7.解説―井上円了と            妖怪学の誕生:  三浦節夫

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解  説

     解  説 ・・ 井上円了と妖怪学の誕生 三 浦 節 夫

 一 「妖怪学は趣味道楽」

 井上円了(一八五八―一九一九)は、幕末に生まれ大正時代の中ごろに死去したが、主な業績として、哲学館(現在の東洋大学の前身)の創立、哲学の普及、『仏教活論序論』などによる仏教近代化、東京都中野区にある哲学堂の創立、国民道徳の向上を目的とした全国巡回講演、妖怪学の提唱などが知られている。しかし、これまではそれぞれの個別研究はあっても、総合的な研究は最近までなかった。

 そのため東洋大学では、昭和五三年から創立者の総合研究として「井上円了研究」に取り組み、基礎資料の収集からはじめた。この研究の初期は研究会によって行われ、現在は法人立の井上円了記念学術センターという専門機関を設置して、それを継続している。

 妖怪学についても、民俗学などの研究者が注目する以外には、ほとんど関心を持たれないできたのが、これまでの実情である。その理由の一つとして、妖怪学に関する評価の低さが考えられる。たとえば、没後の翌年に刊行された『井上円了先生』という追悼文集があり、その執筆者数は一六四人に達しているが、このなかで妖怪学にふれた人は一割にも満たず、また詳細に言及している人もほとんどいない。このことは、井上円了の生涯において妖怪学が重要な位置を占めていたと見る関係者が少なかったことをあらわしているが、その数少ないなかに、妖怪学に関する当時の見方が二つあるので、それを紹介しておこう(以下、ことわりのない限り、引用文は現代表記にし、カタカナをひらがなに直し句読点を付けた)。

 その一つは哲学界の大御所と言われた井上哲次郎の文章である。井上哲次郎は、「井上円了博士は、明治年間から大正にかけて活動されたわが国屈指の学者であったが、その活動のおもなる部分は明治年間にあったと思う。しかも、明治の中ごろに最も活動されたかの観がある」とし、その代表的な著述を「まず『仏教活論』と『外道哲学』がもっとも傑作であった」と位置づけ、さらに『妖怪学講義』にふれてこう述べている。

 「それからだれも知っているとおりに、博士はよほど妖怪のことを研究されて、『妖怪学講義』というものを発行された。ところが、よほど広く世間に喝采を博した。この書には、妖怪などは迷信であると言って、妖怪を撲滅することに力を尽くされた。しかしながら、世には不思議なことを好む者が多く、田舎ではよほど興味をもってこれを歓迎したようである」

 井上哲次郎は「世間の喝采」があったとは言うが、『妖怪学講義』を学術的なものとは評価していない。二つ目の文章は、評論家として有名な三宅雪嶺のものであるが、井上哲次郎と同じような捉え方をしている。三宅雪嶺は東京大学文学部哲学科の先輩であり、井上円了の生涯をよく知る人物であったが、妖怪学をこう見ている。

 「〔井上円了は〕在学中にもすでに哲学会設立に努め、卒業後ただちに『仏教活論』の著作に従事し、ついで哲学館を設け、哲学書院を設け、雑誌『日本人』の発刊に関係した。かくして一方、『仏教活論』等の著作をなし純粋の学者として立たんとしつつ、また一方、仏教を一新し社会に活動するの意あり、そのいずれに向かうべきか、いまだ定まらなかったのである。……しかるに『仏教活論』著作の傍ら哲学館を起こし、その経営に忙しくなったので、……著作に力を用いるあたわず。せっかくはじめた哲学書院も思わしくなく、……しかもなお著作のことも念頭より離れず、さりとて初めに予期せるほどのことをことごとく企てることは到底難いが、できるだけのことは成立遂げんものと、ここにいよいよ『妖怪学研究』に努力した。これまた在学中よりの研究であり、かついくぶんか宗教思想と関連していたのであるが、このころに至り比較的多くの力を注ぐようになってきたものとみるべきである。さて、自身の意はいずれにあるにせよ、経過において『仏教活論』いまだ完成に至らぬに、また『妖怪学講義録』に力を注ぐことになり、これと同じく、哲学館の経営いまだ全からず、しかして哲学堂建設に力を注ぐようになった。……『仏教活論』なり哲学館なりは、社会および文明を対照とし、しかして一身をその犠牲とまでなるかの観があったが、妖怪学なり哲学堂なりに至っては、その意のまったく消滅したのでないにせよ、いささか道楽趣味を混じ、個人的になろうとし、年とともにいよいよその傾向を強くした」

 長い引用文になったが、三宅雪嶺は、井上円了の生涯と業績の関係をまとめてみて、妖怪学を「道楽趣味」「個人的」なものではなかったかと捉えている。

 この二人のような見方は今まで続いているが、前述のように、井上円了の妖怪学に関する研究は未着手な点が多いので、資料などを紹介しながら、井上円了が妖怪学へと進んだ条件と、その経過を述べたいと思う。

 

 二 生育の環境と性格

 井上円了は、「余は元来人以レ有レ伝為レ伝、我以レ無レ伝為レ伝の主義を唱え、何人より尋問ありても、自伝を答えたることはなかった」として自伝を書いていない。しかし、妖怪の研究に取り組んだ経過は、著書等のなかに三カ所指摘できるので、それを年代順に紹介しよう。

 はじめは、明治二〇年の『妖怪玄談』で、「余、幼にして妖怪を聞くことを好み、長じてその理を究めんと欲し、事実を収集すること、ここにすでに五年」と書いている。

 つぎに、明治二四年七月の『教育報知』の「妖怪学一斑」では、「今日は学術が進歩してきたとは申しながら、その範囲が極めて狭小にして、妖怪のごときは多少心理学において研究しておったけれども、いまだ一科の学問とはなりません。畢竟、学者が多忙にして、実際、手を下すひまもなかったのであります。しかるに、私は心理学を研究する間に、このことを思い出したのでありまして、……この妖怪のごときもまた、十分に研究を尽くしたならば、必ず一つの学科となすことができるであろうと思います」と述べている。

 そして、明治二六年の『妖怪学講義』では、「そもそも余が妖怪学研究に着手したるは、今をさること十年前、すなわち明治十七年夏期に始まる。その後、この研究の講学上必要なる理由をのべて、東京大学中にその講究所を設置せられんことを建議したることあり。これと同時に、同志を誘導して大学内に不思議研究会を開設したることあり」と記している。

 この三つの文章のそれぞれに重点の違いはあるが、これらを総合したところに妖怪研究へと進んだ条件・動機・行動があり、その時期は幼年期から東京大学在学中までの間と考えられる。そこで、この期間の主な事績を記し、その条件を検討してみよう(詳しくは『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』や『井上円了の教育理念』を参照)。

 安政五(一八五八)年、井上円了は現在の新潟県三島郡越路町の慈光寺に生まれた。生家は真宗大谷派(東本願寺)の寺院で、その長男として誕生した。

 明治元年、郡内の蘭医・石黒忠悳の漢学塾に学ぶ。これに続いて、同二年から長岡藩の儒者・木村鈍叟に漢学を学ぶ。

 明治四年、東本願寺にて得度。

 明治七年、新潟学校第一分校に入学。洋学と数学を学ぶ。この学校は、長岡洋学校の後身で、生徒として二年間学び、さらに校名が「長岡学校」などに変わったとき、教員助手の授業生(句読師)となる。

 明治一〇年、京都の東本願寺の教師教校英学科生に選抜される。同校に在学したのは六カ月余りで、本山の命を受けて国内留学生となり上京する。

 明治一一年、東京大学予備門の二年生に合格する。

 明治一四年、東京大学文学部哲学科に入学。

 明治一七年、在学中に、哲学会を創設。

 明治一八年、東京大学文学部哲学科を卒業。

 これらの事績のなかで、井上円了と妖怪の関係を考えると、「余、幼にして妖怪を聞くことを好み」と述べているように、生育環境にその条件がある。生誕の地「越後」は雪国で、『北越奇談』『北越雪譜』などで知られる奇事・怪異・怪談が多かった。また、寺院は人間の生死に関わる場所であり、とくに死後の世界(お化けや幽霊などを含む俗信や習俗)が話題になりやすい環境であり、妖怪に関心を示しやすい条件があったと考えられる(ただし、井上円了の場合は真宗の寺院で、開祖の親鸞が『正像末和讃』で「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」と述べているように、その教義には習俗や迷信を批判的にみる視点があり、これが井上円了の妖怪学の原点ではなかったのかという見方もある)。

 しかし、こういう環境条件があっても、それへの関わりには個々人による相違があるが、井上円了は自らの性格をこう述べている(『仏教活論序論』、『井上円了選集』第三巻所収)。

 「〔余〕その旧里に在るや同郷の児童と共に遊ばず……出でて江山の間に入れば、草木の森々としておのずから鬱茂し流水の悠々として去りて帰らざるを見、心ひそかに怪しむところありて家に帰りてその理を思う。これを思うて達することあたわざれば、ひとり茫然として自失し、幸いにその理に達すれば微笑して自得の状を呈す。……世人は事物の外形を見て、その形裏に胚胎する真理のいかんを問わず。余はただその理を思うて外形のいかんを顧みず。これが余が人とその感を異にするゆえんなり、これ余が衆とその楽を同じうすることあたわざるゆえんなり」

 このような性格は後年も続き、田中治六は「先生は注意凝集の力に秀でられしがゆえに、先生がある事項を専心一意に考えおらるるときは、そばの喧噪なるも妨害とはならず、またほかより先生に話しかける者あるも、一向に聞こえざるようにて受け答えもせらるることなし、先生の令閨はこの注意凝集の状を見るごとに、『また例の考えごとが始まった』と言われた」、と語っている。

 『おばけの正体』のなかでは、一〇歳前後の「障子の幽霊」と、一五、六歳ごろの「幽霊の足音」を体験談として述べているが、こうした体験を理詰めで明らかにしようという性格は早くからあったと考えられ、「長じてその理を究めんと欲する」のが、井上円了の関わり方であった。

 また、井上円了が単なる妖怪の好事家にとどまらなかった条件もあった。真宗教団の場合、寺の長男は「候補衆徒」と位置づけられて、住職の後継者になる。一般的に言って、住職は地域社会の知的指導者また有力者であり、それにふさわしいものの見方・考え方をもち、大衆を教化の視点から捉えるという条件がある。

 このように述べると、井上円了が妖怪研究に進んだ条件は、環境的で生得的に具わっていたと見られるが、それだけで「妖怪学の提唱者」になったわけではない。

 

 三 「往時の日本にあらざるなり」

 青少年期の井上円了が明治維新直後の仏教や生家の寺院をどのように見ていたのか、それは『仏教活論序論』にこう記されている。

 「余はもと仏家に生まれ、仏門に長ぜしをもって、維新以前は全く仏教の教育を受けたりといえども、余が心ひそかに仏教の真理にあらざるを知り、顱を円にし珠を手にして世人と相対するは一身の恥辱と思い、日夜早くその門を去りて世間に出でしことを渇望してやまざりし」

 当時の井上円了の見方は、「仏教は愚俗の間に行われ、頑僧の手に伝わるをもって、弊習すこぶる多く、外見上野蛮の教法たるを免れず」というものであった。この見方は社会もまた同じで、当時の世相を反映した狂歌に、「要らぬもの 弓矢大小茶器の類 坊主山伏さてはお役者」(大小は刀のこと)と詠われるほどであった。

 井上円了のこのような批判的な見方は、変化する時代の情勢の反映もあるが、どちらかと言えば、教育と学習によるものであった。とくに、はじめに学んだ石黒忠悳の私塾は、知的な興味や日本の将来と西洋世界への関心をもたらしたと言われている。石黒忠悳は江戸の医学所で医学と洋学を修めた医師で、高度な知的世界をもっていたからであろう(石黒忠悳はのちに陸軍軍医総監や日本赤十字社長もつとめた)。

 そして、さらに一六歳から洋学校で学んだことも、仏教や寺院への見方を大きく変えたものであった。

 この青少年期の学習歴と読書歴が、『東洋大学百年史 資料編Ⅰ・上』の「履歴」に記されている。その読書歴をみると、漢書・国書・洋書と合わせて一〇八冊のなかに、当時の青年が大きな影響を受けたといわれる福沢諭吉の著書がある。明治二~五年に『西洋事情初編』『西洋事情外編』『西洋事情二編』、明治六年に『世界国尽』『学問勧』、明治七年に『童蒙教草』『窮理図解』を「独誦」「独見」している(書名は履歴書による)。

 いずれもベストセラーであるが、これらの著書は「一言にしていえば西洋文明の紹介」であり、福沢諭吉が「著作者として最も気力に溢れ、また研究者として極めて貪欲に西洋の最新知識や思想を吸収蓄積するのに精力を傾けた時代」(富田正文『考証福沢諭吉 上』)のものである。このような福沢諭吉の著書などは、初期の井上円了のものの見方・考え方に影響を与えたのではないかと考えられる。

 一八歳(明治九年)になった井上円了は、「長岡学校」の開校式の様子を記録し、自らの「祝詞」を記した欄外に「今や我日本は復往時の日本にあらざるなり」(『井上円了研究』七)と記している。このように、仏教や妖怪のことは旧日本のものとして意識されたのであるが、しかし一方で、長岡時代の井上円了は儒教、仏教、キリスト教を比較・考究しながら、「旧来の諸教諸説は一も真理として信ずべきものなし」として、新たな世界の理解をも求めていた。

 「余、幼にして妖怪を聞くことを好み」という妖怪への関心も、青年期にあっては、まだ漠然とした形で意識された程度にとどまっていたと考えられる。

 四 日本の開化と妖怪研究

 明治一〇年に井上円了が京都・東本願寺の教師教校生に選ばれたことは、大きな転機になった。この教師教校は、日本の文明開化に対して、全国に一万カ寺・一〇〇万の門徒(檀家)を擁する真宗大谷派教団が、次代を担うエリートの養成に取り組んだものであった。ほどなく、井上円了は国内留学生の第一号に指名され、創立直後の東京大学へと進んだ。そして、最先端の知識を学ぶことによって、それまでと異なった見方で仏教や妖怪の問題への関心を高めることになるのであるが、この日本で最初の大学でどのような学問を学んだのか、それを紹介しておこう。

 東京大学の予備門では三年間に、英語学、和漢学、数学、物理学、化学、生理学、植物学、動物学、地理学、史学、理財学、画学を履修している。

 文学部哲学科の第一学年では、和文学、漢文学、史学(英国史、仏国史、ギゾー『欧州開化史』)、英文学、英吉利語、論理学、法学通論、独乙語を学んでいる。

 第二学年では、東洋哲学、西洋哲学(スペンサー『世態学』、モーガン『古代社会』の社会学と、シュペングラー『哲学史』でカント哲学)、西洋哲学(ペイン『心理学』、カーペンター『精神生理学』、スペンサー『哲学原理総論』)、史学、和文学、漢文学、英文学、独乙語を学んでいる。

 第三学年では、支那哲学、印度哲学、西洋哲学(カントからヘーゲル哲学、ヘーゲル論理学)、生理学、和文学、漢文学、独乙語を学んでいる。

 第四学年については、試業証書がないので、他の資料によると、東洋哲学として印度哲学と支那哲学、西洋哲学として心理学・道義学・審美学、作文と漢文、卒業論文が課せられていた。(予備門と哲学科の履修科目は『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』参照)。

 井上円了が妖怪研究を集大成した『妖怪学講義』は、総論、理学部門、医学部門、純正哲学部門、心理学部門、宗教学部門、教育学部門、雑部門の八つの部門から構成されているが、このような履修科目をみると、大学時代の知識が基礎となり応用されていることがわかる。

 東京大学における予備門と文学部哲学科の七年間の教育は、井上円了の見方・考え方を大きく発展させた。その一例として仏教についてこう語っている(『仏教活論序論』)。

 「すでに哲学界内に真理の明月を発見して更に顧みて他の旧来の諸教〔儒教・仏教・キリスト教〕を見るに、……ひとり仏教に至りてはその説大いに哲理に合するをみる。……なんぞ知らん、欧州数千年来実究して得たるところの真理、早くすでに東洋三千年前の太古にありて備わるを。……これにおいて余初めて新たに一宗教を起こすの宿志を絶ちて、仏教を改良してこれを開明世界の宗教となさんことを決定するに至る。これ実に明治十八年のことなり」

 これと同じく妖怪についても、「心理学を研究する間に、このこと〔妖怪〕を思い出し」新たな関心をもった。「近代日本の心理学はそもそも、在来の仏教や儒教、石門心学などにおける人間認識や心理思想とはおよそ無関係に、欧米の近代科学を輸入したところから」(『日本心理学史の研究』)始まったのであるが、その重要性にいち早く着目した一人が井上円了であった。(心理学の普及については、『通信教授 心理学』『心理摘要』『東洋心理学』『仏教心理学』『心理療法』などの著作がある)。

 井上円了は妖怪研究の意義をこう述べている(『通信教授 心理学』)。

 「方今各地の人民、その十に八九は妖怪を妄信して道理の何たるを知らず、畢竟、野蛮の民たるを免れざるものあり。これ、一は教育の足らざるによるというも、一はもっぱらこれを研究するものなきによる。余、いささかここに感ずるところありて、道理上妖怪の解釈を下して人民の妄信を開発し、文明の民たるに背かざらしめんことを欲するなり」

 仏教や妖怪に対する新たな関心は、明治二〇年前後の日本の問題を反映したものであった。福沢諭吉は「文明の利器に私なきや」において、ペリーの来航という幕末の開国から三〇年間の日本について、「意外の世変を来した」のは電信・郵便・鉄道・汽車などの「有形物の文明」の功であって、これに対して同じく西洋を起源とする学問・教育・政治などの「無形に属する者」は、その効果・影響がいまだに不十分であると述べている。このような見方は、井上円了も同じで、「わが国明治の維新は一半すでに成りて一半いまだ成らず、有形上、器械上の文明すでに来たりて、無形上、精神上の文明いまだきたらず」(「能州巡回報告演説」)と考えていた。

 このような日本の精神世界の改革を目指して、井上円了は社会的な活動を展開したのであるが、それを実現する方法として、第一は学校を設立して青年を教育すること、第二は著述を発行して世論を喚起することを考えていた。そして、第二の方法に関しては「余が師友とし模範とすべき」歴史的大著述家として、仏教では釈凝然、儒者では林羅山、神道では平田篤胤をまず挙げ、これに近世の洋家である福沢諭吉を加え、とくに、「福沢翁の早く欧米の文明を調理して、わが通俗社会をしてその味を感ぜしめたる活眼とは、余がつとに敬慕するところにして、……哲学の思想を民間に普及せしむるには福沢翁を模範にした」と述べている。

 このような考え方から、明治一七年に東京大学を卒業した井上円了は、留学生として派遣された教団に戻らず、また官途にも就かなかった。福沢諭吉のような一民間人となり、「護国愛理」をモットーに学術・理論の普及と応用をもって、日本社会の文明化・日本人の精神世界の改革に尽くす道に進んだ。そして、ベストセラーの『仏教活論序論』を著して仏教の近代化の基礎を築き、教育機関としての哲学館を創立したが、つぎに目指したものが国民大衆の生活に根ざした妖怪の問題であった。この妖怪の問題への取り組みがどのようにはじまり、さらに妖怪学へと発展していったのか、つぎにそれを具体的に見ていこう。

 

 五 不思議研究から妖怪学へ

 井上円了の『妖怪学講義』によると、妖怪の研究に着手した時期は「明治一七年夏」と言われている。東京大学四年生に在籍中で、年齢は二六歳である。

 この明治一七年には、一月に中心者となって哲学会を創設し、三月に宗教系の『令知会雑誌』に日本の西洋哲学史の端緒となった「哲学要領」の連載を開始し、一〇月に仏教系新聞の『明教新誌』に「耶蘇教を排するは理論にあるか」の連載を開始している。これらはいずれも、井上円了の社会的活動の出発点であった。

 これらと同じく、妖怪研究もこの時期にはじまったのであるが、そのことは明治一八年三月二五日の『東洋学芸雑誌』の箕作元八「奇怪不思議ノ研究」に記されている。日本の西洋史学の開拓者となる箕作元八は、この論文でイギリスの心理研究会(サイキカルソサエティ)の不思議研究を紹介し、日本での同研究の必要性を述べたあとで、「先には、わが大学の井上円了氏が奇怪研究の企ある由を聞きたれども、未だ公言せられたることなければ、如何なる成績を得られしや知るべからず」と書いているので、研究の詳細はわからないが、井上円了が明治一七年から一八年のはじめに、奇怪(不思議)研究を計画していたことがわかる。

 このころは、哲学会の創設にみられるように、日本における学術的活動の草創期であった。妖怪研究のために、井上円了が組織したものが、明治一九年一月二四日に発足した不思議研究会である。この不思議研究会の記録は、『妖怪学講義』に要約が記されているが、ここでは井上円了の自筆ノート(井上円了記念学術センター所蔵)から原文を紹介しておこう。

 不思議研究会

   第一会 一月第四日曜即二十四日東京大学講義室ニ会シ研究条目会員約束ヲ議定ス

  当日会員ト定ムルモノ左ノ如シ

   三宅雄二郎  田中館愛橘  箕作元八  吉武栄之進  井上円了

   坪井次郎   坪井正五郎  沢井 廉  福家梅太郎  棚橋一郎

  規則ハ別紙ニアリ

   第二会  二月二十八日例場ニ開ク

  規則一二条ヲ修正ス

  坪井次郎氏ノ演説 沢井廉氏ノ報告アリ

  当日左ノ二名ヲ会員ニ加フルコトヲ定ム

   佐藤勇太郎  坪内勇蔵

   第三会  三月二十八日例場ニ会ス

  井上円了氏夢ノ説第一回ヲ述フ

 不思議研究会はこのようにして出発し、「一年五十銭」の会費が徴集された記録はあるが、その後、「余久しく病床にありて、その事務を斡旋することあたわざるに至り、ついに休会することとなれり」と、井上円了が書いているように、第三回のあと再開されることなく終わっている。

 しかし、井上円了の個人による研究はこれで中止されることなく継続された。四カ月後の七月二一日に、井上円了は『令知会雑誌』につぎのような広告文を出した。

 「世に妖怪不思議と称するもの多し。通俗、これを神または魔のいたすところとなす。その果たしてしかるやいなやは断定し難しといえども、神や魔のごときは、その有無すら今日いまだ知るべからざるに、単にこれをその所為に帰して、さらに妖怪のなんたるを問わざるは、決して学者のつとむるところにあらざるなり。ゆえに、余は日課の余間そのなんたるを研究して、果たして魔神のなすところなるか、または物理および心理上別に考うべき道理ありてしかるかを明らかにせんと欲す。もし、心理上考うべき原因ありてしかるときは、これを仏教の唯心説に参照して、自ら大いに得るところあるのみならず、その唯識所変の哲理を証立するに、また大いに益あるはもちろんなり。ゆえに、余は令知会諸君に対して、左の諸項中最も信ずべき事実あらば、なるべく詳細報道にあずからんことを望む。

  幽霊 狐狸 奇夢 再生 偶合 予言 諸怪物 諸幻術 諸精神病等」

 この広告文のように、井上円了の妖怪研究は幽霊から諸精神病まで、当初から広範囲なものを対象とし、雑誌などを通して読者を調査員として、妖怪に関する事実の報告を求める方法で資料収集に着手している。このような調査は、その後も、明治二〇年一二月五日の『哲学会雑誌』、明治二二年一二月の普及舎の『通信教授 心理学』、明治二三年二月一八日の『哲学館講義録』(第一期第三年級)で続けられた。

 こうした資料収集とともに、妖怪研究がどのようにすすめられたのか、今回作成された「妖怪学著書論文目録」をみれば、その過程をたどることができる。最初の論文は、明治一八年七月二五日の『学芸志林』の「易ヲ論ス」であり、つぎが明治二〇年二月五日の『哲学会雑誌』の「こッくり様ノ話」と続き、大正八年に死去するまで単行本・論文・報告などを書き続けている。

 すでに、井上円了の妖怪研究は当初から、幽霊から諸精神病までの広範囲なものを対象としていたと述べたが、しかし、はじめから「妖怪」という用語だけを使っていたわけではない。用語法の変遷を前述の目録に従って調べてみると、明治一九年の研究会では「不思議」を使っていたが、その後、不思議研究から妖怪研究、妖怪研究から妖怪学へと変わり、この用語法の変化から研究の進展をみることができる。

 前述の論文「こッくり様ノ話」(明治二〇年二月五日)では、「こっくりとは狐狗狸にして、狐か狸のようなる一種の妖怪物が、その仕掛けたるところに乗り移りて……」「こっくり様御移り下されと言うときは……その実、他の場所に存在せる妖怪の霊を呼びて」と、「妖怪物」「妖怪の霊」という用語を使っている。

 「心理学(応用并妖怪説明)」(『哲学館講義録』明治二一年一月一八日)では、「妖怪不思議」という言葉が使われ、それをつぎのように定義している。

 「妖怪とはなんぞや。余がいわゆる妖怪は、事実現象の奇かつ異にして、普通の道理をもって説明すべからざるものをいう。すなわち、万物万象の通則をもって解説すべからざる、いわゆる理法外に属するものをいうなり。語を換えてこれを言えば、普通の道理思想をもって思議了知すべからざるものをいうなり。ゆえに、あるいはこれを不思議と称す。余もまたこの両称を合して妖怪不思議というなり。しかれども、もし細密にその名称を論ずれば、余が用いるところの妖怪の名は、通俗に用いるところの名称よりやや広き意義を有し、余が用いるところの不思議の名称は、字義上含むところの意よりやや狭き意義を有するものとしるべし」

 この文章では「妖怪」と「不思議」とを区別し、それを総合するときは「妖怪不思議」という用語を使っている。この用語法は明治二三年の「妖怪総論」(『日曜講義 哲学講演集 第一編』)にも、「余のいわゆる妖怪とは広き意味にして、あるいはこれを妖怪不思議というも可なり」とあり、この時期まで変わっていない。

 そして、明治二四年七月四日の「妖怪学一斑」(『教育報知』)で、はじめて「妖怪学」という用語を使っている。このときに論究された、偶合論、天文と人事の関係、卜筮、マジナイなどは、それまで「不思議」という用語で区別して捉えたものであったが、この論文ではすべてを「妖怪」という用語で説明している。

 このようにみると、明治一七年の不思議研究は、その後に妖怪研究へと進められ、明治二四年ごろには「学」として体系化する見通しができて、そして「妖怪」「妖怪学」という用語の統一がはかられるようになったと考えられる(正式に「妖怪学」という用語を使ったのは、明治二六年の『妖怪学講義』からである)。

 

 六 哲学館の授業と講義録における妖怪学

 つぎに、哲学館の授業(講義)として、妖怪学がどのように行われてきたのか、それをみておこう。

 井上円了は明治二〇年九月に、東京・湯島の麟祥院の施設を借りて哲学館を創立した。これが現在の東洋大学の前身であるが、哲学館は主に宗教家と教育家の養成を目的としていた。その当時の学科目・担当者・時間表は、『東洋大学百年史 資料編Ⅰ・下』に主なものが収録されているが、これに井上円了記念学術センター資料室のものを加えると、ほぼ判明する。

 私立哲学館の第一年級科目・担当講師のなかに、「心理学(応用并妖怪説明)」という科目がある。このように、哲学館では創立時から「妖怪」に関する授業があった。『資料編Ⅰ・下』の文書(明治二一年二月)では、担当の講師を「文学士 徳永満之」(のちの清沢満之)と記しているが、『哲学館講義録』では、井上円了が妖怪説明を、徳永満之が心理学をと、分担している。

 二年目の科目には「妖怪」という名称はなく、「応用心理学 井上円了」とある(この年、井上円了は第一回の欧米視察中であり、「妖怪」の授業の有無はわからない)。

 三年目(明治二三年度)は、哲学館の全授業がはじめて網羅された時期である。哲学館に、西洋・東洋の哲学を中心に人文・社会の幅広い一般教養科目が設けられたのは、そのモデルが帝国大学文科大学(東京大学文学部の後身)に置かれていたからである。参考までにその科目を列記すると、日本学、支那学、印度学、論理学、心理学、社会学、倫理学、教育学、純正哲学、博物学、史学、経済学、政治学、ギリシャ哲学、近世哲学、審美学、宗教学が教授されていた。このほかに、「科外 三級合併」の科目が設けられていた。このなかに「妖怪学」という授業があった(他の科目は人類学、博言学、法理学、政理学、生理学、地理学、進化学である)。

 この妖怪学の授業は明治二四年度も継続されている。翌二五年度は資料がないのでわからないが、二六年度(第七学年)「本館学科表」には、前述の「科外の科目」としての妖怪学はない。

 しかし、この年度の「哲学館報告」の広告に、「本学年度、本館講義録は正科および妖怪学の二種を発行す」とあり、そのとおりに、『妖怪学講義』は刊行されている。同報告の「同年(二六年)十一月五日より、正科の外に妖怪学講義録を発行して、その純益を専門科資金に積立つることとなす」という文章も、このことを示している。そのため、講義録としての『妖怪学講義』が授業としても行われたのか、この点は疑問として残るが、それについては後述したい。このようにして、哲学館の授業としての「妖怪学」は明治二七年度以後、通信教育の講義録の形でのみ存在するようになった。

 井上円了の妖怪学は、明治二六年の『哲学館講義録』として誕生したというのが正確であるが、この『哲学館講義録』について、つぎに述べておこう。

 私立学校が講義録を発行してその教育・学問の普及をはかったのは、哲学館がはじめてではない。英吉利法律学校(中央大学の前身)は明治一八年から、専修学校(専修大学の前身)は明治二〇年から講義録を発行していた。哲学館の講義録はこれに続いて発行されたものである。法律系の専門学校の講義録が相次いで発行されたが、文科系の講義録は哲学館のみであった。

 この講義録によって、哲学館は多くの「館外員」を得て全国規模の専門学校に成長したのであるが、講義録は「文字どおりの哲学館講義筆記であり、哲学館における講師の講義を筆記して、これをそのまま掲載したものであった。はじめの頃の講義録には、講義題目(学科目)および講師名とともに筆記者の名前も記されている。境野哲(黄洋)なども、駿河半紙を雷とじにして、各講師の筆記に回っていた」(『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』)という形で作成された。

 その発行形態は月に三号分で、一年に三六号で完結することを原則としていた。発行開始は第一期第三年級(明治二三年)までは一月であったが、同年の第四期第一年級では一〇月、二四年の第五年級からは一一月となった。講義録の一号分は、例えば第一期第三年級の第七号では、高等心理学、近世哲学、史学史、印度学、教育学、妖怪報告、本館記事を収録していて、それぞれの科目ごとに一〇ページ前後の講義録が掲載されていた。

 つぎに『哲学館講義録』のなかの「妖怪」という名称のある講義録について述べておこう。

 『哲学館講義録』に「妖怪」の講義録がはじめて掲載されたのは、第一年級第二号(明治二一年一月一八日)の「心理学(応用并妖怪説明)」である。井上円了が、はじめに「心理学は理論と応用の二科を分かち、応用の部にはもっぱら妖怪の説明を与えんと欲するなり。妖怪には種々の類ありて、あるいは心理の関係なきものあるべしといえども、十中八九は心性作用の上に生ずるなり」と述べて、二号・一六ページにわたって総論を掲載している。しかし、「生儀病気にて、代講を徳永氏に請ふたらば、以下同氏講義筆記に就て見るべし」という事情で中断し、その後は清沢満之が改めて応用心理学として妖怪・不思議を講義している。

 つぎが「妖怪報告」で、『哲学館講義録』の第一期第三年級の七号(明治二三年三月八日)から、六回に分けて掲載されているが、「妖怪事実を探索し、その結果を館員に報告」したもので、井上円了による講義ではない。

 講義録としての妖怪学に近いものが掲載されたのは、第五学年の第四号(明治二四年一二月五日)からである。タイトルも「妖怪学」と付けられたこの講義録は、以後九回にわたって掲載され、総数一一一ページとまとまったものであり、のちの『妖怪学講義』の先駆と位置づけられる。しかし、井上円了はこの講義録の「序言」で、こう記して「妖怪学」の成立を宣言していない。

 「妖怪学は応用心理学の一部分として講述するものにして、これに学の字を付するも、決して一科完成せる学を義とするにあらず。ただ妖怪の事実を収集して、これに心理学上の説明を与えんことを試みるに過ぎず……他日に至ればあるいは一科独立の学となるも……今日なお事実捜索中なれば、各事実についていちいち説明を与うることあたわず、ただ余が従来研究中、二、三の事実につき説明を与えしもの」

 確かに、ここでは狐狗狸のこと、棒寄せの秘術、妖怪を招く法、秘法彙集、心理療法、夢想論、偶合論を論じていても、まだ「学」としての体系化は実現していない段階であった。

 

 七 妖怪学の誕生

 明治二六年に、井上円了は妖怪学を完成させたが、その『妖怪学講義』の緒言で、不思議研究会以後の研究経過をこう記している。

 「当時全国の有志にその旨趣〔妖怪研究〕を広告して、事実の通信を依頼したることあり。その今日までに得たる通知の数は、四百六十二件の多きに及べり。またその間に、実地について研究したるもの、コックリの件、催眠術の件、魔法の件、白狐の件等、大小およそ数十件あり、その他、明治二十三年以来、全国を周遊して直接に見聞したるもの、またすくなからず。かつ数年間、古今の書類について妖怪に関する事項を探索したるもの、五百部の多きに及べり」

 妖怪の研究を明治一七年夏からはじめ、以後およそ一〇年間に、このような調査・研究をかさねて、明治二六年に大成したのが『妖怪学講義』である。妖怪学の講義録は総論のほかに理学、医学、純正哲学、心理学、宗教学、教育学、雑の七つの部門をもつが、この妖怪学の目的は、すでに述べたように「無形上、精神上の文明」を発達させるためであり、それを同書でこう記している。

 「今やわが国、海に輪船あり、陸に鉄路あり、電信、電灯、全国に普及し、これを数十年の往時に比するに、全く別世界を開くを覚ゆ。国民のこれによりて得るところの便益、実に夥多なりというべし。ただうらむらくは、諸学の応用いまだ尽くさざるところありて、愚民なお依然として迷裏に彷徨し、苦中に呻吟する者多きを。これ余がかつて、今日の文明は有形上器械的の進歩にして、無形上精神的の発達にあらずというゆえんなり。もし、この愚民の心地に諸学の鉄路を架し、知識の電灯を点ずるに至らば、はじめて明治の偉業全く成功すというべし。しかして、この目的を達するは、実に諸学の応用、なかんずく妖怪学の講究なり」

 このような目的をもって、井上円了の妖怪学は誕生したのであるが、当時の作成過程を物語る文章はほとんどなく、今のところ、追悼文集『井上円了先生』の田中治六の「井上先生の性格」しかない。田中治六は『妖怪学講義』の「第五 心理学部門」の筆記者であったが、その実際をこう記している。

 「先生は学者として構想統合の才に富まれしことは顕著の特色なり。先生の記憶力も強大にして(なんらかの秘術を用いられしか)、吾人のもっとも難しとする人名・地名などを驚くべきまでよく覚えおられしが、しかし先生は、あるいは博覧強記の人に免れざる短所として、ただ種々雑多の事項をよく記憶するがごときにとどまらずして、これらの材料を統合案配して新形式を構成すること、もしくは独創新奇の思想を造出することは、もっとも得意とするところなりき。……予は『妖怪学講義録』のお手伝いをなしたるときに、とくに先生の構想力の偉大なるを感じたり。この講義は哲学、宗教、道徳、天文、理科等の諸部門に分かれ、各門がまたいくぶんの章節に区分せられおりて、二カ年にわたりて発行せられし膨然たる大著述なり。さるに、先生は第一に多年収集せられし山なす材料を整理して、各部門各章節にそれぞれ案配して、この材料は何部門の何章何節にといちいち記入しておき、さて後に各部門の首章より次第に口授してこれを予ら門下生に筆写せしめ、その適所にそれぞれの材料を挿入せしむるに、整然として一糸乱れざるものあり。しかのみならず、講義録の頁数のごときも、一定の制限内にてほぼ多からず少なからざるように加減せられて終始したりしは、一には先生の多年著述の経験によるとはいえ、また先生の構想統合の偉力に帰せずばあらずと、そぞろに感嘆したりき」

 この田中治六の文章については後述することとし、『妖怪学講義』が哲学館の授業として行われたのか、という疑問をさきに提起しておいたので、そのことをまず明らかにしておきたい。すでに見たが、明治二六年度の「哲学館報告」の「本館学科表」には、妖怪学の授業の記載はなかった。ところが、現在の調査によれば、当時の学生の講義ノートがあり、授業も行われていたことになる。

 哲学館に学び、その後、チベットへ仏典を求めた人物に、河口慧海と能海寛がいる。能海寛は、河口慧海のようにその目的を達成できず、中国の途上で殺害されたと言われている。能海寛の資料は最近、生誕の地である島根県那賀郡金城町波佐の能海寛研究会の人々によって、真宗大谷派浄蓮寺という生家から発見された。

 それらの資料のなかに、明治二六年に井上円了の妖怪学を筆記したノートがある。原文のはじめに、「妖怪学 井上円了氏述 明治廿六年四月始 予記」と書かれていることから、実際の妖怪学の授業が確認された。

 能海寛はこのノートに、「第壱回 序論予欠席」と記し、第二回から「妖怪ハ学科ナルカ何科ニ属スルカ 学術上ノ原理ヲ応用シテ未明ヲ説明スルモノユヘ学問ナリ チツ序組織ヲ要ス 之ニ就テハ従来一ヶノ学科タラザルユヘ他日立派ノモノトナルベシ」と筆記をはじめている。これに続いて、「于時明治二十六年五月十二日従午後二時至三時館主講述」の講義が筆記されている。

 この二回の授業は全部で四枚ほどの罫紙に記されているが、その要点筆記の内容を、『妖怪学講義』と比較したところ、「第一総論 第二講 学科編 第七節 妖怪学は既設の学科にあらざるゆえん」から「第六講 第四十五節 知識と妖怪の関係」までの講義であると判断される。

 またこのほかに、哲学館の第一期生だった金森従憲(兵庫県龍野市・真宗大谷派善竜寺住職)の履歴書に「同(明治)二十六年九月ヨリ同二十七年九月マテ哲学館ニテ妖怪ニ関スル学術ヲ研究ス」とあり、能海寛のノートの記述と合わせて、実際に妖怪学の講義があったと推測される(現在は、能海寛の資料のように、講義の一部分しかわかっていない)。

 つぎに、講義録のことについて述べよう。『妖怪学講義』の筆記者であった田中治六は、「先生は第一に多年収集せられし山なす材料を整理して、各部門各章節にそれぞれ案配して、この材料は何部門の何章何節にといちいち記入しておき」と述べていたが、そのときの資料が現在も井上円了記念学術センターに保存されているので、ここで紹介しておきたい。

 『妖怪学講義』の「緒言」(二八頁)に第一類から第八類までの「詳細な種目」がある。これにあたる自筆の「種目ノート」があり、現在は第二類第二種から第八類第三種まで残っていて、ここに種目と文献などの出典が記されている。例えば『妖怪学講義』では、「第二類第八種(変事編) 変化、カマイタチ、河童、釜鳴り、七不思議」となっている。この種目ノートには「第二類第八種(変事編) 集三ノ一七二(七不思議)、荘二・カマイタチ、荘三・河童」とある。このように、種目ノートと講義録の項目はほぼ一致するか、あるいは講義録の方がより細密化されているのである。

 この種目ノートを検討したところ、「集三ノ一七二」の「集」は文献・資料の略符号で、番号は冊数か事項の整理番号であった。ノートの末尾に「符号」一覧があって、「『妖一』ハ妖怪学第一ヲ言ウ」「『集一』ハ実地見聞集第一ヲ言ウ」と書かれている。

 この「妖怪学第一」は、古今の五〇〇部の文献を調査して選んだ所見や引用文を整理したノートで、「妖怪学第五」まで現存している。「実地見聞集第一」は全国巡回の際の実地見聞を整理したノートで、「実地見聞集第三」まであった(その第一は所在不明であるが、第二と第三は『井上円了センター年報』の二号と三号に翻刻されている)。

 「荘二」は「荘内怪談集」とその冊数を指しているが、自筆ノートのほかに、このように使われた雑誌名などが、「心理学試験集」「自著妖怪学」「人類学会雑誌」「哲学会雑誌」「社会事彙」「学士会院雑誌」「皇典講究所」「学芸志林」「文雑誌」「会通雑誌」「哲学館講義録」「天則」と列記されている。

 井上円了が、このような種目メモに従って、またそれぞれの資料を引用しながら、『妖怪学講義』を世に問うたのは、明治二六年一一月のことである。また、この一一月には、妖怪研究会も設置している(明治二六年一一月一七日の『天則』や同一一月三日の『読売新聞』の雑報の報道があり、『東洋大学五十年史』の「明治二十四年設立」は誤りである)。

 『妖怪学講義』の初版は、『哲学館講義録』の「第七学年度妖怪学」として発行された。第一号と第二号を合併した第一冊(表紙参照)は、明治二六年一一月五日の発行で、以後、毎月二回出されて、明治二七年一〇月二〇日の第二四冊(第四七号・第四八号)で完結した。一号分の本文は五二ページずつで、第一冊の目次のように、八つの部門のうち一号に三部門、二号合わせて六部門を取り上げ、前述の田中治六が「講義録の頁数のごときも、一定の制限内にてほぼ多からず少からざるように加減せられて」というように、全体のバランスを取りながら進められた。

 この二六〇〇ページに達する講義録は、明治二九年六月一四日の再版のときに、六冊本に合本された。そして、明治三〇年二月一六日に文部大臣から、「本書、材料の収集に富み、論説援据にくわしきはもちろん、ことに目下民間においてなお迷信流行し、往々普通教育の進歩の障害する点もこれあり」「学術上いちいちこれが説明を与えられしは、すこぶる有益のことと思考いたし」「かかる著述のあまねく世に公行せば、今より漸次、かの迷信の旧習を減退するの一助となる」という評価があり、二月二二日に宮内大臣から明治天皇に奉呈された、という経過を受けて、八月五日に三版が印行された。

 こうして『妖怪学講義』は、はじめは講義録であったが、合本されて単行本の形でも普及した。しかし、明治三五年には、「妖怪学講義録は全部大冊にして一時に通読すること難く、かつ代価三円以上なれば、貧生の力一時に購読すること難きを察し、ここに読者の便をはかり、毎月二号を追って漸次に発行し、十三カ月をもって全部の講義を掲載する方法を取れり。かつ講義のほかに、全国各地の妖怪報告および質問・応答等を掲げ」て、『妖怪学雑誌』としても刊行された(哲学館による『妖怪学講義』の発行は、この『妖怪学雑誌』までで、井上円了没後には出版社から刊行され〔大正一二年〕、昭和の戦前の間には四度にわたった)。

 

 八 妖怪学の特徴

 井上円了の妖怪学の基礎は、古今の文献考証にあり、この点が現在の民俗学の研究者から高く評価されているが、これまでは多数の文献を一覧したものがなかった。今回、山内瑛一氏によって、はじめて「妖怪学参考図書解題」が完成され、ようやくその全体像が把握された。

 これらの井上円了が使った文献の多くは、現在、東洋大学付属図書館の「哲学堂文庫」として存在している。井上円了が創設したこの哲学堂文庫は、主に江戸期の刊行物で構成され、国漢書と仏書を合わせて、六七九二種類、二万一一九三冊が収蔵されている。

 これらの書誌事項は、平成九年刊行の『新編 哲学堂文庫目録』(東洋大学付属図書館刊)にまとめられているが、とくに妖怪学と直接関係する「怪談草紙部」は国文版本、漢文版本、国漢文写本があり、一七二の文献があり、井上円了が文献調査を行った跡が確認できる。

 このような文献の考証を、『妖怪学講義』の第一の特徴とすれば、全国を一巡して実地に見聞したというフィールドワークの成果が第二の特徴として挙げられる。明治二三年一一月からはじまったこの巡回の目的はいくつかあり、第一に哲学館に専門科を設置して大学へと発展させるための寄付金の募集(当時は新校舎の建設による負債を抱えてもいた)、第二に各地で講演や演説を行って学術を普及するという社会教育、第三が妖怪学のフィールドワークであった。

 この巡回の記録は、現在、『井上円了選集』の第一二巻から第一五巻に収録されているが、明治二三年一一月二日から明治二六年二月八日までの、第一回の全国巡回による情報は、すでに述べた『実地見聞集』に整理され、『妖怪学講義』の基礎資料となった。この巡回に費やした日数は、二三年が四四日、二四年が一五三日、二五年が一五四日、二六年が三九日で、この四年間で三九〇日、一年一カ月に達している。巡回した府県は三二県(関東、甲信越、北陸が主に残された)、三六市・三区・二三〇町村を巡回した(『井上円了選集』第一五巻「井上円了の全国巡講」参照)。この第一回の全国巡講を二六年二月八日に終えてから、井上円了は妖怪学を一気にまとめている。

 井上円了の妖怪学は、『妖怪学講義』などの出版物の形で普及されるとともに、後年は全国巡回講演において社会教育としても普及された。(この巡講は、明治二九年から再開され大正八年の死去まで継続され、講演の足跡は平成七年度の市町村数の五三%に残されている)。この講演の内容については、明治四二年から大正七年までの統計があり、その三七〇六回の総講演数のうち、「妖怪・迷信」は八七七回で全体の二四%を占めている(『井上円了センター年報』第四号の『旅行必携簿 巻二』は、巡講のための所感・メモを記したノートで、そのなかに妖怪総論、心理的妖怪、幽霊談、迷信論、真怪論の項目があり、講演の内容をうかがうことができる)。

 こうして、井上円了は長年にわたる教育、著述、講演によって妖怪学を普及させた。そして、自身は「妖怪博士」「お化け博士」の愛称で呼ばれ、「妖怪」という言葉を社会に定着させるほどの成果を生み出した。

 これほどの成果をあげたのは、妖怪研究から「学としての妖怪学」への展開があったからであるが、そのような問題意識の飛躍的な発展を促したのが、欧米各国の視察であった。

 井上円了は、明治二〇年九月に哲学館を創立したが、翌二一年六月に海外視察に出発した。一年間の視察の結果は、『欧米各国政教日記』にまとめられているが、同書は政治と宗教の関係の実態報告であり、井上円了自身にとって海外視察の影響がどの程度のものであったのか、詳細には語られていない。しかし、帰国直後に発表された「哲学館目的について」(『東洋大学百年史 資料編Ⅰ・上』)では、こう述べている。

 「欧米各国のことは、日本に安座して想像するとは大いに差異なるものなり。しかして、その最も想像の誤謬に陥りやすきは、各国みなその国固有の学問・技芸を愛して、一国独立の精神に富めるを知らざること、これなり。けだし、一国独立をなすは千百の元素集合したる結果にして、いわゆる一国独立風の盛んなること、最も必要なるところなり。しかして、この独立風をなさんには、ただわずかに一、二の政治・法律等の善美のみをもって、こいねがい得ベきものにあらず、学問・技芸・人情・風俗・習慣等、ことごとく協合せずんばあたわざるなり」

 当時の日本の民衆は、島国的で西洋や世界のことを知らず、迷信にとりつかれるなど、その生活は科学的合理性に欠け、小社会の経験の枠内で生活していた。井上円了はこのような民衆を、しばしば愚民と慨嘆しながらも、民衆こそ自分にとっての教育対象と考えていたと言われている。

 日本と欧米の大きな差異を見た井上円了は、「妖怪の研究は卑賎の事業に似たるも、その関係するところ実に広く、その影響するところ実に大」なるものと捉え、日本人の精神世界を根本から改革するために、「宗教に入るの門路にして教育を進めるの前駆」と位置づけて、妖怪学を構想したと考えられる。これについて、新田幸治氏は『妖怪学入門』(すずさわ書店刊)のなかでこう述べている。

 「井上円了先生が『学』としての妖怪研究をはじめたのは、明治二〇年代であります。まだ、世界を周遊した日本人が一握りの時代に、先生は異なる国々の現実をつぶさに知るために、自力で海外へと足を運んだのでありますが、そのような先生の進取の精神は、日本人の生活のあり方にも向けられ、自ら日本全国を巡回され、その実査と多くの文献研究を踏まえて提唱されたのが『妖怪学』でした」

 このように見ると、井上円了の妖怪学は、井上哲次郎のいう「世間の喝采」のためや、三宅雪嶺のいう「趣味道楽」のものではなかったことが理解されよう。

 

附記 井上円了の『迷信と宗教』を本書に収録するにあたり、シナの迷信の「血染めの饅頭」、台湾の迷信の「首狩り」については、魯迅の「薬」という作品や呉鳳の逸話で知られているので、研究資料の観点から原文のままとした。

(東洋大学井上円了記念学術センター専任研究員・教授)