7.天狗論

P547------

天狗論

1.サイズ(タテ×ヨコ)222×150㎜

2.ページ 総数:98

 参考および引用書目:6

 序文・目録:2

 本文:90

3.刊行年月日

 底本:初版 明治36年12月29日

4.句読点 あり

(巻頭)

5.その他『妖怪叢書』第3編として発行。

6.発行所 哲学館

P549--------

天狗論

『天狗論』参考および引用書目

東鑑(巻二九の五紙および巻四一の三三紙)

安斎随筆(巻一八)

一話一言(巻五の三四紙)

稲生物怪録

因果物語(巻下の三紙)

仮寐夢(巻三の三二紙)

宇津保物話(巻一六の五一紙)

雲楽見聞〔書〕記(巻下の二七紙)

栄華物語(巻三九の二六紙)

江戸塵拾(五紙)

大鏡(第六七代)

鋸屑★(譚の正字)

御文五帖〔一部〕示珠指(巻二の一五紙)

温故要略(巻三の二紙)

陰陽外伝磐戸開(洋装一七四頁)

怪異弁断(巻二の二〇紙)

怪談登志男

怪談とのい袋(巻一の六紙)

怪談弁妄録(巻二の三紙)

華鳥百談(巻四の一紙)

学海余滴(巻九の二六紙)

閑際筆記(巻下の一九紙)

閑田耕筆(巻三の二三紙)

管蠡数㤧略(巻上の二二紙)

義経記(巻一の七紙)

擬山海経(巻一の二六紙および巻三の一八紙)

鬼神論(巻下の五紙)

嬉遊笑覧(巻一二の四紙)

笈埃随筆(巻一の一七紙)

奇遊談(巻三下の一紙)

牛馬問(巻二の八紙)

居行子(巻一の五紙)

曲肱漫筆(巻二の六紙)

近聞寓筆(巻四の九紙)

愚管抄(巻七の一五紙)

旧事記(巻一六の二五紙)

訓蒙天地弁(巻中の二六紙)

秇苑日渉(巻一二の三三紙)

桂林漫録(巻上の一六紙)

元亨釈書(巻二〇の二五紙)

玄同放言(巻一上の二二紙)

源平盛衰記(巻八の八紙および一九紙以下)

広益俗説弁(巻一二の二紙)

砿石集(巻一の三四紙および巻四の一一紙)

国史略(小本巻四の一四紙)

晤語(巻下の一二紙)

古今著聞集(巻一七の一〇紙および一七紙)

古今妖魅考(全七巻)

谷響集(巻二の二六紙)

護法資治論(巻二の二四紙)

今昔物語(巻二八の一二紙)

今昔夜話(巻一の二二紙および巻三の二九紙)

斎諧俗談(巻一の三紙)

雑説嚢話(巻中本の二紙)

猿著聞集(巻一の七紙)

三才因縁弁疑(後編巻上の一紙)

三養雑記(巻二の一八紙)

志古草(一八紙)

地蔵経鼓吹(巻八の一六紙)

地蔵経鈔(巻上の一三紙)

信濃奇勝録(巻四の一六紙)

沙石集(巻八の一三紙)

周遊奇談(巻五の一〇紙)

消閑雑記(巻上の二一紙)

聖鬮賛(巻二の三二紙)

聖財集(巻中の三五紙)

想山著聞集(巻一の四紙および巻五の九紙)

小窓閑話(巻二の四紙)

恕軒文鈔(巻上の二二紙)

諸国怪談集

諸国便覧(巻三の四紙)

諸国里人談(巻二の一七紙および二一紙)

如蘭社話(巻二八の二六紙)

慎夏漫筆(巻三の二八紙)

新著聞集(巻一〇の一三紙)

塵添壒嚢抄(巻八の三八紙)

神童憑談(仙童寅吉物語)

震雷記(八紙)

随意録(巻一の二六紙)

駿台雑話(巻一の四五紙)

西播怪談実記(巻二の九紙)

善庵随筆(巻下の二〇紙)

宗祇諸国物語(巻二の一九紙)

草茅危言(巻四の二八紙)

続砿石集(巻下末の三四紙)

続古事談(巻五の五紙)

徂徠集(巻一六の一二紙)

醍醐随筆(巻下の九紙)

太平記(巻二五の二紙)

痴談(巻二の八紙)

中古叢書

長明発心集(巻二の一九紙)

天狗名義考

天地或問珍(巻六の七紙)

東海道名所図会(巻二の九紙)

同契纂異(巻一の四紙)

桃洞遺筆(巻六の三紙)

唐土訓蒙図彙(巻五の九紙)

東遊奇談(巻一の八紙および巻四の一五紙)

東里新談(巻下の五紙)

遠山奇談(巻四の一七章および一八章)

日本外史(巻四の一七紙)

日本楽府(一四紙)

日本書紀(巻二三の一一紙)

烹雑の記(巻中の二三紙)

忍辱随筆(巻上の四三紙)

年山紀聞(巻六の二六紙)

化物判取帳(巻一の一一紙)

半日閑話(巻三の一四紙)

一宵話(第二編の一八紙)

風来六六部集(「天狗髑髏鑑定縁起」)

仏像図彙(巻四の五紙)

平氏太子伝(巻下の三六紙)

平児代答

平治物語(巻三の一九紙)

保元物語(巻三の一六紙)

北条九代記(巻二の二九紙)

北条盛衰記(巻三の二七紙)

北越奇談(巻四の一紙)

北窓瑣談(巻二の二一紙および巻三の二二紙)

本朝怪談故事(巻二の一四紙)

本朝語園(巻一の三五紙)

本朝故事因縁集(巻一の二〇紙)

本朝新因縁集(巻四の六紙)

本朝神社考(巻六の七紙)

本朝捜神記(一名怪談弁述鈔)(巻二の五紙)

本朝俚諺(巻六の五紙)

松の落葉(巻一の二四紙)

松屋筆記(巻三八の一六)

漫遊記★(譚の正字)(巻二の四二紙)

民生切要録(巻二の七紙)

夢中問答(巻上の三九紙)

明六雑誌

野翁徒然日記(巻一〇の二〇紙)

夜光珠(巻中の初紙)

夜窓鬼談(巻下の一紙)

八十能隈手(巻四の一二紙)

大和怪異記(巻七の一紙)

大和本草(巻一六の二一紙)

闇の曙(巻下の二紙)

芳野拾遺(巻二の一八紙)

羅山文集(巻六三の三一紙)

俚言集覧(洋装七一五頁)

霖宵茗談(巻上の五九紙)

老媼茶話(巻二)

録内啓蒙(巻一の三八紙)

六橋紀聞

和漢雑笈或問(二紙)

和漢三才図会(巻三の二紙)

和漢珍書考(〔和漢〕雑笈或問に同じ)

和語連珠集(巻五の五紙)

和爾雅(巻六の四紙)

 以上百五十二種

 その他、左の諸書にも天狗のこと出でたるはずなれども、いまだ検せず。

柳斎筆記

孔雀楼筆記

幽討余録

有斐斎剳記

神社考志評論

神社考弁疑

地蔵〔菩薩〕利益集

善悪〔業報〕因果集

小田原記

野峰名徳伝

 以上はみな本邦の著作にかかるもののみを掲ぐ。そのほか仏経および漢籍中より引用せるもの数十部あれども、これを略す。

序  文

 本書は昨年中に『妖怪叢書』第二編として発行するはずなりしが、にわかに洋行の途に上り、そのいとまを得ず、荏苒今日に至れり。今や日露の関係穏やかならず、危機一髪なるがごとく報ずるものあり。余思うに、日本は東洋の天狗国なり。なんとなれば、ひとり天狗の怪談のわが国に存するのみならず、日本人の気質は亢然高く構えて、人を凌駕せんとする風あれば、大いに天狗に似たるところあればなり。これに反して、ロシアは西洋の天狗国なり。その傍若無人のありさま、およびその欲望の深きは、これまた天狗に似たるところあり。ゆえに余は、日露の衝突は天狗の衝突に比すべしという。ここにおいて、天狗論を世に公にするの時節、今まさに到来せりと思い、早々筆をとりて一編を完成す。世のこの書を読むもの、これによりて日本天狗の豪気を養い、露国の天狗を圧倒するに至らば、本書の光栄これに過ぎたるはなかるべし。いささか記してもって序文となす。

 

  明治三十六年十一月二十五日 著 者 識  

第一章 天狗の名称

 わが国の妖怪中、最も多く人にはやしたてらるるものは天狗と狐狸との二者なるも、狐狸の怪談はシナにて行われ、かつシナより伝わりしものなれば、日本固有といい難し。ひとり天狗の怪談は、わが国に限るもののごとし。ゆえに、これを日本特有の妖怪として論ぜざるべからず。しかりしこうして、天狗の名は広く種々の妖怪に適用せられ、相伝えて妖怪ならざるものまでに当てはめられ、天狗風、天狗礫、天狗倒し、天狗鯛、天狗宴、天狗火、天狗沙汰、天狗無尽、天狗誹諧、天狗将棋、天狗タバコ等の称あるに至る。また通俗に、高慢なる人を指して天狗という。観海居士の『仮寐夢』(書名)の中に、天狗に活天狗と死天狗の二種あることを説き、図画にて見るところの天狗を死天狗と称し、世間にありて高慢なる人を活天狗と呼べり。『恕軒文鈔』のいわゆる天狗は、この活天狗なり。近来、世の進むに従い、死天狗は年を追いて減じ、活天狗が日一日より多きを加うるは、あに奇怪ならずや。妖怪退治の軍を進めて天狗征伐に着手するも、またやむをえざるなり。されど、かくいうところの拙者も、あるいは活天狗の一人ならんか。その評のごときは、世人の判断に一任して可なり。

 まず、天狗の名称の由来を考うるに、諸説一定せず。あるいはいう、シナより起こると。あるいはいう、インドよりきたると。あるいはいう、日本に限ると。よって余は、左の三段に分かちて逐次に論及せんとす。

  一、インド説

  二、シナ説

  三、日本説

 第一のインド説にては、仏経中にその名称の存することを唱うるなり。『温故要略』の天狗星を解する下に、『延命地蔵経』中にもこの名ありと説けり。また、『一宵話』の天狗論下に、『年山紀聞』によりて、天狗は『〔延命〕地蔵経』に出ずる名目なることを説けり。すなわち、

 天狗木魅。この天狗という名のこと、種々説あれども、やはり天狗がよろしきなり。『年山紀聞』に、『地蔵経』やらんを引きて、天竜夜叉、天狗土后とつづきし語ありといえ〔れ〕ばなり。星の名にも鳥の名にも天狗というあれど、似つかわしからず。そのはじめは僧家よりいい出だしなるべし。

 また、諦忍の『天狗名義考』および日達の『学海余滴』には、『正法念処経』に天狗の名あることを示せり。すなわち、

正法念処経第十八曰皆言憂流迦(魏曰天狗)下、又第四十曰空中有大光明猶如天狗、又曰見大天狗。

(『正法念処経』第十八に曰く、「みな言う『憂流迦(魏、天狗という)下る』」と。また第四十に曰く、「空中に大光明あり、なお天狗のごとし」と。また曰く、「大天狗を見る」と)

 以上の二経は、天狗の名目の仏経中に存する証拠なれども、平田篤胤の『古今妖魅考』(巻一)にはこれを否定して、「『延命地蔵経』というものに、天狗土公大歳神ということあり。これはまさしく俗にいう天狗をいえるなれど、この経はこちらにて偽作せるなれば、証とはならず」と説き、また、「『正法念処経』の天狗は、世にいう天狗の本文なりといえども、これは天上の光り物のことを釈せる文にて、妖魔をいえるにあらざれば、これまた〔いわゆる〕天狗の証とならず」と論ぜり。また〔滝沢〕馬琴は、「『地蔵経』に夜叉天狗とあるを、先達見出だして物にしるせしかば、人みな、天狗はかの経文より出でたりという。そはまた偏見にあらずや。五百年来、世にいう天狗は、果たして『地蔵経』より出でたるやいなや、証拠なくば定かにはいいがたし」といえり。もし『沙石集』によらば、「天狗のことは、聖教のたしかなる文見えず」と説けり。これによりてこれをみるに、天狗の名目は、インド伝来にあらざること明らかなり。ただし、これに比すべき怪物のインドに存せしは、仏家の書に見るところにして、インドの魔鬼はすなわち天狗なりという。このことは後に至りて説明すべし。

 つぎにシナ説を考うるに、『史記』「天官書」にその名目あり。曰く、

 天狗の状は、大奔星のごとく声あり、下りて地にとどまれば狗に類す。おつるところを望めば、火光のごとく、炎々として天をつく。(和訳)

 また『漢書』に、「西北に三大星あり、日の状のごとし。名づけて天狗という」とあり。「あるいは大鏡星のごとく、あるいは大流星のごとし」ともいえり。『晋書』にもこの説あり。『河図』に、「太白散じて天狗となる」といい、『星経』に、「竜尾九星の一に天狗あり」といい、『山海経』には、「その光、天に飛び流れて星となる。長さ数十丈、その疾きこと風のごとく、その声雷のごとく、その光電のごとし」と説き、『五雑俎』に『周書』を引きて、「天狗のとどまる所の地はことごとく傾きて、余光天にかがやき流星となる、云云」とあり。汪若海の『麟書』に、「天狗、電より落つ」と。その注に、「天狗のくだるところ、その光電のごとし」とあり。『述異記』および『草木子』に出ずるところも、以上の所説に同じ。これによりて、古来シナの天狗は星の一種なりと解し、わが国の天狗と同名異体なりとなす。ゆえに馬琴は『烹雑の記』に、「天狗は元来、星の名なり」と釈せり。

 以上の諸説に関連して、天狗を獣名となす説あり。『山海経』に曰く、「陰山に獣あり。その状、狸のごとくにして白首なり。名づけて天狗という」と。杜甫の「天狗賦」に、「色は狡猊に似て、小なることは猿狖のごとし」とあり。王鼎の『焚椒録』に、「たちまち天狗のために食わる」とあり。『佩文韻府』に『三秦記』を引きて、「秦襄公の時に天狗ありて、きたりて堡上に下る。賊あれば天狗ほえてこれを護す」とあり。『食物本草』に、「山狗獾、その形、家狗のごとし。(中略)蜀中に出ずるものを天狗と名づく」とあり。『博聞録』に、「山陰に獣あり。状狸のごとし。首白くして蛇をくらう。これを天狗と名づく」とあり。以上は『秇苑日渉』および『烹雑の記』に引用せるところなり。また『天地或問珍』に、「『本草綱目』に天狗と異名するものあれども、今いう天狗にあらず、狸のことなり」と説けり。『桂林漫録』に、憑夢竜が『古今談概』を引きて曰く、「術者あり、哭していう、『われ今、天狗のために殺さる』」と。これみな、天狗をもって獣名となすものなり。

また『居行子』には、『捜神記』によりて、「南方越の地に鳥あり。陰山に棲んで、樹をうがって巣を作る。口の大きさ数寸、木をきるもの過って〔も〕これを犯せば、家を焼く。形鳥のごとく、その名を治鳥という」と説き、『秇苑日渉』には、「『爾稚』に、鴗は天狗、注に小鳥なり。これ禽にして天狗と名づくるなり」という。『天中記』に、「天狗は人参なり」とあり。これ草名なり。『物理小識』に、「落星、石となる。狗首にかたどる」とあり。これ石に名づくるなり。『瑯嬛記』に、「君子国に鳳皇嶺あり。天狗を出だす。一名、胎詹女仙という」と。これ仙人ならん。また『酉陽雑俎』に、「竜王、身に光あり。憂流迦という。ここに天狗という」と。これ竜名なり。

 以上の諸書に説くところによるに、シナにありて、古代より天狗の名称ありしは疑うべくもあらず。ただその名を、あるいは星に用い、あるいは獣に用い、あるいは鳥に用い、あるいは石に用い、あるいは仙名、あるいは竜名、あるいは草名等に用うるをもって、人みな、天狗の本名なににあるやを解するに苦しむ。ひとり平田篤胤は、「『史記』「天官書」等に出ずる天狗は星にあらずして、一種の怪獣なり」と断定せり。その説によるに、「一種の怪物がわざと形を星のごとくに見せ、光を発して飛びしゆえに、人々これを星と思い誤りて、かく唱えしなり」といえり。余案ずるに、この説明もいまだ信ずべからず。馬琴は天狗の名称の一定せざるを見て、「星なり、夜叉なり、山神なり、獣なり等とあるも、和俗の天狗に同じからざるゆえに、これなにものと、しばらくおいて論ずるなかれ」といえり。しかして、天狗をもって獣名となせし条下に至り、「譬えば雷と雷獣とのごとし」と説けり。されど馬琴もなおいまだ、天狗の名義を解せざるがごとし。しかるに余は別に一説あれば、左にこれを述べん。

 愚考にては、シナの諸書に天狗をもって、あるいは星名、あるいは獣名、あるいは鳥名、石名等となせるは、決して天狗にかく異類あるにあらず、これみな同一の状態に与えたる名目なり。まず、『史記』の「天官書」等に出ずる天狗をもって星名となすは後人の誤解にして、その実、星名なるにあらず。なんとなれば、『史記』の本文は、天狗の状は大奔星のごとしとありて、天狗はすなわち星なりというにあらず。その他の書にもみな、大鏡星のごとし、大流星のごとしとありて、光気の飛び下りしありさまを見て、流星に似たりと説きたるまでなり。ゆえに余は、これ電光の地に下りたることを、かく記せるなりとす。すなわち落雷なり。しかるに、後世この文を誤解して、天狗は一種の星なりといい、また流星の状を見て、ただちに天狗なりといい伝うるに至れり。さて、なにゆえに落雷を天狗と名づけしやを考うるに、落雷のときには往々、山獣のその地に落つることあり、古来これを雷獣という。

 『震雷記』の序文に、「雷の起こるときに、獣が雷火とともに雲中遊行し、たまたま人家に落つるあり。俗おもえらく、雷はこの獣のなすところなり」と。けだし、雷獣は山間幽谷に棲居し、大雷のときに出でてくるものなり。『震雷記』にはその形を示し、かつ由来を記して曰く、

 今年明和乙酉七月二十二日、相州大山に落ちたるは、その形、猫よりは大きく〔かたち〕ほぼ鼬に似て、色は鼬より黒し。爪五本ありて、はなはだたくましし。先年、岩付に落ちたる雷獣は、大体今年のに似たりといえども、胴短く色灰白色なり。唐の書にも往々見えたれども、いずれもたがい多し。唐に狄仁傑が、「形、人に似て、ことに人語をなせし」といえり。また、李肇が『国史補』に曰く、「雷州に雷獣多し。その形、人に似て、人これをとって食らう」といえり。『捜神記』には、「雷のかたち獼猴〔さる〕に似て色赤し」といえり。わが国にも、土佐の国には春夏のころ、山中にて雷獣をうちとり食らう。その味星鮫のごとく、はなはだ美なりといえり。また、信濃深山にもこのものをとり食らう。房州二山という所には、正、二月、この村民言い合いて、雷猟りとて山中を猟り出だし取るといえり。

 かくのごとく、大雷のときに電光とともに雷獣の落ちきたれるを、古代にありては真に天より降下せるものと信じ、これに与うるに天狗の名をもってせり。けだし、雷獣の形一定せざるがゆえに、最初落ちたるものやや狗に似たるより、天狗と名づけしならん。この雷獣と電光とを混同して、電光は獣より発せしものと考え、これを望めば火光のごとく、炎々天をつくと記するに至りしなり。ゆえに余は、天狗は星の名なりとの説をとらずして、獣名なりとの説をとる。されど〔平田〕篤胤のごとくに、妖獣の化して星のごとく見えたりというにあらずして、今日一般に唱うるところの雷獣なりとなすなり。ただし、篤胤も別に一説を設けて、「雷獣は狸に似て、空中を翔るものなれば、『山海経』『博聞録』などの説にかないてきこゆ。星のごとく光を見する天狗は、このものの年経たるが化けたるならんも知るべからず」といいたるも、いまだ説き得たるものにあらず。

 天狗を解して雷獣となすときは、これを鳥名となす説も同時に解し得べし。『震雷記』には、加州白山に棲める雷鳥なりとて、その図を出だせり。『鋸屑★(譚の正字)』にその鳥の考証あり。また、天狗を石となせるがごときは、天狗を流星と誤解せるより起こる。すなわち、流星の落ちて石となりしものに与えたるなり。その他、草名、仙名、竜名等に用うるは、種々の連想より名づけたるものにして、わが国にて将棋やタバコに用うるに同じく、深き意味あるにあらざるなり。

 以上解するがごとくなるときは、シナの天狗とわが国の天狗とは全く異なること、問わずして明らかなり。ゆえに『善庵随筆』には、「こちらに天狗といえるもの、西土の天狗と同名異物なり。混称すべからず」といい、『居行子』にも、「もとより漢土、天竺等には、今いう天狗というものはなし」といえり。しからばここに、天狗は日本に特殊なるものにして、その名も日本にて起こりしといえる日本説を考うるに、その主唱者は僧諦忍なり。諦忍の『天狗名義考』には、「天狗は、わが国にて神代より用いきたれる称号なり」となす。すなわち『〔先代〕旧事本紀』を引き、「服狭雄尊の猛き気が胸腹に満ち余りて吐物と化し、天狗神となる、云云」とあるをもって証となし、かつ自ら評して曰く、「これ、日本天狗の元祖なり」と。また、『学海余滴』にも同様の説あり。

しかるに『桂林漫録』には、「世に天狗というものの説は古書に見えず」とし、「『旧事紀』は偽書なり」と注せり。ただ、「後の書にて『続古事談』『沙石集』『太平記』などに見えたり」といい、「諦忍の『天狗名義考』は俗にして見るにたえず」と評せり。されば、『旧事紀』に天狗の語あるも、天狗の由来を証するに足らざるなり。つぎに天狗の名称の見えたるは『日本書紀』なり。すなわち、舒明天皇九年に、

 大星、東より西に流る。すなわち音ありて雷に似たり。時の人は流星の音といい、また地雷ともいえり。ここにおいて、僧旻曰く、「流星にあらずして、これ天狗なり。その吠ゆる声、雷に似たるのみなり」(漢文和訳)

とあり。これ、もとより流星なり。僧旻がこれを名づけて天狗となしたるは、『史記』の天狗を流星と誤解せるによる。しかるに『〔日本〕書紀』には、天狗の字に邦訓を施してアマツキツネとなせり。ゆえに『平氏太子伝』には、舒明天皇の下に天狐と出でたり。また『壒嚢鈔』には、「天狗とも天狐とも通用す」といえり。余案ずるに、和訓にて狗をキツネと訓ずることありしならんか。決して流星を狐の所為となせるにあらず。しかるに、朝川善庵はこの邦訓を引きて、「天狗は狐なり」との一証となせしは怪しむべし。けだし、『太子伝』の天狐はこの邦訓にもとづきしもののみ。もとより、シナのいわゆる天狐をいうにあらず。シナにては『広異記』等に天狐の名目あれども、『〔日本〕書紀』の天狗と大いにその意を異にす。すなわち、『擬山海経』に引用せる天狐の談を見て知るべし。また、『元亨釈書』にも天狗星の現ぜしことを載せたるも、これみな通俗の天狗にあらざること明らかなり。しかして『保元物語』『太平記』等に出ずる天狗は、今日一般に唱うるところの天狗に同じ。余がみるところによるに、わが国の古書には天狗の怪談なしといえども、その名称は、『日本〔書〕紀』もしくはシナの書に出でたる名目を慣用したるならん。

そのゆえは、わが国の妖怪の名目は、大抵みなシナの名称を用いおればなり。しかしてその実、わが国の天狗はシナの天狗と同じからず。すなわち同名異体なり。ただ、シナにありて古代、雷獣のなんたるを解せざりしゆえに、これを真に天よりくだれるものと思い、これに与うるに天狗の名をもってしたりしに、その名漸々に相移りて、わが国のいわゆる天狗に慣用しきたれるは、あえて怪しむに足らず。もし人、深山に入りて火光を見、震響を聞くときは、これを一般に天狗の所業となす。されば、『史記』の天狗とわが国の天狗とは、全く関係なきにもあらざるなり。

第二章 天狗の起源

 つぎに、天狗の名称はシナにあれども、その怪談はわが国に限るものとして、ここにその起源を考うるに、天狗談は『保元物語』『源平盛衰記』『義経記』『太平記』『続古事談』『沙石集』等の諸書に出でたれば、左にその要をつまみて二、三を掲ぐべし。

 鞍馬山と貴布禰との間に岩谷あり。名づけて僧正谷という。世に伝う源牛弱、はじめは舎那王丸と名づく。平治の乱をのがれて鞍馬寺に入る。一日、僧正谷に至りて異人(あるいはいう山伏)に〔逢〕う。異人、牛弱に教うるに剣術をもってす。かつ、ちかいて曰く、「われ舎那王の護神とならん」と。その後、ときどき異人と僧正谷に遇う。よくその刺撃の法を習う。牛弱もとより軽捷を好む。ここに至りてますますくわし。十五歳に及んで奥州にゆく。寿永、元暦の際、平氏と合戦す。その功多きにおる。文治のはじめ、再び鞍馬山に遊ぶ。また異人を見ることを得ず。牛弱はすなわち源廷尉義経これなり。(『〔本朝〕神社考』の文による)

 『保元物語』に、「崇徳天皇怨念によりて、生きながら天狗の姿にならせたまいける、云云」と。『太平記』に、貞和のころ、往来の禅僧、夕立の雨を仁和寺の六本杉の下に避けて怪異を見たる段に、「夜いたく深けて、月清明たるを見れば、愛宕の山、比叡の岳の方より、四方輿に乗りけるもの虚空に集まりて、この六本杉を指して並びいたる。座定まりて後、虚空に引きたる幔を風のさっと吹き上げたるに、座中の人々これを見れば、香染めの衣に袈裟かけて、目は日月のごとく光りわたり、觜長くして鳶のごとくなるが、水晶の珠数爪繰りて座したまえり。(中略)往来の僧これを見て、『怪しや、われ天狗道に落ちたるか、はた天狗のわが目に遮るか』と、云云」と。

 『〔源平〕盛衰記』に載す。「保元帝は鳥羽第四の子なり。久寿二年をもって即位す。治世わずかに三歳、落飾して法皇となる。(中略)三月三日夜半、法皇独座するに、清涼殿にあたりて詩を吟ずるものあり。法皇これを怪しむ。しばらくありて笛を鳴らす。また、琵琶を取りて赤白桃李花を弾ず。法皇『だれぞ』とのたまう。こたえて曰く、『宿直の者なり』と。その名を問えば『住吉』とこたう。問対、時を移す。神曰く、『昨日、山王伝教わが祠に来儀し、天下のことを議す』と。山王曰く、『このごろ三千の僧侶、法皇の潅頂をとどむ。その罪はなはだ重し。しかりといえども、その本心にあらず。天狗の所為なり』と。法皇曰く、『かつて天狗の名を聞き、いまだその形を見ず。形なにものに似たるや』と。神曰く、『形、人に類す。しかして、もと畜類なり。面は狗に似て、身に両翼を備う。ゆえに空中を飛行すること、あたかも鷹のごとし。通力ありて、たいてい前後百歳のことを知る。いわゆる魔魅なり、云云』」(『仮寐夢』の文によりて抄録す)

 『続古事談』に曰く、「丹波守貞嗣、北山の寺に詣でけるに、洞照という相人がいうようは、『君の顔色あしし。おそらくは鬼神のために犯されたるか』と。貞嗣が曰く、『心地違うことなく常のごとし』と。洞照の疾の帰るべき由をいうときに、貞嗣にわかに絶え入りて、よみがえりて家に帰るに、物の気あらわれていわく、『別のことなし、群れ遊びつる前を通りつれば、胸を踏みたるなり』といいける。天狗の所業なり。さて三日ありて死にけり。洞照が相神のごとし」と。

 『沙石集』に曰く、「伊勢の国、ある山寺に如法経〔法華経〕行いける僧の弟子の児、何地と〔も〕なくうせて見えざりけるが、一両日を過ぎて堂の上にて見つけたるに、正念もなく見えければ、陀羅尼満ちなんどして本心になりぬ。さて語りけるは、『山臥どもに誘われて、時のほどに筑紫の安楽寺という所の山の中へ〔具せられて〕行きぬ。老僧の八十余りなるが世に貴気にて、その中の尊者と見えしが、あの児ここへこよとてそばに置きて、『あ、奴原はしょせんなきものぞ、ここにいて物見よ』という。頼もしく覚えて〔いて〕見るほどに、山臥ども舞いおどりけるに、網のようなる物〔の〕、空より下りて引き回すように見ゆるとき、山臥ども興ざめて逃げんとするに、かなわず。網の目より火〔の〕燃え出でて、次第に燃え上がりて、山臥どもみな焼けて炭灰になりて、しばらくありて、またもとのごとく山臥になりて〔また〕遊びける。老僧『あの山臥ここへ参れ』と呼びて、『いかに、わ山臥は、この児を〔ば〕具してきたりしぞ。とくとくもとの山寺へ具して行け』といわれて、恐れたる気色にて、具して帰ると覚えつる』といいけり」と。

 これらの諸書に出ずるところの天狗は、シナの天狗と同名異体なるも、これに類したる怪談はシナの書中に見るところなり。今、『桂林漫録』および『秇苑日渉』に引用せるところによるに、

 『古今談概』(書名、前に出ず)に曰く、「術者あり、哭していう、『われ今、天狗のために殺されたり』と。たちまち空中に血数点ありておち下る。しばらくありて頭足、零星のごとくにしておつ」と。唐の李綽が『尚書故実』に曰く、「章仇兼瓊なるもの、蜀を鎮ずるの日、仏寺大会を設く。百戯、庭にあり。十歳の童児ありて竿杪に舞う。たちまち物あり鵰鶚のごとし。これをかすめて去る。群衆大いにおどろく。よって楽をやむ。のち数日、その父母、童児の高塔の上にあることを見、梯してこれを取れば、神痴のごとし。久しくして語りて曰く、『壁画の飛天夜叉のごときものを見たり。己をひきさいて塔中に入らしめ、日に果実を食せしむ。旬日にして精心はじめのごとし」と。

 『広西通志』にいう、「池明近山の地に、牧童十余人あつまりて戯る。あるいは歌い、あるいは舞う。たちまち山半ばに一人を見る。およそ長二丈、面のひろさ三尺余にして、長さこれに倍す。披髪鳥喙にして背に二翼あり。伏して群童の楽をなすをみ、嬉然として笑う」と。

 魏郡の張承吉が子息元慶、年十二にして元嘉中に一鬼を見る。長三尺あり。一足にして鳥爪なり。背に麟甲あり。きたりて元慶を招く。恍惚として狂するがごとく、道にあらざる所を遊走す。父母これをうてば、にわかに空中に声あるを聞く。曰く、「これ、わが教うるところ、幸いに罰を与うるなかれ」と。(この話は『異苑』に出ず)

 戸部尚書韋虚心は三子を有す。みな成長せずして死す。その子の死せんとする前には、つねに大面ありて牀下に出ず。目をいからし口をきき、貌は神鬼のごとし。子おそれて走れば、大面、化して大鴟となり、翅をもって遮擁し、自ら井に投ぜしむ。家人さとりてにわかにこれを出だせば、すでに愚になり、なおよくその見るところを言う、数日にして死す。かくのごときこと、三子みなしかり。ついに、そのなんの鬼怪なるを知らざりき。

 河東の裴鏡微は、かつて一武人とその居相近し。武人、夜その荘にかえる。弓矢を操りて、まさに馬を馳せて行く。後ろに物の近づくあるを聞き、顧みてこれを見れば、状大いに方相に類するあり。口ただ渇と称す。まさに武人に及ばんとす。武人、弓を引きて射てこれに中つ。怪すなわちやむ。しばらくありて、またきたり近づく。これを射れば、怪またやむ。須臾にしてまた至る。武人家に至れば、門すでに閉ず。武人、垣をこえて入り、後に戸よりこれをうかがえば、怪なおあり。武人あえて馬を取らず。明朝門をひらけば、馬鞍すてて門にあれども、馬はすなわちなかりしとぞ。(以上二話は『紀聞』に出ずという)

 また『天地惑問珍』には、前述の『居行子』のごとく、『捜神記』に「治鳥というものあり。越の地に多し。陰山にすみて樹をうがち巣を作り、口の大きさ数寸、木をきるものを見るときは避けて見えず。過りてこれを犯せば家を焼く」とあるを引きて、わが国の天狗に似たりとなす。これらの怪談は、わが国の天狗談にひとしきものなれども、わが国の天狗はこの説より起こりしにはあらず、ただ偶然に、和漢両国の事実あるいは想像の符合したるもののみ。『和漢珍書考』には別に一説を掲ぐ。(本書は『和漢雑笈或問』と内容相同じ)

 或問、「日本に古来より天狗というものありて、いろいろ怪異をなす。その形定かならず、異説まちまちなり。唐土などにその沙汰なし。真偽いかん」

 答えて曰く、「世俗に、日本にばかりありと思えり。唐土などにいかんとも、古今儒家においても正説をわきまえず、いろいろ妄説差謬して衆人の迷いを生ず。今、つまびらかに教うべし。『百鬼大弁録』巻八十二に、「閩、越の間に障りをなすものありて、ひとたびこの怪に触るるものは、たちまち顛衢す。たまたまその形を見たるもの曰く、『身の長高く、髪を乱し、羅衣をまとい、両脇に羽翼ありて、鼻長く飛行自在を得ると見えたり』と。この説をもって考うるに、日本の天狗にひとし。天狗本字は顛衢なり」と、云云。

 この『〔百鬼〕大弁録』の怪談は、わが国の天狗談と同じきも、天狗の文字は顛衢より出でたりとなすは、付会もまたはなはだしといわざるを得ず。『管蠡数㤧略』にこの説を駁せり。ただし、その書には『〔百鬼〕大弁録』の怪談を全く比喩となせるは、その当を得ず。かくのごとき怪談は、愚民の妄想より自然に起こるべきは、東西の怪談を対照すれば、たやすく知ることを得るなり。あたかも人魚のごとき人身魚尾の怪物は、西洋にも東洋にも、いにしえより伝えきたれるがごとく、全く想像の暗合と知るべし。

 これを要するに、天狗の怪物およびこれに関する怪談は、シナの雑書中に散見せるにもかかわらず、日本において自然に起こりたるに相違なかるべし。ただし、わが国古来の小説家、歴史家などは、シナの書によりて敷衍し、または構造せる事柄すくなからざれば、天狗の怪談中にシナ説の混同せるもの多かるべきは、また疑いを入れざるなり。されど、シナにありては鬼談、狐談、比較的多きも、天狗談はわが国のごとく一般に行わるるにあらず。また、仏者がインドの怪談をこれに混入したることは事実なるべきも、仏書中に見るものとまた大いに異なるところあり。ゆえに余は、天狗は日本特殊の妖怪なりとす。『忍辱随筆』には、「天竺の獅子、シナの仙人、日本の天狗、これを三国の怪物となす」という。余は、天竺の魔鬼、シナの仙人、日本の天狗を、三国特有の怪物と定めんと欲す。しかして、天狗の怪談のわが国に起こりたるは、その年代をつまびらかにし難しといえども、八、九百年以前より起こりしならん。しかして、その怪談の一般に行われしは鎌倉時代なるべし。されど、『旧事紀』に天狗神の形を記し、また『大鏡』には山の天狗の名目あるを見れば、『源氏〔物語〕』以前にすでに天狗の話ありしと見ゆ。『旧事紀』は後人の偽作なるも、加茂真淵はこれを、「七、八百年以前のものなるべし」といえり。

第三章 天狗の本体

 つぎに、天狗のなにものたるを考うるに、俗間に伝うるところの図によりて見るも、実に奇々怪々の状態を具し、飛鳥のごとく、走獣のごとく、人類のごとく、夜叉のごとく、異様奇形の大怪物なり。あるいは深山無人の境に光あり声あり震動ありて、その原因を知らざるときは、すべて天狗の所為なりとなす。ゆえに古来、天狗のなにものたるにつきては異説紛々、一として信拠すべきものなし。〔滝沢〕馬琴は、古来の異説を分類して五種となす。すなわち、第一は天狗を星となす説、第二は天狗を夜叉飛天となす説、第三は天狗を獣類となす説、第四は天狗を山魅となす説、第五は天狗を冤鬼となす説なり。今、余はさらに古来の諸説を列挙して、左の五種となす。

第一は仙人となす説。

第二は禽獣となす説。

第三は山神または山中の一怪物となす説。

第四は霊魂または鬼神となす説。

第五は魔類となす説。

 その他、星となす説は前に評論したれば、これを除く。

 第一の仙人説は、寺門静軒の『痴談』に出ず。静軒曰く、「余思うに、唐の仙人は日本の天狗と同じようなるものなるべし。ただし、こちらの人は天狗になることを欲せず、唐人は仙を欲する多し。これまた、皇国の人の漢人に勝るところなるべし、云云」と。また、『慎夏漫筆』に西島元齢の説くところも仙人説なり。すなわち左のごとし。

 案ずるに、『尚書撰異』にいう、「『博物志』の驩兜国は、その民ことごとくこれ仙人なり」と。『山海経』に伝えてまた曰く、「驩兜は尭臣なり。罪ありて自ら南海に投じて死す。帝これを憐れみ、その子をして南海におりてこれをまつらしむ。画もまた仙人に似たり」と。また案ずるに、『神異経』に、「南方に人あり。人面鳥喙にして翼あり。手足扶翼して行き、海中の魚を食す。翼あるも、もって飛ぶに足らず」と。また王充『論衡』にいう、「仙人の形をえがきて、これがために翼を作る」と。しからば、邦人のいわゆる天狗は、これを仙人といいて可なり。

 『古今妖魅考』に、『抱朴子』を引きて、「いにしえの仙を得るもの、あるいは身に羽翼を生じ、変化飛行し、人のもとを失して、さらに異形を受く」とあるを見れば、仙人説の起こるも道理なり。

 第二の禽獣説に種々あり。その一は狐となす説なり。『善庵随筆』に出ずるところこれなり。

 世に天狗の所為というを見るに、変幻自在、不可思議なることのみにして、なにものと名状し難く、魑魅魍魎に比すれば巧みなること多くして、その人を蠱惑愚弄する模様、大いに狐に髣髴たり。よって思うに、『太平広記』そのほか歴代の小説類に、多く狐妖のことを載す。狐にも天狐、白狐、玄狐とて、おのおの年数をもって差別あり。天狐はその最も古き狐にて、精神のみ存在して形はなし。ゆえに、物に託して種々の奇幻をなし、一瞬千里、風のごとく往来す。こちらの天狗も、あるいは僧、あるいは山伏など種々に形を現じ、奇変の巧みをもって人を蠱惑する、一に天狐に同じ。もしや、天狗は天狐にてはなきや。世に天狗といい伝うる小田原の道了権現、信濃の飯綱権現、下総の阿波大杉殿などの真影を見るに、少しずつの不同はあれども、小天狗の狐にまたがる像なれば、天狗は狐に縁故なきにあらずと思いしに、『日本書紀』に天狗の字をアマツキツネと邦訓を施す。さすれば、天狗を天狐というは必ずしも余が創説にあらずして、古人早くこの説ありてキツネとは訓ぜしならん。

頃日、皆川淇園の『有斐斎剳記』を閲するに、「野狐最も鈍、そのつぎは気狐、そのつぎは空狐、そのつぎは天狐、云云」とあり。今ここにいう気狐は、野狐の人を蠱惑して祟をなし、人身に憑りて食を求め、および道士の駆役するオサキ狐なるものにして、空狐はすなわち天狗なり。彼此あわせ考うれば、天狗の狐たること疑うべきなし。

 この天狐の名義につきては、『古今妖魅考』に『広異記』を引きて詳説せり。また、同書にいえるあり。

 谷川士清の言に、「『源氏〔物語〕』にテングコダマといえるは魑魅の類にて、あるいは老鷲〔の〕化するものといい、『日本〔書〕紀』の訓によりて天狐とも物にかき、天狐に天狐、地狐、人狐の別ありて、今いう天狗はもとより天狐なり」と〔も〕いえり。『四八目類函』に、「狐、千歳天と通じ天狐となる」と〔見ゆれば〕さもあるべし。獣にてはマミ狸というものを天狗といえりとあり、云云。

 これ、狐説の部類なり。また『愚管抄』に、天狗、地狗と並べて説きたるあり。馬琴は地狗を解して狐としたるよりこれをみるに、天狗は狐に対する一種の怪獣ならんかといい、『居行子』に天狗のなんたるを論じて、「畢竟、海中に海小僧、人魚等のあるごとく、深山の魑魅の人に似たる獣なるべし」と断定せり。また『闇の曙』には、怪獣の一種となせり。

 つぎに、天狗を鳥の一種となす説あり。『一宵話』に、「天狗の人を引き裂き、大木の枝に懸け置くなどいえるは、鷲の所業なりとなす。また、天狗の図に象鼻、鴟喙、虎爪、肉翅を見るは、鷲を見まかえたるなり」という。また『和漢珍書考』に、「深山幽谷に住して、高鼻にして翼あるものを天狗と名づけ、驕慢の者に障礙をなすといい伝う。星に天狗星ありといえども、なんぞ高慢邪知をにくんで人にわざわいせんや。

笑うべきの一条たり。大鷲の年経たるもの、人の言語をなすあり。これを混じていうなるべし」とあり。この二説は、天狗をもって鷲なりとなせるなり。『漫遊記★(譚の正字)』には、天狗は治鳥または鳶のごときもののように記せり。また『東遊奇談』には、猟師が天狗を鷲と見あやまりたる一話あり。もし、世間に見るところの天狗の画につきて考うるときは、必ず奇鳥異獣の一種と想像するに至るは当然のことなり。すなわち『〔古今〕妖魅考』に記するところによるに、「山人の説を伝え聞〔きたる〕に、魑魅といい天狗と世にいうもののもとは、鷲、鳶、狐はさらにもいわず、余の鳥獣も数百千歳を経ては、鳥は両翼より手を生じ、もとよりの両足に肉を生じて立ち、獣は前足に翼を生じ、異形ながらやや人に似たる形となりて豎行し、ともに飛行するがうちに、翼なくて飛行するもありと聞こえたり」とあり。この説によるも、天狗は禽獣の怪となさざるを得ず。もしまた、日本の天狗はシナより伝来せりといえる説に従わば、天狗は一種の獣類なりといいて可なり。なんとなれば、『山海経』『博聞録』等のいわゆる天狗は獣類なればなり。

 つぎに、第三の山神説を考うるに、これ天狗をもって、深山幽谷に住する禽獣以上の怪物となす説なり。新井白石、平田篤胤をはじめとし、この説を唱うるものはなはだ多し。まず『鬼神論』によりて白石の天狗説を述ぶること、左のごとし。

 本朝のむかし、人変じて天狗というものになりぬといいも伝う。これらは鬼仙といいしものにはあらずやという人もあれど、いかがあるべき。世の伝うることのごとくんば、かの天狗というものは、おおくは修験の高僧のなりたるなり。経に、「仏教は上は鬼宿に属す」とみえたり。「鬼星くらければ仏教おとろう。仏はすなわち一霊鬼なり」ということもはべれば、身すでに鬼教を行わん人の、鬼のために摂せらるることもあるべしや。されど、もろこしの書にそれに似たることも多からず。ただ唐のとき、蜀の国にて仏寺に大会を設けし日、いろいろの見物ありしが、その中に十歳になる童児の、竿の上にてよく舞うありけり。人多く集まりてこれを見るうちに、たちまちに鵰のごときもの飛びきたりてとりてゆきけり、云云。これはいわゆる天狗のふるまいによく似たり。これらは、多くは山林霊気の生ずるところ、かの木石の怪なるべし。『述異記』にみえし山都、『幽明録』に見えし木客などいうもの、その形も〔もの〕いいもまったく人のごとくにして、手足の爪、鳥のごとく、つねに山ふかく岩けわしきところにすみて、よく変化して、その形を見ることまれなりという。これら、世にいう天狗に似たり。

 これ、天狗を深山幽谷に住める木石の怪となせるなり。〔巌垣〕松苗も『国史略』中に、天狗は山怪の名と解せり。また篤胤は、天狗の本来はシナの天狗よりきたるものにして、一種の怪物が流星のごとく光り、かつ飛びとどまる所にては人家の子を取り食らうなどする、樹神山鬼の類となす。『中古叢書』に、松下西峰いうの下に、「山海陰虚の気、草木土石の精、薫染融化して魑魅魍魎となる、云云」とあり。『天地或問珍』には、「畢竟、天狗は深山の魑魅の類にして、状定まるべからず。陰気の積集する所より生じたるものなり。ゆえに、人の多く集まりたる陽気盛んの所に、かつて天狗というものなし」と説けり。『訓蒙天地弁』に述ぶるところ、これに同じ。その言に曰く、「すべて深山幽谷は陰湿ふかき所なるがゆえに、おのずからその形も枯怪なる異物産すべし。鬼魅魍魎の類、ことごとく幽陰の産物なり。しかもその怪をなすこと、和漢少なからず」と。『閑田耕筆』には山鬼の一種となす。また、〔荻生〕徂徠の天狗説は左のごとし。

 窈冥の中、けだし物あり。たちまちにして人となり、たちまちにして物となる。衆人よくうかがい知るなし。世俗の図して伝うるところによれば、象の鼻、鴟の喙、虎の爪、雷の目にして、雷神に似たるもの、これを称して天狗という。茂卿、これを典籍に考うるに『易』にあり。艮を山となし狗となし、黔喙の属となす。これ、そのよるところの象か。世の学者、あるいは客星を引き、あるいは外国の獣を引くは、名を執してその実に惑う妄なりというべし。おおよそ三代以上、ただこれを山の神という。後世の誤るところは俗言に起こる、云云。(義訳)

 これ、山神のごときものをもって天狗となす説なり。

 つぎに、第四の霊魂または鬼神とする説を考うるに、林道春〔羅山〕はその一人なり。『〔本朝〕神社考』に曰く、

 わが国、いにしえより天狗と称するもの多し。みな霊魂の著きものにして、これ星の義にあらざるなり。あるいは仏菩薩の相となり、あるいは鬼神の貌となりて、ときどき出現す。あるいは狐となり、あるいは鳩となりて飛行す。あるいは童となり、あるいは僧となり、山伏となりて、人間に出ず。その説に曰く、「人の福を見れば、すなわち転じて禍となし、世の治まるに遇えば、すなわちまた乱をなす。あるいは火災を発し、あるいは闘諍を起こし、沙門の慢心および怨怒あるもの、多く天狗の中に入る。いわゆる伝教、弘法、慈覚、智証等これなり」

 また『年山紀聞』に、「森尚謙〔儼塾〕いう、『世伝えて天狗なるものあり。災禍をつかさどる。これ、天狗星の類にあらず』と。『地蔵経』に曰く、『天竜夜叉、天狗土后』と。これ一種の鬼神なり。『易』に曰く、『鬼神盈を害して謙に福す』と。もしそれ盈満に誇るものは、鬼神これをにくみて災禍を加う。かの天狗の災い、必ず理ありてしかるなり」とあり(この説は『護法資治論』に出ず)。これみな鬼神説なり。『忍辱随筆』に『吉水実録』を引きて曰く、

 本朝、いにしえより天狗と称するもの多し。けだし、鬼神の類なり。あるいは高僧英緇、自分憍慢を起こし、または臨終に魔嬈に遇い、誤りて鬼趣に堕す。あるいは搢紳勇士、志を失い、怨死するものの精神鬼となる、名づけて天狗という。愛宕の太郎、台山〔比叡山〕の次郎、鞍馬の僧正等これなり。多く異類と化し、山谷に飛行し人間に来往し、火災、闘乱を起こして、みて遊戯をなすという。

 これまた鬼神説なり。馬琴は、「『保元物語』および『太平記』にいうところの天狗は冤鬼にして、人の死後、怨念によりて天狗となりたるもの」といえり。また、石川鴻斎の『夜窓鬼談』に、「物の霊なるもの、あに特に狐のみならんや。黿鼉、蛟竜、犀象、麋鹿の類、老いて数百歳を経るもの、また必ず霊あり。その死するや、精魂いまだ消化せずして、まま怪をなすものあり。魄力豪邁にしてよく将来のことを知り、善に福し悪に禍するもの、これを天狗という」と説けり。これみな霊魂説なり、篤胤の説くところも、霊魂説の一種なり。すなわち、

 世に天狗というは、種々のものの化れるはさらなり。多くは僧、山伏などの化れる鬼をいえり。なにゆえにそれを天狗といいはじむと考うるに、高鼻長喙にして、頭はかの天狗にほぼ似て山に住み、世に災異をなすことも、かの天狗に似たればなり。後白河上皇にまみえ奉りて、開発源太夫と名のり申せるものの語に、僧らの化れる霊鬼のことを語りて、「その形、頭は天狗にて、左右の羽生いたりとあるを思うべし。頭は天狗にて、云云」といえるにて、もとより天狗というものありて、僧徒の化れる霊鬼のそれに似たるゆえに、その名を取りて名とせることは知られたり。かかれば、法師たちの化れる鬼を古く天狗といいきたりつれど、真の天狗にあらず。その身に翼生じて多くは山に住むは、魑魅の類に入るるにて、釈魔というべきものにぞありける。

 ゆえに篤胤は、僧侶の霊鬼と天狗とは別物なれど、霊鬼の化して天狗に似たるものを指して天狗と名づけしとの説なり。しかして、かくのごとく化したるものを釈魔といえり。釈魔のことはインドの説なれば、つぎの第五説のもとにおいて述ぶべし。

 つぎに、第五の魔類説を案ずるに、これ、多く仏者の方にて唱うる説なり。まず『谷響集』に曰く、

 この国の天狗は、わが教よりこれを見れば魔波旬の属なり。頻那夜迦、吒吉尼等もまたその類なり。あるいは天趣となし、あるいは鬼道に属す。疑うべきものなし。しかるに、世人は名に迷って、みだりにせんさくをなす。みな理にあらず。いわゆる天狗は、星にあらず獣にあらず、名同じくして物異なり。その天狗と名づくるは、この国の俗名のみ。他の和名の神を加美といい、鬼を於爾と名づくるがごとく、字義をたずぬべからず。この国、なんぞ魔類なしと思えるや。およそ出家の人、菩提心なく、我執憍慢にして、もっぱら名利を求むるを魔業と名づく。かくのごときの徒は、まさに天狗となるべし。

 この説によれば、天狗はシナ伝来にあらずして、インドのいわゆる魔類を、わが国にて天狗と呼ぶものとなす。『沙石集』の説これに同じ。すなわち曰く、「天狗ということ、聖教のたしかなる文見えず。先徳〔の〕魔鬼と釈せるこれにや。日本の人のいいならわしたるばかりなり。ただ鬼の類にこそ、仏法者の中に破戒無慚の者、多くこの報を受くるなるべし。我相、憍慢、名利、謟媚〔等〕の業が、仏事に相交えて雑類の報を受くるなるべし」とあり。しかるに『壒嚢鈔』には、「天狗の名は和漢ともに伝わるものとし、諸道の長者、諸宗の行者が、慢心によりて天狗となるというは、その名同じけれども、種類各別なるか」と説けり。また『聖鬮賛』には、「天狗は魔臣の一種か。仏降魔のとき、人頭鳥身、鳥頭人身、獣頭、蛇頭、竜頭等あり。今、その一をあらわさんか。魔の奴婢なるがゆえに、天狗と名づくるか」と述べて疑いを存せり。また『聖財集』には、「日本に天狗ということ、経論〔の〕中に見及ばず。真言の中に天狗といえるは狐子等なり。圭峰の『盂蘭盆経』の「疏」に、『横行を畜といい傍生ともいう、竪行〔竪に行く〕を鬼という』と釈せり。日本の天狗は山伏のごとく竪行なり。

これ、鬼の形なるべし、云云」と説きて、諸宗の学者等が、善悪の行業雑修するものの受くるところの果となすがごとし。また『仮寐夢』の中には、天狗の魔波旬なることの説明あり。

しかして、この魔波旬説を詳細に論じたるものは、諦忍の『〔天狗〕名義考』なり。その中に『盂蘭盆経』の「疏」を引きて、「日本の天狗はインドの勢力鬼に当たる」となす。勢力鬼とは「夜叉、羅刹の類にして、あるいは樹林により、あるいは山谷に住し、あるいは霊廟におり、竪行するものなり」という。また、天狗をもって我慢勝他の業取となすも、『谷響集』等の説を取れり。ただ、天狗の名称は日本神代より起こり、近代の俗語にあらずとなすは、『〔天狗〕名義考』の『谷響集』に異なるところなり。もし『真宗御文指示珠』によらば、わが国の天狗はインドの大聖歓喜天のことならん。なんとなれば、その神は人形象頭とあればなりという。

 以上は、仏者の天狗説を列挙したるのみ。もし、神儒の説にして仏者とその旨を同じくするものを挙ぐれば、林道春の「沙門の慢心あるもの天狗となる」というがごとき、また平田篤胤の釈魔の説あるがごとき、その一なり。また、馬琴もこれにひとしき説をとれり。その著書『烹雑の記』に述ぶるところ、左のごとし。

 今、俗にいう天狗は、星にあらず、獣にあらず、冤鬼にあらず。五、六百年前に僧徒のいい出だせし譬喩にて、仏教に夜叉飛天を天狗というにもとづきて、魑魅魍魎を天狗といい、また転じて放慢、懢貪、破戒、無慚の道俗を、天狗つき、またただちに天狗と名づけてあざみ笑いしより、やがて天狗道などいうことはいでにけり。

 『源平盛衰記』には、「末世の僧、みな無道心にして憍慢なるがゆえに、十が八九は必ず天魔にて、仏法を破滅すと見えたり。八宗の知者はみな天魔となるがゆえに、これをば天狗と申すなり、云云」とあり。

 以上、天狗の本体につきて、神、儒、仏三道の方面より解釈せる異説を列挙しおわれり。

第四章 天狗の形象

 これより、古来の解釈を批評して余の説明を述べんとするに当たり、まず天狗の形象および作用につきて一言せざるべからず。今、民間に伝うるところの天狗図を見るに、〔荻生〕徂徠のいうがごとく、象の鼻、鴟の喙、虎爪、雷目にして両翼あり、その衣裳風采は山伏に似たり。なかんずく、高鼻をもってその特色とす。この図につきて〔滝沢〕馬琴の述ぶるところ、左のごとし〔『烹雑の記』〕。

 画者、その形状を図するに至りて、人身鳥喙にして左右の脇に翼を添えたり。翼はすなわち飛天夜叉をかたどれるものにして、加うるに兜巾をいただかせ、篠被に金剛杖をもたし、大刀を佩かせしは修験者に擬したるものなり。そのゆえいかんとなれば、おおよそ役行者の流れをくむものは、吉野、葛城、三熊野、羽黒なんど、すべて霊山へ登るをもて、身の勤めとするものなれば、和名を「おこない人」とも、また「山わらわ」ともいえば、俗は山伏と唱えつつ山に縁あるものなれば、魑魅魍魎に撮合して天狗の図をば作りしなり。かかれば、天狗のすがた画は謎々というにひとし。例えば漢の時、画者、雷公を図するに、連鼓を負わしたるよし、王充がいえるごとく、今古和漢、その俗同じ。

 また『居行子』には、「今、その形を図するに山伏の姿にえがくは、その住むという山々、多くは修験僧のすみかなれば、それより思いよりて図したるものと見えたり」とあり。また『訓蒙天地弁』には、「画するところの天狗の形、人面鳥翼、鼻ことに高く、羽扇を携えたるがごときは、呉道玄〔道子〕はじめて地獄の形勢、鬼類をえがくより伝えきたるの類に同じからん」とあり。しかして、この画は狩野元信より始まると伝えり。すなわち『東里新談』に、「今〔の〕世にえがくところは狩野元信より始まると『群印宝鑑』に見ゆ。〔しかれども〕京の阿太子山に木像の天狗あり。いつのころ、はじめてこれを刻みしや、云云」とあり。『雑説嚢話』に、「天狗の画像は、狩野元信鞍馬山に通夜せしとき、月影に彼の姿の扉に移りたるを模写せり」とあり。

また『牛馬問』には、「この図は、東都御大工に大隅といえる人の祖父より始まる」とあり。これを要するに、天狗の画は元信のごとき画伯が、世間に伝わるところの種々の天狗談にもとづき、多少これに潤色を加え、想像上より作為せるものなるべし。『烹雑の記』の中には、「『保元物語』『義経記』『太平記』等の説によりて潤色せしもの」といえり。ゆえに、その形を分析するに、ある部分は人のごとく、ある部分は獣のごとく、ある部分は鳥のごとく、極めて錯雑せるものなり。その中には比喩に出でたるところ多し。

例えば『風来六六部集』に、「今、世に天狗をえがくに、鼻高きは、心の高慢、鼻にあらわるるを標し、また觜の長きは、駄口を利きて差し出でたがる形状なり。翅ありて草鞋をはくは、飛びもしつ、歩行もする自由にかたどる」とあり。また『管蠡数㤧略』には、「そのかたちを長鼻となすは、その器用を鼻にあらわすという意なり。また両脇に翼ありとは、文詞武事の能にほこるをいえり。また、羅衣水衣を着すとは、我慢の貪火に責められて、心身の熱すという譬えなり」とあり。また『仮寐夢』には、「鼻の亢然たるは、慢相まず鼻頭にあらわるるものなり。觜の屈曲するは、慢人の言論するところ、みな邪曲にして直ならざるなり。羽翼を付くるは、慢人の傲然として、臂を攘げて傍若無人なるところなり。その爪の曲がれるは、慢はもと貪の所成なれば、所欲の境を鉤取するこれなり」と解せり。天狗の名の山伏に似たることにつき、『居行子』に左のごとく記せり。

 山伏の縁によりて、太郎坊、次郎坊なんどと山伏らしき名を付けたりと見えたり。鞍馬山の僧正坊は、かの山に僧正谷という所あるをもって思いつきたるなるべし。ここを僧正谷というは、いにしえ、壹円僧正、慈済の法を行いたまいし所なるゆえ、僧正谷というなり。さもなくして、大切なる僧正官を、いつの御代にか天狗に御許されけん、こころもとなし。〔源〕義経の兵法をならいしということは、張良が圯上の老人に一巻の書を得て軍法の奥義を極めしといい、また楠正成が天王寺にて〔聖徳〕太子の『未来記』を見るの類にて、これみな衆人の帰依するところをとるの計策にて、軍家によりよりあることなり。義経いまだ牛若丸たりしとき、鞍馬山にて喜三太といえる兵術者にならい得られしことあり。また、讃州の金比羅山は、崇徳院御憤りの余りに天狗にならせられしというは、延喜の帝は菅丞相〔菅原道真〕を流罪にさせられしとがにより地獄におちたまいしとて、日蔵上人、地獄にて帝に御対面のところを図せるものあるの類にて、もったいなきことなり。

この国に住みながら、日本のあるじを天狗にしたて、あるいは地獄へおとしてほかの奇妙をいうは、愚痴蒙昧のもののいうところなれば、いうにたらず。天子たりといえども、黄泉の道は衆人にかわらず。もとより肉身のことなれば、憤りも同じきはいうもさらなれども、日蔵の徳をいわんとて地獄へおとし、金比羅山を尊くせんとて天狗になしたるものなり。

 この説明のごとく、天狗談は古来、人の故意に作為せるもの多く、また誤解、訛伝に出ずるものすくなからざれば、余は後に詳論せんと欲す。また『消閑雑記』に、「愛宕山の太郎坊をなにものぞとおもうに、洛陽正六位、紀朝臣御国が子、高雄の真済なり、云云」とあり。また『雑説嚢話』には、「太郎坊は真済にあらず」といい、「愛宕山は日羅を祭る所」となす。かつ同書に、「天狗の一名は狗賓と〔も〕いい、山𤢖、五通七郎と同類なり。あるいは〔伝えいう〕天竺の日羅、唐の善界、日本の栄術は、天狗の首領なり」と記せり。これより、天狗の種類を述ぶべし。

 天狗には大天狗、木の葉天狗の別あり。前に述べたるものは、いわゆる大天狗なり。木の葉天狗は小天狗にて、その形、鳥に類す。『源平盛衰記』に、「法師はみな天狗になる」と説きて、「大知の僧は大天狗、小知の僧は小天狗」といえり。しかして、大天狗は『天狗名義考』によるに、

 鞍馬山の僧正房、愛宕山の太郎房、比良山の次郎房、秋葉山の三尺房、光明山の利鋒房、彦山の豊前房、大山の伯耆房、上野の妙義房、厳島の三鬼神、大峰の前鬼、後鬼、金平六、葛城の高間房、常陸の筑波法印、富士の太郎、高雄の内供奉、白峰の相模房、伊都奈の二郎、肥後の阿闍等。

 『砿石集』に、「大天狗となれば一つの珠を得。赤色にして瑪瑙のごとし。この珠を目に当つれば、三千世界のことみな見ゆ、耳に当つれば、三千世界のことみな聞こゆといえり」とあり。『志古草』に、「上古の天狗、おのおの品ことなり、中ごろより眷属多くなり、名も某坊某坊とことごとしく付けたれば、末々の木の葉天狗に至りては、杉の梢に居余りて、躑躅、樒などに取りつきたるもあまたあるべし」とありて、木の葉天狗は鳥のごとく木の枝に住するものなり。『諸国里人談』に曰く、

 駿〔州〕遠〔州〕の境、大井川に天狗を見ることあり。闇なる夜深更におよんで、ひそかに土堤の陰にしのびてうかがうに、鳶のごとくなるに翅の径り六尺ばかりある大鳥のようなるもの、川西にあまた飛びきたり、上りくだりして魚をとるのけしきなり。人音すれば、たちまちに去れり。これは、俗にいう術なき木の葉天狗などいう類ならん。

 また『化物判取帳』に、夜の間天狗の話あり。ある者が夜間に夜具の中より抜け出だして天狗となり、鼻はのびて七、八寸も長くなり、なきがらは六十本の骨、前後左右に分かれて、翼のごとくなりぬという。かくのごとき怪談は、だれありて信ずるものなかるべし。また、民間に保存せるものに天狗の髑髏あり。『風来六六部集』の「天狗髑髏鑑定縁起」と題する一編にこの図を載せり。余も地方にて見たりしこと一、二回あり。これ、魚の頭骨に相違なし。多分、海豚の骨ならん。『桃洞遺筆』に、天狗魚と題して左のごとく記せり。

 本州熊野海中所々に産する、天狗魚、また天狗ブカ、また天狗ザメと名づくるものあり。その大なるものは長さ三尋ばかり、周囲五、六尺、頭は河豚のごとく、上唇鼻長く出ずる。目いたって細長し。総身淡黒色にして深黒の斑点あり。皮膚に細小の沙あり、背に立ち鰭あり。また腹にもありて、背よりかすかに小なり。尾は両岐にして、上の方長く、下の方短し。(中略)この頭骨を、よくさらして、天狗の髑髏なりといいて寺院の什物とし、児女輩を欺くものこれなり。また、海豚の頭骨にても欺く。平賀源内の『風来六部集』に天狗髑髏図と出だせるは、海豚の頭骨をえがけるなり。また、伊勢にて天狗魚と呼ぶ小魚あり。形、ノボリサシという魚に似て、大きさ三、四寸、口鼻曲がるがゆえに名づく。背に長き鰭ありて、張れば翅のごとし。本州日高郡にも、まれに産す。方言ハタガシという。

 『周遊奇談』には、「北国若狭、越前の海浜にても、天狗魚を捕ることあり」と記せり。されば、天狗の髑髏はこの魚の頭骨なること疑いなし。また、天狗の爪と名づくるものあり。『夜光珠』と題する書中に、左のごとく記せり。

 世間にて天狗の爪というものあり。所々の深山幽谷にて、まれに拾い得るという。その状、小さきは一、二寸、大きなるは三、四寸、本厚く末とがり、両稜刃のごとく、極めて硬く重し。色白く、末は青黒くして光沢あり。また、鴉の觜に似てまだらなるもあり。表は甲高く〔裏は平らなり〕。本のとまりはこぐち陶器の薬をかけ残したるようにて、松茸の根の色あいに似たり。これを天狗の爪とのみいい伝えて、なにの成れるものというを知らず。

 また『羅山文集』に、「北国能登の海浜に天狗の爪あり、往々これを拾い取る。大きさ二寸ばかり、末とがり、こまかく反れり。色潤白にして小猪〔の〕牙のごとし。しかして牙にあらず、全く爪の類なり。疑うらくは、これ北海大蟹の爪ならんか」とあり。この爪のなんたるにつきて、『夜光珠』および『震雷記』に説明を下せり。この二書の文は、毫も異なるところなし。

 ある人のいえるは、「この物、雷の落ちたる辺り、またはそこの地を掘りて得るものなるゆえに、西国にては雷の爪という」と。しからばすなわち、唐〔の〕陳蔵器が『本草拾遺』に、「霹靂碪の中に剉刀に似たるものあり。色青黒く、斑文にていたって硬く玉のごとし」といえるもの、雷震の後によって得るとあれば、これなるべし。

 また『民生切要録』に、「能州石動山の林中に、天狗〔の〕爪という物あり。色青黒にして、長さ五分ばかりにして石のごとく、先とがり後ろ広く、獣の爪に似たり、云云」とあり。されば、俗間に伝うる天狗の爪は、雷斧、雷楔、雷碪、雷鑚の類なること明らかなり。これみな、石器時代の遺物と知るべし。あるいはいう、「民間に伝わるところの天狗の爪は鮫の歯なり」との説あり。その他、天狗火、天狗礫の話あれど、次章の天狗の作用を論ずる下において述ぶべし。

第五章 天狗の作用

 天狗の作用は実に奇々怪々にしてまた千変万化なれば、ここにいちいち挙示するあたわず。今、わずかにその一、二を挙ぐれば、世に天狗礫と称して、夜中民家に瓦石を投ずることあり。これを狐狸の所為または天狗の所業となす。『続日本紀』に、「光仁天皇宝亀七年九月、毎夜瓦石のおのずから屋上に落つるあり。二十余日を経て、ようやくやみたり」とあり。かくのごとき怪事は、今日にてもほとんど毎年、地方において起こることなるも、決して天狗の作用にあらざるは明らかなり。

 また『想山著聞集』に、「山中にて折々樵者の杣道具をとり、斧の頭を抜き去り、あるいは山上より大木、大石を落とす音をさせ、はなはだしきときは山をも崩し、巌をも抜くの勢いをなす」とあれども、かくのごときは、深山に入りて風の木を動かし、石を飛ばすを聞き、恐怖の念より迎えたるものなるべし。もしくは遠方の瀑布または渓流の声が、深夜風に送られてきたるを誤認したることもあらん。しかして物品の紛失は、他人の悪戯より出ずることなしというべからず。

 また、世にいわゆる天狗倒しとは、深山にて地を震動するがごとき声あるをいう。これを『本朝俚諺』に解説して、シナにもありといえり。すなわち『癸辛雑識』を引きて、「夜中大声あり。火砲を発するがごとくおそるべき震動ありて、鶏犬みな鳴けり。これ天狗のおちしゆえなり」と唱えたることを記せり。かくのごとく地中に震声あるは、噴火あるいは地震の作用にして、あえて天狗の所業にあらざるべし。

 また、世にいう天狗風は「つむじかぜ」なり。『奇遊談』に、享保のころ、京都堀川辺りにて、一人の老人杖をつきながら、風のために二丈ばかり空中に吹き上げられし話、および伊勢の外宮にて、参詣人が老杉の木末に吹き上げられし話を掲げり。かくのごときことある場合には、天狗風によりて天狗に引き上げられたるごとく思うは、愚民の常なり。

 また、山中に入りて、夜間渓谷の間に竜灯、狐火のごとき火光を見ることあれば、これを天狗火と称して天狗の所為に帰す。『〔古今〕妖魅考』に、遠江の人に中村真宰というものの話に、「秋葉〔山〕そのほか高き山々に、火のありさま、とどまりてあるかと思えば飛び去り、樹間に出没するあり」との一話を掲げり。かくのごときは、電光または燐火の類を見たるに相違なかるべし。

 また、天狗が兵術、剣道に長ずといえる話は諸書に見るところなり。『天狗名義考』に、

 鞍馬山の奥に僧正谷という所あり。岩石に太刀打ちの跡あり。伝えいう、「僧正房、かつて牛若丸に兵術を教えし所なり」と。今また『宗祇諸国物語』に、「あるとき、江州の男子、老僧に誘われて兵術を習いしことあり。古今同日の奇談なり。あるいは、この天狗もすなわち僧正房ならんか。武田信玄の家臣板垣信形も、天狗と兵法をた比べしことあり」といい伝う。しからば、天狗はいずれもよく剣術に妙を得るものか。

 また『想山著聞集』には、天狗より砲術を授かりし一話を掲ぐ。これらはみな、〔源〕義経の話にもとづきて後世に伝わりしに相違なかるべし。また、天狗は能書との説ありて、痴童が天狗の下に至り、書を学びたりといえる話あり。『消閑雑記』に『東鑑』を引きて、「建治二年のころに、南都の天狗怪を現して、一夜中に人家において千余字を書く。三字もっとも奇怪となす」とあり。今、往々民間に天狗の書と称して保存せるものあり。余、これをみるに、梵字に類したるもの多し。これ、真言僧などの梵字に通ずるものの筆跡なるべし。別に能書というにあらず。世に、天狗の作用に帰する怪談すこぶる多し。『稲生物怪録』のごとき、その魁たるものなり。山崎美成の『平児代答』には、虎吉の天狗談を載せり。『天狗名義考』および『古今妖魅考』には、あまたの天狗談あり。

 その他、奇跡、怪事を記したる書中、一、二の天狗談を掲げざるはなし。なかんずく、民間に天狗憑きと唱うるものあり。『古今妖魅考』に、「天狗憑きという語は、『宇治大納言物語』に、寛平の御門出家して忌まわしく行わせたまいければ、天狗のつき参らせて、京極の御息所に参らせけるという」とあるがごときこれなり。そのありさま、狐憑き、狸憑きと異なることなく、みな精神病の一種なり。今、『因果物語』に出ずる天狗憑きの一話を述べん。

 下総州山梨村大竜寺祖竜長老、寛永十五年の冬、江湖を置き、少し法門の上手なるによりて、尊ばれて慢心深かりけるが、半夏時分に老僧衆二、三人を呼び、向上のことを談じて、「わが顔いかようなりや」という。みな「常のごとし」といえば、「汝ら、見知らず見知らず」というを見れば、すなわち鼻八寸ほどになりて、口は耳の根まで切れたり。僧ら驚き見るところに、長老目をいからし口を張りて、「ただいま杉の木の下にてわれを呼ぶ間、まかり出ずるなり」と、おどりあがりて叫び狂いけるを、ようやく取りとどめ組み伏せて、大衆集まり取り回して『般若』をくり、『心経』をよむ。あまりに口を利くゆえに、『理趣〔経〕』分一巻、口の中へ押し入れけるに、やすやすと入りたり。大衆強く祈りければ、山々の天狗名乗りて退く。長老は無性になりぬ。さて、門前近所の者ども、寺に火事ありとておびただしく馳せ集まる。「なにごとにきたるぞ」と問えば、「客殿の棟へ火の手の上がりたるを見るゆえに、急ぎ参りて見れば、さはなし」という。それより昼夜の差別もなく、七日七夜祈り責めければ、鼻なおり口いえて、ようやく本復して曰く、「深く寝入りて、なんの覚えもなし」と。

 これ、いわゆる天狗憑きなり。鼻が高くのび、口が大きくさけたるようにせしは、形容に過ぎたるものにて、すべて天狗憑きの場合には、その人の面貌、容儀、挙動が天狗をまねるようになり、目を丸くし、鼻を高めかし、口を大きくするものなり。『平児代答』に記述せる虎吉の挙動も、天狗憑きに類するものにて、かつ興味ある話なれば、左に、同書に題せる虎吉の由来を掲げん。

 虎吉というもの、今玆文政庚辰〔三年〕、年十五歳にして、天狗よりいろいろのマジナイ、ウラナイなど伝わりてきたり、人々祈祷をうくるもの、しるしなしということなし。その由来をたずぬるに、下谷池の端七軒町なる庄吉というものの弟なり。去る文化三年十二月晦日に生まる。同九年壬申、年七歳にしてふと卜筮の道をまなばんことを思い立ち、同茅町さかい稲荷の傍らに住める貞意という卜筮者につきて学ばんことを請うに許さず、「手灯をともし、行きはててののち教えん」というによりて、その夜より手灯をともし、さて行きたりしになおも教えざりしかば、いと残り多く思い、とかくして日を送りしに、ある日、東叡山の傍ら五条天神のあたりに遊びいたりしが、一人の老翁の薬をひさぐあり。わたり五、六寸もあらんと思う壷より薬をだして、とうてつつうれるが、夕暮れ〔どき〕に及び、己が敷きたる蓆かツヅラようのものまで、ことごとくかの壷に入るるに余ることなし。その後みずからもその中へ入るとひとしく、その壷大空に飛びあがりて、いずれへか行きたりけんしれず。虎吉おさなごころにもいと不思議に思い、つぎの日もまた、かの所に行きて夕暮れに見いたりしに、昨日にかわることなし。そのつぎの日また行きて見いたるに、かの老翁のいえるは、「この壷の中へ入りてみよ」という。虎吉もなんとなく気味悪く思いいなみければ、老翁あたりの菓子など与え、ひらに「壷の中へいるべし」というゆえ、その中に入るやいなやいずち行きけん、日もいまだ全く暮れざるに、常陸の国南台城という山の頂上に至る。

その日をはじめとして、朝つれゆきては夕べにかえし、日々ともない行くこと替わることなし。右の老翁は、虎吉のあと従い物学びし師の、杉山僧正という常陸国岩間山に住める天狗なり。虎吉、師のもとにおりしとき、名を高山白石平馬といえりとぞ。初めて行きたりしとき、虎吉いうよう、「われ、かつて卜筮を学びたく思いおれば、なにとぞ教えたまわれ」といいければ、「卜筮の道も教うるはいと安けれど、まずそのことを修行せんより、余のことを学ぶべし」とて、天文など、そのほか祈祷、符字および九字十字幣の切り方など伝えしとぞ。かつ、人ももと行かぬ国なども見めぐりしとか。虎吉十一歳の十月まで右のごとくにしていたりしが、その後伴い行かざりしが、このとき父与惣次郎大病によりて願を起こして、下谷池の端正慶寺という寺に住む。故ありて寺を出でて、父も続きて死せり。その後、同所覚性寺に住めり。また宗賢寺に至り、このところにして出家せり。

文政二年己卯夏五月二十五日、再び常陸の国岩間山に伴い行ける。このときは行きたりしままにて帰らず、種々の行をおこない、かつ師とともに空中など飛行せしとぞ。この秋八月、ひとたび家に帰り、またまた同道して東海道を江の島、鎌倉など見せ行きたりしとぞ。今玆庚辰春三月二十八日、家に帰れり。山にいたりしときは、髪などもはえしままにて長くなれば、天狗よりてむしり切りしとぞ。

家に帰せし前に、師の手ずから野郎にそりてくれしといえり。前後九年の間学びしことを記せし物どもありしを、母兄などことに忌みきらいて、ことごとく焼き捨てたりと、いとおしきことになん。このゆえに、家にはとかくいずして、上野町に知る人ありて、それにのみいたりしが、ふと、ある方よりおのれ美成の家にきたりしは、九月七日なり。いかなる宿緑やありけん。己に従いおりたきとて、一日二日ととまりいて、九月もやがて果てなんころ、晦日の夜、虎吉、師の方より朋友高山白石左志馬というものの告げありとて、十月のなかばに、またまた師のもとへ行くよし言いいたりしが、同月九日、浅草並木町筆屋金次郎というものの娘、神かくしにあいたりとて、虎吉へ願いにきたりしかば、使いとともに行きしかど、よりに立つものなかりしゆえ、行く方知るべきようなしとて帰りきたり。

 これ、山崎美成の自ら記せしところなり。この話のはじめの方は、シナの仙人談にひとしきところあれば、好奇者の作説らしく思わるれども、あるいは虎吉なるもの、シナの仙人談を聞きしことありて、精神の変動より、かかる夢を見たりしやも知るべからず。その後の行為は、もとより常態を失いたるものにて、いわゆる天狗憑きというべきものなり。古来、わが国の天狗談中には、これに類したることすこぶる多し。これみな精神作用に異状を起こせしものにて、決して天狗の作用にあらざるなり。

 その他、なにごとにても原因の知れざることは、みなこれを天狗の作用に帰する風あり。『天狗名義考』には、「法勝寺の九重の塔の初重より火起こり、また東寺の塔の初重より火出でて焼失せしなどは、みな天狗の所作なるべし。京、大阪、江戸などの大火のありさまを聞くに、はじめは微火なりしに思いもよらず、にわかに七所、八所より火起こりて、同時に焼け立つといえり。これまた、この輩の所作なるべし」と説けり。

 また、『〔古今〕妖魅考』に『新著聞集』を引きて、「京の釜座に丹波屋佐兵衛という絹屋ありしが、機を二十四立てける。あるとき、機の鳥居に鴟とまり居眠りける。その翼朝より一機の糸、なんとなく切れたり。だれがわざと詮議しけれども、さらに証拠もなく、かくのごとく毎日切るるほどに、後には二十四機残らず切れしが、祈祷など修するになお切れける」との一事も、やはり天狗の所為となせり。されば、わが国の天狗は、諸般の不思議に与えたる異名なりと解して可なり。これより、天狗の説明を試むべし。

第六章 天狗の説明(第一)

 古人の天狗に対する説明は、書籍中に出ずる天狗談、および民間に伝わる怪談を、そのまま事実として解釈せんとせしゆえ、ついに天狗は、鬼神のごとく種々の変幻奇怪を行うものとなすに至れり。しかるに、かくのごとき怪談は、好奇者または小説家の作為せるもの多く、あるいは修験者などの、神仏の霊験を愚俗に信ぜしめんと欲して構造せるものも少なからざれば、決して信拠すべからず。たとい実際接見したりと伝うる事実も、その人の恐怖心あるいは予期意向によりて幻像を見ることあれば、これまた、そのまま信を置くべからず。かの林道春、僧諦忍、平田篤胤等のいうがごとく、高慢の僧の死して天狗となるとの説のごときは、今日一人の信ずるものなきは明らかなり。また山中には、樹神、山霊のごときものあり、あるいは冤鬼、あるいは遊魂のごときものありて、天狗の所作をなすというがごときは、もとより論ずるに足らざるなり。

 余はかつて、妖怪に偽怪、誤怪、仮怪、真怪の四種を分かちたるが、天狗にも偽怪、誤怪、仮怪の三種あり。今、偽怪の例を挙ぐれば、『明六雑誌』中に津田真道の「天狗説」を載せたり。その大要は、「わが国の天狗の由来を考うるに、妖僧の誣妄に出ずること疑いなし。けだし、中古、仏者のその法をわが国にひろむるに当たり、愚民の多きに乗じ、その事を神奇にし、その道を信ぜしむるの具となせしに過ぎざるのみ」と説きて、僧徒の作意に出でたりとなす。ひとり僧徒のみならず、世の詐欺師または好奇者が、種々作為して人を欺き、または驚かせしこと、決してすくなからず。高山深林の中に梵字に類する奇怪の文字を散布して、人をして天狗の書なりと思わしめたるがごときは、好奇心より出でたる偽怪というべし。また、詐欺より出でたる偽怪の適例は、『閑際筆記』に見えたる、「近世、東武士人の家に夜々飛礫あり。月を越えてやまず。家人数輩、ひそかに舎外にありて終宵これをうかがうに、一物の門を過ぐるに、礫すなわち飛ぶことしきりなり。数輩、前後ひとしく起こり、その物をとらえ得。灯をあげてみれば、すなわち人なり。相識るところの山伏が、その家に怪あらしめて、もって己をして呪祷せしめんと欲して、かくなせしを知れり」の一話なり。また、左に掲げたる実事談は、詐欺的偽怪の最もはなはだしきものなり。

 『野翁徒然日記』に、「加州金沢の城下に、堺屋長兵衛という〔て〕数代の分限者あり。弥生半ばのころ、小者など召し連れてかなたこなたと詠めけるに、ある社の森の方より羽音高く聞こえけるゆえ、仰ぎ見れば天狗なり。あな恐ろしやと思う間もなく、この者どものいたる方へ飛び下りるにぞ、今や引き裂かるるにやと生きたる心地もなくひれ臥しけるに、天狗曰く、『その方に頼みたき子細あり。別儀にもあらず、今度京都より仲間下向するにつき、供応の入用多きところ、折節繰り合わせ悪く差し支えたり。明後日昼過ぎ、金三千両ここへ持参して用立つべし〔や〕』という。長兵衛、いなといわば、いかなるうきめにやあわんと思いて、かしこまり奉るよし答えければ、『早速の承知にて過分なり。しからば、いよいよ明後日ここにて相待つべし。もし約束たがうことあらば、その方は申すに及ばず、一家のものども八つ裂きにして家蔵を焼き払うべし。覚悟いたして取り計いしかるべし』といい捨て、社壇の方へ行きければ、長兵衛は命を拾いし心地して、早々わが家へ帰り、手代どもへこのよしをはなしけるに、あるいは『申す旨に任すべし』というもあり、または『大金を費やすことしかるべからず』というもありて、評議まちまちなり。ときに重手代判断して、『今、三千両を出だしたりとも身代の障りなし。もし約束をたがえて、家蔵を焼き払われては物入りも莫大なり。ましてや一家の人々、身の上に障ることもあらば、金銀に替うべきにあらず。三千両にて災いを転じ、永々商売繁昌の守護とせん方しかるべし』と申しけるゆえ、亭主は元来その心なれば、大いに安堵してよろこびける。

このよし町内にて沙汰しけるを奉行所に聞こえて、『その天狗というもの〔こそ〕、はなはだ怪しきことなり。様子を見届け搦め捕るべし』と用意し、その日になりければ、長兵衛は麻上下を着し、三千両を下人に持たせ、社の前に積み置き、はるかに下りて待ちけるところ、忽然と羽音高くし〔て〕、天狗六人舞い下り、谷越えて、『汝、約束のごとく持参する条満足せり。金子をおいおい相返すべし。この返礼には、商い繁昌、寿命長久、疑うことなかれ』とて高らかに申し終わり、かの金箱三つを二人ずつにてにない、社の方へ入りければ、長兵衛安堵の思いをなして、早々わが家へ帰りける。ときに奉行所より付けおきたる捕り手者ども、物陰よりこの体を見て奇異の思いをなしけるが、天狗の行方について見るに、谷の方へ持ち行けるゆえ、いずれも不審し、『聞こえざる行跡かな。天狗の身にて三千両や五千両はひっつかんで飛び去るべきに、千両箱を二人持ちにして谷の方へ持ちゆくことこそ心得ず。かの天狗、子細ぞあらん。生け捕りくれん』と申し合わせ、かねての合図なれば、ほらがいを吹き立つると等しく四方より取り巻き、天狗六人とも生け捕りにして奉行所へ引ききたり吟味するに、鳥の羽、獣の皮にて身を包みたるこしらえ物にて、実の天狗にあらず。されば、飛び下りるときは傘を持て下りしゆえ自由なれども、飛び上がることとてはかつてならずとなり、云云」

 前に述べたる、河豚の頭骨をさらして天狗の髑髏といつわり、人にうりつけるがごときは、偽怪の見やすきものなり。また、義経の事跡を装わんと欲し、兵術を天狗より伝われりというがごときは、『広益俗説弁』中に弁明せるところによるに、一種の政略もしくは後人の作説にして、これまた偽怪なり。ことに小説家などは、多く自己の想像をもって天狗の怪談を構造し、あるいは針小棒大に敷衍潤色することを常とす。余は、かくのごとき類を総称して偽怪と名づく。

 つぎに、誤怪の例またすこぶる多し。余は『妖怪百談』に「天狗の奇話」と題し、『雲楽見聞〔書〕記』に出でたる天狗の間違い話を掲げり。これ、実に誤怪の適例なり。また、同書の「筑波山の天狗」と題せる一節、および同書第五十三談に出だせる『六橋紀聞』の一話のごときも、天狗の誤怪と見て可なり。今、余が直接に聞きたる実事談を述ぶれば、そのことたるや、今よりおよそ二十七、八年前の出来事なりき。

 箱根村の猟夫二、三人相誘いて、雪中に兎を猟せんため駒ヶ岳に登れり。ようやくその絶頂に近接するに及び、一巨人ありて山上の巌石の上に立ち、大風呂敷をもってあおぎおるを認めたり。しかるに、猟夫輩はこれを見てただちに天狗なりと想像し、思えらく、「かかる山上に人の住すべき理なし。今これを見るは、これ全く天狗ならん。しかして大風呂敷をあおぎいるは、必ずわれわれの上に魔術を行えるものならん。よろしく早く去りて、身を全うするにしかず」と。かくして、一物を猟せずしてむなしく家に帰りしかば、これより一村ことごとく、駒ヶ岳山上に天狗住せりと伝えたり。しかるに二、三日を経るに及び、はじめて事実の真相を得たり。すなわち、いわゆる山上の天狗とは、なんぞ図らん全く強盗にして、その前夜、小田原駅のある家に侵入し、物貨を強奪せし後、この山上にのがれ、四、五日を経て駿州地方にて縛につきしものなること判明せり。しかして、その風呂敷をもってあおぎおりしは、けだし、かの猟夫らの鉄砲を持して登山せしを見、己を銃殺せんことを恐れて、これをふせがんとの意に出でしもののごとしという。

 この一例のごとく、偶然に誤りて天狗と思いし類を、天狗の誤怪となす。その他、左に『諸国怪談集』に出ずる一話を掲げん。

 明和五年の冬、下谷屏風坂下光厳寺という、地蔵尊立たせたまう寺の隣に御徒方あり。この屋敷内を、軽き御家人借地して住居せしに、この人に一子あり。名を松五郎といいて十一歳の男子なり。この松五郎、近所の手習い師匠へ遣わしけるに、あるとき昼飯下がりに宿へ帰るとて、ちょっと屏風坂より上野へ至り、慈眼堂の前なるイチョウの木、十月なれば色づき黄ばみ落葉せしを拾いいたるところに、いずくともなくそばへ小僧一人きたり、ふとイチョウの葉を拾いしより子供いさかいせしに、この小僧イチョウへ登る登ると思いければ、そのまま奥州に至りぬ。その夜四つ時ごろ、山伏一人、かの松五郎を伴いかえり、家に送り返して、山伏は行方なく失せぬ。それよりこの松五郎、奥州のこといろいろ物語りするに、一つとしてたがうことなし。これ天狗の業ならんと、近所もっぱらいいはやす。これ大〔き〕なる浮説なり。右地主はわれら知る人ゆえ、話のついでに、かのわけを問いけるに、実説を物語りす。なるほど、近所もっぱらこのことをいいはやせども、実はさにあらず。松五郎、手習い師匠方にて児子いさかい仕出し、脇差の鞘ともに抜き、互いにたたき合いけるに、相手の子供少し額にきずを付けられけるゆえ走り帰る。

松五郎、〔宿へこのことおきけるまま、松五郎〕宿へ帰りなばいたく母親にしかられんと思い、折節父は水戸領の寺院〔御〕修復のことにつき、右の御用に掛かり水戸におりけるまま、子供心に父の方へ行くべしと思い、手習い草紙を抱え、ふらふらと千住大橋を渡り、水戸領を心掛け行きけるに、はや暮れ方にも及び、松五郎は松戸という渡りに掛かり、「船に乗らん」という。この船守申しけるは、「御若衆は江戸の御方と見え候。今ごろ一人、どちらへ御出で候や」と申せば、このとき松五郎いいけるは、「水戸へ参る」と答う。船頭肝をつぶし、「これより水戸まではまだはるばるの道、ことに旅のいでたちにもなく、手習い草紙を抱え、ただ一人いとゆうゆうたる体、なんとも心得ず」といろいろすかし、様子を問いければ、昼のことども、ありのままに物語りす。宿は下谷屏風坂下のよし、親御の姓名まで明白に名乗りければ、船頭申すよう、「それはいささかのことなり。これより送り返し申すべくと、われら参り母御さまへよきように申すべし」と申す。〔中略〕折節、向こうの渡し船に乗り合いのうちに、下谷より常にここを行き通う重宝院という山伏きたりぬ。この船頭しかじかのよしを語り、この山伏を頼みければ、「われ幸い下谷へ帰るゆえ、この松五郎をおくり届け〔て〕申す」といいて、松五郎を同道して下谷へ送り返しぬ。ときに母は、昼より松五郎が見えざるゆえ肝をつぶし、人々を頼み所々をたずね、なおまた近所の人も集まり、またまたたずねに出ずるところへ、山伏しかじかのよし〔にて〕送りきたりければ、母はもちろん、みなみなよろこぶこと限りなし。この山伏は五条天神の近所に住む山伏なりと実説をかたりぬ。

 この一話は偽怪なるか誤怪なるか判明せずといえども、もし単に誤聞、訛伝に出ずるものにして、別に故意にて作為せるものにあらざるときは、誤怪の一種となさざるべからず。

 けだし、古来の天狗談中にはかかる偽怪および誤怪のすこぶる多きは、察するに余りあり。余思うに、天狗談中三分の二以上は、必ずこの種の妖怪に属すべし。ゆえに、天狗の説明をなさんと欲せば、まず種々の天狗談中より、かかる虚偽不実の部分を除きてその理を考えざるべからず。しかして、もしいくたの残部あらば、これ天狗の実怪に属する部分なり。されど、一怪談につきて、その果たして偽怪、誤怪のごとき虚怪なるか、または実怪なるか、あるいはいずれの部分は虚怪にして、いずれの部分は実怪なるかを判知することあたわず。ただ、怪談の過半は虚怪なりと想定するよりほかなし。しかして、このいわゆる実怪は真怪にあらずして仮怪なり。仮怪とは、知識、道理の明らかならざるために、仮に妖怪となりて世間より不思議視せらるるも、もし学術の研究によらば、妖怪とするに足らざるの類をいう。これより、天狗の仮怪を論ずべし。

第七章 天狗の説明(第二)

 仮怪には物理的妖怪と心理的妖怪との二種ありて、物理的妖怪とは、すべて外部の事情、物理の道理によりて起こるものをいい、心理的妖怪とは、すべて内部の現象、精神の情態によりて起こるものをいう。しかして、物理的妖怪を説明するは理学の研究に属す。これを物理的説明という。心理的妖怪を説明するは心理学の研究に属す。これを心理的説明という。この二者は全く学術上の説明にして、この説明によれば、天狗の現象を解釈して、その決して真怪にあらざるを知るべし。ゆえに余は、天狗をもって仮怪となすなり。

 天狗の現象は極めて錯雑せるものにして、物理的、心理的の両面より考察せざるべからず。しかるに、古来これが解釈を試みたるものすこぶる多きも、いまだ一人のこの両面にわたりて説明を与えたるものあらず。かつ、その解釈はみな迷信、憶断に出ずるもの多く、毫も学術的説明の価値を有せず。ただ、室鳩巣、西村遠里の両人の言、いささか参考するに足るのみ。西村遠里はその著『居行子』中に、

 総じて高山峻嶺は大海の沖と同じこころにて、平地よりはなはだ高ければ、風雨、寒暑、燥湿の天地の気も、平地とはいこう〔一向〕変わりありて、たとえば箱根の宿、愛宕の坊になど泊まれば、六月大暑の節にても、夜陰には火鉢よ、綿入れの着物よと、平地の冬のごとき様子、諸人の知るところなり。万事もこれに応じて、平地人居の格になきこと多しと知るべし。ゆえに、なんとなく平地に変わりてものすごきことおおければ、天狗どのの所為とおもうことあるべきはずと察すべし。大峰山上新客のあるとき、坊へ礫うつの類も、その下行米ありてうつ人あること、その筋よりたしかにきけり。人力にてすることをのけても、高山ゆえいろいろの変あり。深山なれば変わりし獣あることはいうに及ばず、海中に諸魚のあるごとく、造化の鑪鞆にてできることなれば、いかようのものあるまじきともいわれず。されば、天狗という獣ありて、人に害をなすことは計るべからず。さりながら、世人の思うように、仏神にならべてこわがるべきものにはあらず。ただ鳥獣と同じければ、鷲、熊、鷹、野猪、狼等のこわさと同じことと思うべし。山伏のような姿をして、穢不浄やあるいは罪の軽重の吟味役をして刑罰を行い、裂きたり殺したりするにはあらず。

とあり。これ、物理的説明の一端となすに足るも、いまだその理を尽くしたるものにあらず。つぎに、室鳩巣が『駿台雑話』中に述ぶるところ左のごとし。

 われというもののあり所をたずぬるに、一念未生のとき、本然未発の体これなり。君子ここを存養してそこなわねば、天地もわれより位し、万物もわれより育し、鬼神もわれより感応す。なにごとかわれによらぬことあるべき、邵康節の一念起こることなければ、鬼神も知ることなし。われによらずしてだれにかよらんといえるは、これをいうなり。それにつきて、あやしきことながら加賀にありしとき人の語りしは、「北国にいやしき工の、飛騨山に行きて、杉を採り〔て〕へぎて生業とするものありき。あるとき、山中に杉をへぎておりけるに、ひとりの山伏の鼻の高きがきたりしを見て、心に不思議〔の〕ものかな、天狗にやと思うに、「汝はなにとて、われを天狗とおもうぞ」という。早く去れかしと思うに、「汝はなど、われをいといて去れかしとおもうぞ」という。なににても心におもえば、はや知りてとがむるほどに、後はぜひなく、そのへぎし板のながくはえたるを綰ねたわめて、縄してくくらんとしけるに、心ならず取りはずして板はねけるほどに、その板の末、天狗の鼻にしたたかにあたりしかば、「汝は心根の知れぬものかな、恐ろし」とて行きさりぬるとぞ。板のはねけるは思慮より出でざることなれば、ここには天狗も及ばぬにこそ、これにて知るべし。念慮なきところは、鬼神もうかがいえざるになんありける。

常人多くは、心に閑思雑慮常に絶ゆることなく、なにごとも思慮作為の中より出ずるほどに、気にひかれ物に奪われて、われというもの自立することあたわず。されば、このわれを失わじとならば、心源存養の工夫をなすべし。心源存養の工夫は、私欲なきをもととす。この心、私欲だになければ、静虚動直とてなにごとも思慮作為をからず、ただ静虚の中より道理のままに真直ぐに出ずるほどに、万物の先に定まりて万物の後におつることなく、鬼神を制して鬼神に制せらるることなし。

 この説明は、いくぶんか余がいわゆる心理的説明に合するところあれども、樵夫の見たる天狗を実際ありしもののごとく論ずるは、精神の状態を解せざるものといわざるを得ず。ゆえに以上の説明は、なお学術的解釈の中に加え難し。余はこれより、己の説明の大要を示すべし。

 天狗は複雑なる妖怪現象にして、外界の事情と内界の事情と複合して成りたるものなれば、まず物理的説明によりて外界の事情を述ぶべし。第一に、外界の境遇いかんを考えざるべからず。世に天狗の住する所は深山に限るとするが、深山は風雨晴雨の状態大いに平地と異なり、奇異の現象を見るものなり。水の音や風の響きすらも、人をして恐怖の念を起こさしむることあり。雲の影、人の跡を見ても奇怪に感ずることあり。これに加うるに、動物、植物も平地とその類を異にし、奇鳥、異獣を見ることあり。かくのごとき事情は、大いに妖怪思想を起こさしむる誘因となる。第二に、外界の対象を考うるに、鳥獣および人その主因となるがごとし。山中にて、


天狗の羽翼、長觜を有して飛行せるを見たりというは、鷲、鷹のごときものを見しならん。俗にいう木の葉天狗は、まさしくこれなり。また、怪獣の天狗に似たるものなしというべからず。東インド諸島に住する猿に、鼻の高く出でて、その色赤く、わが国の天狗と毫も異ならざるものあり。昔時、かくのごとき猿の、わが国西南地方の山中に住せしことありたるも計り難し。すでに『唐土訓蒙図彙』に示せる羽民国の人のごとき、また『仏像図彙』に見るところの迦楼羅王の形のごときは、全くわが国の天狗に類するものなれば、これらの想像のよって起こるところなかるべからず。

また古代にありては、深山中に一種の蛮民の住せしことあり。世に山男というものは、おそらくはこの類ならん。また、蛮民の住するなきも、深山幽谷人跡を見ざる所に、樵夫、行者のごときものに遭遇すれば、たちまち人間以外の一大怪物ならんと思うは無理からぬことなり。わが国にありては、古代より修験のごときは深山無人の境に入り、果実を食して生を送りしものあれば、たまたま山路に迷いたるものが、かかる行者に遇うことあるべし。その人、家に帰りてこれを他人に語れば、相伝えて天狗談となるは、あえて怪しむに足らず。

 余は、アメリカインディアンのトーテムポール(Totem Pole)なるものを見るに、わが国の天狗に類するもの多し。しかしてこのインディアンは、アジア地方よりベーリング海峡を渡り、アラスカ地方に転住せしとのことなれば、その像の起源はわが国の天狗に関係あるやも知り難し。そは別問題とするも、かかる想像をえがきたる由来を考うるに、古代にありては、日本あるいはその近海の諸島に、これに似たる獣類または異人の住せしことあらんか。これを要するに、深山に住する鳥獣および人類が、天狗怪の対象となりたるは疑うべからず。もし、高山にありて夜中天狗が樹木を倒し、大石を投ずる音を聞くというがごときは、風音、瀑声、または走獣の音を誤り認めたるものなるべし。

 わが国にひとり天狗の怪談ありて他邦になきは、しかるべき事情なかるべからず。その第一は、わが国に高山が比較的多き一事なり。シナ、インドのごときは平原広野多くして、旅人の深山を跋渉すること少なきも、わが国は全国いたるところ山深く樹茂り、人のこれに入りて道を失うもの多し。その第二は、わが国の諸山には必ず神仏を祭り、祠堂を建つることある一事なり。これまた、他国に見ざるところなり。ゆえに、いかなる高山にても、信者の跋渉せざるはなし。その人、もし神仏の霊験を信じてかかる山に登らば、耳目に触るるもの、必ず奇怪の念を誘起するに至るべし。これ、わが国に天狗談の多きゆえんなり。その他は、よろしく前に述べきたれるものとあわせ考うべし。

 つぎに心理的説明を述ぶるに、その第一は、恐怖、予期、想像等によりて妄覚を生ずることこれなり。なにびとも深山無人の境に入れば、自然に恐怖の念を生じ、諺にいわゆる「疑心暗鬼を生ずる」がごとく、風声を聞くも雲影を見るも、その心たちまち動き、種々の妄想を起こすは、我人の免れ難きところなり。これに加うるに、日本人は小児のときより、高山に天狗の住するを聞き、その奇異なる図画を見、その挙動その作用の不思議なるを知りおれば、深山に入ると同時に、たちまちかかる記憶を再現し、意をもって種々の奇怪を迎うるに至る。これ、すなわち予期作用なり。これに加うるに、連想上種々の想像を誘起し、その結果ついに音なきに音を聞き、物なきに物を見るに至る。これを幻視、幻聴という。すなわち妄覚これなり。今日伝わるところの天狗の図は、画工の作意に出でて、古来の天狗談を総合して、さらにこれに潤色を加えたるものにほかならず。されど、ひとたびその図を見たるものが深山に入れば、たちまち妄覚を起こし、高鼻肉翅の怪物を幻視することあるは、決して怪しむに足らず。その適例は『古今妖魅考』に、「下総国香取郡万歳の後山へ、村の者ども五人連れ立って木こりに行きけるに、少しかたえなる山の端に、常のよりは汚気に見ゆる鵄一つ羽を休めいたり。それを見て中なる一人が、恐ろしげな山伏の立ちいたるという。しかるに、四人の者の目には鵄とのみ見ゆればいいあらそうに、彼一人のみ、まさしく山伏なる者をといいて、さらに四人の言を聞き入れず、云云」とあり。これ、全くその一人が妄覚、幻視を起こせしなり。古来の天狗談の中には、かかる妄覚に出でたるもの必ず多からん。

 第二には、精神作用の専制すなわち一方に専注するによりて、妄覚よりさらに一歩を進め幻境に入ることあり。今日民間に見るところの、天狗憑きのごときこれなり。例えば、ある寺の小僧が和尚の叱責をこうむりて、夕刻家より追い出だされ、自ら行く所を知らず。野外に出でて彷徨せる間に、忽然天狗のきたるに会し、これとともに高山に遊び、諸所に跋渉して家に帰れりという。これ、苦心の余り精神の異状を呼び起こし、自ら真に諸方を遊歴せるがごとく夢見したるなり。今、これに類する一例を挙ぐれば、

 『善悪因果集』に曰く、「江州仰木の里、ある百姓の子、年十五、六ばかりなるが、叡山のある寺へ給仕にやりおきたりしが、天和三年四月、仰木大明神の祭りの日、大師堂の辺りへゆくかと見えて行方なくなりぬ。院主驚き山中をたずねられしかども、ついに見えず。親のもとへこの由を告げて、もし神事がゆかしくてゆき〔も〕やしぬると問うに、かしこにもおらず。しかるに、里には祭礼の最中、かの小童の伯父なる者の家より思いがけず火起こりて、隣家三軒かけて焼けたりしかば、眷属ども不祥のことに思い、眉をひそめていたりけるところへ、また山よりこのことを告げおこせければ、驚き怪しむこと限りなし。七日の後、件の小童、また大師堂の辺りに茫然として立ちいたり。すなわち連れて帰りぬ。いかがしけるぞと問うに、はじめのほどは、あるいは江戸のことをいうかと思えば、たちまちに京のことを語り、東西取り紛して前後定まらざりしが、一日ばかり過ぎければ、ようやく本性になりていいけるようは、『われ、はじめ大師堂の前に四方をながめていたりしが、なんとなく谷の方へ行きしかば、大きなる山伏一人きたりて、今日は汝が古郷の神事なり、いざゆきて見まじやという。かしこまって従いゆかんとしければ、たちまち虚空にあがり翻り飛んで、しばしのほどに氏神の社に至りぬ。森の梢に座席あり。その座席の荘厳はなはだ奇麗なり。

ここに座して祭りを見る。嵐吹きて冷ややかなりしに、火にやあたりたきと問われしかば、しかるべく候と答え申しければ、団扇を持ちてさっとあおがれけるとき、たちまち火燃えたり。しばらくあ〔た〕りて立ち去りし間に、ただいま燃えたるは汝が伯父の家ぞという。それより坂本へ連れゆきて山王権現の祭りを見るに、喧嘩させて見せんずるぞとて例の団扇にて招かれければ、大いに諍論できて人みな騒ぎ動く。ここを立ち去りて、今日は関東、日光にも祭りあるなり、いざゆくべしとて頃刻に飛び至りて、鳥居の上に腰を掛けて神事を見るほどに、また喧嘩や見んと思うといわるれば、思い候というとき、例の団扇を持ち〔て〕払われけるに、にわかに闘諍起こりて大いに騒ぎけり。それより諸国を連れ行きて後、また元の大師堂の辺りへ至るかと覚えしが、山伏はかきくれて見えず、云云』」

 かくのごときは、一時の事情にて精神に異状を呈し、恍惚として夢境を現出したるに相違なし。すなわち本人は、叡山のある嶺上にありて神事および火災を望見し、これを夢のごとくに考え、あるいは日光のことまでを幻出したるに相違なし。しかして、諸国をあるきたりと思えるは、全く夢中にありて妄見したるもののみ。かくのごとき場合を、幻境に入るとなす。あたかも催眠術に感じたるものが、一室中にいながら遠方へ歴遊せるがごとく感ずることあると同一なり。古来、天狗の居所に至り、種々の問答をなしたる談のごときは、みなこの幻境に入るものなり。もし天狗憑きによりて精神の状態一変し、平常謙遜せるものがにわかに高慢となり、寡言の者が多弁となり、痴鈍のものが敏活となり、一時ののち旧に復するがごときは、一種の精神病を発するものにして、一時の発狂といわざるべからず。これ、ひとり天狗憑きにおいて見るにあらず、狐憑き、神憑りのごとき、すべて憑付病において見るところなり。

 その他、前に述べたるごとく、天狗の怪談中に、天狗に誘われて文字を学び、あるいは兵術を習えりと伝うることあり。従来一字をも書することあたわざるものが、たちまち能書名筆となりて帰りきたりし話を聞く。これまた精神作用より起こるものにして、あたかも狂人が病中に書したる文字の、平常のときよりみごとにできおることあると同一理なり。けだし、狂人は毫も人にはばかることなく、無遠慮、大胆に筆をふるうがゆえに、意外に気力ある文字を成し得るなり。これと同じく、天狗憑き者が自ら天狗に伝授せられたりと信ずるときは、精神がその一方に働き、無遠慮、大胆に筆を動かし、意外によく書することを得べし。兵術に長ずるも、その理これに同じ。

 この心理的説明は、天狗の怪談を解釈するに最も有力なるものにして、古来、人みな鬼神の所為のごとく思いたる怪事が、大抵たやすく説明し尽くすことを得るも、その怪談の種類あまり多きために、天狗談のいちいちにつきて解説すること難し。また古来の怪談中、偽怪、誤怪と仮怪との別を知ることあたわざれば、余はただ全体につきて説明の概要を示したるのみ。もし、その詳細を知らんと欲せば、拙著『妖怪学講義』につき、「総論」および「心理学部門」をあわせ見るべし。

第八章 結 論

 以上、数章にわたりて叙述せるところ、これを概括してその要を示さば、天狗の怪談はシナ伝来にあらずして日本にて起こりしものなるべきも、その名目はシナの古書によりて、ある学者の定めしものならん。けだし、わが国はシナに異なりて、高山峻嶺いたるところに存し、また、神仏をここに祭れるをもって、ときどき人の登山せるあり。登山の節は、深山幽谷の境遇なんとなくものすごき心地する上に、山になれぬものは、山気に酔うこと、船に酔うがごとし。したがって、精神にも異状を起こしやすし。これと同時に、神仏の霊験を予想し、かつ幼時より聞き込みたる記憶が内に動きて、一見一聞たちまち奇怪を現出せんとする傾向あり。かかる場合に、たまたま平地に見ざるところの禽獣、人類に遇うときは、奇怪の念ようやく凝りて、怪物の幻像を想出するに至る。かくのごとき実験談の、諸方にて伝えきたりしものが学者の耳に入り、シナの古書をさぐりて天狗の名を下せるならん。けだし、その名称はたとい名実相応せざるも、『史記』より出でたるならんか。かくして天狗の名称の定まりたる後、画工がさらに想像を加えて、今日見るところの天狗図を作為せるならん。しかして、天狗の怪談の起こりしは七、八百年前にして、その図は多分、狩野元信より始まりしなるべし。されど、深山に入りて奇怪を感じ妄想を描きしは、おそらくは今より一千年前にあるべし。ただその当時、いまだ天狗として世に知られざりしならん。

 すでに天狗の図画とその怪談とが、ともに民間一般に行われし後は、なにびとも小児のときより親しくこれを見聞し、その想像の深く精神中に印象するあれば、深山幽谷に入るごとにたちまちその記憶を誘起し、あるいは妄覚を生じ、あるいは幻境を現じ、世に天狗憑きのごときものまでを見るに至るべし。これに加うるに、高山にありて祠堂を守るもの、あるいは行者となりて深山にこもるものは、ことさらに天狗の怪談を増飾して、神仏の霊験を人に示さんと欲するあり。また、世間にて奇を好むもの、もしくは人の心を引かんとするものは、往々無根の事実を揑造し、あるいは針小の事実を棒大にするあり。その他、偶然の誤解、誤認に出ずるものありて、天狗談はいよいよ出でていよいよ奇となり、余がいわゆる偽怪、誤怪、仮怪の三種相合して、複雑せる妖怪となるに至りしなり。

 古来、学者の天狗談は、俗間に伝わるもの、古書に出ずるもの、みなそのまま事実とし真怪として論じたるものなれば、今日一として取るべきなし。かつ、古来の学者は、天狗をもって単純の現象とし、その中に物理的妖怪、心理的妖怪の複合して存するを知らず。ゆえにその説明は、一として心理的現象に及びたるものなし。しかして、その多くは鬼神、霊魂の所為となす。かの〔僧〕諦忍および〔平田〕篤胤の説明のごとき、最も価値なきものなり。もし、これを物理的、心理的の両面より解説しきたらば、数百年来結びて解けざりし疑団が、たちどころに氷釈するに至るべし。

 余は天狗を解説して、ただ一つの疑いを存するものあり。そは高鼻と高慢との関係なり。高鼻は天狗の形体上の特色にして、高慢はその精神上の特性なり。もし、天狗中よりこの二者を除き去らば、だれありてこれを天狗というものあらんや。ゆえに、高鼻と高慢とは直接の関係なかるべからず。しかるに、余はいまだ高鼻の相の高慢を表することを聞かず。これを人相書に考うるに、『神相全編正義』に曰く、「鼻を中岳となす。その形、土に属す。一面の表となりて肺の霊苗なり」と。また曰く、「高隆にして梁あるものは寿をつかさどる。豊大にして肉あるものは富をつかさどる」とあり。また、鼻梁の形とがりて鷹嘴のごときは、人の心髄をついばみ、悪奸なるものとす。『南翁軒相法』および『人相千百年眼』の説明、みなこれに同じ。「和漢三才図会』には、「易に艮の卦を鼻となす。また、人の胚胎するや、鼻まず形を受く。ゆえに、始祖をいいて鼻祖となす」とあるのみ。また、英書中に鼻相法の書あればこれを通読するも、高鼻につきての説明はなし。かくのごとく、いずれの書を検するも、高鼻と高慢との関係を示せるものを見ず。

世界の怪物を集めたる書中に鼻の突出せるものあるも、その性質高慢なるにあらず。また、インドおよびシナの怪物にこれに似たるものあるも、いまだ高慢というを聞かず。もし、すべて高きものはみな高慢の相なりといわば、福禄寿のごとき頭の高く長きものは高慢なるべきに、古来、決してかくのごとく解したるものなし。もし、易の言に従い鼻を艮の卦に比するときは、艮を山となすをもって、高鼻と高山とは関係ありと称して可なり。この関係にもとづき、天狗は高山所住の怪物なるより、高鼻をもってその相を示せりということを得るも、高鼻と高山とは、ともに毫も高慢に関係なかるべし。もし、また人の自然の連想上かかる関係を生ずるものならば、なんぞひとりわが国に限りてこれを伝うるの理あらんや。余よって思うに、高鼻と高慢とはその起源を異にし、偶然に相合して天狗の特質となりしならん。高鼻は、山間にて鷲、鷹の類を誤認したるより起こりしか、あるいは東インドの猿のごときものを見て考出したるか。さなくとも、従来目の大なる怪物あり、また口の大なる怪物あれば、これに準じて鼻の高き怪物を想像することあるも、怪しむに足らず。あるいは易の卦にもとづき、高山所住の縁を取りて高鼻を付するに至りしか。けだし、高鼻はこれらの原因によるならん。

これに反して高慢は、天狗をもって高僧の変化、あるいは魔鬼の所為となすに至りしより起こりしならん。前に掲げしがごとく、『谷響集』に天狗をもって魔類となし、我執、憍慢の出家人が天狗となると解せり。その後、仏者の方より説明するものは、みな慢心の僧の死して化するものとなす。これによりて、天狗の特性は高慢なるがごとくに考うるに至れり。かくして、偶然高鼻と高慢と相合し、その結果、この二者の間に思想の連合するありて、今日において高鼻の人を見れば、ただちに高慢を想出するに至れり。

 天狗の怪談は日本固有のものとなすも、伝来の際、シナ、インドの怪談の多少これに混入したるは、また疑うべからざる事実なり。ゆえに、天狗の現象中には、わが国にて衆人の作為せる偽怪と、経験せる誤怪と仮怪との複合せるのみならず、シナ、インドの偽怪、誤怪、仮怪の混入して、複雑に複雑を重ねたるものと知るべし。されば、いちいち怪談を分析して説明を与うることは、到底なしあたわざるところなり。

 

       追  補

 本書脱稿の後、本邦の古書を捜索して、『今昔物語』『栄華物語』『宇津保物語』等に天狗のことの出でたる〔を〕発見せり。されば、その起源の古き推して知るべし。ここにそのことを追補す。