2.日本政教論

P49

  日本政教論 

 

 

1. 冊数

   1冊

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   180×125mm

3. ページ

   総数: 31

   目次: 2

   本文: 29

(巻頭)

4. 刊行年月日

   底本:初版 明治22年9月14日

5. 句読点

   なし

       第一段 政教の関係は国家の一大事なること

 そもそも宗教の政治上に与うるところの勢力およびこれによりて生ずるところの運動は、国家安危の関するところにして、その力よく国を興し、その力よく家をほろぼすは、古今東西その例はなはだ多し。故に、政教の関係は実に国家の一大事なり、政教の前途は実に国家の一大問題なり。政教混同するは政治上の妨害をなすの恐れあるも、政教分離するは必ずしも政治上に便益あるを保し難し。故にこの論、決して一朝一夕に判定すべからざるは明らかなり。余退きてわが国今日の事情を考うるに、憲法第二八条に信教自由の布達あるも、政教の関係いまだ判然たらず、政教の前途いまだ一定せざるを見る。しかるに外国の宗教は欧米各国より続々わが国に入り、これとともにその本国の人情、風俗わが民間に流布するに至り、内国の宗教は漸々その刺激によりて振動激発せんとする勢いあり。今日をもって将来を推すに、早晩一大争論のこの間に起こるありて、一大困難を国家の上にきたすの日あらんこと、これ余が今より深く恐るるところなり。方今、朝にありて政教の関係を談ずる者も、野にありて政教の前途を論ずる者も、みな宗教の性質を知らず、宗教の勢力を識らず、宗教の利害得失を弁ぜず、ただ一時の風説、一己の憶断によりて、あるいは政教分離を主唱し、あるいは信教自由を賛成するのみ。わが政府、維新以来百般の制度を改良するに当たり、年々有為の士を欧米に差し遣わして、あるいは学術上、あるいは実際上、かの地にある事々物々を観察せしめたりといえども、ひとり宗教の前途を定むるに至りては、いまだ一人のかの地に渡りてその実況を観察せし者あるを聞かず。これ、余が国家のためにひとり政教の将来を憂慮し、自ら進みて欧米各国の巡遊を企画するに至りしゆえんなり。ひとたびかの諸邦を巡遊して政教の実際を観察し、帰りてわが国の事情をみるに、わが政教の前途関係につきて大いに自ら発見し、かつ覚悟するところあり。余おもえらく、政府は政教の関係を定むるにこの方法を用いざるべからず、宗教家は政教の前途を立つるにこの進路を取らざるべからず。これ実に今日政教錯雑の際にありて、霧海の方針、暗夜の灯光なりと自ら信ずるところなり。故にこの論たるや、官民僧俗を分かたず、わが国数千万の同胞に向かいて、ことごとく一読あらんことを切望するなり。

       第二段 欧米各国の宗教

 欧米各国、今日にありてはみな信教の自由を公達すといえども、その公達の下に国教を立つる国あり、公認教を置く国あり。すでにロシア、イギリスのごときは国教を置き、フランス、オーストリアのごときは公認教を設けり。公認教は特認、もしくは特待教の義にして、政府にてその国多数人民の奉信する宗教は、少数人民の奉信する宗教に区別して特別の待遇法を設くるものをいう。かの諸邦にてこの公認教を定むる法は、宗教の何宗たるを問わず、ただ信徒の多数によるものなり。故に現今フランスにて公認教と定めたるもの四教あり。ヤソ旧教、新教、ユダヤ教、マサルマン教〔Mussulman〕(回教の一種)なり。オーストリアにも四教あり。旧教、新教、ギリシア教、ユダヤ教なり。これによりてこれをみるに、わが国においては憲法上信教の自由を公達すというも、その公達の下に国教もしくは公認教を設くること必要なるべし。しかれども余輩は政教混同を主唱する者にあらず、国教組織を賛成する者にあらず。ただ余は政治の目的は国家の安寧、社会の幸福を増進するにありとしてこれを考うるに、政治上公認教を設くること必要なりと信ずるなり。しかしてそのいわゆる公認教は国教と全く異なるものなり。公認教は政教を混同するものにあらず、ただ多数人民の奉ずるところの宗教と少数人民の奉ずるところの宗教と、政府の待遇を異にするのみ、数百年間伝道せるものと数年間布教するものと、政府の認定を異にするのみ。もし一国の上よりこれをみれば、自国従来の宗教にても外国伝来の宗教にても、仏教にてもヤソ教にても、いやしくもその人民の奉信する以上は公平同等にみなさざるを得ずといえども、数百年間布教し多数人民の奉信するものは、これを待遇するの方法において多少殊にするところなかるべからず。そのこれを異にするの意は、国家の独立を助け、社会の秩序を守り、政治の安寧を保つに必要なる事情あるによる。故に余はわが政府に対して公認教を制定するを望み、これを制定するに左の二条を設置あらんことを請うものなり。

  第一条 わが国に数万(たとえば五万ないし一〇万以上)の信徒を有したるものは公認教とす

  第二条 わが国に数十年(たとえば五〇年ないし一〇〇年)間布教せるものは公認教とす

 この二条に合するものはいかなる宗教にても憲法第二八条に従い、国家の安寧秩序に妨げなき以上は公認教とすべし。しかして公認教の名称を設くるの必要、およびこの二条を置くの必要なるゆえんは下に述ぶべし。

       第三段 わが国旧来の宗教

 今、公認教を設くるの必要を述ぶるには、まず日本旧来の宗教と外国新入の宗教とを比較して、その利害を弁明せざるべからず。日本旧来の宗教は、神、儒、仏三道より成るも、儒道はわが国にありてはいまだ宗教の組織を取らざりしをもって、しばらく神仏二教とするなり。この二教中、一は日本在来の宗教にして一はインド伝来の宗教なるも、今日にありてはわが仏教は日本の仏教にしてインドの仏教にあらず。その故は、仏教ひとたびわが国に入りし以来、大いに改良し大いに発達して一種別流の仏教となり、その今日インドに存するものとほとんど全く異なるものなり。かつ仏教はわが国にありて一千数百年間わが社会の文物と互いに混同し、ともに成長して一種固有の日本性の仏教となれり。故に神仏二教は純然たるわが国旧来の宗教というべし、わが国固有の宗教というべし。これをヤソ教各派の今日わが国にあるものに比すれば、その等差同日の論にあらざるなり。

       第四段 歴史上の縁故

 神仏二教はわが旧来の宗教なるをもって、わが歴史上に最も縁故ある宗教なることは、歴史を一読する者のみな熟知するところなり。神道の縁故あるはいうまでもなく、仏教もその古来の本寺本山、僧位僧官はみな勅命勅旨によりて設置せるものにして、各州各郡に寺院を創立し住職を任命し、もって国家鎮護の一助となしたるがごときは、名実ともに仏教をもって国教に組織したるものなり。皇室歴朝の葬祭は仏教によりて営みしもの、および皇族にして仏門に帰し仏寺に入りしもの幾人あるを知らず、また勅命によりて寺院を封じ寺格を授けたるもの幾寺あるを知らず。今日各宗の僧侶にして門地門閥あるは、みなこの縁故より出でたるものなり。その他、歴史上の縁故はいちいち枚挙するにいとまあらず。わが皇室国体の永続する間はこの縁故を保存するは、道理上実際上ともに必要なることにして、もしその縁故を廃するがごときは、これすなわち歴史上の事実を廃するものにして、歴史上の事実ひとたび廃するに至れば、わが皇室国体の永続を期すること、もとより難しかるべし。なんとなれば、わが国体は歴史によりて建てたるものなればなり。西洋各国において歴史によりて建てたる国は、務めて古来の縁故を保存せんとす。たとえばイギリスのごとし。カンタベリー、ヨーク等は歴史上縁故ある寺院なるをもって、これを今日に保存し、これを今日に特待するなり。故にわが国皇室国体の永続を期せんと欲せば、歴史上縁故深き寺院はこれを保存し、その宗教はこれを特待せざるべからず。あにこれをすこしもわが国に縁故なき宗教と同一視するの理あらんや。

       第五段 日本文明の精神

 余かつて曰く、日本の文明は神、儒、仏三道の混和化合より成り、これを分解すればまた日本の文明なし。故に日本文明の精神、日本性質の基本はこの三道の中にありて存す。故に日本風の外国に異なるも、日本人心の外国人に異なるも、日本国のひとり東海の上に独立するも、わが皇室の開国以来永続するも、みなこの三道の結果影響にあらざるはなし。故に日本人心を維持し、日本独立を保存し、日本人の日本人たるゆえん、日本国の日本国たるゆえんのものを養成せんと欲せば、この旧来の宗教を永続せざるべからず。かつ中古わが国の文学は全く仏教によりて成り、その時代の著書一として仏教の主義に出でざるはなし。その他、当時の美術、遊興、風俗、礼式、みな仏意に基づきて組織したるものなり。しかして風俗、礼式は、社会の秩序を守り一国の独立を保つに最も必要なるものなり。欧米各国はその文明同一源より流出したるも、みなその国固有の風ありて、イギリスの風はフランスに異なり、ドイツの風はロシアに異なるを見る。その互いに相異なるは、各国みな独立の国にして、その人民独立の気風に富むによるというより外なし。故にわが国も永くその独立を維持せんと欲せば、風俗、礼式等の古来民間に伝わりしものは、つとめてこれを保存せざるべからず。これを保存せんと欲せば、その基本となり精神となり、あわせてわが文明の源泉となりたる宗教を保護せざるべからざるは、問わずして明らかなり。

       第六段 宗教と国体との関係

 わが旧来の宗教はわが皇室国体の下に千数百年間流布し、わが皇室国体はこの宗教の上に千数百年間連続せるをもって、この宗教は漸々改良発達してわが国体に最も適したる形質を取り、わが皇室を永続するに最も力ある宗教となれり。別してわが先王この宗教をもって国教を組織し、護国鎮家の一助となしたる縁故あるをもって、皇室の繁昌、国体の永続にはこの宗教を維持するより外に良策なきなり。今、欧米の事情を考うるに、各国みなその政治国体に最も適したる宗教を用うるを見る。いわゆるその国教も公認教も、みなその政体に適したるものに外ならず。これをもって、各国みな別派別立の宗教を奉ずるに至れり。しかるにわが国はその国体外国と異なるをもって、外国の宗教と異なるものを用いざるを得ざるはもちろんにして、万国の宗教中わが旧来の宗教の外にわが国体に適する宗教なきはまた明らかなり。これによりてこれをみるに、各国においてその国の政体に最も適したる宗教を組織して国教となし、あるいはこれを特待して公認教となすがごとく、わが国にてもわが国体に最も適したる宗教は、これを特待して公認教となすこと必要なりと考うるなり。

       第七段 内国宗教間の調和

 一国中の宗教互いに相争い相抗するときは、一国の人心を離散せしむるはもちろんにして、政治上の不幸不利、けだしこれより大なるはなし。請う見よ、古来欧州各国において宗教間の不和は転じて政治上の不和を生じ、宗教上の争乱は転じて政治上の争乱となりしこと、史上その例に乏しからざるを。もしかくのごとくなるときは、実に国家の不幸といわざるべからず。しかるにわが国従来の宗教は、数世間の競争淘汰によりて神仏互いに相和するの習慣を生じ、今日にありては両教並存並行するも、不和争乱をその間に起こすの憂いなきに至れり。すなわちこの両教は互いに相調和せるものなり。別して古来わが国の宗教家および政治家はもっぱらこの調和に注意し、政治上にありて種々の方法を政教の間に施し、宗教内にありて種々の解釈を宗意の上に下し、その極ここに至るなり。しかるに外教のごときは今日今時に入りたるものなれば、その性質といいその組織といい、わが従来の宗教と調和することあたわざるは必然なり。かつその不和は今日の勢いひとりわが従来の宗教と外教との間に存するのみならず、そのいわゆる外教にはイギリスより入るものあり、ロシアより入るものあり、フランスより入るものあり、アメリカより入るものあるをもって、この各派の間にまた不和争乱を起こすは必然なり。政治家はこの際に立ちてあくまで宗教の調和論を唱え、つとめて国家のために不和争乱のその間に起こらざるように、今日よりその方法を設くること急要なりと知るべし。

       第八段 宗教と愛国思想との関係

 およそ宗教の性質たるや、他の百般の事々物々変化中に一種不変の精神を持続するの力あり、かつ離散せる人心を結合して一説に会帰するの力あるものなり。故に余かつてこれを論じて曰く、宗教固有の性質は国家発達の元素に加わり、その形質事情の諸変化の中に一脈の精神を連続結合して離散紛失せざらしむるものなり。これをもって、旧来の愛国の思想を人心中に保続せんと欲せば、旧来の宗教を維持するより便なるはなし。今やわが国、政治法律その他百般の事物みなすでに変化し、またまさに変化せんとするの際なれば、別して旧来の宗教を維持して従前の精神を保続するを要す。もしこれに反してみだりに外教をわが国に入るるときは、これと同時にわが人民の精神を西洋に変じ、その極、彼あるを知りて我を忘るるに至りてとどまらんとす。これわが輩の大いに憂慮するところなり。

       第九段 宗教と愚民との関係

 世界中いずれの国にても、その人民の多数は無智の愚民なり。この愚民の思想を支配するものは宗教より良きはなし。古来政治家が宗教を政治の機関となしたるは全くこの点にあり。今わが国も人民の多数は愚民より成り、神仏二教の信者も愚民中に最も多し。故に愚民の不平を医し、愚民に満足を与え、政治に対して暴行暴動をなさざるようにこれを訓導するの良法は、旧来の宗教を特待するより外なし。これを特待するときは、これと同時にその僧侶および頑愚の信徒に満足を与うることを得べし。もしこれに反して外教の力をかりて、わが旧来の宗教を圧伏せんとするときは、僧侶の不平とともに愚民の不平を促し、愚民の暴行暴動を誘うに至るは必然なり。たとえその暴行暴動は直接即時に発せざるも、もしその内心に抱きたる不満不平、他の政治上の不和争乱に乗じて一時に発するに至らば、その害いうべからず。故に旧来の宗教に相当の保護を与うるは、政治上最も必要なることなり。

       第一〇段 外教は外国教会の出張なること

 つぎに西洋の宗教の現今日本にあるものをみるに、種々雑多の宗派あり。その主なるものはロシアの教会、イギリスの教会、フランスの教会、アメリカの教会なり。しかしてロシアの教会はその本国の出張なり、フランスの教会はその本国の支局なり、イギリスの教会はその本国の教会と関係し、アメリカの教会はその本国の教会と連合し、あるいは外国の宣教師をいただき、あるいは外国の扶助金を仰ぎ、その宗名といい、主義といい、儀式といい、会堂の建築法といい、堂内の装飾風といい、みなその外国にあるものの写真にして、一毛一点も異なることなし。はなはだしきに至りては、その説教の語声音調まで外国人の仮声をなすものあり。ただわずかにその異なるは大小精略の別のみ。故にこれみな外国の宗教というべし、いまだ日本の宗教というべからず。これに反して神仏二教は日本の宗教なり。果たしてしからば、日本の宗教と外国の宗教とは、あに同一に待遇するの理あらんや。

       第一一段 外国政府の関係

 ヤソ教は外国の宗教にして日本の宗教にあらざるをもって、第一にその教のわが国に弘まるは、これと同時に外国の政府の関係をわが国の上に生ずるを免れず。たとえばロシア、イギリスの教会のわが国にあるものは、その国教の分局出張にして、国教はその国の君主を奉戴するものなり。故にその教に入るものは、暗にその入会の当日より外国の主君を奉戴するを義とするものなり。もしこれを奉戴するに至らざるも、その本国を思い、その本国を尊ぶの心長ずるは必然なり。その心長ずれば、われを思いわれを尊ぶいわゆる愛国心は次第に減ずるに至るは、また自然の勢いなり。つぎにフランスは公認教の国なれば、その関係ロシア、イギリスのごとくならざるも、また実際上いくぶんの関係あるを免れず。なんとなれば、その教会の費用はフランス教会より支出し、その宣教師はフランス人、もしくは日本人にしてフランス人より教育を受けたるものなればなり。

       第一二段 外国風俗の関係

 かの国の宗教は政府の関係を有する外にその国の風俗、習慣、礼式、交際等、みなその中に混入するものなれば、その宗教をわが国に入るると同時にその国風、民情をわが国に入るるに至るは必然なり。しかして西洋各国はみなその国固有の風ありて、イギリスの風はフランスに異なり、ドイツの風はロシアに異なるなり。わが国、各国固有の風をそのままその宗教とともに入るるときは、一はわが国一定の風を失い、一はわが人民独立の思想を失うに至るは、また自然の勢いなり。もしイギリスの国風をわが国に入れてわが国風を支配し、アメリカの民情をわが国に入れてわが民情を支配するに至るときは、将来いかにしてわが独立を維持すべきや。

       第一三段 各国の政体と宗教との関係

 欧米各国はみなその国の宗教を異にして、ロシアはギリシア教を用い、ドイツはルーテル宗を用い、イギリスはエピスコパル宗を用い、アメリカは独立宗および会議宗を用いるはなんぞや。曰く、これその国の政体異なるによる。たとえば共和政治の下にはその政治と同一の組織を有する宗教あり、君主政治の下にはその政治と同一の性質を有する宗教ありて、ローマ宗、ギリシア宗、エピスコパル宗はみな君主国に適したる宗教なり、独立宗、会議宗は共和国に適したる宗教なり。今、アメリカに独立宗、会議宗もっぱら流行するは、その組織、共和政体に最も適するによること明らかなり。これに反してわが国には神道および仏教あり。仏教において付法伝灯、血脈相承を重んずること各宗派みなしからざるなく、はなはだしきは世系、法脈ともに連綿たるの宗派あるに至れるは、けだしわが国体、古来皇統一系をもって建てたるによるや疑いをいれず。かつわが国の各宗各派はみな管長を設け教正を置きて末寺末徒を統轄するがごときは、ローマ宗、エピスコパル宗等と同組織を有するものにして、これまたわが国の政体に最も適したるものといわざるべからず。これによりてこれをみるに、欧州各国は大抵君主国なるをもって、その国にある宗教をわが国に入るるは、わが国体上に害を及ぼすことあるいは少なしとするも、共和政体なるアメリカの宗教は君主国に適せざる宗教にして、別してわが皇統一系国に適せざる宗教なり。その宗教の組織は全く自由共和、平権同等の主義に基づきたるものにして、その宗教上の思想はわが国政体上の思想と並行両立することあたわざるものなり。しかるにわが国にあるヤソ教会はアメリカより入るもの最も多きは、我が輩今より、その他日に生ずる利害いかんを憂慮するところなり。

       第一四段 外国宗教間の不和

 外国の宗教はその性質といい組織といい主義といい、わが従来の宗教と多少異なるところあるは言をまたず。外国宗教中にても宗派異なればその主義も組織もまた異なりて、その各派間の不和はわが国の諸宗間の比にあらざるなり。しかるに外国にては、多数人民の奉ずる宗派にしてその国体、民俗に適合せるものは政府にてその待遇を殊にし、あるいはこれを国教とし、あるいはこれを公認教とするをもって、幸いにその不和を制することを得るなり。今わが国においてみだりに外教中の不和なる諸宗諸派を入れてわが人民の間に競争せしめ、その将来の不和を制する方法を設けざるときは、他日政治上に大困難を生じ、その影響、国家独立上に及ぶは必然の勢いなり。そのときに至りわが政府は新たに公認教を設けんとするも、またいかんともすべからず。故にその困難のいまだ生ぜざる今日にありて、これを予防するの方法を設くること急要なり。

       第一五段 外教の恐るべきゆえん

 余輩が外国の宗教を恐るるは、その宗のヤソ教なるによるにあらず、また単に外国の宗教なるによるにあらず。そのこれを恐るるも恐れざるも左の諸事情にあり。第一に、わが国果たして彼より強く、かつわが文明の進歩果たして彼の上にあるときは、いかなる宗教、外国より入りきたるもあえて憂うるに足らず。第二に、その外国と称するもの永久わが同盟親睦の国にして、いかなる事変あるも彼は我を敵視することなきときは、いずれの国よりその宗教を入るるもあえて恐るるに足らず。第三に、外国とわが国とその政体国風を同一にするときは、またあえてかの宗教のわが国に入るを恐れんや。第四に、ヤソ教はその性質わが旧来の宗教と同一にして、かつ旧来の宗教と調和することを得るものなれば、これまた憂うるに足らず。第五に、わが国人ことごとく智識あり学問あり、万国の事情に通じ、愛国の精神に富むときは、またなんぞ外教の漸入を恐れんや。第六に、もしわが国人みだりに彼を尊宗し彼を模擬せずして、彼と全く関係なき一種の新ヤソ教を構造し、日本の国体、民俗に適する一種別立のヤソ教を組織するの力あるときは、これまたなんぞ憂うるを要せんや。第七に、もしわが国ひとたび外国の宗教を入れて他日その害あるを知るに至りて、わが国力よくその教を撲滅し、よくこれを禁止することを得るときは、またなんぞあえて憂慮せんや。第八に、わが国の政治、法律、その他百般の制度みなすでに一定してその基礎動かざるの際なれば、宗教の一部分に変動あるも一国全体の上にその影響を及ぼすことなかるべきをもって、これまた深く憂うるに足らざるなり。しかるにわが国今日の事情、全くその反対にあるものなり。よって余輩は深くその将来の結果、あるいは国家の大患を生ずるに至らんことを恐るるなり。別して第八条の一点においては、我が輩決してこれを黙止に付すべからず。現今わが国は百事百物みなことごとく変化するの際ならずや。その変化の中にただ一脈の宗教ありて、わずかに前後の思想を連続せるにあらずや。わが政府は二十余年前に政治上に第一回の大変動を与え、今年また第二回の変動を与えたるにあらずや。この変動の時機に際し宗教上にもまた変動を与うるときは、両者相合して必ず非常の大変動を起こすに至るべし。果たしてかくのごときに至らば、これわが国の大不利、大不幸なること、余が言を待たずして明らかなり。

       第一六段 政治上の患害を予防する良策

 この宗教上より生ずるところの困難を避け大患を医し、その他日の不利不幸を今日に予防せんとするには、余はここに一良策あるを知る。その策は唯一の良策にして、その外に第二の良策なきものなり。この一ありて二なき良策とは、わが国において公認教を設くるこれなり。今、欧州各国みなその隣邦と異なりたる宗教を用い、その国一派別立の宗教あるゆえんを考うるに、政略上その国の政体国風に最も適し、人情民俗に最も適したるものを、あるいは保護しあるいは特待して、国家の独立を助け社会の安寧を保つの意に外ならず。これをもって、あるいは国教を設け、あるいは公認教を置くに至るなり。ひとりアメリカは国教なく、また公認教なし。これ、その国幸いに外国と懸隔して隣国の関係なく外冦の患いなく、その事情大いに欧州各国およびわが国と異なるものなり。かつ我が輩の注意すべき点は左の二条にあり。第一に、アメリカは歴史を有せざる新開の国なり、わが国は歴史によりて建てたる旧国なり。第二に、アメリカは人民に等差階級なき共和国なり、わが国はしからず。これによりてこれをみれば、政教の関係に至りては、わが国はアメリカの風を学ぶは最も不適不当なるものなり。しからば欧州二、三の国のごとく国教を設けんや。余輩は国教は今日にその必要なきを知り、政教はなるべく混同せざらんことを望むものなり。故にイギリス、ロシアのごとく国教を設くるは不可なり、またアメリカのごとく純然たる平民的宗教を置くも不可なり。果たしてしからば、わが国は公認教を設くるより外に良策なきを知る。

       第一七段 公認教を設くるの必要

 公認教を設くるときは、上来論述したる政教間の困難はことごとく除き去ることを得べし。第一に、公認教は政教混同の意に出ずるにあらず。第二に、公認教は一宗一派の宗教を偏視するものにあらず、ただ多数人民の奉信する宗教にして、数百年来伝道せる宗教は、これを他の宗教に区別して特認特待の方法を設くるのみ。しかしてその方法を設くる目的および必要は、社会の秩序を保ち、国家の平穏を図るの意に外ならず。ヤソ教にても回教〔イスラム教〕にても、その信徒の数と伝道の年限わが定むるところのものに合すれば、すなわち公認教なり。ただ今日にありては、外教は布教の年限と信徒の定員いまだその地位に達せざるをもって、現に公認教となることを得るものは神仏二教のみ。しかれども外教も他日その地位に達すれば、神仏同等にわが公認教となるべし。そのこれに達する間には、外教は自然にその本国の習気を失いわが国風に化し、ついにわが国固有の宗教となるべきをもって、外国の政府の関係よりきたすところの困難も、人民の関係より生ずるところの不利も、風俗、習慣、礼式等より招くところの不幸も、みな除き去ることを得、これと同時にわが歴史を存しわが国体を保ち、皇統の一系、一国の独立を全うし、政教の紛擾、各宗の不和を整理調解することを得べし。故に公認教を設くるは、政府がその国にある宗教を公平無私に待遇するものにして、しかも一国の治安を保ち、社会の幸福を進むる政府の目的に合するものなり。

       第一八段 公認教を設くるの規則

 公認教を設くるにはさきに示したるがごとく、第一に信徒の数を限り、たとえば五万ないし一〇万以上の信徒を有するもの、および伝道の年月を限り、たとえば五〇年ないし一〇〇年間布教するものを公認教とするの規則を定むるを要す。この信徒の数を限るは、多数人民の奉ずる宗教は少数人民の奉ずる宗教とその待遇を異にするの意にして、今日フランスにて公認教を定むるに一〇万以上の信徒を有するものとあるは、全くこの規則による。しかして信徒の数を限る外に伝道の年月を限るは、最もわが国において必要なる事情なり。なんとなれば、かくのごとく年月を限るときは、前段に述ぶるごとく、外国の関係を有する宗教は永き年月間わが国にありて長き年月間布教伝道するときは、自然にわが風俗に変じ、自然にわが民情に化し、一種の日本性の宗教となり、日本風の教会となり、全く外国の関係を離れて、われとその得失を同じうするに至るべし。つぎに、外国宗教各互間の不和と、その宗教とわが国旧来の宗教間の不和も、数十年間同国内に布教伝道するときには、ついに互いに和合調解することを得るに至るべし。なおわが国の神道と仏教はその初め不和を起こしたるも、数百年の後には互いに調和せるに至りしを見て知るべし。故にわが国にありて公認教を定むるには、人数の外に年月を限ること最も必要なり。かくしていかなる宗派にても年月、人員ともにその規則に合するときは、政府はこれを公認教とし、その一宗に一管長を置きて宗内の諸事を管理せしむべし。もし年月その規則に合して人員その定数に満たざるときは、これを歴史上に考えわが皇室国体に関係縁故あるものは、政府にてもとよりこれを公認してその上に一管長を置くべし。もし人員その定数に合して年月その規則に達せざるときは、政府はその年月に達するを待ちて公認すべし。しかして年月を算定する法は、民間に公然会堂を建て、公然説教を開きたる日より起算すべし。もし年月、人員ともにその規則に合するも、一宗の本山本部を外国に置き外国の教正をいただき外国に関係を有するもの、およびわが国の秩序安寧に妨害ありと認定したるものは、憲法第二八条の意に従い、決してわが国の公認教となすべからず。

       第一九段 公認教の名称

 公認教の名称は今初めて聞くところなるも、その実、外国の例を学びたるものにあらず。わが国にては当時現に公認教あり、すなわち今日の神道、仏教はわが国の公認教なること疑いなし。ただその実ありてその名を設けざるのみ。内務省中に社寺局を置き、各宗に管長を立つる等、みなその公認教たるゆえんなり。別して国会の規則に神官、僧侶の被選権を制限したるは、その意これを公認教とみなせしによるにあらずしてなんぞや。もし国教をもなく公認教をもなく純然たる平民的宗教なるときは、アメリカのごとく国法上に僧侶の名称を存すべき理なく、かつ僧侶と一般の人民とを殊にし、被選権に制限を立つるの理なし。しかるに僧侶はこの一点において一般の人民に異なるところあるは、政府これを特待するの意に出でたりと想像するより外なし。よって我が輩は、政府は早晩公認教の名称を設くるに至るべきを信ず。しかして余輩は、ただ政府に向かいてその名称を設くることの一日も早からんことを望むものなり。

       第二〇段 公認教待遇の方法

 政府にて公認教を設くる以上は、公認教を待遇する方法を定めざるを得ず。まずオーストリアの規則に従えば、公認教にあらざる宗派は、その国にありて公然会堂を建て説教会を開くことを許さず。フランスの規則によれば、公認教の名称を有するものは、政府にて年々相応の保護金を与うるがごとき特待法ありという。しかしてわが公認教は、必ずしもオーストリア、フランスのごとき規則を立つるを要せず。これを特待する法に至りては、けだし種々あるべし。まず仏教の上にてこれをいえば、僧侶の兵役を免ずる、その一なり。小学徳育の全権を委する、その二なり。兵営監獄の教導を専任する、その三なり。宗教専門学校を監督する、その四なり。僧侶賞罰法を認可する、その五なり。寺院保存の規則を制定する、その六なり。その他数条の特待法あるべしといえども、今はただ公認教の名称を置くの必要のみを論ずる点なれば、その特待の方法のごときは他日に譲るべし。すでにこれを特待する以上は、その公認教の僧侶は進みて政治の妨害とならず、退きて国家の治安を保つように門徒を教導するは、その僧侶が政府および人民に対するの義務なるべし。

       第二一段 公認教の反対説

 この公認教を設置するに反対する論者あるべし。その反対論の要点は左の数条ならん。第一に、西洋はヤソ教国なり、しかるにわが国神仏二教を公認するときは、その宗派の異同によりて我と彼との間の交際上懸隔を生ずるを免れず。余これに答えて曰く、西洋は決してヤソ教国にあらず、当時その国に流布せるものユダヤ教あり回教あり仏教ありて、その政府はただ多数人民の奉ずるところの宗教にして、その国の歴史上に縁故あるものを、あるいは保護しあるいは特待するのみ。たとえばフランス公認教中にもユダヤ教および回教の二種あり、オーストリアの公認教中にもユダヤ教あり。ユダヤ教および回教はヤソ教の大敵なり。しかるにこの二教は多数人民の奉ずるところなれば、政府にてこれを公認したるにあらずや。西洋すでにしかり、いわんやわが国において多数人民の奉ずるところの宗教にして、しかも先王開国以来わが史上に縁故ある宗教を特待するも、なんの不理かこれあらん。第二に、今日わが憲法にて一度信教の自由を公布せる以上は、公認教を設くべからずと。余これに答えて曰く、憲法上にて信教の自由を公布せるは、欧米各国大抵みなしからざるはなし。しかしてその公布の下に国教を設くる国あり、公認教を置く国あるにあらずや。故にわが国憲法上に宗教の自由を公布せるも、公認教を設くるになんぞ妨げとなるの理あらんや。第三に、政教分離の今日にありて政府にて公認教を設くるは、その分離の主意に反するものなり。余これに答えて曰く、公認教は全く国教とその性質を異にするものなり。公認教は政教混同するものにあらず。もしそれ政教は判然分離し、政府にてすこしも宗教に関係せざるものとするときは、僧侶は政治上よりこれをみれば一般の人民と同等ならざるべからず。決してわが国のごとく僧侶はこれを一般の人民に区別してその名称を存し、その公権を制限することあるべき理なし。欧州各国は今日政教分離を唱えて、なお従来の宗教を保護し、かつこれを特待するはなんぞや。けだし政教分離の主意たるや、政教混同するは政治上に妨害あるを見てその害を避けんとするに出でたるものなれば、分離するもただその妨害のなきに至りてとどむ。決して政教はいかなる困難妨害の政治上に生ずるあるも、必ず分離せざるべからずというの理ならんや。語を換えてこれをいえば、政教分離論は国家の治安を害せざる範囲内において政教分離すべしというのみ。決してその範囲の外に出でて、なにほど国家の治安に妨害あるも、なおあくまで分離すべしというにあらず。なんとなれば、政治の第一の目的は政教の分離にあらずして国家の治安、社会の幸福なればなり。しかるに政教分離の主意を達するために、その第一の目的を害するごときは決して政治の本意にあらざるなり。かの欧州諸国にて今日政教分離を唱えてなお公認教を置くは、全くこの意に出づ。すなわち公認教は政教分離の主意によりて国家の秩序安寧を維持する法なり。今わが国において政教分離を唱うるも、わが国家の治安に妨害なきように注意すること最も必要にして、今日の勢い、公認教を設くるはすなわち政府が政教分離の主意によりてその政治の目的を達するに必要なる事情あることを知らざるべからず。かつ政教は精密にこれを論ずるときは、決して判然たる分界のその間に存するものにあらず。たとえこれを理論上判然分かたんと欲するも、実際上なしあたわざるは必然なり。故に余輩は、あくまで政教分離の主意によりて公認教を設くること必要なりというなり。

       第二二段 公認教の請願もしくは建白

 以上論ずるところによるに、政府にて早く公認教の名称を設くるの必要なることすでに明らかなり。また、わが旧来の宗教すなわち神道、仏教も、政府に対して公認教の名称を請願し、あるいは建言すること、また必要なり。そもそもこのことたるや、一宗一派に関したる条件にあらず。総じてわが国旧来の宗教一般に関する大事件にして、仏教各宗のごときも決して従前のごとく各本山、各末寺別立して協議すべきものにあらず。けだし各宗各派はその末寺信徒を異にし、その宗制寺法を殊にするをもって、おのおの相離れて運動するは時宜によりて必要なりといえども、仏教総体に関する問題に至りては、諸宗諸派一致連合して協心同力せざるべからず。かつ今度のことたるや、ただに仏教全体に関するのみならず、一国の独立、社会の安寧、皇室国体の永続に関する緊要重大の事件なれば、宗教家はその愛国護法の赤心より、全力をこの一点に集めざるべからず。語を換えてこれをいえば、そのことたるや、進みては愛国となり退きては護法となり、最大至要の件なれば諸宗諸派はもちろん、一派中の本山末寺、僧侶信徒、みな連合団結して政府に向かいて、あるいはこれを請願し、あるいはこれを建議せざるべからざるなり。これ、余が欧米各国を巡遊し、各国の政教を観察して得たるところの結果なり。これ、余が西洋の政教事情と日本の政教事情とを比較して論決せる結局なり。今ここにその大意を略述して、わが国官民僧俗幾千万の同胞にはかり、かつその賛成を請うところなり。