8.解説―井上円了の倫理学:田島孝

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     解  説 井上円了の倫理学       田  島   孝  

 井上円了の倫理学関係の著作は三点ある。『倫理通論(第一、第二)』、『倫理摘要』、『倫理学(理論)』である。このうち本巻には『倫理通論』(第一、第二)、『倫理摘要』を収載した。各著作の出版は『倫理通論』が明治二〇年二月、『倫理摘要』が明治二四年五月、『倫理学』が明治二四年五月となっている。『倫理摘要』は、円了(以下井上円了をこう略記する)が倫理学の担当者の転任に伴い代わりに倫理科を担当することになり、教科書としてさきの著述『倫理通論』の欠点を補う意味も兼ねて著したものである。最後の『倫理学』は、二四年五月から一〇月まで、円了が上述の倫理科の講義を担当したその講義録という形になっている。したがって、実質はある意味では当然であるが、同年同月出版された『倫理摘要』と内容的にはほとんど重なっている。『倫理学』を本巻から省いたゆえんである。いずれも上記のような経過から、一般向けの倫理学書ないし教科書として著されたものと言って差し支えないと考えられる。

 

   一 『倫理通論』

 『倫理通論』は序言によれば明治一九年一二月の執筆である。この書に関しては四年後の『倫理摘要』緒言の中で「余は倫理学を専門とするにあらず。しかるに世間その人に乏しきために、先年普及会の需に応じて『倫理通論』と題する一書を編述せしことあり。その書ベイン、スペンサー、ダーウィン等の書に基づき道徳進化の理を論定せるものなれば……東洋の短所は実験上の事実をもって論拠を構成せざるの一点にあり。この欠点を補うものは西洋近世の進化説なり。これ余がさきに進化の原理に基づきて倫理書を編述したるゆえんなり」と、そのよって立つところを明確にしている。以下のような基本的論旨をその内容としている。円了の立てた区分に従いつつその構成を見て行きたい。

 1 第一編 倫理緒論

 1―1 倫理学と諸学との関係(一―八章)。ここでまず注目すべきことは、円了が確信をもって道徳学、道義学、修身学の名に代えて倫理学という言葉を使った点にある。倫理学を定義して「善悪の標準、道徳の規則を論定し、人の行為挙動を命令する学間をいう」と語る。ここで彼が特に新しい倫理学の方法として意識していることは、儒教を中心とした修身がキリスト教を含めて仮定憶想に基づき、その根拠を論理的に追求したものでないという主張にみられる。その意味は、倫理学を伝統的な価値観の伝承としての修身や、宗教的な倫理の無批判な受容を退け、物理学や生物学のような事実に基づいた理学scienceたらしめんとしているのである。理学は更に「種々の事実を考究して一定の規則を審定し、一派の学系を組成するものをいう」(一章)と定められる。彼は倫理学を理学の原則に基づいて立てようとしているのである。

 1―2 つぎに倫理学を理学としたとき、他の理学との比較を行う。彼は理学を更に理論学と実用学とに分ける。前者は「事実を考究して一定の規則を立てる」のに対して、後者は「理論学の規則を応用して人を命令指揮する」ものを実用学と定めている。この結果、倫理学は「道徳の性質規則を審定」する限りで理論学であるが、その他に、「人の行為挙動を命令して倫理の規則に従わしむる」故に主として実用学に属することになる(三章)。

 理論学としては「人心の作用」を考究する。この点については心理学と同じである。心理学は「知力、情感、意志」を対象とするが、このうち意志は「目的ある諸作用を総称する」故に、目的行動である行為挙動を命じる倫理学が実用学であるためには、人心の理論学たる心理学をその基礎に要することになる(四章)。また政治学とも関係する。政治学は目的行動のうち「国政法の上に行為の規則を論ずる」点で、一個人の他人に対する関係を問う倫理学と異なる。また、宗教とも共通点を持っている。宗教は未来の幸福を目的にするが、そのために現世での勧善懲悪を語り、これは必然的に倫理となる。この故に古来、常に倫理と宗教は混同されてきた(六章)。更に純正哲学、社会学、人類学とも関係する。

 1―3 倫理学の必要性

 諸学の目的は「社会の幸福安寧にあり」あるいは「人類の永続、社会の繁栄」にあるとされる(九章)。法律は外的行為を問題とするが故に不十分である。これに対し、いわば内的行為を問題とするものに宗教がある。宗教は想像説をもって成立する。神仏の現存、来世の苦楽いずれも想像に基づく。かくして「宗教の道徳は愚民に適するも学者に適せざるによる。これをもって、宗教の人生の目的を全うするの力なきゆえんを知るべし」とまで言うことになる(一一章)。宗教と法律の欠点を補って社会の安寧を保全するのが倫理である。その理由は、宗教が仮定に依存しているのに対し、倫理は理論的に道徳の根本を論定する。この故にまた、知者学者にも容認される(一二章)。神を仮定憶想する宗教と倫理とは厳しく分けなければならない(一三章)。東洋の修身学、孔孟の思想は神を用いるものではないが、かの説く仁義は「天然に人の守るべき道なりと仮定し、善悪は天然にその差別あるものと憶想せしによるのみ」であって、考証論理が欠けていると難ずる(一四章)。たとえば性善説にしても、人の性は天よりうくる故に善であるというにある。しかし、天よりうくるか、天はなにものか、天からうくるものはすべて善か、論証していない。四端の説も個別例を普遍化したに過ぎない。また、人の悪も合理的に説明されていない。「要するに孔孟の修身学は、第一に道徳の原理明らかならず、第二に善悪の標準定まらず、第三に人心の分析密ならず、第四に政治と道徳の相混じ、第五に上古の道徳を模倣するがごときはみなその学の不完全なるゆえんにして、その今日の世界に適せざるゆえんを知るにたる」と言う言葉に、円了の『倫理通論』での儒教に対する見方は尽きている(一五章)。また、老荘の学にも欠点がある。無為自然の主張は社会の進歩改良を妨げる。無我無欲の主張は進取の気風を害する。愚に安んぜしむることにより智力の発達を妨げる(一六章)。仏教は前二者よりは肯定的に論じられている。その本質は「一個人と万物万境の本体たる真如の理性との関係を示すところの一種の純正哲学」であるが、その論が「髙妙」に過ぎて実際に適さないというのである(一七章)。したがって、今日の倫理とするに足らない。キリスト教も『バイブル』に書かれていることは東洋のものよりも論理を欠いている。こうして倫理としての任に耐えない(一八章)。

 1―4 こうした認識に基づき、円了は倫理が新基礎を必要としていると論じる。わが国は現在倫理学の発達が遅れている。その原因は孔孟に依存していることにある。有形のものを研究する諸科学では西洋にかなうべくもない。しかし、道徳の領域ではキリスト教が西洋を支配している。これに匹敵する宗教的足枷はわが国にはない。「理学の原理に基づき、論理の規則に照らして道徳修身の道を論定することを要する」ゆえんとなしている。

 2 第二編 人生目的

 まず、倫理学の本論を、目的を容認するか否かという観点から、倫理学説を区別することから論じ始める。その結果はつぎのようなものとなる。

  倫理説 無目的説

      目 的 説 非幸福説………知識 徳 正理

           幸福説 ……自愛

               ……他愛

               ……自他兼愛  ・・円了

 ここでは人生に目的がないとする説の四根拠を挙げ、これに対する円了の反論を加えている。その基本的立場は幸福の進化説であり、最上等の幸福プラス最多数の幸福プラス最多量の幸福を目的としており、幸福は快楽と異なるところはない。基本的に功利主義の立場に立つとともに、スペンサーの進化説をもこれに組み込んでいるということができる。この点を彼は自己の倫理学の出発点となしている。

 3 第三編 善悪の標準

 前節で円了は人生の目的を「幸福の増進」と定めた。つぎに倫理の性質を論じる。このためには善悪の判別が必要であるが、その判別をする基準が必要となる。こうして善悪の基準を論じることになる。しかし、人生の目的が決まれば善悪の基準もおのずと決まるのは明らかである。人生の目的は幸福であるので、これが幸福の基準となる。幸福を増進する行為が善であり、阻害するものが悪である。この点は明確である(四一章)。ここでの標準とは原理・原則の意と解すことが可能である。ついで標準の有無に関する倫理説を紹介している。

 3―1 標準なしとする立場は二つに分けられる。①絶対なしとするものに仏教(あるとするは人の迷い)、老荘、懐疑派が当てられる。②相対的とする理由は標準が時の経過とともに変化するということにあり、進化論者の説がこれに属する。各時代に応じた標準があるので、ありとするものとなしとするものの中間説になる。

 3―2 標準ありとの立場は(なしとすると善悪を論じることが不可能となり、修身が無意味になる)以下、外界に原理を立てる説として、①神(道理をもって道徳の標準を立てることができないので神を立てる。仮定憶想による。キリスト教は『聖書』を善悪の基準にしている。四五章)と、②君主(便宜的に立てる、ホッブズの君主道徳がこれに当たる)が挙げられる。

 3―3 内界に原理を立てる説(良心の起源を十全に論証すること不可で、推測仮定による)として、③道理(カドワース、クラーク、プライス、カント)、④道念(理性の成長に伴って善悪の分別は成長するのではない。直覚力によるのである。バトラー、リード、シャフツベリー、ハチソン、孔孟)が挙げられる(四八章)。これは生来道徳心があるとするので天賦論である。これらに対して、

 3―4 実験上の結果に基づく行為の結果を原理とする説。これは、⑤自利(ホッブズの自愛説は経験論である。他人を愛するのも結果的には自利を目指すのである。その極端な主張はマンドヴィルである。四九章)と、⑥実利(自利、利他をともに計る兼愛説。ベンサム、ミルの功利主義である)に分けられる。古今東西を問わず、この実利の原理をとらないところはない。功利説が正当な標準をなすことは多言を要しないと円了は断言する。

 3―5 円了の立場。円了は功利説をもって善悪の標準となしている(五二章)。つまり、幸福の進化が人間の究極的目的であって(五四章)、功利説は仮定憶想によるのではなく、過去の経験に基づいている故に承認されるのである。

 4 第四編 道徳本心

 ここでは、前説3―3の④の良心説の起源を論ずる。

 4―1 天賦説。即座に善悪を判別するとか、万人に共通であるとか、教育によらずとも可能であるとかを理由とする孔孟に見られるような天賦と、

 4―2 経験説。良心の発達は経験教育によるとする経験説が対比される。しかし、天賦論がいう良心の種は同じとしても人の成長に従って違いが生ずるのは何故か、この難点を経験論は説明しうる。しかし、同一の経験教育の結果異なる良心が生まれることを説明し得ない。この難点を遺伝説は解決可能である(六九章)。こうして

 4―3 遺伝説。両者の統合としての遺伝説が取り上げられる。幾代かの経験が遺伝するというもので、一種の経験説である(六〇章)。かくして良心は遺伝と経験相合して生ずるとされることとなる。また、同じ親から相反する子が生まれるときは隔世遺伝によって説明可能となる。

 5 第五編 行為進化 第一

 天賦説、経験説では十分に説明し得ない良心の起源が、その本源にさかのぼって論じられることになる。ここで彼の倫理学の基本的基盤となっている論が展開される。それは進化論である。

 5―1 行為の進化。前節で良心の起源を論ずるもいまだ不十分で、明確にするためには行為の進化を論じる必要がある。行為の進化は道徳の進化でもある。動物の行動が目的を持つときこれを行為という。行為が善悪を考慮するときこれを道徳という。動物から野蛮人種、高等人種へと進化がある。以下、この進化発展の跡を論じる(七六章)。道徳は人と他人との間に起こる行為であるが、行為とは目的ある挙動をそう呼び、目的ない挙動を単に挙動という。下等動物の挙動から人類の道徳の行為を論究することにより道徳心の起源を論じうる。これを行為の進化という(七七章)。

 5―2 出発点としての自己保存。すべての挙動行為は①個体自身と②その種族の保存を目的とする。自保自存の規則である。自身の保存が子孫の永続につながる。前の目的は幸福という説を受けると、自己保存=幸福ということになるが、この点について円了は明確に述べてはいない(七八章)。

 5―3 つぎに、生存に利ある行為を善、害ある行為を悪となす(「他者利益」も結局は「自己利益」につながる)(七九章)。利他の行為は結局のところ自己保存、種族の維持に必要である。社会が成立すると単なる「自己利益」ではなく、他人を愛することにより自利を計ることが可能となる。自利を悪とすることは社会の一定の段階で初めて生じる。真実は自利、利他の両方である。

 5―4 心理学からの考察。①保存に益あるものを快、害あるものを苦とする(この結果、善=快、悪=苦となる)。善悪は苦楽の観念より生じる。動物には苦楽のみ。経験から快楽を生ずる行為を善行、苦痛を生む行為を悪行となすのである。②道徳の諸情として、驚、愛、努、懼、我、力、行、同、智、美、徳、(宗教)がある。徳情は道徳の情であり、愛他博愛の情である。また、人の善を喜び悪を憎む情でもある。徳情は愛(愛憐の情)と我(自利、自愛、自慢)と同(同情)から生まれる(八五章)。徳情も保存の規則から生じる。したがって、自利自愛の情から生じるのである。そういう意味では道徳心は経験より生ずる。

 5―5 天賦説への反論。道徳の本心(良心)は天賦のものとの説あり。孟子の惻隠(仁の端)は他人の不幸を自己のものと想像することにより自愛から生じる。羞悪(義)は良心であり、辞譲(礼)は弱肉強食より自利を容易に確保することを経験することにより生ずる。是非(智)は功利主義者によると快苦の感覚より生じるのである。こうして天賦説は根拠がない(九〇章)。仁義礼智の四端は自己保存、苦楽両感覚から発達したものである。

 6 第六編 行為進化 第二

 ここでは、第五編で論じた行為の進化の規定にある生物、社会の進化から道徳の進化が生じることが論じられる。

 6―1 進化一般。まず進化全体について。進化の原因は生存競争の規則にある。社会道徳はこの規則より生じる。①外界に対するものとして適者(種)生存(自然淘汰)と順応がある。②また、同類に対するものとして、衣食の獲得競争と、優勝劣敗の原理がある。

 6―2 順応遺伝の規則。適種生存から外界に対する順応が生じる。生物の有する性質の子孫に遺伝する規則に二種ある。①固有遺伝は生まれつき父祖より受けたものを子孫に遺伝することである。これに連続遺伝と間欠遺伝がある。②得有遺伝は経験による獲得性質の遺伝である(九四章)。競争、順応、遺伝が進化の三要素である(九五章)。

 6―3 道徳の進化。道徳の進化に必要なものは「習慣」と「連合」の規則である。観念の連合同一反復により習性となり、習性によって連想が生じ、連想により道徳進化が可能となる(九六章)。一理は物心に分かれ、ものは有機、無機に分かれ、有機から動植物人類が進化する。生物は苦を感じるときは活動が減じて、楽を感じるときは盛んになる。これにより苦楽は基準となり善悪となる。こうして進化淘汰が生じる。個人競争から複数の集団が強いことが分かり、共同体が成立、共同体の維持のために利他博愛が生じる。

 6―4 心理の進化。道徳の進化を心理上より見る試みがある。これは習性連想による解釈である。苦楽の観念から善悪の観念への移行はミル、マッキントッシュによれば、一つの感覚から一つの思想が連想によって生じ、一つの思想から他の思想が生じることによる。各個別思想から連想によって全く新しい思想が生まれる。このように苦楽の感覚から善悪の虚想が生じる(一〇〇章)。競争、淘汰、遺伝、順応の規則により道徳は発展する(一〇一章)。こうした進化は宇宙万物に妥当する普遍的法則である。今後の発展もこの規則に基づく。したがって、古来一定不変の道徳はない。原始的な形から進化したのである。将来のこの説の妥当性については、今までの経験を根拠とする以外に手だてはない。進化が極点に達したときのことを仮定しその後は後退のみという説に対しては、いまだその点には達していないのだから、それまで努力してそれから結果をみればよろしいとの見解である(一〇五章)。

 6―5 結論。前編は「道徳自体の発達を論じてその進化を示し」、後編は「宇宙一体の進化を論じて道徳の発達に及ぼす」ものであった。進化は道徳の通理通則である。以下の第七編 各家異説第一、第八編 各家異説第二で、進化説と伝統的倫理説の比較を試みている。これらは略す。

 

   二 『倫理摘要』

 1 構 成

 いくつかの点を除いて基本的には『倫理通論』と違いはない。①量的に半分となっている。②簡潔になった点だけ分かりやすくなっている。③また『倫理通論』よりは形式的にも整っており、より完成されたものとなっている。構成は以下のとおりである。

 1―1 一 術語索引、二 倫理学派名義考、三 倫理学者年代表、四 倫理学略史、五 本論目録、六 本論、七 倫理試験問題。

 このうち、術語索引、倫理学派名義考、倫理学者年代表、倫理試験問題を割愛した。本論は、第一章 緒論、第二章 目的論、第三章 標準論、第四章 良心論、第五章 意志論、第六章 行為論、第七章 規律論、第八章 結論からなる。この本論中『倫理通論』と章名も内容も重なる部分は、第一章 緒論、第二章 目的論、第三章 標準論、第四章 良心論、第六章 行為論、第八章 結論である。この部分は若干の加筆削除を除いて内容的にほとんど同じである(たとえば、標準論において『倫理通論』では天神、君主、道理、道念、自利、実利の六説に区分しているのに対し、『倫理摘要』ではこれに天命説(ストア派)、進化説を新たに加え、また、実利を利他説と功利説の二つに分けることによって合計九説となしている)。新たに、第五章 意志論、第七章 規律論が加えられた。他方、『倫理通論』では大きな部分を占めていた「行為進化 第一」、「行為進化 第二」が大幅に削られて単に「行為論」となっている。したがって、『倫理通論』と共通の部分については言及を避け、新たに加えられた部分についてのみ補説する。

 1―2 第五章。「意志論」では自由意志論と決定論(円了は必然論と呼ぶ)の問題が論じられている。意志は『倫理通論』では四章で、行為は意志により、意志は心理に属する故に心理学との関係で心の他の作用である情感、智力と並んで三要素として簡単に触れられているのみであるが、ここではその情感と智力を起源として意志がどう成立するかという観点から論じられている。「自由意志とは我人の有する自裁自断自択自制の力に与える名称にして、その力の自由を唱えるものこれを自由論と名付く」(四九節)となしているが、「必然論の方道理あるに似たり。なんとなれば、この世界に存するもの一つとしてその変化発動するや必然の規則によらざるものなければなり」として、彼はむしろ決定論をとることを明らかにしている。

 1―3 第七章。「規律論」は道徳法則およびそれに関連して賞罰と義務を論じている。結論としては道徳上の制裁に法律、社会、身体自然(自己の行為の結果が自己の身体に及ぼす影響)、良心があり、宗教を加えれば五つとなる(六八節)。義務は自己と他人に対して「実行せざるべからざる本分」である(六九節)。また、これと関連し「徳」を「人心中の善を行わんとする一種の習慣にして義務を全うすべき性質をいう」と定義している(七〇節)。

 1―4 結論。最後に円了は、人間の目的(幸福と非幸福)、善悪の原理(天神等、九説)、良心論(本然論と経験論)、意志(自由論と必然論)、行為の発達(進化論と非進化論)いずれにわたっても、それらの領域内で諸説の対立の根本をなすのは最終的に二つに帰着するとなす。すなわち、直覚教(直覚主義)と主楽教(快楽・幸福主義)である。目的の非幸福説、良心の本然説、意志の自由論、行為の非進化論は直覚説に属し、目的の幸福説、良心の経験論、意志の必然論、行為の進化論は主楽教に属する。これらの対立は実は事柄の客観的側面、外部を重視するか、主観的側面、内部を重視するかによって分かれるのであって、その内実はあまり変わりがないと彼は考える。この両側面をあわせて中を得る方法を円了は「理想的研究法」(九、七八節)と呼び、『倫理摘要』での自らの立場としている。また、倫理の実際において理論に走るきらいを戒めて、実践を重視する立場に傾いている。全体として進化論の基本的枠組みを維持しながらも(たとえば、意志の自由について必然論をとっている)、自らの「理想的研究法」をもって進化論に対し距離を取ろうと試みているといい得る。

 こうしてみると、明らかに円了は科学的倫理学を目指す『倫理通論』の立場から、実践を重視する『倫理摘要』の立場への変化を見せている。しかし、それによって、また彼が最初に主張した倫理学の学問性は保たれたのであろうか。

 

   三 円了の倫理思想

 1 時代的背景としての進化論

 1―1 『倫理通論』の基本的原則を理解するには、彼が依拠したと挙げている三人をまず取り上げるのが適当であろう。ダーウィンはいうまでもなく『種の起源The Origin of Species』(1859)の著者Charles Robert Darwin(1809~82)である。ベインAlexander Bain(1818~1903)はスコットランドの哲学者、心理学者であった。アバディーン大学で一八六〇年に論理学、修辞学の教授に就任、連想心理学派に属し、J・S・ミルに協力した。The Senses and the Intellect(London・1855)・The Emotions and the Will(London・1859)・Manual of Rhetoric(London・1864)等の著作がある。今日彼の業績として認められているのは修辞学の領域とされている。スペンサーHerbert Spencer(1820~1903)はイギリスの哲学者で進化論の信奉者であった。進化論を哲学の全領域に適用しようとしたことで知られている。A System of Synthetic Philosophy・10 volsをこの目的のために書いている。この三人に共通するのは進化論とその時代である。円了の『倫理通論』が書かれたのは一八八七年であった。『種の起源』の出版から三〇年弱、スペンサーのThe Principles of Ethics・2 vols・(London・1879~1893)の最初の出版から一〇年弱である。円了にとってその時代のまさに最大の学説であったことは想像に難くない。したがって、円了の倫理学の構造を理解するには、その代表的倫理学者スペンサーの倫理学が一番参考になる。

 スペンサーの倫理学は以下の構造のものとされている。(cf・Henry Sidgwick・Outlines of the History of Ethics・London・1925・ch・IV・sec・17・J・Kaminsky・‘Herbert Spencer'in The Encyclopedia of Philosophy・vol・7・pp・523~527・):①社会と同情。感情は進化から生じる。生は生存を追求し、快の感情はこの衝動を維持するために必要である。生存に資する行動は快楽を伴い、生存を損なう行動は苦を伴う。もし目的達成の感覚がなければ生物が消滅する。社会性と共感の感情も生存競争の中で協力が必要であることを認識し、社会性の感情に付随する快楽はその報償なのである。社会性の発展は共同体へと促し、これは社会学と倫理学の対象を構成する。共同体も有機体同様に幼年期、成熟期、衰退期を迎える。共同体を意識的に担うものは個人のみであり、また個人の利益のみをその存在根拠としている。そしていずれどの共同体も消滅することを肯定する。しかし、彼は西洋文明はまだ成熟期に入ったばかりと考えている。更に倫理の原則は幾世代にわたって教育されるなら、その原則は本有的となると信じていた。すべての個人が先祖からある性向を受け継いでおり、後代はより知的に進化しているのである。②こうして、社会は個人の利益のために存する。彼の倫理学は功利主義の原則に立ち、善とは人に最終的に快楽を生むものであるとなした。倫理学は行為の学問であり、行為は目的に対する行為の順応にかかわる。下等動物も人間も外界を最大限に利用しようとする。適当な適応は快を生み、不適応は苦を生じる。道徳意識の観念も、個人と社会に帰結する結果を理性的に考量するという規則にほかならない。義務の観念なしには自利に走り、結果的には自分の最善の利益を損なうのである。スペンサーにとってはこうした義務の考えが、自利利他の伝統的対立を止揚するものであった。人間はその発展の初期においてはまず自利を計ろうとする。進化した社会でも利己主義はある利点を持っている。利己主義者は往々にしてより健康であり、そのことにより社会に貢献するのである。社会が発展するに従って利己主義は、他人を利することによって自己の利益が確保されることを学ぶ。利己主義と利他主義は両立するのである。他人の幸福が自己の幸福に影響を及ぼすことを知るのである。更にこうした適応を可能にするのは外界に対する知識であり、彼はまず科学を学習し、それから心理学、教育学、社会科学を学ぶべきと考えた。

 以上のようなスペンサーの進化論に基づいた倫理思想が、いかに円了の『倫理通論』と重なるかは言うを待たないであろう。更に具体的に指摘すれば、スペンサーはconductとactionを区別する。前者が目的適合的であるのに対して、後者は前者より広範囲であり目的適合的でないものも含んでいる(The Principle of Ethics・Part1・ch・1・sect・2・)。この区分は円了の「行為進化」における行為(conduct)と挙動(action)に対応する。スペンサーが善悪を目的に適合するか否かで分ける点も円了はそのまま受け継いでいる。また『倫理通論』第二の論述がそれに当てられている(各家異説 第一、第二を除けば)「行為進化 第一、第二」はスペンサーの『倫理学原理』第一部、二章の‘The Evolution of Conduct'に依拠しているものと考えられるし、その中で円了が進化という観点から行っている生物学的、心理学的、社会学的考察も、スペンサーの『倫理学原理』第一部、六、七、八章の生物学、心理学、社会学的な見方と関連するものと見られる。また、スペンサーの「不可知なるもの」という概念も今までの経験から判断する限りで理論を立てるべきで、さきのことは不確定であるという円了の主張にその影響をみることができる。

 1―2 こうした進化論の影響下にある『倫理通論』には、つぎのような際立つ特徴がみられる。①「理学」scienceとしての倫理学の強調、②伝統的倫理に対する批判、③宗教に対する批判、④その原理としての「進化論」、⑤行為進化の帰結としての功利主義の採用等である。儒教や宗教に対する強い批判もまた、宗教と倫理との未分化を原始的状態とみなすスペンサーの見解と切り離しては理解できないと思われる。このように『倫理通論』はある意味では円了自身の思想がどこまで含まれているかは別として、首尾一貫した思想に貫かれていると言ってよい。

 2 進化論と修身

 つぎに『倫理摘要』の立場を見るに、進化論一辺倒といってよい『倫理通論』に対して『倫理摘要』にはその修正がある。『倫理摘要』緒言の中で『倫理通論』をさして「さきに進化の原理に基づきて倫理書を編述したるゆえんなり」と述べる一方で、倫理科担当者として「余は学校の修身道徳は理論の上にあらずして実行の上にあり……と信ずるものなり」と言って、実践の手引きになることを論述の目的としていることを明らかにしている。この点が『倫理通論』にはない彼の「理想的研究法」という言葉の内に表れている。それは事実、経験をもっぱら重視する科学的な倫理学に対する反省でもある。それにもかかわらず基本的な『倫理摘要』の構造は、その構成がほとんど『倫理通論』と変わらないことからも知られるように進化論に依存している。たとえば、依然として「今日進化の原理は天地万物諸学諸術の通則となりし以上は、道徳ひとりその規則の外に立つの理あらんや……この論のごときは実に事実上疑うべからざるものにして、また理論上動かすべからざるものなり」(六二節)と基本的に進化論を肯定している。こうした、一方では修身道徳を重視する実践立場と、他方では倫理学の原理としての進化論をその理論的支柱とする基本姿勢が、『倫理摘要』での円了の考え方をかえって曖昧にしている。実践の必要を強調する結論部分で、「我人が一家の徳行家となるには、世人一般に善と称するものについてこれをその身に行うをもって足れり」とまで語っている(八〇節)。ここには『倫理通論』における伝統的な儒教を中心とした修身や宗教への「古来世間に伝わるところの修身学は仮定憶想に出ずるものを常とす」(『倫理通論』一章)、「宗教の道徳は愚民に適するも学者に適せざるによる。これをもって、宗教の人生の目的を全うするの力なきゆえんをしるべし」というような激しい批判は見ることができない。同時にまた『倫理通論』にみられる論理的な首尾一貫性を見ることもできなくなっている。

 3 円了倫理学の問題点

 円了の進化論を基軸とした倫理学が他の思索、哲学や宗教観とどのように結びつけられているのかは筆者にとっても、そして恐らく円了にとっても一つの課題であるが今は触れない。倫理学に限っていえば、円了の倫理学の問題点は、ある意味では同時にスペンサーの倫理学の問題でもある。今日の高度に工業化、進化した社会では現実の地球環境の破壊に見られるように、スペンサーのような「自由放任主義」は擁護し得ない。進化論がいう本来の目的とされる生物の生存そのものが適者生存、優勝劣敗というような個人の幸福追求を無条件で原理とする活動によって危機に瀕している事実がある。また、なんらかの意味で快楽を原理とする功利主義に必然的に伴う快楽計算等の問題について円了は積極的には触れていない。また、快楽の本質についての考察もない。スペンサーの功績は科学的知識とその方法の哲学への適用と、個人の権利の徹底的な重視であるとされているが、円了の『倫理通論』、『倫理摘要』には、「進化論」を通じて内含的には個人を倫理学の原点として重視する立場が語られてはいるが、自覚的に明確な形ですべての倫理が一人一人の内にその根拠を持つということは展開されてはいない。『倫理摘要』で初めて円了の独自の倫理的立場として登場する「理想的研究法」は言葉のみで、具体的に展開されることなく終わっている。その講義はどのようになされたのであろうか。西欧思想の根幹をなす一人の人を一人の人として考察するという原点の持つ意味を、円了が更に彼自身の問題として思索していたならば、わが国のこの期の倫理学に更に確かな足跡を残したろうと考えられる。