扇使うて親もとへ(草取歌)、

  わしは此田の草取するが、此米食ふや食わんやら(同)、

  膳所の御城に積んだる米、あれは百姓の涙ごめ(同)、

  歌もうたやれ仕事もしやれ、歌は仕事のなぐさめや(臼摺歌)、

  きり★★(原文では、くの字点表記)す草ばはなれて今篭のとり、あまりつらさにやけでなく(雑謡)、

  くるか★★(原文では、くの字点表記)と浜へ出て見れば、浜の松風音ばかり(同)、

  清き流れの谷間の水も、元は木の葉の下くゞる(同)、

 この歌は瀬田地方に限るものと、江州一般に用いらるるものとあり。左の方言もまたしかり。要するにザ行、ダ行、ラ行の発音を誤るもの多し。

  涼いをスルシイ、夕立をヨラチ、水をミル、

  鼠をネルミ、饂飩をウロン、泥をロロ、

  六銭をドクセン(熊本、鹿児島に同じ)、膝をヒラ、

  袖をソレ、戸棚をトラナ、座敷をタシキまたはラシキ、

  もぐらをウンゴロモチ、おとーさんをチャン、

 栗太郡にて聞くに、サンヤリ踊りと名付くる一種の踊りあり。また、伊勢音頭に似たるものに江州音頭と名付くるものあり。また水産としての瀬田名物は、シジミ貝と鰻なり。当夜、蚊声を聞く。

 三月二十二日(日曜) 晴れ。車行一里余、上田上村〈現在滋賀県大津市〉に至る。その道すがら瀬田カラ橋を一覧し、建部官幣大社を参拝す。大社は日本武尊を奉祀せる所にして、瀬田村の中にあり。これより松丘を一過して田上郷に入る。村外の連山は禿頭をもって名あり。本日の会場は小学校にして、主催は青年会なり。しかして発起者は会長元持大造氏(村長)、校長山本清之進氏、同心会支部長東郷善雄氏、助役東郷佐太郎氏等なり。当地は江州米の本場にして、その品質肥後米に比して遜色なしとの評あり。村名すでにその実を示して上田の上と書くという。哲学館出身柴原砂次郎氏の実家たる柴原半右ヱ門氏は、小林金兵衛氏と合同して上米一俵を恵与せらる。宿所は進藤宗右ヱ門氏の別宅なり。本村には電信局なき僻村なるも、各戸電灯を点ずるには驚けり。夜に入りて当地独特の太鼓踊りを観覧す。七十歳の老翁太鼓を抱きて、堂々として飛躍せられたるは大いに感興を起こさしむ。続きて江州踊りとなり、一座ことごとく立ちてこれに加わる。余、また興に乗じて拙作を賦す。

  瀬田橋外禿山辺、麦緑菜黄春色鮮、客舎酒酣皷声起、酔余一座踊豊年、

(瀬田カラ橋のかなた、禿山のあたりは、麦の緑と菜の花の黄色が春景色となってあざやかである。宿泊する邸宅で酒もたけなわなるとき、太鼓の音がにぎやかに起こり、酔ううちに一座はことごとく豊年踊り〔江州踊り〕に加わったのであった。)

 本村には固有の風俗を存す。婦人は必ず頭上に手ぬぐい三筋を用う。また、木綿織三幅の大前垂れを着す。その他、本村の習慣として結婚の翌日に、必ず村内のものを招きて大披露をなす。これを茶呼ビと名付く。その実、茶を呈するにあらずして盛んなる酒宴を張るなり。また、子供の生まれたるときに、五百両か千両かといいてたずぬるを例とす。五百両とは女子を意味し、千両とは男子を意味するなり。つぎに本村の俗謡を聞くに、

  天の星さん数よんで見れば、九千九ツ百七ツ、

  こゝへ来てから色黒やせた、もとの通りにしてかやせ(以上子守歌)、

  わしの兄弟は七人ござる、京都大阪伏見と奈良と、伊勢の山田と松坂と(雑謡)、

 余はこの歌を聞きて、今より後は五大州に日本人が行き渡り、左のごとく歌うようにしたいと思う。

  わしの兄弟は七人ござる、独逸英吉利露西亜の外に、瓜哇〔ジャワ〕亜米利加支那印度、

 また、雑謡中に「寺のボンサン月夜にチョチン、雨もふらぬにカラカサを」とあるが、いくぶんか今日の僧侶を諷刺したるもののごとし。また、この地に宮山踊りと名付くる踊りあり。その歌は左のごとし。

  宮のバンバの三ガイ松は、藤がまとうて花さいて、松より花に目がとまる、

 つぎに、同村の方言は大略左のごとし。

ヌグサイ(腐る)、ノッケ(始め)、ボヤカレル(叱られる)、キラッタ(来られた)、スコ(あたま)、ワレ(おまえ)、ワレラ(おまえら)、オンラ(わしら)、デー(入口の座敷)、ヒロシキ(台所)。

 本村の大字に堂村、大鳥居村と称する所あるも、珍しき村名なり。

 二十三日 雨。車行三里、道路良からず。大石村〈現在滋賀県大津市〉小学校に至りて開演す。村役場の主催にして、村長渡辺元三郎氏、校長井上英貞氏等の発起たり。しかして宿所は万庄館なり。本村は大石良雄先の出身地なるより村名を生ずという。その遺跡いまなお存す。産業は製茶にして、宇治茶の名義にて輸出する由(宇治は本村をへだつることわずかに三里)。一年の産額三万五千円、茶畑一反につき茶の収穫二十五貫目、その価六十五円ぐらい。これに要する肥料二十五円ぐらい。茶ツミ女一日の雇賃二十五銭、平均一貫五百目を摘採すと聞く。また、旅店を見るに、旅宿料は一等一円、二等七十銭、三等四十五銭、下宿料一カ月一等十五円以上、二等十二円以上、三等九円以上と掲示す。この地方にもオカゲ踊りと称する特有の踊りある由。

 二十四日 雨。朝、大石宿所を発し、川橋を渡りて対岸に移る。これ宇治川の上流なり。行くこと十町、山上に立木観音あり。むかし弘法大師、立木のままを彫刻せる木像なり。日々、京阪地方より参詣者絶ゆることなし。これより土呂車に駕すること約一里、南郷に至る。台湾以来はじめて乗用す。対岸の風光、美を呈する所あり。南郷には水力電気の大工事あり。一見するも可なり。ここより大津まで三十分ごとに往復する汽船あればこれに駕し、石山、瀬田、粟津、膳所を経て大津に着す。四面雲煙のためにとざされて八景を望むことを得ざるは遺憾とす。更に汽船を転換して山田村〈現在滋賀県草津市〉に達す。雨ますますはなはだし。大石よりここに至る直行三里のところ、迂回せるために三時間を費やせり。会場は西遊寺、主催は興徳会にして、助役田淵兵之助氏、僧侶高木正憲氏等の発起なり。しかして宿所は柴田寅吉氏の宅なり。庭前に菜麦相交われる春光を望むところ、一興を添う。甲賀郡より杉江視学の来訪あり。

二十五日 晴れ。草津を経て物部村〈現在滋賀県守山市〉に至る。行程二里、春暖ようやく加わり、桃花すでに開き、また早桜の蕾を破るを見る。会場は小学校、主催は村長兼青年会長新野久治郎氏なり。本村は維新志士の一人たる古高俊太郎氏の出身地なりという。また蛍の名所にして、毎年宮内省へ献納すという。郡内は十一カ町村の開会にして、草津より始め物部にて終わる。その形「の」の字なりに一周せりとの評なり。当日は沢郡長、喜多村視学を従えて出席せられ、宿所泉屋旅館にて晩餐をともにす。また、郡内の名産として治田村川辺元三郎氏より瓢箪を、同村木嶋浄義氏より竹鞭を贈りきたる。

 二十六日 晴れ。泉屋を出でて歩すること三、四丁にして野洲郡守山町〈現在滋賀県守山市〉に入る。会場は倶楽部、主催は郡教育会、宿所は曹洞宗大光寺、発起は校長高岡米吉氏、および宇野正蔵氏、竹内正二郎氏等なり。この地は信長時代より守山市と称し、今に至るまで毎年盆正月には大市ありという。この町の由来は、奥州田村郡守山町より移住せしとの説なり。この日、郡長橋本利貞氏も出席せらる。

 二十七日(旧三月一日) 晴れ。今朝、暁寒〔華氏〕四十度にくだる。夜来遠山雪を装い、暁天ために白し。汽車にて能登川駅に降車し、これより腕車にて愛知郡教育会に出演す。今井郡長の依頼に応ずるなり。会場は実業学校講堂〔愛知川町〈現在滋賀県愛知郡愛知川町〉〕とす。演説後、更に一里、車を馳せ同郡葉枝見村〈現在滋賀県彦根市〉医師寺島時治郎氏の宅に至りて宿す。午後、雨過ぐること数回に及ぶ。

 二十八日 晴れ。午前、本専寺において開演す。住職平野法順氏、寺島氏を助けてともに尽力あり。午後、車行一里、稲枝村〈現在滋賀県彦根市、愛知郡愛知川町〉小学校に移りて開演す。主催は村長藤野金七氏、学務員平田伝代門氏ほか五氏なり。演説後、十五丁を隔つる浄教寺に至りて宿泊す。住職灥〔みなもと〕勝心氏は東洋大学出身たり。当所の開会は氏の尽力最も多しとす。晩に驟雨きたる。本村は名のごとく米産地なり。

 三月二十九日(日曜) 晴れ。稲枝より朝鮮人街道を一過するに、両側に松樹並立せるを見る。行程二里、犬上郡河瀬村〈現在滋賀県彦根市〉法蔵寺に至りて開演す。堂内すこぶる広闊なり。住職那須凌岱氏は東洋大学出身者にして、また本日の主催者なり。同氏および村長宮内富次郎氏、助役小林茂亮氏、ともに尽力せらる。午後五時、河瀬発に乗り込みて帰東す。

 ここに江州の湖東を巡了したれば、余の見聞に触れたる事項を列挙するに、湖東は概して商業地なれば、児童に至るまで他地方と気風を異にするところあり。小学校にて児童に向かい、後にいかなるものになる見込みかと問うに、あるいは大臣になるとか、大将になるとか、華族になるとか、あるいはエライものになるとかいいて答うるを常とすれども、江州児童は必ず百万長者になると答うる由。もし小学校を卒業すれば、第一に商店の小僧の募集に応ず。これを棚入りという。もしこれに落第すれば、師範学校の入学募集に応ずという。衆人ともに会して飲食する場合に、アグラをかくことをすすめても、かえって座る方を好む風あり。これみな商人的なり。

 江州商人は比較的辛抱強くして信義を重んずる風あるは、織田豊臣の時代に近江源氏の士族が門地を失い、転じて商人となりたるが、徳川時代には地頭の収斂に堪えずして、他国行商を始めたるに起因し、自然〔に〕士魂商才を養成せるによるという。ことに勤倹の習慣はその特色にして、今なおその遺風を失わず。さきに北五個荘の日記の下に挙げたる風呂桶のごとき、その一例を示すものなり。もし桶に横窓のなき方は、上に桶を覆うに足るべき大笠を天井よりさげ、入浴中、上より蓋をして湯気を散ぜざらしむる装置のものもあり。これまた、薪を節減するの工夫より起こりたるものなり。家屋に壁を多くして窓口を少なくするも、倹約に基づきたるに疑いなし。あまり室内を明るくして陽気にするときは、自然に奢侈に走るの傾向を生ずという。江州の家屋は多く柱を赤黒く塗るも、倹約主義より起こる。

 江州人は倹約の結果より、飲酒の量比較的少なきもののごとし。他府県にては宴会のときに一人平均五合以上七、八合を要すというに、江州にては三合ないし四合をもって足るとなす。ただしその例外は婚礼の祝宴なり。結婚の日は自宅において三々九度の杯を終わり、酒宴は多く旅館または料理店において開く。そのとき新婦は家にとどまりて席に列せず、新郎は暫時出席してただちに自宅に帰る。しかして来賓は必ず徹夜して牛飲するを例とす。そのときの用杯は七ツ組または九ツ組を用い、その台杯は七合以上一升ぐらいの容量あり。これを一度のみならず二度回してのましむという。これ実に江州不似合の習慣なり。また、江州の風俗として冬分は必ず置き炬燵を用い、置き炬燵を夜具布団の中に入るるは、やはり倹約より出でたる習慣ならん。

 俗謡は前に掲ぐるものの外は聞き入れず、方言はなお一、二語の記すべきものあり。

気の毒をオトマシ、アグラを一名イタビラ、田中に藁を積みたるものを前にスズキとせしが、その他ニオンともいう(湖北にてはこれをツンボンという由)。横に長くなりたるものをワラバサという。また「長崎バッテン京オマス大阪サカイに江戸のベラボー」に対して、江州にてはドスというとの話を聞けり。

 食物の他と異なれるは茶碗蒸しに銀杏を入れずして、必ず百合を入るる一事なり。また、カブラ蒸しと称して、蕪をオロシのごとくすりて茶碗蒸しに代用することあり。鯉の刺身は子ナマスと称して、鯉の腹子の卵を肉に付けるなり。出雲の糸作りと好一対たり。魚類に至りては湖水の特種多し。第一はヒガイ(鰉)、第二はモロコ、つぎはイサダ、ハス、ウグイ、ギギ等なり。また、鮎に二種ありて、普通の鮎の外に、小鮎と称して成長せざる細魚あり。総じて四十七、八種ありと称す。つぎに迷信につきて目に触れたるは、屋上の棟瓦の所を切断せるあり。家相の悪しきときに行うものと見ゆ。また、「四、六畳、三ヘッツイ、家相構わず」と伝えきたり。もしこれに合格せざる家は、災難を除くの方法を講ずるを要すという由。

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滋賀県巡講第三回(湖西)日誌 付東播二郡

 大正三年三月三十日、朝七時半、新橋へ着し、午後、東洋大学卒業式に出席し、三十一日午前、京北中学校卒業式に出席し、午後、大正博覧会を入覧し、当夕十一時、新橋発にて江州に向かう。

 四月一日 晴れ。暖はなはだし。午後一時、蒲生郡八幡駅に着し、これより車行二十五丁にして桐原村〈現在滋賀県近江八幡市〉に達す。途上、菜花田に満ち、あたかも黄金を敷くがごときを見る。本村は青年団の主催にて、小学校にて開会す。団長は村長中島新八氏、副会長は校長多賀谷熊太氏、幹事は馬場竹治郎氏、同若林孝玄氏(僧侶)、部長は宮田義啓氏にして、みな大いに尽力せらる。本村は熊沢藩山寓居の地なり。その祖母伊庭氏の郷里なりとて、寛永十五年にここにきたり寓し、十九年湖西なる小川村に至り、藤樹門下に入り、翌年また本村に帰り、独学すること五年の長きに及べりという。また、当地の青年会は県庁より表賞せられたりと聞き一詩を賦す。

  八幡村外有田園、是昔蕃山苦学村、今日青年継遺志、去華就実報皇恩、

(八幡村のはずれに田園がひろがり、その地はむかし熊沢藩山が勉学した村でもある。今日、青年らはその遺志を受け継ぎ、堅実にすめらみくにの恩に報いんとしているのである。)

 宿所は校前の菅田神社社務所なり。神職桐江亮吉氏これに住す。

 二日 雨。桐原より車行五里、野に出ずれば麦青菜黄、村に入れば柳緑桜紅に応接し、雨中の風光また一段の幽趣あり。桜川を経て西桜谷村〈現在滋賀県蒲生郡日野町〉に入る。桜川と日野との中間にあり。この日の途上、車を連ねてきたれるを見、児童走り出でて曰く、お嫁サンがきたれりと。その声を聞きて各戸よりみな争い出でて見るに、男ばかりの嫁入りなりとて失望の声を発せるは滑稽なり。江州にては腕車の両三台続くことは嫁入りのときに限ると見ゆ。会場は西桜谷学校にして、青年団の主催なり。しかして聴衆の半数が婦人なるは他に見ざるところなり。団長(村長)森本仙右衛門氏、副団長(校長)小西泰次郎氏、村会議員矢尾喜兵衛氏等、多大の尽力あり。宿所は学校をへだつること十丁なる安徳寺に設けらる。住職は森川舜台氏なり。

 三日 曇り。北風強くかつ寒し。西桜谷より車行一里、桜川駅より近江線に駕し、貴生川より本線に転じ、草津を経て滋賀郡石山駅に着す。これより半里余、車行して観音山下、瀬田川上なる石川旅館柳屋に着す。一名水月楼という。設備完成せる旅館なり。郡長友田効三氏、郡視学高谷九一郎氏、郡書記多羅尾悟一氏、ここにありて歓迎せらる。本日の開会は石山村〈現在滋賀県大津市〉、膳所町連合の主催にして、会場は小学校講堂なり。石山村長平尾仁平氏、膳所町長馬杉幸助氏、校長市川清次郎氏、ともに非常の尽力あり。柳屋は水に枕し、巒に面し、風光明媚、これに加うるに魚貝新鮮なり。ただ、斜風蕭雨のために遠景を遮られたるを遺憾とす。

 四日 曇り。風収まりたるも気寒し。早朝、観音台上に登臨せるに、二十年前きたりし当時と異なることなし。近年の工夫なりとてここに乱立せる奇石の形を菓子に作りて、名所にて販売せるは前に見ざるところなり。

  石山風月最清明、試到寺前放眼睛、春靄鎖湖々不見、観音台上踞聞鴬、

(石山の風月はもっとも清らかで明朗、こころみに寺の前からはるかに見渡せば、春がすみが湖をおおいかくし、観音台の上にたたずんでうぐいすの声を聞くのであった。)

 境内の山桜いまだ開かず、ただ蕾の紅色を帯ぶるのみ。これより汽船に駕し、膳所、大津を経、三井寺を望み、唐崎の松を見て下坂本に着岸す。大津より二里を隔つ。舟中吟一首あり。

  湖上春烟暁欲晴、望中八景漸分明、古今世変真堪歎、膳所城為監獄城、

(湖上の春がすみに、暁はようやく晴れようとし、望み見る近江八景もしだいにはっきりと見えるようになってきた。古今の世の移り変わりは、まことに感嘆すべきものがある。膳所城址はいまや監獄と変わっているのだ。)

 主催は坂本村〈現在滋賀県大津市〉ほか二カ村の連合にして、会場は下坂本学校(校長は谷知顕氏)、宿所は坂本村(村長は石川丹七氏)坂本屋なり。演説後、坂本校長羽場尚志氏の案内にて官幣大社日吉神社を参拝し、帰路、延暦寺本坊の前を過ぐ。今より二十年前、比叡山に登り横川西教寺等を歴訪せしことあり。日吉大社の桜花はいまだ満開に達せず。当所には名物鶴喜蕎麦あり。その入れ物の形、タバコ盆に似たり。幸いに賞味することを得て、余はタバコ盆蕎麦と名付く。東京の薮蕎麦に似たるところあり。ここにきたるものは必ず一盆を試むべし。隣村に滋賀県滋賀郡滋賀村字滋賀という地名あるは珍し。その地は滋賀の都の跡なりという。その村の村長は斎藤修彦氏なり。

 四月五日(日曜) 晴雨不定。ときどき霰を交えきたる。したがって風寒し。車行二里にして堅田町〈現在滋賀県大津市〉に移る。農家すでに田打ちにかかり農繁期に入る。着早々、小学校にて生徒のために演述し、午後、更に劇場において公会を開く。演説前、近江八景の一なる浮御堂に休憩し、題するに「湖西第一勝」の五字をもってす。寺号を満月寺と呼び、臨済宗大徳派に属す。浮御堂は湖上に桟して立てたるものにして、風景絶佳なり。その中に千体仏を安置し、常灯明を点ず。近年は落雁きたらず、ただその形を菓子にとどめて堅田の名物となす。よって一吟す。

  湖西絶勝在何郷、探得堅田浮御堂、落雁不来春寂々、一盆茶菓助風光、

(湖西の絶景はいずこの里にあるのか、それは堅田の浮御堂であるとたずねあてた。はるかな空からやってくる雁も姿を見せず、春はなお静かなさびしさをたたえ、一盆の茶菓がようやくその風光のよすがとなっているのだ。)

 主催は町教育会にして、町長北村政男氏大いに尽力せられ、助役北村又三郎氏、校長初田長太郎氏これを助く。当町の産業は農暇に藁筵、カマスを造りて輸出するにあり。その産額一カ年三万円と称す。宿所は魚清楼なり。町内にいまだ電灯を設けざるも、公設電話を有す。

 六日 曇晴。車行半里、午前、真野村〈現在滋賀県大津市〉正源寺に立ち寄りて講話をなす。住職三宮繁信氏は明治三十九年、満州鉄嶺にて相識となれり。その叔父は故式部長三宮義胤氏なり。村長鈴木栄三郎氏も助力あり。これより車行二里、和迩村〈現在滋賀県滋賀郡志賀町〉真光寺に至りて開演し、かつ宿泊す。天台宗真盛派なり。湖西には真盛派多し。また、各所に蓮如上人遺跡と題する石標あり。途上の風光を吟賞して過ぐ。

  比良山下麦田斜、湖上晴風送客車、巒形波光明似畵、江西一路富烟霞、

(比良山のふもとに麦畑がひろがり、湖上を吹く明るい風が客の乗る車を送ってくれる。山の姿と波のきらめきはあたかも絵のように、西近江の一路はけむるかすみがゆたかなのである。)

 真光寺書院は軒前に湖東の連山を望み、湖心の沖島に対して大いに趣あり。主催は村長徳岡吉之助氏、校長永田薫氏、隣村木戸村渡辺久蔵氏等の連合なり。

 七日 雨。車行三里にして小松村〈現在滋賀県滋賀郡志賀町、高島郡高島町〉に達す。比良山麓なり。一昨日来の寒気にて山雪更に加わるを望む。雨後なれども地質砂まじりにて泥をなさず。近江八景中、六景は滋賀郡内にて独占せるが、これより後は全く八景と一別を告げざるを得ず。会場は小学校、主催は村長西村弥次郎氏にして、校長初田庄吉氏、書記勝見円教氏等これを助く。宿所は西村村長の宅なり。本村は県下の模範村なりと聞く。石材を特産とす。すなわちいわゆる小松石これなり。

 八日 晴れ。高谷郡視学は余を送りてここに至りて相わかる。海浜に青松白砂の勝地あり。これを近江舞子と称す。車上にて小詩を賦す。

  四月江西未入春、比良山上雪如銀、行看沙白松青処、村老呼成小舞浜、

(四月の西近江はまだ春ともいえず、比良山の上の雪は銀色にかがやいている。行きて白砂青松の地を見れば、村の老人は小舞浜とよんでいるのであった。)

 小松を発して行くこと十余町にして、比良山の中腹に瀑布の高くかかる〔を〕望む。これを布の滝とも楊梅の滝ともいう。その高さ二百七十尺、江州第一の大瀑布たり。これよりようやく進みて、郡界に接する所に白鬚神社あり。湖面に突出せる所なり。社格は郷社なるも寿命の神なりとて、京阪地方より参拝者多し。大祭は九月五日にして、当日は非常の群集をなすという。古来の慣例として、小児生まれて二歳に達すれば、必ずこの社に参拝して実名を授かり、一週間はその名をもって呼び、その期を過ぐれば戸籍面の名に復するを例とす。かくすれば子供の寿命を延長するを得と信ず。途上、鴬声の送迎あり。対岸に霊仙山の雪をいただけるを望見しつつ高島郡大溝町〈現在滋賀県高島郡高島町〉に入る。行程三里、大津元標を去ること十里半、従前は坂本千軒、堅田千軒、大溝千軒と称して、大溝はもと分部氏の城下にして、西江州の一都会たり。市街の中央に溝渠ありて水混々として流るるは、その町名を実現せるがごとし。町内の瑞雪院に近藤重蔵翁の墳墓あり。翁はこの地にて没せし由。主催は町教育会、発起は町長白崎清兵衛氏、校長安達仙太郎氏等にして、小学校を会場とす。宿所山川楼は前に大湖を控え、後ろに小湖を帯び、汽船これより出入す。午後、驟雨あり。夜に入りて暴風雨となり、終夜安眠を得ず。郡視学寺島誠氏ここにきたりて迎える。

 九日 雨。車行一里、青柳村字小川に立ち寄る。藤樹書院および墓所を拝観せんためなり。書院依然として存し、門側に藤樹古蹟の石標あり。門に入れば左方に藤樹文庫あり、その隣に一大棟あり。扁額に徳本堂と題せり。これすなわち藤樹書院なり。その中に近江聖人の位牌を安置す。その前に、

  先生姓中江諱原、字惟命、号顧軒、称藤樹先生、慶安元年戊子八月二十五日卒、葬邑東北玉琳寺、

(先生の姓は中江、いみなは原、字は惟命〔これなか〕、号は頤軒、藤樹先生と称す。慶安元年戊子八月二十五日卒す。村の東北、玉林寺に葬らる。)

と表記せりを見る。遺物数種あり。庭後、古藤ありて今なお茂る。これをへだつること一丁余にして墓所あり。当日所感の詩一首を得。

  江西書院絶塵埃、護境古藤猶未摧、隔世先生必応楽、有朋常自遠方来、

(江西の藤樹書院は世俗をはなれてたち、藤樹の下に教えたと伝えられる古い藤がいまもなおくだけずにこの地をまもっている。世をへだつとはいえ先生は泉下に必ずや楽しんでおられよう、同じ学に志す朋がいつも遠方よりやってくるのだから。)

 これより車をめぐらし行くこと半里にして安曇村〈現在滋賀県高島郡安曇川町〉に達す。この日、皇太后殿下崩御の情報に接したるも、いまだ確報を得ず。午後、同窓会の主催にて小学校にて開演す。安曇村長安原仁兵衛氏、青柳村長田中米蔵氏、校長原田知近氏等の発起にかかる。宿所は可以登楼なり。宿料上等八十銭、下等五十五銭と表記す。本村は高島名物の虎斑石の硯を造る。この夕、天ようやくはれ、夜に入りて明月天にかかり、四面清朗なり(陰暦三月十三日)。村内字万木に彦根のごとく赤蕪を産す。その地名をユルギとよむ。

 十日 晴れ。朝来、寺嶋視学とともに本郡第一の大江たる安曇川にそいて上行すること三里半、峡路高低曲折あり。両岸の風光は木曾峡に似たり。材木を筏に組みて運出すること頻繁なり。ときまさに山村の春色駘蕩なり。途中、牛馬車の薪炭をひきて下行するもの前後相続く。会場は朽木村〈現在滋賀県高島郡朽木村〉小学校、主催は村長古谷寅吉氏、中根、上杉両助役および上藤校長これを助く。本村は面積においては県下第一にして、野洲郡全部と匹敵す。戸数八百、学校十二カ所、寺院三十四、五カ寺あり。その村内の首府に当たる所を市場という。名のごとく山中の市場なり。長さ一里、幅半里ぐらいの平原を有す。余が昨年歴遊せし山口県玖珂郡広瀬村に似たるところあり。これより京都出町まで山越えにて十二里を隔つという。婦人は吉野袴をうがつ。これをカルサンと名付く。本村の主要物産は薪炭、木材にして、樹木の生育最も早く、二十年間にして柱を成すに至るという。夜に入れば一天雲なく、春月霜気を帯びて秋月のごとし。即吟一首あり。

  安曇川上路高低、雨後只看印馬蹄、山館今宵覚春浅、一痕霜月宿寒渓、

(安曇川のほとりの道は高くなったり低くなったりして続き、雨の後の道にはただ馬のひづめの跡が残されているだけである。山中の旅館にこよいは春なお浅しの感をいだく。一片の霜をおびた月が寒々とした谷にかかっているのである。)

 宿所は鎌屋旅館なり。

 十一日 晴れ。早暁、降霜を見る。旅館を出でて行くこと十余町、一危橋あり、高岩橋と名付く。両崖の高巌の上に架す。その天然の風光大いに佳なり。車行三里、広瀬村〈現在滋賀県高島郡安曇川町〉東円寺に至りて開演す。曹洞宗なり。主催は村役場にして、郡会議員熊谷重勝氏、村長長宗弥一郎氏、助役清水安治氏、住職谷口泰洲氏の発起にかかる。この日、皇太后宮崩御の公報に接し、謹慎を表し、郡内は各所において「敬悼の誠意を表して忠孝の大義を述ぶ」という演題を掲ぐることに定む。

 四月十二日(日曜) 晴れ。車行一里、新儀村〈現在滋賀県高島郡新旭町〉小学校に至りて午後開演す。主催は村役場にして、発起者たる村長河合与右ヱ門氏、収入役西川種吉氏、校長田中亀太郎氏、書記大江、槌松氏、ともに尽力あり。演説後、徒歩して村内字太田なる浅見絅斎翁の遺跡を訪い、その霊位を拝す。遺物の存するものなし。墓所は京都鳥辺山にありと聞く。祠堂に題して望楠書院と記せり。ときに一詩を賦呈す。

  講余移歩日将傾、菜麦染烟春紫明、停杖菅公祠畔路、望楠堂裏拝先生、

(講演の後、徒歩して行けば日も西に傾こうとしている。菜の花と麦の緑がけぶるように染まり、春はむらさきに見える。杖を菅公をまつる神社のかたわらの道にとめ、望楠堂のうちに浅見絅斎先生を拝んだのであった。)

 薄暮をおかして約一里を隔つる甲屋旅館に至る。本村は木綿縮織の産地にして、一カ年の産額十八万円と算せらる。本郡の首府たる今津町まで一里半を隔つ。

 十三日 雨。郡書記の案内にて車行一里、深溝より乗船して海津村〈現在滋賀県高島郡マキノ町〉に至る。風雨のために船体やや動揺す。本村は昔時、北国街道の要関にして繁栄なりしが、近年は非常に衰微し、市街はわずかに旧形を存するも、一台の腕車なしという。その特産は石灰にして、一カ年六十万俵を出だす由。会場は願慶寺、宿所は宝憧院、主催は宿寺住職高井観海氏、有志者石井田勘二氏、松本政三氏、沢水勘治郎氏、古川岩治郎氏なり。高井氏は哲学館大学出身たり。この町より半里を隔てて大崎と名付くる勝地あり。竹生島とともにその名高し。夜に入りて風雨ますます烈なり。この地、冬時は積雪一尺ないし三尺に及ぶという。

 十四日 晴れ。今朝にわかに春暖を加え、朝気〔華氏〕六十二度なり。船中にて望むに菜花野に敷き、新樹芽を放ち、山田紫明の色を浮かぶ。午後、今津町〈現在滋賀県高島郡今津町〉に着岸す。海津より陸程は三里あり。午後、慶成館にて休憩す。階下に郡内工業品の陳列所あり。会場は小学校、主催は村長中井喜右衛門氏、助役元田市良兵衛氏、収入役中井辰蔵氏等にして、宿所は福田旅館なり。郡長北村時男氏来会せらる。町内には扇子を製造す。夜に入りて微雨あり。

 十五日 晴れ。車行一里、饗庭村〈現在滋賀県高島郡新旭町〉小学校に移りて開演す。この村には丘上に長さ二里、幅一里の原野あり、陸軍の演習地となる。主催は村教育会にして、村長上原海老四郎氏、前村長桑原八左衛門氏等尽力あり。後丘の中腹なる大泉寺にて休憩せるに、湖山の風光眼中に入り、自然の一大公園たるの趣あり。実に湖西の一勝地たり。ときに即吟一首を浮かぶ。

  饗庭邱半仏堂懸、我試登臨養浩然、当面風光明似畵、連山横臥擁湖眠、

(饗庭村の丘陵の中腹に寺院がかけられるようにたち、私はこころみに丘に登って浩然の気を養わんとしてみた。正面の風光の明るさは絵画にも似て、連なる山々は横ざまに臥して湖をふところに眠るかのようである。)

 その寺は天台宗に属し、やや廃頽の相あり。本村は硯と剃刀の産地なり。当夕は今津福田屋に帰宿す。

 高島郡は滋賀県の鉄道なき郡にして、交通不便なるより県下の北海道との名称あり。しかるに各町村を通じて公設電話あるはその名物とするところなり。また本郡の特色は、一年中の大勘定を盆正月をもってせずして、三月末と十月末をもってするにあり。昨今、各所において苗代に着手せるを見る。

 滋賀県は湖北三郡を除き、他はみな巡了せしにつき、その特殊の点を述ぶれば、社寺の数の比較的多き一事なり。人口七十万人、戸数十三万二千六百二十五人に対し、神社の数二千百二十三カ所、寺院の数三千二百七カ寺の統計なれば、檀家およそ四十戸につき一カ寺の割合となる。また、国宝の多きも一特色たり。すなわち国宝所有は百九十二カ寺にして、その数八百六十九点あり。その他に保護建築物多し。江州人は自ら称して湖国と呼ぶが、琵琶湖の日本第一たることは昔も今も異なることなし。富士山は新高山のために第二位に落ちたるも、琵琶湖は台湾、朝鮮をあわせきたるも依然として日本第一なり。よって今後はよろしく近江を大湖に改めてオオウミと読ましむべし。湖の周囲六十里、長さ二十里余あり。山にいたりては伊吹山を第一とし、霊仙これに次ぎ、比良そのつぎなり。伊吹山は海抜四千五百尺余と称す。小学校の校舎は往々美大なるものありて、設備のみるべきもの多し。その他は湖北三郡日誌の下に述ぶべし。

 十六日 晴れ。午前四時に起き、月をいただきて汽船に駕す。今津出航は正五時にして、天ようやく明けんとするときなり。九時半大津着、十一時京都着。このとき雷雨一過せり。随行、静氏とここに相別る。これより播州東部に向かう。途中、清水谷善照氏に迎えられ、山陽線加古川駅にて播州線に乗り換え、社口駅より車行三十丁にして加東郡社町〈現在兵庫県加東郡社町〉に着す。日まさに暮るる。宿所は清水谷氏の寓所なり。その家は坂上に危立す。楼上にて一臨すれば、いちいち入町の人を点検する〔を〕得。当夕、仏教談話会の依頼に応じ、郡公会堂において講演をなす。郡内各宗寺院の発起にかかる。公会堂は木材の清美なると建築の宏壮なるにつきては県下第一の公評なり。その位置、丘上にありて眺望もまたよし。

 十七日 晴れ。午後、同所において八志路幼稚園の主催にて開演す。町長松本弥一郎氏、校長尾崎詮光氏、区長松本兼蔵氏等の発起にかかる。しかして清水谷氏はその園長たり。この日、郡長海江田権蔵氏、郡書記本多藤作氏、視学筒井家続氏等来会せらる。町内に伊保神社あり。県社にして楼門および社殿ともに荘麗なり。町名はこの社より起これりという。また、人に対して当町の名物を聞くに、比較的井戸の深きと、料理店の多きと、菓子の佳なるとの三なりと答う。また、本町に属する一部に赤穂義士と名付くる地名あり。これをアカギシと読む。ここに観音寺(臨済宗)ありて四十七士の像を安置すること高輪泉岳寺に同じ。これまた名物の一ならん。社町より土山駅まで五里の間、近日来すでに乗合自動車の往復を開けり。

 十八日 快晴。本郡内は米麦の産地にして、田はみな二毛作なり。車上、麦田を見るのみ。江州と異なりて、菜田まったくなし。田頭に併立せる藁塚を、東播の方言にてはツボキという由。本年は気候不順のために、麦に枯葉を生ぜりとて、凶作を予想しつつあり。社より中東条村〈現在兵庫県加東郡東条町〉会場小学校まで二里半の間、馬車を駆りて着す。開会は幼稚園の主催にて、村長平川義正氏、校長坂本芳太郎氏、校医五百蔵致一氏等の発起にかかる。本村は模範村なりと聞く。これより車をめぐらすこと数十町、下東条村長土肥信太郎氏の宅に宿す。

 十九日 晴れ。四月に入りてより寒気相加わりしが、昨日以来ようやく順候に復す。車行三里、梨園花の白きを見る。小野村〈現在兵庫県小野市〉新築劇場にて開演す。主催は前日のごとし。小野村長小林留三郎氏、市場村長近藤準吉氏、来住村長山本千賀治氏、来迎寺住職稲村修道氏(東洋大学出身)の発起にかかる。しかして宿所は天津風なり。旅館の名としては天下一品ならん。蛙声、楼に入りきたる。当地の製作品は算盤なり。

 二十日 雨。車行二里、松丘を上下して美嚢郡に入り、三木町〈現在兵庫県三木市〉にて開演す。この日雨天なれども、日中の温度〔華氏〕七十度に近し。会場小学校内には明治八年に新築せし洋館校舎一棟、今なお存して教場に使用せらる。昼間は町教育会のために、夜間は町青年会のために講話をなす。郡長牛嶋省三氏、郡視学北山虎吉氏、町長玉置福蔵氏、校長竹田文策氏、助役和田、魚住両氏等の発意主唱にかかる。北山視学には一昨年淡路にて会せり。この夕、奈良茶屋旅館に宿す。当町の特産は刃物類なり。

 二十一日 晴れ。車行五里、渓上にさかのぼりて北谷村〈現在兵庫県美嚢郡吉川町〉小学校に至り、醇厚会のために演説す。会長は山本克巳氏(村長)にして、幹事は林田、松本、藤本、谷郷、辻用の五氏なり。日中温気〔華氏〕七十度以上に上る。郡内途上所見一首あり。

  東播一望濶如溟、雨後麦田青更青、転入山村春未尽、残紅新緑繞茅亭、

(ひがし播州の地は一望すれば、広々としてうすぐらい大海のようであり、雨のあとの麦田は青さをいよいよ濃くしている。一転して山村に入れば、春の気配がなおあり、残りの紅色の花と新緑とがかやぶきの家をめぐっているのである。)

 宿所は吉本屋なり。今より十三年前播州を一巡して、加東、美嚢両郡にも入りしことあり。そのとき隣村中吉川村光沢寺において開演せり。住職若槻隆田氏は哲学館出身なれば、本日来訪せらる。

 二十二日 曇り。清水谷氏は随行に代わりて案内の労をとられしが、今朝、社の方へ帰宅す。北谷旅館より一里半、山路嶮悪、登躋数回にして摂州相野駅に着す。若槻氏、余を送りてここにあり。途中、松林の間に躑躅花の点々深紅を挟むあるを見、黄鳥の声、前後相応答するを聞けるは、すこぶる幽趣を覚ゆ。午前九時、相野発。十一時四十分、大阪にて換車し、二十三日午前五時半、新橋に着駅す。

 

     滋賀県湖東南西九郡開会一覧

   郡    町村     会場    席数   聴衆     主催

  犬上郡  彦根町    寺院     二席  六百人    町教育会および婦人会

  同    同      中学校    一席  五百人    中学校

  同    同      女学校    一席  四百人    女学校

  同    高宮町    小学校    二席  五百人    町教育会

  同    多賀村    神社本部   二席  五百人    村役場

  同    西甲良村   小学校    二席  三百人    三カ村連合

  同    日夏村    小学校    二席  六百人    五カ村連合

  同    河瀬村    寺院     二席  三百人    法蔵寺

  愛知郡  愛知川町   寺院     二席  九百人    郡教育会

  同    同      寺院     一席  三百人    町有志

  同    同      実業学校   二席  二百人    郡教育会

  同    稲村     寺院     二席  三百五十人  同前

  同    秦川村    寺院     二席  七百人    同前

  同    東押立村   小学校    二席  七百人    同前

  同    豊椋村    小学校    二席  六百人    同前

  同    稲枝村    小学校    二席  百五十人   村有志

  同    葉枝見村   寺院     二席  三百人    医師

  神崎郡  八日市町   公会堂    二席  四百人    四カ町村連合

  同    南五個荘村  寺院     二席  三百五十人  村長

  同    北五個荘村  小学校    二席  四百人    青年会

  同    伊庭村    寺院     二席  四百人    村役場

  同    能登川村   寺院     二席  二百五十人  村役場

  同    八幡村    寺院     二席  三百五十人  村役場連合

  蒲生郡  八幡町    別院     二席  四百五十人  郡教育会

  同    同      商業学校   一席  四百人    校長

  同    日野町    小学校    二席  五百五十人  郡教育会

  同    同      寺院     二席  四百人    婦人会

  同    武佐村    小学校    二席  四百人    青年団

  同    同      寺院     一席  百人     広済寺

  同    桜川村    小学校    二席  八百人    郡教育会

  同    北比都佐村  寺院     二席  四百五十人  仏教青年会

  同    鏡山村    小学校    一席  四百四十人  村有志

  同    同      寺院     一席  三百人    同前

  同    桐原村    小学校    二席  三百人    青年団

  同    西桜谷村   小学校    二席  四百人    青年団

  甲賀郡  水口町    小学校    二席  五百人    郡教育会

  同    土山村    小学校    二席  三百五十人  同前

  同    佐山村    小学校    二席  三百人    養老会

  同    寺庄村    小学校    一席  七百人    校長頌徳会

  同    同      小学校    二席  三百人    郡教育会

  同    長野村    小学校    二席  六百人    同前

  同    三雲村    小学校    二席  五百人    同前

  野洲郡  守山町    倶楽部    二席  百五十人   郡教育会

  同    北里村    小学校    二席  七百五十人  同前

  同    中里村    木部派本山  二席  三百五十人  同前

  同    河西村    小学校    二席  三百五十人  同前

  同    同      寺院     一席  四百人    円立寺

  栗太郡  草津町    小学校    二席  二百人    町教育会

  同    大宝村    寺院     二席  四百人    村教育会

  同    葉山村    寺院     二席  五百人    村長

  同    金勝村    小学校    二席  四百人    青年会

  同    志津村    小学校    二席  百人     村役場

  同    老上村    小学校    二席  三百五十人  村長

  同    瀬田村    寺院     二席  三百五十人  青年会

  同    上田上村   小学校    二席  五百人    青年会

  同    大石村    小学校    二席  四百人    村役場

  同    山田村    寺院     二席  三百五十人  興徳会

  同    物部村    小学校    二席  二百五十人  青年会

  滋賀郡  堅田町    小学校    一席  五百人    町教育会

  同    同      劇場     一席  五百人    同前

  同    石山村    小学校    二席  三百人    町村連合

  同    坂本村    小学校    二席  六百人    三カ村連合

  同    真野村    寺院     一席  三百人    村有志

  同    和迩村    寺院     二席  四百五十人  二カ村連合

  同    小松村    小学校    二席  四百人    村役場

  高島郡  今津町    小学校    二席  百五十人   町長

  同    大溝町    小学校    二席  三百五十人  町教育会

  同    安曇村    小学校    二席  五百人    同窓会

  同    朽木村    小学校    二席  五百五十人  村長

  同    広瀬村    寺院     二席  二百五十人  村役場

  同    新儀村    小学校    二席  四百人    村役場

  同    海津村    寺院     二席  三百人    村有志

  同    饗庭村    小学校    二席  二百五十人  村教育会

   合計 九郡、六十二町村(十二町、五十村)、七十三カ所、百三十四席、聴衆三万百九十人

    演題類別

     詔勅および修身に関するもの      四十四席

     妖怪および迷信に関するもの      三十一席

     哲学および宗教に関するもの       三十席

     教育に関するもの             十席

     実業に関するもの            十二席

     雑題(旅行談等)に関するもの       七席

 

     付

三河国西部開会一覧

  額田郡  岡崎町  寺院    二席  一千人    婦人法話会

  同    同    師範学校  一席  四百人    校長

  同    福岡町  説教所   二席  九百人    町教育会、青年会

  同    同    同     一席  七百人    興徳会

  碧海郡  小川村  寺院    二席  五百五十人  青年会

  幡豆郡  西尾町  説教所   二席  九百人    和敬会

  同    同    寺院    一席  五百人    同前

  同    寺津村  寺院    二席  七百人    清話会

  同    福地村  寺院    二席  八百人    軍人会

 

     付

播磨国東部開会一覧

  加東郡  社町    公会堂  一席  二百人    仏教談話会

  同    同     同    二席  三百五十人  幼稚園

  同    中東条村  小学校  二席  四百人    同前

  同    小野村   劇場   二席  三百人    同前

  美嚢郡  三木町   小学校  二席  四百五十人  町教育会

  同    同     同    一席  百五十人   青年会

  同    北谷村   小学校  二席  五百人    醇厚会

   以上三州播州合計 五郡、十一町村(五町、六村)、十六カ所、二十七席、聴衆八千八百人

    演題類別

     詔勅〔および〕修身に関するもの     十一席

     妖怪〔および〕迷信に関するもの      五席

     哲学〔および〕宗教に関するもの      六席

     教育に関するもの            二席

     実業に関するもの            二席

     雑題に関するもの            一席

P101--------

奥羽温泉紀行(湯ケ島紀行とも)

 奥羽行にさきだち、春来数カ月間巡講の疲労をいやせんと欲し、大正三年五月二日、にわかに思い立ち、豆州天城山下の温泉に向かいて休養を求む。この日、雨をおかして大仁駅より馬車に転乗し、狩野川にそいてさかのぼること四里、上狩野村字湯ケ島温泉場落合楼に入宿す。当所の浴楼は落合を第一とし、これに次ぐものを湯本館とす。林壑の幽邃にして渓流の清霊なるは、豆州諸温泉場中、落合楼にしくもの少なし。楼前に一条の釣り橋あり、左右上下に微動す。婦女子これを渡ること危ぶむ。よって俗歌をうそぶく。

  渡らでも見るもあやぶき落合の、川にかけたる天の釣橋、

 二条の渓流ここに至りて一となる。故に落合と名付く。その潺渓の声、終夜枕頭に響く。これまた俗歌をもって写す。

  夜もすがら滝瀬の音の絶えざれば、雨かとそ思ひ風かとそ思ふ、

 更に一詩を案出す。

天城山北両渓開、家住白雲深処隈、終夜石泉声不断、催眠去又破眠来、

(天城山の北に二つの谷が開け、旅館は白雲が生ずるような深い山の曲がりこむ所にたてられている。一晩中、石をうつ泉流の音がたえることなく、眠りを誘うかと思えば、眠りを破るかのごとく響いたのであった。)

 三日 大雨。終日、浴楼に臥す。

 四日 快晴。天地ともに青し。ときにでたらめ一句を吐く。

  雨すぎて一きは青し夏木立、

 これより山行三十町、狩野川の水源たる浄蓮滝を訪尋す。これ豆州第一の瀑布なり。その所見を写すこと左のごとし。

飛瀑一条名浄蓮、深潭絶壁目将眩、滔々落作悠々水、流到菲山潅万田、

(高所より落ちる一条の滝、名は浄蓮、深いよどみと絶壁は目もくらむかと思われる。とうとうと落下し、悠々たる水流となり、流れは菲山に至ってあまたの田にそそぐのである。)

 この瀑は遠来の客の駕を曲ぐるの価値あり。

 五日 晴れ。午時、微雨あり。緩歩すること三十丁にして吉奈温泉に入浴す。ここには先年、両度入浴せしことあり。旅館は東府屋を第一とす。そのほかに「さか」屋一戸あり。ともに内湯を有す。その湯は婦人に特効ありて、病婦多くここに滞浴す。渓山の風光佳ならざるも、豆西にては修善寺に次ぐ温泉場たり。例によりて一詠を試む。

芳名湯在両山間、林影水声心却閑、浴後呼杯詩思動、吟中坐見白雲還、

(芳名〔吉奈〕の湯は二つの山の間にあり、林のさまや水の音はむしろ心をみやびやかなものとする。湯を浴びたのちに酒杯を取りよせ、詩情のかきたてられるままに、吟詠のうち、そぞろに白雲のいずこかにかえって行くのを見るのであった。)

 六日 好晴。渓に沿いて上行すること四丁、世古温泉場に至る。両岸に共同浴場を設く。両橋をもって連接す。橋上にありて巨石断巌の間を激湍の流下するを見るときは、身は仙源にあるかを疑わしむ。その景、全く野州塩原の縮めたるものにして、実に豆州名勝の一たり。

鳥径猿橋欲歩難、泉源樹鎖夏猶寒、誰知豆北風光美、在此深渓世古湍、

(鳥のみがかようような小道、猿のみがわたるような橋は歩くことも難しい。泉の源は樹木にとざされて、夏もなお寒い感じがする。いったいだれが伊豆の北の風景の美しさが、この深い谷の世古のはやせにあると知るであろうか。)

 七日 晴れ。船原温泉行を企て、徐行してこれに至る。道程二里余、浴楼二戸あり。鈴木屋、熊野屋なり。鈴木屋の方客室多く、かつ建築良し。その浴場に一巨石の突出する所と、一方に水族館的設備あるは、ややめずらし。腸胃病、リウマチに効ありという。別に風景の目を慰むべきなし。

 八日 快晴。暑気〔華氏〕八十度に上る。終日休養す。戯れに腰折れをよむ。

  湯あびして水の響にゆられつゝ、眠る心地や仏なるらん、

 また、山居即事一首を得たり。

湯島村頭林壑連、翠将滴処浴楼懸、渓居連日成何事、坐臥看雲又聴泉、

(湯ケ島村のあたりは林と山が連なり、緑のしたたるようなところに温泉旅館がたてられている。この谷に数日とどまって、いったいなにごとをなそうとするのか。おきふしに雲をみたり、また泉の音を聴いているのである。)

 九日 晴れ。湯ケ島を発して帰京す。これより哲学堂に入りて静養すること数日に及ぶ。その間、一律を賦す。

哲学堂深世事疎、清閑最好閲仙書、風青天狗松前路、月白幽霊梅畔廬、欲究六塵悉文字、静観万法即真如、更鞭理想遊方外、踞物繙心読太虗、

(哲学堂の奥深いところでは世のことにうとく、俗事をはなれたひまな生活はまことに好ましく、そこですぐれたいい書物をひもとくのである。風は青々とした天狗松の前の道に吹き、月に白く浮き出す幽霊梅のかたわらにはいおりがたつ。ここに心をけがす六塵〔色、声、香、味、触、法〕を見きわめ、あらゆる書を見つくそうとし、一切の存在の帰するところはすなわち真如の理であると静観する。さらに心に描く最高なるものにむちうって、世の雑事にかかわらぬ仏道の世界にあそび、物にかかずらうことなく心をひらいて、宇宙の根源をみぬこうと思うのである。)

 五月二十四日 晴れ。哲学堂に在りて昭憲皇太后御大葬を遙拝す。

 六月二日 雨。いよいよ奥羽行の旅程に就く。午前七時、上野発。午後四時、福島県長岡駅に着す。昨今は各村いずれも養蚕最中にて、しかも挿秧の準備中なれば、すこぶる多忙を極む。実際の田植えは十日後、十五日前後ならんという。長岡駅より腕車に乗じ、行くこと約三十丁にして飯坂温泉場に達す。ここに一帯の渓流あり。その名を摺上川という。温泉はその両岸より湧出す。しかして東岸を湯野温泉、または伊達温泉と称し、三層四層の高楼崖頭に隣立す。その方には客舎十余戸あり。泉屋、湯野屋その主たるものなり。しかしてこれに対立せる飯坂温泉は、旅館の数および設備ともに湯野に二、三倍す。けだし福島県下泉場中の魁たるものならん。客舎大小合して四十戸あり。そのうち内湯を有するもの花水館、角屋、桝屋等七戸あるのみ。なかんずく花水館を第一とすと聞き、これに入宿す。楼上より浴場に至るに階段を下ること七十二段、塩原温泉塩湯の浴場と相似たり。泉色は青白を帯ぶ、硫酸泉と称す。近来ラジウム泉の評あり。川を隔てて対岸に松巒の屏立するあり。これを愛宕山公園と称し、桜樹を移植し、春時の遊覧に備う。この地、別に山紫水明の吟情を動かすほどのものなきも、渓に枕し巒に面するをもって多少の幽趣なきにあらず。ただし客舎の中央に遊廓を置けるは、大いに当地の面目を損す。すべからく遊廓の移転を実行すべし。名物としてはラジウム餅、家宝餅等あれども、ともに賞味するに足らず。むしろ当地の西洋桜実は一喫して可なり。

 三日 雨のち晴れ。朝時、緩歩すること三丁、赤川温泉に至る。渓間に三、四戸の温泉客舎あり、すこぶる幽邃を覚ゆ。途上、鵑声を聞く。よって一吟す。

一帯清流摺上川、岸頭百尺客楼懸、神泉浴罷無他事、坐対青巒臥聴鵑

(一本の帯のごとき清流は摺上川である。岸辺百尺の高みに旅館がたてられている。神泉に浴するにもつかれてなすこともなく、座しては青々とした山にむかい、臥してはほととぎすの声を聴くのである。)

 当地より福島まで三里の間、軽便鉄道(長岡経由)と乗合自動車とあり。余は午前十一時、自動車に駕し、二十五分間にして福島駅に着す。村家は旧暦にて端午の佳辰を迎えしために、軒前に菖蒲をかかぐるを見る。午後零時半奥羽線に駕し、赤岩および板谷の大隧道を一過して山形県に入る。この山間は隧道のほかはすべて雪屋にして、米国ロッキー山を昇降するがごとき思いをなす。板谷をへだつる一里内外に姥湯、五色湯等の温泉あれども、入浴を試みず。目下農蚕多事の際なれば、乗客極めて少なく、米沢駅のごとき、わずかに十人前後の出入り客あるのみ。ときに天たちまち晴るる。途上吟一首を得たり。

奥羽由来地勢雄、蒼烟白霧望濛々、須臾雲散梅天霽、水自悠々山自崇、

(奥羽は由来地勢が雄大であり、青い煙と白い霧が見渡すかぎり濛々とたちこめている。しばらくして雲が切れ梅雨ぞらもはれると、水は自然に悠々と流れ、山はおのずから大きく高いのである。)

 山形県に入りて第一に目に触るるものは、男女ともにモンピまたはモッペと名付くる異様の股引をうがちて田野にある一事なり。ところどころすでに挿秧に着手せるを見る。午後四時半、赤湯駅に着す。ここに長井線の分岐点あり。駅より十五丁にして温泉場に達す。旅館は湊屋を第一とし、これに次ぐものは堺屋、十文字屋、近江屋、丹後館、丹泉ホテルにして、みな内湯を有す。客舎総じて二十戸ありという。当夕、湊屋に入宿せるに設備佳良、特に高等浴場を別置す。

 四日 晴れ。晨起、楼後の烏帽〔子〕山に登臨す。丘上に県社八幡宮あり。満山桜樹を植え、春時には桜花世界を現じ、遠近より来遊するもの群れを成すという。これ当地の公園にして、偕楽園の称あり。この山背の白竜湖には蓴菜を産し、当所名物の一に加えらる。その他の名物は唐辛〔子〕なり、その名を石焼き唐辛〔子〕という。客中一首を賦す。

  乱山堆裏鉄車翔、隧道三過入羽陽、欲洗黄塵十年穢、白竜湖畔浴丹湯、

(乱れたつ山々のなかを汽車がかけぬけ、トンネルを再三通過して羽前の地に入った。まずは黄塵にまみれた十年のよごれを洗い流そうとして、白竜湖畔の赤湯温泉に入ったのであった。)

 泉質は塩分を含む、無色にして透明なり。午前十時、発車。十一時、上之山駅に降車す。行くこと約十町にして温泉旅館米屋に休泊す。これ当所一等旅館たり。これに次ぐもの亀屋、滝沢屋あり、みな内湯を有す。旅館は総じて三十八戸ありという。米屋も相当の設備あり。午後、歩を散じて稲荷社に詣す。社宇は小なるも、赤鳥居四百八十二基あるには驚けり。つぎに公園に登る。別にみるべきものなし。町内字湯町の客舎はみな自炊式なり。要するに当地の温泉は赤湯のごとく無色透明にして、微弱なる塩性を帯ぶ。羽州のこのごろの気候は朝夕〔華氏〕六十度、日中〔華氏〕七十度ぐらいにして、東京より五、六度低し。高山の絶頂には六月なお残雪の白斑を見る。各所温泉宿泊料は上等一円ないし一円五十銭なり。

 五日 晴れ。朝七時、乗車。山形新庄を経て秋田市に向かう。最上川上はるかに月山の雪をいただき、半空に横臥せるを望みて一詠す。

  攜去吟嚢入羽関、連峰夏尚雪痕斑、凝眸最上川頭路、白象横天是月山、

(吟詠の思いをいだきつつ羽後の地に入った。連なる峰々は夏にもなお雪をまだらに残している。最上川のほとりの道より目をこらして見れば、白象が天に横ざまになっているように見えるのが月山なのである。)

 これより及位、院内両駅を経て秋田県に入る。及位はノゾキとよむ珍名なり。秋田県下は山形と同じく三十三年前曾遊地なれば、再来おのずから今昔の感なきあたわず。よってさらに一吟す。

  車経院内羽原平、一望万村風物更、欲問昔遊跡何在、破顔鳥海笑先迎、

(汽車は院内をへて、羽後の平原に入った。一望すればすべての村も風物もかわっている。かつて訪れたときのあとをたずねようとしても、いったいどこにあるのであろうか。まず鳥海山が笑みをふくむように迎えてくれたのであった。)

 鳥海山は秋田富士と称す。秋田より望むときに富峰の形を現ずという。あたかも伯州大仙を松江より望むときに、富峰の状をなすにより松江富士と呼ぶに同じ。山頂、雪なお白し。いたるところ耕地整理井然たり。目下、挿秧着手中なり。午後一時半、秋田市に着し、市内保戸野表諏訪町寓、金子恭輔氏(親戚)の宅を訪ねて一泊す。晩食後、旧城跡公園に散歩を試む。園内に本県名物秋田款冬〔ふき〕、その大きさ傘のごときものを栽培せる所あり。秋田市街は屋低く、大抵みな一階造りにしてベニガラを塗りたる多し。また、屋上小石を載せて板片をおさうるは越後の風に同じ。

 六日 朝微雨のち晴れ。午前七時、乗車。午後二時、新庄駅に休憩の際、東洋大学生久郷庄蔵、宮本恵雲両氏の東京より来訪あるに会し、同道して庄内に向かう。酒田線は新庄より古口駅まで四里の間通ずるのみ。古口より汽船の連絡ありて最上峡三里半の間を下り、更に清川駅より五里半車行して薄暮、鶴岡町に入る。最上峡両岸の山光と庄内平原の田色とは、実に旅情を慰むるに足る。昨今田植えすでに終わり、秧田井然、縦横十余里にわたれるを一望するは、なんとなく壮快を覚ゆ。その平闊なるは越後蒲原郡に次ぐ。この日、車中作一首あり。

  路越清川望渺茫、隴頭秧色晩逾蒼、改修耕地田如井、富満鶴岡城外郷、

(道は清川を越えて、一望すればいよいよはるかに、丘の上の苗の色は夕暮れに青さを増す。耕地を改良して田は井のごとく整然として、富は鶴岡市の郊外に満ちみちているのだ。)

 鶴岡旅館は鶴岡ホテルおよび兼子屋なりというを聞き、兼子に投宿す。

 六月七日(日曜) 晴れ。早朝出発。はるかに月山、鳥海を左右に望みて山隈に入る。三瀬を経て海岸を進行す。海中に突出屹立せる岩石のあるいは波状をなし、あるいは竜形をなし、種々の形状をなせるは、いささか目をたのしましむるに足る。なかんずく暮坪の立岩は奇観なり。その前後、トンネルを二回通過す。海岸より渓側に入ること十八町にして温海温泉あり、地名を湯温海という。旅館鶴屋、泉屋、越後屋、万国屋、朝日屋等二十三戸あり、大抵みな内湯を有し、楼は多く三層なり。一年約十五万人の浴客ありという。泉質は食塩と硫酸石灰を含む。その色青白にして、その臭硫気を発す。しかして天候のいかんによりて種々の色を現ず。よって古来、温海湯七色の称ありと聞く。地形は相州湯河原のごとく狭隘なり。海に近くして海を見ず、川に接して川を見ざるはその欠点なり。ただし飲用水の豊富にして清冽なるは大いによし。庄内の温泉は温海を第一とし、湯の浜これに次ぐ。鶴岡よりの里程、温海まで八里半、湯の浜まで三里半あり。余は庄内名物の題にて俗歌をよむ。

  庄内名物御存じないか、酒は大山湯は温海、婦人鉢巻黒帽子、

 大山は酒の産地にして、鶴岡をへだつること二里、湯之浜行の通路に当たる。婦人鉢巻きとは、婦人田野に出でて労働するには、必ず白手ぬぐいの鉢巻きを結び、その上に一種の黒帽子をかぶり、その帽子の両端を折り曲げて鼻口をおおい、目のみをあらわすなり。庄内一般にこの帽子を用い、越後岩船郡内もこれを用う。その名をドウモコウモという由、あに奇名ならずや。また、温海の俗謡を聞くに左のごとし。

  あつみ岳から吹下す風はヨ、温海繁昌を吹下す、

 温海岳は当地の高山なり。ときに拙吟一首あり。

  念珠関北一渓幽、山紫水明囲客楼、况有霊泉随処湧、万人養病此停留、

(念珠関所の北に一つの谷が奥深く、美しい山や川が旅館をめぐっている。ましてや霊妙な温泉が随所に湧き出て、多くの人々が病をいやしてここに逗留しているのである。)

 この夕は旧五月十六日に当たり、蛙声月色客楼に入るところ、すこぶる幽趣あり。温海物産は塗り物と蔓篭なり。当地の物価は比較的安き方なれども、旅宿のビール一瓶三十五銭は高価なるがごとし。

 八日 曇りのち晴れ。温海より越後村上町まで十七里の駅路、腕車賃六円、二人引き十三円、日本全国第一の高価との評なり。その原因は、この間に毎日小汽船の往復ありて、普通旅客はみな船便を用う。船賃わずかに九十銭、しかして陸行するものは万やむをえざる急用あるものに限るによる。庄内地方の車賃は一里二十銭以内なるに、村上行路は一里三十五銭余に当たる。しかるに余は陸上視察の必要ありて、高価の腕車を雇う。国境鼠ケ関すなわち念珠関までは行程四里、平坦にして海岸の風光すこぶるよし。ことに海中に突出せる弁天岩のごときは、北浜名勝の一にかぞえらる。また、当面に蒼波を帯びて粟島に対し、後ろに白雲を隔てて鳥海を望むところ、おのずから詩思を動かす。

  羽山尽処念珠関、越水抱村湾又湾、粟島在前鳥海後、車過奇石怪巌間、

(羽前の山の尽きるところに念珠関があり、越後の川流は村を抱くようにして、湾また湾がつづく。粟島が前にあり、鳥海山を後にひかえて、車は奇怪な形の岩石の間を通って行くのであった。)

 鼠ケ関の形勝は絶佳なるも、越羽両国の界線はすこぶる平凡なり。山脈ありて限るにあらず、川流ありて隔つるにあらず、村家の比隣せる間にあり。この国境は新潟元標をへだつること約三十二里あり、越中国境市振まで従来七十三里と称せり。海岸ところどころ、鰯の肥料を製造す。国境より勝木駅まで海岸に従い、これより山間に入り、北中村より山路にかかる。その中間、明神橋の渓頭に直立二十丈の大巌石あるは壮観なり。その坂路を上下する間五里の長きに及ぶ。その他は平坦なり。産業は養蚕と植林を主とす。岩船郡内は田植えすでに終わり、蚕児は五、六日を経ば上り始めんという。塩屋駅より村上まで四里の間は平坦にして、老松の路傍に並列せるあり。村上市街を離るること約一里にして瀬波温泉、すなわち松山温泉あれば、これに入浴す。温泉客舎八戸あり、萩野屋を第一とす。そのつぎは吉田屋(万松亭)なり。余は萩野の方に入る。この日、行程十八里、朝六時に発し、夕五時に着す。温海より村上までの間は、ほとんど一台の腕車の往返するを見ず。ただ二、三回、自転車に会し、一回、荷馬車の客を載せてきたれるに遇うのみ。中間の駅には粗末の旅館茶店あるも、農繁期なれば野に出でて家におらざるもの多し。よって余は昼食を携帯してきたれり。しかして旅宿料は、上等一円、二等八十銭、三等六十五銭と掲示す。かかる不便の地なれば、余はなにびとに対しても、この地を通過するときは必ず船便によるべきを勧告せんとす。庄内地方と岩船郡内とは、言語を除くのほかは衣食住等よく類似す。なかんずく家屋の構造、市街の風致、屋上に石を置き、軒前にひさしを設くるがごときは全く相同じく、すべて越後式なり。ただ異様に感ずるは婦人の帽子と乗合馬車なり。馬車は雅致あるガラス戸をめぐらし、外見やや趣味あり。

 九日 晴れ。前夜、暑気〔華氏〕八十度に上りしために雨を醸し、暁天、覆盆の驟雨あり、のち快晴。松山の地は名のごとく万松丘陵をうずめ、海風これに入りて松籟をなす。わずかに松林を一過すること丁余にして海浜に出ず。温泉は近年、石油坑を試鑿せるときに沸出したるに始まり、明治三十七年の開場なりという。泉源は丘陵の中腹、松林の中間にして、噴上二、三間の高さに及び、湯気白煙となりて上騰し、数里を隔ててこれを望むを得。萩野屋は二層楼にして、前は秧田に面し、後ろは松林を負い、日夜、潮声松籟枕頭に入りきたる。実に仙郷の趣なり。ときに一詠なきを得ず。

  晴空怪見白雲懸、聞説瀬波新沸泉、一過田蹊到山麓、万松堆裏浴楼連、

(晴れわたった空に、なんとあやしむべき白雲がかかっている。聞くところによれば、瀬波に新しい温泉が湧き出て、その白煙なのだそうな。ひとたび田や谷をよぎって山麓に至れば、松の木のかさなるような林のなかに温泉宿が連なってたっているのである。)

 泉質は無色にして塩分を含む。滞浴中、更に俗謡一首を作りて館主に授く。

  苦悶する人尋ねて来れ、瀬波温泉萩野屋旅館、お湯は沢山眺めは広く、浮世病気の捨て処、

 当地には電灯電話あるも、郵便局なく、新聞売りさばき所なきは、大いに不便を感ずるなり。

 十日 晴れ。朝、腕車に駕し中条駅に向かう。行程六里、村上地方は茶の産地にして、また養蚕も盛んなり。桑は多く立木にして、採葉に小梯を用うるほどなるもあり。途中、北蒲原郡乙村乙宝寺に登詣す。大草堂蔚然として老杉の間に立ち、林末堂角を露出せるを見る。本尊は大日如来なり。堂内に「朝日さし夕日かゞやく乙〔きのと〕寺、いりあひ響く松風の音」と標榜す。住職内山正如氏不在なり。よって拙作一首をとどむ。

  一望秧田暁色蒼、林烟消処露茅堂、入門乙宝寺巍立、唱起南無大日光、

(一望の稲田は暁の色にいよいよ青く、林にたちこめるもやの消えるあたりにかやぶきの堂がたっている。門を入れば乙宝寺が高くそびえたち、南無大日光と唱える声が聞こえてくる。)

 門前に桂屋と名付くる一小旅館あり。その庭内に風骨非凡なる珍松あり、北国無双と称す。しかしてその名を問えば無名松なり。よって余は、これに月桂松の名を付し、かつ俗歌一首をとどむ。

  乙なる仏のまもりあればこそ、月桂松も千代栄えけれ、

 これよりさらに秧田をわたりて中条駅に着す。この地は当月に入りてはじめて汽車開通せしをもって、村落の老婦などはわざわざ見物にきたれるあり。また、乗車するにいちいち駅員に、いずれの車室に乗り込んで可なるやをたずぬるあり。車中より一望するに、蒲原郡内はすべて田植え終わりたれば、秧田海のごとし。午後二時、新潟駅に着し、日本一の長橋、万代橋四百三十間を渡り、古町六番町大野屋支店に入る。西洋館と日本館とを併置し、浴室、便所までみな西洋式なり。その他、篠田、室長等を当地の高等旅館とす。夜に入りて、哲学館大学出身宮城清氏の来訪あり。

 十一日 快晴。宮城氏および乙川文獅氏、桑原瑞鳳氏の哲学館大学出身者の厚意により、当地有名の会席行形亭に至りて午餐を喫す。(以下は佐渡紀行中に入るる)

 

佐渡国巡講日誌

 大正三年六月十二日 晴れ。早朝、新潟旅館大野屋を発し、六時出帆の度津丸に乗り込みて佐渡に向かう。海上平穏、風やや寒し。遠く北方を望めば粟島は粟の浮かぶがごとく、鳥海は鳥の立つがごとし。十一時、夷港に着す。これ両津町なり。野村屋に一休みののち自動車に駕し、一走して相川町〈現在新潟県佐渡郡相川町〉まで六里の間を一時間少しばかりにして達す。当町の富豪幅野長蔵氏の宅に少憩して、三階旅館高田屋に入る。この日、郡視学稲葉仁作氏案内せらる。郡長深井康邦氏、町長佐々木増右衛門氏、小学校長坪井周富氏、実科女学校長小山治吉氏、弁護士柄沢寛氏等来訪あり。

 十三日 晴れ。午後、少雨あり。午餐後、佐州大妖怪二岩団三郎の跡を訪う。相川市街をへだつること十二、三丁の山上に鳥居六十八基の並立せるあり。これを一過して尽頭に至れば岩窟二門隣接せるあり。これ団三郎の住家なりという。その正体は老貉〔むじな〕にして、ときどき人に化して衆人を誑惑すること他地方の狐に同じ。古来、佐州に狐住せず、よって狐惑の伝説なし。その代わりに貉の人をたぶらかすあり。団三郎はその巨魁なり。これを通称二岩団三郎といい、岩窟に榜示して二岩神社という。明和年中、仁木与三と称する人、夏日遠方より帰りきたり、月夜嶺を越ゆるに、はるかに鼓声を聞く。ようやく近づきてうかがえば、老貉の月に向かいて腹を鼓するあり。与三たちまち一石を拾ってこれに投ず。その石まさしく背にあたる。貉叫びて走り去る。与三、大快事となし、得意にて自宅に帰る。家人、相見て茫然として曰く、「わが主人は先刻すでに帰宅し、座敷にありて食事中なり。しかるに今また主人帰りきたる。いずれが真の主人なるや判決するに苦しむ」と。与三座敷に入れば、果たして己に類せる人、座にありて食事をなす。これ妖魔の変化なりと思い、刀を抜きてこれを斬らんとせしに、その人謝して曰く、「われは二岩団三郎なり。先刻、投石の復讐にここにきたりて食事の饗応を受けたるなり。」と言い終わり、たちまち形を失って見えざりしという。これ団三郎怪談の一なり。その他種々の伝説ありて、円山〔溟北〕翁の『溟北文稿』巻二に出ず。午後三時、小学校において開演す。愛国婦人会員および女学校生相集まる。夜また、同所において開会す。幅十間、長さ十二間の体操場も寸地を余さず、聴衆無慮一千二百人との評なり。小学校は建築壮大、正方形の二階建てにして中庭を設く。

 六月十四日(日曜) 快晴。朝来、鴬語鵑声と相和して枕頭に入りきたる。市街地にしてこの趣を有するは、他に多くあらざるところなり。午後、教育会の依頼に応じて演説をなす。当夜、懇親会に出席して南半球周遊中の所感を述ぶ。会場は清心亭にして三層楼、しかも七十二畳敷きの大座敷あり。当所名物の金鉱は先年参観せしことあれば、今回は一覧せず。当町の繁栄は全く鉱山の余福なり。物価の高低は知らざれども、髯剃の六銭は安く、按摩の二十五銭は高きように感ぜり。物産としては常山焼の陶器あり。その「鬼は内福は外」の杯は愛賞すべし。日刊新聞二種あり、『佐渡新聞』と『佐渡毎日新聞』なり。『毎日』の方は幅野氏の経営にして、近日紙幅拡大の計画あるを聞き、祝文を寄送することを約す。

 十五日 穏晴。午前四時、深井郡長とともに三菱会社の鉱山用汽船に駕し、五里半を隔つる高千村〈現在新潟県佐渡郡相川町〉字北片辺に至る。佐州中、北海に面したる方を総じて海府と名付く。高千はややその中央に当たる。岸頭には千態万状の岩石あるいは屹立し、あるいは平臥し、一望五百羅漢の行列をなせるがごとし。実に北国奇勝の一なり。

  舟中坐見北溟浜、波洗岩根露赤身、十里岸頭恰相似、三千石仏互成隣、

(舟の中に座して北の果ての浜辺を見るに、波は岩の根を洗ってむき出しにしたかのように見える。十里も続くような岩石は、あたかも三千石仏が立ち並ぶようすに似ているのだ。)

 この日、風空しく波滑らかにして、油の上を渡るがごとし。片辺港には三大奇巌あり。その第一は閻魔岩という。形によりて名付く。第二は観音岩、第三は竜王岩という。ただ海府一帯の岩頭に起伏する奇巌にして、一根の草木なきを遺憾とす。もし松樹の茂生するあらば、遠く松島をしのぐは必然なるべし。高千村には新金鉱を発見せりとて、大いに活気を帯ぶ。これより両津町に出ずるになお九里あり。相川よりここに至るの間は目下、車道開鑿中なりと聞く。海府方面は平地に乏しきも、山田の収穫よく人口を支うるに足る。これに加うるに海産あり、山林あり、牧畜ありて、民のかまどはにぎわえる方なり。牧畜に至りては一種の放牧にして、春時雪の消するを待ち、牛を山野に放つに、冬時積雪を見て、彼自ら己の家に帰りきたる。そのときには必ず、牝牛は新たに産したる犢をつれて帰るという。聞くところによるに、当地方にては牛の手綱を鼻孔に結ばずして角に付くるという、また、田植えのときに地をならすに、三頭ぐらいの牛を田中に引き入れ、縦横に歩き回さしむという。会場は小学校、休憩所は水上坊(真言宗)、発起者は住職坂田快音氏、村教育会長水谷佐平氏、校長河為源七郎氏、中村初太郎氏、および役場書記等なり。坂田氏最も尽力せらる。午後四時、乗船。六時半、相川着。これより腕車にて河原田町旅館江戸屋に入る。途上、蛍火の乱るるを見たるは一興なり。

 十六日 雨。午前十時、県立中学校にて開演す。二宮村〈現在新潟県佐渡郡佐和田町〉にあり。余は先年、この校にて一週間の講習をなせり。山海の眺望最もよし。校長鈴木卓苗氏のもとめに応じ、日蓮上人『開目鈔』の格言「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」を大書す。これ、庭内に立つる標柱の題字なりという。校門前の加藤旅館に休憩す。主人加藤長治氏は京北中学の出身たり。午後、沢根町〈現在新潟県佐渡郡佐和田町〉に移り、専得寺にて開演す。町長村田与作氏、校長藤本亀蔵氏、町教育会長山西清吉氏等の発起にかかる。これより二里の間、沛然たる大雨をおかして真野村字新町吉田屋に入宿す。この間に佐州第一〔の〕河流たる国府川を渡る。その前後、青松鬱立数十丁に及ぶ、これを越の浜という。

 十七日 雨。午前六時、新町を発し車行七里、海にそい山に入る。途中、碁盤波の名所あり、蝦夷穴居の古跡あり、田に青秧あり、山に黄麦あり。左応右接して嶺を下る所に小木港あり。越後出雲崎、柏崎等と相対するも、白霧濛々遠望するあたわず。午時、羽茂村〈現在新潟県佐渡郡羽茂町〉に着し、小学校にて開演す。村内の国幣小社度津神社は佐州第一の社なり。これより車をめぐらし行くこと一里、小木町〈現在新潟県佐渡郡小木町〉小学校に移りて開会す。校は丘上にあり。羽茂村の方は村長田川寅松氏、校長伊藤伍作氏等の発起にして、小木町の方は町長羽生常次氏、校長海老名広海氏、村教育会長青柳貞秀氏等の主催にかかる。宿所は角屋旅館なり。その三階楼上より一望するに、港内島嶼相連なり、すこぶる風光に富む。ことに湾外に左八文字の名勝あり、断崖の洞口が天然に左八文字の形をなせる由。ときに一吟す。

  八字崖連小木湾、客楼相対古城山、風光半被梅霖鎖、晩見漁舟雲外還、

(左八文字の断崖は小木港に連なり、旅館は古城山に向かいあってたつ。風光のなかばは梅雨のきりさめにとざされ、夕暮れに漁の舟が雲のかなたのような遠くから帰ってくるのが見えたのであった。)

 十八日 晴雨不定、風強し。車行六里、碁盤波を望みつつ真野村〈現在新潟県佐渡郡真野町〉新町に入る。宿所は国会議員山本悌次郎氏の別荘なり。邸宅清閑、眺望絶佳、大いに旅鬱を散ずるに足る。発起者は村長尾畑与三作氏、校長杉山熊太郎氏、有志家嵐城嘉平氏等なり。哲学館出身鈴本海鑁氏も助力あり。

 十九日 晴れ。午前、真野御陵に登拝し、所感三首を得。

  真野湾頭雨漸晴、微臣弔古独空行、拝陵一哭猶難尽、更使山鵑助我情、

(真野湾のあたりは雨もようやくあがる。微臣〔私〕はいにしえを弔ってひとりむなしく行き、真野御陵に参拝して涙したが、なお情を尽くせず、さらにやまほととぎすを鳴かせてわが情を助けしめたのであった。)

  陵前帯涙憶当時、満目蕭々風物悲、恋浦猶含千古恨、碁盤波似結愁眉、

(真野陵の前に涙しつつ当時をおもえば、みわたすかぎりものさびしく風物も悲しげである。恋浦はなお千古の恨みをのこしているように見え、碁盤のような波にも悲しみがむすぼれているようである。)

  承久千秋遺恨凝、皇猷今日始恢弘、人文余沢及孤島、汽笛声中拝帝陵、

(承久三年に順徳上皇が佐渡に流されてから、ながく痛恨の思いが残る。しかし、天子のはかりごとにより、今日は大きくさかんとなり、文化の広がりはこの孤島にも及ぶ。汽笛のひびくなか真野陵を拝したのであった。)

 古来、学者文人の当地にきたり吟詠せる懐古の詩文和歌すこぶる多ければ、山本半蔵氏もっぱら収拾しつつあり。先年は阿仏房国分寺等を巡観せしも、今回は御陵だけにとどめ、車を転じ行くこと二里、金沢村〈現在新潟県佐渡郡金井町〉郡農会堂に至りて開演す。聴衆、堂にあふる。郡斯民会の主催なれば、青年四方より雲集す。尽力者は医師川辺時三氏、村長伊藤円蔵氏、助役清原武雄氏、校長本間重平氏、試験場長細川義雄氏、女学校長風間儀太郎氏等なり。当夕、植田屋に宿す。佐州は前後山脈あり、前なるを小佐渡といい、後ろなるを大佐渡という。その中間平田、長さ四里、幅二里の沃野を国中と称す。金沢はそのやや中央に当たる。しかして背部に佐州第一の高岳金北山(海抜三千九百尺)を負う。佐州に来遊せるものはみな曰く、「国中に入りてはじめて佐渡の広きを知り、金北に登りてはじめて佐渡の小なるを見る」と。これより再び車を駆りて行くこと一里、河原田町〈現在新潟県佐渡郡佐和田町〉専念寺に至りて開演す。当寺は先年滞在中の宿所なり。主催は崇徳会、尽力者は住職本間休応氏ほか数氏とす。当夕、金沢植田屋に帰宿す。

 二十日 晴れ。午前、本荘了寛氏の独力経営せる明治紀念堂を訪い、博物館を一覧して金沢を発す。途上吟一首を得。

  金北山根金沢村、明治堂裏拝忠魂、出門一望田如海、万頃秧波是富源、

(金北山のふもとの金沢村、明治記念堂のうちに日清戦役の尽忠の霊を拝す。門を出て一望すれば田は海のごとく、はるかにひろがる稲の波こそは富の源なのである。)

 紀念堂は日清戦役の際、忠魂を弔祭せんとするに起源す。その当時、余が「佐渡の地に過ぎたるものが三つある真野と金山、紀念堂なり」と詠じたるはすなわちこれなり。金沢より一里半、秧田を横断して畑野村〈現在新潟県佐渡郡畑野町〉に入り、郡立農学校において一席談話をなし、つぎに、含暉園主佐々木寅蔵氏の宅に少憩の後、小学校に至りて開演す。村長山本孝策氏、僧侶鞍立長健氏その発起たり。農業学校長は山内徳松氏なり。これより更に車行一里、新穂村〈現在新潟県佐渡郡新穂村〉多佳気旅館に転じて宿泊す。館は三階なるも、その実四階以上の高さを有し、楼上遠望するを得。この日途中、日蓮上人の根本道場たる塚原山根本寺の門前を一過す。これに次ぐものを一谷妙照寺とす。両寺とも、先年参詣せしことあり。

 六月二十一日(日曜) 晴れ。午前、新穂青年会の嘱に応じて、第一小学校において開演す。村長鳥井嘉蔵氏、助役土屋大五郎氏、校長藍原五三郎氏、同荷上与六氏等の発起なり。先年遊歴の際、各所へ案内の労をとられたる羽田清治氏にも本村において相会す。演説後間もなく、両津町〈現在新潟県両津市〉より自動車にて出迎えあり。これに駕して二里半の行程を二十分にて疾走せり。両津町旅館は野村屋にして、後楼海に向かいて開き、眺望大いによし。午後、劇場にて開演す。発起かつ尽力者は町長下条貞義氏、校長中林弘三氏、および中村宇之助、正司津加佐、家本文吾、伊藤道太郎、鈴木謙次郎の五氏なり。この日、医師会長竹中成憲氏も出でて迎えらる。晩餐後、車行一里、河崎村〈現在新潟県両津市〉久知小学校に至りて開演す。村長羽入信吉氏、校長寺尾篤次氏、同小島房吉氏、斎藤篤氏等の発起にかかる。当夜、野村旅館に帰りたるときすでに夜半なり。当日、暮景を詠じたる一作あり。夜に入れば烏賊船、海を遮る。

  山隠夕陽烟気凝、対潮楼上転堪登、漁舟連火波皆赤、看訝竜神点万灯、

(山にかくれる夕日にたちのぼる煙がとどまり、海に向かってたつ旅館階上にのぼればそれなりの価値がある。ここより一望すれば、漁舟は灯火を連ねて波を赤く染め、あたかも竜神が一万ものともしびをともしたかとみまごうばかりである。)

 ここに佐渡紀行を結ぶに当たり、一言を付加せざるを得ず。余は明治三十年夏期、郡主催の講習会に聘せられてここに渡りしより、十八年目にして再遊せり。これよりさき、幅野氏の恵詩に次韻して所感を述ぶ。

  吾愛佐山風物新、蒼溟百里隔黄塵、老余憶起曾遊事、夢裏過来二十春、

(われは佐渡の山と風物の新しくなるを愛する。青くほのぐらく、百里も黄塵の地よりへだたっているのだ。年老いてかつて来遊したことどもをおもい起こせば、夢のうちに二十年を経た思いがするのである。)

 また、今回の佐渡行舟中吟一首あり。広く人口に膾炙せる「こいといふたとて行かれうか佐渡へ、佐渡は四十五里波の上」の俗謡を思い出して所感を賦す。

  四十五里佐州程、波上雖招誰敢行、一首俗謡為昔夢、汽舟今日去来軽、

(四十五里の佐渡へのみちのりは、波の上にあって招かれようも、だれがあえて行こうとするであろうか。しかし、この一首の俗謡も昔の夢物語となってしまい、今日は汽船が軽々と往来しているのだ。)

 佐州に渡りて今昔相異なれる点は、両津町に電灯を設置したると、国中に自動車の往復せると、ほとんど各村を通じて公衆電話の通じおることなり。目下、鉄道敷設の計画中なれば、数年の間に開通を見るに至らん。佐州の産業は米作本位にして蚕業は振るわず。六月上旬、田植え全く終わり、中旬は一番草に着手せり。これに次ぐものは海産物にして、その産額一カ年百二十万円中、三十八万円は鯣〔するめ〕なる由。その他山林あり、鉱山あり、牧場あり、一朝鎖国の難に会するとも、なんらの不自由を感ぜず、ただ石油と砂糖とを得難きの不便あるのみという。天然の温泉は全島中一カ所もなし。風俗は越後と大同小異にして、いくぶんか京都風の加われるを見る。例えば越後にては毎朝雑炊を食するに、佐渡にては茶粥を用う。その製粥法は奈良県のごとく、バン茶を煮出だしたる中に米を入れて炊くなり。方言中にも京都地方に類するものありて、発音の越後地方よりも正しきものあり。例えば越後にてエをイといい、ユをヨとなまるに反し、佐州にてはこの誤りなし。ただしラをダとなまる場合多し。例えばランプをダンプと呼ぶがごとし。また、アクセントの他と全く反対せるあり。箸と橋、雲と蜘〔蛛〕、鎌と釜との発音の類これなり。また、長崎地方とやや一致せるあり。ケレドモを長崎にてバッテンというを、佐渡にてバンテーという。俗謡中にて最も趣味深きものは、海府地方の石臼歌なり。

  コスルさへコガイ、殿の夏山ドガイダロー、

 コスルとは石臼にて粉をすることにて、臼を引くをいうなり。コガイとはツライことにて、殿とは主人を指すなり。その意は、夏の日に女房が家にいて石臼を引くに、暑さに堪え難ければ、山に出でて働く主はいかほどツラかろうかと同情を寄せたる歌なり。また、方言にてつづりたる俗歌がある。

  コナイダはナツチーゲーにサムイヤラ、皆出テミヤレ山はマツチロ、

 その他の異風は、家屋の内部を飴色に塗ることと、刺身の代わりに烏賊を細切りにすること、ざるに口の付きたること、稲の虫を払うに細長きざる形のものを用うること等なり。

 つぎに、迷信につきては貉の怪を第一とす。さきに述べたる団三郎の外に、加茂湖畔の湖鏡庵、赤泊町字徳和の東光寺の二カ所にも、有名なる貉怪の事跡ありという。聞くところによるに、昔時、鉱山のふいごに貉の皮を用うるために、これを繁殖せしめたりという。かくして貉の多くなりたるためにこれに関する迷信を生じ、すべて精神に異状を呈する場合には、狐狸の代わりに貉の所為に帰するに至りしならん。教育に関しては特筆するほどのものを見ずといえども、一般に文学趣味を有し、資産あるものが詩文をたしなむの一事は本州の特色とす。人気は比較的淳良にして、外来人を歓迎する風あり。しかしてその短所は小成に安んじ、忍耐に乏しく、一致し難き点にありと伝うるが、これは地理上より受けたる自然の影響ならん。つぎに、宗教につきては寺院の多きにもかかわらず、宗教振るわずという。その原因の一は、寺院に財産を有するもの多き一事なり。各宗中、真言宗過半を占むるが、その中にて国分寺のごときは小作米だけにても毎年千俵の収入ありて、これに次ぐべき寺院多々ある由。けだし寺院の富裕なること、本州のごときは他に多く見ざるところなり。また、各町村を一過するに、料理店の比較的多きがごとく感ぜり。実に青年の教育に警戒を加うるを要す。本州は一郡なるも、人口十二万、町村二十五、小学校五十、寺院三百五十(昔時、五百カ寺ありしという)にして、村に大村多きも本郡の一特色とす。ここに本州を巡了するに当たり、深井郡長の開会に関して多大の便宜を与えられたると、稲葉郡視学の各所に同行して斡旋の労をとられたるを謝せざるを得ず。

 二十二日 晴れ。午前中は早朝より揮毫に従事し、正午十二時出帆の汽船に駕し、郡視学および両津町有志諸氏に送られて佐州に一別を告ぐ。今回の臨時随行員は黒田忠恕氏なり。海上平穏、ただし霧気ありて遠望するを得ず。午後四時、新潟に入港す。宮城清氏の出迎えらるるあり。停車場前、篠田旅館に少憩して六時に乗車し、秧田海のごとき沃野を一過するに、誘蛾灯の田間に映射するありさまは、佐州海上の烏賊船の漁火にひとし。八時半、長岡〈現在新潟県長岡市〉に着す。旧知数十名の歓迎あり。相伴って松葉亭に至り、晩餐の饗応をかたじけのうす。市長河島良温氏をはじめとし、諸校長有志二十余名なり。『北越新報』主筆味方友次郎氏、医師小山良哲氏には久しぶりにて邂逅せり。夜十二時、表町大野旅館に入宿す。

 二十三日 晴れ。早朝、旧知川上半四郎氏および商業学校教員砂川乙次郎氏(哲学館出身)来訪あり。午前八時、県立高等女学校にて講話をなす。校長橋本倉之助氏(哲〔学館〕出身)および首席教諭小沢錦十郎氏の依頼に応ずるなり。つぎに、旧友野本恭八郎氏の宅を訪問す。庭内、菖蒲花まさに盛んなり。氏は富士山公園案を天下に発表してその名高し。つぎに、県立中学校に至りて講演をなす。これ、余のはじめて洋学を学びたる学校の系統を有せり。その当時、余が友人と相はかりて学友会を組織し、その名を和同会と命じたりしが、今なおこの校に存続す。創立以来、満三十年に及ぶ。その会名につきて、老子のいわゆる和光同塵の義なるかとの質問を受けたるも、創立当時は学友互いに相和しかつ相同ずるの義に基づき、和衷協同の意なりと答えり。校長は田川辰一氏なり。ときに校内において午餐をともにし、かつ撮影す。つぎに、県立工業学校に移りて開演す。新潟県の諸学校はみな雨中体操場を有するをもって、演説を必ずその場内においてするも、天井なくして音声を費やすこと多きが、この学校に限り新設の講堂ありて発声に便なるも、いかんせん連日の講演に音声を濫費したりしために、声死して音発せざるに苦しめり。校長は岡本金一郎氏なり。当校には哲〔学館〕出身沼沢孝英氏、教鞭をとる。その他、女子師範学校には高賀詵三郎氏久しく教職に就けるが、これまた哲〔学館〕出身たり。午後二時、これらの諸氏と手を分かち、旧里来迎寺村に向かい、当夕、実家に一泊す。

 二十四日 晴れ。午前六時の発車に乗り込み、中頚城郡新井駅に降車し、更に腕車一里余、板倉村〈現在新潟県中頚城郡板倉町〉字針なる有恒学舎に至る。越後地はすべて田植えを終わりて草取りに着手せり。午前は有恒学舎学友会にて演説をなす。教場内に、余が開校式に勝海舟翁に請い、校名の潤筆を得て寄贈せる額面を、今なお窓上にかくるを見る。舎主増村度次郎氏は資産をなげうちて学校を創立せる篤志家にして、数十年来の旧知たり。この校へは三回来講せり。夕七時発夜行にて東上、翌二十五日朝五時、着京す。

 

     佐渡一郡および越後一部開会一覧

   市郡   町村    会場    席数   聴衆     主催

  佐渡郡  相川町   小学校    一席  千二百人   教育会

  同    同     同前     一席  二百五十人  女学校および愛国婦人会

  同    同     同前     一席  百人     町教育会

  同    同     会席     一席  五十人    懇親会

  同    河原田町  寺院     一席  五百人    崇徳会

  同    沢根町   寺院     二席  五百人    町教育会

  同    小木町   小学校    二席  四百五十人  町内有志

  同    両津町   劇場     二席  七百人    町教育会

  同    高千村   小学校    二席  五百五十人  町教育会

  同    二宮村   中学校    二席  四百人    中学校および有志

  同    羽茂村   小学校    二席  四百人    村内有志

  同    真野村   小学校    二席  六百人    村教育会

  同    金沢村   農会堂    一席  一千人    郡斯民会および村青年会

  同    畑野村   小学校    二席  六百人    村教育会

  同    同     農学校    一席  百五十人   校長

  同    新穂村   小学校    一席  九百人    村青年会

  同    河崎村   小学校    一席  八百人    村内有志

  長岡市        高等女学校  一席  四百人    済美会

  同          中学校    一席  八百人    和同会

  同          高等工業学校 一席  二百人    校長

  中頚城郡 板倉村   有恒学舎   一席  三百人    学友会

  同    同     小学校    一席  二百人    婦人会

   合計 一市、二郡、十四町村(五町、九村)、二十二カ所、三十席、聴衆一万一千五十人

    演題類別

     詔勅および修身に関するもの……………十四席

     妖怪および迷信に関するもの………………三席

     哲学および宗教に関するもの………………三席

     教育に関するもの……………………………二席

     実業に関するもの……………………………四席

     雑題に関するもの……………………………四席

 (三河東部および近江北部の紀行は次編に譲る)