2.仏教哲学

P105

  仏教哲学 

 

 

1. 冊数

   7回に分けて講義録に掲載

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   221×147mm

3. ページ

   総数:102

   本文:102

(巻頭)

4. 刊行年月日

   哲学館講義録 第6学年 19号(明治26年5月5日),21号(5月25日),26号(7月15日),27号(7月25日),29号(8月15日),32号(9月15日),35号(10月15日)

5. 句読点

   なし

6. その他

  (1) 筆記者は安藤弘(館内員)。

  (2) 原本の見出しが不統一だったので整理した。

 

講 師 井上円了 講述  

館内員 安藤 弘 筆記  

 編者いわく、この講義は井上講師が純正哲学科中東洋哲学の一部として講述せられたるものなるが、その講義はひとり館内員のみならず、広く世間の有志者に聴講を許し、日曜講義と称して三月五日より四月二三日まで、日曜八回を重ねて講義を完結せられたり。今その筆記をここに掲ぐ。本学年講義録中純正哲学講義はすでに掲載しきたりしが、今この講義はその一部分なるも、更に『仏教哲学』と題してここに別掲することとなす。読者これを了せよ。

       緒 論 第一(仏教と哲学との関係)

 仏教は哲学なりや宗教なりやとは今日の一問題なり。世間これを論ずる者はいう、仏教は宗教にして哲学にあらずと。あるいはいう、仏教は哲学にして宗教にあらずと。しかれどもこれみな一方に偏する僻見なりといわざるべからず。余はまさにこれに答えていわんとす、仏教はその一部哲学より成りその一部宗教より成りて、哲学、宗教の相結合せるものなりと。今この三者の関係を示さば図のごとし。

 甲は哲学にして乙は宗教なり。しかして甲乙相結合する部分すなわち丙は仏教なり。故に仏教は哲学と宗教との結合したるものにして、哲学と宗教とは仏教以外に、なおあまたの種類を有す。

 余の講述せんとするところは、仏教の宗教に属する部分ならずして哲学に属する部分なり。故にここに題して『仏教哲学』という。まずこの仏教が哲学と宗教とにいかなる関係を有するかを明瞭ならしめんために、ここに哲学と宗教との関係を叙述すべし。

 哲学と宗教とはその名すでに異なれば、その性質またもとより異ならざるべからず。哲学はいかなる定義を有するか、宗教はいかなる義解を有するか、これ吾人のあらかじめ知らざるべからざることなり。しかれどもその定義いまだ一定せざれば、ここに不明瞭なる義解を下さんよりは、むしろ両者の関係異同を説明するの捷径たるべきを信ず。故に余はまず両者の異同をのぶべし。

 およそ世界(最も広き意味)に二種の部分あり。これを術語にていえば可知的世界と不可知的世界となり、これを通俗にいえば人智の知るを得べき世界と人智の知るを得べからざる世界となり、この二種はすなわち哲学と宗教との区別を示すものなり。可知的世界は現象世界にして、不可知的世界はこれに対して実体世界なり。すでに現象あれば必ずその実体あり、実体あればまた必ずその現象あり。すなわち可知的現象世界は不可知的世界の本体より発現せるものなり。また現象世界は有限にして、実体世界は無限なり。なんとなれば、現象世界の万有万象は時間上、空間上共に有限なるものにして、実体世界はすでに不可知的なるが故に、人智をもってこれが制限を付することあたわざればなり。また有限世界は相対にして、無限世界は絶対なり。なんとなれば、有限世界は事々物々、比較上より成立し、動静、剛柔、大小、高低等すべて二者対望して存するものにして、無限世界は更に比較すべき事物を有せざればなり。また相対世界は差別にして、絶対世界は平等なり。相対世界にありては、上は日月星辰より下は昆虫魚介に至るまで、無数無量の事物おのおのその形状性質を異にす、故に差別なり。しかるに絶対世界はもと吾人の智識以外に存するものなれば、その上に差別を見ることあたわず、故に無差別平等なり。今これを表示すれば左のごとし。

  世界 可 知 的・・現象・・有限・・相対・・差別

     不可知的・・実体・・無限・・絶対・・平等

 また仏教においては現象を事相といい、実体を理性という。しかして現象界の万有万象はこれを万法と称し、実体を真如と称するなり。

 この区別は哲学と宗教との関係を示すものにして、哲学と宗教とはその根拠とするところおのおの異なれり。哲学は可知的より不可知的に及ぼし、宗教は不可知的を本として可知的に入るなり。しかして不可知的の存在は哲学もこれを許し、宗教もまたこれあるを説く。故に二者ただその方向の異なるのみにして、一は右よりし一は左よりす。これ哲学と宗教との一区別なり。

 つぎに心理学上より哲学と宗教とを区別せば、吾人が哲学に対する心の作用と宗教に対する心の作用と、その間に相異なるところあり。哲学はわが心の智力の作用に基づき、宗教は情感の作用に基づく。しかれどもその間互いに相関係するものにして、哲学も多少情感を混じ、宗教にもいくぶんか智力の加わるものなり。ただ大体の上よりかく区別するのみ。およそ心理学上、人心の作用を大別して智、情、意の三となすはすでに人の熟知するところなるが、哲学はそのうちの智力に基づき、宗教は情感によりて成立するものなり。智力は思想を基礎として思慮し推理するものにして、能動的なり。これに反して情感は受動的にして、わが心に他の刺激を感受納領するものなり。これにおいて智力の上に思想あり、情感によりて信仰を生ず、しかして思想は論理により、信仰は直覚による。また論理は道理を本とし、直覚は天啓を本とす。これを概括すれば左表のごとし。

  哲学・・智力・・思想・・論理・・道理

  宗教・・情感・・信仰・・直覚・・天啓

 この区別を前の区別に照合すれば、哲学と宗教との異同いよいよ明瞭なるべし。哲学の可知的を始めとするは智力を基礎とするゆえんにして、智識の及ぶところを可知的といい、及ばざるところを不可知的という。しかして哲学は思想、論理の力によりて道理に向かいて進み、もって不可知的世界の存在を推究するものなり。また宗教は情感上にただちに不可知的世界の存在を覚知するものにして、不可知的なるものはわが心の力によりて探究するを得ざるをもって、おのずから心そのものの上に感知するなり、これを啓示という。かくのごとく哲学、宗教おのおの異同ありといえども、これただ大体の区別にとどまりて、その間に密着の関係を有す。

 哲学は可知的世界を主とすといえども、また不可知的世界をも論ずるものなり。しからば智力を本とする哲学の、いかにして人智以外に存する不可知的を知るを得るかというに、もとより不可知的なるをもってそのものの内部に入りて研究するは到底でき得べからざることなれども、可知的より進めば不可知的そのものの存在を知るのみならず、そのいかなる状態なるやも多少推知するを得べし。すなわち吾人は探究し進むときは不可知的の境に到達するを得、しかれどもただその外面を輪回して内部に進入することあたわず。吾人はときありて不可知的はかくのごときものならんと思考することあり、かつ多少これを考え得ることあるも、その不可知的なりと思考するものは、知らず識らずかえって可知的内に彷徨するものにして、ただその理を不可知的に当てはむるに過ぎず。畢竟この問題たるや、古来学者のこれが説明に苦しみしところにして、仏教においてもまた種々の議論あり。かの『維摩経』にあるところの、維摩と文殊との問答のごときはその一例なり。あるとき釈迦の弟子数輩、命を奉じて維摩の疾を問う。しかして弟子ら維摩に対してのぶるところ、その見、浅薄にして大道の一斑をも尽くすに足らざるをもって、維摩ことごとくこれを論破し、その小智なるを弾斥せり。文殊すなわち代わりて、不可知的の本体は吾人の得て思議すべきものにあらざることを詳論す。維摩黙して答えず。これにおいて文殊もまた己の非なることを悟れり。けだし不可知的なるものは、吾人の知ることあたわざるがために不可知的なり。しかるにこれぞ真の不可知的なりと口に談ずる者は、真の不可知的を悟りたるにあらず。老子のいわゆる「知る者は言わず、言う者は知らず。」のごとく、真に大道を知る者は言わず、言えばすなわち大道の真相にあらず、これ維摩の黙するゆえんなり。しかれども余の考えをもってせば、維摩もいまだ大道を尽くすに足らず。なんとなれば、維摩はこれを言語に発せずといえども、これが不可知的の実相なりと、その心に思議して黙したるや必然なればなり。もし余をしてこの座にあらしめば、余はただちに眠りて無念無想の境に入らん。かくのごとく真の不可知的は、口にも言うあたわず、心にもえがくあたわず、実に言亡慮絶なり。しかれども吾人の心に思い口に述ぶるは、実にやむをえざることたり。これを要するに、吾人は不可知的を思考して多少その状態を察するを得べきも、もし進みてその本領に入らんとせば、ただちに反弾せらるるなり。かくのごとく哲学も宗教も共に不可知的に関係を有し、ただその方向を異にするのみ。

 また心理学上の関係よりみるに、宗教は信仰を基本とすといえども、また多少智力の作用を備うるものなり。すなわち宗教を信ずるに当たりては、多少心に会得してのちに信ずるなり。たとえいかなる愚夫愚婦といえども、彼ら相当の智力をもってこれを考え、とにかく自己の心に領得せざるべからず。また学者にして愚夫愚婦と同一の信仰をなすも、学者はその智力に訴え推理考究してのち、その真理たるを確認したるによる。これと同じく、智力を主とする哲学もまた信仰によらざるべからず。たとえば哲学において一の疑を起こし、これを研究するにあたりていやしくも得るところあれば、その説に信をおかざるべからず。カント、ヘーゲルといえども、自己の説は万古不易の真理なりと信ずるなり。この点においては宗教の信仰とすこしも異なることなし。またヒュームのごときは懐疑学を唱え、一切の学説を排斥して真理もなく物心もなしと主張したれども、氏はすでに真理なく信仰なしということを真理として信仰したるものなり。この信仰はすなわち情感に基づくものなり。かくのごとく哲学と宗教とは大体の区別あれども、精細に詮索すれば密着の関係あり。しかして仏教はことに哲学宗教に密接の関係を有し、その哲学と関係する点は、あまたの宗教中いまだその比を見ざるところなり。

 つぎに仏教上に哲学、宗教の二者の成立せるゆえんを述ぶべし。仏教中には各宗の学問共に、理論に属する部分と実際に属する部分とあり。理論に属する部分は一宗一宗に立つる原理を道理上研究するものにして、この部分は哲学に属するものというべし。実際に属する部分は信仰の方法、修行の規則を説くものにして、すなわちこの部分は純然たる宗教に属するものなり。

 仏教の目的は涅槃に到達するにあり。涅槃は不可知的世界にして、あるいはこれを真如という。涅槃の実在は各宗すべて道理上より説明するものにして、この説明は哲学なり。しかしてこれに至るの方法を講ずるものは、すなわち宗教なり。

       緒 論 第二(仏教研究の方法)

 前段陳述せしごとく、仏教上に道理を主として説くところの哲学の部分あるは、昔時インドにおいて諸種の外道に対して仏教の真理なるゆえんを説明したるによる。しかるに今日においてはインドのいわゆる外道なるものなしといえども、これに代うるに種々の学問宗教あり。しからば今日仏教の講究は、この学問宗教に対して仏教の真理を示さざるべからず。しかるに世間あるいはいう、仏教はすでに三千年前に完成したるものなり、なんぞ他の学を適用して説明するの要あらんと。しかれどもこれ時と場合とを知らざるの言のみ。今はインド昔時の外道諸教なしといえども、ヤソ教あり、理学あり、哲学あり、これに対して仏教の真理なるゆえんを証明せざるべからず。しかしてこれを証明せんとするには、哲学ならびにその他の種々の学を研究せざるべからず。余はかくのごとく諸学に対して仏教を説明する方法を名付けて発達的学風といい、従来わが国の仏教家が研究しきたりし方法を名付けて注釈的学風という。注釈的学風においては仏教は完全なる真理と断定して、単純にこれが注釈を加うるのみ。もし単に仏教部内にありて研究するときは、この学風もまた可なるべしといえども、今日仏教を世間に拡張し将来に伝えんとするには、到底なんらの用をもなさざるべし。故に今日仏教の光輝をして中外に宣揚せしめんとするには、必ず注釈的学風を一変して発達的学風となさざるべからず。発達的学風はすなわちその時勢に適応して説くものなり。もし単に注釈的学風によらば仏教は死物とならん、これに反して発達的学風によらば仏教は活物とならん。なんとなれば、注釈的は仏教内にとどまりて字々句々を解するに過ぎざれば、土石のごとく幾年を経過するも成長することなしといえども、発達的学風は外諸学に対して仏教の真理を比較論究するをもって、その精神を開発せしむるものなればなり。あたかも注釈的によるは内にありて篭城するがごとく、発達的によるは外に出でて競争するがごとし。故に今日においては発達的学風を取らざるべからず。

 しからば今日発達的学風をとりて仏教に妨害なきやというに、元来注釈的と発達的とはその考えおのずから異なるものにして、注釈的によれば釈尊の説法は仏教のあらゆる道理を説き尽くしたるものとし、発達的によれば釈尊始めて仏教の種子を下せしものとなす。すなわち前者は仏教の花すでに釈尊の時に開き尽くせるものとし、後者は釈尊の下せし種子より漸次成長して他日その花を開くものとするなり。

 世人あるいは仏教を目して退化説(正像末三時の説のごときその一例なり)となす。しかれどもこれただその一部分を見たるのみ、他の一方より観察すれば進化説なり。そもそも進化、退化とはいかなることを意味するかというに、進化とは初め単純にして後に複雑となるをいい、退化とは初め複雑にして後に単純なるものをいう。かの野蛮社会の士農工商の区別もなき時代より、漸次に階級を生じ分業を生じ複雑なる組織をなすに至るは、これ社会の進化なり。星雲の渾沌たるものより千種万様の現象世界をなすに至るは、これ宇宙の進化なり。きわめて単純なる一粒の種子より、幹となり枝となり、葉を生じ花を開き実を結ぶに至るは、これ植物の進化なり。今、釈尊の始めて仏教の種子を下せりという説より考うれば、仏教は進化せるものにして、その伝来の歴史を一見せばまた、進化の原則を追うて発達しきたれるものなることを知らん。釈尊の在世の時およびその入滅以後いまだ宗派の別あらざりしも、歳月を経過するに従い宗をなし派を分かちその組織複雑となり、もって今日に及びたり。思うに将来もまた、ますます複雑とならん。果たしてしからば、何故に仏教に退化説を唱うるかというに、これその見方の異なるのみ。前のいわゆる進化は仏教の外部よりみたるものにして、もしその内部より観察せば退化なり。樹木をもってこれを例せんか。種子は外部より見たるときは、花もなく実もなく、きわめて単純なるものなり。しかれどもその内部より見れば、一種子の中に枝となり葉となり実となるべき一切の原因を包含せるをもって実に完全なりというべきも、もし種子の成長してようやく複雑となり根幹枝葉の相分かるるに至れば、葉は葉のみの用をなし、他の根幹等の原因をその中に具せず、枝は枝のみの用をなして、花実等の原因をその中に有せず。すなわち外部より見れば進化にして、内部より見れば退化なり。仏教もまた、かくのごとく内部より観察すれば退化なり。また物理学上、潜勢力、顕勢力ということあり。種子の中には枝葉花実となるべき潜勢力を有するものにして、この力ひとたび発現して枝葉花実となれば顕勢力となる。世間のいわゆる進化は外部の顕勢力より見たるものにして、もしその内部なる潜勢力より見れば退化といわざるべからず。

 注釈的学風はいわゆる潜勢力をとるものにして、発達的学風は顕勢力をとるものなり。注釈的学風は退化にして、発達的学風は進化なり。これただその見解の異なるのみにして、いずれを是としいずれを非とするを得ず。しかれども今日の時勢に応じて仏教を拡張せんとせば、必ず発達的学風によらざるを得ず。なんとなれば、注釈的学風は保守的にして仏教以内にとどまりて研究し、発達的学風は進取的にして仏教以外に対して論ずるものなればなり。

 なおこの注釈的と発達的とを結合せんとするには、釈尊の説は主観上完全なるも、客観上不完全なり。すなわち能説の教主にありては完全にして、所説の衆生にありては不完全なりということを仮定するを要す。釈尊その人の思想中には仏教もとより完全なるべけれども、これを外部に適用するにあたりては衆生の機根に応じ言語の制限を受け、無限絶対の真理もまた有限相対となるを免れず。かつ所説の衆生の思想いまだ足らざるところあるをもって、能説の教主の意を解得すること難し。すでに華厳の会座、これを聞く者、聾のごとく唖のごとしといえり。余はこれを能説の教主にありては完全なるも、所説の衆生にありては不完全なりという。かくのごとき見解を下さば、注釈的、発達的の二を調和するを得べし。すなわち能説の上にありては注釈主義をとり、所説の上にありては発達主義をとるべし。

 今これを仏教上に照らすに、釈尊一代の説法は発達的学風を追うて説きたるものにして、滅後数千年間の歴史もまた全くこの風を追うて発達せり。釈尊三〇にして成道し、始めて自己が大悟せる絶対完全の真理をそのまま説きたるものは『華厳経』なり。しかれども機縁いまだ熟せざるをもって、転じて小乗浅近の法を説き、つぎに大乗の初門に移り、順序を追うてついに高尚深遠なる一乗真実の法を説けり。これすなわち釈尊三〇成道のとき始めて仏教の種子をまき、これより萌芽を生じて小乗となり、成長してついに大乗の花実をまっとうしたるものなり。しからば釈尊一代の説法は発達的学風と称するも、あえて不可なるなし。しかしてその滅後においても、四〇〇年間小乗ひとり盛んにして、大乗を説くものなし。のち六〇〇年に至り馬鳴現れて大乗を唱えしより、七〇〇年にして竜樹現れ、九〇〇年にして無着、世親等出でて、大乗の法いよいよ盛んなり。爾後ますます発達して種々の宗派を分出し、三千年の久しきを経て今日に至り、わが国においてすら十二宗三十余派の多きに及べり。しからばこれまた発達的学風の順序によるものといわざるべからず。

 かくのごとく仏教の発達して大いなるものとなりしは、畢竟他より余説を混加せるものあるにあらずやという者あり。しかれども今日、仏教の宗派幾十の多きに及ぶも、時間上においても空間上においても一貫の理脈を存するが故に、数千年間種々の変遷あるも一仏教たることを知るなり。あたかも豆大の種子と巨大の老樹との間に一貫の理脈あるがごとし。一粒の種子には本来固有する原形あり、原形はこれに材質の加わるありて成長するなり。すなわち樹木を組織する材質は、他の栄養より取るものにして、形質相合して始めて樹木となるものなり。仏教もまたこれに異ならず。仏教種子の原形内に社会万般の栄養を取り、これを同化して今日仏教の状態をあらわすものなれば、たとえ数宗多派ありといえども、その間に一貫の理脈を有す。一貫の理脈を有するは、その形の相同じきをもってなり。すなわち原形においては時間上三〔千〕年以前も今日も相異なるところなく、今日幾宗何派たるも空間上ことごとく同一なり。しかれどもその材質に至りては、各国の風俗、人情、習慣等によりて相異ならざるを得ず。さればシナの栄養を得て長ぜるシナの宗旨あり、日本の材料を取りて生ぜる日本の宗旨あり、あたかも同種の茶にしてシナの茶、日本の茶おのおの相異なるがごとし。しかれどもその原形だに異ならざる以上は、同一の仏教といわざるべからず。この形の仏教各宗に遍在せることは、余のこれより説かんとするところなり。

 かくのごとき見解をもって講究するものは発達的学風なり。注釈的学風は従来その書籍多く、かつ仏教専門学者の任ずるところなれば、余はこれによらずして、発達的学風により講究せんとす。今日わが仏教は四面、他の宗教学術に囲繞せらるるのときなれば、この中に立ちて仏教の真理を唱道せんとするは、あたかも古代インドに諸派の外道盛んなるときに当たりて、これと競争せしがごとき形勢なるをもって、必ず発達的学風によらざるべからず。しかれどもその材質は、インドにはインドの栄養分あり、日本には日本の滋養物あり、今日の材料たるものはすなわち泰西諸国の哲学なり。たとえこれをとるというも、哲学そのものを仏教に混和するにあらず、ただ哲学の研究に照らし、もって仏教内部に包含せる真理を発揮せんとするにあり。これすなわち余の本旨にして、今回、仏教哲学の講義を開きたるゆえんなり。

 

     総  論

 仏教は哲学と宗教との相結合して成立するものなることは、前段すでに講述せり。これより仏教はいかなることを目的とする宗旨なるかをのべざるべからず。そもそも仏教の目的とするところは転迷開悟にあり。迷悟とはなんぞや。曰く、余が前述せし可知的、不可知的の二世界、これなり。可知的、不可知的は哲学上の名称にして、これを宗教上よりいえば迷界、悟界の名称を与うるなり。けだし可知的世界は万法界にして相対差別の境なり、不可知的世界は真如界にして絶対無差別の境なり。また万法界には生死増減ありて時々刻々変化してやまざるも、真如界に至れば不生不滅、不増不減なり。故にまた可知的世界を生滅界と称し、不可知的世界を不生滅界と称す。迷悟はすなわち生滅、不生滅によりて分かるるものにして、この生滅変化の迷界を離脱し不生滅真如の悟界に転入するを、転迷開悟という。迷悟両界は哲学よりいえる可知、不可知、もしくは現象、実体の名称をもってするも可なり。しかるに迷悟の語を用いるゆえんのものは、畢竟仏教は宗教なるをもってなり。仏教中哲学、宗教の二部分ありといえども、その真正の目的は宗教にありて、哲学はただその道理を説明せんためなり。元来哲学は可知的より不可知的を探究するをもってその本務とすれども、仏教は単にこれを探究するのみならず、実際上迷界を去りて悟界に至る道を教ゆるものなり。これを要するに、仏教の転迷開悟を目的とするは仏教の宗旨たるゆえんにして、その哲学を兼有するはその目的を達する方便に過ぎず、この方便によりてもってその道理を説明す

  仏教 理論宗(理宗) 有  宗 倶 舎 宗

                  成 実 宗

             空  宗 法 相 宗

                  三 論 宗

             中  宗 天 台 宗

                  華 厳 宗

                  真 言 宗

     実際宗(通宗) 禅  宗 臨 済 宗

                  曹 洞 宗

                  黄 檗 宗

             日 蓮 宗

             浄土諸宗 融通念仏宗

                  時   宗

                  浄 土 宗

                  真   宗

るなり。しかして今日あまたの宗教中、最も多く哲学の理論を有するものは仏教なりとす。

 仏教の宗派その数はなはだ多けれども、いずれの宗旨もみな哲学、宗教の二部分より成立す。余はその中の哲学の部分を理論門と名付け、宗教の部分を応用門と名付く。理論門は可知的より進みて不可知的の存在するゆえんを推究し、応用門はすでに不可知的の存在を確定し、ここに到達するの方法を講ずるなり。しかれども同一の仏教にして、宗派の異同によりて多少その説くところを異にす。これけだしその見解の右よりすると、左よりするとの差異あるのみ。その目的に至りては、各宗諸派すこしも異なることなし。

 仏教の宗派はインドにおいては小乗中に諸派の分かれしを見るも、大乗はあまり多岐に分かれざりしが、シナに入りてようやくその数を増し、わが国に伝わりては今日十二宗三十余派の多きに及べり。すなわち余が講述せんとするは、わが国に現存せる仏教にあり。現今わが国の宗旨は天台宗、真言宗、浄土宗、禅宗、真宗、日蓮宗、時宗、融通念仏宗、法相宗、華厳宗の一〇宗なり。そのうち禅宗はわかれて曹洞、臨済、黄檗の三宗となれるをもって、すべて一二宗あり。しかしてこれらの諸宗は、たとえその理論上浅深高下の差あり、応用上遠近内外の別なきにあらずといえども、おのおの理論、応用の二門より成立し、かつかくのごとく数宗に分かるるも、これを一貫するところの理脈あるが故に、これを一仏教となすなり。

 今仏教の宗旨を大別して、理論宗と実際宗との二とす。理論宗(理宗)は理論を主として説くものにして、実際宗(通宗)はこれに反して実際を主として立つるものをいう。理論宗はこれをわかちて有、空、中の三宗とす。今諸宗をこれに配当すれば前表のごとし。

 

     理 論 宗

       一 総 論

 理論宗の目的とするところは、万法より進みて真如の実在を論明するにあり。そもそもこの万法すなわち万有世界は、天地山川より昆虫魚介に至るまでその種類千差万別なりといえども、これを推究するときはその実、平等単一の理体の上に成立するものにして、あたかも千波万浪の体のただただ一の水なるがごとし。すなわち万法を分析し概括するときは、その中に遍在せる一貫の理脈を発見するに至る。この一貫の体はすなわち真如の理なり。すでに真如ありとせば、この真如と万法との関係いかん、これつぎに生ずる一問題なり。これを解する者は曰く、この世界はただただ一の真如あるのみにして、万法実に存することなし、しかして実に存せざる万法の吾人にあらわるるは、畢竟吾人の迷見に過ぎず、吾人は一生夢幻の中に彷徨して万法を見るものなりと。これ万法虚無論者の唱うるところなり。しかれども吾人が実に存在せざるものを認めて存在するものとなすを得ば、現在吾人の生存もまた実に生存するものにあらずといわざるを得ず。もし吾人実に存在せずというを得ば、吾人によりて知らるる真如の実在も、万法を虚無となしたる吾人の思想もまた、みな虚無なりといわざるを得ず。これ吾人の到底信ずることあたわざる議論なり。また真如は初め万法より推究してその実在を知るを得たるものとせば、虚無なる万法よりいかにして真如を求むるを得たるか、万法夢幻のごとく不確実ならば、これより得たる結果もまた不確実といわざるべからず。かくのごとく真如万法の関係は最も困難なる問題にして、ただに仏教上のみならず、諸哲学上にもまた一の大難題なり。これすなわち哲学上には、いわゆる単一雑多の関係問題なり。

 吾人目前の世界はいわゆる雑多にして、日月星辰、山川草木、禽獣虫魚等、その差別変化の状態得て名状すべからず。しかるに理化学上より探究すれば、かくのごとき雑多の世界も僅々六、七十の元素より成り、哲学上より考究するも、この雑多の世界を結合する一の道理あり。すなわち世界そのものの、形象上よりいえば雑多なるも、道理上よりいえば単一なり。また理化学上、元素の点よりいえば数十種の区別なきにあらずといえども、これを物質という点より考うれば天地万物ことごとく一物の中に収まるなり。しからばこの世界は単一の物質というも可なり。また世界の歴史上より見るに、今日は森羅万象その数無量なるも、世界の本源にさかのぼれば今日のごときあまたの事物存せしにあらず。その初めはただ渾沌たる雲気、宇宙の間に浮動せるのみ。この雲気を名付けて星雲という。この単一なる星雲より、ついに今日の雑多の諸象を生ぜしなり。しからばいかにして単一より雑多を生ぜしか、これ理学哲学上の問題にして、これを解するに一は単一を原理と立つるものと、一は雑多を原理と立つるものとの二論あり。もし単一を本とせば、いかにして単一より雑多を生ぜしか、またもし雑多を本とせば、何故に雑多の中に単一を有するや明らかならず。これと同じく、仏教上にて真如万法の関係は最も困難なる論題にして、もし万法より真如を生ずとせば真如は万法中に包含せらるるものなるか、もし真如より万法を生ずとせば何故に単一平等より雑多差別を生ずるか、いかなる論者もこの説明に苦しむなり。もしこの道理のいよいよ判明するに至らば、およそ人間の研究すべき問題は大成せりというべし。古来儒教において理気の説あり。その説によれば、人心に善悪の別あるは気質の上にあるものにして、気の本源たる理に至れば善悪の別なしとす。しからば哲学上一多の問題はまた儒教の一問題なり。かつヤソ教において神が世界万物を創造せりという説もこの問題の一にして、神は純善純良の体なるに何故この世界に善悪並存するか、もちろんそのいわゆる神は自由の力を有し、随意に善悪を造り得るものとするが故に、儒仏の問題とは異なるところあれども、これを説明するに当たりて困難なるは、いずれも同一なり。すなわち純善無悪の神の体より悪を生じたるは、これ神の自由勝手に出でたりと解するも、何故に神の悪を造りしとの本心に至りては、最も困難なる問題なり。これにつきて神学上種々の弁解をなせしものあれども、到底付会説たるを免れず。もし独断的にこれを解釈し、これ神の深意のなすところ、吾人の理会し得べきことにあらずといわばはなはだ容易なるべきも、これ道理上決して許すべき説にあらず。あるいは曰く、この世界において人をして善に向かって進ましめんには、必ず悪を置かざるべからず、悪の刺激あればやむをえず善に向かって進むものにして、もし悪なくんば善をなす者なしと。しかれども神の殊更に善悪を設けて、善を勧むるに悪をもってせんとするがごときは、これ神の玩戯に過ぎず。またある学者は曰く、本来善悪の二あるにあらず、ただ一の善あるのみ、吾人は世界全体中の一分子なり、この一分子は全体によりて成立するものなることを考うれば善なり、もし一分子自立独存するものとして、その一部分に固執するは悪なりと。これブルーノらの唱うるところにして、この説はやや哲学上の道理に契発するものなり。たとえば宇宙には東西南北の区別なしといえども、もしある一定の場合にとどまらば、たちどころに東西南北を生ずるがごとし。しからば東西南北、別果たしてありや。曰く、否。しからば何故にありや。曰く、これ一部分に身を寄せて考うるをもってなり。今吾人、自己一個の上に考うれば自他の別を生じ、利己自愛の私心したがって起こる、これいわゆる悪なり。もし自己は宇宙の一部分たるを知りて全体の上を考うるに至れば、利他博愛の公情を生ず、これすなわち善なり。この説は仏教においてもすでに説くところにして、その教の無我を本とするはこの道理あるによる。要するに道徳上ならびに宗教上には、善よりいかにして悪を生ずというは一大難問にして、哲学上には、単一よりいかにして雑多を生ずというはまた一大難問なり。以上は理論宗の理論のいずれにあるかを説きしが、これより一多関係論、すなわち真如万法の関係論につきて、有空中三宗の論ずるところをのぶべし。

       二 有空中三宗論

 仏教は哲学の道理に基づき思想の順序に従って組織せられたるものなることは、余の常に唱うるところにして、すなわち仏教の有空中は全く思想発達の順序によるものなり。ここに余のいわゆる哲学とは純正哲学を指すものにして、純正哲学は事物の本源実体、あるいは原理原則、あるいは真理の標準、あるいは一切学問の根拠を考究するものなり。しかしてこの学の主として研究するところは物の実体、心の本性、および神の本体はいかなるものなるかといえる三問題にあり。この三問題はすべての学問の根拠たるものにして、すべての学問はこの物、心、神、三問題中、その一に基づかざるを得ず。純正哲学上、物心相関の理を論究し極むるときは必ずこの問題に遭遇するものにして、今日学問上普通の道理は大抵説明するを得るに至りしも、実体上の道理すなわちこの三大問題に達しては、いまだ判明せざる点多し。しかしてこれがために、理学上にも一切の道理の解釈し得ざることあり。故にもしこの問題の明瞭なるに至らば、一切の道理明らかならざることなし。今、哲学上物心の関係を論究するに、その極、物心一体と物心両存との二説に帰す。物心一体の説はこれを一元論といい、物心両存の説はこれを二元論という。また一には物心共になしと説くあり、これを虚無論、あるいは無元論という。また一元論中、物の外に心なしというもの、これを唯物論といい、心の外に物なしとするもの、これを唯心論という。およそこの世界に物心の両存するは常人の疑わざるところにして、目を開けばここに万象の羅列するあり、これすなわち物なり。しかしてここに物ありと知るものは吾人の心なり。しかれども吾人の目撃する事物は物というよりは物の現象なり、これを物象という。また吾人の常に心とするものは吾人の見聞する物象の内界に現れたるものなれば、これすなわち心の現象なり、これを心象という。すでに現象あれば必ずその本体の存すべき理なるをもって、ここに物象心象あれば、これが本体たる物体心体なかるべからず。しかれどもその本体は吾人の知り得べからざるものなり。故に二元論中には物象心象上の二元論と、物体心体上の二元論との二種あり。通例のいわゆる二元論は前の現象上の二元論にして、リードらの唱うるところなり。また後の本体上の二元論はカントの唱うる説、これなり。また物心二者の関係を論じ、その本体に達するに至りてこの二者を結合する一元を立て、これを神あるいは理想の体とす。この説は理体一元論なり。しかれどもそのいわゆる神とは、ヤソ教のごとき人性的、個体的の神にあらずして、理想の体に名付けたるものなり、故にこれを体という。これにおいて純正哲学に物体哲学、心体哲学、理体哲学の三を生ず。しかるに哲学は、この三体の果たして存するや否やを研究するに過ぎず。もしその本体に達するの道いかんを講究すれば、すなわち宗教なり。故に宗教にもまた哲学に従って三種の別を生ず、すなわち左のごとし。

  哲学 物体哲学

     心体哲学

     理体哲学

  宗教 物体宗

     心体宗

     理体宗

 かくのごとく分類して仏教をみれば、仏教に有、空、中の三宗あり。この有、空、中の三宗はけだし物心理の順序によるものなり。そのうち有宗とは小乗の宗旨にして、小乗には色心二元すなわち物心二元を説く。しかるに物体哲学は唯物一元論なり。しかれどもその体吾人のいわゆる物にあらざれば、これを名付けて実有(ビーイング)といい、その哲学を実体哲学(オントロジー)という。しからば小乗の実有論はいくぶんか相類似せるところありというべし。もちろんその説くところは二者相異なりて、物体哲学は物象上より研究し、小乗は物心二元の上より講究するも、共にその体の実有に達するは同一なり。故に余は、仏教中小乗宗すなわち有宗は哲学上にありて物体哲学の一種に属するなり。つぎに空宗は前の有宗が万有の実体ありとするに反して、万有はただ心の上の現象に過ぎずして万有そのものに実体なしとす、これ心体哲学の論点に契合す。また空宗中の唯識宗において、わが心内に収蔵する種子開発して世界万有をなすと説きて、「森羅万象はただ識の変ずるところなり。」(森羅万象唯識所変)と唱うるは、一種の唯心的哲学なること明らかなり。つぎに中宗は万有の本体真如の上に、一切万有の現象の森立するを説く。故にその道理はまさしく理体哲学なり。これによりてこれをみれば、有、空、中の三宗は物体宗、心体宗、理体宗というも可なり。すなわち仏教中は哲学と宗教とを兼備し、その目的は宗教上の安心にありて、これに達する手段として哲学の道理を説くものなり。しかして哲学上、物心理三体を説くも、仏教上、有空中の三宗を説くも、共に論理の順序によるものなり。すなわち万有を討究してその体ありとするは有宗にして、万有はその実、心の上に現れたるものとするは空宗なり。しかるに有空二宗、一は有に偏し一は空に偏するをもって、その二者の上に真如を説きて物心を結合し、二者共に真如よりあらわるるものとするは中宗なり。しかしてこの有空と中との関係すなわち万法と真如との関係は最も困難なる問題にして、またもっとも妙味ある論旨なり。この論点にしてもし明瞭に領会するを得ば、ただに仏教上のみならず、一切哲学上の道理を会通し去ることを得べし。しかして仏教のこれを説明するは、ヘーゲル氏のいわゆる三段論理の規則によるものにして、西洋哲学史の考究と一致するなり。

 つぎに実際宗はその道理、理論宗に基づきて、ただこれを実際上に応用したるに過ぎざれば、仏教の道理は理論宗にも完全せりというべし。

       三 小乗大乗理論の比較

 理論上、小乗大乗各宗の立つる原理を列挙すれば左のごとし。

  倶舎宗 法体恒有説  法相宗 唯識所変説  三論宗 八不空理説

  天台宗 理性互具説  華厳宗 果地融通説  真言宗 六大渉入説

 倶舎宗は法体恒有説にして、法体とは万法万有の体を指し、その体、不生不滅にして恒存すという意なり。あたかも理学に物質不滅、勢力恒存というがごとし。この宗は理学の元素論のごとく、この世界の現象は千種万様なるも、これを探究すればその元素は七五にして、この七五の体の集合によりて万有万象の現立を見るなり。しかしてその説全く事界差別上の論にして、真如理界上の沙汰にあらず(第1図)。しかれどもすでにその体の実存する以上は、その裏面に不生滅の本体存在せざるべからず。これにおいて法相宗の説あり。法相宗は唯識所変説にして、一切の万法は第八識すなわち阿頼耶識より開発するものなりと唯心論を唱え、あわせて真如理体の存在を説く。しかれども万法と真如との間すなわち事理の間に区別あり(第2図)。けだしこの宗は真如自ら万法を発現することを説かず、万法を発現するものは阿頼耶識にして、この阿頼耶識は真如の理体より生ずとす。故に万法と真如とその間隔歴するなり。更に進みて実大乗に至れば、事理融通してこの懸隔を見ず。つぎに三論宗は八不の空理を説き、一切差別妄想の見を打破す。故に理界のみありて事界なしといわざるべからず(第3図)。しかるに三論の空理極まるときは、ここに再び事界を生じ真如即万法、万法即真如と説かざるを得ざるに至る。これにおいて天台宗あり。天台宗は真如平等の世界上に万法差別の世界を顕現するなり(第4図)。しかれども天台宗の事界と倶舎宗の事界とは相異なりて、天台宗は倶舎宗の裏面なり。およそ仏教諸宗の論はみな同一の理に向かって講究するものにして、ただその見解に左右上下の別あるのみ。これを表面より探究するものは倶舎宗にして、その裏面の理界一方において論明するものは三論宗なり。しかして理界極まりて、真如平等の理界の上に事界をあらわすは天台宗なり。華厳宗は更に進みて事事の間に融通の理を説くをもって、理界の上に事界あり、事界の上に理界ありというべし。故にこの宗は法相宗の裏面にして、法相宗の差別的開発論に対して絶対的開発論を談ず(第5図)。しかしてなお一歩を進めば真言宗なり。真言宗は六大すなわち物心二元の事相を本として平等の理を説くものなりと。その論ここに至りて初めの倶舎宗に復帰するなり(第6図)。しかれども倶舎宗は差別的二元を説き、真言は融通的二元を説く。故に真言宗は倶舎宗の裏面にして、また天台宗の裏面にあるものなり。これ仏教の哲理の発達にして、この順序は西洋哲学の発達に符合するところなり。これを要するに仏教諸宗その説おのおの異なるも、ただその見方の異なるのみにして、共に真如の実在を証明するものなり。故に大乗よりみれば小乗は浅薄なるがごとく思わるるも、小乗の階梯なくんば、いずくんぞよく大乗の真実を知らんや。小乗に万法の体の恒有なるを知りしは、暗にその裏面に不生滅の真如あることを示すものなり。これにおいて、法相宗は進みてその本体あることを論定せり。しかれどもその論、事理両界の間に差別懸隔あるをもって、三論宗の空論起こるに至れり。かついまだ事理両界の関係明らかならざるをもって、天台宗はその関係を示すに至れり。かくのごとく小乗倶舎宗より真言宗に至るまで、その間に種々の宗あるも、みな一仏教に入るの門にして、これを一周して始めて全仏教を知るべし。あたかも円埒をめぐるには一の起点を要するがごとく、仏教の起点は倶舎宗にして、各宗を一周するにあらざれば仏教の全きをみるべからず。しかりしこうして、いずれの宗旨もみな自己の宗旨をもって第一最勝の法とするは、円埒中その宗を終点とするによる。しかれども平等論の最上に達したるものは天台宗にして、華厳、真言等は更に進みてその裏面に降行するもののごとし。

 今諸論の所説を比喩を設けて比較せんに、倶舎宗は貴族政治のごとく、七五の貴族ありて一切諸法を定むるなり。法相宗は将軍政治のごとく、真如の天子九重雲深き所に隠栖したまい、ひとり阿頼耶識の将軍これに代わりて全権を掌握す。三論、天台等に至れば君主親裁政治のごとく、真如の天子自ら一切の万法を支配するなり。これを哲学上よりいえば、倶舎宗は物体哲学に近く、法相宗は心体哲学に近く、天台、華厳、真言の三宗は理体哲学に近し。これを二元,一元の上よりいえば、倶舎宗は現象上の二元論なり、法相宗は一元論なり。しかれども真正の一元論にあらず、現象上には一元論にして実体上には二元論なり。三論宗は現象上には無元論にして実体上には一元論なり。しかして天台、華厳、真言に至れば、現象実体共に一元論なり。

       四 倶舎宗

 有空中の三宗中、有宗をもって小乗とす。有宗中また有門と空門とあり、有門は倶舎宗にして、空門は成実宗なり。倶舎宗はこの世界の千象万類の差別を見て、いかなる本体より成立せるかを推究し、ついに世界を分析して七五の体ありとす。七五の体は(つぎに表示するごとく)これを大別して有為、無為の二法とす。為とは為作造作の義にして、生滅変遷するものを有為法といい、生滅変遷せざるものを無為法という。すなわち有為法は現象差別の相を称し、無為法は真如あるいは理想のごときものを称すれども、いまだ大乗にいうごとき理体を指すにあらず。しかれどもすでに小乗に無為法ありと認定せしは、これ大乗において不生不滅の真如の理体を説く前駆なりというべし。無為法中の択滅とは涅槃を称するものにして、涅槃は真如の理なり。しからば小乗また涅槃

  七十五法 有為法七二 色法(物)一一 五根(五官)すなわち眼耳鼻舌身

                    五境(外界)すなわち色声香味触

                    無表色(非物非心)一

             心 法 六一 心王一すなわち眼耳鼻舌身六識

                    心所四六 大地法一〇(受、想、思、触、欲、慧、念、作意、勝解、定〔三摩地〕)

                         大善地法一〇(信、不放逸、軽安、慚、愧、捨、無貪、無瞋、不害、勤)

                         大煩悩地法六(愚痴、放逸、懈怠、不信、惛沈、掉挙)

                         大不善地法二(無慚、無愧)

                         小煩悩地法一〇(忿、覆、嫉、慳、悩、害、恨、謟、誑、憍)

                         不定地法八(尋、伺、眠、悔〔悪作〕、貪、瞋、慢、疑)

                    不相応行(非物非心)

       無為法 三 択滅

             非択滅

             虚空

の理を説くにあらずやというに、小乗の涅槃は大乗と異なりて灰身滅智、身心都滅を談ずるものにして、全く空寂に帰するのみ。故に小乗の涅槃は死物のごとく、大乗の涅槃は活物のごとし。これけだし小乗は事界上より観察するをもってなり。

 有為法は色心すなわち物、心の二元に分かつ。この分類は哲学の分類と異なりて、哲学上の二元論者は物心各別として説明を下すも、仏教は元来唯心論にして、客観は主観に入るの階梯とするが故に、色心の分類もまた唯心上より下したるなり。今その分類を見るに、物界を分かちて色、声、香、味、触の五境とす。しかして眼、耳、鼻、舌、身の五根(心理学上のいわゆる五官)に眼、耳、鼻、舌、身、意の六識ありて、もって外界を感覚するなり。かくのごとくこの宗は心に重きを置き、物を分類するにも心によりてなしたるものなれば、これを物体哲学というも、その実、主観的物体哲学なり。

 倶舎宗においては外界の事物を四大所造、極微所成と説く。四大とは地、水、火、風にして、一切有形の事物はこの四大の所造なりとす。しかれどもエンペドクレスのいわゆる地水火風とは異なりて、この四大は物の性質というがごとき意にして、元素の意にあらず。元素はすなわち極微なり。地は堅を義とし、水は湿を義とし、火は暖を義とし、風は動を義とするものにして、四大所造とはいかなる事物も堅、湿、暖、動の四性を具備すということなり。しかして有形の事物を分析すれば、更にこれより細別すべからざる極微なるものあり。一切有形の事物はこの極微なる元素より成立す、かつこの極微もまた堅、湿、暖、動の四性を具すと。これ今日理化学上、物体に固体、流体、気体の三あるを説き、その物体はすべて元素の化合するものと説くに一致するものなり。

 倶舎宗は進化、退化の双方を説くものにして、すべての事物には生住異滅の四相あり、世界の変化には成住壊空の四劫ありとす。生住異滅とは、一事物の始め生起して暫時止住し、ついで変異を呈しついに壊滅するをいう。故に生住は進化にして、異滅は退化なり。成住壊空とは、世界の成就して暫時その形を保持止住し、つぎに破壊してついに虚無に帰するをいう。故に成住は進化にして、壊空は退化なり。しかしてこの世界は常に成住壊空の四劫をもって変化し、合して空となればまた成り、開きて世界を現ずればまたついに空となり、一開一合進化し退化して循環やむときなし。これをもってこの世界は前を見るも無始、後を見るも無終にして、実に不生不滅なり。もしこの理を推究するときは、この世界には必ず不生不滅の本体なかるべからず。これ大乗に至りてこの世界すなわち真如という説の起こるゆえんにして、小乗においてすでにその一端を示すなり。

 色法中無表色なるものあり、心法中不相応行なるものあり、共に非物非心なり。無表色とは、吾人善悪の業をなさば必ずその気身内に相続するをいう。あたかも花を手に取れば香気を相続するがごとし。しかれども肉体上に表知せざるをもって無表色という。これ心理学の説かざるところなり。また不相応行は、これまた心理学上一の物柄ありとするを得ず。もちろん小乗中にはその有無について異論あれども、この宗にては実有なりとす。しかれどもこのものたる実際物柄というを得ざるものにして、物と物との間の関係をいうなり。故に物心以外に非物非心の一科を設くるこそ、かえって適当ならんか。

 心法には心王と心所とあり、心所は心王に付属するものにして、心所有の法なるが故に名付く。今、上に図を掲げて、心界ならびにこれに対する物界の分域を示すべし。心王は倶舎宗においてはこれを六識に分かつも、その体、一なりとす。この考えは心理学と少しく異なるところにして、この宗には六窓一猿の譬喩あり。檻中の一猿東窓に首を出だせば東猿となり、西窓に出だせば西猿となる。これと同じく心王は一なれども、これが眼にあらわるるときは眼識となり、耳にあらわるるときは耳識となる、ないし心に働くときは意識となる。故に六識同時に作用するを得ず。吾人は常に同時に感ずるごとく思うも、これその移転の神速なるがためにして、その実、前後時間の異なるものなりとす。これけだし心理学の神経組織の考えなかりしをもって、かくのごとき説明を与えたるものならん。心王とは心理学の感覚智力のごときものにして、眼、耳、鼻、舌、身の五識は感覚に属し、意識は智力に属す。また心所は多く心理学の関係するものなり。しかれども、これをいちいち心理学に配当することあたわず。けだし仏教は宗教を目的とするものなれば、善悪を説きてただちにこれを安心立命、成仏得道に応用するなり。以上略述せる七十五法は、その体、不生不滅にして三世に実有なりとするが、倶舎宗の所論なり。

 小乗の主とするところは無我の理にして、宇宙全体には七十五法あり、人身には五蘊ありて我を組織するものなれば、本来我なるものなしと説くにあり。五蘊とは色、受、想、行、識にして、蘊は集合の義なり。色とは吾人の肉体にして、物質なり。受とは外界の現象を心内に感受するものにして、心理学のいわゆる感情なり。想とは外物の形象を心内に執取するものにして、知覚に当たるもののごとし。行は造作遷流するものにして、心所の作用この中に収まるなり。識はすなわち意にして、心王これなり。この五種相集合して、もって我を組織す。すなわち我の体は色心二元なり。甲も乙もみな色心二元の集合にして、五蘊を分かてば彼我の差別なし。故に集合すれば我となるも、その実我の実体なし。倶舎宗はこの理によりて無我を説き、道徳上の悪行は我を信ずるより生ずるものにして、もし五蘊離散して我なきことを知るときは、我のためにする欲念の起こるべき理なし。かくのごとく我の体は存せずといえども、五蘊そのものの体は実に存するものなりとす。故に倶舎宗を名付けて我空法有宗と称す。しかしてこの説より一歩進みたるものは成実宗にして、この宗は我のみならず法をも空なりとす。故にこれを有宗中の空門とす。倶舎宗の説といえども、通俗の信ずるがごとき我有法有説に対すれば、空門といわざるべからず。これ我と法とを空じ終われば、真如の理ここに始めてあらわる。真如の理は本来存するものなれども、倶舎宗はただ表面の観察にとどまるをもってその裏面を知らず。故に倶舎宗は大乗に入るの方便、階梯なり。しかれどもこれを方便なりとして捨つべきにあらず。方便すなわち真実にして、方便なくばまた真実のあらわるることなし。以上、倶舎宗法体恒有説を略述せしが、つぎに倶舎宗と西洋哲学との比較を述ぶべし。

 仏教の有、空、中の三宗は、純正哲学の物体、心体、理体の三哲学に配当すべきことはすでに述べたり。そのうち倶舎宗は法体恒有を唱うるが故に、物体哲学に配して可なり。倶舎宗と唯物論とを比較するに、二者相似たる点あり。一にその講究するところ共に分析論にして、二はその論法共に万有の観察より起こる、三に倶舎宗の無我を証明する道理は唯物論の心存せずとする説に近し、四に倶舎宗の灰身滅智を談じ空寂の涅槃に帰するを説くは、唯物論の死後に精神世界なしとするに近し。故に倶舎宗は唯心論より唯物論に近しというべし。しかれども二者同一なるにはあらず。倶舎宗は物心二元を立て、唯物論は唯物一元を主唱す。また万有の分析おのおの異なりて、倶舎宗は感覚すなわち心の部類によりて外界を区別するも、唯物論はしからず。故に倶舎宗は唯物論と唯心論とに似たる点あり。これを唯物論とせば、主観的唯物論といわざるべからず。要するに倶舎宗は物心二元論にして、唯物論の研究法に似たるところありて物体哲学に属するなり。

       五 成実宗

 仏教は無我を本として起こるものにして、我空より進みて法空に至るなり。故に仏教中の哲学は我法二空の理を説き、宗教はこの理を実際に応用するなり。倶舎宗はまず始めに無我の真理を示す、しかれどもなお宇宙には七五の体の存するを説く。故に倶舎宗は、我は空にして法は有なりとするなり。しかるに成実宗は、一歩進みて我法共に空なりと説く。たとえばここに水をみたせる一瓶あり、瓶中に水なしとするは我空にして、その瓶体も実なしと観ずるは法空なり。これ成実宗の所論なり。しからば成実宗は大乗として可なるか。もちろん成実宗は一分大乗というも可なり、しかれどもなおいまだ真の大乗というを得ず。成実宗は理論上我法二空を談ずるも、実際上これにより起こる迷執を脱却するを得ず。その迷執には煩悩、所知の二障ありて、我ありと執するものを煩悩障といい、法ありと執するものを所知障という。そのうち煩悩障は知りやすく離れやすし、しかれども所知障はこれを断ずること難し。成実宗は実際上煩悩障を断ずるも、所知障を断ずるあたわず。これこの宗の多少大乗に似たるも、いまだ大乗とするに定まらずというゆえんなり。

       六 小乗大乗の区別

 小乗大乗共に空を主唱すれども、その間に異点あり。小乗は析空にして分析上の空なり、大乗は体空にして分析を待たず、その体ただちに空なりとす。これけだし智識の程度の高下浅深より生ずるものなり。あるいはこれを但空不但空という、すなわち小乗は空の一辺にして単純の空なり、大乗は空中に有ありて妙空なり。

 もし一般に小乗大乗を区別せば、これに理論上と修行上との区別あり。乗とは運載の義にして、小乗は小人を運載し、大乗は大人を運載す。小人とは声聞、縁覚にして、大人とは仏、菩薩なり。これ同一の人類にして、その機根、大小高下の別あるをもってなり。今理論上より区別せば、小乗の道理は浅近にして、大乗の道理は深遠なり。小乗の説くところは我空法有にして、大乗は我法二空なり。たとえ成実宗のごときは多少、我法二空の理を知るといえども、空中に妙味の存するを知らず。しかるに大乗は空中に有ありて、その空また妙空にして中道の理を離るることなし。また修行上より区別せば、小乗は自利の一辺にして、大乗は自利利他を兼備す。故に大乗よりみれば、小乗の修行は仏となるを得ず。すなわち小乗の果は声聞、縁覚にとどまり、大乗は真の仏、菩薩となるを得。およそ人の機根には大小の差あるものなれば、その修行もまた異ならざるを得ず。すでに修行異なれば、これより得る結果もまた異ならざるを得ず。しかして小乗は煩悩障を断ずるも所知障を断ずるを得ざるをもって、その結果、大乗に比してはるかに劣等なるものなり。

       七 法相宗

 有、空、中三宗のうち、空、中の二宗は大乗なり。しかして空宗中また有門と空門とあり。有門は法相宗にして、空門は三論宗なり。今、法相宗の大意を講述するに、第一に小乗と法相宗との異同、第二に唯識所変の原理、第三に法相宗と中道宗との関係の三段に分かちて講ずべし。

 第一 小乗と法相宗との異同 小乗は我空法有を説き、所知障を断ずるあたわずという点において大乗と区別せらるることは、すでに陳述せり。更にこの区別を明らかにせんために、煩悩障と所知障とにつきて陳述すべし。煩悩、所知の二障は我法の上より生ずるものにして、我は個人の上にいい、法は万有の上にいう。我の上に起こるものを我執といい、法の上に起こるものを法執という。しかして我執より起こるを煩悩障といい、法執より起こるを所知障という。しかしてこの二障にまたおのおの分別、倶生の二種あり。分別は有意識にして、倶生は無意識なり。分別起はその性質麁にして断じやすく、これを断ずるものを見所断といい、倶生起はその性質細にして断じ難し、これを断ずるを修所断という。煩悩障は領知しやすくして涅槃を障え、所知障は領知し難くして菩提を障う。涅槃と菩提とは共に真如をあらわすものにして、涅槃は真如の理にして、菩提は真如を悟る智慧なり。吾人は煩悩障あるために真如の理を悟るを得ず、所知障あるがためにこれを悟るの智慧を得ず。しかれどもこの点は、哲学よりむしろ宗教に関するなり。これを要するに、個人と万有との上に執するこれを迷という。倶舎宗においては、人の互いに争うは畢竟我ありと執するがためなりと無所を主唱すれども、この世界の根源たる七十五法は実有なるものと信じ、真如の妙理あるを知らず。しかるに法相宗は個人の上のみならず万有の上にもその体なく、すべて心の上の現象なりとし、煩悩、所知の二障共に断ず。これこの宗の小乗の上に位するゆえんなり。しかれども小乗は大乗に至るの階梯にして、小乗の雲霧を払いおわりて、ここに大乗の光明を発揮するを得るなり。また小乗はそのみるところ事界にとどまるも、大乗法相宗に至れば事理の二界あるを知る。これけだし小乗の万有を分析して法体恒有なるを知りたるをもって、更に進みて恒有の裏面に、ある理体の存するゆえんを発見するに至りたるなり。

 第二 唯識所変の原理 法相宗すなわち唯識宗は、宇宙万有を分析して百法とす。これを倶舎宗に比するに、

  百法 有為法九四 色法一一 五根

                五境

                法処所摂色、すなわち意境(第六識所縁境)

           心法八三 心王 八 眼耳鼻舌身五識

                     第六意識

                     第七末那識

                     第八阿頼耶識

                心所五一 遍行五

                     別境五

                     善一一

                     煩悩六

                     随煩悩二〇

                     不定四

                心不相応二四

     無為法 六 虚空

           択滅

           非択滅

           不動

           想受滅

           真如

倶舎宗の七十五法に二五法を増す。これ大乗は小乗よりその智識進歩せるをもって、その分析もしたがって細密となりたるなり。すなわち無為法に三、有為法に二二を増せり。その表右のごとし。

 有為法は事界にして、無為法は理界なり。小乗の無為はいまだ真の理界にあらずして、ただ真如の一部分を仮名せしに過ぎざれども、法相宗は全く理界を指していう。無為六法のうち前の五は畢竟真如の一に帰するものにして、『唯識論』にはこれを「この五はみな真如によりて仮立す。」といえり。しかして事界はすべて心の中に収まるものにして、『唯識論』に「実に外境なく、ただ内識のみありて、外境に似て生ぜり。」といえり。すなわち事界は第八阿頼耶識中に含蔵せる種子より開発したるものなり。しからば無為法は真如に帰し、有為法は第八阿頼耶識におさまるなり。

 倶舎宗、法相宗共に三科ということを説く。三科とはすなわち左表に示すがごとし。

  三科 五蘊(色受想行識)

     十二処 六根(眼耳鼻舌身意)

         六境(色声香味触法)

     十八界 六根

         六境

         六識(眼耳鼻舌身意)

  法 小乗・・心所、不相応、三無為、無表色

    大乗・・意境、心所不相応、六無為

 三科とは蘊、処、界の三なり。『倶舎論』によるに蘊は積聚の義、処は生門の義、界は種類の義なり。すなわち蘊とは色、受、想、行、識の五蘊、積聚集合して我の体を組織するをいい、処とは六根、六境の識を発生する門となるをいい、界とは一身中に一八の種類を有するをいう(六境中の法とは七十五法あるいは百法に照らせば、小乗は心所、不相応、三無為、無表色をいい、大乗には意境、心所、不相応、六無為をいう)。以上は大体上の区別にして、この区別より外境と心との関係、また八識相互の関係を説明するが、唯識所変の原理の起こるゆえんなり。

 仏教中に心、意、識の区別あり。もとより小乗にはこの区別なけれども、法相宗にはその区別をなす。識は了別を義とし種々分別する作用にして、心理学のいわゆる知覚これなり。しかれども識は単に知覚の意味のみにあらず、知覚は五感上の作用なるも、識は心内に起こる作用を含む。故にもし知覚に内外の二ありとせば、この識に相当すべし。意は思量を義とし、心理学のいわゆる思想作用これに相当す。心は集起を義とし、一切の諸法この中より集め起こすをもってその名あり。これ心の総体を指すものにして、心理学上、心体に配するも可ならん。しかれどもこの心は、心体のみならず心全体を包括するものなり。これを八識に配当せば、眼、耳、鼻、舌、身、意の六識は識に相当す。そのうち前五識は外知覚にして、第六意識は内知覚なり。この意識に、五倶の意識と独頭の意識との二あり。五倶とは前五識とともに起こり、独頭とは独立して起こる。第七末那識はすなわち意識なり、末那ここに訳して意という。しかるに第六識を意と名付くるは、第七識によりて起こる故なり。しかして第八阿頼耶識は心、意、識中の心に相当す。阿頼耶とはここに訳して蔵という。一切諸法の種子を包蔵し、その中より一切万法を開発するものなり。この八識は互いに相関係して成立し、前六識は第七末那識により、第七識は第八阿頼耶識によりて成立す。故に第八阿頼耶識は一切の心の本源にして、また一切万有の根本なり。

 小乗においては六識を説き、大乗においては八識を説く。故に第七識以上は小乗の知らざるところなり。第七末那識は第八阿頼耶識の見分を所縁として、我なり法なりと思量する作用にして、小乗には我法は心の中のいずれより生ずるか明らかならざりしも、大乗に至りて我法二執の起こるは第七識にありとす。この識は心理学において説かざるところにして、ひとり仏教にこれを説くは、宗教上に迷妄の起こる本源を論定するの必要あるによる。これにおいて第七識をもって我法二執の起こる処とす。阿頼耶識はカントのいわゆる自覚の体にして、内界外界の作用みなこの中より集起するものとす。この第八識を立つるをもって、法相宗は唯心論に属するなり。

 第八阿頼耶識と前七識との関係を述べんに、この関係に能蔵、所蔵、執蔵の三義あり。一には前七識と阿頼耶識とを対比して、阿頼耶識をもって能蔵とす。すなわち阿頼耶識の中に七識の種子を含蔵し、この種子より開発して種々の現象を現示するものなれば、阿頼耶識は能蔵の位置にあり。二に前七識より阿頼耶識に種子を与うるをもって、阿頼耶識は所蔵となる。すなわち阿頼耶識中の種子は前七識より植えたるものにして、あたかも春時種子を下して秋時に果実を得、また翌年これを植ゆるがごとし。阿頼耶識中の種子発生して七識となり、実りて再び種子を阿頼耶識に与う。故に阿頼耶識は能蔵となり、また所蔵となる。しかして三に執蔵というは七、八両識の比較にして、第七識は第八識の見分を縁して、我なり法なりと執する識なれば、これに能執蔵、所執蔵の二あり。すなわち第七識は第八識に対して我法の執を起こすが故に能執蔵にして、第八識は所執蔵なり。故にいう、第八阿頼耶識には能蔵、所蔵、執蔵の三義ありと。

 第八阿頼耶識に一切万法の種子を収蔵することはすでに述べたり。その種子に本有と新薫とあり。本有種子とは本来阿頼耶識中にそなわる種子にして、新薫種子とは他より与えたる種子なり。本有種子は、心理学上、吾人の智識は本来固有するものなりと説くところの本然論者の説に同じく、新薫種子は、人智は本来固有するものにあらずして経験より生ずるものなりとする経験論者の説に同じ。この点については仏教中にも異説あり。今『唯識論』によるに、護月は一切の種子は本有なりとし、これに反して難陀は一切みな薫習せしものなりとす。しかして護法はこれが折衷説を唱え、「諸法の種子にはおのおの本有と始起の二類あり。」といえり(始起とは薫習なり)。すなわちライプニッツの本然説は護月の本有論に類し、ロックの経験説は難陀の薫生論に似たり。しかしてカントが二者を統合し、一半は本然、一半は経験とせしは、護法の折衷説に相当す。けだし本有新薫はいずれを先とし、いずれを後とすること難く、今年の種は去年の実より生じ、去年の種はそれ以前の種より出づ。かくのごとくいにしえにさかのぼれば、無限にして帰止するところなし。すなわち今年の本有は前年の新薫にして、前年の新薫は前々年の本有なり。故にこれを無始の本有、無始の新薫という。これにおいて一種の原理を定めて、「種子は現行を生じ、現行は種子を薫ず。」といい、種子開発して一切の万法を生じ、万法また種子を薫じ、来往循環して際限なきことをあらわす。

 この唯心説を立つるに四分ということあり。四分とは相分、見分、自証分、証自証分なり。相分とは外界の現象をいう。心理学にてこれをいえば影像とも名付くべし。見分は相分を認むるものにして、すなわち知覚なり。しかれどもまた知覚というを得ざる場合もあり。自証分は見分を認むるものにして、これを自知ともいわば可ならん。証自証分はまた自証分を認むるものにして、自知の自知なり。また共変、不共変ということあり。吾人は外界を見るに当たり、他人と共に変ずるものあり、変ぜざるものあり。すなわち甲乙共にある一物を見て、相合するは共変にして、相合せざるは不共変なり。これみな唯心論を組織する論拠なり。

 要するに法相宗の唯心論は各人的唯心論にして、各人有するところの第八阿頼耶識中に一切万法を顕現することを説く。故に相対性唯心論なり、差別的唯心論なり。しかして現行薫生、相待ちあらわるるを説くは、法相宗特有の唯心論なり。

 第三 法相宗と中道宗との関係 およそ仏教にて非有非空と説くもの、あにひとり中道宗のみならんや。法相宗またすでにこれを説けり。法相宗においては有、空、中の三時教を立て、もって一代の教を判ず。有は小乗の法を指し、空は般若皆空の説を指し、中はまさしく唯識中道の教なりとす。これを証明するに三性の説あり。三性とは遍計所執性、依他起性、円成実性、これなり。遍計所執性は小乗の実我実法ありと固執するをいい、依他起性は実我実法の体なしといえども、他の因縁によりて仮に差別の現象を示すをいい、円成実性は真如の体を義とし、その体、真実にして本来実在するをいう。すなわち遍計所執は空にして、依他、円成の二性は有なり。この世界は非有なりといえども、因縁によりて生ずる故にまた非空なり。故に非有非空の中道をもって真理とす。しかしてこの中道に、三性対望中道と一法中道とあり。すなわち一は遍依円三性を対照比較して中道ありとし、一は遍依円三性おのおのその一性に中道の理ありとし、遍計の空の中にも自ら中道を有し、依円の有の中にも自ら中道を具するをいう。故にこれによりてこれをみれば、この宗は中道宗と許すも不可なることなきがごとし。しかれどもこの宗のいわゆる中道は、事理両界隔歴せる中道なり。事界には阿頼耶識をもって本とし、理界には真如をもって本とし、真如の理ただちにこの世界をあらわすにあらずして「真如は凝然として諸法を作さず。」(真如凝然不作諸法)といい、真如は全く現象以外に独立し、一切諸法は阿頼耶識中より開発するものなりとす。かくのごとくこの宗は事理二界、相隔離すれども、天台宗以上に至れば理界よりただちに事界を生じ、その間融通自在なり。今、法相宗の宇宙分析論を図をもって示すこと左のごとし。

 また法相宗は、阿頼耶識中にある種子に差別あるを説く。故にこの宗をまた三乗各別宗という。三乗とは声聞、縁覚、菩薩なり。これに人、天を加えて五姓とし、五姓各別を説く。五姓とは一に定姓声聞、二に定姓縁覚、三に定姓菩薩、四に不定種姓、五に無姓有情なり。第一は声聞となるべき種子をそなうるもの、第二は縁覚となるべきもの、第五は声、縁、菩のいずれにも成るを得ざるものなり。しかして第三の定姓菩薩と第四の不定種姓とのみ成仏するを得、この五姓をもって一切衆生を区別し、阿頼耶識中にその種子あることを説く、これすなわち差別論なり。しかるに実大乗には「一切衆生、ことごとく仏性あり。」(一切衆生悉有仏性)といい、「草木国土、ことごとくみな成仏す。」(草木国土悉皆成仏)と説くをもって、法相宗は実大乗の説を指して方便なりとし、一乗方便、三乗真実という。しかるに実大乗はこれに反して三乗方便、一乗真実といい、互いに自己の法をもって最勝真実の教となす。けだしこの相異の生ずるゆえんと、法相等の権大乗は実際より説き、実大乗は理論より論ずるをもってなり。すなわち実際上には一切衆生みな成仏することを許し難きも、理論上には真如開発の理を説くが故に、一切みな成仏を説くを得べし。

 つぎに法相唯心論と西洋哲学唯心論との比較を述べんに、西洋唯心論者はイギリスにバークリー、ドイツにカント、フィヒテあり。これに法相宗を比するに、いずれにも異なり。しかれども強いてこれを比較せんに、仏教中にも唯心論に二種あり。一は世俗唯心論にして法相のごとき相対差別上の説と、一は勝義唯心論にして『起信〔論〕』、天台のごとき真如そのものの作用上に立つる説とあり。しかしてバークリーの説は法相に近く、カント、フィヒテの説は『起信〔論〕』、天台に似たるがごとし。バークリーの唯心論はロックの説に基づきて起こりしものにして、ロックは物心の関係につきて物に二種の性質あることを説き、第一種は方円曲直のごとき性にして、第二種は音声寒暖のごとき性なり。前者は物に付属す、後者は感覚に属す。すなわち前者は客観上にある性質にして、後者は主観上にある性質なり。故に前者はなにびとも同一なるも、後者は人によりて異同ありといえり。しかるにバークリーは外物の大小方円等は吾人の感覚の知るところなれば、第一種の性質も主観上にありとし、かつ氏は感覚も感情もこれを総括して観念と称し、世界はこの観念の上に成立するものなりとせり。これバークリーの説を唯心論となすゆえんなり。しかれども氏は観念の本源をもって神とし、世界は神の創造せるものなることを説けり。この説を法相に比するに、やや似たるところあり。二者共に相対現象上の論にして、またバークリーのいわゆる神は法相の真如と異なれども、阿頼耶識の本体を真如と立つる点よりみれば、その真如と神とやや類似するところあり。これに反してカント、フィヒテの唯心論は、現象を超えて本体上に唯心を説くものなり。そのうちカントは心の本体中に物象心象ありて物の本体は心体以外にありとし、フィヒテは物体もまた心の中にありとす。すなわちフィヒテは絶対的我を本としてこの上に物心の現象を示すと説くをもって、完全絶対の唯心論はフィヒテなり。しかしてフィヒテが絶対的我よりこの世界を発生し、我自身が自己を確かむるために非我を生ずといいしは、『起信論』に真如そのものをとりて一心とし、開いて真如、生滅の二門としたるに類似せり。故にフィヒテの説は『起信〔論〕』以上の説に相当すというべし。また法相の唯心論は、ある部分において多少カントに類似するをみる。すなわち法相宗に種子現行の交互相まつゆえんを説くは、カントの本然、経験の二論を結合したるに近し。また一方よりみれば、法相も宇宙の分析上に有為無為両界を分かつをもって、カントと同じく二元論にして、その唯心を唱うるは事界上にあり。もとよりその二元の立て方は双方全く異なれども、その間に多少近似するところあり。

       八 三論宗

 大乗空宗中、有門と空門とあり、その空門はすなわち三論宗なり。これまた論理発達の順序にして、法相より一歩を進めば三論となるなり。法相宗は前述せしごとく遍、依、円の三性中、依他起性は有なりとせしが、この宗はなおこれをも空なりとす。これ往古、護法、清弁の大議論をなしたる点なり。この宗は一切有と執着する念をことごとく掃討し、すこしも執着の点をとどめざるをもって目的とす。されば三論の要旨は破邪顕正に外ならずというといえども、破邪を離れて顕正のあるにあらず、破邪し尽くしたるところすなわち顕正にして、その破邪は吾人有所得の妄見を空ずるなり。これを空じ終われば、ここに真如の妙理をあらわす、これすなわち顕正なり。この理を証明するに八迷ということあり。八迷とは生滅、去来、一異、断常なり。この八迷を空するを八不という。八不とは不生、不滅、不去、不来、不一、不異、不断、不常なり。八迷は吾人の有を分析せるものにして、もしこれを真如の妙理よりみれば、生滅、去来等の差別あるなし。この八迷を一切空じ終わり、一点の滞礙なきに至り、始めて妙理に達す。しかして吾人の事物に執着し妄論をなすもの、これをこの宗に戯論という。戯論に愛論、見論の二種あり。愛論は取着の心を生ずるを義とし情感上執着するものをいい、見論は決定の解をなすを意味し智力上偏信するものをいう。かくのごとき智情の上に生ずる一切有所得の見を打破し、無所得の理をあらわすは八不なり。この八不は約すれば不生の一に帰し、開けば無数の不を生じ、一切不ならざるなく、この不の理を説示するは三論の目的なり。故に天台の論は具の一字におさまり、三論の法は不の一字に収まるという。

 三論宗は一方よりいえば、空の極端に達したる消極論なり。けだし真の道理は帰するところ、有とも空ともいわるべきものにあらず。言語によりて真如の理を説けば、これすでに言語の制限を受けたるものなり。ただに言語のみならず、これを心に思考するもまた制限を受くるものなり。真の不可思議の妙理は実に言亡慮絶にして、この点に至れば無言無思の間に妙味あり。しからばこの真理を開顕せんには、一切の有を空に尽くさざるべからず。すなわち有所得を破して無所得をあらわす。有所得とは心に寸毫の有だも存せざるなり。故にこれに至りては、有というも空というも、非有というも非空というも、広大無限の真理をあらわすを得ず。しからば真の不可思議の理はすこしも知るべからざるか。否、全く知れざるにあらず。分からざるうちにおのずから分かる味あり、これを妙という。この妙はすなわち仏教の極意を示せるものなり。三論宗はけだしこの妙に達する道を開きたるものにして、妙に達せんにはあらゆる制限を排除せざるべからず。もしこれをことごとく空に終われば、真理湛然としてここにあらわる。されば『八宗綱要』に、「八不妙理の風は、妄想戯論の塵を払い、無得正観の月は、一実中道の水に浮かぶ。」といえるもの、これ三論の要旨を尽くしたる至言というべし。

 三論宗と禅宗と類似せるところあり。しかるに禅宗の人はいう、三論は空ずるのみ、禅は空じ尽くして真理を開き出だす、これ禅の三論に勝るゆえんなりと。しかれども三論もまた真如鏡面の塵埃を掃討するのみならず、破邪し終われば真如の月光求めずしてあらわる、これを名付けて妙空という。しからば二宗のこの点において類似すというも、あえて不可なるなし。

 三論宗を西洋哲学に比較するに、ややヒュームの懐疑学に近きところあり。ヒュームは物心万境を空じ尽くし、物も心も真理もなしと排斥せり。これ三論の一切有を空ずる消極的の論に類似せり。しかれども三論の消極は積極に達する階梯にして、破邪即顕正なり。故にこの点は懐疑学に全く異なれり。元来、仏教と西洋哲学とはその基礎を異にし、哲学は単に道理を研究するを目的とし、仏教は道理上研究の結果によりて転迷開悟するを目的とするものなれば、三論の消極また決して西洋哲学の消極にあらず。しかりしこうして、ヒュームはカントの先鞭を着けたるものにして、ヒュームが従来の哲学者の議論せる物心現象上の理をことごとく破壊したるために、カントは物心本体の理を発明するに至れり。これ三論の破邪をもって一切有所得の見を空じ、もって中道諸宗の妙理を発見するに至らしめたる順序に似たり。

       九 『起信論』

 三論宗より一歩進めば、その裏面なる中道の理あらわる。この理を説くものは天台宗なり。しかれども天台を論ずる以前にあたりて、のべざるべからざるものは『起信論』なり。

 仏教上道理を説明する方法に二種あり、一は存立論にして、一は開発論なり。存立論は事物のすでに成立せる状態につきて論じ、開発論は事物の発達分化する順序につきて論ず。故に存立論はまた実相論と称し、ただちに事物の本体およびこれと万有との関係を説き、開発論はまた縁起論と名付け、事物の生滅縁起を説く。倶舎宗は万有を分析して説くところの存立論にして、天台宗はその物の当体について論ずる実相論なり。故に二宗の説くところ事理の別ありといえども、その存立論なることは共に同一なり。また法相宗の頼耶縁起を説き、実大乗の真如縁起を説くごときと、共に開発論なり。『起信論』は一心、二門、三大と次第を立てて真如縁起を説くが故に、これまた開発論なり。しかれども『起信論』の開発論は法相宗に異なりて、法相は事界の上に限り、起信は事理両界にわたりて説くものなり。

 『起信論』には一心を開きて二門とし、またこれを三大とす。この一心とは吾人各自の有する一心にあらず、万有を総括したる真如そのものを一心とす。故にこの一心は絶対の一心にして、華厳のいわゆる三界唯一心とはすなわちこれなり。今この世界を一括して観察するに、一方には生滅の現象を示し、また一方には不生滅の道理を存す。しかしてこの二は表裏をなすものにして、これを名付けて生滅門、真如門という。この二門は一心より出でたるものなり。またこれを分けて体、相、用の三大とす。体とは実体にして不生、不滅、平等をいい、相とは体よりあらわれて一切万有をなす性徳(性質)を有するをいい、用とは相あらわれて善は善の業を感ずる作用をなすをいう。

 生滅の上において覚と不覚とあり、その覚中に本覚と始覚とあり、これ『起信論』難問の生ずる点なり。およそ吾人は今日迷うといえども、迷の本源を尋ぬるに真如よりあらわれたるものなれば、本来迷なるものあるべき理なし。故にひとたび迷うも、後に必ず覚に至るを得べし。この迷うてのち覚るを始覚といい、この始覚に対して本来の覚体を本覚という。すなわち始覚によりて本覚あり、本覚によりて始覚あり、本覚あるがために、たとえひとたび迷うといえどもまた覚るを得、始覚あるがために本来覚性を有するを知る。しからばここに一疑問あり。本来真如界中にありて迷わざりしもの、いかにして生滅差別の迷を生ぜしか。曰く、真如の水は本来静なれども、無明の風起こりしために妄念の波を生ぜしなり。故に『起信論』に曰く、「忽然として念の起きるを名づけて無明となす。」と。しからば更に問わん、波動を起こさしむる風は水の外にあり、妄念の波を起こす無明の風は真如の外にありや。曰く、否、真如以内に無明を生ず。しからば真如絶対の迷なきところに、何故に迷を生じ風波を起こすや。また本来迷なくして迷い、また本の覚性に帰るを得ば、始覚の仏となりても、なおまた迷に帰ることあるべし。かくのごとくしたがって解すれば、したがって疑問を生じ、到底これを氷釈することあたわず。

 けだし『起信論』にこの難問あるは、『起信論』は開発上に説くものなることを知らざるべからず。開発上には迷の前後を生ずるも、存立の上には迷の始終なし。開発上には一の種子より花実を生ずるがごとくにして、花実は種子中に存せずといわざるべからず。しかれども存立上よりいえば、花実はすでに一種子中に含有せらるるを知るべし。起信は開発上より論ずるをもって迷の前後を考うるに、迷なきところに迷を生じ、迷あるものまた無となるがごとき点ありて、解釈すること至って難しといえども、これを存立上より見れば、その理を明らかにするを得べし。開発も存立も共に一の見方にして、開発のみの上に見るも、存立一方において考うるも、共に誤りなり。二見相合して、始めて一事物の正鵠を見るを得べし。従来の学者は単に開発一辺に起信を論ずるをもって、これが解釈を誤りたるなり。故に開発を解するには存立をもってし、存立を解するには開発をもってし、起信を解するに天台をもってし、天台を解するに起信をもってせば、始めてその理の炳然たるを見るべし。

 また起信も天台も共に道理一面の見方にして、その裏面には道理以外の見方あり。迷あれば覚あり、覚あれば迷ありというは、因果の理法に基づくものなれども、道理の裏面にある道理以外すなわち絶対平等の点に達せば、因果道理の沙汰にあらず。吾人は世界の事物をことごとく知り得べきものにあらず、なお吾人の道理以外にあるもの多しとす。この道理以外の点よりこの問題を解すれば、はなはだ容易なり。しかるに従来、起信を解する者、因果の尺度をもってせんとするが故に、誤謬の論に陥りしなり。仏教は不可思議の本体を立つるをもって、一方には道理を本とするも、その裏面には不可思議の妙あり。この不可思議に対照して、もってこの問題を解せざるべからず。

 およそ真如と万法との関係は最も至難の問題にして、実際の境遇は仏にあらざれば知るを得ず。故に『起信論』にはこの関係をのべて、「この心はもとよりこのかた自性清浄なれども、しかも無明あり。無明のために染せられてその染心あり。染心ありといえども、しかも常恒にして不変なればなり。このゆえに、この義はただ仏のみよく知るなり。」といえり。今この関係を略述せんに、まず始めに真如あり、つぎに万法すなわち生滅をあらわす、しかしてついに万法より再び真如に帰す。真如より万法に移るは迷門にして、万法より真如に帰るは悟門なり。吾人は現在、万法差別の境界にありといえども、後には真如に復帰することあり。しからば万法中に真如ありやなしやというに、もし万法に真如なくば、万法を変じて真如となすを得ず。すでに吾人の真如に帰るを得ば、万法中に真如ありといわざるべからず、あるいは万法の裏面に真如存すといわざるべからず。これにおいて本覚始覚の差別を生ず。万法より真如に帰るは始覚なり。すでに始覚ありとせば、これに対する本覚なかるべからず、本覚ありてこそ始覚を得るなれ。これによりてこれをみれば、迷すなわち生滅は本なくして、また末もなきものにあらずや。これここに生ずる一問題なり。

 およそ事物を観察するには、二様の方法あることを知らざるべからず。二様の方法とは、一は竪より見ると、一は横より見るとなり。竪より観察するは、ここに一の海あり、その海水はなによりきたりしか、百川の流れ集まれるなり、その河水はなによりきたりしか、山谷にある泉より生ぜるなり、その泉水はなによりきたりしか、天より降る雨より生ず、しからばその雨の

  雨・・泉・・河・・海

原因はいかん。往古はその理を知らずして、あるいは天に池あり、あるいは神のなすところなりと想像せり。これ竪一方より観察するをもって解釈することあたわざるなり。もしこれを循環の理をもって解釈せば、はなはだ容易なることなり。すなわち雨の原因はかえって下にあり、これを一直線に考え雨は天池より降るとせば、ついに雨の尽くることあるべし。しかるにこれをもとにかえし、雨の原因海にあるを知らば、水は循環して尽くることなし。これすなわち横に観察したるものにして、これにおいて無始無終の理を生ず。更に一例を挙げんに、ここに一樹あり、その樹は前年の種より生ず、その種は実より生じ、実は花より生じ、花は枝より生じ、枝は幹より生じ、幹は種より生ず、しかしてその種は前年の実より出づ。かくのごとく循環するは、環線の上に見たるなり。もしこれを一直線に考うれば、その理を発見するを得ず。ヤソ教は一直線に考うるものにして、人は父母ありて生じ、その父母はまたその父母より生じ、ないし、その始めは神より生ずとす。これ雨の原因をもって神とするに異ならず。もし無始無終循環するゆえんを知らば、殊更に神を捏造するの要なし。仏教は世界を説くに、成住懐空の四劫循環してやまざるゆえんをもってす。故に世界の前にも世界あり、世界の後にも世界ありて、世界は無始無終、不生不滅なりとす。

 真如万法の関係にもまた前の二種の見方あり。これ起信より見ると、天台より見るとの二なり。起信は竪に見、天台は横に見るなり。竪より見れば前後の差別ありて、前は真如にしてこれより生滅を生じ、後にまた真如に帰す。これを三段に分かてば第1図のごとし。これによりてみるときは、前後真如の間にある生滅の始終明らかならず。これけだし一直線に観察するをもってなり。しかれども生滅の中には真如なきかというに、生滅転じて真如となるを得ば、生滅中に真如なかるべからず。しからばこの生滅は表面生滅なるも、裏面には真如を具するなり。しかして前の真如も真如のみなりやというに、真如より生滅を生ずとせば、この真如にもその裏面に生滅存せざるべからず。すでに前の真如にしてしからば、後の真如にもまた生滅存すといわざるべからず。すなわち第2図のごとし。これによりてこれをみれば、真如も生滅も共に無始無終なり。しかして表面上には真如、生滅、真如と次第するも、真如の裏面に生滅あり、生滅の裏面に真如ありとせば、これを合すれば第3図のごとくなるべし。しからば迷悟、生真〔生滅真如〕共に無始無終といわざるべからず。単にこれを『起信論』より説き一直線に論ずるときは、到底その理を解釈することあたわず。しかるになお一歩を進め、迷悟本来存すとする天台の説より論究するときは、この理を解釈することを得べし。これにおいて天台には修悪性悪の説あり。もし更に進みてこれを論ずれば真如あるのみにて、そのいわゆる生滅は全くなし。なんとなれば、元来生滅なるものは有始有終の上においてこそいえ、もし生滅にして無始無終ならんか、これすでに生滅にあらず。これにおいて、生滅は真如の中に入りて唯一の真如となる。すなわち第4図のごとし。しからば唯一真如にして何故に生滅を生ずるかというに、『起信論』の説についてこれを例せば、ここに一の樹木あり、もと一粒の種子より発生し、あまたの枝を分出し、かつ花を開く。これを一直線に観察し前後の差別を付するときは、種子中に枝もなく花もなしといわざるべからず。枝もなき花もなき種子中より、枝を生じ花を開くゆえんは解釈するを得ず。吾人は真如に入りて観察するに、その中には生滅の花もなく差別の枝もなし。しかるに本来真如中になき生滅の何故に今日に存するや。『起信論』より論ずるときは、これを説明するあたわず。もしこれを天台本具の説よりみれば、真如の種子中すでに生滅の花を含有せり。吾人はこれを表面上目撃するを得ざるも、その内部にはこれを含有す。これを含有すればこそ、ここに生滅の花を開くなれ。しからば種も花にして真如も生滅なりやというに、生滅を主としていわば、生滅中に真如あり、真如に迷ありというも可ならん。しかれども真如中には生滅なくしてしかも生滅あり、生滅ありてしかも生滅なし。これを例せば、ここに一の環あり、環には始終の差別なくして差別あり、環として見るときは前後始終の差別なきも、吾人のこれをえがかんとするときには、いずれか一点に筆を起こさざるべからず。これにおいて差別あり。真如は本来絶対無差別なれども、吾人のこれに触るるときは相対差別を生ず。環そのものには差別なきも、その中に始終を起こすべき理を存するがごとく、真如そのものにはもとより生滅の存するなしといえども、生滅を生ずべき道理を存するなり。この点よりみれば、真如に差別ありというを得べし。更に一例を挙ぐれば、吾人もし地球上の一点に立つときはここに東西南北の差別あり、しかれども東西南北、果たして存するかを探究するに、広漠無限の宇宙間更にその差別あるを見ず。すなわち差別なき宇宙の中にして、なお東西南北の差別あり。これと同じく真如の上には生滅の差別なきも、万法の上には差別あり。吾人は今日地球上に棲息するも、もし心を放ちて遠く宇宙全体の上に観察せば、その中に東西南北の差別なきを知るべし。吾人もし真如そのものの本体に体達せば、またその中に万法生滅の存するなきをさとるべし。要するに一部分にとどまれば差別あり、全体に立たば平等なり、故に吾人は差別なき真如の中にありて差別を見るものなり。以上は起信、天台の両説を結合して説明したるものなり。古来これを解釈するに苦しみしは、要するに起信一方の見解をもってしたるが故なり。この真如万法の関係論は実に至難の問題にして、ただに仏教上のみならず、一切諸学の関係する大問題なり。もしこの道理のいよいよ明瞭なるに至らば、一切哲学上の疑問はたちどころに氷解するを得べし。

 以上陳述せしところは真如万法関係の一部分の解釈にして、吾人の道理上より探究すればここに至るなり。しかれどもこれのみにして真如万法関係の尽きたるにあらず。もしこれのみにてその道理の尽きたりとせば、真如は吾人の智識の範囲内にありといわざるべからず。吾人はなお進みてこれを探究せんとするに、ついには知るべからざる境界に達す。しかれども全く知れざるにあらず、知り得ざる間にまた多少知るを得るなり。

 ここに真如と心とあり、この吾人の心においては真如全体を知了することあたわず。なんとなれば、吾人の心は真如の一部分なればなり。もし心にて真如全体を知るを得ば、真如は吾人の心中にありといわざるべからず。しからば真如は到底知るを得ざるか。曰く、否、多少知るを得べし。なんとなれば、吾人の心は真如の一部分なればなり。ヤソ教のごとく吾人を離れて神ありとせば、吾人は神を知り得べき理なきも、真如と心とは連絡するをもってこれを知るを得べし。その連絡する点はすなわち心に智、情、意の三あり。この三はその表面有限なれども、裏面は無限なり。しかして万法は有限にして真如は無限なり。故に智情意、万法に向かえば有限にして、真如に向かえば無限なり。智力上において吾人は常に有限相対を考うれども、ときありて真如絶対を推究せんとし、情感上においても常に有限を感ずるも、あるときは無限を感知することあり。また意志においてもしかり。これ吾人の心は有限性のみならずして、裏面に無限性の連絡あるをもってなり。故に吾人は多少真如を知るを得、しかれども今日は肉体に制抑せられて、その全体を認識するを得ず。これにおいて、真如の上に可知的と不可知的との二部分あり。智情意を有限性よりいえば不可知的にして、無限性よりいえば可知的なり。すなわち吾人は真如に対して、不可知の間に可知あり、可知の間に不可知あり、しかるに今この『起信論』は可知の辺において論ずるものなり。もしそれ不可知の辺よりいわば、ただ仏ひとりこれを領知すというべし。

 また真如万法の関係は因果の理法によりて説くものにして、真如より万法を生じ再び真如に帰すというも因果の理にして、二者不生不滅というも因果の理なり。しかれども因果の上に論ずるは真如の可知的の部分にして、不可知的よりいわば因果以外なり。もし不可知的を説くに因果の理法をもってせば、これ不可知的にあらず。しかるに従来、可知的一方より真如を説明せんとするをもって誤謬を生ずるなり。真如を論ずるには可知、不可知の二様の見解あるを忘るべからず。

 上来陳述せしところを西洋哲学に配当せんに、倶舎宗は物心二元論なれば、これを二元論という点より較すればフランスのデカルト、スコットランドのリード、これに類す。法相宗は唯心論なればイギリスのバークリーに近く、また多少スピノザに似たるところあり、またカントに同じきところあり。三論宗は消極的の辺よりみればヒュームに類す、しかれどもその説はむしろフィヒテに近しというべし。『起信論』はフィヒテの唯心論に似、またシェリングの説に似たり。しかして天台宗はヘーゲルに近し。しかれどもこれらみな仮に配当せしに過ぎず、その性質は決して同日の論にあらざるなり。

       一〇 天台宗

 まず初めに天台宗の分類を掲ぐべし。すなわち左のごとし。

 有空中三宗のうち、中道宗には実大乗の天台、華厳、真言の三宗あり。まず天台宗より講ずべし。この宗には教観二門を立て、教門は哲学に属し観門は宗教に属す。今その宗教に属する部分は省略すべし。教門においては一代仏教を判釈するに五時八教をもってす、すなわち左表のごとし。五時とは華厳、阿含、方等、般若、法華涅槃なり。八教とは化法の四教、化儀の四教にして、化法の四教とは蔵、通、別、円なり。蔵教は界内の事教、通教は界内の理教、別教は界外の事教、円教は界外の理教なり(界とは三界をいう)。また蔵教は小乗教にして、通、別、円の三教は大乗なり。そのうち通教は声聞、縁覚、菩薩に通じ、あるいは前の蔵教にも後の別円にも通ずるをもってその名あり、別教はこれに反して前後に通ぜざるをもってこの名あり、しかして円教は円満完全なるをもって名付く。化儀の四教とは頓、漸、秘密、不定なり。頓教は『華厳経』を指し、仏成道してただちに仏自己の大悟せし道理を説きたるなり。しかれども聴者の智識これを解するあたわざるをもって、漸次に小乗の浅近より大乗深遠の法に及ぼしたり、これを漸教とす。秘密、不定の二教とは、秘密不定と顕露不定となり。同一の仏説も大を開きて小を悟るあり、小を開きて大を得るあり、これを不定という。しかしてこれに秘密にして、自己

  天台宗 教門 五時 第一時 華  厳

            第二時 阿  含

            第三時 方  等

            第四時 般  若

            第五時 法華涅槃

         八教 化法四教 蔵

                 通

                 別

                 円

            化儀四教 頓

                 漸

                 秘密

                 不定

      観門(十二因縁、二諦、四種三昧、三惑義等)

の知らず識らずに得ると、知りて悟るとあり。故に一を秘密といい、一を顕露という。この五時八教につきては『四教儀』『西谷名目』等の書、広く世に行わるるをもって、その書を参考すべし。

 余のこれより述べんとするは、天台宗の原理たる一心三観、一念三千ということなり。今これを領会に便せんため、数学的形式をもって示すべし。

               一心三観の形式

          空+仮+中=三諦(境)=三観(智)=一心

 三諦とは空諦、仮諦、中諦にして、吾人の感覚に対する境なり。これを観ずる方よりいえば三観なり、故にこれを智という。すなわち客観上には三諦といい、主観上には三観という。空とは一切みな空にして、本来事物の実存せざるをいう。仮とは本来実有にあらざれども、縁に従いて諸豪歴然として現ずるをいう。しかるにこの空たるや空一辺にあらずして仮を含み、仮も仮一方にあらずして空を含む。空即仮、仮即空にして同体不二なり、故に中という。しかれども中また空仮を離れて別にあるにあらず、空も中、仮も中にして、三諦円融するものなり。この三諦の理わが一心にありと観ずるこれを三観という、故にこれを一心という。

 つぎに一念三千とは、これまた数学的形式をもってあらわせば左のごとし。

               一念三千の形式

          十界×十界×十如×三世間=三千=一念

          三千=理具三千=事造三千=一念

 十界とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏なり。そのうち前の六界を六凡と称して迷界なり、後の四界を四聖と称して悟界なり。十如とは相、性、体、力、作、因、縁、果、報、本末究竟の十如、これなり。しかして三世間とは五蘊、衆生、国土の三をいう。今十界に十界を乗ずれば百界なり、百界に十如を乗ずれば千なり、千に三世間を乗ずれば三千なり。しかしてこの三千は一念の中にあり。もし一念動かざればやむ。いやしくも一念動くあれば、十界三千ことごとくその中に具す。これを一念三千という。しかしてこの三千の体は本来真如平等の理よりあらわれたるものなれば、これを理具の三千といい、また平等の理より差別事界をあらわすをもって、またこれを事造の三千という。

 倶舎宗は万有を分析して差別事界の体を七十五法とし、いまだ理界の存在を認めざりしが、法相宗は差別界以外に真如の理界を発見せり。しかれどもなお事理両界隔歴するをもって、三論宗はすべて差別界を空じ理界一辺を見る。しかるに天台宗に至れば、また差別界の存在を許す。しかれども倶舎宗の事界と異なりて、理界の上に差別の事界の存するなり。すなわち天台宗の真如理性中に一切万有を現したるは、倶舎の差別を理界上に移したるものなり。故に天台は仏教中最も高尚の点に達したるものというべし。しかるに昇りて山頂に達すればこれよりまた降るがごとく、理の最上たる天台に達すれば、更に歩を転じて裏面に向かって下るべし。これ華厳、真言の二宗なり。されば前の『起信論』において真如より万法を生ずというは、天台よりいえばこれ本具にして、真如そのものの本性の上に万法生滅を具す。故に真如即生滅、悟即迷なり。これに至れば真如は本来湛然として存し生滅の差別なしといえども、吾人相対の上よりみるときは差別の現象を示す。あたかも渺茫たる宇宙に四方上下の別なきも、その一点にとどむるとき差別を生ずるごとく、無限広大の真如中のある一点に足をとどむるとき差別を生ずるなり。故に吾人はもし一部分の観念を捨て、心を放ちて真如に合体すれば、一部分における妄念の差別なきを知るべし。

 真如を論ずるに当たりて、表面の可知的より論ずるものは天台宗なり。その裏面の不可知的を立つるものは浄土門なり。浄土門においては、真如の本体は人智の得てうかがい知るべきものにあらず、よりて信仰をもって不可思議を感ずるの外なしとし、ついに信仰一辺を取るに至る。故に浄土門は智力的にあらず情感的なり。これけだし天台の裏面を開き示したるものなり。

 しかして真如の可知と不可知との間に妙というものあり。元来仏教は真如を目的とし、四方より進んでこれを捕捉せんとす。しかるにこれを可知より探れば、ついに不可知に達す、これにおいて妙あり。また不可知より進めば、その間自然に可知あるを知る、またこれを妙という。すなわちいずれの方面より進むも妙に達す。天台はこれを智の上に探りて妙あり、浄土門はこれを情の上に信じて妙あり。

       一一 華厳宗

 仏教の理論は天台宗に至りてその極点に達したるものなり。しかしてこの天台と天台以前の説とを結合し、一層高尚の説を唱うるものは華厳、真言の二宗なり。華厳宗のよるところの本経は『華厳経』にして、この経は釈尊成道して最初に説かれし経なり。この宗においては『華厳経』をもって仏一代の最も広大高尚深遠の経とす。なんとなれば、釈尊永年の苦行、一旦豁然として真理を発見し成道したまうや、ただちに釈尊自ら大悟せし真理を開顕しこれを説きて、もって自ら楽しみたまいたる経なればなり。これを「海印定の中に、同時に炳現せり。」(海印定中同時炳現)という。これより後は釈尊の大悟したまえるままを説くも、領会する者少なきが故に漸をもって進み、浅より深に、低より高に説き及ぼしたまえりと。すなわちこの宗は五教十宗をもって一代経を判釈す。五教とは小、始、終、頓、円の五教なり。そのうち相始教は唯識の上に万有開発を談ずる法相宗を指し、空始教は理一辺に偏して〔説〕くところの三論宗を指す。この二教は権大乗なり。終教は始教より勝るるものにして、華

  華厳宗 五教 小乗教一

         大乗教四 非円教三 非頓教二 始教 相始教

                           空始教

                        終教

                   頓  教

              円  教

      十宗 小乗教六 我法倶有宗 法有我無宗 法無去来宗

              現通仮実宗 俗妄真実宗 読法但名宗

         大乗教四 一切皆空宗(始教) 真徳不空宗(終教)

              相想倶絶宗(頓教) 円明具徳宗(円教)

厳よりいえば起信天台の教これに属す。頓教は頓速頓入の教にして、ただちに真如の理を証見するもの、禅宗のごとき、これに属す。しかして円教はすなわち華厳宗にして、これ仏教中最上の法なりとす。

 この宗には十玄六相ということを説く。これを説明せんには僅少の時間になし得べからざることなれば、ここにはこれを省略するも、畢竟この原理たる華厳の無尽縁起を証明するものなり。法相宗においては頼耶縁起を唱え阿頼耶識の体より諸法の生起するゆえんを説き、天台宗は実相論を唱え事物そのものを理の上に論じ、真如即万法、万法即真如と談ず。法相の縁起説は差別にして、天台の実相論は平等なり。この二論を結合し平等融通の上に縁起開発を説きたるものは、華厳宗の無尽縁起説なり。故にこの宗は縁起開発論の最上に達したるものというべし。これを証明するが、すなわち十玄六相の法門なり。これにつきて、この宗に四法界ということを談ず。四法界とは事法界、理法界、理事無礙法界、事事無礙法界なり。第一の事法界は差別事界の上すなわち吾人目前の世界の山川草木歴然として個々成立するをいい、第二の理法界は平等一辺の理の上をいい、第三の理事無礙法界は事理互いに結合してその間に障礙するものなく、融通無礙の有様をいう。天台はすなわちこの説にして、平等の水に差別の波あるを説き、水即波、波即水とす。しかして第四の事事無礙法界はまさしく華厳の唱うるところにして、天台においてすでに事理の関係を論じ尽くしたるをもって、更に転じて事界に出でて事事の融通を談ずるなり。天台においては事理の無礙融通を説くも、いまだ事事の融通を説かず。華厳のこれを説くゆえんは、天台と法相とを結合したるをもってなり。この四法界を宗旨に配せば、第一事法界には小乗教と相始教との二教これに属す。小乗倶舎宗は世界に七五の体ありとして事界上にとどまり、また相始教すなわち法相宗は小乗に比すれば平等上に説くものなれども、真の平等にあらず。事界上に百法を分かち、真如はこの中の一部分として説くが故に、いまだ事理融通せるものというべからず、故に法相も事法界に属す。第二理法界には空始教すなわち三論宗これに属す。三論は一切の有を空し、理一辺にとどまるをもってなり。頓教すなわち禅宗のごときは本来無一物の境に達するをもって、またこの中に属すというも可なり。第三理事無礙法界は終教すなわち天台宗これに属し、第四事事無礙法界は円教すなわち華厳宗なり。天台宗においても円教を説けども、天台には奪いていえば天台一宗に限り、与えていえば他教にも通ずと。しかるに華厳のいわゆる円教は、華厳一宗に限りていうなり。

 要するに華厳の所論はこれを名付けて主伴具足といい、あるいは一多相即といい、また果地融通(果海融通)と称す。すなわち一切万法の中において、一物を取れば他の諸物これに随伴して起こる故に主伴具足といい、一物を取れば多物これに即する故に一即多、多即一なり。これを一多相即という。これを説くは無尽縁起なり。畢竟華厳の無尽縁起を説くは果地の上に談ずるゆえんにして、釈尊成道して仏果満徳の上に大悟の真理を示したまえること、あたかも海中に万象同時炳現するがごときものなれば、十重無尽高尚の法なりとす。これを天台に比するに、天台は因の上において説き、華厳は果の上において説くの別あり。故に一は因心本具説といい、一は果地融通説というなり。

 仏教の通理を西洋哲学に比するに、もちろん双方同一なるにはあらず、ある点においては全反対の説あり。しかれども天台に至るまでは多少比較するを得たりしが、華厳以上に至りてはこれを比較すべきものなし。故に華厳以上の説は、仏教の他に比類なき一種特別の点とみなすも可なり。しかれどもこれらの説たるそれ以前の順序を追いきたるときは、必ずこれに至らざるを得ず。今これを今日の学理上に照らすに、そもそも吾人の最も容易に信じ得べきものは目前の世界なり。この世界は、いやしくも目あり耳あるものはその存在を疑うべからず。しかしてこの世界は山川草木、人獣虫魚等、千差万別にして、その数無量無限測り知るべからず、その形もまた千状万態なり。これを総称して世界万有という。かつこの森羅万象は盛衰あり栄枯あり、春に花咲き秋に実結び、その変化は時々刻々一刹那といえどもやむことなく、しかも無限永久の間なお尽くることなし。しからばこの世界は永久変化するのみなりやというに、一方には変化ありて、また他の一方には不変の理あり。けだし事物の変化するには、その裏面に変化せざるものなかるべからず。変化はこれ比較上の論にして、舟の動くを知るは周囲に動かざる所あればなり。吾人はある点において不変の理を見るが故に、これに変化あるを知るなり。しかれどもその不変と思うものもなんぞ知らん、変化しつつあるものなることを。原野に生ずる草木の変化するを見るは、原野の変化せざるを見ればなり。しかれどもその原野も変化するものなり。原野の変化を見るは、また原野以外に不変のものを認むるをもってなり。すなわち甲の変化は乙の不変に比して知り、乙の変化は丙の不変によりて知るなり。しからば一切の事物ことごとく変化する中に、おのずから不変のものありて存せざるべからざるを知るべし。これただに道理上しかるのみにあらず、実際上にもまた不変のものなかるべからず。水の雲となり雨となり、あるいは川となり海となるも、化学上より観察すればただその形を変化するにとどまりて、一滴の水は更に変ずることなし。またこの世界のいったん破壊して空無となるも、この世界全く滅せしにあらず。空となれば、したがってまた成就す。これによりてこれをみれば、表面には変化あるも、その裏面には不変のものあり。もしこの世界にしていよいよ変化のみのものならしめば、理化学上の原則、因果の規律も成立するを得ず。なんとなれば、この規則は不変のものなることを既定したればなり。故にこの世界全体を見れば、その裏面に不変化、不生滅、無始終の三性を有すというべし。けだしこの三性たる帰するところは一にして、変化することなくば生滅のあるべき理なく、生滅なくば始終のあるべき理なければなり。これにおいて、吾人の見てもって変化ありとするもの、これを現象といい、不変化のものを称して本体という。この現象本体を論ずるは第一の問題にして、すでに現象本体ありとすれば、この二者の関係いかんというは第二の問題なり。この関係につきて、あるいは二者分離すというものあり、しかれどもこの説は到底許すべからず。すでに不変の上に変化の成立し、変化中に不変を発見する以上は、二者同一のものといわざるべからず。倶舎宗には単に差別を論ずれども、差別は現象にして本体にあらず。これにおいて進んで法相宗の説あり。しかれども法相宗には事理の間に懸隔ありて、いわゆる本体現象を両立する説に似たり。しかるに天台宗に至りて始めて二者を結合し、真如即万法、万法即真如と説き、その関係を不一不二という。これを一とすれば現象本体の区別あるをもって不一なり、これを二とすれば現象本体互いに相離すべからざるをもって不二なりとするなり。しかしてこの関係より(一)万法即真如、(二)一法即真如、(三)一法即万法、(四)一法即一法ということを推論するを得べし。すなわちこの世界のあらゆる現象は、その本体真如なれば万法即真如というを得べし。すでに現象の全体真如なりとせば、万法中の一法またことごとく真如ならざるべからず。天台に「一色一香、中道にあらざるはなし。」(一色一香無非中道)というはすなわちこれなり。しかるに万法中の一法みな真如ならば、一法またすなわち万法といわざるべからず。すでに一法即万法というを得ば、また一法即一法というを得べし。またこれを反対に考うれば真如即万法、真如即一法、万法即一法なり。その故は万法は真如の現象にして、真如そのものが活動の力を有し、真如自発自動してもって万法を開顕したるものなれば、真如即万法、万法即真如、また万法中の一法すなわち真如というを得べし。これを理化学上より考うるに、物質あれば勢力あり勢力あれば物質あり、物を離れて力なく力を離れて物なし。しかるに今、物よりいえば融通の作用なきも、力よりいえば融通無礙の活動を有す。これを比較して考うれば、物質は万法にして勢力は真如なり。万法よりいえば一物個体相隔歴して融通を説くを得ざれども、真如よりいえば融通無礙なり。しかして万法は一時の迷見たるに過ぎず、その実はみな真如なり。故に身を真如界中に投じ翻りて万法を下瞰せば、一法即万法なり、一法即一法なり、これを称して事事無礙法界という。されば華厳宗において、一塵一毛中に三千大千世界をおさむというも、須弥納芥子、芥子納須弥というもこの理なり。須弥、芥子をおさむというは、大に小をいるるものなれば、問わずして明らかなり。しかれども芥子、須弥をおさむというはいかん。これを例せば、吾人の目は天地宇宙より見れば天地の中にあり、しかれどもこの天地は吾人の眼中にありというを得べし。すなわち眼容天地、天地容眼というに同じ。これ畢竟万法に寄せて考うると、真如に寄せて考うるとの相異なり。これを吾人の心上にいうも、吾人は天地間の一小部分なれども、この広大なる天地また吾人の心にて知るを得べし。故にいう、「三界にただ一心のみ。」(三界唯一心)と。すなわちこの謂なり。これを要するに、もとこの万法世界は一大真如世界にして、真如界中に万法の現象を呈示するものなり。故にこれを表面より見れば万法中一物一個の現象をなすも、裏面よりうかがえば真如は万法を包容して万法ことごとく真如の中にあり。

       一二 真言宗

 華厳宗より一歩進みたるものは真言宗なり。この宗の唱うるところによれば、華厳、天台等の諸教はもと仏の衆生に対して説きたる教にして、すでに衆生に対して説くときはその機根性質に適応して説かざるを得ず、故に仏の真意はあらわすことあたわず、仏の仏に対して説きたる教こそ真の仏教なれと。これにおいてこの宗は顕、密の二教を立て、華天〔華厳、天台〕等の諸教は衆生の気質に応じて説きたるものにして、これを顕教という、すなわち方便教なり。これに反して真言は衆生の機類に関せず、仏自己の眷属に対して秘密の理を説きたるものにして、これを密教という。これすなわち真実教なりと。故にその本尊も他宗に異なりて大日如来を立つ。またこの宗には一代教を判釈するに十住心を説く、すなわち左表のごとし。これけだし二教と縦横粗細の別あるのみ。そのうち秘密荘厳心は真言宗にして、この宗は一代仏教中の最上法なりとす。この一代教の判釈はいずれの宗旨にもありて、みな自己の宗旨の他に勝るることをあらわすなり。

 この宗には二界六大ということを説く。二界とは金剛界、胎蔵界なり。金剛界は智をあらわし、胎蔵界は理を

  真言宗 二 教 顕教

          密教

      十住心 世間教三 異生羝羊心(三悪道住心)

               愚童持斎心(人乗住心)

               嬰童無畏心(天乗住心)

          出世間教七 小乗教二 唯蘊無我心(声聞住心)

                     抜業因種心(縁覚住心)

                大乗教五 他縁大乗心(法相住心)

                     覚心不生心(三論住心)

                     一道無為心(天台住心)

                     極無自性心(華厳住心)

                     秘密荘厳心(真言住心)

あらわす。金剛はきわめて堅牢なるものなれば、これをわが心に堅固の力を有し、もって一切の迷妄を打破し真理を開顕するにたとう。また胎蔵とは母腹に子を胎するごとく、理の中には一切の事物を含有するにたとう。六大とは地、水、火、風、空、識にして、これを色心に分かてば、地水火風空は色にして識は心なり。これを二界

に配すれば、色は理にして心は智なり。

 この宗は華厳、天台に異なりて理を本とせず、事すなわち六大をもって本とし、事相差別の上に理界を談ず。しかして地、水、火、風、空の五大と識大とは不一不二にして、五大を離れて識大なく識大を離れて五大なしとし、また金剛界を離れて胎蔵界なく胎蔵界を離れて金剛界なしとす。すなわち色心不二、金胎一致、理智冥合を立て、この理をもって即身成仏を説く。そもそも吾人の身体は六大によりて生ずるものにして、ひとり吾人の身体のみならず、大日も衆生も国土山川もまた、この六大によりて生ずるものなり。しからばこの体すなわち仏となるを得べし。故に人もし語密、身密、意密、すなわち身口意三密の法を修行せば即身成仏するを得というは、この宗の所論なり。

 この宗の説もまた以前の諸説を論じ極むるときは、この点に達せざるを得ず。華厳宗においては一切万法の一事一物の無礙融通を論ぜしが、更に一歩を進めば一切の事物みな六大というを得べし。もし裏面より論ずれば真如を本とせざるべからざるも、表面よりいえばかならず万法を本とせざるべからず。これ六大の説あるゆえんなり。

 また倶舎宗においてはじめて色心二元を論じ、これより進みて真言の深奥秘密なる道理を説くに至りしが、この点に至りて前の倶舎宗は誤謬なりといわば、これ仏教自身に仏教の誤れるを証明するものなり。すでに倶舎宗を基礎として建築したる理論にして、その基礎誤れりとせば、これによりて建築したる説もまた破れざるべからず。その基礎の正確なるを認定してこそ、はじめてその道理の確実なることを証するなれ。真言宗の説くところの色心二元は、すでに倶舎宗の説くところなり。もしこの点に至らざれば、仏教いまだ完全せざるものなり。仏教は一の円環にして、これを一周して始めて一円環なるを知る。その起点はいずれよりするも可なれども、まず最も吾人に接近せる目前の世界より始めたるをもって、また本の目前の世界に帰るなり。すなわち倶舎宗より出でて倶舎宗に帰りたるものというべし。たとえばここに雪に埋没せられたる一樹あり、表面よりこれを見るに七五の枝雪外に突出し、七五枝おのおの独立せるがごとし(倶舎宗)。しかるにその雪を除きてこれを見るに、事理の二大枝あり(法相宗)。なおこれをせんさくするに、その根本は真如の一木なり(天台宗)。しかして更に土中をうがち見るに、またあまたの根あり(真言宗)。真言宗は表面にあらわるるものを顕教なりと捨て、方便教なりと排斥し、裏面に隠没するものを真実教なり密教なりと唱うれども、その雪外にあらわるる枝と土中に隠るる根と、いくばくの相異かある。その実、真言宗は倶舎宗にかえりたるものなり。されば倶舎宗の所論、決して誤謬なるにあらず。ただその見方の浅近にして、七五の独立せる樹木ありと認めしのみ。しかして倶舎宗の誤謬ならざるゆえんは、真言の証明によりてはじめて明瞭なるを得たり。故に真言に至りて仏教の論理、完結したりというべし。

 真如万法の関係を説くに当たりて、顕教は真如の理をもって万法を説明し、密教は万法を本として真如を説く。しかれどもこれ表面には右より進み、裏面には左より進むものにして、同一の理なり。けだし真言宗の事を先とし理を後とするは、万法の裏面に真如あり、真如の裏面に万法あるを証するなり。またこれを一般の道理に照合して、真如の理はなにによりて起こりしかというに、吾人の心と外界との関係より生ぜるなり。すなわち倶舎宗に万法実有を論じ、これより真如を生じたるなり。しからば真如は物心万境の根本なるも、もと物心万境について想出したるものなれば、あるいは物心万境は真如の根本なりというも可なり。この根本を捨ててなお真如の体ありとはいうべからず。また吾人ただちに仏果を開くを得ば、この物心界中の身心すなわち仏体となるなり。これらの道理を推究するときは、事を本として理を末とするも、至当の論といわざるを得ず。真言宗においてこの理を説くに至りしため、仏教の起点なる倶舎宗の真理たるを知り、始めて論理の完結を告げたり。かくのごとく仏教の発達は論理上の順序に従うものなることは余の考え出したるところにして、これを西洋哲学に比較対照して研究せば、従来論理の関係なきものと思いし仏教の秩然、論理思想の発達に伴って進歩したるものなることを知るべし。

       一三 理論宗の結論

 以上講述せしは仏教の哲学に属する部分なり。この部分のみにて仏教の成立するにあらず、これを実際に応用して始めて仏教の完成するなり。しからばその応用はいかにというに、いずれの宗旨も理論上において、この世界に不生不滅、不変不化の本体あることを説く。この本体はすなわち真如涅槃なり。しかるに本体の存在は理論上しかるべきも、果たしてこれに達するの道ありやというに、理論上よりいえば真如開発して万法となりしものなれば、万法より進みて真如に達するを得べし。吾人はもと真如にありしも、ある事情によりて万法中に出でたるものなれば、この迷を断絶せば真如に帰るを得べし。故に諸宗共にこの迷を断滅する修行をなすなり。また吾人は実際上この世界においてこの理を実究するものなり。そもそもこの世界には草木あり動物あり人類あり、そのうち草木は生活力を有するも感覚力を有せず、動物は感覚力を有すれども思想力を有せず、人類に至りては思想力を有し、日常目撃せざることをも考え得るなり。また人類中にありても等差ありて、下等野蛮の人民は世界の不可思議なる理を考うるごときことなし。しかれども高等開明の人は精神上高尚なる快楽を学問あるいは智識より得、あるいは天体を観、あるいは地勢を察し、もってその中に不可思議の現象あるを知る。かつ同一の人間といえども、盲目者よりは明目者多くの快楽を得、同一の明目者も知識の程度によりて異なり、故に知識進めばこの世界もなお楽しく美しくあらわるるなり。この道理を当てはむるに、吾人もし他日進化して今日に一〇倍あるいは一〇〇倍する境界に達せば、同一の世界にしてなお数倍勝れたる美妙世界とも見え、あるいは極楽真如界とも見ゆることもあらん。しからば修行によりて真如界に達することを得べきは疑うべからず。しかれどもこれに達するの道、諸宗その方向を異にするをもって、すべてその修行の方法もまた異なるなり、ただその目的は不生不滅の境界にあり。これ仏教の西洋哲学に異なるゆえんにして、仏教は単に道理を研究するのみならず、これに至るの方法を講ずるものなり。故に仏教はただ道理上の講究のみにとどまらば、仏教の仏教たる真味を感得することあたわざるべし。

 真如不生滅世界の存在は、すでに理論宗の証明をもって尽くしたり。これにおいてか、実際上真如に達するの捷径を求めんとするものの起こらざるべからざるは必然の理なり。これすなわち実際宗の起こりしゆえんなり。故に実際宗の理論は理論宗の説くところに外ならず。しかれどもまた多少哲学上の道理を含み、一種特殊の点あるをもって、以下これを講ずべし。

 

     実 際 宗

       一 禅 宗

 実際宗の理論は理論宗に異なることなし、ただこれを応用するに当たりて、理論を主とすると実際を主とするとの径庭あるのみ。理論宗はその理論高尚深遠なれども、実際上これを応用するにはやや迂遠の弊あるを免れず。これにおいて、成仏得道の捷径便路を説くものは実際宗なり、禅宗すなわちその一なり。

 禅宗は教外別伝といい、釈尊霊山にありて花を拈じりもって大衆に示せしに、だれも了解せざりしにひとり摩訶迦葉、破顔微笑す。釈尊すなわちわれに正法眼蔵涅槃妙心あり、これを汝に付属すと。爾後経文をもってせず、心をもって心に伝え、三千余年その教を相承す。故にこの宗は、よるところの経論なし、しかれどもその説は実大乗によるものなり。この宗の「じきに人の心を指し、見性を成仏となす。」(直指人心見性成仏)と説くがごときは、あるいは実大乗の「三界はただ一心のみにして、心の外に別法なし。」(三界唯一心心外無別法)と説くより起こりたるものならん。この宗に、吾人の心は真如の本体より開発したるものなれば、真如の境遇に到達せんとするにはあえて他の道を求むるを要せず、心すなわち真如なりと説くものは、すでに実大乗の論ずるところなり。しかるに実際上この心によりてただちに真如に体達し、この心の上にただちに真如を開顕するを得と説くは、この宗なり。およそ心には心体と心象とあり。心象は通常のいわゆる心にして、これもと外物の印映じて生じたるものなれば、単にこれをもって心というを得ず。故に外界を除けば心象なし。しかれどもすでに心象あれば心体なかるべからず。鏡面に事物の映写するは、鏡体のあればこそこれに映ずるなれ。これと同じく心体あるが故に心象あり、すでに心象あれば心体なかるべからず。しかれどもこの心体は吾人の知るを得ざるものにして、心体には自他彼此の差別なく、平等絶対なく、この心体外物に動かされて智情意の心象を生ず。故に智情意は心体の波動せる有様なり。今禅宗のいわゆる心とは心体を指すものにして、この心体に到達せんことをつとむるなり(心体の有無はすでに理論宗に証明し尽くしたるをもって、ここには講ずることなし)。しかしてこの宗の心体に達する方法は不立文字と唱え、経文は月を指す指なりとしてこれを排斥し、経文によらず道理によらず、また智情意の心象によらずして単刀直入心体に達せんとするなり。しからば智情意によらずしてただちに心体に達するを得るやというに、もと心象は外界の縁に誘われて起こりしものなれば、心体に達せんとするにはまず心象を沈静せしめざるべからず。あたかも水の本体を見んとせば、波を静むるにしかざるがごとし。故にこの宗には坐禅を用う。坐禅は心象の波を静めて心体を浮かばしむるものなればなり。しかれども単に心象の波動鎮静して心体の開顕するのみにては、これ死物なり。禅宗の悟道は心象を静むるのみにあらず、心体を活捉するなり。故にこの宗にはわが心一度死してまた蘇すという、その再生の点に至るをもって緊要とす。しかしてその再生するや、またここに智情意の作用を起こす。しかれども智情意には二種ありて、外、物界に対すれば有限性となり、内、心界に対すれば無限性となる。故に智情意は有限中に無限性を帯ぶるものなり。智をもっていえば、吾人の智は常に相対差別の上に作用して無限絶対の体に及ばず、無限絶対の体は不可知的なるが故に、吾人の智力のこれに至るべき理なし。しかれども相対の裏面にはなお不可知に向かいて研究せんとする傾向を有す。これ智力の有限性中、無限性を帯ぶるをもってなり。情よりいうも、情は常に相対差別を感ずれども、その中にまた一種高妙の無限を感ず。吾人は暴雨大風に会して恐怖の情を起こすもその中にまた無限の感を生じ、玲瓏たる月を眺めてはまた天地の無限高妙を感ず。また意においても、これと同じく有限界中にありて無限をとらえんとす。これみな一方には有限性なるも、他方には無限性なればなり。禅宗は坐禅をもって心象を静め、心体を浮かばしめ、更に再び心象を起こす。しかれどもこの心象は無限性の智情意なり。

 禅宗は智情意いずれをとるかというに、意をとるものなり。智は仏教中いずれの宗旨も説くところにして、法相、天台のごときみな無限性の智を主とす。浄土門はこれに反して無限性の情をとり、禅宗は無限性の意をとるなり。すなわち禅宗は大意力にて、自己の心地に真如を打開しきたるなり。故に禅宗を称して意宗というも可ならん。

       二 日蓮宗

 日蓮宗は天台宗より分出したるものにして、同じく『法華経』をもって本経とす。『法華経』には権実本迹ということを説く。権実とは釈尊成道してただちに『華厳経』を説きたまいしも、その説高尚にしてこれを解する者なかりしがために、更に小乗浅近の法を示し、漸次大乗深遠の法に及び、四十余年を経て始めて釈尊出世の本懐たる法華真実の教を説く。故に経に「四十余年いまだ真実をあらわさず。」(四十余年未顕真)といえり。これによりて法華爾前の諸教は権仮方便なりと貶し、『法華経』をもって真実とす。しかれどもこれに開会ありて法華に至れば、前の方便もまた真実なり。なんとなれば、爾前の諸教は真実を説くの階梯にして、方便によりて真実のあらわるとせば、方便もまた真実ならざるべからず。

 本迹二門は法華の最も緊要なる点にして、迹門とは釈尊のこの世界に降誕し、人間界の順序を追い成仏得道したまうをいう。すなわち迹門とは旧迹にして、迹門の仏を始覚の仏とす。しかるにこれを本門よりいえば、釈尊の仏たる今日の新仏にあらず、久遠劫来本覚の仏なり。迹門は差別にして、本門は平等なり。これを吾人に例するも、今日人間として世界に住するは迹門にして、その本地の真如より開顕せしは本門なり。この本迹につきて優劣の異論あり。すなわち本迹一致とするものと、本勝迹劣とするものとなり。これ日蓮宗に一致派、不一致派の別あるゆえんなり。

 つぎに日蓮宗一家特有の法門は三大秘法なり。三大秘法とは本門本尊、本門題目、本門戒壇なり。この三の体は妙法蓮華経の五字なり。法華本門の仏は無始久遠の仏にして、本門の本尊は妙法蓮華経の五字を本尊と立つるをいい、本門の題目はこれを修行するをいい、本門の戒壇はこれを受持するをいう。すなわち心に念じ、口に唱え、身に行うをいう。あるいはこれを戒定慧に配当し、本尊は定、題目は慧、戒壇は戒なり。この三をもって即身成仏、娑婆即寂光土なることを説く。その言に曰く、身はこれ本仏なり(本尊)、心はこれ妙法なり(題目)、住所はこれ寂光浄土なり(戒壇)。吾人はすなわち真如法性より出でたるものなれば、わが身すなわち仏、この心はこれ妙法にして、心に妙法を具し妙法に心を具す。しかして本門の戒壇は世界をして寂光浄土たらしむるものなり。

 この宗はその理論、天台にひとしといえども、本門を主としてこれを実際に適用するに至りて異なるところあり。天台には戒定慧を説きてその修行はなはだ困難なるも、この宗は本門の道理を妙法蓮華経の五字に収め、口に南無妙法蓮華経を唱え、心にこれを念ずれば、すなわち仏となることを説くなり。

 禅宗と日蓮宗との区別は、禅宗は経文をもって不用とし、頓速頓入、心体の開現を説くも、日蓮宗は『法華経』を本経とする故に、禅宗の不立文字とは異なれり。また日蓮宗を智情意に配せば智宗なり。これを応用するに妙法蓮華経の五字に収め、なにびとにも修しやすからしむるは実際を目的とする故なり。故に智宗というも天台に異なり、また禅宗は主観を目的とするも日蓮宗は客観なり。もちろん日蓮宗にも心は妙法、身は本仏というも、禅宗に対せばこの外界をして寂光土たらしむるにあれば、客観宗なり。

       三 浄土諸宗

 浄土門においては、浄土門以外のすべての宗旨を聖道門と名付く。聖道門は、あたかも陸路を歩行するがごとく、自己の力にて修行し迷を去りて悟を開くが故に、これをまた難行道といい、あるいは自力という。これに反して浄土門は、あたかも汽車に乗じて行くがごとく、戒法を保たず観法をも修めず、他の力にてこのまま成仏得道するが故に、これをまた易行道といい、あるいは他力という。

 通俗にいわゆる難有(ありがたし)という感情は、聖道門より浄土門にあるがごとし。これを例せば、身体羸弱、手足不自由の人、貧窮にして生活するを得ず、他人に対して生活の道を問うに、その人答えて、勉強するにしかずといわば、これ当然のことなれば、なにびとも熟知するところなり。しかれども身体の羸弱、手足の不自由なるをいかにせん。しかるにある仁者ありて、これら貧民を救済すと聞かば、ありがたき情を起こすべし。浄土門はいわゆるありがたき宗旨なり。聖道門には道理の至極なるを知るも、ありがたき情の生ずることなし。しかれどもここに浄土門に対して一大難問あり。すなわち自力の修行をもって成仏得道するはあえて論を待たざれども、果たして他力に頼りて転迷開悟するを得るや、というにあり。この道理はけだし天台の道理を基本として立てたるものにして、天台には空仮中の三諦を説き、この世界は空にして仮なり、仮にして空なり、故に中なりとす。すでに中というも、空仮の外にあらざれども中そのものに空仮ありて、空仮は表裏をなすものなり。あたかも一葉の紙に表裏あるがごとし。ただ紙と考うれば表裏の別を見ざるも、実際上これを見んとせば、いずれか一面を見ざるべからず。すなわち中に達せんとするには、空仮いずれか一をえらばざるべからず。この空は平等にして仮は差別なり。天台宗は道理上よりは平等を説くをもって煩悩即菩提、生死即涅槃というも、差別上にありては煩悩は菩提にあらず、此土は極楽にあらず。故にその宗には種々困難なる修行を設くるなり。これにおいて、天台宗は理論を平等門に立て実際を差別門に立て、日蓮宗は理論、実際共に平等門に立つるなり。しかして浄土門は理論を差別門の上に立つ。故に浄土門には此土極楽にあらず、わが身仏にあらずとし、わが心の外に仏あることを説く。これすなわち阿弥陀仏なり。この仏や無量寿無量光にして、寿命も智慧慈悲も共に限りなし。諸仏中の法王たり。しかしてこの仏は西方十万億土を過ぎて一世界を建立す。これを浄土もしくは極楽という。

 禅宗にはわが心を離れて仏なしとし、日蓮宗にはこの世界すなわち仏土なりとす。しかるに浄土門に外界の仏を立つるはいかなる道理なるかというに、これまた因果の関係より生ずるなり。吾人もし今日に一〇倍せる善因を修せば今日に一〇倍する善果を得べく、一〇〇倍の因を植ゆれば一〇〇倍の果を得べし。今日の人類は決して最上のものにあらずして、人類以上に位するものなお多し。また世界も地球のみならず、地球以外にあるもの無数無量なり。今この理を推究するときは、人類よりはるかに優れたる体ありといわざるべからず。また人類より優れたるものありとせば、最上至極のものもまた存在せざるべからず。そのうち最勝無上のものを仮に名付けて阿弥陀仏とす。しからばこの阿弥陀仏の力をかりて、果たして成仏するを得るや否やというに、そもそも吾人には真如本覚を有すとするときは、吾人は修行を積みて真如の徳を開顕し得らるるのみならず、吾人の心はこの真如に通ずるものなり。しかれどもその通路たる孔口はなはだ狭くして、容易に真如に達すること難し。故に真如に達せんとするには、この孔口をして開大せしめざるべからず。しかして孔口を大ならしむるは修行の力なり。しかるに浄土門によるに、真如と心との通孔に一のふたありて、吾人の力よくこれを開くを得ず、故にこの通路以外に真如に達する道を求めざるべからず。例せば地球内部に火ありて、この火、発して山上に噴出す。吾人は自ら地球内部を開きてその火を見ることあたわざるも、もしその火の噴火山に発するものあらばこれを見ること容易なるがごとく、吾人自ら真如に達せんとするも、機根下劣にして到底及ぶべからず。よりて真如の光明の外部に発揚したる阿弥陀仏を念じて、その光をわが体内に入るるなり。その光は内部にあるものも外部に出るものも、共に真如の光なればあえて異なるなし。しかるに聖道門は自ら内部を開きてその光を見んとし、浄土門は外部を仰ぎてその光に接せんとす。故に浄土門のこれに接するは吾人の力にあらず、全く阿弥陀仏の力に頼るなり。これを要するにこの世界は真如界上に仮立する現象にして、しかも真如を開顕すべき噴火口なり。故に主観上に真如に通ずる道と、客観上にその光に接する道と二様ありて、浄土門は客観上の道をとるものなり。

 浄土門中には浄土宗、真宗、融通念仏宗、時宗の四宗あり。その説くところおのおの多少異なるところあれども、念仏を説く点においてはすべて同一なり。そのうち浄土宗は差別門一方に寄せて説く。真宗はこれに多少平等すなわち理論を加う。更に今二宗の区別を述べんに、真宗より浄土〔宗〕をみれば、浄土宗は真の他力というべからず、そのうちに多少自力を混ずるがごとし。なんとなれば、浄土門は念仏だに唱うればその唱うる力によりて成仏すと説くも、真宗よりみればこれすでに自力を混ずるものとす。また浄土宗には慈善のごとき諸善行は多少成仏の資助となるものとす。しかるに真宗はこれらの善行をもって、一切雑行雑善なりと排斥するなり。これ真宗の、浄土宗の差別的理論に多少平等的理論を加えたるによる。

 浄土門を智情意の上に配当せば、無限性の情において阿弥陀仏の光明を感受することを説くが故に、これを情宗とす。

 以上、略して理論実際両宗の大意を講了せり。僅々八回の短時間にして仏教全体の大意を講ずるものなれば、詳細に論述することあたわず。かつ平生繁忙にして十分に講究を尽くすを得ざりしは、聴講諸君に対して余の深く謝するところなり。