2. 仏教大意

P239

  仏教大意 

 

 

1. 冊数

   1冊〔他の4編と合わせて出版された〕

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   213×143mm

3. ページ

   総数: 59

   本文: 59

(巻頭)

4. 刊行年月日

   不明。ただし, 『仏教普通科講義』(第1冊,明治32年4月8日)に1~8ページ分が掲載されているので,このころと推測される。

5. 句読点

   あり

       第一回 緒 論

 古来仏教に無量の門ありと称して、大乗の大門もあれば小乗の小門もあり、三乗の横道もあれば一乗の本道もあり、顕教の表口もあれば密教の裏口もあり、聖道の陸路もあれば浄土の水路もあり。もしその大数を挙ぐるときは八万四千の法門ありという。けだし仏説がかくのごとく多岐多端に分かるるは、われわれ人類の気質根性がまちまちにして、利巧のものあり、愚鈍のものあり、学者あり、無智あり、十人十色なること、あたかも面貌の異なるがごとし。しかして仏はこの種々様々の気質に相応せる法を説かれたるものなれば、種々様々の法門あるべきはもちろんなり。もしわれわれの気質に八万四千種あれば、その法にも八万四千種あるべし。かつ仏は自ら大医王と称して一切衆生の病を治せんと欲してその法を説かれたりという。そもそも我人の病に内外の二種あり。外病は身病にして、内病は心病なり。しかして仏教は心病を治する法なれば、その教を名付けて応病与薬の法となす。かくして一薬をもって万病を治することあたわざるゆえんを知らば、たちまち仏教に無量の法門あるゆえんを知るべし。

 かくのごとく法門いかに多岐多端に分かるるも、その源、一仏の金口(こんく)より発したるものなれば、一味にして二致あるべからず。故に仏書中にたとえば金杖を折るがごとく、段々みな真金なりと説きて、黄金よりなりたる棒は、いかに粉微塵に砕き去るとも、粉末いちいちみな黄金なるがごとく、大数八万の法門はいちいちみな真理にして、古語にいわゆる一もってこれを貫かざるはなし、仏学を研究するものは必ずまずその一貫せるところを知らざるべからず。それ扇子には要目(かなめ)ありてこれを一貫し、人獣には心髄ありてこれを一貫するがごとく、仏教にもまたこれを一貫する要目となり神髄となるものあり。これをなんと名付くるや。曰く、真如という。真如とは、真は真実を義とし、如は如同あるいは如常を義とし、その体、真実にして常住不変なるの謂(いい)なり。もし真如の体はなにものにしていずれに存すやを問わば、わが心すなわち真如なりと答えて足れりとす。換言すればわが心の本体すなわち真如にして、この心の外いずれに向かいて真如を求めんや。故に真如の一名を法性とも唯心とも一心ともいう。これによりてこれをみるに、仏教の第一原理にして根本の道理たるものは、真如の一心なること明らかなり。故に余は左の一比例を作る。

  仏教の真如(もしくは一心)におけるは、なおヤソ教の「ゴッド」におけるがごとし。

 ヤソ教中より「ゴッド」を抜き去らば、ヤソ教たちどころに倒るるがごとく、仏教中より真如を除き去らば、仏教は死灰枯木とひとしかるべし。換言すれば仏教は真如教なり、真如為体教なり、真如為本教なり。しかるに仏者ややもすれば、仏教は仏すなわち仏陀をもって根本の原理となすこと、あたかもヤソ教の「ゴッド」におけるがごとし、というものあり。かく解するときはかえって人をして惑わしむるのみ。すでにその名を仏教と称する以上は、いずれの宗旨も成仏を目的とせざるはなしといえども、成仏そのことは真如に体達同化する意に外ならず、真如を離れて成仏を説くべからず。たとえわれにてもかれにても、権助にても三助にても、いやしくもその心に真如の本性を開顕しきたらばみな仏にして、権助如来もできるべく、三助大菩薩もあるべき理なり。これをもって仏には色々様々あり。三世(過去、未来、現世)十方(八方上下)の諸仏を数えきたらば、百や千どころでなく、実に無数無量なるべし。もし真如を「ゴッド」に比すれば、仏はややヤソ教の神の子もしくは神の使いに当たるもののごとし。故に余はまず真如のことを述ぶべし。

 真如は世界万物の本性実体にして、物も心もわれも人もみな真如の一滴一分子なり。仏書に真如即万法、万法即真如と唱うる一個の格言あり。そのいわゆる万法とは万物万類を総称したる語にして、宇宙間に存する一切の事物のことなり。その事物と真如と同体不離なる関係を示して、真如即万法、云々と唱えきたれり。かくして真如を海に比し、万法を波に比して真如即万法なるは水即波なるがごとく、万法即真如なるは波即水なるがごとしという。かつ世界の万物万類は「ゴッド」の造出せるにあらず、無体より現出せるにあらず、自然に存在せるにあらず、本来自存自立せる真如の体ひとたび動きて万法の波を現じたるものとなす。あたかも大海の水動きて千態万状の波を現ずるがごとしという。これ仏教とヤソ教と大いに異なるところにして、もしその別を簡単に表示すれば左のごとし。

  ヤソ教は世界の外に「ゴッド」の実在を立てて、万物みなその創造工夫より出でたるものとし、仏教は世界の内に真如の実在を立てて、万物みなその活動開発より生じたるものとす。

 故にヤソ教にありては「ゴッド」は世界の本源ということを得るも、実体というべからず、仏教にありては真如は世界の本源にしてかつ実体なりということを得べし。またヤソ教にては世界の外に「ゴッド」あり、我人の外に「ゴッド」ありと唱うるも、仏教にては世界も我人もその体みな真如なれば、世界の外に真如なく、我人の外に真如なしと唱うるなり。しかしてこの真如を解するに、およそ二様の釈義ありて、その一は真如をもって不可称不可説、不可思議にして言語のよく表するところにあらず、思慮のよく知るところにあらず、いわゆる言亡慮絶、廃詮断思と説きて、なんともかとも名状すべからざるものとなす。これを離言真如という。古来「真如とはいかなるものと人問わば墨画にかきし松風の音」といえる歌あるは、この離言真如を詠じたるものなり。もし真如は果たして墨画における松風の音と同じく、目もって見るべからず、手もって触るべからず、耳もって聴くべからざるものならば、これをありとするは全く空想にして、なおなしというに異ならざるべし。しかるにまた離言真如に対して依言真如あることを説き、真如は言語をもって表示し、思慮をもって想出することを得となす。何故に一体の真如に離言、依言の両解あるやと尋ねるに、なお一物に表裏両面あるがごとく、その表面には可知的の現象を示し、われもかれも権助も三助も、みな真如の一分子なりとする以上は、もとより我人の語言思想にて真如の状態をえがきあらわすことを得る道理なり。しかしてその裏面には広大無辺、甚深微妙の本性を具し、その体よく万物を包括し、宇宙に遍在して、我人の智力の到底及ぶところにあらず。すなわち不可思議なり、不可知的なり。これをたとうるに宇宙の体の可知的にしてかつ不可知的なると同様なり。目前の山河草木はみな宇宙の現象なれば可知的なるに相違なきも、その全体を挙げて言うときは時間の限りなきがごとく、空間のかぎりなきがごとく、広大無辺にして知り究むること難ければ、これを不可知的といわざるを得ず。今真如もこれと同じく、その一部分をとりていえば可知的なれども、その全体についていえば不可知的なり。かくして可知的の表面にありては依言真如といい、不可知的の裏面にありては離言真如という。もしこれを依言真如に寄せて説くときは、真如遠きにあらず、わが心すなわち真如なりとして解すれば、たやすく人をしてその意を了せしむべし。故に余はこれより真如とわが心との関係を述べんと欲す。

 真如は世界万物の本源実体なれば、日月も山河もみな真如たるに相違なきも、仏教はこれをわが一心の中に納めて三界唯一心と説き、世界万物はみな心より現出し、心の上に存立すという。これを唯心説と名付く。故に真如はそのいわゆる唯一心の体なれば、その一名を一心というなり。かつまた仏教にて真如は世界の本体なることを証明するに、まず目前の万物はみなただ心の所現と唱えて、あらゆる事物をひとたびことごとくわが心中に帰して三界唯一心と説き、万法即真如と立つるに至る。故に真如を解してわが心なりと称して可なり。ヤソ教にては神父と神の子との一体なることを説くがごとく、仏教にては真如とわが心との一体なることを説く。実にわれわれの心門は権助の心、三助の心に至るまで、みな真如の実相をうかがい知るところの望遠鏡なり、顕微鏡なり。しかれどももしその鏡面明らかならざるときは、真如の実相を浮かぶることあたわず、なお濁水に月影を浮かぶること難きがごとし。故に水に清濁の別あるがごとく、心に染浄の別あるを知るべし。そのいわゆる染心とはわが心の濁りて明らかならざるをいう。これを煩悩の迷いと称す。もしその迷いを去りて本来清浄の心性を開顕するに至れば、これを菩提の悟りと称す。煩悩は迷いの体にして、菩提は悟りの体なり。あるいはその迷いを生死の迷いといい、その悟りを涅槃の悟りという。生死とはあるいは死しあるいは生まれ、生死浮沈窮まりなき有様にして、仏教にては迷うが故に生死ありとなす。故に生死は迷いの結果なり。これに反して涅槃は梵語、訳して滅度、寂滅、あるいは不生不滅といい、生死の縁を離れたる体なり。もし古来の解釈によれば、真如の理を涅槃といい、これを証得する智を菩提という。故に菩提も涅槃も真如を離れて別に存するにあらざるはもちろんなり。ただにしかるのみにあらず、煩悩も生死も真如の外に別に存せずとなす。故にその関係を示して煩悩即菩提、生死即涅槃という。これを要するに真如をわが心とするときは、この心の不明不浄なる方につきて、あるいは煩悩、あるいは生死と説き、この心の明白清浄なる方につきて、あるいは涅槃あるいは菩提というの別あり。換言すれば染心と浄心との別なり。これにおいて真如そのものを解するに、また両様あることを知らざるべからず。そのいわゆる煩悩と菩提、すなわち染心と浄心とを合してこれを真如とすることあり。これ絶対的の見解というべし。また浄心の方のみを真如と称することあり。これ相対的見解というべし。たとえば氷と水との二者につきて、氷の体すなわち水なれば、氷も水も共に水と称することを得ると同時に、また水は水にして氷にあらずと称すると両様あるがごとく、あるいはまた雨天と晴天との二者につきて、晴雨を合して天気と称するときと、晴天の方のみを天気と称するときとの両様あるがごとし。たとえば人に向かいて今日は晴天なりというべきを、今日は天気なりというを見て知るべし。

 以上述ぶるがごとく、仏教のいわゆる本尊あるいは「ゴッド」に当たるべきものは真如にして、真如はすなわちわが心なれば、この心を離れて仏教なしと称して可なり。しかるにその心に染浄迷悟の別あれば、染を転じて浄となし、迷を去りて悟を開くが実に仏教の目的にして、これを転迷開悟という。しかしてこの目的を達するには必ず一定の規則によらざるべからず。その規則とは因果の規則にして、宇宙間の一事一物ことごとくこの規則に従わざるはなし。故にこれを真如固有の規則と称して可なり。しかれども真如そのものは不生不滅、不変不化なれば因果の規則に支配せらるるにあらずして、真如活動してこの世界万物を現示するに当たり、その一変一化必ずこの規則に従うをもって、これを真如活動の規則と解して不可なかるべし。しかしてこの規則に善悪の別ありて、迷より悟に進む方につきて善因善果を説き、悟より迷に降りる方につきて、悪因悪果を説く。けだしその善とは真如の道理に随順するを義とし、その悪とは真如の道理に背戻するを義とす。もしこれを一心の上につきていえば、染心の方に悪因悪果を説き、浄心の方に善因善果を説くと称して可なり。かくのごとく仏教は徹頭徹尾因果の規則を応用するをもって、これを一名因果教といい、あるいは因縁教という。因は親因と熟し、縁は疎因、あるいは助因と解して、直接に果を生ぜしむるものを因といい、間接にこれを助くるものを縁という、たとえば草木の種子は因にして、雨露日光は縁なるがごとし。この因と縁との二者相合して生ずるものを果とす。これを要するに、仏教は因果の規則を離れて説くべからざるは、なおヤソ教にて神意神命を離れてその説を立つるべからざるがごとし。けだしヤソ教においては我人の善悪賞罰はすべて神意神命に帰するも、仏教にありては因果の規則に帰し、われを賞するものもこの規則にして、われを罰するものもこの規則なりとす。これ仏教とヤソ教との異なる要点なり。

 以上述ぶるところにつきて、仏教とヤソ教とを比較するに、

  仏教の真如はヤソ教の「ゴッド」のごとく、そのいわゆる心性はかれの神の子、もしくは精霊のごとく、そのいわゆる因果はかれの神意神命のごとし。しかしてそのいわゆる仏は神の使いのごとし。

 かくして我人の心性の体は真如にして、真如の実在を知るはこの心によるものなれば、仏教の理論の方は全くわが心を本とし、これを応用するに当たりて因果の規則による。しかしてその理論は仏教中の哲学に属する部門にして、その応用は宗教に属する部門なれば、哲学門にありてはわが心を本とし、宗教門にありては因果を本とするを知るべし。要するにこの心とこの規則とは仏教を組織する柱礎にして、よくこの二者を明らかにすれば、仏教全体の教義宗意を明らかにするを得べし。故に仏教大意を知らんと欲するものは、まずこの二者の要領を知らざるべからず。

 世人ややもすればヤソ教は解しやすく信じやすく、仏教は解し難く信じ難しと評するものあれども、これ全く仏教を知らざる盲評のはなはだしきものなり。余今この二教を比較して論ずべし。ヤソ教にて立つるところの「ゴッド」は目にて見るべからず、耳にて聴くべからず、手にて触るべからず、その住するところの天国は遠くしていずれにあるを知るべからず。これをありとするは全く空想にして、これをなしとするはかえって事実なり。かかる空想無実の神が天地を創造し万物を主宰すると説くがごときは、実に桃太郎の昔話に類するものにして、いやしくも正確なる智見を有するものだれありてか、これを信ぜん。もしその創造主宰の献立塩梅に至りては奇々怪々を極め、大々的怪物ありて大々的幻術を行うものと称せざるを得ず。また人間の善悪賞罰はみな「ゴッド」の意思命令に出づとなすがごときは、空想に空想を重ぬるものというべし。いやしくもことの理非を弁ずるもの、だれかこれを首肯せんや。畢竟するにヤソ教の所談は解し難く信じ難しといわざるべからず。これに反して仏教の根本的原理は我人の有する心に外ならざれば、だれびともその存在を確信してすこしも疑わざるところなり。否たとえ疑わんと欲するも決して疑うべからざるところなり。元来心そのものは見るべき形なく触るべき質なしといえども、我人の一挙一動、一言一笑、みな心の現象に外ならざれば、だれかよくその実在を否定せんや。また人の善悪賞罰はことごとくこれを因果の道理に帰するものなれば、だれかよくその道理を否定せんや。けだし宇宙間に疑わんと欲するも到底疑うべからざるものは因果の規則なり。これを真理と称せずしてなにをか真理といわん。今仏教はその真理に基づきて賞罰を論ずるものなれば、ヤソ教の神意神命に帰するものとは決して同日の沙汰にあらざるなり。仏教の信じやすく解しやすきこと、かくのごとし。左に表を掲げてその別を示すべし。

  ヤソ教の「ゴッド」と神命とは目前の事実にあらずして空想なり、疑うべし、信ずべからず。

  仏教のいわゆる心と因果とは空想にあらずして事実なり、信ずべし、疑うべからず。

 これをたとうるに仏教は白昼に太陽を見るがごとく明々白々なり。ヤソ教は暗夜に狐火を見るがごとく幻々怪々なり。仏教の説くところみなかくのごとし。しかるに世人仏教を目して幻々怪々となすは、もとより仏教を知らざる盲評なるに相違なきも、従来仏学者が神怪的秘密的に教理を解して、世人をしてうかがうことを得ざらしめたるによらずんばあらず。果たしてしからば仏学者もまた罪なしというべからず。故に余はこれより仏教の道理をだれにも解しやすく信じやすきように説明せんと欲するなり。

       第二回 総 論

 およそ世界に死物と活物との二類ありて、死物は自ら成長発育する力を有せざるも、活物は細草小木といえども必ず発育の力を有す。今仏教は余をもってこれをみるに、死物にあらずして活物なり。その発育はあたかも草木の一個の種子より千枝万葉を開発するがごとし。すなわち釈迦牟尼仏、在世間の説法はまさしくその種子もしくはその茎幹にして、その後百余年を経てようやく分派し、ついに数十部に分かれ更に千余年を過ぎてインドよりシナに入り、数宗数派を分立するに至り、その後シナより三韓を経てわが日本に伝わり、また諸宗諸派の分流をみるに至れり。これを仏教の発達となす。左にその発達の順序を一言すべし。

 教祖釈迦牟尼仏の伝記は別にその書多ければここに略す。ただ仏は雪山の南、恒河の畔(ほとり)なる中天竺、迦毘羅衛国の王宮に生まれ、浄飯王の子にして、初め悉多太子と称し、将来王位を継ぐべき身なりしも、一九歳のとき一朝人生の無常を感じ、奮然志を立てて深夜王宮を逃れ出て、遠く山中に入り、苦行六年もしくは一二年の久しきに及べり。かくして三〇歳のとき、二月八日の暁天、菩提樹下に端坐し、豁然として大悟せられたりとなす。これを十九出家三十成道という。これより八〇歳までの間五〇年間、諸方を歴遊して説法化導せられたり。これを仏一代五〇年間の説法という。その説法を通常左の五時に分かつ。

   第一時 華厳

   第二時 阿含

   第三時 方等

   第四時 般若

   第五時 法華および涅槃

 この五者はみな経文の名にして、第一時の『華厳経』は仏成道ののち三七〔さんしちにち〕日間の説にして、大乗教の極意を示されたるものなり。第二時の『阿含経』は一二年間の説にして小乗教なり。第三時の『方等経』は、あるいは説時定まらずとなし、あるいは一六年間となす。これ大小両乗に通ず。第四時の『般若経』は、あるいは三〇年間とし、あるいは一四年間とす。これ大乗経なり。第五時の『法華経』は八年間、『涅槃経』は一日一夜の説にして、共に大乗の最上たり。この五時の次第は仏化導の階段にして、浅より深に及ぼし、卑より高に及ぼす順序なり。なお従来の漢学にて、最初に『大学』『中庸』を教え、つぎに『論語』『孟子』を教え、つぎに『五経』、つぎに『文選』を教えたるがごとし。法華、涅槃はすなわち仏教のいわゆる文選なり。けだし大乗と小乗とは大なる乗物と小なる乗物との義、もしくは大なる人の乗物と小なる人の乗物との義にして、その乗物に乗じて到達する目的地は涅槃の楽岸に外ならず。要するに小乗は仏教中の浅近の部分にして、大乗は深遠の部分なり。しかるに仏最初に華厳を説かれたりしは、初学の輩に大学中庸を教えずして、ただちに文選を読ましむると同様なれば、これを聴くもの一人もその意を解することあたわざりきという。これにおいて仏は小乗浅近の法より次第に開導して、深遠なる大乗に及ぼすの階梯をとれり。これを仏の方便という。しかるに世間にては、方便を解して詐偽詐術によりて愚民の信仰を釣るがごとき拙劣なるものとなす。これ大いなる誤解なり。仏のいわゆる方便はかくのごとき邪方便、偽方便というにあらずして、正直方便、真実方便という。もしこれを草木の種子に比すれば、最初の華厳は仏教の種子にして、その中には小乗の枝葉も大乗の花実も共に存するに相違なきも、第二時にはまず小乗の枝葉を現し、第三時、第四時に至りて始めて大乗の花を開き、第五時に至りてまた最初の華厳にひとしき大乗の最上たる法華、涅槃の花実を結ぶに至るがごとし。これを仏在世間の発達となす。かくして成道以来五〇年間に、小乗、大乗を漸次に開説して、八〇歳二月一五日に入滅せられたり。これを釈迦の涅槃という。涅槃とは不生不滅の世界を称する語なれば、釈迦の涅槃とは生滅界を去りて不生不滅界に入りしをいうなり。

 仏入滅以後における仏教の発達はまた草木の発育のごとく、在世五〇年間の説法はあたかも草木の種子のごとく、その中にはもとより小乗の枝葉も大乗の花実も共に存せしに相違なきも、発育の順序として最初に小乗の開発せるをみる。すなわち仏滅後四〇〇年間は小乗教ひとり盛んなりという。そのうち初め一〇〇年間は小乗の宗派いまだ分かれずして一味の法を流伝せしも、百余年を経て異論初めて起こり、上座大乗の二部相分かれ、その後上座部より一一部を分かち、大衆部より九部を出し、合して二〇部となれり。かくして四〇〇年を過ぎて五〇〇年に至れば外道大いに興りて仏教まさにその光を絶たんとするに至れり。六〇〇年のとき馬鳴始めて大乗を説き、七〇〇年に至り竜樹また大乗を弘め、九〇〇年に及びて無著、世親の両師世に出て盛んに大乗の諸論を著し、大乗の法にわかにインド全国に流布するに至れり。しかして当時いまだ大乗の分派をみざりしが、仏入滅後一一〇〇年を過ぎ護法、清弁の二師ありて互いに異見を述べ、ついで戒賢、智光の両師ありて互いに異説を闘わし、ついに大乗中に宗派を分かつに至れり。その二宗は瑜伽(ゆが)宗および中観宗にして、今日のいわゆる法相宗と三論宗なり。その他の諸宗は多くシナに入りて分立せり。すなわち毘曇、成実、律、三論、涅槃、地論、浄土、禅、摂論、天台、華厳、法相、真言の一三宗はシナにて開立したりし宗旨なり。その後日本に伝わりしものは『八宗綱要』によるに倶舎、成実、律、法相、三論、天台、華厳、真言の八宗なれども、これ古代の宗名にして現今の宗派にあらず。しかして現今の宗派は法相、華厳、天台、真言、臨済、曹洞、黄檗、浄土、真宗、融通念仏、時宗、日蓮、律の一三宗なり。もしこれに各宗所属の分派を合算すれば総じて三十余派の多きに及ぶ。かくのごとく、最初一味一途の宗旨が時の移り国の異なるに従って、多岐多端に分かれたるは仏滅後の発達にして、なお一根の草木より枝葉を分出するがごとし。故にその諸宗諸派の中心を一貫する神髄あることは、決して疑うべからず。

 およそ世人が仏教を評論するに二様あり。一は曰く、仏教は宗教にして哲学にあらず、一は曰く、仏教は哲学にして宗教にあらずと。余をもってこれをみるに、この二論共に偏見たるを免れず。しからば仏教は哲学にもあらず宗教にもあらざるか。曰く、否。余おもえらく、

  仏教の一半は哲学にして、一半は宗教なり。

もし哲学の部分にありてこれをみれば、仏教は哲学の道理を実際に応用したる宗教なりといわざるべからず。故に、

  哲学は原理にして、宗教は応用なり。

と称せざるを得ざるも、もし宗教の方面よりこれをみれば、

  宗教は目的にして、哲学は方便なり。

と定めざるを得ず。これを要するに、仏教は哲学と宗教との両区域にまたがるものなり。しかるにその一方をとりて互いに相争うがごときは、あたかも甲州人は富士山を指して己の国の山なりといい、駿州人は己の山なりといいて、互いに相争うがごとし。これ識者の大いに笑うところなり。

 古来仏教を分類して小乗、大乗の二種とし、更に大乗を分かちて権大乗、実大乗の二種とす。今余はこの分類に従って仏教全体を小乗、権大乗、実大乗の三類となし、これを有、空、中の三宗と名付け、左のごとき配合をなさんとす。

  仏教 有宗(小 乗) 倶舎宗

             成実宗

     空宗(権大乗) 法相宗

             三論宗

     中宗(実大乗) 天台宗

             華厳宗

             真言宗

 しかるに、この三宗は理論を本とするものなれば、余はこれを理論宗と名付く。これに対して禅宗、浄土諸宗、日蓮宗は実際を本とするものなれば、余はこれを実際宗と名付く。律宗もまた実際宗なり。しかしてその各宗に哲学と宗教との両面を具するをもって、余は更に哲学門、宗教門の二大段に分かたんと欲す。ただ実際宗は理論宗にて立つるところの哲理を宗教の実際に応用したるものなれば、別に哲学門と宗教門との二者に分かつに及ばず。故に余は左表のごとき分類をなす。

  仏教 理論宗 哲学門 有宗

             空宗

             中宗

         宗教門 有宗

             空宗

             中宗

     実際宗

 かくして仏教大意の講述は全くこの順序によらんとす。しかして仏教と外道とは密接の開係あれば、最初に外道の大意を述べ、つぎに仏教に及ぶべし。

       第三回 総 論 第二

 今仏教各宗の前置きとして外道の大意を述ぶる前に、あらかじめ左の諸題につきて一言するを要す。

  第一 仏教と外道との関係

  第二 理論宗と実際宗との関係

  第三 哲学門と宗教門との関係

  第四 真如と万法との関係

  第五 仏陀と衆生との関係

  第六 小乗と大乗との関係

  第七 有空中三宗相互の関係

 まず第一に外道と仏教との異同を述ぶるに、理論上にありては外道は有神論もしくは客観論にして、外界物心の実在を唱うるものなり。これを仏教にては実我論および実法論となす。実我論とは吾人の心中にわが身体を主宰指揮する一物ありて実在せるを唱うる論にして、実法論とは万物の本体がわが心を離れて実に存在すと立つる論なり。しかるに仏教はこれに反して唯心論もしくは主観論にして、世界万有はみなわが心より現出し、心を離れて別に実在するにあらずという。これによりて吾人を主宰する一種の我体も万有の本体たる法体も共に空なりとなす。これを要するに、外道は実我実法論にして、仏教は我法二空論なり。そのいわゆる我空は仏教の人間観にして、法空は世界観なり。また外道と仏教との別は、前者は邪見にして正因正果を立てず、後者は正見にして正因正果を立つるにあり等と称すれども、今ここに細論するにいとまあらず。もしまた実際上これを較すれば、外道は苦行を勧め、仏教は楽行を勧むるの別ありという。今外道の苦行の一、二を挙ぐれば、炎天に肌を日光にさらし、厳寒に身を氷上に置くがごときはいまだ苦行とするに足らず。そのはなはだしきに至りては裸体にて荊棘のとげの上に臥し、生きながら五体を火にあぶり、牛馬のごとく汚穢を食す等あり。われわれはその話を聞くだけにても身震いするほどに恐ろしく思うのに、インド人は平気でかかる苦行を勧むるは実に驚き入りたる次第なり。けだし釈尊が新たに仏教を工夫せられたるは決して偶然にあらず、外道の苦行を見て哀憐の情に堪えず、これを救わんと欲する大慈悲心より出でたりという。

 つぎに理論宗と実際宗との別を述ぶるに、倶舎宗、法相宗、天台宗のごとき理論宗はその説くところ迷を究め妙を尽くしすこぶる高尚なりといえども、これを実際に適用するに至りては迂遠なるの感あり。これに反して禅、浄土、日蓮のごときは格別の理論あらざるも、広く世人をして安心せしむる一段に至りては、はるかに理論宗に勝るところあり。これをたとうるに通俗一般の人に理論宗を勧むるは、あたかも医士が学理的衛生法を講じて、人たるものはだれもみな毎日牛乳二合、スープ一合、牛肉一斤以上を食するにあらざれば、健康長寿を保つことあたわずと説くがごとし。かくのごとき衛生法は貴人紳士に適用するを得るも、下流賎民に対してはなんらの効力あるべからず。これと同じく理論宗の理論はわずかに世間の智者学者をして解せしむるを得るも、無智文盲の輩に至りては馬の耳に念仏と同じく一言半句も解せしむるあたわず。かつ理論宗にて定むるところの仏道修行の方法は、世を捨て家を出てその一事に献身することを得る人にあらざれば、到底修むることあたわざるがごとき難行多し。故に日夜世間にありて身を役し心を労し家業に追われて寸暇を得ざるものに至りては、決して理論宗の修行の適すべきにあらず。これ実際宗の世に起こりたるゆえんなり。これを要するに理論宗は哲学上の理論を本とし、実際宗は宗教上の応用を主とし、二者おのおの一得一失あり。しかれどもこの二者あえてその体を異にするにあらず、あたかも一物に表裏両面あるがごとく、仏教の理論を実際上に移せば実際宗となり、仏教の実際を理論上に尋ぬれば理論宗となる。その理由はのちに至りて知るべし。

 つぎに哲学門と宗教門とを考うるに、これ理論宗と実際宗との関係に等しきも、前に表示せるがごとく、理論宗の下を更に理論と実際とに分かちて哲学門、宗教門の二者となしたるなり。すなわち哲学上の理論を本とする理論宗中にまた理論と実際との別あるなり。たとえば天台宗にて教、観二門を設くるに、その教門は理論にして観門は実際なり。しかしてその理論を哲学門とし、その実際を宗教門となす。

 すでに哲学門と宗教門との別を立つる以上は、各宗の哲学門に通じて一貫せる原理なかるべからず、また宗教門を貫きて一定せる主体なかるべからず。なんとなれば各宗みな一仏所説の教なればなり。かくして哲学門の問題は、

  真如と万法との関係

にして、宗教門の問題は、

  仏陀と衆生との関係

なり。しかして真如と仏陀とはその体一にして、ただ普遍と特殊あるいは平等と差別との別あるのみ。これをたとうるに真如はなお広く人間というがごとく、仏陀はなお特に王公というがごとし。王公も百姓も共に人間たるにおいては同一なるも、実際上貴賎の別あるがごとく仏陀も凡夫もみな真如なるも、実際上同一にあらず。したがって真如は平等的にして、仏陀は差別的なる相違あるを知るべし。しかして哲学門の目的は広く宇宙の真理を究むるにあれば、その目的は真如と万法との関係を明らかにするにあれども、宗教門の目的は安心得道すなわち転迷開悟にあれば、仏陀と衆生との関係を本とせざるべからず。なんとなれば仏陀は真如の一部分にして、衆生は万法の一部分なるも、宗教門の目的は衆生をして成仏せしむるに外ならざればなり。山や川や水や空気に対していかに成仏安心を勧むるも、実際上なんらの効力なきは明らかなり。しかして成仏安心は万法中生あり情ある者に限る。つぎに哲学門の目的とする真如と万法との関係を考うるに、真如は宇宙の本体にして、万法は真如の現象なり。今その二者を区別して示さば次表のごとし。

  現象 万法・・事・・事相・・相対・・差別

  本体 真如・・理・・理性・・絶対・・平等

すなわち万法の方は仏教にて、あるいは事もしくは事相と称し、真如の方は理もしくは理性と称す。もし真如を中心とし万法を外囲として示さば甲図のごとし。

 かくして外囲の万法より中心の真如に向かう方を仮に向内的と名付け、真如より万法に向かう方を向外的と名付け、真如と万法との関係に出入二門あることを示せり。これを人身にたとうれば、真如は脳髄にして、万法は四肢百体のごとし。四肢百体より脳髄に伝達する神経繊維を求心性神経といい、脳髄より四肢百体に通信する神経繊維を遠心性神経という。今向内的の一道は求心性にして、向外的の一道は遠心性なり。故に一大仏教はこれを解剖し去らばあたかも人身のごとく、肺臓もあり心臓もあり、腸胃腎肝に至るまでみな具備せるをみるべし。

 つぎに宗教門の目的とする仏陀と衆生との関係を示さば乙図のごとし。

 かくして哲学門の真如が宗教門に入りて仏陀となり、万法が衆生となりたるも、これ理論と実際とその性質を異にするによるのみ。仏陀は真如の代表者にして、衆生は万法の代表者なれば、向内的、向外的の二道あることは前図に異ならず。

 すでに前両図につきて向内的、向外的の両道あることを知れば、大乗小乗の別自ら知るを得べし。今大乗を権大乗、実大乗に分かちて、これを哲学門の上に考うれば、各宗みな哲理の程度を異にするを見、宗教門の上に考うれば成仏の範囲を異にするを見る。まず甲図につきて示さば、

  小乗は向内的の一半を説き、大乗は向内的の全部を説くの別あり。また権大乗は向外的の一半を示し、実大乗は向外的の全部を示すの別あり。

すなわち小乗は万法の上に無我の理を説きて向内の一半を示すも、いまだ真如そのものの実在を示すに至らず。権大乗は真如そのものの実在を説きて向内の全部を示し、かつ万法と真如との関係を説きて向外の一半を示すも、いまだ真如と万法と同体不離なるゆえんを説きて向外の全部を示すに至らず。つぎに乙図につきて示さば、

  小乗は向内の半途に達し、大乗は向内の全道に達するの別あり。また権大乗は向外の半途に達し、実大乗は向外の全道に達するの別あり。

すなわち小乗はその所定の修行によりて羅漢果と名付くる成果を得るも、いまだ真の仏果を得るに至らず。これその向内の半途に達していまだ全道に達せざるゆえんなり。しかるに権大乗は仏果を証得するのみならず、その証得したるものをもって衆生界を照らし、向外的の一道をも有すといえども、いまだ一切みな成仏を許さざるをもってなお向外的の半途にとどまるといわざるべからず。今更にその関係を表示すれば丙図のごとし。

 この図につきて仏教の三大宗たる有空中三宗相互の関係もまた知ることを得べし。有宗は小乗にして空中二宗は大乗なり。また空宗は権大乗にして、中宗は実大乗なり。もしその関係を哲学の用語をもって解すれば、外道は総じて客観論にして、仏教は主観論なり。そのうち有宗は一半客観論なれば、よろしくこれを客観的主観論というべし。これに対して大乗は全分主観論なれば、主観的主観論というべし。そのうち空宗は相対的主観論にして、中宗は絶対的主観論なり。しかして客観論とはわが心の外に外界万有の実在を唱うるものをいい、主観論すなわち唯心論とはわが心を離れて世界なきを唱うるものをいう。また相対的とは物心相対の上に唯心を唱うるものにして、絶対的とは真如一元の上に唯心を立つるものをいう。畢竟するに仏教の中軸を一貫せるものは真如の一理なり。その理、有宗にありてはわずかにその影を漏らし、空宗にありてはその一半を示し、中宗にありてはその全分を現す。さきのいわゆる絶対的主観はすなわち真如なり。故に有空中三宗相互の関係は全く真如の状貌いかんを考えて知るべし。たとえば有宗の真如は真如の体に衣服を着け仮面を被り、別物となりて現ずるがごとく、空宗の真如はすでに仮面を脱して真如の面目を現ずるも、いまだ衣服を脱せざるがごとし。中宗の真如は更に進みて衣服までを脱却し、全然裸体となりて現ずるがごとし。もしこの理と丙図とをあわせ考うれば、有空中三宗の関係は必ず了解するを得べし。

       第四回 外道論

 今仏教大意を講ずるに外道論を述ぶる必要なきがごときも、仏教と外道とはその間密接の関係ありしのみならず、小乗の一部には外道の説を混入するほどなれば、まず外道論より始めざるべからず。そもそも外道は仏教に対すれば全く客観論にして、宇宙万有の存立はわが心の外にあるものとす。これを仏教上より評すれば外道の人身観も世界観もみな実我論なりという。これ外道は吾人の上に彼我の別を立て、客観差別の迷見を固執するによる。しかれどもかくのごときは外面大体の批評のみ。もしその内部の事情を尋ぬるに、外道諸派中にも客観論あり主観論あり。もしこれを仏教に区別せんと欲せば、左のごとき名称を用うるを可とす。

  外道(客観論) 客観的客観論

          主観的客観論

  仏教(主観論) 客観的主観論

          主観的主観論

 まず外道の客観論にありては世界の原理を論ずるに、あるいは地水火風なりとし、あるいは極微元素なりとし、あるいは時間なりとし、あるいは方角、あるいは虚空なりとす。これみな唯物論の部類なり。また万有の本源を論ずるに、あるいは梵天の造出とし、あるいは大自在天の変体とするがごとき説あり。これみな有神論の部類なり。つぎにその主観論にありてはあえて唯心論を唱うるにあらざるも、多く物心二元論を唱うるなり。たとえば外道諸派中、尼犍子、若提子、数論、勝論の四派は古来四大外道と称して外道中の巨魁となす。そのうち数論、勝論につきて考うるに二者共に物心二元論なり。

 まず勝論は六種ないし一〇種の原理を立てて世界の成立を論ず。すなわち実、徳、業等なり。実とは体実と解し、万有の本体をいう。これに九種あり。曰く、地、水、火、風、空、時、方、我、意なり。そのうち地、水等は客観にして、我、意は主観なり。故に余はこれを物心二元論と名付く。徳とは性徳と解し、万有の本体に具するところの性質をいう。業とは業用と解し、その作用をいう。以下これを略す。要するに勝論は物心二元の和合によりて万有の現立するゆえんを説く。しかしてその論たるや仏教のいわゆる実我論なり。つぎに数論は二五種の原理を立てて世界の生起するゆえんを説く。これを二十五諦の法という。その第一諦は自性にして、これ実に世界の本体なり。しかれども自性の一諦だけにては精神界の知覚を生ずるあたわず。これにおいて第二五諦に神我の一諦あることを説く。自性は行動の足ありて知覚の目なく、神我は知覚の目ありて行動の足なく、その二者はあたかも盲者と跛者との関係のごとく、二者相待ちて始めて世界万有を現出することを得となす。その他中間の二三諦は自性開発の順序につきてその類を分かちたるものなり。すでに自性と神我との二者相よりて物心万境を現すという以上は、これまた物心二元論にしてかつ実我論なり。

 これを要するに外道の諸派は客観差別の見解をもって万有の成立を論じ、かつ我体の実在を唱うるものなれば、これを一括して客観論となす。その説の絶対的真如を去ること実に遠しというべし。もしその上に一歩を進めて主観の見解を加うるに至るもの、これすなわち仏教の小乗なり、有宗なり。今余は仏教の大意を講ずるものなれば、外道諸派の哲学門につきていちいち説明するにいとまあらず。また別に外道各派の宗教門あれども、みなこれを略し、これより小乗の有宗論を述ぶべし。

第五回 有宗論

 小乗は分派すこぶる多く、大別して二〇部となすも、余がもっぱら論ぜんと欲するものは小乗諸部中倶舎宗の大要にして、まずこれを哲学門の方面より述ぶるに、これを名付けて有宗哲学という。その哲学の原理は法体恒有説に外ならず。法体とは万法の体をいい、恒有とは常に実在するをいう。しかしてこの理を証するに五蘊七十五法の分析論をもってす。その五蘊は有宗のいわゆる人身観にして、その七十五法は世界観なり。人身観にありては無我平等の理を示し、世界観にありては法体の恒有を証す。これその有宗の名あるゆえんなり。まず五蘊とは色受想行識の五種にして、色は物質をいい、受想行識は精神の諸作用に名付けたるものなれば心意をいう。故にこれを合類すれば物心二元論となる。その二元相合して人身の成立をみるも、これを分解すれば決して一定せる我体あることなく、たちまち彼我の別をみざるに至るべし。王公貴人も権助三助も仮に貴賎の差等を現ずるのみにて、決して永くその別を保つあたわず。もしその身心を組成せる五蘊ひとたび分解するに至らば、殿様も権助も同じくその存立を失うに至り、いずれのところにかその別をみんや。仏教のいわゆる五蘊皆空とは、これこれをいうなり。けだし我人が常に彼我差別の見解を固執し、殿様は永く殿様にして、権助は永く権助なりと確信するもの、これを凡夫の迷見となす。人間界の不和闘争、貪欲嫉妬等の諸悪はみなこの迷見より起こる。我人の心天に真如の月光をさえぎり暗黒の世界を現ずるも、またこの迷見に外ならず。故に仏教はこれを煩悩の迷雲として排除せんことを努む。今小乗有宗にありて初めに五蘊皆空無常無我の理を証することを説きたるは、そのことの凡夫の迷見を翻して真如の月光を仰がしむるに必要なるによる。これを維新前の東海道五十三駅に比すれば、その五蘊論は江戸城、日本橋を発して品川および川崎駅を通過するがごとし。故にこれを真如道中の第一駅とすべし。

 つぎに七十五法はこれを概括して色法、心法、心所有法、不相応法、無為法の五種となす。これを五位という。そのうち色法は物質にして、心法、心所有法、不相応法は精神作用なれば、これまた物心二元なり。もしこの二元を合すればこれを名付けて有為法という。故に更に一括すれば、五位七十五法は有為法、無為法の二類となる。その表左のごとし。

  五位七十五法 有為法 七二種 物質 色法  一一種

                 精神 心法    一種

                    心所有法 四六種

                    不相応法 一四種

         無為法 三種

 有為とは、為は為作造作を義とし、転変生滅あるものをいい、無為とはかかる変化なきものをいう。この有為の七二法と無為の三法とを合して七十五法となす。今いちいちを説明するにいとまあらざれば、ただここにその大要につきて一言すべし。

 まず倶舎宗の物質論は極微説にして、一切の物質は極微と名付くる最小の分子より成るという。しかしてその極微は地水火風の四大より造られたるものとなす。これを極微所成、四大所造説と名付く。これ客観上の見解にして、仏教以前の外道の唱道するところなり。これに対して主観上の見解あり。その見解によれば外界を色声香味触の五境に分かち、眼耳鼻舌身の五官の感覚上に現ずるものとなす。これ唯心論の初門というべし。つぎに世界の終始につきては天地万物みな生滅変遷を免れずとなす。すなわち万物の上にありては生住異滅の四相ありと説き、天地の上にありては成住壊空の四劫ありという。まず成劫の時にありて世界その形を成し、住劫の間はこれを持続し、壊劫に至りてようやく破壊し、空劫に入りて空となる。これ世界の終始なり。かくしてひとたび空となりたる世界が再びその形を結びて成劫となり、つぎに住劫となり壊劫となり、しまいにまた空劫となり、更にまた成劫となる。かくのごとく成住壊空循環して際涯なきは実に世界の真相なり。もしその生滅のよりて起こる原因を尋ぬれば、衆生の業感力のしからしむるところとなす。これ仏教特有の見解にして、外道の全く知らざるところなり。しかして業感力とはなんぞや。精神的因果の作用をいう。故にその見解たるや全く主観的なり。

 かくして外界の説明ようやく進みて主観に帰し、更に精神作用を分析して心王、心所等の諸法となす。その結局、有為の諸法は色法、心法共に生々滅々変々化々してやまざるも、その間因果相続してすこしも間断あることなし。かつ七五種の法体は過去、未来、現在の三世の間に遷流するも、その実恒有なりとなすは有宗のもっぱら唱うるところなり。つぎに無為法に至りては、虚空あるいは涅槃のごとき生滅変遷なきものを総称したる名目なれば、その体の恒有なること言を待たず。故に七十五法の世界観は法体恒有説に帰す。これをもって倶舎は無我の理を証して、いまだ法空の理を証せずという。かつその恒有説は純然たる主観的にあらずして、むしろ客観的なるはいまだ外道の範囲を脱せざるものといわざるべからず。しかれどももしその裏面に入りてこれを考うれば、たちまち真如不滅の理あること判知すべし。故に小乗は大乗の予備門と心得べし。

 無為法の中には寂滅無為の一種を掲げ、寂滅はすなわち涅槃にして、涅槃はすなわち真如なれども、小乗の涅槃は火の滅したるがごとく煙の散じたるがごとき空々寂々の涅槃にして、いまだ真如の真相を認めたるものにあらず。故にこれまた大乗真如の予備門というべし。

 小乗中にも成実宗のごときは我体の空を説くのみならず、また法体の空を説く。故にこれを我法二空宗という。これ全然客観の見解を脱却して主観の理門に進入するものなれば、これを大乗宗に加えて可なるべきも、なおその実際において小乗の境界を脱せざるところあれば、これを小乗の部類となす。もしこれを倶舎宗に分かつときは、倶舎は有宗中の有門にして、成実は有宗中の空門なりという。もしその空門を通過すればただちに大乗に入ることなれば、成実宗をもってよろしく東海道の箱根関門に比すべし。

 これを要するに小乗有宗の見解は、真如と万法との関係を説くに万法の体恒有というにとどまり、その恒有の体すなわち真如なることを示さず。故に余はこれを向内的の半途にとどまりて、いまだ全道に達せざるものという。またその解釈はいくぶんの主観的を交ゆるところあるも、いまだ全く客観の真味を脱せず。故に余はこれを客観的主観論という。以上の二点は小乗の小乗たるゆえんなりと知るべし。

       第六回 空宗論

 つぎに大乗の空宗を考うるに、法相宗はまさしくその空宗なり。すなわちその宗にては心外の諸法はことごとくみな空なりと説くをもって空宗の称あり。その所立の原理は「森羅万象はただ識の変ずるところなり。」(森羅万象唯識所変)と説き、実に外境なくただ内識ありという。故にその宗の哲学門は万法唯識の理を証明するに外ならず。これを有宗の哲学に比するに純然たる主観論なること明らかなり。まずその宗の世界論をみるに唯識百法を立て、有為に九四法ありとし、無為に六法ありとし、これを合して百法となす。これを有宗に比するに有為に二二法、無為に三法を増加せる割合なり。もしその有為法を物心二元に分かちてその物質に対する見解を尋ぬるに、みな心識の変現に帰し、別に識外に極微もしくは四大の実在を許さず。もし心法に対しては八種の識体を立つ。すなわち眼耳鼻舌身意の六識と第七識と第八識なり。しかして第八の心体をもって諸法を現起する種子を包蔵するものとなす。これを阿頼耶識(あらやしき)と名付く。訳して蔵識という。すなわち諸法の種子を包蔵するの意なり。この種子を開発して有為の諸法を現ずとなす。すなわち一種の唯心論なり。故にその論はひとり我体を空するのみならず、法体を空し、いわゆる我法二空の理を証立す。更に進みてその蔵識の本体を尋ぬるに、これを真如に帰す。しかして真如は無為法なり。無為法に六種を立つるも、みな真如の仮名に過ぎずとなす。故に無為法は唯一の真如あるのみ。もし真如の作用に至りては「真如は凝然として諸法を作さず。」(真如凝然不作諸法)と唱えて、その体凝然として自存するのみとなす。しかして有為の諸法は阿頼耶識の開発に帰し、真如はただその識のよるところの本体となるのみ。故に空宗にありてはいまだ真如活動してただちに万法を現起するゆえんを示さず。これ余が空宗は向内的の全道を説くも、いまだ向外的の全道を示さずというゆえんなり。換言すれば真如と万法との間になお隔歴するところありて、有為法と無為法との融通することを知らず。これその権大乗たるゆえんなり。

 法相宗の唯識論は純然たる主観論なるに相違なきも、その唯識は人々おのおのの唯識にして、いまだ真如一元の上に絶対的唯心を説くものにあらず。甲には甲の唯識あり、乙には乙の唯識あり。故に人異なればその識もまた異ならざるを得ず。これを相対的主観論という。なんとなれば彼我相対の上に唯識を立つるによる。また法相宗は有空の中道を説きてやや中宗の所立に近きも、その有も空も中も互いに隔歴して、いまだ融通自在を得ず。有は空に異なり、空は中に異なりて三者即一なるにあらず。故にその中は相対差別の中にして、絶対平等の中にあらざるを知るべし。しかれどもこれを有宗に比するに、すでに真如の中心に達してその真相を開示せるや明らかなり。今これを証するために法相宗のいわゆる三性論を述ぶべし。

 遍計所執性、依他起性、円成実性、これを三性と名付く。遍計所執とはわが心の迷情より目前の外界を見て実に我体あり法体ありと固執するをいう。依他起性とは一切の諸法は他の因縁によりて生起するをいう。円成実性とは一切諸法の真実円満の体すなわち真如をいう。遍計の方はその体全く空なるものを妄執によりて有ありと信ずるものなれば、これを妄有となす。依他起の方は因縁和合して仮にその体を現ずるをもって、これを仮有となす、円成実の方は真有となす。また真如の中道を解するに言詮中道、離言中道の二様あり。言詮中道とは言語によりて、遍計は空なり依他と円成とは有なりと、有無相対して真如中道の義を詮するをいう。これさきのいわゆる依言真如なり。離言中道とは一切諸法の本体は有にあらず空にあらず、言語思慮の及ばざるところなりという。これ離言真如なり。

 法相宗にて心外の諸境はことごとくみな虚無なりとなすはその宗の空宗たるゆえんにして、森羅万象唯識所変と立つるはその主観的主観論たるゆえんなり。しかれども依他の諸法を仮有と説きて因縁所生の法を空するにあらず。故にこれを空宗中の有門となす。もし依他の諸法、畢竟みな空と説くものは三論宗にして、これを空宗中の空門となす。よってここに三論宗のことをあわせて論ぜざるべからず。

 三論宗は破邪顕正の二門を立てて、有所得の見を払うて無所得に入らしむるを目的とす。有所得とはわが心に執持する一事一物あるをいう。もしその心に一毛一点の固着するものなきに至ればこれを無所得という。故に三論宗破邪の本意は有と執すれば空と払い、空と執すれば有と払い、有無共に払い去りて一切の執着をみざるに至らしむるにあり。かくして破邪しおわればそのまますなわち顕正にして、破邪の外に別に顕正あるにあらずという。その宗にて真如を論ずるに二諦中道、八不中道の語あり。二諦とは真俗二諦にして、俗諦の上にては因縁所生の法は空にあらずとし、真諦の上にてはその実なしとす。しかしてこれを空とするも偏空にあらずして有なり、またこれを有とするも偏有にあらずして空なり、真諦の水は俗諦の波と相和して相離れず、空は宛然として有、有は宛然として空、色即是空、空即是色なりという。これいわゆる二諦中道なり。つぎに八不中道とは不生不滅、不去不来、不一不異、不断不常、これを八不という。これに対して八迷あり。八迷とは生滅、去来、一異、断常なり。この八迷を消遣するをもって八不と名付く。これによりて真如中道の妙理を開顕するは実に三論宗の本旨なり。故に三論宗は権大乗の相対差別の見を進みて、実大乗の絶対平等の理を示したるものなり。すでに真如と万法との関係のごときは水と波との相離れざるがごとしとなすに至りては、向内的の全道を説くのみならず向外的の全部を示すものなれば、実大乗の部類に入れて可なり。

       第七回 中宗論

 実大乗の中宗と称するものは華厳、天台、真言の三宗なるも、もっぱら天台の中道を述べてかたわら他宗に及ぼさんとす。しかして『起信論』は実大乗に入るの関門なれば、最初にその所説を一言せざるべからず。およそ唯心を論ずるに相対的現象上の唯心と絶対的本体上の唯心あり。さきの法相宗の唯心は有為法の上に立てたる唯心にして、無為の上に立てたる唯心にあらず。故にこれを相対的現象上の唯心とす。これに反して『起信論』の唯心は絶対の唯心なり。これを単に一心という。その一心の体すなわち真如にして、この心を離れて一切の境界なしとす。かくして一心の体は本来ただこれ一なれども、その体におのずから生滅門、不生滅門の表裏両面を有することを説く。その生滅門は物心差別の現象界にして、その不生滅門は本体界なり。これを『起信論』の上にてはこの生滅と不生滅と和合して一にあらず異にあらず、名付けて阿梨耶識(ありやしき)というとあり。かつこの識はよく一切法を摂し一切智を生ずと説く。これによりて『起信論』は絶対的主観論にして、あわせて真如一元論なることを知るべし。もし真如と万法との関係については、真如の体は本来寂静にして生滅変易なしといえども、無明の風縁によりてその海面に妄波を起こし、もって万法生滅の現象を示すに至るとなす。しかして無明の起因につきては異説紛々たるもこれを略す。要するに『起信論』は向外的の全部を説きたる実大乗たるや明らかなり。

 つぎに天台宗は絶対論の頂上に達し、真如の全面を万法の上にあらわし、真如即万法、万法即真如と説きて、真如と万法と同体不離なることを唱え、更に進みて事理の融通自在なることを唱うるなり。しかして法華以前の宗旨はこの融通の理を示さざるをもって、これを方便教すなわち権教とし、ひとり法華をもって純一無雑独真独妙の法となす。その宗にてもっぱら唱うるところの格言は「一切諸法みな妙ならざるなく、一色一香中道にあらざるなし」の語にして、有機無機、山河瓦石に至るまでその体みな中道の真如なりという。しかして中道とは非有非空または亦有亦空を義とし、真如の体を指すなり。これにおいて理性本具説起こる。すなわち天地万有、事々物々、一色一香に至るまでみなこれ真如なる以上は、真如の理性中に物心の諸法はもちろん、有も空も善も悪もみな具備すべき道理なり。また我人の身も心も共に真如なれば、その一念の中に一切諸法を具すべき道理なり。これにおいて一念三千、一心三観の法門を説く。この法門たるや実に天台哲学の骨目神髄にして、その絶対論の妙旨は全くここにあり。三千とは十界に十界を乗じ、これに三世間を乗じたるものをいう。十界とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏をいう。この十界のおのおのに他の九界を具するを十界互具という。三世間とは五蘊世間、衆生世間、国土世間をいう。この三千の諸法がわが介爾の一念中にありとなすを一念三千の法という。かくして一念の妄心に本来三千の諸法を具するを理具の三千といい、その理具の三千が機に触れ縁に従い物心差別の諸象を現ずるを事造の三千という。しかして理具と事造とはその体二なるにあらず。理具すなわち事造、事造すなわち理具にして、同体不二と立つるはまた実に天台中道の妙理なり。つぎに一心三観とは真如の鏡面に一事一物なき、これを空といい、無一物の鏡面に森羅の万象、縁に従い変に応じて現見する。これを仮といい、この空と仮と同体不二なるを中という。この空仮中を合してこれを三諦という。その三諦わが一心の中にありと達観するを一心三観という。これを要するに一念三千、一心三観はみな真如の妙理妙用を示せるものに外ならず。

 つぎに華厳宗を考うるに天台と同じく絶対的主観論なることはその宗にて「三界はただ一心のみにして、心の外に別法なし。」(三界唯一心、心外無別法)と説くをみて知るべし。しかしてその一心はすなわち真如なり。もし天台と華厳との相違を挙ぐれば、天台は事理融通を説きて真如の本体と万法の現象との融通することを唱うるも、現象と現象との融通を説かず。しかるに華厳は事事無礙を唱えて事物と事物と互いに融通無礙なることを説く。すでに天台において真如に万法をそなえし一事一物すなわち真如なるを知れば、事物相互の間に融通無礙の存することは自然の道理なり。これにおいて主伴具足、一多相即の法門あり。主伴具足とはここに一物をとれば他の諸物これに随伴して起こるをいい、一多相即とはここに一物を挙ぐれば多物これに摂入するをいう。これを重重無尽の妙理となす。畢竟するにかくのごときは、みな真如と万法との関係の神妙不思議なる一斑を示すものと知るべし。

 華厳も天台も向外的の全部を開示して真如の万法の上に及ぼせる作用を説くに至りては、すでに尽くせりといいて可なり。しかるに真言またその関係を説く。ただ天台、華厳の所立と真言との異なるは、前者は理を本として事を末にし、後者は事を本として理を末にするの別ありという。換言すれば真如の理性を本として万法の現象を論ずるは天台等にして、万法の現象を本として真如の理性を論ずるは真言なり。故に真言にては即事而真と立てて万法差別のそのままを真如となすなり。しかりしこうして真言あえて唯心を説かざるにあらず、その宗の語に仏法はるかなるにあらず、心中すなわち近し、真如外にあらず身を捨ててなにをか求めんとあり。しかれどもその唯心は真如の理性を指すにあらずして衆生の身心を指すこと明らかなり。換言すれば物心二元の上に真如を説くものなり。もし哲学の用語をもって示さば、主観的および絶対的真如を客観化したるものというべし。

 以上、有空中三宗の哲学門を一括して言わば、三宗共に真如をもって骨髄となすこと疑いなしといえども、ただこれに対する方向を異にするをもって小乗、権大乗、実大乗の別あるのみ。しかして余はこれを向内的、向外的の二段に分かちてその異同を論ぜり。まず小乗倶舎宗はいまだ表面に真如の理を示さざるも、その法体恒有説の中におのずから真如の理を胚胎すること明らかなり。すでに有為の諸法の上において法体恒有と立つる以上は、世界の表面に生滅の変化あるも、その裏面には不生不滅の理、常に依然として存するを知るべし。これすなわち真如の理なり。しかして正しくその理を開示したるは大乗諸宗なり。また仏教にて外道の客観論を一転しきたりて真如一元の理を証明するの順序は、まず客観論を主観論に移し、唯心論に進め、そのいわゆる一心は真如なりとして真如の実在を示せり。故に仏教の中心は真如にして、これを証明する論理は唯心論なりと知るべし。

       第八回 宗教論

 すでに有空中三宗の哲学門を叙述してここに至れば、三宗の宗教門を弁明せざるべからず。そもそも宗教門は実際門なれば、哲学門の理論を実際に応用しきたりて安心得道の方法修行を示せるものなり。故にその目的は成仏に外ならず。これをもって宗教門はさきに表示せしがごとく、衆生をもって外囲とし、仏陀をもって中心とし、一切の衆生をして仏陀とならしむる道を講ずるものなり。かくのごとく二者その中心を異にするも、これ平等と差別との別のみ。哲学門は差別より平等に入る方なれば、その中心は平等性の真如となり、宗教門は平等より差別に出づる方なれば、その中心は差別性の仏陀となる。しかして仏陀も真如もその体一にして、一体両面の関係を有するものなり。もしその平等面に対すればこれを真如といい、差別面に対すればこれを仏陀という。かつそれ仏陀にも法、報、応の三身ありて、そのいわゆる法身すなわち真如なり。これによりて仏陀と真如との関係を知るべし。

 衆生と仏陀との関係は万法と真如との関係のごとく、小乗と大乗と相異なり、権大乗と実大乗とまた同じからず。まず小乗は自利の修行によりて得るところの果は羅漢果にして、いまだ正しく仏果を証得するに至らず。またその涅槃は灰身(けしん)滅智と称し身心都無の状態に帰するのみにて、いまだ真の涅槃に至るあたわず。故に小乗は向内的の半途に達していまだその全道を尽くさずという。つぎに大乗は真の涅槃に入り真の仏果を開くことを得るも、権大乗にありては五姓各別と立てて、衆生の生来に声聞性の者と縁覚性の者と菩薩性の者と不定性の者と無性の者との別ありという。不定性とは、あるいは声聞となり、あるいは縁覚となり、あるいは進みて仏果に至ることありて、一定の種性を有せざるをいい、無性とは全く成仏の種性を有せざるをいう。かくのごとく衆生の機類に差別を設けて一切みな成仏を説かざるは、仏陀と衆生との間に隔歴するところありて、仏陀の慈悲があまねく衆生に及ばざるものなれば、余はこれを向外的の半途に達していまだその全道を極めずという。つぎに天台等の中宗は一切みな成仏を唱えあらゆる有情は機類のいかんを問わず、ことごとく成仏すべしといい、その結局、山川国土に至るまでことごとくみな成仏すべしというに至る。これ仏陀と衆生と同体不離なる道理に基づく。故に中宗にありては煩悩即菩提、生死即涅槃といい、われらの凡夫がそのまま仏なることを説く。これこれを向外的の全道を尽くしたるものといわざるを得ず。

 つぎに宗教門の修行を考うるに、有空中三宗共に因果の原理に基づかざるはなし。それ因果は真如活動の規則にして、万法変化の定律なれば、これを宗教門に応用して善因善果、悪因悪果の道理を説き、一善を修むれば必ずその果を得、一悪を犯せばまた必ずその果を得となす。かつ修むるところの因異なれば、受くるところの果に不同ありと説きて、小乗大乗その果おのおの異なることを示す。要するに宗教門の中心は仏陀にして、衆生と仏陀とを連結する縄索は因果の規則なり。故に余は仏教の因果におけるはヤソ教の神意神命におけるがごとしという。

 宗教門にありて善悪因果を説くにおいては必ず善悪の定義なかるべからず。善とはこれを解して理にしたがうをいい、悪とは理に背くをいう。しかしてその理とは真理に外ならざれば、真如の向背いかんによりて善悪の相分かるるを知るべし。けだし我人の目的は真如の理に体達するにあれば、これを妨ぐる方は悪にして、これを助くる方は善なり。もしまたこれを妨ぐる方の原因事情を挙ぐるときは煩悩の迷いという。しかしてその迷いはさきにいわゆる実物実法ありと固執する見より起こるとなす。もしまた煩悩の迷いによりて招くところの結果を挙ぐるときは三界六道の間に生死流転すべしという。しかれどももし人、真智を起こしてその煩悩を断滅し去らば、涅槃の楽界に安住するに至るという。かくして迷うも心なれば悟るも心なり、心を離れて迷いもなく悟りもなし。故に仏教はただこれ一心と説くなり。これを要するに真如と唯心と因果とは、実に哲学門ならびに宗教門における仏教の骨目柱礎なりと心得べし。

       第九回 実際論

 上来、理論宗を哲学門および宗教門の両面より講述してここに至れば、実際宗につきて一言せざるべからず。実際宗にて説くところの道理は理論宗の外に別に存するにあらず、ただその応用を異にするのみ。たとえば真如をもって神髄とし、因果をもって経緯とするがごときは、実際宗のもとよりしかるところなり。もしその成仏得道の方法に至りては難易遠近の別あり。すなわち理論宗は難行にして遠道なり、実際宗は易行にして近道なり。まず禅宗につきて考うるに、その理論は三論、天台等の理論宗に基づき、是心即仏、心外無仏の道理により、これを応用して「じきに人の心を指し、見性を成仏となす。」(直指人心、見性成仏)の宗教門を開くに至る。もしこれを理論宗の観法修行の困難なるに比すれば、その所立の法は自己の心門を開きて真如の面目をあらわすに外ならざれば、成仏の近道にしてかつ易行なりといわざるべからず。つぎに浄土諸宗は念仏成仏の宗意なれば、これ易行中の易行なること明らかなり。しかしてその理論は実大乗中宗の立つるところにより、煩悩即菩提、生死即涅槃の道理に基づきしは明らかなり。つぎに日蓮宗は天台の理論より出でたるに相違なきも、唱題成仏の易行を選び、『法華経』の題目を唱うるのみにて成仏することを説く。これまた易行中の易行なり。

 浄土門にありては一切の仏教を聖道門と浄土門とに分かち、聖道門は自力宗にして浄土門は他力宗なりとし、阿弥陀仏の力によりて成仏することを説きたるは、因果の規則に合せざるがごときも、その実決してしからず。また実大乗の中宗はみな此土寂光と説き、我身即仏と談じ、この目前の世界すなわち極楽にして、この五尺の身体すなわち仏と立つるも、浄土門はわれらは凡夫にして仏にあらず、極楽は西方にありて目前にあらずと説く。これまた理論の撞着をみるも、その実二様なるにあらず。しかしてその理由は別に拙著『真宗哲学序論』中に弁明したればここに略す。ただ大要につきて一言を費すべし。

 まず浄土門の因果につきて述ぶるに、自ら善因を積みて善果を得るは因果の規則に合するも、己に一因を修めず他力に依憑するのみにて成仏の果を得るは、無因有果の道理なれば因果の反則なりとは、みな人の怪しむところなり。余をもってこれをみるに決して反則にあらず。もし果たして無因有果ならば、他力に依憑するの必要もなきはずなり。またその他力は阿弥陀仏に限るべき道理なかるべし。悪人の力に依憑しても木石の力に依憑しても成仏し得るというならば、これこそ因果の反則というべけれ。しかるにすでに阿弥陀仏と限るはその体に無量の善因、無量の功徳の積集して存するによる。これに依憑して成仏の果を得るは、なお路頭の窮子が大福長者に依憑して大金持ちとなりたるがごとし。世間には貧乏学士が金満家の養子となりてにわかに金持ちになりたる例すくなからず。もし他力成仏が因果の反則ならば、金満家の養子もまた反則なるべき理なり。しかるにだれも養子の方を怪しまずして阿弥陀の方を怪しむはかえって奇怪千万の次第なり。また浄土門の他力は衆生の方にて信念依憑するにあらざれば成仏することあたわずと立つる以上は、やはり因ありて果を得る道理なり。

 つぎに実大乗中宗にてはわれわれ凡夫を本来是仏と立て、浄土門にては悪人非仏と談ずるゆえんを考うるに、前者は平等的理論の方に寄せて説き、後者は差別的実際の方に寄せて説くをもってその別あり。すでに天台にては「一切衆生はことごとく仏性あり。」(一切衆生悉有仏性)と説き、いかなる悪人にも仏性ある以上はわれわれみな本来仏なるべき理なり。かつこの世界は真如にして一色一香みな真如なりとすれば、われわれもまたもとより真如にして、真如はすなわち仏性なれば、凡夫のそのままこれ仏なるはずなり。しかれどももし実際につきて考うれば、凡夫は仏にあらず、仏は凡夫にあらず、その間に迷悟染浄の不同あれば、凡夫の外に仏ありといわざるべからず。これ浄土門にて凡夫の非仏を唱うるゆえんなり。またこの世界はその体真如なれば、本来極楽界と称すべき理なれども、実際上決して極楽にあらず。故に浄土門は此土の外に極楽ありという。そのつまびらかなるは拙著『真宗哲学序論』につきてみるべし。

       第一〇回 結 論

 余が今回の仏教講義は全く仏教の知識なきものに、仏理の一端を指摘せんと欲して、その大要を一言したるものなれば、これを題して『仏教大意』という。その実、大意中の大意なり。けだし余が意、世間にて仏教は解し難し入り難く、平素一定の業務あるものの到底うかがい知るべきものにあらずと信ずるをもって、これに対してそのしからざるゆえんを示さんとするにあり。もしその大意を摘出しきたらば、一日にても半日にても仏理を了解することを得べし。たとえその法門は八万四千の多岐に分かるるも、無量無数の多端にわたるも、これを一貫する道理ありて秩序整然たるにおいては、その大要を会得することもとより容易なり。今仏教はその条理の整然たることあたかも京都の市街を見るがごとし。その中に一大道理の貫通して存するは、あたかも鴨川の全市を横断して流るるがごとし。その道理の上に架設したる倶舎宗、法相宗、三論宗、天台宗、華厳宗等はあたかも鴨川の上に架設したる二条橋、三条橋、四条橋、五条橋のごとし。しかるに古来の仏教者はかかる大道理の一貫せるを知らずして、小路横道に迷い、終身仏教界を跋渉しながら自ら東西を弁ぜず、いずくんぞよく人を指導せんや。これあたかも盲人の京都見物に似たり。何日間京都を徘徊しても自ら東西を弁ずるあたわず、いずくんぞよく他人の案内者となるを得んや。余は元来仏教専門学者にあらず、三年ないし八年の歳月を積みて仏教を研究せしものにあらず。故に仏教につきて有する知識は至って狭くしてかつ浅きは自ら白状するところなりといえども、京都の見物に盲人の百日は目明きの一日にしかざるがごとく、余不肖といえども自ら目明きをもって任ずるものなり。故に仏教中に一貫せる理法を看破する力に至りては、世のいわゆる仏教専門学者に一歩を譲らずと信ず。かくして余が探見するところによるに、仏教一貫の大理法は真如と因果との二者に出でず。そのいわゆる哲学門は真如の実在を証明するを本とし、宗教門は因果の規則を応用するに外ならず。もしよくこの大道理を通解するを得ば、八万四千の法門に熟達せる人と称して可なり。たとえ六千七百の経巻を通読するも、八年、九年の修学を積むも、この道理に通ぜざるは、仏教を知らざる人といいて可なり。故に余はいささかその道理の方針を指摘したるなり。

 かくして全教一貫の道理のいずれに存するを知れば、八万有余の法門に通じたる人と称すべきも、いまだ仏教をその身に得たる人というべからず。それ仏教の真面目は哲学にあらずして宗教なり、理論にあらずして実際なり、真理を討究するにあらずして真味を感受するにあり。換言すれば実践躬行をもって安心立命、転迷開悟の心地に体達するにあり。故に仏教に志あるものはこの本旨を誤解せざることを要するなり。

 余聞く、孔子は泰山に登りて天下を小にすと。余今を去ること二〇年のむかし富士山に登りて人間を小にせしことなり。富峰の頂上にありて瞰下するに、登山する人の絡駅として前後相接し、あるいは五合目あるいは六合目あるいは七合、八合目の間にわたりて動きつつある状態は、あたかも蟻の行列に異ならず。これにおいて余は、人間は地球の土塊の上に集まれる一種の蟻群なるを知れり。その後仏教を閲してますます人間の微弱なるを感じ、六道の迷人たるに相違なきことを信ぜり。平常豪傑を気取り英雄を装いて、力は山を抜かんとし、気は世をおおわんとする人物が、一朝病患にかかり再三不幸に会するときは、にわかに迷いかつおそれ、疑惑百出、あるいは鬼門のたたりならんか、あるいは家相のたたりならんか、あるいは亡霊か、あるいは狐狸かと種々の妄想を起こし、無学無智の売卜者や、マジナイ師に相談を試み、天理教の祈祷や蓮門講の御水に依頼するがごときの類、決してすくなしとせず。かくのごときは誠に哀れむべきの至りなり。これを六道の迷人、三界の狂癡と呼ばずしてなんといわんや。世間の貴人紳士すらなおかくのごとし、いわんや中流以下の凡常輩をや。その心中は常に無明の暗夜をもってとざし、五里霧中に迷いおるは必せり。これ宗教の世に必要なるゆえんにして、むかし釈迦牟尼仏が深夜王宮を逃れ出て、馬に鞭打って雪山の麓に至り、六年の苦行ありしゆえんなり。そもそも仏教は無漏の慧灯をかかげて、無明の暗夜に点じ、三界六道の迷人に安心得楽を与うるものなり。およそ人間の迷いは八万四千もただならずといえども、なかんずく大なるものは生死の迷いなり。しかしてこの迷いを払うには世界中の宗教中仏教より効力の大なるものなし。その教にて説くところの煩悩の妄雲を破して真如の本月をあらわすとは、これこれをいうなり。ああ、われわれのごとき地球上の蟻のごとく蛆のごとき蠢爾なる動物が、ひとたびその心中に真如の清光を開ききたらば、無始以来の宿霧たちまち晴れ渡りて、「一切有情本来これ仏にして、六道衆生本より寂滅なり。」(一切有情本来是仏、六道衆生本自寂滅)の境界を現じ、万徳円満智光赫々の仏地に体達することを得、三界の蛆虫がにわかにこの位に昇進するはあに不可思議中の不可思議ならずや。左に恵心僧都〔源信〕の言を引きてこれを証せん。

真如の理と云うは広く法界に遍して至らぬ処なく、一切の法は其数無量無辺なれども、真如の理を離れたる者なし。亦万法を融通して一切となせば、万法一如の理と名く。されば煩悩も即ち菩提なり、生死も則ち法身なり、悪業も則ち解脱なり。されば我等が一切衆生の身の中の煩悩業苦の三道、此れも仏の法身般若解脱の三徳なり。亦是れ法報応の三身なり。我等が身の中、三道既に三身なれば、我等則ち仏なり。三身則ち三道なれば、又我等衆生なり。是の如く互に具足して融通無碍なる。此れ則ち真如の理、万法一如の道理なり。凡てかかる相即不二の道理は皆是れ真如の功能なり。

されは草木瓦礫山河大地大海虚空、皆是れ真如なれば、仏にあらざる物なし。虚空に向ては虚空則ち仏なり。大地に向ては大地則ち仏なり。東方に向ては東方則ち仏なり。南西北四維上下亦此に同し。

或は又我心則ち真如なれば、法界に遍して十方国土に遍せざる所なし。而るに此処にては仏となり、此処にては菩薩となり、或は縁覚となり、或は声聞となり、或は人となり、天となること、思へは万法心が所為なれば、彼の思ふ所真如にして、空しからず。されば一切は唯我心なり。法界に遍ぜる真如を我と思ふに随て、周遍法界の仏と成りぬ。心せばく唯一有情を我と思へは、漸々につづまりもて行て蟻けら乃至彼のマツ毛に巣をくふなる「セウレウ」と言ふ鳥にも成りぬ。此等皆唯心が所為なり。

華厳経に云く、心は工なる画師の如し、種々の五陰を造れり、一切世界中法として造らざるなしと云へり。此文の心は人の諸如来を造るのみにあらず、凡て万法は悉く心が造れるなりと説くなり。実に万法は亦心が所作なり。所謂煩悩即菩提なりと思へは則ち菩提なり。生死即涅槃と思へは則ち涅槃なり。されは万法は亦心が造ればなり。亦本は一実真如の理にして、九界の差別なかりけるを、此本覚真如の理を背きて迷ひ出し始めの心、生死界を作るなり。乃至、唯識論に云く、未た真覚を得ず、恒に夢中に処る、故に仏説て生死の長夜となす。今云ふ所の生死流転の根源ただ心せばく、我にあらば我に非ずと思ひしより発れり。其我人の計ひする心を翻して、広く法界に遍せる真如を、我と思ひて、万法皆我体にして我外に別の法なしと思ふを、菩提に至る道とす。此大旨を知りぬれば、仏果菩提に至る事掌を返へすが如し。