2.哲界一瞥

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哲界一瞥

     はしがき

 本書のはしがきとして、哲学堂経営の始末を述ぶるに、明治三十一年哲学館の敷地内に、京北中学校を併設せし以来、両校を別置するの急要を感じ、将来哲学館を郡部に移すの意見を起こしたりしが、幸いに豊多摩郡野方村字和田山に売地あることを聞き、かつその地は和田義盛の遺跡にして、東京府下名所の一なることをも知り、早速購入の上、これを哲学館将来の敷地と予定し、その標木を建てた。その後哲学館が文部大臣より大学公称を許可せられたるにつき、その記念として明治三十七年に三間四面の一小堂をここに建築したのが、今日のいわゆる四聖堂にして、実に哲学堂の起源である。その後余が神経衰弱症にかかりたるために、明治三十九年一月哲学館大学(今の東洋大学)を退隠するに当たり、種々の都合上、学校移転を見合わすことになり、後継者と相談の結果、これを余の退隠所とするの名義をもって、自らその経営だけを引き受くることに約束した。いよいよこれを引き受けたる以上は、将来永く世道人心を裨補するものになさんとの計画を起こし、ついに精神修養的公園とすることに定め、その建築費および維持費として七万五千円を積み立つる予算を立てた。しかしてこの金額を集むる方法としては、有志者の寄付金を仰ぐことは本意ではないから、別に工夫することに取り決めた。

 かつて国民道徳の大本たる教育勅語の御聖旨を普及徹底せしむるには、学校教育以外に社会教育、民間教育を各町村に起こさざるべからずとは、余の年来の持論にして、学校退隠後はもっぱらその方に力を尽くさんと思い、神経衰弱を医する良法は田舎の旅行にありと聞き、療養の傍ら日本全国の各郡各郷を周遊して、その趣旨を演述せんことに定めたが、開会の経費を支弁する方法を案出する必要が起こってきた。これにおいて余は生来悪筆なるかどをもって、数十年間全く禁筆したりしが、近年余儀なくその禁を解き、地方巡遊中、町村有志の所望に応じて額や掛け物の揮毫をなすことに決し、これによって受けたる謝儀の半額は開会経費に充用し、もしくは町村の公共事業、慈善事業に寄付することとし、他の半額は哲学堂の建築費、維持費に充用することとして、明治三十九年より全国行脚の途に就きたる次第である。

 以上の方法により集まりたる金は、これを支出して逐年哲学堂の建設を進行し、今日までに六賢台、三学亭、唯物園、唯心亭等を竣工することに運んだ。その詳細は年々発行の『南船北馬集』中に報告してある。試みに明治四十三年末における全五カ年間の収支総計を掲記すれば、

収入金、二万四千百八十九円十八銭五厘

支出金、二万二千八百九十四円七十九銭五厘

 この支出金の中には土地購入費も合算してある。その地所の過半は最初哲学館にて購入せしものなれども、余は己の任意にてその代金は漸次に東洋大学の方へ支払うことに致した。その後新たに購入したる地所の代金も加わりておる。今後いよいよ全国を一周し終わるには、なおこの上に十年間を要するにつき、それまでに予定の七万五千円を満たしたいと思う。

 かくのごとく悪筆を振るうて謝儀を拝受しては、世間に対して鉄面皮のようなれども、これもとより余の快しとするところにあらずして、万やむをえざるより案出したる方法に過ぎぬ。よってその金は決して一家のため、子孫のために保存するにあらずして、全く国家社会に対してその恩に報答するためなることを広く世間の方々に記憶して頂きたい。

 余は幼時より学校教育を受けたる年月は満二十年にして、自ら学校を造りて人を教育したりし年月も、やはり二十年間であった。これあたかも数理において年月の差し引きができるから、教育より受けし恩債の返却ができたと申してよろしい。いよいよ学校を退隠するに当たり、余より従来の財産全部、すなわち十三万五千九百三十五円六十一銭七厘を寄付して、東洋大学財団および京北財団を組織し、明治三十九年に文部大臣に申請したる次第である。これまさしく余が教育より受けし恩義に報答したるものと思う。しかし国家社会より受けたる恩に対しては未だ報答しておらぬ。よってその報答として哲学堂の公園を完成し、これを国家社会に貢献する考えを起こした。故に他日完成の暁には、更にこれを財団法人とするか、さなければその全部を挙げて政府に献上する赤心である。さればその経営の決して子孫のためにする私情にあらざることだけは、天下の公衆に告白しておかねばならぬ。ただし悪筆を振るいたる点は、他日完成の日を待ち、哲学堂内に筆塚を建てて、広く謝罪するつもりである。

 今より十年を経て全国を巡了したりしときに至り、己の余命のあらん限りは、自ら哲学堂の門番となり、毎朝灑掃の余暇に、来観の諸氏に対し、座談説法をなし、その傍ら学生の監督をなしたいと思う。近頃は地方旅行のお陰にて、神経衰弱の方は全快したれば、東洋大学学長に復帰せよと、内外よりの勧告を受けおるも、固辞して応ぜざるは、この将来の予望を有する故である。かつて学校を退隠するときに、今後の半生は学校教育に従事せずして、もっぱら社会教育、民間教育に尽瘁することを公言し、学校に永訣を告げて去りたることなれば、再び学校へ戻るときは、死者の復活か、あるいは幽霊の現出と同様であるからと申して固く断り、引き続きて一方にては全国の巡講に東奔西走し、他方にては哲学堂内に開設すべき図書館、博物館の経営を進行するつもりなれば、すこぶる多忙を極め、到底その傍らに学校の監督経営を兼担する余暇はない。かくして十年後に至り、全国の周遊を結了し、哲学堂の設備を完成したるときには、堂内に幽棲して老境を送り、座談説法、修身講話をもって、青年の指導に当たる心算である。その材料としては死書死学よりも、むしろ活学活書をとりたいと思う。活学活書とは世界における人間社会の活動せる現状をいうのである。この目的に対しては今後少なくとも一、二回は世界を周遊して、今日まで未だ経歴せざる国々を歴訪せなければならぬ。余の素志は一生の間において人間の住んでいる国だけはことごとく歴遊して、その人情、風俗、習慣、および活動の実況を目撃視察し、もって講話の資料を蘊蓄したいと思う。これがいわゆる活学活書である。かくして余の学校退隠後の残生は全く国家社会のために尽くし、世の中より受けたる大恩に報謝する決心に外ならぬ。古人は児孫のために美田を買わずと申したが、余は私産を残して公衆に分与せよとの主義を唱えている。その詩は左に掲げておく。

人生は夢のごとくにして夢に非ず、わが食わが衣だれか貢ぐところぞ、児孫のために美田を買わんよりは、むしろ私産を残して公衆に分かたん。


 右の主義であるから、己の一身はできる得る限り、質素を守り節倹を行い、これによりて余したるものは、公衆に分与する精神にて、哲学堂の方にあてはむる心得である。世間あるいは余の本意のあるところを誤解せんことを恐れ、かくのごとく贅言を記して、本書の巻初に題したる次第である。

  大正二年五月             哲学堂主  井上円了記  

     一 哲学堂の由来

 哲学堂は明治三十七年、哲学館の大学公称を文部省より許可せられたる記念として、一棟を建設したるに始まり、同三十九年一月、余が同大学を退隠せるにつき、これを己の退隠所と定めたるより起こっています。すでにこれを退隠所として自ら経営することになりたれば、ただ自己の精神修養場とするのみならず、将来永く多数の人々の修養場となしたく思い、更に増築の計画を起こすに至りました。すなわち最初は四聖堂のみなりしが、これに六賢台、三学亭を別置し、これを総称して哲学堂となすことに定めたる次第である。しかしてその目的は宗教的崇拝の意にあらずして、教育的、倫理的、哲学的精神修養の意に外ならぬ。すなわちここに奉崇せる聖賢はその人物人格、その性徳言行、いずれもわが輩の模範とし手本とすべき人なれば、時々これに接近して各自の修養をなさしむるためである。しかしてその所在地は東京府下豊多摩郡野方村大字江古田小字和田山にして、昔時和田義盛の居住せし所なりと伝えておる。徳川時代には一時某侯の別荘となりたることあると申します。その土地は高燥にして清閑、かつ多少の眺望もあれば、外囲の事情が精神修養を助くることができる。いわんやその内容には古今東西の聖賢を奉崇するにおいてをや。余が存命中いささか微力を尽くし、その死後、精神修養的私立公園として永く保存せられ、世道の万一を裨補するを得ば本望のいたりである。

     二 哲学堂の内容

 前述のごとく哲学堂は総称にして、その中に四聖堂、六賢台、三学亭があります。四聖堂は釈迦、孔子、ソクラテス、カントの四聖を奉崇せる所なるが、その中に何故にヤソを加えざるかと尋ぬる人もあるけれども、その堂が宗教堂にあらずして、哲学堂であることを心頭に呼び起こさば、直ちに分かるはずじゃ。ヤソは大宗教家である。しかれども哲学者ではない。何人の哲学史をひらきても、未だかつてヤソを一家の哲学者として取り扱いたるものを見受けぬ。これに反して釈迦のごときは宗教家にしてかつ哲学者たることは、東西共に許すところである。現今世界中の哲学を分類するに、

   哲学 東洋 シナ哲学

         インド哲学

      西洋 古代哲学

         近世哲学

 右の通りであるが、その一つ一つより一人の哲学者を選出して、シナ哲学の代表者を孔子とし、インド哲学の代表者を釈尊とし、古代哲学にはソクラテス翁を推し、近世にはカント氏を推したる次第であります。この表を一見したならば、ヤソを選出する余地なきことは明らかである。昨年以来四聖堂の外に六賢、三学を奉崇することに定めたるは、別にわけがある。すなわちここに参観せるもの、四聖堂中に日本の聖賢を欠きたるを遺憾なりといわるる人多ければ、更に拡張して日本、シナ、インドよりおのおの二賢ずつを選出することとなし、更にまたわが国神儒仏三道の学者中よりおのおの一人ずつの代表者を出すこととなし、六賢台、三学亭を設置することになったので、その全表は左の通りである。

  哲学堂 四聖堂(世界的) 東 洋 シナ……………孔聖〔孔子〕

                   インド…………釈聖〔釈迦〕

               西 洋 古代……………瑣聖〔ソクラテス〕

                   近代……………韓聖〔カント〕

      六賢台(東洋的) 日 本 上古………聖徳太子

                   中古……………菅公〔菅原道真〕

               シ ナ 周代……………荘子

                   宋代……………朱子

               インド 仏教………竜樹大士

                   外教………迦毘羅仙

      三学亭(日本的) 神 道…………平田篤胤大人

               儒 道…………林羅山先生

               仏 道…………釈凝然大徳

 これらの聖賢は世間に紹介するまでもなく、多少の教育あるもののみなよく熟知せるところなるも、多数の人々に紹介せんために、その伝記の大略を叙述することに致しましょう。しかしその前に四聖堂および庭園につきて一言しておきたい。

     三 四聖堂および庭園

 まず四聖堂の設計につきて述ぶるに、その堂は三間四面にして、四方正面である。中央に柱脚四個の天井より懸かりて、自然に天蓋の形をなしているのは宇宙の形をあらわしたので、柱脚は天の四脚にかたどりたるつもりである。その内面の金色銀色のガラスは天地の未だ分かれざりしとき、混沌として鶏の卵のごとしといえる昔話に基づいたのじゃ。しかしてその中点の金色半球より赤色ガラスの球灯を垂れたのは、心を代表し、外囲の柱脚より方形の香炉をつるしたのは、物を表現したる意象である。心は透明にして円く、物は不透明にして角なるべき想像より出でたる寓意である。これと同時に心は宇宙の神髄より発現し、物は宇宙の体質より分化したる意味を含めたつもりである。また数多き小円木の中位より外方へ散開して天井の垂木となりおるは光線を現したのである。これを総合して本堂の理想的本尊とし、別に偶像を置かぬことに定めました。

 庭園は丘上と丘下とに分かれ、丘下に左右両翼ありて、右翼に物字園を設け、左翼に心字庭を置いた。これは唯物論と唯心論とを表示したのである。そのいちいちの名称を掲げましょう。

     丘上すなわち中位の方

哲理門(俗称妖怪門にして、その左右に天狗と幽霊の彫刻物がある)、常識門、四聖堂、六賢台、三学亭、鑚仰軒、髑髏庵、鬼神窟、万象閣、宇宙館(この中に皇国殿を置く)、無尽蔵(書庫)、時空岡、相対渓、理想橋、絶対境、聖哲碑、幽霊梅、天狗松、百科叢、学界津、一元牆、二元衢、懐疑巷

     右翼すなわち唯物園の方

経験坂、感覚巒、万有林、造化澗、神秘洞、後天沼(通称扇状沼)、原子橋(通称扇骨橋)、博物堤、理化潭、進化溝、物字壇、客観廬

     左翼すなわち唯心庭の方

意識駅、直覚径、認識路、論理関、独断峡、心理崖、先天泉、概念橋、倫理淵、理性島、心字池、主観亭

 以上を総称して哲学堂と定めた。その中には未だ建設せざるものもある。これらの名目を一々説明すれば、哲学の大意が分かるように工夫したつもりである。その他に哲学堂八景と称するものがある。

富士暮雪 御霊帰雅 玉橋秋月 氷川夕照 薬師晩鐘 古田落雁 鼓岡晴嵐 魔松夜雨

 これより伝記のあらましを述べましょう。

     四 釈尊〔釈迦〕

 四聖の順序は年代の前後によりて定めることとし、まず釈尊より始むるに、釈迦牟尼仏世尊は、今より二千九百年前、インド迦毘羅城の王宮に降生せりとの説なれども、その年代は異説ありて一定し難い。ただし今日の考証にては西洋紀元前五〇〇年前後なりとのことじゃ。その種族はインド四姓中の刹帝利種である。ようやく長ずるに及び、厭世出家の志を起こし、自ら生老病死のなにものたるを究めんと欲し、年十九の時、深夜宮人の熟睡せるをうかがい、馬にまたがりて城を出で、六年あるいは十二年の間、山中に入りて苦行を修し、年三十の時、尼連禅河の畔にきたり、菩提樹の下に座し、まさしく成道したまいたと伝えてある。これより歩を進めて恒河を渡り、鹿野苑に至り、小乗教を説かれたるを始めとし、五十年の間各所に法輪を転じ、大小権実の諸法を演述せられたりとて、これを天台にては五時八教の次第を立てて取り扱います。仏年八十にして拘尸那城に至り、沙羅双樹の間にありて涅槃に入らんとし、大音声を出しあまねく大衆に告げらく、一切衆生もし疑義あらば最後の問いをなせといわれたれば、諸大弟子らおのおの供具を持して仏に詣し供養しけるに、みな黙して受けられず、また涅槃に入らざらんことを勧請せるものあるも、許したまわず、中夜寂然として声なきに当たり、諸弟子のために略して法要を説かれたるものが、今日伝わるところの遺教経である。すでにこれを説き終わりて、頭北面西右脇にて入滅せられました。その弟子幾千人のうちにて、舎利弗、目■連、阿難、迦葉らは上足というべき高弟にして、中につきて迦葉が付法伝灯せりと伝えらる。仏滅後、大衆各所に集まりて、仏所説の法を結集せしにより、経律論の三蔵が今日に伝来することができた。釈尊の性行学識共にいかばかり非凡にして偉大なりしかは、ここに喋々する必要はなかろうと思う。

     五 孔聖〔孔子〕

 孔夫子はその名を丘といい、字を仲尼といい、魯の昌平郷の陬邑に生まれ、他の児と共に遊戯をなすときにも、常に礼容を修め、長ずるに及び季氏の史となり、あるいは司職の吏となりたることがある。そののち魯国を去り斉宋衛の諸国の間に往返奔走したりしも用いられず、再び魯に帰るも、魯また厚遇せず、これより退きて詩書礼楽を修めたれば、弟子遠近よりきたり集まりたりという。その後また弟子をひきいて諸国を歴遊しけるに、あるときは孔子の状貌陽虎に似たりとて匡人のために捕らえられたれば、弟子大いにおそれしも、孔子は天の未だ斯文を喪せざるや匡人それわれをいかんせんといいて、泰然として驚かず。またあるとき宋の司馬桓■なるもの孔子を殺さんとせしに、孔子は天徳をわれに生ず、桓■それわれをいかんせんといいて自若たりしがごときは、その人の偉大なるゆえんを知ることができる。晩年に及び易を好み、韋編三絶すという。弟子を教うるに詩書礼楽をもってせられしが、その徒三千人、身六芸に通ずるもの七十三人ありとは、実に盛んなりと申さねばならぬ。顔淵がこれを仰げばいよいよ高く、これを鑚ればいよいよ堅しといいたるも、孟子が生民ありて以来、未だかくのごとき人あらずといいたるも、孔子の人物人格のいかんを想するに足る。夫子自ら終身天下を周遊してついに用いられざるをみて、天を怨みず人をとがめず、下学して上達す。われを知るものはそれ天かといい、最後に春秋を作りて、後世丘を知るものは春秋をもってせん。丘を罪するものもまた春秋をもってせんといわれたるがごとき、その志のいかんを知ることができる。魯の哀公十六年四月己丑の日をもって、この偉大なる聖人が永眠に就かれました。その寿七十三である。

     六 瑣賢〔ソクラテス〕

 大賢ソクラテス氏は紀元前四六九年ギリシアのアデンに生まれ、家貧にして父は彫刻を業とし、母は産婆たりしも、幼時すでに普通の教育を受け、天資豪邁にしてしかも沈毅の人であった。壮年のとき戦陣に入り、その忍勇、人を感嘆せしめたということじゃ。その妻短気にして激怒しやすき性なるも、よくこれを忍んで服せしめたりという。中年以後に至り、始めて人を教育せんことを志し、毎日市場、工場、公園のごとき多数衆人の集まる所に至り、老弱貧富を分かたず、諄々として訓誨し、すこしも倦むことなかったと申す。その外貌は醜なるも、その内心は美にして、ひとたび相会してその話を聞くもの、敬服感嘆せざるものなかりしと伝えられておる。当時ギリシアにあっては詭弁学流行し、無益の言論を弄する弊ありしが、ソクラテスは務めてこれを排斥し、極力世の風教習俗を矯正せんとしたれば、世人の憤怒に触れ讒せられて、死罪の宣告を受くるに至った。かかる無実の罪に陥りしも、自ら弁護することを用いず、従容自若として毒杯を仰ぎて長逝せられたるは実にその胸量のいかばかり豁大なりしかを知ることができる。その学説は知識を本とし、知すなわち徳なることを唱え、知りて悪をなすは知らずして悪をなすに勝るとまで申しておる。その一代の言行は実に万世の模範とするに足る人物である。後世西洋にありて教育倫理の学を講ずるに、ソクラテスをもって元祖とせざるものはない。またその門下より続々秀才碩学を輩出せしめたるも、その感化の功に帰せねばならぬ。門弟中出藍の名を得たるものは、プラトン氏である。ソクラテス寿は七十歳であって、後世よりギリシアの聖人と呼ばれております。

     七 韓哲〔カント〕

 近世無二の碩学大家たるカント氏は西暦一七二四年プロシアのケーニヒスベルグに生まれたる人である。その家はもとスコットランドより転住しきたり、その父は馬具を作るを業としたりしも、よくカントを教育してその業を終えしめた。その母は謹直の人なりしが、カントはその遺風を受け、厳粛正確の風ありて、一日中の動作進退みな規律を立ててこれに従い、その時間を確守するがごときは、寺院の寺鐘よりも正確なりとの評判であった。その大学にあるや数学、物理、地理、論理、倫理哲学を教授し、頽齢に及ぶまで教授の椅子を占めておられた。その一代の傑作たる『純理批判』は一七八一年の発行にして、ひとたび世に公せらるるや、当時の哲学界を震動するほどの勢いを有し、その人を景慕して、遠近の学者きたりて刺を通ずるもの少なからざりしという。氏は生涯故郷を出でず、妻をめとらず、実に隠君子の風であった。生来虚弱の質なりしも、摂生そのよろしきを得て、八十歳の高齢を保ち、一八〇四年をもって永眠に就かれました。その最後のときまで著作に従事し、能力の永続せしは驚くべきほどである。その死したるときのごときは、全身骨と皮のみになり、あたかも乾燥せるもののごとくであったと伝えてある。その著書は『純理批判』の外に『実践批判』『断定批判』等いちいち挙ぐるにいとまなければ、これを略しておきます。その人格性行共に学者の模標として、一点の間然するところなしというてよい。また近世の哲学はフランスのデカルト氏に始まりて、カント氏これを大成せりと申しても差し支えない。

     八 聖徳太子

 つぎに六賢は近きより遠きに及ぼす順序を用い、まず日本より始むれば、聖徳太子は用明天皇の第一子にてあらせられ、生まれながら言葉をよくし、稟性聡明の御方にてまします。年ようやく長ずるに及び、書を読むことを好み、なかんずく仏書を愛読し、蘇我の馬子と共に仏教を奉信せられました。このとき守屋なるものありて仏をしりぞけんと欲し、ために闘うてついに敗死せし後は、仏教大いに興り、数十年を出でずして寺院四十六カ所、僧尼千三百八十余人を見るに至った。推古天皇位につかせらるるに及び、太子をして政を摂せしめ、万機を委任せられしかば、太子始めて冠位十二階を作り、憲法十七カ条を定められました。すなわち和を貴び、さからう無きを宗とすべし、篤く三宝を敬すべし、詔を受くれば必ず慎むべし、群卿百寮礼をもって本とすべし、餐を絶ち欲をすて明らかに訴訟を弁ずべし、悪を懲らし善を勧むべし、人おのおの任あり掌よくみだりにせざるべし、群卿百寮早に朝しおそく退くべし、信はこれ義の本、毎事信あるべし、忿を絶ち瞋をすてて人の違を怒らざるべし、功過を明瞭し賞罰必ず当たるべし、国司国造は百姓に賦斂すること無かるべし、もろもろの官に任ずるものは同じく職掌を知るべし、群臣百寮嫉妬なかるべし、私に背きて公に問うべし、民を使うに時をもってすべし、事に独断すべからずの十七条であるが、いずれも万世の金言であります。その著作としては『法華』『勝鬘』『維摩』三経の義疏ありて今日に伝わる。これを太子の三疏といいます。太子病むに当たり、勅問ありて遺言を尋ねられしに、仏法を興隆し伽藍を造修して、皇統を万世に保護祈請せんことを願われたりとのことじゃ。年四十九にして播磨の斑鳩の宮に薨ぜられ、磯長の陵に葬られたれば、天下の百姓は父母を失えるがごとく、一人として哀惜せざるものなく、哭泣の声至る所に聞こえたりと申してある。太子は厩戸にて出産し給いし由来より厩戸皇子といい、または豊聡耳、上宮等数名あれども、世間普通には聖徳太子として知られています。聖徳とは叡明仁恕なるの称にして、実に名実相応の御方と申してよい。

     九 菅公〔菅原道真〕

 菅原道真公は参議是善の第三子にして、幼より英才群を抜き、十一歳のとき、詩を作りて人を驚かせしめたることがある。貞観年中、文章生にあげられ、得業生となり、対策及第して累進し、兵部民部少輔を経て式部少輔に遷り、文章博士を兼ねることとなり、これより更に累進せられしも省略しておきます。しかして昌泰二年に至り、藤原時平左大臣となり、公は右大臣となりたりしが、公の名望内外に高く、天皇の寵任ことに厚きために、時平らの讒するところとなり、貶せられて太宰府に左遷せられました。公、常に梅を愛す、発するに臨み「東風吹かば香おこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ」と詠みたる歌は、何人もよく知るところである。太宰府に遷りし後は、門を閉じて出でず、文墨をもって悶を遣る。

家を離るる三、四月、落涙百千行。万事みな夢のごとし、時々彼の蒼を仰ぐ。


の詩、および

去年の今夜清涼に侍す、秋思の詩編ひとり断腸、恩賜の御衣なおここに在り、捧持す毎日余光を拝す。


の作のごときは、みな人口に膾炙するものである。延喜三年二月ついに五十九歳の寿をもって配所に薨去せられました。公は詩文を好くせしかば、その遺集今に伝わる。またかつて諸儒と勅を奉じ、三代実録五十巻を修し、また詔を奉じて、旧史を分類し、その名を『類聚国史』というものおよそ二百巻あります。かの遺誡中の

およそ神国一世無窮の玄妙はあえて窺知すべからず、漢土三代周孔の聖経を学ぶといえども、革命の国風深く思慮を加うべし。


の一章のごとき、または

およそ国学の要とするところ、論古今にわたり、天人を究めんと欲すといえども、その和魂漢才に非ざるよりは、その閾奥を闘うあたわず。


の一章のごときは、実に千古の卓見にして、その学識徳行共に深く敬服するところである。後世郡国至る所に社を建て像を描きてこれを祭り、菅聖と呼び、天満天神と称するも、当然のことであります。

     十 荘   子

 荘子はその名を周といい、字は子休と称し、梁国または宋国の蒙県に生まれ、梁の恵王、斉の宣王とその時を同じうすとあれば、孟子と同時代なることは明らかである。その著書十余万言は大抵寓言にして、その要、老子に基づき、もって孔子の説を毀斥するを主としたものである。楚の威王その賢を聞き使いを遣わしてこれを迎え、大いに任用せんとしたれども、荘子笑いて申すには、千金は重利、卿相は尊位なれども、かの祭祀に用うる犠牛と同じく、平日養うに良食をもってし、衣するに文繍をもってするも、引いて太廟に入れらるるに当たりては自ら孤豚とならんと欲するもいかんともすることあたわず。われはむしろ汚濁の地にありて、悠々自得するを快とすといいて辞退し、終身官に仕えず、その志の高きこと推して知るべしである。その著書は逍遥遊、斉物論、養生主、人間生、徳充府、大宗師、応帝王の諸編を有するが、逍遥遊編が全編の眼目である。その文章は高妙にして深味を有し、鬼を出で神に入るの趣ありとの古来の評じゃ。たとえ老子の学なにほど深妙を得たりとも、荘子を待つにあらざれば後世に流伝することはでき難い。古来荘子を読むもの、ただその文の神妙を称するのみにて、その説の高妙なるをいわぬ。これ全く儒家の眼をもって見る故である。もし今日哲学上より観察しきたらば、その思想の深奥なるは文章以上にあることが分かる。その説、虚静恬澹寂寞無為を主とし、死生を一にし是非をひとしうするにありというも、その中におのずから宇宙の深秘をうかがい、絶対の風光に接するの趣があります。かかる説を発表せる荘子その人のいかんは、想像するにあまりありというてよろしい。

     十一 朱   子

 宋の朱子、名は熹、字は元晦、自ら称して仲晦、晦庵または晦翁と号した。生まれてわずかに五歳のときに小学に入り、始めて考経を誦して、すでにその大義を了解し、八字をその上に題し、「もしかくのごとくならずんば、すなわち人とならず」(若不如此便不成人)と書したるほどに天稟の神才を有しておった。また群卿と共に游嬉するに砂をもって八卦の象を描き、これを熟観して楽しんだということじゃ。学業は劉勉之と申す人より受けたりしが、朱子の非凡なるをみて己の女をもってこれにめあわした。高宗帝の紹興年中に登第し、爾来職を州県に奉ぜしことありて、その名日一日より高く、当時の士大夫たるもの程氏の学を名付けて道学と申しおりしが、朱子これをうけて修学いよいよ篤く、学者大抵みな晦庵先生と呼びて、朱子を師宗し、四方その人を仰ぐこと泰山北斗のごとくであった。光宗帝のときに侍講より申し上げたる言に、もし徳に進み業を修めんと欲せば、天下第一の人を尋ねてこれを用うべしといいしが、その第一の人とは朱子を指したるのである。のちに寧宗帝位につかせらるるに及び、慶元年中、朱子召に応じて朝廷に至れども、その反対党より偽学をもって目せられ、わずかに官にあること四十六日にして、職を辞められ、退きて諸生と学を講じて休まず。慶元六年病にかかり、いよいよ危篤なるに至り、正座衣冠を整え、枕に就きてなお紙筆をもとめんとする状ありしも、筆を握りて運ばすることあたわず、恬然として逝きたりとのことじゃ。ときに偽学の党禁厳なりといえども、会葬せるもの数千人の多きに及びたりとは、その徳望のいかに大なりしかを判知することができる。寿七十一歳、諡して文といい、後に孔廟に従祠せられしとは、死後の余栄もまた大なりといわねばならぬ。

     十二 竜樹大士

 釈尊滅後、小乗ひとり行われたりしが、その教中に異見を起こし、二十部または五百部に分立するに至り、小乗ようやく衰え、四百年を過ぎて仏教まさにインドに地を払わんする有様なりしが、前に馬鳴、後に竜樹出でて大乗を唱え、仏教ふたたび興起するに至れりと伝えてある。竜樹大士は南天竺婆羅門種の末孫にして、仏滅後七百年頃、世に出でたりと申す。天性聡悟にして、幼時人の四韋陀を誦するを聞きて四万偈を作る。年弱冠にして天文、地理、およびその当時諸学術一として通暁せざるはなく、諸国に独歩するほどの勢いであったとのことじゃ。一時は朋友と共にはかりて学術の薀奥を究めたる上は、情欲をほしいままにせんと欲し、無道の行をなしたるも、後に悟るところありて道心を起こし、仏教に入り経律論三蔵を修了し、更に余典をもとめたりしが、たまたま大竜菩薩の指導によりて、共に竜宮に至り、大乗経典を探り得て、その深義を究め、南天竺に帰りて盛んに外道を排して大乗を弘めたりという。後に法を提婆に付し、間室に入りて出でざりければ、弟子戸を破りてこれを見るに、三昧に入り、蝉脱して天竺の諸国を去るを見たりと伝えてある。その所造の論部、大悲方便論五千偈、大荘厳論五千偈、大無畏論十万偈、優波提舎論十万偈ありと申すが、今日蔵経中に入りてわが国に現存するもの中に大智度論、中論、十二門論、十住毘婆娑論等ありて、何人もその所説の大乗の教理をうかがうことができる。世呼びて八宗の祖師とし、仏教の中興とし、第二の釈迦として崇信するも、もとよりそのところなりというてよい。

     十三 迦毘羅仙

 インドにありて婆羅門教の余流を汲みたる哲学が六大学派に分かれておるが、そのうち最も名高きものは「サーンキヤ」すなわち数論の学派である。この派の開祖を迦毘羅仙人と申します。迦毘羅の名は黄赤色の義にして、その鬢髪面色共に黄赤色なるが故に、かく名付けられた。その年代はあるいは成刧の初めに出づとも、あるいは空より生ずともありて、つまびらかに知ることは出来ぬ。しかし釈尊より以前に世に在りしことは明らかである。この仙人は自然に法と知と離欲と自在との四徳を有し、あまねく世間を観察せるに、人の暗黒なる中に沈没するを見て、可憐の情を起こし、阿修利なるものを得て、これがために二十五諦の法を説かれ、阿修利これを受けて更にその法を般尸訶に伝えたということじゃ。般尸訶の授かりしときには六万偈ありしも、そののち更に相伝えて自在黒に至り、かくのごとき大偈は人の受持し難きを知り、これを略して七十偈としたる由、すなわち今日存するところの金七十論がその偈文である。これに金の字を冠したるは、国王より金を賜りし記念として用いたりと伝えられておる。その二十五諦とは自性大我慢、五大五唯、五知根、五作根、心平等根、神我のことでありて、これが数論哲学の骨目であります。その中自在と神我との二者は、本来自存せるものにして、中間の二十三諦は自性と神我と相より、しかも自性の開発より次第に変遷して生じたるものとの説じゃ。しかして自性には発動の力ありて、神我はこれを有せず、自性は無知にして神我は知者である。前者は作者にして盲者、後者は受者にして跛者、すなわち自性と神我と相合するは、盲者と跛者と相合するがごとしと説き、これによりて迷悟の生起するゆえんを示したのが数論の説である。たとえその説の開祖たる迦毘羅仙の伝記は明らかならざるも、その人の学識性行のいかに深大なるかは多少推想することができる。

     十四 平田篤胤大人

 平田篤胤大人は和学者の泰斗にして、幼名を正吉、通称は大角と呼び、安永五年出羽の国秋田の城下に生まれたる人であります。その父は佐竹家の藩士である。大人八歳のときより漢学を学び、後に医術を修め、二十歳に及んで奮然として志を起こし、書をとどめて、郷国を去り、わずかに一両の小金を所持して旅程に上り苦難を侵してようやく江戸に達したるも、藩にもたよらず、朋友をもたのまず、独立独行、ただ良師を得てこれに従わんと欲し、糊口のために艱難辛苦をなむるも更にこれを意とせず、流浪すること四、五年の長きに及びたりとのことじゃ。幸いにして寛政十二年、備中国板倉家の藩士平田藤兵衛の嗣となるを得て、居を江戸に定むることになった。享和元年、始めて本居宣長翁の著書を見て、大いに発見するところあり、爾来もっぱら古道を振興せんことに力を尽くし、文化元年家号を命じて真菅乃屋と称し、門戸を開きて徒弟を教授することを始め、これよりのち毎年書を著して古道を弘め、更に家号を伊吹乃屋と改め、その名いよいよ遠近に広まり、その著書献上の命を拝するに至り、ここにおいて秋田藩においても禄百石を給与せらるることになりました。大人は文政十四年秋田に帰り、間もなく病にかかり、ついに同年九月十一日をもって黄泉の客となりたるが、その寿六十八歳であった。その一代の事業は古学を興すことにありて、その著書百余部に達し、門人一千余人の多きに及び、神道これによりて勃興したるは、非凡の偉人といわなければならぬ。弘化二年諡を賜りて神霊能真柱大人ということになりました。

(この三学の選定はあらかじめ著述の最も多き人をとることの標準を設けて、神儒仏三道の学者を考索せるに、神道にては本居大人よりも平田大人の方、著作の種類の多きを認めたれば、後者を当選することにしました。しかるに前者を推す人も多々あるように見受けたれば、数十名の学者諸氏に意見を徴したれば、原案のままを賛成せる人の方多数を得たるにより、平田大人に決定することになりました。これは後日の参考までに申しおく)。

     十五 林羅山先生

 林信勝、すなわち羅山先生は徳川幕府の儒官なるが、その祖先は加賀の人にして、後に紀州に移り、その父は京都に住したりとのことじゃ。生まれて非凡の才あり、八歳のときに人の太平記を読むを聞きて、たちまちこれを暗記せりとて、人みな呼びて神童と申したという。年十四にして建仁寺に入り書を読まんとするも、時なお戦乱の世にして書籍を得ること難ければ、百方捜索し、たまたま一書を得れば読書夜を徹するに至り、かくしてようやく長ずるに及び、ますます広く百家の説を探り、およそ字の冊をなすもの一としてうかがわざるものなきほどであったとのことじゃ。しかしてその最も尊崇するところは六経にありて、その本旨を得たるものは程朱の学なりとなし、ついに門を開きて宋儒の説を講ずるに至った。このときに当たり洛北に隠栖せる藤原惺窩を慕うて、その弟子となり、ますます経義に通暁したれば、徳川家康その名を聞きてこれを召し、慶長十一年命じて博士となし、顧問の位置におかれた。そののち剃髪して道春と称し、民部卿法印に叙せられ、大いに信任を得、朝議律令までを起草したりという。徳川四世に歴仕し、明暦三年正月二十三日をもって没去せられました。その寿七十五歳、信勝はその名、羅山はその号にして、諡を文敏と申します。羅山先生は博覧強記、ことに文才を長じ、暫時も筆を休めず、その著作すこぶる多し。今その主要なるものを挙ぐれば、『東鑑綱要』『群書治要補』『儒門思問録』『倭漢法制』『本朝編年録』『貞観政要抄』『渾天義考』『性理字義諺解』『経籍和字考』『四書集註抄』『道統小伝』『神道秘伝』『神社考』等にして、一代の編述およそ百七十余種あり、そのうち『羅山文集』のごときは百五十巻の多きに及ぶ。実に近世の碩学にして、かつ大著述家と申さねばならず、その没後林氏の学相伝えて今日に及び、徳川三百年間を風靡し、儒学これによりて大いに勃興したれば、先生は真に儒門の中興であります。

     十六 釈凝然大徳

 釈凝然大徳は今より約六百年前、すなわち仁治元年に伊予国高橋郡内の藤原氏の家に生まれたる御方にて、その号は示観と申します。天性聡明にして、仏縁浅からず、幼少のときより仏教を聞くことを喜び、人よりひとたび口授されしことは、よく暗記して忘れたることなかりしと申すことじゃ。年わずかに十五歳にして、奈良東大寺戒壇院に投じ、円照門下に入りて剃髪受戒し、これより宗性といえる人につきて華厳の学を修め、そののち三論法相の諸学をも兼修し、更に京都に遊びて禅学の理をうかがい、傍ら孔老百家の道に通じ、博学多識、諸宗の教理一として暁通せざることなきほどなるも、自ら華厳を本領としておられた。初めて講義を大仏殿において開かれしとき、南都七大寺の諸師争いきたりてその席に列せられ、そののち開講あるごとに、聴衆雲のごとく集まりたりとのことじゃ。後宇多上皇南都に巡幸遊ばせられたるとき、大徳は戒師となりて菩薩戒を授け奉り、そののち御召によりて五教章を講じ、国師号を賜りたりとその伝記中にみえておる。元亨元年九月五日をもって戒壇院に入滅し、鷲尾山に葬る。その齢八十二歳、僧臘六十三年とのことじゃ。その学八家九宗、和漢の諸学に通達し、自ら華厳を本宗とするも、偏見僻説を有せず、その著作中大部のものには『華厳探玄記洞幽鈔』百二十巻、『五教章通路記』五十二巻を始めとし、いちいち列挙するにいとまあらず。その最も世間に流布せるものには『八宗綱要』『三国仏法伝通縁起』等ありて、一代の選述総じて百六十余部一千百余巻ありとは実に驚くべき著述家ではありませぬか。その筆を下すやすこしも草稿をしたためず、批点を加えず千万言たちどころに成り、雄編大冊日ならずして完結するという。実に希世の英才にして、しかもまた博雅の大徳の人でありました。

     十七 結   言

 以上各家の伝記は従来通俗に伝われるままを記載したるものである。その要は各家の人物の一端を知らしむるにとどまる。もし年代の前後をもって列すれば、第一 迦毘羅仙、第二 釈尊、第三 孔夫子、第四 瑣賢〔ソクラテス〕、第五 荘子、第六 竜樹大士、第七 聖徳太子、第八 菅公〔菅原道真〕、第九 朱子、第十 釈凝然大徳、第十一 林羅山先生、第十二 韓哲〔カント〕、第十三 平田篤胤大人の次第になるかと思う。これを教育勅語に対照するは、勅語は修身道徳の規則なり、大本なり、原形なりでありて、以上の聖賢は実例なり、現実なり、体質である。すなわち抽象と具体との相違であるから、二者相待ちて修身の実行を見ることができる道理である。故に哲学堂の宇宙館の中の皇国殿には、教育勅語の謄本を扁額として掲げ、この席において時に応じ折りに触れて修養講話をなすことに定めておる。とかく哲学のみを研究するものは、ややもすれば世界あるを知りて国家あるを忘れて、人類に重きを置きて皇室を軽くみるがごとき恐れなきにしもあらねば、特に注意して皇国殿を置き、勅語を掲げたる次第である。その入口に、

  宇宙万類の中、人類を最尊となし

  世界万国の内、皇国を最美となす

と題したる点は人をして皇国の尊きことを忘れざらしめんとする微意であります。

 また将来この庭園を私設公園とするにおいては、小図書館、小博物館も併置し、もしわが力にてでき得べくんば、学生監督所をも設けたいと思う。浅草や上野や日比谷の公園のごときは、むしろ肉体修養の公園といわねばならぬ。これに反して哲学堂は純然たる精神修養の公園にするつもりである。人には身心二者ありて双方を修養する義務ありとする以上は、かかる二種の公園の共に必要なることは喋々するに及ばぬ。それについては精神修養に必要なる書籍や物品を集めて、図書館、博物館を設け、ひとり読みて楽しむと衆と共に読みて楽しむといずれが楽しきか、ひとり見て楽しむと衆と共に見て楽しむといずれが楽しきか、ひとり遊びて楽しむと衆と共に遊びて楽しむといずれが楽しきか、曰く、衆と共にするにしかずの主義をとり、永くこの庭園を公開して同胞同類と共に楽しまんとする心算である。つまりこの一事をもって生来長く国家社会より受けたる大恩に報謝せんとする微衷に外ならぬ。すなわち余の死後これを遺物として、国家社会に貢献する決心である。ただし何分にも微力にして己の理想通り実現ができるか否やは保証し難いけれども、事情の許す限り身心二力をこの一事に注ぐ覚悟であることを公言しておきます。