3.南船北馬集 

第二編

P309----------

南船北馬集 第二編

1.冊数 1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)188×127㎜

3.ページ

 総数:127

 口絵:1葉

 本文:124

 著作一覧:3

(巻頭)

4.刊行年月日

 底本:初版 明治42年1月10日

5.発行所

 修身教会拡張事務所

P311---------

宮崎県紀行

 明治四十年三月二十三日 晴れ。鹿児島県志布志村より海にそいて宮崎県日向国に入る。丘陵起伏、なお馬車を通ずべし。途中の所見、詩中に入るる。

春風一路鳥声閑、車過花紅柳緑間、探尽薩南隅北勝、吟眸認得日州山、

(春風の中を一路日向路を行けば鳥のさえずりものどかに、馬車は花の紅、柳の緑の間を抜けるように通りすぎる。薩摩南部と大隅北部の景勝をもとめ尽くして、いま吟詠の目は日向国の山々をとらえているのだ。)

 当日、南那珂郡福島村〈現在宮崎県串間市〉高等小学校において開会す。福島、大東、北方三村の発起なり。福島村長は津野文夫氏にして、高等小学校長は田中長興氏なり。聴衆、堂にあふれて庭に満つ。宿所は古川旅館なり。

 二十四日(日曜) 晴れ。朝、福島を発し、榎原神社に詣し、南郷村〈現在宮崎県南那珂郡南郷町〉小学校に至りて開会す。前日のごとく盛会なり。南郷村長平島直正氏、校長中山治三郎氏等の発起にかかる。福島よりここに至る間は、平地に山渓の横断するあり。松林多く、交ゆるに菜圃をもってす。

駅路迢々三月天、春風尽日試吟鞭、松林断処香先到、一面黄花是菜田、

(三月の空のもと、村をむすぶ道は遠くはるかに、春風のなか一日中、こころみに吟詠にはげんでみる。松林を抜けた所にまずよい香りがただよっていた。そこは一面の黄いろい菜の花の畑であった。)

 土地広漠にして人煙稀少なり、故にいまだ耕作せざる地多し。河水あれども堤防なきありさまは朝鮮、満州にひとし。福島以後は県視学上井甚太郎氏、案内の労をとらる。余、狂歌「井上を下より見れば上井なり、君は四角(視学)で我は円々(円了)」をよみて氏に贈る。

 宿所は南郷村字外の浦、安藤氏宅なり。

 二十五日 雨。外の浦より海上、油津町〈現在宮崎県日南市〉に移る。この間、島嶼並立し、小松島の風致あり。県下名勝の一とす。

春風浦上棹軽舟、数点青巒波際浮、誰想鎮西山尽処、日州又有此松州

(春風にふかれて海辺を見ながら波の上を軽舟にゆられて行き、点々と青い島が波の上に浮かぶ。いったいだれが鎮西の山の尽きる所、この日向国にも奥州松島のような風景があると想像できようか。)

 油津は県下良港の一なり。いちいち汽船の出入あり。地狭くして人多く、会場は歓楽寺にして、住職吉水正信氏等の発起に出ず。町長は稲用津南人氏、校長は斎藤治実氏なり。

 二十六日 雨。終日、油津に滞在して休養し、午後、歓楽寺において開会す。これより数里にして鵜戸村に達すべし。これ官幣大社の所在地にして、鸕草葺不合尊を祭る所なり。境内約七万坪ありというも、旅労のために参拝するを得ざりしは遺憾なり。東京なる東洋大学および京北中学校へ向け、卒業式の祝詩を賦して投郵す。

日々南船又北車、春風四月在天涯、今年何事多遺憾、不見鶏声洞裏花、

(日々、南では船にのり北では車にのる旅遊をつづけて、春風のふくこの四月は空の果てのような遠くにいる。今年はいったいどうしたことか残念に思うことが多く、卒業式にも出席できず、したがって校舎のある鶏声ケ窪に咲く花も見ることができないのである。)

 両校所在地は俗に鶏声ケ窪という。

 二十七日 雨。油津より飫肥町〈現在宮崎県日南市〉に移る。これ旧城下にして、南那珂郡役所のある所なり。故安井息軒翁この領内に出ず。郡長多田信氏は病臥中にて面会せず。有志家長倉雄平氏、町長酒井荘一郎氏、郡書記矢野克己氏、校長佐土原玉樹氏(哲学館出身)、および上井郡視学等の尽力によりて開会す。会場は小学校なり。また、常念寺にて開演す。宿所は魚長旅館なり。山黒く水青く、空気すこぶる新鮮を覚ゆ。

 二十八日 晴れ。早朝、飫肥を発し、深く渓山の間に入り牛嶺の険路にかかる。古木深くとざし斧斤山に入らず、風光おのずから太古の趣あり。

乱峯堆裏樹葱々、路入白雲深処通、一鳥不啼山寂寞、又無桃李笑春風、

(乱れたつ峰々が重なるところ樹木が青々としげり、道は白雲の湧き出るような奥深い所に通じている。まったく鳥もなかず、山はさびしく静かに、また、桃やすももの花も春風にかかわらず咲いていないのだ。)

 嶺頭に達するとき、加藤無染氏の出でて迎うるに会す。降路、随行弘中氏の車顛覆せるも、幸いに無事なり。午後四時、北諸県郡都城町〈現在宮崎県都城市〉に着す。郡長喜多秀一郎氏、郡視学佐々木己之助氏等の市外に迎えらるるあり。この日、行程十三里なり。沖縄以来はじめてかかる難道を見る。宿坊は願蔵寺なり。

山路如蛇曲幾回、渓行数里望初開、平原漠々都城外、霧岳衝天気壮哉、

(山の道は蛇のごとくまがりくねり、たにを行くこと数里、そこでようやく視界の開けた所にいたった。都城の郊外は平原がはるかに広がり、かなたには霧島山が天をつく。なんと力強く壮大であることよ。)

 二十九日 雨。午前、都城中学校にて講演す。校長は御手洗学氏なり。午後、願蔵寺の軍人追弔会に出演す。聴衆、堂に満つ。住職は加藤無染氏なり。

 三十日 晴れ。午前、高等小学校にて開演す。校長は土持幸平氏なり。午後、願蔵寺にて講話をなす。講演後、更に車を駆りて、藤本覚譲氏とともに鹿児島県囎唹郡末吉村〈現在鹿児島県曽於郡末吉町〉に至りて開会す。日すでに暮るる。会場は専徳寺なり。書斎を芙蓉楼というと聞きて一詩を題す。

李白桃紅春已中、香雲送暖一庭風、芙蓉楼上高人在、端坐観来色即空、

(すももの花は白く桃の花はあかい。すでに春もなかばなのである。花がすみの暖かさに庭には風が動く。この芙蓉楼には世俗に超然たる人がいて、正しく座って色即是空〔形ある万物はすべて空〕とみなしているのである。)

 三十一日(日曜) 雨。朝、小学校にて講演す。末吉村長は若松良実氏なり。これより都城に帰り、摂護寺境内に設立せる天竜幼稚園の証書授与式に臨む。園長は同寺副住職佐々木芳照氏なり。庭園の設備そのよろしきを得たり。摂護寺は日薩隅三国中、第一の大寺なり。佐々木豪熈氏これに住す。午後夜分両度、同寺において開演す。その間、願蔵寺に至りて一席の講話をなす。当夕、摂護寺に泊す。幼稚園の所感一首あり。

都城開得幼稚園、幾百児童喜色繁、異口唱来君代曲、声々使人感天恩、

(都城に幼稚園が設けられ、幾百人の児童には喜び楽しさがあふれている。口々に唱う君が代の曲、子供達の歌声は人々に天子のめぐみを感謝させたのであった。)

 四月一日 晴れ。鹿児島県囎唹郡財部村〈現在鹿児島県曽於郡財部町〉に至りて開会す。会場および宿泊所は願成寺なり。住職藤本覚譲氏は哲学館出身なる故をもって大いに尽力あり。村長東郷実彦氏、有志者池袋英太郎氏、同宗正氏等みな尽力せられ、村尾郡視学もここに出張せらる。

 二日 晴れ。満地、霜白く風寒し。一作あり。

東隅財部里、村外梵城高、繞屋桑千畝、隔江松一皐、怕寒時暖酒、乗酔漫揮毫、堪怪春三月、霜風似剪刀、

(大隅の東部財部の里、村外に寺院はひときわ高い。家屋をめぐって桑畑がひろびろと広がり、川や松をへだてて小高い丘がある。寒さをきらっては酒をあたため、酔いにまかせてはむやみと筆をふるう。あやしむべきは春三月というのに、霜をふくんだ風が吹いて、まるではさみに切り裂かれるような冷たさなのだ。)

 壁上に「酔仏吟法」の四字を題す。しかして藤本氏酒をたしなむ。余、よって戯れに歌にてその解を示し、「酔すぎて無念無想の境界に、入りし人こそ仏なりけれ。」と読みたり。午前、小学校にて談話をなし、ただちに北諸県郡庄内村〈現在宮崎県都城市、北諸県郡山田町〉に移る。休憩所は願心寺にして、会場は小学校なり。願心寺は一種新式にて大伽藍を造成す。全国無類と称す。余が住職大河内彰然氏に贈りたる詩あり。

瓏々霧島山頭月、爛々願心寺裏花、欲賞此花兼此月、春風一路到君家、

(明るくかがやく霧島山上の月、あざやかに咲く願心寺内庭の花。この花をめでてこの月をもかねてたのしもうとすれば、春風はひたすらに君の家に吹いてくるのである。)

 庄内は実に霧島山麓なり。村長蒲生才蔵氏、校長岩佐彦二氏、哲学館出身者亀沢新吾氏等尽力あり。夜に入りて、佐々木郡視学とともに都城に帰り、願心寺に宿す。

 三日 晴れ。三股村〈現在宮崎県北諸県郡三股町〉に至りて開演す。会場は小学校にして、村長は野崎重則氏なり。散会後また都城に帰り、摂護寺に宿す。当夕、実業倶楽部において講話をなす。都城町長税所篤正氏、有志家黒岩常平氏、瀬戸山徳蔵氏、外出八代吉氏等尽力あり。

 四日 雨。摂護寺に珍蔵せらるる血書華厳経を拝観して、一詩を題す。

大徳千年筆跡馨、看来字々現威霊、堪驚一滴鼻頭血、描出華厳八十経、

(徳高い僧が書いた血書の華厳経は千年を経た今日もその筆跡にかおりたつものがあり、一字一字を見ると次第にいかめしい神霊があらわれてくるようだ。驚くべきことにひとしずくの血をかさねて、華厳八十経を筆写したのである。)

 当日、午前、山之口村〈現在宮崎県北諸県郡山之口町〉、午後、高城村〈現在宮崎県北諸県郡高城町〉にて開演す。山之口村長は新甫武氏にして、高城村長は日高清貞氏なり。当夕また都城に帰り、有志の晩餐会に出席す。喜多郡長ほか数十名相会す。宿所は願蔵寺なり。願蔵寺は本堂新築まさに成りて市中の一美観となる。住職加藤無染氏は布教と開墾とに力を尽くすといえるを聞きて、一詩を賦す。

無染法師有道縁、大堂構得日南辺、身持二諦真兼俗、開得農田与仏田、

(無染法師とは仏道の因縁がある。願蔵寺の本堂はこの日南の地に構築された。法師は身に真実の理より動かぬ真諦と風俗の法を実として動かぬ俗諦の二諦を維持し、農田と仏の田をここに開いたのである。)

 都城滞在中は摂護寺および願蔵寺の厚意をかたじけのうせるは、深謝するところなり。

 五日 雨。郡長、県視学とともに都城を去り、高崎村〈現在宮崎県北諸県郡高崎町〉にて開会す。これにて北諸県郡内の巡回を終了す。村長は肥田木覚二氏なり。郡内開会に関しては喜多郡長および佐々木郡視学の配意を煩わすことすくなからず、これまた厚く謝するところなり。当日、高崎を辞し、更に馬車を走らせ西諸県郡高原村〈現在宮崎県西諸県郡高原町〉に至りて泊す。佐々木氏、余を送りてここに至る。氏は茶湯と挿花とを好むといえるを聞きて、「熱誠思教育、淡泊戒驕奢、養気三杯茗、娯心一朶花、」(この人は深い真心で教育について考え、名利に心がうすく、おごりたかぶることを戒める。心のはたらきを養うには茶をたしなみ、心をたのしませるには一輪の花をもってするといった人柄なのである。)の五絶を賦して贈る。高崎村および高原村は霧島の背部に当たれる山麓にあり、都城周囲の漠々たる平原ここに至りて丘山の起伏せるを見る。この地方のものは常に霧島山の雲態を見て、天気の晴雨を卜するに、ほとんど百発百中なりという。よって言文一致をよみて、「諸県に晴雨計など無用なり、霧島山のあらん限りは」とうそぶけり。当夕、西諸県郡視学岩下盛哉氏のきたり迎うるに会す。

 六日 晴れ。午後、高原小学校にて談話をなす。校舎清新なり。午後を過ぎて、岩下氏とともに小林村〈現在宮崎県小林市〉に入る。郡衙所在地なり。郡長米良宇三郎氏、小林村長前田利種氏、学務委員宮原雑親氏等数名の歓迎あり。会場は浄信寺なり。この辺りまた一帯の平原にして、水田に富む。正面に霧島山を望む。山麓に牧場あり。種馬所長沢村狷蔵氏は余と同県なり。

 七日(日曜) 晴れ。飯野村〈現在宮崎県えびの市〉小学校にて開会す。途上の春色、一吟を促してやまず。

四月寒村春已中、林巒無処不和風、菜黄麦緑交桃李、一道山光自作虹、

(四月のさむざむとした村にも春はすでにたけなわ、樹木と峰々のいたるところにはなごやかな風が吹いている。菜の花の黄と麦の緑があり、桃とすももの花がいりまじって景観をなし、ひとすじの道と山にさす光とがおのずと七色の虹をつくるようだ。)

 村長代理池田重由氏、吏員瀬口杢助氏、校長馬場祐治氏等尽力あり。

 八日 晴れ。加久藤村〈現在宮崎県えびの市〉に移る。斎藤氏の宅に少憩し、徳応寺において演説す。村長宮内利攸氏、校長日高旦氏等尽力あり。当夕、小林に帰りて泊す。旅館は広桜館なり。北西両諸県郡は県下第一の仏教繁昌の地となす。

 九日 雨。岩下郡視学とともに小林を発して東諸県郡に向かう。郡界紙屋村に一休す。山間の貧村なるも、校長南崎兼左衛門氏は教育家中の模範として知らる。ひとり児童を教育するのみならず、村民を開導せんと欲して、種々の教会を設け、自ら熱誠をもって当たる。余、狂歌体の修身歌を作りて校長に贈る。氏が村民開導を助けんとするの意なり。

  朝夕に心の紙に修身の、文字を画きて読め屋村人、

 東諸県郡視学山下次之助氏ここにきたりて余を迎う。氏とともに高岡村〈現在宮崎県東諸県郡高岡町〉旅館に入りて泊す。行程十里なり。師範学校教諭広瀬太平氏も遠く余を迎えてここに至る。

 十日 晴れ。午後、小学校において開演す。郡長田内吉文氏、村長益山角之進氏、校長木島頼正氏等尽力あり。

 十一日 晴れ。田内郡長、余を送りて本庄村〈現在宮崎県東諸県郡国富町〉に至らる。午前は崇久寺において婦人教会のために講話し、午後は劇場において公衆のために演説す。村長は高妻俊太郎氏にして、婦人教会監督者は川越一二氏、同平次氏、島原重光氏なり。

 十二日 晴れ。東諸県郡を去りて宮崎郡に入る。途中、前事務官田中直達氏、師範学校長遠藤正氏、弁護士横尾炳氏、及川覚治氏等の歓迎あり。また、婦人会員の市外に出でて迎えらるるあり。馬上「宮崎に来る今日こそ嬉しけれ、神代の跡を訪ふと思へば」などうそぶき、また、野外の実況を七言につづり、

麦浪青々万頃中、蓮華草発半田紅、宮陽一路春光老、無復黄鸝囀好風、

(麦は青々として波うつように広々とした畑をうめ、蓮華草の花は田のなかばを紅に彩る。宮崎への一路に春の光もおとろえ、もはやうぐいすの心地よい風にさえずる声もない。)

 これを黙誦しつつ宮崎町〈現在宮崎県宮崎市〉安楽寺に入る。住職は弘中唯見氏にして、随行、兼善氏の父なり。当日午後、同寺に開催せる戦死軍人追弔会に出演す。聴衆、堂に満つ。郡内真宗組合十五寺の発起なり。宮崎町は県下第一の都会にして、山遠く水長く、平田広野の中央にあり、大淀川の一水市街を抱きて流るる。

春風四月在仙源、今日始看車馬繁、念仏声伝安楽寺、拝神人詣大宮村、望将断処郡山臥、家未尽辺一水奔、此地由来転堪仰、三千年古帝城存、

(春風のふく四月にここ仙人の住むような地にいて、こんにちはじめて車馬のしげくゆき交う繁華なようすを見た。念仏を唱える声は安楽寺よりひびき、神宮に参拝する人は大宮村にいたる。一望して視野の果てに群山が横たわり、家並みの尽き果てるあたりに川の流れがある。この地はもとよりますます敬慕されるところで、三千年のむかし神武天皇の居城のあった所なのである。)

 これ、宮崎の実況なり。

 十三日 晴れ。午前、中学校に至りて講演をなす。校長は村田稔亮氏なり。これより大宮村官幣大社に参拝す。神武天皇を奉祀する所なり。宮殿新たに成り、屋光柱色の清新なること、人をして自然に崇敬の念を起こさしむ。

結構何人能写真、屋光柱色総清新、社前拝跪神如在、想起三千年古春、

(宮殿の造りについてはなにびとにもその真なる姿を写すことはできないであろう。屋根の輝き、柱の色、すべて清らかでまあたらしい。社前にひざまずいて祈れば神のいますがごとく、三千年まえのいにしえの春を思いみるのである。)

 これ、余が谷子爵の韻を次ぎて賦呈せるものなり。午後、高等女学校に至り、日州教育会の依頼に応じて演説す。女学校長は川名万松氏なり。

 十四日(日曜) 晴れ。午前、郡役所内において郡教育会のために演説をなす。午後、紫明館において町内有志の依頼に応じて開演す。館は大淀川の岸頭に立ち、席広く景美なり。

塵寰何処養天真、探得宮陽大淀浜、水色山光浄如洗、紫明館上弄残春、

(俗世間の一体どこでかざりけない自然の心を養うことができようかと思っていたのだが、それを宮陽〔宮崎〕の大淀川の岸辺に見いだした。水の色、山にさす光、すべてが洗うがごとくきよらかであり、紫明館の上で春のなごりをじっくりと味わったのであった。)

 これまた、谷子爵の次韻なり。当日、昼食は田中、遠藤両氏の案内にて、大淀川橘橋畔菊水亭において喫す。楼上の風色は「山遠心還濶、水長気自幽」(山は遠く心もまたひろびろとして、水流は長々として気分もおのずから奥深さを感ず。)の趣あり。新潟県人斎藤久米四郎氏も同席に会せらる。

 十五日 晴れ。午前、農学校において講話をなす。校は大淀村〈現在宮崎県宮崎市〉にあり。午後、安楽寺において演説をなす。これ、婦人教会の依頼に応ずるなり。当夜また、同寺において演説す。

 十六日 晴れ。田野村〈現在宮崎県宮崎郡田野町〉小学校に至りて開会す。この辺り全く新開地の状をなす。寺あり、西導寺という。須床智達氏これに住す。その長男は東洋大学に入学すという。馬上、一吟あり。

郊行数里趁晴嵐、満目風光如染藍、雨過桑田新葉綻、山村四月已催蚕、

(町はずれの道を行くこと数里、晴天に山のもやかかるなかを走る。目にはいる風景はすべて藍に染めあげられたように青一色である。雨の通りすぎたあとの桑畑は新葉がひらき、山村の四月はすでに養蚕が始まっているのだ。)

 途中、すでに鳴蝉を聞く。「山村四月已鳴蝉」(山村の四月はすでに蝉がなく)と吟ずるも可なり。

 十七日 晴れ。午前、木花村〈現在宮崎県宮崎市、宮崎郡清武町〉に至る。途中、馬車顛覆せしも幸いにつつがなく、同村小学校に至りて開演す。校は丘上にありて、青島を眼下に見る。島中に神社あり。彦火々出見尊〔ひこほほでみのみこと〕ほか二神を祭る。木花校長は中山弥八氏なり。午後、赤江村〈現在宮崎県宮崎市〉小学校にて開演す。村長川越信一氏、校長飯田経信氏、宝泉寺住職および有志者太田久三郎、町元忠次郎、同道蔵諸氏の発起なり。

 十八日 晴れ。朝、監獄に至りて一言を述べ、監内を巡覧す。典獄は松山為治氏にして、教誨師は川原教道氏なり。これより赤十字社楼上に移りて演説す。宮崎婦人会の依頼に応ずるなり。午後、生目村〈現在宮崎県宮崎市〉に転じて開会す。会場は小学校にして、校は丘上にあり。校長は深江熊蔵氏なり。

 十九日 雨。午前、師範学校において講演をなす。校の内外極めて清潔なり。遠藤校長とともに歩して広瀬太平氏の宅に遊び、午餐の饗応を受く。広瀬氏は哲学館卒業後、多年宮崎師範学校にありて教鞭をとり、自らつとめてやまず、また、よく誠実を尽くす。よって余は一詩を賦しこれに贈る。

久在西陲執教鞭、自彊不息如古賢、我来相会宮陽地、挙杯互祝此身全、請君記取書窓下、霽月光風別有天、

(久しく西方の地で教鞭をとり、みずからつとめはげまして休むときのないようすは、まるでいにしえの賢人を思わせる。私が来てこの宮崎の地において会見し、酒杯をあげてお互いに健康を祝った。願わくば君よ、書物を窓の下にしるせ。ここは、はれやかな月、陽光とのどかな風のある、俗世間からはなれた別世界であるのだから。)

 遠藤正氏は宮崎県師範学校創立以来校長を勤続し、二十余年一日のごとく、教えてうまず、啓沃至らざるなく、また、県下公共のためにもよくその力を尽くし、衆人の帰服するところなり。よって拙吟を賦呈す。

謝君久在鎮西浜、誠意諄々説大倫、二十余年如一日、教壇育得幾千人、

(君に感謝す、君は久しく鎮西の海浜に在住して、真心を尽くしてねんごろに人間の守るべき大きな道徳を説いてこられた。二十余年も一日のごとくかわらずに、教壇に立ち幾千人もの子弟を教育されたのである。)

 午後、遠藤、広瀬両氏とともに檍村〈現在宮崎県宮崎市〉に至る。会場は小学校なり。帰路、雨はなはだしく至る。

 二十日 晴れ。瓜生野村〈現在宮崎県宮崎市〉小学校に開会す。校舎の風致佳なり。途中、景清の墓あり。宮崎滞在中は安楽寺に客居し、弘中氏の厚意をになうこと浅からず、各郡開会に関しては遠藤氏および広瀬氏の尽力ただならず、田中直達氏、横尾炳氏、福島近氏、日高伝氏(町長)、秋田曾根作氏(高等女学校教員)、その他県庁、郡役所、町役場諸氏の配意をかたじけのうせることすくなからず、これみな深く謝するところなり。弘中氏の高作に次韻を試みたるもの三首あり。

日州始見仏門師、雄弁如流妙又奇、安楽寺前忽成市、上人正転法輪時、

(日向国にはじめて仏門の師といえる人に会う、雄弁にして流れるがごとく精妙かつ奇抜である。ゆえに安楽寺の前はたちまちに市をなすほど人が集まるのは、上人がまさに法輪=仏法を説くときなのである。)

一瓢賒得到西陲、正是桑風麦雨時、仙客不知農事急、覚皇殿裏酔如痴、

(一ひさごの酒を借り受けて西方の地にいたる。まさに桑摘みと麦の熟する時節である。俗世をはなれた人は農事の多忙も知らず、大きな建物のなかで酔ってしれものとなっているのだ。)

西天遺教及東陲、正像時過末法時、弥勒未生我将老、奈斯三毒貪瞋痴、

(西方より仏教が伝わって東方に及んだが、仏の法儀ある正法のときと真正の法儀に似る像法のときは終わって、いまや末法のときとなる。弥勒はいまだに人間界に生まれないのに、私は老いようとして、この三毒の貪毒、瞋毒、痴毒をどうしたらよいものか。)

 弘中氏は雄弁をもってその名高し、故にこれを詩中に入るる。また、郡役所の厚意により、書記近藤義光氏をして各村の会場に同行せしめられたるも感謝するところなり。

 二十一日(日曜) 晴れ。早朝、宮崎を発して住吉村〈現在宮崎県宮崎市、宮崎郡佐土原町〉に向かう。田中、遠藤、弘中、横尾、福島、広瀬諸氏の遠路まで送行をかたじけのうす。また、婦人会の見送りあり。

夜来微雨暁来晴、士女如花送我行、欲謝諸君歓待意、纔裁詩句表衷情、

(昨夜からのそぼふる雨が夜あけとともに晴れて、紳士、淑女は花のごとく私を送って下さった。諸君の歓待の心に感謝しようとして、ようやく詩句を作ってまごころを表すのみである。)

 住吉小学校にて開演し、更に車馬を駆りて広瀬村〈現在宮崎県宮崎郡佐土原町〉蓮光寺に至りて開会す。ともに聴衆、堂に満つ。住吉村長は佐々木淳氏、校長は野間岩太郎氏なり。広瀬村長谷山武陽氏、住職岩切幸宇氏、校長町田栄次郎氏、県参事会員菊池武明氏等、みな尽力あり。蓮光寺の壁間にとどむる詩一首あり。

寺在疎林裏、涛声破寂寥、深院無人語、欄外望春潮、

(寺院はまばらな林の中にあり、波の響きは院内の静かさをうち破る。奥深い場所では人の話し声も聞こえず、てすりの向こうには遠く春の潮〔うしお〕が見える。)

 二十二日 雨。佐土原町〈現在宮崎県宮崎郡佐土原町〉に至り開会す。会場は崇称寺なり。演説後、茶話会あり。町長植村従義氏、助役神宮司良太郎氏、校長赤塚与一郎氏等尽力あり。町は丘壑の間に点在す。

 二十三日 晴れ。宮崎郡を去りて児湯郡に入る。会場は三財村〈現在宮崎県西都市〉小学校なり。郡書記緒方平蔵氏、ここに出でて迎えらる。その地、米良山中に近く、僻村なるも、聴衆、堂に満つ。途上、一詠あり。

麦風一路入児湯、当面連山是米良、水満春田蛙鼓急、声々恰似促農忙、

(麦を渡る風の中を一路児湯郡に入った。目の前の連なる山々は米良である。水は春の田に満ちて蛙の声がかしましく、その声はまるで農事の忙しさをせきたてるようである。)

 当夕、下穂北村〈現在宮崎県西都市〉字妻町に帰りて泊す。

 二十四日 晴れ。午後、高等小学校にて開演す。上、下穂北合併の発起なり。学校に隣接して都万神社あり。木花開耶姫命〔このはなのさくやびめのみこと〕を祭る。境内、老樟多し。この近傍、神代以来の古墳散在すという。

 二十五日 雨。妻町に滞在し、午後、講演をなす。下穂北村長島原鳩氏、上穂北村長黒木峰氏、助役松浦寛平氏、覚元宗鋏氏、井狩弘道氏等尽力あり。当夕、高鍋町に至りて泊す。途上、林壑を上下し、道険悪なるも、緑陰堆裏に躑躅花を見る所、大いに心目をたのしましむ。

晩渡瀬江復向東、林巒起伏路如弓、駐車躑躅花開処、春色紅於秋色紅、

(暮れに一ッ瀬川を渡ってまた東に向かう。林や山の起伏する所が多く、道はそれに従って弓のように曲がっている。つつじの花咲く所に車をとめて楽しめば、春の花の色は秋の紅葉よりも紅であると思われた。)

 二十六日 雨。午後、高鍋町〈現在宮崎県児湯郡高鍋町〉高等小学校において開会す。高鍋町および上江村の発起なり。町長は久保昌業氏にして、村長は財部吉憲氏なり。また、高等校長は則松松太郎氏、尋常校長は永友鹿十郎氏および桑野廉平氏にして、学校組合長は石井習吉氏なり。当所は旧秋月藩の城下にして、郡衙所在地なり。郡長は小幡忠蔵氏にして、郡視学は毛利元美氏なり。また、農学校あり。校長は斉藤角太郎氏なり。みな尽力せらる。

 二十七日 晴れ。午前は農学校、午後、高等小学校、夜分、称専寺の三カ所において開演す。称専寺住職は栗田量性氏なり。昼間、海浜松林の間に一休す。地を蚊口浦という。

穀雨忽晴風亦和、高鍋城外試吟哦、蚊浜最好催詩思、十里松林万頃波、

(穀物を育てるほどよい雨がふっていたかと思うとたちまちに晴れ、風もなごやかに吹いて、高鍋城のかたわらに詩歌をこころみる。蚊口浦は詩想をこらすには最もよい所で、十里も続く松林と広々とした海波があるのだ。)

 二十八日(日曜)。毛利郡視学、赤木文二氏(哲学館出身)等とともに高鍋を発し、川南村〈現在宮崎県児湯郡川南町〉に立ち寄り、小森重太氏の宅に休憩し、村役場において一席の談話をなす。役場助役中武文次郎氏、校長河野熊雄氏等尽力あり。小森氏の弟、理一郎氏は哲学館大学出身なり。休憩後、馬車一鞭、都農村〈現在宮崎県児湯郡都農町〉に入る。駅路、新開地多し。午後、小学校において開演す。会後、都農神社に詣す。庭園清くしてかつ美なり。

遅日軽風四月天、都農一路草如烟、社頭已見春光尽、躑躅花辺聴早蝉、

(暮れもおそくなり軽やかな風の吹く四月の日、都農の道を行けば草はけむるように伸びている。都農神社のほとりにはすでに春の光もおわろうとし、つつじの花のあたりで早くも蝉の声がきこえてくるのである。)

 村長新名文氏、校長河野貞敏氏、学事主任金丸佐森氏、赤木文二氏等尽力あり。

 二十九日 晴れ。美々津町〈現在宮崎県日向市〉に移りて開演す。会場は正覚寺なり。町は山を襟にし海を帯にす。風涛の声、昼夜絶えず。

客楼向海開、一碧望無隈、入夜眠難熟、怒涛打岸来、

(旅館は海に向かってたち、青一色の海を望めばかぎりもない。夜に入って眠りについたのだが熟睡とまではいかぬ。怒涛の岸辺に打ち寄せる響きが伝わってくるのである。)

 町長近藤勇吉氏、豪商安藤文七氏等尽力せらる。

 三十日 雨。美々津滞在にて開演す。夕刻、安藤氏新築三層楼に遊ぶ。山海の風光、ふたつながら佳なり。主人、余に請うに、楼名を命ぜんことをもってす。

高閣三層両面開、海雲山月望悠哉、主人命我撰其号、名得雨奇晴好台、

(三層の高楼が山と海の両方とも鑑賞できるように造られ、海の雲、山の月をはるかにみることができてゆったりと落ちつける。主人は私にこの楼の名をつけるようにとのこと、そこで雨奇晴好台と名付けたのである。)

 また主人、仏教上より商業の心得を示さんことをもとめらる。よって「商売は仏の業と心得て自利と利他との行ひを積め」と書してこれに授く。

 五月一日 雨。朝、美々津川を渡りて東臼杵郡に入る。児湯郡長および郡視学と渡頭にて襟を分かつ。米国には汽車の渡航あり、日州には馬車の渡船あり、県下の大川はいまだ橋梁を架せざるもの多きが故なり。午前、細島町〈現在宮崎県日向市〉観音において講演をなす。住職佐藤仏関氏および有志家日高勝太郎氏の発起なり。午後、富高村〈現在宮崎県日向市〉小学校に移りて開演す。村長青木⑧一氏、有志家安藤武治氏、志賀市助氏等、大いに尽力あり。河野定吉氏の宅に投宿し、代議士石川清氏等数名と会食対談す。当日の吟詠二首あり。

細島湾頭街路連、家如櫛歯海如川、汽声動処船将発、一抹観音寺外煙、

(細島湾のほとりに街路がつづき、家並みは櫛の歯を並べたようにたちならんで、海は川のように入りこんでいる。汽笛のひびくところ、船は岸をはなれようとし、観音寺のかなたにひとはけの煙がたちのぼっている。)

閑遊何処慰吟労、一路桑風入富高、不管田家蚕事急、蝉琴蛙鼓酌春醪、

(のどかな遊説の旅であるが、吟詠のつかれをどこにいやそうかと、一路桑をわたる風とともに富高村に入った。農家はいまや養蚕に多忙であるにもかかわらず、蝉や蛙の声のしきりとするなかで春のにごり酒をくんだのであった。)

 二日 晴れ。河野、志賀両氏とともに延岡町〈現在宮崎県延岡市〉に向かう。途中、多数の有志諸氏の歓迎あり。また、町外には仏教団および婦人会の歓迎あり。午後、三福寺において開演す。聴衆満堂、まさにあふれんとする勢いなり。住職は萩原隆誠氏という。町内有志の主催にかかる。夜分また開会あり。仏教各宗同盟団の発起にかかる。幹事は久峨秀山氏なり。

 三日 晴れ。午後、中学校において講話をなす。これまた有志の発起なり。当夕、茶話会に出席す。郡長斎藤政吉氏、中学校長三浦敏氏、警察署長阿蘇谷彦一氏、町長小林又次郎氏、私立高等女学校長井口益吉氏、郡視学岩下純氏、学校組合長直井孝友氏、および各宗寺院等、みな発起者なり。延岡町は前後に山脈を横たえ、中間に河流を帯び、一面海に向きて開き、大いに風景に富む。要するに日州は山水の景に乏し。ただ、油津近傍と延岡地方とに、自然の美術のやや見るべきものあるを認む。余、一律を賦してこれを写す。

尋来可愛岳南辺、街路縦横車馬連、二水溶々流入海、群峰脉々走朝天、人迎亀井城頭月、風送板田橋下船、春夏両宜秋亦好、日州此景最為先、

(ついで可愛岳の南の地延岡町に至る。街なかの道は縦横に走り、車馬は連なるように往来している。ふたつの川はひろびろと流れて海に入り、峰々は朝ぼらけの空に長々と続いている。たずねる人は亀井城〔延岡城〕の上に出る月に迎えられ、風は板田橋の下に船を送る。春夏の季節はふたつながら結構であるが秋もまたよく、日向の国においてこの風景はまっ先にあげられるであろう。)

 可愛岳は延岡町の北にありて十年役の古戦場なり。

 四日 晴れ。早朝、延岡町を出発し、西臼杵郡高千穂村〈現在宮崎県西臼杵郡高千穂町〉に向かう。山また山、渓また渓、一路崎嶇十五里にして三田井に達す。ときに日まさに暮れんとす。婦人会員の歓迎あり。当夜、村長佐藤平次郎氏の宅に宿す。晩酌三杯の後、興に乗じて吟哦を試む。

孤客飄然入古関、羊腸一路幾彎々、高風堪仰天孫地、瑞気欲浮神代山、樹鎖千峰鴬語滑、雲埋万壑水声閑、仙源已見春光尽、猶有残花映酔顔、

(孤独な旅客として風に吹かれるようにいにしえの八峡関所跡をふみこえた。羊腸のごとく道はいくたびかまがりくねる。高みを吹く風に天つ神の子孫がくだり給うた地を仰げば、めでたいかすみが神代の山にたなびこうとしている。樹々は峰々をおおい、鴬のなく声もほどよく聞こえ、雲はすべての谷をうずめて、流れる水の音もみやびである。仙人が住むようなこの地はすでに春の日ざしもおわろうとし、それでもなお名残りの花がわが酔顔にはえるのである。)

 五日(日曜) 雨。午前は婦人会、午後は教育会のために演説す。会場は高等小学校なり。郷社高千穂神社に詣す。夕刻、田崎耕之助氏の宅にて晩餐会あり。郡長山内卯太郎氏、郡視学河野弥兵氏、校長田崎八重松氏、婦人会幹事古川定一氏尽力せらる。郡内は山陵起伏して平地に乏しきも、麦田麻圃に富み、満目緑無涯の趣あり。

五月神山夏色滋、麦田麻圃緑無涯、天孫遺跡向誰問、只有白雲流水知、

(五月、神の山に夏の気配が濃く、麦と麻の田畑は緑に、かぎりなく広い。天つ神の子孫が残した跡についてだれにたずねようか。おそらくはただ白雲と流水のみが知っているのであろう。)

 水田なく米穀を産せず、よって民家の常食はトウモロコシなりという。山深く樹茂り、五月なお鴬声を聞く。余が郡長の贈詩に答うる次韻に曰く、

花落桃源葉色新、鴬声猶護古都春、客楼一望感多少、神代渓山明治民、

(花散る理想郷桃花源のごときこの里に葉の色も新たに、鴬の声もなお古都の春をまもるかのように聞こえる。宿泊した村長宅より一望すれば感動することも多く、神代からのたにや山にいまや明治の民が住まいしているのだ。)

 六日 雨。早朝、佐藤村長の宅を辞し、行くこと十余町にして渓流の畔に至る。その右方に高天の原あり。また、その上流に天の岩屋あり。両岸一帯懸崖絶壁、耶馬渓の観あり。渓橋を鹿狩戸橋という。一吟あり。

神跡尋何処、問山山不言、石渓断橋下、挙首望天原、

(神の跡をいずこにたずねようか、山に問うも山はもの言わぬ。石の渓谷と、とぎれた橋のもとで、こうべをあげて高天が原をのぞみ見たのであった。)

 この間銅山多く、車馬の来往絶えず。薄暮、延岡に帰着す。

 七日 晴れ。午前、妙専寺において婦人教会のために講話をなす。午後、延岡を発して土々呂港に至り、客船を待つ。三浦中学校長および一万田氏等の送行あり。随行弘中兼善氏と相別る。六時乗船、大分県佐伯町に向かう。以上、宮崎県巡回の概略なり。

 宮崎県の淳朴質素なるは鹿児島県にひとし。中等教育は鹿児島県のごとく盛んならざるも、小学教育は比較的進みおるを認めり。宗教に至りては、一、二郡を除くの外はほとんど無宗教のありさまなり。人民の迷信は鹿児島よりも多し。平坦の地、未開の野に富めるは予想の外に出ず。しかして山水の風景には乏しき方なり。ただ、樹木の鬱蒼として空気の清新なる所多きは愛すべし。一般に人民は旧習を重んじ、少成に安んじ、勇進活動の風を欠けるがごとき観なきにあらざるも、もしよくこれを指導するものあらば、この欠点を補長すること難きにあらざるべし。

 余が日薩隅三州を巡回して意外に感じたるは、いたるところ茶菓子には必ずカステラを出だし、ときによりては山中なお西洋料理の饗応に会する一事なり。余が高千穂山中に滞在中カステラの茶菓子あるを見て、「日向地は神代の里と思ひしに山の奥まで菓子はカステラ」と三十一文字を並べたることあり。ただ余が不足を感ぜしは、食事のときに香の物を供せざる一事なり。茶菓子には往々香の物を備うるも、食事にはこれを出ださず。しかるに余は、食事に香の物を多量に食する癖あり。余の好むところをよみたる歌に、

  我すきは豆腐あげもの味噌の汁、御茶にカステラ飯に香々、

と公言するくらいなるに、日薩隅いずれの地に至るも、酒肴に余りありて香々に不足を告げたれば、

  酒肴何んの不足はなけれども、只香々のなきぞかなしき、

との不平を鳴らせしも、旅中の一興ならんか。ただ、鹿児島市滞在中と宮崎中には、主人の周到なる注意によりて、多量の香の物を供給せられたるは大いに嬉しく感じたり。

 

     宮崎県開会一覧表(三月二十三日より五月六日まで四十五日間)

   市郡    町村    会場    演説   聴衆     主催

  宮崎郡   宮崎町   高等女学校  二席  七百人    日州教育会

  同     同     郡役所    二席  二百人    郡教育会

  同     同     中学校    二席  五百人    中学校

  同     同     師範学校   一席  三百人    師範学校

  同     同     紫明館    二席  五百人    通俗講談会

  同     同     赤十字社   一席  百五十人   愛国婦人会

  同     同     安楽寺    一席  七百人    戦死〔者〕追弔会

  同     同     同      一席  三百人    寺院

  同     同     同      一席  四百人    宮崎婦人会

  同     同     監獄     一席  百人     典獄

  同     佐土原町  寺院     二席  四百人    町内有志

  同     大淀村   農学校    一席  二百人    農学校

  同     田野村   小学校    二席  三百人    村内有志

  同     生目村   小学校    二席  三百人    村内有志

  同     瓜生野村  小学校    一席  二百人    村内有志

  同     広瀬村   寺院     二席  四百人    村内有志

  同     住吉村   小学校    一席  三百人    村内有志

  同     檍村    小学校    二席  二百五十人  村内有志

  同     赤江村   小学校    二席  五百人    村内有志

  同     木花村   小学校    一席  二百人    村内有志

  南那珂郡  飫肥町   小学校    二席  五百人    町内有志

  同     同     寺院     一席  五十人    寺院

  同     油津町   寺院     三席  二百人    町内有志

  同     南郷村   小学校    二席  七百人    村内有志

  同     福島村   小学校    二席  七百人    三カ村有志

  北諸県郡  都城町   中学校    一席  五百人    中学校

  同     同     小学校    一席  三百人    教育会

  同     同     寺院     三席  八百人    戦死者追弔会

  同     同     寺院     二席  五百人    町村有志

  同     同     倶楽部    一席  百人     実業家

  同     三股村   小学校    一席  三百人    村内有志

  同     山之口村  小学校    一席  二百人    村内有志

  同     高城村   小学校    一席  三百人    村内有志

  同     庄内村   小学校    二席  五百人    村内有志

  同     高崎村   小学校    一席  二百人    村内有志

  西諸県郡  小林村   寺院     二席  五百人    村内有志

  同     高原村   小学校    一席  三百人    村内有志

  同     飯野村   小学校    二席  三百人    村内有志

  同     加久藤村  寺院     二席  三百人    村内有志

  東諸県郡  高岡村   小学校    二席  三百人    村内有志

  同     本庄村   劇場     二席  四百人    村内有志

  児湯郡   高鍋町   寺院     一席  二百人    婦人会

  同     同     小学校    四席  五百人    町内有志

  同     同     農学校    一席  百人     農学校

  同     同     寺院     一席  二百人    寺院有志

  同     美々津町  寺院     二席  三百人    町内有志

  同     同     寺院     二席  二百人    寺院有志

  同     下穂北村  小学校    四席  三百人    両村有志

  同     三財村   小学校    二席  三百人    村内有志

  同     川南村   村役場    一席  百人     村内有志

  同     都農村   小学校    二席  五百人    村内有志

  東臼杵郡  延岡町   寺院     二席  八百人    町内有志

  同     同     中学校    二席  五百人    中学校および町内有志

  同     同     寺院     一席  五百人    各宗協同団

  同     同     寺院     二席  二百人    婦人会

  同     細島町   寺院     一席  二百人    町内有志

  同     富高村   小学校    二席  五百人    村内有志

  西臼杵郡  高千穂村  小学校    二席  五百人    郡内有志

  同     同     小学校    二席  三百人    婦人会

   以上合計 八郡、九町、二十八カ村、九十八席、二万一千百五十人

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大分県紀行

 明治四十年五月七日。夜十一時、大分県南海部郡佐伯町〈現在大分県佐伯市〉入港、善教寺に投宿す。前住職小栗憲一氏は旧知中の先輩なり。

 八日 晴れ。午後、善教寺において開会す。町内有志の発起なり。郡長多羅間政輔氏、警察署長是永小弥太氏、郡視学薬師寺徹氏等に面会す。また、県第二部長岡田忠彦氏および県視学梅野駿二氏の一行と相会す。郡役所および役場員の尽力あり。ときに小栗老師に賦呈せる一詩、左のごとし。

客遊一路入南豊、今日廬山謁遠公、七十余年身尚健、逍遥筆海墨林中、

(旅客遊説して道を南豊にたどり、今日、仙人がかくれ住んだという廬山のような所に高僧慧遠のごとき人にお目にかかった。七十有歳のその人はなおすこやかに、文筆と書画をもって悠々自適の生活をされているのだ。)

 九日 雨。午後、高等小学校において講演をなす。郡教育会の依頼に応ずるなり。夕刻、豊海館の懇話会に出席す。楼頭の風光、客懐を散ずるに足る。番匠川を隔てて当面に一帯の臥峰あり、これを三十峰と称す。その形、タバコの葉のごとし。よって余は煙葉峰と名付く。

匠江帯雨気濛々、烟葉峰浮麦浪中、山影入楼人亦緑、傾杯愧我酔顔紅、

(番匠川に雨がふりそそいで、もやがたちこめ、煙葉峰が麦のなみうつなかに浮かんでいる。山の緑が照りはえて豊海館にまで及び、そのため人もまた緑にいろどられるように思われ、杯をあげたばかりに、わが酔顔のあかさがそぐわず、ひそかに心にはじたのであった。)

 当夜十一時、佐伯町を発し、岡田事務官の一行とともに港口に至る。郡長、郡視学ともに、余輩を送りてここに至らる。哲学館出身清松洞翁(旧名田原祖欽)氏もここにあり。船を待ちて翌朝に達す。

 十日 晴れ。午前八時、汽船入港す。これに搭乗して北海部郡臼杵町〈現在大分県臼杵市〉に移る。海路、島嶼の間を縫って行く。風光すこぶる佳なり。

佐伯湾頭雨霽初、風吹麦隴夏山梳、舟行半日人無倦、峰走巒飛畵不如、

(佐伯湾のあたり雨もはれに向かい、風は麦のうねに吹きわたって夏山のよそおいもあらたまる。舟で行くこと半日、この景色は人をあきさせることなく、はるかな峰々のつづくさまは画工の及ぶところではない。)

 臼杵町会場は善法寺なり。住職佐々木実丸氏、町長宇野治光氏、郡視学渡辺熊蔵氏等の尽力により聴衆満堂、盛会を得たり。当地には中学校あり。哲学館出身荷堂弦氏、大分町よりここにきたり随行を約す。善法寺にとどむる即吟一首あり。

豊陽五月夏光新、花落蕭然臼杵浜、善法寺中人不絶、真如天朗四時春、

(豊後の五月、夏の光もあらたに、花のないひっそりとさびしげな臼杵の浜である。しかし、善法寺のなかは人の姿のとだえることもなく、まことに天にくもりなく一年を通じて春のようすである。)

 臼杵町近在に一種風俗を異にする人種あり。物を運ぶに必ず頭上にいただきて行く。言語、風俗、他と異なり、女権強く他と交婚せず、自ら称して平家の末族となす。世間、これを名付けてシャーという。鶴村に居住す。

 十一日 晴れ。臼杵町を去りて大野郡に入る。野津市に一休す。この地に奇才頓智をもって県下に名を知られたる吉右衛門の跡ありという。午後一時、三重町〈現在大分県大野郡三重町〉に着す。郡立農学校あり。校長は余の同郷人菊池久松氏なり。会場は正竜寺にして、教育会の主催なり。高等小学校長衛藤島津氏、諸事を斡旋せらる。有志家多田寿一氏も発起者の一人なり。町長は有田政次郎氏と名付く。

 十二日(日曜) 晴れ。三重町より牧口村〈現在大分県大野郡清川村〉に移る。会場は小学校なり。これまた教育会の発起にかかる。村長市万田虎人氏、校長前田弥三郎氏、ともに尽力あり。この近傍に沈堕と名付くる有名の瀑布あり。両川全く懸かりて前後両瀑布をなす。一流は高さ十五間、幅三十間、一流は高さ二十間ありという。ナイヤガラの小模型なるがごとし。沈堕の字雅ならず、よって鎮蛇と改め、左の一首を賦す。

華厳那智両無双、雄瀑之名冠日邦、知否豊山深処境、長川懸作鎮蛇滝、

(華厳の滝と那智の滝はふたつともにならぶものはなく、雄大な瀑布の名はわが国に第一等と称されている。だが人は知っているであろうか、この豊後山中の奥深いところに、大きな川がそのまま落下して鎮蛇の滝となっていることを。)

 三重より牧口に至るの間、桐花満開、野色ために紫を帯ぶ。その所見、左のごとし。

腕車朝発三重市、所過邱山風色美、牧口村頭又凝眸、緑陰堆裏桐花紫、

(人力車を馳せて朝のうちに三重市をたった。とおりすぎた丘や山の風光は美しい。牧口村のあたりで更に目をこらせば、緑の重なるような中に桐花の紫が見える。)

 十三日 快晴。早朝、直入郡竹田町に向かって出発す。この日、故広瀬中佐銅像除幕式あり。老弱男女、相携えて竹田を指して行く。一見、あたかも蟻の行くがごとし。途中、哲学館出身藤村僧翼氏の出でて迎うるに会す。隧道を七過して竹田に入る。市街、人群れを成し、車進み難し。たまたま山車の道を遮るあり。車をとどむること数次、徐行してこれにしたがう。午時を過ぎて玉来町、堀豊彦氏の宅に着す。少憩の後、出でて除幕式に参列す。人山を築き波を揚ぐ。像は山下公園の林間にあり。その盛況および所感を述ぶること左のごとし。

軍神像成挙盛儀、是日晴風飜旭旗、人埋林壑満山黒、奏楽声中幕正開、眉目如活使人想、悠々含笑上船時、七生報国君自誓、誰疑千載護皇基、

(軍神広瀬中佐の銅像が完成して盛大な除幕式が挙行された。この日は晴れて、風が旭日旗をひるがえす。人々は林や谷を埋め、山も人の波で黒くなり、音楽の奏せられるなかでまさしく幕は開かれた。銅像の眉目は生きているかと人々に思わせ、のびやかな笑みをうかべて船にのるとき、七たび生まれかわって国恩に報いんと君はみずから誓ったのだ。だれが一体この永遠に皇国の基をまもろうとすることを疑ったりするであろうか。だれもが信じて疑わぬ。)

 この日参集せるもの、おおよそ三万人と称す。竹田町空前の群聚なり。暮夜、煙火あり。堀氏の宅にて念珠会員と茶話をなす。ときに江崎森槌なるもの、縄抜け奇術を演じて座興を助く。

 十四日 晴れ。早朝、狐頭稲荷に詣す。境内に狐の穴あり。信者、遠近よりきたる。郡教育会長黒川文哲氏来訪あり。郡内の名望家なり。午前、赤岩の険路を経て長湯村〈現在大分県直入郡直入町〉に至る。赤岩は赤壁の趣あり。よって余はこれを赤壁と呼ぶ。一奇勝なり。宿所は旧家大塚守愚氏の宅にして、飛泉庭に懸かりて、気清泠を覚ゆ。一作を試む。

路経赤壁入長湯、山館風光夏未央、躑躅花残松影淡、飛泉洗浴自清凉、

(道は赤壁をへて長湯村に至り、山中のやかたの景色は夏もまだなかばとはなっていないようすを示す。つつじは残り花をつけ、松の姿もあわく、庭に落ちる泉水に洗われておのずと清らかな涼しさがある。)

 会場は高等小学校なり。郡視学伊藤嘉吉氏ここに先着せり。生徒の出迎えあり。村長は森田貞彦氏にして、高等校長は伊東逸作氏なり。

 十五日 晴れ。朝、長湯を発して久住村〈現在大分県直入郡久住町〉に立ち寄り、小学校において演説す。同所青年会の発起にかかる。この村外に九重山あり。その山麓に牧場ありて、牛馬の点在するありさまは英国の郊野を旅行するがごとき趣あり。午後、城原〔村〕〈現在大分県竹田市〉に移りて小学校にて開演す。盛会なり。村長後藤茂氏、校長草川茂夫氏等尽力あり。黒川氏、竹田よりきたりてここに会す。村内に県社八幡神社あり。源為朝の創始にかかるという。長湯および本村のごときは丘山の間にあれども、潅漑の便そのよろしき〔を〕得。米麦をもって特産とす。夜に入りて竹田町〈現在大分県竹田市〉に着す。

 十六日 晴れ。午前、竹田中学校において講話をなし、午後、劇場洗心館において演説す。聴衆八百名以上を算す。教育衛生会、各宗同盟会の発起にかかる。黒川教育会長、伊藤郡視学、満徳寺、円福寺、正覚寺等尽力せらる。

 十七日 晴れ。午後、洗心館にて開会す。夕刻、晩餐会あり。竹田は山また山をめぐらし、町外に出ずるに九道あり。みな隧道なり。いずれの方面よりここに入るも、隧道を通過せざるを得ず。けだし「トンネル」の多きは日本第一なり。竹田市街を出でて豊岡を経、熊本県に通ずる駅路のごときは十六カ所のトンネルありという。もってその多きを見るべし。故に人これを呼びて蓮根街という。余はこれを蜂窩街と名付く。よって二首を賦す。

隧道縦横穿断崖、人車出没市如蝸、臥牛山下旧城跡、今作蓮根孔裏街、

(隧道〔トンネル〕は縦横に断崖をくりぬいて竹田の町に通じ、人と車の市街への出入りはあたかもかたつむりのようである。臥牛山のもと、旧城下町は、いまや蓮根のあなにかこまれた街となっている。)

欲訪武陵源上廬、幾重隧道僅通車、我来驚見竹田巷、人住蜂窩深裏居、

(武陵桃源のような別天地に宿を求めようとし、ようやく車が通れるほどのトンネルをいくつもぬけた。到着して竹田の町をみて驚いたことには、人々は蜂の穴にかこまれたような深いなかで住みなしているのである。)

 竹田城はその形、臥牛に似たりという。別に一首を得たり。

吟身探勝入南豊、山自崔嵬人自雄、行尽臥牛山下路、軍神像立社林中、

(吟詠の身をもって景勝をたずねて南豊後に入れば、山はもとより険しく、この地の人もおのずからひいでた気質をもつ。臥牛山のふもとの道を行きつくした所、軍神の像が神社の林の中に建っている。)

 十八日 晴れ。黒川氏とともに荻村〈現在大分県荻町〉に至りて開会す。道狭くしてかつ険なり。地偏家疎、祖母山麓にあり。会場は小学校なり。途中、一詠す。

林巒起伏路如膓、夏浅山田麦未黄、今日法輪何処転、尋来祖母岳陰郷、

(林や山が起伏に富んで、道は羊の腸のように細くめぐりつつ続き、夏もまだ浅いこの時期は山の田の麦も黄色を帯びるに至っていない。こんにち仏法の輪をどこにめぐらし説こうかと、祖母山麓のかくれ里のような村をたずねたのであった。)

 黒川氏の高作に次韻してこれに贈る。氏は医を本業とし、その余暇、詩文を楽しむ。

多年老手錬心精、博得杏林第一名、余力又裁有声畵、竹田風月為君清、

(長い歳月、経験豊かな腕をふるい、精神をみがきあげて、いまやひろく医者として第一の名を得ておられる。余暇には詩文と書画をなし、竹田の風月はあたかも君のために清らかであるように思われる。)

 当夕、竹田町に帰宿す。

 十九日(日曜) 晴れ。竹田町を出ずる所、水心山骨の奇、耶馬渓を圧せんとす。ここに隧道あり。これより駅路坦々、大野郡田中村〈現在大分県大野郡大野町〉に通ず。この辺りの渓流は水底ことごとく岩石なり。途上、一詩を浮かぶ。

水心山骨総天工、此是人間仙洞宮、路出隧門坦如砥、電標一帯到田中、

(渓流と岩石のみごとなとりあわせはすべて天然のしわざである。これこそは人間界にある仙人が住むところであろう。道はトンネルの入口を出てただただたいらかに、電柱が並んでそのまま田中村に至るのである。)

 午前、田中村高等小学校において演説をなす。大野、直入両郡教育会の依頼に応ずるなり。午後、最乗寺において講話をなす。当寺住職大原寂雲氏は哲学館出身なり。庭前、盆栽積みて山を成す。また、囲碁に長ず。高等校長は佐藤伊三郎氏なり。

 二十日 晴れ。犬飼町〈現在大分県大野郡犬飼町〉に至りて開会す。会場は了因寺にして、宿所は倶楽部(洗心館)なり。館は大野川にのぞみ、風景大いによし。

館立懸崖上、隔江駅路横、車声和水冷、山色入窓清、望裏舟来去、吟中客送迎、坐談忘彼我、不背洗心名、

(宿舎洗心館は天からつりさがるような崖の上にたち、大野川をへだてて街道が横ざまにとおっている。車の音が水の冷たさをなごませるように響き、山の景色は窓辺より入るかと思われるほど清らかである。眺めのうちに舟は去来し、舟うたの聞こえるなかで客の送迎がある。座談するうちに自他の区別も忘れる境地に入る。まことに洗心の名にそむかぬ思いがしたことであった。)

 演説後、茶話会あり。町長渡辺仙太郎氏、有志家橋本珍数氏、仲村貞夫氏等尽力あり。これより藤村僧翼氏が荷堂弦氏に代わりて随行することとなる。

 二十一日 晴れ。朝、大分郡戸次村長高橋格一氏とともに小艇をうかべて清流を下り、戸次〔村〕〈現在大分県大分市〉に至る。江上の夏色、耳目を洗うによろし。大野川の雅号を錦川という。

両岸晴風下錦川、蝉吟燕舞送吾船、夏郊一望黄交緑、半是桑田半麦田、

(両岸にふく晴れやかな風のなか、錦川の清流を小舟で下る。蝉の声、燕の乱舞が私の舟を送ってくれた。夏の田野をのぞめば黄と緑がまじりあう。それは桑田と麦田とがあいなかばしているからなのだ。)

 これ、その実況なり。戸次村有志、旗をたてて歓迎せり。会場および宿所は妙正寺にして、小栗栖香頂老師の寺なり。老師は数年前すでに隔世の人となられたり。余が追懐の詩、左のごとし。

戸次村頭寄客身、梵城深処養天真、江塵不到山門寂、念仏声中憶上人、

(戸次村に客としての身を寄せた。寺院の奥深いところに、天然の真理が存している。俗世の塵芥のたぐいもここまではいたらず、山門はものしずかにたち、念仏の声の中に上人を追憶するのである。)

 聴衆、堂に満つ。現住職は竹中善丸氏なり。村長高橋氏は徳望家をもって知らる。画伯帆足杏雨翁この村より出ず。今夕、はじめて蚊帳を用う。

 二十二日 晴れ。朝、竹中氏、高橋氏とともに一瓶を携えて船に上り、江行三里、鶴崎〔町〕〈現在大分県大分市〉に至る。図らず〔も〕半日の清遊をなすを得たり。水上所々、水車を設く。水声、車響また、耳を洗うに足る。

錦江一帯抱村流、携酒清晨上客舟、酔未全醒日将午、篷窓認得鶴崎洲、

(錦江はそのあたりの村々をまもるかのように流れ、酒をたずさえて清らかな夜明けのなかを舟に乗る。酔ってまださめきらぬうちに正午になろうとし、舟のよもぎを編んだ窓から鶴崎の地をみたのであった。)

 鶴崎町三層楼に上りて一休す。楼名を朝陽館という。長橋を隔てて地蔵山に対する所、眺望すこぶるよし。会場は神宮奉斎会事務所なり。演説後、有志の茶話会あり。当町の光福寺に、清正公征韓のときに用いし太鼓ありという。

 二十三日 晴れ。鶴崎を発して車行五里、北海部郡佐賀関町〈現在大分県北海部郡佐賀関町〉に移る。会場は浄応寺なり。楼上の風景絶佳、一詩たちどころに成る。

転法輪来佐賀関、烟霞無処不仙寰、雲開島外更浮島、舟去湾中別見湾、帆影棹声暮潮穏、松光麦色夏山斑、徳応寺裏時高臥、一榻清風夢自間、

(仏法の輪をめぐらして佐賀関に来た。かすみがたなびき、すべてに世俗をはなれた趣がある。海上のもやが上れば島のかなたに更に島が浮かび、舟が湾を去ればその奥に別の湾がみられる景色。帆の姿と棹〔カイ〕の音がきこえ、夕暮れの潮もおだやかに、松の緑と麦の黄とが夏の山をいろどる。徳応寺のうちにのんびりと身を横たえれば、ねだいに清らかな風が吹き、夢もまたおのずからのどかなのである。)

 午後開会す。町の収入役関正夫氏は哲学館出身なり。氏は不幸にして脚を失う。余、詩をもってこれを慰む。

君曾負笈遊東関、一朝得病臥故山、医療奏功雖復旧、猶失一脚歩行艱、人生由来多失意、請君勿嘆身不備、精神界中別有天、智是日月徳是地、世人不知此風光、五欲六塵迷欲狂、君独交俗不混俗、心如梅花放清香、

(君はかつておいばこを背に関東に遊学したのであったが、にわかに病んで故郷にふす身となった。さいわい医療のかいあってもとどおりに健康をとり戻したが、それでもかた脚を失い、歩行にくるしむこととなった。人生にはもとより思いのままにならぬことが多いものだ。ねがわくば身の完全でないことを嘆かないでほしい。精神の世界には別の天地があり、智は日月であり、徳は大地である。世の人々はこの境地を知らず、五欲と六塵に迷って狂わんばかりなのだ。しかし、君は世俗に交わって世俗になずまず、心は梅花のように清らかな香りを放っているのである。)

 薄暮、船に上る。月すでに天辺に懸かる。

佐賀湾頭上客船、雲開湾外暮山連、波間檣影時流動、仰見天辺月一弦、

(佐賀関の湾で客船にのれば、雲のひらけた湾のかなたに日幕れの山波が連なっている。波の間に帆柱がときには流れるように動き、仰ぎ見れば空の果てにゆみはり月がかかっていたのであった。)

 夜十二時、速見郡別府に着し、真宗法話会館に入る。会館は相良願応氏の開設するところにして、楼上に会場あり、階下に温泉あり、心身二者を温養するを目的とす。哲学館出身中の先輩大友芳虔氏、大分町よりここにきたりて余を迎う。

 二十四日 晴れ。御越町〈現在大分県別府市〉に至りて開会す。会場は西光寺にして盛会なり。町長恒松美之作氏、校長西山留男氏、医師高橋柴太氏、教員笠置静雄氏等尽力あり。当地は温泉いたるところに湧出し、寺の境内にも浴室あり。また、この地には農学校あり。

 二十五日 晴れ。御越を発して大分郡大分町〈現在大分県大分市〉に移る。別府より大分の間は電車あり。日本初設の電車なりという。大分の旅館は八百屋なり。午前、師範学校において講話をなす。校長不在、教諭和田信一氏、代わりて斡旋せらる。午後、県会議事堂において開演す。聴衆、約一千人と称す。大分町長矢野新氏、大友、荷堂氏等、みな尽力あり。

 二十六日(日曜)。午前、高等女学校において談話をなす。校長代理今村豊明氏、斡旋せらる。午後、議事堂において講演をなす。岡田第二部長および永田第四部長も出席せらる。

 二十七日 晴れ。午前、私立中学擷芳園において講話をなす。園長は浅沢源八郎氏なり。午後、日岡村〈現在大分県大分市〉萩原長久寺に至りて演説す。住職長久寺知秀氏は、もと若松を姓とし哲学館出身なり。当地はすでに修身教会を組織せられ、発会式を挙行す。村内多く製塩を業とす。よって一吟す。

長久寺中人作群、萩原村外日将曛、製塩煙与香烟合、時見津頭一抹雲、

(長久寺のなかに人が群れ集まり、萩原村のかなたは夕日にくすんだ色となりつつある。製塩の煙と焼香のけむりとがまじり合い、ときに港のあたりにわずかな雲がみえている。)

 二十八日 晴れ。午前、大分中学校に至りて演説をなす。哲学館出身にして当校に奉職せるもの二名あり。松崎覚本氏と荷堂弦氏なり。午後、植田村〈現在大分県大分市、大分郡挟間町〉に移りて開会す。会場は小学校なり。当地にて尽力せられしは管原義麿氏、柴崎順吉氏、池辺善親氏、安東★(灬+冫+臣+己)栄氏、角欽吾氏、永松只作氏等なり。

 二十九日 晴れ。午前、大分郡を去り、速見郡別府町〈現在大分県別府市〉に移る。宿所は日名子旅館なり。その別号を霊泉館という。当地第一と称す。会場は西法寺なり。住職速見崇桂氏および町長日名子太郎氏等尽力せらる。余が旅館にとどめし一作あり。

一道霊泉湧客楼、洞明如玉潤如油、不惟宿痾能医治、洗得人間万斛愁、

(ひとすじの霊泉が旅館のなかに湧き出て、泉水の清らかなことは玉のように、つやは油のようである。古くからの持病をなおすばかりではなく、他の病をもいやす効能があり、人の世の非常に多いうれいも洗い去ることができるのである。)

 三十日 晴れ。浜脇町〈現在大分県別府市〉に移る。会場および宿所は弦月館なり。館は三層にして、海山を一望の中に開く。館内に温泉の設備あり、浴すべし。演説は浜脇町有志の依頼に応ずるなり。散会後、更に哲学館大学同窓会あり。会するもの、大友芳虔、松崎覚本、古城石雲、渋谷智淵、大原寂雲、渡辺豪、藤村僧翼、荷堂弦、長久寺知秀、高井栄次郎、新田覚音、清水玄要、堺三司、宇都宮甚太、総川猪之吉、速見崇桂、相良願応、田村、吉良豊馬の十九名なり。その席上の状況は余、詩をもってこれを写す。

楼上故人会、相親如弟兄、披襟談百転、尋旧酒三行、心与霊泉煖、身兼晴景清、酔来興将溢、四壁起吟声、

(旅舎の弦月館のたかどのに古い友人達が会合した。たがいに親しむようすはまるで兄弟のようである。そこでは心をひらいて談話はさまざまに果てなく変わり、思い出をたずねて酒杯はなんどもめぐる。心は霊泉とともにあたたまり、身は晴れやかな景色とともに清らかである。酔いてたのしみはいよいよ満ちあふれんばかりとなり、四方の壁をゆりうごかして朗吟の声が起こったのであった。)

 また、「同窓今日欲修盟、楼上伝杯酒幾傾、懐旧詩成情未尽、酔肩荷筆紙田耕」(同窓の者が今日集まってちぎりをあらたにしようとし、たかどのの上で酒杯をめぐらして幾度となく杯〔さかずき〕をかたむけた。懐旧の詩はできたものの情はなお尽きることなく、酔った肩に筆をにない、文字を書く生活を続けるのである。)の句を得たり。同窓会の開催は渋谷智淵氏幹事となりて、諸事を斡旋せられたるによる。浜脇開会は古城石雲氏の尽力にかかる。しかして大分県巡回に関しては大友芳虔氏自らその衝に当たり、諸方の照会に応答の労をとられたる等、みな深く謝するところなり。

 三十一日 晴れ。豊岡町〈現在大分県速見郡日出町、別府市〉に移り、覚正寺において開会す。住職掬月氏不在なれども、有志諸氏の尽力すくなからず。当時、農蚕の時期にして、民家多忙を極む。詩をもってその意を述ぶ。

侵晨老婦向桑田、処々蚕児已四眠、吟客不知農事急、清風窓底弄鳴蝉、

(夜あけのなか老婦が桑畑に行く。あちらこちらにかわれているかいこはすでに四回の眠をへて成長しているのだ。吟遊の人はこの農事の多忙も知らぬげに、清らかな風の入る窓辺で蝉の鳴き声を楽しんでいるのである。)

麦色已黄梅未黄、連晴水渇恐枯秧、喜吾脱却農家苦、到処霊泉洗俗腸、

(麦の色はすでに黄ばみ、梅はまだ黄いろみさえおびていない。連日の晴天で水はかわき、苗の枯れることを心配している。なんと私はこうした農家のなやみよりぬけだして、いたるところの霊泉にひたって俗塵にまみれた心を洗うことをこのんでいるのである。)

 六月一日 晴れ。豊岡より日出町〈現在大分県速見郡日出町〉に移る。速見郡役所のある所なり。午後、劇場において開演す。盛会を得たり。警察署長幸惟敏、町長吉弘精策、郵便局長藤井岩喜、郡視学河合精一郎等の諸氏尽力あり。また、各宗寺院もみな尽力せらる。

 二日(日曜) 晴れ。午前は婦人会のために、午後は公衆のために演説し、演説前に松屋寺の蘇鉄を見る。その最も大なるものは幹の周囲一丈二尺あり。堺玅国寺の蘇鉄と東西相対立す。たまたま一詩を得たり。

暘谷尋禅寺、風来自掃庭、堂前蘇鉄老、千石仏灯青、

(暘谷に禅寺をたずねた。風が吹いて自然に庭が掃ききよめられている。寺院の前に老蘇鉄が植えられ、いにしえよりみ仏のともしびは青い光をはなっているのだ。)

 暘谷は日出の雅名なり。演説後、西教寺において茶話会あり。楼上の眺望よし。

 三日 晴れ。杵築町〈現在大分県杵築市〉に転じて開会し、午前、哲学館出身木付玄聖氏の寺にて中学校生徒のために演述す。校長は服部精四郎氏なり。午後、公衆のために演説す。会場は劇場なり。聴衆、場に満ち、演説後、懇話会あり。席上、修身教会設立の件議定せらる。町長矢野直太郎氏、有志家安田正斎氏、服部校長および各宗寺院等尽力あり。宿所錦水館は庭園美を尽くし、海山媚を呈し、旅館中まれに見る所なり。五絶二首を得たり。

石間紅百樹、庭前碧千波、錦水楼頭望、雲帆畵裏過、

(石の間には紅色の花をつける多くの樹木があり、庭の前方には深い青色のさざなみがよる。錦水館の高みからはるかに見わたせば、雲と風帆とが絵画のような景色のなかを行くのであった。)

傍庭一水流、波上樹陰浮、花外人成市、売魚声入楼、

(庭にそってひとすじの水が流れ、水波には樹の影がうつっている。この花さく所のそとの人々はあきないに集まっているらしく、魚を売る声がしきりとこのたかどのにまで入ってくる。)

 庭外に魚市あり、その声、楼に入る。

 四日 雨。杵築より東国東郡安岐町に移る。途上、一首あり。

村外塩田在、屋頭煙影斜、午炊時未到、知是煑潮花、

(村のむこうに塩田がひろがり、家屋の上に煙が斜めにのぼっている。ひるの炊事の時間にはまだなっていないから、これは潮水を煮る煙なのである。)

 午時、安岐町〈現在大分県東国東郡安岐町〉に着す。会場および宿所は光明寺なり。住職高山義端氏、町長今富列司氏、有志永松壮三郎氏等尽力あり。副住職高山道円氏は哲学館出身なるも、目下ハワイ国に布教中なり。竹田町以来およそ二十日間連晴、今日はじめて膏雨あり。農家、大いに喜ぶ。

安岐一路暗雲煙、膏雨忽来霑麦田、喜見村家能励業、休耕今日織青筵、

(安岐町への道に黒い雲がけぶるようにひろがり、めぐみの雨がにわかにふり出して麦田をうるおした。村々の家がそれぞれ家業にはげみ、畑仕事を休んで、今日は特産の青筵を織るのをよろこばしく思う。)

 この辺り、青筵の産地なり。先儒三浦梅園翁この近傍より出でて、その家、今なお存せりという。

 五日 雨。国東町〈現在大分県東国東郡国東町〉字鶴川にて開会す。会場は郡会議事堂なり。聴衆、充溢す。演説後茶話会ありて、たちどころに修身教会設置の議成る。郡長山口正邦氏、町長加藤依永氏等、大いに尽力せらる。

 六日 晴れ。富来町〈現在大分県東国東郡国東町〉に開演す。山口郡長も同行せらる。会場は万弘寺にして、聴衆千名に余り、希有の盛会なり。住職豊玄会氏の恵詩に対し、「本来面目問何人、世上多皆蠢々民、喜堪仙源将尽処、幸為玄会老師賓」(本来のすがたはいったいいかなる人なのであろうか、世の中は多くみなおろかにうごめく人である。この仙人の住むような地のおくまったところで、さいわいにして玄会老師の客人となったことを喜んでいる。)の次韻をなす。町長佐藤潤太郎氏、寺院徳丸円月氏、清水善竜氏等、みな尽力あり。夜一時、汽船に駕して別府に向かう。大分県教育会に出演せんがためなり。

 七日 晴れ。午前八時、別府に着港し、不老園に入りて終日休養す。

長生殿裏浴神泉、忽覚自為不老仙、洗尽人間百煩悩、清風窓下枕書眠、

(長生殿のうちにある霊妙な泉水を浴び、たちまちおのずから不老の仙人になった心地がする。俗世間もろもろの煩悩を洗いつくし、清らかな風の吹く窓のもと、書物を枕に眠ったものであった。)

 八日 晴れ。電車に駕して大分県教育会に出演し、知事千葉貞幹氏に面会す。午後、別府に帰りて乗船す。広島高等師範学校教授塚原政次氏に偶然相会す。梅野県視学、相良氏、速見氏、大友氏等、埠頭まで送らる。当夜十一時、竹田津に入港し、ここに仮宿す。

 九日(日曜) 晴れ。竹田津より漁船に乗じ、国東半島の極端なる熊毛村〈現在大分県東国東郡国見町〉常光寺に至りて開演す。聴衆、堂にあふる。船中の一作あり。

豊海煙波姫島風、舟行十里望葱々、千灯峰与文殊接、一帯翠屏横半空、

(豊後の海はけぶるようにもやがたちこめて姫島のすがたが見え、舟で行くこと十里、みわたせば青々とした色がひろがる。千灯峰と文殊峰と連なり、一帯のみどりの峰々は屏風のごとく空の半ばを横ざまに占めている。)

 千灯峰と文殊峰とは連接せる一帯の高山なり。村長丸小野儀六氏、常念寺、竜潜寺等、みな尽力あり。一詩をとどむ。

僧堂対山坐、境静好談禅、昏夜燭無用、千灯在眼前、

(僧堂は山に向かってたち、静かな境地は禅を談ずるによい。暗い夜もともしびはいらぬ。なぜならば千灯〔峰〕が目の前にあるからだ。)

 十日 晴れ。小舟をうかべて伊美村〈現在大分県東国東郡国見町〉に移る。姫島の形、あたかも軍艦が水雷艇を引率せるがごとし。よって余はこれを艦島と名付く。ときに順風、舟を送る。

風送帆行急、望中艦島奔、思詩々未就、船入武陵村、

(順風を帆にうけて舟足は速く、ながめみるうちに艦島もはしるように見える。詩を考えてまだできぬうちに、船は武陵桃源のような理想郷に入ったのであった。)

 姫島には七不思議あり。すなわち阿弥陀蛎、拍手水、鉄漿石、浮き田、逆さ柳、浮き洲、北浦観音堂、これなり。着船のとき、生徒列をなして迎う。会場は延命寺にして、三村連合の発起なり。伊美村長衣笠百太郎氏、各宗寺院、みな尽力あり。

 十一日 晴れ。隧道を通過して西国東郡に入る。会場は岬村〈現在大分県西国東郡香々地町〉香々地善照寺にして、主催は北部教育会なり。郡役所書記藤原米太郎氏、哲学館出身者高井栄次郎氏、ここにきたりて迎えらる。教育会長利光鉄平氏、住職江口慈雲氏、村長江口浦治郎氏、校長後藤助九郎氏等尽力あり。

 十二日 雨。善照寺書院にありて、雨中の景を詠ず。

野寺蕭疎欲起遅、暁窓独坐雨如糸、薑山半被微雲隔、愛見夏光一段奇、

(村はずれにある寺はどこかものさびしく、なにをするにもゆるやかになってしまう。夜あけの窓辺にひとり座してみれば、雨が糸のようにふりしきる。薑山のなかばはかすかな雲におおわれて遠く、夏の光のかくべつな良さをめでるのである。)

 隧門を通過すること数次にして臼野村〈現在大分県西国東郡真玉町〉に入る。数百の児童、大雨をおかし整々として出でて迎う。

路過隧門暗又明、腕車時向猪峰行、山村堪喜人情厚、数百児童侵雨迎、

(道は隧道を通るため明暗をくりかえし、人力車はまさに猪峰〔猪群山〕に向かって行く。山村は人情の厚いことまことに喜ぶべく、数百人の児童が雨の中を出迎えてくれたのであった。)

 会場は来迎寺なり。聴衆、また大雨をつきて集まる。諸般の準備よく整頓せり。村長安永常胤氏、医師熊野御堂幸一氏、高等小学校長河野完吾氏等、大いに尽力あり。また、曜日蒼竜氏も同じく尽力せらる。演説後、茶話会あり。

 十三日 晴れ。客中、晨起の一作あり。

夜来豪雨過、鳥語報新晴、客枕吟情動、暁窓道念生、雲収猪峰臥、水走正江鳴、晨起成何事、閑田試筆耕、

(昨夜来の豪雨もやんで、鳥のさえずりは新鮮な晴天をつげる。旅枕に吟詠の情がおこり、あかつきの窓辺に求道の心もあらたにうまれた。雲もない猪峰がよこたわり、水をあつめたかわはごうごうと音高く流れる。あさ起きて何をなさんとするか、すなわち暇にまかせて筆をはしらせようとするのである。)

 また、曜日氏の恵詩に次韻せるもの左のごとし。

世上是非何足論、渓山深処養心源、羨君独占斯霊境、物外別開春一元、

(世にいう是非なぞは論ずるにあたいしない、谷と山の深いところで心のみなもとを養成している。うらやましいことに君はこの霊妙の地をひとりじめし、世俗からはなれて春の根元をさとるのである。)

君言我是老成人、知否春秋未五旬、徒発大声驚俚耳、自称半俗半僧身、

(君はいう、われは老いたる人なりと。人々は知っているのであろうか、まだ年齢が五十に満たないことを。ただ、ときには大声を発して村人の耳をおどろかし、みずからは半ばは俗人、半ばは僧の身であると称している。)

 生徒、また出でて余行を送る。午時、高田町万歳館に着す。午後、玉津〈現在大分県豊後高田市〉高等校において講演をなす。教育会の依頼なり。校長近藤卓爾氏、斡旋の労をとらる。

 十四日 晴れ。午後、玉津光円寺にて開会す。住職難波十洲氏、病床にありながら詩を賦して余を迎う。余また、これに唱和す。

君在病牀異俗流、逍遥物外似荘周、誦来高作初相識、身不自由心自由、

(君は病床にあるも世の人とは異なり、世俗のそとにゆうゆうと満足して、まるで道家の荘子のようである。すぐれた詩を私に寄せられたので初めてしりあった。身は不自由であるが、心はまことに自由な人なのである。)

 夜中は高田〔町〕〈現在大分県豊後高田市〉妙寿寺にて開演す。住職金谷速水氏は旧面識あり。一詩を賦呈す。

亀齢期万歳、妙寿是如来、日々吾何幸、在斯不老台、

(亀のよわいは一万歳をねがい、妙寿なるものは如来である。日々の私はなんと幸せなことか、この不老台に身を寄せているのだ。)

 万歳館に止宿して、妙寿寺に出入するの意を寓するなり。

 十五日 晴れ。午後夜分両度、妙寿寺に出演す。渋谷智淵氏、四日市別院より来訪あり。別院管事福田観樹氏の来訪を謝絶せんと欲し、狂歌をよみて同氏に託す。福田氏とは十五年間相会せず。

  わしははや白髪仲間に入りにけり、あなたにあふも心はづかし、

 今日、旧暦端午にあたる。市中、軒前に菖蒲を懸くるを見る。桂水橋畔楼上の晩餐会に出席し、一詩を案出す。

一帯仙橋少往還、車声不到客楼閑、高陽風月人知否、集在応山桂水間、

(ひとすじの仙人がわたるような橋は人の往来も少なく、車の音もひびかぬほどで旅館の高殿は静かである。この高田の風月について人は知っているのか否か、その景観の美は応永山と桂川の間にそなわっているのである。)

 応山とは応永山のことなり。当地開会は双翼会の発起にかかる。その主なる尽力者は金谷速水氏、高井佐市氏、同専太郎氏、渡辺植蔵氏、鶴田与吉氏、是永宗吉氏、高井栄次郎氏等なり。郡長中島彦太郎氏、郡書記沢田元太郎氏、前郡視学榎本四郎治氏の尽力またすくなからず。

 十六日 晴れ。午前、高田を発し、山行数里にして田染村〈現在大分県豊後高田市〉に着す。途上所見、左のごとし。

武陵渓上路横斜、欲賞夏光時駐車、万緑叢中紅点々、杜鵑無語只看花、

(武陵桃源郷のごとき谷のほとり、道は斜めによこぎり、夏の光にきらめく風景をめでようと、ときどきは車をとどめたのだった。すべてが緑におおわれ、くさむらにあかい花が点々と色を添えているが、ほととぎすの声もなく、ただ花をみるのみであった。)

 所々、刈麦すでに終わりて挿秧を始む。農家の繁忙知るべし。田染村に入るや、生徒路傍へ整列して歓迎す。会場は小学校なり。

 十七日 雨。当村には八景あり。その中にて奇なるは鍋山の勝なり。晨起してここに吟笻をひく。昨日以来の経過を詩中に入るる。

端午時過梅漸黄、渓辺已見挿新秧、薫風西叡山南路、一夜来投田染郷、

(端午の時節もとうにすぎて梅はようやく黄ばみ、谷川のあたりではすでに新しい苗が植えられているのを見た。初夏の青葉をふく風のなか、西叡山の南の道をたどり、一夜を田染村にすごしたのであった。)

樹色入窓灯影青、水声懸処認飛蛍、淡雲繊月多幽趣、繞屋翠巒為枕屏、

(濃い樹木の色が窓辺より入って、ともしびも青みをおびるかと思われ、渓水の流れる音のするあたりに蛍のとびかうのが見える。淡い雲やかぼそい月など、ここには奥深いおもむきがあり、家をめぐるみどりの山々はまるで枕屏風のように思われたのであった。)

晨起行過古社西、危岩兀立似雲梯、天工奇絶比無物、俚俗呼成小馬渓、

(朝早くに古い社〔やしろ〕の西を散策すれば、めずらしい形をした岩が高く立ちあがって、まるで雲にとどくはしごのようである。自然のたくみの絶妙であることは比べるものとてなく、この地の人々は小耶馬渓と呼んでいる。)

 人これを小馬渓と呼ぶも、決して耶馬渓の付庸にあらず。あるいは紀南の瀞八丁に似、あるいは小豆島の寒霞渓に似たるところありて、全然独立せる一奇勝なり。これを鍋谷というは雅称にあらず。よって余は南屏峡と名付く。西叡山と好一対となる。田染八勝とは大堂梵鐘、熊岳山桜、桑川流蛍、池部群鷺、間戸涼蟾、本宮晴嵐、鍋崕叫猿、叡峰雪暁をいう。余、一詩に八勝を入るる。

田染由来風月幽、国東此景最為優、雪明西叡峯頭暁、猿呌南屏峡畔秋、間戸桑川宜夏望、本宮熊岳適春遊、鷺飛鐘吼朝兼夕、八勝四時好散憂、

(田染の地はもとより風月もおくゆかしく、国東地方におけるこの風景はもっともすぐれたものである。雪をいただく西叡山峰のあかつきのさま、猿の叫ぶ声がひびく南屏峡の秋、間戸の桑川は夏のおもむきをみるによく、本宮の熊岳山は春の行楽によし。鷺がとび梵鐘は朝夕ともにひびきわたる。田染の八景勝は四季を通じて人の世の憂いを消すによい。)

 聞く、臼野にも八勝ありという。余、これを一見せざりしは遺憾なり。午後、大雨をおかして出演す。後に茶話会ありて、修身教会設置を決議す。発起者中に特に尽力ありしは豊田玄智氏、吉田秀導氏、桑尾重代氏等なり。桑尾氏は校長なり。

 十八日 曇り。鍋谷を経て田原村〈現在大分県西国東郡大田村〉に入る。生徒の歓迎、田染に異ならず。この辺り山容雲態おのずから仙郷の趣あり。「南屏峡外一郷開、雨過挿秧処々催、雲容山態非人境、民情風俗亦蓬莱」(南屏峡のはずれに一村がひらけ、雨あがりのなかところどころで田植えがおこなわれている。雲のすがた山のようすは人の住むところとも思われぬ。この地の人の心も風俗もまた神仙が住むという蓬莱のおもむきがあるのである。)を吟詠しつつ宝陀寺に着す。寺は大同年間の創立にして、有名の古刹なり。山門は丘上にあり、緑陰庭に満つる所、燕子花を見る。夏光の間、雅なるは愛すべし。

林邱高処有禅門、燕子花開夏色繁、竹筧懸庭水声冷、宝陀台上浸吟魂、

(林の丘の高みに禅寺の山門があり、かきつばたの花が開いて夏の色もいよいよ濃い。竹のかけいが庭にかかって水の音にもひややかさを覚え、宝陀寺のうてなの上で詩想にひたるのであった。)

 午後開演す。農繁にもかかわらず聴衆充塞す。演説後、修身教会開設の議事あり。村長後藤礼作氏、大いに尽力せらる。校長植田六之助氏および有志家本明、後藤、宮川、安東諸氏また助力せらる。当地には私立中学あり。当村は現に県下の模範村なり。

 十九日 晴れ。早朝、田原を発し、泥路をわたり、車行六里、宇佐郡長洲町〈現在大分県宇佐市〉に至りて開演す。聴衆満堂、近時の盛会を得たり。会場および宿所は妙満寺なり。住職長岡大唱氏、白石覚暢氏、金林憲映氏、長岡泰善氏、特に尽力せらる。当地は駅館川を隔てて汽車の停車場あり。鹿児島以来三カ月を経てはじめて汽車の笛声を聞く。長橋あり、小松橋という。

路過高田一望平、長洲駅外巨川横、小松橋上清風足、吹送汽声入梵城、

(道は高田をすぎるとみわたすかぎり平らかで、長洲駅のそばに大きな川、駅館川が流れている。この川にかかる小松橋の上に立てば、ゆるやかな清風が吹いていて、汽笛の音に送られるようにして妙満寺に着いたのであった。)

 演説後、茶話会あり。

 二十日 晴れ。長洲より封戸村〈現在大分県宇佐市、豊後高田市〉水崎西光寺に移り、午後開会す。仏教交話会の主催なり。住職は東陽円成氏にして、私塾を開き学生を教養せらる。その父円月師は宗門内の碩学にして、数年前入寂せられしも、学舎は依然として継続せられ、数十名の寄宿生あり。堂前に頌徳碑高く樹間に卓立す。

師去星霜此六移、高風今尚使人思、入門堪仰西光寺、堂外卓然頌徳碑、

(円月師が入寂されてからここに六年を経たのだが、そのすぐれた人柄は今日もなお人々に慕われている。門を入って西光寺を仰ぎみるに、本堂の前にはたかだかと頌徳碑が立っているのである。)

 二十一日 晴れ。午後、演説および茶話会あり。前貴族院議員某氏の嘱に応じて賀寿の詩を賦す。

豊陽送老涯、風月自成家、仙骨清如鶴、童心美似花、対人傾敬愛、持己避浮華、積善有余慶、一門皆吐葩、

(豊後の地に老いのかぎりをすごし、風月をもっておのずから家としている。仙人のごとき風采は清らかであること鶴のように、童のごとき心は美しきこと花のようである。人に対しては敬愛をつくし、己を保持するに華美で実のないことをさける。善行を積み重ねれば子孫におよぶ幸福があり、それ故に一門はみな花開くがごとく繁栄するのである。)

 東陽氏および大窪徳市氏、水之江毅氏、松岡松治氏の尽力すくなからず。

 二十二日 晴れ。午前、塾生に対して一言し、午後、西光寺を辞して帰東の途に上る。長洲にて汽車に駕す。東陽氏および塾生一同、双翼会代表者、長洲発起者、渋谷、高井両氏、哲学館出身者等、多数の送行あり。また、車中にて宇佐郡長松岡公達氏に会す。随行藤村氏とともに同車して馬関を経、二十四日朝七時半、新橋に安着す。

 日向地方平地多くして山水の景に乏しきは、予想外に感ぜしと同時に、豊後地の平地に乏しくして山水の景に富めるは、また想像の外に出でたり。紀州熊野地と相対して日本の絶勝地と定むべし。人情も淳朴にして、よく賓客を厚遇款待する風あり。また、風流を愛し雅致を喜ぶ風あり。ただ、公道および公共物に楽書を見ること、他府県より多きように感じたり。また、迷信も比較的多きがごとく認めり。また、宗教は一般に普及するも、旧式を固守するにとどまり、活動の風あるを見ず。学校教育も一段の発展を要するがごとし。これ、余が今より修身教会を開設して公徳を養成し、風俗を矯正し迷信を一掃し、人をして進取活動せしむるの必要を感じたるゆえんなり。

     大分県開会一覧表(五月八日より六月二十一日まで四十五日間)

   市郡    町村    会場           演説   聴衆    主催

  南海部郡  佐伯町   小学校           二席  各四百人  郡教育会

  同     同     寺院            二席  各六百人  町内有志

  北海部郡  臼杵町   寺院            二席  各七百人  町内有志

  同     佐賀関町  寺院            二席  各四百人  町内有志

  大野郡   三重町   寺院            二席  各五百人  町内有志

  同     犬飼町   寺院            二席  各三百人  町内有志

  同     牧口村   小学校           二席  各四百人  村内有志

  同     田中村   小学校           二席  各二百人  直入、大野両郡教育会

  同     同     寺院            二席  各二百人  村内有志

  直入郡   竹田町   劇場            四席  各八百人  町内有志

  同     同     中学校および高等小学〔校〕  一席  五百人   中学校

  同     長湯村   小学校           二席  各四百人  村内有志

  同     久住村   小学校           二席  各三百人  村内有志

  同     城原村   小学校           二席  各五百人  村内有志

  同     荻村    小学校           二席  各三百人  村内有志

  大分郡   大分町   県会議事堂         四席  各千人   町内有志

  同     同     師範学校          一席  三百人   師範学校

  同     同     中学校           二席  各四百人  中学校

  同     同     高等女学校         一席  五百人   高等女学校

  同     同     私立中学擷芳園       一席  百五十人  擷芳園

  同     同     県会議事堂         二席  各四百人  県教育会

  同     鶴崎町   神宮奉斎会         二席  各五百人  町内有志

  同     戸次村   寺院            二席  各六百人  村内有志

  同     日岡村   寺院            二席  各五百人  村内有志

  同     植田村   小学校           二席  各三百人  村内有志

  速見郡   別府町   寺院            二席  各六百人  町内有志

  同     浜脇町   会館            二席  各三百人  町内有志

  同     豊岡町   寺院            二席  各三百人  町内有志

  同     日出町   劇場            四席  各六百人  町内有志

  同     同     同             二席  各二百人  婦人会

  同     杵築町   劇場            二席  各八百人  町内有志

  同     同     寺院            一席  三百人   中学校

  同     御越町   寺院            二席  各七百人  町内有志

  東国東郡  国東町   郡会議事堂         二席  各七百人  町内有志

  同     安岐町   寺院            二席  各五百人  町内有志

  同     富来町   寺院            二席  各千人   町内有志

  同     伊美村   寺院            二席  各五百人  三村合同

  同     熊毛村   寺院            二席  各六百人  村内有志

  西国東郡  玉津町   小学校           二席  各四百人  中部教育会

  同     同     寺院            二席  各四百人  双翼会

  同     高田町   寺院            二席  各四百人  双翼会

  同     同     寺院            一席  六百人   婦人会

  同     田染村   小学校           四席  各三百人  村内有志

  同     田原村   寺院            二席  各三百人  村内有志

  同     岬村    寺院            二席  各五百人  北部教育会

  同     臼野村   寺院            二席  各六百人  村内有志

  宇佐郡   長洲町   寺院            二席  各八百人  寺院有志

  同     封戸村   寺院            四席  各二百人  仏教交話会

   以上合計 九郡、二十町、十六村、四十八カ所、百席、二万二千七百五十人

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北海道南西部紀行

 明治四十年七月二十一日。哲学館出身青樹了栄氏とともに東京を発し、海岸線により仙台、盛岡を経て、翌二日朝、青森に着し、これより汽船玄海丸にて函館〈現在北海道函館市〉に入る。有志者数十名、特に小汽船をやといて歓迎せらる。宿坊は大谷派本願寺別院なり。

 七月二十三日 晴れ。午後、別院において開演す。聴衆、約一千名と算す。夕刻より講習会の発会式あり。会期五日間にして、会員およそ百名。函館仏教懇話会の発起なり。別院輪番青塚慈然氏、実にその主幹たり。余、かつて明治二十五年の夏期、北海道に遊び、爾来星霜十六移すといえども、市街の盛況に関しては格別の変動あるを認めず、また、湾内の風光のごときも依然として旧来の美観を存す。しかして汽船の碇舶するもの多きは、昔日の比にあらざるなり。

 二十四日 晴れ。午後、船見町支院において開演し、更に教育会の依頼に応じて、弥生小学校において講話をなす。夜に入りて公園の晩餐会に出席す。区長山田邦彦氏の招待なり。

 二十五日 晴れ。午後、別院において婦人会のために演述す。講習会は毎日四時より開演す。当地には哲学館出身上田大法(高竜寺住職)、石沢宇記(恵以小学校長)、四ツ柳亮策(旧姓海老原)等の諸氏あり。また、岡崎元雄氏の小樽よりきたり、鈴木信雄氏の大沼よりきたり、森覚明氏の根室よりきたり会するあり。よって二十八日、大沼公園において同窓会を開くことに定む。

 二十六日 晴れ。午前、商業学校において講話し、のち富岡町会所において開演す。商業学校長は神山和雄氏なり。

 二十七日 晴れ。午前、中学校において講話す。校長は武田安之助氏なり。教諭武宮環氏は旧知友にして、もと哲学館に教鞭をとりしことあり。当日、校長の宅において午餐の饗応を得たり。午前、別院において公開演説あり。聴衆満堂、大数二千五百人ありと称す。すこぶる盛会なり。また夜中、海岸町説教所において開演す。別院内にありては青塚輪番、録事藤井秀雄氏、会計役渡辺寛三郎氏、市中有志熊谷経太郎氏等、大いに尽力あり。また、支庁および区役所の配慮を煩わせしことすくなからず。支庁長は竜岡信熊氏なり。

 今回、北海道および樺太に漫遊せんと欲して、函館滞在中に賦したる拙吟二首あり。

都門狭不適容身、去向北溟将尽浜、山遠水長天地濶、風光好養我精神、

(東京はわが身をおくにはせますぎる思いがして、北溟の地に向かい海浜の果てを見極めようと旅に出た。山と水は遠く長く、天地はひろい、風光もまたよく、わが心を養うにはよいところである。)

久旱人心望沛然、霊苗枯渇転堪憐、汲来教育淵源水、欲潅北門十国田、

(久しくひでりのごとき人の心に大いなる雨を望むも、霊妙なる苗も枯れ果ていささか憐れをもよおす。そこで教育のみなもとなる水をくんで、北海道十国の田にそそごうというのである。)

 在函中、帝室技芸員伊藤平左衛門氏、達磨欠伸の木像を贈られたるに対し、「春秋垂八十、矍钁圧青年、老手凝神妙、技名天下伝」(よわいはほとんど八十歳になられようとするが、かくしゃくとして若者を圧倒している。経験豊かな腕前は神妙の域に達し、その技は天下に広く伝えられるところである。)の詩を賦して厚意を答謝す。

 二十八日(日曜) 晴れ。午前、函館を発車す。山田区長、武田中学校長等、十余名の送行をかたじけのうす。午前一時、大沼公園〈現在北海道亀田郡七飯町〉に降車し、鈴木信雄氏の案内にて紅葉館に休泊す。館前の風光は実に対画の観あり。大谷派説教所において一席の講話をなし、引き続き同窓会を開かんと欲し、湖上に船をうかべて納涼の清遊をなす。会するもの、青塚輪番、武宮教諭、鈴木、石沢、森、四柳等の哲学館出身の諸氏なり。大沼公園は北海第一の絶勝と称し、天然の大公園なり。大沼、小沼、蓴菜沼の三湖数里にまたがれるものと、その中に散在せる大小の群嶼百余を合し、これに北海道公園の名称を付せり。一見松島のごとく、また、スイスの景に似たるところあり。

探勝偶来大沼頭、北門此景最為優、湖光巒影交山色、半似松洲半瑞州、

(景勝をたずねて、たまたま大沼のほとりに来た。北海道でもこの景色は最も優美である。湖の輝き、山の姿は緑と交わり、なかばは奥州松島に似て、なかばはスイスの景色のようでもある。)

 小舟に棹さして群嶼の間に出没し、駒ケ岳の一角、碧空をつきて巍立するを望むところ、波頭風を生じ樹陰涼を送り、その壮観幽趣は到底筆紙の力の及ぶところにあらず。半日の清遊よく暑氛を払い、旅情を散ずるを得たり。

 二十九日 晴れ。早朝、鈴木氏とともに再び暁煙を破りて湖上の船遊を試む。嵐気染むるがごとく、清景洗うがごとし。

湖上清風払暁煙、駒峯一角欲衝天、青巒点々看堪訝、紅葉軒前画幅懸、

(湖上の清風は夜明けのもやを吹きはらい、かなたに見える駒ヶ岳の一角は天をつかんばかりである。青い山なみは点々として目をとどめるにあたいし、紅葉館の前には一幅の絵をかかげてあるのにひとしい。)

 大沼開会には宇喜多秀夫氏および宮川勇氏(紅葉館主人)が、主催者鈴木氏を助けられたり。午後、黒松内〈現在北海道寿都郡黒松内町〉駅に着す。発起者安部正人氏、余を迎え、楽隊とともに井上徳之助氏の宅に入る。午後、小学校において開会す。当駅は新開地にして、全村の戸数八百戸あるも、その本籍を検するに三十二府県にわたるという。途上、野花の人目を引くものあるを見て一作を試む。

人跡疎々草色濃、野花何意独為容、炊煙懸処汽声起、鉄路衝風入黒松、

(人跡もまばらな地は草の色も濃く、野の花がどのような心であるのか、独特の姿をみせている。かまどの煙のあがるあたりに汽笛の音がひびき、鉄道を利して風のなかを黒松内に入ったのであった。)

 三十日 晴れ。午後、小学校において開会。夜中、当地大谷派説教所において婦人会のために演説す。会場の長は旭円了氏にして、宿所の主人は井上徳之助氏なれば、二者の姓名が井上円了を組み立つるを得るはすこぶる奇なり。当地にて尽力せられしは、右両氏と安部氏、沢田利吉氏、本間繁彦氏等なり。

 三十一日 晴れ。午前、黒松内を発し、安部氏とともに馬車を駆りて寿都町〈現在北海道寿都郡寿都町〉に移る。楽隊をもって歓迎せらる。宿所および会場は善竜寺なり。住職を旭湛然氏という。途中の所見、詩中に入るる。

草原一路緑煙迷、村外清風送馬蹄、望断朱江流尽処、寿都遥在碧湾西、

(草原のひとすじの道は緑にぼんやりとけぶり、村はずれの清らかな風は馬車を送るかのように吹く。ながめは朱太川の流れる果てに尽き、寿都の町ははるかに、みどり色の湾の西にあるのだ。)

 朱江とは朱太川をいう。流れて寿都湾に入る。また、湾の西にある山岳を月越山といい、東にある山岳を雷電山という。これ女人禁制山にして、古代は雷電以東に女子の踏み入るを許さざりき。

 八月一日 晴れ。午後、小学校にて開会す。町長小町佐吉氏、助役沢田嘉伝氏、支庁長代理佐藤庄吉氏、教育会理事新井田隆氏、有志家中田善八氏等、みな尽力あり。哲学館出身泉孝全氏は曹洞宗竜洞院の住職たり。

 二日 晴れ。馬車を駆りて磯谷村〈現在北海道寿都郡寿都町、磯谷郡蘭越町〉に移る。宿所は大西作松氏の宅にして、会場は願翁寺なり。村長穂積牧夫氏、校長成田藤太郎氏、相賀和三郎、小島幸吉等の諸氏、みな尽力あり。寿都および磯谷は曾遊の地なれば、詩をもってその意を述ぶ。

講道重来北海浜、荒原依旧望茫然、追懐十五年前跡、雷電山下開法筵、

(人の道を説きつつ再びこの北海の浜辺に来たが、荒原は以前とかわらず、みわたせばただひろびろとしているだけである。十五年前のことを思い起こせば、雷電山のふもとで法話の席を開いたのであった。)

 三日 晴れ。午前、大西氏の庭前にて撮影して汽船に上り、雷電山の断崖を望見して岩内に至る。船中の所見は詩中に入るる。

寿都湾外一帆風、波上渺茫朝気篭、山霧断処雷電出、懸崕高在半空中、

(寿都湾の外、帆は風をうけて、波の上に果てしなくひろがる朝もやのなかをすすむ。山霧の切れるところに雷電山がそびえ、その断崖の高いところはなかば空中にうかんでいるように見える。)

 岩内町〈現在北海道岩内郡岩内町〉にては旗をたてて多数の歓迎者あり。宿所は智恵光寺なり。福島什山氏これに住す。午後は同寺において、夜分は劇場において開演す。聴衆、千人をもって算す。すこぶる盛会なり。岩内は支庁所在地にして、その繁盛は函館、小樽に次ぐという。支庁長は山田有斌氏なり。町長は上京中にて不在なれば、書記道沢敬蔵氏代理せらる。

 四日(日曜) 晴れ。午後、岩内女子小学校にて講演す。校長は横山長蔵氏なり。夜分は前日のごとく劇場にて公開す。当地開会は智恵光寺の主催なり。

 五日 晴れ。午後、女子小学校において開会す。青年会の発起なり。長谷川潔氏その主事たり。夜分、劇場の開会は前のごとし。本年は北海道稀有の大暑にして、黒松内開会後連日炎晴、寒暖計〔華氏〕九十度を上下す。その暑気ほとんど内地に異なることなし。

 六日 晴れ。午前、鉄道馬車に駕して小沢に移る。この間、水田多く稲色蒼々たり。小沢町および南尻別村より臨時招聘ありしも、時日なきをもって謝絶し、小沢より汽車に投じて余市町〈現在北海道余市郡余市町〉に至る。途上、渓山の間を出没せるも、蝉声を聞くことなく、山田の麦色ようやく黄を帯ぶるを見る。その実景を写すこと左のごとし。

鉄車窓外望山田、麦熟隴頭黄色連、堪怪北門三伏日、渓辺風冷樹無蝉、

(汽車の窓から山や田をながめるに、ときに麦が熟して、うねは黄色に染まって連なる。あやしいことに北海道の三伏〔極暑の時期〕には、たにのほとりに風が冷たく吹き、樹々には蝉の声もないのである。)

 余市停車場より町長田中久蔵氏、即信寺住職亀谷教恵氏とともに、馬車に駕して即信寺に入る。午後、小学校において開演す。

 七日 晴れ。午後、小学校において開演すること前日のごとし。宿所は即信寺なり。住職亀谷氏、町長田中氏、徳光大次郎氏、横浜竹蔵氏等尽力あり。余市は林檎の産地にして、果林いたるところに満つ。

余市湾頭福海深、家々漁得幾千金、又将余力開荒野、村外青山多果林、

(余市湾のあたりは利益をもたらす海が深く、家々の漁利は数千金を重ねるほどである。その一方で余力をもって荒野を開墾し、村をとりまく丘山には果樹が多くうえられている。)

 八日 晴れ。余市より漁船に乗じて美国町〈現在北海道積丹郡積丹町〉に向かう。危巌海中に兀立して、天然の石碑のごときものあり、俗にこれを蝋燭岩という。沿岸数里の間、断崖屏立するありて、実に奇景なり。ただ炎威やくがごとく、舟中苦熱の状あり。

穏波数里棹軽舟、坐見石屏横岸頭、美国未来時已午、日烘背上汗如油、

(おだやかな海上を数里のあいだ軽舟をあやつって行き、舟中に座して断崖の屏風のように海岸に立つさまを見る。美国町に着かぬうちに時刻は正午となり、日差しは背をあぶるように強く、汗は油をしぼるようににじみ出るのであった。)

 午後、古平に上陸し、宝海寺に一休の後、歩行して美国に至る。

  名を聞きて尼すむ里と思ひしに、来りて見れば美国なりけり、

 右の狂歌を浮かぶ。余市より吉岡芳照氏同行して古平に至り、これより先駆して美国に向かう。「有僧鞭馬去、意気欲衝空、美国村何処、長駆入梵宮」(一僧侶が馬にむちうってかけ去る。その意気は天をつかんばかりである。美国の村はいずれであろうかと、遠く馳せて寺院に入ったのである。)の句を書してこれに贈る。美国宿所および会場は威光寺なり。午後開会す。町長岩淵三樹蔵氏、威光寺住職道房顕道氏、小学校長工藤謙次氏等尽力あり。

 九日 晴れ。有志家笹谷推太郎氏の宅に少憩して舟を待ち、午後一時上船、積丹郡に移る。四時、余別村〈現在北海道積丹郡積丹町〉字来岸に上陸して一席の講話をなし、ただちに余別教照寺に移りて開会す。この辺りすべて漁村にして、鰊漁を本業とす。神威岬は近く数十町の間にあり。当地開会に関しては、村長小川幾馬、教照寺住職代理畠山是忍氏、有志家長谷川潔氏尽力あり。

 十日 晴れ。午前、馬上にて余別を発し、炎暑をおかして行くこと七里、美国を経て古平〔町〕〈現在北海道古平郡古平町〉に至る。途上、数里にまたがる荒原あり、往々牧場を見る。

清風吹送馬蹄軽、樵路一条傍海行、八月積丹夏猶浅、不聞蝉語只鴬声、

(清らかな風に吹き送られるように馬のひづめも軽く、きこりみちがひとすじ海のかたわらを通っているのを行くのである。八月とはいえ積丹の夏はまだ浅く、蝉の声も聞こえず、ただ鴬の声を聞くのみであった。)

 古平宝海寺に入りしは午後五時なり。これより同寺において開演す。

 十一日(日曜) 晴れ。午後、小学校において開会す。宝海寺住職西館純一氏、町長高野常吉氏、校長山本藤造氏、有志家仲谷清太郎氏等尽力あり。西館氏は先年以来の知人にして、明年還暦に達すといえるを聞き、予祝の詩を賦してこれに贈る。

法輪再転古平来、宝海相逢呼快哉、欲祝明年還暦寿、為君傾尽酒三杯、

(かつて仏法の輪をめぐらしてきたものだが、ここに再び古平の町にきて、宝海寺で再会して思わず快哉をさけんだものである。明年は還暦のよわいを迎えると聞いたので、あらかじめ祝おうと思い、君のために酒杯を傾けたのでありました。)

 十二日 晴れ。漁舟に乗じて余市に至る。亀谷教恵氏と停車場に相会す。また車中、黒松内発起者安部氏と相会す。午時、小樽〈現在北海道小樽市〉に着す。量徳寺住職岡崎元雄氏、各宗寺院、婦人会員等、数十名の歓迎あり。宿坊は量徳寺なり。午後、同寺において開会す。夜に入りて講習会あり。出席者約七百名、すこぶる盛会なり。小樽有力者渡辺兵四郎、藤山要吉、麻里英三、青木乙松、梅野喜平、渡辺三造、石橋彦三郎等の諸氏、みな発起者中に加わる。

 十三日 晴れ。午後、女子小学校において開演す。実業青年会および上宮会の発起なり。本間権太郎氏、上宮会の幹事たり。夜分、講習会は前日のごとし。

 十四日 晴れ。昼間、休息。夜間、講習会あり。量徳寺は北海道中屈指の大寺にして、書院広闊、庭園幽雅、ために連日の炎熱を避くるを得たり。門前に垂楊あり、故に詩をもってその風致を写す。

去京八月在天涯、愛見小樽消暑佳、松影灯青量徳寺、柳陰風緑入船街、追分一曲催帰思、札幌三杯散客懐、况復多情北溟月、連宵為我照前階、

(東京を去ってこの八月は天の果てのような遠い地にいる。小樽のまちをめでつつ暑熱をやわらげるによいと思う。松の影にともしびの青白くともる量徳寺、柳の陰に緑の風吹く入船街。追分節の一曲は故郷に帰りたい思いを起こさせるが、札幌ビールの数杯は旅人のものおもいを消す。ましてやまた感興を豊かにさせる北海の月が、夜ごと私のためにすすむべきところを照らしてくれているのだ。)

 十五日 晴れ。午前、本派本願寺において開演す。各宗円融会の発起にかかる。すなわち別院輪番富永照山氏、前輪番竜山雷雲氏、竜徳寺有田法宗氏、正法寺萩野抽童氏、高田派畑英揚氏等の発起なり。帰路、区長椿蓁一郎氏の宅を訪い、その厚意を謝す。

 十六日 晴れ。早朝、竜山雷雲氏とともに塚本商店に至り、店員に対し実業道徳談をなし、ついで手宮浄応寺に移りて開演す。島湛然氏その住職たり。副住職島大然氏は東洋大学在学中なり。稲積豊次郎氏、前川、岩田、布施等の諸氏尽力あり。浄応寺書院は小樽湾内を一瞰し、凡百の船舶を眼下に見るを得。

 十七日 晴れ。午前、寿亭にて開会す。みな円融会の発起なり。小樽は日露戦役後、樺太の一半わが版図に帰せし以来、とみに隆盛を加え、北門最第一の都会となり、船舶の出入、荷物の集散、横浜、神戸と匹敵するの勢いなり。その盛況の一端を賦すること左のごとし。

小樽湾繞小崔嵬、街路高低屋作堆、汽笛相応声不断、百船忽去百船来、

(小樽湾は起伏のはげしい山々にかこまれ、街路にも高低があり、家屋は積み重なるように建ちならぶ。船舶の汽笛はたがいにこたえるように鳴らされて絶えることなく、多くの船がたちまちに出航したかと思えば、また集まり来るのである。)

 当日、小樽支庁長河毛三郎氏の来問あり。

 十八日(日曜) 晴れ。午前、婦人会の開催あり。午後、講習会七日間の講演をなす。夜分、迎陽楼において椿区長、渡辺兵四郎氏等の慰労会をかたじけのうす。席上、追分節起こる。

欲挙酒杯尋旧盟、迎陽楼上幾回傾、酔来一曲追分起、余韻使人心亦清、

(酒杯をあげてふるいちぎりをあたためようとし、迎陽楼において杯をかたむく。酔うほどに一曲の追分節がきこえ、その余韻は人の心を清らかにさせたのだった。)

 十九日 雨。数十日間の炎晴、今日はじめて降雨ありて、人みな蘇生の思いをなす。終日、量徳寺に平臥して休養をなす。小樽滞在中、岡崎氏の厚意をになうことすくなからず、同寺内に修身教会事務所を置きて、各方面に向かい交渉の労をとられたるは深く謝するところなり。役僧松尾正雄、佐藤、武作諸氏、みな奔走の労をとられたり。

 二十日 雨。銭函〈現在北海道小樽市〉に移りて開会す。各宗寺院の発起にかかる。会場は本楽寺にして、住職は練子広宣氏なり。この地もと年々豊漁ありしをもって銭函の名ありしが、近年不漁引き続き、ために空函となれりとの説をきく。

 二十一日 晴れ。軽川〈現在北海道札幌市〉駅に移りて開演す。宿所は郵便局長国領氏の宅にして、会場は兼正寺なり。住職は土田兼利氏という。会後、近藤新太郎氏の案内にて、鉱泉光風館に浴詠す。近藤氏は実にその所有者なり。楼上眺望は石狩原野を眼下に控え、天塩の諸山を雲間に浮かべ、すこぶる快活なり。館の背後に手稲山あり。

手稲山根有湧泉、光風館上望無辺、迎凉浴後披襟坐、麦酒三杯養浩然、

(手稲山のふもとに鉱泉が湧きいで、光風館の上からの眺めは果てもない。涼を身に受けようと、沐浴の後に襟もとを開いて座し、ビールを傾けて浩然の気を養ったのである。)

鉄車数里日将曛、駅外清風払暑氛、路入軽川濶如海、余暉猶在遠山雲、

(汽車で行くこと数里、日もまさに暮れようとし、駅のそとは清らかな風が吹いて暑気をはらう。道に従って軽川に入れば、その広いことはまるで海のようであり、空に残る夕暮れの光は、遠い山にかかる雲を染めている。)

 二十二日 晴れ。午後、演説後軽川を発し、朝里〔村〕〈現在北海道小樽市〉に移りて夜会を開く。会場は量徳寺説教所なり。渡辺速祐氏その主任にして、村長林昌雄氏等の発起なり。

 二十三日。午前、朝里より帰樽し、量徳寺に一休して上川丸に乗船し、樺太行の途に就く。岡崎氏、竜山氏、島氏等、数名の送行をかたじけのうす。二時出帆。風浪やや高かりしが、日没に及びてようやく平穏に帰し、当夜旧暦七月の明月に会す。実に一天雲影なく、ただ一輪を檣頭に仰ぐのみ。暁天に近くに及び、霧気ようやく濛々たるを見る。その実景は律詩二首をもって写出す。

欲入樺洲洗俗肝、樽陽解纜上川丸、白雲宿処皆皇国、赤日沈辺是満韓、狂浪漸収船自静、長風未歇夏猶寒、吟身今夜眠難得、万里檣頭月一団、

(樺太に行き世俗にまみれた心を洗い流そうと思い、小樽から上川丸に乗って出航した。白雲のとどまるところはみなすめらみくにであり、夕日の沈むかなたには満州と朝鮮がある。はげしい波もしだいにおさまって、船もまたおのずから静かにすすんでいるが、遠くから吹いてくる風はまだやむことなく、夏にもかかわらず寒さを覚える。詩歌を友とする身にとって今夜は眠られず、はるかに行く帆柱の上には明月がまどかにかかっている。)

小樽湾外駕長鯨、口吐煤煙向北行、雲際流紅知日没、波頭戴白覚風生、夜深樺太星光冷、月満天塩山影明、一夢醒来朝霧暗、茫々何処凍栄城、

(小樽湾の外へ大船に乗って出て、黒い煙を吐きつつ北海に向かう。雲のあたりが赤く染まるときに日没を知り、波がしらが白くとぶときは風の起こるのがわかる。夜ふけて樺太の空に星の光がさむざむと見え、月の光みちて、天塩の山波が浮かぶ。一時の眠りよりさめてみれば朝霧のたちこめて暗く、ぼんやりとしてどのあたりが凍栄城〔コルサコフ〕なのであろうか。)

 〔以下、二十四日から二十八日まで樺太に滞在した。その部分は割愛した。〕

 二十九日 晴れ。午前十時、小樽へ入港。旅館越中屋に少憩して量徳寺に入宿し、増毛行の便船を待つ。東京へ向け安着の報を発し、添うるに「東京へいつ帰るかと人問はば北海道に雪のふる頃」の一首をもってす。樺太出発のとき、越後より舎弟藤井円順の訃音に接したれば、量徳寺において法要を営み、終日潔斎す。

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北海道西北部および北東部紀行

 明治四十年八月三十日 晴れ。夜八時、小樽より上船、雨たまたま至る。船小にして客多く、室満ちて、膝をいるるに苦しむほどなりしも、幸いに風波の平穏に会し安眠するを得たり。

一湾秋水滑如膏、数里舟行不聴涛、満室清風客眠穏、輪声護夢到増毛、

(湾内の秋の気配ただよわす水面はあぶらなぎとなり、数里の船旅には波の音もしなかった。客は船室に満ちるも清らかな風が吹き、人々の眠りもおだやかに、外輪の音は船客の夢をまもるようにして増毛に至ったのであった。)

 三十一日 晴れ。午前九時、入港。歓迎者多し。宿所は屋敷仁作氏の宅にして、会場は潤澄寺〔増毛町〈現在北海道増毛郡増毛町〉〕なり。前住職木林法城氏は哲学館館友にして、すこぶる名望ありしも、不幸にして隔世の人となり、その長男木村法恵氏は京北中学校出身なるも、在京中にして不在なり。よって役僧島津正淳氏もっぱら奔走尽力す。開会主催は町長水谷嘉一郎氏および潤澄寺なり。当地は支庁所在地にして、天塩第一の都会なり。鈴木沢吉氏は支庁長にして、牧信任氏は視学たり。

 九月一日(日曜) 晴れ。潤澄寺にて開会す。

 二日 晴れ。午前、小学校にて講演をなす。校長は小山内叶氏なり。増毛開会に関し、潤澄寺を主とし、町内の有志大いに尽力あり。午時、島津、屋敷両氏とともに馬車を駆り、途中、酒井清兵衛氏の宅に一休して留萌村〈現在北海道留萌市〉に移る。宿所は有志家山本仁三郎氏の宅なり。途上、一絶を得たり。

増毛山外傍湾行、青草白沙半日程、一道秋風日将暮、乱鴉声裏入留萌、

(増毛山のそとがわを湾にそってゆけば、青草と白砂をみつつ半日のみちのりである。道すじに秋風が吹き、日もまさに暮れようとして、みだれとぶ鴉のなく声のなかを留萌の町に入ったのである。)

 北海道はいたるところ鴉声耳をつく、海浜ことにはなはだし。留萌は新開の市街なるも、鉄路の予定地なりとてにわかに繁盛の状を現ぜり。志賀重昂氏もきたりてこの地にあり。

 三日 晴れ。午後、小学校にて開会す。村長は石沢兵吉氏にして、校長は対馬一清氏なり。当地開会は光明寺住職上野鴻順氏主催となり、各宗寺院これに協賛し、山本氏をはじめとし、村内有志諸氏、みな大いに尽力あり。曹洞宗久能大超氏は哲学館出身なり。小学教員菊池某氏も同様なり。

 四日 晴れ。午後、小学校にて開演し、夜分、光明寺にて講話をなす。ときに霊魂不滅の問いに対し、述懐の詩を掲げて説明す。

今来古往事茫然、夢裏匇々五十年、生死前途誰得識、一心只向大悲船、

(むかしから今までのことはぼんやりとしてとりとめなく、夢のなかのあわただしい人生五十年といえよう。生と死の先のことはいったいだれがわかるだろうか、だれにもわからないのだ。だからこそ一心にただ大慈悲の船にのらんとしたうのみなのである。)

 ときに函館火災の詳報に接し、その悲惨の情、実に人心をして寒からしむ。故にまた、一詩を賦して在函友人に贈る。

人世本無常、繁栄君勿恃、北門第一都、瞬息成焦土、

(人の世はもとより無常であって、君よ、繁栄もたよりにしてはいけない。北海道入り口第一の都会さえ、たちまちにして焼け野原となったのだから。)

 五日 晴れ。吉岡芳照氏とともに馬に鞭うちて留萌を去り、長駆して鬼鹿村に至り、住吉屋にて午餐を喫す。村長高橋竜太郎氏ほか有志の歓待あり。更に馬を走らして苫前村戸沢佐市氏宅に少憩す。羽幌より法流寺住職木越敬明氏、ここにきたりてわが行を迎う。木越氏は先年北海道巡回の随行員たり。これより砂路をわたり、高原をうがちて羽幌〔村〕〈現在北海道苫前郡羽幌町〉に入る。夜すでに八時なり。途上の所見を詩中に入るる。

遠隔微雲夕日舂、波間一碧是何峯、茫々羽幌原頭路、馬上秋風聴夜蛩、

(遠くへだたるところのかすかな雲を染めて夕日がしずむ。波まにみえる一点の緑はなんという峰なのであろうか。ひろびろとした羽幌原野の道をゆけば、馬上に秋風をうけて夜こおろぎの声をきいたのであった。)

 波間の一碧とは利尻山をいう。一行のまさに羽幌に入らんとするや、小学生徒、村内の有志数百名、旗を翻し灯を点じて盛んなる歓迎あり。宿所は道会議員大賀政次郎氏の宅なり。着後、劇場において開演す。聴衆満場、すこぶる盛会なり。この日、馬上にて山海の間十三里を跋渉し、大いに疲労を感ず。

 六日 雨。午前、午後ともに小学校にて演説す。夜中、懇親会ありて修身教会設置を議定せらる。大賀氏、木越氏をはじめとし、村長神谷孝三郎氏、分署長山田多一郎氏、寺院成沢祖心、河野鉄雄、有志家内山立三郎等の諸氏、みな大いに尽力あり。数日来の炎晴も夜来の驟雨のために一掃し去られ、いくぶんの清涼を覚ゆ。

原頭一夜宿茅楼、風雨蕭々羽幌秋、灯影無人滴声冷、天涯孤客思悠々、

(野のほとりに一夜をかやぶきの二階家に宿泊した。風と雨がものさびしい羽幌の秋である。ともしびの光に人もなく、雨のしずくの音が冷ややかにきこえ、空の果てのような地で孤独な旅人はおもいまどうのである。)

 終日、雲天濛々として山影を見ず、ただ草原茫々、海のごとき観あるのみ。

 七日 晴れ。出発に際し大賀氏のもとめに応じ、額面の富峰の図に題するに「羽幌秋風路、来投大賀家、壁間望蓮岳、帰思乱如麻、」(ここ羽幌の秋風の吹く道をたどり、身を大賀家に寄せたのである。壁にかけられた富士山の図を見て、帰りたい思いがおこり、心は麻のごとく乱れる。)の五絶をもってす。この日、羽幌有志の厚意により、特に汽船増毛丸を買い切り、焼尻島に直航す。上船の際、立崎熊次郎氏の宅に少憩す。同氏は羽幌の開山なりということを聞き、扇面に「身を忘れ羽幌の為めに尽しける君は此地の御開山なり」と書して贈る。午前十時、解纜。午後二時、焼尻〔村〕〈現在北海道苫前郡羽幌町〉着。小学校にて開会。会後、潤護寺にて茶話会あり。住職は三林潤護氏という。村長は四戸梅太郎氏なり。全島周囲三里、一株の樹木なく、風景蕭颯を極む。天売島と隣接し、その間、里ばかりの海峡あり。夜中十二時、日高丸に上船す。ときに狂歌一首を得たり。

  焼尻に来りて見れば樹木なし、山の尻まで焼尽しけり、

 八日(日曜) 晴れ。午前五時、利尻島鬼脇村〈現在北海道利尻郡利尻富士町・利尻町〉に入港し、真立寺に止宿す。会場は小学校なり。住職玉岡信之氏、村長原慎吾氏、有志桐山三四郎氏等尽力あり。当地にありて、「鬼脇と聞きて地獄の隣りかと思の外で極楽の里」の狂歌をよむ。利尻島は礼文島と隣接し、姉妹の形をなす。あたかも焼尻と天売と兄弟たるに似たり。後二者の山と樹木とのなきに反し、前二者は山あり樹ありて、自然に一種の風景を有す。なかんずく利尻島は一峰巍然として中央に聳立し、四面ひとしく蓮容を示し、その形富士に似て、しかもその風致に至りては富士以上の趣あり。

波際巍然利尻山、秋晴今日接孱顔、雲容樹色非人境、恰似武陵源上関、

(波うちぎわより利尻山が高だかとそびえ、秋晴れの今日、その高く険しいさまを間近にみた。雲の姿や樹木の色さえ世人の住むところとも思われず、それはあたかも武陵桃源の理想郷への関所のようであった。)

 途上、言文一致的の俗調をつづりて、「晴れてよし曇りてもよし利尻なる、山は駿河の富士かとぞ思ふ、」「利尻なる山は駿河の富士よりも、姿形ぞ見事なりける」、また、「山までもいなかにすまふかなしさに都人には知られざりけり」とよみたり。

 九日 雨。馬上鬼脇を発し、利尻山の右麓をめぐりて鴛泊村〈現在北海道利尻郡利尻富士町〉に至る。樹木はトド松多くして、山野の風景は全く樺太に似たり。沿岸みな漁場なり。夏時は網をさらして、春時に鰊魚のきたるを待つというを聞き、一詩を賦す。

海村連数里、日暖晒漁衣、浦上春風夕、満船載福帰、

(海べの村は数里に連なり、日の暖かいときには魚網を干す。浜べに春風の吹く夕べともなれば、船いっぱいに豊漁の福をのせて帰ってくるのである。)

 鴛泊は、会場は劇場にして、宿所は旅館なり。発起者は村長中村義夫氏、郵便局長能条伊之吉氏、本浄寺住職明石球磨氏等にして、ともに尽力あり。この地、巌頭海中に突出して天然の小湾港をなし、船舶の風波を避けて入るもの多し。天候ようやく悪し。夜に入りて暴風狂雨となり、怒涛岸を打つの声枕頭を襲いきたり、終宵夢を結び難し。

満天風雨客窓寒、半夜涛声到枕端、想起家郷慈母在、秋来猶未報平安、

(空をおおって風雨が激しく、旅荘の窓は寒ざむとして、真夜中、波涛の音が枕もとにひびく。ねむられぬままに故郷に慈母のいますを思う。秋の季節到来にもまだ無事であることを報告していないのだ。)

 十日 晴れ。風なおやまず、草鞋をうがちて鴛泊を発す。途上、狂風砂を巻きてきたる。所見一首あり。

利尻山根駅路長、沙原蓬草望茫々、碧波一帯礼文近、巒影帆光対夕陽、

(利尻山麓の村への道は遠く、砂はらとよもぎ草のはるかにひろがるさまをみる。青々とした海のあたりに礼文島が近く、山の姿と帆のかがやきが夕日にこたえるかのようである。)

 左方に利尻山を仰ぎ、右方に礼文島を望む所、風光ことに佳なり。この日、帆船数隻、風波のために破壊せられ、溺死者五十余名の多きに及ぶ。よって開会を中止し、旅館にありて休養す。窓前の利尻山、笑みを含みてわが無聊を慰む。

海天望処一峰高、山勢崔嵬気自豪、雨色晴光両佳絶、四時好作我吟曹、

(海と空をながめるところに山峰がそびえ、その姿は岩石多く険しさがあり、おもむきはおのずからたけだけしい。雨の色も晴れの光もともにすぐれて、朝、昼、夕、夜の四時に、よくわが吟詠のつかさとなるのである。)

 十一日 晴れ。午後、大泉寺〔沓形村〈現在北海道利尻郡利尻町〉〕にて開会、続きて茶話会あり。当地にては村長南弥八郎氏、大いに尽力せらる。増山高義氏、江川久太郎氏も助力あり。真宗寺院は大安寺(大派)、明源寺(本派)なりとす。

 十二日 晴れ。対岸の礼文島香深の礼香寺の招聘に応じて渡海の予定なりしも、風波のためにその意を達するを得ず、転じて仙法志村に移る。午後、歩行して沓形を発し、半途にて馬背にまたがり、薄暮、仙法志村〈現在北海道利尻郡利尻町・利尻富士町〉に入り、有志家伊藤磯八氏の宅に宿す。日沈みてなお残紅をとどめ、弦月すでに天空に現れ、風光えがくがごとし。

荷筆尋来北海辺、秋風浦上試吟鞭、夕陽沈処天如畵、利尻山南月一弦、

(筆をにないて北海のほとりをたずね、秋風吹く海べに吟詠をこころみる。夕日の沈むところの空はえがいたように美しく、利尻山の南にはゆみはり月がかかっている。)

 十三日 雨。午後、小学校において開会す。主催は村長池田斌太郎、校長上野常三郎、西円寺住職園家智証等の諸氏なり。夜に入りて馬上鬼脇に帰り、真立寺に宿す。これにおいて利尻島を一周せり。その里程、約十七里なり。

 十四日 晴れ。早朝、日高丸に駕し、礼文島香深を経て、北見国宗谷郡稚内町〈現在北海道稚内市〉に寄港す。たまたま風波高く、上陸の際困難を極む、

長空一帯礼文横、船過香深山影明、風起忽看宗谷暗、蹴波衝雨入辺城、

(遠い空のあたりに礼文島が横たわり、船は香深をよぎりて山影もあざやかである。風起こりたちまちに宗谷のあたりは暗さを加え、船は波をけたてて雨のなかを海辺の町に入ったのであった。)

 量徳寺住職吉田広海氏、端舟をもって迎えられ、支庁長前田正義氏、町長泉田政成氏、宮崎健三郎氏等数名の歓迎あり。宿所は泉谷別荘なり。

 十五日(日曜) 晴れ。夜、劇場鶴亀座に開会す。量徳寺の壁間に「家内中調子揃へて大笑ひ、是れ天然の音楽の声」と題せるを見て、これを詩に写す。

宗谷湾頭有梵城、壁間語句写真情、一家父子相和処、言笑自成天楽声、

(宗谷湾のほとりに寺院があり、その壁上にかけられている語句は真の心を書いたものである。一家父子のなごやかにするところは、笑いこそ天然の音楽であるという。)

 また、一作を案出して吉田広海氏に贈る。その詩は「有僧稚内里、二十一回人、宏量広於海、温容似福神」(僧として稚内の里に住む人あり、その人こそ二十一回の人である。心の大きいことは海よりも広く、その温かみをもつようすは福の神に似ている。)にして、二十一回は吉田の二字を分析せるなり。その顔容は七福神中の恵比須に似たり。

 十六日 晴れ。午後、灯台を一覧す。近く利尻の山容に接し、遠く樺太の陸端を望み、風光快活を覚ゆ。夜に入りて劇場にて開演す。

 十七日 晴れ。午前、小学校にて生徒のために談話をなし、夜中は前日のごとく劇場にて公開す。当地開会は前田支庁長、泉田町長、吉田氏等の尽力に成る。

 十八日 雨。午前、量徳寺にて講話をなし、午後、禅徳寺にて演説をなす。後者は各宗和親会の発起なり。会後、茶話会あり。当地『樺北新聞』一千号に達すると聞き、祝詩を贈る。

雖有新聞紙上光、峡間霧鎖昼茫々、自今更点千号燭、欲照北辰星下郷、

(新聞の紙上にはかがやきがあるのだが、海峡の上は霧にとざされて、昼もなおぼんやりとしているのだ。しかし、今よりは更に千号の燭をともし、北極星の下の村々を照らそうとしているのである。)

 この夕、支庁長ほか数名の諸氏の招きに応じて菅井楼にて晩餐をともにす。そのとき、追分の一曲起こる。

天涯孤客在辺城、菅井楼頭酒幾傾、一曲追分声細々、何人不起故園情、

(天涯孤独のおもむきをもつ旅人が海辺の町にとどまり、菅井楼で酒杯を傾けている。追分節の一曲がおこり、その声はほそぼそと哀切をおび、いかなる人にもふるさとへの思いをおこさせるのであった。)

 また、「追分の声いと寒し稚内の風」と題して楼主に贈る。

 十九日 雨。終日、船を待つもきたらず。船路、風波のために遮断せらるるによる。夜、量徳寺において会食す。ときに北海道固有の料理を供せらる。その味いずれも珍味なり。なかんずく三平汁と「ミフン」最も好評を得たり。三平汁は塩漬け鰊の吸い物にて、「ミフン」は鮭の塩からなり。「ミフン」の語ありて文字なし。よって、これに味芬の字を配合して一詩を賦す。

客中一夜酌僧房、卓上隹殽積作岡、二品最能適吾好、三平汁与味芬漿、

(客として一夜を僧房に酌みかわす。卓上にはとりと肴が山のごとく出された。そのうちの二品は最も私の好みに合うもので、それは三平汁と味芬〔ミフン〕の汁であった。)

 しかしてこの二品、塩味強くして、食後、渇を感ずることはなはだし。よって「三平も味芬も味はよけれども、後にのむ茶の味は格別」と詠ぜしも、座中の一笑を促せり。

 二十日 晴れ。船なおきたらず、終日徒然たり。当夜、月白く風清く、山低く海ひろく、一望おのずから物外に逍遥するの趣あり。

北海尽頭寄此躬、秋寒宗谷峡間風、雨過今夜天如洗、月満鵬山鯤水中、

(北海道の北端にこの身を寄せているが、秋の冷たさが宗谷海峡のあたりに吹く風にはこばれてくる。雨あがりの今夜の空は洗われたように澄み、月の光がおおとりの翼をひろげたような山や鯤のような大魚のおよぐ海に満ちみちている。)

 二十一日。午前三時、釧路丸入港の報あり、夜陰を破りて乗船す。前田、宮崎、吉田等の諸氏、霜気をおかして送行せられたるは、大いにその厚意を謝せざるを得ず。十一時、枝幸郡枝幸村〈現在北海道枝幸郡枝幸町〉に着す。宿所は藤野旅館なり。稚内よりここに至るの間、沿岸三十余里、一帯の連山起伏せるも高からず、林野ありて耕地なし、満目蕭寥を極む。枝幸は近来砂金を発見せしも、年々その採量を減ずるに従い、衰退の風あり。当夕、また天空遠く晴れ、月色皎々たり。

客窓夜気冷如霜、天外不知秋已央、枝幸湾頭一輪月、清光照及北氷洋、

(旅館の窓に夜気は冷ややかに霜を思わせ、はるかな地で秋もすでになかばであることに気づかなかった。枝幸湾の上には一輪の月が白くかがやき、その清らかな光は遠く北氷洋をも照らしているのだ。)

 二十二日(日曜) 曇晴。昼間および夜分両度、竜寛寺において開会し、その間に明因寺にて茶話会あり。明因寺住職清光可生氏および戸長富田迪氏、校長富沢吉甫氏等尽力せらる。当夕、三五の明月なるも、雲霧を隔てて見ることを得ざるは遺憾なり。昨年は壱岐の孤島にありて明月に会し、今秋は北見の遠陬にありて三五にあうも、また奇縁というべし。

 二十三日 晴れ。午前、小学校にて談話をなす。校内に米国天文博士の寄贈にかかる図書千巻を蔵す。更に竜寛寺に移りて講演をなす。各宗寺院の発起なり。午後一時、伊勢丸に投乗し紋別に向かう。この間、約三十里あり。雄武、興部に寄港して進む。陸上はただ山林の鬱葱たるを望むのみ。

 二十四日(秋季皇霊祭) 晴れ。午前九時、上陸。紋別郡紋別村〈現在北海道紋別市〉静春堂に入宿す。これ、医師名古屋憲英氏の宅なり。昼夜ともに円満寺にて開演す。住職は橘智照氏なり。静春堂上はるかに知床岬を望み、眺望すこぶる佳なり。

知床岬遠与雲斉、紋別湾頭望欲迷、風歇朝来秋水穏、静春堂上見漁鮭、

(知床の岬は遠く雲にも似て、紋別湾のほとりからはるかに見てみまごうばかりである。風もやんで朝ともなれば秋の澄んだ水もおだやかに、静春堂の上からは鮭漁が見えるのであった。)

 当時、まさしく鮭魚の時節なり。

 二十五日 晴れ。午後、小学校にて開演す。同郷人高野庄六氏に邂逅す。当夜、晩餐会あり。席上、村田氏の「アイノ」おどりを演ぜられたるは、大いに旅鬱を散ずるに足れり。当地開会に関し特に尽力ありしは橘、〔名〕古屋両氏なり。

 二十六日 晴れ。朝、紋別を発し、馬上にて行くこと七里、湧別村〈現在北海道紋別郡湧別町〉に入る。途上、野広く林深く、往々紅葉を見る。いたるところみな牧場なり。

原上無人払、露深牧草肥、夕陽村外路、牛馬倦遊帰、

(広い原野には人影すらまったくなく、露ふかく牧草も豊かである。夕日に染まる村はずれの道を、牛馬が放牧にうみあきたように帰るのである。)

 昼夜二回、大谷派説教所において開会す。当夕ここに宿泊す。この辺り耕地多し。薄荷の産地なり。哲学館出身市野篤直氏来訪あり。

 二十七日 雨。馬を駆りて一帯の砂路をわたり、右に猿間〔サロマ〕湖を見、左に茫々たる滄海を望み、「ワツカ」駅に一休して、常呂郡常呂村〈現在北海道常呂郡常呂町〉に入る。湖畔の風光は太古の趣あり。

辺郷九月転蕭疎、荒草沙原一望虚、尽日猿間湖上路、秋風躍馬入常閭、

(へんぴな村里の九月はいよいよ木の葉も落ちてさびしくまばらとなり、荒れた草地とすな原とは一望してなにものもなくむなしい。終日サロマ湖のほとりの道を行き、秋風のなか馬をおどらせるように常呂村に入った。)

 常呂の会場および宿所は本派説教所なり。夜会を開く。

 二十八日 晴れ。説教所長堀江専心、戸長梅木知義両氏とともに馬を走らせ、林巒を一過して能取湖畔に出でて荒廃せる草舎に入り、ここに送別の酒を傾く。座するに席なく、酌むに杯なく、太古の遊びをなす。これまた旅中の一興なり。

渓雲醸雨気濛々、九月山林已帯紅、能取湖畔尋草舎、炉辺温酒酔秋風、

(谷にわく雲は雨をもたらす気配でたちこめ、九月の山林はすでに紅の色をおびている。能取湖畔に草ぶきの家をたずね、いろりに酒を温めて秋風のなかで酔ったのであった。)

 これより更に馬に鞭撻を加え、深林幽渓の間を跋渉し、途中、加藤瑩巌氏の出でて迎えらるるに会し、ともに一走して網走〔町〕〈現在北海道網走市〉に入る。この日、行程六里なり。網走は加藤氏所住の法竜寺をもって宿坊とす。夜に入りて開会す。

 二十九日(日曜) 快晴。小学校において開演す。会後、茶話会あり。佐藤町長、吉安警察署長等、有志約百名の来会あり。

 三十日 晴れ。法竜寺は網走町背後の丘上にありて、海湾の眺望すこぶる佳なり。庭前に草花ありて、宛然小公園の趣あり。その丘を「ニクル」山と呼ぶ。土人語なり。余、これを訳して新来山となす。

新来山上路、駆馬訪禅宮、入眼碧千頃、繞堂紅百叢、花残朝酔露、葉老夜吟風、深院無人処、一杯万慮空、

(新来〔ニクル〕山上の道を、馬をかけさせて禅寺を訪ねた。目に青い海が広びろとみえ、堂をめぐって紅い花が咲いている。残りの花は朝の露にぬれ、老いた葉は夜に風に鳴る。深い寺内の人気のないところは、あらゆる思いも一切空なる理にみちている。)

 当夕、馬車にて大曲小学校に至りて開演す。監獄教誨師木島浄義氏、校長岩松文太郎氏等の発起なり。大曲には監獄署あり。

 十月一日 晴れ。午後、永専寺にて開演す。真言宗豊沢弘盛氏、浄土宗西山派祖父江性範氏等、各宗寺院の発起なり。この日、便船の入津を待つもきたらず。

 二日 晴れ。法竜寺において修身教会仮発会式を挙げ、町長佐藤信吉氏会長となる。網走滞在中は加藤瑩巌氏の尽力すくなからず、諸事につきて斡旋の労をとられたり。別れに臨みて氏に贈るに、「新来山上有禅城、和尚実能通世情、日々潅来般若水、随機開導度群生」(新来山の上に禅寺があり、和尚は実によく世情に通じた人である。日々悟りを開く知恵の水をそそいで、おりをみては教え導き衆生を救っているのである。)の一首をもってす。また、有志家高田源蔵氏、飯塚松太郎氏も大いに尽力あり。

 三日 雨。便船花咲丸ようやく至る。午後一時、秋雨蕭々の中に上船。数名の送行者あり。四時、出帆。夜中、知床岬外を通過す。

輪船転々汽煙長、望裏送迎北見郷、網走山雲斜里雨、秋風一夜度知床、

(船は外輪をまわしつつすすみ、煙は長く流れ、はるかに望むうちに北見の里を迎えかつ送る。網走の山に雲がかかり、斜里のあたりには雨がふっている。秋風の吹く一夜、知床岬を過ぎたのであった。)

烟埋北見尽頭湾、船入知床海峡間、夜暗何辺千島在、灯台光底認孤山、

(もやに埋もれる北見のあたりの入り江、船は知床の海峡に入った。夜の暗いなか、いったいどのあたりに千島があるのであろうか、灯台の光のなかにぽつんと山がみえたのだった。)

 船中、右二首を得たり。千島の南端国後島と知床半島との間は一海峡をなし、その直径十里前後なれば、両岸の山をあわせ望むを得。航路の都合にて国後島に寄港せざるを遺憾とす。

 四日 晴れ。午前四時、汽笛夢を驚かす。ときに天なお暗くして、船すでに根室〈現在北海道根室市〉湾内にあり。六時、上陸。工藤哲僧氏の案内にて大谷派支院に入る。氏はその長たり。根室は北海道東北〔部〕第一の都会をもって知らる。その市街家屋の状態は、天塩、北見の都邑の及ぶところにあらず。ただ、市外一株の樹木なく、一面枯草の色を見るのみなるは殺風景を免れず。北海道にては、雷電山道、増毛山道、斜里山道をもって三大険と称す。斜里山道は網走より根室に出ずる道なり。今回は各所とも便船ありて、この険を通過することを得ざりしは、いささか遺憾の思いなきにあらず。

 五日 晴れ。ときどき寒風霰雨を交えきたる。午後、仏教団発会式あり。会長は支庁長山口正長氏、理事長は中島義一氏なり。各宗寺院開法寺、耕雲寺等みなこれに賛同せられ、すこぶる盛会を得たり。

 六日(日曜) 晴れ。午前、監獄に至りて囚徒のために講話をなす。午後六時、小学校にて開演す。教育会の依頼に応ずるなり。夜間は別院にて開会す。各宗寺院の発起にかかる。実業学校長中隈仙五郎、小学校長山本長三郎、南野三郎、長尾又六の諸氏は教育会の主催をなす。

 七日 曇り。午前、学生生徒に対し、女子小学校において講演をなし、午後、支院において公会あり。一昨日来の寒風、すでに遠山をして白帽を冠せしむ。

夜来雨過暁風寒、国後山巓白雪冠、秋未半時冬已到、天外奈我客衣単、

(昨夜からの雨はあがったが、あかつきの風は寒く、はるか国後島の山頂は白雪におおわれている。秋はまだ半ばの時節ともならないのに、冬はすでに到来し、遠い地に旅するわが衣の薄さをどうしたものであろう。)

 また、「都地はまだ秋草の花ざかりさるに此地は雪風ぞ吹く」。北海寒気襲来の早きを知るべし。天気晴雨定まりなく、須臾にしてあるいは雨となり、あるいは晴れを見る。よってまた、その意を述ぶ。

北門風色不尋常、忽雨忽晴天似狂、一夜枕頭秋已満、雁声送夢到家郷、

(北海道の天候は尋常一様ではなく、たちまち雨がふったり晴れたりで、天も狂えるかとさえ思われる。一夜の枕べに早くも秋の気配が満ちみちて、鳴きわたる雁はわが夢を遠く故郷に送りとどけてくれるのである。)

 八日 晴れ。根室滞在中は工藤哲僧氏の尽力一方ならず。稚内の吉田氏におけるがごとく、網走の加藤氏におけるがごとく、ともに多大の厚意をになう。余、別れに際し工藤氏に、「井上と工藤と姓は異なれど君も哲僧、僕も哲僧」の俗歌を賦して贈る。午前八時、工藤氏とともに馬車に駕して根室を発す。山口支庁長をはじめとし、多数の送行者あり。途上、和田村〈現在北海道根室市〉小学校に一休し、生徒のために談話をなす。これ、屯田兵村なり。午後、同村字落石に至りて開会す。会場は曹洞宗説教所なり。郵便局長増田健太郎氏の宅に宿す。根室よりここに至るの間、行程五里、道平らかなるも泥深く、車まさに覆らんとすること数次に及ぶ。ただし途中、紅葉の霜に酔い、碧湾の目に映ずるところ、大いに吟情を動かす。

秋風一路渉荒原、雨後残泥没馬跟、吟賞北陲霜信早、送迎紅葉入孤村、

(秋風の吹くなか一路荒原をすすみ、雨後のため泥深く馬蹄が沈む。北の果ては霜のおとずれも早く、吟詠の情の起こるままにめでつつ、紅葉に送り迎えされながら、遠くぽつりとある村落に入ったのであった。)

 九日 晴れ。早朝、馬を駆りて落石を出発し、海浜にそって行くこと十一里、午後四時、釧路国厚岸郡浜中村〈現在北海道厚岸郡浜中町〉字霧多布に入る。途中、牧場あり、紅葉あり。

山野無辺牧草肥、晩看牛馬倦遊帰、行人不厭西風急、吹散丹楓点客衣、

(山野は果てもなく牧草がしげり、日暮れには放牧にあいた牛馬の帰ってくるのがみられる。旅を行く私が西風の強さもいとわずにすすむと、吹き散らされたあかい楓の葉が旅の衣服に着くのであった。)

 村長中西茂太郎氏、堀内鶴次郎氏等有志数名、数里の外に出でて迎えらる。途中、海上をわたること二回、波馬腹に及ぶ。根室よりここに至るの沿岸は鮭魚の漁場なり。晩に漁舟の網を引きて帰るを見て一詠す。

浦上秋風日欲斜、漁歌声裏噪寒鴉、釣舟帰処人成市、携去鮭魚入酒家、

(海べのあたりに秋風が吹き、夕暮れを迎えようとして、漁夫の歌声のなか、冬のからすがかまびすしい。漁舟のもどるところには人が集まってあきないの市がたち、鮭魚を手にして酒を売る店に入ってゆくのである。)

 霧多布は海中に突出せる孤島にして、橋梁をもってわずかに陸地と連接す。その他、海産に富む。

海中有嶼霧多布、橋路纔通不須渡、生計終年在釣漁、一湾福水是金庫、

(海中に島がある。それが霧多布なのである。この島へは橋がかろうじて通じ、海を渡る必要はない。ここの生計は一年中漁によってたてられ、湾は福の水ともいうべく、まさに金蔵〔かねぐら〕なのである。)

 また、「霧多く昆布の多き土地なれば霧多布とぞ名をつけにける」の狂歌を浮かぶ。宿所は真勝寺にして、住職は笹川兼潮氏なり。

 十日 晴れ。午前、婦人会のために講演をなし、午後、公衆のために演説をなし、ついで茶話会あり。会場は真勝寺なり。村長中西氏、住職笹川氏、有志家五味兼吉氏、松村留太郎氏等、みな大いに尽力あり。当夕、厚岸より朝日恵琳氏出でて迎うるに会す。

 十一日 晴れ。笹川、中西、松村、朝日等の諸氏とともに馬に鞭うちて霧多布を出でて、砂原をわたり林巒を跋し、藻散布駅にて午餐を喫す。吉祥寺斎藤覚能氏の迎行に会し、ともに一鞭して晡時、厚岸町〈現在北海道厚岸郡厚岸町〉に入る。歓迎者すこぶる多し。行程九里に近し。宿所は正行寺なり。朝日恵明氏その住職たり。恵琳氏は副住職なり。堂内に小図書館の設あり。途上の所見はこれを詩中に入るる。

一路乗風入翠微、雨過澗底水声肥、深泥没脚馬難進、低樹摩顔帽欲飛、楓葉秋高酔霜酒、岩根雲冷擁苔衣、遥聞足響疑熊到、何料牧童引犢帰、

(一路風に吹かれるように山の緑にけぶるもやのなかに入れば、雨後の谷ぞこに水声が高い。深い泥のため足をとられて馬も進みにくく、低い樹の枝が顔をなでて帽子をはねとばそうとする。楓の葉は秋たけて霜のためにあかく、岩の根に湧く雲は冷たく苔をおおう。はるか遠くに足音の響くを聞いて熊の近づく音かと疑えば、なんとそれは牧童が小牛を引いて帰るおとであった。)

 途中、林間を一過するとき、枝垂れて顔を摩し帽を飛ばさんとすること数次に及ぶ。故にこれを詩中に入るる。この辺りの松はトド松にして、その間に楓樹を挟む。翠色紅葉と相映じて、画裏にありて行くがごとし。厚岸は海湾深く入りて湖を成し、湖中牡蛎多し。すこぶる風光に富む。

 十二日 晴れ。午後、小学校にて開演し、会後、当地の古刹たる国泰寺を訪う。百年間の日記あり、一見するに足る。

景運山根路一条、林間認得寺門標、緑苔紅葉無人掃、唯有泉声破寂寥、

(景運山のふもとにひとすじの道があり、林の間に寺門のしるしがあった。緑の苔と紅葉が地をおおうも掃く人なく、ただ泉水の音が静寂を破っているのみである)。

 更に夜間、正行寺において開演す。住職朝日氏、町長鈴木俊象氏、助役百々良三郎氏、吉祥寺斎藤氏、哲学館館外員金居亮助氏等、みな大いに尽力あり。

 十三日(日曜) 快晴。暁霜をふみて厚岸を発し、湖上を渡り、太田を経て行程十里、阿歴内に至る。日まさに中す。厚岸有志者数名、余を送りてここに至る。この辺り深林多く、熊羆の出没する所なりという。紅於の花、林野をうずめ、馬をとめて吟賞すること数回に及ぶ。釧路町より佐藤国司氏および聞名寺役僧、騎馬をとらえてここに出でて迎えらる。阿歴内を発し、富士製紙会社にて一休して釧路町〈現在北海道釧路市〉に入る。時計、四時半を報ず。途上の所見、左のごとし。

釧路原頭高又低、白雲紅葉望将迷、衝天男女阿寒聳、岳麓晴風送馬蹄、

(釧路の原野は高低あり、白雲と紅葉に目をまよわす。天をつき上げるように男阿寒岳、女阿寒岳がそびえ、山のふもとに晴れやかな風が吹いて馬蹄の響きを送るのである。)

 男女両阿寒岳は釧路第一の高峰なり。この日、行程十五里に及ぶ。釧路宿坊は聞名寺なり。

 十四日 晴れ。厳霜薄氷を見る。午後、小学校にて開会す。当地は汽車全通以来にわかに繁栄をきたし、その勢い根室を圧倒す。一方に釧路川あり、一方に海湾あり。川上はるかに阿寒岳の両峰対立するを望み、近く一帯の長橋を瞰し、風光また佳なり。滞在中、釧路橋影の一詩を賦す。

釧路街頭鉄路通、汽声断続夕陽風、長橋一帯人如織、影入晴江作彩虹、

(釧路の街頭に鉄道が通り、汽笛の断続するうちに夕暮れの風が吹く。釧路川にかかる長橋のあたりは織るように人がゆきかい、光が晴れた川に差しこんで反射し、いろどりも美しい橋に作り上げている。)

 十五日 晴れ。午後、聞名寺にて開会す。支庁長松方勇助氏、町長松元幸太郎氏、聞名寺住職進藤竜彦氏、定光寺住職大道禅瑞氏、豊島庄作氏、永江雄平氏、渡辺藤七、坂井健三郎、二木貞吉、白根利八、種田、近藤等の諸氏、みな大いに尽力あり。当地にて哲学館出身佐々木俊令、佐々木了山両氏に会す。

 十六日 晴れ。早朝、霜をふみて宿坊を発し、汽車にて豊頃駅に降車す。路上の紅葉大いに吟意を動かす。これより十勝川を舟行して十勝国大津〈現在北海道十勝郡浦幌町、中川郡豊頃町、広尾郡大樹町〉港に至る。同港より横山氏等数氏の出でて迎えらるるに会す。

暁穿釧路板橋霜、一道秋風汽笛長、豊頃渡頭時解纜、棹声送到大津郷、

(あかつきのなか釧路の板橋におりた霜をふんで行き、秋風の吹く鉄道を汽笛の音も長く走る。豊頃の渡しより舟に乗って、舟人のさおさす声に送られるようにして大津の里についたのであった。)

一水悠々十勝長、秋郊如海望蒼茫、山風不到棹声穏、舟入暮烟凝処郷、

(長い十勝川の水は悠々と流れ、秋の郊外は海のようにひろびろとして果てしない。山から吹きおろす風もなく、さおさす声ものんびりとして、かくて舟は夕暮れの煙たなびく村についたのである。)

 大津に着岸するや、有志諸氏および生徒諸子数百名、音楽を奏して歓迎せらる。会場は小学校、宿所は常行寺なり。住職は横山実語氏、副住職横山亮昭氏(哲学館出身)、ともに非常なる尽力あり。村長小川弘需氏、大林寺住職斎藤示教氏、郵便局長本宮寅之助氏、小林常吉氏、松倉、月田、中沢、小林、猪股等の諸氏、みな助力せらる。

 十七日(神嘗祭) 雨。早暁、横山氏等と大津を発し、馬上にて生剛村字浦幌に至り、村長石原重方氏方に少憩して汽車に上り、帯広町〈現在北海道帯広市〉に移る。途中、有志諸氏の歓迎に会す。会場は小学校にして、教育会の主催なり。宿坊は永祥寺にして、その住職織田活道氏は樺太以来の相識なり。帯広は十勝原野の中央に位し、農産の集合地なれば、将来ますます発展するの勢いあり。農産物の主なるものは菽豆にして、目下収穫の最中なれば、農家の繁忙推して知るべし。河西支庁長川越常次郎氏に大津にて面会す。当地にては川越支庁長および織田氏の外に前支庁長諏訪鹿三氏、町長遠藤守氏、道会議員三井徳宝氏、大谷派支院長小島浄耀氏、高倉、林等の諸氏、みな大いに尽力あり。

 十八日 晴れ。午前、諏訪、遠藤両氏と同乗して「アイノ」〔アイヌの転訛〕村落に至る。宮崎濁卑氏の案内にて、「アイノ」小学校および「アイノ」居宅三、四戸を一覧す。茅壁茅屋、一窓一戸を常とす。

荒径履霜尋愛能、愛能亦是我同朋、不惟応接交邦語、学得和文代結縄、

(荒れた小道を霜をふみくだきながら愛能〔アイノ〕の村を訪ねた。愛能もまたわがなかまである。応対するのに日本語を使用するのみならず、日本文を学びとり、縄を結んで記録としたものに代えたのである。)

 午後、大谷派説教所および永祥寺にて開会す。支庁書記玉川和七氏、新十勝記者山本喜一郎氏は哲学館出身なり。また、利別村大谷派説教所長たる斎藤諦賢氏も同出身なり。三氏ともに尽力あり。織田氏が北海道および樺太にて数カ寺を創開せりというを聞きて一詩を賦呈す。

一日樺南始遇君、温容剛志絶同群、在此氷海雪山裏、奏得開宗立教勲、

(ある日、樺太の南部ではじめて君と会った。君のおだやかな様子と強い意志は群を抜いたものがあった。この氷海と雪山のなかにあって、寺院を開き布教の実をあげる功労をなしとげたのである。)

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北海道中央部および東南部紀行

 明治四十年十月十九日 晴れ。十勝国帯広町より諏訪、織田両氏と同乗して、空知郡落合〈現在北海道空知郡南富良野町〉駅に至る。鉄車、蛇行して上る。車窓一望、平原百里の遠きに及ぶ。落合は小学校にて開会す。尽力者は福岡竜瑞氏および藤原長次郎氏等なり。

 二十日(日曜) 晴れ。朝、落合を発し、旭川を経て上川郡鷹栖村〈現在北海道上川郡鷹栖町〉字近文に移り開演す。途上所見一首あり。

出林去又入林来、百里車行望漸開、刈稲時過郊野寂、村霜山雪両皚々、

(林をぬけたかと思えばまた林に入るということをくり返しつつ行く。遠く百里もあろうかと思われる汽車の旅のすえ、ながめのようやく開けた地に至った。稲の刈り入れのすんだ町はずれの野はさびしく、村の霜、山の雪はともにしらじらとみえたのであった。)

 会場は光岸寺にして、赤松恵潤氏これに住す。村長は太田三郎氏なり。

 二十一日 晴れ。旭川町〈現在北海道旭川市〉に移る。街衢縦横、区域広闊、実に一大都の趣あり。宿所および会場は大休寺なり。住職伊藤弥天氏は哲学館の出身たり。院内に芭蕉堂あり、庭前の残菊吟賞するに足る。

旭北尋蕭寺、時看秋色深、菊残庭有色、葉落樹無陰、独坐催閑酌、沈思入苦吟、芭蕉堂寂々、却好養禅心、

(旭川町の北辺にひっそりとたつ寺を訪ねると、おりしも秋の気配がいよいよ濃いことを知った。残りの菊が庭にいろどりを添え、葉を落とした樹には陰もない。ひとり座して静かに酒をくみ、じっくりと苦心して詩を作る。しかし、院内の芭蕉堂は静寂で、むしろ禅の心を養うのによい。)

 午後開演す。北都仏教団の主催なり。幹事久志卓動氏、伊藤氏、竹内道学氏、石田慶雲氏、根木教轍氏等、大いに尽力あり。

 二十二日 晴れ。午後開演。聴衆、堂に満つ。会後、晩餐会あり。支庁長代理蔭山逸夫氏、町長奥田千春氏、役場書記坪川竹三氏等の厚意をかたじけのうす。余が伊藤氏の贈詩に次韻せるもの左のごとし。

三秋穿破北辺雲、碧桧丹楓織作文、馬上長途客衣穢、大休寺裏掃塵氛、

(秋の三カ月、北海の地の雲をつき破るように遊説の旅をした。ときにみどりの桧や赤い楓が美しい彩りを織りなす。馬上での長い旅であったため、旅人の着衣はよごれはて、この大休寺でちりほこりを払い落としたのであった。)

 二十三日 雨。朝、旭川を発して上川郡士別村〈現在北海道士別市〉に移る。旭川にては発着ともに煙火をもって送迎せらる。伊藤、竹内二氏と同乗す。士別の会場は小学校にして、宿所は長井繭三氏の宅なり。街路泥深くして歩行に苦しむ。近日、木材および穀類の運搬頻繁なるによる。玉運寺坂野保宗氏、上島慧照氏、小島秀光氏、長井氏等尽力あり。

 二十四日 晴れ。天塩国上川郡名寄〈現在北海道名寄市〉駅に移りて開会す。会場は劇場なり。聴衆満場。当地は新開地なるも、鉄道の終点にして、北見地より往復上下するもの、みなここに宿泊せるをもって、近年にわかに発展せり。四面林野多く、開墾につきたる所は寥々暁星のごとし。上川原野にて石狩岳の積雪を望みて一絶を得たり。

行過郊野入林巒、木落草枯天地寛、石狩山頭雲断処、満空雪色夕陽寒、

(行きて町はずれの野をすぎ、林と山々のある地に入った。木の葉は落ち草は枯れて天も地もひろやかである。石狩山上の雲の切れるあたり、空に雪の気配がみちて、夕日はさむざむとしている。)

 二十五日 晴れ。午後、劇場にて開会す。哲学館出身白井豊信氏、最初より尽力あり。戸長御子柴五百彦氏、有賀貞一氏、大河原浅衛、飯田復鹿、荒木太三等の諸氏、みな大いに助力せらる。夜に入りて、修身教会設立の相談会あり。

 二十六日 雪。夜来の雨、暁来雪となり、夢さむれば庭前すでに皚々たり。これ本年中の初雪なり。有賀氏とともに乗車、名寄を発して旭川に至る間、林巒の銀世界に化したる景、すこぶる殊妙なり。その間に移住民の茅屋草舎の中より炊煙の上がるを見るも、また活画に接するの観あり。旭川を一過して北海道の勝地たる神居古潭の桟道にかかる。紅葉すでに白雪のために埋没せらる。

侵暁尋来神谷秋、何知夜雪掩林邱、渓山亦有人生歎、昨日紅顔今白頭、

(早朝に神居の谷に秋を求めてきたのであったが、なんと夜の雪が林や丘をおおうとは思いもよらなかった。谷や山にも人生のなげきに似たものがあるのであろうか、昨日は紅顔〔紅葉〕、今は白髪〔白雪〕となったのである。)

 別に上川客中の一律あり。

曠原漠々鉄車孤、駅路遥々入旭衢、落葉松枯山露骨、林檎果熟樹連珠、神渓風散紅千点、石岳雪封白一隅、北海堪驚秋十月、霜威凜冽粟生膚、

(なにもないような広々とした原野を汽車のみが走り、鉄路をはるばると旭川の町に入った。から松は葉を落として山の形もあらわとなり、林檎の実は熟して樹々に珠を連ねたように見える。神居の風はその赤い実を吹き散らすかのようであり、石狩岳の雪はその一部を白く塗りこめているのである。北海道の秋十月の風光は人を驚かせ、霜のいきおいはきびしい寒気でせまり、はだの粟立つ思いをさせる。)

 午後、妹背牛〈現在北海道雨竜郡妹背牛町〉駅にて開演す。雪解けて泥深し。会場は興正寺派説教所にして、所長山上明願氏、金田太三氏等の主催なり。

 二十七日(日曜) 雨。空知郡滝川村〈現在北海道滝川市〉に移りて開会す。昼夜二回とも小学校にて演述す。毎回人力車をもって往復す。小樽以来数カ月間、人力車あるを見たるは、根室、釧路、旭川とこの滝川との四カ所のみ。発起は願成寺泉芳成氏、興禅寺芳村良禅、ほか浄土、日蓮の各寺院なり。なかんずく泉氏、大いに尽力せらる。

 二十八日 晴れ。寒風をおかして砂川〈現在北海道砂川市〉駅に移る。旅館は酒造会社の楼上なり。午後、信光寺、夜分、小学校にて開演し、更に信光寺にて茶話会あり。信光寺住職竹内速成、同副住職竹内武丸、村長吉田卓、曾我部仁平、山口誠一等の諸氏尽力あり。途上の所見、左のごとし。

村雪漸消泥未乾、車中不覚歩行難、四山一面皚々色、看到砂川心亦寒、

(村の雪がようやく消えて、雪どけの泥はまだ乾いてはいないようすであるが、汽車のなかにいるのでその歩きにくさはわからない。四方に見える山々はすべて真っ白な雪におおわれ、砂川に至ってみれば、心もまた寒い思いがしたことであった。)

 二十九日 晴れ。砂川より支線に駕し、歌志内村〈現在北海道歌志内市〉に移る。宿所は安楽寺なり。午後、同寺、夜分、小学校にて開会す。当地は炭鉱所在地にして、千名以上の工夫これに服役す。

鉄路霜風入炭村、草枯木落水声喧、秋光蕭颯君休歎、満地富源生計温、

(汽車にのって霜ぶくみの風のなか炭鉱のある村に入った。草は枯れ木の葉も落ちてさびしく、川の水音のみはかまびすしい。秋の風景はわびしいが、君よなげくことをやめなさい、なぜならこの地には富の源がゆたかにあり、生活もまたゆたかなのだから。)

 三十日 晴れ。歌志内滞在。午前、小学校、午後、寺院にて開会す。その間に戸川工学士の案内にて鉱内を一覧す。夜に入りて茶話会あり。安楽寺住職相川了諦氏、小学校長前田茂氏等、大いに尽力あり。

 三十一日 雨。歌志内より岩見沢を経て、三笠山村〈現在北海道三笠市〉字市来知に至りて開会す。会場は専勝寺なり。夜に入りて凍雨雪となる。

 十一月一日 晴れ。雪を踏みて出発し、札幌郡江別村〈現在北海道江別市〉に移る。午後、小学校、夜分、小劇場にて開演す。近在みな農村なり。聴衆、雪泥をうがちて来集す。宿所は岡田伊太郎氏の宅なり。主催は仏教法話会にして、会長は藤原由蔵氏、副会長は上田栄次郎氏なり。村長阪田誠三氏、真願寺石堂廓然氏、選教寺等、おのおの尽力あり。

 二日 晴れ。午前中に札幌区〈現在北海道札幌市〉に着す。仏教団有志の歓迎あり。宿坊は大谷派本願寺別院なり。輪番三牧良慶氏は、最初より各所開会に関し交渉の労をとられたり。

 三日(日曜) 晴れ。天長節につき午前は休講し、午後は女子小学〔校〕にて講演をなす。区教育会の依頼に応ずるなり。師範学校教諭岩谷英太郎氏、斡旋の労をとらる。昨年は韓国京城南山にありて天長節を奉迎し、本年は北海道の首府にありて奉祝す。よってその所感をつづる。

毎逢佳節在天涯、北海今年見盛儀、鶴舞日章旗動処、竜吟勅語誦終時、比隣傾尽三杯酒、異口唱来万歳詞、想起昨秋漢城宴、南山献寿酔如痴、

(いつも天長節のよき日を迎えるときは天の果てのような遠い地におり、今年は北海道で盛大な儀式を見ることとなった。鶴の舞うような美しい日章旗のはためくところ、朗々と勅語が奉誦されてから、並んでそれぞれ杯の酒を傾け、口ぐちに万歳を唱えた。思い起こせば昨年の秋は朝鮮の京城で奉迎の宴に出席し、京城南山において長寿の祈りを奉げて酔いしれたのであった。)

 四日 晴れ。午前、学校にて生徒のために演説す。午後、農科大学に在学せる京北出身者吉尾成一、茂木幸太郎、清水清作、三城佐市、塩沢梅之助、岩崎四郎作、橋本味一の七氏とともに紀念のために撮影す。引き続きて三条通大谷派説教所にて開演し、更に夜中、師範学校にて講述す。前者は仏教団の主催、後者は弘道会の発起にかかる。

 五日 晴れ。午後一時、求法会のもとめに応じ、中正倶楽部にて講演し、更に仏教団のために別院において開演す。河島長官、高岡事務官、支庁長服部慶太郎氏、区長青木定謙氏の居宅を訪問して厚意を謝す。三牧輪番、中央寺三沢松偃氏、成田山神野実雄氏、警視飯田誠一氏、田中朴山氏、清川円誠氏、区役所小西助三郎氏等尽力せらる。

 六日 晴れ。札幌より汽車、軽川駅より馬車にて厚田村〈現在北海道厚田郡厚田村〉に向かう。深泥、馬脚を没す。石狩町能量寺に一休し、これより騎馬にて厚田に移る。渡辺不倦氏の出でて迎うるに会す。望来に少憩す。夜に入りて厚田に入る。多数の有志諸氏、灯を点じて歓迎あり。宿所は佐藤与左衛門氏の宅なり。夜間、小学校にて開演す。この日、途上の所見を詩中に入るる。

霜風一路過林皐、馬上唯聞電線号、偶到渓流入村処、草枯水落板橋高、

(霜をふくむ冷たい風のなか一路林や岡をよぎりつつ行き、馬上ではただ電線が寒風に鳴るのを聞くのであった。たまたま渓水の村に流れ入る所に至れば、草枯れ水も少なく板橋のみ高く架けられているのだった。)

 七日 晴れ。午前、正眼寺において追弔会あり。午後、小学校にて開演す。当地発起者は村長内山良時氏、正眼寺住職橋田禅透氏、常照寺住職渡辺不倦氏、本照寺平田大道氏、津川雲岳氏、小竹恵教氏、木村米吉、有山弥三郎、三木繁等の諸氏にして、ともに非常の尽力あり。この地はすべて漁業をもって生計を立つ。昨今ハタハタと名付くる小魚の大漁を得たりという。

 八日 晴れ。平田氏の先導にて馬上行程五里、石狩町〈現在北海道石狩郡石狩町〉に帰行す。石狩川上漁鮭の最中にして、網を引き上ぐるの声、遠近に聞こゆ。

浦上秋風信馬行、吟鞭半日伴涛声、沙原断処江流続、看捕鮭来入梵城、

(海辺の秋風に吹かれ、馬の歩みに任せてすすみながら、吟詠に思いをこらすこと半日、波の音がはなれず聞こえていた。砂原の終わるところに川の流れが続いて現れ、大きな鮭を捕るのをみながら能量寺に着いたのである。)

 石狩町会場は小学校にして、宿所は能量寺なり。住職飯尾円蔵氏、町長鈴木寅吉氏、大いに尽力あり。当夕、鮭魚の鍋焼きを饗応せらる。

 九日 晴れ。飯尾氏とともに馬車に鞭うち、泥路をわたり、軽川より汽車にて札幌郡琴似〈現在北海道札幌市〉駅に着す。会場は小学校にして、宿所は阿部氏の宅なり。村長下川氏、浄恩寺曾我氏、有志家米屋氏等の発起にかかる。

 十日(日曜) 晴れ。汽車にて空知郡岩見沢町〈現在北海道岩見沢市〉に移る。支庁長高橋伝吉氏等、出でて迎えらるるに会す。車窓よりこれを望むに、柳葉なお青き中に、落葉松の一面黄にして紅色を帯ぶるを見る。柳緑松紅は北海奇景の一なり。

霜後草枯野色荒、猶看柳緑与松黄、思詩未就時将午、車入空知原上郷、

(霜がおりたのちに、草は枯れ野の色も荒れはてた景色となった。それでもなお柳の緑とから松の葉の黄色はみられる。詩を作ろうと思いをこらし、まだでき上がらないうちに正午になろうとして、汽車は空知平野の村に至った。)

 午後、小学校にて開演し、夜分、願王寺にて演説す。宿坊は明了寺なり。

 十一日 晴れ。午後、明了寺、夜分、願王寺にて開演す。夜分は婦人会の発起にして、聴衆満堂、六百余名以上と称す。願王寺は新式の会堂建築にして、最も演説場に適す。明了寺は旧式の建築なれども、堂宇巍然たり。

不啻鉄車通四方、此郷法運最隆昌、災余商館多低小、独有巍然是仏堂、

(鉄路が四方に通じているのみならず、この地の仏法は最もさかんといえる。大火に遭ってからの商店などは多く低く小さな建物となり、ただ一つたかだかとそびえている建物は明了寺の堂である。)

 この詩を録して明了寺住職藤波現道氏に贈る。従来岩見沢は鉄路四達の要地にあるも、その欠点は用水の不良なるにあり。しかれども目下水道布設の計画中なれば、将来ますます発展すべし。

 十二日 晴れ。高橋支庁長、町長高柳広蔵氏、校長石井良鞱氏、藤波現道氏、家郷紫雲氏、佐藤来淳氏、松岡瑞定氏等、みな尽力あり。午前中に夕張郡角田村〈現在北海道夕張郡栗山町〉字栗山に移り、午後および夜分、開会す。仏教同志会の主催なり。会長は有松岩太郎氏、副会長は村田三次氏にして、村長は泉麟太郎氏なり。有松氏等の熱心によりて仏教会堂の設置あり。同氏は今回の開会にも大いに尽瘁せられたり。当夕、岩見沢町修身教会設立の報をもたらして、藤波氏の来訪あれば、氏の名はもと藤波道船といえるにちなみて、その四字を韻礎とし「学林未曾生葛藤、教海不復起風波、神儒仏皆帰一道、造得修身教会船」(学ぶところにいまだもめごとの生まれたことはなく、教えのところに風波の起こったこともない。神、儒、仏の教えはみな一つの道なのである。いま君は修身教会という船を造り上げたのだ。)の詩を賦してこれに贈る。

 十三日 晴れ。午前中に栗山を去りて由仁村〈現在北海道夕張郡由仁町〉に移る。この間、米田、井然として縦横数里に連なる。由仁の会場および宿所は大乗寺にして、住職は古川智竜氏なり。当地開会は青年会および婦人会の発起にかかる。村長は服部茂氏、青年会幹事は近藤利一郎氏とす。しかして開会の主動者は古川智竜氏と古川浩平氏なり。浩平氏の令息陽平氏は哲学館大学出身なるも、目下在京中なり。

 十四日 晴れ。由仁より沼の端駅を経て胆振国勇払郡鵡川村〈現在北海道勇払郡鵡川町〉に至り、夜に入りて開演す。会場は小学校にして、宿所は木村旅館なり。村長山田忠氏、郵便局長佐藤辰之助氏、永安寺住職本田衡準氏、鹿取粽彦氏等尽力あり。

 十五日 雨。鵡川を去りて行くこと里許にして、日高国に入る。林巒を上下し、海浜を出入し、所々「アイノ」人の家屋を見る。この辺り一帯、耕地に乏しく、牧場多し。

一鞭駆馬破霜風、曠野茫々四望空、遥認林間茅壁出、蝦夷人住此廬中、

(鞭をふるって馬を駆けさせ、霜ふくむ寒風のなかを行く。ひろい野は果てなく広がり、みまわしてもなにもない。それでもはるかな林の間に茅を壁とする建物がみえた。それは蝦夷人〔アイノ〕がそのいおりに住んでいるのである。)

 また、海辺鮭魚を漁する所、往々大漁の旗を揚ぐるを見る。北海道にては一般に鮭魚を呼びて秋味という。

孤鞍暁踏落松之、出没山隈又水涯、多幸今年秋味溢、磯頭高掛大漁旗、

(ただ一頭の馬であかつきのなか落葉松〔からまつ〕の落ち葉をふんでゆき、また、山のくまや水ぎわを出たり入ったりする。幸い多いことに今年は秋味〔鮭〕があふれるほど豊かにとれ、磯辺では高く大漁旗が掲げられている。)

 午後三時、静内郡下下方村〈現在北海道静内郡静内町〉に着す。この日、馬上雨をおかして行くこと十二里なり。日高国は駅路高低あるも、泥濘なく、北海道第一の良道なるを覚ゆ。下下方の宿所および会場は浄運寺なり。

 十六日 晴れ。午後開会。ついで茶話会あり。浄運寺住職手捲瑞氏は、各村戸長長谷川葆光氏とともに尽力せらる。これより三里を隔てて御料局出張所あり。日高は北海道中最も気候温暖にして雪少なく、牧畜の最良地なりという。全国の良馬、多くこの地より産出す。

 十七日(日曜) 晴れ。朝八時、手捲氏の先駆にて下下方を発し、三石に少憩して浦河町〈現在北海道浦河郡浦河町〉に入る。時鐘まさに午を報ず。四時間にして十一里を進行せり。川をわたること二回なり。途上の所見、これを詩中に入るる。

長駆遥到日高郷、所過山河多牧場、牛馬幾群枯草裏、去留任意不成行、

(遠く馬を駆って、はるかに日高の里に至った。経てきたところの山河には牧場が多い。牛馬がいくつかの群れをなして枯草のなかに食み、ゆくもとどまるも思いのままに歩きまわっている。)

 浦河町は日高の首府にして、人馬群れをなし、稚内、網走よりもにぎわし。宿所は正信寺にして、会場は小学校なり。夜に入りて開会す。聴衆、堂にあふる。教育会の主催にかかる。正信寺の書院は二階造りにして、周囲に廓下をめぐらし、旅館の形をなす。楼上の晩景を賦す。

寺立浦川頭、客身来此投、霜林通夕照、風浪促帰舟、山影斜侵戸、鴉声乱入楼、三杯時酔臥、夢繞日高州、

(寺院は浦河町にあり、ここに旅の身を寄せる。霜のおりた林に夕映えがさし込み、風と波が舟の帰港をせかしている。夕日に山影が家々をおおい、鴉の鳴き声がこの楼台にみだれ入る。夜、酒杯を傾けて酔いふせば、夢は日高の国をめぐるのであった。)

 十八日 雨、後に晴れ。暁窓一面に白し。午後、正信寺にて開演す。会後、更に茶話会あり。支庁長西忠義氏は熱誠家をもって聞こゆ。不幸にして病床にあり、相会するを得ず。よって一詩を賦呈す。

宿昔聞君嘗百酸、如今臥病請加餐、邦家前路猶遼遠、戦後経営最至難、

(かねてから氏は多くの苦労を重ねたと聞いていたが、いまは病床にあるという、ねがわくば食事がすすみますように。わが国の前途ははるかに遠く、日露戦のあとの経営はいまや最も困難なときなのである。)

 氏家文太郎、小森作次郎、奥山千春、関融禅、瀬島新平等の諸氏、みな斡旋せらる。正信寺住職清水知道氏および副住職前田教顕氏は最初より大いに尽力あり。

 十九日 晴れ。関、田中、前田諸氏とともに馬上、三石郡三石村〈現在北海道三石郡三石町〉字姨布に至る。会場は小学校にして、宿所は旅館なり。村長藤村紀綱、大谷派説教所長亀田恵恩氏、小学校長長嶺富五郎氏等尽力あり。日高沿岸は太平洋に面し、高波岸を打ちきたる。その状況を詩に写す。

鯨海長風眼界開、浦川一路気雄哉、幾千万頃波頭雪、都自太平洋上来、

(鯨の遊ぶ海は遠くから吹いてくる風に視界は大きく開けて、浦河の一路はなんと気象もたけだけしいことよ。この限りない大海原から打ち寄せる波がしらの雪、すべてが太平洋上からくるのである。)

 二十日 雨。亀田氏とともに三石を発し、一鞭して下下方に至る。長谷川、手捲両氏の配意にて速やかに馬を継ぎ立て、厚別に一休し、更に大雨をおかし、午後三時、沙流郡門別〔村〕〈現在北海道沙流郡門別町〉に至る。

 この日、行程十四里なり。厚別より京北中学校出身三屋忍氏(改姓浅山)、余を送りてここに至る。当夕、照順寺にて開演す。戸長小荒井澄氏、小島矩夫、加藤、塚本、前川等の諸氏、奔走せらる。

 二十一日 晴れ。暁寒のために潦水凝りて氷を結ぶ。門別より鵡川に至る間、一吟あり。

暁風馬上路悠々、霜重炊煙凝不流、落葉松辺茅壁裏、咿唔声冷日高秋、

(早朝の風のなか、馬上に悠々と道をゆけば、霜はあつく炊事の煙もこごえるようにかたまって流れない。から松のかたわらにある茅壁のなかから、書を読む声も冷えびえと聞こえる日高路の秋である。)

 鵡川にては山田、木田、鹿取氏の歓待に接し、更に馬上にて沼の端駅に至る。行程十里なり。風寒く、往々雪を交ゆ。これより汽車にて安平村〈現在北海道勇払郡早来町・追分町〉字早来に着す。ときに午後三時なり。夜中、小学校にて開会す。寒月皎々たり。この地は村落なるも電話の架設あり。村長鈴木善治氏、寺院霊河秀嶺、池田真成、前谷慧光、山内、真部等の諸氏尽力あり。

 二十二日 晴れ。早来より幌別〔村〕〈現在北海道登別市、室蘭市〉に移りて午後開会す。振興会の発起にかかる。会場は本晃寺なり。会長橋本義知氏(村長)、幹事遠山弥三郎氏、同前川善次郎氏等、大いに尽力あり。本村は従来微々たる漁村なりしが、近傍に銅鉱の発掘以来、大いに活気を呈するに至れり。また、振興会も会長の尽力により、名のごとく大いに振興すという。

 二十三日(新嘗祭) 晴れ。幌別を去りて室蘭〔町〕〈現在北海道室蘭市〉に移る。室蘭は山を削り海をうずめ、その発展驚くべき勢いあり。旅館創成楼に着し、午後、小学校にて講演す。聴講の多数は管内の教育家なり。当地開会に関しては、支庁長山浦常吉氏不在なれども、課長川口敏澄氏および町長岩波常景氏、諸事につき便宜を与えられ、証誠寺飯尾潜竜氏、満冏寺飯島覚道氏、特に尽力あり。本教寺藤森顕城氏、安楽寺丹羽月渓氏も助力せらる。

 二十四日(日曜) 曇り。午後、小学校にて開演す。室蘭湾内の夜景を詩中に入るる。

林巒繞海々如嚢、洋舶和船知幾行、日落客楼時一望、電灯光底認連檣、

(林と山が海をめぐり、海はつつまれるように、洋船と和船とがいく艘かならんでいる。日が沈んで旅館から望めば、電灯の光のもとに帆柱を連ねているのが見える。)

 二十五日 晴れ。暁天雪を醸し、満城銀世界となる。午前、室蘭を発し、登別〈現在北海道登別市〉駅に降車し、これより馬車にて行くこと一里半、凍風肌を裂かんとす。遠山弥三郎氏も同行せらる。旅館滝本楼に着し、一浴一酌、満身ようやく暖を呈し、厳冬たちまち陽春に変じたるを覚ゆ。小学分教場にて開演す。

一浴欲医半載疲、羊膓山径踏泥之、湯元未達臭先到、正是温泉湧出時、

(温泉に入って半年の疲れをいやそうとし、羊の腸のごとく曲がりくねる山道を泥土をふみしめて行く。湯元に着かぬうちにまず湯の香が流れてきた。まさしくこれこそ温泉が湧き出ているときなのだ。)

雪渓窮処湧温泉、滝本楼頭養浩然、浴後更傾一瓶酒、忘寒窓下枕書眠、

(雪におおわれた谷のゆき着くところに温泉が湧き、滝本楼で浩然の気を養う。浴後のゆったりした気分で、更にかめの酒を傾け、寒さを忘れて窓べに書籍を枕に眠ったのだった。)

 温泉は硫黄分を含み、遠くその臭気を感ず。

 二十六日 曇り。早朝、泉源湧出の所に至る。その沸騰の勢いは神飛び魂消えんとす。白煙谷をうずめ、沸声地を動かす所、地獄の現状に接するの思いをなす。

揚煙滔々気何豪、沸出泉声似怒涛、今夜客楼吟意動、一痕寒月印湯槽、

(たちのぼる煙は一帯にひろがり、そのいきおいのなんとたけだけしいことよ。沸き出る温泉の音は怒涛のようである。今夜の旅館に吟詠の情が動き、さむざむとした月が一つ、湯槽にうつっている。)

 右は昨夜、枕頭にて吟詠せるものなり。浴楼としては滝本楼を第一とし、丸一楼これに次ぐ。北海第一の温泉場と称す。午前、登別を発し、室蘭に帰る。橋本、遠山両氏の送行あり。創成館に一休して、午後三時、上船す。支庁長代理および町長等数名、余を送りて埠頭に至る。汽船は陸奥丸なり。翌朝五時、青森着。六時、汽車に駕し、当夕、仙台にて随行青樹氏と相別れ、二十八日午前、東京に帰着す。

 七月二十一日、東京を発して以来、百三十日間をもって北海道十カ国および樺太を巡遊し、三区六十三カ町村、百二十三カ所において二百十六回の演説をなし、各所において多大の厚意をもって歓迎せられたるは、余の大いに謝するところなり。北海道巡回中、西八景および東八景を選定すること左のごとし。

      西八景

大沼晴嵐(大沼の晴天にたちのぼる山の気)、軽川夕照(軽川〔手稲〕の夕ばえ)、余市果林(余市の果樹林)、小樽汽笛(小樽港の汽笛)、雷電断崖(雷電山の断崖絶壁)、利尻岳雲(利尻岳にかかる雲)、羽幌夜雨(羽幌の夜来の雨)、宗谷秋月(宗谷の秋の月)。

      東八景

根室観漁(根室の漁)、厚岸尋寺(厚岸の古寺をたずねる)、釧路橋影(釧路の橋の姿)、十勝棹声(十勝のふなうた)、石岳暮雪(石狩岳のくれなずむ雪)、神渓秋暁(神居谷の秋のあかつき)、浦河翻涛(浦河の怒涛)、登別沸泉(登別の地獄谷)。

 また、北海道七不思議を選定す。

(一)船の土用ぼし、(二)馬の寒ざらし、(三)鴉のいたずら、(四)御馳走のおかわり、(五)葬式張り込み、(六)呉服ものの金尺、(七)松の紅葉。

 以上、北海道紀行の概略なり。

P413----------

明治四十年度統計 付 北海道開会一覧表

 余が明治四十年中になしたることは、地方を周遊巡歴し、山陬海隅、寒村僻郷に入り、教育、宗教、倫理、道徳に関して開演したる一事なり。

   沖縄県(滞在日数十三日間)

  二区、二郡、十カ所、二十席、聴衆五千五十人

   鹿児島県すなわち薩摩および大隅(滞在日数三十三日間)

  一市、十郡、三十四カ村、五十一カ所、八十席、聴衆二万二千二百五十人

   宮崎県すなわち日向国(滞在日数四十五日間)

  八郡、九町、二十八カ村、五十九カ所、九十八席、聴衆二万一千百五十人

   大分県すなわち豊前豊後(滞在日数四十五日間)

  九郡、二十町、十六カ村、四十八カ所、百席、聴衆二万二千七百五十人

   北海道および樺太(滞在日数百三十一日間)

  十一国、三区、三十七郡、六十三カ町村、一百二十三カ所、二百十六席、聴衆四万三千八百四十五人

 以上総計するに、

  日数  二百五十七日

  開会  二百九十一カ所

  演説  五百十四席

  聴衆  十一万五千四十五人

 すなわち明治四十年中、二百五十七日間において二百九十一カ所にて開会し、五百十四席の演説をなし、十一万五千四十五人に精神修養、風俗改良、公徳養成等に関し諄々訓戒を与え、注意を促したるは、余がこの年度における一年間の事業なりと信ず。

 年末より新年にかけて和田山哲学堂に幽棲し、いささか身心の休養をなす。その閑居中の拙作は左の数首なり。

忙裏匇々歳月新、欲迎四十一年春、算齢長歎老将至、守夜灯前独欠伸、

(多忙のうちにあわただしく歳月があらたまり、四十一年の新春を迎えようとしている。年齢をかぞえて長いため息をついてなげく、老いがまさにせまっているのである。夜のともしびを見守ってひとりあくびをする。)

隠居身未老、貧計苦多忙、幸得新年暇、枕書臥聖堂、

(隠居の身ではあるがいまだ老いてはいない。ただ貧しくはなはだ多忙なのである。幸いに新年を迎えて暇ができた。そこで書籍を枕に四聖堂で横になっているのだ。)

和田山上結茅亭、一望四辺渾秀霊、雪色破雲蓮岳白、松陰入水玉川青、鳥非無意呼迎客、風亦有心来掃庭、自笑閑居却多事、朝耕芸苑夕炊経、

(和田山に小亭をたて、一望すれば四方にはすべてすぐれた霊妙な趣がある。雪の色、ちぎれ雲に富士山は白く、松かげに水流れて玉川は清らかに。鳥は思うところありそうに客を迎えて鳴き、風もまた心をもつように吹いて庭を掃く。思わず笑う、閑居してかえって多事と。朝には文芸に親しみ、夕べには読経のうちに炊く。)

夜雪侵仙境、暁窓景更鮮、松高青一樹、野濶白千田、独酌傍炉坐、閑吟隠几眠、四隣人跡絶、終日静如禅、

(夜の雪がこの仙人が住むようなところにふり、あかつきの窓べの景色はいっそう美しくなった。松は高く一樹のみ青く、野はひろびろとして田畑が白い。ひとりいろりのそばに座して酒をのみ、のんびり吟じては机によりかかって眠る。近所の人の姿もみえず、一日中静かで禅境にいる思いがする。)

     北海道開会一覧(七月二十一日より十一月二十八日まで百三十一日間)

   国名   区郡   町村        会場   演説   聴衆     主催

  渡島国  函館区            寺院    五席  七十人    講習会

       同              町会所   一席  五百人    区内有志

       同              寺院    一席  一千人    婦人会

       同              商業学校  一席  五百人    商業学校友会

       同              中学校   一席  四百人    中学校友会

       同              小学校   一席  二百人    教育会

       同              寺院    二席  二千人    寺院有志

       同              教会所   二席  五百人    寺院有志

       茅部郡  大沼        教会所   一席  二十五人   村内有志

  後志国  小樽区            寺院    七席  七百人    量徳寺

       同              寺院    三席  五百人    円融会

       同              小学校   一席  五百人    実業青年会および上宮会

       同              寺院    一席  五百人    婦人会

       寿都郡  黒松内       小学校   二席  二百五十人  村内有志

       同    同         教会所   一席  五十人    寺院

       同    寿都町       寺院    一席  五百人    町内有志

       同    同         小学校   一席  五百人    町内有志

       磯谷郡  磯谷村       寺院    二席  六百人    村内有志

       岩内郡  岩内町       寺院    一席  七百人    智恵光寺

       同    同         小学校   一席  四百人    青年会

       同    同         劇場    三席  一千人    町内有志

       同    同         小学校   一席  五百人    町内有志

       余市郡  余市町       小学校   二席  三百人    町内有志

       美国郡  美国町       寺院    一席  五百人    町内有志

       積丹郡  余別村来岸     民家    一席  二百人    村内有志

       同    同 余別      寺院    一席  五百人    村内有志

       古平郡  古平町       小学校   二席  五百人    町内有志

       同    同         寺院    一席  三百人    町内有志

       小樽郡  銭函村       寺院    二席  二百五十人  村内有志

       同    朝里村       教会所   二席  三百人    村内有志

  天塩国  増毛郡  増毛町       寺院    四席  三百五十人  町内有志

       同    同         小学校   一席  五百人    学校有志

       留萌郡  留萌村       小学校   四席  四百五十人  村内有志

       同    同         寺院    一席  二百人    寺院

       苫前郡  羽幌村       劇場    一席  七百人    村内有志

       同    同         小学校   三席  五百人    村内有志

       同    焼尻村       小学校   二席  二百人    村内有志

       上川郡  士別村       小学校   二席  二百人    村内有志

       同    名寄村       劇場    四席  四百人    村内有志

  北見国  利尻郡  鬼脇村       小学校   二席  三百人    村内有志

       同    鴛泊村       劇場    二席  五百人    村内有志

       同    沓形村       寺院    二席  三百人    村内有志

       同    仙法志村      小学校   二席  三百人    村内有志

       宗谷郡  稚内町       劇場    六席  五百人    町内有志

       同    同         小学校   一席  七百人    小学校

       同    同         寺院    一席  二百人    和親会

       同    同         寺院    一席  二百人    量徳寺

       枝幸郡  枝幸村       寺院    三席  二百五十人  村内有志

       同    同         小学校   一席  二百人    小学校

       同    同         寺院    一席  百人     仏教各宗

       紋別郡  紋別村       小学校   二席  三百人    村内有志

       同    同         寺院    二席  三百人    寺院有志

       同    湧別村       教会所   二席  二百人    村内有志

       常呂郡  常呂村       寺院    一席  二百人    村内有志

       網走郡  網走村       寺院    三席  百人     町内有志

       同    同         小学校   二席  二百人    町内有志

       同    同         寺院    二席  二百人    仏教各宗

       同    同大曲       小学校   二席  二百人    村内有志

  根室国  根室郡  根室町       寺院    二席  六百人    仏教団

       同    同         小学校   二席  三百人    教育会

       同    同         寺院    三席  三百人    各宗寺院

       同    同         小学校   二席  五百人    町内有志

       同    同         同     一席  五百人    小学校

       同    同         監獄    一席  二百人    分監長

       同    和田村       小学校   一席  三百人    小学校

       同    同落合       教会所   一席  二百人    町内有志

  釧路国  厚岸郡  浜中村       寺院    二席  三百人    村内有志

       同    同         寺院    一席  百人     婦人会

       同    厚岸町       小学校   二席  四百人    町内有志

       同    同         寺院    二席  四百人    各宗寺院

       釧路郡  釧路町       小学校   二席  三百人    町内有志

       同    同         寺院    二席  三百人    寺院有志

  十勝国  十勝郡  大津村       小学校   一席  三百人    村内有志

       同    同         寺院    一席  三百人    寺院有志

       河西郡  帯広町       小学校   二席  三百人    教育会

       同    同         寺院    一席  三百人    町内有志

       同    同         寺院    一席  二百人    寺院有志

  石狩国  札幌区            小学校   一席  二百人    区教育会

       同              中学校   一席  七百人    校友会

       同              師範学校  一席  七百人    弘道会

       同              寺院    二席  二百五十人  仏教団

       同              倶楽部   一席  百人     求法会

       上川郡  旭川町       寺院    四席  四百人    仏教団

       同    〔鷹栖村字〕近文   寺院    二席  二百人    村内有志

       空知郡  岩見沢町      寺院    二席  三百人    各宗寺院

       同    同         小学校   二席  二百人    町内有志

       同    同         寺院    一席  六百人    婦人会

       同    妹背牛       教会所   二席  二百人    村内有志

       同    滝川村       小学校   二席  四百人    各宗寺院

       同    砂川村       小学校   一席  三百人    村内有志

       同    同         寺院    一席  三百人    寺院有志

       同    歌志内村      小学校   一席  五百人    村内有志

       同    同         寺院    二席  二百人    寺院有志

       同    同         小学校   一席  七百人    小学校

       同    〔三笠山村字〕市来知 寺院    二席  百人     村内有志

       札幌郡  江別村       小学校   一席  三百人    法話会

       同    同         同     一席  七百人    小学校

       同    同         集会席   一席  百人     村内有志

       同    琴似村       小学校   二席  二百人    村内有志

       同    軽川村       寺院    二席  二百五十人  村内有志

       石狩郡  石狩町       小学校   二席  二百人    町内有志

       同    同         寺院    一席  百五十人   寺院有志

       厚田郡  厚田村       小学校   三席  三百人    町内有志

       同    同         寺院    一席  三百人    追弔会

       夕張郡  〔角田村字〕栗山   会堂    二席  三百人    仏教同志会

       同    由仁村       寺院    二席  二百人    村内有志

  日高国  浦河郡  浦河町       小学校   二席  五百人    教育会

       同    同         寺院    二席  三百人    町内有志

       三石郡  三石村       小学校   二席  二百人    村内有志

       静内郡  下下方村      寺院    二席  二百人    村内有志

       沙流郡  門別村       寺院    一席  二百人    村内有志

  胆振国  室蘭郡  室蘭町       小学校   二席  三百人    町内有志

       勇払郡  〔安平村字〕早来   小学校   二席  二百人    村内有志

       同    鵡川村       小学校   二席  二百五十人  村内有志

       幌別郡  幌別村       寺院    一席  百人     振興会

       同    登別        分教場   一席  五十人    村内有志

   以上合計 十カ国、三十七郡、三区、六十一カ町村、百十五カ所、二百六席、四万一千二百四十五人

 〔この統計から樺太開会分、二カ町村、八カ所、十席、二千六百人を割愛した。〕

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豊前、豊後紀行

 明治四十一年一月二十九日、晴れ。午前十時、新橋を発し、翌三十日(孝明天皇祭)、雨、午前八時、播州明石町〈現在兵庫県明石市〉着。午後,西林寺にて開会す。積善会の発起にかかる。夜中,劇場にて開演す。当町教育会の依頼に応ずるなり。西林寺住職二階堂正信氏は哲学館出身たり。東海道汽車中の一吟、左のごとし。

厳寒時節去京華、欲賞鎮西霜後花、何料芙蓉峯下路、鉄車窓外見春葩、

(きびしい寒さの時期に東京をたった。九州の霜のあとの花を鑑賞したいからである。ところが思いもかけず、富士山のふもとの道で、汽車の窓から春の花をみかけたのであった。)

 二階堂氏の宅は明石海峡に臨み、淡路連山に対し、帆影、波光ともに簾に映じ、楼上の風光すこぶる明媚なり。たまたま朝来の微雨ありて雲煙いまだ散ぜず、濛々の間に山影を浮かぶるも、また一段の佳趣あるを覚ゆ。

暁煙帯雨未全収、山影模糊是淡州、浦上晴風吹起処、望中迎送去来舟、

(あけがたのもやは雨をふくんでまだ消えず、山の姿がぼんやりとみえるのは淡路島である。海辺に晴れをもたらす風が吹き起こり、ながめのなかに送り迎えの往来する舟がみえる。)

 当夜、春雨蕭々として至り、涛声あたかも客眠を助くるもののごとし。

探得山陽風月幽、歌神社畔宿孤楼、蕭々細雨春眠穏、一夜涛声洗客愁、

(山陽の地に風月の深いおもむきをたずねて、歌神社のほとりにぽつりとたつ二階建ての家に泊まった。ひっそりと細かい雨がふり、春の眠りもおだやかに、夜の波の音も旅人のものおもいを洗い流してくれるかのようであった。)

 三十一日 晴れ。女子師範学校に至りて演説す。郡長三輪信一郎氏、高等小学校長高木熊太郎氏、有志家木島直蔵氏等と相会す。当夕六時、明石を発車して豊前に向かう。

 二月一日 晴れ。午前十一時、馬関着。午後一時、門司発車。哲学館出身横尾照之、渋谷智淵両氏、ここに出でて迎う。二時半、豊前国京都郡豊津村〈現在福岡県京都郡豊津町〉に着す。途上の所詠、左のごとし。

身似浮雲忙去来、鎮西為客此三回、馬渓風月非吾意、欲訪菅公遺愛梅、

(わが身は浮き雲にも似てせわしく行ったり来たり、九州に旅をすることもこれで三度となる。このたびは耶馬渓の風月をめでるのは本意でなく、菅原道真公を慕って太宰府に飛んだと伝えられる遺愛の梅、飛梅をたずねたいのである。)

 豊津駅に着するや、郡長戸田健児氏、中学校長大森藤蔵氏等数名の歓迎あり。また、随行藤村僧翼氏の豊後より来着するに会す。止宿所は医師米田昌英氏の宅なり。

 二日(日曜) 雨。午後、豊津女学校において開演す。主催者は校長尾崎教鳳氏および村上慶祥氏なり。夜中、成道寺において講話す。崇徳会の依頼に応ずるなり。

 三日 晴れ。苅田村〈現在福岡県京都郡苅田町〉に移り浄厳寺において開演し、有志家肥田長松氏の宅に宿す。主催は村長林田六郎氏、横尾照之氏等なり。当村にては修身教会の趣旨に基づき、進徳会を組織せらる。福岡市より哲学館出身たる斎田耕陽氏来訪あり。

 四日 晴れ。行橋町〈現在福岡県行橋市〉に移り、浄蓮寺において開演す。住職村上良浄氏、町長秋吉直徹氏等の発起なり。当夕、豊州館に宿す。

 五日 雪。行橋より風雪をおかして黒田村〈現在福岡県京都郡勝山町〉に移る。宿所は木村定一郎氏の宅なり。午後、明覚寺にて開演す。黒田、久保、椿市、稗田、諌山五カ村連合会の発起なり。会場住職藤丸富麿、藤平熾道、黒田村長木村秀彭、同校長八田秀穂等の諸氏、みな尽力あり。会後、修身教会設立に関して懇話をなす。椿市村興隆寺住職蓮井大澄氏は、郡内各町の開会に交渉の労をとられたり。

 六日 雪。夜来の風雪相積みて銀世界となる。暁寒ことにはなはだし。

暁坐対炉身不温、三杯乗酔発孤村、雪埋野径無人払、唯有学童留屣痕、

(夜あけ、いろりに向かってすわったのだが、いっこうに身はあたたまらない。数杯の酒を傾けて、酔いに乗じて遠くぽつりとはなれたような村を出発した。雪は野の道を埋めて、行く人はさらになく、ただ、学童の学校へ向かったくつのあとがあるのみである。)

 この日、行橋を経由して再び豊津村に移り、午前、中学校生徒に対して講話をなし、午後、郡教育会のために講演をなす。会長は戸田健児氏(郡長)にして、副会長は大森藤蔵氏(中学校長)なり。当夕、犀川村〈現在福岡県京都郡犀川町〉に移り夜会を開く。宿所は有志家高田常松氏の宅にして、会場は大熊小学校なり。村長我有康起氏、有志中村太三郎氏、高田常松氏、寺院常光寺、恩高寺等の発起にかかる。開会中、雪降ることはなはだし。聴衆、みな雪をつきて帰る。

 七日 晴れ。午前、犀川小学校に演説を終え、ただちに車を飛ばし、豊津中学校に帰りて教育会の講演をなす。当夕、宿所は有志家重岡卯三郎氏の宅にして、郡長、中学校長、郡視学川崎浩之氏、郡書記秋満有常氏、教育会幹事諸氏と晩餐をともにす。秋満氏が学林経営に功労ありしを聞き、かつ氏が平素酒と詩とを楽しむを知り、左の一絶を賦してこれに贈る。

聞君報国志尤深、戦後経営殖学林、今日功成須一酔、満山樹色伴閑吟、

(君は国に報いんとする志が非常に深く、戦後の困難に計画、努力して学校をふやしたと聞いた。こんにち功業なしとげられたのであるから、当然ここにひとたび酔って、山に満つ樹の色にのどかな吟詠をそえるべきであろう。)

 八日 晴れ。早朝、伊良原村〈現在福岡県京都郡犀川町〉の有志者、乗馬を装ってきたり迎うるに会し、馬上行くこと三里余、雪泥をうがち、深渓をわたり、午後二時、会場に着す。途上見るところ、詩中に入るる。

樵径傍渓曲幾回、雪埋林壑白成堆、客衣馬上寒殊甚、風自彦山高処来、

(きこり道は谷川にそって何度もめぐり、雪は林や谷を埋めて、白くうずたかく、旅人の着衣は馬上においてはことのほか寒い。風が英彦山の高みから吹きおろしてくるからなのだ。)

★(禾+叐)水悠々一路長、馬蹄踏雪入伊良、此郷堪羨富源満、当面連山樹鬱蒼、

(祓川が悠々と流れ、ひとすじの道は遠く、馬のひづめで雪をふみわけて伊良原に入った。この村はうらやむほど豊かな資源に恵まれており、正面に連なる山々には樹木がうっそうと茂っている。)

 伊良原村は英彦山麓の寒村なるも、その地植林に適し、樹色鬱蒼たり。渓水あり、祓川という。会場は小学校にして、宿所は小野平治氏宅なり。村長永沼亨氏、区長白川治吉氏、寺院加来円城氏等の発起にかかる。秋満郡書記ここに同行せらる。

 九日(日曜) 晴れ。早朝、伊良原を発せしも、泥深く道険にして馬進まず。犀川停車場に着するや、汽車すでに通過せり。徒然として茅店に休憩すること二時間の久しきに及び、ようやく乗車するを得たり。田川郡後藤寺町〈現在福岡県田川市〉の歓迎者とともに同町に移る。会場は高等小学校なり。発起者は町長有吉好太郎氏、助役大坂茂美氏、収入役原田種憲氏、高等校長宮崎祥録氏等なり。郡視学川口尚義氏の来会あり。田川郡は近来炭坑のために急に繁盛をきたし、工夫四方より雲集し、煙突各村に林立し、鉄路縦横に貫通し、山中なお電話電灯の設備あり。しかして後藤寺はまさしくその中軸に当たる。街頭の来往、深夜なお絶えず。もってその盛況を見るべし。

 十日 晴れ。早朝、添田村〈現在福岡県田川郡添田町〉に移る。午前、高等小学校において教育会員のために講話をなし、午後、法光寺において一般公衆のために講話をなす。聴衆満堂、一千二百人を算し、非常の盛会を見たり。法光寺住職は井上順祥氏なり。当村開会は村長矢野弾三氏、助役綾部正蔵氏、高等校長野間雅人、尋常校長大塚政輝氏、有志家三宅節平氏の発起および尽力にかかる。

 十一日(紀元節) 晴れ。午前、法光寺を発し、汽車にて後藤寺に至り、更に人車にて糸田村〈現在福岡県田川郡糸田町〉に移る。会場は小学校にして、宿所は伊藤基定氏の宅なり。当日、郡長津村直次氏、香春より車を駆りて殊更に来会せらる。開会発起は村長伊藤平太郎氏、助役林亀二郎氏、校長高原法房氏、および桑野氏等の有志なり。この辺り一体は炭坑にして、田下、河底に至るまで採炭せざるの地なしという。昨年、この村内の鉱区において、ガス爆発のために多数の死亡者を出だせしは悲惨の至りなり。

 十二日 晴れ。午前、神田〈現在福岡県田川郡金田町・方城町〉小学校において教育会員のために講話をなし、午後、方城村〈現在福岡県田川郡方城町〉正蓮寺において更に開演す。住職は長川良雄氏なり。村長田中也蔵、学事係桑野重祥、校長艸野賢造、大田威雄、光井力太郎、有志者爪生又七諸氏の発起にかかる。方城村の炭坑は三菱会社の経営に属し、規模壮大、全国炭坑の模範なりという。

 十三日 晴れ。人車にて香春町〈現在福岡県田川郡香春町〉に移る。午前は高等小学校において教育家のために講話をなす。午後は有志の依頼に応じて善竜寺において開演す。主催は香春町長井沢悦太郎氏、校長赤間寛氏、松井清彬氏、勾金、採銅所、金川各村長および校長なり。会後、更に香陽倶楽部の依頼に応じて座談をなす。宿所は豊後屋なり。善竜寺住職は長尾良渓氏にして、香陽倶楽部幹事は木村包政氏なり。郡内開会は郡役所の配意と視学川口氏の尽力とに成り、各所の会場いちいち視学の同行せられたるは深謝せざるを得ず。村上良峯氏も照会の労をとられたり。

 田川郡内の情況は左の二首をもって写出す。

渓谷縦横鉄路長、鯨車載炭去来忙、何知地底三千尺、採出富源無尽蔵、

(渓谷は縦横に走り、そこに敷設された鉄道が長々と続き、延々と連結された貨車は石炭を積んで忙しく往来する。どうして地底三千尺の富の源なる無尽の蔵よりとり出したものとわかるであろうか。)

到処林巒総炭田、工場櫛比瓦光鮮、文明不与風流伴、恐是青山染黒煙、

(いたるところの林や山はすべて炭田と称してよく、工場は櫛の歯のごとくびっしりと建ち並んで、瓦が鮮やかにかがやいている。文明と風流とはしょせんともがらとはなれぬ、おそらくはこの青々とした山も黒煙に染められてしまうのであろう。)

 十四日 晴れ。香春駅より乗車、英彦山を右方に望み、行橋より換車して築上郡に移る。同郡教育会員の歓迎あり。午後一時、宇島駅に降車し、郡衙所在地なる八屋を経て千束村〈現在福岡県豊前市〉正円寺に至りて開演す。当夕、八屋町旅館桝屋に帰りて宿泊す。

 十五日 晴れ。八屋町〈現在福岡県豊前市〉賢明寺において両度の開会あり。午前、婦人会、午後は教育会の主催にかかる。会場の住職は大江豊水氏なり。当夕、教育家の懇親会あり。町長は浦野岩吉氏なり。

 十六日(日曜) 晴れ。午前、黒土村〈現在福岡県豊前市〉徳善寺において開演す。青年会の主催なり。会長は後藤募氏、村長は矢幡小太郎氏なり。徳善寺前住職福田椿塢氏のために還暦の詩を賦し、「豊陽無処不仙寰、椿塢更看風月閑、満地春光桃李煖、開来六十一年顔」(豊前の地は仙人の住むようなところばかりであり、椿塢氏はさらに風月をめでながらのどかにすごしている。地には春の光が満ちて桃や李もあたたまり、六十一歳の顔をほころばす。)を書してこれに贈る。午後、合河村〈現在福岡県豊前市〉浄福寺にて開会あり。村長は恒成竜太郎氏にして、高等校長は島田又太郎氏なり。

 十七日 晴れ。早朝、浄福寺を発し、渓間をさかのぼり岩屋村〈現在福岡県豊前市〉に至り、長角寺において開会す。寺は清流と奇巌とを襟帯し、楼上の風光おのずから吟情を促す。

一条渓水繞堂流、日夜潺渓声入楼、又有仙源洞中趣、巒影松光窓上浮、

(ひとすじの谷川の水が寺堂をめぐって流れ、ひるも夜もさらさらと流れる水音は楼台に入ってくる。そこはまた仙人が住むところのおもむきがあり、山の姿と松かげが窓べに浮かぶかのような風光なのである。)

 午後、更に車をめぐらして西吉富村に向かう。途上、横武村長恒遠清太郎氏の宅に少憩す。昔年、僧月性号清狂、少壮のとき同家に寓居せしことあり。当時の遺稿を披見するに、「風月韶融無事天、間中屈指歳華遷、功名須向詞場立、読過周郎破賊年」(風月は美しくとけあって平隠無事であるが、このなかで指おりかぞえつつ歳月はうつる。功名は文人の世界で立てなければならないのだが、いま三国志の呉の武将周郎〔周瑜〕が、魏の曹操を赤壁で破った年のところを読んで心を躍らせているのである。)の一絶あり。余、これに次韻して曰く、

風雲漸散見晴天、君去星霜此幾遷、今日幸繙遺稿得、読来黙々憶当年、

(風雲の時代がようやく終わって、晴天の時代が来た。君〔月性〕が世を去ってから、歳月はどれほどめぐったであろうか。こんにち幸いにして君の遺稿をひもとくことができ、読みくだすほどにただ黙々として、当時をおもいみるのであった。)

 西吉富村〈現在福岡県築上郡新吉富村〉会場は光林寺にして、郡内第一の大坊と称し、大神瑞章氏これに住す。高等校長は池田太市氏なり。聴衆、堂に満つ。当夕、八屋町旅館に帰宿す。

 十八日 晴れ。朝、八屋を出発す。郡長堀狷介氏の送行あり。椎田町に降車し、これより腕車にて行くこと約三里、上城井村〈現在福岡県築上郡築城町〉字伝法寺に至る。深渓間の寒村なるも、村外には弓形門に国旗を交叉して歓迎の意を表す。会場は忍誓寺なり。聴衆、堂にあふれ庭に満ち、上城井村長は加来藤吉氏、下城井村長は松下次郎氏、高等校長は遠藤曾郎氏なり。閉会後、ただちに車をめぐらして椎田町〈現在福岡県築上郡椎田町〉に帰る。途上、渓風寒を送りきたるも、梅花馥郁として山村の春意をもらす。一帯の小流、村を一貫してほとばしる。急湍激流にして年々多大の水害ありという。旅館は城岩館なり。

 十九日 晴れ。午前、婦人会に対して談話をなし、午後、公開演説あり。会場は西福寺なり。町長は松田鉄五郎氏、高等校長は楢原延彦氏なり。本郡内の開会はすべて郡役所にて指定せられ、郡教育会の主催にかかる。会長は堀郡長なり。郡視学穂坂重吉氏、郡書記松田巳之助氏、校長林嘉久馬氏、同西村卯太郎氏、主として尽力せられ、代わり代わり各所の開会に出席して斡旋の労をとられたり。また、哲学館館賓永尾治身氏(築城村住)も大いに奔走尽力せられたり。

 二十日 晴れ。午前中に築上郡を去り、大分県下毛郡中津町〈現在大分県中津市〉に移る。町長岩田春三郎氏の歓迎あり。宿坊および会場は宝蓮坊にして、開会発起は各宗寺院なるも、なかんずく宝蓮坊住職村上徳氏、安随寺住職本多諦信氏主催となる。午後開会。郡長出事氏、石田豊城氏の来訪あり。本日、中津行途上、車窓の所見を詩をもって写す。

去京二月客天涯、路入豊陽始見花、車外寒村梅一色、春光却在野人家、

(一月に東京を旅立ち、この二月には天の果てのような地に旅をつづける。道をたどって豊陽に入り、はじめて花をみた。車窓からみる寒々とした村は梅花に彩られ、春のなごやかな光は、むしろ野にたつ家にこそあるのだ。)

 二十一日 晴れ。中津町滞在。午後開会。宝蓮坊村上氏には二十年前、東都墨堤において会見せしことあり。よって一絶を賦して氏に贈る。

二十年前墨水涯、与君相対酌桜花、老来再会何多幸、耶馬渓頭念仏家、

(二十年前に墨田川のみぎわで、君とあい対して桜花のもとに酒をくみかわしたものであった。年老いて再会するとはなんと幸せなことか、ここは耶馬渓に近い念仏の家、宝蓮坊なのである。)

 哲学館大学出身堺三司氏も助力せらる。

 二十二日 晴れ。中津を発し尾紀村〈現在大分県中津市〉植野空蔵寺に移りて、午後開会す。小学生徒の歓迎あり。発起は当寺住職大山広哉氏、井上薫成氏、村長馬場嘉六氏、校長武本伊藤氏、有志家植野啓二郎氏にして、大山氏、大いに尽力あり。哲学館出身者清水玄乗氏もここに来会す。

 二十三日(日曜) 晴れ。午前、下毛郡より宇佐郡八幡村〈現在大分県宇佐市〉教覚寺に移りて開会す。生徒の歓迎あり。住職平田琢男氏、村長平田守一氏、小学校長広津権司氏等の発起にして、おのおの尽力せらる。郡役所より書記永松文治氏同行あり。

 二十四日 晴れ。四日市町〈現在大分県宇佐市〉に移る。宿坊は東別院にして、会場は西別院なり。午後開演。たまたま勁風、霰を巻きてきたる。東別院輪番幹事福田観樹氏は上洛のために不在なり。西別院輪番は小林照界氏なり。東西両別院の大伽籃、鬱然として対立し、一大壮観を呈す。当夕、横尾照之、高井栄次郎等の哲学館出身諸氏来会し、晩餐をともにす。東別院事務員渋谷智淵氏は今回の巡回に関し、各所開会交渉照会の労をとられたり。当町は郡役所所在地にして、郡長は松岡公達氏なり。

 二十五日 晴れ。午前、四日市を発し、車行四里、安心院村〈現在大分県宇佐郡安心院町〉に至る。隧門を出る所、生徒並列して迎う。この地、四面山をめぐらし、別天地の観あり。会場は最明寺にして、堂狭く人多く、過半は庭園内にて聴講せり。発起者は村長矢野楯雄、郡参事会員久恒富太郎、小学校長阿部勝三郎、巡査部長平岡護朗等の諸氏なり。

 二十六日 晴れ。安心院より南院内村〈現在大分県宇佐郡院内町〉下重良に移る。渓水にそってさかのぼること数里、水底および両岸みな岩石より成る。往々奇景に接す。橋外に多数の生徒および有志者、列を作りて歓迎せり。会場および宿所は西宝寺なり。

石渓曲々水声喧、路過仙橋入寺門、一樹梅花如有待、破顔微笑護茅軒、

(岩石の間を谷川が曲折をくり返して流れ、水音もかまびすしく、道は仙人がかけわたしたような橋をすぎて寺院の門に入る。一樹の梅が人を待つかのように、花ひらいてかやぶきの寺の軒先を守っているのである。)

 庭前に梅花の寒風に笑うあり、故にこれを詩中に入るる。堂広きも立錐の地なく、すこぶる盛会なり。これ、住職梅谷覚幻氏、高等小学校長永田寛吾氏、村長小野好雄氏、此松法含氏、永田鹿次郎氏の発起にかかる。

 二十七日 晴れ。南院内より下行して東院内村〈現在大分県宇佐郡院内町〉字副に至る。生徒の歓迎、前日のごとし。覚正寺掛所をもって会場となす。堂内庭園をあわせて会場に当つ。また盛会を得たり。宿所は村内有志家の宅なり。発起者は永田寛吾氏、権藤一郎氏、上田宝作氏、外国績氏、および村長加来修市氏なり。永田氏、特に尽力せらる。郡視学榎本四郎治氏は安心院以来、各会場に同行して斡旋あり。

 二十八日 晴れ。東院内を発して駅館村〈現在大分県宇佐市〉に至り、修身教会発会式に臨む。生徒、村外に歓迎す。会場は任聖寺にして、宿所は北信太郎氏の宅なり。村長石丸恕一氏、校長吉松健治氏等の発起にかかる。宇佐郡内の修身教会は本村をもって嚆矢とす。

 二十九日 雨。午前、宇佐町〈現在大分県宇佐市〉に移り、中学校において講演をなす。校長は山崎来代矩氏なり。校舎清新、位置またよし。官幣社に参拝す。祠林鬱蒼、門庭神粛、人をしておのずから敬神の念を深からしむ。

駐車宇佐社頭林、樹擁門庭昼自陰、一鳥無声山寂々、何人不起敬神心、

(車を宇佐神宮の前に茂る林にとどめた。樹々は門や庭をおおうように昼おのずからかげをおとしている。鳥の声すらなく、山はひっそりと静まり、なにびとも敬神の心を起こさずにはおられぬ。)

 午後、極楽寺に開演す。住職国東観月氏の発起なり。寺内に希有の曼荼羅を珍蔵す。

 三月一日(日曜) 晴れ。宇佐郡より下毛郡三保村〈現在大分県中津市〉に移る。郡書記永松氏、送りてここに至らる。会場は長久寺なり。郡内第一の巨刹と称す。堂宇壮大、門庭広闊なり。煙火をもって歓迎せらる。聴衆満堂、盛会を極む。住職田丸獲忍氏は不在なり。村長植山代平氏の尽力一方ならず、植山亀三郎氏、同鶴市氏、中尾喜蔵氏も助力あり。城井村より新田覚音氏(哲学館出身)来会せらる。春風習々、梅花芬々、ときようやく好時節に入る。

 二日 晴れ。午前十一時、新田氏とともに車を連ねて三保を発し、田畦をわたりて耶馬渓に出ず。駅道改修のために車を通ぜざる所十余町に及び、渓流に沿って徐歩し、仰ぎて崖頭を望めば、羽化登仙の趣あり。今より十七年前、初めてこの勝を探りしが、今日再遊するに、風光依然として旧のごとし。ただ、山林濫伐のためにいくぶんの風致を減じたるのみ。よってこれを詩中に入るる。

一別已経二十秋、再来復与此山遊、水眉石目皆依旧、只恨美人多禿頭、

(ひとたびこの景勝をたずねて以来、すでに二十年の歳月を経た。いま再びこの地にきたり遊ぶ。水の流れ石の姿はすべてもとのままなのだが、残念なことに美しい景観も山林が伐採されてはげ山と化しているのだ。)

 耶馬渓は禿頭に化し、余は白頭に化す、あに今昔の感なきを得んや。午後二時、城井村〈現在大分県下毛郡耶馬渓町・本耶馬渓町〉字平田に着す。宿所は富豪平田義胤氏の宅なり。宅、美にして景また美、庭前まさしく耶馬の奇勝と相対す。会場は西浄寺にして、新田氏これに住す。聴衆、堂にあふる。渓雲晩に雨を醸し、奇勝を濛々の中に見るも、かえって一興を添う。発起者は村長三尾母義幸氏、遠入雄夫氏、楳木源治氏、西一作氏、新具元義氏、毛利清九郎氏等なり。新田氏、大いに尽力あり。羅漢寺住職中島得聞氏(哲学館出身)もまた助力せらる。同出身上原聞正氏、三郷村より来問あり。

 三日 雨。午前十一時、平田を辞し、渓行数里、三郷村〈現在大分県下毛郡山国町〉に入る。雨はなはだしく至る。この間一帯奇石怪巌、袂を連ね列を成し、いちいち応接にいとまあらず。詩をもってその一斑を叙す。

渓上風光総不凡、水心山腹鏤奇嵓、人言造化無偏愛、何向豊陽開秘函、

(谷ぞいの風景はすべてにすぐれ、水流の中、山腹にも目を奪う岩がきざみこまれるようにならび立つ。人はいう、造化の神は万物を造り育てる上で平等であると。しかし、それならば一体どうしてこの豊前の地にのみ秘密の函を開いてその美しさをみせているのであろうか。)

勿謂瑞山景最宜、日東別有馬渓奇、其名海内児猶諳、遺憾泰西人未知、

(いうなかれ、スイスの山の景色が最もよいなどと。日本には格別に耶馬渓の奇観があるのだ。その名勝であることは国内の児童さえ熟知しているのだが、残念ながら西洋諸国の人々はまだ知らないのである。)

 途中、柿坂駅あり、近年これより森町に至る。新道を開鑿し、その間に新耶馬渓あるも、順路あしきために見ることを得ず。三郷村会場円照寺に着するとき、まさに三時ならんとす。国旗および煙火をもって歓迎せらる。聴衆すでに堂にあふる。発起者は会場住職八幡良哲氏、村長松尾節三氏、有志家熊谷直義氏、楳木芳太郎氏、長野寂静氏、上原聞正氏、小川秀尚氏等にして、みな大いに尽力あり。

 四日 雨。夜来降雪、暁窓一望、四面みな白し。上原氏とともに馬車を駆り、雪泥を払って山路を攀ず。雨はげしく至り、雲煙冥濛の中に国境を越え、豊後国日田郡に入る。嶺を下りて有志数氏の歓迎に会す。午後三時、日田町〈現在大分県日田市〉旅館松栄館に着す。会場は長福寺なり。そのときすでに聴衆、雨をおかして雲集せるを見る。当地は郡役所所在地にして、郡長は富屋直太郎氏なり。しかして開会に関し特に尽力せられたるは、高山大行氏(哲学館出身)、琴谷柳三郎氏(視学)、武内実相氏、岩尾昭太郎氏等とす。町長広瀬氏も助力せらる。高山氏には十七、八年を経て再会せしが、彼我相見て、ともにその老体を現ぜるに驚く。

一別以来二十秋、客窓再会話曾遊、当年意気今何在、君化禿頭吾白頭、

(ひとたび別れてより二十年を経、いま旅館の窓べに再会して、かつて君が遊学したころのことを語り合う。当時の盛んであった意気ごみは、いまどこにあるのであろうか。君は禿頭となり私は白髪となってしまった。)

 五日 晴れ。午後、日田町字隈町浄満寺において開会す。南木海善、新田宏周、平野円、松涛言成、渡辺暎芳、大谷義円諸氏の発起にかかる。夜中、同寺において更に開会す。樹心婦人会の主催なり。日田町は山間の一都会にして、近年水力電気を応用し、各戸電灯を点ず。

穿破豊山雲幾層、霜威三月尚稜々、寒村亦浴文明沢、隈水源頭点電灯、

(豊後の山々をふみこえ、雲をかき抜けることいくたびであったことか。霜のきびしい三月、なお寒さはすさまじい。しかし、このさむざむとした村々もまた文明の恩沢に浴して、三隈川水源のあたりに電灯がともされたのである。)

 大蔵某氏の所蔵、平野五岳翁筆書画帳に野狐禅の題字ありしが、鼠その首字を食い去り、狐禅の二字を存す。余、所嘱に応じ「野狐失其首、狡鼠以医飢、問我是何兆、吉凶天独知」(野狐はそのこうべ〔野の字を欠く〕を失った。わるがしこい鼠が野の字を食って飢えをみたしたからである。私にこれはいったいなんの兆しかときかれても、吉か凶かは天のみが知るとしか答えられぬ。)の四句を賦してこれに題す。

 六日 晴れ。午前、高山、琴谷両氏と車を連ねて行くこと三里、大鶴村〈現在大分県日田市〉に至り、午後開演す。会場不遠寺なり。当夜、有志家森山知誠氏の宅に宿す。夜中、小宴を催す。この地はじめて車道を開通し、いまだその式を挙行せざるに、ここに車痕をとどめしは、わが一行をもって嚆矢とすという。開会主催は村長一ノ宮広太氏、有志家森山知誠氏、梅原美楯氏等なり。なかんずく一ノ宮氏、大いに尽力あり。

 七日 雨。朝来、風寒く雨はなはだしく、ときどき雪を交ゆ。午前十一時、日田町に着し、更に馬車に駕して玖珠郡に向かう。山路雪深く、積もること尺余に及ぶ。馬疲れ車進まず、やむをえず歩行して嶺頭に達す。すでに二時を過ぐ。満谷の松杉、みな白帽をいただけるは美観なり。茅店に少憩するも、午餐の便を得ず。ようやく腕車を雇って嶺を下り、玖珠郡北山田村〈現在大分県玖珠郡玖珠町〉字戸畑に達せしは四時なり。この日、行程八里余にして、大雪に会し、大いに疲労を極む。会場は満福寺なり。郡長三好成氏、視学小原恵三氏、課長恩田伝次郎氏、ここにきたりて歓迎せらる。山田寺法元氏もここに来会す。演説終わるとき、日すでにくらし。発起者は住職楳谷洞英氏、村長小幡範蔵氏等の諸氏なり。

 八日(日曜) 雪。寒威凜烈、白雪満地、午前中に万年村〈現在大分県玖珠郡玖珠町〉字塚脇に移る。会場は小学校にして、宿所は旅店なり。開会は村長緒方増蔵氏、校長森真証氏、および広妙寺住職山田寺法元氏、教念寺住職森道真氏等の発起にかかる。この村内に高峰あり、その名を万年山という。

春風三月入仙源、猶見林巒霜雪繁、今夜客身何処宿、万年山下万年村、

(春風の吹く三月に仙人の住むような地に入った。春とはいえ林も山も霜と雪の多いようすが見てとれる。今夜、旅の身はいずこに宿を求めようか、ここは万年山のふもと万年村なのである。)

 九日 晴れ。午前、森町〈現在大分県玖珠郡玖珠町・九重町〉に移る。郡役所のある所なり。午後、専光寺において開演す。堂宇の新築いまだ竣功せず。宿所は旅店なり。町長久留通文氏、校長竹腰亀太郎氏、宗教家森部、帆足、宿利等諸氏の発起にかかる。当町の戸数は千百戸に満たざるも、地積東西五里、南北三里にして、その区域内に実弾演習地を有す。市街の家屋は過半みな竹をもって瓦に代用す。これを竹瓦と呼ぶ。初めてここにきたるものは、竹屋根の多きに驚かざるはなしという。村落にては小学校に竹瓦を用うるものあるを見る。

 十日 雨、往々雪を交ゆ。朝、森町の神社に登詣す。石階数十丈、すこぶる壮観なり。社前に数間にわたる巨大の手洗鉢あり、天然の大石なり。その傍らにて郡長、町長と撮影す。眼前に岩扇山と名付くる石骨を露出せる奇山ありて、これと相対す。

岩扇山根寄客身、竹軒茅屋自成隣、社陵高処時回望、雪満仙源未入春、

(岩扇山の近くに旅の身を寄せる。村は竹の軒、茅の屋根がおのずと隣りあう。神社の建つ高みより見渡せば、雪はこの仙人の里にみちみちてまだ春にはほど遠い。)

 これ、その実景なり。玖珠郡内の山は多く石腹巌腰を露出す。その最も奇なるは断株〔きりかぶ〕山なり。山頂平円にして、周囲石骨をめぐらし、その形状、樟樹を断〔き〕りたる株のごとし。故にその名あり。郡名もこれより起こるという。森町を発し、断株山を望み、玖珠川に沿い、車行して東飯田村〈現在大分県玖珠郡九重町・玖珠町〉に至る。会場および宿所は明厳寺にして、開会は住職麻生良明氏、校長矢野喜作氏および村役場員井上文次、帆足熊吉諸氏の発起にかかる。

 十一日 晴れ。午前中に野上村〈現在大分県玖珠郡九重町〉に移る。途上の所見、詩中に入るる。

三月豊山雪未融、玖珠川上白連空、寒村却有仙郷趣、処々梅花笑凍風、

(三月の豊後の山に雪はまだ残り、玖珠川のほとりより見れば、しらじらとして空につらなっているようだ。さむざむとした村にはかえって仙人の里のおもむきがあり、ところどころにある梅の花がいてつく風のなかに咲いている。)

 午後、尊光寺にて開会す。婦人会の主催にかかる。村長は佐藤慈光氏、校長は得守弥太郎氏なり。桐原玄道氏(哲学館出身)の阿蘇郡より出でて迎うるに会す。宿所は旅館なり。本郡内各所の開会は、郡役所の厚意と山田寺法元氏の尽力とに出でたるは深く謝するところなり。山田寺氏および森道真氏、わが行を送りてここに至る。

 十二日 快晴。早天、馬上にまたがりて渓間に入り、阿蘇に向かう。山風寒を送りきたるも、梅笑鴬歌、幽谷もまた春風の趣あり。嶺下に浴泉場あれば、浴舎に少憩して午餐を喫す。桐原氏先発して、すでにここにあり。村醪を傾けて暖をとり、勇を鼓して嶺に上る。雪泥深く馬逡巡として進まず、前後の諸山なお皚々たり。なかんずく湧出山の白衣を被りて左方に危座するを見る。

竹屋疎々石径孤、晴風馬上向阿蘇、深渓春浅水声冷、高嶺雪封山色無、

(竹屋根の家もまばらに、石の小道がひっそりとひとすじ通っている。晴天のもと風に吹かれて、馬上ゆられつつ阿蘇に向かう。深い谷は春まだ浅く、水の声にも冷たさが感じられ、高い嶺々は雪にとざされて、豊かであるべき山の色も今はみることもできぬ。)

 国境にありて熊本県下阿蘇郡内を一瞰するに、数帯の連山前後に屏立せるは壮快を覚ゆ。

 以下は熊本県紀行に譲る。各所開会において郡役所、町村役場および発起者、有志者諸氏の厚意をかたじけのうせるは、ここに深く感謝するところなり。

     福岡県三郡開会一覧表(二月一日より十九日まで十九日間)

   市郡   町村    会場  演説   聴衆     主催

  京都郡  豊津村   女学校  一席  五百名    女学校

  同    同     寺院   一席  三百五十名  崇徳会

  同    同     中学校  一席  五百名    中学校

  同    同     中学校  四席  二百名    郡教育会

  同    苅田村   寺院   二席  四百名    村内有志

  同    行橋町   寺院   二席  五百名    町内有志

  同    黒田村   寺院   二席  六百名    五カ村有志

  同    犀川村   小学校  二席  六百名    村内有志

  同    伊良原村  小学校  二席  五百名    村内有志

  田川郡  後藤寺町  小学校  二席  五百名    町内有志

  同    添田村   寺院   二席  一千二百名  村内有志

  同    同     小学校  二席  百名     教育分会

  同    糸田村   小学校  二席  五百名    村内有志

  同    神田村   小学校  二席  百名     教育分会

  同    方城村   寺院   二席  五百名    村内有志

  同    香春町   小学校  一席  百五十名   教育分会

  同    同     倶楽部  一席  五十名    香陽倶楽部

  同    同     寺院   二席  一千名    町内有志

  築上郡  千束村   寺院   二席  六百名    郡教育会

  同    八屋町   寺院   二席  九百名    郡教育会

  同    同     寺院   二席  二百名    婦人会

  同    黒土村   寺院   二席  四百名    青年会

  同    合河村   寺院   二席  八百名    郡教育会

  同    岩屋村   寺院   二席  三百名    村内有志

  同    西吉富村  寺院   二席  一千二百名  郡教育会

  同    上城井村  寺院   二席  一千名    郡教育会

  同    椎田町   寺院   一席  二百五十名  婦人会

  同    同     寺院   二席  一千名    郡教育会

   以上合計 五町、十五カ村、二十八カ所、五十二席、一万四千九百人

     大分県四郡開会一覧表(二月二十日より三月十一日まで二十日間)

  〔市郡   町村    会場  演説   聴衆     主催〕

  宇佐郡  四日市町  寺院   二席  七百名    町内有志

  同    八幡村   寺院   二席  六百名    村内有志

  同    安心院村  寺院   二席  一千二百名  村内有志

  同    南院内村  寺院   二席  一千二百名  村内有志

  同    東院内村  教会所  二席  一千二百名  村内有志

  同    駅館村   寺院   二席  七百名    村内有志

  同    宇佐町   寺院   二席  三百名    村内有志

  同    同     中学校  一席  四百名    中学校

  下毛郡  中津町   寺院   四席  一千三百名  寺院有志

  同    尾紀村   寺院   二席  七百名    村内有志

  同    三保村   寺院   二席  一千三百名  村内有志

  同    城井村   寺院   二席  一千名    村内有志

  同    三郷村   寺院   二席  七百名    村内有志

  日田郡  日田町   寺院   二席  八百名    豆田町有志

  同    同     寺院   二席  九百名    隈町有志

  同    同     寺院   一席  六百名    婦人会

  同    大鶴村   寺院   二席  三百名    村内有志

  玖珠郡  北山田村  寺院   一席  三百五十名  村内有志

  同    万年村   小学校  二席  七百名    村内有志

  同    森町    寺院   二席  九百名    町内有志

  同    東飯田村  寺院   二席  四百五十名  村内有志

  同    野上村   寺院   二席  六百名    婦人会

   以上合計 五町、十四カ村、二十二カ所、四十三席、一万六千九百人

 このほか、播州明石町開会五席、聴衆千五十人あり。

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熊本県紀行

 明治四十一年三月十二日 晴れ。随行藤村僧翼氏とともに馬上にて豊後国玖珠郡野上村を発し、行程六里半、熊本県阿蘇郡北小国村〈現在熊本県阿蘇郡小国町〉字宮原町に着す。宿所は有志家某氏の宅なり。

 十三日 晴れ。宮原金性寺において開会す。四恩会の発起にかかる。その総代は梅木玄朗氏および禿観了氏にして、ともに大いに尽力あり。村長松岡静太氏、校長北里直樹氏等も助力せらる。当夕、愛国婦人会の依頼に応じて講話をなす。この地に鏡池の怪あり。池底に小形の円鏡を見る、その数、日々同じからずという。

 十四日 晴れ。北小国村宮原町を発し、行くこと里許、南小国村〈現在熊本県阿蘇郡南小国町〉字市ノ原に至り、小学校において開会す。その発起は四恩会なり。村長北里氏尽力あり。哲学館出身者桐原玄道氏とここに手を分かつ。桐原氏は満願寺に住す。小国郷は四面山脈をめぐらし、自然に一国の形をなす。故にその名あり。近来林業大いに興り、県下富源の一に算せらる。午後二時、市ノ原を発し、馬車を駆りて山田村に向かう。雪すでに消して、泥いまだ乾かず。登ること三里余にして嶺頭に達す。阿蘇岳の煙を吐きて眼前に横臥するを見るところ、すこぶる壮快を覚ゆ。

  脉々肥山形勢雄、嶺頭一望快無窮、夕陽影裏蘇峯立、万丈黄煙抹半空、

(脈々と連なる肥後の山々は地勢雄大であり、嶺に立って一望すれば壮快なること極まりない。夕日の光のなかに阿蘇岳がそびえたち、高々と噴き上げる黄煙は空の半ばをおおっている。)

 嶺を下りて内牧町に入るとき、日すでに暮るる。これより月影を踏みて山田村〈現在熊本県阿蘇郡阿蘇町〉に入る。山隈の孤村なり。ときすでに九時に近し。この日の行程六里とす。

  蘇渓無処不仙源、馬上吟行日漸昏、山寺鐘声林外動、野蹊蹈月入孤村、

(阿蘇の谷はすべて仙人の住む里かと思われ、馬上に詩を吟じつつ行けば、日はしだいに暮れようとする。山寺でつく鐘の音は林の外に響き、野や谷をこえ、月の光をふんでぽつりと遠くはなれた村に入ったのであった。)

 会場は山田寺にして、宿所は湯浅政休氏の宅なり。住職湯浅宿氏の主催にかかる。村長は星野義元氏、助役は山本義雄氏なり。夜中、一席開演す。

 十五日 晴れ。朝、更に開会して、午十二時、内牧町〈現在熊本県阿蘇郡阿蘇町〉に移る。会場は満徳寺にして、住職岡崎了精氏、道知寺坂田覚隆氏、町長田代亀四郎氏、校長杉原伊作氏等の発起なり。岡崎氏、大いに尽力せらる。当夕、養神館に宿す。館内に温泉あれども温度低し。郡視学吉田勝久馬氏来会せらる。

 十六日 雨。午前、宮地町〈現在熊本県阿蘇郡一の宮町〉行の途上、阿蘇農業学校に寄りて講話をなす。同町より楽隊の歓迎あり。校長は百瀬葉千助氏なり。午後、光林寺において開会す。住職は佐藤大了氏なり。郡長中西正義氏も出席あり。郡内開会は郡長の好意をかたじけのうせり。宿所は蘇門館なり。町長宮川犀次氏不在、助役坂梨平喜氏、寺院佐藤、斎藤、小代、林の諸氏、校長、魚住、宮川両氏の発起にかかる。宿所の当面に阿蘇神社あり。社殿および山門の構造は宏壮にして、県下の一大美観となる。

 十七日 雨。宮地より坂梨村〈現在熊本県阿蘇郡一の宮町〉に移る。宿所は富豪菅慎雄氏の宅にして、会場は浄行寺なり。住職坂梨素雄、村長藤井競八、校長家人茂、有志家菅芳磨諸氏の発起にかかる。菅氏の庭前、猫岳と相対す。山身みな石骨より成る、すこぶる奇観なり。

 十八日 晴れ。馬上、朝煙を破りて坂路を攀ず。蘇峰と猫岳との間を連結せる山脈を横断す。巓頭の所見をつづること左のごとし。

  蘇山高処雪泥残、馬上春風昼尚寒、回首中天猫岳聳、石蓮倒立是奇観、

(阿蘇山の高いところにはなお残雪があり、馬上に春風を受けるとはいえ、昼なお寒さを覚える。ふりかえって見れば、なかぞらに猫岳がそびえ、その姿は石刻の蓮をさかさまに立てたようであって、まさにこれは奇観といえよう。)

 阿蘇の噴火、新旧両口ありて、旧口より黒煙を噴出し、新口より白煙を吐出し、この両煙相合して一種の黄氛となり、散じて村落の上に落ちきたる。これをユナという。

  豊筑諸山臥且眠、蘇峯独起勢揚然、風吹噴火冲天気、散作千村万落煙、

(豊後、筑後の山々は静かによこたわり、いまや眠りにつこうとするとき、阿蘇山の峰のみはひとり起きて、その勢いは盛んなものがある。風吹きおこり火を噴き上げて天にかけのぼり、ひろく散って幾千幾万の家々に煙のごとくおちかかるのである。)

 これを五言に縮め「群岳静如眠、蘇峯独猛然、風吹噴火気、散作万家煙、」(すべての山岳は静かに眠るようであるのに、阿蘇岳だけはたけだけしく起きて、風を吹きおこし火を噴きあげ、幾万の家々に煙のように散りかかる。)となす。山行五里、午後二時、白水村〈現在熊本県阿蘇郡白水村〉字吉田新町に着す。吉田郡視学も同行せらる。会場は小学校にして、長さ十九間、幅四間半の教室、立錐の地なく、聴衆千五百名と算す。発起者は円林寺住職後藤霊雲、校長栗林又平、有志家菊池工、工藤弘、小林了往等の諸氏にして、後藤氏最も尽力あり。

 十九日 晴れ。馬上にて旅館を発し、山行六里、その間高嶺を登降し、曠野を跋渉して馬見原町〈現在熊本県阿蘇郡蘇陽町〉に入る。歓迎者多し。ときすでに二時を過ぐ。宿所は有志家田中寛平氏の宅なり。当地は山間の都会にして、日向国高千穂方面の物産ここに集合す。会場は小学校にして、すこぶる盛会を得たり。発起者は町長高橋保次郎、校長一木重馬、有志今村万平、吉田平馬、海津邦一、高木啓二郎、高木国雄、岩下仁等の諸氏にして、町長大いに尽力せらる。以上は阿蘇郡内の紀行なり。

    (以下は第三編に割譲す)

各所巡回中、厚意をかたじけのうせる有志諸氏の姓名いちいち記憶せざれば、脱漏定めて多かるべし。また、姓名の誤写誤植もすくなからざるべし。請う、これをゆるせよ。

 〔巻末の「井上円了講述著作書籍一覧」は割愛した。〕