4.妖怪学関係論文等

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妖怪学関係論文等

妖怪研究

 妖怪研究は余が数年来従事せるところなるが、近ごろ応用心理学を講述するに当たり、あわせて妖怪の解釈を下し、ときどき実験をも施しけるに、事実の参考を要するものあれば、〔哲学館〕館外員諸君よりも事実の御報道にあずかりたく、左に妖怪の性質と種類とを掲記いたし候。

 洋の東西を論ぜず、世の古今を問わず、宇宙物心の諸象中、普通の道理をもって解釈すべからざるものあり。これを妖怪といい、あるいは不思議と称す。その妖怪、不思議とするものにまた、あまたの種類ありし。現今、俗間に存するもの幾種あるを知らずといえども、しばらくこれを大別して二大種となす。すなわち、その第一種は内界より生ずるもの、第二種は外界に現ずるもの、これなり。しかしてまた、内界より生ずるものに二種ありて、他人の媒介を経てことさらに行うものと、自己の身心の上に自然に発するものの別あり。ゆえに、余は妖怪の種類を分かちて、左の三種となさんとす。

 第一種、すなわち外界に現ずるもの

   幽霊、狐狸、犬神、天狗、鬼火、妖星、その他諸外界の妖怪

 第二種、すなわち他人の媒介によりて行うもの

   巫覡、神おろし、人相見、墨色、卜筮、予言、祈祷、察心、催眠、その他諸幻術

 第三種、すなわち自己の身心の上に発するもの

   夢、夜行、神知、偶合、再生、俗説、癲狂、その他諸精神病

 このうち第一種の狐狸、犬神等は、第三種にも属すべし。

 以上の種類に関する事実御報道にあずかりたく、追ってその解釈は「講義録」中に掲載するか、あるいは特別に〔哲学館〕館外員講義相設け、講述いたすべく候。

 

    出典 『哲学館講義録』第一期第三年級第五号、明治二三(一八九〇)年二月一八日、一頁。

妖怪報告

 本館にて、心理講究のかたわら妖怪事実を捜索研究し、その結果を館員に報告し、また、その事実を館員より通信せしむるについては、従来の通信中、妖怪、不思議にして解釈を付し難きものを掲載し、一は館員中事実報告の参考となし、一は館員よりこれに対する意見を報知せしめ、妖怪研究の一助となさんとす。よって今後は、ときどき妖怪事実を本誌に記載すべし。

 左の一事実は、明治十九年、余が手に入りたるものにして、静岡県遠州〔遠江の国〕某氏の報知なり(本誌掲載のことは本人に照会せざりしをもって、その姓名を挙げず)。夢想の研究については、参考すべき必要の事実なり。

○霊魂は幽明の間に通ずるものか

 予は祖先相つぎ、世々農をもって業とするものなり。父母存在し、一姉あり、さきに他に嫁し、一弟あり、齢七歳にして没す。妻あり一男を産む、成長す。当時家族五人、予や明治十二年以降、某官衙に微官を奉ず。しかして、明治十九年二月二十日、公務を担い、奉職の官衙を去る十里ほど、某官衙に至る。該地に滞留すること八日維時、その月二十八日夜、寝に就く。忽地にして妻、手に提灯を携え、某川のそばに彷徨し、予に告げて曰く、「父、水没す」と。ともに驚然として覚む。とき夜半、なお再び寝眠するに、さらに水没の地名を呼ぶ。夢況また故のごとし。しかして夢破すれば、時辰儀まさに七時になんなんとす。起きて盥嗽し終わり、うたた昨夢の現象を思う。しかれども、予や元来、夢想に感じ、空想を惹起するがごとき情感なく、ことに夢境は某川暴漲せりと覚ゆれども、あたかも天晴朗、降雨の兆しもなし。かつ、はじめ家を去るとき、父平素にたがわず健康なれば、これを煙消霧散に付し、意思のかけらにもかけず。

 その日も前日のごとく、某官衙に出務せり。とき三月一日なり。日課を終え、午後六時ごろ旅亭に帰り浴湯し、まさに晩餐を喫せんとす。旅亭の下婢、左側の障子を開き、手に電報を持ち、予に告げて曰く、「ただ今、君へ電報到着せり」と。予、なにごとの出来せしやと疑いながらただちに披封すれば、なんぞはからん、「父大病につき、ただちに帰宅せよ」と、親戚某より寄するところの電報なり。愕然、大いに憂懼す。しかれども、公事を帯び羈客の身となる。ほしいままに帰省なしがたきをもって、某官衙に生が病気届けを上呈し、倔強の車夫を呼び腕車に乗じ、ただちに旅亭を辞し、時刻を移さずして帰省し、父の病を訪わんとすれば、溘焉としてすでに逝き、また浮き世の人にあらず。もってひとたびは錯愕、もってひとたびは慟哭、情緒乱れて、またなすところを知らず。しかれども、事すでにここに至る、いかんともするあたわず。よって、その卒去の情況を子細に尋問すれば、二月二十八日早朝、父、故人某のもとに訪問せんと、平素のごとく家を出発せしが、途次、某川のそばを通行し、あやまちて蹶倒し、堤脇壇上の杭頭に触れ、いたく前額を打撲しきずつき、なお半身頭部の方を水面に没して絶倒したりと。

 また、これよりさき父出発の際、家族に語りて曰く、「即日帰家すべし」と。しかして、黄昏帰家せざるをもって家僕を迎わせんとせしに、あいにく不在なるにより、妻、一婢をもって出迎えせしは、すでに夜七時。提灯を携え東奔西馳し、父に会同せんことを企図すれども、途次さらに人影だもあることなし。よって、むなしく帰家し母に告ぐれば、父の故人某の近傍には二、三の親戚あれば、いずれにか宿泊せしならんと、ともに語れり。しかして、その遺骸を発見せしは、三月一日午後一時ごろなり。しかれども、この難にかかりしは、二十八日の帰路なりしか、はた三月一日の朝なりしか、その際いまだ判然せざりし。これをもって、父のさきに訪問せし某の家に人を走らせ、つまびらかにその情況を探知し、かつその途次、逐一審査すれば、全く出発の即日帰路の変事にして、近傍途次にて現に父と面語せしものありと。よって、はじめてその事実を知了するを得たり。

 ここにおいてか、予はさらに思う。曩日の感夢、おおむね事実と適中するもののごとしと。これ、そもそも予が疑団いよいよ凝結して、氷釈するあたわざるゆえんなり。それ、およそ夢は、つねに五官の交感、あるいは往事追懐の起念等、種々の原因より結合して成るものなりといえども、かくのごとく詳細の事実に至るまで、多分は符合すること、はなはだ怪しむにたえたり。しかりといえども、古来東洋の人、夢によりて禍福を知り、夢に神託を受け、婦妻の遠征の良人を追慕し、夢の情感によりて妊孕せし等、おおむね架空の談柄たるに過ぎず。これ、自ら欺き人を欺き、夢を利用し、自らためにするところのものあり。それ、かくのごときは、文明の世に生まれて、いやしくも学者たるものの、はなはだ取らざるところたるのみならず、士君子の最もいさぎよしとせざるところなり。

 ゆえに予は、すべて夢をもって人事を卜するに足るものなりと信ずるものにあらずといえども、ひそかに信ず、霊魂は幽明の間に通ずるものなりと。しかれども、いかんせん心体のなにものたるを理会するにあらざれば、論理上考証となすべきものなきを。よって、事実を記しておおかたにただす。こいねがわくは、教示をたまうことを得ば幸甚。

 前回に奇夢の事実を掲載せしが、今また奇夢の一事実を妖怪報知書類中に得たれば、ここに掲載すべし。この報知の余が手もとに達したるは明治二十年十二月のことにして、北海道日高国、某氏の実際に経験せる事実なり。書中に記するところを見るに、同年十一月十九日夜、夢中に現見せる奇事なれば、ここに記載して読者の参考となす。

 拝啓、小生は小鳥類を餌養し、篭中に運動し、余念なく時節につれて囀啼するを見聞し、無上の快事といたしおり候。当時も四、五羽相集め、暇さいあればこれを撫育いたしおり候に、小鳥もまた押馴し、食物を掌上に載せ出だせば、来たりてこれを啄み、少しも驚愕畏懼の風これなし。人慣れ、篭慣れとも申すべきか。しかるに、今御報知及ぶべき次第は、右小鳥より生ぜし小生が奇夢に御座候。こは、かねて新聞広告にて、昨今御病気中、右ら妖怪御取り調べ相成る趣、承知いたし候につき、まことにつまらぬ一場の夢記には候えども、万一御研究の御材料にも相成り候わば大幸と存じ、大略左に申し述べ候。元来、不文の小生に候えば、しばしば文の支離錯雑の段は、御判読を願いたく候。

 三更、人定まり、四隣寂として声なし。小鳥、小生の枕辺に来たり、小生に訴えて申すよう、「限界もなき蒼空を住家となし、自在に飛揚し、自在に囀り、食を求めて啄み、時を得て鳴き、いまだ人間の捕らえて、篭裏に蟄居せしむるがごときことあるを知らざりき。不幸ひとたび先生の網羅にかかり、この篭裏に入りしより、食を得、飲を求むるにおいては労することなしといえども、かの空中自在の飛揚に比すれば、その苦と歓とは果たしていかんぞや。余や、この篭を居となす、すでに一年。その間、先生により、つつがなきを得たり、多謝深謝。さりながら、事と物とはままならぬことのみ多き浮き世の悲しさ、今や余が一身は一魔物のために掠め去られ、ふたたび先生を見ることを得ず、先生また、余を愛することあたわざらんとす。請う、先生よ、余を愛したる念情はこれを他鳥に移せ。しかれども、余にもまた翅翼あり、なお飛揚の術を忘れず。魔物来たりて余を掠めんとせば、余は全力を飛逃に尽くし、その爪牙を逃るることをつとむべし。万一この計のごとくなるを得ば、再び来たりて先生の愛鳥の列に加わらん」と言い終わりて、悄然として去る。しばらくありて、右の小鳥は嘴辺および咽部に爪牙の跡を得、血を垂れ、来たりて小生に向かい哀を請うがごとし。

 小生、大いに驚き、家内を呼び寄せ、「汝らの不注意より、事のここに至りしぞ」と叱咤すれば、これぞ、この夜(十一月十九日)一場の夢にて候いし。かえって傍人にその寝語などを笑われ、再びそのまま寝に就き、翌朝、例により小鳥の食物など相与え、昨夜の夢など思い出し、笑いながらも食後他出し、談話のついで前夜の夢を語り、一場の笑いを博し、午後三時ごろ帰宅すれば、なんぞ図らん、小生が最愛の、方言「のじこ」と称する小鳥は、すでに飛逃してあらず。篭もまた破れて、羽毛のその辺りに紛々たるを認め候。このとき、小生は前夜の夢想を考え合わせ、さても不思議なることもあるものかなとは思い候えども、多分猫などの所為なるべしと存じ、なお家族にもよく、小生不在中なりとも注意すべき旨を申し聞けおき候。

 ここにその翌日すなわち二十一日の朝も、例により小鳥の食物を与えおり候ところへ、さきに飛び去りし小鳥は小生の面前に来たり、なんとなくしおしおいたしおり候につき、これはと思い、ただちに捕らえてこれを検すれば、嘴および咽辺などに爪牙にかけられし創を受け得て、その景状はすべて夢中にありし事柄と毫も異なることこれなし。誠に不思議千万の次第にこれあり候いしも、もとよりつまらぬ夢想のことゆえ、そのままにいたしおき候も、他人より右ようのことを話されなば、人さきに駁撃する小生ゆえ、なまじいに右ようのことを話し出し、かえって笑わるることと存じたるゆえに候。

 右は夢想と事実と偶合せし事実にして、小生はもちろん友人などにも、奥深き学問上のことなど承知いたしおるものこれなし。ただ奇とか妙とか申しはなすに過ぎざることに御座候。幸い御研究の御材料にも相成るべきかと存じ、その顛末、前顕のごとく御報知及び候。なお右顛末につき御不審のかどもこれあり候わば、その点につきさらに御報知及ぶべく候間、御申し越しくだされたく、右までかくのごとく候。頓首。

     明治二十年十二月二日 某 氏 報 知  

 夢は、前に経験せる種々の事柄が、いろいろに結合して想中に現ずるものなり。美濃国、山田某が明治二十年十月二十九日郵送せる事実およびその説明は、この一例を示すものなれば、左に掲記して読者の参考となす。

 予、かつて夢む。盗〔人〕あり、戸を破りて入りきたり、秋水閃々、大いに目をいからし、予に向かいて曰く、「金を渡せ、金を渡せ」と。予、たちどころに柳生流の秘密を施し、苦もなく盗〔人〕を一撃の下にくだし、ついにこれを殺したるが、ややありて盗〔人〕はさかさまに歩行し、股間に頭を生じ、予と懇親を結びたり。覚めて後、深くこれを考うるに、その秋水の閃々たるは、前々日、古物商の買い出しに来たるあり。戸を破りたるは、前日ある家に遊びしに、その家の馬逸して、廏側の朽ち板を破りたるあり。「金を渡せ」とは、過日、浮連節の座に木戸銭を受け取るあり、その浮連節に柳生流を演じたるより、ついにここに連想をきたし、さかさまに歩行したるは、その日、ある所にて、越後なる倒竹の話をなしたるよりし、殺したるの連想は、かつて死刑人を巨板に載せ、首をその股前に置きたるを、解剖室において見たるに結び、懇親をなしたるは、解剖の悪臭にたえず、帰りて友人と一杯を酌みたるを、かくは転じきたりたるなり。すべて夢は、かくのごとく疑似、差異、係属等よりして、最下等なる想像世界をいわゆる夢中に浮かぶるものなれば、夢によりて吉凶をきたすがごとき妄説は、あえて取るに足らずといえども、またよくこれを判断して、その人の心内に思うところを推し、もって将来を卜することを得べしというも、やや理なきにあらざるがごとし。ここに諸家の説を請う。

 先回、奇夢の事実を掲記せるが、今ここに、感覚より生ずる夢の事実を報告せんとす。西洋の心理書に引用する二、三の例を挙ぐるに、

○ある貴人が一夕、兵隊となりたる夢を見、たまたま砲声の発するを聞きて驚きさむれば、そのとき隣室中に、不意に発声せるものありて夢を引き起こし、かつ眠りを驚かせしなり。これ、耳感にありて夢を生ぜし一例なり。

○ある人睡眠中に、その弟来たりて談話したることあり。しかるにその人、睡眠中にありながら、その談話と寸分もたがわざる夢を結びたりという。これまた耳感の夢なり。

○ある人睡眠中、ガスの気を嗅ぎて、化学実験室に入りたる夢を結びしという。これ、鼻感の夢なり。

○触感の夢には、その例はなはだ多し。例えば、湯を入れたる鉄瓶に足の触るるありて、火上を渡りし夢を結び、冷水を入れたる鉄瓶に足の触るるありて、氷雪を踏みし夢を結ぶ等なり。

○また、視感によりて夢を結ぶことあり。ある人、夢に極楽に遊び、四面光明赫々たるを見、驚きさむれば、炉中に薪の突然火を発するを見たり。また、ある人、夢に盗賊の室中に入りて、手に燭を取り物品を探るを見、翌朝これをその母に語る。母曰く、「これ、わが前夜ろうそくを取りて室中に入り、物品を探りしことの、夢に現ぜしならん」

○また、ある人、ことさらに試験を施せしことあり。一夕、熟眠せる人の手足を爪にてひねりたるに、その人は医者の手術を受けたる夢を見たり。また一夕、熟眠せる人の額に冷水の一滴を点じたるに、その人、イタリア国にありて熱気のはなはだしきを感じ、ブドウ酒一杯を傾けたることを夢みたりという。

○明治二十年、和歌山県、久保某氏より報知せる書中に、左の一事あり。久保氏自ら曰く、「一夕、夢中にて余の傍らにある人、棒をふり回す。余、その棒の己が身体にあたるを恐れしに、やや久しくして、果たして余の頭にあたれり。よって驚きさむれば、たまたま余の傍らに臥したる人が手を伸ばして、あやまりて余の頭に触れたるなり」と。

 埼玉県、永井某氏より、夢の解釈につき報道せられたる一文は、参考の一助となるべきものなれば、その全文をここに掲記す。

 郵便をもって申し上げ候。しからば、『通信教授 心理学』第三号の付言に従い、はばかりながらちょっとのべんに、およそ人の睡眠するは、すなわち原語のスリープという。心理書によれば、その定義は、意識を失うこと、すなわちわが我を失うなりと。また、ねむるという近き解釈は、神経にかかわることにて、全身にはあらずといえり。しかして、ねむりし後、われわれの夢の起こる原因はなにものなりやというに、夢は睡中のとき心が働くことにて、われわれにたびたびこの作用の起こることは、世人のすでに知るところなり。すなわち、彼のいまだかつて見聞せざる場所に遊び、その他奇人にあい、種々様々の夢の起こる原因は、余はことに不瞭解なれども、しかしこれを不瞭解なりと言いて等閑に付すは、日進の知識は決して得べからざるものと思われ申し候。それゆえ、ひとえに研究いたしたく志願の至りに御座候。よって、余のちょっと書物あるいは人に見聞したることを申さんに、夢の発作するありさまは、吾人もし硬き疎なる辱上に寝ね、もしくは狭窘なる位置に臥したるときは、骨を傷つき、もしくは楚撻に遭うと夢み、消化せざる食餌をなすときは、肥大なる黒熊来たり、わが胸膈に当たりて、泰然として座したりと夢みたりと。また、ソクラテスの言わるるには、「人あり、その寝に就くに、数壜に熱湯を盛り脚冷を防ぎけるに、その夜、エトナ山の噴火口辺りを徘徊したりと夢みし」と。そのエトナ山の観念を、足に熱を覚えたるによりて提起する原因は、これエトナ山の地も、寝ぬるとき足に感じたるごとき熱度にて、実際必ずその足に感ずべきところなるをもってなり。つぎに、わが睡中において不意に声音を聞き、われわれを醒覚する人あらば、われわれはその声を聞き、感覚の器一部のみ醒覚したるときは、おそらくは砲声となさん。よしや、そのとき砲声なりと心に認識せざるも、必ずや現に発鳴せし音響より大なりと誤り知るなるべし。かくのごとくなるは、余の考えにては、上の例にて音響の小なるを大砲のごとく大声なりと誤り聞こゆるは、あたかも水の高所よりひくき所に流るるを防ぎおき、その防ぎおきたる所を不意に押しきるときは、水の勢力は、防ぎおかざるときより一層強かるべし。しからば、さきに申せし音響の小さきを聴官に大きく聞こゆる音響も、やはり水のごとく、はじめは勢力小さきも、これを重ぬるときは、大きくなりて聞こゆるなるべしと思わる。しかし、この説は余の浅考にて、むろん理屈に当たらざるように見ゆるなり。しからば、貴堂の奇夢と申されしは、上のごとき原因等より起こるならんか。もししからざれば、新聞にてちょっと承りしが、不思議研究会にて御発言の節、御説明願いたく候なり。草々不備。

 左に、茨城県久慈郡下小川村、市毛雪氏より報知ありし奇夢事実ならびに解釈は、奇夢研究の参考となるべきものなれば、その全文を掲ぐ。

 客年十二月中のこととか、友人の家に雇い入れおきし男、夜中しきりにうなされ、いかにも困苦の様子なるにより、喚起しやらんずる途端に、「火事よ、火事よ」と呼ばわる声聞こえ大いに驚き、家内残らず起き出でてその男をも起こししに、その男案外驚愕の様子にて、狼狽して起き出でたり。

 この者、元来同村の某家に雇われおりしを、近ごろ友人の家に転傭せしなりという。しかるに、その夜の出火は、この男のもと雇われおりし家の厠より起これり。けだし、放火なりしとぞ。幸いに、本屋へは延焼せずに打ち消しぬ。ここに奇とすべきは、その男、その夜うなされおりしは、すなわち、もと雇われおりし家の厠に火が付きしを夢み、しきりに叫呼せしも声立たず、困難してもがきおりしといいしことなり。かくのごとき夢が、あやまたず事実に符合すとは奇の至りなりと。

 小生、その由を解釈して曰く、「この男、元来某の家に雇われおりしならば、定めてその家のことにつきて種々心配しおりしならん。しかして、その夜おそらくは、「火事よ」の声のありしを、睡眠中かすかに聞き得しならん。このとき、耳官はその用をなしおるも、他の諸機関はすべて熟睡のありさまにてあれば、ここに心象は意志の管束もなければ、火事の声をかすかに聞くと同時に、この男が旧縁の家(それは平生念頭にかかりおりし)と連合し、ついにかかる夢を結びしならん。その厠より起こるを夢みしとは、おそらくは夢中、確然と厠とは見えまじ、木小屋か物置きのようなる所より起こりしと見しならん。また時節柄、放火が流行するとか、しめりなくして乾きおるとかにて、火の心配たえず心にかかりおれば、かかる夢は希有のことにもあらざるべし。しからば、他の家に起こりし火事にても、この男がもし夢みたらんには、旧縁の家と夢みるならん。不幸にその家と結び付きしは、おそらくは偶然のことならん。すなわち、某氏の家より火が起こりしことは、夢の的中というよりも、むしろ偶合として可ならん」と。

 

    出典 『哲学館講義録』第一期第三学年第七・八・九・一〇・一一・一六号、明治二三(一八九〇)年三月八・一八・二八日、四月八・一八日、六月八日、巻末〔一―四〕、〔一―四〕、〔一―二〕、一―二、一―二、一―二頁。

妖怪学一斑

 私は七、八年前より妖怪のことを研究しておりまして、今日のところでは、いまだ十分に研究し尽くしたわけではありませんがその研究中であって、いろいろその事実を収集しております。果たしてこれが何年の後に成功するか分かりませんが、どうぞしてこれだけの事実を集めた上で、一つの学科として研究したいという私の精神であります。このことは、今日この教育社の記念会の席でお話しするのは、少し不適当かと思いましたが、しかし、学術上において研究する上には、教育に最も密接なる関係を有するものでありまするから、今日は、かく教育に熱心なる諸君が御集会の席で、教育の点から、その一斑をお話しいたす考えでござります。(謹聴)

 私がこれを研究し始めまして以来、諸方から続々、妖怪事実を御報道にあずかりまして、すでに今日まで集まっておるのが五、六百ないし七、八百に達しておりまして、本箱の中は報道をもって充満しております。これは誠に私の望むところで、図らずもかくのごとく多くの事実が集まったのは、私にとっては誠に幸福と思っておることでござります。が、その報告を調べてみまするというと、私が考えておることと、ある部分においては実によく一致しておりますが、また、ある部分においては、私の考えとどうも合っておらんと思うこともあります。妖怪学のことについては、私が他日これを研究し尽くした後にお話しいたすつもりでありますから、今日までいろいろ人から要求を受けたこともありましたけれども、いまだまとめて話したことはありません。よって、今日も全体について話はいたしませぬけれども、これまでの報告と私の考えたこととが相違しておるところをお話し申して、今後御報道にあずかるについて御注意を願います。

 世間にては、妖怪と申すとその字から想像を下して、単におばけか幽霊のようなものに限るごとく考え、あるいは狐狸の所為に関係した事実ばかりのように考えておりまする。それゆえに、これまで諸方から参るところの御報道を調べてみまするというと、十中八九はこれらの事実のみで、いずれを見ても、みな似たり寄ったりのものであります。要するに、その区域が狭隘であるから同一の事実がたくさんありますが、その割合に実際これを研究する材料に乏しいのは、遺憾の次第でござります。もとより、幽霊とかおばけとかいうものも妖怪の一部分には相違ありませんが、今日世界の妖怪は、なかなかこのくらいなことにとどまりません。私は、これを総じて研究いたしたいという考えであります。今日は妖怪学総体についてはお話しすることはできませんが、ただその一部分を取ってお話し申して、これらのことも妖怪であるから、もしこの事実について諸君が御記憶になったならば、御報道を得たいと思います。それはなんであるかと申しますると、すなわち偶合論、また一つに偶中とも申します、偶然に暗合することであります。私は近来全国一周を企てまして、昨年十一月以来、各県下を旅行いたしておりました。このごろちょっと帰京して参ったので、いずれ四、五日中には再びこの地を出立して、山陰道諸県下を巡回いたすつもりでござります。それはほかに少し目的があるので、すなわち私の監督しておりまする哲学館拡張のために巡見することでござりますが、その傍らに妖怪に関する事実を集めたいと思っております。もし、この席に山陰道のお方がおいでになれば、巡回の節、直接にその地の妖怪を御報道に及びたいと思います。

 さて、この偶合論については、これを偶然と必然の二者に解釈をいたしておかねばなりません。偶然とはいかなることかと申すと、わけも道理も分からんが、かくかくのことがある、すなわち理由なくして起こるものを偶然という、道理なくして起こるものを偶然という、原因なくして起こるものを偶然という。必然というのは、ぜひそうなければならんもので、すなわち立派な道理があって起こるもの、立派な原因があって起こるもの、立派な理由があって起こるもの、これを必然という。すべて事の発生するには、必ず必然と偶然の二とおりあります。すなわち立派な道理がない、よしあるとしても、われわれがこれを見いだし得ないときは、しばらくこれを名づけて偶然という。必然は全くこれに反対したものである。私は偶然と必然の間になお一つの名目を設けてこれを蓋然と申します。蓋然とは必然ほどではないが全く偶然でもなく、必然と偶然の間に存するもので、たとえば十分なる道理は見いだし得ざるも、その七、八分は分明になって、残りの二、三分の道理が分明ならざるときは、これを名づけて蓋然というのであります。世間には蓋然に属する事実がたくさんあります。(大喝采)

 まず、偶合なることを右の三者に分かちまするというと、必然と偶然とは果たして全く相異なるものであるかというと、決してさようではありません。二者ともに関係を有しておるものである。今、いろいろな事実を集めてみまするというと、偶然に属すべきものであるか、はた必然に属すべきものであるか、判然しないものがあります。その場合において、一つの部を設けて、これを蓋然といわなければなりません。しかしながら、この三者はその分界がいたって判然しておりません。そもそも原因あれば必ず結果あり、結果あれば原因ありということは、哲学上および理学上における原則であって、この原則によって諸般のことを説明をなすのが、今日の学問である。ゆえに、もしここにこの原則に反するものがあるといたしたならば、これはそのままにしておいて、学術外のものとして、今日の学術上より、必然の理を離れたものであるとしておかねばならん。すでに今日以前、すべて物は必然の理によって生ずるものであるとなしきたったものなれば、今後いろいろな新事実が現出するも、これは必ず必然の理に基づいて生ずるものであるという想像を起こさねばなりません。今この妖怪のごときも、全くしかるべき理由がなくして現れるもので、果たしてこれは偶然であるべきものか、あるいはその実必然であるか、われわれがいまだその道理を見いだすことができないために、しばらくこれを偶然と名づけておくものであるかというに、私はこれを必然であるとみなして、必然の道理をもって説明するつもりであります。果たしてしからば、妖怪も一つの学科として研究しなければなるまいと思います。これ、今日私が妖怪学を研究する大体の主意であります。

 さて、この偶然に事物が相合するということについては、これを仮に偶合もしくは偶中と申します。今この偶合を大別して、空間上の偶合と時間上の偶合の二種とたします。空間上の偶合というのは、ここにあった事柄と遠くにあった事柄が相合することである。たとえば、私が遠国にある人のことを思うと、その思った念が先方へ通ずることをいいます。すなわち、ここに一つの変化があって、同時に他の一つの変化がそれに合することをいうのである。自分の朋友がたしかに国元におるのに、突然目先にその姿が現出して、たちまち消えてしまった。不思議であると思ってたずねてみると、ちょうどその時刻に死亡したというごときは、その一例であります。時間上の偶合というのは、今言ったことが二、三日の後に至って合する、いわゆる予言者のごとき類である。何年の後に云云のことが起こるということを言うと、必ずそういうことがある、すなわち時間を経過して合する、これを時間上の偶合という。この二つの事柄は、今日の学問上極めて困難なる問題であって、いまだなにびともこの二点に関して説明を与えた者がありません。また、果たしてこれが説明し得べきものであるかいなやということも、疑点の存するところである。ゆえに、私はその理由を説明することはこれを後日に譲り、今日はただその種類についてのみ申し上げようと思います。

 今、まず偶然について、空間上の偶合と時間上の偶合を合して、その種類をお話し申します。前、申し述べましたとおり、今ここにあった事柄と、千里も二千里も遠くにあった事柄が合するということは、極めてめずらしきことであって、通常起こるのは、多く近い所にある。のみならず、ずいぶんこれらは説明ができることであります。まず、通常なにびとにも分かりやすいことから、お話をいたすつもりであります。(謹聴)

 世間では、よく翌日の天気を今日予知するということを申します。実に不思議である、分かるわけがない、あるいは分かるかも知れませんが、しかしわれわれの力では到底分かるわけに参りません。しかし、よく世の人が天気を占うということを申しますが、これとても全くなんらの原因もなくして占うのでなく、多少の経験によってこれを知ることができるのでありましょう。たとえば、月が暈をかぶれば雨であるとか、夕やけがすると天気の前兆であるとか、あるいは行灯の灯心にちょうができれば天気の兆候であるとか、鍋墨に火が付けば晴天の兆しであるとかいうごとく、従来の経験上、多少基づくところがあって言うのである。また、『日用晴雨管窺』という本の中に、晴雨を予知するところの歌が出ております。今、その二、三を挙げてみますると、

    夢見るは雨と日和のふたつなり

     かわらぬ時に見るはまれなり

    鳥の声すみてかるきは日和なり

     おもく濁るはあまけとそしれ

 今度は少しきたないのですが、

    小便のしげきは日和、飲水の

     はらに保つを雨と知るへし

    蚤や蚊の極めてしげく食ふならば

     雨のあがりと雨気つくころ

    香の火の何より早く立ちぬるは

     雨のあがりと雨気つくころ

    ね心の悪き夜ならば雨と知れ

     偖ては盗人油断ばしすな

 右の歌によって、天気の晴雨を知ることができる。また、俗に寒割ととなえて、寒中の三十日をもって一年にかたどり、それによって年内の天気を知ることができると申します。また、一年中の出来事を知る方法があります。たとえば、雪は豊年の貢ぎととなえて、雪がたくさん降ればその年は豊年である、あるいは烏が木の梢に巣を作るときは、その年は出水がある、また、木の根に巣を作るときは、その年は大風が起こる、すなわち烏が風雨を知るという話があります。また、柳の繁殖する年は豊作である、蛍火のない年は秋の田の実りがいいというようなことを、通俗に申し伝えております。これらは、いわゆる前もって時間の上で予言をなすのであって、その道理のごときも極めて見やすきものでありまするが、少しく高尚にわたって知れ難いのは、人間の吉凶禍福を前知することであります。

 これには第一、天文が関係を有しておる。天文と人事が関係を有することは、シナの歴史にたくさん見るところであって、これはいちいち申し上げるわけに参りませんが、『左伝』などを御覧になれば、お分かりになりましょう。私がここに書いて参りましたところを申しますると、『漢書』哀帝建平二年、王★(莽の大が犬)が漢室を奪ったときに彗星が現出し、『後漢書』安帝永初二年正月、大白星昼現れたるは、鄧氏盛んなりたる兆しなりといい、また『続漢書』に、彗星見えて董卓の乱ありといい、『晋陽秋』の書に、諸葛亮の卒時、赤き彗星ありという。わが朝においては、欽明天皇のとき、仏教が渡来して疫病が流行し、くだって敏達天皇の朝に至って、また疫病流行し、嘉永年間、米国の軍艦が渡来して彗星が現れたということがあります。これは、ひとり和漢のみならず、西洋においても多々ある話です。ローマのカエサルの死したとき、およびコンスタンティヌス大帝の死したるとき、およびチャールズ五世の死したるときに彗星が現れ、またペルシアのゼルセスがギリシアを征服したるとき、およびペロポネソスの戦争のとき、およびカエサルとポンペイウスの内乱のときにおいても、大いに疫病、飢饉が流行し、英国にてクロムウェルの死したるとき、ならびにフランス大革命のときにおいても大嵐が起こり、キリスト降誕のときは東方に当たって彗星が現れたというようなことは、たくさんあります。

 つぎに今日、多く日本に行われておるものは、人の吉凶禍福を占うことであって、すなわち卜筮、人相見の類であります。また、九星と申して星を調べて占うものあり、あるいはまた、方角によって卜するものがある。たとえば、なにがしはいかなる星であって、いかなる方角に当たるということを探りて、その人の未来のことを占うものがある。その他、人相見のごときも、またよく人の未来を知るものである。また、あるいは骨相学と称して、人の骨格を相してその運命いかんを知る方があり、あるいはまた、おみくじを引いて吉凶を知り、暦日を繰って吉凶を卜することがあります。たとえば、何月何日は吉日に当たり、何月何日は凶日に当たるといい、願成就日、不成就日等のことを示したるごとき、あるいはその生まれたる年によって、その人の気風を卜することがあります。たとえば、辰年に生まれたるものは剛邁の気性を有し、寅年に生まれたるものは腕力を有し、子年に生まれたるものは臆病なりというごとき類は、世間にてよくいうことであります。

 かくのごときことは、外国においても往々見るところであります。私がかつて英国の田舎におりましたときに、ちょうど十二月のころであって、ある書店に暦を売却しおるを認め、一本をあがなってこれを見るに、その中に翌年の天気および吉凶禍福を、子細に書き載せてありました。それから、かかる種類のものを集めてみると、たくさんあります。田舎の暦はすべて、かかる事柄のみを記したるものである。しかして、その裏に前年の適中した事実を挙げてあります。これはことごとく適中するわけには参りませんが、十中の七八までは、大抵あたるということである。その中において私は、日本の磐梯山破裂の情況を書いてあるのを見いだしました。その前年度の暦に、日本の方角に当たって大地震が起こるということを書き載せてあったところが、果たして磐梯山が破裂をなしたということが、予言の適中した一証として、暦の裏に書いてありました。それから私が旅宿に帰って、今日かくかくの奇妙なものを求めてきたということを告げますると、旅宿の主人が、「どうぞ、それを日本国へ持ち帰ることはやめて下さい。かかる愚昧なことを書いたものが、わが英国にあったということが知れては、わが国の恥辱であるから」といってしきりに止めますけれども、私は、「実は持ち帰る目的で買ったのである」といって断ったところが、大層迷惑そうな顔をしておりました。(大笑)

 それから私はなお、これに類似したものを収集せんがため、その暦の発行所の番地を記し、その後ロンドンに至りその家をたずねましたところが、極めて片隅の場所に小さな本屋がありまして、そこへ入って目録を見たところが、かかることに関係したことのみ、たくさんありました。それゆえに、図らずも多くの材料を得て、これらの書類を買い入れて参りました。

 今一つはマジナイの一種であります。これもずいぶんたくさん集めてありますが、今その一、二を挙げてみますると、第一、血止めのマジナイ。これはなんの草でもよろしい、ある草を三品集めて、その草をもって天に向かって合掌し、一首の歌を詠む。すなわち、「朝日が下の三葉草付けると止まる血が止まる」(笑)と言って、この草を取って出血する所に付け、都合三度この歌を詠むと、血が即座に止まると申します。また、他人の所へ行って犬に吠えつかれたときに、それを止めるマジナイがあります。すなわち、その犬に向かって唱え言をすると、犬が吠えるのをやめる。その唱え言に曰く、「われは虎、いかに鳴くとも犬は犬、獅子のはかみを恐れさらめや」(笑)

 また、犬が吠えつくときに、犬伏せと申して、親指を犬と立て、これを伏して戌、亥、子、丑、寅と数えて、寅に当たる小指をもって戌(すなわち親指)を押すと、犬が吠えるのをやめると申します。また、歯の痛みを止めるマジナイにはいろいろありますが、今その一つを挙げてみると、いかなるわけかよく分かりませんが、桃の枝の東方に向かっておるのを取って、これを楊子に削り、それをもって痛む歯に「南」という字を三度書いて歯に含まするときは、痛みが止まる。これにもまた唱え言がある。すなわち、梵語の言で「あびらうんけんそわか」という語を唱えるのであります。また、目に物が入ったときは、おもしろいマジナイがあります。まず、目を閉じて「南無阿弥陀仏」を三度唱えるのですが、全くこれを唱えきらずして「なむあみだぶ」までを唱えて、後のつを口の中へのみ込んでしまう。そうするとなおると申します。(大笑)

 しゃっくりをなおすマジナイは、舌の上に「水」という字を書いて、これをのませます。つぎに、ただ今ではありませんが、その昔よくあったことで、船待ちをしないマジナイというものがあります。それは、一首の歌を詠み、「ゆらのとを渡る船人かぢをたえ行方も知らぬ恋の道かな」といいて唱えます。

 つぎに、マジナイの一種で、食い合わせ法というものがあります。例えば、河豚にあたれば、樟脳の粉を湯に溶解してこれをのみ、吐血をなせば、串柿を黒焼きにし、これを粉にしてのみ、あるいは、打咽には柿のへたを紛にしてこれをのみ、耳に水が入れば、魚の目玉を黒焼きにしてのみ、蟹の毒にあたれば紫草を食し、西瓜にあたれば唐辛〔子〕を食し、火爛には渋を塗り、歯痛にはその歯に「南」という字を書くがごとき、その他「おこり」といって、すなわち瘧ととなえる病を療治する方法のごときも、いろいろありますが、従来日本の慣習として、これを医師の手にゆだぬることをなさず、すべてマジナイのごとき法をもって、これを治することになっております。

 これらは、ほぼその理由を推考することができまするが、少しく普通人の考えをもって解し難いと思うのは、人の吉凶禍福を卜することである。これは、一つには夢によってその運命いかんを知ると申します。しかしてこの法は、ひとり人事に関する吉凶禍福のみならず、また、よくすべて未来に起こる事柄を、夢によって卜し得るということである。けだし、その理由に至りては一朝一夕に解し得べきことにてはありませんが、よく世間で、夢に見たとおりのことが千里も二千里も隔たった遠方に起こったとか、あるいは、かつて夢みたことが今日現れたるとかいうことを申し伝えております。私はこれらの事実も集めておりまするから、いずれ機会をまって後日お話し申します。あるいはまた、夢でなく突然感ずることがあります。例えば、なにか気障りがしたと思うと、それと同一の事実が起こったということも、しばしば聞くところであります。あるいは、突然目の前に人の姿が見えたりすることがあって、よくそれを探索すると、ちょうどその時刻に当たって、なにかその人の身の上に事が起こったということがあります。その一例を挙ぐれば、ここにいないところの兄弟が突然目に触れると、ちょうどその時分に国元で、その兄弟が死亡したというようなことが、世上に間々あるところであります。

 それで、私が諸君に対して妖怪の事実を御報道下さる際に、あわせて知らしていただきたいと思いまするのは、前申しましたごときマジナイ、食い合わせの類、例えば「おこり」のごとき、今日といえども日本の慣習として、到底医師の力に及ばんものとして、これをいろいろマジナイをもって治しておりまするが、そういう事柄について御記憶になっておることがあったならば、その方法等もあわせて御報道を願いたいのであります。その他、つまらんようなことですが、足にマメができたとか、あるいは頭に腫物ができたとかいうときには、俗に「馬」という字を三つ書くとなおると申します。これらは、多少の理由があって起こったことであろうと思われる。すなわち、足にマメができたときに「馬」の字を書くというのは、馬は豆を食するということに原因したもので、また、頭に腫物のできたるときも、これと同理によって、馬は草を食うというところから起こったものであろうと思われます。(喝采)

 右のごとき事実を集めてこれを研究してみると、なるほどと悟るところがあります。しかし、いちいちこれを説明するということは、一朝一夕にでき得べきことではありませんが、まずこれらは、まず偶然と必然の二者に区別することができようと思います。すでにこれを区別し得るならば、偶然と必然なるものは、果たしてはじめよりその区別が存するものであるか、あるいはその区別は元来存しておらないものであろうか、もし果たして区別がないならば、すべてのことが偶然もしくは必然の一方に帰着しなければならん。しかるに、右のごとき事実をあまた集めてみまするというと、その区別が判然と分かりません。中には、はじめは偶然であると思ったものが、だんだん考えてみると必然であることを見いだすことがある。すなわち、偶然の必然たるゆえんは、あるたしかなる理由があり、ある立派なる原因があって起こったものであるということを発見することがあります。しからば、偶然なるものは全くなくして、単に必然のみであるかという疑点が、一つここに起こって参ります。もし、偶然と必然なるものが異なるものであるならば、その間に判然たる区画があるべきはずである。しかるに、その区別が一定しない以上は、同一物の上に二個の区別の存すべき道理がない。必ず、いずれかその一方に帰着しなければなりません。また、偶然といい偶中というものが、十が十ながらことごとく適中すれば実に奇態であるが、よく調査を遂げてみると、その適中するものは極めてまれである。ことに偶中するものといえども、全くなんらの原因もなくしてあたるにはあらずして、多少基づくところがあってしかるわけである。たとい、いかに巧妙なる予言者といえども、少しも事情の見るべきものなくして、よく予言するということはできません。また、人相を見るにしても、一応事情を質問し、もしくはその人の容貌を見て、はじめて分かるのであって、もし他人に代理を命じて自己の身上を占わせようとなしたならば、いかに卜筮に長ずる人といえども、これを知ることはできません。ゆえに、もしただちにある事柄が偶然に暗合し、想像ができるものであるならば、たとい事情がなくとも知り得べきものであろうという疑いが起きてきます。

 今、その事情の二、三を列挙してみますると、例えば、人の死する時刻をはかってみると、夜半以後に多いようである。また、天気の方から言ってみても、今日のごとき曇天もしくは雨天の日に多い。そのわけは、少しく考えをめぐらしたならば、ただちに分かる話である。なぜ、人の死することが天気や時刻に関係を有しておるかと申すと、かかる天気や時刻というものは、病人にとってもっとも不適当なる時刻であり、かつもっとも不愉快なる天気でありて、平素強健なる人といえども、自然気分が悪くなるくらいであるから、まして病み疲れたるものは、なおさら不快を増すに違いない。それで、多く人が死ぬのである。また、世間で烏や犬が人の死を前知するということを申しますが、烏や犬が人の死を知るべき理由はありません。しからば、なぜ烏や犬の鳴き声が人の死に関係を有しておるかと申しますると、それはちょうど人の死するときに出あうのであって、彼らが鳴くのは、なにかほかにしかるべき理由があるのであります。例えば、烏というものは天気の悪いとき、もしくは日中でも曇天にて暗くなると鳴きます。人間もちょうどそういうときに、多く命を失うものである。また、今まで晴朗であった天気が、にわかにかき曇ったというように、気候の上に変動をきたしたときには、多く病人は生命を失うものである。ゆえに、烏は気候に鳴き、人はその気候に死するも、烏は人の死を知るものなりといって、ただちにこれを人に結ぶことはできない、なにかその間に一つの事情があることなるに、通俗の人はその事情を見いだすことができないから、まず今日では、烏が鳴くのと人間が死するのと出あうときには、これを称して偶然であるといいます。

 また、かのマジナイのごとき、食い合わせ法のごとき、いずれもそのもの自身が必ず人をなおす力があるのではなくして、そのものが人に信仰力を与えて、その信仰力によって平癒するのであります。また、かの人相見もしくは売卜者が、その人相を見てその吉凶禍福を予知するというごときものも、およそ人の思想と顔色とは関係を有するものであるゆえに、なにか人の意想上に変化を生ずるときは、それがただちに顔色にあらわれる。もっとも、人によって現れる度は違いましょうが、とにかく多少現れるには相違ありません。それゆえに、かの人相見のごときものは、人の顔色を相して、その思想の変化を知るところの観察力に富んでおるものである。すなわち、素人のわれわれが見ては分かりませんけれども、彼らの目をもって見れば、その人の顔を見て、その心のいかんを知ることができるのであります。ゆえに、これらの人が予想すると、たいてい十中の八九は適中するのである。また、世間ではよくめぐり合わせということを申します。すなわち、一つの不幸が重なると、しきりに不幸が続き、また幸いがあると、むやみに幸福がつづきます。これにも多少理由があるのです。あまり不幸が続きますと、ついには妄想を起こして、天罰のなすところにあらざるかと疑わしめ、幸福が打ち続くと、天帝の加護に出ずるものにあらざるかと思わしめ、前者は不安の念を起こし、後者は安心の思いをなすに基づくものである。不安の思いをなして事を処するから、自分は十分に思考をめぐらしたつもりでも、ほかよりこれを見れば、往々その考えが間違っております。ゆえに、いったん不幸をこうむったものは、失敗を重ぬることが多い。これに反して、幸福を受くるものは、心がたしかになる。心がたしかになるから、すべて事物を判断する上についても、その目的、方法をあやまることが少ない。ゆえに、たとい商業をなすにしても、一度利益を得ると引き続いて仕合わせよくなるというのは、畢竟、安心をなして、心の判断がたしかになるからである。これに反して、何度商業をなしても失敗に終わるというのは、畢竟、心に弱味があるからである。それゆえに、俗にいわゆるめぐり合わせには、かかる事情が加わっておるから、これを差し引きしなければなりません。(喝采)

 その他、夢の中で見たことが事実起こったり、あるいは気障りがしたと思うとそれがある事実と暗合をなし、あるいは夢中で未来に起こることを見たというごときことは、いまだ私が取り調べ中でござりまするから、いずれ調べ上げた後に、ゆっくり御報道いたしたいと思います。今日は時間がありませんから、それらの点は申し上げません。ただ今申し上げましたごとく、時間上の偶合と空間上の偶合は、学問上研究しなければならんことでありまして、これは果たして必然の理があって起こるもので、全く偶合ではないとしてこれを研究するのは、実に学術の力である。しかし、今日は学術が進歩してきたとは申しながら、その範囲が極めて狭小にして、妖怪のごときは多少心理学において研究しておったけれども、いまだ一科の学問とはなりません。畢竟、学者が多忙にして、実際、手を下すひまもなかったのであります。しかるに、私は心理学を研究する間に、このことを思い出したのでありまして、心理学なるものは今日立派な一科の学問であるが、ひとり妖怪のことに至りては、一般に世人が、ただこれは鬼神の所為である、偶然に出ずるものであるとなし、全くこれを道理の外において顧みるものがないようであるが、果たしてこれは道理の外に存するものであるかどうかということに疑いを起こし、従来道理の外に存しておったものが、漸次学術の進歩に従ってだんだんこれを研究し、今日はすでにこれを道理の中に加えて、一科の学問となりたるもの多々あるをもってこれを見れば、この妖怪のごときもまた、十分に研究を尽くしたならば、必ず一つの学科となすことができるであろうと思います。(喝采)

 畢竟、今日その道理を発見することができんというのは、全くわれわれが十分これを研究しないからでありましょう。それゆえに、まず自分よりこれを試みんと欲し、七、八年前よりその事実を集めておりましたが、そればかりを専門にいたしておるわけでもありませんから、今日までに思うように研究が進みません。また、実際そのことに当たってみると、いろいろな差し障りができて、なにぶん急速にはできません。しかし、いつかは必ずこのことを果たしたい存念でござります。かかる次第でありますから、どうか諸君方よりも、なるべく確実なる事実の御報道にあずかりたいと思います。私も地方を巡回するについては、実際その地方地方について研究いたす考えでござりますが、諸君方の御報道と、私が見聞したところと、双方相まって研究いたしたならば、大いに研究を助くることであろうと思います。それらのことについては、ずいぶん教育上に及ぼす影響も少なからざることでございまするから、後日再び諸君の御集会の席へまかり出て、お話し申そうと思います。(大喝采)

 

    出典 『教育報知』第二七一号、明治二四(一八九一)年七月四日、二―七頁、尾張捨吉郎速記。 

甲州郡内妖怪事件取り調べ報告

 一昨日、哲学館において井上円了氏の演ぜし妖怪取り調べ報告の大要を聞くに、左のごとし。

 昨年十一月中旬より、山梨県北都留郡(すなわち、いわゆる郡内)大目村、杉本永山氏の宅に一大怪事現出す。今、その怪事の概略を記さんに、その本体は形もなく影もなく、目もって見るべからず、手もって触るるべからざるをもって、なにものの所為たるを知るべからざれども、空中に一種奇怪の声ありて、明らかにこれを聴くことを得べし。しかして、その声はあたかも人の口笛のごとき響きにて、よく五音をいい分け、人と問答会話するをもって、なんぴとにてもこの怪声に対し問いを発せば、いちいちその答えを得という。この声、最初の間は夜分のみ聞こえしが、後には昼夜を分かたず聞こゆるに至りしかば、このこと、いつしか近村の一大評判となり、人々みなこれを奇怪とし、実際にこれを聴かんと欲して、その家に争い集まる者、前後踵を接し、一時は門の内外、人をもってうずむるほどなりき。かくて、この群衆のうちより、だれにても問いを発する者あるときは、怪声のこれに応じて答うること、すこぶる明瞭にして、なんぴとにもみな聞こえ、ただにその声の発源と思わるる所より四、五間の距離において、明らかに聴き取られしのみならず、隣家まで聞こゆるほどにて、その状あたかも人が談話するに異ならず。ただ、その人の言語と相同じからざるは、その音調が口笛のごとく聞こゆる点のみ。されば、これを聴ける群衆は、いかにもしてその声の発源を知らんと欲し、種々の方法をもって、その位置、方向を指定せんと試みたれども、あるいは家の内にあるがごとく、また外にあるがごとく、あるいは上に聞こえ、また下に聞こえ、右に聞こゆるかと思えば、また左に聞こえ、人々おのおのその聴くところの位置を異にし、ついにその目的を達することあたわざりき。かつ、この怪声はひとりその音調の奇怪なるのみならず、種々の怪事これに伴って現出するあり。

 今、仮にその怪事を、言語上に現ずるものと、行為の上に現ずるものとの二種に分かちてこれを略陳せんに、まず言語の上においては、第一に、その口笛のごとき怪声が、よく人の年齢をいい当つることなり。例えば、なんぴとにてもその怪声に対し、わが年齢はいくばくぞと問わんに、あやまたずその数を告ぐるがごとし。これ、あに怪事にあらずや。第二に、その声が他所もしくは他家に起こりし出来事を察知して人に告ぐることあり。例えば、某家に今かくかくのことありと告ぐるとき、その家に至りて問い合わすに、果たしてそのことありという。これ、あに奇怪にあらずや。第三に、その声、よく他人の心中を洞察し、これを言い当つるに、あやまちなしという。これまた、奇怪といわざるべからず。第四に、その声、よく他人の一身上もしくは一家の上に、まさに来たらんとする吉凶禍福を予言すという。これまた、奇怪といわざるべからず。第五に、その声、よく他人の疾病に特効ある奇薬を指示す。実に奇怪千万というべし。これを要するに、以上の事実によりて考うるに、その怪物には予言、察心の力あること明らかなり。

 つぎに、行為の上において第一の怪事というべきは、あるときその家の一室に掛けたりし機糸が、いつの間にか、みごとに断ちきられたることこれなり。第二は、あるとき人の機を織りてありしに、なにごともなくしてその機糸が一時に断ちきられしことこれなり。第三は、あるとき機糸の枠に巻きてありしを、あたかも歯にて噛み切りたるがごとくに、切りみだしたりしことあり。かく機糸を断たれしことは、一回のみにあらず数回ありしかど、だれもかつてその形体を見しことなく、あたかも無形的死霊あるいは生霊のごときものありて、暗中になすもののごとし。ただし、その怪声が予言もしくは察心をなすは、別に大いなる害とも見えざれど、その毎度機糸を断たるるに至りては、たちまち多少の損失を受くるをもって、一家最もこの怪事に困却せりという。これ、郡内におこりし妖怪事件の大略なるが、これを約言せば、この怪事は形体なき無形の怪物が、空中に口笛のごとき怪声を発し、かつ種々の怪事を営むものにほかならず。もし、このこと果たして真実ならば、実に奇々怪々、不可思議千万といわざるべからず。

 この一大怪事を研究せんには、まず第一に、その地方の者が、この怪事につきていかなる想像を有しおるかを知るを要す。これをもって、予は諸人のいうところを集めしに、およそ左の諸説に過ぎず。すなわちある者は、従来久しくその家に養われおる女子(年齢十八、九歳)に、狐狸もしくは蛇の類が付して、かくのごとき怪事をなさしむるならんと想像せり。また、ある者はいえらく、かつてその女に通じおる男子ありて、その男子の平素信仰せるところの狐が、かかる所業をなすものならんと。また、あるいはその女子をもって、ただちに狐憑き患者もしくは魔婦のごとくに考うる者もあり。しかのみならず、その地方において方術もしくは祈祷を専務とせる者さえ、またこれを狐憑き、狸憑き、もしくは蛇憑きの類ならんといえりとぞ。これらの説、互いに多少の相違あれども、帰するところは、その女子になにものかが憑付して、この怪事をなさしむるものというにほかならず。されば、その戸主杉本氏もやはり、しか信ぜしなり。しかるに、ある二、三の人は、これをもって狐狸等の憑付にあらずとなし、全く女子自ら故意にこの怪事をなすものと信ぜり。しからばすなわち、この怪事に関して該地方の人がいだける想像説には、憑付説と故意説との二種ありといいて可なり。また、局外者の評するところをみるに、この両説はいずれも別に確実なる根拠を有するにあらず、全く真の憶測にほかならざれば、いまだにわかに信ずべからず。

 まず、憑付説につきて疑わしき点を指摘せんに、もし果たして狐狸等の類がその女子に憑付せしものならば、必ずその女の精神作用において、多少の変態異常なくんばあるべからず。しかるに、その女の言語、動作を熟察するに、かつて常人と異なるところなく、毫も精神異常の徴候を発見することあたわざるはなんぞや。さりとて、故意説にもなお疑わしき点なきにあらず。その故いかんというに、かの女子は、元来無教育の者なれば、決して予言、察心の力あるべきはずなく、したがって他人の問いに対し相応の答えをなさるべき理なし。特にその怪声は一種奇怪の声にして、女子の口より発するものとは思われず、さりとてまた、その女の体内より発するがごとくにも聞こえざればなり。

 これをもって、種々の想像説を提出する者あれども、その理を究むれば究むるほど、妖はますます妖となり、怪はますます怪となりて、ついにその説明を得ず、今はただ黙してやむよりほかなきに至れり。しかるに、その村に中村藤太郎氏といえる人あり。この人は従来哲学館館外員のうちに加わり、妖怪の研究にも注意しおらるる人なるが、このたびの怪事につき、ぜひとも予にその鑑定を請わんとて、事実の始終を詳細に報道し、かつその実験を兼ねて哲学館設立の趣旨をその地方の有志者に告げんため、至急出張せられたき旨申し送られたり。よって、予はともかくもその招きに応じてかの地に至り、一応実地に取り調べたる上、いかんともこれが鑑定を試みんと決心せり。(未完) 

 かくて予は、去月二十五日早朝東京を発し、その夕甲州北都留郡上野原村に着して、その夜はここに一泊し、あらかじめ期しおきたるごとく、中村藤太郎氏と相会せり。翌二十六日は、早朝より同氏の案内にて、まさしくこのたびの妖怪地たる大目村に向かいしが、この村は上野原をさることわずかに一里半余に過ぎざれば程なく着し、まず中村氏の宅に入りて休憩せり。しばらくありて杉本永山氏、予に面会せんためその家に来たり、いちいち怪事の顛末を語れり。その談話によるに、かの怪声は、必ずかの少女の身辺において発し、少女のおらざる所にては決して聞くことなし。かつ、かの怪声は、最初の間は杉本氏の宅においてのみ聴くことを得たりしが、後にはかの少女の至りし所には、いずれの家にてもこれを聴くに至れり。現に中村氏の宅にても、かつて彼女の来たりしとき、これを聞けりという。これによりてこれをみれば、かの少女と怪声との間に密着なる関係あること明らかなり。

 よって、予のこの怪事研究の第一着として、かの少女の身上につき精細なる観察を下し、かつ適当なる試験を行わざるべからずと思惟し、まず杉本氏につきて同女の履歴をたずねしに、彼女はその名を「とく」といい、同国都留郡小形山の産にして、早く父をうしない母の手に育てられしが、十一歳のときより杉本氏の養女となり、爾来七年の間その家に養われ、今年まさに十八歳になれり。しかるに、近年その実母、小形山を去りて駒橋と称する所に移り、ここに一家を借りて住す。駒橋は大目村より道程およそ四、五里を隔てて、甲府街道に沿える村なるが、いかなる故にや、「とく」は近来しきりに、大目村を去りて駒橋なる実母の方へ帰らんことを望み、実母もまたこれを取り戻さんと願えども、杉本氏の方にてさらにこれを承諾せざれば、「とく」はやむことをえず、今なお大目村にとどまりおるなりという。ここにおいて、予は杉本氏に向かい、「かの少女はなにゆえに駒橋に帰らんと欲するか」と問いしに、杉本氏は、「けだし駒橋は甲府街道のことなれば、相応ににぎわしく万事便利なれども、わが大目村は山谷の間に挟まり、なにごとにも不便なるが故ならん」といわれたり。よって、予はさらに「かの少女に面会することを得るか」とたずねしに、杉本氏曰く、「『とく』は一週間ばかり前より実家へ帰りおりしが、今日は先生の御来駕ある由を聞きしゆえ、昨日使いを遣わし、ぜひとも帰村いたすよう申し遣わしたれば、先刻ようやく帰村し、すなわち隣家にひかえおれり」といいながら、ただちに出でて伴いきたれり。よって、予はまず当人の様子をうかがうに、年齢いまだ長ぜざるにもかかわらず、他国人に対し少しも恐れはばかる気色見えず、その状あたかも他人を軽視するがごとし。されば、その村においても、おてんば娘の評ありという。

 さて、この女に対し第一に試むべきは、その精神作用において異常ありやいなやの点なり。もし、この試験によりて精神に毫も異常なきことを承認するを得ば、狐狸もしくは蛇の類の憑付にあらざることを知るを得ん。ゆえに、予は種々の問いを提出してその答弁のいかんを注意せしに、その言語の順序、連絡の上において、さらに異常あるを認めざりき。よって、また視覚の上に種々の試験を施し、もって幻覚、妄覚の有無を考えしに、またさらにその徴候だに認めざりき。よって、予はある二、三の方法により、およそ十分間ばかり催眠術を施したれども、さらに感ぜざりき。これらの試験によれば、狐狸の類が憑付せりとの説は、全く無根の妄想なること明らかなり。

 つぎに予は、かの口笛のごとき怪声がいずれの所より発するかを探らんため、これを聴かんことを求めしかど、予がほとんど三、四時の滞在中には、ついに聴くことを得ざりき。もっとも、その女子が予の休憩せし中村氏の家に来たりし前には、隣家において怪声あり、「今日はここより西の方へ行かじ」といえりとぞ。しかして、中村氏の家はまさしくその西に当たれば、ついに聴かれざりしものと見ゆ。かくて、その女子が予のもとより退き、再び隣家へ行きしとき、また怪声あり、「われは決して少女とともに隣家へ行かざりき。隣家の客もしこの家に来たらば、われはただちにこの家を辞して他家に至らん」といえりとぞ。とかくするうちに、時すでに正午に近づけり。この日の午後には、かねてより上野原保福寺において演説をなす約あれば、急ぎてその村を辞し再び上野原に帰りて、その地の有志者に対し哲学館拡張の趣旨を演説せり。しかるに、同地の有志者はなお一日の滞留を請われ、予もまた翌日再び大目村に至りて、かの怪声を聴かんと欲したれど、二十八日には哲学館に遠足会あるはずなりしをもって、ついにその意を果たさずして帰京せり。(未完) 

 以上は、このたび郡内に起これる怪事の実況なるが、これよりいささか、この怪事に関する予の意見を略陳せんとす。ただし、その怪声はついに自ら聴くことを得ざりしかど、杉本、中村諸氏の談話によりて、ややその状を明らかにするを得たれば、これによりてその鑑定を下さんに、このたびの怪事の原因が、杉本氏の養女なる「とく」の一身上にあることは、今日までに四方より得たる事実ならびに考証によりて、すでに明らかに証せられたれば、今、さらにこの点につきて弁明することを要せざるべし。されば、この怪事の研究につきて帰するところの問題は、ただその女子が狐狸の類の憑付によりて、かくのごときことをなすものなりや、あるいは故意にこれをなすものなりやという点にほかならず。しかるに、予は一時の試験によりて、かの女子の精神作用になんらの異常もなきことを知りしをもって、決して狐狸の類が憑付してなさしむるものにあらずと断言するに躊躇せざるなり。しからば、予がいわゆる偽怪、すなわち人為的妖怪もしくは故意的妖怪なること疑いなし。

 よって、今試みにその証跡を列挙せんに、第一、かの口笛のごとき怪声は、いかにもいずこよりともなく発しきたりて、決してかの女子の口より発せしものにあらざるがごとく聞こえしならん。さりとて、これをもって、ただちにかの女子の声にあらざることを証せんは、すこぶるいわれなきこととす。いわんや、かの怪声が決して吾人の口より発せられざるものならばともかく、なんぴとにても少しく熟練せば、これに類する声を発するに難からずというにおいてをや。現にその近隣の児童が、この怪事の出現以来、口笛をふきてこれが擬声をなすに、その巧みなる者に至りては、ほとんど真物と区別することあたわずという。果たしてしからば、かの女子もまた、熟練によりてかかる怪声を発するに至りしにはあらざるか。西洋にもベントリロキズムすなわち腹話術と名づくる一種の術ありと聞けば、かの怪声は、おそらくこの腹話術の一種ならんと考えらるるなり。その術は、口舌を動かさずに言語を発する術にして、そのはじめギリシアに起こり、当時は魔声なりと信ぜりという。果たしてしからば、その声は、もとより唇舌の間に発するものにあらずして、多分咽喉の辺りより発するものなるべければ、これを聴きてその位置を指定し難きも、もとより当然のこととす。それ音響の位置は、ただこれを聴けるのみにては容易に知り難きものにして、吾人が日常他人の言語を聴くに、その声の某の口より発することを知るは、単に耳の感覚にのみよるにあらず、必ず目の感覚これを助け、某の言語に伴いてその唇舌の動くを見るによるなり。しかるに、かの怪声のごときは、たといかの女子の発するものに相違なかるべきも、唇舌これに伴いて動くにあらず。かつ、その声の一種奇怪にして、いまだかつて聞きなれざるものなる上は、ただ聴官によりてこれを感ずるのみにて、視官の補助を受くることあたわざるものとす。これ、その位置の明らかに知れざるゆえんなり。

 第二に、その声に予言、察心の力ありというの故をもっては、いまだにわかに、その声がかの女の体内に出でしものにあらざることを断ずべからず。その故いかんというに、他人の年齢のごときは、想像によりてもたいてい知らるるものにて、特にかの女子が平素交際せる人の年齢のごときは、必ず知りおることもちろんなり。なんぞ、これを奇といわん。もし、かの女子にして、自身のかつて知らざる数千里外の西洋諸国に起これる出来事を予言するがごときことあらば、それこそ実に奇怪千万なれども、わずかに自身の住める一村内の出来事を予言し察知するがごときは、いまだ奇と称するに足らざるなり。杉本氏の談話によるに、かつて歯痛にかかりしとき、怪声に向かいてその薬をたずねしに、落雷のために裂けたる木の一片を用うべしと答えたりという。これすこぶる奇なるがごとくにして、しかも実に奇なるにあらず。なんとなれば、かかる治法は、その辺りにおいて一般に伝承するところなればなり。指痛(腫物にて)をうれえしきこれが薬法をたずねしに、某の木と某の草とを調合して服用すべしと教えたり。されど、その草の名を明言せざりしをもって、再三これを問い返せども、さらに知れず。ここにおいて、あまねくその辺りに発生せる草を集め、いちいちこれを示して、これかかれかと問い試みしも、ついにその草を得ざりしことありたりという。こは、おそらく、かの女子がその草の名を忘れしによるものならん。

 第三に、断機のことのごときもまた、決して奇とするに足らず。なんとなれば、この出来事は必ずかの女子のおりしときに限ればなり。特に機を織りてありしとき、偶然その糸が断絶せしことのごときは、かの女子の織りてありし機にして、彼が「今、わが機にしかじかの怪事ありたり」と告げしによりて、はじめてその家人に知られしものなれば、これをかの女子の所為とせば、毫も怪しむべき点なきなり。ただこれが奇怪とせらるるは、その女子は決してかかる悪戯をなすものにあらずと信ぜられしによらずんばあらず。また、かの室内の一隅にかけてありし機糸が、なんの原因もなくして截断せられたることのごときも、その日はかの女子一人のみ家にありし日なれば、いずくんぞ、かの女子が家人の不在に乗じて、自らなせしところにあらざることを知らんや。

 第四に、杉本氏の談話によれば、かの口笛のごとき怪声が他人の問いに応答するは、最初よりのことにあらず。最初の間はただその声を聞くのみなりしが、その後ようやく他人の問いを発するものあれば、わずかにこれに応ずるに至れり。されど、なお熟練の足らざる故にや、いまだ明らかに五音をいい分かつことあたわず、ただ、問いを発する人があらかじめ方法を定めおける応答の方法に従いて、これに応ずるに過ぎざりき。例えば、ここに中村という人ありて、その姓を問わんとするに、そばより「この人は木村なりや」と問いて応答なきときは、さらに「渡辺なりや、河村なりや」なおその答えなし。「中村なりや」と問うに至って、ついに一声の応答を得るがごとし。また、人の年齢のごときは、声の数にて応答せしなり。かくて本年二月ごろより、その声わずかに五音をいいわけ、よく談話するに至れり。ただし、その口笛のごとき響きのみのときも、またよく談話するに至りし後も、不明瞭の状態より明瞭の状態に進み、次第に発達熟練せし跡ありきという。しからばすなわち、この怪声は狐狸のごとき怪物ありて、女子の体外においてなすものにあらざること疑いなし。もし、狐狸の類これをなすものならば、なにゆえに最初より談話をなさざりしか。かく熟練してついに談話するに至れりというは、取りも直さず、かの女子の所為なることの確証にあらずや。(以下次号) 

 第五に、予は杉本氏に向かい、かの怪声が用うる言語はいかなる種類のものなるかをたずねしに、その土地の同輩間に用うる言語と、さらに異なることなしといわれたり。果たしてしからば、すなわち、かの怪声がかの女子の所為なる一証というべし。かつ、中村氏のいえるところによるに、怪声の談話は常にかの女子の思想と一致し、かの女子の知らざることは怪声も知らず。また、もし怪声の談話中に解し難きところあらば、これをかの女子に問うに、その説明を得という。これによりてこれをみれば、怪声はかの女子の所為なること、いよいよ明らかなり。

 第六に、怪声とかの女子の談話とは、決して同時に発することあたわず、必ず相前後すという。これまた、怪声の原因、かの女子にある一証というべし。

 第七に、かの怪声が常にかの女子の身辺に伴い、かの女子の至る所に限りてこれを聞くは、すなわち女子の所為たる証拠にあらずや。加うるに、かの女子が大目村にある間は、そのゆく所においてこれを聞くことを得るも、実家に帰りしとき駒橋村においては、さらにかかる怪事なかりきという。これによりてこれをみれば、かの女子が養家を去りて実家に帰らんと望む情切なるあまり、故意にかかる怪事をなすものたること、ほとんど疑うべからず。また、杉本氏の談話によるに、かつてかの怪声が、「養女『とく』に機を織らしむることあらば、われ必ずこれを断ちきらん」と告げしことありしが、果たしてそののち数回引き続き、「とく」の織れる機を断てりという。しかるに、同地方にては女子はもっぱら機業をもって職とすることなるに、「とく」に限りてこの業に従事せしむることあたわざるときは、徒食せしむるよりほかなきをもって、養家にありても最初のうちは実家に返すことを拒みしかど、今はむしろ、その心に任す方よからんと考うるに至れりとぞ。

 養女「とく」の一身上に関する前後の事情すでにかくのごとしとせば、このたびの怪事は、かの女子がいかにもして実家に帰らんとの志望を遂げんため、故意になせしものと解するに、なんの不可かあらん。かつ、しか解するときは、この一妖怪も容易に説明せられて、また怪しむを要せざるべし。これ、予が狐憑的妖怪にあらずして人為的妖怪なりと断言するゆえんなり。この断言にして、幸いに誤りなからんか。しかるときは、かの女に憑付せりという狐は野狐の類にあらずして、おそらく、わがまま狐ともいうべき一種の狐ならん。

 以上は、予が半日間の観察と、杉本、中村二氏の談話とに基づき、前後の事情より推測して考定したるものなれば、いまだ十分の事実を探知したるものというべからず。かつ、故意的妖怪とする以上は、当人自ら明言するにあらざれば、その実を知るべからず。ただ、広くこれを世に示す意は、識者の判定を請わんと欲するにほかならざるなり。(完) 

 

    出典 『東京朝日新聞』第二八三四、二八三五、二八三七、二八三八号、明治二七(一八九四)年五月八日、九日、一一日、一二日、二面。

妖 怪 談

 エー、今晩は、臨時のお好みに従いまして、御注文のとおり妖怪談を演説することになりました。なにぶん世間では、妖怪学は私の専有物であるかのごとく評判いたしまして、いずれへ参りましても、話を頼むということになると、どうか妖怪の談をしてもらいたいと申します。先年のことであります。私がある所へ参りました。その要件というのは、すなわち哲学館大学の資金募集のために出張いたしましたのにもかかわらず、「寄付話はやめて、どうか妖怪談をして願いたい」というのでございます。そこで私は、「今回、余が参りましたのは、演説をやるために来たのではありませぬ。寄付を願うために参りましたのだから」とお断りをいたしました。ところが彼らが言うには、「ここで妖怪談をして下さるならば、全員こぞって寄付に御賛成申すが、もし話して下さらぬならば、われわれも不本意ながら、御寄付にも賛成はできませぬ」と申したことがございますが、妖怪談というものは、さほどまでにおもしろいものではありませぬから、この辺のことはあらかじめ御承知を願っておきます。

 さて、妖怪と申しますると、なにか幽霊かのように思われますが、決して一つや二つのものではありませぬ。その種類といったら百も二百もあります。まず、私が調べたところのもののみでも四百とおりもありますから、とても一つ一つこれをお話ししておるわけには参りませぬ。まあ、そのうちのおもしろいのを一つ二つお話しいたしましょう。それにしても、皆様の御希望もありましょうから、それを伺ってと思って、諸君の希望を問うたのであります。ところが十人十種、ある人は天狗の談を、ある人は狐の話を、またある人はお化けのお話を、ある人は霊魂のと申されまして、なにを話してよいやら一向分かりませぬから、皆様の御注文はいれられませぬ。全体、天狗のことは当地が本家本元でありますから、ただ今お話をいたしませんでも、定めし諸君らの方がくわしく御承知のことでありましょう。これはお預りといたしておきまして、なにか狐についての実験談か、あるいはまた、幽霊の話でもいたしてみようかと思います。

 さてまた、この霊魂いな幽霊を話そうやには、どうしても無限絶対ということを話さんければなりませぬ。この無限絶対を話そうというのは、はなはだ困難のこと(話せぬわけではないが、心のもとからして話さねばなりませぬから、一朝一夕のことにはまいりませぬ)であります。なお、幽霊を話すには足りませぬ。どうしても霊魂不滅ということを語らねばなりませぬ。ところが、この霊魂不滅ということは哲学において研究する事柄であって、最も難解のものであります。およそ困難といっても、これほど至難なものはありませぬ。もし、この霊魂が分かりましたならば、現在この世界にあるところの学問はみな解決したと申しても、過当の言とは申されませぬ。学問という学問は多くあるけれども、研究に研究し尽くしたる暁、必ずこの心ということになります。

 この心すなわち霊魂に至りますと、古来いくたの学者もまた学説も、みなここに至ると体屈し、膝折れ、拝跪問撏ただ天帝を祈り、神仏に祈誓するのほかなく、一人としてこの大問題を解決するの勇士はなかったのである。それほどの大問題でありますれば、容易に話されませぬ。しかるに、いずれへ参りましても、じきに申します、「霊魂の説明を願います」このような願いは無理でありますから、常に今のべたようにお断りをいたします。しかるに、多くの人々は私に向かって申します、「そんなむずかしいことはおたずねせんでもよいが、なんとか一口に分かることがありましょうがな。私どもが死んだ後があるとかないとかのお答えを聞けばよろしいのでございます」と言うが、この有無の一言がなかなか言えぬ。ただ一言、死ぬと霊はなくなるものか、あるものかと言うのみであるが、これが哲学の上で言えば、あるでもないが、ないでもないと言うよりほかはない。しかし、これではだれも承知はできませぬ。しかし、くわしく学ばんとするならば、少なくとも三年くらいは研究せねばなりませぬ。もし、諸君がしいて話せと言うならば私は申しますが、その前に私に願いがある、その願いをかなえてもらいたい。それができたら私も話しましょう。その願いというのはほかでもない。諸君は多く農の方々にてあるから、こういう願いを申します、今晩のうちにお米をまいて、明日そのみのったお米でご飯をたいてください、これができるならば私も話します。ともかくも、三年も学ばねば分からぬものを、一時間や二時間に聞こうとするのは、あたかも一年かかってできるお米を、一昼夜に作れとの無理な注文と同じことである。かようなわけでありますから、霊魂いや幽霊の話はよして、狐についてなにかおもしろい実験談をいたしましょう。

 それについて、なおさきに申し上げておきたいことがある。こういうことは日本のみではありませぬ。西洋でも非常に盛んに言われておるということです。西洋ではこういうことを研究する会がありまして、多くの人が月に一回とか二回とか会合を開きまして、妖怪に対する研究をいたします。エー、先年、私が西洋の方へ漫遊に参りましたときにも、英国においてこれらの会が聞かれておりまして、これらの人々が申しまするには、「近日のうちに日本から妖怪博士が渡英せらるるが、この会へ招待して一場の話を願いたいものである」と言うので、私がまだ英国へ着かぬさきに、わが駐英公使のところへ願い込みました。私が英京ロンドンへ着くと、公使からそのことを照会せられました。私もおもしろいことであるから、一度行ってみたいものであると思っておりました。ところが、ちょっと不幸にも前より取り調ぶる用件がありまして、ある田舎へ行かねばなりませぬ。かれこれしておりましたときに、病気にかかり、また日子も定限がありまして、事情再びロンドンに来ることができませなんだ。英国を去って米国へ参りましたから、ついにこの会へ出席することはできませなんだ。その後、米国へ渡りましたが、やはり米国においても、こういう幽霊研究会とか妖怪攻究会とかいって、多くの仲間がございます。一日、余がボストンへ参りましたときに、わが領事が申しますには、「この市に非常な日本贔屓の男があります。この男がかねてより深く妖怪を信じ、かつまた日本人を迎うることを喜んでおりますから、一度この人を訪問してはいかん」と申しましたから、私も行ってみたいものだと思いましたから、領事に照会を頼みまして参りました。

 その人の名はウエドという人であります。家へいってみると驚くばかりであります。まず、門の作り方、家の造作、器具に至るまで、日本品をもって備え付けられ、庭園の植え込み、竹木等、みな日本種ならざるはなく、いちいち日本より舶来せるものなり、と特に五重の石の塔のごときまで配致せられ、最も私の目を驚かしたのは、庭園に注ぐべき水を運ぶために、水ニナイ桶の備えられてありましたのです。その風致、あたかも小日本の観がありました。そこで、取り次ぎに主人の在不在を問いました。幸い在宅でありまして、主人は早速出迎えました。彼について客間へ通りました。もちろん金満家でございますから、家内万事整頓しておりまして、その室内の器やら間造り等、一切が日本風というので、いかに日本ずきの主人であるかが分かります。

 ときに主人が申しまするには、「先生は妖怪について非常に御研究遊ばされたと申しますが、私ももと、このことにつきましては永年研究いたしておりました。しかるに、このごろその妖怪なるものを発見いたしました」というので、余は「それはいかなることですか」主人が申すには、「さらば、ただ今その証拠をお見せ申します」と言いながら、一枚の油絵を持参いたしてきました。いかに見ましても、ただ一片の絵画に過ぎないのです。その中に幽霊の図があらわされてあるので、これが妖怪とは信じられませぬ。しかるに、彼はこの絵画をもって「これがその証拠です」と言いながら、この上に風呂敷ようのものを覆い掛けまして、これを指ではじくと画があらわれ出ずるという方法です。しかして、「何日に出よと言えばその日に出る」と言って信じております。

また、一つは文字の書かれたるものにて、同じく空の室におきまして、同じく風呂敷を掛け、爪にてはじけば文字が出る。ところが、そのうち一字どうしても読めぬ字があるので、彼は「これはなんという字か」と私に問いました。私は「これは図という字でありまして、シナの文字でございます」と申しましたら、彼は大いに驚きまして、「妖怪はシナの文字まで知っておるものか……」と言いました。このほかになお、石板に文字の書かれてあるものがありまして、聞けばいかにも不思議そうでありますから、余もこれを実見してみたいと思いましたが、なにぶんにもウエド氏は今、他出前のことでありましたから、やむなく退出しました。この実験を見るには、少なくとも四、五日は当地に滞留いたしておらねば彼は帰らぬので、見ることができませぬ。しかるに、帰朝の日取りもきめあれば長々はとどまられませぬから、遺憾ながら、このことは知ることを得ませなんだが。

このウエド氏は、この妖怪なるものを熱心に研究し、非常に信じておりますけれども、余にはどうしてもこのことは信ぜられませぬ。西洋人の仲間にも、この連中がたくさんございます。

 その後、ニューヨークに参りました。ところが、当所の領事の妻君が私に問いました。「わたしが、ある日狐狗狸様をやる方々の所へ参りました。そうして私は彼らに申しますのには、『貴君方はわたしの父の名を聞かせてください』と申しました。すると彼らは、わたしの父の名を申しました」と言って、領事の妻君は大いに驚き、真に狐狗狸様があって、このようなことができるものであると信じておるような風で問うたのであります。この驚きはもっともであります。だれでもはじめは驚きます。しかし、そんなにおそるべきものではありますまいと思います。まず、その狐狗狸様を行うには、いろいろなやり方があります。普通、三本足のテーブルを用います。しかして、その構造は極めて動きやすく、いかなる微動もこれを感受し得るように、まず四つ脚をさって、特に三脚を用いるのであります。そうして、テーブルの上の板がやはり動きやすく、かつ回転自在に作られ、下の板も動くように作られ、かつ、台の板がまた回転するように作られてあるので、いかにも動揺しやすき構造であります。そうして、その台になる板にはABCD……の文字が書かれてありまして、この板がまわるのでございます。このとき、執術者も被術者もともに、この危うきテーブルに軽く手を触るるのである。このときに、執術者は常に被術者の顔面と文字とを熟視し、かつ、手の感覚に注意するのであります。かかる間に、対者の心中を判断するものです。ちょっと西洋に読心術というのがあります。この方法とほぼ同様なものです。

 この読心術には、ABC……の文字を数えつつ対手の心中を読む方法がございます。人は感情の動物で、物に触れ事に応じて感動しやすきものでございますから、孔夫子は「思い内にあれば色外にあらわる」と言えるごとく、被術者のすべての思いは今胸にみちみちておって、その注視する文字によりて、思いは外にあらわれ、執術者の目に手に心に通ずるのです。この心通の作用によりまして、対手の心を読了ることができるのでございます。ゆえに、もちろんこの方法によるときは、過去経験しきたれる事実を知ることはできますけれども、未来にきたる未知の事実を知ることはできませぬ。もし、未来のことを知るならば、それはただ当座に浮かべる空想に過ぎないのです。狐狗狸様もこのとおりでございまして、過去を知るといえども、未来を問うの必要はないのです。ゆえに、まずあらかじめ、この領事の妻はその父の名を知りしならん。人としてその父の名を知らざる者は、愚狂にあらざればなきはずでありますから、必ず知っておったのでございましょう。彼女はすでに父の名を知れるがゆえに、感情として、その父の名の文字がきたれば、動かざるを得ざるものである。

 このとき、早くも執術者はこの状態を感受するのです。その様子は、まず術者は常に対手の面を注視し、かつテーブルの微動に注意するのである。かかるときに板は回りて、ある文字、夫人の前に至らば、ただちにこれはわが父の頭字なりと感ず。また、そのつぎの字なりと思惟するがゆえに、微動と顔色とは時々刻々、術者の脳裏に印せらるるものであります。例えば、木村なればKimuraにて、はじめKがくれば、これわが父の姓の頭字なりと思います。同時に感動を起こします。術者は早くもこの感動を感受いたしまして、そのつぎのiもまた同じく感じ、mもuもrもaもともに感受いたしますので、その木村なることを表白するものでございます。かようのわけでございますから、決して恐ろしいことでも不思議なことでもなんでもないが、ちょっと聞くと、なんとなく不思議なようにきこえますものです。しかるに、やはりこの狐狗狸様をやる連中は、真に狐狗狸様があって、かくつげるものだと信じております。かように申しますと、狐狗狸様はだれにもできるようですが、実際はだれにもできませぬ。もちろんできるべきわけであるが、なにぶんにも心通の機微なるがゆえに、感知するの能力を養わざれば、全く不可能でございます。この能力を養うには、吾人が諸種の芸能を学ぶがごとくに、非常に大いなる練習を積まねばならぬ。あたかも撃剣のごとく、練習によりてその気合を認めるので、初めて効力を生ずるものですから、素人にはできませぬのである。しかるに、撃剣家がその気合の神命なるをもって人業とはせませぬごとく、彼らの仲間では霊妙なるものがあって、つげるものであると信ずるのです。

 さて、ここに狐について一つお話しいたしますが、これが説明ははなはだ困難なものです。今私は、余が実験いたしました狐つきについてお話しいたします。この話は、東京の神田神保町の洋服屋の主人に、狐つきがございましたのです。この実見談ですが、ただ今この話をいたしまするのは、なんだかつじつまの合わぬ話のようですが、あたかも狐狗狸様の連中が、狐狗狸の霊を信ずるがごときものでございますから、この話をここに持ち出しましたのです。

 あるときのことでございますが、この主人が座敷におりますると、多くの狐がより集まってきまして、あちらこちらとかけ回り、くるい回るので、それを見ておりますと、なんとも言えぬほどおもしろく愉快でございました。この狐どもはおもしろそうに走り回りおると、だんだん自己の身体へとのぼってきて、ついには頭の頂上へのぼりました。そうすると、狐はこの頭の真ん中へ穴をあけました。その穴から狐どもが入り込みまして、おいおいと腹の方へと下がってゆきました。はじめのうちはおもしろがっておりました。ところが、狐どもは腹へ入ってからというものは、たえ間なく腹中をかけ回るので、ついには腹部の激痛を感ずるようになりましたので、苦しむようになりました。ところが、狐は入りかわり出かわり頭から出入するのでたえがたく、ついに非常なる苦痛と不愉快とを感ずるようになりましたから、どうかしてこれを防ぎたいものだといろいろ工夫をしたけれども、致し方がないので、呪咀や祈祷やなんぞをしてもらいましたが、一向ききめがないので、日々苦痛は勝るのみでありました。

 すると、あるときのことでありましたが、常のごとく多くの狐がそばをあちらこちらとかけ回り、今や頭より入らんとするとき、ふと横を見ると釜がございました。ただちにこれを取るより早く、ずんぶんりと頭へかむり、黒金の山高帽子をかむったようにいたしました。狐はいろいろ工夫をしてみましたが、ついにこの釜の底を貫いて入ることはできませなんだ。それゆえに、この洋服屋の主人は大いに喜びまして、狐がくるたびに釜をかむったのでありますが、狐はたえずくる、釜は常にかむってはおられませず、どうしたらよかろうと思案いたしました。お釜は金でつくられたものである。してみると、金なれば狐はこれを破ることはできぬものと考えましたから、金の帽子をかむれば狐は入ることができぬに相違ないというので、ただちに金の帽子を鍛冶屋へ注文いたしました。その後は、寝てもさめても、常にこの金の帽子をいただいておりました。それゆえ、狐は頭からはついに入り込むことができませぬようになりましたので、彼は大いに安心いたしておりました。

 すると、狐はまた考えるのです。金の帽子をかむりおるから頭からは入られぬ、なんとか工夫をしてどこからか、入り込んでやろうではないかというので、多くの狐どもは、ここに会議を開いたのでございます。ある狐はどこそこから、あるものはいずれより、またあるものはここよりと議々した。結局、お尻から入るということになりました。これには、洋服屋の主人も大いに弱っておりました。頭は金の帽子で防げたから、金ならば狐は防げるといったところで、まさか金のさるまたや金のふんどしは掛けられもせませぬから、どうしたらよかろうかと大いに苦心考慮の結果、考えましたのはゴムのふんどし。これはどうであろうというので、これを作りてはめてみました。ところが、狐はまた、このゴムのふんどしを破って入ることはできませなんだ。まずよろしいというので、再び安心いたしました。

 ところが、狐はまた会議を開きました。もっとも、今度はお臍から入るということになりました。今度はお臍から入るのですから、これを防ぐにはなんでも金ではいかぬ、お尻がゴムで止まったのだから、今度もゴムならよからんというので、自分が洋服屋ですから、ゴムの洋服をつくってこれで防ぎました。さあこうなると、狐の方では入ることができませぬ。頭は金の帽子、お尻はゴムのふんどし、お臍はゴムの着物、もう頭の天上より足の爪先まですきまがないので、大いに困っておりました。ところが会議の決議は、寝首をしめるという恐ろしいことになりました。さあそうすると、毎夜毎夜寝ると蒲団の上から押ししめるので、その苦しさは例えようがありませぬと言うので、いろいろ考えてみるも防ごうという方法がないので、やむなく御祈祷や信心をいたしたり、お呪咀をいたしてもらいましたが、さらにききめがありませぬ。毎夜ねむられぬので、日夜苦痛に攻められ、防がんに策尽きて、今はただ死の運命を待つよりほかはなかったのです。

 いずれこんなときには、だれでもいろいろなことが耳へ入るものであります。どこから聞いたものか、私が狐を落とすと言う者があったので、かの人はこの苦痛を除くためには、多くの手段を尽くしても全く無効であった。しかし、背に腹はかえられぬので、私の宅へ参ることになりました。

 取り次ぎの者が私の所へ参りまして申しますには、「かくのごとき風態の狂人が参りまして、しかじかの儀にて、先生に御面会いたしたいと申しております」と言うので、いかにもおもしろ風であるし、またなにかの研究材料にもなるかも知れんと思いましたから、まず通してやれと命じました。

 すると、洋服屋はゴムの洋服を着て、金の帽子をかむったまま、余の室へ入りました。まず帽子を取って会釈し、礼儀が終わるが早いか金の帽子をかむり、「かようかようのわけで、一時もこの帽子を取っておくことはできませぬから、御免をこうむります」と申してことわりました。「その用件は」と言うと、彼は言う、「私のお願いというのはほかでもないが、どうも狐に苦しめられるので、はなはだ困却いたしました。聞けば、先生には狐をお落としなさるということでございますので、どうか狐を落として願いたいのでございます」と言うので、言葉ははっきりしておるし、わけも分かって、どうにも正気の人のようでありますが、その風態はいかにも狂人のごとくで、偽狂人のごとくであるが、全くこれは狂気であります。すでに十数年間、仕事もできず遊び暮らすので、すでに家計に苦しむようになりました。「しかし、十年来のことでもあれば、ただちに快復するということは難いが、幸い私の所に狐を落とす道具がある。その品というのは、奥州において何千年の昔のものか知らないという大きな朽ち木がありまして、古老が伝えて言うに、『この木片を持っておれば、狐につままることはない』と言うのであります。先年、私はこれをもらってきました。この木をあげるから、終始この木を持っておって、狐が来たらばこれで輪をえがけ。そうさえすれば狐は来ぬから」と言ってやりました。彼ははなはだ喜んで帰りましたが、その後なんの音信もありませぬから、どうなりましたか、ちょっとも分かりませぬが、なにしろこの人の病気は、この狐が最初目に見えたときがはじめで、だんだん重って、ついに真の狂人となったのであります。

 いずれ、病後の疲れかなにかでございましたでしょう。だれでも身体がひどく疲れると精神もよわりますから、夢なぞを見るようになります。これがもっとひどくなりますと、普通さめておるときに、夢を見るものでございます。もちろん夢を見ておるときには、夢とは思いませぬものです。かように、さめておるときに夢みる人も、精神が狂っておるとは毛頭感ぜませぬので、ほんとうに事実が見えるものであると信じております。それゆえに、奇怪なることを言いましたり、しましたりするものです。元来、夢と申しまするものは、全くなきものを見るということはありませぬ。ある記憶せる過去の事実や経験せること、またはかつて意識したる事柄、あるいは希望せる事実等の一部一部を取捨して、一種の妄想をあらわすものでございます。ゆえに、夢そのものは過去の経験の事実ではありませんが、夢は一度己の記憶せる事柄であるということは、明らかなことであります。しかして、われわれは寝たるときのみ夢みるものであるかいなか、われわれが寝たるとき夢みるならば、さめたるときもまた夢みるべきである。しかるに、われわれさめたるとき夢みざるは、なにゆえなるか。例えば、夜間、爛たる星の光の無数なるを見るけれども、ひとたび太陽が昇ってからは、一つだに見られぬと同じことです。必ず昼間でも星はあるべきです。ある器械の力をかりてみますれば、認め得らるるものです。しかるに、昼間においてはわれわれの肉眼では見えませぬ。なにゆえでございましょう。すなわち、太陽の光あまり大なるがゆえに、比較的微力なる星は、覆いかくされたものであります。それゆえに、ひとたび日食にでもなりますと、きらきらと星は光り輝くのであります。

 さように、われわれの夢は心の中に常に潜在して、ほかの活動やまば、ただちに出でんとしております。さめたるときは強きほかの刺激を受けますから、夢はかくれて出ませぬ。ひとたびこの刺激を休みますれば、ただちに夢は現れ出でます。すなわち、このかすかなる妄覚は、真実の強き刺激には耐え得られずして、消滅し去るものであります。なんによらず、静かなるときはかすかなる力も大なるがごとく、遠き所のものも近きがごとく感ずるものは、他の騒然たる障害のために覆われておったものが、その覆いから出でたのであるから、意外の感がするのであります。われわれは、この意外の感覚に、ある過去の記憶の一部分を混じて、迷わさるることがあります。

 エー、何年ほど前のことでありましたか、このような事実があります。どこでありましたか、よくは分かりませぬが、東京近傍の汽車道に狐が出まして、汽笛のまねをいたしました。車掌は前の方から汽車が来たものだと思いましたから、衝突させてはならぬというので、ただちに停車しました。ところが、どれほどたっても汽車は来ないのでありますから発車しました。ところがなにごともなかったので、これは狐が汽車の笛をまねしたものだと申しておりました。しかしながら、これは狐でもなんでもありませぬ。御承知のとおり、東京近辺には多くの線路がありまして、間断なく汽車は動いておりますので、汽笛の音も諸所でいたしますけれども、昼間のうちは騒がしいために聞こえませぬ。もし聞こえても、はなはだ遠く聞こえるものであります。しかるに、夜間になりますと静かになりますし、特に雨気でもありますと、はっきりと聞こえますもので、遠方の声も近く聞こえるものでございます。そういうわけで、ある線路の笛を聞いたもので、あまり近く聞こえたので、己の前方へ汽車が進行してきたものと聞き違えたもので、狐の業でもなんでもありませぬ。かくのごとく、寂寞たる深夜におきましては、遠方のことの近く聞こえるものであります。これらはただその一例であります。あたかも、星の光が夜見えて昼見えないようなもので、音が競争いたしまして、その力の強いのが聞こえて弱いのが消滅するのは、自然の勢いであります。

 すなわち、われわれがさめておる間は、目や耳やいろいろの感官に強い刺激を受けますから、心のうちに浮かんだる弱き夢は打ちまかされてついに消滅して、夜間、外来の刺激の比較的静かなるときに夢みるものであります。かようなわけでありますから、もし心のうちの力と外界刺激の力と同一であったならば、夢見るということはないでありましょうが、内部の力が強いと、さめておるうちにおきましても、夢を見るものでございます。事柄によりますると、この現象があります。かの熱病にかかった人のごときは、熱のために内部に非常なる刺激を与えますから、心中にある事柄が目前に現れいでて、あるいは鬼、あるいはお化けの顔なぞを見て驚き、または意外のことを口走るものであります。また、非常な心配事でもありますと、ひどく心の勢力をそのことに注ぐために、内部の勢力が強くなります。このような場合に、往々夢見ることがあります。例えば、道端に首縊りでもあって、これを見て、あー気持ちが悪かったとか恐ろしかったとか、常に思っておりまして、気の小さい人なぞは、そこを通るとその人が出たなぞということが往々あります。世間には、愛子が墓前にあらわれ出でたとか、親が出たとか、怨者が出たとかいうことはたくさんあります。

 また、一事に熱注しますると、ほかの感覚力を減ずるということがございます。例えば、目に力を注げば耳の感覚は薄らぎ、耳に音声を聞き、いよいよ傾注すれば目に物を見ざるがごとく、その感覚力には分量のあるものでありまして、ものごとを忘れたときなぞに、手をくんで目を眠り、首をかたげて考えますと、考え出すことがあります。これは、手や目に費やすだけの力を心の内部に加えるものですから、考察力が一層完全なるものであります。ゆえに、内部の刺激強ければ感覚は薄弱となるもので、例えば、碁打ちなぞが碁に全力を注いで、人の話なぞは耳にも入らず、タバコの火を消さずに着物を焼いて、皮膚に火傷をいたしましてはじめて感ずるというようなことは、たくさんあります。これと同じく、感覚が弱ければ心内に伝達する力も弱きがゆえに、感官のにぶきときは、内部における妄想を感ずるものです。これは心理作用の一片でありまして、また、この事柄を解釈することはできませんけれど、かくのごとき類もたくさんあります。ただ今話しました狐つきのごときも、こんなわけで心理作用によりて説明することができます。しかし、一般の狐つきがみな、かように説明することができるということは難しい。ある場合にはこんなもので、こんなものも世間には数多いことでございます。

 以上のごとく説明いたしてみると、この世界にはなにものも妖怪たるものなし。しかしながら、すでにかく言いおるものが、妖怪をつくりだすものであろうと思います。こんなはたらきが霊の妙用でありまして、この霊の作用がいかなるものをもつくりだすもので、迷いもし、悟りもし、喜びもし、悲しみもするのが心の妙で、よく万象を見、よく万象を記憶する、これすなわち心の奇々妙々なるところにして、世間では私のことを、妖怪を非認すると申すそうですが、私は決して妖怪を非認いたしませぬのみならず、大いに妖怪ありと申しますが、しかし世間にいわゆる妖怪と申すのは、まことの妖怪でなくして、その妖怪の端であります。その真の妖とはなんぞや。曰く、「心これなり」と申します。このほかに妖怪を認めませぬ。また、これ以上にさかのぼってたずねることはできませぬ。しかして、なにゆえさぐることができぬか。心はいかなるものかと探るものも、また心の作用なり。また、心はなになになりと言うも、心はありと言うもないとするも、また不思議とするも、みな心の作用なれば、ただ心が心のことを言うのでありますから、分かったと言うのも心なれば、分からぬと言うも心でありますれば、あたかも自分の眼では自分の眼が見えぬがごとく、また自分の力で自分を上げることはできませぬがごとく、心で心を知ることはできませぬ。そこで、仏教ではこれを妙心と申します。これほど大きなる妖怪はありませぬ。これが妖怪の親玉でありまして、人々自分自分御持参のことでありますれば、別にほかに向かって妖怪の求むべきはありませぬ。ただ、これをお話しすればたくさんでありますが、やはりこれを知らんには、多くの例を話さんければ分かりませぬから、先刻からいろいろの話をいたしました次第でございます。時間もだいぶうつりましたから、今晩はまずここで御免をこうむります。(完) 

 

 先生独特の玄談妙話。その写実をやや全からしめざるは、深く余の遺憾とするところ。読者諸君請う、誤認の責、羅して余が筆にあり、これをゆるせよ、これをゆるせよ。

 

    出典 『教の友』第二二号、明治三八(一九〇五)年一〇月一日、一―一三頁、加藤禅童記。