【修正中】妖怪学 心理学部門

第一講 心象編


第一節    概論

余、 すでに妖怪を分かちて心理的、 物理的の二種となせば、 今ここに論ずるところは、 いわゆる心理的妖怪に属するものなり。  しかして、 予の「妖怪学購義」は、 心理学をもととして説明を与うるものなるがゆえに、 本部門は講義中最も眼目のあるところとす。 しかれども、  その主要なる理論は、「総論」中の説明編においてすでに講述したるをもっ て、 この部門においては直接に心性作用に関係あるもののみを述べ、「総論」の説明編と相参看して、 互いに発明せしめんと欲す。 しかして、 今これを分かちて四段とす。

第一は、 外界に対して現ずる心理上の妖怪にして、  おもに感覚、  知覚の上に現ずるものなり。  これを名付けて心象編という。 しかして、 そのいわゆる心象とは、 正式的心象にあらずして変式的心象に属するもの、 すなわち異状、 変態の心象なり。

第二は、 外界の関係をまたず、内界のみにて起こるところの精神作用にして、 すなわち夢想のごときこれなり。これを夢想編という。

第三は、 外物の人心に 憑 付して種々の変態を現ずる狐憑き、  犬神の類にして、 これを憑付編という。

第四は、 人為の媒介もしくはエ夫によりてきたすところの種々の現象、 すなわち催眠術、 降神術の類にして、これを心術編という。

この四者は、  みなその部類に応じて区別したるものにして、  その理由は、  精神そのものの作用によりて起こることを説明せんとす。 すべてかくのごとき心理上の変態、 異状は、 従来にありては、 外よりしてわれに及ぽすものと思惟したるも、 今日、 心理学の研究進歩するに及びて、 はじめて人心そのものの起こすところにほかならざるを知るに至れり。  そもそもこれら種々の現象は、 外よりきたらずして内より発するものとせば、  はなはだ不思議、  奇怪とするに足らざるがごとしといえども、  これ、 すなわち大いに不思議なるゆえんにして、 もし外より人心を左右するものありて変化を起こすとせば、 これを奇怪となすべきも、 いまだ不思議となすに足らず。 しかるに、 今その現象は、 人心そのものによりて起こるとせば、 これ、 大いに不思議なるものといわざるべからず。ゅえに、 予がこれより講述するところは、 心性そのものの不思議を開現するにあり。


   第二節    変式的心象論

変式的心象論は、 すでに「総論」説明編に詳述したるをもっ て、 今童ねていちいち説明するを要せず。 ただここに感覚、 知覚の上に生ずる変態、 異状について、 いささか二、 三の例を挙げ、 もってこれが説明を与えんとす。しかして、 これらの変態、 異状は、 すべて幻覚と名付くるものなれども、 余はこれを左の三つに分かつ。

外物を見るに、  その物の実相を多少変化して感覚するものにして、 例えば日月を見るに、 その昇るときは、  その中するときに比して大なるを感ずるがごときこれなり。  しかして、 その現象を名付けて、 これを変象という。  幻覚は、 外物の実相を多少変化して見るのみならず、  全く別物のごとく感ずるものにして、  例えば木片を見て魁魅と認め、 縄を見て蛇と認むるがごときこれなり。  その現象は、 これを幻象という。 妄此は、 全く外界の原因をまたず、  ひとり内界の想像あるいは精神作用によりて起こり、  物なきに物を見るがごとき類にして、  その現象は、 これを妄象という。  しかしてこの三者は、 もとより判然たる分界をその間に立つることあたわざるも、 大体においては左〔以下〕のごとく区別するを得べし。 すなわち、  変象はその原因全く外界にありて存し、 ただ相対比較その他種々の事情により、 吾人の感覚ために多少の変象を見るのみ。  幻象は外界と内界と相互の関係より起こるも、  その主なるところは内界の想像にありて、 少分の刺激を外界より受け、 ついに想像をもって実際に異なる現象を構成するに至る。  しかして、 妄党はその原因全く内界にありて、一つも外界の刺激をまたざるものなり。  かくのごとく大要これを区別し得べしといえども、  その実、  種類の異なるにあらず、 ただ度量の異なるによりて生ずるものと知るべし。



第三節     幻妄二覚の原因

変覚の起こるゆえんは「総論」説明編に説けるをもっ て、 ここにはひとり幻、 妄の二覚につきてその原因を述ぺんとす。 まず幻覚の起こるゆえんを述ぶれば、  その原因は内外両界にありとせざるべからず。  しかして、 その外界の原因は、 すなわち事物の影像の曖昧模糊たるときのごとき、 あるいは外界より与うるところの刺激の不十分なるか、 もしくは急劇に過ぐるの場合のごとき、 あるいは諸感覚同時に起こり、 複雑して分界の明らかならざるときのごとき、 あるいはその感ずるところのもの、 新奇にして過度に注意をひく ぺき場合のごときこれなり。その内界の原因は、 第一、 想像にして、 吾人は外物を感ずるや、 心内の想像これに加わりて外物を構造し、 もってその実相を誤ることあり。  第二は、 予期のため己の意をもってこれを迎え、 もってその実相を誤ることあり。第三は、  知力作用のそのよろしきを得ざるために判断の誤りを生ずるにより、 第四は、  恐怖の情により誤りて外物を認むるによる。 また、  みなもってその実相を誤るに至る。 これを要するに、 幻覚は平常健全の場合に多く見ざるところなるも、 以上列挙するがごとき原因によりて、 平時といえども間々これを見ることあり。  今、 表をもってこれを示せば左のごとし。

それ、  感覚も知覧もみな幻象を生ずるものにして、 心理上においてはともに直現的作用に属すれども、  知党は一部分は直現に、  一部分は再現にして、 心内の想像予期これに加わるがゆえに、  幻象を生ずること特に多し。

つぎに妄覚は、  幻覚の度を一層強くしたるものにして、 平生健全の場合には極めて少なく、 病気あるいは精神上に格段の変動ありたるときにおいて多く起こるものなり。  その平時にありては、 身心の大いに疲労したるとき、 あるいは悲哀、 恐怖によりて感情の上に変動を生じたるとき、 あるいは夢と'兄との際すなわち諮麻の問、 心思の洸惚たるとき、 あるいは毒薬の影評等のときにして、 病時にありては、 精神そのものの病体にかかりたるときはさらに論なく、 あるいは熱病にかかりたるとき、 あるいは各官一部分の病にかかりたるときにおいても、  種々の妄此を生ずることあり。 しかして、  妄覚は平時にありてはこれを感ずること極めて少なし。 しかれども、  厳正にこれをいえば、 平時と病時との区別を立つることははなはだ難しとす。  畢党、  度屈の強弱、 時間の長短をもっ て、わずかにこれを区別するあるのみ。  ゆえに、 その度弱くして、  かつ時間の短きは平時にして、 これに反すれば病時なり。  もとより平時にありても、  人によりては種々の妄象を見るものあり。

有名なる人につきてその例を挙ぐれば、  マルプランシュ氏は、 己をよぶところの神の音声を聞きたりといい、デカルト氏は、 不可見人ありて、 真理の研究を継続す ぺく命令する声を聞きたりといい、 ジョンソン氏は、  その母のおらざるに現にその声を聞きたりといい、  バイロン氏は、  怪物のきたり訪うを見たりといい、 ゲー  テ氏は、一日己と同じき影像の、 己に向かいてきたるを見たりといい、  サー ・ウォ ルター ・スコッ ト〔氏〕は、 故人パイロンの亡霊を見たりという。 また、  わが国においても、  法然上人は、 念仏を修めてしばしば弥陀、 観音、 勢至の三像を現見し、 天海僧正は、 末期に臨んで文殊の来現を見たるの類、 いちいち挙ぐるにいとまあらず。

かくのごとく平時にありても、 平常、己の注意しかつ信ずることあつきものは、 自然妄象となりて現るるなり。その病時にありて妄象を見ることは、 別に例を徴するをまたず。 要するに病時は、 その心象ことに判明となりて時間を持続するによりて起こるものにして、 あるいは発病の前に、 情欲上深く熱望するものありて一点に心を注ぎたること、 あるいは日々の職業、  習慣によりて得たる心象、 あるいは発病のとき格段なる出来事より生じたる心象等によるも、 畢尭、 精神作用の権衡を失い、 ある一種の心象に挑発せらるるにほかならず。 しかして、 妄象は視認のみこれあるにあらずして、 聴立にもあるなり。 この知党、 感立の幻妄につきては、 よろしく「総論」の説明編と対照すべし。



   第四節 幻妄の諸例

妄覚には、 感覚器において起こるものと、 中枢器において起こるものとの二種あり。 例えば耳官、 眼官の病症によりて起こすものは、 感党器の妄覚なるべく、  脳髄、 梢神の病症によりて起こすものは、 中枢器の妄党なるペし。 しかして、 その感覚器の上に生ずるものは妄覚と名付くぺきも、 中枢器の中に生じて夢境同様の妄象を感見するは、  これを妄笈といわんより、  むしろ幻想もしくは妄見の名を下すを適当なりとす。 しかれども、 妄象につきて内外を分かつことはなはだ難く、  かつ二者多く相混ずるをもって、  余は妄覚の名称の下にこの種を合して論ぜんとす。 しかして、  また幻覚も妄党も、 ただ妄象を見る度の強弱を異にするのみにて、 二者の間に画然たる分界なきものなれば、 今二者の例を合して挙示せんとす。 まずカー。ヘンター 氏の「心理書」によるに、 左の諸例を得たり。一婦人あり、一日ある街道を通過するに当たり、その心中にてしきりに飲泉のことを思いつづけたりしが、ふと路傍に新設せる泉あり。  かつ、  これに左のごとく銘記しあるをみたり。 すなわち「人若渇則来而飲之」(人もし渇せばきたりてこれを飲め)と。  その後、 これを建設したりと思わるる貴人の児女に右の事実を語りしに、 児女らは大いに驚き、 必ずその誤 謬 ならんことを確言したり。 ここにおいて婦人は大いに惑い、 さりとてその目撃したるところの誤りならんとは考うることあたわず。  すなわち、 再び該場に至りてこれを検せしに、 驚くぺし、  飲泉の形跡だもなく、 ただ数個の岩石は塊然として散見せるのみなりしという。 これ、予期の想像によりて、 右岩石を碁として飲泉を形成し、 しかのみならず、  その観念に相当せる銘記をも思い出だすに至りしものなり。ウォ ルター ・スコッ ト氏は、  ロー ド・ バイロンの没後いくばくもなくしてその言行録を読み、 大いにこれに感動せしが、 己の居室を立ちて客室に入らんとするや、 その正面に眉目相貌宛然として、 故友の形像直立するをみたり。  氏は暫時仔立して、  想倣力はかくまで精密に、 知友の相貌を肉眼上に印出するものなるかを注視せしが、もとよりその一幻象に過ぎざることを知れるをもっ て、ただそのはなはだ実形に 肖 似せることを驚けるのみ。 やがて進みて該形像に近接するや、  幻象漸々消滅して、 衣服、 飾具等をかけたる帷慈の存することあるのみ。  氏はまたさきの場所にかえり、 努めて右の幻象を再生せしめんとせしも、 ついにその効なかりき。  また、 もって意志の感覚上に及ぽす勢力は、 これを強盛なる心像すなわち観念の感立中枢に及ぼすものに比すれば、 はるかに微力なることを明らかにするに足るべし。

ドクトル・チュー  ク氏の記するところに日く、「西紀一八六六、  七年の冬、  英京ロンドンの水晶宮の火災にかかりしとき、 これに死せし動物多かりしが、  ひとりチンパンジー 猿のみはその檻中より脱することを得たりと信ぜられたり。  人々はこの希望をもっ て屋上を眺めしに、 果たしてこの不幸なる動物の火炎中に苦悶せることを発見し、  みな気息を殺してその状を凝視せり。 しかるに、  その猿と見えしは実は全く誤りにして、ただ窓戸の破片、 動物の身体四肢に類するものの、  婆娑として懸垂せるのみなりし」という。ドクトル・ヒッ パー ト氏の『怪物論    中に曰く、「一船あり、 航海中その 包  丁没せしが、 数日を経て船貝は、  海上の前程に当たり、 右包丁の幽證現出せることを認め、 非常に恐怖の念をいだけり。 しかるに、  船の漸々該物体に近づくに及びて、 これは難船の破片の浮漂せるものなることを発見せり」と。

以上は幻妄両覚の例なるも、 視覚上に現ずる妄象すなわち幻視、 妄視の例なるのみ。 これに準じて、 聴此、 嗅覚、 その他の諸覚にも、  みな幻象を有することあるを知るべし。  また、  運動筋党上に起こる妄覚あり、 あるいは一種の感覚によりて他種の幻覚を起こすことあり。  その例は西洋の心理学に関する雑誌中に往々見るところなるは、  先年これを訳して「哲学会雑誌』(第四冊)雑報に掲げしことあり。 左にその一部分を摘載すべし。

世人の最もよく認識せる幻想は、 けだし視覚、 聴覚の幻想なるべし。 あるいは客観的に存在せることなきものをみ、 あるいは音響の発するなきにこれを聴くがごときこれなり。 しかるに今、  一種の幻想にして、 すでに世人の注意をひくものあり、 なんぞや。  運動的幻想これなり。  これらの幻想に多様の種類あることは、言語に関係ある幻想を観察せば明了なるべし。  想像的の語は、 あるいはこれをみる人あり、 あるいはこれを聴く人あり、 また、 あるいはこれを運動として感ずる人あり。  かつて、 あらゆる幻想をうれえたる婦人ありしに、 この患者は、その意志に反し無理にも事をなし物をいうべしと命ずる、内界の声音を知覚せりという。しかるに、 この患者は当時一語を発せしにあらず、  ただその舌の運動によりて語の意味を知覚せしのみ。 その他、 視覚、 聴覚によるにあらず、 わずかに発声器の運動の感応により、  命令を受けし場合もまた少なかず。  また精神上、 他の欠点なくして上記の幻想を生ぜし    つの場合あり。  かくのごときは、  言語の運動的幻想の純粋なるものというべきか。  この幻想の起こるや、 その力に強弱ありて、 あるいは全く知党にとどまることあり、 あるいは発声器を少し動かすことあり。 あるいは語を話すべしと舌に伝令して、  これを止めんと欲してやむるあたわざることあり。 また、 あるいは患者自ら説話せりと思えども、  その実は一語だに発せざることあり。 この場合たる、  一部は聴党的幻想なれども、  一部は運動的幻想なりとす。 これ、 患者は説話に必要なる運動をなしおわれりと感ずるをもっ てなり。  説話は特に発達せるがゆえに、 説話の運動的幻想は非常に顕著なりといえども、 運動的幻想は決してこの種類に限り存するにあらず、 他の運動の境界に起こることもちろんなり。 睡眠中、 実際運動をなすことなきに、 往々倦労を感じ、 また種々複雑の運動をなせることを感ずるあり。  この原因もまた、 皮質中枢の刺激に帰すべし。  断崖絶壁に落下し、  もしくは飛行するを夢みるがごときは、痴 狂 患者に多く見るところにして、かの女巫および物に憑かれたりと称する者の空中を飛行すというも、  その源あるいはこれに発せんか。 この種の感覚に一つにして、 内部の系器の刺激より起こるところのものを切断の場合とす。 かの腕や脚を失いたる人が、なおこれを保持せるがごとき感応を抱くことは、世人のよく知るところなり。はなはだしきに至りては、数年前に手や腕を失いたる人にして、個々の指が別々に屈伸するやに感ずるもありて、  患者九十人中、 この感覚を訴えざる者はわずかに四人のみなりという。 右幻想は一部は知覚的なれども、 他に真の運動的幻想もあり。 ある患者のごときは、  その失いたる手が、  物を握り 子を写す等    運動を感じたり、 云云『ネイチアー  』雑誌の通信員は、  幻像と楽器の音響との連合につき、  おもしろき話を報じて曰く、「一女子あり、  オー ボエ(楽器の名)の音密を聴けば、 眼前にありありと白色の三角錐体、 または方尖体のとがれるところをみる。  この楽器の音鋭ければ、 そのとがれるところもまた鋭くなり、 音鈍ければ、 とがれるところ

もまた鈍くなる。  その音大なれば、 方尖体はいよいよ明晰に見え、  重実に見ゆ。  その音かすかなれば、  方尖体はいよいよ模糊となり霧散す。(中略)またホルン(楽器の名)の音を聴けば、  大小相順列したる白円形の、互いに連接線綿し去るをみる。 けだし、 円形および糸帯は水平に浮遊し去れども、  方尖体の尖端は自己の方に近づくをみる」といえり。  該記者はまた付言すらく、「この女子、  一生涯の間つねに音楽を聴きおりたれど も、  かくのごとくにして幻像を見るを気付きたるは、 わずかに五カ年間のことなり。  この五カ年問は幻像を見ること頻繁となり明晰となり、 また、  かねて熟知せる音曲を聴くときは、 実際音響を聴くよりも少し以前 に、 すでに幻像をみるの思いをなす。 しかして、 この幻低は該女子と奏楽者とのほとんど中央に浮かび出ず」という。

五官中の一官を刺激して他官の作用を増加し、 もしくはこれを創造せしむることは、  世の心理学者の是認するところにして、 明白なる事実なり。 ある音楽家は、  音楽を聴きて種々の幻像をみ、 またある人は、  数音を聴きていちいちこれに相応せる稲々の色をみることあり。  右は聴立を刺激して視立的の幻想を生ずる場合なるが、 わが難はその後、。ハリ刊行の書(む名これを略す)を見るに及びて、 聴覚を刺激して味党的の幻想を生ずる一例を得たり。 同書には著者の実験を述べて日   、「    日、 氏は机案によりて座したりしに、 階下において戸を閉ずるの声高らかに聞こえたり。 このとき氏はただちに、 その室の一隅に一種の香気あることを感ぜり。 のち二十四、 五分時も立ちたらんと思うころ、 窓下に馬車の靴々として走る評きを聴きしに、 このたびもまた以前と同様の香気を感じ、 馬車の堺き聞こ・をすなりしときは、  香気もまた消え失せたり」という。 以上の諸妄覚は、  さきに示したる内外両界の原因によりて起こりしことは疑うべからず。  わが国の歌にも「幽霊の正体見たり枯尾花」とあるも、 精神作用によりて幻妄を生ずるをいう。  また、  諺に「落武者は 芭の穂におずる」とあるは、 恐怖の情によりて妄象を生ずるをいう。 貝原〔好古〕の「  諺  草」にはその例を引きて日く、「晋の謝玄という人、 軍立して賊の兵のがれさり。  ほどへだたりて後、 八公山の草木のうごくを見て、 謝玄が軍兵追いきたるとて、  おそれしあり。  また日本にも、 平家の軍勢は水鳥の羽音に驚きて敗北せしなど、  みな諺の意のごとし」と。 また、  遠州七不思議の つなる「ざざんざの松」のごとき、  越後の「波題目」のごとき、 下総国香取郡大島の薬師堂に一日三回、  微妙の音楽を聞くと伝うるがごとき、 二十六夜に三聡仏現れ、 羽州月山の虚空にも三尊仏出ずるというがごときは、  みな予期意向によりて感此するものなるや明らかなり。  その他、 幻妄に関することは、 実に枚挙するにいとまあらず。



   第五節 妄想、 迷見、 謬論

前節の幻認、  妄覚は、 心理のいわゆる表現的および再現的にして、 現に感覚性の影像を見るものをいう。  ゆえに、 これを感覚もしくは影像の幻妄というべきも、 思想、 概念の幻妄というべからず。 これに対して概念、 断定、推理の幻妄あり。 これ、 実に思想の迷誤なり。  しかして、  想像、  構想の作用盛んにして思想もこれに制せられ、不合理の推理をもっ て正確なりと自知するがごときは、 通常、 これを妄想という。  すなわち、 不合理的想像を義とす。 あるいは妄理、 迷見と名付くるも可なり。 尋常の人にも、  多少の妄想を有せざるはなし。 肺患の人にして百年の寿を保たんことを期し、  車夫、 馬丁にして大臣、 顕官に進まんことを望み、 街頭の乞弓にして豪宮をいたさんことを願うがごときは、  みな妄想ならざるはなし。 しかして、 これを狂人とみなさざるは、  一方にかくのごとき妄想を有するも、 他にその目的の達し難きを自知する心ありて己を制し、 他人の前にみだりに発言せざるによる。 しかるに狂人に至りては、 自己そのものが妄想の中心となり、 他に己を制する心なきをもっ て、 他人の前をはばからず、 合理的の事柄なりと自ら信ずるなり。  かつ、  かくのごとき狂人にありては、 あるいは自ら一国の帝王なりと信ずれば、 帝王の挙動を装い、 帝王の語気をもって語り、 あるいは自ら神なりと信ずれば、  神の言行を装成するを常とす。 あるいは大金を濫費して不用の物品を購求し、 あるいはこれを他人に贈与してさらに惜しむことなし。 江口〔襄〕氏の『精神病学」にも、  妄想狂者の状態を示して曰く、「身は狂院にあるも、 自ら不幸の患者たるを知らず、  金殿玉楼に生息する感覚ありて揚々自得し、 あるいは終日孜々として木片、 石塊を集めて、  もって巨万の富をいたしたりと思惟し、 あるいはみだりに修飾を事とし、 檻襖をまとい白粉を塗抹して、 女王の位につきたりと自称するがごとし」と。  かくのごとき狂者にありては、  なにほど道理をもって説諭するも、 決して動かすべからず。  そのはなはだしきに至りては、 富士山のいただきに鉄道を架せんことを計画し、  太平洋に鉄橋を架設せんことを工夫し、  高塔を築きて天に昇らんことを企画して、  自ら実行し得るものと信じて、 姦も疑わざるなり。

 この不合理的想像のほかに、 思想そのものの迷誤あり。 すなわち、 概念、 断定、  推理の迷誤なり。 これ、  妄想にあらずして、  まさしく迷見、 妄理と名付くべきものなり。  今、 余は便宜のために、 左のごとく用語を一定して述べんとす。 すなわち、 実想、 構想の迷誤はこれを妄想と名付け、 概念、  断定の迷誤を迷見と名付け、 推理の迷

"誤を 謬 論と名付けて、 これより迷見、 謬論のことを説明すべし。 まず、 迷見の第一たる概念の迷誤は、 感覚上より得たる事実を抽象概括する作用に誤 謬 あるより生じ、 あるいは記憶再現の不明なるがために生ずるもの多し。かくのごとき場合においては_    つの事物と他の事物との間に混雑をきたし、 したがっ て論理の汎意を生じ、 これによりて思想そのものの作用を誤るに至るなり。  つぎに断定の誤謬は、 甲概念と乙概念とを結合する上において生ずる誤りにして、 原因結果の関係、 部分全体の関係を誤り、 事物と事物との結合を誤るものなり。 例えば、雪は黒きものなり、 石は言語を発するものなりの断定のごときこれなり。  つぎに謬論すなわち推理の迷誤は、  世俗のいわゆる妖怪の起こるゆえんにして、 予が妖怪は迷誤なりというは、  おもにこの種の迷誤より起こるものをいう。  しかして、 この迷誤は民間にしばしば見るところにして、 例えば、  彗星をみたる後に内乱あれば、 これをもって戦乱の前兆なりとし、 あるいは月輪中に模糊たる形影あるを認むれば、  ただちに想像して兎なりとし、 あるいは月夜に水晶球を用いて水滴を得れば、  これを月輪より得たりとなし、 あるいは電線の風に激して嗚孵するときは、 現に電信の通ずる音なりとなすがごとき、 雷鳴のときに雷獣の落ちきたるを見て、 これを雷の正体となすがごときこれなり。 また、 地震は 鯰の作用なりとは民間の信ずるところなるが、 説によれば、 まさに地震あらんとするや、  鯰は早くこれを前知して動き出だすものなりとの事実あるより、 これを地震の原因なりとは唱えしならんという。 その他、  世俗のいわゆる妖怪は、 推理の誤謬より生じたるものなることは、 ここにいちいち枚挙するにいとまあらず。 よろしく「総論」原因編を参見すべし。



   第六節    精神作用

以上講述したるところは、 心理作用中にておもに知力に関したる部分なれども、  ひとり知力のみならず、  感情および意志の上にも、 また一種奇怪なる作用を起こし、  知、 情、  意相合して種々の不可思議なる現象を呈するものなり。 よって今ここに、 一般の精神作用の影響につきて一言せんと欲す。

まず第一に、 精神相互の感動について述 ぺざるぺからず。  そもそも吾人の肉体の病症が相伝染することは、 なにびとも知れるところなるが、 これと同様に精神もまた他人に感染するものなり。 しかして、 その感染は、 多くは自然に知らず識らずの間の起こるものにして、 吾人の意力にてこれを抑えんとして制せられざるものあり。 例えば、 多人の集会せる場において、  一人あくびすればただちに伝染して他人も同一にあくびし、  一人笑うときは他も相伝えて笑い声を発し一人泣くときは他もこれに感じてなみだを含む。 あるいは一人ありて、 人々の熟知せる詩または歌を吟詠するときは、 他人もおのずから口中にてこれに唱和するに至り、 あるいは相撲好きのこの技をみるや、 自らこれをなすもののごとくに宵 力 を張るに至るものなり。 かくのごときは、 みな精神相互の感動を示せる卑近の事例なり。  つぎに、  人の気風、  性質も相感染するものにして、 例えば、 小児のとき常に婦人の社会と交わるときは、 婦人のごとき性に化し、 下等の社会に交わるときは、  おのずからその気風に変ずるがごときこれなり。 また、  人の芸能はよく他人を感化するものなり。  例えば、 一郷に一人の澳学者あれば、  その郷には同学を好む人々を輩出せしめ、  一人の碁客あるときは、 またこれをよくする人を生ずるに至る。  その他、 む画、  詩歌、 音曲等は、  みな一村一郷を感化する力あり。 これに準じて道徳の感化あり。  一郷に徳行家あれば、  その近傍はみなこれに風化せらるるものにして、 例えば中江藤樹は近江聖人と称せられ、  その一郷は今日に至るもなお、その徳を追慕してやまざるがごときこれなり。

以上述べたるところは精神の感動、  感化の例なるが、  みな知らず識らずの間に注意をまたずして起これるものなり。 これに反して、 注意意識により起こるところの籾神作用あり。  すなわち、 予期信仰のごときこれなり。  しかして、 その説明は「総論」の説明編に譲り、 今は注意意識に関する精神作用の諸例を挙げて示さんとす。 まず、精神の身体上に及ぼせる影響、 左のごとし。

余が知友に、  生来蛤魚を嫌忌せる人あり。  一日親戚のもとを訪いしに、 親戚の者は、 その果たして蛤魚を食することあたわざるやいなやを試みんと欲し、  鰻 と称してその実、 鯰魚の茶碗蒸しを晩餐に供したり。 よって当人は、 その言を信じて大いにこれを食せり。  かつ、 当人は生後いまだ一回も鰤魚を食せしことなくしてその味を知らざりしかば、 現に食せる鰻は通例のものとは少しくその味を異にするところありしも、 これは束京より持ちきたりしものなりとの由なれば、  おのずからこの地の鰻とは味を異にせるものならんと推想したりき。 すでに食事を終わるや、しばらくありて主人は客に向かいて曰く、「君は生来蛤魚を食せずというも、 これ全くいわれなし。  そのゆえんは、 先刻の食は鰻にあらずして鰯魚なればなり」と告げしに、 当人はたちまち気色を変じ腹痛を催し、 嘔吐、 煩悶することはなはだしかりしかば、  倉皇に医師を迎えて薬を給する等、  一家挙げて終夜看護に従事するがごとき騒 擾をひき起こしたることあり。生来船をいとうものは、 海を見るごとに嘔吐を催す。  そのはなはだしきものに至りては、  人の風波の日に乗船したるを聞くのみにて、 すでに船に酔うがごときありさまとなるという。 ある人、  一日路傍に犬の死してその臭気鼻をつき、 ために嘔吐したりしことあり。 その後数年を経て再び同所を通過せるに、 自然にその先年感ぜし臭気を想起し、 ためにまた嘔吐せりという。また、  英国の一地方に姉妹両人にて一家をなすものあり。

夜相離れず、 友俯はなはだ相親しむ。 すでにして妹肺病を患い、 療衰その効なくついに不帰の客となれり。  ときに人みな、  その姉の哀悼死に至らんことを恐れしに、  その顔を見るにさらに憂色あるを見ず。 しかるにその後二週を経て、  にわかに床上に死せるを見たり。  医師きたりてその体を験するに、  さらに死すべき病因あるを見ず。 これけだし、 妹と相離れ、  悲哀の惜にたえざるを、 努力してこれを忍び、  その梢うちに鬱積して、  ついに頓死をいたせしならん。こに心理学者のよく挙ぐる例あり。 ある人    一罪人に精神作用を試みんと欲し、 これに命じて曰く、「なんじは死罪に当たれり。 いま予、 なんじの身体より血液一斗を取り出だせば必ず死せん」と。  すなわち、 試みに右罪人の目をおおい、  その脚尖より血液を取り、 呼びて一升、  二升ないし一斗に至れば、 即時に絶息せり。  しかも、  その実はさらに血液を取らずして、 ただ口頭にて升最を数えしのみなりしという。 また、 ある母親は、 己が小児の手を門扉にはさみて厳しく叫号せるをみ、 母自身もその子と同一の部において痛揚を感じたり。また、 ある人の話に、  生来毛虫嫌いの人の裸体たりしとき、 その背に粟の穂を触れて「これ毛虫なり」と鶯よう 告げしに、 当人は大いに驚 惧せしが、 後にその部分は服起して、 あたかも毛虫の害を受けたるもののごとくなれりという。

つぎに、精神作用の筋肉運動上に及ぼせる影秤を挙ぐれば、 戦場および失火の節、平時に数倍せる筋力を発し、平時に動かすべからざる物品を自由に運搬し得るを見て知るべし。 発狂人の暴飲暴食してさらに飽くことなく、非常の筋力を発して人を驚かすがごときは、 また人の知るところなり。  余が聞くところによるに、 先年、 陸軍の兵卒中に発狂したるものありて、 庭前の敷石を動かしてこれを他に移せり。 後にその石を本位に復するに、  八人の力を要したりという。 今、 西洋の心理書に出でたる例を引くに、カー  ペンター  氏の記するところによれば、 頑齢に及びて老衰せる一料理婦あり。  かつて失火の暫報を聞くや、  ただちにその全資産を蔵せし巨函を取りて、  階段を走り降りること、 あたかも生平食器を携えて昇降するに異ならざりき。 すでにして鎖火に保したる後これを試むるに、  わずかにあぐることだもあたわず。  しかして、 再びこれを階上に運搬するに当たりては、  実に壮夫二人の手を要せしという。  これ、  人は非常なる梢緒に激せられて、  その全力をある神経筋の動作に凝集するときは、 よく人間以上の勢力を現すものなることを証すべし。

ドクトル・プルー スター 氏は、 その著「自然的炭術」中に記して曰く、「四人の力をもっ て一個の大人を地上より高く狂起するにあたり、 もしこれをあぐる人々も、 また被挙者も、 まさに宵 力 を奮わんとするにさきだち、 一斉に満腔の気息を吸入するときは、 その軽きこと鴻毛のごとくなるべし」と。 しかるに、  カー ペンター 氏の一知友はこれを見ていえらく、「    挙者にして十分に気息を吸入せば、その神経筋力を増加することの効あらんとは、 容易に解すべきことなれども、 被挙者の同一作用がいかにしてかかる効力を有するやは、到底理解し難きことなり」と。  これより、 多くの観察研究を積み、  ついにこの方法の利は、  左の二条件を遂ぐるにあることを推断せり。 すなわち第一は、 右の努力に注意力を凝集すること、  第二は、 該方法の必成を自信することなりとす。

その他、 精神作用の、 健全、 疾病、 感覚、 現象、  および一身一家の吉凶、  禍福等に関係を有すること、  いちいち挙示するにいとまあらず。  御札 マジナイの効験あるもこの理なり。 けだし、 精神作用はよく健全なるものをして病者とならしめ、軽症の病をして重症とならしめ、あるいは難治の病者をしてたちまちに快癒に向かわしめ、疲労もこれを感ぜざることあり、 不幸もこれによりて免るることあり、 無一物のところに一物を見、 絶えて音声なきところに音声を聞くことあり。 実に精神の奇々妙々不可思議なることを知るべし。

インドの某州に    つの奇法あり。罪人を審判するに、その形跡の疑わしきものをことごとく法庭に召集し、官吏威厳を示してその前に立ち、 壮言大語これに告ぐるに、 罪あれば罰必ず従うの理をもってし、  すなわちこれに食を与えてその哺を験し、 中に涎液を含むこと多きものはこれを放免し、 その少なきものと全くなきものとを拘留し、 後これを推靭するに、 たいてい本犯を失わずという。  すなわちこれ、 心中恐れあるときに身体その消化力をとどめて、  またいかんともすることなきによるのみ。  そのインド人のつとにこの理を知れる、 また奇というべし。(「学芸志林』より抜粋)

余、 先年富士山に登りて、  山上にて人の物品を窃取するときは、  必ず山に酔いて精神を失い、 あるいはつまずきて身体を傷つくるがごとき、  たちまち応報あれば、 だれも恐れてさることをなさずと聞けり。  これ、籾神の作用なること問わずして知るべし。  信州善光寺の「胎内くぐり」と名付くる暗所に入れば、 平常罪悪を犯したるものは、 恐るべき幻像を見ることあるも同一理あり。 また、 余が伊予に遊び今治町に至りしとき聞けるに、 その町に吹揚神社あり、 この社内に漬け物石ほどの重塁ある石塊あり。  人もしこれを取りて家に帰らば、 必ず腹痛を催すという。 下総の八幡村に八幡の森と名付くる森林あり。 これを八幡知らずの森と称して、  世間ことごとく知るところなるが、  その森に入りたるものは、 たちまち迷っ て出ずる道を失うというも、 もとより精神作用なること明らかなり。 また、 東京近在に池袋と名付くる村あり。  その村の神は、 氏子の減ずるを恐れて、 婦人の他村に嫁することをいとうがゆえに、 もしその村の婦人をめとるときは必ずその家に奇変ありというも、  精神より招ききたすにほかならず。 また、 越後に逃入村(魚沼郡小千谷在)の不思議と名付くるものあり。『北越雪譜」二編に日く、「この村に大塚、 小塚とよびて、 大小二つの古墳ならびあり。  所の伝えに、  大なるを時平の塚とし、 小なるを時平の夫人の塚という。 時平大臣夫婦の塚、 この地にあるべき由縁なきことは論に及ばざる俗説なり。しかれどもここに    つの不思議あり。(中略)その不思議というは、 昔よりこの逃入村の人、 手習いをすれば、 天満宮の 祟 ありとて、 一村の人みな無筆なり。 他郷に身を寄せて手習いすれば祟なし。  しかれども、  村にかえれば日を追って字を忘れ、  ついには無筆となる、 云云」とあり。 これもとより籾神作用なり。「怪談諸国諏」第三巻に日く、「ある所に荒廃せる神社あり。 ータ暴風雨に倒れしかば、 土人その材を携えきたりて洗足湯を温めしに、 その人はその夜より発狂して、 われは鎮西八郎為朝なりといえり。  よって、 大いに恐怖して右の神社を再建せしに、 狂人は快復することを得たり」という。  また同害第二巻に曰く、「ある大罪ある人、高野山にて大師の御 廟 に詣でんとして橋を渡らんとなしたるに、あたかもここに大蛇の口を張り舌を吐きて待てるをみ、すなわち 棟 然としてさきの罪悪を懺悔せしに、大蛇は忽然として柳樹に変じたり」という。 これも精神作用なること言をまたず。もし、  精神作用と一身一家の幸不幸、  運不運との関係を示さば、人の家に主人短命のこと、 数代相続きて起こるときは、 後世、 子孫に至るまで大抵その例を継ぐものなり

これ、一つは父祖の造伝によるも、一つは自らこれを記憶するより、 粕神をもっ てこの不幸を迎うることあるによるべし。  鬼神に対して一家の無事を祈り、 祖先に向かっ て一身の冥護を仰ぎて、 よくその効験あるがごときも、 精神自らなすところにあらざるはなし。 蓮門教会が一杯の水をもって人の諸病を治し、 有馬の水天宮が一片の御札をもって諸患を除くがごとき、 キリストのよく廃疾不具をいやし、 加持祈祗のよく禍害を去るを得るは、  みな精神の力にあらざるはなし。  伯州の山間に四方寺と称する寺あり。 人もしこの寺より資金を借りて商業を営むときは、 必ず大いなる福利あり。 しかして返済のときには、 元金の二倍を納むるを常規とす。 けだしその福利あるも、 これを信ずるの精神によることは問わずして明らかなり。

以上はみな、 余は断言して精神作用となす。 これを要するに、 粕神作用はすこぶる霊々妙々にして、  今日吾人が妖怪と認むるものの十中八九は、 けだしこの作用より起こりしものならんと信ず。 しかして、 その精神作用は心理学の説明を要するものなれば、 その作用のいかなる効力を有し、 いかなる影響を与うるやは、 余が以下数講において述ぶるところを見るべし。



第二講 夢想編

   第七節    夢の古説

およそ精神作用は、 外界に関するものと、 内界に関するものとの二種に大別することを得。  今この編は、 内界に起こるもののうち、 ことに夢想に関するものを集め論究するものなり。  そもそも夢なるものは、  人心の少しく発達するときはただちに現るるものにして、 すでに進化学者は、  人類中最劣等の野蛮人はいうにおよばず、 また動物中犬、 烏等にもこれありとなす。 しかして、 吾人が日常この現象に親しく接することは、 なにびとも熟知するところなり。  それ、 夢の現るる範囲の広闊なることかくのごとしといえども、 しかも、 そのなにものたるやに至りては、 古代にありて、 よくその理を知れる人なし。 しかれども、  人知ようやく進み学問の開くるに従い、 学者は種々の説を立てて解釈を試むるに至れり。 今、 これを夢想の説明となして、 以下に述ぶるところあらんとす。わが国にては、  古代より夢の談、 古書に散見せり。  シナにては、  黄帝の華舒に遊びたりと伝うることは、  人々の知れるところなり。 もとよりシナは古代にありて、  その理を知りしものにはあらざれども、  夢をもって大切なりと    なし    ひとり学者が夢の上に解釈を与えしのみならず、  またこれを判定すべき占夢の官を置けり。  今、  シナ学者の解釈を挙ぐれば、

『荘子」  に曰く、「夢者陽気之籾也、 心所ーー喜怒ー則梢気従>之。」(夢は陽気の精なり。 心喜怒に所す、 すなわち精気これに従う)

「夢書」に日く、「夢者像也、 魂愧離>身、 神来往也、 陰陽感、 成二吉凶験祐也。」(夢は像なり。 魂愧身を離れ、神ゆきかうなり。 陰賜を感ず。  吉凶験成るなり)

「張子正蒙」に曰く、「夢形閉而気導ーー干内一 云云。」

(夢形閉じ、 気内にもっぱら、 云云)また「周礼」に、  夢を六種に分かち、 占夢の官を置けることあり。 

すなわち「_以一日月星晨一 占二六夢之吉凶一二止夢、 二匝夢、 三思夢、 四廂夢、 五喜夢、 六燿夢。」(日月星晨をもっ て、 六夢の吉凶を占う。 一正夢、 二厘夢、三思夢、  四痛夢、 五喜夢、 六憫夢)なり。

一正夢者、 謂  内心無>所ーー感動一而自形ぶ於夢  也、 二厘夢者、 謂』因ーー内心有品か一驚愕而形ぶ於夢ゎ也、 三思夢者、  謂』因  内心有品所二思惟一而形中於夢比也、 四痛夢者、 謂下因ー昼有品び見、 夜則形ぶ盆也、 五喜夢者、 即下因困  心有品所  欣蔓    而形申於夢ぉ也、 六燿夢者、 謂』因ー内心有品竺怖憚而形ぶ於夢上也。」

(一に正夢は、  内心感動するところなくして自ら夢にあらわるるをいうなり。 二に賑夢は、  内心驚愕するところあるによって夢にあらわるるをいうなり。 三に思夢とは、 内心思惟するところあるによって夢にあらわるるをいうなり。  四に審夢は、  昼見るところあるによっ て夜すなわち夢にあらわるるをいうなり。  五に喜夢は、 内心欣喜するところあるによって夢にあらわるるをいうなり。  六に憫夢は、 内心怖佃するところあるによっ て夢にあらわるるをいうなり)

また「周礼に、「太卜掌一三夢之_法」(太卜三夢の法をつかさどる)とあり。  すなわち「一曰致夢、 二日鱗夢、三曰咸捗、 致夢謂ーー喜悦而有"夢、 騎夢__謂  奇怪之夢{  咸防__謂  無心所>感之夢  」

(一に曰く、 致夢、 二に曰く船夢、三に日< 竺叫。 致夢は喜悦して夢あるをいい、  騎夢は奇怪の夢をいい、  咸捗は無心感ずるところの夢をいう)なり。 あるいは一布に現夢、 虚夢、  霊夢、 心夢の四種となし、 あるいはまた霊夢、  実夢、 心夢、 虚夢、 雑夢の五種となすことあるも、  みな大同小異なり。

その他、  夢の解釈に至りては伯紀「文紗夢志    の編中に曰く、「或以>己而把ダ他人一 或以祉四人一而夢>己、 今日之所>夢異日之所>行、 皆一心法、 更無ーー他物一   立有ーー前後問断、 分際差別面耶。」(あるいは己をもって他人を夢み、あるいは他人をもっ て己を夢む。 今日の夢むるところ、 異日の行うところ、  みな一心の法、  さらに他物なし。 あに前後間断し、 分際差別あらんや)これ、 夢は一心中より発する作用にほかならざるの意義なり。 また「羅山文集   の「夢帝資二良_弼  」(夢帝 良 弼にたまう)論中、 夢の解釈に曰く、「夫人心感則動、  動而為>夢、  昼之所>為者、夜之所>夢也。」(それ人心感ずればすなわち動く。 動きて夢となる。  昼のなすところは、 夜の夢むるところなり)これ、 夢は人心の感動によりて起こるとの説なり。 その他、『茉 燭 或問珍」「消閑雑記」および「百物語評判」中に夢の解釈あり。 左のごとし。

『乗燭或問珍』に日く、「夢というものは、  みなこれ臓腋の虚弱と知るべし。『周礼』に正夢、  謳夢、 窟夢、喜夢、 燿夢とて、 夢に品科あることをいえり。  およそ人の夢というものは、 気より夢見るあり、 また臓より夢見ることあり。  気より夢見るというは、 人眠らざるときは、 形開けて志ほかにまじわり出ずるなり。 眠るときは、 形閉じてその気内にもっぱらなり。  たとえば昼眠らざるときは、 山水を見れば志開けてその気山水に交わるなり。 眠るときはその見たるところの形閉じ、 山水に交わりたる気内心に帰りもっぱらなるとき、昼見たること、 あるいは問きたることを夢に見るなり。  殷の武丁の常に良弼の臣を得んことをおもいたまゆえに、 夢によりて偲説を得たまえり。文宜王も道の衰えるに及んでは、 夢にだも周公を見ずとのたまえり」

曰く、「さて夢というものこそ、  さまざまのようには ぺれ。  まず人の寝入りたるときは、五臓六腑のつかさどる所々、 いずれもその態やむといえど、 本心の主人はねいらず、 ゆえに思うところのことあれば、 起きたる後おもい出だして、 これを夢というなり。 さて、 その夢にさまざまのかわりあり。 たとえば、 心の火店したる人は水を夢み、 腎の水虚したる人は火を夢みなどするを 病夢という。 また、 そのかたちのふるることに付いて見ることあり。 足を重ねて横に臥したるとき、 その足うえより落つれば、  かならず高き所より落ちたると思うことあり。  これまた病夢の類なるべし。 また、 心に富貴を願えば富貢をゆめみ、苦労を思えば苦労を夢み、  そのおもうところによってそのことを見るは思夢という。 孔子のいわゆる「夢にだに周公を見ず」と仰せられしもこの類なり。 また瑞夢というは、 丁固が松の夢、 王 溶が三刀の夢の類、 よきことあらんとては、  必ず前よりその気の相感じて見る夢をいうなり。  かの「詩経」にとける夢あわせのごとく、 蛇を見れば女子生まれ、 弓を見れば男子生まるる類、 もしくはここもとにていえる「一宮士二鷹」の類なり。  また、 あしき夢の見えて必ずその難のきたるも、 その理またかくのごとし。  人の心は神明に通ずるものなれば、 自然とその善悪を前よりさとるなるべし。  されども、 起きいてことにふれ人に交わるときは、他念おおきゆえにそのことなけれども、 寝入りたるときは、  かえって心の働きももっ ばらなるべし。 また、瑞夢にも思夢にも病夢にもあらず〔 候 い〕て、兵庫の湊より天竺の風景を詠め、車に乗りながら鼠穴を通るなどとみるは、 これ実の夢にして、 はかなきことなる ぺしと評せられき」

『消閑雑記」に曰く、「夢は呂東莱が「左伝    の「博議」に日く、「形神接而夢者、  世謂一之想一_ 束莱読内記一体盈虚消息、 通  於天地一 応二於物類故陰気壮則夢>渉斗ハ水恐憫、  陽気壮則夢血空大火一 燿柄、 陰腸同壮則夢一江生殺一 甚飽則夢>施、  甚飢則夢>取、 是以二浮_虚  為>病者夢レ揚、 以 汁沈実込為>病者夢油溺、 藉五帯而寝則夢>蛇、 飛烏卿>髪則夢>飛。』(形神接して夢むるもの、  世これを思いという。「東莱読宙記』に曰く、「一体の盈虚消息、 天地に通じ、 物類に応ず。 ゆえに、 陀気壮なればすなわち大水にわたるを夢みて 恐 憫し、 賜気壮なればすなわち大火にわたるを夢みて婚灼す。 陰陽同じく壮なればすなわち生殺を夢み、  はなはだ飽けばすなわち施しを夢み、 はなはだ飢ゆればすなわち取るを夢む。 これ浮虚をもっ て病となす者は揚がることを夢み、 沈実をもっ て病となす者はおぼるることを夢み、  帯をしきて寝ぬればすなわち蛇を夢み、 飛鳥髪をふくめば、 すなわち飛ぶことを夢む」)この論、 古今の定論なり。 また、 高宋、 俯説という賢人をゆめみ、 孔子、 周公旦を夢みたまうこと、  これまた大体の人信じがたきところなり。  されども実理なり。 千竪一心はじめより隔てなし。 心に霊賢をしたうこと、 実に徹すれば、 古人も自然に夢中に現ず。 たとえば、 万頃のすめる水に遠山の影を見るがごとし。「遠山不>来、  澄酒不>去。にあいあう。 これまたうたがわれず」遠山きたらず、  澄 淵去らず) 二つのもの隈面

また同書に曰く、「『楊雄曰、 人心其神芙、 人之有レ夢也、 蓋亦誠之形、 而心之神也、 今夫入征密人之室一 而其心偕焉、 則或聞二粛々之声一 見二岡象之形一 何也、 心之動也。 楊雄曰く、「人心はそれ神なり。 人の夢あるや、  けだしまた誠のあらわれて心の神なるなり。  今それ、  人なきの室に入りてその心おそるれば、 すなわちあるいは粛々の声を聞きて、 岡 象 の形を見るはなんぞや。 心の動けぱなり」)黄山谷、 詩に、「病人多夢>医、囚人多夢>赦。」(病人は多く医を夢み、 囚人は多くゆるさるることを夢む)また「大恵語録」曰く、「聖人無レ夢」(聖人に夢なし)この無の一字は、 有無の無にあらず。  世みなはじめより終わり、 あしたよりゆうべるのうち、 夜の間、 なにごとか夢ならぬと観念したる上、  別に夢というべき夢なしと悟りたるところなり。実朝の夢、 なにの夢にかしらず。 まなぶものしりてんかし」

つぎに、 仏教の夢につきての解釈を挙げんに、  仏教にては夢を分かちて四とす。  一には無 明、 習気より生じ、二には善悪、 先徴より生じ、 三には四大、 偏増より生じ、 四には巡遊、 旧識より生ずるものなり。 その文に曰く、ー謂由ー無明煩悩、 栢習之気分、 投祓  真如之性一 無知り明了以>致ー一心神顛倒一 形二於夢想一也、二謂人凡有晉  悪吉凶之蔓   必先形於夢麻一以為一徴験一也、謂人由二地水火風四大一而成ーー於身二若地大増身則沈重、水大増身則浮腫、 火大増身則淋熱、 風大増身則急脹、 四大不>調則身心不>安、 心不>安則形二於夢媒一也、 四謂人平昔遊歴之虚、  或有  所見所聞一 若美若悪繋>念不五捨而形二於夢一也。

(一にいわく、「無明煩悩積習の気分、 真如の性を覆蔽するにより、 明了するところなく、 心神の転倒をいたすをもって夢想にあらわるるなり」二にいわく、「人およそ善悪、吉凶のことあれば、 必ずまず夢隊にあらわれて、 もっ て徴験となすなり」三にいわく、「人は地水火風の四大によりて身をなす。 もし地、 大増せば身すなわち沈頂し、 水、 大増せば身すなわち浮腫し、 火、 大増せば身すなわち林 熱し、 風、 大増せば身すなわち急脹す。  四大調わざればすなわち身心安からず、 心安んぜざればすなわち夢痣にあらわるるなり」四にいわく、「人、 平昔遊歴の虚、 あるいは所見所聞あり。 もしくは美、 もしくは悪、 念にかけて捨てざれば夢にあらわるるなり」)

また一書には、 ーに四大不和、 二には先見、 三には天人、 四には想をもって四夢となす。  その解釈に曰く、一謂或夢ーー山崩一 或夢.ー自身飛ーー騰虚空一 或夢訟四狼及賊追逐一 此_因ー地水火風四大不>調心神散逸{  故__有  此夢是名二四大不和夢二謂日間先見一車男女苦楽等境夜則随夢、 猶如ー一日間所見是名一正先見夢三謂若人修>善、 乃酔  天人一 為現二善変    令ーー其善根増長ー  若人作>悪、  亦感二天人一為__現  悪夢一 令ーー其怖レ悪生"善、 是名ニ天人夢四謂若人前世或有二福徳一 或有華井障{  有ーー福徳  者、  多思和`心善事ー則現二善夢一 有ーー罪障一者、 多思二想悪事ー則現二悪夢{  是名二想夢

(一にいわく、「あるいは山の崩るるを夢み、 あるいは自身虚空に飛騰するを夢み、 あるいは虎狼および賊に追逐せらるるを夢む。 これ地水火風の四大調わず心神散逸するによる。 ゆえにこの夢あり。 これを四大不和の夢と名づく」二にいわく、「日間、 まず男女、 苦楽等の境を見て、 夜はすなわちしたがって夢むること、 なお日間の所見のごとし。 これを先見夢と名づく」三にいわく、「もし人、 苫を修すれば、 すなわち天人を感じてために善夢を現じ、 それをして善根増長せしむ。 もし人、 悪をなせば、  また天人を感じてために悪夢を現じ、 それをして悪をおそれ善を生ぜしむ。 これを天人夢と名づく」四にいわく、「もし人、 前世にあるいは福徳あり、 あるいは罪障あり。 福徳あるものは、 多く善事を思想すればすなわち善夢を現じ、 罪即あるものは、多く悪事を思想すればすなわち悪夢を現ず。  これを想夢と名づく」)

以上、 儒教および仏教の解釈は、 五行あるいは四大の事情によりて起こるとなし、 あるいは気の感応をもっ て説明せるものにして、 これをもって、  かの野蛮人が夢と現在とを一視混同したる妄想に比すれば、  はるかに進歩せる解釈なりという ぺし。 しかりといえども、 これらの説明はみな実験上より帰納的に論じたるものにはあらずして、 むしろ演繹的の一方に偏するものなり。 ゆえに、  その実験上の解釈は、  これを西洋今日の学説にまたざるペからず。


 第八節    西洋の夢説

すでに東洋諸国の所説を述べたれば、 これより西洋の心理学において説くところの夢の解釈を挙げんに、 まず夢には常夢と変夢との二種あることを知らざる ぺからず。 常夢とは、 吾人の通常夢みるところなり。 変夢は分かちて奇夢と霊夢との二つとす。  奇夢とは例えば、 あるいは夢中に詩歌を作り、  あるいは醒起の間には到底なすことあたわざることをよく夢中になすをいい、  霊夢とは夢中に神告、 神感等のあるがごときものこれなり。 これらはともに、 神奇盤妙にして尋常にあらざれば変夢とは称するなり。  されども、  右の常夢および変夢の二つは、  ともに吾人の脳髄中に現ずる心内の想像にほかならざるがゆえに、 これを総じて夢想というべし。 しかして、  この心内のものに対し、 行為、 挙動に発するものは、 これに夢行、 夜行、 唾遊等の名目を付す。 余は今この編において、 これを眠行と称すべし。  かくのごとく内外の別により夢想、 眠行と称し、 眠行は通常夢の部分に属せざれども、  その理に至りては二者同一なれば、 ここには合一して説明せんとす。

そもそも西洋諸国にありても、 現今は夢という現象の解釈大いに明白となりたれども、 さかのぼりて古代に至れば、 夢につきて種々奇怪の妄説を付会したりしことは、 東洋諸国と異なれるところなし。  かの蛮民が夢について与えし解釈は、  すでにスペンサー 氏も「社会学」の「宗教進化編」中につまびらかに論究せり。 氏の引証するところの事例によれば、 野蛮人は夢時と現時とを同一にみなし、  夢中に江河山川を践 渉 せしことを見るときは、実際ここに至りしものと信じたること明らかなり。  されども、  かくのごとき想橡はただにアフリカ、  アメリカ等の蛮人中に行われしのみならず、 ギリシア人、  ヘプライ人等もまた同一の想倣をいだきしなり。  今その例証のごときは、  スペンサー 氏の「社会学』に挙げてつまびらかなれば、  これを参見すべし。 また、 ルポックの「文明起源論」わしめ、 もって夢中の出来事を実行せりという。  また、 サレー 氏もその「幻妄論に、  夢想の説明を下して、 最初、 野蛮人は夢想世界と現実世界と同一なりと信じ、 一身重我説を唱えたりしが、 そののち人知ようやく進みて、夢税は天神の人の精神の上に顕示する一種の控遇とし、 これによりて吉凶、 善悪を判定す ぺしと信ずるに至れることを示せり。 しかるに、 西洋にて道理上、  夢の説明を試みたる第一祖は、 けだし、  ギリシア、  アテネ府のアンフィクテュオンその人なりという。  氏は西紀元前一四九七年ごろの人なれば、 もって西洋にてもすこぶる古代よりこれを考究せしことを見るべし。  くだりてアリストテレス氏が、 夢につきて解釈せしものによれば、  氏は「夢は外界の刺激により生起したる内部の運動の、 中枢器に達したるものによりてあらわるるものなるがゆえに、 夢はある場合においては、吾人の醒時に党知せざりし事柄をも夢中において示すことを得」といえり。この説明は、現今の学説にはなはだ近きものというべし。  しかして、 さらに進み学説上より夢の道理を知らんと欲せば、 まず睡眠そのもののよりて起こるゆえんを究めざるべからざるなり。


   第九節    睡眠の原因

睡眠の説明は、 原因、 事情および状態の三段に分かちて述ぶぺし。 まず睡眠の原因より講ぜんに、 そもそも睡眠の起こるに二様の別あり。 第一は自然に起こるもの、 すなわち定時の睡眠にして、 夜分一定の時に眠りにつくがごときこれなり。 第二は臨時の睡眠にして、  これは他の事情より不時に起こるものなり。 例えば、 過度に心身を労働せしめし、 眠時を催すがごときの類なり。 以下、 順次にこれを述べん。

(第定時の睡眠を生ずるゆえんを説かんに、  およそ事物は一定時の間使用せば、 また一定時の間休息せざる ぺからざることは普通の原則なるべし。  例えば、  機械のごときも、 ある時の間使用せば必ずこれを休止し、 あるいは油を注ぎ、 あるいは修稽を加えざるべからず。  かくのごとくなすときは長時の使用にたうべく、 しからずして不断これを運転せば、 たちまち摩損減耗し、 また所用にたえざるに至る。 これ実にみやすき理なり。 これと同じく、  人間も一定の時間労働せば、 また一定時の休息なかるべからず。 そは、  人身はこれを労すること一定の時間に達すれば必ず疲労を党え、  この疲労を復せんには一定の休息をなし、 その間に栄喪を得ざるべからず。 これなお、 器械の摩損せる部分に修繕を加うるがごとし。 しかして、 このことは吾人の身謳、 四肢を問わずみな同一にして、 例えば手足のごときも同じく休息を取りて働くものにして、 決して永く使用すべからず。 腸胃のごときもまたしかり。  一昼夜絶えず働くことあたわざるがゆえに、 吾人の食時は、  三回の度を限れるなり。  もし、 しからずして常にこれを労せば、 必ずその部に疾病を起こす ぺし。 しかるに、  ひとり心臓、 肺臓に至りては、 日々夜々畜も間断なく作用するものにして、 もし、 これを休息せばたちまちわが生命を失うべし。 しからば、 この二つの機能は全く例外にして、 右の規則以外にあるもののごとしといえども、 つらつらこれを考うるに決してしからず、 同じく一定の休息をなすものなり。

今、  その方法をみるに、 心臓、 肺臓は他の機関のごとく一定時の動作をなし、  一定時の休息をなすものにはあらずして、  一刻一秒の間にあるいは働きあるいは休み、 もって少分ずつの休息をなすものなり。 すなわち、 肺臓につきていわば、一呼一吸の問に一回の休息をなすものにして、吸気と呼気との間には休息なく相連続すれども、呼気と吸気との間に休息あり。 その順序は一吸一呼して、 ここに一休し、 それより一吸一呼することとなるなり。

かくのごとくにして、  一昼夜間には平均八時間を休息する割合なりという。  つぎに心臓の方はいかんというに、これもまた一伸一縮の間に休息を取るものにして、 一縮一仲の間には休息なし。 ゆえに、 その順序は一縮    一伸、一休、  一縮となるなり。  しかして、 これを二十四時問中に合算するときは、 六時間内外の休息なりという。 これによりてみれば、 吾人人間の有機体は、  一昼夜に六ないし八時間の休息を要すること明白なり。  されば、 吾人精神の最高機関たる脳髄もまた、 六、  七時間の眠息を要するや必せり。 ただ脳髄は心臓および肺臓のごとく、  一亥一秒の間に休息することあたわざるのみ。 もし、  しからずして時々刻々の休息をなさば、 たちまち思想の連絡を失するに至る ぺし。 例えば、 他人より吾人にイロハを読み聞かしめたりとなさんに、  もし脳髄にして一秒ごとに休むものと仮定せば、  イを聞きて口を聞かず、 ハを聞きて二を聞かざる場合を生ずべし。  かくては思想の連絡を失するはいうに及ばず    ついになにごとをも得て領会することあたわざるぺし。  これ、 脳髄の自然に昼間は不断労働し、 夜分には一定時の休息、  すなわち睡眠をなすゆえんなり。

(第二)  臨時の睡眠の起こる原因を述 ぺんに、 これを説明せんとせば、 第一に生理上より睡眠そのものの起こる原因につき論究すべき点あれば、 まずこれを講ずぺし。

いわゆる生理上の説明とはなんぞや。  けだし睡眠の起こるは、  脳髄に循現する血液大いに減少して、 ために脳髄作用の減ずるによるといえる説これなり。  換言すれば、 脳髄中の血行の減少をもって睡眠の原因となすことこれなり。 その証左は、  睡眠のときに脳中の血行を探るときは必ず緩慢にして、  かつ脳中に循蹂する血籠の減少せるをもって明らかなりとす。 しかるに、 ここに論者あり、 右に反していわん、「血行の減ずるは結果にして原因にあらず。 すなわち、 睡眠の際は精神作用すなわち意識作用の休息するときなれば、 したがって脳中に血液の行くことを減ずるものなり。  ゆえに、 その休息こそかえっ て其の原因にして、 血行の減少のごときはその結果なり」と。  今この二点につきて推考するに、 予をもっ てみれば、 決して血行のみを原因とすべからず。  また、 精神作用のみをも原因とはなすべからず。 けだし、 吾人の精神作用を呈するときは血行多く、  しからざれば少なし。 ゆえに、  精神そのものは原因たることもとより明らかなり。  しかもまた脳中に循現する血液を減じて、 これを他部に向け多兄に送るときは、  必ずや精神作用を減ずべければ、 二者はともにあるいは原因となり、 あるいは結果となりて互いに先後、 表裏の閲係をなし、 決して一方にのみ原因あるいは結果を廂すべからざるなり。  かつそれ、 すでに説けるがごとく定時の睡眠のごときは、  脳髄そのものの性質として休息せざるべからざるものなれば、  必ずしも血行の事情いかんに関せずといえども、 しかも脳髄中の充血、 あるいは血液中に含有せるある物質によりて脳髄を刺激するときは睡眠を妨げ、 これに反して脳中の血液を身体外部に流出せしむるときは、 睡眠を催す。  ゆえに、 血行もまたその原因の    つなりといわざるべからず。

以上、  生理上の説明を終わりたれば、 これより臨時睡眠の原因に説き及ぼすべし。 第一は疲労にして、 これを回復せんため休息すなわち睡眠を生ずるなり。 第二に、  温浴をなして身体を温むるときは睡眠を催すべし。  その理は、 身体内部の血液をして外面に向かわしむるがゆえに、  おのずから脳髄中の血液を減少するによれり。  されども、 もし温度高くして熱力強きに過ぐるときは、 かえっ て神経を刺激して眠りを妨ぐるがゆえに、  適度のときにのみ眠りを催すなり。 これに反して、 寒冷は睡眠を妨ぐるものなれども、 極めて強壮の人にありては、 少しの寒気は決してこれを妨ぐることなく、 かえって助くるものなり。 第三に、 食後は一般に睡眠を催すものなるが、そのゆえんは消化の作用をなさんがため、  血液は腸胃に向かいて流注し、 ために脳髄中の血最を多少減ずるによれり。 その他、 病気等にて衰弱し、 あるいは老宅するときは、 時を期せずして折々睡眠を生ずることあれども、れらは別に説明を要せざる ぺし。


   第一〇節    睡眠の事情

右すでに睡眠の原因を説きたれば、  つぎに睡眠の事情を述べんに、  睡眠を催すものはただに身体内部の原因のみにはあらずして、 外部の事情もまた大いにこれを助成するものなり。 今、 これらの事佑を左に列挙すべし。

まず第一事情は静閑にして、 これは外界に吾人の感覚を刺激するものなく、  精神作用を休息せしむることを得るなり。  しかれども、 静閑に過ぎんよりはいくぶんか小音微薯のあらん方、  かえっ て眠りを催すことあり。 例えば、  夜問にあるいは潟援たる渓流、 あるいは寒犬の遠ぼえを聞き、 あるいは雨滴の点々たる、  茶錦の沸々たるを耳にするがごとき、  みなこれなり。  その理由は、 あまり静閑に過ぐるときは、 脳髄の中心に集まりたる精神作用を散ずること難しといえども、 小音微轡のほかに誘うあれば、  これに向かいて精神作用を散じ、  おのずから眠りを催さしむるにあり。 しかもまたその音臀の強きに失するときは、  ただその一方にのみ脳作用をひくがゆえに、精神一点に集まり、  眠ることあたわざらしむ。 第二に暗黒なり。 光線の目を剌激するときはねむりをなし難く、これなきときは眠りを催すものなり。  されども、 あまり暗黒に過ぐるときは、  なお静閑に過ぐる場合のごとく眠ることあたわず。 これに反し、  朦朧たる灯光の枕頭に立つときかえっ て催眠の効あるは、 さきの音孵と同一理にて明了なるべし。 第三は運動なり。 この事情も睡眠の妨害をなすものなれども、 もし極めて徐々に、  かつ適度をもってこれを与うるときは、 かえって眠りを助くるものなり。 例えば、 小児を眠らしめんとしてかすかに揺動を与うるがごとき、 あるいは吾人の人車に乗りて坦々たる平路を走るがごときこれなり。 けだし、 これらは精神なり血行なり、 その作用の一点に漿  集 することを避け、  これを放散し、 もって睡眠を催さしむるものなり。 第四は読書なり。  この事情も、  あるいは妨げとなり、 あるいはこれを助くる別あり。  すなわち、 非常に精神を刺激し興奮せしむる円籍は妨げとなり、 倦みやすき害を読むか、 またはさほど注意を引かざるものを読む場合には、 眠りを催すものなり。  第五は音曲、 詩歌等にして、 その店低、 抑揚に一定の「リズム」あり、 秩然たる調節をなすものはみな催眠の力あり。  例えば、  かの子守歌のごときは、 よく調節を得て眠りを催すようになれるものなり。これに反し高低、 抑揚つねなくして噌雑なるものは、 さらにその効なきなり。 これを要するに、  右らの諸事情はみな精神力の一点に集まりて眠りを妨げんことを避け、 これを散逸せしむるより効験を呈するものなり。

以上は自然に起こる事情なるが、 ここになお人為、 人工になれる催眠の方法あり。  すなわち、 その一つは数息すなわち気息を数うること、 あるいはイロハを数え反復し、 あるいは思いを念仏にとどめて仏名を称うるがごときこれなり。 あるいはまた、 目を一点に注ぎて動かさざるがごとき、  あるいは心を足の指端に集めてその一点に注意するがごときも、  その方法の一つなり。 この方法はもとより人々により種々の工夫ありて、 おのおのその身に特効あるものなれば、 ここに一定し難し。 また一説に、 前夕もしくは二、  三日前に夢みたることを想起し、 反覆これを考うるときは、 たちまち眠りを催すという。

その他、 注意予期、 習慣連想等により、 あるいは眠り、 あるいはさむる事情多し。 以下少しくこれを説かんに、吾人が前もっ て眠らんことを予期するときは、  いくぶんか早く眠りを催す効あり。  また平常、 時間を定めて眠れる人にありては習慣となり、  その一定時に至れば必ずこれを催すに至るなり。 あるいは毎朝、 繋析または鐘声にて醒起する習佃となるときは、 この音声に触れざれば決して覚めざることあり。 あるいは時計の音につれて眠れるときは、 該時計を撤して室外に出だすに従い、  ただちに眠りを破ることあり。  かくのごときはみな習慣の影愕なりとす。  ここにまた奇なることは、  例えば、  一定の約束により翌朝何時ごろには起きんと期し、 または早朝汽車に投ぜんとして、 その時刻を心中に期するときは、  必ずその刻限に起き、  またはしからざるも、 他人より少しく促さるるときは、 ただちにさむるものなり。 あるいは通常、  人のよびてさめざるも、 己の最も畏敬する人に呼ばるるときは 一言ただちに起くること、  かの児童の厳父における、 僕婢の主人における場合のごときあり。 あるいは己が最も愛し最も注意する者の音声には速やかに醒起すること、  かの母親が愛子の泣き声における、 また消防夫の警鐘におけるがごときあり。 その他、  自己の姓名を呼ばれてたちまち醒党するがごとき、  これみな吾人の注意予期の結果にあらざるはなし。 けだし、 吾人の精神は睡眠せる際といえども、 常に心意のある方に向かいてこれが作用を準備せるもののごとし。  ゆえに、  かく意向の予期せることをもってするときは、 ただちに醒覚するものなり。 なお、  ここに他の一事梢あり。 すなわち心意の動静に関するものにして、 もし吾人に懸念することなく、 心意の満足平安なるときは熟眠をなし、  これに反して動揺不安なれば、 眠らんとして眠れざることは、  なにびとも知れるところなり。  かの重罪人のごときも、  いまだ死罪とも赦免とも決せざる間は、 このことつねに心頭にかかりて熟眠を得ざれども、  すでに赦罪と決したるときはいうに及ばず、  処刑と定まりたる場合にても、 到底免るることあたわざるものと断念するがゆえに、 それより安眠を得るに至るものなりという。



第十一節    睡眠の状態

つぎに、 睡眠の状態を講述せんに、 第一に、 人々の上において、 各人がその状態を異にせるゆえんを述べ、 第ニに、  一個人の上において、 前後その状態の変化する順序を述ぶべし。

そもそも睡眠の分飛、 度数は人々により、 年齢により、 はた職業によりて異なり、  すなわち小児のときはねむりを要すること多く、老衰するに及びてその少なきは、畢 党 するに、小児は身体を構成し生育する際なればなり。しかるに老人は全くこれと反対なれば、  ねむりを要すること少なきなり。 また、  強壮の人は運動活発なれば睡眠健全にして熟睡となり、 柔弱の人はその眠れること少なし。  およそ運動および労働等は、 身体の薪材を用いてその蒸気力を進むるものなれば、 すでに運動、  労働をなしたる後は、  必ず睡眠によりてその欠損を補わざるべからず。 この理によりて、  職業につきてもまた、  身心を過労するものとしからざるとの別により、 はなはだしく睡眠の差異を生ずること明らかなるべし。

つぎに、  睡眠の状態を一個人の上において、 その醒より眠に入り、 眠より醒に移る前後の事情について述べんとす。 さて、 なにびとを問わず、 まさに眠りに就かんとするときは眼瞼は重く垂れ、  手足は遅鈍を立ゆるに至るものなり。 また、 これを五官の作用についてみるに、 第一、 視覚休み、  つぎに味党に及ぼし、 それより嗅詑、 聴覚、 触覚の順序を追いて睡眠の境に入るものなり。  ゆえに就眠の際、 第一に嬰することは両眼を閉鎖することにして、 これを開きて眠らんことほとんど難し。  されば、  また眠れる人の醒起せんとする際には全く右の序次に反し、 第一、 触覚、 第二、 聴覚、 第三、 嗅覚、 第四、 味覚、  第五、  視箕の次第となるなり。  ゆえに、 ねむれる人を起こさんには、 触党をもってすることもっともやすく、 視官をもってすることもっとも難し。


つぎに、 睡眠中における身体内部の状態を考うるに、 吾人は眠りに臨むときは、  呼吸も運動もともに遅緩となりてその力を減じ、  かつまた血行も遅鈍となり、  したがって体温を低減ならしむるがゆえに、 寒冷を減ずること醒時よりはなはだし。  また排泄物のごときは、 身体不動にしてその消耗すること少なきがゆえに、 分泌の最を減ずるに至るなり。  しかるに、  消化器は睡眠中に減ぜずして、  かえっ て増強するゆえんは、 すなわち脳髄の休息してその血液を腸胄に送り、 消化作用を助くるによれり。  また、  脊髄およびその他の反射機能は、 その作用を減ずれども全くこれを休止することなし。  例えば、  睡眠中に手足を動かし、 あるいは眠行、  睡遊をなすがごとき、 もって征とすべし。  その他、 睡中には病郡の勢いを減ずるものにして、 これを醒覚の際に比すれば、 自然作用によりて体勢を挽回して、 病者をして快方に向かわしむること多きも、  主としてこれによれり。

さらに進みて、  睡眠中における籾神の状態を考究するに、  そも睡眠中に感覚の休止するは、 感覚力そのものの変更せるにはあらずして、 脳髄中における意識が外来の刺衝を感受することあたわざるより、  全く感覚作用の休止することとはなるなり。 ゆえに、 睡眠中は必ずしも感覚神経の力を減ずるにはあらずして、  脳髄内における意識作用の眠息の状態にあるものというべし。 しかるに、 夢という現象を生ずる場合に至れば、  脳髄中に一部分の意識現れて作用を呈するものなるが、  これはすでに夢の部に属すれば、  さらにその項下において講述すべし。


第一二節 夢の説明

これより解説せんとすることは、 まさしく本講の問題たる夢とはなんぞやの疑問これなり。  今、 これを一言にて解せば、  夢とは睡眠中に現るる一部分の意識なりとして可ならん。 しかれども、  この意識は醒覚のときとは大いにその状態を異にし、 いわゆる意力の支配を受けざるものなり。 換言すれば、 脳髄内に起こりたる思想を、  その自然の力に任じて多少の観念を連起する状態なり。  ゆえに、  その観念の連絡はいかに誤謬ありとも、 わが意力にてこれを制裁することあたわざるなり。  されどもこれにつきて、 睡眠中には意力ありや、 はたなきやの問題ありて容易に決し難し。 すなわち一方の説によれば、 通常の解釈にては、  夢中には知力および意力休息して、  想像カのみ作用するものとみなせども、  決してかくのごとくは思われずして、 夢中にもまた意力なかるべからず。 例えば、  夢中にて他人に追逐せられたる場合に、 自ら逃避せんと努むるはすなわち意力の命令にして、 その作用あること明了なりと。 しかるに反対論者はいわん、「右のごときは、 もっ て意力というべきものにはあらず。 ただ観念の連合上より自然に発するものなれば、わずかに意志の相を呈するのみにして、その実は無意力なるものなり。また知力のごときも、  睡眠中に誤謬の推理をなしてさらにこれを顧みざるがゆえに、  真に知力とは名付くべからず。ただ自然の観念連合より生起するものにして、奄も原因結果の理を追いて次第に推理するがごときことなし」と。 しかれども予をもってみれば、 右のごとく夢中には意力および知力なしとの説は思考し難きもののごとし。 ゆえに、以下において夢と睡眠との区別を示し、果たして夢中には知力および意力なきやいかんを説明せんとす。

そもそも睡眠には、 全く夢なきものとこれあるものとあり。  夢なきときはこれを熟眠または堅眠と称し、 このときは脳髄の全部ことごとく休息して、  畜も意識の作用を呈せざるものなり。  しかるに、 最初は全く夢なき熟眠の状にあるも、 中ごろより一部分に意識現れ、 想像起こりて、 これより夢境に入る。  ゆえに、 夢は眠りにつきたる際より、 まさにさめんとするときに多し。 けだし、 吾人の醒虹せんとするや、 同時に脳髄の全部の起きんこと難く、  まず一部分さめ、 つぎに漸々全部に及ぼすものなり。  かくて、  一部分のさめたるはすなわち夢にして、 全部分のさめたるは、 すなわち醒覚なりとす。 しからば、 意識作用は熟眠中に休止するも、  夢中にはこれありと言わざるぺからず。  しかして、 夢時と醒覚とを比較せば、 夢中には一部分、 醒覚には全部分の意識ありとす。 もしそれ、  死時と熟眠とを比すれば、 ともに意識作用を欠けり。  しかして、 身体の有機的反射作用に至りては、 熟眠にはあれども、 死時には全くなし。

今、 表を掲げてその別を示さば左のごとし。これによれば、 夢はあたかも熟眠と醒覚との中間にある状態なりというべし。



   第一三節    普通の原因

これより以下において、 夢を生起するゆえんの原因を講述せんに、 第一に普通の原因、  第二に特殊の原因の二つに分かちて説明すべし。

普通の原因は、 前節に説明せし睡眠の原因と同一理にて説かざるべからず。 それ、 人体にありては身心ともに、一定時の労働をなさば、  一定時の休息なかるべからざることは不変の通則なりとせば、 脳髄の昼に労し夜に眠るは当然の次第なる ぺし。 しかして、この規則によりて生ずる第二の規則あり。  すなわち、「疲労多き人は休息する時問長く、疲労少なき人はその時間短し」これを一人の上にていわば、「疲労多き部分は休息の時間長く、  疲労少なき部分はその時間短し」この規則によりて脳髄の事情を考うるに、  その各部分同時に休息し同時に醒起することあたわざるべし。 なんとなれば、 吾人は前日の労働、  思慮するところ、 決して脳髄中の全部分を平等に使用するにあらざれば、 必ず一部は過度に疲労し、  一部はさまでに疲労せざることありて、  彼此の間におのずから差異なかるべからず。 すでに脳の各部分によりて疲労の度を異にすと仮定せば、 同時に眠りたるものも醍起するにあたりては、 あるいは一部分は先に、 他部分は後となりて、 夢見を現ずるに至るは自然の勢いなればなり。 これ、 すなわち普通の規則によるものなり。 しかるに、 ここに生ずる一問題あり。  そは右のごとく、 もし疲労の度に応じて夢の有無を生ずとせば、 前日来一事にのみ思慮苦心せば、 該部分は睡眠中に全く休息して夢に現るることなかるべき理なるに、 しかもその実は、 前日にもっとも苦心せしことの、  かえって夢に現るること多きはいかんとこれなり。 この問題は、後の特殊の原因中の内部の原因に属するものなれば、 ここに説明をなさざるなり。


第一四節    特殊の原因

つぎに特殊の原因を陳述せんに、  この原因にも内外の二種あり。 外とは感党上より起こす原因にして、  内とは精神の内部より生ずる原因なり。

(第一)  感覚上の原因とは、 吾人の睡眠せるにあたり、  当人の視覚またはその他の官能を刺激するものあるときは、 これによりて意識を 惹 起して夢を結ばしむるに至るものをいう。 以下、順を追いてこれらの諸原因を説明すべし。

(視党)  まず視覚より夢を生起したりし例を挙げんに、 ある人、  夢に極楽に遊び四面に光明の赫々たるを見、驚きさむれば、 これは炉中にたくわえし薪の` 突然火を発せしものなりしという。  この夢は薪の火光、  視覚を刺激して喚起したるなり。 また、 ある人は一夜盗賊の室内にきたり、 手に燭 をとりて物品を捜索せることを夢み、翌朝これを母に語りしに、 母曰く、「これ、 わが前夜ろうそくをとりて室内に入り、 要するところの物品をたずねしなり」と。  これまた、 燭火の視覚に映じて夢を結びしものなり。

(聴覚)  つぎに聴覚により夢を起こしし"例"を見るに、 ある貴人あり、  一夕兵隊となりしことを夢みしに、 たまたま砲声を発するを聞きて驚きさむれば、 爾時隣室において不意に轡きを発するものありて夢を起こしたることを知れり。 またある人は、 睡眠せる際、 自己の弟きたりて談話したることありしに、 その人は睡眠中なれば篭もこれを覚えずといえども、 しかも夢中において、  その談話と少しも異ならざるありさまを見たりという。 これも同じく聴覚より夢を惹起したるものなり。

(触覚)  この感覚より起こりたる例はすこぶる多し。 ドクトル・グレゴリー  氏の談によれば、  潟をいれたる徳利を眠れる人の足に触れしに、  当人は夢にエトナ火山の上を歩み、 その地盤の非常に熱せることを感じたりという。  モー  レー 氏の実験したる例によるに、  睡眠せる人の恥孔を羽毛にて摩せしに、  その人は恐ろしき刑戦に処せられしことを夢み、 また爪をもって頸背をつねりしに、  医師の手術を受けたりと党えたりという。  また、 余の自ら実験せしことあり。 すなわち、 ある人の昼眠せる際、 予その傍らにありて鉄火箸のやや冷なるものを取り、 その額に触るること前後三、 四回なりしに、 その触れたるときは、 あるいは不快の色を呈し、 あるいは頸を動かし、あるいは少しく目を開きたることをみたり。  やがてさむるに及びて、 その睡眠中の状をたずねしに、 当人は絶えず夢のみを見たり。 一回は、 ある公園に買人とともに散歩して小径に入り、  小 樋のかかれる所に至りしに、 樋中に湯水の流通せしかば、  自らその中に携えたる棒を入れてこれを己が身体に点ぜしに、 湯熱はなはだしくして火楊せしことを覚え、 また一回は、 友人きたりて己が額上に寒暖計を加え、 熱度を検せしことを夢みたりといえり。この両度の夢は等しく冷の火箸を加えしより起こりしものなるに、  一回は湯中に浸しし棒をわが身に加えて火傷せしことを党えしは、 火箸の冷なる感覚を誤りて熱しと感じたるによれり。  また袋外に出だして冷となりたる手がわが渦体に触るるときは、  かえっ て反対に火に接せしことを夢み、 あるいは氷雪に触れしことを夢む。 あるいは足を会外にあらわすときは、 温度の差より氷上をわたるがごとき夢を結ぶことあり。「列子」の穆王編に曰く、「籍>帯寝則夢砒蛇、 飛鳥卿レ髪則夢>飛。」(帯をしきて寝ぬればすなわち蛇を夢み、 飛烏髪をふくめばすなわち飛ぶを夢む)とあるは、 これまた触覚より起こるものなり。

(嗅覚)  この感覚より夢を惹起したるは、 例えば、 ある人睡眠せる際、 暖室炉中に一種の臭気あるものの燃ゆることを感じ、 夢に化学の実験室に入りたりと思い、 また、 ある婦人は己が衣服の焼けたる臭気を嗅ぎて、 自身の火傷せしことを夢みしがごときこれなり。

(味覚)  この感覚より起こりしものは、 はなはだまれなるも、 またあえてその例なきにあらず。 すなわち一夕、予、 熟眠せる人の唇に一滴の水を点ぜしに、 当人は一酔ののち眠りに就き、 すこぶる酒渇を感じたるありさまにて、 その点じたる水を喜びて口中にて味わいたるもののごとく見えたり。 暫時にして目をさませしゅ え、 予は夢を見しやいなやを問えり。 当人答えて日く、「夢にイタリアに遊び、 暑気のはなはだしきを感じ、 プドウ酒一杯を傾け、  実に甘露のごとき味を呈せり」と。 これ味煤の一例に加えて可なり。

(筋党)  その他、 触覚中の筋覚よりして夢を結びし例はなはだ多し。 すなわち運動の感覚、 抵抗の感覚等より夢を起こすものこれなり。 例えば、 大風の夜に家屋の少しく揺動するときは、  汽船に乗れりと夢むるがごとし。和歌山県久保某氏より報ぜし書中に左の一事あり。 久保氏自ら曰く、「一夕、 夢中にて余の傍らにある人、 棒をふり回す。 余、  その棒の己が身体にあたらんことを恐れしに、 やや久しくして果たして余の頭にあたれり。 よって驚きさむれば、 たまたま余の傍らに臥したる人が手を伸ばし、 誤りて余の頭に触れたるなり」と。 また、 予の自ら経験せしことあり。  一夕、 石のごとき重体を頭上にいただき、 ために頭部より圧迫せられ、 これを除かんと欲すれどもあたわずして大いに苦しめることありしが、 夢さめてこれを検せしに、 これは枕頭に火鉢を骰きて就眠せしに、  睡中枕を他に押しのけ、 予の頭じかに火鉢に触れて、  その圧迫を頭上に感じたることを発見したり。 その他、脚を重ねて眠りてしときに高所を渡りしことを夢み、脚を落とすやわが身の高所より墜下せしことを覚え、驚きさむるがごときは、 よく人の知れるところなり。 あるいは胸上に手を置きて眠りしときに苦夢を結ぶは、 圧迫そのものがこれが原因となれるなり。 すべて、  かくのごとく身体の位樹、 状態に変動を感ずるときは、 これに関連して多少の夢を結ぶに至るものなり。

(体覚)  この感覚は身体組織の内部の事梢より起こるものにして、  消化器、 排泄器、  呼吸器、 血行器、  その他筋肉組織間の事情より夢を生ずるに至るものなり。なかについて吾人の常に経験せることは、食物不消化の場合、または食事をなしてただちに就眠するときは、 必ず苦夢を結ぶものなるが、 畢党、 右は腸胃間の食物より剌激を感じて生起せしむるものなり。  呼吸あるいは血行の不順を感ずるときにも、 同じくこれに相当せる夢を結ぶに至る。  また、 尿の膀脱内に満ちたるときは、 放尿せんことを催す夢あるは、 なにびとも経験せるところなり。  その他、 体温の変更によりて夢を起こすことあり。 例えば、 風邪にて発熱するときは、  熱の刺激によりて種々の夢を結ぶがごときこれなり。

この体邸によりて生ずるものは、 すべて有機組織問の事情により起こる夢なれば、 これと関連してここに病気より生ずる夢を述べざるべからず。  すなわち、 熱病にかかるときは恐るべき夢を結ぶものにして、 ハムモンド氏の実験するところによれば、 そのやまいの軽重は苦夢の強弱、 多雰に比準すという。 またモリュー 氏は、  苦夢の生ずるは病の長きことを示すものなりといえり。  つぎに、 心臓病も同じく不快の夢をよび起こすものにして、  該病にかかりし者は、 往々恐怖の状態ありて突然に起立することあり。 また腸冑のやまいにては、  あるいは咽喉を絞めらるる感巽を夢中に現し、 あるいは鬼もしくは魔等におそわるる夢をきたすことあり。 しかして、 腹中にさなだ虫類の存するときも、 同一の夢を結ぶものなり。  さらに進みて精神病にかかりしものは、  さまざまの夢を結ぶこと多きのみならず、また夢と覚とを分別することあたわざるに至るなり。されどもまた病気なき平時にても、往々夢中のことと醒覚の際に見聞したるものとを混同することあり。 すなわち、 醒覚のときにはじめて経験せしことに遭遇して、 これを前すでに経験したりしもののごとく思惟することあり。 これは、 夢中に想像せしことと実際のことと相符合するときは、 二者を混同して誤認するに至りしなり。  かくのごとく夢幻と現実とを混じて、これを明弁することあたわざるは幼児にもっとも多し。 これ幼児は論理力と経験の度少なきによりて、 この誤りきたすものなり。  かの蛮人が夢と瓦とを区別することあたわずして、  相互に混同することも、  右の例に準じて推知することを得べし。

右、 病気より生起する夢につきて、 さらに一言の説明を要するものあり。  すなわち、  病気のいまだ発せざる以前において病にかかりたることを夢むる場合にして、  これ、 世人の夢は未然のことを告知すと信ずる一っ の例証たり。 しかりといえども つらつらこれを論究するときは、 このことは決して天や神の告示に出ずるものにあらずして、 同じくこれ、 有機組織間の感覚そのものの告知するところにほかならざるなり。 今、  かつその二、 三の例を挙げんに、 ある人は夢に脚の石に化したることを見しに、 その後、 脚の麻痺してさらに感党なきようになりたることあり。  コンラッ ド・ゲスネル氏は、  その左足を蒋蛇にかまれしことを夢みしに、 のち同一部に痘を発して、  ついに不僻の客となりしことあり。  テスト氏は卒中にかかりたることを夢み、 のち同症にて死せり。 ある幼女は、 夢に物体の煙霞を隔てて見るがごとく不明なることを覚えしに、 後ただちに眼病を発して明を失いしことあり。 また、 ある人は咽喉に苦痛を感じたることを夢み、 後いくばくもなくして該部に病を惹起したることあり。その他、 発狂前には多くはおそるべき夢を現すものなるが、 フハルレッ ト氏の報ずるところによれば、 ある貴女はその母の剣をとりて己を殺さんとすと夢み、  翌日より発狂したりという。 また、 ここに奇なる談あり。 すなわち、 四十五歳のあるドイツ人は、  一夕、  子の死したることを夢み驚きさむれば、 自己の舌麻痺して言語を発することあたわざりしを見出だしたりとぞ。

以上の諸例によりてみれば、 夢は未然を告示する不可思議作用を呈するもののごとく思わるれども、  その実しかる ぺき理由より起これるものにして、  決して怪しむに足らざるなり。  けだし、 吾人の身体においてまさに疾病を発せんとするや、 すでにその外部に発表する前に、 まず内部においてなんらかの徴候を示すぺきこと疑うべからざるなり。 すでに内部に多少の徴ありとせば、 必ずやこれをわが神経に感じて、 脳中にもその刺激を受くること疑いなし。  ただそれ、  その感覚の極めて微小なるがため、 立時において、  よくこれを感ずることあたわざるのみ。 しかるに睡眠中にあるときは、  五官よりきたる外部の刺激はことごとく閉息するがゆえに、 内部の微々たる刺激といえども、 これを感ぜらるるに至るものなり。 加うるに脳中の諸心像および注意力等もみな休止せるがゆえに、 身体組織間の微痛を脳中に感ずるには、  実に至便の状態にありというべし。 ことに夢中には針小のことにも棒大の象を示すものなれば、 極めて微小たる刺激もすこぶる著大の感覚を生ずるものなり。 これけだし、 夢をもっ て疾病等を前知せらるることの理由とみなすも、 決して不可なかるべし。

以上に叙述せるところは、 五官ならびに筋党、 体其より生ずる原因にして、 これを総じて外部の原因というべし。 しかして、 このほかに内部の原因あり。  いわゆる内部の原因とは脳中の事情これなり。 この事情はいちいちその原因と結果とを明示するあたわざれども、 これを物理的に考うると、 心理的に考うるとの二様に分かたざるペからず。 物理的に考う〔る〕とは、 脳髄有形上の組織に多少の変動ありて夢を生ずとなすものなれども、 今日にありてはいまだ有形上の事情を実験し難きがゆえに、  いちいちその原因を指摘することあたわざるなり。

(第二)  つぎに精神内部の原因を考うるに、  精神そのものの特殊の状態をもって夢の原因とみなさざるべからず。 この精神の状態とは、  さきに普通の原因と名付けしものの中にて特殊の事梢あるものをいう。  すでに述べたりしがごとく、  いわゆる普通の原因とは、  脳中の各部分の疲労の度に応じ眠息の時間に異同ありて、 同時に眠息したるものにても、 各部分同時に醒覚せんこと難し。 かくて、  一部分醒覚し一部分眠息するは夢を生ずるゆえんなり。  かくのごとくにして夢を生ずるにあたり、 前日の籾神の状態において特殊の事情ある場合には、  必ず特殊の夢を結ばざるを得ず。  例えば、 前日に学校の試験にて大いに籾神を労するときは夜に入りて試験の夢を結び、また前日に演劇を観しときは夜分これに関したることを見、  あるいは山川に遊びしときは当時観察したるところを夢み、 あるいは父母または児女の病気を心頭にかくるか、 あるいは旅行中に郷里を思うときは、  必ずこれらのことを夢中に現すに至る。 これ、 前日の事情によりて精神内部より生ずるものなり。  しかるに、 前日深く苦心したる事柄の夜分夢中に現れ、 その部分のさらに眠息せざることあるはいかんというに、 前日中苦心せる点はおのずからここに精神力の 漿  集 せんとする傾きを有するがゆえに、  睡眠中に全部分眠息するも、 すでに一部の醒覚せんとするや、 精神作用はただちに、  さきの苦心の点に集まりて夢を催すべければなり。  けだし、 吾人のはなはだしく一事を苦慮するときは、 眠らんとして眠るあたわず。 また一時眠りに就くも、  ただちにこの部分において意識作用を発動せしむるに至ることは、 なにびとも熟知せるところなり。 その他、 人の資性、  習佃、 経験等の諸事情も、  人に特殊の夢を結ばしむる原因なり。 ただし、 粕神内部の原因は錯雑かつ秘密にして、 いちいち原因と結果との関係を、 外界の原因のごとくに明示することあたわざるのみ。


   第 一五節 夢中の想像


およそ夢中に見るところのものは、 前時に経験、 記憶したるものに限り、  決して脳中に存せざるものの夢中に現ずることなし。 予かつて熱海入浴中、 実験したるものを左に掲げてその例証となす。  夢の数百なれば、 これを熱海百夢と名付く。

この夢は、 明治二十年十二月二十三日夜より二十一年三月七日夜まで、  七十六日間に夢みしところのものなり。

余は初めてこれを試むるに当たり、 毎朝醒党の後その記悦せしところのものを集めんとせしも、 十中八九は失念して再現すること難きを知りたれば、 毎夜筆紙を枕頭に屈き、  わずかに醒覚することあればただちにその夢みしものを記載して、  七十余日間に百夢を得たるなり。

その夢の種類を分析するに、  左表のごとき結果を得たり。

この表について考うるに、 平常経験したること、  および近く経験したること、 その他、 平常心頭にかけたることは、 夢中に現ずる割合多きを見る。  すなわち、 熱海にありては毎日野外に遊歩したるをもっ て、 遊歩の夢その割合最も多く、  訪問、 会合、 旅行また、 その割合多きにおれり。  しかして病気の夢、 これを他種の夢に比するにその割合やや多きは、当時病気招養のためその地にありて、多少懸念するところありしによる。もし強壮の人なれば、  病気の夢決してかくのごとく多からざるなり。  つぎに、 その夢を夢中見るところの場所について分析するに、 左表のごとき結果を得るなり。

この表について考うるに、 その経験の近くしてかっ 多き場所は、  夢中に現ずること多きを見るべし。 けだし、余の生活はこれを概算するに、生まれてより今日までその三分〔の〕二は郷里および西京に住し、三分〔の〕一は東京に住せり。 西京に住せし年月は一年未満なり。  ゆえに東京の夢最も多きはずなり。 しかして熱海の夢は、  熱海にある問は現ずること少なく、 帰京後かえって多し。 これ他なし、  帰京の後は熱海の浴遊を回想することかえって切なればなり。

つぎに夢の起こりし原因を考うるに、 五官および身体組織間の感覚より生ずるもの七種あり。 内一種は聴覚より生じ、 他の六種は内臓および筋肉問の感覚より生じたるなり。 その他の九十三種はその原因明らかならざるも、 脳中の事情によりて生ぜしは疑いをいれず。 しかして、 夢の前日中に経験したるものを見ること最も多きがごとし。 今、 これを時間について分析するときは、 左表のごとき結果を得るなり。

これによりてこれをみるに、 平常思想中に存せしもの、  および近く経験したりしものは、  夢中に現ずること多きを知るべし。

その他、 この夢について記すべきことは、 第一に、 腸胃の悪きときと発熱のうちに夢を現ずること最も多きこと、  第二に、  夢と夢との間に数日を隔てて連絡あること、 第三に、 恐ろしき夢は大抵、 身体中のある部分に不快もしくは苦痛の感覚あるときに生ずること、 第四に、 夢中に時問、 空間の精密なる配置連続なきこと、 第五に、 夢想と事実との間に大いなる相違あること等なり。  しかれども、 これらはみな人の経験するところなれば、  いちいちその例を挙ぐるを要せざるなり。

以上の実験によりて、  夢は吾人の自ら経験し、 自ら胸中に記憶するところのものを離れて感見することあたわざるを知るべし。 古語に曰く、「南人詑〔らくだ〕を夢みず、 北人象を夢みず」と。  そのゆえんは、  シナの南方には舵なく、 北方には象なきがゆえに、  自己の経験せざることは夢みることなしとの理を述べたるものなり。  また、

「列子には「甚飽則夢レ与、  甚磯則夢伝取。」(はなはだ飽けば、  すなわち与うるを夢み、  はなはだ餞ゆれば、 すなわち取るを夢む)とあるも、 境遇と夢想と一致するをいう。  わが国にて昔時、 シナ、 天竺に交通せざりしときに当たりてはその山川を夢みしものなく、 また西洋諸国との交通なき際はその風景を夢みしものなし。 熱帯地の人は氷山を知らず、  寒冷地の者は鬱百たる樹林を夢みず、  生来の盲者には色を夢みしことなし。  また、 昔時コロンプスはアメリカを夢みたりしとするも、 その見たるところは真にアメリカに住せるインディアン人のごときものにはあらずして、  自己の平生見聞したるところのもの相結びて夢をなししものならん。  けだし、 吾人はいまだ一回も見聞せざりし新事実を夢むといえども、 この夢をなせる一部一部を分析精査するときは、  みな経験以内の事実の相集まりしものにして、  いずれもその原因あることを見るべし。  しかのみならず、 およそ吾人の見聞上より得たる記憶には、 わが意識内にあらわるるものとしからざるとの別あり。 もし、 この無意識の記憶にして夢中に現出することあらば、 吾人は全然新奇なるものを見たるがごとき感想を浮かべん。 これ、 実に夢の奇怪視せらるるゆえんなり。 夢すでに従来の経験、  記憶より生ずる以上は、 決して奇怪とするにたらず。 ただ粕神の内部にありては、  いちいちその原因を明示すること難きのみ。 しかれども、 自己の身心に篭も事情なくして、 偶然に起これる夢は決してこれなしと断言することを得 ぺし。  そのゆえいかんとならば、  十中八九までは必然の原因ありて起こるものなることをすでに証明するを得たる上は、 他の二、 三のものに至りても、  必ずそのしかるべき原因なかるべからず。 ただその原因の錯雑し、  内外種々の事情総合して夢を結ぶをもっ て、 ついにこれを明白に説き示すことあたわざるのみ。  ちかく例せば、  今日天気の晴昼は、 前日もしくは前々日来の種々なる事情にて起これる現象なれども、 その事情複雑なるがゆえに、吾人の力にていちいち精確に予報することあたわず。 しかれども、たといかくのごとくその原因を示すことあたわずとするも、 だれかこれをもって天神の左右するところにして、天象自然の事情に出でずというものあらんや。 精神界のことに至りても、 またこの例に類比して知るべきなり。

これを要するに、 夢想の原因は内外両界、 すなわち感覚上の原因と、  内想上の原因との二種より起こるものにして、すなわち因果必然の理に基づけるものなり。 決して鬼神あるいは魔の、 人に 憑付して起こるものにはあらず。 これをもって天神との交感、 もしくは告示に出ずとなすがごときは、 畢党、 神秘的に付会し解釈せるもののみ。 これを学術上よりみるときは、  みな必然の理、 一定の則に出ずるものといわざるべからず。


   第一六節    夢の変象

夢の現象には尋常のものと異常のものとあれば、  さきにこれを分かちて常夢と変夢との二つとなせり。 しかして、 変夢の中には種々の解し難き例多ければ、 これよりその事梢を述べんとす。  されども変夢といい、 常夢といい、  畢党その理ーつにして、  ともに必然の理によらざるはなし。 これ、 予の以下に説明せんとするところなり。まず第一に説明を要する点は、 夢中の各心理作用の状態なり。 すなわち記憶、  知力、 意志のいかなる状態を有するやにあり。  一説に、 精神作用は睡眠中といえども篭も休止することなく、 常に活動するものなり。 ただ睡眠中はその作用、 醒時のごとく判明ならざるがゆえに、 意識を現ぜざるのみ。  しかして無意識中にては、 絶えず梢神作用の連綿として永続するなりという。  その証左には、  かの眠らんとする前に何時に起きんことを期するときは、  必ずその刻限に覚起する事実をもっ てするも、 眠れる際に心神の休息するものにあらざることを知るべし。かつ、 意識といい無意識といい、 ただ度の強弱のみにして、  その間に画然たる区別なきをや。  これをもっ て、 吾人は眠息の間もつねに夢むるものなれども、  ただその多分は微小にして、 醒覚の後までも記憶を残すに至らざるのみ。 けだし、  人によりては生涯夢を知らざるものあり。 また、 心理学書中にもその例を挙ぐるあり。  予が友人にもかくいえるものあり。これらは果たして全く夢なきものなるか、はた忘失して記せざるものなるかというに、けだし、 夢あるもこれを記憶せざるものならん。 これ、 夢中の心力は微弱なるによる。 しかれども右の説のごとく、  なにびとを問わず夢は毎夜あり、 心神は絶えず作用するものなりとの説は、 これまた畢党、 空想に過ぎざるものにして、 容易に信 憑 すべからず。 なにはともあれ、 生来経験し感覚したるものにして、 無意識の記憶となり存するものあるは疑う ぺからざることなり。  けだし、  観念に意識的と無意識的との二種あることは、「総論」説明編にこれを示せり。  ゆえに、  記憶にまたこの二稲あることは明らかなり。 もし、 この無意識的記憶の夢中に現るるときは必ず奇怪の感を生ずぺしといえども、 これ脳中に既存せるものの再現したることなれば、  あえて怪しむに足らざるなり。

また一説によれば、 夢中には想像力のみにて知力および意力なしと論ずるあり。  しかれども、  この説も思考し難きものなり。  なんとなれば、 夢は脳全体にあらず、  わずかに一部分の作用なれば、 醒時のごとく完全の知力、意志なきこと明らかなり。  いな、 しかのみならず、 想像力すらも完全とはいうべからず。  そはすべて一部分にて行わるることなれば、 その不完全なるはかえっ てしかるべきはずなればなり。  かつそれ、  夢は感覚の働くことなき際なれば、  その事相を外界の事実と照合対比することあたわずして、  ただ心内の想像そのものに一任し、  想像の境遇が感覚の境遇を組み立つるがゆえに、 その誤 謬、 倒乱あるはむしろ当然なりというべし。 要するに、 一部分の作用と現事実との間に比較することあたわざるとは、 これ夢の夢たるゆえんなり。

つぎにまた意志について考うるに、 そもそも夢時にありては心内に意志ありといえども、 外界に対する手身体の運動はその命令に応ぜざるがゆえに、 醒時のごとき十分の意志を示さずして、  不完全の意志を見ること当然なり。  かつ、 吾人のいわゆる意志、 知力なるものは、 脳全体の活動せるときに、 前後、 内外の事情を比較相対して作用を呈するものこれなり。 しかるに夢中にて一部分のみ作用するときは、 醒時のごとき意志、 知力なく、ただ一部分の観念連合上より作用を示すものに過ぎざれば、 醒時のごとくなることあたわずといえども、 しかも不完全の意志、 知力あるや明白なり。 ある人は夢中に判断力ありとの証左として、 吾人は夢中において現に見るところは、 果たして夢なりやいなやを判断することを得となす。  例えば、 アリストテレス氏は恐夢を見たりしときに、 現に己は夢中にありしことを思い出だせりといえり。 されども、  かくのごときは判断力の有無を判定すぺきものにあらざるべし。  おもうに、 夢中にてはもとより外界を知らざるがゆえに十分の判断をなすことあたわざれども、  なお多少の推理、 判断あるや必せり。 また、  意志の有無につきダー  ウィ ン氏は意力全くなしとし、  スチュワー ト氏は意力の全然なきにはあらず、 ただ身心を支配すべき十分の力を存せざるのみといえり。 要するに、恐夢を見てこれを避けんとするは、  これすなわち意力あるものなれども、 しかもよく避けられざるゆえんのものは、 夢中にて意力の微弱なると、 身体の挙動のこれに応ぜざるとによれり。  ゆえに、  不完全の意志はこれありといわざるべからず。 これによりてみれば、 夢は決して奇なるものにはあらずして、 普通当然の理によれるものというべし。



   第一七節    夢想と事実との間係

すでに前節において、 吾人の知、 情、 意各作用は拶中に存するやいなやについて一言したるが、 さらにここに、夢中の想像と実際上の事実と相符合するものなるか、  しからざるかについて述べざるべからず。  そもそも夢中の想像の事実に符合することは往々にしてこれあれども、 多くはその問にはなはだしき相違、  径庭あるものなり。もし夢は平素経験したるところのものの、 睡眠中に再起して現るるものなりとせば、 事実のまま現るるべき理なるに、  かえっ て事実と全く相反せることの夢中に生起するは、 古来大いに人々の怪しむところにして、 ついに夢は吾人の経験よりきたるものにあらずして、  一種の奇怪なる現象のごとくに考え、  神もしくは魔ありて外部よりこの作用を与うるものなり、 と思惟するものあるに至りたり。 しかるに、 今日の心理学によるときは、 夢中の思想も醒党中の思想もともに同じく心中の現象にして、 吾人の経験上より得たりしところの種々なる観念の再現するものなること疑うべからず。  ただ夢中の想像の事実と反するは、 醒立のときのごとく脳髄全体の働くものにあらずして、  一部分の作用することより起これるなり。 これ、 あたかも知、 情、  意の各作用が、 夢中にて不完全なるゆえんとその理を同じくす。  今、 夢想と事実との関係も、 実にこの一部分の作用より起こることなりとす。

ここにこの二者の相違せる諸点を挙ぐれば、 第一に、  事物の形状および諸境遇は、 夢中にみたるものと実際に知覧するものとは大いに相異なれり。 小なるものをはなはだしく大に感じ、 狭を広とし、 短時間を長く感ずるものなり。 これらの点をさらに概言せば、  空間上の相違と時間上の相違なり。  その他の諸事情、 連絡、 関係もまた大いに相違せり。  今一、  二の例を挙ぐれば、 夢中には月世界または星界に遊ぷことを得、 空中を自由自在に飛翔上下することを得べく、 たちまちにして日本におり、 たちまちにしてシナに至り、 忽然西洋各国にあり、 また地獄および極楽にも自在に遊ぶことを得。 あるいは黄金の山岳、 宝珠の島嶼のごとき、  実際上に決してみることなきものの夢中に現ずることあり。  これらはみな空間上、 物体境遇に関するものなるが、 また時間上の考想も大いにあやまりて、 昔時数千年以前の事実を現にあるもののごとく感じ、 数年前に死したる故友に相会して今現に存するがごとく思い、 また、 現に生存せる人の夢中に死することあり。  しかのみならず、 自身の逝去すらをも夢むることあり。  あるいは古人と今人とともに相会することを見るがごとき、  その他、 夢中の想像の事実に反するものは    いちいちここに枚挙するいとまあらず。

されども、 これらの事例は第一に、  脳髄一部分の作用たることによりて説明し得 ぺし。 例えば、 死したる友人の現に生存するがごとくなるは、  その生時の記憶のみ夢中に現れて、 死したるときの記憶は休止するがゆえに、吾人はそのときにありては、 この友人を生けるものとしてよりほかに考うること難し。 もしそれ、  脳髄全部の作用して、 往昔における友人の生時の記憶のみならず、 また死時の記憶のともに意識内に現るるときは、 吾人はいかにこれを存命なりと考えんとするも、 死したりとの記憶は鰍乎として動かざるをもっ て、 ついにあたわざるなり。  しかるに、 夢中にありては一部分の意識を現ずるのみなるより、 誤謬のことも正当なるがごとく考えらるるなり。 また、  遠く万里を隔絶せる西洋のことのごときも、 夢中にその記世のみ浮かぶときは、 自己は日本にあることを知らずして、 実に西洋にあるものと考うるは、 これまた一部分の作用に原因せるものなり。

また第二の点は、 夢中にありては比較を欠くことこれなり。  およそわが心中に存する種々の思想観念は、 互いに比較して成立するものなり。  そのうち第一の比較は内界と外界との比較なり。 醒時には内界の思想もただちに外界の事物に比して、  その真偽を判断することを得べし。  ゆえに、 たまたま内界において事実に相違すること起こるも、 ただちに外界の感覚上の現象に比してその迷謬を規正すべし。 これ、 すなわち内外両界の比較なり。 第二は、  ひとり内界中にて稲々の観念間に相比較して互いに制裁することなり。 例えば、 死したる友人につきて、その生時の記憶と死没の記党とを互いに相比較するときは、  該友人の今世に存せざることは、 想倣上に明確ならしむることを得べし。 その他、 土地の遠近のごとき、  人小関係のごとき、 時間の前後、 長短のごとき、 いずれも各自の間に比較対照して判断するを得るものにあらざるはなし。

第三は連想に一任することなり。  夢中にてはまず一部分の意識観念が脳中に現れ、 この観念と連絡ある他の諸観念は、 自動的連想の作用によりて自然に連起し、 種々雑多の観念を 惹 起すものなり。 しかるに、 他の観念の静止するがために、 これに制裁を加え妨害を与うることあたわず。  これをもっ て、  一部の観念その力をほしいままにして、 他によくこれを制するものなく、 いわゆる意力の欠乏を感ずるに至るなり。  そもそも意力の制裁は、  全部の観念の醒覚せるときに初めて起こることを得るものにして、  一部の観念の自動的連想をほしいままにするに当たりては、  いわゆる意力は現るることあたわざるなり。 すでに前節にも論述したりしがごとく、  夢中の作用はことごとく一部分の作用なるより、 意力も知力もともに不完全にして、 夢中の現象を制裁することあたわざる以上は、  夢中において種々の妄想現れきたりて事実と相撞看するは、  かえっ て当然のことにして、  磋も怪しむには足らざるなり。 この夢中に時問、 空間の想像の誤りあることについては、 余、  先年講述したるものあれば、 左にこれを掲ぐべし。

時間の長短、 空間の遠近等、  夢中にありて明らかに知ることあたわざるゆえんは、 まず夢は一部分の意識作用によりて起こるゆえんの理を推して知ることを得べし。 およそ時問の記憶およびその長短を識別する力は、 脳中の諸記憶の比較対照より起こらざるはなし。 例えば、 上図のごとく、  イロハニホの五種の事実が時間の前後に応じて、 脳中の記憶を形成せるものと仮定し、 イの事実は五年前に起こり、  口は四年前、 ハは三年前     二は二年前、 ホは一年前に起こりたるものと仮想して、 これを論ずるに脳中の全部分醒覚するときに限りて、 前後を対照してその新旧を判知することを得 ぺし。 しかるに、 もし夢中にありてイロのみ醒覚し、 ハニホ眠息するときは、 その四、 五年前に起こりたる事実は、 あたかも今年、  近時に起こりたるもののごとく想見すべし。 また、  イとホとの二個の記憶醒覚して、  ロハニの三個の記憶夢中にありて眠息するときは、 イとホとの間に数年を隔てたるに、 あたかも同年中に起こりたるがごとく感見するなり。  ゆえをもって夢中にありては、  死したる人を現に世にあるもののごとく感見することあり。  また、 数年前に見聞したるものを、  今日今時に見聞したるがごとく感見することあり。  これ、 諸記憶の比較対照を失うによるのみ。

つぎに、  空間上距離の遠近の夢中にありて相混ずるゆえんも、 同一理について知ることを得べし。 例えば前固について、  ヘトハチリの五種の場所わが記憶中にありて存するものと仮定するに、  へとリとはその距離最も遠きも、  トハチの記憶眠息してその間に距離を対較すべきものを見ざるときは、 この二者あたかも接近して存するもののごとく感見するなり。

以上、 これを要するに、 夢想と事実との相違するところは、 その現象の主観的一部分の作用なるによれるものなり。 すでに一部分の作用なれば、 他にこれを制裁規正するものなし。 これ、 その誤 謬 を起こすゆえんなり。 また主観的一方の現象なれば、 外界の事実と比較することあたわず。  これまた誤謬の起こる原由なりとす。  そもそも吾人の思想は、  客観的外界の比較をまちて初めて真偽の判明するものにして、 もし主観的の一方に偏するときは、 感情的空想に陥るものなり。  しかして、 客観上の事実を知るは、 諸感覚中にて主に視触両覚の一致にあり、なかんずく視党にあるものにして、 平素吾人の外界につきて判断するは、  主として視覚の作用によれるなり。  しかるに、 夢中にては視党も触覚もともに休止し、 特に視党は夢中には最も強く静止するがゆえに、  全く外界との関係を絶ち、  主観的想像の一辺をもってわが全心を支配する状態とはなるなり。  これをもっ て、  脳全部の作用する場合にてもその誤膠あるは当然の次第なり。 しかるを、 いわんや一部分の作用たるにおいてをや。 なんぞ怪しむに足らん。

また、 前節に論述せし知、 情、 意の三作用についても、  知力と意力とは外界に関係を有するものなり。 換言すれば、  知、  意の二カは主観的一方の作用にあらずして、 主客両観の上に成立せり。 そのうち意志は内界より外界に挙動を応合せしむるものなれば、 内外両界に関すること言をまたずして明らかなり。 知力に至りても、 これまた内界の観念問に比較するのみならず、 これを知覚上の現象と対照して判断するものなり。  ひとり感情に至りては、 外界の刺激を受けて心内に生起するところの梢状なれば、  その現象は主観性一方のものなり。 ゆえに、 醒時にてすら感俯一方の想像は空想に陥りやすし。 今、 夢中にては全く外界との関係を絶ちて、 内界一方にて作用を起こすものなること明らかなり。 これ感情的空想の、 主として吾人の夢幻を組成するゆえんなりとす。 しかして多少の知、  意両作用も存することもとより疑いなしといえども、 醒覚のときのごとくに完全ならざるのみ。  これをもって予は、 夢想の事実と相符合せざる原因は、 外界の感覚を欠きて、 心内一部分の観念その力をほしいままにするによるとなすなり。  すでにかくのごとく論定したれば、 これより、 奇夢と名付くる奇異の現象の夢中に起こるゆえんを説明せんとす。


第一八節    奇夢

すでに夢は当然の理によりて現れ、 変夢は常夢と同一のものとなさんか。 予の、 いわゆる奇夢なるものはいかに説明すべきや。  けだし、 このこともすでに述べたりし理由によりて十分に説明することを得べし。

第一に、 吾人は夢中において、 己が知らざることを発見することあり。 これ、 いわゆる奇夢の一種なるが、 吾人のさきにいえりしがごとく、 わが心内における無意識の記憶は精神の事情によりて夢中に現るるものなりとば、 己が不知と思える事実もふたたび夢中に現れきたるべき理にして、 奄も奇とするに足らざるなり。  例えば、

ハムモンド氏のいうところによれば、 氏の朋友あり。  かつて己の年齢を知らんことを要し、  潜思熟考するもついにこれを思い出だすことあたわず。 しかして、 己の伯父はこれを熟知せること必せりといえども、 当 時すでに不帰の客となりてまた詮術なしと思いいたりしに、  一夕、 夢に伯父現れ、 その年齢は何々の書籍の 巻尾に記しあることを告げたり。 夢さむるに及び怪しみて同書を検せしに、 果たしてこれを得たりという。   右の例証は、 同じく無意識的記憶の夢に現れしものなり。  すなわち、 己が年齢のある書に記録しあることは、有意識の記憶中に失せて無意識中の記憶に存せしに、 わずかに伯父のこれを知れるという記憶ありしがゆえに、これと無意識の記憶と相合して夢に現れしものなり。  ここにおいてか、 さらに考究すべき点は、 なにゆえ夢に無意識中の記憶現るるやの説明これなり。 そもそも夢はすでに一部分の作用なれば、  その不十分なるはもとよりなれども、 しかも他方においては、 醒時になしあたわざるものも、  よく夢中になし遂ぐることあり。  その理いかんというに、  脳全体の醒覚せるときは、 極めて微小の記憶は意識に現れずして、  判明著大の記憶のみ意識に現れきたるものなり。  すなわち、  一種の生存競争、 優勝劣敗の脳中に行わるるものにして、  記憶判明かつその再起する力強くして、 当時の事実に関連せるもののみ意識内に浮かぴきたりて、 その他はことごとく意識外に排去せらるるに至る。 しかるに、 夢中には判然にして有力なるものの休息するがために、  微力にして判明ならざるものは、かえっ て意識内に浮かび出でて記憶に現るるに至るなり。  今、 これを有形上にたとうれば、 吾人の隣室に時計あるも、  昼間はその音を問かずして、  夜間深更に及び、 はじめてわが耳染に触るるに至るものなるが、  そのゆえんは、  昼は時計より強大判明なる種々の声音ありてこれに打ち消さるれども、  夜間に至れば諸強音ことごとく休止して四境寂然たるより、 よく微弱の音を聞くに至れるなり。  その他、  夜に至りて昼間に聞かざりし遠方の汽車の響きを聞き、 あるいは太陽没して月光を見、  太陰出でずして星宿の燦然たるがごとき、  みなこれなり。 吾人の精神界にありてもまたこれと同じく、 夢中は実に無意識的記世の現るるに、 もっとも適当の場合たること明らかなるべし。

今、  左に意識中に存したる記憶の、 ある事情に応じて突然再現せし例を挙げて、  その記憶の夢中に現ずるは、あえて怪しむに足らざるゆえんを示さんとす。

ドクトル・アベルクロンビー 氏の記するところに曰く、「一貴婦人あり。 久しく瘤疾を患いし末、  ロンドンより田舎のある家にかえれり。 ここにて、 いまだ嬰核なりしわが女を引見せし後、 この娘はただちにまたロンドンに送速せられたり。 しかるに、 婦人は数日を出でずして不帰の客となりしかば、 この娘も全く母のことを忘れて成人するに及べり。  かくてこの娘はあるとき何気なく、 さきにわが母の死没せし室にきたることありしに、 これに入るに及び非常に驚動せしかば、  友人怪しみてそのゆえんを問うに、 答えて曰く、「 妾 かつてこの室にあり。  該時この一隅に臥して病危篤なるがごとくみえし貴婦人の、 妾を抱きて悌泣したりしことを、 今現に明瞭に覚ゆればなり」」と。

ハンサルドといえる人、 サセックス州のハー ストモンセオー  クスの地にありて牧師たりしとき、 一日同僚とともにはじめてペベンシー  城に遊べり。 すでにして城門に近接するに及び、  かつてこれをみたりしがごとき感想しきりに起これり。 しかして、  つらつらこれを内心に問うに、  ひとり城門のみならず、  その 弯  隧 の下における馳馬、 ならびにその頂上にありし人民をもみたりしことを覚えたり。 もとより氏はここにきたりしや、 あるいはこの地の近辺に住せしかは磋も記憶することなしといえども、 必ずや以前に該城をみたることありしならんと信じ、 すなわち、 これをその母にたずねしに、 果たしてその事情全く判明せり。 すなわち、氏の生後およそ十八カ月を過ぎしときこの地に住せしかば、  一日氏を譴背に架して、 多くの人々とともにペベンシー  城にゆき、 一群の人々は城門の屋上にて携えたる午餐を喫し、 氏はその従者ならびに誠馬とともに地上にとどまりたることありしという。 これ実に五官上の印象敏快(ハンサルド氏は美術的の気質を有せし人なりとぞ)にして、 長日月を経過せし後、 その巨細を再現せし好例という べし。 よしや氏が他人との対話により、 幼時にかかることありしことを聴きたりとなすも、  かくのごとく明々と再現するまでには至らざるべく    いわんや決してこれを聴取したることの記憶なきをや」

この例によりてこれを考うるに、 自ら記憶せざることの夢中に現出せるは、  その実、 無意識中に存せしものの再現にほかならざるを知るべし。  しかして、  その現出するや、  左例のごとく異人ありて告示することあるも、  これ夢中、 自然の連合によりて想起したるやまた疑うべからず。

大阪市角八兵衛氏の報に曰く、「予は元来算術を好み、問あればむにつきて独習せり。しかるに珠算にては、たいてい立方式以上の問題には箕顆術を施すべからずとして、 天元術を用うるを常とすることなれども、 少しく考案をめぐらしなば、 いかでこの種の問題をも、 通例の鉗顆術にて計算することあたわざらんやと、  日夜焦慮苦心もっぱらその法の発明を思いていまだ得ざりき。  かくて明治二十年十一月二十七日の夜に至り、夢中に洋服をうがてる一紳士に逢う。 紳士すなわち予に告げて曰く、「子の発明せんとせらるる算法は、 心斎橋(大阪)某書林にて発売する、「重乗算顆術」と題せる書中にすでに詳解せり」と。  夢覚めて後すこぶる奇怪に思いしかど、 とにかく該柑林につきて右のごとき書のありやなしやを問わんものをと、  翌日その近辺に行きしついでに立ち寄りてこれを問えば、果たして夢中に聞きしところのごとし。すなわち一本をあがない、これによりてはじめて予が宿志を達することを得たり。

余は先年、 夢中の記憶につき説明したることあり。  これまた左にかかげて参考に備うべし、およそ我人の思想は互いに連合して複雑なる思想を団成し、  一思想起これば必ず他の思想のこれに伴っ て起こるを見る。 これを思想の連合と名付く。  例えば左図のごとく、 甲乙丙丁四個の思想ありと想定するに、各個互いに相連結して一団の虚想を形成するなり。そのうち甲想起これば、丙    もしくは乙想伴いて起こり、乙想起これば、 甲丙丁相つぎて起こる。 しかして、 ここに甲想起こりてその連合より丁想を伴起せしめんとするも、 丙乙二想の甲と連合する力いたっ て強くして、  その影響のために丁の連起を妨ぐることあり。 これ、 各個連合の力に強弱の差あるによる。 すなわち、 甲丁の連合の力弱くして、  甲乙および甲丙の連合の力強きによる。 これ平常、 我人の記憶の再起に難易の別あるゆえんなり。 例えば、 だれにてもその友人に同姓の人三名ありと仮定するに、その一人は毎日面接する人にして、 つぎの一人は一年に一度ぐらい面接する人なり。 しかして、 他の一人は五、  六年来さらに面会したることなし。  今、 便宜のためにその第一の友人を木村松太郎とし、 第二を木村竹蔵とし、  第三を木村梅吉とするに、 木村を思うごとにその毎日面接する松太郎はただちに想出し得るも、  毎年一回ぐらい面接する竹蔵の方はただちに想出すること難し。 しかれども、 注意を用うれば想出し得るも、第三の梅吉に至りては久しく面会せざるをもっ て、 百方注意を用うるも想出することあたわず、  ほとんど記憶上に消失したるもののごとく覚ゆることあり。 これ全く失念したるにあらざるも、 久しく面会せざるをもっ て、 その名と姓との連合力の弱くなりたる結果にほかならず。

その例を固中に配当するときは、  甲は木村なり、 丙は松太郎なり、 乙は竹蔵なり、 丁は梅吉なり。  この三者の連合力は甲丙最も強く、 甲乙これに次ぎ、 甲丁最も弱きをもって、 甲を想すれば丙最も速やかにこれに伴って想起し、 丁は容易に想起すべからざるも、  もし甲丙ならびに甲乙の連合がある事情によりてその作用を休止し、 あるいはその作用を現示することあたわずとせんか。 しかるときは、 甲を想してただちに丁を想出することを得べし。 これ他なし、 甲丁の連合力はこれより一陪強き甲丙、 甲乙の連合力によりて妨げられてその想起を呈することあたわざりしも、 その強き方の作用休止して、  単にその弱き方のみ作用を発呈せんとするによる。  例えば、  木村と松太郎および竹蔵との連合その作用を休止して、 わが注意ただ木村と梅吉との一点に会向するときは、 そのひとたび失念したりと信ぜしものも再起し得るに至るべし。 さらに他の例によりてこれを証明するに、 甲の場所に水を蓄えてこれを丁の方に流さんとするに、  甲丁の路線より甲丙および甲乙の両路線の方、 その地面やや低下せるをもって水を引くカ一屈強きがゆえに、 甲にある水は丁に向かわずして丙もしくは乙に向かうは当然なるも、 もし甲丙、  甲乙両路線ふさがりて水を通ぜざるときは、 水勢単に丁に向かっ て進まざるを得ざる道理と同一理なり。

すでにかくのごとく仮定して、 これよりその説明を試むるに、 夢中にありては脳中の一部分休止して、部分発動するものなれば、 甲丙、  中乙の両連合の部分休止して、 甲丁の一部分のみ発動することあるべし。しかるときは、 醒{見のとき想出すべからざりし甲丁の記憶が、  夢中にありて想出し得るも当然のことなり。あえて怪しむに足らんや。 これ、  人の醒時に失念したる人の姓名、 文字の解釈等の、 夢中に作出することあるゆえんなり。つぎにまた、  夢中には知力、 推理の作用なきことを説く人あれども、  かえっ てこれあるのみならず、 あるいは夢中に詩文を作り、 あるいは数学の問題を解き、 あるいは裁判事件の考案をなすことあり。 この例は実に世上に世人の夢を奇怪とするゆえんここに存せり。 コー ルリッ ジ、 コロンウェ ルの二氏は、 夢中に詩を作りしことあり。  コンジラック氏は平素学問をなすに当たり、 いかに考うるもついに解せずして、 途中に眠りに就きしに、  残部は夢中にて完結せしこと数回ありしという。 また、  アベルクロンピー 氏の記するところによれば、 ある紳士はギリシア語を学び、 後これを忘却せしものを夢中にて回復したることありといえり。 今、  左にカー  ペンター 氏「心理書」中より引証せん。

ドクトル・アペルクロンビー 氏の記するところによれば、 スコッ トランド国の有名のある法律家あり。  かつて至重至難の事件につきて諮 詢 せられしかば、 氏は数日の間、 苦心焦慮してこれを研究せしが、 一夜あたかもその妻の醒起しおりし際、  氏はその寝床を出でて同室にありし机案に座し、 長文をしたためしのち丁寧にこれを収め、 やがてまた床中に帰臥せり。 すでにして翌朝に至り、 妻にいいて曰く、「昨夜奇夢を結び、 かねて苦心せし事件につき、  明亮の意見を吐露したることを此えたり。 ゆえに、  これよりいかにかして、 夢中に得たりし思想をまた生ぜしめん」と。 ここにおいて、 妻は氏を右の机案に導きしに、  その意見はもっとも明白に写出しあり。  かつ後日に至り、 その正当にして篭も誤りなきことを証せりという。

また、 ジョン・ド・リー フド氏の記するところによれば、  一僧あり。  アムステルダム府のある学校に生徒たりしとき、  教授スインデン氏の数学講義に侍せしが、  かつて一銀行より、 ある数学上の問題を解せんことを教授に依頼しきたりしことあり。 しかるに該問題はすこぶる困難、 冗長計算を要するものなるがゆえに、氏も容易にその解答を得ざりき。 よっ て生徒十人を選びてこれを解せんことをもとめたり。 しかして、  一僧もまたその数中にありしかば、  大いに奮励してこれに従事せしも、 ニタとも正答を得ず。 しかして、 第三夕はすでに答案の期、 明朝に迫れるをもっ て、  一層鋭気を鼓して夜半を過ぐるまで計算したりといえども、   いに正答を得ず。 ここにおいて、 失望困頓のあまり筆を投じて床に就けり。  翌朝つとに起きて聴講の準備をなさんとしたるに、 驚くべし、 己の机上にはわが手跡をもっ て困記せる一紙面あり、 全問題を解きて一点の誤 謬 あることなし。 すなわち、 これを家人に問うも、 なにびともその室内にきたりしものなく、 かつ、 その自己の手跡なること疑うべからざるがゆえに、  必ず自ら睡眠中に計算し、 暗中にて書記したるものならざるべからず。 特に著しきはその計算の簡略にして、  さきに六面の石盤を数字にてうずめしものも、  今はわずかに一葉の紙面にて足るるに至れり。 しかして、 これを教授スインデン氏に語るに及び、 氏はかかる事情に吃驚  せしのみならず、 その簡単なる解明は、  氏のついに思い至らざりしところなりといえりとぞ。

また、  夢中に難句を解し得たることにつき、 特に余に報道せしものあり。 すなわち、  東京にて投函せる熊野愛義氏の報に曰く、「余かつて「陸宣公奏議   を読むに当たり、 書中難句ありて百方思考するも解するを得ず、  まさに半夜に達せんとす。 ついにねむりにつきしが、 夢中に該書を読み、 難句を了解し得たり。 よって翌朝該害をひもとき見れば、 夢中解するところに異なることなかりし」と。  その他、 和漢には古来、 夢中に詩文を作りし例、往々聞くところなるが、  古代の例はこれを除き、 ここに余が近ること左のごとし。諸方より得たる報道について、 その例を挙示す。

長野県岡田寅之助氏の報に、 あるとき元且の律詩を作らんとしてその頷聯を得ず、 睡眠中、 忽然得て全く

詩をなせり。 その詩に曰く、

盟漱立盗庭瞭ーー八堪一 依微瑞憫似ーー昭姻一 晨風斬々_吹一絃里一旭日瞳々出二彼刷一於>是前堂招  酒友一亦其後院会ーー茶仙一 太平有レ象須二歓笑一 幾_挙一球盃ー躁倒然  ゜

(盟漱して庭に立ちて八境をみれば、  依微たる瑞露晴煙に似たり。 晨風斬々としてこの里を吹き、  旭日瞳々としてかの  顧  に出ず。 ここにおいて前堂酒友を招き、 またその後院茶仙を会す。  太平象あり、 すべからく歓笑すべし。  いくばくか球杯を挙げて燎 倒然たり)

また、  群馬県中曽根五一郎氏の報に、  明治二十六年十一月初旬、  夢中に一句を得たり。晴れて行空から出たり雪の不また、 陸奥国菊池消明氏の報に、観念の心一ツの翁かな観念の心というときは重言のようにておもしろからず、  なんとか添削したしと考案中、 俄然夢は覚めたりと。

また、 東京市吉武兵内氏の報に、 十八、  九のころ、  郷里大分県にありて、 ある夜明け方の夢に読み出でたるものなり。 もっとも当時は定まりたる学校もなく、  かえって無事に苦しく、 つれづれの戯れに歌など始めしことはありたり。  されど、 まず口調も自分の心にはかない、 折りふしの述懐なりしかば、 師にも直しを請わず、  夢中の作とてものして今日まできたりしなりと。

いつかのまもやすらふとしもあらなくにあたらたゆたふわかこころかもまた、 高知県津田栄吉氏の報に、 狂歌に節分の題を得、 その夜夢にて、お多福は内にと娘がまく豆はお庭外までこほれ出しけり右、「こぽれ」は「ころげ」ならんと夢に句案せしことありと。また、 東京市藤本直臣氏の報に、  一夜夢に、いつかの間にかはれる山をなかめつつけむり車にのる世なりけりある人にこの夢詠の物語をなしたるに、 某氏はこれに追題して、「寄汽車世事」となせりという。また先年、  内藤某氏より夢中の詩なりとて、 余のもとへ贈られし句あり。

塵事堆中日月移 秋来未有一篇詩却思去歳ロ 載酒孤舟柏月時

(臨事堆中日月移るかえって思う去歳秋きたりいまだ一編の詩あらず酒を載せて孤舟月に綽さすとき)

転句の三字は夢醒めて失念したりという。そのほか『新著聞集    に、 左の事実を記せり。

江戸品川伯船寺住持、 延宝七年十一月二十四日の夢に、  裔僧きたらせ、 汝は来年二月二十四日に身まかるなり。  その心得あれとて詩を賦して示したまう。

六十四年混一韮世塵 夢中不涵益竺残身{不>来不>去是何物、 二月花開南谷春。

(六十四年世座に混ず、 夢中立えず残身を投う、きたらず去らずこれなにもの、 二月花開く南谷の春)

翌朝よりこのことを口癖のようにいわれし。 明くる 庚 申の年の元日の発句に、見じ聞かじいわぬがましじゃ 申の年といい戯れて、 二月中句より違例の心地にて、  さのみ悩む気もなく、 二十四日に六十四歳にて正念に臨終せられし。 この人は常に大酒を好み、 仏道におろかに見えければ、 他のあざけりも多かりしかど、 心中にいかなるめでたきことありしやと人々漸愧しけり。

すべてこれらの事例はそもそもいかなる理なるかというに、 前すでに述べたりしがごとく、  夢中には一部分に意識ありて他部は休息するがゆえに、  一、 二の格段なる事柄についてはかえって思考しやすきことあり。 これに反し、 醒箕の際はある一事に心力を集めんとするも、 耳目等の感覚より種々の刺激を脳髄に与うるがゆえに、 注意をこれにひかれて一事にのみ専念なることあたわず。  かの事物を考うるに、 目を開くよりこれを閉ずる方はるかに考えやすく、 あるいは夜問寝ねて光線もなく、  また音唇の耳染に触るるものなきときは、 ある一点の事柄を深思熟考するに便なることは、 人々の熟知せるところなり。  ゆえに、 なにか失念したる場合には閉目して考うるものあり。  また、  読書家は一般に夜中灯下をえらぶものなり。 これと同様に、 吾人が夢中にて一部分の作用を起こすときは、  かえっ て特個のことを思考しやすきものあるなり。 これ実に、 醒覚の際にもよくせざりし知力作用の、 夢時においてよく成就せらるるゆえんなり。  しかもまたこれに代わりて、 夢はすでに一部分の作用なれば、ときには大いにあやまれるものを正確なりと思惟することあり。 通常はまず誤 謬 に陥るべきこと当然なれども、あるいは特殊の場合には、  右に挙げたる例のごとく、 夢中において正確に完成することあり。  しかしてかくのごとく、 あるいは誤謬をなしまたは完成するも、  いずれもしかるべき道理なくんばあらざるなり。


   第一九節 霊夢、  夢告、  夢合


さきに夢を常夢および変夢の二種となしたるうちについて、  また変夢を分けて奇夢および霊夢の二種となせり。 しかして、  その奇夢のことはすでに前節に述べたるがゆえに、  ここに霊夢につきて叙述せざる ぺからず。

そもそも霊夢とは夢中に神告、 神感あることの類にして、 未然の事柄を前知し、 あるいは遠方の事変を感知するがごとき類をいうなり。 かくのごとき神感、 霊応は、 東西ともに古来より人の信憑 するところにして、 西洋にても古代の学者はもっぱらこの説を唱道せるものなり。  アルテミドラスといえる人(第二世紀)は夢の説明につきて著名なる人なれども、  なお夢を解釈して、 未然の吉凶を告知するところの心の発現となせり。  また、 ポルフェリー 氏(第三世紀)のごとき論理学者も、  夢は菩神が悪魔の与えんとする害を告知するものとなせり。  わが国に至りては今日なお感通、 神告を信ずるもの多く、 その例は諸害に散見せり。 また、 予の直接に見聞するもの少なからず。  そのうちには、 単に事実と夢想と暗合したるものと、 また夢中に神人ありて未来の出来事を予告したるものとあり。 しかして、  世間に多く人の唱うるところは、 父兄もしくは親戚の者の病死したるときには、  必ず夢にそのことの現ずるものなりという。  これ、 露魂は幽明に通ずる力あるによるとなす。 左に種々の例を挙げてこれを示すべし。


(イ)飛騨国小林吉松氏の報ずるところによるに、 高山町宗献寺町に某氏の別荘あり。 五十歳前後の夫婦ここに住せしが、  一日老爺病を得て臥す。 その夜、  夢に奇人あり告げて曰く、「この邸の東に沿える小川に、少しく凹みある一石あり。 この石の凹みたるところを打たば、 石割れて中より金剛石出ずべし。  これを取りて、 わが皇室に献納せよ。  しかるときは必ず数十金を得ん。  ただし他人に売却すべからず」と。  覚めて後にも、 あまり奇怪のことなりしより深く信ぜざりしが、 翌夜また夢に奇人きたりてさらに告げて曰く、「汝わが言を疑うことなく、 明日小川をもとめよ。 必ず木の小枝をいただける石あらん。 これ、 すなわち金剛石を含める石なり。  かつその石の上にありし小枝は、 当邸内にある稲荷 祠 の傍らに 叫く ぺし」と。  翌朝、 人をして小川の中をもとめしに、 果たしてかかる石ありしをもっ て、 夢告のごとくして割りしに、 中に不正楕円体にして、  大豆大の硬き小石あり。  その一端、 光輝ありてよくガラスをきるを得べし。 色は金色にて結品せり。中学校長某はこれを見て、  金剛石にはあらず、  一種の玉石ならんと鑑定せし由。  しかして、 その石の上にありし木の小枝は、 永く水中に沈みてありしもののごとく、  半ば腐れて、 長さおよそ一尺五寸、 径二寸五分ばかりもありしという。

( 口)熊本県池上吉次氏の報ずるところによるに、 予に一人の弟あり。 明治二十三年七月八日午後四時、熊本をさることおよそ七里ばかりなる下益城郡中山村大字中郡、 横田某の家にありて、 二十分間ばかり座睡せしに、 夢に、 予より発したる左のごとき文意のはがきを見たり。先般依頼しおきたる足下一身上の件に付き、  至急辛島氏より足下に面会したき旨申し越されたれば、ただちに帰熊あるべし。夢覚めて後、 少時にして(午後五時)郵書到来するあり。 手にとりてこれを見れば、 夢中の文とさらに異ならざる書信なりき。

(ハ)越後国服部文氏の報ずるところによるに、 羽後の国秋田より酒田港に至る間の地方にては、 往時より、 遊魂なるものの事実なることを信ぜり。 近来は交通ようやく頻繁なるため、 他州人の笑いを恐れて、この種のことを語る者やや減じたれども、  なお土常の人は、 少しく事理を解する者すら、 決してこれを疑わず。  予、  かつて秋田にゆきしときこのことを聞き、 試みに数人にただせしに、  みな事実なりと答えたりき。しかれども、 いずれも伝聞にて、 いまだ実際遊魂を試みし者、 または遊魂を目撃せしという人に遇わざりしゆえ、 これを確信するに至らざりしが、 のち第一銀行支店の束海林絹次郎といえる人、  予に語るに左の事実をもっ てせり。 曰く、「ある年の冬、 わが姉郷里にありて大病なりとの報に接し、 数日のいとまを得て婦省せんとす。 たまたま蜜柑を贈る者あり。 よってその一半を携え帰り、 ただちに病床に行き、 まずその状を問う。病勢やや減じたるもののごとし。 ときに母そばにあり、 予に告げて日く、『病人、 昨夜夢に汝に遇わんため秋田なる銀行に行き、 楼上に登りたれども汝はあらずして若者二人あり。  一人は習字をなし、  一人は読書せしが、  そのそばに一箱の蜜柑あり。 皮など取り散らしたるを見て、 渇にたえず一顆を褐んと欲するとき夢覚めたりと語りし    と。 これ全く事実に符合するものにしてすこぶる奇事ならずや」と。 ただし、 東海林といえる人は平素好みて妖怪を語る人にあらず。  その後酒田に行き、 またこのことを問いしに左の事実を聞けり。同地回船問屋、 本間長三郎の子某、 十六、 七歳のとき、 商業見習いのため同地の白崎といえる呉服店にあり。一夜家人就寝の後、  数人と店頭に会して閑談す。  ときに某婦人隣室にありて鉄漿をつけおりしが、  にわかに絶叫して走りきたる。 よっ てそのゆえを問えば、「異事あるにあらず、 ただなんとなくものすごくしてここに至る」と答えたり。  さてまた翌夜、 同袈十余人と枕を並べて寝に就きしが、  夜半に至りそのうちの一人なる某、  にわかに大声を発し源起せり。 しかれども、  別に異事あらざりしをもっ て、  みなこれを歩として怪しまざりき。 しかるに翌朝、 かつてこの家に下婢として仕えし老婆きたり、「録日、 貴命ありしよりただちに参堂せんと欲したれど、 やみ難き用事ありて心ならずも遷延せしため、 頃日は毎夜打館にきたりし夢を見てやまず。 現に一昨夜のごときは、 貨館某室に某婦人の鉄漿をつけおらるるを見、 近づきて語るところあらんとせしに、  たちまち店頭へかけ出でられし夢を見たり。 また昨夜は、  費店にありて手代十余名が枕を並べて臥しいたるそばを通行し、 過ちて某の足につまずき叱せられし夢を見たり」と語るを聞き、  ひそかにその奇合に驚けりと。 また、 ややこれに類する一話あり。 同地回船問屋、  大泉長次郎の姪某、 同所の某家と結婚の約調う。 これより先、  某は某家の門前を通行せしことはありしも、  かつてひとたびもその家に入りしことあらざりしをもっ て、 もとより家内の様子を知るべきはずなし。  しかるに結婚の前、  夢にその家にゆき、 肥満したる赫面の柱婢と、  土蔵の前に大なるたらいに炭を盛り、  その上にほうきを置けるとを見たりしが、 その後いずれも果たして事実に合したりと。

以上の三事は、 予が親しくその人につきて聞き得たるところなれば、 根拠なき伝聞と日を同じくして論ずべからず。  かつある人の言によるに、 古来最上川以南の人に遊魂ありしことを聞かず。  されば、 魂の遊行はその以北の人に限るがごとし。  ただし以北の人といえども、 ことごとくしかるにあらず。 すなわち、 魂の遊行する人もあり、 遊行せざる人もあり。 また、 遊行するときは必ず夢を結ぶことなれど、 夢にありては通例、東京にあるかと思えばたちまち秋田にあるがごとき混乱ありて、 遊魂にはかつてかくのごとき混乱あることなきより見れば、 通例の夢と遊魂とはおのずから区別ありて、 夢を見るごとに必ず魂の遊行するものと定め難きに似たり。 また、  人により他人の遊魂を見ることを得る者あり。  かかる人はときどき屋内または道路においてこれを見る。 よっ て他日、 本人につきて問い試むるに、  符合せざることなしという。  さて、  その遊魂し象がらの容貌は、 通常の人に異ならず。  衣服は平素見慣れたるを渚すれども、 校様縞柄鮮明ならず。  ときに言を発するがごとく見えてしかも聞くべからず。  その道路を行くや、  昼間は道端を行き、 夜間は中央を行く。  もし過ちて少しくこれに触るれば、たちまちなげ倒さる。「夜の道は軒下行け」といえる但諺あるはこれがためか。かつて一寡婦あり。 ときどき他人の遊魂を見るをいとい、 観音に祈願せしに、 ようやく見ること少なくなり、年老いて後ついに全く見ざるに至れりという。 また、「遊魂には影従わず」という説あり。  すなわち、 ある娼家に一茶室あり、 炉の上に自在鉤をそなえて釜を釣る。  一夜、  某隣室にありて茶室の紙障を見るに、 自在鉤の影、 中断して下半全く映ぜざりき。 しかるに翌朝に至り、 主人が、「昨夜は某の魂きたりて茶室の炉辺に座しいたり」と告ぐるを聞きたれば、  よっ てその座せしという所を問うに、「あたかも自在鉤の影を遮る所なりし」という。 このほか、 秋田地方にはこれに類したることすこぶる多し。  いちいち枚挙にいとまあらず。

(   二  )

日高国黒沢休四郎氏の報ずるところによるに、 予は元来小鳥を好み、  常に数種を飼狡せるが、  みなよく人になれ、 竜も恐るる色なし。 明治二十一年十一月十九日の夜、 ーつの小鳥、 予の枕辺にきたり訴えて曰く、「われ過ちて捕らえられ、 在空飛翔の自由を失い、 君家にかわるることすでに一年、 籠居はもとよりわが願うところにあらずといえども、  幸いに香餌に飽き、 つつがなきを得たり。 君家脊憐の恩、  あに謝せずして可ならんや。 しかりといえども、 今やわれ魔物のうかがうところとなり、 まさにその爪牙にかからんとす。もし幸いにして飛翔逃遜することを得ば、 いっ たん君家を辞すといえども、  再びきたりてその恩に浴せん。もし不幸にして免るることあたわずんば、 再び君家にまみゆることあたわざるべし。 諮う、 愛を他鳥に移せ」と。 言い終わりて梢 然として去る。 少時ありてその鳥、 身に数傷を負い、 飛びて予の傍らにきたり哀を請うもののごとし。 予、  大いに燈き妻奴の不注意を責むるとき、 たちまち目を開けば見るところなし。 よって、その一場の夢なりしを知れり。  翌朝諸鳥に餌を与え、一つも異状なきを見て暫時外出し、 午後三時ごろかえりきたれば、 なにものか、 方言「のじこ」と称する予が最愛の小鳥をつかみ去りしと見えて、  籠破れ羽毛散落せり。 予はその昨夜の夢と符合せるに驚き、 うたた 慌 楊の情にたえざりき。 しかるに、 その翌二十一日の朝、 予は例により小烏に餌を与えおりしに、 前日つかみ去られしと思いし「のじこ」の、 たちまち飛びかえれるを見る。 すなわち捕らえてこれを検すれば、 身に数協を被りたる状、 あたかも前夜の夢に符合せり。 予、もとより夢を信ぜずといえども、 ここに至りて感なきことあたわざるなり。

(ホ)  備中国亀山園太氏の報ずるところによるに、 備前国岡山の藩士、 高木由景七世の祖に猪之助といえる人ありしが、 世々池田侯に仕え、 祁三百石を食み、 砲術をもって人に知らる。  かつて一小縫い針を糸につなぎ、 これを数十歩の外にかけ、 小銃をもって射るに百〔に〕つを失せざりしという。  その技知るべし。  寛永某年十二月二十八日、前庭の樹梢に鳶のごとき鳥とまれるを見、銃をとりて一発を試みしにあたらざりき。

しかも鳶、 自若としてあえて去らず。  猪之助これをあやしみ、  さらに鳥銃のやや大なるものに強薬を装しこれを擬す。 ここにおいて鳶、 目をいからし翼を張り、 まさに拇撹せんとする勢いをなす。  猪之助これを見て身体おのずから戦慄し、 久しく立つことあたわず。  すなわち内に入り銃を収め、  よっ ておもえらく、 われ好みて山川を跛 渉 し烏獣を猟するに、 いまだかつて過ちしことなし。 今、 鳶においてかくのごときはすこぶる奇怪なりと。 須央にして再びその樹を見れば、 鳶すでに去れり。 ために終日快々として楽しまざりしが、  その夜夢に怪物あり、 猪之助に告げて日く、「われは愛宕大権現の使者なり。 今朝所要あり、 きたりて汝が庭に小憩せしに、 汝われに対して発砲すること両回に及びたれども、 われ神力をもっ てみなこれを避けたり。

しかるに、 汝なお悟らずさらに銃を擬せしが、 中ごろこれをやめついに発射せざりしをもっ て、 われ深くとがめずして去れり。  かのとき汝もしやまらざりしならば、 汝は一蹴の下にたおれしならん。 今、 汝が受くるところの祗、 薄しというべからず。 また、 なにを苦しみて銃猟を事とせん。 爾後、 汝似みて、  また銃猟を事となすことなかれ。 いたずらに技を売り術に誇るは、 汝のために取らざるところとす。 汝、 もしよくわがおしえを守らば、 われ汝に福祉を与え、 かつ永世火災を免れしめん。 いやしくもわが言を疑うべからず。 かつ、われ授くるところの権現の神符と、  今朝、 汝が放ちし弾丸二個、 ならびに礼服(上下)一領を拝受し、  惧みて忘るることなかれ」と。 夢覚めて後、  大いに感ずるところあり、 深く自ら詢慎せしが、  数日を経て翌年正月元旦書院に異声あり。  ひそかにこれをうかがえば、 年齢まさに十三、 四歳と見ゆる朱衣の一童子、  手になにものかを捧げきたりてこれを坦上に猶き、  頴 然として去れるを見る。 すなわち、 入りてこれを検すれば、夢中に聞きしところの神符、 弾丸、 礼服ここにあり。  猪之助感激しておかず、 これより毎朝その礼服を着して権現を拝するを例となし、 生涯ついに殺生をなさざりしという。 右の三品ならびにそのとき猪之助が用いし銃、  ともになお高木由景氏の家に蔵せり。  余もかつて明治二十三年三月、 これを一覧するを得たりしが、なにびとといえども岡山小橋町八十七番地、 同氏の家に至らば、 またこれを見ることを得ん。

(へ)  静岡県八木本之助氏の報に、予が家は世々農を業とし、 当時、 父母妻子をあわせて五人一家をなす。しかして、  予は明治十二年以来某官術に奉職せしが、 同十九年二月二十日公務を帯びて家を出でて、  十里ばかり隔たりたる地にゆき、 滞留すること数日にして、 同月二十八日夜に至り、 予が妻、  提 灯を携えて某の涯に紡裡し、 父、  水に溺ると告ぐる夢を見、 いったん覚醒し再び眠りしにまた前夢をつぎ、  さらに父のおぼれし地名を呼ぶを聞き、 驚き覚むれば旭日すでに窓を照らす。 すなわち起きて盟嗽し、  つらつら昨夢を追懐す。 よっ て思うに、 頃日大風暴雨ありしことなければ、 某    の暴 淑 するはずもなし。 また、 父は予の家を出でしときすこぶる健全なりしをもっ て、 畢 党、 妄想の夢を結びしに過ぎざるべしと。 さらに意に介せざりしに、  この日すなわち三月一日午後六時ごろ、 父大病なりとの電報に接す。 すなわち、 大いにおどろきただちに家にかえれば、 すでに没せりという。  よっ てその状をただせば、 父は二月二十八日朝、 故人某を訪わんとて家を出ず。  その出ずるに臨み、「黄昏までには必ず帰宅すべし」といいおけり。 しかるに、 夜に入りてなお帰らざるをあやしみ、  妻、 下婢を従え提灯を携えこれを道に迎えて逢わず、 空しくかえりて母にはかる。 母おもえらく、 途次あるいは親族を訪い、 よっ て一泊するならんと。  さらにたずぬることをなさざりしが、  翌三月一日午後一時に至り、 父が某川の涯に半身水におぼれて死しいたるを発見せり。  今その状を考うるに、二十八日帰途、 某川の水涯を過ぎんとして過ちて磋鉄し水中に倒れ、 その際、  水杭にてはなはだしく前額を打ち悶絶したるため、  ついに溺死するに至りしもののごとし。 ここにおいて、 予は前夢の奄も事実にたがわざりしに驚けり。

( 卜)『新著聞(集〕   に曰く、「信州高遠のもの、 子供あまたありしが、 子供わずらいて死すべきときに至りて、 おやがゆめに山伏きたり、 わずらう子を引き立てゆくを、 やらじと引き合い、  山伏に引き取らるると思いゆめさめぬるに、  翌日はかならずその子死しけり。  かかること数度におよび、 今ひとり残りし子もかぎりにわずらいしに、 例の山伏うつつに見えてつれゆかんとするを、  さりとも、 このたびはやるまじと身のかぎりの力を出だして引きとめしに、  山伏まけてかえりしと思いておどろきし。  つぎの日よりその子心よくなり、 その後はわずらうこともなかりしとかや」

(チ)「新著聞集』に曰く、「加賀の鉄砲組中村半左衛門が子、 夜寝るとひとしく何者やらんきたりて灯を消し、  衷たる上より押さえ、  へらにて胸より下へこそげける。  その苦しさ、  たとえていわんものなし。 起き上がらんとするに、  その剪きこと大盤石にておさうるがごとし。  かく苦しむこと夜々に及びしかば、 次第に気力も衰えぬ。 また、 次の間に僕 を裂させけるも、 同じく悩みし。 あるとき夜伽に人々きたり語りおりけるに、 庭の向かいのくさむらの中に物の影ちらちらとしけるを怪しみ、 鉄砲にてねらいすまして打ちければ、猫か狐か聞き分けがたき声にて鳴きすてて、 高塀の上に飛び上がり逃げ去りける。  その跡を見れば、  へらと小石と捨ておきたり。 その後はまたもきたらずとなん」

(リ)  同書に曰く、「浪州海西郡小深井村に発念といえる道心者ありき。正直にして念仏のほか他事を知ら ず。 寛文六年八月十五夜に弥陀の三悠来迎ましまして、「汝、 来年の今日往生を遂げるなり、 その用意せよ」と、 あらたなる霊夢をこうむりしかど、  ただありがたきこととのみおもいて過ごし、  その翌年正月十五日また同じ夢を見る。  さては御告げなるぞとて、  いよいよ信心を励まして人々にもかくこそあれと語る。  月日の車めぐりきて八月十三日の夜、『明後十五日午の刻、  決 定往生するなり  と、  また夢の告げを得たりければ、十四日に新たに剃髪し、十五日には自斎をこしらえ棚本までもしまいて、行水沼らかにして里人に語りしは、『御告げすでに三度に及びしかば、 定めて今日臨終にてこそあらめ。  さりながら、 少しも心くるしきこともなければいかんならん』と戯れし。  近隣の者ども、 今日は発念の往生なりとて、  知るも知らぬもきたりつどいし。 巳の刻に至りて発念、 開 闊 の鐘うちならし念仏を始めしかば、 数百の道俗、 異口同音に高声に念仏申すほどに、 もののあやも聞こえがたかりし。 発念は鐘うちやめて、 左に数珠をかけ手をさしあげ、  右の手には枝木をもちながら、 いつかはや安座の体にて臨終しき。 鐘のやや久しく嗚らざりしかば怪しみて見るに、暖気ことごとくつきぬ。  人々あまりに貴<梵えて、 三日諸人に拝ませける」

以上は、 わが国にて経験せる古今の事実なるが、  そのほかにもこれに類するもの、 いちいち枚挙にいとまあらず。  かの小西行長が夢に朝鮮の地形を見てこれを図に表ししに、 果たしてその実に合せりというがごとき、 あまたの実例あるも、  ここにこれを略す。  しかるに、 西洋にもこれに類したる事実は心理学の書中に多く見るところなれば、  今、  ヘポン氏の「心理書』に出だせる一、  二例を挙ぐること(西周 氏の訳むによる)左のごとし。

(ヌ)  夢はときとして前兆をなすことありや。  しかして、 これいかんか、 これを解釈するを得べきか。 シセロは夢の前兆というべき一奇例を記せりと。  余いう、  これ、  かのニアルカジア人のことを指すなり。 昔この二人メガラにきたり、おのおの別に 僑 居しけるに、その一人、夢中に他一人にきたれること、二度に及び、初度は救援を求めたれども、 後にはすでに殺死せられたるをもって、 明朝つとにこの都府より出でて、  ある門を通行する、 被蔽せる車中より、 そのしかばねを取らんことを、 その友に報じたりき。  その人、 この夢に鵞き、  かくのごとくして、 その所に至りければ、 果たして車ありけるをもっ て、 ついに、  そのしかばねを検出し、 その凶犯を捕らえて、 これを官に付したりと。

(ル)  他の一事例も、  おそらくは、 またひとしく、 駕くべきことにてロンドン期刊紙に記せり。  コーンワルに住める、  ウイリアム氏といえる人、 一夜、  英国の内閣尚書、 平民房の廊下にて、 殺されたる夢を三度まで見けるをもっ て、 深くこれがために煎きて、  その知人にこれを説話せること、  数人に及びけるが、  後その日夕に及びて、  内閣尚書のペルセワル氏、 夢のごとく暗殺せられたることの確報を得たりと。 しからばすなわち、 これ果たして、 実に湊合の一奇事たりや。  これ別の事理あるにあらず、  ただ偶然に属し、  そのことのごとく夢に現れ、 その事実と、 かくのごとく密に相符するは、  ただ偶然なるか。 しかるに、 これもとより、この一事例に限るにあらず。  かくのごときこと記伝に多し。


(ヲ)  学士ムールは『心体相関運用」という、 切要なる書の著述者なり。 その中に、  自己に、 視察したることなりとして、  つぎのことを載せたり。  ム氏の一友、  かつて郊外の埜地において、 墓誌を読むことを好め一夜夢みらく。  その慣習のごとく登地に至れば、  たちまち新廷ありて、 目に触れ、  意をひけり。  つきてこれを見れば、  その親友の砥にして、 死没の月日、  姓名を表して的然たれども、 その友は、 すなわちその日の硲夜に、 ともに会話して歓を尽くせし人なり。 これをもって極めて驚愕したれども、 ただその夢なるをもっ て、 再びこれを思わず。 かつてこれを、 追懐することなかりしが、 数月の後、 その友の訃告を褐たりしに、その死没は、  夢中に墓誌を読みしその日なりけり。

以上の諸例にて軍夢とすべき点は、  要するに夢にて未然のことを知り、  遠方のことを感じ得るというにあり。

これにつき余の意見を述ぶれば、 第一に、 その諸例の虚構に出でたるやいなやを考えざるべからず、  第二に、 偶然に起こりたるやいなやを考えざるべからず。 古来の奇説、 怪談は十中八九みな小説的構造説にして、 無根の事実を想倣をもっ て作為し、 あるいは針小の事実を棒大に張大し、 種々潤色仮想したるもの多きをもっ て、確実なる事実なりと伝うるものも、 容易に信拠すべからず。 しかれども今日にありては、 その事実の真偽を審定するに道なきをもっ て、 構造的事実をそのままに存せざるを得ず。  ただ、 余が世人に望むところは、  古来の記録上に存する事実をもって確実なりとみなすべからざれば、 これより目前に経験する事実について、 その道理を考定することに注意せられんことを。  しかして、 古来伝うるところの事実は、 ただ、  その参考に備うるよりほかなし。  今、  余が説明も、 世人の後日における注意を促さんまでのみ。 もしまたその諸例は寸分の虚構を混ぜずとするも、 なお偶然に生じたるかいなやを考えざるべからず。  偶然のことは「純正哲学部門」第一講に論じたることなれば、 よろしくこれを参看すべし。

しかして、 余がここに一言せんと欲する点は、  霊夢と盟夢にあらざるものとの比例いかんにあり。 古今束西、数千数百年間、 盤夢として伝うるものはなはだ多きがごとしといえども、 これを盟夢にあらざるものに比すれば極めて少数にして、 比較するほどのものにあらず。 仮にわが国をもってこれを例するに、  千年間に人々の見しところの夢はいくばくなるやを考うるに、 その数はもとより確定しがたしといえども、 想像をもってその一斑を知ることを得べし。  たとえば国民三千万ありと定め、  その十分の一は毎夜多少の夢を見るものと想像し、  一年中全国民の夢の数いくばくなるやを推測するに、  十億九千五百万の夢をみるべき割合なり。 これに千年を乗ずれば一万九百五十億の大数を得べし。 もっとも、 古代は今日のごとき人口を有せざれば、 よしやこれを折半して考うるも、 実に幣多の夢を得ること明らかなり。 しかして、  霊夢として世に伝うるもの、 たとえその大半は記録上に存せずといえども、 夢の総数の何万何億分の一に過ぎざること、 問わずして明らかなり。 果たしてしからば、  霊夢はいかに不思議なるにもせよ、 偶然の暗合と断言して竃も不可なることなし。  世の霊夢を信ずるもの、  霊夢のみに注意せずして、 よろしく霊夢にあらざるものに比較して考うべし。 これ、 余がいわゆる物理的説明に属するものなり。 すなわち、「純正哲学部門」第七節に挙ぐるところの蓋然箕定法によるものなり。

つぎに心理的説明によるときは、  右のごとき霊夢は、 これを精神そのものの作用に帰するよりほかなし。 すなわち、 夢によりて未然のことを前知するは、 自ら信ずることのあつきより招ききたすところの結果ならざるべからず。 例えば、予が郷里に一人あり。 ある夜、 夢に神のごとき一異人きたりて、 汝は来年五月に死すべしとの告示を受けたりしが、  戎名さめて自ら驚きかつその言を信じいたりしに、 果たしてその月ごろに至り、 病にかかりてついにたたざりしことあり。

この例は、  一部は自身の健康が漸次衰弱するより、 右の月ごろまでよりは永く保つことあたわざるべしとの考えありしがゆえに、  このことの夢に現れて時日を告示するに至りたると、 つは自らこの夢告を信 憑 せしより、実にこの結果を見るに至りしものと解して可なるべし。  けだし、  吾人が夢中に病気を前知することを得ることは、 さきに第一四節においてすでに説明したるところなるが、  その場合は身体一部分の病症なりき。  されども、すでに身体一部分の病症にして前知せらるるものならんには、 身体全部分の病死をも自ら前知することを得べきはずなればなり。

また、 夢中には前述のごとく、 平時、 無意識中に記憶して存せしものの、  偶然意識内に発現するものなるがゆえに、 吾人が他人の病死を遠方にありて感知したるがごときもまた、 これをもっ て説明することを得べし。  すなわち、 吾人がある人に一カ月または一年前に直接に面会せしとき、 あるいは書面、 談話または一己の想條によりて、  かの人の健康は一カ月もしくは一カ年くらいよりは永く保つことあたわざるべしとの観念いやしくも起こらば、 爾来この念は無意識中に存して、 その心に全く忘却すと思うも、あたかもあらかじめ期したる時日に至れば、無意識中より発しきたることは決してでき難きことにはあらず。  なお、 前夕眠りにつく前に、 晨起の時間を心に期するときは、 翌朝その時刻に醒覚するとその理を同じくす。 ゆえに、  その夢の時日と相符合することあるも、決して奇怪となすに足らざるなり。 なお、  その理由は「純正哲学部門」ならびに「宗教学部門」を参考して知るぺし。

もしそれ、  箆夢をもってただちに神告なりとせば、  一層疑うべき難点を生じ、 到底これを解説することあたわざるに至るべし。  その理いかんというに、 第一に、 たとい霊夢というも、  この盆夢に現るることは多少吾人の心にて想像し得らるることに限り、 全くわが想像以外の事柄はいかなる霊夢にも現るることなし。  もし、  真に神の告示とせば、 吾人の到底想像すべからざることの夢中に現るべきはずならずや。 第二に、 夢中にて見るところのものは、 いかに奇々怪々なるものも、  つらつらこれを査験し討尋するときは、  必ずわが記憶中に意識的または無意識的に存せしことに限れり。  もし、 真に神告に出でしものならんには、  さらに記悦に存せざりしことの夢中に現るべき理ならずや。  アメリカ発見の前にアメリカの実景現れ、 西洋と交通の前に同国の事竹見え、 洋学の渡来以前に西洋文字の告示せられしことあらんには、 まさにこれを神告となすこと可なれども、 吾人はいまだかつてかかる事例ありしことを聞かざるなり。  第三に、 夢中の想像と事実と符合すというも、 詳細にこれを験するに、決して符合するにあらず。 例えば、 拶に人の葬式を見、 その死者のだれなるを覚えず、 さめて親戚もしくは朋友の訃言に接す。 しかるときは、  夢と軍実と暗合せりという。 しかれども、 これ決して暗合にあらず。  また、 朋友の死を夢みて親戚の訃音に接し、 父母の死を夢みて兄弟の死に会するも、  みなこれを夢の暗合となす。  もし、くのごとき例をもって盆夢とするときは、明日の晴天を夢みて雨ふり、人を訪うて在宅なるを夢みて不在なるも、事実に適中せりといいて可なるべし。  世間たれか、  かくのごとき夢をもっ て霊夢とするものあらんや。 狂人といえども、 なおその非なるを知らん。  しかるに、 もし神霊ありて告示するならば、 なんぞ事実と寸分も違わざるように現見せしめざるや。

例えば、  前に掲げたる(へ)の一例のごときは、 だれも符合として怪しまざれども、 その実、 決して符合にあらず。 その夢に現ずるところは、 妻の 提 灯を携えて堤上を祐他するを見、 妻告ぐるに父の水に溺死するをもってす。 しかるに実際、 妻はそのときいまだ溺死を知らざりしなり。 また、  その夢には妻一人のみ祐祖するを見たりしがごときも、  実際、 表は下婢を従えて二人にて防裡せしなり。  かくのごとく、 大体は夢と事実と相合するも、その詳細の点をいちいち比較するときは、 二者大いに異なるところあるを見る。  もしこれを夢境にありて魂と魂と相通ずるものとするときは    一層その意を解するに苦しまざるを得ず。 もし相通ずるものならば、 なにゆえに実際と寸分違わざる実況を見ざるや。  もしまた、 死者の亡霊きたりてその事惰を告ぐるものとなさんか。 しかるときは、 自らその今死せるを告示すべき理なり。  これによりてこれをみるに、 この一例のごときも偶合の一種とみなすよりほかなし。  また、  ヘボン氏の『心理柑」中に示すところの一例、 すなわち(ヲ)例のごときも決して符合という ぺからず。  なんとなれば、  一夜、 夢に墓地に至り、 友人の函の新たに建設せるを見て驚きしが、 その後、 友人がその夢に見たる時日に死没せしを聞けり。  これ符合せるもののごときも、  友人はその夜に絶命したるのみにて、  いまだ埋葬したるにあらず。 しかるに、  当夜いまだその墓の建設したるを見るの理あらんや。 もし、真に死者の霊魂の幽明の間に通ずるものならば、 必ず、 その実際絶命するに至りし事情を告示すべき理なり。  なんぞ、 函によりてこれを判ぜしむるがごとき迂遠なることをなさんや。  かくのごとく符合の点をいちいち比較しきたれば、  霊夢の一事実について半分あるいは三分の二は符合せるも、 他はしからざるを知るべし。 その他の例も、 奇はすなわち奇なりといえども、  いまだ真に不思議なりというべからず。 今、 余はその奇中の最も奇なるものを挙げて、 その他を略すれども、 よろしくそのいまだ霊夢とするに足らざるを推知すべし。

これによりてこれをみるに、  霊夢を解して神仏もしくは亡霊のいたすところとなすは、  かえっ て人を惑わしむるに至るのみ。 しかるに世人一般に、 霊夢の現象中そのいくぶんか符合するところあれば、 全分密合するものと速断し、  さも不思議にいい伝うるものなれば、 今日、 冊子もしくは伝説の上に存する霊夢の事実のごときは、 決していちいち信拠すべからざること明らかなり。 なんとなれば、  霊夢の中に事実と符合せざるところありても、かくのごときは人の記憶にとどまらず、 ただ、  その符合せる部分のみ人の注意を引きて世間に至ればなり。 果たしてしからば、 今日の記録および伝説に霊夢として存するものは、 符合せる部分のみを掲げしものとみなして可なり。  これ、 もとより人の有意的に取捨したるにあらずといえども、 無意自然にかくのごとき淘汰の生ずるものなり。  ゆえに、 さきに掲げたる実例のごときも、  もっ ばら符合せる部分を存して、 無意的取捨によりて霊夢となりたるものとなすも、 あえて不可なることなし。  しかるに、 その符合せるもののうちに、 なお符合せざるものを発見するにおいてをや。  世人の論理に疎なる、 推して知るべきなり。

以上論ずるところによりてこれを見るに、  余は極端の排盤夢論者のごときも、  その実、  決してしからず。  ただ余は、 世間の盤夢はいまだ真に霊夢とするに足らずと信ずる者なるのみ。 もし世に真に盤夢あらば、 我人の論理をして十分に満足せしめ得るものならざるべからず。  かつ、  世に真に不思議とすべき霊夢あらば、  さらにその盟夢のあり得べき道理を極めざるべからず。 例えば、 霊夢をして神仏の力に帰するときは、  神仏はなんの目的、 理由ありてこれをなすかを考えざるべからず。  また、 亡霊が人の夢と相通ずることを得とするときは、  なにゆえに夢と通ずるものと通ぜざるものと別あるや。  父母死して、  その亡  悉が他郷にある子供の夢に現るることあるも、その例、 実に希有にして、 現れざる例かえっ て多し。  これ、 その了解し難きところなり。 また愚俗は信仰あつきものには神が夢にその形を現してその身の吉凶を告知すというも、  信仰あつきもの必ずしもしかるにあらず。  信仰なきもの偶然、  神の告知を得たるものあるはなんぞや。  これによりてこれをみれば、  霊夢の有無は信仰の彫薄によらざること明らかなり。  ゆえに余は、 雹夢の原因を神に帰するときはかえって困難を覚ゆべしという。 あるいはシナにありては、 天と人と相感応する道理によりてこれを説明せんと欲し、 あるいはまた西洋にありては、電気もしくは精気によりて霊夢感応を説明すれども、 これみな憶想の説にしていまだ信ずぺからず。 しかるに、もし霊夢をもっ て、 神秘にして人知の測り知るところにあらずとするときは、  これ、 いわゆる理外的解釈にして学術の範囲外なれば、 余が妖怪学の目的とするところにあらず。 もし学術的に講究しきたらば、 従来の霊夢はいまだ真の盤夢にあらずして、 その真の霊夢は将来に向かいてもとめざるべからず。  しかして余は、  世間のいわゆる霊夢はかえって霊夢にあらずして、 世問の常夢のかえって霊夢なるを知る。  余、  かつて数年前より古今の霊夢を集めてこれを講究するも、 いまだ真正の霊夢を発見せざるも、 唯一、 事実の霊夢に近きものに接せり。  これ、木原松桂氏の一代紀行なり。 同氏は安芸国加茂郡竹原村の産にして、  今よりおよそ百年前に霊夢を感ぜしことあり。その顛末は同氏の自ら筆記せる紀行中につまびらかなれば、左にそのうちより要点のみを摘載して示すべし。

わが母上の御名はおさな。 わが家に嫁したまいて四男    女を生みたまう。 安永八  巳  亥、 われ四歳のとき、御里へ帰りたまいて再びわが家に帰りたまわず。 われ十四、 五歳に至りて、母上追慕の心いよいよ増さりて、御跡をたずね得んことを心に誓いけれども、 家貧にして他行なりだたし。  よっ て医とならんと思えり。 これ諸国を周遊するに便なればなり。 寛政五年、 われ十八歳のとき医師の弟子となりぬ。 亭和二年、  われ年二十七歳。  春正月、 母のために周遊せんことを師父に請い、 許しを得て出立す。  その年十月十六日、  阿波の国西林村という所に至り、 夢中に母上を見奉る。 円頭黒衣の姿なり。 同三年正月三日、 讃岐金毘羅にて、 母上わが家に帰ると夢む。 四月六日、  高松領歌野郡器土村に宿す。 末明に、 だれとも知らず母上を伴いきたると夢む。  この行、 父上の病のため志を遂げずして家に帰る。  文化元年三月夜夢に、  海辺にて長き松原の続きたる波打ち際、 白雪のごとき砂原にて、  黒衣を着たる女僧五、 六人連れにて、 松原の中ほりくぼみたる砂道あるを通り、 向こうに禅院ありてその方へ急ぎゆきける。  その中に母上の御顔に見違うかたなき女僧あり。  ただちに近寄りことばを掛けんとせしに、 疾く走りてついにその影を失うと党えて夢さめぬ。 同三年四月二十七日早天、 一宇の禅院より母上の白骨を得てわが家に持ち帰るを夢む。 同七年三月夜夢に、 前のごとく海辺長き松原続きたる砂原に、 漣滸の打ち寄する気色の美なるをながむる所に、 墨染めの衣着たる女僧    人忽然と現出し、 われに向かい、「汝が母なり」といいて禅院に至る。 松崎の中その影を失うと見て夢はさめぬ。 同八年正月二十九日早天、  しきりに眠りを催す。  夢にかの広き海浜の雪のごとき砂原に、 小松の別生したる所に至る。 北と党ゆる方は海にて景色よし。 はるかに南をながむればその間数里にして、 連山波湖のごとく東西に走る。 中に一山突冗として削り成せるごとき閲峰あり。 その左の方に神社ありて華 表 も見ゆ。 はなはだ勝景なり。 これをながむるうちに、 母上に祐彿たる女僧染衣を着し、 われを顧み、 かの麻峰を指さし、「あの山こそ安芸の」というに、 たちまちその影を失いければ、 すなわち夢さめぬ。 文化十一年の三月、  夢にかの海辺並木のまばらなる、 白雪のごとき砂浜を溝のごとく掘りたる道を女僧五、 六人打ち連れ、  松間に見ゆる禅院の方へ急ぎ走れり。 その中にまたわが母上に初彿たる一僧あり。  早くその道を追いていわんとせしに、   いにその姿を見失う。  文政九年四月二十二日暁の夢に、 母上に逢い、  ウジミ坂とただ一言仰せられたるように党え、 これよりウジミ坂という所はなきやと諸人に問えども、  知れるものなし。  文政四年ふと思い出だせしは、 昔、『西遊記」といえる害を読みし中に、 薩摩潟に吹上の浜といえる所あり。  その歌に、「吹上の浜は真砂に埋れて老木なからも小松原かな」とあり。  われこれをつらつら考うるに、 老木を埋むるほどの砂のありける土地、 いまだ聞き及ばず。  わがこれまでの夢、  いつもかわらぬ海辺、 幾里ともはかられぬ長き小松原なり。  よっ て今思うに、  かの吹上の浜こそわが見る夢によく符合せり。 いそぎ薩摩に至らんとしきりに思い立ちける。 とかくするうち、  今年もすでに霜月に至りぬれど、 いまだその日を得ず。 この月八日夜、  九州行きの路費かつ留守中のことなど、  また越方栂上の御事思い続け、 暁鏑を報ずるまで寝につかざりしが、  にわかに心神朦朧として党えず仮寝す。  夢にかの海浜に至りぬ。 折から微風吹きそよぎて漣済、 浜の砂を 淘 る。その前真向こうに見ゆる孤島ありて、  島中みな平地にして松樹生い茂れり。 光景極めて美なり。 これをながむるうち忽然と染衣の女僧きたり、「われは汝の母なり」と、  わが手を取りて小児のごとく背をなで、「汝、積年われを慕う心のうれしや」と悌 泣 したまう。 あまりのうれしさに、 しばしは言葉も出でざりしがふと心づき、「今、 母上のおわする所をばなんと申すぞ」と問い参らすれば、「ヨナゴなり」と答えたまう。 また、

「いかなる人の所におわするぞ」と問えば、「ヨネタヤモキチ」とのたまううちに、  門前の馬の鈴音、  人の放歌の声に夢はさめぬ。このとき、 わが故郷の兄上、  幸四郎といえるもわが家にきたりいませり。  夜明けてこの夢を語る。  朝飯を喫するとき、 門前にたまたま老人の乞者あり。  内に呼び入れ食を与えて後、「何国の者」と問うに、「作州津山の者なるが、 今は回国の身となり、 このたび厳島へ参らんと思いてきたれり。  子供も多く田畑も持ちて、若きときは小間物商いして伯者の米子へ通いしこともあり」など語る。  われこれを聞き、 夜前の夢の虚実を試みんと、「米子はいかなる所ぞ、 宿はなんといいしぞ」と問いければ、「片原町木屋仁左衛門と申して、 前は船着き松原あり、  後ろも同じく松多くして風鋲よき所」という。  われまた試みに偽り問いて、「われも先年米子に遊びしことあり。  米田屋茂吉という者ありて、 この家にもと竹原生まれの婦人、 かかり人となりておれり。  これを知らずや」と問うに、「その人は知らざれども、 その米田屋という家は知れり」という。 よってその地の風棗、 全く夢中に見たる所と異ならざるを聞き、  これ必ず神盟のわが宿志を果たしむる 祥  兆 なりと思い、 九州行きをやめ急ぎ伯州に赴かんとす。  されどもこのころは、  備雲の問雪深くして二丈余も積めることを聞き、 春暖雪尽くるを限り発程せんと支度しぬ。  文政五年春に至りて、 図らざりきわが身、 病にかかりて急に発程することを得ず。  八月の末に至り、  わが足痛すこしく減ぜしかば、 われは輌に乗り上下四人、九月朔日に発程す。  米子に到普後、 両三日ありて足痛癒えければ、  かの米田屋茂吉なるもの同所岩倉町にありと聞き、 その家に至り聞き合わするに、 主人夫婦壮年の者にて、「古きことは一円知らず、 近年旅人の寓居せることなし」という。 これより米田屋と家号せるものあれば、 すなわちゆきてこれを問う。  みな「さることなし」という。  米子の近郷はもちろん、 南は裳州、 東は因幡街道までわれ自らゆきてさぐり、 その間にはこのはなしを聞き、「志ある者、似寄りたること聞き出だせば告げきたりしが、みなわが母上にてはなかりし。

伯州と雲州との国境は会見郡渡村といえり。  この渡りを経て雲州縫浦に至る。  米子より縫浦まで七里あり。この渡りの船人市蔵という者その話を聞き、 手をうちてさても不思議のことなるかな、  その婦人は当村にて死しけるが、 今もその家存せり。 この村にて夫もありて子も男女ありとて、 生涯のことどもはなしける。  よって明日、 われ渡村へ行き宿を定めぬ。  さて人あまた集まりてその見聞せることを語りける。 中にその所生まれの子もきたりおれり。 その人、 母の故郷にありしときのことども、 問き此えて語りけるをわれつらつら聞くに、  全くわが母上の御事に疑いなし。  されども、 なおもくわしく聞かんとせしが、  夜すでに魚鳴に至りければ、  衆みな辞し帰れり。  われも打ちふしぬれどまどろみもせず。

今宵この里人の物語を聞き、  いとど越方のなっ かしく思い続けてしののめ近くなりけり。  たちまち一睡するうち、 夢に以前のごとき白砂の海浜、  松樹列生せる所に至り風景を見るうち、  黒衣の女僧きたるを見れば母上にていませり。  近くよりよくよく見るに、 前の夢にかわり昔にあらぬ御事は、 両眼ともに盲いたまいけるにいと悲しくて御手を取り、 情なき御ありさまと申しければ、  わが手をしかととりたまい、 なんの言もなく深く沸泣したまいぬ。  このときわれいいけるは、「これまでいくたびもこの海浜にて行き逝い参らすれど、はかなき夢にてついに御姿を見失いぬ。  今はもはや放しまいらせじ。  ただちにこの輿にめしたまえ」と、 われ米子にて乗りきたりし輿に乗せ、 ただちに高野山の北なる雲州領の番所の前を通り、 ここより南なる一人通りの細道、 篠笹原の坂路を急がせ帰る折から、  思いがけなき篠原おしわけてあらわれ出ずるものあり。   りかえり見るうちに、 宿の主人「朝飯たべよ」と起こすに夢はさめぬ。

朝飯終われば渡村の人々またきたりて、 かの生前のことを語るを聞くに、 これ真の母上にてあるべしと知りぬ。 異父弟長七いう、「われ八歳のとき父源兵衛、 汝に母の故郷を教えおかんとて、 われを召し連れ御国もとへ至らんと、 高の山のあなたまで参りしに、 折節五月雨降り続いて行路はなはだ難儀なりし。  その上、 少し痛わりはじまりて、  ついに御国へは至らずして帰りし。  また、 ここに    つの奇事あり。 今年七月十四日、母の位牌に華の木三本花瓶に挿してそなえしに、  生気盛んにして花瓶の中にて新芽を出だし、 枝葉繁茂し、はじめの下葉は枯落して、  新葉盛んに生じけるゆえ、  悪事か善事のあるならんと近隣の者も見にきたり。  少しも水を加えざるに、 後の枝葉萎落し、 また新芽を出だし、 日を追っ て枝葉繁茂すること、 また前のごとし。後には瓶中水尽きぬれど、  その木はもとの色なりと、 誠に奇談という ぺし。  かくて、 衆人のいえるところ誠に母上の御事と符合し、  かつ、 われたびたび見し夢中の地形、 この渡り村より弓の浜の景色に違うことなければ、 これ必ず母上の御事にてあるべしと決しぬ。

ここにおいて、  菩提寺の大祥寺に参り和尚白元に逢う。 御廷は大祥寺門より一町半ばかり東、  米子より出雲松江の往来渡り口の道の北側にあり。 明日、 異父弟長七の家に至り御位牌を拝す。 さて御位牌に供えし花の木を見れば、 長七が言のごとく、 瓶中に挿しながら生気盛んにして仏培の天井に達す。  しかれども、 なおその其偽を試みんと欲し、たまたま酒の王 少 玄が事跡を思い出だし、血を死体にそそぎてもっ てわが疑いを解かんと、 このことを長七に説きければ、 しかりとせり。 よって長七を伴い寺に至り議しけるに、 和尚許諾し、「速やかに試みられよ」といえり。  われここにおいてまた考うるに、  万一他人の骨にても滲湿して透徹することあらば、 このことまた益なし。 古人よく自他の骨を試みしやいなやは知るべからずと思いて、 これより米子に至り官に訴えて刑人の枯骨を諮い受け、  わが血をそそぎ試み、 もしこれに浸透するときは、 これまたやむにしかずと約して宿に帰りぬ。  渡村の人、  わが宿にきたり語りけるは、  ここに当春畑の底を掘ることありしに、 たまたま全体そろいたる枯骨あり。 これを大祥寺の秘地に埋めたりと。 われこれを聞き宰いなりと思い、 即時に寺へ行き墓に至り、 事すまば供毅して参らす ぺしといいて掘り出だし、 顧骨を寺へ持ちきたり、 これを洗い、  少時ありてわが右手を刺しけるに、  おびただしく血出でぬ。  ただちにかの顧骨に受けること暫時、 その骨上の血の乾くを待ちて洗浄し去れば、  もとの白竹となりぬ。 ここにおいて、 他人の骨には染透することなきを知れり。  かの古骨はもとのごとく埋ずみ、 回向を寺へ頼みて帰りぬ。  かくて衆人と母上の秘所に至り拝礼して、「ただいま御募所を掘り、わが血を御遺骨にそそぎ滲透せざるときは、わが母上にてはあらざるべし」といいて御墓を掘らせけるに、 この地もとより乾脆の粉砂なれば、 ついに葬骸を掘り出だしぬ。 謹んで拝し奉るに、  全身の御骨そのまま存して類敗せず。  御顔と御胸板には肉も存せり。  ことに御両眼閉じたまいて、  上下瞼胞の肉もありて睡眠したまうごとくなり。  御歯二枚出でて、 われ五歳のとき見奉りしごとくにて、 両の御手は膝にもたれぬ。  いずれの御骨にかそそがんと、 右の御手をなでけるに、 御臀骨たちまちわが手に落つ。 これを清水にて洗っ て後、  わが左手を刺せば血おびただしく出ず。 ただちに御骨にそそぎければ、  みなあけになりたり。  また新水をもって御骨の血を洗い落とすに従い、 赤雲の浮動するごとく浮き出だし浮き出だし、 ただ一面の紅色となれり。  われここにおいて、 同血分身の理違うことなきを知れり。なお目を放たずこれを見るに、 紅色の一遍のそのうちをきりて、  また一条の白線色をひけり。  その色しばらく変わらざりければ、 御腎骨もとのごとく続き合わせ、  御尊体をもとのごとく埋葬し奉り、  ただちに母上なること明白にして、 積年の志願遂ぐることを得。 うれしくもまたありがたく、  落涙することを覚えざりし。

この場にきたれる人々、 御両眼の肉脱落せず閉じて眠りたまえるごとく、 御胸板のまた痩のあるのみにして御存生のごとくなるを見て、 われこの村にきたるはじめの夜、 盲目となりたまいたる夢と、 今日御逍骸のありさまと符合せるを奇異のことなりとせり。 ここより、 わが主従と長七と海浜にそいて長七が家に至る。  右の道筋はみな母上の往来したまいぬる縦 跡なり。

渡村の南を望むに、 この村と雲州領大根島の間、 もと十町ばかりありける由。 今は両国ともに新田を築き出だし、  その間わずかに一、 二町ばかりに見ゆ。  大根島は平地にて松樹列生し、 はなはだ佳景なり。 なお、この米子より四里ばかりの行程平地にして、 田畑のほかみな白寒のごとき粉砂にして、  わずかなる小石もなし。 この地、  われたびたび夢に見し絶景に変わらず。 また、 米子より束浜口へ二里ばかりもあらんか。  渡り村より淀口までは六、  七里の行程かの白砂にして、 諸人銑足にて歩むこと自由なり。 他国にはまたまれなるべし。 ここより御国領高野山ならびにカノウ峠を眺望すれば、 山形波溝のごとく見ゆ。 この地に至り見れば、前年夢中に母上の「あれこそ安芸の山なり」と指したまいしは、 このカノウ峠のことなりけん。 今その実なることを知れり。  文政五年九月朔日発程して、 同霜月十日、  ついに積年の志願を遂げて家に帰りぬ。

以上は木原松桂紀行の要略なり。  氏がはじめてその母を夢にみしより、  二十一年目にしてその目的を達せり。これ実に奇夢中の奇夢、  霊夢中の霊夢というべし。  世に夢の符合せるもの多しといえども、 いまだかくのごとき奇合あるを知らず。 しかるに余は、 なおこれをもって霊夢となすに足らずと考うるなり。 まずその符合せざる点を挙ぐれば、  第一に、 夢中にみしところは染衣の女僧なりしも、 実際はその母決して女僧となりしにあらず。 これ、 あに符合というを得んや。  第二に、 夢中に聞きし場所はヨナゴなりしも、  実際その地は米子にてはあらざりし。  たといその近傍なりとするもいまだもって符合という ぺからず。  第三に、 夢中に聞きしところは米田屋茂吉なりしも、 実際母の寄留せし家は全くこれに異なれり。 その家の名は前に略せしも源兵衛と称せし由。 ゆえに、これまた符合せざること明らかなり。 しかして、  夢中にみし風景が符合せりというも、  海岸の風景はいずれの国にてもたいてい似たるものにして、 砂原に松樹の列立せるがごときは、 いずれの海浜にも見ることなれば、 あえて奇とするに足らず。  その母の住せし地は四国あるいは九州ならんと思いしに、 雲伯地方なることを夢中によりて得たるの一奇事とすべきのみ。  かくのごときは、 予がいわゆる偶合に帰するも不可なることなし。 その米子に米田屋茂吉と名付くる家ありしがごときは、  かつて人の談話中に聞き、 もしくは書籍中に見たるもの、  無意識的観念となりて記憶中に存せしと解して可なり。 また、 同じき夢を数回続きて見たるがごときは、 その母を思うの一念によりてよぴ起こしたるものにして、  かくのごときは吾人平常経験せることなれば、  もとより異とするに足らず。  その墓前に供えし樹木の繁茂したるがごとき、 死体の朽ちざるがごときは、  夢と関係なきことにして、   つまた奇とするまでの事柄にあらず。  かつ、  その死体が果たしてその母の死体なるやいなやも、  いまだ全く疑いなしというべからざれども、こは世人の判定に譲りてここに論ぜざるも、なおいまだ霊夢とするに足らざるなり。その世に霊夢中の霊夢として数十年来伝わりしものすら、 なおかくのごとし。 いわんやその他をや。

世のいわゆる霊夢のいまだ霊夢ならざるゆえんを証するに、 古代の記録の信ずぺからざることについて一言せざるべからず。 しかるに、 古代のことは今日その真偽を鑑定すること難きをもっ て、 今日の新聞上に存する奇話にして、  大いに事実に反するものある一例を掲げてこれを示さんとす。

東京市下谷区二長町二十九番地に住む中村孫左衛門(四十)という人あり。 その妻の姉にて同町に住むおなにというが、 去月中旬ごろある夜の夢に、 白髪の老僧一人枕頭に立ちあらわれ、「汝が妹婿なる中村孫左衛門は、  這回非常の災害を被るべきはずなるも、 前世の果報によりてこれを免れ、 その代わりに同人の表すなわち汝の妹がその災害を受け、  ついには死去するに至るべし。 汝ただちに行きて介抱せよ」とありければ、「貨僧はいずこの」と問いもあえず、「われこそは尾張知多郡に新四国八十八カ所の弘法中、 第十九番の弘法なり」といいおわりしと思えばたちまち夢は覚めけり。 不思議の夢かなと思い気がかりでならぬゆえ、 翌朝早々、 妹の家へ行き見るに、 果たしてその朝より妹はにわかに病気起こりしとて臥 賭 に就きおるにぞ、 前夜の夢の不思議にも合いしことなど物語りし、  介抱なせし甲斐もなく、  病気次第に重りてついに三日目に死出の旅路へ赴きけり。 よって戸主孫左衛門はじめ、 親族の一同もその夢の適中せしにいたくおどろき、 孫左衛門のごときは尾張の知多郡がいずくにあるやさらに知らねど、  ともかく打ち捨てては瞑けじ、  ぜひ参詣なさんものとて、 束京よりはるばる汽車にて尾州知多郡半田町へ来者せしは、 実に去る五日のことなりけり。 さてそれより半田より下車し、 知多郡の第十九番弘法はいずこなりやと人に聞くに、 あたかもよし、  それは半田町の光照院の脇に安個しある弘法大師なりとのことなれば、  孫左衛門大いに喜び、 早速参詣して右の子細を堂守りに語り、 涙を流して礼拝数度の後、 同日午後四時半の上り汽車にて焔京せしが、 同人は身柄も中等以上の立派な人にてありしと聞く。 不思議なこともあるものかな。

これ、 名古屋『扶桑新聞』(明治二十七年二月九日発行)のこのごろ報道せる霊夢なり。  その記事にてはよほど不思議に感ずれども、 実際かくのごとく不思醸なるにあらず。  余はこの新聞を一読するや、 ただちにその家につき実否を問い合わせしに、  大いに相違せる点あり。

今を去ること十二年前、 すなわち明治十五年六月下句のある日、 中村孫左衛門の姉ノプが昼寝の夢に、 その叔母某の「ビク」(「ピク」とは藁にて造り農具を入れるもの、  賀 ともいう)ようのものに孫左衛門を入れ、蚊帳の断片にておおい、 ノプの家の前を背負いて歩み行くを見るより、 ノプは「叔母様にはあらざるか、 どこへ何用にて行きたまうや」と問い掛けしに、 叔母は顧みて「 おお、 ノプか、  お前の弟の波太郎(孫左衛門の旧名)は近日中に死ぬから、 今『ビク」に入れて墓場に持ち行く途中なり」と聞くより、 ノプは大いに驚き、「なに、 波太郎が死するとな」といいしを、  叔母はこれを打ち消し、「いや、 波太郎が死すべきなれども、半田のお大師さんのお助けにて波太郎は死せずともよろしきようになり、 その身代わりとして波太郎の妻キヨをお引き取りなさるるなり」といいて、 ゆきもせず帰りもせず、 そのまま消え失せて夢破れたり。

ノプは不思議なる夢を見て、 なんとなく心配にたえねば、 ただちに半田の大師に詣でて両三日を経、 波太郎を訪い、 前夜の奇夢を語りしに、 不思議にもキヨはそのときより発熱し、 漸次に熱度を増し、 病を発してより十三日目についに死亡したり。

(参考)  中村孫左衛門は愛知県知多郡半田町より五里ぱかり熙たりたる内海町のものにして、 その当時は名を波太郎と称し、  姉ノプは半田町のある家に乳母として雇われおりたるものなり。

奇夢のことはただ波太郎、 ノプの両人のみが知るものにして、 キヨはもちろん、 親戚、 知己といえどもこのことを聞かざりしなり。  しかるに、  事の「扶桑〔新聞〕  紙上に上りしものは、  本年一月孫左衛門が半田町弘法大師へ参詣せしとき、 堂守りにその顛末の大略を物語りたるによるなり。

その後、 孫左衛門は後妻をいれ、 府下下谷区二長町二十九番地に移り詐屋を営業となしおるが、  奇夢の適中せしに感激し、 今は熱心なる弘法大師の信者となれり。 孫左衛門の風采、  容貌、 挙動、  言語等に徴し、 無根のことを構造して、 なにかためにせんとするがごとき悪意あるものとは思われず。

右は明治二十七年二月十五日、 中村孫左衛門宅において直話の筆記なり。(高島大円〔米峰〕、高木真一両氏の報告)

「扶桑新聞」記事と事実との相違比較

新聞記事 事実

本年一月中旬のことなりという 十二年前のことなり

夢に白髪の老人に会いたりという 夢に叔母に会いたるなり

発病後三日目に死したりという 発病後十三日目に死亡したり

東京にて夢みしように記せり 尾州知多郡内海町にありしときの夢なり孫左衛門は尾張の知多はいずれにあるやを知らずと記せり、 同人は知多郡内海町の人なり

これにつきてこれを考うるに、 新聞記事の事実に相違せざるのみならず、  大いに不思議の度を高め、  増飾敷術したるところ多きは明らかなり。  余が聞くところによるに、 内海町と半田の大師とはその距離四、 五里に出でずと。 しかして、 孫左衛門は近年東京に移住せるも、  その夢を見たりし当時は知多郡にありしという。 また、 孫左衛門の直話中に、 その夢みし年はコレラ病流行の年にて、 その妻の死せしは、 あるいは類似コレラなりしやも計り難しといえり。 果たしてしからば、 その妻の病にかかりしは偶合とみなして可なり。

今日、  新聞上の記事の事実に合せざること多きは、 だれもよく知るところなるが、 古代の記録、 伝説はかえって確実なりというものあらば、 余はその理由を聞かんことを欲するなり。  古代は人々正直にして、  決して虚謬を伝えずというを得べきや。 たといその人正直なりとするも、 古代の人は想條に長じ信仰しやすき性質を有するをもっ て、  一寸の不思議あればこれを一尺の不思議として感ずるや疑いなし。  かつ一人より二人に伝え、 先人より後人に伝うる際、  夢中の符合のごとき奇異の点はよく人の注意を引き、  人の記世にとどまるをもって永く存し、符合せざる点はようやく減失して、 不完全の盆夢はついに完全の需夢に化するに至ることは、 従来の経験に照らして明らかなり。  これによっ てこれをみるに、 古来より伝うる需夢も今日一般に唱うるものも、  決してそのまま事実として信ずぺからずと知るべし。  今一例、 雑誌にて報道せるものを左に掲ぐべし。 これ、 明治二十六年十二月発行の『伝灯」第六十号に出でたる記事にして、 愛知県三河国八名郡金沢村、  佐久問栄作氏より、  その弟与作の死地につき夢告を得たれば、 その実否、  書面にて岡山県児島郡胸上村役場へ問い合わせしに、 その役場の役員戸田八郎氏は村長井上昌平氏と相計り、 取り調べの上、  全く事実相違なき旨回答ありしがごとくに報告せり。  その問い合わせの文面はのべ上げ奉る本願の要領は拙者舎弟に御座  候  ところ、 過ぎつる慶応三年十二月二十八日家出いたし、  その後、 当二十六年十月十日まで絶えて通報これなく候ところ、  本月十一日夜、 いかにも妄誕に属したることには候らえども、 拙者弟佐久間与作の霊なりといい、 拙者寝所の枕辺にきたり、  二十六歳の年に旅立ちし与作なるが、 金毘羅参詣ながら備前国児島郡梶岡村に至り、 所々、  人々手伝いをいたし候ところ、 十七年前すなわち明治十年梶岡村において引き込み風が病根にて、 それより熱病に変じ二十六日ほどの病臥にて、  ついに黄泉にと赴き、 誠に遠国のことゆえ、 石護しくれる者もこれなく、 実にあえなく死出をいたし、 今において仏の交誼相できず、 悲しさやらん方なく、  そもそもその最期の事箔、 熱病に変じてより、 その村辻堂へとつり出だされ、  末期の水ももらいのまず、 二十六日目に病死いたし、 菰に包まれ、 身分の軽き者に埋められし由、  霊夢の告げこれあり候間、 事実妄誕に属したることには候らえども、 心当たりこれあり候やいなや、なにとぞなにとぞ恐縮至極に存じ候えども、この段御取りただしの上、御返信くだされた< 願い奉り候百拝。

十月十五日、

愛知県三河国八名郡金沢村百十四番戸佐久間栄作拝

岡山県備前国児島郡梶岡村長役場御中

このことをして事実に符合せりとなすときは、実に不思議といわざるべからざるも、はなはだ疑わしき点あり。後日、 実際問い合わせてその原因を説明せんとす。

果たして以上に論述するところのごとくならば、 夢は決して不可思議なるものにあらずやというに、 夢は常夢と変夢との別なく、 ともに普通の理に基づけるものなれば、 ことさらに霊夢、 奇夢をもっ て不可思議となすぺきにあらず。  しかれども、 すでに人問の心意にはかくのごとき奇異の現象起こり、 しかして、 これを心意そのものに帰してみるときは、 夢の不可思議はすなわち吾人心意の不可思議なり。 ゆえに、 吾人は夢をもっ てことに不可思議とはなさずして、心意そのものの不可思議なることを感ぜずんばあらざるなり。 しかるに古来、 とくに英雄、高僧に霊夢の感応多きはなんぞや。  その例、 実に枚挙にいとまあらず。  今、『日本往生全伝  に出ずる一、  二例を挙ぐれば日く、

「聖徳太子者、 豊日天王第二子也、 母妃皇女夢有二金色僧一謂曰、吾有ーー救世之願   願宿二后腹一妃問、為>誰、 僧曰、 吾救世菩薩、 家在ー西方一 妃答、 妾腹垢稼、 何宿突、 僧曰、 吾不>厭一乙垢祗一 唯望>感  人間一 躍入二中ー  妃即詑後喉中猶>呑>物、 自>此以後始知>有>娠、 漸及二八月一 胎中而言声聞二干外一 出胎之時忽有ーー赤黄光一至>自西方臨竺耀殿内一 生而能言、 知 入 挙_動  云云。」

(聖徳太子は豊日天皇の第二の子なり。 母妃の皇女夢に金色の僧あり。 いいて曰く、「われに救世の願あり。 願わくば后の腹に宿らん」妃問う、「だれとかせむ」僧日く、

「われは救世菩薩なり、 家は西方にあり」妃答う、「妾が腹は垢枇なり。 なんぞ宿らん」僧曰く、「われ垢祓をいとわず。 ただ人間に感ずるを望む」と躍って口中に入る。  妃、 すなわち覚めて後、 喉中なお物をのむがごとし。これより以後、  はじめてはらめるあるを知る。 ようやく八月に及ぶ。  胎中にしていう声、 外に聞こゆ。  出胎のとき、 たちまち赤黄の光あり。 西方より至り殿の内を照 耀す。 生まれて、 よく首い人の挙動を知る、 云云)

また曰く、「延暦寺座主伝灯大法師位円仁、 俗姓壬生氏、 下野国都竹郡人也、 生有二紫雲之瑞一(中略)大師賞有二熱病夢食ー天甘露一 覚後口有 滋 味一 身_無  余恙こ云云。 元興寺智光頼光両僧、 従元み少年時向  室修学、 頼光及云吐圧 与  人不>語、 似レ有品所レ失、 智光怪而問ら之、 都無>所レ答、 数年之後、 頼光入滅、 智光自歎曰、 頼光者是多年親友也、 頃年無  言語鉦翌行法一徒以逝去、 受生之処善悪難>知、 二三月間至心祈念、 智光夢到ーー頼光所一見>之似二浄土一問日、是何処乎、 答日、 是極楽也、 以二汝懇志一 示  我生処  也、 早可加叩去ー 非一訟汝所。居、 智光日、 我願レ生二浄土一 何可ン遠耶、 頼光答曰、 汝無一斧行業ー 不品竺暫留一 重問日、 汝生前無ー証所行    何得レ生ーー此土一乎、 答日、 汝不如炉我往生因縁  乎、 我昔葵  見経論一 欲>生ー一極楽一靖而思>之、 知>不ーー容易一是以_捨一人事細亡言語{  四威俄中、 唯__観  弥陀相好、浄土荘厳一 多年積>功今緩来也、 汝心意散乱、 磐根微少、 未ら足>為二浄土業因    智光自聞ーー斯言一 悲泣不>休、 重問曰、 何為決定可五得ーー往生一 頼光日、 可如炉於仏一 即引如  光一共詣二仏前一 智光頭面礼拝白り仏言、 得下修二何善正生中土か仏告ーー智光 』曰、 可レ観  仏相好浄土荘厳一 智光言、 此土荘厳、 微妙広博心眼不>及、 凡夫短慮何得>観>之、 仏即挙  右手一 而掌中現二小浄土   智光夢覚、 忽_命_   画工一 令品凶夢所>見之浄土相生観ら之、 終得往   生一突云云。」

(延暦寺座主伝燈大法師位円仁は、  俗姓は壬生氏、 下野国都賀郡の人なり。 生まるるに紫慇の瑞あり。(中略)大師、 かつて熱病あり。 夢に天の甘露を食し、 覚めてのち口に滋味ありて、 身に余の 恙なし、 云云。 元興寺の智光、顆光の両僧、 少年のときより同室修学す。 頼光暮年に及び人と語らず、 失うところあるに似たり。  智光怪しんでこれを問うに、 すべて答うるところなし。 数年の後、 頼光入滅す。 智光自ら嘆じて曰く、「頼光はこれ多年の親友なり。 頃年言語なく行法なく、 いたずらにしてもって逝去す。  受生のところ善悪知りがたし」二、 三月間、  至心に祈念す。 智光、 夢に頼光のところに至りぬ。 これを見るに、 浄土に似たり。 問うて曰く、「これいずこぞや」答えて曰く、「これ極楽なり。 汝、 懇志をもって、 わが生所を示すなり。 早く帰去すべし。 汝がおる所にあらず」智光曰く、「われ浄土に生まれんことを願う、 なんぞかえるべきや」頼光答えて日く、「汝行業なし、 しばらくもとどまるべからず」重ねて問いて日く、「汝生前に所行なし、 なんぞこの土に生まるることを得たるや」答えて曰く、「汝わが往生の因縁を知らざるや。 われ昔、 経論を披見するに極楽に生ぜんと欲し、 やすんじてこれを思うに容易ならざるを知る。 これをもって人事を捨て、 言語を絶ち、 四威儀の中に、 ただ弥陀の相好、 浄土の 荘 厳を観じけり。多年功を稼んで今わずかにきたるなり。汝、心意散乱して善根微 少、いまだ浄土の業因となすに足らず」

智光自らかくの言を聞き、 悲泣休まず。 重ねて問いて曰く、「いかにしてか決 定して往生を得べきや」頼光曰く、

「仏に問うべし」すなわち智光を引きてともに仏の前に詣ず。  智光頭面礼拝して、 仏にもうしていわく、「なんの善を修してか、この土に生まるることを得んか」仏、 智光に告げて日く、「仏の相好、 浄土の荘厳を観ずぺし」智光日く、「この土の荘厳、 微妙広博にして心眼及ばず。 凡夫の短慮、  なんぞこれを観ずるを得ん。  仏すなわち右の手を挙げて、    掌   の中に小浄土を現ず。 智光夢覚めて、 たちまち画工に命じて、 夢に見るところの浄土の相を図せしめ、  一生これを観じてついに往生を得たり、 云云」)

かくのごときは、 あるいは平素の信仰によりて自ら夢想をよび起こすものと、 あるいは夢を信ずるのあまり事実の符合をきたすとによるべし。 果たしてしからばそのことたる、 心理学上たやすく説明し得る問題なり。 

しかるに、 殷の武丁の夢、 漢の明帝の夢のごときは、  故意的に出でたる政略なるもののごとし。  世間の論者はその道理を説明するをまたず、  ただちに政略となすもの多し。 しかれども、 英雄、 高僧の霊夢ことごとく政略なりというべからず。  そのうちには自然的盤夢あるぺしといえども、  かくのごときは、 もしこれを神秘的に解釈せば、 真に神霊の感通となさざるべからざれども、 これを道理的に解すれば、  英雄自ら構造するにあらざるも、 後人のその人を尊奉し崇拝するより、 小説的に仮作したるもの多少これあらん。 しからざれば大徳、 応僧の信仰の力によりて、 その精神の上に霊夢を結ぶは必ずしかるべきことなり。  されども、  かくのごとき訊夕は、  神霊の外部より人心に 憑 付して生ぜしものにはあらずして、 内部より発現せしものと考えざるべからず。 要するに、 人心はその現象よりいえば一個人の心意なれども、 もしその本体よりいうときは絶対の妙悦に位するものなれば、  一切の不可思議は、 この妙境より現象の上に発表するものとみなさざるべからず。  ゆえに、 盆夢は外憑の神感にはあらずして、  内発の神感と解せざるべからず。  しかして、  これより以上の問題に至りては、  超理的理想論の関するところにして、 心理的説明の限りにあらざるなり。 すでに霊夢によりて夢 合、 夢告のあることを経験すれば、 古来一般にそのいかにして起こるを知らざるをもっ て、 これを天神の告示に出ずると信じ、 夢を見るごとにこれによりて吉凶を判定せんことを求め、 シナにては占夢の官を置きしことあり。 わが国にも夢判じと名付くる占法ありて、夢の吉凶を判断せり。  しかるに、 夢に別に需夢とすべきものなきを知らば、 これによりて吉凶を判ずるの愚なることは、 弁解をまたずして知るべし。 ただし夢占、 夢判じの事情は、「純正哲学〔部門〕」第四講において述ぶべし。


第二 節    眠行

以上述べたるところによれば、 変夢も常夢もその理一つにして、  常夢のほかに一つの変夢なしとの論に帰着するなり。  しかして、  その変夢を奇夢および盟夢の二種に分けて論述したれども、  さらにここに変夢の一種として論ずべきものあれば、 以下にこれを説明せんとす。  そは、 すなわち眠行および魔夢これなり。

まず眠行より講述せんに、 そもそも眠行とは本来、 睡眠中に遊行する義なれども、 ここには広く睡眠中において、 心意が思想上に感ぜずして手足、 身体を左右する状態を総称するものなり。  されば、  ここに眠行と名付くるものは、 例えば、  人の突然眠りより起きて寝床を離れ、 あるいは自ら衣服をかえて戸外に出でて危険の場所を通行し、 あるいは窓脈より出でて屋上にのぼり、  暫時を経てその室に帰り旧のごとく眠れるもの、 または睡眠中に突然起きて庖 の馬を出だし、 これに乗じて庭園を一周し、 あるいは険溢の場所を騎行して家に帰り、 ふたたび眠りに就くがごときをいう。 ボルドー  市の大僧正は一夕、 夢中にて説教の草案を作り、  これを読みこれを訂して、眠りに就きしことあり。 また人によりては、  夜中咽語を発して他人と問答し、  または議々して眠りにつき、  翌朝さらにこれを覚えざることあり。  かくのごとく睡眠中の行為、 挙動に関するものを、 すべて眠行とは名付くるなり。 この眠行は夢とその性を異にし、 夢は眠中の思想にして、 眠行はその行為なり。  されども、  その説明に至りては同一の理に基づくをもっ て、 ここに夢の中、 ことに変夢の一種として説明を与えんと欲す。

まず眠行と夢想とを較するに、  その異なるは、  眠行の場合には、  身体の運動器を命令する力を有し、  夢中行為を現ずるなり。 しかれども、 醒役のときのごとく、 諸覚官をしてことごとくその作用を呈せしむることあたわず、また、 意力によりて思想の進向を転換することあたわず。 眠行せる人はよくみ、 よく感ずることあらざるも、 なおよく聴くことあり。 あるいはよくみ、 よく聴かざるも、  なおよく感ずることあり。  しかして筋覚は、 常にその作用を呈するがごとく見ゆるなり。  またこれに、  自然的に発するものと人為的に起こすものとの二種あり。  睡眠中に発するもののごときは自然に生じたるものなれども、 あるいは醒覚のときといえども、 生来一事に偏執、  固着しやすき性質のものは、 少しくその心に典味を感じたることあるときは、 全心この一点に集合して百事を識覚せざることあり。 その状態、  夢中の眠行と寇も異なることなし。 また、 催眠術を施せるときのごときも、 これにひとしき現象を呈すれば、 これまた人工的眠行となすぺし。  今、 左に眠行の例を挙示すべし。

ドクトル・アベルクロンピー 氏の記するところによれば、 紀元一七五八年、 ルイスボルフの遠征に従える一士官あり。  その睡眠せる際これに耳語するときは、  夢の進行を左右し、 したがってこれに応ずる動作をなさしむることを得、 特に士官の熟知せる朋友の音声をもってせばなお可なりとす。 これをもっ て、  その同僚は該士官をして種々の所作をなさしめ、  自ら慰むを常となせり。  かくて、 あるとき睡眠せる士官を導きて他人と争論せしめ、  ついに決闘をなすに至らしめしかば、 その手に短銃を渡ししにただちに発砲し、 この響声にて醒党せり。  また、 あるときは船室内の房架上に士官の眠れるを見、  その甲板上より水中に鉄落せしことを告げしに、 ただちに遊泳の運動をなせり。  すでにして沙魚〔さめ〕あり、  彼を追及するがゆえに潜水して命を救わんことを告げしに、 たちまち非常の勢いをもって潜水の状をなし、 ために房架上より墜落して醒覚せり    また    ルイスポルフに上陸せし後、  一日、  該士官の帷幕中に眠れるを見、  彼をして現に戦争中なることを信ぜしめしに、  大いに恐怖の状を示し、 まさに遁走せんとす。  ここにおいて、 卑怯にも遁走すべからざることを諫評し、 同時にまた死楊者の呻声を擬して一府恐怖の念を増さしめ、 あるいはその朋友のだれだれは、すでに没戦したりといい、  ついに彼の後列にありし兵士もまたたおれ、 事はなはだ急なることを告ぐるや、ただちに床より縣起して幕外に突出し、  その縄索に触れて転倒するに及び、 はじめて醒覚したりという。 すべてこれらの実験を施しし後に至れば、 士官は嚢もその夢中の事柄を記憶することなく、 ただ炭として苦難疲労の感を覚ゆるのみ。 しかして、  常に朋友にいいて曰く、「卿ら、 必ずまた予を舞弄したりしならん」と。この作用の説明に至りては、 西洋の心理害中および雑誌上に往々見るところなるが、 今、  英国発行の「ランット」雑誌に出でたる説明を『哲学会雑誌」に訳出したれば、  これを引証するに、「睡遊は主として知党器官の命令的衝動に属するものなり。 総じて吾人の知覚器および運動器は、 久しく反復習慣するときは、 ついには全く反射性となるものにして、 しかるときは意識の支配なくてよく自働す。 すなわち尋常の夢と称せるものは、 意識、感覚の眠れる間にひとり理性的知覚器の働けるものなり。 しかして、  睡遊もまたこれと同じく、 睡眠中において、知立的運動器系の醒覚活動せるものとす。 ゆえに、  睡遊もまた夢の一種類と称すべし、 云云」と。 この説明によるも、 夢と眠行とともに脳中一部分の作用に出ずることを知るべし。  さきにすでに夢は脳中一部分の作用なることを述べたるが、 もしその理を推して考うるに、 眠時には脳中の一部分の作用するのみならず、 五官神経の一部分は醒覚して、 他の感覚神経の眠息せることあるべし。 また、 五官神経の一部分と脳中の一部分とともに醗覚して、 他の部分の眠息せることあるべし。 これ、 眠行の起こる原因なりとす。  その証は吾人の醒覚するときに当たり、 目すでにさめて、 現に見ることを得ながら口を動かすことあたわざるあり。  あるいは耳すでに醒覚して人の呼び声を聞きながら、 目および口のいまだ醒覚せずして」これに応ずることあたわざるあり。 あるいは意識すでに醒党して、 しかも運動神経の意識の命令に応ぜざることあり。  かくのごとき場合は、 病時または昼眠の際に多く見るところにして、 自ら眠りのさめたることを覚知し、  いかほど手足、 身体を動かさんと努力するも、  奄も、意識の命に従わずして苦痛、 不快の感覚を生ずることあるものなり。  または目および耳の眠息して、  ただ口舌を支配する神経のみ醒覚し、 夢中に言語を発することあり。  しかして、 この口舌を支配する神経に対する脳髄中の一部分もまた醒立して、 他人の発問に答えながら、 その答辞は全く脳中の反射作用より生じ、 さらに意識のあかり知らざることあり。  世人のいわゆる唖語はこれより発するものなり。

右の例に準じて、  かの夜中突然と起きて、 室の内外を遊行するがごときことをも、  説明することを得べし。   くのごとき挙動は多くは無意識的反射作用なれども、  中には一部分の意識加わりて、  翌朝夢のごとく記憶することあり。 ことに夢中にありては前に述べしがごとく、  脳中の一部分のみ作用して、 他の部分のこれを妨害するものことごとく休止するがゆえに、  その一部分の作用をもっ て、 醒覚のときにはなし得ざりしことをよくなし得ることあるものなるが、 もしそれ、 その意識にして手足、 身体を命令左右し、 これを行為に現すに至らば、 ここにまた、 醒覚の際になし難かりし挙動をも得てなさるべき理なり。 これをもってみれば、 夢中に字を書し絵をえがき、 あるいは危を踏み険をわたるがごとき、 吾人の醒覚のときには到底なし難き挙動をあえてなすことあるも、決して怪しむに足らざるなり。  これ、 予がいわゆる自然的眠行についての説明なるが、 もしさらにその理を明らかにせんと欲せば、  人為的眠行、 もしくは醒覚のときに起これる現象について考う ぺし。  例えば、 醒時にありても一事に全心を専注凝集する場合には、  一部の覚官のみその作用を呈して、 他官のほとんど眠息するがごときことあり。 諺に「碁を好むものは親の死に会するあたわず」というは、  人の心をして凝集せしむるによる。 その適例は、  カー  ペンター 氏「心理学」中に引証せるものについて見る ぺし。 その例に曰く、「ドイツ国有名の数学家ガウス氏は、 その妻の病症危篤なりしとき、 あたかももっとも難深なる数理の研究に潜心せしが、 一日下婢きたりて妻の病症にわかにあらたまりしことを報ぜり。氏はこれを聞きしもののごとくなれども、それを解せざりしか、あるいはただちに忘却したりと見え、依然としてその業に従えり。 伊妾時にして下婢の再びこれを報じ速やかにきたらんことを請うに及び、 氏は「ただちに行かん」と答えしのみ、  またさきの研究を追えり。 すでにして下婢はまた女主の今やほとんど死に瀕せるがゆえに、 ただちにきたらずんば再び生前に相見ることあたわざるならんと告ぐるや、 氏はその頭をもたげおもむろに答えて曰く、「余のゆくまで待たれんことをかれに語るべし  と。  けだしこの答辞は、 従前かかる場合において、 妻より己のきたらんことを迫らるるにあたり、  しばしば答えたるところなりしなり」と。

これ、 吾人の平常の経験によりて知るところなり。  ただ醒時と眠時との異なるは、 前者にありては一方に他方の力を集むるにより、 後者にありては一方のみ活動して他方眠息するによる。 これを要するに、 眠行は夢の説明に照らして解釈するを得べし。 なお、 その現象は催眠術の情況に関係を有するをもっ て、  第四講に述ぶるところを参見すべし。


第ニ 節    魔夢

つぎに、  変夢の一種なる魔夢につきて述 ぺんに、 この魔夢のなんたるやを説明せんには、 苦夢全体のことを述ベざるべからず。 しかして、 この苦夢もまた変夢の一種なり。  およそ夢中にありては極めて小なることを、 極めて大に感ずるものにして、  その大小の事実に符合せざるゆえんは、 夢中には外界の感立を断ちて、  ただ脳中一部分の想像がその作用をほしいままにし、 他のこれを規制するものなきがゆえなり。 されば、 前にもすでに示ししごとく、  一滴の冷水を皮膚面に点ずるも非常の寒冷を感ずるがごとく、 極めて微小なる刺激も極めて著大なる夢を結ぶを常とす。  ゆえに、 苦夢もその刺激は極めて瑣細なる原因よりきたるものにして、 あるいは胸上に手を加え、 または多少圧迫する物体に触れて睡眠するときは、  必ず恐るべき苦夢を結び、 また腸胃に不消化物あるか、はた食後ただちに眠りに就くときは、  苦夢を見るものなることは親しく人の知れるところなり。  その他、 体湿の裔きとき、  血液の刺激つねに異なるとき、  または平常深く苦心する事柄のある場合に、  一般に苦夢を結ぶに至るなり。

また、 苦夢は多く影像を見るものにして、 鬼、 蛇、 猛獣、  怪物等、 その本人の常にもっともおそるるところのものきたりて、 これを苦悩せしむるものなり。  今、  これらの影像を生ずるゆえんを考うるに、 これは多少の苦痛なる原因が連想によりて喚起するところの結果なり。 ゆえに、  蛇を恐るる人はこれにかまれ、 馬を恐るる人はこれに追われ、  毛虫を恐るる人はこれにさされたりと夢むがごとく、  人々の本性と習慣とによりて影像の異なるものなり。 また、 あるいは影像なくして自然に苦痛または不快を感ずることあり、 あるいは身の険岨の位懺にあるか、 または苦痛たえ難き境遇にあることを感ずることあり。  かくのごとき場合には、 実に苦痛にたえずして、  免れんとするも免るることあたわず、  叫ばんとして叫ぶことあたわず、  非常の努力をもっ て、 ようやくに絶叫して傍人を驚かしめ、 あるいは悲鳴哀泣し、 あるいは苦吟呻声を発するに至るなり。 これ、 普通の魔夢の状態にして、俗にこれを魔わるという。  今、 さらに魔夢の原因を考うるに、  世のいわゆる苦夢に三種の別あり。 第一は発病前に起こるところの苦夢にして、病の発せんとする前には、早くすでに睡眠中にその苦夢を感じて夢を結ぶに至る。そのことは第一三節体覚の条下に説明したれば、 ここに掲げず。  第二は病中に発するところの苦夢にして、 これ熱病、 心臓病、 胃病等にかかりたるとき起こるところのものをいう。  その理は別に説明するを要せず。 第三は他の病気に関連せるより起こる苦夢にして、 すなわち魔夢と称するものこれなり。 この第三の苦夢の起こるについては、 古代にありてヒポクラテス氏すでにこれを目撃し、 その原因は血液の事栢に怖したるもののごとし。 しかるに、 ヤソ教起こるに至りては、 西洋にありてはその原因を悪魔に帰せり。 中世の間もこれを邪神のなすところとなせり。 けだし、 かくのごとく想像せしは、 魔夢の問に種々恐ろしき妄象を見ることあるによる。  世問往々魔夢を発するものに、 夢中、  鬼のごとき恐ろしき怪物が襲いきたりて、 非常の力をもってその咽喉を圧し、  まさに呼吸を絶たんとするありさまにて苦痛にたえず。  動かんと欲するも動くあたわず、 呼ばんと欲するも呼ぶあたわず、  かくのごときこと毎夜続きしことあり。  ゆえに、 古代はこれをいやするに祈頑、 祓除のごとき方法を用いしこと、 東西さらに異なることなし。 しかるに近世に至りては、 その原因を学理上より説明するに至れり。 けだしその説明は、医家の与うるところと心理学者の与うるところと同一なるあたわざるも、これただ内外の相違のみ。

医家は生理学にもとづきて有形的構造機能の方より説明を与えんとし、 心理学者は無形的精神作用の方より解釈をなさんとするの別あり。  しかして、 予が考うるところによるに、 その原因にやはり内外二種あり。 外部すなわち有形上より考うるときは、身体疲労の事情および血液運行の状應に関すること疑いなし。あるいは外物の圧迫、抵抗によりて筋肉に不安の感を与うるとき、 もしくは身体、  手足の位四の倫安ならざるときに起こる。  もし、 内部すなわち精神上に考うるに精神の疲労、 梢緒の激動、 その他、 心中に懸念、 蔓慮する心あるときのごとき、 心意の状態、 平常に異なる場合に魔夢を生ずることあり。 ゆえに今日にありて、 魔夢も常夢の一種となさざるべからず。

また、 苦夢の一種に屈すべきものに、  半眠半立の間に心識すでに醒党して、 身体の運動意のごとくならざることあり。 しかるときは、 だれも苦痛を感ずるものなり。 これ夢といい難きも、 眠行、 魔夢と関係するものにして、今すでに一言せしもさらにその理由を述ぶべし。 この状態は人によりてしばしば経験せるものと、 生来いまだ知らざるものとあり。 その起こるは、 多くは病中臥床のときにあり、 あるいは夜中より白昼午睡せるときに起こる。あるいは身心はなはだしく疲労したるとき、  あるいは朝時あまり長く臥床にあるときに起こる。  およそ睡眠の 兄むるには、  さきにすでに一言せしがごとく、  眼官最も早く醒立し、 触覚最も後に醒起するものとす。 ゆえに、  白昼あるいは朝時、 日光の眼官を刺激してために心神も醒覚したるも、 触奨なお眠息のありさまにて意識の命令に従わず、 ここにおいてなんとなく不安を感ずるなり。 けだし、  その不安は身体の自由ならざるを感ずるより起こる。 これまた、 あえて怪しむに足らざるなり。


第二二節    無夢および夢後

上来、種々の夢を掲げてその理由を説明しおわれば、 これより第三講憑付編に移りて講述せんとす。 しかるに、夜問睡眠中に夢なき状態と、 白昼醒覚のときに夢幻の間にある状態とにつきて、 いまだ説示せざりしをもっ て、ここに一言を付せざるべからず。 吾人の夜中夢なき場合あるは、 果たして真に夢なきか、 あるいは夢あるもこれを記憶せざるによるか判知し難しといえども、 平常無事にして身心ともに静平なるときには、  夢を見ること少なく、 あるいは全く夢を感ぜざることあり。 たとい全く夢なきことありとするも、  道理上あえて怪しむに足らず。古来「型人に夢なし」といい、「真人は夢みず」といいて、『荘子  「淮南子」「文子」等にそのことを載せり。「采燭  或問珍」にもこのことを論じて、「聖人に夢なしというは道家の言なり。  いわゆる「古之真人其寝不>夢いにしえの真人その寝ぬるに夢みず)というこれなり。  これ虚無の問に寂然として、 天地を友とし、  山川を愛し、外物に触れざるときは、 心静かにしておのずから夢なきこと知るべし」といえり。 しかるに孔子は、  われまた「夢に周公を見ず」とあるをもっ て、 同書にまたこれを解して、「 わが道の聖人は古今に通じ、 万物の理にわたりて、好んで樹下石上を居とすることなく、 天下を胸中にたもつ。  ゆえに常住政道のことを忘れず、  孝悌忠信のことを思うがゆえに、 黄帝の夢、  武丁の夢、 孔聖の夢、 みなその徳によって夢見ることあり」といえり。 この説明は一理ありというぺし。 また、 聖人に夢なきことにつき、「牛馬問その文中いささか参考すべきところあれば、 左に抜粋す ぺし。巻三) に問答を掲げ、  かつ夢の説明を与えり。

ある人の曰く、「諺に「聖人に夢なし』という。  なんの宙より出でたるや」日く、「「文中子」に至人に夢なしとあり。 至人といい搬人という、 実は名を異にするのみ」ある人また問うて曰く、「おおよそ夢はいかなるものにや」曰く、「心気の動くなり。 また風寒、 暑湿等によりて見ること多く、 近くは「雑病指南」といえる小冊子の巻尾に載するところ大いに人に益あり。  また、  夢に鬼と交わるの類はみな病なり。 また、「周礼  に占夢の官ありて、 夢を考うこと見えたりといえども、  今にしておもうに、 正夢、  瑞夢ということは、  一生のうちに一度あるやなきやのことなるべし。百人が百人みな雑夢というものにて、吉にもあらず凶にもあらず、さらに心に入るべからず。  さて夢を載するの書、 毛挙にいとまあらずといえども、  ただちて、  信ずるに足らず」その他、  夢の説明は徐 春甫が「古今医統」につまびらかなりという。一席の興談にみ

つぎに、  睡眠と醒覚との問における幻党のことにつき、  サレー 氏の「幻妄論論」と題する一節あり。  今これを左に訳出す。中、  夢の説明の終わりに「後夢」夢の説明を結ぶにあたりて、 予は睡眠と醒覚との間における経過の状態は、 幻覚を生ずることに関して緊要のものたることに、 読者の注意をよばんと欲す。  しかしてこの点は、 特にここに論ずることもっ とも適当なるものあり。 いかんとなれば、 これによりて、 醒時の幻此と睡眠中の幻覚とに密接の関係あることを明らかにする便あればなり。  そもそも心意は、 突然一飛して夢幻の状態より醒覚の状態に通過するものにあらざるなり。 予はすでに思睡あるいは夢癒の状と称して、 外界の印象はすでに発動する力なく、  内界の注意作用も弛緩して、  睡眠の魔力的妄想の漸々現出する状態を述べたることありしが、  かくのごとく睡眠前の状態において、 夢中における幻影の兆しを見ると等しく、 また睡眠後の状態においても、  右幻影の残存するものなり。 予のすでに説きたりしがごとく、 夢はときとしては醒党後、 暫時の間はその後に鮮活の余影をとどむるものにして、 ある場合には覚官知覚の観をも呈することあるものなり。

吾人もし、 夜間において心意の多少思睡の状にあるときに、  多くの幽霊およびその他多くの奇怪なる幻像の見らるるものなることを一考せば、 これらの幻像の多分は夢の零余なり、  との観念はたちまち強く吾人の心内に提起せらるるならん。 実に、 ある場合においては、 幻影は(哲学者スピノザ氏が醜悪深黒なる「 プラジル」人の幻影をみたるときのごとく)その夢中の心像たることを当人に認めらるることあり。 ポルロッ ク氏の記したる左の事実は、 ここに述べたる所説を解明するものなり。

田舎の一家に滞留したるある貴婦人あり。  夜間醒党するやただちに、 中古風の服装をなせる異様の一男子の幻影を認めたり。  この幻像はやや不快なるものにして、 この婦人のかつてみたることを立えざりしものなりき。  しかるに、  翌朝寝床を出ずるに及びて、 この幻影の原体は、 まさにその寝室の壁間に懸かれる一画條たることを知りたり。 けだし、 この画像は婦人は注意せざりしも、 このことあるにさきだちて、  その脳中に印象し、 もって夢幻を結ぷに至りしものならざるべからず。 特に奇なるかな、 この婦人はこれに至りて初めて、 己が滞留せる家は幽霊の現出する所にして、 ここに宿するときは、 あたかも婦人の夢溺の際に認めたると寸砲も違わざるところの、 異様なる中古風の人物に悩まさるとの風問あるゆえんを、 明らかにすることを得たりという。

この事例のごときは、 予のみるところにては、 実に幽盆および妖怪屋敷の風聞を発生せしむる事俯の模表となすに足るものならん。

この説明は大いに妖怪学の参考に必要なるものにして、 吾人は夢にもあらず党にもあらざる間に、 夢中の余影をとどめて幻像を見ることあり。  かくのごときは、 病時もしくは身心の疲労し、  もしくは心に憂苦を有するときに最も多く起こるものなり。  世に人の幽霊を目撃し、  あるいは妖怪宅地にありて妖怪現象を実視せるがごときは、  けだし、 この種の幻像によること多かるぺし。

また、  白昼といえども、 往々精神洸惚として、 夢にもあらず覚にもあらざる状態に陥ることあり。 また、 前時に見たる夢を追想して、 実際か砂幻かを識別するあたわざることあり。 また、 夢中にありて真に夢なるか夢にあらざるかを判ぜんと欲して、  自ら思考することあるがごとく、 覚時にありても一大不幸もしくは失敗に際会したるときは、 夢か覚かを自ら判ずることあたわざることあり。  ある人博突をなして大敗を取り、 家に帰りて祈りて曰く、「このことは、 願わくば一夜の夢ならんことを」と。  われわれは往々大失敗にかかり、  非常に苦心したる間、一夢さめきたりて全くその実にあらざるを知り、  大いに安心することあり。 ゆえに覚時においても、 現に起こりたる意外の出来事について夢ならんかと疑うことあり。 これに類したることにつき、  さきに「北米雑誌」中に出でたる一項を「哲学会雑誌第二冊第二十一号)に訳出せるあり。  今これを左に摘載すべし。

今日、 士君子に対して妖怪のことを説かば、 たちまちその退くるところとなる ぺし。 しかしこれらの人に、深夜月なく星光樹をうがちて照らすときに林中を行けと命じなば、 恐怖、 送巡せざる者幾人かある。 妖怪のある ぺき理なしと知るとも、 なお惑いがちなるものにあらずや。 さて、 世上には真に妖怪を見たりという者少なからず。 これらの人に向かっ て、 他人の見ざるものを汝の見べき理なしとなじりたりとて、 理を破るに足らず。  しからば果たして妖怪を見ることありとせば、  いかにしてこれを説明すべきか。 まず夢の例をもって考うるに、  夢にはその夢みるところのこと、 現時同様に明瞭なるためし往々あり。 予が知人にしばしばこれを経験せるものあり。 その話に、 夢に見るところが 現 なるか、 はたその過去の経歴が幻想なりしか、 ほとんど分別に苦しむことあり。 あるときの夢に、 身は高き所に立ちてその上より飛下せんとするに、  夢現をわかちかねてしばしば思考し、 また飛下して妨げなきやいなやを考え、 ついに妨げなかるべしと断決せしことありしと。 またこの人、 現にてことをなせるときに、 その意に適して快しと思うとき、 その現なるかはた夢幻なるか分別しかねて、 疑惑すること間々ありといえり。 けだし、 これらの場合にあっ ては、 体視(肉眼をもってみる)と  心     視との間の区別ほとんど絶滅に近きなり。  常人にてはこの区別大なり。  しかるに、 その人さる状態にあるときは、 体視の力著しく衰え、 心視の力大いに強くなるときには、 上陳のごとき結果に至るなり。 これ、 しばしば世人につきて見るところなり。 すでにある部分の人に心視の力を存するを見る上は、  その強弱の差こそあれ、 人みなこの心視の力を有するものというも不可なからん。 そは平常はさらに心視の力ありとも見えぬ人といえども、  マラリヤ熱などにおかさるるときは、 あるいは死せる親族、 朋友の幻像を見、 あるいは夢中見るところと同様なる、 根もなきものを見ることあるにて知らるべし。  また阿片、 精酒等を過黛に服用すれば、 心視の力を刺衝激冗して幻像を見ることあり。 これらによって見るに、  この心視の力は人心に潜伏しおるものにて、 適当なる刺衝を加うればたちまち顕起し、 平常は見えぬものを見るを得しむるや明らかなり。

これらの原因、 事情によりて起こるところの妖怪、 世に必ず多かるべし。  かくして、 夢想編を結ばんとするに当たり、  人間一生もまた夢ならんことを述 ぺんとす。 世人往々、  夢中に夢を見ることあり。  一日、  人に対して夢物語をなし、  昨夜かくかくの夢を見たりといえるうちに、 忽然一夢さめきたりて、 さきの夢物語は全く夢中の物語なりしを知ることあり。 これ、 いわゆる夢中に夢を見るものにして、 よろしくこれを 重 夢と名付くべし。 しかるにまた、  重夢の重夢を見ること、  いまだ必ずしもなしというべからず。 これ実に三重の夢なり。 もし、 夢に二重および三重の夢あるを知らば、  さらに四重、 五直の夢あることを知るべし。  その、  いわゆる四重の夢とは人生五十年間の一大夢にして、 ータ永眠に就きたるときに至りて、  はじめてその夢たるを知るべし。  もし他生においてさらに大覚することあらば、  世を頂ね界を隔てて久しく一生一死、  一喜一憂の波間に浮沈せしもの、  みな全く昨夢なることを知るに至らん。

古諺に「榔郡の夢枕」ということあり。 これ、  世の無常をたとえたる話なり。 昔、 唐の開元年中に呂翁という者、  慮生と名付くるものと同じく那郭の邸に宿す。  家主すなわち黄梁を炊きてこれに与えんとする間に、 呂翁袋の中より枕を取り出だし、 盛生に授けて日く、「これを枕となさば、 汝が心のままなる栄華栄耀の夢を見るぺし」といいければ、 慮生よろこびてこれを枕として臥せり。  しかるところ、 いずくともなく百官多くきたりて天子のごとくに尊敬し、  四季の遊景はいうに及ばず、  好衣珍膳、 意のごとくならざるなし。  かくして王位にあること五十年と党えしとき、 夢さめて見れば時問の長さは、 いまだ黄 梁〔あわ〕をかしぎ終わらざる問なりとぞ。 この 噺はもとより信ずるに足らずといえども、  人間一生中、 あるいは笑い、 あるいは泣き、 あるいは欣然として喜び、あるいは 恨 然として悲しむがごときも、 なんぞ知らん長夜の一夢に過ぎざることを。 慈鎮和尚の歌に「かりの世にまた旅ねしてくさまくらゆめの世にまたゆめをみるかな    といえるもこの意なり。 しかれども吾人は、  この世を現実なる世界として事物の道理を考定するよりほかに道なければ、  かくのごとき問題は余がいわゆる真怪の問題にして、 ここに証明する限りにあらざるなり。第三講


第一二 憑付編節    憑付の解釈

第一謂および第二講は、 精神そのものの性質ならびに精神内に現ずる夢想の状態を説明せり。 これ、 内界における心象の状態なり。 もし、 これより外界における心象の変動を述べんとするに、 まず 憑 付論を述べざるべからず。

古代未開の世にありて人知の進まざりしときに当たり、  ここに人あり、 あるいは自己の意識を失うか、 あるいは自己の心意を己が意志にて制することあたわざるか、 あるいはまた全く平時と異なりし思想の自己の支配することある場合には、 これらをもっ て、 他のものきたりて自己に付したるものと思惟せり。 これ当時、 全く心意そのものにつきて精密の思想なかりしによれり。 されども未開野蛮の民といえども、 全く心意というものの存立せることを知らざりしにはあらず。  かれらは身心二元、 重我の理を知りて、 二元中の一はここにとどまり、 他元は外に出遊することを得との考えをいだけり。 これ、 憑付説の起こりしゅ えんなり。 けだし、 この二元の想像は、はじめは人の上につきて起こししものなれども、  後にはこれを禽獣、  草木、  土石等に及ぽして、 同じく二元の存するものと思い、 これら禽獣、  草木の他元は、 きたりて人間に憑付することを得るものと信じたりき。 ここにおいてか、  狐狸、 天狗、 鬼神等は、 人間に憑付すとの説を生ずるに至れり。

およそ鬼神、  鳥獣等が人心を支配するに左の二様あり。  第一は、 鬼神、 鳥獣は人間の外にありて人心を左右する力を有すとし、 第二には、 鬼神、 烏獣は人心の中に入りて、 その精神を支配することを得となすものこれなり。

今、 憑付とはまさに右の第二に属するものにして、 第一はこれを班 惑と称すべし。 かくのごとく二様の別ありといえども、 しかも第二の憑付は第一の班惑と結合したるものにして、 最初にはわが心の外にありて自己を支配せしものが、 進みてわが心中に入りきたりて自己を左右するに至りしものなれば、  第一の班惑は憑付の初期とみなすも可なり。 例えば、 狐がわが目前にありて、 わが心をたぶらかしたる場合は、 すなわち第一のありさまにして、狐そのものが人心の中に宿りて言語、 挙動の狐と同一になりし場合は、 すなわち第二のありさまなり。 しかして右二者は、ともに道理上よりは同一のものとして説明せらるべきものなれば、以下には二者を合して講述すべし。さて、  右の証惑および憑付の二つは、 今日にありては全く不合理なるものにして、 心意そのものの性質を知ら  ざる妄説なりといわざるべからず。 まず、 いわゆる憑付とは、 身心二元がおのおのその成立を異にし、 心意は身体より出入りすることを得、 また身体を離れてひとり自在に作用せらるるものと信ぜしより起こりたるものなれども、 現今学術の研究によれば、 身心の二元は離るべからざる関係を有するものにして、 たとえ最も極端の唯心論者すらも、 心意は肉体と合してのみ作用するものなることを否定するあたわず。 いわんや、  かの経験学派および唯物論者にありては、 身心二元の分離孤立すというがごときは、 最も不合理のはなはだしきものとなす。 予はもとより唯物論者にあらずといえども、  身心は不離の関係を有し、 心意は物質の構造、  機能の上に発して作用するものなることを信ず。  また、 予は身心の二元ありとなすも、  かの古代の二元論者のごとく、 心意は肉体の外にありて肉体の上に入りきたり、 自在にこれより出入りすることを得、 その入るときは吾人の生にして、  その出ずるときは死するものなることを信ずるにあらず。  けだし、  かくのごときはいわゆる物心並存論なり。 予のいわゆる物心の存立とは、 心意は物質の内部に存し、  物質の構造、 組織に伴っ て、 内部より発現するものなりとす。  換言せば、 心意は物質内包の光明なりと解すぺし。 ゆえに、 これを物心内包論と称すべし。  今日の学理上より物心の二元を説明せんとせば、 必ずやこの論によらざるべからず。 もし、 果たしてこの論のごとくなりとせんか。  人心は外部より支配左右せらるるものにあらず、  また鬼神ありて外部より憑付すぺきものにもあらず。  かつまた、心意は物質の内包より外発したるものとなすときは、 物質そのものの規則、  事伯に従わざるべからずして、 通俗のいわゆる狐狸の憑付はいうに及ばず、 鬼神の憑付のごときも不合理の論たることを免れざるなり。


第二四節    憑付の疑難

もし通俗の信ずるがごとく、 鬼神、 狐狸は実に人間に憑付するものとなさんか。 たちまち種々の疑難起こりて、到底これを説明すべからず。  今、  狐狸の憑付につきて左にその疑難を示さんとす。

(第一)  狐狸は動物学上、 身体の構造よりみるも、 神経の組織よりみるも、 はたまた知識の程度より説くも、到底動物中の最高位を占むべきものにはあらず。しかるに、右らの諸点において動物中の最高位にある人類をば、班惑することを得とは解すべからざることなり。 もし、 狐狸にして人問を粧惑することを得んには、 狐狸の上にある捩、 象のごとき怜悧の動物は、  一層巧みに人類を欺くべき理なるに、  ひとり狐狸の属のみ人問を魅すとは、そもいかなるゆえなるか、 これ疑難の第一なり。

(第二)  狐狸は人間を自在に左右する力ありとせんか。 他の猛獣といえども、 これを自由になすべきはずなるに、 かえっ て他の猛獣の餌食となるはいかん。 また人問にとりても、 狐狸が猟者の手に捕獲せらるるがごときも、同じく解し難きことならずや。

(第三)  狐狸は東洋諸国のみならず西洋にもすめるものなれば、 もし狐狸にして実際人間を証惑するものとせば、 西洋諸国にもこれあるべきに、 西洋にはあまり狐惑、 狸惑のことを説かず。 しかして、 もっぱらシナ、 日本等にその説行わるるはいかなるゆえぞや。

(第四)  従来、  狐狸の人を謡惑するをみるに、 こは一般の人にはあらずして、  必ず知識に乏しきか、 性質臆病なるか、  または酒類に酪酎せる人々なり。  また、 上等に位する人よりは下等の人民、 男子よりは女子に多きは、これ疑うべきなり。

(第五)  従来、  狐狸の人を証惑すというを聞くに、  朝および日中には少なく、  夕および夜間に多く、 また夜問にても月明かりのときより昭雨の節に多し。 また、  人煙多き村落にみずして、 寂莫たる山中または社林、 廷地等に多きも解し難し。

(第六)狐狸の班惑、 憑付のごときことは、 未開の時代、 不文の地方に多くして、教育普及し人知進みて、人々の事理を解するに従い漸次減少するはいかん。

(第七)  下等無知の人民の中にても、 三、  四歳の小児または生来白痴にして奄末も事理を解せざるものは、 狐狸に魅さるることなし。 もし狐狸は男子より女子、  有知よりは無知の人をたぶらかしやすきものとせば、 小児、白痴のごときはもっとも魅しやすかるべき理なるに、  かえってこのことなきはいかん。

(第八)狐狸の人に憑付したる場合には、 その人の言語、 挙動は平常に異なることありといえども、  しかも当人の記憶に存し、 談話に聞けるか、 あるいは平常経験したることのほかは言行に発することあたわずして、  その知識相応の挙動をなすは` これまた疑うべき点なり。 もし 狐憑き病者にして、西洋交通の前にありて西洋諸国の事情を知り、 洋学の渡来以前においてその文字を書せしことあらんには、 これ真に不可思議なりといえども、 今日までの狐憑き病には、  かくのごときことありしをみざるなり。

以上列挙したるところによりて考うるに、 従来狐狸の証惑または憑付なるものは、  学識あり勇気ある人、 あるいは狐狸はかかる魔力を有すとの記憶なき幼児、 白痴等に見ることを得ずして、  愚昧者、  臆病者、  泥酔して正気を失いし者、 または山路に祐挫せし者、 ことに狐狸は人間を班惑すとの記憶ある人等に限れるは、 これ学術上の説明を要する点なりとす。


第二五節     物理的説明

物理上の説明によるときは、 右のごとき憑付説は、 全く愚民の妄想に出でたるものというよりほかなし。  しかるに、  先年 ペルツ氏が狐憑き病の原因を説明したるものあり。 これ、 物理的説明の    つなり。  その説によるときは、 吾人の脳髄は左右両半球に分かれおるものにして、 通常の事柄はその半球だけにてつかさどり、 他の半球はただ予備たるに過ぎず。 しかして、 この予備の半球には種々の奇異なる想像を蘊蓄すといえども、 平時にありては意識に現るることなし。 しかるに、 狐憑き病のごとき異常の場合には、 脳の両半球は相孤立して作用し、 一半球には狐狸相宿り、 他の一半球をもっ て自己の宿るところと信ず。 もし、  その狐の宿ると信ぜる半球の勢力強大にしてもっぱら作用するときは、  自ら狐なりと信ずるに至るなり。  要するに、 脳髄の両半球の孤立して作用することは狐憑き病の原因なりと。  今、 左に氏の滅説の要点を摘載すべし。

本病の説明をなすにあたり、 その意の了解しやすからんことを欲し、 さらに一歩を進めて精神作用につき一、 二の要件を述ぶぺし。  そもそも医学上より論ずれば、  活体機能はことごとくみな、  これを神経の力によるものとなす。 すなわち、  はなはだ単簡なる活体といえども、  その運動は神経の力によらずんばあらざるなり。 しかして、 この神経作用は、  脳および脊髄の反対なる側部に起こる。  例えば、 予が右側の手指を動かすは、 予の左側の脳の作用によらざるべからず。 予の左眼瞼を閉ずるは、 予が脳の右側の作用によらざるべからざるがごとし。 ゆえに、 脳より運動する部分に至るの通路は全く交差すという ぺし。 そもそも人体左側の脳は右側の脳に比するに、 その発育おのずから超越せるを常とす。  これをもっ て、 右半身はおのずから使用に便なり。  ゆえに世人、 常に右手をもって書し、  右手をもって食し、  戦エのその業を操るもまた、  右手をもってこれをなす。 これ他なし、 右手は左手より利用に便なればなり。 この理由は特に常習のみに原因するにあらず。 すでに分娩の際にあたりて、  右手および右側胸部の左側よりやや大なるは、  綿密なる測定によりて明らかに見るを得るところなり。 また経験によれば、  人身の最高等なる官能すなわち言語は、  その中枢を脳の左側、 なかんずく前額 顧 顕〔こめかみ〕部に占む。 このゆえに、この顧顕部は弾丸もしくは刀剣等によりて傷つけらるるか、 あるいはその部に腫瘍等を生ずるときは、 その損楊部分の大小に従い、  多少言語の力を失するがごとし。  しかれども、  日月を経るに従い、 小児の言語を学び得るがごとく、 自然に言語の自由を復すべし。  そのゆえは、 従来左側の脳をもって自由に言語をなせしも、 今やその器を失うにより、  さらに右側の脳をもって言語を習えばなり。 また、 常に左手を使用する者は、 すなわち右側の脳を使用するの常習あるものなり。 予はその一人にして、 予の父および祖父みな左手者なり。  ただし、  この性は常に第一子にのみ遺伝して、 その他の児孫に及ばず。 予が頭骨前頭の右側(すなわち左手者にありては言語の中枢のあるところ)は、左側に比すればその発育やや勝れり。 これすなわち、 予は常に右側の脳をもって言語をなすによるなり。これによりてこれをみれば、 通常の人は言語をなすに脳の半側を使用するものにして、 他の半側はただ予備となり、  ほとんどその用をなさざるものなり。 予の憶想によれば、 この脳の半側(予備となれる半側)中には、 けだし寇も自ら知らざるところの奇異、 不測の想像集積するならん。

狐 憑きはたいがいまず、精神衰弱もしくは鬱菱病、もしくは重大なる恐怖等の症候あり。しかして患者は、そのはじめ自ら狐憑きたるを知らず、 他人に注目せらるるに及びて、  しかして後、 初めて自ら狐憑きたるの感を起こすものなりと。 また精神病医の経験によるに、 鬱憂病患者にして終日無言なるもの、  卒然活発となり、 意外、 珍奇のことを語ることありという。 これすなわち、 不覚夢状の思想、 常に脳中に集積するもの、一朝思慮の欠損によりその主宰力欠乏し、  調節の度乱れて自然に発現するものなり。

予の所見をもってするに、 狐憑きなるものは脳の両半球おのおの独立して、 同時にその機を発し、 しかして思慮強力なる半球、 もっぱら舌体を領するに因するものなり。 このゆえに該患者の状をうかがうに、 あるいはひとり言語し、 あるいは患者自ら尋常の言語をなし、 あたかも該患者の両脳〔半〕球互いに舌体の主領を争うがごときを目撃することあり。  かつ、 すでに上に述べしごとく、  患者はじめは苑も自ら狐憑きなりと想像せず。 他人きたりて、「汝の体中、 狐を宿らしめたり」というに及びて、 たちまち自ら重複の知党、 すなわちおのおの意を異にするところの二体よりなれるを覚ゆ。  かつ、 狐の憑くるところとなるを信じ、 しかして人に向かいて狐の挙動をなすに至るなり。 欧州においてもヒステリー 病にかかれる婦人、 自ら狼、  犬、  羊等に変ぜしと思惟し、  好みて獣頻に近接し、 あるいは飛躍し、 あるいはその音声を模するものあり。 けだし、この性質も、 また決して狐憑きと異なるものにあらず。

一婦人あり、  年四十二、  かつて狐憑きにかかる。  はじめは精神に異変なくして、 その言語もまた尋常の声音をもってせしが、 しばらくして声音にわかに鋭く、 しきりに狐の状を擬す。 しかして、  その狐語をなさんと欲するや、 まず右側の顔面および右上肢に揺溺を発し、  かつ自ら一物ありて左側胸部に動揺するがごときの感を覚え、 しかしてその言語、 はじめは語理通ぜざるも、 後にはようやく明瞭となれり。  これ、 この婦人常に言語をなすに、 左側の脳を使用せしの証なり。 けだしこの患者、 常のごとく左側の脳を用いて言語すればその事理明晰なりといえども、 右側の脳またその作用を始むるにあたりては、 患者は右上肢の揺据および胸内の動揺にその感応を受くるをもっ て、 すなわち自らこれを狐の所為に帰せり。 しかして、  ひとたびこの想像を起こせし後は、 右側の脳を使用するごとに、 この想像をもって言語す。 あたかも吾人が夢中にありて、あるいは他人となり、 あるいは新たに地位を得、 これに応じて挙動なすがごとし。


第二六節    心理的説明

以上の物理的説明にては、  到底 憑 付の理をつまびらかにすぺからず。 そもそもかくのごとき妄想の生ずるは、駆出、 精神そのものの作用より起こるものなり。 今、 卑近の例をもって例えんに、 かの 鼠が猫の前に出ずるや、動かんとして動くことあたわず、 のがれんとしてのがるることあたわざるは、 これ猫の鷹力または電力が鼠の上に影響するによるか。 いな、  決してその靡力あるいは電力の作用にはあらずして、 全く鼠自体の恐怖によれり。

また、 かの罪人が判官の面前に出ずるや、 口喋していうことあたわず。 これ、  判官の神力あるによるものにあらずして、 罪人自己の梢神より発するものなり。 今、 人間の狐狸におけるもまた同一にして、 世間のいわゆる狐狸に憑付せられて、  その精神作用の変ずるは、 決して狐狸の魔力にあらずして、 全く人問の梢神そのものの作用に帰せざるべからざるなり。

およそ人心は、 百般無兄の観念相互に迎合して成立したるものなり。 しかして、 平常はその各観念の比較上より意識の中心を生じ、 自己の思想をなすものなり。  ゆえに、 もし異常の場合において、 他の観念、 すなわち平時と異なりし観念の代わりて意識の中心となり、 思想を組織するときは、 必ずや平常とは異なりたる言語、 挙動を発すべきなり。 今、  狐 憑き病の場合には、 狐憑きの親念、 意識の中心となりて自己を支配し、 神憑りの場合には、鬼神の観念中心となりて作用を現すものにして、  もしまた死人の盟魂、 あるいは怨敵の籾神につきての観念、  意識の中心を占むるときは、 死盟、 生霊の憑付するに至るものなり。  かくのごとく、 異常なるある一種の観念中心となりて全体の思想を左右せんには、 内外種々の原因あらんことを要す。 外因とは狐狸、 鬼神その他、 外界におけるさまざまの境遇および事情にして、  内因とは信仰、 恐怖、  想倣その他、 種々の精神作用これなり。 しかるに世上憑付の事実を信ぜざる人は、 これをもって一概に神経作用とみなして、 さらにその理由を説明せんとつとむることなし。  されども、 もし狐憑きをもっ て神経に帰すとせば、 なにゆえに神経そのものはかくのごとき奇異の作用を現すやを説明せんこと、 最も須要なり。 しかしてまた、  神経そのものがかかる作用を現さんには、  必ずやこれを催すところの原因、  事情なかるべからざるなり。 今、 予の考究するところによれば、〔第〕二三節に挙示せしがごとく、  内外の原因、 事情ありて起こるなり。  これによりてこれをみるに、 憑付の起こるは内外両界の関係より生ずるものというも可なり。  ひとり内界あるいは外界のみより起こるものにあらざるなり。



第二七節    実際上の説明

以上述べしところの理を実際に適用して説明せんに、  およそ狐狸に班 惑または 憑 付せらるるは、  愚民、  女子のごとき思想の単純にして情の動きやすきもの、  性 怯憫なるもの、 ならびに従来の伝説、 談話等によりて謡惑、憑付のことを記憶したるものに限れり。  そのゆえいかんとなれば、  思想の単純なるものはある一種の観念に思想を集合せんことやすく、 性臆病なるものは観念の連合弱くして、 これまた心力の一点に集合しやすきものなり。しかして、 旧来の伝説、 談話等にて狐狸の説惑し、 憑付せし事実を記憶するときは、 この記憶に思想集合し、  これを中心として意識を組織するがゆえに    一挙一動みなその記憶の命ずるがままに作用するや必せり。  かつ、 すでに狐狸の記憶が意識の中心となりたるときは、 これと連合せる種々の観念、 心象同時に起こりきたりて、 あるいは狐狸の欲する食を求め、 またはその仮声および挙動を呈するに至るものにして、  みなこれ自然の連合より生起せるところの現象なり。

また、 右らの観念は平常は意識中に存せずして    いわゆる無意識的観念の状となりて存するもの多し。  しかるにいったん狐憑き病にかかるときは、 右の無意識的観念は意識の中心に立ちて思想を支配することとなるより、平常奄も知らざりしことを言語、 挙動に発するがゆえに、 通常、  人はただちにこれをもって当人の力にあらず、狐狸、 鬼神の魔力によるものなりとして奇怪視するに至る。 されども、 すでに心意には意識および無意識の二つあることを知らば、 容易にその理を明らかにし、  また一点の疑いを存すべきものなし。  このゆえに、  人にして無意識的観念だも有せざるものは、  憑付にかかりしことなし。 すなわち、  三、  四歳の幼児あるいは生来の白痴のごとき、 または西洋人のごとく、 いまだかつて 狐憑きの談を聞かざる人々は、 決してかかる病症に感ぜざるなり。また、 わが国にても狐のある地方はその原因を狐に帰し、  狸のすめる所にてはこれを狸に焔し、 狐狸の存せざる島地等にてはその原因を蛇等に帰するがごときことありて、  狐憑き病、  狸憑き病、 蛇憑き病等さまざまの名称を生ずるに至れども、  その呈する現象に至りてはいずれもみな同一にして、 ただ狐憑き病は狐に擬し、 狸憑き病は狸に擬する等の別あるのみ。  これ、 各土地に存する伝説、 談話の異なれるより、  人々の無意識中に存する記憶の同じからざるによれるなり。 これによりてこれを考うるに、 種々の憑付はみな、  記憶中の観念が思想の中心となりて、 諸作用を支配左右すということにほかならざるなり。 しかして、  その原因は内外の諸事情より起こるものなり。




第二八節    幻覚の影響

すでに内外の諸事情によりて、  あるいは 班 惑を生じ、 あるいは 憑 付をきたしたる場合には、 心内の想像その力をたくましくして、  幻覚、 妄覚を生ずるに至るぺし。  すでに幻覚、 妄覚を生ずれば、 目に狐狸の形を認め、 耳には鬼神の声を聞き、身は全く妄想の世界にありて動作するに至れること、あたかも吾人の夢境にあるがごとし。実に狐憑き病者の言語、 動作は、  みな狐憑きという夢幻の境にある状態なりというべし。  かの狐憑き病者が、 あるいは「狐は予を迎えにきたれり」「予は狐と某所に遊びたり」または「いま狐をみる」などの言を発するは、   な狐憑き病の妄覚の上に現れたるものなれば、 別に怪しむに足らず。

また右のごとき精神作用は、  その影響を肉体の上に発することあるものにして、 ただに思想上の現象を挙動の上に表示するのみにあらず。  例えば、  狐憑き病にかかりたる人は、 腹中その他、  身体のある部分に一異物の宿るがごとく感じ、 この点に狐の住するがごとくに党ゆるものなり。 しかして、  その宿りたりといえる場所は、 これに触るれば実に一種の団塊あるもののごとく感じ、 あるいは一種の腫物を生ずるがごときありさまを見、 または皮周上に血色を見るがごとき、 多少肉体の変動を呈するものは、  みなこれ精神の影響なりとす。 なお、 これらの梢神作用につきては、 よろしく第講に述べたりしところを参看すべし。




第二九節 狐惑および狐憑き論

さきに鬼神、 禽獣等が人の籾神を左右するに、 班惑、 憑付の二種あることを述べたりしが、 今、  狐につきてもまたこの二稲ありて、_    つを狐惑と名付け、 つを狐憑きと称す。  しかして、 この二者は判然と相分かつべからざるものなれば、 ここにも二者合して講述せんとす。

わが国にては古来狐惑および狐憑きに関する伝説、  談話はいたっ て多しといえども、  今日にありてはその真偽を鑑識せんことはなはだ難し。 古伝の信拠すべからざるはもちろんのことなれども、  ひとりこれのみならず、  今日現在の伝説すらも、 十中七八までは無根、  虚構に出ずるもの多く、 決してそのいちいちを信憑すべからず。  今その一例を挙ぐれば、  先ごろある人予に書を贈りて、 栃木県に狐惑の事実ありしことを報知せられしかば、  これをその本人に問い合わせしに全く無根のことなりき。  今、 左にその報道のありさまを示すべし。

栃木県下某町開業医某のもとに、 真夜中急使きたっ て諮いらく、「産者いままさに産せんとして、すこぶる苦悩せり、 急ぎきたっ て一診せられたし」と。  某、 請いに応じ、 車を命じて急使とともにその家に馳せてみれば、 家は誠に立派なる大家なり。 至りしときはすでに産み落とせし後なりしかば、 某は事後の薬などを与え、 うどんの馳走を受け、  かつ謝金をも受け取りて帰宅せり。  翌朝、 所用ありて紙入れの金を出ださんとして開きみれば、  なんぞ図らん、 謝金はことごとく木の葉なり。  怪しんで前後の道をたどりてその家に至りみれば、 車輪の跡は歴々存すれども、 家はあらずして茶園のみ。  しかして、 その茶園に狐の赤ん坊が死しいたりという。 ここにおいて、某は前夜のうどんのことを思い出だし、 家にかえっ て吐剤を服して吐いてみれば、まさしくうどんに相違なし。 もっともその前日とか、  その近傍に婚礼ありて、 打ち置きしうどんが紛失せしとのこと事実なれば、 けだしこのうどんなるべし。  当時このこと遠近に伝わりて、 人はみな某は狐に魅せられたりと称せり。

これにつき、  郵也寄送者は疑問を掲げて曰く、狐は果たして人を魅するの術を知るやいかん、果たして狐に人を魅するの術ありとせば、いかなる術に  候や。心意にいかなる変化を受くれば、  かく狐を人と見、 茶園を立派なる大家と見受くるに至るものに候や。 魅術の心意の上に及ぼす変化のぐあいを承りたし。

余、 この報に接して大いにこれを怪しみ、 速やかに某町に問い合わせしに、  その返書に、 御照会の件は全く事実無根につき、 御取り消し相成りたき旨申しきたれり。 ここにおいて、  そのことの全く訛伝、 虚構に出でたるを知る。 今日今時の伝説すら信拠すべからざること、 それかくのごとし。  いわんや昔時の伝説をや。 吾人の容易に信ずべからざること、  言をまたざるなり。 されども、 古来の伝説は十中の十まで、 ことごとく無根、 虚構なりとはいうべからず。  必ずそのうちの一部分は事実ならん。 あるいはその談話は、 事実より数倍も過張しおるにもせよ、 そのうちにいくぶんかは事実とすべきものを含有せること必せり。 すでにしからば、 右のごとき虚構あるいは過張に属する部分を彼此控除して、 残るところの事実はいかように説明すべきか、 これ吾人の研究を要するところなり。

今これを説明せんとするに当たり、  まず物理的の方法によるときは、  狐を解剖しその脳髄を試験するも、 決して人を班惑すべき作用あることを証することあたわざるべし。  しかして、 狐のいかなる動物にして、 獣類中いかなる位地にあるやは、「理学部門」烏獣編において説明すべし。  されども、 これを心理的に考うるときは、  かかる事実のあり得 ぺきことを知らんこと難しとせず。  しかして、 そのゆえんは前文に述 ぺたるものに照らして、  左のごとく定むることを得 ぺし。

第一 古伝旧説、 すなわち古来より民問に伝われる狐惑、  狐憑き談

第二意識的および無意識的観念、 すなわち吾人の記憶中に存するもの内外の事情、 すなわち内界および外界の諸種の事情四    幻覚、  妄覚、  および身体上に及ぼす影響

以上、  四箇条によりて狐惑および狐憑きを起こすに至りしものなるが、 これを人より人に伝うる際、 布術し増殖して奇怪に奇怪を重ね、  ついに数倍過張したるものとはなりしなり。  かくのごとくにして、 昔時の伝説は到底その事実なるやいなやを鑑別することあたわざるがゆえに、もし吾人は今日以後これに類似せる事実に遭遇せば、よろしく注意してその正否を討究せざるべからず。 されば今、 予はその増大過張したるものなるやいなやを知ることあたわざる、古代の伝説につきていちいちその説明を与うることあたわず、 ただ、 古来の 狐 談についていささか批評を加え、 もっ て今後の注意を促すにとどまらんとす。



第三    節    狐談の起源

世問にいわゆる狐惑、  狐 憑きは古来の伝説に基づけるものなれば、右伝説の起源を探究するはもっとも緊要なり。 そもそもこの伝説の起源は、 予の考うるところにては、 全く偶然に起こりし出来事なるがごとし。 すなわち、偶然にもある人は狐に証惑せられたりということありしより、 このこと一般の人口に流布して伝説となり、 後人は幼少のときよりこの伝説を聞きて、 記憶中に一種の観念を形成するに至りしなり。  しかして、 最初偶然に生起したりというは、 なおあたかも彗星出でしときに内乱ありしより、  彗星をもって内乱の前兆なりと断定したると異ならざるべし。 彗品と内乱とは、 決してその問に物理上の関係あるものにあらず。  ただ、 当時の人知はその関係を明らかにせざるがため、 偶然の事変をもって必然のものと妄信したるものに過ぎず。  今、  狐談の起こりしもまたこれと同一なり。  およそ狐憑き、 狐惑は人の一種の粕神病、 もしくは精神上の多少の変動の状態なり。 しかるにこの状態と狐狸とは、 ある関係において偶然同時に起こりたる場合ありしかば、 当時の人はこれを認めて原因、 結果の関係あるものと信じたるに過ぎざるなり。 もしそれ、 この偶然の事変にして、 犬と人との間に起こりたらんか。  必ず犬憑き談なるものを生じ、 馬と人との間に起こらんには、 馬憑き談というものを伝うるに至るならん。 これをもっ て、 ある地には狐憑きを唱え、 ある地には 狸憑きを説き、 ある地には犬神または蛇持を信ずるに至れり。 これみなその土地の伝説の相異なるによれるものにして、 しかもその患者の性質、 徴候に至りてはいずれも同一にして、  さらに異なるところあるを見ざるなり。 このことにつき、  ベルツ氏の演説は大いに参考すぺき点あるをもっ て、  左に引証すべし。

数千年来、 ヨー  ロッ パ州およびことにアジア州において、  一種特異の精神障害症にかかるもの往々これあり。 この患者は固有の声音に他の仮声を混じ、 あるいは単に他の音声のみをもっ て言語し、  かつ、 自己の心中にあらざることを発言し、 あるいは己が意に反することを発言するものなり。  けだし、 この症に関して、インド、  ペルシア、  シナ、 日本、  パレスチナ等よりきたるところの報告は、  おおむねみな相類似せり。  しかして、  単に他の音声のみをもっ てする症は、  その語気必ず謁尚にわたり、 霊妙不可思議の威権を有するもののごとし。 しかれども、  その状態に至りては各国相異なれり。  すなわち新約キリスト堕書において、  およそ心中にあらざるのことを言語するものは、  人体に宿れる脱神の所為となし、  インド、  ペルシアにおいてはこれを一、 二の獣類、 なかんずく狐狸もしくは犬の所為に帰せり。 けだし束方においては、 人、 常にこれらの獣類をもって非凡の力を有するものと妄信するによるなり。

その人体中に宿るとなすものの種類は一っ にして足らずといえども、 その経過の状に至りてはみな同一にして、 およそこの病にかかるものは、 一時強劇なる擾苦にあうものあり。 あるいは身体大いに哀弱したる後、卒然その性質を変じて活発となり、 喋々多弁するのみならず、  その言語すこぶる奇怪なるものあり。  かつ、このときに当たり、人もしその症状を評して狐狸、悪屎等に侵襲せられたるものと同一なりという者あれば、すなわち患者これを聞きてまた自らその症にかかれりと確信し、 あたかも他体の自体中に宿りて随意に言語するもののごとく感覚し、 多くは猥褻、  傲慢、 破廉恥のことを語るを常とす。  けだしこの状態は、 数週、 数月もしくは数年を経過したる後に、  神に祈りて治するものあり。  または魔神に卓越したる威権を具有せりととなえらるる人の、 言語あるいはその攻撃によりて治するものあり。

この病を治癒するの方法は、 ヤソのその教文に記するものと、 日蓮宗の僧侶およびその老婦の唱うるところのものと、 奄も異なることなし。  ゆえに余は、  狐憑きにつきてここに練々するを欲せず、 ただ日本公衆に対して、  その緊要なる点のみを単簡に述べんと欲するのみ。

第一、この病をもっ て日本国の固有病と信ずるは誤れり。  けだし、 これと同じき病状はアジア全州に散在し、 ただ国によりてその名称を異にするのみ。 これゆえに、  人もしこの病の鬼類の所為なることを信認するインド人に向かいて、 これ狐狸の所為なりといわば、 彼必ず笑わん。 また日本人に向かいて、 この病は人体に類似したる鬼の所為なりといわば、 日本人もまた必ず笑うなるべし。

第二、狐憑きはただこの病を信じる人のみを侵して、 この病を信ぜざる人を侵すことなし。

第三、 狐憑きは魯鈍、 蒙昧なる者、 あるいは病患により、 もしくは激烈なる恐怖によりて、  一時精神の衰弱したる人のみを侵す。

第四、 本病を狐憑きと信ずるものはおおむね掃女子、  少年輩なり。 ゆえに、 この病はたいてい婦女子、  少年輩にあり。

第五、この病にかかる者の自らもって病因なりと信ずるところの獣類は、  土地によりて同じからず。 あるいはもっ て狐となし、 あるいはもって犬となし、 あるいはもっ て狸となすの類これなり。

第六、 この病は患者の思慮平生に復するにおいて治癒す。 これ、 あるいは本源なりし疾患の治癒するにより、 あるいは某人、 あるいは某神仏を講ずる人の力に頼るなり。

予の知るところによれば、 この病につきては日本はもちろん、 欧州においても、  いまだかつて医師のこれを詳 悉論述せしものあらず。 予や今をさる九年前、 日本にきたれる以遠、 喜びて本病を謂究し、 常に可及的見聞をひろくせんことをつとめ、 また久しく本病者につき実験するを得たり。 すなわちおもえらく、  この病の症状につきてはまた少しく語るを得べしと。 けだし、 予がこの病につき単簡なる説明を得て、  これを世に公布せしは五年前にあり。  おもうに、 日本の医師はすでにこれを諦認せられしならん。

狐憑き病または犬神病は、 日本においては数百年前よりすでに世人の熟知するところにして、  なかんずくこの病は四国に多きがごとし。  しかして、 この地の俗伝においては、  その病の原因をもって源三位頼政の殺せし怪禽の所為となせり。 俗伝に日く、「頼政が京都紫炭殿において、  かの怪禽(鵜)を数片に分断せしや、猿のごとき頭部は伊予に飛び、  蛇蝠のごとき尾と炎を放つの舌は長門に飛び、 犬のごとき胴は阿波(徳島の

近在、  今なお怪禽村と称する所)に飛び、 しかして、 この諸部分みな本病の原因をなす」と。 これをもって、伊予においては本病を猿神病といい、 長門においてはこれを「ハスイカツラ」といい、  阿波においてはこれを犬神病という。  ただし、  京都、  大阪地方においても、 またこれを犬神と呼ぶといえども、  該病発因の説明に至りてはおのおの相同じからず。 また、 その他の地方においては、  おおむねこの病を狐憑きと称しきたれり。  けだし、 世俗常に、  狐は人体中に宿り、  かつ人をたぶらかし、  あるいは人を惑わすの幻術をそなうるものと信ずればなり。

この症は医師の、 久しくもっ て疾患とみなせしごとく、 予もまたこれを疾病といわんとす。 しかれども、これを他の疾病に比するに著しく異なるところあり。 俗人もって非凡力の所為なりとなす、  またその理なきにあらざるなり。  しかれども、  もし多く精神病患者を目撃し、  かつ娩近の医学を講究したる者ならば、 この病の説明をなさんと欲するも、 またあえて至難にあらざるべし。

しかり、 この伝説は全く偶然の出来事なりとするも、 いずれの国を問わず多少これに類したることあるはいかんというに、 これ、 予の前に述べたる重我説より起因したるものなり。  すぺて人には自我と他我との二様ありとし、  この理を推及して禽獣にもまた二我ありと想像し、 禽獣の一我は人問の体内に宿ることを得 ぺきものと思考せしより、 西洋にも東洋にも憑付談を伝うるに至りしなり。 この憑付は実に古来種々の精神病者を説明しきたりしものなるがゆえに、 今日の狐憑き患者は一種の精神病者に与うるところの名称なりとす。  ただ、 この病者が他の精神病者と異なるところは、 古伝の狐憑き談の観念によりてその諸作用を左右せらるる別あるのみ。


第三十二節 シナの狐談

さて、 これよりわが国の 狐 談の起源を探究するに、 全くシナより伝来せる狐説によりしこと明らかなり。今左に、 諸店に散見せる狐説を述ぶべし。 まず「乗 燭或問珍」に論ずるところ、 いたっ て簡短に説き示せるものなれば、 これを掲ぐべし。

狐の怪をなすこと、 和漢ともに書々に載す。 第一、 いたっ て疑いの深き獣なり。 道を走るにも、 人や襲いきたるかとよりより跡を顧みるなり。 ゆえに、 疑いの多き人を狐疑というなり。  その妖怪をなす調練は、  草深き野原にて霊天蓋を拾い、 己が 頂 に載せてあおのき、 北斗の星を拝す。 しかれども、 あおのかんとすれば頂の璽天蓋たちまち落つる。 また拾いあげて頂にいただき、 右のごとくすること数年を積もれば、  後は北斗を拝しおどり回りても、 鍛錬にて霊天蓋を落とさず。  そのとき北斗を百遍礼して、  はじめて人の形に変化するなり。 また白居易は、「古墳のほとりに住む狐はもっぱら妖をなして美婦人と成り、 十人に八九人は迷う」といえり。『夫木集    の歌に、「花を見る道のほとりの古狐かりの色にや人迷ふらん」とあり。 考うるに、  狐はいたって陰獣なり。 ゆえに陽気衰える人あれば、 その虚に乗じて外邪入るなり。  およそ人の喜怒哀楽、  気七情、 いずれにても過ぎたることあれば、 本体の主人公、 外に離れ空虚となりぬれば、 陰気のみにして虚人と成る。 しかるときは隙をうかがうところのもの、 なんぞ入らざらんや。  唐の武三思という者の愛せる妓女は花の妖なりけるが、 秋 梁 公という賢人のきたりけるときより、 かの妓女、 形を失い再びきたらずとなり(『開元遺事  にあり)。 畢 党、妖は徳に勝たずといえば、 なんぞまさしく人の前にて妖をなすことあらんや。

みな忌み恐るるによりて妖を招くなり。  その心につれて妖もまたある理なり。また、「安斎随筆    巻六に論ずるところも一考すべき価値あれば、  左に摘載すべし。

妖狐。「〔乗燭〕或問珍  という書六冊あり。 宝永七年、  三州田原の学者児晶不求というものの著すところにて、 もろもろの奇怪を弁断せる問答書なり。  その中に狐妖を怪しみて問いし答えに、「(上略)その妖をなす調練は、 草深き野原にて霊天蓋(サレコウベのことなり)を拾い、 己が 頂 にいただきて仰ぎ、  北斗の星を拝す。 しかれども、 仰がんとすれば頂の霊天蓋たちまち落つる。 また拾い上げて頂にいただき、  右のごとくすること数年を積もれば、 後は北斗を拝しおどり回りても、 修煉して霊天蓋を落とさず。 そのとき北斗を百逼礼して、 はじめて人の形に変化するなり、 云云」〔伊勢〕貞丈いわく、「右の狐のばけようの伝授は、 なにか唐の書にて見しことありしが、 用にもたたぬことなれば、 その害名も忘れたり。 右委細の伝授をば、  狐に聞きて害きたるか、 または霊天蓋を拾いしときより数年を租みて北斗を〔百遍〕拝するまで、 狐に付き従い見覚えて害きたるか、 いぶかしきことなり。  学者とよばるる悲は、  わが国の書に少しにても怪説あるをば一喫にいい破りて、 盾の魯に見たる不稽の説をば、  みだりに信じて其偽をも考えず、 とにもかくにも隣の甚太味噌が好物なるぞおかしき。 この類のことなお多し。

また、「随意録」の一節も左に抜記すべし。

狐狸之魅レ人、 異域亦同、 謝棗渕云、 其不丘竺婦人一者、 狐陰類也、 得>陽乃成、 故雖二牡狐必托二之女以惑ニ男子一也、 此説則不ら中、 我方之狐、 為  男子和以魅>人、 往往有焉、  又婦人之見>魅、 亦往往有焉、 但為>彼所>魅者、 皆卑賤愚栞之民也、 尊貴買智之人、  則未浜口有ーー此事一也。

(狐狸の人を魅する、 異域また同じ。 謝 燐 潮いわく、「その婦人を魅せざるは狐の陰類なり。  陽を得ればすなわち成す。  ゆえに、 牡狐といえども必ずこれに女を託すれば、 もって男子を惑わすなり。 この説はすなわちあたらず。 わが方の狐、 男子となりてもっ て人を魅する往々あり。 また婦人の魅せらるる、 また往々あり。ただ、 彼がために魅せらるる者、 みな卑賤、  愚蒙の民なり。 尊貴、 賢知の人は、 すなわちいまだかつてこのことあらざるなり」)

以上、 諸書の説によりて大略、 和漢狐談の性質、  起源を知るべしといえども、  さらに、  左にシナの店につきてこれに関する事項を抜記せんとす。  その中には今引用したるものと頂複せるところ多しといえども、  そのままこれを掲ぐ。

本草綱目云、 狐南北皆有>之、 北方最多、 有迄只黒白ー一種一白色者最稀、 尾有ーー白銭文一者亦佳、 日伏二干穴一夜出窃>食、 声如如郎苗公 気極腺烈、 毛皮可>為>装、 其腋毛純白、 謂らシ之狐白{  許慎云、 妖獣鬼所>乗也、 有二三徳一其色中和、 小前大後、 死則首丘、 或云、 狐__知  上伏一 不品竪肝栢一 或云、 狐善聴>氷、 或云、 狐有二媚珠一或云、狐至二百歳一 礼  北斗  而変化、 為  男女淫婦一 以惑>人、 又能撃>尾出>火、 或云、 狐魅畏>狗、 千年老狐、 惟以千年枯木ー 燃照、 則見二真形一 或云、 犀角置>穴、 狐不二敢帰ー  山海経云、 青丘之山有品狐、  九尾能食>人、 食レ之不レ掻、 鼎曰、  狐魅之状見>人、 或又手有>礼、 或祇揖無>度、 或静処独語、 或裸形見>人也。

(「本草綱目」にいわく、「狐は南北みなこれあり。  北方最も多し。  黄、 黒、 白の三種あり。 白色は最もまれ、尾に白銭文あるものまたよし。  日は穴に伏し、 夜出でて食をとる。  声、 嬰児のごとく、  気、 極めて腺烈、 毛皮、    袈   をつくるぺし。 その腋毛は純白、 これを狐白という」許慎いわく、「妖獣、 鬼の乗ずるところなり。三徳あり、 その色中和。 小前大後、  死すればすなわち首 丘 す」あるいはいわく、「狐は上伏を知りて肝栢をはからず」あるいはいわく、「狐はよく氷を聴く」あるいはいわく、「狐に媚珠あり」あるいはいわく、「狐百歳に至れば、 北斗を礼して変化し、 男女淫婦となり、 もって人を惑わす。 また、 よく尾をうちて火を出だす」

あるいはいわく、「狐魅は狗をおそる。 千年の老狐はただ千年の枯木をもって燃照すれば、 すなわち真形を見る」あるいはいわく、「犀角を穴に置けばあえて帰らず」「山海経」にいう、「青丘の山、 狐あり。  九 尾〔の狐〕よく人を食う。 これを食えば熱せず」鼎曰く、「狐魅の状、 人を見てあるいはまた手して礼するあり、 あるいは祇 揖 する度なし。 あるいは静所に独語し、 あるいは裸形、  人を見るなり」)

酉陽雑俎云、  旧説野狐名二紫狐一 夜撃ゎ尾火出、 将>為>怪、  必戴二憫艘』竺北斗一 獨憫不>墜則化為>人突。

(「酉陽雑俎』にいわく、「旧説に、 野狐を紫狐と名付く。 夜に尾をうてば火出ず。 まさに怪をなさんとすれば、  必ず憫憫をいただきて北斗を拝す。 憫艘おちざれば、 すなわち化して人となる」)

玄中記云、 狐五十歳、 能変化為  婦人一 百歳為ー美女一 為一神巫一 或為ーナ〈夫一与>女交接、 能知ーー千里外事一善愚魅使ー一人迷惑失如智、 千歳即与』天通、  為ーー天狐

(『玄中記』にいわく、「狐五十歳、 よく変化して婦人となり、 百歳美女となり、 神巫となり、 あるいは丈夫となり女と交接し、 よく千里外のことを知り、  よく盤魅して人を迷惑して知を失わしむ。 千歳なれば、  すなわち天と通じて天狐となる。

五雑俎云、 狐千歳始与>天通、 不>為>魅突、 其魅>人者、 多取ー人精気    以成ー内丹一 然則其不>魅一婦_ 人ー何也、曰狐陰類也、 得>陽乃成、 故雖二牡狐  必托二之女一 以惑二男子一也、 然不伝竺大害一故北方之人習>之、 南方喉多為>魅、 如二金華家猫一 畜_   年以上一輯能迷>人、 不祉盆狐一也。

(「五雑俎』にいわく、「狐は千歳にしてはじめて天と通じて魅をなさず。 その人を魅するもの、 多くは人の籾気を取ってもっ て内丹となす。しからばすなわち、その婦人を魅せざるはなんぞや。曰く、「狐は陰類なり、陽を得ればすなわち成す』ゆえに牡狐といえども、  必ずこれに女を託すればもって男子を惑わすなり。  しかれば大害をなさず。  ゆえに北方の人これを習わす。 南方の捩は多く魅をなす。  金華の家猫のごとく、  三年以上をやしなえば、 すなわちよく人を迷わす。  ひとり狐のみにあらざるなり」)

捜神記云、 張華字茂先、 晋恵帝時為ーー司空一於>時燕昭王廷前有二  斑狐一積年能為一祢変幻一乃変作二  書生一欲>匝  張会   過問江  前華表一 曰整  我才貌一 可>得臼含張司空示否、 華表曰、 子之妙解無>為示'可一但張公智度恐葬  籠絡一 出必遇函辱、 殆不>得活返、  非加嵩芥子千歳之質一 亦当.一深誤二老表一 狐不レ従、 乃持>刺謁>華、 華見二其総角風流潔白如レ玉、 挙動容止、 顧防生尿姿、 雅二重之一 於レ是論  及文章玉    校声実{  華未二背聞一 比下復商二略三史  探二願百家、 談 老 荘之奥区一 波二風雅之絶旨{  包二十聖{  貫一三才一 策二八儒{  踏中五礼華無>不社少声屈滞一 乃歎曰、 天下登有祗踪年少{  若非二鬼魅{  則足狐狸、 乃掃丘楊延留、  留>人防護、 此生乃日、 明公当命ザ>賢容>衆喜>善而衿床'能一 奈何憎ー一人学問一 母子兼愛其若>是耶、  言卒便求>退、  華已_使一人防>門不五得>出、 既而又謂>華日、 公門懺  甲兵欄騎一 当晶器竺疑於僕一也、 将伍ヽ心天下之人、 捲>舌而不>言一智_ 謀之士一 望>門而不占進、 深苔  明公藷 >之、 華不>応、 而使一人防撃  甚厳、 時豊城令雷換字孔滋、 博物士也、 来訪>華、 華以  害生白>之、 孔章曰、  若疑>之何不品竺猟犬臼炉之、 乃命>犬以試、 党無ーー憚色    狐日、 我天生ユーオ智一 反以為五妖、以>犬試>我、 遮莫千試万慮其能為>患乎、 華聞益怒日、 此必真妖也、 聞魁魅忌>狗、 所>別者数百年物耳、 千年老精不>能二復別一 惟得,一千年枯木照 >之、  則形立見、 孔章曰、 千年神木何由可ら得、  華日、 世伝燕照王墓前華表木、 已経二千年一 乃逍>人伐 華・表使>人欲』デ木所一忽空中有.青衣小児一 来問>使日、 君何来也、 使曰、張司空有二  年少来謁一 多才巧辞、 疑是妖魅、 使我取二華表 血之、 宵衣曰、 老狐不智、 不祉牙我言今日禍已及>我、 其可レ逃乎、 乃発>声而泣、  條然不>見、  使乃伐  其木一 血流、  便将>木掃、 燃>之以照二書生一 乃一斑狐、  華曰、 此二物否  値我、 千年不レ可 復 得一 乃烹>之。

(「捜神記」にいわく、「叫  釦畔記  痴知晋の即部のとき司空となる。  ときに昭王墓前に一斑狐あり。 租年よく変幻をなす。すなわち変じて一書生となり、張公にいたらんと欲す。過ぎて墓前の華 表 に問いて曰く、

「わがオ貌をもっ て、張司空に見ゆるを得べきやいなやろうら(華表曰く、『子の妙解、不可となすことなし。ただ、張公の知度おそらくは籠絡し難し。 出ずれば必ずはずかしめにあい、 ほとんど返ることを得ず。  ただし、  子の千歳の質をうしなうのみにあらず。 また、  まさに深く老表を誤る ぺし。  狐従わず。 すなわち刺を持して華に謁す。 華その総角の風流潔白玉のごとく、 挙動、 容姿、  顧阿姿を生ずるを見て、 これを雅重す。 ここにおいて、  文章を論及し、 声実を弁校するに、  華いまだかつて聞かず。  また三史を商略し、 百家を記即し、 老荘の奥区を談じ、  風雅の絶旨をひらき、  十聖を包み、 三オを貨き、 八儒を簸し、  五礼を踏するにおよび、 華の声に応じて屈滞せず」すなわち嘆じて日く、「天下あに、 かくのごとき年少あらんや。 もし鬼魅にあらざればすなわち、これ狐狸ならん」と。 すなわち楊をはらって延留し、  人をとどめて防護す。  この生すなわち曰く、

「明公はまさに賢を蔚び衆をいれ、 善を喜びて不能をあわれむべし。 いかんぞ人の学問を憎む。  坐子の兼愛はそれかくのごときか」いいおわっ てすなわち退かんことを求む。 華すでに人をして、 門を防ぎて出ずることを得ざらしむ。 すでにしてまた華にいいて曰く、「公の門に甲兵欄奇を置く。 まさにこれ疑いを僕にいたすなるべし。  まさに天下の人、 舌をまいて知謀の士といわず、 門を望んで進まざらんとす。 深く明公のためにこれを惜しむ華応ぜず、 しかして人を防御せしむることはなはだ厳なり。 ときの豊城の令、 加如畔いば如章  は、 博物の士なり。 きたりて華を訪う。  華、 書生をもっ てこれにもうす。 孔洒いわく、「もしこれを疑わば、 なんぞ猟犬を呼びてこれを試みざる  と。 すなわち犬に命じてもって試むるに、  ついにはばかる色なし。狐曰く、「われに天才知を生ず、 かえってもって妖となし、 犬をもっ てわれを試む。 さもあらばあれ、 千試万虚、  それよくうれいとならんや  と。 華、 聞いてますます怒っ て曰く、「これ必ず真妖ならん。 聞く、 魁魅は狗を忌むも、 わかつところのものは数百年のもののみ。 千年の老粕はまたわかつことあたわず、 ただ千年の枯木を得てこれを照らせば、 すなわち形たちどころにあらわる  と。 孔章曰く、『千年の神木なにによりてか得 ぺき

華曰く、『世に伝う。  燕の昭王の墓前の華表木、 すでに千年を経る」と。  すなわち、  人を遣わして華表を伐らんとす、 使人木の所に至らしめんと欲す。 たちまち空中に一宵衣の小児あり。 きたりて使いに問いて曰く、「君、 なんすれぞきたるや」使曰く、『張司空に一年少の来謁するあり。 多才巧辞、 疑うらくはこれ妖魅ならん  と、 われをして華表を取ってこれを照らさしめんとす。 青衣曰く、「老狐不知、 わが言を聴かず。今日、 禍すでにわれに及ぶ。 それ逃る ぺけんやと声を発して泣き、  條 然として見えず。 使、 すなわちその木をきれば血流る。 すなわち木をもって怖り、 これを燃やしてもって忠生を照らせば、 すなわち一斑狐のみ。華日く、『この二物われに値せず、  千年また得べからず」と。  すなわちこれをにる」)

同雹云、 呉中有書生一 皓首称二胡博士教珈区諸_生忽復不ら見、  九月初九日、 士人相与登>山遊観、 聞恥叩書声一 命>僕尋>之、  見二空家中群狐羅列、  見>人即走    老狐独不レ去、 乃是皓首書生。

(同害にいわく、「呉中に一害生あり。 皓首、 胡博士と称して諸生に教授す。 たちまちにしてまた見えず。 九月初九日、士人、 相ともに山に登りて遊観するに、講行の声を聞く。僕に命じてこれをたずねしむ。 空 家中、群狐羅列し、  人を見てすなわち走るを見る。  老狐ひとり去らず。 すなわちこれ皓首書生」)

同書云、  誰人夏侯藻母病困、  将如呼智卜    忽有二  狐一 当>門向>之鳴叫、 藻大愕憫、 逐馳詣如智、 智曰、 其禍甚急、 君速帰在二狐叫処{  柑レ心暗哭、 令二家人驚和怪大小畢出一 一人不>出、 暗哭勿レ休、 然其禍僅可>免也、 藻還如ーー其言一 母亦扶>病而出、  家人既集、 堂屋五問拉然而崩  ゜

(同書にいわく、「 礁 人夏侯藻の母病んでくるしむ。  まさに智に詣で卜せんとす。 たちまち一狐あり。  門に当たりてこれに向かい鳴 叫 す。 藻、 大いに愕燿し、 ついに馳せて智に詣ずる。 智曰く、「その禍はなはだ急、君速やかに帰りて狐のさけべるところにありて心を柑し暗哭し、 家人をして怪に驚き大小ことごとく出でしめ    一人出でざれば暗哭して休するなかれ。  しからば、 その禍わずかに免るべし    漢かえりてその言のごとくし、 母また病をたすけて出ず。 家人すでに集まれば、 堂屋五間、  拉然として崩る」)

捜神後記云、 呉郡顧胴猟_至岡一 忽_聞一人語声一 云咄咄今年衰、 乃与>衆尋覚、 岡頂有ニニ呼是古時家、  見三一老狐躊一家中一 前有二  巻簿書一 老狐対>害屈指、 有>所ーー計校一 乃放ュ犬咋殺>之、 取視二簿む采`是姦人女名、已経>姦者乃以>朱鉤頭、  所>疏名有ーー百数一 旅女正在二簿次

(「捜神後記」にいわく、「呉郡顧栴猟して一岡に至れば、 たちまち人の語の声を聞く。  いわく、「咄々今年衰えたる、  すなわち衆と尋覚するに、 岡頂に一穿あり。  これ古時の家、  一老狐の  家  中 にうずくまるを見る。前に一巻の簿書あり。  老狐、 書に対し屈指して計校するところあり。 すなわち犬を放ちて、  かみてこれを殺さしむ。 とっ て簿書をみれば、 ことごとくこれ人女を姦するの名、すでに姦を経たる者は朱をもっ て鉤頭し、疏するところの名百数あり。 栴の女まさしく簿次にあり」)

同柑云、 襄閣習竪歯字彦威、_為一荊州主簿一__従  桓宣武ー出猟、 時大雪、__於一黄物一 射ら  応レ箭死、 往取乃一老雄狐、 脚上帯ー緯綾香頚江陵城西一__見  草上雪気出一伺観見ニ

(同書にいわく、「 襄 陽の 習 竪歯、  字 は彦威。 荊州の主簿たり。  桓宣武に従って出猟し、  ときに大いに雪ふる。 江陵城の西において、 草上雪気出ずるを見て伺観するに一黄物を見、 これを射るに箭に応じて死す。ゆきて取ればすなわち一老雄狐、  脚上に鋒 綾 香巽を帯ぶ」)

同書云、  宋酒泉郡、 毎ーー太守到各官、 無砿幾輯死、 後有一渤海陳袈一 見函竺此郡一 憂恐不涵楽、  就ーート者一占  其吉凶一 卜者曰、 遠ー諸侯知竺伯衷一 能解>此則無>憂、 裂不>解一社此語一 答曰、 君去自当>解>之、 袈既到レ官、 侍医有ーー張侯一 直医有ーー王侯ー 卒有二史侯堕侯等{  袈心悟曰、 此謂盃堕哭  乃遠>之、 即臥、 思下放ーー伯装一之義い不>知何謂一 至  夜半後一 有コ伽五来二斐被上    裂覚、 以二被冒 面少之、  物遂跳銀、 旬旬作レ声、 外人聞、 持レ火入欲>殺>之、 魅乃言曰、  我実無ーー悪意{  但欲>試石醤や耳、 能一相赦、  当一一深報ーー君恩一 斐曰、 汝為  何物一 而忽干ーー犯太守一 魅日、 我本千歳狐也、  今変為函魅、 垂ーー化為。神、 而正触  府君威怒一 甚遭ーー困危一 我字伯袈、 若府君有二急難一 但呼二我字一 便当ーー自解斐乃喜曰、 真放私漿主之意也、 即便放>之、 小開>被、 忽然有>光赤如>電、 従>戸出明、 夜有二敲>門者    裂問是誰、 答曰伯衷、 問来何為、 答日白事、 問白二何事一 答曰、 北界有二賊奴発一也、 袈按発則験、 毎>事先以語>裟、 於>是境界無二琵度之奸一而咸日、 堕府君、 後経ー一月余ー 主簿李音、 共ーー袈侍婢  私通、 既而憫レ為 伯裟所"白、 遂与ーー諸侯如咋五殺>袈、__伺  傍無"人、 便与こ諸侯』び杖直入、 欲極_  殺之一 袈愧怖即呼  伯衷ー 求砿救>我、 即有>物如>伸二  疋鋒一剥然作>声、 音侯伏>地失五魂、 乃以>次縛取考詢、 皆服云翡未>到>官、 音已憫>失>権、 与ーー諸侯印謀>殺>斐、 会諸侯見乙斥、 事不>成、 斐即殺迄日等   伯装乃謝>袈曰、 未>及>白二音姦情一乃為ーー府君所ら召、 雖>_効一微カ一猶用二漸他一後月余、 与>斐辞曰、 今後当ーー上>天去一不狛戸復与ーー府君相往来比也、 遂去不>見。

(同害にいわく、「宋の酒泉郡、 太守官に至るごとに、 いくばくもなくしてすなわち死す。 後、 渤海陳袈あり、この郡を授けらる。 憂恐して楽しまず、  卜者についてその吉凶を占う。  卜者曰く、『諸侯を遠ざけ伯 衷を放して、 よくこれを解せばすなわち製いなし」と。 袈、 この語を解せず、 答えて日く、「君去っ て自らこれを解くべし    裟すでに官に至る。 侍医に張侯あり、 直医に王侯あり、 卒に史侯、 旅侯等あり。 袈、 心に悟りて曰く、『これを諸侯という」と。 すなわちこれを遠ざけ、 すなわち臥して伯装を放つの義を思うに、 なんの謂なるを知らず。  夜半後に至りて物の裂の被上にきたるあり。 袈、 覚っ て被冒をもっ てこれを取るに、 物ついに跳  銀して旬々として声をなす。外人聞いて、火を持して入っ てこれを殺さんと欲す。魅すなわち言っ て日く、

「われ実に悪意なし。  ただ府君を試みんと欲するのみ。 よくひとたび相ゆるさば、 まさに深く君恩に報ずペし』と。  斐曰く、「汝はなにものたる、 しかしてたちまち太守を干犯するぞ」魅日く、「われはもと千歳の狐なり。 今、 変じて魅となり、 化して神たるになんなんとす。 しかして正に府君の威怒に触れ、  はなはだ困厄に遭う。 われ 字 は伯裟、 もし府君急難あらば、 ただわが字を呼べ。 すなわちまさに自ら解くぺし」斐すなわち喜びて曰く、「真に伯衷を放つの義なり」と。 すなわちこれを放つ。 すこしく被を開けば忽然として光あり。

赤きこといなずまのごとく、戸より出でて明る<、 夜、 門をたたく者あり。 斐、 問う、 で  れたれぞ答えて曰く、「伯装、問うきたる、なんのためなるぞ    答えて曰く、「ことをもうさん」問う、「なにごとをかもうす」

答えて曰く、「北界に賊奴発するあり』と。  袈案ずるに、 発すればすなわち験あり。 ことごとにまずもって袈に語る。 ここにおいて境界、 礎髪の奸なし。 しかしてみな曰く、『聖府君、 後、 月余を経て主簿李音、 袈の侍婢とともに私通す。 すでにして伯袈のもうすところとならんことをおそれ、  ついに諸侯と袈を殺さんことを謀る。 傍ら人なきをうかがい、 すなわち諸侯と杖を持してただちに入り、 これを格殺せんと欲す。  袈、 控怖してすなわち伯裟を呼びて、  われを救わんことを求む。 すなわち物あり、 一疋の綽を伸ぶるがごとし。  割然として声をなす。 音侯、 地に伏して魂を失い、 すなわち次をもって縛取し考詢す    みな服していわく、「袈いまだ官に至らず、 音すでに権を失わんことをおそる。 諸侯と裟を殺さんことを謀り、 たまたま諸侯斥せられてこと成らず。  袈すなわち音らを殺す伯裟すなわち袈に謝して曰く、『いまだ音の姦情をもうすに及ばず。

すなわち府君の召すところとなる。 徴力をいたすといえども、 なお断裡を用う    のち月余、 斐と辞して日く、

「今後まさに天にのぽるべし。  さらば、 また府君と相往来することを得ず』と。  ついに去っ て見えず」

宋高僧伝云、 仲志玄者、 河朔人、 曾至二鋒州一 夜泊弘竿林中一其夜月色如五昼、 見二  狐一従ーー林下西ど憫牒ー 屈レ首揺>之、  落者不>顧、 不>落者戴>之、  更取二芳草堕葉一 遮ーー蔽其身一 俄成幸大女一 紫服立二於道左一 微聞>__有  車馬行声ー  女子哀泣、 悲不ー自勝少選有ーー乗馬郎云与言久乙之、__欲  将偕去一 玄従社林出、  謂"之日、 此狐也、其人不臼信、 玄乃振>錫胡語、 女遂化>狐而走、 其人叩頭悔>過為。

「宋高僧伝」にいわく、「 仲 志玄は河朔の人。  かつて鋒 州 に至り、 夜墓林の中に泊す。  その夜、  月色昼のごとし。  一狐を見る。 林下より憫艘を持ちて、  首に置きてこれをうごかす。  落つるものは顧みず、  落ちざるものはこれをいただく。  さらに芳草堕葉を取ってその身を遮蔽すれば、 にわかに美女となり、  紫服して道左に立つ。  かすかに車馬の行く声あるを聞く。  女子哀泣し、 悲しんで自らたえず。 しばらくして乗馬の郎ありて至る。 ともに言っ てこれを久しくす。 まさにともに去らんと欲す。  玄、 林より出でてこれにいいて曰く、「これ狐なり    と。  その人信ぜず。  玄すなわち 錫を振っ て胡語すれば、 女ついに狐と化して走る。  その人、叩頭して過ちを悔ゆ」)

その他、  狐談の諸害に散見せるもの、 ほとんど枚挙にいとまあらず。 これを要するに、  わが国の狐談は全くシナより起こり、 これに関する種々の怪談は、  みなシナの怪談に模擬して作りたるもの多きを知るべし。 ただそのことたる、 正経、 正史中に見えざるをもっ て、 明らかになんの時代に起こりしやをつまびらかにすることあたわざるのみ。



第三二節    日本の狐談

つぎに、 わが国の狐談を考うるに、 余が二、  三の書につきて記憶せるものを左に抜記すべし。

「水鏡巻上(欽明天皇条)いう、「この御時とぞおおくは ぺる。  野干をきつねと申しは ぺりしは、 ことのおこりは見のの国にはべりし人、  かおよきめをもとむとて物へまかりしに、 野中に女にあいはべりにき。  このおとこかたらいよりて、「わがめになりなんや」といいき。  このおんな、「いかにも、 のたまわんにしたがうべし」といいしかば、 あいぐして家にかえりてすむほどに、  おのこご一人うみてき。 かくてとし月をすぐすに、 家にあるいぬ、 十二月十五日に子をうみてき、 その犬の子すこしおとなびて、 このめの女をみるたびごとにほえしかば、  かのめの女いみじくおじて、 男に「これうちころしてよ』といいしかども、  おうとの男きかざりき。 このめの女、 よねしらぐる女どもに物くわせんとて、  からうすの屋に入りにき。  そのとき、 この犬はしりきてめの女をくわんとす。  このめの女おどろきおそれて、 えたえずとて野干になりてまがきのうえにのぼりており。 おとこ、 これを見てあさましと思いながらいわく、「なんじとわれとがなかに、 子すでにいできにたり。 われ、  なんじをわするぺからず。  つねにきてねよといいしかば、 そののちきたりて、 ねはべりき。  さて、 きつねとは申しそめしなり。 そのめは、  ももの花ぞめのもをなんきてはべりし。  そのうみたりし子をばきっ とぞ申し、 ちからつよくてはしること、  とぶとりのごとくはべりき」

吾妻鏡巻第六忠云、 文治二年丙寅二月四日壬子、 営北山本、 孤生>子、 其子入二御丁台一卜基之所>推、 不>快、凡去年以来頻有ーー怪異』云云  

(『吾妻鏡」第六(七左)にいわく、「文治二年丙 寅二月四日  壬  子、  営北山のもと、  狐、  子を生ず。  その子、御丁台に入る。  卜するに、 基之の推すところ、  快ならず、  およそ去年以来しきりに怪異あり、  声式」)

同魯巻第八廿七   、  文治四年戌甲九月十四日丁未(上略)、 繁  茂生則逐電、 乍ら含_ 如悲歎{  経ー四箇ー 年{  依知ダ左   云想告一 捜一証求之処於二孤塚一 尋得>之、_持一来干家一 其孤令>変ーー老翁一 忽然来授.一刀井抽櫛等於嬰児一 於二翁深襄  _令一密音去、 可>為一日本国主一於>今者不>可缶ぎ其位一云云、嬰児者則繁茂也、長茂_継一遺跡一彼刀令元空之云云  ゜

(同書第八(二十七左) にいわく`「文治四年  戊  申九月十四日 丁  未、(上略)繁茂生まれて逐電し、  悲嘆を含みながら四カ年を経、  夢想の告げによりてこれが所を捜求するに、 孤塚においてたずねてこれを得た。家に持ちきたればその狐、 老翁に変ぜしむ。 忽然としてきたりて刀ならびに抽 櫛等を嬰児に授け、 翁の深

において密音せしめて曰く、『日本の国主たるべきに、 今においてはその位に至るべからず、 云云』嬰児はすなわち繁茂なり。 長じて茂、  逍跡を継ぐ。  かの刀はこれを帯ばしむ、 云云」)

娼遊笑覧云、 匡房卿狐媚記、 康和三年、 洛陽大_有一狐媚之好一其異非レ一、 初於二朱雀門前一儲函品喪  礼以>烏通為レ飯、 以一正牛_骨  為>菜、 次設二於式部省一 後及二公卿士門前一 世謂ーー之狐大饗

(「娼遊笑覧」にいわく、「匡房 卿「狐媚記』に、 康和三年、 洛陽大いに狐媚の好みあり。 その異らず。はじめ朱雀門前において 羞 隈をもうけ、礼するに烏をもっ て通じて飯となし、牛骨をもっ て菜となす。ついで、  式部省を設け、  後、 公卿士の門前に及び、 世にこれを 狐 大饗 という」)

「宇治拾遺物語」にいう、「今は昔、 罪口の将軍の若かりけるとき、(中略)かくて行くほどに、 三津の浜に狐の一っ 走り出でたるを見て、 よき使いできたりとて、 利仁、 狐を押しかくれば、 狐、 身を投げて逃ぐれども、 追い責められてえ逃げず。 落ちかかりて狐の尻足を取りて引き上げつ。  乗りたる馬、 いとかしこしとも見えざりつれども、  いみじき瑯如にてありければ、 いくばくものばさずして捕らえたるところに、 この五位走らせて行きつきたれば、 狐を引き上げていうようは、「わ狐、 今宵のうちに利仁が家の敦賀にまかりていわんようは、  にわかに客人を具し奉りて下るなり。 明日の巳の時に高嗚辺りに男ども迎えに、 馬に鞍置きてニ匹具してもうでこといえ、 もしいわぬものならば、 わ狐、  ただ心みよ。  狐は変化あるものなれば、 今日のうちに行きつきていえ」とて放てば、「荒涼の使いかな」という。

『よし御覧ぜよ、  まからでは世にあらじ    というに、 早く狐、 見返り見返りして前に走り行く。「よくまかるめり  というにあわせて走り、  さきだちて失せぬ。  かくて、 その夜は道にとどまりて、  つとめて疾く出でて行くほどに、 誠に巳の時ばかりに三十騎ばかり寄りてくるものあり。  なににかあらんと見るに、『男どももうできたり」といえば、「不 定のことかな」というほどに、 ただちかに近くなりて、  はらはらとおるるほどに、「これ見よ、  誠におわしたるは」といえば、利仁、 うちほほえみて、『なにごとぞ」と問う。  おとなしき郎等進みきて、「希有のことの 候 いつるなり   という。 まず『馬はありや   といえば、「二匹さぶろう」という。  食物などしてきたりければ、  そのほどにおりいて、 食うついでにおとなしき郎等のいうよう、「夜部、 希有のことのさぶらいしなり。 戌の時ばかりに大盤所  の胸をきりに切りて、 やませたまいしかば、 いかなることにかとて、 にわかに僧召さんなど騒がせたまいしほどに、  手ずから仰せさぶらうよう、 なにかさわがせたまう。  おのれは狐なり、  ペつのことなし。 この五日、 三津の浜にて殿の下らせたまいつるに逢い奉りたりつるに、 逃げつれど得逃げで、 捕らえられ奉りたりつるに、 今日のうちにわが家にいきつきて、  客人、 具し奉りてなんくだる。  明日、 巳の時に馬二つに鞍置きて具して、 男ども高嗚の津に参り逢えといえ。 もし、  今日のうちにいきつきていわずば、 辛きめ、 見せんずるぞと仰せられつるなり。 男ども疾<疾く出で立ちて参れ。 遅くまいらば、  われは勘当こうぶりなんと憚じ騒がせたまいつれば、 男どもに召し仰せさぶらいつれば、  例ざまにならせたまいにき。 その後、  烏とともに参りさぶらいつるなり』といえば、 利仁、 うちえみて五位に見合わすれば、  五位、 あさましと思いたり。  物など食いはてて急ぎ立ちて、 くらぐらに行き消きぬ。「これ見よ、 誠なりけり」とあざみあいたり」

「兎園小説」にいう、「過ぎし兎園のまといには、 きつね、 たぬきのことなど、 諸君のしめしたまうものから、 予もまた聞きつる一条のものがたりあり。 こは、 予が家に年ごろ出入りなせるもの、 もとは下谷の長者町に住みし万屋義兵衛が母みねのはなしなり。  みねが生国は下総相馬郡宮和田村のほとりにて、  みねが父は同国赤法華村の農民孫右衛門というものなり。  この孫右衛門より六世ばかりの祖孫右衛門(代々孫右衛門をもて称す)とかいいしもの、 江戸に出でて帰るさ、 なにがしとかいう原(原の名をつまびらかにせず)をよぎりしとき、 傍らに若き女のひとりたたずみしが、呼びかけていえらく、「われは下総なる云去の村にゆくものなるが、 ゆき荘れていとなやみぬ。 願うは、 和君もそのほとりにしおわさぱ、 伴いたまわれかし    と。 他事もなく頼まれければ、 孫右衛門やむことをえずうけがいて、  その夜はおのが家にとどめ、  とかくして一両日をふるほどに、 彼女のふるまいのまめまめしければ、 孫右衛門が母なるもの、 女に問いていう、「わが子いまだ妻あらず、 わがよめとなりなんや」といいしに、  女答えて、「われに実は親兄弟もなく、 たよるべき方なし。 云云の村はいささかのゆかりあれば、  たずねゆかんと思いしのみ。  ともかくも御心にしたがいなん    といいければ、 母よろこびてついにめあわしぬ。  いくほどもなく男子をもうけ、  そが五歳というとき、 またおの子をうめり。  冬のことにて、 稚子に添え乳してしばし炉辺にまどろみしに、 五歳になりける男子があわただしく、「ててごよ見たまえ、  かかさまのかおがおとうか(狐の方言なり)によく似たりというにおどろき、彼女はたちまち身を翻してかけ出でぬ。  みなみな打ち驚き腺てまどいて、 そがあたりをおちもなくさがし求めしに、 向かいの小邸き山に狐の穴ありて、 その穴の口に、 小児のもて遊びの茶釜と焼きもののきせると、書きおきようのもの一通あり。 さてはいよいよ狐にてありけりとはじめてさとるものから、 なお哀恭にたえざりけり。  かくてその生まれし男子成長して、 また孫右衛門と称し、  老いて回国の望みありとて家を出でしが、  何地ゆきけん、 ついに帰らずなりし。  そのあたりのもの、  後々までも狐のおじいと呼びしとぞ。  かのみねは、 右きつねのおじいがためには、 ひまごにや当たりぬべしという。 みね媚が話に、 おさなきころ赤法華村にゆきて、 かの茶がま、 きせるなど見しことあり。 わなみも狐の血すじにてはべりとこまやかにかたりしを、  賠記してここにしるしぬ。  老姫がむかしがたりなれば、 郡村の名さえつまびらかならぬもあれ、 遺漏なお多かるべし。 もしくわしきことをしも得ば、 後のまといに補うべし」

以上は、 古今の害に散見せるもののうち一、  二例を挙示したるのみ。 よろしく「理学部門」鳥獣編を参看すべし。  また、 民問にては一般に狐をもって稲荷に関係あるもののごとくに考え、 これを人のごとく、  あるいは神のごときもののように唱うるなり。『博物答」に、「狐は日本諸国にこれあり。  四国になし。  多寿にして数百歳をふるもの、 人間の俗名をなのる。  大和の源九郎、 近江の小左衛門などのごとし。 相伝う、 天下の狐ことごとく京の稲荷の社に参仕すという。  ほこらをたたきて祭らるるところの狐は、 他の狐に異なりという。  およそきつね、 憂うるときは声、 児のごとく、  喜ぷときは声、 つぼをたた< ごとし」とあり。 また、 管 狐のことにつき過日「大日本教育新聞』に左の記事を出だせり。  これまた参考に必要なれば左に示す。

信濃国伊奈に、管狐と名付くるものあり。 その大きさは二十日鼠 ほどありて、 尾は管を二つに割りたるがごとしゅ えに管狐という。 その体は微小なれども、 形は狐に努盤たりといえり。 口碑に伝うるところにては、

この管狐は、 もと山城国伏見の稲荷より、 受けきたりしものにて、 小さき 祠 に入れ、 小さき狐の図あるよしなり。  ゆえに伏見に返し納むるときは、 稲荷の祠官、  これを封じて出ださぬといえど、 今はいかがなりしや定かならず。 されど管狐なるもののあることは確実にして、 この一種の動物は、すこぶる敏 捷 なる天性を有し、 これをなれしむるときは、  人体に付きて離れず、  懐または袂などに住居して、 種々なることを探り、 うるさきほどに告ぐるをもて、 この狐を飼蓑する者は、  よく人の既往を説き、  未来を告ぐるという。 世に狐つかいと称するものは、 この管狐を懐にし、 狐が耳染に上りて、  告ぐるままを説けるよしなれども、 不思議にも、  人の既往を説き、  未来を告ぐるに、 符合することありという。 これは信じ難きことにして、  果たしてしかるべしとは思われざるも、  狐の性は、 元来疑念深く、 なにごとを聞き、 なにものを見ても、 己に害を加うるかと疑うより、 想像力は非常に強しという。 この想像力なるものは、  人の心理上にも、 多少あらざるものはなし。  たとえば、 人のあし音を聞きて、 だれならんと想像し、 果たして適中すること往々これあるがごとし。  狐はこの力に強きをもて、 よく人の既往、 未来を想像し、 管狐は最もこの想像力に強きにより、 これを飼養して、 よくなれしむるときは、 また、 よくその語をも解し得るに至り、  さては狐つかいなどというものも出でしという。 果たしてしからんには、  またこれ怪異の一っ たりというべし。  ことに奇怪なるは、 管狐はよくその体を隠し、  飼い主の目に触るるのみにて、 他人の目にはかつて見えず、 ただこれを狡う者は、  その体に一種の臭気を生じ、 あたかも狐の臭気を嗅ぐに異ならず。  ゆえに管狐の付きたることを知るというも、その実はいかにや。

この狐遣いのことは、 今ここに論ずるを要せざれども、 狐と稲荷との関係につきては「霊獣雑記」に述ぶるところを見るべし。 すなわち日く、「南海の四国および対馬五島には狐なし。「北夢瑣言」に「江南__無  野狐    (江南に野狐なし)と見えたり。(中略)狐を稲荷の神使というは、「伊勢鎖座記」に「宇賀御魂神亦名ー専女三狐神

(宇賀の御魂 神、 またの名専女、  三狐神)というによれりとぞ。 三狐は御餓津の義なり。  さるに、  邸俗は狐をただちに神とし祭りて、 福を祈ること天下風をなせり。「 朝 野含載  にも、『初唐時百姓多事 加狐神一 時有伝諺曰、 無二狐魅示'油炉村。唐のとき、 百姓多く狐神につかう。 ときに諺あり、  日く、「狐魅なければ村をなさず」)と見えたり。 ああ、  愚なるかな。 仏家に陀祇尼天の別号を白晨狐王菩薩と称す。 世に稲荷の神体というところの形象これなり」とあり。  また同柑に、「稲荷の神を狐というは、  ものしらぬ人のいえることなり。  この大神は建速須佐之男 命 の御子、宇迦之御魂 神 なりけんを、狐神なりというは、稲荷 社の後ろの丘に世人の上の社というあり。登宇女社 また 命 婦 社など称して、三つの狐を祭れる社あるゆえに誤りこししにや。 また、幻僧空海が狐の老翁に化けて稲を荷なりてきたりしを、  東寺にまつりしという説より誤りしにや。 また、 も吉尼天の像より誤りしという説もあり。 このことは「稲荷神社考」にくわし。  また、『稲荷神社記秘訣もあわせ見る ぺし。 下にひけり」とあり。 この三狐神のことにつき、 〔日本〕社会事棄  にも「三狐神と書くるは御食都というに借りて書くるなり。

俗に稲荷神を狐ぞなどいいめるは、  かかることよりいい出でたる誤りにぞあるべき」とのことを載せたり。

以上引証せるものによるも、 わが国の狐談の起源、 発達を明知することあたわず。 余もしばしば国史に明らかなる大家につきて尋問したることあるも、  みな判然たる答えを与うるものなし。  ゆえに、 狐談の歴史は他日をまちて説明することとなす。 しかしてその談は、 全くシナ伝来のものたるや疑いをいれざるもののごとし。 しかれども、  シナの起源また明らかならざるをもっ て、 余ここにそのことを明示するあたわず。  ただ、 余は狐惑、 狐憑きの事実を掲げて、  その理を説明せんとするなり。


第三一 節     狐惑の種類

狐談の中に、 狐惑に属す ぺき事実と狐憑きに属すべき事実との二様あることは、 前すでにこれを述 ぺたり。  しかして、 狐惑にもまた、  狐そのものを実視せる場合と、 全く狐を見ずして想像上狐の所為に帰する湯合等の別あり。  今、  その種類をわかちて三となす。  すなわち偶然性、 予期性、  発病性これなり。

偶然性。 これは狐惑のなんたることを知らずして、 自然に山間を通過するか、 あるいは夜中に旅行するか、 あるいは不案内の土地を通過せるときに際し、 道途に踏み迷いて正路を発見するあたわざることあり。 あるいは酒に酪酎するか、 もしくはいた< 疲労せるときにも、 梢神悦惚として行く所を失うことあり。  かくてようやく家に帰るや、 ついにその原因のなんたるを知るべからざるがため、 これを狐狸の所業に帰し、 これ、 狐に 証 惑せられたるものなりとなすに至るなり。 かくのごときはもとより偶然、 自然に起こりしものにして、  人の精神そのものの作用よりきたすところなること疑いなしといえども、 世人は強いて奇説を付会し、  これを狐惑と称す。

予期性。 これは人心をもって自ら迎えて狐惑の境遇に入るものをいう。  例えば、  黄昏〔に〕ひとり歩きしてうつつに狐を目撃するか、 またはその土人が老狐のすめる地なりと唱うる場所、 あるいはさきにすでにある人は謡惑せられたりと伝うる場所を通行するときは、心身 棟 然として、己もまた班惑せらるるならんと自信し、  狐惑の観念、 専制作用をたくましくするがゆえに、 これより種々の幻覚および妄立をきたし、  ついに古来の狐惑談に示せると同様の境遇に陥るものなり。

第一 は発病性。 こは偶然性にあらず、  はた予期性にもあらず、  全く他の原因より精神に変動をきたし、  その結果、 狐惑、 狐憑きの境遇に至るものにして、 常に目に狐の形をみ、 耳にその声を聞き、 己自ら狐なりと信じて狐の挙動を呈す。 ここに至れば、 狐惑転じて狐憑き病となるなり。

その他、  狐惑にかかりし者の行為についても二種に分かつことを得べし。第一は狐に関係を有せざる行為、 挙動にして、

第二は狐に関係を有する行為、 挙動なり。

例えば、 夜中に偶然道途に迷いしか、 あるいは狐に関係なき一種の精神病にかかりしときのごときは、 第一種に属すべきも、  別に狐に粧惑せられたる証跡なし。 しかるに、 民間にては狐惑談を信 憑 するもの多きをもっ て、ことごとくその原因を狐に帰するに至る。 あるいはまた現に狐をみ、 狐とともに遊び、 そのたしなめる食物を食い、  その挙動をなして、 自ら真に狐に証惑せられたりと思い、  古来の伝説に存する狐惑談のごとき現象を呈することあり。  ゆえに、 狐惑の行為は右の二種に分かつことを得べし。

これより狐惑の諸例を挙示するはずなるも、 狐狸につきて狐惑とも、 狐憑きとも名付くべからざる奇々怪々のことあり。  その現象は「雑部門」怪事編に属すべき問題にして、  余はこれを狐怪、  狸怪と名付けんとす。  しかして、 獣類の怪は「理学部門」において論ずるを当然とすれども、 そのことたる、 もと狐狸の作用に出ずるにあらずして、 他に原因あること明らかなれば、 余はこれを「雑部門」怪事編に譲るをむしろ適当なりとす。  しかれども、 狐惑と相わかつべからざる点あるをもっ て、 ここにその一例を挙示すべし。

(イ)  長野県藤枝利市氏の報に、  予が幼時小学校へ通学するころ、  一日携え行くべき弁当の冷却せんを防がんため、 火閣の傍らなる布団の問に入れ置き、  家を出ずるに臨みこれを取り出だせば、  弁当を入れたるふくろに鼠 のかみしごとき穴あり。 よっ て箱の中を検せしに、 飯粒はことごとく半粒のものとなり一つも全粒のものなく、  かつ表面に一小孔ありて、 中に空洞をうがてり。  よっ てこれを家人に示せしに、 これ必ず狐狸の所為ならんといえり。  また、 ときどき飯器中の飯を盗食せらるることあり。 これもまた狐狸の所為なりという。(これと同一なる怪事が駿州において起こりしが、 そのことは「雑部門」怪事絹に出だせり)

これ、 さらに狐と関係なき事柄なれども、 そのことのあまり奇怪にして説明し難きをもっ て、 その原因を狐に帰したるのみ。 あるいは、  偶然石の落ちきたり、 物の舞い上がる怪事あるときにも、 その原因を狐狸に帰することあれども、 これまた奄も狐と関係なきことなり。 ただ、 愚民は一般に狐狸は怪をなすものと想定せるをもって、すべて奇々怪々の現象にして、  その理を知るべからざることは、  みな狐の所為なりと妄信するのみ。 先年「おさき」狐のことにつき、 これにひとしき報道を得たることあり。

(口 )群馬県館林町某氏の報に、 武蔵国秩父山辺りにてその蓑蚕家、 三、  四日の間に飼うところの蚕虫の半ばを失う。 あるいは鼠の所為かと疑い、 種々せんさくすれども鼠とも思われざるより、  試みに残虫の頭に紅を塗りおきしに、 ある夜また半ばを失いしゅ え、  門戸、 障壁を検せしに、 なにものか入り込みしと疑わるる点少しも見えず。  よっ てその怪に驚きしが、  その後近隣某家に至り、  その蚕虫を見しに、 前日紅を塗りおきし蚕虫この家にありしをもっ て、 その所由を陳じて取り戻せし由。 これ全くおさき狐の所為なりという。

また、 ある人某旅亭に宿せしに、 婢僕みな寝に就きし後、 廊下ならびに台所の棚の辺りに、  砂を降らすがごとき物音ありしゆえ、 翌日これを他人に語りしに、 その人客に告げて、「某旅亭には多くのおさき狐を喪うゆえ、  その物音は該狐の群れをなして歩行する音ならん」といえりとぞ。

また、 ある人一日某家にゆきしに、 傍らにありし茶碗たちまち天井に吸い上げられたるを見たり。 また、 ある人、 乾薪を売らんと欲し、若干頁目の乾薪を某薪炭店に運び、 その重屈を黛りしに、 家にありて足りし目方よりはほとんど二分の一軽く、 わずかに一、 二町運びし間に頂飛半減せしゅ え、 これを奇としある人に問いしに、 全くおさき狐の法馬子を引きて、  該商店のために利を図りしなりと。 また、 ある家にては、 戸締まりに異状なきに、  毎朝多量の菓子、 家中に散落しありたり。  これ全くおさき狐が近隣の菓子店より運びしものなりという。 また、 ある商家新たに小僧数名を雇う。 この小僧ら、 この家にはおさき狐を養うことを知らず、  一夜相伴いて裏口に出でて、  灰をふりかけられしという。

以上はいずれもみな、  おさき狐を焚える家にありし怪事なり。 特に奇なるは、 該地方には数万の資産ある萩家が、 ゆえなくして数月の間に破産し、 また格別宮裕ならざる家が、ゆえなくして急に栄ゆること珍しからざることこれなり。  土俗はみなこれをおさき狐の、 衰運に向かいし家の金穀、 什器を、  ひそかに隆運に向かわんとする家に運ぶによるという。  しかして、  おさき狐は尋常の狐よりは小さく、  あたかも鼠に似て、  その増殖することも鼠のごとく速やかなりという。 また、 このおさき狐を投う家を俗には「しっぼ」と称し、  その家の者と結婚すれば、  おさき狐もまた従いきたると称し、 まれには「しっぼ」の家と結婚することを忌む者あれども、 現今にては該地方の家の過半はみな「しっぼ」なりという。 しかれども、  おさき狐は利根川を渡ることあたわざる由にて、 わが上毛地方にはかつてこの類のことを聞きしことなし。

これらはみなその原因を知るべからざるゆえ、 これを狐に帰したるのみ。 なんぞ知らん、  その原因は狐にあらずして人なるを。  余、  かくのごとき怪事につき、 実地探求したるものは、  みなその原因人間の上にありて、 余がいわゆる偽怪に出でしものなるを発見せり。  すでに数週以前、 甲州郡内に起こりし妖怪のごときも、  その近辺の者はことごとく狐狸の所為に帰せり。 その実況はすでに新聞紙上にて世間に報告したるも、 左にその大要を掲記すべし。

(ハ)  昨年(明治二十六年)十一月中旬より、  山梨県北都留郡( すなわちいわゆる郡内)大目村、  杉本永山氏の宅に一大怪事現出す。  今その怪事の概略を記さんに、 その本体は形もなく影もなく、 目もって見るべからず、  手もっ て触るる ぺからざるをもっ て、 なにものの所為たるを知るべからざれども、 空中に一種奇怪の声ありて、 明らかにこれを聴くことを得べし。  しかして、 その声はあたかも人の口笛のごとき孵きにて、よく五音を言い分け、  人と問答会話するをもっ て、 なにびとにてもこの怪声に対し問いを発せば、 いちいちその答えを得という。  この声、 最初の問は夜分のみ聞こえしが、 後には昼夜を分かたず聞こゆるに至りしかば、 このこといつしか近村の一大評判となり、 人々みなこれを奇怪とし、 実際にこれを聴かんと欲して、  その家に争い集まる者前後 踵を接し、 一時は門の内外、 人をもってうずむるほどなりき。 かくてこの群衆の中より、 だれにても問いを発する者あるときは、 怪声のこれに応じて答うることすこぶる明瞭にして、 なにびとにもみな聞こえ、 ただにその声の発源と思わるる所より四、 五間の距離において明らかに聴き取られしのみならず、 隣家まで聞こゆるほどにて、  その状あたかも人が談話するに異ならず。 ただ、 その人の言語と相同じからざるは、  その音調が口笛のごとく聞こゆる点のみ。  さればこれを聞ける群衆は、  いかにもしてその声の発源を知らんと欲し、 種々の方法をもっ て、 その位置、 方向を指定せんと試みたれども、 あるいは家の内にあるがごとく、 また外にあるがごとく、  あるいは上に聞こえまた下に問こえ、 右に聞こゆるかと思えばまた左に聞こえ、  人々おのおのその聴く所の位四を異にし、 ついにその目的を達することあたわざりき。     つ、 この怪声はひとりその音調の奇怪なるのみならず、 種々の怪事これに伴いて現出するあり。 今、  仮にその怪事を言語上に現ずるものと、 行為の上に現ずるものとの二種に分かちてこれを略陳せんに、 まず言語の上においては、 第一に、  その口笛のごとき怪声がよく人の年齢をいい当つることなり。 例えば、  なにびとにてもその怪声に対し、 わが年齢はいくばくぞと問わんに、 過たずその数を告ぐるがごとし。  これあに奇怪にあらずや。  第二に、 その声が、  よく他所もしくは他家に起こりし出来事を察知して人に告ぐることあり。  例えば、 今某家にかくかくのことありと告ぐるとき、 その家に至りて問い合わすに、  果たしてそのことありという。 これあに奇怪にあらずや。 第三に、 その声、 よく他人の心中を洞察し、 これを言い当つるに過ちなしという。 これまた奇怪といわざる ぺからず。 第四に、  その声、 よく他人の一身上もしくは一家の上に、  まさにきたらんとする吉凶、  禍福を予言すという。 これまた奇怪といわざるべからず。 第五に、 その声、 よく他人の疾病に特効ある奇薬を指示す。 実に奇怪千万という ぺし。 これを要するに、 以上の事実によりて考うるに、 その怪物には予言、 察心の力あること明らかなり。

つぎに、  行為の上において第一の怪事というべきは、 あるとき、  その家の一室に掛けたりし機糸が、 いつの間にかみごとに断ちきられたることこれなり。  第二は、 あるとき人の機を織りてありしに、 なにごともなくしてその機糸が一時に断ちきられしことこれなり。  第三は、  あるとき機糸の  桟  に巻きてありしを、 あたかも歯にてかみ切りたるがごとくに切りみだしたりしことあり。  かく機糸を断たれしことは一回のみにあらず数回ありしかど、  だれもかつてその形体を見しことなく、 あたかも無形的死霊あるいは生霊のごときものありて暗中になすもののごとし。  ただし、 その怪声が予言もしくは察心をなすは別に大なる害とも見えざれど、 その毎度、  機糸を断たるるに至りてはたちまち多少の損失を受くるをもっ て、 一家故もこの怪畢に困却せりという。 これ、 郡内におこりし妖怪事件の大略なるが、 これを約言せば、 この怪事は形体なき無形の怪物が、  空中に口笛のごとき怪声を発し、  かつ、 種々の怪事を営むものにほかならず。 もし、 このこと果たして真実ならば、 実に奇々怪々、 不可思議千万といわざるべからず。

この怪事件は余が探求するところによるに、 全く人為的偽怪にして、  狐怪にあらざること明らかなり。 また四国にては、 狐怪の代わりに狸怪を唱うることなるが、 左にその一例を示すべし。


(二)阿波国板野郡名頭村雌某の家、 近来数々怪事あり。  みな狸のなすところなりという。  今その一、 ニをいえば、 包刀、 ときありて人なきに動き、 あるいは鍋に入れて煮るところの魚、 いつとなくその跡を隠すがごときことあり。 すこぶる奇絶、  怪絶というべし。  また、  かつて債主、  某と弁金の約あり、 一日、  一夫きたりて債主の使いと称しこれをもとむ。  すなわち、 何心なく金を与えて去らしめしが、  のち数日を経て債主きたり、 前約を履まんことを請う。 某大いに驚き、 前日貴下使いを遣わされしをもっ て、 すでにこれに与えたりと陳ぜしも、  債主のかつて知らざるところなりしより、 はじめて狸の所為なりしを知り、  さらに弁金せり。 また、 この家、 馬をかう。  夜中その尾をきるものあり。 状あたかも歯をもってかみきりたるもののごとし。 よっ てこれをあやしみしが、 いくばくもなくして一夜その馬、  庖を脱し、 近村に馳駒せり。 某ますますこれを異とし、 あるいは老狸の所為ならんと疑い、 爾後、 毎夜庖を密閉し、 狸の出入りすべき問隙なからしめしに、 馬また逸す。 よってその版に至り見しに、 さらに異状なし。 戸を開きて内に入れば、 さきに債主の使いに与えし貨幣の散落したるを見しという。 また、 同国那賀郡富岡に南津峯神社あり。  祠は山により、  魏を去ることおよそ半里、  一日近村の者数名、  ゆえありて酒硲ならびに大鯛数尾を担い、  黄昏よりこの山に登る。  中途にして一茶亭にいこい、 携えしところの鯛を検せしに、 頭のみ存して体はすでにかみ取られたり。これまた老狸の所為ならんという。

その他、 狐狸に心鴛ありて、 よく恩義を知りて、 その徳にむくゆるありという。  その一例に、

(ホ)明治十四、 五年の冬のことなりき。  防府九華山の麓に陶器製造を業とせる石丸某といえる人あり。一夜その家の近傍にて悲しげなる狐のなき声聞こえたれば、 なにごとならんと戸を開き見しに、  一の老狐、肥壷の周囲をあわただしく駆け回りて、しきりに叫びおる状いかにもあやしければ、近づきてこれを見しに、幼狐その中に陥りまさにおぼれんとするなり。 すなわち、  これを救い、 水をもっ てその体を洗い、 放ちやりしに、  その翌朝、 なにものの持ちきたりしものか、 戸口に一尾の大鯛あるを見たり。  近隣の者これを間き伝え、  みなこれ、  さきに助けられし狐の、 恩を報ぜんために、  かくひそかに持ちきたりしものならんといいあえりとぞ。(周防天野六郎氏報)

以上の諸例はみな狐怪、 狸怪にして、 その原肉は「雑部門」怪事編に譲りてここに略す。 しかして、 これより述ぶるところは狐惑もしくは狸惑の説明なり。 まず、 その例を列挙すれば左のごとし。

(へ)  神戸市神崎広賢氏の報に、 祝永年間のころとか聞く。 予が祖父恕助、 奇魚をえたることありしをもっ て、  類族某に誇示せんと欲し、  夜これを持してその家に向かう。 時あたかも六月の望、  月光満天四方に雲駿なし。 しかるに行くこといまだ一町に過ぎざるに、 四方たちまち暗黒となり、  胞尺を弁ぜざるに至れり。しかれども祖父、 元来沈勇なりしをもっ て、  少しも驚かず、 路傍に鋸しておもむろにタバコを喫し、 あえてさわがざる状を示せり。  少時にして明光旧に復し、  路傍に老狐の尾を垂れて緩歩せるを見たり。 畢 党、「これ、 この老狐、 予を魅せんとせしも、 沈重を装いたるため、 ついに魅することを得ざりしものならんか」と語られしことありたり。

(卜)  尾州吉川源吾氏の報に、  予は今を去ることおよそ十年前、 狐に関する一奇談を聞けり。 そは、 今よりおよそ三十年前のことにして、 尾張国中島郡板葺今村に堀田幾四郎といえる人ありしが、 家世々荘屋をつとめおりしをもっ て、  一日当時の代官所に用事あり。 同国消州にゆき、 正午ごろ帰りて午睡せんと欲し、 座敷より字長畑といえる二町ばかりへだたりたる畑を眺めしに、嘉平といえる農夫の、糞桶を担い柄 杓 を手にして作物の上をもかえりみず踏みあるき、 西するかと思えばたちまち東し、 右にゆきまた左にゆき、 なにものをか追うもののごとく、  そのありさまのなんとなく怪しければ、 なお注視してありしに、 少時にして嘉平は柄杓を左右に振る。  幾四郎これを見てますます奇怪に思い、 出でて四方を眺むれば、 嘉平のいる所より数町へだたりて一の老狐あり、 尾を左右に動かして嘉平に近づかんとす。 嘉平は狐の尾をうごかすごとくに柄杓を左右に振り、  その距離二町ばかりなるに及びて、 嘉平は柄杓を捨て、  狐進めば嘉平も進み、 狐退けば嘉平も退き、  その進退みな狐の指導に従うを見る。 ここにおいて幾四郎はその傍らに進み、  狐を追えども去らざるをもっ て、 大声を発し茄平を呼べども、 孫平いまだ正気に復せず。 このとき狐逃れて走り出だせしに、嘉平もまた「隣村に用事あり」といいて狐の方へ走らんとせしゅ え、 これを捕らえて強くその背をうち、「汝は狐のためにたぶらかされて自ら知らざるか」と叱せしに、  嘉平はじめて心付き、 正気を復せり。 幾四郎よってその状を問いしに、「はじめ狐きたりて近辺を徘徊せしゅ え、 これを追わんため右にゆきまた左にゆきし  、 たまたま隣友きたりてわれを誘いしゅぇ、 相伴いて隣村に行かんと欲せしに、  たちまち打下のために正気に復せり」と語れり。  もっとも当地方には狐多く、  たぶらかさるるものまた非常に多しという。

(チ)  また同氏の報に、 予が故郷の隣村なる三宅村といえるところに、 住田文之丞といえる老人あり。  かつて一日、 予が家の門前を幾回となく往来してありたれば、 いかにも奇怪に思い、 呼び入れてそのゆえをたずねしに、  かの老人は「沢の江(予家をさること数町の所にある小川の名)の河水暴 涙 せしため迂回するなり」といえり。 ここにおいて、 狐にたぶらかされたるに相違なきを知り、 僕をしてこの老人を送らしめしことありき。 この類のことは予が村には数々あることにして、  大抵、 予が村より隣村なる目比村に至る間の十二、 三町゜の所にて起こることにして、 土俗はこれを、 その間にある一村社の森林中にすめる老狐の所為なりと名ノ

(リ)  また、 防州藤井幹氏の報に、 今をさることおよそ七、 八十年前、 周防国岩国の藩士岡田某の家僕に、秋山団十郎といえる者ありたり。 元来勇気にして    いかなる怪物にあうともいまだかつて恐怖したることなかりしが、  一夜隣村今津へ行かんとて、 宇城山の一ツ橋という所まで来かかりしとき、  一人の婦女に出会いたり。  その婦人の状、  いかにも怪しかりしをもっ て、 これ、  必ずこの辺りに名高き「おさん狐」の所為ならんと想像し、  ひそかにその後を追い、 行くこと数十歩にして    つの石橋あり。  かの婦人この橋を渡るに、 手をつきて飛べるがごとく見えしかば、 ただちに刀を抜きてこれを斬り、 つらつらそのしかばねを検せしに、実に婦人にして狐のように見えざりき。 ここにおいて、 秋山大いに駕き、  急に家に帰りてつぶさにこれをその主に告げ、  再びその所に至りてこれを見しに、  全く婦人に相違なければ、 ますます驚きてまた家に帰り、ほとんどなすところを知らざるもののごとし。 天明のころに至りて、  その主ひとり、  かの所に至りてこれを検せしに、 全く老狐にて婦人にてはなかりしかば、 団十郎もようやく本心に復したり。 これより、 この辺りに妖怪現象の跡を絶てり。 その刀、 今なお同家に伝わり、 もし狐狸に憑 付せらるる者あるときは、 これをいただかしむるに、 たちまち本心に復すること妙なりという。

(ヌ)  狸惑につき阿州人某の報ずるところによるに、 予が友人某、  一日用事ありて他の一人を伴い、 未明に徳島を発して近村に向かう。 東方ようやく白く、 人面いまだ明らかに弁ずべからざるころ、  一農夫の衣をかかげて裔麦の花、  雪を欺くばかりに咲き乱れたる問に初役し、 しきりに「深い深い」と独語するを見たり。

これ、 あるいは狐狸のなすところにあらざるかと、 歩を止めて回顧せしに、 果たして路傍の樹上に、 老狸のかの農夫を凝視するあり。 幸い伴いし人、 銃を携えしをもっ て、 これを銃殺せんと欲し、  ひそかに近づけども狸いまだこれを知らず。 轟然一発、 狸はたちまち地上におち、 農夫は同時に卒倒して一時悶絶したり。

以上、 すでに狐惑の種類を掲げたれば、 これよりその説明に移る ぺし。



第三四節     狐惑の説明

狐惑のことにつきては、 先輩の説明全くなきにあらず。「云波草」には、「いえばいう、  仏神の利生ということはたしかにあるべし。  世に野狐の人に付きぬるがごとし。  その狐を殺し打  榔 なしても、 なんともおもわなる気の強き者にはたたることなし。 弱き心の所へはその邪気入るがごとし。 仏神の利生もそのごとく、 拝みとうとむときは利益ということありとおもう気の前にあらわるるものなり。 野狐の一念さえ人にとりつくからは、神仏の慈念はひとしおありそうなることなり」とあり。  また「 荘 内可成談」には、「狐にたぶらかされて、 白昼にわかに暗夜となりて道を失い、 前後をわきまえずして、殺生の獲物または振る舞いの 肴 分け、 餅包みなどを失うことあり。  狐妖は昔よりその術ありて人をたぶらかす。  さもありぬぺし。  白昼にわかに闇夜となるは、 そのたぶらかさるる者目を閉じておれり。 先年これを見たる人あり。 目をあき候 えと気を付けれども、 はじめは目をあかずして、  三、  四度に及んでようやくに目を開きて、 少し気付きたる様子なりしとぞ。  かを聞くときは、 狐の術に目を閉じて日荘れたりと思い、 物につまずき堰、 溝などに落ち入りて、 持ちたる物を失う。  もとより物取らんためにたぶらかす術なれば、 その後目あきて、 はじめて白昼なりしことを知るべし」とあり。  これみな卓見なり。

しかれども、  いまだ説き尽くさざるところあり。  そもそも狐惑の起こるや、 大抵直接に狐狸を見聞するか、 しからざれば狐惑に縁故ありし土地、 もしくは寂蓼たる場所を通過する際に限るものなれば、  その原因は狐狸そのものにあらずして、 吾人の精神作用より生ずるを知るべし。  すなわち精神作用によりて、 あらかじめ狐惑あることを期して、 その心よりこれを迎うるか、 あるいは狐惑の一点に注意思想を集めて、  これに関する種々の幻覚、 妄笈を生ずるかによること明らかなり。 換言すれば、 専制および予期の作用によるなり。

もし、 わが心ひとたび動きて専制、 予期を生ずるに至れば、  籾神悦惚として夢中にあるがごとく、  したがって幻覚、  妄覚を生じ、 あるいは青天白日に当たりて暗夜のごとくに感じ、 あるいは狐狸のおらざるに現にその形を見るがごときことあるべし。  かくのごときは、  みな精神作用によりて起こるところの変態なれば、 あえて深く怪しむに足らず。 また、  たとい二人以上同時に狐狸のおらざるに、  その形を妄見することあるも、  その予期するところ同じければ、  その見るところもまた同じかるべき理なり。 あるいはまた、  吉川源吾氏の報迫のごとく、 狐に証  惑せられたるものが狐の挙動に応じてその身体を動かし、 狐、 右に走ればその人もまた右に動き、 左に走ればまた左に動くことあるも、  精神作用によりて説明するを得べし。 なんとなれば、 すでにその心ひとたび常態を失し、 己自らその精神を支配することあたわざるに至れば、  単に外界より与うるところの指揮、 命令に従って挙動を示し、  さらに自ら覚知せざることあり。 この状態は催眠術につきて明らかに知るを得べし。  ゆえに、 その説明は第四謂心術編を参看すべし。  また狐狸に、  恩に報い讐に報ずる作用あるというがごときも、 これ果たして狐狸の作用なるや、 あるいは人のその間に立ちてなししことなるや、  いまだ知るべからず。 予が実地経験したることにも、 ある者が深く狐を信ずるを見て、 近辺の者がこれを驚かさんと欲し、 ことさらに種々奇怪のことを設けて、ますますその信向を厚からしめたることあり。 その最も近き例は狐談ともとよりその種類を異にするも、  二、  三日前の「読売新聞    に出でたることなれば、 左に抜粋せり。

浅草千束町に種田おちかという老婆あり。 小間物を商いて必至に稼ぐ内にも、 真宗の信心家とて仏詣で怠ることなし。 去るころ商用を兼ねて京の本願寺へ参詣せしが、  永の道中を着続けたる襦絆は、 われとともに仏果を得たりと喜び、 色紙の幾重当たるをもいとわで、大切にしまい四くを、  悴 の何某いとおかしきことに思い、 ある日、 母の商用にて外出せしを見すまし、  件の襦袢を取り出だして、 その背へひそかに六字の名号を記し、  もとのごとくにしまい置きたり。  とは知らぬ仏のおちかは、 数日前、 本願寺別院に法事ありて高僧の説法もあるよしを聞き、 例のごとく件の襦袢を着て出かけ、 帰りて着物を脱げば、 あらたうと南無阿弥陀仏の六字あらわれおるに、 心、 飛び立つばかりのうれしさ、 思わず三拝九拝してこれを仏壇に供え、 念仏を唱え、 近所の同じ信者に風聴して回る。 おりしも悴、 他より立ち帰り、 この由を聞いて大いに気の毒に思い、実は自身が戯れに書きたるを、 そのまま心付かで過ぎたるこそ迂闊なれとたしなむれば、  おちか、 あまりのことにあきれ果て、  その翌日、 牛込なるさる寺の法事に赴き、 同じ信者の里村某という婦人に逢いて、 名号のこと物語りて、 悴の悪戯をつぶやきしに、 里村もそれと同じようのことありとて語れるは、 自分はかねがね仏壇の内へ如来の小軸を掛け、  朝夕念仏を申しおりたるに、 甥なる何某数日前にきたり、  一心に拝めるわれを呼び、「叔母さん、 なにを拝んでいなさる」というより、 この後生知らずめと思えば返事もせずに念仏を終わり、 さて甥に向かいて後生のお談義を始むれば、 甥はほほえみつ「肝心な如来さまはどうなされたか」というに、 心付きて仏墳を見れば、 今まで鮮やかに拝まれし如来様の姿は、  ゆくえ白紙の影だにとどめず。

さてはわが信心の足らざるを怒りたまいて、  かくは御姿を隠させたまいしかと、  ひたすら恐れおののきて、その場へ平伏し、 なお念仏に余事なかりしに、 さすがの甥も気の毒にたえかねしか、「実は叔母さまがあまり信心にお凝りなさるゆえ、 二、  三日前、  戯れに軸を裏返しておきました」とて、 笑いののしられしことありと、 話し終わりてともども若き者の不信心をつぶやきけるを、 そばにありし寺僧、 これを聞いて大いに感じ「 かくてこそ浄土真宗の門徒ともいう ぺけれ。  南無阿弥陀仏を一心に念ずる者は、 臨終のとき如来、 枕頭に迎えたまうと仏の説きたまいしは、  かく信心するもののことならん」と、 大乗の奥義いささか説き問かせければ、  二人の老娼は等しく首をたれて、「南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏」

これによりてこれを考うるに、 狐狸に関する奇怪なる出来事も、 自然的仮怪にあらずして、  人為的偽怪に出ずるもの多きを証するに足る。 もし、 以上の理を明らかにせんと欲せば、  本講心象編、「総論」説明編および「雑部門」怪事編を参見す ぺし。

以上の論、 これを要するに、 最初掲げたる狐惑の二、 三の種類は、  一半は人為的偽怪より生じ、  一半は心理的精神作用、 すなわち予期、  専制、  幻覚、 妄覚より生ずるなり。 しかしてそのことたる、 物理的説明を要せざるものと知るべし。  この狐惑に連帯して説明すべき一項は、 眉に唾を塗ることなり。  すなわち「和漢珍書考」に、「或問、『世に野狐あるいは妖化物の類にあうときは、 眉に唾をぬること法証にてもあるやいかん』答えて曰く、「これははなはだ故実あり。 昔、  人皇五十六代清和天皇ご幼少のとき、  忠仁公御後見をいたされけるに、 この帝、 常に狐狸をはなはだ嫌いたまいけるが、 あるとき南庭に御出遊しありける折節、 御目通りをきつね走りけるを、 忠仁公御そばにいたまいて、『それ、 その魔を伏させたまえ  と戯れて急に申し上げられけるを、 天皇、 眉を伏せよとのことかと御聞き違いにて、 そのまま御指にて両の御眉をなで伏せたまうとなり(ときにおいて消和帝御歳八歳のときなりという)。 この由来となり、 人、 怪にあうとき眉を伏せ、 唾をもってこれに塗るは、 後にできたることなり。  忠仁公、  詞 に「魔を伏せたまえ    と戯れられしは、「降伏なしたまえ    とて天皇に告げ奉ることなり。

「禁詞要略」二百九十七巻五十三丁目に出でたり」とあり。 すべて物事の起源はかかるつまらぬことより始まるものなれば、 狐惑、 狐憑きのことも、  さほど深き意味なきことより始まりて、 後に一般にこれを信ずるに至りしならん。



第三五節 狐憑きの種類

狐憑きに種々の類あることは、  先般、 榊医学博士の哲学会においてなしし演説にても知ることを得べし。

第一稲は、 自ら狐憑きたることを知らずして、 他人よりみて狐憑きとなすものにして、 仮にこれを無意識的狐憑きという。

第二種は、 自ら狐憑きたることを知りて、  狐憑き者と自称するものにして、 仮にこれを意識的狐憑きと名付く。

しかして、 この第二種にもまたさまざまの類ありて、 あるいは目に狐を見、 耳にその声を聞き、  その現象を外界に観見するものあり。 あるいはまた、 わが身体中の一部分に狐の宿るがごとく感じて、 あるいは狐は腹中に住めり、 あるいは胸中にありといい、 または自己の口部より狐の出入りすることを見、 あるいは体内にて狐の語を発するがごとく覚ゆるものあり。 これらは内界の狐憑きなれども、  みな単に内界の一部分にして、  全部の狐憑きにはあらず。  これに反して、 内界全部が狐憑きの状態に変じて、 自身は某の老狐なり、  いずこの稲荷なりなど唱え、 自己と狐との分別を失いしものあり。  かくのごとき狐憑き病は全く精神病の一種にして、 幻覚および妄覚ならびに病的精神作用によりて現ずるものなり。

まず「博物答」によるに、「  狐魅は肩、  脇、 岡のあいだに入る。 必ずかたまりあり。  その脈を診するに浮沈定まらず。  その大指多くはふるう。 よくこれをさつするもの、 火鍼をさせば去る、 云云」とあり。  また、「陰陽外伝磐戸開」には左のごとく記せり。「世に狐の人を化かし、 または人に付くという義あり。  一通り分からぬ理にて、みな人の当惑するところなり。 ここにその狐つきというものを見るに、 ことごとく卑賤の族にて、  貴人にかつてなきことなり。 その卑賤の族とても、 気のしまりたる者、 あるいは老人等にはその例あるを聞かず。 ことごとく薄らぬけて、  ちょ うどなき若き者のみなり。  これ、 すなわち理を推すの一つの廉なり。 またちょ うどある者とても、  空腹のときかあるいは痛心して理におちたるときなど、  かの悪狐のすむ野原を通れば、  ことにより化かさるることあり。 また、 その奇を挙ぐるときに、 第一かの者無筆にして、  知らぬ経を読み、 あるいは見ざる書を口走り、  また、 源平の戦い等をしゃべるに空談にあらず。  ついては己がために祈頑者のきたるを前に知りて、  その名をしゃべり、  その徳の深浅によりて恐れるあり、  または軽蔑なすあり。 これ、 奇とするところならずや。  このほか、 しゃ べる口上はありふれたる雑談にして、 狐つきの規則いずれも同断なり。 また、 その狐の付きたる箇所は、腕あるいは脇腹にふくれあり、 ここにさわることをいとう。  よっ てそのふくれを強く押さんと欲して手を掛くるときは、 総身に逃げ回りてなかなか自由にはならず。  これ、 狐の魂の人の皮廣の間に入るところなりといえり」とあるがごときは、  みな普通の狐憑きの状態を示せるものなり。  その他、 左に二、  三の例を列挙せん。


(ル)  長野県藤枝利市氏の報に、 予かつて狐憑き病者を訪問せしに、 病者、 予に告げて曰く、「われはその家の狐なるが、 当家の主人悪意を挟むゆえ、 きたりてこれを悩ますなり。  今、 汝がためにその証を示さん」と。 よっ て鋏 をとり、 わが目前にて狐の鋭き爪と灰白色の毛とをきりて予に示せり。 ただし、 病者はそのとき、 蒲団わずかに一枚を芍たり。


(ラ)美濃国山田大助氏の報に、  わが地方には往々狐憑き病と称する一種の奇病にかかる者あり。

俗説に従えば、 ある病症のために身体衰弱するときは、  狐この機に乗じ、 その人につくより起こる病なりという。今その患者の言行を見るに、 すこぶる奇怪なるものあり。 あるいは、 われは某所の稲荷なり、  一日某の背に置ゆ負われてこの家にきたれりといい、  また、 ときとしては今朝某家に至りて油揚げを得たり、 もしくは繭を食えりなどいうことあり。 しかれども、 この種の患者は他の病客に異なるをもっ て、 右護特に厳密なれば、 決して他家に往来すべきはずなきに、 某々の家に問えば、 果たしてそのことありしという。 あに奇といわざるベけんや。 予もまた、 この種の患者数名に接したることありしが、 その一人は美浪国加茂郡潮見村、 柘植某といえる人の母にして、 病中はすこぶる機敏よく神秘を知れり。  その後、  病全くいえたるをもって、 試みに病中のことをたずねしに、 さらに知らずと答えたりき。  その他の患者はみな、  いゆるに至らずして死したり。


(ワ)信渋国小岩井亀太郎氏の報に、 予はかつて商用のため木曾地方にゆきしこと数次ありしが、  該地ほど狐憑きのはなはだしき所は、  おそらくは他にあらざるならん。  今、  該地方にて伝唱するところによれば、

らい「おさき」または「こんこんの家」と称する一種の家系あり。  人のこれを嫌うこと頻病家系に異ならず。 ただに結婚の妨害をなすのみならず、 往々乱暴、 強迫して放逐することさえありしが、  近時に至りてはさほどはなはだしく窟迫するに至らざるも、  なお社交上に一方ならざる障害を加う。  そのおさきと称するは、 女子に最も多く男子にはすこぶるまれにして、 平時は言動、 常人に異なるところなしといえども、  いったん発病するやみだりに他人の家に至り、  自他の密事を忌憚なく放言し、 ときに狐の声を学び、 四足の状をなす。 もっとも、  狐憑き者のゆくところの家には大抵定まりありて、  厳粛なる家には決してゆかず。 狐憑き者、 狡蚕室に入れば蚕に害あり、  病者の家に至れば病者を悩まし、 または病者に憑く。 ときには無病の者にも憑くことあり。  かくのごとくして憑かれたる者は、 またおさき狐と同じく、  みだりに他家に出入りして秘密を放言す。 また、  おさきのきたりし家には必ず不吉のことありとて、  みなこれを嫌う。 加うるにこの一種の精神病は一時平癒すといえども、 到底、  再発を免れしむることあたわず、 子孫にまでこれを遺伝するがごときこあるは、  一層、  人をしてこれを厭忌せしむる所因ならん。


(力)  島根県黒川虎三郎氏の報に、  いずれの地方にても、 結婚の際には双方互いにその血統をただすを通例とす。 これ掘病その他の家系を避けんがためなり。 しかるに島根県地方には、 他国にいまだかつて見聞せざる一種の家系ありて、 結婚の妨害をなすことはなはだし。 そは、 すなわち人狐持ちと称するものにして、人狐(尋常の狐より小さく、  腿 に似てつねに人家にすむ)を使役する家系なり。  すなわち、 この家系に属する人は、 よくこれをして厭忌するところの人に憑かしむという。  かくのごとき狐に憑かれたる人の言行は、すこぶる奇怪なるものあり。  今、  その一例を示せば、  人もし「汝はいずこよりきたりしか」と問わんに、 狐憑き者は「われは何村某の家よりきたれり」と答えん。 さらに「なにゆえにここにきたりしか」と問わば、彼はまさに「前日某件にてわが主人を苦しめしゅ え、  主命に従いその讐を報ぜんためきたりしなり」と答うるなるべし。  また、「もし汝ここにきたるとも、 なんの要もなかるべし。 速やかに帰れ」といわば、 彼は「君の意に従いて帰る代わりに、 君もまたわが意に従うことを 肯 ずるか」と反問せん。  よっ てその欲するところを問わば、「願わくば、 小豆飯、 豆腐汁および鯛の味噌漬を得ん」というを通例とす。 ゆえにこれを与うれば喜び食らう。 その状全く狐に異ならず。 暴食し終わりて、 かついわん、「われいまだ満足せず。 さらに当家所有の土地一カ所を与えよ。  しからずんば、 この人(狐憑き者)の命を奪わん」と。  このとき、「われまず鍼灸をもっ て汝を殺さん」といいて、  狐憑き者を捕らえ、  その腹を案じて塊あらばそこに鍼灸せんに、  彼は必ず請う、「ゆるせ、  今まさに去らんとす。 ただし少時、 君ここを去れ」といわん。 よってその言のごとくせば、狐憑き者窓をあけ、  苦しき声を発して倒れ、 はじめて平気に復するを得 ぺし。 これ、  一般狐憑き者の状態なるが、  今や国中過半の人はこの人狐持ちの家系に属するをもっ て、 正しき家系の子女にしてその配を得るに苦しむ者、  日にますます多きを加う。 あに軽々に看過すべけんや。

しかるにまた、 この狐憑き病を治するに、 多く祈祠を用う。  今その例を挙ぐること左のごとし。


(ヨ)  在東京宗理某氏の報に、 予が郷里に密宗の一寺あり。  寺僧よく諸病の祈頑をなすをもっ て、 四方より来集するもの 踵を接す。 中にも狐憑き病者の詣して祈禰を請う者最も多し。予かつてその祈祗の状を見しに、 患者を仏前に導きて読経すれば、 患者の身体たちまち額動するを常とす。 もし僧侶の、「汝はいずくよりきたりしか」とたずぬることあるときは、「私はある山林にすめる狐にして、 この患者にはなんの怨みもなけれども、 某より依頼せられて憑付せり」と答うるもあり。  またあるいは「しかじかの怨みありて憑付せり」と答うるもあり。 特に奇なるは、  健康のとき酒を好まざりしものが、 発病の後これをたしなむに至ることあり。 また、 ある人の説には、 憑付せし狐、  雄ならば「こんこん」となき、 雌ならば「ぎゃ あぎゃあ」と鳴くともいえり。

タ)  下野国某氏の報に、 予が幼年のころ、  村内の一股夫某、  一日村社に詣し、 路傍にかつて見しことなき奇鳥を見、 戯れに小石を拾いてこれになげうつ。 家に帰りて後たちまち病を得、 医薬を用うといえども寸効を見ず。  病勢ようやく強く、  苦悶絶叫し、  ときとしては眼目切歯やや狂態を現す。  その父もっ て狐狸の所為となし、  修験者を招きてこれをはらわしむ。  験者すなわち神器を壁間につらね、 これに向かいて呪を誦すること少時の後、 壁を背にして座す。  このとき患者、 身謳すでに疲應し、  また、  たつことあたわず、  裾  中にありてその傍らにあり。 傍観者数十人、  その前後に集まる。 予もまたこのうちにありしが、  験者まずその行わんと欲するところの法を衆に告げ、  よっ て一人、  験者の前にきたらんことを諧う。 群中六十歳ばかりなる老姻あり、 座を進む。 すなわちその目を裂い、 神前にたててありし幣のごときものを持ち、  験者と相対して座せしめ、 衆人これを囲みて列座し、 験者にならいて同音に呪文を誦す。 少時にして験者その験なきをみ、さらに四十ばかりの男子をして老姫に代わらしむ。  ここにおいて、  その男子は沐浴して体をきよめ、 はじめのごとくして験者に対座し、  衆また呪を唱う。 頃刻にして男子の持つところの幣、 微動し、  ようやく勢いを加えて動揺すること、 すこぶるはなはだし。誦呪の衆これを見てさらに音声を高くし、男の幣をふるうこと、ますますはげしく、  ついに席を打つに至りて誦呪をやむ。  ときに、 験者おもむろにその男子に問いて曰く、

「汝いずれよりきたりていずれへ去るか」と。 しかれども男あえていわず。  よっ てその幣をもっ て去来の方位を指すぺしと命ぜしに、 男はまず南を指し、 つぎに東北を指せり。  験者、 強いてかの男をして、 これを言に発せしめんと欲し、 さらに呪を誦し印を結びてこれに迫る。 男ついに言を発して曰く、「予、 足下をおそるるをもって永くここにおる ぺからず」と。  験者曰く、「かつ去来のところをいえ」男曰く「某所よりきたれり、まさに某所に去らんとす」験者曰く、「なにをもっ てここにきたりしか」男曰く、「予、  一日化して鳥となり、某社の傍らにありしとき、  この家の主人きたりて石を投じわが頭を傷つく。 ゆえにこれを報ずるなり。  しかれども今、 足下にあい恐 恨にたえず。 ただちにここを去らん。  ただ願わくば、  銭十二文(今の一厘銭十二個なり)を与えよ」と。 これを聞く者みな、「老狐、 人となりて某河を渡るならん」といえり。 けだし、 狐の去らんと欲する道に某河あり、 その渡船料十二文なればならん。 ここにおいて、  銭ならびに狐の好む食物をその男に与え、 人をしてこの男を負い家を出でしむ。 その出ずるに臨み、 験者、 男にいいて曰く、「汝、 なくこと一声して、 もってまさに去ることの証とせよ」と。 男、 すなわち「コンコン」と連呼し、 背にありて熟睡す。 よって枕を与えて安臥せしめ、  その手を検せしに、  さきに与えし銭ならびに食物を見ず。 少時にして男目を覚まし、  茫然として自失するもののごとし。  傍人つぶさに過刻の言動を問うに、 砲も知るところなし。

ただ、  少しく手腕の疲労を感ずるのみといえり。  ただし、  人名を明記せざりしは、 少しくはばかるところあればなり。

以上、 すでに狐憑きの諸例を掲げきたれり。 ゆえに、 これよりその説明を与えんとするに、「盟獣雑記」(下巻)に日く、「狐の人につくということ、  からごころの人はうけがわず。  そは狂乱なり、 梱 症なりとわらえるこそかえっ て浅見にて、 笑う ぺきことにぞありける。  さて狐の人につくことは、 これら一、 二の巻にのせたり。 こをうけがわんは、  さらにいうにもたらぬことにして、 くされ位者どもが、  からくにのさかしらだちたる人のごとく、己の浅知をかえりみず、  よろずのことをみな陰陽、  乾坤、 天命、 五行などにひきよせて、  おしあてにきわめんと思うがゆえに、  おしあたらざるものは寓言なり、 虚談なりといえるぞおかし。 そは人問の限りある知恵をもて、天地のあいだの不可思議なることをきわめんと思うがゆえに、 おしあたらざることあまたあり。 狐の付託にはかぎらず、 ふしぎなることは寓虚といえるは、 くなたぶれずさの定まりたる言葉なり。  さらにとるにたらず。 まさしく狐の付託することは、 今もまのあたりきけることおおし」と唱うるものは世に多けれど、 余は別に一説あり。左に述ぶべし。



第三六節 狐憑きの説明

前節に掲げたる諸例に徴するに、 狐憑きは一種の精神病にして、 これを論究するは「医学部門」の問題に属すれども、 ここに変式心理学に属する部分について、 いささか説明するところあらんとす。

まず狐憑きについて特殊の状態を見るに、 身体上にありては、 そのある部分に一種の肉塊のごときものあることを感ずるなり。 ここにおいてか、 患者は狐をもってその点に住めるもののごとく思考し、 また、  その肉塊は一より他の部分に位地を転ずることあるより、 これをもっ て、  そのものの活動物にして自由に住所を変ずるものとなすに至る。 また、  患者自ら腹中のある部分に一異物の住止するがごとく感じて、 これを狐の寓するによるとなす。  されども、  これらの奇怪は医学の問題に属し、  精神病上より説明す ぺきものなれば、  今ここにこれを略す。つぎに、  精神上より現るる変態は、 感既にありては幻覚、 妄覚を生じて、 狐なき所に狐を見、 あるいは不潔物を食物のごとくにみ、  苑も音なきに狐声を聴くことあり。  また、  思想にありては自身をもって狐なりと信じ、 あるいは稲荷なりと唱え、  その思考し想像するところ、 ことごとく狐と同一の精神をもっ て成れるを見、 また行為上にありては、  その言語、  動作すべて狐に模擬して、 自ら全く狐に化せしことを確信せるもののごとし。  その他、狐憑きにかかれる者は種々奇怪の言語を発し、 あるいは予言または察心をなし、 あるいは一丁字なき人にして文字を書し、 宙物を談ずる等の奇怪現象を呈することあり。

しかりといえども、 右らのごとき奇怪はその実、 砲も奇怪とするに足らず、 また、 狐そのものが人体に 憑 付してしからしむるものにもあらず、 いずれも精神作用によりて説明することを得 ぺし。  およそ吾人の精神がある一点に専注凝集するときは、 種々の妄党、 妄想を現示し、  思想に現れたる状態をもって外境を組織し、 いわゆる幻境を見るに至る。  これをもっ て、 その思想、 想倣もみな平時と大いに異なりたる作用を呈し、 これを他より見るときは、  ほとんど全く別人となりしがごとくに感ぜらるるものなり。 しかしてその原因は、 前すでにしばしば述べしがごとく、 意識の常態を攪乱するにあり。 すなわち、 人々の内界には、 吾人が狐についていだける一種の観念をとどめ、  かつこの狐と連絡したる種々の事情は、  みな狐なる観念と連合して精神内に存するものなれども、平時にありては、  わが思想は狐そのものの観念を中心として発動するにあらず。 別に一定不変の自己、 すなわち「我 の中心ありて作用をなすをもっ て、 狐なる観念はさらに異常の作用を呈することなし。  しかるに、 もしここにある特殊の事情によりて自己の中心はその本位を失し、  これに代わりて狐そのものの観念上に精神を凝集し、  その点ただちに思想の中心たるに至らば、 己自ら狐もしくは稲荷なりと信じて、  その観念と連合せる諸観念に従って言語、 動作を現し、  これと同時に感党上に妄境、  幻象を見るに至る ぺきは自然の勢いなり。 これをもって、  思想単純にして精神の薄弱なるもの、  あるいは信仰しやすき性質の者が、 特殊の事情に応じて、 この境遇に陥ること往々これあるは、  もとよりしかるべきことにして、 奄も怪しむに足らざるなり。 また、 狐憑き病者の予言、 察心、 記語、  読書のごときは、  はなはだ奇怪なるがごとしといえども、 すでに精神状態の一変したる上は、平常なし得ざることをよく遂ぐるに至るも、 またなんぞ奇とするに足らんや。  かくのごときは、  ひとり狐憑き病の特有にあらずして、 すべて精神の状態一変するときは、 平常遂ぐる力なかりしことをもなすに至るものなり。されども、  いかなる場合を問わず、 全く記憶中に存せず、 また、  全く人力の及ばざることを行うぺき理なきをもっ て、 今、  狐憑き病者の予言も察心も大抵その限りありて、 例えばアメリカの発見以前に、 その大陸あることを予言するがごときことは決してあらざるなり。 またその記語、  読書のごときも、  たとい自らかつて修習したることなきにもせよ、 必ずや直接にこれを見聞したることありて、  多少その記憶の無意識的観念となりて存せるをもっ て、 今やその思想の変態を呈するにあたりたちまち再現して、 あたかも学習したるもののごとき作用をなすに至るべきなり。 この理はひとり狐憑き病に限れることにあらず。 近年行わるるところの催眠術についてもその結果を見るを得べし。

その他、 狐憑き病には前にも分類を示したるがごとく    一分狐憑きと全分狐憑きとの別あり。  一分狐憑きにありては一心中に自己と狐との二重の意識を有し、  全分狐憑きにありては自己の意識は全く消失して、 狐の意識のみ存するなり。 しかして、 自己と狐との二重の意識を存するは、  その心内において、 自己の中心と狐の中心との二点を生ずるにより、 また全分狐憑きにおいて、  狐の意識のみを存するは、 狐の観念が思想の中心を形成して、その点に自己の中心を生じ、  全心を挙げてこれに専制せらるるによれり。 この理由は、 よろしく「総論」説明編についてみるべし。 これを要するに、 狐憑き病は平時と異なりて、 ある特殊の一点に思想を凝集し、 自己の中心その位置を転ずるによれるものなるをもっ て、 これを治する方法に至りても、 また、  一方に偏せる思想をして常態に復せしめ、  もっ て平時の中心を回復せんとするにほかならざるなり。  このゆえに、  古来狐憑きを治する方法は、 多く加持祈祗を用い、 あるいは種々の方法によりて患者を吃 驚 または苦悩せしめ、 あるいは鐘、 太鼓を嗚らして狐を追放すといい、 あるいは松葉を焼き、 その薫煙をもって狐を駆逐すと唱えて、 諸種の奇怪なる方法を用うれども、 その真意はいずれもみな、  一方に偏したる思想の中心をして、  基本に復せしめんとするにほかならざるなり。 これ、 奄も意義なき「 マジナイ」等の瑣々たる方法をもって、  全癒することあるゆえんなり。 なお、  狐憑きのことについては講述すべきこと多かれども、 これらは「医学部門」に譲り、  一般の精神病とともに孜究すべきなり。


第三七節    飯綱、  オサキ、 管狐、  狐遣い

俗間に狐遣いと称し、 狐を使う法あり。 世に飯綱というもの、 すなわちこれなり。 信州、 上州辺りの「オサキ」、管 狐 と称するものもやはり_同類なり。「オサキ」、 管狐のことは前すでにこれを述べたり(第三一節および第三二節の記事を参看すべし)。  今、 飯綱についてこれを考うるに(「〔日本〕社会事棠   による)「、   和訓栞」いわく、

「いづな、  飯綱と杏けり。 稲荷の社には、 飯縄という物をみずかきにはえはべるといえり。 一説に、 奥州仙台飯縄山に祀るをもて、 飯縄三郎と呼べるなりといえり。  信州戸閑嶺、  越前日永岳、 武州高尾山などに祀れり。 陀吉尼天の邪法なりといえり。 遠州秋葉山三尺坊の 祠 も、 百年以前、戸隠より祀るという。 そのいづなの法は、 二十法ありといえり。「宋史」にも、 狐王廟 と見えたり」また「需獣雑記 下巻) によるに、「近世、 飯綱の法といいて狐を使う者あり。  伝え聞くに、  いたっ て小なる狐なりといえり。 いわゆるくだもち、  おさき使いのたぐいならん。「松屋外集」に鞍馬天狗の謡を引きて、「飯綱法は狐を祭るにはあらず、 天狗を祭るなり」とあれど、 鞍馬天狗の謡をたしかなる証ともさだめがたし。また、諸国の飯綱のやしろも祭神は天狗なりといえるは明徴ありや。こは世人のいえるごとく、  陀吉尼天の邪法を祭りて狐をつかうなり。 かく邪法を行う所ゆえ、 その邪法をよろこびて天狗のまじこれるなり。 ゆえに、 いづなに住めれば飯縄三郎というならん。 前にいえる苦陀持、 大前使いなどいう狐は、 古き史にはいまだ見あたらねど、 ありやなしやはさだめがたし。 されどしいていわば、『扶桑 略 記」にのする相応和尚の皇后につけたてまつりし狐、 また、  さがりし世にては、『康富記』に見ゆる高天のつかえし狐などにてもありけんか。 また「稲荷神社考』に、  今世にも上野、 信濫、 出羽等の国に妖狐を役う者ありて、 民を病し狂わしめて人をそこなうことあり。  あるいは苦陀持、 あるいは大前使いなど呼びて、  国民みな忌み恐る。  その国にても大禁めらるれど、 なおその類絶えずといえるとあり(つばらかに下に引けるを見るぺし)。  いずれにまれ、 飯綱より眼のあたり狐をうけきたるという人あれば、  狐を使うことはうずなかるべし」また信濃の飯綱権現のことにつき左のごとく記せり。善庵随筆    に、甲斐郡内上吉田村、 富士山神職、 小猿伊予が家に、 古来より所伝の道了、 飯綱、 浅間の三銅像あり。  飯綱も道了と同じく、 小天狗の狐にまたがりたる像なりという。 よって思うに、「殺園遺編  に、  いづなは信州の山名なり、 いただきに天狗の祠あるゆえに、  山の名をもってその法に名付く。  その法は天竺の荼若尼天の法なり。 法を行うに抹香をたけば行われぬと。 この茶者尼天の法も狐を駆役するものにぞや。「古今著問集」に、知足院殿なにごとにてか、 さしたる御のぞみふかかりけることはべりけり。 御嘆きのあまり、 大権坊という効験の僧のありけるに、 陀祇尼の法を行わせられけり。 日限をさしてしるしあることなりけり。 せめての懇切のあまりに、  件の僧を召して仰せ合わせられけるに、 僧の申しけるは、「この法いまだきずつかず  候。

七日がうちにしるしあるべし。 もし七日になおしるしなくば、  今七日をの ぺらるべく候や。  それにかなわずば、  すみやかに流罪に行われ候 えかし」と、 きらびやかに申しけり。 すなわち、 供物以下のこと注進に任せてたまいてけり。はじめおこなうに七日に験なし。そのときすでに七日に験なし。いかにと仰せられければ、

「道場を見せらるべく候や、  たのもしき験候や」と申しければ、 すなわち人をつかわして見せられければ、  狐一匹きたり供物等をくいけり。さらに人におそるることなし。さてその後七日ののべ行わるるにまんずる日、知足院殿御昼ねありけるに、  容貌美麗なる女房御枕をとおりけり。 そのかみ、  かさねのきぬのすそよりも三尺ばかりあまりたりけり。 あまりにうつくしく、 えんにおぼしけるままに、 そのかみにとりつかせたまいぬ。女房見かえりて、「さまあしう、 いかにかくは」と申しける声、 けはいかおのよう、 すべてこの世のたぐいにあらず。 天人のあまくだりたらんも、  かくやとおぼえさせたまいて、 いよいよしのびあえさせたまわで、   よく取りとどめさせたまいけるを、 女房あらく引きはなちて、 とおりぬとおぼしめしけるほどに、 そのかみきれにけり。  かたはらいたくあさましくおぼしめすほどに、 御夢さめぬ。 うつつに御手にもののかにしてあるを御覧じければ、  狐の尾なりけり。 不思議におぼしめして大権坊を召して、 そのようを仰せられければ、「さればこそ申し 候 いつれ、 いかに空しかるまじく候。 年ごろ、  厳重の験多く候いつれども、 これほどにあらたなることはいまだ候わず。  御望みのこと、 明日午刻にかならずかない候べし。 この上は流罪のことは候とかさねまじきや」と狂い申して出でにけり。  かつかつとて女房の装束一襲 かつけたまいけり。  申すがごとく、 次日午刻に御よろこびのこと公家より申されたりけるとぞ。 摂禄の一番の御まつりごとに、  大権をぱ有職にならせけり。  件のいき尾は、 きよきものへ入れてふかくおさめけり。  やがてその法を習わせたまいて、 さしたる御望みなどのありけるには、  みずから行わせたまいけり。  かならず験ありけるとぞ、 妙音院の護法殿に収められけるいとやぬらん。  そのいき尾のほかも、 また別の御本存ありけるとかや。 花園のおとどの御跡、 冷泉束洞院に御わたりありしときも、 ほこらをかまえていわわれたりけり。  福天神とて、 その社当時もおわしますめりとあるにて推知すぺし。

下総の阿波大杉殿などの真影を見るに、 少しずつの不同はあれども小天狗の狐にまたがる像なれば、 天狗は狐に縁故なきにあらずと思いしに、『日本害紀』「舒明紀云、  九年春二月丙辰朔戊寅、  大星従>東流  西 便有レ音似>雷、 時人日、 流星之音、 亦曰、 地雷、 於>是僧斐僧日、 非ー一流星    是天狗也、 其吠声似和田耳。」(舒明紀にいわく、「九年春二月の 丙 辰の  朔    戊  寅に、 大きなる星、 東より西に流る。 すなわち音ありて  雷 に似たり。 時の人の日く、「 流 星の音なり』という。 または曰く、「 地   雷  なり』という。 ここにおいて僧受僧  が日く、「流星にあらず、 これ 天  狗 なり。  その吠ゆる声雷に似たらくのみ』という)に天狗の字をあまつきつねと邦訓を施す。 さすれば、 天狗を天狐というは必ずしも余が創説にあらずして、 古人早くこの説ありて、 きつねとは訓ぜしならん。 頃日、  皆川洪園の「有斐斎剖記」を閲するに、「野狐最鈍、 其次気狐、 其次空狐、 其次天狐、 気狐以上皆已無ーー其形一 而空狐、 其盤変更倍ーー於気狐一 至二天狐ー則神化不>可如測、  人有  為>物所>役頃刻行二千里外玉界 乃皆空狐之所>為、 大抵離>地七丈五尺、 彼乃得垢空之行一如』^ 狐一乃不一勾復為ー一人害一 此説善幻者話云。」(野狐最も鈍、 そのつぎは気狐、  そのつぎは空狐、 そのつぎは天狐。 気狐以上はみなすでにその形なし。 しかして、 空狐はその霊変さらに気狐に倍す。  天狐に至りてはすなわち神化測るべからず。  人物のために役せられて、 頃刻に千里の外に行くものあり。 すなわち、  みな空狐のなすところ、  大抵地を離るること七丈五尺、 彼はすなわちこれを摂して行くを得。 天狐のごときはすなわちまた人の害をなさずと。  この説、 善幻なる者の話すという)とあり。  今、 ここにいう気狐は、  野狐の人を繰惑して祟をなし、 人身に凋りて食を求め、 および道士の駆役するおさき狐なるものにして、 空狐はすなわち天狗なり。 彼此併 孜すれば、 天狗の狐たること疑うべきなし。

また、出雲辺りにて人狐と称するものあり、あるいは狐持ちという、あたかも四国の犬神のごとし。「嬉遊笑覧」によるに、「雲州に狐盤あり(これはいずくにもあり)。 また、  四国に蛇緑をつかう者あり、 これを「へびもち」という。 石見などにて、 これを土瓶という蓄うる器をもて名付くるなるべしとて、  犬神、「とうびょ う」となら ベいえり。 邪術なり。  かかるたぐいは、 そこの人も婚を絶ち交をむすばず。 また、  備の前後州に猫神、 猿神などありて狐神のごとし。 信州伊奈郡のくだ、  上州南牧の大さき使いも同類なるべしといえり」

以上の理由は、 前に述べたる狐狸論につきて推知すべし。 なお、  以下に論ずべき犬神、 天狗の説明につきて、その理を明らかにすべし。



第三八節 犬神、 蛇持ち

つぎに、 犬神の説明をなすにさきだち、 その性質、 状態のいかんを挙示するを必要なりとす。「 百物 語  評 判にその起源を述 ぺて曰く、「(前略)そのはじめをかたり伝うるを聞くは、一つの犬を柱につなぎ、 その縄をすこしゆるめて、 器に食物をもり、 その犬の口さきのすでにとどかんとする所に附きて、 うえ殺しにしてその虚をまつり納めてなすことなりといえり。 もろこしの総毒の類なり」と。  さらに、 左に二、 三の害に散見せるものを掲ぐべし。

「秋苑日 渉十二) にいう、「余毎聞ー南海道諸州人説ーー狗神之事一 日、 奸検之徒、 能虔ーー事之一 則其所ーー嫉怨    祟  之霊二於狐狸一 或見 らも人金銭衣服百物件一 心愛ら之則附ーー具人五    祟、 其神伝至二子孫一 雖乙自自厭悪ー終無二如>之何一 是以郷里不二肯与成品親、 追ーー近来一其種漸絶、  然所在有   人不函磁竪其故宅之地至界  蓋犬盤之類耳、 按捜神記曰、 都賜趙寿有 天 巖    時陳客詣>寿、 忽有ー大黄犬一 六七群出吠>苓、 後余相伯帰与二寿婦ー食、吐>血幾死、 乃屑 桔梗ー以飲レ之癒、緑有二怪物ー若る鬼、 其妖形変化、裸類殊細種或__為  狗_家  或為ー虫ー   蛇一其人不_自知  其形状   行ーー之於百姓一 所>中皆死、 風俗通日、 魯相右扶風減仲英為二侍御史一家人作>食設>案、欽有二不レ渚、  塵土一投汚>之、  炊臨砿熟不>知ーー釜処一 兵弩自行、 火従乙熙鹿中一起、 衣物焼尽而鹿故完、 婦女婢使悉__亡  其鏡    数日堂下郷ー庭中一 有二人声一言汝鏡、 孫女年三四歳亡>之、 求不>能>得、 二三日乃於ーー消中糞下  暗、 若>此非こ、 汝南有一盃許季山者一 素善 卦一 言家当云有一至老青狗物一 内中婉御者益喜与為ら之、  誠欲>絶、 殺五此狗遣一浜益喜帰二郷里皆如ーー其言{  因断無玲砿介此亦狗神之類也、 又有ーー猫鬼状頗相類、 隋椒日、 独孤施字黎邪、好  左道一其衷母先事一猫鬼一 因転入二其家ー 上微間而不二之信石也、 会一由獣皇后及楊索妻鄭氏倶有品疾、 召ー医者視>之、 皆曰此猫鬼疾也、 上以二施后之異母弟一施妻楊素之異母妹一由>是  意証匹所。為、 陰令ーー其兄穆以丘旧喩之、  上又避ーー左右  諷如咤  施言無云有、 上不>悦、  左ー一転遷州刺史    出如堂艮   上令一缶左僕射高類、 納言蘇威、 大理正皇甫孝緒、 大理丞楊遠等雑二治之一 施婢徐阿尼言本従二晦母家ー来、 常事二猫鬼一 毎以二子日_夜祀>之、 言鼠也、 其猫鬼毎殺レ人者、 所>死家財物潜移伝広畜一社猫鬼』念  陥嘗従二家_中  索>酒、 其妻曰、 無ーー銭可& 、 陸因謂  阿尼、 可下令ーニ猫鬼向二越公家ー使ふ我足  銭也、 阿尼便呪>之、 居数日、 猫鬼向ーー素家十一年、 上初従二井_州  還、施於二園中而型阿尼』曰、 可  令品一猫鬼向二皇后所一使阿多賜乙吾物い阿尼復呪ら之、 遂入孟面宮中一楊遠乃於二門下外省一 遣  阿尼呼二猫鬼於レ是夜中四ー至香粥一盆以>匙拍而呼>之日、 猫女可五来、 無社牙宮中一 久>之阿尼色正青、 若  被二牽曳五界  云猫鬼已至、 上以二其事示' 公輝    奇章公牛弘曰、 妖由レ人興、 殺二其_人  可ー以絶ー芙、  上令い以涵忠ヂ載中施夫妻い将>賜ーー死於其家一 施弟司勲侍中整詣>闘求レ哀、 於>是免二陥死一 除>名為レ民、以 其 妻楊氏  為>尼。」

(余、  つねに南海道諸州の人、 狗神のことを説くを問くに、 曰く、「奸倹の徒、  よくこれに虔事すれば、 すなわちその嫉怨するところ、 これに祟ること狐狸より盆なり。 あるいはも人の金銭、 衣服、 百物件を見て、 心これを愛すれば、 すなわちその人に付して祟 をなし、 その神伝えて子孫に至る。 自ら厭悪すといえども、 ついにこれをいかんともすることなし。  これをもっ て、 郷里あえてともに親しみをなさず、  近来におよんでその種ようやく絶ゆ。 しかも所在、  人あえてその故宅の地を侵さざる者あり。  けだし、犬繰の類のみ」案ずるに「捜神記    に日く、「郡陽の 逍 寿、  犬幾あり。  ときに陳苓、 寿に詣ずれば、 たちまち大黄犬あり。 六、 七群出でて本に吠ゆ。 後、 余相伯帰って寿の婦と食す。 血を吐いてほとんど死せんとす。すなわち、 拮梗 を屑としてもってこれに飲ましむれば癒ゆ。 緑、 怪物あり鬼のごとく、 その妖の形変化す。裸類種をことにし、 あるいは狗家となり、 あるいは虫 蛇となる。 その人自らその形状を知らず。 これを百姓に行ずれば、  あたるところみな死す」『風俗通  に曰く、「魯相右扶風滅 仲 英、  侍御史となる。  家人食を作り案を設く。 たちまち清らかならざる塵土ありて投じてこれを汚す。  炊熟するに臨んで釜のところを知らず。兵弩自ら行ず。 火、  医 施中より起こり、 衣物焼き尽くして範はもとのごとくまったし。 婦女、 婢使ことごとくその鏡を亡すること数 堂下庭中になげうてば人声ありいわく、「汝が鏡、 孫女三、 四歳にこれを亡して求むれどもうるあたわず。  二、  三日すなわち消中糞下においてなく    かくのごときこと一にあらず。 汝南に許季山なる者あり。 もとより卜卦をよくす。 いわく、『家にまさに老いたる宵狗なるものあるべし。内中婉御者益喜ともにこれをなす。 誠に絶たんと欲せば、  この狗を殺し益喜をして郷里に帰らしむべし」と。  みなその言のごとくす。 よって断じて繊介なし。 これまた狗神の類なり。 また猫鬼あり。状すこぶる相類す」「隋困」に曰く、「独狐、  施、  字 は黎邪、 左道を好む。  その衷母さきに猫鬼につかえ、 よっ て転じてその家に入る。

上、 かすかに聞きてこれを信ぜず。献呈后および楊索の妻鄭氏のともに 疾 あるに会す。 医者を召してこれを

みせしむ。 みな日く、「これ猫鬼の疾なり」上は施后の異母弟、陥の妻は楊索の異母妹なるをもっ て、 これに、よりて降のなすところを思い、  ひそかにその兄の穆をして情をもってこれをさとさしむ。  上、 また左右を避けて陥を諷す。 廂いわく、「あることなし』と。 上悦ばず。 遷州刺史に左転し怨言を出だす。 上、 左僕射高穎、納言蘇威、 大理正皇甫孝緒、大理丞楊遠等をしてこれを雑治せしむ。 施の婢徐阿尼いわく、「もと施の母の家りきたり、 つねに猫鬼につかえ、 つねに子の日の夜をもってこれを祀る    いわく、「子は鼠なり。 その猫鬼つねに人を殺せば、 死するところの家の財物、  ひそかに猫鬼をやしなうの家に移る。 施、  かつて家中に従って酒をもとむ』その妻曰く、「銭の酒をかうべきなしと。  陥、 よっ て阿尼にいって曰く、「猫鬼をして越公の家に向かわしめ、 われをして銭を足らしむべし」と。  阿尼、  すなわちこれを呪す。  おること数日、 猫鬼索家に向かい、  十一年、  上、 初めて井 州 よりかえる。  施、 園中において阿尼にいって曰く、「猫鬼をして皇后の所に向かい、 多くわれに物を賜しむべし    と。 阿尼またこれを呪す。  ついに宮中に入る。 楊遠すなわち門下外省において阿尼をして猫鬼を呼ばしむ。 ここにおいて、 夜中香 粥 一盆を個き、匙をもっ てたたいてこれを呼びて曰く、『猫女きたるべし、 宮中に住することなかれ。 これを久しくするに阿尼色まさに青く、 牽曳せらるる者のごとく、  いわく猫鬼すでに至る  と。 上、  そのことをもっ て公卿に下す。  奇章公中弘曰く、「妖は人によりて興る。  その人を殺せばもって絶つべしと。  上、  積車をもっ て降の夫妻を載せしめ、 まさに死をその家に賜らんとす。 随の弟、 司勲侍中 整闘に詣でて哀を求む。 ここにおいて陥の死を免じ、 名を除いて民となし、 その妻楊氏をもっ て尼となす」)

『嬉遊笑覧』(巻八)にいう、「犬神、  蛇神。「醍醐随筆」いわく、「四国あたりに、  犬神ということあり。  犬神をもちたる人、 だれにてもにくしとおもえば、  件の犬神たちまちつきて、 身心悩乱して病をうけ、 もしくは死するという。 いかなる道理と問えば、  まずその国の人、  犬神ということを常に聞きなれておそろしく思うゆえ、 外惑、 風邪、 山嵐、  概 気の病の熱はなはだしく、 身心くるしきときは、 例の犬神よと病人も病家も思うゆえに、  犬神のことのみ口ばしりののしるを、 さればこそとさわぎものして、 山伏ようの者、  数々むかえて祈ると聞こうれば、 あらぬことのみいいこしらえて、 させることなき病者も死する人多しと、  かの国にすみけるくすしのかたりけるは、 むべもありなんとおもう。 中国西国のあたりに、 蛇神をもちて人につけなやますとやらん、  また犬神とおなじかるべし』

「捜神記十二)、「栄賜_郡一有一家  姓摩、  累世為>盤、 以>此致る宮、 後取新婦示'元和ぞ此語>之、 遇一荼家人咸出一 唯此婦守>舎、 忽見屋中有大紅一 婦試発レ之見>有二大蛇一婦乃作>湯灌  殺之及一家人帰婦具白  其事{  挙家驚椀未レ幾、 其家疾疹、 死亡略尽。』

(栄陽郡一家あり。 姓は蓼、 累世盛をなし、 これをもっ て富をいたす。 後に新婦を取り、 これをもってこれにつげず。 家人ことごとく出ずるに遇う。 ただこの婦、 舎を守る。  たちまち屋中に大紅あるを見る。 婦、 試みにこれをあばけば大蛇あるを見る。 婦、 すなわち湯を作りこれを湘殺す。 家人焔るに及び、 婦、 つぶさにそのことをもうす。 挙家叫  即す。  いまだいくばくならざるに、  その家、 疾疼死亡してほぽ尽く)また呉震方「甜南雑記」(上巻)、

「潮州有二蛇穂    其像冠晃南面、 尊日ーー遊天大帝一 盆中皆蛇也、_欲一見>廟祝ー必致>辞而後出、 盤ーー旋鼎俎問一或倒懸二梁橡_上  或以二竹竿ー承>之、 婉艇糾結不砿抄人、 亦不ら    人、 長三尺許、 蒼翠可>愛、 聞此自玉協り而来、長年三老尤敬>之、 凡祀>神者蛇常浙二憩其家一 甚有珈回神借貸者ご(潮州に蛇神あり。  その像、 冠昆南面し、芍びて遊天大帝という。 盆中みな蛇なり。 廟を見て祝せんと欲せば、 必ず辞をいたしてのち出ず。 鼎俎の間に盤旋し、 あるいはさかしまに梁 橡の上にかかり、 あるいは竹竿をもっ てこれをうけ、  婉艇 糾 結して人を怖れず、 また人をささず。 長さ三尺ぱかり。  斉翠愛すべし。 問く、 これ梧州よりしてきたる。 長年三老もっともこれを敬す。 およそ神を祀れば、 蛇は常にその家に遊憩し、 はなはだしきはまま神の借貸なるものあり)

(今、 三峰の神に祈りて犬を借ることに似たり)」

『吾園随筆』(巻下)にいう、「四国之人、 往々発ーー一種狂疾一_謂一之狗祟一 西域聞見録曰、 回地有函  里之妖好棲二人屋手  為>祟、 中>之則発二狂疾    惑>男則女、 惑>女則男、 人形長四五寸、 病者見>之、 他人不二之見一也、狗祟_与一此_妖粗相類、  又与  尋常狐祟  相類也、 予嘗験>之、 其所涵憑者、 必在二婦女下賤一 蓋自>古而然、 応勁風俗通義日、  凡変怪、  皆婦女下賤、  何者小人愚而善畏、  欲>信二其説一 類復神増、 本人亦不二証察一 与倶悼憐、也。」

(四国の人、 往々一種の狂疾を発し、 これを狗 祟という。「西域聞見録    に曰く、「回地、  剪里の妖あり、 好みて人の屋宇にすみて祟をなす。 これにあたればすなわち狂疾を発す。 男を惑わすはすなわち女、 女を惑わすはすなわち男。  人のかたち長四、  五寸、  病者はこれを見るも、 他人はこれを見ざるなり。 狗祟はこの妖とほぼ相類す。  また尋常の 狐  祟 と相類するなり」予、 かつてこれを験す。その憑くるところの者は必ず婦女下賤にあり。  けだし、 いにしえよりしてしかり、 応 勁 の「風俗通義」に曰く、「およそ変怪はみな婦女下賤なり。 なんとなれば、 小人は愚にしてよくおそる。 その説を信にせんと欲せば、 類また神増す。 本人また証察せず。 ともに悼 証 す。 邪気、 虚をうくるがゆえに、  咎  証を速やかにすとこれなり」)

「霊獣雑記」(巻中)いわく、「「紬鑢訓」巻三右)いわく、「犬神という邪術あり。 この術を家に伝えたる者、 今も四国にあり。 土佐人の談にいわく、 犬神を使う者、 人の美食を見てわれも食わんことを欲すれば、たちまち犬神、 かの食する人に取りつき、  その食をわれに与えよとくちばしりて責る。  その食を犬神、  人の家に贈れば犬神はなれて正気になる。  食物に限らず、 衣服にてもなににても右のごとし。  ゆえに犬神、 人には他人交りを結ばず、 婚姻などもせず。 狐の牙を懐に入れ持ちたる人には犬神つかず。  犬神につかれたる人の家へ狐の牙を持ち行けば、  犬神たちまちはなれ去る。  四国には狐なし。 これにより、 他国より狐の牙を求めて置く人ありという。 また、 先祖犬神を使えば、 子孫に至るまでその家に犬神伝わりてはなれずという。

また、 蛇神(蛇神のこと「奇異雑談」これは蛇を蓑いて術を行うとぞ」」にあり)というも犬神に類したることにて、 その家富むといえり。 こまた左に、  犬神の事実につき報道を得たるものを掲ぐ。

わが阿波の国には従来犬神と称するものありて    一種の国産のごとく世人に伝えられしが、 元来、  犬神なるものは代々家に伝わり、 血統相続くものとして、 社交上、 按斥せらるることはなはだしく、 往々、  結婚の妨害となることあり。 ゆえに、 その家に生まれたるものは、 たといいまだ狂態をあらわさずといえども、  人すでにこれを犬神と称し、 ともに 歯 するを恥ず。 あに不幸といわざる ぺけんや。 思うに、 犬神は一種の精神病にして、  狐憑き、  狸憑き等とさらに異なるところなきがごとし。  ただ、 ここに注意す ぺきは、  犬神となりて狂態をあらわす者は大抵女子にして、 男子にありては千中わずかに一、 二人あるに過ぎず。  ゆえに、  犬神の血族中にても、  妻女はみな犬神と呼ばれて指斥せらるるにかかわらず、 男子はおおむねこの称を受けざることと、  犬神の人に忌まるるは主として食物に関せざるはなく、 したがっ てみな貧困者にして、 士族または宮裕の家に犬神ありしを聞かざることとの二事なり。  しかれども、  近来門閥を貨ぶ風ようやく去りしより、犬神もその跡を絶つに至れり。 予、  かつて維新の前、  立江村地蔵寺に寄寓せしことありしが、 寺に地蔵尊あり、  盟験ありと称す。  ゆえに、  犬神、  狐憑き者等のきたりてこれに祈るもの常に絶えず。  僧ために経を誦すれば、 犬神はしきりに舞踏し、あるいは狂言を吐き、 あるいは躍りて縁より飛び下り地に倒るることあれば、このときその人常態に復すという。  しかれども、  いくばくもなくしてまた狂態を演じ、 到底、 これをはらうことあたわざるもののごとし。 ただ、 ここに奇というべきは、 犬神が二間ばかり邸き縁より地に飛び下りて、少しも負街せざることこれなり。 また、 予がこの寺に寄寓中、  犬神の一老娼きたりて、 同じく寓せしが、  この 姻、 寺主を見ればたちまち 流悌号泣し、 寺主去ればようやく悌泣をやめ、 傍人をして背をおさしむ。  すなわち、 腹中鼓呪して精神旧に復するを常とす。  ただし、  寺主にあらざれば、 この姻をしてかくのごとき狂態をあらわさしむることあたわず。 あに奇にあらずや。(阿波国某氏報)

予は山口県萩に生まれ、 当時同県阿武郡某村の公立小学校校舎に寄宿する者なるが、 当村にきたりてはじめて犬神の話を聞き怪誇にたえず。 折もあらばこれを実験せんと心がけおりしかいありて、 明治二十年十二月四日のころ、当小学〔校〕に隣れる戸長役場の筆生某に犬神の憑きしを見たり。よっ て今その状を記さんに、元来某村というは山口県の北部に位し、  石見の境に接したる山間の僻邑にして、 戸数四百数十、 人口およそ二千、 ところどころに茅屋を構えてほとんど三方里の間に散居せり。 しかして、 その犬神に憑かれし者は村内某の嫡子にして、 すでに妻を有せり。  年齢は十七、  八歳なるべし。  やや気力ありといえども、 身体あまり壮健ならず。  さりとて、 また虚弱というほどにもあらず。  資性実直にして、 いやしくも奸邪ならず。 すこぶる資産ありて村内中等に位し、 やや上位を占め、 家農を業とすといえども、 当時役場の筆生をつとむるをもっ て、 自ら耕転に従事することなし。 教育は十分ならず、 わずかに高等小学生くらいの学力を有せり。 また、これに憑きし者は同じ村内にて、 憑かれし者の家を去ること七、  八町の所に住める某なり。この人は戸主にして妻および女子一名を有し、 年齢まさに四十前後なるべし。 性、 極めて正直にして、   やしくも人を欺かず。 万事退譲に失する傾きありて、 衆人の前にては大声にて言うことあたわざるほどなれども、 いったん酒気を帯ぶるに至れば、  言行大いに平日に反することあり。 資産もまた、 かの憑かれし者と相譲らず。 常に乗祀をとりて耕作に従事せしが、 その少しく箕鍬に通ぜるをもっ て、 かつて戸長役場の用 掛をつとめしことあり。  当時は土地調査のため、 地主総代として日々役場に出勤し、 被憑者とともに取り調べに従事せり。 もっとも、 憑者と被憑者ならびにその父との間は、 平素より相あわざりしという。 今、 被憑者が常態を失せし当日の状を聞くに、  その日の午後八時ごろ、 被憑者は平日のごとく役場にありて一酌を傾けし後、 なにものとも知れず名を呼ぶ者ありしをもって、 駆け出でしと同時に卒倒して前後不立となり、  それよりは全く常を失い、 憑者の言語、  動作をなし、 宛として第二の憑者なり。  ゆえに、  被憑者のかつて夢にも知らざりしことといえども、  憑者のかつて視聴し思惟せしことにしあれば明らかにこれを表白し、 かつて被憑者自己あるを知らざるもののごとし。  しかれども、 ここに奇というべきは被憑者の言動にして、  憑者はこれを見ざれば知るべきはずなきことをも、 憑者の言として明らかにこれを語ることこれなり。  例えば、  その夜被憑者が役場にありて一酌を傾けしことのごときは、 憑者のかつて知らざるところなるに、 憑者の言として、 某(被憑者自身を第三人称に呼ぶ)は牛肉にて酒をのめりと語るがごとし。  さて、 また憑者の語るところを聞くに、 当夜は所用ありて近隣に行き酒三、  四合を傾けて家に帰りしが、 はなはだしく頭痛して苦しめりとぞ。 そのほかには別に異状なかりしもののごとし。

かくて被憑者の一族は、  いかにもしてこれをはらわんと欲し、 同村に駐在せる巡査某の近来新たにきたりし者にして、 憑者、 被憑者ともに畏敬するところなるをもっ て、 彼にはかるにしかずとなし、  つぶさに状ぐ。 ここにおいて、  某は平服の上に外套を若け、 洋刀をおびて被憑者の家に至り、  少しくこれを詰責す。ときに被憑者は戦慄して自ら恥ずるもののごとく、 避けて戸側に至り、 双手をもって面を覆い、 さらに答うるところなし。 よっ て、 強いて旧席に復せしめ厳しく尋 糾 すれば、 遁辞を設けて免れんとす。 この際、 某たちまち剣を抜き、  大声一唱迫りてその背をうつ。 被憑者大いにおそれ、「帰ります」と疾呼して、  倒れたるまま眠れるもののごとし。  少時にして呼び覚ませば、  はじめて常態に復したれども、 身体ははなはだしく疲労し、 特に腰部に痛みを感ぜしという。  かかる怪事は萩地方にてはかつて聞かざりしところにて、 当阿武郡中にても石見の境に近づける僻諏ほどはなはだしき由。 また、  上の被憑者某につきてはここに一言付記すべきことあり。  そは他にあらず。  当村においては祭礼の際、  数人、 弓あるいは刀を持ちて舞踏するを例とす。 しかるに、  かくのごとくして乱舞するうち、 前後不覚となり衆人中に乱入するものあり。 他人もしこれを制せんとせば、 平素に倍したる符 力を出だしてこれに抗す。 俗にこれを神うつりと称す。 しかして、 被憑者はつねにこれに感じやすしとぞ。(山口県伊藤音三氏報)芸州高田郡某村金子善太郎(二十五年)というは、 ある人の媒介にて、 このほど石州邑智郡某村に荻農の聞こえ高き何某の娘、 年は十九にして綴 致十人並みにすぐれ、 衣装、 道具はさらなり。持参金さえたくさんあるを、  宿の妻にもらい受けぬ。  しかるに、 親族のだれかれ、 これを聞きて、  そはあまりうま過ぎる相談なり、 なんでも先方にいわくのありそうなことと、  内々に嫁の素性を聞き合わせけるに、 果たして聞くも恐ろしき犬神の血筋なりとのことに驚きて、 これを善太郎の親、 友右衛門に告げしに、 友右衛門は一向平気にて、

「ソレは、 いまさら改めてお前さん方がぎょうぎょうしく習わずもとうに承知だ。 しかし、  今の文明開化の世に犬神の血筋などと、  そのような開けぬことをいうでもない」と、  一も二もなくはねのけられたるより、親族らは大いに立腹し、  犬神と縁者になりたる友右衛門の家とは以来親類の縁を切ると、 いずれもたもとを払っ て引き去りたるより、友右衛門も躍起となり、「貨様らのような貧乏人と親類となっ ていてはかえっ てこっちの迷惑ゆえ、  先方より縁を切られたるこそ結句、 大しあわせ」とののしり返せり。 この評判たちまち近所、 近辺に知れ渡り、  さては犬神の花嫁かといずれも臆病風を起こし、  中には転宅したるものもありしが、友右衛門の甥河野登八は口を極めて右の嫁をののしりたるより、 ついに犬神に取り付かれ、 また医師高橋隆伯の次女桃代も取り付かるるなど、  すべて悪口したり噂評判したるものは、 いずれも続々と犬神に取り付かれて、 あられもなきことを口走りおる由。(「読売新聞以上の諸例によりて明らかなるがごとく、  犬神はある一家の血統を追っ て、 代々犬神の家として知らるるものあり。  かくのごとき家は全く他より婚姻を絶たれ、 社会の交際上より撰斥せらるる風あり。 近年はその感情大いに減じたれども、 やはり従来の習慣により、 結婚等はなるぺ<避けんとする風あり。  犬神地方の一般に唱うるところによれば、  ここに一人の犬神血統に屈する者ありて、 他人の所有せる物品を所望し、 これを得ざるとき、 あるいはこれを得んと欲する念慮あるときは、  犬神はその所有者に乗りうつりて犬神病者たらしむ。  土佐にては、これを犬神に食い付かれたりと称す。かかる場合には、 該患者は自らたれがしの犬神に食い付かれたりと公言し、その近傍の人々も一般にしかく信憑せり。 また、 あるいは犬神血統の者に所望せらるるときは、 食物のごときはただちに腐敗すといい、  種々奇怪の談を伝うれども、  これ、 もとより下等愚民社会の言なれば、  いちいち信じ難し。

今、  これを物理的説明によりて考うるときは、 もとよりかくのごときことある ぺき道理なく、 ただこれを精神病とみなすよりほかなし。 すなわち、  犬神病は狐憑き病、 腐憑き病とみな同一にして、 ただ風土の異なるに従ってその名称を異にせるのみ。 出雲の人狐(狐持ち)、 隠岐の蛇持ち等もみな犬神と同一種なり。 しかして、 ある家に犬神の系統ありというがごときは、 昔時、  ある偶然の出来事より起こりしことなるべきも、 今その原因をつまびらかにし難し。  頚来は一村中にて憎悪せらるる者あるときは、  これを言い触らして犬神の家と唱え、  代々世間より交際を謝絶せらるるごときに至りしものなり。  出雲地方の談話を聞くに、 もし金銭を貯蓄して人に施すことをなさず、やや吝 裔 の風あるときは、近辺のもの、これを目して人狐の家と称し撰斥する風ありという。けだし、犬神の家におけるもまた同じく、  かくのごとき感情より生ぜしものあらん。

つぎに、 これを心理的説明によりて考うるときは、 その精神作用によること明らかなり。 すなわち、  犬神に食い付かれたりと称するものは全く    つの精神病者にして、 その原因は古来、  犬神の憑付して病患を起こすものと信ずるよりきたりしなり。  その徴候は竜も精神病と異なるところなく、 また、  その身体上に一種の妄覚を生ずるがごときは、  狐憑き病等と別に異なるところを見ず。  その精神の状態においても、 他の精神病と同一なり。 しかして、  患者の自ら犬神に食い付かれたりと称するは、 古来同地方に伝われる口碑にその原因を帰するによれり。その他、 道に犬神の者に逢っ て、  その者に所望せらるるときは、 自ら所持せる食物のことごとく腐敗すというがごときは、  はなはだ疑わしきことにして、 これらも必ず他にその原因あるならんと信ずれども、 予自ら経験したることあらざれば、 今にわかに断言し難し。 要するに、  犬神病の精神作用より起これる証拠は、 第一に、  人知の程度低き人にのみこれを発して、 高等上流の人にはこの病にかかることなきにあり。 ゆえに、 土佐にては犬神病は士族に限りて存せず、 平民の間に見るところなりと一般に唱うるなり。 これ、 士族は多少の学識を有し知力のまされるものあるによれり。 また、 予が先年阿波国に至りしとき聞くところによれば、 池田地方はもっ とも犬神の多き地方なりと称す。 しかして、 往年はすこぶるあまたの犬神病を発するものありしも、 年々減少して、 当小学教育を受けしものは、  かつてこれにかからざるに至りしという。 これ畢 党、 教育の進みたる結果なりとす。

その他、 同病は男子に比すれば一般に女子に多し。 これ、  女子は男子よりは概して知力低く精神弱くして、 狐憑き等の精神諸病に感じやすきによれるものなり。これによりてみれば、 犬神病の粕神作用に基づくものなること、決して疑うべからざるなり。



第三九節 天狗憑き、 神憑り、  魔憑き


わが国にて、  狐狸の怪談に次ぎてもっ とも有名なるは天狗の怪談なり。  今その説明を与えるにさきだち、 これに関する諸種の怪談を、  古今の書籍ならびに地方の報道より抜粋して左に掲げん。 しかして、 天狗そのもののなんたるかに関しては、「理学部門」において諸書に見ゆる異説を挙示したれば、 ただここには、「秋苑日 渉 』等、一、  二の書に出でたるもののみを掲ぐべし。

「秋苑日渉」二)にいう、「凡物名二天狗一者、 不ニー而足云、 史記天官也、 天狗状如ーー大奔星玉声、 其下止袖地類如狗、 所>堕及望>之如二火光、 炎炎衝>天、(南斉書天文志曰、 永元三年、 夜天開、 黄色明照、 須哭有>物、 絲色如  小甕{  漸漸大_如一倉腐    声隆隆如和田、__墜  太湖中{   野雉皆帷、  世人呼為 禾 殊ー史臣案春秋緯、 天狗如 天 奔星一 有>声、 望>之如>火、 見則四方相射、 漢史云、 西北有二三大星一如一石日状一 名曰 』^ 狗一天狗出則人相食、 天官云、 天狗状如ー}大鏡星一 又云、 如ユ+大流星一 色黄有レ声、 其止祉地類>狗、 所  墜望>之如一火_ 光    炎炎衝>天、 其上鋭、 其下円、 如ーー数頃田一 見則流血千里、 破>軍殺如将、 漢史又云、 昭明下為二天狗所>下兵起血流、 昭明星也、 洛書云、 昭明見而覇者出、  運斗枢云、 昭明有 角一兵徴也、 河図云、 太白散為ーー天狗    漢史又云、 有>星出、 其状赤白有レ光、 即為一』天狗一 其下小無も足、 所斥下国易>政、 衆説不>同、  未>詳ーー執是一 推乱亡之運一 此其必天狗乎、 述異記曰、 康煕壬子四月廿二日黎明、 銭塘西北郷、 有  孫姓者一 門尚未>啓、 隣人夙起、  見二孫屋脊上一 有二 _物  似>狗、 而人立、 頭鋭峰、 上半身赤色、 腰以下青如乙止、 尾如>箸、 長数尺、 驚呼>孫告>之、 甫開>門、 其物騰コ上雲'際一 忽声発如二欝震一委蛇屈曲、 向ーー西_南  而去也、 上火光逍烈、 如ーー籍之掃年ハ移正時乃息、  数十里内皆問石丘釜い  亦有如仰見石盆少者か所如謂天狗堕>地声如如雷也、 甲寅有二逆藩之乱  又星経、 竜尾九星之二四 天狗一是星而名』^ 狗一也、 酉陽雑俎、 竜王身光、 曰ーー憂流迦一此言二天狗一是竜而名天狗一也、 山海経、 陰山有>獣焉、 其状如袖狸而白首、 名日己^狗    其音如函関喪  可二以禦>凶、 杜甫天狗賦、 色似函異 小四  猿茨    王鼎焚椒録、 箆徳皇后母、 耶律氏、 夢月墜レ懐、 已復東升、 光輝照爛、 不缶可ーー仰視一 漸升ーー中天一 忽為二天狗翫ば食、 驚疱、 而后生、 江若海麟書、 天狗電落、 註天狗所>降以戒乙呑守禦其光如>電、 楓文韻府引_   秦記、 白鹿原上有盆枷狗枷堡一 秦襄公時、 有二天狗一来下ーー其上一有>賊天狗吠而護>之、 故一堡無二憚心    李呆食物本草日、 山狗猥、 形_如一家狗ー脚微短、 好ーー鮮食果食一皮可>為>衷、 有ーー数種    在処有>之、 蜀中出者名ーー天狗是皆獣而名ー天狗一也、 爾雅日、 嶋天狗、 註、 小鳥也、  青似函苓が魚、 江東呼為二水狗是禽而名手^ 狗  也、 天中記曰、 天狗人参也、 是草而名ーー天狗一也、 物理小識曰、 落星為>石、 象ーー狗首一便曰二天狗    是石而名二天狗ふ、 伊世珍瑯環記日、 君子国有二鳳皇嶺出二天狗一名胎窟女仙、 与一族雪道君ー各以 云元戸錬成正  薬以相餓遺、 是仙而名二天狗石)、我邦一種有下名二天狗ー者世所>伝僧人化為二天狗玉者、 往往有焉、猶二道家所>謂白日飛昇之説一 此或似二瑯環記所ゎ載、 而其類非>一、  今指二菱態懸之類、 変幻無>常者一 築称一}天狗一要不白可>窮ーニ諾其為ー何物一 如一松俗間所二図写    妄誕無稽、 固無ちザ取者一 物祖練天狗説、 服子遷高雄山移文、頗説二其情状一 大抵婦女及汚祓者犯二其棲一 則寸二裂支体一投二林堅一 或興ーー風雨 ー面瓦礫一 或掠益裟紐漢痰童一而去、 三五日或句月而返、 失心如ュー木偶術士遂矯二飾怪妄之説盆戸其術玉者、 亦不>為>不>多、 今金峰高野湯殿白山比叡鞍馬諸山、 称為>多二此怪一比叡山僧某常語>余日、 需者見=一仏殿上有ー己巨人跡    大二三尺許、 皆右脚之痕耳、 山菱一足之説、 蓋足レ徴芙、 按魯語曰、 木石之怪曰>菱、 説文曰、 姜神魃也、 如>竜一足、 レ交、 象>有  角手人面之形一 正字通日、 抱朴子曰、  山之精、 状如二小児一 名ら鮫、  一名超空、 白沢固曰、 山之精名>菱、如函鼓一足能行、 可>使>取  虎狼豹一 五色線曰、 南康記、  山間有ーー木客一 形骸皆人也、 但鳥爪耳、  巣二於商樹一伐>樹必害>人、 一名山肖、 抱朴子曰、  山精形加。一小児一 独足向レ後、 夜喜犯>人、 名曰ン魁、 呼二其名ー則不>能>犯也、 荊楚歳時記曰、 按神異経云、 西方山中有>人燕、 其長尺余、 一足、 性不"畏ど人、 犯ら之則令一人寒熱一 名_曰一山臆    以>竹著灰  中    琳爛有加、 而山腺驚憚、 玄黄経所>謂山棟鬼也、  太平広記曰、 章仇兼疫鎖>蜀日、仏寺設ー大会一 百戯在>庭、 有二十歳童児血ぞ竿抄{  忽有>物状如面由鴨{  掠>之而去、 群衆大該、 因而罷レ楽、 後数日其父母見午竺高塔之上一 梯而取レ之、 則神彩如涵擬久>之、  方語云、  見伝空壁画飛天夜叉辛口上将入二塔中 日飼  果実一 飲餓之味、  亦不>__知  其所届自、 旬日方精神如>初、 碑芙直轡 魏郡張承吉息元慶、  年十二、 元嘉中、見二  鬼    長三尺、 一足而鳥爪、 背有二麟甲一 来招二元慶一 洸惚如>狂、 滸走非>所、 父母撻乙之、 俄聞、 空中云、是我所>教、 幸勿  与>罰、出厄面戸部尚書窟虚心有子一皆不>成而死、 子毎>将亡、則有ー大面込ザ林下一賦>目開已口、 貌如二神鬼一子燿而走、 大面則化為  大鴎一以>翅遮擁、_令ー自投二子井一家人覚遠出>之已愚、 猶能言其所>見、 数日而死、 如>是三子皆然、 党不乙知二何鬼怪一 河東袈鏡微曾一武人其居相近、 武人夜還社荘、 操二弓矢一方馳>騎、 後聞ーー有>物近一焉、 顧而見>之、 状大有>類  方相一 口但称>渇、 将>及一面武人一 武人引>弓射中レ之、怪乃止、 頃又来近、 又射>之、 怪復往、 斯須又至、 武人逮至>家、 門已閉、 武人鍮>垣而入、 入後自台戸窺>之怪猶在、 武人不蔽  取ら馬、 明早啓西門、 馬鞍棄在>門、 馬則無突、 匹_饗   今国人称為二天_狗  者大率此類耳。」

(およそ物、 天狗と名付くるもの、  一にして足らず。「史記」天官書に、「天狗は状大奔星のごとくにして声あり。その下なるものは地にとどまりて狗に類す。  おつるところ及んでこれを望めば、 火光のごとく炎々として天をつく」(「南斉布  天文志に曰く、「永元三年、 夜天開く、 黄色明らかに照らす。 須央にして物あり。 黄色 小甕のごとく、 ようよう大にして倉凜のごとく、  声、 隆々として雷のごとく、  太湖中におち、 野雉みななく。世人呼びて木殊となす」史臣案ずるに、「春秋緯火のごとく、  見ればすなわち四方相射る」「澳史に、「天狗は大奔星のごとくにして声あり。  これを望めばにいわく、「西北に三大星あり。 日のかたちのごとく、 名付けて天狗という。 天狗出ずればすなわち人、 相食む」「天官」にいわく、「天狗、 かたち大鏡星のごとし」また曰く、「大流星のごとく、 色黄にして声あり。 その地にとどまるは狗に類す。 おつるところこれを望めば火光のごとく、 炎々として天をつく。  その上は鋭く、 その下はまるく、 数頃の田のごとく、 あらわるればすなわち流血千里、 軍を破り将を殺す」「漢史」またいわく、「昭明下っ て天狗となる。 下るところ兵起こり血流る。 昭明は星なり」『洛魯    にいわく、「昭明あらわれて覇者出ず」「運斗枢」にいわく、「昭明芭角あるは兵の徴なり」「河固にいわく、「太白散じて天狗となる」「漢史』にまたいわく、「星あり、 出ずればその状赤白にして光あり。  すなわち天狗となる。  その下、 小は足なく、 下るところの国政を易ゆ。  衆説同じからず。いまだ、  いずれが是なるかつまびらかにせず。 乱亡の運を推すに、 これ、 それ必ず天狗か」「述異記」にいわく、「康煕  壬  子四月二十二日黎明、 銭塘の西北郷、 孫姓なる者あり。 門なおいまだひらかず。 隣人つとに起き、 孫の屋背の上に見るに、  一物ありて狗に似たり。  しかして、  人のごとくに立つ。 頭喚鋭く、  上半身は赤色、 腰以下は青くして綻のごとく、 尾はほうきのごとく、 長さ数尺、 驚いて孫を呼びてこれに告ぐ。  はじめて門を開けば、 その物雲際に騰上す。  たちまち声発して腐歴のごとく、 委蛇屈曲して西南に向かっ て去るなり。 上るや火光近烈、 ほうきの天をはらうがごとく、時を移してすなわちゃ む。 数十里内みなその声を聞く。また仰ぎてその光を見る者あり。  いわゆる、 天狗地におちて声雷のごとし。  甲 寅逆藩の乱あり」)また『星経」   に、「竜尾は九星のーつにて天狗なるものあり。 これ星にして天狗と名付くるなり」「酉陽雑俎   に、「竜王の身光、 製流迦という。 ここに天狗という。  これ竜にして天狗と名付くるなり」『山海 経 』に、「陰山に獣あり。  その状、  狸のごとくにして白首、 名付けて天狗という。  その音、   梱  梱 のごとく、  もっ て凶をふせぐべし」杜甫の「天狗賦」に、「色は浚祝に似て、 小なることは猿釈のごとしと。  王鼎の「焚 椒 録に、「諮徳皇后の母耶律氏、  夢に月懐におち、 すでにしてまた束に昇り、 光輝照爛仰視すべからず。 ようやくにして中天に昇り、 たちまち天狗のために食わると、  驚きさめてのち生まる」注 若 海「麟行』に、「天狗、  電落とす」と。 注に、「天狗の降るところもっ て守熙を戒む。  その光、 電のごとし」『侃文韻府』に「三秦記」を引きて曰く、「白鹿原上狗枷堡あり。 秦襄公のとき天狗あり、 きたりてその上に下る。 賊あり、 天狗ほえてこれをまもる。  ゆえに一堡憫心なし」李果の『食物本草」に日く、「山狗猜、 形、 家狗のごとく、  脚、 微短にして、鮮食、 果食を好む。 皮は   装   をつくるべし。  数種あり。  在所これあり。   蜀中に出ずる者を天狗と名付く。これ、  みな獣にして天狗と名付くるなり」「爾雅」に曰く、「 嶋 天狗、 注に小鳥なり。 青きこと翠に似て魚を食らう。 江東呼びて水狗となす。  これ禽にして天狗と名付くるなり」『天中記』に曰く、「天狗は人参なり。これ草にして天狗と名付くるなり」『物理小識』に日く、「落星、 石となり狗首ににたり。 すなわち天狗という。  これ石にして天狗と名付くるなり」伊世珍「瑯頻記」に曰く、「君子国に鳳皇刷あり、 天狗を出だす。名は胎眉女仙、 族雪道君とおのおの玉脅をもっ て錬りて上薬となし、 もって相餓逍す。  これ仙にして天狗と名付くるなり」わが国、 一種の天狗と名付くるものあり。  世の伝うるところ、 僧人化して天狗となる者往々あり。 なお道家のいわゆる白日飛 昇の説のごとし。 これ、 あるいは「瑯漿記」にのするところに似たり。  しかして、 その類    つにあらず。 今、 菱懇 魁 の類、 変幻常なきものを指して、 おおむね天狗と称するも、 要するに、  そのなにものたるを窮詰すべからず。 俗間の図写するところのごとき、 妄誕、  無稽、  もとより取るに足るものなし。 物祖練天狗説、 服子遷高雄山移文、 すこぶるその情状を説く。 大抵婦女および汚檄者、 その棲を犯せば、 すなわち支体を寸裂して林堅に投じ、 あるいは風雨をおこして瓦礫をなげうち、 あるいは ほ 漢痴童を掠接して去る。 三五日あるいは旬月にして返し、  失心木偶のごとく、 術士ついに怪妄の説を 矯  飾して、 もってその術をうる者もまた多からずとなさず。  今、  金峰、 高野、 湯殿、 白山、 比叡、 鞍馬の諸山、 称してこの怪多しとなす。 比叡山の僧某、 かつて余に語っ て日く、「さきに仏殿上に巨人の跡あるを見る。 大きさ二、  三尺ばかり、  みな右脚の跡のみ。  山愛の一足の説、 けだし徴するにたる」案ずるに「魯語に曰く、「木石の怪を麦という」「説文    に曰く、「菱は神紐なり。  竜のごとく一足。 父に従うは、 角手人面の形あるにかたどる」「正字通   に曰く、『抱朴子」に曰く、「山の精、 状、 小児のごとくなるを蚊と名付く。  一名、  超空」「白沢図」に日く、「山の精を菱と名付く。  鼓のごとく、  一足にしてよく行く、 虎、  狼、 豹を取らしむべし」「配 釦く即」に曰く、「「南康記    に、 山間に和如あり。 形骸はみな人なり。  ただ焦爪のみ高樹に巣くう。樹をきれば、 必ず人を害す。  一名、  山肖」『抱朴子」に日く、「山の粕は、 形、 小児のごとく、 独足にして後に向かう。  夜、  喜んで人を犯す。 名付けて魃 という。  その名を呼べば、  すなわち犯すことあたわざるなり」

「荊楚歳時記」に日く、「案ずるに「神異経   にいわく、 西方の山中に人あり。  その長さ尺余、  一足なり。  性、人をおそれず。  これを犯せばすなわち人をして寒熱せしむ。 名付けて山腺という。  竹をもって火中につく。料熾声あり。  しかして山躁驚 憚す」「玄黄経」に、「いわゆる山棟鬼なり」『太平広記」に曰く、「 章  仇 兼覆、蜀を鎮する日、 仏寺大会を設く。 百戯、 庭にあり、 十歳の厳児あり。  竿 抄を舞わす。  たちまち物あり。 状、鴎  咀のごとく、 これをかすめて去る。 群衆大いに驚き、 よっ て舞をやむ。 のち数日、 その父母高塔の上にあるを見る。 梯してこれを取れば、 すなわち神彩痴のごとく、 これを久しくす。  まさに語っ ていわく、  壁画の飛天、  夜叉のごときものを見る。  ひきいて塔中に入る。  日に果実を飼い、 飲隈の味、 またそのいずるところを知らず。  句日にして、 まさに精神はじめのごとし」(「尚書古実」に出ず)。 魏郡 張  承 吉の息、 元慶、 年十二、 元嘉中、  一鬼を見る。 長さ三尺、  一足にして鳥爪、 背に鱗甲あり。 きたりて元慶を招く。  洸惚として狂するがごとく、 遊走ところにあらず。 父母これをうてば、 にわかに聞く。 空中にいわく、「これわが教うるところ幸いに罰を与うるなかれ」と(「異苑    に出ず)。 戸部尚書怠虚心、 三子あり。  みな成せずして死す。  子のまさに亡せんとするごとに、 すなわち大面ありて林下に出でて、 目をいからし口を開き、 かたち神鬼のごとく、  子おそれて走れば、 大面すなわち化して大曲となり、  つばさをもって遮擁し、 自ら井に投ぜしむ。  家人覚りてにわかにこれを出だすもすでに愚、 なおよくその見るところをいう。  数日にして死す。  かくのごとくにして三子みなしかり。 ついになんの鬼怪たることを知らず。 河東の斐 鏡 微、 かつて一武人とその居相近し。 武人、 夜荘にかえれば、 弓矢を操りまさに騎を馳す。 のち物ありて近づくを聞く。 顧みてこれを見れば、状、大方相に類するあり、 口にただ渇と称す。 まさに武人に及ばんとす。 武人、弓を引きて射てこれにあつ。怪すなわちゃ む。 このごろまたきたり近づく。 またこれを射る。 怪またゆく。 かくしばらくにしてまた至る。武人にわかに家に至れば、 門すでに閉ず。  武人、 垣をこえて入り、 入りてのち戸よりこれをうかがえば、 怪なおあり。 武人あえて馬を取らず、 明早門をひらけば、 馬鞍すてて門にあるも、 馬はすなわちなし(並びに「紀聞」に出ず)。  今、  国人の称して天狗となすもの、  おおむねこの類のみ)

「茉 燭 或問珍』にいわく、「或問いわく、「高山 峻 嶺には天狗というものありて業をなす。  人のいい伝うるをきけば、 状は人にして、 鳥のつばさありて、  人の不善をなすときはたちまちつかみ裂くといえり。 多くは横川、 愛宕、 鞍馬の僧正が谷にすむとなり。 源義経の兵法の奥儀も大僧正天狗に得られしといえば、 まさしくおそろしきことなり。  いかなるものぞや」こたえて曰く、「天狗のこと、  いかなるものともきわめがたし。「本草綱目」に天狗と異名するものあれども、 今いう天狗にあらず。   猜  のことなり。 韓文の沖 州 乱の詩に、「天狗堕>地声如>霞」(天狗地に堕ちて声鉗のごとし)とあり。  その注に、「天狗、 形犬のごとし、  地にとどまりて狗に類せり』といえり。 また「山海 経 』には、「天門山に赤犬あり天狗と名付く。 その光天に飛び流れて星となり、 長さ数十丈、 その疾きこと風のごとし。  その声、  雷のごとく、 その光、 電のごとし、(「万雑俎」の説これと同じ)。  また同じく「山海経    に、「陰山に獣あり。 その状狸のごとし。  名付けて天狗とあり(これ「本草綱目』に引く猫の異名か)。  そのほか『史記」天官書、『漢密』天文志、『太平御覧』『三才図会』にいうところの天狗というもの、  日本にいい伝うる人面烏獣のことにあらず。 ここに干宝「捜神記」に、「治烏というものあり。 越の地に多し。 陰山にすんで樹をうがち巣を作る。  口の大きさ数寸。

木をきる者、 見るときは避けて見えず。 過ってもこれを犯せば家を焼く。 形、 烏のごとし    とあり。  この治烏、 日本の天狗のことか、 決定せんも拠るなし。  畢 党、 天狗は深山の魁魅の類にして、 形定まるべからず。陰気の積み集まる所より生じたるものなり。  ゆえに、  人の多く集まりたる陽気盛んの所に、  かつて天狗というものなし。(中略)海中に人魚あり、 陸に勘鵡ありて、 よく人の語をなす。 天狗の人に似たること、 あやしきにもあらず。 また、  山伏の姿なりというは、 天狗の住む山というは、  おおかた修験僧の住む所なれば、  それによりて太郎坊、  次郎坊の名をわきより名付けたるべし。 義経、 兵法を大天狗に得しということあるべらず。 張良が坦 上の老人に害を得しという類にて、 兵法一つの謀計なり。 また、 天狗に僧正号をばいつの御代にか許されけん。  笑う ぺし。  鞍馬の僧花谷、 稲荷山の僧正峰というは天狗の名にあらず。 壱演僧正慈済の法を行いたまいける所なりと「其言伝」に載せたり」左に、 天狗の怪談の他害に出ずるものを挙示すべし。「怪談登志男』(巻一)にいう、「木賊刈そのはら山をたずねて月見にまかりしころ、  かの地の人のはなしけるは、 当国横陽山に温泉寺という禅刹あり。 越後の雲洞庵の末寺にて、  曹洞宗なり。 このあたりの田舎人の七不思議と称するも、  この寺の怪談を語り伝うるなり。 そもそも開山昂巴和尚のとき、  一人の山伏きたりて和尚に参じ、  朝夕傍らをはなれず給仕しける。 和尚熟視て凡者ならずと心を付けられしが、  あるとき山伏を呼び寄せ問いていう、『汝、 このつばさをもって海砂の投をしのぎ、 天にあがりて鱗を生じ、 闇に空破するやなきや』と。  山伏起きてたちまちつばさを生じ、 鼻閾くおそろしき姿ながら、 和尚を礼拝し、「われに一則を与えたまえ。 報恩に御寺を後世までまもり奉らん    と、 身を大地に投じ、 頭をたたいて請いければ、 和尚すなわち一語をさずく。 天狗再拝して去る。  これよりこのかた今に至りて、 住職およそ二十代の余におよぶ。しかるに代々の和尚遷化のとき、  いまだ近寺僧の知らぬうちに、  門前の橋の下谷川の流れに、  歴代の石碑必ずきたる。  その石の形、 石エの上手の日夜巧みに彫りたるより、  なおすぐれてみごとなる自然石にて、 世にいうところの無縫塔なり。  歴代の住持の石塔、  みなこれ流れきたる自然石を用う。 また、 この寺にて門戸をとざすことなし。  盗人きたりても出ずるところの道にまよい、  盗み得たる寺の財宝〔みな〕返しぬれば去る。さもなければ、  いつまでものがれ出ずる道を得ず。  今に至りても、 あやまっ ても忍びうかがうものなし。 このゆえに、 寺中までも門戸を固めることなし。 また寺中に、 ちり 芥あることなし。 今、 捨つる塵芥しばらくありて見るに、  奇麗に掃除する者ありてその人を見ず。 今に及んでかわらず。 また、 書院のむこうに築山、泉水の風景はなはだよし。 自然の木石、  人意を仮らず己がままにそびえ、 本来の面目、 誠に禅刹相応なり。後ろの山の根に方三尺の丸き穴あり。  この中より風雲を吐き出だす。 穴の浅深だれ試みたるものなし。  奥ふかく虫獣の住むこともなく、  風の出ずるばかりなり。 年中昼夜かくのごとし。 夏は食物をこの穴のそばに置けば、 日を経ても味を損ぜず、 冬はかえっ て  揺  にして燐火のごとし。  門外に小橋あり。 この橋の辺りまできたる者、 寺門内外を不論。 遍参の僧、 客来までも、 住持の耳に足音を聞き知ること、 そばにありて見るがごとし。 夜中なおかくのごとし。 かかることある寺院なれば、 通途の沙門、 住持すること一日片時もならず。

まして今時の貪欲、 邪知の鉦法師は山内に入ることもあたわず。 しかれども、 この異霊ありとてあえてほこらず。 祖翁一片の閑田地、  ひとり児孫に嘱して種を植えしむ。 いと殊勝なる禅林なり」「兎園小説  にいう、「文化七年 庚午の七月二十日の夜、  浅草南馬道竹門のほとりへ、 天上より二十五、 六歳の男、 下帯もせず赤裸にておりきたりてたたずみいたり。 町内のわかきもの、  銭湯よりかえるさ、 これを見ていた<驚き、 立ち去らんとせしほどに、 かのおりたる男はそのままそこへ倒れけり。 かくて件 のありさまを町役人等に告げしらせしかば、  みないそがわしくきたりて見るに、  そのものは死せるがごとし。  やがて番屋へかつぎ入れて介抱しつつ、 くすしをまねきて見せけるに、 脈は異なることもあらねど、  いたくつかれたりと見ゆるに、 しばらくやすらわせおくこそよからめといえば、  みなうちまもりておるほどに、 しばしありて件の男はさめて、 こうべをもたげにければ、  人みなかたえにうちつどいて、 ことのようをたずぬるに、答えていわく、『それがしは京都油小路二条上ル町にて、 安井御門跡の家来伊藤内膳が悴 に、  安次郎というものなり。 まず、  ここはいずくぞ」と問う。「ここは江戸にて浅草というところぞと答うるに、 うち驚きてしきりに涙を流しけり。 かくてなお、 つぶさにたずぬるに、「当月十八日の朝四つ時ころ、 嘉右衛門というものと同じく、 家僕庄兵衛というものをぐして愛宕山へ参詣しけるに、 いた<暑き日なりければ、  きぬを脱ぎて涼みたり。  そのときのきるものは花色染めの四つ花菱の紋つけたる帷子に、  黒き組の羽織、  大小の刀を帯びたりき。 しかるに、 そのとき一人の老僧わがほとりへいできたりて、「おもしろきもの見せんに、 とく来よかし」といわれしかば、 従いゆきぬとおぼえしのみ。  その後のことをしらず」という。  いともあやしきことなれば、  そのもののはきたる足袋〔を、 あたり近き足袋あき人等に見せて、 こは京の足袋なりやとたずねよ、京都〕の仕入れにたがいなしといえり。 その足袋にすこしの泥土のつかでありけるも、 また、 いぶかしきことなりき。「江戸にてはかかることあれば官府へ訴え奉るが町法なれば、 なんと御沙汰あるべきか、 そのこともはかりがたし。 江戸に知音のものなどのありもやする』とたずねしに、「しる人とては絶えてなし。 ともかくも掟のまにまにはからいたまわれ』というにより、 町役人ら談合して、 身の皮をこしらえつかわし、 官府へ訴えもうししかば、 当時御吟味のうち、 浅草溜りへ御預けになりしとぞ。  その後のことをしらず。 いかがな言のととりりけんかし。(文政 乙酉冬十月朔、  文宝堂しるす)」

また、  地方より報道せられたる事実を左に収録す ぺし。

(群馬県高崎町堤辰二氏報)  往年、 松平大和守典則の臣に皆川一郎平といえる人ありしが、 元来厭 弱、 俗にいわゆる前 症 にして、 ほとんど二年間は手足の自由を失いしことさえありき。  しかるに、 安政五年(ときに年三十七、  八歳)三月二十六日、 何国ともなくその跡を隠せしをもって、 一家の 驚 愕一方ならず。  すなわち、  人を四方に出だして百方捜索すれども影だに見えず。  かくするうちに十四、 五日を経て、 その親族なる渡辺洛平の家の玄関に、 あやしき物音せるはなにものならんと立ち出でて見しに、  かつて家出せし一郎平が睡眠してありしに驚き、  手を尽くして介抱せしが、  三、  四日間は全く正気なく昏睡し、  その後ようやく平気に復せり。  今、 その当人が物語なりとて記載せるものを見るに、 実に左のごとし。

三月二十五日の夜、 年齢五十ばかりにて総髪の男、  鼠 色の衣服、 脚絆、 草桂のままにて参り、 起き出でて  候  よう申し候につき、縁先まで出でて候こと党えおり 候 えども、その後一向になにごとも相覚え申さず候ところ、 伊豆国水戸浜とか申すところへ参り、 猟師町を多く通り海辺へ出でて候ところ、 ここに大きなる魚を調え引き裂き候いて、連れの男とともに食べ申し候。 それより海岸大岩の上を長く通り、翡山へ登り眼下に大海を見下ろし、ときに旭日出でて候を拝み候いて山を下り、しばらく田舎道を通り、それより吉田の渡しとか唱え候舟渡しを渡り、 連れの者、 舟買両人分払い、 それよりなんと申す所か一向に存じ申さざる所を数里参り、 沼津の御城下大手先へ出でて、 そのとき連れの者申し候には、「城中よりあのごとく不浄の気立ちのぼり候。  これは城主二十六歳になられ候ところ、 このたび卒去にて、 いまだ発には相成らざる義と存じ候趣申し候由。 それより原、 吉原辺りへ参り、 またまた後へ戻り沼津宿外れ松並木の所より横道へ入り、 広長寺とか申す法華宗の寺にて、  門前に二王などこれあり。  その寺の拝殿のようなる所にて、連れの者とともに結び飯をたまい候よう相覚え、それよりしばらく田舎道を通り、甲州身延山の道にて根通りとか申す山のすそにて村続きの所を通り、  それより三十里に候や、 五十里に候や久しく歩行し、 駿河国の由釣橋とか申す奇妙なる橋を渡り、 それよりさきに舟渡しの大川これある所、  それは渡り申さず、  またまた後へ戻り、 山中の社にて夜をあかし候よう相覚え、  それより箱根権現へ参拝、 石の鳥居などこれあるように相覚え、 湖水の端を歩行、 さいの河原とか相覚え候。  銅の大仏などある所を通り、 小田原城下大手先へ出でて候ところ、 家中の人と相見え上下にて大分登城の体に相見え、 それより馬入川を通り候ところ、 これは船にはこれなく水の上を渡り候よう相覚え、 六合川上新田大明神へ参詣。 それより浅草観音、  上野などへ参詣。  それより桶川不動へ参拝、 鴻巣宿山王へも参り、それより平方の渡しを渡り、 ここもと北町金毘羅へ参詣。  それより奥沢九品仏へ参り候ところ、 同所先年地展にて破損のところ、 このたび仏体など塗り直し供養の由にて、 音楽など奏しにぎにぎしく、 ここにて餅そのほか飯などたまい候よう相覚え、 それより池上本門寺、 堀田妙法寺へ参り、  それより川崎大師へ参り、  それより迫泄山へ至り、 それより甲州街道へ向き、 高井戸、 田なしなど申す所を通り、 府中六所権現へも参り、  それより郡内甲府へ参り、 身延山へ至り、 それより駿河国阿部川、  みろく川とか申す、  十三仏のこれある由井正雪の幕などを見候いて、 またぞろ遠州浜松へ行き、  それより武州高麗金毘羅山へ参り、 高麗王の墓、 それより平沢とか申す所の滝へ参り、 それより常州銚子、 いたこなどと申す所より日光山へ参り、 それより桐生へ参り、 大間とか申す所へも参り、 本荘宿よりなんと申す所か不詳。それより古布が原へ参り、 これよりは薄ぐらき道を何十里となく歩き、 それより海を下に見下ろし虚空を行き候よう相覚え、 何十里となく参り、 讃岐象頭山へ参拝。  その後、 なまぐさき寒風吹き候所を数十里参り候ところ、 このときは目もくらみ一向に見え申さず。  それより何国に候や富士を北へ見候所へ出でて、  それより八王子へ至り、 またまた相州鎌倉八幡、 円覚寺、 建長寺、  それより藤沢遊行寺に至り、それより大磯虎が石とか申す所へ参り候ところ、  それよりさきは不分明にて暗き道を数十里歩行、  一方道にて一軒家のように覚え這い入り候ところ、 渡辺洛平方にて大きに驚き候いて、 はじめてここもとと申す儀を心付き候ところ、  その後大いに気分変わり茫といたし、  なにごとも一向に相分からざるように相党え候趣。  さて当人義、 今日などのところにてはだいぶん正気付き候えども、  今もってしかと自分の住居とも心得かね候くらいのこと、 このほかにも山川堂宮に限らず、 ところどころ歩行候ようには存じ候えども、 何国にてなんと申し候所か一向に忘却つかまつり候趣。  そのほか歩行のうちも食物などもいろいろ食し候えども    いちいち相覧え申さず。 すべて空腹になり候ときには、 こちらより申さざるうちに、  連れの者懐中よりすべての食物を取り出だしたぺさせ、 また、 ここはなんと申す所とたずね申すべしと存じ候えば、 問い申さざるうちになんと申す所と教え、  てぬぐい、 草鮭も調えくれ、 なにごとも不自由と存じ候ことは、 こちらより申さざるうちにただちに相弁じ、  代料はみな連れの者相払い候趣。  また、 ときによりては、  こちらの身体も連れの者の身体と    つに成り候よう相党え候義も御座候趣。 前文のとおり、  おいおい薬用等つかまつり候ところより、 正気に相成り候えども、  なにごとも前後不分明の義のみ多くて、 胡乱至極には御座候えども、 あらまし右のとおりの趣に御座候。

(紀州近藤早乎阻氏報)  ココニ余ガ舎弟、 偕距郎炉う畑叩 淡州先山千光寺叫ュね和尚ノ徒弟タリ。  当時年齢十一歳ノトキ文久二年十月初メ七日、 和尚、  徒弟オヨビ小常ヲ従 工巡遊ノ途次、 泉州牛滝山二遊プ。 時ヤ十月上句ナレバ、  紅葉ヲ眺メ詩趣ヲ探ランタメナリ。  余、  マタ同行シテ本坊 二宿ス。  ココニ奇事アリ。 該夜初更ノコロ小僧素月、 俄然悶絶転倒シ人事ヲ省ミズ。  シバラクアリテ戦慄。 両眼数々開閾シテ親疎ヲ避ケズ。 余、 コレヲ診セントスルニ挙手 盛 足肯ンゼズ。 ココニオイテ、 脳病ニアラズシテ鬼魅アルイハカクノゴトキモノカ、  余、 同行者トモニ看談ヲ尽クサントスルニ当タリ、 叛然聖談院宮御座所タリシ上段ノ室二飛ビ上ガリ、 威厳ヲ正シクシ直立シテ、和尚オヨビ余ヲ招キ霊託シテ曰ク、「ワレハ慈勝陀羅尼ヲ守護スルノ神霊ニシテ、  空海上人存生ノトキ、  ワレニ尊勝大権現ノ号ラ付ス」卜。  即座二筆ヲ求メテスナワチ書シ、  別書ヲ余二与エテ曰ク、「コノ霊書タル幽冥界中ノ字典ニシテ、 義訳セパ、 人世ノ勲位ノゴトクソノ格位ヲ示`ソ、 大字ハ尊勝大権現トカ、 下ノ細字ハ脊属三体ノ主字ナリ。 汝、 常々尊勝陀羅尼ヲ読誦シ、  カツ、  アマネク衆生一印施シオルコトヲ霊暗ニコレヲ知ル。 ュエニコレヲ授ク。  ココニ香花、 灯明、 消浄水ヲ供シテ祭祀永久絶エザルトキハ、  七難即滅七福即生ノ盤符ナリ」卜託宣セリ。  カツ「コノ小僧、 三年以後、  七月十六日必ズ水死ス」卜。  余、 問イテ曰ク、「延寿ノ方法アリャ イカン」霊曰ク、「カッテ水死二及 バントスルコトニ回、 向後三回目ニシテ天命ナリ」卜。  コノ言、  ノチ果タシテ徴アリ、 云云 ゜

(因幡国佐分利寿賀蔵氏報)  予は近ごろ友人北村某より、 天狗の娘にのりうつりし奇話を聞けり。 今、 その大略を記さんに、 往年、 当国鳥取なる白浜家敷の中に、 大田某といえる者あり。 その娘某、 生来隻手不随の不具にてありしため、 すでに年ごろとなりしもいまだ嫁せず、  独身にて家にありしが、  一夜深更に及び突然起き上がり、「神様の御出でなり、  天狗様の御入来なり」とて、  家内の者を呼び起こすにぞ、 父母をはじめ婢僕に至るまで、  みな起き上がりてこれをあやしみ、 かつ、 そのいうところを聞けば、 娘はこれらの人に向かい、「われは天狗なり。 近来武道ようやく衰えたるをなげき、 この娘の体を借りて神術を衆人に伝えんと欲す。 よっ て明日は必ず薙刀と木太刀を持てる一壮年きたりて、 われに面会を請う ぺければ、 ただちにわが前に伴え、  われまずこの者に剣道を授け、 次第に衆人に及ぶべし」といえり。 これを聞く者みなおもえらく、畢党、 痴 狂 の類ならんと。 看護をゆるがせにせざりしが、  翌朝に至り一壮士(烏取の者なれども住所姓名を失す)、 薙刀と木刀とを携えきたりて曰く、「われ一昨夜、 夢に天狗に会う。 ときに天狗われに向かいて、『予、 近時武道の振るわざるをなげき、 白浜家敷の大田某の娘にのりうつり、 汝に秘術を授けんと欲す。  よって某日、 薙刀と木刀とを携え必ずきたる ぺし   と告げたり。  ゆえに今日、 その約を守りきたりしなり」と。家人、  その奇合に驚くといえども、 他聞をはばかり、 偽りてかかることなき旨を告げしに、 娘、 内にありてこれを聞き、「われこそ汝に術を授けんと約せし天狗なれ、 速やかにわが前にきたれ」といいて壮士を七畳半の一小室に専き、 目を閉じて壮士の携えし一間半の大薙刀をとり、 縦横水車に振りまわすに、 あたかも熟達したる剣客が広野にありてこれをふるうがごとく、 障壁も障害とならず、 一上一下みな法に合せり。 その他、木刀もしくは鍋蓋をもっ て敵をうち、 己を守るところ、  人をして驚嘆せしめざるはなかりしより、  近隣の者いつとなくこのことを聞き、  来観する者日に多きを加う。  ここにおいて、 家人ますますこれを憂え、  一日娘に向かいて懇ろに事理を諭せしに、「しからばかえり去らん」と答えしが、  その後は平気に復せり。 よって嚢日の所為を告げしに、 娘は悪を含みて、  かつて知らざりし由を語れりという。 ただし、 その娘はかつて剣道を知らざりし者の由。 予はこの奇話を聞き、 友人北村の いたずらに虚誕を構うる人にあらざるを信ずといえども、 あまり事実の奇怪なるより、 いまだにわかに信を置かざりしが、 当地笞官教習所の剣道教師木之間某は、  かつてこの娘の刀剣をもてあそびしことを目撃せし一人なりと聞き、 これをただせしに、 果たして北村のいいしところにたがわざりしより、  一方においてはそのことの虚誕ならざるを知り、 また他の一方においては、 いかにしてかかることの起こりしかを疑い、  記してもって妖怪研究の一材料となす。

これより、 天狗に関する先翡の説明の一、  二を挙ぐれば左のごとし。

林羅山の「神社考』に、「我邦自古称天_狗  者多突、 皆霊鬼之較著者、 是非二星之義也、 或為ーー仏菩薩相或為 蒐 神貌一 時時出現、 或為>狐、  或為>鳩飛行、 或為』童、 或為>僧、 為山伏    出二子人間一 其説日、 見二人福細型転為レ禍、 遇二世治ー則復為レ乱、 或発火災或起二闘詳一 沙門之有慢心及怨怒王者、 多入二天狗之中一 所レ謂伝教、 弘法、  慈覚、 智証等是也。」

(わが国、 いにしえより天狗と称するもの多し。  みな盟鬼のやや著しきもの、 これ星の義にあらざるなり。  あるいは仏菩薩の相となり、 あるいは鬼神のかたちとなりてときどき出現し、 あるいは狐となり、 あるいは鳩となりて飛行し、 あるいは童となり、 あるいは僧となり、 山伏となりて人間に出ず。 その説に曰く、「人の福を見れば、 すなわち転じて禍となし、 世の治まるにあえば、 すなわちまた乱をなし、 あるいは火災を発し、 あるいは闘諄を起こし、 沙門の慢心および怨怒ある者、  多く天狗の中に入る。  いわゆる伝教、 弘法、 慈既、 智証等これなり」)

「祖保 集 」に、「天狗説」と俎する一編あり。 曰く、「名山之顧、 出>雲雨寸而合、 不>崇>朝而雨ーー天下    神之福也、 殺機一発、 風怒露行、 抜>樹隕>石巖堅辟易、 万物為>漿、 頃而孵、 天地開明、 一介弗損、 隣然如>故、是誰之為、 窃冥之中、 蓋有な物焉、 條忽乎為  人、 條忽乎為>物、 衆莫一砒能端保一世俗所ーー図伝一廼有  象鼻邸唆、載勝虎爪、 電目肉翅、 努ーー開乎豊隆之神一者    咸称>之日手〈狗一云、 茂卿稽二諸典籍一易有乙之、 艮為>山、 為>狗、為 吟隊之屈    是其所二絲_象  邪、 世腐紳先生、 或引二客星一或援  外国之獣年者、 廼執>名惑  其実可袖炉妄已、氏三代而上、 但謂一ら之某山之神一 後世所レ訛、 起五自"丘言三中国多砿皿、 吾邦多天狗一彼所>称紫虚、 碧霞、 真武帝君、 廼所謂栄術太郎、 金毘羅、 妙義之類、 皆是也、 夫神者、 聡明正直者也、 而無>知、 安能_知一人之所  命乎、 故或以為>神為>仙、或以為>仏為一釜品寧為二羅漢明王玉  二魃魅岡両一人各狙其所ら見、_建一之名称一惟人有"知、安能知神  之所自命一乎、惟神能降二禍福一弗>爽、故世人所>称至ー干今五空替、是重黎之所三以別ー人神一也、故大伝又曰、  知  鬼神之情_状  者、 惟聖人為>然、 平安西北、  愛太子之山、 幸焉、 鰍有二栄術太郎祠一 主ー其ー    祀者上人恵通、 乞二予文一予故為二天狗説ー以贈>之、 物子日、予飽二繋斯土   不誌呼西捗二愛太子之山一以問*其神い上人其宿斎戒沐浴、 捧如製炉造>祠以命>之、 其必漠然莫二之能応一邪、 抑将有下蓬勃然興乎山阿玉也、 則知二吾言之信然  也、 而神実欲ら之。 名山の  節、 雲を出し虞寸にして合し、 朝を崇めえずして天下に雨ふる。

神の福なり。 殺機ひとたび発し、 風怒り  露  行き、 樹を抜き石を限し、 巖堅辟易し、 万物蓋となる。 しばらくにしてはれ、  天地開明、  一介も損せず、 隈然としてもとのごとし。 これだれのしわざぞ。  窃冥のうち、 けだし物あり。  條忽として人となり、條忽として物となり、衆よく端悦することなし。世俗の図伝するところ、すなわち象鼻、 邸隊、  載勝、 虎爪、 電目、 肉翅、 豊隆の神に努郡たるものあり。  みなこれを称して天狗というという。  茂卿〔荻生祖練〕、 もろもろの典籍をかんがうるに、 易にこれあり。 艮を山となし、  狗となし、  駒峰の属となす。  これ、  その絲象するところか。 世の薦神先生、  あるいは客星を引き、 あるいは外国の獣をひくは、 すなわち名を執して、 その実に惑える妄というべきのみ。 大抵三代よりして上、  ただしこれを某山のな玄神という。 後世の訛るところ、 丘、 中国に仙多く、 わが国に天狗多しというより起こる。 かの称するところ、紫虚、 碧紺、  真武帝君、 すなわち、  いわゆる栄術太郎、 金毘羅、  妙義の類みなこれなり。  それ、  神は聡明正直なるものなり。  しかして知なくんば、  いずくんぞよく人の命ずるところを知らんや。  ゆえに、 あるいはもって神となし仙となし、 あるいはもって仏となし、 菩薩となし、 羅漢明王となし、 魁魅岡 両 となし、 人おのおのその見るところになれて、  これが名称を建つ。 ただ人知あり、 いずくんぞよく神の自ら命ずるところを知らんや。 ただ、 神よく禍福をくだしてたがわず。 ゆえに、 世人称するところ今に至りて替わらず。 これ 狙黎の人と神とをわかつゆえんなり。  ゆえに「大伝   にまた曰く、「鬼神の情状を知る者は、 ただ聖人をしかりとなす」と。 平安の西北、 愛太子の山、  幸 たり。  甑に栄術太郎の 祠あり。  その祀をつかさどる者は上人恵通、予に文を酌う。 予、 ゆえに天狗説をつくりてもってこれに贈る。 物子〔祖株〕曰く、「この土に抱繋するも、西愛太子の山にのぼりてもっ てその神を問う'」とあたわず。  上人それ宿に斎戒沐浴しこの編を捧げ、  祠に造りもってこれを命ぜば、 それ必ず淡然として、 これによく応ずるなからんや。  そもそもはた蓬勃然として山阿を興す者あらんか。  すなわち、 わが言の信にしかるを知らん。  しかして神、  実にこれをうけん」)

『古今妖魅考」に、 平田篤胤は林羅山の天狗説を引きて敷術して日く、「世に天狗というは、(中略)羅山先生の説のごとく、  多くは僧、  山伏などの化れる鬼をいえり。 なにゆえぞ、 そを天狗といいはじめけんと考うるに、高鼻 長暖にて、頭はかの天狗にほぽ似て山に住み、世に災異をなすことも、かの天狗に類たればなり。

後白河天皇に見奉りて開発源大夫と名告白せるものの語に、 僧らの化れる霊鬼のことを語りて、  その形、 頭は天狗にて左右の羽、  生えたりとあるをいうべし、 云云」

『訓蒙天地弁」にも天狗の説明あり。 日く、「天狗の説、  世俗もっぱら称するところなれども、 星に天狗と名付くるものあっ て、  そのほかに所見なし。  すべて深山幽谷は陰湿ふかき所なるがゆえに、 おのずからその形も枯怪なる異物産すべし。 魁魅懇懸の類、 ことごとく幽陰の産物なり。  しかれども、  その怪をなすこと和漢少なからず。 星に気類の名目をかたどり命じ、  地の狗に対して天狗というものなるべし。 しからば、 山林の陰鬼、 奇異をなすものを天狗というは非なりといえり。  また、 画するところの天狗の形、  人面、 烏翼、 鼻ことに高く、  羽扇を携えたるごときはいよいよしかるものありや。 呉道元、 はじめて地獄の形勢、 鬼類を画より伝えきたるの類に同じからん。「日本紀』に天狐と出でて、  仏家の説には、 天とは光明自在仏果を表し、狗とは痴闇不自在生界を示す、  生仏不二の名なりといえり。『塔獲 紗 」などにも出ず」

以上の説明のほかに余の意見を付すべきなれども、 天狗のほかに神憑り、 鷹憑きの種類ありて、 その原因は天狗と同一理にもとづくをもっ て、 ここに神憑り談について一例を掲ぐべし。 まず「嬉遊笑覧」に出だせる蛇神のことを挙ぐれば左のごとし。

「大和本草」に、 中国の小クチナワとて安芸に蛇神あり。 また、  トウピョウという人家によりて蛇神をつかう者あり。  その家に小蛇多く集まりいて、 他人につきて災いをなすこと、 四国の犬神、  備前児島の狐のごとし。 もろこしの猫児の類なりといえり。

神憑りのことは宗教学、 心理学、  医学の三種に関係あるをもっ て、 その各部門を参見すべし。  ただここに、  美濃国山田大助氏より報ぜられたる一例を挙ぐれば左のごとし。

わが東濃地方には従来御駁講の信者少なからず。  今、 その講中がなすところを見るに、 なにごとか神託を受けんと欲せば、 中座と称するものを定め、  かつて定まれる先達と称する者とともに、 まず水浴してその身をきよめ、  さて講中を集め一斉に神詞を唱えしめ、 中座は白き幣を持ちてその中央に座す。  かくのごとくすること少時なれば、 神ののりうつれる徴にや、 中座はしきりにその持てる幣をうごかし、 目をいからして常態を失う。 ここにおいて先達その前に伏し、「のりうつりたまうは何神にましますか」と問えば、「われはなにがしの神なり」と答う。 また、「某患者の病症はいかにせば癒ゆぺきか」と問えば、「云云の法を用ゆべし」と教う。  その他なにごとにまれ、  これを問えば答えざることなし。  ただし、  病客にして、 その神託にしたがうときはおおむね効あり。  なかんずく、  神経病者にありて最も著しきを見る。

この一例は「医学部門」精神病論、「心理学部門」降神術論に属するものなり。  かかることは外国にも多くある例にして、 今左に、 西洋書中より鬼神談に関する部分にて、「臆憑き」と題する一節を訳出すべし。魔憑きとは、 ユダヤ人が、 束洋においてしばしば行わるる顕酬、鬱憂あるいは痴 狂 等の病症にかかりし人に与えし名称なり。 この名称の起こりしゅ えんは、 かかる病症にかかりし人は、 悪霊すなわち悪魔に 憑 付せられたるものなりとの信仰にあり。 けだし、  人にして通常知れ渡りたる心意の作用およびその能力に帰し難き、 非常の状態および動作を呈するときは、 これを    つあるいは二、 三の有力なる神霊の所為に帰するは、

ペルシア人、 ギリシア人、  ロー マ人および一般古代人の通説なりき。  この信仰は、 ホメロス、 ヘロドトス、ェウリピデスの諸氏、  およびそれ以後の著者において見るべく、  また中世紀におけるキリスト教徒の深く信憑ぜ  しところなり。 もし偉人、 秀オの有する通常能力にも及ばざるがごとき善行あるときは、 これをもってミュー  ズ神の神告に出ずとし、 あるいは善神がただちに該人と協働するか、 あるいはその化身たるによるものとみなし、 また心意の病症にかかりてはなはだしき不幸の状に陥り、 己が意力をもってするも、  はた古代医師の技能によるも、  到底これを治することあたわざるときは、 ただちにこれを邪神すなわち悪贋の所為に帰せり。  この悪魔なる名称は、  後代のユダヤ人が暗に邪教を指すところありて、 邪霊に名付けしものなり。これをもって魔術および駆魔法は、 右のごとく鷹憑きなりとみなされたる病症については、 医術に代わりて治療を施すこととなり、 しかしてユダヤの駆魔者は、 ヨセフの言に基づきて自ら往古より伝来したる必要の魔法、 秘術を知れりと唱えたりき。 ここにおいてか、 善神は悪魔を駆りて、 これを壊滅するの職を尽くすものとなれり(このことはあたかも現今、 平癒は天然に行われ、  かつ神性的のものにして、  いわゆる自然の正当作用なりとの観念に当たれり)。  これ、「福音書」中において、 キリストは邪神に憑付せられし人々を癒やし、  悪魔を駆逐したることを記せるゆえんなり。

以上、  すでに古来の事実を挙示したれば、 これより、 これに対する説明を与えんとす。  けだし神憑り、 魔憑きは天狗の説明によりて準知すべきものなれば、 もっぱら天狗憑きについてその説明を下さんと欲し、  まずこれを物理的に考うるに、 いわゆる天狗の住所とみなされたる深山幽谷には、 多少奇異の現象を存すべきものにして、あるいは猛獣、 異人の住することあるべし。 古語にも「深山大沢、 竜蛇を生ず」というがごとく、  ここに生育する動物は、 平地に産する動物に比すれば、  すこぶる奇怪のものたる ぺし。 果たしてしからば、 世間にて天狗と称するものは、 これらの奇怪なる動物のなせる所為を見て想像せしものならん。  世人が天狗の存在する証拠として挙ぐるところを見るに、 高山に登りて一夜を明かすときは、 あるいは樹木をきり倒す響きあり、 あるいは大石を投ずる音あり。  これ、 天狗の作用なりといわるれども、  かくのごとき所業は深山に住する猛獣のよくなし得べきことにして、 これをもっ て天狗の存在する証となすべからざるなり。 要するに、  今日伝うるところの天狗の像なるものは、  全く人の想像より描出せしものにして、 例えばなお地獄の鬼を想像してえがきしと一般なり。  しかして、 天狗の所業に帰せし奇怪の現象は、  これ猛獣あるいは人類のなせしものならん。  この人類より生じたることについては、  偶然に起こりしものあり、  また故意に出でしものあり。  そのうち故意に出でしものとは、  世間すでに天狗説を信ずるをもっ て、 これに乗じて他人の胆を奪わんと欲する好奇心より、  自ら深山に入りて常人の力に及び難き怪事をなし、 もって人眼を驚かすものこれなり。  また偶然に出でしものとは、  例えば旅人の道に迷っ て深山大沢に入り、 無人の境にて図らずある人に会せしとき、 ただちにこれをもって天狗とみなし、 あるいは道に樵  夫にあいて天狗きたれりと想像せしがごときは多く聞くところにして、 全く偶然に出でしものなり。 今、 偶然の一例として、 予が箱根にて直接に聞きしところを掲げん。

このことたるや、  今よりおよそ二十年以前に属す。  箱根村の猟夫二、 三人相誘いて、  雪中に兎を猟せんため駒ヶ岳に登れり。  ようやくその絶頂に近接するに及び、  一巨人あり、  山上の巌石上に冗立し、  大風呂敷をもって扇ぎおるを認めたり。 しかるに猟夫雖はこれをみてただちに天狗なりと想像し、 いえらく、「かかる山上に人の住すべき理なし。 今、 これを見るはこれ全く天狗ならん。 しかして大風呂敷を扇ぎおるは、  必ずわれわれの上に魔術を行えるものならん。 よろしく早く去りて身を全うするにしかず」と。 倉皇一物を猟せずして空しく家に帰りしかば、 これより一村ことごとく駒ヶ岳山上に天狗住せりと伝えたり。 しかるに二、 三日を経るに及び、 はじめて事実の}具相を得たり。 すなわち、  いわゆる山上の天狗とは、 なんぞ図らん、  全く強盗にして、 その前夜、 小田原駅のある家に侵入し、  物貨を強奪せし後、 この山上にのがれ、  四、  五日を経て駿州地方にて縛につきしものなること判明せり。 しかして、 その風呂敷をもって扇ぎおりしは、  けだし、かの猟夫らの鉄砲を持して登山せしを見、 己を銃殺せんことをおそれて、 これをふせがんとの意に出でしもののごとしという。

右のごときは、 全く偶然に起こりし天狗にして、 真の天狗にはあらず。  今日世上に伝うるところの天狗にも、必ずこの種のもの多からんと思惟せらるるなり。

つぎに心理的に考察するに、 深山大沢なるものはおのずから幽達にして、 満目棲陰たるものなれば、  人もしかくのごとき境に入るときは、 覚えずその心動き、 自ら迎えて奇怪のことあらんと想條し、 したがっ て種々の幻巽を起こし、  はなはだしきは妄覚を生ずるに至るなり。 これをもって、 該人にして、 もし平常天狗の談話を聞き、その像を見て状貌を詳知するものならんか。  その記憶はたちまち再起して妄覚を起こし、 もって天狗なき所に天狗を見、 あるいは幻党を起こしきたり、  木骨を認めて天狗となすことあるべし。  かくのごときは心理上、 もとより怪しむに足らざるなり。 また、 天狗につきてもっとも奇怪なる事実は、 瞬間時にしてよく高山より邸山に転じ、日本全国の名山、 大川を、 僅々一日あるいは半日の間に跛 渉して帰ることこれなり。 例えば、 民間にてある童児忽然、 家を出でて帰らず、 二、 三日を経て突然帰りきたりいう、「われは天狗に誘われて各地の名山、 大川を眈渉したり」とて、 いちいちその通路の山川の名を挙ぐるに、 篭も事実に違わざることあり。  かくのごときは、  さきに掲げし諸例中にもすでに示したり。 これ世人の最も奇怪とするところにして、  その果たしてなにに原因するかを研究するは、 実に妖怪学の目的なり。 予おもうに、 これらはもとより物理的説明の限りにあらず、  必ず心理上より説明せざるべからず。 しかして、 心理上より考うるときは、 右は精神作用によりて妄境に入りたるものというべし。 けだし、 この天狗に誘われし童児のごときは、 必ずその以前に天狗の絵を見、 また、 その談話を聞きて、天狗は瞬時にして名山、  大川をわたる異能あることを知りしものなり。 すでにかくのごとき記憶を有せんか、 もし偶然に精神上に変動を起こして、 右記境の点に精神力を集合せば、 ただちに精神内に高山、 大川は判然描出して、  想像上、  一高山より他の高山に移るがごとき状態を見、 いながらこれを祓渉せしことを妄見することあるペきなり。

吾人もしこれを親しく知らんと欲せば、 すべからく吾人は夢中に天狗に誘われて、 高山を飛翔せしことを夢みることを一考す ぺし。 すでに夢中においてしかりとせば、 吾人醒覚のときといえども、  精神の変動によりて、 なんぞ夢境を現ずることなしとせんや。 もし、  かかる場合において、 心内の想像により、  つまびらかにその状態を描出し、 夢境をもって実摂とみなさば、 一日にして想像上、 よく全国の名山、  大川を跛渉せんこと、 あに難しとせんや。 このゆえに、 予は天狗に誘われたりと称するものは、  全く精神上にえがき出だせる妄境にほかならずと考うるなり。 しからば、 なにゆえにかくのごとき妄境を現じ得るかというに、  これ、 その当時における前後の事情を考察せずんば知ることあたわざるなり。 けだし、 あるいは山路を跛渉してこれに迷い、 その出ずるところを知らず、 ために籾神の上に変動を起こし、 もって旧時天狗につきて有せし記憶をして再起せしめ、 この点に精神を集めきたりて、 ついに妄瑕に入ることあるべし、  あるいは精神の疲労または憂苦によりて妄境を現ずることあらん。 予がかつて聞ける一話によれば、 ある寺に小僧あり。 和尚の叱責をこうむりて家を追われしが、 自ら行く所を知らず。 晩ごろ野外に出でたれども、  いずこに宿すべきかを知らざれば、  かれこれ祐復せる問に、  忽然、 天狗のきたるに会し、これとともに高山に遊び、 諸所を巡歴して家に掃れりという。 かくのごときは憂苦のあまり、精神洸惚として妄境を喚起し、  かねて有せし天狗の記憶再生しきたり、 もって目に天狗を認めしものなれば、 全<妄覚なり。 しかして、 その高山等を跛渉せし間は、 必ず山間の人路なき叢野あるいは人家なき場所を、  みずから悦惚として初裡せしものならん。 これあたかも眠行の場合のごとく、 自身のいずこにありしかを此えざるものなり。 しかれどもまた、  必ずしも自身のかれこれに防径することを要せず、 単に一所にとどまりて、  いわゆる夢楼を現ずることある ぺし。

その他、 世間にて狐に班 惑せられ家に帰りし人は、 その状態、通路なき林叢中を祓渉せしがごとく見ゆ。 かくのごときはただに妄境を現ぜしのみならず、 また、 ところどころを徘徊せしものならん。 これらの例に準ずるに、いわゆる天狗に誘われしときにも、  みずからは林叢の道なき所を飛び回りて、 自ら高山、 大川を跛渉せしもののごとく思えるものなるべし。 また、 紀州素月の一例のごときも精神作用より生ずるものにて、  脳中の一時の事情によりて突然狂態を発することあり。 ことに外界の事情が多少これを誘うあれば、  一層たやすく籾神病を起こすに至る。 ゆえに、  はじめて深山幽速の境に入り、 その心に恐怖の情動くときは、 精神に異常を呈し、  素月のごとき挙動を見るに至るべし。 これ、  籾神病学を精究すれば、 よくその理を了解し得るなり。

その他、 天狗の怪談中には、 天狗に誘われて文字を学び、 従来一字をも書することあたわざりし者の、 能書、名筆となりて帰りきたることありという。  世すでに天狗の筆跡として伝うるものあり、 また、 天狗に憑付せられて書せしところなりと伝えらるるものあり。 これらは果たしてなにゆえなるか。 予、 案ずるに、 これ等しく精神作用ならん。  すでに一般の精神病者にして従来は無筆なりしものの、 病中によく害することあり。 また無学の狐憑き病者にして、  よく文字を書するものあるにあらずや。  これによりてこれを推すに、  いわゆる天狗の手跡も、また全く一種の精神作用より起こりしものなるべし。  けだし、  人は全く教えを受けずして字を書せんこと難しといえども、 いかに無学の人にても、 多少他人の字を書せし状を見てこれを記憶し、  または自身にいくぶんかこれを試みしことあるべければ、  いったん精神の変動に会せば、  意外に能書の技を有することを得るに至らん。  すべて人の文字を書するは、 別に思想作用を要せざるもののごとしといえども、  ひとしく種々の思想の加わりて成るものなり。 ゆえに、 もし精神のある一点に集まるときは、 意外に柑をよくすることあり。 これに反して、 種々のことに注意を及ぼし、 あるいは全く関係なき事柄に意を用うるときは、  決して好成組を得べからず。 また、 自らあまり意を用い過ぎて、  かえっ てその書の平時にだも劣ることあり。 例えば、  習字の試験に注意して書きたる字の、 平日虚心にて魯きたる字に劣ることあり。 これをもって、 常人にても時日と場合に応じて、  書跡に良不良の差を呈すること大なり。 特に酒を傾け酔いに乗じて試むるときは、 案外の好績を得ることあるは人の知るところなり。 これによりて推すも、 もし人、 遠慮なく一点に精神を全注し、 自負の籾神をもっ て大胆に試むるときは、平素文字を書することあたわざるものも、  案外に籾神あり、 気力ある文字を成し得るゆえんを知るべし。  かの精神病者が意外に能書なるは、 畢党、 無遠慮、 大胆に揮写するによれり。 しかれども、 その字は決して書風の正しきものにあらずして、 あたかも大酔のとき書きたるもののごとき風あり。  ゆえに、 天狗に伝授せられてにわかに能書、 能芸となりしがごときも、 またこれと同一理ならん。 このことにつきて、 予が阿波国にて聞ける一話あり。左にこれを録す。同国美馬郡定光村に生来白痴同様の者あり。一日 諷 然として天狗のもとに遊び、書字および撃剣の技を学びて家に帰れり。 爾後、 日夜を選ばず庭前の立ち木に向かいて撃剣を試みしが、 ついに大いに熟達せり。 自らいわく、「これ天狗のわれに教授せしなり」と。  これと同時に日々書字を試みしに、 これまた大いに発達するを得たり。  しかして自らいわく、「これ天狗のわれに授けしところなり」と。  これより、 両技ともにすこぶる造詣するところありて名声四近に聞こえしかば    ついに徳島藩主に召されて撃剣の師となれり。  人あり、これに妻帯を勧む。  某日く、「天狗、  かたくわれに妻帯を禁ぜしがゆえに、 応ずることあたわず」と。  されども人の再三再四強うるに及び、  やむをえず初めて妻を迎えしが、 これと同時に撃剣および能書の技術を失して、 ふたたび従前の白痴に帰せしが、  維新後まで存命せりという。  人、  今に伝えてこれを奇とす。

かくのごとき例は、  人々の最も奇怪とするところなれども、 もし心理上より考うるときは、 これを説明することを得べし。  すなわち、 右の撃剣および能害のごときは、 精神上の一時の変動より生ぜしものにして、  某は当時必ず自ら天狗を妄見し、 これによりその術を伝授せられたる夢税を現ぜしならん。 爾後、  一時籾神の変動によりて、この二術ともに大いに発達し、 また嚢日の白痴にあらざるに至りしも、 もとこれ一時の変態のみ。 しかして、その妄見せし天狗が妻帯を禁ぜし一言と、 その伝授せし技術とは、  相連帯して己が記憶内に存せしをもって、  いったん妻帯してその禁を犯ししことを党知するときは、 また精神上に一大変動を起こしきたりて、 これと連帯せし技術までもにわかに退歩するに至りしならん。  かくのごとく一時の変動によりて得たりしものは、 また一時の変動によりてもとに復しやすきものにして、 すでに衷帯の後はこのことつねに己を責め、 わが術はかつて天狗より授けられしものなりとの信仰心を破るに至らば、これと同時にその芸能をも失うべきこと自然の理というべし。ゆえに、  かかる現象は心理上、 種々の作用に照らして考うるときは、 またあえて奇怪となすに足らざるなり。

これを要するに、 世の天狗談は、  一部分は物理的に説明せらるべきも、  多くの部分は心理的説明に属するものにして、 畢 党 するに、 これまた一時精神の狂態を現ぜしものというよりほかなし。 今、 その精神上に関するゆえんを証せんと欲せば、 天狗に憑付せられたる人のごときは、  決して通常以上の学識を有する人物にあらずして、多くは下等無知識のもの、 特にやや性質の愚鈍、 白痴に近きものに見ること多く、  もし、 人の知識進歩して中等以上の人々ならんか、 もとよりかかる怪事を現ずることなき点を一考すべし。 これをもっ て、 天狗談も他の憑付病と等しく、  古来に多くして今日に少なく、 現今にては、  ほとんど各地においてその事実ありしを聞かず、  世に伝うるところのものはみな旧時の談話に属せり。 ただ白痴、 愚鈍の者がいかにして天狗のことを記憶中によび起こし、  全く別人たるがごとき異能を呈するに至るかは、 はなはだ疑うべしというものあらん。 しかれども、  世の愚鈍といい、  白痴と名付くるものは、  これただ外部より称せしものにして、 その精神の分抵果たしていかなるかに至りては、 決して実測することあたわず。  ゆえに粕神の飛は篭も他人に減ぜず、  かえって秀絶の能を有する人も、 もしその思想の一点に固集したる場合には、 他人に比して愚鈍のごとく見ゆること少なからず。

その一例を挙ぐれば、  非常に数学の天才に富めるもののごとき、 あるいは碁、 将棋に達せし名手のごとき、 世間よりは平凡のごとく、  むしろ愚鈍のごとくみゆることあり。  また巫女、 神女のごときも、  一見あたかも愚鈍のごとく知らるれども、 ある一種の感党においては非常に鋭敏なるものあり、 これによりて常人の感ぜざることを感じ、 また常人の予言し得ざることをも予言するものなり。 ゆえに、 天狗等に憑付せられたるものも、 平常は無知愚鈍のごとくなれども、 もしその精神にして一点に凝集する力に富み、 天狗の一原因によりて該点に精神力を固沼するに至らんか、 その常人の及ばざる作業をなすは理のまさにしかるべきことにして、 なんぞ奇怪となすに足らんや。 これ、 予が古来の天狗談をもっ て、  その原因おおむね精神作用より発するものと信ずるゆえんなり。されども、 民間に伝うるものは十中八九までは、 予がいわゆる人為的偽怪に属するものなれば、 決してこれを事実と信拠することあたわざるなり。




第四講 心術編

第四    節 動物電気論


前講においては、 鬼神、 狐狸のごときものの人身に 憑付して、 種々の奇怪を呈する古代の妖怪について、 その説明を与えたりしが、これより講述せんとするところは、他人の媒介あるいは技術によりて精神上に変動を与え、あるいは外界に奇怪を現ずることに関して説明を与えんとす。  近年、 西洋において動物電気の論大いに行われ、催眠術のごときはその原因を動物電気に帰し、 この種の術を称して動物電気といえり。 けだし、  この名称を与えしゅ えんは、 催眠術のごときにありては、 一人が他人の精神思想を動かし、 その行為、 挙動を自由に左右することを得るがゆえに、 その状あたかも電気の磁針におけるに類するより、 動物電気と名付くるに至りしものなり。ゆえに、  動物屯気とは今日いうところの催眠術にして、 この種の術を総称するときは鬼神術という。  けだし、 宇宙問に鬼神のごとき需怪幽微の体、 存してその作用を現すとは、 古来より信ぜしところにして、 この鬼神はただちにその作用を示さずして、  人を媒介としてこれをあらわすものとす。  ゆえに、 古代にありてはその原因をもって全く鬼神に帰したりといえども、 今日にありてはもっぱらこれを人に帰するに至れり。 換言すれば、  人の精神作用に帰するものなり。  さて、 動物屯気のことは西洋の書中に論ぜしもの多けれども、  アルフレッド・ヒンネッドの「動物電気論」を一読せば、 その起源および発達を明らかにすることを得べし。  ただし、 このことたるや全<催眠術なれば、 予は後節において催眠術を講ずるに際し、 その起源および発達をも一言せんとす。 ゆえに今は、降神術または鬼神術に関していささか講述するところあらんとす。

西洋にては古代より鬼神の存在を信ぜしをもっ て、  一切の妖怪を鬼神の所為に帰せしが、 特に「スピリチュアリズム」すなわち鬼神術としてこの理を講究するに至りたるは近年のことにして、 実験心理学上にていまだ明らかならざるところあるに乗じ、 物質を離れて別に鬼神の存在を信じ、  かつ鬼神の必ず存在すべきものと信ぜしより起こりしものなり。  要するに、 この術は不可見世界と直接の交通を開くべき方法を講ずるものにして、 その起諒を考うるに、 西暦一八四八年のころ、 アメリカ合衆国に起こり、  ついでイギリス、 フランスに伝播し、 ついに欧州全国に行わるるに至りたり。 すでに一八五九年には、  アメリカ中にてこの術を信ずるもの百五十万の多きに至り、 また、 これを専門本職として行うもの一千人の多きに及べりという。 これに加うるに、 このことに関する雑誌のごときも三十種のおびただしきを見るに至れり。  もしこの勢いをもって進むときは、 数年を出でずして国民挙げてその信者に化せんありさまなりしが、 これ、  全く一時の流行熱に過ぎざれば、 再来漸々にその熱度を減じきたり、 これを信ずる者は今日なお依然として存すれども、 昔日に比すればその数極めて少なきに至れり。  しかるに、  近世ヤソ教中にスウェー  デンボルグの一派起こり、  その説くところはひとしく幽冥界に交通し得ることを信ずるをもっ て、 右の説にはなはだ相近しといえども、 また多少相異なるところあり。 すなわち、 このスウェー デンポルグはヤソ教の一派にして、 その教理上より説くものなれども、 鬼神術に至りてはヤソ教とは異なれる一種の別派にして、  その説はかえって動物電気論のごときものに属するなり。

今その説の起因を考うるに、 米人アンドリュー ・ジャ クソン・ダビス氏より始まるという。 ダビス氏の父は靴師にして、 ニュー ヨー  クの人なり。 氏は一八二六年に同地に生まれ、 幼少のときは牧童となりて野外に日を送り、その学校にありしはわずかに五カ月に過ぎざりき。 その性質また愚鈍なりしかば、  人みなこれを白痴のごとく考えたり。  しかるに、 すでにその当時より往々夢見、 幻視ありて、 種々の妄象を心視し、 あるいは空中に幻声を聞くことありき。 その後、 氏は不思議にも不可見世界と通信することを得て、  人体を脱したる精霊とともに談話を交うることを得と信ずるに至り、 氏もし歌を詠ずるときは、 これに応答するものあることを感じたり。 ある商人あり、  氏の神通力の非凡なるを見、  かつよく人の心中を察知し、 その病気いかんを予定する力に富めるを見て、必ず病客の診断をなすことを得 ぺしと信じ、  これを奇貨として私利を営まんと欲し、 氏を提撃して各都邑を巡回し病客を診察せしめたり。 果たして、 氏は病客に接するごとによくその病患の原因、 事情を明示し、  かつ、 これを治する方法をも告知して、 実に神変不可思議の妙を表ししかば、  いたるところ諸方より診察を語うもの陸続蜀集  し、 その風聞たちまち世上に喧伝するに至れり。 これより、 氏の不可見世界と交通する神通力はいよいよ発達し、  これに関する魯類をも刊行したり。  氏、  もし不可見世界のことを知らんと欲するときは、  その精神は氏の体を離れてただちに不可見世界に接し、 これによりて該界の事俯を知悉し得るがごとく感じ、  かつ、 ただに現今世界の事情を知るのみならず、また宇宙開 閻 以来の歴史沿革、ならびに天界中における諸種人民の事情をもいちいち明示することを得たり。 このことのひとたび全国に伝播して大いに世人の注意をよびたる際、 ここにまた一っの怪事顕出せり。

すなわち、 一八四八年四月に、  ニュー ヨー  ク州アカデア市におけるフォックスなる人の住家に、 奇怪の音声を発すること起これり。  よっ てフォックスの娘はその指を弾じてこの音を模擬せしに、 必ずこれに応答したり。 すなわち、 これに向かいて「汝は人問なりや」と問いしに、 篭も答うることなし。  つぎに「汝は精盤なりや」と問いしに、  コッ コツと二個の軽音をもって答えたり。  これより、 これらの音をイロハ文字に当てて問答しつつ、一種の語をつづらしめしに、 この怪音は数年前に同家にて殺害せられし人の精霊なることを告げたりき。 爾後、  右の方法を用いて不可見世界と交通するの道を開くに至りしが、 この交通には必ず媒介者ありてその間に立つを要し、 フォックスの家にては、 氏の衷および娘は常にこれが媒介をなせり。 この説のひとたび諸方に伝播して以来、四方競いて鬼神、 不可見世界と交通する術を研究し、 その同志の人々相会して種々の会を組織するに至れり。 これを鬼神術の会合となす。  かくのごとき研究によりて、  種々の方法をもって鬼神と交通する道を発見し、 あるいは指をもって卓子に触るるときは卓の自然に回転するを見、 あるいは暗室に入りておのずから燐光の生ずるを見、 あるいは手を触れずして楽器を弄する音を聞き、 あるいは媒者は鬼神の助力によりて、  ひそかに骨牌上に書せし文字を察知することを得る等、  その他、 百般の方法をもって奇怪の現象を呈することを発見するに及べり。

これらの諸術を総称して鬼  神  術と名付く。 あるいはこれを降神術というも可なり。

右のごとく、 この術ははじめ米国に起こりしも、  一八五二年以後は欧州地方にもこれを研究するもの続々輩出し、  ロンドン市中にはこれを講ずる一会あり、 公衆より謝儀を受けて盛んにこれを施行したり。 その伝播の迅速なること実に驚くべし。  しかして、 これ、  ひとり下等社会に行わるるのみにあらず、  上等社会の人々もみなこれを信憑 し、 学者社会はこれを一問題として種々の試験を施すに至れり。 されども、 一八五八年以前は、 英国にてはいまだ合衆国におけるがごとく盛大ならざりしが、  一八五五年に最もこの術に熟達せるホー  ム氏の米国より渡来して、 爾来種々の奇怪を現示せしより、 大いにその術の流行を催すこととなれり。 このホー ム氏は賤民の子にして礎も教育なきものなれども、 幼少のときより奇怪を現示するに長じ、 そのロンドンにきたりしときは、 手を触れずして音楽を奏し、 または食卓をして自然に動転せしめ、  もっ て自ら無形の精需の力をかりてこれを演ずるものなりといい、あるいは公衆の目前にてホー  ム自身の体は 瓢然空中に飛揚し、その所有せる物品もことごとく空中に浮遊せしめたりき。  これらの怪事、  ひとたび世間に喧伝せし以来、 各国の王族までもみなこれを信じ、 命じて王宮にて実験せしめたりという。

右の諸術は実に奇怪なることにして、  近世に至りはじめてこの妖術を発見したるがごとく信ずれども、  その実は古来より民間に伝われるものにして、  決して今日の新不思議にはあらざるなり。 ことに西洋にては、 近世大いに喋  々 するに至りしことなれども、  東洋諸邦にては昔時より一般にこれを唱え、  わが国のごときも一種固有のもの存して、 その道に従事するものは、 遠く神代より伝わりて今日に至れりという。 もとより、 その方法および名称は彼此大いに異なりといえども、 その実は全く同一なれば、  これを説明するにもまた同一の道理に基づかざるべからず。

見よ、  わが国においても、 神憑りの談話は古代より一般に伝うるところにして、 また巫女のごときは幽冥界に通じて、  その事梢を吾人に告示するものなることを、  その他、 空中に物品の飛揚する怪事のごときは、  今日にても年々諸方にて問き及ぶところにあらずや。 特に西洋の鬼神術家の喋々する「テー  プル・ター ニング」および「テ— プル・トー キング」すなわちこれを直訳して机転術および机話術なるものは、  これ近来わが国にて大いに行われし「コックリ」と全く同一なれば、 予はまず、 この「コッ クリ」についてその説明を与え、  つぎに催眠術、 降神術等に及ぼして論ずるところあらんとす。



第四一  節  「コックリ」の流行

西洋のいわゆる鬼神術の一種が数年前、  一時大いにわが国に流行せしことあり。  その名を「コッ クリ」と称し、これに配するに「狐狗狸」の字をもってす。  あるいは「告理」の語を用うるものあり。  先年、 その盛んに行われたる際には、 いたるところこの法を試みざるはなく、 これを試むるものは吉凶、  禍福、  細大のことに至るまで、ことごとくこれによりて卜見すべしと信ずるをもっ て、 往々、 弊害を生ずるに至れり。 余が聞くところによるに、大阪府下にては一時大いに流行したるも、  その弊害したがっ て生ぜしをもって、 警察署よりこれを禁じたりという。  余がその当時、 各地方に流行する影響を聞くに、 伊豆下田近傍のもの、 自身の妻に情 郎あるかなきかを「コックリ」に向かっ てたずねたるに、 情郎ありという答えを得たるをもっ て、 ただちにその妻に離縁を命じたりという。  かくのごときの類、 もとより一、 二にしてとどまらず。 その際、 発兌の「明教新誌    上に、 三田某氏の寄せられたる一困あり。 その中に曰く、小生、  一夕某氏の宅を訪いしに、  老幼男女相集まり「コッ クリ」ようの遊戯をなすを目撃せり。 そのとき種々さまざまのことを伺うに、 十中六七は当たるもののごとし。 しかれども、同席の一人曰く、「既往のことは大概誤らざるも、 将来のことは当たり難し」と。  それはともかくも、 同家に一人の病者(別席に臥す)あり。  その生死を伺いしに、「本年某月某日に死す」と告げ、 また、 同席の未婚女その結婚の期日を伺いしに、「本年中に結婚し、  その夫は美なり」と。 また他の一人、「地所を買い入れんとす、 利益ありやいなや」と問えば、「あり」と答えり。 その三、  四名のもの将来の貧富を問いしに、  いずれも富と答え、 しかして余もそのうちの一人なれども、 もとよりこれを信ぜず。  世人のこれを信じて盛んに流行するに至らば、 その弊害挙げていうべからず。 大方の君子、  一日も早くこれが理を究めて、  かの迷信者を諭されんことを切望の至りにたえざるなり。

また、 その当時府下にて流行の景況を見るに、 書生輩が休日の晩には下宿屋に数名相会し、 種々さまざまのことを問いかけて一夕の遊戯となし、 市中にては往々、  歌舞、 音曲を交えて「コックリ」とともに躍り戯る等、 実に笑う べきの至りならずや。



第四二節  「コックリ」の方法

余が諸方より得たる報道によるに、「コッ クリ」の仕方は国々によりて不同ありて一定せざるもののごとし。今、 左に一、 二の報道を挙げて、 その仕方を示さんとす。まず、  美濡国山田大助氏より寄せられたる書状によるに曰く、名古屋岐阜をはじめ、 尾濃いたるところ当春来時流行せしものは、 その称を狐狗狸また御 傾 きと名付くるものなり。 その方、 生竹の長さ一尺四寸五分なるもの三本を造り、 緒をもって中央にて三叉に結成し、  その上に飯櫃の蓋を載せ、 三人おのおの三方より相向かいて座し、 おのおの隻手あるいは両手をもって櫃の蓋を緩くおさえ、  その内の一人はしきりに反復、「狐狗狸様、  狐狗狸様、  御移り下され、  御移り下され。  さあさあ御移り、 早く御移り下され」と祈念し、  およそ十分間も祈念したるとき、「御移りになりましたらば、  なにとぞ甲某が方へ御傾き下され」といえば、 蓋を載せたるまま甲某が方へ傾くとともに、 反対の竹足をあぐるなり。  そのときは三人ともに手を緩く浮かぺ、  蓋を離るること五分ほどとす。  それより後は、  三人の内だれにても種々のことを問うことを得べし。 すなわち、「彼が年齢は何歳なるか。 一傾を十年とし、 乙某または丙某が方へ御傾き下され」というとき、 目的の人三十代なれば三傾し、 五十代なれば五傾すべし。端数を問うに、 これと同じくただ一年を一傾となすのみ。 また、「あなたは甚句躍りは御好きか御嫌いか、 御好きならば左回りを御願い申します」といえば、 好きなれば回転し、  嫌いなれば依然たり。 このときもまた手を浮かぶるなり。  左右回りに代うるに御傾き何遍と望むも、 あえて効なきにあらず、  かえって効あり。 その他、 なんの数を問うも、 なにごとをたずぬるも、 知りたることは必ず答えあり。 甚句躍り、 カッポレ躍り、なににても好きなるものは、たとい三人は素人なるも、三叉足が芸人の調子に合わせておもしろく躍るべし。

このときまた手を緩く浮かぶるなり。 傍観者にして伺いたきことあるときは、  三人の内へ申し願いすべし。また、  傍観者自ら代わっ ておさえんとするも勝手次第なり。  識者もこれを実験して、 その理に黙するあり。たとい黙せざるも名称によりて答うるのみ。 取るべき説なし。 生これを研究せんと欲し、 諸所に臨んで人の行うところを試むるに、  信仰薄きものは、 たとえ三十分間おさえおるも移ることなく、 男女三人なればよく移り、  空気流通して精神を爽快ならしむる場所にては移ること遅く、  櫃の蓋の上に風呂敷を覆えばなおよく移るなり。

また、 茨城県前島某氏の報知によるに曰く

(前略)  竹の長さを九寸三分かあるいは七寸三分に切りて、  三本とも節を中央に置き、 その点を麻にて七巻き半巻きつけ、  その上に金輪にあらざる食鉢の蓋を載せ、 その蓋の内には狐狗狸の三字を書し、 その蓋の上には奇数の手を載するを規則とす。  つぎにその使用法は、 若干の人、  その周囲に座し、  実に鄭重なる言語をもっ て「「コックリ」様、  御寄りになりましたら早く御回りを願います」という。  そのとき、 載せたる蓋およびその上に緩く載せたる手、  ともにわれわれの請求に応じて、 あるいは左、 あるいは右へ回転するなり。例えば、 人の年齢をたずぬるとせんか。「何某の年は何歳なるや御分かりになりますか。 御分かりになるなら左に御回りを願います」というときは、  すなわち蓋および手、  ともに左へ回る。  そのときまた、「+ 代なるか二十代なるか、 十代なれば右へ、 二十代なれば左へ」というて問うときは、 もし+代ならば右へ回るなり。もしまたそのとき、「+ 代にて十幾歳なるか、  十一歳なるか」と問うに、 十一歳なれば動き、  十一歳にあらざれば動かず。  この方法によりて吉凶、 禍福のいかんを伺うときは、 右または左へ回転してその暗答を得るな

また、  千葉県香取郡飯塚村寺本氏の報知によるに日く、近来、 僻地において「コッ クリ」と称し、  細き竹三本を一尺二寸ずつにきり、  中央より少し下の方を麻にて七回り束ぬ。 これに盆あるいは飯櫃の蓋を載せその上に布を加え、 三人にて三方より手を掛け、 暫時にして神の来臨ありと称し、 それより禍福、 吉凶、  その他、 いかなる事故にてもこれにたずぬるに、 当たらざるなしと申して愚夫愚婦を迷わしめ、 信ずるもの日に増し、 ただいまにては兵に神仏のなすところと妄想し、容易のことにてはその迷夢を覚破し難し(中略)。 ある人の説に、 これ電気の作用なりと申せども、  これまた了解しがたし、 云云  ゜

また、常州五頭氏の報知によれば、「盆の裏へ狐狗狸の三字を指頭にて書き、  それに風呂敷ようのものを掛け、これに燈 火をいたす、  云云」とあり。  信州湯本氏の報知によれば、「竹の長さ各一尺五寸なるものを取り、  その節をそろえ、 また緒を一尺五寸に切り、 前三本の竹を下より一尺ぐらいの所を結ぶ、  云云」とあり。 また、 ある無名氏よりの報知によるに、「大阪辺りにて用うるものは竹の長さ各一尺五寸にて、  左よりの麻縄をもってこれを縛し(中略)、  竹の足を「おコックリ様、  おコックリ様」と三遍唱えながら摩するときは、 種々奇怪なることを呈する由、 云云」とあり。

以上、 諸国に行わるるところの仕方は、 種々まちまちにして一定の規則なきは明らかなり。  竹の寸法、 縄の巻き方、 飯蓋、  風呂敷の装醤等は、 必ずしも前述の法式によらざるも、 適宜にとり行っ てしかるべし。 また、 これを試むるに当たりて、 あるいは衆人一同に「コッ クリ様御移り下され」というときと、 衆人中一人のみ導師となりていうときと、  衆人のほか別に崇敬者を立てていわしむるときとのいろいろの仕方あるも、 これまた、 いずれの法式を用うるも不可なることなし。  ただし「コッ クリ」は言語を有せざるをもっ て、 問いを起こすときは、 あらかじめその答えの方向を定めざる ぺからず。  これを定むるの法、 あるいは竹の足のあげ方を取り、 あるいは飯蓋の回転の仕方を取るの別ありて、 例えば、 明日の天気をたずねんとするときは、  まず、「天気の吉なるときは足をあげよ、 あるいは左右に回転せよ」と命じおくなり。  かくのごとく、 あらかじめ相定めて、  その告ぐるところの答えを見るに、 事実に適合するもの十中八九ありという。  これ実に奇怪といわざるべからず。  先年、 埼玉県中訂木某氏の報知を得たれば、  氏の実験の始末を左を掲げて、 その一例を示さん。

(前略)  座中の一人盆に向かい、 よびて曰く、「狐狗狸よ、 狐狗狸よ、 汝の座をここに設けたり、 速やかにきたれ」また曰く、「狐狗狸よ、  狐狗狸よ、 すでにきたらば、 その兆しとして盆を右方にめぐらせ」また曰く、「この盆を右方にめぐらすをいとわば、なんぞ左方にめぐらさざるや」このとき、盆の徐々に運行するを見る。 けだしこの動作たる、 突然行わんと欲するもあたわず、  少なくも三、  四回以上これを試みざれば動かず。 もっ とも一回この動作を呈せし家は、 その後いずれの日にこれを行うもきたらざるなく、  かつ、 そのきたるや迅速なり。 また曰く、「その盆をして一周せしめよ」このとき、 盆全く一周す。  また日く、「汝狐なれば、 この足(三本の竹の内一本を指していう)をあげよ」このとき、 足あがらざるをもっ て、 衆その狐にあらざるを知る。 また曰く、「汝天狗ならば、この足をあげよ」このとき、  また足あがらざるをもっ て、 衆その天狗にあらざるを知る、  また曰く、「しからば汝猫ならんか。 果たして猫ならばこの足をあげよ」このとき、 竹の足あがること一寸ばかり。  ゆえに猫のきたると仮定す。  また曰く、「汝この足を三寸ほどあげよ」このとき、竹の足のあがること三寸。  また曰く、「汝は甲村よりきたるや、 もし果たして甲村に住するものならばこの足をあげよ」このとき、 足あがらざるをもっ て、 すなわち甲村よりきたらざるを知る。  また曰く、

「もし乙村ならばこの足をあげよ」このとき、 足あがるゆえに、 乙村よりきたるものと断定す。  また曰く、

「汝は楽戯にきたるや」このとき、 足あがらざるゆえ楽戯にあらずと断定す。  また曰く、「しからば汝は物教えにきたるか。  物教えにきたるならばこの足をあげよ」このとき、  竹の足あがる。 すなわちその吉凶、 禍福を告ぐるためにきたるを知る。  また日く、「それがしの家には出火等の禍ありや」このとき、  足あがらず。  すなわち災いのなきを知る。 また曰く、「しからば、  それがしの家には幸福ありや。 もし幸福あらば、この足をあげよ」このとき、 足あがらず。  また曰く、「しからば福きたらざるか」このとき、 また足あがらず。 また曰く、「しからば、  いまだ全く明らかならざるか」このとき、 足あがる。  すなわち禍福いまだ知れずと判断す。  また曰く、「汝の年齢は幾歳なりや。  一歳を一足としてこの足をあげよ」このとき、  竹の足あがること十回なるをもっ て、  この猫の年齢十歳なるを知る。  また曰く、「明日は晴天なればこの足をあげよ」このとき、 足あがらず。 また日く、「しからば明日は雨天なりや」このとき、  また足あがらず。 また曰く、「しからば雪天なりや」このとき、  一本の足徐々としてあがる。 衆すなわち翌日は降雷と断定す(中略)。また「コックリ」に向かっ て問うて曰く、「汝は一本の足にて躍るや」このとき、 足あがらず。 また問う、

「汝は三本の足にて躍るや」このとき、 足あがらず。 また問う、「汝二本の足にて躍るや」このとき、  足あがる。 すなわち、 その二本の足にて躍るべしと断定す。 また問う、「軍歌にて躍るや」このとき、 足あがらず。また問う、「情 死節にて躍るや」このとき、 足あがらず。また問う、「しからば相撲甚句にて躍るや」このとき、  竹の足あがる。 よって一人、 相撲甚句を歌い、 竹の足二本とその歌の調子に合わせ、 こもごもその足を上下す。  歌人の音声清らかにして調子熟すれば、 その足の上下一陪迅速にして座中を縦横におどりあがる。 すでにこのときに当たりては、 これまで三人にてなしたるも、 ただ一人にて、 よくその足をして上下せしむることを得るに至る。

以上は、  その一例の概略を記載せしものなり。  その他、 小生の実験するところによるに、 晴雨、 年齢のほかに、 時間、 人数、  文字等のことをたずぬるも、  大抵みな適中すといえども、 例えば一 つの困籍を取りて、

この紙数は幾枚ありと問うがごとき綿密なることは、 確答を得ること難し。 また、 狐、 狗、 狸、 猫のほか種々の獣類至らざるなしといえども、  なかんずく天狗と名付くるもののきたるときは、 その予言もっともよく事実に適中し、 衆人の最も信用を招くところなり。 臼、 木鉢、 皿等の重最のものをめぐらして、  よくその足をあぐるは、  大抵この天狗のきたるときに限る、 云云。

これによりてこれをみるも、「コッ クリ」はよく未然のことを予言するの力あるがごとし。 余、  これを試みんと欲し、  先年自宅において前後数回試験を施したることあり。  はじめに、 ある学生四、 五名とこれを試みしに、 さらに要するところの成績を示さず。  つぎに、  いまだ学識に宮まざる年少輩数名をそのうちに加えて試みしも、 なおはかばかしき効験を見ず。  つぎに、  その年少耀と四十前後の婦人とをして、 これを験ぜしむるに、 果たして要するところの成績を得たり。  その後十余日を経て、 再びその年少罪と婦人と余と数名相会して、 大小、 長短一定せざるいろいろの竹を取り、  いろいろの蓋を用いてこれを試みしに、  みなその成績を得たり。  そのまた竹に代うるに他の器具をもっ てし、 あるいはキセル三本を用い、 あるいは茶壺のごときものを用い、  蓋に代うるに平面の板を用うるも、 多少その効験あるを見たり。 これによりてこれをみるに、  その装昭に一定の方式を要せざること明らかなり。 しかるに、  世間には一定の方式を用い、 婦人をその中に加え、  はなはだしきに至りては、  その人を選びその家を選び、 その日を選びてこれを行うがごときは、 他に考うべき原因、 事情の別に存するによることなれども、 愚民はその原因、 事情を知らざるをもっ て、 これを行っ てその要するところの成績を見ざるときは、 これ不吉の日に行いたるによるなり、 これ悪人のその中に加わりたるによるなりといいて、  奄もその道理を怪しまざるは、 実に愚の至りというべし。



第四三節  「コックリ」の伝来

今、「コックリ」の原因、 事情を究明するに当たり、 まずここにその起源、 伝来を叙述するを必要なりとす。 余、そのいずれの地にはじめて起こり、 たれびとの発明せしものなるやを究めんと欲し、 諸国の有志にその流行のありさまを問い合わせたるに、 去る明治十八年の秋より翌十九年の春にわたりて相、 豆、 駿、 遠、  染の〔諸州の〕間に流行し、  その後、 西は京阪より山陽、 南海、 西国まで登延し、  東は房総、 常、 野、 武、  信の諸州にも伝播し、二十年には奥州に漸入するを見、 その翌年、 北陸地方に流行するに至れり。 これによりてこれを推すに、 このことは東海諸国に起因せしを知るべし。 しかるに、 人の伝うるところによるに、 この法は三百年前よりすでに日本に伝わり、 信長公、 はじめてこれを試みられたること旧記に見えたりといい、 あるいは徳川氏の代にこれを行いたること古老の言に存せりといい、 あるいは薩州より起これりというも、 みな坊間の風説にとどまりて確固として信を置くべきものなし。  しかれども、 その法の本邦に起こるにあらずして、 外国より入りきたりしことは疑うべからざるもののごとし。

この説によるに、 あるいは数百年前、 キリシタン宗に混じて本邦に伝わりしといい、 あるいは維新の際、 日本人のアメリカにありしもの帰朝してその法を伝えたりというも、  これまた信拠し難し。 なんとなれば、  数十年前すでに本邦に入りしもの、 なんぞ久しく民間に伝わらざりしや。  たとい維新前に本邦人中一、  二人のこれを知りしものありとするも、 近年来諸州に流行せしものは他の起源あるによるや疑いをいれず。  余が捜索せしところによるに、 その流行の情況あたかも波動の勢いをなせり。 けだし、 そのはじめて起こりし地は豆州にして、  その地より「コッ クリ」の報道を得たるは明治十八年にあり、 これを本邦流行の濫 腸 とす。  余、  先年夏豆州に遊び、  その地の流行の実況を捜索して、 はじめてその説の真なるを知れり。 明治十七年ごろのこととかや、  アメリカの帆走船、  豆州下田近傍にきたりて破損したることあり。  その破船の件に関して、  アメリカ人中久しくその地に滞在せし者ありて、 この法を同地の人民に伝えたりという。  そのとき、  アメリカ人は英語をもっ てその名を呼びたるも、 その地のもの英語を解せずして、 その名の呼び難きをもっ て「コッ クリ」の名を与うるに至れり。 けだし、「コッ クリ」とは「コッ クリコッ クリ」と傾くを義として、 竹の上に載せたる蓋の「コッ クリ」と傾くより起こるという。  これより一般に伝えて「コッ クリ」様と呼び、 その名に配するに「狐狗狸」の語を用うるに至りしなり。 果たしてしからば、 この法は西洋より伝来したるものにして、  その流行は豆州下田より起こりしこと明らかなり。  当時下田にありし船頭の輩ひとたびこの怪事を実視し、  その後、 東西の諸港に入りてこれを伝え、 西は尾張または大阪に伝え、 束は房総または京浜の間に伝えしや必然なり。  ゆえに、 その東京に入るも深川、  京橋等の海辺より始まる。 これによりてこれをみるに、 昨今流行の「コックリ」は豆州下田に起因せること、 ほとんど疑うべからざるなり。



第四四節    西洋の「コックリ」

かくのごとく定むるときは、  さらに進みて、 西洋にこの法の存するやいなやを考うるを必要なりとす。 すなわちさきに述べしがごとく、 西洋に鬼神術の一種として伝うるところの「テ    プル・ター ニング」(机転術)および「テー  プル・トー キング」(机話術)と称するもの、 まさしくその起源なり。  その法、「コックリ」と寇も異なることなし。 今、 その使用法を考うるに、「テー  プル」の周囲に数人相集まり、 ぉのおの手を出だして軽く「テー  ブル」に触れ、 暫時にしてその回転を見るに至るなり。 また、「テー  プル」に向かっ て種々のことを問答するに、 これにその答えを与うるなり。  その法、 すでに回転したる「テー  プル」に向かい、「神様は存在せるものなりやいな ゃ。 もし存在せるものならば回転をやめよ」といいたるとき、「テー  プル」これに応じて回転をやむることあり。あるいは地獄極楽の有無を問うて、「その存在せざるときは床をうつぺし」というに、テー  プルまたこれに応じて、自らその足をもって床をうつことあり。  その状、 あたかも人がその間に立ちて応答するに異ならず。  今、 カー  ペンター 氏〔の〕『心理書』中に挙ぐるところの一例を引いてこれを示すに、 ジップシンと称する者、  その友人一名とともに「テー プル」に向かい、「当代の女王は王位に昇りて以来幾年を経過せしや」と問いたるに、「テー プル」その床をうちて「十六年なり」と答えたり。 また、  その太子の年齢をたずねたるに、「十一歳なり」と答えたり。しかるに、 両人ともに当代の女王即位の年月と太子の年齢とを知らざるをもっ て、 年表について験するに、 果たしてその答えのごとし。  またつぎに、  その家の店に幾人仕事しているかをたずねたるに、  三回床をうち、 二回足 をあげて答えたり。 しかるに、  店頭に大人四名と童子二名ありというを聞き、 その三回床をうちたるは誤りなり と考えしに、 しばらくありて、 その一人は府外に出でて店にあらざるを思い出だし、 はじめてその告ぐるところの真なることを知りしという。

これらの形情を聞くに、  その法、 わが国に行わるるところのものと同一なること明らかなり。 ただその異なるは一つは「テー プル」を用い、 ーつは三本の竹と飯櫃の蓋を用うるの別あるのみ。  これによりてこれをみるに、下田にきたりしアメリカ人は、  かつてその本国にありしとき、  この法を知りたるものにして、 けだし、 鬼神術の会員の一人ならん。 そのきたりて下田にあるの際、  手もとに適宜の「テー  プル」なきゆえ、  臨時の思い付きにて、竹と蓋とをもってこれに代用したるならんと想像せらるるなり。 しかして、  そのアメリカ人はこの法を呼んで「テー プル・ター ニング」とかいいて伝えたるも、  その土地の者、 洋語に慣れざるをもっ て、「コッ クリ」の語を代用するに至りしなりと思わるるなり。 ゆえに余は、「コッ クリ」の起源はすなわち「テー プル・ター ニング」なりと信ず。



第四五節  「コックリ」の原因

上来すでに「コッ クリ」の方法、  およびその伝来を述べたるをもっ て、 これより道理上その原因、 ホ梢を説明せんと欲するなり。 通常の人はその原因を考えて、 これ狐か狸の所為なりと信じ、 または鬼神の所為なりと唱え、やや知識あるものは、 これ、 決して狐狸、 鬼神のなすところにあらずして、 電気の作用なりといい、 あるいはまた、 妖怪を信ぜざるものに至りては、 これ、 決して天然に起こるものにあらず、 その中に加わりたるもの故意をもっ てこれを動かすか、 しからざればその実、 動かざるも動くように見ゆるなりという。  しかれども、 余が実験するところによるに、 その動くことは必然にして、 これに加わりしもの必ずしも故意をもっ て動かすにあらざることまた明らかなり。 すなわち自然に動き、 自然に傾き、 自然に回転するなり。  その盛んに動くに当たりては、ことさらにこれをおさえんと欲するも、 やむ ぺからざるの勢いあり。 ゆえに、  その原因は決して人の有意作用に帰するの理なし。 しからば、 これを電気作用に帰せんか。 曰く、「もし電気に帰すれば、 その電気と装慨との間にいかなる変化を起こして、 あるいは動き、 あるいは傾くの作用を示すかを説明せざるべからず。 近ごろ世間に電気の語を濫用して、 物理上説明し難きものあれば、  みなこれを電気に帰するも、 これ、 決して余がとらざるところなり。  ゆえに、 電気のいかにしてこの作用の起こすか、 いまだつまびらかならざる以上は、 その原因を説明したりと許すべからず。  しからば、 これを狐狸の所為に帰してやまん」と。  日く、「狐狸もとよりかくのごとき作用を有すぺき理なく、 鬼神そのなにものたるか、 いまだ知るべからざれば、 これに帰するもまたその原因を説明したりと称し難し」これ、 余が狐狸、  鬼神のほかにその原因を発見せんことを求むるゆえんなり。

さらに疑いを起こしてこれを考うるに、  その動くも、  その傾くも、 鬼神のこれに憑りて生ずるところなりというも、  知識、  学問のある者にはその験なく、 無知、 不学のものにはその験あり。  別して婦女子のごとき信仰心の厚きものに効験著しきは、  鬼神のなすところにあらずして、 他に考うべき原因ある一証なり。 また、  その人の問いに応じて答えを与うるも、 十は十ながらことごとく事実に合するにあらず、  十中の八九は合することあるも、二は合せざることありという。  これまた、 他に考うべき原因ある一証なり。 あるいはまた、 これに向かっ て過 去のことを問うときはその応答事実に適中すること多きも、 未来のことは事実に適合せざること多しといい、  簡短のことはその答えを得べきも、 細密、 錯雑のことはその答えを得べからずという。 これまた、 他に原因ある一証なり。  その他、 鬼神の果たして飯蓋または茶盆に憑るべきものならば、  必ずしも人の手のこれに触るるを要せざる ぺし。 しかるに、 これに触るるを要するは、 また他に原因ある一証なり。 かつ、  その動揺、 回転するは鬼神のなすところとするときは、 三本竹のごとき、 最も動揺、 回転しやすきものを取るを要せざるの理なり。 しかるに、 その最も動揺、 回転しやすきものを取るは、 また他に原因ある一証なり。 今、 余はこの原因を物理的、 心理的の二様に分かちて説明せんと欲す。 あるいはこれを外界、 内界および内外両界の中問の三段に分かちて論ぜんとす。 すなわち左のごとし。


第一、  物理的説明第二、 物理的説明

外界のみによりて起こる原因、 すなわち「コックリ」の装慨自体より生ずる原因

内外両界の中間に起こる原因、 すなわち人の手と「 コックリ」の装置と相触れたるときの事情より生ずる原因

第三、 心理的説明    内界のみによりて起こる原因、 すなわち人の精神作用より生ずる原因

そのうち、 第三の原因を最も大切なるものとす。 しかして、  第一の原因は格別説明を要するほどのものにあらざれども、 これより次第に説き及ぼして第三に至るはその順序よろしきをもっ て、  まずはじめに第一の原因を述ぶべし。

第一の原因は、「 コッ クリ」の装懺、  すなわち三本の竹と飯櫃の蓋のすでに動揺、  回転しやすき組み立てを有するをいう。 けだし、 三本足の組み立ては、 左右に回転するにも、 上下に動揺するにも最も適したるものにして、別して細き竹に重き蓋を載するがごときは、 自然の勢い動揺せざるを得ざる事情なり。 その他、 竹の長さを限り、紐の結び目を定むるがごときは、 また自然に動揺すべき点をとるなり。 これをもっ て、 その装置は外より静かにこれに触るるも、 ただちに動かんとするの勢いを有す。 これ、 その回転する一原因なり。

つぎに、  第二の原因は内外両界の間に起こる原因にして、 けだし、 いかなるものも多少の時問、  手を空中に浮か ぺて一物を支えんとするときは、 必ず手に動揺を生ずるを見る。 これ、  活動物一般の常性にして、 たといその一部分たりとも、  永く静止して空中の一点に保つことあたわざるものなり。  たといまた、 衆人中一人くらいは手を静止することを得るも、 衆人ことごとく同時に静止することあたわざるは必然なり。 ゆえに、 もしそのうちの一人、  一寸手を動かせば、  ただちにその動静を「コッ クリ」に伝え、 二寸の動揺を示すべきは装置の事情すでにしかるなり。  これに他の人々の力の同時に加わることあるときは、 またいくたの動揺を増すに至るべし。  かくして、  ひとたび回転したるものは、 習慣性の規則に従って永く回転せんとするの勢いを生ず。 別して衆人の力、 再三重ねてこれに加わることあるときは、 数回小回転ののち著しき大回転を見るに至るべし。  そのはなはだしきに至りては、 ほかよりこれを抑止せんと欲するも、 ほとんど抑止すべからざるの勢いあるも、 また自然の道理なり。

かくして手も身体もともに動揺するの習慣を生ずるに至れば、  これを無意無心に任ずるも、  知らず識らず動揺するを見る。  そのすでに動揺するに当たりては、 手の一端にわずかに微力を加うるもただちに回転し、  また、 たやすくその足をあぐるに至る ぺし。  別して、 その回転の盛んなるに当たりては、  おのおのその手を放ちて、 これをその自然の勢いに任ずるも、 室中を横行して踏舞の状を呈するに至るは、 これまた習慣性の永続によるなり。これを要するに、  第一に、 人をして数分問その手を蓋の上に浮かべしむるときは、  必ず疲労を感じて動揺せんとするの事情あり。  第二に、 その装置すでに動揺しやすき組み立てを有するをもっ て、 これに一寸の変動を与うるも一尺の動揺を呈するの事情あり。  第三に、  一人これを動かせば衆人これに郭応して、 ますます著しき動揺を生ずるの事情あり。  第四に、  数回重ねてこれに動揺を与うるときは、  ますますその動勢を増進するの事情あり。 第五に、 数回回転の後は` 手も身体もともに動揺するの習慣性を生じて、 覚えず知らずその手を動かすの事情あり。第六に、  その装留もまた習恨性を生じて、  手をもっ てことさらにこれに触れざるも、  自然の勢い回転を永続せんとするの事情あり。 これらの諸事情あるによりて、「コッ クリ」の回転を見、 その回転はなはだしきに至れば、 あるいは足をあげ、 あるいは足を転じて踏舞の状をなし、  室中を自在に横行するの勢いを示すに至るなり。

余、  かつてこれを試むるに、 二、  三人にてなすよりは、 四、 五人にてなす方よろしきように覚えたり。 これ、衆人の力相加わること多ければ、 ますます著しき回転を示すぺき道理あるによる。  しかれども、 衆人の与うるところの動揺の調子互いに相応合するにあらざれば、  かえってその動揺を妨ぐるの事情あるをもっ て、 三、  四人にてなす方かえっ てよろしきことあり。 もし、 その回転の際、  一人不意に笑いを発してその調子をくるわするときは、 たちまちその動揺をやむるに至るは、 けだし、 この道理あるによる。 かの有名なる物理学者ファラデー 氏も、一種の方法によりて「テー プル」の回転するは、  人の手よりその震動を与うるゆえんを証明せり。「コッ クリ」もまたしかりとす。 しかれども、  この第一、 第二の原因のみにては、 いまだ「コッ クリ」の説明を与えたりと称すべからず。 なんとなれば、「コッ クリ」はなにびとのこれを行うも必ずその効験あるにあらずして、  生来信仰心の厚きもの、  知力に乏しきもの、 または婦女子のごとき感動しやすき性質を有するものありて、 これに加わるときはたやすくその回転を見、 知力に長じ信仰力弱きものは、 なにほど試験を施すも、 これをしてその回転を示さしむることあたわず。 これによりてこれをみれば、 第一、 第二の原因のほかに別に考うべき事情あるぺし。  これ、余が第三の原因を設くるゆえんなり。

第三の原因はまさに心理的説明にして、 これ全く精神作用よりきたるものなり。 今、 余は便宜のため、 この原因を内因と外情とに分かちて説明せんと欲す。内因とは、 人の心性自体の性質より生ずるものをいい、外情とは、その心性作用を促すところの種々の事情をいうなり。 まず第一に内因を述べんに、  その主たるものを不覚筋動と予期意向の二者とす。  今、 この二者を知らんと欲せば、 その作用のなにものたるを一言せざるべからず。 しかれども、 このことはすでに「総論」説明編においてこれを述べ、 また余が「妖怪玄談    中に詳論せるをもっ て、  ここにこれを略す。 しかして今、「コックリ」の回転はおもにこの予期不覚に基づくものにして、 これを試むる人は大抵みなあらかじめ「コッ クリ」の回転するを知り、 またその回転の人の問いに応答するを知るをもっ て、  その思想、 知らず識らず発現して手の上に動作を起こし、 ただにその回転の結果を見るのみならず、 その回転のよく人の問いに答えて事実を告ぐるの結果あるを見るに至るなり。 今左に、  先年「やまと新聞きて、 その一例を示さん。 曰く、に掲載せる一項を引巣鴨におる勇公というもの、 このほど王子に茶屋奉公して於辰という女を女房にもらいしが、 この節流行の狐狗狸を始め、 勇公が「もし狐狗狸様、 於辰もこれまでよい人がありましたろう。 あっ たなら足をあげて下さい」というと、  その足があがったので於辰も負けぬ気で「勇さんには今でもなにかありましょう。 あるならこっちの足を」というと、 またそのとおりにしたのがもとで、  喧嘩をし出だしたに、 母は見かねて「今のは串 談にしたのだ。  狐狗狸様、 串談に違いないなら右へ回っ て下さい」というと、 またまたそのとおりしたので、  三人一度に大笑いとなりて済んだという。これ、 その心に思うところの意向に応じて筋動を生ぜしによる。 しかりしこうして、  思想と運動との間に互いに連結するありて、  甲の思想には甲の運動を現し、  乙の思想には乙の運動を現して、 甲乙相混ぜざるはいかなる理によるかというに、 これまたさきに挙ぐるところの習慣連想の規則による。 すなわち、 音楽を聴かんと思えば自然に耳を傾くるは、 その平常経験の際、  音楽の思想と聴官の作用との間に連合を生じて、 音楽を思えばただちにその作用を聴官の上にきたすの関係を習成せしによる。  ゆえに、  策子を取らんと欲すれば自然に手を出だし、歩行をいたさんと思えば自然に足を出だすに至り、 菓子を取らんと欲して足を出だし、 歩行をいたさんと思っ て手を出だすものなきなり。 これみな平時反復経験の際、 習慣性の力によりて、  この連合を生ぜしものなり。 今、「コッ クリ」の回転するを知れば自然に手の上にその動作を現し、 左右へ回転せんことを思えば左右にその力を加え、 足の上下するを求むればその上下にその力を加えて、 自然にその期するところの結果を示すに至るも、  自ら全くしらざるなり。 その他、  人の年齢を「コッ クリ」に向かっ て問うに、  その答えあるは、 これを問う人あらかじめその年齢を知るをもって、 不此筋動を生ずるに至るなり。  しかるに、 明らかにその年齢を知らざるもの、

「コッ クリ」にたずねてこれを知ることあるはいかんというに、 これまた不覚筋動によるものなり。 けだし、   覚筋動は必ずしもその明らかに知るところのものより生ずるにあらず、  その想像するところ、 その推察するところのものより生ずることまた多し。

例えば、 明らかにある人の年齢を知らざるも、  その人の外貌、 挙動について、  多少その年齢を察知することを得るをもっ て、 その察知せしところのもの、 自然に筋動を生ずるに至るなり。 しかして、 そのこれを察知するも、連想力によりて自然に起こり、  その筋動を生ずるも、 またこの力によりて自然に起こり、  さらにこれを識覚することなし。  店に幾名の人あるを知らずして、「コッ クリ」にたずねてその実を得、 戸外に子供幾人あるを知らずして、「コッ クリ」に問うてその数を知るがごときは、  全く想像、  推察によるものなり。  すなわち、  その心に自然に想像、  推察するもの、 知らず識らず筋動を生ずるに至りしなり。 しかして、 その想像は経験、 連想の力によりて自然に生ずるをもっ て、 必ずしも意力を用いてこれを想起するにあらず、 また推理によりてこれを論定するにもあらず。 ただ自然の努い、  知らず識らずその想を現ずるなり。 例えば、 われわれが故人の名を思えば、 その容貌自然にわれわれの想俳中に現ずるがごとし。 また、 たとい一面識なき人も、 その名を聞けばおのずからその容貌を思い出だすがごとし。  これをもっ て、 明らかに知らざることも、「コックリ」に問うて知ることを得るに至るなり。 その他、「コッ クリ」の回転するに当たり、 獣類中天狗のきたるときはその力最も強く、 弱小なる獣類のきたるときはその力また弱しというがごときも、  連想の規則によりてしかるなり。 すなわち、  われわれが天狗について、 その力の強きを知るときは、 天狗と強力との間に思想の連合するありて、 天狗のきたると恩えば、 自ら強き力をこれに与うるをもっ て、「コッ クリ」もこれに伴いてまた強き回転を示すに至る ぺし。 これに反して、 弱き獣類のきたると思えば、 弱き力を与うるをもっ て弱き回転を見るに至るなり。 これみな、 連想より生ずる不覚作用といわざるべからず。

ここにまた、  一時記憶に失して自ら識覚せざることの、 不北筋動となりて現ずることあり。 例えば、  一時失念したることの夢中に現じ、 衷言に発することあるも、 自らそのいかにして発現するを識党せざるがごとし。 余がかつて経験するところによるに、 ある人の苗字を知りて実名を忘れたることあり。  そのとき、  なにほどこれを考うるも思い出ずることあたわざりしに、 筆をとりてその苗字を書き終わりたれば、  自然の筆勢によりて、 その実名を書き出だせしことあり。 また、 字に書かんと欲して忘れたるものを、 口に発して思い出ずることあり。 これ、ややその性質を異にするところあるもまた、  一時の記憶に堀れたるものの不覚筋動となりて現ずるものなり。 しかして、  その一時の失念は種々の事情より生ずるも、 余が案ずるところによるに、  意向または心力の他の部分に会注して、 その記憶の存する部分に不覚を生ぜしによるならん。  これをもっ て、 自ら記憶せざることを「コッ クリ」にたずねて知ることを得、 あるいは自ら現に知るところのものと全く反対したるものを、「コッ クリ」の答えによりて知ることあるなり。 もしそれ、「コッ クリ」に向かっ て未来のことをたずぬるときは、 単に想像または推察によるよりほかなし。  ゆえに、 その応答、  事実に合せざることなからざるべからず。 しかるに、 人の試むるところによるに、「コッ クリ」に向かっ て過去のこと、 または自ら経験したることを問うときは、 大抵事実に適中するも、 将来のこと、 もしくはいまだ経験せざることを問うときは、 適合せざるもの多しという。 これ、 もとよりその理なり。 もし果たして「コッ クリ」は鬼神の作用によるならば、 末来のことも過去のことと同様に確実なる応答を得ざる ぺからず。 しかして、 そのしからざるは、  鬼神の作用にあらざる一証なり。  およそ未来のことは、過去の経験に準じて多少察知すべきのみならず、  またほかにこれを知り得 ぺき事情あり。 例えば、 明日の天気の良否を卜するがごときは、  その良なるか、 不良なるか、 その中間なるか、 の三答のほかに出ずることあたわず。

ゆえに、  われわれは無意、 偶然に判断を下すも、 その判断の三分の一はぜひとも事実に適合す ぺき割合なり。  これにそのときの種々の事梢を参考するときは、 十中の八九は事実に適合することを得 ぺし。  ゆえに、「コックリ」のよく未来のことを判断することあるも、 あえて驚くに足らざるなり。

ここにまた、「コッ クリ」は人の思想に従って起こるゆえんを証する一事実あり。  近ごろ洋学得生の内にては、「コッ クリ」に向かっ て英語またはドイツ語をもっ て問答することありという。 すなわち、  これを試むるもの英語を知れば、「コックリ」もまた英語を知り、 これを試むるものドイツ語を知れば、「コッ クリ」もまたこれを知るの別あるは、 その問答ともにわが方になすところの不覚作用によるや明らかなり。  また、「コッ クリ」に向かって答えを得るは、 極めて単純なることか、  または一般に関することに限り、  その複雑または細密のことに至りては、「コッ クリ」の応答を得ること難し。 例えば、「コッ クリ」に向かっ て明日は雨か晴れかをたずぬるときは、その応答を得べきも、 何時何分より雨降り、 何時何分に風起こるかをたずぬるも、決してその応答を得べからず。これまた、「 コッ クリ」は鬼神のなすところにあらざる一証なり。

これによりてこれをみるに、「コッ クリ」のわが意のごとく回転し、わが問いに応じて答えを与うるは、全く予期意向と不覚筋動とによること疑いをいれず。  しかして、 これを試むるもの、 ことごとく不覚筋動を生ずるを要せず。  そのうちの一人この不覚筋動によりて転回の微力を与うるときは、 他の人の力、 自然にこれに加わりて次第に大運動を現ずるに至るは必然の勢いなり。  余が経験するところによるに、「コッ クリ」の仲間に婦人一名を加うれば速やかに回転すといい、  信仰者一名を加うればたやすく動揺すというも、 またこの理にほかならず。 けだし、 婦人はその性質いたって感じやすく、  信じゃ すきものなるをもって、 予期意向のいたって強きものなり。  また信仰者はその一事に意を注ぐをもっ て、 これまた不党筋動を生じやすきものなり。  先年、 下田港において、 数名の巡査相集まりてこれを試みたるに、 その回転を見ず。  さらに他の信仰者一名これに加わりて試みたるに、   ちまち回転の成績を得たりという。  これ、  そのとき巡査もすでに信仰心を起こしたるによる。  信仰心とは心のある一方に怖向することにて、  余のいわゆる予期意向と同一なり。  人に予期意向なきときは回転を生ずべき理なきはもちろん、その力弱きときはその運動もまた弱く、その力強きときはその運動もまた強きの関係あるをもっ て、回転の強弱は信仰心の厚薄に伴うゆえんを知るべし。 これに反して、 信仰心なき者は心の全力を一方に会注せざるのみならず、 その全身を支配するの知覚を失せざるをもっ て、 不邸筋動を現ずるに至るべき理なし。  これ、  知力に宮みたる者および虚心平気の者には、「コッ クリ」の回転を見ることなきゆえんなり。 婦人にても、  これにくその回転すべき理なきを説き明かし、その場に臨んで目を閉じて、 つとめてその心を虚静に保たしむるときは、大抵回転せざるものなり。 しかれども、 前来数回経験してその回転を見たるものは、 自然に前時の思想に支配せらるるをもっ て、  その心を虚静に保つことはなはだ難しとす。 もし、 婦人をして不覚筋動を生ぜざらしめんと欲せば、  いまだ一回も経験せざるものにおいてすべし。

また、  上田某氏の報知によるに、  老人たちにて試むるよりは、 少年甜にて試むる方効験ありという。  これまたその理あり。  少年輩は心身ともに強壮なるをもっ て、 予期意向と不覚筋動を生じやすきものなり。 老人はこれに反して意力、  知覚ともに衰えたるをもっ て、 その心をある一方に集合するの力、 はなはだ弱し。  かつ、 年齢の長じたるものは、 実際の経験に富むをもっ て、 前後の事情を酌量して猶予思考するの傾向あり、 これに従って不覚筋動を生ずること難きなり。  さらに一例を挙げて予期意向の影響を示さんに、 例えば、  かすかに一声を聞きて、その声判然せざるとき、 これを人語なりと予期して聞けば人語となりて聞こえ、 これを禽音なりと予期して聞けば禽音となりて開こえ、これを水声なりと予期して聞けば、水声となりて聞こゆるものなり。  鴬   声 を聞きて「法華経となく」と思えば、  法華経となりて聞こえ、    胆    声を聞きて「不如帰去となく」と思えば、 不如帰去となりて聞こゆるものなり。 また、 夜中判然せざるものに接すれば、 あるいは人のごとく見え、 あるいは鬼神のごとく、 あるいは幽盆のごとく見えて、 わが心に予期するところ異なれば、 その形また異なるものなり。 俗にいう「足の音に蝙される」「風の音に瞬される」等は、  みなこれと同一理なり。 しかしてこの理また、「コッ クリ」の説明を与うることを得るなり。 今、 これを試むるに当たり、  そのうちに加わりたるもの、 特にその実際回転を予期するときは、 そのいまだ判然たる運動を現ぜざるに、 すでに多少の運動を現ずるがごとく見え、  一寸回転すれば一尺回転するがごとく見ゆるに至る。  これ大いに「コッ クリ」の作用を助くるものなり。

以上論ずるところ、  これを要するに、「コックリ」の主原因は意向、  信仰より生ずる不覚作用にして、 すなわち予期意向と不覚筋動より生ずるものなり。 他語もっ てこれをいえば、  その心において、 あらかじめかくあるべしと思うところのもの、知らず識らずその作用を筋肉の上に起こして、自ら要するところの結果を得るに至るなり。ゆえをもっ て、 婦人および子供のごとき予期意向を生じやすきものに最も効験ありて、  学識あるものにその験なきに至るなり。

つぎに、 第二の外情より生ずる影響を述べんに、 これ、 矛期意向を促すところの事情にして、 すなわち人の信仰心を導くところの事情なり。  種々の儀式を設け、 種々の規則を定め、 種々の装飾をなして丁重、 厳粛にこれを行うがごときは、  みな人の信仰をむかうるものにほかならず。  例えば、 竹の中に狐狗狸の札を入れ、 あるいは縄の中に婦人の髪の毛を入れ、 あるいは風呂敷をその上に加え、 あるいは蓋を火に暖めなどするは、  みな予期意向を導くものに過ぎず。  別して酒肴、  供物をそなえ、  音曲、  踏舞をなし、 崇敬者一人その傍らに立ちて崇敬の状を呈し、 その仲間の一人粛然として、「コッ クリ」様御移り下されと祈願し、  日を選び家を選び人を選ぶがごときは、  みな人の精神作用を促すものなること疑いをいれず。  その他、 輿論の影響、「コッ クリ」の名称等大いに関係するものなり。  さきにすでに示すごとく、 世間「コッ クリ」に配するに狐狗狸の語を用うるをもっ て、  人その語を聞きてただちに狐狸の霊のきたり憑るものと想定し、  その名称すでに予期意向を促すの領向あり。 これに加うるに、 世間一般に「コックリ」とは鬼神、 狐狸のこれに憑りて吉凶、  禍福を告ぐるものといい伝え、「コッ クリ」を称して妖怪を招く法なりと唱うるがごときは、 また、 大いに人の予期意向を助くるものなりとす。



第四六節  「コックリ」の説明


以上、「コッ クリ」の原因を述べて、  その起こるゆえんを説明したるが、 さらにここに泰西諸家の机転術について述べられたる諸説を挙示せんとす。まず、カー  ペンター  氏の「心理書』中より、「オジー ル」計に関する例証を摘載すべし。

西紀一八五年のころドクトル・ハー  バー ト・メー ヨー 氏は、  ライヘンバッハ侯の唱道せる「オジー ル」をもっ て自然界の一新勢力と信じ、  彼の前指あるいは母指より懸垂せる 紐 子、 小輪等の震動するをもって「オジー ル」力の発表せるものとなし、 これらの懸垂せる体を「オジー ル」計と称せり。  かくて氏は種々の方法をもっ て試験せる後、 右製動の方向および広狭は「オジー ル」計の下に置くべき物体の性質を変ずるか、あるいはこれに男子または女子の手を触るるか、 はた試験者の一手をもっ て、「オジー ル」計を持する他手に触るる等の別により変化すべきものなることを断定し、 漸次これらの成績より一定の理法を案出し、 これはなお、 天体の運行における直力法のごときものなりとなし    一時、 大いに人心を 査 動せり。

しかるに、  いったんメー ヨー 氏の試験ありしより、  その他の観察者も大いにこのことに注目し、 堅忍と誠実とをもっ てその研究に従事せしが、  メー ヨー 氏とは全く異なれる規則を得るに至れり。 すなわち、 すでに予期の注意が無意的筋運動を左右する勢力のいかばかりなるかを知れる人々の目よりみるときは、 いわゆる「オジー ル    力なるものも、 また同様の一例たるに過ぎずして、  その方向の変化する原因はかくかくの震動を生ずるならんとの観念に存し、 この念の常に知らず識らず心中に流行するより、  表発して右の現象を呈するものなること明白となれり。 しかして、 この説明の真実なることは、  少しく試験の情状を変ずることによりて証することを得たり。  すなわち、 いかなる予期の観念をも有することなく、 また他人の予想せることをあずかり知らざる人をして試験を行わしむるときは、さらに一定の成績を呈することなし。しかのみならず、さきに好結果を得たりし人々にても、 もし震動体(すなわち「オジー ル」計)よりその目を転じてこれを注視せざるときは、 これより震動の方向錯乱して、 奄も一定せざることなかりき。 これをもっ て、 笈動に一定の方向あるは、 決して磁気、 電気または「オジー ル」力によれるものにはあらずして、 試験者の観念が眼目の指導に従い、 手腕の筋肉を左右するものなること疑うべからざるに至れり。

また同書中、 机転、 机話に関する説明あり。

ジー ・エッ チ・リュー イス氏は、  かの机話、 神語等は、 これを実施する人の寇も知らざる答弁を与えて、着々適中するものなれば、  決して試験者の心中に流行せるところを、  知らず識らず筋運動上に表発するものにあらずして、  全く神露の告知によれることを唱うるを聞き、  みずからはなはだ正否を検せんことを決心せり。 氏はいえらく、「けだし、 施術者は発問者の呈する無意的の徴候(これは発問者が順次字母を指示するにあたり、  その問いに適中するものに至れば、 これを指しおること長きに失するとか、 あるいはその顔容、 身体等に表発するものこれなり)を精密に観察せるによれるならん」と。  すなわち、 氏は自ら問いを発する際、故意にあるべからざるところにおいて、 かかる徴候を表示せしに、 果たしてその答弁はことごとく虚妄、 誤謬  のものなりしという。 しかして、 氏の断案の確実なることは、 施術者が最も好成絞を呈せし場合と、 失敗したる場合とを比較するも、 十分にこれを証することを得べし。 すなわち、 答弁の正当なる場合は、  みな発問者の感動しやすき気質を有し`  その心状を容易に外貌に表発する人にして、 これに反し神霊の告知を与えざる場合は、 発問者が沈着にして感動しやすからざるか、 あるいは強力の意志を有し、  これによりてその筋運動を制御し、 わが心状を色にあらわさざるときにあればなり。西紀一八五三年、 はじめて机転よりして机話を発達せしめしころ、 多くの僧侶等は「サタン」(悪魔)のカの発現せるものならんとの信憑 をいだきしかば、机に対して種々の分目の問いを発して試験を行い、その応答は予想のごとく彼らの憶説の証左を与うるならんと期せり。  ことにゴッドフレー  氏は「試験せし机転」と題する論文において、 まずモー ゼ以来ヤソの時代に至るまで「サタン」の存することを証示し、 巫女、 普通の神霊およびピソンの霊等をもっ て、  ところどころに現出せし悪霊と連絡ありとなし、  断然確説して曰く、「人類中に精霊の理外的天賦を存せし間は悪盟を駆逐し、  その存在を発見することを得たりといえども、 この奇異なる賦性を失せし後は、 すでにこれを鑑察することあたわざれども、 しかも悪盟は現今に至るまで連綿として存続し、 後世には聖パウロが(「テモテ前書」第四章において)示ししがごとく、「惑わす霊』となりて現れたり」と。  しかして、 その分目の発問に対する応答は、 全くゴッドフレー 氏の真なりと確信せし観念と正反対なりしも、 氏の判断するところにては、 これ特に証左の力あるものなりとす。  いかんというに、もし其にこの机にして、  悪魔の使役するある悪霊の憑りしものなりとせば、 最初においてその本性を示して人民を 恐嚇するは、これぞ最も無知の所業にして、かつ悪廊の性の狡誤なること大いに即麒するものあればなり。 これがゆえに、 左の応答のごときは、 まさしくゴッドフレー 氏のあらかじめ期せしところなりしなり。すなわち、  氏はまず回転せる机に対して、「汝は電気によりて動くものならば停止せよ」といいしに、  ただ   ちに停止せり。つぎに再び回転せしめ、これに向かいて、「悪霊の汝を動かしむるものならばとまれ」といい、また、「ある邪神ありてしかるならばとまれ」と命ぜしに、  みな停止することなし。 ここにおいて、 小冊の経典をおもむろに机上に置きしに、 にわかに停止したり。  しかも他の害冊を磁くときはさらに変動なかりき。それよりさらに命じて曰く、「もし地獄あらば、 汝の脚をもっ て二回床を打つべし」と。  応ぜず。  また曰く、「もし地獄なくば二回打て」と。 同じく応ぜず。「悪魔あらば二回打つべし」と。 またまた答えず。  さらに、「もし悪魔なくば二回打つべし」といいしに、脚はおもむろにあがりて床をうつこと二回なりしかば、人々 棟然として胆を寒からしめたり。  すなわち、  厳然としていいて曰く、「わが神ヤソ・キリストの名をもっ て汝にいう。  もし実に悪腐なくば二回床を打つべし」と。  されども、 このたびはさらに動かざりき。 しかして、かくのごとき試験をしばしば行いしに、 常に同一の成組を得たりという。

ゴッドフレー 氏記して日く、「予は小学校にて用うるがごとき板上に書せるイロハ表を得、 この表を机よりわずかに熙たりたる床上に囲き、 予はその傍らに座を占めたり。 ここにおいて、 予は机の周辺にある三人中の一人に請いて、 予が順次にイロハの文字を指示するときに、  該人に近き机脚をあげて、 ル某氏某氏(この両氏はともに三人の知らざりしものなり)の実名をつづるよう机に命ぜられんことを求めたり。  かの人これを諾し、 しかして予は、 各文字においておおよそ三秒ずつ指手を止めつつ、 順次に各字を指示せしが、  かくて「じ」の字に至るや三人曰く、「これなり見よ、 机はその脚をあげたり」と。  つぎに「お」にきたりしときにまた脚をあげ、  かくのごとくしてジョー ジ、 ピー ター  とつづることを得たりしが、これみな全く正当なるものなりき」と。カー  ペンター 氏の記するところに曰く、「米国の化学者ならびに物理学者としてやや名声あるドクトル・ハ— ル氏は、 一の女子を媒者として試験を行い、 これに伝われる答弁はこの女に見えざるように据え誼けるところの、 字母表を示す指針によりてつづらる ぺき装置を用い、  もっ て霊魂不滅の精敷なる試験的証拠を得たりと思考せり。  されども、 氏の試験の方法を説くところを見るに、  この婦人の目は、 予期せる答弁を知れる人の挙動を凝視せしものにして、 婦人の運動はことごとく、  該人の無意運動において精取せしところの徴候によりて指導せられしものたること明瞭なり」と。

西紀一八七一年十月の「毎季評論雑誌』に曰く、「予は米国のフォ スター 氏のロンドンに到箔せし後数日にして、  かつて米国にて氏を知りし一婦人およびその義子(有名なるロンドンの医師)に伴いてフォスター 氏を訪わんことを誘われたり。  さて予らの氏の宿所に至るや、 予はただ姓名をもって紹介せられしのみなりしかば、 フォスター 氏はもとより、 予が身についていかなることをも知るべき機会なかりしなり。  しかるに氏は、 予が多くの故友および故族の逝去せし年月および原由について問いを発せしに、  みな種々の方法をもって答弁し、 いちいちよく適中したりき。  その方法は、  細紙片上に姓名および時日を書し、 これを畳みちぢめて小球となし、 もって氏の掌上に置くときは、 氏はその姓名および年月をば、 大なる赤字をもってその肉腕上に正しく現出せしむ。 しかして、  その赤色はあたかもかの 瞼、 紅を潮するがごとく、 皮閲の細血脈の 脹起によりて生じ、  数分時の後はおのずから消失するものなり。 予は、 はじめこの奇術をみるや、  いたくこれに感じたりしが、  その後ひとり深く熟虚せしに、 フォ スター 氏の神通力はけだし、 氏はもとより右の試験に用うる鉄策の筆端を見ずといえども、  その頂点の運動よりして、 いかなる文字を書せしかを解釈するの能力を習得し、  かつ練習によりて鋭敏となりし観察力によりて、 答弁を予期するがために、 覚えず識らず予が身に発現するところの徴候をみて、  氏の運動を指導するよりきたりたるものなることを知れり、  云云」と。

この諸例のごときは読心術を説明すべきものなれば、後に察心術を講ずるときに参考すべし。(施術者)



第四七節    棒寄せの方法および説明

棒寄せはいずれの地に起こり、 たれびとの発明せると」ろなるや、 これを捜索するに由なしといえども、 まずその使用法を見るに、  五、 六尺くらいの棒(竹にても木にてもよろし)  その直経およそ五分ないし一寸くらいのもの二本を取り、  その一本は右の手の常中に軽く握り、 他の一本は左の手の掌中に軽く握り、  そのこれを握りたるものをして無意無心に両手を垂れて起立せしめ、棒をして身体の左右に平行せしむるなり。  しかして`  その目前におよそ五、 六尺を離れて他の一人粛然として端座し、 口中に呪文を黙誦することおよそ五、 六分時間にして、 両手の棒、 次第に動揺するを見る。 暫時にしてその棒の前端互いに相接し、 ついに相合するに至る。 その合するときに当たりて、 さらに他の呪文を誦するときは、前端次第に相開きて最初の位四に復するを見る。  その相合する、  これを棒寄せといい、 その相開くこれを棒寄せを解くという。

棒寄せの呪文は、人によりて同一ならざるがごとしといえども、 ある者の伝うるところによるに、「ショウトクオウガキミニセカレテ」と中す語を用うるなり。 けだし、  その字「聖徳皇が君にせかれて」ということならんと察すれども、 その意味解し難し。 これ棒寄せの呪文なり。 また、「秘事百撰  といえる書には左のごとく記載せり。にない棒を二本左右の手に一本ずつ、  四本の指に真中を載せ、  てんびんに持ちて立つなり。  その棒の木口に三の字を忠いて、 わが口の中にて「カエリコンズカエリコントハオモエドモ、  サダメナキヨニサダメナケレパ」と三度読み、 口の内にて「ヨレヨレ」といえば、  棒の端が一所に寄ること奇妙なり。 もし寄りかぬるときはまた歌をよみ、 手の指にて寄せるまねして「ヨレヨレ」といえば寄るなり。

これについて説を起こすものありて、棒の動揺するは手の疲労するによるというも、両方の前端相合するの理、いまだ解すべからず。 また別に説をなすものありて、 前端相合するは手の筋肉の組織、 生来しかるによるというも、 これまたひとたび合するものの再び開くの理を解す ぺからず。  けだし、  一般に実験するところによるに、  学者よりは不学、 男子よりは婦人、 大人よりは少年、 不信仰者よりは信仰者に最もその効験ありという。 これ他に説明すべき原因ある一証なり。  また、 呪文のごときも必ずしもその定められたる規則に従うを要せず。 また、  全<呪文を誦せざるもその効験あり。 余、  かつて達磨の伽を用いてこれを試みたることあるに、 呪文を用うるとその結果同一なるを見たり。 また、 狐の石像を用いたるときも同結果を得たり。 これによりてこれをみるに、 呪文そのものの方にあらずして、 他に考うべき原因あること明らかなり。

今、 その原因を考うるに、 物理的および心理的の二様の説明によらざるべからず。 まず、 物理的説明によれば、棒寄せはなお「コックリ」と同じく、 吾人が永く静かに手を保つことあたわずして、  必ず五分ないし十分の後には手に動揺をきたし、  したがって疲労を生ずればいよいよ動揺を増し、 筋肉自然の組織上より、 棒寄せの結果を生ずるに至るものなり。 しかれども、 この物理的説明のみにては、 ことごとくその理を解すべからず、 必ずこれに加つるに心理的説明なかるべからず。 今、 心理的説明によりてみれば、  これまた「コックリ」と同じく予期意向、  不覚筋動によるを知る ぺし。 すなわち、 両手に棒を握るものは、 あらかじめ棒の前端の相合すべきことを信ずるをもっ て、  その意に期するがごとく、 自然にその作用を手の筋肉上に発現するものにして、  しかも自身はこれを信ずる一点にのみ全心を注ぐをもっ て、 覚えず識らず棒端接合の作用を現ずるに至るなり。  かくして、 すでにその前端の相合するや、 ふたたび開きて漸々徐々にそのもとに復するに至るも、  これまた予期意向のしからしむるところにほかならず。  もし該人をして、  ひとたび合して、 また開くことを知らざらしめば、  もとに復せざるか、 あるいは十分の好果を得難かるべし。  しかるに、 もしその開くぺきことを知れるときは、 自己の思想これを迎えて、  党えず棒の両端のようやく離開するを見るなり。 また、 これに向かいて呪文を唱うるがごときは、 これ一種の倣式にして、  その予期信仰の度を強からしむる方便となるなり。 これをもっ て、 婦人、 少年、 無学なる者には著しき効験ありて、 知力に富み、 経験を栢みたる人、 特に疑心をいだくものにはその効験を見ざるなり。 これ、 その原因の全く梢神作用、 すなわち心理的予期意向によりて生ずることを証するものなり。西洋においても、この棒寄せにはなはだよく類似せる奇術あり。  これを   露     棒と称す。  おもうに、 わが国の棒寄せは、 あるいはこの方法の伝わりしものにあらざるか。 今、  カー  ペンター 氏の「心理書」より、 盆棒に関する一節を訳出して参考に供す。

霊棒の不思議現象は、 これまでこの事項を研究せし人々の先入思想に応じて、  あるいは真実なりとして可納せられ、 あるいは全く虚妄なりとして拒否せられしが、  これまた右と同一の生理的原則(すなわち予期意向)によりて説明せらるること明らかなり。 すなわち、 枝ある榛棒をとり、  十分誠実なる人の両手をもってその叉枝を緊握せしむるときは、 該人にはいかなる意向もなしといえども、  その棒端はおのずから、 あるいは上を指しあるいは下を指すに至る。 しかして、  かかる運動は、 その地下あるいは近傍の地に、  鉱脈または水脈の存するときに、  しばしば生ずるものなりという。  これ実に、 いなみ難き確固の証拠ある事実なり。  しかれども、 この現象の事情をつまびらかに査験するときは、  その原因は筋肉運動を生ずるに十分の力ある、予期意向の状態に帰すぺきものなることを知るべし。  今、 そのゆえんを考うるに、 第一に、  霊棒の不思議力を信ずる地方にありても、  よくこの試験を行いて、 効験あるは四十人中の一人を出でざるがゆえに、 棒の傾斜を生ずる主因は(その性質のいかんに関せず)、 棒そのものを牽引あるいは排拒するにあらずして、 棒を持する人を感動し、もっ てその力を示すものなること明瞭なり。 しかして、 この主因の性質を一定せんがため、綿密の注意をもって多くの試験を行いしに、  一定の結果を期するより起これる予期意向の状態は、  まさにこの現象を生ずるに十分なることを明示したり。  そのゆえいかんというに、 吾人が単に若干時の問一定の位置に榛棒を把持して、 その呈する効験を注視せんとするだけの動作は、 すでに把握せる筋肉に痙撃的収縮の傾向を生ずるに足り、 意志をもっていかにこれを制止せんと努むるも、 あたわざるに至るものなり。 しかしてもし、  かくのごとき収縮によりて棒の叉枝の互いに相近接し、 あるいは離開せんとするときは、  その把持せらるる位置に応じて、 棒端は上下に動揺するに至るべきなり。  かつ、 右のごとく筋肉が同一の位四に永く静止せしより収縮の傾向を生ぜしに当たりて、  その心意は一定の運動を生ずるならんとの予期に専有せられんか。 いかに意力をもって筋状の変動を制止せんと努むとも、 必ず実際にその運動を現す ぺきなり。 しかして、雹棒の不思議力の観念に諄有せられし人が、地下に水脈あるいは鉱脈を存すとの信仰または憶測を抱けるは、すなわち、 右の予期を生ずべき十分の原由たるものなり。

左に記するところは、 予の親友の得たる成績にして、 もって上に説明せし予の説を例解するに足るべし。  この人はかねて、 深く霊棒の現象を起こす憶測的主因の実在することを信ぜしが、  また自ら籾密にかつ哲理的にこれを研究せんと欲して、 数年前よりこれに培手したるものなり。 氏はまず榛棒を準備して隣地の探検に出発したり。 けだし、 この地はいわゆる鉱脈の横過すと知られし所にして、  氏もそのある脈の方向を知りたりき。  はじめ、  氏はその霊棒を手に持し、  また探究器に注目して、  四回の巡験をなせしが、 いくばくもなくして自ら鉱脈を横過する点に至るときは、 棒端の動揺するを見て大いに満足したり。 もし、  氏にして十分に綿密ならざる研究者ならんか。  すでにこれをもって足れりとなすべきなれども、 氏はただこれによりて、 わが身の試験に恰適せるものなることを甘んぜしにとどまり、 さらにその研究を進めんと決したり。 これよりなお、 方式のごとく霊棒を持してその巡験の途に上りしが、 ところどころに棒端の動揺するを注目して、  その地方をいちいち記録したり。  かくのごとくなすこと数日にして、 同一の部をも数々ゆき返し、 ほとんど隣地を査験しおわれり。 ここにおいて、 その成績を比較分解せしに、 その間にはーつも十分に符合するものなきことを発見せり。  いかんというに、  一日の試験には棒端の動きし場所にして、 他日の折には頑然不動なるあり、  あるいは今日動かざる場所にして、 明日に動揺するありて、 物理的主因の不易なるものは全く存せざるがごとくなればなり。  その他、 霊棒の動きし二、 三の場所は、 鉱脈の存すると知られし所なれども、 該地の地質に明らかなる人々が、 決して一つも鉱脈なしと確証せし所にして、  なおかつ確然たる効験を呈せしもの多し。 これに反して、 霊棒が真にある種の地脈に感動せらるるものならんには、  必ずや動揺せざるを得ざる場所にして、  なお不動なることあり。  氏はこれらの事実によりて、 その原因はひとりわが身のほかに存するものなかるべしとの疑念をいだき、  さらにその試験を施行し、 もって左のごとく確定するに至れり。

すなわち、 数分時の間続いて手に榛棒を捉り、  その上に注意を凝集するときは、 必ず無意的にしてほとんど不洸なる手の運動を生ずるがために、 榛棒の方向に変動をきたさざるを得ず。  ゆえに、 霊棒の運動を示しし大多数の場合において、  該現象は右の原因(手の運動) に基づく ぺきこと明らかにして、 棒端の運動が鉱脈上、 あるいはこれなき場所において起こりしは、 全く偶然に属することこれなり。  されども、  氏はここにとどまらず、 さらに進みてその成績を比較して、  運動は他の場所よりは鉱脈を存すと知らるるか、 あるいはしか推測せられし場所において、 もっともしきりに起こりしことを考定し、 もって、 篭も予期意向の説を知れることなくして、 霊棒の運動は自己の筋肉より生ずるものにして、  かつ筋肉の発動はその心意を専制せる観念によりて、 自動的に左右せらるること著大なるものなり、  との実験的断案に達したり。

この例に照らして棒寄せの理を推知すべし。



第四八節    御釜躍り

その他、  わが国にも棒寄せに類したるものあり。  これを御釜躍りと名付く。  これは、 維新以前は都邸一般に行われしものなりという。  その方法は、 児童五、 六人相集まりて、 互いに手に手を取りて蹂状をなし、 その中央に一人の児童を据え四き、 さて周囲のもの一斉に手を振りて躍り上がりつつ、 反復数回、  左のごとき言葉を唱うるときは、 その中央の児童も、 自然に周囲の者とともに起きて跳躍するに至るという。  その言葉に日く、青山葉山羽黒の権現ならびに豊川大明神、 あとさきいわずに中はくぼんだ御釜の神様。

もし、 この語によりて中央のもの躍り上がるときは、 一種の怪物これに憑 付して、 かかる作用を現示すと信ぜられたり。 今、 その原因を考うるに、 この語、 もとより一種の怪物を招ききたるの力なきは明らかなり。  しかるに中央の児童の躍り上がるはいかんというに、 これ全く周囲の者の挙動を見て、 自らこれに感染し、 反射作用によりて運動神経を促し、 知らず識らず同一の挙動を現ずるに至るものなり。 近くこれをたとうれば、 ここに十人ありてそのうちの九人、 同音同調にある一詩を朗吟せんか。 他の一人も知らず識らず微声を発してこれに唱和するに至るものこれなり。  その他、 これに類する例は種々ありて、  世問のいわゆる降神術のごときもまた、 その一例となす ぺし。  わが国にても御嶽講、 教会等にて行うところの方法は、 中座座と称するものを立てて、  その者の精神上に変動を起こし、 不覚作用によりて不覚無識に種々の言語を発し、 挙動を呈せしむるものなれば、  みな同一理に基づけり。 しかれども、 この降神術に至りてはやや複雑なる現象にして、 催眠術と連絡したるものなれば、後節に至りてその説明を与うべし。  さて、 右の御釜躍りの起源はいずれに始まり、 なにびとに起こりしかつまびらかならずといえども、 これと同一なるものの西洋に行われしを見れば、 あるいは「コッ クリ」と等しく西洋より伝来したるものならんか。  もししかりとせば、 この御釜躍り、 ならびに前の棒寄せは、 ヤソ教すなわち昔時のいわゆるキリシタンに混じてわが国に入りしものならん。  また、 あるいは日本にて偶然、 同様の方法を発見したるものなるかも知るぺからず。  今、  これを西洋の例に考うるに、  中古ヨー  ロッ パ中に一般に伝播せしものに跳  舞  狂と称するものあり。  その方法はわが国の御釜躍りと異ならず。  ただ、 全体の人々あたかも一種の狂態を呈し、  一時の顆 狂 となるの別あり。 これ、  跳舞狂の名あるゆえんなり。  今、  カー  ペンター 氏の「心理むせる例を訳出して、  一例を示すこと左のごとし。

引証

左に記するところはドクトル・ヘッケル氏が、 十四、 五世紀のころ、 中央ヨー  ロッ パに蔓延せし跳舞狂の状態を記ししものなり。 また、 もって想動作用の感情のため激烈となりしものを解明するに足らん。

西紀一三七四年にあたり、 男女の一群ゲルマニアよりきたり、  エー クス・ラ・シアベルにあらわれ、 街道あるいは教会において公衆の面前に左の奇観を滅ぜり。 すなわち、 これらの人々は手に手をとりて輪状を形成し、 いずれも五官の作用を失せしがごとく観客を顧みず、 数時の間跳躍乱舞し、  ついに疲労して昏倒するに及び、 非常に呻吟して苦悶を訴え、 まさに死に瀕するもののごとし。  それより衣服をもってきびしくその腰部を纏括するときはここに再び本復し、 つぎに該病の発作するまでは苦痛を免るることを得るなり。 しかして、 彼らの狂舞せる際は全く外来の印象を感ずることなきがゆえに、 視聴することなしといえども、 その内心は絶えず妄想、 幻影に悩乱せられ、 あるいは血流中に陥りしをもっ て、  これを免れんとして跳起したりといい、 あるいは蒼窃 にわかに開けて、 救世主のマリアとともに降臨することをみたりと覚ゆるがごとき、みな当時の宗教思想はその想像中に現出せり。

この病症の十分に増長するときは、 その襲来するや痴翻的の痙攣を起こし、 絶神して地上に倒れ、  そのロよりは泡沫を吹きて気息奄々たり。 すでにしてにわかに躍起し、 奇異の揺据 を呈するうちにおいて、 例の跳舞を始むるに至るなり。  かくのごとき狂舞症のはじめてエー クス・ラ・シアベルに現れし以来、 数月にしてまたコロー ンの地に発し、 同病に感染せしものは五百人余の多きに及べり。  しかして、 これと同時にメッツの市街においても、  一千余の人民は挙げて跳舞者の群れに加わり、 農夫は鋤梨を投じ、 職工は工場をすて、主婦は家事をなげうちて狂奔を事とし、  この宮有なる一都府も、 たちまちかなしむべき混乱噌間の光最とはなれり。また、  レッ キー  氏の「ヨー  ロッ パ正理教史」には、  当時の事情を説明せるものあれば、 これをも左に訳出して掲ぐ。

けだし、 いかなる事変といえども、 この黒死病(前文に、  第十四世紀の黒死病によりて二千五百万人、 すなわち欧州人口の大約四分の一を斃ししことを叙せり)よりさらに強大の勢力を人の想像上に振るいしものは、 また他にあらざるべし。 吾人は今日にても、 疫病はすこぶる著大の宗教的恐怖心をいだかしむるものたることを知る。 しかるを、 当時は疾病が不可思議の性を有するものなることを一般に信ぜし時代なれば、   くのごとき未曾有の災厄は至大の驚愕、 畏怖をきたし、 人民をしてほとんど狂せしめんとするに及べり。 その主要なる結果の つは、 驚 該に犠牲たりし人民の遺産によりて、僧侶は大いにその財を増殖せしことこれなり。  またほとんど百年の間、 寂として聞こえざりし「フランジェ ラント」宗派は、  再び十倍数の信徒をもって現れ、  その聖歌の評きはほとんど欧州の各部に呼応せり。  ここにおいてか、  またフランダー およびゲルマニアの跳舞狂あらわれ、 奇異の叫び声を放ち痴態を擬せる数千の群民は、 衆力をたのみて一切の政権を威圧し、 野邸の跳舞、  号叫とともに、  悪魔の勢力および勝利を公言せり。 この種の狂乱はコロー  ンおよびトレー  プの領地において特に激烈を極めしが、 その後、 妖術のもっ とも盛んに行われしもまたこの地なりき。   イスおよびゲルマニアのある地方においては、  かかる疫疾をもってユダヤ人の毒害に出でたるものとし、 しかして法皇はこの迷見を払わんがために尽力するところありたれどもその効なく、 不幸なるユダヤ人族のこれに斃れしものあげて数うべからず。  メー ンスの地のみにても数千人の多きに逹したりという。 さらに、    般に考うるところにては、  これをもって神罰となし、 あるいは魔力の存する証となし、  その他、 もっとも笑うべき解釈を試みたり。 これよりさき尖頭の靴流行するに至りしが、 多数の人々はこれをもっ て、 特に上帝の怒りに触れて右の災いをきたしたりとなししがごとき、  その一つなり。  されども、 吾人のなかんずく注目すべき点は、 妖術のために訊問、 処罰せらるるものの、  おそるべきまで急激に増殖せしことこれなり。

この狂態は催眠術および降神術とややその類を同じくするをもっ て、 後にこれを説ける条下を参見すべし。 また、 これと類を同じくしてその性質を異にする一法ありて、 ある地方の民間に行わるという。  その法は、  家の柱に 年吋、 もしくはこれに類するものを寄せかけ、 その周囲に座する人々は「ケン バイケンバイ」と唱えながら昼をうつときは、 柱に寄せし物体はおのずから躍り出ずという。  余、 いまだこれを目撃せしことなければその原因を説明せんこと難しといえども、 その寄せかけしものは死物なれば、 もとより精神作用によりてかかる結果を示すべき理なく、  また「コッ クリ」のごとく、 周囲の人々の予期によりてこの結果を生ずべき理なし。  ゆえに、  これ、

おそらくは物理的原因によるものならん。 しかして、「ケンパイ」の語につきては、「〔日本〕社会事棠とく記して呪文の一種となせり。左のごとし

〔荻生〕祖彼の「南留別志」に、「七里ケンパイ、  またケン バイヲフルなどいうことあり。  見敗とかく。「見敗見敗家』という呪文あり。  悪魔を遠ざくる文なりといえれど、  七里の義をいわず。 これはおのずから別なるべし」

以上はみな「コッ クリ」の一種なり。



第四九節    催眠術の歴史

近世のいわゆる催眠術はメスメル氏の発見にかかるをもっ て、 これを「 メスメリズム」という。 しかして、  その道理は当時いまだ説明することあたわざりしをもっ て、  これを一種の電気に帰し、 いわゆる動物電気によりてこの作用を起こすものなりと信ぜり。  また、 この方法によりて疾病を治療せんことを試み、  人身中には電気のごとき一種の作用あるをもっ て、 これにより治板をなすことを得るものと信ぜり。 この電気説を唱えたるはオー ストリアの人にしてヘー ルと名付く。 氏は西暦一七七四年にその説を世に発表し、  かつ氏は催眠術の発明者たるメスメル氏と連合して、  その法を世間に広めんことを努めたり。  メスメル氏のいわゆる催眠術も、  ヘー ル氏のいわゆる動物電気なるものと、 もとより同一種なり。  しかしてこの方法たるや、 近世において初めて起こりしもののごとく唱うれども、 その実はすこぶる古代より行われしこと疑うべからず。  今、 古代より今日までこの方法の歴史を考うるに、  学者によりて種々の区分をなせり。  まず、 これを三期となすものを述べんに、 第一期は古代の催眠術にして、  当時はいまだ催眠術とも動物屯気ともその名称を用いざりしも、  エジプト、  パピロン等に行われし降神術のごとき、 すなわちその一稲なり。  また、 東洋諸邦に行われし種々の魔術あるいは幻術のごとき、 廃女、巫女のなすところのごとき、  みな催眠術の一種り。 本、  ジナにおいても、 もとよりこの種に属する方術少なからず。 今日にありても、 教会あるいは.、 二の宗派において行うところの、 加持祈届の類もやはりこの種の術にほかならざるなり。 また、 この方法にて病気を治療するがごときも、 古代すでに実行せしところにして、 決して今日の発見にあらず。  ただし、 古代はその原因を知らざりしをもっ て、  一般に神仏あるいは悪魔の所為に帰せしのみ。 また、  欧州にてもかかる方法は古代より民間に行われしが、 なかんずく中世紀の間はこの術を信ぜしもの最も多かりき。 かくのごとく、 この術は東西古代より大いに行われたれども、 みな愚民の信ずるのみなりしが、今日に至りては、 その問題ひとり愚民の間に行わるるのみならず、  学者間にも首唱するものあり。  したがっ て、一大問題をひき起こすこととなり、 特にメスメル氏の、  ひとたびたちてこの術を唱芍せし以来、  世上の学者、 大いにこれに注目するに至れり。 ゆえに、  メスメル以後をもって催眠術の第二期とす。

氏はドイツ国の医師にして西暦一七三三年に生まれ、 ウイーン大学に学びて医学膊士となれり。  当時、  氏はヘー  ルとともに磁気の研究に従事して、  人体上にもこれとひとしき作用あることを発見し、 これを名付けて動物電気と称し、 ヘー ルとともにその治療上に大効あることを唱えたり。  ときに一七七五年なり。  その後、  メスメル氏はパリに至りてその法を唱え、 大いに人の注意をひきしも、 当時の医師、 学者は一般にこれを駁繋、  排斥せしより    ついに志を得ずして英国にゆき、 ついでまた故郷に退居し、  一八一五年に死せり。  しかるに氏の死後に、  その門弟、 諸方においてこの術を謂ぜしより、 爾来、 ようやく一般に行わるるに至りたり。 これ「メスメリズム」の名あるゆえんなり。  メスメルおよびヘー ル当時の説明は、 己の身体に有する一種の電気が、 被術者の身体に感通してこの作用を起こすもののごとく考えたりしが、  その後、  学者の研究によりてこの思想一変し、 この現象は施術者より加うるところの力によらず、 被術者自身の状態によりて起こすところの現象なることを発見するに至れり。  その首唱者は英国の外科医プレー  ド氏にして、氏は従来の催眠術に与えし動物電気論の 謬妄たることを説破し、  その作用は全く身体内の神経力によりて生ずるものなることを証明し、 その術を「ヒプノー チズム」と名付けたり。 けだし「ヒプノス」はギリシア語にして睡眠の義なり。  これを催眠術の第三期とす。  プレー ド氏は一八四一年はじめてその研究に行手し、 ついに、 この現象は神経の疲労錯乱より生じ、  一点を凝視して注意を集合するより起こる結果なりとせり。  ゆえに、 この現象は施術者の意志、 挙動によりて生ずるにあらずして、 被術者の身体および精神の情況によりて生ずるものなりとす。 これより諸学者、 さらに学理に照らしてその道理を講究し、 大いに発明するところありて、 爾来、 ますますその理を明らかにするを得たり。

これを要するに、 この催眠術に歴史上、 三時期を分かつときは、 第一期は妄信の時代にして、 その原因を神力、魔力に廂するものなれば、 これを非理学的時代というべし。 第二、 第三の両期はともに理学的となすべきも、 第二期は動物に一種の電気ありて、 その作用に催眠術の原因を帰せしは、  これ一つの空想なれば、 偽理学的説明といわざる ぺからず。 ゆえに、 これを偽理学的時代と称すべし。 しかして、 第三期以後は、 いまだ説明の判定ならざるものなきにあらずといえども、 これを第二期に比すれば、単に理学的時代といっ て可ならん。あるいはまた、メスメル以来の催眠術の歴史を三期に分かつものあり。 すなわち、 第一期はメスメルを創始とし、 第二期はプレ—  ド氏をもって祖とし、  第三期はシャルコー  をもって祖となすなり。  シャルコー はフランス人にして、  メスメルにおくるることおよそ百年なり。  一八四    年ころには仏国において催眠術大いに衰えたりしが、  氏の出ずるに及びて再び盛んに行わるるに至り、  氏は一八八九年、  パリにおいて万国催眠学会を開きたり。

これを要するに、  催眠術の説明は、  被術者の外よりその体に感伝する一種の電気に原因を帰するものと、  被術者自己の身心上より発起すとなすものとの二様ありといわざるべからず。  しかして、  自己の心身上より発起するものとなす中にも、  筋肉および神経の状態より原因を説明するものと、  精神そのものの状態より説明するものとの二種ありて分かる。  換言すれば、  生理的と心理的との二柾あるぺし。  プレー  ド氏のごときは、 いわゆる生理的説明に属するものなり。  ここにおいてか、  別に心理的説明を与えんことを要す。  これ、  心理学者のもっぱら研究するところにして、  余はその一端を後節において開示せんとす。


第五〇節    催眠術の方法

つぎに催眠術の方法を考うるに、  これまた人によりて、  おのおの異なりたる方法を用い、  決して一定の方式あるにあらず。  また、  メスメル氏自身においても、  種々の方法をもってこれを実施したりき。  しかれども、  要するに別に施術者ありて手を下して行うものと、  さらに施術者をまたずして自ら行うものとの二法あり。  これを仮に他眠術と自眠術の二法と名付くべし。  まず他眠術とは、  他の人をねむらしむる方にして、  すなわち施術者ありて行うものこれなり。  メスメル氏の方法はこのいわゆる他眠術なり。  氏は種々の方法を用いたれども、  その普通に用いしところは、  患者、  病客の目前に手を上下する挙動と、  その被術者をしてある一点を凝視せしむる方法とにほかならず。  かくのごとくなすときは、 患者すなわち被術者は一種の感此を起こしきたり、  ついに夢境に入るに至る。  その状、 あたかも眠行、 睡遊の場合のごとし。 このときにありては、 身体の生理的状態やや変ずるを見るなり。 例えば、 心動脈拍やや変動し、 手足はやや強直を呈するがごとし。  かくする問に、 その思想、 感虹および挙動は全く施術者の命令に応じて、 自由に被術者の意志を支配左右することを得るに至るなり。 しかして氏は、この状態をもって施術者の神経力が被術者に感伝したるものなりと唱え、  ついに動物屯気論をなすに至りしなり。 しかるに、 この説明の誤れることを発見したるは、 被術者自らこの術を信じ、 必ず睡眠の境に入るものと予想するときはよく結果を呈すれども、 もし、 この予想なければ結果を見ず。 また、 これを信ずる人には効験ありて、  疑う人には効験を見ざるがごとき点にあり。  例えば、  メスメル氏の用いし催眠の装置には、  一樹を作り囮きて、 その樹下にきたるときは必ずねむるべしと告ぐることなるが、 被術者これを信じてここに至れば必ず眠り、樹下に達せざる間は決して睡を催さざるなり。

この一例によりて考うるも、 催眠は想倣信仰の影密あること明らかなるべし。  もしこれを試みんとせば、 他人の手をかりず、 自らある一物を凝視するときは、 また同一の結果あるを見て知るべし。 これプレー ド氏の発見せし方法、 すなわちさきのいわゆる自眠術にして、 その法は光ある、 ある金属をとりて、 これを左手の指間に置き、試験者の目より一尺ほどを隔て、  かつその額よりやや高き位位に据え、 両眼をもってこれを凝視するときは大いに筋力を要するようになし、  かくてその全心をこの一点に集注して暫時凝視するときは、 やがて催眠の境遇に入るなり。 しかしてその方法は、 あるいは鏡を用い、  あるいは時計を用い、 あるいは鳴鐘により、 あるいは楽器により、 あるいは摩擦による等、 種々の法を用うれども、  その結果に至りては異なることなし。  されども五官中、視覚によりて一物を凝視するをもって、 もっとも感じやすきものとす。

以上は自眠術の方法なるが、 今左に、  一般に用うる催眠術すなわち他眠術の仕方を示さんに、  まず被術者をして安逸なる椅子にもたらしめ、 施術者はこれに向かいて座し、 その位謹は、 被術者よりやや裔くして少しく厳下すくらいになすを良しとす。  かつ、 両人の間はほとんど相接して、 互いに手をとることを得るようになさざるべからず。  かくして、  まず施術者はその身体を厳粛端正ならしむることに注意し、  つぎに被術者の手を自己の母指と他指との問に挟み、 両眼をもって被術者の顔面全体を凝視し、 もって両人の手の温度の平均するまでに及ぶべし。 同時に被術者の方は、  やは施術者、被術者り施術者の顔面のある一点を定めてこれを凝視せしむ ぺし。 あるいは咽喉あるいは胸部に着眼するも可なり。  かくして熱度の平均せし上は、 施術者はその手を被術者の肩上に加え、 これより徐々に手を移し、  腕に沿って指尖に至るまで、 極めて接近して、 その皮間と離れず着かざるがごとくして軽微になで下ろすなり。  これを「 パス」すなわち通手と名付く。  かかる「 パス」を行うこと五、 六回にして、  つぎに顔面および胸部に沿ってこれを行うべし。 しかして、  その手は皮膚を去ること一、  二分とす。  なおこのときには、 両手を平行密接して上より下になで下ろすなり。 今右〔前頁〕に、 両人対座して手の温度を平均する問の状態を図表すべし。



第五一節    催眠の状態

催眠の状態は人により、  あるいは三段あるいは五段あるいは六段、  七段に分かつの別あり。  今、  その順序を示さんに、  第一次は醒況の状にして、 感覚、 思想ともにいまだ格別の変化を現ぜず、 ただ手足の作用少しく遅鈍なるを覚ゆるのみ。  第二次は半睡の状態にして、 このときには五官中視覚のやや疲労したるを立え、 眼瞼頂きを感じて意のごとくならざるに至れども、 他の感覚は依然たり。  第三次は催眠の税に入りたる状態にして、  意をもって感覚を左右することあたわず、  不覚無識の状にあるなり。 第四次は全く催眠の状態に逹したるものにして、 このときには不 瓦ー変してかえって挽覚を開き、 眠とも覚とも、 はた不覚とも名付くべからざる中間の状態なり。

第五次は眠中の境覚一層判明なるを得て、いわゆる 神  通  眼 を開くに至り、第六次は神通眼の区域一胴拡大して、普通人の到底及ばざる過去永遠の諸物を明瞭に悟了するに至るなり。

以上は催眠の状態を現ずる順序なるが、  あるいはこれを分かちて昏睡期、  夢語期、  強直期の三段となすあり。あるいは止動期、  昏睡期、  睡遊期の三段に分かつものありて、  さらに一定せず。  今、  催眠者の施術中に呈する状態について実験したる成鮫を挙げんに、 西洋における実験の報告はこれを略し、 予が近く目撃したる一例を挙ぐれば、 昨年、  幻々居士の哲学館において行いたる状況は、 すでに諸方の新〔聞〕紙に掲載せられたることなるが、左にその一斑を示すべし。

居士は年齢四十六、  七歳なる農夫を面前に誘い、 製夫に接近してしかと農夫の顔面を見詰め、 なお鉛筆もてその眼球の前に上下し、  かつ手の甲を軽くなでたること数回にして、  農夫はたちまち魔酔し知覚梢神を喪失したり。 ここにおいて、 居士は右典夫を培上に登らしめたるに、  彼は始終啜語のみを吐きて、 目は閉じざるもほとんど眠るがごときようになれり。 しかのみならず、「水を与えてこれは泡盛の上酒なり」といえ 一口飲みて「辛い辛い」と叫びながら口をイガメ、 また、  ごく冷たき物にても、 これは熱い物なりと告げて与うるときは、 やはり「熱い熱い」と叫びたり。  さて最も不思議なるは、 ある事物を仮定し彼に問うときは、  ただちにその実物もしくは形容を説明す。  例えば問いを発する者、 自己の脳底に熊もしくは牛の類を想像し、 しかるのち指をもっ て空を指し「これはなんなりや」と問うときは、 彼は「黒い物なり、  コワイ顔なり、 足は短し、 爪は鋭し」などと答えて熊たるの形容を語り、 または判然、 熊とか牛とか答うることこれなり。

右は予が親しく目撃したるところなるが、 その他、 予の伝聞せしところを挙ぐれば、『魔術と催眠術」と題する近時発行の害にいう、「あるいは睡眠せる者に魔術を施し、その人の身体を一眩すれば、身体強直して直立するをもっ て、 これを机と机との間に架すること橋のごとくし、  その上に術者のまたがり騎馬のごとくなるもさらに屈曲せざるごとき、  あるいはその身体の一部を針をもって突くも疼痛を感ぜざるがごとき、 あるいは牛乳を指して水なりといえば水なりと信じ、  熱湯なりといえば熱湯と信ずるがごとき、 また被術者の手を取りて机上におき、「汝の手掌はこの机に固着せり」といえば、  被術者いかにこれを放さんとするも放し得ざるがごとき、 あるいは一片の氷を取りて手上に載せ、「熱物なり」といえばたちまちこれを放棄して、  掌上火傷の疼痛にたえずとなすのみならず、 ときとしてはその部に火傷せるがごとき刺衝を起こすことあり。 あるいはこの術によりて疾病の治療に応用して、  その苦痛を救いたる等のこと少なしとせず、 云云」とあり。

また、  山形県櫻井守宮氏より寄送せられたる報告中に左のごとく記載せり。

第一、 催眠術に感ぜし者は、  睡眠中決して体抵の位懺、 形状を変ずることなく、 砥も睡眠以前に異ならず。第二、 心力注集の強弱により、 施術の時間に差あるはもちろんなる ぺきも、 概して幼年者はもっとも速やかに感ずるがごとし。  予の実験せるところによれば、 二十二年以上の男子は六分ないし九分時を要し、 ニ十歳以上の男子は五分時を要し、しかして十七歳以下の男子はよく三分時にて感得睡眠せり。しかして、再三該術に感ぜし者は、  その度を重ぬるごとに漸々簡易となれり。

第三、 被術者の睡眠中、 その身体に触れ、 またはその一部を動かすも、 さらに醒箕することなきのみならず、術者のなすがまま依然として変ずることなく、 その状あたかも造り人形のごとし。

第四、 被術者睡眠中、 その行為を全く記憶せざる者と、 または夢みたるがごとく、 ほぼ知り得る者とあり。しかれどもこれ睡眠の度によるか、はた術者の心力注集の強弱によるかは、いまだ判然その理を究めず。

第五、 被術者睡眠中、 あることを問うときは、 たとい被術者の知らざることにてもよくこれに答うといえど も、 物の名称をいわしむることはなはだ難きがごとし。 予、 あるとき被術者に向かい、「橋が見ゆるか」と問いしに、「 見ゆる」と答えし。 うぺなり、 術者の意思にかく答えしめんことを期したればなり。  しかして「なんという橋であるか」と問いしに、「初めて見たから知らぬ」と答えたり。 このとき術者の意思は、 実に「三雪橋」と答えしめんことを期せり。  よっ てさらに「あれは三雪梢である。  そうだろう」といいしに、 被術者は少時考えたる上、 なお「初めてだから知らぬ」と答えたりき。

第六、  催眠術に感ぜる者に向かいては、 術者のほか、 なにびとが問いを試むるもよく応答す。

第七、 閑静にあらざる室内においては術を施すことはなはだ難く、 あるいは全く感得せざることあり。 予の試験によれば、 施術に少なくも二十分を要するがごとし。 場所により、 時間の差違はなはだしきものというべし。

第八、 術を行うとき被術者の背部をして、 ある物体に触れしむるときははなはだ感得しやすし。  ゆえに、  相対座せんよりは椅子に倫らしむるか、 または横臥せしむるのやすきにしかざるなり。

第九、 被術者は睡眠中、 始終眼瞼(ことに  瞬  )を振動する者多し。  ときとしては眼球を上下、  また左右に

(閉目しありつつ)回転するがごとき観を呈する者あり。

第十、 被術者は体躯の位罹、 形状を変ぜざること第一項のごとし。 しかれども術者の意思、 被術者をしてことさらにこれを変ぜしめ、 またはある部分を動かさしめんとするときは、 これをなさしむること極めてやすし。 予、 あるとき被術者に向かい、「お前の手を動かぬようになせり、 動くまい」といいしに、「動かない」と答えたり。  ゆえに予はさらに「しからば動かし得るようにしてやらん」といいてその手をとり、  少しく動揺して後、「今度動かし得べし、 試みよ」といいしに、 被術者は自らその手を動揺し、  かつ低声に「動く」と答えたりき。

第十一、 被術者の身体、 または一部分を動揺せしめ、 もしくはその位四を変換せしむるに、 被術者に告げず、かつ被術者の身体に触るることなく、  ただ術者の意思すなわち心力のみをもっ てすることははなはだ難し。

第十二、  被術者を醒覚せしむるには、 弾指の法を用うること普通なり。  しかれども、 この法をもって醒況せしめんには、 よく術者の心力を注集するを要す。 なんとなれば、 その強弱により難易にはなはだしき差違あればなり。 予は常にこの法を用いしが    いずれも弾指十回以上にわたらざればその効なし。 あるいは弾指中醒覚せざるも弾指の状をやめ(十五、 六回これをなしたる後)、  ただ心力を注集しつつあるときは、  三、  四秒時を経て醒覚する者往々あり。 しかして、 被術者のまさに醒が見せんとするや、  多くは頭部を前面に両三回傾けたるのち開眼す。

第十三、 醒覚せしむるに頬辺りを一摩するときは、 そのやすきこと前項の比にあらず。  これ術者が被術者の身体に触るるときは刺激一層はげしきによるならんか。

第十四、 睡眠中発言の音声はすこぶる低し。 予は今、  試みに度をもっ て説かんに、 すなわち被術者醒撹時において平常談話の音声を十度と仮定すれば、睡中の発習はたいがい五度、もしくは六度くらいの者多し。しかして、 多人数中あるいは八度くらいの者なきにあらずといえども、 醒党時と全く同様の音声をもって発言せる者なし。 予の実験せるうち十七歳の少年は、 最も高度の音声を明了して答えたりき。

その他、 馬島東白氏が先年、 斯術を治療上に応用して試みられしものは、 予が数回目撃せしところなり。  さきに掲げし幻々居士の斯術も、 余、  その宅に至りて試験を実視したり。 また、 高島平三郎氏もしばしば施術を行いて、  その結果を余に示されたることあり。 今、 高島氏の談話によるに、  睡眠中の感党の状態について、 第一、  触覚はその作用を過止す。  例えば、 催眠中に蚊のおらざるときに、 身体の一部を指して蚊のとまりおることを告ぐるときは、 手をもってその部をかき、 あるいは火箸を皮庖に接して熱しといえば、  たとい冷なるも熱く感ずるがごとき挙動を呈せり。  これ触党は全く眠息して、 外部より受くるところの刺激を感知することあたわず、 ただ心内の想像によりて妄覚を生ずるなり。 つぎに、 視筑もその作用を過止して幻視、 妄視を生ずるに至る。  例えば、色なきに色を見、 物なきに物を見るがごとき、 あるいは平面をさして立体なりといえば立体に見、 男をさして女なりと告ぐれば女なりとなし、 不透明を透明に見、 白紙をさして文字ありといえば、  これを見ること分明なり。また、 聴覚も自由に左右することを得。 音なきに音を聴かしめ、 あるいは一物の音を他物の音に聞き誤らしむることを得るなり。 嗅味両覚も幻妄の状態に入らしむることを得。 例えば、 水を与えて酒なりといえば酒となし、味なき物を与えて種々の味を感ぜしむること自在なり。  さらに身体に関してその状應を考うるに、 脈拍は弱くして不整に、 呼吸は浅く、 瞳孔は大に、 感応は鈍く、 手足は強直を星するを見る。 また、 想像上の状態を考うるに、被術者に対して施術者の思う人を見せしむること自由にして、  美人ありといえば美人を見、 壮士ありといえば壮士を見、 その他、 小児、 老人あるいは他の事物に至るまで、  みな、  いうところのままなり。  しかのみならず、  また被術者自身をも種々の人々に想像せしむることを得。 あるいは小児のごとくあるいは大人のごとく、 あるいは学者のごとくあるいは軍人のごとく思わしむること自在にして、 あるいはその全く見識らざる人物を思わしめ、いまだ経過せざる土地を現ぜしむることを得 ぺし。 つぎに、  記憶に関しては、 ある一事を記憶せんことを命ずれば、 催眠を終わりし後までこれを記憶すといえども、  しからざれば醒覚後には全くさきの状態を覚えざるなり。概して催眠中の状態は醒覚の後まで記せざるを常とすれども、  人によりては多少これを記憶するものあり。 特にこのことを記憶せよと命ぜしものは、  必ず後まで忘却することなしという。  つぎに、 この方法が治療にいかなる関係あるかは、 馬島氏の報告について知るを得べし。 氏の催眠術実験の状態は前記のものとほとんど同一なればこれを略し、 ただ氏の治療報告中より一例を掲ぐること左のごとし。

一老婆(府下駒込東片町二十八番地、小林きん母)、 齢七十有二、 半身不随症にかかり、  そのはじめ治を諮うのとき、  みずから謳体を支持するもなお容拐ならざりしが、 施術後ただちに歩を試みよと命ずれば、 すなわち起きて座床を下り放手平然数歩を試み、 排手を挙ぐべしといわば、 すなわちたちまちこれに応じ前に向かいて直伸せしめ、  および屈指を伸展せしめ、 合掌撃拍せしむるに挙げて不応の憾を残さず。 指頭の感党当時なお全きを得ずといえども、 しかも襟 袖を整うるの自弁を得て、 とみに介者の閑を得たり。

なお、  この治療のことは「医学部門」においてその理由を述ぶぺし。 以上、  催眠の状態の大略を掲げたれば、以下その説明に及ぶぺし。



第五二節    催眠術の説明

催眠術の起こる理由を説明せんには、 まずこれを感ずるに種々の事情あることを考究せざる ぺからず。 すなわち第一に、 この術を衆人の上に行うに、 たやすく感ずるあり、 あるいは全く感ぜざるあり、 あるいは五分ないし十分時の間に感ずるあり、 あるいは三十分時を経ざれば感ぜざるものあり。 今、  その感じやすき人を挙ぐれば、年齢の若きものを良しとす。 ことに七歳より二十一歳までの人は斯術を施しやすしという。 ある人の試験の成組によるに、 一年に七百四十四人はこれを施ししに、 感ぜしもの六百八十二人にして、 不感者六十二人あり。 しかして、 不感者中に十四歳のものは一人もなかりしという。  第二に、 男女両性中にては、 男子より婦人をもっ て感じやすしとす。  今、  試験の結果によるに、 男子は二百八十七人中に不感者三十一人あり、  女子は四百六十八人の中にて不感者三十一人ある割合なりという。  第三に、  気候の寒暖にも少なからざる関係ありて、 南方暖国の人民は北方寒国の人より感じやすしという。 第四に、 周囲の状況に関係すること大なり。  その状況にして催眠に妨害となるありさまなるときは感じ難く、 催眠を助くるありさまなるときはやすし。  一般に周囲の静粛なるときは感じゃ すく、 喧悶なるときは難し。 また、 施術者の容貌および室内の装飾等も施術に大なる関係あり。  施術者の容貌、 厳粛端正にして人を威服せしむるがごとき風あり、  かつ被術者の心もこれに帰向して、 もっぱら催眠に注意するときはこれに感じやすく、  つぎに室内の装飾も荘厳丁重にして、 被術者をして覚えず荘敬の念を起こさしむるときは、  大いにその効験を助くるものなり。

以上は被術者外部の状態なるが、 これに対してまた内部の状態あり。 第一に、  被術者の施術を受くる前時の状態に大いに関係あり。  例えば、 前時に精神激動して静平ならざるか、 あるいは前時に心思を用いて疲労を感じ、睡眠を催したる場合にはかえっ て妨害となるものなり。 つぎに、 被術者の心において斯術を信仰すると、  しからざるとは最も重大の関係あり。  これをもっ て、 思想の単純にして信仰しやすき者は感ずることもやすく、  思想複雑にして信仰し難きものはまたこれに感じやすからず。  されば、 神経阿の人、 あるいは宗教信者にして信仰しやすきもの、 あるいは山間僻地に住して思想純 模なるものはもっとも感じやすしとす。 その他、被術者はあらかじめ心中にて催眠を迎えんことを要す。 すなわち、 いわゆる予期作用なるものなかるべからざるなり。  しかして予は、 以上のごとき身体内部に起これる事情によりて説明を与えんとするものなるが、 この事栢中にも生理的に属するものと、 心理的に属するものとの二様あり。  されども予は、  主として心理上より説明せんと欲するなり。 けだし、 上に掲げしがごとく、 催眠を感ずるに種々の事情あるは畢党、 その原因の心理上にあるゆえんを示すものにして、 あるいは年齢、 あるいは男女、  あるいは場所等の事情に関係を有するは、 これ全く人をして信仰心を起こさしめ、 その意をもってこれを予期せしむるものにほかならざるなり。  ゆえに、 この術の説明にも物理的と心理的、  換言すれば生理的と心理的の二つあれども、 要するに心理的をもっ てその主因とせざるべからず。  これ、予が心理的説明をとるゆえんなり。しかして、その事情は夢境および眠行の状態に比して知ることを得べければ、左にその理由を述べんとす。

およそ人の精神中には種々の観念あり、 互いに連合して存するものなり。  しかして、 連合強きものは外部の刺激に応じて反射的に他の観念を連起し、  さらに意志を用いずして種々の観念を現ずるを見る。  されども、 吾人の醒覚せる平時にありては、 その連起を指示するものは我人の意志なり。 例えば、 外界の刺激によりて一観念起こるときは、 これと連合せる観念は種々あれども、  なかにつきてわが意志は適当の観念を選び、 これに向かいて思想の連起進行するを見るなり。  また、 意志は外部の刺激をまたず、  単に内部の事情によりて種々の思想を連起せしむることを得。 これ、 いわゆる有意的連起なり。 しかるに、 もし意力弱くして有意的連起を発することあたわざる場合には、 反射作用によりて甲観念より、 篭もわが思わざる乙観念を喚起することあり。 これ、 すなわち無意的作用なり。 これによりてみれば、 もしある事情によりて意志の全く息止することあらんか。 観念の連起は全く無意的、 自動的となり、 反射的、 機械的となりて自らこれを制裁することなく、 単に外部の命令に従うこととなるべし。 今、  催眠術はまさしくある事情によりて意志の作用をとどめ、  諸観念は無意的、 機械的連起を呈するに至りし状態なり。 これ、 もとより人心固有の性質しからしむるところにして、  なんぞ奇性とするに足らん。  かつまた、 吾人の精神作用は一柾の現象あるいは観念に心力を凝集するときは、 いわゆる専制思想なるものを起こし、  ただこの一点のみを感じて、  全く他の感覚をとどむることあり。  これ、  いわゆる無意識の状態に帰するものなり。

この諄制思想に関して予期意向なるものあり。 すなわち、 吾人もし一点に思想を注ぎてあらかじめ期することあるときは、 さらに他の事柄を感知せざるものなり。 今、 催眠はまず予期意向によりて、 あらかじめ催眠の境に入ることを期せざるべからず。  換言すれば、 催眠を信ぜんことを要す。  しかしてこれと同時に、  思想を一点に凝集せんために一物を凝視する方法を用う。 これ、  すなわち専制思想を起こさんがためにして、 あるいは金属のごとき光輝あるもの、 あるいはその他の物体を注視するときは、  思想この一点に集まり、 これと同時に視力疲労して感覚を減ずるに至るべし。  このときに当たりては思想空虚となり、 意志は息止して、  ただ外部の命令に応じて機械的に観念を連起せしむる状態にあるのみなり。 けだし、 意志作用は別に吾人の観念を離れて存する一種の心力にあらずして、 諸観念の連合してある一点に中心を起こし、 この中心に集まりたる力、 発動して一つの方向を定むるに至るものなり。  すなわち、  いわゆる動機を起こして、 これにより意志作用を現ずるものとす。  これがゆえに諸観念、 中心を失してその力を一点に集むることあたわざるときは、 意志作用を呈すぺき理なし。  今、  催眠の状況はこの中心を失し、 各硯念は孤立して意志を組成するに至らざる状態なり。  ゆえに、 この場合においては外部より刺激を受けんか、 無意的連起によりて、  一観念より他観念をよび起こすよりほかに道あるぺからず。 これ、 催眠中には他人の命令に応じて自在にその挙動を示すのみにして、 自ら意志をもっ てこれを制裁することあたわざるゆえんなり。

これをもって、  催眠の税は普通の睡眠と状態を異にして、 まさに眠行に男盤たり。  すなわち、 眠中の醒覚なりというべし。  かくのごときは吾人の平時にありても、  その精神内に往々見るところなれども、  ただその時間の短き転小にして、 格別己が心に感ぜざるのみ。 しかれども、 かの狐狸に 証惑せられ、 天狗にさらわれしものは、 まさにこれと同一の状況にして、  一時催眠の坦に入りしものと解して可なり。 しかして、  思想よく発達して意志作用の確実なる人は催眠の状況に陥ること難く、  また、 たといこれに陥ることあるもその時間極めて短し。  これに反して、思想の発達せざる単純の心意にありては、 些 少 の原因によりてたやすくその中心を失い、 たちまち意志作用を過止するに至り、  催眠の状況に陥るものにして、 特にその時間も長きにわたるなり。 これらの点は、  狐狸、 天狗に説惑せられしものと全く同一なりとす。

以上、 催眠の学理は今日なお研究中にして、  学者の諸説やや一定し、  いまだ全く確定せざる状なれば、 その確実なる説明は他日をまたざるを得ずといえども、 古代の人の想像せしごとく、 神力、 魔力のなすところにあらざるは論なく、 また他人の電気感伝してこの現象を呈するものにもあらざることは、  少しく学識ある人の信じて疑わざるところなり。 もし、 この催眠術の道理のひとたび明らかなるに至らんか。  わが国に古来伝うる狐狸、 天狗の粧惑のごとき、 あるいは弘法、 日蓮等の高僧が種々の不思議を現じたるがごとき、 あるいはヤソ一代の不思議なる奇跡、  怪談のごとき、  みなよく説明して、 また一点の疑いなからしむるを得ん。

右、  催眠術の説明は当時心理学者の一般に唱うるところなれば、 さらに一、  二の心理魯について、 その説明を参考するに、  サレー 氏の「幻妄論にはワインホー ルド氏の説を引証せり。  その説によるに、  催眠の境は味覚、触覚、  温度の感覚減滅し、 視覚もようやくその力を減じ、  ひとり聴党のみ異常なくその作用を存す。  かくて、わが精神は聴覚のみの作用によりて発動するがゆえに、  全く外界より隔歴して、 主観一方の境遇に入ること明らかなり。 す ぺてほかの事情は視認、  触立の力によりて感知すべきものにして、 聴党のみにてはその事情を識別せんことはなはだ難し。  しかるに、 今や他の感党はその作用を減滅して、 聴貸のみ依然たるにおいては、 あたかも夢境にあるがごとく主観的の境遇を開くに至るべきなり。 ゆえに、  催眠の状は眠時の夢にあらずして、 醒時の夢なりといえり。  なお、 この催眠の状態および説明につき、  カーペンター 氏の「心理宙」に出でたる例証を挙ぐること左のごとし。

カーペンター氏曰く、「余は紀元一八四七年のころ、  学芸に練達せる一紳士の試験せらるることを目撃せり。  この人は非常なる凝集力(すなわち注意力)を有するものにして、 もし己の一手を机上に屈き、 これに半分時ほど心力を注ぐときは、 試験者より確言せられたるがごとく、 その手を引き去ることあたわざるに至る。  また、 磁針の極を暫時凝視するときは、 試験者の命ずるがままに、  該極部より種々の形、 色をなせる火光の発することをみるに至る。 もし、  また一手をある極上に誼きてしばらくこれを注視せしめ、 試験者より

「汝はその手を引き離すことあたわざるべし』と確言するときは、  固哲してまた離れざるがゆえに、  磁針の他極をとりて導くときは、 よく室内をひき回すことを得たり。  かくのごとき現象は一見、 すこぶる奇異にして怪しむべきもののごとしといえども、 被術者の性質、 職務を考うるも、  故意に欺瞬するがごときものにはあらず。  しかして、 余が多年の討究によれば、 これまた他人の告知より生起したる、 専制観念に占領せられたるものなること疑うべからざるなり」と。

また同氏は、「感伝的の状態にある一強要が、 施術者より「汝は動くことあたわざるべし」と確言せられ、椅子または床上にありて少しも身を動かすことあたわず、 あるいはほとんど二重に屈身して前方に臥し、 篭もたっ ことあたわざることを見たり。  もし、  一回の確言にして十分の効験なきときは、 さらに強音をもって反復せば、 これを抑留することを得たり。 その他、  一貴女は「口を開きて一言をも発することあたわざるべし    と説かれしより、  笑うべき、 苦悶の状をもって発言せんと試むるも、  ついに徒労に属するものあり。 あるいは試験者より「間域を通過することあたわざるぺし」と確信せしめられたる他の女子をひきて、 これを越えしめんと努めしに、 全力を注ぎてわずかにその目的を達したることあり」という。

ドクトル・ノー プル氏の記するところに曰く、「余の一知友に下婢あり。 容易に睡遊の状に陥るをもっ て、知友はしばしばこれに実験を試み、  ついに下婢に知られずして他室より伝気の術を施したること、  および凝視によりて四体の一っ を麻痺せしめたることを報道し、 余に親しくこれを検察せんことを求めきたれり。 されども、 余はいえらく、『かくのごとき実験は、 傍観者の存すること、 あるいはその他、 異常の事柄により、必ず被術者をし,てある伝気術を行わるるならんと予期せしむるがゆえに、 予、 いま彼の家に臨みて試験するも、 到底満足の結果を得べからず    と。  ここにおいて、 試験はわが宅において行わんことを通知し、 これを左の事情をもってせり。  すなわち、  知友は一夕用務に託して宙翰をしたため、 これを余にあてて、  右の下婢をして宛名の者に送達し、 返也をもたらしきたらんことを命じ、  かつ同時に下婢の聞ける所において車を呼び、 某所に至り何時に帰るべきことを告げたり。  かくて下婢の出発を準備せる間に、  ただちに車に乗じて予が宅に到達せり。 暫時にして、 下婢は也状を携えきたりしがゆえに、 知友は隣室に隠れ、 婦人はこれを別室に導き、 隣室と通ずる門扉を背にせる一椅子に座して返書を待たしめたり。 ここにおいてか、  かねて約せし。ごとく、 知友は扉の他側より後ろに接近して施術に着手し、 婦人との距離はわずかにニフィー トにして、   だ半ば開ける一扉をもっ て隔絶せるのみ。この際、婦人は全くいかなることの行われつつあるやの思想なく、しかして余もまた婦人をして疑念をいだかざらしめんため、っ とめて無用の談話あるいはその方向を注視することをも避け、 他念なく返書をしたたむること二十五分ばかりにして、 これを蝋付けせんため室を出でて、施術者をさしまねき去らしめしが、  ついになんらの結果をも生ずることなかりき。 しかして、  知友のいうところによれば、さきの試験にては客室より多くの問壁および室房を隔てて、 厨 室にある下婢に感伝せしむるにもわずかに二、 三分時にして足れりしに、 今やその距離といい隔体といい、  みなかくのごとくにして、 磋もその成果なきをみれば、 けだし前後の試験をして相異ならしむるゆえんのものは、 被術者が全くいわゆる伝気の術あることを覚えずして、  なんらのことをも予期せざるにあること明らかなり」と。

ドクトル・エリオッ トソン氏の記するところによれば、  氏は被術者および他の二人の婦人を室内に府き、自ら他室に退きて戸外より彼らに伝気の術を施さんことを誓えり。  しかして、 他室に入るや戸を閉鎖して竜もその術を行わざるのみならず、  かえっ て自ら該婦人のことを忘れんことを努め、  ひそかに戸外に歩して他事に身を委ね、  やがて十分時ばかりを経てさきの室に帰りきたりしに、  かの婦人はすでに睡眠に陥れることを見たり。  すなわち、  ついて試験するに、 従前この術によりてみれば、  すでにしばしばこの術に感ぜし者にありては、 純然たる想像力をもっ てするも、 また十分の成組を奏すること明らかなり。

以上の諸例によりて催眠の理由を知るべし。



第五三節    動物の催眠

およそ催眠には、 身体有機機関上におけるものと、 精神思想上におけるものとの二種あり。  余は一を生理的催眠、  二を心理的催眠といわんとす。 しかして、  右に講述せしところは人間の上に起こる催眠の現象なれば、 もとより心理的催眠に属すといえども、  人問は精神と身体と相合して涵等動物の上に位せるものなれば、  また生理的催眠もその影響を精神上に及ぽして、 心理的催眠を起こすに至るや必せり。  しかるに動物に至りては、 その精神思想いまだ発達せざるをもって、 生理的催眠あれども、 いわゆる心理的催眠なるものなし。  今、 この動物について催眠の起こる原因を知らんと欲せば、まず生理上、有機身体の状態に応じて睡眠の起こるゆえんを知るときは、おのずからその理を領得すべし。

さて、 この睡眠には自然的と人為的の別あり、 また意識的と無識的との別あり。 普通の睡眠はいわゆる自然的なり。 すでに自然に睡眠の起こることありとせば、  また人為、  人工によりてもこれを催し得 ぺき理なからんや。しかして、 動物の催眠は人為的にして無識的なり。 なんとなれば、  催眠中、  幻境をひらき神通眼を開く等のことあらず。  動物催眠のことについては、 先年、 大沢〔謙二〕医学博士の謂演せられたるものあり。 その説によるに、まず動物催眠に要するところの事俯は左のごとし。「すべて動物を魔睡せしむるには、  第一、 外囲の静謡なること、  第二、 異常の位置を与うること。 第三、 圧抑強制すること。 第四、 五官の つもしくは二つに弱き刺激を与えて、 久時これを保続することを必要とす。  しかれども、  その種類の異なると、  たとい同一種属なるもその特異の性質あるとによりて、 あるいは第二法のみにてすでに魔睡するものあり、 あるいはこの四法を連用するもさらにねむらざるものあり。 しかして就眠の後は、 可及的外来の刺激を避くるを可とす」(「魔睡術』より転載)つぎに催眠の方法については、 大沢博士が蛙につきて試験したるもの左のごとし。

蛙は諸動物中最もねむりやすきものにして、 魔睡の試験に最も逸当す。  その法、 まず蛙をして仰向けに机上に載せ、 左手をもって前身を圧抵し、 右手をもっ て後肢を抑制すべし。  はじめ二、 三十秒の間は手下に煩燥して百方のがれんとすれども、 保持して一、 二分時の後に至れば、 静止して動くことなし。  これを度として静かに両手を放離すべし。  しかれども、  もし蛙の皮岡乾燥するときは、 術者の指端に粘着して、 放離の際たちまち醒覚することあり。  ゆえに、 あらかじめここに注意せざるべからず。  その他、  鉄座の位置においてねむることあれども、 ただちに転倒して醒党し、 また二頭を相対してあたかも力士決闘の状をなさしむることを得べし。 また、  ときとして急劇に握るため、 ただちに腺睡することあり。  しかれども天然の位固、 すなわち俯座の位置においては決してねむることなし。 もし容易にねむらざることあらば、 二、 三十分時間掌中に保握すべし。 しかるときは、 そのねむること極めて妙なり。(同書)

その理は前に述ぶるものに参照して知るべし。



第五四節    催眠術の応用

かくのごとく催眠術は、 動物上における現象と、  人類上における現象と異なるところありといえども、 その理に至りては同一にして、  ただ生理的催眠と心理的催眠との別あるのみ。 しかして、  その起こる原因は、  今日の学理によりてほぽ明らかにすることを得たり。  もし、  ひとたび催眠の境に入りたるものを、  そのもとに復せしめんとするときは、 また施術者はおのおの一定の方法を用い、 しかしてその多くは弾指によりて醒覚を促すといえども、 これ必ずしも弾指を要するにあらず、  一定の時間を経過するときは、 必ず自然にもとに復するものとす。  さて斯術の応用について考うるに、  古来もっぱらこれを治療上に実行せんことを求め、  その多少の効験あることは人々の経験によりて明らかなり。しかれども余いえらく、「この効験たるや催眠術そのものの力にあらずして、信仰の力なり」と。 けだしこれ、 神仏に祈願して病気の平癒を見ると、 あたかも同一理ならん。  また、 この術を麻酔薬に代用して手術を施すときに応用せんと試みしものあれども、 あまりはかばかしき結果を奏するに至らざりき。  その他、 罪人を訊問してその罪業を白状せしめんためにこれを用い、  あるいは教育上、 記憶力を増進せんがためにこれを応用するときは、 多少の効験あらんと考うるものあれども、 これまた信拠するに足らず。  たといまた、  右らのことには多少の効験ありとなすも、 これを実施するより起こるところの弊害いかんをも察せざるべからず。  けだし、 しばしばこの術を施すときは、  当人の心身上に恐るべき危害を残すことは、 今日医家の一般に唱うるところにして、 予もまた数回これを行うにおいては、 必ず多少の害あるべきことを信ず。  されども予は、 この術たるや直接に世間を益することあたわざるも、 心理研究の参考としてはすこぶる神益あらんことを信ずるなり。  その他また、 この術によるときは、 古代の高僧、 大徳の人々が、 よく奇々怪々の事跡を示したるゆえんをも知ることを得べし。 すべて古代の人は性純撲にして、  かつ信仰しやすきものなれば、  かかる人々に対して高僧、智識、 大徳が奇怪の作用を現じたるは、 これ高僧、 大徳その人の力にあらずして、 これを信ぜし人の信仰上より起こりしところの現象なり。 換言すれば、  これを信仰せし人の自ら催眠の境遇に入りたるものというぺし。 あにまた奇怪、 不思議となすを要せんや。 しかるに「魔術と催眠術」と題する書中には、 宇宙間に一種の霊気存在し、この気、  人に感通して右の作用を呈するものなりと説明せり。  その語に日く、それ魔術は心性霊能の妙用にして、 その原効力は実に精神の感通作用にありとす。 霊魂は声なく形なき幽玄如影の霊体なりといえども、  その霊妙なる能力はよく人類相互の心身に相感じて、 これを制するを得るのみならず、 広く宇宙の万物に通じて相感覚作用するものなり。 この妙用を感通という。  この感通の妙用は魔術にして、 すなわち、  かの奇怪にして不可思議のごとく見ゆるところの種々の現象なりと。

しかして、 古代の英雄、  大徳の行いたる奇跡、  怪事を掲げて曰く紀貫之の天地を動かし、 目見えぬ鬼神を憐れに思わせるといいしも、 この感の一字を指したるものなるべし。 小野小町が旱天に雨をふらし、  新田義貞が稲村ヶ崎に海潮を千したるは、  この感通の妙能によりしなるべし。 日蓮が竜の口に断頭の毒刃を折りたるは、 天地、 日述の徳に感じてこれを庇護したるにあらずして、日蓮の感通力よく茄刃を折りたるものならん。 役の行者は行雲を制して天空を翔り、 達磨は頑葉を浮かべて海洋を渡りたり。  およそかくのごときの奇談、  世に伝うるもの少なしとせざるも、 多くは付会の妄説となして排斥するにあらざれば、  いたずらに自己の威徳を大ならしむるために無根の説をつくるとなす。 伝説、 奇はすなわち奇なりといえども、 必ずしもなし得ぺからざることというべからず。  そのこれを不能の事業となすは、  かえっ てその事理に暗きのいたすところなるのみ。

また日く、「安倍睛明のごときは最も本術の応用に巧みにして、  かつ、 十分に応用を習熟したるの人なり。しかれども    これを心性の盤能なりとは知らずして、  一種の鬼神の業なりと信じたるもののごとし。  すなわち、 これを『しきかみと称し、  哨明がこのを使っ て種々不可思議の術を行いたりとの事実は、諸害に載するところすこぶる多し。  その他、  キリスト、 この妙力の応用によりて諸種の疾病を平癒せしめたるがごとき、 この妙能と知らずして人の知れるもの、 また少なしとせず」

この害の著者が古代の奇跡、  怪談を説明せんと試みたるは賞すぺきことなりといえども、 その原因を天地間の盟気の感応に帰したるは空想といわざるべからず。 これに反して、 予はかくのごとき奇跡、 怪談は、 当時の人心の信仰より喚起せし催眠の境遇なることを唱うるものなり。



第五五節    読ヽ心術

古来、  鬼神術と称せしものの中には、 机転術、 机話術および催眠術のほかに、  読心術なるものあり。 この読心術は、 あるいは察心術または読想術とも名付け、 施術者が被術者の心中に思うことを察知、 考定する方法をいうなり。  およそ読心術に二種あり。  その一っ は、 施術者が被術者の身体の一部に接触して、 その心中を察知するものと_    つは、  施術者が全く被術者の体を離れて察知するものこれなり。

まず第一種の例を挙ぐれば、 被術者をして一物を室の一偶に蔵さしめ、 施術者これを察知する場合には、 被術者の手を取りてその室の四隅をともに歩行し、 しかる後、  いずれの部分になにものを蔵しけるかを考定するものとす。 しかして、 その手を取りてともに歩行する問は、 被術者をして専心一意にこのことを黙想せしめんことを要す。 あるいはまた、  被術者の心に思うところの人名を察知せんとするときは、 まず被術者をして尊心一意にその名を思わしめ、 同時にその手を取りて、 あらかじめ黒板上に題したるイロハの文字を順次にいちいち探らしめ、 もってその思うところの人名の頭字はこの文字なることを告げ、  ついに全き人名をつづるものとす。  かくのごとき方法をもっ てせば、 十は十まで察知するを必せずといえども、 その七、 八は察知せらるべく、 最も熟練したる人にありては、 十中九まではまさに的巾すという。 これ、 その方法の大略なるが、 たちまちこれを聞くときはすこぶる不可思議なるに似たれども、 その実少しくその事情を考察せば、  決して不思議にあらざることを知らん。 けだし、 施術者がよく被術者の心を察知するは、  その身体の一部分に接触するによれり。 精神と身体とは密接の関係を有し、 精神上の変動は必ず身体上に現呈するものにして、  抑えんとするも抑うることあたわず。  このゆえに、 吾人もし他人の身体に接触して、 その筋肉間に呈露する変動を知党し得るに至らば、 なんぞ心内の変動をも察知せられざる理あらんや。  ただそれ、 吾人の感詑はいまだ微細の変動を識覚する力を有せざるをもっ て、普通の人には察知することあたわざるのみ。 もし、 生来感覚の鋭敏なるもの、または経験によりて熟練せし人は、普通人のよくせざることをも察知せらるべきなり。  ことに被術者が自ら思う事柄に全心を注ぐときは、 いわゆる不覚筋動を起こし、 筋肉外貌上にその状態を示さざらんとするも得べからざるに至るをや。 例えば、 施術者がその手を取りて黒板上のイロハ文字に触るるときに、 もし被術者の一意に思うところの文字の点に至らんか。 必ずその思想上に変動を起こし、 したがっ て、 その筋肉挙動の上に変化を呈するや明らかなり。  ゆえに、 この変動によりてその心内を察知すること、  なんぞ奇怪とするに足らん。  されば、 もし被術者にしてその一点に注意すること弱きか、あるいはこの術を疑うがごとき場合には、この方法をもっ てその心状を察知することあたわざるなり。これによりてこれをみるに、 古代はこの察心の理をもっ て、「エー  テル」もしくは電気の媒介に備せしも、  今日は心理学および生理学の道理によりて説明せらるること明らかなり。

しかるに、 第二種の読心術に至りては、 他人に接触せずして察知するものなれば、  到底、 学術の道理をもって説明すべからざるがごとし。  されども、  もし人の外貌をもってその心内を察知するところの、 いわゆる人相術あることを一考せば、 必ずしも触覚によらずして他の感覚を用うるも、  その目的を達せらるべきこと知るべし。 けだし、 人相術のごときもやはり読心術の一種にして、 しかもその第二種に属するものというべし。 いわんや視覚あるいは聴覚によりてよく人の思想を察するは、  必ずしも人相家をまたず、 世間に往々見るところにして、 吾人も平常いくぶんかこれを実行せるをや。 もしそれ、 到底吾人の感立力の知り得べからざることを察知したるがごときは、 これ偶然の暗合より起こることなれば、  よろしく「純正哲学部門」の偶合編を参見して、 その理を知るぺし。 これを要するに、 読心術は神力、 魔力のいたすところにあらず、 また俎気、「エー テル」の作用にもあらずして、 心理、  生理の学理によりて説明せらるぺきものなり。



第五六節 降神術、 巫現、  口寄せ

すぺて降神術と称するものには、 他人の上に神を降ろす法と、 己が身の上に神を降ろすとの二種に大別せらるるがごとし。 他人の上に神を降ろす法は、  上来述べたる種々の心術、  みなこれに属す。 けだし、 これらの術たるや、 今日は学術上より論究してその理を説明することとなりたれども、 昔時にありてはいずれも、 神もしくは魔の人に降りて、 かかる奇怪の作用をなすものと信ぜり。 これ、 いわゆる降神術なるものなり。 その他、「宗教学部門」に説ける祈頑、 呪願のごときも、 同じく他人の上に神を降ろす方術なりとす。  これに対して、 己が身上に神を降ろし、 あるいは己の心もて神と通じて、 よく幽冥界のことを告知、 予言するものあり。  これ、 いわゆる巫親なり。 けだし、 巫親の言たる、  これを諸典に徴するに、「玉篇  に日く、「事>神者在>男曰>残、 在>女曰品巫。」(神につかえる者、 男にあるを殺といい、 女にあるを巫という)と。「国語」にいう、「民之精爽不二描賦一者、  則神明降  之。」(民の精爽携載せざるものは、  すなわち神明これを降ろす)と。 また、 わが国に「カンナギ」と称するものあり。「和名抄 に、「これを巫と訓じ、 神和の義なり。 神磁をなだむる意なり」とあり。 その他、 民間には市子、 あるいは口寄せ、 あるいは梓 神子、 あるいは県 神子等の名称あれども、 いずれもみな同一種にして、  その心よく神明に通じて、  幽冥界のことを世問に伝うる媒介をなすものをいうなり。『和漠三才屈会」に述ぶるところ左のごとし。

按上古人心淳朴、 而神託亦分明、 国政征罰多任二神勅一 既而以ーー皇女桑ャ砿炉伊勢斎宮、 加茂斎院一 而天子、 即位亦先ト定於彼斎王.突、 雄略天皇、 皇女日本媛命以為和げ勢斎宮一 嵯峨天皇、 皇女有智子内親王以為加茂斎院一 是其始也。

(案ずるに、 上古は人の心淳朴にして神託また分明に、  国政征罰の多くは神勅に任ず。 すでにして皇女をもって伊勢の  斎  宮、 加茂の斎院に納れ奉りて、 天子の即位にもまた、 まず、 かの  斎  主に卜 定 す。 雄略天皇の皇女日本 媛  命をもって伊勢の斎宮となし、 嵯峨天皇の皇女有智子内親工をもっ て加茂の斎院となす。 これそのはじめなり)

今巫女所レ業者、  奏二神楽盆空神慮{  或束二竹択ヂ以_探一極熱湯一 数数注ーー浴於身一 既而心体共労倦、 茫茫然、時神明託  干彼以告  休咎_謂  之湯立其巫曰  伊智今人疑多、  巫女媚不>少、 而神託何分明耶

(今、 巫女の業とするところは、 神楽を奏してもっ て神慮を慰む。 あるいは竹葉を束ねてもって極熱湯を探り、 しばしば身に注浴る。  すでにして心体ともに労倦れ、  茫々然たり。  ときに神明彼に託り、 もって休  咎を告ぐ。 これを湯立てという。  その巫を伊智という。  今人疑い多く、 巫女媚ぶるもの少なからず。 しかして神託、 なんぞ分明ならんや)

また、『蓬生庵随筆』(下巻)に記するところ左のごとし。

梓 巫子また市子といえるものありて、 死霊、 生盤等巫子に乗り移りて、 種々のことどもいえるをもって活業となすなり。  その仕方は、 わが思う仏なり、 または絶えにし人を心に念じ、  水を手向くる。 そのとき巫子に乗り移り、 死せしものなれば冥土、 黄泉にてのことどもをいい、 あるいは仏事、 法事をいう。 また生 駕 ならば、 うらみの数々ののしり、 また悦事などいえる。 それに迷わされて、  愚夫婦、 女子など涙を流し聞きおるなり。 むかし、 水府西山公〔徳川光捌〕自ら水を手向けたまえば、  かの市子やがて声を発し、  治承四年といい出でぬれば、 卿にはすぐさま「よしよし」と御声掛けられ、 市子は御前を下りしなり。「公、 仰せに「愚なるものの迷うももっともなり。  しかし、  わが領分へは入ること無用」と仰せられしは、  さすが御明君」と、ある人かたりぬ。「公にはなにを御寄せ遊ばし  候  や    と伺いしところ、「弁慶を御寄せたまう」という。 この市子につき一つの話あり。 予、 姉方の下男に嘉吉といえる者がいわく、「市子のことば一っ として実事なし。 ただ頼み人の心を悟りていうことなれば、 信ず ぺきものならず。  その訳は、 私事、  国にて深く申しかわせし女ありしところ、  その女、 心だてよからぬものゆえ、 誠にいやになり、 切れてしまわんといえども、 なにぶんにも承知せざればいたし方なく、 私身を隠せしところ、 その女種々気をもみ、 うらないを附き、 また市子を頼み私を口寄せすることを、 私に告ぐる人ありしかば、 なにごとをやいうやらんと、  ひそかに節子越して聞きしところ、 市子やがていい出だせしは、『われを寄せらるることかたじけなし、 われもそもじに逢いとうて逢いとうてならぬ」なぞといえること、 腹をかかえしそら言なり」これ、 寄する人の心を悟りていうと見えたり。  さすれば、 死霊の生霊に乗り移るにてはなしといえり。 実にもっ とものことどもなり。 この嘉吉、 一文不通の者なれども、 実地に入りてのこと、 ここに至りてはいかなる識者も及ぶべからず。  梓 巫子の笹はたきなぞもこの類なる ぺし。 今、  市子の実事をしるすは、  かれらが生業のさまたげに似てよろしからざれども、 あまりおかしきまましるす。

これによりて、 巫親すなわち市子のいかなることをなすものなるかを知るべし。 余はさきに青森県を巡回せしとき、  土地の人々に間くに、 奥羽には巫女もっとも多く、 里人はここに至りて亡者の音信を問うを常とし、 特に彼岸の節に最も多し。 しかして、 巫と相かたれる際、 他に人ありて同家台所の流し    をふさぐときは、 巫必ずこれを知りて日く、「ただ今は障りあれば後日を期せん」とて、  その告知をやむという。 通例、 市子は仏倣のごときものを懐中す。  これ妖術を行うの要器たり。「〔日本〕社会事粟」によるに曰く、

「竜宮船」という草子に、 予が隣家に毎年相州より巫女きたりけるが、 来往のことを語るに、 あたらずということなし。 あるとき服紗包みを忘れ置きたり。 開きて見るに、  二寸ばかりの厨子に一寸五分〔ほど〕の仏條ありて、 何仏とも見分けがたく、 ほかに猫の頭ともいうべき、 干しかたまりし物ーつあり。 ほどなく、   の巫女、 大汗になりて走りきたり、 服紗包みをたずねけるゆえ、 すなわち出だし遣わし、「さて、  これは何仏なるぞ」とたずねければ、「これはわが家の法術秘密のことなれども、 今日の報恩にあらあら語り申すべし。  これは今時のごとく太平の代にはいたしがたきことなり。 この尊像もわれまで六代持ちきたれり。 この法を行わんと思う人々幾人にてもいい合わせ、 この法に用うる異相の人をつねづね見立て置き、 生涯のときより約束をいたし、  その人終わらんとする前に首を切り落とし、 往来しげき土中にうずみ猶くこと十二月にて取り出だし、 憫腺に付きたる土を取り、 いい合わせたる人数ほどこの像をこしらえ、 骨はよくよく弔い申すことなり。 この橡は、  かの異相の神霊にてこれを懐中すれば、  いかようのことにても知れずということなし」という。 いまひとつの獣の頭のこともたずねけるが、 これは語りにくき訳あるにや、 大切のことなりとばかりいいけるよし。 これなん、 世上にいう外法つかいというものなるべきかとあり。

また、 長野県米山利之助、 米山太郎両氏の報道せられしもの左のごとし。

当長野県伊那郡山吹村鍛冶職某の妻、  一女児を産みて死す。 のち再び妻をめとり次女をあげしが、 明治十九年、 長女は十となり、  次女は三歳となり、  四人一家をなし、  わずかに細き煙をあげてその日その日を送りしも、 父母は常にその役困を悲しみしに、 長女は「われ数月ならずして家を典さん。 父母また憂うることなかれ」といいて慰さむること再三なり。  しかれども、  幼児の言として深く心にとどめざりしが、 ある   父は薪をとらんとて家を出でしゅ え、 母は晩餐の用意をなさんとせしに、 長女傍らにありて母に告げて日く、「父は某所にて晩餐を喫して帰るべければ、 用意をなすに及ばず」と。 しかれども母これを信ぜず、 なおその準備に取りかかりしに、 長女さらに告げて日く、「阿母、 なんぞ信ぜざるや。 父は必ず鰯 飯に飽いて帰らん」と。 よって母もしばらくこれを見合わせ、 父の仰りし後これをたずねしに、 果たして長女の言のごとく少しもたがわざりしゅ え、 父母はひそかにこれを異とせしが、 その後一日、 長女、 父母に告げて日く、「わが家に死證の 祟あり。 ゆえに富をいたすことあたわず。 今もしこの霊を祀らば、  幸福たちどころに至らん」と。 父母、 よっ て試みに死盆の由来をたずねしに、 長女のかつて知るべきはずなき往古のことより説き出だして、 つまびらかにその所由をのぶ。 父母その明に驚き、 ついにその言に従い、  小 祠を庭に設けて死霊を祀る。 その後、 長女は別に異状なく、 次女とともに遊び戯るといえども、 ときとしては言行を正しくし、 よく

禍福を予言し、 他人の依頼に応じて紛失物の所在を告ぐるなど、 十中八九は必ず適中するより、  遠近これを聞き予言を諮う者、 日に群れをなすに至れり。 ただし、 この女児は性 怯 儒にして寡言、 人を見れば恥ずる色あり。  しかれども、 その父母、「某氏の依頼に応じ霊神を迎えて云云のことを告げよ」と命ずるときは、  その家のはなはだしく震動すると同時に、 女児の言行は平時と異なり、  なにごとにても問いに応じてまた恥ずる色なし。もし意にかなわざることあれば、「予は帰る ぺし」といい終わりて、その家の震動とともに常に復し、また他の問いに応ぜず。 しかしてその霊神と称するは、 かの死盤を祀れる小祠のことなり。 なにはともあれ、そのいうところはわずかに十一歳の小女の知嚢より出ずるものとも見えず、 さりとて父母が教唆して利をむさぼるものとも見えず。 なんとなれば、 一切謝儀を受けざればなり。

予が宅の近傍にも月読教会と称して、  老女の人の諮いに応じて察心、 予言をなすものあり。 これまた巫女の一種なり。 すべて巫女は多くは文盲にして、  学識なくオ知なく、  その知力は凡人にだも劣るがごとし。  しかるに、よく未来のことを予言し、 冥界のことを察知するがごときは、  実に奇怪といわざるべからず。  されども、  その理たるや、 決して鬼神、 悪賊のこれに憑 付してしかるにあらず、 また電気、「 エー テル」等の媒介によりて起こるにもあらず、 全くその人の梢神上の作用によるものたるや疑うべからず。  その精神上の状態は、 これをつまびらかにし難しといえども、 思うに、 その精神の一小部分にすこぶる鋭敏なるところありて、 よく他人の感知すべからざることを感じ、 他人の思考すべからざることを考え、  常人の及ばざることを行うものたるは、 けだし疑うべからず。  かつ、  かれらは精神一点に集合して、 他の部分に精神力を減ずるより、 外面よりこれをみれば、  凡人にも劣れる愚鈍者のごとくなるものならん。 これ、 ひとり巫女においてしかるにあらず、 すべて深く一事に熱心し、一技に錬達したるものは一見、 凡人に劣るがごときを常とす。  例えば、 囲碁の名手、 音楽の妙手のごとき、  みな一点に精神を凝集するより、 外貌はやや愚鈍に似たるものあり。  今、 巫女においてもこれと同理由にして、 外貌の愚鈍なるにもかかわらず、  感箕および思想上に一部の特絶せる点あり。 これによりて、  かかる不思議の作用を現すなる ぺし。 これ、 心理学の罰究によりて疑うべからざる事実なり。



心理学部門 付録


第一講

心象編  付講

第    節    変党論

さきに「心理学部門」第一講心象編において、 変式的心象を分かちて、 外覚上の変態、 異状と、  内想上の変態、異状との二種となせり。 すなわち、 感箕、  知党上の異象と、 想像、  思想上の異象との二者なり。  しかして、  その前者を分かちて変覚、 幻立、 妄覚の三者となし、 後者を分かちて妄象、 妄理あるいは迷見、  謬論となせり。 しかして、 その細論はこれを「総論」説明細に譲りたるも、 説明編はいちいち各心象の性質、 関係を明示することあたわざれば、  さらにここに心象編の付講として、  その欠けたる分を補わんとす。

まず第一着に、  変北論について講述せざるべからず。 変覚は主観的作用に与えたる名称にして、  これに対する客観的の現象はこれを変象という。 しかしてまた、 これを五感に対して五種に分かつ。  すなわち変視、 変聴、  変触、 変臭、 変味、 これなり。  そもそも変此は、 外界の事物と事物との間に存する関係、 事情によりて生ずるものにして、 内界の籾神作用によりて生ずるにあらず。  しかれども、 もと感党は精神作用の一部分なれば、 全く精神を離れて変象を現出すべき理なしといえども、 ただその原因は内界に存せずして外界に存するをもっ て、 これを幻覚、 妄覚に区別するなり。  また、 変覚においては、 外物の実相を多少変化してみるのみにて、 全く別物として感ずるにあらず。  しかるに、 幻覚に至りては全く別物として感ずるなり。 これまた、 余が変覚と幻党とを区分するゆえんなり。  今、 まず変覚についてその起こる原因、  事情を考うるに、 これを表示すること左のごとし。


第一に自体の性質とは、 物質そのものの特殊の性質を有するをいい、 あるいはその体に固有せる力によりて特殊の変化を呈するをいう。  例えば、  風は動性を有し、 水は湿性を有し、 火は熱性を有するがごときこれなり。 

第ニに自他の関係とは、 金を火に熱すれば溶解し、 蝋を日にさらせば白色となり、  草木は肥料によりて生るいは磁石は鉄を引き、  太閣は地球を引くがごとく、 す ぺて性質を異にせる物質が互いに相混和するときには、物理的および化学的作用がその間に起こり、 種々の変化を呈するのみならず、  一物と他物と相隔離して存するもなお引力、 重力の関係を有するの類をいう。 以上の二者は、  物質そのものについて存する事情なり。  しかるに、物質外に存する事梢を挙ぐれば、  第一に媒介物の状態とは、 空気、 精気、 その他、 すべて一物と他物との間にありて、 二者の媒介をなす物柄の性質、 事梢の異なるに応じて、 物質そのものの変化を異にするをいう。  例えば、音響は空気の事情によりて変化を呈し、 あるいは光線はその通過するものに応じて屈折するがごときをいう。 第ニに時間、 空間の関係とは、  一物にしてその時間を異にし、 その方位を異にするときには、  その状態またこれに伴っ て異なるをいう。 例えば、 同一物を見るに、 その位囮の遠近、 方向によりてその形状を異にし、 時間の前後、長短に応じてその状態を異にするごときをいう。  かくのごとき種々の事梢が相合して吾人の感覚に変化を与うるも、 その主なる原因は事物の間の相対比較にあり。 例えば、 寒暖のごときは全く比較によりて生ずるものにして、夏と冬と井水の温度同一なるも、 これを感じて夏は冷を覚え、 冬は冷を認えざるは、 わが皮向に接するところの空気の温度、 夏と冬と大いに異なるをもって、 これに比較してかくのごとき差を生ずるなり。 これと同じく物の大小、 長短も比較相対によりて異同を生じ、 時問、 空間そのもののごときも、  また全く相対比較によりて、 吾人の感ずるところ大いに異なるに至る。


第二節    変覚の各種

以上述ぶるところは、 総じて変覚の起こる原因を説明したるのみ。 今、 さらにこれを各感覚の上に適用して、その道理を明らかにせんとす。 まず変視とは、 同一の物象が外界の事情、 関係の異なるに従っ て、 多少その形状を異にしてわが視覚上に現ずるをいう。 例えばいかなるものも、  昼間日光の明らかなるときにこれをみると、 菊荘もしくは夜間暗き所にこれをみると、  大いに物象の感覚を異にすることは例証を挙ぐるをまたず。 また、  暗雨によりて遠方にある山影はその形を異にし、 晴天のときに低しと感じたる山が位天のときには高く感じ、 春時において遠しと感じたる山が秋時に至りては近く感ずることあり。  海浜の山は、 海上よりこれを望んで一般に航海の目椋をなすものなれども、 気候、 晴雨、 昼夜の別に従ってその遠近の感覚を異にすることを知らざるときには、往々目標を誤ることありという。  かくのごときは、  ひとり外界の事情に関係するのみならず、 わが知覚認識の作用によりてきたすところの結果なるや疑うべからずといえども、 精神そのものが能作用となりて、 この変化を起こすにあらざるをもっ て、 余はこれを変枕の一種として、 その原因を外界に帰するなり。 あるいはまた、 日月の昇るときにはその形大にして、 中するときにはその形小なるがごときも、 他物との比較の有無によりて、 この異同を生ずるものにして、 もとより日月そのものに、 この変化あるにあらず。

『列子』に一奇話を載せて曰く、「孔子東遊、  見ーー両小児弁闘一 問二其故一児日、 我以、 日始出時、 去>人近、 而日中時、 遠也、 一児以、 日初出、 遠、 而日中時、 近也、 一児曰、 日初出、 大如二車蓋一 及一石日中一 則如二盤孟{  此不>為 遠者小、 而近者_大乎、  一児曰、 日初出、 治消涼涼、 及一泊其中時一 如>探ーー湯一 此不竺近者熱、 而遠者涼丘乎、孔子不>能>決也、 両小児笑曰、 敦為二汝多品知乎。」(孔子、 東に遊ぶ。 両小児の弁闘するを見、  そのゆえを問う。一児曰く、「われおもえらく、 日のはじめて出ずるとき、  人を去ること近くして、 日の中するとき、  遠し」と。   児おもえらく、「日のはじめて出ずるや、  遠くして、  日の中するとき、 近し」と。  一児曰く、「日のはじめて出ずるや、 大きさ車蓋のごとし。  日の中するに及んでや、 すなわち盤孟のごとし。  これ、 遠きものは小にして、  近きものは大なるがためならずや」と。 一児日く、「日の初めて出ずるや、 泊々涼々たり。 その日の中するに及んでや、湯を探るがごとし。  これ、 近きところは熱くして、  遠きところは涼しきがためにならずや」と。 孔子決するあたわず。 両小児笑って曰く、「 たれか汝を知多しとなすや」)と。  それ`  日も月もともに出入りのときはその形大に、ようやく中するに従って小となるは、  なにびとも知るところなり)

「訓蒙天地弁上巻に、 その説明をなして曰く、「朝、 日輪の大なるは、  今まで夜なりし陰夜の気を隔てて日を見るゆえ、  パッとして人の目に大きく見ゆるならん。 また、 出入り斜めに見る日光は勢い弱く、 日中はその土地八方に散乱する日光なるがゆえ、  正しく受けて仰ぎ見ることあたわず。  これ、 その精光のみを見るゆえ大小あるゆえんなり。  また地上滸気あり、  日の出入り、  かの滸気を隔てて見るゆえ大きく、  日中上天に日きたりて浙気を払うゆえ、 小さき梢光のみを見るということ、  信ずるに足れりといい、  また、  月の出ずるとき大なる理を解して曰く、「黄昏のころ、 日、 没せんとして残光いまだ失せず。 このとき、 月東方に出でて大なれども光輝微なり。 日、深く没し夜となれば、  月、 精光をあらわし、  その形はかえっ て小さく見ゆるなり  」と。

また、 細川〔 潤次郎〕氏の『吾園随箪」にもそのことを引きて日く、「日之遠近大小、 見二列子渤問篇一 初学不レ能飯  得ーー其説一 安笈之説曰、 日者純阻之精也、 光明外耀、 以眩二人目一 故人視レ日如レ小、 及三其初出袖地、 有二滞気一以厭  日光不品眩 入 貝    即日赤而大也。」(日の遠近、 大小、『列子湯問編に見ゆ。 初学のものはにわかにその説を得るあたわず。 安 皮 之の説に日  、「は純陽の精なり」と。  光明は外に耀 き、 もって人の目をくらます。

ゆえに、  人の日をみるは小のごとし。  そのはじめ地を出でて浙気あるに及び、 もって日の光をいとう。  人の目をくらまさず。  すなわち日は赤くして大なるなり)とあれども、 これらの諸説もとよりみな信ずるに足らず。  けだし視覚上、 物の大小、 長短を感ずるは多く相対によるものにして、 日月の出入りに大小の異あるも、 また相対の事情によるなり。  今、 他例を借りてこれを考うるに、 ここに茫々たる広野ありて、 天に参ずるの老木そのうちに孤生し、 枝葉扶蘇大百歩の外をおおうも、  遠くよりこれを望み、 その傍らにこれと比較すべきものなきときは、ついにその大なるを知らざるなり。 しかるに、 もし良夫のその下に耕し、牛馬のその傍らに寝ぬるを見るときは、相対によりてはじめてその高く、  かつ大なるを感ずるに至るものなり。  これと同じく、  日月の中するときに当たりては、  その傍らにこれと比較すべきものなきをもっ て、 その大を感ずることあたわざるも、 出入りのときには山なり木なり海なり波なり、 平常その形を熟知せるものと比較対照するをもっ て、  一層大なるがごとく感ずるなり。 もって変視の相対によるゆえんを知るべし。

依田〔学海〕氏の「閲海    中に、 この相対の例となす ぺき一奇話あり。  曰く、「客狂二大仏於南都一 過如  玉蚕家一其餅曰大仏餅笑一其形小一 主人曰、 客慣見  仏之大一 凡入>眼者皆小、 不二独此一也、 客以為有理、 市之去、不数歩路上見  棄児垂>髪被。一同、 眠在樹下憐ら之曰、 何物夜叉棄二寧馨児一因_抱 ち之懐一既而怪  其謳沈堕一諦ニ視之  則乞弓老尼也。」(客、 大仏を南部に賽す。   資  をひさぐ家をよぎる。 その餅、 大仏餅という。 その形、 小なるを笑う。 主人曰く、「客、 仏の大なるを見るに慣れ、 す ぺて目に入るものはみな小なり。 ひとり、 これのみにあらざるなり」客、 もっ て理あるとなす。 これを市いて去り、 数歩ならずして、  路上に棄児の要をたらし目にかぶるを見る。 眠りて樹下にあり。 これを憐れみて曰く、「なにものか夜叉、 寧馨児を棄つ」よっ てこれを懐に抱く。すでにしてその謳沈重なるを怪しむ。 これを諦視すれば、 すなわち乞弓の老尼なり)これ、 諧誂の一笑話に過ぎざるも、 また変視の相対を示すものなり。

また、  東京より西京に至るものは著しくその市街の狭きを感じ、  西洋より日本に帰るものは著しくその家屋の低きを感ずるも、  これと同一理なり。 余が先年、 西洋より揺朝の際「〔欧米各国〕政教日記」を印刷に付したるが、そのうちに曰く、「サンフランシスコより日本に帰るものは、 日本の家屋の小にして道路の狭きに驚き、 インド洋より帰るものは、 日本の家屋、 道路の案外に美かつ大なるに驚くという。 これ他なし、ィ ンド洋より帰るときはインド、  シナ地方の実況を目撃せるによる」と。  また日く、「西洋に行くものはホンコンの意外に英なるに驚き、西洋より帰るものはホンコンの意外に美ならざるに驚く。 これホンコンそのものの前後異なるにあらず、 これを見る人の目、 前後同じからざるによる」と。  われわれはだれも、 その郷里の山はいたって高く、 その川はいたって広きように記憶するものなれども、長じてその故山に灼らば、 かえっ て山も川も意外に小なるに驚くものなり。

これ幼時はその身体小なるをもって、 これに比較して山川の大なるを記憶し、 あるいは他に高山、  大川を実見したることなきをもっ て、  すこぶる大なるもののごとくに感捻せしによる。  これによりてこれをみるに、  変視の起こるは主として相対比較にあるも、  その比較は必ずしも外界に併存する物を椋準とするにあらず、 心内に存する記憶、  観念を標準とするなり。 しかれども観念はもと外界の経験より得たるものなれば、 変視の原因は全く外界にありというも、 あえて不可なることなし。 これにつきおもしろき一例は、 余がかつて実験したる月の大小なり。明治二十四年十一月十七日(火曜日)夜、 すなわち旧暦十月十六日夜、 正九時より寄宿生を哲学館構内の運動場に集め、  太陰の直径を目測せしめたり。 当夜、 実に一天晴れ渡りてさらに雲影を見ず、 秋宵一刻価千金というべき風景なりき。

その目測の法は、 二、 三分時間月を望んで、  その視官上に現れたる大小についてその直径を測定し、 これより一同教場に入りて、  おのおの紙筆をとりて、 その測定せるところを記載せしむるなり。 当夕集まりしもの三十一名、 年齢平均およそ二十一歳なり。  その結果は左表について見るべし。

すなわちその結果、 平均九寸四分を得たり。 その最も大きく見たるものは二尺五寸とし、 最も小さく見たるものは三寸とせり。  すなわち、 甲は乙の八倍以上なり。  人によりてその大小を異にすること、  かくのごとくはなはだし。 これまた一奇という ぺし。

また昨年十一月、 本『講義録」第一冊広告に、  毎月十五日の満月を、 肉眼にて望むときは直径なにほどの大きさに見ゆるや、  おのおのその思うところを記すべしとして答案を徴集したるに、 いまだその結果を統計せずといえども、 その小なるは三寸、 その大なるは三尺として答えたるものあり。 これ十倍の差なり。

かくのごとく各人の目に現ずるところに大小の差あるは、 その経験と記憶とを異にするによる。 すなわち、 外界の事物との比較と、  内界の親念との照合とを異にするによる。 また、 心理学の書に幻視の例として、 平面の上に左のごとき種々の図形を描きて示せるものあり。  その一、 二は幻視に属すべきも、 多数は余のいわゆる変視に属すべきものなり。 まず、  感覚上の変視の函を示すこと左のごとし。

つぎに、 わ因の甲のイロと乙のイロとその長さを同じくし、 甲のハニと乙のハニとまたその長さを同じくするも、  甲は乙より短く見ゆるはなんぞや。 これ、  ロニの方は甲乙各一直線をなしてその差を見難く、  イロの方はその差見やすくして注意を引くこと強ければなり。

幻図の中央にある上下の二長方形は、 これを熟視するときは、  白色の長方形は黒色の長方形よりやや大なるがごとくに見ゆるなり。 しかして、 実際は黒色の長方形の方少しく大なり。 これ、  色と視覚との関係にして、 白色の方は実際よりいくぶんか大きく見ゆるを常とす。 すなわち、 よ図についてこれを証するを得べし。イ図の圏と口園の圏とはその大きさを同じくするも、  イ図の方口図より大きく見ゆるなり。 もし遠く離れてこれを望むときは、  一層その差の著しきを見るぺし。 この問題は物理学の光線に属するものなれども、 ここに変視の一例として掲げり。以上は感覚上の変視の例なるが、 もし知覚上、 変覚の起こる例を挙示すれば、(た図のごとく圏の一方へ影を模写するときは、  隧が高く浮き上がりたるがごとく見ゆるなり。 これ、 知覚上の変視なり。)

これ因はイロとハニとの二線の交差したるものなるが、  これを熟視するときは、  イ点はハ点より遠く、  二点は口点より遠くなりて見ゆるなり。)(そ図は平面にえがきしものなれども、 立方体のごとくに見ゆるなり。ーつ図も平面にえがきしものなれども、  一眼をもってある距離において見るときは、イロハニの長方形は、 その両側に見るものの前にあるがごとく見ゆるなり。 これ知箕上幻視の一例なり。

(ね図のイロハニの方形は、 これを熟視する間に隆起したるもののごとく見え、 また、 くぽみたるがごとく見ゆるなり。

(な図のイロハニの一面は、  ホヘトチの面より近く見ゆることあり、  また遠く見ゆることあり。 ら図にありては、  乙面近くして甲面遠く見ゆることと、  甲面近くして乙面遠く見ゆることあり。

以上は感覚および知党の変視、  幻視の例にして、 諸書に散見したるものを抜粋してここに掲ぐ。 なお、  そのほかにも参考すべきものあれども、  後に幻覚を論ずるときに譲る。

つぎに変聴は、 同一の音響が外界の事情、 関係の異なるに従ってその明微、 窃低を異にし、 あるいは遠近、  方向を異にしてわが聴覚上に現ずるをいう。 例えば、  隣室にある時計の音が、  昼間にありてはその声いたって微なるも、 夜間に至っ ては明らかに感じ、 また汽車の響きが昼間聴こえずして深更に至っ て聴き得るがごとき、 あるいは朝暮聴くところの鐘声が、  晴雨、 方向の異なるに応じて、 大いにその感覚を異にするがごときをいう。 けだし、 聴党も視覚と同じく相対比較によりて現ずるものにして、  その前後の音響と比較して、 これを感ずるに異同を生ずるものなり。 ゆえに、 昼間聴こえざる声が夜間に至っ て聴き得るは、  全く昼間は他に種々やかましき声あるにより、 夜間はこれを欠くによる。 汽車中にありて人と相話するに、 小声にては人をして聴き取らしむること難きも、  汽車の声の非常にやかましくして、 これを妨ぐるによる。

余はいまだこの変聴のことについて、  ただちに実験したることなきも、 聴覚は時間の経過を感別する力あるものなれば、  先年、 時問の感党を試験したることあり。  その法、  受験者を一室に集め、  鈴のごときものによりて時を報じ、 五分、  七分、 十分等、 適意に時間の距離を定め、  その制限に達すればさらに鈴を鳴らし、 もって受験者をして、 第一の鈴より第二の鈴までの間に幾分時を経過せるやを紙上に記せしめ、 さらにまたその時より若干分時を過ぎて鈴を嗚らし、 第二鈴より第三鈴までの間に幾分時を経過せるやを記せしむ。  かくのごとくすること前後合わせて五回ないし十回をもっ てこれをとどめ、 各受験者の記するところを実際の時間と合中せるやいなやを検するときは、  人の時間の経過を知覚する力の強弱を知ることを得べし。 余、 この法によりて二、  三回試験を行いたることあるに、  合中するもの百中二三あるのみ。 しかれどもこの法、 聴 兄のみによるものにあらず    もし、聴覚のみによらんと欲せば、 連続せる音野によりて、 あらかじめ定めたる時間だけこれを継続してその声をとどめ、  おのおのをしてその自ら思うところの時間長短を記せしむること前例のごとし。 しかして、  試験の問は一同静座沈黙して、 ただ時間の経過のみを思わしめざるべからず。  その他、 音楽の遠近、 方向を判知し、 また、 音楽そのものの度および量を識別するがごときも、 別にその力を試むる方法ありといえども、  煩しきをいといてこれを除く。

つぎに変触とは、同一の物質が外界の事情、関係の異なるに従っ て、 わが触党上に感ずるところ異なるをいう。今日の心理学にありては触党のほかに別に筋党を設けて、  迎動あるいは抵抗の感覚はこれを筋覚と称すれども、今ここには筋覚、  触覚相合して説明す ぺし。 例えば、 小児のときは自らこれに触れて大なりと感じたるものが、長じてこれに触れてその小なるに驚くことあり。  これ、  そのものの前後異なるにあらずして、  わが身体のその大小を異にするをもっ て、 これに比較して同一の物質に大小の異固あるを感ずるなり。  また、 重き物を手に載せてのち、 軽き物を上ぐるときにはその物の著しく軽きを覚え、 これに反して、 さらに一階軽き物を手に取り、 つぎにこれよりやや重き物を上ぐるときには、 その勇きを覚ゆるは、 これまた前後の比較による。  この重戯の感覚は精細にこれを確知することすこぶる困雖にして、 余は先年、  重拭感党の試験法と称して、  その力を試みたることあり。 その始末を左に掲ぐ。

余、 一日、 哲学館生徒の重誠を推測する力を試みんと欲し、  教場に五個の物品を磁き、 生徒各員をして手にてそのものを一つし。

一つ探らしめ、 その推測せる頂斌を紙上に記載せしめたることあり。  すなわち左のごとし。

試験方法および目的    能験者はあらかじめ用意したる五個の物品を出だし、 その各個に番号を付して

これを別々に所験者に授け、 所験者は手をもってその重訊を推測し、 その結果を紙上に記示する規則なり。  しかしてその目的は、 人の感箕にて軍見を推測する力を計るにあり。  当日用意したる物品、  左のごとし。

(一)水入れ(陶器) 重量十六匁

(二)けいさん(石) 同    八十七匁

(三) タバコ箱(木)

(四)書物(洋紙)

(五)かばん(革)

所験者四十六名中、  その答えの五問中の一問の実最に符合せるもの一名ありしのみ。 すなわち、  二百三十分の一なり。  その余すなわち二百三十分の二百二十九は、  その答案ことごとく実菰に相違せり。

余、  つぎに比較的に各人の重只感覚力を測定せんと欲し、  その方法を思考し一種の新法を工夫せり。  まずはじめに二十五個の箱を造り、 これを青、  黄、  赤、  白、  黒の五色によりて五種に分かち、 各個の箱は長さ二寸五分、 幅一寸八分、  厚さ一寸三分のものとし、 その中に綿をみたし、 鉛を入れて適度の重塁を作り、  その第一種の各個には目方五分ずつの差を与え、  第二種には一匁ずつの差、 第三種には一匁五分ずつ、 第五種には二匁ずつの差を与え、 各種五匁をもって起点とし、 第一種なれば五匁、 五匁五分、 六匁、 六匁五分、  七匁と次第せり。  ひとり第五種には二十匁以上の重薦を作らんと欲し、  二十匁をもって起点とし、  各個に一匁の差を与えて、  二十一匁、 二十二匁と次第せり。  かくして、  その各種の五個に各記号を付し、  一種ずつ所験者に授け、 所験者は手をもっ てその五個を探り軽重を計り、 その最も軽きものより次第に順列して最も重きものに至り、 その順序を紙上に記載し、  第二種も第三種もみなかくのごとくその答えを紙上に示さしめ、 、易して後、 能験者はその紙を験して各人の重量感覚を推知するなり。

この法によりて数回経験の末、 その箱のやや大に過ぐるを知り、 またその重屈の差のよろしきを得ざるを知り、  さらに箱を造り、 長さ、 幅、  厚さ各一寸五分ずつの正立方体となし、 これを試むるに、  かえっ て正立方にあらざるものの重呈を感党するに便なるを知り、 さらにまた箱数十個を造り、 上図のごとく長さ二寸、 幅一寸五分、  厚さ一寸と定め、  五匁を起点とし、 綿と鉛との分州によりて軽重を適度にし、第一種には二分五厘の差を与え、  第二種には五分の差、 第三種には七分五厘、 第四種には一匁の差を与え、 次第にその差を増して二匁に至り、  各種五個ずつにして都合八種四十個とし、  まずその差の最も多きものを所験者に授けて、 各個の重派を比較推撮せしめ、  次第に進んでその差の少なきものに至る法なり。

この法によりて数十人の害生を試験せしに、 なお不十分なるところあるを知り、 さらに改めて前図と同一の箱五十個を造り、  これを十種に分かち、  各種一個ずつとし、  ともに五匁を起点とし、 第一種には各個に一匁の差を付し、 第二種には九分、 第三種には八分と次第して、  第十種には一分の差を付し、  左表のごとき割合を用いたり。

この表に従い、 各個の箱中にまず綿をみたし、  その中央に鉛片を入れ、  その口を封じ、 その表面に何種に屈するの記号を付し、  その各個の両側に暗号を記し、  人をしてまず第一釉を探り、 その最も軽きものより次第に重きものに及ぼし、 これを一行に並列せしむ。 もし、 その並列せるもの暗合の順序に合するときは、  これをして第二種を探らしめ、 前のごとく順序正しきときは第三種を探らしむ。 もし、 その順序正しからざるときは再び試むるを許し、  再試の上なお誤りあるときはその試験をとめ、 これに二点を与うるなり。  かくして次第に進みて、 第五種に至りてはじめて誤りあるときは四点を与え、  第九種に至りてはじめて誤りあるとに誤りあるときは零点を付するなり。 この規則に従い、 種々の学校に至り試験を施ししに、  左の結果を得たり。  学校は左の四カ所なり。

哲学館(男)郁文館(男)

成立学舎女子部(女)

盲唖学校盲生(男女とも)

亜生(男女とも)

生徒年齢およそ二十歳ないし三卜歳

同    年齢およそ十四、 五歳ないし二十歳同    年齢およそ十四、  五歳ないし二十歳同    年齢およそ十二、 三歳ないし二十歳同    年齢およそ十歳ないし二十歳。

この諸校の生徒の点数を表によりて示すこと、  左のごとし。

すなわち、 哲学館にては二点を得たるもの二名、 三点を得たるもの八名、  四点を得たるもの三名、 その他これに準じて知る ぺし。 もし一学校につき、  所験生徒の総数と点数の総計とを比較して平均数を求むるときは、  左表のごとし。〔数値は原本のまま〕

この表によるに、 平均点数の最も多きものは成立学舎女生徒にして、 最も少なきものは歴生徒なり。 すなわち、 墜量感覚力は女生徒を第一とし、 哲学館これにつぎ、 郁文館またこれにつぎ、 盲生そのつぎ、  唖生またそのつぎなり。  しかして、 総計の平均数五・六二なれば、 人の平均感覚力は第五種と第六種との問にあり。すなわち、 目方六分の差あるもの、  ないし五分の差あるものとを識別することを得るなり。

盲歴の問にその差を見るのみならんや。  かつ、 物品の目方増加するに従い、  その軽重を弁別すること難きものなり。 例えば、 目方十匁以上なれば一匁の差を知ることを得るも、  二十匁以上に至れば一匁の差を知ること難し。 余が経験するところによるに、 ある生徒中にて十匁以下にて一分の差を識別する力を有するものあれば、 これに二十匁以上の箱五個を与え、 その各個重飛の差二分なるも、 これを識別することあたわざりき。なんとなれば、 二十匁の物品にて二分の差は、 五匁の物品にて五厘の差に相当する比例なればなり。 ゆえに余は、 この重屈比較推測品の目方を五匁より十匁以内と定め、  人の年齢も十歳以上三十敢までをとりて試験を施せり。 この試験の成績によるに、  人の重鼠比較推測力は、 左のごとき表にて示すことを得るなり。

すなわち、 試験によりて一点を得たるものは等外とし、  二点を得たるものは下等の下とし、  三点は下等の中とし、  四点は下等の上とし、  五点は中等の下、 六点は中等の中、  七点は中等の上、 八点は上等の下、 九点は上等の中、 十点は上等の上、 すなわち最上等重凪感蹂力とするなり。 この規則に従って衆人の上に試験を施すときは、 衆人の感覚力を判定することを得べし。  これ、 余が試験によりて得たる結果なり。

この成組によりてこれを考うるに、  触覚によりて重黛を判知することすこぶる難きを知るべし。 左に、 こつて興味ある例を挙げてこれを示さん。


( イ)泉名所記

豆州修善寺村に源頼家の墓あり。 石塔なり。 その上石は当時、 人の吉凶を卜するに用う。「修善寺温に曰く、「近代、 土人および入浴人も、  御石塔の上石を手ずから持ち上げて、 軽く上がると重く上がるとを試みて、  諸事の吉凶を卜することあり。 これを御伺いという。 行きてこれを見るに、  その重さおよそ二、 三貫目くらいありと覚ゆ。  ここに入浴するものはまずその石に向かいて、 いずれの温泉最も己に適するかを問い、  その軽重によりてこれが判断を下し、  その最も適するところのものに浴す」という。

( 口)東京丸山新町三十一番地に吉田教会とか申す一小庵ありて、 大日如来を安置し、  諸方より信者の来詣するものはなはだ多し。  その来詣人の話に、  仏培の前におよそ長さ四寸、 幅、 厚さとも一寸角くらいの鉄棒あり。 この鉄棒が人の問いに応じて相応の答えを与うという。 詣するものこれを握りて、「どうぞ軽く願います」といえば軽くあがり、「磐石のように願います」といえば、  なにほど力を用うるもあがることなし。 これよりいろいろの問答をなし、 例えば、「明日は天気がよろしいかまた悪いか、もしよろしいならば軽く願います」といいつつこれをあぐるに、 軽くあがればすなわち天気のよろしきを知り、 あがらざれば天気の悪きことを判定す。  また、 商法の当たるか当たらざるかを問わんと思わば、  まずあらかじめ「当たるときは軽く願います、 当たらざるときは里く願います」といいて鉄棒をあぐるに、 軽くあがれば商法の当たるなりと判定し、 重くしてあがらざるときは当たらざることと判定するなり。  このようにして、 なににても未来の知るペからざることあらば、その鉄棒に向かっ てたずね、幸いにその答えの事実に合することあれば、「これ大日如来の御知らせを得たるなり」といい、 当たらざるときは、「わが信心のいまだ足らざるによる」といいて、諸方より信者の来集するあり。 中には日参するもありて、 毎日身の上の吉凶、 禍福をたずぬるものあり。  しかして、  信仰深きものには必ずその効験ありという。


(  ハ  ) 甲州北都留郡広里村の内、  大月区字沢井のある農家に、 年来、 丈一寸二、  三分くらいの観音の像を安四せり。 この像、 よく人の吉凶、  禍福を告ぐと称す。  人あり、 もし某事の吉凶を問わんと欲せば、  まずそのことをその家の老婆に告ぐぺし。  しかるときは老婆その像に対して祈願し、 試みにこれをあげ、  その軽重によりてこれを判断するなり。  その重きときは、  老婆の力にては到底あぐることあたわざるように見ゆという。(田之倉真誓氏報)


(   二   )栃木県上都賀郡下押原村大字樅山光明寺に、 古来一躯の石仏あり。  人、  もしこれに祈ることあるときはその像をあげ試み、 その軽頂によりて成否を判断すという。  予、  近日これを実験せり。 すなわち、 まずその像を持ち上げて頂飛を試み、 しかる後に祈願するところありてさらにこれをあげしに、 前回よりやや重く感じたり。  その後数回あげ試みしに、  そのたびごとに多少軽重の差ありしがごとし。  ただし、  その差のいかほどなりしかは知ることを得ざりき、 云云。(出井侃氏報)


(ホ)  秋田県南秋田郡山谷村字束山台という所に、  重さ五、 六貫目の石あり。 里人これを「姉ご石」と呼ぶ。  人もしその小なるを見、  一挙してあげんと欲せば、 非常に重くして容易にあがらず。 しかれども、 もし婦女に対するときのごとき心持ちにてあぐるときは軽くあがるという。 これ実に「姉ご石」の名あるゆえんにして、  その石あたかも男子を栞うもののごとしという。(佐々木甚之助氏報)


(へ)  宮城県仙台木之下薬師堂に一躯の仏像あり。  木製にして長さ三尺ばかりなり。  病気その他の事故にてその像を掲ぐるに、 あるいは軽くあるいは東し。 その軽頂によりて出来事の難易、 吉凶を判ずべしと伝う、云云。(藤崎源六氏報)

これ、  みな変触、 幻触を証するものにして、 木石、 仏像そのものに軽重の差を生ずるにありとす。  これを掲ぐる人の精神作用によりて、 その差を生ずること明らかなり。 ゆえに、 これを変覚の例となすよりは、 むしろ幻覚の例となすべし。  しかして、  かかる幻覚の生ずるは、  触覚にて重凡の判知するの難きによらずんばあらず。  しかして、 これによりて考定するところ事実に合することあるは、 その人の無意識観念の作用に帰せざるべからず。例えば、 天気の晴雨を問うに、  その無意識中に多少天気を予知すべき力ありて存するも、 自らこれを識党せず。しかして、  その作用を不覚筋動となりて外界に示すによる。「コッ クリ」のごとき、 棒寄せのごとき、  みなこの例なり。  その説明は「総論」説明編第四および「心理学部門」心術編について見るべし。 その他、  これに属すべき一例は、東京市本郷区駒込千駄木町に月読教会と称して神道の一小教会あり。教主は年齢六十前後の老婦にして、小倉照と称す。 堂内に月読大神を祭る。 けだし、  本尊は太陰なり。  人、 もしここに至りて吉凶、 禍福をたずぬるときは、  老婦神前に向かい合掌黙禰し、  供物台のごときものを片手にてあげ、  その軽重によりて神感を知るという。 これもまた変触、  幻触の一例となすべし。

つぎに変嗅、 変味は、同一の物質を味嗅両覚上にこれを感じて、 その実際より異なりたる感覚を生ずるをいう。嗅{兄に至りては、 香臭を発するところの物質の遠近、 方向によりてその感覚を異にするはもちろん、 あるいは空気の厚薄、  温度の高低に応じてこの感党を異にするものなり。 味覚に至りては、 外物を知覚する力最も弱しといえども、  経験、 習伯の力によりて多少これを弁別することを得。 あるいは深く茶を好み、 酒をたしなむものに至りては、 その弁別力大いに進み    一椀を喫してただちにこの品は一斤何 匁の茶なるを判知し、 また、 一杯を傾けて、 ただちにこの酒は何地方の産物なるを識別し得るに至る。  かくのごとく、  味党によりても大いにその弁別カに長ずるものあるも、  その前後に感党するところのもの異なるときには、  これに比較して同一の味を感ずるに、必ず異同を覚ゆるものなり。苦き物を味わいてのち砂粕を味わうと、 甘き物を味わいたるのち砂糖を用うるとは、その味大いに異なるを覚ゆるは、  みな人の実験に徴して知るところなり。  しかれども、  味嗅両覚に至りては必ず籾神作用の影響を受くるをもっ て、 これを変覚よりむしろ幻覚に属するを適当なりとす。

つぎに、  有機感覚すなわち体覚のことは別にその項目を掲げざるは、 その原因全く外界に存せざるにより、 すなわち、 その感覚は身体内部に起こるをもっ て、  これを変貨の部に加えざるなり。  これを要するに、  変覚は五感に応じて五種に分かちたるも、 その最も変党に閑係を有するものは視覚、 聴覚、  触覚の三種なり。 すでに変党を説明し終われば、 これより幻覚に移りて説明せんと欲す。


第 四十一節    幻覚、  妄覚

両覚のことは「総論」説明編において詳述せるをもっ て、  ここに再説せるを要せず。  ただ病的によりて起こすところの状態におもしろき例あれば、 ハンモンド氏の『精神病論 」によりて抄訳するところ左のごとし。

一紳士のはなはだしく金銭上の損失をこうむりしために、 非常の憂悶、 悲嘆に沈みしものあり。 予のもとにきたりて、  その毎夜寝に就かんとするに当たり、 視覚の幻影に悩まさるるは、 なんのゆえなるかをはかれり。 その言を聞くに、 この紳士の家の階段上に大なる梯 柱ありしが、 室内の明燻なるにもかかわらず、 この梯柱は常に、 長大にして細薄なる一婦人の猛悪なる魔相をもって、 氏を斜呪しつつ冗立するもののごとくみえ、 その梯柱に触るるに至れば、  幻影初めて消滅するも、  この物体の視線に入りしときよりこれに触るるに至るまでは、  依然として存立せり。  ゆえに、 氏のこれを避くる唯一の方法は、 その両眼をきびしく閉じて、梯柱を通過しおわるまでは、  これを開かざるにありしという。

セント・テレサはしばしば、 己が念珠に付せし木製の十字架は、  天上界にありと思わるる至美の四宝石よりなれる他の十字架に変ずることを見たりといえり。

カバニー  氏は、  数度手掌の膜腫を患いしある人が、 この病患の際は、  その寝床は己が身体を離れて沈没し去るがごとく感ぜしことを氏に語りたりといえり。 運動中枢の疾病にかかりし人にありては、 混度および重羹に関する幻覚あるを常とす。 しかしてこの場合には、 障害は脊髄において存するものなり。  されども、  脊髄はある度までは、 また触覚の中枢なりとみなすべき理由ありとす。

詩人ゲー  テの朋友マダム・ダルニム女は、  妄覚のことについて己の実験せしところなりとて記して曰く、「予はまさしく空中に飛掲浮遊したり。 これ、 単に躁趾を反発圧下することによりて、 わが身はただちに空中にあり、  地上をさること二、  三フィー トの所において緩々優々として浮揚せり。 つぎに、 予は下降してふたたび昇り、 諸方を飛遊せし後また帰りきたれり。 右は、 数日前熱病にかかりしより寝床に就きて睡眠せしに、 寝室に入りし以来二週日の間、  右の妄覚を感じたり」と。

まず視党の幻妄を考察するに、 仏国有名の医師アンドラル氏の例は、  すこぶる有益にして興味あるものなり。 氏日く、「予のいまだ医学を研究するのはじめに当たり、 予はラ・ビチェ の解剖室の一隅において、 半ば姐虫に虫食いせられたる小児の死体を見て、  はなはだしく興に入れり。  翌朝、 火を点ぜんがため火炉に行きしときにも、 なおこの死体を見たり。 しかして予は終始、  かくのごとき物のここに存すべきはずなきことを自ら心中に思えしにも関せず、  その体は明瞭にわが観望の前に存するのみならず、 予はその腐臭をさえ嗅ぐことを覚えたり。  かくのごとき妄党は十五分時の間永続したり」と。

ゲルマニアの書陣ニコライの例は、  知力上の錯乱を受けずして視覚の妄象をなさしむることの著名なる例証なり。 ニコライは一七九    年の終わりに当たり、 しばしば憂愁なる事変の 出 来せしため、 はなはだしく情緒を錯乱せしめたり。 しかのみならず、 平常行える放血を怠り、 特に業務非常に繁劇なるが上に、  一朝図らず他人と激論をなせしが、 当日ただちに妄党を起こすに至れり。 すなわち、 氏はにわかに十歩ばかりをさる所において、 明瞭に故人に類する一形象を知北したり。  氏は、 すなわちこれを指して、  その妻のこれをみるやいなやを問えり。 しかるに、 妻は一物をも認むることなかりしかば、大いにこの間に吃 鷲 してただちに医師を迎えきたらしめたり。この幻像はほとんど十分時の間永続せしが、 婆 時にして氏は心緒靖平に帰して就眠したり。 されども午後の四時において、 朝時にみたりし形像は再び現出せり。 氏は、 すなわちたちて他室にゆきしに、  幻保もまたこれに伴い、  ときどき隠顕出没しつつ常に兵直の態をなせり。  しかしてまた第六時に至りては、 最初と異なれる幻像を顕現せりという。

ハスカル氏はその身辺において、 常に呼々としてうそぶける洞穴をみたり。  このものは奄も氏の知力を即害することなかりしといえども、 なお、  これをみることあたわざるように装昭せる帷幕を垂れて、 心気を快適ならしめんことを図れりという。

一少年あり。 あたかも左耳の上に当たれる頭上に激打を受けしが、  数週の後に至り、  一の巨大なる黒猫現出して、 少年のゆく所に付きまとい、 ときにはあるいはその膝、 あるいはその開に躍りたり。  しかして少年は、 この現象は決して以実のものにあらざることを明知したりといえども、 なお、 これがために苦悶を受けしことはなはだしかりしという。

バイラー ゲル氏の記するところに曰く、「一八三一年の四月、 パリ府に街戦ありしとき、一職工の婦人はその家に帰りしに、 良人は弾丸のために重傷を負いおりたることを見たり。 その後一カ月を経て、 婦人は産 賭に就き、  その第十日に分娩せしが、 このときより発狂にかかれり。 その精神錯乱のはじめに当たりては、 大砲の轟 響、 小隊の発砲、 弾丸の射声を開けり。 婦はこれらの音評を避けんがため田舎にのがれしが、 捕らえられてサルペトリエルに幽躍せられ、 ーカ月ほどにして平癒するに至れり。 爾後十力年の間に、 同症は六回の発作ありしが、 つねにそのはじめに当たりては、  大砲、 小銃の発射および弾丸の叫声を身辺に聞きたり」という。

ハンモンド氏曰く、「視党の妄象は、 目を密閉せる間、あるいは全く盲目なる人においても往々成立するものなるがごとく、  また聴覚の妄象は両耳を抑塞するもなお存立し、 あるいは全く聾なる人にありても発起するものなり。  予はすでに一の聾婦人が、 その身辺にうそぶける音声を聞きたることを述べしが、 ここに他の事例あり。 すなわち、 予が医科大学の臨床講義の席にきたりし一の聾唖は、  絶えず各種の音声の幻想をうれえたり」と。 また曰く、「嗅覚の妄象は視覚および聴覚のごとくに多からずといえども、 なお唸も知力の錯乱することなくして、 往々これを生ずることあり。 予の知れる一紳士は、 ほとんど平常、 顔料あるいはテレビンティナ油を感ずる幻想を患い、 また他の人は常にその鼻底にコー ヒー を誼くがごとき嗅気を覚え、 他の一医師は不断、 解剖室の嗅気に悩まされたり」と。

詩人ゲー  テ氏は、  その心内に起こりし心像に晰然たる形態を付与する力を有し、 あるときのごときは、 己が形像のわが身に向かいて次第に接近しきたることをみたりという。 また、  ウィ ガン氏の記するところによれば、  氏の知れる怜悧穎オの人は、  右に等しき力猿を有したりとぞ。

アペルクロンピー 氏の記するところによれば一人の紳士ありて日常、  怪條の顕現に悩まされたり。 この紳士の特有する力はすこぶる強大なるものにして、 ために街上にて己の朋友に会するも、  一見ただちにその実人なるか、 あるいは虚影の人物なるかを、 自ら弁明することあたわざりしほどなりき。 しかして、 綿密に注視せし後、 初めてようやくに虚影の像は、 実像のごとくに明晰ならざることを定むるを得べし。 されども、この紳士は一般に他の方便を用い触接、言語または 筵音を傾聴する等によりて、その視感の印象を検販したり。 また、  この紳士は若干時の問、 自己心内の想念に注意を凝らすときは、  そのいずれにても意に応じて、種々の虚影、 幻像を喚起する力殿を有せり。  しかしてこれらの幻像は、  そのかつて実験したる形像あるいは光景、  またはその想像力によりて創造せし構像より成れるものなり。  該人は右のごとく幻像を喚起する力を有すといえども、 しかもこれを駆逐すべき力は    つも有することなく、 いっ たんある特殊の人物あるいは光景を喚起せし後は、 そのいくばく時の間存続してわが身を悩ますぺきかは、 あらかじめ知ることあたわざりき。 この紳士は今やあたかも壮時に当たり、 心意、 身体ともに健全にして、 常にその業務に鞍掌 せり。 しかして、  その弟もまた同一の妄党を感ずることありという。

ここに幻聴のことにつき、   巣  の鳴き声の各地にて聴取するところのみな異なるはまた一奇事なれば、 諸国より報道せるものを集めて示すこと左のごとし。

その他、 心象編に属する事項は大抵本講中に掲げたれば、 ここに述ぶるに及ばず。 また、 夢想編、  憑 付編、 心術編もおのおのその付講を掲げて補充する意なりしが、 その例証の参考に必要なる分はすでに本講中に掲げしをもっ て、 付講を設けざることとなす。

仏教夢説 一斑(某雑誌掲載の分)


古来、  人に最も奇異の感想を与えたるものは夢の現象なり。 未開の世、  無知の人なお夢を有するも、  そのなにによりて生ずるを知らず。  ゆえをもっ て種々の妄想を起こし、 迷信を生じ、 あるいは盤魂の外に遊ぶものなりといい、 あるいは鬼神の内に通ずるものなりという。  ゆえに夢の説明のいかんは、 その当時の人知の進否を判定するを得 ぺし。  余、  仏書を検ずるに、  そのうちには迷信的説明の混同せるものなきにあらずといえども、  また大いに発達せる学理的解釈あり。 今、  左の順序に従い、  仏教の夢説一斑を開陳せんとす。

第一章    夢の実例 第二章    夢の霊験 第三章    睡眠の説明 第四章    夢の種類 第五章    夢の説明

第六章 夢の結論


第一章 夢の実例

仏忠中に、  夢の例および夢の談を散見することすこぶる多し。 ことに祖師の伝記中に最も多しとす。 これ、   は実際に起こりし事実なるべきも、また伝記の体面を装飾するために付会せるものなしともいうべからず。まず、二、  三の伝記中に散見せる類例を示すこと左のごとし。

「仏祖統紀」阿難の下に、「今此比丘不>受二吾教一 於>世無>益、 宜    か涅槃一 即詣二閻_王  適値  其睡一 王夢蓋茎折一即便驚覚、門人告言、 阿難入>滅故来相見。」(いまこの比丘はわが教えを受けず、世において益なし、よろしく涅槃に入るべし。 すなわち閻王に詣るに、  たまたまその睡るに値えり。  王は蓋茎の折るるを夢み、すなわち驚覚す。 門人告げて言す、「阿難滅に入らんとして、  ゆえにきたり相見る」)とあり。

同魯第十七祖の下に、「僧怯邪舎淳者、 磨提国人、  母夢大神持鑑、 因而有>娠、  七日而誕云云。」(僧怯耶舎尊者は摩提国人なり。 母は大神の鑑を持するを夢み、  よりて娠むことあり。  七日にして誕る、 云云)とあ同書第二十祖の下に、「母夢呑二明暗二珠一 党而有五}、  経二七日石 ニー羅漢一 名曰二賢_衆  云云。」(母、  夢に明暗の二珠をのむとす。  覚めて卒むことあり。  七日を経て一の羅荻あり。  名付けて賢衆 という、 云云)とあり、

「神僧伝人頭白眉長釈道安の下に、「安注ー諸経  恐>不>合>理、 乃誓曰、  若所>説不二甚遠袖理、 願見ーー瑞相一 乃  名翌道」(安は諸経に注し、 理に合わざらんことを恐る。 すなわち哲いて曰く、「もし説くところ、 はなはだしくは理に遠からざれば、 願わくば瑞相を見ん」すなわち、 夢に道人の頭白盾長なるを見る)とあり。

「元享 釈 祁」釈最澄の下に、「求三子期二七日一 至第四暁五空盟夢    其妻乃牢云云。」(子を求めて七日を期す。 第四の暁に至っ て霊夢を得、 その妻すなわち学むあり、 云云)とあり。  釈空海の下に、「母阿刀氏、  夢二梵僧入  懐而有身、  在胎十二月、 宝亀五年生焉云云。」(母は阿刀氏、 梵僧懐に入るを夢みて   身   あり。  胎にあること十二月、  宝亀五年生まる、 云云)とあり。

かくのごとき諸例の高僧の伝記中に散見せるもの、  到底、  いちいち挙示すべからず。  かの後漢の明帝の夢に、金人の光を放つを見て仏教をインドより将来せしがごとき、 あるいは聖武天皇に夢告ありて国分寺を建てたまいしがごときは、 たれびともよく知るところなり。 もし夢の諸例を知らんと欲せば、「法苑珠林第四十三巻、 および第四十四巻眠夢編、 および「義楚六 帖巻七占夢編をひもときて見るべし。 あるいは「仏神感応録」第七巻をひらくもその諸例を知る ぺし。 その他、 諸種の高僧伝または往生伝、 または因縁集等を一読せば、  いたるところ夢談を見ざるはなし。  ことに民問に伝うる、 浄土宗祖師、 真宗祖師、  および日蓮宗祖師の伝記をうかがわば、 夢談の多きに驚かざるを得ず。  いずれの国にありても、 歴史、 伝記、 物語等には夢談の多きを常とすれども、 宗教の書中のごとくはなはだしきはあらず。 これ、 宗教家は精神集合の結果として、  その夢を結ぶこと常人より多き道理あるによるも、  また後人のその徳を追慕するのあまり、  一言一行を夢に託して不思議の度を高めたることなしというべからず。 けだし、 その夢たるや大抵みな霊験感応に出でたるものなれば、 あたかも神仏の不思議力に帰するにあらずんば、 その理由を解説すぺからざるもののごとし。  今左に、 夢の霊験に開する事実を示すべし。


第二章 夢の霊験

夢に盤験感応あるは諸経、 諸論中に見るところなり。 すでに夢の霊験を唱うる以上は、  夢について吉凶を判定することを得べき理なり。 これをもって仏教中に占夢の説あり。  まず「法苑珠林」によるに、  その眠夢編に「夢経 」を引くこと左のごとし。

 夢経云、 仏在世時、 時有二国王る名  不黎先泥一夜夢二十事一夢見三  瓶併両辺瓶満気出相交往来不レ入二中央空瓶中ー ニ夢見ーー馬口食尻亦食一 三夢見二小樹生"華、 四夢見  小樹生>果、 五夢見二  人索>縄人後有迄羊羊主スル食品四、六夢見品狐坐ー於金林上  於ー一金器中ー食上七夢見斗ハ牛遠従石祖子盃乳上、八夢見に四牛従二四_面  嗚  来相趨欲>闊、  当合未釜  不>知中牛処九夢見ー大跛水中央濁四辺清{  十夢見 天 総水流正赤ー王夢見己架ヂ已即癒大怖、恐  亡二其国及身妻子一 王至一明日ー即召入ム卿大臣及諸道人暁  解夢玉? 問言、  昨夜夢見一十事一審即恐怖、 意中不玉楽誰能解>夢、有婆羅門一言我為>王解ら之、恐  王聞者愁憂不>楽、王言、如面畑所』親説レ之勿>有レ所>誰、婆羅門言、  王夢皆悪、 当取品り重愛玉夫人太子及辺親近侍人奴婢い 皆殺  以祠ーー天王示セハ及著身珍宝好物皆当ー焼已祠。天、 如レ是者王身可る得溢が他。得レ無レ他、  王有  臥具

(十夢経にいう、「仏在世のとき、 時に国王あり、 不黎先泥と名づく。  夜十事を夢む。  一夢は三瓶併を見る。両辺瓶に満気出でて、 相こもごも往来して中央空瓶中に入らず。 二夢は馬の口食し、 尻もまた食するを見る。三夢は小樹の華を生ずるを見る。  四夢は小樹の果を生ずるを見る。  五夢は一人の縄を索りて、  人の後に羊あり、 羊、 主の縄を食うを見る。 六夢は狐の金 林 上に座し、 金器中に食うを見る。 七夢に大牛還りて積子に従って乳するを見る。  八夢は四牛の四面より鳴きてきたり、 相趨りて賊せんと欲し、 当合いまだ合せず、 牛処を知らざるを見る。  九夢は大跛水の中央は濁り、  四辺は清むを見る。 十夢は大渓水流れてまさに赤なるを見る。  王夢にこのことを見おわりて、 すでに癒めて大いにおそる。  おそらくは、 その国および身、 妻子をうしなわん。 王、 明日に至り、 すなわち公卵、 大臣および諸道人の解夢に暁き者を召して、問いていわく、「昨夜、夢に十事を見る、 危めてすなわち恐怖す。 意中楽しまず、 だれかよく夢を解せ」一婆羅門ありていう、「われ王のためにこれを解せん。おそらくは王の聞くもの愁憂して楽しまざらん』王のいわく、「卿の親るところのごときは、 これを説いて緯むところあることなかれ」婆羅門いわく、『王の夢みな悪し。 まさに重愛するところの夫人、  太子および辺親、  近侍人、  奴婢を取りて、  みな殺してもって天王を祠らば他なきを得 ぺし。  王の有する臥具および著身の珍宝、  好物、  みな焼きおわりて天を祠るべし。  かくのごとくせば、  王の身、 他なきを得 ぺし』」)

また、「義楚六帖」占夢編に諸経論を引証して示せり。 すなわち左のごとし。

経律異相云、 善慧比丘夢見ーー五事仏為円>之、 一在二海_上  臥_表一生死海二枕二須弥山正ぞ証果一也、 三海生類入>身表ー試所化一 四手執>日悟>理、 五執>月照コ救冥暗

「経律異相」にいう、「善慧比丘、 夢に五事を見る。 仏ためにこれを円す。  一に、 海上にありて臥すは生死海を表す。 ニに、 須弥山に枕するは証果を表すなり。  三に、 海生類の身に入るは所化を表す。  四に、 手に日をとるは理を悟る。 五に、  月をとるは冥暗を照し救うなり」)

倶舎論云、 作事王迦葉仏父、 作仏為円>之、  皆表二釈迦末法弟子夢不祥{  頌云、 大象及井楚、 栴檄妙園林小象二獨捩広堅衣閑評、 此之十夢

(「倶舎論」にいう、「作事王は迦 葉仏の父、 十夢不祥を作る。 頌にいう、 大象および井、  塾、 栴檀、  妙園林、  小 象、 二禰喉、 広堅衣、 闘謹    この十夢、  仏ためにこれを円す。  みな釈迦末法の弟子を表す」)

本行経云、 仏母摩耶昼寝、 乃夢ー白象子入二其右脇一 王召ーー八婆羅門師一占>之、 日月__生  聖王一白象生り仏、 皆吉夢  也。

(「本 行  経」にいわく、「仏の母摩耶昼覆し、 すなわち白象の子、 その右脇に入ると夢む。  王、  八婆羅門師を召して、 これを占う。  日月は聖王を生じ、 白象は仏を生ず。  みな吉夢なり」)

摩耶五夢経云、 仏母在。こ切利天 須弥山崩、 二四海水蝸、 三  頭上花萎、 四  腋下汗出、 五  頂中光滅、 表二似^男

(『摩耶五夢経にいわく、「仏母、 切利天にあるとき、  一には須弥山崩れ、 二には四海の水喝く。  三には頭上の花萎む。  四には腋下汗出でて、 五には頂中光滅す。  仏の入滅を表す」)釈迦諮一云、 仏将  入一な金剛喩定一成仏い魔王作二三十一夢一 皆不吉祥。

(『釈迦譜  一にいう、「仏、 まさに金剛喩 定 に入りて成仏せんとす。 腹王三十一夢を作る。  みな吉祥にあら

ず」)

菩提心経云、 有ー迦葉婆羅門一 夢見 蓮 華在一活首、 問り仏、 仏言、 夢一面蓮華傘蓋日月輪等一 皆是吉兆也。

(「記  芯  叫  」にいう、「迦葉婆羅門あり。  夢に叩軍の首にあるを見る。  仏に問う、 仏いう『蓮華、 印配    日月輪等を夢む。  みなこれ吉兆なり」」)

善見律云、 問夢為 善 不善無_記  耶、  答亦善不善無記、  若夢見二礼仏聴法説法{  此是善功徳、  若夢見二殺盗姫ー此是不善夢、 若夢見 柑黄赤白色等一 此是無記夢也。

(「善見律』にいう、「問う、「夢は善、 不善、 無記をなすや』、 答うに「また善、 不善、 無記あり。  もし夢に礼仏、 聴法、 説法を見れば、 これはこれ、 善功徳なり。  もし夢に殺、  盗、  焔を見れば、 これはこれ、 不善夢なり。 もし夢に青、 黄、 赤、 白色等を見れば、 これはこれ、 無記夢なり  」

荼毘云、 仏入滅時、  阿闊世王夢二月落日従レ地出彗星七現一 迦葉阿難入滅、  王皆有蔀心夢梁折傘蓋柄折。

(「荼毘」にいう、「仏、 入滅のとき、 阿閣世王、  月落ち日地より出でて慧星七現するを夢みる。  迦葉、 阿難、入滅す。  王みな悪夢あり。   梁折れ、  傘蓋柄折れたり」)

その他「釦宝即叫」に、 夢に「頭上火'然、 両蛇絞>腰、 細鋲網纏>身、  見』一赤魚呑二其双足{  有ー四百ー 鶴ー飛来向生、 血泥中行泥没二其腋{  登二太白山一八齢雀厘   '頭。」(頭上火燃し、 両蛇腰を絞り、 細鉄網を身にまとい、 ニ赤魚のその双足をのむを見る。  四百鶴あり、 飛来して王に向かう。  血泥中行泥その腋を没す。  太白山に登り、  八配 釘 咽頭す)の八事を見て不祥となせしこと出でたり。  かくのごときの類、 枚挙し尽くすべからず。



第三章 睡眠の説明

夢は睡眠中に起こる現象なれば、  夢の説明を掲ぐる前に、 睡眠に関する説明を示さざるべからず。  そもそも睡眠は、  仏教中、 心所法の一種にして不定地法の一っ なり。「七十五法 名目」の注にその定義を下して曰く、「令ニ心闇昧玉伊性。」(心をして闇昧ならしむを性となす)とあり。「七十五法記   にはこれを解して、「令二心昧略一為>性、 昧即簡>定、 定中取>境分明、 略即簡砒散、 散取ら境多故。」(心をして昧略ならしむるを性となす。 昧はすなわち定を簡び、  定中境を取りて分明にし、 略はすなわち散を簡び、 散は境を取りて多きがゆえなり)とあり。  しかして、「 成 唯識論    にこれを解すること最もつまびらかなり。 その第七巻はじめに日く、眠閲睡眠令乙小ーー自在 』昧略土為>性、  障>観為レ業、 謂睡眠位身不ーー自在一 心極闇劣、  一門転故、 昧簡>在>定、  略別函  時一 令圏  睡眠非。無 体 用一 有 無心位石竪立此名  如>余、  蓋纏心相応故。(配というは、いわく鄭配ぞ。自在ならず鴫 配、なら命むるをもっ て性となし、記を町うるをもっ て業となす。いわく、  睡眠の位には身をして自在ならざらしめ、 心をして極めて闇劣ならしむ、  一門にのみ転ずるがゆえに。 昧とは 定にあるを簡び、  略 とは洒めたるときを別つ。  令 とは、 睡眠は体用なきにあらずということをあらわす。 無心の位あっ て、 この名を仮 克 せり。 余のごとく、 蓋棚なるをもっ て、心と相応すべきがゆえに)

もし、  その作用の説明については、 後に夢の説明にあわせて示すべし。  ただここに、  睡眠の原因について経論中に出だせる異説を掲ぐべし。

正法念経云、 虫_在一心内一 虫睡即人睡、  又心疲即熱、 多ーー睡眠玩唸

(「正法念経」にいう、「虫の心内にあり。 虫、  睡ればすなわち人睡る。 また心疲るればすなわち熱す。  睡眠多きがゆえなり」)

法句経云、 有こ  比丘一 多著一睡眠一 仏乃弾指令二彼覚多睡等和也。之日、 汝曾宿生身、 為獅螺絆蛤一 食.ー木虫ー来、  所  以

(「法句経」にいう、「一比丘あり、 多く睡眠につく。 仏すなわち弾指して、  彼をしてこれを洸めしめて曰く、「汝かつて宿生身、 獅螺峙蛤となり、  木虫を食いきたる。  多睡等なるゆえんなり』」)解脱論云、  一従>心、 二従>食、  三従ー一時節一 睡足身心二解怠相、  睡是身、 罹怠是心也。(「解脱論」にいう、「ーは心により、  二は食により、 三は時節による。  睡はこれ身心二解怠の相、 睡はこれ身、  憬怠はこれ心なり」)

このうち、  虫をもって睡眠の原因となすは実に奇なり。 通俗の説明中にこれに類することあるは、  あるいはその源、 仏説中より出でたるも知る ぺからず。 また睡眠の種類につきて、「法苑珠林摘載して左に示すべし。

第四十四巻に出だせるものを如 発 党浄心経云一 仏岩 弥勒菩薩白言、 菩薩当>観  二十種睡眠諸患一 何等二十、 一楽  睡眠年者、 当>有ー領惰ー二身体沈重、 三閲皮不浄、 四皮肉厖渋、 五諸大檄濁威徳薄少、 六飲食不>消、 七体生玉生哭   八多有ーー解怠一増ー芦長痴綱+ 智惹厭弱、 十一善欲二疲倦十二当五趣和孟咀 十三不云行二恭敬{  十四稟質愚痴、 十五多二諸煩悩一心向ーー諸_使十六_於一善法中一 而不レ生涵欲、 十七一切自法能令二減少卜八恒行二驚怖之中一 十九見二精進者一毀辱  之{   二十至  於大衆細竺他軽賤

(『発覚浄心経』にいうがごとき、 仏は弥勒菩薩に告げていう、「菩藷まさに二十種睡眠の諸患を観すべし。

何等か二十。 一、 睡眠を楽しむ者、 まさに瀬惰ある ぺし。 二、 身体沈重。 三、 慮皮不浄。 四、 皮肉贔 渋。 五、諸大被濁威徳薄少。 六、 飲食消えず。  七、 体癒胞を生ず。  八、  多く悌怠あり。 九、 長痴綱を増す。 +、  智慧嵐 弱。 十一、 善疲倦せんと欲す。 十二、 まさに黒暗に趣くべし。 十三、 恭敬を行わず。 十四、 稟質愚痴。 十五、 諸煩悩多く、 心諸使に向かう。 十六、  善法中に欲を生ぜず。 十七、  一切自法よく減少せしむ。 十八、ねに驚怖の中に行く。 十九、 籾進する者を見て、  これを毀 辱 す。  二十、  大衆に至りて他の軽賤を被る」)

また、「法苑珠林』に「 十 誦律    を引き、  さらに頌文を掲げて日く、昏沈睡蓋 遊想妄現 親族虚緊 徒摺二美酷既窟二空無妄生  愛恋雖>_通一三性終__成  七変

(昏沈睡蓋、 遊想妄現、  親族虚衆、 いたずらに美酷を摺す。 すでに空無より痛め、 妄りに愛欲を生じ、 三性に通ずといえども、  ついに七変を成す)

また睡眠の性質を論じて、 善、 悪、 無記(不善不悪)の三性に通ずるものとす。「婆沙論」にいう、「若夢見え礼仏等事一即善性、若夢見二殺生等一即不善性、夢見ーー青黄等  即無記性。」(もし夢に礼仏等事を見れば、すなわち善性、もし夢に殺生等を見れば、 すなわち不善性、 沢名に青黄等を見れば、 すなわち無記性)とあり。 また「光記」には、睡眠に善悪の性あることを解して曰く、「拠>有>夢説、 若無袖夢時唯是無記。」(夢あるによりて説き、 もし夢なきときは、 ただこれ無記)とあり。  これによりてこれをみるに、 睡眠に善悪ありというは、 眠中に現ずる夢について判断するなり。 もし熟睡無夢のときは、 これを無記性となす。  ゆえに『倶舎頌    には「睡眠遍不>違」(睡眠あまねく違わず)とあるは、 善、 悪、 無記性三性に通ずるをいうなり。 また「大蔵法数」に睡眠五過を掲げて、「悪夢、 諸天下不>暖、 心不>入>法、 不>思一明相{  喜出レ粕。」(悪夢は諸天下まもらず、 心法に入らず、 明相を思わず、喜んで精を出だす)の五種となす。  これ、  四分律に出ずる名目なり。  余は夢の説明に合して弁明すべし。


第四章    夢の種類


夢の説明を掲ぐる前に、 また夢の種類を挙示するを要す。  シナにありては夢に六種を分かち、 四距    釈釦 思夢、 路夢、  憫夢、 喜夢となす。  しかるに仏教にては、 あるいは三種、 あるいは四種、 五種、 あるいは七種、 あるいは八種、 あるいは十種等の分類あり。 まず、『避 閲 賛    巻十二によるに、  聖輸陀羅の三夢を示せり。「三夢者一月堕>地、 二牙歯落、  三失二右腎ご(三夢とは、  一には月地に堕ち、 二には牙歯落ち、 三には右の宵を失う)これ「過去現在因果経に出ずる名目なり。 また、「善見律には夢に四種を分かつ、 すなわち曰く、

夢有一四因縁一 一四大不和、 二先所白見事、 三天人神鬼聖賢現>相、 四想念生二善悪一知識為現者実、 余皆虚也。

(夢に四因縁あり。  一、  四大不和。 二、 先に見るところのこと。  三、 天人、 神鬼、  型賢、  相を現す。  四、 想念善悪を生ず。 知識為現の者は実、 余はみな虚なり)

また「大蔵法数」には、 無明習気、 善悪先徴、  四大偏増、  巡遊旧識の四夢あることを出だせり。  その解釈に曰く(二十一巻二十葉)、一謂、 由』無明煩悩積習気分覆中蔽真如之性上無>所二明了和ぞ致ー一心神顛倒如空於夢想一也。

(一にいえらく、  無明、 煩悩、 積習、 気分の真如の性を覆蔽するに由りて明了するところなし、 心神転俄するをいたすをもって夢想にあらわるなり)

二謂、  人凡有ー一善悪吉凶之事一 必先形ー於夢痣和菜ぞ徴験一也。び

(二にいえらく、  人、  およそ善悪、  吉凶のことあれば、  必ずまず夢痣にあらわれ、 もっ て徴験となすなり)

三謂、 人由ーー地水火風四大命匹成ーー於身若地大増身則沈重、 水大増身則浮腺、 火大増身則林熱、 風大増身則急脹、  四大不>調則身心不>安、 心不ら安則形二於夢採正也。

(三にいえらく、  人、  地水火風の四大に由りて身を成す。 もし地、 大増すれば、 身すなわち沈頂し、 水、 大増すれば、 身すなわち浮腫し、 火、  大増すれば、 身すなわち林 熱し、  風、  大増すれば、 身すなわち急脹す。四大調わざれば、  すなわち身心安からず。 心安からざれば、 すなわち夢痣にあらわるるなり)

四謂、  人平昔遊歴之処、 或有二所見所聞一 若美若悪、 繋ら念不"捨而形ーー於夢一也。

(四にいえらく、  人、 平昔遊歴の所、 あるいは所見、 所聞するあり。 もしくは美もしくは悪、 念をつないで捨てざれば夢にあらわる)

これ、  夢の原因を説示するものなり。  つぎに五種の分類を考うるに、「随疏演義 紗に左の五種を示せり。

一、  熱気多見>火

二、 冷気多見>水

三、  風気多見 飛墜

四、 闘見多砿如境

五、 天神_与一心霊面ば感

(一、  熱気多ければ火を見る。  二、 冷気多ければ水を見る。 三、  風気多ければ飛墜を見る。  四、 聞見熟境多し。 五、 天神と心盟との感ずるところ)

これを「聖閾賛」には、 熱気多、  冷気多、 風気多、  見聞多、 天神与の五種となせり。 これ「大智度論る五種の夢なり。 すなわち「〔大〕智度論』巻六に曰く、に出ず

夢有二五種一 若身中不>調`  若熱気多則多夢見>火見>黄見丘赤、  若冷気多則多見>水見乙白、  若風気多則多見函飛見ら黒、  又復所ーー聞見ー事多思惟念故則祁ダ見、  或天与>夢欲ュ令品がー未来事  故、 是五種夢皆_無一実事盃而妄見。

(夢に五種あり。 もしくは身中調わず、 もしくは熱気多ければ、 すなわち多く夢に火を見、 黄なるを見、 赤きを見る。 もし冷気多ければ、 すなわち多く水を見、 白きを見る。  もし風気多ければ、 すなわち多く飛ぶことを見、  黒きを見る。 またまた聞見するところのことを多く思惟し、 念うがゆえにすなわち夢を見る。 あるいは天の夢を与えて未来のことを知らしめんと欲するがゆえに〔夢を見る〕。 この五種の夢は、  みな実事なくして、  しかも 妄 に見るなり)

また、「過去現在因果経」(巻一の九左) によるに五種の奇特夢あり。

一、 夢函グ大海

二、  夢丘枕~ー須弥

三、 夢一ー函海中一切衆生入一我身内

四、__夢  手執  日

五、__夢  手執>月


(一には、  大海に臥すと夢み、  二には、 須弥に枕すと夢み、 三には、 海中の一切衆生、 わが身内に入ると夢み、  四には、  手に日をとるを夢み、 五には、  手に月をとると夢む)

これ、 前に示しし「経律異相」の五種の吉夢と同一なり。 また、 摩耶夫人の五夢、 すなわち「須弥山崩、 四海水喝云々」(須弥山崩れ、  四海の水喝く、 云云)の五夢は前すでに示せり。  また、『止観〔輔 行 伝弘決〕  巻第二の一に「夢者如ーー法華疏引 _有云五種夢一_因一疑心分別学習井現畢非人来相語一 囚ーー此五取  夢此即非人来相語也。」(夢なるものは、  法華疏に引くがごとく、 五種の夢あり。  疑心、 分別、  学習ならびに現事、 非人来相の語による。  この五事により、 夢はこれ、 すなわち非人来相の語なり)とあり。

つぎに、「七夢経」には左の七種あることを示せり。(『七夢経は「縮刷大蔵経宿峡にあり。「義楚六帖」巻七の二十九葉にこれを引用せり。 また、 この話は「山海里」四篇下巻にも出だせり)一跛池火焔、二日月星没、三比丘在ーー不浄坑中ー白衣登レ頭、四群猪紙突栴檀林壊、五頂袖が須弥山示'ーー以為"重、六大象弄ー出小象一 七師子王頭上_有一七寇毛ー在>地而死、  仏言汝之七夢表ーー当来遣法子不"依二仏教

(一には跛池火烙。 二には日月星没す。  三には比丘不浄の坑中にあるに白衣頭に登る。  四には群猪祗突して

栴檀林壊る。 五には須弥山を頂戴してもって重しとなさず。 六には大象、 小象を奔出 す。 七には師子王頭上に七の奄毛あり、  地にありて死すと。 仏の言、「汝の七夢は当来遣法の子、 仏教によらざるを表す」)

また、 夢に八災夢あることは『法苑珠林」に出ずるも、 前すでにこれを掲げたり。  つぎに、『十夢経   の十夢も前に挙示せるをもっ てこれを略す。  つぎに、『聖閾賛」(巻十二)には詑栗択王十夢を出だせり。  すなわち「〔倶舎論〕頌疏    第九を引きて曰く、

頌疏第九云、 論云如  屹栗択王夢所>見十事一 謂大象井菱栴橙妙園林小象三禰狼広堅衣闘諄、 解云、  詑栗択王迦莱仏父也、 作二此夢ー来_白一世慈  (迦葉仏也)、 仏言此表ー当来釈ー 迦如来遺法弟子先兆一也、  王夢見一大象被レ閉室中    更無二門戸一 唯有ー小窓一 其象方便投ら身得乙出、 尾猶窓碍不レ能>出者、 此表下釈迦遣法弟子、 能捨届^母妻テ  出家、 而於一泊其中碑品竺名利一 如ら尾碍>窓い 又夢見一渇人求忌兄水飲一便有こ  井云具一后八功徳    井逐二渇人一人不私欲砿飲>此、 表』釈迦遺法弟子、 諸道俗等不レ肯涵す法、 有二知>法者五  二名利一故、 随>彼為>説而猶不占学、 又夢見こ  人将こ  升真珠一 博こ  升麹か此表』釈迦遺法弟子、 為>求>利故将仏正法云竺他人元炉 又夢見有>人将一正栴棺木一博以な凡木い此表  遺法弟子、以内正法一博中外習典ビ又夢見下有弘ヅ園林一花菓茂盛、狂賊壌尽い此表下遺法弟子、 広滅  如来正法苑比也、 又夢見下有  諸小象丘守一大象入令中之出』群、 此表品追法弟子、 諸悪朋党破戒衆僧接曹斥有徳人比也、 又夢見  有二  禰候、 身_塗一糞稼示吻み突己衆    衆皆避ぃ 此表品逍法弟子、 以二諸悪事証忌盆盃亨見皆遠避も又夢見こ  禰捩実無>有袖、衆共扶捧、海水潅>頂立為年エ、此表品追法弟子、諸悪朋党挙破戒僧盆ぞ衆首い又夢見こ  衣堅而且広有  十八人一 各執『一少分  四面争挽衣不も破、 此表品坦法弟子、 分二仏正法命含十八部{  雖>有少異執云而真法尚存、 依>之修行皆得中解脱い又夢見と多人共集互相征伐死亡略尽遺法弟子、  十八部内各有二門人一 部執不同互興*闘諄上也、 此十夢但表二先兆  非品在所見此表下(頌疏第九にいう、「論にいう檀、 み炉叫出応   小象、  三蜀釦屹栗釈王の夢に見るところの十事のごとし。  いえらく、 大象、  井、  懃、 栴広堅衣、 即耐うすと。 解していわく、 胞栗択王は迦葉仏の父なり。 この夢をなしてきたりて世尊(迦葉仏なり)に白す、 仏の言う、 これ、 当来釈迦如来追法の弟子の先兆を表すなり。  王夢見るに一大象室中に閉じられて、  さらに門戸なくして、 ただ小窓あるのみ。 その象、  方便して身を投じて出ずることを得るに、 尾なお窓にさえぎられて出ずることをあたわずとは、 これは釈迦逍法の弟子、 よく父母妻子を捨てて出家するも、その中においてなお名利をいだくこと、尾の窓にさえぎらるるがごときを表す。

また夢見に、 一渇人、 水飲を 求 覚するに、 すなわち一井ありて八功徳をそなう。 井は渇人を逐うも人はこれを飲むことを欲せず。 釈迦遺法の弟子、  諸道俗等の法を学ぶを肯んぜず。 法を知る者ありて名利のためのゆえに、 彼に従いて説をなすも、  なお学ばざることを表す。 また夢に、 一人の一升の真珠を将って一升の楚に博うるを見る。 これ釈迦遺法の弟子、 利を求むるがために、  ゆえに仏の正法を将っ て他人のために説くを表す。  また夢に、 人ありて栴檀木を将って博うるに凡木をもっ てするを見る。 これ遺法の弟子、  内の正法をもって外の書典と博うるを表す。  また夢に、  妙園林ありて、 花菓茂盛なり。 狂賊壌り尽くすを見る。  これは造法の弟子、 広く如来の正法の苑を滅すことを表す。  また夢に、 諸の小象ありて、  一大象を駆ってこれを群より出ださしめんとするを見る。 これ逍法の弟子、 諸悪朋党の破戒の衆僧の、 有徳の人を撰斥するを表す。 また夢に、  一禰捩の身に糞祓を塗り、 己が衆を蕩突し、 衆みな避くるを見る。 これは遺法の弟子、 諸の悪事をもって衆善を胚謗するに見て、  みな遠く避くるを表す。 また夢に、  二班捩実に徳あることなく、 衆ともに海水を扶捧して頂に灌ぎて立ち、  もっ て王となすを見る。 これ遺法の弟子、 諸悪の朋党、 破戒僧を挙げてもって衆の首となすを表す。  また夢に、 一衣堅くしてしかもかつ広く、 十八人ありておのおの小分を執り、  四面に争挽して衣破れざるを見る。 これは遺法の弟子、  仏の正法を分かちて十八部となし、 少なき異執ありといえども真法なお存す。 これによりて修行してみな解脱を得ることを表す。  また夢に、 多人ともに集まりて互相に征伐し、 死亡してほぼ尽くすと見る。これは遺法の弟子、 十八部内におのおの門人ありて部 執 不同にして、 互いに闘 評 興ることを表す。  この十夢ただ先兆を表して、 所見のごときにあらざるなり」)

また、「止観〔輔行伝弘決〕」巻第二の一(三十七葉)に十二の夢相あることを示せり。 その十二とは左のごとし。

一者若於二夢中 年夜通飛行、 幡蓋従行、 是_名一祖荼羅相    二者若見__   形像塔廟大衆緊会一 是名ー斤ー   捉羅相一 三者若見下有>神、 著一浄潔衣争否白色馬い是名二茂持羅相一 四者若見伍杢白象玉伊河、 是名二乾基羅相一 五者若見下乗酪  馳  上中高大山ど是名ーー多林羅相一〔六者若見  上ャー高座  転中般若ぃ 是名一五波林羅相一〕七者若見で樹下昇>団受し戒、 是名一』檀林羅相八者若見袖守列仏_像炉僧設知供、 是名ーー禅林羅相一 九者若見一年生華梱入ーー禅定一 是名二窮林羅相{  十者若見ーー大王帯レ剣遊行一 是名ーー迦林羅相一 十一者若見=ー王為訟炉身(香盆浄衣一〕是名二伽林羅相一 十二者若見ー王夫人乗>車入>水見と蛇、 是名一函婆林羅相(一は、 もし夢中において通を得て飛行し幡蓋従行す。 これを祖荼羅相と名づく。  二は、  もし形條塔廟大衆集会を見れば、  これを斥提羅相と名づく。  三は、  もし神ありて浄潔衣をつけ、 白色の馬に乗るを見れば、 これを茂持羅相と名づく。  四は、 もし白象に乗りて河を渡るを見れば、 これを乾基羅相と名づく。 五は、 もし賂舵に乗りて高大の山に上るを見れば、  これを多林羅相と名づく。  六は、 もし高座に上り般若を転ずるを見れば、 これを波林羅相と名づく。 七は、 もし樹下に楷に上り戒を受くるを見れば、 これを檀林羅相と名づく

八は、 もし仏像を舗列し、  僧に請いて供を設くるを見れば、 これを禅林羅相と名づく。 九は、 もし生華樹の禅 定 に入るを見れば、 これを 窮 林羅相と名づく。  十は、 もし大王剣を帯して遊行するを見れば、 これを迦林羅相と名づく。  十一は、 もし王身を浴し香盆浄衣するを見れば、 これを伽林羅相と名づく。 十二は、 もし王夫人の車に乗りて水に入り蛇を見るを見れば、  これを婆林羅相と名づく)

以上の分類の一半は原因につきてその種類を分かち、  一半は夢中想見せるものにつきてこれを分かつ。  しかして、  夢には必ず吉凶の信あるものと信ぜしをもっ て、  その分類は吉凶の種類に従って設けしものなり。  今、 余がもっぱら述べんと欲する点は、  この種類のいかんにあらずして説明のいかんにあり。  ゆえに、 これよりその説明を掲ぐぺし。



第五章     夢の説明

仏内中に散見せる夢の説明は、 通俗的のものと道理的のものあり。 前迂に示せる、 熱気多ければ火を見、  冷気多ければ水を見る等は、 実験的説明なれば道理的というべし。 また、「大蔵法数」によりて示せる無明習気、 善悪先徴、 四大偏増、  巡遊旧識の四夢は、 心理的説明に属すべきものにして、 これまた道理的説明なり。  しかるに、

「正法念経」に「有>虫在  人心若安適    虫善好夢、  若不安    虫嘆悪夢。」

(虫ありて人心にあり、 もし安適なれば、 虫善く好夢あり。 もし不安なれば虫唄り悪夢あり)との説明に至りては通俗的なり。 また、「釈迦諮」に「仏将入二金剛喩定一成仏、 魔王_作一三十 二愛   皆不吉祥。」(仏、  まさに金剛喩 定 に入りて成仏せんとす。 魔王三十一夢をなす、  みな吉祥ならず)とあるは、  夢の原因を魔王に帰するものなれば、 これまた通俗的なり。 これより一歩を進め、  やや高等の解釈を考うるに、 仏教中に聖人以上に夢なきことを示せるあり。 すなわち、「義楚六 帖 」第七に「婆沙論を引ききたりて曰く、夢通ー一善悪一 唯引非満通ー五趣聖有袖齊不善仏亦有>息    眠無夢唯欲界又由二五因他引ー孟諸天神仙鬼神等ーニ   曾更串習、 三当云有二吉凶一 四  分別希求思惟五  諸病四大不>調、 又云女人証二三果自然不る従。夢前夫擬>  行私欲

(夢は善悪に通ず。 唯引非満五趣に通ず。 聖は不善なきことあり、 仏もまた息むことありて、 眠無夢は唯欲界また五因による。 ーには他諸天、 神仙、 鬼神等を引く。 二にはかつてさらに串 習 す。 三にはまさに吉凶あるべし。  四には分別希求思惟す。 五には諸病四大調わず。  またいう、 女人三果を証すれば夢に前夫、 欲を行わんと擬すれども自然に従わず)

また、「法苑珠林」

第四十三には、「夢に吉凶あるは宿因に善悪あるによる」となす。 同書巻第四十三巻に曰く、

(前略)盛衰之道与>時交構、 睡夢之途因>心而動、 動由ーー内識一 境由ーー外葉一 緑__薫  好醜加福竺全 性ー  若宿有善悪則  夢有一吉凶一 此__為  有記ー  若習_無一善悪一 汎_親一平重一此為ーー無記一 若昼_縁一青黄一 夢想還同、 此為ーー想夢一若見 升沈水火交交侵此紫炉病夢一 雖三夢通二三_性  然有報無報  云云

((前略)盛衰の道は時と交構し、  睡夢の途は心によりて動く。  動は内識よりし、  境は外蕉により、 縁は好醜を薫じ、 夢は三性に通ず。 もし宿に苦悪あれば、  すなわち夢に吉凶あり。  これを有記となす。  もし習に善悪なければ、 汎に平軍を視る。 これを無記となす。 もし経に青黄に縁れば、  夢想遠りて同じ。 これを想夢となす。 もし昇沈水火交々侵すを見る。  これを病夢となす。 夢、 三性に通ずといえども、 しかも有報無報あり、云云)

もし、 我人の識心中に夢を現ずるゆえんを知らんと欲せば、 唯識論によりて考うるよりほかなし。 今、 その論によるに、 意識の内作用より起こるものとす。 そもそも第六意識に、 外覚上の五識と同起併立するものと、  その五識を離れて単独にて発動するものとの二様あり。 しかして、  その同起するものを五倶の意識といい、  単起するものを 定  中 の意識、 夢 中 の意識、 独散の意識の三種となす。 これを合して独頭の意識という。 

もし、「法相義』によりてこれを解するに    日く(同魯上巻)、

分  別此_識 (第六意識)当>有二其四一 謂明了意識、 定中意識、  独散意識、  夢中意識、  初亦名日二五倶意識一 後三総  名ーー独頭意識一 五倶意識助>五令>起、 亦令ーー五識    明了取品境、  定位意識唯是現塁、 散位独頭通二比非尿一与>五倶意或唯現糞    或通  現比及非拭  摂  ゜

(この識(第六意識)を分別すれば、  まさにそれ四あるべし。  いえらく、  明  了 意識、 定中意識、  独散意識、夢中意識なり。 はじめまた名づけて五倶意識という。  後三を総じて独頭意識と名づく。  五倶意識は五を助けて起こさしめ、 また五識をして明了に境を取らしむ。  定位意識はただこれ現獄、 散位独頭は比と非足とに通じ、  五と倶意はあるいはただ現最、 あるいは通じて現と比および非旦とに 摂 す)

また、 この四種の意識に乱意識の一種を加えて五種とす。  今、「翻訳名義集」巻六によるに、

第六意識具有二五種 一定中独頭意識、_縁_  於定境一定境之中有>理有>事、  事中有二極略色極逍色及定自在所生法処諸色二散位独頭、 縁二受所引色及遍計所起諸法処色{  如レ縁一如空華境條彩画所生者一 並法処摂、 三  夢中独頭、縁夢中境一 四明了意識、 依五根門一 与前五識ー同縁五塵一 五乱意識、 是散意識、 於一士五中根一 狂乱而起、 如伍`竺 熱病一行為>黄見品が是眼識一 是此縁故

(第六意識につぶさに五種あり。  一は定中独頭の意識、 定境を縁ず。  定境の中に理あり、  事あり。  事の中に極略の色、 極廻の色および定自在所生法処の諸色あり。 二は散位独頭、  受の所引の色および遍計の諸起の諸法処の色を縁ず。空華境像彩画の所生のものを縁ずるがごときは、ならびに法処の 摂 なり。三は夢中の独頭、夢中の境を縁ず。  四は明了の意識、  五根門によりて前五識と同じく五塵を縁ず。 五は乱の意識、 この散意識に、 五根の中において狂乱して起こる。 熱病を患んで、 青を黄となして見るがごときは、 これ眼識にあらず。これ、 この縁なるがゆえなり)

しかしてその意は、 夢は感覚と相応ぜずして睡眠中独起し、  夢中の諸境を縁する意識なりというにあり。 換言すれば、 意識が前五識の起こらざるときに睡眠の心所と相応じて、  ひとりその作用を呈するものこれなり。 ゆえに、「唯識大意』に夢の現象を説明して曰く、「人のよく眠りて夢を見るときは、 眼、 耳、 鼻、 舌、 身の五識みな起こらざるときなり。 夢に物を見聞し味わうと思うは、 みな第六意識の思慮分別なり。 五識の起こるにはあらず。

夢も見ぬほどに眠り入りぬれば、 意識もまた滅して、 ただ、 かの末那識、 阿頼耶識のみあり。」これ、 仏教の心理的説明なり。 もし睡眠の起こるゆえんは、  さきに体中の虫の眠るとなせしも、 これむしろ俗説にして、 睡眠の心所の起こるによるとなすは、 心理的説明なり。 ゆえに、『唯識大意』に曰く、「睡眠の心所というは、 心を暗く狭からしめて身を自在ならざらしむるなり人の眠るはこの心所の起これるときなり」と。  また『梨窓随筆 巻下九左)には、 夢は第七識の作用なることを述明して曰く、

夢はこれ、  おおくは第七伝送識の所作なり。 梵語には阿施那というを、 ここには伝送というなり。  伝送とはっ たえおくるなり。  第八の阿黎耶識より第六の意識につたえおくるがゆえなり。  また、 この伝送識を執我識ともいう。  人、 寝るときもこの識はかつてねいらずして、  人のよぶとき、 われということをしるなり。   まだねぶりさめぬうちに、 先知はこの識の所作なり。 されども、 第六の意識にて分別せぬ間はいまだおきず。このゆえに、  人、 床にありて眠るとき、  昼の間に六根にむかう悦を意識におもうゆえに、 この所作とどまりて床にねぶるとき、 かの伝送識これを思想して夢を見るなり。 しかるに、 その夢の中にあるいは人の家を見、または日ごろ語をまじえたる人を見ることあり。  しかるに、  はじめ見しその家変じて、  余の家となることあり。 また、 前に見し人も後にはたがいて、 ほかの人となることあり。  これをいかんというに、  第七識の思想念々に遷流するゆえに、 この人を思うとき、 またかの人のことを思い、 この家を思うとき、 またかの家のことを思い、 されば人ねぶらざる間は、 意識たしかに物を分別して、  ほかよりきたることを混乱せず。  ただ一事にさだむるゆえに、  その始終たがうことなし。 夢の中には意識の分別なきゆえに、 ただ思想のおこるままに念をうつす。  ゆえに夢の次第変じて、  人をも家をもさしかえて見るなり。

その他二、 三の店に散見するところの夢の説明をたずぬるに、「宗 鏡 録」七十五巻に曰く、「夢見見  者_名 白内眼所    是慧分別、 非二肉眼見』云云。」(夢見の見をば内眼所と名付く。 これ慧の分別なり。 肉眼見にあらず、 云云)と。  

また、 同書七十八巻に曰く、「若夢中無>境痛亦爾者何故、 夢中癒中_行一善悪法一 愛与二不愛一果報不>等、  答唯有ーー内心無ーー外境界和ぞ郎名珀心差別不同へ  是故不>依二外埴一成二就善不善業{  是以在>心位心、 由ーー睡眠壊一勢力嘉劣、 心弱  不>能な竪善悪業一覚心不>爾。」(もし夢中境なければ、 窟もまたしかなるものはなにゆえぞや。 夢中と詔中は善悪法を行ずる。  愛と不愛とは果報等しからず。  答えはただ内心にあるのみ。 外の境界なく、 夢審心差別不同なるをもっ て、  このゆえに外境によらず善不善の業を成就す。 これをもっ て、 心にある位の心は睡眠壊るるによっ て勢力屎劣なり。  心弱して善悪の業をなすあたわず。 覚心はしかならず)とあり。 また「〔大〕智度論    巻六(九右) に、  夢の無実なることを示して曰く、

問曰、不丘応レ言ーー夢無品実、何以故、 識心得  因縁一便生二夢中識一有ー一種種縁一若無二此縁ー云何生』識、 答曰、無也不丘少見而見、 夢中見一人頭有乙角、 或夢見ー一身飛二虚空一 人実無>角、 身亦不血飛、 是故無如実、 問日、 実有二人頭一 余処亦実有>角、 以ーー心惑一故見二人頭有>角、 実有一池虚空一亦実有二飛者一以二心惑一故自見一五身飛一非ーー無実也、 答日雖一祐実有二人頭一 雖二実有>角、 但人頭生>角者是妄見、 問曰、 世界広大、 先世因縁種種不同、 或有二余国  人頭生乙角、 或一手一足   、 有二  尺人ー  有二九尺人一 人有レ角何  所レ佐、 答曰、  若余国人有>角可  爾、但夢見二此国所』識人有乙角則不可得 。

(問うて曰く、「夢は実なしというべからず。 なにをもってのゆえに、 識心の因縁を得て、 すなわち夢中の識を生じ、 種々の縁あればなり。 もしこの縁なくんば、 いかんが識を生ぜんや」答えて日く、「無にしてまた見かしらるぺからざるをしかも見る。 夢中に人の 頭 に角あるを見、あるいは夢に身の虚空に飛ぶを見るも、人は実に角なく、 身もまた飛ばざるなり。 このゆえに実なし」問うて日く、「実に人に 頭 あり、 余処にまた実に角あり。 心惑うをもっ てのゆえに、  人の頭に角あるを見る。  実に虚空あり。 また実に飛ぶ者あり。 心惑うをもってのゆえに自ら身飛ぶと見るも、 実なきにはあらざるなり」答えて曰く、「実に人に頭ありといえども、 実に角ありといえども、 ただ人の頭に角を生ずるは、 これ妄見なり」問うて曰く、「世界は広大なり。 先世の因縁も種々同じからず。 あるいは余国には人頭に角を生じ、あるいは一手一足なるものあらん。 一尺の人あらん、九尺の人あらん。  人に角ある、  なんの怪しむところぞ」答えて曰く、「もし余国の人に角あるはしかる ぺし。ただ夢にこの国のしるところの人に角ありと見るは、 すなわち得べからざるなり」)

これ、 ややおもしろき問答なり。 また『止観〔輔行伝弘決〕」巻第五の二に、  夢は心によりて生ずるか、  眠りによりて生ずるか、 眠りと心を合して生ずるか、 眠りと心を離れて生ずるかの疑問に対して、 おもしろき説明あり。曰く、

若依>心有>夢者、不レ眠応>有>夢、若依>眠有>夢者、死人如>眠応>有レ夢、若眠心両合  而有>夢者   、眠人那有一否  夢時一又眠心各有>夢合  可レ有>夢、 各既無>夢、合  不>応レ有、 若離>心離>眠而有>夢者   、虚空離 、応常有盗夢。

(もし心によりて夢あれば、 眠らざるときもまさに夢あるべし。 もし眠りによりて夢あれば、 死人の眠りのごときもまさに夢あるべし。 もし、 眠心両を合して夢ありといわば、 眠る人、  なんぞ夢みざるのときある。また、 眠りと心とおのおの夢あるを合して、 夢みることあるべし。 おのおのすでに夢みるなし。  合してあるに応ぜず。 もし、 心を離れ眠りを離れて夢ありといわば、 虚空は二つを離れ、 まさに常に夢あるべし)

また「首 拐 厳 経 」巻四に、 睡眠中、 聴覚聞性の消滅せざることを述べたり。

「慈恩伝巻一の十右)には、「寺有一畑胡僧達鹿一 夢下法師坐二  蓮華面炉西而去い 達磨私怪、 且而来白、  法師心だる 怠喜為  饒  行之徴一 然語 達 磨云、 夢為 虚 妄一 何足>渉>言云云。」(寺に胡僧達磨あり。 法師一蓮華に座し、 西に向かいて去るを夢む。  達磨ひそかに怪しむ。  しばらくしてきたりてもうす、  法師は心喜びて行を得るの徴となす。

しかれども、 達磨につげていう、「夢は虚妄たり。  なんぞ言うに渉ぶに足らんや、 云云」)の語あり。

「蕉窓随筆    巻第一に、 人に夢の有無の別あるゆえんを述べて曰く、

凡人衷而所>夢者、得喪歓戚万種境界、無  適    而非    妄突、是乃日間見聞習気、独頭意識之所>為、而至>若ニルラ仏菩薩及浄土荘厳微効事一 百宵無こ _夢  癸、 以呆' 繋_想故  也、 因知、 無始無明眠相襲習  不>已、 生死念慮ー恒勝而信根転転微薄 、 寧不二顧而勉励  乎

(凡人寝て夢みるところは、  得喪歓戚万種の境界、 適として妄にあらざることなし。 これ、 すなわち日間見聞の習気、 独頭の意識のなすところ、  仏菩薩および浄土荘 厳微炒 のことの若きに至っては、 百宵に一夢なし。  繋想せざるをもってのゆえなり。  よっ て知る、 無始無明の眠相襲習してやまず、 生死の念慮つねに勝りて信根転々微薄なることを。  なんぞ顧みて勉励せざらんや)

また「竹窓随筆』に、  夢中に現生のことのみを見て前生のことを見ざるゆえんを述べて曰く、

夜夢中多_見一生事竿夢二前生ー何  也、  蓋夢以レ想成、  想多見元生、 不>及  前_生故也、  且三乗賢聖、  尚有  隔陰出胎乍時之昏一 況具縛凡夫、 脱こ  殻う入こ  殻一 従和品駆_中  顛倒  而下、 尚何能記和匹  前生面耶、 惟拠二其目前紛紛転転    昼則為>想、 夜則為畑夢耳、 而或時未>見之物、 未>作之事、 未>歴之位、 現二於夢中  者、 則無始之境任運  而然、  亦莫伝心其所,ー以然盃而然也、 想陰既破  痣採恒一、 幸相挙致>力焉。

(夜、  夢中に多く生事を見る。  まれに前生を夢みるはなんぞや。  けだし夢は想をもって成る。 想は多く生を見る。 前生に及ばざるゆえなり。  かつ三乗の賢型、 なお隔隠出胎たちまち時の昏きあり。  いわんや具純の凡夫、  一殻を脱し、 一殻に人る、 母腹の中より転倒して下る。 なお、  なんぞよく前生を記憶せんや。 ただその目前の紛々転々によっ て、  昼はすなわち想をなし、 夜はすなわち夢をなすのみ。 あるときはいまだ見ざるの物、 いまだなさざるのこと、 いまだ歴ぎるの位、  夢中に現れるものは、 すなわち無始の撹任運してしかり。また、  そのしかるゆえんを知ることなくしてしかり。 想陰すでに破れば寵妹つねに一なり。  幸いに相挙げて力をいたせ)

また「塵滴問答」と題する書中に、  夢中の現象は無明煎 執 のしからしむるところとなす。 すなわち曰く(巻八)、「平生見るところの夢は、  多くの気のなやみか、  または常の思いの伏するところが魂に結ばれて見る夢のみなれば、 多くはこれ妄想に帰して、 なんの吉凶にあずかることなし。 これらはみな仏害にいう、 無明 薫執あるいは思夢の類にして、 実なき  理  なり」と。

また「山海里』(六篇下)と題する書中に、  神仏の夢告を説明して曰く、夢は身に受けるものにあらず。 心のみにうけぬる境界なるがゆえに、 体は枕につきて採ていながら、 心のみ山にゆき川にゆき、 あるいはたのしみあるいはくるしむこと、 心にのみうける境界とはだれもしることなり。  しかるに、 その心なるもの、  朝に目のさめて夕に眠るまで妄念のたゆるときなければ、 けがれてあしき心ゆえ神仏の御こころはうつりきたりたまわず。 よく寝入りよくしずまりて寅の時にもなりぬれば、  六根な<六境なく、 心のみ無念無想にしてきよらかなるゆえに、 神仏その心にしたしく告げしらしめたまえるものなり。 これを正夢としるべし。  仏神の夢想にかぎらずしるしある実夢はみな、 今の妄念なきときの心に現ずる相なりとぞおもいしりける。

その他、 なお仏也中に散見せるものすこぶる多しといえども、  いちいちここに挙示するにいとまあらず。  これを要するに、  仏教中には往々通俗の不道理的説明を混入せるところあるがごときも、 その大半は心理的道理によりて説明せるものなれば、  決して古代の妄説として排斥すぺからず。 ただ仏教の短所は、 今日の心理説に比考して実験上の説明を欠くにあるのみ。



第六章 芽説の結論

仏教は無常無我の理を説きて、  世界万有の虚仮無実なることを証明するに、 多く夢に比して如夢、 如幻等の語あり。  今その例を挙ぐれば『 拐伽 経 」に、「所謂一切法如>幻、 如ーー夢、 光影、 水月ご(いわゆる一切法幻のごとく、  夢、 光影、 水月のごとし)とあり。「円詑経に、「生法本無、 一切唯識、 識如二幻夢一 但是一心。」(生法もとなく    一切唯識、 識は幻夢のごとく、  ただこれ一心)とあり。『維邸経に、「是身如>幻、 従顛倒一起、 是身如>夢、  為 虚 妄見ご(この身は幻のごとく転倒より起こる。 この身は夢のごとく、 虚妄の見をなす)とあり。「〔大〕智度論』に曰く、「若  夢中見、  若  自身、 若  父母等、  若  殺若  死、 因縁及集落破等不二憂悩怖畏一 覚已思惟如  夢中一 不>死而見>死、 不>畏而見>畏 一切三界皆爾。」(もしくは夢中に見ゆ、 もしくは自身、 もしくは父母等、 もしくは殺、 もしくは死、 因縁および集落破等憂悩怖畏せず。 党やみて思惟は夢中のごとく、 死せずして死を見、畏れずして畏を見、  一切三界みなしかり)とあり。

また「竹窓三筆』に、「世夢」と題する一編あり。  いとおもしろければ左に全編を掲ぐ(この文「谷響続集    八巻にも転載せり)。

古云処>世若ーー大夢一 経云却  来観二世間一猶如ーー夢中事{  云玉若云枷如者、 不>得』已    而笞 之也、 究極而言則真夢  也、  非>喩也、  人生自>少而壮、 自レ壮而老、 自>老而死、 俄    而入二  胞胎拓也、 俄    而出こ  胞胎一也、ーシ亭俄    而又入、 又出>之、 無如船已一也、 而生  不>知>米、 死  不>知ふ去、 蒙蒙然冥冥然   、 千生万劫    而不二自知也、 俄    而沈ーー地獄一 俄    而為る鬼、 為レ畜、 為>人、 為>天、 升而沈、 沈而升、 皇皇然忙忙然   、 千生万劫    而不ーー自知一也、 非石益乞乎、  古詩云、  枕上片時春夢中、  行尽江南数千里、 今被二利名牽一_往一返  於万_里  者、 登必枕上為>然  也、 故知荘生夢』叩蝶、 其未袖ぞ蜘蝶正時亦夢也、  夫子芹ぎ周公    其未盃ぞ周公一時亦夢也、  職大劫来  無一時一刻而不っ 在ー夢中一也、__破  尽  無明一朗然    大党、曰手元天上天下惟吾独芍一夫是之謂歪ダ醒膜

(いにしえいう、「世におるは大夢のごとし」経にいう、「却りきて世闇をみるに、  なお夢の中のことのごとし」若といい如というものは、 やむこと得ずしてたとえてこれを言うなり。  究極していうときは、 すなわち真夢なり。  たとえにあらざるなり。  人生少きよりして壮、 壮よりして老、  老よりして死す。  にわかにして胞胎に入り、 にわかにして一胞胎を出ず。 にわかにしてまた入り、 またこれを出でて、 窮まりやむことなし。生じてきたるを知らず、 死して去るを知らず、  蒙々然、 冥々然として、 千生万劫にして、 自ら知らず、  にわかにして地獄に沈み、 にわかにして鬼となる、 畜となる、  人となる、 天となる。 昇りて沈み、 沈みて昇る、皇々然、 忙々然として、 千生万劫にして自ら知らざるなり。 真夢にあらずや。 古詩にいわく、「枕上片時春夢の中、  行尽す江南数千里」と。 今、 利名にひかれ、 万里に往返する者の、 あに必ず枕上しかりとなさんや。

ゆえに知らんぬ、 荘生が瑚蝶 を夢む。 そのいまだ瑚蝶を夢みざるときも、 また炒なり。  夫子、 周公を夢む。そのいまだ周公を夢みざるときも、 また夢なり。 幅大劫来より、 一時一刻も夢中にあらざるということなし。無明を破り尽くして朗然として大覚するを、 天上天下惟吾独慈という。  それこれ、 これを夢醒の膜という)

以上は、  余が仏教中に散見せる夢説を集録したるのみにて、  これに対する評論、 意見を述ぶるの意にあらず。ゆえに、 まずここに筆を憫す。論 (某会演説筆記の分)

数十年前より予は、 心理学上梢神作用のことについて研究するところあり。 いわゆる「妖怪」というもののせんさくこれなり。 そのうち予がこれより述べんとするところは、  狐 に関する妖怪なり。 昔より民間には狐の人を妖かすということあり。 これ、  ひとりわが国のみに限らず、  シナにもこのことある由は、  かの国の諸書に見えたり。 これにつき実際、  狐の人を妖かすものなりやを研究するに、 予は大いにそのしからざるかを疑う。  狐は動物学上、  身体の構造より見るも、 神経の組織より見るも、 また知識の程度より説くも、  到底、  動物中の高位を占むペきものにあらず。  さるに、 動物中の最高位にある人を妖かし得べき道理あらんや。 もし、  狐にして人を妖かし得べしとせば、 狐よりさらに数等の上に位する猿のごとき、  象のごとき動物は、  一層巧みに人を妖かし得べからんに、 そのことなくして、  ひとり狐のみ人を妖かすというは解しがたし。  これ疑いの一なり。 狐は東洋に限らず西洋にも住めり。 もし、 狐が実際人を妖かすものならんには、 西洋の狐もまた人を妖かすべきはずなるに、 このこともっぱら日本、 シナに行わるるは解しがたし。 これ疑いの二なり。 従来、  狐の人を妖かしたりというを聞くこ、  一般の人だれかれの別なく妖かさずして、 必ず知識に乏しき者、  臆病なる者、 酒酔いの者などに限り、 また上等の人よりは下等の人、 男よりは女に多き等のことはいよいよ解しがたし。  これ疑いの三なり。 また、 従来狐の人を妖かしたりというを聞くに、  朝および日中になくて、 暮れおよび夜間にあり。 特に月明かりのときよりは暗雨のときに多く、  かつ人多き市街、 村落になくて、 寂棠たる山中、 社林、  紅所などにあるの理、  また解しがたし。 これ疑いの四なり。  また、  未開の時代、  未開の地方に多くこのことありて、 教育普及の今日に少なきも、 同様に解しがたし。  これ疑いの五なり。 また臆病、 無知なる人の中にも、 三、  四歳の小児および生来の白痴漢には決してこのことなきも、 同じく解しがたし。 これ疑いの六なり。  狐は実際、 動物中の最高位にある人を妖かし得ぺしとせば、  人以下、  犬、  猫、  兎、  狸のごとき諸動物は一層たやすく妖かし得ぺからんに、  かつてこれらの奇聞を耳にせざるは、  いよいよもって解しがたし。 これ疑いの七なり。 ここにおいて考うるに、 従来狐に妖かされたるものは、 学識あり、 豪気ある者、  および「狐は人を妖かす」ということの記憶を有せざる幼児、  白痴等に見ることを得ずして、  愚昧なるもの、  臆病なる者、 酔中正気を失いたる者などにのみありて、 特に「狐は人を妖かす」ということの記憶を有する者に限れるがごとし。

これによりて、 予は従来狐の人を妖かすといえることは、「人の狐に妖かさるる」ことなるを知る。 語を代えていえば、  狐に人を妖かすべき能力あるにあらず、 人自身において狐に妖かさるべき原因あるを知る。 その原因とは、  人自身の脳裏における賭種の記世中、「狐妖に関する記憶」これなり。「狐の人を妖かす」ということを昔の言い伝えに開きてこれを記憶にとどめ、 無知の者はこれを信ずること深きがゆえに、 一日外出して夜に入り、 寂莫たる山林の中を行きつつ、 たまたま言い伝えに聞ける狐の人を妖かす場所に初彿たるを思い浮かべ、 彼「狐妖に関する記憶」一時に激動して、 平素の臆病これに添い、  ついに他の籾神作用を失いて、  洸惚たるありさまとなる。  人これを呼びて「狐に妖かされた」という。  なんぞ知らん、  人自身の記憶によりて自身を妖かすものなることを。

さらに心理学上これを説明せんに、  およそ人の粕神作用、 すなわち脳髄各部の作用は、  その外部より受くるところの種々の刺激に応じて、 いろいろに発動するものにして、  決して時々刻々同様の発動をなすものにあらず  ゆえに、 無知、  臆病者の寂突たる山林にして、 狐妖の一呂い伝えある場所を通行するや、 狐妖の記憶のみ一時に激発して諸心力ただその一点に会注し、 他の精神作用全く休止するもののごとし。  例せば、  夢についに見るべし。夢はやはりこの理によりて生ずるものにて、  人の睡眠するや一時は脳全体のその作用を停止するも、 前日脳の各部において、  その疲労を感ぜし割合一定せざれば一時の後、  各部の醒覚する時間に多少の前後、 遅速あり。  かくして一部分醒党して他の部分休止するとき、 これを夢という。 もし全体休止するときは、  これは熟眠という。全体醒箕するに至れば、 これを覚時とす。  ゆえに心理上夢を解して、  脳中一部分の意識、 記憶の自然に発現する状態なりとなす。 これをもっ て、  夢中見るところのものは、 邸時に至りて回想すれば、  その大いに誤りありしを党ゆ。 これ全く夢中には、  一部分の作用の無意自然に発現するによる。  例えば、  夢中には数十年前の亡友に接見し、  数百里外の土地を現見するは、 他の精神作用ことごとく休止して、 亡友生前の記爵、 または郷里にありしときの記憶のみ発現するによるなり。  すでにして他の各部、 序を追っ て醒覚し、  かの友は数十年前に死にき、 予は今百里外の他郷にありということを知得するに至る。  しかして、 前時に見しところは夢なりしを悟る。  今、  脳をもっ てこれを解示すること上のごとし。仮に全脳を甲圏と定め、  乙詞をもって友人の生時の記憶をとどむる場所と甲し、 丙圏をもって死後の記憶を存する場所として、 これを解するに、 夢中には脳の一部分休止して、 一部分発動するをもっ て、 もし乙圏の部分発動して丙圏の部分休止するときには、  すでに死したる友人を現に生存するものと信ずるよりほかなし。  夢中に距離の遠近を混同するも、  この固解に準じて知るべし。 この図解は全く余が空想に出でたるも、  かくのごとく想定するときは、  狐妖の原因を説明するに大いに便なれば、 ここに夢の説明を掲げたるなり。

夢の道理によりて、  狐妖のことを説明し得べし。 狐妖のことは、 われわれが幼少のときより人の話に聞き込みおるゆえ、 わが脳中にその記憶を存し、 またまた狐に接し、 あるいは狐の棲息する場所に至れば、 その記箆内に動きて自ら狐妖をつくり出だすに至るべし。  もし、 この狐妖を去らんと欲せば、  その記憶に精神作用の集合せるものを分散する方法を取らざるべからず。 もし、  速やかにその本心を復さしめんとするには、 非常なる刺激を与えて、 脳中の他の部分をしておのおのその作用を呈せしむるにあり。 夜問大声のために、  夢を破らるることあるも、 この理にほかならず。 従来、 狐妖を去る方法をたずぬるに、 鐘鼓を鳴らしてその人を求め、 あるいは神社、寺院などに伴いて、 祈頑、 あるいは 祓 などをなすがごときは、 自然にこの規則にかなえるなり。 また、 寺院、 神社に行きて回復するは、 ーはかねて狐に妖かされたる者、 この寺社に祈りて回復したりということを聞きいたる記憶が、  たまたま、 その寺、 その社に行きて浮かび出ずるによるならん。

また、  狐に妖かさるるには、 これまで世問に言い伝えある湯所の記憶が媒介となりて、 その場所に至ればその記憶を促すによる。 例えば、 身投げは吾妻橋、 首絵りは擢鉢山というごとく、 すでに世間にその言い伝えあるときは、 たまたま心中に苦痛あるもの、 吾妻橋を過ぐれば死にたくなり、  揺鉢山に行けば首溢りたくなると同一理にして、  狐に妖かさるるにも、 だれは某の山路にて妖かされたることありというを聞きいて、 たまたま山路を通過すれば、「 狐妖の記悦」一時に激動し、  ついにその記憶に妖かさるるに至るもあらん。  また、 その山路ならずとも、 森林鬱々として、  狐のすみそうに見ゆる場所を過ぎ、 寂突たるありさまより、 なんとなく妖かされそうになりて、  ついに本心を失うに至るもあらん。 しかして、 巧みに狐の鳴き声を発し、  また狐の身振りをなし、 油揚げをむさぼり、 小豆飯を好み、  犬を恐るるなどの変態、 異状あるは、  全く、  かねて記憶する狐妖の状態を自ら学ぶものなり。

かく、 説を重ね見れば、  狐妖の原因は、 狐妖の記位にあり。  すなわち、 古来狐妖に関する言い伝えの記憶にあるなり。 ゆえに、「狐の人を妖かす」にあらず、「人の人を妖かす」ものなるを知る ぺし。  換言すれば、 狐に人を妖かすの能力あるにあらずして、 人心中にその原因あるを知るべし。  しかれども、 狐、  決してこのことに関係なしとす ぺからず。  人、  かねて狐の実体を目限せしことあるか、 あるいは絵画、  もしくは昔話などによりて見聞せしことあるか、 また狐によりて妖かされたる言い伝えある場所を通過することあるかの事情が、 つは記憶し つは実際に接見して起こるものなれば、  狐そのものが原因の一種たるに相違なし。 ただし、 誘因となるのみ。

およそ、  人の胸中、 記憶のありさまは、 その連絡に強きと弱きとにありて、 連絡強ければ、  一方に狐妖の記憶動くも、 また一方にこれを打ち消すもの起こりて、  その本心を失わしめず。  愚昧なる者、  臆病なるもの、 小児、婦女子のごときは、 この連絡弱きがゆえに、 ただ一方の狐妖の記憶のみ激動して、  その本心を失うことありといえども、 知識あり、 強胆ある人は、 この連絡強きがゆえに、 さることなきなり。 しかれども、 時として、  知識あり、 強胆ある人も狐妖にかかることなしとせず。  かかるときには必ず事情あるべし。 すなわち、 父母、 妻子の大患にあいたるときとか、  一家の不幸に苦思する際とか、 長病にて精神衰耗の後とか、 あるいは大酔のときとかの事情あるべし。  かかるときは知識あり、  強胆ある人も、 覚えずこの連絡の弱くなることあればなり。

さて、  狐妖の主たる原因は人の記箆にありて、  狐これが誘因たるは、 すでに述べたり。  なお、 この最大原因たる狐妖言い伝えのことについて、  その原因を考索するを要す。 古来狐妖に関する言い伝えは、 わが国にも古く言うことなれど、 そのもとはシナより伝来せしものなり。 しかして、 この言い伝えの最初は、 いかなる場合より起こりしにや知るによしなけれど、  思うに、 こは偶然の出来事にて、 人の気の狂いたるとき、 あたかも一匹の狐その前を過ぎたりとか、 狐のすむ山中の、  寂笈なる地において発狂したりとか、  いずれにしても狐と発狂と、  こ 三回偶合したりしことあるより起こりたるならん。 かかる例は、 世にある習いにて、  かの彗星の出でたる際に内乱ありしかば、 後世彗星の出ずるは内乱の兆しとせるがごとく、 偶然の出来事にみだりに関係を結び付けて言い伝えとなりたるものなるぺし。  しかして、 この言い伝えをもって、 最大原因というは三、  四歳の幼児、 もしくは生来の白痴者、 または西洋人のごとき、 いまだこの言い伝えを耳にせざるもの、 すなわち狐妖に関する言い伝えの記憶なき者には、 決して妖かされたる例なきによりて知るべし。

およそ人の精神作用は、 時々変動し、 年々変遷するものにして、 その発達も各人異同あれば、 今思うところ、後に違うことあり、  朝思うところ、  荘れに違うことあり、  今日思うところ、 明日異なることあり、  今年思うところ、 明年異なることあるものなれば、  ひとり狐に妖かさるるときのみ、 精神作用の一方に偏するにあらず。  学問をなすにも、 事業をなすにも、  その脳中の全部平等に活動するは、 普通平凡の人にして、 かの新発明をなし、 大事業を起こし、 英雄豪傑といわるるものは、 決して、  全部平等の発達活動をきたすにあらず。  必ずや、 ある一方は偏して、 非常に発達活動したるによる。 例えば狂人に同じ。  かの狂人なるものも、  その脳の一部分の活動その度に過ぎて、  行為、 挙動の権衡を失するによる。  孔〔子〕、  孟〔子〕、 釈〔迦〕、 老三  〕のごときも、 平凡の人に大いに異なるところあるを見るは、 その脳の発達も、 不平均をなせしや明らかなり。  ゆえに、  聖人も一種の大狂人と称してしかるべし。  ただそのなすところ、  大いに世を益せしをもっ て、  人これを狂人とせず、  かえっ て型喪として貴ぶ。 しかれども、 かの有害無益の狂人にありては、 顧 狂 院に幽閉して人これをいやしむ。 願わくば、 吾人平凡にして一生をおわらんよりは、 狂人になりたきものなり。 ただし有益の狂人とならんことを願うなり。

余はここに狐妖弁を終わるに臨み、  一言世人に望むものは、  いよいよ教育の普及をはかるべきことなり。  教育をして、 天下に普及ならしめ、 人知の発逹を進めて、「狐は人を妖かすものにあらず」との記憶を、 かたく有するに至らば、 今日の狐妖も、 後世ただ つの昔語りとなるや疑いなし。

以上、 狐妖のことについて大略を述ぺたりといえども、 予もなお研究の完全を得たりというにあらざれば、 誤見なしとも保証しがたし。 諸君、 願わくば、 この狐妖に関する事実の材料を得られんには、  寄贈して予の研究を助くるにおしむなかれ。

左函は『耽奇漫録」による。 郡山藩士中村太右衛門所蔵なりという。

(縁起)右は郡山領江州相原郷長島村田村の際に徘徊して行脚僧のいたりしが、 後その辺りの上野という原にて犬に喫殺されて、  その古狸の化せしことを知るという。怪物の書跡文政七年、  東京赤坂伝馬町村木氏の家に出でたる怪物の書なり。 その字『此屋受罪」と読むべし。狐の怠状下野国宇都宮成邸寺の什物

(甲)は江州犬上郡西甲良村日下豊澄氏の寄送せられたるものにして、  今をさること数十年前、  その地方に一僧突然きたりて一泊を請い、 宿料の代わりにこの書をしたためて去れり。  その住所も姓名も告げず、 ただ「われは山にすむものなり」といえるのみ。 よっ て、 一般に相伝えて天狗なりという。

(乙)は紀伊国粉河なる館外員某氏より寄送せられたるものにして、 僧素月、年齢十一歳のとき、 すなわち文久元年、 泉州牛滝山に遊び本坊に宿す。  該夜初更のころ、素月俄然悶絶転倒し人事を弁ぜず。しばらくありて源然として、聖護院宮御座所たりし上段の室に飛び上がり直立して日く、「われは難勝陀羅尼を守護するの神霊にして、  空海上人存在のとき、  われに尊勝大権現の号を付す」と、 即座に笹を求めて害きしものなり。 これ天狗の憑るところならんという。

(乙)い い    ぼ .滋

(丙)は群馬県下利根郡花咲村星野謙康氏、

山間の温泉へ入浴中、 山家にて天狗の筆跡として保存せるものをもらい受けて、  寄贈せられたるものなり。