10. 解説―井上円了における教育と宗教の関係をめぐって:中村哲也

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     解  説 井上円了における教育と宗教の関係をめぐって

                         中 村 哲 也  

 本巻には、井上円了(以下、円了と略す)の教育関係の著作のうち、①『教育総論』(明治二五年一一月一五日~明治二六年一〇月五日まで哲学館講義録に連載)、②『教育宗教関係論』(明治二六年四月二六日、哲学書院)、③『勅語玄義』(明治三五年一〇月三一日、哲学館)の三つを収めた。

 ①は、教育学の講義録であり、②は、教育と宗教の関係をめぐり、当時の円了の考えを披瀝しており、両者は比較的まとまった著作物となっている。これらはほぼ同じ時期に発表され、明治二〇年代の円了の教育的宗教的事業を知る上で重要な文献といえる。

 ③は、前二者と時代は異なり明治三〇年代に著され、四七頁の小冊子ではあるが、「教育勅語」を重視し、勅語精神の普及運動に尽力した円了の勅語釈義書として代表的なものと考えられる(他に円了の勅語釈義書は、『日本倫理学案』明治二六年、『中等倫理書』明治三一年、『勅語略解』明治三三年、『中等修身書』明治三七年、『勅語義解修身歌』明治四一年などがある)。

 ①、②は、明治二〇年代半ば、③は三〇年代半ばにそれぞれ出されており、教育界の動向からすれば、前者は教育と宗教の関係をめぐっての第一次論争の渦中にあり、後者はその第二次の論争が起こった時期と重なっている。以下では、こうした明治教育界の歴史的状況と、本巻所収の三つの著作との連関性を取り上げ、なにほどかでも円了とその時代の問題を考える手掛かりを供することができればと思う。

       一 『教育総論』における井上円了の教育論、人間形成論

 東京大学卒業後、文部省への官途も辞して、「宗教的教育的事業に従事して、大いに世道人心のために尽瘁して見度い」(『井上円了先生』大正八年、東洋大学校友会、八六頁)との大志をもち、在野にとどまった井上円了は、周知のようにその意思に従って「私立学校」の経営に着手、「哲学館」を創立することとなった。いわば円了は「哲学館」の設立を通して「宗教的教育的事業家」の第一歩を踏み出したといえよう。

 その意味で、円了の事業とその業績を押し進めた初発の動機は、「教育」と「宗教」のふたつの領域に相わたっており、その後の展開のなかで円了が提起し、人口に膾炙した「護国愛理」の理念も「教育は勅語に基づき、宗教は仏教を取る」という方針もすべてこの動機と無縁ではない。もとより、円了は明治の仏教再興運動の有名な担い手のひとりでもあり、西洋の哲学、合理思想による仏教界の啓蒙と活性化に尽力したことで知られ、その実現のために、教育や人間形成に大きな関心を払っていた。したがって、飯島宗享が、円了初期の著作『仏教活論序論』を検討し、円了の活動開始期の「素志」について、近代的宗教人に万人を化育し、西洋の哲学的知性を媒介としてそれにふさわしい仏教の近代化をめざしたものととらえていることからも分かるように、こうしたいわゆる近代化のための彼の「啓蒙」活動は、おのずと、人間形成、人格形成にかかわる教育事業、教育実践へと向かっていったと考えることができる。

 しかしながら、本巻所収のものを含め、円了自身の教育論あるいは教育学の論稿はそれほど多いとはいえず、著作よりも「講義録」のかたちで残されたものが大半である。教育学は、円了の担当科目でなかったことにもよるだろうが、円了にとって教育とはもっぱら「実践」であり「事業」の対象で、「学問」として抽象化する対象にはなりにくかったのではないだろうか。円了は、学校ではおもに「心理学」「哲学」を教えており、たまたま明治三一年教育学についての講義をおこなったこともあるが、それも担当の教員湯本武比古が旅行で不在のため円了が代行したもので、かなり短い序論程度で終わり、あとを湯本に任せている。

 本巻の『教育総論』も、冒頭で記したように、講義録であり、そのせいか脱線もまま見られるが、比較的まとまり、体系だった論旨展開となっている。以下、その内容と背後の教育観について考えていくことにしよう。

 本講について円了は冒頭、「教育総論というといえども、世間普通に説くところと区域および部類を異にし、通常の教育書において講ぜらるところを述ぶるをもって教育余論」という意味で見て欲しいと断っており、一般講義の体裁をとってはいるが、その中に当時の教育界を背景とした円了自身の教育観が披瀝され、哲学館創立者としての彼の教育への態度を知る上で興味深いものとなっている。

 全体の構成は、「緒論」「学科」「目的」「種類」「方法」からなるが、そのおのおのの内容への言及はここでは省き、円了の教育観の特徴に絞って要約してみたい。

 まず、円了にとって教育とは、「人が自然に備えてある性質を開発発達せしむるもの」とされる。ここでいう「自然に備えてある性質」とは、「遺伝」(「連続性遺伝」と「間歇性遺伝」=隔世遺伝のこと)のことであり、教育環境の優劣によって遺伝形質の発現も左右されると円了は考える。教育のもつ成長発達への「助成」的役割に対する考慮もあるにはあるが、あくまで「遺伝」重視の姿勢に貫かれており、当時の社会哲学を風靡した「進化論」「進化思想」の影響がはっきり現れているといえる。したがって、「文明の今日に及び教育の誘導によりその数代前の英質を発顕して有為卓抜の人豪の起こらざるものにもあらざれば、山陬水奥といえども事情の許す限りはあまねく教育を施さんことを要す」というように教育をできるだけ普及させることを通して、隔世遺伝の「英質」の発顕も可能になると見るのである。

 また、教育学については、「心理学上の原則を人性の発達上に応用するところの手段方法である」と規定し、一貫して「方法の学」として考えており、その目的は、「一個人としての目的」と「社会の一人としての目的」の二種であるとする。このふたつは互いに密接に関係し、「個人の発達」と「社会の発達」は切り離せず、両者は、「二にして一、一にして二なるものなり」と、円了一流のいわゆる「相即の論理」(小林忠秀「井上円了の『哲学』」参照 高木宏夫編『井上円了の思想と行動』所収)に沿ってとらえられている。しかし、両者が利害上で撞着した場合、畢竟、社会の発達、社会への義務が優先されることになり、個人の自立と自由の確立に基づいた社会というよりも、有機的な国家社会の機構内のひとつの部位として「個人」をみる発想にもつながっている。たとえば円了はつぎのような事例をあげて、それを説明している。「国家危急のときに難に走りてこれに死するは、一個人にとりては不利なるも社会に取りては利益なり、(…)国家社会に利益なることは回り回りてわが利となり、その不利なることもまたわが不利となる。すなわちわが身の難に死することを惜しみてひそかに遁逃するも、みなこのようなる心掛けをすれば戦破れ国辱められ、ついには他国の虐政に遇いてその身の生命財産を保つあたわざるに至る。」

 こうした教育目的は、あくまで現世・現実とのかかわりのなかで決められ、その都度の歴史的現実、歴史的状況によって変化するものと考えられており、したがってキリスト教のような超歴史的絶対的普遍に基づく「目的」設定は峻拒されることになる。「ヤソ教のごときは神の命令にさえ従えばその目的を達成すべし」というのでは、教育上において「漫然不確実なること」であると円了は断じ、「理想的人物は文明の進み知識の開くるに従って今世期において完全なる人物を想定するところの目的体は、来世期には不完全なる人物となして更に勝れたる人物を構成することあるべし。かく次第に進みてその究極するところを知るべからずといえども、その一世一代一人において完全なりと考うるところのものは、やはりその一世一代一人において完全なるところの目標なり。」と述べている。この現世主義的歴史主義的発想は、『教育宗教関係論』においても示され、とくにキリスト教に対して仏教の優位を主張する際に、「厭世」的宗教を越えて「愛世」の宗教としての仏教を提起し、これが現今の国家社会の体制と矛盾せず、国体とも合致するとしている。

 教育の「種類」については、「智徳体」の三育をあげているが、さらに「情育」を加えている。いわゆる「知育」「徳育」「体育」に、「情操教育」を入れてとらえたものといえる。

 最後に、円了は、「方法」に言及するが、これは本講の五分の四を占め、『教育上之談話』(明治二二年一一月二八日、哲学館講義録)の内容を敷衍したものとなっている。

 円了によれば、「教育の方法」は、「人為」と「自然」に大別され、「人為」による教育とは、「家庭」「学校」「社会」の教育に分けられ、「自然」のそれは、天文、気候、地形、草木・動物、人口(工業、美術)に分けられるとしてそれぞれ解説を加えていく。

 ここで興味深いのは、円了がすでに哲学館という学校の創立者かつ経営者でありながらも、学校教育を絶対視せず、相対的な観点で他の教育と比較している点である。「学校教育と家庭教育を比すれば、家庭の方は学校よりも肝要なり。」「家庭教育の方法は社会の情状より支配さるるもの多き点より見れば、社会教育は家庭教育より一段強しというべきか。」「学校教育なるものもその実は社会教育の一種となして考うることを得るなり。なんとなれば、学校教則および管理の方法のごときは当時の社会の世論事情に応じて種々に変遷し行くものにして、学校そのものが社会の影響を免れざればなり。家庭教育もその家風または父母が特別の考えよりしていくぶんか他家の風と異にする廉もあれども、その多分は社会の情状に支配せられておるものなり。これをもってこれをみれば、社会教育の範囲はもっとも広大にして、その個人を感化する力実に強大なるものなりと知らざるべからざる。」と言っているように家庭教育を重視し、さらに時代とともに変化する社会の教育環境や教育力に関してもしっかり考慮に入れている。「宗教的教育的事業」を志した円了にとって、学校教育もまたその一環であり、社会教育の重要性を強調していることから見ても、広範な「社会事業家」としての円了像が浮かび上がってくる。明治三九年、哲学館大学長、京北中学校長を辞し、以後「哲学堂」を中心に「修身教会」運動に挺身していく円了の活動には、まさに「社会教育」への強い関心と信念をうかがうことができるのである。

       二 井上円了と第一次「教育と宗教」論争

 「宗教」は、ほかならぬ円了の生涯にわたる根本的テーマであり、「宗教的教育的事業」に従事することを決意した時点からも、常にこの宗教・・「仏教再興」「仏教の近代化」の課題が円了の念頭を占めていた。宗教すなわち仏教について語る円了の語勢は、他の事柄を語るそれよりも強く、覇気があり、攻撃的である。

 『教育総論』では、教育に大きな影響を及ぼすものは政治と宗教であるといい、円了の宗教への改革意識、仏教界の腐敗への嘆き、批判がしばしば披瀝されている。

 「いやしくも僧侶たる者は社会の制裁乏しきに甘んじて自ら改良を企図せざるは、実にその宗祖百辛千苦の余に建立せる行跡に対して大罪人といわざるべからず。あに恥ずべきの至りならずや。(…)今日は仏教部内より人物の往々出でて世間に鳴る者あれども、世間より走りて仏教に入る者まれなり。換言すれば、いにしえは人傑世間より仏教にのがれ、今は人傑仏教より世間にのがる。古今相反するかくのごとき者あり、嘆ずべきの至りなり。寄語す、仏教の信徒諸君いやしくも愛理護国の精神あらば、よろしく奮いて仏教に向かいてその改良を促迫すべし。また仏教の僧侶諸君いやしくも護法愛理の精神あらば、よろしく進みて自家の改良を計画すべし。」

 そして、宗教を今日の学問・学理に適応するように改革し、宗教者、宗教的儀式の改良の必要を訴え、こうした改良を可能にする方策として円了は、政治の力による干渉が必要だといい、国家による「公認教組織」の制度を提起する。これは、政教混同の弊のある「国教」ではなく、「政府がその国の人情風俗、政治国体に適応する宗教を優待して、これによりて社会の安寧を保護し国家の幸福を増進せしむるをいう。」とされる。哲学館創立の趣旨も、まさにこうした宗教界、仏教界の改革への企図を含んでおり、西洋のように大学に宗教専門部がないならば、民間の力で「宗教家の養成法を設け社会を化導して、その改良を任すべき僧侶を教育せざるべからず。」と円了は主張している。

 

 『教育宗教関係論』もまた、『教育総論』とほぼ時を同じくして発表され、特にその表題からもわかるように、当時大きな話題となった「第一次教育と宗教論争」が背景にあり、円了の「論争」に対する態度、かかわりを考え、その後の哲学館の教育方針と円了個人の教育・宗教観を知る上で常に重視される文献となっている。

 本書の三分の一を占める「序論」で、円了は、「護国愛理」の二大目標について説明し、つぎのように述べている。

 「護国愛理の二大目標に達するには、この教育と宗教を興起するより適切急務なるはなし。すなわち国家よりいえば教育を振起せざるべからず、真理よりいえば仏教を再興せざるべからず。しかれども、教育もこれを学問上より研究するには真理と関係し、宗教もこれを実際上に応用するには国家と関係するをもって、図のごとく相互密着の関係を有するものなり。故に教育宗教を振興すれば、これと同時に護国愛理の二大義務を完成するを得べし。

 これはいわゆる宗教と教育との分離を示す図ではなく、まさしく「相互密着」を表したもので、「勅語」「仏教」に最終的に接合し、「教育は勅語に基づき、宗教は仏教を取らざるべからざる。」という円了の基本姿勢・基本方針の説明となっている。さきの『教育総論』にもあったように、円了は、「政治と宗教の分離」の弊害を言いつつ、国家・政府による宗教の保護育成を唱えているが、近代教育の原則としての「教育の世俗化=非宗教化」の歴史的動きと同時に、教育の近代化に含まれて逸することのできない「宗教への寛容」の原則の主張とも解することができるだろう。明治維新後の国家によるすさまじい仏教弾圧、「廃仏棄釈」運動を体験し、仏教徒の悲憤慷慨を身をもって味わい尽くした円了であればこそ、政府に対する宗教への寛容の要請は切実であったに相違ない。ここに、近代的な宗教教育と宗教者養成のための学校の設立と、宗教教育の近代化への構想がある。しかし、このことが反面、国家の政策の誘導となる一面も持っていたのである。たとえば、本書の中で、「単に寺院をもって純粋の宗教組織と考うるも、多少学校そのものの補助を要す。なんとなれば、宗教の信仰には高下ありて(…)下等野蛮の風習は、学校教育の力によりて改良せざるべからず。また宗教の伝導をなすにも学校を盛んにして、宗教家そのものの知識を進歩せしめざるべからず。故に宗教の上にも学校教育は欠くべからざるものなり。」と宗教と学校教育の関係を述べ、さらには学校と国家・政府との関係の重要性を「教育と政治は密着の関係を有するものなれば、政府は学校に干渉してその普及を計り、かつ教育上の国家観念を起こさしむることを望まざるべからざる。」と指摘している。

 ところで、『教育宗教関係論』も『教育総論』もともに第一次「教育と宗教」論争の渦中で出され、両書とも論争に対する円了の態度表明を示したもので、ことに後者では序論の冒頭にそのことが明確に述べられている。この論争は、哲学者井上哲次郎(一八五五~一九四五・・円了の東京大学時代の恩師でもある)が『教育時論』に発表した「教育と宗教につき井上哲次郎氏の談話」において「キリスト教は教育勅語の主旨に反する」と主張したことに端を発し、キリスト教徒、仏教徒、学者、文化人などを広範に巻き込み、明治の日本における大規模な論争となった。教育勅語の発布に伴い、教育の理念をめぐって、「国体」的価値観に対立するキリスト教の価値観が槍玉に挙げられ、勅語派はこの論争を通じ「内村鑑三不敬事件」と同様、勅語の定着化をより一層推し進めていったのであった。

 もとより、仏教徒であり、宗教的教育的事業を志し、西洋哲学、合理思想に基づく仏教復興、仏教界の啓蒙・活性化のために、『真理金針』(明治一九年一二月)以来明治二〇年代の仏教界の理論的旗手として脚光を浴びた円了にとっても「論争」は、無視することのできないものであり、井上哲次郎と同じ「キリスト教排撃」の立場から、勅語を支持し、最終的には、他宗教の排撃を通して仏教勢力の挽回をはかる格好の機会と考えられていたと思われる。『教育宗教関係論』の結論では、以下の五点に分け、キリスト教への批判と仏教の優位性が説かれている。(一)今日わが国の仏教はインド、シナの仏教から全く独立しているが、キリスト教は外国の保護下にあり、日本の独立を侵す、(二)仏教はどの宗派も皇室の尊厳と国体の永続を祈っている、(三)仏教は長く天皇の帰依を受け、この国の歴史を有する、(四)仏教は深くわが国の風俗習慣等の人情に感染している、(五)仏教はわが国の文学美術等の固有の文明を組織する。

 以上の点からもわかるように、仏教の宗教としての独自性、その宗教性をいうのではなく、あくまで勅語の威を借り、天皇制国家イデオロギーから仏教の正当性を間接的に主張しているのである。このことは、仏教という個別宗教自体の信仰および宗教性を希薄化させることにもなり、円了にとってのひとつの大きなジレンマとなっていたともいえよう。

       三 第二次「教育と宗教」の衝突事件と円了

 明治三〇年代のはじめ、教育勅語体制、天皇制イデオロギー自体の再編成が問題となり、井上哲次郎、元良勇次郎等によって既成のすべての個別宗派宗教への批判がおこなわれると、円了は哲次郎に対して『余が所謂宗教』(明治三三年)で反論することとなる。ここでは、既成宗教を否定して、新たな普遍的倫理による個別宗派宗教の吸収をめざす「倫理的宗教」の構想を提起した哲次郎に対し、「倫理」と「宗教」を混同しているものとして厳しく退けている。

 この場合重要なのは、こうした井上哲次郎、元良勇次郎などの議論の背景には、明治三二年の「私立学校令」および宗教教育禁止を規定した「訓令十二号」の発布に見る教育行政の動きと、それに伴う政府の私立学校政策の転換があったことである。後者の訓令の影響力について村上重良は、公立学校のほか、私立学校でも宗教教育、宗教的儀式が禁止され、キリスト教教育のみならず、既存の宗派的宗教教育すべてに対する厳しい圧力となったとみ、表面的には、政教分離という近代教育の「世俗性」を装っているが、実際は、政治と宗教が一体となり、似非中立性にほかならない官製宗教としての国家神道・天皇制イデオロギーに、個別の宗派的宗教教育は包絡され、ダイナミズムを消失していったとする厳しい見方をとっている(『国家神道』岩波新書、一九七〇)。しかし、この「訓令」自体、前者の「勅令」との関係で出されたもので、「勅令」に宗教教育禁止事項がないため「訓令」自体は効力を持たないとする「訓令無効論」が当時かなり優勢で、文部省もそれには屈せざるを得なかったとする久木幸男の精緻な研究がある(久木幸男「訓令十二号と教育」横浜国立大学教育紀要第一三、一四号)。久木によれば、もともと「訓令」にある宗教教育禁止の件は、「私立学校令」のなかに入っていたが、結局、審議の過程で削られ、「訓令」に格下げられたもので、それ故、実質的な効力は極めて希薄であり、キリスト教徒は危機感を持ったが、仏教学校は対象外の扱いを受けていた。したがって、「訓令」にこだわるよりも、「私立学校令」を軸として当時の教育状況と教育政策の転換について考える必要がある。

 「私立学校令」の背景には、日清戦争以後、産業資本主義の急速な発展の中から生じてきた多様な教育要求、人材開発の高まりに対して、官立公立の学校だけではもはや対応しきれなくなり、文部省の教育政策もこれに応じて転換が迫られていたことがある。つまり明治二〇年代のような絶対的な国家教育権思想にのっとった「私学撲滅政策」によって多様な教育要求を切り捨てていては、時代の近代化に逆行すると考えられるようになっていたのである。そして、こうした中でさまざまの対立・論争を経て、「私立学校令」が成立するプロセスは、「撲滅」から「干渉・監督」へと私学に対する文部行政の変化を如実に示すものだったといえる。しかし、「監督」は一層強化され、私学は常に文部省の執拗な監視下に置かれ、教育の自由そのものは著しく奪われていったことを忘れてはならないだろう。ここに、「哲学館事件」への大きな伏線があると考えることができる。ちなみに、哲学館に対して厳しい措置を下した文部省普通学務局長事務取扱岡田良平は、参事官として「私立学校令」審議に参加し、二〇年代型の発想で教育勅語の絶対性を固持し、「私学は国家の経営の一部分を代用している」とする代用論で私学の独自性を否定する私学撲滅論を展開した人物だった。

 こうした時代状況にあって、「教育勅語」の絶対性も大きく揺らぎ、それを支えた明治二〇年代型の国家教育権思想自体もまた、三〇年代型の教育の自由化の思潮が活発になるにつれて後退を余儀なくされていく。かつて『勅語衍義』を著した天皇制教育の理論的推進者で、第一次「教育と宗教」論争を通して実質的な勅語の普及の立て役者だった井上哲次郎も、勅語に関しての新たな解釈の転換を迫られる事態となっていた。つまり、資本主義化に伴う個人主義思想の台頭と「アノミー」の増大に、もはや「勅語」は旧世紀の遺物と化し、二〇世紀にふさわしいかたちで天皇制の教育理念も再編成されなければならなくなっていたのである。

 明治二六年に『教育宗教関係論』において「教育は勅語に基づき、宗教は仏教を取る。」と主張した円了も、「私立学校令」「文部省訓令第十二号」による学校教育での宗教教育が禁止されるといった時代状況に際会していた。こうしたなかにあって、円了の勅語釈義、『勅語玄義』(明治三五年一〇月三一日)が発表されたのである。

 

 仏教界の動向を見てみると、明治二〇年代は、学理、哲学、科学などによって仏教界・仏徒の啓蒙、近代化することをめざし、「キリスト教」勢力と対抗していたときであり、円了が「教育的宗教的事業」の大志に燃えて、東京大学を卒業しつつも、在野にとどまり、哲学館を創立するのも、ちょうどこの時期と重なっている。しかし、明治の三〇年代になると仏教界は、一方では目を内に向け、自己の思念の深化発展を追究する方向へ動きはじめる。

 本巻に収録した『勅語玄義』は、明治三五年一〇月三一日に発刊されており、すでに勅語発布から一二年、あまたその釈義書があるなかで、あえて「玄義」と銘打って、この四七頁の小冊子が上梓されたのである。

 世間に流布する数々の勅語衍義を尻目に、円了は冒頭でその意図をつぎのように開陳している。「勅語はその文字わずかに数百字に過ぎざるも、その中に包含せる意義極めて幽玄深長にして、容易にうかがい知ることあたわざれば、その意を開示して、聖諭の有り難くかつ尊きことを知らしめんと欲し、かくのごとき数種の衍義あるを見るなり。しかるに余は積年勅語を反覆丁寧に拝読し、また諸家の衍義を通覧するに、いまだ一書の真意を開説し尽くせるものあるを見ず。」世間の勅語衍義は、その表面の意義を解するにとどまっているが、自分は「不肖ながら裏面の真意の一端をうかがい得たりと信ず。」と言い、前者を「勅語通義」、後者を「勅語玄義」と呼んで区別をつけている。

 なによりも円了の論旨の特徴となっている点は、簡潔にいえば、相対的忠孝が、絶対的忠に収斂されていく構造を勅語の文章構成から導出していることである。円了によれば、わが国の国体を支える特有の道徳は、もとより深遠幽妙で、中国の古典に表された道徳(孔子、孟子など)を学んでも知ることはできず、ある日本に固有の道徳性、「大道」があってはじめて可能となる。この「大道」は国体の源であり、精神の上からすれば、「日本魂」「和魂」といえるもので、この精神が、外界に向かって発現するとき、諸外国にも共通するさまざまの相対的忠ではなく、皇室に対しての「絶対的忠」と呼べるものとなると主張する。「わが国特有の道徳はこの魂が皇室に対して尽くすところの大義名分に外ならざれば、その道たるや一種特有の忠すなわち絶対的忠なること明らかなり。」したがって、この精神における「日本魂」と人倫における「絶対的忠」が「因」となり、「果」として「天壌無窮の皇室」が存在するのだと円了はいう。

 具体的な勅語の読み方では、円了は、勅語の文言を、「爾臣民」以下ひとつひとつ意味のまとまりに分節化し、それを「忠」と「孝」の二種のカテゴリーに分け、このふたつの「相対的忠」と「相対的孝」が、「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という「絶対的忠」においてひとつに吸収、統合させていくと解釈している。円了の読み方では、「爾臣民」以下の文言のすべては、「以テ」で受け止められるとされ、この「以テ」が「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」だけを受けるのではないと言い切っており、「某氏の勅語衍義」(末松謙澄『勅諭修身経詳解』明治二四年一一月九日、精華会)では、「爾臣民」の勅語に「天皇ニ忠ニ」を補って解釈すべきだとしているが、円了はこの意見には反対している。この場合、彼は、親への孝行を、皇室国家への忠誠に連続的かつ無媒介につなげているのだが、私的領域の前者と公的領域の後者は、実際、緊張状態にあり、矛盾する面をもっており、円了自身「相対的忠にあっては、忠は孝に対し、孝は忠に対し、忠孝対立する。」と述べている。しかし、あくまで円了にとって、「相対の忠と孝」は「忠孝相合して一となりたる高遠玄妙の忠」(「絶対的忠」)において「融和」するのである。このように、いったんは孝と忠において忠誠上の対立が生じることを考慮しつつも、終局的には忠孝一致へと到達していく。この背景には、皇室を自然的家族の延長ととらえる、「臣民は皇室の分家末孫」「皇室はわれら父母の家」「天皇陛下はわれら臣民の父母」といった家族国家観的考え方がみられ、また、円了独特の思考パターンといわれる天台宗の「相即の論理」が働いているとも考えられる。小林忠秀は、これについて「相即の論理は相矛盾する事物ではなく、少なくとも一見するところ相対立する事物を、相互依存あるいは相互内包という関係性のもとに包摂して理解する論理」だと指摘している。この論法の問題点については、明治期の哲学者大西祝が、「哲学一夕話第二編を読む」(『六合雑誌』明治二〇年七月三一日、第七九号)と題した書評で、厳しい批判を行っているが、それによれば、円了の論理の流れは「唯物論と唯心論と有神論と不可知論とを合したる化合論なるべし。先生〔円了のこと〕はいかにこれを合し得るか。」と疑問視され、これに対して大西は「余はひそかに疑う、円了先生は水と油とは混合せんと欲するものにあらざるかを。先生の説はなはだ明らかならざるところあり。」と率直に言い切っている。大西の批判の主眼は、円了の「相即の論理」が持つ「無媒介性」に向けられ、媒介への問いが全く欠如していることを問題にしているといえる。

 また、宗教的主張の面では、肝心の仏教は、「この絶対的忠を国民に知らしむるには、いずれの教えが最も適するかと考うるに、ヤソ教の道徳のごとき忠孝をもととせざるものにては、あるいはこの大道を示すこと難かるべきも、ひとりわが国に久伝固有せる神儒仏三道によれば、この玄義あやまることなきを得べし。」というように後景に退いてしまい、「絶対的忠」を伝えるのに適したものとして神道、儒学とともに並記されるにとどまっている。

 

 以上、本巻所収の円了の教育関係の著作について解説したが、円了は哲学・宗教・妖怪学など多岐にわたる分野に多くの著作を持っている。その中で、直接に教育を主題にした著作の数は、比較すれば極端なまでに少ない。その理由は、前述したように教育学が円了の担当科目でなかったことや教育が実践の対象であったことなどによると考えられる。したがって、飯島宗享が「円了の思想を考察するには論著に見える文字だけでなく事績に表はされているものを合わせて考える必要」があり、「こと『教育』という段になると、円了の場合ことにそうであり」と指摘しているように、円了の教育観については他の分野の著作の検討も必要であることを、最後に付記しておきたい。