【修正中】解題

 井上円了の世界旅行記


解題 井上円了の世界旅行記     瀧

 



一たび世界を漫遊した明冶人


明治日本の開化は、 まず世界を実地に見学することから、 自発的な維新活動を開始したといっていいだろう。その明治知識人の西欧旅行熱を特徴づける性格は、 後年、 第二次世界大戦敗北後の日本を飛び出した一青年の、著名な旅行記のタイトルを借りて、「何でも見てやろう」とでも名づけたくなるものがある。 そのことを端的に物語るのが、 明治四年から二十力月にわたって欧米十ニカ国を視察した、 詳細で鮮烈な旅行報告である久米邦武編の『米欧回覧実記』である。

 

特命全権大使・岩倉具視、 副使・木戸孝允、 山口尚芳、 伊藤博文、 大久保利通ら主だった政府要人が、 いわば政務を一時よそにして、 長期海外研修に出掛けたこと自体が、 歴史的に見ても驚くべきことであった。 そしてこの時期のそのような行動力が、 のちのちどれ程の果実をもたらすことになるかは、 明治十一年になって公にされた「回覧実記」を一瞥すれば実感されよう。  また「征韓論」をはじめ、 直後の日本の諸問題の処理を大きく誤らせない基盤ともなった。 しかも一行は、  四十六名の使節要員のほかに、 六歳の津田梅子、 十一歳の山川捨松ら女性を含む四十三名もの留学生をともなっていた。  これらの国費留学生たちが、 十分な待遇を配慮されて、 向こう十年間の滞在条件を約束されていたことを思うと、この使節団の、並々ならぬ遠大な教育的視野も浮かびあがる。

井上円了の生涯三度にわたる大きな世界旅行、 そしてそのそれぞれについて残された三点の報告ないし旅行記を眺めるとき、 その漫遊的行動の本質が、 同じく開化の精神に深く彩られた大きな流れのなかにあることを感ぜざるを得ない。 最初は明治二十二年八月に出された『四瞑政教日記」上下(哲学書院)、 二つ目は明治三十七年一月に出された『西航日録』(鶏声堂)、 次いで三回目は明治四十五年三月に出版された『南半球五万哩」(丙午出版社)という大冊となってまとめられている。

しかしこの三点の旅行報告は、 まぎれもなく同じ著者の同じ筆致を持ちながら、 内容、 性格は微妙に異なる。それは、 その都度の旅行の目的にそった差異であり、 その時期の円了が負った課題を忠実に反映しているといえる。 全体としては、 教育者円了が、 どうしてもその時期に果たさなければならなかった、 自覚的なプロジェクトであったということがいえよう。 個人的に意味のある時期を選んでの大旅行であったのだが、 一方で、 それは 明治という時代にとっても見過ごすことが出来ない時期と、 符節をあわせていることを指摘しておこう。

すなわち第一回目の明治二十一年六月九日を出発点とする視察は、 翌二十二年二月十一日の明治憲法発布や、二十三年の国会開設をひかえて緊迫した、 近代国家日本の黎明期にあたっていた。 同二十三年にはさらに、「教育勅語」による、 国家としての教育理念の大綱も定まっている。 第二回目は、  これも明治日本にとってもっとも危機的な状況、 日露戦争勃発直前といっていい時期であり、 もしこの外遊が一年遅れていれば、 旅行は確実に不可能だったはずである。 日清戦争で台頭した日本が、 各国の警戒心を生み、 その干渉によって、 後進の近代国家として発展をはばまれようとしていた。 円了個人にとっての最大の危機も、  この旅行中イギリスで、  一月おくれのニュー  スとして知るところとなった。  すなわち、 いわゆる「哲学館事件」であり、 円了は、 文部省の干渉によって、「東洋大学」へのスムー  ズな発展をひとまず断たれることになる。  そして第三回目、 明治四十四年四月一日を出発日とする大旅行は、 いうまでもなく、 大いなる明治の終焉直前の時期と重なっている。  このように、 明治という時代を背景にして見るとき、 あるいは円了を一人の明治人と見るとき、 彼の「漫遊」は、  スリリングな時代性の影をおびて見えてくるのである。「認政教日記」


「旅行記」という呼び名は、  この最初の書物には、 言葉の本来の意味では当てはまらないかも知れない。  ここでは、 日録的な性格が徹底的に削られており、  ひたすら、 西欧宗教事情視察の「報告書」であろうとしている。それは、 著者が、「懐中日記」から「日月地名ヲ除キ去リ専ラ宗教風俗 二関シタル種目ノミヲ取リ出シ」て編んだ、 事項本位の冊子であった。 もともと旅行記を残す意固はなかったらしいのだ。 だが旅行先から片々と書き送られてくるホッ トなニュー  スを期待していた円了ファンの間では、 簡略でいいから、 せめて「五六週間に一度」は生な旅行報告に接したいという、 熱い期待があったようだ(「明教新誌」明治二十一年十月二十六日号所載、

生「欧米周遊の井上円了君に望む」)。  そうした「旅日記」的な性格は、 帰国後に出された「政教日記』にもほとんど感じられず、  おそらく「 生」を十分に満足はさせなかったことであろう。

 そこには、 ほぽ一年におよぶアメリカ、  イギリス、 フランス、  スイス、  スペイン、 ポルトガル、  イタリア、 ギリシャ、 トルコ    オー  ストリア、  ロシア、 ドイツ、 スウェー デン、  デンマー ク、  オランダ、  ベルギー 等の西欧諸国歴訪から得られた、  おびただしい宗教事情のデー タ、 風俗、 習慣、 遭遇したエピソー ド、 対談要旨などが、 雑然と羅列的に報告されている。 全体は大小二百九十一の節に分かれ、 巻末には索引をそなえて、 欧米の宗教現状報告としての体裁を整えているが、 各節の内容が整理されているわけではないので、 決して読みやすい書物とはいい難い。

また各国を巡遊して集めたせっかくのデー タも、 その時点でのものという条件を負っており、 数値自体、 各国によって精度の差が目立つ。 しょ せんは、 巡遊で収集した記録としての大まかさを限界として残し、 有効性に水をさすことを否めない。 円了が自分の足で集めなければならなかったデー タがどこにあるのか、 といった疑問にとらえられる。 教区に何人聖職者がおり、 信者はどれ程で、 幾らくらいの献金があり、 教会がどれくらいの規模をもつものであるかなど、 視察報告的な数字は、 たとえそれがどれ程正確なものであったとしても、 それだけでは意味が限られるのではないか。

しかしいちばん肝要なことは、 円了が、  キリスト教の本拠地である欧米に乗り込んで、 民衆のなかのキリスト教を、 傍観者としてであれ実体験した、 そのことのなかにある。 円了がそれまで持っていた、 日本での「聖書」や「教会」から得られた宗教的体験からの、 外来宗教としての「キリスト教」が、 ここでほとんど空気のように民衆が呼吸し生きている日常の「宗教」として観察されたことの意味は、 はかり知ることが出来ない。 円了は、この「日記」の至るところで、 各国が独自のキリスト教をもち、 独自の宗教教育を施していることを発見し、  それを強調している。  これこそが、 円了の旅行から得た最大の収穫であったのではないだろうか。

近代化の日本と、 その西洋化の流れのなかのキリスト教に対する主体的な排撃的姿勢は、 円了の二著、 明治十九年\二十年の「真理金針」および同二十年の「仏教活論序論」「本論」に明らかである(本選集第三巻、 第四巻所収)。 仏教側からの、  キリスト教への反論として、 当時、 評価の高かった、 初期の円了を代表する力業であったことは間違いない。 牧師たちのきわめて積極的な日本各地での布教活動と、 退嬰的な仏教僧侶とは対照的なその行動性から、 円了は、 次代のキリスト教に深刻な危惧を感じた。 排仏毀釈の打撃からの仏教復興を託され、 仏教改革・革新を期待された真宗学徒として、 新たなキリスト教の出現は、 日本の宗教のあり方を問う大きな出来事であった。 進化論を方法論とする彼の聖書批判にはこれまでに相当な反論が加えられており、 その限界も明らかである。 だがキリスト教史をひもといて円了の心を打ったのは、 その「理論」というよりは、 むしろキリスト教の激しい宗教活動の「実際」にあった  「真理真金    続編参照)。

 

円了を欧米の宗教視察に駆り立てた大きな動機は、  この若くして書かれ、 そしてよく読まれた二大著作にあったと見られる。 と同時に、 皮相な西欧模倣の鹿鳴館時代を経、 近代国家日本の出発を間近にして、 さまざまな議論が喧しくなった時代を背景として持っている。 円了自身の言葉を借りれば、「天下ノ論鋒漸ク進テ政教ノ版図二入リ舌戦筆闘壇上梢穏カナラサル事情」が、 彼の心を強く動かしていたのだ。「政教」というやや耳なれぬ言葉について、 著者は、 それはつまる所「哲学」のこと、 しかも「理論哲学」に対する「実際哲学」のことで、「宗教学」「教育学」がこれにあたる、 と述べている(第三節)。  この二大科目こそ、  国の精神の根幹をなす「無形上ノ文明」を考究するもので、 絶対に模倣の許されぬ領域を対象にしている。 円了の目から見ると、 日本は鎖国の影響もあって、 その自己同一性を守れるのかどうか、 危うげに思われた。  国会開設、 憲法発布直前のこの時期にこそ、 あらゆる意味でこの問題を取り上げるべき緊急事と彼は考え、 直ちに実践に乗り出した。 自分自身その課題の担い手と考えていたことは、 みずからを「政教子」と名乗っていることからも明らかである。

円了自身が動かなければならない。 円了は、「哲学的ノ視察ヲ欧米各国ノ政治宗教風俗教育ノ上二施サン」とする目的をかかげ(第十三節)、 前年九月に創立したばかりの哲学館校務を人にあずけて、 ほぽ一年にもわたる洋行に旅立つのである。 実地に見るキリスト教はまことに個性的だった。  それぞれの国にはそれぞれの宗教生活があり、 また時代のせいでか、 国によっては、 その宗教感情にゆるみも見られた。  こうしたつぶさな政教事情は、  キリスト教をもっぱら外来の、 日本宗教をおびやかす存在としてのみ対置していた見方の、 或る意味での短絡性に気づかせるものではなかっただろうか。

もちろんキリスト教のわが国への浸透を、  わが国本来のものを失わせる危険な方向とする考えは、 最後まで、さまざまな発言や主張として残っている。  キリスト教を「非公認宗教」とせよ、 といった過激な提言があるかと思えば(第二百八十六節、 その他)、 哲学館を基礎に、 将来「日本主義」の大学を作り、 日本人の独立心の涵養につとめたい、 とする夢を語り(第二百九十一節)、 近代国家誕生期における国家主義者の、 心の叫びを聞くような思いにさせられる。 だが、 以後の円了にとって、 それにおとらず見落とせないのは、 円了のいわゆる「大教育」の考えであろう。 教育を学校のなかだけにとどめず、 取り巻くあらゆる現象を教材としようとするものであり(第五節)、  これはその萌芽は小さくとも、 円了が、 まずみずから世界の風を浴びることによって獲得した、貴重な収穫と見ることが出来る。 円了にとって、「世界の中で経験する」ことの効用は、  この最初の世界の旅を通じて、  すでに疑いようもないものになっていたことがうかがわれる。「西航日録」

旅日記としての面白さをいうならば、 最初の外遊から十四年あまりをへだてて行なわれた、  二番目の世界旅行を記録したこの本は、 十分にその魅力をそなえた紀行文である。 明治三十五年十一月十六日、 横浜を若狭丸で出帆し、 翌三十六年七月二十七日、 安芸丸で横浜に帰着するまでの八カ月余りの視察旅行は、 世界地図を手にすると、 明確に順を追ってたどることが出来る。 そして、  ゆく先々で迎えてくれる哲学館関係者との出会いは、  この度の旅行の意図を雄弁に語ってくれるのである。  この旅行は、 彼の過去十五年の学校教育事業の成果をふまえ、その大きな成功をおのずから確認することにもなった。  その上で、  さらなる飛躍にそなえる視野の拡大の意味がある。  すなわちこの旅行は、 東洋大学の歴史と一番強く結びついているといってよいのである。  そういう意味では、 先にも触れた「哲学館事件」が、  この旅行期間中にふりかかり、  これを外から眺めることになったことにも、 どこか必然めいたものを感じさせる。

哲学館出身者との出会いのうち、 もっとも意味深かったのは、  インド、 カルカッタでの河口慧海との再会であった。 円了は、「奇縁」という言葉を使っているが、 長くインドに滞在していた卒業生、  サンスクリット研究家の大宮孝潤の家でそれは実現した。  そして三十五年十二月十四日から二十七日まで、 最後のボンベイ滞在期間を除くほぼ全インド滞在のお世話をし、 ダー ジリン、 タイガー ヒル、  ベナレスからボンベイまで先生につきそい案内したのは、 慧海であった。  タイガー ヒルからは、  エベレスト、 カンチェンジュンガなど、 八千メートル級のヒマラヤ連峰を望むことが出来た。

この奇遇がこの旅行中もっとも記念すべきものであったことは、  この旅行記の巻頭に、 十二月十八日にカルカッタで撮影された三人の写真一葉がかかげられているところからもうかがえる。 慧海は、 チベットの僧服をまとい、 頭にはとんがりのついた僧帽をかぶって完全にラマ風であるが、  お隣の円了や大宮氏と較べて、 どこか違う気圏に住む人のようで、 日常の精気は感じられない。 他の慧海の写真から得られる、 静かな野人の風貌からはほど遠く、 年齢もふけて見える。  それも道理で、 この時の慧海は重病からの病み上がりといってよい状態だった。

実際、 彼の書き残している『チベット旅行記』 を調べてみると、 円了のいう「奇縁」という言葉の意味が、「おまえ、 よく生きていたなあ」という程の嘆声をこめたものであることがわかる。 彼はこの十月までの三カ月、重症の「チスター 熱」にかかり、 ダー ジリンで療養していたが、 ラサからの隊商がもたらした或る知らせで、 寝ているわけにいかなくなり、 急ぎネパー ルにおもむくためにカルカッ タに出てきたのが、 十一月下旬のことであった。 自分を「シナのラマ」といつわってラサに滞在したことが、 事後に露見し、 チベットで世話になった大臣や先生たちが、 チベット当局に逮捕投獄されたことを知って、 救出のため、 まずネパー ルを通じてそれを行なおうと計画していたのだ。 事実、 慧海は、 円了と別れた二週間後には、 すでにネパールに入っている。

そのような意味で、 慧海は、 その大病の原因となった、 至難のチベット潜入と脱出の旅の、 なお長くつづくフィ ナー  レの時期にいたといえる。  ここで、 その河口慧海について簡単に紹介しておきたい。 彼は哲学館を中退ののち、 求道に専念するため、 僧籍を返還し在家仏教家としての一生を志した。 宇治の黄槃山で一切蔵経を読むうち、 本場のチベット行きを決心する。 明治三十年六月、 神戸を出帆したが、 チベッ トは、 十九世紀後半から、 外国の侵略を恐れて厳重な鎖国を敷き、 入国の絶対不可能な国として知られていた。 幾多の著名な探検家、 学者、布教者が、 国境で追い返された。 祭政一致の国としてチベットは神秘性を帯び、  ことに首都ラサは、 近づくことさえままならぬ幻の都と化した。 関所のない間道以外に潜入のルー トはなく、 また人種として居住を許されていたのは、 チベッ ト人かシナ人のみであった。 慧海はこのふたつを奇跡的にクリアする。 不屈の意志と、 彼の透徹した求道者としての力が、 はじめてなさしめた快挙であった。

まず俗語を含むチベット語の習熟に時間をかけた。 行住坐臥の読経、 座禅のなかで彼は、 ネパー ルからのチベット入りを計画し、 ネパー ル語も学んだが、 ネパー ルに入るときに「チベッ トにいるシナ人」として申告した便宜上の「嘘」を、 最後まで押し通してしまうのである。 想定していたルー  トが警戒厳重と知ると、「ツァー ラン村」に一年ほど滞在して、 修業と、  さる博士との交換教授に明け暮れるゆとりを持った。 いよいよチベッ トに足を踏み入れたのは、 明治三十三年六月半ば、 八千百七十ニメー トルのダウラギリ峰のふもとを、 川沿いに登攀していった。  空気の希薄な数千メー トル級の雪原を素手に近い姿で登っていく無謀さは、  つぎつぎに降りかかる身体的打撃として返ってき、 幾度も、 凍死や溺死あるいは餓死の危険に陥った。 六、  七、 八の三カ月が唯一通過可能な夏であったが、 天候は変わりやすく、 極寒の地勢である。  たまに出会う人間がまた平気で人を殺す盗賊でもあり得た。 ラサに着くまでになめたあらゆる危険や恐怖は、 恐るべき記憶力で書きとどめられた「旅行記」によって知ることが出来る。  こうしてたどり着いたラサでの一年余り。

猛烈な研究心、 身についた修業の力、 いつしか習得していた病気を治癒させる術に加えてその真摯な人柄で、慧海の名声が隠れようもなくなり、  かえって危険になった。 入るときに劣らず、 出るときも並々でない苦労をし、 周囲の恩人たちのことに配慮しつつ無事脱出に成功したのだが、  インド到達後に、 慧海が日本人、 すなわち外国人であることがわかってしまう。 法王の祝福さえ受けた慧海であったが、 鎖国と攘夷の国には、 妥協もアイロニー もなかったらしい。 円了がカルカッタで再会した折りの河口慧海は、 南極探険の白瀬中尉と並ぶ明治屈指の「快探険」をやり遂げた、「正真正銘開拓者」(川喜田二郎)であったが、 また遠来の先生をなつかしく迎える     つつましい一人の弟子であった。

ダージリンで円了は、 隠棲していた康有為を訪ね、 筆談や、 漢詩の交換をして意気投合したり、  ベナレスでよ、  ロシアのマッチセン博士を訪ね、  一緒に「アジア学会」を参観したりなどの国際的交流を行なうが、  イギリスの植民地インドからはもっとも痛切な印象を得た。  インドの汽車の掲示に見られる、 あからさまなヨー ロッ パ至上の人種差別に憤りを感じ、  これに唯々諾々として従っているインド人の精神に歯痒いものを覚えた。  またイギリスの巧みな統治術について、「印度人は宗教あるを知りて国家あるを知らず、 儀式あるを知りて政治あるを知らず、 是れは其国を失ひし第一の原因なり、 英国がよく之を統治し得るは、 彼等の信教に関しては憂も関渉せざるによる」と書いている。

ポンベイで慧海と別れた円了は、 船を乗り継いでロンドンに向かった。  一月二十四日ロンドン着。「専ら倹約を守る」とある。  ロンドンとその周辺の学校、 病院、 工場、 博物館、 図書館、 止宿所、 孤児院などを精力的に見て回ったが、 とくに託児所や「貧民に飲食を施す組織」に関心をもち、 四人で試食し、  一シリングで十分満腹したと報告している。  そんななか、  一月三十日に東京から連絡があり、 十二月十六日に文部省が官報をもって、 哲学館で用いている倫理学教科書とその教授上に問題があるという理由で、 哲学館の教員免許無試験検定資格の剥奪を発表したという ショッ キングなニュー  スに接した。 これは学校の存立にもかかわる公的制裁処置であった。 のちに「哲学館事件」として名を残すことになる、 文部省と一私学の間の紛争の経緯について、  ここでは述べない。 円了はしかし、 事柄の発端はよく承知していた。 そして出発前に、 誤解や曲解の種は取りのぞく手段を十分に取ってあっただけに、 留守中のこの一方的処分に失望をかくせなかった。 将来の日本教育像を見据えた円了の世界のなかでは、 信じがたい杓子定規な官僚主義であった。 その官僚主義のうしろから透けて見えるのは、いいようのない「人間性」の貧しさだった。 円了は、「日録」にこう書きとめている。

余意ふに今回の事たるや、 人災と名くべきものならん欺、 果して然りとせば、 風災火災人災の三災に逢遇せりと謂はざるを得ず、明治二十二年九月十日の台風による校舎倒壊、 明治二十九年十二月十三日の隣接「郁文館」失火による哲学館類焼とならぶ、 学校の受難として心にけりをつけたが、  これに屈してはならぬという、  みずからを奮い立たせる短歌も書き添えた。

今朝の雪畑を荒らすと思ふなよ生ひ立つ麦の根固めとなる火に焼かれ風にたをされ又人に伐られてもなほ枯れぬ若彼のすさまじい視察熱はおとろえることなく、 アイルランドのすべて、  ベルファストのあらゆる学校、  ロンドンデリー、 ダプリンのあらゆる幼稚園、 小・中学校、 大学を視察ののちウェー ルズに渡るが、 軽い病気で、 ヘスチングで療養の小休止をとった。  四月二十四日、 ドー  バー からオー  ステンデに渡り、 大陸の視察に移る。  プリュッセルから、  ワー テルロー や、 オランダの諸都市を見学、  ベルリン、 ライプチヒでは、 複数の知友と会することが出来た。  プロテスタンティ ズムの歴史の上では記念すべき、  マルチン・ルター ゆかりのウィッテンベルク訪問も果たしたが、「斯る新教開立の霊場なるも、 当日余の外に一人の参拝者を見ざるは奇怪なり」と書かれている。円了が力瘤をこめていた目標の一っだったはずだが、 そのような意味で「参拝」する者などはいない現実の、 初体験だった。 しかし円了は、 ふんまんやる方ないといった調子で、 ルター 銅像の周囲にマー ケットの露店が開かれている習俗を、「殺風景」と切り捨てている。

それ以上に重要な参拝目標だったケー ニヒスベルクは、「碩学」カントの郷里である。 カントは、「我称泰西第一人」という程、 絶対的尊敬をかちえていた西欧哲学者であり、 いうまでもなく、 東洋大学の「四聖」の一人である。 墓所に詣でたほか、「古物博物館」で、 カントの愛用品に接して感激を新たにした。 やはり、 他に参詣人などない寂しい訪問だったが、「日録」のなかでも、  しみじみとした心の伝わる名場面である。

五月八日夜、 国境をこえてロシアに入った。 翌九日サンクトペテルプルク着。  ここには、 もと哲学館講師の八杉貞利がおり、  さまざまな便宜をはかってもらった。 十日から十二日まで滞在し、 博物館、 美術館、 帝王廟、 劇場、 王宮、 寺院を残らず見学したが、 いちばん圧倒されたのが、  キリスト教会の立派さで、 東洋と西洋の中間に位置するこの国でこそ、 近代以前の熱い信仰心に接することが出来た。

十四日再びベルリン。  ここでも他の人たちとともに、 もと哲学館講師の中村久四郎と再会した。  ついでフランクフルトを経て、  スイスに入る。  バー ゼル、 チュー リヒ、 ルツェルンを経て、 十九日夕方には、  パリに入った。

「何でも見てやろう」主義の見本のようなスピー ドであるが、  パリでは折からの観光シー  ズンで適当なホテルがなく、 格安のものを選んで、 南京虫に責められる始末になった。「街上の雑沓、 珈琲店の群衆」に交じって見た、一種異様な場所、「無籍の屍体を排列して、 公衆に示す処」とは、 無縁仏を公開して引き取ってもらう施設のことで、 あらゆる人種が流れこむ国際的な大都会パリならではの、  ショッキングな見物だったであろう。 フランス語で「モルグ」というこの死体公示所の景観からは、 のちにオー ストリアの詩人リルケも不気味な衝撃を受け、画期的なソネットを作ったことが知られている。

五月二十四日、 再度ドー  バー を渡り、  ロンドンを経てスコッ トランドヘ。  エジンバラを経てアバディー ン、  インヴァ ネス、 カー ライル、  バス、  プリストル等々の諸都市を訪ねているのは、 どこか忘れ物を探し拾い集めているような感じであるが、  ウェ ストミンスター 寺院に、 ニュー  トン、 ダー ウィ ンを弔っている。 六月十三日、プー ルからニュー ヨー クヘ向かう。 十六年前にくらべ、 移民によるアメリカの人口急増に驚きを示し、  これも新世紀のアメリカ発展を語る貴重な証言となっている。

同二十四日には、 ハー  バー ド大学の学位授与式に列席、 哲学館出身の高木真一も卒業生の一人であったと、 誇らしげに書いている。  国からの学資も仰がずに、 労働しながらの苦学生でありつつ成績優秀であり、「日本青年学生の模範とするに足る」と述べる。 隣接の町ボストンでは、  ウェー ド氏から、「妖怪」のコレクションを見せてもらった。  その後 バッファ ロー、  シカゴ、  シアトル、 タコマを経て、  七月十日帰国の途につき、  二十七日に無事横浜に着いた。

「日本は東洋の一強国として世界に知られたるも、 其強たるや虚強にして宜強にあらず、  之を印度支那に比するに、 斬然頭角をあらはす所あるも、  之を欧米に較するに、 猶ほはるかに其後に睦若せざるを得ず」というのが、 今回の旅の実感であり、「将来東洋に覇たる資格を有するものにあらず」と、 結論している。  つまりリー ダー たる大国でないことがつくづく分かったのだ。 永く堅忍することが出来ず、 小事にこだわり、 全局を見る識見に乏しい。 他人の批評は出来ても、 みずから進取し実行する勇気がない国民性は、 日本と東洋の将来を危ぶませるものだとし、 国民教育の緊急不可欠なことを、 自分の課題ともしている。

その最初の試練が、 翌年勃発した日露戦争だったということが出来るが、 円了の予言は、 今日のわれわれの時代にも痛切に及んでいるといえよう。 円了は帰国早々に、「修身教会」を設立し、 これらの反省点を、  学校教育以外の民間教育・社会教育で実践に移している。「南半球五万哩」


明治三十九年一月一日に哲学館大学長、 京北中学校長を辞職し、 円了は、 名誉学長、 名誉校長となった。 大学も法人化され、 経営も、 円了個人の手を離れ、 六月六日には、 その名も、「私立東洋大学」となり、 翌四十年五月には、 文部省から、「教員免許無試験検定」を再認可されていた。 明治四十四年四月一日から翌年一月二十二日にかけて、 十力月にも及ぽうとする世界旅行を記録した「南半球五万哩な境地を幾分反映しているかも知れない。

ののびやかな筆致は、  こうした自由これまで二度の世界大旅行で、 よく海外の事情に通じていた円了ではあったが、 世界が刻々に変化するものであり、 また末知の世界の広さを知って、 その空隙をうめておく必要を痛感してもいた。 明治二十三年十一月に、

「哲学館専門科設立の基金募集」のための、 第一回「巡講」を始めて以来、 日本にいるときも、 ほぽ席があたたまるひまもないスケジュー ルで、 円了は、 全国を行脚し、 講演し、 そういう形で人々に接しながら、  社会教育に専念していた。

そうした市や町村での市民の質問には、 しばしば講師の知識をこえるものがあるものだが、 円了もまた、 たとえば「濠州の民情、 或は南米の風土」などの「尋問」には答えられなかった。 何しろ記録された巡講の規模は前人未到のものといってよく、「琉球、 台湾、 樺太、 朝鮮、 小笠原までを合せ、 八十七国、  一千五百七十九市町村」

(第一章「往航日記」)におよび、 聴衆の数は、 俊に五十六万人を超えていた。 希有な社会教育実践といってよかったが、 彼は、 移民希望者たちが情報をほしがった南半球をはじめとして、 今こそ「世界」を経験しておきたかった。

円了の判断によれば、 北半球の時代は終わりを迎えようとしている、  これからは、 南半球の時代だというのであった。  そこで今回の目的はまずオー  ストラリアに向けられ、 南米も後半の大きな目的地に定められた。  しかし実はこれらは旅全体のごく一部にすぎず、 その他に、 南アフリカ、  イギリス、 北極地帯、 北欧、 ヨー ロッパ、独、 西、 仏、  スペイン、 ポルトガル)、 ハワイなどが組み込まれており、 結果的にその規模はむしろ地球視察の名にあたいした。 地球をこれほど一度に広範囲に動き、 好奇心のおもむくままに見学して回った例は、  おそらくあまりないのではないだろうか。

船便は、  一等船客の場合もあれば、  オー ストラリアから南アフリカヘの三等旅行のように、  二百五十余人の大衆と四週間の船旅をともにしたこともあり、  おかげで、 中産階級や下層の上の家族生活、 集団生活、 宗教生活を、 日常からつぶさに知ることが出来た。

オー ストラリアでは、 女子の教育が注意を引いた。  メルボルン大学一千十三人の学生中、 女子が百六十一名、シドニー 大学では    一千四百名中、 三百人という比率の高さに驚きを示している。 また、 後のアルゼンチン、 ラプラタ師範学校では、 生徒全員が女子で、 初等教育における女性の役割の大きさに注目している。 同じく「文科大学」でも、  学生の半数が女子であった。 また、 チリ、  サンチャ ゴの「文科大学」でも、 在学生二百人中、 三分の二が女子学生であった。  チリでは、 電車の車掌の多くが婦人であり、 駅の売り子も女性であった。  この、 外国における女性の社会進出状況の見聞が、 五年後の大正五年 九一六)、 東洋大学が他大学に先駆けて、  女子学生を受け入れるきっかけとなったであろうことは想像に難くない。 それを学んだ国々が、 いわゆる西欧先進国ではなく、 むしろこれら後進国であったことは、 意外でもあり、 興味ある事実である。


女性の地位向上のみならず、 たしかに世界があらゆる分野で激しく近代化しつつ、 変わりつつあった。 円了がこの旅行で知ったことの、 もっとも重要なのが、  このことであった。 ドイツや北欧では、 八年前にはなかった自動販売機の出現に驚いた。  ロンドンの近代化にも驚きの目を見張った。 以前と比較して違ったロンドンの例を、彼は次の十の項目にまとめている。

(一)都市が郊外に向かって激しく膨張し、 盛り場も方々に出来た。(二)地下鉄が電車に変わっている。(三)乗り合い馬車が、 多く自動車に変わった。(四)路上の敷石が敷き木に変わった。(五)燕尾服やシルクハットが減った。(六)髭は全部剃ってしまうか、 まった<剃らないかのモー ド。(七)イギリス人が大切にしていたホー ム・ライフが変わりつつある。(八)キリスト教の勢いに、 陰りが見える。(九)日曜の午後に酒場を開くようになった。女性が喫煙し、  パプに入って酒を飲んでいる。概していうならば、 あの保守的なイギリスが、大陸風、 あるいはアメリカ風になってきたのである。

オーストラリアの最南端都市ホ バー トでは、 観客二万人を集めたフットボー ルの試合を見て、 大衆スポー ツの実態に触れた。  各地で移民の状況を注意深く見学し、 日本人移民の将来性をうらない、 適切な忠告も書いている。 移民は困難になりつつあった。 中国で辛亥革命が起こったのが、  この年、  一九    一年である。 太平洋を帰路についていた円了は、 ハワイに寄港中に、 孫文が中華民国の臨時大統領に選ばれたニュー  スに接した。  そこの中華街には新国旗がかかげられ、 共和国の誕生が祝われていた。「眠っ ていた」大きな隣国がついに近代に目覚めつつあった。  そして時間は、 急速に二十世紀を走っていた。 明治も間もなく終わりを告げ、 日本もまた新しい時代の課題の前に立とうとしていた。

ジュー ル・ヴェルヌの「海底二万哩」を連想させる、「南半球五万哩」という井上円了最後の、 とてつもない大漫遊の旅行記の主調音は、 しかし、 いま述べたような、 近代化の予告を強烈に伝えるものではない。 旅行中の円了の態度は、 あくまでも自分の好奇心のありかに忠実で、 機会を逃さず珍しい場所に足をのばし、 素直に感動する、 だが決して物に執せず、 自然にまかせる風が目立つ。  ゆく先々で、 日本人の代表者とはまめに会い、 世話になり、 話を楽しみ、 無理な孤独感にひたったりはしないのである。 あくまでも、 たまたまの旅行者、 漫遊者という形にはまっての行動がほほえましく、 日記の記述もさらりとして飾るところがない。

そこでわれわれも、 遠慮なく、 どこが一番面白かったかを問うことが出来る。  たぶん間違ってはいないだろう。 それは、 明治四十四年七月二十一日にテー  ムズを発し、 八月二日ノルウェー のベルゲンで離船した、「北極海観光ツアー  」であったはずである。 観光船エボン号一万一千七十三トン、 多分に裕福な乗客二百八十三人の一人として、 円了は、 当時の日本人として実に稀な、 北極圏体験をしたのであった。

北極海とはいっても、 普通の旅客が安心して接近できるノルウェー 海を、 ノルウェー 沿岸のフィ ヨー ルドの港に寄港しながら北上し、 その最北端の断崖の上から、 沈まぬ太陽にあいさつする程度のものであった。 しかしそのノー ルカッ プでの凄絶な景色を、 円了は、「風光雄大、 眺望絶佳、  之に加ふるに満目凄涼爾颯の趣ありて、 太古の海山に接するの思あり、 其壮快実に極りなし、 時に夕日高く北天に懸り、 多少の雲煙を帯ぶ、 同行と共にシヤンパンを傾け、 万歳を呼て帰る」と書いている。  その時の彼らの感激は、 まさに地球に生きる自分を実感し、それをみずから祝福した者のそれであったであろう。

ここで改めて、  その五万哩の規模をたどっておこう。  すでに述べたように、 最初の目的地はオーストラリア大陸であった。  この旅行の独創性のひとつは、 南半球への着眼であり、 ヨー  ロッ パの部は本来、  オー  ストラリアの次の南アフリカから、 次の目標南米への直行船便がなく、「便船の都合にて英国を経由し、 欧洲を歴訪」(緒言)といったところであった。 そしてこれが、 旅行の本質を少しくあいまいにしたことは否めないが、 円了の旅行の性格、 漫遊者の視察の本領をむしろ正直にさらけ出して、 全地球を徘徊する明治人の、 あくなき観察欲を証しする逆の効果を生み出しているのは、 まことに典味あることといわねばならない。

オーストラリアとは、 日本とまさしく季節を逆にする国である。 日本では初夏を迎えようとする時、 そこは秋冷の気に包まれていた。  これが、 頭ではわかっていながら、 実はいちばん、 旅人の心を動かしていることが、  くつも残る漢詩や短歌でうかがわれる。  これまでの北半球旅行と大きくちがうところだった。 たとえば、  ブリスベー ンやシドニー 付近で詠んだ短歌には故郷はいつくなるかと人問はゞ、 大地の下と今ぞ答へん 南極のま近くなりししるしにや、 彼方よりくる風の涼しきなどがあり、 自分の立つ位置そのものから来る違和感を円了は心から楽しんでいる。

シドニー では、 日光丸の主催で、 在市日本人三十人余りが船に招待され、 日本料理をふるまわれたが、 名士のひとりであった円了も一席の講演を行なった。  その席に、 折から、 南極探険隊長の白瀬中尉と南極探険船「開南丸」船長も連なっており、 円了は、 感激のあまり、 長編の漢詩をつくって壮途の成功を祈った。 氷結のため南進できず、  ここで解氷を待っているのだという。  このエピソー ドは、  すでに述べた、 円了の、 北極海観光ツアー を思い起こさせる。  この奇遇は、 このとんでもない大寄り道の機縁ではなかっただろうか。 南極のすぐそこまで近づいた円了にとっ て、 もう一方の北極ぎりぎりをきわめるチャ ンスを逃す手はなかったのである。 それは、 地球を、 或る意味できわめることになるからだ。

旅愁の漢詩を二編、 あら訳をつけてご紹介し、  オー ストラリアをあとにしよう。

看花時去国、 五月至濠南、 春夢猶如昨、 客庭秋已酎

花を見つつ国を去り、 五月豪州南部に至る、 春夢はつい昨日の如くだが、 旅先の庭は秋すでにたけなわだ課雨欲来雲脚低、 客窓独坐昼凄々、  濠南秋色転堪愛、 黄葉半庭菊一畦

課雨が来そうで雲脚は低く、 旅窓に独り坐れば昼なお寒いが、 豪州南部の秋色は得もいえず心ひかれる、 黄色い葉が庭半ばを覆い    うねの菊が咲く

木曜島着岸の四月二十五日から数えると二十二日目の五月十六日、 円了は、  ペルシック号、  一万千九百七十四トンで、 オー ストラリアから南アフリカヘ向かう。  タスマニア島ホバー トに寄港し、 次の寄港地アルバニー まではまだ、 東西に長いオー ストラリアの領域である。 五月二十一日は波の荒い日曜日だったが、 鯨が一頭、 船の食堂に接近し、 朝食中の船客の頭上に海水を浴びせるという一幕があった。  その日も、 自分の船と並んで静かに飛翔する、 堂々たる「あほうどり」の姿を目撃した。  一日じゅう風と細雨が斜めに吹き込む安息日のことで、 揺れるデッ キで遊ぶ者もなく、  みなが読書したり、 横になったりで、 船内はまるで夜のように静かだった。 だがふと海上を見ると、 音もなく巨大な海鳥が飛んでいるのだ。  そこで、 円了はこれを漢詩として記録した。


暁雲四鎖昼冥檬、 狂浪巻船蜆海風、 人臥客林静如夜、 雄飛只有信天翁

暁雲よもを鎖ざし昼なお暗く、 狂浪船を巻き巨大なる海の風、 人は客床に臥し静かなること夜の如く、 雄飛するはただ信天翁あるのみ

そして円了はこう自注している。

信天翁は海鳥にして、 俗称阿房鳥といふ、 洋語にてアル バトロー  スと呼ぶ、 赤道を鍮えて以来、 毎日此鳥の風浪の間に雄飛するを見ざるはなし、 形茫たる万里の太平洋及び印度洋を自在にはうち渡るものは只此鳥あるのみ、 是れ決して阿房にあらず、 荘子の所謂大鵬は之を形容せしものならんと思はる、 因て余は之を海

王鳥と名けんとす、 其大なるものに至ては両翼の長六尺ありといふ、 案するに阿房鳥とはアル バトロー スの訛伝ならん

かなりひんぱんに目にしていた「あほうどり」の存在が、 その日はじめて円了の意識に明瞭に焼きつけられた次第が、 生き生きと語られている。 円了はこの鳥が大好きになったのだ。 彼は、  この鳥の俗称を取り払ってやり、 改めて「海王鳥」と命名する。 孤独で悠々とした飛翔の本当の偉大さを、 自分が認めたことの喜びがどこかにあふれている愛着ぶりである。  それはこの鳥の飛翔に、 どこか円了自身とそっくりの影を感じたからではなかったであろうか。 円了はもちろん、 そこまでは言っていないのだが。


前にも触れたように、  インド洋のこの冬の航海は、 すべての旅客が三等船客の扱いで、 全員が個室でなく四ないし八人部屋、  すべての日常を何らかの意味で、 集団として行動する必要があった。 たまたま乗り合わせた数百の乗客の生活ぶりは、 しかし実に整然と社会化されており、 多くが船酔いに苦しみながら、 船内のさまざまな催しに加わったり、 礼拝に参集したりするのであった。 孤影梢然とも見える、 たった独りの「東洋人」円了が、 幼児の競争に笑いをさそわれたり、 仮装行列に喝采している様子が伝わってくる。  二十七日間の渡洋を終え、 南アフリカのダー  バンに入港したのは、 六月十一日、 貴重な社会的経験に富むひとこまであった。

ダー  バンから喜望峰をめざし、 ケー  プタウンヘ。 よく頑張って成功している一邦人を訪ねて話を聞いたが、 南アフリカの排日は異常に激しいものであることを知った。 本来は、 南阿の内陸部を視察する予定だったが、 物価高と、 極端な日本人排斥のうわさで、 旅行が困難なことを思い、 止めた。 またここから南米への直航便もないため、  ロンドンゆきに急速変更した。 船は一路大西洋を北上し、  七月七日夜、  イギリス到着。  ロンドンでは、 五月二十二日のジョー ジ五世    国王戴冠式の余韻がまだただよい残っていた。

ミルトンの墓、  シェー クスピアの誕生地ストラトフォー ド    ニュー トンの生誕地、  ミルや、 ダー ウィ ン、 フランクリンらのかつての家と、 まだ見残していた場所を訪問したが、 カー ライル博物館をも含め、 たいていは他に来訪者もない寂しさだったであろう。 哲学者スペンサー の家は、 探したが見つからなかった。「北極海観光」は、このロンドンにいてにわかに「思ひ立」ったと書かれているが、 先にも述べたように、 五月の「南極」経験に刺激を受けた大ヒットであったと思われる。 第五章の「北極海観光日記」は、 本書の文字どおり白眉である。

ベルゲンで観光船を乗り捨ててノルウェー、  スウェー  デンを通過、  コペンハー ゲンを経て、 近代化したベルリンと再会した。 ライプチヒ、 ミュンヘンと行く先々で、 知名の円了を手厚く迎える内外の友人は多かった。 ボーデン湖を渡り、  スイスの諸都市をゆっくり見学。  そしてジュネー  プからリヨンを経てパリヘ。  セー ヌ河畔の古書店や、  エッフェル塔をなつかしがったが、 街にはイギリス風、 ドイツ風も混じり合い、 国際化が目立った。 大陸にいること十六日、 八月十八日には汽車で再度ロンドンに向かう。 相当の駆け足である。 ヨー ロッ パはこの夏、四十年来の猛暑であった。 またロンドンは大きなストライキに巻き込まれており、 鉄道や船便にも影響が出てた。 円了のオルコマ号も三日遅れた。

八月二十七日、  オルコマ号、  一万千五百四十六トンで、 約千名の乗客とともにリバプー ル港を出発、 南米に向かう。 めざすは、  プラジルの首府リオデジャネイロである。  スペイン、 ポルトガルの諸港、 カナリア諸島などに寄港しつつ赤道を越えて、 リオに着いたのは九月十四日、 十八日間の航海だった。  ここを起点にして、 公使館関係者の案内で視察したなかで、 印象に残ったのが、 日本人移民によるコー ヒー 栽培の成功例だったが、 深い分析には及んでいない。  また、 文化の程度に対する失望感も少なくなかった。

サントスと、  ウルグアイの首都モンテビデオを経て、 アルゼンチンの首府プエノスアイレスに着いたのは、 十月一日だった。  この都市は、 大きさ、 壮麗さ、 繁栄ぶりともに円了を圧倒したが、 文化のレベルには満たされぬ思いだった。 しかし、 教会と学校視察からはおおいに得るところがあり、 将来性を確信させた。 十月十三日、  プエナス号で出港、 モンテビデオで、 オリサ号に乗り換え、 フォー クランド島スタンレー に向かう。

十月二十、  二十一日、  二日がかりで、 激しい風浪のなかをマゼラン海峡通過、 太平洋側に出た。  これで円了は、 喜望峰とともに、 大きく南極に向かって突き出た、 地球上のもうひとつの岬を同時に越えたことになる。 雨の降りしきるチリの海岸沿いに北上、  バルパライソ港に入ったのは、 十月二十八日だった。 アンデス連峰を見ながら首都サンチャ ゴに着いた。 公使館、 銀行関係者ら邦人の手厚い出迎えと案内で、 市内外を視察出来たが、 旧教の力の強さに驚き、 貧富の差の激しさも目を引いた。 同時に、 女性の社会進出を学んだのも、 この後進国からであった。 十一月十四日、 紀洋丸、 九千二百八十七トンでチリをたち、  ペルー のカヤオには二十七日入港。

円了は、 第八十二章に、「移民の心得」を書いており、 可能性の大きい国としてブラジル、  ペルー を推し、 健康、 言語、 意志を、 南米移民の三大条件として忠告している。 十一月一日カヤオ出港、  四日、  四回目の赤道越えを行なった。  メキシコのサリナクルスに入港したのは十二月十日。 そして同国マンサニヨ港を出て、 太平洋を帰旅についたのは、 十二月十六日であった。 当時七万人という日本人移民が成功していた、 ハワイのホノルル港に入ったのは十二月二十九日。  これを一月四日出港し、 十九日後の二十二日、 円了は、  四、 五十人の知友に迎えられて、 新橋の駅に降り立った。 あごの髭がすっかり白くなり、 皆を驚かせた。 なにしろ、  この二百九十七日間の旅行で、 円了は、  一度に続けて四回赤道を横切り、 南極に突き出た二つの岬、 喜望蜂とホー ン岬手前(マゼラン海峡)を回り、 南北ふたつの極地ぎりぎりを極めるという、 ギネスプック記録風の地球経験をしたのだった。

「南半球五万哩」には、 多くの絵はがきが挿入され、 また写真やスケッチが出来ないので、 かわりに短歌と七言絶句で補ったと「緒言」にあるとおり、  ことに無数の漢詩がちりばめられている。 それがどれだけ、 淡々とした記述に、 情緒を加えているかは、 はかり知ることが出来ない。 今なら、 気軽くカメラに収めておきたい景観が、 文中の記述どおりに、 韻律を踏んだ詩として歌いこまれている場合も多く、 その詩風も淡彩のものが主流だが、 なかにはより以上の方向性を含んだ作品もある。 それらは、 又あらためて鑑賞の機をもつべきものだろう。第九十一節によると、 船中での無柳を慰めるため漢詩を試みたのは、 第二回目の旅行からで、 初心者向けの作詩テキストまで携帯したという。  そのうち未熟で、「西航日録』に入れなかったものに、  訂正を加えて今お見せするとして、 今回の旅行とは関係のない六十六個もの作品を付録してあるところなどにも、 飾らない明治人、 井上円了の人柄がかいま見られる。

(東洋大学名誉教授)