円了随筆


余は毎年紀元節を期し、 哲学館および京北中学校生徒を集めて祝賀会を開き、 その余興として席上福引きを行い、 当日自ら編述せる書類をわかつを常例となせり。 よって、 本年はいかなるものを福引きに備えんかを思い、いまだその工夫を得ざりしが、  たまたま除夕より風邪にかかり、 新年三日の間、  一室に閉居して賀客に接せず。臥床中、  退屈のあまり、 己の記憶に浮かびたる事ども、 意に任せ口に説き人をして筆記せしめたるに、 その談片たちまち百二十余項に及べり。

これを題して「円了随筆」と名づけ、 もって本年の福引きに備え、  かつ世間の望みの者に配付することとなす。  ゆえにその録するところ、 卑浅雑駁、 秩序を立てず彙類を設けず、 ために大方の笑いを招くは必然なりといえども、 新年の遊びに年少の学生が碁をもてあそびカルタを弄するに比すれば、 これをして一夕の余間を本書に費やさしむるもあえて無益にあらざるを信じ、  ここにそのまま印刷に付するに至る。 自ら 二舌を題すること、   くのごとし。


明治三十四年一月五日

 



円了随筆


(一)  日本人の気質

古来一般に日本人の気質を桜の花に比し、「敷島の大和心を人問はゞ、 朝日ににほふ山桜花」と詠じたるがごときは、 よく日本人の心を写したるものといいて可なり。 しかれども、  これ日本人を教育するには適せざる誓喩なり。  その故は、 元来日本人の特質は、 性急にして一時を競うにありて、  その短所は忍耐に乏しく辛抱し難きにあり。  ゆえに、 その気のひとたび時事に感激するや、 あたかも怒浪狂瀾のごとく迅雷烈風のごとく、 ほとんど当たるべからざる勢いありて一時の後は火の消え風の死したるがごときありさまなり。  これ、 すなわち桜の花の満開に当たりては、 爛々として百花を圧倒する勢いあるも、  一、  二日を経過し去らば、 たちまち落花泥に和して、 枝頭爾然たるものに似たり。 もし、  この花をもって人心を教化しきたらば、 ますます性急的気質、 流行的気風を増長する恐れあり。  ゆえに、 もしこの弊を防がんと欲せば、 桜花の代わりに梅花を用うるをよしとす。 梅花は桜花のごとき一時の盛色なきも、 よく寒を破り雪をおかして百花にさきだちて開き、 しかも長く花期を有するものなれば、 花中の最も忍耐辛抱の力に富むものというべし。 今後、 もしこの花をして日本人を感化しきたらば、 いくぶんかその気質の短を補い、 欠くる所をみたすことを得べしと信ず。

( 二)  精神一到何事不>成(精神一到何事か成らざらん)

余、 先年欧米を一巡して帰り、 哲学館拡張の旨趣を天下に発表するや、 勝海舟翁これを聞き、 人を介して余に面会を求めらる。 余、 速やかにその庭にはしり、 もって教えを請う。 翁曰く、「哲学館の主義は大賛成なり。 よろしく精神一到をもってその成功を期すべし。 世の青年輩、 往々精神一到を試むることあるも、  一年ないし三年にして成功を見ざるときは、 たちまち精神をくじきて事業を中止するに至る。 古人のいわゆる『精神一到    の語一年や二年にして成るというにあらず。 けだし、 その成功に年月を示さざるは、 無限の義を含むなり。  すなわち精神一到すれば、 無限の歳月の間には必ず成るをいう。 君もその心得にて哲学館の目的に従事すべし」と。余、 謹みてその教えを服隋して今日に至る。 海舟翁は実に余が精神上の師なり。

 

(三 )堂々たる男子

 

余、 先年九州を巡遊して小倉〔現・北九州市〕に至る。 小倉は蓮門教の本部のある所にして、 その教祖を島村みつという。  その本籍は長州〔山口県〕豊浦郡にあるも、 維新以前より小倉藩士某の家に使いて下婢となり、 元来教育なく文字なきものなりしが、 明治四年より自ら天啓を得たりと称し、 蓮門教を開設し、 爾来二十年を出でずして、  数百万の信徒を得、  数十万の資産を積むに至るという。  余これを聞き、 その教義は世のいわゆる淫祀の類にして、 愚民の迷信を買うに過ぎずといえども、 微賤愚昧の一女子にして、  数年の間にかかる成功を見るは、 実に驚くべき一事なり。  女子すでにかくのごとし。いわんや堂々たる男子をや。 もし男子にして奮起すれば、 なんぞ事の成らざる理あらん。 余ここにおいて、 ますます己の意志を強くするを得たり。


( 四)民間の事業

 

余、 比叡山に登るに、 終日山にありて一人の参詣するものあるを見ず。 しかるに高野山に至るに、 毎日登山の人群れを成す。〔比〕叡山はその地京都に近く、〔高〕野山は遠く僻地にあり。 しかして人の参集の度、  かくのごとく異なるはなんぞや。  これ、 その山を開きたる祖師の遺徳の、 民間に及ぶと及ばざるとによらずんばあらず。  それ〔比〕叡山は伝教大師〔最澄〕の開くところ、〔高〕野山は弘法大師〔空海〕の開くところにして、 この両大師は前後ほとんどその時を同じくして世にあり。  かつ、 ともに非凡の豪傑なりといえども、 伝教大師は高く君側に侍して民間に下らず、 弘法大師は天下を周遊して、 もっぱら下民の教化に力を尽くせり。 故をもって、 伝教の徳は人これを知らず、 弘法の恩は今日に至りて忘るるものなし。 今、 余のごときはもとよりそのオ学といい性行といい、この両師の百分の一にも及ばずといえども、 余が願うところは、 伝教よりも弘法を学ばんと欲するなり。


( 五)   大石よく逆流にさかのぼる

信州〔長野県〕は山国にして、 渓谷の間激流多し。 余ここに遊びて、 大石の渓流の中央に立つを見たり。 よって同行者を顧みて、「いかなる激流もこの大石を動かすことあたわざるべし」とたずねたるに、 その者曰く、「この大石は過般の大水に、町ばかり動きて上流にさかのぼれり」と。 余怪しみて、「これ、  おそらくは君の失言にして、 その石必ず下流にくだりたるならん」と問うに、 当人曰く、「しからず。 小石は大水のために下流にくだり、 大石は上流にさかのぼるを常とす。 しかしてそのしかるゆえんは、 いかなる激流も、 その力到底大石を動かすを得ず。 故をもって、 水かえってこれに激し、 その石の前面にある土を洗い去りて、 自然に水底に穴をうがち、 石をして自ら上流に向かいて転ぜしむるに至る。  かくのごとくすること再三再四にして、 ようやくその位置を上流数十間の所に移すに至ればなり」と。 余、 大いにこれに感じ、  これひとり大石のみしかるにあらず、 世のいわゆる豪傑はみなかくのごときを知る。 よって、 自ら格言を作りて曰く、大石能潮ーー逆流一 大人能渕二逆運(大石はよく逆流をさかのぽり、 立派な人物はよく逆運をのりこえる。)人にしてよく逆流にさかのぼるものは、 実に非凡の豪傑なりと知るべし。

(六)  古人の格言

古人の格言は、 よく人の精神を固むるに力あり。  ゆえに余は平素、 己の模範とすべき格言を座右に録して、 失意のとき反復口吟、 もって己の心を慰むるを習慣とす。 今、 左にその二、 三を挙ぐれば、成功毎在ーー泥窮日一 敗事多存得意時。

(成功はいつも困窮の時にこそあり、 失敗は多く得意の時にありとこころえよ。)

木出林為風見折、 独行秀出  為衆見拒

(林より伐り出された木は一本では風に折られるほど弱くなり、 ひとり他よりぬき出た人は衆人にはばまれるものである。)

事業之根則苦    而其果則甘突。

(事業の根本にあるものは苦いものであるが、 その果実は甘いものである。)

歳>寒無以知二松柏一 事不難無以知二君子

(寒くない年では他の葉が茂って松柏の緑はまぎれてわからないもの、 事柄がやさしいときには才能すぐれた人物はわからないものである。)

勤労之家  不社竺  餓鬼

(勤労につとめる家には餓鬼は住みつかぬものである。)

 勁松彰於歳寒

(すこやかな松は他の木の葉が落ちた冬枯れになって、 はっきり見えるものである。)

日月欲明浮雲蔽之、 河水欲清沙土稼之。

(日月の明るさは浮き雲が光をさえぎったおかげでより明るさを感じさせ、 河水の清さは土砂がにごらせてこそ清らかさを感じさせる。)

舜馬周孔生無二  日之歓    死  有二万世之名

(中国古代の聖人である舜・馬・周公旦・孔子は、 生きているうちは一日としてたのしむことなく努力し、死んでのち万世にその名を残したのである。)

以上の類なり。 そのほか陶淵明の五絶も、 また大いに味わうべきものなり。

 青松在二東園衆草没二其姿凝霜珍二異類一 卓然見二高枝

 (青々とした松が東薗に根をおろしているが、 多くの草にその姿は埋もれて目立たない。 しかしながら、 霜がおりて草々をしおれつくしたとき、 松はひとりぬきでて高い枝をあらわすのである。)


( 七)  孟子の語

孟子はシナの大賢なり。 その遺書七編中、 後進の服暦すべき金言すくなからず。 なかんずく余が平常深く心頭に銘じて、  一刻も忘れざるものは左の一節なり。 すなわち、

天将祗竺大任於是人也、 必先苦二其心思一 労二其筋骨 餓二其体膚性動レ心曾 益其所呆能。空二乏其身 行彿二乱其所為、 所以忍

(天が重大な任務をこれと思われる人物に与えようとするときには、 必ずまずその人の精神を苦しめ、 その筋骨を疲れさせ、 その肉体を餓えさせ、 その行動を失敗させ、 そのなさんとするところを食い違うようにさせるものである。 それは天がその人が辛抱強くなり、 発憤してようにするためのものである。)

いままでよくできなかったところをできる余が独力哲学館を創立してより、 既設の校舎ひとたびは暴風のために転覆せられ、  ひとたびは火災のために烏有に帰し、 僅々十年の間に三度まで校舎を建築せしも、 余が精神にありて、  一災は一災よりその勇を喚起し、 豪も宿志を動かさざるを得たりしは、 その心ひそかに孟子の遺戒を想起し、 天の余を試むるものなるを信ずればな


(八)  碁の秘法

余、 幼より碁を好み、 たまたま寸暇あれば、 友人をいざないて黒白を闘わすをもって楽とせり。 長じて後、 なお碁を弄してやまざりしが、  一日碁客を訪い、「碁の上手と下手とはいずれの点にありや」とたずねたるに、 碁客曰く、「ただ、 無益の石を打つと打たざるとにあり。 初段以上の碁は一石といえども四方に関係を有し、 その重さ実に千鉤なり」と。 余これを聞きて、 自ら碁の秘法を得たりと思い、 その日より断然囲碁の遊びを廃し、 また人と碁を論ぜず、 むしろ社会の局面に対してこの秘法を実行するにしかずと考え、 爾来一挙手動足、 必ず無益の労をとらざらんことに注意せり。 余、  このことを友人に語りしに、 友人曰く、「昔、 北条早雲は人をして兵書を講ぜしめ、「兵の要は英雄の心を 収 攪するにあり」との一語を聞き、「われ、  すでにその要を得たり」といいて、 また兵書を講ぜしめざりしと聞く。 君の廃碁も早雲に似たるところあり」と。 余、 はからずも過分の賛辞を得たり。

(九)  哲学と国家

人あり、 余に問いて曰く、「哲学はよく国を興すことを得るや。」余曰く、「哲学の国家におけるは、 他の諸学の国家におけるがごとし。  しかして他の諸学は、 国のひとたびほろびたる後、 なおこれをしてほろびざらしむることあたわざるも、 哲学はしからず。  亡国の後、 永くその名を不朽に伝うることを得。 例えばギリシアのごとし。  その国二千年の昔に滅亡せしも、 その哲学は依然として今日に生存し、 これと同時にその国名も世界の歴史に赫々たるを得たり。」

哲学的の詩

ある人、 余に、 古人の詩中に哲学思想を含むものあらば教示せられんことをもとむ。 余曰く、「詩は多く風景を詠ずるを常とし、 哲学風の理屈張りたるもの、 はなはだすくなし。 ただ余が記憶せる中にては、 左の詩などは、 哲学の趣向を含むものといいて可ならんか。

含荘洞二理化一 渉老達二虚無一 玄珠握中照、 道心益括愉  ゜

(荘子の学を含味して万物の原理と変化をさとり、 老子の学を渉猟して虚無の理に通ず。 道の本体は手のうちにかがやき、 道を求める心はますます安らかで楽しい。)

これ、 姜玄仲の「秋夜読書」と題する五絶なるが、 余が平素愛吟するところなり。」

理屈を述べたる詩

詩はすべて人の想像を描きて理屈に走らざるを常とするも、 往々理屈を述べ立てたる詩あり。 その一例は白居易の老子を評したる詩なり。  すなわち、

言者不乙知知者黙、 此語吾聞ーー於老君一 若道ーー老君是知者縁何自著五千文。

(言う者は知らず、 知る者はしゃ べらない。  この語を私は老子の書で知ったが、 もし老子を知る者というならば、 いったい老子は何によって五千言の書を著したのであろうか。)

この詩のごときは論理をもって貫きたるものにして、 論理学の推論式に組み立つることを得べし。二)  霊魂問答余一日、 鳥尾〔小弥太〕子爵を訪う。 子爵曰く、「過日、 三宅(雄二郎)氏来たりて、「霊魂はいかなるものなりや    の尋問ありたれば、 余「まず君の意見を聞きてのち答うべし。 君は霊魂を知るやいなや。」三宅氏曰く、「余、 もとよりこれを知らず。  ゆえに問う」と。「果たしてしからば、 余は霊魂を知るをもって君に教えん。 それ霊魂は、 その体三角なり」と。 三宅氏難詰して曰く、『霊魂の体、 三角なるべからず』と。 余曰く、『君の言、   なはだ怪しむべし。 余、 はじめに意見をたしかめたるに、 君は知らずといい、 余は知るという。  そのよく知るものより三角なりと教えたるに、 毛末も知らざるものが    いずくんぞしからずというを得んや。 未知者はただ、  既知者の言に従うよりほかなかるべし。 西洋論理といえども、 必ず君の詰問の不合理的なるを認めん。 東西あに二様の論理あらんや」と。 三宅氏黙然たり」と。  これ子爵の一話にして、 鳥尾家の論法なり。 よろしく論理学の一例に加えて可ならん。

 

(一三)幽霊は見る ぺからず

余が大学在学中、 故ありて神原精二翁に面会せり。 翁語りて曰く、「世人、 幽霊を見たりというは非なり。 幽とは見るべからざるを義とす。 もし幽霊にして見るべきものならば、 よろしく顕霊というべし。 しかるに、 世間にて幽霊を見たりと唱うるは、 論理の撞着を免れず」と。  この一言、 世人の幽霊談の非なるを看破するに足る。(「妖怪百談」にも出ず)


( 一四)  惑病同源論

原坦山翁は大学にありて仏書を講ぜしをもって余の熟知するところなるが、 翁かつて仏仙会を東京に設け、喋々惑病同源論を唱えて曰く、「吾人の煩悩と疾病とはその源同じきをもって、  ひとたび煩悩を断滅しきたらば、再び百病にかかることなし。  ゆえに、 己坦山は四十年来一病むなし」と。 その後、 東京にコレラ病の大いに流行するに会し、 賢なるも愚なるも俗人も上人も、 続々その病の襲うところとなり、  一時の勢いは仏仙会員を襲い、さらに進みて坦山翁自身をも襲わんとす。 よっ て、 ある人翁に「コレラ病はいかん」と問いたれば、 翁曰く、

「惑病もとより同源なり。 ただし、  コレラ病はこの限りにあらず」と。 もし、 翁をして今日に存命せしむるならば、 必ずこの但し書きの内に赤痢病も黒死病も加えらるるに至らん。(「妖怪百談」にも出ず)

( 一五)  姓名の解

昔年、 中村敬宇〔正直〕翁在世のとき、 余これを小石川の邸に訪う。 翁曰く、「君の名は円了という。 いかように解してしかるべきや。」余、 卒爾答えて曰く、「円満万徳、 了達諸法。すなわち、 円は万徳を円満するの義、 了は諸法を了達するの義なり」と。 翁、 大いにその語を喜び、 速やかに一紙を取りてこれを書し、 もって余に贈らる。 余、  これを表装して秘蔵す。 その後しばらくありて、 余このことを友人に語る。 友人曰く、「円了の解はすでに聞くことを得たり。 いまだ井上の義を知らず。 請う、 これを弁明せよ」と。 余、 その声に応じて答えて曰く、「古諺に「井底の痴蛙」ということあり。 井上とは井底にあらざるを義とす」と。 友人、  一笑して去る。


( 一六)名と名との偶合

 余、 かつて信濃の各郡を巡遊せるに、  上高井郡須坂町〔現・市〕近傍に井上村〔現・須坂市〕と名づくる一村あり。 余を聘して一会を開かんことを請う。 余、 その招きに応じてここに至れば、 会場は円了寺と名づくる寺院なり。 村はすでに井上と呼び、 寺院また円了と称す。  これ余が姓名と符合す。  かかる場所において余が演説するは、 実に奇遇というべし。

 

( 一七)三禁居士

 余、 はじめ哲学館を創立するに際し、 飲酒と喫煙とを禁じて曰く、「この館の大成するまで、 永くこの二禁を守る」と。 その後、 全国を周遊するに当たり、 さらに禁筆の広告をなせり。  ここにおいて、 自ら号して三禁居士という。  かくして数年を経たる後、 別に京北中学校を創立し、 再び地方を巡回するに当たり、 故ありて禁筆の広告を取り消せり。 よって、 爾来は二禁居士という。


( 一八)   平壌記念の酒

日清戦争のはじめ、 平壌の開戦は国民一般に、 その勝敗いかんを懸念してやまず。  いよいよ戦勝の飛報を聞くや、  上下挙げて井舞 雀 躍せざるはなし。 余も大いにこれを祝せんと欲するも、 その工夫を得ず。  すなわち、 十年間の禁酒を破りて祝杯を傾けり。  ゆえに、 余はこれを名づけて平壌記念の酒という。

 

(一九)  禁酒の謎語

世間に往々、 左の連句を標示せるを見る。林下祖師現二半身一 水辺尊者蔵一頭脚

(林(字)の下に祖師の半身(示)をあらわす(禁)、 水辺の尊(字)者の頭脚(上・下)をしまいこむ(酒)。)

 前句は「禁」の字に当たり、 後句は「酒」の字に当たる。  すなわち、「林」の字の下に祖の半身たる「示」の字を加うれば「禁」の字となり、 水偏に尊の字の頭脚を脱したる「酉」の字を合すれば「酒」の字となる。 その工夫すこぶるおもしろし。 今、  さらに禁酒の句を得んと欲すれども、 いまだ熟せず。

( 二)不>許菫酒入二山門  (軍酒山門に入るを許さず)

禅寺の山門には多くこの禁制を掲ぐ。 先年、 余は禅寺の境内を借りて居を営めり。 ときどき薪炭食料を運ぶもの、 山門を通過して余が居宅に至るに、 寺僧はなはだこれを喜ばずして、 門前に掲示して曰く、「荷車を門内に引き入るるを禁ず」と。  その後、 荷車依然として山門より入る。 寺僧これを見て大いに怒り、 余が宅に来たりいたくその不都合なるを責む。 余曰く、「門前に掲示ありても、 そのとおりに実行するははなはだ難し。 例えば『章酒山門に入るを禁ず』とありても、 ときどき輩酒の門内に入ることあるがごとし。 ゆえに、 かかることはゆるしておかれんことを望む」と。 寺僧、 赤面して去る。


(ニー)  遁    辞

ある学校の先生が、 生徒の芝居見物をとどめんと欲し、「芝居を見るものは愚物なり。  これを見て泣くものは一層の愚なり。 汝ら、 決して行き見るなかれ」と。  その後、 生徒ひそかに先生の目を忍びて、  芝居見物に行くこと前に異ならず。 先生も自ら一度これを試みんと欲し、  ひそかに見物に行きたり。 ときに生徒中、 劇場にありて先生を認めたるものあり。 役者、  かなしみきわまりて泣く場合には、 先生もまた泣くを見たり。  翌朝教場にありて、「先生も昨日は芝居を見物せられしや」と問うに、 先生日く、「しかり。 余は汝らが見物に行くやいなやを検せんと欲して行けり。」生徒曰く、「かつて先生は、「芝居を見て泣くものは愚の極みなりといわれたるに、 昨日先生も涙を流されしはいかん。」先生曰く、「余が泣きたるは、 人の泣くに同じからず。 人は芝居を見て、  これを実際なりと思いて泣くも、 余は、 かかるうそ泣きを見て真に泣くものあるは、 実に気の毒のいたりなりと思いて泣くなり。 人は芝居を見て泣き、 余は見物人を見て泣く。  その泣くこと一なりといえども、 泣くゆえんのもの大いに異なれり」と。  これ、 もとより遁辞なり。 先生も同じく人間なれば、 その泣くことまた生徒のごとくなるべし。 とかく学生中には芝居を好む者あれども、 かくのごときは老後の楽に残しおきて、 修学の間にはなるべく見ざるようにするをよしとす。 余は生まれてより四十年の間、 日本の芝居も相撲も、 前後ただわずかに二回見たるのみ。

 

( 二ニ )論理の誤用

 論理の原則に、  ここに甲乙丙の三者ありて、 甲は丙に同じく、 乙もまた丙に同じきときは、 甲と乙と互いに相同じということあり。  この規則の誤用より過失を生ずる例すくなからず。 友人の話に、「ある妻が夫に向かい、「わたしとあなたとは兄弟なる理なり。 なんとなれば、 あなたと金次郎(弟の名)とは兄弟にして、  わたしと金次郎とはやはり兄弟なり。 しからば、 わたしとあなたとは、 もとより兄弟ならざるべからず」」と。 けだし、 世にかくのごとき論法を立つるもの必ず多からん。

 

( 二三)三スクミ

 ヘビとカエルとナメクジとは、 これを三スクミという。 政府員と国会議員と一般の人民とは、 また三スクミなり。 政府員は国会議員の歓心を得んとし、 国会議員は一般人民の歓心を得んと欲し、  一般人民は政府員の歓心を得んと欲す。  ゆえに、 これを立憲政体の三スクミと名づく。 宗教の方にても、 やはり三スクミあり。 今これを本願寺宗に考うるに、 本山役員は檀家信徒の前に権なく、 檀家信徒は末寺僧侶の前に権なく、 末寺僧侶は本山役員の前に権なし。  この三スクミは前の三スクミとその関係を異にするは、 宗教と政治と同じからざるによる。

 

( 二四)発音の不通

 ある禅寺の和尚、 梅毒にかかりて鼻を害し、 発声に「夕」の音出でずして「ワ」の音となりて聞こゆ。 ある日、  その弟子にお経の読み方を授けて、「ナモカラタンノウ」といわんとするに、 その音「ワンノウ」となりて出ず。  ゆえに弟子は「ワンノウ」と読むに、 和尚これを叱して、「おれが「ワンノウ    というたればとて、 貴様まで「ワンノウ」と読むに及ぶものか」というも、 弟子はほかに読み方を知るべき理なければ、 やはり「ワンノウ」「ワンノウ」といえり。 和尚大いに腹を立ちしも、 いかんともすることあたわざりき。 これ、   り。 日本人が洋語にて語り、 洋人が日本語にて話すときには、  これに類したること定めて多からん。一つの奇談なり。

 

( 二五)自然の経験

 加州〔石川県〕の山間のもの、 金沢に出でて初めて「数の子」を見、 これを買いて帰り、 醤油に浸して用うるに、  堅くしてかむべからず。 よって、 戸外の雪の上にすてたり。 翌朝これを見るに、 終夜雪に浸されて自然に柔らかになりたるようなれば、 試み食するに、 その味すこぶる佳なり。  その後「数の子」を買うごとに、 必ず一夜戸外の雪の上にすつるを例とせりという。 また、  シナにて最初、 豚をあぶりて食する法を知らざりしが、  一夜豚小屋に火を失して、 豚みな焼死せり。  これをすつるも無益なりと思い、 試みにその肉を味わいたるに、  すこぶる佳なり。  これより後、 肉をあぶりて食すること行われたりという。  すべて日用の発明は、  みなかくのごときものならん。

 

( 二六)獣類の名称

 英国にて、 獣類の生きたるときはサクソン〔語〕の名をもって呼び、 死したる後はノルマン語をもっ て名づくるは奇なり。 例えば、 生牛をオッ クスと  その死後をビー  フという。 また生豚をピッグと  し し その死後をポー  クというがごとし。

 


 ( 二七)外国語の滑稽

 ある人の話に、「カルタを分かつときに、  その回し方は右よりすると左よりすると、 いずれが正しきや。」曰く、「右が正しい。 なんとなれば、 それがライトくしたためねばならぬ。 なんとなれば、  それがプリー フであるから。  また、 ドイツ語にて手紙をかくには、 短であるから」といえり。 また、 外国語と日本語と混じて、 自然に滑稽となることあり。 例えば一人ありて、「英国の貴族某氏はジュウクであるそうだ」といいたれば、 傍らにあるもの曰く、「十九にしては若すぎる、 私は三十歳以上と思った」と。 また、 フランスにいる日本人は、 三フランと五フランとを誤る。 なんとなれば、 フランス語にて五フランのことをサンフランととなうればなり。

 

(二八)  郷音難>脱(郷音脱し難し)

外国語を学びていかに熟達するも、 その中に郷音のナマリを脱せざるものなり。 あるシナ人、 日本に帰化して和語をよくするようになりたるも、 なお解し難きところありたりとて、 元政が詩に「君能言ーー和語一 郷音舌尚在、久押十知レ九、 傍人猶未レ解。」(君はよく日本語を話すも、 故国の音韻はなおあり、 久しくなれたとはいえ十のうち九の範囲であって、  かたわらにいる人でもなおわからないことがあるのだ。)とあり。 また、〔朱〕舜水は帰化して゜後、  すべて和語のみにて話せしも、 その病の危篤に至り、 郷語に復し、 だれも解することを得ざりしとい


( 二九)  縦読みおよび横読みの利害

先年、 和漢文は縦読みにして西洋文は横読みなれば、  二者の利害につきて一大論を引き起こせしことあり。 この議論、 今日に始まりしにあらず。 余、 かつて「梵学津梁通詮」を閲し、 その中にこの論あるを見たり。 その論は、 梵文の横読みなるにつきて起これり。  その書中に出だせる横読みの理由として、「宥快等曰、 看閲上下、 眼自生元労、 自乙左至>右、 眼力不レ労云云。」(宥快等は日々上下に看閲して、  眼はおのずと疲れる。 眼を左より右に動かせば眼は疲れず、 云々。)の語を引き、 横読みを天然となす。 しかしてまた曰く、「物有ーー上下一 事有二昇_墜へ則竪書亦無>妨。」(物には上下があり、 物事には昇ると墜ちることがある。  つまり、 たて書きもまたさまたげとはならない。)とあり。 余は元来縦読み派の一人なるが、  眼球を左右に動かすより上下に動かす方、 その労少なきを知る。  けだし、 物はすべて重力の理法により、 上下に動く方を天然となす。 例えば手を動かすに、 左右より上下の方労少なきも、 その理これに同じ。

 

( 三〇)論理学の汎意

論理学にては文学言語の汎意が、 論理の過失をきたす原因となるをもって、 もっぱらこれを避けんとす。 しかるに、 今後ようやく漢字を減じ、 最後にこれを全廃するに至らば、 汎意続々起こりて、 実際上計るべからざる不便をきたすに至らん。 ある童子、 仮名付き本にて歴史を読み、 人に対して「頼朝は薩摩に流されたることあり」という。 その人大いに怪しみ、「いずれの書にてこれを知りしや」と問えば、  すなわち答えて曰く、「日本の歴史ひるがこじまに「頼朝、 昼鹿児島に流さる    と記しおけり」と。  これ全く、「蛭子島に流さるる」とありしを誤りて、「昼鹿児島」と読みたるなり。


 ( 三 一)車夫の誤解

 余が先年京都にありて、 某月十三日に教育会を訪わんとし、 その事務所の三条近傍にあるを聞き、 人車を雇いて三条に至る。 車夫ようやく三条に近づきたれば、 余に問うに「いずれに至るや」という。 余答えて曰く「教育会」と。 車夫曰く「十三日なり」と。 余、 いまだ車夫のなんのために十三日といいたるを解せず。 行くこと数十歩、 また問いて曰く「檀那、 いずれに至るや」余曰く「教育会」と。 車夫曰く「十三日なり」と。  ここにおいて、 初めて車夫の余が言を誤解せるを知れり。  すなわち、 車夫は教育会を聞きて「今日はいつか」と解したるなり。 他日、 もし漢字を全廃して、 仮名もしくはロー  マ字のみを用うるに至らば、 かかる間違いの、 いたるところに起こるは必然なり。


( 三 二)   汎意の興味

論理学にては汎意をいとうも、 交際上の談話にこれを交ゆるは、 大いに興味を添うることあり。  すなわち、 世のいわゆる滑稽もしくは洒落これなり。 例えば「天勾践を空しうすることなかれ、 時に苑菌なきにしもあらず」というべきを、「天保銭を空しうすることなかれ、 時に文久なきにしもあらず」といい、「大学は孔子の遺書にして、 初学徳に入るの門なり」というべきを、「田楽は孔子の味噌にして、 とかく口に入るの門なり」といい、「難波津にさくやこの花冬籠り」というべきを、「難波津に 芍 薬の花冬籠り」というときは、 満座をして一笑を催さしむべし。 また狂歌、 狂句なども、 汎意を利用して興を加うるに至るなり。 例えば、 ある人の年暮れの歌に、

「とれば又とるほどそんのゆく年を、 くれる/\ と思ふおろかさ」、 また「びんぼうの棒が次第にながくなり、  りまはされぬ年のくれ哉」とあるの類を見て知るべし。  さりながら、 たとい平常の雑談にても、 あまり滑稽に過ぐるはよろしからず。 学生輩の戒むべきことなり。


(  三三)  シナの隠語

日本の謎語は、 多く言語の汎意にもとづき、  シナの隠語は、 字義および字形の汎意にもとづく。 例えば「核」という字を題にして、 これを「四書    の一句をもって解し、「仁在一一其中五  」(仁(果実の核の内部)はその中にある  (「論語」子張)と答うるなり。 また、 文字の画をもって解するあり。 例えば「兄」の字を題とし、 これを『正蒙  廂〔記〕一句にて解せよと告げて、「兌上欠」(兌の上部を欠く)と答え、 また「吾」の字を題とし、 これを「西一句にて解せよと定めて、「無言語」(言なきの語)と説くがごとし。

 

(三四)  地名の読み方

地方に、 同名のために間違いを生ずることあり。  この誤りを避けんために、 自然に読み方を異にするもの多し。 例えば「神戸」の地名を、 摂津にては「コウベ」といい、 伊勢にては「カンベ」といい、 美濃にては「 ゴウド」という。 東京付近にて、 甲州街道の新宿は「シンジュク」と呼び、 水戸の街道の新宿は「アラジュク」と呼ぶ。 また、 市中の本郷区の田町を「タマチ」と読み、 神田区の多町を「タチョ ウ」と読む。  また、 東京の日本橋は「ニホンバシ」と称し、 大阪は「ニッポンバシ」と称す。 また、 伊豆の熱海は「アタミ」ととなえ、 出羽の熱海は「アツミ」ととなう。 また、 奥州〔東北地方〕にては南部を「ナンプ」といい、 紀州にては「ミナベ」という。  また、 三州〔愛知県〕にて村名の豊川は「トヨカワ」といい、 川名の豊川は「トヨガワ」という。  これみな、汎意を避くるためなり。

 

( 三五)心理学の習慣

 吾人の気質は多く習慣より成る。  ゆえに古来、「習慣は第二の天性なり」という。  一国中にて山間と海浜とは、人の気風大いに異なり、 都会と田舎とまた相異なる等は、 やはり習慣の影響なり。 余案ずるに、 商家の得意なるものも、 また習慣のしからしむるところなるがごとし。 例えば、  一物を同じき商店より再三再四買い入るるときは、 習慣の力自然にその家をひいきに思い、 ほかより買い入るることあたわざるに至る。 新聞などにても数十年来同一のものを購読し、 永くほかの新聞に変更せざるものあり。  これ、 習慣のいたすところなり。  ゆえに余は、「商家は習慣に向けて、 年々多少の税金を払いて可なり」という。


( 三六)   月の大小

月の距離は非常に遠く、  かつ吾人の感覚上判定し難きをもって、 その大小のごときは、 人々感ずるところ、  のおの同じからず。 余、 先年、 中秋満月の夜、 寄宿生を運動場に招き、  おのおの鉛筆をもって月の直径なにほどに感ずるやを記せしめ、 後にこれを検するに、 ある者は五寸と感じ、 ほかの者は一一尺と感じ、  その両端、  二尺五寸の相違ありしを見たり。 これによりて、 目の感覚の信じ難きを知るべし。


( 三七)視覚と聴覚

 視覚と聴覚と、 その感ずる力に遅速の相違あるを試みんと欲せば、 児童の戯れになせる「恥々の遊び」につきて見るべし。「鼻々の遊び」とは、 両人相対し、  おのおの指端を鼻の上にのせ、 互いに「品々」といいつつ、   人がその指を、 あるいはしりの上に転じて「耳なり」と呼び、 あるいは頭の上に移して「へそなり」と呼べば、その相手は「耳なり」と聞けば耳の上に指を転じ、「へそなり」と聞けばへその上に移すべきを、 視覚の力に引かれて、 頭または耳の上に指を置くに至る。 これ、 視覚の力の聴覚より強きゆえんを証するに足る。

 

( 三八)予期意向

 心理学にて予期意向と称するは、  わが心にてあらかじめ、  かくあるべしと思いて意をその方に傾くれば、 実際そのとおりに感ぜらるるをいう。  その一例は、 同一の捻声を聞きて、 日蓮宗の人は「法華経」「法華経」とさえずるといい、 真宗の人は「法を聞け」「法を聞け」と歌うという。  これ、 予期意向にあらずしてなんぞや。


( 三九)   感覚の相対

感覚は前後左右の比較相対によりて、 その感ずるところを異にす。  ゆえに、 なにびとも幼少のとき己の旧里にありて見聞せしものは、 比較上広大なるがごとく記憶し、 成長ののち他邦に歴遊し、 帰りて故郷の山河を見るに、 意外に狭小なるに驚く。  近来、 西洋に遊びたるものみな曰く、「往路にはホンコン市街の非常に美なるに驚き、 帰路には意外に美ならざるに驚く」という。 また、 余が伝聞するところによるに、 ある日本人東京にありて、 参謀本部の非常に美かつ大なるを見、 後にドイツに遊びベルリンの参謀本部を見て、「はるかに日本の参謀本部より劣る」といえり。  その実、 日本の建築より数倍美かつ大なりという。  これ、 比較相対する感覚上より生ずる異同なり。


( 四〇) 大仏の餅

余、 かつてこれを聞く。 奈良の大仏の境内に大福餅を売るものあり。 ある日、  一人の客ありて大仏を拝観し、帰路その餅を買い、 意外に小なるに驚けり。 売り主すなわち曰く、「いまだ大仏を見ずしてこの餅を買う客は、みな意外に大なりといい、  すでに大仏を拝してこれを買うものは、  みな意外に小なりという。  ゆえに、 これ餅の真に小なるにあらず、 大仏の予想外に大なりしによる」と。  この言、  一理ありというべし。


( 四一) 夢の数

古来、 夢と事実との暗合をもって神人の感通に帰せり。 しかれども、 余いまだその果たして感通なるやを信ずるあたわず。  その故は、 今日本一国につきて、  四千万の国民が平均毎夜一回ずつ夢を結ぶと仮定して推算するこ、  一年中の夢の総数は百四十六億回の多きを得る割合なり。 もし、 平均十日に一回の夢を結ぶとして算するも、  一年に十四億六千万回の割合なり。 しかして、 霊夢の数は毎年十回ないし二十回くらいのものなり。  さすれば、 世のいわゆる霊夢は、 いまだ霊夢とするに足らざるなり。

 


( 四二)夢中の詩作

 夢中にて詩を作り句を得たる例、 古来少なからず。 その中にて、 余は『新著聞集りとす。に出でたる詩を大いに味あ六十四年混二世塵夢中不涵盆竺残身不来不去是何物、  二月花開南谷花。

(六十四年の歳月を世俗の塵にまぎれてすごし、 夢の中にもさとらず残りの身を養う。 不来不去なるはこれなにものぞ、  二月の花開く南谷の春。)

これ、 江戸品川泊船寺の住持、 延宝七年十一月二十四日の夢に高僧現れきたり、「汝は来年二月二十四日に死すべし」といいて、  この詩を示せりといえり。


(四三)  物近きにありて、  これを遠きに求む

人往々、 物の近きにあるを知らずして、 遠きに求むることあり。 ある紳士西洋に遊び、 大家をたずねて、「いかなる宗教をとりてわが国の宗旨とすべきや」を問う。 大家曰く、「日本すでに仏教あり。 なんぞほかに宗教を求むるを要せんや」と。  これすなわち、 近きにありて遠きに求むるものなり。「鶴林玉露」に掲ぐる詩は、 よくこの意を諷するものにして、 余が愛吟するところなり。

 尽日尋>春不レ見>春、  芭鞘踏遍隈頭雲、 帰来試把二梅花一看、 春在二枝頭十分。

(朝から晩まで春を探したがわからず、 わらぐつをはいてあまねく歩き隈山の雲にまでたずねた。 帰ってからためしに梅の花を手にして見たところ、 春は枝の先にもすでにみちていたのであった。)


(四四)  ドモリの歌

余、 かつてこれを聞く。 英語にて、  一滴も酒を用いざるものを呼びてテー トー  トラー〔 〕と名づく。その語の起源は、 あるドモリが人より酒を勧められたれば、「己は全く用いませぬ」といわんと欲して、 全く、すなわちトー タリー といえる語をどもり、「テー テー テー トー タリー  」といえりしより始まれりと。これ、一つの奇談なり。「理斎随筆」には、 ドモリを詠じたる歌を載せり。秋の野のか風吹けばそそよぐ、 たれまねくははつを花これ、 もとより一場の戯れによみたるものなり。


( 四五)   東西幽霊の相違

西洋の幽霊に足ありて、 日本の幽霊に足なし。 日本にて幽霊に足をつけざるは、 中古以来のことなりというも、 今日見るところの幽霊は、 いずれも腰より以下を欠く。 あるいはいう、「西洋の幽霊の図は手足全身を具備せるも、 その体透明にして生時の人に異なれり」と。 幽霊の状貌、 東西すでにかくのごとき異同ありとせば、 西洋にて幽霊を見るものは、 必ず足ありて透明なるものを見、 わが国にて幽霊を見るものは、 足なくして不透明なるものを見るに相違なし。  この一例によりても、 幽霊は人の想像より現じたる幻影なること明らかなり。

 


( 四六)空中飛行

西洋にて空中を飛行する人をえがけば、 必ず両肩に羽翼を付し、 日本にてこれをえがけば、 必ず雲を付す。  これ、 東西想像の異なる一点なり。  この両者はいずれも空想を描きたるものなれば、 その間に可否を論ずるに足らずといえども、 人体に羽翼を付すれば人獣の間の子となりて、 はなはだおもしろからず。  ゆえに余は、  この想像は日本の図をもっ てよしとす。 しかして、 幽霊は西洋の足ありてその体透明なるを、 むしろ真に近しとなす。

 

( 四七)諺語の一致

 西洋と日本と、 格言および諺語は往々一致することあり。 例えば「己の欲せざるところ人に施すなかれ」と「己の欲するところを人に施せ」とは、 ただ表裏の差あるのみ。「約束と越中揮とは向こうからはずれる」と「誓約と鶏卵とはこわれやすし」とは同意なり。「ころばぬ先の杖」と「ぬれぬ先の傘」とも同意なり。  そのほか、  わが国には健康の秘訣に「頭寒足熱」という語があるが、 ドイツの佳諺にも「冷頭熱脚は医師をして貧ならしむ」ということありという。  かくのごときの類、 枚挙にいとまあらず。

 

( 四八)分業の進歩

 社会の進むに従いて分業もまた進むものなるが、 日本にて西洋より分業の進みたるは、 飲食店と売卜者なり。飲食店には牛肉屋、 しゃ も屋、  てんぷら屋、 そば屋、 しるこ屋、 うなぎ屋、  すし屋、 団子屋等あり、 みな分業なり。 また売卜者には筵竹、 墨色、 方位、 人相、 家相、 淘 宮 等、 みな多くは分業なり。  これらの分業は、 決して社会の進歩を証するに足らず、 その一は日本人の食いだおれを示し、 その二は迷信をあらわすに過ぎず。

 

( 四九)運動法

 運動法は一般に西洋をもって大いに進みたりとなせども、 室内の遊戯的運動はわが国の方に種類多し。 例えば腕押し、 指角力、 枕引き、 枕落とし、 てぬぐい引き、 首引き、 額押し、 足角力、 座り角力、 碁盤上げ、  シャ チホコ立ち、 棒押し、 すね押し、 しっ ぺ、 三尺角力等、 いちいち数え尽くし難し。


( 五〇) 学者の寿命

余は東西両洋の学者の寿命を知らんと欲し、 西洋近世の哲学者六十名をとりてこれを算するに、合計、 三千八百七十八年一人平均、 六十四歳七カ月つぎに徳川時代の漢学者六十人をとりて試むるに、合計、 四千四十五年一人平均、 六十七歳五カ月すなわち日本の学者は、 西洋学者より二年と十力月の長寿なる割合なり。


(五一)  頭蓋の大小

明治十八年四月、 東京大学にて学生の頭蓋を計りて帽子を定めたることあり。 余はそのときの係員の一名なりしが、 総員七百十三人にして、 頭の周囲一尺九寸五分の者五十九人、  一尺九寸の者百十一人、  一尺八寸五分の者二百十五人、  一尺八寸の者二百六十四人、  一尺七寸五分の者五十二人、  一尺七寸の者十二人にて、 その平均、一人の頭蓋、  一尺八寸三分余となる。  これを大学的頭蓋の大と見るべし。


(五二)  経書の字数

ある書に九経の字数を示せるあり。  すなわち左表のごとし。

周易 二万四千二百七字尚書 二万五千七百字

毛詩 三万九千二百二十四字礼記 九万九千二十字

周礼 四万五千八百六字

左伝 十九万六千八百四十五字

論語 一万二千九百三字

 孝経 一千九百三字

孟子 二万四千六百八十五字    以上通計、 四十八万四千九十五字

この数は「和漢名数」に掲ぐるものと小異なるは、 あるいは写字の誤謬ならんか。 とにかく、 他日参考の一助ともなるべきことあらんを知り    ここに挙示せり。


( 五三)   字書の字数

「和漢名数」に字書の字数を左のごとく示せり。玉篇 二万七千七百二十六字

韻会 一万二千六百五十二字

字彙 三万三千百七十九字

丁氏集韻 五万千五百七字

篇海 五万四千五百九十五字

海篇 五万五千四百二十五字

字書のほかに、「和漢名数」には左の字数をも示せり。

 史記 前漢書

 五十二万六千五百言八十余万言

 日本紀神代巻 一万五千三百五十四字

 これまた、 参考のためにここに掲ぐ。


(五四)  記憶を助くる法

物に記憶しやすきものと記憶し難きものあり。 その難きものは、 音調のよき歌または句に作りおくをよしとす。 例えば太陽暦の大小を記憶するに、

正三五七八十や十二月、 日数三十一日と知れ一首の歌に作りおけば、 記憶しやすし。 あるいはまた、  一句の語を製して記憶するも可なり。 余は太陽暦の大小を、 左の語をもって示せり。

孝悌忠信者漢土周孔之教也。

偏なき文字は大の月を表し、 偏ある文字は小の月を表するなり。  これらの例に準じて、 記憶の便法を工夫するを可とす。

 

(五五)  論理学の四種図式の歌

館友保多守太郎氏(哲学館出身者)が、 論理学演繹法の バルバラの記憶法の代わりに、 左の四句の梅花に関する俳句を作りて余に示されたり。 その工夫ややおもしろく感じたれば、 左に録す。

(第一図式)  花咲けば狭き家居も春の色

(第二図式)  今朝閏へ出て見よ門の梅薫る

(第三図式)  花にいざ勇みし笑顔を喩へ見よ

(第四図式)  朝日影気近き枝の梅匂ふ

 これをいちいち配合して示さば、 左のごとし。

はなさ(アアア)けばせ(エアエ)まきい(アイイ)ヘゐも(エイオ)はるのいろ(填補)けさね(エアエ)やへで(アエエ)てみよ(エイオ)かどの(アオオ)うめかほる(填補)

はなに(アアイ    いざひ(イアイ)さみし(アイイ)えがほ(エアオ)をたと(オアオ)ヘみよ(ニイオ)

 あさひ(アアイ    かげけ(アエエ)ぢかき(イアイ)えだの(エアオ)う(補)めにほ(エイオ)これまた、 記憶の一助とならん。


(五六)  哲学の義解(補)

 哲学すなわちフィ ロソフィー の語は、 その原語の意「知識を愛求する」にあれば、 よろしくこれを訳して知学もしくは智学と名づくべし。 しかるに、 西周氏これを哲学と訳されしは妥当ならずというものあれども、 余「揚子方言    を読みて、 哲の義は知にして、 哲学の名称は知学に当たることを知る。 その原文を和訳して示さば、

「霊と暁と哲とは知なり。 楚にはこれを党といい、 あるいは暁という。 斉宋の間はこれを哲という」とあるを見て知るべし。


(五七)  世界のはじめは水より起こる

西洋にてギリシア哲学の元祖たるタレー  スは、 水をもって世界の太初、 万物の本源となせり。  これと同じく、シナにては「草木子」に水論を掲げり。 その文、 左のごとし。天のはじめ、  これ一気のみ。 荘子のいわゆる漠滓というこれなり。 そのさきなるところを計るに、 水よりさきなるはなし。 水中の滓濁、 歳をへることすでに久し。 積もりて土となる。 水土震蕩して、 ようやく凝緊を加う。 水落ち土出でて、  ついに山川となる。  ゆえに、 山の形に波浪の勢いあり。

 

( 五八)物心二元論

 哲学の起点、 真理の標準は、 唯物論の上に立つるか唯心論の上に立つるかというに、 余は物心二元の上に立つるを正当なりとなす。 なんとなれば、 今これを水陸にたとうるに、 唯物は大海の底のごとく、 唯心は高山のいただきのごとしとするに、  土地の高低の標準は、 大海の底に立つるも高山のいただきに立つるもともに不当にして、 水陸相合する所、  すなわち海面に立つるを最も正当となすがごとし。


( 五九)   真理の実相

仏教にて「真如とは如何なるものと人問はゞ墨絵にかきし松風の音」と唱うるは、 真理の握るべからず、 うかがうべからざるを形容したるものなり。 真理果たしてかくのごときものたらば、 吾人の絶対的に知るべからざるものとなるべし。 しかれども、  これいまだその理の実相とは定め難し。  ゆえに、 余はかつて真理をたとえて、 左のごとくいえり。

真理はなお水のごときか、 味なきがごとくにして味あり、 その真理はなお空気のごときか、 色なきがごとくにして色あり。


( 六〇) 時間・空間の語

時間・空間を並称する熟語は和漢になしというものあれども、 宇宙および世界は、  みな時間・空間を義とするなり。「淮南子    には「往古来今これを宙といい、  四方上下これを宇という」とあり。「翻訳名義集」に「榜厳〔経〕  を引きて、「世をば遷流となし、 界をば方位となす。 汝、 今まさに知るべし、 東西南北、 東南西南、 東北西北、  上下を界となし、 過去、 未来、 現在を世となす」と。 これによりてこれをみるに、 世および宙は時間を義とし、 界および宇は空間を義とすること明らかなり。 今後は時間・空間を改めて、 宙間・宇間としてはいかん。

 

( 六 一)哲学者の病死

 余聞く、  スピノザ氏は肺病にて死し、 フィ ヒテ氏は熱病にて死し、  ヘー ゲル氏はコレラ病にて死すと。 その哲学またこれに類す。  スピノザの哲学の沈静的なるは肺病に似たり、 フィ ヒテの哲学の活動的なるは熱病に似たり。  しかして余いまだ、  ヘー ゲルの哲学のコレラ病に似たるを知らず。

 

( 六 二)哲学者の偶合

 孔子は三十にして立ち、 釈迦は三十にして成道し、  キリストは三十にして救世主となれり。 三十のかく偶合せるは奇というべし。 ライプニッツ氏とヘー ゲルと、 ともに十一月十四日に死したるもまた奇合なり。

 


( 六 三)極端と極端との一致

 古語に「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」とあり、 また「物窮まれば必ず変ず」とありて、 人老い窮まれば赤子にひとしく、 富み極まれば貧に帰る。  ゆえに、  老荘の学問は世間の反対を説きて、「大智は愚に似たり」「大巧は拙のごとし」「大道すたれて仁義あり」等の理を教えり。  この極端一致の例は、 言語、 文字の上には往々見ることあり。 例えば漢語の「乱」の字を、 ミダルとオサマルと両様に訓ずるがごとし。 また和漢ともに、 数虹の最大なるを無数無量というがごとし。 仏書に、  学問の最上に達したるものを無学と名づくるもこの理なり。  そのほか、 武芸の奥義にムテッポウ名人の語あり、  これまた同一理なり。


( 六四)   社会平均

社会の天則は不平均に向かいて進むにありというものあれども、 余は平均を保つをもって天則なりと信ず。  その故は、 社会の実況を見るに、  治極まれば必ず乱を醸し、 盛極まれば必ず衰を兆し、 富極まれば必ず貧に傾くがごとし。  これ、 決して人の自ら望むところにあらざるも、 社会の天則が自然にここに至らしむるように働くなり。  さすれば、 天則の目的は平均を保つにありと定めて可なり。 しかりしこうして、 往々不平均を起こすは、 平均を保たんとする余勢に過ぎず。 なお、 水の流れ波の動くは、 その自然の性たる静平を保たんとするにあるがごとし。

 

( 六五)天道は鉄道主義なり

 ある人、 余に語りて曰く、「天道は鉄道主義なり」と。 余、 その意を解するあたわず。「老子には「天道は張弓のごとし」とあれども、 いまだ何書にも「鉄道のごとし」とあるを聞かず。 よってその解をもとめたれば、 余がために説明して曰く、「鉄道は山あればこれを崩し、 渓あればこれをうずめ、 凸所はこれを削り、 凹所はこれを盛り、 もって水平を保たしめんとす。 天道またしかり。 騒奢なるものあればこれを抑え、 謙譲なるものあればこれを揚げ、 人をあなどるものはこれをしりぞけ、 己を慎むものはこれを助け、 楽にふけるものはこれをたおし、 苦を忍ぶものはこれを起こす。  これ、 これを鉄道主義という」と。

 

( 六六)人間万事塞翁が馬

 すでに社会の規則の循環平均なることを知らば、「人間万事塞翁が馬」なることは疑いなし。  この語は上下一般に唱うるところにして、 弁解の必要なしといえども、 その本拠は「淮南子』に出ず。 昔、 塞上に一人の翁ありて馬を失えり。  人みなこれを弔う。 翁曰く、「これ、 かえって幸いたらざるを知らんや。」月を経てこの馬、 ほかの馬一匹をつれて帰る。 人みなこれを祝う。 翁曰く、「これ、 かえって  禍  たらざるを知らんや。」案のごとく、その子この馬に乗り、 誤り落ちてひじを折る。 人またこれを弔う。 翁曰く、「これ、 かえって福なるを知らんや。」後一年にして、 政府壮士を募りて戦役に従事せしむ。  これに応じたるもの、 多く死せり。 翁の子、 さきにひじを折りたるがために、 公役を免除せられたりと。 世間の禍福の意とするに足らざること、  みなかくのごとし。  ゆえに、 世の不幸にあい失敗を招きしものは、 そのつどこの語を反復して、 自ら慰むるをよしとす。  これ、実に不幸者の念仏、 失敗者の題目なり。


( 六七)  失念術

世に不幸、 災難に際会して自らこれを忘れんとするも、 忘るることあたわずして苦しむものはなはだ多し。  ゆえに、 余はその者のために失念術を工夫せり。 その術は、 老を忘れ、 病を忘れ、 死を忘れ、 憂を忘れ、 苦を忘れ、 不幸を忘るる法なり。 もし、  その憂苦の一時にしてかつ小なるものは、 戸外に運動するか、 または室内に微睡して、  一時を経過するをもって足れりとす。 もし、 その大なるものにありては、 もっぱら余が発明の失念術につきて実究するを要するなり。


( 六八)  比較的慰安法

人、 病客を訪問するときは、 なるべく病気の話を避けて、 ほかの雑談をなさんとす。  これ、 当人をして病気そのものを忘れしめんがためなり。 しかれども病人に、 ほかの病人の    層重症なるもの多々あることを示し、  これに比較すれば、  その病気のごときはいたって軽症なるがごとくに感ぜしむるは、 大いに慰安の功ありて、 かつ病勢を減ずる助けとなるものなり。 先年、 哲学館出身者に肺病を患うるものありて、 余が宅に来たれり。  その面貌すこぶる憔 悴の状あるを見て、 余はほかの重症患者の例を挙げ、  これに比すれば君の病気はすこぶる軽症なることを説きたれば、 その後数月を経て病気全快し、 再び余が宅に来たり、「過般の病談を聞きて大いに精神上の力を得、 その翌日より漸々快復の方に進みたり」といえり。 また、 ある人不平病を起こし、 ために身体の健康を害せんとせり。 友人これを恐れて慰撫して曰く、「君とビスマルクとはいずれが棗傑なりや、 君と孔子とはいずれが聖人なりや。」本人答えて曰く、「はるかに及ばざるなり。」「されば、 ビスマルク、 孔子すらも、 なお意のごとくならざることありき。 いわんや、 これに及ばざる君においてをや。 君、 なんぞ不平を憂うるに足らん」と。この語を聞きて、 大いに不平の度を減じたりという。


( 六九)   人情の浮薄

世の 溌 季に流れて人情の浮薄となりしため、 炭屋は炭の目方を増さんと欲し、 俵の中に石を入るるとて、 ある人、 句をもってこれを諷せり。やはらかき炭は代理を石にさせ

また、 湯屋に行くものは小桶を余分に集め、 湯水を多くくみ取り、  これを他人につかわせぬために、  てぬぐいをその上に掛けおくものあり。 ある人これを見て、手拭を  鍵  にして桶をとめとよみたり。  これ、 人情の浮薄を戒むるに足る。

 

(七〇) 利欲の極み、 神を欺<

 ある強欲者、 神に祈りて大金を得んと欲し一心に祈請して曰く、「願わくは神様よ、 われに一万円の大金を授け給えよ。  この願成就したる日には、 九千九百九十九円を御礼として差し上げ申すべし」と、 再三反復して祈る。 傍らにありてこれを聞くもの、  一万円より九千九百九十九円を引き去らば、 残るところわずかに一円なり。一円の利を得るに、 なんぞ神を煩わすに足らんや。  これ、 必ず失言もしくは違算ならんとて、 その者に注意したれば、 当人曰く、「これ違算にあらず。  その御礼として九千九百九十九円を差し上ぐるとは、 全く神を欺くための方便にして、 いよいよ一万円の大金を得たる日には、  一文も差し上げぬつもりなり」と答えたりとぞ。 人の欲極まりて神を欺かんとす。 誠におそるべきことなり。


(七一)  財産は糟糠なり

ある地方の吝 薔 家、  数十万の大金を有しながら、 粗衣粗食、 篭も博愛の心なく、 慈善の挙なく、 ただ高利をむさぼりて、 己の畑を肥やさんことのみ、 これつとむ。 しかして、 児童の教育のごときは全く放任してさらに顧みず。 近隣の者、 忠告して曰く、「粗衣粗食はあえて不可なるにあらず、 慈善の挙なきもなおゆるすべし。 しかれども、 児童の教育をすてて問わざるにおいては、  一家の財産をいかにして子孫に伝えんや。 よろしく児童教育に意を注ぎ、 君の死後、 児童をして永く父母の遺産を守らしむるように訓育せざるべからず」と。  当人曰く、「余はただ財産を増殖することをもって無上の楽とするのみ。 その遺産のごときは、 己がすでに味わいおわりたる糟糠に比すべきものなれば、 子孫のこれを守るも守らざるも、 余が関するところにあらず」と、 さらに頓着するところなし。 忠告者すなわち曰く、「吝薔もここに至れば豪傑と称して可なり」と。

 

(七二)  言行一致

世間に、 人よりなにを頼まれてもたやすく承諾して、 さらに実行せざるものあり。 世のいわゆる八方美人の評を得たるものは、 多くこの類なり。 余は性来この風を好まず、 あえて自らよくするにあらざるも、 その心にては、 なるべく言行を一致せしめんことを期す。  ゆえに平素、 左の句を誦して己の主義とす。思ふこと口はいはねど業がいふ。よって余が教育の方法は、 己の事業をもって人に示さんとするにあり。


(七三)  世事相たがう

世間の事、 多くは己の予想に反するものなり。 ある歌に、長かれと思ふ虹豆は短くて、 みじかき栗の花の長さよとよめるがごとく、 またある詩に、

書当二快意ー読易>尽、 客有レ可>入期不レ来、 世事相違毎如>此、 好懐百歳幾回開。

(書は心地よく意をくみとるべく、 読めば意を尽くしやすいものであり、 客の訪問あるべきに、 その時になってもやって来ない。 世の事柄で相違することは常にこのようであり、 こころよい懐いは百年にいくどあるのであろうか。)

と詠ずるがごとく、 世事相たがうこと多し。  しかして、 その相たがうをもって世の常態となすにおいては、たの衝突あるも、 奄も意に介するに足らざるなり。  しかるに、 瑣々たる小事に不平を起こし、 憤憩を抱くがごときは、 全く世の真相を知らざる愚見といわざるべからず。

 


(七四)  世  一ロ

世人は多く他人を褒貶上下するものなり。  これを相手にして、 あるいは喜び、 あるいは怒るものは、 また愚の至りなり。  およそ人の批評は、  一方を見て他方を知らず、 表面を見て裏面を知らず、  これに加うるに十中八九は己の空想をもって人をえがくものなれば、 いずくんぞよくその真相を得んや。  ゆえに、 世評に対しては「人のうわさも七十五日」として頓着せざるをよしとす。


(七五)  古今の書信じ難し

方今、 新聞は事実の探偵ようやく進み、  その報道するところ信を置くに足るべきはずなるも、 己の知りたる事実にして、 新聞上に現るる場合には、 いまだかつて多少の誤伝なきものを見ず。 ここにおいて、 ほかの自ら知らざる事実を推し、  さらに古今無数の書籍上に現るるところを考うるに、 みな信拠し難きを知るなり。


(七六)  余は学者にあらず

人、 余を目して学者となすも、 余は学者にあらず、 また学者をもって自ら任ずるものにあらず。  ただ、 余は汲々としてつとめて倦まざるものなり。


(七七)  仏教改革者

水谷仁海氏は自ら大菩薩と称し、 仏教を改革せんと欲し、 大いに意を決して東京に上れり。  一日、 余を訪ねて、 仏教改革の意見を教えられんことを請えり。 余曰く、「君の意、 解し難し。  すでに自ら決心して改革を発表せる以上は、 人の意見をたずぬるに及ばず。 もしこれをたずねんと欲せば、 そのいまだ世間に発表せざりしときにおいてすべし」と。 氏、 大いにその一言に感じて去れり。 大道長安氏も仏教革新者の一人なり。 その初めて東京に上るや、 余が居をたずねて意見を問わる。 余曰く、「君、 もし一宗を開立せんと欲せば、 死後においてすべし。 もし、 しいて生前に成さんと欲せば、 必ず失敗に終わらんのみ。 古来、  一宗の開山祖師たりしもの、  みな一代に開宗の出来上がりたるがごとくに思うも、 その実は死後成功したるものなり。 よって君の存命中は、 もっぱら弟子を養成することをつとむべし」と。 氏曰く、「実にその言のごとし」と。


(七八)  公徳私徳

日本人は私徳あるを知りて公徳あるを知らずとは、 目下一般に唱うるところなり。  余は、 もっぱら中学教育において公徳思想を発育せんことをつとむ。  いずれの中学にても、 戸、 壁、  机等に楽書する悪習あり。  これまた公徳を欠けるの罪に座す。 余、  これを矯めんと欲し、  一種の謎を作りて、 余が監督せる京北中学生徒に示せり。中学生徒の悪習とかけてなんと解く。 夏の馬王のときの奇瑞と解く。 その心は洛書を出だす(楽書をいたす)。爾来、 大いにその弊を減ずるを得たり。


(七九)  学生の喫煙を戒む

学生中、  ひそかに喫煙をなすものあり。 余これを戒めて曰く、「喫煙は小事なり、 瑣々たる小事なり。  これを犯すも、 なんの深き罪あらんや。 しかれども、  かかる瑣々たる小事ですらも慎むことあたわざるときは、 瑣々たらざる大事はなお慎むことあたわざるべし。  ゆえに、 この小事は大事の試験と心得て、 固くその身に守らざるべからず。  そもそもタバコの初めてわが国に入りしは、 慶長年間のことにして、 それ以前の者は一人もタバコを味わいたるものなし。  ゆえに、  われわれもし慶長以前の人を想起せば、 なんぞ禁煙し難きの理あらんや」と。

 


(八〇) 心学と心理学

心理学といえば西洋伝来の学にして、 心学といえば徳川時代に中沢道二らの伝えたるものをいう。 ただ、 西村茂樹翁は心理学を指して心学と称せらる。 中沢道二は神・儒    仏三道を混じて一っとなし、 通俗に解きやすきを旨として、  一種の道話を工夫せり。  その悟道の語に曰く、「鶉はガー ガー 雀はチュウチュウ、 人は人の妙法あり、鳥は鳥の妙法あり」と。  この語、 やや味あり。  これより心学道話起これり。 今日、 神・儒の一種を加えなば、 新心学道話の起こるに至らん。


(八一)  学者所二以学と為>人也(学は人となるを学ぶゆえんなり)

「橘牒茶話」の巻初に左の一節あり。

仏一一教にさらに西洋余平素掲二示書生一曰、 学者所ーー以学>為>人也、 自以為  一生所得只有二此一句

(余はふだん学生に示して、  学問を修めるとはいわゆる人になることを学ぶのであると述べている。  みずから思うに    一生かかって得るところのものは、 ただこの一句に集約されると。)

これ、 誠に余が意を得たり。  また、「席上談」に左の語を引用せり。

学者所以求一治心一也、 学雖>多而心不>治安  以>学為。

(学ぶとは心を治めることを求めるのである。  学ぶところが多くても心が治められないとすれば、 いったいどうして学問を修める意味があろうか。)

これまた学問の実益を説きたるものなり。 古来、 漢学の本意は実践射行を旨とし、 人をして人ならしめんとするにあれども、 近来ようやくその本を忘れて末に走り、 いたずらに空文を争うに至るは、 実に慨嘆の次第なり。

ゆえに、 今日の急務は漢学の革新にありと知るべし。


 

( 八 二)僧を憎みて袈裟に及ぷ

 今日の漢学者は多く識見なく気力なく、  老朽のあまり、 活動を欠くがごとき観あり。  ゆえに世間、 漢学を見て無用の学とし、 漢字を見て老朽用うべからざる文字となし、 漢学、 漢字ともにこれを廃せんとするに至るは、   や「僧を憎みて袈裟に及ぶ」の感なきあたわず。 畢党するに、 日本の民心が流行的傾向ありて、  一人漢字の不用を唱うれば、 万人これに雷同する弊あるによる。 ただ願うところは、 世の青年学生の一時の風潮に巻き込まれざらんことを。

 

( 八三)漢文の革新

 漢学の革新とともに漢文の革新を断行するは、 また今日の急務とす。 従来、 漢学者の文章は虚飾に走りて実用に遠ざかり、 難字難句を集めて人をして解釈に苦しましむるをもって得意とする風あり。  これ、 大いに文章の目的を誤るものなり。 余、 かつて富永仲基氏の「出定後語」を読み、 後に平田篤胤翁の「出定笑語」を読み、 その論ずるところ二者同一にして、 前者は世に知られず、 後者は人の愛読するところとなるはなにゆえなりやを考うるに、 全く文章の難易同じからざるを知れり。  すなわち、『出定後語』は通解し難く、「出定笑語」えに、 今日は実に漢文一新の時機なり。

 

( 八 四)福沢翁の文章

 余、  かつて福沢〔諭吉〕翁を訪い、 その文章談を聞くに、 翁曰く、「余は幼より達意の文章を学ばんと欲し、  これを漢学者に問うに、 達意の文は「左伝』にしくはなしと聞き、 爾来「左伝」を反復してほとんど暗誦するに至り、 さらに仏学者に問うに、 通俗をして解しやすからしむるには、 蓮如上人の五帖の「御文」を学ぶにしかずと聞き、 爾来また「御文」を暗誦し、 この二者によりて余が文章を得たり」と。 果たしてしからば、 福沢翁の文章は、 左の算式をもって表示することを得べし。

計汗    +涸蓉済    蔀芽済

余の主義も文章はなるべく通俗をして了解しやすからしむるにあるを知り、 その心ひそかに平田〔篤胤〕、〔頼〕山陽、 福沢の三文章を調合して、 己の文章を定めんと欲し、  一時この三氏の文を愛読せしことあり。 今日いまだその調合を完成したるにあらずといえども、 もし調合し得たりとなさば、 左の算式をもって表示し得べし。

 蔀済+母田済+蔀完済もし、  これを前式に照合すれば、ヰ廿済巳蔀沿十柑田済+併汗済+海蓉済    ヰ廿済これを要するに、 今日の急務は漢文の上に一大革新を断行し、 これをして実用に適せしむるにあり。


( 八五)   余が師友

余は最初著述家にならんと欲し、 まずその師友とすべきものを求め、 仏学者中より東大寺凝然律師を得、 漢学者中より林羅山翁を得、 国学者中より平田篤胤大人を得たり。  この三人はおのおの百数十部、 千数百巻の著述あれば、  わが文学史上、 古今の大著述家といわざるべからず。 しかれども、 もし余が一生中、 よく数百部、 数千巻の書を著すを得ば、  この三大家を凌駕するを得べし。  ゆえに、  一時は全力を著述に注ぎたることあるも、 その後教育事業の多忙なるため、 もっぱら著作に従事することあたわざるは、 余が遺憾とするところなり。

 

(八六)  東西の聖人

哲学界にありて東西両洋の聖人を選出せんと欲せば、 人々の意見おのおの異なるべしといえども、 余が見るところによるに、 まず東洋にありては、  シナより孔子、  インドより釈迦をとり、 西洋にありては、 古代にてソクラテス氏、 近世にてカント氏を選ばざるべからずとなす。 よって先年、 この四聖を合祭して哲学祭を行いしことあり。

この三百年を日に配して三百日とし、  これを一年の上に推算すれば、 十月二十七日に当たる。 よって、 毎年この日をもっ て四聖祭を行うことと定む。


(八七)  白扇倒懸哲学天

石川丈山翁が富士山を詠じたる句に、「白扇倒懸東海天」(富士山の姿は白い扇がさかさまに東海の空にかかっているようだ)とあるに擬して、 余は「白扇倒懸哲学天」(白い扇をさかさまにかければ、 哲学世界の総合と発展を示している)といえり。  その意は、  シナ哲学にても孔子以前に種々の哲学ありしを、 孔子これを総合して新世紀を開き、  インド哲学にても釈迦以前に諸家の哲学ありしを、 釈迦これを総合して新世紀を開き、 西洋の古代も近世もこれと同じく、 ソクラテスおよびカントはともに中興の祖となれり。  これを要するに、  この四大聖人の前後に各哲学の開展ありて、  四聖はまさしくこの両世紀の中間に立つ。 あたかも扇面のカナメに当たる。 しかして、 前世紀はその開展、 後世紀より狭陰なれば、 よろしくこれを、 扇子をさかさまに懸けたるに比すべし。


(八八)  藤原怪窓の品行

藤原裡窟は、 わが徳川時代の漢学の元祖なり。 そのはじめは五山の僧にして、 後に仏門を去りて別に儒家を開きしも、 己は生涯肉食妻帯の禁制を守れりという。  これ、 他なし。 儒家にありては肉食妻帯して差し支えなきも、 もし裡裔の身にこれを行うにおいては、 世間必ず、 彼は肉食妻帯を欲して、 仏門を離れて儒門を開きしなりと評せんことを恐れ、 自ら生涯これを慎みたるなり。


(八九)  漢学者の罪

古来、 漢学者が儒学を講ずるに、 いたずらに文章語句の詮議に時日を費やし、 学問の末に走りて本を忘れんとする弊ありしをもって、 局外よりこれを評して「魯の国の詮議する間に腰かゞみ」とまでいえり。 そのいわゆる一代の新発明は、 経書中の一字一句の新解釈を工夫せるに過ぎず。 例えば「論語」に「吾日三ーー省吾身」との一句あり。  これを通常、「三度わが身を省みる」と解するを改めて、「三カ条をもっ てわが身を省みる」と解すれま 一代の大発明をなしたるがごとく思えり。 故をもって、  一句に数様の異義を伝え、 後学のものを苦しむるに至る。  さらに一例を挙ぐれば、「論語    に「賢賢易色」とあるを、 種々に訓読を付して解釈を異にせり。  すなわちその一義は、 易色の二字を読み下して「色にかえよ」と訓じ、 色を好むの心をもって賢人を好む意なりと解し、 第二義は、「色をかえよ」と訓じ、 もし賢人を尊重せんとすれば、 必ずまず平常の色(礼貌)を改めて、  さらに荘敬の容を示すべきの意なりと解し、 第三義は、 易を軽易すなわち「カロンジ」と訓じ、  女色を軽賤して貴ばざるの意なりと解するがごとし。  これ、 実に愚の至りなり。 漢学の今日に衰うるは、 漢学者が自ら招くところといわざるを得ず。 果たしてしからば、 今後漢文を学ぶものは、 大いに奮起せざるべからざるなり。


(九一) 仏学者の弊

文章語句の末に走りてその本を忘れたるは、  ひとり漢学者に限るにあらず、 仏学者またしかり。 例えば、「倶舎〔論〕』一部を学ぶに八年間の歳月を消費し、「華厳経    の題号を解するに七十種の異義を並べ立つるがごときは、 実に言語道断なり。「華厳経    は「大方広仏華厳経」と題して七字の表題なるが、 古来、「大」の一字に十義を立て、「方」の一字にも十義を立て、「広」ないし「経」の各字にみな十義を立てて解するをもって、 都合七十種の異義を伝うるなり。 もし、  一日に一義ずつ講じ去らば、 経題だけに七十日間を費やさざるを得ず。 あに慨嘆の至りならずや。 今後仏学を修むるもの、 また大いに自省するところなかるべからず。


(九一)  今日の四箇格言

昔時、  日蓮上人世に出でて各宗の時弊を見、 大喝一声して曰く、「念仏無間、 禅天魔、 真言亡国、 律国賊」と。これを日蓮の「四箇格言」と名づく。 余、 東京にありて俗間の評語を聞くに、「門徒(真宗)物知らず、 禅宗銭なし、 法華(日蓮宗)骨なし、 浄土情なし」という。 実に今日の各宗は、 多く物知らずと銭なしと骨なしと情なしとの集合体なるがごとき観あれば、  この評語はよく時弊を一破したるものというべし。  ゆえに、 余はこれを今日の四箇格言と名づく。


(九二)  親鸞は豪傑なり

余、 あるとき福沢翁を三田の邸に訪問せしことあり。 翁曰く、「日本の豪傑は、 政治家としては〔徳川〕家康、宗教家としては親鸞、  この二人あるのみ。 楠正成、 新田義貞のごときは第二流の人物なり」と。 余すなわち問うに、 いかなる点をもって親鸞を豪傑となすかをもってす。 翁答えて曰く、「今日の僧侶は内に蓄妻嗽肉を犯しながら、 公然これを断行するの勇気なし。 しかるに親鸞は、 六百年の昔にありて四面みな禁妻禁肉の中に立ち、 公然われは今日より蓄妻晦肉を行うべしと広告したるは、  一大豪傑にあらずして、 だれかよくこれをあえてせんや」と。 余、 その後このことを友人に語りしに、 友人曰く、「さきに井上〔馨〕内務大臣が曹洞宗の葛藤を調停せんと欲し、 宗内の高僧たちを自宅に招き、 午餐の饗応に肉類を供えたれば、  一人としてあえて食するものなし。大臣喜ばずして曰く、「諸師は内々肉食せらるるに相違なし。 なんぞ今日に限りて辞せらるるや」と。 諸師答えて曰く、「われわれは窃盗する勇あるも、 強盗する勇なし」と。  その意、 内々肉食を犯す勇あるも、 公然晦肉する勇なしというにあり。 しかるに親鸞は、 六百年前にありてすでに強盗の勇気を有せり。 福沢翁の評、 実にその当を得たり」と。


(九三)  物一物中無尽蔵

その語たる禅宗の悟道に似たるところあるも、  一読すこぶる興味ある詩は左の七絶なり。

素執不>画意高哉、 若着二丹青嘉    二来、 無一物中無尽蔵、 有>月有>花有二楼台

(白い練り絹はえがかれることなく、 むしろ意味深く、 もし赤と青の二色を落とせば、 無一物の中にとめども尽きぬものがあり、 月も花も楼台すらあるのである。)

この詩は人の多く誦するところなるも、 余いまだだれの作なるを知らず。  この詩とややその意を同じくする話が、「艮斎間話    の中に見えたり。一画人いわく、「山水を写すに筆墨にて形容せるところは、 人もみて巧拙を弁ずれども、 墨つけざる白紙の空地なるところに妙趣あるは、 だれもみて賞す者はなし」と。

すべて真の味は無味中にあり、 真の色は無色中にあるものなり。


(九四)  日光を見ずして結構を説くなかれ

人は「日光を見ずして結構を説くなかれ」という。 余は「熊野に至らずして山水を談ずるなかれ」といわんとす。 熊野の山水中その最も殊絶なるものは、 第一、 瀞峡、 第二、 那瀑〔那智の滝〕、 第三、 橋杭なりという。  これを熊野三景と名づく。 日本三景の第三は天 橋〔天橋立〕にして、 天橋の景は一帯の地峡、 橋のごとく海湾中を横断するにあり。 しかして橋杭の景は、 岩石その形、 橋杭のごときもの海中に並列するにあり。 もし、 天橋をしてこの杭の上に載せしむれば、 はじめて天然の橋梁を大成するを得べし。 しかるに、 天これを分かちて百里の外に置きたるは遺憾なりというべし。


(九五)  住めば都

秋田より海上四十余里を離れて飛島と名づくる孤島あり。  ここに八十歳の老婆ありていうには、「世の中には馬と名づくる獣類ありと聞くが、 われも生前に一度馬を見て死にたし」と。 余、 先年酒田港にありて聞くところによるに、 飛島にて小児の泣くときこれをしかるに、「酒田へ追いやるぞ」といえば、 たちまち泣きやむという。これ、 諺にいわゆる「住めば都」の意なり。


(九六)  陸上の孤島

余、  北海道にありて陸上の孤島といえる場所あるを聞き、 最初その意を解せざりしも、 西部の海岸を一巡して、 はじめてこれあるを知れり。  すなわちその場所は陸地にあれども、 三面険山をもって囲まれ、 いずれに向きても通ずる道なし。 ただ一面、 海路によりてほかと交通するのみ。  ゆえに、  これを陸上の孤島と名づくるなり。


(九七)  伊豆は 頭 の国なり

伊豆人はみな曰く、「当国は一般に豆州〔静岡県〕と呼び、 豆のごとき国なれば、 人物もまた豆のごとく小なり」と。 余曰く、「しからず。 豆州とは頭州を略したるものにして、 人の首領となるべき国なり。  ゆえに、 今後続々偉大の人物の出でんことを望まざるべからず」と。 人あり、  これを聞きて、「伊豆の伊の字はいかに解すべきや」と問う。 余曰く、「伊は仮名の頭字にして、  これを俗にカナガシラと訓ず。  ゆえに、 伊も豆もともに首領の義を有す。 伊豆国にあるもの、 あに奮起せざるを得んや。」


(九八)    一州に人物なし

三河国岡崎には康生町と名づくる場所あり。  これ、〔徳川〕家康の生まれたる地なることを記念するより起こるという。 余、 先年岡崎に遊び演述して曰く、「第二、 第三の家康、 続々この地より出でざるべからず。 もししからざれば、 その名に対して恥じざるを得ず」と。 演説後、 茶話会あり。 その席に列する者曰く、「家康公は三河全国中の知恵をことごとく一身に集めて世に出でられたれば、 その後糟粕のみ残りて、  さらに人物なし」と。 余おもえらく、  この語一理なきにあらず。 あえて家康公が他人の知恵を絞り取りたるにあらざるも、 後の人みな、その地より家康のごとき大豪傑を出だせしを己の名誉とし、  これに安んじて自ら奮励せざりしによる。  ゆえに今後の三河人士は、 大いにその心を改めざるべからず。

 

(九九)  長州の名物は夏蜜柑にあらず

余、 長州〔山口県〕に遊び、 萩に滞在すること数日に及ぶ。  人みな曰く、「萩は地僻にして交通便ならず。  ただ物産としては夏蜜柑あるのみ」と。 余曰く、「長州の名物は夏蜜柑にあらずして人物なり。 明治維新の元勲はいずれより起こりしや。 長州なかんずく萩の地より出でたるは、 天下みな知るところなり。 今日の政府も、 人あるいは薩長政府または長州内閣というにあらずや。  これ、 長州には有為の人物が一時、 雨後のたけのこのごとく群がり起こりたるによる。 果たしてしからば、 長州なかんずく萩の名物は蜜柑にあらずして人物なること明らかなり。  すでに人物をもって国産とする以上は、 今後永く人物を養成して、 既得の名誉を失わざることをつとめざるべからず。」奇 祭地方には往々、 妖怪的祭礼あり。 伊豆国伊東村〔現・市〕に音無明神の尻 摘 祭りと称するものあり。 毎年十一月十日の夜、 灯火を用いず暗黒の中にて執り行い、 神酒を賜るときに、 尻をつまみて次へ次へと杯を回すよりその名起これり。  これ〔源〕頼朝公、 八重姫と契りし遺風を存するなりという。  また、 紀伊国日高郡上和佐村〔現・川辺町〕に、 丹生明神の笑いの祭りと名づくるものあり。 毎年十月初卯の日は、  一同幣を捧げて社前に至る。 村老発声して「笑え、 笑え」というに応じて、  一声同音に笑う。 その笑う由来は、 十月は神無月と称し、 諸神みな出雲の国に至りたまうに、  この神ひとり後れたまいて、 え行きたまわざりしを笑うなりという。

各国のつきもの平常、 狐よく人につき、 また人をばかすというも、 狐のみしかるにあらず。  四国にては狐なし。  ゆえに狐憑き、  狐惑といわずして、  狸よく人につき、  また人をばかすといい、  佐渡にては狐狸の代わりに 絡 よく人に憑り、また人を惑わすという。  隠岐にては、  狐、  狸、 絡の代わりに猫憑き、  猫惑を説く。  あるいは中国辺りにては蛇つきと名づくるものあり、 西洋にては狼つきと称するものあり。  これによりてこれをみるに、  同一の病症が国と所との異なるに応じて、  その名を異にするを知るべし。



二)   幽霊の有無

落語家〔三遊亭〕円朝は、  幽霊の図画を集めて百幅の多きに及べり。  米人フェノロサ氏、  円朝に請いてこれを見、  問うに幽霊の有無をもっ てす。  円朝曰く、「幽霊は有りと思う人には有り、  無しと思う人には無し」と。   ェノロサ氏曰く、「実にしかり」と。  円朝よく幽霊の理由を知るがごとし。


三)   オソメ風

明治二十四年一月ごろ、  東京にインフルエンザ病大いに流行せり。  俗間これをオソメ風と名づけ、  これを避くる法は、  家の入り口に「久松は居らず」と書きて張り出だしおけば可なりといえり。  その後、  はしかの流行に対し、  入り口に「鎖西八郎為朝宿」と書きて張りおけり。  これ、  なんの意なるを知らずといえども、  愚民の迷信は大抵みなかくのごとし。


四)   禁

小児の頭にオデキのできたるときは、  これを医するに「凪」の字をその上に書く。  その意は、  オデキのことをクサと名づくる故、  馬をして草を食せしむるマジナイなり。  また、  足に豆のできたるときも、  やはり「贔」の字をその上に書く。  これ、  馬は豆を食する意なりという。

 

五)   土讃両州の異同

 同じく四国中にありて、  土州〔高知県〕の山は屹然として角あり、 讃州〔香川県〕の山は最爾としてまどかなり。

しかして、 両州の人気よくこれに類するあり。  これ、 自然に地形が人心を感化する故ならんか。


六)   地形の影響

奥羽、 関東は、  土地広闊にして風景に乏し。  これに反して畿内、 中国は、 地形狭陰なるも風景に富む。 東北人の思想やや粗大にして、 関西人の注意多く細密なると、 前者は美術のオを欠き、 後者はこれに長ずるとは、  また地形の影響ならん。


七)  上州の名物

上州〔群馬県〕の名物三つあり。 曰く雷鳴、 曰くカラ風、 曰く 呪 天下なり。  その叫天下なるは、 養蚕製糸業の盛んにして、 婦人の職業忙しく、 したがって権力を有するによる。 カラ風と雷鳴とは、 よく上州人を感化して、一種の気風を変成するに至る。  けだし、  上州人の侠客はだなるは、 この名物の存するによる。


八)   越後の名物

つぎに、 越後名物を挙ぐれば二種あり。 曰く午睡、 曰くこたつなり。 夏は一般に戸を閉じて午睡に就き、 冬は毎室必ずこたつを設けて火鉢に代う。 もし他州人よりこれを見れば、 越後人はみなナマケものなるがごとく感ぜらるべしといえども、 その実しからず。  まず、 越後人が一日中にありて実際労働する時間は他州人より多きは、全く午睡の結果なり。 例えば、 暑中数十日間は正午十二時ごろより二時過ぎまでは苦熱はなはだしく、 到底労働にたえ難し。  ゆえに、 その時間に眠息し、 朝夕および夜分の暑気しのぎやすき時間に余分の労働をなすは、 越後一般の国風なり。  ゆえに、 越後人は暑中平均一日に二時間ぐらいは、 他州人より多く労働するがごとく覚ゆ。 例えば、 他州人は朝六時より夜八時まで労働すと定むれば、 越後人は朝四時より夜十時まで労働すべし。  さすれば、 午睡二時間を除き去るも、 なお二時間の余分を得る割合なり。 午睡の功もまた大なりといわんか。  つぎに、こたつは火鉢より経済上有益なるは、 弁解を下すを要せず。  これに加うるに、 火鉢は身体の一局部を暖むるに過ぎざるも、  こたつは全身を暖むるの便あり。  これを要するに、 午睡は勉強のためにして、  こたつは倹約のためなり。 果たしてしからば、 ほかより越後びいきの評を免れずといえども、 午睡とこたつとの両名物は、 勤倹の二字を表示するものなるがごとし。


九)  勤    倹

勤は勉強にして倹は節約なるの相違ありといえども、 その実相同じ。 けだし、 倹とは奢移を制するのみの意にあらず、 時間を無益に費やさざるも倹約の    つなり。 なんとなれば、 時間はすなわち黄金にして、  みだりに時を費やさざるは、  すなわち金銭を費やさざるにひとしければなり。  さて、 毎日時間を倹約するは些々たるもののごときも、 積みて一年ないし十年となれば、 莫大の損益あることにして、 富国も強兵も、 国民全体が毎日一時間ずつ余分に労働するより得らるるなり。 今、 仮に日本国民を四千万人と定め、 その各人が毎日一時間ずつ余分に働くものと考うるに、 国民全体の労働時間は総計四千万時間にして、 その一時間の労力を十銭として立算すれば、その一日の富、  四百万円となり、  一年の富、 十四億六千万円となる割合なり。  ゆえに、 もし国民がその国を富まさんと欲する意あらば、 必ず、 毎日一時間ずつ余分に働くことを心掛くべし。

 蟻よく地球を一周すべし余、 先年病床にありしに終日人の訪うなく、 ただ蟻の枕辺を徘徊するを見るのみ。 余、 試みにその足力を計り、 蟻の力にて地球を一周するに、  いくたの歳月を要するかを算するに、 八十三年十力月にてよくすべきを知のみる。 さらに蚤をもって試むるに、  四年ニカ月なるを知る。 ここにおいて余は、 人もし孜々汲々として毎日一事をつとめて怠ることなくんば、 数年の後に驚くべき成功を見るに至るは必然なるを知り、  この小事が大いに余が勉強力を進むる助けとなれり。


天地は一大工場なり

天地は自然の一大工場にして、 月日は工場につるしたる自然の大ランプなり。  人にしてこの工場に眠食する以上は、 必ずその身心および境遇に相当せる労力をとり、 大いに励精することなかるべからず。 もし、 徒然として日を消し、 磋々として生を送るにおいては、 天地の本意を誤る大罪人と知るべし。 それ、 手は用うるに従って強く、 足は動かすに従って健なるはなんぞや。 わが四肢五体は、 労働するために成来せるものと解するよりほかなし。  ゆえに、 人間一生は朝夕労働するをもって本分と心得べし。 しかして、 その休息は眠と死との二つにして、眠は暫時の休息にして、 死は永時の休息なり。  ゆえに、 もし永く休息せんと欲せば、 よろしく死の来たるを待つべし。  これを要するに、 生きてはよく働き死してはよく休むは、 実に天理天則の命ずるところなり。  この働作に対する報酬は、 肉体の方にありては強健、 精神の方にありては快楽なり。 世にいわゆる職業の楽とは、  この快楽をいうなり。


二)   死後の記念碑

近来都郡の別なく、  上下一般に建碑の挙やや流行の傾きありて、 猫もしゃ くしも死すれば必ず石碑を建てんとす。 余おもえらく、 石碑に二種あり、 死的石碑と活的石碑なり。 しかして、 世間のいわゆる石碑は死的石碑なり。 もし人、  一代の間に一事業を成すを得ば、 その事業こそ真に活的石碑というべけれ。  すでに活的石碑あれば、 なんぞ死的石碑を建つるを要せんや。 余は活的石碑を建てんと欲し、 専心一意、 学校事業に尽痒す。 しかして死的石碑のごときは、 余が今より遺言して禁止するところなり。

 

( 一〇 三)活きたる巌経

 石碑に死的、 活的の二種あるがごとく、 蔵経にもまたこの二種あり。 昔時、 宇治黄業山の鉄眼禅師、 蔵経六千巻を刻せんと欲し、 その資を天下に募りしに、 たまたま飢饉に会し、 既集の財を散じて救助に充てり。 再び資を募りてまた飢饉に会し、 ことごとく救済に投ぜり。 三たび資を募りて、 はじめて蔵経を刻成せり。 福田行誡師これを評して曰く、「鉄眼は、  二度活きたる蔵経を作り、  一度死したる蔵経を作れり」と。 この評、 誠に味あり。

 

(一〇四)日本人の口よく国をのむに足る

 余、  一日杉亨二翁を訪い、 談統計のことに及ぶ。 翁曰く、「一人の口の横径二寸と仮定すれば、 全国民の口の大は驚くべきものなり」と。 余、 帰りて推算するに、 日本の人口四千三百万人として、 これに口径二寸を乗ずれば、 総計六百六十三里となる。 もし口径を一寸と見ても、 三百三十余里となる。 しかして、 日本の地幅は百里より広からず。  ゆえに、 三百里以上の大口をもってこれに向かえば、  一国全体を一口にのみ込むことを得べし。 果たしてしからば、 国を興すもほろぼすも、 口の動かし方にありといいて可なり。  これをもって、 諺に「  禍  はロより起こる」とあるを知るべし。


一〇五)  呼吸のカ

人の呼吸の力、  一人平均十匁の物を吹き飛ばすことを得るとすれば、 全国四千三百万人の一呼の力、  一時に四億    千万匁を吹き飛ばすことを得る割合なり。 もし、  一人の目方平均十貫目とすれば、  一時に四万三千人を吹き飛ばすことを得るに当たる。  この割合にて算すれば、 千回の呼吸によりて、 日本国民全体を吹き飛ばすことを得る理なり。  これによりてこれをみるに、 元寇のとき国民の精神よく天候を変じ、 神風を招き起こせしは、 自然の理なるを知る。


(一〇六)   大学の数

ドイツには二十一大学あり、 オランダには四個大学あり、 日本には現今二個大学あり。  オランダはその面積といいその人口といい、 わが国の九州より小なり。 もし、 オランダの割合をもっ て算すれば、  日本に五十個以上の大学なかるべからず。 とにかくわが国も、 今より続々大学を増置することをつとめざるべからず。


一〇七)  図書館の書数

仏京パリ府の図書館には蔵書二百五十万冊ありて、 その書函を一線に配列するときは、 三十五マイルの長さに達すという。 もし、 平面に配列して畳一枚に四十五冊を置くべしと仮定するに、 五万五千五百五十六枚敷きの大座敷を要するなり。  これに比するに、 わが帝国図書館はその十分の一にも過ぎざれば、 今より大いに図書館を拡張せざるべからず。

 


(一〇八)   地動説

「近聞寓筆」に、 西洋にさきだちてシナに地動説の起こりしことを示し、 地つねに動きてやまず、 たとえば人舟にありて座し、 舟行きて人覚えざるがごとしと。  このこと「尚書緯」に見ゆ。 その書は漢の哀平の際に出ず。ゆえに、  シナの方その説古しという。


(一〇九)   読書法

人の寿命は限りありて、 読むべき書籍はほとんど無尽蔵なり。  ここにおいて、 読書の便法を工夫せざるべからず。 余はその一法として、 細読、 略読の二法を用うるを必要となす。 例えばここに一巻の書あるに、 全部必ずしも有益なるにあらず。  ゆえに、 まず略読法によりて、 平等に全巻を通覧し、  さらに細読法によりて、 その読みて最も益ありと認むる点を特別に熟読するを要す。 細読のときには、 毎行字々句々を追いて読み、 略読のときには、 紙面全体を一時に見渡して読むなり。  この略読法は、 多少の習練を積まざるを得ず。 余、 数十年の経験によりて、 ようやくその法に熟達するを得たり。 その稽古としては、 毎朝の新聞紙を用うるを可とす。 もし、  この法に熟達しきたらば、  一時間に五冊ないし十冊の書籍を通読すること決して難からざれば、  学生輩の読書に欠くべからざる要法なりと信ず。

記憶術

読書に要するものは、 略読法のほかに記憶術なり。 しかれども、 近年世間には記憶術新発明などと吹き立つるものは、 実際修学上に益あるものにあらず。 先年、 名古屋市内の少女にて、 篭も文字を解せざるもの、 よく人の言うところを記憶し、 なかんずく事柄の順序を誤らざるように記憶しおるに、 人々みな驚けり。 よって、 ある人「なにかこれに秘術ありや」とたずねたるに、 少女答えて曰く、「自分の住居せる町内の家に、 いちいち結び付けて覚ゆるのみ。 そのほか別に秘法あるにあらず」と。  これ、 いわゆる記憶術なり。 己の住する町内は、 戸ごとによくその姓名、 家業等を記憶しおるをもって、 人より聞きたる第一事は町内の第一家に結び付け、 第二事は第二家に結び付け、 ないし第五、 第六と順次に記憶するなり。 例えば、 第一に記憶すべき事柄は雪、 第二は月、 第三は花と仮定するに、 町内の第一家は酒屋、 第二家は蕎麦屋、 第三家は染め物屋ならば、 はじめに酒を飲みて雪の寒をしのぐと結び付け、  つぎに信州〔長野県〕の名物は蕎麦と月として覚え    つぎに花色染めとして記憶するの類なり。  世間にて記憶法と称するものは、 大抵この法と同一の組み立てにして、 いずれも健全なる記憶法にあらず。 しかして健全なる法は、 心理学の道理にもとづきて組み立てたる精神修養の方法によらざるべからず。

 

(一二一 )記憶の間違い

 人の記憶は、 多く発声または事柄の相似たるものを取りて、 これに結び付くるを常とす。 例えば、『大学』に「邦畿千里」とあれば、「 第 の長さ千里あり」として記憶し、「論語」に「閃子寮」とあれば、「饗の毛の長さ四間あり」として記憶し、「古文真宝』に「屈原すでに放たれて」とあれば、「屈原が鼻を垂らして」と記憶するの類なり。  これを連想的記憶法と名づく。 日本人が英語を学び、 西洋人が邦語を学ぶに、 発声あるいは事柄の連想あるものは記憶しやすきも、 全くこの法にもとづく。 例えば、 西洋人が日本に来たり、 ひとたび聞きてただちに記憶し得るものは「オハヨウ」の語なり。  これ、 米国にある州名および都府の名と同じければ、  これに結び付けて記憶するによる。  しかるに、  この連想的記憶法は往々大なる間違いを生ずることあり。 例えば、 ある西洋人が早朝起き来たりて日本人に向かい、「ニュー ヨー ク」「ニュー ヨー ク」といいて挨拶したりという。 また、 ある人の話に、 昔時一人の学生が英語を学ぶに    イクセプションを訳して「トリノケ(取りのけ)」と教えられたるを誤り、 後に「シャ モノケ」として記憶しおれりと聞けり。  ゆえに、 連想的記憶には多少の注意を要するなり。


(一二二)  連想的記憶の奇談

某紳士、 ドイツ・ベルリン府に遊び、 往来の馬車を呼ぶに、  その国語にて「ドロシケ」というを聞きて、 わが国語の泥助に似たりと思いて記憶し、 後に自ら馬車を呼ぶに誤りて「雲助、 雲助」といいたりと。 ある人これを評して、 世のいわゆる雲泥の相違とはこのことなりといえり。


(一二三)  知力養成法

児童の遊びに古来、 知恵の輪、 知恵くらべ、 判じ物、 考え物等あるは、 多少知力を養成するに効力なきにあらず。 ただ今日にありては、 旧来の法に修正改良を加うるを要するなり。 左に二、 三の考え物を掲ぐ。

朝顔へつく根切虫ということ、 鳥三羽にて考うべし。 答え    鳩鶴 鴻 (葉と蔓枯らす)

灯火ある所へ頭つき出だすというを、 立木つにて考うべし。答え    欅 (毛焼き)

宰相はだかで虎の頭を取る。答え    皿


深山路や深山かくれて清む犬の一声。 答え    茶碗

余思うに、 児童の遊びに右のごとき考え物を授くるは、 多少知力教育の助けとなるべし。

(    二四)  数学思想

余、 幼時郷里にありて、 左の問題を聞き、 答案を工夫したることあり。

ここに一升樽に一升の酒あり。  これを五合ずつに分かたんと欲するに、 五合桝なく、 ただ七合桝と三合桝あるのみ。 しかるときは、 いかにして五合ずつに分かつことを得るや。

これ、  おもしろき問題なり。 その法、 第一に、  一升樽の酒を七合桝の方に移すべし。 しかるときは一升樽に三合だけ残るべし。 第二に、 三合桝をもって七合桝の酒を両度一升樽の方へ移すべし。  しかるときは七合桝の方に一合残り、  一升樽の方に九合あるはずなり。 第三に、 その九合を七合桝に移すべし。 しかるときは一升樽に二合残りて、 三合桝には元のごとく一合あるべし。 第四に、  この三合桝の内に七合桝の酒を移して満たさしむるときは、  七合桝には五合残り、  一升樽には二合あること元のごとし。  このとき三合桝の酒を一升樽に移せば、  これまた五合となる。  これと同一の問題にて、  四合桝と七合桝とをもって一升樽の酒を両分する問題あるも、 右に準じて知るべし。 かくのごとき問題は、 多少数学思想を養成する一助となるなり。

 

(二五)能弁術

 言語は思想を表顕する要具なれば、 能文の法を講ずると同様に、 能弁法をも講ぜざるべからず。 しかるにわが国において、 いまだ能弁法あらざるは一大欠点なり。 余おもえらく、 小児のときに、 舌端にて言いにくき言語を習わしむる戯れあり。  例えば、隣の客はよく柿くう客だ向こうの高塀にチョ ト竹たてかけた。

 右の言葉を繰り返せば、 いくぶんか口舌の動き方が自由になり、 多少能弁の助けとなるべし。

 

(二六)勝海舟翁の筆跡

 明治二十五年四月十一日、 余、 海舟翁を赤坂氷川に訪う。 翁曰く、「今日、 旧暦三月十五日にして、 昔年、 余が幕府の全権を帯び、 品川において西郷南洲〔隆盛〕らと談判を開きし日なり。 本年はまさしくその二十五年目なれば、 朝来五絶数首を作り、 もって所感を述べたり」とて、 左の文を示され、  これをそのまま余に贈られたり。

〔四〕

明治廿五年四月十一日乃値二慶応 三 年戊辰三月十五日一 経>年実廿五年突、 回二想当時情形一 全都鼎沸殆如ーー乱麻一 此日余到二品川牙営一 就ー参謀諸士ー有盗び論、 而西郷村田中村数氏皆既為ーー泉下之人一 余独以老朽無用之身一瓦全至二子今    後事之不缶?思議一者如>此、 頗不>勝二懐旧之情一 因得ー絶ー   句若干首戊辰進撃曰、 三月十五日天、 蝸牛角上闘、 転>瞬廿五年。 八万幕府士、 罵>我為ーー大奸{  知否奉天策、 今見全都安。   参軍勿>嗜>殺、 嗜>殺全都空、 我有二清野術{  倣>魯破一那翁官軍逼>城日、 知>我唯南洲、  一朝若機誤、 百万化二憫悽

(明治二十五年の四月十一日はすなわち慶応四年戊辰三月十五日にあたる。 歳月を経ること実に二十五年である。 当時の情勢を回想すれば、 全都は鼎の沸くがごとく、 ほとんど乱麻のごときありさまであった。  この日、 余は品川の屯営に至り、 参謀の諸士と論議したのであったが、 西郷・村田・中村の数氏はみなすでに泉下の人となり、 余のみ老朽無用の身となって、  かわらけのごとく役にも立たぬものとなって、 安全さを保ち今日に至っている。 後の事柄の不可思議とはかくのごときものであろう。  いますこぶる懐旧の情にたえず、 よって絶句若干を詠んだ。戊辰進撃の日は三月十五日であった。  かたつむりの両触角の争いのようなつまらない闘いも、  またたくうちに二十五年を経たのである。八万の幕府の武士らは、 私を大奸物と罵しるが、 彼らは天命に従う策を知っていたのであろうか、  いまや全都が安全を保ったことを見るのである。

参軍たちよ、 殺戦をこのむなかれ、 殺戦をこのめば全都に人の姿はなくなるであろう。 我には敵に利用させないために作物も人家も取り除いておく戦術があった。  それはあたかもロシアがナポレオンを破ったかのごとくにである。

官軍が城にせまった日、 我が真情を知るものはただ西郷南洲のみであった。  ひとたびその時機を誤まれば、百万の民は獨悽と化していたであろう。)

余、 これを表装して書斎に掲げ、 朝夕これをみるごとに、 翁に謁するの思いをなす。