妖怪学講義 宗教学部門

第一講 幽霊編

 

 

第一節 宗教上の妖怪

第一講 幽霊編

第一節     宗教上の妖怪

第一講 幽霊編

 

 

第一節 宗教上の妖怪


これより「宗教学部門」に入りて、 幽霊、 鬼神等のなにものなるやを説明せざるべからず。そもそも幽霊、鬼神は、通俗の妖怪中の最大妖怪にして、実に怪物の巨魁というべし。宗教は、すなわちその妖怪物の宿るところなれば、これを指して妖怪の本城となすも不可なし。ゆえに、そのよって起こる道理をつまびらかにせざれば、世の仮怪を一掃すること難し。在昔、孔子は「怪力乱神を語らず」といわれたるに、予がごとき浅学の者、天地間の大怪たる幽霊、鬼神を論ずるは、孔子もしいまさば、一声の下に呵責し去るはもちろんなりといえども、時勢の変遷の今日ありては、またやむを得ざるなり。 

 およそ世に幽霊、鬼人を信ずるものと、信ぜざる者あり。信ずるものは、古来の伝説、経験について実例を挙げ、もってその存在の確実なることを証し、これ人の精神、 神経作用より製造せるものにして、実体あるにあらずという。そのうち、 信ぜざるものの例証に引きたるものにおもしろき談多ければ、いま二、三を挙げて本講の冒頭に掲げんとす。まず、司馬江漢が『春波楼筆記』に左のことを載せたり。


 今より四十年以前のことなり。六郷の川上に毬子の渡りあり。すなわち、まりこ村なり。ここより二十町余行きて、郷地という所の染物屋の亭主は、かねて予に画を学びて弟子なり。九月の末、われをともないて郷地に至る。翌日は雨降りて四、五日も滞留す。そのとき五、六町かたわらに、江戸よりきたりおりける者とて手習いの師匠あり。 主人と二人連れして、かの師匠の方へ行きける。夜に入りて帰る。その道、盥山洗足寺という寺あり。 これはいにしえ、神祖源君公ここを御通行のとき、老婆の衣類をせんたくしけるを御覧じ、その寺号をおつけなされしとぞ。珍しき名の寺なり。その日の暮れ方、この寺に葬礼ありという。そのことも知らず夜半ごろ、染屋主人と二人通りかかりしに、その寺の門前とおぽしき所に、白き衣服を着けたるものの、腰より下は地よりも離れ、あなたこなたと動くものあり。世にいうところの幽霊なり。われも若年にて、このようなるもの今まで見たることなし。はなはだおそろしく思いけるが、その近辺に酒屋あり。寝入りたるを戸をたたき起こしければ、酒屋六尺棒を手に持ち、「イザござれ、世に化け物のあらんや」といいて、先に立ちて行く。あとよりオズオズしてつきてゆき見れば、葬礼のとき、紙にて造りたるのぽりの、木の枝に掛かりたるなり。葬礼のとき、のぼりの木に引き掛けたるを、そのままにして置きける。昼もこの寺の前は、樹木茂り薄ぐらき所なり。ことさら夜分ゆえ、はなはだあやしく見えしもことわりなり。


また、 東江楼主人の『珍奇物語』初編上に幽霊談を載せたり。


 往古より日本にても、 西洋にても、 冤鬼あるいは妖怪の説ありて、 人も往々これを見しなどというものも最も多けれども、 これもみな、  誑惑癖をなすの妄念より出ずるか、 あるいは夢か、 あるいは戯造か、 さもなければ暗夜に墓地などを経過ぐるとき、 恐怖のあまり一像を思い出だすかによるものにて、 決して真の怪しきものあるべき理なし。ここに一つの奇談あり。某地の野外に土橋ありけるが、 この辺りは人家もなく最もすさまじき所ゆえ、往古よりこれを幽霊橋と唱え、 雨夜には幽霊の出でしこと、 往々ありしなどいい伝え、雨夜にはだれあってここを過ぐる者もなかりしが、ある人よんどころなき用事ありて、雨夜にこの橋を渡り、ものすさまじく思いし折から、たちまち向こうより頭長く、 体には毛のごとき白衣を着たる奇怪物現れ出でて、 急にわが方へ襲いきたるの様子ゆえ、 もはやのがれんとするもかなうまじ、 むなしく彼に食わるるより、むしろ力の及ぶ限り防ぐべし、 あしき妖怪の所業なりやとひとりささやき、 諸手を抜き、 不意に躍りかかりてむずと組み付きければ、 妖怪は驚きたる様子にて大いにさけび、 互いに押し合いけるが、 妖怪はあやまちて足を踏み外し河中に落ちたり。 ゆえに人はとく走りて家に帰り、 大いに誇りていう、「われ今、 かの幽霊橋にて妖怪に出あい、 すでに食われんとせしが、 われ、  わが力に任せて河中に投げ込みたり」いまだはなしも終わらざるうちに、 外より一人びっしょりぬれて入りきたり、 色青ざめ声震えていうに、「いま余、 かの幽霊橋を通りかかりければ、 妖怪不意に飛びかかりしゅ え、 余も大いに驚きたれども、 なんぞ恐るるに足らんと暫時は組み合いしが、なかなか敵し難くついに河中に投げ込まれ、 危うき命を助かりたり」と物語りす。ここにおいて、初めてその妖怪にあらず、かえってわが朋友なることを知れり。もし両人ここにてあわずんば、互いに鬼となし怪となして、人また人にこれを伝えん。


また、 ある臆病なる武士あり。 夜中ものすごき道を帰りければ、 傍らの籬上より、 首の長き頭の巨なる妖怪、 人に向かいて動揺する状なり。  かの武士大いに驚き、 ただちに長刀を引き抜き、 躍りかかって切り付けたれば、 巨頭は真っ二つに断たれて地に落ちたり。 ゆえにはしりて家に帰り、 大いに誇りていう、「今、 われ某地において妖怪をきりしが、 手にこたえてたおれたり」と。  翌日、 朋友を伴いその地に至り見れば、  ひょうたんの二つに断たれて地に落ち、 半分はなお籬上に掛かりいたり。  これを見て、  かの武士は大いにはじ、初めて妖怪にあらざることを知りたりと。  これも、 もし翌日ゆきて見ざれば、 鬼となし怪となすこと疑いな し。 およそ世の冤鬼、  妖怪というものも、  その源を探究れば、  大抵みなこれらの類なるべし。  この世界中にかならず理外の事のあることなし。  また実体なきものにして、  わが耳目に触るるものなし。

また、  鬼神の有無について、「六橋紀聞」に掲げたる一話あり。


喜七者日田人也、以其主命、使肥前田代、前此、喜七逢筮者今年吉凶、曰不西方、至是有西之事、喜七大懼、母禱神、妻祭仏、悌泣歎息、訣飲以為永別、既而出、数里至関邨、会有戯場、入而観焉、既出則日虞泉、暮色蒼然、乃過酒店頻浮太白、陶々而行、自関至志波、山高谷深、樹木鬱然、俗伝為魔処、時月色朦朧、一線曲逕、模糊難分、思筮者之言、懼魔処之名独行悄々、心如懸旆、乃奮然自思、身是男児、且帯一刀、雖妖怪、何畏之有、攘臀以進、忽覚陰風颯然、有物隠見於樹間、近而視之、一婦人也、以為魔也、抜刀撃之、砉然一声視之石也、驚而仆地、聞人呼己名、開眼望之、見一僧端厳美麗、立其頭畔、身発金光、皎如明月、以為此仏菩薩也、叩頭求命、僧曰、善哉喜七、汝危於風前之灯、吾若須央不来、汝殆罹 鬼吻、探懐出一丸、使之、香気馥郁、精神頓爽、僧曰盍其創 、視之則右手被創、鮮血淋漓、僧使之収刀拭血、命之前行、喜七慄慄而行、僧捻珠誦呪、自後随之、数里始出大路、僧将別去日、汝至甘木、須医某其家蔵奇薬、可以愈一レ創、喜七拝曰、既済死地、又示生路、莫大之恩、豈敢忘之、願聞尊師居所、僧曰、我棲於関邨辺者也、言畢不見、 乃至甘木医、話夜来之由、医驚歎曰、 我畜此薬也久、莫之、子之創、非金創 亦非荊棘所一レ知破、実妖怪之為也、此非常薬所能治、故仏教之也、出薬塗之、帰路復過関邨、見地蔵立於路傍、宛然夜中所見也、喜七感仏之現霊 則話之、遠近聞之、扶老携幼、野者如雲、又誇人曰、我殆為怪物所害、頼仏力得活、又云、一丸之奇香甘味、経月不于口中矣、或曰、関邨有医師元遂者、白晢美秀而円頂、嘗語人曰、夜過路上、見一人臥一レ地、近而視之、酒臭薫人、持刀而倒、右手朱殷、似刀傷、偶齎丸薬、与之一丸、送之於大路而帰、又其邨有夫婦相鬩、婦独行帰父家、逢賊而窘云、所逢婦人蓋是也、由是観之、嚮之所逢者、皆酔眼模糊之所致、而托諸霊異耳、世之説霊験者、皆如此矣。 


(喜七なる者あり。日田の人なり。その主命をもって肥前の田代に使いす。これより前、喜七、筮者に逢って今年の吉凶を筮す。曰く、「西方に利あらず」と。ここに至って西にゆくのことあり。喜七大いにおそれ、母は神に祈り、妻は仏を祭り涕泣嘆息し、訣飲してもって永別をなし、すでにして出ず。数里にして関邨に 至る。たまたま戯場あり、入りてみる。すでにして出ずればすなわち日虞泉、暮色蒼然たり。すなわち酒店を過ぎ、しきりに太白を浮かべ、陶々として行く。関より志波に至る。山高く谷深く、樹木鬱然、俗に伝う魔の所なりと。ときに月色朦朧一縷の曲逕、模糊として分かち難し。筮者の言を思い、魔所の名をおそる。ひとり行くこと悄々として心懸旆のごとし。すなわち奮然として自ら思う、「身はこれ男児、かつ一刀を帯ぶ、妖怪ありといえども、なんのおそれかこれあらん」と。臂をはらってもって進む。たちまち陰風の颯然たるを覚ゆ。物あり樹間に隠見す。近づきてこれを見れば一婦人なり。もって魔となし、刀を抜きてこれをうつ。砉然一声これをみれば石なり。驚きて地にたおる。人の己の名を呼ぶを聞き、目を開きてこれを望めば、一僧の端厳美麗にして、その頭のほとりに立つを見る。身に金光を発し、皎として明月のごとし。おもえらく、「これ仏菩薩なり」と。叩頭して命を求む。僧曰く、よいかな喜七、なんじが命は風前の灯よりも危うし。われもし須臾にしてきたらずんば、なんじはほとんど鬼吻にかかる」懐を探して一丸を出だしこれを服せしむ。 香気腹郁、精神とみにさわやかなり。 僧曰く、「なんぞそのきずをみざる」と。これをみれば、すなわち右手きずを被り鮮血淋渦たり。僧これをして刀をおさめ血をぬぐい、これに命じて前行せしむ。喜七、慄々として行く。僧、珠を捻じ呪を誦し、後ろよりこれに従う。数里にして、はじめて大路に出ず。僧まさに別れ去らんとす。曰く、「なんじ甘木に至り、 すべからく医の某を訪うべし。その家奇薬を蔵す、もってきずを癒やすべし」と。喜七拝して曰く、「すでに死地をすくわれ、また生路を示さる。莫大の恩、あにあえてこれを忘れんや。願わくば尊師の居所を聞かん」僧曰く、「われは関邨の辺りにすむ者なり」と言いおわって見えず。すなわち甘木に至って医を訪い、 夜来の由を話す。 医、驚嘆して曰く、「われこの薬を蓄うるや久しきも、これを知るものなし。子のきずは金創にあらず、荊棘の破るところにあらず、実に妖怪のしわざなり。これ常薬のよく治するところにあらず。ゆえに仏、これを教うるなり」と。薬を出だしてこれに塗る。帰路また関邨を過ぎ、地蔵の路傍に立つを見るに、宛然として夜中に見る所なり。喜七、仏の現霊を感じ、人に逢えばすなわち話す。おちこちこれを聞き、老いをたすけ幼を携え、賽する者雲のごとし。また人に誇って曰く、「われ、ほとんど怪物の害するところとなる。仏力によりていくることを得たり」またいわく、「一丸の奇香、甘味、月を経て口中に減ぜず」と。あるいは曰く、「関邨に医師元遂なる者あり。 白皙美秀にして円頂」かつて人に語って曰く、「夜、路上を過ぐるに一人の地に臥せるを見る。近づいてこれをみるに、酒臭人に薫ず。刀を持して倒る。 右手朱殷なり。刀傷を被るものに似たり。たまたま丸薬をもたらしてこれに一丸を与え、これを大路に送りて帰す。またその邨に夫婦相せめぐものあり。 婦ひとり行きて父の家に帰り、賊にあってくるしめらる。逢うところの婦人はけだしこれなり。これによりてこれをみれば、さきの逢うところのものは、みな酔眼模糊のいたすところ、しかしてもろもろの霊異に託するのみ。世の霊験を説くもの、みなかくのごとし」)


依田〔学海〕氏の『譚海』中にも左の一話を出だせり。


丘隅(田中丘隅、武蔵八王子人、)嘗訪岳母病、買鰭魚一口、携過山路、見罾羅雉子、喜曰、魚肉不鳥肉、余且代之、乃置魚於罾、取雉而去、猟夫後至、驚曰罾中有魚、大奇、大奇、与其徒謀曰、得神憑一レ之乎、召巫問之、巫故張大其事、愚民信焉、飼魚於瓶、聚貨建祠、既而風雷大興、里民震駭、巫益脅以神異曰、不享祀、将以大害爾民、民益恐、請巫祀之、既有期矣、丘隅聞之謂村民、僕有小術、能鎮神瞋唯我所為是視、乃夜往毀祠取魚、折其材薪、炙而食之、村民大驚、皆咎丘隅、丘隅因告其故、且笑曰、世称神者多此類、神豈足信乎

( 丘 隅(田中丘隅は武蔵八王子の人)、かつて岳母の病を訪うに、鰭魚一口を買い、携えて山路を過ぐるに、あみに雉子のかかるを見、喜びて曰く、魚肉は鳥肉にしかず、余しばらくこれに代えん」と。すなわち魚をあみに置き、雉を取りて去る。猟夫後に至り、驚きて曰く、罾中魚あり。大いに奇なり、大いに奇なり」と。その徒とはかりて曰く、「神これに憑るにあらざるを得んや」と。巫を召してこれに問う。巫ことさらにそのことを張大にし、愚民信ず。魚をかめに飼い、貨を集めて祠を建つ。すでにして風雷大いにおこり里民震駭す。巫ますます脅かすに神異をもって曰く、「 享祀をさかんにせずんば、まさにもって大いになんじの民を害せんとす」と。民ますます恐れ、巫に請うてこれをまつる。すでに期あり。丘隅これを聞きて村民にいいて曰く、「僕、小術あり、よく神のいかりをしずめん。ただわれのなすところをこれみよ」と。すなわち夜ゆきて祠をこぼち魚を取り、その材をさきて薪となし、あぶりてこれを食らう。村民大いに驚き、みな丘隅をとがむ。丘隅よってそのゆえを告げ、かつ笑って曰く、「世の神と称するもの、この類、多し。神あに信ずるに足らんや」)


世に妖怪を信ぜざるものは、右らの例を引きて、幽霊、鬼神談を一陣の風とともに、雲消霧散に帰せしめんとするも、世のいわゆる妖怪は、みなこの種のごときものに限るにあらず。また、たとい幽霊なしとするも、その真に存せざる道理を証明せざるべからず。 ゆえに、ここに論ずる幽霊談は、幽霊のよって起こる本源にさかのぼり、宗教そのものの大原理より説明を下さんとす。これ、予が左に宗教全体について述明するゆえんなり。


     第二節 通俗の宗教論


 およそ通俗の信者が、宗教を解釈するに二派あり。一つは感情的に解釈するものにして、一つは神秘的に解釈するものこれなり。 そのいわゆる感情的に解釈するものは、 さらに道理のいかんを問わず、 単に自己の感情に訴えて、 自ら信ずるところ必ず確実にして誤らずとなすものにして、 神のごときは感情上なんとなくあるがごとく感ぜられ、 道理のいかんを問わず、 単に信仰の力によりて実際厳在するものと断定し、 また未来世界の存否、 霊魂の生滅のごとき問題に至りても、 情の上に考うれば、 霊魂は死せずして死後に別世界ありとなさざれば、 自己の意を慰むることあたわざるがゆえに、 情の満足するところをもって、 ただちにかくのごときものなりと断定せり。ゆえに妄見、 幻覚のごときも、  すべてみな事実なりと信じて疑うことなし。  かつこの派の経典を解するや、ただ経中の文面を見て文字のごとくに解釈し、さらに裏面に蘊蓄する理をたずぬることなく、その結局、釈迦もしくはヤソのごとき千古に超絶せる大聖、大賢の言に、 いやしくも虚妄あるべき道理なしと思い、徹頭徹尾固くこれを信じ、一言半語といえどもその文字のままに解し、末来世界も実に現時のごとき有形世界なるがごとくに思い、 死後にも今日のごとき身体を具備し、肉体上の快楽、苦痛を受くるものと信じ、極楽も目前の世界の一層美麗なるもののごとく想像し、経文に極楽世界に蓮池ありと説けるがゆえに、実に吾人の現見する蓮池の、死後の世界にもまたあるべしと信じ、西方に仏土ありと説けるを見ては、この地球の上にて西方の極端に至らば、実に仏土あらんと考え、地下に地獄ありといえば、この地を掘ること深ければ、必ず地獄に達すべしと思う。 かくのごときものは、実は宗教を信ずるといわんよりは、むしろ経文を信ずるというを適当なりとす。すなわち、いわゆる経の意を信ずるにあらずして、その文字を信ずるものなり。けだし仏教の中に、禅宗のごとき、不立文字の宗を立つるに至りしゆえんは、畢覚、世の宗教者の感情上より文字を偏信するの弊を救わんとして出でたるものなること疑いなし。

 またこの感情派の宗教家は、すでに自ら妄見、幻覚せしところのものをもって、みな事実なりとなし、幽霊のごときも真に存在するものなりと唱うるをもって、幽霊には色あり、形あり、重量ありと信ずるなり。 その幽霊の存在すというは、 あるいは一理なきにあらざるも、色、形、重量ありというに至りては、ただ妄といわんのみ。かつて神原精二氏が、「幽霊とは見るべからざるものに名付けたる言葉にして、もし見るべくんば、これを幽霊にあらずして顕霊なり」といいしが、もって世の幽霊は見得べきもののごとく思う輩をして、 その道理に反するゆえんを知らしむべし。しかるに、世に実際幽霊を現見したるものあるはいかんというに、こは種々の事情より妄見、幻覚するものにして、妄見、幻覚は精神作用より生ずるものなれば、外界に実在するものとはいうべからず。宗教を感情的に解するものは、往々かかる誤謬に陥るものあり。あに注意せざるべけんや。

  第二に神秘的解釈を挙ぐれば、この派の人は曰く、「宗教は不可知的の関門を開きて、その内部の風光を天啓顕示するものなり。ゆえに宗教の本境は、みな不可思議の玄林森々たるところにありて存し、実に心慮、言語の外に超絶する妙区なりとす。けだし不可思議なるもの、深く考索すれば、吾人の生息せるこの世界の万象万事、四方上下を囲繞するもの、一つとしてしからざるはなし。吾人は実に不可思議の空気中にありて、不可思議を呼吸して生存すといって可なり。この世界すでにみな不可思議なれば、われ自身もまたついに一不可思議物たり。しかして、われの今かく生活し、動作しおるゆえんのもの、実「南阿の一夢」に等しく、他日忽然夢覚めて今日を顧みば、啞然としてその長夜の迷夢たりしさまを笑うことなきを期せず。宗教、実にこの理を示して、玄のまた玄なるゆえんを現す。これ理外の理、言外の言、慮外の慮にして、吾人の知力、思想の及ぶところにあらず」と。

 その一派にはまた奇跡、 怪談を信じて、これをもって宗教の真面目となし、これすなち神の不可思議なるゆえんなりといい、あるいは神通、感通を説き、これ宗教の不可思議なりという。ヤソ教の経典のごときは、実にこの種類の材料をもって充満されたり。仏教中にても、その一部には神秘、 怪談を交え、弘法、日蓮等の諸高僧の伝記を読まば、 全部ほとんどこれをもってみたさるるを見るべし。 しかしてみなおもえらく、もって宗教の不可思議を証明すべしと。かかる不思議は、もってただ道理のなんたるを知らざる下等人民には感服せしむるの方便とならん。しかれども、いやしくも今日、中等以上に位するものは、だれかまたかかる不合理、 不思議を首肯する者あらん。これ神秘的解釈の下等なるものなり。その他、神秘派中高等なる者は、 ただ宗教の理たるやすでに玄中の玄、理外の理なれば、吾人の知識とその理との間の海峡に架すべき橋梁なきをもって、吾人は言語道断、言亡慮絶の点において、自然にその理を感受するよりほかなしとなす


    第三節 感情論の批評


 以上に説きたるところの二論派は、これを局外より見るに、一は感情に偏し、他は神秘に僻し、ともに中正を得たるものというべからず。けだし情と知とは一心上に互いに結合して存し、須臾も離るべからざるものにして、情感のみにても論ずべからず、知力のみにても論ずべからず、二者必ず相伴わざるべからざるものとなす。しかるを情感論者は、単に情感のみによりて解釈を施さんと試み、自己の妄想、幻視までも実在のごとくに思惟し、 幽霊なども形あり、色あり、重量ありとなすに至る。これ畢竟、いまだ有形無形の区別を明らかにせざるより起こるところの 謬見なり。 思うに有形とは、 わが五官に感触するところのものにして、五官に感触せざる、これ無形なり。しかるに、死後の世界すなわち未来世界の類は、わが精神が肉体を離れたるときの世界なり。すでに肉体を離れたる世界にして、五官の感触すべき世界と異なるがゆえに、これを無形世界あるいは精神世界というなり。しからばこの世界において、たとい形象を見ることありとするも、そは決して現在世界において、わが現感覚の覚知するところとは、もとより同一なりとなすべからず。例えば、 吾人は夢中にありて種々の形象を見ることありといえども、そは必ず、吾人醒覚の場合において見るところの形象とは等しからずして、心面の精神性現象もしくは観念性形象とも名付くべきものなり。 ゆえに、これを無形上の現象とす。しかして、この無形世界に入るところの精神は、果たして一個人の性質をそなうるものなるやいなやは哲学上の一問題なれば、後に至りて説明すべし。とにかくに、幽霊および未来世界と称するがごときものは、 わが感覚上の肉眼にては見るべからざるものにして、精神の光すなわち心眼を用いざるべからず。しからば、幽霊は有形なりと信ずるの大迷誤たるはもちろんにして、もししいて幽霊の人眼に現るるありといわば、これを解するに、そは霊魂そのものの現れたるにあらずして、霊魂が物質分子の上に作用を及ぽし、その物質分子をして人の感覚に触れしめたるなりと想像するか、あるいは霊魂そのものが人の心を動かして、その心に幻覚、妄象を生ぜしめ、もって幽霊の現象を起こさしめたるなりとの解釈を与うれば、いくぶんか幽霊有形説の道理ともなるべきなれども、それも到底一つの想像に過ぎずして、学術の許すところにあらざること言をまたず。またこの派の人の経典に対するや、もっぱらその文字のままを固執して、文字のほかに道理を求むることなきは、その妄説を笑わざるを得ず。ああ、彼らは文字の死物にして一種の器械に過ぎず、これを活動運転する精神の文外に存するを知らず。これいたずらに死物をとりて活物を認めず、 器械に着して精神を忘るるものなり。かつ、それ吾人の用うるところの文字は、もとその人の思想に伴って発達しきたるものにして、思想単純なるときは、言語、文字もまたしたがって単純なりしが、世の進むに従い、思想とともに複雑なる意味をそなえ、ようやく今日の文章をなすに至る。また今後、人知の発達とともに、文字もまた必ず大いに発達すべきこと疑いなし。 

 しからば今日の文字は、ただ今日の思想に相応したる現象のみ。今日の思想とは有限なる思想にして、決してなにもかも知り尽くしうべき力あるものにあらず。 ゆえに今日の言語、文字は、もちろん有限性のものにして、いかなることをも言いあらわしうべき性質のものにあらず。しかるに宗教思想は、これに反して無限性のものなり、不可思議性のものなり。 この無限不可思議の思想を、有限なる今日の言語、文字にて十分に言いあらわさんとするときは、必ずその勢い、無限の精神よりきたるものも、種々の制限を受けて、ついに有限的の形をとるに至るは免るるあたわざるところなるべし。されば、宗教の開祖と呼ばるる、いわゆる釈迦のごとき人にありては、その思想もとより絶対の境にありて無限の性質を有するも、吾人の上に伝えらるるに当たりては、言語、文字のために常に有限の形をもって現るること、例えば大海の水は無量なりといえども、 これを一杯の器にうつせば少量の水となるがごとし。一杯の水は少量なりといえども、大海の水は少量なるにあらず。吾人の上に現るる宗教の表面は有限的なれども、これを開きたる大聖人の思想有限なるにあらず。しかるに、いたずらに宗教の表面のみを見て、その内包の道理もまたかくのごときのみといわば、一杯の水を見て、 大海の水もこれのみといわんがごとし。そもそも宗教の思想は、これを覚了したる教祖の心中にありては、実に大海の水のごとく深くしてかつ大なるも、言語、文字の上に現れたる宗教の形象は瑣々たる一杯の水なり。この理を知らずして経典を読むものは、文字あるを知りて精神あるを知らざるなり。このゆえに、通俗の人は文に極楽の快、地獄の苦を説けば、実に現在世界において、吾人五官の感覚するところの有限性苦楽のごとくに思惟し、その真意は絶対の快楽、絶対の苦痛を述べたるものあることを知らず。まことに哀れむべし。

 さらに今、 他の一例を挙げんか。ここに五官のうち一官を欠きたる生物ありと仮定せよ。試みに視官なしとせんか。 この場合において、いかにして色なる観念をこの生類に与うべきか。あるいは綿をもって示さんか、あるいは雪をもって示さんか。盲者、手を出だして綿に触るるときは、白色とは軟らかなるものなりといわん、雪に触るるときは、白色とは冷ややかなるものなりと思わん。しかれども、冷も軟もともに白色なるにはあらず。されば色の感覚も視官なきもののためには、やむをえず視官以外の聴、触等の諸官によりて、その観念を与うるよりほかなし。これと同一理にして、今日の人類は五官を有すれども、さらに五官以上の感覚ありて、これを有するものは神仏に限ると想像せんか。その五官以上の状態、六官、七官のありさまは、いかにして吾人に知らしむべきかというに、また五官によりてこれを示すのほか、方法あるべからず。吾人もまた五官以内にてこれを憶度するよりせんかたなし。しかれども、これをもって確かに六官、七官を知り得たりとなさば大誤にあらずや。地獄極楽の未来世界のことも、またこの例に準じて知らざるべからず。未来世界、もとより吾人の五官にて考え得べきものにあらざれども、すでに五官以上の感覚を有せざる人類に対しては、神仏の妙力といえども、やむをえず、これを五官内に示しきたりて了解せしめざるべからず。しかるに感情派の人のごときは、 五官相応の文面のみに注意して、その文裏に無限の真味あるを感見することあたわざるは、 あたかも無風流の人が、 花の愛すべきを知らずして、団子をもって自ら足れりとするの類なり。その知識の浅薄なること、葛衣竹紙の薄きよりもはなはだしと評せざるべからず。もし宗教の真味は文字のほかにあるを知るものあらば、すべからく文字の裏面をうがちきたりて、高遠玄妙なる道理を開き出だすべし。


    第四節 神秘論の批評


つぎに、神秘派の理外に偏する不合理の次第を述べんに、神秘論者は全く人知を排して、宗教は不可思議関内のものなれば、人知をもって是非すべからずというも、およそこの世界のこと、一つも人知を中心とし起点として、これより万事万類を測定するのほか、他に知るべき方法あるものにあらず。しかして、人知のうちには第一に感覚、第二に論理の存するありて、地獄極楽の状態のごときは、吾人の五官上より推測するものなれば感覚に属し、この感覚を基礎として苦楽を想像するものなり。感覚以外のことに至りては、すべて論理によりて推量するよりほかなし。しかして、論理は思想に基づくものにして、いやしくも人の論議するところ、一つも思想を根拠としてこれより推理するにあらずということなし。ゆえに近世の初め、デカルトの哲学を唱うるや、 第一に思想をもって哲学の起点とすべきことを主張してより以来、哲学界にありては思想をもって哲学の第一原理とし、諸論を統治する無比の大権を掌握せる帝王とするに至る。けだし帝王は法律以外に独立し、法律の力よくその行為を抑制すべからざるがごとく、思想も諸論のほかに独立し、定義も解釈もそのものに与うることあたわず。ゆえに、思想そのものは疑うべからず、しりぞくべからず、はじめより真理として許さざるべからず。しかるに神秘派の人々は、神と人との関係は神秘なりとし、理外なり、不可思議なりと論ずるも、畢覚、みなこれ思想の判断によるものなり。古来、霊魂を排する唯物論者も、真理を排する懐疑学者も、一つとして論理によらざるものあるべからず、論理によらずんば議論を立つることあたわず。すでに議論によりて道理を排するは自家撞着にして、到底、論理思想を排し得るものにあらず。 これ、懐疑学者の一大謬見なり。今、神秘論者も、ひたすら神秘の一方に偏して知力を排せんとするは、また一種の僻説たるのみ。


    第五節 余の宗教論


余は情感論、神秘論を拒否すといえども、 しかも唯物論もしくは懐疑論に賛同するものにもあらず。 唯物論者は感覚上の物理実験をもととして、 その以外に属するものはすべて空想に過ぎずとなし、 神仏はもちろん、 地獄極楽等、  一切これを排斥していれず。  その論たるや、 感覚は完全なるものなり、 物質は確実なるものなり、 事実経験は決して疑うべからざるものなりと仮定せり。 ゆえにこの論者は、 まずこれらの仮定を土台としてその説を組織したるものにして、  さらに進みて物質、 経験、 感覚そのものはなんぞと問わば、 よく答うることあたわざるは必然なり。  この説、 その極端にはしりて懐疑論となる。  この論者にありては、  ひとり感覚以外、 経験以外を排して取らざるのみにあらず、 感覚、 経験そのものもまた疑って信ずることなし。 古代にありてはピュロン氏の懐疑論、 近世にありてはヒュー  ム氏の懐疑論のごとき、 みな真理そのものを否定せり。 意、 宇宙間一っとして確固信をおくに足るものなしというに至れるものなれば、 地獄極楽の説を取らざるのみにあらず、 今日自身のここに存在すること、 国家社会の成立も、  ことごとくこれを疑わずということなし。 しかれども、 懐疑学者もついに論理を疑うことあたわざるをいかんせん。 もしその論者にして、 少しも論ずるところなくんば可なり。 いやしくも論ずることある以上は、 論理の力によるや明らかなり。  ゆえに曰く、「懐疑論もまた一種の偽論なるのみ」

 しかるにここに唯物、 懐疑のほかに唯理論と称するものあり。  この説に従うときは、 天地間のこと、つも道理によりて探り得られざるものなく、もし道理に訴えて知るべからざるものあるときは、 一切これを排拒せんとす。天堂、冥府等の問題に至りては、道理上不可知に属すべきものなれば、これを虚妄なりと断定す。  これ道理一辺に偏すること、 神秘論者の神秘に偏すると同一理にして、 そのいわゆる道理と称するものは、人間の知力上に属することなれども、人心の作用は決して知力のみにあらざれば、自余の作用を一も二もなく排拒すべき理由あることなし。かつ、それ人間の知識は有限性のものなり。有限は無限に対するがゆえに、有限性のものある以

上は、また無限性の存在を許さざるべからず。しかるに、ひとり有限の知力を崇拝して無限の存在を否定するは、その僻論なること知るべきなり。余の意見は以上の諸論に異にして、人心中の三大作用すなわち知、情、意の三者相待ちて、はじめて事物の真相を知り得べしというにあり。けだしこの知、情、意は、表面一方においては有限性のものなりといえども、裏面には無限の性質を帯びたるものにして、すなわち精神には有限、無限の表裏の二面を有するものなり。なんとなれば、人の心には心象と心体との別あり。心象は物界に関係して成立するものにして、その物界は有限性のものなれば、心象はこれと関係してまた有限性のものなりといえども、心体は本来無限性のものなるがゆえに

ゆえに、心象の心体に連接せる点よりいえば、すなわち無限性のものといわざるべからず。例えば、有限性の物界の風によりて心体の海面に起こしたる波は、すなわち心象なるがゆえに、心象は有限、無限の両面あることとなるなり。しかして、この吾人が外界に対して有するところの有限性の心象を変じて無限性を開き、すなわち無限性に同化すること、  これ宗教の目的とするところなり。さらにこれをいえば、吾人相対性の心をして絶対世界入らしむるの道を教うるもの、これを宗教となすなり。仏教に転迷開悟というはすなわちこれにして、迷とは有限性を示し、悟とは無限性を指すものなり。 しかして、 その転迷開悟の方法に種々あるがゆえに、したがって多数の宗派を分かつに至る。しかるに、すでに人心に知、情、意の別ありて、三者おのおの有限、無限の両面に連なるとせば、情によりても、知によりても、意によりても、いずれよりするも、 ともに無限に達し得るの道理あり。  されば、 哲学にも〔仏教の〕宗派にも知、 情、 意の三種を分かつに至る。 例えば、  ヘー ゲルの理想学は無限性知力をもととし、シュライエルマッハーの宗教は無限性感情をもととし、ショーペンハウアーの哲学は無限性意志をもととす。予はまた仏教中、天台等をもって知宗とし、禅宗を意宗とし、浄土諸宗を情宗と名付けたることあるも、これをもってなり。 

 これを要するに、知、情、意の諸作用において、有限性より無限性に入るをもって宗教の目的と立つるものは、余が説なり。 


    第六節 宗教の種類

 宗教上の説は、 これを物理的、心理的の上に考うるに、もとよりそのいずれにも属すべきものにあらず。なんとなれば、宗教は相対を離れたる絶対を説くものなればなり。しかして相対および絶対の関係は、道理および天啓によりて知ることを得。相対より絶対を知るは道理の力により、絶対より相対に及ぼすは天啓の力なり。ここにおいて、宗教に天啓教と道理教との二種を分かつに至る。あるいはまた、直覚教、自然教の二種に分かつことあり。そのうち天啓教とは、わが心の上に神あるいは無限性の体より啓示、感応あることを唱うる宗旨にして、あるいは一定の教祖あり、あるいは一定の経文ありて、その上に神の自ら啓示したることを信じて、その教祖の言または経典の文によりて宗教の理を示すものなり。これに反して、一定の教祖も経文もなく、人間自然の発達に応じて天地宇宙を観じて、自ら宗教思想を起こして、 ついに宗教を成すに至りしもの、これを自然教という。ヤソ教のごときは天啓教にして、儒教はいわゆる自然教なり。また直覚教とは、天啓教の部類をいうものにして、わが知力にて推理するにあらずして、直接にその心に感知するものについて、宗教の啓示を信ずるものなり。道理教はこれに反して、わが知力にて推理するものをいう。

 道理教と自然教とは、ともに学術上の道理をもととして研究することを得れども、天啓教、 直覚教は理外の理、絶対の体をもととして説くものなれば、学術上より説明を与うることあたわず。しかれども、その神の作用あるいは宗教の効用の物心万有の上に及ぼせる点を論ずるときは、むろん物理的あるいは心理的の説明によりて考えざるべからず。今、宗教上のいわゆる奇跡、霊怪のごときものは、物心万有の上に発するところの現象上よりいうものなれば、これを説明せんがためには、、物理的、心理的の上に解釈を求めざるべからず。およそ外界にありて神が万有の上に顕示するところの不思議は、これを名付けて霊怪といい、また内界にありて吾人の精神の上に神を感見するを神秘という。この二者 はともに理外とす。左に表示するところを見るべし。

 しかして理外は、通常これを解して、万有の大法たる因果の規則に反するものとなす。  すなわちおもえらく、因果自然の規律に反せざるものは、呼んで霊怪となすに足らず。 ヤソの父なくして生まれ、あるいはひとたび死して再び蘇生せりというがごとき、その他、ヤソ一代あまたの奇跡こそ真に霊怪というべけれ。これ、神の不思議を人に示すゆえんなりと。かくのごとくんば、霊怪とは因果律に反するものの謂にして、これ現今、学術の許さざるところなり。もし、この説をして成立するを得せしめば、学術は成立すべからざるものとならん。たとい神は自在力を有するも、ひとたびその定めたる規律をゆえなくしてみだりに変更し、あるいは規律以外のものを示して、人に奇異の思いをなさしむることは決して道理にあらず。かのスピノザが因果の理法のほか、一理一法 なきことを論定したるは、実に近世の卓見というべし。これに反してライプニッツは、 万有の変化は神の予定あるによることを説きたるも、あえて全く因果律を排拒するにあらず。その説によるに、神は全知全能の体なり。この神が世界を創造するに当たり、自ら因果律をもって最上の法と信じてこの世界に付与せり。しかるに中ごろにして、この規律を破り因果以外のものを示さば、神が自らはじめに完全なりとみなしし規律に、後に不十分を感じたることとなる。これ、あに全知全能の神にしてあり得べき道理ならんや。

 これによりて考うるに、霊怪は決して因果に反したるものにあらず。因果に反したるものは、奇怪と呼ぶも霊怪と称すべからず。果たしてしからば、なにをか霊怪というべきや。万有の間に因果律の一貫して時と所とに関せず、毫釐の相違なく、秩序整然みだすべからず、動かすべからざるこそ、実に不思議、 霊怪というべけれ。かくして万有の上に現れたる霊怪は、物理的説明によりて多少解釈し得らるべき道理にして、決してこれを理外に放棄すべからず。また、神のわが精神内に交感する神秘も、 全く道理外のものにてはあるべからず。わが心は有限なり、神は無限なり。その無限の有限の上に感ずるゆえんは、有限のわが心も、その実、無限と連絡を有するがゆえなり。もしその連絡なきときは、 到底無限をわが心に感ずるの理なかるべし。よしや心は有限性、神は無限性にして全く相反するものなりとするも、すでに神が人心の上にその作用を及ぽすに当たりては、一方の無限性も、心の有限性の形をとらざるべからざる理なることは、 さきにいわゆる大海の水は無祉なるも、一杯の器に移せば一杯の水となるがごとし。果たしてしからば、神秘なり、天啓なり、かくのごときはみな心理学より説明し得らるべき道理なり。あるいはその他の幽霊のごとき、冥界のごとき、鬼神のごとき、みな物心万象のほかに超絶せる問題なれば、物理、心理の上にて説明すべからずというも、世人のいわゆる幽霊、鬼神の類は、すべて物心の範囲内において説くものなれば、 その真否もこの道理によりて論究せざるべからず。

 これを要するに、宗教の本体は無限絶対、不可思議の上にありとするも、その現象作用の物心有限の範囲内に発顕するときは、これすでに理内の理にして、物理的および心理的説明によりて考究し得べきものとす。もしその本体に至りては理外の理なりとするも、我人の無限性の心力によるときは、また多少知了するを得べし。ゆえに予は、宇宙の問題たる、可知的なるがごとくにして不可知的なり、不可知的なるがごとくにして可知的なりといわんとす。かくして物心万有のほかに、絶対不可思議の体あることを証明するは、実に予が妖怪学の目的にして、「諸言」に、仮怪を払って真怪を開くとはこれ、これをいうなり。


    第七節 霊魂生減論


 霊魂そのものにつきて説明せんとするにさきだち、古来宗教上の一大問題たる、霊魂生滅論に関して述ぶるところなかるべからず。世人あるいは曰く、「霊魂は全く消滅すべし。 なんとなれば、ひとたび死したるものの、再びかえりきたりしものあるを聞かず。だれありていまだ死後の霊魂の存在を実験したるものあらず。これ、霊魂の肉体とともに滅するによる」と。しかれども、かくのごときは浅見の最もはなはだしきものにして、熟睡せるものを見て、彼はすでに死せり、なんとなれば、その名を呼べども応ぜざればなりと論断する輩となんぞ選ばん。しかるに、霊魂の不滅を主張せんとするものは、またこれに対して説をなしていう、たれがしは死後幽霊となりてその形を現したり、なんのなにがしは死後再生したることあり。みなもって霊魂の不滅を証するに足る」と。これもまた霊魂のなんたるを知らざるの妄説なれば、両者ともに信を置くに足らず。まず、霊魂消滅論者のいうところを見るに、ただ死後に霊魂なしというのみにして、さらに生時に霊魂あるやいなやを究むることなし。けだし霊魂とは吾人の心性なれば、死後の消滅はしばらくおき、生時の存在はたれびとも必ず許すところならん。しかるに、生時すでに存在したるこの霊魂が、死に至りて忽然として消滅すという。物、あにかくのごとき理あらんや。およそ物、ときとして形を変ずることあるも、全く消滅することなし。一杯の水、熱すれば形を変じて蒸気となるも、その体全く消滅したるにあらず。もしいったん存在したりし霊魂が、偶然消滅することあるを得ば、これぞ怪しむべきの最も大なるものにて、霊魂は不滅なりといわんよりは、一層の奇怪といわざるべからず。また、もし霊魂果たして生時にありとせば、そのよってきたるところはいかん。 すなわち過去にさかのぽりて、その由来をも考えざるべからず。

 しかるに、通俗の霊魂消滅論者は、死後霊魂なしというのみにして、生前いずこよりきたりしかをたずぬることなきは、これまた見ることの狭きものといわざるべからず。しかれども、これに対して不滅論者の再生、幽霊等の説明のごときもまた、 取るに足らざるは明らかなり。果たして再生、幽霊の証ありとするも、千万億万の死人中、わずかに一、二人にかかることあるのみ。そは一般の例とはならず。 まず、なにゆえにこの多数の死人が、死後さらに通信も交通もなきものにやとの疑問を説明せざるべからず。畢竟するに、以上の二論は、ともに霊魂そのものの性質を明らかにせざるより起こるところの、不道理の迷見にほかならず。もし霊魂そのものの性質を明らかにして推考するときは、死後の霊魂よりは、むしろまず生時の霊魂を究めざるべからず。悲喜哀楽うたた相生じ、ときとしては啞然口を開きて大笑し、ときとしては潸然目をしばたたきて悲しむ。花を見ては美なりと呼び、音楽を聞きては快なりと感ず。この不可思議なる千態万状の変化、みなこれ霊魂の作用にあらずということなし。霊魂果たしていかなる妙力ありて、この妙用を呈するか。現時の霊魂の不可思議なるゆえんを知らば、死後のことのごときは、また容易に知了すべきのみ。ひとり死後を論じて生時に及ばずんば、その見の狭隘なる、いまだともに霊魂を談ずるに足らず。


    第八節 霊魂不滅論


 今、学術上の道理に照らして霊魂の不滅なる理由を述べんに、第一には物質不滅、勢力恒存の理法に基づくものにしておよそ一物として偶然に生じ、一事として忽然滅するものあることなきは、今日学術上の実験に照らして証明せられたる原理なり。物理学、化学等一切の科学は、実にこの理によりて成立することを得。すなわち宇宙万有は不滅なりとの考えは、現時学術上、動かすべからざる原理なりというにあり。しかして、わが精神もまた現存してすでに万有中の一たる以上は、万有を支配するところのこの原理に従わざるあたわず。もし精神をもって唯物論者のごとく勢力の一種に過ぎずとせんか。もちろん勢力恒存の理法によりて、これを不滅とするよりほかなし。あるいはこれをもって物質にもあらず、勢力にもあらず、全く経験、感覚以外のものなりとせんか。霊魂ありというを得ると同時に、また霊魂なしというを得べし。この理をもって探るときは、到底精神は不滅なりというよりほかなし。 

 第二には潜勢力、顕勢力の関係によるものにして、生時に現にその作用を呈して、死後にはその作用をとどむといわば、生時にありしものの、死後には全く滅したるがごとく思うめれど、 そはただ作用を現したるといなとの差別あるのみにして、いわゆる顕と潜との差異あるに過ぎず。例えば手を動かすがごとし。手を動かすときに発する力は、そのとき偶然生じたるにあらず。またこれをとどむるときには、その力たちまち滅して無に帰したるにはあらず。一つは顕勢力となりて外に発し、一つは潜勢力となりて内に存ずるのみ。また、内包外発ということあり。草木の種子、これを地にううれば芽を出だして草木の形を成し、これを 筺中 におさむれば依然とし常に種子なり。 しかれども筺中の種子は、草木となるべき力なきにあらず、地に入りし種子は、草木となるべき力をにわかに外より得たるにもあらず。筐中にては、その力内包的に存して外に見えざるも、地に入るるに及び種々の外縁に催されて、外発して草木の形をなすものなれば、その有するところの力自身においては、彼此の間すこしも差異あることなし。この理によりて考うるに、生時に精神作用の外発して死時に空寂に帰するがごとく思わるるは、その実、外発の勢力再び内包に帰し、顕勢カ一変して潜勢力となりたるものに過ぎざるべし。

 以上の二条の理由によりて、精神の不滅なるゆえんを証すべし。しからば現在の霊魂と未来の霊魂とは、に異なるものなるか。そはまた別に論ぜざるべからず。


   第九節 霊魂の状態


 霊魂果たして不滅とせば、死後の霊魂の状態はいかん。これまた一大問題なり。これを生時の霊魂に比較するに、生時には肉身のうちに包容され、肉体には五官あり。外物この五官の窓より心面に映じきたるといえども、死後の精神はすでに肉体を離れたる以上は、五官の窓より外界を見るがごときものにあらず。ゆえに、生時と死後との霊魂の差別は、第一に、生時には感覚性のものなれども、死後はしからざるの異点あり。つぎに、生時の精神作用は、意識に覚知して起こるところなれども、死後は不覚識の境遇に入る。例えば、昼間醒覚のときと夜間睡眠のときとは、精神に別あるにはあらざれども、一は覚識あり、他は不覚識の状態にいるがごとし。生死の精神の別、またこれに同じ。これを第二の異点となす。第三は、生時にはなんのだれと称する、いわゆる個体性の成立を有するも、死後には自己なる成立なく、すなわち無我平等の海に入るの異点あり。以上三点の区別より推測するに、死後の霊魂なるものは、実に空々漠々渺々蕩々、苦もなくまた楽もなく、知もなくまた意もなきありさまならざるべからず。果たしてしからば、霊魂をもって不死とするも、死物となんぞ選ばん。かの死後の極楽、地獄、成仏、得道を説くがごときも、またただ方便に過ぎ ざるか。しかるに宗教上においては、ただに霊魂の不滅を説くのみならず、死後の状態に苦楽の両境あることを論じ、すでに仏教にては六道輪廻、生死昇沈を説くがごときは、いかなる理によるものなりや。これ大いに学者の攻究を要するところなり。そもそもこの論は、唯物家よりみると唯心家より考うるとはおのずから異なるも、今いちいちその論点を挙示するあたわざれば、左に、霊魂は死後なお個体性を継続すべき理由のみを述べんとす。 

 およそ人の身心の関係は、一にして一ならず、二にして二ならず、いわゆる不一不二の関係を有するものなれば、その一生の間、日夜になすところの一挙一動は肉体上および感覚上に関するも、みなその精神に薫習して習慣性を構成し、反復数回にわたれば、ついに一種の固有性となるべし。しかるときは死によりて肉体と霊魂と相分かれて、霊魂は平等の海に入るべきも、ひとたび薫習せられたる習慣のために、再び一個格段の差別的成立を有することとなるなり。されば生時の覚識は、絶息の後といえども習慣性の力によりて、さらに一種の世界を開現するに至るは、理のまさにしかるべきところなり。これをもってわが霊魂は、死後苦楽の境に昇沈せざるべからず。これ仏教にて善悪の因果を説くゆえん、六道輪廻を談ずるゆえんなり。しかれども、もし吾人生涯に利己私愛の欲念を脱し、純然たる良心の光を開発し、もって死後超然として平等の理界に進入するを得るに至らば、これすなわち仏教の悟道なり。ゆえに、霊魂がその固有の習慣性によりて、苦楽の両境に昇沈する間は、いわゆる迷の境遇にして、この迷を転じて平等海に入るを悟となす。しからば悟界に入りたる仏陀のごときは、平等無差別、空寂無覚の体なるかというに、曰く、「しからず」この点は各種の宗教のともに論ずるところなれども、今これを仏教にたずぬるに、仏菩薩をもって無上の快楽、無上の智恵を有するものなりという。これ果たしていかなる道理によるや、また一大疑問なり。かくのごときは、もとより今日の道理一辺をもって説くべきことにあらず。いわゆる絶対関内の風光なれば、宗教上、天啓顕示をまたざるべからざるも、今ここに論ずるところは道理によりて説明するにあれば、いささか宗教学の理論に考えて、この疑団を氷釈せんと欲するなり。

 それ宇宙万有の本体、精神思想の本源は、儒教これを太極といい、仏教これを真如という。しかして、真如はこれを平等一方の裏面よりみるときは、空寂無覚の体なるがごとくなるも、差別の表面よりみるときは、最上純全の覚知体となる。すなわち、真如に表裏両面あることを知らざるべからず。およそ天地間の生類は、宇宙進化の理法によるに、最初不覚の状態よりようやく進みて覚知の光明を発顕し、いよいよ進みてますますその光輝を増し、人間に至りて大いに知光の赫々たるを見るに至れり。しかれどもこの光明は、決して人間にありて、すでにその全分を現し尽くしたるものにあらず。これよりますます進化せば、他日さらにいよいよ輝くのときあるべし。 同一人類にしても、下等の蒙昧なるものはその光明なお薄く、知者、学者はこれに数倍せる知光を有す。これを推してこれを考うるに、これよりさらに進んで十倍、百倍、あるいは千万倍の光明を放つことあるに至らんも、決して想像し得られざるにあらず。しかして、このいわゆる光明とは知識精神の光明にして、肉体上より発するところにあらず。これ、実に心性の内部より放つところの光明ならざるべからず。 ゆえに、これを霊魂固有の本性となすも不可なきを覚ゆ。 しかるに動物と人類との別あるは、その光明に差異あるにあらざれども、 動物においては潜勢力となりて霊魂の内部に伏在して存し、人類はその内包の光明のいくぶんを外に発顕したりというに過ぎず。さりながら、人間もまた、 いまだ内包の光明を全く発顕し尽くしたるものにあらざれば、その光明の量なるや、けだし無量なるべし。 ゆえに、もしこの全量を外発するを得ば、実に無量の知、無量の徳、 無量の快楽となりて開現せらるべし。この理を推して考うるに、完全なる覚知の境遇、 すなわち神仏の位置に達するの日あるも、また決して疑うべからず。されば仏教のいわゆる真如も、  これを解するにおいて、 二様の見解あることを記すべし。  すなわち一方より見れば、 真如界は、 空々寂々、 不知不覚、 不苦不楽の境のごとく見ゆれども、他方よりこれを考うるに、真如の体中に、完全なる無屈の知識、 無鼠の慈悲の光明を内包し、 ようやく開発して吾人の心中に知徳の光輝を放つに至る以上は、 真如すなわち完全なる覚知の体なりというべし。

 換言すれば、 真如そのものは消極と積極との二種の性質ありと知るべし。 しからば、 たとい霊魂の状態が、 今日にては昼夜覚眠の別ありといえども、もしこれを積極的に考えきたらば、他日その内包の全分の知識を開発し、生死今昔一切のこと、 みな一心の鏡面に映現しきたり、 道徳光明の新天地に遊ぶことあるべき理なり。  しかれども現在世界にありては、  この肉体の感覚にその心を奪われ、 ために明々白々の心も迷雲妄霧のために覆われて、だれもその真相を見ることあたわず。  この雲霧を宗教上にては、 あるいは呼びて煩悩といい、あるいは名付けて罪悪という。 今もしわが身に善因を養い、 道徳を修め、 もって愚昧の雲霧を一掃しきたらば、 このときはじめて、無始以来内包せる光明の六合を照徹することあるべし。『〔大乗〕起信論』のいわゆる本覚、 始覚の義は、 ここに至りて了解すべし。しかるに世人は一般に霊魂も真如も、これをひとり消極的に説ききたりて、さらに積極的に考うることなく、外見的に評し去りて、内包的に論ずることなし。ゆえをもって死後の霊魂は、枯木死灰のごとく考え、未来の地獄極楽は、愚民の迷夢に帰して、だれも怪しむものなし。しかして、自ら有するところの心魂の識覚を有するは、なにによりてしかるやをつまびらかにせず。これ愚と呼ばずしてなんぞや。王充の『論衡』論死編に曰く、「夫死人不 鬼、則亦無知矣、何以験之、以生之時無一レ 知也、人未生、在元気之中、既死、復帰元気、元気荒忽、人気在其中、人未生無知、其死帰無知之本、何能有知乎。」(それ死人、鬼となるあたわざれば、すなわちまた知るところなし。なにをもってこれを験する。いまだ生まれざるのとき、知るところなきをもってなり。人いまだ生まれざれば、元気のうちにあり。すでに死するや、また元気に帰る。元気は荒忽として、人気はそのうちにあり。人いまだ生まれざれば知るところなく、その死するや、無知のもとに帰れば、なんぞよく知るあらんや)と。


 『息軒遺稿』巻三、「書地獄図後」と題する一文あり。曰く、


死者有 知乎、我不  得而知一レ之也、死者無知乎、我不 得而知一レ之也、塊然之形、化為穢土、而魂気則無之乎、我不得而知一レ之也、倏忽乎来、倏忽乎去、禍福糾縄、孰知其極、所知者、独生人之道而已、今観 此図、凡今生所為、皆有報復、錙計銖量 。如 刻吏鍛 獄而刑戮拷掠之惨、更甚 此間矣、然則不唯死者有一レ 知、又別有一世界、以為 間賞罰之地也、吁可懼哉、然浮屠氏以輪廻説、来世之於 現在、猶今我之於前身、我既不前身為何物、則来世豈能知前身之為一レ我哉、然則今之与後、各一物耳、其禍其福、我何与焉、而世人背君父、蔑人倫、以求 何物者之福、何其妄也、故聖人説生而不死、語道而不怪、至突。

(死者知るあるか、われ得てこれを知らざるなり。死者知なきか、われ得てこれを知らざるなり。塊然たる形、化して穢土となり、しかして魂気はすなわちゆかざる所なきか、われ得てこれを知らざるなり。倏忽としてきたり、倏忽として去る。禍福はあざなえる縄、いずれかその極を知らん。知るべきところのものはひとり生人の道のみ。今この図をみるに、およそ今生のなすところ、みな報復あり。錙計銖量、刻吏の獄を鍛ずるがごとくに知るあるにあらず、また別に一世界ありて、もってこの間の賞罰の地となす。ああ、おそるべきかな。しからば浮屠氏、輪廻をもって説を立て、来世の現在における、なお今われの前身におけるがごとく、われすでに前身のなにものたることを知らざれば、すなわち来世、あによく前身のわれたるを知らんや。しからばすなわち、今と後とおのおの一物のみ。その禍、その福、われなんぞあずからん。しかして世人君父に背き、人倫をないがしろにし、もってなにものなるを知らざる者の福を求む。なんぞそれ妄なるや。ゆえに聖人は生を説きて死を説かず、道を語りて怪を語らず、至れり) 


 これ、畢竟内包的光明のなんたるかを知らず、単に消極的の理のみを見て、積極的の理を知らざるによる。しかるに仏教はかえってこの積極的道理によりて、成仏、得道を説くものなり。さりながら、この点に至りては、もはや物理的説明も心理的説明もともにあずかり知らざるところにして、実に不可知的、 不可思議の玄境に入りて考うるよりほかなし。余がいわゆる宗教は、 不可思議の関門を開きて、 絶対界内の風光を示すものなりとは、 この霊魂内包の積極的道理にもとづくを知るべし。


    第10節 生霊、死霊、人魂、魂魄、遊魄の解


 以上述ぶるところは、全く霊魂不滅論なり。これより幽霊論そのものを結ばんとするに、まず魂魄、死霊、生霊等の語を解説するを要す。「〔春秋〕左〔氏〕伝」に子産の言、「人生始化曰魄、既生魄、陽曰魂。」(人、生まれてはじめて化するを魄といい、すでに魄を生ず。 陽に魂という)とあり。杜預これを注して、「魄者形也」(魄は形なり)といい、また同書に「楽祁云、心之精爽是謂魂魄。」(楽祁いわく、「心の精爽なる、これを魂魄という」)とあり。『淮南子』に「天気為魂、地気為魄」(天の気を魂となし、 地の気を魄となす)、あるいは「魄者陰之神也」(魄は陰の神なり)とあり。『礼記』の「祭義」に孔子の語なりとて、「人生有気有魂有魄、気也者、神之盛也、魄也者、鬼之盛也、衆生必死、死必帰土、此[之]謂鬼、魂気帰天、此謂神。」(人、生まれて気あり、魂あり、塊あり。気とは神の盛なるなり、塊とは鬼の盛なるなり。衆生必ず死す。 死すれば必ず土に帰る、これをこれ鬼という。魂は天に帰る、これ神という)とあり。また『白虎通』曰く、「魂〔魄〕者何謂也、魂猶伝伝也、行不休也、動於外、主於、魄者白也、猶人者也、主於性。」(魂魄とはなんの謂ぞや、魂はなお伝伝のごとし、行きてやまざるなり。外に動いて情をつかさどる。魄は白なり、なお人につくがごとし。性をつかさどる)とあり。また新井白石の『鬼神論』に、「されば人の知覚は魂に属し、形体は魄に属す。(陽は魂に属するがゆえに)陽を魂とし、陰を魄とす。いわゆる魂は陽の神にて、魄は陰の神なり。 また気を魂とし、精を魄とす、云云」とあり。これを要するに、シナにては陰陽二気集まりて人を成すをもって、その気散ずればもとの陰陽に帰す。しかして、そのうち陽を魂といい、陰を魄といい、天に帰するものは魂にして、地に帰するものは鬼なりとするなり。

 わが国にては、霊魂に和御魂、荒御魂の二種を分かち、和魂は善なり、慈なり、和なり、荒魂は悪なり、暴なり、勇なりとす。『日本書紀』神功皇后の巻に、「神有誨曰、和魂服玉身而守寿命、荒魂為先鋒而導師船。」(神の誨うることありてのたまわく、「和魂は玉身に服いて寿命を守らん。荒魂は先鋒として師船を導かん」)とあり。もってその二魂の性質の異なるを知るべし。また『紀』の一書に、「吾是汝之幸魂奇魂也」(われはこれ、汝が幸魂、奇魂なり)とあり。また『旧紀』に「吾是汝之幸魂奇魂術魂之神也」(われはこれ、汝の幸魂、奇魂、術魂の神なり)とあるを見れば、魂の種類は総じて和魂、荒魂、奇魂、幸魂、術魂の五ありと知るべし。しかしてこの魂を授与するものは神なりとし、その体は不滅なるものとす。浦田〔長民〕氏の『大道本義』に曰く、「以幽為宅、以顕為寓者、魂也、魂出幽而来於顕、則身生、魂去顕而帰於幽、則身死、 幽顕分域而一魂居之、生死殊途而一魂渉レ之。」(幽をもって宅となし、顕をもって寓となすものは魂なり。魂は幽を出でて顕にきたれば、すなわち身生ず。魂顕を去って幽に帰すれば、すなわち身死す。幽顕域を分かちて、一魂これにおり、生死、道をことにして一魂これにわたる)と。これ純然たる霊魂不滅論なり。これに対するときは、儒教は霊魂消散説にして、天地の気相結びて人を生じ、人ひとたび死すれば、その心散じてそのもとに帰るとなす。ゆえに貝原益軒の『自娯集』(巻七)に曰く、「天道流行、発育乎万物、陰陽之運、乃天之道也、二気聚散無窮、聚則生、散則死、二気之霊在人身者、謂之魂魄、人身所受、二気与魂魄、猶陰陽与鬼神、非二也、蓋魂魄者、 其主而霊者而已矣、故二気消散、則魂魄亦随而亡矣、然則身死後、魂魄豈復可滞于天地之間乎。」(天道流行して、万物を発育す。陰陽の運は、すなわち天の道なり。二気集散してきわまりなく、集まれば、すなわち生じ、散ずれば、なわち死す。二気の霊、人身にありては、これを魂魄という。人身の受くるところ、 二気と魂塊とは、なお陰陽と鬼神とのごとし。二つあるにあらざるなり。けだし魂魄は、その主にして霊なるもののみ。ゆえに二気消散すれば、すなわち魂魄もまたしたがって亡す。しからばすなわち、身死してのち、魂魄あにまた天地の間に留滞すべけんや)と。これによりてこれをみるに、儒教は一般に霊魂消滅説なるがごときも、その実、不滅説なり。ただ、余がいわゆる消極的説明によりて、積極的に考えざるのみ。もしまた、人心の本性を論ずるに至りては、その不滅なること言をまたず。『惺窩文集』(続稿巻一)に、「夫天道者理也、此理在天、未於物天道此理具二於人心於事曰性、性亦理也。」(それ天道なるものは理なり。この理、天にあり、いまだ物に賦せざるを天道という。この理、人心にそなわり、いまだ事に応ぜざるを性という。性もまた理なり)と。

 また『羅山文集』巻二十四に、「理之所主謂之帝也、理之所出謂 之天也、理之所 生謂之性也、理之所聚謂之心也。」(理の主とするところ、これを帝というなり。理の出ずるところ、これを天というなり。理の生ずるところ、これを性というなり。理の集まるところ、これを心というなり)と。

 また大塩中斎〔平八郎〕の『洗心洞剳記』に、「有 形質者、雖大有限、而必滅矣、無 形質者、雖微無涯、而亦伝矣。」(形質あるものは、大といえども限りあり、しかして必ず滅ぶ。形質なきものは、微といえどもかぎりなく、しかしてまた伝わる)これまた、心識の本性の不滅なることを推究すべし。かつまた儒教にては、陰陽の気の集まりて人の身心を成すや、その死に臨みて、久しくその気の散ぜざることありとなす。朱子の説にも、「人鬼之気、則消散而無余矣、其消散亦有久速之異人有 其死以既死而此気不 散、妖為怪。」(人鬼の気は、すなわち消散して余りなし。その消散する、また久速の異なりあり。人その死に伏せざるものあり。すでに死してこの気散ぜず、妖となり怪となるゆえんなり)とあり。これ『易』に「精気為レ物、遊魂為レ変。」(精気は物となり、遊魂は変となる)というゆえんなり。仏者は「遊魂為レ変」(遊魂は変となる)を解して、輪廻説に比するも、儒者はそのいわゆる変とは、魂遊び魄散じて、ようやく消変を成すをいうも、前身人となり、後身畜となるの説にあらずとなす。しかして、古来幽霊のその形を現し、狐狸の人に憑るがごときは、みな遊魂の作用に帰せり。貝原氏の論にも、人の死後、魂気のいまだ消滅せざることあるゆえんを示して曰く、


天地之気、人物各資而始生焉、人死則其気既消散、魂亦殫尽而無余矣、只有子孫之気、相継而不 絶耳、非西方之教、人死而後魂気滞 在于幽冥之中、而生死去来、輪廻不尽之説 也、或曰、然則聖人享祀人鬼者、為 何耶、曰是迹其所以祭祀、自有深意而已矣、嘗窃聞之、祖考之死、其気消散者、亦有遅速之異、而不遽澌尽一 、故孝子慈孫致其誠敬、而招享之、則祖考之気、猶未消散、而在冥漠之中者、 為乎有彷彿感格、聚楽而享其祭之理焉、然而緜歳浸遠、 則其在冥漠之中而幽眇者、澌尽無余、然而為孝子慈孫者、不父祖消滅、而所以追遠想慕、感時致祭、自不上レ已也、是古人之所以致意、而祭祀於祖考也。

(天地の気、人物おのおのよりてはじめて生ず。人、死すればすなわちその気すでに消散し、魂もまた殫尽して余りなし。ただ子孫の気ありて、相継いで絶えざるのみ。西方の教えの、人、死して後、魂気幽冥のうちに滞在して生死去来し、輪廻して尽きざるの説のごときにあらざるなり。あるいは曰く、「しからばすなわち、聖人の人鬼を享祀するはなんのためなりや」曰く、「これ祭祀するゆえんのものを跡する、おのずから深意あるのみ。かつてひそかにこれを聞く。祖考の死する、その気消散するには遅速の異なりありて、にわかに澌尽することあたわず。ゆえに孝子慈孫、その誠敬をいたしてこれを招享すれば、すなわち祖考の気なおいまだ消散せずして、冥漠のうちにある者、彷彿として感じいたり、集来してその祭りをうくるの理あるにちかし。しかして歳をわたりて浸遠なれば、すなわちその冥漠のうちにありて幽眇なる者は、測尽して余りなく、しかりしこうして孝子慈孫たる者、父祖をもって消滅となすに忍びず。しかして遠きを追って想慕し、ときに感じて祭りをいたして、 自らやむあたわざるゆえんなり。 これ古人の意をいたして、 祖考に祭祀するゆえんなり」)〔『自娯集』(巻七)〕 


 また新井白石は、死後の境遇の一層神霊なることを示して曰く、「それ水はいたって清けれども、氷を結ぶときは明らかならず。神いたって明らかなれども、形をむすぶときは明らかならず。氷解けては清にかえり、形散じては明にかえる。ゆえに覚むるは霊ならずして、夢は霊に、生くるは霊ならずして、死するは霊なり」と。これおもしろき言なり。この魂魄の説明は、新井氏『鬼神論』および平田〔篤胤〕氏『鬼神新論』を参見すべし。に、仏教はもとより霊魂不滅論なれども、神儒二道とやや異なるところあり。そのいわゆる霊魂は、これを識心と名付く。この識心は、因果の事情に従いて生滅変遷して、しかしてよく相続するものとなす。『倶舎論』に「誓如灯焰雖刹那滅、而能相続転至余方上、諸蘊亦然。」(たとえば、灯焰は刹那に滅すといえども、 しかもよく相続して余方に転じ至るがごとし。諸蘊もまたしかり)とあり。『成唯識論』に、「此識性無始時来、刹那刹那果生因滅、果生故非断、因滅故非常、非断、非常、是縁起理。」(この識性は、無始の時より来、刹那刹那に、果生ずれば因滅す。果生ずるがゆえには断にあらず、因滅するがゆえには常にあらず、断にもあらず常にもあらずといえること、これ縁起の理なり)とあり。この因果相続の理によりて、生前死後ながく浮沈昇降して、六道の間に生滅輪廻することを説くもの、これ仏教なり。ゆえに弘法大師は、生まれ生まれ生まれて、生まれのはじめを知らず、死に死に死んで、死の終わりを知らずといえり。これ生滅門の上にてみるによる。もし不生滅の辺りより論ずるときは、『〔大乗〕起信論』のいわゆる「心性の不生不滅」なり。「一切法従本已来、離言説相、離名字相心縁相、畢竟平等無変異、不破壊、唯是一心、故名真如。」(一切の法は、もとより已来、言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟、平等にして変異あることなく、破壊すべからず、ただこれ一心なるのみなれば、故らに真如と名づく)とあるこれなり。これを要するに、神、儒、仏三道、おのおの霊魂不滅説を異にするも、人の死後に魂魄の作用をとどめうるを説くに至りては、互いに一致すといわざるべからず。また、その霊魂の状態を論ずるや、物質を離れて独立せるものとなし、生時にありても、人の心が他人に憑付しうると考うるものあり。これをもって、死霊、生 霊の人に憑付することを信ずる徒はなはだ多し。また世間に人魂というも、生霊、死霊と同一物たるべし。しかるに、一団の怪火の空中を飛行するを見て、呼びて人魂となすは、愚民の妄想より出ずるなり。遊魂につきては、さきにすでにこれを論ぜり。けだしわが国の 狐憑き、神憑り、魔憑き、その他祟のごときは、みな以上述ぶる説によりて解釈しきたれり


      第11節 霊魂論の帰結 


 そもそも古来の霊魂談は、もとより一より十に至るまで、ことごとく取るべからずといえども、また一口に排斥すべからず。〔荻生〕徂徠の『論語徴』に、「剖樹以求花於其中、烏能見之、謂之無一レ花可乎哉。」(樹をさいて、もって花をそのうちに求むるもいずくんぞよくこれを見ん。これを花なしという可ならんや)とあるは名言なり。平田篤胤は怪談を主唱する人なれども、その言に、「奇怪しきこととてひたすらにおそれ惑うも愚かなり。よくその信べきと信べからざるとをわきまえて惑わざるをこそ、真に知の大なる人というべけれ」と示せり。今、余はさらに西洋の霊魂不滅説に照らして、さきに挙ぐるところの霊魂論を結ばんとす。古代にも霊魂不滅論あり、今日にも同じく不滅論あれども、古代は物心二元並存論にもとづき、今日は物心二元一体論にもとづく。今、並存論によるに、左図の甲は、物心相合して生活現象を示すところの状態にして、乙は二元相離れて死したるときのありさまなり。

 

物心二元並存論

もしまた一体論によれば、左図のごとく、物心二元は、ともに一大元のうちに存立するなり。しかしてその一大元を、理想、真如もしくは太極と名付く。この図の甲と乙との別は、生と死とを示したるにあらずして、物心と理想との関係の、異説を示したるのみ。西洋近世の哲学者にして、スピノザのごとき、フィヒテのごときヘーゲルのごとき、みな物心一体論によりて、霊魂不滅を唱うるなり。ゆえに、今日はこの一体論によらざるべからず体論によらざるべらず。

物心二元一体論

 しかしてまた、一体論において物心の関係を論ずるに、左のごとき説明を用うるは、論理上はなはだ難しとす。

 これに反して左の図式によらざるべからず。甲は生時にして、物質の内部より心性の一部分をその中心に開発し、乙は死したるときにして、心性はふたたび物質の内部に潜伏し、外面には物質のみを示すに至るなり。第一図は一体論中の物心並存論にして、第二図は、心性内包論なり。この内包の心性は理想そのものと体を同じくするをもって、ひとり不滅なるのみならず、実に無限絶対なり。

一体論 第一図

一体論 第二図

しかれどもその作用は、物質によるにあらざれば、示すことあたわず。あたかも太陽の光線が、物に触るるにあらざればその色を示さざるがごとし。ゆえに余は、この内包論によりて霊魂不滅を唱えんとす。今、哲学上種々の論派ありて互いに相争うも、ひとりこの論に至りては唯物論も唯心論も、ともに一致せざるをえず。唯心論のこの説に合するはもちろんにして、唯物論も心性をもっ て物質固有の勢力に帰するときは一種の内包論となるは明らかなり。  この内包論によりて、霊魂に本来、 覚知性を具有することを証すべし。なんとなれば、吾人の心はすでに覚知性を有する以上は、これを推して物質内包の心性の本源にも、覚知性の潜伏して存するを知るべきをもってなり。これ余が霊魂論の帰結なり。 


      第12節 幽霊の説


 すでに霊魂論を講述し終われば、これよりまさしく幽霊の問題に移りて、いささか説明を試みんと欲す。「桂林漫録」に幽霊のことを述べて曰く、


唐山にて鬼といい、女の幽霊を女鬼という。「万葉集巻十六)「伯レ物歌」(ものをおそるる歌)

人魂初佐青有公之但 独相有之雨夜葉非左思所思

と詠みたれば、和訓には、ひとだまのさおなるきみとぞいうべき、覆溺して死せる者の鬼を、覆舟鬼ということ、「海外怪妖記』に見えたりと、裸窓先生申されき。京師の画工丸山主水〔円山〕応挙、女鬼を描くに名あり。予が蔵する物すぐれて妙なり。なにより思いを構えて描きはじめたりしや、見る人、毛髪辣然としてたち、実に神画と称すべし 


 その他、 俗にいわゆる舟幽霊、ウブメの幽霊、雪隠のばけ物等あり。

 幽霊はもと霊魂不滅論にもとづき、純正哲学の問題にして、物理、心理の関係するところにあらざるも、世間のいわゆる幽霊は、物心の間にその形象作用を現示したるものをいうことなれば、その説明もまた物理、心理によらざるべからず。わが国従来の説明にては、多く儒教によりて前節に述ぶるがごとく、死したる者の魂塊いまだ消散せずして、その形を現ずるものとなす。過日、国家学会において谷〔干城〕子爵の幽霊談は、全く儒教の説

にもとづくものなり。また、十返舎一九は『怪物輿論」に叙して曰く、


無情にして有情に化するものは、腐草化して蛍となるの類、離形にして有形をなすものは、折れ枝を地にさすにおのずから根づくがごとし。いわんや人の魂気存して異形をあらわし、霊をなすこと、おのおの物に着するの情、逼するゆえなり。けだし山谷幽陰の猿精狐怪、古家荒房の死鬼愁魂、ともに奇とすべく、また奇とすべからざるものや、云云。


 これみな想像説にして、決して学術説明とみなすべからず。余、このことにつき、かつて世人の注意を促したることあれば、左にその文を掲ぐべし。

 それ幽霊の談は時の古今を問わず、洋の東西を論ぜず、あまねく世に伝われるところにして、真にこれありと信ずる者、現時にありてもなおすくなしとせず。しかも実際これを見たりという人に至りては、はなはだまれなり。しからば、かの多数なる幽霊論者は、大抵実際にこれを見し人にあらずして、古来の伝説、もしくは世人の風説に聞き、よってもって自己の信仰を固くしたる者なり。これをもって、真に幽霊ありと信ずる人に対しては、その論の真偽をたださんより、むしろ伝説、風説の果たして確実なるものなりやいなやをただすを要す。すなわち幽霊有無の問題は、 事実真偽の問題に帰着するなり。 今、 幽霊ありと論ずる者の論拠とするところを考うるに、霊魂不滅の説にほかならず。すなわちその説に曰く、「人の死するということは、ただその肉体が生活作用をやめしまでにして、霊魂そのものの滅せしにあらず。すでに霊魂にして滅せざる以上は、いったん肉体を離れし後といえども、いかにかして一種の形を現し、人にその存在を見すべき道理なり。 ゆえに、死者が自家または社会のことにつき執念を残して、死後なお安んずることあたわざる場合には、幽霊となりてその形を生存せる人に現し、その思うところを告ぐることを得るは疑うべからず」と。

 しかれども少しく考うるときは、世にいわゆる臨霊と、霊魂不滅論者のいわゆる霊魂とは、全く性質の異なれるものなることを発見するに難からざらん。なんとならば、いわゆる幽霊には形あり、色あり、声もあり、重量もあり、しかしていわゆる霊魂は人の精神を指すものにして、これらの性質をそなえざればなり。もし幽霊にして果たして霊魂と同一物ならんには、これすなわち精神そのものの体にして、いったん肉体を離れし後、形色をそなえて人の前に現すべきいわれなければ、世にその形体を見しという人の眼前に現れしものは、実に幽霊にあらず、また霊魂にもあらずして、これを他物と仮定して可なり。かつ幽とは不可見の謂ならずや。しかもこれに形体ありとせば、論理上撞着のはなはだしきものといわざるべからず。されば、かの幽霊論者の説くところは、道理上すでに霊魂不滅説と全く関係なきものと知るべし。かつ、実際上においても全く自家の経験を根拠とせるものなれば、これを事実として、その論を承認することあたわざるなり。たとい一歩を仮して、その事実を確実とし、その道理を精確なりと仮定するも、なお二、三の考究を要する問題ありて、決して軽々に論断を下すべからず。

 すなわち、その問題の第一は、いったん肉体を去りたる無形質の精神すなわち霊魂がいかにして再び形質をそなえるに至りしかということこれなり。また第二は、幽霊の現れし場合ならびに人のこれを見し場合を考うるに、種々の事情存せざるはなきことなるが、なにゆえに幽霊の現るるには、かかる事情を要せるかの点これなり。その事情とはなんぞや。試みにこれを左に列挙せんに、まずこれを主観的と客観的とに分かつを便とす。その客観的には、第一に、幽霊の現ずるは薄暮あるいは夜中のごとき、事物の判明ならざるときに多き事情あり。第二に、寂々蓼々たる場所に多き事情あり。第三に、死人ありたる家、久しく人の住まざりし家、神社仏閣、墓畔、柳陰のごとき場所に多き事情あり。その主観的には、第一に、幽霊はある一人に限りてその形を見ること多く、衆人同時にこれを見ることはなはだ少なき事情あり。第二に、疾病あるいは心痛その他の事情によりて身心上に衰弱変動を生じたるか、もしくは発狂したる場合かにおいて多く現るる事情あり。第三に、幽霊を見るはその性質感動しやすく、恐怖しやすく、概して知に乏しくして情に強き人に多き事情あり。第四に、自ら一事を専念沈思する場合に多き事情あり。例えば、寡婦がもっぱらその亡夫を追慕してやまざる場合において、その幽霊を見るがごとし。これを要するに、以上列挙せしがごとき種々の事情ありてはじめて幽霊現るとせば、なにゆえにこれらの事情が幽霊の現出に必要なるかは、決して研究を怠るべからざる要点ならずや。さはいえ、予は決して幽霊なしと断言せんとするにあらず、また、決して幽霊ありと信ずる論者を攻撃せんと欲するにもあらず。ただ、世の幽霊論者が僅々二、三の事実によりて、ただちにこれありとの断定を下さんとする傾向なきにあらざれば、かくのごとき論者に向かいて注意を請わんと欲するに過ぎず。ゆえに予は、幽霊ありと信ずる論者に向かいて、その断定に到達するにさきだち、余が上に列挙せし一、二の問題に対し、十分なる解釈を与えられんことを希望してやまざるなり。


 王充の「論衡に述ぶるところ、実に一理あり。その言に曰く、「朽則消亡、荒忽不見、故謂之鬼神、人見鬼神之形故非死人之精也、何則鬼神荒忽不見之名也。」(朽つればすなわち消亡し、荒忽として見えず。ゆえにこれを鬼神という。人、鬼神の形を見るゆえに死人の精にあらざるなり。なんとなれば、すなわち鬼人は荒忽として見えざるの名なり)と。これによりてこれをみるに、通俗のいわゆる幽霊の誤りあるを知るべし。もし誠にその幽霊を説明せんと欲せば、物理的、心理的の二方によらざるべからず。もし物理的説明によらば、幽霊はもとより世に存在すべき道理あるものにあらず。しいてこれを説明せんとせんか。あるいは一種の電気または精気の作用に帰するよりほかなし。あるいは数学上、これを第三大以上のものとなす人あり。第一大とは、単線のごとき長さのみを有するものにして、第二大とは、平面性のもの、すなわち長さと福とを有するものをいい、第三大とは、立方体にして長幅のほか厚さを有するものをいうなり。しかして今、吾人はただ耳官のみを有して、他の感覚なき者ありと仮定せんか。しかるときは第一大以上を知るべからず。また、眼官のみにて他の感覚なき者ありと仮定せんか。第二大までを知るも、第三大には及ばざるべし。しかるに今日の人類は、五官によりて三大までを知るといえども、もしこの上に六官、七官を有しなば、なお四大、五大の知るべきものあるやも測るべからず。しかして幽霊のごとき妖怪は、すなわちこの四大以上の性を有して、人間の五官にては知り得べからざるものと想像するものもあれども、これかえって憶説、空想のはなはだしきものなり。あるいはまた、人間にも五官以上の官能具備したらんには、幽霊もまた弁じ得べきものなりと考うるものあるも、これまたして、もとより取るに足らざるべし。

 要するに物理上にては、到底幽霊の実にありとの論には同意することあたわず。しかれども心理上より考うるときは、幻覚、妄想、注意、信仰、予期、感情等によりて説明することを得べし。しかれどもこれらは、後にいちいち例を挙げて説明するところあるべし


     第13節 幽霊の種類

 幽霊の種類民間の幽霊には種々あること疑いなければ、その表を示すべし。


 人為的とは、虚言、訛伝等によりてその実を誤るものをいう。偶然的とは、さきに第一節に掲げたる二、三の例のごときものをいう。この二者はともに事実にあらざるをもって、これを虚偽と名付く。この偶然的に属すべきものに物理的妖怪あり。すなわち光線の反射、屈折等によりて人影を浮かぶるときに、これを幽霊と認むることあり。例えば、高山、幽谷などには虚影を見ることあり。また夜中、ランプの光線が偶然、物の影を人の形に現ぜしむることあり。これとひとしき例に、信州小諸町、小山勝助氏より報道せられし一項あり。すなわち左のごとし。 

 わが長野県北佐久郡御影新田村、若林時次郎の妾某、同村内に一家を借りて別居せしが、明治十九年九月某夜、便所にゆき、かえりて室に入らんとせしに、今まで明らかなりしランプの、なんとなく朦朧として薄暗きをあやしみ、ふとそのホヤを見れば、ホヤは人面と化して、某をにらむもののごとし。某これを見て驚き叫び、出でて隣人に告ぐ。隣人、妄となし一人もこれを信ずるものなし。ここにおいて、某やむをえず再び室に入りてそのホヤを検せしに、ホヤの裏面に付着したる油煙、明らかに人面を現せり。その容貌、男女の区別明らかならざれども、眉、目、口、鼻、みな備わりて、頭髪の生え際まで判然印現し、画工といえども及ばざるほど巧みに見ゆ。これ偶然、油煙の付きし所が人面のごとくに現れしに相違なかるべきも、かくのごとく巧みに現れしは奇といわざるべからず。ある人これを御嶽講の先達に占わしめしに、時次郎の亡妻祟をなすなりといいし由。もっとも、そのホヤはそのまま同家に保存しある由なれば、なにびとにてもなお見ることを得べし。


 これ、偶然の出来事なることは問わずして明らかなり。また、反響が人を驚かすことあり。深山などにはことにはなはだしとす。要するに光線と音響とは妖怪を作り出だす力を有するをもって、今後、幽霊の形を見、もしくは声を聞きたるときには、よほど注意に注意を重ねて、その原因を探究せざるべからず。

 また、虚偽にあらずして一般に幽霊の事実として世人の伝うるものに、有形、無形の別ありて、有形の方には陰火の燃え上がり、あるいは怪火の空中に飛行するを幽霊となすものあれども、今ここに論ずるものは人の形体を示すものをいう。その形体に手足五官を具備して、言語、挙動さらに生時に異ならざるものと、半身のみありて空中にかかり、あるいは頭のみを現し、あるいは運動のみありて言語を有せず、あるいは言語、運動ともに有せざるものとあり。これに反して無形の幽霊とは、目に形体を見ざるも耳に語声をきき、あるいは足音を聞き、あるいは触覚上、亡者の体重を感ずるがごときをいう。世間の俗説には、幽霊が寺に参り、戸を開き、鐘をたたくなど種々の音を聞くも、その形を示さざることありと信ずるなり。またこれらの幽霊の、一人の感覚のみに現ずるものと、衆人の耳目に現ずるものとの二種あり。左に二、三の例を挙げて示すべし。まず有形的幽霊の、人に限りて見たる例を挙ぐれば、

『新著聞集』巻五に曰く、江戸柳原の酒屋市兵衛という者の妻、天和三年の夏みまかりしに、そのころのある夕暮れに幽霊現れて下女が袖を引きしかば、あなかなしやと伏し倒れ呼びしに驚き、人寄りて見れば絶死せり。顔に水をそそぎ呼びけるに、辛うじてよみがえりし。しかるに、かれが片袖切れてなかりしば、不審して翌の朝、亡妻の塚に詣で見れば、かの袖、石塔の上にかかりてありしとなり」 

群馬県、福地載五郎氏の報に曰く、「予が産地は上州前橋なるが、同地の縁家に予と同齢の男子某あり。予は父の四十二歳のとき生まれしより、仮に捨て子とせられ(俗に四十二の二つ子と称して、四十二歳の人の子はわざわいありというによる)、某の父を拾い親と定めしことあり。加うるに予が母、乳に乏しかりしため、某の母に乳養せられ、十二、三歳のころまでは常に相往来し、予と某とはあたかも真の兄弟のごとくに交われり。しかるに予、十三歳のとき入京し、某と相見ざること数年の後、一度帰郷せしことありしも、当時、某はある県立学校に入学してありたれば、ついに面会するを得ず。交情ようやく疎にして、今は他人と異なることなきほどまでになりたれば、某を思うことかつてなかりしが、明治十六年の暑中に一日のひまを得て郊外を散歩せしに、途中にて図らずも某に邂逅し、種々笑談の後、某の著しく衰弱せるをあやしみ、その所由を問いしに、某は過般来、脚気症の気味ありしが、夏期に至り病勢増進して、一時は歩行することあたわざるまでに至りしゆえ、湯治を兼ねて某所へ転地せり。その後ようやく軽快に向かい、一昨夜帰宅せしくらいなれば、病余の疾憊なお全く癒えざるなりと語りしによりて、はじめて某の病気にてありしを知り、なお大切にすべしといいて別れ、午時家に帰りしに、某の家より信書至る。すなわち開きて見れば書中、「某、永々病気のところ、療養ついにその効なく、昨夜死去、云云」の語あり。この訃音にしてまことならば、今朝、途中にて某にあうべきはずなければ、かつ驚きかつ怪しみ、一時呆然としてありしが、とにかく打ち捨ておくべきことにあらねば、ただちに某の家に至りたずねしに、久しく病床にありて一時転地せしことなどは、予が某にあいしとき聞きしところとすこしもたがわず、しかして、その死せしは実に昨夜のことなりし由を聞き、さては、今朝あいしは某の幽魂なりしかと思わず膚に粟を生じたり。よって思うに、予と某との交情、 今日まで幼稚のときのごとく親密なりしならんには、  かくのごときことなきにも限らざるべしといえども、当時は久しく相見しこともなく、ほとんど絶交のありさまにて、かつて脳中に浮かびしことすらなきに、しかもかく亡霊にあいしはいかなるゆえにやと、疑団凝りて解けず。しばらく記して後日の研究をまつ」


 また、衆人ともに見たる例を挙ぐれば、谷〔干城〕子爵の国家学会にて演述せられし幽霊談の中に、白昼出でたる幽霊の事実あり。今、『国民新聞』の雑報中よりその一節を転載すれば、


 ころは延宝二年のことなり。 土佐の国においては浦々に浦奉行なるものありて、九十九浦よりあがる税はまず浦奉行に納めたり。この浦奉行に岡野源兵衛なる者あり。源兵衛の配下に浜田六之丞という者ありしが、この六之丞はおびただしく金を取り扱うゆえについに不良の心を起こし、ただいまならば、監守盗ともいうべき罪を犯せり。そのころの刑罰は極めて重く、浜田六之丞これがため死刑の宣告を受けたるのみならず、一家三族ことごとく落首となって相果てたり。六之丞の弟に吉兵衛という者あり。紀州へ行きて剣道を学びおりしが、性得はなはだ誠実にして学業の進みも早く、師家にては彼に皆伝を許さんと思いおるうち、吉兵衛は国元の便りを聞き、大いに驚き、それとなしに師家を辞して土佐に帰り、城下より一里ばかり離れたる洲崎という所へ上陸して、村役人の所へ至り、「自らは、さきほど監守盗の罪を犯して刑せられたる六之丞の弟でござる、なにぶんのお仕置きを願い奉る」と届け出でたり。通常のものならば、一家の刑せられしを聞かば、逃げ去るこそ人情なるに、吉兵衛は他国より帰りきたりてお仕箇きを願うにより、村役人も感心して、縄をもかけず、添書をつけて目付役の所に至らしめ、当時の目付役源兵衛はその旨を上申に及びたるところ、土佐の政府においても、 その殊勝なる心に感じて種々の議論ありしが、ついに切腹を申し付け、吉兵衛は、「通常ならば打ち首にも処せらるべきところ、武士の面目を立ててくだされ切腹を仰せ付けられたるは、この上なきありがたきことなり」とお受けして、潔く割腹して相果てたり。その翌日の昼ごろなりき、源兵衛の家に案内を請う者あり。源兵衛立ち出でて見れば、昨日割腹したる浜田吉兵衛なり。「実は生前に申し残したることあり、よってご依頼のため推参いたしたり。そは余の義にあらず、師家より伝書を贈りきたるはずなるが、拙者かくなり果てし上はつまらぬ者の手に渡るは必定なり。さありては師家に対して信義の相立たざる次第なれば、なにとぞ足下においてお焼きすて相なりたきものなり」と。源兵衛はこれを承知したる旨を告げ、浜田吉兵衛は喜んで立ち去れり。この幽霊は白日出できたりしのみならず、立派に足もありて、かつ水漬け二杯の馳走を受けて立ち去れり。その座に源兵衛のしもべ、平尾弥五郎、市田与平次の二人居合わせ、不思議に思いあと追いかけたれど、ついに影を見失えり。

 また、近江国、大菅吉太郎氏の報に曰く、「維新の前、彦根藩士に寺沢友雄(今なお生存せる人)といえる人ありしが、一夜同藩士某の邸辺りを通行せしとき、同邸の牆の辺りに人あり。胴より上をあらわし、しきりに頭を左右に振りて眄顧するもののごとし。よって月の光に照らしその面を熟視すれば、その邸の主人某なり。当時某は江戸詰めにしてここにあるべきはずなければ、これをあやしみ、翌日その家に至り、つぶさに見しところを告げしに、某の夫人もまた、その時刻に良人の影、紙障に映ぜしを見たりとて、ともに一驚せしが、その翌日江戸より急報あり。「某、熱病にかかり急に死す」と。しかしてその時日は、あたかも寺沢ならびに某の夫人が幻像を見し時日に合せり。これによりてこれをみれば、幽霊は形体あるものにや」また、保田守太郎氏の報に曰く、「余、 本年四月、下総国香取郡香取村に遊びし折、佐原小学校の教員数名と懇意になりしが、その人々より、同地近傍に隠れなき怪談なりとて、おもしろき一話を聞き得たり。 今その要領を記さんに、香取郡小見川町に皆花楼とて旅店と割烹店とを兼ねたる一楼あり。今より七年ほど前の四月中旬のことなりとか、一日客あり(当時郡書記をつとめたる者なるが姓名ははばかりて言わず)、この楼に宿せしが、その夜十一時ごろまでも眠りに就くことあたわず。袋をうちかずきながら書籍、雑誌など読みおりたりしに、ようやく睡気つきて、やや華胥に遊ばんとする折しも、枕辺の方に物音して、人の気配するままに驚きて目を開き見れば、こはいかに、今までかすかなりし燭火の光、煙々とあたりまばゆきばかり照り輝きて、あなたの壁際に年ごろ二十あまりともおぽしき女の、鮮血にまみれておどろの黒髪振り乱し、とものうらめしげににらまえたる眼光のすさまじさ、見るより客の驚きはたとえんに物なく、たちまち五体打ちすくみて、覚えずひと声絶叫せしかば、楼下に臥したる宿の主人、この物音に驚きて、いそぎくだんの客の間に走り行き見れば、客はすでに面色土のごとくなりて声もえ立てず、冷汗身を浸して打ち伏しおりたりという。しかるに、このことありてより三年後、またたまたま一客あり、この楼に宿せしが、この人(これも当時郡書記をつとめおりたる人)は、かつて前の怪事を耳にしたることなかりしなり。さてその夜、床に入りていまだ眠りに就かず、ほのぐらき灯火の光に、あたりの屏風、襖の絵などうち眺めおりたる折しも、立て切りある襖の間より、白く細長き女子の腕現れ出でたり。宿の下婢などの戯れならんと思いければ、ただ黙して注視しおりたるに少時して隠れたり。しかるに、これと同時に隣室に泊まり合わせたる客人(県会議員某)、ちまちひと声高く叫びて急に人を呼ぶもののごとし。前なる客、驚きて声を掛け、ゆきてそのゆえを問うに、隣客の答うるよう、『われ今夢に墓場を過ぎしに、墓石の間より白く細長き女子の腕現れて、わがたもとを引くに驚きて振り放たまくすれども、五体すくみて動くことかなわねば、思わず声をあげて人救いを求めたるなり』と。よって、前に実見したるありさまを語りて、互いにその奇におどろきたりという。

 さてその後、この二人のうちいずれにかありけん、たまたまかの三年前に怪事に出あいたる人と相会したる折、ふと右の話を打ち出でたるに、前なる人、聞きて太く打ちおどろき、われもかつてかの楼にて怪異を見たることありしが、今思い出でて肌に粟する心地すとて前の話をつぶさに語り出でて、なお互いにその月日を問い試みたるに、奇なるかな、前後の怪事あたかも同月同日に当たりたりければ、いずれも再びその奇におどろきたりという。かくて後、だんだんかの旅店の来歴をせんさくしたるに、その前代の主人、性すこぶる苛酷にして、かつて一婢を虐待し、ついに死にいたしたることありとぞ」 

つぎに、無形的幽霊の一人のみにて感ずるものを挙ぐれば

 『新著聞〔集〕』に曰く、「下野国那須の下蛭田村に助八という者あり。父は死し、継母ばかりなるを、常につらくあたりしかば、母うらみかこち、「なんじ、今かくのごとくからき目にあわするとも、ものにはむくいあり、やがて思い知らせんものを』とにらみし眼、いとおそろしかりき。 その後、母わずらいつきて死しけるが、その夜より怨 きたりて助八をなやましければ、おそろしさやるかたなく、身の毛よだちて覚えけるゆえ、妻子をすて、かみをそり、湯殿山行人にさまをかえ、諸国修行せしより後、怨霊またも見えずなりしとかや」 

 また、某氏の報知に、「近江国愛知郡北蚊野村に宇野うめといえる者あり。その母春野すでに死して今は独身なるに、ある夜のこと、 隣人宇野茂兵衛といえる人、うめの家の門前を通行せし際、家の中にて春野とうめとがしきりに談話する声を聞き、立ちとどまりてなおよくこれを聞けば、母の春野がうめの将来につき案じわずらう物語なりしより、ますます不審に思い戸隙より内をうかがうに、ただ、うめのひとり臥したるを見しのみ。しかれども、なお談話はやまざりし由」


また、衆人ともに見たる無形的幽霊、あるいは衆人の夢中に現じたる幽霊を挙ぐれば、


『古事談』巻六に曰く、「むかし、ひえの山千手院に広清という僧ありけり。常に法華経を読み奉りて極楽にもうでたるよし、人の夢に見えたる。没後に、かの墓所に夜ごとに経一部よむ声怠らざりけり。改葬してその墓所をよそに渡したりけるときも、なお経の声怠らざりけり。在生のときより執し奉れるゆえに、没後にもその行怠らぬなり。善悪につけてしゅうしんあることは、生を隔つれどもかかるにこそ」

 また、越中国、玄巣慶祥氏の報ずるところによるに、「予が村は僻陬にて、日用品すら急にあがなうことあたわざるくらいの土地なるが、明治十七年十月某夜、村内の某老爺きたり、予にいいて曰く、『われ砂糖をなめんと欲すれども、たまたま蓄うるところ尽きたり。貴家もし蓄うるところあらば、願わくは少量を貸せ』と。予、もとより某爺の砂糖を好むを知る。かつその家貧しというにあらざれども、僻地のことなれば何心なくこれを与えしに、爺の喜ぶこと一方ならず、大声歓呼せしを聞くや、たちまちその影を失う。ここにおいてその夢なりしを知り、再び眠りしに、翌朝、人あり。某老爺、一昨夜来急病にかかり、昨夜ついに死せりと告ぐ。予、かつおどろきかつあやしみ、他事に託して臨終の状を問う。よって死者まさに瞑せんとするに臨み、『わが年すでに七十に近し、またなにをか望まん。ただ一塊の砂糖をなむることあたわざるを遺憾となすのみと語りしを聞き、ひそかに夢の妄ならざりしに驚きしが、葬送終わりて後、老爺の子某きたり、話緒亡父のことに及ぶ。某すなわち曰く、『予、頃日商用のため越後国高田に赴き、父の病を知らず。一夕、家父の砂糖をもとむる夢を見たりしが、その翌日、家父死亡の電報に接し、急に帰りきたりてこれをたずぬれば、家父終焉の際、実に砂糖をもとめたりという』と。この二夢はともに事実に合するものにして、すこぶる奇怪ならずや」 


その他、幽霊の種類に、ウプメの幽霊、舟幽霊等あれども、これ「雑部門」において論ずるはずなれば、ここに掲げず。

以上の諸例は事実として掲げたるも、そのうちに寸分も虚偽なきを保すべからず。余が今日までの経験によるに、十中七八までは虚偽、 虚構に出ずるを知る。果たしてしからば、真に事実として取るべきものは、わずかに二、三のみ。そのうち一人に限りて現ずるものは、幻覚、妄見、予期、専制等の種々の精神作用によること疑うべからず。また、無形的幽霊も同じく精神作用に帰せざるべからず。ひとり衆人共同して見るところの有形的幽霊に至りては、精神のみによりて説明し難しといえども、もし人の想像、予期するところ同じきときは、同一の幻象を感見することあれば、衆人ともに見るものも精神作用に関係なしというべからず。しかして精神作用の説明は心理学に属することなれば、「総論」説明編および「心理学部門」心象編に譲る。また、両人にて同一の夢を結び、あるいは同一のことを感じ、ことに同月同日に起こり、二者真に符合せりと伝うがごときも、決して信許すべからず。だれも明らかに時日を記憶する者なきをもって、その一時の想像によりて時日を定むるを常とす。ゆえに、余が今日まで時日符合のことにつき取り調べたるうちに、いまだ一つとして確実なるものに接せず。大抵みな仮定、憶断によるものなれば、確実らしきものも決して確実にあらず。また、妖怪の原因のごときも、人々の予想によりて定むるものなれば、これまた真偽を知るべからず。例えば、ある家に一怪事あるときは、このことは必ず前に死したる人のうちに、怨恨を抱きし者あるより生ぜしならんと予想してその原因を求め、ついに数代前その家に殺されたる人ありしことを発覚し、ただちにかの怪事は怨霊の作用なりと速断するがごときは、これ決して公平無私、虚心平気の判断にあらず。かつ、事物の上には必ず偶然の暗合はあるべきことにして、そのことはすでに「理学部門」第一講に述ぶるところなり。ゆえに、これありとてなんぞあえて怪しむに足らんや。また、道に死したる友人に会し、互いに相語りしことありというも、人は幻覚によりて実際虚無なることを、その実あるがごとく感覚することあるのみならず、人の記憶そのものも時によりて信拠すべからざることあり。例えば、四、五日前に面会したりしことを昨日のごとくに記憶し、甲の人に面会したりしことを乙のごとくに記憶し、夢中に想見したることを実際経験したるがごとく記憶しおることは、折々ある事柄なり

 以上の事情を参考するときは、世の幽霊実験談は、いかに確実なるものにもせよ、絶対的にその実を得たるものと称するを得ざるなり。


     第14節 幽霊論の帰結


 上来論述するところ、これを要するに、余は幽霊有無論は霊魂不滅論にもとづくものにして、霊魂は不滅なりと断言して可なるをもって、幽霊も実在せりと許してしかるべきがごとしといえども、通俗のいわゆる幽霊は、霊魂論と大いにその性質を異にするをもって、余は幽霊現存説を信ずるあたわず。しかれども、余は世間の排斥論者のごとく一言の下に排斥するにあらず。およそ今日民間に伝わる幽霊は、十中七八まで人為的および偶然的にして、残余の二、三は精神作用によるものとなす。ただ余は従来世間にいい伝うる幽霊談について、事実と虚 偽と判別することあたわざるをもって、いちいち説明を与えざるのみ。ゆえに余が目的は、今後の幽霊につきて注意を与うるにあり。まず世人の幽霊に遭遇したるときは、必ず種々の原因および事情あることを記せざるべからず

 ゆえに、もし今後幽霊に際会したるときは、必ず虚心平気をもって右の原因、事情のほかに、真に幽霊と認めざるものあるかいなかを審定すべし。しかるに、もし幽霊はこれらの原因、事情によりてのみ成立するならば、余はこれを名付けて仮怪といわんとす。しかして真怪と名付くべきものは、余はひとり霊魂そのものの本性、実体あるのみと信ずるなり。これ、余がさきに霊魂不滅論を述べたるゆえんなり。しかして、この霊魂は玄々たる絶対関門のうちにありて存し、吾人の精神の上にその光輝を放つのみ。決して物質的形体を有するものにあらず。これを名付けて霊妙不可思議という。あに世の物質的、奇怪的幽霊と同日に論ずべけんや。ただ余は、世人に哲学的知眼を開ききたりて、奇怪的幽霊を破り、霊妙的幽霊をあらわされんことを望んでやまざるなり。


     第15節 霊魂論の帰結


 かく幽霊論を結びきたれば、また霊魂論を結ばざるべからず。霊魂は吾人の生死の関するところにして、その生滅は生死の迷路の分かるるところなり。かの唯物論者のごとく本来心霊なしとするも、なお生死の道に迷いなきあたわず。未来の天堂も地獄もすべてなしと信ずるもの、なお死を恐れざるあたわず。シナにありても楊朱のごときは唯物説なり。 その言に曰く、「万物所異者生也、所同者死也、生則有賢愚貴賤是所異也、 死則有臭腐消滅、是所同也。」(万物の異なるところのものは生なり、同じくするところのものは死なり。生にはすなわち賢愚貴賤あり、これ異なるところなり。死にはすなわち臭腐消滅あり、これ同じくするところなり)また曰く、「十年亦死、百年亦死、仁聖亦死、凶愚亦死、生則尭舜、死則腐骨、生則桀紂、死則腐骨、腐骨一突、執知其異。」(十年もまた死し、百年もまた死し、仁聖また死し、凶愚もまた死す。生すればすなわち尭舜、死すればすなわち腐骨、生すればすなわち桀紂、死すればすなわち腐骨。腐骨はつのみ、いずれかその異なるを知らん)と。また晏平仲の言に曰く、「既死登在我哉、焚之亦可、沈之亦可。」(すでに死す、あにわれにあらんや。これを焚くもまた可、これを沈むるもまた可)と。人よくこの言を信じて死を恐れざるを得るや。また、生死は自然に一定せるものにして、人力のよく動かすべきにあらず。儒者は曰く、死生有レ命富貴在レ天」(死生命あり、富貴天にあり)と。仏家は曰く、「煩悩即菩提、生死即涅槃。」(煩悩はすなわち菩提、生死はすなわち涅槃)と。人みな、よくかくのごとく信じて死を恐れざるを得るや、余輩のはなはだ怪しむところなり。それ人の恐るるもの、死よりはなはだしきはなし。雷震を恐れ、病患を恐れ、猛獣を恐れ、毒虫を恐れ、飢渇を恐るるは、みな死を恐るるより起こる。しかして人の迷いもまた、死を恐るるより生ぜざるはなし。迷いは実に苦のよりて起こるところなり。ゆえに、人もし苦を脱せんと欲せば、まず迷いを脱せざるべからず。

 余、かつて世の金満家に一言を進めたることあり。その有するところの金はもと死物なるも、一種の力を有す。その力、実に強くしてかつ大なり。山も動かすべく、川もとどめしむべく、腕力もこれによりて生じ、知力もこれによりて進み、権力もこれによりて張り、威力もこれによりて高く、その力よく法律の権門を破り、禍福の冥路をひらく。諺にいう、「地獄の道も金次第なり」と。実に金は一種不思議の神力を有すというべし。その力、またよく知者を愚にし、才子を鈍にし、人を欺き、事を説うるも自在なり。実に金は一種奇怪の魔力を有すというべし。これ、世人一般に金を見て狂するゆえんなり。金満家はなんぞ多幸至福なるや。この不可思議の神力と、奇変妙怪の魔力とを有する金をその一身に具す。実に人世にありて、最大幸福の地位を占むる者というべし。余輩その人に向かいて賀せざるを得ざると同時に、また他方に向かいて弔せざるを得ざるものあり。すなわち無資無産の貧民窮生これなり。これ実に人世にありて、最大不幸の地位を占むる者というべし。だれか、一方にかくのごとき最大幸福の人をつくり、他方にかくのごとき最大不幸の人をつくりしや。上帝、もしいまさば、余輩その法廷に向かいて不公平を訴えざるべからず。

 しかりしこうして、神力、魔力を兼備せる金力の動かすべからざるもの一つあり。金満家はなにほど最大幸福の地位にあるも、この一点に対しては最大不幸の人たるを免れず。これに反して、無資無産の貧民窮生も、この点に考えきたらば最大幸福の人たり。その点はなんぞや。曰く、「人の精神上の境遇なり。金満家は肉体上にあり ては快楽をほしいままにし、幸福をもっぱらにし、百事百物、意のごとくならざるなきも、精神上にありては、またすこぶる安楽の余地に乏しきを見る。しかして、よく精神界中に楽地を開くものは、学問と宗教なり。この二者は精神世界を照らす灯台にして、また精神境裏をうかがう眼鏡なり。金満家は大抵学問に乏しく、また宗教に暗し。 ゆえに大事に当たりて迷い、病患にかかりて恐れ、老い去り、衰えきたりて、目よくみるべからず、耳よく聴くべからず、 舌よく味わうべからざるに至れば、 あたかも渓山深き所に、樵径を失したるがごとく、茫然として四顧向かうところを知らず。また、あたかも終身禁固の牢中にあるがごとく、 呻吟としてただその心を苦しむるのみ。かくして、日一日より死期に近づき いよいよ生死一別の境に臨み、無常の妄風吹ききたりて、心灯まさに滅せんとするに至らば、前途暗くして、いずれに向かいて去るを知るべからず。顧みて往事を追想すれば、 百事恍として夢のごとし。進退これきわまるも、またいかんともすべからず。いかなる金満家もここに至ればその憂悶、実にいうに忍びざるものあり。金力特有の神力も魔力も、この境に臨みては、さらにその効力を見ず。しかして、よくこの際に大金、剛力を奮い、もって百憂千悶を一払し去るものは、ひとり学問と宗教あるのみ。この二者は人の精神に一種の高遠美妙、不可思議の幸福、快楽を与うるものにして、平常いやしくも学問に志し、宗教に意ある者は、多少この快楽をその心に感受せざるはなし。しかるに、金満家の欠点はこの二者の思想に乏しきにあり。ゆえをもって、金満家は肉体世界にありて、最大幸福を専有する人となるも、精神世界にありては、最大不幸の人となる。これ、余輩が金満家のために、ただにその不幸を弔するのみならず、この不幸を転じて幸福となす方法を示さんと欲するゆえんなり」と。

 これ、余がかつて金満家に呈したる一言なり。しかるに、古来聖人君子と称せらるる者は、の心常に明らかにして生死の道に迷うことなく、精神界裏に日月を浮かべ、方寸城中に極楽を開き、安楽の別天地に遊ぶものなり。釈迦、孔子のごときは論をまたず、〔王〕陽明、カントのごときもその心、実に日月より明らかなるものあり。陽明ときに死せんとす、門人遺言を問う。陽明微晒して曰く、「此心光明、 亦復何言。」(この心光明、またまたなにをか言わん)と。 頃刻ありて瞑目して逝けり。カントは病中にありて自ら死の近きを知り、人に語りて曰く、「われは死を恐れず。なんとなれば、われはいかにして死するを知ればなり」と。碩学、大家の生死に迷わざること実にかくのごとし。しかるに、凡庸の輩は戦々恐々として死を恐れ、終身苦海に一生を送る。これすなわち、その心自ら地獄を作り、煩悩の火中にありて苦しむものなり。誠に哀れむべきの至りならずや。けだし、宗教の世に起こりしは、この迷人を救わんためのみ。


第二講 鬼人編


       第16節 鬼人編


幽霊論に関連し、一に説かざるを得ざるものは鬼神論なり。在昔、大聖孔子は門人の問いに答えて、「未生、焉知死。」(いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん)といい、また「末能事一レ人、焉能事鬼。」(いまだよく人につかえず、いずくんぞよく鬼につかえん)といえり。しかるに余は今、これに反して、「いまだよく鬼につかえずいずくんぞ人につかえん」といわんとす。また余は、「いまだ死を知らず、 いずくんぞよく生を知らん」といわんとす。なんとなれば、人間一代のことを知らんと欲せば、生前、死後のことを明らかにせざるべからず。また、人の心情に通じて、よくこれにつかえんと欲せば、必ず鬼神に通ぜざるべからざればなり。およそこの世界に、人知をもって知り得べきものと、知り得べからざるものありというも、もし深くその理を究むれば、その知り得べきもの、すなわち可知的もまた、実は知り得べからざるもの、すなわち不可知的の一部分なることを知るべし。たれびとも目前、現在のことは呼んで知り得べきものとなす。しかれどもそのよって起こり、よってきたるゆえんを考うるときはついに知るべからざるに帰す。ゆえに可知的とは一部分につきていい、不可知的とは全部につきていうものにして、可知的はすなわち不可知的の一部分に帰するなり。これと同一理によりて、人力と神力との関係を知るべし。

例えば、かねて人の意志、行為をもって左右し得るときはこれを人力とし、人意をもって動かすことあたわざるときは、 これを鬼神の力あるいは天の命に帰し、 もって人と神との力を分かつ。 しかれどもさらに進んで考うるときは、一つとしていわゆる人力なるものの存することなく、みな神力、天命の作用に帰せざるを得ざるに至る。例えば鋤をとりて田を耕す、もって人力とせんか。その手足の上に発しきたるところの力は、いずれよりきたるか。これを筋肉の間より発すとするも、いかにしてその間より生ずるかを究むるときは、けだし人自ら知らざるところなるべし。あるいはまた春まき秋収む、もって人力とせんか。その種子をうるおすところの雨露、その地を温むるところの日光、および種子そのものの発生等は、すべて人力の得てうかがうところにあらず。にこれを人力といわんや。ゆえに人力といい、神力といい、もってこれを区別するは、ただ一部のことのみ。全体の上より見るときは、一つとして鬼ならざるなく、一つとして神ならざるものなし。古来鬼神のこと、諸書に見えたるもの少なからずといえども、畢竟するにこれらの名称は、人力のほかに人意にて動かすべからざるものあり、人知にて知るべからざるものあるを想像して、これに名を命じたるにほかならず。その形体、状貌を想定する人に至りては、人知の程度に従って同じからざるべしといえども、人知、人意の関せざる一種の力あることを憶測するにおいてはなり。果たしてしからば、鬼神は実にありと断言して可なるか。左に、鬼神の人にその形を示したる一例を挙げん。


晋阮瞻素執無鬼論、自謂此理可以弁正幽明、忽有客通名謁瞻、瞻与之言、良久及鬼神之事、反覆甚苦、客遂屈、乃作色曰、鬼神古今聖賢所共伝、君何得独言一レ無、即僕便是鬼、於是変為異形須臾消滅。(晋の阮瞻、もと無鬼論を執し、自らいわく、「この理もって幽明を弁正すべし」たちまち客あり、名を通じて瞭に謁す。 贈これと言う。やや久しくして鬼神のことに及ぶ。反覆はなはだ苦しむ。客ついに屈す。すなわち色をなして曰く、「鬼神は古今聖賢のともに伝うるところ、君、なんぞひとりなしというを得ん。すなわち、僕はすなわちこれ鬼なり」と。ここにおいて変じて異形となり、須臾にして消滅す)三十国春秋曰、中牟令蘇詔卒、後従弟節、見韶乗馬昼日而行、著黒介幘黄綵単衣、節因問幽冥之事、韶曰、死者為鬼、倶行天地之中人間、而不生者、顔回卜商、今見為修文郎(冥官修文郎)、死之与生、略無異、死虚生実、此有レ異爾、言終而不レ見。(「三十国春秋に曰く、「 中牟の令蘇韶卒す。のち、従弟節、韶が馬に乗り昼日にして行くを見る。黒介幘、黄綵の単衣をつく。節、よって幽冥のことを問う、韶曰く、『死者は鬼となり、ともに天地のうちを行く。人間にあれども生者と接せず。顔回、卜商は今見るに修文郎たり。死の生とほぼ異なるあるなし。死は虚、生は実、これ異なるあるのみと。言終わって見えず」)


 かくのごとき鬼神談もまた実事とすべきか。これ、余が次節に述べんとするところなり。


       第17節 鬼人の有無


 鬼神の有無につきては、まず、余のいわゆる鬼神と世俗のいわゆる鬼神と、その別あることを示さざるべからず。そもそも世俗のいわゆる鬼神は、形あり、象あり、耳目あり、身体あるものにして、角あり牙あり、口裂け眼光り、腕大いに力強く、あるいは閻魔のごとく、夜叉のごとく、あるいは雷公の太鼓を負い、風神の風をになうがごときものをいう。愚民に対して鬼といえば、地獄に住めるものと思えり。ヤソ教にても、その地獄の図には恐ろしき一種の鬼の住するを示す。その想像は東西相似たるものなり。しかるに、余がいわゆる鬼神はこれに異にして、形体、形質を離れて、精神世界に存するものにして、前に論じたる霊魂不滅説とその理を同じくす。すでに霊魂をもって不滅となす以上は、鬼神の存在もまた否定すべからず。なんとなれば、霊魂不死なりとすれば、人の死するや、その後必ずいずれにか一種の成立を有せざるべからざる理にして、余の指して鬼神となすは、この成立の体をいう。しかれどもその体たる、決して生前のごとき身体、もしくは形象、物質あるものにあらず、ただ精神界の成立を有するものにして精神の体なるのみ。古代ギリシアの唯物論者中に、精神も一種の物質的分子より成るものにして、ただその普通の物質と異なるは、その分子の極めて精微にして変化しやすきにありといえり。デモクリトス氏、エビクロス氏のごときはすなわちこの説を主唱せり。もしその説によるときは、鬼神にもまた形質ありと許して可なり。しかれども、こは今日の学者中、一人もいるる説にあらざれば、今日の学説によりて鬼神の成立を論ずるときは、全く精神的のものとなさざるべからず。

 しかして、その本体に至りては万有の本源、実体と同一にて、すなわち神、あるいは真如、あるいは太極、あるいは理想と同体なるべし。ただその異なるは、神、真如、太極等の名称は、平等唯一の部面より与えたる名目にして、これに対して鬼神は、差別雑多の点より与えたるの別あるによる。しからば、鬼神にも本体と現象との区別あることを知らざるべからず。本体よりいえば、万有の本源と同一にして、これと相通じて成立し、現象よりいえば、万有とその体を異にして一種格段の成立を有するなり。すなわち仏教のいわゆる平等門にては真如の一体を説き、差別門にては彼我の区別を立つるに比すべし。例えば仏身に三身の説あり。三身とは法身、報身、応身なり。仏はこの三身を具したる一身にして、平等、差別両面を具有したる体なり。これと同じく、神においても普遍性の神と、個体性の神との別あり。普遍性の神とは、理想、真如の体にして、宇宙万有の本源、実体なり。個体性の神とは、宇宙万有のほかに成立して、世界を支配するところのものなり。ヤソ教にいわゆる神はこの個体性に属す。これにまた多神と一神との両説あり。多神教にては個体性の神に善悪種々の種類ありとなせども、一神教にてはその種類を分かたざるをもって、鬼神を許すべからざるがごとしといえども、一神教にてもなお天使を説き悪魔を説くをもって、種々の鬼神を立つるものとみなすべし。また、その一神にも神父、神子、神霊の三位を立てて、三位おのおの差別あれどもその本体は一つとなりとなす。これを三位一体説と名付く。ゆえにヤソ教の神にもまた、平等、差別の両面を説くものと見て可なり。されば、もしさらにこの説を拡充してヤソ・キリストひとり神子たるのみならず、一切の人類はみな神の造るところなれば、ことごとく神子なりとし、三位一体を解して神人同体なりとなし、さらに進みて草木、国土あらゆる諸物はみなことごとく神の手に成るをもって、またみな神子なりとなし、その万有の有するところの勢力をもって、神より分賦せられたる神霊なりとなすときは、三位一体説たちまち変じて神物同体説となり、万有と神と平等、無差別なりというに至らん。しかるときは、ヤソ教の三位説はついに仏教の三身説に帰し、両教合して一つとならん。仏教にはすでに「一切衆生悉有仏性」といい、「草木国土悉皆成 仏」というは、すなわち神物一体の平等説なり。しかれども、今日のヤソ教はいまだここに至らず、これその仏教に数歩を譲るところなり。まず、余は左の四に分かちて鬼神論を説明せんとす。


第一、儒教の上より鬼神の有無を論ず。

第二、仏教の上より鬼神の有無を論ず。

第三、神道の上より鬼神の有無を論ず。

第四、近世の哲学上より鬼神の有無を論ず


 この順序により、鬼神の解釈を与えるべし。



    第18節 儒教の鬼人の解釈


 儒教のいわゆる鬼神は通俗の鬼神と異なり、今その語の諸書に見ゆるものを摘載すれば左のごとし。


易繋辞伝曰、陰陽不測之謂神。書経曰、鬼無常饗、饗于克誠。詩経曰、神之格思、不度思、矧可射思。礼記曰、鬼神饗徳、不味。左伝曰、鬼神非人実親、惟徳是依。五行大義曰、諸神者礼知無方、隠顕不測。又曰、孔子曰、陽之精気為神。中庸曰、鬼神之徳其盛矣乎。論語曰、祭神如神在、又曰、神不享非礼。老子曰、谷神不死、是謂玄牝。周子太極通書曰、発微不見、充用不窮、之謂神。邵子曰、鬼者人之影也、人者鬼之形也。張子曰、鬼神者二気之良能也。程子曰鬼神者造化之迹也。朱子曰鬼神之理、聖人蓋難之、謂真有一物勢不可、謂真有一物亦不可。物徂徠曰、聖人之制鬼、以統一其民。伊藤東涯曰、不鬼神於有無、此善究鬼神者也。

(『易』の「繋辞伝」に曰く、「陰陽洞られざるこれを神という」『書経』に曰く、「鬼は常のうくるなく、よく誠なるをうく」『詩経』に曰く、「神のいたる、はかるべからず、いわんやいとうべけんや」『礼記』に曰く、「鬼神は徳をうけて、味をうけず」『〔春秋〕左〔氏〕伝』に曰く、「鬼神は人に実に親しむにあらず、これ徳これによる」『五行大義』に曰く、「諸神は礼知方なく、隠顕測られず」また曰く、「孔子曰く、『陽の精気を神となす』」「中庸」に曰く、「鬼神の徳たる、 それ盛んなるか」『論語』に曰く、「神を祭る、神いますがごとし。また曰く、神は非礼をうけず」『老子』曰く、「谷神死せず、これを玄牝という」周子〔周敦頤〕『太極通書』に曰く、「微を発して見るべからず、用をみたして窮むべからず、これを神という」邵子〔邵雍〕曰く、「鬼は人の影なり、人は鬼の形なり」張子〔張載〕曰く、「鬼神は二気の良能なり」程子曰く、「鬼神は造化の跡なり」朱子曰く、「鬼神の理、聖人もけだしこれをいうを難んず、真に一物ありというも勢い不可、真に一物あるにあらずというもまた不可」物〔荻生〕徂徠曰く、「聖人の鬼を制する、もってその民を統一す」伊藤東涯曰く、「鬼神を有無に究めざる、これよく鬼神を究むるものなり」)


 以上の義解によりて、その説多少の異同あるも、ほぽ鬼神の意を了解すべし。『説文』によるに、「天曰神、地曰祇、人曰鬼、鬼之為言帰也、慧也、老鬼曰畢方、小鬼曰。」(天に神といい、地に祇といい、人に鬼という。 鬼の言たる帰なり、 慧なり。老鬼を畢方といい、小鬼を蜮という)とあり。『草李』に、左のごとく示せり。 


形無声木石也、有声無形電霆也、有形有声人物也、無形無声鬼神也。

 (形あり声なきは木石なり、声あり形なきは電霆なり、形あり声あるは人物なり、形なく声なきは鬼神なり)


 また、韓愈の『原鬼論』に述ぶるところ左のごとし。


形而無声者物有之矣、玉石是也、有声而無形者、物有之矣、風雷是也、有声与一レ形者、物有之矣、人獣是也、無声与一レ形者、物有之突、鬼神是也、曰、然則怪而与民物接者、何也、曰、是有二説、漠然無形与一レ声者、鬼之常也、人有于天、有于人、有于物、逆于倫而感、于是乎、鬼有于形、有于声以応上レ之、而下殃禍焉、皆鬼之為也、其既也、又反乎常 

(形ありて声なきもの、物にこれあり、玉石これなり。声ありて形なきもの、物にこれあり、風雷これなり。声と形とあるもの、物にこれあり、人獣これなり。声と形となきもの、物にこれあり、鬼神これなり。曰く、「しからばすなわち、怪にして民物と相接するはなんぞや」曰く、「これに二説あり。漠然として形と声となきものは鬼の常なり。人、天にたがうことあり、人にたがうことあり、物にたがうことあり、倫に逆らって気に感ず。ここにおいてか、鬼形になるあり、声に憑りてもってこれに応ずるあり、しかして殃禍をくだす、みな鬼のしわざなり。それすでにまた常に反す」)


『嚴熟集』に「鬼神与レ人不レ異弁」(鬼神と人と異ならざるのべん)とあり。そのうちに引証していう。「程子曰、死生人鬼、一而二、二而一。王日休曰、人有形之鬼、鬼無形之人。」(程子曰く、「死生人鬼、一にして二、二にして一」王日休曰く、人は有形の鬼、鬼は無形の人」)とあり。また、新井白石の『鬼神論』には「まず天にしては神といい、地にしては祇といい、人にしては鬼というよし、『周礼』には見えたり。かくその名異なれど、誠は陰陽二つの気霊なれば、通じてはこれを鬼神と〔も〕いうなり。陰陽二つの気というも、もと一気なるべきか。これ一種の屈めると伸ぶるとにて、その気こりて伸ぶるを陽といい、帰りて屈めるを陰という。陽のうちにまた屈伸あり〔陰のうちにまた屈伸あり〕。かく屈伸往来のおのずからなるを、二気の良能ともいうなるべし。ただし陰陽を鬼神とはいうべからず。その屈めると伸ぶるとの、おのずから妙なるを鬼神とはいうなり。さてこそ鬼は陰の霊、神は陽の霊とはいいたれ。しかるをまた、文に対していうときは、天神、地祇、人鬼ということは、天の気は常に伸ぶ、また気の清明なるものを神という。日月星辰の類これなり。しかも変化のはかるべからざれば、天にありて〔は〕神と名づく。地のごときは山そばだち、川ながれ、草木生い出でてそれとあらわししめすべき跡あれば、地にありては祇と名づく。祇の字、いにしえは示に作れりと見えたり。示見、著見の義なるべし。人にありて鬼ということは、鬼のことたる〔は〕帰なり。人死して〔は〕その魂〔は〕かならず天にかえり、その魄はかならず地に帰る。魂魄天地にかえるゆえに、鬼と名づく、云云」とあり。この言によりて、鬼神の解釈ならびに鬼神と魂魄との異同を知ることを得べし。またその論に、さらに魂塊と鬼神との関係を示して曰く、「夫子、宰我に答えさせたまいしは、『気というものは神の盛んなるなり。魄というものは鬼の盛んなるなり。鬼と神とを合するは教えの至りなり。およそ生はかならず死す、死すれば必ず土に帰る、これこれを鬼という。骨肉は下にたおれて、かくれて野土となり、その気は上におこりあがりて、昭明焄蒿悽愴をなす。これ百物の精なり。神のあらわるるなり』とぞはべる。これまず人の生まるるときより、のたまいそめしなるべし。いけるときにその嘘吸出入する気というものは、すなわち死して神というもののなお盛んなるものなり。いけるときにかの耳聡目明なる魄というものは、すなわち死して鬼というもののなお盛んなるものなり。すでに死して後に、かの鬼といい、神というものを合わせて祭るは、これ聖人の教えの至りなり。もろもろのいきとしいけるものは、みな死すれば必ず土にかえる。これを名付けて鬼とはいう」とあり。

 これによりてこれをみるに、シナのいわゆる鬼神は、人の霊魂、精神に関する語にして、前講の幽霊論と同一理をもって解説せざるべからず。ゆえに、通俗のいわゆる鬼もしくは神とは、大いにその意を異にするなり。これを一言にて解すれば、人の死したる後を鬼というなり。また、神と称するも万物造出、天地主宰を義とするにあらず、死後の精神もしくは神妙、霊妙を義とす。しかるに、シナにては鬼神のほかに天と名付くるものあり。これ無意自然を義とするがごとくにして、また有意有作の体を指すことあり。ゆえに、左にそのいわゆる天について一言の説明をなさんとす。


       第19節 天論


 シナにて天なる語には四種の意義あるもののごとし。一には上に覆うところの蒼々たる天をいい、二には天道運行の規則、万有自然の理法をいい、三には有意、有知の作用あるものをいい、四には社会の大勢、人民の輿望をいうなり。しかして第二、第三等の意義は、第一の意義より次第に発達、派生したりしや疑うべからず。左に、まず第一意の例を挙ぐれば、


 詩経曰、高高在上。

(『詩経』に曰く、「高々として上にあり」)

荘子曰、 蒼蒼天之正色。

(『荘子』に曰く、「蒼々たるは天の正色なり」)

中庸曰、 高明配天。又曰、浩々其天。又曰、博博如天。

(『中庸』に曰く、「高明は天に配す」また曰く、「浩々たるその天」また曰く、「溥博は天のごとし」)

論語曰、巍巍乎惟天為大。

(『論語』に曰く、「巍々乎たり、 ただ天を大なりとなす」)


つぎに第二の意について、


易曰、大哉乾元、万物資始、乃統天、雲行雨施、品物流形。

(『易』に曰く、「大なるかな乾元、万物資りて始まる。すなわち天を統ぶ。雲行き雨施し、品物形を流く」)

礼記曰、天則不言而信、天無私覆、是天道也、無為而物成。

(『礼記』に曰く、「天、すなわち言わずして信、天、私覆なく、これ天道なり、無為にして物成る」)

論語曰、 天何言哉、四時行焉、 百物生焉。

(『論語』に曰く、「天なにをかいわんや、四時行われ、百物なる」)


つぎに第三の意について、


書経曰、子祗服蕨父、父字蕨子、弟恭、蕨兄、兄友于弟、天与我民彝。

(『書経』に曰く、「子はその父に祗服し、父はその子を字しみ、弟はその兄を恭し、兄は弟に友に、天がわが民に与えし彝」)

又曰、天道福善禍淫。又曰、皇天無親惟徳是輔。

(また曰く、「天道は善に福し、淫に禍す」また曰く、「皇天親なし、ただ徳をこれたすく」)

論語曰、天生徳於予、桓魋其如予何。

(『論語』に曰く、「天、徳を予になせり。桓魋それ、われをいかんせんや」)

詩経日、天生蒸民、有物有則、民之秉彝、好二是懿徳

(『詩経』に曰く、「天、蒸民を生ず。物あれば則あり、民のつねをとる。この懿徳を好む」)


 また、天といわずして、ただちに上帝と称することあり。『書経』に、「惟皇上帝、降衷于下民、若恒性、克綏蕨猷。」(これおおいなる上帝、衷を下民にくだす。つねあるの性にしたがい、よくその猷をやすんずる) とあり。また『鬼神新論』に引証するところを参見するに、殷の湯王が「夏氏有罪、予畏上帝、不敢不一レ正。」(夏氏罪あり。予、上帝をおそる。あえて正さずんばあらず)といいて、その君を放ち、周の武王は「今予発惟恭行天之罪」(今、予発、これうやうやしく天の罪をおこなうを)といいて、その君を拭し、新の王莽は、漢の天下を奪い取りて、「皇天上帝隆顕二大佑一云云、神明詔告、属レ予以二天下兆民一。」(皇天、上帝、さかんに大佑をあらわす、 云云。 神明詔告し、予に属するに天下兆民をもってす)などいえり。ゆえに平田篤胤は、


赤県の古書ともに、上帝、后帝、皇天などいい、またただに天とばかりもいいて、いみじくかしこきものにいえるは、天津神の天上にましまして、世の中のことをつかさどりたまうことを、かの国人もかつかつはかりしれるおもむきなり。


と説けり。つぎに、第四の意を証すること左のごとし。


書経曰、天視自二我民視一、天聴自二我民聴一。

(『書経』に曰く、「天のみるはわが民のみるにより、 天の聴くはわが民の聴くによる」)

孟子曰、万章曰、尭以天下舜、有諸、孟子曰、否、天子不天下上レ人、然則舜有天下也、敦与之、曰、天与之、天与之者、諄諄然命之乎、曰、否、天不言、以行与一レ事示之而已矣(中略)尭崩、三年之喪畢、舜避尭之子於南河之南、天下諸侯朝覲者、不尭之子而之舜、謳歌者、不歌尭之子、而謳歌舜、故曰天也夫。

(『孟子』に曰く、「万章曰く、『 尭は天下をもって舜に与うと、これありや』と。孟子曰く、『いな、天子は天下をもって人に与うることあたわず』と。『しからばすなわち、舜の天下をたもつや、たれかこれを与えし』曰く、『天これを与う』と。『天のこれに与うるは、諄々然としてこれを命ずるか』曰く、『いな、天はもの言わず、行と事とをもってこれを示すのみ』(中略)尭崩じて、三年の喪おわり、舜、尭の子を南河の南に避く。天下の諸侯、朝覲する者、尭の子にゆかずして舜にゆく。訟獄する者、尭の子にゆかずして舜にゆく。謳歌する者、尭の子を謳歌せずして舜を謳歌す。ゆえに曰く、『天なり』と」)

説苑曰、斉桓公問管仲曰、王者何所貴、対曰、貴天、桓公仰視天、管仲曰、所謂天者、非蒼蒼莽莽之天也、君人者以百姓天。

(『説苑』に曰く、「斉の桓公、管仲に問いて曰く、『王者なんの貴ぶところぞ』こたえて曰く、『天を貴ぶ』桓公、仰いで天をみる。管仲曰く、「いわゆる天なるものは、蒼々莽々の天をいうにあらず。人に君たる者は、百姓をもって天となす』) 


 この文意によりてこれを考うるに、人民一般の意向を指して天というなり。それ天は自然を義とす。そのうち万有の自然を義とすると、人事の自然を義とするとの二様あることを知るべし。

 以上述ぶるところ、これを概括すれば、シナのいわゆる天には四種の意ありて、いずれが真意なるやを判じ難しといえども、そのうちおのずからシナ人固有の思想ありて一貫するを見る。かのヤソ教宣教師中には、シナ人のいわゆる天をもって、ヤソのいわゆる天帝と同一の思想のごとく解するものあり。これ、シナ人にヤソ教を伝道する方便に出でたるものならん。また、平田篤胤のごときは孔子をもって造化神を唱うるものとなせども、これまた一局に偏したる見なることは予が弁解をまたず。また、宋朝に至りては理気論大いに行われ、 天と理気と合一して論ぜり。 程子の説に「天道理、理便天道也、且如皇天震怒、終下是有人在一レ上震怒只理如是。」天道は理なり、理はすなわち天道なり。しばらく皇天震怒すと説くがごとき、ついにこれ、人上にあるありて震怒するにあらず、ただ理かくのごとし)とあり。また、「天所賦為命、物所受為性。」(天の賦するところを命となし、物の受くるところを性となす)、あるいは「在天為命、在物為理、在人為性、主於身心、其実一也。」(天にありては命となり、物にありては理となり、人にありては性となり、身に主としては心となるも、その実は一つなり)等の語ありて、天も理もその体つなりとなす。朱子の語にも「天者理而已」(天は理のみ)といえり。また、〔王〕陽明の性と天との関係を示せる語も別に異なることなし。『伝習録』に「夫心之体性也、性之原天也。」(それ心の体は性なり、性の原は天なり)とあり。わが朝にありて林道春の説に、「心也者形之君而人之神明也、性也者心之所具之理、而天也者又理之所以従出者、而帝也者乃是理之主宰者也、帝也天也性也心也、 古今亘二万世也、天人亦一也理一也(中略)、故在天曰天曰帝、在人曰心曰性。」(心は形の君にして、しかして人の神明なり。性は心のそなわるところの理、しかして天なるものは、また理のよりて出ずるゆえんのもの、しかして帝なるものは、すなわちこれ理の主宰者なり。 帝や天や性や心や、古今に通じて万世にわたりて一つなり。天人また一つなり。理は一つなり(中略)。 ゆえに天にありては天といい、 帝といい、 人にありては心といい、 性という)とあり。 また、『阪谷朗蘆遺稿』に「天台」と題する一編あり。そのうち参考にすべき点なれば左に抜粋せり。


天其有意乎、漠々然無意也、天其有知乎、茫々然無知也、然則祥殃之至、如賞罰、敬其徳、畏其威、受其命者何也、曰天理与気而已、理之霊、気之運、神妙不測、無意而意、無知而知、無賞罰而賞罰、皆自然而然矣、則安得敬畏而受焉哉、但理有常而気有変、為善而必祥、為悪而必殃、理為之也、有時而不必祥、不必殃者、気為之也、変則不久而帰于常、故日、人衆者勝天、天定亦能勝天、是則天網恢恢、疎而不漏、歴万古而不差二毫髪者也。

(天それ意あるか、漠々然として意なきなり。天それ知あるか、茫々然として知なきなり。しからばすなわち祥殃の至る、賞罰あるがごとき、その徳を敬し、その威をおそれ、その命を受くるはなんぞや、曰く、「天の理と気とのみ」理の霊、気の運、神妙にして測られず、意なくして意、知なくして知、賞罰なくして賞罰ある、みな自然にしてしかり。すなわち、いずくんぞ敬畏せずして受くることを得んや。ただ理は常ありて気には変あり、善をなして必ず祥あり、悪をなして必ず殃あり、理これをなすなり。時ありて必ずしも祥ならず、必ずしも殃ならざるは、気これをなすなり。変はすなわち久しからずして常に帰す。ゆえに曰く、「人おおければ天に勝つ、天定まってまたよく人に勝つ」これ、すなわち天網恢々疎にして漏らさず、万古をヘて毫髪もたがわざるものなり)


 これ理気説について、天の賞罰の起こるゆえんを示したるものなり。宋朝以後の理気論においては、天も理も心もその体一つなりとし、もって唯心的修身学を開くに至れり。しかして古代のいわゆる天は、その観念、決してかくのごとくなるにあらず。今、余の推想するところによるに、宋朝以後の天の解釈はようやく主観的に移り、その以前はむしろ客観的に論じたるもののごとし。しかして、客観的の天とは外界に成立したる天をいい、その賞罰も外界より与うるものをいう。しかれども、またあえてヤソのごとき外界的存立の個体性天帝を説くにあらず。その天たるや、蒼々たる天を見て日月の運行、四時の循環等よりようやく憶測推度して、天地万有の理法すなわち天命、天道の存することを察知するに至りしならん。ゆえに余は、シナの天論は天象をみて想起したる観念の次第に発達したるものなりとなす。その理由は易につきて知るべし。易は天象を観察して、その理を人事に応用したるものなり。今その証を挙示すれば、


繋辞曰、古者包犠氏之王天下也、仰則観象於天俯則観法於地、観鳥獣之文、与地之宜、近取諸身、遠取諸物、於是、始作八卦以通神明之徳、以類万物之情

(『繋辞〔伝〕』に曰く、「いにしえ、包犠氏の天下に王たるや、仰いではすなわち象を天にみ、俯してはすなわち法を地にみ、鳥獣の文と地のよろしきとをみ、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいてはじめて八卦を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情を類す」) 

又曰、天生神物、聖人則之、天地変化、聖人効之、天垂象見吉凶、聖人象之、河出図、洛出書、聖人則之。

(また曰く、「天、神物を生じ、聖人これにのっとる。 天地変化し、聖人これにならう。天、象を垂れて吉凶をしめして、 聖人これにかたどる。 河図を出だし、 洛書を出だし、 聖人これにのっとる」)

彖曰、観二乎天文一、以察二時変一、観二乎人文一、以化二成天下一。

(『彖〔伝〕に曰く、「天文をみてもって時変を察し、人文をみてもって天下を化成す」)

又曰、観天之神道、而四時不忒、聖人以神道教、而天下服矣。

(また曰く、「天の神道をみるに四時たがわず。聖人、神道をもって教えを設けて、しこうして天下服す」)

又曰、天地以順動、故日月不過、而四時不忒、聖人以順動、則刑罰清而民服。

(また曰く、「天地は順をもって動く。ゆえに日月過たずして、四時たがわず。聖人は順をもって動く。すなわち刑罰清くして民服す」)

繋辞又曰、黄帝尭舜垂衣裳而天下治、蓋取諸乾坤

(『繋辞』にまた曰く、「黄帝尭舜、衣裳を垂れて天下治まる。けだしこれを乾坤に取る」)

文言曰、夫大人者与天地其徳、与日月其明、与四時其序、与鬼神其吉凶、先天而天弗違、後天而奉天時、天且弗違、而況於人乎、況於鬼神乎。

(『文言〔伝〕』に曰く、「それ大人なる者は天地とその徳を合し、日月とその明を合し、四時とその序を合し、鬼神とその吉凶を合し、天にさきだちて天たがわず。天に後れて天の時を奉ず。天かつたがわず。しかるを、いわんや人においてをや、いわんや鬼神においてをや」)

これによりてこれをみるに、シナの哲学は天象より起こり、その道徳の原理も、天地万有の変化、運行の理にもとづくこと明らかなり。これシナ学説の一種の特色にして、他邦の学説と異なるところなり。ゆえに、そのいわゆる天は西洋のいわゆる造物主を意味するにあらず、また通俗のいわゆる鬼神を義とするにあらず。しかしてシナのいわゆる鬼神は前に述ぶるがごとく、人の霊魂もしくは天地神妙の作用を義とするのみ。ゆえに、あるいは天に霊知作用あるがごとく説きたることあるも、天帝の作用をいうにあらずして、天地の活動をいうなり。『贅語』に曰く、「物混淪立乎神、神鬱渤活乎物、物是体之根、神是性之英、以立呼物、以活呼神亦不他也、神者天神也、天冥然而神之活見、物者天地也、天邃乎而物之立露、神物即天地之大分也。」(物、混淪として神を立し、神、鬱渤として物に活く。物はこれ体の根、神はこれ性の英、立するをもって物を呼び、活するをもって神を呼ぶ、また他にあらざるなり。神は天神なり、天冥然として神の活見す。物は天地なり、天、邃乎として物の立するあらわる。神物はすなわち天地の大分なり)また「和漢三才図会」に曰く、「天理也気也、拠遠視之蒼蒼然蒼天、天之主宰謂之帝、天之功用謂之鬼神。」(天は理なり、気なり。遠くこれをみれば蒼々然たるによって蒼天という。天の主宰はこれを帝という。天の功用、これを鬼神という)その他、諸書に論ずるところのもの、みな天地自然の妙用妙化を指して天とするなり。しかるに谷本富氏の『支那古宗教論』には、シナにも古代神の思想あることを論じ、これを理想的に解釈するに至りしは、後の学者がその当時の理論を加えたるものなるがごとくに説けり。今その一節を左に引証すべし。


そもそも天と天帝の同一視せらるべきものなるやいなやにつきては、古来議論のあることにて、往時「ジェスイット」僧侶中に大争論を起こしたることあり。また、天帝はいわゆる「ゴッド」と同じきやいなやにつきても議論あり。プーン、メドハースト、ホップナー、マーティン、ウールセー諸氏は、みなこれを同体とするなり。これに反してヴィスドルー、モリソン等はこれを別異なるものとなせり。ジョンソン曰く、「上帝すなわち帝は、シナ古典に載する最上主宰にして、聡明よく祈禱を聴き、また人の心を洞察す。古来、聖主みなこれをまつり、しかして死後その左右に侍座す。上帝は全能にして人を憎悪せず、天の精霊にして道徳、賞罰のよりて出ずるところなり。周の代におよんでなおしかり。ただ孔子の書には漠然、天といって帝といわざるは、当時、学者中にはすでに理性主義大いに発揚し、迷信の減じたるによる」と。これ当評なり。しかして、その実際上においては上帝すなわち自然、自然すなわち上帝と信じ、また顕象を離れて原質を考察し、具体に遠ざかりて虚霊を求めんとなさざりしなり。すなわち、その見解むしろ発生説にして、創造説にあらずといえるごときは、理性主義をやや誇張するに失したるがごとし。


氏はこの点を種々の書に考証して論じたるも、天の意義の神に近きもののみを引ききたりて、その自然を意味する分は、これを掲げざるがごとくに見ゆるなり。すでに前に余が多少造物主のごとき意を含むものと、単に万有自然を義とするものとの二様あることを示したるも、その自然を義とする解釈が一般普通なることは、だれも知り得るところなり。また、たとい上帝を義とするものにても、わが国の神代史あるいはヤソ教のバイブルの上に出でたる神とは、大いにその性質を異にす。ゆえに余は、シナの天なる観念は、我人の仰いで見るところの蒼々たる天色、およびその間に羅列する森々たる天象を望みて一種の想像を起こし、これより万有自然の妙用妙化を想出したるものとなす。しかして、宋朝に至りては性理の論大いに盛んにして、そのいわゆる天も我人の心も、その体一なりとなすに至る。これシナの哲学思想の発達なり。

上来シナの鬼神を解釈せんと欲して、その意義の霊魂と同一なるを論じ、また、霊魂は人の死後には天に帰するをもって、精神も天もその体一なりとの論より、シナのいわゆる天はなにを義とするやを究めてここに至れり。よってこれより、そのいわゆる鬼神論を結ばんとするに当たり、シナの鬼神は霊魂と同一なる以上は、わが国にて愚民の信ずるがごとき形体を有するにあらざるは明らかなり。 しかれども、シナにありても有形上鬼神を解するものなきにあらず。その小説上にあらわるる鬼のごときは、 全く形体を具有したるものにして、わが民間にて信ずるものに異なることなし。 さきに霊魂の有無を論じたるとき、シナの説によるも幽霊に形体あることを唱うるゆえんを示したるが、 鬼神もこれに同じく有形的成立を有するものと信ずるなり。これを要するに、儒教の鬼神の解釈に有形、無形の二様ありと知るべし。理想上に解するものは無形にして、感情的に解するものは有形なり。識者はこれを無形に解し、愚者はこれを有形に解す。人知の程度によりてその解釈を異にするは、 古今東西ともに免れざるところなり。今、左に有形的鬼神を説けるものを挙示すべし。


竜威秘書曰、昔隴西有辛道度者、遊学他方、糧食乏尽、行至雍州城西五里、北見一宅庁館門庭、有青衣女子、在一レ門、道度飢餒、乃詣門下、欲飡、而過、語女子曰、僕是隴西人、姓辛、名道度、遊学他方、糧食乏尽、憑女子与報一飡、可否惟命、女子入告秦女、女曰、既遊遠他方、将高芸、此賢人也、可生命入、吾与之語、女子出来、引客而入、道度趨入閣中、疑生人、挽仰之間、已被召、見秦女於西榻而坐、道度即称名而叙起居既畢、命度於東榻、而坐畢即具飯饌、食訖屹女謂度曰、我秦閔王女、出聘曹国、不幸無夫而亡、亡来已二十三年、独居此宅、今日君来、願為夫婦、君意若何、道度曰、女所貴戚焉敢乎、女即相逼為夫婦、経三宿三日、俄女即自言曰、君是生人、我鬼也、共君宿契此会只可三宵、不久居、当禍矣、然茲信宿未綢謬、既已分飛、将何表信于郎、乃取床後盠子之、取金椀一枚、与度為信、度貧士悦而受之、乃分袂泣別即道、青衣送出門外、未数歩、不舎宇、惟有一塚、荊棘森天、度当時慌伯、衝忙走出、視其金椀懐、乃無異変、尋至秦国、既以椀子市之、恰遇秦妃車遊、親見度売金椀、疑而索看、語度何処得来、度具以寔告、妃聞悲泣不自勝、然尚疑耳、乃遣人発塚、啓柩観之、原葬諸物悉在、惟不金椀、解体看之、情交宛若秦妃、始信之嘆曰、我女大聖死、経二十三年、猶能与生人交往、此是我真女婿也、遂封道度、為駙馬都尉一、賜二其金帛車馬一、令レ還二本国一、因レ此以来、後人名二女婿一、為駙馬今之国婿、亦為駙馬矣。


(『竜威秘書』に曰く、「昔、隴西に辛道度なる者あり。他方に遊学し、糧食乏尽し、行きて雍州の西五里に至り、北に一宅庁館門庭を見る。一青衣の女子の門にあるあり。道度飢飯して、すなわち門下にいたりて、


飡を求めんと欲して過ぎ、女子に語りて曰く、『僕はこれ隴西の人。姓は辛、名は道度。他方に遊学し、糧食乏尽し、女子の与報により、一飡を求めんと欲す。可なりやいなや、これ命ぜよ』と。女子入りて秦女に告ぐ。女曰く、『遠く他方に遊び、まさに高芸をたずねんとす。これ賢人なり。よろしく命じて入らしむべし。われ、これと語らんと。女子出できたりて、客を引きて入る。道度、はしりて閣中に入る。生人にあらざるかを疑う。挽仰の間、すでに召さる。秦女を西榻に見て座し、道度すなわち名を称して、起居を叙するとすでにおわる。度を東榻に命じ、しかして座しおわりて、すなわち飯饌を具す。食しおわり、女、度にいいて曰く、「われは秦の関王の女、出でて曹国に聘せらる。不幸にして夫なくして亡す。亡してよりすでに二十三年、ひとりこの宅におる。 今日、君きたる。願わくば夫婦とならん。君の意いかん』道度曰く、『女は貴戚のところ、いずくんぞあえてせんや』と。女すなわち相せまって夫婦となり、三宿三日を経たり。にわかに女、すなわち自らいいて曰く、『君はこれ生人、われは鬼なり。君とともに宿し、この会を契る。ただ三宵すべし、久しくおるべからず。まさにわざわいあるべし。しかもここに信宿して、いまだ綢謬をつくさず、すでにすでに分飛す。何をもってか信を郎に表せんすなわち床後の藍子を取り、これを開いて金椀一枚を取り、度に与えて信となす。度は貧士、よろこんでこれを受け、すなわち袂を分かち、泣別して道につく。青衣送りて門外に出でて、いまだ数歩をこえざるに舎宇を見ず。ただ一塚ありて荊棘天にしげる。度、当時慌伯、衝忙走出して、その金椀を懐にみるに、すなわち異変なし。ついで秦国に至り、すでに椀を市にもちいてこれを貨す。あたかも秦妃の車遊するにあう。親しく度の金椀を売るを見て、疑ってもとめみて、度に語る、『いずれの所より得きたる』度つぶさにまことをもって告ぐ。妃、聞きて悲泣して自らたうることあたわず、しかもなお疑うのみ。すなわち人を遣わして塚をあばき、柩をひらきてこれをみれば、もと葬むる諸物ことごとくあり。ただ金椀を見ず。解体してこれをみれば、情交宛として秦妃のごとし。はじめてこれを信じて嘆じて曰く、『わが女大聖、死して二十三年を経、なおよく生人と交往す。これはこれ、わが真の女婿なり』と。ついに道度を封じて駙馬都尉となし、その金帛、車馬を賜り、本国にかえらしむ。これによりて以来、後人、女婿を名付けて駙馬となす。今の国婿も駙馬たり」)」新斉諧曰、予門生司馬驤、館漂水林姓家、其所住地名横山郷、僻処也、天盛暑、以其西庁宏廠、乃与群弟子洒掃、為晩間乗涼之処、挈書籍行李、移床就焉、秉燭而臥、至三鼓、門外啾々有声、戸枢抜矣、燭光漸小、陰風吹来、有矮鬼先入、瞼似笑非笑、似哭非哭、繞地而趨、随後一紗帽紅袍人、白鬚飄飄、揺擺而進、徐行数歩、坐椅上、観司馬所作詩文、屢点頭、若領解者、俄頃起立、手携短鬼、歩至床前、司馬亦起坐、与彼対視、忽鶏叫一声、両鬼縮短一尺、灯光為之一亮、鶏三四声、鬼三四縮、愈縮愈短、漸々消帽両翅擦地而没、次日問之士人、云此屋是前明林御史父子同葬所也、主人掘地、朱棺宛然、乃為文祭之、起棺遷葬。(『新斉諧』に曰く、「予の門生司馬驤、漂水林姓の家に館す。その所住の地を横山郷と名づくる僻所なり。天盛暑、その西庁宏廠なるをもって、すなわち群弟子と洒掃し、晩間乗涼の所となし、書籍、行李をかけて、床を移して就く。燭をとりて臥す。三鼓に至り、門外啾々として声あり。戸枢抜け、燭光ようやく小に、陰風吹ききたる。矮鬼ありてまず入る。瞼、笑うに似て笑うにあらず、哭するに似て哭するにあらず。地をめぐりてはしる。後に従う一紗帽紅袍の人、白鬚飄々、揺擺して進み、 徐行すること数歩にして椅上に座し、司馬の作るところの詩文をみて、しばしば点頭し、領解するもののごとし。にわかにして起立し、手に短鬼を携え、歩して床前に至る。司馬もまた起座し、彼と対視す。たちまち鶏叫ぶこと一声すれば、両鬼縮短すること一尺。灯光これがために一亮、鶏三、四声すれば、鬼三、四縮し、いよいよ縮まりていよいよ短く、ようよう消えて帽の両翅、地をすりて没す。次日これを士人に問う。いわく、『この屋はこれ前明林御史父子、同じく葬むる所なり』と。主人、地を掘れば、朱棺宛然たり。すなわち文をつくりてこれを祭り、棺を起こして遷葬す」)


 以上はすなわち、わが国俗間のいわゆる幽霊のことを鬼と名付くるものにして、全く有形的のものたり。左にまた、これに類する有形的諸鬼の例を挙ぐれば、


新斉諧曰、務源汪啓明遷居上河之進士第、其族汪進士波故宅也、乾隆甲午四月一日、夜夢魘良久、寤見一鬼逼帷立、高与屋斉、汪素勇、突起搏之、鬼急奪門走、而誤触墻、状甚狼狽、汪追及之、抱其腰忽陰風起、残灯滅不鬼面目。但覚手甚冷、腰觕如甕、欲集家人、而声噤不出、久之極力大叫、家人斉応、鬼形縮小如嬰児、各持炬来炤則所握者、壊糸綿一団也、窓外瓦礫乱擲如雨、家人咸怖、勧之、汪笑曰、鬼党虚嚇人耳、奚能為、倘釈之将助為一レ祟、不如殺一鬼以懲百鬼一因左手握鬼、右手取家人火炬之、腷膊有声、鮮血逬射、臭気不聞、迨暁四隣驚集、聞其臭鼻者 、地上血厚寸許、腥膩如膠、竟不何鬼也、王葑亭舎人、為作鬼行、紀其事 


(『新斉諧』に曰く、「務源汪啓明、居を上河の進士第に遷す。 その族、 汪進士波の故宅なり。乾隆甲午四月一日、夜夢みておそわるること、やや久しくす。さめて一鬼の帷にせまって立つを見る。高さ屋とひとし。汪もと勇、突起してこれをうつ。鬼、急に門を奪って走り、しかして誤りて牆に触れ、 状はなはだ狼狽す。汪、追ってこれに及び、その腰を抱けば、たちまち陰風起こり、残灯滅して鬼の面目を見ず。ただ手のはなはだ冷ややかなるを覚え、腰猜甕のごとく、家人を喊集せんと欲するも、しかも声つぐみて出だすことあたわず。これを久くして力を極めて大いに叫ぶ。家人ひとしく応ずれば、鬼の形縮小して嬰児のごとく、おのおの炬を持してきたりてらせば、すなわち握るところのものは、壊糸綿の一団なり。窓外、瓦礫乱擲して雨のごとく、家人みなおそれ、これをゆるさんことを勧む。汪、笑いて曰く、『鬼党、 人を虚嚇するのみ、いずくんぞよくなさん。もしこれをゆるさば、まさに助けて祟をなさんとす』しかず、一鬼を殺して百鬼を懲らさんには、よって左手に鬼を握り、右手に家人の火矩を取りてこれを焼くに、腷膊声あり。鮮血逬射し、臭気聞くべからず。暁におよんで四隣驚き集まり、その臭を聞くに鼻をおおわざる者なし。地上血の厚さ寸ばかり、腥膩膠のごとし。ついになんの鬼たるを知らざるなり。王葑亭舎人、ために鬼をとらうるの行をつくり、そのことを紀す」)


幽明録曰、玩徳如常行厠見一鬼、長丈余、色黒而眼大、著皁単衣平上幘、去之咫尺、徳如心安定、徐笑語之曰、人言鬼可憎、果然、鬼即愧赧而退。


(『幽明録』に曰く、「阮徳、常のごとく厠に行きて一鬼を見る。長丈余、色黒くして眼大、皁単衣、平上幘をつけ、これを去ること咫尺、徳、心安定するもののごとし。しずかに笑ってこれに語りて曰く、『人いう、鬼憎むべし』 と。 果たしてしかり、鬼すなわち愧赧して退く」)


呉越備史曰、大学博士丘光庭、校書于金楼中、高澧屢往視之一日澄密登楼、 光庭不知、 因回顧見  一青面鬼一、遂大呼、俄而見澧、撫之曰、謹勿之、以是験其非一レ人。


(『呉越備史』に曰く、「大学博士丘光庭、書を楼中に校す。高澧しばしばゆきてこれをみる。一日、澧ひそかに楼に登る。光庭知らず。よって回顧すれば一青面鬼を見て、ついに大いに呼ぶ。にわかにして澧を見る。これを撫して曰く、『謹みてこれをいうことなかれ』と。ここをもってその人にあらざるを験す」)


以上掲ぐるところの鬼はみな有形の怪物にして、小説的怪談中に伝うるものなれば、もとより儒教を唱うるところの正説にあらず。その遊魂為変の説のごときも、これを愚俗の迷信するがごとき幽霊、怪物となすに至りては、妄もまたはなはだしといわざるべからず。


     第20節 仏教の鬼人の解釈


つぎに、仏教の鬼神論を説くには、天堂、地獄の説と連帯して説かざるべからず。しかるに天堂、地獄のことは次講に述ぶべきをもって、鬼神のことは今つまびらかに述ぶることを要せず。まず仏教中、鬼について解釈および種類を掲げたるものを述べんに、『翻訳 名義集』鬼神編に曰く、


鄭玄云、聖人之精気謂之神、賢人之精気謂之鬼。尸子云、天神曰霊、地神曰祇、人神曰鬼、鬼者帰也、故〔古〕人以死人帰人婆沙云、鬼者畏也、謂虚怯ニシテ畏、又威也、能令他畏其威也、又希求鬼、謂彼餓鬼、恒従他人、希求飲食、以活性命。光明疏云、神者能也、大力者、能移山塡海、小力者、能隠顕変化。肇師云、神受二善悪雑報一、見ルコト形勝人劣天、身軽微難見。浄名疏云、皆鬼道也。正理論説、鬼有三種、一無財鬼、亦無二福徳一、不レ得レ食故、二少財鬼、少得二浄妙飲食故、三多財鬼、多得浄妙飲食故、此三種中、復各有三、初無財三者、一炬口鬼、 謂火矩炎熾、常従口出、二針咽鬼、腹大如山、咽如鍼孔、三臭口鬼、口中腐臭、自悪ニクミテ苦、少財三者、一針毛鬼、毛利如針、行ケバ便、自刺、二臭毛鬼、毛利而臭、三大癭鬼、咽垂大癭、自決サキテ膿、多財三者、一得棄鬼、常得祭祀棄食故、二得失鬼、常得巷陌所遺食故、三勢力鬼、夜叉羅刹、毘舎閤等、所受富楽、類於人天。正理論云、諸鬼本処、琰魔王界、従此展転、散趣余方。長阿含云、一切人民、所居舎宅、一切街巷、四衢道中、屠児市肆、及丘塚間、皆有鬼神、無空所、凡諸鬼神、皆随所依、即以為名、依人名人、依村名村、乃至依河名河、一切樹木、極小如車軸者、皆有鬼神依止。世品云、鬼以人間一月一日、乗此成二月歳、彼寿五百年、由諂誑心、作下品五逆十悪、感 道身


鄭玄いわく、「聖人の精気これを神といい、賢人の精気これを鬼という」『尸子』いわく、「天神を霊といい、地神を祇といい、人神を鬼という。鬼は帰なり、ゆえに古人、死人をもって帰人となす」『婆沙』〔『阿毘達磨大毘婆沙論』〕にいわく、「鬼は畏なり、いわく虚怯 にして畏多し。また威なり。よく他をしてその威をおそれしむるなり。また、希求するを鬼と名付く。いわく、かの餓鬼は、つねに他人に従って飲食を希求し、もって性命を活す」『光明疏』にいわく、「神は能なり。大力の者は、よく山を移し海をうずめ、小力の者は、よく隠顕変化す」 肇師いわく、「神、善悪の雑報を受け、形を見ること人に勝りて天に劣る。身、軽微にして見難し」『浄名疏』にいわく、「みな鬼道なり」『 正理論』〔『阿毘達磨順正理論』〕に説く。鬼に三種あり。一には無財鬼、また福徳なく、食を得ざるがゆえに。二には少財鬼、少しく浄妙の飲食を得るがゆえに。三には多財鬼、多く浄妙の飲食を得るがゆえに。この三種中、またおのおの三あり。はじめの無財の三は、一に炬口鬼、いわく火矩炎熾、常に口より出ず。二に針咽鬼、腹、大にして山のごとく、 咽、鍼の孔のごとし。三に臭口鬼、口中の腐臭、自らにくみて苦を受く。少財の三は、一に針毛鬼、毛の利きこと針のごとく、行けばすなわちおのずから刺す。二には臭毛鬼、毛、利にして臭。三には大癭鬼、のど垂れて大癭、自らさきて膿をくらう。多財の三は、一には得棄鬼、常に祭祀のすつるところの食を得るゆえに。 二には得失鬼、常に巷陌すつるところの食を得るゆえに。三には勢力鬼、夜叉、羅刹、毘舎闍等、受くるところの富楽、人天に類す。『正理論』にいわく、「諸鬼の本所は、琰魔王界、これより展転して、余方に散じおもむく」『長阿含』にいわく、「一切の人民の所居の舎宅、一切の街巷、四衢道中、屠児の市肆、および丘塚の間、みな鬼神あり、空所あることなし。 およそもろもろの鬼神、みな所依にしたがって、すなわちもって名となし、人によりて人に名づけ、村によりて村に名づけ、ないしは河によりて河に名づく。一切の樹木、極小なること車軸のごときもの、みな鬼神ありて依止す」『世品』にいわく、「鬼は人間の月をもって一日となし、これに乗じて月と歳とをなす。かの寿は五百年、諂誑の心により、下品の五逆十悪を作らば、この道の身を感ず」)


仏教には鬼のほかに魔あることを説けり。『翻訳名義集』四魔編に曰く、


大論云、魔有四種、煩悩魔、五衆魔、死魔、天子魔、煩悩魔者、所謂百八煩悩等、分別八万四千諸煩悩、五衆魔者、是煩悩業和合因縁得是身四大、及四大造色眼根等、是名色衆、百八煩悩等諸受和合、名為受衆、小大無量、無所有想分別和合、名為想衆、因好醜心発、能起貪欲、瞋恚等心相応、不相応法、名為行衆、六情六塵和合故、生六識、是六識分別和合、無量無辺心、是名識衆、死魔者、無常因縁故、破続五衆寿命上、尽離三法、識断寿故、名為死魔、天子魔者、欲界主、深著世間楽、用有所得、故生邪見、憎嫉一切賢聖、涅槃道法、是名天子魔。瑜珈論云、由魔徧一切随遂義、天魔障礙義、死魔煩悩魔、能与生死衆生苦器故、今謂煩悩魔、是生死因也、五陰魔死魔、是生死果也、天魔是生死縁也、又罵意経、有五魔、一天魔、二罪魔、三行魔、四煩悩魔、五死魔。輔行云、苦無常無我トノ四、是界外魔、煩悩五陰天子トノ四、是界内魔。浄名疏云、降魔即破愛論、摧外即破見論、但愛見有二、界内即波旬六師之徒、界外即二生一乗及通菩薩。大品云、須菩提菩薩摩訶薩、成就二法、魔不壊、何等為二、観一切法空一、不一切衆生、須菩提菩薩、成就此、魔不壊、大経四依品、四依駆シテ云、天魔波─旬、若更来者、当下以二五繫縛於汝。章安疏云、繫有二種、一者五屍繫、二者繫五処、五屍繫者、如不浄観、治於愛魔、五処─理ナルハ於見魔、五屍表五種不浄観、五繫表五観門 


(『大論』〔『大智度論』 〕にいわく、「魔に四種あり。煩悩魔と、五衆魔と、死魔と、天子魔となり。煩悩魔とは、いわゆる百八煩悩等、八万四千の諸煩悩に分別す。五衆魔はこれ煩悩業和合の因縁により、この身の四大および四大の造色の眼根等を得。これを色衆と名づく。百八煩悩等、諸受の和合を名づけて受衆となす。小大無量の無所有の想分別の和合を名づけて想衆となす。好醜の心発するにより、よく貪欲、瞑悪等の心相応、不相応の法を起こすを名づけて行 衆となす。 六情六塵和合するがゆえに六識を生ず。 これの六識分別和合して、無童無辺の心あり、これを識衆と名づく。死魔は、無常因縁のゆえに、五衆を相続する寿命を破り、ことごとく三法を離れ、識は寿を断つゆえに、名づけて死魔となす。天子魔とは、欲界の主、深く世間の楽しみに著し、有所得を用いるゆえに邪見を生じ、一切の賢聖、涅槃道法を憎嫉する、これを天子魔と名づく」『喩伽論』にいわく、「蘊魔は一切に偏す随遂の義、天魔は障害の義、死魔、煩悩魔は、よく生死の衆生のために苦器を作るによるがゆえに」今いわく、「煩悩魔はこれ生死の因なり」五陰魔、死魔は、これ生死の果なり。天魔はこれ生死の縁なり。また『罵意経』に五魔あり。一に天魔、二に罪魔、三に行魔、四に煩悩魔、五に死魔。『輔行』〔『止観輔行伝弘決』〕にいわく、「苦と空と無常と無我との四は、これ界外の魔、煩悩と五陰と死と天子との四は、これ界内の魔」『浄名疏』にいわく、「魔をくだせばすなわち愛論を破り、外をくだけばすなわち見論を破る。ただし愛見に二つあり。界内はすなわち波旬六師の徒、界外はすなわち二乗および通の菩薩」『大品』〔『大般涅槃経』〕にいわく、「須菩提菩薩摩訶薩は、二法を成就す。魔もやぶることあたわず。なんらをか二となす。一切法は空と観じ、一切衆生を捨てず、「須菩提菩薩は、この二法を成就す。魔もやぶることあたわず」『大経』〔『大般涅槃経』〕「四依品」に、四依、魔を駆逐していわく、「天魔波旬、もしさらにきたらば、まさに五繫をもってなんじを繫縛すべし」『章安疏』にいわく、「繫に二種あり、一には五屍繫、二には繫五処。五屍繫は、不浄観のごとく、愛魔を治す。五処如理なれば見魔を治す。五屍は五種の不浄観を表し、五繋は五観門を表す」)


 以上の解釈によるに、 鬼は形体の上に説き、魔は心情の上に説くもののごとし。煩悩の悪心を有するものは、すなわち魔なり。しかして神は能力、 通力を有するもののごとくに解せり。 そもそも仏教にて鬼のことは、地獄の図に示せるをもって、たれびともそのいかなる状態なるかを知らざるはなし。この鬼の首領を閻魔という。閻魔のことについては、『俳諧歳時記栞草』によるに、「『釈氏要覧』、閻魔王ここには遮という。いえらく、『遮りて悪を造らざらしむ』『倶舎論』、 閻魔王は地獄の主、 鬼官の総司たり。『翻訳名義集』、 琰魔あるいは琰羅という。ここに静息と翻す。よく造悪のもの不善業を静息するをもってす。ゆえにあるいは遮という」とあり。 また、『往生要集』の地獄の相を示せるうちには、鬼の異形の相も出でたることなるが、これにつきて仏教以外よりは、評して妄談、不稽の説なりとなし、あるいは釈迦の方便にして、悪人を懲らさんために設けたるものに過ぎずという。

 されども、これらの形に現れたるものは、仏教そのものよりは、むしろ後世、仏教を信ずる人の妄想の加わりて成りしものにして、ことに地獄の形相のごときは、人の想像を描き表したるものに過ぎざるは明らかなり。されば、閻魔の衣装のシナ風を帯ぶることにつきて評するものあれども、これらも後の想像に出でしものなれば、あえてとがむるに足らず。『出定笑語付録』には、「地獄の図というものに、罪人を釜いりにしたるなど、種々の仕置きが見えるが、これは漢画史を見るに、呉道子がえがきはじめたる趣だが、いかにもそう思われることは、鬼がみな虎の皮のふんどしをしめている。 されば川柳に、『地獄には虎がしたたか有ると見え』といいてあるく、みんな虎の皮だ。しかるにその罪人は、みな日本人にちがいない。これにつきてまた川柳に、『唐人を入込にせぬ地獄の画』ともいってあるが、鬼ばかりは、唐から雇いにでもするものか、ちとおかしな取り合わせでござる。いずれにも釈迦はもとより、天竺人の一向に見たことのないはずの図じゃ、云云」とあるも、かくのごとき評語は深く意にとどむるに足らざるなり。

 要するに、仏教にては鬼神の説はあまたあれども、鬼の状態を示すこと、もっともつまびらかなり。しかして、神のことはあまりこれを説かず。けだし、仏教にては他の宗教にていう神に対して、仏菩薩の語を用うるがゆえに、そのいわゆる仏は他宗教の神なり。しかして、二者の性質大いに異なるも、あるいは他宗教の神、例えば日本の神と仏教の仏との関係については、本地垂迩 の説ありて、その本体は同一なるものと説けるもあり。鬼ということについては、仏教にては一種異形のものの生存するように説けども、その教えのもとづくところは善因善果、悪因悪果の道理にして、吾人の行業に応じ、死後に鬼となるものもあり、仏となるものもあるべし。また、その鬼となるにも、業因の異なるに応じて種々の鬼となるべし。もし、その鬼を精神上より解釈せば、シナにていう霊魂と見て可なり。もし、これを形体上より解釈するときは、鬼なる一種特別の形体を現ずるものと見るも可なり。されどもその形体をもって、今日画工が示せる地獄の図にあるところのごとしとなすは誤れり。なんとなれば、これらの現形は、愚民の感情上より想像をもってえがき出だししものに過ぎざればなり。すべて仏教にては、今述ぶるがごとく、わが修むる業因の異同に従って鬼にも種々あり、地獄にもさまざまあり。されどその状態は、吾人が今、世界にて現に感覚するところよりして想像すべきものにはあらざるなり。ゆえに、仏教を道理上より解釈すると、感情上より想像するとは、おのずからみるところを異にす。換言せば、知識ある者の解釈と愚民の憶想とは、おのずから二様に分かるるなり。しかるに教外よりこれを駁するものは、愚民の解釈をとりてただちにこれに妄談、不稽の評を下すも、その当を得ざること、もとよりそのところなり。実に今日民間にて、愚民のうちに行わるるものに至りては、抱腹にたえざること多し。『諸国里人談』に鬼女のことを載せて曰く、


享保のはじめ、三河国宝飯郡舞木村、新七という者の女房(いわという、年二十五)京都より具してきたりけるが、常に心尖にして、ただ狂人のごとくなるに、夫これを倦みて出奔しけり。その跡をしたい、遠州新井まで追いきたりけれども、御関所を通ることあたわず。むなしく帰りしが、ありし所に住みて、ますます瞑患の炎をさかんにして、乱心のごとくなり。折節、隣家に死せるものあり。田舎の習いにて、あたり近きわが林の中にして火葬しける。かの女、ここに行きて、半ば焼けたる死人を引き出だし、腹を裂き臓腑をつかみ出だし、 飯子ようの器に入れて、 素麺などを食らうごとくに食らいおる所へ、 施主のもの、 火のありさまを見にきたり。  この体を見て大きに驚き、 村中、 棒ちぎり木にてこれを追う。  女、 大いに怒り、  かほど味わいよきもの、 なんじらもくらうべしと、 躍り狂いて、 蝶、 鳥のごとくかけりて、 行方なくなりぬ。  その夜、 近き所の山寺に入りて、 例のごとく持ちたる器より肉を出だして食らう。 僧侶鵞き騒ぎ、 早鐘にて里へしらせければ、 村民かけあつまる。  かの女この体を見て、 またここもさわがしとて、 後ろの山の道もなき所を、 陸路を行くごとく駆け登りて失せぬ。 生きながら鬼女となりたること、 目代へ訴えければ、 くだんを事書きにして村々へ触れられけるなり。


また、 同書に鬼橋ということを書せり。


備後国帝釈山の谷川に橋あり。 石をもっ て切りたてたる、 長さ二十間、 幅三間の反橋なり。  これを鬼橋となづく。 土俗説に、 神代の昔、 梵天、 天くだりたまい、 数万の眷属の鬼きたって、 一夜のうちに全く成るといいっ たえたり。 むかし、  この橋をわたり得れば浄土に至り、 渡り得ざる者は地獄におつという。 今はわたる人なし。  ゆえに草木生い茂りて山とひとしきなり。


また、 同書に鬼押さえのことを記して曰く、


勢州津の観音堂に毎年二月朔日、 修法あって、鬼押さえということあり。この本尊は海中より出現の像なり。むかし竜神これをおしみて、奪いにきたりしを、追いはらいける学びなりといえり。赤青の鬼の面着けたるもの二人、異形の装束を着せ、左右に手引きとて究竟の力者二人ずつ相従い、おのおの手木を携えたり。後ろにまた一人、赫熊をかぶりたる者一人ずつ帯にすがりて、両鬼前後に連なり、堂の外を巡ること三遍なり。浦方、浜方の者ども数百人、樫の棒を手に手に持ちて三度めぐるうちに、かの鬼をうつことなり。左右の手引き、尻付き等はうつことをいましめ、鬼ばかりをうつおきてなり。左右の手引きども、手木をもって棒をはらい、なかなかに打たせざるなり。いかにもしてこの鬼を強くうたば、その年かならず漁おおし、打ち得ざればすくなしといいつたえて、身命をおしまず打たんずることをはかる。くだんの鬼は雇われ人にて、もしは打ち殺されたりとも、 違乱あらざるきわめなりける。


 かくのごときは仏教中の鬼なる観念より、愚民の種々に付会して、妄想に妄想を重ねたるものなれば、愚民迷信の一斑を示さんために抜記せしなり。


     21節 仏陀論


 上来、仏教の鬼神談を陳述したりしにつき、さらに仏教の、いわゆる仏なるものを説明せざるべからず。そもそも仏教は、その目的とするところ転迷開悟にあり。この転迷開悟とは、煩悩、生死の迷いを転捨して、菩提、涅槃の悟りを開発することを義とするものにして、あるいはこれを断惑証理といい、あるいは断障得果ともいい、唯識にては転迷得知といい、天台にては転情成知という。これみな煩悩の迷いを転じて、悟りを開くことを義とするものなり。今、迷悟の体をいえば、迷いの体に煩悩、 所知の二障あり、悟りの体に菩提、涅槃の二果あり。煩悩障を転捨すれば涅槃を証し、所知障を断滅すれば菩提を得するなり。しかして、この二障の根本は我法二執なり。そもそも仏教にて世界万有を分類するに、倶舎宗にては七十五法とす。また、人体を分解して小乗、大乗ともに、色、受、想、行、識の五蘊となす。この五蘊、仮に相合していわゆる我なるものを生ず。ゆえに、我に実体あるごとく固執するを我執という。また、 万有を観察して七十五の体おのおの実在せりと執するを法執という。 もしこれを五蘊の上にていえば、 その用に迷うを我執とし、 その体に迷うを法執とす。  この我執より起こるものを煩悩障といい、 これを転ずれば涅槃を開き、 また法執より起こるものを所知障とし、  これを断ずれば菩提を得す。  すなわち、 転迷開悟あるいは断障得果とはこれをいうなり。 しかして、 菩提と涅槃とはその名異なれども、 その体一なり。  すなわち、真如の体これなり。 ただ、  その知を菩提といい、 その理を涅槃というのみ。 涅槃は梵語にして、 訳して滅度という。 滅は解脱にして、 度は般若なり。 あるいは涅を不生といい、 槃を不滅という。 すなわち不生不滅、 これを涅槃という。


『二教論 に、「涅槃者常恒清涼、無復生死、心不智知、不像測 、莫其所以名 強謂之寂。」(涅槃は常恒清涼、また生死なく、心、智をもって知るべからず、像をもって測るべからず、 その名づくるゆえんを知ることなし。 しいてこれを寂という)とあり。 また菩提も梵語にして、ここに訳して覚という。もし、また迷悟の境遇についてこれをいえば、十界あり。そのうち六界は迷界にして、四界は悟界なり。 迷界はまた六凡と称す。すなわち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天これなり。あるいはこれを六道、六趣ともいうなり。悟界はまた四聖と称す。すなわち声 聞、 縁覚、 菩薩、 仏これなり。 この悟界、 四聖の別は、その機根と修業との異なるに応じて、 その結果に異同を生じたるによれるものなり。 まず、 声聞とは「釈氏要覧」によるに、「喩伽論云、 諸仏聖教、 声為上首 、従師友所此声教展転修証永出世間一、小行小果故、 声聞。」『喩伽論」にいわく、「諸仏の聖教、 声を上首となす。 師友のところに従いこの声教を聞き、展転修証してながらく世間を出ず。小行小果のゆえに声聞と名づく」)とありて、苦、集、滅、道の四諦を観じて羅漢果を証得する者をいう。縁覚とは『釈氏要覧』によるに、「梵云畢勒支底迦、唐言独行、此有二、謂部行、麟喩也、瑜伽論云、常楽寂静、不雑居一、修加行満無師友教、自然独出世間中行中果故、名独覚、或観縁悟道、又名録覚。」(梵に畢勒支底迦といい、唐に独行という。これに二つあり。部行と麟喩となり。『瑜伽論』にいわく、「常に寂静を楽しみ、雑居を欲せず。加行を修して満ずるに師友の教えなく、自然にひとり世間を出ず。中行中果のゆえに独覚と名づく。あるいは縁を観じて悟道す、また縁覚と名づく」)とあり。これを一名独覚と称するは、師なくしてひとり自ら悟るによる。またこれを縁覚と名付くるは、十二因縁を観じて悟道するによる。十二因縁とは、無明、行、識、名色、六入、触、受、愛、取、有、生、老死をいう。この声聞と縁覚とはこれを二乗と称し、いわゆる小乗なり。つぎに、菩薩とは『釈氏要覧』によるに、「具足応菩提薩埵 、唐言覚有情、覚者、所求果也、有情者、所度境也、言摩訶薩者、此云大有情、即能求能度人也、地持論云、薩埋是勇猛義精進義、求大菩提故名摩詞薩。」(具足してはまさに菩提薩埵というべし。唐に覚、有情という。覚は求むるところの果なり、有情は度するところの境なり。 摩訶薩というは、ここに大有情という。すなわち能求能度の人なり。『地持論』にいわく、「薩埵はこれ勇猛の義、精進の義、大菩提を求むるゆえに摩詞薩と名づく」)とあり。天台の解するところによるに、「用諸仏道、成就衆生故、名菩提薩埵、又菩提是自行、薩埵是化他、自修仏道、又化他故。」(諸仏の道を用いて、衆生を成就す。 ゆえに菩提薩埵と名づく。また菩提はこれ自行、薩埵はこれ化他、自ら仏道を修す、また他を化するゆえ)なりと。「賢首云、菩提此謂之覚、薩埵此曰衆生、以智上求菩提、用悲下救衆生。」

(『賢首』にいわく、「菩提ここにこれを覚という、薩埵ここに衆生という。 智をもって上は菩提を求め、悲を用いて下は衆生を救う」)とあり。 しかして菩薩は、 六度を修行して仏果を開くものとす。六度とは布施、持戒、忍辱、精進、 禅定、知恵これなり。この菩薩の上に位するものを仏とす。今、仏すなわち仏陀についてその意を解せんために、『翻訳名義集』によりて示すこと左のごとし。


大論云、秦言知者、知過去未来現在衆生非衆生数、 有常無常等一切諸法、菩提樹下ニシテ了了トシテ覚知、故名仏陀、後漢郊祀志云、漢言覚也、覚具三義、一者自覚、悟真常、了虚妄一、二者覚他、運シテ無縁慈 、度有情界 、三者覚行、 円満シテ原極底、 行満果円故、 華厳云、 一切諸法性無生、亦無滅、奇哉大甜師、自覚能覚他、 肇師云、生死長寝、 莫二能自覚一、自覚覚彼者、其唯仏也、妙楽記云、此ニハ知者トモ覚者トモ、対迷名知、対愚説覚、仏地論云、具一切智、一切種智 煩悩障及所知障 、於一切法、一切種 、能自開覚、亦能開覚一切有情一、 睡夢、蓮華開、故名為


(『大論』〔『大智度論』〕にいわく、「秦に知者という。 過去、 未来、 現在の衆生、 非衆生の数、 有常、 無常等一切の諸法を知り、 菩提樹下にて了々として覚知す。  ゆえに仏陀と名づく」『後漢郊祀志』にいわく、「漢に覚というなり。 覚に三義を具す。  一には自覚、 性の真常を悟り、 惑の虚妄を了す。  二には覚他、 無縁の慈を運びて、 有情界を度す。 三には覚行、 円満して原をきわめ底をきわめ、 行満し果まどかなるゆえに」「華厳にいわく、「一切諸法の性は無生にしてまた無滅。 奇なるかな大導師、 自ら覚し、 よく他を覚す」 贅師いわ く、「生死長らく寝て、 よく自ら覚することなく、 自ら覚して彼を覚するものは、 それただ仏なり」「妙楽記」にいわく、「ここには知者とも覚者ともいう。 迷に対しては知と名づけ、 愚に対しては覚と説く」『仏地論』にいわく、「一切智、一切種智を具し、煩悩障および所知障を離れ、一切の法、 一切種の相において、よく自ら開覚し、またよく一切有情を開覚すること、睡夢の覚めたるがごとく、蓮華の開けるがごとし。ゆえに名づけて仏となす」)


 これがゆえに、仏陀は悟界の最上に達したるものにして、そのはじめの衆生より起こりたるも、 いよいよ昇進して真如の本性を開現し、 真如に同化するに至りたるものなり。しかるにここに、真如の本体は仏陀と同一なりやいかん、 ということについて三身の説あり。いわゆる三身とは、 仏陀の身に三種の別を具するをいう。すなわち法身、報身および応身これなり。 この法身とは真如の本体をもって仏身となすものにして、真如とその体を同じくするなり。しかるに報身とは、その修めたる原因に報酬せる結果によりて身を成すを義とし、仏陀相応の成立を有する体をいうなり。されば、 報身と法身とはその意 つならず。 もし、法身の上より論ずるときは、一切の衆生はみな真如なるをもって、 吾人も仏も同一なりということを得べし。 しかるに報身の上に至りては、われと仏とは至大に異なりたる成立を有するものなり。いかんとなれば、 その修むるところの原因相異なる上は、  その結果もまた互いに異なるべきはずなればなり。つぎに応身とは、 仏陀が迷界にその身を現じて、 吾人と同じき形象を呈するものをいう。これいわゆる方便身にして、仏陀が衆生を救助、済度せんがために、 さまざまの身を現ずることをいうなり。 今この三身を釈迦の上に立つるときは、『大蔵法数』巻八に記せるところのごとし。  すなわち、


一法身毘蘆遮那如来トハ、法名二可軌一、 諸仏軌之而得成仏 法為身、 故名法身、梵語毘慮遮那、華言徧一切処、以真如平等、性相常然、身土無礙故也、 如来者、 金剛経云、 従来亦無去、 故名如来、是也。 


(一に法身、毘慮遮那如来とは、法は可軌に名づく。諸仏これにのっとりて成仏を得。法をもって身となすゆえに法身と名づく。梵語に毘慮遮那、華に偏一切処という。真如平等、 性相常然、身土無凝をもってのゆ えなり。 如来とは、『金剛検査』にいわく、「従来するところなく、また去るところなきがゆえに如来と名づく」と、これなり)


二報身慮舎那如来、修因感報、名之為報、然有自報他報之別、自報即理智如如、他報即相好無尽、是名 報身、梵語慮舎那、華言浄満、謂諸惑浄尽、衆徳悉円、又云光明徧照、謂内以智光真法界外以身光応大機、如来者、 転法輪論云、第一義諦名品如、正覚名来、是也。


(二に報身、盟舎那如来、因を修し報を感ず、  これを名づけて報となす。 しかるに自報、 他報の別あり。 自報とはすなわち理智如々、 他報とはすなわち相好無尽、これを報身と名づく。梵語に慮舎那、華に浄満という。  いわく、 諸惑浄尽し、 衆徳ことごとくまどかなり。 また光 という。  いわく、 内は智光をもっ て真法界を照らし、 そとは身光をもって大機に照応す。 如来は、「転法輪論 にいわく、「第一義諦を如と名づけ、 正覚を来と名づく」これなり)


三応身釈迦牟尼如来、 智与体冥 能起大用、随機普現、 説法利生、 故名応身梵語釈迦牟尼、 華言能仁

寂黙 寂黙故不生死、能仁故不涅槃、如来者、成実論云、乗如実、来成正覚、是也。


(三に応身、 釈迦牟尼如来、 智と体とかない、 よく大用を起こし、 機に従ってあまねく現じ、 説法利生す。ゆえに応身と名づく。 梵語に釈迦牟尼、 華に能仁 黙という。 寂黙のゆえに生死に住せず、 能仁のゆえに涅槃に住せず。如来とは、『成実論』にいわく、「如実の道に乗じ、きたりて正覚を成ずる」これなり) 


 これを要するに、仏身の上には平等と差別の二様の見解あり。平等の見解によるときは、仏もわれも物も心も、万有万象はその体みな真如なればいわゆる「心仏及衆生是三無差別」にして、いずれもその体一なり。しかるに差別の見解によるときは、仏とわれとはその間に至甚の相違、径庭ありて、吾人は迷界の凡夫なり、仏陀は悟界の最上に達したるものなり。したがって、その身も、その成立も、吾人とは大いに異なるところなかるべからず。しかして、その大いに異なれるところの仏が、この世界に身を現ずるに当たりては、 この世界の形象を取らざるべからず。ここにおいてか、釈迦は人間の形象を具して、この世界に降誕せしなり。ゆえに、法身は平等上の見解にして、報身および応身は差別上の見解なりとす。 

 さらにまた、この仏と神とはいかなる相違あるかについて、ここに一言せざるべからず。さて、神につきては各宗教の与うるところの解釈同じからざるをもって、その義を一定し難しといえども、今もしヤソ教のごとく、造化主宰なりと立つる意味よりこれをいうときは、神とは天地にさきだち、万物の前に成存せる、唯一の体にして、随意に万物を造出し、またこれを破壊して、なにごとも意のごとくならざるものなき、至大無上の権力を有するものなり。しかるに仏教のいわゆる仏は、その本来をいえば、吾人と同じく迷界の一凡夫にして、これよりようやく徳を修め、業を積み、その結果としてついに仏果を得るに至りたるものなり。かつまた、すでに仏果に達したる上にても、決して宇宙の理法を自在に左右し、因果の規律を随意に変更するがごとき権力を有するものにはあらざるなり。これをもって、仏陀に三種の不能ありという。この三不能とは、一には決定業を転ずることあたわず、二には無縁の衆生を度することあたわず、三には衆生界を尽くすことあたわずと、これなり。みるべし、仏陀といえども、動かすべからざるものあることを。これぞ仏と神との相異なれる点なり。また、ヤソ教のごときにありては、吾人は神の救助を受くれば天堂に至ることを得れども、神と同体となることあたわず。しかるに仏教にありては、たれびともその修むるところの原因同一なれば、みな同一の仏果を得となすなり。これまた神と仏との異なれる点なり。

 以上講述せるところこれを約するに、仏教中には鬼神の説あり、仏菩薩の説あり。また、その鬼神にも善悪種々の類ありて、これを形に現して異様異形の鬼神を見るといえども、もし、深くその道理を窮むるときは、仏教は世界万有の本体をもって、唯一の真如なりと立つる一元論にして、この一元の上に平等、差別の表裏あることを説ききたり。平等の上にては仏、菩薩、禽獣、人類等の区別なく、ことごとくこれ同一の真如なり。しかるに差別の上にありては、天地万有みなことごとく固有の成立を具し、いわゆる万象並存すとなすものなり。これぞすなわち、一元の上に絶対および相対の二門を説きたるものにして、その二門は一にして一ならず、二にして二ならず、これを不一不異とはいうなり。この不一不異をもって、真如の体上に表裏の両面あることを説明したるものは、すなわち仏教の哲理なり。しかして、差別の表面上にありては、因果の大理法をもって経とし、緯とし、その間に顕現するところの種々無数の変化は、としてこの理法にしたがわざるものなく、吾人の進むも退くも、天地の進化するも退化するも、みなこの規律にのっとらざるはなし。かつまた、この理法たるや、ひとり外界物象の上に存するのみならず、また心界道徳の上にもこれあるものと説き、いわゆる善因善果、悪因悪果をもって、宗教の原理大本と定め、おのおのその修むるところの因に応じてその結果を得るものと信じ、原因異なるときはその結果もまた異ならざるを得ざるをもって、迷界、悟界ともに種々の階級の相分かるるに至りしなり。これをもって、迷界の上には六道を分かち、その六道もこれを細別するときは、さらに無数の境遇を現ずるなり。 

 したがって、鬼にも神にも、また無数の種類なかるべからず。これ、仏教にて種々の鬼神を説くゆえんなり。しかして、その形象のごときは、人々の想像によりてさまざまに定めたるものにして、ことに愚民にありては、妄想に妄想を付会して、奇々怪々の鬼形を生ずることとはなりしなり。しかるに世上の仏教を駁するものは、その奇怪なる鬼形をもって、ただちに仏教は妄誕不稽の説なりと評すれども、かくのごときはただその皮相外観たるのみ。もしそれその一大原理たる、真如一元論のごとき、また、因果大理法のごときに至りては、決して論理の動かすべからざる千古の確説にして、仏教の真理は実にこの点にありて存するなり。しかりといえども、人知進まずばこの大真理を領会することあたわず。ただその枝葉にわたれる鬼神等を見て、これ、すなわち仏教なりと誤解するに至る。悲しむべく、また哀れむべきことならずや。これをもって、仏教の大真理を世間に開現せんと欲せば、まず人知を発育せしめざるべからず。この人知を発育せしむるは、これいわゆる教育の目的にして、また、予が妖怪学の目的とするところなり。 かくて、一方にありては教育を普及し、他方にありては妖怪を説明し、人をして大智眼を開かしめば、仏教の真理はおのずから哲学の中天にかかり、赫々として四表に光被するに至らん。


    第22節 神道の鬼神の解釈

 そもそもわが国の歴史は、遠く神代をもって始まり、実に鬼神談に富めるものと称して可なり。されどわが国の神なる語については、種々の説ありて、あるいは神は上なりといい、あるいは神は鑑(カンガミ)なりといい、またその形についても、あるいは隠身にして無形なりとし、あるいは有形の現神なりとし、その説の一定したるものを見ず。今、「古今神学類漿紗」によるに、加美をもって鑑の中略、濁を去るゆえなりとなすは、これすなわち陳説なり。また、加美は上なりとの義につき、「神代口訣」に曰く、「上者神常在高天原、故宇会云云。」(上とは常に高天原にある、ゆえに宇会、云云)と。また『類聚鈔』の説によるに、「予おもうに、形より上なるものを神理といえば、形体あるも天地万物を離れて、その上に鎮なる神理なれば、もって加美とはいうなり」と。その他、同書に曰く、「神道とは万邦人道の本基にして、儒仏にもなおこれあり。陽には神といい、陰には鬼といい、また霊という」と。

 かくのごとく神のことについては、中古以来種々の解釈をなすものあれども、あるいは儒教の理気説によりてこれを解し、あるいは仏教に照合してこれを解し、はた、あるいは自己の私見をもってこれを釈し、その説くところ、あまり理論に偏して、古代人の想像のいかなるやは、さらにこれを解せざるもののごとし。「唯一神道名法要集」に、「神者天地万物之霊宗也、故謂二陰陽不レ測、道者一切万行之起源也、故謂三道非二常道一。」(神は天地万物の霊宗なり、ゆえに陰陽測られずという。道は一切万行の起源なり、ゆえに道は常道にあらずという)その頌に曰く、「神者万物心、道者万行源、三界有元情、畢党唯神道。」(神は万物の心、道は万行の源、三界有無の情、畢竟するにただ神道)と。また忌部氏の論に「神道仮二辞於嬰児一 求一心子神聖ご(神道は辞を嬰児にかり、心を神聖に求む)といえり。あるいは神道を解して心道とし、あるいは神道は真道なりといい、すでに新井白石のごときは、「神は人なり」と解し、その他にも神を人として、神代の奇怪談を除かんとつとめたるものあり。内藤耻叟氏もその論文に、「わが古典のいわゆる神なるもの、これ上聖の人なり。シナ、西洋のいわゆる神なるものにあらざるなり」と。されどもこれらはみな、今日の人知と古代の人知とを、同一にみなししより生ぜし見解にして、その所説もとより正当とはいうべからざるなり。そもそも神代史はひとりわが国に存するのみにあらず、インドにおいてはバラモンの創世史のごとき、あるいはギリシアの神代史のごとき、またエジプト、バビロン、アッシリアの古史のごとき、あるいはドイツおよびイギリスの古代における人種のごときは、いずれもみな種々の神を拝し、またこれを信じたりき。あにただに、わが国のみをしかりとせんや。これがゆえに、その説はたといいかに奇怪なりとも、これをそのままに保存して、万国の古伝神説と互いに比較研究せば、なにゆえに古代の人民はかくのごとき想像をひき起こししか、そのよって起こりたるゆえんの原因を明らかにすることを得べし。よしや、これをもって妄想なりとするも、原因なくんば妄想の起こらん理なればなり。しかして、その原因を討尋考究するは、右らの古説の比較的研究をまたざるべからず。これ今日、比較宗教学の必要なるゆえんなりとす。

 まず、わが国の神代史について述べんに、この史には『日本〔書〕紀』と「古事記とにより多少の別あり。 今、『古事記 の伝うるところによれば、 天地の初めてひらくるとき、 高天原に成れる神の名は天之御中主 神、つぎに高御産巣日神、つぎに神産巣日神なり。この三柱の神は、ならびに独神にして隠身なりと。今、その文字についてその義を案ずるに、天之御中主神とは、天の中央にありて、天地の主たる神を義とす。高御産巣日神、神産巣日神の二神の「ムス」とは、産の義にして、物を産出する意なり。「ビ」とは霊の義にして、その作用の霊妙なるをいう。すなわち、造化の霊妙なる作用に名付けて与えられたる名称ならん。 その他、天神七代、地神五代と称する神々につきては、『拾芥抄』によりてその名を列すること左のごとし。

 その他、諸神の種類は八百万神と称していくたあるを知らず。しかして、そのうちには善神あり、また悪鬼もあり。 今、その種類をわかちたる表を示せば左のごとし

 要するにわが国の神は、天、地、人の三種に分かつことを得べし。天神とは天上にありて、いまだ下界に降臨せざるものをいう。地神とはこの土にくだりて、国土を経営したるものをいう。人神とは人の死後に、その霊の神となりたるものをいう。ゆえに神代以後、人皇の代に至りても、人の死後、神としてまつりしものあまたあり

 右のごとき神話は『古事記』『日本書紀』等に譲り、予が今ここに述べんと欲する点は、なにゆえにかくのごときを想出するに至りしか、 ということこれなり。 されどもこのことは後に 各国の神代史上に現れたる神話と較して論ぜんと欲すれば、 今しばらくこれをおかん。

 おもうに、わが国にて神道の一種の宗教となりて一種の教会組織をなすに至りしものは、近来のことにして、もとより古代よりしかりしにあらず。また、神社をたてて祭祀を盛んにしたるがごときも、上古よりしかりしにはあらずして、 年を経るに従いてようよう発達したるものたること疑いなし。 もっとも『工芸志料』に載するところによれば、

神社を造ることは太古よりあり。 大国主神、 自己の奇 魂 を大和の東山にまつり、 ために神社をたつ。 これを美毛呂という。東山はすなわち三輪山なり。その神社の形状つまびらかならず。しかれども本邦において神社をたつることは、けだしここに始まる、云云と。


 かくのごとく神社を建てしことありというも、その当時は極めて単純質素のありさまなること弁解を要せず。その後に至り、インドの仏教、三韓よりわが国に入り、年を追ってようやく上下に行わるるに及び、インドの鬼神と日本の鬼神とを混合し、これに加うるに種々の奇怪説をもってし、禽獣、草木、山川のごときもこれをまつり、いわゆる淫祠の盛んなるに至れり。これ、つは人知の進まざるによれりといえども、また自然に、その道を専門となす者が糊口のために、愚民の迷信に乗じて、種々の淫祠を起こすに至りしなり。要するに、日本の鬼神中には種々異類のものを含有し、無形なるもあり、有形なるもあり、動物あり、植物あり、山もあり川もありて、実に奇々怪々を極むといえども、およそいずれの国々にても、愚民の信ずるところはみなこれに等しきものにして、西洋諸国が今日の文明に進みしとはいえ、なお愚民中にはその迷信の抱腹にたえざるもの多し。ゆえに、人知いよいよ進みていよいよ明らかとならば、かくのごとき迷信は次第に消滅して、そのうちに宗教の純粋なる真理を開現するに至らん。これをたとうればいかなる宝石といえども、これを泥土中に埋没せば、瓦石と甑別し難きに至るべしといえども、ようやくこれを琢磨しきたるときは、その固有の光沢を現ずべし。かくのごとくわが国の宗教は、今やその迷信の泥土におおわるれども、もし向後、人知の琢磨によりてこれを浄尽せば、漸次その内部に包含せる宗教の真光を発現するに至らん。これまた、吾人教育家のすべからく目的とすべきところならずや。


  第23節  各国古代宗教の鬼神論

すでに儒、仏、神三道の鬼神論を大略説明しおわりたれば、これより西洋近世の鬼神論を述べざるべからず。しかるに、西洋にても古代の鬼神説あり、また東洋にもペルシア、バビロン等の古代の鬼神説あれば、まずこれらの諸説について言せざるべからざるなり。

最初にエジプトの鬼神説を挙げんにエジプトには古代あまたの鬼神ありて、これを崇拝し一種の宗教すなわちエジプト教なるものをなせり。これらの鬼神中にて最も主要なるものは、オシリス、ラーの二神なり。オシリス神はその弟のセト、あるいは一名タイフォン神によりて殺され、その子ホルス神、これを復讐したり。ここにおいて、オシリス神は幽冥界の神となれり。オシリスの妻神をイシスと称す。伝えいう、「イシスがその夫オシているいリスの死を悲嘆して注ぎし沸涙は、年々ナイル河の洪水を起こすものなり」とぞ。つぎに、ラー神はこの世界を支配する神にして、その敵をアパップと名付く。これ蛇神なり。 ラー神とアパップ神との争闘は、光明と暗黒との二者を代表したるものにして、オシリス神とセト神との関係は、生と死との二つを表示したるものなりと唱うるなり。要するにオシリス神とラー神は善神にして、アパップおよびセトは悪神なり。すなわち、これらの神は善悪二元の抗争を示したるものなり。また、エジプトには八将神ありと伝う。その第一はプター 神とし、そのつぎをラーとし、つぎをシューとし、以下セップ、オシリス、セト、ホルス、セバックの諸神とす。その他種々の諸神あれどもこれを略す。

バビロン、アッシリアの人も、同じく多神教を奉ずるものなり。今カルデアの宗教説を見るに、イー神をもって第一の神とす。これ海神なり。その子をメロダック神という。これ昼間の神にして、すなわち太陽の神なり。これに対して夜間の神あり。これは竜神にして悪神なり。要するにこれらの諸神も、また明暗、善悪二元の互いに抗争することを示したるものなり。アッシリアにて、第一の神をアッシュール神とす。これに次ぐ神に三体あり。アヌー ン、ヒーこれなり。その他さまざまの諸神ありて、互いに相戦い相和するは、その状態あたかも人類の間における状態と異なることなし。また、今日に伝わるところのペルシア教すなわち火教も、前述の宗教と同じく、善悪二神の相争うことを示したるものにして、善神をオフルマズドといい、悪神をアフリマンと称するなり。

また、ギリシアの古代宗教論はわが国の宗教説と同じきものあり。そのいわゆる神代史談は、大いにわが国の史談に類似せるものなり。神に三種の別あり。第一類は天上の神にして、第二類は海中に、第三類は地下に住す。その天上に住するものに十二体あり。ジュピター〔ユピテル(ゼウス)〕、 アポロン、マルス〔アレス〕、マーキュリー〔ヘルメス〕、バッカス〔ディ オニュソス〕、バルカン〔ウルカヌス(ヘファイストス)〕、ジュノー〔ユノー(ヘラ)〕、ミネルヴァ〔アテネ〕、ビーナス〔アフロディー テ〕、ダイアナ〔アルテミス〕、セレス、ベスター〔ウェスタ(ヘスティア)〕の諸神これなり。つぎに海中の神をネプチューン〔ネプトゥヌス(ポセイドン)〕といい、地下の神をプルートー〔ハデス〕という。

ローマの古代宗教は、多くギリシアの古説を混じたるものにして、ただその神の名称のギリシアにて唱うるものと異同あるのみなり。今その二、三の神を挙ぐれば、テラス、タサル、オプス等なり。これらの諸神はみなそれぞれの司宰すべき区域ありて、あるいは天、あるいは地を支配せり。 かつ、さきに掲げたりしギリシアの諸ローマ人もみなこれを用い、ジュピター神をもって最上の神となせり。

その他、ドイツ、イギリスにおける古代の人種は、やはり右に類したる多神教を崇奉せしものなり。 


 第24節 近世哲学上の鬼神論

これより西洋近世の宗教論について講述せんに、予すでに宗教論には、あるいは神秘的に、あるいは道理的に解するものあり、あるいは天啓、あるいは自然と、互いにその所見を異にして、種々の諸説あることを述べ、また霊魂論の上にも、唯物学派と唯心学派との見るところ、おのおの相異なることを説きたりしが、今、鬼神論に至りても、また経験学派と理想学派とによりておのずから相異なるところありとす。

今、経験学派の説によるに、古代より今日まで人知に伴いて、宗教そのものの変遷しきたりしをもってみるときは、宗教は古代人知のいまだ開けざるに当たり、宇宙万有を観察して、その心内に想像したる妄念が原因となりて、次第に変遷発育しきたりたるものとす。しかして、その原因とは、第一に、この世界にありて天地万有を観察するに、そのなにによりて起こり、なにによりて成るかを知ることあたわず。あるいは日食、月食、水難、震災のごとき、平常に異なれる変動あるも、その理を解することあたわず。あるいはまた人の生老病死のごときも、その理を知ることあたわず。その生まるるも、よってきたるところを知らず、その死するも、いずれに向かいて去るかを解せざるなり。これをもって疑念内外に起こり、相より相結びて、ついに宗教上の鬼神説を想出するに至りしなり。これ原因の一つなり。つぎに、 古代にありては、人の生時と死時とを区別することあたわずして、現界も冥界も同一なるものと思い、現界にありて人の長たる者は、死後もなお人を支配するものと考え、生前に人を苦しむるものは、死後にもまた人を悩ますならんとおもい、かくて死したる人の霊魂に善悪の二種を分かち、おのおの人に禍福を与うる力ありと信じ、いわゆる鬼神の説を生ずるに至るなり。これまた原因の一つなり。最後に、人には恐怖の情あるより、庇護、救助を求めて自ら満足せんと欲するものなり。苦を避け楽に就かんとするは人情の常なり。しかるにこの世界は種々の災難、不幸続々として起こり、これを避けんと欲するも意のごとくならざること多し。ここにおいてか種々の迷いを生じ、この迷苦を脱せんとして、鬼神のごとき、己より侵等の勢力あるものに依頼するに至るものなり。これまた鬼神説の起こるゆえんなり。さらにこれを各国の歴史に徴するも、いずれの国も大抵鬼神談を唱えざるものなく、その鬼神は人類と等しく、愛憎喜怒の情を有し、生老病死の変を有し、戦闘、殺傷のことに至るまで、篭も人事におけると異なることなく、また父子、夫婦の別ありて一家一族を成すことも、さらに人間社会と異なることなし。これによりてこれをみれば、鬼神は現在の人間社会をもととして、想像せしより生出したるものなること明瞭なり。したがって、宗教は古代無知の人民の妄想より出でたるところの、鬼神説の発達したるものにほかならざるがゆえに、これを野蛮の遺俗、余風なりと論評するも、あえて不可なることなからん。

右は経験学派の一般に唱うるところなりとす。しかるに、非経験学派および理想学派の説くところによれば、宗教論も鬼神論も、ともに古代野蛮のときに、無知蒙昧の人民間に発したるものには相違なしといえども、今日、東西各国の歴史によりて、比較的に研究しきたるときは、大抵の人民間にこの思想あることを発見せざるはなく、特にそのうちには東西数千里を隔てながら、その所説のよく一致すること、 あたかも符節を合するがごときものあり。  これによりてこれを考うるに、 鬼神、 宗教の談は人心そのもののうちに一定の原因ありて、これより発起せしものなりといわざるべからず。しかして、その原因たるや、人類一般に共同して存するものならざるべからず。ここにおいてか、近世の宗教学者中には、宗教心をもって人性の固有にして、吾人の心中における一種特殊の作用なりと唱うる者あり。もしこの説によるときは、鬼神のごときも、その観念は人心固有のものなりといわざるべからざるなり。この説は天賦もしくは本然論者の唱うるところにして、まさしく経験論に反対するものなり。あるいは鬼神の観念をもって直覚となすものあり、これを直覚論と称す。 しかして、 直覚論も本然論もともに宗教心の人に固有せるものにして、経験によりて発達せざるゆえんを説くにおいては同一なり。  ゆえにこの種の論派を直覚学派と称す。

経験学派の論、もとより正しきものにあらず。これに反対する直覚学派の論もいまだ尽くさざるところあり。もし直覚論によりて宗教心の本源を明らかにせんと欲せば、理想論ありて起こるを見る。そもそも理想論は物心の本源、実体を開示せる高妙深遠の論にして、宗教心のよって起こる淵源を究明せるものなり。すなわち、吾人の固有せる宗教は、その淵源をたずぬるに、物より発するにあらず、心より生ずるにあらず、実に理想の大海よりわき出でたるものなり。吾人は自他互いにその生存を異にし、その精神、思想を異にし、 その宗教上の信仰、感情を異にするをもって、 国、 異なれば宗教また異なり、 世、 異なれば信仰また異なりといえども、 その本心に至りては理想の一源より発せざるはなし。 しかして、 その理想は物心両界の根底にして宇宙の本体なれば、 吾人の心底を深くうがちきたらば、 理想の水たちどころに湧出すべし。 あたかも、 地をうがてば水おのずから出ずるがごとし。 今、 吾人の霊魂も鬼神も、 理想そのものの一滴一分子にあらざるはなし。  これをもって、 古今東西いくたの宗教あるも、 また各宗教の間にいかなる異同あるも、またその鬼神とするところ、おのおの大いに異なるところあるにもかかわらず、みな理想の光景に接して生じたるものなること疑うべからず。その論はさきに幽霊論を講ぜしときにすでに説明したりしものなれば、今ここに贅言するを要せずといえども、古代の鬼神論と今日の鬼神論とその体の形状を異にするも、これ同一理想の、反射影像の明、不明を異にするに過ぎざることを知らざるべからず。余はもと理想論を信ずる者なれども、その論もあまり一端に偏するときは、理外的もしくは先天的に陥るをもって、論者の注意を要するものと知るべし。

以上において、経験ならびに理想の両学派の所論を講述せしが、予の考うるところをもってすれば、宗教心なるものはもとより先天に存すとなすも、経験をまたずしては発達するものにあらざるがゆえに、先天、後天の両説を参考して説明せざるべからず。従来、経験論者は常に後天のみに偏し、非経験論者は先天に偏する弊あり。ゆえにその中間に立ちて、両説を折衷したるときに、初めて公正の論を得べきなり。これを要するに、宗教心は、吾人人類の古代より有したる一種の先天性が、外界の万有万化に接見して、知らず識らずの間に発育しきたりしものにして、その順序は低より高に及ぽし、下等より高等に進みしものなるがゆえに、古代の宗教、鬼神の談話は、今日よりみるときは、実に笑うべきもの多しといえども、これただ発達の初期なるのみ。 また、今日の宗教、鬼神談は高等に進みたりといえども、古代の初期を経過せずんば、 もとよりここに達することあたわざるなり。これをたとうれば、 あたかも一種の種実より発生したる草木は、 その発達の前後に応じて大いにその形状を異にすれども、  そのうち一貫せるものあると一般なり。  ゆえに、 宗教、 鬼神の説はこれを外面よりみるときは、 古代と近世とは大いにその形象を異にすれども、 その内部には必ず前後、 始終に貫徹せる一真理あること疑うべからず。 しかるに経験学派にては、 ただ外部の状態のみをみてこれを評し、 すこしも内部の精神あることを顧みることなし。  これ、 この学派の弊とするところなり。

そもそも鬼神なるものは、古代にありては有形質のものと解釈し、今日にありては無形質のものに解釈し、古今大いに異なりといえども、その本心に至りてはもとより合するところなかるべからず。けだし吾人の心内に

は、有限を感知する力と、無限を感知する力との二様の作用ありて存す。ゆえをもって、天地の有限に対してこれを観察するも、その性能を満足せしむることあたわずして、おのずからその範囲以外に想像を走らしめんとする傾向あり、もって無限を確知せんとす。これ実に宗教の起こるゆえんにして、また鬼神論の生ずるゆえんなりとす。けだし鬼神は、無限の勢力に対して吾人の想像したるものなり。この想像はもとよりわが心内より起こるといえども、これをよび起こすものは外界の万象なり。日月をもって神に配し、風雨をもって神に帰するがごときも、これみな万象の上に無限を想出したるものにほかならざるなり。しかして、その無限とするところのもの、およびこれを代表するもの、ならびに万象を代表するところのものは、人知未開の古代にては、いたって卑近のものなりといえども、これはただ発達の初期の状態においてしかるのみ。ゆえに人知の進むに従いて、ようやく有形より無形にうつり、今日に至りては高妙の鬼神論を生ずることとはなれり。さきに予が儒、仏、神三道の鬼神論を掲げたるうちに、古代および愚民間の鬼神と、多少知力の発達したる人の鬼神とは、大いにその形象を異にすることを示したりしが、これまた同一の先天性思想が、発達の前後に応じてかくのごとく相異なれるもののみ。ゆえに愚民の鬼神についての観念も、その知力の発達するに応じて一変せざるべからず。かつまた古代にありても活眼達識の人は、つとに愚俗の鬼神説を論破して、高妙の鬼神説を開示したり。これをもって東洋にありては、数千年のいにしえにおいて、大聖人世に出でて、 鬼神、宗教を唱道するに至りしなり。

わが国の神代史についても、あるいは神代の鬼神談のごときは、古代の妄説にして、今日の学理にては到底説くべからずとなすもの多きがごとし。予はこれについておもえらく、これらの人々がこれを妄説となすは、物理的説明の上にていうのみ。もしそれ心理的あるいは理想的説明によるときは、決して妄説として排斥すべからざるのみならず、これらの鬼神談は、わが国古代の神人の有する高妙無限の思想が、天地の美とともに開現せしものといわざるべからず。おもうに現今の人々中には、古代と今日とを同一の視点より論ずる者多きをもって、往々その論に誤謬を生ずるに至るなり。もし古代の史談を正当に知らんと欲せば、よろしくわが身をもってその古代の位置に立たしめざるべからず。仮に吾人が古代未開の当時にありしものとせば、いかなる想像をもって宇宙の無限を想出すべきか。今日の学術もなく技芸もなく、山川草木の状態も形式も、今日とは全く別天地をなし、百事万象みな実に自然の状を呈して、さらに人工のその間に加わりしことなき、かの当時においては、その天地の美は、もとより今日の美とは霄壌の差なかるべからず。したがって、これに対する観念もまた大いに異ならざるべからず。試みに吾人がかくのごとき当時にありて想像せしならんには、必ずや当時の古人と同一の想像をなさざるべからざるなり。これをもって、わが国神代史上の談話のごときも、これを理想的に解釈しきたらば、今日の吾人が宇宙の真理を観念するものと寸毫も異なることなし。換言すれば、当時の人民の懐抱せし高妙無限の思想の、外発したるものにほかならざるなり。ゆえにかくのごとき時代の史談をば、今日の人知をもって批評し排斥するは、かえって事情に通ぜず、道理にくらきものといわざるべからず。あるいはまた神代の史談を修飾変改して、今日の事情に適合せるものに作為せんとつとむるものあれども、これまた大いなる誤りにして、畢竟、鬼神談の本性を知らざるに座するものなり。けだしかくのごとき史談は、吾人が今日において太古を知るべき活歴史なれば、なるべくこれをそのままに保存して、東西各国の歴史と照合し、これらを比較的に研究すべき道を開かざるべからず。しからば他日必ず一大真理のその中に胚胎せるを発見することあらん。かくて、従来妄誕不稽として排斥せられたる各国の鬼神談も、今日は学術上、宇宙の真理を考定すべき活書と見なさるるに至れり。これによりてこれをおもわば、鬼神談あにたやすく排斥すべきものならんや。しかりといえども、ここに一言の注意せざるを得ざるものあり。すなわち鬼神、宗教のことに関する古代の説は、その外面に発表せるところ極めて卑近拙劣なれば、ここに安んじてそのままこれを信ずるがごときは、愚の至りといわざるべからず。予が鬼神談の必要なることを唱うるゆえんは、その内部に包有する一大真理を開削せんことをつとむるによれり。今日、愚民の信ずるところは、外面卑近の部分を見てただちにこれを信じ、その内部にいかなる真理を蔵するかを知らざるものなり。予もとより、かくのごとき迷信者を賛するものにあらざるなり。特に鬼神説のごときは、太古はかえって醇良のものなりしも、中古に至りこれを糊口の材料となすものありて、これに種々の怪談、奇説を付会し、もって愚民の迷信に乗じ、私利を営まんとするものありき。これ、東西いずれの国もみなしからざるはなし。これをもって鬼神談はますます塵芥のうちに埋もれて、いよいよその真相を失し、これが内部の真理を開削せんこと、一層困難なるを覚ゆるに至れり。予が前に述べたりし儒、仏、神の道における種々の鬼神談には、伝来の際に付会したるもの多きも、職としてこの理によれり。これを要するに、余の論は宇宙の体すなわち神にして、その実相を宇宙の進化によりて内部より外発するものと信ず。ここにおいて、余がかつて『忠孝活論』に述べたる、神代史上に存する神と人との関係について一言するを要するなり。

余おもえらく、わが国の神代史上の神は、これを神と解するを得べく、また人と解するを得べし。 もしその一方に偏するときは、その論いまだ尽くさざるところありといわざるべからず。今これを形体上よりいわば、神も人もともにこれ人にして、精神上よりいうときは、神と人とは区別ありて、同一にあらずとなさざるべからず。しかして、そのいわゆる精神上の神とは、通俗にいうところの形体的のものにあらずして、無形、無質の精神の

純気を指すなり。まずこの理を知らんと欲せば、天地開闢説より説明せざるべからず。天地のいまだ剖判せざりし以前にさかのぽりてこれを考うるに、いずれの説に従うとも、いまだ一定の形体あらざりしは明らかにして いわゆる混沌無一物の状態なれば、ただ一気ありて存せしのみ。この一気なるもの次第に開発して、ついに形質ある物質なるものを現すに至りしといえども、またこの物質とともに一種の勢力なるものありて、はじめより相存したるや疑いなし。ゆえに、原始体の中には実に形質と原力とを包含したるものにして、その原力の開発したるものはすなわち勢力および精神なりとす。ゆえに、もしこの原始の体につきて気に純、不純を分かつときは、物質は不純の気にして、精神は純気なりというべし。ゆえに、人の精神は実に天地未分の当時に成立せる純気をうけて成れるものなりといえども、この純気の精神は不純の気質すなわち物質的身体によりて囲繞せらるるがゆえに、わが精神も知らず識らずその気に動かされて、本来純然の精神も漸々不純の気を帯ぶるに至れり。ここにおいて精神に高等、下等の区別を生じ、下等の精神もその深底を探れば、もとより本来純然の精気を存せざるにあらずといえども、ただその表面、不純の気のために濁りたるのみ。

しかして、そのいわゆる純然の部分はこれを良心、良知、良能と名付け、その本体これを神と名付くるなり。ゆえに無形的神は、吾人の丹誠、心に命じたる名なりと知るべし。しかしてその真心は、すでに天地未判のときに存したりし一気より出でたるものにほかならざれば、万有の本元も、わが精神もともに同一にして、ともに神と名付くることを得るなり。しからば、人にして果たしてよく心面の汚泥を去りて、本来清浄の精神の水をただよわし、わが心を純然の気に復するを得ば、その人を称して神といって可なり。 わが古代の人のごときは、まだ本来固有せる清浄の純気を失わず、よくその真相を保ちて物質不純の気を受くることなきがゆえに、これを神と呼びしものなるべし。そのいわゆる神は、形体上に解せずして精神上に解するときは、今日の学理をもって説明し得るなり。もっともいずれの国にても、古代の人は一般に純朴にして欲念少なきものなり。シナの尭舜、伏羲時代の人民のごときも、精神上よりいわば実に神に近きものなりしは明らかなれば、なんぞひとりわが国の古代の人を神と称する理あらんや。しかるに、わが国にては特に精神上においてしかるのみならずして、その外界における天地山川の自然の光景は、おのずから美術的にして高妙の風致を現じ、宇宙純良の気よく物質の上に開発し、 その霊容わが精神の鏡面に映射しきたり、  一層この心をして純然の本性を発育するを得しめたり。そのひとたび発育しきたれる神性は、子々孫々相伝えて後世に及ぼし、全国民をして一種の元気すなわち大和魂を養成し、 万国無比の国体を護持して今日に至らしむ。  これ、 あに偶然ならんや。  その淵源するところ、 実に深くしてかつ遠しというべし。

余の鬼神論は、以上述べたるところによりてほぽ明らかなるべしといえども、さらに宇宙論の上よりこれを要言すれば、鬼神の本体は真如、理想のごとき宇宙万有の実体と同一にして、その体、開発して一方は物質となり、一方は精神となり、すなわちつは純気となり、一つは不純気となれり。なかにつきて鬼神はその純気の精神上に成立するものにして、形体をそなえし物質性のものにはあらず。さきのいわゆる霊魂不滅の理もまた、けだしこれにもとづくものにして、人死するやこれと同時に、その肉体を形成せる不純の物質性は分解すといえども、純良無雑の精神は不滅不死なりというにあり。しかして霊魂が人間の死後、一種の成立をもつものを指して、鬼といい神という。これすなわち差別性の鬼神なり。これに対して平等性の鬼神あり。すなわち、彼我、自他の差別を有せざる絶対的精神、理想の体をいう。今、余の信ずるところは、かかる平等性の鬼神も、差別性の鬼神も、ともに必ず存在すべきものとするなり。しかれども、世俗の鬼神をもって形あり色ありとするがごときは、これかえって鬼神の鬼神たるゆえんにあらずして、人間の想像上よりえがき出だしたるに過ぎず。けだし天地自然の現象に接し、変々化々する状態に際会して、その恐怖の念の禁ずべからざるや、ついに種々の妄想を起こし、幻象を浮かぶるに至るものなり。ゆえにこれを物理的説明に考えきたらば、世人のいわゆる鬼神なるものは、全くあることなしと断言するのほかなかるべし。しかれども、もし心理的説明によるときは、世間のいわゆる鬼神はもとよりその体あるものにあらずといえども、人間自身の想像、観念、相結合して、これによりて種々の幻覚、妄想を生じ、実に鬼神を見ることあるは実事にして疑うべからず。 ゆえに、人もし恐怖の念に動かされ、あるいは鬼神の存在を信じてこれを予期するときは、その形状を現見することありて、さきのいわゆる幽霊の存在を見るに至る。

これによりてこれをみるに、鬼も魔もみな人の心より描きあらわしたるものなれば、鬼神も幽霊も不思議にあらずして、心そのもののひとり奇々怪々、不可思議なることを知るべし。