【修正中】欧米各国 政教日記(下編)

第六、 フランス紀行の部(付スイス、  スペインおよびポルトガル)


第一五〇ヽ 公認教の保護金

フランスは宗教の自由を許すも、 当時政府の公認を得たるもの、  ロー  マ宗、 新教派、 ユダヤ教、 ミュジュルマン宗〔イスラム教〕の四宗のみ、  これを公認教と称す。  すなわちその国の規則に、 信徒十万人以上を有する宗旨は、 政府これを認定して公認教とするという。  この公認教には、 政府より毎年若干の保護金を賦与するなり。  すなわち一八八八年度の表によるに、 政府にて宗教上に費やせる金額、 左のごとし。

 

ロー マ宗に四千三百十二万六千七百五フラン(わが金およそ一千三十万円)

 新教派に    百五十五万一千六百フラン

ユダヤ教に    十八万九百フラン

そのほか新教    ユダヤ両宗礼拝所に    四千フラン   こュジュルマン宗に    二十一万六千三百四十フラン

そのほか行政上に    二十五万一千フラン

合計    四千五百三十六万六千五百四十五フラン(わが金およそ一千百三十四万円)第一五一、 フランスの教部省

フランスはその政府中に教部省の一部分ありて、 その国の宗教に関する事務を管理するなり。  しかして教部省は司法省と相合し、 司法兼教部省と称するなり。

第一五二、 無宗教者の数

欧州にてヤソ教の次第に衰うる一例は、 その人民中、 自らヤソ教の信徒にあらざることを明言するもの、 年一年より加わるを見て知るべし。  すでにフランスのごときは、  一八八一年定めざるもの七百六十八万四千九百六人ありという。

第一五三、 旧教寺院の堂内

 二月の統計表によるに、 人民中宗旨をフランスはロー マ宗の国なれば、 その寺院の大なるものみなロー マ宗に属す。 その堂内の礼壇には必ず十字架上のヤソ像と花瓶、 燭台とを絣列し、 その礼壇の背部に、 別にマリアの女像を安置せる一室あり。 なお、 わが神社の奥院のごとし。 その堂の入り口の傍らには洗礼室あり。 小児の洗礼を行う所なり。

第一五四、  手を清むるの例

旧教の寺院にては、 その入り口に水の少量を蓄えたる石器あり。 参詣のもの、 まず指をその水中に点じ、 十字を胸にえがきて神前に近づくを例とす。 なお、 わが国にて神仏に詣するに手を清むるの風習に相類す。

第一五五、 カルパン宗の堂内

フランスのヤソ教は、 多くカルバン宗に属す。 政教子    一日パリ市中にある同宗の寺院をみるに、 堂内には牧師の説教席あるのみにて礼壇なし。 あたかも英国非国教宗に異ならず、 ただ説教席の後壁に十字の印ある幕を垂れり。 日曜礼拝の時間は一時〔間〕十分にして、 そのうち三十分間は説教なり。  当日参詣人は百二十九人ありて、そのうち九十八人は婦人、 三十一人は男子なり。 その年齢は十二、 三歳の子供かまたは四十以上の男女にして、みな下等の人物のみ。

第一五六、 旧教、 新教の宗制

フランスの旧教にては、 十七人の大教正と六十九人の教正ありて宗務を管理す。  その国の新教にては、 一宗内の会議によりて寺法を議定するなり。

第一五七、 ヤソ教を非難する書

英国にてはヤソ教を非難する書は、 今日に至り従前のごとくはなはだしからざれども、 なお世間に行われ難き傾きあり。 フランスにてはヤソ教を非難する書、 かえって多数の購読者を得るという。 両国間のヤソ教の盛衰、推して知るべし。

第一五八、 英仏人の遊び

英人は家にありて楽しみ、 フランス人は家を出でて遊ぶ。第一五九、 英仏名称反対英国にては一寺の長たるものをビカー〔〕といい、 その補佐をなすものをキュ レー  ト〔〕という。 フランスにては一寺の長たるものをキュ レー トといい、 その補佐をなすものをビカー という。 両国の名称、 まさしく相反せり。

第一六  、 馬牛の名称

フランスにて下等の料理屋は、 馬肉を牛肉と称して食せしむるという。 政教子曰く、 昔時は鹿を指して馬という。 今時は馬を指して牛という。 馬鹿の名称、 これより変じて馬牛となるべし。

 


第一六一、  金曜日の旅行

ヤソ教国の人民は、 教祖ヤソは金曜日に死刑に処せられたるをもって、  一週中ひとりこの日を称して不吉とし、 当日旅行を忌むの風あり。  ゆえに、 毎週金曜日には汽車の乗客はなはだ少数なりし。 しかるに近年、 同日の乗客次第に増加するに至れり。  これ、 ヤソ教の妄信者次第に減少せるによるという。

第一六二、 火葬流行

西洋にて従前はみな埋葬のみを用い、 火葬は絶えて用いざりしが、 近年に至り火葬ようやく行われ、 英国にもすでに火葬場の設置あり、 フランスにては火葬の数次第に増加するという。

第一六三、  パリの埋葬場

欧州諸国中、 埋葬地の最も美なるものはパリの埋葬場なり。 富めるものの墓は六畳敷きくらい大なる石堂を建て、 その中に拝壇を設け、 花瓶、 燭台、 写真、 油絵、 植木、 椅子等を陳列せり。

第一六四、 墓地の価

パリにて上等の墓地は、  一人前七百フラン(わが金百七十五円)の価なり。  七歳以下の子供は一人前その半額なり。 もし年限を定めて買うときは、 十年間限り一人前百五十フラン(わが金三十七円五十銭)なりという。

六五、  ロー マ宗葬式の景況

ロー  マ宗葬式のときは、 刷毛体のものあり、  これを水に湿し、 送葬のものをして代わる代わるその柄をとりて、  一、  二滴を棺の上に振り掛けしむ。 あたかもわが国の各宗にて香台を出だし、 送葬者をして焼香せしむるに異ならず。

 

第一六六、 棺車を見て帽を脱す

パリにて往来の人、 街上にて棺車を見るときは、  みな帽を脱して敬礼をなす。 よき風習というべし。

第 一六七、  仏英結婚手続きの相違

英〔国〕国教宗にては、 各寺の住職は戸長役場の役人に代わり、 結婚者の姓名を戸籍帳に登載するの権を有す。ゆえに、 その宗の者は戸長役場に結婚届を呈出するを要せず。 非匡教宗にては、 僧侶その権を有せざれども、 結婚の節は戸長役人その寺に臨みて結婚者の姓名を登記す。  ゆえに、 これまた役場に届け出ずるを要せず。 しかるにフランスにては、 結婚者必ず区役所もしくは戸長役場に至りて記名するを要す。 しかして後、 寺院に至りてその式を行うを例とす。 もし役場に至らざるときは、 その結婚は無効に属するなり。

第一六八、 結婚旅行の長短

西洋にては、 結婚のとき夫婦同伴して旅行するは上下一般の通俗なれば、 貧富の別なく必ず数日間旅行するを例とす。 ただし、 貧なるものは数日間の旅費を弁ずることあたわざれば、 あるいは一夜間の旅行、 あるいは一日間の旅行をなすものあり。 例えば、 朝より家を出でて同所の公園もしくは近村に遊び、 晩に至りて帰るものありとヽ ぷノ〇

第一六九、 妻の血統を問わず

西洋人は馬を買うには血統を正し、 妻を迎うるには血統を問わず、 日本人は妻を迎うるに血統を正し、 馬を買うに血統を問わずという。 妻と馬といずれが重要なるや。

 

第一七〇、 男女裸体の像

西洋人は裸体は野蛮の風なりとていたくこれを責め、 しかして絵画および彫刻に男女裸体の像多し。  これを見て怪しまざるはなんぞや。

第一七一、 言語の混同

西洋にありて日本人と対話するときは、 往々日本語と西洋語を混同して意味を聞き誤ることあり。 例えば、 英国にありて人と談話するの際、 なにがしはデューク〔〕なりというを聞き誤り、 余は、 かの人の年は三十歳くらいに見えたりと答うることあり。  これ、  デュー クは英国の爵名なるに、 日本語の十九と混同せるによる。 フランスにて、  この品はサンフランなりというを聞きて、  サンフランはあまり〔に〕安し、 五フランくらいのものなりと答うることあり。 しかるに、  サンフランはフランス語にて五フランのことなり。

 

第一七パリにはギメ氏〔パリ仏像博物館〕の仏教博物館と称して、 仏像および仏書を収集せる一館あり。 仏像の部にはインドの部、  シナの部、 日本の部の区域ありて、 日本の部のみにても絵像、 木像、 金像、 仏器、 仏壇等、 幾百種あるを知らず。 しかしてその仏像はたいてい宗派をもって区分し、 真言部、 真宗部等と次第せり。

第一七三、  スイスの宗教

スイスは新教の国にして、 その宗はカルバン宗なり。 しかして旧教の信徒また多し。第一七四、 カルパン宗の組織カル バン宗は会議組織より成り、 僧侶の平等同権を唱え、 本山を置かず教正を立てず、 諸事みな会議によりて決す。  ゆえにスコッ トランド宗と同組織を有す。

第一七五、  カルパン宗の主義カル バン宗は新教の一派にして、 旧教に抗抵して起こりたるものなれども、 ドイツに行わるるところの新教すなわちルター 宗とはやや異なるところありて、  これをルター 宗に比すれば、 その主義といい宗制といい、  一層厳なるものなり。


第一七六、  スペイン人の妄信

スペインの都城マドリー ドは、 その地位いたって高く、 欧米首府中最も天に近きものなり。  ゆえに、 その人民大いに喜びて曰く、 わが国都は最も天国に近きをもって、 特別に上帝の監護を受くべしと。  その妄信かくのごとし。

第一七七、  スペインの国会

スペインの貴族院には高僧および教正列席の権を有し、 下院には一寺の住職はもちろん、  いやしくも僧侶の列に加わるものは、  みな議員を選挙するの権を有すという。

第一七八、  スペインの事情

友人、  スペインに遊びたるもの曰く、  スペインの事情は左の一句にて尽くすことを得べし。 曰く、スペインは寺と乞食と歴史のみ

第一七九、 ポルトガルの僧侶

ポルトガルには僧坊、 尼坊今なお存すといえども、 堂宇はたいてい類敗して零落の状を呈し、 僧侶はその下等の地位にいたりては学識はなはだ乏しく、 生計大いに困し、 農夫、 役夫を去ること遠からずという。


 第七、イタリア紀行の部(付ギリシアおよびトルコ)

 

第一八、  イタリアの教区およぴ寺院

 イタリアはロー マ宗をもって国教と定め、 その国を分かちて三十七大教区、  二万四百六十五小教区となし、 寺院の数五万五千二百六十三棟、 僧侶の数七万六千五百六十人あり。

そのほか、 往時は僧坊一千五百六、 尼坊八百七十六、 坊僧二万八千九百九十一人、 尼一万四千百八十四人ありしも、 現今は大いにその数を減じたりという。

 

第一八、  法王参拝

 ロー  マはロー  マ宗大本山の地にして、 法王の住する所なり。 しかれども、 法王には通常の人、 容易に謁見することを得ず。 年中、 大祭日もしくは大祝日を除くのほか、 法王は礼拝堂に臨席することなし。 臨席の節も、 衆人容易に法王に接見することあたわず。 当日入場のものは特別の許可を得るを要し、 かつ礼服を着用せざるべからず。 しかして平日は法王深殿中に起居し、 絶えて市中に出ずることなし。  ゆえに、 大祭日にみずから礼壇に上りて供養をなすに当たりては、 満堂随喜の涙にむせび、 感泣の声四隣に聞こゆという。 あたかもわが真宗信徒の、その法主を拝するに異ならず。

 

第一八二、 法王の本山

大本山の名はサンピエトロ寺という世界第一の大堂なり。 その奥行き百十六間、 中央左右の長さ六十五間、 堂の絶頂の高さ二百十六間なり。 その建築の費用、 大計六千五百万円なりという。 当時、 法王この費用を支弁するに苦しみ、  金を納めて位階れりという。特許等を買い得るの方法を設けたるに、  その結果、 宗教改革の乱を引き起こすに至

 

第一八三、  法王の宮殿

法王の宮殿を バチカンという。 古来、 世界にある宮殿中最も大なるものなり。 その長さ五百七十八間、 その横〔福〕三百八十五間、 その殿内には大小室数を合わせて一万一千室ありという。 当時は法王その一小部分を占有し、 そのほかは政府にて博物館、 美術館等に用う。  この一事を見て、 法王の権勢の衰えたる一斑を知るべし。

第一八四、 ロー マの名刹旧所

ロー  マにはサンピエトロを除くほか、 有名なる寺院はなはだ多し。  その中には、 古来巡礼参拝の寺あり、 ヤソに因縁ある宝物を有せし寺あり、 ヤソを縛せる杭、 ヤソの鋸せし石などを保存せる寺あり。 あたかもわが国の古刹にて、 袈裟掛けの松、  手植えの梅、 何上人の袈裟・珠数等を保存せるに異ならず。

第一八五、 カタコム

ロー  マの市外に、 古代ヤソ教者を埋葬せし所あり。  これをカタコム〔 〕という。  その中にはローマ時代の高僧大徳の遺骨もあり、 罪人悪徒の遺骨もあれども、 今日にありてはその遺骨を弁別することあたわず。しかるに狡商輩ロー  マに至り、 その墓所より遺骨を拾い取り、  これに高僧大徳の名を与え、  これ何大師の追骨なり、  これ何上人の追骨なりと称し、 世のヤソ教信者より千金万金を取りてその品を売り渡すという。  ゆえに、 昔時大罪人の骨、 今日大聖者の骨となり、 朝夕礼拝供養を受くるもの必ず多かるべし。

第一八六、 ロー マ法王の歴代

ロー マ宗当代の法王はレオ十三世にして、  イタリア貴族の子なり。  一八一    年に生まれ、  一八七八年に法位につく。 法王の初代 彼  得〔ペテロ〕よりこの法王に至るまで、  二百六十三代を経るという。 すなわち、 当代は二百六十三代目の法王なり。

第一八七、 法王の参議

法王の下には、 法王の大臣参議もしくは顧問官とも称すべきもの数十名、 相会して議事を開く。 その人員一定せずといえども、 たいてい七十名をもって限りとす。  その名を 法  老〔および法王に選挙せらるるの権を有するものなり。

第一八八、 法王を選定する方法

〕という。 法老は法王を選挙し、法王を選定する法は、 数十名の法老相集まりて選定会を開く。  これをコンクレイプ〔 〕という。  そのときおのおの投票を取り、  その票面に選挙者の名すなわち自名と、 法王に当たるべき法老の名と両方相書し、  これを封鎖して神壇の上に置き、  おのおの誓式を行う。 その式終わりて投票を開披し、 票数その総数の三分の二以上を得たるものは法王に選定するの規則なり。 もし三分の二以上を得たるもの一人もなきときは、  さらに投票を行うを例とす。 法王すでに定まりたるときは、  ことごとくその投票を焼没するという。

 

第一八九、  法老の数

法老の定数七十名は、  法  老  教  正六人、  法  老  訓  導五十人、  法老 試 補十四人より成る。 しかれども、 当今は法老教正六人、 法老訓導四十二人、 法老試補十二人、 都合六十人なり。


第一九〇ヽ ロー マ宗の組織

ロー マ宗はその組織、 英〔国〕国教宗に異なることなし。 ただその異なるは、  一は法王これを総轄し、  一は国主これを総轄するの点にあり。 法王の下に、 あまたの教正および大教正あり。 各教正は地方中本山の長にして、 その教区内の末寺僧侶を監督す。 大教正は地方大本山の長にして、 大教区内を監督す。  この大中両本山を総轄するものは法王なり。  ゆえに、 法王の本山は総本山なり。  また、 各教正の配下すなわち中教区に中教区会議あり、 その区内の僧侶これに出席す。  その上に大教区会議あり、 大教区内の教正これに出席す。  その上に総本山の会議あり、 各教正および大教正ことごとくこれに出席す。


第一九一、 ロー マ宗の賞罰法

ロー マ宗にて僧侶賞罰の権は、 その地方の教正これを有す。 教正の賞罰に服せざるものは、 法王に直訴することを得るなり。


第一九二、 ロー マ宗の集金

ロー マ宗にては近代、 本山より各末寺に税を課して金を募ることなし。 しかして、 各末寺より信徒の喜捨金を集め、  これを法王の下に献納することありという。


第一九三、 ロー マ市中の僧侶

ロー  マにて街上散歩の際、 往来の僧侶を算せしに、 前の一時間に四十三人を見、 後の一時間に七十二人を見たり。 僧侶の多き、 推して知るべし。


第一九四、 信徒の挙動

イタリアの寺院にては、 参詣の信徒代わる代わる進みて、 僧の手を口吻するの風習あり。  また、 堂内に安置せる神像を、 衆人争って口吻す。 あたかもわが国の風習、 賓頭慮〔びんずる〕尊者の像を、 手をもって撫捺するに異ならず。  サンピエトロの堂内に、  彼  得〔ペテロ〕法王の偶像あり。 人争い、 ひざまずきてこれを口吻す。 また、堂内の灯明の油に手を浸して、  おのおのその額に塗るの風習あり。


第一九五、 常夜灯

ロー マ宗の本山サンピエトロの堂内には数個の常夜灯あり。 白昼なお火をともし、 昼夜滅することなし。第一九六、 食事の礼式およぴ精進ロー マ宗の信者は食事の席につくとき、 胸に十字をえがきてのち座するを礼とす。 席を退くときも、 またしかり。  かつその宗に熱心なるものは、 毎金曜日に精進潔斎すという。  金曜日はヤソ死刑に処せられたる日なればな


第一九七、 僧侶の兵役

政教子、  ロー マに在りて一人の僧に面し、 僧侶兵役のことを問う。 僧曰く、  この国の僧侶は二年間兵役に従事するを要すという。

 

第一九八、 寺院の所有地

イタリア政府にては、 近年ようやく寺院所有の土地を買い上げ、 政府の所有となすという。第一九九、  イタリアにヤソ教衰えたる原因

イタリアは近年宗教の勢力非常に衰え、 政府はますますその勢いを減殺せんことをつとむ。  ひとりロー マの寺院には参詣の客続々たえざるがごときも、 これ多くは外国人のこの府中に滞留せるものなりという。  けだし、 宗教のかくのごとく衰類せる原因は他なし。  ロー マは宗教の大首府にして、 諸国より高僧大徳の来たり集まる所なり。 しかるにその高僧、 必ずしもみな品行端正なるにあらず、 往々醜聞の外に漏るるあり。  この地に住するものよくその内情を知り、 自然の勢い僧侶を尊敬せざるに至り、 したがって宗教の勢力を減ずるに至れりという。 果たしてまことか。

第二 、 欧州の乞食

欧州いたるところ乞食あらざるはなし。 フランスおよびイタリアにては、 寺院の門前に必ず乞食ありて愛を請う。 そのうち、 廃疾、 不具の者最も多し。 不具にして乞食に巧みなるものは、 毎日平均、 仏貨十フラン    わが金二円五十銭)くらいの所得あり。  ゆえに、 不具ならざるものも、  ことさらに不具を偽造して乞食となるという。

第二 、 ギリシア宗の組織

ギリシアの宗教はロー マ宗とその組織を異にしたる一種のヤソ教にして、  これを世にギリシア宗という。  その一宗の主権は、 アテネ府なる宗教会議これを有す。  その会議は五人の僧侶と二人の俗徒より成る。

第二    二、 ギリシア宗の制規

従来ギリシアは三十二教区に分かち、 各区に一人の教正ありてこれを管轄す。 しかしてその住するところの寺一国の首府にあるときは、 これを大教正と称す。  およそこの宗の制規として、 普通の僧侶は妻帯することを得るも、 教正の位にあるものは妻帯することを許さず。  ゆえに、 もし僧侶上進して教正となるときは、 その妻子をすてざるをえず。 しかしてその妻は、 たいてい尼寺に入りて比丘尼となるという。

第二    三、 ギリシアの僧侶

ギリシアの内地いたるところ、 必ず郷寺もしくは村寺とも称すべきものあり。 わが国の郷社、 村社のごとし。その各寺には必ず住僧ありて、 他邦人その村を通過するときは、 その僧これを接待するの風習なり。  すなわち外人を接待するは、 寺僧の職務の一部分となれるなり。  しかしてその僧は、 学識といい職業といい、  一般の村民に異なることなし。 ただその異なるは外貌上、 黒帽をいただき黒衣を着し、 長髪長髯これのみ。 しかして寺務の余間には、 僧はその妻とともに、 ほかの村民のごとく農業をとるを常とす。 なんとなれば、 村落の住僧は寺務の所得のみにては、 糊口をみたすことあたわざればなり。 その生計かくのごとく窮するをもって、  学問を修めんと欲するも、 その志を果たすことあたわず、 ただ神前にありて経文を誦することを知るのみ。 ゆえにその学識の度、かえって俗人の下にありという。

政教子ここにおいて曰く、 僧侶の貧かつ愚なるは、  ひとり東洋の諸邦に限るにあらず、 仏教の諸宗に限るにあらず。 ギリシアのごときは欧州中の一国にして、 その宗旨はヤソ教の一派なるも、 僧侶の愚かつ貧なること、   くのごとし。  これによりてこれをみるに、 僧侶はその国人の学識・貧富の一斑を示すものにして、 僧侶の貧かつ愚なるは、 その国民の知識資産の程度一般に低きにより、 僧侶の富かつ学識あるは、 その国民の程度もまた高きによる。 国民一般に資産に富めば僧侶もまた富み、 国民一般に学識に長ずれば僧侶もまた長じ、 僧侶ひとり貧なるあたわず、 僧侶ひとり愚なるあたわず。 ああ、 僧侶は一国人民の貧富、 翌愚の程度を代表するものなり。

第二    四、 ギリシアの僧坊

ギリシアにはおよそ百五十前後の僧坊ありて所々に散在す。  その坊内にはあまたの僧侶ありて眠食す。 外人の来たりて泊宿を請うものは、 たれびとにてもこれを許す。 あたかも客舎のごとし。  ただその客舎と異なるは、 日没後、 門の出入を禁ずるのみ。 もし僧徒にしてその坊に入らんと欲するものは、 まずその有するところの金銭諸品を出だすべし。 しかるときは、  これに相当せる年月の間、 その社中に加わりて眠食することを得るなり。 その寄留の間は一切、 長老の指揮に従わざるを得ず。 長老は坊長として選挙せるものなり。

第二    五、 ギリシアの礼拝堂

およそ欧州中、 礼拝所の多き、 ギリシアよりはなはだしきはなし。 ギリシアにてはひとたび寺院を設立せる地は、 その寺院すでに破壊せるも、 永くその跡を存し、 十字架と灯明台を置きて礼拝堂となすなり。 なんとなれば、 ギリシア人は寺院を設立せる跡は永く神聖の地にして、  これを開墾するは天帝に対し大不敬なりと信ずるによる。

第二    六、 ギリシアの寺院

ギリシアの寺院は二、 三の大寺巨刹を除くのほかは、 たいてい木造の柱壁より成る。  その内部の礼壇上には十字架と経台あり、 礼拝のときは無数のろうそくをその前にともす。 壁上には種々彩色せる画像あれども、 木像、石像等なし。 なんとなれば、 ギリシア宗は彫刻に属する偶像を、 寺内に安置することを禁ずればなり。

第二    七、  トルコの政府

トルコはイスラム教国にして、 帝王はイスラム教の法王なり、 その政府はイスラム教の政府なり。「コー ラン神典    はその国の法律書なり。  その官に在るものは神典を暗記するを要し、 その宗の僧侶は世襲なりという。

第二    八、  イスラム教の霊地

アラビアのメッカは教祖マホメッ トの霊地なればとて、 毎年四方よりその地に参詣するもの、 万をもって数ぶノ       一八八七年中、 陸より詣するもの二万八千二百五十一人、 海より詣するもの六万八千六百八十九人ありしと



第八、オー  ストリア紀行の部(付ロシア)

 第二 〇 九、 オー  ストリアの公認教

オー  ストリアの帝室はロー マ宗を奉じ、 全国人民十中九分はまたロー  マ宗を奉じ、 その宗を国教と称すれども、 その実公認教なり。  当時、  ロー マ宗とルター 宗とユダヤ宗は、 政府これを認定して公認教とす。 ギリシア宗もまたその国の公認教なり。 けだし、  この国の法律によるに人民の信教は自由なれども、 公然会堂を建てて説教を開くべきものは公認教に限るという。

 

第ニ〇一、 寺院の保存金

欧州各国、 たいてい政府にて寺院保存金を監督し、 廃寺保存の用に備うる方法を設く。 英国はもちろん、 フランス゜、  プロイセンにもこの方法を設くという。  オー  ストリアにもこの法ありて、 教部省その資金を監督すという。



第ニ〇、 オー  ストリアの憲法

オー ストリアの憲法上には州会と国会との二部あり。  国会は上下両院より成り、  上院には大教正十人、 教正七人出席するの制規なり。 州会にはロー マ宗の大教正および教正、 そのほかギリシア宗教正もその議席に列することを得るなり。

第二〇二、 僧侶の服制

ロー  マ宗、 ギリシア宗の僧侶および国教宗の僧侶は一種の服制ありて、 五条袈裟、  七条〔袈裟〕、 輪袈裟、 白衣、  黒衣等、 大いにわが仏教宗にて今日用うるところのものに似たり。 外出のときも一定の服制ありて、 その帽も他人に異なり、  一目して僧と俗とを区別することを得べし。 しかれども、 その他の新教諸宗は服制平常の人に大差なければ、 僧と俗とを区別することはなはだ難し。

第ニ〇三、 道祖神

オー ストリアはロー マ宗の国なれば、 路傍に往々十字架上のヤソ像あり、 その下に神灯ありて、  その前を通過するもの一拝して去り、 あたかもわが国の路傍にある地蔵尊、 道祖神のごとし。

 


第ニ〇四、 ウィー ンの庵室

ウィー ンよりダニュー  プ〔ドナウ〕河に至るの道、 八畳敷きくらいの一小屋あり。 その内にマリアの像を安置し、 その両側に十二徒弟の像を排列せり。  わが国の庵室に仏像を安置せるに異ならず。 しかしてその室内には参詣のもの群集し、  おのおの一心に請願祈念するの状あり。 来たりてその室に入るもの、  みなろうそくを献じて拝礼を行う。 そのとき点灯の数をかぞえしに九十二丁ありし。 政教子曰く、 愚民の宗教を念ずるその形、 東西異なることなし。  ウィー ンの大都会にして、 なおわが国の村落僻邑に存するものと同一の風習あるを見る。 世の論者ヤソ教と仏教とを較し、  一は開明の儀式を用い一は野蛮の風習を存すというも、 余はいずれが野蛮いずれが開明なるやを判定するに、 はなはだ苦しむ。 けだし、 儀式、 風習の野蛮なると野蛮ならざるとは、 人の方にありて教の方にあらざるべし。


第ニ〇五、  オー  ストリアの寺院、 僧侶

オー ストリアのロー マ宗には左の寺院、 僧侶あり。

 大教正    七人 教正神学校    四十六 教員二十二人 二百三十人

 僧長    二人

生徒    二千七十八人

 僧坊 四百六十 坊僧    六千八百九十六人

尼坊 四百二十九 千七百二十七人

寺僧 一万五千二十六人

そのほかハンガリー  には、 大教正一人、 僧長一人、 教正十六人、 坊僧一千九百四十七人、 尼一千九百七十五人あり。

第ニ〇六、 マリアの像

ロー  マ宗に祭るところのマリアの女像は、 わが国観音を拝するに異ならず。

第ニ〇七、 ロシアの諸宗

ロシアの人口は、  その諸領地内にあるものを合算して一億二百六十八万四千五百十四人なり。 しかして、 その百分の六十五はロシア国教宗、 その十一は非国教宗、 その八はロー マ宗、 その六はイスラム教、 その四半は新教諸派、  その四はユダヤ宗、  その一はアルメニア宗、 その他は外教なりという。

第ニ〇八、 ロシアのギリシア宗

ロシアの宗教は、 名はギリシア宗と称すといえども、 その実大いに異なり。 ただ、 そのギリシア宗と称するゆえんは、  ロー  マ法王の管轄を受けざることと、 宗教会議を置きて一宗の政府を組織することと、 彫刻に属する偶像を用いざること等の数条、  二者相同じきによる。 しかして、 ロシアの宗教はロシア皇帝をいただき、  これをして一宗総轄の権をとらしむ。 なお、 英国の国教宗にてその国主を奉戴するがごとし。  これをロシア国教宗と称す。  この国教宗に反対して、 宗教の独立を唱うるものあり。 なお、 英国の非国教宗のごとし。  これをロシア非国教宗と称す。  この国教、 非国教二宗ともにギリシア宗の名称を用う。 そのほかロー  マ宗、  ユダヤ宗等の数宗あり。


第ニ〇九、 国教宗寺院

ロシア国教宗の寺院は、  みな美麗をもって名あり。 堂の内外に金銀宝石の装飾あるは、 ただ目を駕かすのみ。すでにセン・アイサー ク巨刹〔イサク聖堂〕のごときは、 その建築費三百二十五万ポンド、 すなわちわが金二千百万円を要せりという。


第二二  、 国教宗礼拝

ロシア国教宗の寺院の礼拝式は、  たいてい毎日午前六時より八時、 十時より十二時、 午後四時より六時までを定めとす。  土曜と日曜は少々時間の相違あり。 礼拝中、 唱歌その主なる部分なり。 唱歌終わるとき、 ロシア皇帝陛下および皇族のために祈請することあり。 そのとき、  一同やや屈身して敬礼をなす。


第二ニ 礼拝の儀式

信者が寺院に入るときには、 まずその入り口に売り出だせるろうそくを買い、 これをその手にとりて徐々として堂内に進み、 神前に近づくに及び一方の足を折りてひざまずき、 首を垂れて胸に十字をえがき、 もって敬礼の状を呈し、 のち進みて神前に至るときに、 その持ちたるろうそくに火をともしてこれを燭台の上に置き、 屈身脆座して一、  二言の祈請の語を誦す。 祈請終わりて退く。  その退くも、 礼壇に向かいながら足を背部に進むるを礼とす。 しばらく去りて足を地に屈し、 十字を胸にえがき、 敬礼して堂を出ず。  これ普通拝礼の状なり。


第二二二、 国教宗とロー マ宗

ロシア国教宗のロー マ宗と異なる第一点は    ロー マ法王を奉戴せざること、 第二点は洗礼のときに全身を水に浸すことの必要を唱うること、 第三は僧侶に結婚を許すこと、 第四は器械的の音楽を許さざること、 第五は絵像を許すも木像、 金像等を許さざること、 そのほか宗義教理上に二、 三点の異同あり。

 

第 二二三、  ロシア宗の断食

ロシア国教宗にては、 年中四期の大断食あり、 そのほか毎週の断食あり。 水曜日と金曜日これなり。 これを断食と称するも、 決して絶食するの謂にあらず、 ただ生肉を食せざるのみ。  なお、 わが国の精進潔斎というがごとし。

第ニ 二四、  ロシア宗の祭日

ロシアには寺院の祭日はなはだ多く、 各地の本山へ巡礼巡拝するの風、 また大いに行わる。 布施、 奉加、 献納金等のこと、  みなわが国の風習に異なることなし。 日曜には寺時の間(すなわち寺院にて礼拝式ある間)は市中

の商府を゜閉ずれども、  その時間後は諸商店たいてい相開き、 芝居、 見せ物等自在なり。 人を訪問するも自在なりと、 いう。


第二二五、  ロシア宗わが国に入るの不利

ロシア国教宗は帝王その管長にして、 僧侶の拝命訓令はすべて帝王より出ずるなり。 その寺院にて礼拝の節は、 必ず厳粛鄭重にロシア皇帝およびその帝室のために、 天帝に対して祈請するなり。  ゆえに、  ひとたびその宗門に入るものはロシア皇帝を奉戴するものなり、  ロシア皇帝の配下に入るものなり。 しかるに、  ロシア国教ひとたびわが国に入りて以来、  わが愚民ようやくその門に入り、 信者の数、 日に月に加わり、 現今幾万人あるを知らずといえども、 余が聞くところによるに、 その信徒は北海道および奥羽地方に最も多しという。  北海道はロシアの国境に接するの地にあらずや。  その人民、 もしことごとくロシア国教宗を固信し、  ロシア皇帝を奉戴するときは、  わが国の不利、 けだしこれより大なるはなし。 しかして、 その地方に住する人民の多数は無知の愚民にして、  ロシアのなんたるを知らず、  ロシアと日本はいかなる関係を有するやを知らざるものなれば、  これを誘引してかの宗門に入るるは、 また決して難きことにあらざるべし。  ことにわが国信教の自由を公達せし今日に当たりては、 その宗門の旧に倍して民間に流布するに至るは自然の勢いなり。 余輩、 あにこれより生ずるところの将来の結果を憂慮せざるべけんや。


第二二六、 ロシアの大教院

ロシアの政府中には大教院ありて、 全国の宗教に関する事件を議決するなり。 その議事に参与するものは大教正、 教正等なり。  ここに゜て決したる議事は、 必ず帝王の認可を得るを要す。 その会を神会(ホリー  ・シノド〔 〕    ) し一八八九年度の調査表にかかるに、 神会の一年間の経費一千百十七万四千六百五十九円なり。  その会にて有するところの資本、 別に三千二百万円以上ありという。  一八八六年の表によるに、 その会にて一年間費やせる金額中、 帝室より支弁したるもの一千三百二十六万七千四百二十一円、 信徒の寄付より支弁せるもの一千三百二十三万八千百八十四円、 神会の資本より支出せるもの六百二十三万六千九百四十四円、 都合総計三千二百七十四万二千五百四十九円なり。 右は寺院の保存、 僧侶の俸給、 そのほか布教、 伝道等の経費に充てしものなり。


第二二七、 ロシア宗会堂の他邦にあるもの

政教子、 欧州を巡回してロシア宗寺院の各国にあるものを見るに、 英国にはロンドン市中に一寺あり、 フランスにはパリ市中に一寺あり、  オー ストリアにはウィー ン市中に一寺あり。  これみな小会堂にして、  ロシア人のかの地にあるものの詣する所なるのみ。  つぎに、 ドイツのベルリンに至りロシアの寺院をたずぬるに、 市中にその堂宇なし。  ただロシア公使館中の一室に会堂ありて、 毎日曜、 同国人ここに至りて礼拝を行うという。  ゆえに、余はついにその会堂を見ることあたわざりし。 しかるに、 わが東京にあるロシア宗の会堂は、 その大きさ欧州各国にあるものに幾倍せるを知らず。 しかして毎日曜この会堂に至るもの、 決してひとりロシア人にあらずわが国の人民なり。 その神学校にありて教授を受くるものは、 決してロシアの生徒にあらずわが国の生徒なり。 かつその会堂は、 ヤソ会堂のわが国にあるもののうち最も大なるものなり。  これ、 余が欧米を巡見して、 大いにこの点に感覚を起こしたるゆえんなり。


第九、  ドイツ紀行の部(付スウェー  デン、デンマー  ク、オランダ、ベルギー  )

第ニ二八、  西洋の女権

西洋に女権の盛んなるは米国を第一とし、 英国これに次ぎ、 フランスこれに次ぎ、 ドイツその次なり。第二二九、  西洋人の品行

西洋の上等社会および下等社会は品行正しからず、 中等社会最も正しという。

 

第二三〇、 フランス、  ドイツの画

 

フランスの戦争の画は敗北の図多く、 ドイツの戦争の画は勝利の図多し。第二=二、 ルター  宗の礼壇

ドイツにはルター 宗徒最も多し。 その宗は英〔国〕国教宗のごとく堂内に礼壇を設け、 その上に十字架上のヤソ像を安置す。 その上に燭台、 経台あり、 そのほか別に説教座あり。第二三二、 ルター  宗の礼拝

ルター 宗の日曜礼拝の時間は、  およそ一時間十五分ないし三十分なり。  そのうち三十分ないし四十五分は説教なり。  ベルリンの寺院にては毎日曜参詣せる人を見るに、 三分の二以上は女、 三分の一以下は男なり。 その年齢は十二、 三歳以下の子供か、 または四十以上の男女を多しとす。

第ニ〇三、 皇族の葬式

政教子、  一日ベルリンにあり皇族の葬式あるに会す。 楽隊および兵隊その列に加わる。 幡持ち数車、 花持ち数行あり。 棺車の馬は黒衣をもって全体にかぶらしめたり。  わが国の葬式に、 別にかわりたることなし。

第二三四、  ペルリンの墓

ベルリンの墓所は日本の墓所の風とはなはだ相近し。  墓碑は極めて粗略なるものにして、 その富めるものは広く地面を取り、 周囲に鉄柵をめぐらし、 貧しきものは少々地を高め、 その上に墓標を建て芝を植うる等、  みなわが東京青山もしくは谷中の墓地に異ならず。

第二三五、 ヤソ処刑の日

政教子ベルリンにありて、 ヤソ死刑に処せられたる日にあう。  この日を英語にてグッド・フライデー〔〕という金曜日なり。 当日、 ルター 宗の各寺は朝十時より大法会あり、 いたって鄭重なる礼拝および奏楽を行う。 しかれども、 堂内の装飾は平常に異なるを覚えず。  ただその平常に異なるは、 礼壇を覆うに黒色の吊布を用うるのみ。  ロー マ宗の寺院はこれに反し、 堂内別にヤソ処刑の礼埴を設け、 その前に十字架上のヤソ像を仰臥せしめ、 参詣のものをして代わり代わりひざまずき進みて、 その像の手足胸腹を口吻せしむ。第二三六、 ヤソ昇天の日ヤソ昇天の日、  これをイー スター〔〕という。  この日はヤソ教国の大祝日の一つにして、  一年中ヤソ降誕の日を第一の大祝日とし、 昇天の日を第二の大祝日とす。 当日は鶏卵を人に贈るの風習あり。 市中の店には鶏卵をかたどりたる菓子、  パン等を売り、 進物の用に備う。  これけだし、 ヤソ蘇生を表する意ならん。

第二三七、 昇天日の供養会

当日、 寺院には早朝よりパンとブドウ酒の供養あり。 信者争って寺にまいり、 その供養の分配を待つ。 あたかもわが神道にて、 神前に供えたる餅もしくは酒を、 参詣のものに配与するに異ならず。  ロー  マ宗にては、 堂内ことさらに礼壇を設け、 ヤソ天に現出し光明を四方に放ちたる像を安置し、 参詣のものをしてその前に脆座合掌せしむ。

第二三八、 ヤソ処刑および昇天日の景況

ヤソ処刑の日は、  ベルリンの市中一般に閉店し、 演戯もその興行を休止す。 昇天の日も休日なれども、 午後には演戯の興行ありし。

第二三九、 コンフォ メー  ションの式

ドイツの風習にて、 女子成年に達し成年服を着くるときは、 必ずまず寺院に至りて、 コンフォ メー  ション〔 〕の式を受くるを要すという。

 

第二四〇、 ユダヤ教の儀式

 

英国その他欧州各国にて、ユダヤ教の会堂はたいていみな美麗にして壮観なり。 その儀式のヤソ教に異なるは、 第一に、「旧約全書」のみを用いて「新約全書    を用いざると、 第二に、 経文および唱歌みなヘプライ語を用うると、 第三に、  土曜日をもって安息日と定め、 金曜日の晩と土曜日の朝とに礼拝式を行うと、 第四に、 堂内に入るものは帽子を脱することを禁ずると、 第五に、 男女その席を異にする等なり。


第二四一、 ヤソ教今日の実況

欧州今日のヤソ教は、  つらつらその実況を観察するに、 到底、 進んで当時の学術と論壇に理鋒を争うことあたわざるを知り、  退いて道徳の孤城を守り、 落日残灯の下に往時の隆盛を追懐してやまざるがごとし。 ドイツ、  イギリス、 アメリカ三国はヤソ新教の国なるも、 近来旧教すなわちロー マ宗の旧儘再び火勢を生ずるに至り、 ヤソ教の進路すでに極まりて旧途に復するの状あり。  これによりて将来を卜するに、 第二十世紀のヤソ教はくだりて貧かつ愚なる下等社会の宗教となりて、  上等社会は別に学術上組成せる一種の新宗教を講究するに至るべしという゜



第二四二、  説教者と学者

わが国にて説教に巧みなるものは学識なく、 学識に長ずるものは説教にっ たなし。 西洋もまたしかり。 説教者に学者少なく、 学者に説教者少なし。 毎日曜の寺院の説教のごときは極めて浅薄なるものにして、 その喋々として我人の罪業の深きゆえん、  上帝の大悲の浅からざるゆえんを述ぶるは、 篭もわが国の説教者の講席に上りて説くところと異なることなし。

 

第二四三、  東洋学流行の一斑

ドイツのライプチヒに、 当時欧米各国の語にて発行せる東洋文学書類の名目を集めたる小冊子あり。 今、 西洋にて東洋学研究の流行せる景況の一斑を示さんため、  その冊子中より右に関する書類の部数を挙ぐること、 左表のごとし。

 

第二四四、 西洋発行の仏書

西洋人の評論、 著作にかかる仏教書類六十二部のうち、英国ロンドンの発行にかかるもの英国オックスフォー ドの発行にかかるもの

 二十九部

二部

 イギリス領インドの発行にかかるもの 五部

米国ニュー ヨー クの発行にかかるもの 一部

フランス・ パリの発行にかかるもの 八部

オランダの発行にかかるもの 一部

スイスの発行にかかるもの 二部

ロシアの発行にかかるもの 二部

ドイツ・ ベルリンの発行にかかるもの 一部

ドイツ・ライプチヒの発行にかかるもの 一部

ドイツ・ドレスデンの発行にかかるもの 一部

そのほかドイツ地方の発行にかかるもの 二部

なり。 そのほか各国にて他国発行の仏典をその国語に訳したるものあれども、 右の表中にはこれを除く。  これまた、 仏教研究の欧米各国に流行する一斑を知るに足る。

 

第二四五、 東洋学校

西洋諸国にて東洋学を研究するに至りしは、  この第十九世紀のことにして、 諸国に東洋学校の設立あるに至りしは極めて近年のことなり。 ドイツフランス、 オー ストリアはおのおの東洋学校を設立し、 ドイツ、 フランス両国の東洋学校には日本学の部あり、 英国の大学中にはサンスクリットおよびシナ学の教授あり。  サンスクリットおよびシナ学は、  イタリアおよびロシアにても講究するなり。 西洋にて東洋学を研究することかくのごとく盛んなるに、 日本人は自国の諸学を捨ててひとり西洋学を用うるは、 はなはだ怪しまざるべからず。

第二四六、 大学内の神学部

西洋の大学内には、 たいてい神学部あらざるはなし。 英国の大学は論をまたず、  ベルリン大学にも神学部をもってその第一部とす。  これ、 なにによりてしかるや。  けだし、 これを置くの意、 ヤソ教のほか学問上講ずべし宗教なきをもってか。 曰くいな。 その意、 ヤソ教はその国の宗教にして、 これを研究するはその国のために必要なるによるのみ。 果たしてしからば、 わが国にありても、 わが従来の宗教を大学およびその他の専門校において講究するは必要のことなり。

第二四七、 寺院学校

寺院にはその住職の発起にて、 日曜学校あるいは夜学校、 夏季学校、 冬季学校等を設置し、 貧民の子弟を教育することあり。

第二四八、  宗教小学

ドイツ連邦中、  バイエルン国は全国をロー マ宗教区および新教派教区に分かち、 各小教区に小学を設立するな一八八六年には国内にロー マ宗小学五千四十ニカ所、 新教派小学一千八百八十三カ所ありしという。


第二四九、 プロイセン政府の保護金

プロイセンは政府中に教文部省ありて、 宗旨の事件を管理す。 その省にて毎年費やせる金、  一八八九年の調査簿によるに、  七千十八万四千九百九十ニマルク(わが金二千三百万円)、 そのうち新教宗に費やせるもの三百九十二万八千八百八十三マルク、  ロー マ宗百二十九万七千三百六マルクなり。


第二五〇、 高僧の年給

プロイセンのロー マ宗の高僧は、 政府より毎年若干の俸給を賦与す。  その教正の位最も高きもの年給 二万四千マルク(わが一万一千円)、 そのほかの教正は各二万二千七百マルク(わが七千円)を領得するなり。


第二五一、 国会上院の出席

プロイセン国会上院には、 新教宗の本山管長ともいうべき人、 数名列席するなり。第二五二、  ケルン寺ケルンにある寺院は世界第一の高塔を有す(ただしパリの塔を除く)。 その高さ五十丈以上なりという。  若干の礼金を出だすものは、  その寺内に保存せる宝物を参観することを得べし。


第二五三、 神通術

政教子、  ベルリンにて神通術に長ずるものあるを聞き、  一夕これを聘して突然実験せんことを約す。 しかして、  ついに果たさず。 けだし、 未然のことを前言し、 千里のほかを洞視するがごとき怪術は、 古代蒙昧の世に限り行わるべきものにして、 文明社会に存すべき理なしというといえども、 欧米人民中、 今日なおかくのごとき術を信ずるものはなはだ多きは、 欧米諸国にも愚民の多き故なるか、 はた、 ほかに理由あるや。第二五四、 西洋婦人の髪眼前を見る目は眼内を見るあたわず、 灯外を照らす灯は灯下を照らすあたわず。 果たしてしかり。  かの西洋人はシナ人の牛尾髪を垂るるを見て、 大いにこれを笑う。 しかして西洋の婦人は、 やはり牛尾髪を結びあるいは垂るるも、 自らその笑うべきを知らず。


第二五五、  地獄の図

ベルリン博物館中に地獄の図五幅あり、 みなヤソ教の地獄図なり。 その図、 篭も本邦に伝わるところのものと異ならず。  その想像東西符合せるは、 はなはだ怪しむべし。


第二五六、  ペルリン博物館内の仏像

ベルリンの人種博物館中にも、  インドの仏像、  シナの仏像、 日本の仏像等の部あり。 日本仏像の部には絵像四種、 木像金像とも三十四種、 都合三十八種あり。  そのほか日本神道の諸像諸具をも収集せり。


第二五七、 新教の改革と真宗の改革

ヤソ新教の改良は、 わが国の真宗の改良とは同点に帰するところ多し。  ゆえに、 西洋人は真宗を評して東洋の新教というなり。

第一点、 新教にては各国の国語に訳したる「 バイプル    を用い、 人をしてその意を解しやすからしむ。 真宗にても通俗文のものを用い、 愚俗をしてたやすく宗意を解せしむること。第二点、 新教も真宗も、 ともに僧侶の妻帯を許すこと。

第三点、 新教も真宗も、 堂内の装飾および儀式等、 簡略を主とすること。

第四点、 新教も真宗も、 祭日、 祝日、 そのほか礼拝の節、 もっぱら説教をつとむること。第五点、 両宗ともに世間俗門宗にして、 僧俗関係親近なること。


第二五八、 ドイツ諸宗の信者

ドイツ中の新教信者は、  これをその人口に比例するときは、 総人口の百分の六十四、 旧教信者は百分の三十四、 ユダヤ教徒は百分の一、  二なり。 連邦中、  プロイセンの新教者は総人口の百分の六十四、 旧教信者は百分の三十四なり。

第二五九、  スウェー  デン、  デンマー  ク両国の国教

スウェーデンおよびデンマー  クはルター 宗をもって国教となし、 スウェー デンにては十二人の教正あり、 デンマー  クにては七人の教正ありて、 宗務を分轄するなり。

第二六  、  スウェー  デン、  デンマー  ク両国内のモルモン宗

スウェー  デン、  デンマー クの間には、 かのヤソ教中の多妻宗すなわちモルモン宗の信徒あるを見る。  一八八〇年の統計表によるに、  スウェー  デンに一千七百二十二人のモルモン信徒あり、 デンマー  クに四百十四人の同信徒ありという。

第二六一、  オランダ政府の保護金

オランダにても政府より宗旨保護のため、 毎年巨額の金を各宗に分与す。  一八八九年の表によるに、 新教宗に十一万五千六百五十ニポンド(英貨)、 ロー マ宗に四万八千二十四ポンド、 ユダヤ教に一千五十五ポンドを下付せりという。 合計十六万四千七百四十一ポンドすなわち、  およそわが百十万円なり。第二六二、 宗旨政党

ベルギー はロー マ宗固結の国にして、 宗旨をもって政党を団結し、 当時の政府は宗旨政党の組織するところとなれりという。

第二六三、  ペルギー  政府の保護金

ベルギー 政府よりその国内各宗に年々賦与せる金額は、  一八八八年の調査によるに、ロー マ宗に    四百七十九万二千四百フラン    すなわちわが百二十万円)

新教派に 八万五千二百六十六フラン(わが二万千三百円)ユダヤ教に    一万六千二百九十ニフラン(わが四千円)

そのほか宗教上の事件に費やせる費用、 五万六千フラン(わが一万四千円)なりという。

 

第一   、 インド洋帰行の部


第二六四、 文明の進歩、 東より西に移る

政教子曰く、 古来文化の進歩、 東より西に移るの傾向あり。  インドおよびシナは世界中文化最もさきに開け、アジア西部の諸国また欧州にさきだちて隆んなりし。 その文運、 次第に西に移りて欧州に入り、 ギリシアおよびロー  マの文化の源泉を開き、 ギリシアおよびロー マの末流くだりて、 欧州各国今日の文運を興起するに至れり。

欧州各国中、 大陸まず開け    つぎに英国に移り、 英国ついで起こり現今の隆勢を見るに至る。 今後、 英国に続きて文化をもって世界に鳴るものは、 けだしアメリカ合衆国ならん。 その進歩、 みな東より西に移るの規則に従うものなり。 もししからば、 将来アメリカに続きて世界に鳴るものは、 東方アジアならざるべからず。  すなわち日本その地なり。 日本に続きて起こるものはシナおよびインドならん。 文化の進歩、 ここに至りて地球を一周するなり。


第二六五、 流行品の交換

政教子曰く、 当時日本の物品大いに西洋に流行し、 室内の装飾に日本の美術品を用いざるもの、 はなはだ少なし。  これに反し、 日本の室内には西洋の美術品を用いざるもの、  またほとんどなし。  これ、 すなわち流行品の交換なり。 流行品の交換ひとり美術品に限らず、 学問、 宗教また大いにその傾向あり。 日本には近時、 喋々としてヤソ教を説くものあり。  しかるに、 西洋には続々ャ ソ教を攻撃する論者起こり、 大いにその勢力を減殺するに至れり。  しかしてその結果、 仏教を主唱するもの次第に加わるに至る。  ゆえに余おもえらく、 将来東西の間に、 物品の交換とともに宗教の交換あるべし。

第二六六、 欧州各国の教部省

フランスおよびイタリアは、 政府中に司法兼教部省なるものありて、 宗教および司法のことを管理す。  プロイセン、 デンマー ク、  スウェー デンおよびオー ストリアは教部兼文部省なるものありて、 宗教および教育のことを管理す。 しかして、 省務の三分の二は宗教の件なりという。

第二六七、 僧侶の兵役

米国および英国は、 人民の志願に応じて兵役に就かしむるの規則なるをもって、 僧侶は兵役に従事するを要せず。 フランス、  イタリア、  オー  ストリア、 ドイツは、 国民ことごとく兵役に従事するの規則なるをもって、 僧侶といえども兵役中に加わるを免れず。

第二六八、 僧侶被選権

フランス、  オー  ストリア、 ドイツ等の僧侶は、  みな一般の人民同様に国会議員となるの資格を有するなり。 米国またしかり(英国のことは前に出ず。  ゆえにこれを略す)。  ひとりイタリアは、 僧侶に被選権を与えざるの制限を置けり。

第二六九、 英国と大陸と日曜の相違

フランス、 ドイツ、  イタリア等は毎日曜、 市中の諸店たいてい相開き、 演戯、 見せ物等はその興行を休まず、平日よりは一層にぎわしきありさまなり。 寺院に詣するものは、 老人輩か下等の人民に過ぎず。  そのありさま、憂もわが国の日曜に異ならず。  しかして英国、 米国の日曜は、 諸店ことごとく閉じ、 興行ことごとく休み、 市中寂々として、 ただ寺に詣する人を見るのみ。

 

第二七〇、  世にまことの毒物なし

 

政教子、 船中にありて船客と談話の際、 客曰く、 ヤソ教者、 天帝の意ありて万物を創造せるゆえんを証する語中に、 世にまことの毒物なし、 その一般に認めて毒物とするものにして、 治療上薬物として用うるものはなはだ多し云々の言あり。 政教子これを聞きて曰く、 世にまことの毒物なしと同時に、 世にまことの薬物なし。  その薬となるも毒となるも、 ただ分量の多少に属するのみ。 いかなる薬物も多量にこれを用うれば毒となり、 いかなる毒物も少獄に用うれば薬となる。 語を換えてこれを言えば、 少量は薬にして多鼠は毒なり。 例えば阿片のごとし。 世間これを毒物とするも、  これを適度に用うれば薬物となり、 もしその度を失すれば毒物となる。 しかるに、 もし世間にまことの毒物なしということを得るときは、 これと同時に、 世間にまことの薬物なしということを得べし。 もし、 神は意ありて毒物を作らずということを得るときは、  これと同時に、 神は意ありて薬物を作らずということを得べし。 けだし、 ヤソ教者はその神を立つるに、 便利なる一方の理を見て、 不便利なる他方の理を見ることあたわず。 なんぞ、 その見ることの偏頗なるや。 例えば、 水、 火、 空気は人生に必要なるものなり。人一日もこれを離るることあたわず。  ゆえにヤソ教者必ず言わん、  これ神の人に生を与うるために作るものなりと。  しかるに水、 火、 空気は、 その人を活かすと同時に人を殺すものなり。  人生まれて、 水、 火、 空気のその身に適せざるために死するもの幾千万あるを知らず。 また水災、 火災、 風災のために、 毎年人の生命を失うものいくばくあるを知らず。 もし、 神は人に生を与うるために、  かくのごときものを作るということを得るときは、  これと同時に、 神は人を殺すために、 かくのごときものを作るといわざるをえず。 ヤソ教者が神は無用無益のものを作らずと喋々するもの、 全く愚民の信仰を引く手段に過ぎざるなり。

第二七一、 船中の食味

船客中、 日本人八名あり。  みな曰く、 過般日本より欧州へ航するときは船中の食、 その味いたって美なりしが、 今度船中の食事はなはだあししと。 政教子曰く、 これ食事のあしきにあらず、 久しく西洋にありて、  かの地の食に慣れたるによる。

第二七二、 尼の手、  小児に触るる

船中に旧教の尼数名乗り込む。  みなシナに伝道するものなり。  シナ人夫婦、 小児を携えてまた乗船す。 尼その子の手を握らんとす。  シナ人あえて許さず。  けだし、  シナ人は一般に、 尼の手小児に触るれば、 小児の一身上に不幸をきたすことを信ずという。

第二七三、 日本の家屋、 案外に美なり

サンフランシスコより日本に帰るものは、 日本の家屋の小にして道路の狭きに驚き、  インド洋より帰るものは、 日本の家屋、 道路の案外に美かつ大なるに驚くという。  これ、 他なし。  インド洋より帰るときは、  インドヽシナ諸方の実況を目撃せるによる。

第二七四、  インドの風景

船インドに着し、 その市街、 民家、 林園等を観察するときは、  おのずからわが日本の実況を提出するに至る。これ、  その風俗、 風景の、 両国の間はなはだ相似たるところあるによる。

 


第二七五、  シナ人の贈詩

政教子、  シナ人と筆談を試み、 談シナ哲学に及ぶ。 種々問答の末、  シナ人、 詩を作りて政教子に贈る。

光緒己丑三月英倫役満東帰由法国之馬賽口登舟遇日本井上甫水兄亦自欧洲東帰者俺蓬筆談媚媚不倦頗慰客懐甫水兄於書無敢不読既通泰西文字又通朱陸之学洵東方之博雅也将別突率成一律以贈其帰時五月十八日舟過安南海書此  ゜

(光緒己丑三月、 英  倫の務めを終えて東へ帰る、 法国の馬賽口より船に乗る、 日本井上甫水兄に遇う。 また欧州より東へ帰る者である。 舟帆(蓬は舟の苫)をかたわらに筆談す。 娠々として倦くことなく、  すこぶる旅のおもいを慰められた。 甫水兄は書物においてあえて読まないものはなく、  すでに泰西の文字に通じ、また朱潔・陸象山の学術にも通じ、 まことに東方の博雅の士である。 いままさに別れんとす、 これにさきだって一律詩を作ってその帰国に贈る。 時に五月十八日、 船は安南の海をよぎり、  これを書す。)

弟    桐城 張祖翼 遂先未定岬

風雨共帰舟、 言従海外遊、 鐙明孤塔遠、 風圧片帆道、 海水平如砥、 客心間似鵡、 他年応相済、 莫漫説欧洲  ゜

(風と雨とともに舟に乗る、  ここに海外の視察よりす、 あかりをともすぼつんとたつ塔は遠く、 風の力は一片の帆におさまる、 海は平らかにといしのごとく、 旅客の心はしばし鵡にも似る、 いつの年かかならずやあいたすけるべく、  みだりに欧州のことは説うまい。)


第二七六、  ホンコンの美ならざるに驚く

西洋に行くものはホンコンの意外に美なるに驚き、 西洋より帰るものはホンコンの意外に美ならざるに驚く。

 これ、  ホンコンそのものの前後異なるにあらず、  これを見る人の目、 前後同じからざるによる。第二七七、  日本人は商法に適せず

政教子、 フランスにありてこれを聞く。 日本人にして、 西洋に行きて商店を開かんと欲するものは愚の極みなり。  近来西洋に商店を開きたるものにして、  一人も失敗をとらざるはなし。 もし、 外国に商店を開かんと欲せば、  シナに行くを良策とすという。 しかして、  シナに至りその地に住する本邦人に聞くに曰く、 日本人の商法をシナ人とともに争わんと欲するは愚の至りなり。  シナ人の商法に巧みなるは西洋人もおそるるところなり。 むしろこれと競争せんより、 西洋人と競争するにしかずと。  これによりてこれをみるに、 日本人は到底、 外国商法をもっ て国を富ますべからず。  果たしてしからば、 わが国を富ますの法は、 政教子の唱うるところの富国策を用うるよりほかなし。

第二七八、 馬関の風景

船、  玄海を渡りて馬関に近づくに及び、 その雲容山影の尋常に異なるを見、 ようやく近づきてその風景の画図中の山水に類するがごときものを見る。  かくのごときの好風景は、  ひとたび日本を出でてより、 いまだかつて見ざるところなり。 実に日本は天地の公園なり、 自然の画図なり。  この画図ありこの公園ありて、 はじめて外人の来遊を引くべし。  いながら富国の方法を講ずべし。

第二七九、 欧米各国の人口と教徒の比較

欧米各国の人口と教徒、 寺院、 僧侶の比較表、 左のごとし。


第二八三、  全世界のヤソ教徒

ヤソ教徒の地球上にあるものおよそ四億人と称し、 総人口の三分の一を占むるという。 そのうち半数は旧教徒にして、 新教諸宗徒はおよそ七千万人、 ギリシア宗徒もまたおよそ七千万人ありという。 しかして、  ロー  マ宗に

て算するところによるに、 旧教徒一億八千五百万人なり。  そのほか新教諸派の信徒、 世界中にあるもの左のごとし。


第二八四、 全世界の仏教徒

仏教信徒の現今世界にあるもの、 南部派三千万人、 北部派四億七千万人、 合計五億人なりという。 セイロン、ビルマ、  シャ ム、 アンナン地方にあるものは南部派なり。 チベット、  シナ、 朝鮮、 満州、 蒙古、 日本等にあるものは北部派なり。

第二八五、 政教の関係に三種あり

政教子、 欧米政教の事情を巡察して、 政教の関係に三種あることを発見せり。  その第一は国教にして、 これ政教混同の主義にもとづくものなり。 第二は公認教にして、 これ政教混同の主義一変して、 政教分離の主義をとるものなり。 第三は斉民教にして、  これ政教分離の極点に達したるものなり。 英国、  ロシア等は国教の組織を有する国なり。 フランス、 オー ストリアは公認教の制度を用うる国なり。  ひとり米国は国教の組織なく公認教の制度なく、 政教は全く分離して、 政府中に教部省社寺局のごとき宗教に関する官省なく、 僧侶は政府よりこれをみれば、  一般の人民と同等なるものなり。  ゆえに、  この種の関係を斉民教という。 公認教は特認教もしくは特待教の義にして、 政府がその国の歴史上に縁故あり、 その人民中に勢力ある宗教は、  これを特別に待遇するをいう。  国教は、 政府はただにこれを特待するのみならず、  これを政府の一部分とし、  これを政治の機関とするものなり。ゆえに余曰く、 国教は政教一致の極点にあるものなり、 斉民教は政教分離の極点にあるものなり。

第二八六、  わが国の政教の関係

人あり問うて曰く、 わが国の宗教はこの三種中いずれに属すべきや。 政教子曰く、 往時にありては、 わが神仏二道は国教の組織を有せしといえども、 今日にありては、 国教にあらず、 また斉民教にあらず、  いわゆる公認教なり。 内務省中に社寺局を置き、 各宗に管長を定むる等、 みなその公認教たるゆえんなり。 しかして、 わが国いまだ公認教の名称を置かず、 公認教の制度を設けざるのみ。 維新以前はわが政府ヤソ教を厳禁し、 維新以後はその禁を解くも、 なおこれを黙許せるのみにして、 いまだ公許するに至らず。  しかるに、 本年憲法発布ありてより信教自由となりたれば、 ヤソ教も公許となれり。 もし、 これを欧州の制度に比考するときは、 信教自由の公達の下には、 公認教と非公認教の別を立つること必要なり。  すなわち、 欧州各国はみな信教の自由を許すも、 その国々によりて公認したるものと公認せざるものあり。 たとえば仏教その地に入ると想するに、 信教自由なれば、その信徒を得ること自由なるべしといえども、 その公認の中に加わること難く、 その国にて政府が公認教に与うるところと同一の保護待遇を受くることあたわず。  これによりてこれをみるに、 わが国にても信教自由の今日にありては公認教の制度を設け、 ヤソ教は公許したるもいまだ公認せざればこれを非公認教とし、 政府がこれを待遇するの方法において、 そのすでに公認したるものと異にするところなかるべからず。  かつ、 ヤソ教はその宗派のなんたるを問わずみな、 あるいは外国の支会分局出張にして、 あるいは外国の宣教師をいただき、 あるいは外国の扶助金を仰ぐがごときは    いまだ日本の宗教と認定すること難し。  ゆえに、 もしこれを欧州の例に考うるときは、 わが国の非公認教となさざるべからず。  ゆえに余招は、 政府は早くその制度を設くること必要なりというなり。

 

第二八七、 米国とわが国と事情を異にするゆえん

人あり論じて曰く、 今日わが政府の主義は政教分離にあれば、 将来の宗教は政府全くこれを放任して、 米国のごとく斉民的宗教となすべし。 政教子曰く、 公認教はもとより政教分離の主義にもとづくものなり。  ただし政府が、  その国の歴史上に縁故あり、 国体民俗に関係ある宗教は、 その歴史を保存しその国体を永続するために、 特別に保護待遇せざるべからず。 決してこれを、 今日今時外国より漸入する宗教、 別して外国と関係を有する宗教と同一に待遇するの理あらんや。  かつわが国今日の勢い、 政府全く宗教を放任するときは種々の宗教国内に蔓延し、 したがって外国の関係を生じ、 宗教の争乱を醸すに至るは自然の勢いなり。 果たしてしかるときは、 政府が一国の安寧秩序を保つの目的を達することあたわざるべし。 かつ我が輩の注意すべき点は、 わが国は米国と大いにその事情を異にするゆえんを知るにあり。 米国は歴史なき新開の国なり、 わが国は歴史によりて建てたる旧国なり。  アメリカは平等同権、 自由共和の斉民的主義の国なり、  わが国は上下貴賤の秩序階級ある国なり。 米国は外寇の患いなく外国の関係少なき国なり、 わが国はしからず。  この三事情につきてこれを考うるに、 わが国の事情はかえっ て欧州各国の事情に類同するなり。  ゆえに、 政治上宗教を待遇するの法は、  米国にその例をとるは不適不当にして、 欧州にとるは適当なるべし。 もしこれを欧州にとるときは、 公認教の制度を置くこと必要なり。

第二八八、 西洋はヤソ教国にあらず

人あり曰く、 西洋はヤソ教国なり。  わが国これと交際するにおいては、 同一の宗教を奉ぜざるをえず。 政教子曰く、 西洋は決してヤソ教国にあらず。 当時その国に流布せるものユダヤ教ありイスラム教あり仏教ありて、   ランスはその公認教中にユダヤ教およびイスラム教を加えたるにあらずや、  オー  ストリアもまたユダヤ教を公認せるにあらずや。 しかるにユダヤ教およびイスラム教はヤソ教の仇敵なり。 その仇敵にしてなおよく特別の保護待遇を受くる以上は、 西洋はヤソ教国にあらざること明らかなり。  かつフランスのごときは、 その戸籍表に宗旨を定めざるもの七百六十八万四千九百六人あるを見る。 これみな、 自らヤソ教徒にあらざることを明言せるものなり。 日本は独立国なり。  その国体といい風俗といい人情といい、 みな西洋各国と異なり、 けだしその異なるところあるは、 その独立国たるゆえんなり。  すでに独立国たる以上は、 宗教また西洋と異ならざるべからず。 請う、  みよ、 西洋諸国一般にヤソ教国と称するも、 各国みなその宗派を異にして一種固有の宗教あるを。 わが国、なんぞあえてその固有の宗教を変ずるを要せんや。 けだし、 その宗教の西洋と異なるは、 またその独立国たるゆえんなり。

第二八九、  各国みな独立の風に富むこと

政教子の今回の行や、 まず米国に至り、  ついで英国に入り、  この諸邦の一個人の富と一国の富と、 ともにはるかに日本の上に出ずるを見、 また一個人の力と一国の力と、 ともにわが国の比にあらざるを知れり。  つぎにフランス、  イタリア、  オー  ストリア、 ドイツを巡遊して、 その人民の節倹を守り勉強して怠らざるを見て、 かの諸国の富と力は、 決して偶然に起こりたるにあらざるを知るに至れり。 しかして、 政教子の最も驚きかつ感じたるものは、 各国人民みな独立の精神を有し独立の気風に富むこれなり。 人民みな独立の精神・思想を有するをもって、 各国みな独立の学問あり、  独立の事業あり、 独立の組織あり、 独立の目的あり、 独立の風習あり、  独立の礼式あり、 独立の宗教あり。 その独立とはなんぞや。 曰く、 フランスは事々物々の上にフランス固有の風を存して英国の風に異なり、 英国は内外上下の間に英国固有の風を存して米国の風に異なるをいう。  かくのごとく各国みな独立の風を有するは、 その心中に一種独立の思想を有するにより、 その独立の思想の発達せるは、  またこの独立の風あるによるなり。

顧みてわが国の事情を考うれば、 日本従来の独立の学問も事業も組織も目的も風習も礼式も、  みなすでにその独立を失い、 今や西洋の事々物々次第にわが民間に行われて、 人その事物の変化とともに、 最も貴重なる独立の精神そのものをあわせて失わんとす。 ただに日本人固有の精神を失うのみならず、 西洋の精神に変ぜんとす。  ただに西洋の精神に変ずるのみならず、  イギリスを学ぶものはイギリスの精神に変じ、 ドイツを慕うものはドイツの精神に変じ、 アメリカに遊ぶものはアメリカの精神に変ぜんとす。  この勢いをもって進むときは、 日本人は到底一定の主義なく一致の運動なく、 民心離散し上下相和せず、  その極み国家の独立を失うに至りてやむよりほかなし。 もし、  この際に当たりて民心を結合し独立を維持せんと欲せば、 いかなる方法を用いてしかるべきや。  政教子曰く、 けだしその方法は、 日本固有の言語、 歴史、 宗教およびその他、 日本固有の風俗習慣を改良保存するよりほかなし。 そもそも一国の独立するゆえんのものは、 事物変化の中心に当たりて、  一脈の精神の絡々として持続するところなかるべからず。 もしその精神、 外形上の事物とともに変化するときは、 事物その独立を失うと同時に、 精神またその独立を失わざるべからず。  かつその一脈の精神を持続せんと欲せば、 精神と直接の関係を有する諸学諸術を保存せざるべからざるはもちろんなり。

これをもって西洋各国、  みなその国固有の学問を愛重し芸術を保護し、 別して言語、 宗教のごときは、  つとめてその国固有のものを保存せんとす。  これをもって、 フランスにてはその諸学術みなフランス独立の風を存し、英国にては英国独立の風を存し、 ドイツはドイツ    ロシアはロシア、  おのおのその国独立の風あり。 西洋の強国にして、 なおかくのごとし。 いわんやわが国のごとき、 その富といいその力といい、 ともに西洋諸国にしかざるものにおいてをや。  ゆえに、 その国固有の諸学諸術を保存してその国独立の気風を養成すること、 最も今日の急務といわざるべからず。

 

第二九〇、  一国の独立を維持する三大機関

 

政教子曰く、  一国の独立を維持する最も必要なる三大機関、 すなわち言語、 歴史、 宗教は、 その性質すでに時間上、 変化しやすき人心を変化せずに持続するの力あり、 かつ空間上、 離散せる人心を結合するの力あるものなり。  まず言語は、 人の思想の関係を表示し、 人心と人心との間を連接するものなれば、 人心を結合して一国を団成するに力あるものなり。  すなわち、 いわゆる空間上、 人心を結合するものなり。 歴史は、 その名称を総じて風俗習慣その他にいたるまで、 いやしくも年代を経て成来せるものに応用するときは、 古来伝続せる一種の精神を維持して、 ほかの事物とともに変化せざらしむるの力あるものなり、 いわゆる時間上、 人の精神を永続するものなり。 宗教はその性質、 古代の説を永遠に持続せんとし、  かつ衆人をして一説に帰着せしめんとするにあれば、空間上、 人心を結合するの力と、 時間上、 人心を維続するの力あるものなり。  ゆえに、 その国固有の言語、 歴史、 宗教を保存するは、 その国の独立を維持するに欠くべからざるものなり。

第二九一、 哲学館の改良

政教子、  その平常有するところの愛国の精神は、 今度欧米を巡回して帰朝するに及び昔日に数倍し、 その自ら設立するところの哲学館において、 もっぱら国家の独立を維持するの三大機関たる言語、 歴史、 宗教を研究し、ようやく進みて日本大学の組織を開かんと欲するなり。 わが国には一帝国大学あり、 そのほか一、  二の私立大学を経画するものあるも、  みなその組織は西洋に倣い、 その学科は西洋にとり、 その教師は西洋に仰ぎ、 その用書は西洋を用うる以上は、 むしろ西洋の大学というべし。 いまだ日本の大学というべからず。 しかるに、 政教子の組織するところの大学は、 純然たる日本大学というべし。  その旨趣書に曰く、

余、 欧米各国を巡遊して、 かつ感じかつ驚きしものあり。  すなわち、 各国の大学はもちろん中学小学に至るまで、  みなその国固有の学をもって基本とし、 交ゆるに他邦の学のこれと関係を有するものをもってす。その国の学を保護し愛重すること、 かくのごとし。  けだし、 その国固有の学は一国の独立を助くるに必要なる元素を含有するものにして、  これを愛護するは    一国独立の思想を人心中に維持するに必要なるによる。

しかるに、 顧みてわが国をみれば、 いまだ日本固有の学を基本として立てたる大学あらず、 またこれを愛護するの必要を説くものすらあらざるがごとし。 しかして、  わが国にはわが国固有の学問あり。 史学、 文学、宗教学等これなり。  これを愛誰しこれを専攻するの方法を設くるは、 日本従来の学問を振起するに必要なるのみならず、  日本の人心を維持し独立を保存するに必要なり。

ここにおいて、 日本主義の大学を設立する必要起こる。  その大学は日本固有の学問を基本として、  これを輔翼するに西洋の諸学をもってし、 その目的とするところは日本国の独立、 日本人の独立、 日本学の独立を期せざるべからず。 かくのごとき大学にして、 はじめて真の日本大学というべし。  しかれども、 大学のことたる大業なり。  一朝に創して一夕に成るべきにあらず、 漸々次々その序を追って基礎を起こし、 大成を数年の後に期するを要す。  ゆえに、 余はこの哲学館をもってその目的を達する階梯とし、 今よりようやくその功を積み、 他日に至りて堂々たる日本大学の一家を落成せんとす。  そもそも従来本館にて教授するところの学科は西洋、 東洋の両部ありて、 東洋部中には日本学ありシナ学ありインド学あり、 日本学中には史学、 文学、 宗教学、 哲学を兼修せしめ、  シナ学中には文学、 宗教学、 哲学を兼修せしめ、  インド学中には宗教学、哲学を兼修せしめしなり。 しかして、 そのシナ学もインド学も、  みなわが国に伝来するものについて教授を施せり。  ゆえに、  これみなその名は他邦の学なるも、  その実わが国の学なり。 ただわが国の学問中に、 日本在来のものと、  シナ伝来のものと、  インド伝来のものの別あるのみ。 しかして、 そのいわゆる伝来のものは、  そのはじめ日本に伝えてより以来千余年を経過し、  わが国在来の文物とともに成長しともに発達して、一種固有の日本性を帯び、  この諸元素相和し相合して一種固有の国風民情を化成し、 その今日インド、  シナにあるものと大いにその性質を異にするに至れり。  すなわち、 その学は日本固有の学といわざるべからず。ゆえに、 余が今日哲学館の上に改良を行わんとするの意は、 その名称および学科の制を変ずるにあらず、   ただその主義とするところ日本主義をとりて、  一方には日本国の独立を維持し、  一方には日本固有の諸学を愛護し、 その学科中の東洋部は日本固有の学(すなわち神儒仏三道およびわが国固有の哲学、 史学、 文学)を教授するものとし、 ようやく進みて他日、 日本大学の組織を開かんことを望むものなり。