1.仏教心理学

P9

  仏教心理学 

 

 

1. 冊数

   1冊

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   145×211mm

3. ページ

   総数:174

   目次: 2

   本文:172

4. 刊行年月日

   不明。ただし,『仏教専修科講義録』(初学年第4冊,第7号第8号,明治30年5月23日)に,41

   ~48ページ分が掲載されているので,このころと推測される。

5. 句読点

   あり

6. その他

  (1) 書名については,本選集第7巻の『仏教理科』の例にならい「講義」を省略した。

  (2) 第四段「心所義解」の漢文引用文(原本の17~34ページ)は,『東洋心理学』(選集第9巻収録)にもあったので,校合した。なお「第二 大善地法の十種」の引用文は,9種しかなかった。欠如した「愧」の項は『東洋心理学』から補った。

(巻頭)

       緒  論

 これより講述せんと欲する仏教心理学は、仏書中に見るところの心理に関する諸説を比較対照して評論するを目的とす。しかるに心理学とは学科組織を有するものに与うる名称にして、西洋近代に始めて起こりたる学科なれば、その名を仏教の心理説に与うるは不当の評を免れ難しといえども、今、仮に題して『仏教心理学』という。それ仏教は哲学上よりこれをみるに、大小両乗の諸説はみな心理学の範囲を出でず、仏教哲学はすべて心理哲学と称して可なり。今その理由を述べん。

 インドの哲学諸派は大数九六種ありて、これを外道と称す。仏教はこれに対して新機軸を出だしたるものなれば、必ず大いに外道とその見を異にするところなかるべからず。もし仏教家の説くところによれば、外道諸派はみな実我論をとり、仏教は無我論を唱うるの別ありというも、哲学上これをみるに、外道諸派は客観論にして、仏教は主観論なるの別あり。客観論とは外界万有の上に真理を仮立するものにして、主観論とは内界心性の上に真理を既定するものなり。外道中の地論師外道、火論師外道、服水外道、風仙外道のごとき、有形の物質をもって原理と立つる諸派の客観論たるは言をまたず。勝論〔ヴァイシェーシカ〕、数論〔サーンキヤ〕のごとき物心二元を立つる外道も、客観上の見解を脱せざれば客観論の一類に属せざるべからず。これに対して仏教は、大乗はもちろん小乗の諸派に至るまで、みな主観上の見解を用いざるはなし。小乗中倶舎宗のごときは万有の実体の恒存説を唱うるものなれば、これを大乗に比するに一種の客観論といわざるを得ずといえども、これを外道に比するに主観論の範囲に帰するは多言を費やさずして知るべし。『倶舎論』は万有を分析して色心二法を立つるものなれば物心二元論なりといえども、世界万有の成立を業力所感に帰し善悪因果を説くに至りては、主観的二元論と称せざるべからず。換言すれば、倶舎哲学は表面に物心二元論を示し、裏面に唯心一元論を含むものと称して可なり。小乗なおかくのごとし、いわんや大乗をや。唯識哲学、華厳哲学、天台哲学、みな唯心一元の理に基づかざるはなし。故に余は、仏教諸派はことごとく主観論に属するものとなす。

 すでに仏教諸派の主観論たるを知れば、仏教哲学は心理学あるいは心理哲学の範囲を出でざるを知るべし。果たしてしからば、仏教心理学の名称の下には仏教諸派の哲学を網羅することを得べし。ただ『倶舎論』および『唯識論』の心理と、華厳、天台の心理と、その見解を異にするのみ。倶舎、唯識の心理は今日のいわゆる心理学の見解に近しといえども、華厳、天台の心理は純正哲学あるいは理想哲学の見解に属す。換言すれば、倶舎、唯識の心理は相対的にして人々おのおのの心性につきてその作用を論じ、華厳、天台の心理は絶対的にして物心世界の本体につきてその実在を論ずるの異同あり。これを表示すること左のごとし。

  仏教心理 相対的 倶舎

           唯識

       絶対的 華厳

           天台

 もし一元、二元をもって分かたば、倶舎は物心二元論にして、唯識は唯心一元論なれば、その表左のごとく変ぜざるべからず。数論、勝論もまた物心二元論にして、外道諸派中最も仏教に近きものなれば、その二論をも左表中に加うることとなす。

  仏教心理 物心二元的 客観的(数論、勝論)

             主観的(『倶舎論』)

       唯心一元的 相対的(『唯識論』)

             絶対的(華厳、天台)

 この表に従い各種の心理の一端を略示するは、本論に入るの階梯として必要を感ずるなり。まず数論は、二五種の原理を立てて物心万有の開発を論ず。これを僧佉〔サーンキヤ〕の二十五諦と名付く。もしこれを略説すれば自性、変易、神我の三種となる。自性は第一諦にして、神我は第二五諦なり。しかして変易は中間の二三諦なり。これを変易と名付くるは、自性と神我との二諦相より、自性の体開発して次第にこれを転生せるによる。換言すれば、自性は世界の実体にして、神我は覚知の本源なり。この二者相よりて物心万象を現示することを説く。故にこれ一種の二元論なり。つぎに勝論は、六種あるいは一〇種の原理をもって世界万有の成立を論ず。これを十句義と名付く。その第一句義を実句義と称して、その中には物心二元を混説す。すなわちいわゆる二元論なり。この二元の関係によりて万有の生滅変遷を論ずるもの、これ勝論哲学なり。しかして数論も勝論もいまだ客観的見解を脱せざれば、余はこれを客観的二元論と名付く。つぎに『倶舎論』は、七五種の原理によりて世界万有の成立を論ず。これに有為無為の二種を分かち、その有為法に色心二種を分かちてその体の恒存せるゆえんを示す。しかしてその色法を解するに心理上の見をもってす。故に余はこれを主観的二元論と名付く。『唯識論』は一〇〇種の原理を立て、これを有為無為の二類、色法心法の二種に分かつことは『倶舎論』の分類に異ならずといえども、有為の諸法は唯識所変と称して、我人の識心の作用によりて外界万有の変現するゆえんを説き、「森羅万象はただ識のみの変ずるところ。」(森羅万象唯識所変)を唱うるをもってこれを唯心一元論に入るるなり。有為法とは、為は為作造作と熟し転変生滅あるものをいう。つぎに華厳、天台は「三界はただ一心のみにして、心の外に仏法なし。」(三界唯一心、心外無仏法)、あるいは一念三千、一心三観等と称し、絶対的唯心にしてその体物心万境を包有せるゆえんを示す。故にこれを絶対的唯心論という。以上、大小両乗の心理にかくのごとき異同あるも、余がここに仏教心理学としてもっぱら論ぜんと欲するものは、倶舎および唯識の心理なり。数論、勝論、華厳、天台の心理のごときは、往々参考として対照するをもって足れりとす。しかるに仏教専修科の講義には、現に『倶舎論』『唯識論』の二科あり。また専修科の講義録にもこの二科の綱要を掲ぐるはずなれば、別にここに仏教心理学の題目を提出して論述するを要せざるがごとしといえども、余が講述の目的および性質の大いに異なるところあれば、更に仏教心理学の一科を設くるを要す。その異なる点左のごとし。

  『倶舎論』および『唯識論』の講義はひとり心理に関することを説くのみにあらずして、一論全体の要義を講述するにあり。しかして余が仏教心理学はひとり心理に関する部分のみを論ずるなり。

  『倶舎論』および『唯識論』の講義はその本論の順序により解釈的に講述するものにして、余が仏教心理学は諸学科の順序により論及的に講述するものなり。

  『倶舎論』および『唯識論』の講義は一論の心理を講述するにとどまり、必ずしも他論の所説と比較するを要せず。しかるに余が仏教心理学は倶舎、唯識両論を比較し、あるいは外道の心理、あるいは西洋の心理と比較して論述し、かつこれに多少の批評を加えんと欲す。

 これを要するに、余の目的は仏教中に学科の組織を開かんとするにあるをもって、かくのごとく学科の名目を用うるなり。しかれども倶舎、唯識の本論を明らかにせざれば、この心理学の講義を解し難し。故に倶舎、唯識の講義は、この心理学講義の根基なりと知るべし。

 以上、すでに仏教心理学はなにを講述するにあるやを弁明したれば、ここに仏教の心理と西洋の心理と、その研究の方法の異なるゆえんにつきて更に一言せざるべからず。西洋にありても、古代ギリシア学者の論ずるところの心理は仏教の心理のごとく、論理学のいわゆる演繹的研究法によりたるものにして、西洋今日の心理学のごとく帰納的研究法によりたるものにあらず。故に今比較せんと欲するは、仏教の心理と西洋今日の心理との異同いかんにあり。その表左のごとし。

  心理 西洋―経験的 帰納的 後天的 心象的 客観的 理学的 学術的 唯物的         感覚的

     仏教―独断的 演繹的 先天的 心体的 主観的 哲学的 宗教的 唯心的         理想的

 この表につきて二者の異なるゆえんを知るべし。またその応用に至りては、西洋はこれを教育上に応用し、仏教はこれを宗教上に応用するの別あり。けだし仏教心理と西洋心理とその性質の異なるは、その応用の異なるに起因するところなきにあらず。すなわち仏教にて心体を主として心理を講ずるはこれを宗教に応用せんがためにして、西洋にて心象をもととして講ずるは教育に応用せんがためなるを知るべし。

 東洋にありては哲学思想の大いに発達したるものシナ、インドの二国あるのみ。しかしてインドに心理の諸説ある以上は、シナにもこれに関する諸説なかるべからず。しかるにシナ哲学の短所は心理の研究を欠くにあり。その哲学中にわずかに心理にわたりて講じたるものは宋朝の性理論なるも、これを倶舎、唯識の心理に比すれば極めて粗なるものなり。かつその論は道徳の本源を究むるより生じたるものにして、仏教の心理とは更に大いにその性質を異にす。これシナ哲学の応用は道徳を目的とするによる。換言すれば、仏教は精神をもととして哲学を講じ、その結果を宗教に応用し、儒教は人間をもととして哲学を講じ、その結果を道徳に応用するの別あり。

 以上述ぶるところによりてこれをみるに、インド哲学の特色は心理説あるいは理想論にして、仏教その最たるものなり。これをシナに尋ぬるに、儒家も道家も心理の説にくわしからず。これを西洋に考うるに、近世心理の学大いに発達し、その実験上の研究は仏教のはるかに及ばざるところにして西洋心理の特色なりといえども、仏教心理の特色に至りては、また西洋心理のいまだその味を感ぜざるものあり。すなわち仏教は心理の秘鍵によりて理想の玄門を開示せんとするにあり。これその心理の客観的ならずして主観的なるゆえん、心象的ならずして心体的なるゆえんなり。それ一心の本体は実に神妙不可思議にして、有限の見識のよくうかがい知るところにあらず。けだし吾人の心門を開き真源を窮むる外に、ただちにその光景に接する道なし。これをもって仏教は心理を講究してその道を世間に開示せんと欲す。故に仏教の心理はこれを西洋の心理に比するに、その味の深妙なること同日の論にあらず。いやしくも東洋学に志あるもの、あに仏教の心理を不問に付するを得んや。これ余が仏教心理学を講述する本志なり。

 

     第一講 総 論

 余が仏教心理を講述する順序は、『倶舎論』あるいは『唯識論』の章句を追って解釈するにあらずといえども、あらかじめその両論において定むるところの心理分類および義解を挙示するを必要となす。故に余は左の題目を掲げ、もって本講の総論となす。

  第一段 諸法分類

  第二段 心法分類

  第三段 心王義解

  第四段 心所義解

 この四段のごときは『倶舎論』および『唯識論』の講義に出ずるものなれば、今、特にその題目を掲げて講述するを要せずといえども、あらかじめ従来の仏教において定むるところの分類義解のいかんを知らずんば、仏教心理を講究することあたわず。故にここに二、三の仏書によりてその一端を示すべし。

       第一段 諸法分類

 そもそも仏教にて宇宙万有を分析するに、小乗大乗おのおのその説を異にし、『倶舎論』にては七五種に分かつ。これを小乗の七十五法という。『唯識論』にては百法に分かつ。その種類の小乗より多きこと二五法なり。しかし

  小乗七十五法 第一、色 法一一種

         第二、心王法 一種

         第三、心所法四六種

         第四、不相応一四種 有為法七二種

         第五、無為法 三種

  大乗百法 第一、心王法 八種

       第二、心所法五一種

       第三、色 法一一種

       第四、不相応二四種 有為法九四種

       第五、無為法 六種

て更にこの七十五法、もしくは百法を束ねて五類となす。これを五位と名付く。今その表を略示すること右のごとし。

 有為法とは、為は為作造作を義とし、変遷生滅ある現象をいい、無為法とはこれに反するものをいう。また色法、心王、心所、不相応、無為法の五類、これを五位という。しかして余はこの五位を左のごとく分かたんと欲す。

  諸法 有為法 色心法 色法

             心法 心王法

                心所法

         非色非心法(不相応法)

     無為法

 なんとなれば、不相応法は色心の関係、あるいは状態を示すものにして、その体は色法とも心法とも名付くべからざるものなればなり。また七十五法の色法中に無表色を入るるも、余はこれを非色非心の中に加うるをよしとす。また人身を分かちて五蘊となすことあり。すなわち左表のごとし。

  五蘊 色(Rupa〔Rupa〕=Matter)

     受(Vedana〔Vedana〕=Feeling)

     想(Sandjina〔Samjna〕=Imagination or Perception)

     行(Karman=Action)

     識(Vidjinana〔Vijnana〕=Knowledge)

 このうち色は物質すなわち色法にして、受、想、行、識は心法なり。これを七十五法に配するに、色には五根、五境および無表色を含み、行には心所四四、不相応一四を含み、識は心王の六識にして、受と想とはおのおの心所法の一なり。故に五蘊はみな有為法にして、そのうちに無為法を摂せず。この五蘊の外に十二処、十八界の分類法ありてこれを蘊処界の三科というも、これみな『倶舎論』もしくは『唯識論』の講義に譲りてこれを略す。

       第二段 心法分類

 七十五法、あるいは百法の分類は、有為無為、色法心法にまたがるものなれば、ここにその種類のいちいちを挙示するを要せず。ただ心法の各種を表示するをもって足れりとす。

 以下は七十五法、および百法の表中より心法に属する部分のみを掲げしなり。しかしてその分類の大いに西洋心理学の分類に異なるは、要するに仏教はその目的とするところ哲学にあらずして、宗教にあるによる。これをもって心所法を分かつに、善法不善法等の類目を用うるなり。これより『倶舎論』および『唯識論』により心王、心所の名義を解説すべし。

  小乗心法 心王法一(六識)

       心所法四六 大 地 法一〇―受、想、思、触、欲、慧、念、作意、勝解                     、三摩地

             大善地法一〇―信、不放逸、軽安、捨、慙、愧、無貪、無瞋                    、不害、勤

             大煩悩地法 六―無明、放逸、懈怠、不信、惛沈、掉挙

             大不善地法 二―無慙、無愧

             小煩悩地法一〇―忿、覆、慳、嫉、悩、害、恨、謟、誑、憍

             不定地法 八―尋、伺、睡眠、悪作、貪、瞋、慢、疑

 

  大乗心法 心王法 八―眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識、阿頼耶識

       心所法五一 遍行五―作意、触、受、想、思

             別境五―欲、勝解、念、三摩地、慧

             善  一一―信、精進、慚、愧、無貪、無瞋、無痴、軽安、                   不放逸、行捨、不害

             煩悩六―貪、瞋、慢、無明、疑、不正見

             随煩悩二〇 忿、恨、悩、覆、誑、謟、憍、害、嫉、慳、無                   慚、無愧、

                   不信、懈怠、放逸、惛沈、掉挙、失念、不正、                   心乱

             不定四―睡眠、悪作、尋、伺

       第三段 心王義解

 仏教にて我人の精神を心あるいは意あるいは識と名付く。この三者を解するに同意義をもってすると、異意義をもってするとの二様あり。まず梵語〔サンスクリット語〕によれば、心は質多(質多耶あるいは質帝あるいは波荼等)と音訳す。これ集起の義なり。意とは末那(Manas)の訳語にして、末那は思量の義なり。識とは毘若南(Vijnana)あるいは毘若底の訳語となす。これ了別の義なり。今この三者を『倶舎論』の上に考うるに、「集起するが故に心と名づけ、思量するが故に意と名づけ、了別するが故に識と名づく。」(集起故名心、思量故名意、了別故名識)(『倶舎論』巻四)と説き、また「心、意、識の三名の詮ずるところは義に異なりあるといえども、体はこれ一なり。」(心意識三名所詮義雖有異、而体是一)と説けり。これを『七十五法記』には「心法はあるいは名づけて心となし、あるいは名づけて識となす。」(心法者或名為心、或名為識)とあり、『法宗源』には「心法はあるいは名づけて意となし、あるいは名づけて識となす。集起するが故に心と名づく、すなわち七心界なり。思量するが故に意と名づく、すなわちこれ意処なり。了別するが故に識と名づく、すなわちこれ識蘊なり。」(心法者或名為意、或名為識、集起故名即七心界、思量故名意即是意処、了別故名識即是識蘊、)とあり。その七心界とは『倶舎頌疏』によるに、六識の外において更に意界を加えて七心界となすとあり。これを要するに、『倶舎論』にては心王を分かちて眼、耳、鼻、舌、身、意の六識となせどもその体一なりと立つるをもって、心、意、識の三者はその名異なるもその体一なりとす。しかれどもこれを区別するために、同一の心体の上に過去を意と名付け、未来を心と名付け、現在を識と名付くと解するあり。また蘊処界の三科に配して、心はこれ種族の義、意はこれ生門の義、識はこれ積聚の義と解せり。すなわち積聚は蘊の義、生門は意の義、種族は心の義なればなり。あるいはまた界中心を施設し、処中意を施設し、蘊中識を施設すという。これ心、意、識と蘊処界との配合なり。つぎに『唯識論』の上にありては、心王を分かちて八種となす。すなわち前に表示せるがごとし。これを心、意、識に配するときは、第八阿頼耶識を心となし、第七末那識を意となし、前六識を識となす。左に『唯識論』(巻五)の一節を引用すべし。

集起するを心と名づけ、思量するを意と名づけ、了別するを識と名づく。これ三が別義なり。かくのごとき三の義は、八識に通ずといえども、しかもすぐれてあらわなるにしたがいて、第八を心と名づく。諸法の種を集め、諸法を起こすが故なり。第七をば意と名づく。蔵識等を縁じて、つねにつまびらかに思量して我等となるが故なり。余の六を識と名づく。六の別境の麁動に間断するにおいて、了別して転ずるが故なり。

集起名心、思量名意、了別名識、是三別義、如是三義雖通八識而随勝顕第八名心、集諸法種起諸法故、第七名意縁蔵識等恒審思量為我等故、余六名識於六別境麁動間断了別転故、

 すなわち第八識は、一切の種子を含蔵して諸作用を発起するをもって集起の義あり、第七識は、内につねに思量して我執法執を起こすをもって思量を義とす。他の六識は、眼は色、耳は声、鼻は香等、おのおの識別する作用あるをもって了別の義ありとなす。しかして唯識の八識の説明は後に別に論ずるをもってここに略す。もし法相より更に一歩を進めて『起信論』に達すれば、相対的唯心論一変して絶対的唯心論となる。すなわち『起信論』に、真如と生滅と相合したる絶対的一心を阿黎耶識と名付く。阿黎耶は阿頼耶と同一なるべし。故に『起信論義記』によるに、阿黎耶と阿頼耶とはただし梵言のなまりなりとあり。しかるに『起信論』の阿黎耶識は生滅心と不生滅心の相合したるものに名付け、唯識の阿頼耶識は生滅心の一種に与うるものなり。これ『起信論』の実大乗たるゆえんなり。阿黎耶識はここに訳して無没識といい、また蔵識という。以上の諸識の外に菴摩羅識と名付くるものあり。これを訳して清浄識という。あるいは真識あるいは無垢識等の名あり。これを仏識となす。その他、識を分かちてあるいは一〇種あるいは一一種となすことあれどもこれを略す。もしまた『宗鏡録』によれば、心に四種の義を立つるを見る。

一、紇利陀耶、ここに肉団心という(身中の五臓の心なり)。

二、縁慮心、これはこれ八識、ともによく自分の境を縁慮するなり。

三、質多耶、ここに集起心という。

四、乾栗陀耶、ここに堅実心といい、また真実心という。これはこれ真心なり。

一、紇利陀耶、此云肉団心(身中五臓心地)、

二、縁慮心、此是八識、倶能縁慮自分境、

三、質多耶、此云集起心、

四、乾栗陀耶、此云堅実心、亦云真実心、此是真心也、

 その第一の肉団心とは肉体上の心にして、今日の心理学にて説くところの神経あるいは脳髄というがごとし。第二、第三、第四は前すでに述べたるところに同じ。その他なお種々の分類法あれども、すべてこれを略す。

       第四段 心所義解

 心法の第二類なる心所法すなわち心所有法とは、心王所有所属の法を義とす。その種類は小乗と大乗と大抵相同じといえども、今左に小乗の釈義と、大乗の釈義と、前後に分かちて挙示すべし。

 まず小乗の分類表の心所法四六種は、『倶舎頌疏』の解釈を引用し、その和訳に属する分は慧澄律師の『七十五法大意』による。

    第一 大地法の一〇種

受  ・受とはいわく領納にして、これに三種あり。苦、楽、倶非との差別あるが故なり。」(受謂領納、此有三種、苦楽倶非、有差別故、)(受とは好悪中庸の境の通りにうけとりてちがへぬ性分なり。)

想  ・想とは像を取るなり。いわく、前境において差別の相を取るなり。」(想者取像、謂於前境取差別相、)(想とは此方より境の模様を取り此れくらゐなるものと切りわける性分なり。)

思  ・思とは造作なり。いわく、よく心をして造作するところあらしむ。」(思者造作、謂能令心有所造作、)(思は事を案して身口を動す本となる性分なり。)

触  ・触とはいわく、触対なり。根、境、識の三、和合して生ずるものにして、よく触対することあるなり。」(触謂触対、根境識三和合而生能有触対、)(触とは触対にて境へふりむける様にする性分なり。)

欲  ・欲とはいわく、所作の事業を希求す。」(欲謂希求所作事業、)(欲は何によらす望のつく性分なり。)

慧  ・慧とはいわく、法においてよく簡択あり。」(慧謂於法能有簡択、)(慧は何によらすえらひわける性分なり。)

念  ・念とはいわく、縁において明記して忘れず。」(念謂於縁明記不忘、)(念はよくおぼへて居る性分なり。)

作意 ・作意とは意を動作す。いわく、よく心をして警覚せしむるを性となす。」(作意者動作於意、謂能令心警覚為性、)(作意は気をつける性分なり。)

勝解 ・勝解とはいわく、よく境において印可す。この事、このごとくして、かくのごとくならざるにあらずと殊勝の解を起こす。」(勝解者、謂能於境印可、此事如此、非不如是、起殊勝解、)(勝解はよく合点をする性分なり、世間の人の呑込たと云ふ所か勝解の心所なりと意得へし。)

三摩地・三摩地とはここに等持という。平等に心を持して一境において転ぜしむ。また心所を持す。強に従いて心と説く。」(三摩地者、此云等持、平等持心於一境転、亦持心所従強説心、)(三摩地は定の梵名なれとも修得せし定法にあらす、只た心の一処に住して余処目をふらぬを定と云へは、此の定の心所は定心散心に通するなり。)

    第二 大善地法の一〇種

信  ・信とは澄浄なり。水清の珠、よく濁水を清むるがごとく、心に信珠あらば心をして澄浄ならしむ。」(信者澄浄也、如水清珠能清濁水心有信珠令心澄浄)(信は正直に意得てきれいなる性分なり。)

勤  ・勤は精進なり。いわく、よく心をして勇悍ならしむるを性となす。」(勤者精進、謂能令心勇悍為性、)(勤はだんだんはりのつく性分なり。)

行捨 ・捨とは沈掉を捨離し、心をして平等ならしめ、無警覚の性なり。」(捨者捨離沈掉、令心平等無警覚性、)(捨は偏倚(かたより)のせぬ性分なり。)

慚  『有宗七十五法記』にいわく、「造るところの罪において、自ら観じて恥ずることあるを慚と名づく。」(於所造罪、自観有恥、名慚、)(慚は自分の身を顧みて面目なく思ふ性分なり。)

愧  『有宗七十五法記』にいわく、「造るところの罪において、他を観じて恥ずることのあるを愧と名づく。」(「於所造罪観他有恥名愧)(愧は他人に対して面目なく思ふ性分なり。)

無貪 同書にいわく、「無貪はいわく、已得、未得の境界において、耽著し、希求し、相違せる愛染心なきを名づけて無貪となす。」(無貪者、謂於已得未得境界、耽著希求相違、無愛染心、名為無貪、)(無貪はほしがらぬ性分なり。)

無瞋 同書にいわく、「無瞋はいわく、情、非情において損害の意なく、哀愍の種子なるを説きて無瞋と名づく。」(無瞋者、謂於情非情、無損害意、哀愍種子、説名無瞋、)(無瞋は人の気を損せぬ性分なり。)

不害 ・不害というは、いわく無煩なり。」(言不害者、謂無煩、)〔*=無捐悩〕(無害は人の障りにならぬ性分なり。)〔以下の注は、東洋大学哲学堂文庫所蔵『倶舎七十五法大意』と校合し、大きく相違する点のみ記す。 *=不〕

軽安 ・軽安とは、軽はいわく軽利なり、安はいわく安適なり。善法の中において堪任するところあるを心の堪任の性と名づく。」(軽安者、軽謂軽利、安謂安適、於善法中有所堪任、名心堪任性、)(軽安は懶気(ものうげ)のなき性分なり。)

不放逸・不放逸とは、もろもろの善法を修するなり、云々。またいわく、よく心を守護するを不放逸と名づく。」(不放逸者修諸善法云云、又云、能守護心、名不放逸、)(不放逸はやりはなしならす慎しみ よき性分なり。)〔*=「の」あり〕

    第三 大煩悩地法の六種

痴  ・痴とは愚痴にして、また無明と名づく、境に迷いて起こるが故に。また無智と名づく、決断なきが故に。また無顕と名づく、彰了することなきが故に。」(痴者愚痴、亦名無明迷境起故、亦名無智無決断故、亦名無顕無彰了故、)(無明は即ち愚痴にて闇昧にして訳の分らぬ性分なり。)〔*=訣〕

放逸 ・もろもろの善を修せざるなり。これはもろもろの善を修するの所対治の法なり。」(不修諸善是修諸善所対治法、)〔*=・逸者放逸」あり〕(放逸はやりはなしにして慎まさる性分なり。)〔*=不慎なる〕

懈怠 ・心の勇悍ならざるは、これ前に説くところの勤の所対治なり。」(心不勇悍、是前所説勤所対治、)〔*=・怠謂懈怠」あり〕(懈怠は心にゆるみのつきて間のぬけて続かぬ性分なり。)

不信 ・不信とは心をして澄浄ならざらしむ。これ説くところの信の所対治なり。」(不信者令心不澄浄、是 所説信所対治、)〔*=・前・あり〕(不信は正直ならすして意立てのきれいならさる性分なり。)〔*=意ろ立て〕

昏沈 ・昏沈とはいわく、身心の重き性なり。善法の中において堪任するところなく、また身心の無堪任の性を名づく。」(昏沈謂身心重性、於善法中無所堪任、亦名身心之無堪任之性、)〔*1=・昏沈謂」は「昏者昏沈。謂」 *2=・之」なし〕(昏沈は懶気なる性分なり。)〔*=惛〕

掉挙 ・心をして静かならざらしむ。」(令心不静)(掉挙は心のすわらずさわがしき性分なり。)

    第四 大不善地法の二種

無慚 『有宗七十五法記』にいわく、「自ら観じて恥ずることなきを、説いて無慚と名づく。」(自観無恥、説名無慚、)(無慚とは自分の身の上に対して面目なきことを知らぬ性分なり。)

無愧 同書にいわく、「他を観じて恥ずることなきを、説いて無愧と名づく。」(観他無恥、説名無愧、)(無愧は他人の身の上に望んて面目なきことを知らぬ性分なり。)

    第五 小煩悩地法の一〇種

忿  『有宗七十五法記』にいわく、(以下の九種またこの書による)「忿は情、非情において、心をして忿を発せしむ。」(忿者於情非情、令心忿発、)(忿は「あれはすまぬ」と面へ出していきどほる性分なり。)〔*=・ 」の記号なし〕

覆  ・覆とは自らの罪を隠蔵す。」(覆者隠蔵自罪、)(覆とはこれを知られてはならぬとかくす性分なり。)

慳  ・慳とはいわく、財法にして巧施に相違し、心をして悋惜せしむるなり。」(慳謂財法巧施相違令心悋惜、)(慳はこれをやってはならぬとはなさぬ性分なり。)

嫉  ・嫉とはいわく、他のもろもろの興盛事において、心をして喜ばざらしむ。」(嫉謂於他諸興盛事、令心不喜、)(嫉は他の盛事を忌む性分なり。)

悩  ・悩とはいわく、もろもろの有罪事に堅執し、これによりて取らず、諌誨を理すがごとし。」(悩謂堅執諸有罪事、由此不取如理諌誨、)(悩は自分の無理なることを推し立て他の言ふことを聞き入れずして難義させる性分なり。)

害  ・害とは、他において逼迫の事をなし、これによりてよく打罵等を行ず。」(害者於他為逼迫事、由此能行打罵等、)(害は人の障りになることを仕出す性分なり。)

恨  ・恨とはいわく、忿の所縁の事の中において、数々尋思し、怨を結んで捨てざるなり。」(恨謂於忿所縁事中、数々尋思結怨不捨、)〔*=数〕(恨は外には出さずして他をにくむ念を始終内に持つ性分なり。)〔*=外かへは〕

諂  ・諂とはいわく、心の曲がれるなり。これによりて如実に自らをあらわすあたわず。あるいは、おさむるにあらざるを矯し、あるいは、方便を設けて解明せざらしむ。」(諂謂心曲、由此不能如実自顕、或矯非撥、或設方便、令不解明、)〔*=令解不明〕(諂はねぢけて内の心を見せず機嫌を取る性分なり。)

誑  ・誑とはいわく、他を惑わし先に籌度す。方便を設け、人をして後に顛倒の解を生ぜしむ故なり。」(誑謂惑他先籌度、設方便令人後生顛倒解故、)〔*=後時生〕(誑は言ひまぎらして人をまどはす性分なり。)

憍  ・憍とは、自法に染着するを先となし、心をして傲逸ならしめ顧みるところなし。」(憍染着自法為先、令心傲逸無所顧、)〔*1=著 *2=顧性〕(憍は己れをよしとする性分なり。)

    第六 不定地法の八種

尋  『有宗七十五法名目』にいわく、(以下七種またこの書による)「尋とはいわく、尋求。心の麁なる性なり。」(尋謂尋求心麁性、)(尋はあれはと意付く気味にて麁(あらく)分別する性分なり。)

伺  ・伺とはいわく、伺察。心の細なる性なり。」(伺謂伺察心 細性)〔*=・之」あり〕(伺はとくと様子を見る気味にて細(こまかく)分別する性分なり。)

睡眠 ・睡眠とはいわく、心をして闇昧ならしむるを性となす。」(睡眠謂令心闇昧為性、)〔*1=・謂」なし *2=昧略〕(眠はとろくなりておぼえのなき様になる性分なり。)

悪作 ・悪作とは、悪作の事を縁じて心に追悔する性なり。」(悪作 縁悪作事、心追悔性、)〔*1=・者謂」あり *2=・事」なし〕(悪作は善悪の事に就て前に作せしことを悪しきことをなせしと後に悔る性分なり、善事を悔るは悪なり悪事を悔るは善なり。)

貪  ・貪とはいわく、愛なり。」(貪謂愛、)〔*=貪愛〕(貪はあるが上にほしがる性分なり。)

瞋  ・瞋とはいわく、恚なり。」(瞋謂恚、)〔*=瞋恚〕(瞋は人の気をわるくさせる性分なり。)

慢  ・慢とはいわく、他に対して、心自ら挙ぐる性なり。」(慢謂対於他、心自挙性、)〔*=心自挙恃凌蔑於他説名為慢〕(慢は他に対して高ぶる性分なり。)

疑  ・疑とはいわく、諦の理において、猶予するを性となすなり。」(疑謂於諦理、猶予為性、)〔*=於諦理猶予性名為疑〕(疑は四諦の理を猶予して決せさる性分なり。)

 つぎに大乗の心所法を、『唯識論』および良遍師の『唯識大意』によりて解釈すること左のごとし。

    第一 遍行の五種

作意 ・警覚してまさに心の種を起こすべきを性となし、心を引きて自らの境におもむかしむるを業となす。」(警覚応起心種為性、引心令趣自境為業、)〔*=能警心為性。於所縁境引心為業。謂此警覚応起心種引令趣境故名作意〕(作意の心所と申は、心を警(さま)し起らしむる心にて、心を引て自境に趣かしむるなり。)〔以下の注は大蔵経の『二巻抄』(小山憲栄師唯識大意発揮本)と校合し、大きく相違する点のみ記す。 *1=驚 *2=以下なし〕

触  ・触とは、心心所をして境に触れしむるを性となし、想、愛、思等の所依たるを業となす。」(触者令心心所触境為性、想愛思等所依為業、)〔*1=・触者」なし *2=受想思等〕(触の心所とは、心を心(所、縁)か知るべきことに能く触れしむるなり。)〔*=(所、縁)なし〕

受  ・受とは、順違と倶非との境相を領納するを性となし、欲を起こすを業となす。よく合、離、非二の欲を起こすが故に。また、心をして等しく歓感、捨の相を起こさしむるをいう。」(受者領納順違倶非境相為性、起欲為業、能起合離非二欲故、亦云令心等起歓感捨相)〔*1=謂 *2=愛 *3=以下の一〇文字なし〕(受の心所とは、楽をも、苦をも、心の中の愁喜をも、又捨とていづれ(苦、楽)にも非ざることをも、心に受取る心なり。)〔*=(苦、楽)なし〕

想  ・想とは、すなわち境において相を取るを性となし、種々の名言を施設するを業となす。いわく、自らの境の分斉を安立する故に、まさによくしたがいて種々の名言を起こす。」(想則於境取相為性、施設種々名言為業、謂安立自境分斉故、方能随起種々名言、)〔*1=謂 *2=像 *3=要境分斉相 *4=・故」なし〕(想の心所とは、殊に物の形を知り弁へて、其品々の名を説く心なり。)〔*=品〕

思  ・思とは、すなわち境において相を取るを性となし、善品等において心を役するを業となす。よく境の正因等の相を取るがために、自らの心を駆役して、よく善等を造るなり。」(思則於境取相為性、於善品等役心為業、為能取境正因等相、駆役自心能造善等、)〔*1=・則於境取相為性」は「謂令心造作」 *2=・為」なし *3=・謂」あり *4=令造善等〕(思の心所とは、心を善にも悪にも無記にも、作りなす心なり。)

    第二 別境の五種

欲  ・欲というは、所楽の境において希望するを性となし、勤依するを業となす。」(言欲者、於所楽境希望為性、勤依為業、)〔*=・言欲者」なし〕(欲の心所とは、善をも悪をも無記をも、希望する心なり。)〔*=無記の事〕

勝解 ・勝解とは、決定せる境において、印持するを性となし、引転すべからざるを業となす。」(勝解者、於決定境印持為性、不可引転為業、)〔*=・勝解」なし〕(勝解の心所とは、何事をもひしと思ひ定る心なり。)

念  ・念とは、かつて習せる境において、心をして明らかに記せしめ、忘れざるを性となし、定が依たるを業となす。いわく、しばしばかつて受けるところの憶を憶持して、しかも忘失せず、よく定を引くが故なり。」(念者於曾習境令心明記不忘為性、定依為業謂数憶持曾所受憶、而不忘失能引定故)〔*1=・念者」なし *2=境 *3=・而」なし〕(念の心所とは経て過ぎしことを心の内に明に記して忘れぬ心なり。)〔*1=心所と云は *2=過ぎにし *3=忘ざる〕

三摩地・三摩地とは、ここに等持といい、所観の境において心をして専注ならしめて散らざることを性となし、智が依たるを業となす。いわく、得、失、倶非の境の中に定によりて心をして専注ならしめて散らず、この便によりて決定の智を生ずることあり。」(三摩地者、此云等持、於所観境令心専注不散為性、智依為業、謂 得失倶非境中由定令心専注不散、依斯便有決定智生、)〔*1=・三摩地者此等持」なし *2=・観」あり *3=決択〕(三摩地の心所とは、心を何事にても知らんと思ふ事に止めて散乱せしめさる心なり、是をは亦は定の心所と名く。)〔*1=心所と云は *2=とゞめて *3=心所とも〕

慧  ・慧というは、所観の境において揀択するを性となし、疑いを断つを業となす。いわく、得、失、倶非の境を観ずる中に、慧によりて推求して決定を得るが故なり。」(言慧者、於所観境揀択為性、断疑為業、謂観得失倶非境中、由慧推求得決定故、)〔*1=・言慧者」なし *2=簡択〕(慧の心所とは、万の知らんと思ふ事は、心を静めて得失を能く簡ひ弁へて、疑を除く心にて、「これすなわち智なり。」(是即智也)、無漏智は禅定より生すと「いうは、これなり。」(云是也)。)〔*=心也〕

      此十種(遍行五種、別境五種)は皆善なる時もあり、不善なる時もあり、無記なる時もあり、性は不定なれとも、徧行は一切の心にあり、別境は三界の衆生に定て有り、故に不定の心所と名けず、〔*1=( )内はなし *2=・定て」あり〕

    第三 善の一一種

信  ・信というは、実と徳と能において、深く忍じ楽じ欲して心を浄ならしむるを性となし、不信を対治して善をねがうを業となす。」(言信者、於実徳能深忍楽欲心浄為性、対治不信楽善為業)〔*=・言信者」なし〕(信の心所と云は、世の常に信を起すと「いう、これなり。」(云是也)、誠の法を見聞して貴く目出度き事と深く忍ひ願ひを澄み浄き心なり。)

精進 ・精進というは、善悪の品における修断の事の中にて勇悍を性となし、懈怠を対冶し、善を満ずるを業となす。」(言精進者、於善悪品修断事中勇悍為性、対治 満善為業)〔*1=・言精進者」なし *2=・懈怠」あり〕(精進の心所と云は、善を修するに勇み進みて精しき心なり。)〔*=・進みて」なし〕

慚  ・慚というは、自と法の力によりて賢と善を崇重するを性となし、無慚を対治して悪行を止息するを業となす。自と法の力とは、自とはいわく、自身なり、法はいわく、教法なり。いわば、我がかくのごときの身とかくのごときの法を解し、あえてもろもろの悪を作さんや。」(言慚者、依自法力崇重賢善為性、対治無慚止息悪行為業、自法力者、自謂自身、法謂教法、言我如是身解如是法敢作諸悪耶、)〔*1=・言慚者」なし *2=以下の二六文字なし〕(慙の心所と云は、自にも恥ぢ、自ら法に恥て、諸の罪を作らざる心なり。)〔*1=慚 *2=法にも恥じて〕

愧  ・愧というは、世間の力によりて暴悪を軽拒するを性となし、無愧を対治して悪行を止息するを業となす。世人、譏呵するを世間力と名づけ、悪ある者を軽すれども親しまず、悪法の業を拒みて作さざるなり。」(言愧者、依世間力軽拒暴悪為性、対治無愧止息悪行為業、世人譏呵名世間力軽有悪者而不親、拒悪法業而不作也、)〔*1=・言愧者」なし *2=以下の二三文字なし〕(愧の心所と云は世間に恥ぢ諸の悪を造らす、他の思はくを恥るなり。)〔*=つみ〕

無貪 ・無貪というは、有と有具において著なきを性となし、貪著を対治して善を作すを業となす。有と有具というは、上の一つの有字は、すなわち有の果なり。有具とは、すなわち三有の因なり。」(言無貪者、於有々具無著為性、対治貪著作善為業、言有々具者、上一有字即有之果、有具即三有之因、)〔*1=・言無貪」なし *2=有 *3=以下の二一文字なし〕(無貪の心所と云は、万の事を貪ることのなき心なり。)

無瞋 ・無瞋というは、苦と苦具において恚なきを性となし、瞋恚を対治して善を作すを業となす。苦と苦具というは、苦とはいわく、三苦なり。苦具とは苦の因なり。」(言無瞋者、於苦々具無恙為性、対治瞋恚作善為業、言苦々具者、苦謂三苦、苦具者苦因、)〔*1=・言瞋者」なし *2=苦 *3=恚〕(無瞋の心所と云は、心にかなはぬこと我に背く人ありとも少しも怒ることなき慈心なり。)〔*=・少しも」なし〕

無痴 ・無痴は、もろもろの事と理において明解するを性となし、愚痴を対治し善を作すを業となす。」(無痴者、於諸事理明解為性、対治愚痴作善為業、)〔*1=・無痴者」なし *2=理事〕(無痴の心所と云は、万の事に明にして、物の理に愚なる事なき心なり。)〔*=・所」なし〕

軽安 ・軽安というは、麁重を遠離して身心を調暢し、堪任するを性となし、昏沈を対治して、転依を業となす。重きを離れるを軽と名づけ、身心を調暢するを安と名づく。」(言軽安者、遠離麁重調暢身心堪任為性、対治昏沈転依為業、離重名軽、調暢身心名安、)〔*1=・言軽安者」なし *2=以下の一〇文字なし〕(軽安の心所と云は、身も心も時安く覚えて心うれしきなり、此心所は常のには起らず、定に入りたる時に起るなり。)〔*1=・時」なし *2=常の時は〕

不放逸・不放逸というは、精進と三根の所断と修において防し修するを性となし、放逸を対治して一切の世、出世の善事を成備するを業となす。」(言不放逸者、精進三根於所断修防修為性、対治放逸成備一切世出世 善事為業、)〔*1=・言」なし *2=成満 *3=・間」あり〕(不放逸の心所と云は、罪を防ぎ善を修する心也、世の常に恣に罪を作るをは放逸の人と申候、是はかれと相違して殊に罪をは造らじと思ふ心なり。)〔*=そ〕

行捨 ・行捨というは、精進三昧にして、心をして平等ならしめ、正直にして無功用に住するを性となし、掉挙を対治して静かに住するを業となす。」(言行捨者、精進三昧令心平等正直無功用住為性、対治掉挙静住為業、)〔*=・言行捨」なし〕(行捨の心所と云は、心を平等正直ならしむる心なり。)

不害 ・不害というは、もろもろの有情において損悩をなさず、瞋なきを性となし、よく害を対治して、悲愍なるを業となす。」(言不害者、於諸有情不為損悩無瞋為性、能対治害悲愍為業、)〔*=・言不害者」なし〕(不害の心所と申は、物を愍みて損し悩さぬ心なり、慈悲とは無瞋と不害とを申なり、無瞋は慈なり、不害は悲なり。)

      善の十一とは是也、誰もみな此善心の起る時は此十種必す皆起るなり、禅定を得たる人は軽安も起るなり、是の故に十一皆起るなり、譬へは心王の忠臣孝子の如し、〔*1=・種」なし *2=・禅」のみ〕

    第四 煩悩の六種

貪  ・貪というは、有と有具において染著するを性となし、よく無貪をへだてて苦を生ずるを業となす。苦を生ずとは、いわゆる愛の力によりて蘊を取りて生ずるが故なり。」(言貪者、於有々具染著為性、能障無貪生苦為業、生苦者、謂由愛力取蘊生故、)〔*1=・言貪者」なし *2=有 *3=・生苦者」なし〕(貪と云は、万の物を貪ぼり、有るが上にもほしく拙き心なり、貪の有力は威を以て取り、無力は他に従て求む。)

瞋  ・瞋とは、苦と苦具において憎恚するを性となし、よく無瞋を障(さ)えて不安と悪行の所依なるを業となす。不安とは、心に憎恚を懐きて多く苦に住するが故に、ゆえに不安なり。」(瞋者、於苦々具憎恚為性、能障無瞋不安悪行所依為業、不安者心懐憎恚多住苦故、所以不安、)〔*1=・言瞋者」なし *2=苦〕(瞋は我に背くことあれは善事にても必す怒る心なり。)〔*=瞋る〕

慢  ・慢とは、己をたのみ、他に高挙するを性となし、よく不慢を障えて苦を生ずるを業となす。生苦とはいわく、もし慢あれば、徳、有徳において心は謙下ならず。これによりて死生輪転して窮まりなく、もろもろの苦を受くるが故なり。」(慢者恃己於他高挙為性、能障不慢生苦為業、生苦者謂若有慢於徳有徳心不謙下、由此死生輪転無窮受諸苦故、)〔*1=・慢者」なし *2=・生苦者」なし *3=生死〕(慢と云は我身を恃んて人を慢り少も謙下なき心なり。)〔*=・恃んて」は「憑て」〕

無明 ・無明とは、もろもろの事と理において迷暗なるを性となし、よく無痴を障えて、一切の雑染の所依なるを業となす。雑染の所依とは、無明により痴、邪見、貪の煩悩を起こすなり。煩悩にしたがいて業はよく後生を招く。雑染の法なるが故なり。」(無明者於諸事理迷暗為性、能障無痴一切雑染所依為業、雑染所依者、由無明起痴邪見貪等煩悩随煩悩業能招後生雑染法故、)〔*1=・無明者」なし *2=理事 *3=・雑染所依者」なし *4=・謂」あり〕(無明をは又は痴と名く、万の事物の理に闇き心なり。)

疑  ・疑とは、もろもろの諦と理において猶予するを性となし、よく不疑の善品を障えるを業となす。善品を障えるとは、猶予をもっての故に善は生ぜざるなり。」(疑者於諸諦理猶予為性、能障不疑善品為業、障善品者以猶予故善不生也、)〔*1=・疑者」なし *2=以下は「謂猶予者善不生故」〕(疑と云は何事にても其理を思ひ定むること能はずして兎角に物を疑ふの心なり。)〔*=・兎角に物を」なし〕

不正見・悪見とは、もろもろの諦と理において、顛倒して推度する染の慧を性となし、よく善見を障えて苦を招くを業となす。けだし悪見の者は多く苦を受くるが故に。この見に五つあり。いわく、身、辺、邪、見取、戒禁取なり。」(悪見者、於諸諦理顛倒推度染慧為性、能障善見招苦為業、蓋悪見者多受苦故、此見有五謂身、辺邪、見取、戒禁取也、)〔*1=・悪見者」なし *2=以下は『成唯識論』の五見の説明を省略して、述語のみを挙げている〕(不正見 僻(ひが)事つよく思ひ定て実の道理を知らさる心なり、論には悪見とあり。)〔*=・は」あり〕

      煩悩の六と申は是なり。

    第五 随煩悩の二〇種

忿  ・忿というは、現前に対して、境を饒益をせざるにより憤発するを性となし、よく不忿を障えて仗を執るを業となす。仗を執るとは、仗はいわく、器仗なり。忿恨を懐く者は、多く暴悪身なる表業を発するが故に、瞋の一分の摂なり。」(言忿者、依対現前不饒益境憤発為性、能障不忿執仗為業、執仗者、仗謂器仗、懐忿恨者多発暴悪身表業故瞋一分摂、)〔*1=・言忿者」なし *2=・執仗者仗謂器仗」 *3=謂懐忿者 *4=此即瞋恚一分為体〕(忿と云は、腹を立て仗を取て人を打んと思程に怒る心なり。)〔*=嗔る〕

恨  ・恨は、忿を先となすによりて悪を懐きて捨せず、うらみを結ぶを性となし、よく不恨を障える熱悩を業となす。熱悩とは、恨みを結ぶ者は含忍することあたわず、つねに熱悩するが故なり。」(恨者由忿為先懐悪不捨、結冤為性、能障不恨熱悩為業、熱悩者結恨者不能含忍恒熱悩故、)〔*1=・恨者」なし *2=怨 *3=・熱悩者」なし〕(恨と云は人を恨むる心なり、恨みを結ぶ人は残念口惜しとて押さへ忍ふこと能はずして心の内常に悩むなり。)〔*=推へ〕

悩  ・悩は、忿と恨を先となし、暴悪を追触し、恨戻を性となし、よく不悩を障える蛆螫を業となす。いわく、往の悪を追い、現の違縁に触れて必ず恨戻にしたがいて、多く囂、暴、兇、鄙、麁の言を発し、他を蛆螫するが故に、これまた瞋の分なり。」(悩者忿恨為先追触暴悪恨戻為性、能障不悩蛆螫為業、謂追往悪触現違縁必便恨戻多発囂暴兇鄙麁言蛆螫他故、此亦瞋分也、)〔*1=・脳者」なし *2=暴熱 *3=心 *4=此亦瞋恚一分為体〕(悩と云は、腹を立て人を恨むに依て僻み戻り、心の中常に安からず、物を言ふに其言囂くして険しく鄙しく、暴らく腹ぐろく毒々しき心なり。)

覆  ・覆とは自作の罪において利誉を失うことを恐れて隠蔵することを性となし、よく不覆を障える悔悩を業となす。罪を覆すれば、すなわち後に必ず悔悩す。安穏にあらざるが故に、貪痴の二の分なり。」(覆者於自作罪恐失利誉隠蔵為性、能障不覆悔悩為業、覆罪則後必悔悩、不安穏故貪痴二分、)〔*1=・覆者」なし *2=謂覆罪者 *3=・貪痴二分」なし〕(覆と云は、名利を失はんことを恐れて罪を作るを覆ひ蔵くす心なり、罪を隠す人は必す後に悔み悲むことあり。)

誑  ・誑というは、利誉を獲んがためにいつわりて有徳を現す詭詐を性となし、よく不誑を障える邪命を業となす。矯りて現す等と言うは、いわく、矯誑の者は心に異謀を懐きて多く不実なり、邪命の事なるが故に。これ貪痴の分なり。」(言誑者為獲利誉矯現有徳詭詐為性、能障不誑邪命為業、言矯現等者謂矯誑者心懐異謀多不 実邪命事故、此貪痴分也、)〔*1=・言誑者」なし *2=・言矯現等者」なし *3=・現」あり *4=此即貪痴一分為体〕(誑と云は、名利を得んか為に心に異なる謀を回らして矯(かたま)しく徳ありと現はす偽り心なり、世の中に誑惑者と云は此心の増せる人なり。)〔*=顕〕

諂  ・諂とはいわく、他を罔する故に、矯りて異儀を設ける諂曲を性となし、よく不誑を障える教誨を業となす。諂曲の者は他を罔冒するが故に、曲げて時のよろしきにしたがい、矯りて方便を設けて、もって他の意を取る。あるいは己の失を蔵して師友の正しき教悔に任せざる故に、貪痴の分なり。」(諂者謂罔他故矯設異儀諂曲為性能障不誑教誨為業、諂曲者為罔冐他故、曲順時宜矯設方便以取他意或蔵己失不任師友正教誨故亦貪痴分也、)〔*1=・諂者」なし *2=為 *3=険曲 *4=不諂 *5=・謂」あり *6=・故」なし *7=為 *8=此即貪痴一分為体〕(諂と云は、人を瞞まし迷され為に時に随ひ事に触れて奸しく方便を回らし人の心を取り、或は我過を蔵す心なり、世の中に諂曲の者と云は此心増せる人なり。)〔*=迷さんが〕

憍  ・憍とは自らの盛んなることに深く染著を生じて酔傲なるを性となし、よく不憍を障える染が依たるを業となす。これ貪の分なり。不憍は、すなわち無貪なり。」(憍者於自盛事深生染著酔傲為性、能障不憍染依為業、此貪分也、不憍者即無貪也、)〔*1=・憍者」なし *2=此亦貪愛一分為体〕(憍と云は、我身をいみじく盛なる者に思ふて栄へおごり高ぶる心なり。)〔*=・高ぶる」なし〕

害  ・害とは、もろもろの有情において心に慈悲なく、損悩するを性となし、よく不害を障える逼悩を業となす。逼悩の義というは、害ある者は他を逼悩する故に、瞋の一分の摂なり。」(害者於諸有情心無慈悲損悩為性、能障不害逼悩為業、言逼悩之義 有害者逼悩他故瞋一分摂、)〔*1=・害者」なし *2=悲愍 *3=・言逼悩之義」なし *4=・謂」あり *5=此亦瞋恚一分為体〕(害と云は人を哀れむ心なり、情なき心なり、世の中に慈悲性もなき者と云は此心の増せる人なり。)〔*=・心なり」は「心なくて」〕

嫉  ・嫉というは、自らの名利に殉じて他の栄うるに耐えず、妬忌するを性となし、よく不嫉を障える憂戚を業となす。憂戚の義というは、嫉の者は他の栄うるを聞見して深く憂戚を懐きて安穏ならざるが故に、また瞋の分を体となす。」(言嫉者殉自名利不耐他栄妬忌為性、能障不嫉憂戚為業、言憂戚義者、嫉者聞見他栄深懐憂戚不安穏故、亦瞋分為体、)〔*1=・言嫉者」なし *2=・言憂戚義」なし *3=謂嫉妬者 *4=此亦瞋恚一分為体〕(嫉と云は我身の名利を求むるが故に人の栄へたるを見聞して深くねたましき事に思ふて喜ざる心なり。)

慳  ・慳というは、法と財に耽著して慧捨するあたわず。我恡を性となし、よく不慳を障うる鄙畜を業となす。また、貪の分なり。」(言慳者、耽著法財不能慧捨我恡為性、能障不慳鄙畜為業、亦貪分也、)〔*1=・言慳者」なし *2=財法 *3=悋の俗字 *4=此即貪愛一分為体〕(慳と云は、財宝に耽著して人に施す心なく弥々貯へんとのみ思ふ心なり。)〔*=弥た〕

無慚 ・無慚とは、自と法を顧みず、賢と善を軽拒するを性となし、よく慚を障えて悪行を生長するを業となす。」(無慚者、不顧自法軽拒賢善為性、能障於慚生長悪行為業、)〔*1=・無慚者」なし *2=礙〕(無慚と云は、身にも法にも恥ぢずして善根を軽しめ諸の罪を作る心なり・)〔*=軽くして〕

無愧 ・無愧とは、世間を顧みず、暴悪を崇重するを性となし、よく愧を障礙して悪行を生長するを業となす。いわく、世間に顧みられるところなき者は、暴悪を崇重して過非を恥じず。よく愧を障えて悪行を生長するが故なり。」(無愧者、不顧世間崇重暴悪為性、能障礙愧生長悪行為業、謂於世間無所顧者崇重暴悪不恥過非能障於愧生長悪行故、)〔*1=・無愧者」なし *2=・能」なし *3=諸悪行〕(無愧と云は、世間の見聞にも恥ちすして諸の罪を崇むる心なり無恥の人と申は此無慚無愧の増せる人なり。)

不信 ・不信というは、実と徳においてよく楽欲を忍びず、心の穢を性となし、よく浄心を障えて堕依するを業となす。堕依というは、不信の者は多く懈怠するが故なり。」(言不信者、於実徳能不忍楽欲心穢為性、能障浄心堕依為業、言堕依者、不信之者多懈怠故、)〔*1=・言不信者」なし *2=浄信 *3=・言堕依者」なし *4=謂不信者〕(不信と云は貴き目出度きことを見聞しても忍ひ願ふ心なくして穢れる心なり、かゝる人は多く懈怠なり。)〔*1=すとも *2=事 *3=穢濁なる〕

懈怠 ・懈怠というは、善悪の品において修断事の中に懶堕なるを性となし、よく精進を障える増染を業となす。懈怠をもちいる者は、染を滋長する故なり。」(言懈怠者、於善悪品修断事中懶堕為性、能障精進増染為業、以懈怠者滋長染故、)〔*1=・言懈怠者」なし *2=謂〕(懈怠は諸の善事の中に懈り懶き心也、かゝる人は又多く不信なり。)

放逸 ・放逸というは、染浄の品において防修することあたわず、縦蕩を性となす。不放逸を障えて悪を増し、善を損ずる所依を業となす。」(言放逸者、於染浄品不能防修縦蕩為性、障不放逸増悪損善所依為業、)〔*=・言放逸者」なし〕(放逸と云は罪を防ぎ善を修する心なくして、恣に罪を造る心なり。)

惛沈 ・惛沈というは、心をして境に堪任することなからしむるを性となし、よく軽安と毘鉢舎那とを障えるを業となす。」(言惛沈者、令心於境無堪任為性、能障軽安毘鉢舎那為業、)〔*=・言惛沈者」なし〕(惛沈と云は重く沈み溺れたる心なり矒重として目のくらむ様になるなり。)

掉挙 ・掉挙というは、心をして境に寂静ならざらしむるを性となし、よく行捨と奢麼他とを障えるを業となす。」(言掉挙者、令心於境不寂静為性、能障行捨奢麼他為業、)〔*1=・言掉挙者」なし *2=摩〕(掉挙と云は動き騒しき心にて物にのり易くをだてる心なり。)

失念 ・失念とは、もろもろの所縁において明記することあたわざるを性となし、よく正念を障える散乱の所依を業となす。有るがいわく、念の一分なり、あるいはいわく、痴の一分なり。」(失念者、於諸所縁不能明記為性、能障正念散乱所依為業、有云念一分、或云痴一分、)〔*1=・失念者」なし *2=以下は後説を要約したもの〕(失念と云は取りはずし物を忘るゝ心也、斯る人は多く散乱なり。)

不正知・不正知は、所観の境において謬解するを性となし、よく正知を障えて毀犯するを業となす。有るがいわく、慧の一分の摂なり。有るがいわく、痴の一分の摂なり。」(不正知者、於所観境謬解為性、能障正知毀犯為業、有云慧一分摂、有云痴一分摂、)〔*1=・不正知」なし *2=以下は後説を要約したもの〕(不正知とは知るべきことを謬て解し、斯る人は事を毀り犯す心なり。)〔*=と云は〕

散乱 ・散乱は、心をして流蕩ならしむるを性となし、よく正定を障える悪恵の所依を業となす。」(散乱者、令心流蕩為性、能障正定悪恵所依為業、)〔*1=・散乱者」なし *2=・於諸所縁」あり *3=慧〕(心乱と云は心を散し乱す心なり、是故に散乱と名く。)

      随煩悩二十と云は是也、此中に無明と惛沈と相似て弁へ難し、無明は闇く迷へり、重く沈み溺れたるに非す、惛沈は唯闇く迷へるに非すして重く沈み溺れたるなり、掉挙と散乱と又弁へ難し、掉挙は譬へは一の事に向て其心騒しきなり、且つ心をして解を昜へしむるなり、散乱は数多の事に於て兎角移て乱るゝなり、且つ縁を昜しむるなり。〔*1=只 *2=乱れたる〕

    第六 不定の四種

睡眠 ・睡眠は、身をして自在ならざらしむ昧略を性となし、観を障えるを業となす。無心の位にありて仮にこの名を立つ。」(睡眠者、令身不自在昧略為性、障観為業、有 無心位仮立此名、)〔*1=・睡眠者」なし *2=・中略」あり〕(睡眠の心所と云は、心を暗く狭からしめて身を自在ならさらしむるなり、人の眠むるは此の心所の起れる時なり。)

悪作 ・悪作というは、所作の業をにくんで追悔するを性となし、止を障えるを業となす。これすなわち、果において仮に因の名を立つ。先に所作の業をにくみ、後にまさに追悔すべし。故に悔を先に作さざれども、また悪作の摂なり。追悔の言のごとく、これわれ作せるをにくむなり。」(言悪作者、悪所作業追悔為性、障止為業、此即於果仮立因名、先悪所作業、後方追悔、故悔先不作亦悪作摂、如追悔言 是我悪作、)〔*1=・言悪作者」なし *2=・我先不作如是事業」あり〕(悪作は万の我作す所を悪しきことしたりとて後に悔む心なり、かゝる故に 悔の心所と名く。)〔*=・又」あり〕

尋、伺・尋伺というは、尋はいわく、尋求なり。心をして忽遽ならしめ、意言の境において麁転するを性となす。伺はいわく、伺察なり。心をして忽遽ならしめ、意言の境において細転するを性となす。二つの法の業用は、ともに安、不安をもって身心に住する分位の所依とするを業となす。意言の境というは、意所の境を取るは多く名言によるを意言の境と名づく。」(言尋伺者、尋謂尋求、令心忽遽於意言境麁転為性、伺謂伺察、令心忽遽於意言境細転為性、二法業用倶以安不安住身心分位所依為業、謂意言境者、意所取境多依名言名意言境、)〔*1=・言尋伺者」なし *2=・二法業用倶」は「此二倶」 *3=以下の一七文字なし〕(尋、伺と云は物を云はんとて万の事を推し量る心なり、是に取て浅く分別する時には尋と名け、深く分別する時をは伺と名くるなり。)〔*=時をは〕

 以上、小乗の心王、心所の義解、および大乗の心王、心所の義解を掲げり。その他、不相応法あれども非色非心に属するものなれば、ここに表示せず。

 

     第二講 分類論

 すでに仏教心理の分類および義解を略述しおわりたれば、別に分類論を講ずるを要せざるがごとしといえども、前講の分類は従来用いきたれる分類にして、余が考定せる分類にあらず、宗教的分類にして、学科的分類にあらず。しかして余が講述の本意は、仏教を一科の心理学として、その中に学科の組織を開かんと欲するにあれば、別に分類法を考定せざるべからず。西洋の心理学はさきに緒言において一言せるがごとく、心象すなわち心性の現象のみを研究するも、仏教心理は心象の外に心体すなわち心性の本体を研究するものなれば、まず心体、心象の二類に分かたざるべからず。しかしてその心体を論ずるに、相対の見をもってすると絶対の見をもってするとの両様あれば、心体論を分かちて相対的と絶対的の二種となさざるべからず。相対的心体論は阿頼耶の心体の上に万法の開発縁起するゆえんを説くものにして、これを頼耶縁起説と名付く。すなわち法相宗の立つるところなり。絶対的心体論は、真如の理体の上に万法の生起存立するゆえんを説くものにして、これを真如縁起説と名付く。すなわち華厳、天台等の唱うるところなり。しかしてこの二者みな唯心一元論なり。つぎに心象論においては前講に表示せるがごとく、小乗大乗おのおの異なりといえども、ともに心王、心所の二種を設くるに至りては一なり。西洋心理学においては、あるいは智力、意力の二種に分かち、あるいは智、情、意の三種に分かち、あるいは感、智、情、意の四種に分かつなどの異同あるも、通常用うるところは智、情、意三種の分類法なり。しかるに仏教哲学はすべて歩を客観の境遇に起こし、心象の駅路を通過してまさしく心体の都門に入り、九重雲深き所に真如理想の霊光を仰がんとするにあれば、仏教心理を講ずるにも客観の方面より論を起こさざるべからず。もし心象の諸法を東海道五十三駅に比すれば、客観論は江戸日本橋にして、心体論はまさしく京都なり。しかるに客観論は外道諸派の一般に取るところなることは緒論においてすでに述べしも、仏教中また客観に属する部分あり。故に仏教心理の分類は緒論中にその一端を表示せるも、更に左のごとく考定せんと欲す。

 この表に従いて叙述するは、小乗より大乗に進み浅より深に入るの次第を明らかにするを得といえども、もしこれを学科として講述するにはなお適せざるところあり。なんとなれば、仏教の心所法のごときは全く宗教的分

  仏教心理分類 客観論

         主観論 心象論 心所論 小乗

                     大乗

                 心王論 小乗六識論

                     大乗八識論

             心体論 相対的(頼耶縁起説)

                 絶対的(真如縁起説)

類にして、学科的分類にあらざればなり。故に余は、更に西洋心理の分類法に従いて智、情、意の順序を用いんとす。すなわち左の題目を立てて逐次論及せんと欲す。

  一、外界論

  二、覚官論

  三、意識論

  四、感覚論

  五、想像論

  六、思想論

  七、情緒論

  八、意志論

  九、心体論

 その第一、第二は客観論にして、余が仏教理科の講義においてもっぱら述ぶるところなれば、ここにただその主観上の見解のみを講述せんと欲す。第三の意識論は主観論の総論というべきものにして、第四以下は各論なり。そのうち第四、第五、第六は智力論なりと知るべし。




 

     第三講 外界論

 今、外界に現出する森羅の諸象は、仏教上これを色法と名付く。色とは質礙を義とし、わが感覚に障礙するところあるものをいう。小乗にありてはこの物質を分析して解説するに、客観主観の両様あり。客観上にありては、物質は極微と名付くる微細の分子より成るという。これを極微所成説と名付く。もし更にその極微はなにより成るかを問わば、その体最小不可析なれば、物質の解釈はこの点にとどめざるべからざるも、仏教にては更にその体を解説して四大所造となす。四大所造とは地、水、火、風の四元にして、一切の極微分子みなこの四大元より成るという。しかしてこの四元は堅、湿、煖、動の四性を義とし、地大は堅性、水大は湿性、火大は煖性、風大は動性を義とするものなれば、各極微を四大所造となすは、その各体に堅、湿、煖、動の四性を具するをいう。これ客観的説明のその極点に達したるものなり。もしこれより一歩を進むれば、主観的説明に入らざるべからず。主観的説明とは、外界の万物を論究するに感覚上の分類に従い、耳目の感覚に応じて物質を分解するをいう。すなわち色、声、香、味、触の五境となすものこれなり。その図右のごとし。

 これ物質の主観的見解なればここにいささか弁明せざるべからず。まずこれを左の五段に分かちて講述すべし。

  第一段 色境論

  第二段 声境論

  第三段 香境論

  第四段 味境論

  第五段 触境論

 しかるにこの順序に従いて講述する前に、小乗七十五法、および大乗百法における色法の分類表につきて一言せざるべからず。色法の分類は小乗と大乗とその見るところ少異あり。まずその表を示すべし。

  小乗色法一一種 五根(眼耳鼻舌身)

          五境(色声香味触)

          無表色

  大乗色法一一種 五根(眼耳鼻舌身)

          五境(色声香味触)

          法処所摂色

 この表中の五根論は後に覚官論を講ずるときに述ぶるをもってこれを略し、五境論は本講の題目なれば、これより逐次論及すべし。しかして無表色と法処所摂色とは西洋心理学等のいまだ説かざるところなれば、ここに一言を付せんと欲す。まず仏書中に見るところの無表色の釈義は左のごとし。

無表というは、無表は色業をもって性となすは有表業のごとしといえども、内心の善悪を表示して他をして了知せしむるにはあらず。故に無表と名づく。(『法宗源』)

無表色は大種の所造の性なりといえども、その体は極微にあらず。他をして心を表知せしむるにはあらず。故に無表色と名づく。(『七十五法名目』)

言無表者、無表雖以色業為性如有表業而非表示内心善悪令他了知、故名無表、(『法宗源』)

無表色雖大種所造性、其体非極微、非令他表知心、故名無表色、(『七十五法名目』)

  無表とは何とも其様子の見せられぬもの故に、表示ができぬと云ふことにて無表色と云ふ、其体は強き善悪の身語業の四大種の気分かうつりて身語の作業を離れて善悪の身語の業を作せし通りの功能か始終其身につきて離れぬものが無表なり。(『倶舎七十五法大意』)

 以上の解釈によるに、無表色はその体極微にあらざれば色法の中へ加え難しといえども、なお四大所造となすをもってこれを色法の一種となす。またその相を外に表示して他をして了知せしむるにあらざれば、これを無表色と名付く。すなわち人が善悪二業をその身語の上に行えば、その勢力がその身に熏じて相続するを無表色と名付くるなり。しかしてその勢力は別に物体あるにあらざるも、地、水、火、風の四大の作用より生ずとなす。故にこれを色法の一種となすも、余はこれを非物非心に加うるをよしとなす。しかるに仏教中にもこれに異説ありて、小乗有部はこれを四大所造の実色となし、大乗唯識はこれを仮色となし、『成実論』はこれを非色非心となし、『大乗義章』には無表に身、語、意の三種を分かちて、身語無表は色にして心にあらず、意無表は心にして色にあらずとなし、『華厳孔目章』には身口の無表は不可見無対色にして、意地無表は非色非心なりとすという。もしその種類を挙ぐれば身無表あり、語無表あり、あるいは善無表あり、悪無表あり、あるいは処中無表あり。処中無表とは非善非悪をいう。『大乗唯識論』にてはこれを法処所摂色に入るるなり。畢竟するに仏教に無表色を説くは、その宗教たるゆえんにして、これ戒法戒律を立つるに必要なるによる。故にここに心理学を講ずるにはこれを除きて可なり。

 つぎに法処所摂色とは、その義解左のごとし。

法処に摂せられる色というは、いわく、過去無体の法にして、縁ずべきの義なり。(『百法論解』)

法処に摂せられる色とは、これ第六識の所縁の境なり。(『百法問答抄』)

言法処摂色者謂過去無体之法可縁之義(『百法論解』)

法処所摂色是第六識所縁境也(『百法問答抄』)

  法処所摂の色と云は、彼第六識が無辺法界の事を知る中に色法ある也。(『唯識大意』)

 故に法処所摂色は眼、耳、鼻、舌、身の五識にて知るところの色にあらずして、第六意識によりて知るところの色法なり。法処とは蘊処界三科中、十二処中の法境をいう。これ第六識所縁にして、この中に心所、不相応法、無為法、および五種の色法を摂するなり。今そのうちただこの五種の色を挙げて法処所摂色と称す。しかしてその五種の色とは極略色、極逈色、受所引色、遍計所起色、自在所生色(あるいはいう定所生色)これなり。その第一の極略色の解左のごとし。

極略の色とは、すなわち五つの色根、五つの色境、および四大種、法処の実色の極微を性となす。乃至〔中略〕衆色を総略し、析いて極微に至るを極略色と名づく。(『略述法相義』)

極略色者、即五色根、五色境、及四大種法処実色極微為性、乃至総略衆色、析至極微、名極略色、〔*1=五行の引用文の省略あり *2=柝〕(『略述法相義』)

  極略色とは、凡て物を砕て極微塵に至る色なり、日向にほこりを見るよりも猶ほ細小なり。(『唯識大意』)

 要するにこれ極微の色なり。第二の極逈色の解左のごとし。

極逈色は、空界の色の極微をもって体となす。空界の色中に六種の色を摂める。いわく、明、闇、光、影および逈色と空の一顕色となり。空界の色を上下に見て別するをもって、分けて逈色および空の一顕色を成ずる。この六色をわかちて、もって極微に至るを総じて極逈色と名づく。(『法相義』)

極逈色者以空界色極微為体、空界色中摂六種色、謂明闇光影及逈色与空一顕色、以空界色上下見別分成逈色及空一顕色、析此六色以至極微総名極逈色、〔*=柝〕(『法相義』)

  極逈色とは、遠くはるかに向ふあてもなき様に見ゆる色なり、深き淵の底にも知れぬ幽かなる又空一顕色とて大虚空の色などを云う。(『唯識大意』)

 すなわちこれ空界の色なり。換言すれば、光影明晴等の色相を分析して極微となせるを極逈色と名付く。故に『百法問答抄』には「根器等の実の色をわかちて極微となすを極略と名づく。光影等の仮の色をわかちて極微となすを極逈色と名づく。」(拆根器等実色為極微名極略、拆光影等仮色為極微名極逈色也)と釈せり。第三の受所引色の解左のごとし。

受所引の色とはいわく、律、不律儀の殊勝なる思種所立の無表色なり。また受とはすなわち領受、引とはすなわち引取にして、もろもろの戒品を受けるがごとし。戒はこれ法所受の戒、すなわち受所引の色なり。(『百法論解』)

受所引色者、謂律不律儀殊勝思種所立無表色也、又受即領受、引即引取、如受諸戒品、戒是法所受之戒即受所引色也(『百法論解』)

  受所引色とは、今目前の法に依りて律不律にもあれ戒等を受けて心に引く所を云ふ。(『唯識大意』)

 これ無表色にして、さきにすでに説明せるところなり。第四の遍計所起色の解左のごとし。

遍計所執の色とはいわく、第六識が虚妄計度し、変ずるところの根塵にして実なくして作用するが故にこの名を立つ。(『百法論解』)

遍計所執色者、謂第六識虚妄計度所変根塵無実作用故立此名(『百法論解』)

  遍計所執の色、又は遍計所起とも云ふ、第六意識が虚妄分別して水にうつる月、鏡の影を実物と執す、又は猿の水中の月を取らんとするか如し、云云。(『唯識大意』)

 これを『法相義』には影像の色なりと解し、『覚夢抄』には水月鏡像なりと解せり。すなわち第六意識の妄計によりて石をば鬼と認め、縄をば蛇と認むるの類なり。第五の定所生色の解左のごとし。

自在所生の色とは、すぐれた定の力の故に、一切の色においてみな自在を得、すなわち定の変ずるところの色、声、香、味、触の境をもって体となす。(『法相義』)

自在所生色者、勝定力故於一切色皆得自在、即以定所変色声香味触境為体(『法相義』)

  定果色又は定自在所生の色、又定所引とも云ふ、是れは定力の勝れたる人、火光定に入て火光発現し光明を現し又六根浄を得、悉地成就して加被の自在を得、念仏三昧発得しては仏界を見、又八地已上の菩薩は砂石を変化して金玉とし、其余種(たね)なくして米菓を生ずる等自在所生の実色なり。(『唯識大意』)

 これを『覚夢抄』には「定力所変の五塵等なり」(定力所変五塵等也)と解し、定力によりて引き起こすところの色なり。たとえば菩薩の自在力によりて土石を変じて金銀となし、もって衆生を救助するの類をいう。

 以上の五種色はみな第六意識所感の境にして、眼等の外感によりて知るところにあらずとす。しかして前四種はみなこれ仮法にして、第五種の定所引色は仮あり実ありとなす。もしこれを西洋の心理学の上に考うれば、極微に色あり空界に色ありというがごときは、まず極微とは物理的分子の謂〔いい〕か、あるいは化学的元素の謂かを定めざるべからず。また空界とは空間の謂か、あるいは空気の謂かを究めざるべからず。しかる後にその色の有無を論ぜざるべからず。もし一歩を譲り極微および空界に色ありとの説は一理ありと許すも、他の三は全く主観的にして客観的にあらざれば、その色をもって色法の部類となすがごときは、西洋心理学の決して許さざるところなり。余をもってこれをみるに、これ仏教の仏教たるゆえんにして、その西洋心理学と異なるゆえんなれば、あえてとがむるに足らず。仏教は全然主観論なり。その客観上の説明も十中八九は主観的なり。故に客観上の色法中に多く主観上の混ずるに至れり。かつ仏教は大乗の山巓に登りて一瞰すれば、外界の万象万境はみな唯心の所造あるいは唯心の所現なることを知る。故に青黄赤白等の顕色も全く主観上の幻影たるはもちろんにして、長短方円等の形色もまた主観上の妄象に過ぎずとなさざるべからず。果たしてしからば、心内の妄象も心外の幻影も、これを合して同種の色法に属するは仏教たるゆえんと称して可なり。これを要するに、我人は方寸城中に一点の心灯をかかぐると同時に種々の幻影妄象を内外に見る。ああ、この心は天地の一大幻影灯なるかな。始めて知る、我人の一生は幻灯影裏に苦楽の一夢を結ぶものなるを。

       第一段 色境論

 色、声、香、味、触を名付けてあるいは五境といい、あるいは五塵というも、これただ新旧両訳の異称のみ。まずその第一たる色境を述ぶるに、仏教にて用うるところの色に二様の義あり。もしその広義につきて解すれば、今日のいわゆる物質を義とし、五境五根の総称となる。もしその狭義につきて解すれば、今日のいわゆる五色の色にして、眼根所見の境をいう。およそ仏書中に説くところの色に三種の別あり。一は有見有対色にして、眼根所見の色境をいう。二は無見有対色にして、眼等の五根および声、香、味、触の四境をいう。三は無見無対色にして、無表色これなり。しかして対とは対礙を義とし、わが感覚に障礙を与うるものをいう。今ここに述ぶるところはその三種中の有見有対色にして、狭義の色なり。故に『法宗源』には「色はいわく、外処なり。これ眼の見るところにして四大種の造るところ、有色、有見、有対」(色謂外処、是眼所見四大種所造有色有見有対)と解せり。これに二類二〇種あり。その表左のごとし。

  色境二〇種 顕色一二種―青、黄、赤、白、雲、煙、塵、霧、影、光、明、暗

        形色 八種―長、短、方、円、高、下、正、不正

 これに空一顕色を加うれば二一種となる。しかれども多くこれを明闇中に摂するなり。これ小乗七十五法の分類なり。もし大乗百法によらば、色境を分かちて三類三一種となす。その表左のごとし。

  色境三一種 顕色一三種―青、黄、赤、白、影、光、明、闇、煙、塵、雲、霧、空一              顕色

        形色一〇種―長、短、方、円、麁、細、高、下、正、不正

        表色 八種―取、捨、屈、伸、行、住、座、臥

 これを『七十五法名目』によりて解するに曰く、

光明を障えて生ず。中において、余色の見るべきを影と名づけ、日焔を光と名づけ、月、星、火薬等のもろもろの焔を明と名づけ、影に翻ずるを闇となす。

障光明生、於中余色可見名影、日焔名光、月星火薬等諸焔名明、翻影為闇

 また『七十五法記』には左のごとく解せり。

竜気を雲と名づけ、火気を煙と名づけ、風の細土を吹くを塵と名づけ、地より水気ののぼるをこれを説きて霧となす。

形色中の一面の多生を長と名づけ、一面の少生を名づけて短色となす。四面の斉等しきを名づけて方色となす。一切処において周遍して生ずるを名づけて円色となす。中の凸するを高と名づけ、拗凹(ようおう)するを下と名づく。正はいわく、形の平等なるなり、形の平等ならざるを名づけて不正となす。

龍気名雲、火気名煙、風吹細土名塵、地水気騰脱之為霧

形色中一面多生名長、一面少生名為短色、四面斉等名為方色、於一切処周遍而生名為円色、中凸名高、拗凹名下、正者謂形平等、形不平等名為不正

 その他『宝疏』に煙塵を解して「火によりて煙と名づけ、いまだ散らざるを塵と名づく。」(因火名煙、未散名塵)とあり。また『百法論疏』等に種々の解釈あるもみなこれを略す。ただ色境三一種中に空一顕色と名付くるものなり。これ虚空の色をいう。故にその解に「上空にありて現ずるを空一顕色と名づく。」(在上空現名空一顕色、)とあり。あるいは「上に蘇迷盧山の青瑠璃の影を観見し、虚空に解を作すは、すなわち影色について仮に空一顕色を立つなり。」(上観見蘇迷盧山青瑠璃影作虚空解、即就影色仮立空一顕色、)と解し、あるいは「上の見るところの青等の顕色」(上所見青等顕色)と解せり。すなわち上虚空を望めば蒼々たる色あるをいう。しかしてその色は須弥山の色の映射なりとの説あることは、余が仏教理科の講義において見るべし。その他は説明を待たずして知るべし。けだし顕色は単に目の覚感に属するものなれども、形色に至りては多少触覚に関係を有す。およそ外物の運動、距離、大小、長短等は眼球の左右上下に運動し、筋肉の上に感覚を与うるをもって心理学上こ

  視覚 光覚 光

        色

        沢

     筋覚 運動

        形状(方円)

        大小(長短)

        距離

        容量

        位置

れを筋覚に属す。故に形色は視覚筋覚の二者に関係するものと知るべし。西洋の分類法にも視覚を右のごとく分かつことあり。

 これを仏教の分類に照らすに、光覚は顕色に当たり、筋覚は形色に当たるもののごとし。故に色境を分かちて顕色形色の二種となせしは、実におもしろき分類と称して可なり。つぎに表色八種のごときは挙動に関するものなれば、色境の部類に加えざるをよしとす。しかれども余案ずるに、色に体、相、用を分かたば、顕、形、表の三色に分かたざるべからず。すなわち、

  色体 形色・・長短方円等

  色相 顕色・・青黄赤白等

  色用 表色・・屈伸取捨等

 これ余が愚考のみ。もしそれ今日の仏教学者も、従来の分類の上に新趣向を与え造作修繕を施すに至らば、仏教特殊の心理学の一家を構成せんこと、あえて難きにあらざるなり。余は明治の新空気を呼吸せる仏教僧侶が、礼拝読経の余暇をぬすみ、村翁と濁醪〔だくろう〕を傾け俗談を交え、嫁姑の風評、子や孫の自慢話に日を送り、そのはなはだしきは夫婦喧嘩等に加わりて、空しく貴重の光陰を費やさんよりは、むしろ清風窓下、東西両洋の心理書をひもとき、古人とともに一堂に会して、学林の風月をもてあそばんことを望まざるべからず。

       第二段 声境論

 声境には八種の分類あり。まずその表を掲げて、つぎにその解を示すべし。

  声境八種 有執受大種四種 有情名の可意の声

               有情名の不可意の声

               非有情名の可意の声

               非有情名の不可意の声

       無執受大種四種 有情名の可意の声

               有情名の不可意の声

               非有情名の可意の声

               非有情名の不可意の声

  声境八種 有執受大種四種 有情名可意声

               有情名不可意声

               非有情名可意声

               非有情名不可意声

       無執受大種四種 有情名可意声

               有情名不可意声

               非有情名可意声

               非有情名不可意声

 これ『倶舎論』等に出ずるところなり。もし唯識書類によらば、あるいはこれを分かちて三種、一一種、一二種となす。まず三種とは、『百法問答抄』によるに、

 一、内声(有情の語声なり)

 二、外声(外の苑林の風等の声なり)

 三、内外声(拍掌等の声なり)

 一内声(有情之語声也)

 二外声(外苑林風等声也)

 三内外声(拍掌等声也)

 このおのおのに可意声と不可意声と倶相違声との三類ありという。また『雑集論』に一一種の分類あり。その表左のごとし。

 一、因執受の大種の声

 二、因不執受の大種の声

 三、因執受、不執受の大種の声

 四、可意の声

 五、不可意の声

 六、倶相違の声

 七、世の所共成の声

 八、成所引の声

 九、遍計所執の声

一〇、聖無量の所摂の声

一一、非聖無量の所摂の声

 一因執受大種声

 二因不執受大種声

 三因執受不執受大種声

 四可意声

 五不可意声

 六倶相違声

 七世所共成声

 八成所引声

 九遍計所執声

 十聖無量摂声〔*=所摂〕

十一非聖無量所摂声

 しかるに『顕揚論』には、この一一種の上に響音声を立てて一二種となす。まず可意声とは人の意に適しておもしろく感ずる声をいい、不可意声とはまさしくこれに反する声をいう。しかして倶相違とは、この二者に相違する声をいう。有執受とは、受は領納の義にして苦楽等を分別する力を有するものをいう。故にこれ苦楽の感情を有するものに与うる名称にして有情の義なり。これに対して無執受とは非情の諸類をいう。木石のごときこれなり。大種とは、地、水、火、風の四大をいう。その解釈は仏教理科講義四大論を述ぶるときに譲る。今、左に『七十五法大意』に示せる和解を掲ぐべし。

  「有執受の大種を因となす有情名の可意の声」(有執受大種為因有情名可意声)とは、痛い痒きの心心所の覚知を持つを有執受と云ふ、其四大(地水火風)より起れは為因と云ふ声の上に意ゆきの知れるを有情と云ふ、物体を呼ひ顕はすを名と云ふ、面白く聞ゆるを可意と云ふ、人の口より出て訳の分る好声にて歌ふが如し、「有執受の大種を因となす有情名の不可意の声」(有執受大種為因有情名不可意声)とは、面白くなき声にて歌ふが如し、「有執受の大種を因となす非有情名の可意の声」(有執受大種為因非有情名可意声)とは、訳は分らねとも面白く鳴る手の声の如し、手の故に有執受なり、訳が分らぬ故に非有情名なり、面白く聞ゆる故に可意なり、「有執受の大種を因となす非有情名の不可意の声」(有執受大種為因非有情名不可意声)とは面白くなき手の声の如し、「無執受の大種を因となす有情名の可意の声」(無執受大種為因有情名可意声)とは、化人の言語の好声なり、化身なれば心心所の覚知を持ねば無執受なり、言語に訳が分れば有情名なり、好声なる故に可意なり、「無執受の大種を因となす有情名の不可意の声」(無執受大種為因有情名不可意声)とは、聞き悪き化人の言語の如し、「無執受の大種を因となす非有情名の可意の声」(無執受大種為因非有情名可意声)とは、聞き好き風鈴の声の如し、「無執受の大種を因となす非有情名の不可意の声」(無執受大種為因非情名不可意声)とは、聞き悪き風鈴の如し(地水火風の四大撃ち合ふて出つるものを声と云ふ)。

 以上は仏教心理の声境に関する分類なり。もし西洋心理学にて与うる分類を示さば左のごとし。

  聴覚 情覚

     音覚

     智覚

 まず情覚とは、音響の感覚にわが感情の加わりて苦楽を感起するをいう。音覚とは、聴覚の本領にして、音響の高低軽重を感ずるをいう。智覚とは、聴覚に智力の加わるありて発音体の距離もしくは位置を判定し得るをいう。その他、聴覚の性質作用に関して述ぶべきもの多しといえども、ここに論ずるところは仏教心理にして西洋心理にあらず。かつ今はただただ声境、すなわち聴覚に対する客観の境遇のみを講ずるものなれば、すべてこれを略す。要するに、西洋心理と仏教心理と分類の方法大いに異なるは、その見るところの方面同じからざるによる。西洋は唯物論あるいは客観的研究法に基づき、仏教はただ心理論もしくは主観的研究法に基づく。しかして両者おのおの一長一得あり。なお餅屋は餅屋の一長あり、酒屋は酒屋の一得あるがごとし。他日もしよくこの二者の上に適恰の調理あんばいを施すに至らば、必ず八百善もビックリ仰天するがごとき美味佳肴を製出するに至らん。

       第三段 香境論

 つぎに香境の分類を考うるに、小乗七十五法には四種ありとなす。すなわち左表のごとし。

  香境四種 一、好香(「沈檀等のごとし」)

       二、悪香(「葱韮等のごとし」)

       三、等香(「好悪の香中の依身を益するもの」)

       四、不等香(「好悪の香中の依身を損なうもの」)

  香境四種 一好香(如沈檀等)

       二悪香(如葱韮等)

       三等香(好悪香中益依身者)

       四不等香(好悪香中損依身者)

 故に『七十五法大意』にはこれを和解して、意にかなうを好香といい、意にかなわざるを悪香という。身に益のあるを等香といい、身を損ずるを不等香という。等不等は身の四大を調えると調えざるとをいうなりとあり。しかして等香と不等香とは、好香にも悪香にも通じ、すべてわが身体に利あるものを等香と名付け、害あるものを不等香と名付くる以上は、その分類は左表のごとく変ぜざるべからず。

  一 好香 等香

       不等香

  二 悪香 等香

       不等香

 もし大乗によらば、『瑜伽論』に一好香、二悪香、三平等香の三種を立つ。これを『倫記』によりて解するに、諸根大種を長養するを好香となし、損害するを悪香となし、二用なきを平等と名付くとあり。すなわち平等香は好香にもあらず、悪香にもあらざるものをいう。また『百法論解』には香に六種ありとなす。すなわち好香、悪香、平等香、倶生香、和合香、変易香なり。これ好香悪香の二種を細分したるものに過ぎず。この二種の倶生するを倶生香といい、和合するを和合香といい、変易するを変易香というと解するより外なし。かくのごとく小乗と大乗と香境の分類異なるがごときも、その実一なり。小乗の分類に好悪と等不等とを分かちたるも、好香は身体に増益あるを常とし、悪香は損害あるを常とす。たまたまこれに反する場合なきにあらざるも、これ常例とするに足らず。もし西洋にて唱うるところの進化の規律によれば、人の意において好むものはその生存に利ありて、好まざるものは生存に害あるを自然の天則となす。もしまた西洋の分類を考うれば、嗅覚を分かちて肺覚、嗅覚、触覚の三種となす。肺覚とは香臭の種類に応じてあるいは胸を悪くし呼吸を圧するがごとき類をいい、触覚とは鼻孔内の皮膚を刺激して針にてつくがごとき感覚あるの類をいう。しかして触覚と肺覚とは嗅覚に付属せるものに過ぎず。これを要するに、西洋は生理解剖の理に基づきて分類を立つるをもって、仏教の所説と同じからざるなり。

       第四段 味境論

 小乗倶舎の説によれば、味境に六種ありとなす。その表左のごとし。

  味境六 一苦、二酢、三鹹

      四辛、五甘、六淡

 この六種は説明を待たずして知るべし。もし『百法論解』によれば、味境に一二種ありとなす。すなわち苦、酸、甘、辛、鹹、淡、可意、不可意、倶相違、倶生、和合、変異なり。これ六種の味境を敷衍したるものに過ぎず。可意不可意とは声境の下に弁ずるものに同じ。倶相違は前二者に相違するをいう。その他は香境の下に出ずるものに同じ。もし西洋の分類を考うるに、味覚を分かちて胃覚、味覚、触覚の三種となす。たとえば胃覚とは人の胃において好まざるものは、その影響を味覚の上に及ぼすの類をいい、触覚とは舌面の皮膚より生ずる一種の感覚をいう。これ皮膚面に有するところの普通の触覚なれども、その影響を味覚の上に及ぼすをもって味覚の一部分となす。要するに味覚の分類の西洋と仏教とおのおの異なるところあるは、生理解剖の学説に基づくと基づかざるとによる。かくのごとく論定するときは、必ず人ありて一難を掲げていわん、西洋は実験説に基づき、仏教は凡俗談に基づくの不同あらば、前者は確実なるも、後者は不確実なるか。果たしてしからば、仏教家が仏教をもって万世不易の金言となすがごときは迷夢妄想に過ぎざるか。余これに答えていわんとす。西洋説と仏教とはその目的とするところ異なれば、その説くところまた異ならざるべからず。西洋の心理学は単に学理を究明するにとどまり、仏教の心理学は広く愚俗を誘導せんことを目的とす。これをもってその自然の勢い、必ず仏教の所説は常人の知見に従いて分類を立つるに至る。すなわち哲学上のいわゆる常識論なり。換言すれば常識的心理学なり。けだしその当時いまだ生理解剖の学開けざりしをもって、西洋心理学のごとき説明を与うること難しといえども、その目的とするところは宗教にありて、人をして転迷開悟、安心立命せしむるにあれば、あにあえて生理解剖の学説に考証するを要せんや。換言すれば、仏教の経論は学科書にあらずして宗教書なれば、これを実験の学説に考えて人智を開発するよりは、むしろ衆人の知見に応じていわゆる随機開導するを要す。故にその説くところももっぱらその当時の人智に応じ、常識論あるいは凡俗論を取るに至る。けだしその論真に常識なるにあらず、その説実に凡俗なるにあらざるも、常識を誘いて非常識に進め、凡俗を導きて非凡俗に入らしむるには、かくのごとき階梯方便を用うるのやむをえざるによる。もし仏教の面目はいずれにあるやと問わば、「三界はただ一心のみにして、心の外に別法なし。」(三界唯一心、心外無別法)といいて答うるより外なし。故に仏教の説たるや、あたかも満天一点の雲影を見ず、千里ただ一輪の月光を仰ぐがごとく、「真如の城中は寂静にして人なし。」(真如城中寂静無人)を唱うるものなれば、味境も香境も色境も声境も一として水底の月、空中の楼台にあらざるはなく、畢竟するに虚影幻象に過ぎざるなり。なんぞその分類に関して喋々するを要せんや。これあたかも夢中に夢を談ずると同一般なり。果たしてしからば、仏教中に客観の事物を論じ、五感の境遇を説くがごときは、しばらく常識凡智に従いて仮設せるもののみ。これ決して仏教の真相にあらざるなり。

       第五段 触境論

 つぎに触境の種類は『倶舎頌疏』によるに、左の一一種を立つるなり。

 一、地(持の用、堅性)

 二、水(摂の用、湿性)

 三、火(熟の用、煗性)

 四、風(長の用、動性)

 五、滑(柔軟なるを滑と名づく)

 六、渋(麁強なるを渋と名づく)

 七、重(称るべきを重と名づく)

 八、軽(上に翻んずるを軽と名づく)

 九、冷(煖を欲するを冷と名づく)

一〇、飢(食を欲するを飢と名づく)

一一、渇(飲を欲するを渇と名づく)

 一地(持用堅性)

 二水(摂用湿性)

 三火(熟用煗性)

 四風(長用動性)

 五滑(柔軟名滑)

 六渋(麁強名渋)

 七重(可称名重)

 八軽(翻上名軽)

 九冷(煖欲名冷)

 十飢(食欲名飢)

十一渇(飲欲名渇)

 そのいちいちは別に説明するを要せず。この一一種中最初の四種はこれを能造の大種と称し、一切の色法すなわち物質はみなこの四大の造るところとなす。その用は持摂熟長にして、その性は堅湿煗動なることは仏教理科において四大論を講ずるときに詳述すべし。他の滑渋重軽等の七種は所造の触境にして、地、水、火、風の四大の所造となす。もしこれに仮実を分かたば、前四種は能造の実境にして、余の七種は所造の仮境なり。その七種中冷飢渇の三種は、心の所欲にして欲の異名なれば、これをただちに触と名付け難し。今『頌疏』の文によるに、煖触、食触、飲触の三はまさしく触の体にして、冷欲、飢欲、渇欲はこの三触を因となして起こるところの果なり。すなわち触はこれ因にして、欲はこれ果なり。故に今その三欲をただちに触と名付くるは、果に従いて名を立つるものとなす。換言すれば冷飢渇の三は、全く主観性にして、客観性にあらず。故にこれに触の名を与うるはやや不当なるがごときも、もし触に客観主観の両性を分かつときは、この三種を触覚に加うるも不可なることなし。もしまたこれを西洋の分類の上に考うれば、冷飢渇は第六感の有機感覚すなわち体覚に属するものなり。しかるに仏教は、触覚に身体の内外を分かたざるをもってこれを合類するのみ。もし『百法論解』によらば触に二六種ありとなす。すなわち、

  地、水、火、風、軽、重、渋、滑、緩、急、冷、煖、硬、軟、

  餓、渇、飽、力、劣、悶、痒、粘、老、病、死、痩

 この分類は『瑜伽論』に基づくも、『倶舎論』の一一種の客観性触覚および主観性触覚を更に細分せるものに外ならず。もしこれに対する西洋の分類を示さば、左表のごとし。

  触覚 触覚

     圧覚

     温覚

 そのいわゆる触覚とは、物の形状大小を感別するをいい、圧覚とは重量を感知するをいい、温覚とは寒暖を覚知するをいう。そのうち圧覚と温覚とは、体覚および筋覚に関するものなれば、通例これを触覚外の一類となすなり。

 およそ触覚は諸覚の根元にして、人獣の感覚は必ず触覚より始まる。故に最下等の動物および胎児の初期にありては、五感中ただ触覚を有するのみ。また生長の後といえども、各感覚中に多少触覚を含まざるはなく、味覚嗅覚はもちろん視覚聴覚といえども、これを触覚の分化もしくは変体と名付くるを得べし。すなわち視覚は光線がエーテルの波動によりて相伝わり、眼球内の網膜に触れて起こすところの感覚なり。聴覚は音響が空気の波動によりて相伝わり耳官の内部に触れて起こすところの感覚なれば、みな多少触覚の意を含まざるはなし。今、仏教にて五境の順序を定めて色境を始めとし、触境を終わりとするは、触覚は諸覚の根元なるによるか。余案ずるに、これ遠きより近きに及ぼし、外より内に入るの順序を取るものならん。たとえば最初の色境はわが身体を離れて遠く現ずるものなればこれを第一に置き、声境もまたわが体を離れて発するものなればこれをそのつぎに置き、香境はこれを味境に比するになお多少隔りたるものより発するをもってまたそのつぎとし、触境は味境と同じく、直接に身体に触れて感ずるものなれば、この二者の間に前後を分かち難しといえども、触覚には客観性と主観性との両面ありて、主観性触覚に至りては身体内部の状態を感知するを得べし。換言すれば、触覚は内外両境にまたがるものなれば、これを味境のつぎに置くなり。果たしてしからば、五境の順序は客観の境遇を発して、主観の都門に入る中間の駅舎なりと解して可なり。けだし仏教心理は、客観の妄境に流転せる迷人をして主観の真境に誘入する案内記なれば、外界万境を主観の方面より分類して感覚的五境となし、更に五境の順序を定めて色境に始まりて触境に終わるの次第を立つるに至るなり。これを要するに、仏教の経論は哲学としてみるも、宗教としてこれをみるも、ただ心界の案内記なり、理想国の道中記なり。その客観論も主観論も有為法も無為法も、みなその道中の駅程旅舎を指示するもののごとし。倶舎宗にありてその間に七十五法を立て、法相宗にありては百法を立つるは、なお昔日の東海道に五十三駅あるがごとし。それ理想の山いたって高く、真如の都いたって遠し。その駅路わずかに七五程ないし一〇〇程に過ぎざるも、まさしくその本際に到達するは五〇年一〇〇年の短歳月のよくするところにあらず。必ず無限の歳月を積み、無限の生死を経、無限の山河をわたらざるべからず。かくのごとくにして始めて無限の都に入りて、無限の月を眺むることを得べし。故に今述ぶるところの五境論は、この無限道中の第一駅なりと知るべし。その他、無表色および法処所摂色は、前すでに述明したればこれを略す。ただ外道中、勝論所立の五境につきて一言するを要す。勝論の十句義中、第二の徳句義に二四種を分かち、一に色、二に味、三に香、四に触ないし二四に声となす。これすなわち五境なり。これを『十句義論』に解説していわく、「ただ眼所取の一依を色と名づけ、ただ舌所取の一依を味と名づけ、ないし、ただ耳所取の一依を声と名づく。」(唯眼所取一依名色、唯舌所取一依名味乃至唯耳所取一依名声)とあり。そのいわゆる依とは依処と熟し外境をいう。かくして色声等の五境を徳句義中に入るるなり。

 

     第四講 覚官論

 外を望めば雑然たる諸象の羅列するあり。これを外界と称し、あるいは物界と称す。内を顧みれば混然たる諸想の相続するあり。これを内界と称し、あるいは心界と称す。しかして物心両界の中間にありて内外の隔壁となるものは、我人の身躯すなわち肉体なり。この肉体の上に外界の事情を内界に通ずる窓戸あり。これを覚官と称す。すなわち眼、耳、鼻、舌、身の五根なり。五根は地、水、火、風の四大所造なれば、これを物質すなわち色法に属す。倶舎の七十五法によれば、色法に五根五境および無表色の一一種ありとなすこれなり。今これを左の二段を設けて弁明すべし。

  第一段 五根の義解

  第二段 五根の組織

 これを小乗大乗および外道所説に照合して論述せんと欲す。

       第一段 五根の義解

 根とは覚官を義とし、五根とは五官を義とすることは弁明を待たずといえども、これを原語の上に考うるに、『義林章』(巻三本)には「およそ根の梵語につきて因咥唎焔と慕攞との二種あり。その因咥唎焔の根とは、これ増上の義なり。また、慕攞の根とは、これ出生の義なり。」(凡就根梵語有因咥唎焔与慕攞之二種其因咥唎焔之根是増上義也、又慕攞之根是出生之義也)〔*1=因咥唎焔はindriyaの音写 *2=慕攞はmulaの音写〕とありて、根に増上と出生の二義ありとなす。その意、眼耳等の諸根は眼、識、耳、識等のために所依となりて、その勢力作用の増勝(すぐれ)なるが故に増上の義ありといい、またその所依となりて、よく識を生ぜしむるが故に出生の義ありという。その五根のいちいちにつきては別に説明するを要せずといえども、左に『百法論解』の釈名を抄録すべし。

一、眼は照矚の義、梵に斫蒭という、ここに行尽と翻ず。眼よく行いて、もろもろの色境を尽くすが故に、これを行尽と名づく。

二、耳は能聞の義、梵に莎嚕多羅、戍縷多という、ここに能聞と翻ずるなり。

三、鼻は能嗅の義、梵に伽羅尼、羯羅拏という、ここに能嗅というなり。

四、舌は能甞の義、梵には舐若、時吃縛というなり。

五、身は積聚と依止との二義なり。身を名づけて積聚というは、大造なる諸根の依止なり。梵に迦耶といい、ここに翻じて積聚となす。身根はかの多法の依止となり、諸根のしたがうところ周遍して積聚するが故に身と名づく。

一眼者照矚之義、梵云斫蒭、此翻行尽、眼能行尽諸色境故是名行尽、〔*1=眼者照了導義 *2=所蒭はcaksusの音写〕

二耳者能聞之義、梵云莎嚕多羅、戍縷多、比翻能聞、〔*=莎嚕多羅はsrotraの音写、『義林章』ではなし〕

三鼻者能嗅之義、梵云伽羅尼、羯羅拏、此云能嗅、〔*=掲邏拏、ghranaの音写〕

四舌者能甞義、梵云舐若時吃縛、〔*=舐若、時吃縛はjihraの音写、『義林章』では時乞縛〕

五身者積聚依止二義名身謂積聚大造諸根依止、梵云迦邪、此翻為積聚、身根為彼多法依止諸根所随周遍積聚故名為身、〔*=耶〕

 これ五根の義解なり。この五種みな出生、増上の二義を有するをもって根と名付くという。しかるに余案ずるに、出生の義と増上の義とはその梵語すでに異にして、一は因咥唎焔〔インドリア Indriya〕を翻し、一は慕攞〔ムーラMula〕を翻するものなれば、五根の根にこの二義を兼有する理あるべからず。五根の根は増上の義ならば、出生の義は他の場合において用うるところの根の義なるべし。しかるに『義林章』にこの二義を合して解するは、恐らくは訳者の誤りならん。余が聞くところによれば、古来すでにこの疑難ありという。しかれども余は梵学に暗ければ、かくのごときはその学の専門家の判定に任ずるのみ。もし外道中数論の述ぶるところによれば、根に一一種を分かつ。すなわち耳、皮、眼、舌、鼻、舌根、手根、足根、男女根、大遺根、心平等根これなり。このいわゆる根は覚官のみならず、挙動識別作用に関する機関を総称す。そのうち耳、皮、眼、舌、鼻の五根はこれを知根と名付く。これ感覚知覚をつかさどる覚官なればなり。舌根、手根、足根、男女根、大遺根の五種はこれを作根と名付く。動作をつかさどる機関なればなり。しかして心平等根はこれを釈して分別を体とすといい、あるいは一説に肉団心をもって体とすという。すなわち識別作用をつかさどる機関にして、なお今日のいわゆる脳髄のごときか。『金七十論』の解によるに、この心根もし知根と相応ずれば知根と名付け、もし作根と相応ずれば作根と名付く、なにをもっての故に、この心根よく知根のことを分別し、および作根のことを分別するが故なりとあり。換言すれば、心根は分別を性とし、知根および作根に加わりて分別作用をつかさどるをいう。かつ同書に曰く、「これこの十一根、よく十一境を取る。」(此是十一根能取十一境)とありて、その各根に相応する境遇ありとなす。今、五知根につきて述ぶるところをみるに、色、声、香、味、触の五唯と地、水、火、風、空の五大との関係を示して、耳根は声唯より生じて空大と同類なり、故に声を取る。皮根は触唯より生じて風大と同類なり、この故にただただ触を取る。眼根は色唯より生じて火大と同類なり、この故にただただ色を取る。舌根は味唯より生じて水大と同類なり、この故にただただ味を取る。鼻根は香唯より生じて地大と同類なり、この故にただただ香を取るという。そのつまびらかなるは『金七十論』(巻中)につきて見るべし。以上、仏教および外道の五根の義釈を示したるのみ。これより五根の組織を述べざるべからず。

       第二段 五根の組織

 もし根体を論ずれば、地水火風の四大所造にして、その体清浄なること珠宝光のごとしという。すなわち『倶舎論』(巻一)に「世尊の説くがごとし。苾芻、まさに知るべし、眼はいわく、内処の四大種所造の浄色を性となすと。」(如世尊説苾芻当知眼謂内処、四大種所造浄色為性)〔*=四大所造〕とありて、四大所造の浄色実にその体なりとなす。これ小乗有部宗の説なり。もし大衆部によらば、肉団をもって体とすという。これ有形上の見解なり。また覚天の説は四大をもって体となすという。また『倶舎論』にてはその体を称して有色、無見、有対となす。これを有色と名付くるは、色の定義たる変礙の義あるが故なり。これを無見と称するは、肉眼凡眼の所見にあらざるが故なり。これを有対というは、極微所成にして障礙あるが故なりとなす。およそ仏教にて根体を分析して示すときには、五根おのおの扶根すなわち扶塵根と、正根すなわち勝義根との二種よりなるという。あるいは扶根を依根といい、正根を清浄根と称することあり。けだし五根を眼、耳、鼻、舌、身の五種に分かつは横の分類にして、これを扶根正根の二種に分かつは竪の分類なり。今この二種の義解を考うるに、

『七十五法見聞』(巻一)にいわく、扶根というは、さきに眼根に約し、眼根中において黒白等の色を有する、これを扶根と名づく。これすなわち可見、有対の色なり。清浄根(正根)は、その体清浄にして、宝珠の光のごとく、この清浄根は所縁の境界を照らす。これ眼見にあらざるが故に、不可見、有対の色という。

七十五法見聞(巻一)云言扶根者先約眼根、於眼根中有黒白等色是名扶根、是即可見有対色也、清浄根(正根)者其体清浄如宝珠光此清浄根照所縁境界、此非眼見故言不可見有対色

  『百法見聞』(巻一)いわく、根に於て正根扶根の二種有り、扶根とは我等の如きの上に存する所の血肉所成の五根なり、此れには発識取境の用なし、亦正根の依処となるまでなり、正根とは細々なる色法にして、心法より猶ほ細なる程に凡夫二乗の所見にあらず、乃至微細難見の法なり。

 この見解にて知らるるがごとく、扶根は肉体より成り、外面より現見し得るものなれば、眼耳等の肉体構造の機関をいう。これ五官の外部の組織なるも、外界の色声等を認識するところの機関にあらず。これに反して正根は五官の内部に存して、その体清浄微妙にして見難く知り難しといえども、眼に視覚の作用あり、耳に聴覚の作用あるは、この根の扶根の内部に存するによるとなす。故にこれを発識取境の用ありという。『倶舎論』に「四大所造の浄色を性となす。」(四大所造、浄色為体)〔*=性〕とはこの根をいうなり。その体すでに最微至細なれば、凡夫二乗の見るところにあらず。また現量によりて知るところにあらずして、仏果の所知、比量の所得となす。もしこれを西洋生理学の上に考うれば、扶根は眼耳等の外部の組織すなわち五官にして、正根は内部の組織すなわち神経に当たるもののごとし。しかるに神経は内眼をもって見るべく、現量所得なれば正根の解釈に合せず。あるいは正根を解して眼等の底に清浄微妙なる物の玉のごときものをいうとなすときは、正根も見ることを得るもののごとし。もしこの解によれば、眼球内にみたせる水晶体を見てこれを正根と定めたるがごとし。余案ずるに、当時いまだ解剖学の開けざりしため、その所説をいちいち今日の生理学の上に考証するあたわずといえども、そのいわゆる正根は発識取境の作用ありとするときは、五官の神経に当たるべし。もしこれを神経とすれば、その体もとより可見的ならざるべからず。今これを眼官につきていわば、眼球内の網膜面上に分布せる視神経はすなわち眼の正根なるべし。しかるに正根をもって有色無見となすは、当時解剖学のいまだ開けざるによるというより外なし。かくいうときは仏教家は必ず一難を掲げて、仏の所説に誤謬あるべからず、その説もとより今日の解剖の結果と一致すべしといわん。ここにおいてこの扶根正根の説は仏教にてはじめて唱うるところなるや、インド一般の古説なるやを考定せざるべからず。余おもえらく、その説の仏説なると非仏説なるとに論なく、仏教はその専売特許の唯心論を世間に披露するの階梯として、しばらくこれを仮用したるのみ。故にその説の解剖の結果と一致するや否やは、あえて関するところにあらざるなり。

 

     第五講 意識論

 前講の五境五根に伴って五識あり。五識とは眼識、耳識、鼻識、舌識、身識これなり。五境五根は客観すなわち物質に属するも、五識は主観に属す。故に前者は仏教中の理科にして、後者はまさしく心理学の本領なり。今、図をもって表示すること左のごとし。

 すなわち五識を加えて六識とす。これ小乗の分類にして、大乗は更に末那識、阿頼耶識を加えて八識とすることは、さきに第一講のもとに述ぶるところなり。また、五識に意識を加えて六識とするときは、これに対して色、声、香、味、触、法の六境あり。法境とは第六意識の所縁にして、無表色と四十六心所法と十四不相応行と三無為を摂することは、さきに第三講においてすでに述ぶるところなり。しかりしこうして、仏教の五識は西洋のいわゆる五種の感覚に当たり、第六意識は想像および思想に当たり、末那識および阿頼耶識は同じく思想に当たるをもって、その説明は後に感覚論、想像論、思想論を講ずるときに譲る。ただここに意識論と題するは、西洋のいわゆるコンシャスネスを義とし、心性各作用の根基となるものを論ずる意なり。西洋のいわゆる意識はこれを解して自知といい、心性の心性たるゆえんの特性にして、その物質に異なるゆえんのものをいう。しかして仏教にはこれに対する適恰の語あるを見ずといえども、五識六識等の識の語はややこの意を有するもののごとし。かくしてここに意識作用あれば、これに反する無意識作用すなわち反射作用あり。意識の力を待たずして無意自然に起こる生活作用、あるいは精神作用はこれを反射作用と名付く。禽獣動物の挙動のごときは多く反射作用によるといえども、人類に至りては一半反射作用にして、一半意識作用なり。しかして意識そのものの起源を知らんと欲せば、まず無意識よりその研究を始めざるべからず。故に余はここに無意識論を述ぶべし。

 昼間人の醒覚する間は、意識無意識ともに体内にその挙動を継続するも、夜間熟睡のときにありては、無意識作用のみにて、意識作用は全く休止せる状態なり。故に無意識作用の状態は、睡眠の場合につきて考うるをよしとす。そもそも睡眠は仏教においては心所の一種とし、不定地法の部類中に加えたり。もし心所は意識作用の分類となすときは、睡眠を心所中に加うるはその意を得難しといえども、小乗大乗ともにこれを心所法の一種となす以上は、その解釈いかんを考えざるべからず。すでに第一講において示せるがごとく、小乗大乗ともに睡眠の心所は心をくらくし、かつ不自由ならしむるもののごとくに解せり。これ睡眠は心中に一種の心所ありて、その作用によりて起こるものとなすなり。今更に『唯識論』に出ずる睡眠の説明を掲ぐべし。

眠とはいわく睡眠なり。自在ならず昧略ならしむるをもって性となし、観を障うるをもって業となす。いわく、睡眠の位には身は自在ならず、心は極めて闇劣なり。一門にのみ転ずるが故なり。昧というは定にあるに簡び、略とはさめたる時に別かつ。令というは、睡眠は体用なきにあらずということをあらわす。無心の位あるは、この名を仮立せるなり。余のごとく、蓋纏なるをもって、心と相応するが故なり。

眠謂睡眠令不自在昧略為性、障観為業、謂睡眠位身不自在、心極闇劣、一門転故、昧簡在定、略別寤時、令顕睡眠非無体用、有無心位仮立此名如余、蓋纏心相応故、

 その文句の解釈は『唯識論』の講義に譲ることとなす。もし『義楚六帖』に引用せるところによらば、睡眠の原因を左のごとく説けり。

『正法経』にいわく、虫は心内にあり。虫睡れば、すなわち人睡る。また、心疲れれば、すなわち熱す。睡眠多なるが故なり。

『法句経』にいわく、一比丘あり。多く睡眠に著す。仏、すなわち弾指して、彼をしてこれを覚さしめていわく、汝かつて宿生身に螄螺蚌蛤となり、木虫を食いきたる。睡等多きゆえんなり。

『解脱論』にいわく、一つには心に従う、二つには食に従う、三つには時節に従う。睡はこれ身心の二つの懈怠の相、睡はこれ身、懈怠はこれ心なり。

正法念経云、虫在心内、虫睡則人睡、又心疲即熱、多睡眠、故〔『義楚六帖』(牧田諦亮編、朋友書店)では、『正法念経』の引用は最後に位置する〕

法句経云、有一比丘多著睡眠、仏乃弾指令彼覚之曰、汝曾宿生身、為螄螺蚌蛤食木虫来、所以多睡等也、

解脱論云、一従心、二従食、三従時節、睡是身心二懈怠相、睡是身、懈怠是心也、

 このうち虫をもって睡眠の原因となすはすこぶる奇なり。心内の虫ねむるときは人ためにねむるとするときは、人の覚するは虫の覚するにより、人の夢みるは虫の夢みるにより、人のあるいは笑いあるいは泣くは、虫の笑いあるいは泣くによると想定して不可なかるべし。けだし俗間にて人の体内に虫ありて、ために病苦を醸すと伝えきたりしは、その源、仏書中より出でたるやいまだ知るべからず。しかるに病苦の原因を虫に帰したる古代の妄説が、今日に至りてかえって医学の実説となり、肺病もコレラもみな虫より生ずと唱うることとなりたるは、あに奇ならずや。これあたかも枯木に再び花を見るの類なり。果たしてしからば、睡眠も夢もまたみな虫より起こるとの学説の出ずることなしと断言すべからず。けだし物の大小巨細は相対比較上のことのみ。人間は多く自己の身体を標準として、これより小なるものを小とし、大なるものを大とす。故にもし大のまた大なるもの、小のまた小なるものよりこれをみれば、その大はかえって小となり、その小はかえって大となることなしというべからず。すでに人間の肺臓中に顕微鏡的の最小動物ありて住すとするに、その最小動物また一個の動物なれば、その身中に最小中の最小動物ありて存することなしというべからず。この理を推すときは、最小中の最小動物の体中に、更にいくたの微細なる動物ありて存するや知るべからず。これより以下はけだし際涯なし。果たしてしからば、これを大にすればこの一大天地は実に宇宙の最大怪物の腹中に存し、人類はその腹中の顕微鏡的小虫なるやまた計るべからず。かくのごとく論じきたらば、人の睡眠は虫の睡眠より起こるとの説は、あながちに妄説と断定すべからずといえども、今日の学説の上に考うるときは、これを俗説視せざるを得ず。かつ余も仏経中にかくのごとき説あるは、インドの民間の伝説を仮用せるものなりと信ず。また、睡眠の種類につきては『法苑珠林』(巻三二)に出ずるところ左のごとし。

『発〔覚〕浄心経』にいうがごとし、仏は弥勒菩薩に告げていわく、菩薩はまさに二〇種の睡眠、諸患を観ずべし。何らか二〇なり。一、睡眠を楽しむ者は、まさに懶惰あるべし。二、身体は沈重。三、膚皮は不浄。四、皮肉麁渋。五、もろもろの大穢濁にして、威徳は薄少なり。六、飲食は消えず。七、体は瘡皰を生ず。八、多く懈怠あり。九、痴網を増長す。一〇、智慧は羸弱なり。一一、善、疲倦せんと欲す。一二、まさに黒暗におもむくべし。一三、恭敬を行ぜず。一四、稟質は愚痴なり。一五、もろもろの煩悩、多くして、心は諸使に向かう。一六、善法中において欲を生ぜず。一七、一切の白法を、よく減少せしむ。一八、恒に驚怖の中に行ず。一九、精進する者を見れば、これを毀辱す。二〇、大衆に至りて他の軽賎を被る。

如発浄心経云仏告弥勒菩薩言菩薩当観二十種睡眠諸患何等二十、一楽睡眠者当有懶惰、二身体沈重、三膚皮不浄、四皮肉麁渋、五諸大穢濁威徳薄少、六飲食不消、七体生瘡皰、八多有懈怠、九増長痴網、十智慧羸弱、十一善欲疲倦、十二当趣黒暗、十三不行恭敬、十四稟質愚痴、十五多諸煩悩心向諸使、十六於善法中而不生欲、十七一切白法能令減少、十八恒行驚怖之中、十九見精進者而毀辱之、二十至於大衆被他軽賎〔*1=発覚浄心経 *2=眠睡 *3=懶堕 *4=「行」なし *5=常〕

 また『法苑珠林』に十誦律を引き、更に頌文を掲げて曰く、

昏沈、睡蓋に、遊想妄現し、親族虚しくあつまりていたずらに美醼をうるおす。すでに空無にさめ、みだりに愛恋を生ず。三性に通ずるといえども、ついに七変を成ず。

昏沈睡蓋 遊想妄現 親族虚聚 徒霑美醼 既寤空無 妄生愛恋 雖通三性 終成七変

 また睡眠の性質を論じて、善、悪、無記(不善不悪)の三性に通ずるものとす。『婆沙論』にいう、「もし夢に礼仏等の事を見れば、すなわち善性なり。もし夢に殺生等を見れば、すなわち不善性なり。夢に青、黄等を見れば、すなわち無記性なり。」(若夢見礼仏等事即善性、若夢見殺生等即不善性、夢見青黄等即無記性)とあり。また『光記』には睡眠に善悪の性あることを解して曰く、「夢あるによりて説く。もし夢なきときは、ただこれ無記のみ。」(拠有夢説、若無夢時唯是無記)とあり。これによりてこれをみるに、睡眠に善悪ありというは、眠中に現ずる夢につきて判断するなり。もし熟睡無夢のときはこれを無記性となす。故に『倶舎頌』には「睡眠あまねく違わず。」(睡眠遍不違)とあるは、善悪無記三性に通ずるをいうなり。また『大乗法数』に睡眠五過を掲げて「悪夢、諸天護らず、心法に入らず、明相を思わず、喜んで精を出す。」(悪夢、諸天不護、心不入法、不思明相、喜出精)となす。これ『四分律』に出ずる名目なり。余は後に夢の説明に合して弁明すべし。

 かくのごとく仏教にて無意識の状態たる睡眠は、一種の心所法によりて心の闇昧を生ずるより起こるとなすのみにて、いまだ詳細の説明あるを見ず。かつその現象につきて善悪を論ずることあるも、これ仏教の心理はすべて宗教に応用せんとするにあればなり。しかして睡眠につきて詳細なる説明は、西洋心理学を待たざるべからず。そもそも天地間に生育せる有機物は、草木にあれ禽獣にあれ、昼夜不断に活動を永続するあたわず。必ずや一定の時間活動すれば、これに次ぐに多少の休止をもってせざるべからず。これを動物の上に考うるに、一定の時間手足を労動すれば必ず疲労を生じ、自然に労動を休止せざるを得ざるに至る。しかしてその休止の間はすなわち疲労を回復する時間にして、回復しきたればまた更に労動を継続することを得。一労一休、一動一止は実に有機物の生理上免るべからざる天則なり。今これを人身の上に考うるに、腸胃、心臓、肺臓、血管等は昼夜不断に活動を継続するがごときも、その実、昼夜二四時間に六時間ないし八時間の休息ありという。これをもって飲食のごときも、昼夜不断に服用すれば、必ず腸胃の不消化を起こし、病性を現ずるに至る。故に食事は必ず時間の規制を要するなり。ただ心臓肺臓においては夜間眠際といえども休止することなきはこの常則に反するがごときも、その実、肺臓は一呼一吸の間に少分の休息を取り、心臓は一伸一縮の間にまた少分の休息を取る。これを昼夜二四時間に合計すれば、一日中に六時ないし八時の休息を取る割合なりという。果たしてしからば、人身各部の機関はみな一昼夜に六時ないし八時の休息を取るをもって常則となすを知るべし。今、脳髄も人身機関の一部なれば、昼間醒覚の間は不断作用を呈するも、夜間に入りては一時に休息を取る。その休息はすなわち睡眠なり。一眠一覚、一休一動、昼夜交互して継続するは実に生物の常態にして、なお一生一死の循環継続するがごとし。それ眠りは一時の死にして、死は永時の眠なれば、一時の死相積みて永時の眠となり、永時の眠相減じて一時の死となることなしというべからず。我人の一生はこれを一日に比すればやや長きを覚ゆといえども、これを千歳万歳、千劫万劫無限の時間に比すれば、その短きこと電光朝露の間を待たず、一瞬一息もただならざるがごとし。これによりてこれをみるに、我人の永時の眠りも果たして一夢大悟のときなきを保すべからず。すでに念々刻々生死眠覚の小変ある以上は、一生一死の前後にもまた生死眠覚の大変あるべき理なり。およそ心理上眠と死との別は、眠時にありては五官および脳髄の意識作用ひとたび休止して、ただ腸胃心肺等の無意識反射作用の継続するを見るのみ。しかして死時にありてはひとり意識作用のみならず、無意識作用も同時に休止するに至るにあり。しかるに死時にありて無意識作用は休止絶滅するも、万物万類に固有せる勢力作用に至りては、依然として休止絶滅することなし。もしそれ意識作用は無意識作用とその根を同じうし、無意識作用は勢力作用とそのもとを同じうし、勢力一変して無意識となり、無意識一変して意識となることを知らば、ひとたび休止せる意識作用は再起して一夢覚めきたるときあるがごとく、ひとたび絶滅せる無意識作用もまた復活して、再び五〇年ないし一〇〇年の一生を結ぶことあるべし。時間は無限なり、空間は無涯なり、勢力は不滅なり。かかる無限無涯不滅の大海の波間に意識無意識の隠見出没するもの、これ我人の生涯なれば、我人の生涯は決して五〇年ないし一〇〇年の一生をもって尽くるにあらず。生の前にも生あり、死の後にも死ありて、一生一死、一休一止、一眠一覚、継起続生してけだし際涯なかるべし。かつすでに意識無意識の根本は、不滅的勢力なるを知らば、意識ひとたび絶止して勢力に同化するも、勢力再び激発して意識の生涯を再現すべきは、道理のもとよりしかるところなり。たとえば樹木のごとし。年々葉落つるも樹死するにあらず、あるいは風雷あるいは人工によりて樹たおるることあるも、その根の朽ちざる間は必ず再び発生して枝葉を分出することあるべし。今、意識は葉のごとく、無意識は枝のごとく、勢力は根のごとし。勢力の根にして朽ちざれば、幾回も意識無意識の生死起滅を見ることあるべき理なり。果たしてしからば、我人は生の喜ぶに足らず、死の憂うるに足らざるを知ると同時に、無限の時間に無限の生死を現ずるの一大愉快を知らざるべからず。古来活眼達識の士は死をみることなお生のごとく、死に臨みて更にその心を動かさざるは、けだしこの道理を看破せるによるならん。故にこれを評して、これ賢愚二途のよりて分かるる追分なりと称して可なり。以上すでに無意識作用を論明してここに至れば、意識作用を講述せざるべからず。しかるに意識作用は後に感覚論、想像論、思想論のもとにおいて説明する意なれば、ここにただ意識体一説と体別説の二論につきて一言を述ぶべし。通常解するところによるに、小乗倶舎は体一説にして、大乗唯識は体別説なりとす。倶舎は六識心王その体一と立つるをもって七十五法となる。六識各別と立つるならば、八〇法とならざるべからず。その証拠は『倶舎論』(巻四)に心意識体一とあるに基づく。これに反して、大乗は八識心王その体別と立つるをもって百法となす。すなわち『唯識論述記』(巻七本)に大乗は「心と意と識の体は別なり。心を第八となし、意を第七となし、識を前六となす。有宗はしからず、心と意の体、義は別なり。」(心意識体別、心為第八、意為第七識為前六、有宗不然心意体義別)とあるに基づく。しかるに倶舎の六識体一説に対して、唯一の心王五官によりて同時に各種の作用を併起するはいかんと難ずる者あり。その答弁に、心王その体一なれども、所依の根異なるに従いてその名を異にす。たとえば眼根によりて色境を知れば眼識と名付け、ないし意根によりて法境を感ずれば意識と名付くるがごとし。これをたとうるに、一室に六窓を造りその中に一猿を放つに、猿はその体一なるも、東西南北等の諸窓に顔を出だすに従いて、東猿西猿等とその名を異にするに同じ。故に二心同時に併起することあたわざるものとなす。平常色を見るとき、これと同時に声を聞くように感ずれども、その実、二者ときの前後を異にし、決して同時にはあらざるなり。ただその前後の時間あまり速やかなるをもって、同時のごとくに感ずるのみ。すなわち屋中の猿が東西の諸窓へ顔を出だすことあまり早きときは、二頭も三頭もその中にあるがごとく感ずると同一なり。これを六窓一猿の譬喩と名付く。しかるにこれに対して、倶舎の宗意は六識体別なりとなす論者あれども、その争論のごときは専門の研究に譲る。もしこれを西洋心理学の上に考うるに、体一体別両説とも一理あるに似たり。心理上に意識作用と無意識(反射)作用あり。意識作用は続生を性とし、反射作用は併起を性とす。続生とは、前感後覚となりて時間の前後に相続して覚知し、同時に併起するにあらざるをいい、併起とはこれに反して、同時に覚知するをいう。しかして意識作用と反射作用とは、その間判然たる分界あるにあらざれば、続生と併起との間にも判然たる分段あるにあらず、ただ意識作用が反射作用に移るに従い、続生性はようやく併起性となり、反射作用が意識作用に転ずるに従い、併起性はようやく続生性となるのみ。これを要するに、意識は外覚内感等種々に分かるるも、その中心はもとより一にして、諸感諸覚この中心に触るるにあらざれば判明なるあたわず、これをもって意識を一事に注げば、同時に他事を考うることあたわざるに至る。目をもって色をみるも、耳をもって声を聞くも、これを明瞭に覚知せんとするときは、必ず二感併起を許さざるに至る。故に意識の性は続生的なりと称して可なり。これによりてこれをみるに、識体一説はかえって道理あるもののごとし。




第六講 感覚論

 前講の意識論は心理の総論と題すべきものにして、これより述ぶるところの感覚論、想像論、思想論等は心理の各論と称すべきものなり。感覚には視、聴、香、味、触の五種あり。すなわち仏教のいわゆる眼、耳、鼻、舌、身の五識なり。この五識につきては、西洋心理学のごとき精確なる説明を見ず。かつそのつまびらかなるは倶舎唯識の専門学に譲らざるを得ざれば、余はただ左の二段を掲げてこれに略評を付せんとす。

  等一段は離中知、合中知の説明。

  第二段は根見家、識見家の説明。

 もし第六意識のいかんは、次講の想像論および思想論のもとにおいて述ぶべし。

       第一段 離中知合中知

 感覚と外界との関係につきて離中知、合中知の分類あり。離は不至境にして、合は至境と解して、覚官が外界に接してその現象を覚知するに、その境に至りて取ると、至らずして取るとの両様あり。換言すれば、覚官に近接せるものを感ずると、隔離せるものを感ずるとの二種あり。前者を合中知といい、後者を離中知という。あるいはこの二者を至境、不至境と名付く。その解に近境を縁ずるは至境にして、遠境を縁ずるは不至境なりとなす。たとえば眼官耳官はわが身体を離れたる遠所の声色を覚知するをもって、不至境すなわち離中知なり。鼻、舌、身の三官は、わが身体に接する香、味、触の三境を覚知するをもって、至境すなわち合中知なり。すべて離中知に属するものは、必ず覚官と外物との間に多少の距離あるを要し、合中知に属するものは、その距離を要せず。これ二者の相異なるゆえんなり。故をもって眼官は遠色をみるも、眼中の薬あるいは塵等を見るあたわず、耳は遠声を聴くも、耳官に接合せるものを聞くあたわずとなす。しかるに古来これに疑難ありて、耳官はひとり遠声を聴くのみならず、耳官に接する近声も明らかに聴くことを得るをもって、これ離中知、合中知の二者に通ぜざるべからずというも、これに答えて耳官内の声は極めて接近するも、なお一微以上の距離を隔たざれば聞くことあたわずという。しかるにまた鼻官のごときはあまり接近せるものより、多少隔離せるものを感ずるをもって、眼耳と同じく離中知に属すべしとなすものあり。『倶舎恵暉鈔』に記するところによるに、鼻、舌、身は至境を取り、また不至境を取るとなす。たとえば一極微分かちて四分となせば、鼻はよく三分を隔てて香を取り、舌は二分を隔てて味を取り、身は一分を隔てて触を取る。ただしその距離はなはだ相近きをもって至境を取るとなす。これによりてこれをみるに、離中知と合中知とは判然たる分界あるにあらず、ただ比較上その別を立つるのみ。今、距離の遠近に応じて五官を表示すること左のごとし。

  根境離合表 離中知(不至境) 眼根(眼識取境)………第一(最離)

                 耳根(耳識取境)………第二

        合中知(至 境) 鼻根(鼻識取境)………第三

                 舌根(舌識取境)………第四

                 身根(身識取境)………第五(最合)

 もし勝論外道の所立に従わば、眼耳等の六根みな至境を取るとなす。故に遠隔の色声も眼官耳官中に入りて見聞を感覚すべしという。しかるに古来仏教家はこれを破して曰く、もし六根みな至境ならば、自ら眼中の薬等を見るべし、すでに自ら薬等を見ず、故に知る、眼、耳、意は不至の境を取るをと。これに反して、仏教にては眼、耳、意の三根は不至境となす。すなわち倶舎の偈文(巻二)に「眼と耳と意との根と境とは、不至になり、三つは相違す。」(眼耳意根境、不至三相違)なり三相違とあり。その意、眼、耳、意の三根は至境にして、鼻、舌、身の三根はこれに反するをいう。もしこれを西洋心理学の上に考うるに、五官すなわち五根はもちろん、第六意根もみな合中知といわざるべからず。視覚聴覚のごときも、エーテルあるいは空気の波動相伝えて眼官あるいは耳官内部の神経に接触し、初めて色声等を感起するものなれば合中知なること明らかなり。ただ五根中最も遠隔せるものを感知し得るものは眼根を第一とし、耳根を第二とするのみ。その他、感覚の起源発達に関しては、仏書中にその証明あるを見ず。かくのごときは西洋心理学を待たざるべからず。

       第二段 根見識見

 仏書中には五根五識中、眼根眼識につきて論ずるところ最も多し。『倶舎論』(巻二)に、二眼、色を見るに、倶時なるや先後なるやの論あり。すなわちその論の意は、眼根によりて色を見るに、二眼同時に色を見るか、一眼ずつ互いに色を見るかというにあり。小乗犢子部は二眼互いに前後して見る説にして、実際二眼同時に見るがごときも、その回転速疾なるによるとなす。しかるに『発智論』および『婆沙論』によるに、二眼同時に色を見るというべし。その故は二眼を開きて外物を見ればその色分明にして、一眼のみにて外物を見れば不分明なるによる。また一例に、一眼を開き他眼を触するときは、現前において二月を見、一眼を閉じて他眼を触すれば、ただ一月を見て二月を見ず。これまた両眼同時見の一例となす。およそ眼によりて色を見ることにつきて、小乗有部宗の中に根見家、識見家の二説あり。世友尊者は根が色を見ると立て、法救尊者は識が色を見ると立つるなり。その他、妙音の義は根識共見説にして、経部の義は心心所和合見説等と種々の異説あり。今『恵暉鈔』によるに、「世友は、眼根見、法救は、眼識見、妙音は、眼識に相応する慧見、経部は、同時の心と心所の和合見、犢子部は、心と心所の同時の我見」(世友眼根見、法救眼識見、妙音眼識相応慧見、経部同時心心所和合見、犢子部心心所同時我見)とあるは、異説を列挙せるものなり。まずその論意を考うるに、識見家は、外境を見るは眼根の力にあらず、能依の識これを見るなり。すなわち根見家を難じて曰く、およそ見とは決度分別を義とす、しかるに眼根は色を見れども、決度することあたわず、故に見と名付くべからずと。根見家これに答えていわく、眼根(正根)清浄にして珠宝光のごとくなれば、よく色を観照することを得、故に色を見るは根の力なりと。しかるに根見家更に識見家を難じていわく、もし識見の説にして真ならば、識は無礙を性となすをもって戸、障子、壁等に礙えらるるところの諸色を見ることを得べき理なり。しかるに見ることを得ざるは根見の証なりとなす。その他種々の問難答弁あるもこれを略す。要するに、倶舎の正義は根見にありという。しかれどもこれ仏教家中のことのみ。もしこれを西洋心理の上に考うれば、根見識見等の争論は全く徒労に属するがごとし。それ根は覚官にして物質を体とし、識は心識にして精神を体とす。故にその争論は畢竟するに、色を見るは物質の力か精神の力かというに同じ。これ答弁を待たずして物質には覚知の作用なきを知る。しかるに仏教にてかくのごとき問題を掲ぐるは、そのいわゆる根は扶根にあらずして正根なり。正根は物理性なるも、身体中の骨肉を組織せるものに比すれば、すこぶる精微にして無形に近し。故にその論の帰着するところは、外物を感知するは神経の力か精神の力かというにあり。すなわち根見家は視神経よく色をみるの説に当たり、識見家は視覚ただちに色をみるの説に当たるべし。故にこの論を一歩進むれば、根見家は唯物論の所見に合するに至るべし。しかるに『倶舎論』等に述ぶるところは、眼中の正根は宝珠のごとく、物を照見する力あるがごとく解するは、これ西洋心理学の許さざるところなり。これを要するに、仏教の心理を論ずるや、主観の方面にありては大いに取るべきものありといえども、客観の方面にありては極めて疎なるもののごとし。その攻究は外部の観察より成る、内部の実験によるにあらず。故に往々空想憶断に過ぎて事実に合せざること多し。これ仏教が心理の研究において、西洋に数等を譲るところなり。西洋の心理学は物理学、化学、動物学、植物学、生理学、解剖学等の諸科において実験して得たる結果に基づくものなれば、その論拠の正確にして、その説明の精細なるは、仏教のはるかに及ばざるなり。かくのごとく論弁しきたらば、必ずこれ仏教をけなして西洋にこぶる罪人なりといわれんのみ。しかるに余おもえらく、これ決して仏教を貶斥したるにあらず、かえってこれを扶助したるなり。換言すれば、仏教を破壊する意にあらずして建設せんとするにあり。なんとなれば、仏教の目的は事実を収集して学理を抽出するにあらずして、既定の大真理を開発して人を引導誘入せんとするにあればなり。たまたま客観上にわたれる説明あるがごときは、多くは世界一般に唱えきたれる俗説を仮用せるに過ぎず。余かつてこれを聞く、仏出世の本懐は一大事因縁のためなりと。果たしてしからば、なんのいとまありて、区々たる事実収集に汲々せんや。空中に鳴るものはこれを雷といい、地底に動くものはこれを地震といい、カーとなくものはこれカラスにして、チューとさわぐものはこれスズメなり。あえてこれをいちいち分析解剖して、しかして後、カラスなりスズメなりと称するを要せんや。今、仏教は客観上のことはすべて世間の定むるところに従い、ひとり主観上に心性の玄門を開きて理想の真光に接せんことをつとむ。これ、仏教の仏教たるゆえんなり。諺にいわく、「大人は細行を顧みず」と。仏教の客観上の小事実に拘泥せざるは、けだしその大人なるゆえんか。

 その他、五根五識につきては善悪無記の配合を論じたるものあり。無記とは不善不悪をいう。今『倶舎図記』の図表によるに、眼、耳、鼻、舌、身の五根は五識の所依となるのみにて、是非の分別を有せざれば無記性なり。しかして意根は分別性なれば、善悪無記の三性に通ずるなり。色声二境は三性に通じ、香、味、触境は無記なりとなす。また五識六識はみな分別性なれば、三性を兼ぬるものとなす。これにつき種々の問難あれども、心性作用の上に善悪を論ずるは学術門にあらずして宗教門の応用に外ならざれば、ここにこれを略するをよしとす。

 

     第七講 想像論

 西洋心理学はまず心性作用を智、情、意の三種に分かち、その智を感覚、想像、思想の三種に分かつ。故にここに想像論を掲ぐるも、仏教心理上にはこれに適合する名称あるを見ず。五蘊中の受は感覚感情に当たり、想は知覚に当たるがごとし。あるいはいくぶんの想像の意を含む。しかして最後の識はここにいわゆる想像および思想に当たる。故にここにまず意識のことをのべて、つぎに夢のことに及ぶべし。

       第一段 意識の種類

 仏教のいわゆる意識は心王諸識中の第六識なれば、前すでに一、二言をその上に付したるも、ここに更に意識の部類につきて一弁を費やさんとす。『翻訳名義集』(巻六)に『宗鏡録』を引きて、第六識に一〇名を具することを示せり。一には、根に従いて名を得て名付けて六識となす。二には、よく是非を籌量するを名付けて意識となす。三には、よく塵境にわたるをもって攀縁識と名付く。四には、よくあまねく五塵を縁じて巡旧識と名付く。五には、念々流散するをもって波浪識と名付く。六には、よく前境を弁ずること分別事識と名付く。七には、所在に他をやぶるをもって人我識と名付く。八には、愛業牽生するを四住識と名付く。九には、正解をして生ぜざらしむるをもって煩悩障識と名付く。一〇には、報の終尽を感ずるときふたつながら別なるを分段死識と名付くという。つぎに、意識の分類を考うるに左の五種あり。

  意識  五倶意識(明了意識)

      独頭意識 定中意識

           独散意識

           夢中意識

 これを合すれば四種なるも、これに狂乱意識を加うるときは五種となる。まず五倶意識とは、眼識等の五識とともに起こる識をいう。これを明了と名付くるは、五識をして明了に外境を認知せしむるが故なり。左に『唯識論』(巻七)の一節を引用せん。

五倶の意識は五をも助けて起こらしむ。もっぱら五識の所縁を了ぜんがためのみにはあらず。また、かの所縁において、よく明了に取ること、眼等の識に異なれり。故に用なきにはあらず。

五倶意識助五令起、非専為了五識所縁、又於彼所縁能明了取異於眼等識故非無用、

もし『略述法相義』によらば、「五倶の意識は五をも助けて起こらしめ、また五識をして明了に境を取らしむ。」(五倶意識助五令起亦令五識明了取境)と解せり。つぎに独頭意識とは、五識とともに起こるにあらずして、単独にて起こる意識をいう。これに三種あり。その第一定中意識とは、定中ありて起こる意識なれば、あるいはこれを定位の意識という。独散意識とは定中にあらずしてひとり起こる意識なれば、あるいはこれを散位の意識という。夢中意識は後に別に一段を設けて弁明すべし。つぎに狂乱意識とは、精神狂乱して起こる意識にして、五倶意識の一種あり。すなわち五倶意識の下に明了意識と狂乱意識との二種あるなり。今、左に『翻訳名義集』によりてその各種の解を示さん。

第六意識は具に五種あり、一つは定中の独頭意識なり。定の境を縁ず。定境の中に理あり、事あり。事の中に極略色、極逈色および定自在なる所生の法処、諸色あり。二つには散位の独頭なり。受の所引の色および遍計所起のもろもろの法処色を縁ず。空華の境像、彩画の所生の者を縁ずるがごとき、ならびに法処に摂する。三つには夢中の独頭なり。夢中の境を縁とす。四つには明了の意識なり。五根の門によりて前五識と、同じく五塵を縁ず。五つには乱意識なり。これ散意識にして、五根中において狂乱し、起こる。熱病を患いて青を黄となす見のごときは、これ眼識にあらず。これはこの縁なるが故なり。

第六意識具有五種、一定中独頭意識縁定境、定境之中有理有事、事中有極略色極逈色及定自在所生法処諸色、二散位独頭縁受所引色及遍計所起諸法処色、如縁空華境像彩画所生者並法処摂、三夢中独頭縁夢中境、四明了意識依五根門与前五識同縁五塵、五乱意識、是散意識於五根中狂乱而起、如患熱病青為黄見、非是眼識是此縁故、

 以上は意識の分類およびその義解の大略なり。そのうち夢中意識は諸書に雑出散見せるをもって、これより特にその一題を掲げて論述せんと欲す。

       第二段 夢の解釈

 古来人に最も奇異の感想を与えたるものは夢の現象なり。未開の世、無智の人なお夢を有するも、そのなにによりて生ずるを知らず。故をもって種々の妄想を起こし迷信を生じ、あるいは霊魂の外に遊ぶものなりといい、あるいは鬼神の内に通ずるものなりという。故に夢の説明いかんはその当時の人智の進否を判定するを得べし。余、仏書を検するに、その中には迷信的説明の混同するものなきにあらずといえども、また大いに発達せる学理的解釈あり、決してこれをインド人の妄想、釈迦の寝言なりとして度外視すべからず。およそ仏書中に夢の例および夢の談を散見することすこぶる多し。なかんずく祖師の伝記中に最も多しとす。これ一は実際に起こりし事実を伝えたるものなるも、あるいは伝記の体面を装飾し、あるいは祖師の言行を神聖にせんために付会し造成せるものなしというべからず。かの後漢の明帝の夢に、金人の光を放ちしを見て仏教をインドより将来せしがごとき、あるいは聖武天皇に夢告ありて国分寺を建てたまいしがごときはだれもよく知るところなるが、よしやこれを事実とするも、かくのごとき夢談の永く世に伝わるがごときは、仏教の神妙を人に示さんと欲する意のこれを助けたるは疑いなかるべし。もし『仏祖統紀』、シナおよび日本の高僧伝、『元亨釈書』等をひもとかば、必ず古人の伝記の装飾品は夢なることを知るべし。夢は無形なり、主観なり、故にこれを主観的装飾品というべし。客観的装飾品には香水あり、紅粉あり、筓蓋あるがごとく、夢は主観的香水なり、主観的紅粉なり。しかるに伝記の体面を装飾するに、あまり多く主観的香水や紅粉を用うるときは、かえってその真価を減損する恐れあれば、今後伝記を編纂する者は、みだりに夢を利用することを避けざるべからず。

 仏書中最も多く夢の諸例を蒐集したるものは『法苑珠林』(巻四三、四四)、『義楚六帖』(巻七)等なれば、よろしく本書につきて見るべし。また『蔵経』中に夢の表題を有する書名は往々見るところなり。

  『舎衛国王夢見十事経』(明蔵檗版善号、縮刷昃帙)

  『仏説国王不黎先尼十夢経』(同上善号、同上昃帙)

  『仏説阿難七夢経』(同上孝号、同上宿帙)

 以上の三書は今日に伝わりて蔵中に存せるものなり。その他、数書に散出せるものにつきて夢の種類を挙ぐれば、シナにては夢に六種を分かち、正夢、愕夢、思夢、寤夢、懼夢、吉夢となせるが、仏教にては、あるいは三種、あるいは四種、あるいは五種七種等に分かちて一定の分類なし。まず『聖鬮賛』(巻一二)によるに、耶輸陀羅の三夢を示せり。三夢とは、一は「月は地に堕ち」(月堕地)、二は「牙歯は落ち」(牙歯落)、三は「右臂を失う」(失右臂)、これ『過去現在因果経』に出ずる名目なり。また善見律には夢に四種を分かつ。すなわち一は「四大不和。」(四大不和)、二は「先に見るところのこと。」(先所見事)、三は「天人、神鬼、聖賢の相現わる。」(天人神鬼聖賢現相)、四は「想念、善悪を生ず。」(想念生善悪)とあり、これ夢の原因につきて種類を分かちたるものなり。また『大蔵法数』には無明習気、善悪先徴、四大偏増、巡遊旧識の四夢あることを出だし、かつその解に曰く、

一にいうは、無明の煩悩、習気の分を積みて真如の性を覆蔽するにより、明了なるところなし。心神顛倒を致すをもって夢想を形ずるなり。

二にいうは、人およそ善悪吉凶のことあり。必ずさきに夢寐を形じ、もって徴験となすなり。

三にいうは、人、地水火風の四大によりて身を成ず。もし地大増せば、身はすなわち沈重なり。水大増せば、身はすなわち浮腫あり。火大増せば、身はすなわち牀熱あり。風大増せば、身はすなわち急脹せり。四大調わざれば、すなわち身心安らかならず、心安らかならざれば、すなわち夢寐を形ずるなり。

四にいうは、人、平昔の遊歴のところに、あるいは見るところ、聞くところあり。もし美し、もし悪しと念をつなぎて捨せず、夢を形ずるなり。

一謂由無明煩悩積習気分覆蔽真如之性、無所明了以致心神顛倒形於夢想也、

二謂人凡有善悪吉凶之事、必先形於夢寐、以為徴験也、

三謂人由地水火風四大而成於身、若地大増身則沈重、水大増身則浮腫、火大増身則牀熱、風大増身則急脹、四大不調則身心不安、心不安則形於夢寐也、

四謂人平昔遊歴之処、或有所見所聞、若美若悪、繋念不捨而形於夢也、

 これまた夢の原因を説明するものなり。つぎに『華厳演義鈔』によるに、

一、熱気多ければ、火を見る。

二、冷気多ければ、水を見る。

三、風気多ければ、飛墜するを見る。

四、聞見多ければ、境を熟せり。

五、天神の心霊を与えて感ずるところ。

一熱気多見火

二冷気多見水

三風気多見飛墜

四聞見多熟境

五天神与心霊所感

 これ『智度論』に出ずる五種の夢なり。すなわちその文(同論巻六)にいわく、

夢に五種あり。もし身中調わず、もし熱気多ければ、すなわち多く夢に火を見、黄なるを見、赤きを見る。もし冷気多ければ、すなわち多く水を見、白きを見る、もし風気多ければ、すなわち多く飛ぶことを見、黒きを見る。またまた、聞見するところのことを多く思惟し、おもうが故に、すなわち夢を見る。あるいは天の夢を与えて未来の事を知らしめんと欲するが故に。この五種の夢は、みな実事なくして、しかもみだりに見るなり。

夢有五種若身中不調若熱気多則多夢見火見黄見赤、若冷気多則多見水見白、若風気多則多見飛見黒、又復所聞見事多思惟念故則夢見、或天与夢欲令知未来事故、是五種夢皆無実事而妄見、

 また『過去現在因果経』(巻一)によるに、五種の奇特夢を掲ぐ。

一、大海に臥すを夢む。二、須弥に枕すを夢む。三、海中の一切の衆生のわが身内に入れるを夢む。四、手に日を執るを夢む。五、手に月を執るを夢む。

一夢臥大海 二夢枕須弥 三夢海中一切衆生入我身内 四夢手執日 五夢手執月

 これ『経律異相』に見るところの五種の吉夢と同一なり。また『七夢経』には左の七種を示せり。

一、陂池の火焔。二、日月星の没。三、比丘、不浄坑中にありて、白衣頭に登る。四、群猪觝突し、栴檀林を壊す。五、須弥山を頂戴し、もって重しとなさず。六、大象、小象を弃出す。七、獅子王、頭上に七毫毛あるも、地にありて、しかも死す。仏いわく、汝の七夢は、当来の遺法子の仏教によらざるを表すと。

一陂池火焔、二日月星没、三比丘在不浄坑中、白衣登頭、四群猪觝突栴檀林壊、五頂戴須弥山不以為重、六大象弃出小象、七獅子王頭上有七毫毛在地而死、仏言汝之七夢表当来遺法子不依仏教

 また『十夢経』に出だせる一〇夢は左のごとし。

仏在世の時、時に国王ありて、不黎先泥と名づく。夜、十事を夢みる。一つは夢に三瓶の併するを見る。両辺の瓶は満ち、気は出でて相交じり往来すれども、中央の空瓶の中には入らず。二つは夢に馬の口に食し、尻にもまた食するを見る。三つは夢に小樹の華を生ずるを見る。四つは夢に小樹の果を生ずるを見る。五つは夢に一人の縄を索むる人の後に羊ありて、羊主の縄を食するを見る。六つは夢に狐、金床上に坐して金器の中にて食するを見る。七つは夢に大牛かえりて犢子より乳を飲むを見る。八つは夢に四牛の四面より鳴ききたり、相趨し、闘わんと欲す。まさに合わんとするも、いまだ合わず、牛処を知らざるを見る。九つは夢に大陂水の中央は濁り、四辺は清らかなるを見る。一〇は夢に大谿の水流、まさしく赤なるを見る。

仏在世時、時有国王名不黎先泥、夜夢十事、一夢見三瓶併、両辺瓶満気出相交往来不入中央空瓶中、二夢見馬口食尻亦食、三夢見小樹生華、四夢見小樹生果、五夢見一人索縄人後有羊羊主食縄、六夢見狐坐於金牀上於金器中食、七夢見大牛還従犢子乳、八夢見四牛従四面、鳴来相趨欲闘当合未合不知牛処、九夢見大陂水中央濁四辺清、十夢見大谿水流正赤〔*1=『国王不梨先泥十夢経』では、仏在舎衛国祇樹給孤独園 *2=梨または★(利+𠆢+㣺) *3=夜臥夢見十事 *4=・何等十事」なし *5=従犢子飲乳 *6=趍〕

 その他『法苑珠林』(巻四三)には夢に八災夢あることを掲げ、『止観』(巻二の一)には夢に一二相あることを示せるもこれを略す。以上の分類の一半は原因につきて夢の種類を分かち、一半は夢中想見せるものにつきてこれを分かつ。しかして夢には必ず吉凶の信あるものと考えしをもって、その分類は吉凶の種類に従いて設けしものなり。これ、ひとりインドのみならず、シナにても日本にても西洋にても、通俗一般に夢の吉凶を妄信し、夢判じ、夢占い等の法ありて今日に伝わる。「一富士二鷹三茄子」を喋々するは、あにあえてわが国に限らんや。民間すでにこの迷信を有するをもって、夢を利用して人の信用を釣らんとする政略家あり、これに乗じて自ら私利を営まんとする貪欲家ありて、ついに夢は不道徳の巣窟となり、その窟内には詐欺も恐唆も讒誣〔ざんぶ〕も嫉妬もその形を隠し、その身を潜むることなしというべからず。しかれども、夢ことごとく不道徳の巣窟というにあらず。古来伝うるところの奇夢霊夢中には、真に神人交感と称してしかるべき不思議なきにあらず。また最も純良なる理想上に発したるすこぶる高妙の夢境を現ずることなきにあらず。その例証はよろしく『妖怪〔学〕講義録』心理学部門につきて一読すべし。けだし余は夢をもって心界の幽室を開くの秘鍵と信じ、多年その研究に意を注ぎたる結果は同講義録に詳述しおけり。ただ迷信家のいわゆる霊夢と、理想家のいわゆる霊夢と、その間に判然たる界線を引くことあたわざるは、世に迷信の痕跡を絶つことの難きゆえんなり。余は自ら不思議庵主人と看板を掲げおる以上は、ひとり夢のみならず、天地も山川も一として不思議ならざるはなく、春花秋月、山光水色、笑うがごとくこぶるがごときは、真如不可思議の霊性の内にあふれて外に発するものなるを信ず。しかれども、世人の一般に霊夢として不思議を喋々するものを、ことごとく不思議として信ずるにあらず。本来純潔の清流も村落田圃を通過する間に、泥土その中に混じて濁水となり汚水となるがごとく、本来絶妙の不可思議も愚俗迷信の泥水その中に混じてその真相を失うもの多し。故に余輩はこれを哲学のランビキ器械にかけて、本来の純性に復せんことを望む。

 かくして仏書中に散見せる夢説を分析するに、通俗的説明と道理的説明の二類あり。前に掲げし熱気多ければ火を見、冷気多ければ水を見る等とあるは実験的説明なれば、道理的説明というべし。また四大不調をもって夢の起こる原因となすがごときは一種の物理的説明なれば、これまた道理的なり。しかるに『正法念経』に「虫あるに、人の心にあり。もし安適なれば虫よく、好夢なり。もし不安なれば虫瞋り、悪夢なり。」(有虫在人心、若安適虫善好夢、若不安虫瞋悪夢)とあるがごときは通俗的説明なり。また『法苑珠林』(巻四三)には、夢に吉凶あるは宿因に善悪あるによるとなす。その言に曰く、「もし宿に善悪あれば、すなわち夢に吉凶あり、云々。」(若宿有善悪則夢有吉凶、云々)とあり。しかして我人の精神作用によりて夢を現ずるゆえんは、『唯識論』に考うるより外なし。その説によるに、さきに述べしがごとく、第六意識に四種を分かちたる中に、夢中の意識の一種あり、その作用によりて夢を起こすとなす。けだしその意は、夢は感覚と相応ぜずして睡眠中に独起し、夢中の諸境を縁ずる意識なりというにあり。換言すれば、意識が前五識の起こらざるときに、睡眠の心所と相応じてひとりその作用を呈するものこれなり。故に『唯識大意』に夢の現象を説明していわく、「人の能く眠りて夢を見るときは、眼耳鼻舌身の五識皆起らさる時なり、夢に物を見聞し味ふと思ふは、皆第六意識の思慮分別なり、五識の起るにはあらず、夢も見ぬ程に眠り入ぬれは意識も亦滅して唯彼末那識阿頼耶識のみあり。」と。これ仏教上の心理的説明にして、その道理的なること論をまたず。しかるに『梨窓随筆』には、夢は第七識の作用なることを述明していわく、

  夢はこれおほくは第七伝送識の所作なり、梵語には阿陀那〔Adama〕と云を此には伝送と云なり、伝送とはつたへおくるなり、第八の阿梨耶識より第六の意識につたへおくるか故なり、又伝送識を執我識とも云ふ、人寝ときもこの識はかつてねいらずして人のよぶ時我といふことをしるなり、いまだねふりさめぬうちに先知(まつしる)はこの識の所作なり、されとも第六の意識にて分別せぬ間はいまだおきず、この故に人床にありて眠るとき、昼の間に六根にむかふ境を意識におもふ故にこの所作とどまりて床にねふるときかの伝送識これを思想して夢を見るなり、しかるに其夢の中に或は人の家を見、又は日ごろ語をまじへたる人を見ることあり、しかるにはじめ見しその家変して余の家となることあり、又前に見し人も後にはたがひて外の人となることあり、これをいかんと云に第七識の思想念々に遷流するゆへにこの人を思ふとき又かの人の事を思ひ、この家を思ふとき又かの家の事を思ふ、されは人ねぶらさる間は意識たしかに物を分別して外より来事を混乱せず、只一事にさだむるゆへにその始終たがふ事なし、夢の中には意識分別なきゆへに只思想のおこるままに念をうつす、故に夢の次第変して人をも家をもさしかへて見るなり。

 ここに第七伝送識の所作となすは一種の説なり。これによりてこれをみるに、夢は第六識あるいは第七識の作用なりとす。もしまた『宗鏡録』(巻七五)によれば、「夢見の見をば内眼所と名づく。これ慧の分別にして、肉眼見にあらず、云々。」(夢見見者名内眼所、是慧分別、非肉眼見云云)と。又同書(巻七八)には「夢にある位の心は、睡眠を壊するによりて勢力羸劣、心弱くして善悪の業を成すあたわず。覚心はしからず。」(在夢位心由睡眠壊勢力羸劣、心弱不能成善悪業、覚心不爾)とあるのみ。その他二、三の書に見るところのもの、みな同様のことを反覆せるに外ならず。

 夢の虚実に関して『智度論』にややおもしろき問答を掲げり。すなわち左のごとし。

問うて曰く、夢は実なしと言うべからず。何をもっての故に。識心は因縁を得て、すなわち夢中の識を生じ、種々の縁あればなり。もしこの縁なくんば、いかんが識を生ぜん。答えて曰く、無にしてまた見るべからざるをしかも見る、夢中に人の頭に角あるを見、あるいは夢に身の虚空を飛ぶを見るも、人は実に角なく、身もまた飛ばざるなり。この故に実なし。問うて曰く、実に人に頭あり、余処にまた実に角あり。心惑うをもっての故に、人の頭に角あるを見る。実に虚空あり、また実に飛ぶ者あり、心惑うをもっての故に、自ら身飛ぶと見るも、実なきにはあらざるなり。答えて曰く、実に人に頭ありといえども、実に角ありといえども、ただ人の頭に角を生ずるは、これ妄見なり。問うて曰く、世界は広大なり、先世の因縁も種々同じからず。あるいは、余国には人頭に角の生じ、あるいは一手一足なるものあらん、一尺の人あらん、九尺の人あらん。人の角ある、なんのあやしむところぞ。答えて曰く、もし余国の人に角あるはしかるべし、ただ夢にこの国のしるところの人に、角ありと見るは、すなわち得べからざるなり。

問曰不応言夢無実、何以故、識心得因縁便生夢中識有種々縁若無此縁云何生識、答曰無也不応見而見、夢中見人頭有角、或夢見身飛虚空、人実無角身亦不飛是故無実、問曰実有人頭余処亦実有角、以心惑故見人頭有角、実有虚空亦実有飛者、以心惑故自見身飛非無実也、答曰雖実有人頭、雖実有角但人頭生角者是妄見、問曰世界広大、先世因縁種々不同、或有余国人頭生角、或一手一足有一尺人有九尺人、人有角、何所恠、答曰若余国人有角可爾、但夢見此国所識人有角則不可得、

 また『止観』(巻五の二)に、夢は心によりて生ずるか、眠によりて生ずるか、眠と心を合して生ずるか、眠と心とを離れて生ずるかの疑問に対しておもしろき説明あり。曰く、

もし心によって夢あらば、眠らざるもまさに夢あるべし。もし眠によって夢あらば、死人の眠るがごときにもまさに夢あるべし。もし眠、心のふたつ合して夢あらば、眠る人なんぞ夢みざるのときあらん。また眠、心おのおの夢あらば、合しても夢あるべし、おのおのすでに夢なければ合するもまさにあるべからず。もし心を離れ眠を離れて夢あらば、虚空は二を離れたり、まさに常に夢あるべし。

若依心有夢者、不眠応有夢、若依眠有夢者死人如眠応有夢、若眠心両合而有夢者眠人那有不夢時、又眠心各有夢合可有夢、各既無夢、合不応有、若離心離眠而有夢者虚空離二応常有夢、

 余がみるところによるに、仏書中に夢を解して霊妙真実なるがごとくなすものと、また全く虚妄となすものあり。その一例に『慈恩伝』(巻一)に「寺に胡僧、達摩あり。法師が一蓮華に坐し、西に向かって去るを夢みる。達摩ひそかに怪しみ、旦にしてきたってもうす。法師心に喜んで、行を得るの徴なりとなす。しかして達摩に語っていわく、夢は虚妄なり、なんぞ言にかかわるに足らんやと、云々。」(寺有胡僧達磨、夢法師坐一蓮華向西而去、達磨私怪旦而来白、法師心喜為得行之徴、然語達磨云、夢為虚妄何足渉言云云)の語あり。あるいはまた『蕉窓随筆』(巻一)に夢の虚妄なるゆえんを述べて曰く、

凡人寝りて夢みるところは、得喪、歓戚万種の境界、適いて妄ならざるなし。これすなわち日間の見聞せる習気の独頭意識のなすところにして、仏、菩薩および浄土の荘厳微妙なることのごときに至れば、百宵に一夢なし。繋想せざるをもっての故なり。よって知る、無始無明の眠相襲習してやまず、生死の念慮はつねにまさり、信根うたた微薄なるを。なんぞ顧みて勉励せざらんや。

凡人寝而所夢者、得喪歓戚万種境界無適而非妄矣、是乃日間見聞習気独頭意識之所為、而至若仏菩薩及浄土荘厳微妙事百宵無一夢矣、以不繋想故也、因知無始無明眠相襲習不已、生死念慮恒勝而信根転微薄、寧不顧而勉励乎、

 『塵滴問答』と題する書中にも、夢中の現象は無明薫執のしからしむるところとなす。すなわち曰く「平生見る所の夢は多くは気の因みか、又は常の思ひの伏する所か、魂に結れて見る夢のみなれは、多くは是れ妄想に帰して何んの吉凶に預ることなし、是等は皆仏書に云ふ、無明薫執或は思夢の類にして実なき理りなり。」と。また『竹窓随筆』にもこれに類することを示せり。すなわち「ある時、いまだ見ざるの物、いまだ作さざるのこと、いまだ歴ざるの位、夢中に現るるは、すなわち無始の境、任運にしてしかり。また、そのしかるゆえんを知ることなくしてしかるなり。想陰すでに破れば寤寐つねに一なり。幸いに相挙げて力を致さん。」(或時未見之物、未作之事、未歴之位、現夢中者則無始之境任運而然、亦莫知其所以然而然也、想陰既破寤寐恒一、幸相挙致力焉)とあり。しかしてその説には、夢は想をもって成るものなれば、目前の紛々紜々によりて昼間は想をなし夜間は夢をなすという。想とは心所法中の想にして、五蘊中の想をいうならん。また『山海里』と題する書中に、神仏の夢告に関して左のごとき説明をなせり。

  夢は身に受ける物にあらず、心のみにうけぬる境界なるかゆへに体は枕につきて寝て居なから、心のみ山にゆき川にゆき或はたのしみ或はくるしむ事、心にのみうける境界とはたれもしる事なり、しかるに其心なるもの朝に目のさめて夕に眠るまで妄念のたゆる時なけれは、穢てあしき心ゆへ神仏の御こころはうつり来りたまはず、よく寝入よくしづまりて寅の時にもなりぬれは六根なく六境なく心のみ無念無想にしてきよらかなるゆへに、神仏その心にしたしく告しらしめたまへるものなり、これを正夢としるべし、仏神の夢想にかぎらず、しるしある実夢はみな今の妄念なき時の心に現する相なりとぞ思ひしりける。

 これ霊夢と妄夢との別を示せるなり。その他はいちいち挙示するにいとまあらざればこれを略す。要するに、仏教中に往々通俗の不道理的説明を混入せるも、その大半は道理的にして、しかも心理的説明によるものなれば、なんぞこれを古代の妄説として塵芥視するを得んや。ただ仏教の短所は、事実に照らしていちいちその道理を考定せざるにあるのみ。しかれども、これあえて仏教の短所なるにあらず。なんとなれば、仏教は理学にもあらず、心理学にもあらずして、たまたま心理に関する説明あるがごときは、仏教の付録号外に類するもののみ。しかして仏教の本領は涅槃の都城に進入する道を講ずるより外なく、仏一代の説法も経律論の三蔵も、みなその案内記、道中記に過ぎず。故に仏書中に見るところの理学説、心理説のごときは、途上目に触るるところの山川の風光に比すべきものにして、長路の労を慰むるものに過ぎず。もし実験心理の範囲を超過して高等心理なかんずく唯心論、理想論を講ずるに至りては、これ仏教の本領にして、付録号外にあらず。なんとなれば、仏教は心門を開きて真源を窮むるものなれば、高等心理は実に仏教哲学の骨目神髄なればなり。今述ぶるところの夢の説明のごときは、いまだ高等心理の範囲に入らざるをもって、付録号外の一種となすのみ。

 それ夢は実事中の虚事なり。換言すれば、人に夢の存するは事実にして、夢中見るところのものは虚妄なり。故に古来唯心論者が心外の妄境をたとうるに、多く夢の例を用ゆ。仏教も夢に比して説くところはなはだ多し。たとえば『楞伽経』に「いわゆる一切法は幻のごとく、夢、光影、水月のごとし。」(所謂一切法如幻如夢光影水月)とあり。『円覚経』に「生法は本無にして一切はただ識のみなり、識は幻夢のごとく、ただこれ一心のみ。」(生法本無一切唯識、識如幻夢但是一心)とあり、『維摩経』に「この身は幻のごとく顛倒より起こる。この身は夢のごとく虚妄の見となす。」(是身如幻従顛倒起、是身如夢為虚妄見)とあり、『智度論』には「もしくは夢中に、もしくは自身の、もしくは父母等の、もしくは殺し、もしくは死するの因縁、および聚落の破する等を見るも、憂悩、怖畏せず。覚しおわりて思惟するに夢中のごとし。死せずして死を見、畏れずして畏れを見る。一切の三界はみな爾なり。」(若夢中見、若自身若父母等、若殺若死、因縁及聚落破等不憂悩怖畏覚已思惟如夢中、不死而見死、不畏而見畏、一切三界皆爾)とあるの類のごとし。『金剛刊定記』にいわく、「『成唯識論』にいわく、識の所変によりてみだりに我法を見るは、なお幻と夢とのごとし。幻と夢との力の故に、心が種々の外境の相に似て現ずるとき、これを縁じて、執して、実に外境ありとなす。しかるに、夢中に種々の事を見るといえども、その根本を推さば、ただ一つの夢心のみにして、夢滅するとき、夢のことみな滅するをもって、法の中もまたしかり。境が無量といえども、その根本をたずぬるに、ただ一つの識心のみにして、識心滅するとき、境界もしたがいて滅す。」(成唯識論云、依識所変妄見我法猶如幻夢幻夢力故心似種々外境相現、縁此執為実有外境、然雖夢中見種々事推其根本唯一夢心、以夢滅時夢事皆滅、法中亦爾、境雖無量原其根本唯一識心、識心滅時境界随滅)のごとく説明するところはなはだ多し。『竹窓三筆』に世夢と題する一編あり、いとおもしろければ左に全編を掲ぐ(この文『谷響続集』にも転載せり)。

いにしえにいわく、世に処するは大夢のごとし。経にいわく、かえりきたりて世間をみれば、なお夢中のことのごとし、もしといい、ごとしというは、やむをえずしてたとえてこれをいうなり。究極していうときは、すなわち真夢なり、たとうにあらざるなり。人生は少より壮、壮より老、老より死し、にわかに一胞胎に入るなり。にわかに一胞胎より出ずるなり。にわかにまた入り、またこれを出ず。窮まりやむことなきなり。生じてきたるを知らず、死して去るを知らず。蒙々然、冥々然、千生万劫にして自ら知らざるなり。にわかに地獄に沈み、にわかに鬼となり、畜となり、人となり、天となり、のぼりて沈み、沈みてのぼる。皇々然、忙々然、千生万劫にして自ら知らざるなり。真夢ならざるや。古詩にいわく、枕上の片時春夢の中に、行尽すること江南の数千里。今利名にひかれ、万里を往返するは、あに必ず枕上にしかりとなさんや。故に知る、荘生蝴蝶を夢みるに、そのいまだ蝴蝶を夢みざる時もまた夢なり。夫子、周公を夢みるに、そのいまだ周公を夢みざる時もまた夢なり。曠大劫来、一時一刻、夢中にあらざるなきなり。無明を破尽し、朗然として大覚し曰く、天上天下にただ吾独り尊しと。それ、これをこれ夢醒漢という。

古云処世若大夢、経云却来観世間、猶如夢中事、云若云如者不得已而譬言之也、究極而言則真夢也、非喩也、人生自少而壮、自壮而老、自老而死、俄而入一胞胎也、俄而出一胞胎也、俄而又入、又出之、無窮已也、而生不知来、死不知去、蒙々然冥々然、千生万劫而不自知也、俄而沈地獄、俄而為鬼為畜為人為天、升而沈、沈而升、皇々然忙々然、千生万劫而不自知也、非真夢乎、古詩云、枕上片時春夢中、行尽江南数千里、今被利名牽往返於万里者豈必枕上為然也、故知荘生夢蝴蝶其未夢蝴蝶時亦夢也、夫子夢周公其未夢周公時亦夢也、曠大劫来無一時一刻而不在夢中也、破尽無明朗然大覚曰天上天下惟吾独尊、夫是之謂夢醒漢、〔*1=『日本仏教全書』では卻 *2=同書では喩〕

 荘子蝴蝶を夢む、そのいまだ蝴蝶を夢みざるときもまた夢なり、孔子周公を夢む、そのいまだ周公を夢みざるときもまた夢なりとあるは、はなはだ妙なり。無始劫来一時一刻として夢にあらざるはなしと。実にしかり、ひとたび母胎に宿りしよりついに墓下に入るのときまで、すべてこれ夢なるのみならず、そのいまだ母胎に宿らざる前も夢にして、墓下に入るの後もまた夢なり。生前死後三界六道の間に客居し、一昇一沈する間はみなただ夢のみ。これ虚夢にあらずして実夢なり、似夢にあらずして真夢なり。すでに六道生死をもって真夢なりと知らば、他日大覚のときあるや決して疑うべからず。これ仏教の人生観にして、あわせてその悟道の基づくところなり。しかるに余おもえらく、人生もし全くこれ夢にして覚にあらず、虚にして実にあらずとするときは、これを夢とするもまたこれ夢、他日大覚あるを知るも同じくこれ夢なりといわざるべからず。夢を夢とするはこれ夢にして、夢にあらざるものを夢とするもまたこれ夢といわざるべからず。かくいうわれも夢なればかれも夢なり、時間も夢なれば空間も夢なり、宇宙も夢なれば神仏も夢なり。かくのごとく観じきたらば、成仏も悟道も説くべからず、涅槃も菩提も信ずべからず。故に余は人生を夢幻視すると同時に、人生を現実視せんことを望む。これを夢幻視するは消極的方面の観察にして、これを現実視するは積極的方面の観察なり。両方面の観察相待ちて、始めて転迷開悟の要道を説くべし。けだし余は仏教の有空中の三段の妙理はここにありて存するを知る。これを要するに、およそ我人の人間界を観察するに、初めに消極観を起こして世上万事夢のごとく幻のごとく、一切みな妄仮無実と払い去り、生老病死の苦厄、天災人災の患難も、またみな夢中の妄境と観じきたり、後に積極観を起こしてこの世界、この人間は元来真如より開発したるものなれば、われも人もみな真如の化身分体にして、その見るところの諸象も、そのおるところの諸境も、みな現実にして虚妄にあらず、いわゆる即身是仏此土寂光と悟達せざるべからず。ああ、我人は無始時来生死路頭の迷人なると同時に、久遠劫来涅槃界裏の真人なりとは、あに不思議中の不思議にあらずや。これ実に哲理の妙致、宗教の玄旨なれば、よろしく深く味わいて感得すべし。

 

     第八講 思想論

 すでに前五識および第六意識を論じてここに至れば、大乗唯識所立の八識心王中、第七末那識、第八阿頼耶識のことを述べざるべからず。しかしてその略解は第一講第三段の下に出だせるも、更にここに

  第一段 末那識論

  第二段 阿頼耶識論

の二段を設けて、その名義および性質を弁明せんと欲す。

       第一段 末那識論

 まず末那識の義解を考うるに、

『唯識論』(巻四)にいわく、次は第二能変なり。この識を末那と名づく。彼(第八識)によりて転じ、彼を縁じて、思量するを性とも相ともなす。以上この識をば聖教に別に末那と名づく。つねにつまびらかに思量すること、余の識にすぐれり。

『百法論解』(巻上)にいわく、末那識は華には意識という。蔵識の名のごとし。識は意に即するが故なり。第六意識は眼識の名のごとし。識は意と異なるが故なり。しかるにもろもろの聖教、これとかれを濫ずるを恐れるが故に第七において、ただ意の名を立つ。また心と識とをえらぶは、績集と了別とをもって余の識より劣るをもっての故なり。あるいは、これとかの意識と、近き所依たることをあらわさんと欲するが故に、意の名を立つるのみ。

『百法論直解』にいわく、梵語「末那」、ここに翻じて意となす。それによりて、つねにつまびらかに思量するを性とも相ともなすが故に。しかるに前の六識は時に起こり、時に滅す。たとえば水波のごとし。第七末那は無始より相続してみだりに我と法と執す。たとえば水流のごとし。

『百法問答抄』にいわく、末那は梵語なり。これを意という。意は思量の義なり。この識はつねに内に起こり、阿頼耶識の見分を縁とし、我我を思量するが故に末那と名づくなり。思量は思慮の義なるが故に。意の名は一切の心法に通ずといえども、我我の思量は恒時に間断なきが故に、この識のみひとり思量の義まさるが故に末那と名づくなり。

唯識論(巻四)云、次第二能変、是識名末那、依彼(第八識)転縁彼思量為性相、以上是識聖教別名末那、恒審思量勝余識、〔*1=数行の省略あり *2=勝余識故〕

百法論解(巻上)云、末那識華言意識、如蔵識名識即意故、第六意識如眼識名識異意故、然諸聖教恐此濫彼故於第七但立意名、又以簡心之与識以積集了別劣余識故、或欲顕此与彼意識為近所依故立意名爾、

百法論直解云、梵語末那、此翻為意、由其恒審思量為性相故、然前六識時起時滅喩如水波、第七末那無始相続妄執我法喩如水流、

百法問答抄云、末那者梵語也此云意、意者思量之義也、此識恒起内縁阿頼耶識見分思量我我故名末那也、思量者思慮之義故意名雖通一切心法我我思量恒時無間断故此識独思量義勝故名末那也、

  『唯識大意』にいわく、末那識、凡夫の心底常に濁りて前の六の心は清く起る時も、我身我物と云差別の執失せず、心の奥いつとなく酔るか如くなるは此末那識の有に由りてなり。

 更に『翻訳名義集』の解を掲げん。

末那は唯識には意と翻じ、あるいは執我といい、ここに染汚意と翻ず。いわく、我痴、我見、我慢、我愛の四惑と常に倶なるが故に染汚と名づけ、常につまびらかに思量するを、これを名づけて意となす。第八の度量を思慮するを我となす。かくのごとき思量はただ第七にのみありて、余の識には無きところなり。故にひとり意と名づく。また、よく了別するを、これを名づけて識となす。前の六識は根によりて名を得る。この第七の識は当体に号を立つるなり。

末那、唯識翻意、或云執我、此翻染汚意、謂我痴、我見、我慢、我愛四惑常倶故名染汚、常審思量名之為意、思慮第八度量為我、如是思量唯第七有余識所無、故独名意、復能了別名之為識、前之六識従根得名、此第七識当体立号、

 以上の諸解によりて第七識の意義すでに明らかなり。これを要するに、第七末那識は小乗家においていまだ唱えざるところなれども、大乗は我法迷執のよりて起こる根元を示すためにこの一識を立つるに至る。その体は第八識を所依とし、その作用は第八識能縁の作用を所縁として起こるものなり。換言すれば、阿頼耶識の見分を縁として実我実法ありと思量するものをいう。故にこれ我法二執の起こる根源にして、迷執のよりて生ずる本源なれば、あるいはこれを名付けて無明識または智障識と称す。これを今日の心理学に考うるに、別にかくのごとき名称を設くるを要せずといえども、仏教は元来宗教にして、ことに世間外道の実我実法論者に対して我法二空の理を示さんことを目的とするものなれば、心王中に特にこの一種の識体を立つるに至る。しかしてその作用は外界に対して起こるものにあらざれば、これを内門転となす。かつその生起するや間断なく昼夜常に継続す、故に『唯識論』に恒審思量と解せり。たとえば第六意識は外界に対して五識とともに起こるときと、また外界を待たず内界のみにて起こるときとあり。故にその作用は内門転、外門転の二者を兼ぬるなり。また第六意識は昼間覚時においてはその作用の発現を見、夜間熟睡のときのごときは全く休止するも、第七末那識は常に休止することなし。これ、第六意識と第七末那識との相違なり。これを西洋心理学の上に考うるに、心王八識は智、情、意中智力作用に当たり、そのうち前五識は感覚に当たり、第六識は想像および思考作用に当たることは、前すでに述ぶるところにつきて明らかなり。しかして第七末那識はやはり思考作用すなわち推理作用に当たるべし。仏教学者中、往々説をなすものありていわく、西洋の心理学の小乗程度の浅見にして前六識を知るにとどまり、第七識第八識を知るの力なし、これ仏教心理の西洋心理にまさるゆえんなりと。余をもってこれをみるに、仏教には仏教の長所あり、西洋には西洋の長所あれば、われもしその長所を挙げて彼に誇らば、彼またその長所を挙げてわれに誇らん。その結局、天狗の鼻比(はなくらべ)となりて終わらんのみ。あたかも駿州人はわが国には日本第一の高山あるをもって日本第一の国なりといい、江州人はわが国には日本第一の大湖あるをもって日本第一の国なりといいて、互いに自負するがごとし。もし心理の高下をもって論ずれば、西洋心理は仏教に一歩を譲らざるを得ずといえども、心理の精粗をもって較すれば、仏教心理ははるかに西洋の下流に立たざるべからず。第七識第八識のごときは、これに相当せる名称は西洋心理中に見ざるところなりといえども、かくのごとき思想のよりて起こるゆえんは、西洋心理によるもなお説明するを得べし。しかるにその名目を設けざるは、仏教心理とその目的を異にせるによる。そもそも西洋心理は実験上の事実を概括抽象して、その裏面に貫通せる性法を考定せんとし、仏教心理は心理上の作用を説明して、既定の一大真理に悟入する門路を開達せんとす。前者は村落碁布、田圃縦横の平原を望むがごとき観あり、後者は四時白雪を冠し雲表に巍立せる高山を仰ぐがごとき観あり。余、先年富嶽に登れり。山高く路険なるも、一四、五丁ごとに石室の茶店あり。人みなここに一休みして登る。山麓より絶頂までこれを一〇階段に分かつ。盛夏登山の際は各階段に茶店を設け、その第一を一合目の茶屋と称し、第二を二合目の茶屋と称す。以下これに準ず。その各合目の距離一里と唱うるも、その実一四、五丁に過ぎず。かくしてようやく登り、八合目九合目を経て一〇合目に達すればまさしく絶頂なり。余、仏教心理を講ずるごとに富士山に登るがごとき感あり。すなわち小乗の六識、大乗の八識を通過しきたれば、登山の途次六合目もしくは八合目に達するがごとき思いをなす。もし実大乗に入りて第八識の上に更に第九識第十識を立つるがごときは、富士絶頂に達するがごとき観あり。余いま前六識を講了して第七識に至れり。これ七合目の茶屋に達するものなり。しばらくここに一休みして疲倦を医し、これより第八合目の阿頼耶識に向かいて登らんとす。

       第二段 阿頼耶識論

 まず第八識の義解を考うるに、

『百法論解』にいわく、華に蔵識というは、よくもろもろの種を含蔵するが故に。また三蔵の義を具するが故に。いわく、能蔵、所蔵、執蔵なり。雑染と互いに縁となるが故に、情執あるを自らの内我となす故に。この三義によりて蔵の名を得るは、すなわち識なり。

『百法直解』にいわく、阿頼耶識はすなわちたとえば水のごとし。梵語の阿頼耶は、ここに翻じて蔵となし、具には能蔵、所蔵、執蔵の三義あり。もしこの識なければ、すなわち根身これだれか執受せん。器界これだれか変現せん。一切の善悪、漏、無漏の種、これだれか摂受せん。しばらく吾人疲倦して熟睡するがごとき、夢想ともに無の時、前の六転識はともに現起せず。もしこの識なければ、あに死人に同じからざらんや。すでに夢なく、想なきも、なお死人にあらず。験知するに必ずこの第八識あり、第七識の微細の我執とともに、なお自らともに転ず。しかるにこの第八識、決して実我、実法にあらず。もしこれ実我、実法ならばすなわちまさに常に変易なかるべし。しかしてこの識はすなわち先世の引業の招くところより、異熟果と名づく。すでに業の招くによりて、すなわち常住にあらず。また善業ならばすなわち天人の楽報を感じ、悪業ならばすなわち三塗の苦報を感じ。六道に往来するはなお車輪のごとし。形を変じ、貌をかえ、かつて一定なし。あにこれ実我、実法ならんや。

百法論解云、華言蔵識能含蔵諸種故、又具三蔵義故、謂能蔵所蔵執蔵也、与雑染互為縁故有情執為自内我、故由斯三義而得蔵名、蔵即識也、

百法直解云、阿頼耶識則喩如水、梵語阿頼耶此翻為蔵、具有能蔵所蔵執蔵三義、若無此識則根身是誰執受器界是誰変現一切善悪漏無漏種是誰摂受、且如吾人疲倦熟睡、夢想倶無之時、前六転識倶不現起、若無此識豈不同於死人、既無夢無想仍非死人、験知必有此第八識、与第七識微細我執仍自倶転、然此第八識決非実我実法、若是実我実法則応常無変易、而此識者乃従先世引業所招名異熟果、既従業招便非常住、又善業則感天人楽報、悪業則感三塗苦報、往来六道猶如車輪、変形易貌曾無一定、豈是実我実法哉、

  唯識大意云、八には阿頼耶識是一切諸法の根本也、諸法の種子を摂して持てる心也、此心なくば諸法の種子をは誰れか是を持たん、持ち摂むる所なくは何に由てか生せん、前の七の心は皆種子を持つこと能はず、其道理教文をば是を略する也、此八識に取りて前の六識は不起をりもあり、其様又さまざまなれども、且く人の能く眠りて夢を見る時は、眼耳鼻舌身の五識皆起らさる時なり、夢に物を見聞し味ふと思ふは皆第六識の思慮分別なり、五識の起るには非ず夢も見ぬ程に眠り入りぬれは、意識も又滅して唯彼末那識阿頼耶識のみあり、されは此二つの心はいかなる時も起らずと云ふことなし、生る時も死る時も覚ても寐ても長時に相続して永く絶ざる心也、此二つの心ありと云事は極て知り難し、中にも阿頼耶識は極て甚深なり微細なり、故に小乗浅近の教中には之を説かず、大乗究竟の教の中にのみ之を説く、云云。

 もし『唯識論』によらば、「この識にはつぶさに能蔵と所蔵と執蔵との義あり、云々。」(此識具有能蔵所蔵執蔵義云云)とありて、その三蔵の義は『名義集』に解すること左のごとし。

一、能蔵はすなわちよく含蔵するの義なり。なお庫蔵のよく宝具を含蔵するがごときが故に、蔵の名を得る。これよく雑染の種を含蔵するが故に、これを名づけて蔵となす。またすなわち持の義なり。

二、所蔵はすなわちこれ所依の義なり。なお庫蔵のごとく、これ宝等の所依なるが故に、この識これ雑染法の所依処なるが故なり。

三、執蔵は堅守にして捨てざるの義なり。なお金銀等の蔵、人のために堅守なるがごとし。執して自らの内の我となすが故に、名づけて蔵となす。この識を染となす。末那堅く執して我となすが故に、名づけて蔵となす。

一能蔵者即能含蔵義、猶如庫蔵能含蔵宝具故得蔵名、此能含蔵雑染種故名之為蔵、亦即持義、

二所蔵者即是所依義、猶如庫蔵是宝等所依故、此識是雑染法所依処故、

三執蔵者堅守不捨義、猶如金銀等蔵為人堅守、執為自内我故名為蔵、此識為染末那堅執為我故名為蔵、

 これを解するに、能蔵所蔵とは第八識と前七識と対望して立つるところの名目にして、第八識は一切の種子を包蔵せるをもって能蔵なり。第七識は第八識中に種子を薫習する作用あれば、これに対して第八識所蔵となる。故に第八識と前七識とは互いに能蔵所蔵の作用ありと知るべし。つぎに執蔵とは第八識と第七識と対望し立つるところの名目なり。第七識は第八識の能縁の作用を見て我法二執を起こすをもってこれを能執蔵とし、第八識はその反対なればこれを所執蔵とす。これを要するに、第八阿頼耶識はその中によく一切諸法の種子を含蔵して、よく一切諸法を生起するをもって蔵識の名あり。また一切諸法の生起する根本なれば、あるいはこれを名付けて根本識もしくは本識という。けだしその種子は西洋哲学の元子にして、ライプニッツおよびロッツェ諸氏の唱うるところの元子に近し。故に唯識哲学は一種の元子論というべし。しかれども、もし元子の性質作用を論ずるに至りては、唯識家とライプニッツ氏とはもとより大いに異なるところあり。唯識家は唯心論の根基の上に元子を立つるものなれば、唯心的元子論というべし。この論を成立するに、左の諸目につきて一言を費やさざるを得ず。

  (甲)種子論  (乙)四分論  (丙)三量論  (丁)三類境論

 これ『唯識論』を構成する柱礎なり、屋壁なり、棟梁なり。まず、

 (甲) 種子論とは、物心万有の元子が開発生起して世界の諸象を変現するゆえんを論定するをいう。『唯識論』の原則に「種子は現行を生じ、現行は種子を薫ず。」(種子生現行現行薫種子)とありて、物心万有の種子が開発せるを現行といい、その現行より種子を伝播するを熏ずという。左に『唯識大意』の俗解を転載すべし。

  先つ種子と云は何なる物、何として出で、何様に物をば生するを種子と申候へば色心の諸法の気分なり、色にも各実法あり、仮法あり、其中に実法は皆種子より生して種子を熏す、熏すと申すは己れが気分を止め置くなり、留め置様は先つ暫く眼識起りて色を見るかとすれば頓(やが)て滅す、滅すかとすれは頓て生す、生すかと申せば頓て色を見るなり、此の如く念々生滅する間、其知らるる色も、見る眼識も、生するときは、必す己れか気分より生し、滅する時も各己れが気分を残す、残す所の気分は色のも心のも皆隠れ沈んで其形見難し、併しなから阿頼耶識の中に落ち集まる、此気分を種子と名く、此種子より色心の生するをば現行と名く、色は色の種子より現行し、心は心の種子より現行す、必す己れか気分より現行して、他の気分よりは現行せず、現行すと申候は種子にて有時、隠れ沈みたるが現はれ起るを申すなり、眼識の如く耳識の起て声を聞き、乃至末那識が阿頼耶識の見分を縁するも、皆此の如く種子を熏するなり。

 この説明にて知らるるごとく、阿頼耶識の胎内に包蔵せる万法の種子が現行して、森羅の諸象を生起し、その生起の結果は再び種子となりて、阿頼耶識の胎内に包蔵せらるるに至る。あたかも春時にありて、土蔵中より穀物の種子を取り出して田畝へ植え付け、秋時に至りて穀物を収穫して、再びその種子を蔵中に蓄えおくがごとし。かくして種子は現行となり、現行は種子となり、イタチゴッコのごとく更互循環して際限なし。これを三法展転因果同時と名付く。三法とは、能生種子と所生現行と新熏種子とをいう。その関係を『唯識論』にたとえて「炷の焔を生じ、焔生の炷を燋がす。」(炷生焔、焔生燋炷)〔*=焦〕とも、また「束蘆の更互に相よる。」(束蘆更互相依)ともいえり。これ、ひとり第八識と前識との関係のみに限らんや、人間万事みなかくのごとし。たとえば人と社会とは更互相待ち相より、人の意向は社会に現行し、社会の風潮は人を感化し、商人は社会より利益を得てまた社会を利益し、学者は社会より教育を得てまた社会を教育す。かくして貧者は富者を待ち、富者は貧者を待ち、貴は賎を待ち、賎は貴を待ち、君臣相待ち、父子相待ち、師弟相待ち、人間社会はかく相持ちならざるはなし。蛇は蛙に勝つもナメクジに勝つあたわず、ナメクジは蛇に勝つも蛙に勝つあたわず、蛙はナメクジに勝つも蛇に勝つあたわず、これを「三すくみ」という。人間万事「三すくみ」のごとし。人は動物を食し、動物は植物を食し、植物は人を食す(人を食すとは、人の排泄せるものを食して生育するをいう)。人よく高等動物を殺し、高等動物よく下等動物を殺し、下等動物よく人を殺す(動物よく人を殺すとは、人の病は多く顕微鏡的細虫もしくは最小の有機物より生じ、ついにこれによりて倒さるるをいう。たとえば肺病のごとし)。果たしてしからば、人の生まるるも「三すくみ」にして、死するも「三すくみ」なり。「三すくみ」は実に宇宙の原則と称して可なり。三法展転因果同時もまた一種の「三すくみ」なり。世界万事みな「三すくみ」たるを知らば、禍間に福を浮かべ、苦中に楽をわかし、三界六道の苦境を一変して無上の楽園となすも、あに難からんや。およそ種子に名言種子と業種子との二類あり。名言種子とは諸法の親因となるべき種子にして、ただちに諸法を生起する原因となるものをいう。業種子とはよく名言種子の親因を助けて現行せしむる種子にして、これ助縁なり。また、種子に本有と新熏との二種を分かつ。本有種子は無始以来法爾として自存せるものをいい、新熏種子とは前七識の現行より第八識中に熏習せるものをいう。『唯識論』および『述記』によるに、インドにありて護月論師はただ本有説を唱え、難陀論師はただ新熏説を唱え、護法論師は新旧合生論を唱えたりという。その関係は、あたかも西洋哲学において知識の起源に関して、ライプニッツ氏は本然論を唱え、ロック氏は経験論を唱え、カント氏は一半本然論、一半経験論を唱えたるに類す。けだし東西理想の発達は同轍を通過しきたるものか。しからずんば、決してかくのごとく両者の間に一致するところあるべからず。道の相去るや、東西数千里にして、その間更に交通往返なしといえども、道を行くに足を用い、物を握るに手を用い、雨露をしのがんと欲して家を建て、寒暑を防がんと欲して衣を製するがごときは、いずれも一轍に帰するを見る。これと同時に、心性発達の順序は最初感覚に始まり、つぎに情を生じ、つぎに智を聞くがごときも、古今東西すこしも異なることなし。これをもって、哲学の発達も古来東洋西洋の間、同一の方針に向かいて進行せるを見る。その他、種子論は『唯識論』の講義に譲る。

 (乙) 四分論とは、唯識所変の理を建立するに必要なる心理作用を論ずるをいう。これ実に仏教心理の要目なり。四分とは相分、見分、自証分、証自証分の四種にして、相分とは、吾人が外界に対するとき心面に浮かぶところの事物の現象相状をいう。すなわち目前の諸象にして心面の影像なり、換言すれば物象なり。見分とは、その影像を見照了別する作用にして、すなわち知覚上の認識なり。自証分とは、その見分を証知認識する作用なり。証自証分とは、更にその自証分を証知認識する作用なり。もし相分と見分とを対すれば、相分は所縁所観にして、見分は能縁能観なり。換言すれば、比較上相分は客観にして、見分は主観なり。この見分に対しては自証分能縁となり、この自証分に対しては証自証分能縁となり、しかして証自証分に対しては自証分能縁となる。もしその関係を鏡の比喩によりて説明するに、相分は鏡像のごとく、見分は鏡面のごとく、自証分は鏡体のごとく、証自証分は鏡背のごとしという。あるいはまた四分のたとえに、他国より名鳥を某国王に献ずるものあり、その国の奏者これをうけ取りて王に告ぐ。王これを見て曰く、これはこれ孔雀なり、あるいは鳳凰なり、この国になきところなれば愛すべしと。史官、王の語を聞きて、このことを記しおわる。王また史官の記するところ差なきや否やを見て、かくのごとくなれば、すなわちあやまることなしという。名鳥は相分、奏者は見分、王は自証分、史官は証自証分にたとうるなり。『百法問答抄』に「八識はその体、凝一なりといえども、功能転変して四つに分かるなり。」(八識雖其体凝一功能転変分四也)とありて、一心の作用を分かちて四種となす。かくのごとく論ずるときは、相分は心外に存するもののごとしといえども、その実心内所現なり。なんとなれば、相分の本体を本質と名付く。その質は第八阿頼耶識の相分なり。故に『唯識論』には「もろもろの内識転じて我法の外境の相に似て現ず。」(諸内識転似我法外境相現)とありて、目前の諸象はみな唯識所変となすなり。かれも唯識なればこれも唯識なり、大なるも小なるも唯識なれば、遠きも近きも唯識なり、笑う春の山の色も、歌う秋の水の声も、富士峰頭にいただける千古の雪も、太平洋上に横たわる万畳の雲も、一として唯識所変にあらざるはなし。これを「森羅万象はただ識のみの変ずるところ。」(森羅万象唯識所変)という。果たしてしからば、泣くも笑うも、喜ぶも怒るも、哀れむも苦しむも、またみな唯識所変の理より生ぜざるはなし。我人もし一大活眼を開きてこの理を徹照しきたらば、たちまち羽化登仙して別天地に逍遥するに至らん。今、四分を立てて論ずるも、全く唯識の理を証明するに外ならず。

 (丙) 三量論とは、現量、比量、非量の三種の論理作用を論明するをいう。現量とは直接的知識にして、感覚知覚上の作用なり。比量とは間接的知識にして、想像および推理上の作用なり。しかして非量とは知覚および推理の誤用なり。たとえば東京にて、現に墨堤東台の桜花を見て、その色を感覚するは現量にして、その花につきて故郷もしくは嵐山吉野の花を推想比知するは比量なり。しかして非量には似現量と似比量との二種を分かち、似現量とは感覚知覚上の誤謬にして、杭を誤り認めて人となすがごとし、なお幻覚というがごとし。似非量とは雲霧を誤り認めて煙となし、もって邪に火ありと推知するの類なり。これを八識に配合するときは、現量は前五識、第六識、第八識に関し、比量は第六識、非量は第六識および第七識に関するものとなす。また四分を能量、所量、量果に配することあり。すなわち能量とは量は量度の義にして、識心の作用によりて外界を量度するをいい、所量とはこれによりて量度せられたる境遇をいい、量果とはすでに量度し終わりたる位をいう。これを丈尺をもって物品を量るにたとう、すなわち物品を所量に比し、丈尺を能量に比し、これによりて何尺何寸あることを定むる智を量果に比するなり。もしこれを四分に配合すれば左のごとし。

  第一、相分は所量、見分は能量、自証分は量果なり。

  第二、見分は所量、自証分は能量、証自証分は量果なり。

  第三、自証分は所量、証自証分は能量、自証分は量果なり。

  第四、証自証分は所量、自証分は能量、証自証分は量果なり。

故に相分はただ所量、見分は能量、所量に通じ、後二分は能量、所量、量果の三に通ずるなり。これ仏教心理中、特に論理作用に与うる名目なれども、この作用によりてやはり唯識所変の理を成立するなり。たとえば一棟の家屋を構成するに、材木も土石も縄も釘も要するがごとく、四分三量等はみな唯識の一家を構成するに要するところの道具なりと知るべし。

 (丁) 三類境とは、性境、独影境、帯質境の三種にして、性境とは、真実の境を義とし、能縁の心によりて所縁の境の真相を覚知するをいう。たとえば眼等の五識が外境を認識するときのごときこれなり。独影境とは、影は影像を義とし、心外にその体なき虚影を妄見するをいう。たとえば第六識がみだりに亀毛を見、空華を認むるの類、これなり。帯質境とは、帯は兼帯を義とし、質は本質を義とし、能縁の心が本質の自相を得ずといえども、その境相本質に似て生ずるをいう、すなわち第七識が第八識を縁ずるときのごときこれなり。しかして本質とは相分の本体なれば、外界の物質の本体をいう。もしこれを細説するがごときは、『唯識論』の講義に譲ることとなす。ただ余はこれより大乗仏教の骨目たる唯心の道理を考証し、あわせて論明せんと欲す。よって更に左の二段を設く。

  一 唯心の考証

  二 唯心の論明

 一 唯心の考証は権大乗と実大乗とその説くところおのおの異なれば、ここにもっぱら『唯識論』と『起信論』とによりて唯心論の異同を示さんと欲す。まずこれを『唯識論』に考うるに、

実に外境はなく、ただ内識のみあって、外境に似て生ぜり。(巻一の三)

実に外色はなく、ただ内識のみあって、変じて色に似て生ず。(巻一の二三)

愚の分別するところのごとき、外境は実にみななし。習気心を擾濁す。故に彼に似てしかも転ず。(巻二の九)

実無外境唯有内識似外境生(巻一ノ三)

実与外色唯有内識変似色生〔*=実無外色〕(巻一ノ二三)

如愚所分別、外境実皆無、習気擾濁心、故似彼而転、(巻二ノ九)

 これ権大乗の唯心論なり。『法相名目』(巻中本)に一、二の経を引きて唯心を考証して曰く、

『無垢称経』にいわく、心清浄なるが故に有情は清浄なり等。

『解深密経』にいわく、もろもろの識の所縁はただ識のみの現ずるところ等。

『阿毘達磨経』にいわく、鬼、傍生、人、天等、一種の水を人は水と見、天は瑠璃と見、魚は宮殿と見、餓鬼は火と見るは、指事にしたがって、ただ識のみを見るが故なり。

無垢称経云、心清浄故有情清浄等、

解深密経云、諸識所縁唯識所現等、

阿毘達磨経云、鬼傍生人天等、一種水人見水、天見瑠璃、魚見宮殿、餓鬼見火、随指事見唯識故、

 『義林章』にも、唯識義林の一章あり。その中に曰く、

『厚厳経』にいわく、心、意、識の所縁は、みな自性を離れるにあらず。故に我、一切はただ識あるのみにして余はなしと説きたり。華厳等に説く、三界はただ心のみなり。遺教経にいう、この故に汝等まさに好く心を制すべし、この一処に制すれば、こととして弁ぜざるなし。

厚厳経云、心意識所縁皆非離自性、故我説一切唯有識無余、華厳等説三界唯心、遺教経言、是故汝等当好制心、制之一処無事不弁、

 以上、唯心の説は唯識部類の書中いたるところにこれを見るといえども、その証明に至りてはいまだ精細に論じたるものあるを見ず。すべて仏書中には種々の論を立つるのみにて、いちいちこれを証明することなし。たまたま証明あるもその論理極めて疎にして、今日の人に満足を与うること難し。故に今後の仏教学者は、広く西洋実験の諸学に照らして証明することを怠るべからず。もし理論一方よりこれをみれば、仏教の法体恒有説も、唯識所変説も、三界一心説も、一念三千説も、即事而真説も、実に妙を極め美を尽くすといえども、その証明の疎にしてくわしからざるがためにその光を発揚することを得ざるは、実に遺憾なきあたわず。これをたとうるに、医師の診断治療ともにその妙を得たるも、これに投ずる薬剤不良なるために、その妙手を示すことあたわざるがごとし。今日わが国において名医国手と呼ばるる大家に草根木皮を与えて治療を施さしむるも、決してその効力を見ることあたわざると同一般なり。あるいは能書をもって名ある大家に悪筆、悪紙、悪墨を与えて毫を揮〔ふる〕わしむるときは、位置配合はそのよろしきを得るも、能書の実を示さしむること難きがごとし。諺に「能書筆を選ばず」というも、その実、書家ほど筆墨を選ぶものなし。筆墨ともにその佳なるものを得て、始めて書家の実を挙ぐることを得るなり。仏教の妙理もこれと同じく、従来用いきたれる証明の材料極めて陳腐あるいは粗悪にして、あたかも玉に泥を塗りたるがごとき観あり。ついに、今日の世界にその光輝を放つことを得ざるの不幸に逢遇せり。故に今より後は精確明晰なる事実材料を彙集しきたりて、千古不朽の金言を世界に顕彰することをつとめざるべからず。今、法相部類の書中に見るところの二、三の証明を挙げてこれに批評を下さんとするに、『覚夢抄』(巻上)に『阿毘達磨経』中所説の四智を掲げたる下に、唯心の証明となるべき事実を示せり。すなわち左のごとし(『唯識述記』巻七末一二以下参見)。

(一)一処おいて、鬼、人、天等は、業因の力にしたがいて所見各別なり。鬼は見て火となし、人は見て水となし、天は瑠璃と見、傍生は宅と見る。かくのごとき等の見、種々不同なり。境もし実有ならば、あにかくのごとく能見の者の業因の差別にしたがいて、種々転変すべけんや。

(二)過去、未来、夢等の非実の境を縁ずるとき、境は実有にあらざれども心は現に可得なり。心もし必ず外境に託して起こらば、かくのごときのとき、そのこといかん。これをもって例して一切の境界を知るべし。

(三)もし境体、定めて実有ならば、一切の凡夫みなまさにこれ聖なるべし。本来、心外の境を悟証するが故に。もししからば功用を仮らずして自然に解脱を得べし。なんぞしからざるや。

(四)すでに心自在を証得せる人は、自らの所欲にしたがいて水等を転変すること、みなよく成ず。境もし実ならばなんぞかくのごとくに心を転じて変転すべけん。・・勝定を得て法観を修する者は、一境を観ずるにしたがいて青瘀等の相、種々顕現す。境もし実ならば、あにかくのごとく心にしたがいて顕現すべけん。・・実を証する無分別智を起こせば、一切の境相みな現前せず。境もし実ならば、いかんぞかくのごとく実を証する智の前に、みな現ぜざるや。

(一)於一処鬼人天等随業因力所見各別、鬼見為火、人見為水、天見瑠璃、傍生見宅、如是等見種々不同、境若実有豈可如是随能見者業因差別種々転変、

(二)縁過去未来夢等非実境時、境非実有心現可得、心若必託外境起者如是之時其事云何、以此例知一切境界、

(三)若境体定実有者一切凡夫皆応是聖、本来悟証心外境故、若爾不仮功用自然可得解脱、何不然耶、

(四)已証得心自在人随自所欲転変水等事皆能成、境若実者者寧可如是転心変転、・・得勝定修法観者随観一境青瘀等相種々顕現、境若実者豈可如是随心顕現・・起証実無分別智一切境相皆不現前、境若実者云何如是証実智前皆不現乎、

 これやや唯心の理を証明するもののごときも、わずかにその第一証は多少証明の功力あるも、第二、第三、第四は唯心の証明となすに足らず。たとえ仏教以内においてはその功力あるも、仏教以外に対しては全くその用なきものなり。そのうち第二証のごときは一種の比喩にして、人に唯心の理を了解せしむるに便なるも、論理上の功用を有せざること明らかなり。古代インドにありては仏教と外道との争論すこぶるさかんにして、互いに理を究め義を闘わし、もって是非正邪を争いたるに相違なきも、いかんせん当時実験の諸学いまだ興らざりし故、互いに空想をもって相論じたるに過ぎず。その後仏教はシナを経て日本に入り、多少の発達ありしは疑いなしといえども、シナ、日本ともに実験学を欠きしのみならず、当時にありては仏教と相争うべき強敵なく、仏教は独り相撲を取るより外なきありさまなれば、いかなる陳腐の事実によりて証明を与うるも、これを聴くものみな唯々諾々黙従するのみなりき。これをもって、論理上の証明は更に発達することなく、二〇〇〇年以前と今日とこれを較するに、更に異なることなし。故に方今、西洋実験学の上下一般に行わるる状態よりこれを見るに、仏教は高妙の真理をそなえながら、実に卑近陳腐の外観を示せり。あたかも貴族が賎民の衣服を着せるがごとし。今より早く旧衣を脱却して、これに代うるに新衣をもってせば、たちまち貴族の真相を示すことを得べし。故に余は、仏教がその旧衣を脱するとき至れりという。

 かくのごとく論じきたるときは、人必ず疑いを起こして仏教をしてインド伝来の旧衣を脱して、西洋輸入の新衣を着せしむるは、仏教そのものを西洋化するの嫌いありて、ひとり仏意に背くのみならず、仏教のいくぶんを殺害するの恐れありと難ずるものあらん。かくのごとき論者は、わが維新前における攘夷党の類にして、時勢に適応するゆえんを知らざる盲目の輩のみ。たとえば親がその子の旅行するに当たり、時なお寒きをもってこれに綿衣(わたいれ)を与えたれば、その後、日一日より暖を加え、単衣(ひとえ)なお暑きを覚ゆるに至りたるも、その子はひとたび親の与えたる錦衣なれば、いかに三伏金をとかすほどの炎暑といえども決して脱却すべからずといいて、頑として動かざるものとなんぞ異ならんや。故に余は、仏教の唯心の妙理は内外東西の諸書に考え、諸学に徴して論定せんと欲す。

 つぎに、実大乗の唯心論は後に心体論を講ずるに当たり弁明する意なれば、ここにただ『起信論』および『華厳経』によりて二、三の引文をなすのみ。

この心は、すなわち一切の世間と出世間の法をおさむ。

一切諸法はただ妄念によりて差別あるのみ。もし心念を離れれば、すなわち一切の境界の相なし。

一切法はもとより以来、言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、乃至、ただこの一心のみ。故に真如と名づく。

この識(阿黎耶識)に二種の義あり。よく一切法を摂め、一切法を生ず。

一切の世間の境界は、ことごとく中において現れ、不出、不入、不失、不壊にして、常住の一心なり。

是心則摂一切世間出世間法、

一切諸法唯依妄念而有差別、若離心念則無一切境界之相、

一切法従本以来離言説相離名字相離心縁相乃至唯是一心、故名真如、

此識(阿黎耶識)有二種義、能摂一切法、生一切法、

一切世間境界悉於中現、不出不入、不失不壊、常住一心、

 しかして『華厳経』に三界唯心の説あり。『唯識義章』(巻二本)にその出所を示して曰く、

演秘にいわく、かの経(華厳経)、第十九頌を案ずるにいわく、たとえば工画師の自らの心を知るあたわずして、しかも心によるが故に画くがごとく、諸法の性もかくのごとし。もし人、心行あまねく諸世間を造るを知らば、この人、すなわち仏を見おわり、仏の真実性をさとる。もし人、三世一切の仏を了知せんと欲すれば、まさに法界の性を観ずべし。一切はただ心の起なり。

明詮いわく、古華厳経、第二十六の第六地を明す中にいわく、三界はただ貪心に従いてあるを了達し、十二因縁は一心中にあるを知る。かくのごとくんば、すなわち生死はただ心に従いて起こり、心もし滅するを得ば、生死すなわちまた尽きん。

新経、第三十七の第六地に明す中にいわく、三界は心によりてあり、十二因縁もまたしかるを了達せば、生死はみな心の所作なるにより、心もし滅すれば、生死尽く。

第五十四にいわく、菩薩は三界唯心、三世唯心を知りて、その心の無量、無辺なるを了知す。

演秘云、案彼経(華厳経)第十九頌云、譬如工画師不能知自心而由心故画、諸法性如此、若人知心行普造諸世間是人即見仏了了仏真実性、若人欲了知三世一切仏応観法界性、一切唯心起、

明詮云、古華厳経第二十六明第六地中云、了達於三界但従貪心有知十二因縁在一心中、如是則生死但従心而起、心若得滅者生死即亦尽、

新経第三十七明第六地中云、了達三界依心有十二因縁亦復然、生死皆由心所作、心若滅者生死尽、

第五十四云、菩薩知三界唯心、三世唯心、而了知其心無量無辺、〔*1=『大日本仏教全書』では「云云」あり *2=同書では「云云、又」あり

 また『宗鏡録』(巻二)に唯心を論じていわく、

生法は本無にして、一切はただ識のみ、識は幻夢のごとく、ただこれ一心なり。

如来蔵は、すなわち一心の異名なり。なにをか一心といわんや。いわく、真妄、染浄の一切の諸法は無二の性なるが故に、名づけて一となす。これ無二の処の諸法中の実にして、虚空に同じからず、性自ら神解するが故に、名づけて心となす。

一切法の行は自らの心を出でず、ただ心なるを自ら知る。

生法本無、一切唯識、識如幻夢、但是一心、

如来蔵者即一心之異名、何謂一心、謂真妄染浄一切諸法無二之性、故名為一、此無二処諸法中実、不同虚空性自神解、故名為心、

一切法行不出自心唯心自知、

 かくのごとく、唯心の出所枚挙にいとまあらず。けだし一大仏教は唯心をもって骨髄とすればなり。ただ実大乗と権大乗と、相対絶対の別あるのみ。

 二 唯心の説所々に散見すといえども、その証明に至りてはわずかに経文を引用するにとどまり、事実に照らして考証することなし。故に憶断空想の評を免れず。しかして「三界はただ心のみにして、万法はただ識のみなり。」(三界唯心万法唯識)の理はひとり仏教のみならず、西洋諸家の大いに主唱するところなれば、その証明のごときは、理論よりも事実よりもともに論定すること容易なり。余はここにいささか今日の事実および理論に照らして、その証明の一端を開示せんと欲す。およそ唯心の理を証明するに、左の諸点より論究することを得。

  第一は物質そのものにつきて

  第二は感覚そのものにつきて

  第三は時間空間につきて

  第四は思想そのものにつきて

 まず第一の証明は唯物論に対して起こる反難にして、唯物論者は物質の外に精神なく思想なく心性なしという。果たしてその言のごとくんば、宇宙六合の間物質の外に一事一物なしといわざるべからず。しからばたちまち一問題ありて起こる。すなわち物質そのものはなんぞや。唯物論者は必ずこれに答えて、物質はすなわち物質なりというべし。これ決して説明にあらず。もし強いて説明を要求するに至らば、彼必ず答えていわん、物質は分子より成り、分子は小分子より成り、小分子は微分子より成り、微分子はすなわち化学的元素なりと。たちまちこれを見れば、これ物質の説明なるがごときも、その実決して説明にあらず。なんとなれば、化学的元素は物質なるか、非物質なるか、唯物論者はこれを物質の最小不可析なるものとなすこと明らかなればなり。換言すれば、元素そのものはやはり物質なり。果たしてしからば、物質はなんぞやの問いに対して、物質は物質なりといいて答うるとなんぞ異ならんや。故にこれ決して説明というべからず。あるいは唯物論者は世界の太初にさかのぼりて説明を与うることあるべし。すなわち世界の太初にありて天地未判のときは、渾然たる一種の星雲六合の間に浮かべるのみ。その星雲ようやく変遷分化して今日の天地万物を成すに至る。故に物質の本体は星雲なりというべし。これまた、決して物質の説明というべからず。なんとなれば、星雲そのものもやはり物質なるに相違なければ、その答えのごときは物質すなわち物質なりというに同じければなり。故にいずれの方面より考うるも、唯物論者の説は物質のなんたるを究めず、みだりにその実在を仮定せるものなること明らかなり。すでにその立つるところの根本的道理あるいは第一原理が仮定もしくは空想に出でたる以上は、唯物論全体が仮定説空想論なること問わずして知るべし。もし更に進みて物質を考うるときは、有形の範囲を脱して無形に入り、唯物論一変して唯心論となるは論理自然の勢いなり。たとえば元素の問題についてこれを物質とすれば、いかに最小至微なるも多少の延長を有し、形質を有するものならざるべからず。すでに延長あり、形質ある以上は、更にこれを分析し得らるべき理なり。もしこれを分析して元素の元素あることを知らば、その元素は物質なるか非物質なるかの問題相つぎて起こるべし。かくのごとく論究するときは、結局底止するところを知らざるに至らん。しかしてその底止するところは、元素の元素は物質にあらずして非物質なりと断定するの点にあることは論ずるをまたず。これ実に唯心論の起点にして、唯物論極まりて唯心論を生ずるところなり。故にこの方面より考うるときは、唯物論は唯心論をもって根基とせることを知るべし。もし他の方面より考うるときは、天地の太初にさかのぼり一切万物みな星雲より分化しきたるを知ると同時に、星雲そのものはなんぞやの問題起こり、結局星雲の本元は非物質なりと断定するに至りて、始めて疑問の終結を見るべし。故にこれまた、唯物論の本元は唯心論より起こるを知るべし。これによりてこれをみるに、いずれの方面より論究するも唯物論はその源を唯心論に発すること明らかなり。

 第二に、感覚そのものの上に唯物論を考うるに、吾人のいわゆる物質は色、声、香、味、触の五境より成りたるものをいう。もし物質中より色境を去り、声境を去り、ないし触境を去るときは、なにものありてその後に残るや。この五者を去ると同時に物質そのものを失うに至るは明らかなり。故に色声等の五境の外に物質なしと断言して可なり。

 果たしてしからば、この五境は物質なりや非物質なりやの問題を解説せざるべからず。これを非物質とせざるべからざるは、言をまたずして知るべし。なんとなれば、五境はみな視、聴、嗅、味、触の五種の感覚より成りたること明らかなればなり。視覚を離れてだれか色境の存するを知らん、聴覚を離れてだれか声境の存するを知らん、ないし触覚を離れてだれか触境の存するを知らん。これによりてこれをみるに、物質は感覚の外に存せざること明らかなり。しかして感覚は主観性にして心性の一部分なれば、天地万物はただ心の写影返響に外ならざることを知るべし。これまた唯物論一変して唯心論となるゆえんなり。

 およそ感覚はみな相対比較より成る。形の大なるものは小なるものに比較して知り、色の濃きものは薄きものに比較して知り、声の強きものは弱きものに比較して知るのみ。もし小なくんば大なく、弱なくんば強なきは、あたかも左なくんば右なく、上なくんば下なきがごとし。もし宇宙間に真に絶対的一色のみ存するにおいては、我人ついに色あるを感ぜざるべく、六合中に真に絶対的一声のみ存するにおいては、我人またついに声あるを感ぜざるべし。しかりしこうして、比較相対は主観的なるや客観的なるやを尋ぬるに、その主観的なることはもとより論を待たず。この点より論究するも、唯心論の真理なるを知るべし。

 また色、声、香、味、触の五境は必ずしも一定せるものにあらずして、わが感覚の造構、機能の異同によりて大いに不同あり。たとえば一〇人相集まりておのおの一声を聴くに、その感ずるところ必ず多少の相違あり。もしその一〇人は老若男女、賢愚利鈍、貴賎貧富等より成るときは、一層その相違はなはだしかるべし。味覚や触覚に至りては、ことに相違の著しきを覚ゆ。たとえば一人にて一食を味わうに、あるときはこれを好み、あるときはこれをいとい、一人にして一物を量るに、あるときは重を感じ、あるときは軽を感ずるがごときは、みな人の経験によりて熟知せるところなり。もし人類と動物とを較するに、その懸隔のはなはだしきはいうをまたず。我人の胃中に住する顕微鏡的細虫は胃腑をもって広大の天地と見るべく、井中の蛙は井中をもって一世界と見るべし。人のみて赤しと感ずるものは、動物これを見て必ず赤しと感ずるにあらず、人のかぎてかんばしと知るもの、獣類必ずしもしかるにあらず。この理を推すときは色、声、香、味、触の五境は、感覚の状態に従って大いなる異同あるを知るべし。すでに物質にこの五境の外に存せざるを知らば、これと同時にその体の感覚の上に成立するゆえんを知るべし。この証明はさきに示せるがごとく、仏書中にも往々見るところなり。ただその引用するところの事実が今日の学者の唱えざるところなるをもって、今日の人に満足を与うることあたわざるのみ。

 第三に、時間空間上これを考うるに、竪に連なるものこれを時間といい、横にわたるものこれを空間という。宇宙の広大なるも、時間空間の外に別にあるにあらず。万物の無限なるも、時間空間を離れて別に存するにあらず。宇宙万物の中に時間空間あるにあらずして、むしろ時間空間の中に宇宙万物ありといわざるべからず。今、物質をもってこれを例するに、物質より時間空間の生じきたるか、時間空間より物質の生じきたるか、二者の疑問につきては、もとより後者をもって真理とせざるべからず。なんとなれば、宇宙間より物質を除き去るを得るも、時間空間を除き去ることあたわず。宇宙間無一物の状態を想像し得るも、時間空間皆無の状態を想像することあたわざればなり。これによりてこれをみるに、時間空間は物質より生ずるにあらずして、物質は時間空間の上に成立し寄留するものなるを知るべし。換言すれば、時間空間の家屋の中に寄宿せる食客は物質なり。果たしてしからば、時間空間は物質なりや非物質なりや、もしくは時間空間は客観性なりや主観性なりやの第二疑問ありて起こるべし。この疑問は今より一〇〇年前、ドイツにカントと名のる碩学たちて下せる断定につきて判然たるを得たり。すなわち時間空間は主観的形式なりといえるこれなり。これを主観的とするはわが思想感覚に固有せるものにして、これを除き去ることを得ざるによる。この説によりて論定するときは、物質は時間空間より成り、時間空間は主観の上に属するをもって、物質そのものは主観的なりと断言するに至るべし。これまた唯心論の一証なり。

 第四に、思想そのものにつきて考うるに、物質ありと知るも思想なり、なしと知るも思想なり。天地あり万物あり日月あり山川ありと知るも、なしと知るもみな思想の力なり。彼我の別、自他の別、物心の別、有形無形の別、主観客観の別も、みな思想によりて定むるところなり。唯物論者は物の外に心なく、宇宙間ただ物質あるのみというも、思想のしからしむるところにあらずしてなんぞや。色を色と知り、声を声と知り、五境を五境と知り、物質を物質と知るも、またもとより思想の力なり。更に進みて考うれば、思想そのものをなしとし、心そのものをなしとするも、また思想なり、物を空するはひとり思想の作用なるのみならず、心を空するもまた思想の作用なり。思想の外に物質あり、思想を離れて神仏ありというも、決して思想の範囲を脱することあたわず。これをもって物質は仮定せられたるものなれども、思想は仮定すべからざるものなり。なんとなれば、仮定することすなわち思想の作用なればなり。もし思想にして真偽未詳のものとせんか、これによりて仮定せられたる物質はもとより真偽未定のものたらざるべからず。もし思想にして虚無ならば、これによりて想定せられたる物質は、むろん虚無のものたらざるべからず。この論理を推究するときは、一切の真理は思想そのものより派生せるものにして、宇宙間に証明を待たずして本来その理と許すべきものは、ひとり思想あるのみと断定せざるを得ざるに至る。この論は大いに三界唯一心を説明するに便なれば、仏教家の深く考究すべきところなり。

 以上四種の証明の外になお参考すべき点多しといえども、最後に心体論を講ずるに当たり再び弁明する意なれば、ここにこれを略す。かくのごとく唯心の証明は積もりて山を成し、集まりて海を成す勢いなるに、仏教家は依然として数十年前の考証に安んじ、いたずらに内弁慶を気取り、世間知らずの高枕をもって自ら足れりとするに至りては、実に嘆息せざるを得ず。今日わが国の僧侶は、その言うところ往々維新前の攘夷家然たる口気を存するところありといえども、西洋舶来のビールよく飲み、パンよく食し、ラシャを着、ケットを被り、こうもり傘、ランプ、シャボン等みな相用うる以上は、仏教の唯心の道理を装うに西洋学者の用いきたれる唯心の証明をもってするも、なんの不可かこれあらん。もし仏者にして自今西洋哲学を学び、その中に存する唯心論、主観論、理想論等を究め、その材料を取りきたりて、仏教の唯心論を構造改築するに至らば、仏日のまさに西山に傾かんとするをめぐらして、中央に輝かさしむることを得るは必然の勢いなり。これ決して仏教の頭に西洋の胴を結び付くるにあらずして、仏教の身体に実験の衣類を被らしむるに過ぎざれば、仏教は依然として仏教の体面を全うするを得べし。わが国ひとたび海陸軍を設けてより、その兵器軍艦みな西洋より輸入するも、決してこれをもって国体を汚辱するにあらざると同一般なり。後の海戦は必ず甲鉄艦を用いざるべからずと同じく、今後の舌戦は必ず実験説を用いざるべからず。舌戦に対して実験説の確実なるは、海戦に対して甲鉄艦の堅牢なるに比すべし。仏教家請う、活眼を開きて宇内教学の大勢を観察せよ。




 

     第九講 智力論

 以上は仏教心理学の心王につきて、その種類および作用を論じたるのみにして、いまだ心所の各種につきて論ぜず。しかして心所中にはあるいは智に属する作用あり、あるいは情あるいは意に属する作用あり。故にここに心所論を智力論、情緒論、意志論の三段に分かちて講述せんと欲す(智力論は最初の分類表中に漏らせり。よろしくこれを補うべし)。

 仏教心理は大乗小乗その分類少異なきにあらずといえども、その大要は同一なれば、ここに小乗の分類表に従い、四六種の心所法を智、情、意の三段に分かちて弁明せんと欲す。さきに一言せるがごとく、仏教心理は西洋心理と異なり、学術的に講究するものにあらず、哲学流に論明せるものにあらず、実際的にしかも宗教流に解説せるものなれば、その分類の精神および方法は西洋の心理と大いに異なるところあり。故に仏教心理を講ずる者は、その心をもって観察を下さざるべからず。これを要するに、西洋心理はその研究の目的、心理そのものの範囲以内にありて、仏教心理はその研究の目的、心理そのものの範囲以外にあり。換言すれば、仏教は心理を階梯として、涅槃の頂上に達せんとするにあり。これをもって心所法に善悪を分かち、涅槃に進向する妨障となるものはこれを悪法に属し、媒介となるものは善法に属す。故に智力的心所にも、善あり悪あり、あるいは不善不悪あり、その悪性を抑えて善性を長ずるは実に治心の要術にして、証理の要道なり。智必ずしも善なるにあらず、愚必ずしも悪なるにあらず、善人は正直一方なれば智を労するに及ばず、悪人は詐偽一方なれば智を用うること多し。故に善人の智、往々悪人に及ばざることあり。しかれども我人の安心の大道は、善を選びてこれにおるより外なし。今それ涅槃は最楽至安の天国なり、これに達する要路もまた純善無悪の大道を選びて、これに就くより外なし。その道中の案内記は実に仏教の心理なり。あにこれを西洋心理と同一視するを得んや。

 すでに仏教心理の精神目的を知らば、四六種の心所法を智、情、意の三種に配合するの難きを知るべし。しかれどもまたこれを西洋心理の方面より観察するは、講学上興味なきにあらず。まず心所法の各種を案ずるに、「想」とは取像の義なれば、心理学のいわゆる知覚に当たり、かつ想像の意を含むがごとし。「思」とは造作の義にして、思慮ののち身口を動かして造作せしむるをいう。故にこれ心理学の思慮より生じたる動機に当たるべし、故にこれを智力に属するより、むしろ意志の部に入るるをよしとす。「触」とは触対と熟し、心を対境へふり向ける作用をいう。故にこれ知覚の作用に属して可なり。「慧」とは簡別する作用なれば、智力を性とするも、意志の選択作用に当たるべし。「念」とは明記して忘れずと解し、記憶のことなり。「作意」とは西洋のいわゆる注意もしくは意向なり。「勝解」とはよく合点し了解する作用なれば、心理学の悟性すなわち理解力に当たる。「三摩地」とは心を一境に専注せしむることにして、集心作用なり。「痴」とは愚痴の義なれば、智の欠けたるをいう。「尋」とは尋求の義にして、麁分別の作用なり。「伺」とは伺察の義にして、細分別の作用なれば、ともに智力の推理識別する作用に属す。「疑」とは猶予して決せざるをいう。「睡眠」とは智、情、意に関係なき無意識作用なり。以上は心所法中の智力作用なり。その中に一部分意志に属するものを混説せりと知るべし。

 仏教心理中、智力作用に関するものは大抵心王の方に合論し、心所法中にはわずかに二、三の名目を見るのみ。しかして心所法中には情と意とに関する作用が八、九分の多きを占む。これ心所法は心の動作に関して善悪の行為の生ずるゆえんを示すによる。しかりしこうして、仏教は心王をもってもととし、心所法はこれに随伴して起こるものとし、かつ善悪の根本は無明より生ずと立つるをもって、その心理は智力為本説となすべし。迷うも智力より起こり、悟るも智力より生ず。智力は実に迷悟のよりて分かるる追分なり。故に仏教は心理学の方面よりこれを見れば、智力教と称して可なり。ある説にヤソ教は意志教、儒教は感情教、仏教は智力教なりと評するは一理なきにあらず。けだし仏教の八万四千の法門は、釈迦牟尼仏いったん豁然として大智眼を開き、智日円満、智光赫灼の下に炳現せるものなれば、これを智力教といわずしてなんと称すべきや。ただその智力は西洋心理学にて談ずるがごとき、有限性の智力をいうにあらずして、無限性の智力をいうなり。無限性の智力とは、有限性を超過して絶対無二の真如と一致同化せるものをいう。その智力を我人の心地に発顕しきたれば、たちまち真如の月下に別天地を開きて、無限の風月を楽しむことを得べし。これすなわち成仏なり。仏とはなんぞや。曰く、無限の智光の円満したるものをいうのみ。この光一転して衆生界に向かえば慈悲の光となる。これまた無限なり。我人の心進みて真如界に向かえば、無限の智光を生じ、顧みて衆生界に向かえば、無限の悲光となる。この悲智二光を具備して円満なるを仏と名付く。もしそれ我人の本来を尋ぬれば、無始の昔、真如の都より忽然道を失いて六道三界の迷子となり、病患貧苦の雨に沐し風にくしけずり、故山の風月に背くこと、ここに実に幾万劫の久しきを知らず。生死の関山は雲霧深くとざして四面咫尺を弁ぜず。その暗きこと闇夜のやみよりもなお暗し、長夜漫々としていずれのときにか明くるを知らず、これを無明の長夜という。我人かかる暗夜の中にありながら、自らそのやみを覚えず、かかる苦界の中に住しながら、自らその苦を感ぜず、六道三界の火宅をもってかえってこれを楽園と思い、迷中に更に迷を重ね、夢中に更に夢を結び、すこしも出離解脱の念を起こさざるは、あに哀れむべきの至りならずや。諺に「住めば都」というがごとく、我人はこの生死の三界に無始以来展転流浪せるより、ついにこれを故郷と誤り、都と認め、厭離するゆえんを知らざるに至れるや。余かつて奥羽に遊び、酒田港をさること海上一〇余里の所に飛島と名付ける一粒の小島あり。北海渺茫たる所、はるかに波浪の間に一点の山影を認むるのみ。聞く、その島内に若干の人煙ありと。ここに住するもの、この島をもって天国の仙郷のごとくに考え、出でて酒田辺に遊ぶもの、一時ののち帰島の念に堪えず。人の家に雇わるるも、両三年を出でずして辞してその島に帰るという。島内一般の風習として、小児の泣きてやまざるときは、これを叱するに「酒田へ追いやるぞ」というを例とす。この一言よく小児の泣くをやむるを得という、また奇ならずや。これ決して飛島の住民に限るにあらず、我人またこれに同じ。身は三界の火宅にありながら、その苦を忘れ、そのやみを覚えず、生死流転をもって自ら満足し、これに告ぐるに涅槃の楽界あるをもってするも、更に欣求の意を起こさず、誤りて生死界を認めて都となす。これ「住めば都」の諺に合するものなり。しかしてかえって出離解脱をいとうは、飛島の小児に似たり。ああ、我人は生死界の飛島に住する小児なるか、あにこれを哀れまざるを得んや。これを要するに、真如界よりひとたび迷いて生死流浪の身となるも、無明の妄雲、我人の智力を掩覆せるにより、他日これを転捨して涅槃の故郷に帰入するも、その智力の開発するによる。故に迷うも悟るもみな智力より生ずるなり。これ仏教を智力教と称するゆえんなりと知るべし。

 

     第一〇講 情緒論

 人に善悪の心の起こるは情緒の加わるによる。故に四六種の心所法中、大半はみな情緒に属す。まずこれを各種の上に考うるに、「受」とは領納を義とし、心理学のいわゆる感覚あるいは感情なり。「欲」とは希求の義にして、願欲願望をいう。これ感情より生じて意志を起こすものなり。「慙」とは己の身を顧みて恥ずるをいい、「愧」とは他人の身を望みて恥ずるをいう。これともに情に属すべし。「貪」と「瞋」とは説明を待たずして情の一種なるを知るべし。「忿」もまたこれに同じ。「覆」とは自罪を隠蔽するをいい、「慳」とは事物を吝惜するをいう。ともに情に関する一種の性分なり。「嫉」とは他の盛事を忌むをいい、「悩」とは他を迷惑さするをいい、「害」とは人の障害をなすをいい、「恨」とはうらみを結ぶをいい、「謟」とは実を示さずして人の歓心を迎うるように方便するをいう。「誑」とは人を惑わして誤解するように方便するをいい、「憍」とは己を高くするをいい、「慢」とは他に対して高ぶるをいう。以上はみな情より生ずる悪心なり。「悪作」とは前になせし善悪のことを後に悔ゆるをいう、すなわち悔悟の情なり。しかして善事を悔ゆるは悪にして、悪事を悔ゆるは善なりとなす。故に心所法中には不定地法の一種に属す。その他、「無貪、無瞋、不害、無慚、無愧」は、前に示せるものの反対なり。もし人の性分あるいは稟性に関する名目を挙ぐれば、「信」とは澄浄を義とし、正直の性分をいうとなす。「勤」とは精進を義として、勉強の性分をいう。「捨」とは心を平等に持ちて偏せしめざる性分をいう。「軽安」とは堪任〔忍〕する性分なり。「不放逸」とは心をして放逸ならしめざる性分なり。「放逸」はその反対にして、「懈怠」は勤の反対なり。「不信」は信の反対にして、「昏沈」は軽安の反対なり。「掉挙」とは心の軽躁なる性分をいう。以上は人の資性にして、これを単に情と名付くべからず。その中には意に属するものあれども、みなここに合説せり。

 これらの名目は多く善悪に関する心性あるいは発情に与えたるものにして、情緒に関するもの多きは、その解につきて知ることを得べし。もしその中の悪法のみを挙ぐれば、仏教のいわゆる煩悩惑業にして、その種類を一〇種に分かちて十大煩悩となす。あるいはこれを十纏といい、あるいはこれを十使といい、あるいはこれを十習

  十 纏  一 無懈

       二 無愧

       三 嫉

       四 慳

       五 悔

       六 睡眠

       七 掉挙

       八 昏沈

       九 瞋念

      一〇 覆

  十 使  一 貪使

       二 瞋使

       三 痴使

       四 慢使

       五 疑使

       六 身見使

       七 辺見使

       八 邪見使

       九 見取使

      一〇 戒取使

  十習因  一 婬習因

       二 貪習因

       三 慢習因

       四 瞋習因

       五 詐習因

       六 誑習因

       七 冤習因

       八 見習因

       九 枉習因

      一〇 訟習因

  十種見  一 薩迦耶見

       二 辺執見

       三 邪見

       四 見取

       五 戒禁取

       六 貪見

       七 恚見

       八 慢見

       九 無明見

      一〇 疑見

因といい、あるいはこれを十種見という。その分類小異ありといえどもその意一なり。今、『三蔵法数』によりてその表を挙示すること右のごとし。

 十纏の分類は『翻訳名義集』に出で、十使は『法界次第』に出で、十習因は『楞厳経』に出で、十種見は『瑜伽論』に出ず。纏とは煩悩の異名にして、纏縛を義とす。すなわち一切衆生がこれに纏縛せられ、生死の苦を出離して涅槃の楽を証得することあたわざるをいう。使とはやはり煩悩の異名にして、駆役を義とす。すなわちよく行者の心神を駆役して三界の生死に流転せしむるをいう。これを『四教儀集註』に考うるに、身見、辺見、見取、戒取、邪見、これを利使と称し、貪、瞋、痴、慢、疑、これを鈍使と称す。かつ曰く、「利はすなわち造次にもつねにあり。鈍はすなわち利を推してまさに生ず。」(利則造次恒有、鈍則推利方生)と。また曰く、「利使もし去れば、鈍使もまた亡ぶ。」(利使若去鈍使亦亡)と。左に『三蔵法数』によりて十煩悩の義解を示すべし。

一に身見とはいわく、色、受、想、行、識の五陰の中において、妄計するを身となすなり。

二に辺見とはいわく、身見において断と計し、常と計し、執にしたがう一辺なればなり。

三に見取とはいわく、真の勝法にあらざる中において、謬りて涅槃を見、心を生じてしかも取るなり。

四に戒取とはいわく、戒にあらざる中において、謬りてもって戒となし、取りてもって進み行くなり。

五に邪見とはいわく、無明を了せずして邪心に理と取るなり。

六に貪とはいわく、もろもろの欲境において、引き取りて厭くことなきなり。

七に瞋とはいわく、逆情の境において、忿怒を起こすなり。

八に痴とはいわく、事理の中において、迷惑して了ぜざるなり。

九に慢とはいわく、自らの才徳富貴なるを恃み、他を軽蔑するなり。

一〇に疑とはいわく、心に迷い、理に乖き、猶予して決せざるなり。

一身見謂於色受想行識五陰之中妄計為身也

二辺見謂於身見計断計常随執一辺也

三見取謂於非真勝法中謬見涅槃生心而取也

四戒取謂於非戒中謬以為戒取以進行也

五邪見謂無明不了邪心取理也

六貪謂於諸欲境引取無厭也

七瞋謂於逆情之境而起忿怒也

八痴謂於事理之中迷惑不了也

九慢謂自恃才徳富貴軽蔑於他也

十疑謂迷心乖理猶予不決也

 余をもってこれをみるに、この一〇種中、前五種すなわち五利使は智力に属する煩悩にして、後五種すなわち五鈍使は情緒に属する煩悩なり。しかして仏教は智力をもととなすをもって、五鈍使は五利使に属するものとなす。以上一〇種の煩悩に三界の四諦を加えて八十八使となす。その増減の次第は、『四教儀』に示せるところの左のごとし。

この十使は三界の四諦の下に歴て増減同じからず、八八と成る。いわく、欲界の苦に十使具足す。集、滅に各七使あり、身見、辺見、戒取を除く。道諦に八使あり、身見、辺見を除く。四諦の下は合して三二となる。上二界の四諦の下も余はみな欲界のごとし。ただ諦ごとの下において瞋使を除くが故に、一界各二八あり。二界を合して五六となる。前の三二をあわせて、合して八十八使となすなり。

此十使歴三界四諦下増減不同、成八十八、謂欲界苦十使具足、集滅各七使、除身見辺見戒取、道諦八使除身見辺見、四諦下合為三十二、上二界四諦下余皆如欲界、只於毎諦下除瞋使故一界各有二十八、二界合為五十六幷前三十二合為八十八使也〔*=併〕

 三界とは欲界、色界、無色界にして、四諦とは苦、集、滅、道なり。欲界の苦諦の下に十使あり、同じく集諦滅諦の下に各七使あり、道諦の下に八使あり、これを合すれば三三使となる。これ欲界煩悩なり。つぎに色界および無色界は、四諦の下に各瞋使を除く、その他は欲界に異なることなし。故に色界の下に二八使、無色界の下にも同じく二八使ありて、三界を合すれば八十八使となる。これを見惑となす。すなわち『四教儀』に「見惑を釈するに八十八使あり。」(釈見惑有八十八使)という。あるいはまた煩悩の大数を挙げて一〇八種となすことあり。一〇八種の数は眼、耳、鼻、舌、身、意の六根に各三受三塵を具するをもって六々三十六となり、これに過去、未来、現在の三世を乗ずれば一〇八となる。三受とは苦、楽、捨(不苦不楽)の三感をいい、三塵とは好、悪、平(不好不悪)の三境をいう。もしまた大数の大数を挙ぐれば、八万四千の塵労ありという。塵労とはすなわち煩悩なり。古来、十使の煩悩相積みて八万四千を成ずる次第を示せる表あるも、やや付会を免れざればこれを略す。

 これを要するに、我人と真如との間を隔つるものは煩悩の妄雲にして、その煩悩は多く智と情より生ずるものとなす。しかして仏教は智力中心説なれば、智をもって諸煩悩の根本となす。すなわち我人の迷うも智なれば、悟るも智なり。換言すれば、迷のもとは無明の妄智にして、悟のもとは菩提の真智なり。我人ひとたび無明の妄智を起こせば、種々の妄情これに随伴して起こり、ついに三界六道迷子となりて、永く火宅を出ずることあたわざるに至る。もしその中より一点の真智を開ききたらば、心面の妄情たちまちその跡を隠す。あたかも雲の消してその形を見ざるがごとし。これによりてこれをみるに、仏教のいわゆる迷悟染浄は智力の向背いかんによりて定まる。故にこれを智力教あるいは智力為本教と称して可なり。今や世界の文運ようやく盛んにして人智いよいよ進み、宗教も道理をもって証明するにあらざれば、だれも信ずるものなし。これをもって、近年ヤソ教のごとき非道理教は大いに衰微の色を呈し、孤城落日、秋風蕭颯の観あり。これに反して仏教のごとき道理教は、旭日の堂々として天に昇るがごとき勢いあるべきに、ヤソ教と同じく振るわざるははなはだ怪しむべしといえども、これ仏教の罪にあらずして、これを弘むるものの罪なり。今日の僧侶は、三〇〇年間徳川の治世における残夢なおいまださめず、哲学上仏教の学理を講究して、三〇〇〇年前の古月の光を今日の世界に発揚するゆえんを知らず。余、近来地方寺院の状態を見るに、年一年より貧計に窮するがごとし。諺に「貧すれば鈍する」とありて、生計窮困を告ぐれば学問教育に資金を費やすを得ずして、愚はますます愚に陥り、節操も品位もともに下りて、乞食坊主の体を示すに至り、学徳皆無の破戒僧となるは勢いの免るべからざるところなり。古賢も「つねの産なきものはつねの心なし」といわれたるがごとく、今日の僧侶はつねの産を失い、一日三度の糊口に汲々たるありさまなれば、その檀家、信者に対するに、僧侶たる威勢も品位もなく、ただその好意を迎えその歓心を得んことのみ、これつとむるに至れり。あにかなしき次第ならずや。そのはなはだしきに至りては、檀頭資格の者が寺院に参詣すれば、一家挙げてその歓迎に従事し、優待至らざるなく、住職たるもの、その下駄までを直して戸外に送るものありという。卑劣ここに至りては、なにをもってか料理店と寺院とを分かたんや。仏祖をしてこの状態を見せしめば、ああ、仏法死せりとの嘆なきあたわざるべし。今日、各宗本山依然として存するも、この状態を見て喟然として嘆じ、憤然として慨するものあるを聞かず。いずくんぞこれを救護輓回する方法を講ずるを得んや。方今、世間は駸々として活動奮進する中に、仏教は半身不随の中風症にかかれるがごとし。この勢いをもって、いずくんぞよく第二〇世紀の競争場裏に立ちて、優勝の地位を占むることを得んや、護法に志あるものは、実に奮起せざるべからざる秋なり。

 

     第一一講 意志論

 心所法中、意志に関する名目は前講の智力論、情緒論中においてすでに説明したれば、ここに重説するを要せず。たとえば思、欲、慧、悩、害等の諸作用は一半意志に関するも、これを智および情に合して説明せり。しかしていまだその作用の行為挙動に発したるものを説明せざれば、ここに言行上に発動せる意志を述ぶべし。およそ仏教にては行為を分かちて身、口、意の三業となす。その意は意志のいわゆる内作用にして、身口の二者は外作用なり。『倶舎論』にいわく、「二種の業あり。一には思業、二には思已業なり。思已業とはいわく、思の所作なり。かくのごとき二業を分別して三となす。いわく、有情の身と語と意との業なり。」(有二種業、一者思業、二思已業、思已業者謂思所作、如是二業分別為三、謂有情身語意業)とあり。すなわちその思業は意業にして、思の所作業は摂して一〇種となす。

  十悪 身業 三 殺生

          盗

          邪

     口業 四 妄語

          綺語

          悪口

          両舌

     意業 三 貪欲

          瞋恚

          愚痴(邪見)

 これを身三、口四、意三の不善根となす。すなわち悪業の分類なり。これに対して十善あり。十善は十悪の正反対なり。すなわち一不殺生、二不盗、三不邪、四不妄語、五不両舌、六不悪口、七不綺語、八不貪欲、九不瞋恚、十不邪見なり。また『梵経』に菩薩の十戒を掲ぐるものこれに同じ。すなわち不殺、不盗、不婬、不妄語、不飲酒、不自賛毀他、不説過失、不貪、不瞋、不痴、これなり。またこれを約して五戒となす。五戒とは不殺、不盗、不婬、不妄、不酒なり。これみな意志作用の善業に関する分類なり。かくして五戒十善を勧めて十悪を禁ずるは、実に仏教の世間門における道徳なり。およそ仏道を修行するものは、世間門の道徳を修め、更に進みて出世解脱の方法を修習せざるべからず。その方法は大別して戒、定、慧の三学となす。しかして菩薩の修行は六度すなわち六波羅蜜、あるいは十波羅蜜となす。波羅蜜とは訳して到彼岸といい、菩薩この方法によりて衆生を化度し、生死海を超えて涅槃の岸に至るをいうなり。その名目左のごとし。

  六度(梵語六波羅蜜) 一、布施(梵語檀那)

             二、持戒(同尸羅)

             三、忍辱(羼提)

             四、精進(毘梨耶)

             五、禅定(禅那)

             六、智慧(般若)

 これに方便、願、力、智の四種を加えて十波羅蜜となす。その他、修行門につきて述ぶべきことはなはだ多しといえどもこれを略す。

 我人の罪悪は仏教上の見解によれば、無智の妄見より起こるも、これを助成せるものは身、口、意の三業なり。これなお草木の肥料におけるがごとし。肥料の良否、適不適によりて、草木のあるいは繁茂しあるいは枯死するあり。すでに身、口、意の三業は罪悪を助成せる以上は、またよくこれを減滅することを得る理なり。身、口、意ともに悪業に傾けば罪悪を増長し、善業に向かえばこれを断絶するを得べし。これをもって、仏道の修行と道徳の実践とはその轍を同じうするに至る。ただし道徳は世間門の範囲を出でざれば、現在一世の上に善悪を論ずるのみなるも、宗教は更にその上に出世間道を立てて、生死の迷路を遠離する法を講ずるの別あり。道徳の修行は川を渡るがごとく、仏教の修行は海を渡るがごとく、前者近く見るべき所に目的を定め、後者は遠く見るべからざる所に目的を定むるの別あり。古来の宗教は大抵みなしからざるはなしといえども、仏教はことにしかりとなす。そもそも人生は五〇年をもって限りとす。寿七〇を得る者古来稀なり、八〇、九〇に至りては万人中に一人を得ること難し。たとえ人寿一〇〇歳をもって限りとするも、これを時間の無限なるに比すれば、一瞬一息を待たず、最短中の最短なり。かかる最短の時日をもって自ら満足せんと欲するも、無智愚昧のものはいざ知らず、いやしくも多少の知識精神を有する者は、あに得べけんや。しかるにここに一説あり。もし人生一代は五〇年ないし一〇〇年に過ぎざるも、子孫百世相伝えて千年万年の永きに達すべし、自身は早晩世を去るも、子孫なお存するあり、子孫また早晩世を去るも、子孫の子孫なお存するあり、子孫の子孫ついに滅亡して家系断滅するも、社会国家のなお存するあり。故に我人は一人一代をもって満足し難きも、社会国家の永存を期して満足するを得という。しかるに一個の人間に寿命あるがごとく、国家社会にも寿命あり。国家の寿命のごときはその短きものに至りては五〇年一〇〇年を保たざるありて、千年万年の間には幾回の存亡興廃ありといえども、ひとり人類社会に至りては、万世無窮に向かいて継続するがごときも、これまた定限ありて、決して天地とともに無窮に永続するを得ず。しかりしこうして、天地そのものにも寿命あり定期ありて、幾万劫の後には地球も太陽も星辰も、みなことごとく破壊するときあり。山崩れ海かわくのみならず、地球その熱を失い、太陽その光を放たず、天地暗黒となり、最後に地球と太陽とは互いに衝突して粉微塵(こなみじん)に破壊するに至ることは、今日の天文学に考えて明らかなり。果たしてしからば、人類はひとりその間に生存するを得んや。社会の寿命はいかに永くとも、地球の寿命より短きは論を待たず。これを一人一人の寿命に比するにはなはだ永きがごときも、時間の無限に比すれば天地の寿命といえども、一瞬一息の間に過ぎず、いわんや社会の寿命をや。一人の寿命と社会の寿命とは、その長短の差はまたもとより一瞬一息の間に過ぎず。しかるにその間に長短前後を争うは、五十歩百歩を争うよりなおはなはだし、あにその愚を笑わずして忍ぶべけんや。要するに時間の無限なるよりこれをみれば、社会国家はいうに及ばず、地球の寿命も、太陽の寿命も、みな一瞬一息間のことのみ。すでにそのしかるゆえんを知らば、社会国家の永続に対して、いずくんぞよく満足するを得んや。ここにおいて我人は、有限界外に無限の別世界あるを想出し、無限の理想中に無限の期望を喚起し、もって始めて夢のごとく幻のごとき五〇年間の一生をもって満足し、三界火宅の苦境にありながら、此土寂光の安楽を営むことを得るなり。そもそも我人の住息せる世界は単衣(ひとえ)的にあらずして、袷衣(あわせ)的なり。有限の表面のみにあらずして、無限の裏面を有す。なお木綿の表に錦繍の裏を付するがごとし。もしその有限の表面よりこれを見れば、天地万物ことごとく有限なり。もし無限の裏面よりこれをみれば、一片の雲も一点の煙もみな無限なり。煙は散ずるがごとくにして永く散ぜず、雲は消するがごとくにして永く消せず。なんとなれば、物質すでに不滅にして、因果の理法また不変なればなり。今、我人はかかる不滅不変の大海に浮沈する習いなれば、その生ずるも実に生ずるにあらず、その死するも真に死するにあらず、本来不生不滅の身心なり、無限無窮の生存なり。その間に我人が生死海上にわかせる寸善尺悪の波痕は、たちまち生じたちまち滅するがごときも、これまた不生不滅にして永く相続するものなり。ちり積もりて山を成し、雨集まりて川を成すがごとく、寸善相重なりて真如大海に帰入するは、実に我人の目的にして、無限の歳月中に無限善行を積み、夢生酔死、流転輪廻の境遇を転じて即身是仏此土寂光の楽界を開かんこと、これ我人の大願なり。かかる大願あるをもって、貧苦の霧海中にありながら、安楽の心地に住するを得るなり。




 

     第一二講 心体論

 仏教の心理学は小乗大乗の二部に分かれ、小乗は差別的心理を説き、大乗は平等的心理を説くの異同あること、および大乗中、権大乗は相対的唯心論、実大乗は絶対的唯心論なるの別あることは、さきにすでに述ぶるところなり。そのうち相対的唯心論は前講をもってひとまず講了したるつもりなれば、これより絶対的唯心論を述べざるべからず。しかるに実大乗の哲学は別に純正哲学、あるいは大乗哲学として講ずる意なれば、ここにはわずかにその端緒を示すのみと知るべし。

 実大乗のいわゆる唯心は相対の心をいうにあらずして、絶対の心をいうものなれば、これを唯心と名付くるはその意を尽くさざる恐れあり。そもそも心は色心、あるいは物心と相対し、物に対して心あり、心に対して物あり。これと同時に物を離れて心なく、心を離れて物なく、この二者は畢竟するに同体不二なり。この同体不二なるもの、これを真如と名付け、あるいは一心という。一心のいわゆる一は不二絶対を義とするものなれば、相対の心とは全く別なることを知らざるべからず。故にこれを心と名付くるより、むしろ真如と名付くるを適当なりとす。しかるにその真如は客観上より立つるにあらずして、主観上に立つるものなれば、通常これを一心と名付くるなり。けだし、この世界は真如の大海の上に波をわかし、高低浮沈の変化を起こせしものなれば、我人は一心の海面に漂うて生滅流転する迷人なり。近来夏期になれば諸方の海岸に海水浴流行し、遠近より浴客群来して、巨額の金を濫費するも、その当人はすでに無始の昔より、毎日毎夜春夏の別なく、一心の大海中に浴泳して、今日に至るを知らざるか、我人は終日終夜の海水浴に疲れ果てたるを覚えざるか、なんぞ殊更に夏期の海水浴に大金を費やすを要せんや。かくして真如の一心より万法の波をわかせる原因につきては、縁起説と実相説との二様あり。余はこれを名付けて前者を開発論といい、後者を存立論という。その解左のごとし。

  開発論は縦に真如の開発をみて説を立つるものなり(縁起論)

  存立論は横に真如の存立をみて説を立つるものなり(実相論)

 これを宗旨に配すれば、三論と天台とは存立論にして、起信と華厳とは開発論なり。今まず『起信論』の開発論を述ぶべし。

 『起信論』にては絶対の一心より真如門、生滅門を開き、これより一切諸法を現ずるゆえんを示せり。まずその本論によるに、「一心の法によるに、二種の門あり。いかんが二となすや。一には心真如門、二には心生滅門なり。」(依一心法有二種門、云何為二、一者心真如門、二者心生滅門)とあり。更にその二門を開説するところ、左表のごとし。

  一心 真如門(不生滅門)

     生滅門 覚 本覚

           始覚

         不覚 根本

            枝末

 その生滅門はすなわち物心万有の現象世界にして、その不生滅門は本体世界なり。前者は可知的界にして、後者は不可知的界なり。この二界のうち『起信論』は初めに真如門を説き、つぎに生滅門を説くも、余は可知的界を先とし、不可知的界を後にすべし。まず可知的界の生滅門は『起信論』によるに、「心生滅とは、如来蔵によるが故に生滅心あり。いわゆる不生不滅と生滅と和合して、一にもあらず、異にもあらず。名づけて阿黎耶識となすなり。」(心生滅者依如来蔵故有生滅心所謂不生不滅与生滅和合非一非異、名為阿黎耶識)とありて、阿黎耶識より生ずるなり。故に本論(『起信論』)にこの識につきて「よく一切の法を摂し、一切の法を生ず。」(能摂一切法生一切法)と説けり。それ阿黎耶識は法相の阿頼耶識と同一なるも、法相の方にては、この識と真如とは同体不二なることを明言せず。しかるに起信の方にては、その識と真如とは同体不二なりとす。これ法相の権大乗と呼ばれ、起信の実大乗と称せらるるゆえんなり。また本論に、この識より覚と不覚との二種を生ずることを説けり。すなわち『起信義』にこれを解して、曰く、「覚の義とは、衆生の一心自性として霊覚なり。心の体は真実にして、もと自ら霊鑑、かつて暗昧なし。この霊知をいうに、名づけて覚義となす。不覚の義とは、衆生の妄念本末無明なり。念想は虚妄にして本より暗昧、もし心に念あらば、この暗昧をいうに、名づけて不覚の義となす。」(覚義者、衆生一心自性霊覚也、心体真実本自霊鑑、曾無暗昧謂之霊知、名為覚義、不覚義者、衆生妄念本末無明也、念想虚妄従本暗昧、若心有念謂之暗昧名為不覚義)と。これまさしく物心万有の開現するゆえんにして、世界開発の理を示すものなり。すなわち吾人が目前に千差万別の諸象を見るは不覚より生ずる迷見にして、その不覚に根本枝末の二種あり、あるいはこれを根本無明、枝末無明と名付く。しかしてその無明は、もと覚性と同体不二なり。故に本論に「無明の相は覚性を離れざるをもって、壊すべきにもあらず、壊すべからざるにもあらず。」(無明之相不離覚性、非可壊非不可壊)と説けり。しかるに吾人が不覚の迷見を生ずるは、真如法を知らざるより起こるとなす。すなわち本論に「実のごとく真如の法一なりと知らざるが故に、不覚の心起こる、云々。」(不如実知真如法一故不覚心起云云)とあり。故をもって、差別の事界は虚妄にして、その実なきものとす。すなわち本論に「三界は虚偽にして唯心の所作なるのみ。心を離るれば、すなわち六塵の境界なし。」(三界虚偽、唯心所作、離心則無六塵境界)という。

 つぎに不可知的真如門につきて考うるに、真如は一心の本体にして、生滅門の裏面に存する不生不滅の体なり。本論にいわく、「一切の法はもとより已〔以〕来、言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等にして、変異あることなく、破壊すべからず。ただこれ一心なるが故に真如と名づく。」(一切法従本以来離言説相離名字相離心縁相、畢竟平等無有変異、不可破壊、唯是一心、故名真如)と。またいわく「一切法は説くべからず、念ずべからず。故に名づけて真如となす。」(一切法不可説、不可念、故名為真如)と。これ離言真如なり。もし言語によりてその義を示すときは、依言真如という。すなわちいわく「真如は、言説によって分別するに、二種の義あり、云々。」(真如者依言説分別有二種義云云)とあるこれなり。かくのごとく真如は平等絶対にして、不変不滅を性とすれども、またあえて寂然不動にして、作用を現ぜざるにあらず。故に真如に不変随縁の二種あることを説くに至る。今これを『義記』に考うるに、いわく「真如に二義あり。一には不変の義、二には随縁の義なり。」(真如有二義、一不変義、二随縁義)とあり。その不変の義とは、いわく「真如の体というは、もとより已来、畢竟平等にして変易あることなく、体はつねに寂静にして一異の相なし。故に不変真如と名づく。」(謂真如之体、従本已来畢竟平等無有変易、体恒寂静、無一異相故名不変真如)と。その随縁の義とは、いわく「真如の性というは、もと生滅なし。しかるに無明の薫執によりて一切の相を起こす。水は風によりてみだりに波たちまち動き、もし風止息すれば動相の元なきがごとし。故に随縁真如と名づく。」(謂真如之性本無生滅、然因無明薫執起一切相、如水因風妄波忽動、若風止息動相元無、故名随縁真如)とあり。これによりて、不生滅の真如に生滅を生ずることあるゆえんを知るべし。これと同時に、生滅の中にも不生滅の理を具することを示して本覚始覚の説あり。すなわち本論にいわく、

言うところの覚の義とは、心体の離念なるをいう。離念の相は虚空界に等しくして、徧せざるところなし。法界一相なるは、すなわちこれ如来の平等法身なり。この法身によりて説いて本覚と名づく。なにをもっての故に。本覚の義とは始覚の義に対して説き、始覚とはすなわち本覚に同ずるをもってなり。始覚の義とは、本覚によるが故に、しかも不覚あり、不覚によるが故に、始覚ありと説くなり。

所言覚義者謂心体離念、離念相者等虚空界無所不徧、法界一相、則是如来平等法身、依此法身説名本覚何以故、本覚義者対始覚義説、以始覚者即同本覚、始覚義者依本覚故而有不覚、依不覚故説有始覚

 故に吾人は今日この生滅界にありといえども、その迷心の中に本有の覚性を具するをもって、これによりて再び原始の不生滅の本性に帰することを得べし。これを始覚という。すでに始覚あれば、本有の覚体あること疑うべからず。もし我人本来これを有せざるにおいては、始覚を生ずべき理なし。これをもって始覚に対して本覚あることを説けり。これを要するに、真如は体にして、生滅は象なり。この二門の不一不異にして、体象同一の理を示すもの、これ『起信論』の中道説なり。故に『一心二門大意』の初巻に曰く、

それ一心の法界は理にあらず、事にあらず。理にあらざるをもっての故に、挙体、万像の事を起こす。事にあらざるをもっての故に、全体は一味の理を成ず。一味を成ずるをもっての故に、性相は平等なるを真如門と名づく。万象を起こすをもっての故に、因果は差別するを生滅門と称す。

夫一心法界者非理非事、以非理故挙体起万像之事、以非事故全体成一味之理、以成一味故性相平等名真如門、以起万象故因果差別称生滅門

 これによりて、『起信論』の万法と真如との関係を知るべし。その他、『起信論』には体、相、用の三大を設けて真如の体性作用を説明せり。その解にいわく、

一には体大、一切法の真如をいう。平等にして増減せざるが故なり。

二には相大、如来蔵をいう。無量の性功徳を具足するが故なり。

三には用大、よく一切の世間と出世間との善の因果を生ずるが故なり。

一者体大、謂一切法真如平等不増減故

二者相大、謂如来蔵具足無量性功徳故

三者用大、能生一切世間出世間善因果故

 この体、相、用は『勝宗十句義』の実徳業とその意を同じうし、実体と性徳と業用との三諦なり。そのつまびらかなるは、ここに述ぶるにいとまあらず。

 以上『起信論』の説を倶舎、法相に比するに、世界の現象と本体との関係を論ずるや、おのおの同じからず。これをたとうるに、倶舎は貴族政治のごとく、七五種の貴族、すなわち法体が互いに連合対立して一切諸法を支配す。法相宗は将軍政治のごとく、真如の天子は九重雲深き所に隠栖し、ひとり阿頼耶識の将軍、これに代わりて事界統治の大権を掌握す。しかるに『起信論』に至りては君主親裁の政治のごとく、真如の天子ただちに万法を裁定するなり。また真如の自体を説くに、倶舎、法相、起信、おのおの異なるところありて、倶舎宗の三無為の一なる涅槃は真如の一端を説くものとするも、その体あたかも死物のごとく、不覚無識にして理想の光明を有せざるものなり。これに反して法相の真如は光明性なるも、なお凝然として自立するのみにて、活動の作用を有せず、これをたとうるに生物中の植物のごとし。これに対して起信の真如は万象を開現する活動作用を有するをもって、宛然動物人類に比すべし。換言すれば、倶舎の真如は不覚的にして、法相の真如は覚知性なるも静止的なり。しかるに起信の真如は活動的なり。もしこれを西洋哲学に比すれば、倶舎の真如はショーペンハウアー氏の意志の本体のごとく不覚性なり。ただしショーペンハウアー氏の意志は活動的なれども、倶舎は死物的なるの異同あり。法相の真如はスピノザ氏の本質のごとく静止的にして、起信の真如はシェリング、ヘーゲル両氏の絶対のごとく活動的なり。これをもって三宗の理想を解するに、深浅高下の異同あるを知るべし。

 起信の心体論のつぎに天台の真如論を述べざるべからず。天台は存立論の最上に位するものにして、万法の当体すなわち真如なるを説き、真如の自体に諸法を具することを述ぶるものなり。今その意を一言するに、事々物々ことごとくこれ真如にして、微花小草はもちろん、一片の雲、一滴の水といえども、みなこれ真如なりとし、吾人の身心ともにこれ真如なりとするをもって、「一切の衆生はことごとく仏性あり。」(一切衆生悉有仏性)を唱うるのみならず、「国土山川はことごとくみな成仏す。」(国土山川悉皆成仏)を唱うるに至る。かくして千差万別の色心諸法はもちろん、有も空も善も悪も、みなわが理性の中に本来具備せりとなす。これを理性本具説と名付け、実に天台一家最要至重の原理なり。故に『仏心印記』の巻初に「ただ一の具字、いよいよ今宗をあらわす。」(只一具字弥顕今宗)とありて、天台一家の哲理は具の字に収まるとなす。また『仏心印記』に「迷わばすなわち十界倶に染なり、悟らばすなわち十界倶に浄なり。」(迷則十界倶染、悟則十界倶浄)とありて、迷も悟も善も悪も染も浄も、みな真如の一心に具するとなす。ここにおいて十界互具説と、一念三千説とを述べざるべからず。十界互具とは地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界の六界に、声聞、縁覚、菩薩、仏の四界を加えて十界となる。この十界のおのおのに他の九界を具するをいう。すなわち『法華玄義』に「およそ心は一念にみな十界を具するなり、云々。」(凡心一念皆具十界云云)と示せり。かくして十界に十界を乗ずれは百界となる。その百界ことごとくわが一念の心に具するというは、実に天台特有の説なり。しかるに衆生の心中に仏性を具することは解しやすきも、地獄界を具することは解し難しというものあるべし。しかるに天台一家の説は、真如の本体に修悪性悪を具するにありとなす。すなわち『仏心印記』に「今家、性具の功、功は性悪にあり。」(今家性具之功、功在性悪)と説き、『台宗綱要』にその意を解していわく、「真如の理性に大智慧、光明等の善法を具足することは他宗にも之を沙汰す。真如の理性に九界の悪を具足すると云ふ義は諸家にすべて其名目も無きことなり。性悪の義を沙汰せざれは何程一心に万徳万行を具足することを申ても、別教の意となる。因て円頓の深理の顕はるることは性悪を明すにあり」と。もって性悪説の天台特有の宗意なることを知るべし。『起信論』のごときは縁起開発を説くものなれば、吾人の本は真にして末は妄なりとし、前後の上に善悪真妄の差別を立つれども、天台にありては善も悪もみな理性本具とする以上は、修悪即性悪説を唱う。その意を『仏心印記饒舌談』に示して曰く「盗賊放火は人の仕業より云へば作すと止めるとの別あれども、人に具りし所は万世易らざるか如し。」とありて、吾人の心より悪心妄念を起こす以上は、その原因必ず本来具存すべき理なり。要するに天台は理想一元論、すなわち真如一元論にして、事理不二、体象融通を唱うるものなれば、仏にも十界を具し、凡夫にも十界を具し、甲にも乙にもみな十界を具すべし。果たしてしからば、十界互具説は理想一元論の結果なること明らかなり。つぎに一念三千論を考うるに、これまた天台哲学の骨目神髄にして、その一元の妙旨は全くここにありて存す。これを『止観』に説きていわく。

それ一心に十法界を具す。一法界にまた十法界を具して百法界なり。一界に三千種の世間を具し、この三千は一念の心にあり、もし心なくばやみなん、介爾〔けに〕にも心あれば、すなわち三千を具す。

夫一心具十法界、一法界又具十法界百法界、一界具三千種世間、此三千在一念心、若無心而已、介爾有心即具三千〔*=一界具三十種世間、百法界即具三千種世間〕

 また『金牌論』に問答を掲げて曰く、

客曰く、いかんが三千なりや。余曰く、実相は必ず諸法なり、諸法は必ず十如なり、十如は必ず十界なり、十界は必ず身土なり。

客曰云何三千、余曰実相必諸法、諸法必十如、十如必十界、十界必身土

 また『仏心印記』には、

十界は性融じ、互具にして百界をなす。界は十如なれば、すなわち千如を成ず。仮名は一千、五陰は一千、国土は一千、かくのごとく三千は現前す。一念の修悪の心、本来具足し、造作して成ずるにあらず、相生じてしかるにあらず、相合してしかるにあらず。

十界性融互具為百界、界十如則成千如、仮名一千、五陰一千、国土一千、如此三千現前、一念修悪之心、本来具足非造作而成、非相生而然、非相合而然

 これを要するに、一念三千とは十界に十界を乗じ、これに十如を乗じ、これに三世界を乗ずれば三千となる。三世間とは五蘊、衆生、国土の三をいう。十如とは如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり。その源は『法華経』方便品に出ずる名目にして、真如の不可説、不可思議の妙理を言説の上に表詮したる名目なり。この三千が一念の中にあると唱うるを一念三千の法門となす。一念とは介爾の一念にして、もしその一念の妄心起こらずんばすなわちやまん、なおも起こらば十界三千の諸法ことごとくその中に具すという。かくのごとく一念の妄心に本来三千の諸法を具するを理具の三千と称し、その理具の三千が機に触れ縁に従って物心差別の諸象を現ずるを事造の三千と称す。しかして理具と事造とはその体にあるにあらず、理具即事造、事造即理具にして同体不二なりと立つるは、また天台中道の妙理なり。これをもって『十不二門』には「三千、理にあらば、同じく無明と名づく。三千、果成ずれば、みな常楽と称す。三千改むることなければ、無明すなわち明なり。三千ならびに常に倶体して倶用なり。」(三千在理同名無明、三千果成咸称常楽、三千無改無明即明、三千並常倶体倶用)とあり、『天台小部集』中に「果海の一念に三千を具するが故に、悟すなわち迷なり、凡夫の一心に三千を具するが故に、迷すなわち覚悟なり。」(果海一念具三千故悟即迷、凡夫一心具三千故、迷即覚悟也)とあり。果たしてしからば、法華一乗の要旨は事理不二、融通無礙なれば、心に三千を具すると同時に物にも三千を具し、内界に諸法を具すると同時に外界にも諸法を具すべき理なり。そのつまびらかなるは、他日大乗哲学を論ずるときに述ぶべし。

 今、天台の所説を西洋哲学の上に考うるに、法相をもってカントもしくはバークリーに比し、起信をもってフィヒテもしくはシェリングに比するときは、天台はヘーゲル氏の哲学に比せざるべからず。けだし天台の真如説は大いにヘーゲル氏の理想論に相類して、その真如と万法とを同体不二とし、万法即真如というがごときは、ヘーゲル氏の絶対相対の関係を論ずるものにはなはだ似たるところあればなり。しかるにヘーゲル氏はこれを開発進化の理をもって説き、天台はこれを実相本具の理をもって説くは、二者の同じからざるところなり。これを本具とするはスピノザ氏の本質論に似たるがごときも、その実、大いに異なるところあり。なんとなれば、スピノザ氏は物心をもって本質の属性とし、物心本質互いにその差別あることを説き、天台は物心体象同体不二にして、融通自在なることを説くものなればなり。これを要するに、西洋近世哲学はたとえ唯心を唱うるものにても、近年百科の理学大いに進みしをもって、客観的事実に照合して説明する風ありといえども、仏教は客観の考証を待たず、思想最も高き所より独断的に論下する風ありて、これを経験上の事実に照対するときは、あるいは大いに撞着するところあるを見る。ことに実大乗天台に至りては、そのはなはだしきを覚ゆ。これをもって世界はこれを古代哲学のエレア学祖クセノファネス、パルメニデス諸氏、あるいは詭弁学祖プロタゴラス、ゴルギアス諸氏等の説に比較を取り、かつこれを仏教の一大欠点となせども、その独断的空想の中におのずから論理の貫通するものあり。主観的唯心の哲理を表顕し、不可思議、不可知的の理想を形容する一段に至りては実に高妙を尽くし、幽玄を極むるところ少なしとせず。ことに体象不二の理を用いきたりて、「一色一香、中道にあらざるはなし。」(一色一香無非中道)と説き、万法即真如、真如即万法の理を転じきたりて、煩悩即菩提、生死即涅槃と述ぶるがごときに至りては、円融玄通、人をして廓然として妙楽の域に遊ばしむ。これをエレア学派に比するに、その思想の大いに発達せるはもとより同日の論にあらず。故に天台の哲理は、これを客観上の事実に証明論達するものとなさずして、無限絶対不可思議の理体を形容潤色したるものとなすときは、また大いに味わうべきところありとす。

 その他、華厳、真言等の心体論を述ぶべきはずなるも、別に講目を改めて大乗哲学を講ずるつもりなれば、すべてこれを略すべし。今、本講を結ぶに当たり、仏教心理の玄深幽妙なる一端を述べんとす。『首楞厳経』にいわく、

真浄の妙心、本来偏円なり。大なるかな心や。幽なること鬼神に過ぎ、明らかなること日月を過ぐ。博大にして天地を包み、精微にして隣虚を貫く。幽にして幽ならざるが故に至幽なり、明にして明ならざるが故に至明なり、大にして大ならざるが故に絶大、微にして微ならざるが故に至微なり。識の識るところにあらず、言の言うところにあらず。凡夫と賢聖は平等にして高下なし。

真浄妙心本来偏円矣、大哉心乎、幽過乎鬼神、明過乎日月、博大包天地、精微貫乎隣虚、幽而不幽故至幽、明而不明故至明、大而不大故絶大、微而不微故至微、非識所識非言所言、凡夫賢聖平等無高下矣、

 また『興禅護国論』の序に曰く、

大いなるかな心や、天の高きは極むべからざるなり、しかるに心は天の上に出ず。地の厚きは測るべからざるなり、しかるに心は地の下に出ず。日月の光はたとうべからざるなり、しかるに心は日月光明の表に出ず。大千沙界は窮むべからざるなり、しかるに心は大千沙界の外に出ず、それ太虚か、それ元気か、心はすなわち太虚を包んで元気を孕むものなり。天地は我を待って覆載し、日月は我を待って運行し、四時は我を待って変化し、万物は我を待って発生す。大いなるかな心や、吾やむを得ずして強いてこれに名づくるなり。これを最上乗と名づけ、また第一義と名づけ、また般若実相と名づけ、また一真法界と名づけ、また無上菩提と名づけ、また楞厳三昧と名づけ、また正法眼蔵と名づけ、また般若妙心と名づく。

大哉心乎、天之高不可極也、而心出乎天之上、地之厚不可測也、而心出乎地之下、日月之光不可踰也、而心出乎日月光明之表、大千沙界不可窮也、而心出乎大千沙界之外、其大虚乎、其元気乎、心則包大虚而孕元気者也、天地待我而覆載、日月待我而運行、四時待我而変化、万物待我而発生、大哉心乎、吾不得已而強名之也、是名最上乗、亦名第一義、亦名般若実相、亦名一真法界、亦名無上菩提、亦名楞厳三昧、亦名正法眼蔵、亦名般若妙心、

 この心たるや実に平等絶対の一心にして、玄のまた玄、妙のまた妙を極めたるものなり。畢竟するに、仏教の心理はこの玄門妙境を開示し、かつこれに体達するために説きたるものなれば、西洋近世の実験心理とは月鼇〔げつべつ〕もただならず、その比較はあたかも須弥の芥子におけるがごとし、あに同日に論ずべけんや。かかる甚深最勝の妙理は、もとより言語思慮のよく示すところにあらざれば、経論文句の上に見るところはわずかにその一斑を形容するに過ぎず。故をもって一仏所説の教えにして、しかも八宗十宗ないし八万四千の多岐に分かるるに至るなり。

 『八宗綱要』に各宗の法門を讃嘆していわく、

金陵浄影の月、八不顕実の水に澄む。(三論)

南岳天台の花、一心三観の薗に鮮やかなり。(天台)

慈恩淄洲の風は三草二木の梢に涼し。(法相)

香象清涼の玉は十玄六相の台に明らかなり。(華厳)

金陵浄影月澄于八不顕実之水(三論)

南岳天台花鮮于一心三観之薗(天台)

慈恩淄洲風涼于三草二木之梢(法相)

香象清涼玉明十玄六相之台(華厳)〔*=明于十玄六相台〕

 その他、二、三の書に見るところの一心の真相迷悟の状態を引用すべし。

法法は本来法、心心は無別心。(『宗鏡録』)

色心の一法を悟り、性相の一心を開く。(『二蔵頌義』)

近ければすなわち方寸を離れず、遠ければすなわち十万八千なり。(『続伝灯』)

法法もとおのずから円成し、念念ことごとく、みな具足せり。(『五灯会元』)

三世を一心と了知すれば、その心は無量、無辺なり。(『新華厳』)

解すればすなわち十方も一心の中、迷わばすなわち方寸も千里の外なり。(『伝通序記』)

五百の塵点の星霜を払い、実修、実証の覚月を顕す。(『津金名目私記』)

弾指に円成す、八万の門。刹那に滅却す、三祇の劫。(『宗鏡録』)

知体は霊霊として五受に染まらず、見相は了了として四相に移らず。(『伝通揉抄』)

三界は唯心にして本来無二なり、十界は本然にして転迷成覚す。(『長短録』)

一毛の端において宝王刹を現じ、微塵の裏に坐して大法論を転ず。(『首楞厳』)

雲去り、雲きたりて、天気は本寂なり。花開き、花散りて、ひとり虚空のみ存す。(『観経論義抄』)

一言の下に心地は開通し、一軸の中に義天は朗耀たり。(『円覚疏抄』)

義天いよいよ広く、管見なんぞ周らん。教海幽深にして蠡測いずくんぞ尽きん。(『名義集序』)

煩悩の露中に菩提の花開き、悪業の浪上に仏果の月浮かぶ。(『禅家語録』)

山河、大地は全く法王の身、煗動、翻飛はみな如来蔵なり。(『資持記』)

法法本来法、心心無別心(『宗鏡録』)

悟色心一法、開性相一心(『二蔵頌義』)

近則不離方寸、遠則十万八千(『続伝灯』)

法法本自円成、念念悉皆具足(『五灯会元』)

三世一心了知其心無量無辺(『新華厳』)

解則十方一心中、迷則方寸千里外(『伝通序記』)

払五百塵点星霜顕実修実証覚月(『津金名目私記』)

弾指円成八万門、刹那滅却三祇劫、(『宗鏡録』)

知体霊霊不染五受、見相了了不移四相(『伝通揉抄』)

三界唯心本来無二、十界本然転迷成覚(『長短録』)

於一毛端現宝王刹、坐微塵裏転大法輪(『首楞厳』)

雲去雲来天気本寂、花開花散独存虚空(『観経論義抄』)

一言之下心地開通、一軸之中義天朗耀(『円覚疏抄』)

義天弥広管見奚周、教海幽深蠡測焉尽(『名義集序』)

煩悩露中菩提花開、悪業浪上仏果月浮(『禅家語録』)

山河大地全法王身、煗動翻飛皆如来蔵(『資持記』)

 以上の引語によりて、一心の妙用全教の妙理を感見すべし。けだしその光景は富士峰頭に立ちて太平洋上の月を望むがごとく、その大観実に言思の外にありて存するを知る。ああ、広大なるかな、仏教の理海や。あに驚嘆せざるべけんや。