2.南船北馬集 

第十四編

P107--------

南船北馬集 第十四編

 

1.冊数

 1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)

 188×127㎜

3.ページ

 総数:137

 目次:〔1〕

 本文:136

(巻頭)

4.刊行年月日

 底本:初版 大正7年1月28日

5.発行所

 国民道徳普及会

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大阪府巡講日誌

 大正六年二月二十三日 穏晴。三河国より夜行に駕し、朝五時半、大阪駅着。天いまだ明けず。待合室にて休憩すること一時間半、これより腕車にて難波駅に至り、電車に乗り込み、泉州浜寺駅に降り、一力楼に入る。これ関西における屈指の大旅館兼料理店にて、客室を有すること百以上に及ぶ。しかしてその連楼は地下トンネルをもって接続をなすの装置あり。ともに白砂青松の間に介立して、海に面し山に対す。六甲および淡州の連山と海を隔てて対座し、呼べばまさに答えんとする勢いなるはすこぶる壮観なり。左に拙吟一首を録す。

泉南一路似仙関、家在松青沙白間、望裏烟消海開畵、風帆影外淡州山。

(泉南の一路は仙人が住む地への関にも似て、家は青々とした松や白い砂の間に点在する。一望するうちにかすみも消えて海は画をくりひろげるごとくひらけ、風にふくらむ帆影のかなたに淡路の山がうかぶ。)

 午後、車行十四、五町、泉北郡高石町〈現在大阪府高石市〉不断寺に至りて開演す。発起者は念通寺住職奥野寛了氏を主とし、円満寺および不断寺なり。演説後、浜寺に帰館す。

 二十四日 温晴。春靄、遠山をおおう。車行半里弱、鳳村〈現在大阪府堺市〉に移る。ここに官幣大社大鳥神社あり。毎年八月十三日官祭を行い、四月十三日花摘祭をなすという。また、当所は郡役所所在地なり。会場は郡会議事堂、主催は郡教育会にして、郡長木村亶氏、課長中村文一氏、視学物部豊太郎氏等尽力せらる。宿所正覚寺住職河野直道氏および鞆津観遇氏も助力あり。哲学館出身仲村隆賢氏は西陶器村より来訪せらる。

 二月二十五日(日曜) 温晴。郡書記船富安次郎氏の先導にて車行一里半、大津町〈現在大阪府泉大津市〉に移る。会場および宿所は縁照寺なり。郡内はすべて郡教育会の主催なれども、当地にては小学校長小川貞吉氏、住職横田乗誓氏も発起者中に加わる。大津町は大阪府下第一の織物産地にして、綿毛布の産額ことに多し。その工場、数百ありという。動力は多く電気を用う。工女の日給は弁当持ちにて三十銭より七、八十銭なる由。

 二十六日 晴れ。車行二里余にして南池田村〈現在大阪府和泉市〉三林に至る。途中、国府村字府中泉井上神社の前を過ぐ。その境内に清泉を噴出する所あり。この水が泉州の国名の起源なりという。車をとめて一見するに、泉底涸渇して一滴の水なし。聞くところによるに、夏時にあらざれば満水せざる由。南池田の会場は小学校、宿所は大金楼なり。しかして発起は村長野崎織之進氏、助役門林昊臣氏、校長勝井甚三郎氏なりとす。本村は蜜柑の産地にして、その味は紀州有田をしのぐの評あり。一年の産額十万円という。本年は数十年来の豊作なりとて価いたって安し。路傍の売店に一山百文と題するを見るに、一個二厘ぐらいの割合に当たる。暮天、雨を催しきたる。西国札所四番観音、槙尾山へは山路二里ありと聞く。また、池田村の隣村に仏並と父鬼との地名あるは一奇なり。

 二十七日 雨。車行三里、深井村〈現在大阪府堺市〉に至る。純農村なり。午後、小学校にて開会す。村長奥中徳三郎氏、校長西野清太郎氏等助力あり。宿所は極楽寺なり。

 泉北郡巡講は今日をもって終わりを告ぐ。泉南郡は先年すでに巡了せしことあり。これより泉州を去りて河内に移らんとするに当たり、聞き込みたる言語、風俗の一、二項を挙示せんに、泉州にて童謡の「御月様いくつ」を「十三一つ」という。しかして大阪にては「十三七つ」なり。地震のときに「ヨナオシヨナオシ」と呼ぶ。これは京阪地方一般なるがごとし。小児らが数をかぞえるに、東京にて「チュウチュウタコカイナ」というところを、泉州にては、

  丁〔チョウ〕 キー ター カイ 十〔ジュウ〕ヤ

という由。二十個をかぞえるときは二個ずつ取りて、東京にて「ハマクリハムシノドク」というに、泉州にては、

  ヒニ フニ 達磨ドンハ ヨルモ ヒルモ 赤イ 頭巾 カツギ トーシタノー

と呼ぶはおもしろし。神社の祭礼につきては、石津村の恵比寿社に裸体祭りあり。また、摂州に属すれども、旧六月十四日の住吉祭礼に参拝するものは、海中に入りて足を洗うを例とす。かくすれば腫物ができぬとの伝説ある由。泉州地方は自宅に風呂を有せず、すべて湯屋に行く風ありと見えて、旅館まで浴場を有せざるもの多し。

 二十八日 晴れ。早朝、中村郡書記が郡長に代わりて来訪せらる。午前、深井村を去るときにほらを吹く音を聞く。ときに山伏が裸体になりて村内をめぐり、毎戸寒水をかぶりて走るを見る。車行二里、高野鉄道を横断して南河内郡黒山村〈現在大阪府南河内郡美原町〉に移る。会場は小学校、主催は本郡西部教育会なり。会長小池清吾氏および各村長、校長等尽力あり。宿泊所は饅頭屋と名付く。人をして菓子屋かを疑わしむ。郡長武藤剛氏は視学和佐盛三郎氏をしたがえて出席せらる。この日、天晴るるも風寒し。当面の高嶺、白雪をいただけるは金剛山なり。郡内いたるところ楠公〔楠木正成〕の遺蹤存するも、多忙のために討尋するのいとまなし。よって所見一首を賦す。

泉北河南春信遅、山風帯雪冷侵肌、楠公遺跡尋無暇、遥仰金剛想往時。

(泉北と南河内の春のたよりは遅く、山から吹く風は雪をもよおして肌をさす冷たさがある。楠公の遺跡はたずねたくても時間がなく、はるかに金剛山をあおいで、その当時を思いみたのであった。)

 三月一日 晴れ。寒気なお厳なり。車行三十丁、西村駅より乗車、長野駅に降りる。これ大阪より高野山麓に通ずる鉄道なり。会場兼宿所たる長野町〈現在大阪府河内長野市〉極楽寺は丘上に座する大伽藍にして、大念仏宗中本山の称あり。仏堂、客室ともに闊大、郡内屈指の大坊とす。主催は南部教育会(会長追矢麟之亮氏)および南部自彊会(会長清原章山氏)にして、その部内の町村長、校長および宗教家、みな尽力あり。自彊会は本郡内の各宗寺院の連合より成る。すなわち宗教家連合して戊申詔書の聖旨を普及開達する会なる由。本日また、武藤郡長は多忙を排して出席せらる。近村天野村小山田は小楊子製作専門なりと聞く。けだし上総の久留里と楊子界の東西の両大関ならん。また、隣村に鬼住の地名あり。極楽寺と相対してその名おもしろし。楠公の首塚は長野駅より三十丁、潮宮鉱泉は八丁ある由なり。

 二日 晴れ。長野より汽車にて二十分、富田林町〈現在大阪府富田林市〉に至る。同駅に楠氏遺跡里程表ありて、左のごとく表記す。

千早城址へ三里三十二丁、楠公遺物陳列所(水分神社)へ一里二十八丁、赤阪村楠公誕生地へ一里二十五丁、歓心寺楠公首塚へ三里九丁、駒ケ谷楠公墓地へ二里一丁、天野山金剛寺へ三里十九丁。

 しかして楠公誕生地までの人車賃、片道三十八銭、往復六十三銭とあり。富田林を中心として周囲に遺跡散在す。その他歴史上の古跡多きこと、本郡は大阪府下にて第一に位すという。午前、中学校にて講話をなす。校長は秋田実氏なり。午後、小学校にて開演。主催は東部教育会にして、会長は尋常校長葭原善暁氏とす。高等校長青谷耕造氏、その他各村校長ともに尽力せらる。宿所は旧家杉山長三郎氏宅なり。当町には酒造家、材木屋多しという。

 三日 晴れ。朝、実科女学校にて講話をなす。郊外新築の校舎にして、門側に学校下車駅あり。校長は榛沢常人氏とす。これより軽便に駕して道明寺駅におりる。その駅より玉手遊園へ五丁、五番札所葛井寺へ十八丁、土師神社すなわち道明寺天神へ二丁あり。会場は天神社内の社務所〔道明寺村〈現在大阪府藤井寺市〉〕なり。南坊城良興氏その宮司たり。主催は北部教育会にして、小学校長安井太一、黒岡勝造、奥田兵太郎、宮井積造、辻楠三、松倉貫蔵の六氏、ともに大いに尽力あり。しかして郡内各所の開会に関し、郡役所より多大の配意をかたじけのうせり。この日、天神社内梅花満開、清香馥郁たるを見て一吟す。

菜圃縦横路短長、雲間留雪是金剛、占春只有道明寺、梅繞社頭香満堂。

(菜園が縦横につらなり、道は長短それぞれであり、雲間に雪をとどめているのは金剛山である。春をひとりじめしているのは道明寺であって、梅が道明寺天神社をめぐって咲き、その香りが堂に満ちている。)

 当社より乾飯にて製したる名物道明寺を出だす。宿所梅迺家は門前唯一の旅館にして、入口の扁額に宿泊料をいちいち短冊に記して掛けおくは新意匠なり。一等一円五十銭、二等一円、三等八十銭とあり。

 三月四日(日曜) 晴れ。朝、道明寺発の軽便に駕し、柏原にて換車、天王寺にて下車、これより腕車を駆ること一里半にして、大阪市〈現在大阪府大阪市〉北区西寺町寒山寺に着す。当寺は新築すでに成り、堂内整備せるを見る。開会は午後および夜分二回なり。発起者たる住職細野南岳氏は哲学館出身にして、十二年前シナ安東県において会せし以来はじめて相遇う。その夕は北区天満相生楼にて、哲学館および東洋大学の同窓会あり。左の十七人出席せらる。

  伊賀駒吉郎  沖田 虎一  釈  日遵  古田虎次郎  勝見 見成  玉出 諒円  中内 源馬

  藤園 静慶  日種 観明  岡田 英定  間人 一郎  今治 代治  細野 南岳  高安 博道

  潮田 玄丞  佐々木竜順  大富 秀賢

 高安、潮田、佐々木三氏、幹事の任に当たらる。

 五日 晴れ、ただし風強し。朝、寒山寺を発して市街を一過し、湊町駅より関西線に駕し、八尾駅におり、これより車行一里にして、中河内郡大正村〈現在大阪府八尾市〉字太田に着し、願立寺において昼夜ともに開会す。住職鷲康勝氏は日露戦役の際、万死に一生を得たる人なり。主催は鷲氏にして、発起は柏原仁兵衛氏、柏原槙松氏、橋内彦兵衛氏、巽友治氏、高橋賀三郎氏、植田藤四郎氏にして、ともに大いに尽力あり。宿所橋内氏は酒を絞る袋を製造す。その名を欲袋というはおもしろし。余、狂歌をよみてこれに題す。

  橋内の袋の外に袋なし、天下の富をしぼり取るには。

 これ欲袋の注釈に当たるべし。柏原氏は旧家にしてかつ篤志家なり。しかも哲学に趣味を有せらる。

 六日 晴れ、ただし風寒し。郡書記木下信一氏の案内にて太田を発し、八尾を経て楠根村〈現在大阪府東大阪市〉に至る。道程三里余、会場は小学校、主催は村長石井庄右衛門氏、宿所は坂元氏の宅とす。稲川佐吉、高林市太郎両氏も発起に加わる。本村は工業地にして、貝ボタン、タオル、シーツ等を製造す。村内にて職工に払い渡す給料の額は一カ年二十五万円に達すという。したがって諸方より寄留するもの多く、人心一致を欠き、郡内の難治村の評ありと聞く。

 七日 快晴。朝気寒強く、田水氷を結ぶ。車行二里にして枚岡村〈現在大阪府東大阪市〉に至る。演説前、村長山口喜三郎氏の案内にて歩すること三、四丁、石切神社(剣箭神社)に詣す。遠近より腫物患者きたりて祈祷を請う。これより電車にて瓢箪山稲荷に詣す。その社は辻占をもって世間に名高し。大阪市中にて瓢箪山恋の辻占というはこのことなり。更に電車によりて官幣大社枚岡神社に参拝す。これ日本最古の社なりという。その社より年中の晴雨を予占せる表を出だす。社畔の高地に梅園あるも、昨今いまだ満開に至らず。しかし遠近の眺望すこぶる佳なり。よって一詠す。

瓢箪山又枚岡宮、登拝回頭望不窮、泉野河田晴愈濶、阪都独在炭烟中。

(飄箪山と枚岡神社、のぼって参拝し、ふりかえって望めば果てもない。泉州の野の川も田も晴れていよいよ広く、大阪のみは炭煙のけぶるなかにある。)

 午後、浄土宗玄清寺において開演す。主催は郡教育会、発起は村長および住職杉森貫隆氏、校長西田謹三郎氏、助役築山勘解次郎氏なり。本村には針金およびブラシ工場あり。また、ステッキを製作す。築山氏より上等ステッキを恵与せらる。また、田地も良田多く、一反につき四石の収穫あり。小作料は夏作(米)一石八斗、冬作(麦)一石二斗を地主に納むと聞く。元来、枚岡の地は伊勢参宮街道に当たり、生駒山脈のクラガリ峠を越えて大和に出ずる駅路なりしが、近年トンネルをうがちて電車を通ず。その長さ一万数千尺、これを一過するに七分時間を要す。日本最長のトンネルの評あり。枚岡近傍の名所として生駒聖天ありとのことなれども、これに詣するの余暇なし。また、二十四、五町を離れたる所に往生院六万寺あり。その境内に楠木正行の墓ありと聞けど、これまた参拝するを得ず。

 八日 晴れ。朝時、春寒なお強く、室内〔華氏〕三十八度なり。電車にて大阪に至り、更に汽車にて吹田に降り、車行一里にして味生村〈現在大阪府摂津市、吹田市〉に着す。その隣村には味舌村あり。いかなる珍味多き土地なりやと聞くに、その名産はうどなりという。味生の会場は小学校、主催は青年会、発起は村長大西多次郎氏および校長根来伊之助氏なり。大西氏の宅にて一休の後、車を駆り、吹田を経て大阪に移り、西寺町浄土宗冷雲寺にて夜会の講演をなす。主催は慈教青年会と明照婦人会にして、発起は谷田探海氏と志水法道氏なり。当夕、志水氏の住せる法界寺に宿す。

 九日 雨。湊町より汽車に駕し、平野駅に降り、車行一里半にして中河内郡松原村〈現在大阪府松原市〉に至る。途中、大和川に架する朽敗せる明治橋を渡る。やや危険の思いを浮かぶ。本村は農村にして木綿織を副業とす。会場は小学校、主催は郡教育会、宿所は西得寺、発起は住職千賀了岩、村長保田佐久三、校長千賀了隆三氏とす。夜に入りて暖加わり、雨ますますはなはだし。

 十日 雨のち晴れ。車行約二里、八尾町〈現在大阪府八尾市〉中学校に至りて、午前講演をなす。校長は奥平市内氏なり。この校には大学予備門当時の旧友秋山鋼太郎氏教鞭をとらる。また、旧識佐竹制心氏に会す。これより半里ばかりにして竜華村〈現在大阪府八尾市〉小学校に移り、午後更に開演す。これ郡教育会の主催にして、村長野村新三郎氏、校長中矢浅次郎氏、学務委員武田一郎氏の発起にかかる。郡長黒木吉郎氏、視学山口喜三郎氏ここに来会せらる。宿所は郡内の名刹たる下の太子真言宗椋樹山勝軍寺なり。往古、聖徳太子、〔物部〕守屋と戦いて勝ちを得られし旧跡とて、庭内に老いてまさに朽ちんとする神椋あり。太子の身を擁護せし樹なりと伝う。その葉はこれを煎じて用うれば腫物に特効ありとの伝説より、これをもらい受くるもの多し。門前には守屋の血洗池あり。また、門側一丁離れたる所に守屋の墓あり。所感の即吟一首を左に録す。

椋樹山辺憶往時、上宮太子跡猶遺、二千年古勝軍寺、今日依然守屋池。

(椋樹山勝軍寺のあたりにすぎ去ったその当時のことを思う。聖徳太子の旧跡がなお残されている。二千年の古い勝軍寺、今日もなおかつてのままに守屋の血洗池が残されている。)

 三月十一日(日曜) 快晴。車行一里弱、東成郡平野郷町〈現在大阪府大阪市東住吉区・平野区〉に移る。融通念仏宗本山所在地なり。本山は二十年前祝融の災にかかりし後、再建いまだ成らず。会場小学校は百坪以上の大講堂を有す。応接所も新設にしてすこぶる清麗なり。宿所は満願寺(浄土宗)、発起は前橋清縁、島田日哉、鷲谷善巧、清秀円、新田義元五氏とす。真言宗上田聖道氏は哲学館出身なるが、哲学堂へ特別の寄付あり。当町は三千人の工女を使用する紡績工場を有す。

 十二日 晴れ。平野を発し、天王寺駅および大阪駅にて両度換車して、京都府宇治郡山科村〈現在京都府京都市山科区〉に至る。上田氏、京都まで送行せらる。会場は勧修小学校、主催は郡青年会、慈教会、教育会連合にして、発起は郡長林田民次郎氏、慈教会長多田実円氏なり。演説後、醍醐三宝院に詣し、書院および庭園を参観す。いずれも古色を帯びて極めて清雅なり。所見一首を賦す。

洛東春色転蕭寥、茶麦田間路一条、知否醍醐三宝院、寒庭水石勝花朝。

(洛東の春はなおいささかものさびしく、茶と麦の畑の間に一本の道が通る。人々が知っているのかどうか、醍醐三宝院の寒々とした庭の水石のおもむきは花の咲く朝にまさると。)

 境内広闊、喬松群立、五重塔も林中に埋没して、村外より望見するを得ず。宿所籾井実三郎氏の宅にて郡内の方言を聞くに、女子が己を指してアテという。アーオカシというべきをアッキャラという。京都付近は一般に不真面目のことをチャンバラという。小児らが数をかぞえるにチュウチュウターカイノトウという由。ついでに所聞のままを記さんに、丹波にてはチュウチュウタコカイノトウといい、神戸にてはチュウチュウタマカイノトウといい、江州にてはチュウチュウタワカイノトウという由。いずれも大同小異なり。宇治郡は名のごとく宇治茶の本場にして、製茶を本業とす。山科駅より山科御坊まで二十一丁、大石良雄隠栖跡まで十一丁、明智光秀の墓まで七丁、三宝院へは十五丁ある由。

 十三日 晴れ。にわかに春暖を催し、日中〔華氏〕六十度に上る。午前中に大阪府三島郡吹田町〈現在大阪府吹田市〉に移り、朝日ビール会社工場内を一覧す。場長根上耕太郎氏案内せらる。ビール瓶の製作のごときは一日三万個を造出する由。そのありさまは飴細工に似て、見るものをして大いに興味を感ぜしむ。ビール醸造高一カ年七、八万石ないし十万石という。庭内に旭神社およびビヤホールありて、一コップ一杯の価五銭なり。余、狂歌をよむ。

  ビール飲むなら朝日に限る、誰れも吹田と云て居る。

 当夜は小学校講堂にて開演す。町長川端信次郎氏、校長山本喜太郎氏等の発起なり。郡長笠井英一氏、視学安野実氏、ここに来会せらる。宿所は駅前山下市松氏宅とす。このごろ宇治黄檗山隠元禅師へ大諡号下賜せられたりと聞き、一詩を賦呈す。

檗山陰鬱久難開、御忌今年春漸催、皇日漏輝九重上、恩光照到隠元梅。

(黄檗山はほのぐらく、久しく開かれることはない。御忌は今年の春にようやくとり行われた。おおいなるひかりは宮中にまでもれいたり、皇恩の光は隠元の梅に至ったのである。)

 十四日 春雨糸のごとし。汽車にて茨木駅に降り、更に車行一里半、三箇牧村〈現在大阪府高槻市、摂津市〉小学校に至り、午後開演す。当校は淀川に瀕し、北河内枚方と相対して河内の連山を望む。また、堤上に桜樹の列をなすあり。田間には柳行李の原料を培養す。村内には素封家多し。校長、片山清暁氏は四、五年前、但馬にて会せしことあり。宿所は村長奥田稔五郎氏の宅なり。発起には村長、校長の外に社司前川種三郎氏も加わる。

 十五日 晴雨不定。午前、堤上車行一里余にして如是村〈現在大阪府高槻市〉に入る。途中野梅満開、鴬語喈々たり。所吟一首あり。

澱江隄外路横斜、三月霜威圧麦芽、転入孤村白囲屋、摂陽春色在梅花。

(淀川のつつみの上、道は横ざまに走る。三月の霜はなお麦の芽をおさえているようだ。ぼつんとある村に入れば白い花が家屋をとりかこみ、摂津の南の春は梅の花にあるのだ。)

 会場常見寺は本願寺執行長利井明朗氏の寺なり。山内に行信教校ありて、六十名の学生ここに修学す。発起は村長入江保太郎氏、助役杉政栄太郎氏、および高谷、田村、堀、高崎、松本五氏なり。午後車行一里、清水村〈現在大阪府高槻市〉に移り、信用組合事務所楼上にて開会す。ときどき寒風ミゾレを吹ききたる。主催は校友会、発起は村長山下卯三郎氏、助役一橋門太郎氏、校長郡正民氏、ほか十名なり。宿所清水屋は土地不相応の旅館との評あり。本村は日本第一の寒天製造地にして、一カ年の収入額五、六十万円と称す。しかしてその製法は五、六十年前より伝わるという。目下、主として外国輸出品を製する由。

 十六日 晴れ。日暖かなるも風寒く、雪片の晴天に舞うを見る。車行一里余、阿武野村〈現在大阪府高槻市〉に至り、午前、小学校にて開会す。郡書記岡市正人氏出席せらる。主催は村教育会および青年会、発起は村長向井直太郎氏、松村嘉一郎氏とす。午後、安威川に沿いて渓間にさかのぼること一里余、石河村〈現在大阪府茨木市〉字大門寺に至り、更に峻坂五丁を攀じて寺門に入る。寺号もまた大門寺なり。その門いたって小にして名実不相応なるも、寺格高く寺禄多しという。真言宗なり。庭前眺望絶佳、書院に座して、近く三島郡の平原より遠く河内の連山を眼中に納め、金剛山のひとり嶷然たるを望む。本日は会場を聞き誤り、円福寺に至るべきを大門寺に着す。この両寺の間一里余の山脈を隔て、車馬通ぜざれば、急に会場を大門寺に変更することになり、開会は夜景に入る。かかる山腹の一蕭寺なるも、電灯の設備あるは文明の恵沢というべし。本村の特産はうどにて、その目方一本三百目ないし四百目ぐらいなるものありて、大根にひとしという。

 十七日 晴れ。春寒料峭を覚ゆ。寒温儀〔華氏〕三十七度。大門寺をくだり、行くこと一里にして茨木町〈現在大阪府茨木市〉に着す。午前、女学校にて講話をなす。校長は竹原啓吉氏なり。午後、郡役所楼上にて開演す。これ郡青年会の主催にして、郡役所の発起にかかる。宿所は鮒喜旅館なり。

 三月十八日(日曜) 曇り。車行一里半、山田村〈現在大阪府吹田市〉に移り、午後、小学校にて開演す。主催は村教育会、発起は村長馬場善太郎氏、校長小野栄一氏、助役吉川昌一氏、休憩所は村役場なり。日暮れんとするとき更に車をめぐらすこと約一里、三宅村〈現在大阪府茨木市、摂津市、吹田市〉小学校に移りて開会す。当夜、雨を催しきたる。主催は村教育会、発起は校長木岡広吉氏、宿所は阪口安太郎氏宅なり。この両村とも純農村なるが、冬期の副業として山田の方はアサウラ草履のアサアミ業、三宅の方は藁蓆製作業を営むという。要するに三島郡は大阪市に接近すれども、工業地にあらずして農業地なり。吹田麦酒会社を除く外は工場らしきものなしという。

 十九日 雨。車行約一里、岸部村〈現在大阪府吹田市〉小学校にて午後開演す。主催は村青年会および軍人会にして、発起は村長奥田千万造氏、校長植田竹三郎氏なり。しかして宿所は丸兵亭なり。本村の名物は鴨なりと聞く。村内に沼池あり、鴨多くきたり集まるという。

 二十日 晴れ。行くこと二十余町にして吹田駅より乗車、梅田より宝塚線電車に乗り換う。豊能郡より郡書記山田吉太郎氏、哲学館出身勝見見成氏、および藤山松雲氏の出迎えあり。諸氏の案内にて岡町駅に降車し、豊中村〈現在大阪府豊中市〉役場にて休憩し、午後、公会堂にて開演す。郡役所より首席郡書記黒山義宣氏および書記田井已之助氏来会せらる。村長は山上国三郎氏なり。本郡各所の主催は和協会にして、郡内各宗寺院の連合より成る。しかして会長は郡長竹内実氏にして、幹事は細井憲道氏とす。よって郡役所と寺院との合同の発起にして、町村長これを助くるものなるを知る。当地には屠牛場あり。創立以来一万頭を屠殺せりとて、明日、牛の供養会を営むという。この夕、電車にて池田町に移り、浄土宗西光寺に宿し、郡長竹内氏等と会食す。

 三月二十一日(春季皇霊祭) 晴天なるも風やや寒し。二里の間電車(能勢線)、更に四里の間腕車を用い、歌垣村〈現在大阪府豊能郡能勢町〉に至る。途中、兵庫県内を通過す。この地方はもと能勢郡と称し、渓山の間に別寰をなしおれり。山深く谷長きも、本日は彼岸中日なりとて妙見山に登詣するもの多し。猪名川上流には水力発電所あり、また採鉱所あり。東郷村字野間稲地に大槻、その幹の周囲約六間に及ぶものを見る。会場は歌垣小学校にして、往復とも郡書記田井氏案内せらる。歌垣より汽車線路に出ずるには丹波亀岡を最も近しとす。その里程三里にして、やや平垣なりという。村内栗林多し。丹波栗の名をもって輸出さるるならん。帰路、渓頭に老婆の夕日に対し、合掌礼拝せるを見て一詠す。

客中今日会春分、暁破摂山深処雲、能勢渓頭暮天霽、老婆西向拝斜曛。

(旅の途中でこんにち春分の日にあう。暁の光は摂津の山のおく深いところにわだかまる雲を破ってさす。能勢の谷のほとりに暮れかかる空は晴れ、老婆の西方に向かい、落日に手を合わせるを見たのであった。)

 当日、夜に入りて池田町〈現在大阪府池田市〉西光寺に帰宿す。竹内郡長、黒山首席も来訪せらる。

 二十二日 晴れ。午後、池田師範学校において講演をなす。聴衆二百に満たざるも盛会と称す。聞くところによるに、池田町は二千戸以上を有する都会なるも、演説会に聴衆の少なきをもってその名高く、毎会聴衆二、三十人を常とし、百人以上は盛会なりという。哲学館出身勝見、藤山両氏も来問あり。本郡内は郡役所および和協会の非常なる好意と尽力とにより、哲学堂維持金のごときは格外の多額を拝受し、ただに府下における第一の成績を得たるのみならず、全国において稀有の好結果を見るに至る。これ大いに特筆して感謝の意の表示せざるべからず。故をもって、揮亳所望の枚数したがって多く、連日連夜揮毫に忙殺せられたり。

 二十三日 雨。車行二十町余にして細河村〈現在大阪府池田市〉松雲寺に移る。その寺は名のごとく青松白雲の間にありて、宗門は臨済宗、寺は林際寺というべし。堂宇小なるも境静かにして、道心を修養するによろし。住職勝見氏は哲学館出身のかどをもって、郡内開会に奔走斡旋するところ多し。また、郡書記山田、田井両氏は郡内開会の主任に当たり多大の労をとられたるは、ともに謝するところなり。本村の会場は小学校、主催は和協会および青年会、発起は村長沢田太兵衛、久安寺住職国司暠相、円成寺住職山脇義空等の諸氏なり。国司氏は篤志家をもって名声嘖々たりという。

 二十四日 曇りのち晴れ。朝、松雲寺を発し池田駅に至り、山田郡書記と勝見氏とともに電車にて大坂を経、西成郡豊崎町〈現在大阪府大阪市北区〉長柄鶴満寺に移る。寺内に図書館あり、境内に桜樹ありて、寺名とともに府下に知らる。住職長谷川真徹氏は宗教家にして教育家を兼ね、図書館のごときは全く独力の経営にかかる。その宗門は天台宗真盛派なり。この長柄地方は大阪工場の中心に当たり、煙突林立、煤煙天を覆う。したがって職工四方より雲集し、人情、風俗を紊乱するの恐れありとて、ときどき精神修養の講演を開く由。当日の講演は夜会にして、主催は青年会、発起は長谷川氏の外に安達新太郎、長尾徳太郎両氏とす。本郡長吉住元策氏は視学三宅春馬氏を伴い出席せらる。

 二十五日 晴れかつ風。早朝、電車にて再三乗り換え、尼ケ崎紡績会社津守分工場〔津守村〈現在大阪府大阪市西成区・住之江区〉〕に至る。道程三里あり。この場内に止宿せる工女の数四千人と称す。一日の食米の量、十四石を要する由。寄宿舎は畳一枚につき一人の割合なりという。また、場内に大講堂ありて二千人以上をいるるに足る。正面に真宗の仏壇を安置し、ときどき工女を集めて法話をきかしむるとのことなり。この日は死亡せし工女の追弔法要あり。僧侶の読経後、余は職員のみに対して一席の講話をなす。発起者は支配人武田信民氏、庶務係山際正十郎氏なり。午後、再び長柄鶴満寺に帰り、住職長谷川氏の依頼に応じて講演をなす。

 二十六日 寒晴。午前、宿寺を辞し、天満駅より汽車および電車をとり、平野駅に降車し、これより二十四、五丁にして東成郡喜連村〈現在大阪府大阪市東住吉区・平野区〉小学校に至り、午後開会す。その主催は村教育会なり。その夜、更に宿所宝円寺にて開演す。主催は組合寺院なり。しかして発起は会長井宮助之氏、村長杉本由太郎氏、住職白川義成氏等とす。本村は戸数三百戸の所に寺院九カ寺ありという。

 二十七日 晴れ、しかして寒し。平野駅より天王寺を経て天満駅に降車し、これより約一里にして西成郡西中島村〈現在大阪府大阪市東淀川区・淀川区〉に至る。その間に長さ三百六十間の長柄橋を渡る。午後、当地の劇場中島座にて開演す。主催は村役場にして、村長欠田吉三郎氏、助役小西松人氏、その他広沢蕃氏、佐竹木城氏、寺田崇賢氏、西口喜三郎氏等、みな尽力あり。本村はさらし物、染め物を業とするもの多く、すなわちサラシ木綿、友仙染を産出す。また、鐘淵紡績分工場あり。当夕、その倶楽部に至りて講話をなす。工場長は川辺喜一郎氏なり。休泊所は有志家平井鶴之進氏の宅とす。

 二十八日 晴れ。春寒いまださらず、早暁霜を見る。腕車にて行くこと約一里、中津町〈現在大阪府大阪市北区・淀川区〉小学校に至り、午後開演す。主催は町青年会にして、会長北村源助氏、副会長土田栄太郎氏、校長茶谷作次郎氏等の発起にかかる。午後、梅田より阪神電車により、千船村〈現在大阪府大阪市西淀川区・淀川区〉小学校に移りて開演す。この日、吉住郡長、三宅視学も出席あり。主催は青年会にして、村長見市乗保氏、校長樋口政太郎氏、もっぱら尽力せらる。演説後、千船を発し、大阪駅当夕七時の急行に乗り込み、帰京の途に就く。三十日、東洋大学の卒業式に列席せんためなり。

 大阪府各郡を大略巡了したれば、ここに見聞に触れたる事項を摘載せんに、河内にて藁を積みて塚の形を存せるものを方言スズキという。そば、うどんに添うる辛味を東京にて薬味というが、河内にては七味または臭味という。人のきたれるをキラレタというは大阪方言なるが、余の巡講中、某町において前日憲政会の政談演説会ありしを聞けり。その席は議員選挙期近づきたれば、自党応援のために尾崎行雄氏東京よりきたりて出演せしとのことなり。しかるに他人の話すところを聞くに、昨日の演説会場に尾崎がキラレタという。もし方言を知らざるものが聞きしならば、必ず暗殺せられたことに誤解すべし。河内地方は粥を常食とし、朝昼晩三度ともに粥を食す。また、味噌はすべて白味噌を用う。もし寺院などにて檀徒のきたりしときに赤味噌の汁を差し出だせしならば、コンナ味噌汁が食べらるるものかといいて食せざるもの多しという。

大阪府下の商店に、茶ノ子の注文に応ずとの看板をかくるを見る。茶ノ子とは、葬式などの返礼に配る品のことなる由。府下各所にて供せらるるカシワ鍋の饗応は、山海の珍味よりも珍味なるを覚ゆ。そのときには必ず小皿に生玉子をいれ、煮たる肉をその中に浸して食せしむ。これは京阪地方の特色なり。寺院につきては、河内地方は小庵小坊多きをもって世に知らる。「どう見ても寺と見られぬ寺ばかり」などといわるるも、寺の形を有せざるにはあらず。ただし檀家が比較的少なくして、取り持ちの薄きは事実なり。東京に八百八町あり、大阪に八百八橋あり、新潟に八百八後家ありというに対し、河内に八百八看坊ありと唱えきたれり。そのいわゆる看坊とは、寺と見られぬ小庵をいう。これみな真宗寺院なり。むかし全国の末寺より修学のために京都本願寺へ上りし者が、旅費尽きて帰国できず、余儀なく河内辺りにさまよい、法談の切り売りをなし、その結果、自然に土着するに至りし跡が、看坊の起源なりとの説あり。しかし今日にてはいずれも寺号を公称して、堂々たる一カ寺となれり。また、大阪府の学校教員に真宗僧侶の出身多きは、寺院が檀家の力にて衣食することのできざる結果なり。これかえって、他国の僧侶の読経だけにて生活するのに、まさること万々なりというべし。(大阪府下の開会一覧は山城巡講日誌の終わりに掲ぐべし)

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南船北馬集 第十四編

山城国巡講日誌 付丹波一郡および大和一郡

 大正六年四月一日(日曜)。午後四時、東京駅を発す。

 二日 晴れ。午前五時半、京都駅着。随行松尾徹外氏、江州よりここにきたりて相会す。六時、新舞鶴行き列車に移り、八時前、丹波殿田駅に降車するも、荷物延着のために九時半まで駅前に休憩し、これより腕車にて北桑田郡平屋村に向かう。役場書記小林甚之助氏の案内あり。行くこと二里にして四谷に達す。この間平坦なり。これより山路にかかる。一嶺を徒歩にて越ゆればわずかに二里なるも、車道を迂回せるために五里となり、午後二時、平屋村〈現在京都府北桑田郡美山町〉会場小学校に着す。殿田より里程総じて七里の間に五時間を費やせり。山多く谷深く、寂寥たる中に鴬語の囀々としてわが行を迎えかつ送るは、また旅中の一興なり。ただし薪炭を載せたる牛馬車の絡駅として、車行を遮るにはやや閉口せり。この山中の特産は薪炭にして、平年は炭一貫目につき値七銭ぐらいなりしに、本年は十三銭の高価をしめたりとて、景気すこぶるよし。炭俵は一個二貫目を限りとし、その俵の小なるは、従前道険にしてかつ狭く、運搬の困難なりしによるならん。平屋会場は小学校、主催は村役場にして、村長磯部清吉氏、助役伊藤兼吉氏、および平井数之助、伊藤民之助、同岩造等の諸氏、大いに尽力せらる。宿所は村長磯部氏の宅なり。その座敷清新にしてかつ静閑なるは愛すべし。本村は旧若狭街道に当たり、京都まで十三里、小浜まで十里の地点にあり。四面みな山、残雪の点在せるを望む。

 四月三日(神武天皇祭) 晴れ。この日、山路五里の所を途中徒歩にて二見峠二里の間を上下す。樹間に雪残りてなお白し。道に行人を見ず。ただ、山鴬の声をたどりて進行す。途上およそ五時間を費やして午後二時半、山国村〈現在京都府北桑田郡京北町〉小学校に着す。随行の車、転覆せるも傷害なきは幸いなり。開会主催は郡長西原幸太郎氏にして、郡書記橋瓜弥三郎氏、村長人長与三郎氏、助役岡本正光氏、書記岡本鶴之助氏、前視学半田彦次郎氏等これを助く。会場へは郡長および郡書記数名出席せらる。本村は林業本位にして、山林に富む。昔時より皇居御造営の用材はこの村より調達する慣例ありし由なれば、一昨年の御大典のときにも調達せりと聞く。また、維新の際には村内より義勇兵を募り、勤王を唱えて出兵せし由。当夕の宿所は前田旅店なり。さて北桑田郡の特色として記すべきは、男女老若貴賤貧富を問わず、一般にタツツケを着用することなり。山形県のモンペに同じ。学校の児童も会場の聴衆も、一人としてタツツケを着用せざるはなし。また、本郡は山峻急にして渓深邃なれば、人家中には終日太陽を見ざるものありという。この日、途上吟一首あり。

山外有村々外山、丹陽一路険難攀、穿鞋蹈尽深渓雪、鴬歌泉咽春不閑。

(山のはずれに村があり、村のかたわらに山がある。丹波の一路はけわしくのぼりがたい。深い谷の雪をふみしめて行けば、うぐいすの声と泉の音にも春のおだやかさは感じられぬ。)

 四日 朝霧、のち快晴。早朝山国を発し、郡役所所在地たる周山村を経て殿田駅に出ず。道程六里。これより山陰線に乗車、午後二時、花園駅に着し、更に腕車を駆ること一里余、愛宕郡大宮村〈現在京都府京都市北区〉小学校において講演をなす。この日、近隣に政談演説会あるために妨げられ、聴衆少数なり。主催は村役場、発起は村長代理助役前川熊太郎氏とす。従来、宇治に宇治なしとの諺あり。すなわち宇治町は宇治郡にあらずして久世郡にあるの意なり。これと同じく、愛宕に愛宕なしというを得べし。すなわち愛宕山は愛宕郡にあらずして葛野郡にあり。ただし山名の方はアタゴとよみ、郡名の方はオタギとよむ。当夕は郡視学河野良三氏の案内にて、京都三条小橋亀屋旅館に宿す。このごろはいわゆる京都シーズンにて客室満員のありさまなり。

 五日 晴れ。午後、山上より二里半を隔つる岩倉村〈現在京都府京都市左京区〉小学校に至りて講演をなす。主催は郡役所にして、郡長菊山嘉男、村長山口為寿、校長伊佐弥一郎諸氏の発起にかかる。本村は純農村なり。故岩倉〔具視〕公の一時身をかくされし邸宅の遺跡ありという。この地は八瀬大原に近ければ、その特殊なる方言、風俗を伝聞するに、父をノノといい、母をタタという。さよならをサラという。あなたをケイラという。婦人は必ず二布の前掛けをしめ、帯を用いず。手ぬぐいは昼夜寝ても起きてもかぶりおり、人に対して挨拶するにもこれをとることなしという。当夕、京都行き八時発の急行にて帰東す。

 四月七日は長男玄一、結婚式を日比谷大神宮において挙行し、当夕、近親の人々だけを築地精養軒へ招きて晩餐を呈す。知人一般に対する披露は、左の書面を配付して省略することとなせり。〔以下、原文のまま〕

謹啓今般工学士奥村長作殿御夫婦の御媒酌により、長男玄一と商船学校教授海軍大佐古谷忠造殿長女信子と縁談相整ひ候に付、追て四月吉日を卜し結婚式を挙げ申すべく候間、自今倍旧の御懇情に預り度御通知旁々御依頼申上候、其節は世間の慣例として御招待申上、粗酒献呈仕るべき筈に候へども、微力にて格別の御饗応も出来兼候上に、御繁忙にて在らせられ候処へ強て御枉駕を願ふは、却て恐縮に存じ、断然差控へることに相定め申候、而して宴会の費用に充つべき金円は少額ながら公共若くは慈善事業の方へ寄納する心得に候此段宜しく御承了下さるべく候。

追て御祝物は其品の何たるを問はず、一切頂戴仕らざる事に定め居り候に付、右等の御配意これなきやう予め御断り申候、其代りに封入の小片紙に縦横御適意祝詞祝文、又は詩歌図画、若くは短句短語、然らざれば御姓名だけなりとも御自筆下され度願上候、若し其文句一葉に納まらざる場合には二葉に御連載下さるべく候、幸に願意御採納ありて早速御自筆御寄送を得ば、之を結婚記念帖に貼付し、永く家宝として大切に保存仕るべく候草々敬具。

 よってその費用に充つべき金円総じて五百円と見積もり、そのうち金参百円は東京市養育院へ寄付し、金百円は東洋大学へ、残りの金百円は仏教会館へ寄付したり。

 四月八日(日曜) 晴れ。夜九時発の急行にて再び西行す。

 九日 快晴。午前十時半、京都着。随行松尾氏と相会し、換車して向日町に降り、これより郡書記河合定直氏とともに行くこと約十五町にして乙訓郡役所に至り、更に走ること三十町にして大原野村〈現在京都府京都市西京区〉石作小学校にて、午後開会す。主催は郡教育会および学校、発起は校長斎藤清一氏等なり。この地には西行の遺跡ありて、西行桜の名高しという。更に車行半里にして乙訓村〈現在京都府長岡京市〉長法寺校に移り、夜間開会す。乙訓村長佐藤国次郎氏、海印寺村長高橋房次郎氏、校長丸岡富士雄氏の発起にかかる。宿所は浄土宗西山派粟生光明寺なり。余が当山に登詣することここに三回、境静に室幽にして、最も旅労をいやするに適す。就褥のときまさに夜半ならんとす。四面寂として蛙声のほか耳朶に触るるものなし。ときに一吟す。

松間認得梵王宮、春暖光明寺裏風、念仏声中聴蛙睡、半生塵夢一宵空。

(松の木々の間に寺院がある。春の暖かさにつつまれる光明寺に吹く風もここちよい。念仏の声のうちに蛙の声をききつつねむれば、半生のせわしなきをこよいの空に夢みるのであった。)

 十日 午前雨。庭前の桜花うるおって更によし。朝時、御影堂、阿弥陀堂および本廟を参拝す。御影堂は二十五間四面の大堂なり。柳谷観音の住職日下俊隆氏が当山の執事を兼ぬ。井口泰温氏(哲学館出身)の紹介にて、専門学寮に至りて一席の談話をなす。寮長は三浦貫道氏なり。午後、雨晴るる。車行約一里、向日町〈現在京都府向日市〉高等小学乙訓校に移りて開演す。郡教育会および小学校の主催にかかる。校長は中西慎三氏なり。演説後、馬車を駆ること約一里にして、長岡天神社前の錦水亭に至り、郡長山本三省氏と会食す。酔余、漫吟一首あり。

長岡社畔対斜陽、錦水亭開好挙觴、躑躅花期猶未到、柳桜還好飾春塘。

(長岡神社のほとりで夕日に対してたつ。社前の錦水亭は酒杯をあげるによい。つつじの花の時期にはなお早く、柳の緑と桜の花が春のつつみを飾っている。)

 食後更に馬車を命じ、新神足村〈現在京都府長岡京市〉小学校に至り夜講をなす。校長小林茂、谷村貞二郎両氏の発起にかかる。深更、車をめぐらし長岡天満宮公会堂に帰宿す。本郡は筍の特産地にして、農業は筍作りを本業とし、米麦はかえって副業となる。竹林一反歩の収入五十円ないし百円という。その筍作りの方法は林中に人糞をまき、その上に藁を敷き、またその上に土を置くなり。郡内には竹叢およそ千町歩あり。毎年筍の収入十五万円、竹幹十五万円、合計三十万円と称す。

 十一日 快晴。早朝、社務所を辞し、馬車行約一里半にして向日町より鉄路に駕し、稲荷駅より京阪電車に転乗し、八幡駅に下車す。更に男山八幡社前にて腕車を雇い、行くこと二里にして綴喜郡大住村〈現在京都府綴喜郡田辺町〉に至る。途中、梨園多し。会場は小学校、主催は青年会、発起は村長山村重秀、校長島田賢次郎等の諸氏なり。本村よりは桃実を産出すという。日まさに暮れんとするとき、車行約一里、都々城村〈現在京都府八幡市〉小学校に移りて夜会を開く。役場、学校連合の主催なり。すなわち校長巽善十郎氏、村長渋谷種蔵氏の発起にかかる。本村には製茶を業とする者多しという。旅館鮒源は田頭にありて、終夜、蛙声枕上にやかまし。

 十二日 晴れ。春霞朦々たり。車行一里半、郡役所所在地たる田辺町〈現在京都府綴喜郡田辺町〉に至り、郡会議事堂において講演をなす。聴衆、極めて少なし。発起は校長杉本万次郎氏および郡役所員松田秀雄氏なり。郡長藤正路氏は不在なりと聞く。当夕は旅店魚茂に宿す。その家には一人の女中を置かず、すべて自炊的なり。夜に入りて雨きたる。

 十三日 朝雨。田辺町には一休禅師の墳墓あるを聞きて参拝せるに、小門を入りたる所に三株の老杉鼎立す。これ禅師手植えの杉なりという。鐘楼は左甚五郎作、本堂は修繕中、すべて保護建築物なり。書院は酬恩庵と称す。庵内に禅師の木像あり。各室の襖はみな〔狩野〕探幽の筆なり。その庭は狭小といえども石川丈山の築造せし由にて、奇石その形十六羅漢に似たるあり。墳墓の堂宇は二間四面ぐらいなり。ときに一首を賦す。

老樹三株擁墓門、庵留遣像是酬恩、仏前終日無人賽、唯有杉陰鎖世喧。

(三本の老杉が墓門を守るように立ち、庵に一休禅師の遺像がおかれているのは仏恩にむくいるためである。仏前には一日中、参詣する人もなく、ただ杉のかげが世のやかましさをとざしているのである。)

 これより車行半里余、草内村〈現在京都府綴喜郡田辺町〉小学校に移りて、午前開演す。村役場の主催にして、村長谷村奈良蔵氏、校長中村淳氏の発起にかかる。校前の小料理店にて喫飯し、隣郡に移らんとするに、目下嫁入りの多きと選挙の近づきたるとにより腕車払底を告ぐ。余儀なく田辺へ戻り、汽車にて相楽郡祝園村〈現在京都府相楽郡精華町〉に至る。ときに雨全くはるる。会場は小学校、主催は校長桑山義寛氏なり。本郡に入りて初めて桑園を見る。演説後、桑山氏の案内にて車を馳すること一里余、木津町〈現在京都府相楽郡木津町〉川喜旅館に入宿す。館は三百五間の泉橋橋畔に立てる三層楼なり。当時、野外には菜花すでに黄を吐き、桜桃杏互いに紅白を競うありて、春光駘蕩たるを覚ゆ。

 十四日 晴れ、午後少雨きたる。木津町役場の依頼に応じて演説をなす。会場は小学校、休憩所は大竜寺、発起は町長飯田俊之助氏、助役八木源治氏、同山本浅次郎氏、校長片山義直氏なり。郡長折田有彦氏は近ごろ加佐郡より転任せらる。郡視学は村井友次郎氏なり。木津駅は鉄路の集合点にして、江州米原駅の趣あり。当夕、汽車にて加茂村へ移り、駅畔川口旅館に宿泊す。

 四月十五日(日曜) 暁来雨。午前七時発、二人びきにて渓行一里半、中和束村〈現在京都府相楽郡和束町〉に至る。途中、仁丹製薬場あり。会場は小学校、主催は村役場、発起は村長西村行次郎氏、校長前出金吾氏、助役向井定一氏等なり。本村には茶園多し。また、多量の耐火石材を産出す。江州信楽郷より奈良に通ずる道路に当たる。午後、車をめぐらし、加茂村〈現在京都府相楽郡加茂町〉小学校に移りて開演す。役場および小学校の主催にして、村長土橋芳太郎氏、校長佐倉康人氏等の発起にかかる。当夜七時発に乗り込み、再び帰東す。大選挙期すでにせまるをもって四、五日間休講することに定む。四月二十日はまさしくその選挙日なり。

 四月二十一日、夜行九時にて東京を発し、二十二日(日曜)、快晴、午十二時、伊賀上野に着す。この日、汽車延着せり。上野駅より随行大富氏および奈良県添上郡月瀬村長福岡金治郎氏とともに軽便に駕し、更に腕車に踞して行程四里、月瀬〈現在奈良県添上郡月ケ瀬村〉小学校に至りて開演す。村役場および教育会の主催にして、福岡村長および助役岡本五十平氏、校長桝谷久米次郎氏の発起にかかる。このとき梅花すでに尽きて緑葉芽を吐き、菜黄李白、残春の光景をとどむ。演説後、更に坂路を下ること七丁、五月川上鴬谷橋畔の浴花亭に泊す。余、その扇額に題して「浴花沐月」としたたむ。数年前ここに遊びて数首を賦せしが、今回また二首を浮かぶ。

一渓千曲路相随、香雪埋村景更奇、物価不廉君勿怪、四時生計在梅期。

(渓谷は曲がりくねって、道もそれに従って曲がる。香りたつ白い花が村を埋めて、景色はさらにすぐれたものとなっている。物価のやすくないのは仕方がない。四季の生計はこの梅の時期にあるのだから。)

一路探幽行養神、梅渓花尽緑陰新、夏宜避暑冬宜雪、月瀬清遊何限春。

(一路に幽遠さを探しもとめ、行きて精神を養わんとす。梅の咲きみだれる渓谷は、花は尽きて緑も新たとなった。夏はよろしく暑さを避けるべく、冬はよろしく雪を楽しむべし。この月瀬の清らかな遊びは、どうして春にかぎろうか。)

 人みな物価高しというも、宿料の掲示を見るに一等一円以内、二等八十銭以内、三等六十銭以内、四等四十銭以内とあり、名所の宿料としてはすこぶる安価なりというべし。当初は梅に次ぐに鵑あり、鵑に次ぐに蛍あり、蛍に次ぐに月あり雪ありて、四時の雅遊に適す。ただ名所不似合なるは、電信はもちろん郵便局なく、毎日四里以外より配達すというにあり。村内には養蚕、製茶を業とするもの多し。余のここに遊ぶは第三回目とす。

 二十三日 晴れ。郡書記中川光郎氏とともに車行四里、柳生村〈現在奈良県奈良市〉に至る。その途中二里間は長坂を上下す。鴬語鵑花の耳目をたのしましむるあり。林末往々一簇の白煙を見るは、これ焼炭所なり。農家はすでに苗代の下種に着手す。柳生会場は小学校、主催は軍人会および青年団、発起は村長東浦太平氏、校長池沢兼吉氏、田中重徳氏等なり。郡視学保仙寅太郎氏とここに相会す。氏は山口県巡講当時の旧知なり。本村には柳生但馬守宗矩の遺跡ありと聞く。午後、車行一里弱、大柳生村〈現在奈良県奈良市〉小学校に移りて更に開演す。青年団、処女会、軍人会の主催にかかる。発起は村長植田慶治郎氏、校長松浦京松氏、団長田端霊瑞氏等なり。黄昏、微雨きたる。当夕は柳生村市場旅館に帰宿す。

 二十四日 雨のち晴れ。車行約一里、坂路をくだりて笠置駅に至る。これより鉄路により奈良駅に下車し、更に腕車をとり、行くこと一里にして東市村〈現在奈良県奈良市〉小学校に至る。校地は高所にありて大和の平原を一瞰し、まさしく生駒山と対し、左に金剛山を望むところ大いによし。渓また渓、山また山の山村より出でてここに至れば、実に別天地の観あり。主催は軍人会、青年団、教育会とす。しかして発起は村長大門喜蔵氏、校長浦谷徳次郎氏、分会長竹村泰蔵氏および山中庄之助氏なり。郡長井上恒蔵氏来会せられ、宿所村長の宅にて晩餐をともにす。

 二十五日 晴れ、朝気やや寒し。奈良駅より乗車、大阪府南河内郡喜志駅に下車し、更に二十余町にして駒ケ谷村〈現在大阪府羽曳野市〉字通法寺宮井岩太郎氏の宅に着す。牧野安之助氏、紀州よりきたりて余を迎えらる。午後、宮井、牧野両氏とともに徒歩すること七、八丁にして叡福寺(通称上の太子、真言宗)をたずね、聖徳太子の墓前に拝詣す。「廏戸豊聡耳皇子磯長墓」とあり。下の太子をへだつること三里ばかりなり。これより敏達天皇御陵および推古天皇の御陵を遥拝しつつ坂路を上り、高貴寺に至る。これまた真言宗にして慈雲尊者の遺跡なり。途上、双眸の中に河内和泉の山河を納め、海を隔ててはるかに四国の連山に対し、眺望極めて快闊なるを覚ゆ。高貴寺にては慈雲の墳墓を拝し、住職伎人〔くれと〕戒心氏に面す。ときに一絶を浮かぶ。

春深高貴寺蕭然、深緑残紅掩法筵、一鳥不啼山寂々、慈雲尊者此安眠。

(春の深まった高貴寺はすっきりとしたたたずまいをみせ、濃い緑と名残のあかい花の色が寺院の庭をおおっている。一羽の鳥もなくことなく山は静まりかえっており、慈雲尊者はここに安らかに眠られているのである。)

 通法寺よりここに至るまで一里半あり。帰りきたりて通法寺の遺跡を訪い、かつ源頼信、義家の墳墓を拝す。牧野氏は源氏会を起こしてその再興を計ることここに年あり。事務所は宮井氏の宅に設けらる。当夜、専光寺にて一席の談話をなす。

 二十六日 快晴。早朝、霜気あるを認む。再び喜志駅より乗車し、八尾駅より腕車に移り、行くこと二里余、中河内郡東六郷村〈現在大阪府東大阪市、大東市〉小学校に至りて、午後開演す。発起兼尽力者は村長生田郁雄氏、仏名寺住職水野昇映氏なり。当夕、岡崎佐城氏宅に宿す。主人の身長六尺以上あるは珍し。本村は純農村なり。井水あれども飲用に適せず、必ず濾過して用う。

 二十七日 快晴。車行二十丁、住道駅より汽車に転じて梅田に至り、更に箕面電車に移りて三国停留場に下車し、これより十町余にして西成郡北中島村〈現在大阪府大阪市淀川区〉小学校に至りて開演す。その校舎は田間に孤立せる新築なり。当時、菜花まさにたけなわにして、田頭一面に黄金をしくがごとし。その香、車上の人を襲い、自然に全身をして芬々たらしむ。本日の主催は村長小岸安昌氏、吏員荒川清三郎氏、同藤本米太郎氏、大願寺住職中川日晧氏等、村内の有志にして、いずれも尽力せらる。休泊所は村長小岸氏の宅なり。

 二十八日 雨。午後に至りてようやく晴るる。その日の行程は電車にて梅田に戻り、更に本線に駕して三島郡高槻町〈現在大阪府高槻市〉に至る。会場は小学校、主催は父兄会、発起は校長大北米太郎氏、光松寺住職大森海然氏、宿所は三忠亭なり。当地は詩人藤井竹外の産地なれども、詩文を楽しむ人に乏しという。

 二十九日 曇りのち雨。風強く気寒し。温度〔華氏〕五十五度以下にくだる。この日、淀川を渡船すればわずかに三里の行程なるも、汽車にて大阪に至り、更に天満橋より電車にて北河内郡九箇荘村〈現在大阪府寝屋川市〉に入る。寝屋川停留所前錦花楼に休憩す。楼上の額面に忠孝の二字を掲ぐるは、料理屋としては少しく異様の感あり。昨は三忠亭に泊し、今は忠孝楼に憩う。国民道徳巡講の休泊所たるに背かず。この村内にては戸々水瓶を備えおき、田用水を濾過して飲料に用う。田間に梨圃多し。本日の開会は郡教育会の主催にして、会長大森盛太郎氏、郡視学木寺勝太郎氏等の主催にかかる。会場小学校の演説を終わるや、電車にて友呂岐村三井本厳寺、すなわち日種観明氏所住の寺に至りて宿泊す。余のこの寺に滞留するは二回目なり。その境内は樹木鬱蒼、静閑余りあり。よって所吟一首を壁上にとどむ。

河陰一路雨冥々、菜是敷金蛙誦経、晩軴客車本厳寺、満林新緑仏灯青。

(淀川の南の一路に雨はうす暗くふりしきり、菜は黄金を敷きつめたように見え、蛙はお経を唱えるようになく。夜もふけて車を本厳寺にとどめた。林はすべて新緑となり、仏灯も青みをおびている。)

 日種氏は数年前より免囚保護に力を尽くし、その成績着々見るべきものあり。また、今回の郡内巡講には数日前より熱心をもって奔走の労をとられたるを謝す。

 三十日 快晴。電車にて東枚方に至り、更に腕車にて行くこと一里余、交野村〈現在大阪府交野市〉交南小学校において開演す。校長は三島梁雄氏なり。主催は前日に同じ。会長大森氏、視学木寺氏、郡書記平井菊三氏、日種氏みな同行せらる。当夕は本厳寺に帰宿す。余が今より七年前ここに遊びしときは香里公園新設の際にして、大阪より来遊するもの雲のごとく潮のごとくなりしが、盛衰にわかに変じて今日は寂寞の巷となれり。ただし堤上の桜樹は依然として客を引き、花時遊客雲集すという。いわゆる「桃李不言下自成蹊」(桃やすももは何もいわぬが、その下には人々が集まって実を採集するので、おのずから道ができる。〔仁徳のある人の下には、それを慕っておのずから人が集まる意〕)ものなり。

 五月一日 晴れ。午前、京阪電車にて大阪〈現在大阪府大阪市〉に至り、府庁に出頭して大久保知事に面会し、更に転じて西寺町法界寺に至りて休憩し、午後、天王寺本坊に移りて講話をなす。これ仏教各宗懇話会の依頼に応ずるなり。その斡旋者は高安博道、佐々木竜順両氏とす。演説後、茶臼山榎佐料理店において晩餐を喫し、その夜、第二北野小学校に至り、自彊会のために談話をなす。校長若林常順氏、学務委員藤井春松氏、首席訓導国友初衛氏の主催にかかる。夜十一時、大阪発急行にて帰京す。

 

     大阪府開会一覧

   市郡    町村     会場    席数   聴衆     主催

  大阪市          寺院     四席  五百人    宿寺住職

  同            寺院     二席  五百五十人  慈教青年会

  同            寺院     一席  三百人    各宗懇話会

  同            小学校    二席  八百人    自彊会

  泉北郡   高石町    寺院     二席  三百人    三カ寺連合

  同     大津町    寺院     二席  二百人    郡教育会

  同     鳳村     寺院     二席  二百五十人  同前

  同     南池田村   小学校    二席  二百人    同前

  同     深井村    小学校    二席  三百五十人  同前

  南河内郡  富田林町   小学校    二席  三百人    郡教育会

  同     同      中学校    一席  四百人    同校

  同     同      高等女学校  一席  三百五十人  同校

  同     長野町    寺院     二席  三百五十人  教育会および自彊会

  同     黒山村    小学校    二席  五百五十人  郡教育会

  同     道明寺村   社務所    二席  二百五十人  郡教育会

  同     駒〔ケ〕谷村  寺院     一席  百五十人   源氏会

  中河内郡  八尾町    中学校    二席  五百人    校長

  同     大正村    寺院     三席  八百人    会場住職

  同     楠根村    小学校    二席  四百五十人  村長

  同     枚岡村    寺院     二席  四百五十人  郡教育会

  同     松原村    小学校    二席  四百五十人  郡教育会

  同     竜華村    小学校    二席  四百人    同前

  同     東六郷村   小学校    二席  六百人    村役場

  北河内郡  九箇荘村   小学校    二席  四百人    郡教育会

  同     交野村    小学校    二席  六百人    同前

  東成郡   平野郷町   寺院     二席  五百人    各宗共和会

  同     喜連村    小学校    一席  二百人    村教育会

  同     同      寺院     一席  三百人    宿寺住職

  西成郡   豊崎町    寺院     二席  五百人    青年会

  同     同      同前     二席  二百人    宿寺住職

  同     中津町    小学校    二席  百五十人   青年会

  同     西中島村   劇場     二席  二百人    同村

  同     同      工場     一席  百五十人   鐘紡会社

  同     津守村    工場     一席  百五十人   尼紡分工場

  同     千船村    小学校    二席  三百人    青年会

  同     北中島村   小学校    二席  三百人    同村

  三島郡   茨木町    郡役所    二席  三百人    郡青年会

  同     同      高等女学校  一席  二百人    同校

  同     吹田町    小学校    二席  四百人    町役場

  同     高槻町    小学校    二席  二百五十人  父兄会

  同     味生村    小学校    二席  三百五十人  青年会

  同     三箇牧村   小学校    二席  四百人    村講演会

  同     如是村    寺院     二席  五百人    村長

  同     清水村    信用組合   二席  二百五十人  校友会

  同     阿武野村   小学校    二席  二百人    教育会および青年会

  同     石河村    寺院     二席  百人     村役場

  同     山田村    小学校    二席  三百人    教育会

  同     三宅村    小学校    二席  五百人    教育会

  同     岸部村    小学校    二席  四百五十人  青年会および軍人会

  豊能郡   池田町    師範学校   二席  二百人    和協会

  同     豊中村    公会堂    二席  四百人    同前

  同     歌垣村    小学校    二席  四百人    同前

  同     細河村    小学校    二席  三百五十人  和協会および青年会

   合計 一市、八郡、四十三町村(十二町、三十一村)、五十三カ所、百席、聴衆一万八千九百五十人

    演題類別

     詔勅修身に関するもの………………三十七席

     妖怪迷信に関するもの………………二十六席

     哲学宗教に〔関するもの〕………………十四席

     教育に〔関するもの〕………………………四席

     実業に〔関するもの〕……………………十二席

     雑題に〔関するもの〕………………………七席

 

     山城国開会一覧

   郡       町村    会場    席数   聴衆     主催

  愛宕郡     大宮村   小学校    一席  百五十人   村役場

  同       岩倉村   小学校    一席  二百五十人  郡教育会

  宇治郡     山科村   小学校    二席  四百人    郡青年会等

  乙訓郡     向日町   小学校    二席  二百五十人  郡教育会

  同       大原野村  小学校    二席  百人     同前

  同       乙訓村   小学校    二席  三百人    同校

  同       同     本山     一席  五十人    専門学寮

  同       新神足村  小学校    二席  二百人    学校連合

  綴喜郡     田辺町   議事堂    二席  七十人    小学校

  同       大住村   小学校    一席  二百人    青年会

  同       都々城村  小学校    二席  三百人    役場および学校

  同       草内村   小学校    一席  百五十人   村役場

  相楽郡     木津町   小学校    二席  三百五十人  町役場

  同       祝園村   小学校    二席  三百人    校長

  同       中和束村  小学校    一席  三百人    村役場

  同       加茂村   小学校    二席  二百五十人  役場および学校

   合計 五郡、十五町村(三町、十二村)、十六カ所、二十六席、聴衆三千六百二十人

 

     付

丹波一郡および大和一郡

   郡       村     会場    席数   聴衆     主催

  丹波北桑田郡  平屋村   小学校    二席  四百五十人  同村

  同       山国村   小学校    二席  三百人    郡長

  大和添上郡   月瀬村   小学校    二席  三百人    役場および教育会

  同       柳生村   小学校    二席  四百人    軍人会および青年団

  同       大柳生村  小学校    二席  二百五十人  青年団等

  同       東市村   小学校    二席  三百五十人  教育会等

   合計 二郡、六村、六カ所、十二席、聴衆一千六百人

    演題類別

     詔勅修身     十八席

     妖怪迷信     十一席

     哲学宗教      二席

     教育        無席

     実業        四席

     雑題        三席

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南船北馬集 第十四編

甲州漫遊記

 大正六年五月二十一日。にわかに休養を思い立ち、箱根塔〔ノ〕沢温泉に入浴す。宿所は鈴木旅館なり。一旬の滞浴中、別に記すべきほどの事項なし。知人としては台湾宜蘭庁長小松吉久氏および元衆議院書記官長林田亀太郎氏に面会せるのみ。また、散策としては一日小田原町に至り、二宮神社を参拝す。当社庭内に茶店あり。報徳餅、報徳煎餅、報徳茶碗、報徳筆架等、売品一として報徳ならざるなし。そのとき所詠一首あり。

相海之浜函嶺北、二宮祠在古城側、拝神人入小亭求、其餅其陶皆報徳。

(相模の海辺、箱根の北、二宮神社が古城のかたわらにたつ。神殿に参詣して小亭に入って求むれば、餅も茶碗も報徳の名がすべてにつけられているのだ。)

 更に海水浴旅館養生館の浜頭まで緩歩して帰る。帰京は三十日なり。

 六月九日 雨。甲州御岳探勝と身延参詣との目的にて午前九時、飯田町を発し、午後二時、甲府〈現在山梨県甲府市〉に着す。宿所は佐渡幸旅館なり。当市の一等旅館は佐渡屋の外に、談露館、米倉屋、古奈屋等ありという。本夕、料理店三省楼において哲学館出身者諸氏の歓迎を受く。出席者は中村善助氏、室住賢竜氏、岩間湛湧氏、前田定運氏、宮原智泰氏、菅原周蔵氏、榎本知啓氏、志村玄誓氏なり。この日、車中所吟一首あり。

鉄車窓外暗梅天、看過甲州山又川、知得渓村農事急、女児侵雨向桑田。

(列車の窓の外は梅雨ぞらで暗く、甲州の山や川を見つつゆく。谷あいの村はいまや農事に多忙であることを知る。女児が雨のなかを桑田に向かうのを見たのであった。)

 六月十日(日曜) 雨。午前、甲府市外十八町を隔つる大泉寺をたずね、武田家の遺物を拝観す。信虎、信玄、勝頼三代の遺像あり。住職は須田月岡氏なり。所感一首を賦す。

英雄夢跡近如何、尋入甲州城下過、禅寺纔留三代像、追懐往事感殊多。

(武田家英雄の夢のあとは近ごろどうなのであろうか。たずねて甲州城下をよぎる。禅寺大泉寺にはわずかに三代の像が残されており、すぎた当時のことをおもえば、感懐はことに多いものがある。)

 午後二時、琢美小学校において市教育会のために講演をなす。市長は名取忠愛氏、助役は桜井栄太郎氏なり。講演後、すなわち三時半より腕車にて御岳に向かう。行路二途あり。和田峠を越ゆる途と吉沢を経る途これなり。そのうち後者を取り、約二里にして吉沢村なる水道源溜地に達す。これより上方は道狭くして車通ぜず、よって草鞋をうがちて渓間にさかのぼる。鞋価は四銭なり。徒歩約半里にしていわゆる御岳峡の本場所に入る。両崕峭壁千仭万丈、巨巌怪石、磊々落々、累々重々、その間に一条の渓流の激湍して走る。その勢い矢のつくがごとく、その響き雷のとどろくがごとし。峰巒の形はアメリカインデアンのトーテムのごときもの多し。これを天狗岩と称す。その他巨石の千態万状をなせるありて、猿に似たるものあり、らくだに似たるものあり、ひきがえるに似たるものあり。右岸にそいて上下曲折せる樵路をたどりて進む。道平らかならざれども高低少なく、比較的歩行しやすし。およそ一里にして金渓ホテルに達す。その前数丁の所に高さ二、三丈の石垣を築き、その上に水田を設くるあり。これを見て米のいかに貴きかを知るべし。山間は挿秧早く、目下すでに着手せり。ホテルの近傍に学校、役場および休泊所二戸あるのみ。その外には人家なく、また家を建つべき余地もなし。ただ、懸崖絶壁に奇松の蟠生せると、石間に多少の雑木の相交わるを見るのみ。実に仙境なり。ホテルは狭小なりといえども、探勝客の一夜を託するに足るべき設備あり。その位置は峡間第一の勝地に位す。ここに休泊して回望すれば、身は詩天画地の間にあるの思いをなす。ホテルに入りたるとき七時に近く、日まさに暮れんとす。雨たまたまはげしくきたり、奇岩雲衣を装って一段の趣を添う。坐来、詩二首を得たり。

峡間探勝路将窮、駐杖金渓潭上宮、欲写山光詩不及、坐来投筆賞天工。

(谷あいに景勝をたずねて道はきわまらんとし、杖を金渓ホテルにとどめて山の景色をうつしとろうとするも、詩作はできず、座して筆を投げだして、ただ天のたくみさを嘆賞したのであった。)

一峡両崖千仭峰、石胎孕出幾奇松、暮山含雨雲来往、恰似美人屡改容。

(一峡谷の両崖は高い峰となり、岩石は幾本かの姿のよい松をふくんでいる。暮れなずむ山に雨をふくんだ雲が往来し、あたかも美人のしばしばよそおいをあらためるがごとくであった。)

 今夜は旧四月二十二日に当たり、暗夜にして無月なるを遺憾とす。哲学館出身榎本知啓氏、好意をもって案内の労をとらる。氏は北巨摩郡津金村海岸寺の住職なり。

 十一日 晴れ。早朝ホテルを出でて、澗にそいてさかのぼること六、七町、その間に有名なる石門あり、昇仙橋あり、覚円峰あり。懸巌半空にそばだち、激湍石間にさけぶところ、実に雄壮快活を極む。その壮絶快絶の中に、観客をしておのずから戦々兢々の感を起こさしむ。最後に全流のかかりて巨瀑となり、その落下の勢いのすこぶる勇ましく、なにびともその前に慴伏せざるはなし。これを仙娥瀑と名付く。ホテルよりこの瀑に至るまで七、八町の間を絶勝中の絶勝となす。これより上は渓ひろく地平らかにして、田畑あり民家あり。およそ三十町を隔てたる所に老杉の鬱然たるあり。その中に祠門あり、石階あり、殿堂あり。これ御岳本社金桜神社なり。社内には国宝および保護建造物すくなからず。その堂宇の壮麗なるは衆人の予想の外に出ず。神楽台の構造のごときは天下一品と称せらる。宮司秀島氏は不在なり。本社より土製にして金色を帯びたる小鈴を出だす。これを虫切りの鈴と呼び、小児に持たせおけば疳虫の起こることなしという。この日の所吟、左のごとし。

昇仙橋畔路纔通、仰見奇巌懸半空、過瀑移笻渓漸濶、祠門遥在老杉中。

(昇仙の橋のそばの道がようやく通じ、あおぎみればぬきんでた岩が空の半ばにかかっている。瀑布をすぎ、杖をうつしてゆけば谷もようやくひらけ、金桜神社の門がはるかな老いた杉の木立ちのなかにあるのだ。)

 神社所在地は宮本村にして、ホテル所在地は能泉村なり。甲府よりホテルまで三里半、神社まで四里半、神社より歩をめぐらし、ホテルを経て吉沢に帰り、これより車行して甲府に入る。その途中に湯村温泉あり。ふじの屋、明治屋、柳屋等の旅館を見る。甲府駅をへだつること一里と称す。

 御岳を一覧せしにつき、私見をもって短評を加うれば、日本山水の名勝中、御岳は豊前の耶馬渓、野州の塩原と鼎立し、互いに伯仲の間におる。余はこれを山水の三大勝と定む。この三勝はいずれも奇石怪嵓の間に渓水を挟む点は相同じ。その渓間の狭きに過ぎ、道路の粗悪なるは御岳の欠点なりといえども、巌石の巨大にしてかつ夥多なるは耶馬および塩原をしのぐと評して可なり。したがって天工の巧拙に至りては、三勝おのおの一長一短ありて、弟たり難く兄たり難き勢いを有す。もしこの三勝を仮に智仁勇に配合すれば、余はすなわち耶馬をもって仁とし、塩原をもって智とし、御岳をもって勇とすべし。その理由はこれを略す。要するに海岸の絶景としては松島、宮島、天橋あり、山間の奇勝としては耶馬、塩原、御岳ありとするは余の意見なり。瀞八丁、濠渓、寒霞渓などはそのつぎに位すべきものならん。

 十一日。正午、甲府佐渡屋に着して午餐を喫し、京北中学出身志村玄誓氏(市内遠光寺に住す)の案内にて腕車を駆り、笛吹川桃林橋を渡り、西八代郡市川大門町〈現在山梨県西八代郡市川大門町〉に至る。行程三里半、昨今春蚕はでき上がりつつあり、麦刈りにも着手しつつあり。挿秧は本月下旬と聞く。市川にては禅林寺にて夜会の講演をなす。主催は霊光会、幹事は有泉直松氏ほか四名なり。当夕、魚甚旅館に宿す。余は今より十五、六年前、甲州各郡を巡講せしとき、本町にても開演せしことあり。

 十二日 晴れ。早朝、車行一里余、鰍ケ沢町に至る。旅館としては万屋あり。昔時はこの地に八百艘ないし千艘の河船ありしも、汽車全通以来大いに減じ、現今は百五十艘ぐらいなりと聞く。午前八時の定期船に駕し、富士川を一棹して波木井に着す。ときに十一時なり。途中、屏風岩の名勝あり、またところどころ急湍あり、波の舟中に入ること数回に及ぶ。両岸は翠屏千仭の群山併立し、夏木森々、一望蒼々たり。往々麦田の山腹に点在せるを見る。舟中吟一首あり。

山峡纔通富士川、両崖数里翠微連、屏風岩下波如沸、一棹扁舟破水烟。

(山あいの地はようやく富士川に通じ、両崖の数里は緑が連なる。屏風岩の下の水波は沸くがごとく、ひとさおの小舟は水上のもやを破ってゆくのである。)

 波木井より十五、六町にして身延山総門に達す。その扁額に「開会関」の三字を草書にて書せるあり。その字読み難く、一目すれば「ついてるつい天」の文字に見ゆ。よって俗に「ついてるつい天門」ともいう。そのそばに一宇あり、当山発軫道場と題す。また一石あり、波木井公初対面場と題す。これより身延市街を一過して三門に至る。およそ十二、三町あり。波木井公より三門まで約三十町と称す。余は門前の田中屋旅館を宿所と定む。その他に玉屋旅館ありて互いに対抗す。午後、まず三門を拝観するに、その壮観仰ぐに堪えたり。

京都知恩院山門に類す。これより菩提梯と名付くるすこぶる峻急の石階あり。階数二百八十七段、高さ五十八間余、斜面角度四十五度、これを男坂と称す。その外に女坂あり。迂回して登る。およそ六町にして本院に達す。これいわゆる身延山久遠寺なり。その所在地は南巨摩郡身延村〈現在山梨県南巨摩郡身延町〉にあり。山主は小泉日慈師なり。祖師堂の宏壮なる、真骨堂の清美なる、釈迦堂の古雅なる、客殿の闊大なる、環境の森厳なるありさまは、いちいち筆紙に尽くし難し。祖師堂は間口十二間、奥行二十四間余、明治十三年の建立なり。余は客殿において一席の講話をなしたる後、祖山学院教師藤田恵暁氏の案内にて帰路は男坂を直下し、清兮寺に少憩す。故日鑑師所住の遺庵なりという。これより西谷に入り、祖師御艸庵旧址に至る。その後ろ側に廟所あり、堂宇に常在殿と標記す。三門より五丁を隔つ。帰路、深敬病院を訪う。これ癩病院にして、綱脇竜妙氏幹事たり。氏は先年哲学館に在学せしことあり。夜に入りて、覚林坊望月是本氏来訪あり。窓を隔てて枕頭に伝わるものは渓声と鼓声のみ。これに河鹿の声の交わるは一段の趣味を添う。この山内に現今なお寺院三十五、六坊ありと聞く。三門より奥院まで五十丁、七面山まで六里、ともに登拝するを得ず。所感の詩二首あり。

良縁漸熟詣身延、高祖遺蹤正儼然、日夜唱題和法皷、声々穿破万林烟。

(仏縁ようやく熟して身延山久遠寺に詣でる。祖師の残された跡はまさにうやうやしく大切に残されている。日夜、お題目が唱えられ、法鼓がひびき、それらの声は山林にたちこめるもやをうち破って流れる。)

老杉囲境翠如敷、歩入山門気欲蘇、攀尽石階三百級、祖師堂上唱南無。

(年老いた杉が境内をかこんで、緑は敷くがごとく、山門にあゆみ入れば心気もよみがえるかと思われた。石の階段三百をのぼりつくして、祖師堂のかたわらで南無と唱えたのであった。)

 十三日 未明より大雨覆盆のごとし。富士川増水のために舟きたらず、陸路また馬車通ぜず、午時ようやく天晴るる。にわかに腕車を雇い、二人びきにて鰍沢に向かう。早川渡船中止のために本道を迂回す。下山村は日蓮毒難の寺あり、上沢寺という。その境内に老いたる銀杏一株あり。むかし祖師携うるところの銀杏の杖を、白狗の塚に立てられしものが繁茂せりと伝う。つぎに飯富駅に至れば、雨畑硯を製作する所あり。鰍沢に着せしときすでに五時なり。身延より六里半の間、二人びき腕車賃六円はすこぶる不廉とす。往路は舟賃三十銭なりしが、帰路は二十倍を費やせり。鰍沢より甲府まで四里半の間は鉄道馬車による。甲府駅に着せるときは、すでに七時半を過ぐ。身延より行程十一里とす。当夜十一時四十分甲府発夜行に乗り込み、翌朝五時、飯田町に着駅す。

 今回旅行中伝聞せる甲州方言の二、三を挙ぐれば、人の妻をオナカイといい、女中をアンネといい、たくさんのことをメタメタといい、ダルイをケッタルイといい、面倒をコッチョウといい、人にいいてくれるなをイッチョウバクレチョウベナという由。物産は葡萄と水晶として知らるるも、水晶は北海道より輸出するもの多しという。また、甲州風俗の特色を挙ぐれば、箸は四角箸を用い、桝には三升桝あり。炬燵は二階つきのヤグラ、家屋はすべて切破風にして、方形屋根なし。その他甲州特色の一に加えたきものは、富士川の船頭の着用する藁草履なり。長さ二寸ぐらい、足の指の所だけにはくものとす。一見犬の草履かと思わしむ。これをアシナガと呼ぶはすこぶるおもしろし。シナの婦人の靴と好一対なり。また、甲州の南八代郡内の湖水に魚類の住するにかかわらず、これを精進湖と呼び、八ケ岳の山腰にある寺を海岸寺というは、名実不相応の珍名とすべし。左に臨時〔に〕開催せる講演会表を略示せん。

  甲府市          小学校  一席  五百人    市教育会

  西八代郡  市川大門町  寺院   二席  三百五十人  霊光会

  南巨摩郡  身延村    本山   一席  百五十人   学院

   合計 一市、二郡、二町村、三カ所、四席、聴衆一千人

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南船北馬集 第十四編

宮城県一部巡講日誌

 大正六年六月三十日 晴れ。午後六時半、上野発にて宮城県に向かう。市外の秧田、夕照を帯びて一面に青し。随行須藤大道氏は山形県より仙台にきたり、これより同乗す。

 七月一日(日曜) 晴れ。午前六時半、宮城県登米郡石越〈現在宮城県登米郡石越町〉駅に降車し、これより二十八町、小学校に至りて開演す。宿泊所は校前の付属舎なり。村長小野寺八右衛門氏、書記二階堂甚之助氏、校長二木永四郎氏、素封家富塚宗隆氏の発起にかかる。郡書記亀井久三郎氏来会せらる。東京にてはこのごろ日中〔華氏〕八十五度以上なるに、当地方は〔華氏〕八十度なり。終日郭公と杜鵑の声を聞くは、山村に入るの趣あり。その地勢多少起伏する所あるも、概して平坦なり。近年、蚕業すこぶる盛況をきたし、目下ようやく春蚕をおわりたるところなり。また、挿秧はすでに済みたるも、麦刈りと除草とに忙殺せられ、聴衆いたって少なし。本村は登米郡の東北隅に位し、栗原郡若柳町に隣接し、岩手県一関まで五里の地点にあり。戸数一千に近き大村なれども、寺院は曹洞宗一カ寺あるのみ。しかるにその寺の維持困難というを聞き、宗教の勢力いかんを推想するに足る。当夜は旧五月十二日なるに、天全く晴れ月光鮮やかなり。郡内にては昨年以来、腕車に犬の先引きを用うること流行し、車夫みな洋犬を携う。

 二日 曇り。車行二里半、上沼村〈現在宮城県登米郡中田町〉字弥勒寺小学校に移りて開会す。発起は村長佐藤武治氏、校長佐々木満房氏、助役三浦伝五郎氏等なり。佐々木氏は教育に従事すること四十年の久しきに及び、文部省より選賞せられたりと聞く。当夜は村長の宅に宿す。北上川堤防の下にあり。本村は昔時水田不足の地なりしが、今より十年前沼地を開墾して水田五百町歩をおこし、爾来米産地となれり。上作のときには一反歩平均二石の収穫あり。小作料はその半額なり。また、本村は野菜中牛蒡の特産地にして、その大なるは長さ五尺に達し、大阪地方まで輸出すという。

 三日 朝雨のちはれ、午後驟雨きたる。宿所の門前より北上川の堤上を車行し、郡役所所在地なる佐沼町〈現在宮城県登米郡迫町・南方町〉に至る。行程二里半、途上吟一首を得たり。

雨後滔々北上川、両崖桑柳映晴漣、長堤数里無人過、只聴郭公兼杜鵑。

(雨後のとうとうたる北上川、両岸の桑樹、柳葉はさざなみに映ず。長い堤の数里の間は人の通ることもなく、ただ郭公とほととぎすの声を聞くのみであった。)

 堤外には桑、柳、水に臨みて相連なる。桑樹は立木多し。会場は小学校、発起は町長佐藤秀治郎氏、校長荒祐次郎氏、宿所は佐沼ホテルなり。当夕、郡長半田卯内氏と会食す。当町は佐沼川の両岸にまたがり約一千戸の市街にして、県立中学校あり。校長続有節氏は石川県へ転任中なり。夜に入りて月またよし。

 四日 雷雨。行程一里余、泥深くして車進まず、一時間半を費やして南方村〈現在宮城県登米郡南方町〉小学校に達す。開会は村長佐藤成幸氏、校長阿部貞治氏の発起なり。しかして宿所は白鳥毅氏の宅なり。本村は郡内第一の大村と称す。

 五日 雨。行程三里半の所、朝大雨を冒して南方を発し、佐沼ホテルにて換車して登米町〈現在宮城県登米郡登米町〉に至る。車上所見一首あり。

雨水貫村潅万田、秧波如海望蒼然、車過佐沼城東路、本吉連山鎖一辺。

(雨をあつめた水は村をつらぬいて流れ、幾千万の田にそそぐ。稲苗は波うって海のごとく茫々として青い。車は佐沼の町の東の道をよぎる。本吉郡の連山は一方をとざしているのである。)

 会場は小学校、発起は町長伊達寧裕氏、校長大槻金蔵氏、助力者村田栄治、佐藤十二郎諸氏なり。哲学館出身阿部広之進氏は久しく中等教育に従事せられしが、不幸にして失明の人となり、この地に帰臥す。当町は北上川の岸頭にありて郡内第一の都会なり。不日、船橋を架設する計画あり。名物としては風鈴世に知らる。また、豆腐もその名高し。この豆腐はかたきをもって特色とす。福七旅館において晩食の際、町内製糸場失火の警鐘を聞く。登米町の隣村に赤生津と名付くる一村落あり。飲酒をもってその名を知らる「赤生津赤椀下戸八杯」との俚言あり。下戸ですらも大椀にて八杯を傾くとの意なり。

 郡内にて聞き込みたる風俗につきては、年中の休日は盆正月の外に五節句と三朔日となす。三朔とは二月一日、六月一日、八月一日なり。食時につきては、冬時は三回、夏時は五回とす。すなわち夏時には朝七時に朝飯、十時半にタバコ(小昼のこと)、午後一時に昼飯、午後四時に午後のタバコ、八時半に夕飯を食す。出雲にては小憩をタバコといい、本郡にては間食をタバコというの別あり。正月元日には雑煮の代わりに飴餅を食す。民家手製の飴の中に餅を入れてつくる。山形県の納豆餅と好一対なるべし。郡内にてはトロロに用うる特殊の椀あり、これをヒサゴという。片口の付きたる椀なり。出雲の二階つき蕎麦椀と好対なり。この地方にては七月の盆踊りなし。その代わりに獅子踊りあり。これ旧仙台領一般に用うという。また、ハツトセ踊りと名付くるものあり。すなわちサンサシグレなり。これは仙台領に限るという。ここに登米郡の結婚式の一端を示さんに、婿まず新婦の家に行きて合巹の式あり。婿辞し帰りて後、新婦その家を出でて婿の家に至れば、戸口に設置せる二個の臼にて、少女数人餅ツキ歌を歌いながら餅をつきおる。その間を新婦をして通行せしめ、勝手口より入らしむ。かくして座に着くや、茶碗に水を盛りたるものをすすむ。新婦はこれを飲む真似して後、衣裳を着換え、予定の座に着き、合巹の式を行う。その間に酒肴を出だして新婦方の客を饗応すという。つぎに、物産としての第一は米なるも、もし宮城県全体としての名物を挙ぐれば味噌、鯛、埋木細工、実竹、仙台平等なり。

 つぎに、この地方の方言を聞くに左のごとし。その中には登米一郡に限るものと全県に通ずるものと相混ず。

蜻蛉をアケズ、くしゃみをアクショ、蛙をビッキ、香物をアセ、難儀するをウザニハク、ナマケルことをアブラウル、雷をオカダチ(雷雨をオカダチ雨)、吝嗇家をイシピリ、ご飯をオヤハラ、巫女をオガミン、悪いをカイカイ、淫売婦をクサモチ、穢多をコヤヌシ、どもるをゴネル、こごえるをコゲル、物足りないをシゲナイ、うるさいをジュンケナイ、腐敗するをスレル、忙しいをセツナイ、蝸牛をタンマクラ、痘痕をダメ、虚言をズダイホウ、凧をテンバタ、頭痛をナズキヤミ、赤子をニガゴ、唾液をネッペ、イナゴをハッタギ、落とすをホログ、墓地をランバ。

 その他サヤ豌豆をカキマメといい、ジャガタライモを五升芋ともカライモとも、または二度イモともいう。氷柱をタルヒといい、荷を負うときに背上にあてるものをケラといい、奮発することをケッパル(キバルコト)、しかりをンネ(ハイに当たる)という。東北一般にスとシとを混同し梨と茄〔子〕とを区別し難きも、本郡にて聞くところによれば、梨をナスーと呼び、茄〔子〕をナスと呼ぶの別ありという。つぎに、俚諺中に他地方にてあまり耳にせざるものあり。

  法華が仏になるならば犬の糞は味噌になる、 生栗一つに屁八十、 隣の麦飯、 箸と家督の弱いのは飯がくえない。

 つぎに俗謡の文句を摘載せんに、めでたい席にて必ず歌い出だすサンサシグレの文句、左のごとし。

  目出度嬉しや思ふこと叶ふて、末は鶴亀五葉の松。

  目出度★★(原文では、くの字点表記)の重なる時は、天の岩戸も押し開く。

  雉子のメンドリ小松の下で、つまをよぶ声千代★★(原文では、くの字点表記)と。

 獅子踊り、旧七月十五日に行う。その文句、左のごとし。

  へだてなく常はしたしき友なるに、いかにめししをかくしおきけん。

  萩の床によはの遊のつきざれば、こゝにめしゝをかくしおきけり。

 餅つき歌の文句、左のごとし。

  松島のヤーヨー瑞巌寺程の寺もない、前が海ヤーヨー後は茂る小松原。

  横山のヤーヨー青木の清水変るとも、これこなたヤーヨー互ひの心変るまい。

 田植え歌は「ござれ来なされ二十日頃、二十日霄やみ暗くとも」の類なり。また、子守歌は「向山の柴栗こ、えんでこぼれて拾はれて、御茶屋の鍋こでゆでられて、三日かさこでわけられて、売られて買はれて喰べられた」の類なり。

 六日 晴れ。早朝六時の北上川の汽船に駕し、下行して本吉郡柳津町〈現在宮城県本吉郡津山町〉に着す。里程一里半なり。これより石巻港まで更に七里余ありという。昨来の大雨により川大いにみなぎる。ただし両岸の深緑染むるがごとくなるは吟眸を洗うに足る。柳津会場は小学校、主催は町教育会、発起兼尽力者は町長亀井陽儀氏、校長佐藤弘毅氏、ほか数氏、宿所は佐々木旅館なり。当地には河身改修工事のために内務省土木出張所あり。技師平田全祐氏その所長たり。また、本町に虚空蔵菩薩あり。これを日本三虚空蔵の一として信者遠近より雲集す。その三とは防州の柳井津と会津の柳井津と当所なり。本郡は水田に乏しきために、本業は養蚕と林業なり。また、沿海には漁業あり。

 七日 晴れ、ただし風あり。渓間を出入して海岸を出でて、折立を経て志津川町〈現在宮城県本吉郡志津川町〉に至る。行程五里なり。今朝、山路を一過するとき路傍に蛇を見たり。車夫曰く、今日は縁起がよいと。けだし、この地方にて朝蛇を見るを吉兆とする迷信あるによる。また、途上に納税模範の表札を掲げたる家あるを認む。これ納税を奨励する手段ならん。車上所吟、左のごとし。

本吉渓頭趁暁嵐、夏山一望緑於藍、寒村生計却豊富、業在植林兼養蚕。

(本吉郡の渓谷のあたり、暁の風に乗じて行き、夏山を一望すれば藍よりも緑である。このわびしげな村の生活はかえって豊かであり、その仕事は植林と養蚕をかねているからである。)

 折立より志津川までの沿岸二里の間は太平洋に面し、湾曲あり、小嶼ありて、風光絵のごとし。会場は小学校、主催は青年団、発起は団長松原甲介氏、副団長勝倉弥一郎氏、郡視学大和田徳蔵氏等なり。当町は郡役所所在地なれば、郡長菊池忠良氏来訪せらる。宿所菅原旅館にありて当所の物価を聞くに、草鞋一足二銭ないし三銭、湯銭二銭、斬髪料十二銭、人力車一里三、四十銭、按摩五銭なりとす。按摩の安きは日本一ならん。

 七月八日(日曜) 炎晴。志津川を出でて山路を上下すること数回、海に背きて山に入り、山を出でて海に向かい、車行六里の間、山光海色ともによし。午後、御岳村〈現在宮城県本吉郡本吉町〉小学校において開演す。暑気〔華氏〕八十五度にのぼる。村長小野貞吉氏、校長狩野信作氏、助役佐藤八十二氏の発起なり。宿所新徳旅館は清風、楼に満つ。登米郡の平坦なるに反し、本郡は山と海とのほかほとんど平地なしと称して可なり。

 九日 晴れ。車行五里、海浜に沿って車走し、郡内第一の都会たる気仙沼町〈現在宮城県気仙沼市〉に至る。途中、往々風光の明媚なるあり。午後、小学校において開演す。聴衆満堂、千人以上と目算す。主催は町長鮎貝盛徳氏、校長臼井千代吉氏、役場書記関口徳治郎氏、同菅原八十吉氏、助役大森美代吉氏、水産学校長菊池伊三郎氏および教員数氏にして、みな大いに尽力せらる。また、夜に入り劇場鼎座において、各宗寺院の依頼に応じて開会す。場内立錐の地なきほどの盛会を見る。その寺院は観音寺、宝鏡寺、ほか六カ寺なり。補陀寺住職白鳥励芳氏は哲学館出身たり。宿所は有志熊谷乙治郎氏の宅にして、その楼上は最も清涼なりとす。揮毫所望者すこぶる多く、昼夜筆硯に忙殺せらる。当町は戸数一千五百を有する都会なるが、二年前、全部祝融の災にかかりたるも、日ならずして再築全く成り、面目を一新するに至れり。これ市街は地狭く山海の間に介立するにもかかわらず、港湾深く入りて船舶の出入に適し、沿岸海産物の集散地なるの便を有するによる。また、当湾内の眺望は対画の観あり。よって一吟す。

碧湾深入海如湖、雨棹晴帆欺画図、舟子帰時人作市、気仙沼是一漁都。

(みどりの湾が深く入りこんで、海は湖のごとく静かである。雨にさおさすも、晴れに帆を張るも、あたかも絵画かと思われるであろう。舟人の帰るときには人が集まって市をなす。気仙沼はまさに一漁都なのである。)

 本吉郡沿岸は大抵明治二十九年度、三陸大つなみの災にかかりしも、ひとり気仙沼は海湾の深く入りしためにその災を免れたりという。

 本郡特殊の方言の数語を挙ぐるに、

  疲るることをコワイ、巫女をオカミ、赤児をいるる器(藁を編みて作りたるもの)をインチコ、化物をモーコ。

 一説に化物をモーコというは蒙古の義にして、むかし元寇のきたりしより起こるというも信じ難し。ただしこの語は子どもを叱するときに用い、モーコが来るぞという由。

 宮城県のみならず、すべて東北地方はできるとでるとの相違ありて、月ができた、団子がでたというを常とす。例えば新たに学校に設立されたる場合に、学校ができたといわずしてでたという。また、東北一般にシとスとチとツとの音が混同しているために、意味を取り違えることあり。登米郡にてこの辺りはミツ(道)が悪くてお困りなさろうと問われ、飲用水の悪い地かと誤解せり。

 (開会一覧は岩手県の後に合載すべし)

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南船北馬集 第十四編

岩手県巡講第一回日誌

 大正六年七月十日 晴れ。朝、宮城県気仙沼町を発し、山路五里の間、腕車通じがたきにつき、迂路をとり、矢作嶺を登降して岩手県陸前国気仙郡高田町〈現在岩手県陸前高田市〉に至る。行程六里半。町外に一帯の松林の海に沿うありて、自然に防風波堤となる。夏時の海水浴場に適す。会場は昼間小学校、夜間浄土寺、主催は教育会および法雨会、発起は町長滝上嶋治氏、校長横田丈平氏なり。旅館金十は繭商なれば、階下の各室は繭積んで山をなし、その臭階上に漸入す。ただし旅館としては郡内第一と称せらる。町内の名物に柚子羊羹あり。これを喫して一句を贈る。「名物にうまい物なき世の中に、柚子羊羹は独り例外」。この隣村気仙村は哲学館出身菊池武毅氏の郷里なり。

 十一日 晴れ。車行二里、小友村〈現在岩手県陸前高田市〉に入り、華蔵寺において開会す。発起者は村長黄川田鶴蔵氏、僧侶畑山恵観氏、校長安部留之進氏等、および末崎村役場、学校の諸氏なり。本日の会場より約一里を隔てて広田村の勝地あり。海山の風景、郡内第一と称す。

 十二日 晴れ。車行約四里、駅路海湾に沿い、風光の美ほとんど松島を欺かんとす。車上吟一首あり。

湾又湾々巒又巒、明山媚水気仙攅、今年不用避炎暑、随処潮風夏亦寒。

(海岸線は湾また湾、山また山、山紫水明の美は、この気仙沼にあつまる。今年は避暑を考える必要はなく、いたるところに潮風が吹きぬけて、夏なお寒いのである。)

 会場は昼間盛町〈現在岩手県大船渡市〉小学校、夜間同町浄願寺、主催は教育会および法雨会、発起は町長刈谷友治氏、助役伊勢栄蔵氏、会場住職丸子随宣氏なり。しかして教育会長は郡長関広治氏、法雨会長長安寺住職金正解氏なり。郡視学小林庄助氏は郡内各所を案内せらる。当町には王子陵と名付くる古碑あり。敏達天皇の皇子との説あれども定かならず。旅館浦貞は当所第一の客舎なれども、郡役所所在地の名に対し、設備、待遇ともに一段の発展を要すとの公評あり。

 十三日 炎晴。昼食後、車行一里、立根村〈現在岩手県大船渡市〉に入る。山麓にあり。会場は安養寺、発起は校長千葉慶三郎氏、住職及川良順氏、元村長今野市郎兵衛氏等なり。この日、日中〔華氏〕八十六度にのぼる。演説後、盛町に帰り、これより更に車行二十七町にして大船渡村〈現在岩手県大船渡市〉に至り、小学校にて夜会を開く。発起は村長新沼貞雄氏、西光寺富沢鳳洲氏なり。宿所佐藤旅館は東京風の設備を有す。

 十四日 炎晴。大船渡より盛町を過ぎ、郡長関氏と車をつらねて白石嶺を越え、世田米村〈現在岩手県気仙郡住田町〉に入る。山間の一駅にして郡内第一の馬産地なり。また、植林と養蚕とを本業とす。この日行程五里、午後の暑気〔華氏〕八十八度にのぼる。会場は公会堂、発起は村長菅野大造氏、助役山内喜右衛門氏、村長工藤璉次氏、僧侶岡本冝勇氏等にして、宿所は山内旅館なり。

 七月十五日(日曜) 晴れ。馬車にて渓間をたどり、行くこと三里、上有住村〈現在岩手県気仙郡住田町〉に至る。午後、公会堂にて開演す。その新築は明治天皇盛徳紀念の由にて、田舎不相応の清麗なる会堂なり。当夕は五葉館に宿す。小林視学、余を送りてここに至る。発起者は村長松田徳治郎氏、郵便局長佐々木文助氏、校長大木泰氏なり。この日、渓上を一過する際に、水ぎわに黙立して一竿を垂るるものあり。これ香魚の釣り客というを聞きて一首を浮かぶ。

気仙山路僅通車、曲々如糸巻又舒、湍上有人黙然立、一竿風月在香魚。

(気仙沼の山路はわずかに車を通すのみで、曲がりをかさねること糸巻きのごとく、またのびやかとなったりする。水流のはげしいあたりに人がじっと立ちつくして糸をたれている。まさにこのひとさおに託す風流は香魚にある。)

 本郡は岩手県に属すれども、陸前部内にして旧仙台領なれば、言語、風俗ともに登米、本吉地方に異ならず。ただ宗教につきて少異あるを認む。宮城県は寺院に荒廃せるもの多く、僧侶もしたがって無気力なるように感ぜらるるが、岩手県に入りて以来寺院もよく維持せられ、宗教も比較的勢力ありて、仏教家が教育家と共同して社会に活動する風あるを見る。すでに気仙郡内にては寺院の団体に法雨会あり。今回のごときはその会と教育会と提携せるは、活動の一例とするに足る。郡内の旅宿料は旅館の掲示を見るに、特別上等二円、一等一円五十銭ないし五等五十銭、等外四十銭とあり。つぎに方言を一言せんに、談話のとき語尾にネシを付け、ソウダネシというは越後のノシ、山形のナシに同じ。名詞にコを付くること旧南部領に同じ。大キイ馬というべきをベーコノムマコというはこの地方の方言なり。また、本郡に入りて以来、ところどころに越後地方のごとく石を載せたる屋根を見る。ただし板片の代わりに杉皮を敷き、その上に石を置く。これ火災のときに不便なるべし。また風俗として、農家が田畑に出ずるに、男女ともに瓶形の小篭を腰に付けて行く。これをヒカゴという。また、農用の編笠の形も気仙式とて一種異様なり。本郡は各会場ともに聴衆の少数なりしは、刈麦と除草との最中なるによる。

 十六日 晴れ、ただし午後一回大雨きたる。朝、二人びきにて郡界赤羽嶺をこえ、上閉伊郡上郷村〈現在岩手県遠野市〉に至る。これより陸中旧南部領となる。行程三里、会場は小学校、主催は青年会、発起は村長佐々木三和吉氏、校長及川文事氏等なり。首席郡書記小田切亮次氏、ここに出でて迎えらる。この地には軽便鉄道あれども、時間の都合によりこれによらず。演説後、駅前の小旅店に一休の後、腕車を駆り、道程二里半を一時間余にして遠野町〈現在岩手県遠野市〉に達す。これ、むかし南部支藩の所在地なり。この地方は冬期寒威の強きこと盛岡以上という。したがって夏期の熱度低く、昨今麦なお田にあり、きゅうりいまだできず、ほとんど北海道の気候に似たり。宿所高善旅館は庭内に噴泉あり。透明瑩のごとく、清冷氷のごとし。宿料一等一円、二等八十銭、三等六十銭、丸飯二個五銭。丸飯とは握り飯なり。旅行者これを携帯すること、今日なお維新前に異ならず。湯賃は二銭、ワラジは四銭、斬髪は十銭なり。郡内は炭の産地なるが、平年一貫目五銭のところ、本年は騰貴して十銭となる。従前は南部領に限り、米一俵は二斗五升入りのきまりの由。これ峻坂嶮路多き故なり。言語、風俗ともに仙台領と同じからず。

 十七日 晴れ。昼間、清閑にして眺望に富める高善別館に少憩の後、遠野小学校新築講堂において講演をなす。幅八間、長さ十五間の大堂なり。夜間、劇場多賀座において開演す。郡青年会および寺院連合の主催にかかる。発起は青年会長本正吉三郎氏(郡長)、副会長藤原竹次郎氏(郡視学)、郡書記牧野誠一氏、大慈寺住職大矢戒淳氏(哲学館出身)、町長高橋重太郎氏、助役菊池明八氏、小学校長工藤祐光氏、僧侶黒川東光氏等なり。大矢氏、大いに奔走せらる。当夕は郡長、町長、および中学校長沢田一亀氏、警察署長陣貞光氏等と会食す。高橋町長は日本画に巧妙なり。

 十八日 曇晴にして清涼。朝、小学校に至り一席の談話をなし、ついで中学校に転じて講演をなす。中学は本年三月全焼にかかり、今なお仮校舎を用う。これより宮守村〈現在岩手県上閉伊郡宮守村〉まで五里半あり。軽便鉄道により一時間を費やし、小学校にて開演す。村長伊藤門内氏、助役佐々木和六氏、校長清水実氏の発起にかかる。本村は薪炭、木材の産地なり。演説の前後、熊谷旅店に休憩し、当夜、遠野町に帰宿す。

 十九日 晴れ。高善旅館を発し、車行二里半、渓間を一過して附馬牛村〈現在岩手県遠野市〉に至る。本村の地勢すり鉢のごとく、四面山をめぐらし、中間に平田あり。会場は小学校にして、村長菅沼仙太郎氏、校長菊池吉五郎氏等の発起にかかる。この日は旧六月一日に当たる。これをハガタメと称して民家一般に休むと聞く。当夕は石直旅店に宿す。村内に倭文神社あり、これをスドリとよむ。また、本村は県下の霊山と称する早池峰山の登り口に当たり、村内に早池峰神社あり。夏時は登山の客たえずという。

 二十日 晴れ。田径狭くして車通ぜず、よって馬背にまたがり、行くこと一里半にして土淵村〈現在岩手県遠野市〉に至る。馬上吟一首あり。

馬上清風払暑氛、秧田麦圃色相分、早池峰頂知何処、天半茫々都是雲。

(馬上の清風に暑気を打ち払いつつ行けば、稲苗の田と麦畑との色ははっきりとわかれている。早池峰のいただきはどこであろうか。天の半ばは茫々としてはっきりせず、すべては雲につつまれているのである。)

 会場は小学校、発起は村長小笠原長順氏、校長鈴木重男氏、休憩所は教員宅なり。演説後、再び遠野町へ帰宿す。車道一里余あり。土淵村には一種異様の風俗あることを校長より聞けり。すなわちオシラサマと名付くる木像を祭る一事なり。オシラサマは桑の木にて造りたる高さ六、七寸ぐらいの棒にして、手もなく足もなく、ただ頭だけ付きおるが、その頭には馬首もあり人首もあり、これを所蔵する家は四、五軒に過ぎず。毎年旧正月十六日に大祭をなす。そのとき集まるものは一定の人に限る。いわゆる秘密結社のごときものにしてその仲間のみ集まり、社外のものの加わるを許さず。この日に祈願をかくればたちまち霊験ありといい、もし例祭を行わざるときは神罰必ず至ると信ず。その起源につきてはアイヌの遺風という説あるも、もとより信じ難し。郡内一般に関する言語、風俗は後に譲る。ただし仙台領にて南部の方言歌を聞きたれば左に録す。

  アレミロチヤ、山ニチトベコ、ノコタイキ、ガイニサムイコト、ドタベコノ春(春歌)。

  モミヂドノ、酒ニ酔ツタカ、マツカマカ、ソバノ青木ガ下戸ダゲタ★★(原文では、くの字点表記)(秋歌)。

 前歌の意は、山に残雪ありて、大層春が寒いという意なり。

 二十一日 朝曇り、のち快晴。遠野より釜石町まで十一里半の間、軽便鉄道あれども中間の仙人峠だけは汽車通ぜず。朝五時四十分、遠野駅を発し、二時間余にして仙人嶺下に達す。その前に屏風岩の奇勝ありて車窓に映ず。岩隙に奇松の点在する所、全く屏風の画のごとく、すこぶる壮観にして美的なり。嶺下より轎に駕し、登ること二十二丁半にして絶頂の茶店に入る。この茶店に仙人の写真を所蔵すという〔を〕聞きて一覧す。数年前、一技師雪を冒して登りきたり、茶店の前に主人を立たせて撮影せるに、その傍らにいと老いたる老翁の形を現出せりという。これ、この山霊の仙人なりと伝う。店前の高所に昔より祭れる仙人祠あり。その祠の柱に子爵榎本武揚氏自作の詩を録しおかれしに、なにびとかその字の場所をきりとりて持ち去れりという。その詩の結句が睥睨太平洋というを聞き、拙作を賦して店主に贈る。

攀尽仙人嶺、背汗流湿裳、店前踞苔石、睥睨太平洋。

(仙人峠にのぼれば、背に汗は流れて衣をしめらす。茶店の前に苔むした石があり、「太平洋を睥睨す」〔太平洋をにらむ〕とある。)

 また、別に一作あり。

仙人巍立路峰嶸、攀到山巓気自清、今日不疑身羽化、白雲天外御風行。

(仙人がたかだかと立ち、峰を行く道もけわしい。山のいただきにのぼれば、気もおのずから清らかである。いまは身の羽化して仙人となるを疑わず。白雲たなびく天のかなたに風を御して行こうとするのである。)

 この日は洋上に雰気ありて遠望するを得ず。これよりくだること三十町半にして大橋駅に着し、再び軽鉄に駕す。このとき藤原郡視学に逢う。釜石町〈現在岩手県釜石市〉宿坊石応寺に着せしは午前十一時なり。遠野よりは大矢氏、余を送りてここに至る。当寺は郡内にて一、二を争う巨刹にして、堂宇、書院ともに完備す。目下建築中の山門は県下無二ならんという。住職は菊池智賢氏なり。本日の会場たる小学校は生徒千七百人を有し、校舎の広くしてかつ美なるは県下屈指の一におる。発起は町長服部保受氏、校長那波勝治氏、助役菊池新之助氏等にして、役場吏員みな大いに尽力せらる。当町は明治二十九年、三陸つなみの中心に当たり、町内五千人の人口中、四千人溺死せりという。近在には一村落全滅、ただ一人、他行中にて免れたる所ありと聞く。宿寺の境内に二基のつなみ紀念碑あり。寺内には地蔵尊を安置するために、子供のオモチャを付けたる紙傘を多くつるせるを見る。現今の釜石町は日本唯一の鉄鉱地なりとて、景気すこぶるよく、町民なんとなく活気を帯ぶ。目下の戸数四千四百と称す。海産物の年額は四十万円という。港内に桟橋を設け、昼夜汽車汽船の来往するがごときは東北第一の港というべし。この地に寄留せる紀州九鬼港人、旧館外員宮崎嘉助氏来訪あり。釜石の実況を賦したる拙作を左に録す。

仙嶺之南釜石湾、風光自作紫明関、富源無尽人知否、半在波頭半在山。

(仙人嶺の南に釜石湾がひらけ、風光はおのずから山紫水明の地を作り上げている。この地の富の源は尽きることなく、人はそれを知っているのか否か。そのもとは半ばは海にあり半ばは山にあるのだ。)

 七月二十二日(日曜) 穏晴。海上無波、朝七時半出航、二時間にして大槌町〈現在岩手県上閉伊郡大槌町〉に着す。港内砂州ありて、舟の出入に便ならず。釜石よりここに至る陸路わずかに三里半なるも、山坂多くして車馬通ぜず。故に陸上の孤島にひとし。ただし養蚕、漁業ともに盛んなり。目下、鰹魚、烏賊の漁期に入る。午餐後、鴬声を聞きながら岩間旅館の楼上に仮眠するに、なんとなく仙境の趣あり。会場は小学校、発起は吉井金助氏、助役金崎藤兵衛氏、校長沼里末吉氏等なり。隣村鵜住居村藤原広順氏は、哲学堂へ若干円を寄付せらる。郡内は牧野郡書記、案内の労をとりてこの地に及ぶ。

 本郡の迷信につきて聞きたるところを挙げんに、第一はザシキワラスなり。ワラスとは方言にして童子を指す。その者たるや六、七歳ぐらいの童体にして、男あり女あり、一人住する家もあり、数人住する家もあり。その形を見ること少なきも、足跡または足響に触るることあり。これを富貴の生神と称し、素封家の宅に住するものとす。その住する間は家栄え、去るときは衰うといい、凶事のあるときには予言をなすと信ず。第二はエタコなり。エタコとは方言にして巫女をいう。南部地方一般にこれを信ず。第三はクチヨセとウラヒキなり。この二者はエタコとほぼ相似たり。第四はアマノジャクなり。炉中にすめる怪物にして、子供の夜泣きするをこの怪の所為となす。第五はヒガタタクリなり。これまた一種の怪物にして、子供の不行儀を叱する場合にヒガタタクリが来るぞという。その他、山の神、天狗、山男、山女、猿のフツタツ(老猿のこと)、河童、狐つき等の迷信多し。またカクシネンブツと唱うるものあり。これいわゆる秘事法門にして、他人に隠れ同朋ばかり相集まり、念仏を唱うるものをいう。この結社が遠野町方面にある由。つぎに、方言につきては左表のごとし。

怒るをゴシエヤク 疲れたをコワクナッタ 牛をベコ 衣服をノノ 縁側をオエンコ お祭りをオサガリ おぼつかないをガツテエネエ 尾をオッペタ 男をオドゴまたはヤツ 女をメッタ、ビッタ、アッパ、ビッキまたはビデエ 夫を他人よりいうときはゴデ、ゴデコ、妻よりはオラホ、オラドコ 婦をガアガ 父をトドまたはチャ 母をアッパーまたはジャジャ 蚊をヨガ 可愛をメゴイ 飢饉をガス 乞食をホイド 紙凧をテンバタ 前垂れをマエブリ。

 イをエと誤り石をエス、犬をエノという。応答のハイをナナという。挨拶の語としては、

今日はをエヤスタカ、オデエンスタカ、エダマスカという。オハヨーをハエーナモス、サヨーナラをアバエ、アエ、ソンダラという。

 食物につきては、下等社会は稗に楢の実を混ずるあり、また山牛房の葉を混ずるあり。冬季は一般に粥を常食とす。すなわち雑炊なり。酒量は一体に多く、一人一回に三升以上をのむもの少なからず。ご飯最中に杯をさすを材木流しという。飯を材木にたとえ、酒で流し込むの意なり。この語は南部領一般に通ず。宴会の酒の後に、必ず蕎麦を出だすを例とすと聞く。

 つぎに、上閉伊の風俗に関しては獅子踊りあり。木製の獅子頭をいただき、数十人一列となりて進みつつ踊るものと、円形を作りて踊るものと二様あり。そのときの歌一、二を記さんに、

  奥山の沢の出口に女鹿あり、女鹿たづねまいやさ友達。

  女鹿見に行かんとすれば、白山に霞かかりて山は見えぬぞ。

 また、田植え踊りの踊り方は稲作を形どりて組み立てたるものと聞く。その歌はあまり長ければ略す。婚礼につきて一言するに、婿嫁の両親をオモリヤという。嫁には二人の少女付き添う。これをマンニョボという。媒酌人を御賽の神様という。婿方より大樽を携えて親戚媒酌数名、嫁の家へ迎えに行く。これを嫁迎えという。迎え人は嫁の家にて嫁渡しの杯あり。嫁到着の合図に、門の左右にて餅つきを行う。嫁は勝手口より入るを礼とす。この式は先掲の宮城県の風に同じ。祝宴のときには大杯を回す。退散のとき、更にオタチと称して大杯をもって強飲せしむ。越後にては飯を強ゆるをオタチという。酒と飯との相違あり。その翌日、知己、朋友、親戚を招くを大儀振る舞いという。そのときには多く餅を出だす。三日目にはお里帰りあり。そのとき新夫婦、嫁の家に至りて一泊す。婚礼のお膳につける汁は、豆腐、大根、烏賊を短冊切りにし、味噌汁を用うという。つぎに葬式につきては、当日の食事に丸飯(握り飯)、煮締めと酒を用うという。

 更に俚諺中、他府県にてあまり聞かざるものを挙ぐれば、

炉ばた弁慶、または炉ばた会議(東京の井戸端会議に同じ)。老人を馬鹿にすれば猿になる。旦那と犬はほゆる役。蕎麦とトロロはイエイエ三杯。焼いての後の火の用心。熊深山を出ずれば大雪ふる。蚊空にあつまれば雨。犬遠ぼえして人死す。

 俗謡の一、二を記せんに、

ムコーのお山に火がポンポン、あれは花火かタイマツか、よくよく見たれば禿頭、あれで日本中を皆照す、泣いた涙を茶碗にためて、フミをかくとき硯水(男児歌)。

スヽレヤスヽレヤ一杯飲んでスヽレ、ヒーフーミーヨーイームーナーヤーコノトホ(女児歌)。

オラモ行きたいあの山越えて、娘来たかと言はれたい(男女共通)。

立田川無理に渡れば紅葉がツレル、渡らにや聞かれぬ鹿の声(ツレルはチレルの訛)。

秋田取らんと南部に取られ、仙台狐にだまされた。

声はすれども姿は見えず、薮に鴬声ばかり。

門に門松、祝の小松、かゝる白雪みな黄金(祝歌)。

目出度踊の始まる時に、婆も出て見ろよ孫連れて(同上)。

朝の出がけに山々見れば、霧のかゝらぬ山もない(馬方節)。

一夜五両でも馬方やめよ、馬の手綱で身をやつす。

 正月七草には芹をとりてたたきながら歌う。その言葉は左のごとし。

  ドードのトラとイナカのトラと、渡らぬさきに七草ハタク。

 以上列記せるものの中には閉伊郡に限るものと、南部領一般に通ずるものとの二種あるべし。

 二十三日 炎晴。大槌より下閉伊郡山田町〈現在岩手県下閉伊郡山田町〉まで陸路五里の間、車道通ぜざれば余儀なく海路をとる。汽船延着のために午後十二時半乗船、四時山田に着す。海上風波なく、水面油のごとし。気仙より本郡に至るの間、一帯湾曲の出入多く、往々青巒松嶼の点在するありて、一望のもと、人をして東北の絶勝は、あにただ松島のみならんやを想起せしむ。午後六時、劇場高砂座において講演をなす。発起は町長大久保喜重治氏、助役船越儀七氏、松江寺住職藤岡智寿氏なり。郡視学高野中四郎氏、ここに来会せらる。当町には漁業家多し。名物として鮫氷と名付くるものあり。鮫の骨より製出すと聞く。これを味わうに海草のごとし。東京にてはその魚類よりとれるを知らずして、これを精進料理に用うる由。宿所は関嘉旅館なり。

 二十四日 炎熱。馬上に駕し暁行四里、樹陰なく暑威やくがごとし。これに加うるに、連晴のために塵埃街路に満つ。会場は津軽石村〈現在岩手県宮古市〉小学校なり。主催は同村および磯鶏村連合なるも、目下麦収最中にて聴衆いたって少なし。暑気、午後〔華氏〕九十度に上る。宿所盛合光蔵氏宅は旧家なり。その座敷柱の礎は一種の黒光石にして、その形自然に蓮葉をなすところ一奇観を呈す。本村内に小江の貫流せるあり。毎年多額の鮭漁ありという。発起は津軽石村長大槌若三郎氏、根子全吉氏、磯鶏村江山寺住職上館全霊氏等にして、みな大いに尽力せらる。

 二十五日 炎晴。宿所より宮古町〈現在岩手県宮古市〉まで陸路二里半の所、海路をとり、扁舟を棹さすこと一時間、清風に向かい晴嵐を破り、名のごとく本郡の都に至る。その地は湾を抱き川を控え、風光明媚、これに加うるに船舶の出入多く、市街は鍬ケ崎町と相連なり、両町を合すれば人口一万五千を有し、沿岸第一の都会と称せらる。当地方は漁業の中心なれば、県立水産学校あり。盛岡市をへだつること二十七里、隔日自動車の往復あり。八、九時間にて達すという。乗車賃四円二十銭、盛岡と上野間の汽車よりも大いに高し。午後、常磐座において開演す。郡長小川順之動氏は余の演説を賛成して所感を述べらる。聴衆満場。主催は両町青年会にして、発起は小川郡長をはじめとし、町長関口松太郎氏、青年団長中嶋源三郎氏(小学校長)、善林寺住職東館大道氏(哲学館出身)等、および鍬ケ崎町長佐々木松平氏、同校長太田玉次郎氏等なり。いずれも多大の尽力あり。昼夜、揮毫に忙殺せらる。閉伊郡内は山岳縦横に起伏し、道険にして車通ぜざる地多く、あるいは馬あるいは舟、毎日乗り物を異にするところ、また多趣味を感ず。よって一絶を得たり。

両閉風光畵不如、奈何途嶮脚難舒、斯行日々却多趣、昨馬今舟明是車。

(上閉伊、下閉伊両郡の風光は画にもえがけぬ。道は険しく、足もすすめがたきをどうしようか。かくのごとき行路の日々は、かえって多くのおもむきを作り出し、昨日は馬、今日は舟、明日は車といったおもしろみがあるのだ。)

 宿所熊安旅館は当町第一の客舎にして、名物粕煮を供せらる。これ当地方の漁家一般に用うる調理方にして、まず酒粕の汁を作り、その中へ鮮魚を入れて煮るものなり。その味すこぶるよし。決して漁家にばかり専有せしむべきものにあらず。その他、当所の名物はメノコ飯とアワビのトロロなり。メノコ飯は海草のワカメを飯に混じたるもの、アワビのトロロは芋の代わりにアワビをすりてトロロに作りたるものをいう。朝夕、街上にドンコドンコと呼ぶ声を聞く。これ魚売りなるは奇なり。

 二十六日 炎晴。早朝五時、高野視学とともに自動車に駕し、四里余の行程を約一時間にて走りて茂市村〈現在岩手県下閉伊郡新里村〉に入る。県道は閉伊川の岸頭にあり、途中、断崖絶壁数十丈の下を過ぐ。両岸には桐樹と月見草多し。月見草は夜開きて昼しぼむ、すなわち夜花なり。その花黄にして砂頭一面敷くがごとし。会場は小学校、主催は茂市、刈屋両村連合、発起は茂市村長田鎖左七郎氏、刈屋村長刈屋多見衛氏なり。当日、午後は〔華氏〕九十二度の高度に上る。けだし本年第一の高暑ならん。この地方は山みな峻急、渓みな狭隘、あたかも紀州牟婁山中のごとし。物産は薪炭なり。なかんずく南部桐と称する桐材の産地なり。故に路傍桐林陰を交え、車ここに入れば涼気膚に触れ、おのずから蘇生の思いをなす。その所吟、左のごとし。

閉伊川上暑威殊、車入桐陰気漸蘇、講後渓風醸凉味、初更載月向宮都。

(閉伊川のほとり、暑熱の威力もことのほかであるが、車が桐の木陰に入れば涼しさによみがえる思いがする。講演の後に渓谷の風は涼味をくわえ、日が沈んでまもなくの月を頭上にして宮古町に向かったのである。)

 講後、荷馬車に合乗し、ときに「往きは大臣帰りは人夫、是れも旅中のお慰み」と口吟しつつ徐々として帰路に就く。宮古〔町〕に入りしときは夜十時を過ぐ。宿所は当町第一の大坊、曹洞宗常安寺なり。林深く境幽に堂ひろく、最も消夏によろし。住職は高橋超三氏なり。

 二十七日 曇り。午後、宿寺において開会。主催は住職にして、発起は華厳院久保田東伝氏、江山寺上館全霊氏とす。東洋大学出身三浦文道氏(鍬ケ崎町心公院)も助力あり。この日、当所の名勝たる浄土浜を一見せんと欲して果たさざりしは遺憾なり。聞くところによるに、その地鍬ケ崎町湾内にありて、奇石怪嵓前後に兀立突出し、風光の秀美言語に絶すという。余、その絵葉書を見て一詩を案出す。

一帯浜頭開別郷、呼為浄土意深長、観来水態岩容妙、想起娑婆即寂光。

(一帯の浜べには別世界の地が開け、浄土と呼ぶ意味はまことに深いものがあろう。見れば水のすがた、岩の形も絶妙で、娑婆はすなわち寂光〔現世はすなわち仏の世界〕と思ったのである。)

 演説後、水産学校長塚本道遠氏の厚意により、石油発動機に駕し、宮古湾を発して外海に出ず。逆風のために波やや高く、舟大いに揺動す。沿岸往々、巌石の骨立せる奇観あり。日まさに暮れんとするとき小本村〈現在岩手県下閉伊郡岩泉町〉に着す。陸路八里、山重々渓比々の地勢なり。本村は小本河口に位し、従来より港口の名を有するも、舟を寄すべき港湾なし。当夕、鈴文旅店に泊す。客室わずかに四、みな満員。この日、舟中吟一首あり。

煙舟如矢破波紋、望裏送迎巒幾群、田老岬過再回首、宮湾已鎖暮天雲。

(石油発動機船は矢のごとく一直線に波をのりきり、一望のうちに沿岸の山々を迎えたり送ったりする。田老の岬をよぎってふり返れば、宮古の湾はすでに夕暮れの雲にとざされていたのであった。)

 田老は宮古より小本までの中間にある村名なり。

 二十八日 炎晴。午後、小学校にて開演す。校舎は老朽の相あり。先年、つなみの際全町流失し、ただこの校舎のみ残れり。よってつなみ紀念として旧来のままを保存すという。発起は村長工藤善五郎氏、校長掃部春福氏等なり。

 七月二十九日(日曜) 炎晴。早朝五時半、荷馬車に駕して小本を発す。行くこと四、五丁の場所にて、周囲四丈四尺の大杉を一覧す。一千年前の古木との説あり。そのそばに老槻あり、これも樹齢千年に近しという。これより小本川にそいて渓間にさかのぼり、十一時前、岩泉村〈現在岩手県下閉伊郡岩泉町〉に着す。行程五里半。ここに宇霊羅山と名付くる懸巌万尋の岩山あり、その山腹の石洞より清泉湧出す。郡内奇勝の一に算せらる。これ村名の起源なり。会場小学校は位置、建築ともに好良、郡内の模範校と聞く。主催は村長斎藤要治氏にして、これを助けて尽力せられしは岩根介宗、三上啓司、川村顕次郎(警部)、藤沢俊作、柏原熊太郎(校長)、佐々木百太郎諸氏なり。宿所宝来屋の掲示に一等二円、二等一円二十銭、三等八十銭、四等六十銭、酒肴は前金にあらざればもとめに応ぜずとあり。また、盛夏酷暑の候なるに終夜蚊声を聞かず。いかに夜気清冷なるを知るに足る。本村は有芸、安家を合して組合村となる。その面積十八方里にして一郡よりも大なり。また、この隣村大川村の面積二十七方里(東西長さ十四里)の間に、米田はわずかに十五畝あるのみ。これ米の標本を示すまでに過ぎず。丹波桑田郡内に一村わずかに数畝の米を作る所あり。これ米の神に対して義理を立つる謝恩的意味なりというを聞きしが、大川村もこれにひとし。故に民家の常食は稗なり。これに混ずるに栃の実、楢の実をもってす。しかして麦を用うるものいたって少なし。正月元日には雑煮の代わりにくるみ餅を用う。この地方は野生のくるみすこぶる多し。このくるみを採集して粉末にし、餡のごとくにねり、餅に付けて食する由。また、稗にて製したる餅は、米よりもかえって味淡にしてよしと聞く。

 本郡は面積百五十三方里にして、香川県よりも大なること三十四方里の大郡なれども、人口わずかに七万に満たず、香川県の十幾分の一なり。町村数二十八にして学校数(分教場を合す)八十二校、すなわち一町村に三校半を有する割合なり。産業は海岸地を除くの外は牛馬、薪炭、材木とす。駅路は薪炭車列をなして下行す。また、川には材木を流すこと多し。物価は概して低廉なるも、草鞋だけは高価なり。他地方にて一足二、三銭なるに、この地にては五銭なり。これ遠方より輸入せるによる。方言としては、サヤエンドウをスガワリといい、独木水車をバッタリといい、暑いことを暖かいという。また風俗としては、民家にてろうそくの代わりに松ヤニを笹葉につつみたるものを用う。これを方言〔で〕デッチという。縄は藁なきためにマタと名付くる木皮をもって代用す。簔もマタにて造る。けだしアイヌの遺風ならん。町村長に他地方よりきたれるもの多く、大抵有給なるは北海道に似たり。農家の耕地用に鍬を用いず、鋤とシャクシとを用う。シャクシは三角形にして各辺五、六寸の長さあり。左官のコテに類するものなり。農家の屋根は厚き小葉板にてふき、その上に石を載す。また、両閉〔伊〕郡内の小学校庭を見るに、大抵みな御真影奉安庫の別置せるあり。

 七月三十日(明治天皇祭) 炎晴。ただし朝気〔華氏〕六十四度、日中〔華氏〕八十四度、二十度の相違あり。早暁、岩泉を発し、日よけを付けたる上等荷馬車にて行くこと四里、小川村に一休す。この辺りは各村役場間の距離、近くも四、五里あり。九戸郡葛巻村長和久内光久氏、ここにきたりて迎えらる。ともに荷馬車に駕し、更に行くこと八里、その間に郡境草刈峠を越え、野店にて喫飯す。前後薪炭林と稗畑のみにて、米田は皆無なり。午後六時半、葛巻村〈現在岩手県岩手郡葛巻町〉に入る。行程総じて十二里、本村より鉄道本線沼宮内駅までなお八里を隔つ。宿所は遠藤旅館なり。夜気冷ややかにして蚊帳を用いず。水の清冷なるは掬すべし。この辺りは茶菓子にくるみを用うるもまた珍し。

 三十一日 暁霧のち快晴。朝夕の冷気秋のごときも、日中の暑気かえって強し。会場は小学校、発起は和久内村長の外に、校長宮沢五平氏、江刈村長高橋直記氏等なり。この地方の方言を聞くに、氷柱をタルヒといい、虎杖〔いたどり〕をサシトリ、おたまじゃくしをギャルコ、楢の実をシダミといい、イケナイことをワカラナイといい、済んだことをキマッタという。例えば演説がすんだというべきを、演説がキマッタというの類なり。

 八月一日 午前晴れ、午後霧。この日も同じく荷馬車に駕して山腹の石路をわたるに、石出でて車躍る。行くこと六里、山形村字川井に一休して喫飯す。休憩所は有志家清水徳十郎氏の宅なり。その地、実に深山幽谷間の小駅にして、村内に米田なく、また医師なし。産業は牧畜なれば、村費にて獣医を置く。世評にては、山形は人より獣を大事がるという由。川井より更に馬背にまたがりて行くこと六里、日暮、久慈町〈現在岩手県久慈市〉に入る。行程総じて十二里、山また山渓また渓、その間人家の散在せるありて、実に武陵桃源の趣を存す。途上吟一首を得たり。

山自嵯峨渓自深、荷車載客度雲岑、 遥々九戸郡南路、不見稲田只見林。

(山はおのずから険しく、渓谷はおのずから深い。荷車は旅人をのせて雲の峰を行く。はるばると来た九戸郡の南の道は、稲田は見えず、ただ林をみるのみであった。)

 また、狂歌一首をつづる。

  山は皆九の字の相〔なり〕に横はる、九の戸郡とは九の字郡なり。

 郡書記菅原健之助氏は川井まで出でて迎えらる。当夕、久慈町三船旅館に宿す。

 二日 曇晴。久慈町は郡内第一の都会にして、もと八日市と称せり。八の日に市を開くによる。県下は各都会におよそ月三回の市あり。久慈より青森県八戸町まで十六里の間、毎日馬車往復す。会場長福寺は堂広く境静に夏気清涼を覚ゆ。住職は大橋忍隆氏なり。発起は久慈町長晴山重三郎氏、書記上山重三氏、その他、郡長佐藤与七氏、視学安部富七氏、長泉寺住職藤原虎海氏、および大橋氏等にして、みな尽力せらる。

 三日 曇りにして霧あり。早朝、西洋式高等馬車、すなわちいわゆる勅任馬車に駕して久慈を発したるも、馬足遅々として六里の駅道を走るに六時間を費やせり。けだし馬車は勅任なるも馬は平民なるによる。この間は平原、曠野にして、いたるところに牧場あり。途中、原頭に郵便物交換所と表記せる仮屋あり。久慈、大野各駅より郵便脚夫が時間を計りてここに相会し、互いに郵便物を交換する所なり。これを見て荒漠無人の境にひとしき感を起こす。本日の開会地たる大野村〈現在岩手県九戸郡大野村〉はこの日、軍人点呼あり、牛馬競売ありて雑沓を極む。佐藤郡長にはここにて相会す。会場は小学校、発起は村長米田清次郎氏、校長工藤伝三郎氏等なり。工藤氏には先年八丈島にて相識となれり。学校の隣地に雷神社あり。本村は七里四方の面積を有するが、郡内にはそれ以上にして十里四方の面積を有する村二カ村ありという。宿所は長内旅館なり。

 四日 晴れ。荷馬車にて行くこと五里余、軽米村〈現在岩手県九戸郡軽米町〉に至る。その間は平坦にして往々米田を見る。村名に米の字の付きたるゆえんを知るに足る。しかるにその米量は村民食量の二、三カ月を支うるに足らずという。これ軽米たるゆえんならん。会場は小学校、発起は村長村井儀七郎氏、青年副会長小笠原吉助氏等なり。日暮に及びて降雨あり。久旱望霓の際なれば、農民大いに歓呼す。本村は葛巻と同じく市街の形を成す。宿所滝村旅館には宿料一等八十銭、二等六十銭、三等四十銭の掲示あり。この村内の山麓に古い五輪塔あり。これをオゴリンサマと呼び、瘧にかかるものその塔に祈願すれば必ず治すと信ずる由。これ、この地方の迷信なり。

 本郡は二十カ町村にして校数八十四校あり、一町村四校以上の割合なり。これによりて村落のいかに点々散在せるかを知るべし。方言としては、前記の外に父をダダ、母をアッパー、少女をテベーコ(盛岡にてはベッコ)、衣服をポッポーという。同じ岩手県にても旧来八戸領なりしために、言語には南部領と少差ありという。農民が物を負うときに背上に載するものをネコという。雪中用の藁靴を権平といい、藁靴にして鞋の形をなせる方をツマゴといい、その折衷を新平という。また、農家用脚半をハンバキといい、菅笠をパホリといい、松ヤニ製の燭をトンガイという(下閉伊のテッチのことなり)。耕作用の鋤はその柄長く、足を掛けて使用す。埼玉県の鋤に同じ。人が初めて旅立ちするときには、額に十字をえがくを道中安全の呪願とす。これ、あるいは昔時ヤソ教より伝わりし旧慣ならんか。少年には十字、大人には×字をえがくともいう。本郡内の稗の収穫高を聞くに、一反歩にて三石五斗ぐらいとす。もしこれを白にすれば三分の一に減ず。しかしてその価は一升につき、米よりも七、八銭安しという。もし物産としては全郡より輸出する炭額一年八十万円を第一とし、これに次ぐものを海産物とす。海産物は久慈町だけにて三万円以上と聞く。その他、郡内の特色は電灯と人力車のなき一事なり。

 八月五日(日曜) 雨。馬背にまたがり行くこと五里余、丘山を上下して二戸郡金田一村〈現在岩手県二戸市〉に至る。本郡は陸奥国に属す。馬上吟一首あり。

久旱連旬稗欲枯、夜来膏雨気初蘇、今朝馬上聞農語、滴々総無非宝珠。

(久しくひでりのままに数十日を経て、ひえも枯れようとしていたが、昨夜からのめぐみの雨に生気はようやくよみがえる。今朝は馬上に農家の人の話を耳にしたところでは、雨の一滴一滴はすべて宝珠であったという。)

 会場は小学校、発起は村長下川清吉氏、校長金子四郎氏なり。聴衆極めて少なし。演説後鉄路に駕し、一里強を走りて福岡〈現在岩手県二戸市〉駅に下車す。駅より町まで十八町を隔つ。去月二十七日宮古を去りて以来、ここにきたりてはじめて腕車を見る。町の中央には水なき谷に壮大の鉄橋を架するあり。これを岩屋橋という。これ福岡に過ぎたるものとの評なり。当夕、佐藤旅館に宿す。郡長木村友次郎氏来訪せらる。

 六日 曇り。午後、小学校にて開会す。発起は木村郡長および視学渡辺一之進氏、校長杉岡潔氏、町長下斗米常直氏なり。聴衆また少なし。町外に爾薩体と名付くる一村あり、これ奇名なり。この地方にて久旱の際祈雨するには、農民相伴って折爪岳に登りて雨ごいをなす。もし効験なき場合には、その山上清泉噴出せる所に立てる石地蔵を水中に投じて祈る。もしなお効験なき場合には、神官を引き出だして水中に投ずるを例とす。しかるに本年は神官を投じたるもなお降雨を見ざりしという。これ蛮的迷信なり。福岡の名物は化石にして、魚貝の形を有するものを産出す。また、当地の出身としては学友田中館愛橘氏あり。

 七日 晴れ、午時少雨再来。早朝福岡を去り、腕車にて渓間をさかのぼること四里半にして浄法寺村〈現在岩手県二戸郡浄法寺町〉に入る。道路不良なり。これに加うるに雨後泥いまだ乾かず、車行は走行よりも遅し。途中、御返地村の一部に戸々門前にしめ縄を張り、サイカチの実をつるし、そのそばに麦稈にて作りたる人形の木工を帯ぶるものを置く。聞くところによるに、その部落に赤痢ありしにより、これを防ぐ禁厭なりという。車道は本郡の古刹天台寺の山下を過ぐ。その寺は鬱然たる杉林の中にありて、行基の開基、田村将軍の再築と伝う。本尊観世音は国宝なり。山麓に大桂樹二株あり。その下に清泉湧出す。これを桂清水と名付く。余、これを望みて一詩を寄す。

夏山鬱々又葱々、樹鎖天台寺裏宮、千古霊場宜避暑、桂泉一道醸清風。

(夏の山はいよいようっそうと茂り、樹木は天台寺の本堂をかくしている。千年を経た古い霊場は暑さを避けるにはまことによく、大桂樹の下の桂清水の道は清らかな風をつくり出しているのである。)

 当日の会場は小学校、発起は村長清川豊治氏、有志小田島五郎氏等なり。その夜、宿所清川旅館にて鼓声を聞く。これ盆の七夕なりとて、盆踊りをなせるによるという。

 八日 炎晴。更に車をめぐらして福岡駅に至る。車上にて稲田すでに穂を吐きつつあるを認む。人みな豊作と称す。これより一戸町に至るの中間に、古歌にて伝うるところの末松山の勝地あり。余、一作をとどむ。

末松山在福岡南、一首古歌人所諳、峯頂猶留波浪跡、桑溟事変感何堪。

(末の松山は福岡の南にあり、一首の古歌は人々のよくそらんずるところである。峰のいただきにはなお波浪の跡をとどめて、桑滄の変の歴史を思って感無量であった。)

 約二里の間汽車をとり、一戸町〈現在岩手県二戸郡一戸町〉に降車す。本日牛馬市にして、街上に牛馬の集まれるを見る。会場は広全寺、発起は住職佐藤大麟氏、町長金子茂太郎氏、校長小田野健三氏等なり。郡内は福岡校長杉岡氏案内せらる。本町の名物は竹細工なりと聞く。夜に入りて山崎旅館に宿す。

 九日 炎晴。汽車にて一戸より岩手郡沼宮内町〈現在岩手県岩手郡岩手町〉に移る。ここに郡長尾形亀寿氏の歓迎せらるるあり。この地方は南部馬産の本場にして、日本驥北と称せらる。午前開会。会場は小学校、発起は町長似鳥英氏、校長根守練太郎氏なり。しかして主催は郡内各所ともに郡教育会なり。演説後ただちに尾形郡長とともに汽車にて好摩駅におり、これより腕車をとり、行くこと約一里にして渋民村〈現在岩手県岩手郡玉山村〉に入る。会場は小学校、発起は村長工藤千代治氏、校長和久井敬二郎氏、本派布教師山崎教遵氏とす。山崎氏は哲学館出身なり。本村には真宗信徒多しという。宿所駒井要太郎氏宅は醸酒を業とす。昔年東北巡幸の際、鳳輦をここにとめられしことありと聞き、壁上に一詩を題す。

聞説鳳松下、昔年竜駕停、栄光長不滅、我亦仰余青。

(聞いたところではおおとりの翼をひろげたような松の下に、かつて天子の駕がとめられたとか。その栄光は長く滅せず、われもまたこの残りの青松を仰いだのであった。)

 鳳松とは、その庭内に珍松の形、鳳翼に似たるあり、かつその下に鳳輦をとめ給いし事跡あるにより、主人のもとめに応じて余の命名するところなり。

 十日 晴れ。朝、渋民村宿所において初めて稗飯を試食す。その味、三年前の古米のごとく、淡くして軽し。午前七時、荷馬車に合乗し、好摩を経て田頭村〈現在岩手県岩手郡西根町〉に移る。行程三里半。その途上、右に姫神山を見、左に岩手山(一名岩鷲山)を望む。従来岩手は男にして姫神は女なりとし、その両山を夫婦に配することとなる。けだし自然の山容にこの趣あるによる。かつこの両山の奇なるは、一方晴るるときは必ず一方は曇り、両方同時に晴るることなしという。ときに一詩を賦す。

好摩駅外草原平、牧馬場頭暁望清、岩鷲姫神相対処、一山曇則一山晴。

(好摩駅の外は平らかな草原が広がり、牧馬場のあたりは暁の清らかさがある。岩鷲山と姫神山のむかいあうところ、一方の山が曇るときには他方の山が晴れ、ともに晴れることはないという。)

 本郡は馬産地にして、好摩駅外牧場多し。故にこれを詩中に入るる。田頭の会場は小学校、発起は村長佐々木善八氏、校長上斗米始氏、東慈寺住職駒嶺泰明氏、訓導鈴木常三氏および大更村長、校長なり。演説後、鞍馬に鞭うち走ること二里半にして、好摩に至り汽車に駕す。車窓より吟眸を放つに、姫神山ひとり晴れて岩手山なお雲に包まるるを望む。好摩の南方に当たりて牧堀村あり。その村社たる金勢社には男根を祭る。遠近より信者の来詣すること、年中たゆるときなしという。当夕は、盛岡市一等旅館三島屋に入宿す。駅をへだつること半里ほどあり。この外に高木旅館ありて、並び称せらる。駅前の北上川に架設せる開運橋は、東北第一の鉄橋との評あり。

 十一日 曇り、ときどき驟雨きたる。馬車を駆ること四里半にして雫石村〈現在岩手県岩手郡雫石町〉に入る。途中、まず目に触るるものは畑地に蕎麦の多きと、路傍に松樹の並列せるなり。また、中間に川を隔てて繋温泉あるを望む。本日の会場は小学校、発起は雫石校長工藤祐定氏、上野校長鳥取万次郎氏等なり。目下夏蚕の最忙期にて聴衆いたって少なし。郡役所よりは書記伊藤良助氏、各所へ案内せられたり。本郡は県下第一の大郡にして、その面積は香川県、佐賀県、大阪府よりも広しという。郡内の特産は牧馬なり。聞くところによるに、牧馬に持ち主と小作との別ありて、持ち主は小作に馬を貸して牧せしむ。しかしてその収得の六分を持ち主に、四分を小作に配当する割合なりという。当夕もまた盛岡へ帰宿す。

 八月十二日(日曜) 大雨。朝七時、盛岡駅を発して矢幅駅に降り、これより腕車にて行くこと半里、紫波郡徳田村〈現在岩手県紫波郡矢巾町〉小学校に至り、午後開演す。村長中村長五郎氏、校長戸塚玉司氏の発起にかかる。校前街路の両側に松樹の並列せるあり。演説後、これを一過して郡衙所在地たる日詰町〈現在岩手県紫波郡紫波町〉に至る。里程一里半。当夕、浄土宗来迎寺において開演す。郡長吉田一耕氏、ここに来会せらる。発起は郡書記佐川盛造氏、町長金子慶之助氏等とす。宿所紫明閣は馬市場庭内にあり。夜中、雷鳴を聞く。

 十三日 晴れ。朝時、日詰町勝源院庭内の槲樹を一覧す。その形、臥竜のごとし。樹齢を一千年と称せらる。日本国中槲樹の高老なるは疑いなし。これより車行二里、不動村〈現在岩手県紫波郡矢巾町〉に移る。田間の道路不良なり。本郡は県下の米産地にして、水田四面に連なり、稲すでに穂をぬき、風きたりて緑波をみなぎらすところ、一吟に価す。

盛岡城外望蒼茫、一道清風夏自涼、万頃稲田濶如海、紫波郡是穂波郷。

(盛岡の郊外は一望すれば青く茫々と広く、一道に吹く清らかな風は、夏にもかかわらずおのずから涼しい。広々とした稲田はまさに海のごとく、紫波郡は穂波郡なのである。)

 不動の会場は小学校、発起は村長室月遂夫氏、進修会長斎藤伝蔵氏、軍人分会長菅原武夫氏等なり。午後、車行一里、水分村〈現在岩手県紫波郡紫波町〉小学校に移りて開演す。遠藤禄郎氏、佐藤利次郎氏等の発起にかかる。しかして宿所は真宗大谷派光円寺なり。

 十四日 晴れ。早朝、馬上にて田蹊一里半を歩し、志和村〈現在岩手県紫波郡紫波町〉浄土宗隠里寺に至り、午前、青年会のために講演をなす。発起は村長細川久氏なり。演説後、再び鞍馬にまたがり、日詰より北上川の南岸に移り、彦部村〈現在岩手県紫波郡紫波町〉小学校にて開演す。発起は村長佐藤定八氏、校長佐藤金作氏なり。郡内は各所とも青年会の主催にかかる。本郡の地勢は北上川を挟みて平坦なり。面積は県下の最小郡なるも、人口の比較的多きは米田に富めるによる。日まさに暮れんとするときに彦部を発し、馬上にて渡船し、日詰駅に至る。里程約一里、微雨ようやく降る。八時の西行に駕し、翌十五日朝、上野に着す。

 岩手県の風俗に関して前に掲げしものの外に、見聞に触れたる二、三項を記せんに、民家にて飯を炊くに釜を用いずして鍋を用う。これ薩州に同じ。風呂はすべて桶にして鉄砲風呂最も多し。五右衛門風呂、長州風呂全くなし。旅館の客室には盛夏中といえども必ず大火鉢に火を入れおくは異風なり。旅館と料理店は判然相わかれ、旅館に管絃の声なく、いたって静閑なるは大いによし。下女のすべて朴直なるもまたよし。ただし座敷の造り方が北方をふさぎ、風通しの悪きは夏向きに適せず。旅館の下女は飯の給仕をするも、酒の酌をなさず。徳利を持ちきたれる場合に、酌をせよと命ずればたちまち逃げ去る。これ警察の規則を厳守するによる。かく遵法の美風を有するは称揚すべし。しかるに各郡ともに、濁酒密造の多きこと日本第一との評あるは奇怪千万なり。各郡各所ともに空気の清新なると飲用水の清冷なるは大いに愛すべし。各駅に車道ありてその道に腕車も馬車もなく、各線に停車場ありてその地に人力車のおらざる所多きは、旅客をして大いに不便を感ぜしむ。馬車の徐々として動き徒歩よりも遅きは一特色なり。旅館の食用の早く弁ぜざるがごときは、あえて本県のみに限らず。しかして演説時間に至りては比較的精確なるは、命令を遵守する美風あるによるべし。宴会の席には南部のオキツギと唱うることあり。客の杯のいまだ尽きざるに、断りなくその杯中へ酒をくみて満たしおくをいう。これも南部名物の一として伝わる。人の姓につきて「工藤高橋ベコノ糞」と唱えおる。これ、その姓のあまり多きをいう。ベコとは牛の方言、すなわち牛糞のごとくたくさんあるの意なり。他府県にては犬糞と唱うるを、本県にて牛糞というはおもしろし。また、姓に尿村というものありと聞く。これ奇姓中の奇なるものなり。

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南船北馬集 第十四編

新潟県西蒲巡講日誌

 大正六年八月十八日 晴れ。午後八時、上野発信越線直行に駕して新潟県に向かう。この行は随行なく単身なり。

 八月十九日(日曜) 晴れ。朝八時半、新潟着。西蒲原郡視学稲葉仁作氏の、ここにきたりて迎うるあり。ともに車を連ねて行くこと三里、黒埼村〈現在新潟県西蒲原郡黒埼町〉字大野に至る。途中、無花果畑の相連なるあり。開会は午後、会場は小学校、宿所は箱田屋なり。すべて各所の主催は西蒲原郡教育会と、開会地たる町村教育会とにかかる。しかして本日の発起は黒埼村長米川又七氏、大野校長斎藤一男氏、同青年会長小熊織次郎氏、木場校長行田安太郎氏なり。晩餐の席上にて、萩野左門氏に相会して久闊を述ぶ。

 二十日 晴れ。車行二里半、田間の狭路を一過して曾根村〈現在新潟県西蒲原郡西川町〉に入る。当面に角田山と弥彦山と、互いにたもとを連ねて列座せるを望む。また、稲田往々抽穂しつつあるを見る。会場は小学校、発起は校長川崎栄三郎氏、村教育会長田中勇吉氏、村長青木周作氏なりとす。当夕、車路一里半を一走し、郡衙所在地たる巻町越中屋に入宿す。当町には盆踊りあり、鼓声相伝えて枕頭にきたる。

 二十一日 晴れ。車行二里半、吉田村〈現在新潟県西蒲原郡吉田町〉に至る。途上吟、左のごとし。

西蒲郡兼三島連、稲田如海緑無辺、挙頭弥彦山難認、知是暁烟封半天。

(西蒲原郡は三島郡に連なり、この地の稲田は海のごとく、緑はかぎりなく広がる。ふり仰いで弥彦山をみようとしてみられず、そこで暁のもやが天の半ばをおおっていることに気づいたのである。)

 この辺りはすべて曾遊の跡にして、明治三十二年、哲学館拡張のために巡講せしことあり。当時の相識、半ばはすでに隔世の人となるは喟嘆に堪えず。会場小学校には、越後名物の雪火鉢を備えらる。雪火鉢とは、鉢の上に雪の大塊を載せ、室内の空気を冷やす設備をいう。発起は校長栗原九十九氏、村長治田竹次氏なり。この日、吉田の市日に当たり、街上人群をなす。演説後、停車場前三月楼にて晩餐を喫し、発車を待つ間に、治田村長とともに詩作を試む。当所より弥彦まで一里半の間、軽便鉄道あり。夜に入りて巻町に帰宿す。

 二十二日 曇り。朝夕すでに秋涼を覚ゆ。朝一番に駕して地蔵堂町〈現在新潟県西蒲原郡分水町〉に至る。当町は巻より五里、吉田より二里半と称す。会場は願成寺、発起は町教育会長中村卯吉氏、校長佐藤金太郎氏、浄林寺住職藤井了恩氏等にして、宿所は宮本旅館なり。夜に入りて蛩声を聞く、知るべし、秋気の草根に入るを。弥彦より当町の間は、北越奇傑の一たる僧良寛の遺跡多し。ある人、その肖像を携えきたりて賛を請う。余、即時これに題するに「良寛是仏、誤落人間、人間不識、徒称寒山」(僧良寛はまさにほとけ、それが誤って人間の世界に来てしまったのである。人々はこれを知らず、ただ、唐の寒山になぞらえてそう称するのである。)の十六字をもってす。

 二十三日 朝、驟雨にわかにきたり、のち晴るる。車行三里、燕町〈現在新潟県燕市〉に至る。当町は旧来、金具鋳造業者多し。この日は市日に当たり、街路雑沓す。この地方の市日は一カ月六回にして、一、六の日は吉田、二、七は三条、三、八は燕、四、九は地蔵堂、五、十はもと与板なりしが、今は廃せりと聞く。会場は小学校、発起は大西元次郎氏、解良亥四郎氏等にして、宿所は三条屋旅館なり。

 二十四日 晴れ。車行二里半、穂田万頃の中を横断して道上村〈現在新潟県西蒲原郡中之口村〉に移り、小学校にて開演す。発起は平松遮那一郎氏、関根恭平氏等なり。午後、更に車行二里、味方村〈現在新潟県西蒲原郡味方村〉字白根に至り、西福寺にて夜会を開く。青池倶平、高橋宰、種村久三郎、木下牛太郎四氏の発起なり。木下氏は哲学館出身にして、十五、六年ぶりにて相会す。この日、同出身雲郷智孝氏も来訪あり。宿所は高橋宰氏の新築別館なり。室内、光線および空気の流通大いによし。余、その名を選びて自得軒と題す。当所にて信濃川を見つつ、懐旧の一詩を得たり。

重到故園尋旧蹤、山河為我独脩容、信川一道如長帯、弥彦連峰似臥竜。

(かさねてなじみの地に至り、かつて講演したあとをたずねた。山も河も私のためにのみ姿形をととのえて迎えてくれた。信濃川は長々と帯のごとく、弥彦山の連峰は臥した竜にも似ているのである。)

 二十五日 晴れ。車行四里、駅道、といしのごとし。再び巻町〈現在新潟県西蒲原郡巻町〉に至り、午前、小学校において本郡軍人会および青年会に対し、一席の講話をなす。聴衆満堂、約二千人の目算なり。当夕、同所において町教育会のために更に開演す。発起は郡長小山竜作氏、視学稲葉仁作氏、巻校長南須原源治氏、町教育会長関根彰氏等なり。

 今回本郡の巡講に関し、特に大いに尽力せられしは小山郡長と稲葉視学なり。また、郡書記小山市三郎氏は終始各所へ出張して、種々斡旋の労をとられ、巻校訓導笠原俊一氏も奔走の労をとられたるは、ともに深謝するところなり。本郡は海浜にそいて弥彦山脈あるの外は、全部平坦。稲田縦横に連なり、一方は信濃川に続き、中間には潟と称する沼池を挟む、いわゆる山遠水長の地なり。町村数三十五、小学校数六十三、人口十五万あり。郡内の地名として奇異なるものは黒埼村の立仏、鎧郷村の天竺堂なり。つぎに、余が越後名物をよみたるもの、左のごとし。

  越後名物お存じないか、夏の昼寝と冬炬燵、盆の踊りとゴゼ按摩、まだもあります角兵衛獅子。

 越後方言としては、弱年の婦人をネーサンというべきに、アネサまたはアネヤまたはアネマという。ナマケものをノメシといい、歩くをサワグといい、弟をオジといい、妹をオバといい、アグラをアグシ、氷柱をカネコオリ、虎杖〔イタドリ〕をスッカンボウ、サヤエンドウを三度豆、ジャガタライモを甲州芋、唐辛〔子〕をナンバンという。

 八月二十六日(日曜) 晴れ。早朝六時半、巻町を発し、新潟白山駅にて降車し、腕車二十丁余にして新潟駅に着す。小山郡書記、余を送りてここに至る。これより岩越線をとりて、再び岩手県に向かう。

 (開会一覧は岩手県の後に譲る。)

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南船北馬集 第十四編

岩手県巡講第二回日誌

 大正六年八月二十六日(日曜) 晴れ。午前、新潟駅より乗車し、新津若松を経て午後四時、郡山駅に着し、ここにて随行中野堅照氏と相会す。駅前の旅館にて一休の後、六時の急行にて東行し、深夜一時四十分、盛岡市〈現在岩手県盛岡市〉に着し、ただちに三嶋旅館に入る。月色虫声ともに秋のきたれるを報ずるもののごとし。

 二十七日 晴れ。午前、知事官邸に至り、大津知事に面会す。つぎに、内務部長永田亀作氏、警察部長新開諦観氏、学務課長理事官辛島知己氏等を歴訪す。午後、物産陳列館階上にて開会あり。大津知事臨席せらる。主催は市教育会にして、市長北田親民氏、書記小山田定国氏等の発起にかかる。演説後、辛島理事官の案内にて旧城跡の公園を登覧す。眺望すこぶるよし。ときに蓮花まさに開きて一段の趣を添う。この公園は東北六県中第二位におる。すなわち秋田を第一とし、そのつぎに位すという。当夕、県庁理事官、岩手郡長等の厚意により、西洋料理店へ招かれ、晩餐の饗応を受く。

 二十八日 晴れ。午前、報恩寺に至り、各宗寺院のために一席の談話をなす。発起者は千原円空氏、松見多聞氏(哲学館出身)等なり。千原氏は今より二十六年前、当市にきたりしときより相識る。報恩寺は曹洞宗にして、東北屈指の大坊なり。本堂の間口十六間、別に羅漢堂あり。堂内の五百羅漢は稀有の名作と称す。堂の内外ともに清麗を極む。盛岡市の大建築としては開運橋、盛岡銀行、報恩寺の三なりとの評あり。岩手日報主幹禿氏岳山氏は哲学館出身なるが、宿所へ来訪ありて、創業以来四十年に達するにつき祝詩を寄せんことをもとめられ、「岩手新聞名日報、不知今達幾千号、詞壇万丈筆頭光、四十年来照中奥」(岩手の新聞は岩手日報と名付けられ、いまやなん千号になるかわからない。紙上に万丈の気を吐き、筆の先は輝く。かくて、四十年もの間、奥羽の中心を照らしてきたのである。)の一首を賦す。午後、再び物産館上にて講演を開く。岩手郡教育会の主催にして、尾形郡長および視学小松代虎七郎氏、校長佐々木武次郎氏の発起にかかる。

 二十九日 炎晴。朝七時前、三嶋旅館を発し、汽車にて鳥谷駅におり、旅店に一休す。当所には名物蕎麦ありて、通称大森ソバという。その味は信州更科に勝るとの評なり。これより馬背にまたがり、行くこと三里半、稗貫郡大迫町〈現在岩手県★(稗の俗字)貫郡大迫町〉に入る。当日、盆市ありて大いににぎわう。午後、小学校にて開会。発起は町長岩亀喜助氏、助役川村八郎氏、代議士河村精之氏等なり。この地方にはタバコを産出す。また、当町は名のごとく四方山にて囲まれたる地にして、早池峰山の登り口なり。その山麓まで五里と称す。

 三十日 晴れ。馬上にて行くこと二里半、八重畑村〈現在岩手県★(稗の俗字)貫郡石鳥谷町・大迫町〉に至る。久しく降雨なく、塵埃道に満つ。人家は林野の間に散在し、地勢おのずから高低あり。会場は小学校、発起は村長晴山万次郎氏、校長工藤善太郎氏なり。宿所晴山竜太氏宅は庭前に秋草を満栽し、幽花地に敷くがごとし。夜に入れば虫声冷ややかにして客思を動かす。

 三十一日 曇りのち雨。馬上一里半、途中、北上川を渡船して八幡村〈現在岩手県★(稗の俗字)貫郡石鳥谷町、花巻市〉に入る。国道の小駅なり。村外稲田広闊、一望はてなく、南部の富源この間にあるを想せしむ。午後、小学校にて開演す。発起は村長似内庄三郎氏、校長阿部伊佐吉氏等なり。しかして郡視学大角小作氏は各所を案内せらる。宿所永井勇次郎氏宅にて晩食のときに、名物大森ソバを味わうるを得て一吟す。

跋渉稗貫山又河、万村秋熟見嘉禾、客窓一夜得蕎麦、風味誰疑勝更科。

(稗貫郡の山や川を歩きまわれば、あらゆる村の秋は熟し、稲の穂のみごとな実りようを見た。旅の宿の一夜、名物の大森そばを賞味することができたが、その風味はだれもが更科そばにまさると思うであろう。)

また、「名物にうまいものなき世の中に、うまいものあり大森の蕎麦」の狂歌をよみて紀念となす。

 九月一日 朝雷雨、午後日光を見る。この日、二百十日の厄日に当たるも、風なく平穏なれば、農民大いに喜ぶ。八幡より花巻町〈現在岩手県花巻市〉までは直行二里半に過ぎざれども、国道に腕車なきをもって石鳥居駅を迂回し、汽車にて花巻に至る。当町は二十七年前曾遊の地なり。盛岡以西、停車場に腕車なきに、この町に至りてはじめてこれを見る。当町より志戸平温泉まで電鉄の便ありと聞く。午後、花城小学校にて開演す。発起は郡長葛博氏、花城校長千葉信訓氏、花巻校長杉松之助氏、および大角視学なり。宿所中島旅館は花巻川口町内にあり。その家は稲荷様信仰にて、正面の座敷にその神棚を置き、入宿者をしてまずここに一拝せしめんとするもののごとし。当夕、宿所において葛郡長および警察署長(笹井初之進氏)等と会食す。

 本郡内の風俗を聞くに、旧暦七月十三日夕、墓参りをなすも盆踊りなし。その代わりに念仏踊りあり。正月は餅を食し、盆は赤飯を食する由。方言としては氷柱をタルヒといい、巫女をエタコというと聞く。当地にて盛岡市の迷信を伝聞するに、岩手山は県下第一の高峰にして、その高さは海抜六千八百尺、その形は富士山に似たりとて南部富士とまで称せらるる霊山なるに、盛岡市中に一戸としてこの山に向かいて座敷を作りたるものなし。これ、その山が鬼門にあたるにより、軒をその方に開くを忌む故なりという。また、寒気につきて語るところを聞くに、極寒の際は華氏十二度にくだることあり。そのときはビール瓶破れて、ビールそのものが氷塔をなして立ちおる。これを鉄瓶に入れ火にかけてとかすという。また、便所の大便が凍りながら相積み、ついに氷ピラミッドができ、その突端が尻に触るるに至るという。人をして盛岡の名物は、あにただ石割桜のみならんやを思わしむ。石割桜とは花崗石の中心をさきてその中より挺出せる奇桜なり。市内裁判所の前庭にあり。

 九月二日(日曜) 晴れ。鳥居崎駅より軽便に駕し、和賀郡小山田〈現在岩手県和賀郡東和町〉駅におり、これより会場滝沢寺まで一里の間乗馬による。午後開会。発起は村長伊藤禎一氏、校長菊池和生氏、および八重樫勘蔵氏なり。本村は農蚕を本業とす。地勢丘陵多し。演説後、再び馬背にまたがり、行くこと二里半、中内村〈現在岩手県和賀郡東和町〉に入る。その中間に土沢と名付くる小市街あり。本県は盛岡市を除くの外はみな旧暦の盆を用う。たまたま今夕は旧七月十六日に当たれるをもって、街上に庭火をやき、各戸軒灯を点じ、往来頻繁、人語喧囂なるも盆踊りをなさず。また、店内には紙にて石塔の形を作り、これに亡者の戒名を表記し、その中に灯を点ずるを見る。また、村落にては林間の枝頭に万灯を点じ、あたかも開店祝いをなすがごとし。これに加うるに本夕は四面一点の雲なく、ひとり一輪の明月東天にかかり、清輝露気を含みて、満天ために白きを覚ゆ。途中、猿ケ石川を渡るときに、月光碧流に映射する所、思わず壮絶快絶を呼ばしむ。かくして八時半、中内佐々木ワカ氏の宅に入宿す。はるかに鼓声の耳朶に触るるあり。これ村落の盆踊りなりという。その踊りをサンナ踊りと称する由。余もまた一詠なきを得ず。

客程今夜会中元、月下一鞭過野村、秋入草根虫語冷、奥山風物動吟魂。

(旅の途中、今夜は旧暦七月十六日の中元にあたる。月の光のもと、馬にむちうって野の村をよぎった。秋は草の根にまで入りこみ、虫の声も冷たそうである。奥羽の山中の風物は詩情をかきたてるものがあるのである。)

 三日 雨。午前、小学校にて開会。主催は青年会、発起は村長千田稲城氏、校長中村万右衛門氏等なり。本村は実に丘陵群起の間に介在す。午後、中内より更木村〈現在岩手県北上市〉まで山路をとれば一里半なるに、雨天のために迂回して三里に及ぶ。道悪く馬進まず、更木会場小学校に着するとき、すでに五時を報ず。演説中、点灯をなすに至る。主催は四恩会、発起は永昌寺住職三浦瑞見氏(東洋大学出身)、および千田甚太郎氏、同礼治郎氏なり。夜九時半、更木を発し、馬上にて行くこと十二丁にして北上川を渡船し、対岸より腕車に移り、行くこと一里半にして黒沢尻町〈現在岩手県北上市〉西念寺に入る。ときに十一時半なり。

 四日 雨。午後、小学校作法室にて講演をなす。当校は規模壮大、建築堅牢をもってその名高し。夜に入り、更に宿坊西念寺にて講話をなす。発起は町長中島文次郎氏、助役千葉伝八氏、町会議員斎藤忠之丞、吉田庄四郎、沢藤半兵衛、阿部喜兵衛、八重樫多蔵五氏なり。しかして非常なる熱誠をもって献身的に奔走尽力せられたるは宿寺住職今西由訟氏なり。氏は二カ月前より郡内山間部を巡回し、賛成を勧誘せられし由。揮毫の数、哲学堂維持金の額、ともに県下各郡に冠たるのみならず、他府県においてもほとんど類例なきほどなり。したがって早晨より深更まで終日終夜、揮毫に忙殺せられたり。当地は秋田県横手に通ずる平和街道の分岐点にして、早晩鉄道の全通を見るに至るべし。本郡内にも仙人峠あり。よって県下にては閉伊郡の仙人と区別せんために、釜石仙人、和賀仙人と呼ぶ。黒沢尻より南方約一里にして旧南部領と仙台領との境界あり。南方は相去村、北方は鬼柳村をもって領界とせり。昔時、南部領は鬼柳より青森県下北部の北端に及ぶ。その長さ六十余里、よって「三日月の円くなるまで南部領」といえる句あり。余、これを漢詩に訳す。

遥々南部旧山川、見月計程弦到円、今日文明鉄車走、一過三陸半宵眠。

(はるばると遠い南部の旧山川、南北の長さを月の満ち欠けで計るに、三日月に出て満月となるもなお南部領であるとか。こんにちは文明のおかげで汽車が走り、三陸も一夜の半分の眠りのうちに過ぎてしまう。)

 郡長栗田五十枝氏、警察署長菊池大三郎氏、ともに来訪あり。

 五日 晴れ。朝八時半、黒沢尻を発し、汽車にて水沢駅へ降り、これより馬車鉄道あるも、時間の都合にて腕車を用い、行くこと二里、江刺郡岩谷堂町〈現在岩手県江刺市〉に着す。郡衙所在地なり。この間に北上川渡橋、桜木橋あり。その長さ二百間と称す。午前中に岩谷堂小学校にて開会。郡長石川登盛氏、視学吾妻寅蔵氏、校長猪狩宇平氏等の発起にかかる。当町には羊羹の名物あり。日光羊羹に類す。午後、吾妻視学とともに腕車一里強、馬上三里弱にして梁川村〈現在岩手県江刺市〉字野手崎に至る。林巒起伏の間にあり。馬上吟、左のごとし。

林巒起伏路如腸、馬上清風稲気香、江刺渓頭秋已熟、山村到処祝豊穣。

(林や山の起伏に道は腸のように曲がりくねり、馬上に清らかな風を受け、かつ稲の香気がただよう。江刺郡の谷のあたりは秋がすでに深まり、山村のいたるところでは農作を祝っているのである。)

 当夜の宿所は浅沼旅館なり。涼月皎として天にかかり、秋気おのずから満つるを覚ゆ。

 六日 晴れ。蒸熱。午前、梁川小学校にて開演す。発起は今野一男氏、伊達宗敬氏、国分義一郎氏等なり。午後、鞍馬を鞭撻し、群巒二里の間を一時間にして米里村〈現在岩手県江刺市〉字人首小学校に着す。開会発起は高橋藤七氏、及川喜一氏、小野田岩蔵氏等なり。宿所菊慶旅館の新漬け香の物は大いに好評を博す。よろしくこれを当所の名物に加うべし。この日、旧七月二十日なりとて、民家一般に業を休む。本村は気仙郡と境を接し、郡界まで三里、世田米まで十里、盛町まで十五里ありという。

 七日 晴れ。人首より岩谷堂まで三里半の間は県道平坦なるも、腕車二時間半を費やす。旅館竹屋にて喫飯の際、石川郡長来訪あり。これより車行二里、羽田村〈現在岩手県水沢市〉小学校に至りて開演す。発起は村長菊池要佐久氏、校長古玉賢治氏等なり。当所には鋳物工場あり。演説後、竹屋に帰宿す。この日は市内の市日なり。宿料の掲示を見るに、一等一円、二等八十銭、三等七十銭、四等六十銭、五等五十銭、握り飯五銭より十五銭とあり。本県のごときは旅行者が必ず握り飯を携帯するを要す。本郡開会はすべて郡教育会の主催にかかる。

 八日 晴れ。岩谷堂より鉄道馬車に駕し、水沢より汽車によりて胆沢郡金ケ崎村〈現在岩手県胆沢郡金ケ崎町〉に移る。もし直行すれば行程三里ありという。汽車の三等は客まさに充溢せんとす。昨今農閑にして温泉入浴者多き故なりと聞く。本日の会場は小学校にして、発起は村長佐藤重恭氏、助役斎藤彦右衛門氏、校長佐藤忠三郎氏、宿所は綿屋旅館とす。郡役所よりは郡視学菊地康統氏きたりて案内せらる。本村は国道に沿える一駅なるも純農村なり。この地方の米田は二石の収穫あるを上田とすという。

 九月九日(日曜) 曇り。午前中に汽車にて水沢町〈現在岩手県水沢市〉に移る。会場小学校は生徒千五百人を収容する点において県下第一と称せらる。講堂は長さ十五間、幅十間の容積を有す。校長は遠藤善四郎氏なり。開会は町役場の主催にして、助役阿部酉蔵氏等の発起にかかる。当夕、宿所岩井旅館において郡長鹿野宏氏、署長鈴木門蔵氏等と会食す。旅館の各室に後藤〔新平〕男爵の額軸のみを掛くるは、当地の出身を紹介するによろし。しとねに就きて按摩を呼ぶ。上下三十銭は高価なり。

 十日 晴れ。水沢町の名物は県下唯一の国幣小社駒形神社と吉小路なりと聞く。吉小路より昔日高野長英を出だし、今日斎藤実、後藤新平の両男爵、両大臣を出だせり。よって余はこれを詩中に入るる。

水沢城頭立暁風、野寛山遠望難窮、勿言東北無人物、一吉小街出列雄。

(水沢町では暁の風のなかを出立した。野は広く山は遠く、一望するも果てをみきわめるのはむずかしい。東北に人物がいないなどというなかれ。この小さな吉小路からは多くの英雄が出ているのである。)

 早朝水沢を発し、車行二里、国道を一走して古城村〈現在岩手県胆沢郡前沢町〉に入る。純農村なり。稲田豊熟、早稲すでに黄色を帯ぶ。農民、撃壌歓呼す。会場小学校は田間にあり。開会は村長飯坂清左衛門氏、校長小野民也氏の発起にかかる。役場にて喫飯ののち更に車行一里、前沢町〈現在岩手県胆沢郡前沢町〉小学校に移りて、午後開演す。発起は町長佐藤守一郎氏、校長阿部金一郎氏等なり。当夜は駅前三浦旅館に宿す。清泉の屋後より噴出せるあり。

 本郡にて地方の迷信談を聞くに、旧正月十五日の夜中に戸外にある便所を三回りして、「今晩は」というときには必ず大男が現れきたる。これに組み付きて相撲をとり、もしその男を倒し得ば必ず大強力になるという。談話中、語尾にネシを添うること、名詞にコを付けることは、ひとり本郡の方言のみならず県下一般なり。濁酒密造は県下中、本郡と江刺郡が最も多しと聞き、往々演説中に警戒を与えしことあり。

 十一日 晴れ。二百二十日の厄日なるも無事平穏なり。早朝、馬上にて北上川を渡り、山路を上下して東磐井郡長坂村〈現在岩手県東磐井郡東山町〉小学校に至る。行程四里半、およそ四時間を費やす。途中、嶺頭にて岩手山と早池峰山を雲際に併視するを得たり。郡長宮川恭一氏は視学岩淵良平氏とともにここにきたりて迎えらる。開会発起かつ尽力者は長坂校長岩淵俊雄氏、訓導岩淵喜悦氏、同大原弘道氏の外、松川、相川、舞草、長島、田河津、生母の各校長なり。揮毫所望者すこぶる多し。本村には県下第一の奇勝猊鼻渓あり。その景は東北の耶馬渓と称せんより、むしろ東北の瀞八丁と呼ぶを適当とす。なんとなれば、二者類似の点あればなり。余、時間なきをもって踏査するを得ざるを遺憾とす。聞くところによるに、砂鉄川の両岸に絶壁石崖数十丈に及ぶあり、その岩隙に樹木寄生して趣を添う。歩霄巌あり、鍾乳洞あり、渓流潭をなす所に舟を浮かべて仰視すべし。これを猊鼻と名付けたるは、岩容自然に獅子の鼻に類するものあるによる。実に紀州牟婁の瀞八丁と好一対なりとす。余、一作を試む。

砂鉄川源景最佳、奇巌屏立樹成階、天公何意刻猊鼻、高掛渓頭百尺崖。

(砂鉄川の源の風景は最もよい。景観をなす岩が屏のごとく立ち、樹々は層をなして茂る。造物主はいかなるこころで、この猊鼻渓をきざみこんだのであろうか。高々と渓谷には百尺に及ぶ崖がかけられているのである。)

 演説後、日まさに暮れんとするとき、馬に鞭うちて走ること一里半、摺沢村〈現在岩手県東磐井郡大東町〉に至り、小学校にて夜会を開く。発起者は佐藤秀蔵氏、小原吉四郎氏、平沢鋼四郎氏(校長)、および高建寺住職谷本高俊氏(東洋大学出身)等とす。佐藤氏は多額納税者にして、元貴族院議員たりし人なり。演説後、少雨きたる。宿所青柳旅館は蚊帳を用いず。本村は市街の形を有して四通八達の要路に当たる。

 十二日 晴れ。午時、道程二里の間馬を飛ばし、一時間にして大原町〈現在岩手県東磐井郡大東町〉丸全旅館に着す。途上、一望野外の秋花の幽雅なると、当面室根山の破顔微笑せるとは、ともに吟賞するに堪えたり。室根山は海抜高からずといえども、その形富士に似たれば、人呼びて奥の小富士という。大原は市日に当たり、街上人馬群集す。その道は気仙郡高田に通ずる県道なり。四面渓山をめぐらす。よって古来の俗歌に、

  大原は奈良の都にさも似たり、西と東はヤマと大阪。

とあるはおもしろし。午後、小学校において開会あり。長坂とともに教育部会の主催にして、大原校長古玉啓三郎氏、町長千葉忠質氏、正覚院住職阿部活祥氏、その他曾慶、渋民、興田、猿沢、中川、丑石、天狗田七カ村の校長の発起にかかる。村名の天狗田は珍名なり。当地は発起者の尽力により郡内第一の好成績を得たり。

 十三日 曇り。馬背にまたがり山路を上下すること数回、室根山麓をめぐりて折壁村〈現在岩手県東磐井郡室根村〉に入る。馬上吟一首あり。

磐山深処路相従、蕎白稲黄秋色濃、連日雲間蒼影聳、室根山是小芙蓉。

(東磐井の奥深いところ、山路をのぼりおりして行けば、蕎麦の白、稲の黄色と秋はいよいよ深まる。連日のごとく雲の間に青い山影がそびえているのは室根山であり、まさに小富士である。)

 会場小学校は新築竣成し、すこぶる清新にしてハイカラなる装飾を有す。主催は教育部会、発起は村長真山丑三郎氏、校長菊池清人氏、竜雲寺住職須慶良孝氏、矢越、上折壁、小梨各村校長および訓導諸氏なり。演説後更に馬を馳せ、行くこと二里にして奥玉村〈現在岩手県東磐井郡千厩町〉に入る。日すでにくらし。素封家太田敬義氏新築宅に休憩す。その用材の美はまれに見るところなり。更に十余丁を徒歩して安養寺に至る。演説を終わるときは十一時を過ぐ。発起は村長柏利兵衛氏、軍人会長宍戸彰氏、地蔵院横井泰仙氏、校長吉田庸二氏等なり。なかんずく宿寺住職魚住威音氏、大いに尽力あり。当所は折壁へも大原へも摺沢へも千厩へも各二里ありて、いずれへも車の通ずるなし。

 十四日 晴れ。馬上二里、郡衙所在地千厩町〈現在岩手県東磐井郡千厩町〉小学校に至り、午後開会す。宮川郡長岩淵視学をはじめとし、町長千葉需氏、校長三浦隼平氏、蚕業学校教諭佐藤真吉氏、みな尽力あり。宿所は昆慶旅館三階楼上なり。門側に土蔵と便所との設ある特色を有す。

 十五日 晴れ。車行二里、薄衣村〈現在岩手県東磐井郡川崎村〉に移る。地形丘山多きも、駅路は渓流に沿い平坦にして好良なり。本郡に入りてはじめて腕車を見る。当所は一ノ関より気仙沼に出ずる要路に当たり、車馬の往復頻繁なり。市街は水害、火災をもってその名高し。四、五年間に二回全焼に会せりという。会場は小学校、主催は青年会、発起は村長高橋国治氏、教育家松元、斎藤、三浦、藤元、遠藤、千葉、数氏等、宿所は医師菊田慶徳氏宅なり。高橋村長の多大の尽力により、聴衆、揮毫ともに多数を得たり。この地に名物焼米あり。籾米のままをつぶしていりたるもの、真の玄米の味を味わうるを得。その味淡くしてよし。菓子代用の間食に適す。昨今は新栗、新松茸の期節なれば、各所において毎日膳部に上る。

 九月十六日(日曜) 曇り。一里半は馬車、一里半は馬背により、丘山を上下して藤沢村〈現在岩手県東磐井郡藤沢町〉小学校に至りて開演す。主催は教育部会、発起は村長佐伯秀八郎氏、校長上野源太郎氏、細川兵市氏等なり。しかして休憩所は素封家にして造酒家たる尾形所平氏宅とす。演説後再び馬上に駕し、渓行二里、黄海村〈現在岩手県東磐井郡藤沢町〉に移る。日暮れて灯を点ず。会場は小学校、主催は三好会、発起は村長熊谷甚太郎氏、保寿寺上野穆苗氏、長昌寺大久保呼三氏、幹事長小寺徳一郎氏等なり。しかしてもっぱら奔走の労をとられたるは佐川★(見+交)治氏なり。本村には勤王家三好監物の出ずるあり。三好会はすなわちその遺跡を保存する会と聞く。監物の歌に、

  閻魔王セウツカ婆や十王を、兵に仕立てゝ奸賊を討たん。

とあるをよみて尽忠の志の深きを見る。ここに東磐井郡を巡了せしが、当郡にては全県各郡を通じて第一の好成績を得たるを喜ぶ。

 十七日 雨。黄海宿所千葉旅館を発し、馬上にて行くこと半里、北上川左岸に達し、とどまること一時間余にして石油発動機に乗り込み、舟行約半時間にして川口に着岸し、これより再び馬背により、泥深くして脚を没せんとする田蹊を行くこと約十丁にして、西磐井郡永井村〈現在岩手県西磐井郡花泉町〉小学校に達す。黄海より四里を隔つ。校舎は丘上にありて遠山近巒を一望の中に納め、稲黄蕎白の相交わりて氈を敷くがごときを一瞰す。開会発起は村長千葉幸太郎氏、校長荘子寅吉氏、高倉校長佐藤大吉氏なり。しかして休泊所は校前の雑貨店の楼上なり。その店小なりといえども、日用品一として備わらざるなし。郡視学菊池徳兵衛氏、ここにきたりて迎えらる。

 十八日 晴れ。馬上行一里余、嘉永年間に植えたる並木松、すなわち通称嘉栄松の間を一過して涌津村〈現在岩手県西磐井郡花泉町〉小学校に着し、午前に開演す。発起は校長千葉昌已氏および職員なり。午後、再び馬をはしらすること約一里、金沢村〈現在岩手県西磐井郡花泉町〉宝持院に移りて開演す。主催は本村と花泉村との連合にして、発起は金沢村長新沼隆氏、花泉村長今野幸右ヱ門氏、医師菅原章斎氏なり。演説後、灯を提げて徒歩すること約十八丁、花泉駅より乗車して一ノ関駅前石橋旅館三層楼上に入宿す。

 十九日 晴れ。早朝、汽車にて平泉に至り、県下第一の古蹟霊場たる中尊寺を巡覧す。停車場より十町余にして山麓に達す。これより老杉枝を交ゆるの間を登ること五丁にして、本坊に至る。巍然たる大伽藍なるも、書院は茅屋にして農家のごとし。途中、北上川を眼下に見る所、風光大いによし。これより二、三丁の間、諸堂宇あり。鐘楼、宝庫、経堂、曼陀羅堂、金色堂、その主なるものなり。金色堂は一名光堂といい、藤原清衡の建立にかかり、広さわずかに三間四面なるも、爾来七、八百年の星霜を経て、金色なお燦然たり。その中には清衡、基衡、秀衡三代の棺を納むという。余、懐古の一作あり。

老樹参天護寺門、秋風蕭颯是中尊、藤家三代栄華跡、今見一堂金色存。

(老いた樹々が天をさしてたち、寺門を守るかのようである。秋風がものさびしく吹きたつところ、それが中尊寺である。藤原三代栄華のあとも、いまや一つの堂の金色に残されているのを見るのである。)

 一覧しおわり、再び汽車にて一関〈現在岩手県一関市〉へ帰る。その間三時間半を費やせり。午後、劇場関守座において開演す。この日、東京大相撲の興行あるにもかかわらず、聴衆充溢、ほとんど立錐の地なし。主催は青年団、発起は団長金卯右衛門氏(校長)、副団長熊谷省五郎氏(助役)、同亀卦川大明一氏にして、郡長岩崎亀太郎氏、警察署長大沼九八郎氏、町長野村純馬氏、軍人分会長桜井篤氏、および菊池郡視学助力せらる。当夕、九時半一ノ関発に乗り込み、帰京の途に就く。

 二十日 晴れ。午前四時、天いまだ明けざるときに福島県岩瀬郡須賀川駅に下車す。白江村〈現在福島県岩瀬郡岩瀬村〉青年団長柏村弥市氏(校長)、有終会長鈴木肝一郎氏、ここにきたりて迎えらる。暫時駅前の旅館に入り、仮寝して天明を待ち、朝飯を喫して車を駆ること三里、白江小学校に至る。道路平坦なり。午後開会。主催は青年団、発起は柏村、鈴木両氏、および村長相楽運氏なり。なかんずく柏村氏の尽力一方ならず。揮毫所望者非常に多く、終日寸隙を余さず、一気呵成にて夜十時に筆を擱し、車をめぐらして須賀川駅に向かう。当日、警察署長西坂勝人氏来会せらる。夜半十二時、須賀川を発し、翌二十一日朝六時、上野に着す。

 岩手県の風俗に関してはすでに再三掲げしが、なお拾遺として一、二を挙げんに、婦人に歯を染むるもの多きこと、苗代の跡へ稲を作らざること、男女ともに体格のよきことは秋田県、山形県に同じ。ただし股引を用いて、モンペを着せざる点は山形県に異なり。茶屋には大地炉ありて、土足にて踏み込むようになりおるは東北一般なるがごとし。便所を戸外に別置する風は秋田県に同じ。仙台領の方はオイトコ節と名付くる俗謡あり。

  オイトコサウダヨ、コンのノレンニ伊勢屋とかいて、オウメ女郎衆は十代伝はる、コナ屋の娘ダンヨ、あの子はよい子だ、あの子とそうなら三年三月も、はだかではだしで、水を汲みましよう、バラもそひませう、手鍋も下げませう、成丈朝起き、登る東海道は五十と三次、コナ箱かつぎてあるかななるまい、オイトコサウダヨ。

 迷信につきて、本県にては墓場を奇麗にすることを嫌うという。その故は、墓場を奇麗にすればその家ほろぶとの迷信あるによると聞く。

 岩手県の教育は学校設備の方面より見るに、他県に比して遜色なかるべし。宗教は不振のありさまなるも、宮城県に比すればいくぶんかその上に位す。人情の淳朴なる点は鹿児島以上というも可ならんか。ただし旧慣を固守し、進取的気風に乏しきがごときは交通不便の結果なるべし。もしそれ世界の大勢に暗く、公徳の修養を欠くの点に至りては、あにただ本県のみならんや。自今、通俗講話を普及してこれを善導するに至らば、必ず堅実有為の国民となるべし。本県は交通不便のために種々の乗り物ありて、毎日乗り物を異にするは、他県の旅行の単調なるに比し、かえって多趣味なるを覚ゆ。これを表示すること左のごとし。

  一、人力車 二、勅任馬車(久慈町にて用う) 三、円太郎馬車 四、荷車馬車 五、和船(津軽石にて用う) 六、海汽船 七、川汽船(黄海にて用う) 八、石油発動機船(宮古と小本間に用う) 九、汽車 十、軽便鉄道 十一、電気鉄道(花巻と志戸平の間にあり) 十二、馬車鉄道(水沢と岩谷堂の間にて用う) 十三、轎(仙人嶺にて用う) 十四、荷鞍つき馬 十五、西洋式鞍馬 十六、自動車

 以上十六種あるうち、電鉄を除く外はみなこれを用いたり。これまた本県の名物の一に加うべし。県下巡講中、県庁の紹介と郡市役所の配意とにより、各所において望外の優待歓迎に接したるは、万謝の至りに堪えざるなり。

 

    宮城県一部開会一覧

 市郡    町村    会場  席数   聴衆     主催

登米郡   佐沼町   小学校  二席  二百人    町長および校長

同     登米町   小学校  二席  四百五十人  町長および校長

同     石越村   小学校  二席  二百五十人  同村

同     上沼村   小学校  二席  二百人    同村および同校

同     南方村   小学校  二席  五百人    村長および校長

本吉郡   志津川町  小学校  二席  四百五十人  青年団

同     柳津町   小学校  二席  二百五十人  教育会

同     気仙沼町  小学校  二席  一千人    町長および校長

同     同     劇場   一席  一千百人   寺院

同     御岳村   小学校  二席  三百人    村長および校長

 合計 二郡、九町村(五町、四村)、十カ所、十九席、聴衆四千七百人

 

    岩手県開会一覧

 市郡    町村    会場  席数   聴衆     主催

盛岡市         物産館  二席  五百五十人  市教育会

同           同前   二席  五百五十人  郡教育会

同           寺院   一席  三十五人   各宗連合

気仙郡   盛町    小学校  二席  七百人    町教育会

同     同     寺院   一席  六百人    法雨会

同     高田町   小学校  二席  二百人    同町

同     同     寺院   一席  二百人    法雨会

同     小友村   寺院   二席  三百人    同村

同     立根村   寺院   二席  二百五十人  村長

同     大船渡村  小学校  二席  三百人    同村

同     世田米村  公会堂  二席  三百人    同村

同     上有住村  公会堂  二席  二百人    同村

上閉伊郡  遠野町   中学校  二席  二百五十人  校長

同     同     小学校  二席  六百五十人  青年会

同     同     同前   一席  一千人    校長

同     同     劇場   二席  七百人    各宗寺院

同     釜石町   小学校  二席  七百人    青年団

同     大槌町   小学校  二席  六百五十人  青年部会

同     上郷村   小学校  二席  二百五十人  青年部会

同     宮守村   小学校  二席  二百人    青年部会

同     附馬牛村  小学校  二席  二百五十人  青年部会

同     土淵村   小学校  二席  百五十人   青年部会

下閉伊郡  宮古町   劇場   二席  七百五十人  両町青年会

同     同     寺院   二席  四百人    同寺住職

同     山田町   劇場   二席  七百人    同町

同     津軽石村  小学校  二席  二百五十人  同村

同     茂市村   小学校  二席  二百人    両村連合

同     小本村   小学校  二席  二百五十人  役場および青年会

同     岩泉村   小学校  二席  五百人    三カ村連合

九戸郡   久慈町   寺院   二席  五百人    町役場

同     葛巻村   小学校  二席  三百五十人  村役場

同     大野村   小学校  二席  三百五十人  村長

同     軽米村   小学校  二席  三百五十人  青年会

二戸郡   福岡町   小学校  二席  百五十人   教育部会

同     一戸町   寺院   二席  二百人    同前

同     金田一村  小学校  二席  百人     同前

同     浄法寺村  小学校  二席  二百人    同前

岩手郡   沼宮内町  小学校  二席  三百人    教育部会

同     渋民村   小学校  二席  四百人    同前

同     田頭村   小学校  二席  四百人    同前

同     雫石村   小学校  二席  二百人    同前

紫波郡   日詰町   寺院   二席  三百人    同町

同     徳田村   小学校  二席  百五十人   同村

同     不動村   小学校  二席  三百人    青年、軍人両会

同     水分村   小学校  二席  三百五十人  青年会

同     志和村   寺院   二席  四百人    青年会

同     彦部村   小学校  二席  三百五十人  青年団

稗貫郡   花巻町   小学校  二席  八百人    教育部会

同     大迫町   小学校  二席  三百五十人  町役場

同     八重畑村  小学校  二席  三百人    教育部会

同     八幡村   小学校  二席  四百人    同村

和賀郡   黒沢尻町  小学校  一席  六百五十人  町有志

同     同     寺院   一席  七百五十人  同前

同     小山田村  寺院   二席  三百人    同村

同     中内村   小学校  二席  四百人    青年会

同     更木村   小学校  二席  三百人    四恩会

江刺郡   岩谷堂町  小学校  二席  七百人    教育西部支会

同     梁川村   小学校  二席  五百人    同北部支会

同     米里村   小学校  二席  四百人    同東部支会

同     羽田村   小学校  二席  三百五十人  同南部支会

胆沢郡   水沢町   小学校  二席  四百人    町役場

同     前沢町   小学校  二席  三百人    役場、学校

同     金ケ崎村  小学校  二席  二百五十人  村役場

同     古城村   小学校  二席  二百五十人  役場、学校

東磐井郡  千厩町   小学校  二席  四百人    教育部会

同     大原町   小学校  二席  九百人    同北部支会

同     長坂村   小学校  二席  五百人    同西部支会

同     摺沢村   小学校  二席  五百五十人  村有志

同     折壁村   小学校  二席  四百人    教育東部支会

同     奥玉村   寺院   二席  四百人    役場、学校、寺院等

同     薄衣村   小学校  二席  九百人    青年会

同     藤沢村   小学校  二席  五百人    教育南部支会

同     黄海村   小学校  二席  三百人    三好会

西磐井郡  一関町   劇場   二席  一千人    青年団

同     永井村   小学校  二席  三百五十人  役場および青年団

同     涌津村   小学校  二席  三百五十人  同校

同     金沢村   寺院   二席  四百人    両村連合

 合計 一市、十三郡、六十七町村(二十一町、四十六村)、七十七カ所、百四十八席、聴衆三万一千七百三十五人

  岩手県、宮城県合算百六十七席

   一、詔勅修身に関する演題……………六十二席

   二、妖怪迷信………………………………四十席

   三、哲学宗教……………………………三十三席

   四、教育………………………………………十席

   五、実業……………………………………十三席

   六、雑題………………………………………九席

 

    新潟県西蒲開会一覧

 郡     町村    会場  席数   聴衆     主催

西蒲原郡  巻町    小学校  二席  一千五百人  郡青年会

同     同     小学校  二席  六百人    町教育会

同     地蔵堂町  寺院   二席  五百人    教育会

同     燕町    小学校  二席  四百五十人  地方教育会

同     黒埼村   小学校  二席  四百人    教育会

同     曾根村   小学校  二席  四百人    教育会

同     吉田村   小学校  二席  五百人    同前

同     道上村   小学校  二席  四百五十人  同前

同     味方村   寺院   二席  七百人    教育会、青年会

 合計 一郡、八町村(三町、五村)、九カ所、十八席、聴衆五千五百人

 

   付

福島県一村一覧

岩瀬郡   白江村   小学校  二席  四百五十人  青年団

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南船北馬集 第十四編

群馬県巡講第一回日誌

 大正六年九月二十六日 曇り。午前八時、浅草駅発、東武線にて群馬県巡講の途に就く。随行は角田松寿氏なり。十時半、新田郡太田町〈現在群馬県太田市〉に着し、午後、中学校にて校友会のために講話をなす。校長は角田伝氏なり。当地には呑竜様ありて、遠近より信者雲集す。本日はその縁日の余波にて市中雑沓せるを見る。宿所は芭蕉屋なり。郡内は教育会の主催にして、各町村にて開会することになり、毎日午前午後二カ所とし、郡視学羽鳥升平氏と郡書記木村邦十郎氏、各所へ同行案内の労をとらるることとなる。郡長は天笠久真三氏なり。

 二十七日 雨のち晴れ。朝、呑竜様に詣す。境内、山を擁し、林を帯び、庭園清森、堂宇荘麗なり。その宗は浄土にして、義重山新田寺大光院と称す。新田家の祖、義重を開基とせしによる。門前には干瓢と麻とを売る仮店、軒を列す。これみな栃木県より持ちきたれる由。つぎに、山麓をめぐり新田義貞公の墓所をたずぬ。義貞院金竜寺境内にあり。しかして山上には義貞公の霊を祭れる新田神社あり、これ県社なり。その山は金山と名付く。また、松多きをもって松山ともいう。松茸の名所なり。当地の俗謡すこぶる興味あり。

  わたしや太田の金山そだち、外に木はないマツばかり。

 金竜寺を出でて市街の方に向かい、行くこと数丁、松丘の中腹に高山彦九郎を祭れる高山神社あり。社宇小なりといえども県社なり。これを巡拝して、小学校に至り講話をなす。開会は教育会の主催にして、町長武川六太郎氏、校長堀越松次郎氏の発起にかかる。午後、車行半里余、黄稲田間を一過して九合村〈現在群馬県太田市〉に至り、小学校にて開演す。村長倉沢平次郎氏、校長島山角太郎氏の発起なり。当夕、芭蕉屋に帰宿す。太田懐古一首あり。

一路探秋入太田、満城霖雨暗雲煙、呑竜寺畔忠臣跡、独占光風霽月天。

(一路秋を求めて太田に入ると、町のすべては長雨と暗い雲でけむるかのようだ。呑竜寺のかたわらに忠臣の墓所もあり、そこばかりは光風と雨上がりの月ぞらがある。)

 二十八日 晴れ。車行一里、午前、沢野村〈現在群馬県太田市〉小学校にて開演す。村長神谷健三郎氏、校長富岡達四郎氏の発起にかかる。午後、更に行くこと一里、尾島町〈現在群馬県新田郡尾島町〉に移りて開演す。発起は町長金井貢氏と校長塚越輝平氏、助役橋本武八氏等二十九名なり。金井氏はもと国会議員たりしときに一面識あり。当町は製糸業盛んにして、器械の声昼夜たえず。宿所芳沢旅館の楼上のごときは、隣家の機声談話を遮る。よって一吟す。

桑稲田間挟市坊、一街多是製糸場、客楼不許交談笑、転々機声自作妨。

(桑畑と稲田が町並みをわきばさみ、全体に製糸工場が多い。旅館では談笑もままならぬほどに、しきりと製糸機の音が妨げているのである。)

 夜に入りて雨またきたる。

 二十九日 雨。車行一里、午前、世良田村〈現在群馬県新田郡尾島町、佐波郡境町〉開演。役場、学校、青年会の主催にして、村長栗原大三郎氏、校長渋沢嘉津間氏の発起なり。会場小学校の壮大なること郡内第一とす。生徒千人、幅七間、長さ十五間の講堂を有す。この村内字徳川は徳川の根源地なりとて、その旧址に東照宮の村社を置くという。午後、車行更に一里、木崎町〈現在群馬県新田郡新田町〉小学校に移りて開演す。町長中島永一郎氏、校長小川亀三郎氏の発起なり。当夕、尾島町に帰宿す。

 九月三十日(日曜) 雨。車行一里、午前、宝泉村〈現在群馬県太田市、新田郡新田町〉小学校開演。村長渡辺梅五郎氏、校長栗原資三郎氏発起。午後、更に車行一里余、鳥之郷村〈現在群馬県太田市〉小学校に移りて開演す。発起は村長武内織次郎氏、校長斎藤熊雄氏なり。この夕は姫子鉱泉旅館大島屋に投宿す。旅館は全く田圃の間に孤立し、眼界広闊、稲田万頃、一望の中に連なるところ、大いに客懐を散ずるに足る。鉱泉は多く鉄分を含み、腸胃病、貧血症に特効ありという。夜半後、雨ようやく劇甚にして、暴風これに加わり、屋揺るぎて船中にあるがごとく、終宵安眠するを得ず。このとき東京は狂風暴雨、海岸はつなみ襲来、悲惨を極む。当夕、中秋十五夜なるにこの惨事あり。天また無情なりというべし。

 十月一日 晴れ。暁来風雨全く収まり、遠山近水を一望すべし。朝、旅館を出ずれば、田径雨水の浸すところとなる。車行一里にして強戸村〈現在群馬県太田市、新田郡新田町〉に入る。濁水路上に氾濫し、腕車かろうじて通ずるを得。会場は小学校、発起は村長増田才次郎氏、校長森下正作氏等なり。午後、生品村〈現在群馬県新田郡新田町、太田市〉小学校に移りて開演す。雨水を避けて田間の細径をとる。行程一里。村長須永富次郎氏、茂木新助氏発起。演説後、更に行くこと十余町にして反町薬師寺に宿す。寺号は照明寺、真言宗なり。毎年、旧正月四日は薬師の縁日にして、老弱男女群集し、堂の内外充溢すという。今夜は旧八月十六夕に当たり、明月高くかかり、清光天地に満ち、これに加うるに宿寺の境幽に庭ひろく、観月に適す。所吟一首あり。

豪雨一過雲気収、刀江赤岳望悠々、中秋今夜天如拭、月満清光照八州。

(豪雨一過して雲もなく晴れわたり、刀江赤岳の悠然たる姿を望む。中秋の夜の空はぬぐうがごとくさえわたり、満月の清らかな光が関八州を照らしている。)

 二日 晴れ。午前、車行一里、綿打村〈現在群馬県新田郡新田町〉開演。会場〔は〕小学校、発起〔は〕村長正田盛作氏、校長青木嘉之氏なり。午後、車行約二里、薮塚本町〈現在群馬県新田郡薮塚本町〉に入る。街路十八丁の間、中央両側に桜樹並立す。小学校開会の発起は町長町田啓次郎氏、校長佐野間竜童氏なり。演説終わりて車行二十丁、山麓にある鉱泉場に至り、今井旅館に入宿す。薮塚駅をへだつる十二町、客室六十余、浴客二、三百人をいるるべしという。日下部鳴鶴氏、これに余霞楼を題す。泉質、腸胃病に特効あり。館主今井伊三郎氏は俗気を脱し、風流思想を有し、哲学堂へも若干の寄付をなす。今井館のつぎに伏島館あり。これより更に一丘を隔てて長岡鉱泉あり。その距離十八丁、長生館と名付くる旅館ありという。

 三日 晴れ。車行一里半、熟稲枯桑の田間を一貫して笠懸村〈現在群馬県新田郡笠懸町〉西小学校に至り、午前開演。更に東小学校に移り、午後開演。発起は村長赤石益太郎氏、校長岩崎喜四郎氏、同津久井藤一郎氏なり。東西両校の間、約半里を隔つ。この日は本郡の最終なれば、天笠郡長来訪あり。宿所は赤石村長の宅なり。羽鳥視学、木村書記は各所同行して、ここに至られたるの労を謝す。

 本郡は全部平坦にして、稲田桑圃のみ。ただ金山の一脈あるも一丘陵に過ぎず。一郡中、各町村において講演をなせるは本郡をもって始めとす。演説時間の精確なることと、午前の開会に聴衆の多きこととは、他郡にいまだかつて見ざるところなり。郡内の盆を聞くに、三日間盆踊りをなす。ただし男子のみにて女子加わらず、盆中の食事は朝オハギ、昼ウドン、晩は飯のきまりという。余は毎日三度ごとに一杯飯を限るが、本郡にては一杯飯を呼びて行道の一杯飯という由。行道は野州足利郡の村名にして、行道上人の縁日には、村内みな一杯飯を食する恒例あるより起こると聞く。

 四日 曇晴。赤石村長宅を辞し、行くこと七、八丁、岩宿駅より乗車し、前橋駅に下車し、これより行程一里半の間、利根川橋を渡り、桑園の間を過ぎて群馬郡総社町〈現在群馬県前橋市〉に至る。本町はやや市街の形をなせるも、その実、農村にして蚕業もっとも盛んなり。休泊所たる光厳寺は天台宗の名刹。もと秋元家の菩提寺にして、堂宇壮大を極め、財産また富裕なること県下各宗を通じて第一と称せらる。会場は門前の小学校、主催は仏教協和会、発起は町長神谷周吉氏、校長丹下愛作氏、協和会大滝卓雄氏、同宮本順良氏(宿寺住職)なり。この日、郡視学高橋朝治氏来訪あり。

 五日 雨。車行二里、桑稲田間を斜断して塚沢村〈現在群馬県高崎市〉小学校に至り、午前開演す。主催は郡学事会、発起は反町重治郎氏ほか十二名なり。午後、車行七、八丁にして高崎市に入り、電車に転乗し金古町〈現在群馬県群馬郡群馬町〉小学校に移りて開演す。主催は学事会、発起は校長岩井武治氏、町長高橋良作氏、国府、清里、堤ケ岡三校長等にして、宿所は曹洞宗常仙寺なり。当町は昔時、越後街道の駅場にして、旅客の休泊するもの多かりしが、今は全く農村となる。かつて聞きたる話に、高崎と金古との間に石に刻せる指導標あり。北かねこ道、南たかさき道とあるを見て、ある人、キタカ猫道、ナンタカ先道と読みたりという。余は今日、そのいわゆる猫道にきたれり。

 六日 雨。金古より電車にて渋川町に至る。渋川、高崎間は五里、金古はその中央にあり。一時間半馬鉄の発車を待ち、十時に渋川を去り、十二時に利根郡沼田町〈現在群馬県沼田市〉に着す。その里程五里、早晩馬鉄を電鉄に変換すべしという。この日、行程総じて七里半。沼田の市街は丘陵の上にありて井水に乏しく、飲用水の不便を感ずるも、眺望すこぶるよし。ときに午餐を郡役所内にて喫せしが、その邸は崖頭にありて、室内より利根川を一瞰し、対岸の丘山起伏の状態は全く天然の庭園に対するの観あり。けだし郡衙としてかかる眺望を有するものは、他府県にも少なかるべし。午後開演。会場小学校は大校舎と大講堂とを有す。生徒一千四百人、講堂、幅八間、長さ十八間。この日、聴衆五百人以上なるも、その面積の三分の一を満たすに至らず。発起は町長森川松太郎氏、書記平野、宮下、三井、根岸四氏なり。しかして休憩所は町役場なり。宿所杉丸旅館の掲示を見るに、宿料一等二円、二等一円二十銭、三等八十五銭とあり。聞くところによるに、按摩十五銭、斬髪十四銭、湯賃三銭、大工一日八十銭、人力一里四、五十銭、馬鉄渋川まで一人につき四十五銭という。もって物価のいかんを知るべし。

 七日 晴雨不定。馬車行三里にして白沢村〈現在群馬県利根郡白沢村〉字高平に至る。路傍屋外、一として桑園ならざるなし。会場、宿所ともに雲谷寺なり。住職星野全竜氏は哲学館出身にして、目下曹洞宗の布教師となる。開会は村長藤井関蔵氏、県会議員増田金作氏、校長森島順之助氏、助役岡村為蔵氏、書記小野要吉氏、軍人会長山口磯一氏等の発起にかかる。本村は養蚕を本業とし、一村として繭を産出する額は県下第一と聞く。

 八日 雨。直行一里半なるも、車通ぜざるために馬車にて迂回すること三里半、泥深く馬遅々、三時間を費やしてようやく川場村〈現在群馬県利根郡川場村〉小学校に達し、午後開演す。発起兼尽力者は村長宮田曾六氏、助役桑原仲蔵氏、収入役桑原亀三郎氏、村会議員井上好人(医師)氏なり。役場は郡内第一の建築と称す。階上に待賓室ありてこれに休泊す。小使は結髪をなす。本郡にては各村平均一人の結髪者ありと聞く。役場より二十丁を隔てて温泉あり。温度低きも脚気症には特効ありという。郡内旅中の一作、左のごとし。

赤城山背峡雲深、十月霜風未染林、泥満利根川上路、今秋何事雨成霖。

(赤城山の尾根のあたり切れこむ谷に雲も濃く、十月の霜を含む風もまだ林の葉を染めるには至っていない。利根川のほとりの道は泥深く、この秋はいったいどうしたことか長雨が続いている。)

 九日 晴れ。早暁馬車を駆り、再び白沢村に入り、高平駅にて馬背に移る。これより数坂をこえて片品川沿岸東村〈現在群馬県利根郡利根村〉に出ず。坂道一面は石高く一面は泥深く、馬脚遅々としてすすまず。県下屈指の悪道との評あり。ただし不日、新道開通すべしと聞く。会場は東村字追貝小学校なり。川場より行程六里、午後一時に着す。発起は村長星野雅一郎氏、校長小尾常菊氏、書記金子長次郎氏なり。本村より片品村を経て、日光湯本温泉に出ずる山道あり。一日にて達すべし。いわゆる小川越えこれなり。しかして日光町までの里程十四、五里とす。また、本村には山水の奇勝あり。第一は千歳橋なり。その形勢は甲州猿橋に似て、しかもそれ以上に出ず。障子巌、飛鱒瀑、吹割瀑等、その実況は到底筆紙のよく尽くすところにあらず。一帯の渓流が巨巌の間にかかりて瀑流となり、落下して奔湍をなし、激浪を生ずるのありさまは、千竜万虎の奮闘するがごとく、雄壮快活を極む。けだし県下第一ならん。余これを一覧して七絶一首を賦す。

障子巌陰一澗開、急湍為瀑響如雷、滔々水落地将裂、駐杖岸頭呼快哉。

(障子巌のかげに一谷川があり、うずまく急流は滝となって、その音は雷のようにとどろく。どうどうと水の落ちるところは、大地を引き裂かんばかりの勢いあり、思わず杖をとめて岸べに立って快哉をさけんだのであった。)

 昨今は霖雨の後なれば、水勢一層雄壮なり。山林一、二割、紅葉を帯ぶるところ一段の趣あり。本村の小学通学区域四里以上なれば、小学校に寄宿舎の設備を有す。分教場は六カ所にあり。隣村片品は七カ所の分教場を有すという。この渓間には特有の方言あり。例えばアナタをコンタという由。また、婦人が一般に酒をのむ風習なりという。当夕、柏屋旅館に宿す。この方面はすべて郡書記生方宗三郎氏案内せらる。

 十日 晴れ。馬首を返して再び数坂を越え、高平より馬車に移り、赤城の山背を望み、片品の川流を瞰しつつ沼田に帰り、午後、中学校において校友会のために講演をなす。校長は河口清之氏なり。当夕、再び杉丸館に入宿す。同館は客室の設備完全し、室内に卓上電話を置く。郡長野中富三郎氏来訪あり。

 十一日 晴れ。郡視学鈴木銀蔵氏とともに馬車行五里、水上村〈現在群馬県利根郡水上町〉字湯原に入る。途中、近日の水害のために橋落ち道崩れ、車行を許さざる所一、二カ所あり。午後、小学校にて開演す。聴衆中には四、五里以上の山間よりきたれるものありという。発起は村長鈴木周太郎氏、校長梶原三氏等なり。宿所米屋旅館は余が四十年前、清水山道を越えて越後の郷里へ往復する際、宿泊せしことを記憶す。宿料は特別上等一円、一等八十銭、二等七十銭、三等六十銭とあり、すこぶる安廉ならずや。食膳にイナゴの佃煮をチョクに入れて食品に加う。これ山形県以上なり。山形は茶菓子の代わりにイナゴを出だすも、食事に用いず。けだし全国中イナゴを賞味するは山形、群馬の二県ならん。米屋には内湯なし。内湯を有するは藤屋と古屋なり。客種は中等以下多し。客舎の設備もこれに相応す。県道より温泉場に入る所に一橋あり。両岸の巌石屹立せるありさまは、東村の千歳橋の風景に似たり。これより利根の源流にさかのぼること五里の所に、藤原の一部落ありて本村に属す。これ郡内の樺太というべし。今夕、往事を追懐して一首を浮かぶ。

刀水源頭有別寰、千尋渓抱万重山、追懐四十年前事、負笈幾回過此間。

(刀水〔利根川〕のみなもとは別世界の趣があり、千尋の谷はいくえにも重なる山々にいだかれているかのようだ。追憶すれば四十年も前のこと、越後の郷里より笈を負いて、いくたびこの辺りを通ったことか。)

 十二日 晴れ、ただし風あり。早朝、馬車にて湯原を発し、前日の道を繰り返して後閑に至り、渡橋して桃野村〈現在群馬県利根郡月夜野町〉字月夜野に入る。地名すこぶる雅なり。途上、林壑紅葉の点々たるは晩秋に入るの観あり。本日の会場は劇場桃栄館、発起は村長後閑源助氏、助役高橋徳太郎氏、古馬牧野〔村〕助役櫛淵啓三郎氏、収入役増田信太郎氏等なり。当夕は後閑村長宅に宿す。造酒家なり。東洋大学出身佐藤海豊氏(沼田町)、青木道純氏(古馬牧野村)、宮沢竜海氏(薄根村)の慰問せらるるに会す。本村には義民茂左衛門稲荷と名付くるものあり。諸願成就せざるなしとて、毎日祈願者参集す。なかんずく彼岸中には幾万の信者群来すという。夜に〔入〕りて暖加わり蚊声を聞く。

 十三日 晴れ。二里の間、馬車を駆りて新治村〈現在群馬県利根郡新治村〉に入る。その途中に塩原多助の墓を見る。従来その一角を砕きて石片を取り去るものあり。その原因は、これを携帯すれば相場に当たるとか、または金持ちになるとかの迷信より起こる由。また、この辺りは山栗の産地にして、栗積みて山を成せる家あり。会場は役場、発起は村長木桧仙太郎氏、助役沢口蔦五郎氏、収入役清水竹次郎氏等なり。講演後、更に渓頭にさかのぼること二十丁にして湯宿温泉に至り、金田屋に入宿す。その外に湯本旅館あり、ともに内湯を有す。夕刻より微雨のきたるあり。これより更にさかのぼること三里半にして法師温泉あり。三国嶺下、幽谷の間に浴楼隣立す。一を長寿館、他を武蔵館という。余は今より三十五、六年前、ここに入浴せしことあり。食後、一吟を試む。

一渓流水路相連、日暮尋来湯宿泉、欲問三州嶺何処、桟雲峡雨望茫然。

(渓流の道をたどって、日暮れには湯宿の温泉にたずね着いた。三国山はいったいどのあたりかとうかがうも、山あいの橋にかかる雲と渓谷の雨にぼうっとかすんでいるのを見るのみである。)

 利根郡は本県の一隅に僻在し、天然の地勢別寰をなせるをもって、方言も他と異なる語多し。

  ソコココというべきをソコネココネという。アグラをアグロ、クルシイをコワイ、ソウダというべきをソウダムシ(越後のソウダノシに同じ)。人を指してオマエというべきをニシという(ヌシの転化ならん)。氷柱をアメンボウ、淫売婦をダルマまたはタンペという。気の毒または可愛そうをオヤゲナイという。

 以上は、本郡に限るものと他郡に通ずるものあり。ダルマのごときは県下各郡に通ず。迷信につきては、すこぶる多きがごとし。葬式は決して友引の日と寅の日に出ださず、これ禁物なり。寅の日に葬式を出だすときは、虎は千里走りて千里帰るという諺より、亡者が幽霊となりて帰りきたるを恐るるによるという。また、女の名に殊更に男の名を付くるの迷信あり。その意は、女子に男名を付くれば強壮になると信ず。つぎに、郡内の珍名としては、男子の名に於島というあり。また、小林姓の人に実名を林小と付け、小林林小〔りんこ〕とよむ。すこぶる奇抜なり。本郡内には生涯海を見ざるもの多く、したがって海を見ることを喜ぶ。近年、桃山御陵を参拝せんとて、五百人の団体を募集し、東京より品川に至る間、海を見んとて一同ことごとく左手の車窓によりたれば、汽車一方に傾き、顛覆のおそれありとて、駅員より注意を受けたりとの話を聞く。

 十月十四日(日曜) 晴れ。早朝、湯宿を去り、馬車行程四里、沼田に至る。駅道、坦然たり。更に馬鉄に移り、群馬郡渋川町〈現在群馬県渋川市〉に至り、午後開演す。この日、行程九里。会場小学校は校舎高壮、その長さ百間、しかも丘上にありて遠近を雄視すべし。校前に天台宗信光寺の大伽藍を見る。これ、余が二十余年前演説せし会場なり。渋川町は四通八達の要路にありて、年々戸口増加すという。本日開会の主催は学事会、発起は会長中川又七郎氏、副会長埴田好蔵氏、および幹事、理事八氏にして、宿所は山田屋旅館なり。

 十五日 曇晴。渋川より金古まで二里半の間電鉄に駕し、金古より箕輪村〈現在群馬県群馬郡箕郷町〉まで一里の間腕車による。桑圃相連なる所、小径一条、泥深くして乗客、車夫ともに苦しむ。昼間は小学校、夜間は宿所松山寺にて開演す。主催は仏教協和会にして、宿寺住職五十嵐禅海氏、金竜寺住職永井黙淵氏(哲学館出身)、もっぱら尽力せらる。しかして村長石川又三郎氏、校長近藤守多氏これを助く。当所は往古箕輪城のありし跡にして、街路今なお町形をなす。

 十六日 雨。近道一里半の所を車路を迂回し、行程三里にして室田町〈現在群馬県群馬郡榛名町〉に至る。市街は烏川に沿う。その対岸の里見村へは二十年前、出講せしことあり。会場は小学校、主催は学事会、発起は室田校長田中嘉十郎氏、修養会清水房吉氏、その他、隣村校長戸塚、滋野、鐸木、福田、清水、鈴木六氏にして、みな尽力せらる。高橋郡視学は昨日も今日も出席あり。榛名神社は本町内に属す。しかし市街地より約三里を隔つという。宿所は中沢屋旅館なり。流水の声、潺々として楼に入りきたる。

 十七日(新嘗祭) 雨。車行三里、高崎市〈現在群馬県高崎市〉に入り、午後、劇場高盛座において開演す。これ市教育会の主催にして、会長内田信保氏(市長)、副会長平井八太郎氏、幹事小林茂、浅井継世、土屋性一郎、上原喜曾八、角田武雄五氏の発起なり。当夜、宿所長松寺において修養会のために講話をなす。住職山端息軒氏は宗教にも教育にも熱心にして、すでに子守学校を設け、また修養会を起こせり。群馬郡役所は市内にあり、郡長は橋本直次郎氏なり。

 十八日 晴雨不定。午前、高崎高等女学校において講話をなす。校長は佐藤穂三郎氏なり。これより滝川村〈現在群馬県高崎市、佐波郡玉村町〉に向かうに、二里の間、道狭く泥深くして、腕車まさに覆らんとすること数次に及ぶ。会場兼宿所たる慈眼寺は真言宗高野派の中本山にして、門堂儼然たり。ことに桜樹をもってその名高く、俗に花見寺と称する由。山号を花敷山という。実にその名のごとく、境内に数十株の垂桜あり。壁上に旧知事揖取素彦氏の観桜の詩幅をかかぐ。これを一読しつつ即吟一首を浮かぶ。

尋秋慈眼寺門過、風雨蕭々落葉多、只憾我来時不適、空観壁軸誦桜歌。

(秋をたずねて慈眼寺の門前をよぎれば、風雨のものさびしく木の葉がしきりと舞い落ちる。ただ残念なことに私が訪れた時節が秋であり、せっかく寺内の壁にかけられている観桜の詩幅もむなしい思いがしたことだった。)

 当地開会は三カ村連合の主催にして、滝川村長天田俊蔵氏、京ケ島村長松本長松氏、大類村長信沢兼吉氏の発起なり。宿寺住職西川良清氏もまた大いに尽力せらる。

 十九日 晴れまた雨。車行一里余、倉賀野駅にて鉄路に移り、高崎、前橋経由、勢多郡木瀬村〈現在群馬県前橋市〉駒形駅に降車し、駅前の旅店に休憩す。この日、午前、小学校において招魂祭あり、午後、駒形座において講演をなす。この劇場は村落不似合いの大館にして、千三、四百人をいるるに足るという。主催は青年会、発起は村長兼青年会長清水忠次郎氏、幹事下山章吾氏等なり。村内の字名に笂井というあり、これをウツボイとよむ。帝大教授大塚保治氏の出生地なり。また、字にも姓にも女屋〔おなや〕というあり。当夕、江川屋旅店に宿す。館、小にして客あふる。当地は赤城山下の正面に位し、カラ風の本場なりという。

 二十日 曇り。汽車にて前橋市〈現在群馬県前橋市〉に移り、午前、師範学校において講演をなす。校長は樋泉慶次郎氏なり。ついで、中学校にて講演をなす。校長成富信敬氏は旧友なり。午後、臨江閣開催の市教育会に出演す。会長高橋源之助氏、副会長岡田養平氏、小学校長伊東保乃麿氏、図書館長樋口千代松氏等の発起にかかる。臨江閣の眺望は岳陽楼に比すべく、気象万千の趣あり。帰路、知事中川友次郎氏官宅を訪問す。内務部長は窪谷逸郎氏、学務課長は坂本森一氏なり。当夕、住吉屋に宿す。これ完備せる高等旅館にして、宿料したがって高し。優等三円以上、一等二円五十銭、三等一円五十銭、四等一円と表示す。余は風邪のために発声大いに苦しむ。

 十月二十一日(日曜) 開晴。数旬間、晴雨定まらざりしが、今日はじめてこの快晴を見る。ただし終日風あり。午前、勢多郡役所(前橋市内にあり)議事堂において、郡教育会のために講演をなす。発起は郡長横尾雄弥氏、会長鈴木又吉郎氏、副会長永井喜八氏、郡視学狩野虎千代氏等なり。前橋名物は片原饅頭というを聞きて、これを一喫す。

 二十二日 快晴、朝気にわかに寒冷を覚ゆ。早朝、腕車にて住吉屋を発し、勢多郡大胡町を経て粕川村〈現在群馬県勢多郡粕川村〉に至る。行程四里弱、秋天遠く晴れ、遠近の諸山は指顧の間に起伏し、山田すでに穫稲に着手す。粕川より赤城山上まで三里、神社まで四里、山上には九十九谷ありという。日中、蝿すこぶる多し。蝿は赤城の名物なりと聞く。途上吟一首あり。

秋天雲霽見春和、半日赤城山下過、穫稲時来男在野、守家織婦暁投梭。

(秋空に雲もなく春のなごみを思わせる。半日を費やして赤城山の麓をゆけば、まさに稲を刈るときにあたり、男は田畑に働き、家に機織る女は夜明けにようやく梭をおくのである。)

 本日の会場は小学校、主催は四カ村青年会連合、発起は大胡町長金田陸三郎氏、宮城村長小池一郎氏、粕川村長阿久沢忠三氏、新里村長岩崎荘作氏、および各校長等なり。当夕は瀬下長次郎氏宅に宿す。

 二十三日 曇晴。腕車にて前橋に帰り、これより一里の間電鉄に駕し、南橘村〈現在群馬県前橋市〉小学校に至りて開演す。発起は村長加々美助次郎氏、校長鈴木又吉郎氏、同木村善十郎氏等なり。しかして休憩所は真言宗日輪寺なり。演説後、再び電鉄に駕し、北橘村〈現在群馬県勢多郡北橘村〉桂昌寺に至りて宿泊す。この間、約一里。宿寺住職明峰玄海氏は東洋大学出身なり。その寺は利根川坂東橋畔の高丘の上に立ち、山河の眺望大いによし。終夜、利根川の川瀬の声、枕頭に入りきたる。その声の方向によりて、天気の晴雨を前知するを得と聞く。本村は赤城、榛名の中間にありて、赤城おろしも榛名おろしも受けず、その代わりに越後おろしを受くという。

 二十四日 曇り。朝、桂昌寺を辞し、馬上にて行くこと約半里、橘小学校に至りて午前に開演す。村長今井徳太郎氏、校長角田武三郎氏、宿寺住職明峰氏の発起にして、みな大いに尽力あり。午後、更に馬背にまたがり、地勢高低多き間を行くこと一里にして、横野村〈現在群馬県勢多郡赤城村〉興禅寺に至る。天台宗なり。この寺にて演説および宿泊をなす。発起は村長木暮松三郎氏、助役角田茂八郎氏、校長永井喜八氏、同角田円造氏なり。この地方は赤城山腰に位し、地勢凹凸なきがごとくにして非常の高低あり、その形カボチャの外面に似たりという。

 二十五日 雨。朝、宿寺を発し、乗馬にて大正橋すなわち利根釣り橋を渡り、渋川に出ず。その距離、約二十五丁。渋川より電鉄、前橋より汽車に駕して岩宿駅に着し、これより車行一里にして山田郡大間々町〈現在群馬県山田郡大間々町〉に入る。当町は足尾街道にして、また赤城の登り口なり。赤城の山麓にありながら赤城を望むを得ず。夜に入りて雨劇甚となる。寄席共楽館において青年会のために講話せるに、発声半ばは雨声に遮らる。ただし大雨覆盆の中、聴衆よく集まりきたる。発起は会長須永虎吉氏、副会長小野太一氏、同近藤春吉氏、理事金子寅亮氏、同新井宇四郎氏等なり。郡視学中島幸平氏ここに出張あり。旅館豊田屋に宿して蚊声を聞く。気候過暖のためなり。

 二十六日 晴れ。午前、車行一里余、道路泥石多し。ただし山林に紅葉を交えてよし。川内村〈現在群馬県桐生市、山田郡大間々町〉小学校に至り、青年会のために演説をなす。村長中島栄一郎氏、役場吏員、学校職員、青年会員二十名の発起なり。午後、車をめぐらして大間々に帰り、学事会のために小学校にて開演す。校長五十嵐謙三氏等の発起にかかる。その夜、豊田旅館において、青年会幹事のために特に一席の座談をなす。ときに月光客窓に入りきたる。

 二十七日 晴れ。朝、汽車にて桐生町〈現在群馬県桐生市〉に移り、高等女学校において講話をなす。校長井部貞吉氏は哲学館出身なり。郡長吉田恒喜氏来会せらる。午後、車行約一里、境野村〈現在群馬県桐生市〉に至る。県下の模範村なり。機工を本業とし、戸々軒々、機声相連なりて四境に達せんとす。小学校において青年会の開会あり。教育家桜井明氏、同宮永英一氏等の発起なり。当夕は桐生町第一楼桐生館、すなわち金木屋に入宿す。当町市日の前夜なりとて、客席満員、深更なお酔歌の声を聞く。

 二十八日 雨。午前と夜分両度、東洋織布会社に至り、工女のために講話をなす。工女は寄宿と通勤とを合して約千人ありという。しかして午後、東小学校において開演す。郡教育会の主催にして、吉田郡長、中島視学をはじめとし、校長原沢鋿太郎、柳瀬昌史、真井晁、黒崎弁之助四氏の発起なり。当町は人口三万二千余にして、小学校は東西南北四校を有す。織物一カ年の産額一千四百万円という、あに盛んならずや。深更に至り、雲間に月光を漏らすを見る。これ実に旧九月十三夜の明月なり。客窓また一吟なきを得ず。

雨過秋天爽気新、桐生夜色悩吟身、機声漸歇絃声起、買酔客非賞月人。

(雨もあがって秋空はさわやかに新鮮である。桐生の夜は詩歌の人を悩ませる。なぜならば機織りの音がようやくやんだかと思えば、かわりに管絃の音が起こるありさまだからだ。今夜は十三夜の明月なのに、酔いを求める人は到底月をめでる人ではないのだ。)

 本日は桐生の市日なり。市日の一定せるもの左のごとし。

  一六伊勢崎、二七大間々、三八桐生、四九前橋、五十足利。

 二十九日 曇り。車行一里、渡良瀬川を越えて広沢村〈現在群馬県桐生市〉に入る。会場は小学校、主催は青年会および同窓会、発起兼尽力者は村長岡田清太郎氏、校長梅津喜九平氏等なり。宿所は旧家藤生佐吉郎氏の宅にして、書画、骨董、植木、盆栽の所蔵すこぶる多し。また、庭園の泉石大いに趣を成す。本村は半工半農にして、農間には各戸機業をつとむ。これより一小山脈を越ゆれば薮塚鉱泉に達す。その距離、一里という。村内に毒島の姓あり、これをブスシマとよむ。山形県の悪原姓と好一対なり。

 三十日 開晴。車行約三里、韮川村〈現在群馬県太田市、栃木県足利市〉小学校に至りて開演す。この日、教育勅語を煥発せられし紀念日なりとて、勅語捧読式あり。昨今、農家穫稲期に入りて繁忙なれば、聴衆少数なり。発起は大淵真三郎、塩谷銈太郎、田島三郎、江森平吉、恩田栄三郎五氏とす。当地にて、三十三年前磯部温泉にて相識となれる医師三吉亮作氏に邂逅するを得たり。講演後、車を駆ること三十丁、太田町芭蕉屋に入る。今夕は旧九月十五日にして、天晴れ気澄み、明月皎然として碧空にかかり、露気白く、夜色昼を欺かんとす。本県に入りてより、はじめてかかる清夜を見る。

 十月三十一日(天長節) 快晴。車行約一里、道路、といしのごとし。休泊村〈現在群馬県太田市〉小学校に至りて開演す。青年会、報恩会連合の主催にして、村長鹿山利忠氏、校長恩田栄三郎氏、幹事長鹿山彦一郎氏、報恩会長柿間宥識氏の尽力による。本村は純農村にして水田多し。昔時、大谷休泊の経営せる用水を用う、これを休泊堀と称す。村名はこれより起こるという。今夕、余は休泊村に休泊せずして東京に帰ることに定む。太田発六時四十九分に乗り込み、浅草へ十時に着す。夜、月皎々たること昨夕に同じ。

 ここに群馬県の二市五郡を巡了したれば、その際耳目に触れたる事項を記せんに、まず本県の名物としては、一説にカラ風、カカ天下、雷ともいい、また一説にカラ風、カカ天下、石ノセ屋根ともいう。石ノセ屋根は本県の名物にあらずして越後の名物なり。余の俗謡詩訳の中に左の一首あり。

上毛気質見天真、赤岳傲然刀水瞋、風力女権世無比、応知地勢造其人。

(上毛人の気質は天然自然によると見える。赤城山は傲然として立ち、刀水〔利根川〕は荒れ狂う。風と女権の強いこと世にくらべるものがないほどであるのは、まさにこの地勢がこうした人々をつくったのである。)

 これ「上州の名物風とカカ天下」を訳せしなり。他県よりこの地にきたるもの女権の強きを感ずるわけは、田畑に労働しておるものを見るに男子のみ、女子は終日戸内にありて養蚕、製糸または機織に従事す。もし機業の盛んなる地方は、男子が飯を炊き風呂を沸かすという。これ女権の盛んなるによるにあらずして、婦人の仕事の多忙なるによる。また、県下は村落にいたるまで常設の劇場を有し、芝居の大いに歓迎せらるるがごとき、また、遊廓を置かず、娼妓を許さざるがごときも、必ずしもカカ天下の結果にあらず。地を耕やすに柄の長き鋤を用い、足の力をかりて地をかえすは埼玉県に同じ。学校校舎中には往々宏壮雄大なるものありて、設備の比較的完良なると、生徒の体操および運動の盛んなるとは本県の誇るところなり。校庭内に必ず桜樹を植え付けおくも一特色なり。一般に関東の食いだおれというも、本県は千葉県などに比するに飲食店、料理店、比較的すくなきがごとし。飲酒に至りてはその量ことにすくなし。岩手県にては一度に一升以上のむ人にあらざれば上戸といわざるに、群馬県にては二合以上のめるものを上戸という。食事のときには各所とも大抵、飯茶碗のふたなきものを用う。カラ風の寒きにもかかわらず、炬燵はあまり流行せず。言語につきて、伊沢修二氏は越後系にして東京派と称せられしというが、ときどき越後方言の混ずるを聞く。けだし、昔より多く越後人の入りこめる故ならん。イ音とエ音の混ずるは越後に同じ。語尾にベーを付くるは関東の常習なるが、群馬県ことにはなはだしきを覚ゆ。越後にては「関東のべーべー言葉がやんだらべ、鍋釣瓶どうするべ」と唱うるが、本県にては「上州のベーベー言葉がやんだらべ、借りても三百つんだすべ」という。

 最後に、迷信につきては第一に達磨市を掲げざるを得ず。毎年正月六日、七日に碓氷郡八幡村(高崎近在)黄檗宗少林山達磨寺にハリコ達磨の市場を開く。東京の酉の市に似たり。その日は遠近より集まりきたり、ハリコ達磨の目玉なきものをあがないて家に帰り、これを床の間もしくは棚の上に置く。これ養蚕のよくできるを祝する意なり。達磨はコロンデもよくオキル祝福の意より、これを用うという。しかしてその達磨の一眼だけに目玉を入れ、他日、蚕のよくできた場合に他眼にも点睛する由。これみな迷信なり。かくして歳末の煤払いにこれを棄てて、翌年正月に新たに購入するを例とす。この風、近年は長野県へも輸入せりという。オサキ狐の迷信も今なお存す。しかし教育の進むに従って漸々減ずる由。本県のオサキは出雲の人狐、四国の犬神に同じ。また、山田郡にて聞くに、子供の馬脾風の予防として、民家の戸口に馬の字をさかさまに張り付けおくという。この迷信は他府県にもあり。

 十月三十一日夜、帰京。

 (紙数に定限あるために、群馬県巡講第二回日誌は第十五編に譲ることとなす。)