2.南船北馬集

第五編

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南船北馬集 第五編

1.冊数 1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)188×127㎜

3.ページ

 総数:128

 目次:2

 本文:126

(巻頭)

4.刊行年月日

 底本:初版 明治43年12月20日

5.発行所

 修身教会拡張事務所

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千葉県安房、上総二州紀行

 ここに千葉県紀行を叙述するにさきだち、明治四十二年十二月二十四日、埼玉県大里郡熊谷町〈現在埼玉県熊谷市〉農学校に至りて講演をなし、四十三年二月十日、神奈川県第三中学校(愛甲郡厚木町〈現在神奈川県厚木市〉)に至りて講話をなしたることを表示すべし。前者の校長は青木信一氏にして、後者の校長は大屋八十八郎氏なり。

  熊谷町  農学校  一席  二百人

  厚木町  中学校  一席  四百人

   合計 二カ所、二席、六百人

 明治四十三年二月十二日。朝、霜気稜々。天青く地白き中に、車をはしらせて八時前、両国停車場に至り、房総行の途に上る。随行は角田松寿氏なり。蘇我駅に降車して上総国市原郡八幡町〈現在千葉県市原市〉旅館東屋に着す。ときに午前十一時なり。会場は小学校にして、主催は郡教育会なり。郡長池内才次郎氏、郡視学森川忠氏の配意によりて盛会を得たり。会長大河内牣氏、校長鴇矢忠郎氏もっぱら尽力せられ、町長江沢信次氏、教育家山本文雄、福原清次二氏もまた助力あり。会後、八幡神社に詣す。東京深川八幡社と海を隔てて相対向すという。

 二月十三日(日曜) 晴れ。森川郡視学と車を連ね、養老川にそい、海上村〈現在千葉県市原市〉小学校に至りて開演す。

凍風吹断見春晴、車上暁寒醒宿酲、養老川頭南総路、梅花香裏蹈霜行、

(いてつく風は吹き途絶えて春の晴天となったが、車上の身に早朝の寒さはふつかよいをさます。養老川のほとり、南総の道を、梅の花の香りただようなか、霜をふんで行くのであった。)

 村長立野徳次郎氏、校長斎藤栄氏、土岐共平氏、小笠原関等の諸氏、みな尽力あり。夜に入りて、会場をへだつること約一里、市西村泰安寺に移りて宿す。住職井口善叔氏は旧哲学館出身なり。

 十四日 晴れ。鶴舞町〈現在千葉県市原市〉開会。町は丘上にありて、その寒気は千葉県第一なりという。会場小学校は旧藩主の御殿なり。当夕、旅館小松本屋に宿す。町長今関邦次郎氏、助役深山大三郎氏、校長金子待時氏、大久保校長、加美安宅氏等、みな尽力あり。主催はすべて郡教育会なり。

松邱麦圃路横斜、鶴舞村頭晩駐車、地気不欺春信到、霜風冷処見梅花、

(松林の丘や麦畑を、道は横ざまであったり斜めにと通る。鶴舞村のあたりで日も暮れ、車をとどめて宿にはいった。大地の生気はあやまりなく春のおとずれを示し、霜をふくんだ風の冷たい所にも梅花が見られるのである。)

 十五日 晴れ。午前中は鶴舞町にありて揮毫に従事す。午後、馬背にまたがり、丘山を上下して君津郡久留里町〈現在千葉県君津市〉に移る。山上、遠望するによろし。宿所は同町山田旅館なり。町内、小楊子を産出す。その金額、毎年一万三千円に上るという。

 十六日 晴れ。久留里小学校にて開会す。発起者は町長寺山寛容氏、校長浪久敬之助氏なり。会後、真勝寺における仏教道徳会の新年会に出席す。住職は武田俊明氏なり。

 十七日 風雨。車行して木更津町〈現在千葉県木更津市〉に向かう。途中、郡長岡巌氏の歓迎あるに会す。宿所は松川旅館なり。夜に入りて、郡会議事場にて開会す。ときに雨ようやく晴るる。主催は斯民会にして、会長は岡郡長なり。町長幸崎政次郎氏、郡視学杉山与三郎氏、校長佐藤啓氏等、みな尽力せらる。

 十八日 晴れ。風あり。午前、木更津中学校にて講話をなし、更に杉山視学とともに佐貫町〈現在千葉県富津市〉に移る。中学校長は畑勇吉氏なり。この辺り、戸々みな噴泉ありて、水いたって清し。会場は佐貫小学校、主催は町長大森俊氏、校長笹生健治氏、宿所は鯉田屋なり。当日、途上吟一首あり。

凍雨夜来風巻涛、暁晴回望気何豪、相山一帯如波走、雪色漲天蓮岳高、

(いてつくような雨が一晩中つづき、風は波涛を巻くように吹く。朝の晴天にみまわせば、なんと豪快であることか。相模の連なる山々は波の走るがごとく、雪の色を空いっぱいに見せて富士山が高だかとそびえているのだ。)

 十九日 穏晴。馬車に駕し、相州の連山と富峰とに応接しつつ鋸山をめぐりて房州に入る。

夜来風浪暁来収、相海雲開好凝眸、路向鋸山自成隧、送迎富岳入房州、

(昨夜からの風浪は朝になっておさまり、相模の海も雲もはるかに見渡せる。道は鋸山に向かっておのずからめぐり、そのために富士の姿が隠見するなかを房州に入ったのであった。)

 午後、安房郡保田町〈現在千葉県安房郡鋸南町〉小学校にて開会す。町長早川儀之助氏等の発起なり。

 二月二十日(日曜) 曇晴。午前、宿所松音楼を辞して鋸山にのぼる。満山みな石材なり。乾坤山日本寺に一休し、五百羅漢および三十体観音を巡詣す。石像の九分どおりは胴のみありて頭なし。石像になんの罪ありて、かく斬首せられしやを思わしむ。絶頂は十州を一望すべしという。その風景の美は東海第一と呼ぶも過賞にあらず。

鋸峰高処尋禅寺、春靄濛々山欲睡、般若談中望漸開、風光如酒使人酔、

(鋸山の高所に禅寺をたずねれば、春がすみがたちこめて、山はねむりこもうとするかのようである。悟りを開く知恵などを談じているうちに視界がようやく開けた。その風光はあたかも酒の人を酔わせるがごときおもむきがある。)

 山上にナンジャモンジャととなうる奇樹あり。この日、郡視学野沢常太郎氏とともに木の根嶺をこえ、那古観音に詣して、北条町〈現在千葉県館山市〉旅館木村屋に着す。

 二十一日 晴れ。午前、郡立高等女学校にて講話をなす。校長は八巻嘉作氏なり。午後、中学校講堂にて開演す。主催は大道会にして、秋山弘道氏、正木貞蔵氏、その幹事たり。郡長太田資行氏は病臥中なり。たまたま桧垣直右氏をその僑居に訪う。氏は喜びて「世をすくふおおしき君かこころをは、かみも仏もまもりますらむ」の国風一首を賦して贈らる。

 二十二日 晴れ。車行遅々、富峰を見送りて山に入り、更に渓を出でて富峰を迎う。当面に大島三原山の雲煙をいただきて横臥するを望む。

相海房山明且清、風光随処動吟情、暗如有約蓮峰雪、看送人渓出又迎、

(相模の海と房総の山は明朗かつすがすがしく、その風光はいたるところで吟詠の情をかきたてる。ひそかに約束でもしたかのように富士の雪は、人の谷に出入りするごとに見送り、また出迎えてくれるようである。)

 途上、官幣大社安房神社に拝詣す。門庭人影なく、梅花ひとり馥郁たり。

一路房山将尽辺、祠門遥認抜林泉、神前春昼無人賽、鳥語花光転粛然、

(道は房総の山波の尽きはてるあたりにいたる。安房神社の門がはるかに林や泉のかなたに見え、神前の春のひなかにも人の拝礼におとずれる姿はなく、鳥のさえずり、花の美しさもなんとはなしにものさびしい。)

 午後、富崎村〈現在千葉県館山市〉小学校にて開演す。校長御子神勇次郎氏、学務委員神田真吉氏等の発起なり。当地には遠洋漁業者多し。

 二十三日 晴れ。白浜を経て曦町〈現在千葉県安房郡千倉町〉に移る。途上、菜花満開、もって気候のいかに温暖なるを知るべし。

二月房南試客遊、軽風一道菜香浮、灯台脚下時回首、雲際青山是大洲、

(二月、房総南部への遊説の旅にでた。軽やかに吹く風とひとすじの道に菜の花の香がただよう。白浜灯台の下に立って見まわせば、海上の雲ぎわに見える青い山は大島である。)

 白浜灯台を過ぎて曦町に入れば、大島は背後に没し、ただ太平洋の蒼茫たるを見るのみ。会場は円蔵院にして、聴衆、堂にあふる。諸般の準備よく整頓せり。宿所は千倉温泉にして、鉱泉温浴の設備あり。主催は町長小林専吉氏、助役岩瀬久次郎氏、区長高橋、野口氏等町内有志にして、みな大いに尽力あり。

 二十四日 晴れ。和田町〈現在千葉県安房郡和田町〉小学校にて開演す。主催は町長劒持安太郎氏、校長小西鍋吉氏、僧侶渡辺竜翁氏、医師安田弁蔵氏等なり。学校の建築および位置、ともに佳良なりとす。当夕、金子屋に宿す。

 二十五日 晴れ。太海村〈現在千葉県鴨川市〉に至るの途中、岩窟を入覧す。その窟内の深さ幾里なるを知らず。その近傍に七不思議あり。会場は小学校、宿所は旅館なり。村長田村猪吉氏、校長鈴木哲蔵氏等の発起にかかる。

 二十六日 雨。朝、太海を発し、鴨川、天津両町を経て小湊に至るとき、烈風暴雨、天ために暗し。日蓮十大霊蹟の一たる誕生寺に詣するも、一人の参拝者を見ず。

漁屋連軒路一条、満天風雨巻寒潮、入門独詣誕生寺、妙法無声春寂寥、

(漁をなりわいとする家が軒を並べて、ひとすじの道が通り、空をおおって風雨はげしく、あたかも冷たい潮を巻き上げるかのようである。誕生寺の門をくぐってひとりもうでたのだが、妙法蓮華をとなえる声もなく、春の寺はものさびしく静まりかえっている。)

 これより断崖千尋の桟道にかかる。暴風、墜石とたたかって進む。その危険いうべからず。これ東海の親知らずというべし。房総の国境を越え、夷隅郡内に入ること約半里にして、その名も高き「おせんころがし」の険に至る。ときに旋風、人車を巻きて岩壁に衝突せしむ。身転じ車破れたるも、幸いに無事なるを得たるは、天祐にあらずしてなんぞや。

暁天帯雨暗雲烟、狂浪怒号一路伝、行到断崖風益激、阿仙転処我車顛、

(あかつきの空は雨を帯びて暗く雲がけぶり、あれくるう波がいかりの声をあげて道を行く人の耳にきこえてくる。断崖に行きついたところでは風はますます激しさを加え、むかし阿仙なる婦人が転落したと伝えられるところで、わが車もまた転倒したのであった。)

名にしおふ阿仙の険も今よりは、円了転と人やいふらん、

 昔時「おせん」と名付くる婦人、風のために海中に吹き落とされて即死せるよりその名起これりという。これより全身大雨に浸され、徒歩して興津に至る。ときに天ようやく晴るる。更に腕車を雇って勝浦町〈現在千葉県勝浦市〉に入り、勝浦館に投宿す。この日、行程八里余なり。北条町以後は郡書記島田源太氏、各所に同伴せられたり。

 二月二十七日(日曜) 晴れ。風やや寒し。尚風会の請求により、勝浦、大原両町の日程を変更し、大原町〈現在千葉県夷隅郡大原町〉小学校に至りて演述をなす。尚風会の総会なり。宿所竹楼は県下有数の大旅館とす。その構造に意匠を凝らせしところあり。開会に関し尽力せられしは、市原錬三氏、池田良江氏、浅野豊次氏、梶七郎氏、奥野常蔵氏、平野勝三郎氏等なり。

 二十八日 寒晴。再び勝浦に帰りて開演す。主催は郡教育会にして、町長石幡栄治郎氏、校長滝口荘寿氏の発起にかかる。宿所勝浦館は湾内を一瞰するの眺望を有す。

 三月一日 晴れ。寒気強し。馬車に駕して勝浦を去る。前後、隧道多し。

一道隧門過幾回、山光水色閉還開、快哉勝浦湾頭望、万里長風送浪来、

(道は隧道を出入りしながらいくどもめぐり、山と水の風景はとざされたり見えたりがくり返される。勝浦湾の風光をみて、思わず快哉をさけんだものである。そこには万里のかなたからくる風に波の音さえ聞こえてくるのであった。)

 大原より汽車に転乗して長者町〈現在千葉県夷隅郡岬町〉に移る。会場は小学校、主催は校友会なり。町長金綱丞氏、会長小高六之丞氏、副会長橋本正氏等、諸氏の多大なる尽力によりて盛会を得たり。県下巡回中、揮毫所望者の多き、当地をもって第一とす。この辺り一帯の海岸、近来別荘を設くるもの多しという。宿所は新万楼なり。

 二日 晴れ。郡書記神西要次郎氏とともに長者町を発し、大原を経、国吉町〈現在千葉県夷隅郡夷隅町〉小学校に至りて開演す。助役斎藤団次氏、校長元吉暢氏、学務委員実方栄治氏等数名の諸氏、みな尽力せらる。宿所は富士見屋旅館なり。当地は井水に色あり。

 三日 晴れ。午前、大多喜町〈現在千葉県夷隅郡大多喜町〉中学校に至り、校友会の依頼に応じて講話をなす。校長青木義教氏不在なれば、教諭遠峰亮氏代わりて応接せらる。郡長沢寛蔵氏も来会あり。午後、再び中学校講堂において、郡教育会の所望に応じて開演す。聴衆、堂にあふれ、戸外に立つもの多きの盛会を得たり。閉会後、寒雲雨を醸しきたる。宿所は尾高旅館なり。

 四日 晴れ。夜来雪花を散じ、暁窓一面、四山みな白し。たまたま中学校教諭友木饒氏、鯉魚を携えて来訪あり。この佳殽に助けられて一酌を試み、暁寒を忘るるを得たり。郡視学柏吉太郎氏は、近ごろ文部省より選奨の栄をになわるを聞きて、一詩を賦呈す。

叢林凋落日、柏樹独青々、官命賞其操、四隣徳自馨、

(やぶや林がしぼみ落ちる季節に、柏樹のみが青々としているのと同じように、まわりが精彩を欠くとき、柏氏のみが目立つ活躍をして、このたび官府の命令が下ってその志操を褒賞された。まことに四方への教化はおのずからかおりたかく遠くに及ぶであろう。)

 客舎を辞するに当たり一絶を浮かぶ。

夜来積雪圧山屏、暁望皚々天独青、偏怕寒威侵病骨、小炉温酒発茅亭、

(昨夜来からの積雪はびょうぶのように立つ山をおおい、あかつきに望み見れば白一色で、天のみが青色である。ただひたすらにこのきびしい寒さが疲れた体をそこなうことをおそれて、小さな炉で酒をあたためて飲んだ上で、かやぶきの宿を出たのであった。)

 天青く地白きの間に馬車を走らせて、長生郡庁南町〈現在千葉県長生郡長南町〉に移る。

暁窓対雪酒方酣、奇勝須鞭駅馬探、吟賞松邱青白雑、望中不覚到庁南、

(朝の窓べに雪をみながら酒をくんでたのしみ、すぐれた景色は馬車に鞭うってもとめるべきであろう。松林の丘に松の緑と白雪のいろどりをじっくりとめでつつ、ながめるうちにいつしか庁南町に着いたのであった。)

 庁南会場は三途台、主催は郡教育支会、宿所は糀屋、主任は小学校長吹野銀次郎氏および学務委員滝田勝也氏なり。旧知人白井勇次郎氏と相会す。

 五日 快晴。郡視学金沢登久三氏とともに車を連ねて客舎を発し、途中、鶴枝村千葉弥次馬氏の宅を訪う。主人懇ろに庭内に噴出せる天然ガスを示して説明し、愚俗の狐火、鬼火、竜灯等の妖怪に関する惑いを解くを得べしとなす。よって小詩を賦呈す。

主人穿井水、地底得灯明、一片噴泉気、照来妖怪城、

(この家の主人が井戸を掘ったところ、地の底でガスのあかりを手に入れることになった。わずかながら噴出するガスは、世俗にいう妖怪の堅い迷信のとりでを照らし出し、惑いを解くものとなるであろう。)

 午後、土睦村〈現在千葉県長生郡睦沢町〉小学校にて開演す。村名は旧十一カ村、相合して互いにむつまじくするの意より出ず。校舎の設備は県下の模範たりという。

有村十一合相親、造築功成校舎新、喜我此来梅月夜、読書窓下養精神、

(十一カ村を合わせて、たがいに親しむ意をこめて土睦村といい、村の結成とともに学校も新しく建築した。ときに私がここに来訪したことを喜ぶように梅花の香る月夜となり、窓のもとに書を読んで精神を養ったのであった。)

 開会に関して村長池沢正一氏もっぱら尽力あり。文学士土屋幸正氏は特に東京より帰村して歓迎せられたり。当夕、校内に宿泊し、鯉魚の調理を供せらる。

 三月六日(日曜) 晴れ。一宮町〈現在千葉県長生郡一宮町〉小学校にて開演す。岩本筏雄氏、石川誠一氏等、教育会員の発起にかかる。宿所は一宮倶楽部なり。

 七日 晴れ。茂原町〈現在千葉県茂原市〉小学校にて開演す。郡長渡辺勤氏の送迎を受く。郡視学金沢氏、町長武田刑部左ヱ門氏、教員山田精吾氏等もっぱら奔走せらる。茂原より庁南まで人車鉄道を敷設し、翌日より乗客を取り扱うという。

 八日 晴れ。午前、山武郡大網町〈現在千葉県山武郡大網白里町〉に移る。開会は郡教育会の主催にして、校長石井恒清氏、同高安卯太郎氏、その主任に当たらる。三島繁三郎氏も助力せらる。会場蓮照寺住職野口日主氏は哲学館出身たり。

 九日 晴れ。午前、東金町〈現在千葉県東金市〉高等女学校にて談話をなす。川村良四郎氏その校長たり。午後、小学校にて講演をなす。主催は郡教育会にして、郡視学深山健吉氏、町長篠原蔵司氏、校長柿沢玉樹氏、教員藤田昇氏、有志家能勢銑三郎氏等、みな尽力あり。宿所は八鶴館にして軒前に湖あり、めぐらすに小丘をもってす。その風致、東京の不忍湖に似たり。

南総尽辺停客車、巒光水色帯春霞、臨湖八鶴軒前坐、疑在東台山下家、

(南房総の尽きるあたりで、車をとどめてみわたせば、山の景色、水の色にも春の霞をおびているようである。湖を臨む八鶴館の前に座せば、不忍池に似ているため、上野台下の家にいる思いがした。)

 哲学館出身者森川寛行氏、広部永真氏来訪あり。

 十日 晴れ。郡書記松本留吉氏とともに片貝村〈現在千葉県山武郡九十九里町〉に移り、花沢元脩氏の宅に宿す。会場は新築の小学校にして、校長は安西景美氏なり。三重県阿山郡視学神部甲太郎氏来訪あり。村は九十九里の中央に位す。一望平原、長さ二十里、幅三里、茫漠際なきを覚ゆ。

 十一日 穏晴。軽風習々の中に車を走らせ、東金を経て松尾町〈現在千葉県山武郡松尾町〉に至る。会場小学校は丘腹にありて眺望よし。聴衆、堂の内外にあふれ、一千三百名以上と算せらる。発起中の主なるものは町長押尾大次郎氏、校長朝比奈逞氏、伊藤信平氏等なり。当夕、松尾館に宿す。

 十二日 朝来天候険悪。郡書記岡本三郎治氏とともに泥路をわたりて二川村〈現在千葉県山武郡芝山町〉に向かう。途中、勁風雪を巻きて襲いきたり、車行遅々、雪ようやく積みて脚を没するに至る。道程二里半を行くに三時間を費やし、芝山旅館藤屋に着す。風雪ますますはなはだしく、咫尺を弁ぜず。午後、尺余の深雪をうがちて二川小学校に至る。遠近より会するもの二百余名に及ぶ。寒気膚を破り骨に徹せんとす。校長子安宣治郎氏、および磯辺謙吉氏もっぱら斡旋せらる。演説後、天ようやくはれ、残照を漏らしきたる。乾坤皚々、満目銀世界を開現す。

遥訪芝山将一拝、林風醸雪何須怪、仁王有意散天華、為我造成銀世界、

(はるかに芝山仁王尊を訪ねて参拝しようとして来た。ときに林を吹きぬける風は雪をもたらしたが、これをなにも怪しむ必要はない。なぜならば仁王には思うところがあって雪を散り降らせたのであり、私のために銀世界を作り上げてくださったのだから。)

車到仁王門下村、晩晴一望白乾坤、笑吾奇癖漫揮筆、積雪城頭留墨痕、

(車は仁王門の下の村に到着した。日もおそくなって晴れのもとに一望すれば、天も地も白雪一色となっている。笑え、私の奇妙な癖はむやみに筆をふるうにあるのだ。またしても積雪のこの地に墨痕を残したのであった。)

 三月十三日(日曜) 晴れ。昨日は天地怒り、今日は山川笑うの好晴に会し、仁王尊を一拝し、草鞋竹杖、氷雪をわたりて成東町〈現在千葉県山武郡成東町〉に至る。旅館にして鉱泉浴場を兼ねたる成東館に休泊す。館舎、庭園ともにひろし。しかのみならず、波切不動堂の巌頭にかかるありて、大いに風致を助く。午後、中学校講堂において開演す。夜に入りて、中学校長山崎正矩氏、同教諭柴山正矩氏、町長伊庭弘道氏、小学校長古川哲三氏等と会食す。

 十四日 晴れ。春日煕々、和気洋々。深山郡視学の案内にて、馬上丘山を上下し、睦岡村〈現在千葉県山武郡山武町、八街市〉に至る。雪泥脚を没する所あり。会場は小学校、主催は青年会にして、会長は嘉瀬才知氏、校長は越川兵蔵氏なり。村内山林多し。午後三時、日向駅にて乗車。八時、帰京す。

 総房二州巡回に関し、県庁および郡役所の配意により大いに便宜を得たり。教育の内容は一見なんとも評し難きも、校舎の構造は旧式のもの多し。しかれども決して教育に冷淡なるにあらず。寺院は廃頽するも修繕を加えざるもの多し、もって宗教心の薄きを見るべし。したがって迷信すこぶる多し。風景は房州を除くの外は、すべて殺風景の方なり。人情、風俗は一見粗野なるがごときも、そのうちおのずから関東武士の遺風あるを見る。料理店の比較的多きがごときは、その地東京に近く、人をしていくぶんか食いだおれの風をならわしむる傾向あり。しかして人気は進取快活の風を帯び、教員のごときも活気を有するは賞賛すべし。開会一覧表は左のごとし。

 

   千葉県上総安房二州開会一覧表

 国郡     町村    会場    席数   聴衆     主催

上総市原郡  八幡町   小学校    二席  五百人    郡教育会

  同    鶴舞町   小学校    二席  七百人    同前

  同    海上村   小学校    二席  三百五十人  同前

同上君津郡  久留里町  小学校    二席  七百人    町内有志

  同    木更津町  議事堂    二席  五百五十人  斯民会

  同    同     中学校    一席  三百五十人  中学校

  同    佐貫町   小学校    二席  四百人    町長

同上夷隅郡  勝浦町   小学校    二席  三百五十人  郡教育会

  同    大原町   小学校    二席  八百人    尚風会および教育団

  同    長者町   小学校    二席  七百五十人  校友会

  同    国吉町   小学校    二席  七百人    町内有志

  同    大多喜町  中学校    二席  千百人    郡教育会

  同    同     中学校    一席  四百人    中学校友会

同上長生郡  庁南町   寺院     二席  五百人    郡教育会

  同    一宮町   小学校    二席  三百人    同前

  同    茂原町   小学校    二席  七百人    同前

  同    土睦村   小学校    二席  五百人    村内有志

同上山武郡  大網町   寺院     二席  八百人    郡教育会

  同    東金町   小学校    二席  八百人    同前

  同    同     高等女学校  一席  三百人    高等女学校

  同    松尾町   小学校    二席  千二百人   郡教育会

  同    成東町   中学校    二席  五百五十人  同前

  同    片貝村   小学校    二席  七百人    同前

  同    二川村   小学校    二席  二百人    同前

  同    睦岡村   小学校    一席  三百人    青年会および同窓会

安房安房郡  北条町   中学校    二席  六百人    大道会

  同    同     高等女学校  二席  三百人    高等女学校

  同    保田町   小学校    二席  六百人    町内有志

  同    曦町    寺院     二席  八百人    町内有志

  同    和田町   小学校    二席  七百五十人  町内有志

  同    富崎村   小学校    二席  四百人    村内有志

  同    太海村   小学校    二席  七百人    村内有志

 合計 二州、六郡、二十八町村(二十一町、七村)、三十二カ所、六十席、聴衆一万八千六百五十人、

日数三十一日間。

  演題細別

   詔勅および修身に関するもの      十五席

   妖怪および迷信に関するもの     二十二席

   哲学および宗教に関するもの       七席

   教育に関するもの            七席

   実業に関するもの            七席

   雑題に属するもの            二席

 

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伊賀、和泉、美作三州紀行

 明治四十三年三月二十日(日曜) 晴れ。朝八時、最大急行に駕し、午後四時、名古屋〈現在愛知県名古屋市〉に着す。車内満員、寸地を余さず。市内は開城三百年の祝事を兼ね、共進会開場のためにその雑踏ただならず。門前町松葉屋に宿泊し、性高院にて開演す。主催は仏教婦人会にして、主幹は道友雑誌主筆萩倉耕造氏なり。偶然、島地黙雷氏と相会す。佐々木善親氏随行たり。

 二十一日(春季皇霊祭) 晴れ。朝八時、関西線により三重県伊賀国阿山郡佐那具駅に降車し、河合村〈現在三重県阿山郡阿山町〉小学校にて開演す。郡長岡耕三郎氏、視学神部甲太郎氏の歓迎あり。校舎の清新かつ壮大なるは、他に多く見ざるところなり。聴衆満堂、千人と目算す。当夕、校内裁縫室に一泊せるが、室清麗にして俗気を帯びず。たまたま一詩を賦し得たり。

  鈴鹿山南駅道長、孤村一夜臥書堂、雲遮梅月窓無影、風送幽香到客牀、

(鈴鹿山の南に鉄道が長くのびて、ぽつんとある村の学校で一夜を臥す。雲は梅花の月の光をさえぎって窓にはその影もなく、風がほのかな梅の香りを客の枕辺に送ってきたのであった。)

 村長河合隆三氏、助役前沢馬太郎氏、校長村尾門四郎氏等、みな尽力あり。

 二十二日 雨。一帯の林丘を上下して山田村〈現在三重県阿山郡大山田村〉に移る。会場は小学校にして、校内に千人以上を収容すべき講堂あるも、風雨のためにその半ばを満たすを得ず。宿所は和田旅館、村長は森口亀次郎氏、校長は池住安太郎氏なり。

 二十三日 曇り。長堤数里、山により渓にそい、車を駆りて上野町〈現在三重県上野市〉に至る。伊賀国第一の都会なり。宿所は曾我旅館にして、間口狭けれども、奥行きの長きこと丁余に及ぶ。午後、劇場大江座にて開演す。更に白鳳婦人会の依頼に応じて念仏寺に移り、家庭教育談をなす。夜に入りて、郡長および町村長等と晩餐をともにす。月瀬観梅の期すでに過ぎたるをもって、客窓寂寥を覚ゆ。庭前の残梅ひとり一段の雅趣を存し、いささか清賞するに足る。

  白鳳城下一楼深、閑対残花酌且吟、月瀬観梅期已去、隣窓無客夜沈々、

(白鳳城下の客舎は奥深く、のどかに散り残りの花を相手に酒をくみかつ吟詠す。名勝月ヶ瀬の観梅のときはすでに去り、隣室には観梅の客もなく夜はいよいよふけてゆく。)

 白鳳城は上野城の旧名なり。当町開会は岡郡長、神郡視学をはじめとし、郡書記岸潔氏、町長窪田惣太郎氏、助役沢島之助氏、念仏寺住職豊岡察道氏等の尽力に成る。すべて郡内開会の主催は郡役所なり。

 二十四日 晴れ。名賀郡視学中山与三郎氏の前導にて名賀郡阿保村〈現在三重県多賀郡青山町〉に移る。山水林巒の間を出没上下すること約四里なり。江上、風なお寒し。この辺り、従前は人力の先引きに犬を使用すること流行せしが、県令にてひとたび禁ぜられし以来、荷車のみに限ることとなれりという。

  雨後山田麦色新、犬車載米去来頻、瀬渓花信何須問、到処梅開伊賀春、

(雨あがりの山田は麦の色も新鮮に、犬の先引きする車が米を積んで往来することしきりである。川の瀬と谷の花だよりはきくまでもない。いたるところで梅花の咲く伊賀の春である。)

 これ途上の実景なり。途中、青竜松を見る。その風骨、臥竜に似たり。会場は阿保小学校にして、宿所は俵屋なり。当所は大和より伊勢に出ずる参宮街道にして、旅店多し。夜中、名物の盆踊り、石ツキ歌を聴く、また旅中の一興なり。本日は郡長栗田覚治氏も来会せらる。村長は喜多正二郎氏、校長は小川孝之助氏なり。

 二十五日 晴れ。腕車一走して名張町〈現在三重県名張市〉に移る。郡内の名邑なり。宿所寿楽園は居宅、庭園ともに美を尽くし趣を凝らし、全国の旅館中おそらくは他にその比なからん。将来必ず名賀郡の一名所となるべし。園内梅樹数百株ありて、紅白栄を競う。しかもその風骨いずれも雅致を帯ぶ。よって一絶を賦して吟賞す。

  一路春風払暁霞、来投寿楽主人家、満園培得梅千樹、風骨奇於月瀬花、

(ひとすじの道に春風があかつきのかすみを吹きはらい、寿楽園主の家にきたる。園内を満たすように梅樹が数百株もうえられて、そのけしきやおもむきは月ヶ瀬の観梅よりもすぐれているであろう。)

 会場小学校も新築清美、位置また佳なり。町長は岡従橘氏にして、校長は辻衛氏なり。園内の新亭にて、郡長、郡視学等の諸氏とともに会食す。郡内の主催は教育会にして、郡役所、町村役場これに助力せらる。

 二十六日 曇り。朝八時、名張を発したるも、汽車の都合にて月瀬観梅のいとまなきは遺憾なり。余、先年はじめて月瀬観梅を試みしより、ここにすでに十二回の星霜を経たれば、必ず多少の変遷あるべし。名張を去りて行くこと二里半にして月瀬に通ずる岐路あれども、直行して上野駅に至る。阿山郡長および名賀郡書記の送行あり。これより大阪を経て泉州堺市に向かう。

 伊賀は国小なれどもよく開け、山連なれども田また多く、米穀はその特産なり。いたるところ校舎の設備の清美なると教育講話の普及せるとは、余をして驚嘆感賞せしむ。人気は醇厚俗をなすもののごとし。これに反して宗教は不振の観あるを覚ゆ。その地の名物をたずぬれば、茶粥と午睡と炬燵と盆踊りなりという。もし茶粥に代うるに雑炊をもってせば、北越の名物と同一となるべし。ただし炬燵はすべて置き炬燵なり。この名物に石ヅキ歌と羊羮漬けと犬の先引きとを加うれば、伊賀の七奇をみたすを得べし。羊羮漬けとは瓜の中に紫蘇をはらませて、味噌につけたるものなり。

 明治四十三年三月二十六日。午前十一時半、伊賀上野駅を発し、午後二時、天王寺駅に着し、更に電車に転乗して四時、和泉国堺市〈現在大阪府堺市〉に着す。車中、風邪に触れたるを感ず。手芸女学校長安西卯三郎氏、有志家肥下徳十郎氏等数名の歓迎あり。宿所は海岸一力楼にして、楼頭の風光は人を酔殺するの趣あり。

  一力楼頭夕、銜杯呼快哉、風光和美酒、酔殺万人来、

(一力楼上の夕暮れは、杯をかたむけて快哉の声をあげたくなる景色である。このおもむきと美酒とは、多くの人々を酔わせるであろう。)

 この海岸一帯、昨年火災にかかり、まさしくその一周年なりという。当夕、雨をおかし、菅原社内聚楽館に至りて開演す。帰りて寝に就くも、隣楼の絃声、深更なお春をわかさんとす。

 三月二十七日(日曜) 晴れ。楼上の暁景、詩をもって写す。

  昨夜春潮如席平、暁為怒浪岸頭鳴、摂山淡海濛難認、只隔雲烟聴汽声、

(昨夜、春の潮はござのごとく平穏であったが、あかつきのころは怒浪が岸にうちよせてなりひびく。それ故に摂津の山々も淡路の海もうすぐらいなかでは望むこともできず、ただかすみをへだてて汽笛が聞こえるのみであった。)

 午後、聚楽館において開演す。主催は堺北教育奨励会の名義にして、実際は安西、肥下両氏等十六名の発起なり。特に両氏の尽力を得たり。

 二十八日 曇晴。泉南郡岸和田町〈現在大阪府岸和田市〉に移る。高等女学校長岡本利宗氏、実業新聞社主寺田兵次郎氏等の歓迎あり。宿所および会場は浄因寺なり。午後、開会す。初席は町内有志の発起、後席は仏教団の主催にかかる。郡長岸正形氏来会あり。銀行頭取川井為己氏、町長安藤祥始氏、新聞社主寺井氏、宿寺住職永谷智暁氏、円成寺住職加藤尭寿氏等の尽力を得たり。会後、岸和田ホテルにおいて晩食をともにす。

  孤館岸頭横、海山笑迎客、晩晴対穏波、水与天同碧、

(ぽつりとたつ客舎は岸べによこざまに位置し、海も山も笑うようにして旅人を迎える。はれた夜空のもとおだやかに寄せる波にむかえば、水も天もともに同じくこい青色なのであった。)

 夜に入りて宿寺に帰れば蚊声を聞く。三月中に蚊出ずるは不思議の一なり。

  三月泉陽暖、偶来宿草堂、去年蚊未死、深夜襲吾牀、

(三月の和泉の南は暖かく、たまたまきたりて草ぶきの家に宿泊す。去年からの蚊が死なずにいたのであろうか、深夜になってわが寝床を襲ってきたのである。)

 二十九日 雨。貝塚町〈現在大阪府貝塚市〉に転ず。その距離わずかに半里なり。名刹願泉寺あり。真宗東西両派の兼末に属す。会場および宿所は泉光寺なり。住職苑木寛氏、町長木岡吟右衛門氏、校長河合治一氏の発意にて、貝塚衛生会の主催にかかる。麻生郷村秦静隆氏も助力せらる。

 三十日 雨。泉州を去り大阪を経て美作に向かう。泉州三カ所の開会は発起者の尽力ありしにかかわらず、聴衆の比較的少なかりしは、天候の不良によるはもちろんなりといえども、一般の気風は大阪に似て、実業に偏傾し、学術講話に趣味を有せざるはその一原因なりという。果たしてしからば、実業の振興に徳性涵養の急要なることを知らしめざるべからず。宗教は多少勢力あるも、中等以下に限るがごとき観あり。

 明治四十三年三月三十日。午後、雨ようやく晴るる。五時半、岡山駅に着し、中国線に転乗して、夜八時、美作国苫田郡津山町〈現在岡山県津山市〉に着す。多数の諸氏の歓迎に接す。途上所詠一首あり。

  汽笛声中雨漸収、玻璃窓底凝吟眸、風光明媚山陽路、応接群巒入作州、

(汽笛をならしつつゆくうちに雨もしだいにあがり、汽車のガラス窓から吟詠の目をもって眺める。風光明媚の山陽路、多くの山々に迎えられて作州〔美作〕に入ったのであった。)

 宿所は武蔵野旅館なり。

 三十一日 曇晴。風寒く霰を散ず。昼夜二回の開演、ともに盛会を得たり。会場は妙願寺なり。演説の前後、揮毫に忙殺せらる。郡長久山知政氏、郡視学出道直氏、中学校長豊田恒雄氏、高等女学校長堀尾金八郎氏、愛染寺住職坪井貞純氏、僧侶有志森順暢氏、町長小沢泰氏等、官民僧俗の発起にして、なかんずく坪井氏、最初より尽力せられたり。津山市街は津山川にそいて連亘し、その長さ一里半に及ぶ。岡山県下第二の都会なり。国名の美作なるにちなみて、戯れに狂歌をつづる。

  国の名に対して耻づる吾詩歌はいつもかはらぬ駄作のみなり、

 四月一日 晴れ。午前九時、英田郡倉敷町〈現在岡山県英田郡美作町〉安養寺住職松坂旭宥氏に導かれて同町に移る。国境の連山なお残雪をとどめ、半空点々白痕を印するを見る。車行五里にして倉敷安養精舎に着す。精舎は山に踞し川に面し、眺望すこぶる佳なり。昼夜二回の開会にして、満堂の聴衆を得たり。発起者は宿寺住職松坂氏、町長土肥原倭二郎氏、寿林寺住職山田美妙氏、法眼寺住職森霊準氏、郡書記高見徳市氏、小学校長野村和十郎氏等にして、みな大いに尽力あり。なかんずく松坂氏は発起者中の発起者にして、その尽力一方ならず。揮毫所望者またすこぶる多く、日夜筆をとるもなお終了せず。

 二日 雨。山寺春暁の一絶を浮かぶ。

  依山安坐梵王城、一帯清流脚下横、朝雨浸梅花自落、鴬和経唄弄春声、

(山によりかかるように寺院がたち、ひとすじの清水が足下を流れる。朝がたの雨に梅花はしっとりとぬれてひとりでに落ち、鴬の声と読経の声が春のふんいきのなかにながれている。)

 当町は本日祝典の挙行あり、観客近村より雲集す。午前九時、安養寺を辞し、江見、土井両駅を経、国境をこえ、播州佐用郡に入る。開会地平福村〈現在兵庫県佐用郡佐用町〉に達する当日の行路八里あり。車行六時間を費やせり。途上また一作あり。

  鳥語報晴烟漸消、播山作水望遥々、桜期未到梅期過、野外春光自寂寥、

(鳥は晴れを知らせるように鳴き、もやもようやく消え去って、播州の山、作州の水、望めばはるばると来たものである。桜花の季節はまだきておらず、梅花の時期はすでにすぎて、野の春の光はおのずからものさびしい。)

 会場は光勝寺、宿所は旅館なり。しかして主催は松田久太郎氏、大坪弥之助氏、瓜生原佶之助氏、井上泰諄氏、原田耕道氏等なり。哲学館出身藤木睦之助氏もこれに加わる。

 四月三日(大祭日兼日曜) 晴れ。午前十時、平福村を発し、車行三里、作州古町駅に一休して鳥取県巡回の途に上る。この日、朝気寒冷、霜を帯ぶ。いたるところ節句を祝し、雛祭りをなすを見る。よって一吟を試む。

  是日客中思帝都、旭旗影下献神觚、山村難脱旧時俗、不祭皇宗只祭雛、

(この日、旅中の人は帝都を思う。旭日旗のもとで御神酒をささげているであろう。山村では昔からの風俗よりぬけ出すのはむずかしく、天皇家の代々をまつらず、ただひな祭りがあるのみ。)

 以下は鳥取県紀行に譲る。

P146--------

鳥取県紀行第一、因幡の部

 明治四十三年四月三日。播州佐用郡より作州英田郡を経、山陰山陽の背骨と呼ばるる一帯の高嶺中、志戸坂峠をこえて、鳥取県因幡国八頭郡に入る。嶺頭、道険にして車進み難し。ときに牛をして先引きをなさしむ。これ当地の名物とす。

  山似奔涛送又迎、雪残天半白痕横、嶺頭路険車難進、牛力時扶人力行、

(山ははげしく大波のうちよせるがごとく私を迎えそして送り、雪は天の半ばをおおうように残って白くよこたわる。嶺のいただきの道はけわしく、人力車は進まず、ときに牛の力を借りて車をすすめたのであった。)

午後五時、智頭村〈現在鳥取県八頭郡智頭町〉に着す。この日行程十里にして、一日行尽三国ほどというべし。村外に八頭郡書記猪口兼治氏、智頭村長今井幸作氏、哲学館出身田村透源氏等数名、出でてわが行を迎えらる。当夕、興雲寺にて開会す。哲学館出身前田洞禅氏その寺主たり。宿所は桝屋旅館なり。主催は村長今井氏、書記松尾氏、住職前田氏、富豪石谷伝四郎氏等とす。本県随行は森山玄昶氏なり。

 四日 晴れのち雨。午後、同所において開会あり。四面みな山、ただ智頭川の山間を縫って流るるあり。天候なお寒く、いまだ春暖〔に〕浴せず。

 五日 晴れ。川上寒風を排して車を駆り、用瀬〔村〕〈現在鳥取県八頭郡用瀬町〉に至りて開演す。

  智頭川上路依巒、急瀬醸風身亦寒、時入客亭先暖酒、春光不用擁炉看、

(智頭川のほとりに道は山にそって走り、はやい流れの瀬は風をおこして私の身体をもつめたくする。おりしも旅館に入って、まず酒をあたためるようにたのむ。しかし、春の光はもはやいろりをかこむこともなくなっているのだ。)

 会場は小学校、宿所は徳田旅館なり。しかして主催は村長椿新太郎氏、助役徳永式年氏、有志者井上千代蔵氏とす。

 六日 晴れ。河原村〈現在鳥取県八頭郡河原町〉に転じて開会す。会場は小学校、宿所は河田辰蔵氏宅なり。主催は河原村長河辺清六氏、助役谷口好蔵氏、および近村長西尾、倉信、田中、坂本等の諸氏なり。夜に入りて急雨きたる。

 七日 晴れ。暁光清新を覚ゆ。

  昨夜雨過洗駅塵、暁光無処不清新、漲天一白連峯雪、四月山陰未入春、

(昨夜、雨がとおりすぎて村のよごれを洗い流し、あかつきの光にすべて清らかにそしてもの新たになった。天にみなぎる白雲は峰の雪につらなり、山陰の四月はまだ春の季節に入っていないのだ。)

 これ、その実景なり。午前、河橋を渡り、安部村〈現在鳥取県八頭郡八東町〉に移る。会場は小学校にして、宿所は入江善太郎氏宅なり。同氏の庭園、美にして趣を成す。その一半は八東川の対岸に屏立せる天然の丘山を加うるところ、すこぶる妙なり。主人のもとめに応じて園名を兼山園とし、軒名を浸月軒とし、かつ題するに小詩をもってす。

  池浸天辺月、窓浮庭外山、客来相対坐、吟賞夜忘還、

(池は天の一角にかかる月をうかべ、窓は庭外のはるかな山を入れる。客が訪れてこれと対座すれば、吟詠し賞翫して夜にいたっても帰るのを忘れるほどである。)

 発起は入江氏、内田八男氏、西川元蔵氏、中村勝蔵氏、武田岩蔵氏等なり。内田氏、詩をたしなみて一絶を恵まる。余、その韻に和して答謝す。

  終年北馬又南船、跋渉山陰四月天、喜我八頭川上路、残梅花底訪遺賢、

(一年中、北には馬にのってゆき、また南では船にのって講演の旅を続け、四月の空のもと山陰の山野をあるきまわる。喜ぶべきことは私が八頭川のほとりの道を行き、残りの梅花のある地で民間にいる賢人を訪れたことである。)

 遺賢とは内田氏を指す。当日、郡長丹羽旦次氏来会あり。夜に入りて会食す。義太夫、謡曲等の酒興を助くるありて、快談深更に及ぶ。

  未酌泉声圧語声、已酔語声圧泉声、夜深酒尽人将散、更漏報来第二声、

(まだ酒をくみかわさぬうちは泉の音が話し声を圧するようにきこえ、すでに酔ったのちの話し声は泉の音を圧倒した。夜もふけて酒も尽き、人々も帰ろうとするとき、時刻は十時をつげたのであった。)

 八日 晴れ。八東川にそいて渓間をさかのぼり、若桜町〈現在鳥取県八頭郡若桜町〉に着す。街路の両側に清水の流下するありて、自然に山間市街の趣をなす。会場は西方寺なり。宿所小倉清逸氏の宅は新築まさに成り、用材の美、人を照らさんとす。軒下に小池ありて、大魚これに遊泳す。その夜景、詩中に入るる。

  繞屋清泉走、水甘魚自肥、点灯初夜後、影動似蛍飛、

(邸宅をめぐって清らかな水が流れ、水は美味、魚もおのずから肥えて大きい。灯をともして建築はじめての夜、光が動けばそれは蛍が飛ぶかと思われるのであった。)

 軒名を聴泉閣と命ず。別に茶席あり、朧々庵と名付く。主人のもとめに応ずるなり。夜に入り、主人弾琴を命じて雅遊を助けしむ。発起者は円井邦治郎氏(県会議員)、小倉礼吉氏(町長)、土肥実道氏(校長)、および藤原令教、中尾克己、松本善太郎、片岡鉄弥、五十嵐半六等の諸氏とす。五十嵐氏が今日は今日、明日は明日の境涯を送るといえるを聞きて一首をよむ、

  今日は今日昨日は昨日明日は明日、其日々々を大切にせよ、

 九日 雨。朝、円山氏の宅にて更に仏教大意の談話をなす。ときに竜徳寺住職中島瑞宝氏の贈詩に対し、「仏海茫々知幾程、山陰君独以禅鳴、汲来般若心源水、滴々教吾洗俗情」(仏教の世界は海のごとくひろびろとしてどれほどであるかも知れず、山陰の地に君はひとり禅をもって聞こえている。悟りをひらく知恵によって心の源にある水をくみとり、しずくのしたたるように私を教えて世俗の情を洗ったのであった。)の詩を賦して答う。午後一時より車を飛ばすこと四里半、賀茂村〈現在鳥取県八頭郡郡家町〉字郡家に至る。これ郡役所所在地なり。市街の形をなすといえども、一小村落に過ぎず。午後四時半より開演す。散会のときすでに点灯を要す。会場は小学校、宿所は旅亭なり。発起は村長西村亀太郎氏、助役杉本小太郎氏にして、郡役所内諸氏の助力あり。郡長丹羽氏の配意と郡視学蔵田慶蔵氏の斡旋とにより、各所において優待を受けたり。当夕、諸氏とともに会食す。

 四月十日(日曜) 晴れ。八頭郡を去りて鳥取市〈現在鳥取県鳥取市〉に移る。旅館は孔方楼、通称小銭屋なり。午後、真宗寺開催の釈尊降誕会に出演す。聴衆、大堂に充溢するの盛況を見たり。仏教青年会の主催にかかる。会長は長谷川熊蔵氏、会場住職は中村賀豊氏なり。

 十一日 雨。午後、高等女学校にて開演す。鳥取婦人団体の主催にかかる。女学校長は矢野和喜蔵氏なり。夜に入りて、真宗寺に開催の仏教青年会茶話会に出席す。

 十二日 晴れ。今回本県巡回に関し、県庁より多大の便宜を与えられたれば、午前中、告森県知事、事務官石津和風氏、同井本満助氏の官邸を歴訪して謝意を述ぶ。知事および井本氏は出京中にて不在なり。午後、鳥取中学校において開演す。市教育会の主催に出ず。会長は本部泰氏なり。中学校長尾原亮太郎氏には一面識あり。市長藤岡直蔵氏、図書館長遠藤薫氏も旧知にして、互いに相見ざるや二十年の久しきに及ぶ。当夕、偕老亭において特に余のために慰労会を催され、県官、教員等、四、五十名出席あり。師範学校長矢島喜源次氏、開会の旨趣をのべられたり。鳥取市開会に関して尽力ありしは、前記の諸氏の外に、石渡省吾氏、今村寿馬氏、入江澄氏、戸田信貞氏、松田精三氏、松本時太郎氏、小沢咲氏、浅沼喜雄氏、鈴木鉄次氏、榎本信一氏等あり。

 十三日 大快晴、一天雲なし。矢島師範学校長に送られて鳥取市を去り、岩美郡大岩村〈現在鳥取県岩美郡岩美町〉に移る。途中の海岸には一帯の砂丘あり、その長さ十余里に及ぶ。まず宿所対帆楼に着し、山陰奇勝の一たる網代浦の舟遊びを試む。この日や天朗らかに気清く、風軽く波穏やかなり。奇石怪巌林立屏列の間を縫いつつ舟行里許にして棹をとめ、白砂をむしろとして小宴を催す。あたかも羽化登仙の趣あり。即吟三首を得たり。

  怒涛千古洗山根、石骨成屏又作門、林立奇巌何以比、恰如万鷲截風奔、(鷲或作馬)

(荒い波は昔より山のふもとを洗い、骨のような岩石が屏のごとく、あるいは門をかたちづくる。林のごとく立つかわった岩をいったいなににくらべようか、あたかも多くの鷲(あるいは馬)が風をきってはしるがごときである。)

  孤舟一棹破波馳、迎送神巌鬼石欹、看訝山陰将尽処、天公何意作斯奇、

(一そうの小舟に棹さして波をきってすすみ、神々しい岩や鬼の手になるような荒々しい石のそばだつ姿に送迎された。見て山陰のまさに尽きはてる所に、造物主はいったいどのような意図があって、この不思議な景色をつくられたのかをいぶかしむのであった。)

  因山一帯対滄溟、碧浪如筵巒似屏、造化揮来神妙手、刻成竜石虎巌形、

(山による一帯は青い海原にあい対し、みどりの波はむしろのごとく静かに、山は屏にも似てたちはだかる。造物主は神妙不思議な手をふるって、竜のごとき石や虎のごとき岩の形を刻み造りたもうたのである。)

 この奇勝いまだ雅名を有せず、選名の任を余に託せらる。よって従来の俗称を改め、新たに雅名を付し、分かちて二十勝となし、その総名を仙巌浦と定む、

庚戌春日大岩客中会穏晴、波上如席、与郡視学村長等数氏共棹軽舟、遊于網代外浦、鬼石怪巌連立、如林如屏、其奇其妙、使看客目眩魂飛、実為山陰奇勝之魁矣、天橋或瞠若其後歟、余応需撰其名為仙巌浦、且分為二十奇、乃定其雅名如左、

(明治四十三庚戌の年の春、大岩村に旅客として訪れたところ、極めて穏やかな晴天にめぐりあった。波はむしろを敷きつめたごとく静かである。そこで郡視学、村長ら数氏とともに軽やかな舟に棹さして、網代のそと浦に遊んだ。鬼神の手に成るような石やあやしげな姿の岩が連なり立ち、林のごとくあるいは屏のごとく、その奇なること、その妙なること、見る者の目をくらませ、魂も消し飛ぶかと思われた。実に山陰の地におけるすぐれた景勝の第一である。天橋立もあるいはおどろきあきれて目をみはってそのしりえにつくであろう。余は求めにこたえて名を選び仙巌浦とし、かつわけて二十奇勝とした。すなわちその雅びな名をきめること左のごとし。)

(一)弁天嶼、(二)鬼住窟、(三)烏帽洲、(四)渡猿峡、(五)鳳松巌、(六)菩薩台(台、あるいは岑につくる)、(七)稚児岬、(八)天狗崖、(九)夫婦湾、(十)鼎足巒、(十一)灯明壇(壇、あるいは嶺につくる)、(十二)懸帆崗、(十三)観音礁、(十四)摩尼洞、(十五)鴨眠磯、(十六)浮木橋、(十七)菜花峰、(十八)仙遊澗、(十九)古城浜、(二十)達磨島

鳳松巌上有千貫松、其形似鳳因名鳳松巌、是二十奇中之主眼也、

(鳳松巌の上に値打ち千貫の枝ぶりの良い松があり、その形が鳳〔おおとり〕に似ていることにちなんで鳳松巌と名づけた。これが二十奇勝中のかなめである。)

 午後三時、帰館。すぐに竜岩寺に至りて開演す。住職田村透源氏(哲学館出身)はその主催たり。氏は山陰宗教界中名望家の一人にして、県下開会に関し交渉の中心に立ち、各所照会の労をとられたり。また、大岩村長石河和太郎氏、校長永見正作氏、網代村長生越相蔵氏等、みな尽力あり。

 十四日 快晴。本庄村〈現在鳥取県岩美郡岩美町〉岩井農業学校にて開会あり。主催は教育部会にして、会長松浦昇蔵氏、幹事栗林嘉太郎氏、同谷垣邦蔵氏等の発起なり。随所、桜桃村を擁し、菜花田に敷き、満目紫明、これに加うるに遅日和風、年中の好時節となる。当夕、更に車を飛ばすこと約一里、岩井温泉木嶋館に至りて泊す。本館主婦は県下第一の女丈夫と称す。館美にして景またよし。一条の流水屋後を走り、潺渓の声枕頭に聞こゆ。楼上晩望一首を得たり。

  晩到蒲生川上関、桃花流水是仙寰、楼々噴出霊泉気、凝作蒼烟染暮山、

(日暮れて蒲生川のほとりの関に至る。桃の花と流水のおもむきはこれこそ俗世をはなれた仙人の住むところである。旅館のそれぞれからは霊妙な温泉の噴気があがり、それはかたまりとなって青味を帯びた煙となり、暮れなずむ山を染めている。)

 岩井村長は峯本弥太郎氏なり、この地、実に山間小仙郷の趣あり。高楼軒を並べ、積翠窓に映じ、一朝鉄路全通の日は、あるいは城崎温泉をしのぐに至らん。

 十五日 晴れ。岩井を発して駟馳山下に一休す。哲学館出身井崎謙一氏、わが行を送りてここに至る。昔時、山上より池月の名馬を出だせりと伝う。茶亭の傍らに一円丘あり、丘上の眺望最も佳なり。余、これを駟馳台と名付く。一作あり。

  村外円邱聳一隅、登臨誰得不歓呼、田如棋局家棋子、海角巒光是畵図、

(村外の円い丘は一隅にそびえ、これに登るときは眺めのよさにだれもが歓呼の声をあげざるをえない。田は碁盤のごとく、家は碁石のごとく整然として、はるかな果てと山の姿はまさに一幅の絵である。)

 これより馬の先引きにて榎峠を上下し、鳥取市外を経、宇倍野村〈現在鳥取県岩美郡国府町〉法美農業学校に至りて開会す。主催は稲葉教育会にして、発起は校長須知十二郎氏、および横山重美氏、出井富五郎氏等なり。その夕、臼井友造氏宅に宿す。

 十六日 晴れ。朝、国幣中社宇倍神社に参拝す。祭神は武内宿禰にして、五円紙幣にえがける社殿はこの真景を写せるものなり。門庭人なく、ただ桜花のひとり咲〔わら〕うを見る。

  祠門桜独護、花下寂無人、一拝堪追想、二千年古春、

(宇部神社の門は桜だけがまもるようにたち、花のもとは静かに人影もない。ひとたび礼拝して二千年前のいにしえの春を追想したのであった。)

 これより三戸古村〈現在鳥取県鳥取市〉森福寺に至りて開演す。住職劉道智氏は哲学館館外員たりし縁故にて、大いに奔走せられたり。村長雨河善造氏、収入役山田勝治氏も助力あり。当夕、微酔ののち一詩を賦す。

  山陰深処泊禅城、不識本来面目情、傾尽三杯般若水、六根忽覚一時清、

(山陰の奥深いところにある禅宗の寺に泊まり、本来の体面なぞは全く気にしないのである。故に杯をかたむけて般若湯をのみ尽くせば、情を生ずる眼耳などの六根もたちまちにして一時の清らかさをおぼえたのであった。)

 四月十七日(日曜) 晴れ。岩井郡巡回はここに終わりを告ぐ。郡長井上孝道氏には出会いの機を失いしも、郡視学小林精太郎氏は、始終同伴して種々斡旋の労をとられたり。更に鳥取市を経、後車のきたるを待たんために監獄署前の茅店に休憩せるも旅中の一興なり。午後、気高郡豊実村〈現在鳥取県鳥取市〉小学校にて開会す。宿所は山本万蔵氏の宅にして、主催は同村青年会なり。しかして村長大塚松次郎氏、校長河崎松一氏、前村長玉野造酒蔵氏、実にその発起たり。

 十八日 晴れ。南風強く砂塵を巻く。吉岡村〈現在鳥取県鳥取市〉に至る。途中、湖山池をめぐりつつ行く所、風景すこぶる美なり。湖心に孤山の横臥するあるは、大いに風致を助くるもののごとし。

  翠巒繞水鎖三隅、一帯沙丘鉄路孤、山臥波心形似虎、湖山池是虎山湖、

(みどりの山々が湖水をめぐって三方をふさぎ、一帯の砂丘に鉄道が一路通る。山が湖心によこたわって形は虎に似て、これでは湖山池は虎山湖である。)

 通称湖山池というも、これを虎山湖と称して可なり。吉岡村は郡役所所在地にして、かつ温泉場なり、その地温泉に富むも、停車場をへだつる二里の遠きにおると、旅館の設備の良からざるために、上等客の入浴少なしという。有志家の合同によりて一大旅館を新設してはいかん。会場は小学校にして、宿所は油屋なり。しかして発起者は村長佐々木久太郎氏、助役花房清十郎氏、校長山本徳蔵氏の外、山口、平野、小泉、楠田の諸氏なり。当夕、はじめて蛙声を聞く。

 十九日 朝雨、のち晴れ。山路をこえて鹿野町〈現在鳥取県気高郡鹿野町〉に移る。途中、婦人の先引きをなすを見る。会場は幸盛寺にして、境内に山中鹿之助の墳墓あり。発起は町長柿田槙造氏、県会議員大森経三氏(哲学館館賓)、校長高田晴雄氏、横山滝蔵氏なり。しかして宿所は鈴木旅館なり。

 二十日 快晴。百花栄を競い、春色駘蕩、山紫水明の間をわたりて鷲峰山下小鷲河村〈現在鳥取県気高郡鹿野町〉に至る。山上なお雪痕をとどむ。会場は小学校にして、宿所は岡山鉄蔵氏の宅なり。同氏および村長三谷富蔵氏はその主催たり。岡田氏は俳句の宗匠にして、機外と号す。席頭に芭蕉翁の像を安置す。よって詩を賦して壁上にとどむ。

  鷲峰山畔小庵中、窓月瓶花悟色空、主客伝杯夜将半、芭蕉影下話俳風、

(鷲峰山のふもと、小さな庵のうち、窓の月と瓶の花に色即是空を悟る。主人と客人は酒をくみ交わして夜半にいたったのは、芭蕉像のもとで俳句の作風について語り合ったからである。)

 二十一日 午前晴れ、午後雨。本日は余の揮毫せる戦捷紀念碑の除幕式ありという。鴬声に送られて、小鷲河を去り、宝木村〈現在鳥取県気高郡気高町〉に転ず。途上の春光、詩をもって写出す。

  駅路春風遍、望中浮紫煙、桃桜埋矮屋、菜麦染平田、傍海沙丘臥、衝天雪嶺懸、因山兼伯水、到処入詩篇、

(村への道には春の風があまねく、一望すれば紫色の煙の浮かんでいるのが見える。桃と桜がひくい家屋を埋めるようにたち、野菜と麦の色が平らかな畑を緑に染めている。海をかたわらにして砂丘に臥せば、天をつき上げるような雪の峰がそびえる。因幡の山々と伯耆の海をあわせもつこの地の美は、いたるところで詩中に入るのである。)

 会場は小学校、主催は村長木下昇一氏にして、僧侶中尾不染、校長寺島庄次郎、大沢活人等の諸氏これを助く。宿所は初田熊蔵氏の宅なり。街上、清水の噴出するを見る。これ天然の水道というべし。

 二十二日 朝晴れ、のち雨。隣村正条村〈現在鳥取県気高郡気高町〉字浜村温泉場にて開会す。会場は小学校、主催は村長木下米造氏、長泉寺住職狩野洞竜氏(哲学館出身)にして、校長、区長これを助く。宿所鈴木旅館は温泉湧出し、かつ楼上風景清秀なり、この地、天然の砂丘をもって防波兼防風堤とす。停車場ありてかつ温泉あれば、将来有望の地たるべし。

 二十三日 晴れ。開会地は青谷村〈現在鳥取県気高郡青谷町〉なり。専念寺において公会を開き、興宗寺において茶話会を開く。興宗寺住職磯江興山氏は哲学館出身にして、開会に尽力あり。主催は村長山名寿太郎氏にして、他村長、校長これを助く。浦川真竜氏等の宗教家も助力あり。宿所は竹中旅館なり。当夕、伯州より団野亀吉氏、福井正夫氏来訪ありて、歓迎の詩を示さる。両氏ともに間接に相知る。すなわち次韻をもってこれに答う。

  客中迎送幾寒暄、歳月疾於車馬奔、再到山陰人已老、喜君依旧友情敦、

(旅にあるあいだの送迎されることでどれだけの挨拶が交わされたであろう。歳月は車馬の奔走するよりも早くすぎる。再び山陰の地に至れば人はすでに老いてはいるものの、君がむかしからのよしみによってあつい友情をいだいてくれていることが喜ばしい。)

 郡視学森田勘吉氏は郡内各所案内の労をとられ、諸事に便宜を与えられたり。本州を去るに臨み、更に一絶を賦す。

  欲食烟霞忙去留、春風北馬又南舟、詩傷已飽因山勝、更転吟輪入伯州、

(山水のよい景色をあじわいたいと願って行くかとどまるかに悩む。春風の吹くこのとき北では馬にまたがり、また南では舟にのって行くのである。詩作も食傷ぎみであり、すでに因幡の山岳の景勝にも満足して、さらに吟詠の車をめぐらせて伯耆の国に入ろうとするのである。)

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鳥取県紀行第二、伯耆の部

 明治四十三年四月二十四日(日曜) 晴れ。因州気高郡青谷村を去りて伯州東伯郡に入る。初会は宇野村〈現在鳥取県東伯郡羽合町〉安楽寺において開く。住職伊藤諦成氏、村長尾崎清蔵氏、校長団野亀吉氏の主催なり。当村は製網を業とするもの多し。また、一種の俗謡あり、「宇野の沖から貝がらが招く、かゝよまゝたけでにやならん」。豪農尾崎積氏の先代は陰徳家なりというを聞き、「為衆栽松樹、積年枝葉繁、一村仰陰徳、百世浴余恩」(民衆のために松樹をうえ、年ふりて枝葉繁茂す。村をあげてその人に知られぬ善行を賛仰し、百世の後までも残された恩徳をうけるであろう。)の四句を賦す。団野氏は東伯の詩宗なり。

 二十五日 雨のち晴れ。日下村〈現在鳥取県倉吉市、東伯郡羽合町〉洞光寺において開会し、発起人福井正夫氏宅にて宿泊す。しかして主催の名義は尚徳会なり。会後、更に茶話会を催す。村長岡野勘蔵氏、医師岸田見秀氏、実業家伊藤伝蔵氏、野一色良吉氏等助力あり。福井氏の楼上、大仙山を望見す。故にその名を選して対仙閣とす。かつ一詩をとどむ。

  一軒隔樹向田開、麦緑菜黄詩思催、不要吟笻曳山野、伯陽春色入窓来、

(軒は樹木をへだてて田野に向かって開け、麦の緑と菜の黄色は詩情をかきたてる。吟詠の杖をもって山野を行く必要はない。なぜならば、伯耆の南の春景色は窓からあじわえるのだから。)

 二十六日 快晴。倉吉町〈現在鳥取県倉吉市〉成徳学校講堂にて開演す。聴衆満ちて堂外にあふる。町長尾崎忠平氏、曹洞宗務所長内田素堂氏、因伯仏教孤児院主八雲竜震氏(哲学館出身)その発起たり。当夕、旅宿岡本旅館において農学校長、中学校長、小学校長と会食す。日夜、煙花あり、山車あり、その前後に仮面をかぶり奇装をなすもの列をなす。これ、中学の新築を祝するためなりという。

 二十七日晴、午後、大岳院にて開演す。堂宇壮大なるも修繕を要す。八雲氏の独力活動せるを見て、「八雲たつあれは仏の海にすむ竜のふきだす気㷔なるらん」と書してこれに与う。日暮に至り、車を飛ばして東郷温泉養生館に移る。館は湖中に突出し、波光欄に映じ、かつめぐらすに翠巒をもってす。晩望ことに佳なり。本邦温泉多しといえども、湖中に噴出せるもの他にその類少なし。これに加うるに風光の明媚なるあり。設備もまた山陰第一と称するも過賞にあらざるべし。名物鰻魚はその名、京阪に聞こゆ。

  霊泉一道湧湖中、巒影波光映小櫳、浴後炙鰻対山酌、酔来自覚在仙宮、

(霊妙なる温泉がひとすじ湖のなかから湧き出て、山の姿と波の光は小さなれんじまどにうつる。温泉に入ったのちに焼いた鰻を前に山にむかって酒をくみ、酔いのまわるほどにここは仙人の住むところとさとったのであった。)

  巒屏湖鏡繞楼台、中有神泉噴出来、勿問仙源何処在、養生館是小蓬莱、

(山々は屏のごとく、湖は鏡のごとく旅館をめぐり、そのなかに神妙な温泉が噴き出している。仙人の住むところはいずこにあるかなどはたずねてくれるな、養生館こそは神仙が住むという小蓬莱なのだから。)

 当夜、竜徳寺〔東郷村〈現在鳥取県東伯郡東郷町〉〕にて開演す。村長山本庄太郎氏、校長佐々木粂蔵氏等の発起なり。

 二十八日 雨。東郷を発して由良村に向かう。途上、麦浪菜洲の間を一過するに、吟情勃然として動ききたる。すなわち福井氏恵詩の韻を次ぎて一律を賦す。

夜来残雨未全晴、客舎穿泥就暁程、汽笛吐煙知駅近、麦畦漾浪覚風生、望窮仙岳雲辺断、身向由良浦上行、到処何憂無旧識、江山与我結詩盟、

(昨夜からの残りの雨がまだ全く晴れぬままに、旅館からぬかるみに足をとられつつ暁のみちのりにふみ出す。汽笛を吐いた煙に駅が近いことを知る。麦のうねはゆれうごいて波のごとく、そこから風が生ずるように思われた。はるかに大仙山をみきわめれば雲にさえぎられており、私は由良村に向かって海辺を行くのである。行くさきにむかしなじみがいないことなど、どうして気にする必要があろうか。江と山と私は、ともに詩によって深いちぎりを結んでいるのだから。)

 由良村〈現在鳥取県東伯郡大栄町〉会場は育英黌、主催は豊田太蔵氏にして、役場員、教職員、宗教家等これを助く。教員三枝蓊二氏の韻を受け、「講道育英裏、四隣隔世氛、願君使斯校、志士聚如雲」(人の道を明らかにし、俊英を育成しつつ、四方近在は世俗の悪気より隔絶している。願わくば君はこの学校に志ある人々が雲のごとくあつまるようにされたい。)の小詩を賦して黌主に贈る。宿所は塩谷旅館なり。

 二十九日 朝晴れ、暁気霜を帯ぶ。のち暴風の兆しあり。会場は八橋町〈現在鳥取県東伯郡東伯町〉小学校、主催は戊申会にして、町長藤本重郎氏、校長本田富造氏の発起にかかる。藤本氏は東京なる大道社幹事たりしときに相識れり。爾来郷里に退隠し、俗務の傍ら読書をもって楽しみとす。蔵書の数、三万巻に及ぶという。その令息押本義氏は哲学館出身の一人なり。当夕、中井旅館に宿す。郡視学牛尾淑人氏、前後二回来問あり。

 三十日 晴れ。西伯郡視学羽山八百蔵氏に迎えられて、東伯郡を去りて西伯に入る。当日は弘法大師の忌日なりとて、八橋町の一部は戸ごとに大師の像を軒下に安置し、近在より参集せるもの、みな米を散じて拝過す。八橋を去ること里許、赤碕町軍馬育成所の桜花を一覧す。その七、八分はすでに落下せるも、わずかに白桜ありて満開を持せり。これより車上、大仙山、船上山を望見しつつ西伯郡御来屋町〈現在鳥取県西伯郡名和町〉に移る。まず別格官幣名和神社に登拝す。社後より今なお焦粟を出だす。これ元弘年中の遺物なり。門前桜樹多く、落花地に敷く。所蔵の詩、一首あり。

  一道桜林自作窠、拝神人蹈落花過、何知孤憤当年涙、滴々結成焦粟多、

(ひとすじの道に桜の林が枝葉をのばしておのずからトンネルの体をなし、神社に詣でる人々は落花をふんで行く。いったい孤立無援のいきどおりや当時に流した涙についてどれだけの人が知っているであろうか。したたり落ちた無念の涙はやけこげた栗の多さとなって結ぼれているのである。)

 会場は小学校にして、主催は教育会および仏教会なり。しかして町長吉田襄三氏、校長坂口定治氏、有志家角田鹿造氏、庄内校長板喜一郎氏等、諸事を斡旋せらる。宿所後藤別館は海潮軒下に打ち寄せきたり、涛声胸襟を洗うがごとき思いをなす。よって楼名を選して洗心楼と定む。近くは美保の岬角と相対し、遠くは隠州を波際に望む。実に海水浴の良地たり。

 五月一日(日曜) 晴れ。淀江町〈現在鳥取県西伯郡淀江町〉に転じ、小学校にて開演す。主催は学校組合会にして、高等校長足立正氏、尋常校長新見熊市氏等、教員諸氏の発起にかかる。宿所不老園は別荘的設備にして、楼あり閣あり、軒あり亭あり、庭園の白砂洗うがごとく、まじゆるに稚松をもってし、海潮を数歩の間に見、弓浜関岬目前に連なり、仙岳霊峰背後にそびえ、その風景の殊絶なること他に多く見ざるところ、不老園の名その当を得たりというべし。更に選名して一棟を迎仙閣となし、別館を招鶴楼となす。みな園名にちなめるなり。楼上晩望の一作あり。

  養寿尋来不老園、倚欄遠望日将昏、弓浜断処関山続、岬角楼灯照海門、

(寿命に気をつけて不老園をたずね、てすりにもたれて遠く日の暮れかかるのを眺める。弓ヶ浜の終わる所に美保関の山が連なり、岬の灯台は海峡を照らしているのである。)

 この海浜一帯は消夏潮浴の良地たること疑いなし。町外に石馬祠あり、古墳多しという。

 二日 曇り。大和村〈現在鳥取県西伯郡淀江町〉浄福寺にて開会す。竹林草堂をめぐり、窓影四時青し。住職小谷豊丸、校長古市栄、村長井上皎諸氏の発起なり。

 三日 晴れ。日野川の長橋を渡りて伯州第一の都会たる米子町〈現在鳥取県米子市〉に移る。当日、高等女学校の開校式ありて、県官の来泊あり。午後、西念寺において開会す。邸宅新築まさに成り、瓦光柱色、庭際の牡丹、鵑花と相映じて人を照らさんとす。住職豅経丸氏は間接に相識る。宿所は米村旅館なり。館内、腕車にて出入すべし。その後楼は湊山と対峙す。当日、井本事務官の来訪ありたるも会見するを得ず。夜に入りて、石津事務官と座談を交ゆるを得たり。

 四日 曇り。午前、中学校に至り、生徒のために演述す。校長は林重浩氏なり。午後、角盤高等小学校において開演す。鈴木千代松氏その校長たり。郡長友成正氏出席せらる。主催は学校組合会および仏教同盟会にして、羽山、豅、鈴木三氏、小谷善保氏、野坂吉五郎氏等、もっぱら尽力あり。

 五日 晴れ。朝、米子を辞し、再び長橋を渡りて大高村〈現在鳥取県米子市〉に向かう。途上これを望むに、大仙山の雲間に隠見するところ、真に活画の趣あり。

  一角雲封一角開、芙蓉半朶挿天来、春風日野川頭客、仙岳時為詩酒媒、

(一方は雲にとざされ一方は開き、芙蓉にも似た山容のなかばは天にさしかかるように見える。春風の吹きわたる日野川のほとりにたたずむ旅人がいて、大山はときあたかも詩と酒のなかだちとなるのである。)

 会場は高等小学校にして、主催は校長真野庄太郎氏、尋常校長坂口菊太郎氏、村長川上角太郎氏、書記青木金次郎氏なり。しかして篠村隆太郎氏、沢口董氏、中岡亀次郎氏、元妹鉄次郎氏、山川為次郎氏等の諸校長も、主催者を助けてみな大いに尽力あり。演説前、国幣小社大神山神社に詣す。門庭寂々、人影を見ず。宿所は近藤旅館なり。

 六日 雨のち晴れ。西伯郡各所開会に羽山郡視学の同伴せられ、周到なる注意を与えられしは謝するところなり。ここに同郡を去るに際し、氏と一別を告ぐるに至る。本日の会場は日野郡溝口村〈現在鳥取県日野郡溝口町〉小学校にして、村長円城寺憐氏、校長芦立吉一郎氏等の発起にかかる。しかして主催は郡内各所ともに郡農会とす。郡役所より郡長代理として首席書記奥村弘道氏出張あり。

 七日 曇り。渓頭の一路をさかのぼりて二部村〈現在鳥取県日野郡溝口町〉に至る。これ郡衙所在地なり。会場は小学校旧校舎にして、発起は村長山根幸史氏、校長池田茂一郎氏等とす。聴衆の少なきは昨今苗代最中なるによる。宿所は富田旅館なり。

 五月八日(日曜) 雨のち晴れ。二部より迂回して江尾村〈現在鳥取県日野郡江府町〉に転ず。この辺り一帯山高く渓深く、わずかに渓流にそって一条の駅路を通ずるのみ。会場小学校は校舎古くして朽廃に傾きつつあるも、目下新築中なりという。邸前にて発起者とともに撮影す。村長中島利重氏、青年会長手島義一氏、校長西村長太郎氏等の発起にかかる。宿所は門脇旅館なり。

 九日 晴れ。車行数里、渓上の新緑森々の中、紅紫の花の点在せるを見るは、大いに旅客の目をたのしましむ。背視すれば、仙岳のわが行を送るあり。

  一渓千曲路相随、崖漸懸辺車漸遅、背視角盤山上雪、恰如天半玉簾垂、

(ひとつの谷は千回も曲折するごとく、道もまたしたがってまがりくねる。崖のややそそりたつあたりで人力車はようやく遅くなる。背後に角盤山上の雪を見る。それはあたかも天の半ばに玉すだれのかかるがごとき姿であった。)

 角盤山は大仙の一名なり。本日の会場は根雨村〈現在鳥取県日野郡日野町〉小学校とす。郡長井上廉治氏も来会せらる。その地渓山の間に介在し、前後高嶺をもってとざさるといえども、雲州より山陽に出ずる要駅にして、郡内第一の都会なり。したがって宿所緒形旅館(通称茶屋)のごときも郡内第一と称す。これより四十曲の嶺頭まで三里ありという。開会は村長山田竹次郎氏、校長山本長次郎氏の発起にかかる。

 十日 雨。郡視学内藤静氏の案内にて郡の中部に向かう。山また山、渓また渓の間を上下迂回して黒坂村〈現在鳥取県日野郡日野町〉に入る。途上の所見を写すこと左のごとし。

  一路風光雨後新、紅花緑葉満山春、渓行数里無人過、只与水声雲影親、

(ひとすじの道の風光は雨後の新鮮さにみち、あかい花と緑の葉とは山をおおう春景色となっている。谷を行くこと数里なるも人の通ることなく、ただ水音と雲の姿が身近かにあるばかりなのだ。)

 一村の風致は「門前山色春開畵、屋後渓声夜奏琴」(門前の山の景色は春、画巻を開くがごとく、家屋の背後に谷川の音がきこえて、あたかも夜に琴の音を奏しているがごとくである。)の二句をもって写すを得。会場は小学校、宿所は高野屋、発起は村長柴田多三郎氏、校長杉原猪作氏等なり。

 十一日 暴風雨。出車するを得ず、終日休泊し、更に一詩を案出す。

  碧水源頭路、白雲深処村、俗塵渾不到、戸々悉禅門、

(みどりの水源のほとりの道に、白雲の生ずるような奥深いところの村がある。俗世のちりなどまったくここには至ることなく、家々はことごとく禅宗である。)

 当地の特産は紫水晶なりという。その他この辺り一帯の地脈は砂鉄を含み、雲州仁多郡と地質を同じくす。しかして地形はかえって石州邑智郡に似たり。

 十二日 晴れ。早朝、黒坂を去り、山行六里、印賀を経て阿毘縁村〈現在鳥取県日野郡日南町〉に至る。船通山下の孤村にして、雲州仁多郡に隣接す。その地位の高きこと郡内第一とす。ここに名刹あり、解脱寺という。日蓮上人の旧蹟にして、信者遠近より参集す。この日あたかも会式にして、境内群散、日中より夜を徹するに至る。門前に大鳥居あるは仏寺として奇観を呈す。会場小学校は構造堅牢かつ清美にして、郡内の模範たり。かかる深山の中にかかる美校を見るは、なにびとも一驚せざるはなし。校長は川上佐太郎氏なり。当夕は村長矢吹輝太郎氏の宅に宿す。孤楼危立、山に面し田に枕し、樹影蛙声と相接する所、すこぶる詩思を動かす。日まさに暮れんとするや、白雲たちまち四方に起こり、咫尺を弁ぜず。ときに窓を開けば雲おのずから室に入るは、実に深山の趣あり。

  船通山下一渓深、源上孤村好養心、雲起忽然天地暗、水琴蛙皷伴閑吟、

(船通山のもとに谷は深く、源のあたりの一村は心を養生するによい。雲が起こればたちまちにして天地もくらく、水音の琴のごときも蛙のつづみのごとき鳴き声も静かに詩歌を口ずさむにともなうのである。)

 十三日 曇り。朝、解脱寺に登詣し、山上村を経て宮内村〈現在鳥取県日野郡日南町〉字矢戸に至る。羊腸の急坂を下ること約半里にして、宿所田中儀太郎氏の宅に着す。一楼新たに成る。主人のもとめに応じて留祥閣と命名し、かつその風光を写すに詩をもってす。

  欄外水声走、軒前山影懸、停留纔半日、一枕夢神仙、

(留祥閣のてすりの外に水声も高く走り、軒の前には山の姿が見える。とどまることわずかに半日、一睡して神仙を夢にみたのであった。)

 これより多里を経て備後の国境に至るに四里ありという。会場は小学校にして、相見義健氏その校長たり。多里村長田辺金太郎氏、宮内助役石脇新太郎氏等の発起なり。

 十四日 晴れ。霞村を経て一嶺を攀じ、大倉山麓をめぐりて石見村〈現在鳥取県日野郡日南町〉字上石見に至る。備中の国境をへだつることわずかに八丁なり。五月なお炬燵を見る。気候の寒冷推して知るべし。会場福重寺は廃頽の相あり。また、もって宗教の不振を見る。村長は新田竹太郎氏なり。当夕、宿所安達旅館において本郡送別の晩餐会を開く。奥村郡書記、殊更に出張せらる。同氏および内藤郡視学は交代して案内の労をとられ、各所の主催は郡農会にて引き受けられたるは、ともに謝するところなり。当地にはハンジャケと名付くる珍魚を産す。すなわち山椒魚なり。はじめてその調理を味わう。郡内の実景は小詩をもって一括するを得。

  人跡何辺在、渓居巌作扉、山中無一物、只有白雲飛、

(人跡はいったいどこにあろうか、谷の住まいは岩石をもって扉としているようだ。山中にはこれというものもなく、ただ白雲の飛び行くばかりである。)

 かくのごとく渓山重々、雲水濛々「蒼波路遠雲千里、白霧山深鳥一声」(あおい山波に道は遠く、雲は千里にわたる。白い霧の湧く山は深く、鳥の一声を聞くばかり。)の山郷なれども、車道の縦横に貫通せるは予想の外に出ず。

 五月十五日(日曜) 晴れ。ここに鳥取県を巡了し帰京の途次、山陽、畿内数カ所にて開演する前約ありて、備中に向かい日野郡を去る。

 鳥取県は全部山脈屏立波走し、その平地に乏しきは石見、但馬と相似たり。県内は一条の鉄路あり。また、いたるところ腕車を通ずべしといえども、山陽と高嶺をもって隔てられ、出入容易ならず。したがって人気淳朴、物価安廉、かつ遠来の客を歓待する風あり。余の巡遊中のごとき各所ともに歓迎歓送、もってわが行を壮にせられたるは深謝するところなり。言語は解しやすし。ただし、方言の聞きなれざるものは、はなはだしいをゴツイといい、うるさいをヨダキーといい、賢きをオゾイといい、疲れたをガメタというの類二、三あるのみ。しかして西伯郡は出雲の語調を帯びて通じ難きところあり。温泉は実に本県名産の第一に算すべし。将来、外客を引くの有力なる中心は温泉なり。また、海水浴は各所に適恰の良地あり。なかんずく岩美郡の仙巌浦のごとき、西伯郡の沿岸のごとき、将来もっとも有望なり。教育は、校舎の設備においては隣県に数歩を譲るがごとき観あれども、内容は必ずしもしかるにあらざるべし。宗教は、これを島根県に比するに概して不振の方なり。寺院の廃頽せるもの多きを見る。実に宗教家の奮起を要するなり。旅行中目撃せるもののうち奇異に感じたるは、香の物をチョクに入るること、米俵の標本を路頭に掲ぐること、神に賽するに米を散ずること、屋根瓦の赤色を帯ぶること、人力車の前に鉄棒を横たえること、人力の先引きに牛馬もしくは婦人を用うること、人狐、トウビョウの迷信の行わるること等なり。これ因伯の七奇ならんか。そのうち二、三は島根県と一致す。しかしてチョクを香々入れとすること、高知県と一致するはすこぶる奇なり。人狐は西伯、日野両郡に限りて行わるるは出雲の感伝ならん。トウビョウは八頭郡内に多し。広島県などにて行わるるものと全くその種類を異にし、むしろ雲州の人狐の類なり。その血統を引き、社交上に影響するなど、また同じ。時間を確守せざるがごときは、ひとり本県に限るべきにあらず。席次を定むるに推譲の時間の比較的ながきは、旧習を守るの固き故ならん。ここに妄評を贅記して紀行を結ぶ。

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山陽、畿内一部紀行

 明治四十三年五月十五日、暁寒をおかして因州日野郡石見村を発し、登ること四、五丁にして嶺頭に達し、これより数里深渓の間、急流に伴って車降し、その間、蜀の桟道に類する所ありて、車をとめんとするもの数次に及ぶ。ときまさに初夏、緑葉紅花の清潭に映ずるありて、なんとなく身は山水画中にありて行くの思いをなす。

  穿尽因雲与伯煙、吟眸更被備山牽、杜鵑啼送渓頭路、翠影侵車樹繞天、

(因幡の雲と伯耆の煙とをくぐりつくし、吟詠の目はさらに備中の山にひかれて行く。ほととぎすのなく声に送られるように谷川のほとりの道をゆき、みどりの色は濃く車のなかにまで入り込んで、樹々は高々と天をおおっている。)

 渓行七里にして備中国阿哲郡新見町〈現在岡山県新見市〉に着す。山間の一都会なり。四面めぐらすに数帯の連山をもってす。会場は劇場にして、主催は青年会なり。新聞記者宮武栄次郎氏、郡視学高田照吉氏の村外に出でて迎うるあり。郡長神本国臣氏、国風二首を書して迎えらる。宿所は大坂屋旅館なり。

 十六日 曇り。早朝、冷霧を破りて新見を発し、高梁川の清流にそいて車走し、懸崖千仭の下を出没し、その雄壮なる風光は往々耶馬渓を凌駕し、赤壁を圧倒せんとする勢いあり。井倉橋畔最もよし。これに次ぐは広石橋頭なり。

  幾曲嵓屏鎖碧流、渓橋懸処景尤優、如今若使坡翁在、必向高梁川上遊、

(いくたびか曲折し、岩は屏のごとくみどりの流れをとざして、谷にかかる井倉橋のあたりからの景色は最もすぐれている。いまもし、かの『赤壁賦』の作者蘇東坡がいたならば、かならずや高梁川のほとりで舟遊びをすることであろう。)

 ひとり懸崖のみならず、その前後の風光あたかも「春過峡樹残紅尽、雨歇層巒積翠新」(春もすぎて山峡の樹々に散り残りのあかい花も尽きはて、雨やんで後のかさなる山々の積み重なるような緑も新たになった。)の趣あり。その間、船筏の急湍を上下するところ、更に山水をして活動せしむるの観あり。車行して田井渡頭に至れば、新橋開通式の最中なり。ここに期せずして哲学館出身釈尾春芿氏に邂逅す。氏は韓国よりきたりて郷里の故旧を訪問すという。また奇遇なり。この日、行程九里、午後一時、上房郡高梁町〈現在岡山県高梁市〉に着す。備中第一の都会なり。十数名の有志者に迎えられて、旅館しげ屋に入る。夜に入りて開会す。会場小学校なり。

 十七日 晴れ。午前、中学校に至りて一席の講話をなす。校長は柳井道民氏なり。午時、発起諸氏とともに会食す。夜また開会あり。両夕ともに聴衆、場内にあふる。主催は郡教育会および仏教青年会にして、郡長妹尾経時氏、郡視学塩見東八氏、小学校長桂泰治郎氏、中村藤平氏、宗教家薬師寺義鎮氏、水野徹翁氏、有志家板倉信古氏、堀潜蔵氏をはじめとし、赤羽子良氏、亀山新助氏、妹尾善平氏、杉山武章氏、ないし大西陶山等の諸氏二十六名の発起にかかる。特に郡長の厚意をになう。

 十八日 晴れ。早朝、高梁町を辞す。江上の宿霧いまだはれざる間に数里を走り、九時半、湛井駅に着す。ここに至りてはじめて平原を見る。連日深山幽谷を跋渉し、山気に酔いたる心地せしを覚ゆ。これより汽車に投じて十二時、岡山駅に着す。上道郡西大寺町より鼓義算氏(哲学館出身)出でて迎えらるるありて、ともに旅館錦園(吉田屋)に入りて午餐を喫す。客室みな茶席風にして、庭池また大いに雅致あり。これより一走して西大寺町〈現在岡山県岡山市〉高等女学校に入りて講話をなし、ただちに西大寺観音院に移る。鼓氏これに住す。本堂は西大寺川の岸上に立ち、石門あり高塔あり、長橋と相対するところ、すこぶる風致あり。台上晩望の一絶を賦す。

  金陵山畔一川長、塔影鐘声欲夕陽、時在観音台上望、晴虹映水是橋梁、

(金陵山のかたわらにひとすじの川が長々と流れ、寺塔の影と鐘の声に夕日が沈もうとしている。ときに観音台の上から一望すれば、雨あがりの虹が水面にうつるごとくかかるのは長い橋である。)

 金陵はその山号なり。毎年旧正月十四日、会陽と称する大会式あり。信徒十カ国より雲集し、その数十五万人の多きに及ぶという。夜に入りて開会す。鼓氏の主催にして、郡長石川正夫氏、町長山崎弥平氏、郡視学尾藤壮太郎氏、女学校長沼田頼輔氏これを助けらる。当夕、はじめて蚊帳を用う。

 十九日。朝、犬の先引きにて西大寺を発し、車行二里にして鉄路に駕し、十一時、備後国深安郡福山町〈現在広島県福山市〉に移る。宿坊は観音寺なり。門庭、堂宇ともに清美にして、その位地またよし。楼上はるかに碧湾を隔てて四国の遠山を望む。

  蕭寺依巒境自閑、入門忽覚是仙関、台端一望春波碧、烟裏遥浮四国山、

(すがすがしい寺が山にそってたち、その環境はおのずから静かに、寺門を入ればたちまちにしてこれこそ仙人の住むところとさとる。楼台の端から一望すれば春の海はみどりに、けむるもやのなかにはるかに浮かぶのは四国の山々である。)

 午後、中学校に至りて開演す。郡教育会の主催なり。校舎は旧来の形を存し、当世風に改築せざるところ、おのずから特色あり。つぎに、高等女学校に転じて開演す。郡斯民会の発起なり。哲学館出身者中野堅照氏の伊予よりきたるあり。同下江源三郎氏の芦品郡戸手村よりきたるあり。ともに相携えて福山城跡に登覧し、山陽風光明媚の一端を望みて観音寺に帰る。

 二十日。午前、深安郡川北村〈現在広島県深安郡神辺町〉神辺に至りて開演す。やはり斯民会の主催に出ず。この村は菅茶山の出身地なり。これより福山に帰りて乗車す。郡内開会に関しては郡長吉田弘蔵氏、町長市来圭一氏、中学校長青木儀太郎氏、女学校長表甚六氏、小学校長中井愛之助氏、同梅田広太郎氏、光善寺苅谷祐範氏、最善寺広住右玄氏、信行寺清水坊正準氏、長尾寺長尾祐禅氏、胎蔵寺竹原恵乗氏、観音寺棗田良道氏等、みな尽力せらる。なかんずく棗田氏は最初より交渉の労をとられたり。午後五時、播州姫路駅に着し、更に播但線にて福崎駅に降車し、神崎郡役所所在地たる田原村〈現在兵庫県神崎郡福崎町〉辻川旅館桝屋に入る。ときすでに八時半なり。

  山陽一路鉄車馳、三備風光望裏移、白鷺城頭天已暮、初更戴月入神崎、

(山陽のひとすじの鉄路に汽車が走り、備後、備中、備前の風景は見るまに移る。白鷺城のあたりはすでに暮れて、初更〔十九~二十一時〕には月を頭上にいただいて神崎の町に入ったのであった。)

 白鷺城は姫路〔城〕なり。

 二十一日 晴れ。午前午後両度、郡教育会の依頼に応じて振武館において講演をなす。会長は郡長森田久忠氏にして、幹事は郡視学松田竜太郎氏、校長楠田雅一郎、井上真吉、本間亀太郎、沼田吾一諸氏なり。この日、はじめて蝉吟を聞く。

 五月二十二日(日曜) 晴れ。午前七時、福崎駅を発車し、十一時、大阪〈現在大阪府大阪市〉に着駅す。宿所を市内北区下三番東光院、通称萩の寺に定む。午後、夕陽丘高等女学校講堂において開演す。聴衆、満場を得たり。主催は仏教懇話会にして、哲学館同窓会これを助く。会後、更に西照館にて同窓の晩餐会を開催す。出席者約五十名、そのうち哲学館出身二十名あり。その連名、左のごとし。

  間人 一良  潮田 玄丞  今井 豊稚  佐々木祐玄  吉井  五  松井 亀蔵  新町徳兵衛

  寺井 恵隆  日種 観明  松本 雪城  青木 了栄  戸田 福蔵  岡田 桂岳  遠藤 晃雄

  寺西 勝賢  明林 心海  沖田 虎一  森山 玄昶  伊賀駒吉郎  高安 博道

 伊賀、高安両氏はその幹事たり。京北中学出身にして大阪高等工業学校在学中の内田事、岩崎勇、酒井久吉の三氏も出席あり。また、元哲学館講師池田精一氏、出身望月鵬之助氏、上村観光氏の訪問あり。夜九時、宿坊に帰る。

 二十三日 晴れ。早朝、京北出身者と撮影し、河内国北河内郡四条畷中学校〔四条村〈現在大阪府大東市〉〕に至りて講話をなす。その途中、小楠公の墳墓を参拝す。所感一首あり。

  老樹擁碑石、小楠公此眠、英霊長不滅、千載照山川

(老いた樹が碑石をとりかこみ、小楠公楠正行がここに眠る。英霊はとこしえに不滅であり、千年も山や川を照らしているのである。)

 中学校長は服部一二氏なり。午後、門真村〈現在大阪府門真市〉なる高等女学校に移りて開演す。三宅由太郎氏その校長たり。郡教育会の主催にして、郡長斎藤研一氏、郡視学佐々木法秀氏の発意に出ず。当夕、香里遊園を通覧して友呂岐村三井本厳寺に入宿す。本門法華宗の根本道場にして、日種観明氏これに住職す。本郡の開会に関しては、日種氏最初より奔走、照会の労をとられたり。

 二十四日 晴れ。本厳寺堂宇さきに廃頽を極め、屋上の寄生松、その高さ一丈余に及べり。改築に際しこれを庭後に移植すというを聞き、日種氏に代わり小詩を賦してこれに題す。

  仏堂廃頽久、屋上秀孤松、移植在庭後、願常護我宗、

(仏堂のすたれくずれることはすでに久しく、屋上にのびる一本の松は、移植して庭の後ろにある。願わくば常にわが仏教をまもってほしいものだ。)

 午後、枚方町〈現在大阪府枚方市〉に移る。郡役所所在地なり。願生坊において演述す。しかして宿所は角屋旅館なり。楼上に座すれば眼下に淀川の長流を控え、遠く摂山の起伏せるを望むところ、すこぶる壮快を覚ゆ。

  長江一道水潺渓、笛艇帆舟往又還、日落楼頭村不見、隔烟遥対摂州山、

(長々とした川がひとすじ、水はさらさらと流れ、汽笛をならす船や帆かけ舟が往来している。日暮れて旅館階上からも村は見えず、もやをへだてて、はるかに摂津の山々にむかいあっているのである。)

 従来クラワンカ船と称して、客船のここに着するや、食品を売るもの「クラワンカ」と呼ぶを例とせりという。

 二十五日 晴れ。午後、交野村〈現在大阪府交野市〉小学校に至りて開演す。校内に千人以上をいるるべき体操場兼講堂を有す。たちまち車をめぐらして枚方に帰り、電車にて京都に入り、更に夜中十二時半の急行にて名古屋に向かう。

 二十六日 晴れ。朝四時半、名古屋に着し、清駒旅館に小憩して共進会を一覧し、即日東行に乗車して、夜九時、帰宅す。

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鳥取県およびその前後開会一覧

     鳥取県開会一覧表

   郡市   町村     会場    席数   聴衆     主催

  鳥取市         中学校    二席  八百人    市教育会

  同           高等女学校  二席  七百人    鳥取婦人団体

  同           寺院     二席  一千人    仏教青年会

  同           同前     一席  三十人    同茶話会

  八頭郡  若桜町    寺院     二席  四百五十人  町内有志

  同    同      民家     一席  三十人    仏教懇話会

  同    智頭村    寺院     四席  四百人    村内有志

  同    用瀬村    小学校    二席  五百人    村内有志

  同    河原村    小学校    二席  四百人    近村連合

  同    安部村    小学校    二席  三百五十人  村内有志

  同    賀茂村    小学校    二席  三百人    村内有志

  岩美郡  大岩村    寺院     二席  三百人    会場住職

  同    本庄村    農業学校   二席  三百人    教育部会

  同    宇倍野村   同前     二席  四百人    教育部会

  同    三戸古村   寺院     二席  三百五十人  会場住職

  気高郡  鹿野町    寺院     二席  四百人    町内有志

  同    豊実村    小学校    二席  二百五十人  青年会

  同    吉岡村    小学校    二席  四百五十人  村内有志

  同    小鷲河村   小学校    二席  百二十人   青年会

  同    宝木村    小学校    二席  四百五十人  村長

  同    正条村    小学校    二席  四百人    村内有志

  同    青谷村    寺院     二席  三百五十人  村長

  同    同      寺院     一席  百人     会場住職

  東伯郡  倉吉町    小学校    二席  九百人    町内有志

  同    同      寺院     二席  五百人    寺院有志

  同    八橋町    小学校    一席  二百人    戊申会

  同    宇野村    寺院     二席  七百人    会場住職

  同    日下村    寺院     二席  五百人    尚徳会

  同    由良村    育英黌    二席  三百人    同黌

  同    東郷村    寺院     一席  五百人    組合村長

  西伯郡  米子町    小学校    二席  八百人    学校組合会

  同    同      寺院     二席  五百人    仏教同盟会

  同    同      中学校    一席  四百五十人  中学校

  同    御来屋町   小学校    二席  四百人    仏教会および教育会

  同    淀江町    小学校    二席  六百人    学校組合会

  同    大高村    小学校    二席  五百人    近村連合

  同    大和村    寺院     二席  三百五十人  寺院、学校、役場

  日野郡  溝口村    小学校    二席  六百五十人  郡農会

  同    二部村    小学校    二席  三百人    同前

  同    江尾村    小学校    二席  四百五十人  同前

  同    根雨村    小学校    二席  四百人    同前

  同    黒坂村    小学校    二席  二百人    同前

  同    阿毘縁村   小学校    二席  三百人    同前

  同    宮内村    小学校    二席  三百五十人  同前

  同    石見村    寺院     二席  三百五十人  同前

   合計 一市、六郡、三十六町村(七町、二十九村)、四十五カ所、八十六席、聴衆一万八千九百三十人、日数四十二日間

もし昨年度の境町および大篠津村を加うれば、三十八町村、四十七カ所、九十席、〔聴衆〕一万九千三百三十人、日数四十四日間となる。

    演題細別

     詔勅および修身に関するもの     三十五席

     妖怪および迷信に関するもの     二十一席

     哲学および宗教に関するもの      十六席

     教育に関するもの            五席

     実業に関するもの            七席

     雑題に属するもの            二席

 

    鳥取県往復途中開会一覧表

  国郡市     町村    会場    席数   聴衆     主催

 尾張名古屋市        寺院     一席  五百人    仏教婦人会

 伊賀阿山郡   上野町   劇場     二席  八百人    郡役所

 同       同     寺院     一席  二百五十人  白鳳婦人会

 同       河合村   小学校    二席  一千人    郡役所

 同       山田村   小学校    二席  五百人    郡役所

 伊賀名賀郡   名張町   小学校    二席  七百人    郡教育会

 同       阿保村   小学校    二席  四百五十人  郡教育会

 和泉堺市          聚楽館    四席  三百五十人  市内有志

 和泉泉南郡   岸和田町  寺院     二席  三百人    町内有志

 同       同     同上     一席  二百人    仏教団

 同       貝塚町   寺院     二席  二百五十人  町内衛生会

 美作苫田郡   津山町   寺院     一席  三百五十人  町内有志

 同       同     寺院     一席  八百人    各宗協会

 美作英田郡   倉敷町   寺院     二席  七百人    住職および町長

 播磨佐用郡   平福村   寺院     二席  三百五十人  村内有志

 播磨神崎郡   田原村   公会堂    二席  三百五十人  郡教育会

 備前上道郡   西大寺町  寺院     二席  四百人    会場住職

 同       同     高等女学校  一席  二百五十人  校長

 備中阿哲郡   新見町   劇場     二席  千人     青年会

 備中上房郡   高梁町   小学校    四席  八百人    郡教育会および仏教青年会

 同       同     中学校    一席  五百人    校長

 備後深安郡   福山町   中学校    一席  三百人    郡教育会

 同       同     高等女学校  一席  八百人    斯民会および婦人会

 同       川北村   寺院     一席  四百人    斯民会

 摂津大阪市         高等女学校  一席  八百人    仏教懇話会

 河内北河内郡  枚方町   寺院     二席  二百五十人  郡教育会

 同       四条村   中学校    一席  四百人    中学校

 同       門真村   高等女学校  二席  三百五十人  郡教育会

 同       交野村   小学校    二席  五百人    同前

  合計 十国、三市、十二郡、二十町村(十一町、九村)、二十九カ所、五十席、聴衆一万四千六百人、日数二十五日間

   演題細別

    詔勅および修身に関するもの     二十一席

    妖怪および迷信に関するもの      十一席

    哲学および宗教に関するもの       六席

    教育に関するもの            七席

    実業に関するもの            三席

    雑題に属するもの            二席

P181--------

群馬、新潟両県漫遊日記

 明治四十三年六月二日、八丈島および小笠原島へ渡航の予定にて、すでに諸般の準備をなし、まさに発せんとするに当たり、長女の病気のために延期のやむをえざるに至る。しかして病人は自宅治療の困難なるより、病院に入るる手続きをなし、余も二月以来の巡回のために大いに疲労を感じ、かつ郷里より両親の法要を営むとの通信を得たれば、静養を兼ね六月上旬郷里に向かいて出発し、その途中、群馬県下伊香保、四万、沢渡、草津の四大温泉を歴訪したり。その各所における吟草は左に掲ぐ。

 伊香保は木暮武太夫旅館に滞泊し、左の三首を得たり。

鉄車一走両毛間、桑緑麦黄郊色斑、路過渋川林壑暗、杜鵑声裏入香山、

(汽車は両毛の林野をひた走り、桑の緑、麦の黄が田野にいりまじり彩る。道は渋川の林や谷のほの暗さをよぎり、ほととぎすの声を聞きながら伊香保の山に入ったのであった。)

香峰高処望将迷、毛野茫々与海斉、麦雨桑風春已過、満山新緑杜鵑啼、

(伊香保の峰の高きよりはるかに望み見れば、まどうばかりに、両毛の野は茫々として海のごとく、麦雨桑風、春はすでにすぎ、全山新緑にしてほととぎすの声がするのである。)

街路高低脚易疲、出楼散歩々遅々、帰来一浴呼衾枕、復使按摩々四肢、

(街路の高低はとかく足を疲れさせ、旅舎を出てのそぞろ歩きも遅々として、帰りて一浴し、衾枕を用意させ、按摩を呼んで四肢をもませたのであった。)

 このとき、友人より南条〔文雄〕博士の還暦を祝する詩歌を徴集するの通信に接し、博士自詠の韻を次ぎて左の一首を呈す。

  欲祝先生寿達辛、身花心月更清新、衆僧今日眠将死、願永留斯活仏人、

(お祝い申し上げます。先生が六十一歳になられ、身は花のごとく心は月のごとくさらに清新ならんことを。衆僧は今日眠れるか、はた死するか、願わくば永くこの活仏人のとどまらんことを。)

 辛字を分解すれば六十一となる。また、哲学館大学出身の伊藤裕氏の栄転を聞きて、「年よりて外に楽みなかりけり、君が身にきる錦みるより」の祝詞を贈る。

 伊香保より中之条町を経て四万温泉に移る。宿所は関善旅館なり。途上の所詠、左のごとし。

車上吾妻路、山深一峡長、雲帰千壑白、麦熟半田黄、雨後渓流急、蚕時桑婦忙、仙源家未見、暮色已蒼茫、

(車で吾妻路を行く。山は深く峡谷は長く、雲は幾千の谷によって白く、麦は熟し田のなかば黄である。雨後の渓流は急に、ときに養蚕、桑摘む婦〔ひと〕も忙しそうに、仙人が住むようなところの家も見つからぬままに、暮色はすでに蒼茫として迫ってきた。)

山行車脚緩、数里渉岩根、鳥護渓頭路、馬嘶雲外村、風生林影動、雨歇水声喧、四万知何処、望中日欲昏、

(山を行く車はゆるやかに、数里の岩根を進む。鳥は渓の道をまもるかのように鳴き、馬は雲のかなたの村にいななく。風吹いて林影を動かし、雨やんで水声かまびすしく、四万はどの辺りか、はるかに望み求めんとするうちにも日は早くもくれようとする。)

 あるいはまた「夏の山杜鵑〔とけん〕の声も緑りなり」「一枝の鵑花〔つつじ〕で山も賑はへり」「鳥の音も水に消さるゝ山路かな」などのでたらめをうそぶきつつ四万に入る。その地形箱根の塔の沢に似て、しかもこれより一層幽邃なり。渓流の趣は実に日光、塩原の右に出ず。

渓路如膓曲幾回、湯煙懸処夕陽催、山楼晩浴霊泉気、洗我十年心垢来、

(谷の道は羊腸のごとくいくたびかめぐり、湯煙ののぼるところに夕陽がさして趣を添える。山の宿の夜更けて霊泉の気に浴せば、わが十年来の心の垢を洗い落とす思いがする。)

四万渓頭夏木滋、懸崖積翠満将垂、人間一接斯山気、未浴霊泉病已医、

(四万渓のほとりに夏の木がしげり、崖にかかって重なるみどりはしたたり落ちんばかり。人のひとたびこの山気に接すれば、いまだ霊泉に浴せずとも病はすでに癒ゆるであろう。)

慶雲橋畔枕泉楼、影落飛湍共欲流、湯気時和林気上、夏山一抹紫煙浮、

(慶雲橋のかたわらに建つ枕泉楼、もろもろの影も早瀬とともに流れようとする。湯気はときとして林気と和してのぼり、夏の山に一抹の紫煙がたなびく。)

  海にのみ嶋あるものと思ひしに、山の奥にもシマぞありける、

  伊香保四万沢渡河原の湯にあびて、次は草津の里に遊ばん、

  谷川の響に耳をとざゝれて、浮世の沙汰は聞へざりけり、

  夏草の緑りの色を嫉むらん、白雲出てゝ山をつゝめり、

 四万より草津までは山路十里、一日の行程に過ぐるをもって、途中、沢渡温泉丸本旅館に一泊す。その地狭隘にしてなんらの風致なく、むしろ俗地なり。翌日、馬上草津行の途上吟一首あり。

  暁晴遥向草津行、緑葉紅花山紫明、深峡無人唯友鳥、黄鸝啼送杜鵑迎、

(あけがた晴れのもと、はるかに草津に向かう。緑葉、紅花、山の美しさ、深い谷あいには人なく、ただ鳥を友とするのみ。うぐいすが啼いて旅人を送り、ついでほととぎすが啼いて迎えるのである。)

 草津宿所は一井館なり。その地白根山麓の曠原にありて、一望広闊、深山幽谷たるを覚えず、四万温泉とは全くその趣を異にす。客楼林立、浴場櫛比、山中の一都会なり。ことに泉量の多きは日本第一とす。各所より沸出する温泉、流れて川をなし、懸かりて瀑をなす。湯池数カ所にあり、時間を限りて入浴を許す。喇叭または撃柝をもって時を報ずるや、衆客各楼より集まりきたり、おのおの小板をとりて湯池をかきまわすこと、およそ二十分ないし三十分なり。そのとき、調子そろえて歌い出だす俗謡あり。左にその一節を掲ぐ。

  腰は柳に杖をつき、匕杓手に持ち時間の湯、かよふ御客のしかみ顔、それも昔しの罪かいな、

 これより匕杓〔ひしゃく〕をもって湯を頭上に掛けること数十回、湯長の命に応じて浸浴す。およそ一分ごとに湯長の号令あり。

  初めにソロッテ三分  つぎにカイセイノ二分  つぎにカギッテ一分

  つぎにチックリノ辛抱  終わりにシンボウノシドコロ

 都合五回、その号令あるごとに一斉にオーイーと答う、あたかも喊声のごとし。その他は沈黙を守り、寂として深夜のごとし。その浸浴の時間は五分以内なり。余、長編をもってその実況を写す。

  喇叭一声報浴時、衆客扶杖携杓之、前後入場衣著白、各執小板撹熱池、作列一斉似漕艇、漕罷潅頂自有規、熱漸減時人漸浴、湯気如刀欲裂肌、満場守黙寂無語、一分二分時相移、湯長号令如軍律、一言発処衆皆随、辛抱一令殆難忍、出浴命下始開眉、三々五々排戸去、全身感痛歩遅々、綿布纏体暫安臥、多年宿痾一朝医、草津温泉天下一、凾嶺香山何足奇、只恨山中路険悪、往復車馬使人疲、将来鉄路全通日、必為大都有誰疑、

(喇叭一声、入浴の時を知らせば、衆客は杖をつき柄杓を手にして行く。前後して浴場に入り白衣を着け、おのおの小板を手に熱湯の浴池を撹拌す。並んで一斉に小板を操るさまは漕艇に似て、漕ぐをやめて頭より湯をそそぐにもおのずから法がある。熱気しだいにさめて人のようやく入るに、湯はなお刀刃のごとく肌を切り裂かんばかりの熱さ。満場沈黙を守り寂として声なく、一分二分と時移る。湯治の長の号令は軍律のごとく、一言令を発すれば衆みなしたがう。辛抱の号令にほとんど忍びがたく、浴池より出よの令にはじめて眉を開く。三々五々扉を押して去るも、全身に痛みを感じ歩みも遅々として。綿布を身にまとい、しばらくは安臥し、多年の持病は一朝にして医ゆ。草津の温泉は天下第一にして、函嶺〔箱根〕、香山〔伊香保〕もこれに比すれば奇とするに足りぬ。ただ惜しいことには山中の道が険悪で、往来する馬車が人を疲労させることだ。将来鉄道の開通する日がくれば、必ずや大都会となること、だれも疑わぬであろう。)

 外に滞在中の雑詠三首あり。

白根山麓草原連、沸出硫泉流作川、六月浴楼聞杜宇、猶看残雪半空懸、

(白根山麓草原の連なるところ、わき出る硫黄泉は流れて川となっている。六月の浴楼にほととぎすの声が聞こえ、なお残雪の遠くなかぞらに見る思いがする。)

尋到吾妻山尽辺、一渓無処不温泉、豈図雲冷草深地、客舎比隣人万千、

(ついに吾妻山系の果てる所まで来た。すべての谷は温泉といってよい。なんと雲も冷えるような草深いこの地に、旅館が軒をならべ、人が千人万人もいようとは思わなかった。)

処々沸泉成熱池、湯中仙薬験於医、怪聞楼外喊声起、正是場々入浴時、

(ところどころにわき出る温泉は熱池を作り、熱湯に含まれる仙薬は病をいやすに効験ありという。旅館の外に起こる喊声をいぶかしく聞いたが、それはまさに浴場ごとに人々が入るときの声であった。)

 草津を去りて軽井沢に出ずる途上、浅間山の噴煙を望みて一首を浮かべり。

  駅馬一鞭駆暁風、望迷十里曠原中、百川不語千山睡、気㷔揚々浅岳雄、

(駅つぎの馬にひと鞭あてて暁風の中をはしらせれば、一望十里四方もあろうと思われる曠原に心もとない思いがする。凡百の川は物言わず山々もねむるがごとく、噴炎高くあげる浅間岳はいよいよおおしい。)

 軽井沢より故山に帰る途中、上越なる赤倉の温泉に宿泊す。このときまた左の詩歌をつづる。宿所は香岳楼にして、楼は妙香山の中腹にあり。頚城郡の平原より日本海に至るまでを一瞰するを得て、すこぶる快活なり。

香岳脚頭香岳楼、晴空無物礙吟眸、田如棋局山如屏、一点青螺是佐州、

(妙香山の中腹に建つ香岳楼より見わたせば、晴空に吟詠の眸子をさまたげるなにものもない。田は碁盤のごとく山はついたてのごとく、はるかな一点の青山は佐渡島なのである。)

浴楼高処海山雄、望裏白雲来入櫳、梅雨難消香岳雪、夏猶覚冷赤倉風、

(浴楼のある高みは海、山を望んで、みるまに白雲が格子窓から入ってきた。梅雨も妙香山の雪を消すに至らず、夏もなお赤倉おろしの風は冷たさを感じさせる。)

浴後凭欄雨漸催、雲封眼界望難開、繞庭万緑看将睡、杜宇一声驚夢来、

(沐浴ののち欄干にもたれていると、やがて雨になった。雲は視界をとざして遠くを望むべくもない。庭一面の緑をみるうちに心地よくねむりに誘われたが、ほととぎすの一声に夢を破られたのであった。)

香岳楼前山又河、中原只見稲田多、茫々一路鉄車走、恰似長鯨截万波、

(香岳楼の前は山と河があり、平原に見えるのはただ稲田のみ多く、茫々としてはるかに汽車が走り、あたかも長鯨が万波を切り割りて行くように見える。)

山館更無俗累牽、浴余孤坐静如禅、主人亦有風流意、故使鵑声代管絃、

(山の館にはまことに世俗のわずらわしさがなく、沐浴ののち独り坐せば、静寂なること坐禅のごとく、主人もまた風流心を持ちあわせ、それ故にほととぎすのさえずりをもって管絃に代えているのである。)

 六月十六日、越後国三島郡なる郷里に着し、十七日より二十日まで両親の法要を営み、二十一日、東京へ帰宅したり。在郷中の所感二首あり。

客中歳月幾回過、帰到家郷感慨多、人去世移吾亦老、旧容不改只山河、

(異郷での歳月はいくたびかめぐり、ゆえにいま家郷に帰っての感慨はひとしおなのだ。人は去り世も移り、われもまた老い、もとの姿をとどめているのはただ山河だけである。)

故園風物嘆栄枯、人与行雲流水徂、欲奉慈親々不在、墓前合掌唱南無、

(ふるさとの風物に栄枯のあとをみて嘆息す。人は行雲流水とともに去り、慈愛深い両親に孝養しようにもいまはなく、墓前に合掌して南無と唱えるのである。)

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信濃国南部紀行

 明治四十三年六月三十日 曇り。朝八時、飯田町発車。午後三時半、山梨県小淵沢駅に着す。車窓より望むに、甲州地は今なお挿秧最中なり。同駅より馬背にまたがり、行くこと里許にして長野県諏訪郡境村〈現在長野県諏訪郡富士見町〉に入る。その地位は海抜三千尺以上にして、八ヶ岳の山麓にあり。故に気候寒冷を覚え、六月なお炬燵を用う。当夕、宮西屋に宿す。

 七月一日 晴れ。午後、小学校にて開演す。校前に甲州駒ヶ岳連山の屏立せるあり、校後に八ヶ岳群峰の環座せるありて、眺望すこぶる雄大なり。発起者は村長柳沢市之丞氏、校長有賀喜一氏等とす。その地、蚊なきも蝿多きこと満州に譲らず。戸々牛馬を飼養せるによる。郡視学渡辺盛太郎氏、上諏訪より来会せられ、随行清水谷善照氏、東京より来着す。

 二日 晴れ。海抜三千百三十五尺なる富士見駅より乗車し、茅野駅に降り、玉川村〈現在長野県茅野市〉小学校に至りて開会す。学校建築の宏壮なるは郡内に冠たりという。主催者は村長両角幾三郎氏、校長藤森克氏、長円寺住職野沢祐効氏、常勝院住職戸田義道氏等なり。当夕、長円寺に泊す。この日、途上所見一首あり。

  八岳為屏鎖北隅、連峰南走勢如駒、峡間千壑涓々水、集作明神社畔湖、

(八ケ嶽は屏風のごとく立ちふさがって北辺の地をとざし、連なる峰の南に向かってのびてゆくさまは駒の走るような勢いさえある。山あいの多くの谷からわずかに流れでる水は、やがて集まり諏訪明神社の近くに湖を作っているのである。)

 七月三日(日曜) 晴雨不定。馬上にて玉川より北山村〈現在長野県茅野市〉に移る。村は大門嶺の麓にありて、海抜三千尺以上と称す。これより山道六里にして小県郡大門村に達すという。会場は小学校、宿所は功徳寺、主催は同窓会なり。久保角平氏、北沢才右衛門氏、篠原葛太氏、その主宰たり。当夕、また一詠す。

  大門嶺下宿僧堂、海抜三千百尺郷、峡両桟雲隔塵境、蚊軍不到夜清凉、

(大門嶺のふもと、功徳寺の僧房に宿す。ここは海抜三千百尺をこえる村里なのである。峡間にかかる二本の橋のあたりに雲さえみえ、まさに俗間の塵からへだたる思いがして、さしもの蚊の群れもこの清涼な夜には現れない。)

 四日 晴れ。馬にまたがりて米沢村〈現在長野県茅野市〉に移る。会場および宿所は宝勝寺なり。門前に石造りの仁玉尊あり、その古雅愛すべし。村長伊藤喜太郎氏、住職宮坂準宗氏、校長金子音次氏等の発起にかかる。

 五日 晴れ。中洲村〈現在長野県諏訪市、茅野市〉に転じて開会す。官幣中社諏訪明神の所在地にして、旅館桔梗屋のごときは階上約百畳敷きの大広間を有す。社林幽邃、殿堂荘厳、門に入ればおのずから人をして粛然たらしむ。会場は寺院代用の仮校舎にして、主催は男子同窓会なり。小学校長小平伊之助氏その会長たり。村長岩波喜代太郎氏助力あり。郡役所より第一課長牛山竹治郎氏の来会あり。

 六日 晴れ。午後、湖南村〈現在長野県諏訪市〉にて開会す。会場は小学校にして、休憩所は福田屋なり。主催は青年会にして、村長平井並平氏、校長両角喜重氏等助力あり。演説後、神社の大旗を書す。日すでに暮れ、雨ようやく降る。暗をおかして上諏訪町〈現在長野県諏訪市〉中学校に至りて開演す。牛山郡蔵氏等、有志諸氏の主催なり。中学校長寺島伝右ヱ門氏は旧知たり。校内に坂路ありて昇降容易ならず。演説後、旅館牡丹屋に入りて晩餐を喫了すれば、時鍼すでに十二時を指す。牡丹屋はその構造、設備、眺望ともに佳良、これに加うるに温泉の浴室あり。けだし旅館中まれに見るところなり。

 七日 雨。文部省視学官幣原坦氏、当地に滞泊せらるるも相会するを得ず。羽賀祐令氏、高松鶴丸氏来訪あり。湖上雨かかりて四山深く雲煙にとざさる。わずかに湖畔の村落を望むのみ。望中白壁赤筒を瞥見するは、これ製糸工場なり。

  湖頭風色入層軒、白壁赤筒何処村、戦後山家勤殖産、製糸塲在此仙源、

(湖のほとりの風景は家々の軒に映え、白い壁と赤い煙突の見えるのはいったいどこの村であろうか。日露戦役の後に、山にかこまれたこの地の家々は産業につとめ、製糸工場がこの仙人の住むような地に生まれたのだ。)

 上諏訪を去りて下諏訪町〈現在長野県諏訪郡下諏訪町〉に移る。途上はるかに富峰を碧空の間に認むべしというも、雨のために妨げられたるは遺憾なり。

  繞水青巒半入雲、朝来醸雨暗如曛、天辺難認芙蓉色、湖上風光欠九分、

(水をまとう青々とした山はなかば雲にかくれ、朝からふりつづく雨にほの暗くたそがれどきのようである。それ故に天空に望まれるはずの富士山も見えず、湖上の風景もために一割ほどのあたいとなった。)

 下諏訪会場は小学校にして壮大なり。眺望また大いによし。宿所は亀屋旅館にして、庭園大いに趣あり。かつ温泉に浴するを得。庭外に諏訪神社あり。一拝おのずから威風を瞻仰するに足る。

  梅雨蕭々暗社皐、林禽無語石泉号、入門一拝転堪仰、御柱卓然千尺高、

(梅雨はものさみしくふりしきり、諏訪神社の高みもほの暗い。林の小鳥のさえずりもなく、石の間から湧き出る泉の音があるばかり。門を入ってひとたび拝礼すれば、よりいっそうあおぎとうとぶ念が起こる。御柱は高々と千尺の姿をたもっている。)

 諏訪各社ともに、神苑の四隅に御柱と名付くる円木の高柱あり。七年ごとにこれを改新す。しかして改柱の年には、一般に結婚式を挙ぐるを見合わせる風習ありという。また、その柱を削りとりて服用すれば、瘧をいやする効ありと伝う。当地開会発起者は町長植松金一郎氏、校長浜孝吉氏、社交倶楽部副会長小口勘弥氏等あり。郡長犬童長豊氏、県視学佐藤寅太郎氏も来会せらる。

 八日 晴れ。下諏訪より平野村〈現在長野県岡谷市〉に移る。これ製紙工場の本元にして、日本第一と称す。数百の煙筒林のごとく立ち、数万の工女四方より輻湊す。盛んなりというべし。

  湖西駅路日将斜、山郭水村煙突遮、客舎楼頭倚欄坐、四隣都是製糸家、

(湖の西、鉄路に日差しが斜めにさし、山ぞいの村や水辺の村にも煙突がさえぎるように立つ。旅館の階上で欄干に身を寄せて座せば、まわりの家はすべて製糸を業としているのがわかる。)

 会場は村役場階上にして、村長武井慶一郎氏、および川岸村長、湊村長の発起なり。諏訪郡内を一遊一過して、他地方より異なるところあるを感じたるは、

水利よくして戸々大抵みな水車を設くること。

男女ともに雪袴をうがちて労働すること、これをタツツケと名付く。

繭倉の三層、四層以上にして、城楼のごときもの多きこと。

茶菓子に漬物香々を用い、あるいは煮物を添うること。(この風、九州地方に同じ)

小学校の時間の合図に太鼓を用うるものあること。(すこぶる勇壮なるを覚ゆ)

方言中奇異に聞こゆるは、トテモの語の用い方なり。トテモ美しい、トテモ多い、トテモよくできたの類。トテモとは、はなはだしまたは非常の意なること。

俗謡中おもしろく感じたるは糸とり歌なること。

「米は南京御菜はアラメ、なんで糸目が出るものか」

 以上の類なり。郡内巡回中、各所へ郡視学または郡書記の必ず同行案内の労をとられたるは謝するところなり。

 九日 晴れ。平野村より乗車、鉄路により天竜の源流に沿いて上伊那郡に入り、辰野駅に降車し、朝日村〈現在長野県上伊那郡辰野町〉に至りて開演す、会場は小学校、宿所は米屋、発起は校長長田音一郎氏および村長新村亀一郎氏なり。地勢、伊那に入りて一変し、峡間比較的広闊にして、天竜両岸平原長く連なり、一望豁如たるの趣あり。郡内戸々みな蚕を養うも、製糸家はいたってまれなり。

 七月十日(日曜) 雨。本日、はじめて雷声を聞く。朝日村より電車にて中箕輪村〈現在長野県上伊那郡箕輪町〉に移り、午前は教育会のために演述し、午後は一般公衆のために講話をなす。会場は明音寺にして、住職上野徳順氏は旧哲学館出身たり。同氏および校長赤羽長重氏、村長日野祖資氏等、みな尽力あり。しかして宿所は門屋旅館なり。この辺り一帯、中間に天竜南走し、東西に甲州駒ヶ岳および木曾駒ヶ岳の中天に対座するありて、景光すこぶる雄大なり。なかんずく木曾岳の残雪点々たるは、一段の風致を添う。

  桑圃秧田線幾重、峡間碧水是天竜、薫風未入木曾地、雪満駒山第一峰、

(桑畑と稲田が幾重にもかさなるように広がり、広豁な山あいに深いみどり色をたたえて流れるのは天竜川である。六月の香り高い風はまだ木曾の地には入ってこないのであろうか、駒ケ岳の最高峰はなお雪がおおっている。)

 十一日 晴れ。中箕輪より郡衙所在地たる伊那町〈現在長野県伊那市〉に移る。途上の風光、詩中に入るる。

  駅路遥々晴色分、東西山走不成群、中間一碧天竜水、流入遠州為白雲、

(鉄路は遠くはるかに続き、晴れた空のもとに色彩も鮮やかに、東と西に走る山波はなだらかな姿を見せている。この山あいの真中をひとすじのみどり色をたたえた天竜川が流れ、やがて遠州に流れ入るが、その名のごとく天に昇って白雲ともなるのであろう。)

 午前は小学校において教員会の依頼に応じて講演をなし、午後は劇場において青年会の主催にて公会あり。発起者は校長兼青年会長瀬戸歌次郎氏、教員田中郡十氏、井沢、御子柴、小林等の諸氏なり。宿所広輪館は楼上江山を一望するによし。当夕、郡長黒川光徳氏、署長馬場甚三郎氏、師範教諭高橋貞吉氏、郡視学伴野文太郎氏等と会食す。

 十二日 晴れ。伊那町より小流にそいて渓間に入り、高遠町〈現在長野県上伊那郡高遠町〉建福寺に宿して開会す。寺院連合の発起にして、宿寺住職唐木義道氏、満光寺主兼子大禅氏、東光寺主蒲悦恩氏(哲学館出身)、有志家伊藤今朝市氏等、尽力せらる。哲学館出身小松繁司氏来訪あり。その地、山に踞し水に面し風光明媚なり。

  一渓曲処一橋横、臨水林巒是旧城、当面風光如対畵、駒山竜水両分明、

(渓谷の曲がる所に一本の橋が横ざまにかかる。川に臨み林岳を巡らす地にあるのが高遠城である。目前の風景は絵画にむかって立っているごとく、駒ケ岳と天竜川とがすっきりと見えるのである。)

 十三日 晴れ。高遠を去り、伊那町を経て宮田村〈現在長野県上伊那郡宮田村〉に向かう。駅路車馬絡繹、したがって車塵多し。所在、養蚕業盛んなり。

  七月信南農事酣、桑田一望緑於藍、山家殖産無間断、已閉春蚕開夏蚕、

(七月、信濃路の南は畑仕事が今やたけなわで、桑畑を一望すれば藍よりも緑あざやかである。山あいの家々はこの地の産業に精を出して休む間もなく、すでに春の養蚕を終えて夏の蚕を養っている。)

 宮田会場は小学校、宿所は銭屋旅館、発起は村長橋倉歌吉氏、助役小田切雅男氏、校長三沢正市氏、学務委員酒井庭助、新井育蔵、山浦浪次郎、伊藤孫右衛門四氏等にして、みな大いに尽力あり。

 十四日 晴れ。赤穂村〈現在長野県駒ケ根市〉に転じて開会す。当日、祇園祭にて市中にぎわえり。市街は郡内にて伊那町に次ぐべき都会とす。会場は安楽寺にして、主催は村長福沢岩夫氏、助役芦部喜一郎氏、校長宮下貞象氏、および光前寺、安楽寺、長春寺等なり。安楽寺主は片倉松心氏と名付く。宿所穀屋旅館は、その壮大なること上諏訪の牡丹屋に次ぐ。楼上の眺望また佳なり。当日、西洋料理の晩餐会あり。

 十五日 雨。更に転じて飯島村〈現在長野県上伊那郡飯島町〉に移る。途中、田切と名付くる渓間の激流あり。会場は小学校、発起は村長河野吉十郎氏、校長神谷巨磨司氏、寺院平野泰淵氏等なり。しかして宿所は扇屋館なり。

  満山桑葉気成嵐、深峡無家不養蚕、欲使野人知大詔、諄々説去及農談、

(山には桑が満ち、青々とした山気がたちこめており、深い谷あいには家もなく、したがって養蚕の様子もない。そこでこうしたいなかに住む人々に御詔勅の意を教えようとし、諄々として説いて農業談義にまで及んだ。)

 これより下伊那郡全部かけての実況は、この詩の前二句をもって写すを得べし。

 十六日 曇り。飯島を辞し、行くこと三里ばかりにして下伊那郡内に入る。途中、郡視学古川竹次郎氏の出でて迎えらるるに会す。会場は山吹村〈現在長野県下伊那郡高森町・松川町〉小学校、主催は村長平沢和三郎氏、収入役片桐健之助氏、校長藤本善二郎氏、教員松沢勝三郎氏等なり。天竜峡間の地勢、下伊那に入りて更に一変し、丘壑起伏し、駅路高低多し。日まさに暮れんとするとき、市田村〈現在長野県下伊那郡高森町〉大字吉田に移りて夜会に出演す。校長堀尾陸郎氏、区長中塚重太郎氏、同福沢民弥氏、学務委員古林喜代吉氏等、尽力あり。この日、昼夜ともに盛会を得たり。宿所は学校付属の教員住宅なり。

 七月十七日(日曜) 曇り。座光寺村〈現在長野県飯田市〉に転じ、如来寺に休憩す。これ長野善光寺の根元地なりという。堂奥に古臼を安置す。よって一詩をとどめて去る。

  天竜川上有僧堂、寺是善光村座光、拝了如来入階下、朽余古臼仏痕香、

(天竜川のほとりに僧堂があり、寺は善光寺、村は座光寺村、如来を拝して階下に移れば、朽ち残りの古い臼に仏香がしみついていた。)

 会場は小学校にして、発起者は北原源三郎(村長)、中田鐐(校長)、中島逞三郎、知久悦太郎、池田国市、吉川徳弥等の諸氏なり。当夕、飯田町〈現在長野県飯田市〉有志総代数名に迎えられて同町に入り、善勝寺にて開演す。聴衆、堂に満つ。宿所は巴館なり。

 十八日 晴れ。午前、高等女学校において講話をなす。校長は波多市松氏なり。午後、上郷村〈現在長野県飯田市〉小学校にて開演す。発起者は村長北原阿智之助氏、校長松沢稲雄氏、同高坂隆次氏となす。本郡内は養蚕一般に盛んにして、なかんずく本村をもって最となすという。当夕また、飯田町善勝寺において開演す。両夕ともに同寺住職高松鶴丸氏の発起にかかる。本堂は近年再度の焼失に会したるにもかかわらず、新築すでに成り、千余の聴衆をいるるに足る。老院高齢すでに八十五春を重ぬるも、矍鑠なお衰えず、常に明窓浄几の下にありて文墨を友とし、読書を楽とす。その消夏の一作を次韻してこれに賦呈す。

  八十五春耕学山、仏天加護得余間、其身未達涅槃岸、心駕慈船在彼湾、

(八十五歳にしてなお学び続け、み仏のご加護によって余裕のときを得ている。その身はいまだに涅槃の境地に至らずとはいえ、心は大慈悲の船にのってなおかの境地に達しているのである。)

 裁判所判事小林清蔵氏には東京大学予備門当時の相識にして、三十年来はじめて再会せるは奇遇というべし。

 十九日 晴れ。天竜川を渡り、喬木村〈現在長野県下伊那郡喬木村〉阿島小学校に至りて開演す。この日、暑ことにはなはだしく、寒温儀〔華氏〕九十度にのぼる。宿所は安養寺にして、主催は役場、学校、寺院の連合にかかる。役場員にては池田藤市、湯沢太郎作、長谷川一郎、片桐達次郎(神稲村長)等の諸氏、宗教家にては池田保寿、田房賢澄等の諸氏、教育家にては太田浅太郎、土井房次郎、福沢谷吉、松岡吉太郎等の諸氏、および旧哲学館出身池田重雄氏等、みな尽力あり。晩餐会席上、酒ようやくたけなわにして、方歌よもに起こる。

  僧堂酒酣後、春湧興将垂、恰似深渓鳥、飛移喬木時、

(僧房に酒をくんでたけなわなるとき、春が湧きおこり、たのしみもいよいよ深い。あたかも深い谷の鳥が、喬木の高みに飛び移るようなそう快な思いがしたものである。)

 二十日 晴れ。朝、喬木村を辞し、飯田町中学校にて一席の講話をなす。校長は島地五六氏なり。午後、松尾村〈現在長野県飯田市〉小学校に移りて開演す。主催は村長田中馬太郎氏なり。当夕また、飯田町巴館に帰宿す。飯田町は南信中松本に次ぐ都会にして、郡内の中軸に当たり、何村に来往するもこの町を経由せざるを得ず。実に四通八達の街衢なり。

 二十一日 晴れ。早朝、飯田を発し、天竜橋を渡りてより村落高低凹凸多く、腕車遅々として進まず、千代村〈現在長野県飯田市〉に達する四里の行程に約四時間を費やせり。途中、小茅店に休憩せるに、サイダーの果酒を出だせり。よって一詩を案出す。

  文明余沢可謳歌、四海蒼生浴穏波、昔日山中無暦地、今時茅店鬻斎酡、

(文明の恩恵を謳歌すべきであろう。世界中の人民は平和にどっぷりとつかっている。むかしこの山中には暦さえかかわりなかったのだが、今やこのかやぶきの店ではサイダーを売っているのである。)

 千代会場は小学校にして、宿所は旧家大平豁郎氏宅なり。主催は村長近藤房太郎氏、校長林賢治郎氏、郵便局長川手賢治氏および大平氏等にして、みな大いに尽力せらる。大平氏、雅号小洲、能画の公評あり。故に一絶を賦呈す。

  渓頭高士住、坐臥自清凉、別有風流楽、硯池洗俗膓、

(谷のほとりに人格高潔なる人の居宅があり、日常の起き伏しにはおのずから清涼な趣がある。また別に風流な楽しみがあり、絵画をよくする人の硯池は世俗のはらわたを洗う。)

 二十二日 晴れ。旧哲学館員たりし宮沢秀一氏の平岡村より小艇をもって迎えらるるに会し、南信奇勝の一たる天竜峡姑射橋畔に一休して乗船す。天竜峡は紀州牟婁郡の瀞八丁に似たるも、これに及ばず。瀞の幽邃にしてかつ雄大なるは、到底天竜峡の敵すべきにあらず。しかして激流の岩根を打ち、舟脚の湍上を走るところ、あたかも活画に対するの壮観あるは、瀞八丁の天竜峡にしかざるところなり。舟中の所見は詩中に入るる。

小舟破浪々生風、十勝看過一瞬中、忽下急湍更回首、孤橋懸作峡間虹、

(小舟は波浪を突き破るかのごとく、激波は風を生みだし、多くの景勝も一瞬のうちに見送る。たちまちに早瀬を下り、こうべをめぐらせば、ぽつんとかかる一本の橋が谷間に虹のように見えたのであった。)

天竜峡上一橋懸、両岸怪巌奇石連、水走舟飛急於矢、左応右接目将眩、

(天竜峡には一本の橋がかけられ、両岸には怪奇な姿の岩石が連なる。激流に舟は飛ぶように矢よりも早いかと思われ、左右に目をもって応接するもくらまんばかりであった。)

 瞬息の間に小舟矢のごとく急瀬を奔下し、ゲキおよびヤグラゲと名付くる激流のかかりて瀑をなせる中を通過し、岸高く渓深く、一川百折、両崖千仞、緑陰碧水に映じ、激浪涼風を醸すの所、舟行三時間にして、平岡村〈現在長野県下伊那郡天龍村〉字満島に達す。この日、馬上二里、舟上六里の行程なり。会場は小学校、宿所は田村館、主催は平岡修身会にして、村長たる宮沢秀三郎氏はその会長たり。創立以来五カ年以上継続せりという。満島の地勢は左の一首をもって写出す。

  四面皆山一水通、仙家散在翠烟中、西峯日落東峯白、月与清風来入櫳、

(四面はすべて山に囲まれたなかに一本の水流がつらぬき、仙人の住むような風情の家が散らばって緑のけぶるなかにある。西の峰に日が沈めば東の峰はしらじらとかがやき、月と清らかな風が吹いてきてれんじまどから入ってくるのであった。)

 その地、実にかかる幽谷の深底にあるも、南信の最南端なれば、冬時の温暖なるは長野県第一とす。

  二十三日 晴れ。朝五時半、舟に上がり、ひき綱にて激流を引き上ぐること、約五里の間に七時間の長きを費やす。炎天やくがごとし。舟中吟一首あり。

  水貫万山縦又横、両崖巌立半将傾、曳舟十里尋仙跡、復向天竜峡上行、

(激流は山々を縦横に貫いて、両岸の岩石はなかば傾いているかのようだ。舟をひいてゆくこと十里、仙人の跡をたずねて、ふたたび天竜峡に向かってさかのぼったのである。)

 大島に上陸し、これより馬および車にて、下條村〈現在長野県下伊那郡下條村〉睦沢小学校に至りて開演す。途中、雷雨に会す。主催は同村教育会にして、発起は村長亀割学氏、助役塩沢幹氏、校長小笠原秀雄氏、栗田安人氏等なり。塩沢助役は平岡村より案内せられたり。宿所万歳館は渓流の声、夢魂を驚かす。

  巌頭茅店立、軒下板橋横、日夜渓流叫、自為万歳声、

(岩石の近くにかやぶきの店が立ち、その軒下には板橋が横ざまにかかっている。昼となく夜となく渓流の瀬音が響き、それはおのずから万歳〔宿所万歳館〕の声となっているのだ。)

 七月二十四日(日曜) 晴れ。竜丘村〈現在長野県飯田市〉小学校に移りて開演す。校内眺望に富む。講了後、松川旅館に転じて休泊す。館は天竜の清流に枕し、最も納涼に適す。席上、一詩を得たり。

  講了詔書日欲沈、天竜川上弄清陰、悠々一水流無尽、誘起自彊不息心、

(詔勅について講演しおわったときには、すでに日は沈もうとしており、そこで天竜川のほとりで清らかな木かげを楽しむ。悠々として流れる水は尽きることなく、これを見てみずから身心をつとめはげましてやまぬ心が湧き起こったのであった。)

 主催者は村長佐々木平四郎氏、校長下平芳太郎氏、助役中田鉞氏、収入役中島滝太郎氏等なり。

 二十五日 炎晴。飯田町を経て伍和村〈現在長野県下伊那郡阿智村〉に移る。県会議員平野桑四郎氏宅に休泊す。松竹庭をめぐり、清風軒に満つ。会場は小学校にして、発起は村長千葉直四郎氏、校長大沢国弥氏、僧侶島大忍氏等なり。平〔野〕氏の実父原翁は春秋八十四なるも、身心ともに強壮なるを見て、一詩を賦呈す。

  処世不混俗、入山不学仙、春秋八十四、意気圧青年、

(世わたりをするにも世俗にまじることなく、山中にあって仙人の道を学んだわけではないが、八十四歳にして身心強壮、なおその意気は青年を圧倒するほどである。)

 二十六日 晴れ。伊賀良村〈現在長野県飯田市〉小学校に至りて開演す。郡内屈指の大村なり。村長平田翁太郎氏、校長宮沢鐘太郎氏、森留男氏の発起にかかる。東洋大学卒業橘邦道氏来会あり。晩に及びて急雨、盆を傾けて降る。当夜、飯田町曙座に移りて更に演述す。町内役場および学校の主催にして、町長野原文四郎氏、校長中原七五郎氏、助役久保田与市氏の発起にかかる。大雨をおかして来聴するもの五、六百人の多きに及ぶ。宿所はやはり巴館なり。

 二十七日 曇り。午後、飯田町峯高寺にて講話をなす。主催は護法会にして、長源寺ほか十四カ寺の発起にかかる。当夕、仙寿館において小林判事、古川視学、町長、校長等の諸氏と会食す。郡内巡回の最後なり。伊那郡の名称の出拠明らかならず、余はこれを曲解して狂歌を作る。

  山路かと問へばイナ伊那都なり酒も肴も歌も言葉も、

 当地開会に関し、善勝寺高松氏の尽力一方ならず、郡内開会に古川氏の配意浅からざるは、ともに大いに謝するところなり。郡長河村備衛氏には、ついに相会するを得ず。

 二十八日 曇り。早天五時、飯田を発し、有志諸氏に送られて西筑摩郡に向かう。最後に高松氏と相別れ、風越山を仰望し、大平駅に小憩す。途上の即吟、二首あり。

風越峯難越、大平路不平、雲深山寂々、只聴石泉鳴、

(風越峰は越えがたく、大平駅の道は名とはことなり平らかではない。雲の奥ふかく山はひっそりと静かに、ただ石の間より湧き流れる泉の音だけが耳にとどくだけである。)

飯田城外暁、峡樹望蒼々、雲動山明滅、渓回路短長、入林鳥驚散、臨澗水奔忙、満地清陰鎖、無風夏自凉、

(飯田郊外の夜明け、山峡の樹々を望めば青々としている。山にかかる雲が動けば山は明るくなったり暗くなったりし、谷をめぐる道は短く見えたり長く見えたりする。林に入れば小鳥は驚いて飛び去り、谷川にのぞめば水勢は奔走す。いずれの地も清らかな木かげに風気がこもり、風はなくともこの夏はおのずから涼しさがある。)

 大平茶店の午前十時の寒温鍼〔華氏〕六十八度を指す。もってその地の海抜のいかに高きかを推測するに足る。

 ここに上下伊那と告別するに当たり一言を呈するに、地勢は両郡相似て、しかして同じからず。上郡は天竜両岸比較的平坦にして、下郡は高低多し。蚕業は上下ともに繁栄なるも、下郡の方ことに隆なるを覚ゆ。生活程度は衣食住ともに高き方なるは、蚕業隆盛の結果ならん。小学教育は諏訪も伊那もともに大いに進みおるを認め、校舎の建築、設備のみるべきもの多し。宗教は全く旧慣を固守するにとどまり、活動の気力あるを見ず。諏訪郡は今なお多少寺院を尊重する風あり。下伊那これに次ぎ、上伊那最も冷淡なりという。伊那の地に入りて奇異に感じたるは、民家みな板ぶきにして、屋上に石を載せおくは北越地方に同じ。水田を変じて桑田となせるは、養蚕の盛んなるによる。村家の点々散在せるもの多く、数家隣接せるもの少なきは下伊那の特色なり。蜂児を収集して蜂飯を炊くも伊那両郡の異風なり。俗に五兵衛餠と朝寝とは飯田町の名物なりという。同地方は一般に書画を愛賞する風ありて、ために日々揮毫に忙殺されんとせり。これを要するに伊那郡内にては、ことに発起諸氏の厚意をにないたるは深謝するところなり。

 午前中に大平嶺をこえて西筑摩郡に入り、吾妻村〈現在長野県木曽郡南木曽町〉妻篭に着せしは午後二時なり。この日、行程十一里に余る。会場は光徳寺、宿所は松代屋、発起人は村長林静氏、校長原三和吉氏、松井嘉七郎、大屋局次郎等の諸氏とす。

 二十九日 晴れ。早朝、城山に登臨す。その眺望は峡間第一の評あり。山上の小亭を秀観亭と名付く。望中、一小詩を得たり。

  木曾峡中勝、集在秀観亭、蘇水横如帯、駒山立似屏、

(木曾峡谷の景勝は、すべて城山山上の秀観亭の眺めに集められているといってよい。木曾川の流れは横ざまに帯のごとく、駒ケ岳のなかぞらに立つさまは屏風のようでもある。)

 これより鉄路に駕して須原に降車し、更に腕車に乗じて駒ケ根村〈現在長野県木曽郡上松町〉字上松に移る。途中、木曾名勝の一たる寝覚山臨川寺に一休す。これ三十四年前旧遊の地にして、今昔の感なきあたわず。

  三十余年一夢過、再来寝覚感殊多、仙巌蕎麦雖依旧、鉄路高懸碧澗阿、

(三十余年はただ一度の夢のごとく、再び寝覚の地を訪れてみれば感懐もことさら多い。この地名物の仙巌蕎麦は以前と変わらぬが、文明の利器である鉄道が高々とみどりの谷川の曲がりにかかっている。)

 須原より奈良井に至る十二里間は、鉄路いまだ竣功せざるも、その工事の壮大なるは驚くばかりなり。すべて数十尺の高架鉄道にして、橋梁の高さ数十間に及ぶものあり。今より後は、木曾の奇勝は山にあらず水にあらず木石にもあらずして、鉄路、鉄橋なりと呼ばるるに至らん。寝覚名物の蕎麦は依然として旧態を存し、余が一時に五膳を尽くしたるは、人をして一驚を喫せしむ。従来、食事毎回一碗をもって限りとし、自ら一碗道人と称せしに、今日ははからずも五碗道人となる。「一碗の眠りも蕎麦にさまされて、寝覚めて見れは五碗道人」と戯れたり。郡書記丸山直樹氏、案内の労をとらる。上松会場は玉林寺、宿所は堀田旅館、発起は村長沢木桑次郎氏、校長藤原定一氏等なり。

 三十日 晴れ。上松より福島町〈現在長野県木曽郡木曽福島町〉に移る。この間、人力の先引きに洋犬を使用すること流行す。木曾の名勝に応接しつつ福島に入る。従来、木曾八景と称するもの左のごとし。

  御嶽暮雪  駒岳夕照  風越晴嵐  小野瀑布  与川秋月  寝覚夜雨  掛橋朝霧  徳音寺晩鐘

 今時鉄道架設によりて、多少の異変あるを免れず。途中、掛橋を一過するに、すでに旧態を失うを見る。

  暁発駆車蘇水濆、潺湲声隔樹陰聞、昔時桟道今何在、仰見鉄橋懸峡雲、

(あかつきに人力車を駆って木曾川のほとりを行けば、渓流の音が樹かげを通して聞こえてくる。かつて木のかけ橋をわたったものであるが、今はいったいどこにあるというのだろう。仰ぎ見れば高く鉄橋がこの山峡の雲の間にかけられているのである。)

 福島会場および宿所は長福寺にして、開会は夜分なり。主催は木曾仏教青年会および福島青年会にして、宿寺住職水野義観氏、興禅寺住職松山継芳氏、小学校長三村伝氏、その他吉沢卯之助、下条大治、小林恭市等の諸氏なり。郡長平川房吉氏、種々配意を与えられたり。余が明治十年夏期、福島に投宿せし昔時を追想するに、一夕の宿料九銭なりしと記憶しおれり。

  挟水人家両岸連、峡雲桟雨雑炊煙、追懐三十年前事、一泊旗亭価九銭、

(渓流をはさんで両岸に人家が軒をつらね、山峡の雲、かけ橋にふる雨と人家よりのぼる炊煙とがまじりあう。かつて三十年前にこの地を訪ねたことを思い起こすに、宿泊した料亭の価は九銭であったのだ。)

 市街は渓流の両岸に櫛比し、一見温泉場なるがごとし。

 七月三十一日(日曜) 晴れ。木祖村〈現在長野県木曽郡木祖村〉字薮原駅小学校にて開会し、宿所は極楽寺、発起は校長斎藤縫喜氏、村長松本寅之助氏、僧侶鎌田智範氏、鈴木禅樹氏なり。当地はお六櫛の産地なるも、近来は避暑の良地の名高し。京北出身生駒純氏も消夏のためにここに滞宿せり。余が木曾俗謡を漢訳せる一詩あり。

  俗曲由来吾所愛、方歌却好知民態、木曾御嶽夏猶寒、欲贈袷衣添足袋、

(俗謡はもともと私の好むところであって、その地方の歌はその地の民情を知るうえでかえってよくわかるのだ。その俗謡に「木曾の御嶽は夏でも寒い、あわせやりたや足袋添えて」とある。)

 その方歌は「木曾の御嶽夏でも寒い、袷衣やりたや足袋添へて」を訳したるなり。ひとり御嶽のみならず、薮原にも通ずる俗謡なり。「木曾の夏、恋しきものは清き水、凉しき風と山の色なり」なれども、ただ蝿の多きには閉口なり。「木曾の地に蝿てふものゝなかりせば、是れぞ浮世の極楽の里」。

 八月一日 曇り。駄馬にまたがりて、境嶺を上下す。樹茂りて山ために黒し。坂路、険峻ならず。郡書記土屋金吾氏とともに同行して、午後一時、奈川村〈現在長野県南安曇郡奈川村〉に着す。行程六里なり。川名を奈川という。村名はこれに基づく。信州第一の高地にある村落なりという。宿所は勝山喜運治氏宅にして、会場は寄合渡分教場なり。村長小林増太郎氏、校長徳山頼武氏等の発起にかかる。当地、米穀の代わりに蕎麦を産す。これを民家の常食とす。一夕これを賞味するに、その味、寝覚蕎麦の遠く及ぶところにあらず。夜に入りて冷気はなはだし。

 二日 雨のち晴れ。馬上にて奈川を発し、暁雨をおかして野麦嶺に向かう。以下、飛騨紀行に譲る。木曾地の迷信として記すべきは管狐の一事なり。一村中に四、五軒ぐらいは管狐の住する家と称せらるるものありて、他人これと結婚せざるのみならず、その家の所有せる田畑を売却せんとするも買う人なし。けだしその家には管狐七十五頭同棲し、これと結婚またはその田畑を買い入るるときは、七十五頭の内より移住しきたると信ずるによる。その実況は雲州の人狐持ちとすこしも異なることなし。

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飛騨国紀行

 明治四十三年八月二日、早天、信州西筑摩郡奈川村よりようやく深渓に入り、茂林をうがち、鴬語鵑声に送迎せられつつ、信、飛二州の分界たる野麦嶺頭に達するとき、すでに十一時を過ぐ。御嶽、乗鞍の諸山、みな雲煙の中に葬られて望むことを得ざるは遺憾なり。

  渓頭馬上破蒼烟、攀尽信飛分水巓、借問乗鞍岳何処、山童仰指白雲天、

(谷のほとりを馬上で青みをおびるもやを破るように行き、信濃と飛騨の分水嶺をよじのぼる。試みに問う、乗鞍岳はどこであろうか。山に住む子供は仰いで白雲の天を指さしたのであった。)

 嶺を下りて飛騨国益田郡高根村〈現在岐阜県大野郡高根村〉字野麦駅に少憩して午餐を喫す。蒼蝿群来して人を苦しむ。これより新道あれども通行杜絶しおれば、旧道によるに険悪峻難、俗称ビックリ峠なるものをこえ、途上、髭田山の奇勝を望見しつつ、午後三時、会場地たる上ヶ洞に達す。会場は大徳寺、宿所は上田屋にして、村長森太之助氏、住職小長谷円海氏、校長三田村寛二氏等の発起なり。

 三日 晴れ。朝気冷なること秋のごとく、冷霧人を襲い、一望深山幽谷の状あり。

  一条水抱万山流、樹鎖清流夏色稠、急雨夜来洗炎熱、暁窓凉味冷於秋、

(ひとすじの川は多くの山々をいだくように流れ、樹々は清流をおおって夏の色は濃い。にわか雨が昨夜はとおって炎熱を洗いながし、あけがたの窓には涼しさがしのびよって、秋のすずしさよりも冷えたのであった。)

 郡視学大野丈助氏とともに上ヶ洞を去り、車行して朝日村〈現在岐阜県大野郡朝日村〉に移る。途中、中洞の地内、徳郷谷の渓流の奇石怪嵓をつきて急下する所、耳目を一洗するに足る。会場および宿所は宝蓮寺なり。村長長瀬市之助氏、助役池畑岩之助氏等の発起にかかる。いずれも山間の僻郷なり。

 四日 晴れ。大野郡久々野村〈現在岐阜県大野郡久々野町〉の開会なり、村長尾崎咲良氏、軍人団長黒木長作氏、郡会議員戸谷真一氏等の発起にかかる。当夕、谷口正吉氏の宅に宿す。旧知内記竜舟氏来訪あり。また、郡視学遠藤鐄次郎氏来会せらる。

 五日 晴れ。宮村社前にて多数の有志諸氏に迎えられて高山町〈現在岐阜県高山市〉照蓮寺、すなわち大谷派別院に入る。堂宇壮大なるのみならず、大いに由緒ある名刹なり。昼夜両度開会。聴衆満場、二千人と目算せらる。高山は地形京都に似たれば、従来小洛陽の称あり。その八景、左のごとし。

  国分晩鐘  高城秋月  位山暮雪  灘面落雁  上野夕照  松下夜雨  三枝晴嵐  宮川長流

 余が飛州に入りたる所見は、左の二首にて写出す。

  已探桟雨峡雲幽、更向仙源試雅遊、水色山光美於畵、飛騨是我瑞西州、

(すでにかけ橋にふる雨と谷間に起こる雲の奥深い地をたずね、さらに仙人の住むような地にみやびな遊びをこころみようと思う。水の色と山のかがやきは画よりも美しく、飛騨はまさにわが国のスイスである。)

  路入飛州望転迷、高峰群立覚天低、此中摂尽東西勝、山似瑞山渓馬渓、

(道は飛騨の国に入って、みわたせばいよいよまどう思いがし、高い峰がむらがりたち、天も低くなったかと思われる。このなかに東西の景勝のすべてがとりこまれ、山はスイスの山、谷は耶馬渓のごときである。)

 西洋人、飛騨を評して日本のスイスと称するは、その当を得たりというべし。

 六日 晴れ。高山町滞在。昼夜開会、前日のごとし。晩餐には、別院輪番鈴木了道氏の発意にて、郡長柿元一兵氏、町長上木甚四郎氏、校長田中貢太郎氏、広瀬亀之助氏等十余名と会食す。当地開会主催は高山町教育会および樹徳会連合にして、郡役所、町役場、小学校および別院の諸氏、みな尽力せらる。しかして郡内開会に関しては、柿元郡長、鈴木輪番の厚意をになう。また、当地において旧哲学館出身者高本賢栄氏、同白川松太郎氏および館友畠太助氏に相会す。

 八月七日(日曜) 少雨。高山を去り、清見村〈現在岐阜県大野郡清見村〉了因寺に至りて開会す。村長佐藤勝徳氏、助役島田峯太郎氏等の主催なり。一村の戸数少なきも、面積広くして十里以上にまたがるという。

 八日 雨。高山を経て丹生川村〈現在岐阜県大野郡丹生川村〉に移る。途中、七夕巌を望みて過ぐ。これ渓流を挟みて対峙せる立巌なり。毎年七夕、大縄をもってその巌頭をつなぐを例とす。その自然に切断する時日の遅速を見て、その年の豊凶を判ずという。会場小学校は堅かつ大なり。宿所は還来寺、主催は村長豊住松太郎氏、助役土川栄太郎氏、収入役平川広吉氏、村会議員田口豊氏等の諸氏とす。朝夕、単衣にては冷気を感じ、フランネルを用う。飛州の地、夏知らずというべし。

  遠去炎氛万丈都、飛山一路気将蘇、日当午処纔知夏、移到二時暑已無、

(遠くもえるような気の高くたちのぼるような都を去って、飛騨の山の一路に来てみれば、心気もよみがえるかと思われた。日はまさにまひる時となってわずかに夏を思わせ、時刻も十四時ともなれば暑さはすでになくなってしまうのである。)

 九日 炎晴。遠藤郡視学各所を案内せられ、ここに至りて別れを告ぐ。開会は吉城郡国府村〈現在岐阜県吉城郡国府町〉広瀬にして、相友学会の主催たり。宿所は会頭兼村長岡村利右衛門氏宅にして、邸宅ともに清雅の趣あり。旧哲学館出身朝戸浄諦氏助力せり。しかして会場は西念寺なり。本村は戸数一千三百を有し、県下第一の大村と称す。

 十日 大雨。国府村より古川町〈現在岐阜県吉城郡古川町〉に至る間は、飛州第一の平坦部にして、水田二、三里に連なる。古川町の宿所は本田文三郎氏の宅にして、町内第一の富有家なり。会場は円光寺にして、住職円山正意氏は東洋大学に学籍を有す。しかして主催は飛騨仏教団なり。桑月一心氏、円山正意氏、田近良照氏、北平宇吉氏等の発起にかかる。

 十一日 晴れ。午前、古川小学校にて開演す。戊申倶楽部の主催なり、郡長有吉寛氏出席なきをもって、課長馬淵外太郎氏代わりて斡旋せらる。午後、円光寺にて開演すること前日のごとし。

 十二日 晴れ。宮川に沿って渓間に入り、絶壁千仭の岸頭をわたりて、河合村〈現在岐阜県吉城郡河合村〉字角川に至る。会場、昼間は小学校、夜間は専勝寺なり。しかして宿所は柏木万氏の宅なり。その宅新しくしてかつひろし。同村教育会の主催にかかる。

  雲外是山々外村、飛州無処不仙源、午窓一枕寂如夜、只有清風来掃門、

(雲のかなたの山、山のかなたの村、飛騨の国はすべて仙人の住むような所である。午後の窓辺に一睡すればもの静かで夜のごとく、ただすがすがしい風が吹いて門のあたりを掃ききよめているのみである。)

 村長鈴木弥七郎氏、助役吉実元吉氏、校長三田村栄助氏、住職岩佐善竜氏および柏木氏、みな大いに尽力あり。当夕、神社の大旗を書す。

 十三日 雨。河合村を辞するに及び、柏木氏の恵詩に次韻を試む。

  未秋暁冷透窓紗、携去吟嚢復上車、欲写風光詩不及、一渓千曲路如蛇、

(まだ秋でもないのに夜明けの冷気は窓のうすぎぬをとおして入る。詩稿のふくろをたずさえてふたたび車上の人となる。この風光を書きとろうとしても詩作は及ばず、ひとつの谷に千も曲折する道はあたかも蛇のようである。)

 嶺をこえて船津町〈現在岐阜県吉城郡神岡町〉に着し、柿下旅館に宿す。行程八里、終日雨はなはだし。この日、関東大水の飛報あり。

 八月十四日(日曜) 雨。船津小学校に開会。町長上木戸義文氏、校長菱村光広氏等の発起なり。当夕は三井の所有にかかる神岡鉱山倶楽部に宿す。事務長山田文太郎氏は旧友にして、その相会せざること三十年の久しきに及ぶ。同氏の厚意によりて望外の歓待を受けたり。事務員鈴木太郎氏、諸事を斡旋せらる。倶楽部は高原川に臨みてすこぶる清涼を覚ゆ。

  高原川上坐清陰、夜気蕭寥万籟沈、唯有渓流鳴不歇、電灯影下洗塵心、

(高原川のほとりのすがすがしい日かげに座す。夜の気配はひっそりとものさびしく、すべての音がとだえた。ただ谷川の流れの音のみがやむことなく、電灯の光のもとに俗塵によごれた心を洗うのであった。)

 十五日 晴れ。山田氏の案内にて工場内を通覧するを得。小学校にて一席の講話をなし、午餐を喫して出発し、上宝村〈現在岐阜県吉城郡上宝村〉大字本郷に至りて開演す。会場および宿所は本覚寺にして、堂後の風光旅情を慰するに足る。その地、山間の僻邑なるにかかわらず、夥多の聴衆あり。発起は村長小池松太郎氏、助役上野清一郎氏、宗教家裁松徳宗氏、野林徳乗氏なりとす。

 十六日 晴れ、ただし雷雨あり。開会地は阿曾布村〈現在岐阜県吉城郡神岡町〉両全寺なり。蒲生禅行、上松泰堂、山本良雄三氏の発起にかかる。蒲生氏は哲学館出身にして、各所開会に関し照会の労をとらる。

 十七日 晴れ。早朝五時、阿曾布を発し、車行十五里、富山市に向かう。沿道、峻山崇嶺、茂林激湍ありて、耳目をたのしましむ。

  突兀飛山摩半空、懸巌奔瀑気何雄、曲渓一路雲千変、迎送風光入越中、

(高く突き出るような飛騨の山々は空の半ばをさえぎり、天からつり下がったような岩場と激しく流れ落ちる滝、このおもむきのなんと雄壮であることよ。まがりくねる一筋の道に雲はさまざまな姿を見せ、このような風景に迎えられかつ送られながら越中に入ったのであった。)

 越中に入りて、故哲学館出身片津恵友氏の寺たる片掛駅西念寺に一休す。同氏の弟たる片津鳳山氏これに住す。午後、富山市富山館に着せしとき、すでに五時なり。

 夏気の清涼、山水の明媚なるは世間みな木曾峡を称するも、飛騨は更にその上に出ず。日本〔の〕スイスの名、実に空しからず。これを欧州のスイスに比するに、風景の雄大なる点と湖水のいたるところに存する点とは、飛州のかれにしかざるところなるも、奇石怪巌に渓流の激湍する点は、スイスのこれに及ばざるところなり。聞く、秋期の紅葉は日本一なりと。これまた、かれの比すべきにあらず。将来、鉄路の本州を一貫するの暁には、内外人の遊覧地たるは疑いなし。また、その地の避暑の最良地たるは、水の清くして蚊のおらざるにあり。けだし日本国中、一州として夏時蚊帳を用いざるは、北海道の外には飛騨を除きて他に見るべからず。願わくば、これを日本帝国の天然の公園と定めんことを。もし、その地の他州人の目に奇異に感ぜらるる諸点をあぐれば、

家屋の粗大にして、茅屋を見ざること。(村落に至るもみな板屋にして石を載す)

便所は上下を通じて屋外に設くること。(民家に至りては拭糞に紙を用いずして、板片を用うること)

桑はすべて立木にして、しかも老木の多きこと。(その樹下に稗を作る)

八月に入りて麦を刈り、かつこれをハサにかくること。

水田中に稗を作ること。(民家の常食は稗なること)

一年中、蕪漬けと菜漬けとを蓄えて、これを毎食に用うること。蕪漬けの古きは二、三年以上蓄うること。これを火にあぶりて食すること。

蕪はすべて赤色、茄〔子〕はすべて長茄〔子〕なること。

シナヅケと称して種々の茸を漬けること。

人々の会飲するときには、必ず始めに「メデタメデタノ若松様ヨ枝モ栄エテ葉モシゲル」を歌い出すこと。

方言中にて通じ難きもの少なからず。その一例に、はなはだというべきをムテンクテンという。ある人の方言を歌につづりたるものあり。

 飛騨のなまりはおばさんあばよ、むてんくてんにおりやおつかない、

迷信中に牛房種〔ごんぼうだね〕と名付くるものあり。他地方の人狐持ち、大神持ちのごとく、他人その家と結婚せざること。

 地勢は峻山崇嶺多くして平地に乏しきは、紀州熊野地に似たり。山の俗称にビックリ峠、金チヂミ坂などのあるを見て知るべし。金チヂミとは、男子この坂を攀ずるときは、必ず金玉を縮むとの意なりという。しかして渓流にそいて巧みに道路を開鑿し、人車の通ぜざる村役場なきは、だれも意外に感ずるところなり。人情、風俗に至りては、概して淳朴にして太古の風あり。知識、教育、工業等すべて文明の進歩に関しては、他地方よりおくれおるもののごとし。これに反して宗教の信仰心厚く、寺院を尊重する風あり。かつ迷信の比較的少なくして、毎戸に魔除けに関するお札類を粘付するを見ず。これ真宗の隆盛なるによる。つぎに生活程度はいたって低く、粗食または雑食することは他にその比を見ざるほどなり。一年中ほとんど魚類を食せざるものあり。常食は稗飯なれども、その外に粟飯、芋飯、大根飯、菜飯、蕪飯等、およそ二十種ぐらいあり。粥にも稗粥、蕪粥、栃粥などあり。また、団子にも二十種ぐらいあり。最後に、余の飛騨の名称をよみたる狂歌一首を掲ぐ。

  うね★★(原文では、くの字点表記)る峯を袴のヒダとして、仕立あげたる飛騨の国かな、

 十八日 晴れ。午前、富山市〈現在富山県富山市〉東別院にて公会および茶話会に出演す。田舎仏教社の発起なり。同社は旧哲学館出身たる遠藤静栄氏の創立にかかる。午後、高岡市外横田村〈現在富山県高岡市〉高等女学校に出演す。県農会および斯民会の依頼に応ずるなり。堀二作氏の宅に少憩し、当夕八時、帰東の途に上り、駿州清水港に三泊して二十二日帰宅し、はじめて和田山哲学堂庭園の、洪水のために侵害せられたるを知る。

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美濃国東部紀行

 明治四十三年八月二十六日、東京を発し、駿州清水港にて海水浴を試む。二十九日、朝鮮併合の詔書を拝読し、詩をもって祝意を述ぶ。

  号外一声驚四隣、読来併合詔書新、我皇明徳炳如日、照及三韓八道民、

(号外の一声は四方の近所を驚かす。読めば朝鮮併合の詔書が新しく出されたものであった。わがおおぎみの明徳のひかりかがやくこと太陽のごとく、てらす光は朝鮮八道の民にまでおよんだ。)

  天地皇風度、帝威震四夷、鶏林宿雲散、八道仰朝曦、

(天地におおぎみの徳風はゆき渡り、その威厳は四方の異民族にふるう。朝鮮にたれこめていた雲がとり払われ、八道は夜明けの光を仰ぐのである。)

 三十日 晴れ。早朝、清水を発し、名古屋より中央線に転乗して美濃国恵那郡大井駅に着し、これより電車に駕し、岩村町〈現在岐阜県恵那郡岩村町〉盛岩寺に至りて宿す。当夕、一席の談話をなす。

 三十一日 晴れ。午後、大雨雷を帯ぶ、昼夜開会す。当地小学校は旧藩時代の造営にかかり、古色蒼然の趣あり。鴻儒林述斎および佐藤一斎の出生地なり。開会は宿寺住職後藤琢舜氏、校長原田藤一氏、浅見与右衛門氏、長谷川九一郎氏等の発意に出ず。電車中の一作あり。

  一渓千曲路如腸、断岸東奔似鳥翔、堪喜文明余沢遍、電声護夢入仙郷、

(ひとつの谷は千回も曲がり、道は腸のごとくめぐる。断崖は行く車にしたがい、東にむかって鳥の飛ぶがごとくはしる。喜ぶべきことに文明の恩沢はあまねくゆきわたり、雷のなるなかを夢心地のまま仙人の住むような地に入ったのであった。)

 九月一日 晴れ。長島町〈現在岐阜県恵那市〉円通寺にて開演す。寺内に不動尊ありて遠近より来詣す。発起は住職伊藤文鏡氏なり。郡視学宮脇半助氏、郡長に代わりて来訪あり。

 二日 炎晴。汽車にて土岐郡瑞浪村〈現在岐阜県瑞浪市〉に移る。旅館対碧楼は室ひろくして風よく入る。会場は劇場にして聴衆充溢、一千五、六百人をもって算す。すこぶる盛会なり。主催は近郷五カ村連合にして、神官鵜飼醇一氏、校長鈴木喬氏をはじめ、各村長、校長および有志家の発起にかかる。なかんずく鵜飼氏の尽力ただならず。旅館楼上はるかに御嶽と相対す。よって一吟す。

  土岐川畔路、瑞浪駅前楼、岳色与雲影、両来座上浮、

(土岐川のほとりの道、瑞浪の駅前の旅館、山の色と雲の姿と、ふたつながら入りきたって座も浮くがごとく思われた。)

 三日 晴雨不定。土岐津町〈現在岐阜県土岐市〉にて開演す。郡役所所在地にして、また陶器の産地なり。主催は教育会にして、発起は郡長山内権次郎氏、郡視学若原彦造氏、町長林定氏、および各校長とす。しかして宿所は旅館なり。旧館友水野節夫氏(泉村住)の送迎を受く。この日、武儀郡神淵地方に未曾有の水災あり。

 九月四日(日曜) 晴れ。若原郡視学と同行して多治見町〈現在岐阜県多治見市〉に移る。会場は小学校、主催は梅渓昇慶氏にして、町長加藤篤治氏、校長日比野健一氏これを助く。当夕、硝子屋に宿す。この地、近年日を追って繁栄すという。

 五日 晴天雨を交ゆ。多治見をへだつる十余町の所に虎渓の名山あり。その石柱に題するに「虎渓佳山水、永保古禅林」(虎渓山水よし、永保寺は古禅林)の連句をもってす。山をめぐらし水を抱き、林影窓を侵し、水声座に入り、その幽邃愛すべし。堂上少憩のとき、一絶を得たり。

  虎渓山抱水、永保寺蔵林、堂上清風足、坐来洗客襟、

(虎渓山は水にいだかれるように、永保寺は林にかくされている。寺堂の上に清らかな風が吹き、ここに座せば旅人の心を洗うのである。)

 虎渓を去りて山行二、三里、可児郡姫治村〈現在岐阜県多治見市、可児市〉雲竜寺に至りて開会す。郡長寺田救一氏は郡視学前田謙二氏とともに、ここにわが一行のきたるを待つ。主催は青年会にして、その会員の行動は郡内青年の模範なりという。会長渡辺宮之丞氏(村長)、副会長奥田芳男氏(校長)等の発起にかかる。哲学館出身者にして目下妙心寺派布教使たる関下象峰氏は、上之郷村より来訪あり。

 六日 晴雨不定。隣村平牧村〈現在岐阜県可児市〉竜泉寺にて開演す。青年会の主催なり。当村も上下よく協和し、村治の見るべきものありという。村長安藤久太郎氏、校長柴田銀三郎氏の発起にかかる。

 七日 曇り。午後、大雨至る。途上の所見、詩中に入るる。

  忽雨忽晴天似狂、山雲水霧望茫々、東濃一路秋将半、風度稲田花気香、

(たちまち雨かと思えば、たちまちに晴れて、天の運行も狂うがごとくである。山の雲、水の霧と一望すれば広々とひろがる。美濃の東の地のひとすじの道に秋も半ばになろうとしていて、風は稲田をわたり、稲の花の香りがするのである。)

 郡内丘陵起伏するも、水田多く、ときに稲花の最中なり。郡役所所在地たる御嵩町〈現在岐阜県可児郡御嵩町〉において開会す。同町助役佐藤成男氏、上之郷村長平井信四郎氏、中村長原寿三郎氏等の発起にかかる。会場は小学校にして、宿所は桝屋なり。回想すれば、三十五年前この町を通過せしことあり。

 八日 晴れ。午前、東濃中学校において講話をなす。校長八木繁四郎氏、教諭西村常吉氏(旧知)の依頼に応ずるなり。これより兼山町〈現在岐阜県可児郡兼山町〉西念寺に至りて開演す。住職梅渓得誠氏、町助役山田桂次郎氏等の発起なり。町は木曾川断岸の上にありて、寺は数丈の危巌の下にあり。清風堂に満ち、消夏によろし。

  堂後巌為壁、窓間水是琴、清風来入座、一夜掃塵心、

(寺堂の背後の岩は壁となり、窓から見える水流は琴のごときである。清らかな風が吹いて座に入り、一夜、ちりにまみれた心を掃き清めたのであった。)

 寺田郡長は毎日会場へ出張して、諸事につき指導の労をとられたり。

 九日 晴れ。木曾川橋を渡りて加茂郡八百津町〈現在岐阜県加茂郡八百津町〉に移り、大仙寺にて開会かつ宿泊す。門深く境寂なり。住職星野希臾、町長大川金左衛門、校長田口虎吉、町民大谷弥右衛門等諸氏の発起にかかる。この町をへだつる十余丁、水力電気発源の大工事中なり。川上の風景絶佳なるも、遊覧のいとまなきを遺憾とす。

 十日 晴れ。木曾川に沿いて車を飛ばし、飛騨川合流の所より数丁にして太田町〈現在岐阜県美濃加茂市〉に至る。郡衙所在地なり。郡長古市亨氏、郡視学大脇儀市郎氏、町長渡辺鶴之助氏等の発起によりて開会す。宿所は万尺寺なり。

 九月十一日(日曜) 晴れ。加治田村〈現在岐阜県加茂郡富加町〉竜福寺にて開会あり。住職松岡蓮邦氏は哲学館卒業にして、諸事に関し大いに尽力せらる。平井、河合、高木諸氏これを助く。ときに一詩を案出す。

  僧堂深処対林巒、聴水看雲意自寛、静裏枕書眠忽熟、坐禅不若臥禅安、

(寺院の奥深いところは林と山にむかい、水の音をきき雲をみれば、心はおのずからゆったりとする。静かなうちに書を枕として眠ればたちまちに深く、坐禅は臥禅の安心にしかずと思うのであった。)

 堂後泉流あり、庭内楓樹多く、室清く境きよし。朝夕秋冷を覚え、単衣やや寒く、虫語また冷ややかなり。この隣村伊深正眼寺に有名の僧堂あり。

 十二日 晴れ。蜂屋柿の産地を過ぎて川辺町〈現在岐阜県加茂郡川辺町〉に移る。新築小学校にて開会す。山田町長、田口校長等の主催なり。

 十三日 雨。川辺より下麻生村まで車行し、これより草鞋をうがちて西白川村〈現在岐阜県加茂郡白川町、益田郡金山町〉字和泉に至る。行程六里なり。飛騨川沿岸の風景おのずから趣を成し、川上に鉄索を張り軽轎をかけ、縄を引きて前岸に移るところ、すこぶる奇なり。昔時のいわゆる駕篭渡しの代用ならん。

  吟笻何厭路崢嶸、明山媚水忙送迎、絶壁津頭舟不見、人懸鉄索駕空行、

(吟詠の杖をついて行くのに、どうして道のけわしさをいとおうか。すっきりした山と美しい水はいそがしく送迎してくれるのである。絶壁のわたしには舟は見えず、人は鉄索にかけられたかごにのって空を行くのだ。)

  曲々渓回路自迂、雲来林壑白将無、巌頭停杖望前岸、似対雪舟山水図、

(曲がりにまがる谷の道はおのずからくねるがごとく、雲がかかれば林も谷も白く無に近くなる。岩上に杖をとどめて前の岸を望めば、あたかも雪舟の山水画に対面しているようである。)

 十四日 雨。西白川村にて開演す。村長新田正男、県会議員加藤浩、校長田原栄一郎、大場九一郎等諸氏の発起なり。当所に白川、黒川、赤川の三流あり。水の色によりて名付くという。

 十五日 晴れ。武儀郡金山町開会の日なるも、水害のために見合わすこととなり、馬上、嶺また嶺をこえて、佐見村小学校に少憩す。途上、木曾御嶽および加賀白山を望見するを得たれば一吟す。

  馬上秋風雨後山、水肥草冷野花斑、嶺頭挙首望天半、雲破一峯開笑顔、

(馬上に秋風が吹き、雨のあとの山をゆく。水は豊かに草は冷えびえとして野に咲く花もまばらに見られるようになった。嶺の上からこうべをあげて天の半ばを望めば、雲を破って一峰が突き出で、思わずこころよさに笑顔となったのである。)

 佐見村内に夫婦杉あり。二株ともに五、六囲の大木なり。その中間に一大枝の二木を連結するあるは最も奇なり。これより鞋行して飛騨国益田郡内中原村字和佐小学校に一休し、更に馬にまたがり川を渡りて孝池水のそばに踞す。ここに浦白六景の勝あり。すなわち孝池水、女夫松、吐月峰、独木橋、帰樵径、滌水岸これなり。更に車行すること数丁にして、一峰巌石を抱き対岸に屹立するを見る。その名を問うも人知らず。よってこれに命名して羅漢巌となす。その状あたかも十六羅漢の雲上より下降するに似たり。

  看過孝池傍澗回、一峯抱石眼前開、恰如十六阿羅漢、成列高従雲上来、

(孝池をみればかたわらにたに水がめぐり、ひとつの峰は岩石をいだくような姿で対岸に立つ。あたかも十六羅漢にも似て、列をなして高く雲上からこられたかのようである。)

 当夕、中原村〈現在岐阜県益田郡下呂町〉字保井戸矢嶋駿男氏宅に泊す。この辺り前後七里の間、中山と称す。飛騨川すなわち益田川の峡間にして、山翠水碧相映じ、危岩急湍相激し、飛騨山中絶勝の一とす。

 十六日 晴れ。中山小学校にて開演す。戊申会および青年会の主催にして、足立高太郎、細江雄太郎、今井覚次郎三氏の発起なり。朝夕秋冷加わり、人をして衣を重ねしむ。夜に入りて急雨あり。

 十七日 快晴。保井戸を発し、屏風岩の麓をめぐり、峡間をさかのぼりて帯雲橋頭に一休す。途上、二首を得たり。

  夜来凄雨洗秋天、一道暁晴風色鮮、蘇峡馬渓何足比、中山七里益田川、

(昨夜からのすざまじい雨が秋の空を洗いながし、ひとすじの道に暁より晴れて、吹く風にすべてが色あざやかとなった。木曾谷も耶馬渓もなんと比べるほどもない。ここは中山七里の益田川の谷間である。)

  帯雲橋畔路成岐、両岸風光奇更奇、只憾飛山秋尚浅、渓林未有染霜枝、

(帯雲橋のほとりで道はえだみちとなり、両岸の風景はめずらしくかつすぐれている。ただ残念なことに飛騨の山に秋はまだ浅く、谷の林はなお霜葉の紅には染まっていないのである。)

 橋を渡りて右折し、上原村〈現在岐阜県益田郡下呂町〉夏焼小学校に至りて開演す。村長桂川宗平、校長細江卓爾、桜井正三等諸氏の主催なり。当夕、天澄み月朗らかにして、露気滴るがごとし。

  雨洗秋空夜皎然、満庭露気草生烟、客窓欲詠飛山月、読起蘇翁赤壁篇、

(雨は秋空を洗って夜は白くはれわたる。庭のすべてに露の気配が濃く、草にもやがかかったようである。客の泊まる窓べに飛騨の山月を詠みたいと思い、蘇軾の『赤壁賦』一編を読んだのであった。)

 九月十八日(日曜) 晴れ。更に車をめぐらして竹原村〈現在岐阜県益田郡下呂町〉宮地小学校に至り、新築校舎にて演述す。村長中島孫右衛門氏、校長細江亭太郎氏、古田恭一氏、中村冝一氏等の主催なり。当夕、地蔵寺に宿泊せるに、ときまさに中秋三五の月明に会し、図らずも飛州の観月をなす。

  飛山深処会中秋、仰見天心月一球、帝国光威如此夜、清輝遠及満韓州、

(飛騨の山中深いところで中秋にあう。天の中心を仰ぎみれば、月は球のように、帝国の威光もこの夜の月明のごとく、清らかにかがやいて遠く満州、朝鮮に及んでいるのである。)

 十九日 雨。下呂村〈現在岐阜県益田郡下呂町〉小学校にて開会あり。村長牧多賀次郎氏、警察署長大橋熊吉氏等の発起に出ず。宿所は吉村屋なり。当所に小温泉あり。

 二十日 晴れ。中呂禅昌寺の門前を一過して、郡衙所在地たる萩原町〈現在岐阜県益田郡萩原町〉に移り、小学校にて開演す。町長今井徳太郎氏、校長飯島正太郎氏等の主催にかかる。宿所は粥川屋なり。当夕、郡長横井銃吉氏、郡視学大野丈助氏等と会食す。大野氏は各所開会に案内の労をとらる。この日まさしく祭日の後にて、町内なおにぎわえり。

 二十一日 晴れ。川西村〈現在岐阜県益田郡萩原町〉尾崎永養寺において開会をなす。主催は青年会にして、住職旭野蓮乗氏、村長水口鉦之助氏および校長等の発起なり。

 二十二日 晴れのち雨。暁風やや寒きを覚ゆ。小坂町〈現在岐阜県益田郡小坂町〉浄福寺にて開演す。町長住幸謹氏の主催にかかる。宿所は新屋旅館なり。この町より七里にして御嶽頂上に達す。高山に至るもまた七里あり。

 二十三日 晴れ。更に車を返して川西村字羽根、新築小学校にて会を開く。村長水口鉦之助氏、郡会議員高橋謙氏、助役島尻志津雄氏等の発起なり。当夕、高橋氏宅に宿す。

 二十四日 晴れ。更にまた腕車を翻して中山七里を一貫す。この間、峡狭く水急にして渡船の便なく、往々懸索にて人を運ぶの設備あり。昔日は七里の間ほとんど人家なく寂寞たりし実況は、俗謡によりて推知するを得。「ういよつらいよ中山七里、川の鳴瀬と鹿の声」。午十二時、美濃国武儀郡金山町に着す。行程九里なり。これより水害地に入る。井桁屋に休憩し、町役場に慰問し、更に三里を徒歩して神淵村〈現在岐阜県賀茂郡七宗町〉に至る。前後の駅路崩壊して車馬通じ難し。これ水害の中心点なり。この村外に七宗山あり。これより出ずる小流、暴溢して民家を洗い去り、人畜死傷多し。慰問の詩に曰く。

豪雨崩山去、濁浪洗村新、噫天何悲惨、溺殺此良民、福善禍淫語、我将問蒼旻、同胞情難黙、投貲尽其仁、請君勿落胆、世道保平均、災余若自重、必有百福臻、

(豪雨は山を崩し、濁流は村を洗い去る。ああ、天はなんと悲惨なことを下せる、この良民を溺殺す。善には福、不正には禍という。私は天に問いただそう、いかなる故なのかを。同胞の情として黙ってはおれぬ、財を出して人の道をつくそう。請う、落胆するなかれ、世の中の道理は平等なものである。ひとたびの災害の後は自重すれば、必ずや百福があつまるであろう。)

 夜に入り、小学校にて水害慰問演説をなす。東武教育会の主催なり。校長中島松太郎氏その幹事たり。宿所竜門寺には妖怪室あり。その書院の清閑愛すべし。

 九月二十五日(日曜) 晴れ。朝、役場を訪問し、水害地を巡見して数十家全滅の跡に至れば、その悲惨、同憐の情に堪え難し。

  七宗山下歩堪移、災後荒凉風物悲、訪到人家流失跡、慇懃老婦話当時、

(七宗山のもとようやく歩を移し、災害の後は荒涼として風物ももの悲しい。人家を訪ねるに流失して跡もなく、うれいいたむようすの老婦人はそのときのことを話すのであった。)

 これより富之保村〈現在岐阜県武儀郡武儀町〉青年会のもとめに応じ、小学校にて演述す。会長は吉田需氏、理事は堀江深志氏なり。晩に及びて雨ようやく至る。

 二十六日 晴れ。車行五里、関町〈現在岐阜県関市〉に至る。駅道坦々、といしのごとし。宿所は旅館友竹園、会場は照慶寺なり。この地もと刃物をもって世に知らる。

 二十七日 雨。午後開会。聴衆、堂にあふる。小学校長近藤蔓雄氏、助役仙石弥一氏、住職鈴木曇華氏、有志家熊沢久兵衛、中島、日野、深川、柳原、塚原諸氏等の発起なり。しかして熊沢氏、最も尽力あり。旅館友竹園主人のもとめに応じて小詩を賦す。

  友竹人如竹、愛蘭心似蘭、清間無別事、高臥且加餐、

(竹を友とする人は竹のごとく、蘭を愛する人は蘭に似る。この清らかな中に格別のこともなく、安心して臥しかつ食事をするのである。)

 ときに画家渡辺秋渓氏、幽霊の図を写して余に贈らる。また、哲学館卒業岡田省三氏、小金田村より来訪あり。

 二十八日 晴れ。郡役所所在地たる上有知町〈現在岐阜県美濃市〉に移り、臨済宗の大地たる清泰寺にて昼夜ともに開会す。満堂の聴衆あり。住職高林玄宝氏、町長安田公平氏、校長野々村嘉辰氏、学務員須田英一氏等の発起なり。宿寺所感の一作、左のごとし。

  武儀山外路、清泰寺門深、雨歇禅堂寂、経声動道心、

(武儀山のかたわらの道に、清泰寺の門が深々とたつ。雨のやんだ後の禅堂はもの静かに、経を読む声が仏道を求める心をゆりうごかすのである。)

 郡長村上定吉氏には会見せざるも、郡視学総山文兄氏は各所へ同伴して斡旋の労をとられたり。

 二十九日 晴れ。川を渡ること二回、渓行数里にして、洞戸村〈現在岐阜県武儀郡洞戸村〉字市場に至り、小学校にて開会す。西武教育会の主催なり。船渡正躬氏、山田敝氏、同尚高氏、木村恒助氏、森政吉氏の発起にかかる。この一峡は美濃紙の原産地にして、家として紙を製せざるなし。

  洞戸川源遠、繞渓一路通、山家白非壁、素紙晒晴風、

(洞戸川の源は遠く、谷をめぐるようにひとすじの道が通じている。山間の家が白いのは壁ではなく、白い紙が晴れた日の風にさらされているからである。)

 遠望するに半村、紙のために白しの観あり。本村より板取村を経て越前大野郡に通ずる山道あり。当夕、医師藤田邦彦氏の宅に宿す。室新しくして心また清きの思いをなす。旧哲学館出身泉文浄氏、この村に住す。

 三十日 雨。武儀郡を去りて洲原神社に詣す。水力電気の工事あり。午時、郡上郡嵩田村〈現在岐阜県郡上郡美並村〉に着す。行程五里とす。当夕、上田北辰寺にて開会す。村長は吉田勘吾氏なり。終夜、水声夢を驚かす。

 十月一日 雨。長良川を渡り、午前、下川村〈現在岐阜県郡上郡美並村〉林光院にて開会す。村長は河合誠一氏、校長は小林亨一氏なり。更に川を渡りて相生村〈現在岐阜県郡上郡八幡町〉に移る。会場および宿所は照明寺なり。住職和田哲雄、福常寺主可児応二氏は哲学館出身たり。しかして村長は武藤喜兵衛氏なり。この日、途上一首を得たり。

  繞屋青山雨後新、采薪人蹈白雲行、一条渓水無橋路、渡上呼舟晩有声、

(家屋をめぐる青々とした山は雨のあと新鮮さを増し、薪をとる人は白雲をふむようにして行く。一条の谷川には橋もなく、渡るには舟を呼び、日晩れて呼ぶ声が聞こえてきたのであった。)

 村々、多く薪炭を産出す。

 十月二日(日曜) 晴れ。午前、八幡町を経て口明方村〈現在岐阜県郡上郡八幡町〉専光坊に至り開演す。住職は坪井唯然氏、村長は鷲見晴太郎氏、助役は高垣賢三氏なり。午後、奥明方村〈現在岐阜県郡上郡明宝村〉に移る。これより三里にて飛騨の国境に達す。高山町まで十四里ありという。途上また一吟す。

  隔水孤村在、新紅染屋辺、山楓秋色未、柹葉著先鞭、

(水をへだててぽつんと村があり、新たな紅葉が家屋のあたりをいろどる。山の楓に秋の色はいまだしであり、柿の葉がまず色づきはじめたのである。)

 当夕、円光寺にて開演す。住職は中田海円氏、村長は古池助右衛門氏、収入役は高田晴之進氏なり。

 三日 雨。更に八幡を経て堀越の山路を攀じ、西和良〔村〕〈現在岐阜県郡上郡八幡町〉の小渓に入る。小耶馬渓の風致あり。会場および宿所は本覚寺なり。住職岩佐元浄氏、役場員羽田幸三郎氏等の主催にかかる。

 四日 快晴。途上はるかに御嶽の一角、白雪を冠するを見る。途上の所見、左のごとし。

  秋雨染渓山、林頭纔帯錦、児童時荷籃、拾栗又探蕈、

(秋の雨が谷や山を染め、林の上はわずかに錦をおびはじめた。子供らはときにかごをにない、栗を拾ったり、きのこを探したりしているのである。)

 和良村〈現在岐阜県郡上郡和良村〉覚証寺にて開演す。住職後藤泰環氏の発起なり。ときにまた一詠す。

  郡上山深処、傍渓有寺門、夜来霖雨歇、晴色入窓青、

(郡上の山の深いところ、谷のかたわらに寺の門がある。昨夜からのなが雨もやんで、晴れた景色が窓から入るように青々としている。)

 当夕、東村〈現在岐阜県益田郡金山町〉岩瀬東林寺に転じて会を開く。書院雅趣を存す。住職藤原孝順氏は木石を楽しむ、その園を馬瀬園と号し、亭を臨江亭という。よって一詩を題す。

  馬瀬園中遥聴瀬、臨江亭上不看江、幽居誰謂無良伴、山色水声来入窓、

(馬瀬園のなかではるかに瀬音をきき、臨江亭の上ではかえって江は見られぬ。世をさけて静かにくらすには、だれが良きともなしといわん。自然を友として山色水声ともに窓より入りきたる。)

 村長は今津耕作氏なり。この地より武儀郡金山町に至る。わずかに三里を隔つ。川上、材木積みて山を成す。

 五日 晴れ。東村より六里、八幡町〈現在岐阜県郡上郡八幡町〉に至る。郡内第一の都会なるのみならず、従来東濃第一と称す。その地、川にまたがり、山に挟まれて狭隘なるも、仙境に似たる趣あり。その地形は木曾峡福島町に類す。当夕、安養寺にて開会す。宿所は備前屋なり。江を隔てて絃声を聴く。

  郡上峡深山更幽、千渓水向八幡流、客窓一夜聞糸竹、声在白雲堆裏楼、

(郡上の峡谷は深く山はさらに奥深い。千の谷からの水は八幡町に向かって流れる。旅館の窓べに一夜弦と管の音を聞く。音は白雲のうずたかくつむなかの楼閣より起こっているのである。)

 六日 晴れ。昼夜ともに安養寺にて開会す。聴衆、大数二千人と号す。大堂まさに人をもって溺さんとす。主催は八幡町および川合村連合にかかり、町長武藤互三氏、助役茂原信可氏、書記広瀬鎰次郎氏、村長戸塚鐐助氏、助役井上与喜氏等の発起なり。しかして仏教青年団員武藤喜一郎氏、岩崎、池戸、伊藤等の諸氏、奔走の労をと〔ら〕る。当夕、郡長竹内伊之助氏、郡視学山田紀一氏と会食す。

 七日 晴れ。昼間、山田村〈現在岐阜県郡上郡大和町〉恩善寺にて開会。西川村、山田村連合の主催にして、鳥江、日置、清水諸氏の発起にかかる。夜間、弥富村〈現在岐阜県郡上郡大和町・白鳥町〉浄円寺にて開会。村長畑中誠児氏、校長杉原秋之助氏等の主催なり。

 八日 雨。午前、牛道村〈現在岐阜県郡上郡白鳥町〉黒田九郎右衛門氏宅にて開会す。役場員の主催なり。午後、上保村〈現在岐阜県郡上郡白鳥町〉来通寺にて開演す。田代、滝下両氏等、村内有志の発起にかかる。字白鳥は郡内八幡に次ぐ市街地なり。当夕、原荘一郎氏宅に宿す。

 十月九日(日曜) 晴れ。高鷲村〈現在岐阜県郡上郡高鷲町〉に移る。途上、一首を浮かぶ。

  一道晴風山又河、稲田已熟漲黄波、渓頭秋色何辺好、偏向水声喧処多、

(ひとすじの道に晴日の風が吹き、山また河がつづく。稲田はすでに熟して黄色い穂波がみなぎる。谷のほとりには秋の色があり、いったいどのあたりがよいのか、一方では水の音がかしましく響くところが多いのである。)

 駅路を離れて阿弥陀滝あり、その名高し。会場は浄勝寺、主催は村内有志なり。飛騨国荘川村より助役青木誠三氏のここにきたりて迎えらるるあり。郡上郡は地勢飛騨に似て、山高く谷深く、わずかに渓流にそって車路を通ずるのみ。

 十日 雨。馬上嶺頭をわたり、行くこと四里にして飛騨国大野郡荘川村〈現在岐阜県大野郡荘川村〉に入る。途上、山林紅を染むること三、四分に及ぶ。風光かえって多趣なり。

  飲馬武陵源上津、半渓秋色勝三春、雨遮紅葉却多趣、恰似隔簾窺美人、

(馬は伝説の理想郷である武陵源のわたし場でみずかい、谷のなかばを占める秋の景色は春の三カ月にまさる。雨は紅葉をさえぎって、むしろおもむき多く、あたかもすだれをへだてて美人をうかがうがごときをたのしんだのであった。)

 会場は宝蔵寺、宿所は寺田旅館なり。村長若山作右衛門氏、有志家山下常吉氏、北野俵蔵氏等の発起にかかり、青木助役もっぱら奔走せらる。遠藤郡視学は十余里の遠路、草鞋をうがちて歓迎せられしは深謝するところなり。

 十一日 雨。紅葉碧水の間を縫いつつ、孤鞍に駕して白川村〈現在岐阜県大野郡白川村〉字御母衣に着す。中間に照蓮寺の旧跡あり。宿所および会場は郵便局長遠山喜代松氏の宅なり。当家は家族四十二人、家屋は五層、間口十間、奥行六間の大を有す。比隣各戸みな二十人ないし四十人の家族ありて、三階ないし五階の茅屋なり。白川郷はすべて他郷と家屋の構造を異にす。言語また異なり、人を見送りて別るるときに、タメローテオ出デ、またはシンビヨーニオ出デというを常とす。静かにしておいでなさいの意なりという。方歌また奇なり。「オアシフミ、サモ一夜〔ヒトヨ〕ニゴザレ五月スギテノ農休〔ノヤスミ〕ニ」「一夜御出ト言ヒタイケレド未ダカヽマノ側〔ソ〕ニ寝ル」のごとき、その一例なり。従来、田植えのときに五ツ紋の衣を服し、赤きタスキを着くる風あり。山野に出ずるときは臀上に敷き皮を垂れて行く。これ土石の上に踞するためなりという。遠山氏の宅に瓢を削りて匕杓〔ひしゃく〕となすあり。その形大いによし。余、これをもらい得て題するに左の語をもってす。

  瓢兮瓢兮吾愛汝、汝為匕杓在白川、其色可親形可愛、願使汝汲都下泉、一朝山館携汝去、千里護持不離肩、

(ふくべよ、ふくべよ、われなんじを愛す。なんじはひしゃくとなって白川にあり、その色はしたしむべく愛すべし。ねがわくば、なんじに都下の泉をくませたい。いったん、この山の館からなんじをたずさえて行き、千里も大切にまもり持ちて、肩よりはなすまい。)

 この地、加州白山の後麓にあり、半日にて山巓に達するを得。また、これより三里を隔てて世に喧伝せる白水の瀑布ありというも、遊覧のいとまを得ず。

 十二日 雨、牛背にまたがり、徐行して白川村字荻町に移る。途中、怪巌奇石の高くかかるあり、碧潭白浪の横に連なるありて、風光すこぶるよし。ただ、紅葉の期節なお早きを遺憾とす。

  一路傍渓縦又横、巌将落処駕牛行、帰雲橋畔時回望、水色山光競媚明、

(ひとすじの道は谷のかたわらに縦になったり横ざまになったりし、岩の落ちかかるかと思われるところを牛に乗って行く。帰雲橋のほとりでときにみまわせば、水の色と山の姿はすっきりとした美しさをきそっているのである。)

 宿所は円誓寺、会場は鳩谷なる小学校、主催は村長木村正忠氏なり。白川山中は水田乏しく、畑地また多からず。荘川の両岸狭くして、余地なきをもってなり。ここに焼畑と名付くるものあり。五カ年間畑地とし、十五カ年間山林として交替する法なり。しかして五カ年中二カ年は稗を植え、三カ年は蕎麦または大豆を植ゆという。生活程度は衣食住ともに低く、茅茨きらず、夜戸をとざさず、尭舜の民たる趣あり。宗教は全部真宗に属し、毎戸仏壇を安置する室を別設し、二、三十戸の小部落にみな寺院を置く。その他白川郷の特色多きも、いちいち挙示し難し。

  朝汲渓泉夕拾薪、山居只与白雲親、茅茨不剪家無鎖、今日猶看尭舜民、

(あさには谷の泉をくみ、夕べには薪を拾い、山中のすまいはただ白雲と親しくするのみ。屋根をふいたかやは切りそろえず質素に、家に鍵もかけず、いまなお、伝説の尭帝、舜帝の太平の民をみるような思いがした。)

 十三日 雨。馬にまたがりて羊腸たる渓路をたどり、両岸の風光に吟魂を奪われつつ、越中国東砺波郡五箇山中に入る。その途上の山水媚明の状は、飛州第一と称すべし。益田沿岸の及ぶところにあらず。ただ、紅葉なお十日早きを遺憾とす。

  馬上鞭雲駆暁風、懸崖一線路纔通、庄江秋色堪吟賞、水是深青山浅紅、

(まがりくねる谷の道を馬にまたがってまるで雲にむちうつように、あけがたの風のなかを駆け、天からつりさげられたような崖にひとすじのみちがあるばかり。庄川の秋の景色は吟じ鑑賞するにあたいする。水は深く青々として、山には淡く紅葉がはじまろうとしている。)

 白川村はその長さ十四、五里にわたるも、人家わずかに三百数十戸に過ぎず。ただ、一帯の碧流をめぐりて、茅屋草舎の点在するを見るのみ。実に桃花流水別天地の観あり。昔時は渓流を渡るにすべて駕〔篭〕渡しを用うという。

 越中にては上平村、平村、利賀村を総称して五箇山と呼ぶ。自ら平家の遺民という。風俗、言貌のおのずから異なるところあり。

  五箇山中俗、日移又月新、腕車難進処、背榻運行人、

(五個山の風俗は、日移りまた月の新たなるも変わらない。人力車の行けぬところでは、椅子に似たものを背に人を運ぶのである。)

 この山中にては、半ば椅子に似て半ば曲彔〔きょくろく〕に似たるものを背上に負い、もって人を運ぶ。観音や地蔵などを負いてあるく六部に似たり。これをここに山人車と名付く。余は更に命名して背榻となす。

  越山深処境、民俗古来敦、其他有伝説、平家百代孫、

(越中の山深いところでは、民人風俗のいにしえから敦厚なるものがある。そのほかに言い伝えがある、ここには平家百代の子孫が住むのだと。)

 上平村〈現在富山県東砺波郡上平村〉字西赤尾行徳寺に一休して、一席の談話をなす。小学児童の送迎あり。荻町よりここに至るその距離五里余なり。これより背榻に駕し、字細島念仏道場に至りて開演す。宿所は生田長四郎氏宅なり。しかして発起は村長酒井文八、中谷豊平等の諸氏とす。

 十四日 雨。更に背榻に踞して平村〈現在富山県東砺波郡平村〉字下梨、水上善三郎氏の宅に休泊す。同家は五箇山中の名望を占有す。会場は満願寺、村長は高田知之氏なり。細島および下梨ともに生徒の歓迎あり。

 十五日 晴れ。払暁、草鞋をうがち、坂路を攀じ、城端町〈現在富山県東砺波郡城端町〉に至る。途中、三宅観受氏は井波より、河合大爾氏は城端より出でて迎えらるるに会す。城端にては、別院善徳寺において大谷派婦人会のために演述す。河合氏等の斡旋にかかる。同町は汽車の終点なるも、腕車はただ一台あるのみという。午後、井波〈現在富山県東砺波郡井波町〉別院瑞泉寺にて開演す。同寺は石垣の壮大なること大阪城に次ぐの観あり。また、境内の太子堂は遠近より群聚し、信徒ことに多し。

 十月十六日(日曜) 晴れ。午前、午後ともに演説す。午前は別院内の有志、午後は井波婦人会の発起に出ず。午時は白浪亭において、主催者たる上田晃沢氏、竹部友若氏、土屋観山氏および三宅氏と会食す。なかんずく土屋氏、最も尽力せらる。午後四時、車を走らして福野に至り、鉄路に駕して帰京の途に就く。越中地は穫稲すでに尽くるを見る。十七日夕、帰宅す。随行は福田宗哲氏なり。

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福島県一部紀行

 明治四十三年十月二十二日 雨。午前九時、出発。午後四時、福島県安積郡郡山町〈現在福島県郡山市〉に着す。途上吟一首あり。

  白川関外路、秋雨昼陰々、烟裏紅千点、霜風染半林、

(白川の関にそう道に、秋雨は昼すらうす暗く降りしきる。雨に煙るなかに紅色が点々と無数に見える。それは霜で紅く染められた葉が林の半ばを占めているからなのだ。)

 当夕、郡山修養会の依頼に応じ、子守教場にて開演す。同会幹事国分伴吾氏(町助役)、評議員菅井米吉氏(小学校長)等の発起にかかる。この地、近年日を追って発展し、福島に対抗する勢いありという。井水不良なるをもって、水道架設中なる由。宿所は和久屋旅館なり。

 十月二十三日(日曜) 晴れ。馬鉄に駕して田村郡三春町〈現在福島県田村郡三春町〉に移る。会場小学校は旧城址にして、位置高燥、建築また堅牢なり。当夕、小松亭において郡長鈴木直清氏、郡視学海野文蔵氏、町長佐久間昌熾氏、校長高橋友治氏、斎藤徳明氏等と会食す。主催は郡長および教育組合会なり。しかして宿所は川北楼なり。席上、即吟一首あり。

  講余聯車去、松軒笑語親、絃声和酒起、秋興圧三春、

(講説ののち車を連ねて行く。小松亭に談笑して親しむ。絃声と酒とさかんに、秋の気配は三春町をおおっている。)

 また、三春町外に桜樹の老いてかつ大なるものあり。その高さ四丈二尺、周囲三丈二尺という。これを滝桜と名付く。余、題するに一絶をもってす。

  城外山桜老、千年気未衰、三春全盛色、留在此花枝、

(町外れに山桜の老樹がある。千年も経てなお生気は衰えていない。春三カ月のすべての美しさは、この花の枝にとどめられているという。)

 二十四日 晴れ。腕車徐行して七郷村〈現在福島県田村郡船引町・大越町〉竜泉寺に至り開会す。住職永井快胤氏は哲学館出身にして、かつ今回の随行員なり。主催は青年会にして、発起は村長壁谷亀八氏等とす。この辺り一帯、タバコと馬牛とを産出す。

  雨余農事急、烟草晒晴風、紅緑山如染、賞秋入梵宮、

(雨の後は農事にいそがしく、タバコの葉を晴れた日の風にさらす。紅と緑の山は染めたように彩られ、秋をめでつつ寺院に入ったものである。)

 これより里許にして鬼穴ありというも、時間の余裕なきをもって見ることを得ず。

 二十五日 曇りのち雨。小野新町〈現在福島県田村郡小野町〉に移りて開会す。これより磐城平まで十一里ありという。会場は新築小学校、宿所は西田屋、主催は町長高萩亀太郎氏、校長遠藤清太郎氏、分署長高橋璣氏等なりとす。

 二十六日 晴れ。町外の道路、泥濘多く、腕車進み難し。行くこと七里、まさに三時半ならんとするときに守山町〈現在福島県郡山市〉に着す。これより小学校において開演す。教育組合会の主催にして、町長鈴木元治氏、校長渡辺三治氏等の発起にかかる。郡役所よりは課長湊季松氏出張せられ、隣村より福島正氏も来会あり。同氏は旧哲学館館外員たり。

 二十七日 快晴。今朝、初めて降霜を見る。しかして当町を去り、行くこと数歩にて大元帥神社に詣す。田村将軍に関係ありという。社殿は丘上にありて眺望やや佳なり。

  石階尽処祠、言是大元帥、古殿秋光冷、霜庭紅一枝、

(石のきざはしの尽きる所に社がある。これを田村大元帥神社という。古い社殿に秋の光が冷たくさし、霜をおく庭に紅葉の一枝がある。)

 これより阿武隈川を渡り、郡山を経、岩越線にて耶麻郡猪苗代町〈現在福島県耶麻郡猪苗代町〉に移りて開会す。会場は小学校なり。校舎粗悪なれども、目下新築の計画中なりという。当夕、伊勢屋に宿す。校長水野友兄氏等、教育家の主催にかかる。郡視学瀬谷市太郎氏は、ここにきたりてわが行を迎えらる。

 二十八日 晴れ。早天、瀬谷視学および三浦元盛氏とともに霜を踏みて峯山に登り、土津神社に詣す。社前の石碑、幅一間四方、高さ二丈余もありて、その巨大なること全国第一と称す。前後の風光、一方に磐梯山を仰ぎ、他方に猪苗代湖を瞰し、県下第一の勝地とす。

  荒逕履霜登社皐、湖山一望気何豪、風空秋水万波穏、雲尽暁天孤岳高、

(荒れた道に霜をふんで土津神社のたかみに登る。湖山を一望にして意気豪快、風空秋水のすべてが平穏に、雲もない暁の空にただ一つの山のみが高くそびえている。)

 これより湖畔にそって一走し、若松を経て喜多方町〈現在福島県喜多方市〉に至る。

  傍水鉄車如鳥翔、白雲紅葉送迎忙、奥陽秋色何辺好、偏在磐梯山下郷、

(川沿いに行く汽車は鳥のとぶようにはやく、白雲と紅葉は車窓に送り迎えてめまぐるしい。奥羽の南の秋色はいったいどの辺りが一番よいのか、ひとえに磐梯山のふもとの里にあるのである。)

 喜多方町は会津郷内若松に次ぐ都会にして、すこぶる活気を帯ぶ。会場は小学校体操場、旅館は笹屋、発起は町長原平蔵氏、校長大波広吉氏、安井弥橘氏、郡吏、医師、僧侶等、町内の有志諸氏なり。

 十月二十九日 曇り。塩川町〈現在福島県耶麻郡塩川町〉に移りて開演す。会場は小学校、休憩所は仙台屋、発起人は町長森田勇氏、校長甲斐保之氏、その他有志諸氏なり。この地には和歌、俳句、書画を楽しむ人あり。郡内は高山大湖を有するも、また平田に富み、目下秋穫最中なり。郡視学は各所案内の労をとらる。午後四時乗車、郡山駅にて晩餐を喫す。国分助役、わが行を迎送せらる。湊郡書記にも偶然相会す。更に乗車、当夜十一時半、福島市〈現在福島県福島市〉に着す。信夫郡長佐藤剛氏、市長二宮哲三氏、県視学志賀兼四郎氏、郡視学鈴木才吉氏、および哲学〔館〕大学出身小泉吉太郎氏、出でて迎えらる。宿所は福島ホテルにして、図らず〔も〕文部省視学官小西重直氏と同宿す。

 十月三十日(日曜) 晴れ。早朝、東洋大学出身横山玄彰氏来訪あり。午前九時より教育会のために講演をなす。県知事西久保弘道氏も臨席せらる。十一時半発の汽車にて岩瀬郡須賀川町〈現在福島県須賀川市〉に移り、郡教育会のために郡会議事堂において開演す。ついで、仏教慈善会および修養会のために長松院において講話をなす。発起人は郡長山本剛太郎氏、郡視学今野甚三郎氏、校長菅野健氏、菅野忠夫氏、教員石井朝次郎氏、宗教家戸田吾雄氏、岡部宗城氏、郵便局長吉田勝太郎氏、その他有志諸氏なり。福島正氏も来会あり。芳清館に一休の後、夜行に乗車し、翌朝六時、帰京す。

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信、飛、濃三州および福島県開会一覧

     信濃国南部一覧表

   郡     町村    会場    席数   聴衆     主催

  諏訪郡   上諏訪町  中学校    二席  六百人    上諏訪有志団

  同     下諏訪町  小学校    二席  五百五十人  役場、学校および社交倶楽部

  同     境村    小学校    二席  七百人    役場および学校

  同     玉川村   小学校    二席  五百人    役場、学校、寺院

  同     北山村   小学校    二席  三百人    同窓会

  同     米沢村   寺院     二席  三百五十人  役場、学校、寺院

  同     中洲村   小学校    二席  三百五十人  男子同窓会

  同     湖南村   小学校    二席  三百人    役場および青年会

  同     平野村   村役場    二席  三百五十人  近村連合

  上伊那郡  伊那町   小学校    一席  百五十人   郡教育会

  同     同     劇場     二席  七百人    町青年会

  同     高遠町   寺院     二席  三百五十人  有志、寺院

  同     朝日村   小学校    二席  二百五十人  役場、学校

  同     中箕輪村  寺院     二席  百人     教育会

  同     同     同      二席  二百五十人  役場、寺院

  同     宮田村   小学校    二席  三百人    役場、学校

  同     赤穂村   寺院     二席  四百人    役場、学校、寺院

  同     飯島村   小学校    二席  六百人    役場、学校、寺院および同窓会

  下伊那郡  飯田町   寺院     四席  一千人    会場住職

  同     同     劇場     二席  五百人    学校、役場

  同     同     寺院     二席  四百人    護法会

  同     同     中学校    一席  四百五十人  中学校

  同     同     高等女学校  一席  四百人    学校職員

  同     山吹村   小学校    二席  八百人    学校、役場

  同     市田村   小学校    二席  七百人    吉田学区

  同     座光寺村  小学校    二席  四百人    役場、学校有志

  同     上郷村   小学校    二席  三百五十人  村長

  同     喬木村   小学校    二席  四百人    役場、学校、寺院

  同     松尾村   小学校    二席  四百五十人  村内有志

  同     千代村   小学校    二席  六百人    村内有志

  同     平岡村   小学校    二席  五百人    平岡修身会

  同     下條村   小学校    二席  七百五十人  下條教育会

  同     竜丘村   小学校    二席  四百人    役場員

  同     伍和村   小学校    二席  四百五十人  役場、学校

  同     伊賀良村  小学校    二席  四百人    役場、学校

  西筑摩郡  福島町   寺院     二席  六百人    仏教青年会および福島青年会

  同     吾妻村   寺院     二席  二百五十人  役場、学校

  同     駒ヶ根村  寺院     二席  三百人    村長

  同     木祖村   小学校    二席  二百人    役場、学校

  同     奈川村   小学校    二席  五十人    役場、学校

   合計 四郡、三十四町村(六町、二十八村)、四十カ所、七十九席、聴衆一万七千四百五十人、日数三十三日間

    演題類別

     詔勅および修身に関するもの     二十八席

     妖怪および迷信に関するもの     二十五席

     哲学および宗教に関するもの       七席

     教育に関するもの            八席

     実業に関するもの            六席

     雑題に属するもの            五席

 

     飛騨国 付

越中国一覧表

   郡    町村    会場    席数   聴衆     主催

  大野郡  高山町   別院     三席  二千人    樹徳会

  同    同     同      三席  一千八百人  町教育会

  同    久々野村  説教所    三席  七百五十人  村内一同

  同    清見村   寺院     二席  三百人    役場

  同    丹生川村  小学校    二席  四百五十人  村内一同

  吉城郡  古川町   寺院     六席  八百人    飛騨仏教団

  同    同     小学校    二席  三百人    戊申倶楽部

  同    船津町   小学校    二席  四百五十人  戊申倶楽部

  同    同     小学校    一席  百人     神岡鉱山有志

  同    国府村   寺院     三席  六百人    相友学会

  同    河合村   小学校    一席  四百五十人  村教育会

  同    同     寺院     一席  五百人    同

  同    上宝村   寺院     二席  五百人    役場

  同    阿曾布村  寺院     二席  三百五十人  寺院連合

  益田郡  高根村   寺院     二席  百人     村内一同

  同    朝日村   寺院     三席  六百人    村内一同

   合計 三郡、十二町村(三町、九村)、十六カ所、三十八席、聴衆一万五十人、日数十七日間

    演題類別

     詔勅および修身に関するもの     九席

     妖怪および迷信に関するもの     十席

     哲学および宗教に関するもの     八席

     教育に関するもの          五席

     実業に関するもの          四席

     雑題に属するもの          二席

  富山市        別院     一席  一千人    田舎仏教社

  同          同      一席  百人     同茶話会

  射水郡  横田村   高等女学校  一席  八百人    県農会

   合計 一市、〔一郡〕一村、三カ所、三席、聴衆一千九百人、〔日数〕二日間

    〔演題類別〕

     詔勅および修身に関するもの     一席

     哲学および宗教に関するもの     一席

     雑題に属するもの          一席

 

     美濃国東部一覧表

   郡    町村    会場  席数   聴衆     主催

  恵那郡  岩村町   小学校  一席  二百五十人  校長

  同    同     寺院   二席  二百人    住職

  同    長島町   寺院   二席  二百五十人  住職

  土岐郡  土岐津町  小学校  二席  三百人    郡教育会

  同    多治見町  小学校  二席  六百人    寺院

  同    瑞浪村   劇場   二席  一千五百人  近村連合

  可児郡  御嵩町   小学校  二席  六百人    町村有志

  同    同     中学校  一席  三百人    同校有志

  同    兼山町   寺院   二席  三百五十人  住職

  同    姫治村   寺院   二席  六百五十人  青年会

  同    平牧村   寺院   二席  七百人    青年会

  加茂郡  太田町   議事堂  二席  三百五十人  郡役所

  同    八百津町  寺院   二席  五百人    町内有志

  同    川辺町   小学校  二席  五百人    町内有志

  同    西白川村  小学校  二席  三百五十人  村内有志

  同    加治田村  寺院   二席  七百人    住職

  武儀郡  上有知町  小学校  三席  九百人    教育会および青年会

  同    関町    寺院   三席  九百五十人  教育会および有志者

  同    神淵村   小学校  一席  五百人    東部教育会

  同    富之保村  小学校  二席  三百五十人  青年会

  同    洞戸村   小学校  二席  六百人    西武教育会

  郡上郡  八幡町   寺院   二席  一千五百人  町村連合

  同    同     同    四席  一千七百人  仏教青年団

  同    嵩田村   寺院   二席  二百五十人  村内有志

  同    下川村   寺院   二席  五百人    村役場

  同    相生村   寺院   二席  三百人    村内有志

  同    口明方村  寺院   二席  百五十人   村内有志

  同    奥明方村  寺院   二席  三百人    村内有志

  同    西和良村  寺院   二席  二百五十人  村内有志

  同    和良村   寺院   二席  四百人    同寺

  同    東村    寺院   二席  六百人    役場員

  同    山田村   寺院   一席  百人     両村有志

  同    弥富村   寺院   二席  五百人    村内有志

  同    牛道村   民家   二席  四百人    村内有志

  同    上保村   寺院   三席  六百人    村内有志

  同    高鷲村   寺院   二席  五百人    村内有志

 

     飛騨国残部 付

越中国一覧表

   郡       町村   会場  席数   聴衆     主催

  飛騨益田郡   萩原町  小学校  二席  三百五十人  町役場

  同       小坂町  寺院   二席  三百人    町内有志

  同       中原村  小学校  二席  三百五十人  戊申会および青年会

  同       上原村  小学校  二席  四百人    村内有志

  同       竹原村  小学校  二席  三百五十人  村内有志

  同       下呂村  小学校  二席  三百人    村内有志

  同       川西村  寺院   二席  三百人    青年会

  同       同    小学校  二席  二百八十人  村内有志

  大野郡     荘川村  寺院   二席  三百五十人  村内有志

  同       白川村  民家   二席  八十人    村内有志

  同       同    小学校  二席  百七十人   同

  越中東砺波郡  井波町  別院   三席  七百人    別院有志

  同       同    同    一席  二百五十人  婦人会

  同       城端町  別院   一席  二百人    婦人会

  同       上平村  寺院   一席  二百人    同寺

  同       同    道場   二席  三百人    村長

  同       平村   寺院   三席  五百人    村内有志

   以上合計 三州、九郡、四十六町村(十六町、三十村)、五十三カ所、百六席、聴衆二万四千八百三十人、日数五十八日間

    演題類別表

        種目           美濃   飛騨   越中

     (一)詔勅および修身……………二十二    六    三

     (二)妖怪および迷信………………十九    七    〇

     (三)哲学および宗教………………十四    一    四

     (四)教育………………………………七    二    三

     (五)実業………………………………六    四    〇

     (六)雑題………………………………五    二    一

 

     福島県一部および兵庫県一部一覧表

   郡市     町村    会場   席数   聴衆     主催

  福島市および信夫郡    公会堂   二席  六百人    教育会

  田村郡    三春町   小学校   二席  四百五十人  郡長、町長等

  同      小野新町  小学校   二席  五百人    町内有志

  同      守山町   小学校   二席  四百人    教育組合

  同      七郷村   寺院    二席  四百人    青年会

  耶麻郡    喜多方町  小学校   二席  三百五十人  町内有志

  同      塩川町   小学校   二席  二百五十人  役場および有志

  同      猪苗代町  小学校   二席  百七十人   教育部会

  安積郡    郡山町   子守教場  二席  四百五十人  修養会

  岩瀬郡    須賀川町  議事堂   一席  三百五十人  教育部会

  同      同     寺院    一席  百五十人   慈善会

  同      同     同     二席  六百人    修養会

    右福島県

  摂津川辺郡  伊丹町   中学校   一席  四百人    校友会

  同      同     小学校   一席  二百人    教育倶楽部

  同      同     郡役所   一席  三百人    郡教育会

  同      尼崎町   小学校   二席  二百五十人  町教育会および青年会

    右兵庫県

   以上合計 二県、一市、五郡、十一町村(十町、一村)、十六カ所、二十七席、聴衆五千八百二十人、日数九日間

                   福島県

     (一)詔勅および修身……………九席

     (二)妖怪および迷信……………四席

     (三)哲学および宗教……………三席

     (四)教育…………………………五席

     (五)実業…………………………六席

     (六)雑題……………………………〇

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関西漫遊日記

 明治四十三年十一月。たまたま二週間の間いとまを得たれば、伊勢参宮、京都参詣に上らんと欲し、妻とともに六日、夜行汽車にて西行す。

 七日 晴れ。朝七時、美濃国大垣駅より養老郡養老滝に向かいて腕車を走らせ、行くこと三里にして、養老公園内村上旅館に至り休憩す。当所には掬水楼と村上との両旅館あり。途上吟一首あり。

  宿雨漸晴風亦和、軽車載酒賞秋過、稲田万頃黄波漲、霜月濃陽未刈禾、

(こまかい雨がようやくはれて風もまたなごみ、軽やかな人力車は酒ものせて秋のゆくを鑑賞す。稲田は広々とひろがり黄金色の波が地にみなぎり、十一月の美濃の南はなおいまだいねを刈り取ってはいないのだ。)

 養老公園より登ること八丁にして瀑布の所に達す。その形勢雄大ならざるも、幽邃にしてかえって大いに趣あり。楓葉のわずかに一、二分を染むるに過ぎざるは遺憾なりとす。ただし尾濃二州の郊野を一瞰し、はるかに木曾御嶽の雪をいただきて皚然たるを望むところ、実に快活を覚ゆ。

  遠攀養老訪仙蹤、濃野尾田未入冬、黒処為村黄処稲、雲間一白是蘇峰、

(遠く養老の滝にのぼり仙人のあとを訪ねる。濃尾平野の田はいまだ冬に入らず、黒く見える所は村であり、黄色に見える所は稲である。はるか雲の間に一点白く見えるのは木曾御嶽の雪である。)

 この風景に加うるに史上の古跡を有する地なれば、西濃第一の勝地たりというべし。午後、更に大垣より乗車、江州彦根に降車し、楽々園に至りて入宿す。園内の風景に接する外に彦城の鬱然たるを望み、青松紅楓ともに碧水と相映じ、天地の美観を呈す。晩景ことに佳なり。

  楽々園含楽々宮、縮成八景一庭中、帰鴉落日彦城暗、楓葉独留斜照紅、

(楽々園中に楽々宮があり、近江八景を庭のなかに縮めて作っている。帰る鴉に日は落ちて彦根城は暗くなり、楓の葉だけが夕日をとどめて紅に照り映えているのである。)

 八日 晴れ。近江鉄道により八日市に降車し、更に腕車に移り、行くこと三里余にして高野永源寺に至る。紅葉の間に山門禅堂を隠見し、渓流の明澄鏡のごとく、両岸の丹青を波間に映帯するところ、すこぶる妙趣を覚ゆ。しかれども日本一と広告せるは誇大に過ぐ。しかしてその地形は嵐山に相似たり。

  霜楓遥向永源尋、秋満寺門前後林、渡水隔渓更相望、半山錦色染禅心、

(霜で赤くなった楓をみつつ、はるかに永源寺をたずねれば、秋の気配は寺の門や前後の林に満ちている。水流をわたって、谷をへだててさらに望めば、山の半ばは銀色をおびて仏心を染めるのである。)

 更に車をめぐらして京都に入宿す。宿所は東六条中珠数町河六旅館なり。

 九日 晴れ。早朝、東本願寺本堂に参詣し、来年宗祖六百五十年忌の予拝をなす。山門屹然として空をしのぐの観あり。これより電車にて北野天神より伏見稲荷までの間を周覧し、更に京阪電車に移り、男山八幡すなわち石清水八幡大社に登拝す。丘上を攀ずること六丁にして本社に達す。群鳩きたりて参客を迎う。紅楓門を擁し、樹間より平田長流を瞰下す。これまた一勝地なり。これより淀川を渡り、行くこと半里にして桜井の史跡を訪う。路傍に楠公訣児之処と題する碑石あれども、老樹の朽ちて骨のみをとどむるもののほか、見るべきものなく、殺風景を極む。

  楠公訣児地、只有一碑残、斜照入荒径、秋風石影寒、

(楠公が子と訣別した地には、ただひとつの石碑が残るのみである。西にかたむいた日が荒れた小道を照らし、秋風のなか碑石の姿も寒々としている。)

  楠公桜井跡、探得此停車、樹朽留残骨、垣崩似廃墟、荒碑依旧立、茂草有誰除、懐古情難禁、徘徊独悵如、

(楠公が桜井の訣児のあとを、探し求めてここに車をとめた。樹は朽ちて残りの幹をとどめ、垣は崩れて廃墟のようである。荒れはてた碑はもとのごとくたち、はびこる草を除くなどの人はいるのであろうか。いにしえを思う情の起こることを止められず、うろうろとあるきまわりながらひとりなげいたのであった。)

 当夕、京都に帰宿す。

 十日 雨。午前、摂州箕面公園に遊覧を試む。雷鳴あり。午後を過ぎてようやく晴るる。渓路横斜、老楓並列、紅葉三、四分に及ぶ。路きわまる所、飛瀑のかかるあり。ここに至る、およそ十五、六丁あるを覚ゆ。林間点々、茶店散在す。その風致は天然の庭園なり。けだし観楓はこの地をもって第一とすべし。

  電車窮処石渓通、両岸秋光映水紅、此景誰疑天下一、未観箕面勿談楓、

(電車の行きつくところから岩の多い谷に通じ、両岸を照らす秋の日差しは水にうつってあかい。この景色が天下第一であることをだれがうたがおうか。まだ箕面のこの景観を見ていないならば楓について語ってはならぬ。)

  一渓百折路横斜、看過霜楓樹下家、天女廟前更移歩、飛泉散作赤城霞、

(ひとつの谷は百も曲折して道も横ざまにあるいは斜めにはしる。霜を受けて色づいた楓の樹の下にたつ家を見ながら、天女廟の前をさらに歩を進めば、たきの水が散って赤く色づいた山のかすみとなっているのをみたのであった。)

 入口に動物園あるも、いまだ完成せず。これより池田を経て宝塚鉱泉に入宿す。旅館は分銅屋なり。その他、仙山、喜山、宝山等の旅館あり。絃歌の声やかましくして静養に適せず。

 十一日 晴れ。三田駅を経て有馬温泉池坊に入宿す。紅葉すでに十分を過ぎ、風に舞い地に落つるところ、また一段の興味あり。

 十二日 晴れ。生瀬駅を経て川辺郡伊丹町〈現在兵庫県伊丹市〉に移り、魚与楼に一休の後、中学校にて校友会のために演述す。会長は滋賀荘三郎氏なり。しかして舎監吉井五氏(哲学館大学出身)、斡旋の労をと〔ら〕る。午後は教育倶楽部のために開演す。幹事は牧野良平氏なり。夜に入りて倶楽部諸氏と会食の後、有志家村岡文之介氏の宅に宿す。同氏は造酒を業とす。その名酒は「大手柄」と称するを聞きて一吟す。

  伊丹名遍世、一夕此相尋、大手柄之海、暁来対菊斟、

(伊丹の名は世にあまねく知られ、ある夕べここをたずねた。「大手柄」の酒杯に、やがては菊をうかべてくむことになろう。)

 十一月十三日(日曜) 晴れ。午前、郡教育会の依頼に応じて郡役所楼上にて開演す。会長は森重毅氏(郡長)、幹事は岸本勝蔵氏、佃正覚氏なり。午後、尼崎町〈現在兵庫県尼崎市〉小学校において開演す。同町教育会および青年会の主催にして、町長沢田重遠氏、助役和田九十郎氏、青年会長中馬興丸氏、小学校長西川順太郎氏等の発起にかかる。会後、立花亭に少憩の後、大阪を経て京都に帰宿す。沢田町長は鹿児島以来の旧知なり。哲学館大学出身西垣尭則氏も助力あり。

 十四日 晴れ。京都を発し奈良を経て笠置駅に降車し、山内を一周して温泉旅館笠置館に入宿す。山内は後醍醐天皇行在所たるをもって天下に知らるるも、その名跡の外に巨石積集、眺望絶佳なるありて、ともに日本名勝の一たるに価す。山路崎嶇、登ること八丁にして寺門に達す。鹿鷺山笠置寺という。真言宗なり。これより山内一周、八丁と称すれども、巡覧およそ二時間を要す。その巨石の多きこと世界第一と称す。弥勒石、文珠石、薬師石をはじめとし、金剛界石、胎蔵界石、太鼓石、釣鐘石、ユルギ石、兵等石、蛙石、弁当石、貝吹岩、鯰岩等、列挙にいとまあらず。この岩上に踞して崖下を一瞰すれば、一帯の清流の両岸に秋錦を装うを見る。また、山上には楓葉のあるいは青く、あるいは黄に、あるいはあかく、斜陽に反映して彩霞を浮かぶるところ、すこぶる妙趣あり。夜に入れば、たまたま淡雲纎月の吟眸に触るるありて、元弘当時を追懐し、無限の感想を抱かしむ。

  探勝来投笠置城、風光何事使人愁、元弘遺恨千年涙、染出満山紅葉秋、

(景勝をたずねて笠置城に至る。ここの風景はどうしたことか人の心を愁いにとざす。それは元弘の遺恨に千年の昔から涙し、山をみたして紅葉に染まる秋だからであろう。)

  遠上笠城樵径斜、紅於花底有僧家、更攀巨石望崖下、一帯渓山酔晩霞、

(遠く笠置城にのぼればきこり道は斜めに、花よりもあかい紅葉のもとに寺院がある。さらに巨石にのぼって崖下を一望すれば、一帯の谷と山は夕ばえのかすみに酔うかのごとくであった。)

 十五日 晴れ。笠城館を発し、直行して伊勢山田に至る。内外両宮を参拝し、途上所感一首を賦す。

  社林粛々鳥無声、五十鈴川依旧清、洗手廟前瞑目拝、崇神心在暗中鳴、

(伊勢神宮の林は粛として静かに鳥の声もなく、五十鈴川は昔と同じように清らかである。手を洗い社前に瞑目して参拝すれば、神をあがめる心が暗いなかでなりひびくのである。)

 これより二見浦を一覧して、旅館油屋に入宿す。十六日朝、山田を発し、名古屋より急行して即夜帰宅す。

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明治四十三年度統計および報告

 明治四十三年初め(その実、四十二年十二月)より同年十一月中旬までの間に、修身教会拡張の名義の下に御詔勅の聖旨を敷衍し、精神修養、社会道徳等に関し、演述講話したる統計を左に示す。

 

  県国      郡市    町村    会場   席数    聴衆        日数

 東京近県    二郡    二町    二カ所   二席   六百人       二日間

 千葉県     六郡    二十八町村 三十二カ所 六十席  一万八千六百五十人 三十一日間

 鳥取県     六郡一市  三十六町村 四十五カ所 八十六席 一万八千九百三十人 四十二日間

 その往復諸県  十二郡三市 二十町村  二十九カ所 五十席  一万四千六百人   二十五日間

 信州南部    四郡    三十四町村 四十カ所  七十九席 一万七千四百五十人 三十三日間

 飛騨国     三郡    十二町村  十六カ所  三十八席 一万五十人     十七日間

 越中一部    一市    一村    三カ所   三席   一千九百人     二日間

 美濃東部 付

飛騨

および越中一部

 九郡    四十六町村 五十三カ所 百六席  二万四千八百三十人 五十八日間

 福島県および兵庫県一部

 五郡一市  十一町村  十六カ所  二十七席 五千八百二十人   九日間

 その総計を左に表示す。

  開会=六市、百九十町村、二百三十六カ所

  演説=四百五十一席

  聴衆=十一万二千八百三十人

  日数=二百十九日(東京往復日数はこの中に算入せず)

    演題類別の総計は左のごとし。

     (一)詔勅修身に関するもの……………百五十一席

     (二)妖怪迷信………………………………百十九席

     (三)哲学宗教………………………………七十七席

     (四)教育……………………………………四十九席

     (五)実業……………………………………四十三席

     (六)雑題……………………………………二十二席

 しかれば余の本年度における事業は、六市、百九十町村、二百三十六カ所において四百五十一席を重ね、十一万二千八百三十人の同胞諸兄に、直接または間接に御詔勅の一端を普及開達せしめたるにありと自信するところなり。あわせてここに各所開会地において、数万の諸君より厚意をかたじけのうせるを深謝するところなり。

 去る明治三十九年、東洋大学および京北中学校を退隠せし以来、十カ年の予定にて日本全国各郡各郷を周遊巡行し、もって御聖旨の徹底を期し、あわせて哲学堂の完成を計りしが、本年に至りすでにその歳月の半ばを経たるも、十五、六県を巡回したるのみ。この割合にて起算すれば、全国巡了はなお十カ年を要すべし。よって最初予定の十カ年を改めて十五カ年間とし、これを前、中、後の三期に分かつとすれば、本年にて前期だけを終了せり。その間における哲学堂収入、支出の総合計を表示すること左のごとし。

    収入(前期五カ年間)

  金二万四千百八十九円十八銭五厘 揮毫謝儀および篤志寄付

    内訳

  金一万四千四百八十九円四十二銭五厘  三十九年、四十年および四十一年度

  金四千五百四円七十二銭        四十二年度

  金五千百九十五円四銭         四十三年度

    支出(前期五カ年間)

  金二万二千八百九十四円七十九銭五厘

    内訳

  金一万三百十円也       敷地購入費

  金九千六百三円六十五銭五厘  家屋、庭園工事費

  金二千九百八十一円十四銭   事務費(印刷、郵税、俸給および臨時諸費)

    差し引き

  金一千二百九十四円三十九銭  過剰

   (この過金をもって本年度の支払いに充つる予算なり)

 今後の計画として庭園の増置、四聖の銅像、図書館の準備、その他基本金等、概算約五万円を要す。これ中後両期の十カ年間に積み立つる心算なり。

 更に前期五カ年間における開会一覧の統計を表示すること左のごとし。

          市町村    演説      聴衆

  三十九年度  百五十一   三百二十三席  六万五千人

  四十年度   二百九十一  五百十四席   十一万五千四十五人

  四十一年度  二百四十一  五百七十六席  十七万人

  四十二年度  百五十八   三百六十三席  九万八千七百七十人

  四十三年度  百九十六   四百五十一席  十一万二千八百三十人

    合計 一千三十七市町村、二千二百二十七席、五十六万一千六百四十五人

 以上は明治四十三年十一月二十日の決算なり。