2.南船北馬集 

第一編

P187

南船北馬集 第一編

1.冊数 1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)188×127㎜

3.ページ

 総数:119

 口絵:1葉

 緒言:4

 本文:115

(巻頭)

4.刊行年月日

 底本:初版 明治41年12月20日

5.発行所

 修身教会拡張事務所

P189------------

哲学堂主 井上円了肖像 独力経営 二十春喜 見校運幾 回新自今 退隠成何 事朝汲泉 流夕拾薪

ひとり力を尽くして哲学館大学を経営すること二十年に及び、校運のいくたびが新たな発展を遂げたことを喜び見てきたのである。これより退隠していったいなにをなそうとするのか、それは、あしたには泉流にくみ、夕べには薪を拾う生活なのである。

哲学館大学退隠之詩

緒  言

 明治三十九年一月、余がかつて二十年間独力経営せる哲学館大学を退隠して以来、教育勅語の聖意を開達普及するの目的をもって唱道せる修身教会の旨趣を拡張せんと欲し、全国周遊の途に上り、「東去西来、南船北馬、雲栖霞宿、嘯月吟花」(東にゆき、西より来たり、南では船に乗って行き、北では馬の背にゆられて旅行く。世俗をはなれて雲の湧きたつところにすまいなし、かすみたつところを宿とし、月にうたうたい、花を吟詠す。)の境界を送り、その日々見聞接触せるもの、ここにこれを集録して、『南船北馬集』と名付く。また、随時機に触れ情に感じて吟詠せる駄作も、その良否を問わずことごとくこれを併記す。余、もと文芸の才に乏しき上に、風流の道に通ぜず、歌道は更なり。漢詩も幼時に平仄の並べ方だけを授かりしのみにて、数十年間修習せしことなく、僅々この両三年来試作を始めたるまでなれば、世人の笑いを招くはもとより覚悟するところなり。畢竟するに、これみな後日の備忘のみ。しかして巡遊中、各所において有志諸氏の多大なる歓待厚遇をかたじけのうせしは、実に望外の大幸とするところにして、その芳名の記憶に存する分はまたこれを掲載し、もって謝意の一端を表したり。ただしその誤写誤植のごとき、あるいは失念脱漏のごとき、必ず多々あるべきも、疎漏の罪は請う、これをゆるせよ。左に修身教会の大要を摘載す。

 近年わが国民の知識日に勃興し、道徳月に廃頽し、智徳の並進伴行せざる傾向あるは、あに奇怪なる一現象にあらずや。その原因もとより一ならずといえども、要するに学校以外に修身道徳を授くる所なきによる。これに反して西洋諸国は学校以外に日曜教会ありて、毎週精神の修養をなさしむ。おもうに、かの国において人民の知識とともに徳義また進み、なかんずく社会道徳、実業道徳の大いに発達せるは、全くこの教会の効果なりというも過言にあらざるべし。果たしてしからば、わが国においても今より各町村寺院もしくは適宜の場所において修身の教会を設け、国民道徳のおおもとたる教育勅語の聖旨を開達敷衍して、小学卒業以上のものを教誨し、もって町村の人民をしてことごとく道徳の修習をなさしむるは、実に目下の急務なりとす。戦後の経営も、けだしこれより先なるはなし。風俗改良、公徳養成の方法もまた、この外にあるべからず。これ、余が学校教育の補習として修身教会を設置するの必要を唱うるゆえんなり。(下略)

 さきに拙者、西洋各国の教育、宗教の現状を視察せんと欲し、前後両度航西の途に上り、欧米十余国を周遊巡覧して帰朝し、その結果として修身教会の必要を唱道せし以来、各所において続々教会の開設を見るに至れるは、実に欣然に堪えざるなり。爾来精神過労のために、神経衰弱症にかかりたれば、閑地に就きて療養を加えんと欲し、自ら哲学館大学長、京北中学校長および京北幼稚園長を辞し、拙者より財産十三万五千余円を挙げてこれを学校に寄付し、もって財団法人を組織し、これを他人に一任したるも、修身教会の方だけは、病中といえども従前のごとく微力を尽くさんと欲し、地方有志の所望に応じ、転地療養の心得にてときどき教会拡張の遊説を試み、あわせて学術演説等の依頼に応ずる心算なり。(下略)

 以上は三十九年一月に起草して各地へ配付せるものなり。

 

  明治四十一年十二月

井 上 円 了 誌  

拝読勅語

勅語を拝読す

三百余言聖旨深、

勅語三百余言にこめられた天子のおぼしめしは深く、

祖宗遺訓重於山、

祖宗の遺訓は山よりも重い。

読来天壌無窮句、

天壌無窮の句にまで読みいたるとき、

一道光明照我心、

一道の光明がわが心を照らすのである。

 

吾家古道わが家の古道

処々東風払雪吹、

ここかしこに春風が雪を吹きはらい、

欧桃米李一時披、

欧桃、米李も一時に花開く。

吾家別有老梅在、

わが家にはそのほかに老梅があり、

春満三千年古枝、

春には三千年も経たような古枝が花に満たされる。

 

南船北馬

朝遊海角夕山巓、

朝には海べに遊歴し、夕べには山のいただきに身を置くごとく、

北馬南船年又年、

北に南にといそがしく旅をして年を重ねた。

漂泊如斯君勿怪、

漂泊のような旅をあやしむことなかれ、

吾生猶未脱塵縁、

わが人生はなおいまだ俗世との縁からぬけだせないのだから。

P193------------

大和紀行

 明治三十九年四月二日 晴れ。午時、新橋発車。相州平塚より更に腕車に移り、中郡秦野町〈現在神奈川県秦野市〉に向かう。この日や風和し気朗らかにして、花笑い蝶舞い、菜花すでに香を送りきたる。途上、一吟あり。

  四月相陽春已央、林巒処々著新粧、軽車十里江南路、遥到菜花香裏郷、

(四月、相州の地の春はすでになかば、林と山の所どころには新しい芽ぶきがあらわれている。軽快な車で十里、江南の道を行き、はるかに菜の花の香につつまれる里に至ったのであった。)

 秦野町の宿坊は城光院なり。天台宗寺門派に属す。当夜、修身教会の講話をなす。聴衆三百名あり、空前の盛会と称す。秦野町は人口一万、戸数二千を算す。タバコの産地にして、その名海内に聞こゆ。しかして教育、宗教のいかんに至りては、なお幼稚たるを免れずという。ときにまた一絶を得たり。

  転去法輪到秦野、満場聴衆是同朋、快哉馬入河南地、懸得修身教会灯、

(仏の教えをひろめるために秦野へ来た。満場の聴衆は同朋である。快なるかな、馬入河〔相模川〕の南の地に、修身教会の灯をともすことができたのである。)

 三日 晴れ。城光院に滞在して、秦野女学校の開校式に列席す。校長は哲学館大学の出身たる高橋光英氏なり。余の祝詩、左のごとし。

  秦野由来実業隆、又開校舎訓童蒙、自今漸見相陽地、女子芸林花更紅、

(秦野はもとより実業のさかんな地で、また、学校を開き児童を教育す。いまよりしてしだいに相州の地には、女子の文芸界に花開く者が見られるようになるであろう。)

 四日 晴れ。午前、タバコ専売所場内を一覧し、午後、二宮駅に至りて乗車し、西行の途に上る。車中、哲学館大学出身鈴木智弁氏に相会す。氏は京都東寺中学林に赴任すという。

 五日 快晴。午前六時、京都着。少憩して更に奈良に向かいて発車す。途上即吟一首あり。

  四月背花辞帝京、看過五十有三程、法苗欲植何辺好、試向芳山深処行、

(四月、花に背を向けて東京を出発し、五十有三次のみちのりをみてきた。仏法の苗を植えようと願うもどこがよいのか、試みに吉野山の奥深い地に行こうと思うのである。)

 午前二時、奈良県高市郡今井町〈現在奈良県橿原市〉に着し、称念寺に投ず。住職今井豊稚氏は哲学館出身なり。

 六日 快晴。午前、今井氏とともに畝傍御陵および橿原宮を参拝す。ときに詩をもって所感を述ぶ。

  病余探勝入和州、来宿畝傍山下楼、参拝皇陵仰歎久、神光赫々照千秋、

(つかれるままに景勝を求めて大和に入り、畝傍山のふもとに宿をとる。皇陵に参拝し、ここにしばらく仰いでは嘆息したのであった。神の光は赫々として千年も照らしているのである。)

 午後、称念寺において開会し、宗教と教育との関係を述べて修身教会のことに及ぶ。

 七日 また晴れ。磯城郡三輪町〈現在奈良県桜井市〉に移り、同郡教育会の依頼に応じて演説す。会長は恩田郡長なり。会場は天理教会堂にして、宿所は奥山周軒氏の宅なり。奥山氏は医師なれども、平素信仏の志厚きを聞き、狂歌をつづりて氏に贈る。

  三輪たせば山の奥にも信心の、花ぞ開きて見事なりける、

 八日(日曜) 雨。長谷寺に登山し、豊山派管長に拝顔し、寺島光法氏に面会す。長谷寺は山に倚り渓をめぐり、堂宇軒を比べ、桜樹枝を交え、遠くこれを望むに、桜雲中に宮殿を架するがごとき観あり。余が我流の哲学的俳句すなわち「花雲の中に吐出す蜃気楼」をもってその実景を写出す。また一詩あり。

  病来為癖愛烟霞、到処江山是我家、昨酌三輪社頭月、今吟長谷寺中花、

(病癖のごとく煙霞の勝景を好むようになり、いたるところの江山をわが家と心得る。きのうは三輪のやしろにかかる月を眺めて酒を酌み、きょうは長谷寺の花をめでて詩を吟ずる。)

 午後、長谷寺を辞して、桜井駅皆花楼に泊す。

 九日 雨。多武峰に登山せんと欲して果たさず、終日長臥して疲労をいやす。夜に入り、上田昊覚氏の吉野郡よりきたり迎うるに会す。氏は哲学館出身にして、吉野郡内開会の主動者たり。

 十日 雨。宇治興聖寺住職西野石梁師および上田氏とともに、松山を経て吉野郡内に入る。道険にして泥深し。人車進むを得ず、犬馬の力をかりてようやく進行す。馬の先引きは、今回はじめてこれを見る。

  多武峰頭雨未晴、駅程今日奈崢嶸、欲攀泥路車難進、犬馬時扶人力行、

(多武峰のあたりはまだ雨もあがらず、村への道も今日はなんと山高く険しいことよ。泥深い道をよじのぼろうとしても車を進められず、ときには犬馬に引かせて行くのであった。)

 郡内に入る所に桜峠あり、その実、桜花なし。よって戯れに「桜阪とはいふものゝ花はなし、吉野の山のゲート(gate)なれども」とうそぶきつつ高見村〈現在奈良県東吉野郡吉野村〉に入る。村内を貫通せる渓流を鷲家川という。よってまた戯れて「高見村吉野の山も遠ければ、まだ花もみず鷲家川かな」などと歌にもならず、句にもならざる寝言を吐きつつ通過せるは、旅中の一興なり。高見村は鷲家旅館中尾氏方に泊す。夜中、竜泉寺にて開会す。聴衆満堂、数里の山間より来集す。演説の前後に小学児童、唱歌を奏す。発起者は住職浦田暁山氏、村長岩井友次郎氏等なり。

 十一日 晴れ。高見村より小川村〈現在奈良県吉野郡東吉野村〉字鷲家口に移る。この日、三村合同戦死者追弔会ありてこれに列席す。祭壇の構造および装飾、大いに意匠を凝らし、西野老師導師となり、各宗の僧侶これに参加し、祭文、弔詞を朗読するもの数十人、会衆千に満つ。式典すこぶる荘重にしてかつ盛観を呈せり。余の弔詩、左のごとし。

  征人多作不帰客、桃李何心花独繁、好折一枝春色去、芳山深処弔忠魂、

(征く人は多く不帰の客となり、桃李はなんの意か花のみがしげし。一枝を折りて春の模様を消すによく、吉野山の奥深いところで忠魂を弔う。)

 午後、宝泉寺において演説す。住職は辻南渓氏なり。当夜、富豪蒲生重一郎氏宅に宿す。邸宅は山に面し川に踞し、泉声枕上にかかり、山色眉間を照らすの趣あり。

 十二日 晴れ。渓流をさかのぼりて四郷村〈現在奈良県吉野郡東吉野村〉巌泉寺に至る。この辺り峻山高く聳え、茂林深くとざし、地偏なるも境幽なり。戦勝の結果、村々区々設くるに凱旋門をもってす。

  日露和成後、人呼万歳喧、山中無暦処、猶見凱旋門、

(日露の和平が成立してのち、人々の万歳を呼ぶ声がかまびすしい。この奥深い山中の暦もなく時を忘れたかのような所にも、今や凱旋門が見られるのである。)

 巌泉寺住職は谷万鏡氏なり。夜中開会す。演説前後に小学児童の唱歌および楽隊の奏楽ありて、すこぶる盛会なり。

  境静巌泉寺、山深狭戸村、俗塵渾不到、此地是桃源、

(幽境にひっそりと建つ巌泉寺、山のふところ深くせまい村。世俗の塵埃はまったく入ってこない、このような地こそまさに桃源郷なのだ。)

 十三日 晴れ。この仙源を去りて小川村字中黒に移る。宿坊は興禅寺にして、住職は上田昊覚氏なり。よって一詠す。

  小川渓上有禅関、昊覚法師栖此山、尽日門庭人不到、午陰深処鳥声閑、

(小川の渓流のほとりに禅寺があり、上田氏昊覚法師がこの山にすむ。日がな一日、門庭に人のおとずれることもなく、日中木かげの深い所で鳴く鳥の声ものどかである。)

 この辺り一帯崇山峻嶺前後に屏立し、中間に一脈の渓水の流るるありて、わずかに車路を通ずるのみ。中黒は製紙をもって業とするもの多ければ、「白雲の山とはいへど雲でなし、紙を製する烟なりけり」とうそぶきたり。白雲山は興禅寺の山号なり。小川村にて凱旋せる軍人に感謝状を贈らんとて、村長重阪丑太郎氏より余に起草を請う。余、長編を作りてこれに与う。

日露交兵已二年、海戦陸闘共空前、皇軍所嚮如破竹、陥落旅順屠奉天、大挙将衝浦塩険、全軍士気益揚然、時有海軍報大捷、敵艦全滅無余船、終局勝敗於是定、媾和声自米国伝、戦争元来非我意、唯期皇礎千載堅、平和条約忽締結、皇国威名震坤乾、朝野士民歓何極、万歳高呼動山川、畢竟軍人决一死、或侵弾雨或砲煙、皆知勇進不知退、連戦連勝其功全、完了任務帰郷里、村民抃舞迎凱旋、如此偉勲何以謝、誠意捧来詩一篇、

(日露の干戈を交えることすでに二年、海に陸に空前の戦闘をくりひろげ、皇軍の向かうところ破竹のごとく、旅順を陥落させ奉天をほふる。大挙してまさに浦塩〔ウラジオストク〕の険塁をつきやぶらんとし、全軍の士気はますますあがる。ときに海軍の大勝が報ぜられ、敵艦は全滅して残余の船もないと、この戦争の勝敗はここにおいて定まり、講和の声は米国より伝わる。戦争は元来わが国の本意ではない、ただただ皇国の礎の千年のかたきをねがったのみである。平和条約はたちまち締結され、皇国の威名は天地をも震撼させた。官吏も民間人も全国民のよろこびは極まりなく、万歳の声は高く山川をもゆり動かさんばかりである。それも結局のところ軍人が決死の覚悟で、あるいは弾雨をおかし、あるいは砲煙をおかし、みな前進を知るも退くを知らず、連戦連勝してその功を成し遂げたからである。任務を全うして郷里に帰り、村民は手を打ちおどりあがって凱旋を迎える。このような偉大な勲功に、なにをもって感謝の心を示そうか、誠意をもって詩一編を捧げるのである。)

 十四日 晴れ。小川村より上市町〈現在奈良県吉野郡吉野町〉に移る。上市は郡衙所在地にして、郡内第一の都会なり。市街は吉野川にそい、芳〔吉〕野山に対す。着後、香月楼に一休して、更に当町有志家小西音石氏の宅に移る。楼上の眺望すこぶる佳なり。詩をもってこれを写す。

  高楼岸頭立、隔水対芳山、沙際行人続、賞花往又還、

(高楼は岸のたかみにたち、吉野川を間に吉野山に対面している。水辺には人の絶えることもないのは、花をめでてゆきつもどりつしているからなのだ。)

 午後、郡教育会に出席して講演をなす。会長は郡長安芸則恭氏なり。氏は本郡巡回の件につきて各町村へ紹介の労をとられたり。奈良県事務官吉田氏に面会す。

 十五日(日曜) 晴れ。小西氏の楼上に宿するに、終夜流水の声あるを聴き、同氏の名は音石なるにちなみて、言文一致流の俗調をつづる。すなわち「夜もすがら、石間をきしる水の音、聴けば心も清くなりぬる」の狂歌なり。ときに芳野山の桜花は満開なりというを聞き、小西氏および上田氏とともに川を渡り、渓行里許にしていわゆる下千本の山下に至る。途上、一吟あり。

  春山青一色、中有白雲横、近見花千畳、団々都是桜、

(春の山は青一色であり、なかほどに白雲が横ざまにたなびいている。近づいて見ると、それは花の幾千となくかさなっているからで、団々たるかたまりは、すべて桜なのである。)

 茶亭に一憩して帰る。観客疎々、車行遅々、その幽邃の状態は墨堤、嵐山と同日に論ずべからず。かつ余の所感は「芳山有花而無水、上市有水而無花、人間万事皆如此、両者難兼君勿嗟」(吉野山には花はあれども水はなく、上市には水はあれども花はない。世の中は万事みなこうしたもので、ふたつながらそろうのは難しいのだから、君よなげくことなかれ。)にて、芳山に水なきは観客のみな遺憾とするなり。午後、上市を去り竜門村〈現在奈良県吉野郡吉野町・宇陀郡大宇陀町〉に入る。途上の所見、左のごとし。

  樹は黒く麦は緑りに菜は黄なり、桃紅李白、春の山里、

 宿坊は西蓮寺にして、住職は西岡順察氏なり。庭前に老松の臥竜に似たるあり。

  窓外老松在、如竜又似仙、臥雲三十丈、吸気一千年、

(窓の外に老いた松がある。その姿は竜のようでもあり、また、舞い上がるようでもある。隠者のごとく生きて三十丈の樹幹ともなり、万物を育てる根元の気を吸って一千年の寿を得ているのである。)

 村内に竜門滝と名付くる小滝布あり。行きてこれをみる。

 十六日 雨。西蓮寺に滞在す。

 十七日 雨。歩行して宇陀郡松山町に至り、更に車行して榛原町〈現在奈良県宇陀郡榛原町〉に入る。これ、鳥見岡の旧址の存する所なり。

  客遊偶到宇陀郷、入眼青山鳥見岡、想起三千年古事、仰天俯地感無量、

(旅客として思いもかけず宇陀の郷に至り、青山と鳥見岡を目にする。三千年のいにしえのことを思い起こし、天を仰ぎ見、地を俯し見て、感無量。)

 更に一作あり。

  肇国宏遠神武帝、樹徳深厚鳥見山、請看三千年古月、照遍八十余州間、

(国をはじむること広遠なる神武帝、深厚なる徳を樹立した鳥見山。請う、みよ、三千年以来のいにしえの月を。あまねく八十余州を照らしてきたのである。)

 榛原町宿坊は宗祐寺にして、融通念仏宗に属す。清原得静氏これが住職たり。堂後に地蔵山あり、庭前に躑躅園あり。よって一詠す。

  地蔵山下梵宮開、四月遠尋春色来、躑躅花期猶未到、黄鴬声裏見紅梅、

(地蔵山のふもとに寺院があり、四月、春の景色をたずねて至る。庭前につつじ園はあるが、まだ花の咲く時期ではなく、うぐいすの声しきりに紅梅が見られる。)

 会場は榛原高等小学校なり。哲学館出身者日高純諒氏きたり会す。

 十八日 晴れ。松山町〈現在奈良県宇陀郡大宇陀町〉に移りて開会す。会場は万法寺にして、津田敬遵氏これに住す。当地は郡役所所在地なり。本郡内の開会は郡長谷原岸松氏、郡視学森本正啓氏、榛原町長高野万次郎氏、松山町長山辺彦七氏等の発起にかかる。

 十九日 晴れ。松山より吉野郡小川村に向かう。途中、五色の歌を詩に変じて「桃紅李白宇陀郷、麦緑菜黄鳥見岡、又有松杉満林黒、江山五色著春粧」(桃の紅、すももの白い花さく宇陀の郷、麦の緑、菜の黄色に染まる鳥見の岡、また松と杉の林がつくる木陰の黒、江山の五色はすべて春のよそおいをあらわす。)となす。当夕、中黒興禅寺に至りて泊す。途上、所見一首あり。

  桃源深処一渓通、家住水明山紫中、堪笑都人三四月、黄塵堆裏送春風、

(桃源郷のような奥深いところに一本の渓水が流れ、人々の家は山紫水明の中にある。笑いをこらえて思う、都会に住む人々の迎える三、四月は、黄塵のつもるなかで春風にあうのだと。)

 また、同寺にありて「欲医労苦入禅関、臥対興禅寺外山、一抹炊烟日将午、車声不到客眠閑」(労苦の疲れをいやそうとして禅寺に休み、この興禅寺より見える山に向かって身を横たえる。一抹の炊煙がたちのぼるとき、それはまさに正午。ここまでは車の音もせず、客は午睡を楽しんでのどかである。)と詠じて、午睡を試む。

 二十日 晴れ。午後、中黒を去りて国樔村〈現在奈良県吉野郡吉野町〉新子に移り、夜中開会す。会場は高等小学校にして、聴衆、堂にあふる。発起者は松岡桂斎、森谷庄太郎、内田某等の有志諸氏なり。松岡氏は医師にして、かつ信仏の志厚きを聞き、「学医除病苦、信仏養精神、在此深山裏、如君有幾人」(医を学んで病苦を除かんとし、仏を信じて精神を養っている。この奥深い山中の村に住む、果たして君のような人はどれだけいるであろうか。)の詩を賦してこれに贈る。

 二十一日 晴れ。新子より渓行二里にして川上村〈現在奈良県吉野郡川上村〉字大滝に達す。吉野川の渓流かかりて大瀑布となる。故にこの名あり。対岸の風光ことに佳なり。これ、吉野山中奇勝の一ならん。よって、

  欲訪芳山勝、請来見大滝、渓流相対処、疑在畵図中、

(吉野山の景勝を訪ねんとし、請いて行き大滝を見る。渓流に向かって立てば、一幅の画中にあるかと疑わんばかりである。)

の句を浮かぶ。宿坊は竜泉寺にして、住職は古瀬真隆氏という。すこぶる熱心家なり。当所は大和屈指の富豪土倉庄三郎氏の居村にして、氏が従来公共事業に尽くせし跡、実に見るべきもの多し。人みな称して吉野山中の人傑となす。主人、年やや老ゆるも身なお健やかなり。深く修身教会の旨趣を賛同し、大いに尽力せんことを約せらる。当日、昼夜とも開会す。

 二十二日(日曜) 晴れ。大滝に滞在して昼夜開会す。山寺即事の一絶を賦す。

  渓行数里泝仙源、積翠欲垂川上村、竹筧懸庭水声冷、竜泉寺裏浸吟魂、

(谷川に沿って行くこと数里、仙人が住むかと思われる地にさかのぼり、積み重なるような緑のしたたりおちるかとも見える川上村に至った。竹の筧が庭にかかって水の音もひややかに、竜泉寺に詩魂をうるおすのであった。)

 二十三日 雨。大滝より渓流にそって上り、迫に至る。迫は川上村役場所在地にして、ここに官幣大社あり。社務所をもって会場に充つ。村長福本寅松、助役松尾寅太郎等諸氏の発起なり。途上、川上村所見をつづりて村長に贈る。

  渓上纔通路一条、山深風物自蕭寥、仙郷幸有心田潤、欲植修身教会苗、

(谷川のほとりにはわずかに一条の道があるのみで、山深く風物もおのずからものさびしい。しかし、この仙郷ともいえる人々には、幸いにも心の田というべきうるおいがある。故に修身教会の苗を植えようと願うのである。)

 二十四日 晴れ。更に渓流に従ってさかのぼり、北和田に至りて開会す。この地は大峰山麓にして、これに連結せる諸山は指顧の間にあり。しかしてこれより山巓に達するには、なお三里ありという。この日、轎に駕す。

  軽輿数里破清晨、雨洗林巒霽色新、行尽大峯山下路、黄花緑葉武陵春、

(軽々とした輿に乗って行くこと数里、清らかな朝を破るようにして進む。雨に洗われた林も山々も、雨あがりの色で清新である。大峰山下の道を行き尽くせば、そこは山吹の黄色い花と緑葉しげる武陵桃源郷の春なのである。)

 黄花とは山吹の花を指していう。林間いたるところこの花を見る。会場は高等小学校にして、校長梅谷退一氏等の発起なり。深山幽谷中にありて、なお学校の設備の至れるを見、ここに所感を述ぶ。

  渓雨晴来暁色蒼、樹陰深処鳥声長、桃源亦浴文明沢、樵路窮辺有学堂、

(渓谷にふる雨もしだいにはれ、あかつきの景色も青々として、木かげの奥深くなく鳥の声ものびやかである。この桃源郷のごとき所も文明の恩沢に浴し、きこり道のきわまるような地にさえ学校がある。)

 当日演説後、更に渓流にそって下行し、白屋に至りて夜会に出演す。この日、行程往復六里ばかりなり。途上俗歌をつづり、

  川上の林の中に生ひたちし、人は御国の柱とぞなる、

といえるを敷衍して演説す。宿所は玉竜寺にして、小学校長三宅左一氏の主催なり。

 二十五日 晴れ。朝、白屋を発し、迫および大滝に休憩し、蜻蛉滝を一見し、西川に至りて泊す。会場は徳蔵寺なり。西川をよみてニシッコというは奇なり。ニシカワの転訛なりと伝うるも解し難し。その隣区東川をウノカワという。

 以上はみな川上村の区域なり。川上村は二十三大字より成り、その面積、長さ十二、三里、幅六里、十津川町に次ぐ大村なり。しかして戸数は千二百、人口は六千七百人、学校は尋常高等を合して十九校あり、村内の教育費は一万円以上に達すという。産業はただ林業あるのみ。衣食の供給はすべてこれを他村に仰ぐ。その村内を貫通せる一帯の渓流は吉野川の源流にして、両岸の風光自然に武陵桃源の趣あり。

 二十六日 雨。朝、五車峠をこえ、上市町に入り小西音石氏の宅に着す。会場は浄宗寺にして、開会は町内有志の発起なり。演説にさきだちて警鐘あり、川を隔てて火災を望む。当夕、北岡房治郎氏の宅に泊す。

 二十七日 雨。小西氏の宅に休憩して吉野山〔吉野村〈現在奈良県吉野郡吉野町〉〕に移る。会場は東南院にて、旅館は芳山館なり。発起者は東南院住職五条順海、高等小学校長側垣基雄等、数十名の有志諸氏なり。演説は芳野所感と題し、役行者の事蹟より説き起こし、芳野の将来に論及す。当時、桜花すでに落ち尽くし、満山ただ緑葉の森々たるを見るのみ。

  烟雨霏々四月天、芳山一路緑陰連、延元陵下桜花老、吉水社頭聴杜鵑、

(けぶる雨がふりしきる四月の空、吉野山の道は緑陰に続く。延元陵のもとにある桜花も老いて、吉水社のほとりにほととぎすの声をきく。)

 芳山館の後庭に藤尾坂と称する所あり。これ義経、静と訣別の地なりと伝う。よって館主の請いに応じて左の詩を賦す。

  桜花落尽雨濛々、来宿芳山旅館中、杜宇一声藤坂寂、使人想起古英雄、

(桜花は落ちつくし、雨はふりこめてほの暗い。この地に来て芳山旅館に泊す。ほととぎすが一声ないて藤尾坂は寂として静かに、人にいにしえの英雄〔義経〕を思い起こさせたのであった。)

 二十八日 晴れ。朝、如意輪寺を訪いて一休す。門前の眺望、芳山第一と称す。住職井上徳定氏は学徳ともに衆人の推すところなり。ときに芳山懐古の一絶を浮かぶ。

  延元陵下歩新晴、一望何堪懐古情、山寺無花春寂々、緑陰堆裏聴残鴬、

(延元陵のもとを歩むに新たに晴れて、一望すれば懐古の情にたえず。山の寺には花もなく春はものさびしく、緑陰の重なるうちになごりのうぐいすの声をきく。)

 これより吉野川を渡り、対岸なる大淀村〈現在奈良県吉野郡大淀町〉字比曾世尊寺に入りて演説す。当山は聖徳太子の開基にして、日本最初の道場なりという。堂宇荒廃を極め、その状廃寺を見るがごとし。よって太子十七〔条〕憲法の一端より説き起こして、再興の必要に及ぶ。住職は上田昊覚氏これを兼ぬ。大淀村長は岡田高義氏なり。

 二十九日(日曜) 晴れ。増口専立寺に転じて開会し、有志家大北源一郎氏の宅に泊す。吉野郡長安芸氏は劇務の中、連日各所の開会に出席し、修身教会の拡張を助成せられしは、深くその熱心と好意とを謝せざるを得ず。

 三十日 晴れ。午前、下市町〈現在奈良県吉野郡下市町〉に移る。会場は立興寺にして、宿所は旅館なり。発起者は立興寺住職稲田義顕氏、下市町長島田竜氏なり。当町は商工業の隆んなる地なりというを聞きて、左の詩を賦す。

  千石橋南街路長、民家櫛比是工商、由来信仏心灯朗、又放修身教会光、

(千石橋の南に街路長く、すきまなく建ち並ぶ民家は工商をなりわいとする。人々はもとより仏教を信じて心根も明るく、またここに修身教会の灯をともしたのであった。)

 千石橋は吉野川に架する鉄橋にして、毎日この橋上を輸送せる米穀千石に達すというより、その名を得たりと伝う。

 五月一日 雨。下市町滞在、昼夜開会。

 二日 雨。早朝、農林学校に至り、特に生徒のために演述す。校長は白河太郎氏なり。当校は拙著『修身要鑑』を教科書に採用せるを聞き、一編の小箴を作りて生徒諸氏に贈る。このとき東京より大観兵式の実況を報じきたる。

日露和成皇威震、観兵式挙鳳輦臨、朝野歓呼祝戦捷、山中猶聞凱歌音、我輩幸遇此隆運、朝夕豈忘国恩深、戦後経営不容易、皆言富源在農林、殖産興業能尽力、養成国本是誰任、男児此時須奮起、青年歳月重於金、自今願除校風弊、遮断誘惑防荒淫、開智成徳守聖訓、修学習業惜寸陰、百折不撓斃而已、不問利害与浮沈、大峯山高可養気、吉野川清足洗心、只期他日功成後、実業界中指南鍼、我来難禁婆心切、敢為諸君作小箴、

(日露の講和が成って皇威は世界を震撼させ、大観兵式が挙行され、天皇は行幸してこれに臨まれた。官民は歓呼して戦勝を祝い、山中のここにも凱歌の声が聞こえるようである。われわれは幸いにしてこの隆運のときに遇い、朝夕にも国恩の深さを忘れることはできぬ。戦後の国家経営は容易ではないが、みないう、富の源は農林にありと。殖産興業によく力を尽くし、国のもとを養成するのはだれの任務であろうか。男児はこのときこそ奮起すべきであり、青年の歳月は金よりも貴重であると悟るべきである。いまより願わくば、校風の欠点なるところあれば除き、誘惑を断ち荒淫を防いで、智能を開発し、道徳を成就して聖訓を守り、修学、習業に寸暇も惜しむべし。百たびくじかれても屈せず、たおれてやむべく、利害と浮沈とを問わず。大峰山は高くして英気を養うべく、吉野川は清くして心を洗うに足る。ただただいつの日か成功の後に、実業界の中で教え導く者とならんことを期待するのみである。われここに至りて老婆心の痛切に起こるを禁じ得ず、あえて諸君のために簡単ないましめの文を作ったのである。)

 午前中に農林学校を辞し、下市旅館に一休し、これより峻坂険路を攀じて南芳野村〈現在奈良県吉野郡下市町・黒滝村〉に入る。嶺頭雲深き所に小学校を設くるを見る。昔日は「遠上寒山石径斜、白雲生処有人家」(はるか遠く、もの淋しい山にのぼって行けば、石の多い道はななめに続いて行く。白い雲の湧き出る山中には、思いもかけずに人の住む家がある。)といいしが、今日は「白雲生処有学校」(白い雲の湧きおこるような山中の深いところに小学校がある。)といわざるを得ず。よって一絶を得たり。

  芳山五月雨霏々、春入深渓碧四囲、樵径攀来将尽処、学童時蹈白雲帰、

(吉野山の五月は雨がしきりとふり、春は深い谷に入って四囲を緑にする。きこりの小道をよじのぼり、その道の尽きるところに学校がある。それ故に学童は、ときに白雲を踏んで帰るのである。)

 午後四時、中戸光照寺に着して開会す。この日、下市町より里程四里の間、村長家治佐太郎氏の同行あり。宿所は旅亭なり。この辺りの婦人は一種異様の袴をうがち、重荷を負いて峻坂を上下す。婦人、普通十五貫目ないし二十五貫目を担うという。その労力驚くべし。

 三日 雨。村長家治氏とともに渓流にそいて下り、壬生に至りて開会す。その距離、二里あり。渓流は壬生川という。昼食後、雨をおかして笠木嶺に登る。山高く雲深く、四面冥濛、咫尺を弁ぜず。山水の秀美を見ることを得ざるを遺憾とす。嶺を下りて天川村〈現在奈良県吉野郡天川村〉に入る。村を貫きて一帯の渓流あり、これを熊野川の上流とす。両岸は天然の岩石より成る。往々碧流かかりて飛瀑となり、激して白雪を現ず。しかして対岸は絶壁千仞、天空をつきて屏立す。実に仙郷なり。

  笠木嶺頭穿翠烟、渓声相伴入天川、雲容山態非人境、風俗民情都是仙、

(笠木嶺の頂きはみどりのかすみをうがって見え、渓川の音とつれだって天川村に入る。雲のかたち山の姿は到底人の住むところとは思えず、風俗も人情もすべて仙境である。)

 上流に泥川駅あり。これ大峰登山口なり。当夕、天川村字和田なる福智久継氏の宅に泊す。福智氏は村長たり。実にその名のごとく福禄、知恵ともに村内第一と称す。この日、行程七里余なり。

 四日 雨。福智氏の宅に滞在し、昼夜開会す。一村の人家は五、六里の間に散在し、これを合するも五百に満たず。毎戸、木工を業とす。民家多くは壁を有せず。男女ともに吉野袴を着す。役場吏員もまたしかり。山林多きも地価安く、一町歩平均四十銭ぐらいなりという。食用品はすべてその供給を他村に仰ぐ。ただ、その地に産するものは蕨とアメ魚あるのみ。宗教は概して真宗にして、寺院に参詣するもの多し。

 五日 快晴。天川村のつぎに大塔村、野迫川村、十津川村あり。十津川村のごときは五十余の大字より成り、三十里の間にまたがる、全国無比の大村なり。野迫川のごときは高野山に接続せる深谷の間にありて、一戸をもって一大字をなせる所ある由。大塔村には大塔宮の古蹟を存すという。日程限りありて、これらの諸村に入ることを得ざるは遺憾の至りなり。この日、和田を去り、渓谷間の樵路をたどりて行くこと五里、宗桧村〈現在奈良県吉野郡西吉野村〉陰地に着す。途上の風景おのずから別天地の観あり。

  雨後渓山更紫明、仙源風物使人驚、緑陰堆裏聞鴬語、躑躅花間見老桜、

(雨あがりの谷や山はさらに美しく、仙人の住むようなこの地の風物は人を驚嘆せしめるものがある。緑陰の重なるうちからうぐいすの声が聞こえ、つつじの花の間に老桜が見られるのだ。)

 これ、天川より宗桧に至る深渓間の実景なり。途中強震に会し、山上の小石の落下せるを見る。陰地の会場は円光寺にして、寺は山の中腹にありて、前山と相対す。その風景また、画中に座するの思いあり。

  樵路傍渓入桧川、梵宮高聳半空辺、台端時対前山坐、疑是画図天壁懸、

(きこり道の傍らを流れる渓水はやがて桧川に入る。寺院は山腹にたち高くそびえ、空をくぎるように見える。楼台よりはじめて前面の山に対して座せば、画幅の天を壁としてかけられているかと思われるほどであった。)

 住職は和気美雄氏にして、真宗門内の徳望家なり。村長は殿平勝太郎氏という。この辺りの人家は多くは山の絶頂より半腹の間に散在し、隣家に行くに数十丈を上下せざるを得ず。これ、南芳野村および宗桧村の特色とす。ここに住するものは坂路を上下する習慣により、平地を行くにも足を高くあぐる癖ありという。伊勢山田の旅館にて客の歩き風を見て、ただちに吉野郡内の人なることを判知すというはこの習慣あるによる。

 六日(日曜) 晴れ。陰地を出でて、途中延命寺を経て賀名生村〈現在奈良県吉野郡西吉野村〉字和田の旅館に着す。夜中開会。会場は高等小学校にして、村長鶴田鼎氏等の発起なり。鶴田氏は吉野口を去る一里ばかりの所に桃園を開き、その名を成美園というを聞き、「桃林千万樹、成美是其名、四月花開日、圧来吉野桜」(桃林には千か万を数える木が植えられ、成美〔園〕こそはその名である。四月、花開くの日は、名にし負う吉野桜をも圧倒するであろう。)の五絶を賦して氏に贈る。

 七日 晴れ。朝、堀氏の宅を訪い、後醍醐天皇の行在所および宝物を拝観し、席上、所感をつづる。

  茅屋山隈立、皇居在此中、渓泉鳴不歇、懐古感何窮、

(かやぶきの家が山の曲がりこむ所にたち、後醍醐天皇はここに住まわれた。谷の泉の音が絶えまなく聞こえて、懐古の情は尽き果てることもない。)

 午十二時、五條町〈現在奈良県五條市〉に着す。旧知西村常吉氏等の野外に出でて迎うるに会す。西村氏は五條中学校にありて教鞭をとり、舎監を兼ぬ。去る二日、下市町を辞してより、今日に至るまで一週の間は、吉野山中人車の便なき所を跋渉し、毎日草鞋をうがちて峻坂を上下したりしが、五條に至りてはじめて平坦の地を見、なんとなく都に出でたる心地をなす。

  穿尽芳山一草鞋、澍来法雨五條街、長江十里紀州道、両岸風光散客懐、

(吉野山一帯の地をわらじで巡り尽くし、仏法の恵みをそそぎ入れるため五條町に至った。長江〔紀の川〕十里の紀州道、両岸の風光はほしいままにする旅人の心をもやわらげる。)

 五條町は宝満寺にて昼餐を喫し、少憩の後、倶楽部の楼上に移りて演説す。郡長椎原国太氏および中学校長大橋唯雄氏に面会す。ともに旧面識あり。当地開会は郡教育会および各宗協同の発起にかかる。郡視学吉川栄治郎氏、宝満寺住職梁瀬作礼氏、桜井寺住職康成達倫氏等、主として斡旋の労をとらる。

 八日 雨。午後、中学校において講演をなし、終わりて郡長および校長とともに桜井寺を訪い、維新前吉野山中を震動せし天誅組の顛末を聞きて、旅館岩井に帰る。西村常吉氏、余に贈るに五岳の画、慈恩の賛の古幅をもってす。余、詩を賦してこれに答謝す。

  与君一別十星霜、客舎相逢談笑長、贈我畵図是何物、披来歎賞喜将狂、

(君と一別してから十年が経ち、この旅館におちあって談笑し長い時をすごした。私に画幅を贈られたが、それはいかなる物かと、ひらいて嘆賞し、喜びのあまり度を失うほどであった。)

 九日 雨。五條停車場にて乗車す。椎原郡長等、有志数名の送行あり。南葛城郡御所町〈現在奈良県御所市〉に降車す。工業学校長高田吉親氏の出でて迎うるに会す。午後、工業学校内において演説す。郡教育会の主催にかかる。郡長尾崎裕氏および郡視学杉本熊次郎氏、ともに尽力あり。旅館は玉平なり。「玉ならば丸かるべきに平らとはいと不思議なる御所の宿かな」との狂歌を浮かべたるも笑うべし。この旅館にて哲学館出身鷲尾隆英氏に相会す。

 十日 晴れ。北葛城郡高田町〈現在奈良県大和高田市〉専立寺に移りて開会す。各宗協同団の発会式にして、すこぶる盛会なり。専立寺は高田御坊と称し、堂宇宏大にして、眺望また幽雅なり。

  客游今日到高田、緑麦隴頭街路連、専立寺端時一望、葛城風月落軒前、

(旅遊をかさねて今日高田に至り、緑の麦畑は街路につらなっている。専立寺よりはじめて一望すれば、葛城の風月はのきさきにまといつながっているのである。)

 十一日 晴れ。車行して高市郡真菅村〈現在奈良県橿原市〉字土橋専念寺に移る。哲学館出身秦法顕氏これに住す。和州布教団支部の発起にて、宗祖降誕会を挙行す。聴衆、堂に満つ。庭前、躑躅花の満開を見て一作を試む。

  麦雨初晴満眼青、投来専念寺中亭、春過緑樹陰濃処、躑躅花開紅半庭、

(麦の熟するころに降るという雨もあがり、見渡すかぎり青々として、専念寺の亭に身を寄せた。春すぎて緑樹のかげ濃いところ、つつじの花が開き、その紅は庭のなかばをおおっている。)

 十二日 晴れ。畝傍停車場発、奈良を経て郡山町〈現在奈良県大和郡山市〉に降車し、中学校講堂にて講演す。生駒郡教育会および中学校校友会の依頼に応ずるなり。郡長源融氏、中学校長百尾喬利氏、郡視学玉井寿愷氏、中学教員森口奈良吉氏等尽力せらる。奈良市外桐山より税所篤一氏のきたり迎うるに会し、同行して税所氏の山荘に移る。眺望あり風致ありて、その幽邃閑雅なるは本県中有名の庭園とす。一夕、望外の優待を受く。

 十三日(日曜) 雨。奈良より乗車して京都〈現在京都府京都市〉七条に着す。福井了雄、上村観光、松本雪城氏等の同窓諸氏の歓迎あり。河六旅館に少憩し、市役所議事堂に移りて演説す。演題は丙午の迷信にして、発起は哲学館関西同窓会なり。ときに大雨覆盆のごときも、聴衆、無慮千名の多きに及ぶ。散会後、八新亭において開きたる同窓の懇親会に出席す。田島教恵、新町徳兵衛等、哲学館出身者約二十名きたり会す。席上、即吟一首あり。

  同窓数十名、相会洛陽城、懐旧三杯酒、八新亭上傾、

(同窓数十名、京都にあいつどう。むかしを懐かしんで酒をくみかわし、八新亭に酔いしれたのであった。)

 十四日 晴れ。京都を発し、宇治町に着し、万碧楼にて喫飯す。哲学館出身日高純諒氏の周旋なり。氏は園林寺内に僑居す。よって一絶を賦して贈る。

  僧住園林寺、山明万碧棲、我来過此地、回首憶曾遊、

(僧〔日高氏〕は園林寺に仮ずまいする。山も美しい万碧楼、私はこの地に来て、こうべをめぐらすように、かつての旅遊を思い出すのである。)

 興聖寺より執事鷲嶺氏の訪問あり。食後ただちに乗車し、次駅新田村〈現在京都府京都市南区〉公会堂において演説す。久世郡教育会の依頼に応ずるなり。散会後、円蔵院にて一休ののち乗車す。往復ともに郡長北本雄氏と同乗す。目下、茶摘みの最中なり。当夕、京都へ帰り、五条青年会に至りて演説す。会場は善立寺にして、福井了雄氏これに住す。

 十五日 晴れ。京都を発し、再び奈良県に移り、山辺郡二階堂村〈現在奈良県天理市〉田井庄光蓮寺において開演す。崇徳会の依頼に応ずるなり。村長片岡楢太郎、光蓮寺住職越智敏雄等の諸氏、斡旋の労をとらる。本村は旧二十七カ村を合して一村とせりとて、すこぶる大村なり。光蓮寺前住職は私塾を設けて、積年村民を訓育せられしとて、その門弟相はかり、石碑を建設せり。余、その挙を聞き、「故人今不見、春夕恨無涯、繞屋梅千樹、化為一片碑、」(光蓮寺前住職に遺徳ありと聞いたが、故人となって今や会見もかなわず、春の夕べに残念に思うことかぎりなし。寺屋をめぐって梅は千本もあろうか、その人はいま一片の碑と化している。)の五絶を賦してこれに贈る。

 十六日 雨。丹波市町より乗車す。丹波市は天理教本山の所在地にして、信徒の遠近より来集するもの年中たえずという。御所町に下車し、これより里許、吐田郷村〈現在奈良県御所市〉字名柄竜正寺に至りて開会す。当寺住職および村長(伊藤武治氏)の発起なり。寺は金剛、葛城両山の麓にありて、眺望に富む。金剛山頂まで五十丁ありという。楠氏篭城の当時を追懐して一作を試む。

  読史毎欽楠氏忠、遠尋遺跡入蓮宮、堂前一望金剛聳、山態使人想旧風、

(歴史書を読み、つねに楠公の忠義をうやまう。遠くその遺跡をたずねてきて寺院に入る。寺堂の前に立って一望すれば金剛山がそびえ、その姿はむかしのようすを思い起こさせるのである。)

 十七日 雨。竜正寺より田間をわたり、歩行して掖上村〈現在奈良県御所市〉玉手満願寺に移る。寺は丘陵の中腹にありて、竜正寺とまさしく相対す。葛城、金剛一帯の山脈は眼前に連なる。丘上に孝安天皇の御陵あり。住職は鷲尾隆英氏と称し、哲学館出身なり。よって左のごとく一詠す。

  孝安陵上曳笻躋、満願堂前望欲迷、一鳥不啼深院静、隆英和尚此幽栖、

(孝安天皇の陵に杖をついて参詣す。満願寺の堂前から一望してその風光に目をまよわす。鳥の声もせず、奥深く寺院は静寂であり、隆英〔鷲尾〕和尚はここに静かに住みなしている。)

 当日午後、風起こりて雲雨を払い去りたれば、更に一吟す。

  衝雨朝来入梵宮、江山如海望冥濛、林風吹起雲将断、浮出金剛一帯峰、

(雨のなかを朝早くに寺院に入った。川も山も海のように暗いなかにしずんでみえる。やがて林の奥から起こる風が雲を吹きちぎらんとし、金剛山一帯の峰々を浮き出させたのであった。)

 大和地の名物は大仏と吉野桜の茶粥なるが、「花もみた仏もみたが唯粥をまだ味ひてみぬぞかなしき」の狂歌をよみて、茶粥の馳走にあずかりしも、また旅中の一興なり。

 十八日 晴れ。玉手を出でて、御所より乗車し、磯城郡香久山村〈現在奈良県橿原市・桜井市〉法然寺に移る。〔天〕香久山と畝傍山と耳梨〔成〕山とは和州の三山と称し、鼎立の位置を保つ。法然寺は円光大師留錫の旧跡なり。故に所感を述ぶ。

  人家碁布小邱辺、村是香山寺法然、七百年前大師跡、我来講道亦因縁、

(人家が小高い丘に碁石のごとく点在する、この村は香久山村、寺は法然寺。この寺は七百年前の円光大師留錫の旧跡であり、そして、いま私がここに来て道を説くのもまた因縁なのである。)

 この日、連座と称し、農家みな餠をつきて休業す。当麻寺の故事より起こるという。聴衆満堂、すこぶる盛会なり。住職は登広還氏という。

 十九日 晴れ。香久山より畝傍に出でて乗車し、奈良駅にて上田昊覚氏と袂を分かつ。氏は四月九日より四十日間随行せられたり。午十二時、京都に着す。羽賀祐令氏、松本雪城氏、渓内弌恵氏の迎うるに会す。休憩後、市役所議事堂において講演す。第三高等学校仏教青年会の依頼に応ずるなり。渓内氏は京北中学校出身にして、幹事の一人に加わる。この席上において京北出身者数名に会す。文学士薗田宗恵氏にも七年ぶりにて面唔し、同氏の好意にて晩餐の饗応にあずかる。当夕は東六条皆山校にて、常葉青年会のために演説す。聴衆、堂にあふれ、庭前また人をもって埋ずむるに至る。

 二十日(日曜) 晴れ。午後、京華看病婦学校において、常葉婦人会および京華校友会のために演説す。当校は橋川恵順氏の設立せるところにして、松本雪城氏職務をとる。その夕は妙満寺に移りて演説す。大覚青年会の主催なり。哲学館出身野口義禅氏その長たり。これまた満堂の群聚を得たり。

 二十一日 晴れ。午前、九条東寺真言宗連合中学に至りて演説す。哲学館出身長谷宝秀、鈴木智弁両氏、ここに教鞭をとる。午後、橋川、松本両氏とともに大阪府下茨木町〈現在大阪府茨木市〉に至りて開会す。樹徳会、崇徳会の発起なり。会場は大谷派別院にして、聴衆、堂に満つ。堂前、老松あり。詩をもってその風姿を述ぶ。

  茨木尋精舎、講文半日停、堂前老松在、千古仏光青、

(茨木にて寺院をたずね、道徳、文化について講演し、半日ほどとどまった。寺院の前に老松があり、永遠なる仏の光に青々としている。)

 二十二日 晴れ。午後、大谷派婦人法話会のために徳正寺において演説す。柳説真氏そのことを幹す。当夕八時、急行にて京都を去りて帰京の途に就く。野口、羽賀、新町、大江、井ノ口、松本、柳等の諸氏の送行を受く。

 二十三日。朝、帰着。和田山哲学堂に至り、四聖に向かいて無事帰京を奉告し、かつ題するに七絶一首をもってす。

  欲訪江山風月間、六旬出没五畿間、帰来哲学堂前立、迎我蓮峰開笑顔、

(江山の風月を訪ねんとして、六十日のあいだ大和、山城、河内、和泉、摂津の五畿内に出入りした。帰り来て哲学堂の前に立てば、富士山が笑顔をもって私を迎えたのであった。)

 今回の旅行は日数五十余日にして、大和にあること四十余日、吉野郡内にあること三十日間なり。人あり、余に問うに、大和の七不思議はいかにをもってす。余、戯れに狂歌三首をつづりてこれに答う。

  大仏の次は桜と茶粥なり、これを大和の名物とする、

  此外にまだもあります名物は、吉野袴と犬の先引、

  新平と天理教とを加ふれば、大和の国の七奇とぞなる、

 この旅行中において、各所ともに有志諸氏の優待に接し、厚意をになうこと一方ならず。これ、余の深く感謝するところなり。

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足尾および長岡紀行

 明治三十九年六月十三日。朝、雨をおかして東京を発し、日光を経て足尾に向かう。晩来、雨さらにはなはだし。途中、細尾に一泊す。翌朝、開晴。緑陰を踏みて峻嶺を攀じ、渓行数里、鉄路に駕し、一走して足尾町〈現在栃木県上都賀郡足尾町〉に入る。旅館は間藤町暢和館にして、会場は大谷派説教所なり。所長は林賢励氏にして、当地開会の主動者なり。足尾町は栃木県下第二の都会にして、戸数六千、人口三万と称す。ほかに労役者の四方より来集するもの二万人に下らず。日本全国中二州を除くのほかは、一州としてこの地に寄留せざるものなしという。もってその繁盛の一斑をうかがうに足る。十四日、十五日、両日滞在。午後、夜中、両度開会、ともに修身教会の旨趣を演述す。十五日、午前は鉱山場内を巡覧し、その装置の壮大なるに驚く。なかんずく製錬場に入りて鑠金の実況に接し、地獄の活劇をみるがごとき心地せり。ただし鉱気異臭を放ち、鼻をつき喉を裂かんとせるには閉口せり。当夕は鉱山事務員諸氏の依頼に応じ、妖怪の談話をなす。滞在中の漫吟二首あり。

  深渓尽処市街開、人馬如雲去又来、足尾鉱山天下一、古河真是大王哉、

(深い谷の尽きる所に市街が展開している。そして、人馬が雲のごとく去ったり来たりで活気あふれる。足尾の鉱山は天下第一、古河は真に大王なるかな。)

  晃山深処一渓長、傍水尋来足尾郷、間藤寺中時説法、暢和楼上且銜觴、

(かがやく山の奥深く一本の渓水が長々と流れ、水にそうように足尾の里をたずねた。間藤の寺でときに説法をなし、宿泊した暢和館にさかずきをふくもうとするのである。)

 十七日。晴れに乗じて足尾を発し、帰京の途に上る。林賢励氏、宮崎健吉氏、余を送りて細尾嶺下に至る。両氏は足尾開会に関し、ともに尽力せられたり。

 十八日、越後行の準備をなし、十九日、長野善光寺に一泊。二十日、二十一の両日は、郷里浦村において亡父十三回忌の法要を営み、二十二日、休憩。二十三日、長岡〈現在新潟県長岡市〉に至り、午前、高等女学校において女生徒のために一席の講話をなし、午後、長岡校の講堂において公衆のために修身上の講演をなす。当夕、長岡館において当地有志諸君の発起にかかる歓迎会に出席し、意外の厚遇をかたじけのうせるは深く感謝するところなり。二十四日、午前、新潟〈現在新潟県新潟市〉に移り、県教育会の依頼に応じて教育上の講演をなす。旧友中学校長長沢市蔵氏および高等女学校長森田氏に面会す。哲学館出身井部貞吉、橋本倉之助、宮城清、沼沢与作、原田秀泰、関根浄正諸氏等の送迎を受く。午後、再び長岡に至り、女子教育会の依頼に応じて講演をなす。会場において棚橋絢子女史に面会す。当夕、晩餐会に列し、更に妙宗寺に開会せる修身教会に出演す。長岡には哲学館出身者および関係者相はかりて中越同窓会を設置し、その事業として修身教会を開催す。その主動者は小沢錦十郎、高賀銑三郎、田宮宗城、二国洞禅、渡辺茂二郎、雨宮静居、野本恭八郎、木村得四郎等の諸氏なり。当夜深更に及び、木村得四郎氏とともに摂田屋村川上半四郎氏の宅を訪いこれに一泊し、翌朝、野本恭八郎氏の宅に少憩して長岡中学校に至る。野本恭八郎氏は不幸にして令息を失う。令息はその名を遊という。さきに京北中学校の生徒たり。余の弔詩、左のごとし。

  主人植福田、其子不延年、積善余慶語、是非敢問天、

(主人は福徳をもたらす善行を積んでいるのだが、その子は不幸にして短命であった。善行を積む家には子孫におよぶ福徳があるという言葉があるが、この人をみると、この言葉が本当なのか否かを、しいて天にききただしたい思いがする。)

 長岡中学校は余の出身の地にして、今を去ること三十四、五年前、余がその校にありて創立せる和同会が今日なお持続すという。同会の依頼に応じて所感を演述す。午後、来迎寺村〈現在新潟県三島郡越路町〉に帰り、高橋九郎氏の宅において更に講話をなす。余の出産の地は来迎寺村大字浦なり。甫水の号は浦の字より起こる。今回帰村の詩あり。

  六月家山夏色繁、車窓回望動吟魂、渋川過去来迎寺、一帯杉林是浦村、

(六月の家郷の山は夏の色もさかんであり、車窓より四方を見渡せば詩情が起こる。渋川をすぎて来迎寺村に至れば、一帯の杉林こそ私の生まれた浦村なのである。)

 二十六日、帰京す。

 足尾および長岡巡回中、有志諸氏の優待厚遇をかたじけのうせるは、余の感喜にたえざるところなり。

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香川県紀行

 〔明治〕三十九年七月八日。午後、新橋発車。九日午前、岡山着。青木了栄氏(哲学館大学出身)と相会し、同氏に随行を約し、ともに汽船に駕して薄暮、高松市〈現在香川県高松市〉に着す。有志数十名、埠頭に歓迎せられたり。宿所は可祝楼なり。途上の所見は七言八句をもってこれを述ぶ。

富岳雨懸雲漠々、琶湖月黒夜冥々、暁天已入山陽路、樹色映窓車亦青、児島湾頭時解纜、一帆風満夏清泠、汽声漸報高松近、薄暮投来可祝亭、

(富士山にふる雨と山にかかる雲は遠くはるかにつらなり、琶琵湖にかかるはずの月は暗夜にかくれている。夜明けにはすでに山陽路に入って、樹々の色が窓にはえて、車もまた青色を帯びるかのようだ。児島湾のほとりから船にのれば、帆に風は満ちて夏なおすがすがしさを感ずる。かくて、汽笛がようやく高松に近づいたことを知らせ、夕暮れには可祝亭に身を寄せたのであった。)

 近角常観氏と同宿す。

 十日 晴れ。午後、興正寺派別院に開会す。仏教研究会の主催なり。聴衆満堂、およそ千名ありと称す。

 十一日 晴れ。午前、県庁に出頭し、小野田知事に面会す。事務官片岡英儀氏、各郡役所へ紹介の労をとらる。午後、大谷派寺院の発起にて公会堂において演説す。千名以上の聴衆あり。

 十二日 晴れ。午前、香川郡鷺田村〈現在香川県高松市〉妙楽寺にて開会し、午後、高松市高等女学校に出演す。女学校の方は教育部会の主催なり。高松滞在中拙吟、左のごとし。

  可祝楼中聴雨眠、電灯射眼夢難円、海風暗送火輪響、終夜疑身在汽船、

(宿とする可祝楼で雨の音をきいて眠りについたのだが、電灯の光がまぶたを通して、夢さえも途切れがちとなる。海の風が暗やみのなか発電所の輪転の響きを伝え、一晩中、この身は汽船にあるかと思われた。)

 深更に至れば発電所の輪響、枕頭に達す。故にこれを詩中に入るる。高松は蚊の名所なりとて、昼夜ともに蚊に攻めらる。故に「蚊川なる多蚊松町の蚊祝楼、蚊に攻めらるゝも道理なりけり」と戯れたり。

 十三日 晴れ。大川郡志度町〈現在香川県大川郡志度町〉に移りて開会す。会場は慈性院にして、主催は東林寺、真覚寺等、各宗寺院なり。志度晩望の一絶あり。

  志度湾頭泊客楼、晩風醸雨颯如秋、隔烟相対碧波上、山影蒼然小豆洲、

(志度湾のほとりにたつ旅館に泊まる。ひぐれの風は雨をふくんで、さっとばかりに吹いて秋を思わせる。かすみをへだてて、青々とした波に向かってみれば、青く見える山の姿は小豆島なのである。)

 十四日 雨。志度寺に詣して三本松町〈現在香川県大川郡大内町〉に移る。会場は大川中学校にして、主催は蓮生親善、楠正夫、大岡伐等の諸氏とす。校長は川又万氏にして旧知なり。途中、津田琴林を一過す。ときに朝雨濛々たり。

  夜来雷雨未全晴、浦上無風雲尚横、行尽松林深処路、不聞琴韻只潮声、

(昨夜からの雷雨がまだはれあがったわけではなく、浦のほとりには風もなく、雲がなお横ざまに残っている。松林の奥深い道を行きつくせば、琴林の名のような琴の音は聞こえず、ただうしおの音がするばかりであった。)

 宿所は三好屋なりと聞きて、「酒もよし魚もまたよし飯もよし合せて見れば三吉なりけり」と書し、これを楼主に贈る。

 十五日(日曜) 晴れ。田面嶺を越えて長尾村〈現在香川県大川郡長尾町〉に着す。会場は西善寺にして、主催は佐々木浄秀、同浄入二氏なり。

  田面嶺頭樹色蒼、松風払袂夏猶凉、江山欲訪曾遊跡、下嶺尋来長尾郷、

(田面嶺のあたり樹々の色も青々として、袂を払うように吹く松風は、夏なのに涼しさをもたらす。江山にかつて来遊した跡をたずねようと思い、嶺を下って長尾の里をおとずれたのである。)

 長尾は今より十六年前に来遊せし所なり。

 十六日 晴れ。木田郡氷上村〈現在香川県木田郡三木町〉常光寺において開会す。住職生駒浄秀氏は哲学館出身なり。故に「平木村南小径通、梵宮高聳茂林中、有僧浄秀是吾友、言動自存君子風」(平木村の南に小道がとおり、寺院が茂る林の中に高くそびえたっている。僧の生駒浄秀氏はわが友であるが、言葉や動作にはおのずから君子の風格がそなわっている。)の一首を賦してこれに贈る。

 十七日 晴れ。池戸村〈現在香川県木田郡三木町〉西徳寺に移りて開会す。木田郡教育会の発起なり。郡長石塚昇氏は数年前、修身教会と同主義の講話会を郡内に設置せられしという。西徳寺住職は楠正朝氏なり。

 十八日 晴れ。香川郡仏生山町〈現在香川県綾歌郡高松市〉高徳寺に移りて開会す。真宗和順会の発起なり。夜間は円光寺に出演す。町内有志の依頼に応ずるなり。

  野外風光夏已央、秧田如海望茫々、法苗欲植何辺好、尋到仏生山下郷、

(野外の風光はすでに夏もなかばのようすをみせ、苗の植えられた田は海のようにひろびろとしているのが望まれる。仏法の苗を植えようとすればどのあたりがよいのであろうかと思い、仏生山町近辺の村をたずねて来たのである。)

 十九日 晴れ。綾歌郡山田村〈現在香川県綾歌郡綾上町〉本念寺において開会す。住職および村長の主催なり。山路険悪、腕車顛覆せんとすること数次に及ぶ。

 二十日 晴れ。香川郡中笠居村〈現在香川県高松市〉香西常善寺において開会す。真宗寺院六カ寺の発起なり。宿寺の後庭、眺望大いによし。

  香西蘭若対芝巒、堂後海開堪倚欄、碧浪白帆看不尽、一湾風月在軒端、

(香西の寺院は芝巒に向かってたち、堂宇の背後には海がひらけ、欄干によって眺めるのによい。青々とした波に白い帆のある風景は見尽くせないほどであり、この湾の風月はすべてこの軒ばたにあるといえよう。)

 二十一日 晴れ。丸亀市〈現在香川県丸亀市〉中学校において開会す。同市教育部会の主催にかかる。校長兼会長は板垣政一氏なり。この日、暑気最も強し。宿所は善竜寺なり。

 二十二日(日曜) 晴れ。正玄寺にて開会す。各宗同好会の主催なり。三原俊栄氏、長谷任純氏、吉村善吉氏、香川弥兵衛氏等、大いに尽力せらる。

 二十三日 晴れ。同所開会。当夕、茶話会あり。出席者八十名、いずれも市内の紳士なり。丸亀滞在中の所作、左のごとし。

  喇叺声中日欲傾、城頭風死暑如烹、浴余更尽三杯酒、漸覚満襟凉味生、

(喇叭〔ラッパ〕の声の響くうちに日も傾こうとし、丸亀城のあたりは風もなく、煮えるような暑さがある。入浴してから更に幾杯かの酒をくみ、ようやく襟もとに涼しさを覚えたものである。)

 三原善照氏(俊栄氏父)の学徳ともに高きを聞き、「善照上人在、丸亀建法幢、春秋七十二、学徳共無双」(善照上人なる人あり、この丸亀に仏法のはたを建つ。よわい七十二、学徳ともに高く、ならぶものなし。)の四句を書して贈る。哲学館出身河野善次郎氏の満韓旅行を聞き、「学生相伴向他郷、欲訪満洲古戦場、西出馬関君自愛、山雲海霧路茫々」(学生はあいともなってよその土地にむかい、満州の古戦場を訪ねようとする。西のかた下関を出たならば、きみ自愛せよ、山にかかる雲、海をおおう霧、そして道ははるかなのだから。)を賦して送別の辞となす。

 二十四日 晴れ。綾歌郡坂出町〈現在香川県坂出市〉教専寺に移る。住職今里遊玄氏の主催にて開会す。宿寺にありて昼間は蝉吟、夜間は蛙鳴の耳朶に触るるを聞き、「昼は蝉夜は蛙の声までも南無阿弥陀仏の御法なりけり」の句を壁上に題す。

 二十五日 晴れ。同所にて開会し、左の一絶を賦す。

  村臨湾口寺依山、今里先生在此関、満院清風凉味足、蝉声入夢午眠閑、

(村は湾に臨み、寺は山に建つ。今里先生はここに住まわれる。寺院には清らかな風が満ちてすずしさにあふれ、蝉の声が夢のなかに入りこむような午睡ものどかである。)

 二十六日 雨。坂出を発して仲多度郡琴平町〈現在香川県仲多度郡琴平町〉に移る。途上、一作あり。

  夜来炎熱睡難成、簷滴声中天已明、網浦飯山雲尚鎖、鉄車衝雨向琴平、

(昨夜は炎暑のために眠ることもままならず、雨だれの音のするうちに朝を迎えた。網浦、飯野山のあたりはなお雲にとざされて、汽車はこの雨の中をひたすら琴平町に向かっている。)

 午後、同町興泉寺において開会す。各宗連合同好会の主催なり。象郷村光賢寺三谷諦玄氏、大いに尽力せらる。宿所は虎屋なり。晩酌の後、興に乗じて、「弘法の御尻へ象が首を出し亀を捕ふとねらふ琴平」といえる狂歌をうそぶく。

 二十七日 晴れ。朝、琴平神社に登詣す。

  象頭山半気葱々、林末楼台是梵宮、欲賽神前曳笻上、亀城筆海入眸中、

(象頭山のなかばはかすみにおおわれてうるわしく、林のつきるところにある楼台は寺院である。琴平神社に参詣しようと杖をついてのぼれば、丸亀城も筆海も一望のうちに入る。)

 午前中に善通寺町〈現在香川県善通寺市〉に移る。会場は偕行社にして、主催は好友会なり。香川晃月、塩田秀宝、河口秋次等の諸氏、主としてその労をとらる。当夕、多度津町〈現在香川県仲多度郡多度津町〉に至りて開会す。岡田而住、綾興雅両氏の発起なり。翌朝、客楼所見をつづる。

  客游一夕泊津頭、山影涛声共入楼、風定夜来海如席、暁窓坐見往還舟、

(旅遊の客は一夜、みなとに近く宿泊す。山の姿も波の音もともに旅館で見聞できる。風もなく昨夜からの海はたたみのようにおだやかで、あけがたの窓べに身をよせて往来する舟を見たのであった。)

 二十八日 晴れ。再び善通寺町偕行社に至りて開演す。愛国婦人会の発起なり。午後、更に仲多度郡教育会のために講演す。宿坊は善通寺誕生院にして、弘法大師誕生の地なり。

  五岳山根見梵城、塔尖堂角夕陽明、近来此地師団在、経唄声和喇叭声、

(五岳山の麓に寺院が見えて、堂塔の尖端や堂屋の角に夕日が明るくさしている。近ごろこの地には第十一師団が駐屯し、経を読む声と喇叭の音がまじり合って聞こえるのである。)

 二十九日(日曜) 晴れ。早朝、善通寺を発し、丸亀歩兵十二連隊に至り、城内において開演す。連隊長の所望に応ずるなり。これより綾歌郡川西村〈現在香川県丸亀市〉小学校に移る。主催は岩崎近太郎、倉井房義、馬場英徳の三氏にして、休憩所は香川坦太郎氏の宅なり。楽隊、煙火の歓迎あり。夜中、月を踏みて岡田村〈現在香川県綾歌郡綾歌町〉に入り、西覚寺に至りて宿す。同寺は随行青樹了栄氏の住する所なり。

 三十日 晴れ。午後開会。岡田仏教青年会の発起にかかる。楽隊、煙火ありて、すこぶる盛会なり。当日賦するところの一絶あり。

  軽車載月入岡田、野寺人稀夜寂然、晨起捲簾先一望、眉山如笑飯山眠、

(軽快な車は月を頭上にいただいて岡田村に入る。野の寺には詣でる人もまれに、夜はひっそりと静まりかえっている。夜あけに簾を巻いて一望すれば、眉山はほほえむように、飯野山はまだ眠りのなかにあるようだ。)

 三十一日 晴れ。岡田より滝宮〔村〕〈現在香川県綾歌郡綾南町〉に移りて開会す。休憩所は池田覚演氏の寺にして、会場は高等小学校なり。夜中、高松に移る。

  晩発滝宮向讃東、腕車如矢截清風、疎々蛍火凉々月、看到高松夜已中、

(日暮れて滝宮をたって讃東に向かえば、人力車は矢のような速さで清らかな風をきって進む。まばらな蛍の光と涼しげな月の光の中をゆき、高松の市街を見たときにはすでに真夜中であった。)

 八月一日 晴れ。当日より五日間、高松市興正寺別院において、午前午後両度、講習を開く。主催は布教団にして、主幹は橘正道氏なり。橘氏、余に一律を贈らる。余、これに答ふるに七絶をもってす。「正道法師以勇誇、由来意気圧僧家、余観其性文兼質、君是真宗門内花」(正道法師はおそれをしらないことをほこり、もとよりその意気は僧侶たちを圧倒している。私はその性格に外面の美と内面の質朴さとがほどよくそなわっているのをみて、君こそは真宗門内の花と称すべきであると思う。)これなり。

 二日 晴れ。登庁、県知事に面会す。

 三日 晴れ。午後、講習を終わり香川郡太田村〈現在香川県高松市〉に至り、修身教会発会式に出演す。会場は高等小学校にして、休憩所は哲学館出身者太田為茂氏の宅なり。その宅に「羲皇以上亭」の扁額あるを見て、「客裏訪君談笑新、清遊半日養天真、興来更尽三杯酒、身化羲皇以上人」(客として君を訪ね、談笑することも新たに、清らかな遊びは半日にも及び、自然のままにかざることもなくのびやかな思いがした。興に乗じて更に酒杯をかたむけつくし、身は羲皇以上の人となったのである。)の詩を賦す。

 四日 晴れ。午後、講習の後、栗林公園において有志の茶話会あり。会するもの百五十名、みな知名の士なり。余興に音曲あり福引きあり。会終わりて、更に哲学館大学同窓会を開く。出身者および賛成者、三十余名相会す。拙作をもって実況を写す。

  玉藻城中旬日停、同朋相会栗林庭、風光已美心還美、両々照来掬月亭、

(玉藻城に十日間とどまり、ともだち同士が栗林の庭にあいつどう。風光はすでに美しく、心もまた美しく、ふたつながら掬月亭にかがやくのであった。)

 五日(日曜) 晴れ。講習終了。毎日、聴講者四百名余、すこぶる盛会なり。高松開会に関し尽力せられしは橘正道、綾純照、生駒浄秀、楠正朝、河野乗信、堀乗勲、千葉撮正、神谷浄因、藤井正念、脇屋良法等の諸氏にして、そのいちいちを列挙し難し。

 六日 晴れ。大川郡津田町〈現在香川県大川郡津田町〉に移りて開会す。郡教育部会の発起なり。副会長兼郡視学梶原富三郎氏、町長田中稠氏等尽力あり。日暮、琴林砂上において晩餐を供せられ、すこぶる清快を覚ゆ。席上即吟、左のごとし。

  沙頭迎月坐清風、身在波光松影中、畵軸懸前琴瑟後、天成美術勝人工、

(琴林の砂浜に月を迎えて清らかな風の中に座せば、身は波のきらめきと松影の中にあり。画軸が前にかけられ、後ろに琴瑟がかくされてあるように、天然の芸術美は人工の美にまさるものなのだ。)

 その海の形、蟹に似たるをもって蟹浦と名付くというを聞きて、更に左の一首を賦す。

  讃山断処海湾開、風物使人詩思催、蟹浦琴林如活畵、津田真是小蓬莱、

(讃岐の山の切れるところに海湾がひらけ、風物は見る人に詩想をおこさせる。蟹浦と琴林の風景はいきている画のように、この津田の地はまさに神仙が住むという小蓬莱といえよう。)

 七日 晴れ。木田郡古高松村〈現在香川県高松市〉に移りて、郡立修身教会の発会式に出席す。休憩所は富豪揚氏の宅にして、会場は高等小学校なり。勅語捧読、唱歌奏楽等ありて、いたって厳粛かつ盛大なり。会長は石塚昇氏(郡長)、副会長は橘清海氏にして、安永竜瑛氏(地蔵寺住職)および入倉寛正氏(郡視学)等、幹部に当たりて諸事を斡旋せらる。会後、安永、入倉両氏の案内にて屋島山に登る。宿坊は屋島寺なり。潟元村長の案内にて山上を一周す。晩望ことに壮絶なり。屋島雑詠は左に録す。

侵暑遥登屋島頭、海山千里入吟眸、村如碁布嶼如盞、此景由来冠讃州、

(暑熱をおかしてはるかに屋島の上に登れば、海も山も千里のかなたまで吟遊の目にうつる。村々は碁の布石のごとく、島々はさかずきのように見え、この景観はもとより讃州第一なのである。)

松樹擁峯気鬱蒼、清風一夜臥僧房、山禽呼起当年夢、残月影寒古戦場、

(松の樹は峰をおおって青々と茂り、清風の吹く一夜を僧房にやすんだ。やまどりの鳴く声が当時のまぼろしを呼びおこし、残りの月の光が古戦場をさむざむと照らしている。)

屋島峯頭日欲傾、松風洗熱覚神清、文明余沢及山寺、懐古談中聴汽声、

(屋島の峰に日もかたむこうとして、松を吹く風は暑熱を払って、ひときわ清らかさを覚えさせる。文明の恩恵はこの山寺にも及び、昔をなつかしむ談話のなかに汽笛の音が聞こえてくるのだった。)

八月屋山投梵宮、灯陰談古思無窮、暁来驚見庭前雪、疑是身猶在夢中、

(八月の屋島の山で寺院に宿泊し、灯火のもとで昔を語れば思いは果てもなし。夜明けがた庭が雪のように白く作られているのに驚き、この身がなお夢の中にいるかのように思ったものである。)

 軒前に雪庭あり、地白くして雪のごとし。故にこれを詩中に入るる。

 八日 晴れ。香川郡上笠居村〈現在香川県高松市〉に移り、村立修身教会発会式に出席す。宿所は養福寺なり。村長片岡梅吉氏の尽力により教会の設立に及ぶという。

  養福寺中説大乗、満堂聴衆是同朋、快哉勝賀山東地、懸得修身教会灯、

(養福寺において大乗の教法を説く。堂に満ちた聴衆は同朋である。よろこばしいかな、勝賀山より東の地、修身教会の灯をかかげることができたのである。)

 九日 晴れ。綾歌郡山内村〈現在香川県綾歌郡国分寺町・綾南町〉に移る。当所にても修身教会に出演す。楽隊、球灯をもって送迎せらる。会場は万善寺にして、宿所は村長岡内禎二氏の宅なり。清風座に満ちてすこぶる清涼を覚ゆ。

  樹陰繞屋昼森々、欲避炎威此遠尋、浴後銜杯窓下坐、清風一陣価千金、

(樹木が邸宅をめぐって茂り昼なおひっそりとして、炎暑の厳しさを避けようと遠くたずねてきたのである。沐浴して杯を傾けつつ窓べに座せば、すがすがしい風がさっと吹いて、まさに価千金の思いがしたことだった。)

 当村は哲学館出身者松尾幸八郎氏の郷里なり。氏は特に醴酒を醸して余に贈らる。余は「冬もよし夏もまたよし甘酒は四百四病の魔除とぞなる」を記して答謝す。当地開会には氏の尽力あずかりて多きにおる。

 十日 晴れ。三豊郡常盤村〈現在香川県三豊郡観音寺市〉に移りて開会す。西蓮寺および立専寺の発起なり。宿坊西蓮寺の前庭に大株の蘇鉄あり。「常磐精舎在、蘇鉄掩門庭、凰尾三千丈、仏光万古青」(常磐村に寺院があり、前庭の蘇鉄は門も庭もおおいつくすほどである。その鳳凰の尾のような葉はきわめて長く、そして、仏の光は永久に栄えるであろう。)の四句を題す。

 十一日 晴れ。午前、三豊中学校において演述す。郡教育部会の依頼に応ずるなり。午後、観音寺町〈現在香川県観音寺市〉において演説す。各宗寺院の主催なり。宿坊は神恵院にして、丸山法梁氏これに住す。

  蕭寺依山好養心、大悲閣上坐清陰、松林風過声成楽、不是弾琴総法音、

(ひっそりと静かな寺は山をたのんで建ち、精神を養うによい。仏堂に上がって清らかなひかげに座せば、松林を吹き抜ける風は楽の音をなす。それは琴の音とはことなり、すべて読経の声なのである。)

 十二日(日曜) 晴れ。朝、琴弾公園を一周す。風光佳絶と称す。その海浜一帯を有明の浦と呼ぶ。更に一詠す。

  松梢風過似鳴絃、沙際月来夜尚鮮、象鼻巌頭回首立、林泉無処不天然、

(松の梢をわたる風の音は絃をかきならすに似て、波うちぎわの砂に月がのぼれば、夜はより鮮やかさをます。象鼻巌の上に立って見まわせば、林も泉もすべてが天然のままなのだ。)

 午後、豊浜町〈現在香川県三豊郡豊浜町〉に至りて開会す。主催は宗林寺および満願寺なり。その地、伊予の国境に近し。陸路わずかに一里半ありという。

  転法輪来南海頭、和田浜上宿茅楼、讃西風月看将尽、欄外青山是予州、

(仏法の教えを説きつつ南の海べまできて、和田浜のほとりに建つかやぶきの旅舎にとまる。讃西地方の自然の美もいまや見尽くそうとしている。宿のてすりから見える青い山なみは伊予の国なのである。)

 十三日 晴れ。午前、辻村〈現在香川県三豊郡山本町〉小松尾山大興寺に移る。開会主催は住職小山智瑞氏にして、もと哲学館出身たり。聴衆、堂にあふる。

  遥聴鐘声未認村、掃来草露到山門、僧堂深処清風足、洗得残炎与俗煩、

(はるかに聞こえる鐘の音は村からであったのかどうか、草や露を掃ききよめた山門に至る。僧堂の奥深いところにはすがすがしい風がみち足り、残暑の炎熱と世俗のわずらわしさを洗い流すことができたのだった。)

 午後、雷雨にわかに至る。大雨をおかして車行七里、詫間村〈現在香川県三豊郡詫間町〉に移る。夜すでに九時を報ず。高等小学校において開会す。村長白井愈氏および県会議員安藤氏の主催なり。

 十四日 晴れ。詫間村は粟島と相対し、風光に富む。その景は香港に似たるところあり。

  侵雨軽車入詫間、四辺風色絶人寰、残雲漸散夜将半、粟島山頭月半環、

(雨の中を軽快な車は詫間村に入った。あたりの風景のよさはこの世のものとも思われぬ。残りの雲がようやく散り果てて、ときも真夜中になろうとし、はるかに見える粟島の山上には半円の月がかかっている。)

 午後、坂出町にて開演す。愛国婦人会の依頼に応ずるなり。綾歌郡長稲葉修敬氏主催たり。

 十五日 晴れ。郡書記真鍋次郎吉氏とともに高松埠頭に至り、汽船を待つ。片岡県庁事務官、吉村税務監督局事務官、三原俊栄氏、神谷浄因氏、特にきたりて送行せらる。午前十時、乗船。十二時、小豆郡土庄町〈現在香川県小豆郡土庄町〉に着し、午後開会す。教育会の主催なり。会長大森貞資氏、郡視学渡辺審氏、前郡長森遷氏等尽力あり。宗教家にては宝生院、西光寺等の訪問あり。

 十六日 晴れ、ときどき雨を交ゆ。草壁村〈現在香川県小豆郡内海町〉に至りて開会す。村は寒霞渓の下にあり。会前に渡辺郡視学の案内にて渓上を遊覧す。雑吟数首を得たり。

渓雲含雨暑如烝、麦酒三杯鼓勇登、四望峰頭時一瞰、十余奇勝喚将応、

(寒霞渓の谷間の雲は雨をふくんで蒸すような暑熱をなし、ビールを幾杯かのみほし勇気をふるいおこして登る。頂上から四方をみれば峰々の頂きを見おろすことになり、十余の奇岩景勝は呼べばこたえそうにさえ思われた。)

攀来絶壁路将窮、幾曲畵屏横半空、神洞鬼門奇又快、寒霞渓是梵天宮、

(絶壁の道をよじのぼってきわまりに至ろうとする。幾曲かの屏風絵をなか空に横ざまにおいたようだ。神洞、鬼門は奇妙にしてこころよく、寒霞渓はまさに仏の住む世界なのである。)

霞渓一路入仙源、遠近奇観共奪魂、耶馬不如斯活畵、望中汽舶吐煙奔、

(寒霞渓の道をたどって仙人が住むような所に入る。遠近のすばらしいながめに全く魂を奪われる。耶馬渓もこの生きた画には及ばぬ。一望のうちに汽船が煙を吐いてはしるのが見える。)

 また、小豆郡内いたるところ、海湾曲折、風光絶美なり。故にまた一詩あり。

  水緯山経一路縫、林巒無処不青松、湾頭風物渾如畵、何只寒霞渓上峰、

(水緯山をぬうような一本の道、林も山もすべてに青々とした松がある。湾のあたりの風物はすべて画のようで、どうして寒霞渓の峰だけが画のようだといえようか。)

 十七日 晴れ。午前、余島に渡り、大森氏の別荘に少憩す。席上「山立碧波中、松陰営小宮、庭前桃樹満、自有武陵風」(山は青々とした波のなかにたち、松かげに別荘がある。庭は桃の木で満たされ、おのずから武陵桃源郷のおもむきがある。)の小詩を賦す。

 正午十二時、乗船。午後三時、岡山に着す。讃州滞在は三十七日間にして、開会は二市七郡にわたり、三十五カ所の多きに及べり。いたるところ歓迎に接し、優待をかたじけのうし、これに加うるに聴衆満堂、他府県にいまだかつて見ざる盛会を得たるは、主催者の用意周到なると、有志者の篤志熱心なるとによれるは明らかなり。その芳名は多数の中にてことごとく記憶せざれば、ここに拙作一首を賦して謝詞に代う。

  自入讃州垂四旬、江風山月養吾神、良縁已尽今将去、多謝二城七郡人、

(讃州に入ってから四十日になろうとし、江風山月のすべてが私の精神をゆたかにしてくれた。良いえにしにもいったんは別れを告げて、いまや去ろうとする、厚くお礼を申し上げる、二城七郡の人々に。)

 最初香川県巡回に関し、三原俊栄氏、脇屋大潤氏等に各所紹介の件を依頼せしに、東西両所に事務所を設けられ、東讃事務所にては神谷浄因氏、河野浄信氏、藤井正念氏、脇屋良法氏等その事に当たられ、西讃事務所にては香川晃月氏、塩田秀宝氏その衝に当たられ、大いに便宜を与えられたるは、特に謝するところなり。岡山駅にて青樹了栄氏と袂を分かつ。氏は約四十日間、随行の労をとられ、諸事につき細密の注意を与えられたるも、これまた深謝するところなり。ここに詩をつづりて氏に贈る。すなわち「曾聞西讃博才名、敢使此君随我行、到処快談驚聴衆、又通世態与人情」(君は以前より西讃の地にひろく才能ありと伝えられる。しいてこれほどの君を私に随行させた。君はいたるところでこころよく談じては聴衆を驚かせ、また、世の様子と人情にも通じている人なのだ。)の七絶これなり。十八日午後五時、長崎に安着す。

 香川県は地味、気候ともに佳良なれば、物産比較的に多く、人口また稠密に過ぐ。したがって労力の価高からず、一般の複産業としては麦わらサナダ織あり。宗教は真宗と真言宗最も多く、仏教の勢力盛んなり。また、宗教家と教育家とおのずから接近する傾向あり。民家の富裕なるものは居宅、庭園を美にする風あるも、夜具、蒲団は粗なるもの多し。郡部に入りては旅館の佳なるものなきは、旅行者の不便を感ずるところなり。風景にいたりては大いに誇るべきものあり。余は屋島の勝をもって第一にかぞえんとす。そのつぎは琴平、そのつぎは観音寺、そのつぎは詫間、そのつぎは津田ならんか。奇勝においては寒霞渓あり、庭園としては栗林あり、ともに天下の名勝とするに足る。香川県の紀行を結ぶに当たりて、所見の一端を録することかくのごとし。

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長崎県紀行

 明治三十九年八月十八日。午後四時、長崎〈現在長崎県長崎市〉着。有志数十名出でて迎うるあり。宿所は西川楼なり。哲学館出身者谷口閴電、菊池適両氏に相会す。菊池氏は長崎県下の随行を約す。

 八月十九日より二十五日まで一週間、仏教哲学および妖怪総論の講義をなす。長崎市内仏教青年会の依頼に応ずるなり。会場は研屋町女児小学校なり。夜間は光永寺において公開演説をなす。住職は正木新氏なり。講習中、連日炎晴、暑気耐え難し。

 二十五日 晴れ。夜中、稲佐悟真寺において開会す。長崎所感は七言四句をもって写し出だせり。

海入鎮西山尽辺、一湾三面市街連、崎陽胎内驚神仏、産出維新明治天、

(海の鎮西に入りこんで山の端の尽きる所、一湾の三面に街並みが連なる。長崎一帯は寺社が破毀されて神仏を驚かせる歴史もあったが、維新が生み出され明治の世となったのである。)

四面皆山気欝葱、一隅海入万船通、客楼高処回頭立、身在天然㡧畵中、

(四面はみな山で草木は青々と茂り、片すみに海が入りこんで多くの船が航行している。旅館の高みに上って見まわせば、身は自然のパノラマの中にあるようだ。)

客舎深更夢未成、汽声喚起古今情、崎陽一線文明火、焼尽徳川三百城、

(旅館で夜も更けたがまだ眠らずにいると、汽笛の音が古今の思いを呼び起こす。長崎にひとすじの文明の火がともり、やがては徳川三百城を焼き尽くすがごとく維新を迎えたのだ。)

 二十六日(日曜) 晴れ。長崎客舎を発し、日見嶺をこえ、矢上村〈現在長崎県長崎市〉に至る。村は西彼杵郡に属す。会場は教宗寺にして、主催者は住職小岱迦城氏、その他村内有志松山謙亮(正覚寺)、牟田千万人、藤本泉、林田勇夫、高柳猛虎等の諸氏なり。途上、一作あり。

  日見峯頭駆腕車、三十六曲路如蛇、不知矢上村何処、尋到清風明月家、

(日見峰に人力車を駆れば、道は曲りくねってあたかも蛇のようである。いったい矢上村はどこなのかもわからず、たずね至ればそこは清風明月の家であった。)

 二十七日 晴れ。同所滞在。晩に海浜に遊び、入浴を試む。その光景を模写すること左のごとし。

  矢上湾頭欲暮時、穏波清影海如池、浴余一望皆呼快、想起頼翁天草詩、

(矢上湾のあたり日暮れようとするとき、穏やかな波も清らかに、海は池のようである。風呂上がりに一望して一同ここちよさをいう。ここに頼山陽の天草洋に泊すの詩を思い起こしたものである。)

 二十八日 晴れ。矢上村内に観音の瀑布あるを聞き、腕車に駕してこれに遊ぶ。幽邃清泠、最も消夏に適す。その一斑は左の一首をもって描出す。

  樵路一条登又下、仙源深処尋僧舎、老樟横地自成門、飛瀑生風好消夏、

(きこり道がひと筋登ったり下ったり、仙人が住むような奥深い所に僧舎をたずねる。老樟が地に横ざまにかかって自然の門をつくり、飛瀑は風を生じて夏の暑熱を消すによい。)

 長崎市有馬憲文氏は詩文をよくし、鎮西詞宗の一人なり。余に五律一首を贈りきたる。すなわち「空谷跫音響、先生過我廬、蝉蛙皆粛矣、松竹亦欣如、古道今懸鏡、九重曾献書、新涼瓊浦夕、忽覚病心除、」(人のあまり訪れることのないさびしい谷に思いもよらぬ足音が響いた。うれしいことに先生がわが家を訪ねられたのだ。ために蝉も蛙も声をつつしみ、松や竹もまたよろこぶかのようである。古道をもって今や規範をかかげ、朝廷にもかつて書を献上した。いま初秋のすずしさが美しい岸辺の夕べにただよい、たちまちに病心の払われる思いがする。)の八句なり。氏はもと哲学館出身の一人たるの縁故をもって、県下巡回中、諸事につきて非常の厚意と尽力とをかたじけのうせり。近ごろ久しく臥床にあり。故にこれに答うるに、左の一首をもってす。

  曾得維摩病、帰来臥旧廬、池蛙伝念仏、庭樹現真如、酌月三杯酒、読風百巻書、訪君時対坐、自覚宿憂除、

(かつて維摩〔在家信者〕の病んで、旧居に帰って病床にふしている。池の蛙は念仏を伝え、庭の樹は真如を現す。月を友に酒杯を重ね、百巻の書を読む。君を訪ねて対座したとき、つもる憂いの除かれるのを覚えたのだった。)

 二十九日 晴れ。諌早町〈現在長崎県諌早市〉に移りて講演をなす。北高来郡教育会の発起にかかる。会長は富永正喬氏(郡長)、副会長は古賀篤介氏、理事は殿川哲夫氏(郡視学)なり。当夕、長崎に帰宿す。宿坊は正覚寺なり。同寺は有馬氏所住の寺にして、その山内に修身教会臨時事務所を置く。

 三十日 晴れ。午後、長崎市の学士会の寵招を得て、内外倶楽部の晩餐会に出席す。発起者は荒川義太郎(知事)、西川鉄二郎(控訴院長)、隈本有尚、畠山重明、石橋友吉、平塚広義等の諸氏なり。

 三十一日 晴れ。汽車にて佐世保市〈現在長崎県佐世保市〉に移る。会場および宿所は教法寺なり。住職は和田耕月氏にして、旧知たり。

 九月一日 雨。佐世保滞在。詩を作りて風光を写す。

西游旬日客肥州、看尽崎陽風物幽、欲耕教法寺中月、尋来佐世浦頭秋、

(西のかた肥前に十日ほど遊客となり、長崎の風物をおく深い所まで見尽くした。教法寺中に耕さんとする月〔和田耕月氏〕、佐世保の浦に秋をたずねる。)

肥山断処海湾開、繞水峰巒是砲台、一抹黒煙雲外起、漸知峨艦蹴波来、

(肥前の山の切れる所に湾が開け、水をめぐらす峰々は砲台である。一抹の黒煙がはるか雲のかなたにたちのぼったが、やがて大艦が波を蹴たてて来た。)

佐世浦頭投梵城、比隣大厦総兵営、朝昏独在僧堂坐、念仏声和喇叭声、

(佐世保の浦に近い寺院に宿泊す。軒を並べる大きな建物はすべて兵営である。朝夕にひとり僧堂に座せば、念仏の声と喇叭〔ラッパ〕の音が和すのである。)

 二日(日曜) 雨。教法寺滞在。山本祖学氏(哲学館出身)の贈詩に対し、次韻せるもの左のごとし。

  天外単衣客、秋来覚暁泠、離家遠敷道、脱俗却労形、風月為真友、色心是聖経、焚香時静坐、自得六根馨、

(はるか遠く単衣の客となり、秋がきて暁の冷えを知る。家を離るること遠く講説教導をなし、世俗より脱してかえって肉体を労することとなる。風月を真の友となし、有形〔物質〕と無形〔精神〕とは聖人の書にあり。香をたいて時に静かに座し、おのずから六根の馨香を得るのである。)

 三日 晴れ。午前、文芸倶楽部の依頼に応じて演説す。当夕は陰暦七月十五日に当たり、天晴れ月満ち、夜景洗うがごとく、清光座に入る。ときに笛を聴き、杯を傾け、観月の小宴を擬す。即吟一首を得たり。

  軒端迎月坐清風、麦酒三杯興不空、一曲笛声入神処、此身疑是在仙宮、

(軒端に月を迎えて清風に座し、ビールを傾けて興は尽きない。一曲の笛の音は心にしみて、この身は仙人の住む宮殿にあるかのようである。)

 四日 晴れ。汽車にて伊万里に至り、これより和船にて福島〔村〕〈現在長崎県北松浦郡福島町〉に移る。北松浦郡内の一孤島なり。宿坊は尊光寺にして、開会は住職岩本至暁氏、村長福井清平氏等の発起とす。

 五日 雨。福島滞在。夜に入りて天ようやく晴れ、明月輝を流し、羽化登仙の趣あり。

  峰巒繞海々如湖、満目風光与世殊、孤島今宵会明月、賞来不復憶東都、

(峰々の連なる所に海がめぐり、海は湖のごとく静かに、見渡すかぎりの風光はこの世とも思われない。孤島〔福島〕の今宵は明月に会い、たのしみ尽くして更に東都〔東京〕をおもうこともなかった。)

 また、福島の生産業につきて、「海に釣り山に耕し地にほりて民のかまどは福々の島」と題す。

 六日 雨。午後、同島福寿寺に移りて開会す。住職井手覚乗氏は哲学館出身なり。寺は海に面して以呂波嶼と相対す。青巒四十七個ありて波上に浮かぶ。小松島の観あり。

  西肥到処景最宜、伊呂波洲奇更奇、大小青巒四十七、看疑玉盞泛盆池、

(西肥前の地はいたるところ景勝にめぐまれてすこぶるよい。伊呂波のなぎさはまことにすぐれている。波上に浮かぶ大小の青いみねは四十七、玉のさかずきを盆池にうかべるになぞらえてみる。)

 この日、炭坑主市村正太郎氏宅に一休す。

 七日 晴れ。汽船に駕して志佐村〈現在長崎県松浦市〉に移る。宿所は旅館にして、会場は円成寺なり。住職大内慶浄氏、村長福永富三郎氏の発起にかかる。村は不老山痕にあり。よって一詠す。

  驟雨朝来洗暑痕、満天秋色動吟魂、今宵迎月知何処、不老山根志佐村、

(にわか雨が朝にあったので残暑を洗い流して、すべてが秋の気配となって詩心をかきたてる。今宵の月を迎える所はいずれか、それは不老山のふもと志佐村なのである。)

 八日 晴れ。志佐滞在。小学児童のために演述す。

 九日(日曜) 雨。嶺をこえて世知原村〈現在長崎県北松浦郡世知原町〉に移る。会場は洞禅寺なり。住職西田隆芳氏の発起にして、中倉万次郎氏(代議士)、久田玄三郎氏等これを助く。

 十日 晴れ。世知原より佐々村〈現在長崎県北松浦郡佐々町〉に移る。この間、石炭輸送のために鉄道を架す。会社の好意により、炭車に便乗するを得たり。佐々の会場は東光寺なり。住職は徳光松隆氏にして、詩書をよくす。雅名を松柳という。よって左の二首を賦してこれに贈る。

炭車衝雨叩禅廬、満榻清風与世疎、又有老僧能脱俗、松辺柳下楽詩書、

(炭車に乗り雨中に禅寺を訪ねると、寺内すべてに清風がゆきわたり俗世とは隔たる。また老僧は脱俗の人であり、松のかたわら柳の下で詩書を楽しんでいる。)

武陵渓上路、衝雨叩禅廬、松色無非妙、柳光悉是如、洗心般若水、養性楞伽書、坐臥吾忘我、百憂忽自除、

(武陵谷川の道を、雨中に禅寺を訪う。松の色はまさに絶妙、柳に映える光もすべてかくのごとし。心を般若水で洗い、性を楞伽書で養い、坐臥してわが身を忘れ、凡百の憂いはたちまちおのずから除かれるのだ。)

 村長久家竹一郎氏、小学校長某氏等、住職を助けて尽力せらる。

 十一日 晴れ。山口村〈現在長崎県佐世保市〉字相ノ浦に移る。宿所は旅館なり。洪徳寺住職山本祖学氏(哲学館出身)、金照寺住職小西雲心氏の主催にて開会す。会場は洪徳寺なり。当寺の風致につきて、左のごとき詩を賦す。

  面海不見海、踞山不知山、法師名祖学、占此無門関、

(海にむかいて海をみず、山によって山を知らず、かくのごとき法師の名は祖学、この無門関をまもる。)

 また、山本氏の贈詩に対して次韻せるもの一首あり。

  閑遊為医病、風月養吟情、去就唯随意、舟車不定程、似農憎宿雨、如鳥喜新晴、山紫水明処、身心自覚清

(閑遊して病をいやし、風月は詩心をやしなう。ゆくも止まるもただ意のままに、舟も車も行程をはからず。農夫の身になって前日から降り続く雨を憎み、鳥のようにあらたに晴れたのを喜ぶ。山紫水明のところ、心身もおのずからすがすがしくなるを知る。)

 十二日 晴れ。午前、恵比須島に遊ぶ。島上に小旅館あり。四面の風光、あたかも能州の九十九湾に類す。ここより平戸に至るの間に九十九島ありという。鎮西松島の称あり。

  蛭児島上客亭孤、九十九洲風光殊、我若他年得閑散、再来此地養残躯、

(蛭児島上に旅館がぽつりとたち、九十九島の風光はとりわけよい。われもしいつの年か閑を得れば、再びこの地にきたって残りの身を養いたいものだ。)

 午後、金照寺において開会す。楼名を山影水声楼という。山は飯盛山にして、河は白河なり。

山影入秋近、水声経雨高、白河兼飯盛、朝夕作吟曹、

(山かげに入れば秋はいよいよ近く、水声は雨後のために高く響く。白河と飯盛とは、朝夕に詩の友となる。)

楼頭風光似仙源、最好朝昏養六根、山影映窓迎畵意、水声入夢動詩魂、

(宿舎のあたりの風光は仙人の住む所かと思われ、最も朝夕に六根を養うによい。山影が窓に映れば画心をかきたてられ、水声が夢に入れば詩魂がゆりうごかされる。)

 十三日 晴れ。山本祖学氏とともに相ノ浦を去り、佐世保を経て東彼杵郡大村〈現在長崎県大村市〉に至る。開会は教育会の主催にして、郡長田辺民次郎氏、玖島学館長米沢武平氏、郡視学岩田徳純氏、郡書記山口淳一氏等尽力あり。当地には哲学館出身者久保源一氏、岩永熊平氏、長野千波氏これに住す。長野氏は不幸にして不帰の客となられしを聞き、詩を賦して追悼の意を述ぶ。

  君去今何在、我来転悵然、雲煙如有恨、漠々鎖山川、

(君は去っていまいずこにいるのだろう、私はここに来ていよいようらみなげいている。雲と煙は恨みの情あるもののごとく、遠くはるかに連なって山川をとざしかくすのである。)

 当夕、諌早を経て南高来郡愛野村〈現在長崎県南高来郡愛野町〉に至る。ときすでに九時を報ず。宿寺は光西寺にして、住職内藤義円氏は哲学館出身なり。

 十四日 晴れ。同所開会。主催は内藤氏にして、村長酒井湛氏の助力あり。当地は遠く妙見山の高嶺を望み、近くめぐらすに林丘をもってす。よって一詠す。

  野寺蕭踈好慰労、隔田三面対林皐、雨余山影入窓近、妙見懸天秋色高、

(野の寺は木の葉も落ちてさびしげであるが、疲労をいたわるにはよい。田を隔てて三面は林丘となっている。雨の名残り山影が窓辺に近く見え、妙見山の峰は天にかかって秋色の空はいよいよ高い。)

 当夕、長崎に帰り、有馬氏の邸宅に入る。氏、余を迎うるの詩あり。余、その韻をつぎて答謝をなす。有馬氏の雅号は鶴南または愚香という。

欲医客中苦、重到鶴南廬、酒量君相似、詩才我不如、披襟談且笑、乗酔賦而書、時対萩花坐、秋光滴石除、

(旅中の疲れをいやさんとしてふたたび鶴南宅に至った。飲酒の量はほぼ同じくらいだが、詩の才能においては私の及ぶところではない。心をひらいて談じかつ笑い、酔いにまかせて詩を賦したり書いたりする。ときに萩花にむかって座せば、秋の光は庭石にしたたり差してきよめるのである。)

崎陽縁不浅、三訪哲人廬、殽酒渾佳絶、起居共晏如、風清堪洗俗、昼静好窺書、唯恨中秋節、朝昏蚊未除、

(長崎との縁は浅からず、三たび哲人〔有馬氏〕の居宅を訪う。さかなも酒もすべてはなはだよく、起居ともに安らぎがある。風清く世俗の汚れを洗い落とすによく、昼は静かに書を読むによい。ただ残念なのは中秋の季節にもなるのに、朝夕にまだ蚊がいることだ。)

 十五日 晴れ。汽船に駕して西彼杵郡瀬戸村〈現在長崎県西彼杵郡大瀬戸町〉に移る。会場は光明寺なり。主催は住職武宮智学氏および村長今道伝氏なり。途上の一作、左のごとし。

  卜晴辞玉浦、半日在船廬、水意詩難及、山光畵不如、望郷千里客、寄友一封書、秋浅海村夕、晩来暑未除、

(晴れを卜して玉浦より出航し、半日ほどは船室にいる。水のこころは詩に表しがたく、山の輝きは画には描けぬ。郷里を思いつつ千里も離れた地に客となり、そこで友に手紙を書く。秋まだ浅い海辺の村の夕べ、闇がせまるころあいにも暑熱はおさまらない、と。)

 十六日(日曜) 雨。同所滞在。武宮氏はもと京北中学の出身たり。

 十七日 晴れ。長崎へ帰航、有馬氏の邸に入る。氏は詩数首を賦して余に示さる。みな同韻なり。余また、いちいちこれに次韻を試む。

 十八日 晴れ。午前、県庁に至りて荒川知事および平塚事務官に面会す。午後、医学専門校に至り、学生同志会の依頼に応じて演説す。有馬氏の開基道知上人の伝を読みて一律を賦す。これまた、同氏の韻をつぐものなり。

  奉仏防邪道、染衣結梵廬、功労敵天海、教化亜蓮如、大守曾帰徳、将軍又賜書、上人円寂後、三百歳将除、

(み仏を奉じて邪道を防ぎ、墨染めの衣をつけて梵宇を建つ。功労は天海僧上に匹敵し、教化は蓮如上人に次ぐ。太守はかつてその徳に帰依し、徳川将軍からもまた書を賜った。上人が入寂してから、三百年にしていまや叙せられようとしている。)

 十九日 晴れ。茂木より汽船に駕して、南高来郡島原町に移る。途上の所見、左のごとし。

  腕車辞小島、茂木駕輪船、経雨山逾浄、入秋景更鮮、雲仙張翼立、天草擁衾眠、望裏日将暮、有明浦上煙、

(人力車で小島に別れ、茂木港より火輪船に乗る。雨後の山はいよいよすがすがしく、秋になった景色はさらにあざやかである。雲仙岳は翼をひろげるように立ち、天草は寝姿をまもるかのようで、はるかに見るうちに日も暮れようとし、有明の浦に炊煙がのぼるのである。)

 雲仙とは肥前第一の高峰温泉ケ岳をいう。同日午後五時、南高来郡島原町〈現在長崎県島原市〉に着す。宿所、翠楊楼なり。当所は湾内の風景最も秀美にして、小嶼並列し、その間に大小の船舶滞泊す。水清く山みどりに、前に有明の浦あり、後ろに温泉ケ岳あり。岳の前に起立せるものを前山または眉山と名付く。この山、今より二百年前噴火崩壊して、海中に数個の小島を出現するに至れりという。その島の数、昔時は九十九ありとて九十九島と名付けしも、今は海潮のために次第に奪い去られ、わずかに二、三十島あるのみ。昔時の震災に人命をおとせしもの、二万八千人の多きに及べりとぞ、恐るべきことなり。前山に対して温泉ケ岳を奥山と称す。今なお噴火す。雲仙はその雅名なり。

  転法輪来入島原、眉山迎我笑将言、連宵唯恨有明浦、鬼火潜形海色昏、

(み仏の正法で邪をくじくがごとくして島原に来た。眉山はわれを迎えてほほえみ、もの言わんとするようである。夜ごとただ残念なのはこの有明の浦に、不知火が影をひそめてくらい海があるばかりということだ。)

 天草洋と有明浦とは古来、不知火の怪あるをもってその名を知らる。かつて聞く、肥前肥後の肥は火の国より転化せりと。余、一夕、二時に客舎を出でて、海浜に至り天明まで待ちしも、ついに不知火を見ることを得ざりしは遺憾なり。そのときの詩は左のごとし。

天草海中現鬼灯、忽飛忽聚火成陵、其光可見理難解、人以不知為此称、

(天草の海には鬼灯が現れるという。それはたちまちにして飛ぶかと思えばあつまって盛り上がり、その光は見ることはできても、いかなる理によるかわからない。そこで人は不知をもって「しらぬい」と名付けたのである。)

波間有怪鎮西陲、天下相伝名不知、日月星辰皆火塊、微光如此豈言奇、

(鎮西のあたりの波間に怪しいものがある。世間はこれを伝えて「しらぬい」という。日月星辰もみな火の塊であるが、このようなかすかな火も不思議といえよう。)

一夕秋風泊海城、曾聞波上有灯明、深更歩到沙頭立、不接火光唯水声、

(秋風のたつある夕べ海のほとりの旅舎に泊まり、かつて波上に灯明があると聞いたので、深夜に浜辺の砂に立って待ったのだが、ついに光を見ず、ただ波の音を聞くのみだった。)

 島原開会は郡役所、役場、寺院、学校等、諸有志の発起にかかり、二十日、二十一日両日ともすこぶる盛会なり。郡長田中岩三郎氏、郡書記寺田維定氏、同田中英秋氏、中学校長橋本唯三郎氏、安養寺住職菊池寛容氏等、もっぱら尽力あり。

 二十日 晴れ。午前、中学校において講話をなし、午後、安養寺において演説をなす。

 二十一日 晴れ。午後、安養寺開会。当地はいたるところ清泉湧出し、水の清霊なるは県下第一とす。よって余は、自己流の言文一致的句調をもって、「水清く山あざやかに人情もいと煖き島原の里」と書して発起人に贈る。

 二十二日 晴れ。島原港町より汽船に乗じ、堂崎村〈現在長崎県南高来郡有家町〉に移る。宿所は称名寺なり。天草洋を眼下に見、肥後山を面前に望み、堂内、庭前ともに風光明媚なるは他に多く見ざるところなり。即時、詩編をもってその一端を写す。

蕭寺高臨天草湾、一軒風月絶塵寰、看疑身対盆池坐、当面翠屏肥後山、

(こざっぱりとした寺院は高所にあって天草湾に臨み、軒先に見る風月は濁世を絶つもの。疑うらくはこの身は盆池に対して座っているかのようで、正面にたちふさがるみどりは肥後の山々である。)

邱上蓮宮聳、軒前秀気鍾、風帆秋片々、雲嶂暁重々、天草竜燃燭、温泉鬼挙烽、客居纔半日、滌得十年胸、

(丘の上に浄土宗の寺院がそびえ建ち、軒より前にすぐれた気を放つつり鐘がある。風をはらんだ帆は秋の気配の中でひるがえり、雲のかかる峰々は暁に重なり、天草に竜は燭をともし、温泉に鬼は湯煙をあぐ。客として滞在したのはわずか半日であったが、十年来胸によどんでいたものを洗い流すことができたのである。)

 午後開会。発起者は堂崎、布津両村の有志者にして、称名寺住職鷺村竜洲、堂崎村長中野豊次郎、布津村長山崎孫一郎等の諸氏、大いに尽力あり。当所は肥後三角港と相対す。海路わずかに三、四里あるのみ。

 二十三日(日曜) 晴れ。堂崎開会。会場称名寺の本堂は和洋折衷の建築なり。

 二十四日(秋季皇霊祭) 晴れ。堂崎より有家に移る。有家は東西に分かる。宿坊は東有家村〈現在長崎県南高来郡有家町〉専念寺なり。当山は郡内第一の大寺と称す。住職伊沢道暉氏は慶応義塾の教官にして不在なり。前住職伊沢道一氏に面会す。余、当寺の庭内に蘇鉄と蛇盆〔ザボン〕の大なるものあるを見て、一律を賦す。

  法苗欲植有家衢、専念寺中談仏儒、風満軒端凉味足、山遥堂角夕陽孤、半庭蘇鉄鳳翹尾、一樹蛇盆竜吐珠、

  我愛地幽人亦好、停留両日養吟躯、

(仏教の苗を有馬のみちに根づかせようとし、この専念寺のなかで仏教と儒教とを語り合っている。風は軒端に吹いて涼味をえ、山ははるかに堂角に夕日が孤独にかかる。庭の半ばは蘇鉄が鳳の尾をあげたようにおおい、一本のザボンは竜が玉を吐いたように実をつけている。私はこの地の静かさと人風のよさを愛し、滞留すること二日、吟詠の身を養ったのである。)

 伊沢氏この韻を次ぎて二回高作を示さる。午後開会す。東有家村長小国勝三郎氏、西有家村長酒井市五郎氏等の主催なり。

 二十五日 晴れ。有家開会、前日のごとし。夕刻、南有馬村〈現在長崎県南高来郡南有馬町〉に移り、常光寺において開会す。北有馬村長八木文治氏、南有馬村長北村総族氏の発起なり。着後、一作を試む。

  一路秋風有馬郷、夕陽影裏稲田黄、疎鐘動処常光寺、老弱如雲来満堂、

(一路秋風の中を有馬郷に行く。夕日の中に稲田は黄金色である。間をおいて響く鐘の音は常光寺であり、老弱となく雲のごとく集まって本堂は埋まる。)

 常光寺住職は園城鶴朝氏なり。

 二十六日 晴れ。午後、北村氏とともに有馬より口之津村〈現在長崎県南高来郡口之津町〉に移る。本郡は島原半島と称し、中央に温泉岳あり。周辺に海をめぐらし、海岸にそいて村落あり。一条の車道これを貫通し、その平らなること、といしのごとし。これに加うるに、山海の風光いたるところ明媚を極め、車上実に壮快を覚ゆ。ことに収穫の時節に当たり、満野の黄稲を見るもまた一興なり。車中の所見、左のごとし。

  秋晴今日気如春、駅路迢々向口津、車上看来農事急、風光又悩我吟身、

(秋晴れの今日、陽気は春のようで、駅への道をはるばると口之津に向かう。車上よりみるに、いまや農事多忙で、風光もまたわが吟詠の身を悩ませるほど美しい。)

 口之津は旅館に宿泊し、夜中、劇場において開会す。

 二十七日 晴れ。三井物産会社取締松尾長太郎氏の招待を得て、午餐の饗応を受く。夜中、劇場において開会す。発起は当地講話会にして、村長田口鷹吉氏、小学校長、玉峯寺、正妙寺、静雲寺等の周旋にかかる。当地は石炭の貯蔵所にして、その湾あたかも口のごとし。よって余は詩をもってその状をえがく。

  原島尽辺投客楼、両肥風月触吟眸、海湾深入津如口、一喝欲呑天草洲、

(島原の尽きるところ、客舎に身を寄す。肥前、肥後の風月は吟詠の目を触発する。海湾は深く切れこんでみなとは口をあけたようであり、一喝して天草州をのまんとするがごときである。)

 二十八日 晴れ。加津佐村〈現在長崎県南高来郡加津佐町〉に至りて開会す。会場は蓮正寺なり。村長天本吉太郎氏等の主催にかかる。村名を「かづさ」と聞きて上総を思い出し、「かづさにて海を望めば向ひなる岡は武蔵の山かとぞ思ふ」とうそぶく。対面の岡は茂木港一帯の連山にして、頼山陽翁が「雲耶山耶」の詩を詠ぜし所なりとす。その間の海を千々石灘といい、当地の背後に聳立せる山を愛宕山という。よって、

  法雨澍来肥海辺、千々浦上又談玄、釣舟帰処日将暮、愛宕山頭月一弦、

(法雨うるおす肥後の海辺、千々の浦に道理を談ず。釣り舟の帰るころ日も暮れようとし、愛宕山に弓張月がかかっている。)

 このとき、月まさに弦影をなして暮天にかかる。

 二十九日 晴れ。加津佐より口之津に帰りて乗船、茂木に帰航す。船中にて、島原半島の風月を詩中に入れて一作を試む。

  病後欲探山水幽、鎮西尽処久停留、風清肥海千々石、月朗原城九々洲、雲影横天泉岳暁、帆光映浪草洋秋、

  南船北馬君休笑、洗得胸中万斛愁、

(つかれいえて山水の奥深きをたずねんと思い、鎮西の地の尽きる所に久しくとどまらんとす。風清き肥後の海千々石〔ちぢわ〕、月あきらかな原城九十九島、雲は天に横ざまにかかる泉岳のよあけ、帆は浪に映ずる天草洋の秋、南船北馬を君笑うをやめよ。ここに、胸中にたまるもろもろの愁いを洗い落とすことができたのだから。)

 茂木港より腕車を駆り、午後四時、長崎正覚寺に入る。当夜、庭前の月に対して吟賞す。

  孤客天涯無定宿、投来香樹山辺屋、崎陽今夜月如銀、秋満湾々三十六、

(ひとり旅の者に空の果てまで定まった宿があるわけではなく、香樹山のふもとにある宿に入る。長崎の今夜の月は銀色に輝き、三十六のいりえには秋が満ちみちている。)

 長崎には三十六湾ありという。また、五律を賦して正覚寺山主に贈る。

  崎陽君子宅、背海面山渓、人静書宜読、庭幽鶴欲栖、虫声秋断続、松影月高低、我愛此閑雅、屡来解客携、

(長崎の才徳ある人の宅は、海を背にし山渓に向かってたっている。人の静寂の中で書し読むにはまことによく、庭の奥深い所は鶴がすみかにえらぶかと思われるほどである。秋の虫の声がとぎれとぎれに聞こえ、松影は月に従って高くも低くもなる。私はこの閑雅なたたずまいを愛して、しばしば訪れては旅装を解くのである。)

 三十日(日曜) 快晴。有馬氏、山遊を試みんと欲して余にはかる。余、大いにこれを賛し、吟友田中澄太郎氏(医師)を誘い、瓢酒簟食を携え、山行半里ばかりにして、八景峰頂に達す。松樹の下に席を設く。湾内湾外の風光、点々指摘すべし。余、まず五律を得たり。

  吟朋三四輩、相伴亦良縁、峰頂天為屋、松陰草当筵、雲開海懸畵、風起葉鳴絃、况復佳殽在、酔来欲化仙、

(詩友三、四人と、良いよしみに結ばれつれだって行く。八景峰の頂に天を屋根とし、松陰の草をむしろとして、ときに雲もなく海は画を見るがごとく、風吹けば木の葉がすれあって絃奏を聞く思いである。ましてやここには佳肴もあり、酔うほどに仙人となる心地がする。)

 有馬、田中両氏、おのおの次韻あり。余また、田中氏の詩礎を歩す。

  崎陽何処是仙関、八景峰頭境自閑、枯草為筵石為枕、呼天臥地酔秋山、

(長崎のいったいどこが仙界への関所であろうか。八景峰頂の境域はおのずとのどかに、枯れ草をむしろとし石を枕とし、天に呼びかけ地に臥して秋の山に酔うのである。)

 八景峰とは余の命名するところなり。当夕、月を踏みて寺に帰る。近来の清遊を極む。その実況を狂詩的俗調をもって写出す。

  秋晴最好洗塵心、詩友共登八景岑、築竈僧正試調理、執刀国手割林檎、一人乗興起而舞、衆客分歓歌且吟、

  如此清遊如此楽、浮生何処復相尋、

(秋天の晴れは最も俗塵に汚れた心を洗うによく、詩友とともに八景の峰に登る。かまどを作り調理をなすのは僧正、小刀を手に林檎をわるは国手、一人興に乗じてたちて舞い、同行の人びとはともにたのしんで吟じかつ歌うのであった。かくのごとき清遊、かくのごとき楽しみは、このはかない人生のいずこにまた尋ね得ることができようか。)

 僧正は有馬氏を指し、国手は田中氏を指す。当夜十時、便船に駕して壱岐国に渡る。海上平静なり。

 十月一日 晴れ。午前十時、壱岐郡武生水村字郷之浦に入港す。哲学館出身者市山暾亮氏出でて迎うるあり。郡長近藤豊兆氏、郡視学栄田清記氏に面会し、市山氏所住の長栄寺に少憩して半城湾に浮かび、一棹して沼津村〈現在長崎県壱岐郡郷ノ浦町〉に移る。宿所および会場は高源院なり。住職浦川賢竜氏は哲学館の出身にして、大いに奔走の労をとらる。隣村湯元村白川法伝氏もまた哲学館出身なり。

 二日 雨。沼津を発し、草鞋をうがち、石径泥路を攀じて那賀村〈現在長崎県壱岐郡芦辺町・石田町〉に移る。宿所は国分寺なり。臨済宗にして壱州第一の古刹とす。住職を斎藤賢外氏という。途上、鬼窟をみる。けだし穴居または墳墓の跡ならん。戯れに「極楽と思ひし壱岐の山里に鬼すむ穴をみるぞおかしき」の一句を題せり。午後、高等小学校において開会す。村長大久保良三氏、校長菊池経武氏等の発起なり。当夜、中秋三五の明月なるも、不幸にして月影に接するを得ず。

 三日 雨。午後開会。壱州着後の風景を一括して詩中に入るる。

  此身堪笑似虚舟、飄蕩任風入壱州、山紫水明郷浦暁、稲黄蕎白沼津秋、渓辺無跡誰家路、林外有声何処牛、

  侵雨遥投国分寺、雲来人去洞門幽、

(ひとり笑いをこらえて空舟のごときにのり、さすらうように風に任せて壱岐に着いた。山紫水明の郷之浦の夜明けのこと、稲は黄色、蕎麦の白色に彩る沼津の秋である。谷の辺り、たが家の道なのか人の通った様子もなく、林の外に鳴き声をたてるのはどこの牛であろうか。雨に濡れながら遠く国分寺に宿泊する。雲や人の去来する鬼窟はしずまりかえっている。)

 壱州は毎戸耕作に牛のみを用い、馬を使用せず。されども全島、峻坂険路あるにあらず。山と名付くべきほどのものなく、ただ丘陵の所々に起伏せるのみ。したがって川と称すべきものなければ、小学児童に対し、川の観念を起こさしむること難しという。また、全島を通じて人家の点々散在せると、畑地のいちいち凸形を成せるとは、ともに本州の特色とす。当夕はあたかも旧八月十六日夜にして、夜に入りて雲ようやく晴れ、清光天に満ち、月華座に入る。かかる絶海の孤島にありて、中秋の観月をなすは、実に不思議の因縁といわざるを得ず。去月は福島の海角にありて明月を望み、本月は壱州の仙源にありて中秋に会するもまた奇遇なり。

 四日 快晴。国分寺の庭前には楓葉のやや紅を帯ぶるあれば、「仙源深処訪禅宮、秋満閑庭荒径中、幽草両三花未落、又添楓葉帯微紅、」(仙人の住むような奥深い所にある禅寺を訪ねると、秋の満ちみちた閑静な庭に荒れ果てた小道がある。かくれるような草花が二、三、まだ落ちずにあり、また楓葉はかすかなくれないの色を帯びているのだ。)の一絶を賦す。この日、歩して田河村〈現在長崎県壱岐郡芦辺町〉字芦辺に至る。山上より遠望するに、左に対州を帯び、右に筑前と対す。その中間に当たりて日本海戦の跡あり。よって所感をつづる。

  左望対州雲影横、右方一帯筑山晴、中間看取煙波上、曾印海軍大捷名、

(左のかた対馬を望めば雲の影が横たわり、右のかたはひとすじの筑前の山々が晴れて見える。その中間のけむるがごとき波の上にみてとれるのは、かつて海軍が大勝利の名をしるしたところである。)

 芦辺の開会は村長重井嘉伝氏および天徳寺住職西谷洞林氏等の主催なり。この村内に屏風岩の奇勝あり、また狸将の怪談あり。西谷氏は哲学館出身にして、日露の戦役に出征し、無事に凱旋せりというを聞き、一絶を賦呈す。

  幾回出没死生間、奏凱今年帰故山、天徳寺中妄雲散、真如古月照君顔、

(いくたびか死生の間に出入りし、戦勝の楽を奏して今年故郷に帰ってきた。天徳寺内の主不在の空しさも消えて、変わらぬ昔の月が迎えて君の顔を照らすのである。)

 五日 晴れ。草鞋をうがち、行くこと三里、郷之浦〔武生水村〈現在長崎県壱岐郡郷ノ浦町〉〕に着し、教育会のもとめに応じて高等小学校において演説をなす。校長米光滉氏これが主幹たり。しかして演説の主旨は、左の拙作を敷衍せるものなり。

  四面無山眼界寛、林丘起伏似英蘭、壱州褊小人休笑、全島富源在満韓、

(四面に山はなく視界は広く、林や丘の起伏はイギリス、オランダに似ている。壱岐がせまく小さいからといって笑うをやめよ。全島の富の源は満州と朝鮮にあるのだ。)

 壱州の地勢、地位ともに英国に似たるところあり、その異なるはただ大小の差のみ。よって英国人が海外に出でて成功せるがごとく、壱州人も壱州をもって満足せずして、今より後は大いに満韓に出でて活動せざるべからずとの意を述ぶ。伝うるところによれば、壱州は海に釣るべき魚あり、陸に耕すべき地多きために、自ら安んずる風ありと聞き、更に一詩を賦す。

  何憂地僻世情疎、却喜家稀食有余、禾黍満山魚満海、一年生計在農漁、

(どうして僻遠の地と世の情勢にうといと憂うる必要があろうか。かえって家も少なく食も余裕あるを喜びたい。禾〔いね〕、黍は山に満ち、魚は海に満つるがごとく、一年の生計は農と漁で十分なのである。)

 米は食するに余り、豆は多量に輸出し、これに加うるに海産物の種類すこぶる多し。その代わりに商業工業の見るべきものなく、複産業というほどのものなし。また、貧富も平均して富豪と称すべきものなし。つまりその地たるや仙郷にして、寡欲自安の風あるがごとし。しかれども、今後は大いに海外に向かいて勇進活動せざるべからず。当日午後五時、乗船せんとするや、近藤郡長はじめ有志数名の送行をかたじけのうす。汽船は富士川丸なり。夜九時、抜錨す。

 六日 晴れ。朝八時、長崎に帰着す。正覚寺にて出産ありしを聞き、「鶴庭一夜産佳見、正是中秋明月時、他日必為大円鏡、清光応照八宗岐、」(鶴の遊ぶような庭のあるこの寺院に、一夜すぐれた子が生まれた。まさに中秋名月の時である。将来必ずや大円鏡となって、その清らかな光は仏教八宗のすべてを照らすであろう。)を賦して祝す。また、役僧渋谷円乗氏の法務に精勤なるを見て、「手鳴法鼓響如雷、日々三経読幾回、精進如君吾未見、現当二世福応開」(手に法鼓を打ち鳴らし、その響きは雷のようである。日々浄土三部経を読むこと幾回かす。このように精進するあなたのような人を私は見たことがない。いま二世にわたって福を必ずや得られるであろう。)の一首を贈る。当夜十時、北松浦郡五島に向かいて乗船す。

 七日(日曜) 晴れ。午前九時、福江〔村〕〈現在長崎県福江市〉着。郡役所、村役場、中学校職員諸氏に迎えられて旅館に入る。会場は宗念寺なり。開会は郡長小島和五郎氏、中学校長坂本竜氏、福江村長新井族氏等の尽力に成る。当村は旧五島藩の城下なり。

 八日 晴れ。午前、中学校に至りて演説し、午後、郡視学永石密蔵氏とともに富江に移る。富江より大浜まで一里半の間、人車を通ず。その他には郡内いずれに至るも車道なしという。大浜より海上二里、舟行して富江〔村〕〈現在長崎県南松浦郡富江町〉に着す。途上所見、左のごとし。

  行尽福江城外郷、翁頭山下望秋光、淡雲懸処日将入、黍圃稲田一面黄、

(福江城外の村里に足をのばし、翁頭山のふもとに秋をみた。淡い雲のかかるあたりに日はまさにかくれようとし、黍圃も稲田もすべて黄金色なのである。)

 翁頭山は福江の西南にそびゆる山岳なり。富江の宿所は旅館にして、会場は大蓮寺なり。村長阿野一徳氏、医師梁瀬渟四郎氏、寺院および学校職員等尽力あり。

 九日 晴れ。当地は海上三十里を隔てて男島女島といえる無人島あり。その近海に至りて珊瑚を採集するを本業とす。余、これを聞きて詩を賦す。

  偶到富江湾上区、仙家櫛比自成衢、一村生計人知否、遠入竜宮探宝珠、

(たまたま富江湾の丘に至ったところ、世俗を離れたような家の並ぶ街道をみた。この村の生計について世人は知っているであろうか。彼らは遠く竜宮に至り、宝珠を探すというような珊瑚採りなのである。)

 午後、馬上にて険路を攀じ、行くこと五里、馬驚くこと数回、夜に入りて岐宿村〈現在長崎県南松浦郡岐宿町〉に着す。宿所は西村力之助氏の宅にして、会場は全福寺なり。当地富豪西村団右衛門氏、および役場諸氏の発起なり。郡書記藤原重任氏、諸事を斡旋せらる。

 十日 雨。風邪にかかりて平臥し、左の吟詠をなす。

  権現山頭雨未晴、潮風吹送怒涛声、仙郷終日無塵事、高臥看雲慰客情、

(権現山のあたり雨はまだやまず、潮風が怒涛の響きを送りこんでくる。仙人の住む里のようなここには、ひねもす世俗の雑事もなく、のんびりと雲をみて旅情をなぐさめるのである。)

  き宿とは鬼すむ里と思ひしに仏に近き人心かな、

 当所は郡内第一の仏教繁昌の地と称す。

 十一日 晴れ。この辺りの民家は多く板屋根にして、石をいただく。あたかもわが郷里なる越後の町家を見るがごとし。故に思郷の意をつづりて、「石屋根を見るにつけても思ひ出す、わが故郷の母はいかにと」とよみ、馬上にて岐宿を発し、大浜村に向かう。目下刈稲最中にて、農事の繁忙なるを見る。午後一時、大浜〔村〕〈現在長崎県福江市〉に着す。宿所および会場は寺院なり。主催者は村長藤原賜氏、小学校長山田竹次郎氏なり。当地は富江湾に面し、赤島、黒島、黄島を海上に見る。故に一作を試む。

  富江湾上有仙関、遠近風光五色斑、一望青松白沙外、赤黄黒島映波間、

(富江湾のほとりに仙境のごとき所があり、遠近の風景は五色をとりまぜて鮮やかである。一望すれば青松白砂の外に、赤島、黄島、黒島が波間に浮かんでいる。)

 山田校長は三十年間教育に従事し、妻もなく子もなしというを聞き、「啓発児童三十年、孜々只要学前賢、無妻無子吾生足、教育界中別有天、」(児童を啓発すること三十年、孜々としてひたすらいにしえの賢人に学ばんとし、妻なく子もなく、わが生は足れりとす。これは教育界の中の別天地の人なのである。)を賦してこれに贈る。

 十二日 晴れ。午前、大浜を発し、十時、福江に帰着す。郡長、警察署長、中学校長、村長等と相会す。五島は北松浦郡と称し、数十個の群島より成る。面積四十方里、人口九万二千十八人、小学校の数七十五校あり。宗教は禅宗最も多く、これに次ぐもの真言、浄土、真宗等なり。しかして寛政年中、ヤソ旧教徒大村よりここに転住せるもの、目下一万一千十一人の信徒ありて、二十二カ所に天主堂を設置すという。人呼びてその徒を居付きと称し、一般にこれを擯斥する風あり。その徒はもっぱら開墾に従事し、他と雑婚することなし。また、この地の迷信としては船幽霊と河童あり。河童の人を悩ますこと、他地方の狐狸に同じ。もしこの地の特色を挙ぐれば、路上農夫に遇うに、みな帽をとり頭をたれ、礼をなして過ぐ。また、寒村にして学校の設備の見るべきもの多し。山には樹木なく、道には茶店なく、暑中の旅行には大いに困難を覚ゆ。左の七律二首をもって、その一班を模す。

欲入蓬莱慰客情、一帆遥到福江城、有川浦上長鯨躍、男女嶼辺玉樹栄、中学育英文愈進、大師留錫跡猶明、誰言五島無人傑、此地将来天下鳴、

(仙人の住まいするような所で旅情を慰めようとし、舟に乗ってはるかに福江の町に来たのである。有川浦のあたりは長鯨が身を躍らせ、男女島のあたりでは美しい木が茂っている。中学では英才を育てて文運はますます進み、弘法大師が杖をとどめられた跡は今もなお残されている。このような五島にだれが人傑がいないといえようか。この地から将来天下に鳴りひびく者が出るであろう。)

五島窮辺転法輪、草鞋竹杖説修身、耶蘇教夙開荒地、河太郎時悩賎民、船有幽霊人有礼、路無茶店酒無醇、我来驚見山皆禿、唯喜寒村校舎新、

(五島の窮まる所、仏法を説いて衆生を救わんとし、わらじに竹の杖をついて修身を説く。ヤソ教徒は以前から荒地を開いて住んでいる。河童がときどき無知の村民を悩ませ、船には幽雲が出るというが、ここに住む人々には礼儀がある。道には茶店もなく酒の芳醇なるものもない。私が来て驚いたのは、山がすべて禿げ山であったことだ。ただ喜ぶべきことに、豊かでない村にも校舎が新築されていることである。)

 また、五島の地勢はスコットランドに似たるところあれば、「海繞四辺眼界寛、山河形勢似蘇蘭、吾郷褊小人休笑、全島富源在満韓、」(海が四辺をめぐって視界は広い。山河の形勢はスコットランドに似ている。わが郷は褊小なりなどと笑うなかれ、全島の富む源は満州、朝鮮にあるのだ。)の詩を示し、これにつきて演述せり。また、更に五島の青年を訓戒せる一作あり。

  五島地偏君勿憂、吾人到処有朋儔、満韓非遠台湾近、須向海天万里游、

(五島の地が僻遠だからといって気にすることはない。わがいたるところには朋友仲間がいるのだ。満州、朝鮮は遠くはないし台湾も近い。すべからく海のかなたに向かい万里の遠きにおもむくべきである。)

 午後三時半、乗船。当夜十二時、長崎へ帰航し、一時、正覚寺に入る。

 十三日 晴れ。長崎県教育会の依頼に応じて、青年会館において演説す。会長荒川知事の紹介あり。当夜、福屋において晩餐の饗応を受く。平塚第二部長、岡本(利宗)県視学、その他各学校長と相会す。

 十四日(日曜)。午前、師範学校において演説す。校長は後藤嘉之氏なり。午後、正覚寺において講話をなす。医学専門学校内仏教同志会の依頼に応ずるなり。

 十五日 晴れ。午前、中学校において演説す。校長は信原健三氏なり。ついで、商業学校において演説す。午後は正覚寺婦人会において講話をなす。当夜、正覚寺において有馬氏より送別の饗応をかたじけのうす。席上分韻、互いに唱和す。会主有馬氏「青霊経馨」の四字(余が哲学堂の詩に基づく)を題し、これを韻礎として送別の詩を賦せんことを発言せらる。有馬氏まず成る。すなわち「明朝何処去、微笑眼同青、秋浅山無錦、情深語有霊、献酬四人酒、呑吐大蔵経、臨別煩師手、杯々其徳馨、」(明朝いずこへか別れ去ろうとする。互いに微笑をうかべ、ともに喜びの目をみかわす。ときに秋なお浅く山に綿の彩りはないが、情深く言葉にいつくしみがあり、四人でさかずきのやりとりをする。大蔵経について語り合い、別れにのぞんで師の手を煩わす。杯にもまさに徳のかんばしさがある。)これなり。つぎに、田中桂南氏の作成る。「古浦秋将老、雲冷水空青、沈吟詩有涙、低弄笛無霊、灯影如悲別、虫声似誦経、先生飛錫後、壁上墨痕馨、」(古浦に秋はまさに深まろうとし、雲は冷えびえと水も空も青く澄みかえっている。思いをひそめる詩には涙があり、低い笛の音もうつろに聞こえる。灯の影も別れを悲しむように、虫の声は経を誦ずるように耳に入る。先生が旅に出られた後には、壁上に残された墨書のかおりがただようであろう。)これなり。余、これに答謝せんと欲し、苦吟翌日に至り、ようやく四首を得たり。そのうち二首を左に記す。

香樹山辺寺、松風灯影青、伝杯尋友諠、分韻祭詩霊、別宴歓天地、客程雲緯経、願携君墨跡、千里拝余馨、

(香樹山の寺で、松風に灯影も青く、杯を交わして友誼をあじわう。青霊経馨の四字を詩礎として詩魂をまつり、別宴を開いて天地自然をたのしむ。旅客たる身の行程は雲のごとく縦横に、願わくば君の墨跡を持って行き、千里のかなたで余り香を思い出としたい。)

蕭寺依山静、松陰入座青、人憂蚊勇猛、我愛水清霊、終日坐敲句、毎晨臥聴経、今宵惜離別、対酒契蘭馨、

(ひっそりとした寺は山ぎわにあっていよいよ静かに、松かげは座席をおおって青々としている。蚊の猛烈な襲来にはこまるが、私はここの清冷なる水を愛している。ひねもす座しては詩を推敲し、毎早朝にはふせたまま誦経を聞く。今宵は別れを惜しんで、酒に向かって蘭の香を心にきざみこんでいるのである。)

 香樹山は正覚寺の山号なり。十月なお蚊の人を襲うあり。しかして井水の清冷なるは当寺の誇るところなり。故にこれを詩中に入るる。

 十六日 朝八時、正覚寺を発し、平戸に向かいて乗船す。信原中学校長、後藤師範学校長、商業学校長代理、岡本県視学、村尾㦉太郎氏(県属)、正木新氏、田中澄太郎氏、中尾浦太郎氏、その他渋谷、佐々木等の諸有志数十名の送行をかたじけのうす。しかして有馬憲文氏は、特に余を送りて佐世保まで同船せられたり。かつ氏は、六月以来本県下巡回の件に関し、各所交渉の中枢に当たり、また、巡回中は毎回氏の宅をもって寓居に当てられ、一方ならざる厚意をかたじけのうせるは、ここに深く感謝するところなり。

 当日九時、出航。三時、佐世保に寄港し、有馬氏と襟を分かち、これより四時間を経て、北松浦郡平戸町〈現在長崎県平戸市〉に着岸す。十余名の歓迎者あり、みな発起諸氏なり。宿所は当所第一の巨刹誓願寺をもって当てらる。

 十七日(神嘗祭) 晴れ。午後、宿坊において開会す。発起者は郡長川上良助氏、警察署長山上経也氏、猶興館長桐山篤三郎氏、町長大桑順三郎氏、村長大野良三郎氏、郡視学松尾緑郎氏、千秋、白川、大木、佐々の諸学校長および各宗寺院なりとす。寺院は誓願寺、光明寺、西教寺、雄善寺、妙徳寺、瑞雲寺、是心寺なり。当地は松浦伯の旧城下にして、郡内第一の都会なれば、したがって聴衆も夥多あり。

 十八日 晴れ。朝、猶興館に至りて演説す。館長桐山理学士は余と同窓の旧知たり。午後、誓願寺において開会す。同寺の実況を詩をもって写し出だせり。

  鸞洲有梵城、誓願是其名、守夜仏灯影、破晨鉦鼓声、堂深気神粛、池古水虚明、閑臥僧房裏、境幽夢亦清、

(鸞州〔平戸〕に寺院あり、誓願寺というのがその名である。夜を守って仏灯がともり、夜明けには鉦鼓の音が静けさを破る。寺堂の奥深くには神粛の気がただよい、古い池の水すら澄明である。のんびりと僧房のうちに横たわり、かすかにみる夢もまた清らかな心地であった。)

 平戸島は雅名飛鸞島または鸞洲という。さきに平戸に着せしとき、船中の状況を詠ぜし一首あり。

  看尽崎陽六々湾、船過九十九洲間、秋風醸雨日将暮、雲鎖飛鸞渡上山、

(長崎一帯にある三十六の湾をことごとく目にし、船は九十九島の間を経巡った。秋の風は雨をもたらして日もまさに暮れんとするに、雲は飛鸞島を閉じこめるように山を覆っていくのである。)

 十八日 夜十時、平戸を発し、田助に至り船を待つ。

 十九日 晴れ。午前三時、乗船。八時、武生水村郷之浦に着す。有志諸氏の歓迎あり。栄田郡視学および花光寺住職とともに旅店に入る。郡長近藤豊兆氏の来訪あり。市山暾亮氏もきたり会す。午後二時、尋常小学校に至り、修身教会発会式に出席し、一の字の説を述べて祝辞とす。式場整頓、かつ厳粛なり。その発起者を代表せる校長深山氏の挨拶、および勅語の捧読あり、生徒の唱歌あり。式終わるやただちに視学とともに馬車を駆りて、石田村〈現在長崎県壱岐郡石田町〉字印通寺に至る。その道は壱州第一の高岳たる「岳の辻」の山根をめぐる。この山に雅名を付せんと欲し、多景峰と称す。多景と岳とは国音相近し、かつこの山上にては全島を一瞰することを得、その景最も多趣なれば多景と名付く。よって途上の作、左のごとし。

  多景山根一路平、馬車如電截風行、海湾開処印通寺、妻子洲前夕照明、

(多景山麓の一路は平らかにめぐり、馬車は雷〔いかずち〕のごとく風を切って進む。海湾の開ける所が印通寺であって、眼前の妻島、子島の浮かぶ海は夕映えに輝いている。)

 印通寺の当面に妻島、子島の並列せるあり。

 二十日 晴れ。午後開会す。発起者は百崎浅太郎氏、大野善次兵衛氏、山内校長と竜峰院住職なり。午後四時より更に馬車を駆り、香椎村〈現在長崎県壱岐郡勝本町〉字勝本港に移る。壱州第一の市街なり。宿所は能満寺にして、当寺住職斎藤盛応氏はもと哲学館出身なり。

 二十一日(日曜) 曇り。勝本の所見を詠ず。

  竹末城頭暁色分、秋風浦上水成紋、梵宮高処依欄坐、望断玄洋万里雲、

(竹末城に暁の色が濃くなり、秋風の吹く海辺に波紋が生ずる。寺院の高い所に身を移して手すりにもたれて座し、はるか望むに玄海洋は万里も続くような厚い雲にとざされている。)

 当地に豊太閤征韓の節築きたる城跡あり、これを竹末城と呼ぶ。午後開会す。

 二十二日 風雨。汽船、入港せず。

 二十三日 暴風雨。午後開会す。

 二十四日 暴風雨。終日船を待つも、入港せず。座臥の間、数首を得たり。

風雨凄々孤島秋、漲天白浪躍巌頭、客船不到日将暮、空守残樽臥海楼、

(この孤島の秋に風雨いよいよすさまじく、天にも届くような白浪は巌に当たって躍り上がる。客船はついに姿を見せずに日も暮れようとし、空しく残り少ない酒樽とともに海辺のたかどのに横臥する。)

山煙海霧暁難分、湾外風涛枕上聞、早起待舟舟不到、楼頭空望対州雲、

(山はけぶり海も霧がかかって暁もみわけられず、湾外の風と涛の音は枕もとにまで聞こえてくる。早く起き出して舟を待ったがついに姿をみせず、高殿から空しくはるかな対馬の雲をみるのみであった。)

 かく数日間暴風雨のつづきしは、今年に入りてはじめて見るところなりという。

 二十五日 快晴。未明、汽船入港す。速やかに旅装を整えて乗船し、対州に向かう。勝本開会に関して大いに尽力せられしものは、東光寺住職大久保文丈、金蔵寺住職亀井盛現、小学校長山内久太郎、有志者原田卯八郎、長島隆次郎等の諸氏なり。風波のために数日間滞留し、諸氏の厚意をかたじけのうせるは深謝するところなり。午前十一時、対州厳原〔町〕〈現在長崎県下県郡厳原町〉に入港す。宿坊は光清寺にして、住職は平山寿海氏なり。島司原田謙吾氏、視学樋口正毅氏、警察署長本山晋氏、厳原戸長早田定祥氏、各宗崇興会長加納慣道氏、橘道流氏、小島雅治氏等の歓迎あり。当夜、国分寺において開会す。聴衆、堂に満つ。

 二十六日 晴れ。午前、中学校に至りて講話す。校長は阿部半三郎氏、教頭は守屋秀顕氏なり。厳原は山水明媚にして、前に厳原湾あり、後ろに有明山あり。着港の当日詠じたる七絶一首、左のごとし。

  昨夜海城風雨過、一湾秋水未収波、我来愛見山如浴、又賞今宵月色多、

(昨夜来海辺の域に風雨があり、湾中に秋の気配をただよわす海はまだ波がたかい。わがきたるとき山の雨にうるおうをめで、また今宵の月色のまさるをめでたのである。)

 対州行途上の所見一首あり。

  曾記海軍大捷新、看来波上尚留神、好携此活史編去、欲教対州幾万人、

(かつて海軍大勝を記憶することも新たに、みてきた波の上にもなお神気をとどめていた。好んでこのいきいきとした史編をもって、対馬幾万人に教えようと思う。)

 また、対州の地勢を見て賦したるものあり。

  対州地勢自崔嵬、沿海連山是鎮台、况復其人皆勇敢、威風能圧満韓来、

(対馬の地勢はおのずから岩石の多い険しい山で、海に沿って連なる山は陣営である。ましてやまたその人々はみな勇敢であり、威風は満州、朝鮮を圧したのである。)

 対州は、これを壱州に比するに山高く渓深し、これを五島に比すれば樹木鬱葱たり。これ、対州の風景の壱岐、五島よりも秀霊なるゆえんなり。光清寺において朝鮮人の賦するところの七律を次韻せるもの、左のごとし。

  明治天皇丙午年、六旬為客鎮西辺、壱岐原上時停杖、対馬湾頭又繋船、山遠時看雲漠々、帆懸屡訝鳥翩々、

  風光自与人寰異、喜我竜宮開法筵、

(明治天皇丙午の年〔三十九年〕、六十日のあいだ巡回講話の旅を鎮西地方に続けた。壱岐の高原にときに杖をとどめ、対馬の入江の辺りにまた船をつなぐ。山並み遠くときどき雲の連なるのがみえ、帆かけ船にはいつも名も知らぬ鳥がひるがえり飛ぶ。風光はおのずから人境とは異なり、喜ぶべきは私が竜宮のようなこの地で講話の席を開けることである。)

 壱岐の風景も七律をもって模写せり。

  遥到蓬莱島上関、波光巒影異人寰、半城湾上舟宜泛、多景峯頭路易攀、鬼窟猶存那賀里、神霊如在釣魚山、

  看来勝本又郷浦、我愛壱州風月閑、

(はるかに仙人が住むような島上の関に至れば、波の輝き連なる山々の姿は人境とは異なるものがある。半城湾の海上に舟をただよわせるべく、多景峯頂上への道はのぼりやすし。鬼の窟はいまなお那賀の里にあり、神霊は釣魚山にいますがごとくである。勝本や郷之浦もみたが、私はなによりも壱岐の風月ののどかさを愛するのである。)

 当日は旧暦九月九日に当たり、対州の旧慣として人みな山に登り杯を挙ぐという。シナの風習の伝われるによる。千金丹本舗主人の招きに応じて、その別亭に遊ぶ。内外の海を一瞰するに足る、故に一碧亭と命名す。また、硯をつくる所に至りて一見す。

 二十七日 晴れ。厳原を発して鶏知村〈現在長崎県下県郡美津島町〉に至りて開会す。途上所見一首あり。

  駅路高低傍海湾、波光松影映吾顔、渓辺認得霜楓色、万緑一紅畵裏山、

(街道は上下しながら海湾の傍らを通る。波の光や松の姿がわが顔にうつるようである。谷のあたりに霜がかかって赤くなった楓の葉色をみる。すべてが緑におおわれる中でぽつんとある紅色は、まさに画中の山の趣である。)

 発起者は戸長野村寛次郎氏、有志者清水政知氏、阿比留親四郎氏、脇田従人氏等なり。午後九時、厳原に帰りて上船す。

 対州は壱州と同じく、シナ、朝鮮の風に似たるところあるも、忠君愛国の義気に富めるは、清韓人と雲泥の差あり。宗教は祖先教というべく、祖先の霊位を崇重すること厚し。その地、高山峻嶺多く、したがって耕地に乏しく、米穀を産せず。故に民家は極めて粗食なりという。甘薯を呼びて、孝行芋と名付くるは奇というべし。余は不幸にして滞在の時日を失い、村落民家の風俗を目撃せざりしは遺憾なりとす。

 〔次の「満韓紀行」(明治三九年一〇月二八日から一一月二九日まで)は割愛した。〕

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三十九年度統計

 本年七月以来後半期中に、香川県、長崎県を巡回し、各所において修身教会の主旨を演述したりし報告の一端を掲げ、一はもって全国の修身教会賛成者に通告し、一はもって各地有志諸君の厚意に答謝せんとす。余は七月八日東京を発して香川県に入り、八月十八日香川県より長崎県に移り、更に進みて十月二十八日より韓地に渡り、満州に転じ、十一月二十四日大連を発して、二十九日無事に帰京したり。その日数百四十日間にして、約五カ月間なり。

 ○香川県下巡回日数、七月九日より八月十六日まで三十九日間。

  同 開会の場所

  (一)高松市三カ所(十四席)  高等女学校、公会堂、興正寺別院

  (二)丸亀市四カ所(八席)   中学校、高等女学校、兵営、正念寺

  (三)香川郡六カ所(十二席)  仏生山町(二カ所)、鷺田村、中笠居村、上笠居村、太田村

  (四)綾歌郡七カ所(十六席)  坂出町(二カ所)、滝宮村、山田村、川西村、岡田村、山内村

  (五)仲多度郡三カ所(七席)  琴平町、善通寺町、多度津町

  (六)三豊郡六カ所(十二席)  観音寺町(二カ所)、豊浜町、常盤村、辻村、詫間村

  (七)小豆郡二カ所(四席)   土庄町、草壁村

  (八)大川郡四カ所(八席)   志度町、三本松町、津田町、長尾村

  (九)木田郡三カ所(六席)   氷上村、池上村、古高松村

  以上、二市、七郡、三十八カ所(八十七席)。

 ○長崎県下巡回日数、八月十九日より十月二十七日まで七十日間。

  同 開会の場所

  (一)長崎市九カ所(二十六席)  女児小学校、稲佐、医学専門校、青年会館、師範学校、中学校、商法学校、光栄寺、正覚寺

  (二)佐世保市一カ所(六席)   教法寺

  (三)西彼杵郡二カ所(八席)   矢上村、瀬戸村

  (四)東彼杵郡一カ所(二席)   大村

  (五)北高来郡一カ所(二席)   諌早町

  (六)南高来郡八カ所(十九席)  島原町、島原中学校、愛野村、堂崎村、東有家村、南有馬村、口之津村、加津佐村

  (七)北松浦郡九カ所(二十席)  平戸町、中学猶興館、福島村(二カ所)、志佐村、世知原村、山口村(二カ所)、佐々村

  (八)南松浦郡五カ所(十一席)  福江村、五島中学校、富江村、岐宿村、大浜村

  (九)壱岐郡七カ所(十七席)   武生水村(二カ所)、沼津村、那賀村、田河村、石田村、香椎村

  (十)対馬島三カ所(五席)    厳原町、対州中学校、鶏知村

  以上、二市、七郡、一島、四十六カ所(百十六席)。

 ○満韓巡回日数、十月二十八日より十一月二十三日まで二十七日間。

  同 開会の場所

  (一)釜山三カ所(五席)   本願寺別院、尋常小学校、開成学校

  (二)京城二カ所(二席)   女児小学校、本願寺別院

  (三)仁川二カ所(四席)   仁川倶楽部、本願寺別院

  (四)平壌一カ所(一席)   小学校

  (五)安東県一カ所(一席)  陸軍木材廠

  (六)鳳凰城二カ所(二席)  兵営、光栄館

  (七)大連三カ所(三席)   関東倶楽部、遼東新報社、本願寺説教場

  以上、十四カ所(十八席)。

 奉天、鉄嶺、旅順には滞在せしも、開会せず。以上、二県下と満韓とを合算すれば、開会の場所九十八カ所となる。その一カ所平均三百名ずつと定むるも、約三万人の人々に修身教会の主旨を聴かしめたる割合なり。もし席数を合算すれば、二百二十一席となる。その一席二百人ずつと定むれば、約五万人に聴かしめたる割合なり。右は七月以後の分なり。これに六月以前の分を加うれば左のごとし。

  相州秦野町(二席)

  奈良県高市郡今井町(二席)      奈良県磯城郡三輪町(二席)

  同  吉野郡高見村(二席)      同  同 郡小川村二カ所(三席)

  同  同  四郷村(二席)      同  同  上市町二カ所(四席)

  同  宇陀郡松山町(二席)      同  同  榛原町(二席)

  同  吉野郡竜門村(二席)      同  同  国樔村(二席)

  同  同  川上村五カ所(十席)   同  同  吉野山村(二席)

  同  同  大淀村三カ所(七席)   同  同  下市町(六席)

  同  同  南芳野村二カ所(三席)  同  同  天川村(二席)

  同  同  宗桧村(二席)      同  同  賀名生村(二席)

  同  宇智郡五條町二カ所(三席)   同  南葛城郡御所町(二席)

  同  北葛城郡高田町(二席)     同  高市郡真菅村(二席)

  同  生駒郡郡山町(二席)      同  山辺郡二階堂村(二席)

  同  南葛城郡吐田郷村(二席)    同  同  掖上村(二席)

  同  磯城郡香久山村(二席)     京都市七カ所(九席)

  大阪府茨木町(二席)         栃木県足尾町(六席)

  新潟県六カ所(七席)

   以上、五十三カ所、百二席。

 これを通計すれば百五十一カ所、三百二十三席となる。一席平均二百人の聴衆ありとすれば、約六万五千人となる割合なり。もしこの概算をして実際に近きものとすれば、余の本年中の事業は同胞六万人以上のものに、精神修養の必要を知らしめたるにあり。ここに明治三十九年の歳月に訣別するに当たり、一カ年間の事業の統計を掲げて告別の辞となす。

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沖縄県紀行

 余はあらかじめ沖縄県琉球本島に遊ばんと欲して、出発にさきだち一詩を賦す。

  人情今日颯如秋、世海風波猶未収、欲植法苗何処好、鎮西山外有琉球、

(人情なるものは今日おとろえて秋のようなわびしさとなり、世情の風波もなおいまだおさまる気配がない。仏法の苗を植えようと願い、いったいどこがよいかを考えたとき、そこで九州のかなたに琉球ありと思い至ったのである。)

 明治四十年一月二十七日午後、東京出発。二十八日午前十時、大阪港川口にて商船会社汽船平壌丸に搭乗し、正午解纜。神戸を経て鹿児島へ直航。三十日午後、寄港。松見善月、秦法顕、坂牧善辰等の諸氏来訪あり。この日、風寒く山白く、間、雪片の空間に舞うを見る。終日船室にありて陸に上がらず。三十一日正午、鹿児島出帆、沖縄に向かいて航行す。海上、風波高し。

 二月一日 晴れ。午時、大島に寄港す。名瀬湾に繋留すること五時間にして出港す。名瀬は全市祝融の災にかかり、新築いまだ成らず、一見あわれむべき状態なり。ただ、市外満山の蘇鉄蒼々たるを望む、いささか客情を慰するに足る。

 二日 晴れ。勁風高浪をおかして、午前十時、沖縄県那覇港に入る。県属仲本政世氏、余を迎えて船中に至らる。氏の案内にて上陸す。港内風波いまだ収まらず、男爵奈良原知事をはじめとし、県官紳士数十名、埠頭にて歓迎せらる。旅館は浅田屋なり。奈良原知事、事務官日比重明氏、岸本賀昌氏、和田勇氏、尚侯爵家扶持花朝章氏、師範学校長西村光弥氏、中学校長大久保周八氏、文学士伊波普猷氏、県属山口源七氏、真教寺住職田原法水氏、同副住職田原法馨氏、哲学館出身者阿波根朝祥氏、同岩原祖順氏等、続々来訪あり。午後、仲本、阿波根両氏の案内にて、那覇区〈現在沖縄県那覇市〉の内外を巡覧す。その所見の場所は左のごとし。

  知事官舎および南陽館、孔子聖廟、泡盛製造場、阿旦葉製造場、崇元寺、波上官幣小社、奥山公園。

 波上神社の眺望、最も佳なり。これ速玉男尊ほか二神を祭る所にして、官幣小社なり。湾の内外を望見し、あわせて市街を一瞰するを得。家屋はみな赤色の瓦を用い、白堊をもって目塗りをなし、白赤相映じて奇観を呈す。左の一詩を得たり。

  人家如櫛又如虹、日映屋頭甍色紅、波上社前時一望、此身疑在画図中、

(人家はびっしり並ぶかと思えばみだれるようにたち、日光は屋頂に映えて、瓦の色はくれないである。波上官幣小社の前より一望すれば、この身は美しい絵画の中にあるかと思われたのだった。)

 寒暖は日中〔華氏〕六十度ないし七十度の間を上下し、歩行中背汗の気味あり。紅葉なく、落葉なく、芭蕉の葉冬なお枯れず、夜中は蚊声を聞く。

 三日(日曜) 晴れ。午後、沖縄県教育会の依頼に応じて、那覇区内松山小学校において開演す。聴衆満堂、非常の盛会なり。奈良原知事にも出席せらる。知事には先年、イギリス、ロンドン府およびイタリア、ローマ府においてはじめて拝晤を得、爾来二十年を隔てて再び温容に接したるに、七十余歳の高齢なるにもかかわらず、矍鑠たること壮年も及ばざる勢いあり。よって余、一絶を賦呈す。

  曾接温容欧米郷、球陽今又拝眉光、挙杯欲祝先生寿、矍鑠依然七十霜、

(かつておだやかな姿には西欧の地でおめにかかったのだが、琉球において今またおめにかかる。杯をあげて先生の長寿を祝いたい。年老いてもお元気であること、前におめにかかったころとかわらぬさかんな七十歳である。)

 四日 雨。愛国婦人会および医学会有志の依頼に応じて講演す。会場は真教寺なり。住職田原法水氏は大派本願寺の僧にして、明治九年、禁制を犯して琉球に布教し、爾来三十余年の久しきに及び、小栗栖香頂氏のシナ開教における、奥村円心氏の朝鮮開教における、氏の琉球開教における、ともに海外布教の三傑と称すべし。余、一詩を賦してこれに贈る。

  那覇埠頭有梵城、朝昏不断称名声、我来堪謝入門処、法水老師拱手迎、

(那覇のふなつきばに寺院があり、朝夕に読経の声の絶えたことはない。私はごあいさつをしようとして門を入ったところ、法水老師は両手を胸の前に重ねる拱手の礼をもって私を迎えられたのである。)

 医学会講演の斡旋者は薬師吾吉氏なり。

 五日 晴れ。この日、はじめて首里〔区〕〈現在沖縄県那覇市〉に至る。那覇をへだつること約一里半、丘上にあり。人車絡繹織るがごとし。車賃わずかに七、八銭に過ぎず。午後、師範学校において開会す。聴衆は同校生徒および高等女学校生徒なり。師範学校は首里城内にあり。焼失後、旧王居をもって仮校舎にあてらる。王居はシナ風にして、これを一見するに朝鮮王城を縮小せるもののごとし。校長西村光弥氏は先年すでに東京にて面識あるかどをもって、懇切に諸事を斡旋せらる。教員中に松下之基氏あり。もと大学予備門の同窓なり。氏の案内にて城内を通覧す。その所見はこれを詩中に入るる。

  駅路一条如砥平、林邱起処旧王城、登臨千里無遮目、認得浮虬脚下横、

(のびる道はといしのように平らかで、林と丘の高いところが旧王城である。この高みに登って遠くを眺めると目をさえぎるものはなく、そこで海に浮くみずち〔竜の子、つのをもつ〕と古人が形容したこの島の姿を脚下にみとめたのであった。)

 琉球は流虬より転じたる名称にして、最初シナ人が島の形を見て、虬の海中に流るるがごとしといいたるより起こるという。その故事をとりて詩中に入るる。しかるにこれを沖縄と呼びたるは、本邦人の与うるところにして、その意は沖に縄の浮かべるがごとしというにあり。当日は侯爵尚家を拝問す。また、尚家の菩提寺たる円覚寺へも拝詣す。

 六日 雨。午前、首里中学校において、中学生および養秀学校生徒のために開演す。大久保校長、紹介の労をとらる。午後、那覇に帰り、真教寺において各宗寺院のために講話す。本県は旧来より首里、那覇両区の間に禅宗、真言宗各数カ寺あり、そのほか新開の真宗寺院真教寺あるのみ。しかしてその寺院は一定の檀家信徒あるにあらず。概して琉球には神仏二教ともに皆無なり。その固有の宗教は祭天教または祖先教と名付くべし。天祠の祭りと称するものあり。また、「ノロ」と名付くる神官のごときものあり。墳墓にいたりては、その壮麗なること世界第一なり。山根をうがちてこれを築き、すべて石をもって四囲を畳み、その屋根の破風形なるものと、亀形なるものとの二種あり。構造費の安きは二百円、高きは五、六千円に及ぶという。また、「ユタ」と名付くるものあり。これ巫女なり。家に病人あるときは必ず「ユタ」をして判知せしむ。ユタは米をもって占い、何代目の祖先の祭りを欠けるために、そのたたりにて発病せりと告ぐ。そのときには必ず祖先の祭りをなす。男子はユタを信ぜざるも、女子はかたくこれを信ず。これ琉球人の迷信なり。当夕、崎浜秀主氏の宅にて琉球料理の饗応に接す。

 七日 晴れ。辰島丸に搭乗して国頭郡に移る。海上四時間にして名護〔村〕〈現在沖縄県名護市〉に上陸す。名護は郡衙所在地にして、小都会なり。街上に桜桃花を見る。桃花は葉と実との間に散見す。すこぶる奇観なり。その葉は去年の葉のいまだ落ちざるもの、その実は早く開きたる花のすでに結べるものなり。名護行の拙作、左のごとし。

夜来高浪未全収、漂蕩乗風在客舟、烟雨濛々名護暮、残桃花底宿茅楼、

(昨夜からの高波はまだ収まらないが、風に吹かれてただようがごとく客船に身をゆだねたのである。けぶるようにふる雨にとざされた名護は日暮れをむかえ、名残の桃花のもと、かやぶきの宿に身を寄せたのである。)

檣頭風掛一帆斜、晩到武陵渓上家、堪怪仙源春色早、厳霜時節見桜花、

(帆柱の先端を吹く風に帆は斜めにかかり、日暮れには武陵桃源郷のような渓のかたわらにたつ家に至った。不思議なことにこの仙人の住むような里には春のおとずれも早いのか、厳しい霜の時節であるのに桜花がみられるのだ。)

 仲本、阿波根両氏、本願寺布教使中村慶巌氏、小学校長一色隆三氏等と同行す。上陸の際、郡長喜入休氏、郡視学後藤猪六氏等数名の歓迎あり。旅亭は一心館なり。

 八日 晴れ。午前、午後、名護高等小学校にて開会す。郡教育会の主催なり。教員は十里以上の村落より来集せり。会後「ノロ」の社に登覧す。内地の村社に比すべきものなり。神体に当たるべきものに、三個の石あるのみ。社内に珍蔵せる古鏡およびマガ玉を拝観す。その社背に旧墳あり。源為朝の上陸地たる運天港は、名護より三里ありという。

 九日 晴れ。午前、農学校に至り、生徒のために講演す。校長黒岩恒氏の案内にて校の内外を一覧す。庭園に種々の植物を栽培す。あたかも植物園を見るがごとし。当地開会に関しては、主として喜入郡長、黒岩校長および後藤郡視学等の尽力すくなからざりしは、余の深く謝するところなり。午後三時、轎に駕して名護を出発す。轎のかつぎ方、内地と同じからず。杖を用いず、肩を換うるに足をとめず、その都度、轎の向きを変じて走る。そのはやきこと内地の轎に勝る。終日、名護湾にそいて行く。あるいは砂際をわたり、あるいは巌頭を攀じ、名護を去ること六里、恩納間切に至りて宿す。間切とは村のことなり、途上の所見は詩句をもって写す。

沙際巌頭樵路横、軽輿数里傍湾行、山根石屋皆墳墓、可見村民追遠情、

(なぎさや岩の上をきこりの通うような道が続き、軽やかな輿は数里の道のりを名護湾にそって行く。山のつけねのあたりに見える石屋根はすべて墳墓であり、それは村人の先祖追慕の情をしめしているのである。)

離家千里客球陽、二月山田已挿秧、桃李猶留去年葉、不寒不熱是仙郷、

(家を離れて遠く琉球を旅する。二月の山や田にはすでに苗がうえられ、桃やすももの木にはまだ去年の葉を残している。暑さ寒さもほどよく、これこそ仙人の住む里である。)

仙源深処白雲囲、渓上無人薬草肥、一路蕉風日将暮、女児時戴采薪帰、

(仙人が住むような奥深いところは白雲にかこまれて、谷川のほとりには人影もなく、薬草がゆたかに伸びている。道は芭蕉を吹きぬける風とともに暮れかかり、女児のときどきたきぎを頭にのせて帰る姿をみる。)

 これ琉球旅中の実況なり。寒の明くるを待ちて挿秧を始む。婦人はみな荷物を頭上にいただく。その歩すること走るがごとし。たまたま豚の児を頭上に乗せて行くを見るは奇観なり。男女おおむねはだしにして、草鞋を用いず。常食は薩摩薯にして、これを唐薯と称す。泡盛焼酎をたしなむ。その多量なるは、一時に五合を傾くという。豆腐を食することまた多し。市中に豆腐屋と線香屋の多きは他県に見ざるところなり。線香は毎戸祖先の霊を祭るに用い、各家必ず霊壇を設けて、累代の位牌を安置し、毎日拝礼をなす。夜に入りて恩納に着し、民家を借りて宿す。蚊を払い、まず泡盛を傾けて疲労をいやす。ときに雨はなはだしく至る。

  日暮風涛帯雨高、雲烟暗処宿林皐、払蚊傾尽三杯酒、医得行程半日労、

(日も落ちて風や波の音は雨をともなっていよいよ高く聞こえる。雲ともやにとざされた暗いところにある林の高みに宿をとる。蚊を追い払い泡盛を傾け、旅程半日のつかれをいやしたのであった。)

 あらかじめ蚊帳、寝具、食品を携帯するは、シナ、朝鮮の内地旅行にひとし。同行は仲本、阿波根両氏の外に、郡書記切通唐代彦氏の名護より送りてここに至るあり。

 十日(日曜) 雨。恩納を発して五里、読谷山に至り、役場に入りて昼食を喫す。雨ようやく晴るる。途上所見、左のごとし。

林巒看訝畵図開、霜雪無侵緑作堆、不啻風光似仙境、人情民俗亦蓬莱、

(木々の茂る山々を見て絵画をひろげたのかと思うほど美しく、霜や雪も緑をそこなうことなく緑陰がかさなりあっている。風景は伝えいう仙人の住む所に似ているばかりではなく、人情や民俗もまた神仙が住むという蓬莱である。)

桃花源上歩春晴、山自蒼々水自清、明治余恩及仙窟、芭蕉葉下読書声、

(桃花源のような地を春の晴れ間にそぞろ歩けば、山はおのずから青々とし、水はおのずから清らかなのである。明治の文化の恩恵はこの仙人の住む里にも及び、芭蕉の葉のもとに書を読む声がする。)

 読谷山より轎行二里、北谷にて腕車に駕し、車行四里、夜七時、那覇に着す。

 十一日(紀元節) 晴れ。午後、島尻郡糸満村〈現在沖縄県糸満市〉にて開会す。教育会の主催なり。那覇をへだつることおよそ二里半なり。途上所見、左のごとし。

  中山風物自清霊、一帯巒峰如畵屏、蔗雨蕭々糸満路、松間蘇鉄映顔青、

(琉球の風物はもとより清らかでこうごうしいばかり、あたりの連なる峰々は絵風屏をみるような思いがする。さとうきびにふる雨はひっそりと糸満への道をぬらし、松の木にまじる蘇鉄は顔にてりはえて青々としている。)

 琉球は一名中山と称す。甘蔗田に満ち、蘇鉄山を覆う。糸満は県下第一の漁業場なり。郡長斎藤用之助氏(那覇区長を兼ぬ)、郡視学菅野喜久治氏とともにここに往返す。

 十二日 晴れ。旧暦大晦日に当たり、市中雑沓を極む。終日、旅館にありて休憩す。琉球の特色として、他県人の目を引くものは、ハブ、薯、豚、泡盛、ユタ、墓場、赤き瓦等なり。故に余は、これを三十一文字につづる。

  ハブと豚、薯と泡盛、ユタ墓場、赤き瓦や七奇なるらん、

 その他、琉球の不思議は、梅に実を結ばざること、鴉の住せざること、梅、桃、桜が一時に開き、葉と花と同時に見ること、春夏の二季ありて秋冬の二季なきこと、等なり。当地にては秋冬の季節に至るも、紅葉なく落葉なく、夏よりただちに春に移るがごとき心地するなり。年中、薯の茎も葉も枯るることなく、葡萄のごとく木となりおるものあるも、また妙なり。車夫の提灯が風流めきておもしろし。田舎の家屋は大抵みな茅屋なり。その茅は笹竹の細きものなれば、竹屋と称するほう適当ならん。また、茅壁なり。土の代わりに茅をもって壁を造る。板戸あるも障子なし。屋後には必ず豚小屋あり。家屋の用材には白蟻を生じ、書籍には油虫を生ずという。風土病としては足の太くなる病気あり。

 十三日 晴れ。午前、監獄署に至り、囚徒に対して一言を述べ、典獄三井久陽氏の案内にて獄内を通覧す。午後、松山小学校にて那覇青年会の依頼に応じて開演す。文学士伊波普猷氏等の主催なり。当夕、伊波氏の宅にて琉球料理の饗応をかたじけのうす。伊波氏は博言学者にして、かたわら歴史を修め、目下もっぱら琉球史の研究に従事せらる。滞在中しばしば氏と相会し、大いに益するところあり。よって余は左の一首を贈りて厚意を謝す。

  球陽一夕接芳顔、不覚清談到夜闌、多謝君能通史学、慇懃為我説中山、

(那覇の一夜、すぐれた人と会面し、思わずすがすがしい話で真夜中をすぎてしまった。厚くお礼を申し上げる。君はよく歴史学に通暁し、ねんごろに私のために琉球の歴史を説明して下さった。)

 十四日 雨。午後、首里に至り、阿波根朝祥氏および岩原祖順氏とともに、尚家の廟所および孔子廟を拝観す。両氏は哲学館出身たるのかどをもって、毎日代わりあって那覇を往復し、奔走周旋の労をとられたるは、感謝するところなり。阿波根氏の宅に一休して、女子小学校に至り、通俗講談会の依頼に応じて開演す。首里区長朝武士干城氏に面会す。当夕、奈良原知事をはじめ、高等官諸君の寵招に接したるは、分外の幸いとするところなり。席上、琉球踊り数番あり。その番付は御前風(今日の嬉しきことを祝う)、四季口説(春夏秋冬の景色の歌)、上り口説(一名旅出立)、川平節、四竹踊り、花風、ロクチウシン(内地の男女踊り)、長刀踊り、剣舞、勝連(男女踊り)、滑稽踊り(夫婦喧嘩)なり。席上には奈良原知事、岸本第二部長、西村師範学校長、加藤達雄、渋谷競多、大塚常太郎、樺山純一、武石兵弥、馬渡徳太郎、金城化光、仲本政世の諸氏を見たり。

 琉球には普通の歌に卑猥のものなしという。また、男女席を同じくせざる風あり。道を行くに、女子は女子と相伴い、男子は男子と相伴い、男女相混せず。客を招くにも、男子の客ならば、その給仕人は男子のみを用い、女子の客ならば、女子のみを用うという。これ儒教の影響なること明らかなり。ただ、田舎には月夜に毛遊びと名付くるものあり。毛遊びは野遊びのことにて、男女ともに野外に出でて、絃を弾じ歌を和す。これ風俗を乱するおそれありとて、教育上にては、これを制止する方針をとると聞けり。

 十五日 晴れ。便船京城丸にて当地を出発することに決す。滞在中は奈良原知事の格外の厚遇をかたじけのうし、また、岸本第二部長の懇切なる配意を受け、田原法水氏、同法馨氏、および仲本政世氏より非常なる尽力を得たるは、ともに大いに感謝するところなり。尚侯爵家よりも分外の款待をかたじけのうせるも、深謝するところなり。午後五時、乗船す。岸本、田原、仲本、阿波根、岩原等の諸氏は余を送りて船中に至る。六時、抜錨す。翌十六日午後、大島名瀬に寄港す。雨ようやく至る。午後三時、出港。夜に入りて風力その度を高め、船したがって進まず。鯨波船を越えて走ること数次、客みな船病に苦しむ。翌十七日、風波ますます高く、終日激浪の間に漂蕩し、当夜二時ようやく鹿児島に着岸し、翌朝を待ちて上陸す。

 沖縄県滞在日数は二月二日より十五日まで十三日間にして、開会の場所は二区二郡十一カ所、これに監獄を加うれば十二カ所なり。

   地名     主催            会場    席数

  那覇区    沖縄県教育会        松山小学校  二席

  同      愛国婦人会         真教寺    二席

  同      医学会有志         同      一席

  同      各宗寺院          同      二席

  同      那覇青年会         松山小学校  一席

  同      監獄教会          監獄     一席

  首里区    師範学校および高等女学校  師範学校   二席

  同      中学校および養秀学校    中学校    二席

  同      通俗講談会         女子小学校  二席

  国頭郡名護  郡教育会          名護小学校  三席

  同      農学校           農学校    一席

  島尻郡糸満  郡教育会          糸満小学校  二席

   以上 二区、二郡、十二カ所、二十一席、聴衆五千五十人

 

 沖縄県は言語、風俗、人情ともに今なお他府県と大いに異なるところありて、朝鮮、満州を旅行するがごとき感あり。男子の結髪は十に一、二人ぐらいに減じたるも、婦人は依然として旧態を存し、手に入れ墨をなすがごときは、これを禁じおるにもかかわらず、今なおやまざるありさまなり。ひとり学校教育に至りては、その設備といい成績といい就学児童の割合といい、比較的進みおるは予想の外に出でたり。しかるに宗教に関しては、全く別天地の観を呈し、概して迷信教と称するも過言にあらざるべし。故に国民の統一上に必要なる言語、風俗、人情をして他府県と同一ならしむるには、学校教育の外に宗教の改革を実行せざるべからず、迷信的信仰を一変して、倫理的信仰となさざるべからず。これとともに他府県人をして雑居雑婚せしむるを要す。しかしてこの二法ともに即時に実行すること難き事情ありとすれば、まず余の唱道するところの修身教会のごときものを設け、毎月一、二回、小学卒業以上の者を集めて訓誡する道をとるを、最も県下の実況に適応せる方法なりと信ず。もし現今のごとく小学卒業以後の者をそのままに任せ、打ち捨ておくにおいては、せっかく学校にて授けたる訓育はもちろん、内地語までを忘却するに至るは必然なり。これをして忘却せざらしめんと欲せば、毎月修身教会を開きて、ときどき学校にて教授せしことを復習せしめ、迷信を戒め、公徳を勧め、家庭教育、社会教育の改善を促し、教育勅語中に諭示し給える忠孝為本の道徳を諄々開説するに至らば、言語、風俗、人情統一は着々その功を奏すること疑いなし。

 沖縄県は地味といい気候といい、誠に申し分なき天幸を得たる地というべし。しかして人民の生活程度を見るに、那覇、首里を除くの外は、すこぶる劣等に位せるもののごとし。その原因種々あるべきも、天幸に安んじて奮発心を欠けるは、その主因なるべし。また、気候の影響が人をして惰弱ならしむるも一原因なるべし。他地方と交通の不便なるより、なにごとにも刺激なく競争なきも一原因なるべし。井蛙の見を有し、他府県の実況を目撃したることなきも一原因なるべし。よってその気質を改変するには、学校教育はもちろん、学校卒業後にもときどき訓誡を与え、忍耐、奮励、勤倹、貯蓄の気風を起こさしめざるべからず。

 沖縄は従来その国固有の歴史を有したるをもって、忠君愛国の精神において大いに欠くるところあるがごとく感ぜり。儒教の感化によりて、孝道を重んじ、祖先を敬することを知るも、国家の観念に至りてははなはだ乏しきを覚ゆ。故にこの点は同県の教育の任をになうものの、大いに注意して訓誡せざるをえざるところなり。また、学校卒業後といえども、ときどき勅語の聖旨を敷衍して訓示するを要するなり。これ、余が修身教会の設立は沖縄県において殊更にその急要を感じたるゆえんなり。

 沖縄県は一言をもっていえば、蓬莱仙境なり、武陵桃源なり。年中春夏二期のみありて秋冬の二節なく、緑葉紅花四時たえず、厳寒なお春のごとく、米穀は二度三度の収穫を見るべく、人情もまた質朴にして、太古の風あり。実に天然の美国というべし。ただ、その人民の迷信に陥り、遊惰に傾き、気概に乏しく、文明の空気に触れざるもの多きは、玉にきずあるがごとし。以上、いささか卑見を添えて琉球紀行を結ぶ。ここに筆を擱するに当たりて、余が遊寓中、各所ともに多大の優待歓迎を得たるは、有志諸氏に対して厚く感謝するところなり。本邦人、ややもすれば琉球を度外視し、各方面の研究において、これを念頭に置かざる風あるは、余の大いに怪しむところなり。歴史、言語、風俗、宗教上の研究においては、その関係の多大なるは、北海道、台湾の比にあらざるべし。動物、植物の研究のごときも、その道に資するところ多しという。故に講学の士は、第一に沖縄県を観察せざるべからず。実業家もまた、その地味、地形、物産を調査する必要ありと信ず。他日もし、足を台湾に進めんとするものあらば、必ず腰を琉球に憩うべしとは、余が内地人に忠告するところなり。

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鹿児島県紀行

 明治四十年二月十八日 晴れ。午前二時、沖縄より鹿児島に入港、翌朝八時、上陸。松見善月氏、平川浩然氏等多数の歓迎あり。千頭知事令夫人も埠頭まで出でて迎えらる。池田旅館に少憩して、大谷派本願寺別院に移る。県庁第二部長沢田重遠氏、有志家町田実一氏、税所子爵代理、新聞記者等、続々来訪あり。午後一時、鹿児島郡視学衛藤助治氏とともに、馬車に駕して鹿児島郡谷山村〈現在鹿児島県鹿児島市〉に至る。随行は哲学館出身秦法顕氏なり。この日、春晴れ、夜来の風波ようやく収まり、桜岳薩海の風光あたかも眉間を照らすがごとく覚ゆ。途上、七絶二首を得たり。

船入薩州第一湾、麑城暁色映眉間、愛看昨夜蕭々雨、醸雪花来冠四山、

(船は薩摩第一の湾に入る。鹿児島城のあかつきの風光は眉間に映えるように思われる。昨夜のひっそりとふった雨もいとおしく、その雨はしだいに雪になって四山の頂きをおおった。)

二月鎮西転法輪、今朝始見薩州春、軽風習々城南路、花落梅梢葉色新、

(二月鎮西に仏教の法輪をもってめぐらんとし、今朝はじめて薩摩国の春を見た。そよそよと吹く風のある城南の道、花の散った梅のこずえには緑の色も新しい葉がみえる。)

 谷山村は人口三万ありて、全国無比の大村と称す。会場は高等小学校なり。校長は土持平一郎氏にして、村長は佐藤清真氏なり。当夜、鹿児島市に帰る。

 十九日 晴れ。千頭知事の宅を訪う。知事は上京中にて不在なり。その帰路、高等学校長岩崎行親氏および沢田事務官の宅を訪い、また、浄光明台に登りて西郷南洲翁の墳墓に拝詣す。その地、市街を下瞰し、桜島に対向す、実に薩州第一の勝景なり。墳墓中には老西郷の永眠所を中心として、西南戦死者を網羅せり。また、南洲翁の立像あり、登臨参拝するもの跡をたたず。余、ときに所感を賦す。

探勝二月入麑陽、城外已見春色央、好折一枝残梅去、浄光明台吊西郷、翁去三十一星霜、香花不絶骨自芳、回想城山自刄日、何人不起感無量、皇軍海外駆虎狼、功成国威震八荒、当年遺志今始徹、須向墓前挙祝觴、

(景勝をたずねて二月に鹿児島市に入った。郊外ではすでに春もたけなわである。そこでひと枝の残りの梅を折って行き、浄光明台に西郷翁の霊をなぐさめる。翁が世を去ってから三十一年、香花の絶えることもなく、遺骨もまたおのずからかぐわしい。城山に自刃した日を回想すれば、いかなる人も感無量の感慨を起こすであろう。皇軍は海外に虎狼のごとき敵を追い払い、功成って国威は世界の辺境をも震い動かした。当時の遺志がいまはじめて達せられたのだ。当然、墓前に祝いのさかずきをあげなければならぬ。)

 当日また、車を駆りて城外里ばかり、税所子爵の邸を訪問す。夜に入りて更に谷山村に向かう。村内に大谷派説教所あり。これを一過して妙行寺に入る。住職井上才智氏は哲学館出身なり。

 二十日 雨。午前、妙行寺において開会す。同寺の書院に一詩を題す。

堂後閑庭在、隔江対麦田、梅花三四樹、春色満軒前、

(書院のうしろにみやびな庭があり、江水をへだてて麦畑や田と向かいあっている。梅花の樹が三、四本植えられており、春の気配が軒のあたりまでみちみちているのだ。)

 当日、哲学館大学卒業須佐教道氏の訃音に接す。よって弔詩を賦してこれに贈る。

南国花開日、北風伝凶音、四山黒雲起、天暗昼陰々、憶昔晋山暁、翠色映法堂、一夕厳霜下、木落忽荒凉、君曾在吾庠、博得秀才誉、噫天何無情、奪此英魂去、

(南国に花開くの日に、北風が君の死の知らせを伝えてきた。ために四山に不吉な黒い雲が湧きたち、空は暗く昼なお陰々としてものさびしい。おもえばむかし君があらたに住職となったとき、みどりの色が寺院に映えていた。ところがある夜、厳しい霜がおりて、木の葉が散り落ちてたちまち荒涼たる風景となった。君がかつてわが校にあるときは、おおいに秀才の栄誉を得ていたものだった。ああ、天はなんたる無情であることか、このすぐれた魂を奪い去ったのである。)

 須佐氏の寺は群馬県白井村にあり、伝教大師開基の古刹なりという。同氏晋山の際、余ここに登山したることありき。午後、井上氏とともに谷山を去り、微雨をおかして揖宿郡に入り、喜入村〈現在鹿児島県揖宿郡喜入町〉にて開会す。会場は小学校なり。校舎壮大、なかんずく講堂の大なること千人以上をいるるべし。聴衆満堂、すこぶる盛会なり。村長志々目十次郎氏、県会副議長志々目藤彦氏、助役二見八竹氏等、諸事を斡旋せらる。郡書記有馬九郎氏、郡役所より出張あり。宿所は旅店なり。

 二十一日 晴れ。午前、今和泉村〈現在鹿児島県指宿市、揖宿郡開聞町・山川町〉にて開会す。会場は大谷派説教所なり。村長は宅間道心氏にして、校長は隈元満元氏なり。午後、指宿村〈現在鹿児島県指宿市〉に移りて開会す。郡役所所在地なり。郡長は竹下盛隆氏にして、郡視学は日高彦市氏なり。会場は興正寺派寺院にして、宿所は旅館なり。館は海に接し、涛声枕頭にきたる。指宿村長は山口正志氏、助役は田中親省氏なり。その地、海門(開聞)山に近く、池田湖に接し、いたるところ温泉多し。本郡はわずかに五カ村より成る。これまた、他に聞かざるところなり。

 二十二日 風雨、往々雪を飛ばす。寒をつきて鹿児島市〈現在鹿児島県鹿児島市〉に帰る。車行十一里なり。途上、一詩を得たり。

昨夜風涛暁未収、海門山下気如秋、孤村一路傍梅樹、和雪残花点客裘、

(昨夜の風と波はあけがたになってもおさまらず、開聞岳のふもとでは秋のようなおもむきがある。遠くはなれた村の道は梅の木にそって通じ、雪と残りの花が旅ゆく人の皮ごろもに点々とつくのであった。)

 海浜にそって丘山起伏するも、駅路平坦、馬車を通ず。馬車は窓を設けず、風雨のときはズック布をもって包繞す。車中、陰気限りなし。その多くは二重の幕をめぐらし、内幕は赤色の木綿を用い、御者も大抵みな赤帽を着するは一奇観なり。馬車に定期と臨時との二種ありて、定期馬車は時間を確守し、茶亭に休憩するも三十分以上を許さざる等、警察の注意周到なるには感心せり。行人のはだし多きは沖縄県に似たるところあり。民家の床の高くして、床下の空気の流通よろしきは、自然に衛生の規則に合す。家屋に壁なく屋内は戸障子のみなるは、暑中の生活に便なるべし。屋上に煙出しの設置なきは、目のため害あらん。以上は途上傍観のままを記したるなり。

 二十三日 晴れ。午前、高等女学校に至り、生徒のため演説す。校長渋谷寛氏は元福井県視学官たりしときより面識あり。午後、大谷派別院にて発会せる仏教青年会にて演説す。聴衆満堂の盛会を得たり。余、拙作をもって祝詞に代う。

当此人心枯渇天、薩南男子気揚然、汲来本願寺中水、欲潅麑城百二田、

(いまや人心の枯れつきたような時節、薩南男子の意気はあがる。ここに本願寺の水をくんで、鹿児島市二百の田園にそそぎたいと思うのである。)

 来賓としては朝野の紳士ことごとく集まる。管事松見善月氏主幹となり、平川浩然氏これを助けて諸事を斡旋せらる。当夕、城山公園柳月亭において、京北中学出身者にして高等中学造士館内にあるものの懇親会に出席し、晩餐をともにす。会するもの、伊東重三郎、太茂樹、半田孝海、大和田真彦、広田薫、増村嘉雄、粕谷久蔵、大久保一明、峯堅雅、林光遠、掛川清水の十一名なり。余が諸子を戒むる詩に曰く、

一別以来已幾春、麑城相会転相親、請君自愛書窓下、勿使真心触妄塵、

(ひとたび別れてからすでに幾年になろうか、この鹿児島に会合していよいよ親しむ。諸君に請う、どうか自愛して書を窓下に読み、真心をみだりに塵にまみれさせるようなことをするなかれ、と。)

 懐旧の談まさに熟して、興味津々湧くがごとし。亭上の風光また明媚にして、大いにその観を助け、図らずも一夕の清遊を極む。興に乗じて、「柳月元無語、人来自作邸、隅山兼薩海、集在此楼頭」(柳も月ももとより風景をつげるわけはないが、人が来てここに柳月亭なるものを作った。大隅の山波と薩摩の海のふたつながらは、この亭より眺めることができるのだ。)の一詩を賦して楼主に贈る。

 二十四日(日曜) 晴れ。午前、大谷派別院において仏教婦人会あり。死亡者の追弔会を兼ぬ。千頭知事の夫人をはじめ、会員ことごとく集まり、すこぶる盛会なり。午後二時、本派別院において第一および第二中学校生徒のために演説す。その数は千名以上に及び、薩州第一の大堂もまさに満たんとす。別院にては山名立天氏および弓波瑞明氏の配意を煩わせり。四時、大谷派別院に帰り、第七高等仏教青年会のために講話す。

 二十五日 晴れ。午前、師範学校に至りて演説す。校長不在なり。午後、市立女子興業学校にて講演す。校長は黒川澄江氏なり。校舎は矮小なるも、生徒の多きと成績品の美なるとは、つねに外観人をして驚かしむ。余、請いに応じて「心底樹徳、指頭開花」(心の深いところに道徳はすでに成り立ち、故にそのゆび先より生まれる製品はみごとである。)の語を壁上にとどむ。つぎに高等学校に至り、学友会のため演述す。校長岩崎行親氏および教授山田準氏の配意を煩わす。帰路、京北出身の諸子とともに撮影す。当夕は大谷派別院の晩餐会に列す。会主は松見管事なり。

 二十六日 雨。午前、四恩会に至りて講話す。四恩会は市内の真宗信徒の組織にかかる。午後、小学校において講演す。市教育会の依頼に応ずるなり。ついで、興正寺派別院において開演す。報徳会の所望による。同会は陸軍中佐花田仲之助氏の創設せるものにして、その旨趣は修身教会とほとんど同一にして、教育勅語の実践躬行を奨励するにあり。中佐の尽力により、すでにその会は各郡にわたりて開設せられ、もっぱら実行問題を掲げ、毎会会員をして反省遷善せしむる等、他府県におけるこの種の教会の模範とすべきことすくなからず。禰寝栄二氏その幹事たり。興派別院長は田宮忍氏なり。当夕、鶴鳴館において有志諸氏の饗応をかたじけのうす。百瀬武策氏(裁判所長)、篠崎五郎氏、岩崎行親氏、町田実一氏、上村慶吉氏(市長)、沢田重遠氏等二十余名なり。哲学館出身者入部亀治氏も席上にあり。氏は目下、中学校にありて教鞭をとるという。同出身者坂元甲吉氏は再三、大派別院に来訪あり。同郷人坂牧善辰氏は第二中学校長なるも、上京中なるをもって相会するを得ず。

 鹿児島市は風光殊絶、鎮西勝景の一に加えて可なり。城山に登りて桜島と相対する所、呼べばまさに答えんとする趣ありて、なにびとも快哉を呼ばざるはなし。余、七律をもって所観を写す。

吟身漂泊似浮舟、探勝今年入薩州、麑海暮潮揺客思、鶴城朝雨浸春愁、花埋照国社前路、人倚西郷墓畔楼、水色山光何処好、一湾風月在桜洲、

(吟遊の身として漂泊することたよりない浮き舟のごとく、景勝をもとめて今年は薩摩の国に入った。鹿児島湾の日暮れのうしおは旅人の思いを揺り動かし、鹿児島城〔鶴丸城〕の朝の雨は春のものおもいをしっとりとぬらす。花は照国神社まえの道を埋めるように咲きみだれ、人々は西郷墓にいたり、かたわらの楼による。山水の美観はいったいいずれの所がよいのか、おそらくこの湾の風月景勝はすべて桜島にあるといってよいであろう。)

 徳川時代の大名の居城中、麑城〔鹿児島城〕のごとき勝地はまれに見るところなり。余は江州彦根の居城と、肥前唐津の居城と、麑城との三者をもって旧城中の三勝となさんとす。しかして風景の雄壮なるは麑城をもって第一とす。従来、薩州に多く偉大なる人物を出だせるは、この風景あずかりて力ありしとは、余の憶測なり。その詩に曰く、

麑城高処立長風、薩海隅山気象雄、此地由来出人傑、大成明治一新功、

(鹿児島市の高いところ、はるか遠くより吹いてくる風に立てば、薩摩の海と大隅の山のおもむきは雄大である。この風景の地はそのゆえか、むかしからすぐれた人物を輩出し、明治一新の功業を大成したのである。)

 二十七日 晴れ。朝九時、鹿児島市宿坊大派別院を発し、終日馬車に駕し、出水郡に向かう。行程十八里あり。多賀清美氏も同乗す。川内向田町にて日すでに暮るる。阿久根旅館に着せしとき、夜十一時を報ず。疲労はなはだし。途上口占、左のごとし。

客遊今日向隈城、身在梅花香裏行、雨後深渓昼猶冷、不聞鴬語只泉声、

(旅遊の人、こんにち隈之城村にむかい、身を梅花の香りにつつまれるようにして行く。雨の後の深い谷間は日中にもかかわらず冷気がただよい、鴬の声もせずただ泉流の音のみが聞こえてくる。)

一路松風払曙氛、馬蹄穿破薩山雲、武陵渓上無人処、梅白菜黄春十分、

(路上の松風はあけぼののもやを吹きはらい、わが馬のひづめは薩摩の山と雲をふみ破るように進む。理想郷と伝えられる武陵を思わせる谷のほとりに人の住むようすもなく、梅は白く菜は黄の色彩も鮮やかに春たけなわといった観がある。)

 梅花と同時に菜花を見るは薩州の一奇なり。途中、林巒起伏、駅路高低、往々隧道を通過す。橋梁はみな石をもってつくる。一里ごとに里程を刻したる石標あり。

 二十八日 晴れ。朝、阿久根を発し、寒風をたちて上出水村〈現在鹿児島県出水市〉に向かう。いたるところ松竹丘山をおおう。

駅路一条傍電標、松風竹雨響蕭々、仙郷自有福田在、出水村頭植法苗、

(村をつなぐ道がのび、かたわらに電柱が立ち並び、松風と竹にふる雨の音はものさびしい。仙人の住む里にはおのずから福徳をもたらす素地があるのであり、この地こそまさにそれと思われ、出水村のあたりに仏法の苗を植えたのである。)

 午後、武本西照寺において開会す。聴衆満堂。当地は出水郡衙のある所にして、小都会をなす。郡長肝付忠一氏、村長志賀真一郎氏、二宮政徳氏、岩永亀一郎氏、富山辰彦氏、桐野八寿氏等尽力あり。本夕、渋谷高等女学校長と同宿す。

 三月一日 晴れ。下出水村〈現在鹿児島県阿久根市〉字脇本西徳寺にて開会す。住職は大草唯妙氏にして、村長は川俣宗愛氏なり。肝付郡長もここに来会せらる。当夕、漁船に駕し、海路阿久根〔村〕〈現在鹿児島県阿久根市〉に入る。宿所は明信寺にして、斎藤実恵氏その住職たり。

 二日 風雨。午前、小学校において開会す。村長は白浜貫以氏なり。光接寺住職太田周教氏の訪問あり。午後、馬車を駆りて薩摩郡に向かう。勁風霰を巻きてきたり、沿岸の佳景も見ることを得ず。川内より更に馬車を改めて上東郷村〈現在鹿児島県薩摩郡東郷町〉に入る。ときに夜九時なり。

 三日(日曜) 晴れ。午前、某寺にて開筵せる仏教青年会に出演して、再び隈之城村〈現在鹿児島県川内市〉字向田町に至る。一名、川内という。鹿児島市に次ぐべき都会なり。午後、隈〔之〕城小学校において講演し、薩摩郡川内教育会の依頼に応ず。ついで茶話会あり。郡長有馬要之助氏不在なり。中学校長永山時英氏、教育会長二方兼一氏、郡視学米田嘉十郎氏、郡書記重孝吉氏、小学校長鮫島岩熊氏等と相会す。宿坊は光永寺なり。菅深明氏これに住す。前住職菅了法氏は余の旧友たり。先年、前田〔慧雲〕博士ここに滞留し、壁上に題せられし詩あるを見て、次韻を試む。

江上春風払衣斜、晩投太平橋畔家、故人已去灯影寂、只喜酒殽満舟車、酔後思君眠未熟、雁声和夢度天涯、

(川内川のほとりにふく春風は袖を斜めにして抜けてゆく。夜になって太平橋のかたわらの宿坊に身を寄せた。古くからの知り人はすでにこの地を去って灯かげもわびしく、ただ酒と肴とが円卓に豊かであるのをめでるのみである。酔ってのちも君を思って眠りも浅く、かりがねの声とともに夢は遠く天のかなたへとわたってゆくのであった。)

 川内川に駕したる太平橋は県下第一の大橋と称す。菅了法氏は江州彦根の仏教中学校長たり。春来帰山して余の来遊を待ちおりしも、急電に接して帰任せりとのことなれば、これを詩中に入るる。

 四日 雨。午前、光永寺において開演す。仏教青年会の依頼なり。午後、入来村〈現在鹿児島県薩摩郡入来町〉宇副田に移りて開会す。薩摩郡祁答院教育会の主催にかかる。会場は浄国寺とす。池田盛光氏その村長たり。樋脇村土屋猪満太氏、諸事を斡旋せらる。この地温泉あり、昨今浴客最も多し。

 五日 晴れ。佐志村〈現在鹿児島県薩摩郡宮之城町〉字広瀬極楽寺にて開会す。同じく祁答院教育会の発起なり。会後、茶話会あり。村長向井正七郎氏、校長三浦金之助氏、有志者林吉之助氏等、大いに尽力せらる。

 六日 晴れ。朝、佐志を去りて姶良郡に向かう。霜白く風寒し。永野村に一休す。これより山路にかかる。金鉱この間にあり、これを金山と称す。道路悪くして馬進まず、よって歩行すること約二里、午後四時、ようやく横川村〈現在鹿児島県姶良郡横川町〉に達す。途上所見、左の如し。

温酒暁天辞客亭、風寒馬上酔将醒、梅花挟水半渓白、松樹擁山一道青、習学童攀樵径上、読書声隔竹林聴、孤村却喜民情厚、徳自成隣人自馨、

(酒を温めてあかつきに旅館を出たが、風は冷たく、馬上での酔いもさめてしまいそうだ。梅の花が川をはさんで咲きほこり、谷の半ばを白く彩って、松の樹が山々をおおう中でひとすじの道までが青く見える。学童らが細いきこり道をのぼり、本を読む声が竹林をこえて聞こえてきた。ぽつんと孤立したような村にはかえって喜ばしい厚い人情があり、『論語』に有徳者には必ずよい隣人があるというように、徳のある人々がいて、その人柄にはおのずと香り高いものがある。)

 横川の会場は光雲寺にして、住職は山崎慧日氏なり。村長は上野廉行氏にして、校長は下島平八氏なり。郡書記市来政臣氏来会せらる。

 七日 晴れ。汽車にて栗野に降車し、更に馬車にて伊佐郡大口村〈現在鹿児島県大口市〉に移る。村長平井省氏と同行す。途上、霧島山の眺望雄大にして、客懐を散ずるによろし。

汽声一笛被霜風、霧岳横天地勢雄、三月寒村春色浅、桃唇猶未点微紅、

(汽笛一声、霜をふくむ風の中を走る。霧島山は天をさえぎるように、大地からのび上がる姿は雄大である。三月のさむざむとした村には春の気配もあわく、桃の花芽にはなおいまだにかすかな紅もおびていないのである。)

 宿坊は大谷派説教場にして、会場は小学校なり。郡長大山綱任氏、郡書記本田親喜氏、郡視学大井藤助氏等、郡内の開会に尽力あり。開会は数カ村合併の発起なり。

 八日 晴れ。大山郡長とともに腕車にて東太良村〈現在鹿児島県伊佐郡菱刈町〉に移りて開会す。村長は松崎正雄氏なり。会後、茶話会あり。会場宿所は覚誓寺なり。ときに沢田事務官の非職を聞き、詩を賦してこれに贈る。

投身劇職不辞煩、官察過労養六根、我窃待君栄転日、挙杯欲酌未開樽、

(みずから激職に任じて、わずらわしい仕事を引き受けられていたので、役所では君の過労を考えて心身を養生させたのである。私は心に君の栄転の日を期待して、杯をあげ酒をくみたいと思うのだが、確実に任官されるまではとまだ酒樽をあけずに待っているのだ。)

 県下の巡回に関しては沢田氏の尽力ただならず、深くその厚意を謝せざるを得ず。

 九日 晴れ。早朝、東太良を発し、栗野より汽車に駕し、姶良郡国分村〈現在鹿児島県国分市〉に至りて開会す。国分ほか七カ村の発起なり。山内甚之進氏等、斡旋の労をとらる。午後、加治木村〈現在鹿児島県姶良郡加治木町〉に移り、性応寺にて開会す。住職阿満法顕氏の主催なり。井上才智氏および衛藤助治氏ここに来会す。当寺は南朝遺跡の古刹にして、近年紀州より移転せりという。山号を桜樹山というを聞きて、「桜樹山辺寺、偶来解客装、南朝遺跡在、今日徳猶芳、」(桜樹山の山号をもつ寺に、おもいもよらず立ち寄って旅装をとくことになった。南朝の遺跡もなおあり、こんにちにおいてもその恩徳はかおりたかい。)の句を賦呈す。

 十日(日曜) 晴れ。午前、中学校において講演す。加治木教育会の依頼なり。中学校長相良三之助氏、郡視学枝次正春氏等の尽力あり。井上、衛藤両氏とともに鹿児島市を経て桜島に渡る。平川浩然氏と同行す。会場は西桜島村〈現在鹿児島県鹿児島郡桜島町〉小学校なり。村長の尽力により比較的多数の聴衆あり。当夕、市に帰りて泊す。

 十一日 雨。朝八時、大谷派別院を発して日置郡に向かう。伊集院を経て吉利村〈現在鹿児島県日置郡日吉町〉に至る。行程八里、泥路進み難く、午後三時ようやく着す。会場は清浄寺なり。住職中江信順氏、哲学館出身松尾徹外氏、村長穪寝弥八郎氏、校長村山弥之助氏等、大いに尽力あり。郡視学川畑佐吉氏来会せられ、郡役所にては特に郡書記遠矢良敬氏をして同行せしめらる。

 十二日 晴れ。伊作村〈現在鹿児島県日置郡吹上町〉に移り、大谷派説教所にて開会す。仏教青年会の主催なり。説教所長保木徳雄氏、村長池田源五左衛門氏、助役篠原政行氏等尽力あり。宿所は有志家中島信行氏の宅なり。

 十三日 晴れ。午後、阿多村〈現在鹿児島県日置郡金峰町〉助役花房兼礼氏、校長井上伊和熹氏の案内にて、同村に立ち寄りて演説し、午後、更に東加世田村長勝田為成氏の案内にて万瀬川を渡り、川辺郡に入り、東加世田村〈現在鹿児島県加世田市〉顕証寺において開演す。修身教会の発会式なり。聴衆、堂にあふる。勝田村長、大いに尽力あり。住職藤等影氏、校長有馬孝一郎氏等も助力せらる。郡長甲斐田毅氏、郡書記丸野邑二氏とともにここに歓迎せらる。当日途上の所見は左のごとし。

桃源一路午風暄、人過菜花香裏村、万瀬江頭時駐馬、汲来法水潅仙園、

(俗世間からはなれた別天地への道はまひるの風もあたたかく、人は菜の花の香りにつつまれた村にたちよる。万瀬川のほとりにおりしも馬をとどめ、仏法という水をくんでこの仙界の園にそそごうというのである。)

 また、いたるところ桜桃並び開くを見て、「夜来風雨過、春暖一時催、満地梅花落、桜桃到処開」(昨夜からの風や雨もやんで、春の暖かさが一度にもたらされた。地をおおわんばかりに梅の花が散り、山桜桃〔ゆすらうめ〕がいたるところに花をひらいている。)の句を得たり。夜に入りて、甲斐田郡長とともに加世田村〈現在鹿児島県加世田市〉に移る。郡衙所在地なり。県会議員鮫島慶彦氏の宅に宿す。宅、美にしてかつ大なり。有志者数名の歓待をかたじけのうす。

 十四日 晴れ。午前、高等小学校講堂において開演す。校舎の位置および構造、ともに他の模範とするに足る。村長吉峰林氏をはじめ、校長等有志諸氏、大いに尽力せらる。大谷派説教所長坂上章薫氏も助力あり。午後、東南方村〈現在鹿児島県枕崎市〉有志久木田早苗氏の案内にて、同村字枕崎に移る。日すでに暮るる。その地、外海に面す。夜に入りて開会す。会場は西方寺なり。住職朝倉悦言氏、称讃寺戸田辰雄氏、役場、学校職員等の尽力あり。郡役所の厚意にて、郡書記前田鉄夫氏をして郡内を随伴せしめらる。

 十五日 晴れ。枕崎は婦人、物を頭上にいただく。琉球の風に似たり。午後、川辺村〈現在鹿児島県川辺郡川辺町〉にて開会す。会場は大谷派説教所なり。当村に中学校あり、池田貞雄氏その校長たり。村長は高良林蔵氏なり。説教所長は川辺開善氏にして、ともに尽力せらる。再び甲斐田郡長に相会す。

 十六日 雨。歩行して山嶺をこえ、知覧村〈現在鹿児島県川辺郡知覧町〉に移りて開会す。午前は報徳会の主催にて、学校において開き、午後は有志の発起にて大谷派説教所において開く。村長佐多敬一郎氏、説教所長武宮持氏等尽力あり。午後四時、知覧を発し、行程八里、山路高低曲折あり。夜十時、鹿児島市に着す。寒風微雪を交ゆ。当夜、大派別院において松見管事主人となり、沢田重遠氏に対し、送別の意を表す。

 十七日(日曜) 晴れ。別院を去りて汽船に上る。町田、松見両氏をはじめ、市中の有志数名、余を送りて埠頭に至る。また、仏教青年会員の送行あり。今回、鹿児島市滞在は前後三回にして、その都度大派別院に入宿し、松見管事の厚意をになうことすくなからず。埠頭にて文部省視学官野尻精一氏に面会す。また、船上にて花田中佐と同乗す。午時、肝属郡大根占村に上陸し、更に腕車を駆りて小根占村〈現在鹿児島県肝属郡根占町・田代町〉に至りて開会す。会場は神山小学校にして、村長坂田省三君、校長西本清行氏等の主催なり。郡視学鹿子木義明氏ここにきたり会し、郡内各所へ案内を約せらる。

 十八日 晴れ。勁風高浪をおかし、鹿子木視学とともに汽船に上る。行くこと二、三里にして船首波に浴し、危険にして進むあたわず。逆行して山川港に向かい、指宿村字十二町に着す。当日は肝属郡花岡村開演の約なるも、天災の報を発して客楼に臥す。不幸かえって幸いとなり、半日温泉に浴して休養するを得たり。乗船寺住職藤岡道竜氏の来訪あり。宿所は大村旅館なり。当日の実況を詩をもって記す。

根占湾頭上客船、狂風捲浪檣欲顛、人力難抗天力猛、転航路来向山川、十二街頭尋客舎、先発電信花岡伝、欲祝此身幸無恙、三杯買酔臥温泉、

(根占湾で上船、出航したのであったが、荒れ狂う風は波をまき上げ、帆柱も吹きたおされそうであった。人の力では自然のたけだけしさにはさからいようもなく、航路をかえて山川港に向かったのである。十二町で旅館をさがし、まず電報を打って花岡村に行けない事情を知らせた。この身が幸いにして無事であったことを祝いたいと、酒杯を重ね、酔いをもとめて温泉の宿に休養したのであった。)

 十九日 晴れ。風波平穏に復す。すなわち汽船に駕して古江に上陸し、更に馬車を駆りて垂水村〈現在鹿児島県垂水市〉に至る。途上、桜峰の蓮葉の形をなして中天にかかるを見る。

肝属湾頭一路通、桃花擁屋半村紅、春煙断処桜峯聳、疑是芙蓉懸碧空、

(肝属湾にそって一路が通じ、桃の花が家屋をかこって、村の半ばは紅色に彩られている。春霞の切れたところに桜島の峰がそびえたち、その姿ははすの花が青空にかけられているかと思われた。)

 垂水会場は小学校にして、宿所は有志家の居宅なり。村長宮原景吉氏をはじめとし、町田、海老原諸氏のごとき役場員および学校職員等尽力あり。

 二十日 晴れ。午前、花岡村〈現在鹿児島県鹿屋市〉に至りて開会す。村長は伊藤民十郎氏なり。会場は浄福寺にして、住職藤園隆観氏は哲学館大学卒業野崎行満氏の実父とす。開会は天災のために延期したるも、意外の盛会を得たり。午後、鹿屋村〈現在鹿児島県鹿屋市〉に移る。これ郡役所所在地なり。郡長不在なるをもって、郡書記石踊叶十氏代わりて尽力せらる。当日は報徳会の会日にして、花田中佐とともに演説す。会場は小学校なり。この地に県立農学校あり。校長山田登代太郎氏は余と同県なり。

 二十一日 雨。肝属原野を横ぎりて囎唹郡に入る。平原十里に連なる県下第一の曠野なり。大崎村〈現在鹿児島県於於郡大崎町〉小学校において開演す。校長前田甚助氏、有志日高正健氏等の主催にかかる。午後、〔東〕志布志村〈現在鹿児島県曽於郡志布志町〉金剛寺において開演す。囎唹郡視学村尾武経氏、ここに出でて迎えらる。哲学館出身藤本覚譲氏も鹿屋以来同行せらる。金剛寺は県下大寺巨刹の一なり。住職は暉峻普瑞氏にして、目下、教会堂新設の計画あり。副住職はもと京北中学校の卒業なり。村長は河野通二氏にして、校長は樺山源八氏なり。湾内の風光また賞詠に適す。

 二十二日 雨。村尾視学とともに松山村〈現在鹿児島県曽於郡松山町〉に至りて開会す。会場は小学校にして、婦人会の主催なり。村長は中島貞武氏にして、校長は野田林氏なり。当夕、〔東〕志布志に帰り、金剛寺において更に開演す。滞在中の拙作一首あり。

志布湾頭有梵城、背山面海仏光清、潮風送雨暁窓暗、経唄声和怒浪声、

(志布志湾のあたりに寺院が建ち、山を背後に海に向かってみほとけのお姿もきよげである。潮風が雨を運んできて、あかつきの窓べを暗くし、読経とはげしい波の音がまじり合って聞こえてくる。)

 二十三日 晴れ。これより鹿児島県をおわりて宮崎県に入る。哲学館大学卒業弘中兼善氏、宮崎よりきたり、秦法顕氏に代わりて随行す。

 鹿児島県は日本国中、一種特別の国と称して可なり。言語、風俗、人情とも、大いに異なるところあり。言語にその県の語と普通語との二種の別を設くるは沖縄県に同じ。普通語とは日本普通の語の意味にて、小学校にて用うる語をいう。風俗、人情に関してはあるいは粗野の評を免れ難きも、淳良質素の風に富めるは、大いに称揚せざるを得ず。しかしてその性質は美術の思想、技芸の才能に乏しく、感覚の敏穎を欠くがごとき風あるも、山はおのずから崔嵬、人はおのずから雄大なるの趣ありて、勇壮快達はその長所たり。換言すれば、軍人風にして実業的にあらず、また、士族と平民との懸隔のはなはだしきは他府県に見ざるところなり。

 教育に至りては内容のいかんは推測し難きも、中等教育の志望者のおびただしきと、学校設備の往々壮大なるものあるとは、人をして驚かしむ。ことに各小学校に大抵講堂の設あるは、他府県に比類なきところなり。宗教につきては神仏二教並び行わるるも、宗教としての勢力は仏教にあり。仏教も八家九宗並び行わるるにあらず、真宗ひとり全勢力を占有す。これ、数百年間真宗はヤソ教と同様に厳禁せられし反動なりという。この厳禁の際、よく真宗の法脈を断たずして、これを秘密に相続せり。その役に当たれるものを番役という。万死に一生を賭してその法を密伝せりという。これに関する美談すこぶる多し。その事跡を明らかにして、宗門信仰の一大亀鑑として可なり。民間の迷信の比較的少なきも、真宗隆盛の結果なるべし。

 鹿児島県人の気風を一括すれば、質朴にして真面目なり。なにごとにも思い切りよく、グズグズせざる風あり。あるいは頑強の気味ありと評するものなきにあらざるも、その強情なるところにおのずから長所あり。また、ノンキに過ぐる風なきにあらざるも、ハイカラ風、生意気風の少なきは大いに称すべきところなり。かかる美風が今後他県と交通頻繁なるに至らば、あるいは一変するの恐れなきにあらず。これ、今より修身教会の旨趣を普及して、予防を講ずる必要を感ずるゆえんなり。県下開会の統計表、左のごとし。

 

 市郡    会場      席数   聴衆     主催

鹿児島市  高等女学校    一席  四百人    高等女学校

同     西本願寺別院   一席  千人     第一、第二中学校

同     第七高等学校   一席  七百人    高等学校学友会

同     師範学校     一席  五百人    同上

同     高等小学校    一席  三百人    市教育会

同     女子興業学校   一席  三百人    同上

同     興正寺別院    一席  六百人    報徳会

同     東本願寺別院   一席  千百人    仏教青年会

同     同        一席  八百人    婦人会

同     同        一席  六百人    造士館青年会

同     四恩会場     一席  二百人    四恩会

鹿児島郡  谷山村小学校   二席  三百人    村内有志

同     同村寺院     一席  三百人    寺院

同     西桜島村小学校  二席  五百人    村内有志

揖宿郡   喜入村小学校   二席  七百人    村内有志

同     今和泉村教会所  二席  四百人    同上

同     指宿村教会所   二席  五百人    同上

川辺郡   加世田村小学校  一席  五百人    村内有志

同     東加世田村寺院  二席  六百人    同上

同     東南方村寺院   二席  四百人    同上

同     川辺村教会所   二席  五百人    同上

同     知覧村小学校   一席  五百人    同上

同     同教会所     一席  四百人    同上

日置郡   吉利村寺院    二席  五百人    同上

同     伊作村教会所   二席  五百人    村内青年会

同     阿多村寺院    二席  三百人    村内有志

薩摩郡   隈之城村小学校  二席  五百人    川内教育会

同     同寺院      一席  三百人    同上

同     入来村寺院    二席  三百人    祁答院教育会

同     佐志村寺院    二席  四百人    同教育会

同     上東郷村     一席  三百人    村内青年会

出水郡   上出水村寺院   二席  七百人    村内有志

同     下出水村寺院   二席  四百人    同上

同     阿久根村小学校  一席  三百人    同上

伊佐郡   大口村小学校   二席  四百人    各村連合有志

同     東太良村寺院   二席  三百五十人  同上

囎唹郡   東志布志村寺院  二席  五百人    村内有志

同     財部村寺院    二席  五百人    同上

同     同小学校     一席  四百人    同上

同     大崎村小学校   一席  二百人    同上

同     松山村小学校   二席  三百人    同上

同     末吉村小学校   一席  二百人    同上

同     同寺院      一席  二百人    同上

姶良郡   加治木村中学校  二席  四百人    教育会

同     同寺院      二席  百人     寺院

同     国分村小学校   二席  四百人    各村連合有志

同     横川村寺院    二席  三百人    村内有志

肝属郡   鹿屋村小学校   二席  四百人    報徳会

同     小根占村小学校  二席  三百人    村内有志

同     垂水村小学校   二席  四百人    同上

同     花岡村寺院    二席  四百人    同上

 合計 一市、十郡、三十四カ村、五十一カ所、八十席、二万二千二百五十人