4.解説:恩田彰

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     解  説                恩  田   彰  

 

 井上円了の主な心理学的業績を、第九巻、第一〇巻の二冊に分けて出版することにした。井上の心理学的業績の意義と概要については、第九巻の解説を参照していただきたい。

 井上の心理学に関する主な業績を六冊選択した。それらを二群に分け、第九巻には基礎編として『心理摘要』『通信教授 心理学』『東洋心理学』の三冊を収録し、この第一〇巻には応用編として『仏教心理学』『心理療法』『活用自在 新記憶術』(以下『新記憶術』と略す)の三冊を収録した。

 いずれも発行年の順序になっているが、『仏教心理学』は仏教の心理説である『倶舎論』や『唯識論』を西欧の心理学の立場から考察した研究では日本で初めての本である。また『心理療法』は、心理学、医学の両方の領域においても、わが国初めての本である。『新記憶術』も、当時すでに実用書としての記憶術の本はあったかもしれないが、心理学に基づく体系的なもので、しかも実用書であるという点では、わが国初めての本であると思う。

 以上のことから、この巻に収録している三冊の本は、いずれもその領域の先駆的業績というべきものである。この三冊の本の関係については、『仏教心理学』の考え方は、『心理療法』や『新記憶術』に含まれている失念術に影響を与えており、失念術の考え方は、『心理療法』に影響を与えている。しかも『仏教心理学』は、仏教という悟りと救済という実践的性格を持っているので、「仏教心理学」は応用心理学ということもできよう。

 つぎに、収録した三冊の本について、解説を述べようと思う。

 

   仏教心理学

 仏教における心理に関する諸説を、西欧で発達した科学的な心理学と比較して評論するということは、仏教にくわしく、心理学の知識がないとできないものである。その点井上円了は、この両面の教養があり、その比較研究を「仏教心理学」と名づけている。本書は、明治三〇年に哲学館(東洋大学の前身)の講義録として公刊されている。本書は小冊子といえども、仏教の心理説を心理学で解説しようとする困難な仕事をあえて行った、先駆的な業績である。この本が出た明治三〇年に、日本心理学の創設者である元良勇次郎が東京大学で心理学実験室をつくる計画をたてている。元良は後に禅についての心理を発表している。その後、東洋大学学長になった心理学者の佐久間鼎が、禅の脳波的研究を予見され、後になって東京大学の精神医学の平井富雄が、それを実証的に証明している。昭和三六、三七年度の文部省総合研究「禅の医学的心理学的研究」では、佐久間が班長をつとめて、世界で初めての禅の総合的科学研究を行ったが、この研究では筆者も佐久間の指導のもとに、「禅と創造性」の研究を始め、今日にいたっている。この井上の「仏教心理学」は、黒田亮の「唯識心理学」の先駆的研究となっている。

 本書の内容は、総論、分類論、外界論、覚官論、意識論、感覚論、想像論、思想論、智力論、情緒論、意志論、心体論などで構成されている。以下、内容について考察してみることにする。

 井上の仏教心理学は、仏教の心理説である『倶舎論』や『唯識論』に基づいて、これと西欧の心理学と比較考察しようとしている。この中に心理学の用語として、視覚では筋覚、嗅覚で肺覚、また味覚に胃覚といった、あまり見かけないことばが出てくるが、当時は新しい心理学でも、今日では古くなっているので、やむをえないと思う。しかし大体その要点を押さえているように思う。

 仏教の心理学(この場合心理説)と西欧の心理学との異同を論じて、西欧の心理学は、実験研究に基づいており、確実であるが、仏教の心理学は、世俗的で、不確実ではないかという疑問に対して、自らつぎのように答えている。両者はそれぞれ目的がちがうからだとする。すなわち西欧の心理学は、学理を究明するのに対し、仏教の心理学は、その目的が、宗教にあり、人をして転迷開悟、安心立命せしめるにあり、また仏教は心理を階梯として、涅槃の頂上に達しようとするにあるのだと述べている。以上のことは、仏教心理学を理解するのに重要な知見であると思う。

 井上は、末那識・阿頼耶識は、思想に相当するものとして、思想論の中で論じている。これは最近の心理学で、意識の問題として、注目されているもので、比較研究を密に行う必要があると思う。

 睡眠、夢についてもくわしく述べられているが、これらは意識の問題として、最近の心理学で、生理的心理学、臨床心理学、医学では、精神生理学の実証的研究がつみ重ねられている。

 仏教の心理学は、主観の面では、大いに取るべき点があるが、客観の面では、極めておおざっぱであるといっている。これは仏教の心理説は、時々憶測の域を脱せず、事実に合わない。その点西欧の心理学は、仏教のそれよりも、くわしいと述べている。このことは正しい洞察を示していると思う。

 意識の中では、定中意識が大切であるが、ここでは夢中意識すなわち夢の意識を克明に分析している。仏書の中から夢の例が多く引用されている。これにはユング(Jung・C・G・)、フロイト(Freud・S・)などの精神分析の夢の解釈と比較考察が必要であろう。夢については、井上の『妖怪学講義』の心理学部門にくわしく、一読をすすめる。

 唯識論は、単に心理説にとどまらず、哲学思想が背景にある。ここで井上は、その該博なる知識をもって、西洋哲学の思想と仏教の思想との比較考察を行っている。これも大切な視点である。その点仏教心理学は、ある意味で哲学的心理学の特徴を持っている。

 仏教はインドに生まれ、中国をへて、日本に入ってきたが、そのいずれの国も実験科学の発達を見なかったので、その論証は必ずしも十分ではなかった。仏教は高度の真理を示しているにもかかわらず、その論証、検証は十分ではなかった。そこで井上は、仏教は実験科学によって裏付けされるべきだと主張する。最近ようやく禅の生理学的、医学的、心理学的研究が可能になり、その成果があげられているのを見ると、井上の提案が今日にいたって実現しつつあることを知って感慨無量なるものがある。

 智力論で述べられていることは、いわゆる般若の知慧の問題であるが、心理学でいうと、知能に相当しよう。また創造性もこの中に入るであろう。仏とは、知慧を開発し、衆生済度の慈悲を円満にかねそなえているものをいうのである。このところは、もっと井上の議論を聞きたいものである。

 情緒論は、いわゆる煩悩論で、仏教ではかなりくわしいところである。心理学もこの面はかなりくわしいので、煩悩論を心理学の知識で整理すると、もっとはっきりするであろう。煩悩論は、仏性論と裏腹をなすもので、仏性論を本質とすれば、煩悩論は、現象界での因果律がはっきりしているので、科学的に十分に解明しうるものである。思うに、仏教の煩悩論は、西欧の心理学から欲求や感情の問題を学ぶ必要があるが、他方心理学は、仏教の仏性論から学ぶことが少なくない。西欧の学者では、マズロー(Maslow・A・H・)やフロム(Fromm・E・)などは、仏教とくに禅の思想をとり入れている。

 最後に心体論では、心・一心・真如、これは仏性とも真の自己ともいうが、真如門(本質世界、実相論)と生滅門(現象世界、縁起論)に分けられている。しかもこの二つは、同体不二なものと述べている。すなわち、われわれは本有の仏性を具えているが、これに気づきこれを開発することに、仏教の特徴がある。井上はこの一心(仏性)の妙用(すぐれた働き)を仏書から引用して、その一心のすばらしい働きを味わうことをすすめている。

 なお、同書中の専門用語や経典については、井上円了『新校・仏教心理学』(群書、一九八二年)を参照していただきたい。

 

   心理療法

 井上は明治三七年に『心理療法』(南江堂書店)という、心理学のみならず、精神医学の分野からみても、わが国におけるはじめての本を出している。井上はすべての病気に心理療法が必要なことは、ほとんど疑いのないことである。今、その理由を広く世人に知らせるために本書を出版したのだと述べている。この『心理療法』が出版されたころは、催眠の方法は知られていたが、精神分析の方法は知られていない。本書の思想体系として、仏教↓哲学↓東西の医学↓心理学↓心理療法という経緯のもとに「心理療法」が生まれている。この本はまさしく心理学の応用としての「心理療法」であり、しかもその思想背景に仏教があることがわかった。

 本書の内容は、身心二面論、内外二科論、インド医法論、シナ医法論、西洋医法論、巫医関係論、身心関係論、精神起病論、精神治病論(一、二)、心理療法論(一、二)などで構成されている。以下内容について考察してみよう。

 井上は自然にまかせて治癒を待つのを自然療法といい、信頼祈念によって治療を望むのを信仰療法といい、これを合わせて心理療法と名付けている。井上は当時の催眠術が難病を治療している事実をみて、その治療機制が医学的に十分説明できないからといって、すてるべきではない。治癒すべき理由が必ずあるはずだ。更に研究すべきであると述べている。フロイトは、はじめ催眠法を用いていたが、その適用に困難が生じたので精神分析を生み出し、これに基づいて種々の心理療法が生み出されている。そのころまだ時期が早すぎて、井上はこの心理療法の発展を知らない。

 井上は一切の疾患は、身心相関の上に現れるが、その原因は身体から生ずるものと心から生ずるものがある。そこで身体のほうから治療を行うのを身的療法または生理療法と名付け、心のほうから治療を行うのを心的療法または心理療法と名付けている。今日精神科医の多くは、「精神療法」と呼び、心理学者は「心理療法」と呼んでいる。井上は心理療法は応用心理学の一種といっているが、心理学の応用として心理療法と名付けている点、心理療法の最初の名付け親ともいえよう。井上は心身関係について、人は身体と心の両方から成り、身体の病気は必ず心に影響を及ぼし、苦悩や心配は、必ず内面化して身体の疾患が生ずるという心身相関の事実を指摘している。井上はある青年が風邪をひいて医師から肺結核と診断され、そのため病状が悪化し、医師を代えて診察を受け、なんでもないといわれ、快復したという事例をあげている。これは医師のことばから暗示を受けて身体疾患を起こした医原病の例である。また医学では、力の及ぶ限り生理療法をつくして、同時に心の中で自然にまかせるという心がけが必要であると述べている。井上はこれを心理療法の本意としている。これらの考えは、現代の精神医学、心身医学に通ずる見方である。

 心理療法には、自療法と他療法があるといって、自己治療法と他者治療法の二種に分けている。他療法には、催眠法があげられている。自療法は、信仰法と観察法に分け、それぞれ自他の別がある。信仰法には自信法と他信法がある。自信法は自らこの病気は必ずよくなると信ずること、他信法は、神仏を信じ、医師や祖師を信頼し、薬を信ずれば、病気はよくなると信ずることだとしている。この場合の自信は、本人が自己治癒力を信ずることであり、これは心理療法の実施の基本的条件である。観察法には、自観法と他観法とがある。自観法は人為的自観法と自然的自観法に分けられる。人為的自観法は、自己の心を反省して種々の観念をつくる、自己の心を統制する、想像力によって回復を求める、論理的に考えて、病念を消し、病苦を除く、悟りによって苦痛の境涯を脱却するなどをあげている。自然的自観法とは、人の生死や疾患は、人間の力ではどうにもならないと悟り、自然にまかせるというやり方である。井上は人は病気を観察する上で、一方においては人為をもって治療できると信ずると同時に、自然にまかせる覚悟がなくてはならない。自然にまかせれば、自然の力によって治癒するものである。それをあまり人為にかたよるときは、かえって自然の治療を妨げるようになる。だから心理療法の帰結するところは、自然にまかせるにあると述べている。この自観法は、自己が体験する事実を観察し、受容する方法で、最近の心理療法で注目されている。たとえば、人為的自観法として、森田療法、吉本伊信の内観法、禅やヨーガの瞑想法、自律訓練法、フォーカシング(Focusing)などは、種々のイメージを伴う欲求、感情や緊張を浄化し、解消していくことによって、自然治癒力を開発していくのである。しかし、この人為的自観法も、自然的自観法が基本にあるのである。この自然的自観法のような見方は、東洋的な心理療法として、西欧の心理療法に著しく影響を与えている。井上は仏教にくわしいことから、この観法は、これからの心理療法の発展の方向を示唆していると思う。野村章恒(『森田正馬評伝』白揚社、昭和四九年)は、森田正馬(1874~1938)は、井上円了の『妖怪学講義』と、この『心理療法』を読んだことで、精神療法を大学院での研究テーマに選択するのに影響を受けたと推察している。森田療法でいう「あるがまま」という態度は、井上のいう自然療法、または自然的自観法の考えから少なからず影響を受けていると思われる。

 つぎに他観法は、他の事物を観察して、病気の観念や苦悩をなくす方法で、旅行や転地して自然に病気の苦悩が消えるというのがそれである。

 井上は心理療法を提唱するけれども、その意図するところは、医師の生理療法を排斥するのではない。もとより生理療法は、すべての病気に必要であることはわかっているが、これと同時に心理療法も欠くべからざるものだというのである。生理療法を重視しなければならないとしても、その補助するものとして心理療法を用いるべきだといっている。

 つぎにわが国における心理療法(精神療法)の発展の歴史について若干ふれてみたい。わが国で精神療法が確立されたのは、クレペリン(Kraepelin・E・1856~1926)のドイツ精神医学が導入されてからの後のことである。『改訂増補 日本精神医学年表』(金子準二他、牧野出版、一九八二年)によれば、明治一六年のクレペリン『精神病学提要』に始まって、井上が二、三の洋書とともに『妖怪学講義』に参考にした江口襄(シュウレの著訳)『精神病学』(明治一九年)以降、明治三七年井上円了『心理療法』(南江堂書店)が出版されるまで、「精神療法(心理療法)」と名付けられた著書は出版されていない。つぎに森田正馬『精神療法講義』(日本変態心理学会、大正一〇年)に森田が参考書としてあげているものは、外国のものではレーヴェンフェルト(Lo¨wenfeld)『精神療法総論』(一八九七年)、チーヘン(Ziehen)『精神療法』(一八九八年)、モール(Mohl)『精神療法』(一九一〇年)、ヴェラグート(Veraguth)『精神療法』(一九一一年)、モル(Moll)『精神療法』(一九一二年)をあげ、日本のものでは井上円了『心理療法』(一九〇四年、明治三七年)、石川貞吉『精神療法学』(一九一〇年、明治四三年)、呉秀三『精神療法』(一九一六年、大正五年)をあげている。

 以上のことから、井上の『心理療法』は、わが国における心理療法(精神療法)の最初の先駆的な著書であるといえよう。しかも心理学を心身の治療に応用しようというはっきりした意図で、心理療法と名付けている点で注目に値すると思う。

 現代の医学や心理学、その他の科学の発達からみると、井上の考えのなかには、間違っていること、不十分なことや独断と思われることが見出されるかもしれない。しかし、彼の視野の広いこと、洞察力の鋭いこと、新しいアイデアを出して、新しい活動を積極的にやったことなど、その意味では、井上は明治、大正を通して、心理療法(精神療法)の発達の歴史のなかで、先駆者の一人であったといえよう。

 なお『心理療法』の史的意義については、井上円了『新校・心理療法』(群書、一九八八年)の筆者の解説を参照していただきたい。また『心理療法』の史的意義とくに森田正馬の森田療法との関係については、板倉聖宣の示唆に負うところが大きい。この点に関しては、板倉聖宣「妖怪博士・井上円了と妖怪学の展開」(その2)(『仮設実験授業研究』第一二集、仮設社)を参照していただきたい。

 

   活用自在 新記憶術

 井上円了は、真理を探究するだけでなく、これを日常生活に役立たせる学問の応用を重視した。たとえば、心理学の日常生活への応用を重視し、応用心理学を自ら講じた。また社会に役立つためのハウツーものとして、一八九四年に出されたのが井上の『記憶術講義』であると思う。その点この本は、わが国における心理学に基づく記憶術の本としては、初期のものに属する古典的なものである。今日においても記憶法なる実用書がたくさん出ている。更に一八九五年に『失念術講義』を書いて、記憶力を促進するには、失念術を体得することをすすめている。すなわち記憶をさまたげるものを除くことだというのである。この失念術を記憶術の中に入れたことは、非常に独創的であって、今日においてその新鮮さは目立っている。

 この失念術すなわち忘れ方の方法については、今日実用書が出ているが、たとえば渋谷昌三『忘れ方の技術』(ごま書房、一九九〇年)があるが、類書は極めて少ない。渋谷は、これからの情報が氾濫する社会では、記憶力だけでなく、忘れる力が大事で、とくに新しい発想を行うには、不要なものを捨て、先入観といったこだわりを忘れ、いやなことを忘れることが必要だと述べている。実はこうした考えの先駆的な発想が、井上の本に見られることである。このことについて、つぎに述べてみよう。

 井上は、一九一七年、さきに書いた『記憶術講義』と『失念術講義』を組み合わせ、『新記憶術』を書いている。これによれば、古い記憶を除去して新しい記憶を入れ換えるのだという。またここで大切なことは、記憶力より思想作用または道理作用(思考力のこと)のほうが重要であるといっていることである。もちろん記憶は思想力の基礎である。種々の観念を整理し、配列し、または結合し、分析して、観念の運転活用を自在にするのは、思想力の働きであるといっている。井上はこれを心理経済法といっている。すなわちふつうの記憶をとり除き、有益な記憶を残し、これによって知識を運転活用するというのである。今日でいう思考の創造的な働きを示していると思う。またすでに過ぎ去ったことが頭に浮かんできて、それが忘れ難くて、苦しんでいる場合が少なくない。それを忘れることができると、精神的に楽になる。また小さいことが気にかかり、大事なことの決断がにぶり、十分に考えられなくなることがある。そのとき失念術が重要になるという。この場合の失念は、注意を他に転じ、不必要な観念が意識面に浮かばないことだという。この考えは心理療法の基礎的な考え方になっていて、井上の心理療法の考え方に展開している。

 そこでこの新記憶術は、記憶力を高めるのみならず、創造性を育てることも意図している。更に重要なことは、心理療法の基礎的な考え方を指摘していることだ。

 本書の内容は、総論、迷信的記憶術、通俗的記憶術、方術的記憶術、学理的記憶術、新案的記憶術、余論に分けて述べられている。

 井上は当時の人々は、記憶術要求の理由として、こつこつ勉強して学習するのではなく、もっと簡単に一足飛びに大智者、大学者になりたいという欲求が強い。記憶力を促進することは、ただ一攫千金の金もうけのようにはいかないといましめている。

 迷信的記憶術では、催眠術によって記憶がよくなると盲信することはよくないと述べている。今日の催眠法の暗示の効果のように、記憶力を促進することがかなり確かめられているが、井上がいうようにこれを盲信することは問題があろう。

 通俗的記憶術、すなわち世間で実際に用いられている記憶法として、連帯法、付加法、仮物法、略記法、統計法、句調法、分解法、転気法、集注法、作話法をあげている。連帯法とは、一つのことを記憶するのに、なにかの事柄を連帯して記憶する方法である。これは今日でいう連合法、連想法といっているものである。略記法は、文句、語句を省略して記憶する方法である。例えば「一、二、三」を「ヒ、フ、ミ」と読むようなものだ。これは今日でも電話番号を覚えるのに使っている。転気法は、記憶するときよりも、覚えたことを思い出すときに、気を転じて思い出す方法である。たとえば考えていて思い出せないときに、庭を散歩するのである。この方法はアイデアを出すのにも役立つ。集注法とは、いわゆる注意集中法、精神集中法といわれるもので、今日でも記憶法の代表的なものである。このやり方は思考法としても有効である。

 方術的記憶術とはいわゆる戦略的記憶術ともいうべきもので、多少練習を要し、人から指導を受けるべきものとしている。これには接続法、寓物法、心像法、配合法、代数法、代字法、算記法の七つの方法があげられている。

 接続法は、なんら連絡のない数個の記憶すべき事柄を順序どおりに記憶する場合、一つの事柄と他の事柄との間に接続すべき他の事柄をはさんで前後の連絡を図る方法である。寓物法は、自分の最もよく知っているもの、たとえば家の中とか町とかを土台にして、これに記憶しようという事柄を結びつけて記憶する方法である。また心像法は、イメージを使って、それにあてはめて記憶する方法で、今日でも接続法、寓物法などと組み合わせてやっている典型的な記憶法である。

 井上は、この方術的記憶術は、人工的で、機械的であるから、思考活動を妨げることがある。そこで記憶した知識を使って思想を生み出すことが大切であるといっていることはまさしく正論であると思う。

 つぎに学理的記憶術は、学術上研究して得た記憶法といっている。これはいわゆる心理学的事実や法則に基づく記憶法ともいうべきもので、身体上の注意、精神上の注意、心身相関上の注意をあげている。

 身体上の注意としては、ふだん健康に注意し、体力や脳力(知力)を発育させること、適度の睡眠をとること、ときどき休息をとることが必要であるという。精神上の注意としては、感覚印象を強く、深く持つこと、すなわち記銘をしっかりやること、記憶すべき事柄をよく認識すること、精神集中をすること、対象に興味を持つこと、イメージを使うこと、反復練習をすることなどをあげている。心身相関上の注意事項では、なるべく静かな場所、夜まわりが静かな時、季節的には秋のように暖かい時より、寒さに向かう時がよいという。また学習は適当な時間をおいて分散して学習した方が効果があるという。これは今でいう分散法である。また一つのことを十分に記憶してから他の記憶に移るとよいと述べている。これは一つのことに専心して十分に記銘してから、他のことの記憶に進めば、記憶の干渉が少ないことによるものだ。その点学生には多読より精読をすることをすすめている。

 最後の新案的記憶術は、井上が最上のものとして提唱している記憶法である。これは記憶術に失念術を結びつけ、古い記憶を除くと、新しい記憶がしやすいこと、更に思考力を促進するのだという。ただしこの失念術の失念とは、ことばどおりの失念ではなく、意向(注意)を転ずることで、すなわち注意を他の対象に移し、分散させることだという。

 失念術は、物理的方法と心理的方法の二つに分けられる。物理的失念術とは、身体の運動、血液の循環、衛生、体育等に注意し、身体の健康をはかり、その結果として精神の健康をはかり、精神の憂苦を消失させようとする。このことは結局心理的失念術につながる。

 心理的失念術は、感覚的失念術と思想的失念術に分けられる。感覚的失念術は、感覚の対象への注意を外界の事物に移し、失念させる方法である。たとえば美しいものを見、美しい音楽を聴き、温湯に浴し、いい香りをかぎ、うまいものをたべ、適切な運動をするのがよいという。

 思想的失念術は、昔の楽しいことを思い出し、まだ経験していない楽しい世界を想像し、創意工夫、発明を行い、老子や荘子の無為自然を楽しみ、仏教の解脱をはかり、また坐禅をしたり、神仏に祈って安心をうるなどである。これらによって心の憂苦を忘れることができるという。

 また感覚と思想と組み合わせた失念術として、美術的失念術をあげている。これにはレクリエーション、ゲーム、スポーツ、絵画、音楽、園芸なども含むもので、レクリエーション的失念術といっていいかもしれない。また失念術の別法としてつぎの方法をあげている。静かな所にいると、精神が一点に集中して、失念の妨げになる。そこで身を忙しい状態においた方が、かえって憂苦を忘れるのに役立つというのである。

 今まであげたものは正式的失念術として、更にそのほかの変式的失念術をあげている。これは智力(知性)の作用による智力的失念術と意志の作用による意力的失念術に分けられる。智力的失念術は、哲学的失念術、心理的失念術、宗教的失念術、および経験的失念術に分けられる。哲学的失念術は、非合理的な論理や思考を合理的な論理や思考に変えることで、現在行われているアルバート・エリス(Albert Ellis)の開発した論理療法につながるものがある。論理療法は、非合理的、非論理的な思考を、合理的、論理的な思考に変えさせ、それに伴う自分の感情や行動を変えて自己実現をはかる心理療法である。心理的失念術は、その一つは体象二元論で、苦楽喜憂の変化は、心象の上にあるだけで、心体は不生不滅で、生死や幸不幸のために動かされることはないと信じ、自己の憂苦を自己から離して見て、心頭にかけない方法である。その二は、苦楽相対論で、いかなる苦患も久しくその境にとどまれば苦患ではないという。これはいわゆる受容ということで、いかなる苦悩もこれをこのままでいいのだと受容すれば、苦悩は消失するということに相当しよう。

 宗教的失念術は、宗教の説く一定の道理によって安心をうる方法である。その一つは仏教の因縁業感説により、一切の不幸病患は、因縁によると信じてあきらめることをいう。また儒教の天命説に基づいて、人生の吉凶禍福はすべて天命天運のしからしめるもので、人力ではどうにもできないことだと信じ、万事みな天にまかせてあきらめるのだというのである。経験的失念術とは、日常の経験に照らして、苦難不幸を事実の上から看破する方法をいう。たとえば、自分の不幸よりもっと大きな不幸があることを知り、自己の不幸は大したものではないと知り、その心を慰めること、この世の中は苦労が多いのは当然なことと達観すること、また不幸の後には幸福があり、今日の不幸は明日の幸福の前提であり、予告であると信じて満足することだと述べている。

 最後の余論では、井上は哲学館の学生を対象として、記憶力検査を実施して、その結果を考察している。実証的な資料として参考になると思う。

 以上のごとく、井上は失念術を記憶術の中にとり込んで体系的に整理している。そのころにおいても社会では記憶力が重視されていた。そこで井上は記憶術よりも、むしろ失念術のほうが大切であると問題提起しているのである。また心身の健康こそ、記憶にとっても思考にとっても重要であるとして、心理療法やカウンセリングの原理となるものを説いている。これは今日においてもあてはまる卓見というべきものであると思う。