2.通信教授 心理学

P89

  通信教授 心理学 

 

 

1. 冊数

   1冊

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   188×127mm

3. ページ

   総数:509

   目録: 17

   本文:449

   付言: 9〔本文中にあり〕

   付録: 34〔付言,質問答義〕

4. 刊行年月日

   初版:底本 明治21年8月22日

5. 句読点

   なし

6. その他

   (1) 底本は三康文化研究所付属三康図書館所蔵本である。

(巻頭)

   (2) 同書名の国会図書館所蔵本は,明治19年2月より月ごとにわけて発行されたといわれる(板倉聖宣氏の目録では,同じ内容の別の本がある可能性を指摘されている)。しかし,同所蔵本は底本の一部にあたり(底本の225ページまでと質問答義),現状では,この底本が最終的なものと推測される。

   (3) 原本の付言や質問答義は一部を除いて省略した。また,刊行年月日は奥付に従った。

 

     第一講 緒 論

       第一段 開講旨趣

 余は今、諸君に対して心理学を講述するの機会を得たれば、まずその学問の利害得失を説きて、諸君がこれを研究するの利益と、余がこれを講述するの愉快とを示すを必要なりとす。余、今この講壇の上にありてつらつら諸君の外容を見るに、あるいは欣々として喜を帯ぶるものもあり、あるいは怏々として憂を含むものもあり、あるいは微笑するものもあり、あるいは耳語するものもあり、あるいは頭を挙げ、あるいは手足を動かすものもありて、その面貌挙動もとより同一ならずといえども、要するに心性作用に出でざるはなし。いわゆる思い内にあれば色外にあらわるるものなり。しからば我人の喜ぶも心なり、憂うるも心なり、泣くも笑うも心なり、動くも止まるも心なり。諸君が心理学を聴かんと欲するも、余がこれを述べんと欲するも、またみな心の作用なり。もしわれは、諸君が進んで社会の大勢をみるときは、日夜孜々として国益を起こさんとするものもあり、東西奔走して私利を営まんとするものもありて、互いにその間に競争するを見、また諸君が退きて一家の道徳を察するに、仁慈親しむべきものもあり、残忍にくむべきものもありて、ともに生存するを知る。その人々の情おのおの異なりといえども、一として心性の発動にあらざるはなし。しからば人の善をなすも悪をなすも、社会の有益者となるも害毒物となるも、またみな心の作用なり。かつそれ、我人は天地六合の間に立ちて、目に現じ手に触るるところの万象万物は、その体我人の心の外にありと信ずれども、目これに逢うてその色を識り、手これに触れてその形を覚するは全く心の感覚にして、心を離れてだれかよく天地万物の我人の外に存するを知らんや。しからば、万物の天地の間に存するを知るも心なり、わが心の外に万物あるを知るも心なり。これを要するに、我人の思うこと行うこと、知ることなすこと、感ずること覚すること、みなこれ心性の作用にして、天地六合の大なる、日月星辰の高き、山川草木の美なる、禽獣人類の多き、みなわが心の中にその形を現じ、地獄も極楽も、神も仏も、鬼も蛇も、過去も未来も、あらゆる三千世界も、みなことごとくわが方寸中よりえがきあらわしたるものに過ぎず。すなわち知る、心の作用は実に奇々妙々、神変不可思議にして、なんともかとも言語をもってたとうべからざるを、余は今この奇々妙々の作用を述べんとす。その愉快もまた不可思議なり。諸君これを聴くの愉快もまた必ず不可思議なるべし。しかして諸君はただこの不可思議の愉快を有するのみならず、また不可思議の利益を有するを知る。それ学問は、哲学にあれ理学にあれ政治経済にあれ、みな心の作用に出づるをもって、一として心理学に関せざるものなし。別して倫理教育等の諸学は心理と直接の関係を有するをもって、諸君もし各自の品行を修め、子弟の教育を施さんと欲せば、必ずまず心理学を研究せざるべからず。心理学の用も実に大なりというべし。その他、この学問の実際上に与うるところの利益を挙ぐるに、医士たるもの病客を診断するに当たり、その人の気風精神を察知するは、良医となるに最も要するところなり。また裁判官が罪人を審問するにも、その人の性質を知ること最も肝要なりとす。その外、宗教家が人を訓導するにも、政治家が人を指揮するにも、教官教員等が児女を教育するにも、詩人が詩を作り画客が画をえがくにも、俳優者、落語家等が諸芸を演ずるにも、諸君らが日々他人に応接するにも、その人の性情を知定するは実に欠くべからざる要点なり。たとえ心理学を研究するもの必ずよく人の心中を明察すべきにあらずといえども、ひとたびその学に入りて言語外貌の思想といかなる関係を有するかを究むるときは、多少その実際上に益ある論を待たざるなり。故に余は信ず、心理学を研究するはその益実に不可思議なることを。ああ、諸君はこの不可思議の利益と、この不可思議の愉快とを有するところの奇々妙々、神変不可思議の心理を究めんとするをもって、余は諸君の学問に志の深き、また不可思議なることを知る。諸君もまた、余のこれを講述するの愉快、また実に不可思議なることを知るべし。

       第二段 物心両界

 余はすでに心理学を講ずるの愉快を述べたれば、これより心理学はいかなる学問なるやの解釈を下さざるをえず。そもそも心理学は、一口にこれをいえば心の学問なれども、心のなんたるをつまびらかにせざれば、その学問の解釈を下す、また難しとす。故に余はまず心と物との区別を論じて、諸君に心のなんたるを示さんとす。我人目を開けば、種々様々の形象の前に列するを見る。これを物と名付け、また物質という。目を閉ずれば千差万別の念想の内に生ずるを覚う。これを心と名付け、また心性という。あるいは物心二者を客観主観と名付くることあり。しかして客観の一境はこれを物界または外界と称し、主観の一境はこれを心界または内界と称するなり。この二者の性質を考うるに、物には大小の形あり、軟硬(やわらかかたき)の質あるをもって、目よくこれを見、手よくこれに触るるべしといえども、心には一定の形質なきをもって、耳目の力もとよりそのなんたるを知るべからず。ただ二者を区別するは、一は形質を有し、一はこれを有せざるにあり。心はかくのごとくそのなんたる明らかならざるも、我人の物を見て物の物たるを知るは、すなわちこれ心の作用なること疑いをいれず。心もし存せざれば、物また存することあたわず。いわゆる心ここにあらざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食えどもその味を知らざるものなり。もしまたこれに反して物ここに存せざれば、心またその作用を呈することあたわず。けだしこの二者は互いに相まって始めてその現象を示し、その作用を呈するなり。これをたとうるに、鏡面に山影を浮かぶるがごとし。その山影の現象は山と鏡と相合して結ぶところのものにして、山のみありて鏡なきも、鏡のみありて山なきも、ともにその現象を生ずるあたわず。山はすなわち余がいわゆる外界の物に比すべく、鏡はすなわち余がいわゆる内界の心に比すべし。論じてこれに至れば、心に体と象との別あるゆえんを知るを必要なりとす。

       第三段 心体心象

 余、今諸君に向かって、なにをかこれこれを心と称すべしと問わば、諸君のこれに答うる種々多端にして、到底一定の説なきを信ず。あるいは目に見て色を感じ手に触れて形を覚するもの、これ心なりといい、あるいは富を得ては喜び死を聞きて哀れむもの、これ心なりといい、あるいは是を是とし非を非とするもの、これ心なりといい、あるいは悪を避け善に移るもの、これ心なりというものあるも、かくのごとき心はすべて心の現象にして、心の実体にあらず。心の実体はここにこれを心体と名付け、心の現象はここにこれを心象と名付くるなり。さきに挙ぐるところの鏡面の山影はいわゆる心象にして、鏡面の体はいわゆる心体なり。けだし象あるは体あるゆえんにして、鏡体あるにあらざれば、いずくんぞよく山影の現象を見ん。心体あるにあらざれば、いずくんぞよく心面の現象を生ぜん。これをもって我人の現に知るところのものは心象にして、心体は知るべからずといえども、想像上心象の外に心体あるを推定すべきなり。

       第四段 心象分析

 しかれども心体は実験上知るべからざるをもって、余はひとり心象についてその種類を分かたんとす。およそ心象には外物に触れて生ずるものと、外物を待たずして起こるものあり。光を見て灯あるを知り、声を聞きて鐘あるを知るがごときは、ただちに外物に触れて生ずる心象なり。千里の外にある人を思い出し、数年前に起こりしことを回想するがごときは、外物に接するを待たずして起こる心象なり。その外物に接せずして起こる心象も、これを帰するに、それ以前耳目に触れたるものの再び現出するによる。これをたとうるに、一は鏡面の山影のごとく、一は写真の山影のごとく、第二者もその初めは外物に接して起こるものとすべし。故に余はこの二者を合同して種類を分かつに、情感、意志、智力の三種を得、そのうち情感を分かちて感覚と情緒の二種となすなり。しかしてさきに挙ぐるところの、目に見て色を感じ手に触れて形を覚するがごときは感覚に属し、富を得て喜び死を聞きて哀れむがごときは情緒に属し、是を是とし非を非とするがごときは智力に属し、悪を避け善に移るがごときは意志に属すべし。

       第五段 心界全図

 以上分類するところの心界の諸象を、図をもって示すこと左のごとし。

  第1図

      心 心体

        心像 情感 感覚

              情緒

           意志

           智力

 この図中について案ずるに、心理学は心の学問なれども、心体の学なるや、また心象の学なるや、あるいはまた心象心体両方の学問なるや、いまだつまびらかならざれば、ここにその点を論ずるを必要なりとす。しかれどもかくのごときは、古今東西の学者その解するところおのおの異なるをもって、これを一定することはなはだ難し。古代および東洋の学者は、もっぱら心体を論究するをもって心理学の目的とす。すなわちプラトン氏の理想論、シナ宋儒の性理論、仏教の唯識論等を読んで知るべし。しかれども近世西洋の諸大家の論ずるところを見るに、心理学は全く心象の学問なるを知る。この理を明らかにせんと欲せば、よろしくまず学問研究の方法の、古今大いに異なるゆえんを考うべし。

       第六段 研究方法

 古代にありてはいかなる学問にても、いちいち事実を考索して実験を施すことははなはだまれにして、その研究の方法は世人一般に信ずるところの道理に基づきて解釈を下すを常とす。かくのごとき方法を論理学上にて演繹法という。これに反して事実について研究を施すもの、これを帰納法という。帰納と演繹との別は、一は事々物々を実験して一種の規則を定むるを目的とし、一はすでに定めたる規則に基づきて事々物々の解釈を与うるを旨趣とするにあり。諸君もすでに知るごとく、わが東洋の学問は、儒者の道徳を論ずるにも仏者の宗教を談ずるにも、すべて古人の格言、世間の道理に基づきて論を立つるを見る。これいわゆる演繹法によるものなり。古代ギリシアの学問もまたこの方法を用う。これをもって、ギリシアおよび東洋諸国に実験学の乏しきを知るべし。しかるにひとり西洋近世に至りては、事々物々を観察経験して学問の道理を研究するをもって、実験の諸学一時に起こる。これいわゆる帰納法によるものなり。今、心理学を研究するにもまたこの二種の方法ありて、ギリシアおよび西洋の学者は、人の心は世間一般に信ずるごとく別に一種の実体ありと定め、その体、外物に感触して種々の現象を生ずという。たとえば孟子の人の性は善なりと論ずるも、荀子の人の性は悪なりと定むるも、宋儒の性に本然、気質の二種を分かつも、みな古人の言うところと自ら信ずるところをもととし、これに一、二の例を加えて解釈を与うるに過ぎず。故にその論、決して帰納法によるものと称すべからず。また仏者の阿頼耶識と名付くる一種の心体中に万物万象の種子を含蔵すと説くも、その体すでに見聞の外にありて耳目の力の及ぶところにあらざれば、もとより実験上の結果にあらざるなり。また、つぎにギリシア学者の論ずるところを見るに、ピタゴラス氏の元子体中に物心二者の原理を具するありというも、プラトン氏の人の心内には本来感覚実験を離れたる一種不変不滅の理想体ありて存すというも、ともに虚想推測に過ぎざるは明らかなり。近世に至りても、ゲルマン〔ドイツ〕哲学者の心理を論ずるカント氏を始めとし、大抵みな人の心中には一種不変の心力ありて存すと信ず。イギリスにおいても往々かくのごとき論を立つるものあるを見る。しかれども今日にありては物理、化学、生理、動物等の実験の諸学大いに興るをもって、自然の勢いその影響を心理学上に及ぼし、今日の心理学者は大抵心象に現ずるところの事実を比較分析して、帰納上心理の規則を定むるに至る。これ全く百科理学の進歩の結果にして、実に心理学上の一大変動というべし。これをもって、今日は心理学を解釈して心象の学問となすに至る。その他、心理研究の方法の古今異なるゆえんは、主観法と客観法の二種を用うると用いざるとにあり。主観法とは自己一人の心象を研究する方法にして、客観法とはひろく他人外物の性質を研究して、心象の作用およびその規則を定むる方法をいう。もしあるいは一歩進んでこれを考うれば、我人の心理を研究するに当たり、他人の心象を験するも外物の影響を察するも、みな自己の心をもって思量するところなれば、すべてこれを主観法に属すべき理なれども、その自己の心をもって研究する中に、おのずから主観と客観の二種の法ありて分かるるを見る。別して客観法はその範囲はなはだ広きをもって、大いに研究の事実に富むを知る。すなわち、我人の日々交接するところの男女老少の顔色容貌を見てその人の情感を知り、言語行為を見てその人の思想意志を知るもの、これ客観法なり。また我人が歴史を読み新聞を見て、古人の思想あるいは諸国のいまだ交接せざる人の性質を知ることを得るも、またその方法の一なり。これを加うるに、この方〔法〕によれば衆人相合して生ずるところの心の影響も、一国の輿論気風の上にてみることを得べし。その他、諸動物の心性作用を観察比較して心象の発達を知り、生理解剖等の諸学を研究して心身の関係を知るもまた、みなこの方法によるものなり。故に心理研究に最も要するところのものは、主観法にあらずして客観法にありと知るべし。しかれども、主観法は全くその用なきにあらず。他人の性質思想を験せんと欲せば、まず自己の心性作用を知らざるべからず。自己の心象を験せざれば、他人の心象また知るべからざるはもちろんなり。故にもし客観法を用いんと欲せば、第一に要するところは主観法を用うるにあり。これを要するに、心理を研究するにひとり一法を用いて他法を欠くもの、決して完全の結果を得べからざるなり。すなわち客観一法を取りて主観を捨つるも、主観の一法を用いて客観を欠くも、ともに不完全の研究法というべし。しかるに古代の研究法は、主観の一法を取りて客観の考証を欠くもの多し。あるいは客観法を用うるも、これを一、二の人に験するのみにて、古今東西衆人の上に試みることはなはだ少なし。別して諸動物の比較を取り、神経の組織を考うるがごときは、古人の全く欠くところなり。これをもって、その方法の疎にしてその研究の狭きを知るべし。今日に至りては、研究上ただに主観客観の二法を用うるのみならず、客観の考証ほとんど至らざるところなく、心理の研究実に精密を尽くせりというも過言にあらざるなり。

 

       第七段 哲学全系

 諸君は前段論ずるところをもって、今日の心理学は主観客観の二法を用いて心象の事実を研究する、いわゆる心象の学問なることはすでに領会せしと信ず。故に余はこれより、心理学は哲学範囲中のいかなる地位を占有すべきやを述べんとす。今これを述ぶるにさきだちて、理学と哲学の異同を一言する、また必要なりとす。一口にこれをいえば、哲学は道理上の論究にして理学は実験上の学問なれども、今日の哲学と古代の哲学とはおのずから性質を異にするありて、ここにこれを同一に論じ難し。けだし哲学は古今ともに道理上の論究によるはもちろんなれども、古代の哲学は全く人の空想に基づき事実の考証を欠くもの多く、かつ形象外に事物の真理を求むるの風あり。しかるに今日の哲学は、理学の実験に基づきて形象内に真理を求むるの風あり。故に今日の学者は、哲学を解して理学の諸説を統合する学問なりというに至る。しかれども、哲学はたとえ今日にありても、そのつとむるところひとり形象内に真理を求むるにあらざれば、多言を費やさずして明らかなり。もしあるいはその目的形象内の論究にとどまるときは、これを理学に属してしかるべし。もしこれを理学に属するときは、物心の実体、宇宙の本源、天帝の在否等のごとき形象外にわたる問題は、いずれの学によりて講究すべきや。これを講究せざれば、人その惑いを解くあたわず。その惑いを解かんと欲せば、これを講究するの学なくんばあるべからず。これ哲学の世に起こるゆえんにして、今日にありてもこれを講究するは、その学の目的とするところなり。ただし古今その学の異なるところあるは研究の方法にして、古代の哲学は空想上の論究にとどまり、今日の哲学は形象内に実験するところの結果をもって形象外に論及するなり。かくのごとく、哲学中には形象内に属する部分と形象外にわたる部分と二種あるをもって、余はその全界を分かちて形而上哲学と形而下哲学の両域となす。形而上哲学は、一名純正哲学と称し形象外の真理を論究する学問にして、物体、心体、霊魂、知識、天帝、宇宙、時間、空間、勢力等の本来なにものなるやのごとき、形而上の大問題に解釈を与うるを目的とす。これに反して形而下哲学は、哲学上の問題を解釈するに当たりて、形象内に現ずるところの事実を研究するにとどまりて、形象外に論及せざるものをいう。たとえば心理学の問題を解するに当たり、心象のみを研究するは形而下哲学に属し、心体を論究するは形而上に属するなり。しかるに今日の心理学は心象の学問となるをもって、これを哲学中の形而下の部に属するを適当なりとす。今余がこれを講述するも、心象の上に論究を施すはもちろんなりといえども、諸君必ず心体のいかんを知らんと欲するの志あらんことを察し、心象を論究してその結局に達すれば、純正哲学に入りて少しく心体のなにものなるやを論明せんとす。心理学のほか形而下哲学に属するもの、論理学あり、倫理学あり、審美学あり。もし更に形而下哲学を分かちて理論学、実用学の二種となすときは、心理学は理論学に属し、論理、倫理、審美の諸学は実用学に属するなり。理論学は事物の現象を観察して、その間に有するところの道理規則を考定するにとどまり、実用学はその道理規則を実際に応用して、人事の上に適合せしむるものをいう。故に実用学に属するものは、人の行為思想を規制して一定の規則に従わしめんとす。これをもって、論理学は議論の是非を制定してその誤りを正し、倫理学は人の意志行為の善悪を論じてその不正を戒むるなり。しかるに心理学にありては、この思想は正しからず、この感覚は誤れり、人の思想感覚はこの法則に従わざるべからず等と論ずることなし。以上分類するところ、これを合するにその図左のごとし。

 

 

  第2図

      哲学全系 形而上哲学(純正哲学)

           形而下哲学 理論学(心理学)

                 実用学 審美学

                     倫理学

                     論理学

       第八段 諸学関係

 さてこれより心理学と諸学との関係を述べんとするに、まず心理学と純正哲学を較するに、一は心象を研究し、一は心体を研究する学問なるをもって、その関係の密なるは今更に論ずるを要せず。つぎに心理学と実用学の関係を尋ぬるに、実用学は理論学に定むるところの規則を応用するものなれば、心理学は論理倫理等の学の基礎となること明らかなり。今その理を理学の諸科について示すに、理学中にも理論、実用の二種ありて、物理、化学、天文等はそのいわゆる理論学にして、器械学、製造学、航海学等はそのいわゆる実用学なり。この実用学中、器械学は物理に基づき、製造学は化学に基づき、航海学は天文に基づきて起こりしは、諸君のすでに知るところなり。今、論理倫理等の諸学の心理学における、またしかり。心理学は情感、意志、知力の三種の心象を研究する学問なるは、余がさきにすでに示すところなり。このうち智力の作用に属するものは論理学なり、意志の作用に属するものは倫理学なり、情感の作用に属するものは審美学なり。これをもって、その諸学のおのおの心理学に基づくを知るべし。つぎに政治、法理、宗教、教育等の諸学と心理学との関係を案ずるに、政治、法理学のごときは倫理学と同じく、人の意志より発するところの行為の正邪良否を判定規制する学問なれば、心理学に関係あるはもちろんなり。宗教学も人の思想想像に基いするをもって、これまた心理学によらざるべからず。別して教育学のごときは、人の智力をひらき情感を正し意志を導くものなれば、その心理学と密接の関係を有するはいうまでもなきことなり。故に教育家たらんと欲するものは、格別に心理学を研究せざるべからず。しかれども、心理学に熟達するもの必ず教育の大家となれるにはあらず。たとえば、良医は生理学病理学等に熟達せざるべからずといえども、生理病理等に明らかなるもの必ずしも良医となるにあらず。良医となるには学問と実地と兼備せざるべからざるがごとし。今、諸君が世間の教育家とならんとするにも同じき道理にて、心理学にも熟達し実地にも習練せざるべからず。つぎに百科の理学を考うるに、理学諸科の基づくところは論理学にありて、論理学は心理学に基づくをもって、諸科みな間接に心理学と関係するものといって不可なることなし。かくのごとく諸学ことごとく心理学に関するはいかなる理によるかというに、諸学みな心性作用に出ずるを見て知るべし。人もしこの作用を有せざれば、学問の世間に起こるべき理なし。学問の起こるは全く心性の発達によるをもって、心理学は諸学の基礎たるは当然のことなり。これをもって、余は心理学を研究するはその利益、その愉快、ともに不可思議なりと称するなり。

 以上は心理学と他学との関係を述べて、他学を修むるに心理学の要用なるゆえんを論じたれども、いまだ心理学を修むるに他の学問の要用なるゆえんを示さざるをもって、ここにこれを一言するもあえて無用に属さざるを知る。それ今日の学問は、いかなる学問にても大抵他の学問と関係せざるものなし。別して心理学は他学と密着の関係を有するをもって、これを研究するものまた他の諸学を修めざるべからず。なかんずく、直接にその研究に要するところのものは生理学、動物学なり。すなわち心理学上、心身の関係を研究するには生理学を要し、心性の発達を研究するには動物学を要するなり。その他、今日は心理を解釈するに物理を用うるをもって、物理化学等の諸科も心理研究に要するところなり。しかれども余は知る、諸君は今この心理学を聴講するに当たり、傍らいちいち他学を研究するのいとまなきを。故に余は心理講述の際、その他学と関係を有するところあれば、簡単にその点を他学中より引用して解釈を施し、もって諸君をして霧中に迷わざらしめんと欲するなり。諸君請う、これを了せよ。

 

     第二講 総論第一 種類論

       第一段 分類方法

 余は前講において、開講の旨趣および心理学のいかなる学問なるやの大意を述べたるをもって、諸君は定めてこれを領得せられしならん。故に余はこれより心理学の本論に入り、心性作用のいちいちについてその性質、事情を究明せんと欲し、まずこれを総論、各論の二部に分かつなり。しかして総論においては心性作用一般にわたるところの事情を述べ、各論においては心性作用各種の性質を論ずべし。今ここに総論を講ずるに当たり、またこれを種類、発達の二論に分かち、種類論においては心性作用の種類を分かつ方法、およびその各種の性質、自他の関係を述べ、発達論においてはその各種の起こるゆえん、分かるるゆえんを論じて、諸君に心理の大綱要領を示さんと欲するなり。

 第一に種類論を講ずるに当たり、まず分類の方法を述べんとするに、心理学はさきにすでに示すごとく心象の学問にして、心性作用の現象を論ずるにとどまるも、その現象には千差万別の種類ありて、その種類つねに相集合して作用を呈するをもって、まずその集合作用を分析してあまたの簡単作用に分かち、その簡単作用を合類して一、二の種類に減ずるは、心理学研究において最も要するところなり。かくして諸作用中互いに同じき性質を有するものはこれを合して一種となし、その数種中互いに同じき性質を有するものはまたこれを合して一類となし、その一、二の種類について論究を施さんとす。これを心性の分類法という。なお万物を分類して有機無機となし、有機を分かちて動物植物となすがごとし。さてこの分類法に基づきて心象の種類を分かつに、古今東西一定の規則なしといえども、二種を設くるものと三種を設くるものとの二法あり。まずシナにありては通常、心性を分かちて性、情の二となす。朱子の言に「性は心の理、情は性の動なり」と解釈を下して、一は心の本体、一は心の発動なりと定むるなり。また程朱は性に本然、気質の二種を分かちて、性に善悪の別あるは気質の性にして、本然の性にあらずという。つぎにインドにありては、仏教中に説くところによるに、我人の身体は色、受、想、行、識と称する五種の原質より成るという。そのいわゆる色は物質に与うるの名にして、受、想、行、識の四は心性に与うるの名なり。この心性を分かちて心王、心所の二種となすことあり。これを受、想、行、識に配するときは、識はすなわち心王にして、受、想、行はしばらく心所に属すべし。心所とは心所有法の略語にして、心王の有するところの心象なり、心王はこれを支配するところの心体なり。この二者は性、情の二とやや異なるところあるも、二種の分類法を設くるの意に至りてはシナと同一なり。また、つぎに西洋の分類法を考うるに、古代と近世と大いにその法を異にして、ギリシアの大儒アリストテレス氏は智力と意志の二種を分かち、智力は我人の思想にして、意志はその外界に対して行為挙動を現示する作用なり。故にこの二種は性、情、または心王、心所の分類法とは性質上大いに異なるところあるも、またやや類するところあるを知るべし。しかしてこの法はくだりて中世より近世に伝わり、スコットランドの哲学者リード氏の、心理を論ずるに智力と行為との二種を分かちしも、けだしこれに基づく。これによりてこれをみるに、古代および東洋は二種の分類法を用うるものと知るべし。これに反して、近世もっぱら用うるところの方法は三種分類法なり。この法ゲルマン〔ドイツ〕に起こりカント氏これを用い、ついでイギリスに伝わりハミルトン氏これを用う。その後の心理学者、大抵みなこの法を取る。すなわち近ごろ世間に行わるるところのベイン〔Bain〕氏、サリー〔Sully〕氏等の心理学を読みて知るべし。この三種の分類法とは、余が前講第四段に述ぶるところの情感、意志、智力の三種をいうなり。しかしてこの三種は、心象の性質の相異なりたるものの上に与うるの名にして、発達の順序の上に設けたる分類にあらず。故にもし発達の順序について考うるときは、表現的と内現的の二種、あるいは感覚と観想との二種に分かつを適当なりとす。表現的とは外物に接してただちに起こる心象に名付け、内現的とは外物に接するを待たずして内に起こる心象に名付くるなり。しかして感覚は外物に感触して起こるところの心象なるをもって表現的に属し、観想は外物に感触するを待たずして心内に起こるところの思想なるをもってこれを内現的に属すべし。この内現的の思想は、感覚より生ずるところの心象心内に集合して結成せる観想にして、その初め表現的の心象よりきたるものとす。かくのごとく表現より内現を生じ、感覚より観想を生ずる順序次第を究明するもの、これを発達論という。しかるに余がここに論ぜんと欲するところは、心象の性質種類を挙ぐるにとどまるをもって、発達の順序はこれを次講に譲り、本講はただ情感、智力、意志三種の性質関係を述ぶべし。

 

       第二段 情感性質

 以上三種分類中、まずその第一に位するところの情感の性質を述ぶるに、情感には前講第五段の心図に示すごとく感覚と情緒の二種ありて、感覚は五官すなわち眼、耳、鼻、舌、皮膚の五種の官能の上に起こるところの心性作用にして、その作用を分かちて視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五種となす。すなわち視覚は眼官の上に起こり、聴覚は耳官の上に起こり、嗅覚は鼻官の上に起こり、味覚は舌官の上に起こり、触覚は皮膚の官能の上に起こるなり。これを総じて感覚と称し、また五感と称す。つぎに情緒はシナのいわゆる七情にして、喜、怒、憂、懼、愛、憎、欲のごとき心性の発動をいう。これを仏教中に考うれば、その心王、心所二種の分類中の心所に属すべし。この情緒にもこれを細分すればあまたの種類ありて、決して七情にとどまるにあらず。仏教中の心所はもとより情緒のみに与えたる名にあらずして、その中には意志智力の作用も混じたりといえども、心所の種類は四〇ないし五〇に下らず。その数大乗と小乗と不同ありて、大乗にては五一種を分かち、小乗にては四六種を分かつなり。その総数の三分の一を情緒に属するも、情緒の数は決して一五に下らざるなり。西洋にありてはベイン氏の心理書によるに、情緒を分かちて驚、愛、怒、懼等の一〇種となしたるを見る。かくのごとくその種類多端なるも、各種互いに相密接して、判然たる区域をその間に立つることはなはだ難しとす。しかれども簡単にして知りやすきものと複雑にして知り難きもの、すなわち表現的に属するものと内現的に属するものとの別を立つることは、あえて難きにあらざるなり。驚、愛、怒、懼等は情中の簡単なるものなり、審美道徳の情のごときは情中の極めて複雑なるものなり。なお、そのつまびらかなるは各論に入りて知るべし。さてこの情感の一種固有の性質は苦、楽の二事情にして、すべて心性作用上苦痛を感じ快楽を覚うるもの、これを総じて情感と称す。たとえば諸君が目に花を見て快を感じ、耳に音楽を聞きて楽を覚うるもの、これ情感なり。また諸君が人の病を見て苦痛を感じ、人の死を聞きて不快を覚ゆるもの、これまた情感なり。故に情感は心性に感ずるところの苦楽なりと知るべし。しかして情感中感覚と情緒の別を立つるは、一は情感の簡単なるものにして表現的に属し、一は複雑なるものにして内現的に属するの異同あるによる(情緒は心内に生ずるをもって、ここにこれを内現的に属すといえども、そのうちまたおのずから表現的に近きものと遠きものとの別あるをもって、情緒中にも表現的と内現的との二種を分かつことありと知るべし)。しかしてこの表現的に属する感覚は、我人の官能ただちに外物に接して苦楽を生ずるものに名付くといえども、感覚上苦痛を生ぜずして外物を識別知覚することあり。たとえば目に見て外物の遠近を推知し、手に触れて外物の大小を識別するがごときは、情感に属するものと称し難し。すべて識別知覚するは智力の性質なるをもって、感覚にこの性質あるときは、これを智力に属さざるべからず。故に感覚は情感の一部分にして、また智力の起源となるものなり。

       第三段 智力性質

 つぎに智力は事物を識別思量する力にして、一名これを思想とも観想ともいう。『大学』に、その意を誠にせんと欲するものはまずその知を致すとありて、そのいわゆる知はすなわち智力なり。この智力にもまた表現的と内現的との二種ありて、目前に現見するところの物象を観察識了するもの、これを知覚と名付く。知覚は感覚に伴って生ずるをもって表現的に属するなり。また目前に現ぜざるものを心中に想出することあり。これを観想または虚想と称して内現的に属するなり。虚想とは事物特有の形質を離れて空に想する思想をいう。通常、単に思想と称するものこれなり。この思想にまた概念、断定、推論の三種の作用あり。その作用のいかに相異なるかは次講に入りて述ぶべし。今一、二の例をあげて知覚と虚想の別を示すに、諸君が声を聞きて鐘の声なるを知り、光を見て灯の光なるを知るは知覚の力なり。また諸君が人の動物に異なるゆえんを考え、行為の善悪を識別するがごときは虚想の力なり。また、この智力を仏教中の心理に比考するに、広く心王、心所の二者に関するところあるも、主として心王に属するなりと知るべし。

       第四段 意志性質

 つぎに、意志は心性の外界に対して発現するところの決心断行作用にして、我人の進退、挙動、歩行、説話より命令、指揮、選択、決断、制止等の諸作用に与うるの名なり。たとえば諸君が友人を問わんと思い歩行してその家を尋ぬるも、相会してその思うところを語るも、意志の作用なり。また諸君が人に物を施さんと欲して、猶予決せざるに断然決行するに至るも、意志の作用なり。悪心を制止して善心を起こすも、忠孝ふたつながら全からざるを知りて二者中一を選び他を捨つるもまた、みな意志の作用なり。およそ意志はわが心性の命令指揮によりて決行するところの作用なるをもって、いわゆる随意作用のみを有する名目なれども、あるいは偶然不随意に起こりたる作用もその中に合して論ずることあり。なんとなれば、随意と不随意とはその間判然たる分界を立つること難く、かつ心性発達の規則によるに、随意作用はその初め不随意作用より起こるをもって、その初期においては不随意作用と同一なればなり。またこれを東洋の心理学に考うるに、『大学』には、その心を正しくせんと欲するものはまずその意を誠にするとありて、朱子これを注して、意は心の発するところなりというも、意志の意と同一にみなすべからず。仏教中に用うるところの意は思量を義とすとあるをもって、また同一にあらず。しかして意志の作用に至りては、その分類中の心所に属するものと知るべし。

       第五段 三種関係

 以上、情感と智力と意志の性質を略弁したるをもって、これよりこの三者の関係を手短く述ぶべし。情感は外界の現象を内に感受して起こり、智力は内界の範囲内に想出して起こり、意志は内界の決心の外界に発現して起こるものに名付くるをもって、第一者は外界より内界に入り、第二者は内界中にあり、第三者は内界より外界に向かうの異同あり。かくのごとく定むるももとより一通りの区別に過ぎずして、精密にこれを論ずれば、情感にも内界のみにて起こるものあり、智力にも外物を待ちて起こるものあり、意志にも外界にその作用を示さざるものあり。故にこの三者は判然たる区域なきものと知るべし。しかれどもその性質多少相異なるところあるをもって、しばらくこれを三種に分かつなり。

       第六段 三種抗排

 三種の性質多少相異なるところあるをもって、互いに相抗排するの性あり。抗排性とは、情感強きものは智力、意志弱く、智力盛んなるときは他力衰え、三者同時にその力をたくましくすることあたわざる性質をいう。これを一人の心性について考うるに、情感非常に盛んなるときは、他力その作用を呈することあたわず。たとえば人非常に怒るときは、道理を弁別することあたわず、かつ挙動を制止することあたわざるがごとし。また智力上事物の道理を考え、深く思慮を労するときは、他力を現ずることあたわず。たとえば歩行するの際深く思慮を労することあるときは、知らず識らず足をとめて進まざるに至り、その目前に現ずるところのものあるも、更に感覚せざるに至るがごとし。意志またしかり。たとえば戦場に臨み活発に進退運動するに当たりては、事物を想像し、苦楽を感受するのいとまなきがごとし。もしまた衆人の中について案ずるに、生来情感に長ずるものと、智力に富みたるものと、意志に強きものとの別あるを見る。すなわち婦人のごときは一般に情感に長じ、学者のごときは智力に富み、軍人のごときは意力に強きものとす。これ、一は教育習慣によりてきたるも、生来多少の差異あるは疑いを入れざるなり。以上は一個人の上にて論ずるのみ。もしまた一国上について考うるも、この別あるを見る。たとえば、ギリシア人は智力に長じ、ローマ人は武力に長じ、イギリス人、フランス人、アメリカ人、おのおの長ずるところ異なるがごとく、日本国内にても九州人、北国人、中国人、東京人、大阪人、おのおのその性質気風異なるがごとし。宗教の上にもこの別あるを見る。すなわち儒教は情感の宗教なり、ヤソ教は意力の宗教なり、仏教は智力の宗教なるがごとし。かくのごとく三種の心性互いに相抗排するの性を有して、一を長ずれば他を損ずるの傾向あるは、全く三種その性質を異にするによる。もって心理上の自然にこの別あるゆえんを知るべし。

       第七段 三種連接

 しかれども、またあえて三種全く相離れたるものにあらず。故に三者互いに相連接するの性あり。たとえば身体上に苦感を生ずることあるときは、智力、意力の伴って生ずるを見る。すなわち智力の作用をもってその位置を知定し、意力の作用をもってその苦を避けんとするものこれあり。また智力上事物を観想するに、苦楽の情の伴って生ずるあり、意志の作用のしたがって起こるあり、また意志の起こるにも情感のこれを促すあり、智力のこれを導くあり。故に三者互いに相連接して、一者起これば他者したがって起こるを知るべし。これ他なし、この三者は一体の心性の上に生ずるところの変化なればなり。これをたとうるに、一樹木に色や形の諸性質を具するがごとし。我人の樹木を樹木として知るは、この諸性質を具するによる。故に樹木の色を想すればその形したがって起こり、形を想すればその色したがって生ずるなり。これをもって我人の心性作用を見るに、時々刻々一物を感ずるにも一事を思うにも、種々の作用つねに相連接して起こり、ひとり一現をして他を現ぜざることあたわざるゆえんを知るべし。かくのごとく三者の関係密接なるをもって互いに相抗排するの性あるも、また互いに相連接して発達するの性あり。すなわち智力に発達したるものは、情感、意志の力もしたがって発達するの性あるをいう。当時西洋人と東洋人とをくらぶるときは、西洋人の智力、情力、意力ともに東洋人より発達するを見、野蛮人および小児等は三力ともに発達せざるを見る。

       第八段 心力分量

 かくのごとく心性作用に抗排性と連接性の存するゆえんは、各人有するところの心力に一定の分量あるものと推想して知るべし。たとえばここに甲乙両人あり、甲は六〇度の心力を有し、乙は一二〇度の心力を有すと定め、その分量は生来具するところのものと、教育習慣によりて得るところのものとの別ありて、ときどき多少の増減なきにあらずといえども、おおよそかくのごとき一定の分量ありて、甲は乙と同等なる作用を呈することあたわざるべし。すなわち乙は甲の二倍の力を現ずることを得べきなり。もしその力を三分するときは、第3図に示すごとく乙は四〇度、甲は二〇度となるべし。すなわち乙は智力も情感も意力も、ともに甲に倍するの力を有するなり。たとえその割合三者平均せざるも、乙各部の力は通常甲各部より多きは当然の理なり。これをもって小児よりは大人、野蛮人よりは開明人は、三種の心力ともに長ずるなり。また開明人中にも三力のともに発達せるものとせざるものの別あるゆえん、また知るべし。もし更に抗排性の起こるゆえんを考うるときは、第3図中の甲図に掲ぐるがごとく、智力、情感、意志おのおの二〇度の力を現ずべき割合なるに、その一部分四〇度の力を発するときは、他の部分はおのおの一〇度の力に減ずべき理なり。故に智力盛んなるときは他力減じ、他力盛んなるときは智力減ずべしとす。あるいは甲はその総体の力乙の半分に当たるも、その一部の力は時宜により、かえって乙に超ゆることあり。たとえば甲の情感四〇度に達し、乙の情感三〇度に減ずるときは、甲は乙より一〇度多き情感力を発すべき理なり。すなわち第4図を見て知るべし。これをもって野蛮人もその一部分の力に至りては、あるいは開明人も及ばざることあり。この規則はただに智力、情感、意志の三力に適用すべきのみならず、たとえば感覚中、五感おのおの四度の力を有するものと定むるに、その一感を欠くものは他感の力おのおの一度を増すべき割合なり。これをもって、盲人の聴覚または触覚の力に長ずるゆえんを知るべし。かくのごとく心性の一部に心力の集合するに至るもの、これを意向の作用と名付く。意向とは注意のことにして、心力の一方に向かって会注するをいう。一方に会注すれば他方の力を減じ、他方の力を減ずれば一方の力を増すべき理は、心力に一定の分量ありと定めて知るべし。今ここに一例をあげて意向の作用を示すに、諸君が外物をみんとすれば心力目の方に向かい、聴かんとすれば耳の方に向かい、考えんとすれば智力の方に向かうもの、これすなわち意向の作用なり。この作用によりて心力の一方に集合するはいかにして生ずるかというに、これを促すところの事情あるや必然なり。故に余はここにその事情の一、二をあげて、諸君に心力の増減、時宜に従って変更するゆえんを述ぶべし。

       第九段 内外事情

 およそ心性作用の生滅するには、その生滅すべき原因、事情なくんばあるべからず。その起こるには起こるべき原因あり、そのやすむにはやすむべき事情あり、その発達するには発達すべき原因あり、その衰頽するには衰頽すべき事情あり。情感の動くにも智力の発するにも意志の現ずるにも、みなおのおのその原因、事情ありてしかるなり。その原因は主として外界の事情にあり。およそ我人の身体の周囲に接するところの外界の諸象は、これを環象という。環象に変化を現ずれば内界にまた変化を生ず。たとえば声色寒暖の五官に触るるときは、必ず心性作用を促すがごとし。智力の発達も全く環象の変化に属するをもって、変化に接すること多きものはしたがって智力の量に富み、少なきものはしたがって智力の量に乏し。これ他なし、智力は経験によりて発達すればなり。また心性作用は有機組織内の変化によりて増減生滅することあり。たとえば内臓、五官、神経等に病害擾乱を生ずるときは、必ずその影響を心性の上に及ぼし、栄養そのよろしきを得、血行その序を失わず。身体健全なるときは、心性作用もまたしたがって活発なり。かつ精神は一定の時間これを用うれば疲労するの性あるをもって、休息あるいは睡眠の後には別してその作用の活発なるを覚ゆ。その他、最も心性作用の発動を促すものは思想の連合にして、思想の連合とは二、三の事物数回相伴って起こるときは、その事物の間にあまたの思想互いに相連合して、その中の一事または一物の前に現ずるあれば、これと連合せる事物おのずから想起する規則をいう。たとえば諸君が向島に至るごとに桜花を見、団子坂を問うごとに菊花を見るときは、向島または団子坂のことを聞くごとに桜花あるいは菊花を思い出し、また菊花のことを聞くごとに団子坂を思い、桜花のことを聞くごとに向島を想するがごとし。その他、諸君が墓所を過ぐれば幽霊を思い出し、僧侶に遇えば寺院を思い出し、重箱を見れば牡丹餅を思い、樽を見れば酒を思うも、みな思想の連合なり。これを連想の規則という。およそ一種の心性作用起こることあれば、あまたの作用前後相接して起こるもの、みなこの規則による。以上挙ぐるがごとき規則、事情によりて、心性作用の生滅増減をきたすこと明らかなり。意向の一方に注ぎ他方に減ずるも、この内外の諸事情によるやまた疑いをいれざるなり。かく内外の事情を論じきたれば、身心の関係を述ぶるの必要を知る。故に余はこれより身心の相関するゆえんを一言せんとす。

       第一〇段 身心関係

 人の身体と心性とは密着の関係を有することは諸君らの常に経験するところにして、今更にその証を求むるを要せざるなり。諸君は心に快楽を感ずるときは、これを外貌に発現するを常とす。あるいはこれを顔に発して喜び、口に発して笑い、あるいはこれを手足に発して踏舞することあるに至る。もしこれに反して苦痛を感ずるときは、顔色、言語、挙動みな苦痛の状を呈するに至る。これをもって、人の外貌を一見してその人の心中を推量することを得るなり。ただにその心の苦楽を推量し得るのみならず、賢愚利鈍、正邪善悪までも多少推量し得るなり。学者には学者の人相あり、農夫には農夫の人相あり、狂人の顔色は一見して人みな狂人なるを知るべし。人相見のよく人の思うところを考定し、探偵方のよく盗賊罪人を発見するも、みな身心の関係密接なるによる。在昔、藤原秀郷は平将門とともに食し、将門の飯粒を前におとし拾って食したるを見て、その性粗忽にしてともに大事を謀るに足らざるを知り、去りて貞盛に従いたることは諸君のすでに知るところなり。これ人の挙動を見て心性のいかんを推量したる一例なり。つぎに心性と神経の関係、別して脳髄の関係を一言すべきところなれども、しばらくここにこれを略し、各論中の神経論に入りてその関係の要点を証明すべし。

 

     第三講 総論第二 発達論

       第一段 心性発達

 余、前講において心性にあまたの種類あることを述べたれども、その種類の多少は発達の前後によりて不同あり。幼少のときにありてはその種類少なく、長ずるに及びその数の増加するは、諸君もすでに知るところならん。たとえば今一個人の生長について考うるに、情緒は大数一〇種ありと定むるも、幼児にありてはわずかに喜怒の二種を有するに過ぎず。なおその初期にさかのぼれば、ただ苦楽の感覚を有するのみにて、別に情緒と称すべきほどの作用あるを見ず。別して道理を弁別すべき智力および行為を指定すべき意力のごときは、それもとより有せざるところなり。これを要するに、発達の初期にありては情感、智力、意志各種中の諸作用いまだ現ぜざるのみならず、三大種の作用すらいまだ判然相分かれずして、ただ感覚、運動の二作用あるを見るのみ。ようやく発達して始めて三種の作用相分かれ、いよいよ生長して始めて各種中あまたの諸作用を分かつに至るなり。つぎにこれを人種間に考うるに、野蛮人種のごときは感覚、運動の外に極めて下等なる情緒を有するに過ぎずして、開明人種にあらざれば高等の情感、智力、意志を有せざるを見る。かくのごとく心性作用は発達の前後によりて不同あるをもって、今、諸君が心性のなんたるを知らんと欲せば、その発達の順序次第を知らざるべからず。余もまたこれを論ぜざれば、諸君に智力はなによりきたり、情感、意志はなにより生ずるかを示すあたわず。これ余がここに種類論につぎて発達論を述ぶるゆえんなり。種類論は、すでに発達したる心性の上に種類を分かちてその性質関係を論ずるものにして、発達論はその種類のいまだ分かれざる初期にさかのぼりて、心性発達の順序次第を考うるものなり。これをたとうるに、動物学者がその学問を研究するに当たりて、一個の動物造構機能を実究する外に、その母胎より次第に発育する順序を捜索するを要するがごとく、今心理学を論究するにも、またこの二者の方法を要するなり。しかるに古代および東洋の心理学者は心性の種類を論ずるのみにて、その発達の順序を考うることはなはだまれなり。これ心理研究の一大欠点というべし。しかして今日にありて発達上心性のいかんを考索するに至りしは、心理研究法の一大進歩を徴するに足る。

 余はこれより心性各種の発達を述ぶるにさきだちて、心力一般の発達を略明すべし。そもそも人の心性はその身体とともに発達するはもちろんにして、その順序あたかも一個の種子より草木の次第に生長するがごとく、種子の開発して茎幹枝葉を生ずるは、心性の原体開発して情感、智力、意志を生ずるに比すべし。もし人あり、その原体はいずれよりきたるかと問わば、これに答えてその体父母よりきたるというべしといえども、更にその父母の原体はいずれよりきたると問わば、これに答うるに天帝創造の説をもってせざれば、生物進化の理をもってするより外なし。生物進化の理をもってこれを推すに、心性は物質より成り、心力は物力よりきたるということを得べし。なんとなれば、人類は動物より進化し、動植〔物〕は無機体より成来すればなり。しかして動植〔物〕の無機より成来するゆえんは、地球進化の次第を見て知るべし。地球はその形成の初期にありては非常の高熱を有せしをもって、今日その表面に現ずるところの禽獣草木、金石水土は当時みな蒸発あるいは溶解して存し、いまだ固体を結ぶに至らざりしは必然なり。地熱ようやく減じて流体固体の諸形を現ずるも、当時の熱度いまだ禽獣草木のごとき生物を存するに至らず。更に減じて始めて生物を現ずるも、その初めにありては極めて下等の動植物を生存するに過ぎず、下等動物いよいよ進化して高等動物を現ずるも、いまだ人類を見るに至らず、高等動物更に進化して始めて人類を地球上に現ずるに至るという。これを要するに、その意、今日の人類は動植物より分化し、当時の動植物は無機物質より成来すというにあり。しかしてその分化の順序は地層の遺痕を見て知るべしという。この規則に従って心性の発達を考うるに、今日の人は情感、意志、智力三種の作用を有するも、動物界に入りてこれをみればわずかに感覚、運動を有するのみにて、情緒、智力等と称すべき作用を有するを見ず。くだりて植物界に入れば、感覚、運動すら全く有せざるもののごとし。更にくだりて金石水土のごとき無機界に入れば、生長力すら全く有せざるなり。これによりてこれをみるに、人の心性はその初め全くこれを有せざるものより進化開発してきたるゆえん、やや知るべし。たとえその初め無機物よりきたらずとするも、極めて不十分なる感覚、運動を有するものよりきたるの理、また大いに信ずるに足る。けだしその不十分なる感覚は発達して情感となり、その運動は発達して意志となり、この二者の間に生ずるものは智力にして、その体また感覚より発達するなり。かつ方今の学説によるに、一個人の発達の順序は、毎次動物全体の進化の階級を経過するなりという。その意、人の母胎より次第に生長するは、最下等動物の次第に階級を追いて高等に進化する同一の順序を経過するというにあり。果たしてしからば、人の心性の諸作用は、その初め極めて不十分なる感覚、運動より発達するゆえんまた知るべし。その他、今日の哲学者中には唯物論者と称する一派ありて、物理を離れて別に心理あるにあらず、物力を離れて別に心力あるにあらずという。しかれども余がここに論ぜんと欲するものは、人類は動物よりきたり、有機は無機よりきたるというの点にあらず、また物質の外に心性なく、物力の外に心力なしというの点にあらずして、ただ心性は身体とともに発達するをもって、その初期にありては極めて簡単不十全なるもの、経験習慣によりて次第に発達分化し、ついにあまたの作用を現ずるに至るというの点にあり。これをここに発達論と名付くるなり。

       第二段 智力発達

 これより心性各種の発達を述べんとするにさきだつ、智力の発達を論ずるを必要なりとす。智力は心性の内部に位し、諸作用の中心となるのみならず、人類の動物に異なり、開明人の野蛮人に異なり、大人の小児に異なるゆえんのもの、主としてこの方の発達せるとせざるとによる。その力発達せるものは情感、意志もしたがって発達し、その力発達せざるものは諸作用またしたがって発達せざるなり。もし人に向かって人類と動物の区別を問わば、人類は智力を有し、動物はこれを有せずといわんのみ。心理学中智力を研究するの必要なる、推して知るべし。故に余ももっぱら智力の発達を論じて、その順序について各論を起こさんと欲するなり。今その順序を案ずるに、智力中に表現内現の別あり、内現中に実想虚想の別あり。しかして虚想は実想よりきたり、内現は表現よりきたる。これを発達の次第という。その図左のごとし。

 

 

  第5図

      智力 表現 感覚

            知覚

         内現 実想 再現(現想)

               構成(構想)

            虚想(思想) 概念

                  断定

                  推理

 すなわち表現に感覚、知覚の二種あり、実想に現想、構想の二種あり、虚想に概念、断定、推理の三種あり。これを発達の次第に配するときは左図のごとし。

  第一次 感覚

  第二次 知覚

  第三次 現想

  第四次 構想

  第五次 概念

  第六次 断定

  第七次 推理

 すなわち智力の発達は感覚に始まり推理に終わる。しかるにここに一言を加えざるを得ざるは、感覚を智力の一部となすにあり。さきに掲ぐるところの分類法によるに、感覚は情感の一部に属すべしといえども、第二講第二段の終わりに示すごとく、我人感覚上外物を識別するの作用あるをもって、感覚は知覚を構成する要具なり。故に智力の発達を論ずるには、まず感覚より始めざるべからず。それ感覚は外物の眼、耳、鼻、舌、皮膚の五官の上に触れて直接に起こすところの簡単なる心性作用にして、その作用はただ目に色を感じ、耳に声を感じ、手に形を感じ、鼻舌に香味を感ずるにとどまり、その諸性質を合覚して一体の物質を識了するにあらず。よくその性質を合覚して、一物を一物として識了するは知覚の作用なり。故に知覚は心性作用のやや複雑なるものなり。たとえばここに一個のリンゴあらんに、目に見てその色を感じ、手に触れてその形を感じ、口に味わってその味を感ずるは感覚にして、その色、その形、その味を合して、これを一個のリンゴなりと識了するは知覚なり。故に知るべし、知覚は諸感覚相合して生ずるところの結果なるを。これをたとうるに、木石相集合して一宇を構成するがごとく、その木石は感覚上きたるところの外物の性質に比すべく、これを集合して一宇を構成するは知覚の作用に比すべし。しかしてこの感覚と知覚との二者は、ともにただちに外界の現象に接して起こるをもって、これをここに表現的に属するなり。つぎに内現的の発達を考うるに、その第一に位する再現すなわち現想は、目前に現ぜざるものを想像上に現ずる作用なるをもって、これを内現に属するなり。たとえば他邦の友人を想出し、故郷の山河を想見するの類これなり。かくのごときは、前時に外界に現見したるものの再び心内に現出するものなるをもって、これを再現と名付くるなり、また再生とも称することあり。しかしてその心内に現出するところのもの、それ以前一回または数回感覚上知覚したるものに外ならざるをもって、その体知覚よりきたるものとするなり。これをたとうるに、再現は写真中の影像のごとく、外物の目前に現ぜざるときによくその形を示すといえども、その形の初めて生ずるは前すでに外物に接したることあればなり。つぎに構想とは、いまだ一回もただちにその形に接せざる外物の現象を想像上構成する作用をいう。故にこれを構想と名付く。たとえば我人数百年前の古人を想起し、いまだ経歴せざる土地を想見するがごとし。すなわち諸君が今日にありて釈迦や孔子の状貌を想出し、地獄極楽の風景を想起するがごとし。我人の夢中に現ずるところのもの、多くはこの構想の作用による。その作用の現想に異なるは、一はいまだ経験触知せざるものを構成し、一はすでに経験触知したるものを再現するの不同あるによる。しかして第一者の第二者より発達してきたるというゆえんは、構想の諸部分はみな現想の影像より成るを見て知るべし。たとえば釈迦や孔子を想見するときは、自己の経験中、前に見聞したる人の顔色容貌相合して一個の異人を生ずるなり(もしその人、前にすでに釈迦、孔子の木像または画像を現見してその像を想出するときは、これを再現に属すべし。しかるに今はその像を現見せざるものと仮定して論ずるなり)。すなわち甲某の鼻と乙某の目と丙某の手足等、相合して孔釈の像を構起するなり。地獄極楽の影像を想見するもまたこの理による。故に構想は現想より成るものと知るべし。つぎに虚想すなわち思想または観想は、一個一個の事物固有の性質を離れて、事物一般にわたるところの無形の念慮に与うるの名なり。これに対して、一個一個の事物を想出するにとどまるところの現想および構想は実想と名付くるなり。虚想には概念、断定、推理の三種ありて、概念とは事物の一種または一類全体にわたる思想をいう。たとえば単に人と称するときは、我人の心中に甲某、乙某を離れて人全体にわたる思想を起こし、単に山と称するときは、富士山でもなく筑波山でもなく山一般にわたる思想を生じ、花と呼ぶもまたしかり。かくのごとく事物総体にわたる思想を概念と名付くるなり。この概念は実想の発達より生ずるは、理すでに明らかなりと信ず。なんとなれば、いまだ一個一個の事物の実想を有せざるときに、その全体にわたる虚想を有すべき理なければなり。つぎに断定は二個以上の概念相合して生ずるところの思想作用にして、なにはなになり、これはこれなりと想定する作用をいう。たとえば人は死すべきものなり、山は動かざるものなり、花は美なるものなりというがごとし。つぎに推理は断定相合して生ずるところの論理作用にして、一断定より次第に推論して他の断定を結ぶものをいう。たとえば人はみな死すべきものなり、しかるに甲某は人なり、故に甲某は死すべきものなりと論定するがごとし。この論定は論理法のいわゆる推測式なりと知るべし。以上述ぶるところ、これを要するに、人の智力の発達は簡単より複雑に移り、表現より内現に入り、実想より虚想に進むものなり。その順序、小児の発育を見て知るべし。その初期にありては表現の諸覚を有するのみにていまだ内現の諸想を有せず、やや長じて実想の作用を生ずるもいまだ虚想の作用を発せず、いよいよ長じて始めて概念、断定、推理の諸作用を兼備するに至るなり。すでに今日にありては余輩も諸君もともにこの虚想作用を有し、別して推理の力を有するをもって、時々刻々自ら思慮するにも人に対して説話するにも、一言一思みな推理の形を成すを見る。しかるに獣類に至りては、その高等に位するもの表現の諸覚を有するのみならず、内現の諸想も全く有せざるにあらずといえども、推理の力に至りては人類特有の智力と称するも不可なることなし。その特有の智力は人獣共有の感覚より順序を追うて発達しきたるゆえんを示すもの、これを智力発達の次第という。そのつまびらかなるは各論に入りて述ぶべし。

       第三段 発達外因

 この発達の順序によるに、智力はその初め外界の経験よりきたること明らかなり。我人日夜外界の現象すなわち環象に接して、五官の上に感触するもの次第に心内に積集して智力の構造を組成するなり。これをたとうるに、生物の食物を外界より摂取して体内の栄養を営むがごとく、智力の栄養発達は全く外界の経験の上に属するなり。故に外界の経験を積むこと多きものは智力に富み、少なきものは智力に乏しきを見る。これをもって、小児の智力少なくして大人の多きゆえんを知るべし。また身体の発育は食物の分量の多少に関するのみならず、その性質の良悪に関するがごとく、智力の発達も上等良種の教育経験を得たるものは、下等の教育を得たるものに勝ることもちろんなり。これをもって、野蛮人の開明人にしかざるゆえんを知るべし。これを要するに、以上述ぶるところその意、智力を構成すべき材料は全く外界の経験よりきたるというにあり。

       第四段 発達原力

 智力の材料は感覚上の経験よりきたるとするも、心内にこれを構成すべき原力なくんばその発達を期すべからず。あたかも身体の発育には、外界より摂取するところの食物を消化すべき原力の腸胃中に存せざるべからざるがごとし。しかしてその原力は、感覚上より得るところの材料を結合して智力を構成するに要するところのものなるをもって、外界の経験よりきたるものと定むべからず。もしこの原力なくんば、なにほど外界の経験を重ぬるも、智力の発達すべき理なし。あたかも腸胃中に消化吸収の力なくんば、なにほど食物を外より取るも、身体の発育を営むことあたわざるがごとし。故に智力の発達に要するところのものは、外界の経験の外に、これを結合して智力を構成すべき原力なりと知るべし。その原力に三種あり。弁別力、契合力、記住力これなり。弁別力とは、一物またはその性質を他物または他の性質に識別する力なり。契合力とは、一物またはその性質を他物または他の性質に合同する力なり。記住力とは、ひとたび感受したるものを心内に保持して亡失せざらしむる力なり。たとえばここに一個のリンゴありと仮定するに、これを見てリンゴなりと識了するには、まずこれをリンゴにあらざるものと弁別するの力なくんばあるべからず。またそのリンゴの、他のリンゴと同一の性質を有することを認むるの力なくんばあるべからず。しかしてまたこの二力をもって外物を知覚想像するには、その以前経験したるものを心中に保持するの力なくんばあるべからず。この三力の一を欠くも、人その智力の作用を現ずることあたわざるは明らかなり。故に余はこれを智力発達の原力と名付くるなり。更にこれを家屋を造営するにたとうるに、その家屋の体を組成せる木石等の材料は外よりきたるとするも、これを構成すべき力を内より加えざれば家屋とならざるがごとし。これによりてこれをみれば、智力の発達は、外界の経験と内界の原力と相合して生ずるところの結果なりと知るべし。

       第五段 発達事情

 智力の発達は環象と内力との結合作用になるというも、その作用を促しその発達を助くるところの事情、別になくんばあるべからず。たとえば草木の生長はその種子と肥料とに属すというも、別にその生長を促すべき雨露、日光等の事情を要するがごとし。故に余はその事情を考案して動作、習慣、連想の三種あることも発見せり。第一、動作とは心性作用の実習にして、たとえば視聴の作用を実習すれば、知覚の力従って発達するがごとし。あたかも手足を動作すればその筋骨発達すると同一理なり。つぎに習慣とは一名習性と称し、すでに一方に発達したるものは、常にその方向に進まんとするの性あるをいう。しかしてこの性を起こすものは動作の影響にして、動作反復すればますますその性を起こして、高等の地位に進向することを得るなり。つぎに連想とは思想連合の略称にして、経験中に現ずるところの事物の思想互いに相連合するの性ありて、一思想起こるときは他の思想伴って起こるの規則をいうなり。これ智力発達に最も影響を有する事情にして、現想、構想、虚想みなこの事情によりて発達するなり。たとえば余輩が故郷の友人を想出するときは、その人の面貌語声はもちろん、その住居村落、その父母親戚等、種々の思想伴って起こるを見る。これ昔日経験せしところのもの、思想中に連合することあるによる。これを要するに、智力はその原力と外界の経験とによりて発達するはもちろんなりといえども、感覚相合して知覚を生じ、知覚相集まりて再現を生じ、再現相会して構想を生じ、構想相積みて虚想を生じ、概念より断定、断定より推理と次第に相生ずるに、動作、習慣、連想の三事情の互いに相助くるによるや、また明らかなり。

       第六段 情感発達

 以上は智力の発達について論じたるのみ。これより情感、意志について考うるも、同一の規則に従って発達するを見る。すなわち外界の現象と内界の原力との二種の原因と、動作、習慣、連想の三種の事情によりて、表現より内現、簡単より複雑に向かって次第に発達するを見る。まず情感の発達を考うるに、その初め五官上の感覚に起こり、ようやく進みて驚懼等のごとき簡単なる情緒を生じ、いよいよ進んで道徳、審美心のごとき複雑の情緒を生ずるに至る。しかしてその情の動作、習慣、連想によりて発達するゆえんは、前に準じて知るべし。

       第七段 意志発達

 つぎに意志の発達を考うるに、また簡単より複雑にわたり、表現より内現に進むを見る。けだし意志もその初めは身体、手足等の簡単なる運動に始まり、次第に進みて決心、断行、選択の高等の意力を生ずるに至る。かつその発達を助くる事情も前二者と同一なり。以上論ずるところ、これを要するに、智力も情感も意志も、同一の規則に従って発達すというにあり。

       第八段 発達全図

 かくのごとく心性は内外の諸原因事情によりて発達するを、今図をもって示すこと左のごとし。

  第6図

      心性発達 原因 内因 弁別力

                 契合力

                 記住力

              外因(環象)

           事情 動作

              習慣

              連想

 この図中についてみるに、弁別、契合、記住の三力は人々本来有するところなるも、その他はみな経験よりきたるもののごとく見ゆれども、ここに外界の経験を待たずして人々本来有するところの本能と称するものあり。本能とは人の生まれながら有するところの智力にして、たとえば幼児の生まれながら手足の動かすべきを知り、食物の食うべきを知り、父母の畏るべきを知り、朋友の愛すべきを知る等の類をいう。故に内因中に、原力の外にこの本能力を加うるを適当なりとす。その他、外因中に風雨、寒暖、地味、地形、住居、食物等の天然の現象より生ずるものの外に、同属同類間に起こるところのものあり。すなわち眷属、朋友、国民の交接上よりきたるところの原因これなり。人の智力の発達は最もこの原因に属す。故に余はこの二種の外因を区別せんために、一は物理的とし、一は社会的とするなり。その図左のごとし。

  第7図

      心性発達 原因 内因 原力

                 本能

              外因 物理的

                 社会的

           事情(前図のごとし)

 これを心性発達の全図とす。しかれども、物理的と社会的とはともに我人の外囲に接するところの現象なるをもって、これを総じて環象と称するももとより不可なることなし。かつまた内因中に原力と本能を分かつは、一人一世の人について考うるによるのみ。もし数代の人について論ずるときは、本能は原力と環象の相合して生ずるところの結果なり。なんとなれば、本能は父祖数世の間経験によりて得るところの結果を、その子孫に遺伝したるものなればなり。故に一にこれを遺伝性という。かくのごとく定むるときは、別に本能の一項を設くるを要せざるなり。

       第九段 遺伝順応

 余ここに至りて遺伝のなんたるを一言するの必要を知る。遺伝には体質の遺伝と心性の遺伝との二種ありて、体質の遺伝は諸君のみな知るところにして、更にここにその例を示すを要せず。体質すでに遺伝の性あるときは、身心互いに密接なる関係を有するをもって、心性にも遺伝の性あるゆえん推して知るべし。今これを実際に験するも、開明人の子と野蛮人の子とは、同一の教育を与うるも同一の智力を発達するあたわず。農夫の子と学者の子にもまたこの不同あるを見る。これ他なし、心性は遺伝によりて発達するものなるによる。その他、遺伝に対して順応の規則あり。順応とは自体を変化して環象に適合するの規則にして、教育、経験等によりて生ずるところの変化は、総じてこの規則に属するものなり。およそ人の生まるるや、その一生間順応によりて発達したる心性作用はこれをその子に遺伝し、子はまたその一生間順応により得たる結果をその孫に遺伝し、子々孫々順応遺伝して、人種は野蛮より次第に開明に進化することを得るなり。もし更にこの規則を一個人の上に考うるに、その人一日間経験して性質上変化をきたすは順応の性あるにより、その変化を保持して翌日に伝うるは遺伝の性あるによる。この日々時々の順応遺伝によりて人の心性の次第に発達するは、小児の発育を見て知るべし。かくのごとく解するときは、心性の発達は順応、遺伝二種の規則によるというも不可なることなきなり。

       第一〇段 身体発達

 今発達論を結ぶに当たり、心性の発達は身体の発達に伴うゆえんを略明せざるべからず。さきにしばしば述ぶるごとく、心身は互いに密接なる関係を有するをもって、心性の発達は身体の発達に伴うは必然の理にして、智力の発達は身体の組織中、総じては神経全系、別しては脳髄の発達に伴うものなり。ただに脳髄の大小に関するのみならず、その構造の単雑に属するの理また知るべし。智力に乏しき小児のごときは、脳髄の小なるはもちろんにして、神経全系の造構も、これを大人に比するに極めて簡単なるはまた明らかなり。人類と動物とを較するもまた、この不同の著しきを見る。その他、情感意志の発達も同一の関係を有するなり。故に心性の発達は、神経脳髄の発達に密接なる関係を有するゆえんを知るべし。なお、そのつまびらかなるは各論に入りて述ぶべし。

 

     第四講 各論第一 神経論

       第一段 各論緒言

 前二講は総論と題して心理学全体にわたるところの性質、事情を述べたるをもって、諸君は定めて心性各種の異同およびその発達の順序を大略了解せられしならんと信ず。故に余はこれより各論に入りて、心性作用の各種についていちいちその性質、事情を述べんとす。今これを述ぶるに当たり、心性作用中その最も高等に位する智力発達の順序について研究を施す目的なれども、まず第一に人身の構成、神経の組織を論ずるを必要なりとす。もしこれを論ぜざるときは、心性の所在および心身の関係明らかならざるをもって、心性各種の作用もまた明らかならざるの恐れあり。かつ今日の心理学は心象の学問なるをもって、別して神経組織を論ずるの必要なるゆえんを知るべし。故に余は神経論をもって各論の第一に置き、心性の所在より内想の発顕、唯物の諸説に至るまでをあわせて論明するところあらんとす。

 そもそも我人宇宙間に立ちて八方上下を観察するに、森羅の諸象前後左右に並列するを見、自身もその万象中の一物なるを知るべし。顧みて心内の事情を観察するに、また千差万別の諸想の間断なく連続するを覚え、目前に現見するところの諸象、みな心内よりえがきあらわしたる影像に過ぎざるを知るべし。更に進んで自身は万象中の一物なるの理を究むるときは唯物論を結ぶに至り、万象は心内の影像に過ぎざるの理を取るときは唯心論を生ずるに至るなり。唯物論とは物外無心の論にして、物質の外に心性なく、物力の外に生力なしと唱うるものをいい、唯心論とは心外無物の論にして、天地万物みな心内にありて現存すと唱うるものをいう。哲学上よりこれをみれば、二者ともに一理ありて、その真非を判決するはなはだ難しといえども、通俗の解するところによれば、唯物論の方、正当を得たるもののごとし。しかれども単に物外無心と断言するは、世人も必ず許さざるところにして、論理上一方に僻するの論たるを免れざるなり。故に余はあえて唯物論を主唱するにあらず。かつこれを主唱するは普通の心理学を講ずるに要せざるところなるをもって、ただ余がここに論ぜんと欲する点は、我人は天地万物間の一物にして宇宙の一小部分を占有するものとみなし、もって心の所在を示すに過ぎず。しかしてその所在を示して心身の関係を明らかにするに至れば、物理上心理を解釈するの順序を述べて、唯物論の起こるゆえんもあわせて一言せんとす。これを要するに、この神経論は後論を開くの端緒に過ぎざるなりと知るべし。

       第二段 身体組織

 かくのごとく前定して心性の所在を考うるに、時間中に存する心性にあらず、空間中に存する心性にあらず、日月星辰、山川草木中にやどる心性にあらずして、我人の身体中に発動する心性なるを知るべし。すでに心性の我人の身体中に存するゆえんを知るときは、その体中のいかなる部分に存するかを究めざるべからず。これを究めんと欲せば、まず全身の組織を考定するを必要なりとす。そもそも人の身体は通常分かつところによるに神経、筋肉、皮膚、血液、生殖器の五種となす。これ組織上の分類なり。もし作用上これを分かつときは栄養機能、運動機能、輸送機能等の数種となすべし。そのうち栄養機能は腸胃肺等の営むところ、運動機能は神経筋骨の営むところ、輸送機能は心臓血管の営むところなり。故に、あるいはこの諸機能をもって社会の組織に比較することあり。すなわち腸胃等をもって農工等の製産部に比し、神経をもって政府の組織に比し、血管をもって水道、陸路運輸の組織に比するなり。今心性作用はこの組織中のいずれの部分において営むかを尋ぬるに、神経統系中にありて営むの理は、種々の実験をもってすでに証明するところなれば、更にここに喋々するを要せざるなり。もとより古代にありては人の呼吸気を心霊の精気なりと唱え、あるいは心臓をもって心性のやどる所と信じ、満胸の不平、満腔の疑団などと称したれども、今日の諸君は決して心性の肺臓や心臓または腸胃中にありて存するを信ずる人にあらざるを知る。故に余はただちに心性作用は神経中にありて営むものと断言して、その全体の組織を説き示さんと欲するなり。

       第三段 神経統系

 神経は大に分かちて二類となすことを得、曰く神経細胞、曰く神経繊維これなり。しかしてこの二者の別は造構の異なるのみならず、その色およびその主成分の割合みな異なるをもって、その呈するところの作用またしたがって異なるを見る。すなわち細胞は灰白色にして繊維は白色なり。一は水量を含むこと多く、一は少なし、一はその膜壁薄くその内質やや柔らかにして変化しやすく、一はこれに反するをもって変化し難き等の異同あり。これをもってその作用また不同ありて、一は中枢作用をつかさどり、一は伝導作用をつかさどるの別あるを見る。この伝導をつかさどる繊維にまた二種ありて、一は求心性神経と名付け、一は遠心性神経と名付くるなり。求心性神経はその末端に受くるところの刺激を中枢に向かって伝導し、遠心性神経はその中枢に起こるところの興奮を求端に向かって伝導するものとす。故に感覚および知覚作用を導くところの神経はこれを求心性に属し、運動を導くところの神経はこれを遠心性に属するなり。しかして中枢作用をつかさどるところの神経細胞は、この二種の神経の中間に位して二者を連結するをもって、中心神経と称するなり。およそ神経細胞は一極または多極の突起を有して必ず神経繊維に連なり、感覚運動を前後伝導することを得るをもって、これを電信の組織に比すべし。すなわちその繊維は電信線のごとく、その細胞は電信局のごとき作用を有するなり。かつ電信局は中央本局と各地分局の二種あるごとく、神経細胞にもまたこの別あるを見る。けだし神経細胞をもって成るところの中心神経にもあまたの種類ありて、これを大別して脳髄、延髄、脊髄、神経節の四種となす。この四種のものみな中枢作用を有するをもって、これを中枢器と名付くるなり。しかしてその中枢器中の脳髄は諸作用の最高等に位するをもって、これを中央電信本局に比し、その他の中枢器は各地の分局に比すべし。故に脳髄をもって心性作用の本位と定めざるべからざるなり。

       第四段 脳髄性質

 今脳髄の性質を知らんと欲せば、よろしく他の中枢器の作用を知らざるべからず。まず脊髄は細胞と繊維の二種よりなるをもって、伝導をつかさどる外に中枢作用をつかさどるものとす。けだしその作用は反射的に属して意志の命令を待たずして起こる故に、これを自動作用または不髄意作用と称す。すなわち脊髄は求心性神経より伝うるところの刺激をその中枢に受けて、ただちにこれを遠心性神経に伝えその作用を末端に呈するも、心中においてすこしもこれを覚知せざることあり。もしこれを試みんと欲せば、人の熟眠したるときにその手足を刺激すべし。その人必ずこれを知覚せずしてその手足を他に転ずるときは、自動作用の存するゆえんを証すべし。しかしてまた脊髄は、この自動作用の外に脳の命令を伝えて作用を呈することあり。これを髄意作用と称す。すなわち人の意に従って手足を動かすがごときものこれなり。つぎに延髄もまた繊維と細胞を含有するをもって、伝導と中枢の両作用あり。その中枢また自動作用を呈するなり。今この脊髄延髄の二者によりて呈するところの反射的自動作用を挙ぐるに、その主たるものは消化作用、呼吸作用、その他手足の不髄意運動等にして、人の生活上最も緊要なる作用を有するものなり。別して延髄は身体中第一の貴重の部分とす。人これを害するときは、ただちにその生命を損ずるに至るべしという。しかれどもこれらの中枢には、いまだまさしく心性作用と称するものを有せず。他語をもってこれをいえば、脊髄中にも延髄中にもいまだ情感、意志、智力三種の作用を呈するを見ず。これ脳髄特有の作用と断言して可なり。そもそも脳髄は神経統系中発育最も高等にして、その造構またいたって複雑なり。したがってその作用も奇々妙々にして、神変不可思議の心性作用みなその中にありて存するを見る。故にこれを奇々妙々、神変不可思議の器具と称するも不当にあらざるなり。しかしてこの器具は高等動物にも存すといえども、動物の脳髄はその発育、その造構、その作用ともに不完全にして、すこしも不思議と称すべきものにあらず。その最も神変不可思議なるものは、ひとり人の脳髄にあり。今その脳髄の性質を考うるに、通常これを分かちて大脳小脳の二種となす。小脳は大脳の後下部にありて、その作用いまだつまびらかならずといえども、動物について実験するところによるに運動を規整するの作用あり。すなわち動物の小脳を除去しあるいは毀傷するときは、その運動不規則を生じ、正しく走行または飛行することあたわざるを見る。故に小脳は歩行、走飛、遊泳等の運動を一致規整するの作用ありとす。しかれども、まさしく心性作用と称するものは小脳中にあらずして、大脳中にあること明らかなり。これまた動物について試みることを得。今一、二の動物を取りその大脳を除去するときは、自ら運動を発することなし。これに刺激を与うれば平時のごとく運動を発するも、外物の衝突を避くることあたわず、かつこれに衝突すれば更に運動を始むることなし。これをもってこれを推すに、意識すなわち心性作用は大脳中に存するゆえんを知るべし。故に大脳は脳髄の本位にして、神経統系中の中央電信本局なり。今その造構を考うるに、その体左右両半球より成り、外面は灰白色にして盤曲多く、その内部は白質より成る。故に心性作用はその外面にありとす。けだしその各部において営むところの作用は同一ならざるべしといえども、今日の実験いまだ明らかならざるをもって、各種作用の位置を知定することあたわず。今日わずかに知るところのものは、動物の大脳についてその一部分を刺激しあるいは除去して、身体の一定部分に知覚あるいは運動の起滅する反応を見て、各部同一の作用を有せざるを想するのみ。情感、智力、意志各種の諸作用は大脳中のいずれの部分に起こり、諸細胞いかに相変化してその妙用を呈するかに至りては、今日の生理学のいまだ究めざるところにして、いかなる理学者もここに至りて実験器を投じて、心性の実に奇々妙々、神変不可思議なることを嘆称せざるはなし。ああ、この一握に足らざる一小器にして、よくその中に一大世界を開立し、父母兄弟、親戚朋友も、古人も遠人もみなその中に現見し、日月星辰、土石草木、魚虫禽獣も、かつて経過したる土地の風色も、かつて愛賞したる山川の風月もみなその中に対接し、たちまちにして喜び、たちまちにして怒り、たちまちにして憂え、たちまちにして笑い、あるいは動きあるいは止まり、あるいは思慮しあるいは想像するもの、みなその中より発するところの妙用に外ならず。ああ、これを不可思議と呼ばずしてなんぞや。余もとよりその不可思議を知り、これを講述して、ただますます余が心に不可思議の愉快を感ずるのみ。諸君もまた必ずこれを研究して、その心に不可思議の妙味を覚うべしと信ず。世の学者、あるいはこの不可思議の妙味を天帝に帰して、これ天帝の不可思議の作用なり、これ天帝の奇々妙々の神力なりと称するものあれども、余はこの妙味を永くわが心にとめて、一生の間その愉快を感賞せんことを欲し、あえてこの愉快をわが心の外に放ちて、遠くわが知らざるものに帰するを欲せざるなり。

       第五段 神経事情

 脳髄は前段述ぶるごとく心性作用の本位、神経統系の最重の部分なり。これにつぐものを延髄脊髄とす。そのつぎは眼、耳、鼻、舌、皮膚五官の神経とす。この神経は脳よりただちに発するものと、脊髄を経て分布するものとの別あり。またその末端、身体の外部に終わるものと内部の諸組織に終わるものとの二種あれども、五官の神経は通常その外部に終わるものをいう。すなわち視神経、聴神経、嗅神経、味神経、触神経、これなり。この五種の神経は感覚および知覚をつかさどる作用あるをもって、心性作用に貴重の関係あるものとするなり。その他、身体の諸組織、諸機関はみな多少心性作用に関係を有するをもってすべてこれを排置するに、その順序、第一は神経統系、第二は運動機関すなわち筋肉、第三は五官、第四は内臓すなわち腸胃、肺臓、心臓等とするなり。そのうち直接に心性と関するものは神経系なるをもって、余はこれより神経と心性の関係を述べんとす。さきにすでに論ずるごとく、脳髄の作用は生理学上知るべからずといえども、種々の事情によりて、その中に心性の存するゆえんは明らかに証することを得るなり。まず心性作用の神経全体の事情に伴うゆえんを論ずるに、第一に、神経断絶しあるいは毀傷しあるいは錯乱するときは、感覚、運動等の心性作用に変動を生じ、第二に、血液の分量および成分よく神経の栄養を補うに適するときは、これに伴うところの心性作用また健全なり。第三に、神経はこれを刺激してやまざるときはたちまち疲労を生じ、心性もこれを用うること久しきに過ぐるときはひとしく疲労を生ず。第四に、休息または睡眠したる後には神経の疲労回復するをもって、心性作用また活発なり。第五に、心性全体の作用の発達したるものは神経全体の組織発育し、心性の一部分の作用発達したるものはその一部分の神経発育するを見る。第六に、複雑なる心性作用を有するものは複雑なる神経造構を有するを見る。これをもって、心性作用は神経の事情に伴うゆえんを知るべし。つぎに、その作用別して智力の脳髄中に存するゆえんを考うるに、第一に、智力多きものは脳髄の重量したがって多く、かつその表面の盤曲の数多しとす。第二に、人生まれて脳の発育不完全なるもの、あるいは病患によりて実質を損じたるものは、その心性作用また不完なり。第三に、外より不意の毀傷あるいは圧迫等を受くるときは、必ず心性作用に変動を起こす。第四に、心性を労役することはなはだしきときは頭部に痛みを感じ、かつ脳を組成せる成分を廃泄すること多きを見る。その他種々の実験によりて、脳髄中に心性の存することを断定するに至る。

       第六段 情感発顕

 前段すでに神経と心性の関係を略弁したるをもって、身心の関係の密接なることは更に証するを要せざるもののごとし。しかれどもここに情感発顕の理を説くは、最もよく身心の関係を示すものなるをもって、今その要点を述べんとするに、およそ情感の外面に発顕するやその種類異なれば、必ず異なりたる発顕を生ずるの規則あり。すなわち喜怒、憂懼、愛憎みなおのおの異なりたる外貌挙動を呈するものこれなり。しかしてまた同種類の情緒に伴うところの外貌挙動は、古今東西大抵同一なり。すなわち喜ぶときは人みな笑い、哀れむときは人みな泣くの類これなり。およそ情感の発顕に、挙動の上にその事情を示すものと、機関の上にその影響を与うるものとの二種あり。第一に、挙動の上にその事情を示すものを考うるに、面貌の挙動によるもの最も多しとす。今その主たるものをあぐるに、顔面の筋肉の伸縮によりて、鼻口および両眼に情感の発顕を示すがごときものこれなり。すなわち喜怒その情に従ってまぶたの運動、鼻孔の開合、両唇の上下等の異状を呈するものをいう。その他、筋肉の伸縮によりて呼吸、音声の変動を生じ、はなはだしきに至りては全身の変動を生ずるがごときものは、みな筋肉の運動によりて情緒を発顕するものなり。つぎに、機関の上にその影響を与うるものを挙ぐるに、喜怒苦楽その影響を内臓および分泌作用、廃泄作用等の上に及ぼして、あるいはその作用を促し、あるいはこれを妨ぐるがごときものをいう。すなわち消化器、生殖器、涙腺の分泌、皮膚の発汗、心臓の運動等の、情緒の異なるに従って異状を呈するものこれなり。かくして人の心内に感ずるところの快楽苦痛は、必ずこれを外面に発顕するを常とす。あるいはその苦楽の小なるものに至りては、これを外にあらわさざることを得といえども、その大なるものに至りては、ほとんど自ら覆うべからざるなり。これをもって人相見のごときは、よく人の外貌を見てその心内の事情を卜定することを得るなり。西洋にも察心術と称して、人の心中に思うところを察知する法あり、本邦の人相見とやや相類するもののごとし。かくのごとき諸術は、みな心内の諸想の外に発顕するの規則に基づくや明らかなり。これをもって、身心の関係密接なるゆえん知るべし。




       第七段 心性起源

 以上論ずるところ、これを要するに、心性は神経統系中にありて存すというに過ぎずして、いまだその体いかにして神経中に存し、いかにして生ずるかを示さざるなり。もしこれを前講の発達論に対照するに、人類は動物より進化してきたるをもって、人類特有の心性作用もまた動物中より発達してきたらざるをえざるの理なり。しかるに動物は神経組織を有するも、情感、意志、智力のごとき作用を有せざるはいかなる理によるや。かつ今一歩進んでこれを考うるに、動物および植物はその初め無機物質より成来したりというの論あり。無機物質の集合して神経組織を構成したるの理は、別して解すべからざるなり。余はここに、世のいわゆる唯物論者の説に従って、無機の転じて有機となり、無機元素の化して神経組織を開き、進んで心性作用を生ずるに至るゆえんを一言せんとす。けだしその説の起こりしは、化学上有機体を分析してその成分を験するに、すべて無機元素より成るを見る。ただ有機と無機の異同あるは、有機は化学元素中その最も性質の異なりたるもの相集まりて極めて複雑なる抱合をなし、かつその造構いたって精細なるによるのみ。他語をもってこれをいえば、動物の神経に感覚、運動作用を有するは、これを組成せる元素の抱合およびその全体の造構ともに複雑なるによるなり。けだし造構複雑なれば複雑の作用を呈すべきは当然の理にして、人類の心性作用の奇を呈するもまた、その造構の一層複雑なるによるというも同一理なり。しかれども、ここに一言の証明を要する点は、動物の神経より生ずるところの作用は反射すなわち自動作用にして、人の神経より生ずるところの作用は意識すなわちいわゆる心性作用なるの異同あるをもって、反射作用のいかにして心性作用に転ずべきかの一問題にあり。けだし簡単なる造構にありては神経の一端に起こるところの感動相伝えて他力に排出すること容易なりといえども、造構複雑に至れば一方より入るところの感動その一部分の中枢器に達するも、これより出ずるところの神経繊維多岐に分かるるをもって、その動波ただちに他方に流出することを得ずして、暫時その点にとどまりて猶予躊躇するの状あるは必然なり。この猶予躊躇するの状あるをもって、情感、意志、智力のごとき心性作用を生ずるなり。もしまたこの心性作用も、数回反復したるときには反射的に変ずることあり。すなわち意志の命令を待ちて起こるところの作用の、数回反射の末ついにその命令を待たずして起こるに至るはいかにというに、これ他なし、ひとたび流るるところの波道〔動〕数回反復するときは、次第に習熟してその出入猶予のときを要せざるに至ればなりという。この理によりて、神経造構の複雑なるに従い、反射作用は転じて情感、意志、智力の諸作用を現ずるに至るゆえんを論定するなり。しかれども余もとより知る、諸君はこの解釈を会得することあたわざるを。余もこの論に疑いなきにあらず。ただここにこれを挙げたるは、唯物論者の心性の起源を論ずる一端を諸君に示すのみ。

       第八段 唯物論拠

 かくのごとく論究してその極点に達すれば、物外無心の論を唱えざるをえざるなり。その論拠とするところは、第一に、心性作用は身体の諸事情すなわち神経、血液、内臓等の諸事情に伴って起こり、第二に、その発達は脳髄の大小、神経の造構の発育に関し、第三に、神経を組成せる物質は無機元素よりなり、第四に、智力の進歩は教育、経験、習慣等の事情によりて起こり、第五に、人の生長および社会の進化を見るに、その初め感情、意志、智力を有せざるものより発達してきたり、第六に、地球の進化を見るに、初めに無機物質のみありて、つぎに動植物を生じ、つぎに人類を生ず、第七に、動物、人類の種類を分列するに、その各種の間判然たる分界なし、第八に、物理上実験して得るところの規則、これを心性作用に応用して、よくその規則を考定すべし等の理に基づき、その他種々の実験、論究によりて唯物論を結ぶに至るなり。これに至りてこれをみれば、さきに余が第二講第八段に示すところの心力の分量は血液の分量とみなして、その一部分の解釈を与うることを得るなり。すなわち血液の多量脳髄の中に入れば脳髄の力を増し、腸胃の方に流るれば消化の作用を進め、五官の方に注げば感覚作用を盛んにするがごときものこれなり。およそ血液は身内に摂取するところの食物、栄養の多寡によりて、その分量に増減あるはもちろんなれども、一定時間にありては一定の分量あるをもって、身体中の一部分に多量の血液会入するときは、他の部分にその量を減ずべきは当然の理なり。しかしてまた血液は身体の諸組織にその養分を与うるものなるをもって、多量の血液を得ればその部分の作用したがって活発なるも、また理のしかるところなり。故に意向の作用は、あるいは血液の会注より起こるというも一理あるに似たり。しかれどもその血液をして一方に会注せしむるもの、果たしてなにによるや。これ、あるいはそのときの諸事情によるというも、その事情の起こるは果たしてなにによるや。かくのごとく論究してその極点に達すれば、ただ奇々妙々というにやまんのみ。故にこの血液の解釈のごときは生理学上より論究するところなれども、心性の本質に至りては実験、論理の外にして、ひとり生理学上の解釈を取ることあたわず、別して唯物論の僻見を信ずることあたわざるなり。しかして顧みてわが心を思えば、余がかくのごとく無機の外に有機なく、物質の外に心性なく、物理の外に心理なしと論ずるもの、みな心より想出したるものにして、心を離れてこの理を知ることあたわざるを見る。果たしてしからば、心ありと思うも心にして、心なしと論ずるも心なり。心性の奇々妙々、神変不可思議なること推して知るべし。ああ、心理学を研究するものにあらずんば、だれかよくこの妙味を楽しまんや。

 

     第五講 各論第二 感覚論

       第一段 感覚義解

 感覚は苦楽の二種あるをもって情感の一部分に属するを適当なりとすといえども、感覚相集まりて知覚を生じ、智力の本源となることまた明らかなるをもって、智力の発達を論ずるにはまず感覚より始めざるをえず。それ感覚は通常人の解するところによるに、身体の外部において起こるところの心性作用なりというといえども、その実、ひとり外部の作用のみを義とするにあらずして、内部諸臓、諸組織の感覚もその中に加えざるべからず。故にあるいはこれを解して、求心性神経の末端の刺激に伴って起こるところの単純なる心性作用なりというを、むしろ適当なりとす。求心性神経は余が前論においてすでに述ぶるごとく、神経の末端よりその刺激を中枢器に向かって伝導する繊維にして、感覚および知覚はこの繊維中に起こるところの作用なること、更に論ずるを要せず。かつ感覚は心性作用中の最も直接簡単なるものをもって、これをここに単純なる心性作用と称するなり。しかしてこの義解について諸君の注意を要する点は、感覚は神経の末端の刺激に伴って起こるところの作用なりと定むるも、その末端にありてただちに起こるにあらずして、刺激によりて生じたるところの動波相伝えて、脳中に入りて始めて感覚を生ずるなり。もしこれを試みんと欲せば、よろしく求心性神経を切断してその末端に刺激を与うべし。しかるときは、なにほど刺激を与うるも感覚を生ずることなし。これをもって、感覚の中枢は脳中にありて存するを知るべし。またここに感覚の智力の本源なるゆえんを証するに、第一に、外界の経験に富みたるものは智力に長じ、経験に富まざるものは智力に乏しきをもって、智力の発達は経験の多少に属するを知るべし。しかして経験は外物の我人の感覚に接触して生ずるところの結果に外ならざるをもって、感覚は智力の材料を与うること瞭然たり。第二に、生来視覚を欠きたるものは色の思想を有せず、聴覚を欠きたるものは声の思想を有せざるをもって、思想は感覚より生ずること明らかなり。かつ智力の作用中その下等に位する知覚作用のごときは、感覚ありて生ずること更に論ずるを待たざるなり。これ、余がここに感覚を掲ぐるゆえんなり。

       第二段 感覚種類

 感覚の種類は全身の官能の種類に従って分かつを常とするをもって、味覚、嗅覚、触覚、聴覚、視覚の五種の感覚を立つるなり。しかれどもこの五種の外に飢渇、寒温、疲労、爽快のごとき、全身の組織間に起こるところの感覚あるをもって、感覚を分かちて五種に限るは妥当ならざるものなり。故にこの第六種の感覚を加うるときは六感となさざるべからず。しかしてこの感覚は有機組織に固有の感覚なるをもって、これを有機感覚と称するなり。あるいはまた有機感覚は全身の諸部分において起こり、一種特別の部分を有せざるをもって、他の感覚とはおのずから異なるところあり。故に感覚を大別して普通性と特異性との二種となし、有機感覚をもって普通性に属するなり。他の諸覚はおのおの特別の部分ありて起こり、自他相互に作用を転換することあたわざる性質を有するをもって、これを特異性に属するなり。すなわち視覚は目の部分において起こり、聴覚は耳の部分において起こり、触覚は皮膚の部分において起こり、嗅覚は鼻の部分、味覚は舌の部分において起こり、耳をもって色を見ることあたわず、舌をもって声を聞くことあたわざる特異の性質を有するといえども、ひとり有機感覚はしからず。手を労動すれば手に疲労を感じ、足を労動すれば足に疲労を感じ、脳を用うれば脳に感じ、腸胃を用うれば腸胃に感じ、耳目を用うれば耳目に感じて、疲労を感ずべき一定の部分あることなし。故にこれを普通性に属するなり。今、有機感覚の種類を挙ぐるに、第一は筋覚と称して、労動または休息によりて筋肉上に生じたる感覚の類をいう。第二は飢渇の感覚にして、食物、血液の過不足より生じたる感覚をいい、あわせて呼吸上酸素の多寡によりて生じたる感覚を合称するなり。第三は寒温の感覚にして、身体の諸部分において寒冷温暖を感受するをいう。この感覚は主として皮膚の上に起こるといえども、組織内にもまた感覚あり。故に皮膚上に起こるところの寒温の感覚はこれを触覚に属すべきも、全身の組織間に起こるものは有機感覚に属せざるべからず。その他消化の感覚、血行の感覚等ありて、腸胃中の食物不消化なるときはこれを感じ、血管中の血行常を失するときはこれを感ずるの類、いちいち挙ぐるにいとまあらず。つぎに特異性の感覚は別に論ずるところあるべしといえども、ここに一言を要する点は、視覚、聴覚等の五種の感覚は、その実みな触覚なるゆえんを示すにあり。まず視覚は、エーテルと称する精気の波動眼球に触れて生ずるところの感覚なり。聴覚は、空気の波動耳官に触れて生ずるところの感覚なり。嗅味両覚は、外物のただちに鼻舌に触れて生ずるところの感覚なり。故に、これみな触覚と称して不可なることなし。かつ感覚の発達を考うるに、動物の初期にありては皮膚上の触覚を有するのみにして、いまだ眼耳鼻舌の諸官を有せざるなり。その例、胎児の初期および最下等の動物を見て知るべし。ようやく進んで始めて触覚中に種々の部分相分かれ、おのおの異なりたる感覚を生ずるに至る。故に視覚聴覚等は触覚の変形と称してしかるべし。かくのごとく諸覚ことごとく触覚に属すべきの理なれども、今日にありては、触覚中またおのずから異なりたる作用を呈する部分ありて相分かるるを見る。その各種の作用にまた相異なりたる名称を与えて、総じて五感とするなり。

       第三段 感覚性質

 我人は感覚の度量と性質を弁別するの力ありて、およそ外物の五官の上に与うるところの刺激強きときは、これに伴って生ずるところの感覚また強く、刺激弱きときはその感覚また弱し。これをもって声の大小、色の厚薄等を弁別し、また声色を発するところの外物の遠近を推量することを得るなり。これを度量の感覚と称す。つぎに我人は色の赤白、声の清濁を弁別するの力あり。これを性質の感覚と称す。しかして同性質中に度量の異なるを感じ、同度量の中に性質の異なるを覚することあり。たとえば同色中にその厚薄を見、同音中にその清濁を分かつがごとし。これを感覚の弁別力と称す。その他、感覚には時限と地位を感ずるの力おのおの異なるを見る。まず時限とは、感覚の連続する時間の長短をいうなり。たとえば光線の感覚はその連続する時間いたって少なくして、香味のごときはその時間やや長きの類これなり。けだしこの長短の差あるは、各種の感覚、神経の興奮する時間の長短同じからざるによる。つぎに地位とは、同一の官能中においてその刺激するところの部分異なるときは、これに伴って生ずるところの感覚また異なるをいう。たとえば人の皮膚に左右両点において刺激を与うるときは、これを同点に感ぜずして、左右両点に感ずるの類これなり。これ他なし、同種の官能中にありてもその部分異なれば、これに分布せる神経繊維また異なるによる。けだし人はこの地位の感覚を有するをもって、外物の大小広狭、容量距離、および空間の現存を知ることをうるなり。以上の諸事情あるをもって、我人は感覚上智力を養成することを得るはもちろんにして、その智力の発達を助くること最も多きものは度量、性質、地位を弁別する力最も多く、少なきものはその力また少なきを見る。今その多少の順序に従って五感の位次を定むるに、第一は視覚、第二は聴覚、第三は触覚、第四は嗅覚、第五は味覚とすべし。すなわち視覚は最も弁別力に富み、かつ最も智力を助くること多く、味覚は最も弁別力に乏しく、かつ智力を助くること少なし。時限の長短もまたこの順序による。視覚は連続すること短く、味覚は長きを見る。しかして普通性感覚すなわち有機感覚は、苦楽の事情に富むもはなはだ弁別力に乏しきをもって、これを特異性感覚に比するに、ほとんど智力の発達を助けざるもののごとし。これ他なし、有機感覚は主として全身の組織間に起こるものにして、ただちに外物の感触を受けざるによる。

       第四段 味嗅性質

 以上述ぶるところによるに、智力の発達を助けざる第一を有機感覚とし、これにつぐものを味覚嗅覚とす。味覚嗅覚は特異性感覚中最も多く有機感覚に似たる性質を有し、ともに弁別力に乏しくして、ともに苦楽を感ずるの力最も強きを見る。これを要するに、嗅味両覚は有機感覚のごとく智力の性質を有すること少なくして、情緒の性質を有すること多きものと知るべし。例を挙げてその証を示すに、諸味相合して同時に食うときは、いちいちその味を弁別して、これは醤油の味なり、これは鰹節の味なり、これは味淋の味なり、これは砂糖の味なりと、判然知定することあたわず。かつ前後相接して食うときは、砂糖の味はいずれのときより始まり、味淋の味はいずれのときに終わりしか、判然相分かつことあたわず。これその弁別力に乏しくして、智力の発達を助けざる一証なり。しかして苦楽を感ずるの力は他覚より多くして、一物を口中に入るればただちに苦感あるいは楽感を生ずべし。かくのごとく苦楽を感ずるの力多きをもって、人には飲食を欲するの情いたってはなはだしきを見る。けだし味覚にこの情あるは、飲食は生存発育上最も必要なるによる。かつ食物中その発育を助くるものはこれを食うておのずから楽を感じ、発育に害あるものはおのずから苦を生ずるの事情あるをもって、人その情欲に任ずるも、発育を助くべき事情に従って進むは自然の勢いなり。これをもって、味覚は苦楽を感ずるの力に長じて、智力を助くるの事情に乏しきに至るなり。嗅覚またしかり。香臭を弁別するの力に乏しくして、苦楽を感覚するの性に長ずるなり。この嗅味両覚は感覚を連続する時間、これを他の諸覚に比すればやや長きを覚う。食味を感ずるも香臭を感ずるも、その原因去りてなお暫時の間、その感覚をとどむるの事情あり。かくのごとくこの二者は互いに相似たる性質を有するをもって、ここにこれを合して論ずといえども、もしこの二者中いずれが最も多く智力の発達を助くるかを考うるときは、嗅覚をもって味覚の上に置かざるべからず。味覚はその官能に接触したるもののみを感ずるをもって、すこしも外物の遠近方向を知るあたわず。しかしてこれに接触してその形質を感ずるは舌官の触覚によるものにして、味神経の感ずるところにあらず。しかるに嗅覚は外物より発散せる分子を感ずるをもって、多少外物の遠近方向を知るべき事情あり。これ、嗅覚は味覚の上に位するゆえんなり。

       第五段 触覚性質

 触覚は外物の皮膚に接触して起こすところの感覚にして、その区域はなはだ広しといえども、その主たる部分は唇頭と指端なり。その感ずるところの性質は外物の大小、軽重、軟硬、麁滑、寒温等なり。故にその外物を知覚するの力あるは味嗅両覚の比にあらず。味嗅は同時に諸性質を弁別して感ずるの力なしといえども、触覚は同時に諸性質を弁別して感じ、かつひとたび起こりたる感覚はたちまちやみて永く連続せざるをもって、一物を感じてただちに他物に触るるも、前後の性質を混同することなし。別して触覚は地位上の弁別力に長じて、異なりたる部分に触るるときは異なりたる感覚を生ずるをもって、物の大小距離等を知ることを得るなり。故に触覚の智力の発達を助くる、味嗅両覚の比にあらざるなりと知るべし。

       第六段 聴覚性質

 聴覚は触覚より一層細密に外物を感覚するの力ありて、音声の高低大小、その他、諸種類を弁別して感ずることを得るなり。たとえば一夕旅窓にありて、庭前の泉声、樹間の風声、雨滴、人語、絃歌等、よくその種類高低を弁別するのみならず、人の語声または足音を聞きて、いかなる人なるやを知ることを得るなり。これ別して盲人のよく感ずるところにして、余はしばしば盲人に接して聴覚の作用を試みたることあり。盲人曰く、われは視覚を欠くといえども聴触両覚の存するをもって、行為上すこしも不自由を感じたることなし。ただ自ら不自由と思うは、一〇銭の紙幣と二〇銭の紙幣と区別することあたわざるの一事のみといえり。けだし人視覚を失うときは聴覚の発達するありて、その欠を補うの作用あり。音曲を業とするものに盲人多きはこの理による。この理を推して、聴覚の視覚同様に智力を助くるの力に富みたるゆえんを知るべし。ただその感覚の視覚に一歩を譲る点は、外物の地位を知定する力に乏しきにあり。聴覚の力をもって外物の方向距離は、多少音声の大小および左右両耳に感ずるところ異なるによりて知るべしといえども、これを視覚に比すればその力大いに微なるを覚う。余かつて常総の間を来往するに当たり、利根江畔の旅亭にいこい、江上を上下する汽船の声を聞くに、その声の上流よりきたるか下流よりきたるかを区別して感ずることあたわず。しかるに目をもって一見すれば、ただちに汽船のいずれの所にあるかを明知すべし。

       第七段 視覚性質

 視覚は他の諸覚に比するに、最もよく外物の性質を弁別し、智力の発達を助くるものなり。これを例するに、視覚は色の種類および厚薄の度いちいち明知するのみならず、外物の大小遠近を知るの力あり。けだし外物よりきたるところの光線、眼球内に入りて網膜面上にその影像を結び、視神経の興奮によりてこれを感覚するものとす。しかるに網膜は多少の面積を有するをもって、異なりたる地位に落つるところの光線は異なりたる神経の興奮を促すをもって、外物の方向距離を推知することを得るなり。これ視覚の聴覚に勝るゆえんにして、智力の発達を助くるの多きこと明らかなり。しかれども視覚のみをもって、初めより外物の方向距離を知るあたわず。その理、次講に入りて論ずるところあるべし。

       第八段 筋覚性質

 以上挙ぐるところの感覚の外に、筋覚と称するものあり。この感覚は普通性の感覚にあらずして一種の特異性の感覚なれども、また五感の中に加うべからず。精密にこれを論ずれば、感覚の名を与うるもすでに不適当なりとす。なんとなれば、すべて感覚は外物の感触を待ちて起こるものにして、その作用を外物の上に及ぼして自らこれに感触するものにあらず。他語をもってこれをいえば、感覚は所作用にして能作用にあらず。しかるに筋覚のごときは能作用にして所作用にあらざるをもって、前に挙げたる感覚とは大いにその性質を異にするあり。故に、さきに普通性感覚中にあげたる筋覚と、ここに挙ぐるところの筋覚とはもとより同一にあらず。前の筋覚は所作用にして、この筋覚は能作用なり。かつこの筋覚は常に視覚触覚と連合して起こり、独立して起こらざるをもって特異性感覚中、別にこの一覚を設くるを要せざるなり。しかれども智力の発達上に関しては、この感覚最も貴重なる関係を有するをもって、ここに五感の外一項を設けてその性質を論ずるなり。あるいはこの感覚は、前の普通性中の筋覚に区別せんがために、力覚と称するも不可なることなし。そもそもこの力覚には二種の異類ありて、第一を運動の感覚と称し、第二を抗抵の感覚と称するなり。運動の感覚は手足または全身の運動に伴って起こるところの感覚にして、この感覚によりて運動の方向および距離を知ることを得るなり。たとえば、手足を右に動かすと左に動かすとは異なりたる感覚を生ずるをもって左右の方向を知ることを得、また手足の伸縮は異なりたる感覚を生ずるをもって空間の距離を知ることを得るがごとし。その他、運動の感覚は時間の長短を知ることを得るなり。たとえば、長く運動したるときは短く運動したるときとは異なりたる感覚を生じ、また運動の速やかなるときと遅きときとは、感覚上その別を知ることを得るがごとし。つぎに、抗抵の感覚は手足または全身をもって外物に接触衝突して起こるところの感覚にして、この感覚によりて物の固質、重量、弾力性等を知ることを得るなり。たとえば足をもって触るればその軟硬を知り、手をもって物を挙ぐればその軽重を知るがごとし。その他、抗抵の感覚をもって時間の長短をも知ることを得るなり。たとえば手をもって物をあぐるときは、時間の長短に従って異なりたる感覚を生ずるがごとし。この二種の力覚は人の身体中、主として手足と両眼との作用によるをもって、触覚および視覚と密接なる関係を有するものなり。手足と両眼とは筋肉の作用によりて左右上下自在に運動することを得るをもって、外界の諸部分において経験を施すことを得るなり。手足の運動なくんば、あたかも草木のごとく外物のきたりてこれに接触するにあらざれば、その事情を知ることあたわず。両眼の運動なくんば、外界の一点を明視することを得るのみにて、同時に諸点を連視することあたわず。しかるに高等動物および人類は、手足および両眼の運動を有するをもって、外界の諸部分においてその事情を経験することを得るなり。故に視覚触覚は、筋覚と相合して大いに智力の発達を助くるものとす。これに反して筋覚は、視覚触覚なきときはまたその作用を呈することあたわず。別して触覚は筋覚上欠くべからざるものにして、手足を動かして外物に触るるも、これを感ずべき皮膚の触覚なきときは、筋覚その用なきは明らかなり。故に筋覚と触覚とは、しばらく能作用、所作用の上にてこれを分かつのみにて、その実、筋覚は一種の触覚に過ぎざるなり。

       第九段 感覚発達

 もし感覚の発達を知らんと欲せば、よろしく胎児の発育および動物の進化の順序次第を見るべし。その初期にありては全身ただ触覚の一感を有するのみにて、ようやく進んで触覚中五感の作用相分かるるに至る。五感すでにその作用を異にするも、各感の発達いまだ完全ならずして、外界の諸事情、外物の諸性質をいちいち弁別して感ずることあたわず。いよいよ進んですでに弁別して感ずるの力を有するも、人類のごときはいまだその感覚完全なるにあらず、ただこれを動物に比していくたの完全を見るのみ。けだしその発達に際して、いかなる力の生ずるありて外界の性質を知ることを得るやというに、曰く、余がさきに挙げたる弁別力、契合力、記住力の三種の原力の発達によるなり。弁別力の発達によりて外界の諸性質を弁別して感ずることを得、契合力の発達によりてその性質を明瞭に感ずることを得るなり。しかしてこの二力の発達は記住力の存するによる。記住力いよいよ 発達すれば、ますます二力の発達を見るべし。たとえば花の色を見て桜の花の色なるを知るは、前すでに見たるところの桜の色を記憶して忘れざるにより、これを記憶することいよいよ明らかなれば、桜の色を判ずることいよいよやすく、記憶明らかならざれば、これを判ずるはなはだ難し。かつその発達の動作、習慣によることまた疑いをいれず。数回見聞したるものは、感覚上たやすくそのなんたるを知るべし。かくのごとく諸力の発達によりて、感覚上より微細の種類を弁別し、微細の性質を明知することを得るなり。これを感覚の発達とす。その発達は人の全身の発育に従うを常とすといえども、人ことごとく同一に発達することあたわず。感覚の発達十全なるものと十全ならざるものあり。また感覚中、一感の発達、他感の発達に勝るものあり。楽人は耳の一感に発達し、易牙は味の一感に発達するがごとし。これ、一は遺伝の力により、一は順応の影響によるならん。

 

     第六講 各論第三 知覚論

       第一段 感覚作用

 前講述ぶるところの五感の作用は、その体ただちに智力なるにあらずといえども、智力を構成すべき材料たるは疑いをいれず。すなわち感覚は智力の本源なりというべし。その感覚相集まりて知覚を生ず。知覚は表現的にして智力の初級なり。今、感覚と知覚の異同を考うるに、第一に、感覚は単純にして知覚は複雑なり、第二に、感覚は外物の刺激を感受するのみにてこれを一物として認識することなく、知覚は外物の位置を知定しその一物たるを認識するなり、第三に、感覚は所作用にして知覚は能作用なり、第四に、感覚は再現に属するもの少なくして知覚は再現に属するもの多し等の異同あり。まず感覚と知覚とに単雑の異同あるは、感覚の集合して知覚を生ずるによる。目に色を見、耳に声を聞くは感覚作用にして、色と声を相合して感ずるにあらず。故にその作用単純なりといえども、知覚に至りては色も声も香りも味も、諸性質相合してこれを一物なりと識了するをもって、その作用やや複雑なり。その作用複雑なるをもって、知覚は外物を一物として認識することを得るも、感覚は単純なるをもって、外物を知定するの力なし。耳に声あるを感じ、目に色あるを感ずるも、ただ感覚上の変動を覚知するのみにて、いまだ外物のいかんを知定すべからず。外物のいかんを知定するには、諸感覚相合して一物の一物たる性質を識了せざるべからず。これを識了するは知覚の作用なり。つぎに感覚は外物を感受するにとどまりて、これを外界の一物として知るにあらざるをもって所作用に属し、知覚はこれを外界の一物として、その地位分界を知定するの力あるをもって能作用に属すべし。この能作用と所作用との名はさきにすでに示すごとく、外物の方よりわが感覚をたたきてその変動を生ずるときは、外物は能作用にして感覚は所作用なりと称すべし。もしこれに反して、われよりその心力を外物の上に及ぼしてそのいかんを知るときは、外物は所作用にして心力は能作用なり。今、知覚はこれを感覚に比するに、やや能作用の性質ありて存するを見る。その他、感覚はその作用単純にして、現に感覚上に起こるものを感ずるのみにて、その前に感じたるものを再び想出して感ずるにあらずといえども、知覚は複雑作用にして、諸覚相合して生ずるところの能作用なるをもって、過ぎたるときに起こりたる諸感覚を想出して、外物の外物たるゆえんを識了するの性質あり。故に感覚は再現に属する作用なしと称すべきも、知覚は再現に属する作用ありといわざるべからず。再現とは、過ぎたるときに起こりたるを再び想出するをいうなり。余はかくのごとく感覚と知覚を区別してその異同を挙げたるも、これ理論上の分界に過ぎずして、実際上いちいちその別を知ることあたわず。たとえばここに一知覚の起こるあらんに、そのうちのいずれの部分は単純の感覚作用にして、いずれの部分は複雑の知覚なるやを明示するはいたって難く、また全く知覚の関せざる単純の感覚作用を見ること、もとより容易ならざるなり。これなんの理によるやというに、第一に、今日の我人にありては感覚と知覚と常に相結合して起こるにより、第二に、感覚も知覚もその実同一の心性作用にして、初めよりその体別物なるにあらざるによる。しかして今ここにその別を立つるは、しばらく発達の前後の次第あるによる。そのいまだ発達せざるものを感覚と名付け、そのやや発達したるものを知覚と名付くるのみ。例を挙げてその証を示すに、幼児のいまだ発達せざるに当たりては、声色を感ずるの力あるも、外物を識了するの力なきときあり。これ感覚作用のみありて、いまだ知覚作用の起こらざるによる。その次第に成長して外物を識了するに至れば、感覚に伴って知覚のつねに起こるありて、全く知覚を離れたる感覚を見ることあたわざるなり。しかれども我人の経験中、往々音声のみを聞きて、そのなにものより起こり、いずれの方向よりきたり、いずれの地位より生ずるかを覚せざることあり。これ、いわゆる単純の感覚なり。ただここに諸君の注意を要する点は、感覚も知覚も同一類にして、感覚の発達したるものはすなわち知覚、知覚の発達せざるものはすなわち感覚にして、判然たる分界をその間に立つることあたわざるにあり。他語をもってこれをいえば、智力発達の前後の次第に感覚、知覚の別を見るのみ。その他、感覚の知覚に異なるは、感覚は苦楽の二事情を有するも、知覚はこの性質を有せざるにあり。これ、その一は情感に属し、その一は智力に属するゆえんなり。

 

       第二段 知覚義解

 前段述ぶるところによりて、知覚の義解を知ること容易なりとす。知覚は諸感覚を結合して、外物を外物として認識する、一種の複雑なる心性作用なり。これを複雑と称するは感覚に対していうのみ。もしこれを内現の諸想に比すれば、一種の単純作用に過ぎざるなり。

       第三段 味嗅作用

 知覚は感覚を合して外物を外物として認了する作用なるをもって、諸覚ことごとく知覚を構成するの材料となるべきはもちろんなりといえども、五感同一にこれを構成するの力を有するにあらず。最も多くその力を有するものは触視両覚にして、最も少なきものは味嗅両覚なり。味嗅両覚中、その最も知覚に関係少なきものは味覚なり。味覚は外物の地位方向を知定して、これを外界の一物として認了するの力なし。嗅覚もその力はなはだ弱しといえども、その作用、味覚のごとく直接に外物自体に接触して起こるにあらずして、外物より飛散せる分子鼻官に接してその作用を促すをもって、多少外物の地位方向を知るの性質あり。しかれども、これを一物として識了するには、味覚も嗅覚も視覚も触覚も聴覚も、みな相結合せざるべからずはもちろんのことなり。そのうち視覚と触覚の二者相合して知覚を生ずること最も多しとし、味覚嗅覚より生ずること最も少なしとするなり。

       第四段 触覚作用

 通常人の信ずるところによるに、知覚は視覚より生ずるがごとしといえども、触覚より生ずること疑いをいれず。外物の大小方円、軟硬軽重の触覚によりて知るべきは、みな人の経験するところにして、別して軽重と軟硬とはひとり触覚によりて知るべきもまた、人の疑うべからざるところなり。しかしてこの軽重と軟硬は、外物の一物質となるに最も要するところの性質なり。故に、触覚は外物を知覚するに最も要するところの作用なりと知るべし。もしこれを試みんと欲せば、よろしく盲人のよく外界の事物を知覚するを見て験すべきなり。その他、触覚は前講に述ぶるごとく地位上の感覚を有して、外物の皮膚上異なりたる部分に接触するときは異なりたる感覚を生ずるをもって、物の距離、空間の現存を推知することを得るなり。

       第五段 運動作用

 しかれども、物の距離および空間の現存は、所作用の触覚のみにては明らかに知ることあたわず。明らかにこれを知るは、能作用の筋覚によらざるべからず。能作用の筋覚中よくこれを知るは、ひとり運動の感覚にあり。すなわち、手足の運動によりて生ずるところの感覚これなり。我人はこの感覚によりて外物の地位、方向、距離、および空間の現存を容易に識了することを得るなり。人もし手足の運動なくんば、外物の地位遠近を知るのはなはだ難きは、更に証するを要せず。第一に、運動の感覚によりて外物の地位、方向、距離を知るべきゆえんを述ぶるに、手足を動かして外物に接触するときは、その物の左右にあるか前後にあるか、および若干の距離において存するかは、筋肉上の感覚によりて知ることを得るなり。たとえば左手を動かして物に触るれば、その物の左方にあるを知るべく、遠く手を出して物に触るるときは、その物の遠きにあるを知るべきがごとし。第二に、物の形状大小を知るべきゆえんを述ぶるに、指端を転じて外物の諸点に連触するときは、その諸点に生ずるところの感覚、相連続して物の大小方円の知覚を生じ、およびその容量固体の知覚を生ずるなり。かくして空間の現存は、ひとり運動の感覚によりて知ることを得るものとす。

 

       第六段 物体知覚

 触覚は外物の諸部分に接して、いちいちその地位の形状を感覚するの力あるをもって、その感覚相合して外物の平面の広狭を知るのみならず、立体の縦横深浅を知ることを得るなり。たとえば手をもって一小体を握るに、その第一指、第二指ないし第五指は、おのおの異なりたる地位に接触して、その地位の方向距離を感覚するをもって、その諸覚相合するときは一物の立体容量を知ることを得るがごとし。もし手足の運動によりて遠近の諸部分に接触するときは、別して諸体の形状を明知すべきなり。すでに一物の形状立体を知るときは、物体の知覚を生ずるは必然なり。たとえばここに数個の木石あらんに、その体数個の物体より成るを知るべし。すなわち諸物体中に一物体を認識覚了することを得るをいう。けだしこれを覚了することを得るは、感覚に連続あると間断あるとによる。たとえば一石に触るるときは、その諸部分に起こるところの感覚互いに相連続するを覚え、衆石に触るるときは、その諸部分の間に感覚上間断あるを見る。これをもって、一物を一物体として知ることを得るなり。また手をもって動くところの外物に触るるときは、その物の空間の一点より他点に転ずるを知るべく、かつ運動の方向および速力を知るべし。その他、触覚によりて知るべきものは外物の地位、方向、大小、形状のみにとどまるにあらずして、物質の寒温、軟硬、軽重、麁滑に至るまで、ことごとく知るべきものとす。まず手をもって外物に触るるときは小児もなおその寒温を知り、手をもって外物に接するときはその軟硬を知り、これを挙ぐるときはその軽重を知り、これを探るときはその麁滑を知るも、またみな人の常に経験するところなり。これ、所作用の触覚と能作用の筋覚と、相合して生ずるところの知覚なりと知るべし。しかして余がここに物体知覚と題せしは、物象物体の物体にあらずして、一個の物質を義とするものなり。

       第七段 視覚作用

 視覚は触覚のごとく多少外物の地位、方向、距離、大小、形状および空間の現存を知ることを得るものとす。そのこれを知ることを得るは、眼球内の網膜多少の面積を有するをもって、外物の異なりたる部分よりきたるところの光線は、網膜面上の異なりたる部分に落つるによる。故をもって視覚は同時に外物の諸点を認了して、その形状および距離を知ることを得るなり。しかれども網膜は、その諸部分ことごとく同一に外物を明視するにあらず。その最もよく明視する点は、黄斑と称する一点に限る。黄斑は網膜の中央、黄色を帯びたる一点をいう。この点ひとりよく外物を明視するをもって、あるいはこれを名付けて明視点と称するなり。およそ外物よりきたるところの光線、その点に落つるにあらざれば明視することあたわず。故をもって、我人一人物を取りてこれを見るに、一時にその諸部分を明視することあたわずして、眼球を転じて漸時に明視するなり。たとえば書を読むときに、次第に眼球を上下左右に転ずるがごとし。これを転ずれば、外物の諸点よりきたるところの光線をして、ことごとく黄斑の中に落つることを得せしむ。故に視覚をもって外物の形状距離を知るには、眼球の運動を要するなり。すなわち、さきに挙ぐるところの能作用の筋覚を要するなり。能作用の筋覚と所作用の視覚と相合して外物の形状を知るは、能作用の筋覚と所作用の視覚相合して外物の形状を知ると同一理なり。この能所両作用の相合して外物の大小、方円、深浅、方向、距離を知ることを得るのみならず、一物を一物体として認識覚了することを得るものとす。すなわち視覚は、網膜面上の視神経の感覚によりて外物の地位を知り、眼球の運動によりて上下左右の方向を知るをもって、外物の左方にあるか右方にあるかを知るべく、遠きにあるか近きにあるかを知るべく、高低深浅もまたしたがって知るべし。すでに大小、遠近、高低、深浅を知るときは、一物を一物体として知ることまた容易なり。外物の運動速力もまた、また知ることを得べし。しかれども、人生まれながら視覚の作用のみをもって外物の地位形状を知るにあらず。よくこれを知るは、経験上視覚と触覚の相合して生ずるのところの結果なり。他語をもってこれをいえば、視覚は外物の距離方向を指示するのみにて、直接にこれを知覚するにあらず。そのこれを直接に知覚するには、触覚の力を待たざるべからず。今ここに視覚の外物の距離を指示するに五種の事情あり。その第一は、眼球の内部に筋肉の緊張する感覚、第二は、両眼の集合すると分離するとの感覚、第三は、両眼に現ずるところの影像の不同、第四は、遠きものは朦朧として近きものは明瞭なるの異同、第五は、網膜面上に結ぶところの影像の大小なり。この事情を解釈するに、いたって近きものに眼球を適合してこれを見んとするときは、眼球の内部に筋肉の緊張するの感覚ありて、遠きものを見るにはこの感覚なし。また、近きものを見るときは両眼次第に中間に集合するの傾向ありて、遠きものを見るときは両眼次第に分開して眼軸平行するの傾向あり。つぎに、近きものを見るときは両眼に現ずるところの影像同じからずして、右眼には右方の影像を現じ、左眼には左方を現ずるも、遠きものに至りて左右両眼に現ずるもの同一なり。第四に、近きものは明らかに見るべく遠きものは明らかならざるは、みな人の常に知るところなり。第五に、同一物にして遠きにあるときはその形小にして、近きにあるときはその形大なるをみるも、またみな人の経験するところなり。以上五種の事情あるによりて多少外物の遠近を指示すべしといえども、人もし生まれながら触覚および運動なくんば、距離を知覚すべき理なし。しかして人の幼時にありて、すでによく目をもって距離を判定するがごとく見ゆるは、生まれながらこれを知るの力を有するにあらずして、生まれてのち人のこれを乳育するの際、触覚および運動の作用によりて次第に判定することを得るに至りしなり。もし果たして人、生来視覚をもって距離を知るの力あらば、小児の月を見て握らんとするはなんぞや。また、生来盲人たりしもの壮年に至り目の開きたるものありしに、月を見てその遠近を判ずることあたわずして、これを掌握せんことをつとめたりという。これによりてこれをみれば、人生まれて運動経験するの際、視覚と触覚の相合するありて、知らず識らず目をもって遠近を判ずることを得るに至りしや必然なり。しかれども余が第三講に述ぶるごとく、人に本能力ありて、生来経験を待たずして智力の作用を有することあり。故にあるいは本能力の作用によりて、生まれながら多少外物の距離遠近を知るの力あるかも計り難しといえども、その本能力もこれを帰するに、父祖数世間の経験に出ずること明らかなれば、視覚上遠近を判定することを得るは、経験積習の結果なりと断言すべし。

       第八段 身体知覚

 かくのごとく外界の物質を一物体として感ずるときは、自己の身体を自己の身体として知ることなくんばあるべからず。一己の身体も外界の諸物に比するに、宇宙間の一物体なること明らかなり。すでにこれを一物体として知るも、自身と外物との別はいかにして知るべきかというに、外物に触るるときと自身に触るるときとは、感覚上大いに異なりたるところありて、その別を知るべし。自身はその諸部分において感覚および知覚作用を有すといえども、外物これを有せざるをもって、外物に触るるときはその触れたる部分において感覚を生ずることなしといえども、自身に触るるときは自らその部分に感覚の生ずるを覚う。すなわち自身は知覚体にして、外物は無覚体なるによる。これを推して、自身と他人との間にその別を知るゆえんもまた了すべし。たとえば、手をもって自身の体に触れるときは一種の感覚を自身に覚知すべしといえども、他人の体に触るるときはすこしも自ら覚することなし。これをもって、我人は自身と自身にあらざるものを識別することを得るなり。

       第九段 聴覚作用

 聴覚の視覚および触覚に数歩を譲るゆえんは、第一に、皮膚および網膜のごとく平面の地位を有せざるをもって、同時に外物の諸点を認了することあたわず。すなわち空間の現存を知ることあたわざるなり。第二に、運動作用を有せざるをもって、種々の点に耳を転じて諸音を聴受することあたわざるなり。視覚と触覚はつねに運動作用と連接して起こるをもって、その経験するところの範囲したがって広しといえども、耳官は頭足の運動を待つにあらざれば自ら運動することなきをもって、外物の地位、形状、距離を知ることいたって難し。しかれども多少これを知るの作用あり。まず外物の方向は、その体より発するところの音声、両耳に感ずるところ異なるによりて判ずることを得るなり。たとえば、左方よりきたるところの音声は左耳に感ずること強く、右方よりきたるものは右耳に感ずること強きの差別あり。その他、耳は頭の運動によりて、外物の前後左右にあるかを試みることを得るなり。つぎに外物の遠近は、音声の大小明微について判ずることを得べし。しかれども外物の方円形状に至りては聴覚の知るあたわざるところにして、これを知るは視覚触覚を待たざるべからず。しかして聴覚は時間の連続長短を知覚することを得。けだし時間の知覚は視覚の有せざるところにして、これを知るはひとり聴覚にあり。ただ視覚は外物の運動するを見て、わずかに時間の長短を推度するのみ。故に視覚は空間を知覚するの作用を有し、聴覚は時間を知覚するの作用を有すと定むるなり。

       第一〇段 知覚発達

 知覚も幼時より次第に発達するものとす。幼少のときにありてはただただ不完全なる感覚を有するに過ぎずして、いまだ知覚と称すべきものを有せず。ようやく発達して知覚を有するも、一般に関する最大の点を知覚するのみにて、いまだ細密にわたりたる諸点を知覚するに至らず。たとえば外物の距離方向のごときは幼児輩の測知することあたわざるところにして、往々外物に衝突し、または高所より倒下することあるを見る。知覚の力いよいよ発達して、始めて距離遠近を精密に知ることを得るなり。また、外物の形状容貌も知覚の力発達するにあらざれば、明らかに弁別することあたわず。幼少のときにありては、いちいち父母兄弟を弁別することあたわず。ようやく長じて父母兄弟を弁別するに至るも、他人を弁別することあたわず。いよいよ長じて日本人を弁別するに至るも、外国人を弁別することあたわず。すでに今日にありても、我人は外国人を見るときは大抵みな類同したるもののごとく現じて、いちいちその人を弁別することあたわず。イギリス人もアメリカ人もフランス人もイタリア人もドイツ人も、大抵同国の人のごとく見えて、よくこれを弁別するものはなはだ少なし。しかれども永く外国人に接するときは、たやすく弁別することを得べし。これ、習慣動作の影響によるものなり。故に人おのおのその職業によりて、一部分の知覚非常に発達することあり。船頭はよく遠きにあるものを明視し、動物学者はよく小なるものを識別し、山に遊ぶものはよく山を知り、水に遊ぶものはよく水を知り、馬を見るものはよく馬を知り、人を相するものはよく人を知り、百姓は米穀を一見してそのなんの種類なるを知り、商人は物品を一見してその価の若干なるを知り、書画屋は書画に明らかに、古物家は古物に明らかなるなどは、みなその職業によりて一部分の知覚発達するなり。しかれども智力の発達は、知覚一部分の発達よりむしろ全体の発達を要するなり。知覚は智力の本源なるをもって、智覚発達するにあらざれば智力の発達を期すべからず。故に、知覚の発達は智力の発達に最も要するところなりと知るべし。


 

     第七講 各論第四 現想論(一名再現論)

       第一段 再現起源

 再現すなわち現想は、智力発達の順序中知覚の上に位する心性作用にして、これを内現的すなわち内想の初級とす。今その起源を考うるに、知覚より生じたること疑いをいれず。たとえば去年経過したる土地の風色を想見し、昨日面接したる友人の容貌を想出するは再現なり。しかして再現に接見したるは知覚なり。故に知るべし、知覚ありてのち再現あるを。再現ありてのち知覚あるにあらざるなり。ただしここに疑いを抱くべきは、ひとたび現見したるもの、いかにして再び想出すべきかの問題なり。この問題についてはいまだ判然たる解釈を付せしものなきをもって、余もとより確答を与うることあたわずといえども、推してこれを考うるに、ひとたび現見したる外物の影像は、その形を脳髄を組成せる細胞のある部分にとどむるをもって、これを刺激する原因または事情を待ちて再び現起するなりというべし。けだしひとたび外物を知覚したるときは、その変動を最も変化しやすき細胞に与うるをもって、その体、多少変形または変質すべきは必然の理なり。しかしてひとたび変形または変質したるものは、永くその形質を保存せんとするの性あるをもって、その後若干の時日を経るも、依然としてその影像をとどむべし。故に他日更にこれを刺激すべき事情に際会するときは、その影像再び現ずべきは明らかなり。これもとより推想に過ぎずといえども、また理のやや取るべきものあり。その証を示さんために、ここに影像の種類および再現の性質事情を述ぶるなり。

       第二段 影像種類

 およそ影像と称するものに二種類あり。第一を暫時影像といい、第二を永時影像という。暫時影像とは、影像の連続する時間の短きものをいう。たとえば太陽を見て目を他に転ずるも、なおその影像をとどむるがごときものこれなり。しかれどもその形暫時にして消滅するをもって、これを暫時影像と称するなり。すなわちこの影像は知覚に属す。これに反対して、若干の時日を経てなおその影像をとどむるものあり。現想の再現これなり。しかしてこの永時の影像と暫時の影像とは全く相異なるもののごとしといえども、また互いに相関係を有するや明らかなり。けだし知覚に伴って暫時の影像あるは、ひとたび脳中の細胞を刺激すれば、暫時の間その興奮を連続するによる。全くその興奮を失えばその影像一時消滅するも、再び他の事情によりてその興奮を促すときは、再現の影像を生ずべきなり。これによりてこれをみれば、ひとたび脳中に感伝したる外物の変動は、細胞の変形または変質によりてその中に保存し、他日更にその興奮を促すべき事情に接して、影像の再起するに至るなり。

       第三段 再現性質

 再現すなわち永時影像と知覚とその性質を異にするは、第一に、知覚は表現にして再現は内現なり。第二に、知覚は意力によりて左右すべからざるも、再現は意力をもって動かすべし。第三に、知覚は運動によりて生滅するも、再現はしからず。第四に、知覚はその生ずるも滅するもともに速やかなれども、再現は漸々に生滅す。第五に、知覚は明瞭なれども、再現は不明なり。そのうち第一は格別解釈を付するを要せず。第二の意を敷衍するに、たとえばここに山水の風景に対接してこれを見ざらんことをつとむるも、意力をもって動かすべからずといえども、再現の影像は現に亡友の容貌を想出するも、随意にこれを転じて他の物を想見し、もってその影像を消滅せしむることを得べし。第三の意を述ぶるに、知覚上現見したるものは運動してその場所を転ずれば、前者の形象たちまち滅して他の形象を見るも、再現は手足を動かし目を他に転ずるも、前時の影像依然として連続することを得るなり。第四の意は、知覚は外物を現見すればその形象にわかに心内に浮かび、目を閉ずれば、その象たちまち消滅するがごとく、にわかに起こりにわかに滅することを得るも、再現はその生ずるも次第に影像を現出し、その滅するも次第に消失するなり。つぎに第五の意は、直接に目前に現ずるものはその象明瞭なるも、間接に心内に想するものはその象不明なるを見て知るべし。しかれども夢中にありては再現の影像いたって明らかにして、現に知覚せるもののごとく感ずるは、興奮の強弱度を異にするによるなり。興奮強きときは、再現つねに知覚と相混同して分かつべからざること多し。たとえば亡友をおもうことはなはだしきときは、現にその容貌に接するの思いをなすがごとし。別して夢中にありては他の部分ことごとく静止して脳中の一部分のみ興奮するをもって、明らかにその部分の影像を想起することを得るなり。これによりてこれをみれば、知覚の中枢と再現の中枢とは脳中異なりたる部分に存するにあらずして、同一の中枢なること推して知るべし。ただ、再現の影像の不明なるは、刺激の力弱くして興奮の少なきによるのみ。

       第四段 再現事情

 およそ再現の起こる原因は、外物の感覚その象を心面上にとどむるをいう。そのとどめたる物象を、ここに印象と名付く。他語をもってこれをいえば、感覚および知覚、神経より伝えたる外物の形象を脳中の細胞に印するをもって、再現の起こるに至るなり。しかしてまたその原因を助くる事情あり、その事情を分かちて六種とす。その第一種は印象の深浅にして、感覚より与うるところの印象深くかつ著しきときはこれを再現するやすく、浅くかつ微なるときはこれを再現する難きをいう。第二種は意向の事情にして、意力の向かいたるものはその印象明らかにして再起しやすく、意力の向かわざるものは再現し難きをいう。第三種は脳髄の勢力にして、脳の勢い健全かつ強壮なるときはその印象明らかにして再起しやすく、しからざれば難きをいう。第四種は時間の遠近にして、心面の印象は時日を経るに従い次第に消滅するをもって、時間の懸隔近きものは再起しやすきをいう。第五種は習慣の事情にして、反復数回印象を結びたるものは再現しやすきをいう。第六種は連合の規則にして、前に述べたる思想の連合すなわち連想というものこれなり。以上六種の事情によりて、ひとたび感受したる印象再び現起して、外物の影像を想見するに至るなり。すなわち再現の起こるは、神経繊維より脳中の中枢に伝えたる外物の形象変化は、その細胞の変形変質を促して、物象をその中に印するによるなり。しかれどもここに解すべからざるは、その印象をとどむるは果たしてなんの力によるやの一問題なり。これ記住力のしからしむるところにして、その力は人の本来有せざるを得ざるものというより外なし。もしこれを遺伝力として父祖数世間の経験に成るものとするも、その根元たる原力初めより存せざるべからず、これを物力とするときは、その力果たしてなにものなるやの疑問また起こるべし。かくのごとくにして、けだし際涯なくいずれの点に至りて疑問の全く解するを知らざるなり。これ余が疑うところにして、諸君のまた解すべからざるところなり。別して細胞中にいかなる変形変質を起こし、脳髄中のいかなる部分に印象をとどむるやの一点に至りては、遠く理学実験の外にありて、論理の力わずかにこれを推想するに過ぎず。しかして顧みて、その論理の力は果たしてだれの力なるやを考うるときは、これわが心の力なることたやすく了すべし。すでにその力の心に属するを知らば、再現は細胞の変質より生ずと論ずるものすべてこれ心の力にして、その原力の果たしていずれよりきたると怪しむもの、またみな心の力に外ならざることを知るべし。果たしてしからば、我人は一心海内に波動を起こして、これは物質の生ずるところの力なりと証し、かれは天帝の与うるところの力なりと論ずるものあれども、その実みな一心中の現象にして、心をもって心を論じ、心をもって心を証するものなり。心性の神妙不可思議なること、いよいよ明らかなりというべし。

       第五段 連想種類

 前段に掲げし六種の事情中、第六に連想の事情を挙げたれども、いまだその意を説明せざるをもって、ここにこの一段を設くるなり。およそ連想と称するものは、諸思想の互いに相連合するありて、一思想起これば他の思想伴って起こる作用をいう。たとえば左図のごとく甲乙丙丁の四種の思想ありと仮定するに、その四者互いに相連合して甲思想の起こるあれば、乙もしくは丙もしくは丁の伴って起こるの類これなり。これに二種あり、一を付近連想と称し、一を類同連想と称す。付近連想にまた二種あり。一は空間の付近、一は時間の付近なり。空間の付近とは、空間上互いに相付近したるものの連合するをいう。たとえば農家と田圃は互いに相付近するをもって、農家を思うごとに田圃を想出し、田圃を見るごとに農家を想出するがごとし。つぎに時間の付近とは、時間上互いに相付近したるものの連合するをいう。たとえば電光と雷鳴は前後相接続するをもって、電光を見て雷鳴を想し、雷鳴を聞きて電光を思うがごとし。つぎに類同連想にもまた二種の別ありて、その第一は、同種類中の互いに相同じきものまたは似たるものの連合するをいい、その第二は、同種類中の全く反対したるものの連合するをいう。たとえば水を見て酒を想出するはその第一種に属し、暑に遇うて寒を想起するはその第二種に属す。しかして余はこの第二種を背反連想と称して第一種に区別し、別に一段を設くるなり。

       第六段 連想事情

 連想の起こるにも種々の事情ありて、これを大別して意向と習慣の二種となす。意向の事情とは、意の傾きたることはよく連合し、かつ想起しやすき事情あるをいい、習慣の事情とは、動作習慣によりて反復数回経験したるときはよく連合し、かつ想起しやすきをいう。これによりてこれをみれば、思想の連合は外界の経験を待ちて生ずること明らかなり。外界にありて互いに相付近または類同したるものは必ず内界にありて連合し、内界にありて連合するものは必ず外界にありて付近または類同の関係を有するものなり。かつ外界にありて経験数回にわたるものは必ず内界の連合強くして、内界の連合強きものはまた必ず外界の経験数回に及ぶものなり。しかして今第8図について考うるに、甲の思想の起こるときに乙の思想の起こることあり、または丙の思想の起こることあり、または丁の起こることあるは、いかなる原因によるというに、これすなわち意向と習慣の二事情によることすでに明らかなり。動作習慣によりて甲乙の連合密にしてかつ強きときは、甲を見て乙を想起すべく、甲丙の連合強きときは、丙を想起すべきはもちろんなり。また意の方向に応じて、甲を見てあるいは乙を思い、あるいは丙を思うことあるべし。これらはすべてそのときの内外の事情によるものにして、今ここにいちいち事情を明示することあたわず。しかれども連想の生ずるは外界の経験によることは、更に証するを要せざるなり。しかしてまたここに怪しむべきは、脳髄中にいかなる組織ありて、よく連想の作用を呈するやの一点なり。唯物論者の説くところによるに、各細胞間にこれを連結する繊維の存するありて、諸細胞ことごとくその変動を互いに相通ずることを得るの組織を有するをもって、経験上甲乙二者の互いに相付近連合するときは、甲細胞と乙細胞の間の通路ことに開達して、甲細胞中に起こるところの変動はたちまちその動波を乙細胞に向かって通じ、甲の影像に伴って乙の影像を想起するに至るなり。かつ意向のこれに加わるありて、甲に伴って他の一部の思想を想起するは、そのときの内外の事情に応じて、ひとりその一方の部分に向かって動波を伝うるに至るなりとあるいは憶想すべきも、心性の造構および作用に至りては決して明らかに知るべからず。たとえこれを明知すべしとするも、これを知るものすなわちこれ心性にして、ただ心力の妙用を嘆ずるより外なし。

第七段 付近連想

 付近連想には前に掲げたるごとく、空間上の付近と時間上の付近と、各別に連合するものあり、混同して連合するものあり。各別に連合するの例は前に挙げたるものを見て知るべし。混同して連合するの例は雷電、風雨、雲霧等、みなともに連合して同時に想起することあるを見て知るべし。その他、諸感覚の間にまた互いに連合することあり。物の色と音と相連合し、味と香と相連合するがごとし。かくして物の名と形との間に連合し、記号とその実物との間に連合するありて、名を呼べばただちにその形を思い、文字を見てその実物を想起することを得るなり。また感覚と運動との間に連合し、運動と意力との間に連合することあり。たとえば目前にある食物を食わんと欲するときは手を出してこれを取るがごときは、意力と運動との間に連合したるものなり。あるいはまた歩行を思うてその際に生ずるところの諸感覚を想起するがごときは、感覚と運動との連想なり。口舌を動かして語の意味を知り、筆を動かして字の意味を想するは、すべてこの連想に属す。かくして言語、文字、文章の、よく人の思想を通ずるに至るなり。かくのごとく時間、空間、五感、意力、運動等の種々に混同して連合するものを、複雑の連想とす。通常、我人の連想はこの複雑の連想に属するものなり。

       第八段 類同連想

 類同連想にも時間または空間の上に起こるところの二種ありといえども、付近連想と異なるは、主としてその遠隔したるものの間に連合するによる。たとえば東京の銀座通りを見てイギリスのロンドンを想起し、面貌の似たる旅人に遇うて亡友を想出するがごとし。この銀座とロンドンとはもとより空間上付近したるにあらず、旅人と亡友とはもとより時間上付近したるにあらずといえども、ただ二者の間に互いに相似たる点あるをもって想起するに至るのみ。また五感の間に互いに連合するありて、美なる声を聞きて美なる色を想見することあり。あるいはまた感覚と運動との間に連合することもあり。およそ我人の学問知識は、この連想の力によりて得るもの多しとす。幼少のときに漢書の音読を修むるにも、その音のよく似たるものについてこれを記憶し、長じて洋学を学ぶに及んでも、その日本語とよく相似たるものについてこれを記憶するなり。たとえば「ベンガル」の「ベン」は弁慶の弁なりと記憶し、「ポンペイ」の「ペイ」は勘平の平なりと記憶するがごとし。あるいはこの類同の記憶によりて、かえって誤りを生ずることあり。余かつて某地方を旅行するの際、途中にありて前駅の旅宿を問い、国府屋に泊すべしと聞きたるのに、国府はタバコの名なるをもって、タバコの類同によりてその名を記憶せり。しかしてその駅に入るに及んで、すでに国府屋なることを忘れてタバコ屋なりと信じ、駅中その名を尋ねてついにその家を得ず、始めて類同連想によりて国府屋とタバコ屋とを誤認したることを知れり。かくのごとき誤りを生ずること往々これありといえども、この連想によりて記憶を助け学識を補うこと、また少なからざるなり。

       第九段 背反連想

 背反連想は、白を見て黒を思い、雨に逢うて晴を思い、苦を受けて楽を思い、貧にありて富を思うがごときものをいう。しかしてこれを類同連想の一部分となすは、類同中の反対したる性質の間に連合するによる。すなわち黒白はともに色の種類にして、晴雨はともに気象に属するがごとし。およそ事物は全く相反対したる種類に分かつを常とす。これを分解法という。たとえば物質を分かちて有機無機の二種とし、有機を分かちて有感無感の二種とし、有感を分かちて有智無智の二種となすがごとし。この二種の間に連合したるもの、これを背反連想とするなり。けだしかくのごとき連想の起こるは、我人の知識は相対より成るによる。白の白たるを知るは白にあらざるものあるにより、無機の無機たるを知るは有機の存するによるがごとし。かつ人の小児を教育するに、反対の例をあげて示すこと多し。すなわち善の勧むべきを教うるに、悪のいとうべきをもってするがごとし。小児もまた記憶を助くるに、反対の事実を用うることあり。故に背反連想も、また大いに人の記憶を助くるものなり。

       第一〇段 記憶構成

 以上三種の連想、相離れて作用を示すことと相合して作用を示すことあれども、我人の思想は諸連想相合して作用を示すこと最も多しとす。これを複雑中の複雑の連想とす。人にかくのごとき複雑の連想あるは、その智力の高等に進みたるゆえんを知るに足る。故に我人の事物を記憶するにも、種々の連想相合して助くるを常とす。時間、空間、感覚、運動、付近、類同等の諸連想、みな相合して一種の記憶を構成するなり。たとえば歴史上の事実を記憶するに、その前後の事実およびその同時代の他の事実について記するのみならず、類同したる他国または他の時代の事実について記することあり。人の容貌および姓名を記憶するにも、付近および類同によりて記憶するなり。かくのごとく諸連想の相合するは大いに記憶の力を助くるものにして、一種の連想について想出することあたわざるものは、他の連想によりて想出することを得るなり。たとえば歴史上の事実を想出せんとするに、その前後の事実について知ることあたわざるときは、他の国の類同したる事実について知ることを得るがごとし。また人の姓名をいかに呼ぶかを忘れたるときに、その字の形を思うて想出することあり、また他の人の名を思うて想出することあり。しかるにまた種々の連想相混じて、かえって記憶を妨げることあり。これけだし連想の間に混雑を生じて、ただちに一思想を喚起することあたわざるによる。およそこの記憶の力は、人々おのおの異にして同一なるあたわざるのみならず、一人の中においても、想出しやすき事実と想出し難き事実ありて存するを見る。我人の平常接見し、かつ利害得失の関係を有する事実は想出しやすし。たとえば他人の職業や姓名は忘るることあるも、自己の職業や姓名は決して忘るることなし。そのつぎを親戚朋友とす。他人中最も関係の少なきものは最も忘れやすし。また現今目前のことは忘れざるも、数年前のことは忘れやすし。これみな連想の事情によるものなり。

       第一一段 再現発達

 以上述ぶるごとく、再現は意向、習慣、連想等によりて次第に発達するも、高等の再現は主として連想の力による。連想いよいよ複雑にわたれば、再現またしたがって複雑に進むを見る。しかして再現に最も要するところのものは記憶の力なり。ひとたび経験して得たるところの事実は、これを記憶の力によりて心中に保存するをもって、再び想出することを得るなり。しかして記憶は記住力の初めより存するありて、外物よりきたるところの現象を脳中にとどめて失わざらしむるにより、その発達するは連想の事情による。故に余は今再現を論ずるに当たり、あわせて記憶連想のことを述ぶるなり。すなわち知るべし、再現は経験と連想によりて発達するを。感覚知覚の再現の原因たることまた了すべし。幼児の智力いまだ発達せざるに当たりては、感覚知覚上表現的の外象を識了するの力を有するも、いまだ内現的の諸想を有せず、ようやく進んで暫時の影像すなわち知覚の影像を有するも、いまだ永時の影像すなわち再現の影像を有せず、当時すでに記住力を有するも、いまだ純然たる記憶および連想の諸作用を有せざるや明らかなり。いよいよ長じて始めて記憶連想の作用を生じ、したがって再現の発達を見るなり。しかしてその発達の人々不同あるは、一は教育順応の影響によるというも、遺伝の影響によるものまた少なしとせず。故に人々生来有するところの記憶再現の力、すでに異なりと知るべし。また生来人に色の記憶の強きものと、声の記憶の強きもの等ありて、五感の記憶大いに異なるものあり。これまた遺伝によるというより外なし。つぎに順応異なれば連想また異なり、連想異なれば記憶また異ならざるをえざるをもって、再現力の不同は順応より生ずることまた明らかなり。果たしてしからば、再現力の発達もまた、この遺伝、順応の二種の規則に基づくものと知るべし。

 

     第八講 各論第五 構想論

       第一段 構想性質

 余、前講において現想の起こるゆえんを論じて影像、記憶のいかんを述べたれども、いまだ想像のなにものたるを示さず。想像は再現より起こることもとより明らかなりといえども、これを現想の影像と同一にみなすべからず。影像は過去の印象をそのまま現ずるものなれども、想像は多少その形を変じて現ずるなり。かくのごとく形を変じて一種の新影像を構成するもの、これを構想という。すなわち構成の想像を義とす。故に単に想像と称するときは現想、構想ともにその中に摂して、現想は再現の想像、構想は構成の想像というてしかるべしといえども、通常人の用うるところの想像は構成の想像を称するをもって、ここに挙ぐるところの想像も主として構成の想像をいうなり。今その起こるゆえんを考うるに、我人の前すでに経験したるものを想するときは、記憶の力によりて同一の影像を現ずべきをもって構成の想像力を要せずといえども、いまだ一回も見聞せざるものを想するときは、経験外にわたるをもって一種の新影像の構成なかるべからず。たとえば幼時の旧友を想するときは、その前時の容貌そのまま再現すべきも、古代の英雄学者等を想するときは、その以前の経験なきをもってそのまま再現することあたわず。故に他人について前すでに経験したる種々の影像、多少相混同変形して想像の影像を現出すべし。この想像の影像を派生影像と称し、これに対して再現の影像を根元影像と名付くるなり。すなわち構想は現想より生ずるゆえんを知るべし。およそ想像にありては影像の一部分のみを現じて、他の部分を見ざることあり。たとえば外物の定形を離れて色のみを想することあるがごとし。あるいはまた別に新部分を付加して現ずることあり。たとえば、人に羽翼をそなえたるものを想することあるがごとし。この脱離する作用と付加する作用と、相合して構想の作用を現ずるあり。すなわち現想の影像の一部分を脱離し他の部分を付加して、一種の新影像を構成するをいうなり。

       第二段 構想作用

 想像をもって新影像を構成する作用は、我人日夜常に現ずるところなり。人の談話を聞きてその事実を想するも、物の外面を見てその内情を察するも、みな想像力の関せざるはなし。歴史を読み古人を思うがごとき、いまだ経験せざる事実およびいまだ経歴せざる土地を想するがごときは、もとより構想によらざるはなし。文章を作り新法を発明するがごときも、またこの作用による。しかして諸部分の相合して新影像を生ずるは連想の力による。連想中、別して類同連想によりて構成せるもの最も多しとす。たとえば極楽を想見するに、その事情の最もよくこれと類同したるもの相合して想像世界を現立するがごとし。これを現立するに、自然に生ずるものと意力によりて起こるものとの二種あり。たとえば夢中に諸想の現ずるは自然に生ずるものなり。幼児の構想も意力によりて起こるものにあらず。これただ類同連想によりて連合したる部分の自然に生起するものなり。これに反して、意力を用いて想像を構成することあり。たとえば新詩文を作成するがごとき、新器械を発明するがごときは、みな思想の労力を待ちて生ずるものなり。また人の書を読みてその事実を想像するも、意力によりて現ずるもの多しとす。これを要するに、構想作用の起こるゆえんは、第一に、現想その原因となり連想その事情となりて記憶上の影像を再現するにより、第二に、その諸影像互いに相離合して一種の新想を構成するによる。あたかも諸材を断続取捨して一家を構成するがごとし。その意力によりて生ずる構想は、あらかじめその結果を想定せざるべからず。なお一家を構成するに、その図形を予定せざるを得ざるがごとし。しかして構想のよく成ると成らざるとは、その想定の明と不明とに属す。詩人の詩を作るを見て知るべし。故に高等の構想は智力総体の発達を要するなり。

       第三段 構想種類

 構想作用は諸心性作用と相混同して種々の異類を生ずるなり。今これを大別して三種となす。すなわちその第一は、事物の智識思想に加わりてその進歩を助くる構想なり、これを智力構想と名付く。第二は、行為挙動の実習発達に関係を有する構想なり、これを意力構想と名付く。第三は、審美上の構想なり、これを情感の構想または審美の構想と名付くるなり。

       第四段 智力構想

 構想の作用によりて人の智識思想は、そのすでに経験したるものより、そのいまだ経験せざるものに及ぼすことあり。これをもって知識の範囲を拡大することを得。いわゆる一を聞きて十を知るの類これなり。あるいはまた偶然に新知識を発見することあり。故に人の学問得識はひとりの記憶の力によるのみならず、想像のよく新知識を構成する作用あるによる。たとえば我人が学校にありて書を読み事を聞くごとに、いちいちその情況事実を心中に構成して、始めてその意を会得することを得。これすなわち構想の作用によるものなり。また通常、我人が互いに相対して談話応答するにも、つねにこの作用によりてその意を迎うるなり。理学上の研究もまたしかり。物理の研究にても化学の研究にても天文学の研究にても、我人の知覚上にて観察することあたわざる事実は、想像によりて推知するより外なし。元素の離合、光線の波動、天体の回転のごときは観察力の外にあるをもって、あらかじめこれを知るは想像力によらざるべからず。しかれども、これを知るもの全く想像力なるにあらず。想像力の外に虚想、別して推理の力ありてこれを知るはもとより明らかなりといえども、想像力をもってその情況を前知するを要することもまた疑いを入れず。すべて理学上の発明は、観察推理の二力と想像力とによりて起こるものなり。学問の研究は既知より未知に及ぼし、知覚の範囲内よりその外に及ぼすを常とするをもって、想像力を要するはもちろんにして、別して一種の新規則を発明するに至りては、最も精密なる構想作用を要するなり。近世学問世界に有名なるニュートン氏の重力論、ダーウィン氏の進化論等も、あらかじめ想像力をもってその発明を迎えたるは、問わずして明らかなり。すでに外界の事物を研究するに想像力の必要なるゆえんを知るときは、内界の事情を知るにまたその力を要すること、たやすく了すべし。我人の学問上の研究はひとり外界の事物に限るにあらず、内界の思想情感もまたひとしく研究を要するところにして、これを研究する学問は、余が今講ずるところの心理学これなり。しかして外界の物質は形質を有し、内界の心性は形質を有せざることは前すでに述ぶるところにして、形質あるものは知覚上の観察によりてたやすく知るべしといえども、形質なきものに至りては最も想像力の助けを要すること、またすでに明らかなり。これまた、学問研究に構想作用を要する一理由なり。その他、構想作用の必要なるゆえんは、我人の知識は目前現今の事実を知るをもって足れりとするにあらず、未来の事情を前知するもまた要するところなり。これを前知するに想像力の欠くべからざることは、前に述べたるところを見て知るべし。

       第五段 意力構想

 つぎに、人のその行為挙動を指示するに当たり、想像力を用うることあり。たとえば談話、歌舞、装飾、応接等をなすに当たり、これをしてそのいまだ経験せざる事情によく適合せしむることを得るがごときは、構想作用によるものなり。すなわち小児のその生長の際、自然に座作、進退、礼法等を知り、これを諸事情に適合するは構想作用なり。かくのごとく、意力上の挙動に構想の相加わりて作用を示すもの、これを意力構想という。しかして意力によらざる行為もまたこの中に属するなり。この構想の初級を模倣作用という。模倣作用とは他人のなすところに模倣する作用なり。すべて小児の行為は模倣より始まる。談話するにも歌舞するにも、書を学び画を習うにも、すべて人のなすところに模倣するのみにて、いまだ独立に一種の新挙動を構成するの力なし。これを構成することを得るは、種々の行為を模倣したる後にあり。すなわち、すでに模倣して得たるところの行為を種々結合して、一種の新挙動を構成するによる。故に小児の生長の際、教育順応によりて得るところのものは、他人の行為を模倣するに始まり、新挙動を発明するに終わる。しかして他人の行為を模倣して同一の挙動を現ずることを得るは記憶力により、その挙動を結合して新挙動を発明することを得るは想像の力による。故に一は現想に属し、一は構想に属する作用なることすでに明らかにして、構想の現想より生ずるゆえんまた知るべし。

       第六段 情感構想

 情感構想は智力構想および意力構想とその性質を異にして、知識を得るをもって目的とするにあらず、行為を応合するをもってその目的とするにあらず、その目的とするところただ快楽を得るにあり。故にその構想、あるいは道理に合せず、あるいは事実に適せざること多し。しかれども通俗の唱うるところの想像はこの構想をいうなり。すなわち詩文中に用うるところの構想これなり。故にあるいはこれを審美の想像というは、詩歌等の美術に関する構想なるによる。かくのごとく快楽をもって目的とし、かつ情感に属する構想なるをもって、ここにこれを情感構想と称するなり。およそ情感の発するや、大抵想像の伴って起こるあり。たとえば恐怖の情感発するときに、恐怖の想像の起こるがごとし。また、その想像によりて快楽を増長することあり。たとえば色欲、食欲、情欲等の快楽は、想像によりてますます増長するがごとし。あるいはまた、想像をもって人の希望に満足を与うることあり。たとえば父母はその子の生長を予想して満足し、少年輩は将来の成業を卜定して満足し、貧賎なる者は他日の富貴を予期して満足し、老頽して今世に望みなきものは来世の快楽を想像して満足するがごとし。かくのごとく、想像はよく人に満足を与え快楽を生ぜしむるをもって、詩人はその想像を字句の間に表示して自らその快楽を玩味し、これを読者をしてまたその快楽を感受せしむ。しかしてその期するところただ快楽にあるをもって、あるいは大いに事実に齟齬することあり。唐人の詩に「白髪三千丈、愁いによりてかくのごとく長し。」(白髪三千丈縁愁似個長)という句あり。たとえ愁いによりて白髪の長ずることあるも、いずくんぞよく三千丈の長に至らんや。その他、詩中に見るところ、「涙千行、恨み断腸」(涙千行恨断腸)などという語も事実に適合せざること明らかなり。しかれども、もしこれに反して「白髪二、三尺、涙一滴」(白髪二三尺涙一滴)などと称しても、人の情に満足を与うることあたわず。したがってその快楽を迎うることあたわざるは必然なり。稗史、小説等またみなしかり。馬琴の作これを読みて快楽を感ずるは、そのよく人の想像を描きあらわしたるによる。もしこれを西洋の究理書や算術書のごとく綴りたらんには、更に無味の書となるべし。その他、演戯等も事実に適するよりは、むしろ想像を満たすをよしとす。なんとなれば、これみな快楽をもって目的とすればなり。けだし人の想像は従来すでに経験したる範囲の外にはしるの性あるをもって、あるいは事実に適合せざることありといえども、経験の範囲外に想像世界を開立し、人にその思うところの満足を与うるは構想によらざるべからず。構想は経験範囲内の諸元素を取捨分合して、我人の思うところに従い一種の新想を構成することを得るなり。故に構想は、情感の快楽を助くるに最も必要なるものと知るべし。

       第七段 想像関係

 以上述ぶるところによるに、想像は知識思想の進歩に必要なることと、その進歩を抗排することあり。他語をもってこれをいえば、智力を助くること、智力を妨ぐることあり。もし意力を用いてこれをして智力の規則に従わしむるときはその進歩を助け、もし情感の発動に任じて外よりこれを規制せざるときはその進歩を妨ぐるなり。詩人小説家のごときは、この第二種の想像を導くものなり。故に詩歌の才に長じたるものおよびその教育を受けたるものは、多少智力の発達を欠き、論理の力はなはだ弱きを見る。これに反して、第一種の想像力に長じたるものは論理の力ことに発達して、理学上の新理を発見するにまた大いに力あり。しかるに世人は、この第二種の想像を知りて第一種の想像を知らざるをもって、想像と智力とは全く相反対したるものにして、また互いに相抗排するの性あり。想像力に長じたる者は思想力に乏しく、思想力に長じたる者は想像力に乏しというといえども、その実しからず。古代野蛮人の想像は智力のいまだ発達せざるをもって、全く空想すなわち情感の想像に属すといえども、今日にありては人すでに発達したる智力を有するをもって、想像もまたみだりに空想に走ることなくして、よく思想の前路を導くに至る。しかして情感の想像は智力の発達に従ってややその勢いを減じて、古代のごときはなはだしき空想を現ずることなしといえども、またあえて智力に伴って発達することを得ざるにあらず。今日の人といえどももとより情感の想像を有して、経験以外に快楽を営むことを得るなり。しかしてその想像は多少古代の空想と異なるところありて、やや上等に属するものなり。これ全く智力発達の影響による。これを要するに、古代にありては情感の想像ひとり勢力を有するも、今日にありては情感の想像の外に智力に関する想像ありて、二者全くその性質を異にするも、また互いに相助けて高等に進むことを得るなり。






       第八段 構想発達

 構想はさきにすでに述ぶるごとく、記憶上の影像、種々結合混同して一種の新想を構成するによるをもって、現想より派生せるものなること明らかなり。他語をもってこれをいえば、経験よりきたるものにして、生来人のこれを有するにあらず。もしこれを証せんと欲せば、構想を分解してその部分を見るべし。たとえば、我人は天堂地獄のいかなるものなるやは知らずといえども、心にその情況を想することを得。その思想中に浮かびたる情況は、我人の前すでに見聞したる情況のそのまま再現するか、しからざれば構想より成るをもって、その諸部分を分解するときは、みなわが経験したる種々の情況の相合して成りたること、たやすく知るべし。釈迦や孔子を想するも、ロンドンやパリを想するも、またみなしかり。一として現想の影像より成らざるはなし。夢を見て、またそのしかるゆえんを知るべし。夢は現想より成るものと構想より成るものあり。その構想より成るものを分解して諸部分を考うるに、これみなすでに経験したるものの再現に外ならざることを了すべし。かくのごとく構想は経験より生ずるをもって、経験に乏しきものは構想に乏しく、経験に富みたるものは構想に富まざるべからず。小児の生長についてこれを考うるに、その初期にありてはいまだ構想の作用を有せず、わずかにこれを有するに至るも、現想のやや複雑したるものに過ぎず。小児に夢の少なくして、かつそのいたって単純なるを見ても、そのゆえんを知るべし。いよいよ生長してようやく経験に富むに至りて始めて複雑なる現想を有し、したがって複雑なる構想を有するを見る。しかしてその発達したる構想は、智力の発達するに及びて一時ややその力を減ずることあるも、また智力に伴って発達することあるは、前段に述ぶるところを見て知るべし。しかしてまた経験の多少によりて構想を生ずるに不同ある外に、これを生ずるの力、人の生来同じからざるあり。これ遺伝のしからしむるところというより外なし。

 以上、構想の性質、発達を論じてここに至れば、また心性の奇々妙々、神変不可思議なることを嘆称せざるを得ざるなり。我人の記憶上にとどむるところの影像、種々結合して想像世界を開立し、わがいまだ見聞せざるところのものをその中に現じ、わがいまだ経験せざるところのものをその中にあらわし、死後の幽冥世界も未来の黄金世界もみなその中に構成し、地獄も極楽も、神も仏も、鬼も蛇もみなその中に対接し、あるいは喜びあるいは怒り、あるいは笑いあるいは悲しむも、またみなその中に発動し、思慮談論、坐作進退も、またみなその中に現見し実に実在世界のごとく感ずるは、あるいは記憶連想の事情、知覚経験の原因によりて起こるというも、これを帰するに、わが心力のしからしむるところというより外なし。余、昨暮以来難治症にかかり、臥床にありて戸外をうかがわざること、ここにすでに半年を過ぐ。その間、世路に奔走して社会の風波に接するの楽しみを欠くといえども、日夜つねに心内に想像世界を構成して、無上の楽しみをその間に営むことを得たり。そもそも余のごときは、生来赤貧多病にして、到底権勢の道に当たりて栄利を争うことあたわず。半生空しく寒窓に座して日月を消すといえども、その心常に安んずるところありて、ひとり無上の快楽を占領し、幸福の多寡に至りては一歩も富貴栄達の人に譲らざることを得るは、けだしこの想像世界の心内に現ずるによる。朝に破窓の風に吟ずるあり、夕に頽壁の月を漏らすあるは、みなわが想像の世界を構成するの良縁となり、風朝月夕ことに一層の快楽を覚え、病苦を忘れて半年の日月を消したるは、果たしてだれの余恩なるや。これ全く心性の奇々妙々、神変不可思議なるによるや明らかなり。願わくば、一生の間よくこの心を守り、この心を全うして、もってこの心に報ぜんことを。これ、余がこの心に対して期するところなり。我人仰ぎて天帝を思うも、天帝遠きにありてそのいずれに存するを知るべからず。伏してわが心を思えば心常に咫尺を離れず、この心に向かってその義務を尽くすははなはだ容易にして、かつその現に存するや疑うべからざるなり。余、心理学を研究して心の神変不可思議なるを知り、これに対して尽くすべき義務また決して少々にあらざるを知る。諸君もまた心理学を研究して、その日夜営むところの快楽は心より生ずるゆえんを知らば、この心を護するの義務、自身の上に属するゆえんを知るべし。請う、余と諸君とともにこの心を全うして、この心とともに一生を終えんことを。これ、全く心理学を研究して得るところの結果なり。

 

     第九講 各論第六 概念論

       第一段 思想性質

 前二講に述べたるものは一個一個の物体を想見する智力作用にして、これを合して実想と名付くるなり。すなわち記憶上の影像を再現して亡友を想見し、諸影像を結合して一種の新影像を構成するがごときは、みなこれを実想に属するなり。これに反して虚想と名付くるものあり。虚想とは、一個一個の事物を離れて事物全体にわたる思想をいう。通常我人の用うるところの思想の語はこの虚想をいうなり。たとえば山川についての思想というときは、利根川でもなく木曾川でもなく、富士山でもなく白山でもなく、山川一般にわたる虚想をいうがごとし。すべて人の諸想は、これを帰するに再現より成るものにして、実想も再現なり、虚想も再現なり。他語をもってこれをいえば、虚実両想ともにひとたび外界に現見したるものの内界に再現するものに外ならずといえども、実想の再現と虚想の再現とは大いに異なるところあり。実想の再現は一個一個の物体の再現にして、虚想の再現は一種または一類の事物共有の性質の再現なり。この理を推して、虚想と実想の同一源より派生し、虚想は実想より発達せるゆえんを知るべし。なお、そのつまびらかなるは後に至りて述ぶべし。

 およそ我人の思惟するはこの思想の作用にして、知覚によりて認識したるものおよび記憶によりて保持したるものをよく合類抽象して、事物の特異質の中に普通性を発見する作用、これを思惟するという。けだしその作用は知覚および感覚作用のごとく、契合、弁別の二力によりて、事物の相類同する点と差異する点を発見するより成る。しかして思惟の知覚および感覚に異なるは、直接に外物の性質を契合、弁別するにあらずして、記憶上に存するところの諸想を契合、弁別するによる。その他この両作用の異なるは、知覚および感覚作用は主として弁別力によりて起こり、思惟作用は主として契合力によりて起こるの不同あるによる。これ他なし、思惟作用は差異の事物中に類同したる点を発見するにあればなり。これをもって、思惟と理解と同種類の作用なることまた知るべし。たとえばここに一物あり。その書物なることを理解するには、その物の書物と類同したる点を有するを発見せざるべからず。これいわゆる契合力によるものなり。

       第二段 比較作用

 比較作用とは、二個以上の物体を意力の作用によりて互いに相比較照合して、その間に存するところの類同および差異の点を発見するをいう。故に、その作用は思惟作用を施すに欠くべからざるものなり。今、我人が一物を思惟せんと欲するときは、必ずこれを他の物と比較するを常とす。その比較を取ることいよいよ密なれば、差異と類同の両点を発見することいよいよ明らかなることを得べし。しかしてこの比較を取るに、知覚上の実物によるものと、記憶上の影像によるものとの別あり。知覚上の実物によるとは、目前に現れたる実物と実物との比較をいい、記憶上の影像によるとは、再現の諸想の間に比較するをいう。その他、実物と影像との間に比較を取ることあり。これを要するに、比較作用は思惟作用の起源にして、思想の発達に欠くべからざるものと知るべし。

       第三段 分合作用

 思惟作用は、あるいは総合、分解両作用によるものとなすことあり。この総合、分解両作用をここに分合作用と称するなり。分解作用とは、諸部分混合して成りたるものをその各部分に分解する心性作用にして、総合作用とは、その反対の作用なり。あたかも化学上にて一種の化合物をその元素に分析し、またその元素を結合して一種の化合物を形成するがごとし。今、諸君が事物の間に類同したる点を発見せんと欲するときは、必ずこの分解作用によらざるべからず。なんとなれば、我人の知覚したるものおよびその影像は、感覚上の諸性質の混合物たること明らかなり。すなわち視覚聴覚等の諸覚相合して一種の物体を構成するをもって、もしその一物と他物との間に類同したる点を発見せんと欲せば、その混合したる性質を分解せざるべからず。故に、分解作用は思惟作用に欠くべからざるものなり。しかれども思惟作用はひとり分解作用によるにあらず、また総合作用による。今、諸君が地球の一惑星たることを思惟せんとするときに、その体の球円なることとおよび回転すること等の諸思想を総合して、一種の惑星の思想を浮かぶるがごとし。あるいはまた雪の日光に逢うて溶解するを見、また凍雨の雪となるを見て、雪は水より成り、熱に遇うて溶解するの事情を総合して、雪の思想を起こすがごとし。その他、思惟作用に要するものは言語なり。言語の思想の発達を助くることは更に論ずるを要せず。もし言語なくんば、人々の経験を結合し、思想を交換することあたわず。そもそも言語は事物の記号にして、我人が事物を記憶するにもこれを思惟するにも、つねに言語の媒介による。その必要、推して知るべし。

       第四段 概念義解

 以上述ぶるところの思惟作用について、三段の階級を立つるなり。その第一は、普通の思想すなわち普通一般にわたるところの思想にして、これを概念と称す。概念は思想の基礎となるものなり。その第二は、二個の概念結合して一種の命題を構成するもの、これを断定という。第三は、諸断定相合し前案より次第に論下して断案を結ぶものをいう、これを推理と称す。この概念、断定、推理、これを虚想の三種とするなり。例を挙げて示すこと左のごとし。

  概念 人、日本人、東京人、

     黄色人種等の類

  断定 東京人は日本人なり、日本人は黄色人種なり、

     東京人は黄色人種なり等の類

 この断定を結合して一種の推理を構成すること左のごとし。

  推理 日本人は黄色人種なり

     東京人は日本人なり

     故に東京人は黄色人種なり

 以上は心理上の名目にして、論理上の名目にあらず。論理上にありては概念、断定、推理に代うるに、名辞、命題、推測式の名目をもってす。これ心理学は思想の作用の上にその名を与え、論理学は言語文章の上にその名を与うるの別あるによる。なおそのつまびらかなるは、平沼氏の講述にかかる論理学を参考して知るべし。

 この三種の思想はひとしくこれ思惟作用に出ずるといえども、性質上単純と複雑との異同あり。概念は思想の最も単純なるものにして、推理はその最も複雑なるものなり。今ここにその最も単純なる概念のことを述ぶるに当たり、第一にその義解を定むるを必要なりとす。概念は、人または動物のごとき普通名辞に応合する思想の、心内に想起するものをいう。たとえば人を思惟するときは、甲某でもなく乙某でもなく、一種固有の容貌顔色を有せざる、普通一般の人を想起するがごとし。また動物を思惟するも、動物一般の性質を想起するのみにて、一定の形質外貌を有したる動物を想見するにあらず。故にかくのごとき一般にわたる思想を、ここに概念と称するなり。

       第五段 概念形成

 小児ありて、平常一頭の犬を熟知して更に他の犬を見るときは、その犬の前に熟知せるものと類同するところあるを発見して、ひとしくこれ犬なることを知る。つぎにこの二者の互いに相類同したる点を結合して、犬一般に有するところの性質を知る。いわゆる犬の概念なるものを構成するなり。かくのごときは格別意力を用いずして類同点を発見することを得べしといえども、もし一歩進んでやや複雑したるものの間に類同したる点を発見せんとするに当たりては、多少意力の作用を要するなり。たとえば禽獣の概念、果実の概念のごときは、その種類いたって多くして、その形質また大いに異なるものありて、たやすく類同点を発見することあたわず。故にもしこれを発見せんとするときは比較作用、抽象作用、概括作用を待たざるべからず。まず比較作用とは、前にすでに述ぶるごとく、同種類のものおよびこれと関係を有するものをことごとく心内に想見していちいちこれを比較し、その間に存するところの類同点を認識する作用なり。つぎに抽象作用とは、種々互いに相異なるところの諸点を放去して、互いに相類同したる点のみを抽出する作用なり。第三、概括作用とは、同一の性質を有したるものをことごとく総括して、一部または一種類の思想を構成する作用なり。この三種の作用相合して、始めて複雑なる概念を形成することを得るなり。

 

       第六段 名目作用

 名目作用とは、事物に名目または名称を与うる作用にして、最も概念作用と密接なる関係を有するをもって、ここにこの一段を設くるなり。たとえば、事物の間に類同点を発見してその同一種に属するを知るときは、必ずこれに名目を付して他の種類に分かつを常とす。すなわち犬と猫との間に類同点を見るときは、ともにこれを動物と名付くるがごとし。これをもって、単に事物の名目を聞きて、その物のいかなる類同点を有するかもまた判知することを得べし。けだし名目には一個一個各別の事物に与うるものと、一種類総体に与うるものとの二種ありて、何誰、何右衛門、何之助と称する名目は一個人に与うる固有名詞なれども、東京人、日本人、あるいは単に人と称するときは一種類に与うる普通名詞なり。この普通名詞は類同点を有するものに与うる名目にして、この名目作用によりて、同一の名目を有するものは、その間に類同点を有することはもとより推知すべきなり。しかるにこの普通名詞をあげて人に告ぐるときは、その人の心中にその種類中の一個各別の事物を想出すべきか、またはその種類一般にわたるところの性質を想出するかの問題あり。すなわち動物の名称を聞きたるときは、犬や猫のごときもの心中に現出するか、または動物一般にわたる一種の思想ありて起こるかの問題なり。動物の種類はその数はなはだ多きをもって、犬や猫の類ことごとく同時に想見すべからざるは疑いをいれず。かつ、その聞くところの名目は普通一般にわたるところの名目なるをもって、ひとり犬のみを想見すべき理なく、またひとり猫のみを想見すべき理なし。故に普通名詞を聞きて我人の心内に起こる思想は、その同種類中の互いに相類同したる性質の、抽象総合より成るものなるべし。これ、いわゆる概念なり。更に進んでこれを考うるときは、果たしてかくのごとき概念の、人の心内に存するかという一大疑問のまた起こるを見る。これにおいて実体論、名目論、概念論の三説相分かる。実体論者は、概念に対するところの実体、すなわち各個固有の性質を離れたる、普通一般にわたる実体真にありといい、名目論者は、各個固有の物体あるのみにて、普通一般にわたる実体真に存するにあらずといい、概念論者は、その実体真に存するにあらざるも、我人の心は各個の事物の差異点を去りて類同点を取り、普通一般にわたる虚想を構成するの力あるをもって、概念の存するを見るという。これに反対して名目論者は、各個の事物の外に概念あるにあらず、我人の概念として想見するものはすべて各個の物体より外なしと論じて、三説中いまだいずれの説その当を得たるや知るべからずといえども、心理学上にありては、概念論者のいうところ、もとより一理あるものとして許さざるを得ざるがごとし。

       第七段 抽象作用

 さきにすでに示すごとく、概念を形成するには抽象力によらざるべからず。しかれどももし目前に見るところのもの、たやすくそのなんたるを知り得べきときは、別に抽象作用を要せざることあり。たとえば犬を見て犬の犬たるを知り犬の概念を形成するがごときは、ただその見るところの犬と他の犬とを比較するをもって足れりとし、格別抽象力を用いずして、その間に存する類同点を発見することを得るなり。これ他なし、犬と犬とは類同したるところ多くして、類同せざるところ少なきによる。これに反して、果実の果実たるを知り果実の概念を形成するには、抽象力によらざるべからず。これ、その差異点多くして類同点少なければなり。これを要するに、類同点多くして差異点少なきものは抽象作用を要すること少なく、類同点少なくして差異点多きものは抽象作用を要すること多きを見る。故に、もし思惟せんと欲するところのものいよいよ複雑にわたれば、ますます抽象力を要すること明らかなり。すでに抽象力によりて類同点を発見し共有の性質を知るときは、また概括力によりてその種類を定むることを得べし。しかれどもここに注意を要する点は、抽象作用と概括作用とは始めより判然たる区域ありて、その別を立つるにあらざることこれなり。ただここにその別を立つるは、その作用に前後の不同あるによるのみ。すなわち抽象作用ありてのち概括作用あり、概括作用ありてのち抽象作用あるにあらざるによる。しかしてその実、概括作用は抽象作用の一種とみなして不可なきなり。これを前述するところの分合作用に考うるに、抽象作用は分解作用によること、また問わずして知るべし。およそ事物共有の性質を知るには、まずその性質を分解せざるべからず。すでにこれを分解してその諸部分の間に類同したるものを発見し、もって共有の性質を抽出することを得るなり。故に抽象作用に分解作用を要するはもちろん、抽象いよいよ細密にわたれば、ますます細密の分解を要することを知るべし。

       第八段 分類作用

 この分解、抽象の作用によりて、事物の分類をなすことを得。これをここに分類作用という。その作用すなわち大なる種類を取りて、次第にこれを分解して小なる種類に及ぼす法なり。これに反して、小なる種類より次第に総括して大なる種類に合するを合類作用という。一は分解法に属し、一は総合法に属するなり。かくのごとくその方法は異なるも、その実、同一の種類について上より下に及ぼすと、下より上に及ぼすとの別あるのみ。今、物質を取りてこれを分類すること左のごとし。

 この図中、物質を主題として次第にこれを分解し、ニュートン、ダーウィン、スペンサー、ベイン等の諸氏に至るは、いわゆる分類作用なり。もしこれに反してニュートン、ダーウィン、スペンサー、ベイン等の諸氏を主題として、次第にこれを総括して物質の最上類に達するは、いわゆる合類作用なり。この二種の作用を施すには、必ず抽象力によりて類同点を発見し、かつこれを概括せざるべからず。

物質 無生物(無機)

   有生物(有機) 無感(植物)

           有感(動物) 無智(禽獣)

                  有智(人類) 無学者

                         学 者 ニュートン

                             ダーウィン

                             スペンサー

                             ベイン

       第九段 概念性質

 概念は知覚または現想に異なりて、通常矇昧不明なるものなり。けだしその不明なる事情は、第一に知覚および現想の不明よりきたるもの、第二に抽象作用の全からざるより生ずるもの、第三に言語の事情、第四に時間の経過および記憶の消失等なり。まず第一の事情を述ぶるに、概念は知覚および現想の種々結合変形して生ずるところなるをもって、知覚および現想の不明なるときは概念また不明ならざるを得ず。つぎに第二の事情を解するに、知覚および現想の変じて概念を生ずるには、抽象作用によらざるべからず。故に抽象作用十全ならざるときは、概念また従って不完ならざるをえず。つぎに第三の言語の事情とは、抽象作用によりて形成せる概念は、言語名目をもってその意を表称するをもって、もしその言語の意義明らかならずかつ一定せざるときは、概念また従って明らかなるを得ず。つぎに第四の時間の経過および記憶の消失とは、時間の経過するに従って概念を結合する連想の力次第に減じて、これを構成せる諸影像次第に分散し、かつ記憶のこれに従って次第に消滅して影像の消失をきたすをもって、概念もまた必ず不明ならざるべからず。これらの諸事情によりて、概念はこれを知覚および現想に比すれば、不明かつ不完ならざるを得ず。かつ概念は知覚および現想より得るところのものを、次第に抽象概括して実より虚に入るをもって、知覚および実想のごとく明瞭判然ならざるはもちろんの理なり。

       第一〇段 概念関係

 智力発達の順序によるに、知覚より現想を生じ、現想より構想を生じ、構想より概念を生ずべき理にして、知覚および現想は概念の本源となること、上来述ぶるところをもって大略知るべしといえども、構想と概念の関係いまだ明らかならざれば、ここにその関係について一言するを必要なりとす。さきに第三段に、思惟作用には分解、総合の両作用あることを述べたるがごとく、概念にもまたこの二種の作用ありて、第七段に挙げたる抽象作用はいわゆるこの分解作用によるものにして、ただ影像の諸部分を分解するにとどまるをもって、格別構想作用を要せざるがごとしといえども、概念中の総合作用は必ず構想作用を待たざるべからず。今その例を挙ぐるに、歴史上に存するところの事実について概念を形成するがごときは、構想の力によること論を待たず。その他、抽象作用によりて得たるところの結果を構成して複雑の概念を形成するがごときは、すべて構想作用によらざるべからず。もし概念にこの作用を用いざるときは、その範囲いたって狭小ならざるべからず。もしこれを用うれば、ただにその範囲を増大にするのみならず、高尚および複雑の概念を構成することを得べし。そもそも虚想は概念にあれ断定にあれ推理にあれ、表現および実想の諸影像を分合取捨して一種の虚想を構成するものなるをもって、一として構想作用に関せざるはなし。かつ構想作用の起こるは、前講にも略言するがごとく影像のある部分を捨て他の部分を取り、その取りたる部分をまた相合して新影像を構成するによるをもって、その作用中におのずから分解、総合の両作用あり。かつ抽象作用のごときも、その実、構想作用に外ならざること、またすでに知るべし。この点よりこれをみれば、概念は全く構想作用によるものというて可なり。その他、概念は実物の外にわたる虚想にして、これを表するに言語名目をもってすといえども、明らかにその意を想見するには、想像上虚想の影像を構成せざるべからず。これまた、概念に構想を要するゆえんなり。これをもって、余は智力発達の順序、構想のつぎに概念を論ずるなり。

       第一一段 事物思想

 事物の思想は再現の影像より生ずること疑いをいれずといえども、また構想力によること明らかなり。たとえば都府、国民、年代、距離の思想のごときは、みなわが経験内の種々の影像の構成より生ずるものとす。かくして単純思想も進んで複雑の思想を生じ、数理物理等の思想もまた従って生ずるなり。すでに外界の事物の思想を生ずるに至れば、また内界の心性の思想を生ずべし。すなわち、抽象作用によりて外界の諸物質の類同点を発見しこれを概括するに至れば、これに反対するところのものの性質すなわち内界の性質を知り、自身の自身たるゆえんの思想を生ずべし。けだし自身は外界に立ちてつねに能作用を営み、その周囲に現ずる事物はことごとく所作用を有し、二者その作用を異にするをもって、外界の事物の思想を生ずれば、心性作用を有する自身の思想もまた従って生ずべき理なり。しかして心性作用を有するものはひとり自身のみにあらず、人ことごとくこれを有するをもって、他人の思想もまたおのずから生ずべし。かくして外物と他人と自身との思想を生じ、これに従って内外彼我種々の思想を生ずるなり。

       第一二段 概念発達

 さきに重ねて述ぶるごとく、知覚発達して現想を生じ、現想発達して構想を生じ、構想発達して概念を生ず。他語をもってこれをいえば、表現発達して内現を生じ、実想発達して虚想を生ずるなり。これを智力発達の順序とす。その順序、小児の生長を見て知るべきことは、前すでにしばしば論ずるところなり。その生長の際、実想発達して虚想を生ずるに至るも、その初めは類同点の著しきものを抽象するの力あるも、その微細の点を概括するの力なし。抽象力ようやく進んで、始めて微細の点を合類することを得べし。たとえば白色の犬と黒色の犬のともにこれ犬なるを知るはいたってやすしといえども、犬と鼠とともにこれ獣類なるを知るははなはだ難し。そのやすきものは比較抽象作用によりてたやすくその概念を形成すべきも、その難きものに至りては概念を形成するまた難し。故に概念発達の順序は小範囲に始まり、次第に進んで大範囲に及ぼすものなり。他語をもってこれをいえば、一、二の種類を概括するに始まりて、あまたの種類を概括するに終わる。たとえば智力のいまだ発達せざるに当たりては、獣類の概念も二、三の犬や猫にとどまるも、次第に進んで鼠も猿も馬も象もみな獣類の中に加えて、大範囲の概念を生ずるに至るべし。しかしてこの抽象概念の力は人々同一なるあたわず。あるいは教育の有無によりて同じからざることあるも、また、生まれながら異なることあるは疑いをいれず。その生まれながら異なるは、遺伝の影響というより外なし。


 

     第一〇講 各論第七 断定論

       第一段 複雑思想

 前講論ずるところの思惟作用は、概念作用の外に断定および推理作用を兼称するなり。しかして断定および推理は、これを概念に比するに一層複雑の作用に属す。故に今ここに、概念をもって単純の思想とし、断定および推理をもって複雑の思想とするなり。断定はすなわちその複雑思想の初級に属すべし。しかして断定の概念より成るゆえんは、前に挙げたる例を見て知るべし。たとえば東京人は日本人なり、または人は死すべきものなり、山は動かざるものなり等は断定なり。人とか山とか日本人とかは概念なり。故に概念相合して断定を形成するなり。もし概念のみありて断定なきときは、語をなすあたわず。すなわちなにほど概念を集むるも、これを結合する作用なきときは意義を貫通することあたわず。たとえばここに木、松、花、雪、銅、鉄、太陽、金属、恒星、美なるもの、白きもの等の概念あるも、そのままにては決して語をなさず。かつまた原因結果、部分全体の関係を知らずして、みだりにこれを結合するもまた語をなさず。たとえば花は雪なり、美なるものは銅鉄なり、松木は白きものなり、太陽および恒星は金属なり等と称しても、更に意義の通ぜざるものなるや明らかなり。もしその意義を通ぜんと欲せば、原因結果、部分全体の関係、規則に従って結合せざるべからず。すなわち松は木なり、花は美なるものなり、雪は白きものなり、銅鉄は金属なり、太陽は恒星なりといわざるべからず。かくのごとく結合して語意を定立するもの、これを断定の作用というなり。なお後に至りてその理を知るべし。

       第二段 断定義解

 通常解するところによるに、一事物についてその断定を下し、すでに経験したるものをもっていまだ経験せざるものに応用する作用を断定と称し、人の性は善とか悪とか断定し、肺病は伝染病とか伝染病にあらざるとか断定し、長崎は良港とか良港にあらざるとか断定するの類をいう。しかれども今、心理学上に用うるところの断定は、その範囲一層濶大にして、すべて二個の概念を結合して一種の命題をなすもの、ことごとくこれを断定という。たとえば花の美なるを見てこの花は美なりというも、天に雲あるを見て後に雨あるべしというも、みな断定なり。

       第三段 命題組織

 前講第四段に述ぶるごとく、心理学は心性作用の上に名目を立つるをもって断定といい、論理学は言語文章の上に名目を立つるをもって命題というの別あるも、その実一なり。けだし断定作用は言語文章をかるるにあらざれば、その意義を外に示し、その思想を人に通ずることあたわざるをもって、命題の組織を要するなり。あたかも概念に名辞を要するがごとし。命題とは、前に挙げたる花は美なるものなり、太陽は恒星なりと称するがごとき、一節の文章を成したるものをいう。今その組織を考うるに、一節の命題は必ず前後両部分より成る。その前部分は断定せられんとする主題の位置なるをもって、その位置にある名辞を主辞と称し、後部分は断定せられたる言語の位置なるをもって、その部分の名辞を賓辞と称するなり。しかして賓辞と名辞を結合する言語を連辞と称す。たとえば太陽は恒星なりという一命題において、太陽は主辞なり、恒星は賓辞なり。しかして太陽と恒星の外に「なり」という一語は連辞なり。なお、そのつまびらかなるは論理学について見るべし。

       第四段 断定種類

 論理学中には単称命題と全称命題との二種あり。これを心理学にありては単一断定と普遍断定の二種とするなり。単一断定とは、命題中の主辞の一物または一個を指示する名辞より成るものをいう。たとえばこの花は美なり、甲某は死せりと称するの類これなり。これに反して普遍断定とは、命題中の主辞の種類、またはあまた相合したるものを指示する名辞より成るものをいう。たとえば人はみな死すべし、山は動かざるものなりと称するの類これなり。智力発達の順序についてこれを考うるに、単一断定を初級とし、普遍断定を上級とするなり。その理、小児の断定は単一断定に属するもの多く、大人の断定は普遍断定に属するもの多きを見て知るべし。今更に小児の発達について概念作用の順序を考うるに、初めはこの犬かの犬、甲某乙某と称して、一個の犬、一個の人を指示することを得るも、黒白の犬を合してすべてこれ犬なるの思想を有せず、大小の人を合してことごとくこれ人なるの概念を有せざるなり。智力ようやく発達して始めて犬および人の概念を有するに至るも、いまだ動物一般の概念を有せず、いよいよ進んで始めて人獣草木一般の概念を有するに至る。断定の発達もまたこの順序による。故にその発達は、単一断定に始まり普遍断定に入るなり。これを要するに、思想の発達は一個一物の思想より次第に進んで、一種類またはあまた相合したるものの思想を生ずるに至るなり。つぎに、論理学には肯定命題と否定命題の二種あるがごとく、心理学にありては正面断定と背面断定の二種あり。たとえば太陽は恒星なり、日本人は黄色人種なりというがごとく、正面より断定するを正面断定といい、地球は恒星にあらず、イギリス人は黄色人種にあらずというがごとく、背面より断定するを背面断定という。けだし智力発達の順序、正面断定を先とし、背面断定を後とす。すなわち、まず正面断定を下すことを得て後、背面断定を施すことを得るなり。なんとなれば、地球は恒星にあらずという前に、地球は惑星なることを知らざるべからず、イギリス人は黄色人種にあらずという前に、イギリス人は白色人種なることを知らざるべからざればなり。しかれどもすでに発達したる後に至れば、背面断定より正面断定に及ぼすことあり。たとえば火星の恒星にあらざることを知りて、その惑星なることを断定するがごとし。

       第五段 断定作用

 断定作用は前に述べたるがごとく、二個の概念を結合して一種の命題を形成するもの、いわゆる総合作用によるものなり。単一断定も普遍断定も、正面断定も背面断定も、みな総合作用による。故に断定作用を解して、概念を結合する総合作用というべし。しかるに論理学者は、断定中に総合断定と分解断定との二種を分かつ。たとえば雪は白しというがごとき命題は分解断定に属す。なんとなれば、その賓辞の「白し」という語は雪の性質の一にして、すでに主辞の語中に含有せる性質を分解して賓辞となしたるによる。これに反して、雪ははるるというがごとき命題は総合断定に属す。なんとなれば、その賓辞は主辞中に含有せざる語を表出し、一種の新事実を主辞に総合して命題を形成するによる。これを要するに、命題の賓辞は、主辞中に含まざる性質を表示するときはこれを総合断定に属し、すでに主辞中に含みたる性質を表示するときはこれを分解断定に属するなり。かくのごとく命題中に二種類の別あるも、主辞と賓辞を結合して一種の命題を形成するの作用は、総合作用によるものといわざるべからず。

       第六段 断定関係

 まず断定と概念との関係を述ぶるに、この二者の異同は、第一に、前すでに示したるがごとく、その形の異なるを見て知るべし。第二に、一物として知ると、二物として知るとの異同あり。すなわち概念は種々の性質を結合して、一物を一物として概括したる思想なり。たとえば果実は、ある色とある香りとある味とある形質等、その種類中の類同したる諸性質相合して一物の概念を生ずるがごとし。これに反して断定は主賓両辞より成り、連辞をもってこれを結合するも、二物を概括して一物として断定するにあらず。たとえば犬は動物なりというも、犬と動物を同一物として表示するにあらざるなり。たとえ、あるいは雪は白しというがごとき分解断定において、「白し」という語は雪の概念中に含有するものなるも、断定上の組織についてこれを見れば、雪と白きものとは同物として認識するにあらず。かくのごとく断定と概念とは異なるところあるも、また互いに相密接するところあり。断定を形成するに概念を要することは、前述ぶるところをもってすでに明らかなり。しかして概念を形成するに断定を要することも、また多言を要せずして知るべし。およそ概念を形成するには、この性質はかの性質に類同することを断定せざるべからず。かつこれにはこれの性質あり、かれにはかれの性質あることも断定せざるべからず。たとえば、雪は白き性質を有するの概念を形成するには雪は白しの断定を要し、人の死すべき性質を有するを知るには人は死すべしの断定を要するがごとし。故に断定と概念は、互いに相要するところあるものと知るべし。つぎに断定と推理との関係を考うるに、第一に、推理を形成するに断定を要することは、前講すでに略述したるをもって更に言を費やすを要せず。第二に、断定を形成するに推理を要することは、またたやすく例をあげて証示することを得べし。たとえば犬は動物なりという一個の断定においてこれをみるに、別に推理を要せざるもののごとしといえども、その実、推理作用によりてこの断定を下すことを得るなり。すなわち犬は動物なりと断定する前に、感覚運動を有するものは動物なり、しかるに犬は感覚運動を有せり、という二個の断定を要するなり。これを推測式に応用して示すこと左のごとし。

  感覚運動を有するものは動物なり(第一提案)

  犬は感覚運動を有す      (第二提案)

  故に犬は動物なり       (断案)

 これによりて、断定中におのずから推理作用を含有するゆえんを知るべし。これを要するに、概念も断定も推理もみな互いに密接なる関係を有して、概念中に断定作用あり、断定中に推理作用あるを見る。しかるにここに概念発達して断定を生じ、断定発達して推理を生ずるの次第を用うるはいかにというに、これ、その発達の次第によるものなり。もとより同一の思惟作用中にこの三種の別を存するをもって、その実、判然たる分界あるにあらず。概念作用複雑にわたれば断定作用と相混じ、断定作用複雑に至れば推理作用と相分かつことあたわざるはもちろんなりといえども、概念の単純なるものと断定を比し、断定の単純なるものと推理を比すれば、思想の発達は概念より始まること疑いをいるるべからず。これ小児の生長発達を見て知るべし。

       第七段 信拠事情

 その他、断定作用と密接なる関係を有するものを信拠作用とす。ただちにこれを見れば、信拠は断定に関係せざるもののごとしといえども、一歩進んでこれを考うれば、密接なる関係のその間に存するを見る。すなわち、概念を結合して断定を与うるには必ず信拠を要するなり。もし信拠することあたわざれば、また断定を下すことあたわざるは、すでに明らかなり。たとえば、犬は動物なりと断定するには、まず犬は動物なることを信拠せざるべからず。これに反して疑念のその間に存するときは、犬は動物なりと断定することあたわず。疑念は信拠の反対なり。ここに一物あり、その物果たして動物なるや、あるいは果たして植物なるや明らかならざるときは、猶予して断定を下すことあたわず。これを疑念という。小児の発育についてこれを考うるに、信拠まず生じて疑念のちに起こるを見る。信拠は宗教のよりて起こるゆえん、疑念は理学のよりて起こるゆえんなり。人、疑念を生ずるに至り始めて日月のなんたるを怪しみ、宇宙全体のなんたるを怪しみ、理学の思想を起こすに至る。信ずるはやすく疑うは難し。これ、信拠の疑念にさきだちて発達するゆえんなり。今ここに信拠の起こるゆえんを考うるに、経験と連想をもってその第一の事情とす。経験数回にわたるものは連想の力強く、連想の力強きものは信拠することやすし。たとえば水のひくきに流るるは我人数回の経験上知るところなるをもって、これを信拠するはいたってやすしといえども、もしこれに反して牛乳は滋養品の第一なりというも、わが経験いまだ明らかならざるをもって連想の力はなはだ弱く、したがいて信拠することまた難し。故にすべて信拠の生ずるは連想の作用により、連想の作用は経験の事情によるなり。しかれども、ただに経験の多寡をもって信拠の原因となすべからず。小児のごとき最も経験に乏しきものかえって信拠に富み、生長して経験を積むに至ればかえって疑念を生ずること多きを見る。これ他なし、小児は経験に乏しきも、他に信拠を妨ぐべき事情なく、大人は経験数回にわたるも、種々の連想を生じて一方に偏信することあたわざる事情あるによる。これをたとうるに、甲村より出でて乙村に至らんとするに、一条の道路のみありて他に岐路なきときは、たとえその路なにほど狭小なるも、たやすく乙村に達することを得べし。もしこれに反して道路数岐に分かるるときは、なにほどその道大なるも、必ず猶予して足をとむることあるべし。小児の連想はあたかも一条の道路あるがごとく、大人の連想は数岐の道路あるがごとし。これをもって、小児に信拠多くして、大人に疑念多きゆえんを知るべし。しかれどももしその多岐の連想も、数回の経験によりてその中の一路のみ往復して習慣性を養成するときは、疑念のその間に起こることなくして、かえって一心に信拠することを得るに至るべし。これをもって、智力発達したる後もなお信拠作用の存するありて、その力はかえって小児の信拠力より強きことあるを知るべし。つぎに第二の事情は言語の連合なり。言語は我人の思想を表示するものにして、信拠もまたこれより生ずることあるべし。たとえば世間の諺語のごとき、聖賢の格言のごとき、および自己の常に反覆したる言語のごときは、いたって信拠を生じやすきものなり。もし人の言うところ、あるいは自ら見るところのもの、よくその諺語格言等に合するときは、たやすく信拠することを得るも、もしその見聞するところこれに合せざるときは、信拠を置くことはなはだ難し。これ言語の連合より生ずるものなり。つぎに第三の事情を情感の影響とす。人はすべてその情緒の傾きたることは信拠しやすく、情緒に適せざることは信拠し難きの事情あり。これを偏執または僻見という。たとえば天道の善に福し悪に禍するの格言を信じて、隣人の不正をなして災禍に逢うことを聞けば、たやすく信拠することを得るがごときは、いわゆる言語連合の影響によるものなり。しかして自ら平常にくむところのものにして禍害に遇うたるを聞けば、またたやすく信拠することを得るがごときは、いわゆる情緒の影響によるものなり。つぎに信拠と行為の関係を考うるに、行為を施すには必ずまず信拠を要し、信拠したるときは必ず行為のこれに伴って起こるを見る。故にこれをもって、我人の一事を行為に施さんとするの情切なるときは、たやすくこれを信拠することを得るなり。故に行為は信拠事情の一なり。たとえば、あるその商法を試みんと欲してその情切なるときは、たやすく信拠をその商法の上に置き、速やかに断行するがごとし。以上の事情によりて、信拠と断定は密接なる関係を有するなり。

       第八段 断定性質

 断定にも、概念作用のごとく判然明瞭なるものと明瞭ならざるものあり。今その明瞭ならざる原因を考うるに、第一に観察経験の明瞭ならざるにより、第二に記憶の明瞭ならざるにより、第三に時間および習慣の事情により、第四に言語の事情による。そのうち第一と第二の二事情は、別に言を費やすを要せず。なんとなれば、我人の虚想はすべて経験および記憶の構成するところなればなり。第三の事情は、時間の遠隔多きものはたとえその初め明瞭なる断定も次第に消耗して不明に転じ、その遠隔少なくして数回反覆習慣を養成したるものは明瞭なるの事情をいう。第四に言語の事情とは、これに二種あり。第一種は、虚想は大抵言語文章をもって表示せるをもって、断定の思想をその事実について想見することなくして、ひとり言語の上に記憶するの弊あるをいう。言語文章はもと実物の虚影に過ぎざるをもって、信拠をその上にのみとどめて深くその事実を考見せざるときは、断定の不明をきたすこと必然なるべし。たとえば古人の格言、世間の諺語をそのまま信拠したるときは、明らかにその関係を知るべからざるがごとし。つぎに第二種は、言語の汎意多義を含有して、意義明瞭ならざるより生ずる不明をいう。その他、種々の事実の複雑混同より生ずる不明あり。これらの不明の外に、断定の精密なるものと精密ならざるものあるは、また不明と同一の事情よりきたるものと知るべし。しかして人の断定を下すに、速やかなるものと遅きものとの別あり、また確実なるものと確実ならざるものとの別あり。これみな、以上あぐるところの事情によること疑いを入れず。これを要するに、外界の経験に富み内界の思想に長じ、内外ともに明らかなるときは、断定を下すこと速やかにしてかつ確実なり。もしまた確実の断定を下さんと欲せば、遠近前後の事情を酌量するを要す。ただに過去の経験を照合するの必要なるのみならず、あらかじめ将来の事情を卜見すること、また欠くべからざるなり。論じてここに至れば、断定は意力作用と密接なる関係を有するをもって、後に意力を論ずるに当たりて更に述ぶるところあるべし。しかしてその断定の発達変化するゆえんは、次講に入りて推理の発達変化と合論すべし。





 

     第一一講 各論第八 推理論

       第一段 推理性質

 推理はある断定より他の断定に推論する作用にして、すなわち提案より断案を結立する作用なり。ここに二種の推測式をあげて、その例を示すこと左のごとし。

  第一種 甲某は東京人なり   (提案)

      故に甲某は日本人なり (断案)

  第二種 人はみな死すべし   (提案)

      甲某は人なり     (提案)

      故に甲某は死すべし  (断案)

 このうち第二種は正式にして、第一種は簡約したるものなり。しかれども提案より断案を結立するの作用に至りては同一なり。しかしてその作用の断定作用に異なるは、ただに言語の形の異なるのみならず、思想作用の大いに異なるところあり。断定は概念の間にその類同を発見してこれを結合し、推理は断定の間にその関係を発見してこれを結合するなり。すなわち余がさきにしばしば述ぶるごとく、概念相合して断定を成し、断定相合して推理を成すものこれなり。故に推理作用も概念および断定作用のごとく、類同点を発見抽象してこれを概括合類することを要すといえども、概念はこれらの作用を事物の上に施し、断定は事物と事物との間の関係に施し、推理は事物の関係と関係との間に施すの異同あり。これを前例に応合して考うるときは、概念は一個一個の人の性質を抽象合類し、断定は人と人との間の関係、すなわち甲某と日本人との間に存するところの類同を抽象合類し、推理は人はみな死すべしという一種の関係と、甲某は人なりという他の関係との間に存するところの類同を抽象合類するなり。これをもって余は、推理作用は契合力を要するものといわんとす。契合力によらざれば抽象合類作用を施すことあたわず、抽象合類作用によらざれば推理作用を施すことあたわざることは、理すでに明らかなり。その他、弁別力も推理作用に要せざるにあらずといえども、契合力はその主たるものにして、弁別力はこれに属するのみ。

       第二段 推度方法

 すべて、ある断定より他の断定を結立するもの、これを推度法という。推度法に二種あり。一を直接推度法といい、一を間接推度法という。直接推度法はこれを間接推度法に比すればやや簡単の推理にして、いまだ推測式の形を有せざるものなり。これを例すること左のごとし。

  直接推度法 すべての日本人は黄色人種なり

        故にある日本人は黄色人種なり

  間接推度法 すべての日本人は黄色人種なり

        東京人は日本人なり

        故に東京人は黄色人種なり

 すなわち、直接推度法は一断定よりただちに他の断定を結立するものをいい、間接推度法は一断定より他の断定を経て第三の断定を結立するものをいう。そのつまびらかなるは論理学の講義に譲る。

       第三段 推理種類

 推理に包含推理と表現推理との二種あり、また演繹推理と帰納推理の二種あり。まず包含と表現との異同を述ぶるに、小児の甲の果実の水面に浮かぶを実視して、乙の果実も水面に浮かぶべしと推理するがごときは、包含推理に属するものなり。すなわち包含推理とは、一個の事物より他の事物を推度するも、その間に存するところの関係および規則を明言明知せざるものなり。しかしてこれを包含と称するは、その規則を明言せざるも自らその語中に包含して存するによる。しかれども小児にありては、もとよりその規則の包含して存するを知るにあらず。ただその推度するところ、知らず識らず推理の規則に合するものなり。すなわち甲の果実と乙の果実との間にいかなる関係ありて、二者ともに水面に浮かぶべきかを明知せずして、偶然その思想を胚胎するに過ぎざるなり。故にこれを推理の初級とす。動物の推理力を有するは、みなこの種類に属す。たとえば鳥は人の弓器を擁するを見て自身を射殺するを知れば、人形の弓器を擁するを見ても自らこれを避くるがごときは、ややこの推理に属するものなり。もとより動物は心性作用を有せざるをもって推理作用を有すべき理なしといえども、その根源となるべき作用を有すること疑いをいれず。ただその人類に異なるは、人はその規則性質を知りて推理を施し、動物はこれを知らざるの別あるによる。しかれども人のいまだ発達せざる小児輩に至りては、また知らず識らず推理を施すのみ。これみな包含推理にして十全の推理にあらずといえども、その推理の発達して表現推理を呈すべきは、理の疑うべからざるものあり。しかして包含推理はいかなる事情によりて起こるかというに、これまた連想の力による。当時すでに外界にありて、経験上得るところの結果は思想の連合を生じ、甲を見るごとに乙を思い、乙に接するごとに丙を想して、その一よりその二を推論するによる。しかして自ら推理のその中に包含するを知らざるは、経験の範囲はなはだ狭小にして、思想の連合単純なるによる。この理を推して、また思想発達の規則を知ることを得るなり。故に包含推理は推理中の最も単純なるものとす。しかりしこうして、小児または高等動物の推理を施すに当たり、その包含したる規則関係を明知せざるをもって、また大いに論理の誤謬をきたすことあり。ある二人の兄弟あり。弟は星の空中に懸かるを見て、竹竿をとりてこれをつき落とさんことをつとめたるに、兄は傍らにありて大いにその愚を笑い、星は果実と異なり、よく竹竿をもってつき落とすべからずという。よって弟はそのなにものなるを問う。兄これに答えて、かの数万の星点は天淵の水底より雨を漏らす孔口なりという解釈を与えたるがごときは、単純なる推理を誤用したるものなり。すなわちその包含したる規則に合せざるをもって誤謬をきたすものなり。動物の推理は、もとよりかくのごとき誤謬を免れず。たとえば、田圃に鳥獣を避けんために種々の人形を擬成してその一隅に立つるがごときは、動物の推理力の不十分なるを知ればなり。故に包含推理は往々誤謬をきたし、いまだ純然たる論理作用の中に加うべからず。これに反して表現推理は推理のすでに発達したるものにして、その内に包含したる規則関係はすでに外に表現するをもって、誤謬をきたすこと少なし。今、前例につきてこれを述ぶるに、甲なる果実の水面に浮かぶを見て乙なる果実の水面に浮かぶを知るは、ただ単純なる思想の連合によりて偶然に推論するにあらずして、何故に乙なる果実の甲なる果実のごとく水面に浮かぶやの規則を知りて推理するものなり。故にこれを表現推理と称すべし。その規則とはなんぞや。曰く、すべての果実は水面に浮かぶべしというものこれなり。けだしこの一般の規則を知るには、あまた種々の果実について経験するを要するなり。故に経験に富まざる小児輩のごときは、表現推理を呈することはなはだ少なし。また動物のごとき智力の発達を欠きたるものに至りては、全く表現推理を有せざるもののごとし。この表現推理にまた二種の別あり。すなわち演繹、帰納の両法これなり。これ、余が前に挙げたる第二の分類なり。これを論理学にては帰納法および演繹法という。まず帰納法とは、一個各段の事実より普通一般の規則に論及する推理作用にして、演繹法は、普通一般の規則より一個各段の事実に論及する作用なり。たとえば甲某も死し、乙某も死し、丙某も死し、丁、戊、庚、辛等みな死するをもって、人はみな死すべしという規則を論定するは、帰納作用によるものなり。もしこれに反して、人はみな死すべしという規則を照合して甲某は死すべしと論決するは、演繹作用によるものなり。すなわち前に示したる推測式の図は、この演繹作用に属するものと知るべし。今また更に図を掲げて両者の関係を示すこと左のごとし。

 この図中、甲を普通一般の規則とし、乙丙丁を一個各段の事実と定めて対視するに、乙丙丁の諸事実を審美実験して、その共有の性質なる甲を発見して一般の規則と定むるは帰納法にして、甲なる規則を取りて乙丙丁の証明を与うるは演繹法なり。故に帰納法を上行作用といい、演繹法を下行作用というなり。この二者の性質関係は、更に左に逐次論及すべし。

       第四段 帰納推理

 帰納に二種あり、一を完全帰納といい、一を不完全帰納という。完全帰納は、すでに経験したるもののみについてその規則を定め、これをいまだ経験せざるものに及ぼさざるものをいう。たとえば一月も二月も三月も、ないし一二月も、みなその日数三一日より多きものなきをもって、一年中の月はみな三一日より多き日数を有せずという規則を定むるがごときは、完全帰納法なり。これに反して不完全帰納法は、すでに経験したるものについて定むるところの規則を、いまだ経験せざるものに及ぼすものをいう。たとえば甲某も死し、乙某も死し、丙某も死し、丁某も死するを見て、人みな死すべしという断言を結成するがごときは、不完全帰納なり。また犬も感覚を有し、鼠も感覚を有し、雀も蛇も蟻も魚もみな感覚を有するを見て、動物はみな感覚を有すという規則を定立するがごときは、不完全帰納なり。しかして学問研究に要するものはこの不完全帰納法にして、完全帰納法のごときは知識の範囲を拡大することあたわざるものなり。しかれども小児の帰納作用法あるいはこの完全帰納に属して、いまだ不完全帰納を定立するに至らざることあり。たとえば一、二の鳥の空中を上下するを見て、その鳥の空中に浮かぶべきを知るも、いまだあらゆる鳥類はことごとく空中に浮かぶべしという規則を発見するに至らず。もしそのすでに経験したる規則をもって、いまだ経験せざるものに及ぼすときは、かえって誤謬をきたすことあり。たとえば小児は、自身の家に仏壇あればいずれの家にも仏壇あるべしと推想し、日本の村々に神社あれば西洋にも神社あ〔る〕べしと想定するがごときは、みな経験に富まずして智力のいまだ発達せざるによる。けだし智力のいまだ発達せざるに当たりては、抽象概括の力いまだ発達せず、抽象概括の力いまだ発達せざるをもって、普通一般の規則を発見することあたわず。これをもって不完全帰納を定立することあたわざるなり。しかしてまたこの不完全帰納を定立するにも、小範囲より次第に進んで大範囲に及ぼすを智力発達の順序とす。たとえば初めにすべての犬の感覚を有するを知り、つぎにすべての魚虫の感覚を有するを知り、終わりにすべての動物の感覚を有するの規則を結立するに至る。かくして宇宙万物共有の一大規則理法を発見するに至るなり。これによりてこれをみれば、帰納作用は概括作用によること明らかなり。すなわち各個各種の事物についていちいち実験を施し、その特異性の中に共有普通性を概括して共有普通の規則を定立するもの、これを帰納法という。故に帰納作用は、経験上事物の性質を概括する作用なりと称しても不可なることなきなり。

 しかれども小児の帰納の規則を定立するには、必ずしも種々の事実を経験するを要せず。わずかに一、二の事実について経験するところをもって、一般の規則を推知することを得ることあり。たとえばひとたび火に触れてその熱を感ずれば、すべての火は熱を有するを知ることを得、またひとたび水に入りてそのよく物をうるおすことを知るときは、すべての水は物をうるおすの力あるを知ることを得るがごとし。これらは小児輩のその生長の際、人の教育を待たずして自然に推理するところにかかる。しかれども、かくのごとく一、二の例のみについて帰納するときは、あるいは誤謬を免れざるの恐れあるをもって、智力発達の際種々の事実経験に照合して、すでに定めたる規則を校正することを要す。すなわち自身の家に仏壇あるも、その後ほかの家に仏壇なきを見るときは、すべての家はみな仏壇を有するにあらざるを知り、自身ひとり火に触れて熱を感ずるのみならず、他の人もまた火に触れて熱を感ずるを見るときは、すべての火は熱を有するの規則の真なることを知るべし。かくのごとくにして、始めて帰納上真正の規則を結立することを得るなり。

 

       第五段 因果理法

 帰納推理によりて発見せんと欲するところのものは事物の原因なり。すなわち因果の理法これなり。因果の理法とは、一果あれば必ずその原因あり、一因あれば必ずその結果あるの規則をいう。今、事物の上に推理を施すは、結果を見てその原因を推究するに外ならず。小児といえどもその生長の際、日々経験するところについて事物の間にこの理法の存するを知り、結果を見て原因を推究せんと欲するなり。しかれどもその初期にありては、事物の原因を推究する〔こと〕極めて不完全にして、あるいはかえって誤謬をきたすことあり。たとえば小児は、子供のいずれの所より生まるるかを怪しみその原因を尋ねて、臍より出生すと聞きて満足し、雷のいかにして鳴るかを怪しみこれを推究して、雷神の太鼓を鳴らすなりと聞きて疑いを解くがごとし。また、日本にて嘉永六年アメリカ船の始めて渡来してより、安政年間の地震、大風、悪疫、飢饉はみなその原因を外人に帰するがごときも、原因の推究の正しからざるものなり。しかれども、これみな経験いまだ富まず、智力いまだ発達せざるによるをもって、その生長の際次第にその誤謬を考正して、真正の原因を推究するに至るなり。これを要するに、帰納上各個各種の事物について実験を施し、普通一般の規則を定立するには、事物の間にこの因果の理法の存するによるなり。もしその理法の存せざるにおいては、決して帰納上規則を定立すべからず。しかしてこの理法に基づきて帰納の実験を施すに種々の規則あり。平沼氏講ずるところの論理学を見て知るべし。

       第六段 演繹推理

 前に述ぶるごとく、表現推理の第二種を演繹作用とす。演繹作用は推測式より成る。故に左に推測式の原形を掲げて、演繹作用を示さんと欲するなり。

  肯定推測式 すべての甲は乙なり    (第一提案)

        すべての丙は甲なり    (第二提案)

        故にすべての丙は乙なり  (断案)

  否定推測式 すべての甲は乙にあらず  (第一提案)

        すべての丙は甲なり    (第二提案)

        故にすべての丙は乙にあらず(断案)

 この推測式の原形を日本人、東京人、白色人種、黄色人種をもって表示するときは、左のごとく変ずべし。

  肯定推測式 すべての日本人は黄色人種なり

        すべての東京人は日本人なり

        故にすべての東京人は黄色人種なり

  否定推測式 すべての日本人は白色人種にあらず

        すべての東京人は日本人なり

        故にすべての東京人は白色人種にあらず

 これを演繹法の正式とす。その式中の第一提案は普通一般の規則を提出し、第二提案は一種各段の事実を提出して、断案にその解釈を結成するものなり。しかれども、すべての演繹作用ことごとくこの順序によるものにあらず。実際上、第一提案のみありて第二提案を欠くも〔の〕あり、また第二提案のみありて第一提案を欠くものあり、あるいはまた断案まず定まりて提案のちに定まるものあり。そのつまびらかなるは論理学の問題にして、ここにいちいちその例を挙ぐるを要せず。しかして推測式中用うるところの普通一般の規則は、あるいは古人の格言、世間の諺等より成ることあるも、要するに帰納法の実験よりきたるものなり。しかれども、その規則ことごとく実験よりきたるにあらずというものあり。その説によれば、人生まれながらすでに知るところの規則によりて、演繹作用を施すことあり。その規則たるや、ただに演繹作用を施すに必要なるのみならず、帰納の実験もまたこの規則によらざるべからずという。今その一例をあぐれば、因果の理法のごときものこれなり。この理法は帰納の原則にして、また演繹の原則なり。しかるにまたこれに反対して、この理法もひとしく帰納の実験よりきたるというものあり。その説いずれが真なるやいまだ判ずべからずといえども、帰納の一法を取りて演繹を捨つるがごときは、あるいは僻論たるを免れざるがごとし。かつこの一問題は純正哲学の関するところなれば、今これを略するをよしとす。ただここに一言を付すべきは、演繹作用は心理上いかなる作用に属するかを示すにあり。けだし推測式は命題と命題との間に存する類同点を認識するにあるをもって、演繹作用は類同作用によるものと知るべし。

       第七段 誤謬原因

 帰納作用に誤謬を生ずるは、さきにすでに示すごとく経験の乏しきと、概括の全からざると、原因結果の関係明らかならざるとにより、その他事実の確実ならざると、憶説のこれに加わるとによりて、真正ならざる規則を定立するに至る。しかるにこの演繹法の誤謬は、第一に、その提案に提出する規則の正しからざるより起こるものと、断定間の類同点を認識するの正しからざるより起こるものと、断定の意義の判然せざるより起こるものあり。その他、演繹法は言語文章をもって表示するをもって、その間に誤謬を生ずること最も多し。けだし人その言語文章の外表のみに注意して、深くその意義を識了せざることあり。また、その用うるところの語意の多義にわたりて判然せざることあり。これらはみな誤謬を生ずるの原因となること明らかなり。故に論理学にては種々の規則を設けて、論理の誤謬を論ずるなり。

       第八段 複雑推理

 人の推理を施すに帰納法を用うるものあり、演繹法を用うるものあり、演繹、帰納両法を用うるものあり。この両法を用うるもの、これを複雑推理という。すべて理学および哲学上の論究は、この二法の結合して生ずるものなり。また複雑推理を要する一例は、人事のごとき確定し難きものを推論するの類なり。社会の変動およびその変動より生ずる影響結果を論定するは、演繹帰納種々の推理を要するなり。また通常、我人が互いに相対して談話応答するにも、往々複雑推理を用うることあり。これを要するに、演繹も帰納もともに推理を施すに欠くべからざるものにして、二者相結合して始めて確実の推理を見ることを得るものと知るべし。

       第九段 推理発達

 さきにすでに示すごとく、推理は断定より成り断定は概念より成るをもって、その発達の順序、概念より始まりて推理に終わる。これすなわち、単純より次第に進んで複雑に入るものなり。概念は推理の最も単純なるものにして、断定と推理はその複雑なるものなり。また断定中にありても、その順序、単一断定に始まりて普遍断定に終わり、正面断定に始まりて背面断定に終わり、推理中にありても、包含推理に始まりて表現推理に終わり、演繹帰納各別作用に始まりて両法結合作用に終わる。これ智力発達順序、単純より複雑に進む一般の通則なり。その他、疎より密に入り、実より虚に入るはみな発達進化の順序にして、概念より次第に進んで推理を生ずるもの、またこの順序による。今、推理についてこれを例するに、帰納上事実を推究するに、小児輩はその論理いたって疎漏にして誤謬をきたすこと多く、また原因を推究するにも、その初めは論理の誤謬に触るるもの多きを見る。ようやく長じて始めて精密の論理を定立することを得るなり。

 故に論理に誤謬あるは、推理力のいまだ発達せざるによるというて可なり。この点よりこれを推すに、人智いよいよ進んで開明の極点に達すれば、論理上の争論全くやみて、道理明瞭真非おのずから判定するに至るべし。しかれども理論ようやく進んで実を離れて虚に入れば、人々その見るところを異にして、各□定の説を有するあたわず。かつ世間なにほど開明の極点に達するも、人々おのおの同等の智力を有するあたわず。これに加うるに、従来の経験によるに真理の標準必ずしも古今一定するにあらず、世の事情の変ずるに従って多少の変更なくんばあるべからず。これによりてこれをみれば、他日黄金世界に入りて人々みな真理を楽しみ、正道を守り、法律その用なく、政府また無用に属し、地球上至る所あたかも一家兄弟のごとく、観楽安心して歳月を経過するに至るべしというがごときは、全く空想に属するを知るべし。すでにその空想に属するを知らば、なんぞ汲々として智力をみがき、推理を進むることを要するやと怪しむものあらん。余これに答えていわん。その果たして空想に属するや否やは、従来の経験に照らして将来を推測するに過ぎざるをもって、その説また一の空想たるを免れず。もしその説の果たして真なるゆえんを証せんと欲せば、あくまで智力推理を研究して、いずれの点に至りて底止するかを試みざるべからず。かつ真理の標準いまだ一定せずというもまた今日の想像にして、他日もし果たして黄金世界に達するに至らばなんぞ知らん、真理の確然一定するありて、今日の想するところ全く管見に属するを。たとえまた真理は全く知るべからず、黄金世界は全く期すべからずとするも、我人、自然の勢い智力を発達して高等の地位に向かって進むをいかんせん。もしまた智力の発達に定限あるを知りて、自ら推理を研習するを無益なりとするは、あたかも人寿に定限あるを知りて、人の富を欲し、名を愛し、死期の前後を争うも、また無益なりとなさざるべからざるの理なり。いやしくも富貴の求むべきを知り、功名の愛すべきを知る以上は、智力を研習すべきを知り、真理の愛求すべきをも知らざるべからず。これみな同一理なり。故に我人は黄金世界の有無に関せず、日々孜々としてその世界の方位に向かって競走するを要するなり。もし数千数万歳の後、果たしてその世界の真域に達して、この世界すなわちこれ極楽界、この身すなわちこれ神仏の地位を占領するに至らば、その後人の楽、果たしていかにぞや。余も諸君も当時すでに歯明を隔てて、もとよりその楽を楽しむことあたわずといえども、これを楽しむもの、我人の子孫にあらずしてだれぞや。ああ、我人は自らその楽因を今日に植えて、自らその果を楽しむことを得ざるも、わが子孫をしてこれを楽しましむるに至らば、あたかも一家の富を興して子孫に残すがごとく、我人においてももとより満足すべきことなり。故に余が諸君に対して望むところは、あくまで自ら智力をみがき推理を明らかにし、またよくその子孫の教育を全うして、一時も早く黄金世界の真域に達せんことをつとむるにあり。

 

     第一二講 各論第九 単情論

       第一段 情感義解

 前数講は智力各種の性質およびその発達の規則を述明したるをもって、諸君も定めてその大意を了せられしならんと信ず。故に余はこれより、心性作用の他の一種なる情感の性質およびその発達を講述せんと欲す。今これを講述するに当たり、まずその義解を下して、いかなるものを情感と称するかを定むるを必要なりとす。そもそも情感は、苦楽の両感を現示する心性の情況に与うるの名にして、これを苦感および楽感の二種に分かつことあり。しかしてその苦感にもあまたの種類あり、楽感にもあまたの種類あるも、これを総じて情感と称するなり。故に五官の感覚も各苦楽の情況を有するをもって、これを情感の一部分に加え、余はすでに第二講において、情感中に感覚情緒の二種を分かてり。しかれども、感覚はただに苦楽の情況を有するのみならず、直接に外界に接触して智力の材料を備うるの作用あるをもって、余はまたこれを智力の一部分に加え、第五講においてその性質、発達を述明せり。かつ感覚中、有機感覚および味嗅両覚のごときは苦楽を感起すること多しといえども、視覚聴覚のごときは外界の事情を識別するの力に富むをもって、むしろこれを智力の本源として論ずるを適当なりとす。これを要するに、感覚中その外界に対して有するところの作用は智力に属し、その内界に対して有するところの情況は情感に属すべし。これをもって心理学者中、あるいは感覚をもって単純の情感とし、情緒をもって複雑の情感とする者あれども、情感中その主たるものは感覚にあらずして情緒なり。故に余がここに情感と題して論ずるものも、主としてこの情緒の事情を述ぶるなり。しかして情緒にまた、単純なるものと複雑なるものの二種あり。単純の情緒はここに単情と称し、複雑の情緒はここに複情と称して、今この一講は、単情の性質、事情を述明するものと知るべし。

       第二段 情感関係

 およそ心性作用に智力、意志、情感の三種を分かつといえども、その三者の互いに密接なる関係を有することは、第二講においてすでに略弁せるところなり。今更に情感の他の心性作用に対して有するところの関係を述べんとするに、まず情感は苦楽を感起する特有の性質あるをもって、幸福の原因となることすでに明らかにして、人の行為、思想のみなこの快楽幸福の方向に進むゆえんもまた、余が弁を待たずして知るべし。故に智力上の諸作用も意志上の諸作用も、情感の発動に関係せざるはなし。情感上快楽幸福を感起するときは、他の諸作用はしたがって増進し、情感上苦痛禍患を感起するときは、他の諸作用もまたしたがって減退すべし。かつまた実際上これを考うるに、情感の発するときは必ず他の諸作用の相混じて起こり、他の諸作用の起こるときはまた必ず情感のこれに加わりて生ずるを見る。しかりしこうして、またあるいは情感作用と他の諸作用と全く相反することあり。たとえば大いに怒るときは、理非を弁ずることあたわざるがごとし。その大いに怒るは情感の発動にして、理非を弁ずるは智力の作用なり。けだし情感の大いに激発するときは、心力の全量この一方に会注して、他の作用をして生起することを得ざらしむるによる。故に精密の智力思惟を施さんと欲するときは、なるべく心を虚静に保ち、情感のその間に加わらざらんことを要するなり。

       第三段 単情種類

 およそ情緒には種々の種類ありて、一定の分類をなすことはなはだ難し。シナにて喜、怒、憂、懼、愛、憎、欲の七情に分かちたるも、決して情緒の種類を尽くしたるものにあらず。今ベイン氏の心理書によるに、情緒を一〇種に分かちて驚、愛、怒、懼、我、力、行、智、美、徳の一〇情とするなり。あるいはまたこれに同情を加えて一一情とし、宗教の情を加えて一二情とすることあり。まず驚情とは、新奇なるものに触れて驚き、予想外のことに遇うて驚く等の情をいう。つぎに愛、怒、懼の三情は、諸君のすでに知るところなればこれを略す。つぎに我情とは、自重、自貴、自愛、自慢、および名誉を愛する等のごとき、わが身を尊重する情なり。つぎに力情とは、力量を較してその優を見るときは喜び、その劣を見るときは不快を感ずるの情をいう。つぎに行情とは、行為を施してその目的を達せんとする情をいう。以上七種の情は情緒中の単純なるものなり。故にこれを総称して単情という。その他、智、美、徳の三情等は情緒の複雑なるものなれば、次講に入りてその性質を述ぶべし。今この単情の種類も、いちいちその起こるゆえんを論ずるのいとまなきをもって、以下述ぶるところは、単情総体の事情、発達に過ぎざるものと知るべし。

       第四段 発情事情

 情感の外貌に発顕することは、第四講第六段にすでに略明せるところなれども、今またここにその発顕の事情および起源を考うるに、我人は他人の外貌を見て、ただにその心に快楽を感ずるか苦痛を感ずるかを識別することを得るのみならず、その苦楽各情の種類およびその度量を推測することを得るなり。たとえば驚、愛、怒、懼等の諸情はもちろん、その各情の強弱多寡までも、外貌を一見して知ることを得るがごとし。しかして同一の情感を有するもの、みな同一の外貌を現示するにあらず。喜ぶときは笑い、かなしむときは泣くは普通の発顕なれども、その笑泣の外貌に至りては人々みな異にして、声を発して笑うものあり、口を閉じて笑うものあり、鼻孔の開合、両唇の離合、まぶたの上下、頬肉の運動、発声の大小、決して同一なることあたわず。けだし人の数に億万あればその面貌また億万あるがごとく、笑泣の外貌も億万の種類あるべし。かくのごとく外貌の発顕は人によりて異なるも、その間にまたおのずから類同する点あるをもって、よく笑泣を弁別し、苦楽を判定することを得るなり。しかれども、人いよいよ生長して種々の思想の心内に積集するに至れば、外貌を一見するも、たやすく心内の事情を推測することを得ざるなり。たとえば智力意志の発達せる者は、その力よく情感の発顕を制止するをもって、心に快楽を感ずるも外貌には苦痛の色を示し、心に苦痛を感ずるも外貌には喜笑の発顕を呈することあり。これをもってこれを推すに、人のたやすく苦楽の情を外貌に発顕するは、その心の智力思想に富まざるによる。婦女子のたやすく笑い、たやすく泣くもまた、その智力に乏しきによるを知るべし。

 およそ情感の発顕は、笑泣の外その種類いくばくあるを知らずといえども、第一に、これを分かちて普有の発顕と特有の発顕の二種とし、第二に、これを分かちて本能に属するものと経験に属するものの二種とするなり。まず第一分類の普有の発顕とは笑泣の類にして、この発顕は人々みな有するところの外貌なり。これに反して、恥ずるときにその面を覆い、困りたるときにその首をかくがごときは、人々ことごとく有するところの挙動にあらざるをもって、これを特有の発顕とするなり。つぎに本能に属するものとは、人の生まれながら有する発顕にして、喜ぶときは笑い、悲しむときは泣くの類これなり。経験に属するものとは、生長の際、人のなすところを見聞模倣して発顕する外貌をいう。たとえばその面を覆い、その首をかくの類これなり。故に普有の発顕は本能に属し、特有の発顕は経験に属してしかるべきもののごとし。しかれども、普有の発顕は経験を待ちてますます発達し、特有の発顕は本能によりていよいよ発達すること、また疑いをいれざるなり。かくのごとくその類の不同あるも、異なりたる情感は異なりたる外貌挙動を示すに至りしは、その初めしかせざるを得ざる事情ありて起こり、その普有となりしは模倣連想の影響により、その本能となりしは遺伝の結果によること、やや信ずべき道理あり。たとえば涙をたるるがごときは、その初め刺激物の眼中に入るありてひとたび垂涙を促したることありしに、その後連想の影響によりて、その物あるいはこれに類似したるものの目前に存するを見れば、つねに垂涙を催進し、数回経験因習の後、これと多少の関係を有する事情またはその情況の相似たるものに接すれば、必ず涙を流すに至るべし。かくして一人の経験上一種の発顕を習成するときは、他の人もこれと同一の事情に接すればもちろんしからざるも、模倣作用によりて同一の挙動を現示するに至るべし。かつその挙動の次第に習慣遺伝したる後は、本能を形成するに至るも自然の勢いなり。これ憶説に出でたるもののごとしといえども、全くその証拠なきにあらず。かつ、かくのごとく解釈するにあらざれば、普有本能に属する発顕の起こるゆえんを説明することあたわざるなり。

       第五段 苦楽規則

 苦楽の情況には一定の規則ありて、我人その規則に従うときは、身体の栄養健康を保全することを得べし。故にこれを自保の規則と称す。今その意を述ぶるに、我人外界の事物に接触して楽感を生ずること、苦感を生ずることあり。楽感を生ずるものはよく栄養健康を助け、苦感を生ずるものは栄養健康に害あるを常とす。たとえば飲食して、その身体に害あるものは大抵苦痛を起こし、その益あるものは大抵快楽を感ずるものなり。また、寒きときに凍風に触るるは健康に害あるをもって苦痛を感じ、暑きときに涼風に接するは健康に益あるをもって快楽を覚うるの類これなり。人の諸欲中その最も強きものは男女の欲と飲食の欲にして、その男女と飲食は我人の生存永続に最も必要なることは、みな人の許すところなり。これに次ぎて衣服の欲、住居の欲等あり。しかして情欲は快楽の方向に進むものにして、その欲最も強きものは、快楽の最も多く存するところなり。これに反して、情欲の向かわざるものは苦痛の存するところにして、その欲するところの目的を達することあたわざるときも、また苦痛を感ずるなり。故に情欲もまた、自然に人を快楽健全の方向に導くものなり。かつまた我人その天然の性力に任ずるも、心身ともに快楽に就き苦痛を避けんとする傾向あり。時まさに盛春に際し好風晴日、百花爛漫として栄を競うに当たりては、我人の遊意勃々として閉居することあたわず。これに反し、時まさに厳冬に際し風雪肌を裂くに当たりては、篭居沈座、戸外に奔走するの気力なし。これ人の自然の勢いにして、教育、経験を待ちてしかるにあらざるなり。すなわち人の性、苦を避け楽に就かんとするは、あたかも水のひくきに就くがごとく、これをその自然の勢いに任ずるも、生存健康を保全することを得るなり。これひとり肉身上の動作に限るにあらず、心性作用もまたこの規則による。気分爽快なるときは心思をつれづれに放棄することあたわずして、その力を読書思惟に用いんとし、気分憂鬱として不快を感ずるときは心思を用いざらんとするも、また自保の規則に従うものなり。もしその気分爽快にして、その身体活発なるときに心身を用いざるときは、かえって苦痛を感ずるなり。けだし心身ともに活発爽快なるときに労動し、不快疲労したるときに休息するは、健康保全に益あり。不快疲労したるときに労動し、活発爽快なるときに休息するは、健康保全に害あること、またすでに明らかなり。故に自保自存の規則は、人の天然に有するものなりと知るべし。更に問いを起こして、いかにしてこの規則の人の固有の性となるに至りしやを尋ぬるに、その理を知ることまた容易なり。仮に、人にこの規則に反対したる天性あるものと定めてその結果を考うるに、人類は数年を出でずして減滅するに至り、その子孫の生存永続すべき理なきは必然なり。なんとなれば、人みな健康に益あるものを避け、健康に害あるものに就きて進むときは、その生存を全うすることあたわざればなり。たとえば、病患にかかるものみだりに風雨を侵して戸外に奔走することを好み、栄養に害ある食物はこれを服用して最も快楽を感ずるに至らば、その人の健康は一日も保全すべからざるや疑いをいれず。故に人にこの性あるは、その進化の際、しからざるをえざる事情ありて起こること明らかなり。しかるにここに一言の説明を要するは、人その性に任ずるときは、往々健康保全に反対したる方向に進むことあるの一点なり。これ種々の事情によりて起こるも、要するに人類の進化いまだその極点に達せざるによる。かつ、物にはひとたびある方向に進みたるときは、永くその方向に進まんとする性ありて、ついにその適度を失して中点の外に出ずることあり。今、人の情欲のその適度を失して、かえって保全を害するの結果を見るもまたこの理による。

       第六段 苦楽原理

 更に進んで苦楽のなんたるを考うるに、我人の避けんとするものこれを苦痛と名付け、我人の就かんとするものこれを快楽と名付くるなり。しかしてその苦楽に心身内外の数種類ありて、その諸苦を合したるものと、その諸楽を合したるものと互いに相加減して、楽の苦より多きものこれを幸福といい、苦の楽より多きものこれを禍患というなり。通常人の考うるところによるに、苦と楽とは全く別物のごとく見ゆれども、心理学上よりこれをみるに、二者ともに一物にして、その前後に苦楽の別を現ずるのみ。他語をもってこれをいえば、過度と不足とはともに苦にして、その中を得るは楽なり。故に楽もその度に過ぐるときは苦となり、苦もその度に適するときは楽となる。例を挙げてその理を示すに、飲食は人のみな欲するところなるも、その度に適するときは楽となり、いやしくもその適度を得ざるときは、過不足ともに苦となるがごとし。また、我人の心身爽快なるに当たりて戸外に運動するは楽となれども、運動過度にわたれば苦となり、その運動をして不足にとどめしむるもまた苦となるがごとし。故に中庸は快楽の存するところにして、その道は幸福を導くものなり。そもそも中和をいたせば天地位し万物育すの言、決して古人の妄想にあらず。我人の生存、社会の繁栄もまた、ただこの中を保全するに外ならざるなり。この原理の外に、苦楽の原因となるべきものは変化の有無にして、我人の接触見聞するところのもの、変化一様ならざるときは快楽を生じ、一様変化なきときは不快を感ずるなり。たとえば、常に同一の風景に接し、常に同一の食物を用うるときは、その景なにほど可なるも、その食なにほど美なるも、かえって不快を覚うるに至るべし。これに反して、常に異様の風景に接し、異種の食物を用うるときは、そのものの良悪を問わず必ず快楽を感ずるものなり。地方を周遊し山河を経歴して愉快を覚うるは、すべてこの理による。書を読み業を務むるもまたしかり。終日同一の書を読み同一の業を務むるは、けだし人の耐えざるところなり。故に知るべし、快楽は変化によりて生じ、苦痛は一様によりて生ずるを。しかれどもまた、かえって一様によりて苦痛の減じ、変化によりて快楽の減ずることあり。たとえば陋居悪食のごときはその初め苦痛に耐えざるも、永くこれに眠食してその陋悪に慣るるときは、大いに苦痛の度を減ずるものなり。また病人の、その初めて病を発するに当たりては苦痛に耐え難きものも、永く病床にありてその苦痛に慣るるときは、かえってその度を減ずるものなり。これに反して、永く山間の僻郷に住居したるもの、いったん故ありて中原の都会に転住するも、かえって故郷の愉快を回想して、思郷の情に耐えざるものあり。これみな習慣性の影響なり。以上の道理を知らんと欲せば、まず心身は若干の時間同性質の刺激を受くれば、疲労を生ずるゆえんを知らざるべからず。かつ疲労は苦の原因なることもまた知らざるべからず。永く一様変化なきものに接触して苦痛を感ずるは、心身ともに疲労を生じて、意向のこれに注がざるに至るによる。これに反して、その接触するところのもの変化多様なるときは、勢力の回復を助け意向の会注を促して、大いに快楽を感ずるに至るべし。かつ習慣の影響苦痛の度を減ずるに至るもまた、この理によりて推知すべし。しかして変化によりて快楽の減ずるの理は、すでに習慣性をなしたるものその習慣を離るれば、かえって不足を感ずるによる。その他苦楽の起こる原因は、和合と不合との二種の事情より生ず。たとえばその経験するところ、自ら思うところに合すれば快楽を感じ、その思うところに合せざれば不快を覚うるがごとし。すなわち失望は苦を生じ、満足は楽を生ずるを見て知るべし。

 以上論ずるところによりて、余は諸君の必ず楽を生ずるに苦の必要なることを了解せられしならんと信ず。苦楽は事物の上にその定まりあるものにあらずして、苦もあるいは転じて楽となり、楽もたちまち変じて苦となることは、諸君のすでに経験するところにして、余が喋々を待たざるなり。たとえば、諸君は美衣良食を得るをもって快楽とするが、諸君すでにこれを得て常に服用するときは、快楽の度次第に減じて、その極苦痛を生ずるに至るべし。高位顕官を得るをもって快楽とするが、すでにこれを得てその地に慣るれば、また快楽にあらず。長寿をもって快楽とするが、すでにその寿に達すれば、また快楽にあらず。果たしてしからば、いかにして快楽を得、いかにして快楽を保つべきや。曰く、苦によりてこれを得、苦によりてこれを保つべし。苦あるによりてここに快楽あり、苦多きによりて快楽また多し。苦を離れて楽を得んとするは、全く架空の望みに過ぎざるなり。故に少時に多くの艱苦を経たる者は、老いてその受くるところの快楽の量また多く、日中労動するものは晩食の味一段の美を加え、平日勉強するものは日曜の休暇一段の愉快を添え、艱苦の後の愉快は真の愉快にして、愉快の後の愉快はかえって愉快にあらず。まさに愉快に慣れたるものは、愉快はすでに愉快にあらずして、愉快にあらざるものかえって愉快となる。たとえば焼き芋のごとし。これを西洋料理に比すれば決して愉快の食物にあらずといえども、たまたま王侯の口に入れば、かえって西洋料理に超えたる愉快を感ずることあるべし。故に人たるもの、永く快楽を保持せんと欲せば、常に苦痛を忘れず、常に労動に従うことを要するなり。余おもえらく、陋巷の貧生といえども、その幸福の度量に至りては、けだし貴顕紳士に譲らざらんことを。諸君もし快楽幸福を増進せんと欲せば、またよろしく労動に従い苦痛に就き、過度に失せず不足に誤らず、よくその中を守るべし。これ心理学を研究するの利益にして、これを研究してその利益を知らざるものは、けだし論語読みの論語知らずの評を免れざるなり。

       第七段 苦楽種類

 苦楽は情感固有の性質なるをもって、その種類は情感の種類に従って分かつことを得るなり。すなわち感覚上の苦楽と情緒上の苦楽との二種あり。感覚上の苦楽にまた、特異性感覚の苦楽と普通性感覚の苦楽との二種あり。運動、抗抵の苦楽もこの種類に属すべし。情緒上の苦楽にもまた、単情の苦楽と複情の苦楽との二種あり。まず普通性感覚の苦楽は、有機組織間に起こるところの変化に伴うものなり。すなわち飢渇、寒温より生ずる苦楽これなり。しかれどもその苦楽の感覚は、身体中のいずれの部分に起こるかを判然指定することあたわず。これに反して、特異性感覚の苦楽すなわち五感の苦楽は、明らかにその地位を知ることを得るなり。これに属する運動、抗抵の苦楽すなわち筋覚の苦楽は、手を挙げ足を動かして生ずるところの苦楽にして、これまたその地位を知ることを得るなり。その他、普通性と特異性の異なるは、普通性にありては苦感多くして楽感少なきの一点なり。血液の運行、食物の消化、そのよろしきを得るときは組織間に快を覚うるも、血行の不順、食物の不消化より起こるところの苦痛は、その度強くして、かつしばしば起こるを常とす。この感覚上の苦楽はいたって人生に必要なるものにして、小児輩のごとき心性作用のいまだ十分発達せざるものにありては、情緒上の快楽いまだ発達せざるをもって、その日夜求むるところの幸福は感覚上の快楽に外ならず。かつ感覚より高等なる幸福も、みなこの快楽より起こる。たとえば美術の快楽のごときいたって高等なるものも、聴覚視覚の快楽に基するがごとし。これをもって、感覚上の苦楽の必要を知るべし。つぎに単情の苦楽とは、前にあげたる単情の数種に伴って起こるところの苦楽をいい、複情の苦楽とは、次講において述明するところを見て知るべし。

       第八段 情緒発達

 さきに第三講発達論において略述したるがごとく、情感の発達は智力の発達と同一の規則に従うものとす。すなわちその順序、表現より内現を生じ、実より虚に入るなり。しかしてその発達を促すものは動作、習慣、連想の三事情にして、我人の生長経験の際、おのずから下等の感覚の進んで高等の情緒を生ずるに至るなり。しかれども、数種の情緒ことごとく経験によりて発達するにあらず、人の本能より生ずるものまた少なしとせず。たとえば驚、懼、愛、怒のごときは人のあまねく有するところの情にして、その原性は人の生まれながら有せざるを得ざるは必然なり。しかれどもその性の教育、経験を待ちていよいよ発達するに至ること、また明らかなり。かつその本能より生ずるもののごときも、数世間の経験の積集遺伝したるによるや、また疑うべからず。故に情緒は経験より発達すというも、理においてすこしも不可なることなし。経験上苦楽の感覚を生ずるときはその印象を脳中のある部分にとどめ、数回経験したるものはその印象いよいよ明らかにして、その後直接に苦楽の原因に接触せざるも、たやすくその情を想起することを得るなり。他語をもってこれをいえば、苦楽は再現することを得るなり。しかしてまた、連想の作用によりて構成することを得べし。最初は直接に外物に接触して生じたる苦楽の情は、付近または類同連想によりてこれと多少の関係を有するものに接触し、またはこれを想見するときは同一の情を再現するなり。すでにその情を再現することを得るに至れば、いまだ経験せざるものを想起して、これより生ずるところの苦楽の情を想像することを得るなり。これ、いわゆる苦楽の構想なり。この再現構想の諸作用によりて、単情は次第に進んで複情を結成するに至るべし。もしまた人の単情を大別すれば愛好憎悪の二種となり、複情を大別すれば善美悪醜の二種となるべし。しかして愛好および善美は快楽より生じ、憎悪および悪醜は苦痛より生ずること疑いをいれず。たとえば、数回経験して快楽を感ずるときは、そのものを愛好するの情起こり、再現連想の作用によりていまだ経験せざるものもこれを愛好するの情を生じ、習慣遺伝の力ついに固有の良心を形成し、倫理道徳の原情を構立するに至るなり。故に人に善悪醜美の心あり、好悪愛憎の情あるは、みな苦楽両情の発達に外ならずと知るべし。

 

     第一三講 各論第一〇 複情論

       第一段 複情形成

 前講第八段において論ずるがごとく、心性発達の際、単情は次第に進みて複情を形成するに至るなり。単情と複情との異同は、一は一個人に関したる情緒にしてやや表現的に属し、一は普通一般にわたる情緒にして全く内現的に属するによる。たとえば小児のその母を愛して他人を嫌うがごときは、一個人に関したる情にして、一人の私情よりきたるものなり。これに反して、真理を求め国家を愛し生類を憐むがごときは、一個人の関係を離れたる衆人一般にわたる情にして、自己一人の経験上その苦を避け、その楽に就かんとする私情にあらず。他語をもってこれをいえば、単情は一己の私情を離れず、複情はその私情を離れたる公情なり。しかれども、公情はその初めより私情を離れて別に存するにあらず、私情の発達したるもの、すなわちこれ公情なり。その発達を助くるものは、前にしばしば述べたるがごとく、動作、習慣、連想の三種の事情による。この事情によりて、表現的の諸情は次第に進みて内現的の複情を形成するに至るなり。今、情緒は単複を論ぜず、すべて心内に発現する情況なれば、ことごとくこれを内現的に属すべき理なれども、単情は直接に外界の事物に接して起こるもの多きをもって、表現を去ること遠からず、複情はこれを去ること遠きをもって、ここにしばらくその一を表現的に属し、その一を内現的に属するなり。今、複情の単情より発達せるゆえんは、内現の智力の表現より発達し、虚想の智力の実想より発達する順序と、同一理をもって解釈することを得。故に余は更に、ここにその形成の順序を述べざるなり。

       第二段 複情種類

 複情はその初め単情より生ずるも、その性質大いに異なるところあるをもって、通常、情緒の名称はこれを単情に与え、複情には別に情操の名称を与うるなり。情操の主たるものは智情、美情、徳情の三種にして、智情は智力の情にして、真理を愛求するがごとき複情をいい、美情は審美の情にして、美術を玩賞するがごとき複情をいい、徳情は倫理道徳の情にして、善に就き悪を避くるがごとき複情をいう。これを複情の三大種とす。その他この三大種の起源となるべき一種の複情あり、これを同情という。同情とは同憐の情にして、同気相求め同類相憐むの情なり。人の、朋友を愛し、社会国家を愛し、禽獣草木を愛するも、みなこの情のいたすところなり。もしこれを加うるときは、複情に四大種あるに至る。しかれどもこの同憐の情は、これを他の三大種に比するにやや単純なる性質を有するをもって、これを複情の初級に属さざるべからず。しかして智美徳の三大情は、複情中の高等なるものなり。故にまず同情の性質を述べて、つぎに智美徳の三情を述ぶるを適当なりとす。

第三段 同情性質

 およそ同憐の情の初めて起こるは模倣作用による。模倣作用は智力のいまだ十分発達せざるもののよく呈するところにして、小児輩の常に大人のなすところを模倣するを見てしかるべし。小児輩は人の笑うを見てこれを模倣し、人の泣くを見てこれを模倣し、知らず識らず同憐の情を生ずるに至る。けだし情感は一定の発顕あるをもって、同一の発顕は同一の情感を起こすものなり。すでにその発顕とその情感との関係を知るときは、人の外貌挙動を見て、知らず識らず自己の経験を想出して同感を惹起するに至る。これに至りて同感の情いよいよ発達し、他人を愛憐するの情起こるなり。故に同情の初めて生ずるには模倣と経験を要するなり。自身にその経験なきときは、人の情感を明知すべからず。人の情感を明知せざれば、同憐の情もまた動かざるなり。しかして余がここに同憐の情と称するは、人の苦痛を見て哀憐するのみをいうにあらず、人の快楽を見て喜ぶもまた同情の一なり。しかれども、平常同憐の情を動かすものは他人の苦痛なり。この情発達して始めて、人の自利の私情を離れて愛他の公情を生ずるに至る。故に同情をもって徳情の起源となすなり。更に高等の同情の起こるゆえんを考うるに、その起こるに要するところの事情三あり。曰く、観察、再現、構成、これなり。第一に、人の外貌挙動を観察してその内情の発顕を明視することを要し、第二に、自己のすでに経験したる発情の情況を再現して、その情況と互いに相比較対照するを要し、第三に、構想作用によりてその発情の内況を想像することを要す。この三種の事情いよいよ精密に至れば、同情もまたますます精密に感ずることを得るなり。故に平常交接して最もよくその人の情態を知るときは、最も多く同憐の情を動かし、外国人または禽獣のごとき、よくその情況を知らざるものに至りては、同情の動くことまた少なしとす。しかしてこの情の動くときは苦を感ずるか楽を感ずるかというに、人の快楽を見て同情の発するときは楽を感じ、人の苦痛を見て同情の動くときは苦を感ずるは常なれども、またあるいは人の苦を見て愛憐の情を動かし、かえっていくぶんの快を覚うることあり。

       第四段 智情性質

 智情はさきにすでに示すごとく、真理を愛求しまたは学問知識を愛求するの情にして、高等の複情の一種なり。その情、学問知識を得るの方向に対すれば快楽を感ずるも、無学無智の方に向かえば苦痛を感ずるなり。故に疑問を明断し、新法を発見し、真理を開達するときは楽感を生じ、これに反するときは苦感を生ずるなり。

       第五段 智情起源

 智情は複情の一種なるをもって、その初め単情より起こる。単情中その第一に位するものを驚情という。これ小児の生長の際、最も早く発する情なり。今日の心理学者は、この情中に新奇を好むの情を合して論ずるを常とす。けだし新奇を好むの情と、驚情とは同一の性質を有すればなり。通常見るところのものに接し、通常聞くところのものに触るるときは、決して驚情を動かすことなしといえども、通常見聞せざるものに接触するときは驚情を動かすべし。すなわち驚は常に反するものより生ずるなり。新奇もまたしかり。常に見聞するもののみに接するときは次第に快楽を減ずるの傾向ありて、常に反するものに接するときは一層の快楽を加うるをもって、新奇を好むの情おのずから起こる。この新奇を好むの情は、次第に進んで新理新法を発見するの情を生じ、学問知識の範囲を拡張するの念を生ずるなり。しかしてひとたび新理新法を発見するに会するときは、驚情のこれに加わるありて一層の快楽を覚うるなり。かつ新奇を好むの情をしてその満足を抱かしむるをもって、ますます知識拡張の情を養成するに至る。その他、智情の発するには力情および行情の加わるあり。たとえば学校にありて試験の問題を解釈するがごときは、衆人にその力を示し、かつその成否を試みんとするの情あるをもって、労苦を忘れて解釈を考うるに至る。物理の実験を施すも、数学の問題を試むるもまた、この力行両情の加わるによる。この両情の外に我情もいくぶんかこれに加わるありて、新知識を求むるの情を促すなり。たとえばひとたび新理を発見すれば、自身の名誉世間にあらわれ、人の讃嘆するところとなるをもって、ますます学問を研究せんとするに至る。かつそれ、事物の道理、判然明瞭ならざるときは不快を感じ、判然明瞭なるときは愉快を感ずるものなり。他語をもってこれをいえば、疑念は不快を生じ、明信は愉快を生ずるなり。故に人におのずから事物の道理を研究し、これをして判然明瞭ならしめんとする情あり。これまた智情の起こるゆえんなり。

       第六段 美情性質

 美情すなわち審美の情は、天造および人為より成るものの、美麗、宏壮、適合、温柔、厳粛等の現象を見聞して起こるところの快楽の情にして、その現象に反対したるものに接するときは不快を感ずるをいう。故にこの情は外物の心面に与うるところの情感にして、眼耳両官その媒介となるものなり。しかしてその主たるものは眼官にして、美麗をもって主成分とするなり。画を見てこれを楽しみ、美人を見てこれを喜び、山川の風景を見てこれを賞する等、みな眼官の媒介によりて美麗その主成分を成すものなり。しかれども、みだりに愛情を動かすもの決して美情にあらず。たとえば母のその子を愛し、男子のその婦を愛し、飢者の食物を愛するがごときは、単情中の愛情にとどまりて、複情中の美情に属すべからず。けだし外物の我人の耳目に触れて審美の情を生ずるには、三種の事情を要するなり。すなわちその第一は実質の事情にして、外物の彩色、音声、線様等のそのよろしきに適するを要し、その第二は体形の事情にして、総体の情貌、経画のそのよろしきに適するを要し、第三は想像の事情にして、よくその形質現象の、人の想像を喚起するを要す。これを審美の三元素とす。この三元素おのおのそのよろしきを得るにあらざれば、人に快楽の情を生ぜしむることあたわざるなり。

       第七段 審美作用

 およそ我人の外物に接して美情を生ずるには、単情と智力との二者の作用を要するものとす。まず第一に、視覚または聴覚の媒介によりて外物の形質情貌を知覚するを要し、かつその細大微明の諸点を弁別、比較、断定するを要す。これ、その智力作用を要するゆえんなり。しかしてこの複雑なる情の生ずるは単純の諸情の相合するによること、更に証するを待たず。すなわち単情中の驚情愛情等の種々混合して美情を構成するに至るや、疑いをいれず。その他、同憐の情もいくぶんかこれに加わるありて審美快楽を補うや、また推知すべし。果たしてしからば、審美は智力と単情と相合して生ずるものなり。しかるにその智力と単情とは、人々のこれを有する同一ならず。かつその二者の相合して美情を生ずるも、人々の経験おのおの異なるをもって、また同一なることあたわず。これをもって、審美に一定の標準なし。甲はこれを美として乙はこれを醜とすることあり、乙はこれを賞して丙はこれを嫌うことあり。しかしてその学に一定の規則を立つるは、衆人多数の許すところによるのみ。

       第八段 美術種類

 以上は天造、人為総体の審美について、その性質および作用を論じたれども、審美の最も多く常に関するものは人造の美にして、これを美術と称す。美術は、人をしてその美情に満足を抱かしむる目的をもって造出せられたるものなり。故に通常審美と称するときは大抵この美術をいう。今その種類を挙ぐるに五種あり。曰く、建築、彫刻、書画、音楽、詩歌、これなり。あるいはこれを分かちて視術、聴術となすことあり、あるいはまたこれを分かちて擬術、創術となすことあり。視術とは視覚上の美術にして書画、彫刻、建築をいう。聴術とは聴覚上の美術にして音楽、詩歌をいう。つぎに、擬術とは天然の事物現象に模擬したる術にして、絵画、彫刻、詩歌をいう。創術とは天造に模擬せずして人の工夫をもって新経画を創成したる術にして、建築、音楽をいうなり。

       第九段 美術原理

 およそ美術の性質に三種の要点あり。この要点を欠くときは美術の部分に加え難し。すなわち第一に、快楽をもってその直接の目的とするを要し、第二に、不快を生ずべき部分はすべて除去するを要し、第三に、衆人をしてこれを楽しましめんことを要す。第一の要点は美術の飲食と異なるゆえんにして、飲食の直接の目的は飢渇、疲労、病苦を医するにありて、快楽をもってその直接の目的とするにあらず。第二の要点は別に証明するを要せず。第三の要点はまた美術に最も欠くべからざる目的にして、一、二人の快楽を導くをもって目的とするにあらず、衆人をしてことごとくこれを楽しましむるにあり。つぎに美術に要する点は、第一に、その部分の互いに相適合するにあり。俗語をもってこれをいえば、釣り合いのそのよろしきを得るにあり。書画ならばその字形線様の釣り合い、音楽ならばその調子の釣り合いのよろしきに適するを要するなり。第二に、方法をしてその目的に合中するを要す。たとえば人の頭上に非常の重大の磐石を載せたる図を見るときは、磐石を支うるもの、その力これを支うるに適せざるをもって、人をして不快を感ぜしむるなり。これ、器械的の方法の器械的の目的に適せざるものなり。第三に、全部分を明示せずして、そのいくぶんは人の想像をして補わしむるを要す。かくのごとくするときは、一層人の想像上の快楽を増長せしむべし。第四に、宏壮威力の相を現ずるを要す。これ、美術の一種の性質なればなり。その他、美術については種々の異説ありて、秩序、平均、変化、統一等を要すというものあれども、今これを略す。

       第一〇段 徳情性質

 徳情すなわち道徳の情は、倫理を守り、道徳を愛し、義務を尽くさんとする諸情に与えたる名称にして、人々の行為に関する情なり。その行為には自身の行為と他人の行為との別あるも、善悪邪正に関係あるものすべてこれを道徳上の行為といい、その善かつ正なるものはこれを倫理の規則に合するものとし、悪かつ邪なるものはその規則に合せざるものとするなり。しかしてその規則たるや、一個人の利益をもって目的とするにあらず、社会一般の幸福安寧をもって目的とし、君臣父子、上下朋友の間の関係を示すものなり。故に一人の私情は、もとよりこの徳情の部分に加うべからず。たとえば商賈ありて富人を愛敬するも、その心自ら直接の利益を占めんとするにあるときは、徳情より生じたるものというべからず。かつまた小児の悪をなしてこれを悔ゆるも、その実、父母の厳罰を恐るるに出ずるときは、これまた徳情にあらず。徳情は、全く一個人の私情を離れたる純善純悪の思想より生ずるものをいう。しかしてその情の智情および美情に異なるは、第一に、その社会、他人の上に直接の関係を有するにあり。智情および美情も社会の関係を有せざるにあらずといえども、徳情のごとく直接の関係を有せず。しかるに徳情をば直接に一個人と他人および社会との関係を目的とし、互いに相愛敬し互いに相和合して、社会同類の幸福安寧を期するものなり。第二に、徳情は責任必要を感ずるも、智情および美情はこれを感ずることなし。たとえば我人、善のなさざるべからざるを知り、悪の避けざるべからざるを知りて、他人および社会に対して善を行い悪を制するは、自らその責任必要を感じ、これをなさざるときは自ら道徳上の罪人たるを知るといえども、智識を拡張し美術を改良するがごときは、かくのごとき必要を感ぜざるなり。第三に、徳情はただちにその結果を実行上に発示するの性質あり。すなわち善道は実行上ただちにこれをなさんと欲し、悪業は実行上ただちにこれを避けんと欲するをいう。たとえば、一悪を見れば自らこれを恐れてただちに避くることを求め、一善を知れば自らこれを喜んでただちに行わんことを求むるがごとし。これに反して、智情および美情はたとえ心にそのなすべきを知るも、ただちにこれを実行上に発示せんとするの意なし。けだしこの三者は徳情固有の性質なり。

       第一一段 徳情作用

 人の徳情を有するには、善悪邪正を弁別判定する力を有せざるべからず。これを弁別判定するには、一種固有の道徳の本意なくんばあるべからず。この本心をここに良心という。良心は人の生まれながら有するところにして、この心によりて我人は善の善たるを知り、悪の悪たるを知り、悪を避けて善に移るを知るなり。いかなるものも悪をなして自ら快となすものなく、すでにその悪たるを知れば、自ら苦痛を感じて悔悟の情を生ずるは、全くこの良心の存するによる。故に良心は徳情の基址なり。しかしてその良心の発動によりて道徳の情を生ずるには、種々の単情と智力作用の相合するによるや、また疑いをいれず。智力中その最も要するものは、弁別および断定の作用なり。よく自身および他人の行為について、その善悪邪正を識別断定するにあらざれば、徳情の発することなし。また単情中の愛情および我情の相加わりて徳情を発現すること、また明らかなり。たとえば自ら悪をなしてその悪たるを知りて苦痛を感じ、自ら善をなしてその善たるを知りてこれを快とするは、多少我情の存するによる。我情は自己の名誉を愛するの情なるをもって、自ら悪をなせばその名誉を害し、自ら善をなせばその名誉を助くるの異同あるをもって、一身を愛するの私情はおのずから一身の道徳を愛するに至る。もしまた他人の悪をなすを見てこれを憎み、その善をなすを見てこれを愛するは、単純の愛情の相合して生ずるところなるは、更に余が言を待たず。別して同憐の情のこれに加わるありて、他人を愛するの徳情を生ずるに至ること、また無論なり。

       第一二段 良心起源

 果たしてしからば、徳情は智力、単情の諸作用相合して生ずるところなるはすでに知るべしといえども、その徳情の本心たる良心はなにによりて生ずるか、いまだつまびらかならず。これまた単情と智力の合作用より生ずるか、あるいは人の本来有するところにして教育、経験を待ちて生ずるものにあらざるか、この一問題は一種の難題にして、古来学者の説いまだ一定せざるなり。しかれどもこれを今日の実際に考うるに、天賦の良心と定むるを得ざる事情あり。今その事情を述ぶるに、第一に、道徳の標準は世によりて変じ、国によりて一定せざるの事情あり。たとえば四、五千年前に善と許したる行為にして、今日は不善となるものあり、一方の野蛮国にては善心と定めたるものも、他の文明国にては不善となすものあり。すなわち昔日は自愛をもととし、今日は自他兼愛をもととするがごとく、野蛮国は男女不同権を礼とし、文明国は男女同権を道とするがごとし。これ、善悪道徳の一定せざる一証となすに足る。もし果たして人に天賦の良心の存するときは、古今東西一定の基址あるべき理なり。しかるにその基址なきよりこれをみれば、人に天賦の良心なきを知るべし。第二に、人々の道徳心おのおの異なるの事情あり。たとえば世の古今、地の東西を論ぜず、今日今時の一社会について考うるも、人々の善悪を判定し、道徳を愛求するの情の一定せざるを見る。すなわち一種の行為を見て、甲はこれを十分の善とし、乙はこれを五分の善とし、丙はこれを三分の善とすることあり。あるいはそのはなはだしきに至りては、甲の善とするところのもの乙全くこれを悪とし、乙の悪とするところのもの丙全くこれを善とするの差異あり。あるいはまた、甲は悪をなして十分の悔悟の情を発するも、乙は同一の悪をなして三分ないし五分の悔悟の情を発することあり、丙は全くこの情を発せざることあり。もし果たして人々の天賦の良心あるときは、この不同を見るべき理なし。第三に、教育、経験を待ちて発達するの事情あり。すなわち善を愛し悪を憎み、悔悟勧懲の情は教育、経験に富みたるものに発達して、教育、経験に乏しきものに発達せざるを見る。もし果たして良心は天賦にして教育、経験を待たざるものならば、この不同あるべき理なし。第四に、人類に道徳心あるときは、諸動物にもそのいくぶんか存せざるべからざるの事情あり。すなわち小児輩および野蛮人種を験するに、情感、意志、智力三種の心性作用ともに、あるいはかえって一、二の高等動物にしかざることあり。故にもし人類ことごとく天賦の良心を有するを許すときは、一、二の動物もまたこれを有せざるべからざるの理あり。第五に、天賦の良心はだれの与うるところにして、いずれのときにこれを与えたるや確証なきの事情あり。これ、あるいは天帝の賦与するところと定むるも、畢竟推想に過ぎざること明らかなり。

 以上の諸事情によりてこれを案ずるに、良心は人の生来有するところにあらずして、教育、経験を待ちて発達すること、やや信ずべし。すなわち徳情は全く単情の発達より成り、智力のこれに加わるありていよいよ複雑なるに至りしや、理のかえって証すべきあり。ただ良心の人に存するゆえんは、いかなる悪人も悪の悪たるを知りてこれを快とするものなく、みな同一に前非を悔悟するの情を生ずというの一点にあり。しかれどもこの点は天賦良心の証となすに足らずして、かえって徳情の単情より発達したる証となすべし。この理を知らんと欲せば、まず愛他心の自愛心より生ずるゆえんを知らざるべからず。他語をもってこれをいえば、徳情は私情より生ずるゆえんを知らざるべからず。もしその生ずるゆえんを知らんと欲せば、人類の初期にありては、いまだ社会を団結せざるときありしを定めざるべからず。社会いまだ団結せざるに当たりては、人に愛他同憐の情あるべき理なし。なんとなれば、人々離散して生存し、あたかも今日の禽獣のごとくなればなり。当時もし道徳心ありということを得るときは、自愛すなわち道徳なりといわざるべからず。なんとなれば、自愛自利の私情の外、他に道徳心のあるべき理なければなり。その後、人類ようやく進みて社会を団結するに至れば、その事情、自愛を全うするには愛他を待たざるをえざるに至る。すなわちひとり楽しむは、衆とともに楽しむの楽しきにしかざるに至る理なり。ここにおいて自然の勢い人に愛他心を生ずるも、全く自愛を離れたる愛他心にあらずして、自愛の極、他を愛するに至るなり。しかれども事物には必ず習慣の規則ありて、ひとたび一方に進めば永くその方向に進まんとする性を有するをもって、ひとたび愛他心を発すれば永くその方向に進み、その極、自愛を忘れて愛他を求むるに至る。すなわち、身を殺して仁を成すというがごときの類これなり。ここにおいて、愛他心は人の習慣性となる。すでに習慣性となりたるものは一時自愛心のこれに抗して起こるあるも、ついにその性に勝つことあたわざるは勢いのしからしむるところなり。故をもって、人往々一時の発情に応じて自利の悪業をなすことあるも、その情、習慣性の愛他心に勝つことあたわずして、たちまち自ら苦痛を感じ、悔悟の情を生ずるに至るなり。これもとより進化自然の道理にして、天賦良心の存するによるにあらざること明らかなり。あるいはまた、人に惻隠愛憐の心あるを見て良心現存の証となすものあれども、これまた誤りなり。たとえば孺子の井におちんとするを見て己を忘れて救助せんとするは、良心より出ずるもののごとしといえども、人には同憐の情ありて、人の井におちんとするを見れば、自ら井におつるの情感を生じて苦痛に堪えざるが故に、前後を忘れてこれを救助するに至るも、その実、自身の苦痛を除かんとするの私情より出ずるものなり。これを要するに、愛他は自愛より生じ、同情および徳情は私情より生じ、天賦良心は経験、教育より発達するなり。しかして経験、教育というも、一人一世の経験、教育をいうにあらず、父祖の数世の経験、教育の積集遺伝したるものをいうなり。

       第一三段 宗教情操

 情操すなわち複情はさきに智美徳の三種を分かち、これに同情を加えて四種となしたれども、ここに至りて更に考うるに、以上四種の外に宗教情操の一種を加えざるを得ざるを見る。宗教情操とは、我人の人間外の一体に対して有するところの複雑の情感にして、徳情と最も密なる関係を有するものなり。すなわちその情操は、善を求め悪を避くるの情感に外ならず。ただその徳情と異なるは、一は良心を標準とし、一は人間外の無量の智と力とを有したるものを標準とするにあり。しかしてその無量の智と力とを有したるもののいかんに至りては、古代と今日と大いにその解釈を異にす。古代にありては、その体人類に類似したる形質を有し、人類に類似したる造作をなすもののごとく考えて、その人を去ることはなはだ遠からざるものなりしも、その説次第に進みて今日は、無形無質にしてやや普遍円満の体をもって宗教の本体となすに至る。しかれども、いまだ完全したるものといい難し。今後いよいよ進めて道徳、情美、知識の三種の性質円満完結したるものとなるべきは、余が期して待つところなり。果たしてかくのごとくに至らば、宗教の情操は智情、徳情、美情の三種の発達結合して生じたるものにあらざるべからず。果たしてしからば、宗教の情操は複情中最も複雑したる情感にして、智美徳三情の上に位するものならざるべからず。余もとより有形、有質、有意、有造の天帝を信ずるものにあらずといえども、智徳美の三種の性質円満完結したる無形、無質、無意、無造の普遍必要の妙理妙体は余が常に信ずるところにして、一日も早く哲学世界にこの複雑なる宗教を見んことを渇望してやまざるなり。他日この宗教を見るに至らば、余と諸君との快楽また計るべからざるものあらん。

       第一四段 複情発達

 複情の単情より発達するゆえんは、前講以下往々論ずるところを見て知るべし。しかして複情は、もしこれを五種に分かつときは同情をもってその初級とし、智美徳三情をもってこれに次ぎ、宗教情操をもって最高級とせざるべからず。これを複情発達の順序とす。しかれども宗教情操の下等なるものと同憐の情の上等なるものを較して、いずれがさきに発達するやというときは、宗教情操のかえって同情より早く発達するを見るはもちろんのことなり。けだしこれらの諸複情は互いに前後混合して発達し、判然その次第を分かつべからざるは明らかなりといえども、ただ大要について排列するときは同情を初級とし、宗教情操を最後とするなり。その順序やや小児の生長を見て知るべし。小児は、その初期にありては単情すら有せざるときあるべし、ようやく進んで単情を有するに至るも、いまだ複情の発達せざるときあるべし。しかして単情は全く私情より成るも、いよいよ生長してあまたの人に接し数回の経験を積むときは、苦楽同感の情を養成するに至るべし。この同感の情は他の単情と相合して更に他の複情を生ずるに至るや、また明らかなり。同情の、美情および徳情の起源となることは前に述べたるところを見て知るべく、その情のいくぶんか智情に加わることあるも、やや推量すべし。故にこの智美徳の三情は、同情より後に発達すと定めて不可なることなし。しかして宗教情操は、その高等のものについてこれを考うるに、智美徳三情の後に発達せざるべからずといえども、進みて今日の世界をみるに、人にこの智情あるをもって学問発達して事物百般のよく便宜を得るに至り、この美情あるをもって風俗器用の美麗改良を見るに至り、この徳情あるをもって交際親和、国家平穏の好結果をきたすに至る。これみな多少我人の目前にその結果を見、利益を受くるところにして、ひとり宗教の情操のいまだ発達せざるありて、道理世界に精神上の無量の快楽を開くことを得ざるは、実に遺憾というべし。これ、余が日夜苦心するところなり。

 (付言)左に四題を掲ぐ。諸君中その問題を解釈せんと欲する意あらば、請う、一論文を起草して、余をしてこれを一読するの幸いを得せしめられんことを。

   第一題 愛他心は果たして自愛心より起こるか。

   第二題 良心は天賦に属するか、はた経験より生ずるか。

   第三題 和漢の書は果たして美術なるや。

   第四題 智徳美兼備したる宗教とは果たしていかなる宗教なるや。





 

     第一四講 各論第一一 単意論

       第一段 意志義解

 前来心性の諸作用を講述して、智力および情感の性質事情はすでに略弁したるをもって、ここにその三種なる意志の作用を論明せざるを得ざるに至る。そもそも意志なる語は、心性の外界に対して示すところの行為挙動を義とするものなれども、すでに発示したる行為挙動のみを称するにあらずして、いまだ発示せざる内界の作用ももとより合称するなり。すなわち行為にさきだちて生ずるところの心性の方向、たとえば命令、決定、選択、制止等はみな意志の作用に属すべし。故に余は意志の作用を分かちて、内作用と外作用の二種とするなり。内作用とはいまだ外界に発示せざる心内の意志作用をいい、外作用とはすでに外界に発示せる心外の意志作用をいう。しかれどもこの内作用は智力作用と密接なる関係を有するをもって、あるいは判然その間に分界を立つることあたわざるものあり。かつその内作用も外界に発示せんとする作用にして、すなわち外作用の前級に外ならざること、すでに明らかなり。故に外作用をもって意志の主作用となすべし。これ、余が第二講第五段に情感、智力、意志三種の関係を論じて、一は外界より内界に入り、一は内界中にあり、一は内界より外界に向かうの異同ありというゆえんなり。もしあるいはこの三種作用を神経統系上に考うるときは、求心性神経は情感作用をつかさどり、遠心性神経は意志作用をつかさどり、中枢神経は智力作用をつかさどるの異同ありと定むるも、全く一理なきにあらず。あるいはまた心理上感覚は情感に属し、運動は意志に属し、智力はその中間に位するものなりとなすも、また不可なることなし。かくのごとく意志作用を解するときは、その作用を発示する機関は手足、口舌のごとき運動を有する部分ならざるべからず。しかれども運動は意ありて起こるものと、意なくして起こるものの二種あり。その一を有意作用と名付け、一を無意作用と名付く。たとえば手をもって人をうつは有意作用にして、日光に触れて目を閉ずるは無意作用なり。この無意作用は知らず識らず発現せる挙動にして、意識の範囲内に起こるものにあらざるをもって、これを心性作用の中に加え難し。かつそれ意志作用の性質たるや、目的を有する作用を義とするをもって、無意作用のごとき目的なき作用にその名を与うるは不当なりとす。けだし意志作用は、第一に意識の範囲内に起こり、第二に一定の目的ありて起こるの二事情を兼有するを要するなり。故にあるいは意志作用を解して、単に目的ある作用となすものあり。しかるに無意作用は全く目的なくして起こるをもって、意志作用の一部分となすべからざること明らかなり。しかれども実際上これをみるに、判然、有意と無意を分かつべからざることありて、有意は変じて無意となり、無意は進んで有意となるもの、いくばくあるを知らず。けだし有意も無意も、その実、同体の心性作用にして、発達の前後にその差別を見るに過ぎざるなり。故に余は、意志作用中に往々無意作用を混同して論ずることありと知るべし。

       第二段 意志関係

 意志作用の他の諸作用に密接なる関係を有することは、第二講にすでに略述したるところなれども、更にここに他の例を挙げてその関係を一言せんとす。まず意志と情感との関係は、意志の発動の情感より生ずるを見て知るべし。たとえば、情感上楽を覚するときはその方に向かって決心断行の挙動あるを見、情感上苦を感ずるときはその反対の方に向かって決心断行の挙動あるを見る。これみな情感の意志の方向を導き、その発動を促すものなり。つぎに意志と智力との関係は、意志の目的は智力のこれを想定するによるを見て知るべし。たとえば途中急雨に逢うて樹下に入るは、すなわちその樹下に雨を避けんとする目的ある挙動なるをもって意志作用の一種なれども、その樹下に入るにさきだちて、樹下の果たして雨を避くるの目的を達すべきを思惟推測せざるべからず。故に意志作用の目的を定むるものは智力なりというべし。その他、意志作用に要するところのものは願望と信憑なり。今、意志の目的を達せんとするに当たり、その方法のよく目的を達すべき信憑せざるべからず。もしその信憑なきときは、意志作用を現示すべき理なし。たとえば樹下に入れば一時雨を避くべきことを信憑するをもって、はしりて樹下に入るものあれども、その避くべきを信憑することあたわざるときは、あえて雨を避けんと欲して樹下に入るものあらんや。また意志は快楽の方位に向かって動き、苦痛の方位に反して進むの性あるをもって、願望と直接の関係を有するなり。願望は快楽について起こることは余が弁を待たざるところにして、すでにその身に試みて快楽を感ずるときはこれを願望し、苦痛を感ずるときはこれを厭棄するは、けだし我人の常性なり。意志の作用もまた全くこの性による。すなわち願望は意志の基礎となるものなり。かつ余が第一二講に掲げたる自保の規則は全く意志の起源にして、けだし意志は、人の苦を避け楽に就かんとする天性の発達によるものなり。これまた、意志の智力情感両作用と直接の関係を有するゆえんを示すに足る。しかれども余が第二講第六段に論ずるごとく、智力、情感、意志の三種作用はまた、互いに相抗排する性ありてその間に存するを見る。たとえば情欲盛んなるときは意力をもって制止すべからざるに至り、意志強きときは情欲をして発することを得ざらしむるに至るは、情感意志の互いに相抗排するものなり。また、活発にことをなさんとするに当たりては深く観察思惟することあたわず、深く観察思惟するときは活発にことをなすあたわざるは、智力意志の互いに相抗排するものなり。

       第三段 願望性質

 前段、願望の意志の基礎なることを一言したるをもって、ここにその性質を論明するを必要なりとす。それ願望は意力の初級にして、智力情感相合して生ずるものなり。すなわち心性三種作用みなこれと相関するものなり。まず智力と願望の関係は、願望は再現より生じ、再現は経験より起こるを見て知るべし。たとえばここに我人の願望するところの一物あらんに、これを願望するの情の起こるには、内想上その物質性質を再現せざるべからず。これを再現するには、経験上そのもののなんたるを見聞覚知せざるべからず。すでにこれを見聞し、またよく再現するをもって、これを願望するの情を生ずるなり。もしその経験なく、またその記憶なきときは、あえてこれを願望するの情を発するの理あらんや。しかれども人の智力の十分発達したるときに至れば、その願望するもの必ずしも自らすでに経験せるものに限るにあらず。そのいまだ経験せざるものも、構想および虚想の力によりてその事情を想出して、これを願望することあり。かくのごとく、実際経験したるものを願望すると、いまだ経験せざるものを願望するとの別あるも、要するに願望は智力作用を待ちて生ずるものなり。つぎに願望と情感の関係は、多言を要せずしてたやすく知るべし。願望は常に楽感に伴って起こるものにして、これを試みて快楽を感ずるときはこれを願望し、これを試みて苦痛を感ずるときはこれを厭棄するによる。また、願望は物の不足欠乏より生ずるとするも、不足欠乏は苦痛の感覚をきたし、満足完備は快楽の感覚を生ずるものなるをもって、その不足欠乏のときに当たり、前時の満足完備の快楽を回想して願望の念を生ずるなり。故に願望は情感と常に相離れざるものと知るべし。かつまた願望は不足欠乏の情感と同一にして、これを達することあたわざるときは苦痛を感じ、よくこれを達すれば快楽を感ずるなり。これをもって、情感の願望に伴って生ずるゆえんを知るべし。これを要するに、願望は情感と相離るるべからざるものなり。つぎに願望は意志の初級にして、その内作用も外作用も、みなすでにこの中に胚胎して存するなり。たとえば一物を願望するときは意力すでに内界にありて、そのまさに達せんとする方に向かい、かつその影響を遠心性神経の上に及ぼし、手足身体ともにその方に向かって動かんとする状あり。しかれども、いまだ願望をもってただちに意志作用なりと定むることをえず、ただこれを意志作用の初級とするのみ。しかして願望に強弱の不同あるは、ただに快楽の多寡によるのみにあらずして、その事情を再現するの明不明、および経験の数回にわたるとわたらざるとによりて不同なきあたわず。けだし日夜常に永続して起こるところの願望は、日夜常に経験して一種の習慣性をなすによるなり。

       第四段 意志性質

 以上は意志の初級と願望と相較して論じたれども、いまだ直接に意志の性質いかんを論ぜず。意志はそのすでに発達したるものについて考うるときは、願望とまた大いに異なるところありて、これを同一作用とみなすべからざるなり。今そのゆえんを述ぶるに、願望はその目的とするところの物体を再現するのみにて足れりとすといえども、意志はその目的を達する方法までも再現せざるべからず。すなわち、その目的を達すべき行為挙動の情況を想見することを要するなり。たとえば美味ありて、これを食わんとする願望は、その味の快楽を再現するのみにて起こることを得るも、意志はいかにこれを食うの方法、情況までを再現することを要するなり。これ、意志の願望と異なるゆえんなり。つぎに意志と意向の異同を述ぶるに、前にすでに示したるがごとく意志には内外両作用ありて、外作用は直接に行為挙動に与うる名称にして、意向とやや異なるところありといえども、内作用はそのいわゆる意向作用にして、すなわち選択、制止、命令、決定等は、心力の一方に会注したるものに外ならざるなり。故に、意向は意志の内作用なりと知るべし。更に進んで内外両作用の関係を考うるに、これ全く性質を異にするもののごとく見ゆれども、あえてしかるにあらず。ただ一体の作用上、内界の情況と外界の情況とについてこの別を見るのみ。故に外作用を発示せんとするときは、まず内界にありて意向のその一方に会注するを要し、かつその意向によりて外作用の方向事情の定まるに至るなり。

       第五段 単意起源

 意志の発達は、智力および情感の発達のごとく単純より複雑に入り、表現より内現に進むものとす。故に幼児輩の現示せる意志作用は極めて単純なるものにして、たとえ〔ば〕物を握りて口中に入るるがごとき挙動に過ぎず。これに反して成年のものの意志作用は、書を読み字を記するがごとき複雑作用なり。かつ幼児の作用は外界の感覚に関して起こり、大人の作用は内界の想像推理より起こるもの多し。たとえば、手をもって食物を口中に入るるは感覚より起こるものに過ぎずして、書を読み字を記するは想像推理より起こるの類を見て知るべし。これ、その作用の表現より内現に進むゆえんなり。故に意志のいまだ発達せざるに当たりては、ひとり外作用の存するを見るも、内作用はほとんど現ぜざるもののごとし。その当時の作用はもとより無意作用にして、意志の名称を与え難し。ようやく発達して内作用を現ずるも、単純なる意向の作用を現ずるにとどまりて、いまだ複雑なる思慮、選択、決定等の作用を生ずるに至らず。この複雑なる作用は、意志の十分発達したるときに限る。けだしこの作用は、情感思想および挙動を命令左右するものなり。故にその発達はまた、諸作用の多少すでに発達したる後にあり。更に一歩を進めて意志の発達はいかなる事情によるかを考うるに、他の諸作用のごとく経験によること別に論ずるを要せず。他語をもってこれをいえば、動作、習慣、連想の三事情によりて意志の発達を見るなり。しかれども人の有するところの意志は、ことごとくその人の動作、習慣、連想によりて発達するにあらず。その生来有するところの本能力に経験、教育の加わるありて、初めてその発達を見るやまた疑いを入れず。故に余は今、意志作用を講述するに当たりて、まずこれを単純なる意志すなわち単意、および複雑なる意志すなわち複意の二種に分かち、思慮、選択、決定等の意志作用をもって複意に属し、その他の単純なる作用をもって単意に属するなり。しかして本講はもっぱら単意の起源発達を論じ、複情〔意〕の性質事情は次講に譲るべし。そもそも単意作用の初めて起こるは、ひとり経験によるにあらずして、人の生来有するところの性力によること、多言を待たずして知るべし。今その発達の初期にさかのぼりてこれを考うるに、意思の起源となるべきものに三種の挙動あり。第一を本能性の挙動とし、第二を模倣性の挙動とし、第三を偶然性の挙動とするなり。まず本能性の挙動とは、人の生まれながら有するところの能力にして、赤子の乳の吸うべきを知るがごとし。火を見てこれを避け、食物を見てこれを握らんとするも、やや本能力に属するものなり。つぎに模倣性の挙動とは、幼児の人のなすところを見て、その挙動を模倣するものをいう。たとえば人の笑うを見てこれを模倣し、人の歩するを見てこれを模倣するがごとし。つぎに偶然性とは、身体自然の勢力に従い、その運動神経の興奮に応じて、偶然に手足を動かすがごとき挙動をいう。けだし人は身体の造構、神経の分布、おのずからその手足をして運動を発することを得せしむるの装置を有するをもって、体力発達し神経興奮するときは、知らず識らず外作用を営むに至るなり。しかしてその初めて起こるは偶然に出でたるも、反復数回の後に至るは、目的ある挙動を営むに至るべきもまた必然の理なり。たとえばその初め偶然に手足を動かしたるも、反復数回ののち歩するに足を用い、握るに手を用うべきを知るに至るがごとし。かつ身体の造構、自然に手の左右に延長すべく、足の前面に進向すべき装置を有するをもって、これをその自然の勢いに任ずるものを前面に転じて歩し、手を左右に伸ばして握るに至るべき理なり。たとえこれを偶然に任ずるも、その人決して手をもって歩し、足をもって握るに至るべき理なし。しかれども、またあえて意志は偶然挙動のみによりて発達するにあらず。本能性挙動および模倣性挙動の相合するあり、かつその生長の際経験の積集するあり、智力の発達するありて、ますます発達するに至るべし。その他、意志の発達を助くるものは情感の事情なり。経験上楽感を覚するときは、大いに行為挙動を催進するの勢いあるは、さきにすでに略明せるところなり。これを要するに、意志の初期は偶然性、本能性、模倣性三種の挙動ありて起こり、智力情感の発達に伴って次第にその発達を見るに至るなり。もしまた進化の規則によるときは、意志は反射作用より発達したるものといわざるべからず。今、唯物論者の述ぶるところをみるに、反射作用発達して本能作用を生じ、本能作用発達して智力、情感、意志の諸作用を生ずるに至るという。反射作用と本能作用はともに自動作用にして、ともに無意作用に属す。すなわち意志ありて、あらかじめその目的を定めてなすにあらずして、無意自然に起こるなり。しかしてこの二者の異なるは、一は身体上の活動に名付け、一は心性上の自動に名付くるの別あり。かつ一はその作用やや単純にして、一はやや複雑なるの差異あり。すなわち本能作用は、反射作用と智情意三種の心性作用との中間に位するものなり。故に、すでに意志作用の本能力より発達するゆえんを知るときは、本能作用の反射作用より生ずるゆえん、また推知すべし。しかれども意志の反射作用より進化するの説は、心理学者のいまだ全く許さざるところにして、余輩これを断言するあたわずといえども、有意作用より無意作用の発達することはやや疑いを入れず。小児および野蛮人の行為挙動は無意に出ずるもの多し。しかしてその生長の際、無意の次第に転じて有意となるを見る。けだし経験数回にわたり、作用複雑に入り、智力情感ともに発達するに至れば、無意は転じて有意となるべし。また経験反復の力、有意の転じて無意となることあり。たとえば愚婦の念仏を誦する、その初めは有意に起こるも、反復数回ののち口を開けば、その言自然に念仏となるに至るがごとし。これをもって、有意と無意の同一作用にして、有意のよく無意より発達すべきゆえんを知るに足る。

       第六段 経験影響

 前段は意志の起源を論じたれども、いまだその経験によりて発達する順序を述べざるをもって、ここにその順序を一言せんとす。人その生長の際、種々の外物に接触してあるいは楽を感じ、あるいは苦を覚することあるときは、自然に外物と情感との間の関係を知るに至り、ただちに外物を見てその有するところの苦楽の情況を知り、あるいはこれを避けんとし、あるいはこれに就かんとするの挙動を呈するに至る。ここにおいて、偶然無意より起こる作用も、次第に転じて有意となるを見る。つぎに、理想の発達によりて意志の発達を見る。たとえば外物に接すれば、いかなる挙動をもってこれに触れ、また自ら有するところの願望は、いかなる方法をもって達すべきかを再現するに至る。すなわち、願望、目的を達すべき方法を再現するなり。ここにおいて意志はいよいよ発達すべし。また、つぎに連想の発達によりて意志の発達を見る。たとえば一物の目前に現ずるあれば、これと連合したる諸想を喚起して、いまだその目的を達せざるに、すでにこれを達したるときの事情を想出して、意志の作用を促すに至る。その他、構想のまた大いに意志の作用を助くるを見る。けだし人の挙動は模倣より成るもの多しといえども、また新挙動を構成することあり。これを構成するには、連想および構想の作用によらざるべからず。これを要するに、人の意志はその初め偶然に起こり模倣になるも、その生長の際種々の経験を積みて、願望、現想、構想の諸作用とともに発達するに至るなり。

       第七段 命令挙動

 かくして意志の発達するに従い、各別運動は転じて結合運動となる。たとえばその初め左右両手は各別に運動を営みたるも、互いに相結合して一体の運動を営むに至り、手足もまた結合運動を営むに至り、耳目身体の間にも結合を生ずるに至る。たとえば目に見てその結果を手足の運動に示し、耳に聞きてその感覚を口舌の運動に発することあり。すなわち命令挙動はこの結合より起こる。命令は言語をもって指示するものにして、その言語は行為挙動の各種を表示したるものなり。故に意志発達すれば、言語を聞きてその挙動を行為上に示すことを得るに至るべし。ここにおいて命令作用起こる。すなわち命令に応じてその挙動を示すものこれなり。この作用は言語と挙動との間に思想の連合するを要するをもって、これを外命令という。すなわち外よりきたるところの命令なればなり。これに対して内命令と称するものあり。内命令とは外よりきたるところの命令を待たず、内界の想像思想によりて自身に与うるところの命令をいう。故にこれを、あるいは独立命令と称することあり。この命令によりて行為挙動を予定構成し、制止奨励することを得るなり。

       第八段 運動習慣

 智力思想に習慣性あるのみならず、意志運動にもまた習慣性あり。習慣性発達すれば運動は次第に営みやすく、かつ速やかなるに至る。すなわち習慣の力によりていかなる運動も、殊更に意志を用いずして自然に営むことを得るに至るなり。故に、習慣性の力よく有意作用を転じて無意作用に変ずべきものとす。かつこの習慣性は、単純なる運動を変じて複雑なる運動を得るに最も必要なるものなり。たとえば遊泳を習練するがごとし。その初めに当たりては、まず、いかにしてその手を動かし、いかにしてその足を動かすべきを習い、しかして後、手足同時に結合して動かすことを学ばざるべからず。故にこれを同時に動かすことを得る前に、手足各別に動かす習慣性を養成するを要するなり。すでにその各別に動かす習慣性を得るに至れば、これ同時に結合して動かす習慣性を養成するを要す。この習慣いよいよ熟すれば、いよいよ遊泳の術に達すること得べし、また踏舞を学ぶがごとし。その初め単純なる運動の習慣性を養成して、のち複雑なる運動を営むことを得るに至るなり。故に、習慣性は意力の発達に最も必要なるものとす。しかしてひとたび養成したる習慣性は、これを変じて他の習慣性を養成せんとするは、また大いに意力の作用を要するなり。たとえば数年間自家に雇うたる下女の、一朝いとまを請うて去るに及び、更に他の下女を入るるときに、その名を呼ばんとするも必ず前時の下女の名の口に発するものなり。もしこれを避けんとするときは、その名を呼ぶごとに大いに意力を労せざるべからず。また、旅宿にありて数月間ある一定の室内に眠食し、一朝その室を転ずるときは、往々誤りて前時の室に入ることあり。これみな習慣性のしからしむるところなり。およそ習慣性を養成するに三種の事情あり。曰く、注意、反復、不断、これなり。注意とは常にある一方に意を用うるをいい、反復とは反復数回同一のことを営むをいい、不断とはあまたのことをまじえずして、多少の時間ただ同一のことを接続するをいう。この三種の事情によりて、習慣性を養成するの速やかなることと遅きこととの異同を生ずるなり。

 

     第一五講 各論第一二 複意論

       第一段 複意起源

 前講は単意の性質およびその発達を講述したるをもって、ここに複意の起源を論明せざるを得ざるに至る。およそ単意と複意との異同は挙動の単雑によるのみならず、単意は自然の衝力によりてその作用を呈し、複意は思想、論理力によりてその作用を呈するの不同あり。しかれどもその起源および発達の事情に至りては、同一の規則によるものなり。すなわち経験の積集と、再現の発達とによること明らかなり。今、複意の起源を述ぶるに、その初め単意より起こる。その単意、経験再現の事情に伴って次第に発達して、複雑なる意志作用を現ずるに至る。すなわちその単意の転じて複意となるは、あたかも単意中の無意作用の転じて有意作用となると同一の事情によるものなり。他語をもってこれをいえば、経験と智力の発達に伴うをいう。けだし人のいまだ経験に富まず智力に乏しきに当たりては、その見るところいたって狭く、その期するところいたって近きをもって、ただ一時、目前の快楽を求めて挙動を営むに過ぎずといえども、経験広く智力長ずるに及んでは、遠大の目的を期して行為を予定するに至る。この遠大の目的を予定するには、現想構想および権理力の発達を要するなり。他語をもってこれをいえば、記憶想像および論理力の発達を要するなり。記憶想像および論理力発達すれば、いまだ挙動を現示せざるに、早くすでにその結果影響を予定推量して、一時の情力に従わずして永存の目的を期するに至る。たとえば壮年輩のいまだ智力に富まざるものは、人の自身の上に小害を加うれば、ただちにこれに抗して粗暴の挙動をなすも、智力長ずるに及びその将来にきたすところの結果を予定して、かえって懇切なる挙動をもって、その仇に報ずるに至るがごとし。また、意志は情感の発達に伴って発達するものなり。情感の意志作用の衝力となることは前すでに論じたるところにして、願望は情感より生じ、意志は願望より生ずるを見て知るべし。しかして情感の最も下等なるものを五感肉身の苦楽とす。そのつぎを単純の情緒とし、その最も高等なるものを複雑の情緒とす。今、下等の意志は下等の情感の衝力によりて発し、高等の意志は高等の情感の衝力によりて発するなり。たとえば口に美味を求むるの願望に応じて、朝夕飲食にのみ汲々するは下等の意志作用なり。また、一人の利を図り名を釣るの私情に従って、朝夕利名にのみ奔走するは、意志のいまだ高等なるものにあらず。その高等の意志に至りては、社会を愛し、衆人を憐み、道徳を重んずるがごとき挙動をいう。これまた人の生長の際、次第に発達する順序なり。故に意志は情感とともに発達するものなりと知るべし。これを要するに、意志は智力情感とともに発達して、単純より複雑に進み、浅近の目的より遠大の目的を期するに至るなり。たとえば意志の期するところの目的は幸福にありと定むるに、その初めは一身の幸福を期し、ようやく発達して一家一郷、一国一天下の幸福を期するに至る。その一身の幸福を期するがごときは、目的のいたって浅近なるものにして、その一国一天下の幸福を期するがごときは、目的の最も遠大永存なるものなり。高等の意志は、この遠大永存の目的を期せざるべからざるなり。

       第二段 複意性質

 複意の単意とその性質を異にするは種々の点において見るべしといえども、その主たるものを挙ぐれば、第一に、単意はその期するところの目的近きにありて、複意はその期するところの目的遠きにあるの別あり。これ、余が前段すでに述ぶるところなり。第二に、単純は単純の衝力によりて起こるも、複意は複雑の衝力によりて起こるの別あり。今その意を述ぶるに、たとえば小児が手を出して食物を握るは、単に食物を欲する願望に外ならざるをもって、これを単意作用に属すべしといえども、人のために食物を取りてこれをその人に与うるは、その人の愛するの情と、他日その人より報酬を得んと欲する願望、およびその他種々の衝力の相合して起こるものなるをもって、これを複意に属すべし。複意中の高等なるものに至れば、ますますあまたの衝力の相合するを見る。その合する衝力中、互いに相助くることと相排することあり。たとえば父母その子に命じて、今日は親戚某の家を訪問すべしといいたるに、その日幸いに快晴にして自ら戸外に散歩せんことを思い、かつ自身もその親戚の近辺に私用あるときは、いわゆる三種の衝力の互いに相助くるものなり。もしこれに反して、その日雨天にして自ら戸外に出ずるを好まず、かつその日自宅においてなさんと欲する私用あるときは、三種の事情の互いに相排するものなり。その相助くるときは、ただちに父母の命に従って親戚を訪問するに至るべきはもちろんなりといえども、その相排するときは、ただちに決心断行することあたわず。すなわち暫時猶予して、三種の事情の間にその軽重を較せざるをえざるに至る。その軽重を較して父母の命を奉ずる情、他の二種の事情に勝つときは、私用をすてて親戚を訪問するに至るべしといえども、もし他の二種の事情の父母の命を奉ずるより重きときは、その日戸外に出でざるに至るべし。たとえば仮に甲乙丙の三事情ありと定めて、甲は五度の衝力を有し、丙も乙もおのおの五度の衝力を有すと想するに、三種の衝力互いに相助くるときは一五度の衝力を得べし。もしその間互いに相排するありて、甲は右せんと欲し、乙丙は左せんと欲するときは、五度の衝力は一〇度の衝力に勝つことあたわざるをもって、乙丙の方に決心断行するに至るべし。もしまた甲は五度の衝力を有し、乙丙はおのおの二度の衝力を有してその間に相排するときは、甲の方に決心断行を見るに至るべし。もしまた甲は五度の衝力を有し、丙は二度、乙は三度の衝力を有して、甲と乙丙との間に相排するときは、両方同一の衝力を有するをもって、一方に向かって決心断行することを得ずして、他の事情のその一方に加わるまでは猶予躊躇せざるをえざるに至る。たとえまた甲と丙乙と同一の衝力を有せざるも、甲は五度を有し、丙乙おのおの二度四分を有するときは、その力両方ほとんど相同じきをもって、即時に決心断行することあたわず。もしまた三者中、一事情曖昧としてその衝力の度数判然せざるときは、またおのずから猶予躊躇せざるをえず。その他、諸事情あまた相集合してその間に相排するときもまた、ただちに決断を下すことあたわず。およそ事情の不明、疑惑、錯雑は猶予躊躇の原因となること疑いをいれず。小児のごときに至りては、その事情錯雑にわたらず、その性質信拠しやすきをもって決断しやすしといえども、智力の進みたるものに至りては種々の事情を想出し、疑念をその間に起こして比較対照するをもって、即時に決心断行し難し。今またここに、世俗に伝うるところの昔話についてその例を示すに、父母その子の家を出ずるを見て、父曰く、今日は好天気なれば草履にて行くべしと。母曰く、今日は途中にて雨あるも計り難きをもって下駄にて行くべしと。そのときいずれの方に決すべきや。父の命重きときは父の方に決し、母の命重きときは母の方に決するはもちろんなりといえども、両方に軽重を定むることあたわざるときは、他の事情の起こるまでは猶予躊躇せざるべからず。猶予躊躇してなお他の事情の起こらざるときは、家を出ずることをやめざるべからず。これをやむるもまた父母の命にたがう故に、その子は父母の両命を折衷して、右足に草履を着け、左足に下駄を着けて出でたりという昔話あり。これ、両方の衝力の平均したるときをいうなり。しかれども実際上これを考うるに、種々の事情のその間に錯雑して起こるありて、決してその平均を保つことあたわず。故に暫時猶予躊躇すれば必ず一方に軽重を生じて、決心断行の結果を見るに至るべし。ただその衝力錯雑してその事情明らかならざるときは、多少の時間猶予躊躇するを免れず。しかれども人もしその行為の結果、影響の利害得失を顧みざるときは、いかなる錯雑なる事情に接するも、ただ一時の衝力に従って決心断行するをもって、猶予躊躇のときを要せざるなり。これをもって小児および智力に乏しき者は、かえって速やかに決心断行することを得るなり。以上論ずるところ、これを要するに、意志は衝力に応じてその作用を呈するものにして、衝力の強くしてかつ重き方に向かって進むものなり。もしその衝力あまた相会して互いに相抗排し、かつたやすくその間に軽重強弱の異同を見ることあたわざるときは、自然の勢い猶予躊躇するに至るべし。しかして余がここに衝力と称したるものは意志作用を起こす原因にして、すなわち願望のごときものをいうなり。

       第三段 努力作用

 前段論ずるところによりて、努力および思慮作用の存するゆえんを知るべし。まず努力作用とは、意志を制止するに要するところの力にして、たとえば美味を飽食せんとするに当たり、その飽食するは情欲の衝力より生ずるところの意志作用なれども、その衛生に害あるを知りてこれを制止するもまた意志作用にして、これ意志の努力より生ずるものなり。すなわちその情欲の衝力に抗抵するの力、これを意志の努力というなり。この努力作用は、目前の私情をほしいままにするの意志を制止して、更に他の意志を生ぜしめ、下等の意志を制して上等の意志を発せしむるに要するところのものなり。しかしてそのこれを制止する力は、果たしていずれより起こるやというに、これ心力の一方に会注する力にして、たとえば甲乙二種の衝力ありて互いに相排するに当たり、甲を制して乙を発せんと欲するときは、心力をして乙の一方に会注せしむるをいう。これを要するに、意志の努力とは心力の一方に会注するより起こるものと知るべし。しかしてその力をして一方に会注するに至るは、果たして何者の命ずるところなるやというに、諸君は必ずこれに至りて神仏の媒介を要せざるをえずと想せらるるかも計り難しといえども、あえて神仏の媒介を要せず。これまた経験によるものなり。すなわち経験上発達したる記憶連想等の事情によりて、一方に起こるところの意志作用は、これと連想したる他の作用を喚起して、心力の自然にその方に会注するに至るをいう。

       第四段 思慮作用

 今述ぶるところの努力作用は、意志の努力をもってひとたび起こるところの意志を制して、他の意志を喚起せんとするものなり。他の意志を喚起せんとするときは、種々の事情を想出せざるべからず。種々の事情を想出するときは、その諸事情の間に比較対照して軽重を判定するもの、これを思慮作用という。すなわち思慮作用は諸事情を心内に想出対照して、その最も重きものを取るなり。故に努力作用および智力作用の思慮に必要なること、たやすく知るべし。まず努力作用をもって目前一時の衝力を制して、他の諸事情をして心内に現ぜしめざるべからず。かつ智力作用をもって、その諸事情を比較断定せざるべからず。しかしてそのすでに思慮したる後に至れば、あるいはその初めに起こりたる情力を全く制止するに至ることあり、またかえってこれを鼓舞することあり。たとえば美味に対して飽食せんとする情欲を生じ、これを思慮してその衛生に害あることを考定し、ついにその情を全く制止するに至ることあり。またこれを思慮して一時飽食するも、適宜の運動を施せばその害なきを知り、かえってその情を鼓舞することありと知るべし。

       第五段 選択作用

 かくのごとく努力および思慮によりて諸事情を比較考定するときは、たやすく選択作用を施すことを得。選択作用とは、その果たしてなすべきか、なすべからざるかのいまだ決せざるに至りて、これを判決してその一方を取るの作用をいう。故にその作用はすなわち決断作用なり。決断作用は、諸事情の間に利害得失、善悪吉凶を比較対照して、その最も利かつ善なるものの方に決するをいい、選択作用も、害苦ありと思慮するものを捨てて、福利ありと思慮するものを取るをいう。しかれども決断選択は、必ずしもあまたの事情を心内に想出対照するを待たず。その下等の作用に至りては、目前一時の衝力に応じて決断選択することなきにあらずといえども、高等の作用に至りては、なるべく多くの事情を想出し、なるべく精密の比較を取ることを要し、精密の比較を取るには、つとめて心を虚静に保つことを要するなり。

       第六段 決定作用

 決定作用は、決断作用の一層高等にしてかつ完全なる意志作用なり。その決断作用と異なるは、一は即時に実行すべきも、一は即時に実行するにあらざるにあり。たとえば人より託されたる書翰を紛失し、その人に粗漏の罪を謝せんと決断し、これを明日その人に会面するときを待ちて謝せんと決定するがごとし。故に決定は、未来に対して信拠を置くところの意志作用なり。すなわち、あらかじめ明日または明後日の事情を考定して、そのときに当たりてなさんと欲する挙動を決可想定する作用なり。およそ人の行為はあらかじめこれを期して、甲をなしたるつぎに乙をなし、乙をなしたる後に丙をなすと、その順序を前定するを常とす。これ、いわゆる決定作用によるものなり。小児輩の自らすでに決断するところのもの、これを多少時間を経たる後に行わんと決可認定するもまた、この決定作用の一種に外ならず。すなわち決定作用は、意向の一点に会帰して多少の時間を経て起こるところの事情に対して、そのなさんと欲する挙動の安定するものをいう。

       第七段 耐忍作用

 前段述ぶるところによりて、決断作用は即時に発することあるも、決定作用は多少の時間を経て発すべきをもって、その間に耐忍作用の存するを見る。耐忍作用とは、意向を一点にとどめてたとえ諸事情に接するも、よくその目的を守りて変ぜざる作用をいう。もしこの耐忍力なくんば、すでに決断したるもの暫時も延引することあたわざるは必然なり。故に耐忍作用は、決定作用を施すに最も要するところなり。しかしてこの耐忍作用は、決定作用のごとく意向を一方に会注して、その方向を保守するものなり。この決定耐忍の二者は、必ずしも選択決断と同一の規則に従うにあらず。選択決断力に長じたるものはかえって決定耐忍力に乏しく、選択決断力に乏しきものかえって決定耐忍力に富むを見る。かつこの耐忍力のごときは、道徳上の行為を現ずるに最も要するところにして、人に克己の性質あるもまた、この耐忍力に外ならざるなり。

       第八段 克己作用

 克己作用は、そのいわゆる耐忍力をもって自己の私心を規制する作用にして、これ一種の制止作用なり。今この克己作用を分かちて、意志の規制と、情感の規制と、智力の規制との三種とす。意志の規制とは簡単にこれをいえば、下等の行為を制して高等の行為を発せしむるものをいう。たとえば、目前の利益に走り一時の快楽を求むるの行為を制し、習慣および教育のよろしからざるより生ずる挙動を抑えて、その反対の行為挙動を発せしむるの類をいう。しかしてその作用は行為挙動を制止するのみをいうにあらず、またこれを鼓舞することあり。たとえば大事をなさんとするに当たり小苦小害の妨害あるも、よくこれにかちてその目的を達せしむるもまた、克己作用の一種なり。今更に意志の規制の発達する順序を考うるに、目前一時の間に行為を規制するは、その最も下等なるものなり。たとえば午睡の欲を制して夜眠を求め、朝食うべきものをやめて昼食を待つがごときの類これなり。もしこれらの規制、目前一時の便宜によるにあらずして、一身の健康、世間の名聞のためなるときは、やや高等に属する克己と称すべし。更に進んで一身の道徳、死後の名誉のために己を制するは、なお一層高等の克己作用なり。もし己を制して人のために、社会、国家、人民のためにするときは、最も高等なる行為と称すべし。故に意志の規制は目前一時の私利の行為を制するに始まり、衆人同時の公利の行為を発するに終わるものなり。つぎに情感の規制とは、下等の情欲を規制して高等の情操を生ぜしむるをいう。これを規制するの法、その初め行為挙動を規制するに起こる。たとえば小童らが人の家に行きて、その前に供えたる茶菓を食わんと欲するの情あるも、強いてその情をとどめんとするときは、手を出さざることをつとむるの類をいう。また、田舎の人が都会に出ずるときは奢侈の情を動かすをもって、つとめて都会に出でざることをつとむるも、いわゆる挙動を規制するものなり。また、禅寺の門前に「葷酒山門に入るを許さず。」(不許葷酒入山門)と題して葷酒を傍らに近づけざるも、これと同一理なり。これを下等の規制法とす。上等の規制法は間接に挙動を規制するを待たず、直接に心内に発するところの情緒を制止するにあり。この直接の規制法にあらざれば、到底発情の念慮を去るあたわず。しかれども直接にこれを去るはすこぶる難事にして、高等の意力作用を要するなり。すなわち努力耐忍の作用を要す。努力耐忍を用うるも、智力経験に乏しきものは、その一時の発情を抑止するはなはだ難し。もし智力経験に富みて、明らかにその情より生ずる結果を前見し、その利害得失を判知するときは、下等の情を制して高等の情を発せしむること、もとより容易なり。これ人に教育を要するゆえんにして、教育習慣そのよろしきを得れば、たやすく下等の情を制止することを得べし。もし無智愚鈍の人民に至りては、その情を規制するの法は神仏の力をかるるより外なし。つぎに智力の規制とは、記憶、想像、思想等の諸作用を規制して、意をある一方に注がしむるをいう。たとえば書を読みてその事実を記憶せんと欲すれば、他の思想を抑止して意をその一方に注がしめざるをえず、また一事を想像せんと欲すれば、他の想像を制止せざるべからず、一理を思惟せんと欲すれば、他の思惟を制止せざるべからず。これ、智力をもって智力作用を規制するものなり。

 以上三種の規制は互いに密接なる関係を有して、その一を制止せんとすれば、多少他の作用も制止せざるべからず。また他の作用を制止すれば、その一も自然に制止することを得べし。たとえば情緒と外貌は必ず連結するをもって、外貌を制すれば情も従ってやみ、情を制すれば外貌挙動も従ってやむものをいう。また智力と情感は互いに関係を有するをもって、思想を制すれば情またやみ、情を制すれば思想またやむを見る。意力と智力も互いに連合するをもって、智力を制すれば意志またやみ、意志を制すれば思想またやむを見る。故に知るべし、三者中その一を十分に制止せんと欲すれば、他の二者も制止せざるべからず。その一もし果たして十分に制止するに至れば、他の二者も自然に制止するに至るなり。しかれども意志の力は一定の度ありて、いかなる作用もことごとくよく規制することを得るにあらず。たとえば飢者、食を見てこれを食わざらんと欲するも、到底その情を抑制すべからざるがごとし。故に、克己作用はその力よく心性の諸作用を規制するも、そのはなはだしきものに至りては、到底抑制すべからざるものありと知るべし。

       第九段 道徳習慣

 しかれども人々の有するところの己にかつの意力はおのおの異なるをもって、甲はこれにかつことあたわざる私情も、乙はこれにかつことを得べし。けだし人にこの異同あるは種々の事情より生ずるも、主として習慣より生ず。たとえば常によく己にかつをもって習慣とするものは、克己の力いたって力強きを見る。世間に道徳家をもって称せらるるものは、多くはこの克己の習慣を養成したるものなり。しかして習慣を養成するは主として教育順応による。しかれども克己道徳の行為はことごとく教育順応に成るにあらず、遺伝よりきたるものまた少なしとせず。故に、道徳の行為は順応遺伝の二者より生ずるものと知るべし。この問題は倫理学の関するところなるをもって、ここにこれを略す。

       第一〇段 意志自由

 以上論ずるごとく、意志はよく思想を規制し、情欲行為を規制し、善悪を選択し、正邪を判決するは、果たしていかなる事情によるや。もしこれを内外両界の諸事情によりて生ずるものとなすときは、これを必至といい、内外の事情を待つにあらず、意志自体に有するところの力によるものとなすときは、これを自由という。世に意志の自由と称するものこれなり。これを自由と称するは、他の事情のために抑制せられざるを義とするなり。この疑問については古来学者のしばしば論ずるところなるが、今日の心理学者の見るところによれば、意志は自由ならざるものといわざるべからず。すなわち意志の選択、決断、制止等は内外の諸事情に応じて起こるものにして、決して意志自体中に自決、自択、自制の力、本来存するにあらざるなり。たとえば諸君が通信講学会の会員となりたるは、意志自由の力これを独断するものにあらずして、そのときに会員とならざるをえざる事情あるによること、すでに明らかなり。また諸君が雨に書を読み風に詩を吟ずるも、月にさおさし花に酌むも、みなしかせざるをえざる事情ありてしかるは瞭然たり。ただ複雑なる意志作用に至りては、いちいちいかなる事情ありてしかるや知るべからざるのみ。しかれども、もしその単純なるものより推してこれを考うるときは、複雑なるものもまた、しかるべき事情あるによるや疑いをいれず。これ、あるいは推想に過ぎずというの評を免れずといえども、かくのごとく解するにあらざれば、論理の満足をきたすことあたわざるは明らかなり。もしこれに反して、人の心には本来自裁自断の力ありと想定するがごときは、理の最も解すべからざるものなり。しかれどもこの点に至りてこれをみれば、ああ、また心性の奇々妙々、神変不可思議なることを嘆ぜざるをえず。そもそも人の心には自裁自断の力ありとするときは、その力いずれよりきたり、だれの与うるところとなるや知るべからず。これを天帝の与うるところなりとするときは、天帝なんの意ありてこれを与え、いずれのときにこれを賦するや、その理また解すべからず。かつ天帝の果たして存するや、その体なにものなるや、いまだ明らかならざるをもって、あにあえてこれを賦与するもの、真にこれ天帝なりと想定するを得んや。果たしてしからば、自裁自断の力はそのときの内外の事情によりて定まるものとせんか。かくのごとく定むるも、心内にいかなる事情の起こるありて自裁自断の作用を見るに至るや、また知るべからず。もし脳髄の組織について考うるときは、各神経細胞の間にいかなる関係の存するありて心性作用を発現し、いかなる刺激に応じて細胞の変化を現示するや、また知ることを得ず。それ心性は一大海洋のごとし。その水面に千態万状の波形を生ずるは、海水の自ら有するところの力によるや、また風縁の外よりこれを動かすによるや。けだし生理上これを考うるときは、血液運行の刺激によるというより外なし。しかれどもこれまた空想にして、その理をつまびらかにするあたわず。余ここに至りて始めて知る。今、余が知らんと欲するところのものは心にして、これを知らんとするものもまた心なり。これ、いわゆる心をもって心を知らんとするものなり。心をもって心を知らんとするは、あたかも自身の目をもって自身の目を見んとするがごとし。そのあたわざるは必然なり。ここに至りてこれをみれば、ただ心性は不可思議なりというてやむより外なし。しかるに諸君あるいはいわん、自身の目をもって自身の目を見るあたわざるも、鏡に照らしてこれを見ることを得べしと。それしかり、あにそれしからんや。世界万物みな一心海中にありて存するをもって、心を見るの鏡面なきは必然なり。天帝をもってその鏡面とせんか。天帝また心性海中の一現象なるをいかんせんや。八方上下、古今万世、時間空間をきわめてこれを尋ぬるも、心体を照らす鏡面なきをいかんせんや。果たしてその鏡面なき以上は、余と諸君とこの心性の神変不可思議なるゆえんを思うて、互いにその不可思議の妙味を楽しむにしかざるなり。ああ、また愉快ならずや。


 

     第一六講 結論第一 心象論

       第一段 心性種類

 前数講は総論、各論の二部に分かちて心性の性質作用を論述したれば、これよりその論述したるものを総括して結論を示さざるべからず。しかして前来講述したるものは、心性の実体にあらずして心性の現象なり。故に、今ここに心象論の題目を掲げて結論の第一とするなり。そもそも心象には情感、智力、意志の三大種ありて、情感は、外界の事物の刺激または変動に応じて、内界に起こすところの苦楽の情況に与えたる名称にして、これに感覚情緒の別あるも、その苦楽の情況をもって性質とするに至りては同一なり。まず感覚には視聴等の五感あり。これに有機感覚を加えて六感とするなり。つぎに情緒には単情複情の二種ありて、単情には驚、愛、怒、懼、我、力、行の七情あり。複情には智情、美情、徳情の三情の外、同情と宗教情操の二種を加えて五情とし、単複両情相合して一二情とするなり。この一二情のもの多少その性質を異にするも、苦楽の情況を有するに至りては一なり。感覚もまたしかり。六感おのおのその作用を異にするも、苦楽の性質を有するに至りては一なり。故に情感は外界の事情を内界の上に感受して起こり、苦楽の情況をもってその性質とする心性作用に与うるの名称なりと知るべし。つぎに智力はこれに表現内現の二類、定想虚想の二種の別ありて、あるいは感覚知覚、あるいは現想構想、あるいは概念、断定、推理の名目あれども、その性質に至りては識別思量に外ならず。知覚感覚も外物の性質を識別知了するをもってその性とし、現想構想も想像想出見をもってその性とし、概念、断定、推理も分別思量をもってその性とす。故にこの数種を合して智力作用とするなり。すなわち智力作用とは、心内にありて種々の性質事情を弁別契合し、比較対照し、認識思量する作用をいうなり。つぎに意志はこれに単意複意の二種ありて、ともに外界に対して呈するところの行為挙動をもって性質とするものにして、そのうち、あるいはすでに外界にその行為を示したるものと、いまだその行為を現ぜざるものとの二種あり。故にその一を外作用と称し、その一を内作用と称するなり。しかしてわがいわゆる意志は、意識あり目的ある行為挙動に与うる名称なるをもって、あるいは意志の義解を下して目的ある作用と称するなり。すなわち意志作用は、心性の外界に向かって発示せんとする、目的ある行為を総称するものと知るべし。しかれどもここに注意を要する一点は、以上三大種の性質必ずしもかくのごとき分界あるにあらざるなり。すでに感覚のごときは余が掲ぐるところの分類によるに、あるいは情感の一部分となり、または智力の一部分となる。かくのごとく一作用にして二者に属するは、その苦楽の情況を有するの一方より情感の一部とし、外界の事情を識別するの一方より智力の初級に属するなり。また、意志のごときは目的ある作用と称すれども、往々目的なき無意作用と判然相分かつことあたわざることあれば、目的なき挙動も余はあるいは意志の下に摂することあり。その他この心性作用の三種は互いに密着なる関係を有して、一者起これば必ずこれに伴って他者の起こるを見、また三種同時に相合して起こることありて、心性作用の起こるごとに、これは何種の作用に属するや、またその甲の部分は何種に属し、乙の部分は何種に属すると、いちいち分析明示することはなはだ難し。たとえば桜花三月の候、東台墨堤に春色を賞するに当たり、その春色のわが耳目を喜ばしめ、わが心思を楽しましむるがごときは、いわゆる情感作用なり。その花の桜花なるを知り、その時の春時なるを知り、昔遊を追懐し、旧友を追想するがごときは、いわゆる智力作用なり。東台の風景の墨堤にしからざるを判断し、一を去りて他に就くがごときは、いわゆる意思〔志〕作用なり。故に一桜花をみるにも、三種の心性作用は必ず相接して起こるものなり。その他いかなる場合にても一度心性作用の起こるあれば、これを分析するに、必ず多少この三種の作用の相合して生ぜざるはなし。

       第二段 心性発達

 前段述ぶるところの心性の各種は、もとより初めよりその別あるにあらず。次第に発達して、単純一様なる作用の複雑多様なる作用を生ずるに至るなり。しかしてその単純の作用は下等の心性作用にして、その複雑なる作用は高等の心性作用なり。故に心性作用の発達は単純より複雑に進み、下等より上等にうつるものとす。その順序、あたかも小児の発達について見るべし。小児はその初期にありては情感、智力、意志の別いまだ判然相分かれずして、極めて単純なる心性作用を有するのみ。すなわち、単純の感覚と単純の運動を有するに過ぎず。しかしてこの感覚、運動は意識によりて生ずるものにあらずして、反射によりて生ずるものなり。反射作用とは、前にすでに述ぶるごとく、外物の刺激に応じてただちに運動を発現する作用にして、もとより意志の命令、思想の知覚なきものなり。故に反射作用をもって心性発達の初期とす。すでに動物界にありてはその作用大抵この反射作用に属するは、心性の発達いまだ十全ならざ〔る〕によること明らかなり。しかしてこの反射作用、次第に進みて意識作用を生ずという。まず感覚、運動の二種についてその発達の次第を述ぶるに、感覚は進んで知覚を生じ、感知両覚は進んで実想を生じ、実想はまた進んで虚想を生ずるなり。運動のごときもの初めは無意無心に出ずるも、次第に進んで有意複雑の運動を生ずるに至る。これを意志作用という。故に意思〔志〕作用は、単純なる無意無心の運動より生ずること明らかなり。つぎに情緒は単情複情の別ありて、複情は単情より生じ、単情は感覚より生ずること、また自ら知るべし。これを要するに、心性各種作用は、その初め反射的感覚、運動作用より発達するものなりと知るべし。

       第三段 経験結果

 これによりてこれをみるに、心性の発達は外界の経験より生ずといわざるべからず。すなわち反射的感覚、運動の進んで複雑なる有意有心作用を生ずるは、我人外界にありて日夜不断に経験するところあるによるなり。その経験は外界の事情のわが五官の上に感触して生ずるところの結果にして、すでに智力中その高等に位する思想のごときも、感覚上積集したる外界の経験の結果より生ずること、さきに論述するところを見て知るべし。たとえば目なきものは色の思想を有せず、耳なき者は声の思想を有せざるはなんぞや。曰く、これ声色の経験を有せざればなり。すなわち第三講発達論中に、余は環象の事情をもって心性発達の外因とし、その外因中には風雨、寒暖、地味、地形、住居、食物等の天然の現象より生ずるものと、眷族、朋友、国民の交際上よりきたるところのものを総称するを見て、心性の発達の外界の経験によることを知るべし。

       第四段 本能起源

 外界の経験は心性発達に欠くべからざる要素なりといえども、その経験の基礎となるところのものなかるべからず。これを第三講には心性発達の原力という。すなわち弁別力、契合力、記住力、これなり。この三種の原力あるにあらざれば、なにほど外界の事情に接触するも、その経験を積集して智力を構造することあたわず。故に、この原力は経験よりきたらざるものとなさざるべからず。その他、人には生まれながら有するところの智力あり。これを本能と称す。本能とは、いまだ教育、経験を経ずしてただちに知るところの力をいう。たとえば我人が同類の親しむべきを知り、尊長の尊ぶべきを知り、目のよく色をみるを知り、耳のよく声を聴くを知るがごときは、みな本能なり。この本能はいかにして生ずるや、すでに教育、経験の前に存するを見れば、外界の経験によらざること明らかなり。外界の経験によらざるときは、心内固有の性力といわざるべからず。これ、余が第三講に原力、本能の二種を心性発達の内因とするゆえんなり。まずこの本能の起源を考うるに、これまた経験積集の結果なること、たやすく知ることを得べし。もしこれを知らんと欲せば、さきに述ぶるところの順応遺伝の規則を知らざるべからず。すなわち、父祖その一世間の順応より得るところの結果をその子孫に遺伝し、その数世間の順応遺伝相合して本能を生ずるなり。故に本能は一人一世間の経験より生ずるにあらずして、数人数世間の経験より生ずること明らかなりと知るべし。しかして数世間の経験のよく積集して本能性を形成するに至るはいかなる事情あるというに、これ進化淘汰の影響結果に外ならず。進化淘汰とは、生物が次第に成長繁殖するの際互いに相競争し、互いに相淘汰して、その成長繁殖に必要なる性質を有するものは存し、しからざればほろぶるをいう。これを適種生存の規則と称す。今、人獣動物が生まれながら同類の親しむべきを知り、強者の畏るべきを知り、食物を選んでこれを食し、住居を営んでこれに住するを知るも、みな成長繁殖の際必要なる原因事情あるによる。すなわち適種生存、進化淘汰の影響によりて本能性の形成を見るなり。これを要するに、人獣の生まれながら有するところの本能は、やはり心内固有の本性にあらずして、外界の経験より生ずるものなり。

       第五段 原力起源

 前段は本能の起源を論じたれども、いまだ原力の起源を論ぜず。けだし原力も本能もこれを一個人の上に考うるに、生来有するところの本性にして、二者ともに天賦の本能と称すべしといえども、前段挙ぐるところの本能のごときは数世間の経験より生ずるものにして、全く天賦の本能にあらざること明らかなり。しかれども弁別、契合等の原力は経験の要素にして、決して経験より派生するの理なし。果たしてしからば、この原力は天賦の固有の心力といわざるべからず。故に心性の発達は、外界の経験と心内の原力と相合して生ずるなりと知るべし。しかるにもし進みて原力の本源を考うるときは、心内の原力は心性固有の力にあらずして、物質固有の力となるを見る。その理いかにとなれば、心性の原力は人類ひとりこれを有するにあらず、動物もまたそのいくぶんを有す。すでに動物中の高等に位するものは感覚および知覚作用を有し、外物の諸性質を弁別、契合、記住することを得るは、わが一、二の獣類について明らかに知ることを得るなり。しかしてもしその獣類の有するところの心力と、下等動物の存するところの生活力と互いに相較するときは、またその間に同一の関係あるを知る。すなわち高等動物の有するところの単純の心力は、下等動物もなおそのいくぶんを有すといわざるべからず。果たしてしからば、心性の原力は動物共有の力なるを知るべし。今また動物と植物の関係を考うるに、その間また判然たる分界なきは明らかにして、有機無機の間にもまた多少類同するところの点あるを見る。これによりてこれをみれば、高等動物の有するところの心力は、有機無機一般に有するところの力ならざるべからず。果たしてしからば、心性の原力を知らんと欲すれば、無機物質の性質作用を論ぜざるべからず。

       第六段 物質勢力

 物質にはその体固有の力ありて、もって無量の変化を営む。これを勢力という。勢力には発現したるものと潜伏したるものの二種あり。その発現したるもの、これを活力という。けだし物質の変化を営むは、この活力の作用によらざるはなし。しかして活力は物質を離れて別に存するにあらず。故にこれを物質固有の力とす。かつ活力の作用は物質造構の上に属して、造構簡単なれば活力の作用また簡単なり、造構複雑なれば活力の作用また複雑なり。これによりてこれをみるに、人類固有の心力もまたこの活力の複雑なるものなるを知るべし。けだし人身中その心性作用の機関たる神経組織は、その物質の造構いたって細密複雑なれば、これより生ずるところの活力もまた、奇を呈し妙を現ずるは必然なり。この理は、余が著すところの『哲学要領』後編を見て知るべし。これ、世に唯物論の起こるゆえんにして、心性の原力もここに至ればまた心性の原力にあらずして物質固有の力となる。

       第七段 智識起源

 今、更に目を転じて、古来哲学者の人の智識の起源に関して論ずるところを見るに、イギリスにロック氏なるものありて、智識は一として経験よりきたらざるものなしという。けだし氏は、人の心はあたかも白紙のごとくその面に一点の智識なし、しかして智識の生ずるは外界の経験の内界の心面に積集するによるという。この説に反対して本然論を称うるもの、ゲルマン〔ドイツ〕のライプニッツ氏なり。ライプニッツ氏は、智識は一として経験より生ずるものなしという。けだし氏は、心内に智識の原種ありて次第に発達するものと信ぜり。しかるにこの二氏の説はおのおの一方に僻するを免れずして、もしロック氏のごとく経験の一方に帰するときは、心内固有の原力のごときに至りてはほとんど説明を与うることあたわず。また、ライプニッツ氏のごとく天賦の一方に帰するときは、経験によりて発達するの理また解し難し。ここにおいてカント氏の説起こる。カント氏は経験と本然の両説を取り、智識の一半は経験より生じ、一半は本来人の有するところのものとす。すなわち智識の材料は外界よりきたり、その材料を結合して一種の智識を構成するは本然の力によるという。これをたとうるに、人の智識は一家を造成するがごとし。一家は木石より成るも、木石を積集するも一家にあらず、その積集したる木石を造作構成して始めて一家となる。今、智識を構成するも、その資料となる木石は外界の経験よりきたるも、これを造成するの力は心内にありて存せざるべからず。これ、余が前に示すところの経験と原力との関係に異ならず。すなわち心性の材料は外界の経験よりきたり、心性の原力は本然の性力より生ず。すなわち一は経験に属し、一は本然に属するなり。この経験と本然の二種相合して始めて心性の発達を見る。経験積集すればしたがって原力を養成し、原力発達すればしたがって経験を結合し、二者相助けてますます発達したる心性を生ずるに至るなり。これ仏教中の説ともとより少異なきにあらずといえども、大いにその趣を同じうするところにして、その教中唯識宗と称するものあり。その宗においては一種の心体をたてて、万境のその体中より現示するゆえんを説けり。すなわち心体とは、その宗に阿頼耶識というものこれなり。阿頼耶識とは蔵識と訳し、蔵識とは万物万境の種子をその体中に含蔵するによる。しかしてその体中に含蔵するところの種子は、外界の経験に従って次第に発達するという。これを「種子は現行を生じ、現行は種子を薫ず。」(種子生現行現行薫種子)という。これすなわち余が前に述ぶるところの、原力経験相合して心性の発達を見ると同一理なり。もしその原力を物質固有の勢力の一種とするときは、すなわち物を離れて心なきの説にして、その論、純正哲学中の唯物論に入りて論ぜざるべからず。

       第八段 感覚諸境

 以上述ぶるところ、これを要するに、心性に体と象との別ありて、心象は本然の原力と外界の経験と二者相合してその発達を見るなり。しかしてその原力のなんたるを極むれば物力の一種となして、物質を離れて心性なしというがごとき唯物論を結ぶに至る。もしその唯物論のなんたるを考うるに、内外両界は全く物質より成るを知り、心象も心体も情感も智力も、みな物質の変化作用に外ならざるを知るべしといえども、その物質のなんたるいまだ知るべからざる以上は、唯物論ひとり真なりというべからず。もしその物質のなんたるを考うるときは、物質はまた物質にあらずして、感覚境裏の一現象となるを見る。たとえばここに一個の物質あり、これを分析するに若干の分子より成り、分子は小分子より成り、小分子は微分子より成り、微分子はまた化学的の元素にして、またこれを分析してそのなんたるを知るあたわず。故に、物質の解釈は元素に至りてとどまるというべし。しかれども元素そのなんたるいまだ知るべからざれば、物質の解釈また明らかなりと称し難し。かつ元素そのなんたるいまだ知るべからずといえども、やはり一種の物質なること疑うべからず、ただ物質の微小なるものというべきのみ。果たしてしからば、元素をもって物質を解するは、物質をもって物質を解すると同一理なり。故に物質のなんたるを知らんと欲せば、化学の分析法によらずして、他の方法を用いざるべからず。しかしてその方法は、物質の性質を分解するにあり。けだし化学の分析は体形の分析にして性質の分析にあらず、性質の分析は心理学の研究によらざるべからず。もし神経の組織についてこれを考うるも、心性作用の本位なる脳髄は神経細胞より成り、神経細胞は有機成分より成り、有機成分は化学的の元素より成るというより外なし。この推理法によりて、唯物論者は物質元素の外に心性の元素なしというといえども、いまだ物質元素のなんたる知るべからざれば、心性は果たして物質の作用なるや否やもいまだ判定し難し。この点よりこれをみるも、物質元素のなんたるを知ること必要なり。しかして元素は、我人の経験上到底そのなんたるを知るべからざれば、他の分析法によりてその性質を知ること必要なり。今、心理学の分析によるに、一個の物質は色、声、香、味、触の五種の性質より成ること明らかなり。すなわちこの五種の性質、種々相合して種々の物質を現示するなり。故に、物界はこれを分析するに五境となる。五境とは色境、声境、香境、味境、触境をいう。しかしてこの五境は物質固有の性質にあらずして、感覚作用の上に属すること言をまたず。すなわち色境は視覚の上に属し、声境は聴覚の上に属し、香境は嗅覚の上に属し、味境は味覚の上に属し、触境は触覚の上に属す。眼なくんばだれかよく色を知らん、耳なくんばだれかよく声を知らん、鼻、舌、身なくんばだれかよく香、味、形質を知らんや。これによりてこれをみるに、物質は心性作用の一種なる感覚境裏に現立すること明らかなり。これ、古来唯覚論の世に起こりしゆえんにして、唯覚論とは感覚の外に物心なしととなうる論なり。そもそも人の智識思想は外界の経験より成るを知るときは、人の心は感覚より派生することを知らざるべからず。なんとなれば、外界の経験は感覚作用の上に成立すればなり。故に知るべし、心性は感覚より発達し、感覚の外に一種固有の心性あるにあらず。しかしてまた、外界の物質はこれを分析するに感覚内に現立すること明らかなれば、物質自体も感覚を離れて別に存するにあらざることを知るべし。しかして我人が感覚の外に物心の別に存するを見るは、その真に存するを知るにあらずして、推論上存せざるべからざるを想定するのみ。

       第九段 唯心論拠

 前段は物質の感覚の上に成立するゆえんを論じて、その極ついに感覚を離れて物心両界なしといえる唯覚論を結ぶに至る。しかるに感覚は心界の一部分にして、すでに前に示すごとく智力情感の初級を感覚となせり。もし感覚をもって心界の一部分とするときは、唯覚論はまた唯覚論にあらずして唯心論なり。しかれども、もし感覚をもって物心の中間に位するものとし、物心両界は感覚の前後に現見するものとするときは、心性はかえって感覚の一部分といわざるべからず。なんとなれば、かくのごとく解すれば、感覚の両面に物心二者を含有するものに外ならざればなり。すなわち感覚は実物にして、物心はその影像なるがごとし。故にもしこの論に対して唯心論を立てんと欲せば、感覚自体の思想の範囲内に存するゆえんを示さざるべからず。今その理を示すに当たり、便宜のため心界を感覚と思想の両部に分かち、思想はその内部に位し、感覚はその外部に現ずるものと定むべし。しかして感覚自体のなんたるを極めて、その体思想の範囲中に存するゆえんを知れば、すなわち感覚も物界もみな一心の界内に現立するゆえんを知ることを得べし。唯心論ここに至りて始めてその全きを得べし。

       第一〇段 時空両間

 まず試みに、わが宇宙は物質心性の外に、時間空間の両元より成るゆえんを知らざるべからず。しかしてこの両元は感覚より生ぜしものなるや、また時間空間の上に感覚の現ずるものなるやを論ずるを必要なりとす。時間は連続を性質とし、空間は延長を性質とす。およそ古今前後の間に連続するものは時間を有するものとし、内外東西の間に延長せるものは空間を有するものとす。今、感覚作用中より時間の一元を除去するときは、その作用もまた現立することあたわず、感覚作用中より空間の一元を除去するときは、その作用また成立することあたわず。なんとなれば、感覚をしてその作用を現ぜしむるには、連続延長の性質を要すればなり。時間の連続なくんば、我人外物を感覚することあたわず、外物の延長を感ずることなくんば、感覚またその作用を現ずることあたわず。故に時間空間は感覚より生ずるにあらずして、感覚かえって時間空間より生ずといわざるべからず。

       第一一段 思想原則

 もし更に進みて思想の原則を考うるときは、なお一層明らかに感覚の外に心性あることを知るべし。今、外界の物質は感覚より成立するを知るも、更に感覚のなんたるを極むるときは、思想作用の上に属すというより外なし。およそわが感覚を感覚として知り、外物を外物として知り、外物の物質を感覚の上に成立すると知り、心界は感覚の外に存するにあらざるを知るものなんぞや。これみな、わが思想作用によるにあらずや。感覚の思想作用の上に属するを知るも思想なり、思想を離れて感覚もなく外物もなきゆえんを知るも思想なり。わが知るところ思うところ、一として思想作用に出でざるはなし。けだし人たるもの、いやしくも論理を立てんとすれば、必ずまずその規則によらざるべからず。たとえば原因あれば必ずその果あり、一と二を合すればその和三となり、甲は乙に同じく乙は丙に同じきときは、甲と丙は同一なりというがごとき規則は論理の原則にして、この規則によるにあらざれば論理を立つることあたわざるなり。しかしてその規則は思想の原則にして、論理作用は全く思想作用に属す。すなわち、さきに智力論中に示すところの推理作用これなり。故に感覚の物心両界の本源なるを知るもの、みな論理思想の作用による。これによりてこれをみれば、感覚論は思想論の一部にして、感覚境は心界の一現象なること明らかなり。これ余が開講の旨趣を述ぶるに当たりて、天地六合の大なる、日月星辰の高き、山川草木の美なる、禽獣人類の多き、みなわが心の中にその形を現じ、地獄も極楽も、神も仏も、鬼も蛇も、過去も未来も、あらゆる三千世界も、みなことごとくわが方寸よりえがき現したるものなりというゆえんなり。ここに至りてこれをみれば、さきに述べたる情感も智力も意志もみな思想界中の区別に過ぎず、情感も思想の上に現立し、意志も思想の上に現立し、智力もとよりしかり。それ思想はさきに述ぶるところによるに、この三種の心性作用中智力の一部分に属するものにして、情感意志とまた自らその性質を異にすといえども、心象を論究してその極点に達すれば、三種の作用の裏面にみなことごとく思想の体を有して、思想の上よりこれを見れば、三種の作用は全くその表面の現象に過ぎざるを知る。ただに三種の作用その現象なるのみならず、外界の諸事諸物、万象万化、みなこの思想界中の変化現象に外ならざるを知る。故にこの内外両界の本源本体たる思想は、また智力中の一部分の思想作用とは自ら異なるところありて、同一の名称をこれに与うるは互いに相混同するの恐れなきにあらざるをもって、あるいはこれを理想という。理想は内外両界、物心万境の本源実体となるものなり。縦よりその体を見れば神となり仏となり、横よりこれを見れば心となり物となり、表面よりこれを見れば物象を現じ、裏面よりこれを見れば心象を現ずるなり。わが知るべからざるものもその体理想なり、わが知るところのものもその体理想なり、わが心に識覚するところのものも理想なり、識覚せざるところのものも理想なり、わが感覚をもって触知するところのものも理想なり、触知すべからざるところのものも理想なり。道徳の本源、真理の原則みな理想に基づかざるはなく、時間の連続も、空間の延長もみな理想より生ぜざるはなし。儒者はその理想の体を見てこれに与うるに大極の名をもってし、仏者はその体を見てこれに与うるに真如の名をもってし、スピノザ氏はこれに与うるに本質の名をもってし、カント氏はこれに与うるに自覚の名をもってし、その名称人によりて異なりといえども、その体一なり。ここに至りてこれをみれば、この理想の体は心性の実体にして、余がさきに述ぶるところの心体これなり。しかしてその体の現象は物心万境なり。故に論じてこの点に達すれば、心象論終わりて心体論に入る。心体論は純正哲学の問題なれども、この心理学を結ぶに当たりその端緒を講述するも、また全く無用に属せざるを知る。故に、次講に心体論を述べてその端緒を示さんとす。






 

     第一七講 結論第二 心体論

       第一段 心象心体

 前講において心象の種類性質を合論して、心象の本源実体たる心体の存するゆえんを知るに至る。心象とはさきにしばしば述ぶるごとく心性の現象にして、情感、智力、意志、これなり。しかれども、この三種は心性と物質と相待ち相合して現ずるところの象にして、物界の諸象が心面に印して生ずるものに外ならず。他語にてこれをいえば、物心相関より生ずるものなり。この相関を離れて情感なく智力なく意志なきこと明らかなれば、心象は外界の諸象の心体の鏡面に映現するところの表象なりということを得べし。智力中の虚想のごときも、外界の経験次第に心内に積集して生ずるところの概念に外ならざれば、これまた心面の表象といわざるべからず。果たしてしからば、その表象の実体別に存せざるべからず。あたかも鏡中の現象あれば、鏡体別に存せざるべからざるがごとし。かつ心体別に存するにあらざれば、物界の諸象諸想をその上に現出するの理なし。これをもって、心象の外に心体の存することを知るなり。すなわち心性に心体心象の二種ありて、その物心相関の心性は心象なり、その心象の実体これを心体という。

       第二段 物象物体

 およそ事物に体と象あるはひとり心性に限るにあらず、物質にもまたこの二種あり。一を物象といい、しかして物象はさきにすでに示すごとく色、声、香、味、触の五種の性質を総称するものにして、すなわち感覚の上に現ずるところの諸象をいうなり。しかれどもすでに象あれば、その実体となるべきものなかるべからざるをもって、物象の外に物体の存するを知る。あたかも鏡面に影像あれば、その影像の体、鏡外に存すると同一理なり。その図上〔上段〕のごとし。

 すなわち物心ともに体、象の二種あるなり。しかして物象と心象とは物心相関相対の現象なるをもって、物心二者の相合して生ずるものならざるべからず。故に上の図〔下段〕をもってその関係を示すべし。

 すなわち物象も心象も物心相関の間に生ずる一現象にして、ただ前後表裏の差別を有するのみ。

       第三段 現象無象

 この体象の図中、物象心象はともに物心の現象なるをもってこれを現象界と称し、物体心体これに反して無象界と称するなり。すなわち無象界にある物体心体が、その象を現象界中に現示するなり。もしこの世界を可知的界、不可知的界の二種に分かつときは、そのいわゆる現象界は可知的界にして、そのいわゆる無象界は不可知的界なり。なんとなれば、現象界は我人の知るところの世界なれども、無象界はわが知るべからざる世界なり。すなわち心象物象はわが知るところにして、心体物体はわが知らざるところなり。しかしてその存するを知るは、現にこれを感覚知覚して知るにあらず、心象物象の存するを見て推測知定するによる。故に現象無象両界は全くその境界を異にするがごとくにして、また同一の範囲に属するものなり。すなわち無象界はわが現に知るところにあらざるも、現に知るところのものより推測知定することを得る以上は、多少わが知るところならざるべからず。ここにおいて現無両象ともに可知的界に入るるべし。これ、さきのいわゆる唯心論の起こるゆえんにして、可知的界も不可知的界もともに一心の範囲を出でざるゆえんなり。すなわち、一心中に現象無象両界の存することを知るべし。

       第四段 絶対相対

 この現象無象両界の性質を明らかにせんと欲せば、まず絶対相対の関係を知らざるべからず。絶対にはこれに対待するものなく、相対とはこれに対待するものあるに与うる名目なり。今、現象界は物心相関の世界にして、物は心に対して存し、心は物に対して存す。心を離れて物なく、心を離れて物なきをもってこれを相対に属するなり。故に心象と物象とはともに相対なり。しかるに無象界は物心相関を離れたるいわゆる不可知的界なれば、これを絶対とす。故に心体物体は絶対なり。およそ我人の智識は相対可知的境に限るものなり。その絶対不可知的境に至りてはわが智識の外にありて、我人その界中にいかなる差別あるを知るべからず。哲学上この二者を区別するに、ユニバーサリティー〔universality〕、パティキュラリティー〔particularity〕の両語を用うることあり。この語を訳するに、仏書中に差別、平等の語あり。これ、最も適したる訳語なり。また相対、絶対も仏書より出でたる語にして、原語にはアブソリュート〔absolute〕、レラティブ〔relative〕というなり。この相対境は種々万般の差別を存してわが智識の関するところなれども、絶対境に至りては無差別平等にしてわが智識の外にあり。けだし色には赤白あり、形には大小あり、質には軟硬あり、方には東西あり前後あり左右あるは、みな差別なり。色に赤白なく、形に大小なく、方に東西なきは平等なり。差別あるものは相対なり、平等なるものは絶対なり。しかして我人の智識は赤白、大小、東西の差別あるものに限り、もし色に赤白の差別なく、形に大小の差別なく、天地万物平等一体にして自他彼我の差別なきときは、我人そのなんたるを知るべき理なし。故に相対差別は可知的なり、絶対平等は不可知的なり。今わが住息せる物心相関の現象界は、その中に彼我自他の差別を存し、赤白大小の差別を存するをもって、いわゆる相対可知的境なり。これに反して無象界はこの差別を有せざるをもって、平等絶対の不可知的境なり。これによりてこれをみるに、心象と物象とはともに相対差別の可知的境なれども、心体物体は絶対平等の不可知的境なるをもって、心体物体の差別のその間に存すべき理なし。もし果たして心体は物体と別に存するときは、心体物体の間に差別ありといわざるべからず。すでに差別あれば、平等にあらず絶対にあらず。故に物心の差別あるは現象上のことのみにて、その実体に至りては物心ともに一体にして、心体物体の差別あるべからず。これにおいて、心体は物体と同一に帰するなり。故に前に掲ぐるところの図は、右のごとく変ぜざるを得ず。

       第五段 理想物心

 前段に論ずるところによるに、物象心象はその差別あるも、物体心体は平等にしてその差別なきゆえんを知る。すなわち物体心体は一にして、物象心象は二なり。この唯一なる実体はここに至りてこれを見るに、心体と名付くるも物体と名付くるも、ともに不当の評を免れず。もしこれを心体とすれば、その体物体にあらざるかの難起こり、もしこれを物体とすれば、その体心体にあらざるかの難起こる。故に余は、これを名付けて理想といわんとす。理想は物にもあらず心にもあらずといえども、その体また物となり心となる。たとえば、心の一方よりこれを見ればその体これ心体にして、物の一方よりこれを見ればその体これ物体なり。故に心理学上心象を論究し終わりて身体のいかんに至れば、理想のなんたるを知らざるべからず。なんとなれば、理想の体すなわち心体なればなり。ただここに証明を要する点は、その理想の体は物象心象を離れて別に存するか、あるいは物象心象の体そのまますなわち理想なるかの問題にあり。これを理想、物心の関係という。もし理想は物象心象の外にありとするときは、これを物心理想異体論という。もし理想は物象心象を離れずとするときは、これを物心理想同体論という。語を換えてこれをいえば、理想は絶対なり、物心は相対なり。相絶両対一体をとなうるものこれを同体論といい、相絶両対別体をとなうるものこれを異体論という。まずその理を証するには絶対相対、平等差別の関係を知らざるべからず。絶対と相対とは全く異なるがごとしといえども、相対は絶対に相対して存し、絶対は相対に相対して存し、相対を離れて絶対なく、絶対を離れて相対なきの理を究明すれば、相絶両体その体一なるを知るべし。また差別と平等とは全く相反するがごとしといえども、差別は平等に対すれば差別あり、平等は差別に対すればまた差別あり、差別を離れて平等なく、平等を離れて差別なきの理を究明すれば、二者同体なることを知るべし。さきにいわゆる可知的、不可知的ともに可知的なりというも、この同体の理を証示するものなり。可知的は差別なり相対なり、不可知的は平等なり絶対なり。しかるに不可知的もし可知的なるときは、絶対すなわち相対なり、平等すなわち差別ならざるべからず。ここに、終わりて理想と物心の同一体なるゆえんを知るべし。余かつてこの二者の関係を示すに、紙の比喩をもってす。紙に表裏の別あり。表面は裏面にあらず、裏面は表面にあらず、表裏全く相反すると見るは、あたかも物は心にあらず、心は物にあらず、物心全く相反するというと同一般なり。しかしてその表裏両面ともにその体一枚の紙にして、紙の体を離れて表面なくまた裏面なきは、あたかも物心ともにその体理想にして、理想の体を離れて心象なく物象なきと同一般なり。しかしてまた理想と物心と全く差別なきにあらず。表面は紙の全体にあらず、裏面はまた紙の全体にあらざるがごとく、心象は理想の全体にあらず。物象はまた理想の全体にあらざるなり。故に知るべし、物心両象と理想とは同一にして同一にあらず、異体にして同体なるを。今、図をもって示すこと左〔上段〕のごとし。

 もし紙の比喩について示すときは、左図〔下段〕のごとくなるべし。

       第六段 物心関係

 かくのごとく示すときは、あるいは物象は理想の一半にして、心象は物象の一半なるようなれども、またあえて理想の一物を折半して、物心はおのおのその一部分なるにあらず。もしかくのごとき折半の一部分なるときは、理想の全体より物象を除き去るも心象は依然として存し、心象を除き去るも物象は依然として存せざるを得ず。たとえば地球を東半球、西半球の両部分に折半するがごとし。地球の全体より東半球を除き去るも西半球は依然として存し、西半球を除き去るも東半球は依然として存すべき理なり。しかるに理想と物心の関係に至りては、物象を除き去れば、これと同時に心象も理想全体もともに空滅に帰すべく、心象を除き去れば、これと同時に物象も理想全体もともに空滅に帰すべし。故に余は、紙の表裏の比喩を用いてその関係を示すなり。すなわち紙の全体より表面を除き去れば、これと同時に紙の全体と裏面とともに空滅に帰し、裏面を除き去れば、これと同時に表面も紙の全体も空滅に帰すべし。語を換えてこれをいえば、表面のそのまま裏面にしてまた紙の全体なり、裏面のそのまま表面にしてまた紙の全体なり。すなわち理想の上についてこれをいえば、物象のそのまま心象にしてまた理想の全体なり、心象のそのまま物象にしてまた理想の全体なり。これをもって物心の関係は理想の一部分にして、しかも理想の全体を表示するものなり。ただその間に表裏差別を有するをもって、一方より理想の体を見てこれを物象といい、他方より理想の体を見てこれを心象というのみ。故に余言わんとす、物心は二にして一なりと、ひとり物心のみ二にして一なるにあらず、理想と物もまた二にして一なりと。これと同時に、一にして二ならずともまたいうことを得べし。

       第七段 部分全体

 前段すでに物心と理想の関係を略明したれば、これより物心両界中の諸境と理想の本体との関係を一言せざるべからず。今、人類のごときは万物万境の内にありて最も高等に位したるものにして、智力を有し、意志を有し、言語思想を有するものなり。また、その心に理想の存するゆえんを知ることを得るものなり。故に余は天地万物中、人類と理想との関係を明示せんと欲するなり。人は天地間の一種の生活物にして、万物中の一部分なり。しかしてその体中に心性を有するをもって、また心象の一部分なり。他語にてこれをいえば、人は心物二元より成るものにして、表面には物象の一部分となり、裏面には心象の一部分となるものなり。故にもし理想の全体よりいえば、人は理想の一部分なること明らかなり。しかしてその心に理想の全体を想出することを得るは、理想の一部分中に理想の全体を含有せざるべからず。ここにおいて、部分と全体の同一体なるゆえんを示さざるべからず。部分は全体にあらず、全体は部分にあらず。二者異なることは論理の定則にして、今、部分と全体をもってまさしく同一なりということを得ざるはもちろんなれども、有機体の組織についてこれを考うるときは、部分を離れて全体その作用を呈することあたわざるゆえんを知ることを得べし。しかれども無機体および有機体中の最も下等なるものに至りては、部分を離るるも全体の上に関係を及ぼすことなし。故に余がいわゆる有機体の組織とは、そのやや高等なるものをいうなり。たとえば人類のごときは肺臓、心臓、腸胃、脳髄等より成るに、その一部分なる心臓もしくは肺臓を除き去るときは、全体その生活作用を失うは必然なり。今、理想の体はまたその一大活物にして、その諸部分はあたかも高等の有機組織を有するものなり。故にその一部分を欠くも、全体の上に大関係をきたすものなり。故に、一部分を離れて全体その作用を失うということを得べし。もしまた無機物についてこれを考うるも、宇宙の大なる、その間に日月星辰いくたの諸象排列するを知らずといえども、その体みな互いに相引き相排し相待ち相つらなりて、宇宙全体の組織を構成するものなり。故に今もしその一部分をこの大組織中より除き去るも、この一大宇宙たちどころにその位置を変じ、その組織をやぶるに至るべし。他言にてこれをいえば、一部分の滅亡とともに全体の組織破壊に帰すべし、あるいは一部分とともに全体滅亡するも測るべからず。今、理想と万物万境の関係もまた、またかくのごとくなるを推知すべし。しかして人の心に理想全体を現示すれば、あたかも眼中に天地の諸象を現示すると同一なり。眼は天地間の一部分なり。その一部分の眼中に天地の全体を入るるをもって、我人眼を開きてただちに天地の万象を見ることを得るなり。今、我人の心は理想の一部分なれども、その心よく理想の存するを知ることを得るは、一部分の心中によく全体を入るるの力を有するによる。すなわち眼は天地の一部分にして、またよく天地を包含し、心は理想の一部分にして、またよく理想の全体を包含するなり。この理によりて、人と理想の関係を知るべし。すでに理想と人の関係を知れば、その他の禽獣草木土石と理想の関係も、また知ることを得べし。土石は物界の一部分にして理想の一部分なることもちろんなれども、一部分と全体は有機の組織を有するをもって、その二者はほとんど同一の関係を有するものなり。すなわち一部分滅亡すれば、これと同時に全体あるいは破壊し、あるいは空滅するに至るべし。

       第八段 人心理想

 そもそも心性は人類特有のものにして、禽獣草木はこれを有せずというは普通の解釈なれども、上来論ずるところによりてこれをみるに、物質の裏面には必ず心性ありて存せざるべからず。故に動物も植物も水土空気もその体物質なる以上は、その内部に心性を有せざるべからず。しかるにまた、これを今日の理学の実験するところによるに、人類と動物の間に判然たる分界なく、動物と植物の間にまた判然たる分界なく、有機と無機の間にもまたはなはだ相似たる性質ありという。果たしてしからば、人類すでに心性を有すれば、動物もまた多少を有せざるべからず。動物すでに心性を有すれば、植物もまたその多少を有せざるべからず。有機すでに心性を有すれば、無機もまた心性を有せざるべからずの理なり。しかるに、もしまた物理学の実験するところによるに、物質には必ず勢力ありて、勢力と物質とは互いに相待ち相存し、決して離るるべからざるものなりという。果たしてしからば、心性はすなわちそのいわゆる勢力なることを知るべし。今、動物の有するところの感覚力も、植物の有するところの生活力も、みなこの勢力のやや発達したるものにして、人の心性のごときはその最も発達したるものなること、また知ることを得べし。故に心性は人のひとり有するところにあらずして、禽獣草木、水土空気に至るまで、みなその裏面に心性のいくぶんを有するなり。これによりてこれをみれば、宇宙は一大活物にしてその表面に物象を示し、その裏面に心象を含むこと明らかなり。これ余が前に述ぶるところの、物心両面相合して理想の全体を構成すというの説に符合するものなり。すなわち理想説は哲学上より論ずるも、理学上より論ずるも、思想上より考うるも、実験上より考うるも、同一点に合帰するを見るべし。しかして人の天地万物中最も高等の地位を有するは、その体を構成するところの物象心象ともに最も発達したる組織を有するによる。すなわち、人の身体はこれを他の諸物に比するにその造構最も発達し、心性はこれを他の勢力に比べるにその作用最も発達したるものなり。これをもって、他の動物植物はいまだ理想の全体を想出する力なしといえども、人に至りては理想の全体とただちに通ずることを得るなり。これ他なし、人はその発達の度、理想体の噴火口の地位に当たるによる。地球の表面には種々の諸象ありといえども、その内部と直接の交通を有するものは噴火口なり。理想の表面には種々の諸象ありといえども、その内部と直接の交通を有するものは人心なり。これをもって人心と理想の関係を知るべし。

       第九段 上帝理想

 つぎに、神すなわち上帝とこの理想との関係を考うるに、通俗の人の信ずるがごとき、天地万物の外ありて天地万物を創造主宰せるがごとき上帝は、もとより哲学上その現存を立つべき道理なしといえども、理想の体を指して上帝なりというときは、上帝真に存すということを得べし。しかれどもかくのごとき上帝は、もとより物心を創造主宰するの理なく、また物心を離れて別に存するの理なし。物心すなわち上帝にして、物心の外に上帝なしといわざるべからず。物心その体上帝なれば、物心界中の一部分なる我人もその体上帝なり、動物もその体上帝なり、植物もその体上帝なりといわざるべからず。なんとなれば、万物の体おのおの理想なればなり。故に余は、ヤソ教のいわゆる上帝説は信ずることあたわざれども、この世界すなわち神界、この身すなわち神体にして、わが心の外に上帝なく、わが身を離れて上帝なきの説に至りては信ぜざるを得ず。かくのごとき上帝は、ただ理想とその名称を異にするのみにて、その実、一なり。

       第一〇段 理想帰結

 以上論ずるところ、これを帰するに、心性には心象と心体との別ありて、心象を論究すれば心体もまた論究せざるべからず。しかして心理学はひとりこの心象の学にして、心体の論究は純正哲学を待たざるべからず。今ここに純正哲学に入りて心体のいかんを論究すれば、その体すなわち理想なることを知る。この理想の体は一大活物にして、その表面に物象を有し、その裏面に心力を有し、回転運動して際限なく終始なく、開合変化して増減なく生滅なきものなり。すなわち無始無終、不生不滅の体なく、ただに理想の本体のみ不生不滅なるにあらず、人類動植、無機物質もまたみな不生不滅なり、ただ外情に応じてその形を変ずるのみ。しかしてその変ずるは、あるいは進み、あるいは退くものなり。その進むやこれを進化といい、その退くやこれを溶化という。けだしその進化する当たりては、目前の諸象、次第に理想自体中より開発して、初めに有機無機の分派するに至り、つぎに動植の分派するに至り、つぎに人獣の分派するに至りたるなり。決して理想の外より、その各種各類を造出したるにあらず。しかしてこの理想自体、開発の理は東洋哲学中にも論ずるところにして、シナ哲学にては理想の体を太極といい、インド哲学にては真如というなり。この両哲学中明らかに理想と物心の関係を示すものは、釈迦哲学に及ぶものなきがごとし。

 次講には応用論を説きて心理学の諸応用を述ぶるつもりなりしが、不日遠航のことあるに際し旅装多忙、次講を起草するのいとまなし。よって本講はこの冊をもって終結とせんとす。読者請う、これを了せよ。

 

 (付言)少しく講題外のことにわたるようなれども、心理学とはよほどの関係を有することなれば、余がここにこれを付言して諸君の注意を請い、かつその報道を求むるも、全く講題外のことにあらざるを信ず。曰く、そのことたるや妖怪の研究にして、本邦世俗に伝わるところの名目について案ずるに、奇夢、幽霊、狐狸、天狗、犬神、巫覡、神降、人相見、予言、その他これに類するもの、いちいち挙ぐるにいとまあらず。余、日ごろ心理学上これらの事実を研究せんと欲せしといえども、事実を得るの道に乏しきをもって、いまだ志を果たすあたわず。ひとり自らうらみとなすのみ。しかるに今や、幸いに諸君の心理学を研究するの際に会したるをもって、余は諸君に対して、各地方の妖怪に属する事実を考索、報道せられんことを希望してやまざるなり。これ、余が宿志を果たすの益あるのみならず、諸君の心理を研究するの一助となるはもちろんにして、他日好結果を得たる節は、一般人民の教育上に決して裨補なきにあらざるなり。方今、各地の人民その十に八、九は妖怪を妄信して、道理のなんたるを知らず、畢竟野蛮の民たるを免れざるものあり。これ一は教育の足らざるによるというも、一はもっぱらこれを研究するものなきによる。余いささかここに感ずるところありて、道理上妖怪の解釈を下して人民の妄信を開発し、文明の民たるに背かざらしめんことを欲するなり。諸君よく余が衷情を察して、事実の考索、報道を助けられんことを望む。しかして余が諸君に注意を要する点は、世間に伝うるところの事実は無根、作説、付会、妄誕にわたり、信を置くべきものはなはだ少なし。事実もし真ならざるときは、真理の誤謬をきたすの憂いを免れざるをもって、諸君いやしくも真理を愛する以上は、つとめて事実のその実にたがわざらんことを期すべし。報道は拙寓あてにて郵送あらんことを請う。

                      井 上 円 了 白す  

                    東京本郷区真砂町二六番地