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 井上円了と世界

解説 井上円了と世界


世界との出会い

井上円了は明治維新の一年前、 安政五(一八五八)年に、 長岡藩西組浦村(現在の新渥県三島郡越路町浦)の慈光寺の長男に生まれた。 慈光寺は真宗大谷派(東本願寺)の末寺である。 浦村は信濃川の中流域にあり、 藩の中心地である長岡の対岸に位置し、 村に舟の渡し場があったために、 長岡と近かった。 慶応四 八六八年、 円了が一 歳のとき、 北越戊辰戦争が起こり、 長岡藩は新政府軍に倒され占領された。 そのため、 藩では人材の養成を中心に、 文明開化への体制が一層強力に進められた。  そのことが円了の少青年期における「世界との出会い」の背景でもあった。

一七歳のときに円了の書いた履歴書がある。 円了の少青年期に受けた教育の過程である(「東洋大学百年史資料編ー ・上」参照。 以下、 引用文を現代表記に改め、 句読点を補った)。

「明治一年の春より二年春まで石黒先生より受業」

明治二年より五年末まで「この四か年の間、 業を木祁先生より受く」

明治六年「五月二十九日より八月上旬まで高山楽群社へ入学、 栗原氏より受業」明治七年「五月五日より長岡洋校に入学して洋籍を学べり」

はじめの「石黒先生」は後の陸軍軍医総監・石黒忠應のことで、  この私塾で四書五経などの漢学の基礎を一年間学んだ。  つぎの「木祁先生」は長岡藩の儒者・木村鈍斐のことで、歳から一四歳まで漢学を本格的に学んだ。

 その後、 円了は洋学に転じ、  一五歳に高山楽群社で英語の基礎を学び、 さらに一六歳で学校に入学して「洋籍」を学んだ。  この学校は、 旧長岡藩の首脳が明治維新の後、 地域の復興を願って明治五年に設立した長岡洋学校であった。(円了が入学した明治七年の校名は「新潟学校第一分校」といい、  さらに二年後に、 長岡学校と変更された。 現在の長岡高等学校である)。

円了は漢学と洋学、 新旧の教育を受け、 この転換の中で「世界」の有様を書物によって知ったのであった。 履歴書の中の読書録を、 漢書を除いて、 和書と洋書で数えてみると、 明治二\五年 歳\ 一四歳)は八、 明治六年(一五歳)は一、 明治七年(一六歳)は三、 明治八年(一七歳)は一五点である。 書名をみると、「大地理書」「大米国史」「英国史」、「仏国史」「羅馬史」「西洋事情」「西洋夜話」「西洋新書」「西国立志編」「万国史」「万国新話」「万国往来」「地球説略」「世界国尽」「世界風俗往来」などで、 円了が一    歳代後半から「西洋」「世界」「万国」に関する書物によっ て、 世界の地理・政治・歴史・文化の知識を吸収していたことがわかる。   世界に関する円了の学習は、 漢学を学んでいた時期から始まり、 洋学に転じて長岡の洋学校に進学してから一層強められた。  当時のベストセラー、 福沢諭吉の「西洋事情」、 内田正雄の「輿地誌略」、 中村正直の「西国立志編」などが筆頭にあげられる。  これらの読書録の中では、 福沢諭吉の著書が殊に多く、 先の「西洋事情」に続いて「世界国尽」「学問勧」「童蒙教草」「西洋衣食住」「窮理図解」がある。 福沢の研究者、 富田正文氏は明治五年からほぼ一    年間の福沢の著書を、「西洋紹介」「啓蒙もの」「その時代に文化的事物を出現させる導火線になったもの」と、 三つに大別している。  この分類にしたがってみると、「西洋事情」「西洋衣食住」は第一の「西洋紹介」に、「世界国尽」「童蒙教草」「窮理図解」「学問勧」は第二の初学者のための「啓蒙もの」に当たる。 富田氏はこれらの著書は「一言にしていえば西洋文明の紹介」であり、 福沢が「著作者として最も気力に溢れ、 また研究者として極めて貪欲に西洋の最新知識や思想を吸収蓄積するのに精力を傾けた時代」の著書という。

後年に円了は、 歴史的大著述家の一人として福沢諭吉を挙げて、「福沢翁の早く欧米文明を調理して、 わが通俗社会をしてその味を感ぜしめたる活眼とは、 余がつとに敬慕するところ」であると述べている。 青年期の円了が、 西洋、 世界、 自由、 独立を知る上で、 福沢が大きな役割を果たしていたのは確かである。

このように円了は、 長岡において書物と教育を通して「世界との出会い」をもったのであるが、 その知識の吸収は歴史や地理からはじまり、  さらに物理や数学を経て、 宗教の世界へと広がっていったということが、 円了の著書「仏教活論序論    の自伝的文章から読み取れる。 真宗の末寺の後継者という宿業をもつ円了が、 真宗を含む仏教を軸にしながら、 儒教やキリスト教などの世界宗教からも刺激を受け、 そのことが円了に葛藤・煩悶をもたらしたという。 円了の長岡時代は、 明治九年の洋学校の卒業後も、 同校の助手となって残り、 明治一歳まで続いた。

第一回目の世界視察

明治一    年七月、 円了は長岡の学校を辞めて、 京都の東本願寺、 教師教校英学科に入学した。 全国に一万か万門徒を擁する真宗大谷派では、 明治維新後の宗教政策の転換やキリスト教の解禁に危機意識をもち、 優秀な若者を本山で育成するなど、 教団の近代化に着手していた。 洋学を学んだ円了は、 選抜されて京都の学校に招集されたのであった。  それから半年後、 円了は教団の給費留学生として東京へと向かった。 急に円了が留学生となった背景には、 前年 年)に日本で最初の大学・東京大学が設立されたからであった。

明治    一年九月、  二    歳の円了は東京大学予備門に入学した。 三年間にわたり予備門で学問の基礎を学んだ。

それが新たな西洋の「知の世界」へと、 円了を導くことになる。 明治一四年、 円了は東京大学文学部哲学科に入学した。  ここでは西洋から招かれた外国人の教員たちから哲学、 論理学、 心理学、 倫理学を中心に、  その他の諸学科を学んだ。  これらの教育や学問によって、 円了は自らの「ものの見方・考え方」を築き、 日本と世界の関係を捉え直した。  その結果はつぎのように述べられている。

「余つとに仏教の世間に振るわざるを慨し、 自らその再興を任じて、 独力実究することすでに十数年、 近頃始めて、  その教の泰西〔西洋〕講ずるところの理哲諸学の原理に符号するを発見し」た。

「余が十数年来、 刻苦して渇望したる真理は、 儒仏両教中に存せず、 ヤソ教中に存せず、  ひとり泰西講ずるところの哲学中にありて存するを知る。 すでに哲学界内に真理の明月を発見して、 更に顧みて他の諸教を見るに、 ヤソ教の真理にあらざることいよいよ明らかにして、 儒教の真理にあらざることまたたやすく証することを得たり、  ひとり仏教に至りてはその説大いに哲理に合するをみる。

 これにおいて、 余始めて新たに一宗教を起こすの宿志を絶ちて、 仏教を改良して開明世界の宗教となさんことを決定するに至る。  これ実に明治十八年のことなり。  これを余が仏教改良の紀年とする。」

円了の仏教改良は独自なものであった。 ギリシアで誕生した「フィ ロソフィー  」は「智慧を愛求すること」であり、 明治維新後に「哲学」と翻訳されるようになったが、 円了は、 西洋の哲学の方法論による仏教の改良が不可欠であると考え、 仏教を東洋の哲学へと発展させようとしたのである。 その考えの根底には、 日本と世界を再認識するための新たな世界観が、 円了にあったからだと思われる。 円了が哲学を重視し、 東京大学在学中から活動を開始した理由はそこにある。

明治一七年一月二六日    西周、 井上哲次郎、 加藤弘之らの賛同と、 三宅雪嶺などの協力を得て、「哲学会」を創立した。 明治一八年の東京大学卒業後はまず著述に専念し、『哲学一夕話  「哲学要領」「真理金針』「仏教活論序論」「倫理通論」「妖怪玄談」「心理摘要」「仏教活論本論」。

 

第一編    破邪活論

 

と、  二年間に立て続けに刊行し

 

二九歳になった明治二年には、一月に哲学を専門とする出版社・哲学書院を設立し、  さらに九月に私立学校・哲学館を創立した。 現在の東洋大学の起源である。

哲学館の設立趣旨は要約すると、  つぎのとおりである。「世運の開明の進展は主として智力の発達により、 智カの発達は教育による。  その教育に下等と上等があり、 学問中の最高位に位置するのは哲学である。 哲学は、 百般事物についてその原理を探りその原則を定める学問であり、 万学を統括する学問である。 今、 哲学を専修するところは帝国大学に限られている。  そこで、 大学の課程に進めない余資なき者、 原書に通じる優暇なき者のために、 哲学速歩の階梯を設けたのが哲学館である。  この目的が達成されたならば、 社会を益し、 国家を利し、 世運の開進の一大補助となるであろう。」

 

こうして哲学館は、 東京・湯島の麟祥院という寺を借りて出発した。 哲学は日本人にとって、 世界を学ぶ新たな学問として注目され、 当初は定員を五    名としていたが、 応募者が多く、 館主の円了は再三にわたり増員した。  そして、  翌ニることに成功した。

 年一月から「哲学館講義録」を発行して通信教育を開始し、 円了はその教育を全国に展開す。また、 ニ 年四月に円了は、 三宅雪嶺、 志賀重昂らと結成した「政教社」から、 雑誌  で日本人」を創刊した。

政教社の社員はすべて当時の高等教育を受け、 西洋や世界の知識を身につけていた。 彼らは、 鹿鳴館に象徴される行き過ぎた欧化主義を批判し、 日本人の主体性を主張し、 国粋主義や日本主義という新たな社会思想運動を展開した。

このように円了は、 大学卒業前後の数年間、 仏教界の近代化の原点を創り出した『仏教活論序論』などの多数の著述、 哲学館という高等教育機関の創立、 出版社・学会・思想運動の活動と、 多忙な日々を送っていた。

しかし、 それらの諸活動を急停止して、 円了の第一回目の世界視察は行われた。 円了は帰国後に振り返って、哲学館創設から「末だ一年に満たざるに、 私は突然欧米周遊の途に上り、 彼地の学問の景況を実際上観察するに及」んだと述べている。

 出発は明治ニ年六月九日、 円了は三〇歳にして、 初めて世界を実際に見ることになった。 翌二二年六月二八日に帰国したので、  一年間を越える世界視察であった。  コー  スは東回りで、 日本を出発して太平洋を横断し、  アメリカのサンフランシスコに上陸し、 そこから大陸横断鉄道に乗ってニュー ヨー  クを目指した。 そして、 ニューヨークから大西洋を渡り、 まずイギリスに入り、 その後は西ヨー ロッ パの諸国を巡回した。 帰国はフランスのマルセーユを出発し、  インド洋を経て、 日本に到着した。 寄港地を除くと、 視察した国は主にアメリカ、  イギリス、 フランス、 ドイツ、 オー ストリア、  イタリアである。 帰国した円了は、 翌七月に「哲学館改良の目的に関して意見」、 八月に「哲学館将来の目的」、 月には「哲学館目的について」を公表した(これらの見解は本書の「欧米各国政教日記」の補追となるものである。「東洋大学百年史資料編ー ・上を参照)。

 円了は「欧米各国のことは、 日本に安坐して想像するとは、 大いに差異なるものなり。 しかして、 その最も想像の誤謬に陥り易きは、 各国みなその国固有の学問技芸を愛して、  一国独立の精神に富めるを知らざること    これなり」という。  そして、「従来哲学館は、  一般の哲学を教える目的なりしをもっ て、 別に主義等を明言せざりしが 今回、 親しく欧米各国の学問景況を目撃し、 もって現今本邦の体制を視察して感悟したるところ、 またすくなし」として、 裏面に宇宙・学理(哲学)を研究する宇宙主義、 表面の目的に日本主義を掲げた。「哲学館はまったく日本主義をもって立ち、 日本の言語・歴史・宗教を完全ならしめ、 もってこれを維持せん」ために、

「余は哲学館をもってその目的を達する階梯とし、 今よりようやくその功を積み、 他日に至りて堂々たる日本大学の一家を落成せん」と考えた。 そして、 哲学館では、 第一に教育家、 第二に宗教家、 第三に哲学家の喪成を具体的な目的としたのであった。

円了は、  このような計画を公表するとともに、 哲学館を専修学校から大学へと発展させる第一段階として、 新校舎の建設に着手した。 着工したのは、 帰国から一か月余りの八月のことであった。  そして、 九月四日、 円了は勝海舟にはじめて会った。 そのことはこう書かれている。「余、 先年欧米を一巡して帰り、 哲学館拡張の旨趣を天下に発表するや、 勝海舟翁これを聞き、 人を介して余に面会を求めらる。 余、 すみやかにその庭におもむき、もって教えを乞う」。 海舟は、 円了の哲学館の将来計画に賛同し、 幕末の経験を例にして事業の困難さと推進のポイントをアド バイスしたという。 円了が帰ってから、 海舟は娘の逸に対して、「あんな若い人であったか」と感心していたという。  当時、 海舟は六七歳、 円了は三一歳であった。

哲学館の新校舎の建設は順調に進んでいたが、 九月一    日、 全国的な被害をもたらした暴風雨によって倒壊した。 九分まで完成していた校舎であった。 円了は二    日に再建工事を決断した。 後に「風災」と呼んだこの事件は、 円了にとって大きな試練であったが、 再建直後の二七日に、 海舟は赤坂・氷川邸に円了を呼んだ。 そして「ホンの寸志までだ」と紙包みを渡した。 円了が後で開いてみると、 円という大金が入っていた。  こうして海舟は円了を激励した。 そして、 蓬莱町の新校舎への移転式はことであった。

 一月一三日に行われた。 帰国して五か月後の初めての世界視察によって、 円了は哲学館を大学へと発展させることを構想し、 それを実行するためにまず新校舎の建設に踏み切った。 しかし、 予期しない災難に遭って、 館主の円了は、 新築費と再建費という二重の負債を背負った。 もともと哲学館は、 宗教教団のような団体や政財界の有力者の支援に頼らず、 二八人の賛成者による七八 〇円の寄付で創立されたものであった。  一連の建設費用は四千数百円に達していたが、 寄付金は一五〇円余りで、 三分の二が負債として残り、 円了の哲学館の維持は危機に陥っていた。

円了は哲学館の経営に関して海舟に相談していた。 そして、 決断したことが円了の全国巡回講演であった。 円了は各地で学術や教育、 欧米視察の講演を行い、 そして哲学館への寄付を依頼しようとした。 円了は、 明治二三年 一月二日から、  この教育事業と寄付募集を全国で展開した。  当初、  この事業による寄付金は、 予想をはるかに下回り、 円了に現実の厳しさを痛感させた。  しかし、 能書家として知られていた海舟は、「蔭ながらの筆奉公」と称して哲学館のために揮奄を行って、 寄付者への御礼として円了に与えた。 円了はその励ましを受けて、  二三年から二六年まで全国巡講を続けた。  この期間に、 北は北海道から南は九州までと、 円了は日本を一巡した。 講演した日数は三九日、 講演地は三二県に及んだ。 そして、 最終的に三五九円余りの寄付金が寄せられた。  こうして、 円了と哲学館は危機から脱したのであった。

全国巡回講演、 館主としての校務などの多忙な日々の中で、 円了は仏教哲学や倫理学の著書を出版した。  さらに、 明治二六年には、 全国巡回講演で得たデー タと古代から近世までの文献研究をもとに、「妖怪学講義」を開始した。 円了によれば、 習俗化した迷信や俗信は、 教育や宗教の近代化を妨げるものであり、 日本の国際化のためにも基本的な課題であった。 円了の「妖怪学講義」は日本人の精神世界の問題を、 理学、 医学、 哲学、 心理学、 宗教学、 教育学などの視点から究明しようとしたものであった。

その後の円了と哲学館の歩みはつぎのとおりである。

明治二八年    九月 哲学館入試制度となる。 学制を改め教育学部と宗教学部を設置

明治二九年    一月 東洋大学科設立と東洋図書館建設の旨趣を発表

三月二四日六月    八日二月一三日

 第二回全国巡講開始(明治三五年九月まで)

論題「仏教哲学系統論」により文学博士の学位を受ける郁文館より失火、 類焼により哲学館は全焼明治三    年一月一    哲学館漢学専修科の開講式を挙行二月二二日四月    八日七月一五日

 井上円了著『外道哲学』刊行

哲学館仏教専修科の開講式を挙行

哲学館、 原町に移転(現在の東洋大学白山キャ ンパス)

八月二五日

宮内省より恩賜金三円を受ける

明治三二年    二月二六日 井上円了、 京北中学校を創立し、 その開校式を挙行九月 学制を変更し、 教育部と哲学部とし、 漢学専修科を教育部に、 仏教専修科を哲

明治三三年明治三四年四月一    日九月学部に合「妖怪学雑誌」を創刊

学制を改革し、 予科を第一科第二科に、 本科教育部と哲学部もそれぞれ第一科と第二科に分ける

月二五日 井上円了、 内閣より高等教育会議議員を嘱託される

 明治三五年四月    一日「哲学館大学部開設予告」を発表

 世界視察の体験から、 円了が目ざした哲学館を大学へと発展させる計画は、 前述の風災に続く、  二九年の火災によって再検討を余儀なくされたが、 円了はこのときすでに新たな校地を購入していたので、 決断して新校舎の建設と移転を実現した。  そしてまた、 大学科として漢学と仏教の専修科を開講し、 恩賜金をもとに京北中学校をも創立した。  このような紆余曲折を経ながら、 明治三五年に「哲学館大学部開設予告」を発表するまでに達していた。  このとき、 第一回目の世界視察から一三年が経過し、 円了も三    歳から四四歳になっ ていた。

 


 第二回目の世界視察 明治二七二八(一八九四九五)年の日清戦争の勝利により、 日本の国際的な地位は高まり、 軽工業を中心とした産業社会が徐々に拡大した。 そして、 明治三二(一八九九)年に、 政府が念願した条約改正が実施された。 また、 高等教育への期待も高まり、 明治三 一八九七)年六月に京都帝国大学が設立され、 東京帝国大学と合わせて二校へと拡大された。 私立大学も教育実績を積み重ね、 社会的に評価される時代に入った。 私立大学は明治二三年に慶應義塾大学部が開設されていたが、  二

世紀に入って間もない明治三五(一九二)年に、 大

 

隈重信が設立した東京専門学校が早稲田大学と改称し、 私学にも大学公称が初めて認可されるようになった。   円了も、 明治三五年四月に「哲学館大学部開設予告」を公表し、 八月に現在の中野区江古田和田山に大学予定地を購入したのは、  こうした時代の先端への対応であり、 哲学館が文部省から中等教員無試験検定の認可を得ていたからでもあった。

第一回目の世界視察後に公表された「哲学館目的について」の中で、 日本の独立の精神を維持するために、 実際上の人材として挙げられた    つが教育家の養成であった。 そのため円了は、 帰国から半年後の明治二三年三月、 文部大臣に無試験検定による哲学館卒業生の教員認定に関する願書を提出した。 当時の制度では、 官立のみに無試験検定が認められ、 私学には門戸が閉ざされていたからである。  このとき、 文部省は参考扱いにして取り上げなかった。 円了は四年後の明治二七年に、 再度、 教員免許無試験検定の認可を申請した。  このときは「検定試験規則中に、 私立学校特待の条目これなき廉をもって願書」は却下された。

 このように、 円了は教員免許制度の私学への開放を求めたパイオニアであった。 そして、 三年代の私立学校への社会的な評価の高まりを背景に、 数校が連合して制度の改正を求めたのが明治三一年のことであった。  このとき、 私学への教員免許の付与に関する決議を文部省に陳情することとなり、 哲学館の館主・円了がその代表となった。  このような運動の結果、 翌三二年一月に文部省令によって規定が改正され、 ようやく教員免許無試験検定制度の私学への開放がわずかに実現した。 哲学館は認可された四校の一校となり、 そのため学制を改革した。このような「特典」が哲学館の大学部開設の基礎となっていた。

明治三五年は、  この無試験検定の認可による最初の卒業生が誕生する時期であった。  八月に将来の大学予定地を購入した円了は、 欧米諸国の教育事情を視察するために、 一月一五日に、 第二回目の世界視察に出発した。

この度の世界視察は西回りのコー  スをとり、 まずインドに滞在し、 河口慧海、 大宮孝潤の二人の哲学館出身者と出会った。 それから、  イギリス、  ウェー ルズ、 スコットランド、 アイルランド、 フランス、 オランダ、  ベルギー、 ドイツ、  ロシア、  スイスを回り、 アメリカに渡りロッ キー 山脈を越えて、  シアトルから太平洋を横断して、

明治三六年七月二七日に帰国、 八か月余にわたる世界視察であった。

ところで円了は、 この第二回目の世界視察の初期の段階で、 哲学館の教員無試験検定の認可取り消しの事件に遭遇した。「哲学館事件」と呼ばれたこの近代日本教育史上の問題を、 円了はつぎのように説明している。

「哲学館事件とは、 明治三十五年十二月十三日、 文部大臣より、 突然、 哲学館卒業生無試験検定の認可を取り消すとの厳命を下されたる一事なり。 けだしその事たるや、 余の洋行不在中に起こりしも、  ひそかに聞くところによるに、 同年十一月卒業試験を行うにあたり、 文部省視学官・隈本有尚氏臨監せられ、 倫理科第三年級受持講師・中島徳蔵氏が、 英人「ミュー ルヘッド」氏の倫理書を講本とし、 その書中の動機篇の一節を批評を加えずして教授したりというを聞き、 はなはだ不都合なりとの意見を文部大臣に報告せられたる結果なりという。 その処置の当否、 如何につきては、 はからずも輿論を喚起し、 各新聞雑誌の一問題となりたる事なれば、 余がここに論ずるを要せず。 ただ累を、 篭も中島講師の教授を受けざるものに及ぼし、 八十余名の生徒をして一時に方向を失わしめたるは、 実に遺憾の至りなり。  すなわちこれらの生徒は、 この事件のために犠牲となりたるものというべし。 かつその影響に至りては、 哲学館創立以来の大打撃にして、 大いに館運の興廃に関係したることなれば、 永く紀念せざるべからず。」

哲学館の倫理科の卒業試験は一    月二五日に行われ、 その際に一生徒の答案をめぐって視学官と中島講師の間で、 教授法に関する問答があった。 視学官が問題視したのは、 中島が出題した「動機善にして悪なる行為ありや」に対する生徒の解答で、 教科書のミュアヘッドの例を書いた、「否らずんば試 虐 をなす者も責罰せらるべく」という部分であった。 視学官は講師の中島にこう質問した。

視学官「ミュアヘッド氏の主義〔学説〕に批評を加えましたか」

中島「講義している主義は、 だいたい教師が学生に適していると認めた教科書ですから、 特別に批評はしていません」

視学官「動機が善ならば試虐〔主君を殺すこと〕も悪にならないのではありませんか」

中島「試虐も絶対的にいけないのではありません。 ただ、 止むを得ざる非常の場合もあり、  その動機が善ならば、 これを是認することもあります。 日本ではこのようなことはありませんが、  イギリスのクロムウェルが議会軍を率いて王の軍隊を破り、 チャー ルズ一世を処刑したことは、 西洋の歴史家の是認を受けています」

視学官と中島の問答は短いものであった。 しかし、 視学官は天皇制や国体との関係を持ち出して問題化させた。  そのため、  この試験の数日後から、 哲学館へ検定試験免除の特典を与えないという風説が起こった。 円了や中島などの哲学館の関係者は誤解を解くために文部省へと説明に出向いた。 それで問題は収拾されたと思った円了は、 留守の館主代理を中島に依頼して、 一月一五日に日本を出発したのであった。  その後、 文部省は二日後の一七日に、 哲学館へ試験の答案の差し出しを要求した。 それをもとに、 二月一三日、 文部省は大臣名で、 哲学館の倫理科を含む教育部の卒業生について無試験検定の認可の取り消しを命令した。

このようにして哲学館事件は発生した。 館主の円了がこの事件の発生を知ったのは、  インドを経て、 フランスのマルセー ユからジプラルタル海峡をたどり、  イギリスのロンドンに到着して程ない明治三六年一月三日であった。  二月一日から、 円了はすぐさま哲学館事件に対する指示を送る一方で、 同じくロンドンに滞在していた澤柳政太郎に会って事件の原因と今後の対応について相談した。 澤柳は円了の大学時代の後翡であり、 当時は文部省普通学務局長をしていたからである。

日本の国内では、 事件の責任をとっ て哲学館を辞任した中島が、  二月三日に「文部省視学官の言果して真ならば」を「読売新聞』に投稿し、 哲学館事件の事実を明らかにしてから、 様々な新聞・雑誌上で、  この問題が議論がされるようになった。 現在までに確認された新聞・雑誌の掲載件数は、  二月に一四    件、 三月に一四三件、  四月に六三件、 五月に五九件に及び、 はじめに新聞、  ついで雑誌により、 哲学館事件は文部省の処分をめぐる日本の社会問題となり、 国会でも質疑が行われた。  さらに、 教科書の著者であるイギリス人ミュアヘッドが日本の英字新聞に見解を表明したこともあっ て、 日英同盟という外交問題への波及を、 外務省が懸念するまでに広がった(哲学館事件については「東洋大学百年史    通史編や『ショー トヒストリー 東洋大学」を参照)。

 ロンドンにおける円了は、 澤柳と三度に及ぶ会談を行ない、 最終的に事件の原因を了解した(円了は生存中にそれを公表しなかった)。「人災と思っ て諦める以外になし」、 それが円了の到達した結論であった。 円了は館主としての責任を痛感して、 帰国のことを検討したが、 欧米の教育事情、 とくに大学の視察に取り掛かる前のことであった。 円了は送巡したが、 この事件を踏まえて、 日本と世界の関係を再び考え直すことにした。  そして、  イギリスの地方にわたる視察を続行した。  この視察について、 息子の井上玄一氏は戦後にこう書いている。

「父は明治二十年 八八七年)に「護国愛理」を旗じるしとして、 哲学館を創立し、 国家主義、 日本主義を

唱えた。 しかし彼の民主自由思想については、  その門下生といえども知らぬ者が多い。 彼は明治三十五年 九二年)十一月より第二回の外遊をした折、 英国各地を二か月にわたりつぶさに視察した結果、 英国人の個人主義、 自由主義の長所を認めた。 元来彼は、 日本人には珍しいほど胆汁質で、 神経質なところは微塵もなく、 意志が強くて自己の信ずる道を黙々として実行して行くところ、 英国人の性格と似通っているので、 短期間とはいえ、 英国の生活は気に入ったようである。  その言論の自由、 人格の尊重、 社会道徳の発達などとくに羨んでいた。 これが学校教育から社会教育に移り、 哲学堂事業への導火線となったのである。」

玄一氏が指摘するように、 円了にとって第二回目の世界視察は大きな転機となった。 そして、  この視察中から構想されたものが、 哲学館の大学認可、「修身教会」運動であった。

明治三六年は、 哲学館事件が社会問題となっている中で、 日本の高等教育制度に大きな変化があった。 従来、私立の高等専門学校は各種学校の取り扱いだけで、 制度上の地位が与えられていなかった。 しかし、 三月に専門学校令が公布され、 官学の他に私立にもその地位が与えられ、 大学公称が初めて認可されるようになった。

明治三六年七月二七日に帰国した円了は、 世界視察の見聞を組み込んだ新たな哲学館の構想を発表した。  八月二七日、 文部大臣に対して大学開設の願書を提出し、  さらに哲学館事件へのしめくくりとして、 辞職した中島徳蔵を復職させた。 そして、 月には専門学校令による哲学館大学の認可を得た。  この過程のなかで、 円了は「広く同窓諸子に告ぐ」を発表して、  これ以後の哲学館大学のあり方をつぎのように伝えた。

「余の漫遊中、 英国滞在の比較的長かりしはいささかその心に期するところあればなり、英国が如何にしてかかる大国となりしやを知らんと欲し、 その原因は英国民の気風・性質の上にありと信じ、 欧米中とくに英国に足をとどめるに至れり、 その滞在中視察するところによるに、 英国民は実に独立自活の精神に富めると知り、この精神によりて、 世界第一の国民となりしを知る。 ::また英国民は実用的国民にして、  一方に高尚の理論を究めると同時に、 他方に実際を忘れざる国民なり、 今度、 教員免許の特典を取り消されたるは、 本館の迷惑と損害すくなからざるも、 かえって独立の精神を発し、 実用の教育を施すの一大機会なりと信ず。 故にこの機会に乗じ、 本館の学科を修正し、 旨趣を発表せんとす。」

この文章の中で、 哲学館事件によって失った教員無試験検定の「特典」の復活は文部省によって「拒絶」されたので、「この上は独立自活の精神をもって、 純然たる私立学校を開設せざるべからず」とし、「実力修養を主とし、 もっぱら教員検定試験に応ずるの準備をなす」とした。  また、「おもうに、 将来わが邦人の働くべき場所は、アメリカと支那朝鮮なり」として、 英語と中国語の会話と作文などの実用の教育を行うことを明らかにした。

 さらに、 大学開設記念として購入した府下豊多摩郡江古田和田山に、 古今東西の大哲学者である釈迦、 孔子、 ソクラテス、 カントの四聖を祀る「四聖堂」を建設することも明らかにした。

このように円了は、 哲学館の大学への拡張、  さらに国際的教育への転換を計画した。  この大学改革とともに、世界視察から発想されたものが修身教会運動である。

明治三六年九月に発表された「修身教会設立旨趣」で、 円了はつぎのように述べた。

「明治維新以来、 三十余年間におけるわが邦百般の進歩発達は、 実に世界にその比を見ざるところなり。  : しかりしこうして、 国勢民力の如何に至りては、 これを英米に比するも、 独仏に較ぶるも、 はるかにその下にあるを見る」「その原因はわが国民の道徳・徳行の彼に及ばざるところあるによると考えるなり。  それ君に忠をつくし、 親に孝をつくすは、  わが国民の一般に熟知せるところなれども、 その忠たるや、 多くは戦時の忠にして、平日の忠にあらず、 その孝たるや極端の孝にして、 通常の孝にあらず。 故に国民みな忠孝を知りながら、 民力を養い国勢を隆んならしむること能はず」「余案ずるに、 忠孝の意たるや、....倹約、 勉強、 忍耐、 誠実、 信義、博愛、 自重等の諸徳は、  みなその中に含有すと信ずるなり。 しかしてこれらの諸徳の実行は、 わが国民の遠く彼に及ばざるところなるや疑なし。 故にわが邦今日の急務は、  この諸徳を養成する方法を講ずるにあり」

このように修身教会とは、 先に玄一氏が指摘した欧米の「言論の自由、 人格の尊重、 社会道徳の発達」をモデルにした日本型の社会教育運動であった。「修身」と「教会」とはその内容と運動主体を表し、  これを日本各地に自主的に設置しようという壮大な構想で、 学校教育に止まっている道徳教育を、 社会人にまで拡大しようというものであった。 円了は、  この趣旨書を内務・文部の両大臣に送り、 さらに各府県知事、 町村長、 小学校長に送付した。

第二回目の世界視察は、  こうして、 哲学館事件を通して日本の近代化の方向を一層主体的に再考させる契機となった。


第三回目の世界視察

このように、 帰国後の円了は、 哲学館大学を「独立自活の精神による純然たる私立学校」と位置づけ、  さらに全国を対象とする修身教会運動を提唱した。 明治三七年二月に『修身教会雑誌』が創刊され、 円了は修身教会の趣旨を伝えるために、 三度目の全国巡講を開始した。「修身教会」という国民の倫理・道徳に関するこの運動には、 円了自身が世界に身を置いてみた日本のグロー  バルな課題、 また「哲学館事件」によって傷つけられた威信の回復、 円了の一私立大学の創設者を越える行動力などいろいろな要素が加わっていた。

しかし、 円了の「純然たる私立学校」「修身教会」のような在野的構想は、 講師たちには理解されず、 哲学館大学の関係者や学生たちもこれに同調して、 教員無試験検定の再認可の路線を求めたのであった。 円了と関係者との本質的な方針の違いは深まり、  その対立はやがて社会的事件として拡大する可能性が高くなった。  こうしたこともあって、 円了は明治三八年春頃より神経衰弱症に陥った。 その症状は悪化の一途をたどり、 円了は最大の解決策としてすべての学校からの引退を決意した。 それは帰国から二年半後のことであった。 円了は明治三九年一月から一人の教育者に戻った。 哲学館大学は、 帰国後に円了が遺言で予告したように「井上家」には世襲させず、 新たに財団法人となり、 三九年六月に現在の東洋大学と改称された。

引退後、 円了は個人として修身教会運動に取り組んだ。 その中心拠点となったものが現在の東京都中野区にある哲学堂であった。  この土地はもともと哲学館の大学移転用地として購入されたのであったが、 新学長との相談の結果、 移転は見合わされ、 円了はあった。

 二年間という長期返済計画のもとに、  この土地を大学から買い戻したので当時、  一万四四四五坪の土地に建っていたのは四聖堂のみで、 円了はこれを拡張して市民の修養場とする計画であった。 浅草や上野や日比谷の公園を肉体的公園とすれば、 哲学堂は精神修養的施設公園であり、  そのモデルは西洋の日曜教会であった。「西洋には体を養う公園があると同時に、 心を養う公園がある。 それが教会堂である。 休日の半日を公園で費やせば、 必ず他の半日は会堂に費やすことになっている。 日本もこの心を養う公園がほしい。 体を蓑う公園が日に月に増えているのに、 心の公園がない」と、 円了は考えていた。

修身教会運動という全国巡回講演を行う中で、 円了は講演の謝礼と揮篭の御礼の半額を地元に寄付し、 残りの半額をもって哲学堂を公園へと拡張させようとした。 午前は移動、 午後は講演、 夜は揮奄というスケジュールで、 円了は明治三九年四月から本格的に全国巡講を行った。 講演日を合計すれば、 三九年は一七三日、  四    年は二七五日、  四一年は二六二日、 四二年は一八五日、  四三年は二二六日と、 円了は一年間の大半を巡回講演に費やしている。 哲学館の出身者で評論家として知られた高嶋米峰は、  この時期の円了についてこう述べている。

「先生は、 明治三十九年、 哲学館大学長、  並びに京北中学校長を辞して、 もっぱら社会教化のために努力せられることになったのであります。 もっとも、 先生の社会教化的事業としては、  これよりさき、 明治三十七年に、修身教会というものを設立し、 全国に支部を設けて、 修身教会網を張り廻らし、  これによって、 社会教化の実績を挙げ、 もって護国の志を達しようと、 考えられたのでありまして、 その計画の周到なると、 その規模の雄大なるとには、 私共、 実に敬服もし驚嘆もしたのでありますが、 その発会式を挙げるという、 明治三十七年二月十一日の紀元節、 この日に、 ロシアに対する宣戦の詔勅が降りまして、 日露戦争の幕が切って落とされることになりましたために、 先生のこの素晴らしい精神運動は、 先生が期待されておられたほどの、 効果を収めることのできなかったことは、 実に追憾千万でありましたが、  それでも先生は、 日露戦争中、  この修身教会をひっさげて、 全国各地を巡回し、 国民銃後の努めに、 万遺漏なからしめるために、 文字通り、 南船北馬しつづけられたのであります。  ことに、  学校退隠後の先生は、 身軽になられましたために、 全国津々浦々、 先生の足跡を見ないところがないというほどに、 講演行脚をつづけられたのでありました。」

円了は教育者や宗教者が世界を視察し、 その見聞と体験をもとに教育や教化を行うことが、 日本の国際化にはとくに必要であると考えていた。 しかし、 そのことが経済的社会的に不可能な時代であった。 五三歳になった円了は、 明治四四年四月一日発行の「修身」に、「告別の辞」を発表し、 三度目の世界視察に出発した。  この「告別の辞」で述べられたことを要約すると    つぎのようになる。「明治三九年に東洋大学を退隠して以来、 五年が経過し、 計画した一五年間の全国巡講も、 前・中・後の三期に分けると、 その前期を終了した。  これを機会に、赤道以南の南洋諸島および南米諸州の風俗、  人情、 教育、 宗教を視察し、 かたわら植民状態を実地に見聞することとした。 旅行期間は半年間の予定で、 遅くなれば年末まで延びるであろう。」

第三回目の世界視察は、 明治四四年四月一日から始まり、 翌四五年一月二二日までかかっ た。 今度のコー  スは、 はじめに東南アジアから太平洋を南下して、  オー ストラリア大陸を巡り南極に近づいた。  その後、  インド洋を経てアフリカ大陸に寄港し、  その南端からヨー ロッ パ大陸に至った。 そして、 ヨー ロッ パ大陸伝いに北極へ近づき、それからヨー ロッ パ大陸を南下し、 再びイギリスに渡って南米大陸へ向かった。 南米大陸を周遊後、 中南米のメキシコヘと出て、 太平洋を横断して帰国した。 視察した主な国は、 オー  ストラリア、  イギリス、  ノルウェー、  スウェー  デン、 デンマー  ク、 ドイツ、  スイス、 フランス、  スペイン、 ポルトガル、  プラジル、 アルゼンチン、 ウルグアイ、 チリ、ペルー、  メキシコであった。 五歳代半ばに行われた第三回目の世界視察は九か月を越え、 円了自身、 漢詩で驚きを隠さなかったように、 その容貌に苦労のあとを刻んだ。

帰国から半年後、 大正に改元されたことにともなって、 円了は修身教会を「国民道徳普及会」と改め、 新たな趣意書を作り、 講演題目に世界視察の成果である南半球の状況報告を加えた。

哲学堂の建設は円了の大学退隠後から本格化し、  四聖堂に続いて哲理門、 六賢台、 三学亭が建設され、 大正時代に入ってから基本金の積み立て、 公菌の整備、 さらに宇宙館や絶対城(図書館)が新築された。 円了は大正四年に「哲学堂独案内を出版し、「哲学堂庭内七十七場」の名称を紹介している。  この年の一月に図書館の落成披露会が開催され、 以後、 哲学堂は公園として公開された。 哲学堂の建設期にあたる明治後期の毎月の参観者は、 多くても三人、 ほとんどが一六人以下であったが、 大正時代に入り、 参観者は多いときで五〇人を超えるようになり、 大正四年の披露会以後は月によって一〇〇人を超えて、 東京の私設公園として知られるようになった(哲学堂の歴史については、 拙稿「井上円了と哲学堂公園一一号を参照)。年」「井上円了センター 年報    第一一方、 世界視察によって中断した「国民道徳普及」の全国巡講は、 帰国から半年後の九月から再開され、 講演日は大正元年に九二日、  二年に二八四日、 三年に二三二日、  四年に一九七日、 五年にニ 四日、 六年に二ニ日、  七年に一七二日と精力的に続けられた。 円了の全国巡講は世界視察と同じく、 三度にわたって行われているが、  この三回の巡講地を現在(平成七年度)の市町村数にあてはめると、  一七一三市町村となり、 全体の五三%にも及んでいる(円了の全国巡講の記録については、「井上円了選集    第    二巻\第一五巻を参照)。

六    歳の還暦を迎えた円了に対して、 哲学館の出身者らが恩師の祝いをと、 伝えたところ、「今後数年を経れば、 日本全国を周遊し尽くすから、 その上で、 日本全国周遊完了祝賀会とでもいうものを催して欲しい」といって、 円了はこれを断っていた。

 大正八九一九)年五月五日、  国内の巡講予定を終えた円了は、 中国各地での講演に向かった。  六月五日、大連での講演中に倒れ、 翌六日に逝去した。 六一歳であった。(東洋大学井上円了記念学術センター 専任研究員)

 井上円了の海外視察経路図

明治21 (1888) 年 6 月 9 日~ 22年 6 月28日

明治35 (19 02)年11 月15 日~36年 7 月27日

明治44 (1911) 年 4 月 1 日~ 45年 1 月22日