1.仏教活論本論  第一編 破邪活論

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  仏教活論本論 第一編 破邪活論 

 

 

1. 冊数

   1冊

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   186×127mm

3. ページ

   総数:205

   目録: 6

   本文:199

(巻頭)

4. 刊行年月日

   初版    明治20年12月

   底本:5版 明治36年4月20日

5. 句読点

   なし

6. その他

  (1) 底本の書名(表紙写真)では,「編」が省略されているが,本書では初版本や巻頭の書名に従った。

     第一段 緒 論

 第一節 余がここに破邪活論と題したるは、もとよりヤソ教を破斥するの義にあらず、ただ真理にあらざるものにして、世間これを認めて真理とするものを破斥するの意なり。故に仏教にても、儒教にても、いやしくも真理にあらざる元素のそのうちに包含することあるときは、余はあくまでこれを破斥せんと欲するなり。しかして余がこの論中ひとりヤソ教を破斥するはなんぞや。曰く、これその教の真理としてとるべからざるところあるによる。けだしヤソ教もその今日民間に行わるるところを見るに、実際上全くその用なきにあらずといえども、理論上立つるところの原理に至りては、決して真理として許すべからざるなり。仏教はこれに反して、その今日の勢い、実際上の進歩は、あるいはヤソに一歩を譲るも、その教理に至りては確固不動、哲理の大磐石の上に立つものにして、理論の激波百方これに当たるも到底破るところにあらざるを知る。これ余が平素その一を排しその二を助くる本志にして、さきに『序論』中に、余がヤソ教を排するはヤソその人をにくむにあらず、余が仏教を助くるは釈迦その人を愛するにあらず、ただ余が愛するところのものは真理にして、余がにくむところのものは非真理なりというゆえんなり。しかりしこうして、今破邪を先として顕正を後にするは、非真理の妖雲を払うにあらざれば、真理の明月を哲学界内に現ずることあたわざるによるのみ。故に余が目的とするところ、ただ仏教の真理を開顕するにあるを知るべし。

 第二節 余がヤソ教を目して非真理とするは、主としていずれの点にあるや、創造説にあるや、洪水説にあるや、昇天説にあるや。曰く、概してこれをいえば、その教に立つるところの有神説にあり。およそ世人のヤソ教を破するは『バイブル』の創世記より、ノアの洪水、ヤソの降誕等の奇跡怪談に外ならず。故にその論に曰く、ヤソ教者が天地に大原因あり、万物に創造者ありというの一段においては、もとより論理実験の許すところなれども、『バイブル』の怪談を万世不朽の金言亀鑑として、ヤソは神の子なりというの一段に至りては、やや信じ難しと。これをもって世間、あるいはユニテリアン宗の主義を唱うるものありて、日本の宗教も早くこの宗に定むべしと論ずるものあれども、余をもってこれをみるに、ヤソは神の子なりと立つるの論、ひとり非真理なるのみならず、いやしくも、創造神を立つる以上はすでに純全の真理にあらず。故に余はここに天地に造物主あり、宇宙に主宰者ありといえる有神説を論破して、天地に造物主なし、宇宙に主宰者なきゆえんを証明せんと欲するなり。

 第三節 およそヤソ教を奉ずるものは、ヤソの父なくして生じたるは神の子なればなり、自ら甘んじて死刑に就きたるは衆人に代わりてその苦を受けたるなり、すでに葬りてその死体の見えざりしは天に昇りたるなり等の怪説を信ずといえども、当時わが上流社会に立ちて多少の学識を有するものは、決してかくのごとき怪説を信ずるにあらず。しかして世間、ヤソ教を主唱するものあるは、けだし左の二条より起こる。その第一はユニテリアン宗徒の主義にして、普通のヤソ教者のごとく、ヤソは神の子なることを許さざるも、天地万物に創造主宰者あるは学理上疑うべからざるものなり、その第二はヤソ教は学理上とるべきところなしといえども、社会改良、万国交際上に便益あるをもって、その教をわが国に拡張せざるべからざるなりという、これなり。これを要するに、一は理論上より起こり、一は実際上より起こる。今余がこれより論ぜんと欲する点は、哲学上真非の判断をヤソ教の原理の上に下すにあれば、ヤソ教者が信ずるがごとき奇跡怪談を批評するにあらず、また実際家の唱うるがごとき改良交際の方便とする説を可否するにあらざること明らかなり。ただ余は本編において、その創造主宰を談ずる有神説を破斥するのみ。しかしてその教の実際上便益あるゆえん、および仏教もこれを改良すれば同一の裨益あるゆえんは、後に「護法活論」を説くに当たりてつまびらかに弁明せんと欲するなり。しかりしこうして、天神の創造主宰を談ずるはヤソ教の主眼骨髄なるをもって、有神論ひとたび破るれば、その教の立たざるは言を待たず。かくしてすでに、哲学の法廷に向かって哀訴する口実なきときは、かの徒ひとり天神に向かって号泣するより外なかるべし。しかるにもしヤソ教者ありて、有神論は学理上真理とするの口実なきも、われ目に天神の形を見、耳に天神の命を聞くと言わば、ことごとくその言うところに任じてしかるべし。畢竟かくのごとき言を発するもの、医学上よりこれをみれば精神病的の一種に過ぎざれば、余またこれに対して喋々するも益なしとす。故に余がここに論明せんとする点は、主としてヤソ教の有神論を排して仏教の真如説を開くにありと知るべし。

 第四節 今この点を論明するに当たり、まず左の諸案を前定せざるべからず。

  第一 ヤソ教の有神説は陰証ありて陽証なし。

  第二 実際上必要なるもの、必ずしも理論上真理なるにあらず。

  第三 近世学者の論中ときどき有神の説あるをみるも、この言をもって有神論の真を証するに足らず。

  第四 哲学書中に往々天神の字あるをみるも、これをもってヤソ教の天神と同一義を有するものとするの理なし。

  第五 ここに甲乙両説ありて共に憶説より出づるも、一は実験説に近く、一は遠きの異同なきにあらず。

  第六 西洋人のいまだ発見せざる新理のかえって東洋学中にあるも計り難きをもって、ひとり西洋人の論ずるところをとりて、全く東洋古来の説を排するの理なし。

第七 ヤソ教の天神は主観上の天神にして、客観上の天神にあらず。

 第五節 この七案中まず第一案の意を述ぶるに、陽証法とは直接にこのものはかくのごとし、と実地見聞してその証を示す法をいい、陰証法とは直接にその証を示さずして、他の種々の事情によりて間接にその証を示す法をいう。これをたとうるに、隣家を尋ねてその家に外客あるを実視して、ただ今隣家に来客ありというは陽証法なり、もしこれに反して、自宅にありてひそかに隣家当日の状況を量り必ず外客あるべしと論定するは陰証法なり。この二法の中においていずれが最も信を置くべしといわば、陰証法の陽証法にしかざることは論を待たざるなり。もしまた直接に隣家に至りて外客を実視せざるも、隣家の僕婢きたりてその来客あるを告げ、あるいは客車のその門に待つを目撃してその家に外客あるべしと想像するは、今挙ぐるところの陽証法と同一の力を有するものとなすも、あえて不可なることなし。しかれどもただ隣家に笑談の声のやかましきと、僕婢の奔走の常ならざるを聞きて、これ真に外客あるなりと論定するは、決して確実なる証なりと許し難し。もしあるいはその笑談の間に確かに平常聞き慣れざる外人の声を聞きたりとするも、いまだその人を見ざる以上は十分なる実証ありというべからず。たとえ一歩を譲りて、笑談の声を聞きて外客の有無を判定するは十分実証とするの力ありとするも、もし今日は自分の家に客来あるをもって隣家にもまた客来あるべしと論定するものあらば、これ決して論理上許すべき推論法にあらざること明らかなり。

 第六節 今ヤソ教の天神説は、陽証法にあらずして陰証法なること多言を要せずして知るべし。かの徒の通常論究するところをみるに、その推理の法は宇宙万物の変化現象を実視して、天神の現存を想定するに外ならず、これいわゆる陰証法の一種なり。しかして直接に天神の現存を示すものただ『バイブル』一巻あるのみ。しかれどもこの『バイブル』のごときも、我人自身がモーゼまたは十二徒にあらざる以上は陰証の一種とせざるべからず。なんとなれば、我人ただちに天神を見るにあらずして、モーゼまたは徒弟の遺書によりてその現存を知るに過ぎざればなり。故にその遺書を信ずるヤソ教徒に対しては、あたかも自ら隣家に至りて外客を見ざるも、他の人の伝言によりてこれを知ると同一般なるをもって、天神現存の実証ありと許してしかるべしといえども、いやしくもその遺書を信ぜざるものに対しては直接にその現存を示すべき実証なきをもって、ただ天地の現象を見て想定するの陰証法を用うるより外なし。しかれどもその真に天神の作用なりと想定するもの、必ずしも天神の作用なるを保し難し。たとえば外客の声と想定せるもの、あるいは隣人の声を誤り認めたるの疑いあると同一般なり。そもそもこの宇宙は我人の宇宙にして天神の宇宙にあらず。他語にてこれをいえば、わが感覚境内に現立する宇宙なれば、たとえ天神真に存するも、そのいわゆる天堂はわが感覚境外に存する不可知界なるべきをもって、わが宇宙とは全くその関係を異にするは必然なり。しかるに宇宙間の事情を推して、宇宙の外に天神の現存を想定するがごときは、あたかもわが家に客来あるをもって、隣家にもまた客来あるべしと想定するものとなんぞ異ならんや。これを要するに、ヤソ教の天神説はいかなる証明をこれに与うるも、到底陰証の一種にして陽証にあらざること明らかなり。

 第七節 かつそれヤソ教者は宇宙間の事情を推して、天神の実在を想定して曰く、万物おのおのその原因ありて変化する以上は、天地にもその大原因なかるべからずと。しかれどもかくのごとき想定は、真にその大原因ありというの証と同一にみなすべからず。ここに人の論理上最も注意すべきは、真にありということと、けだしあるべし、またはあらねばならぬということは、必ずしも同一なるにあらず。世間しばしば、理論上あらねばならぬことにして、実際上あらざることあるをみる。たとえば、海中を回航して一島に着し、この島には住民あるべし、またはあらねばならぬ。なんとなれば、樹間に炊煙の起こるを見、また海浜に足跡の存するを見たり。しかしてその島中に入りてこれを尋ぬるに、全く住民のなきを実視し、そのさきに見たる炊煙は真の炊煙にあらずして、雲煙の起こりしものなるを知り、そのさきに存する足跡はその島人の足跡にあらずして、他の航海者のその島に上陸してとどめたる足跡なることを知れりという。故にわれいまだ天神の現存を実視せざる以上は、たとえいかなる陰証の存するあるも、いまだ真に天神あるの証となすべき理なし。しかるにヤソ教者は我人に示すに、けだし天神あるべし、またはあらねばならぬというのみにて、すでに十分天神の実在を示したるものと信じ、これを聞くものも、その陰証を聞きてただちに陽証同一の感覚を起こすは、実にその論理に暗きに驚かざるをえざるなり。

 第八節 ヤソ教者また必ずいわん、陽証とは目前に実視する確証を称するなれども、確証は必ずしも耳目五官の保証を要するにあらず。たとえば他郷に入りて家屋を見れば、自らその家屋が人の手によりて成りたるを実視せざるも、この家屋は大工の造築せるものなりと断言することを得、また人の家を訪うてその机上に書籍あれば、これを一見してただちにその作者ありしを保認することを得るなり。これみな陰証にして、しかも陽証同一に確実なるものにあらずや。余これに答えて言わんとす。ヤソ教者の天神の存在を証するにかくのごとき陰証法を用うる以上は、陽証同一に確実なるものと許すべきも、その用うるところの証明法は全くこれとその性質を異にするものなり。たとえば我人は平常イの家屋の大工によりて成りしを実視し、イの書籍の作者によりて成りしを熟知するをもって、ロの家屋を見、ロの書籍を見て、同一にその作者ありと断言することを得といえども、宇宙全体の問題に関しては、余輩がいまだ全く実視せざるところにして、他の例に準じて推知することあたわず。しかして天神の創造を知るは、ただ宇宙間に存する一、二の事物について憶想するより外なし。たとえば家あれば必ずこれを築造する大工あり、書籍あれば必ずこれを経画する作者あるをもって、宇宙にもまたそれの造成者なかるべからずと推測するのみ。しかれどもそれの証明せんと欲する問題は宇宙全体にして、これを推測する例証は宇宙間の一、二の事物なり。すなわち一、二の部分を見て、全体もまたかくのごとしというに過ぎず。しかれども論理の規則に、部分において真なるもの全体の上において必ずしも真なるにあらずということあるをもって、その証明法は論理の規則に合せざること明らかなり。右に図を挙げてその道理を示すに、イとロは部分にして、甲は全体なり。しかしてイとロは同一物なるときは、イにおいて実験するところをもってロを推測し、ロにおいて実験するところをもってイを推測することを得るも、イと甲とは同一物にあらず、かつ部分と全体との差異あるをもって、甲を知るにイを用うるは論理の許さざるところなり。いわんやイをもって甲を推測して曰く、これ陽証同一に確実なるものなりというがごときは、全く論理を知らざる証明法といわざるべからず。

 第九節 つぎに第二案の意を述ぶるに、世間の論者中、ヤソ教を奉ずるは万国交際上必要なりといい、人種改良上必要なりといい、政治上人民を結合するに必要なりといい、品行上道徳を維持するに必要なりというものあれども、この論点は余が今論述せんとする問題の外にわたるをもって、ことごとくおいて問わざるも可なり。しかるにここにまた一説あり。ヤソ教はただにわが国今日に必要なるのみならず、人生一般に必要なるものにして、世にこの教なきときは人一日もその心を安んずることあたわず、社会一日もその地位を保つことあたわざるべしという。たとえこの説をして真ならしむるも、これただ必要というにとどまり、決してこの点をもってヤソ教の真理なるの証となすの理なし。もしまたその教うるところ真理にあらざるも、実際上必要有益の点あるをもって、ヤソ教は排すべからずといわば、その天神のごときは全く便宜上設くるところの天神にして、一時の計略に出でたるものと称せざるを得ず。しかるにヤソ教者はその教の人生および社会に必要なる諸点を挙げて、天神の真に存する一証となすがごときは、これ大いにその証明法を誤るものといわざるべからず。もしその説を聞きてこれを真理として許すものあらば、一層その論理に暗きを笑わざるを得ず。たとえば兵力をもって外寇を防ぐは国家独立上必要なるものなれども、これただやむをえざる事情によるものにして、決して兵力は真理の標準なるにあらず、兵力相争うは決して真理上許すところにあらざるは明らかなり。故に実際上の必要と、理論上の真理と、混同せざらんことを要するなり。

 第一〇節 もし更に一歩を進めてこれを考うれば、ヤソ教は社会に必要にして、有神説は人生に欠くべからずというも、その事実すでに誤りなきを保し難し。ヤソ教者曰く、ヤソ教を奉ずる国にあらざれば、社会の改良をはかるべからずと。これ西洋と東洋とを比較して評するところの立論なり。今、その論法を案ずるに左のごとし。

 第一論案 西洋は開明国なり                    (第一提案)

      西洋はヤソ教を奉ずる国なり               (第二提案)

      故にヤソ教を奉ずる国にあらざれば開明国となることあたわず(断  案)

 第二論案 東洋は開明国にあらず                  (第一提案)

      東洋は仏教を奉ずる国なり                (第二提案)

      故に仏教を奉ずる国は開明国となるあたわず        (断  案)

今ヤソ教者の論ずるところあたかもこの論式によるもののごとし。しかしてかくのごとき論式の誤りあるは、論理学を一読するもののみなすでに知るところにして、西洋は開明国なるもその開明国となりし原因はヤソ教に限るにあらず、東洋は開明国に至らざるもその開明国に至らざるゆえんはひとり仏教の影響にあらざることは、今ここに論ずるを要せざるなり。しかして西洋諸国の開明はなにによりて起こりしや、東洋の未開はなにに基づきてきたりしやの問題に関しては、余が「護法活論」を論述するに当たりて弁明するところあるべし。以上の論これを要するに、ヤソ教者は喋々有神説の必要を論ずるも、その必要なるゆえんを述べてその教の真実なるゆえんを証する口実となすは、大いなる誤見なりというにあり。

 第一一節 つぎに第三案の意を述ぶるに、ヤソ教者はその自ら立つるところの説を論定するに、まず世間の有名なる碩学鴻儒にして、しかもヤソ教に反対したる主義をとるものの言語中に往々有神の気脈あるを示して、スペンサー氏もダーウィン氏もティンダル氏もフィスク氏も全く神なしと断言したるにあらず、すでにその著書中のある部分に有神に関する一章あるにあらずや等というを常とす。これ実に抱腹に堪えざるなり。たとえばここに一人あり。ある人の家を尋ねその机上に自作の一書を載せたるを見、これを一読するに、その論には感服せざるところあるも、その人の目前をはばかり一言称賛して曰く、これ実に珍書なり名論なりと。出でて他人に対すればあえてかく称賛するにあらず。しかるに主人はその称賛したる一言あるを聞きて曰く、たれがしのごときわが論に反対せるものすらなお称賛の一言ありと。しかしてその人の称賛は全くその本心に出でたるにあらずして、一時著者の意を慰むるまでに出でたるを知らざるは、これを愚かと呼ばずしてなんぞや。今西洋諸国、現今の実情をみるに、その多数の人民は数千年来の習慣によりてヤソ教に固着し、ヤソ教者はこの勢いに乗じてますますその教を拡張せんと欲し、世間いやしくも有神説に反対する論説あるときは異口同音にその非を世間に鳴らし、この過数の人民を誘ってその論者の口を閉じんとするの勢いあり。故をもって学者中もしその自ら立つるところの新説をして、世間にいれ人の注意を引かんと欲せば、必ずまずその論の全くヤソ教の反対に出づるにあらざるゆえんを示して、世論に一歩を譲らざるをえざる事情あり。故をもってヤソ教に反対する論者の語中に往々ヤソ教を称賛し、あるいは有神説を許すの言あるをみるなり。しかれどもその本心に入りてこれを考うれば、その称賛の言は全く世人の注意を引くの方便にして、あたかも他人の目前にその著書を評して、名論なり、珍書なりと称賛せるに異ならず。これただ余が一時の推想に出でたるに似たれども、論者平常の定説と社会当日の実況とによりて考うるときは、余が想像の全く誤らざるを知ることを得べし。すでに今日にありては、西洋人中ヤソ教の非真理を知るものもとより少なきにあらずといえども、社会多数の人民は無学と習慣とによりてヤソ教のほかに純全の宗教なしと固信し、世間しばしばその教の非真理を唱うるものあれば、ただ一にこれを排斥し、ただにその説を排するのみならず、まさにその人をいれざらんとす。故をもっていかなる新理新見のその説中に存するも、これをして世間に知らしむることあたわざるに至る。請うみよ、ヤソ教者はダーウィン氏の進化論の人獣同祖を唱うるを聞きて、ただちにこれを駁して曰く、進化論は人類をもって猿猴の子孫なりという、猿猴にしてよく人類を生ずべきものならば、犬や猫の子にも人類を生ずべき理なり、しかるに犬の子は犬、猫の子は猫にして、人類の生ぜざるははなはだ不思議ならずやなどと評して、氏の説の一端よりその極端に走り、ついにその説をして世間にいるることあたわざらしめんとす。この時に際して論者もしその説を世間にいれんと欲せば、たとえ論者の本意にあらざるも、まずヤソ教者の注意を引かんがために、わが説は全くヤソ教の主義に反するにあらずと一言せざるを得ざるなり。これダーウィン、ティンダル等の諸氏の言中に、多少造物主を許さんとする語気あるゆえんなり。

 第一二節 もしまたダーウィン、ティンダルのごとき理学者の本心に入りてこれをみれば、天地未開の時に当たりて天神が万物を造出すというも、もとより実験をもって知るべからざることなれば、これを真にありとするは道理なしといえども、またたとえこれをありとするも、その自ら実究するところのものに対しては更に関係なきもののごとし。けだし諸氏のもっぱら実究するところは天地万物の理法を考定するにあれば、その理法の間に天神のごとき理法外のもの混入するときは、あくまでこれを理法外に放棄せざるべからずといえども、遠く理法外に天神の存在を仮定するも、あえてその目的を達するに妨げとなるにあらず。故にダーウィンも生物の初発元種のいかんに至りては、いまだ断言して天神の創造を排棄せざるも、これ実はダーウィンの真の本意にあらずして、その本意を達する一時の方便に出でたることは、その書を熟読するもののみな知るところなり。今ダーウィンの外に立ちてこれをみれば、自己の本意にあらざる一時の方便を用いてその説を弘めんとするがごときは、実に卑劣なる手段のごとしといえども、氏の本心よりこれをみれば、一時の方便を用うればその説世間にいれられ、方便を用いざれば世間にいれられず、むしろ方便を用うるもその説の世間にいれられんことを求むるなり。これダーウィンひとりしかるにあらず、いやしくも世間に立ちてヤソ教の反対説をとるものにして、その言中一、二の有神に関する語気あるは、みな当時の勢いしかせざるをえざる事情あるによる。これ今日西洋一般の実況なり。しかるにわが日本はいまだヤソ教の圧束を受けざるをもって、学者十分に新見を吐露することを得るは実に学者の幸いというべし。

第一三節 以上の論これを要するに、西洋の学者の言中、往々ヤソ教を助くるの語気あるをみて、ヤソ教者はあたかも瓦中に金玉を発見するがごとき思いをなし、たれがしの不信教者にしてなおこの言あり、天神の実在疑うべからずなどと喋々すれども、なんぞ知らん、その言は全く一時の方便説に出でたるを。故に学者の言中なにほど有神に関する語あるも、これをもって有神の証となすべからざること明らかなり。たとえまたかくのごとき言はその人の方便説にあらずとするも、この点はいまだその人の論究の足らざるところなりということを得べし。たとえばダーウィンは人類動植は同祖より進化したる理を発見したるも、いまだその始祖の起源をつまびらかにするに至らず。これにおいて天神の実在を仮想せざるを得ざるに至る。しかれどもそのこれを仮想するはダーウィン説の短所というより外なかるべし。故にダーウィンは進化を説きてなお天神の実在を許すとするも、そののちに出でて進化説をとるもの、必ずしもダーウィンのごとく天神の実在を許さざるべからずというの理あらんや。余をもってこれをみるに、進化説の原理を推して万物の起源を実究するときは天神なしと断言せざるをえざるを知る。

 第一四節 つぎに第四案の意を述ぶるに、ヤソ教者は哲学書中にゴッドすなわち天神の字あるをもって、ソクラテスもプラトンもアリストテレスも天神の性質を説き、デカルトもカントもヘーゲルも天神の実在を信ぜりというといえども、少しく原書を解するものはただちにそのしからざるを知るべし。けだし文字には同音異義のものありて、その音その形共に同一なるも、その意義同一なりと憶定すべからざるなり。たとえば日本の「神」の字にても有為有作の体を義とするときと、不可思議不可知的の体を義とするときの数意あるがごとく、西洋のゴッドという文字にも数種の異義ありて、別して哲学者の用うるものは各家の主義に応じてその意義を異にするもののごとし。あるいは不可知的不可思議の体を指して天神ということあり、あるいは絶対唯一の体を指して天神ということあり、あるいは物心万境の本質実体を天神と称し、あるいは非物非心の理想の本体を天神と称することあり。これらの天神はヤソ教の天神と大いにその意義を異にするは、余が弁を待たざるなり。故に天神すなわちゴッドの語は一字多義にして、ヤソ教に用うるがごとき有意有智の天神を義とするときと、不可思議の原因または平等絶対の理想を義とするときあり。しかして哲学者の唱うるところの天神は大抵この第二種の意義を有するものとす。すでにカント、ヘーゲル等の立つるところの天神はヤソ教の天神と同一ならざることは、その書の一端をうかがうものの熟知するところなり。しかるにヤソ教者はその書中にゴッドの文字、およびゴッドを論じたる文章数所あるを見て、これを喜ぶはあたかも百姓が地理誌に「米国」とあるを読みて外国にも米穀の産出する国ありと思い、仏者が西洋歴史に「仏国」とあるを読みて西洋にも仏法流行の国ありと思うて喜ぶと同一般なり。これまただれがその愚を笑わざるものあらんや。もしヘーゲルをして仏教中の真如の語を知らしめば、ゴッドの字に代うるに、あるいは真如の語を用うるなるべし。なんとなれば、ヘーゲルのいわゆるゴッドは仏教の真如とほとんどその意義を同じうすればなり。もしプラトンをして真如の語を知らしめば、またゴッドの代わりにその語を用うべし、スピノザをして真如を知らしむるもまたまたしからんのみ。故にヤソ教者のみだりに哲学書中にゴッドの字あるを見て、甲も天神の実在を許し、乙も天神の実在を信ず等と説ききたりて有神論の証となさんとするは、事実上決してかくのごとき道理なきを知るべし。

 第一五節 つぎに第五案の意を述ぶるに、ヤソ教者は今日の進化説を評して、その天神の実在を許す以上はこれを真正の進化説とし、もしこれを許さざるときは真正の進化説にあらずとす。すなわち『バイブル』一巻をもって進化説の標準とするものなり。もしその進化説の実験明らかにして、たとえヤソ教と合せざるところあるも、これを憶説として排棄することあたわざるときは、顧みて『バイブル』の解釈を変更し、種々の作説をその上に付会して両説を調和せんことを務め、もし付会するもなお調和することあたわざるときは、進化説中一、二の短所を挙げてその長所までも駁撃せんとす。しからざれば、進化の規則に反する一、二の特例を引きて、進化説全体の真ならざる証となさんとす。これを要するに、第一にヤソ教者は自説に反対したる説は百中一、二の実験明らかならざるものあるも、その全論を憶説として排斥するの癖あり。第二に百中一、二の論理に合せざるものあるも、その全説を非真理とする癖あり。しかしてその自ら立つるところの説は、実験に証して知るべからざるものあり、論理に考えて合せざるものあるを問わざるはそもそもなんの心ぞや。今それ万物の本源、世界の元初のいかんを論ずるに至りては、到底実験の力よく知るところにあらざるをもって、多少の憶説を免れざるはもちろんなりといえども、進化論をもって無神を説くときはこれを憶想のはなはだしきものとし、有神を説くときはひとり確説なりとするの理、万あるべからず。もし進化論も、無神論も、有神論も、共に憶想説とするときは、三者のうちいずれの説、最も憶想の多量を含有するやよろしく比考せざるべからず。余をもってこれをみれば、正当に進化説を解してその道理を推すときは、かえって無神論に帰せざるべからず。すなわち無神論はこれを有神論に比するに、憶想のやや少なきものなるを知るべし。しかしてその果たして憶想の少なきはのちに至りて論明せんとす。ただ余がここに前定せんとする一点は、百中一、二の憶説あるも、これをもって全説を憶説とせず、また憶説中にも真理の多少を含有するものと、せざるものとを弁別せざるべからず。しかるにヤソ教者は自らこの弁別を立てざるのみならず、自説に反したる諸説はただ一に憶想のはなはだしきものとす。これ余が深くとらざるところなり。

 第一六節 その他ヤソ教者は西洋伝来の説はこれをとるも、東洋従来の説はことごとくこれを排棄するの弊あり、これ他なし。西洋人はいまだ東洋の哲学を知らざるをもって、その今日二、三の書に載せてその地に伝わるもの、シナ哲学にても、インド哲学にても、大いにその真義を誤りて伝うるものなきにあらず。すでにインド哲学のごときその西洋に伝わるもの、ひとり小乗浅近の法にして、大乗深遠の法にあらず。故をもって西洋の学者はただ一に仏教を目して、空無の教となし、厭世の法となす。今ヤソ教者の仏教を評するも、またこれのみ。彼もし仏教者にして大乗の涅槃を唱うるを聞けばこれ仏教にあらずといい、西洋学者中、厭世教を唱うるものあればこれ仏説より出でたるものなりという。しかるに日本にありてこれをみれば、彼のいわゆる厭世教は真の仏教を知らざるものとなすより外なかるべし。ヤソ教者はこれこれを知らざるをもって、かの西洋に伝うるもののほか仏教なしと憶断し、仏教の語を聞けばただちにかの空無の教、厭世の法とみなすは実に東洋哲学のために慨せざるをえず。そもそも仏教のいわゆる涅槃は西洋人の信ずるがごとき死物涅槃にあらずして、活物涅槃なり、仏教のいわゆる唯心は無一物の唯心にあらずして、物心両立の唯心なり。ただ仏教は心外に物ありというの説を破して、万法唯一心と立つれども、心内に万物の現存することはもとよりその許すところなり。しかるにヤソ教者は往々この点を誤りて、心外無一物を聞きて心内無一物と解するがごときは実にその愚を笑わざるをえず。また仏教に世間を離れて出世間に入るを説きたるをみて、彼は厭世教なり、社会滅亡を教うるものなりと評すれども、これまた仏教の真意を知らざるもののみ。世間法は出世間を離れて存するとみるは仏教の真意にあらずして、世間中に出世間を存し、世間を離れて出世間なきを示すもの、これ仏教の本義なり。故にその本義についてこれをみれば、仏教は西洋のいわゆる厭世教にあらざること明らかなり。かつそれ仏教は余が『序論』中に示すごとく、平等、差別の二門を分かちてその二者の関係を示すものなり。すなわち世間の外に出世間を立つるは差別上の見のみ、もし平等よりこれをみれば、世間も出世間も同一なりとす。また男女その別を立ててこれを同権となさざるは差別上の見のみ、もし平等よりこれをみれば、あにただ男女同権なるのみならんや、国土山川草木に至るまで、みな同権なりとす。その殺生を禁ずるがごときは平等の上より生物同愛を説くものにして、いわゆる仁禽獣に及ぶものなり。しかして平等を説くものひとり仏教にあらず、差別を勧むるものひとり仏教にあらず、平等差別の中道を教うるもの仏教なり。この理は「顕正活論」に入りて開示すべし。これを要するに、ヤソ教者はいまだ仏教の真意を知らず。その今日仏教として西洋に伝うるものを真正の仏教となすをもって、はなはだしき妄評を仏教の上に与うるに至り、あるいは東洋の諸学諸教ことごとく野蛮の遺法にして、一もとるべきものなしと偏信するをもって、みだりに仏教を擯斥するに至るも、仏教必ずしもしかるにあらず。故に仏教の真意を知らんと欲せば、決してヤソ教者の妄評をいれず、よろしく虚心平意をもって、仏教の大海上に真理の針路を探知すべし。これ余が深く読者に希望するところなり。

 第一七節 つぎにヤソ教者の種々の例証を挙げて天神の実在を論ずるところをみるに、あるいは天地の現象を究めてその第一原因は天神なりといい、あるいは万物の変化を見てその変化の原力は天神の与うるところなりというも、天地の現象は天地の現象にして天神の現象にあらず、万物の変化は万物の変化にして天神の変化にあらざること明らかなり。しかして天地万物の上に天神の実在を論定するは、わが目前に天神の存するを見るにあらずして、わが心内の想像推論によりてその存在を仮定するに過ぎず。故にヤソ教者のいわゆる天神は真に外界に存するにあらずして、心内に存すといわざるべからず。他語にてこれをいえば、客観上の天神にあらずして主観上の天神なり。しかるにヤソ教者は必ずいわん、主観上想するところのもの客観上その存するなしと断言することをえずと。余これに答えて、主観上想するところのものいかにして客観上真に存すということを得るや。もしそのいわゆる客観の諸境も感覚界中の諸境にして、心界を離れて別に存するにあらざるゆえんを知るときは、天神の実在創造はもちろん、これが例証とする天地万物の変化現象も、またみな主観上の変化現象となるべし。これ余が本編において論明せんと欲するところなり。

 第一八節 以上は本編を論述するに当たりてあらかじめ仮定せざるをえざる諸案を略述したるをもって、これより本編中論述の事項を分類叙記するを要す。しかしてこれを叙記するに当たり、まず天神の義解を定めざるをえず。そもそも天神すなわちゴッドなる語は、さきに第八節中に述ぶるごとく、数様の異義を有して、不可思議不可知的の一体を義とするときと、普遍平等の理体を義とするときと、有意有智の造物主宰者を義とするときあるも、ヤソ教に立つるところの天神はこの第三義の有意有智の造物主宰者を義とするをもって、今この体についてその有無を論究すべし。まずその天神の定義を考うるに、天神は無量の智と無限の力を有したる自存自立、永遠無窮、絶対無比の霊体にして、天地万物を創造し、かつこれを主宰するものをいう。すなわち天神は大智至能、公義博愛の本源本体とするなり。

 第一九節 およそヤソ教者の天神の実在を証するに種々の事実を用うといえども、要するに左の四論に外ならざるなり。

  原因論

  秩序論

  進化論

  道徳論

この四論のほか、歴史上の事実について推究する法あり。その条左のごとし。

  第一 いかなる古代野蛮の人民も、多少天神あるを信ずること。

  第二 いかなる英雄碩儒といえども、全く天神の念想を絶つことあたわざること。

この二者を合して仮にここに人性論と称す。人性論とは人、生まれながら天神の実在を知るの性あるをいう。その他、世界に神妙不思議なる事実あるをみて、天神の不思議なりと想定する一論あり。余はこれを神力論という。故に余もまた本編を分かちて、左の諸論に排列するなり。

  第一 原因論

  第二 秩序論

  第三 進化論

  第四 道徳論

  第五 人性論

  第六 神力論

この順序によりて、余は天地万物は進化開発に外ならざるゆえん、およびその一物たるや無始無終、不生不滅にして、天神の創造にあらざるゆえんを証示して、有神論は全く無証の妄説に過ぎざることを知らしめ、しかして結局に至りて唯物論中唯心論を開き、唯心論中理想論を発し、神物ともに心界の一現象に外ならざるゆえん、および心界また一理体の現象に外ならざるゆえんを略言して、純全の真理は仏教にあることを知らしめんと欲するなり。

 

     第二段 原因論 第一

 第二〇節 前段配列するところの序次により、まず原因論の意を述ぶるに、ヤソ教者曰く、事物必ず原因ありて起こる、しかしてその原因はこれより生ずるところの事物に異なるもの、およびそのさきに存在するものならざるべからず。これによりてこれを推すに、天地万物にも一大原因あるべし、しかしてその原因は天地万物に異なるものにして、かつそのいまだ開けざるときに、すでにまえに存在せるものなるを知らざるべからず、これ宇宙に天地万物の本源本体たる造物主あるゆえんなりと。しかしてその論を証立するに左の事実を用うるなり。

  甲 人獣あれば必ずこれを生ずる父母あり、草木あれば必ずこれを生ずる種子あり。

  乙 時計または舟車あれば、必ずこれをしてその作用を起こさしむる媒介者あり。

  丙 家屋器械あれば、必ずこれを造出する職工作者あり。

  丁 書籍あれば、必ずこれを述作経画する著者あり。

これヤソ教者の天神の存在を証するにつねに引用する事実にして、その意、天地万物は一大結果にして、これを生ずる原因必ず別に存せざるべからずというにあり。

 第二一節 今更にその意を敷衍するに彼曰く、家屋器械は偶然に生ずるにあらずして、これを造出する大工の手になるは明瞭なる事実にして、書籍のあらかじめ著者の思慮工夫に出でたるもまた疑うべからざる事実なり、かつ時計の動くはあらかじめ人のその手をもってこれに運動を与うるにより、舟車の動くはあらかじめ蒸気、石炭のこれにその運動力を与うるにより、人獣草木の生ずるはおのおのその父母、種子あるによるは、また人のみな知るところなり。故にもし天地万物の本源にさかのぼりてそのなにものなるやを考うるときは、たやすく天神の実在を想見することを得べし。すなわち天地万物は決して偶然に成るべき理なく、必ずこれを造出経営するものなかるべからず。かつ世界の開発するや、必ずその開発の原種を作り原力を与うるもの別に存せざるべからず。けだし我人の住息せる世界は物と力の二種より成るとするも、物には物の本体なかるべからず、力には力の本源なかるべからず。かつその物と力の相待ちてよくその和合秩序を得るは、あらかじめこれを経営するものなかるべからず。この物と力の本源、本体となり、またよくこれを経営主宰するもの、これを天神という。故に曰く、天神は有意有智にして宇宙万物を創造し、かつこれを主宰するものなりと。これヤソ教者の立論なり。ただちにこれをみれば、その論はなはだ道理あるに似たれども、深くその理を推究するときはたちまちその妄を知るに至るべし。

 第二二節 この推論は要するに、一は天然の事物を見て宇宙に大原因ありと想し、一は人為に出づるものを見て天地万物にも有意有智の創造者ありと定むるものなり。故に余は便宜のために原因論を分かちて二段となし、その一を因果論と名付け、その二を創造論と称するなり。因果論とは自然の事物について宇宙の大原因を想定する論にして、たとえば人獣草木の原種を推して天神の実在を想し、時計舟車の運動を見て天神の媒介を想するの類をいい、創造論とは人為の成績について万物の創造者を想定する論にして、たとえば家屋に作者あり、書籍に著者あるの理を推して、天神の創造主宰を立つるの類をいう。まず因果論について宇宙の大原因を想定するの妄なるゆえんを示さんとす。その順次左のごとし。

  第一 原因結果の関係は我人の天地間にありて経験上得るところの規則にして、天地の外にその規則を応用するの理なし。

  第二 我人の経験するところの原因結果は、相対の原因結果にして、絶対の原因結果にあらず。

  第三 原因結果の関係は物質不滅、勢力恒存の規則より派出せるものなれば、この理によりて天神の実在を証すべからず。

  第四 宇宙に大原始ありと想するは終局ありと想するによる。もしこれに反して無始無終と定むるときはこの想像を生ずべき理なし。

  第五 宇宙は変化の諸象なれば、その象の外に常住不変の天神なかるべからずというも、その象の実体に至りては不変なり。

  第六 宇宙は依立にして独立にあらずというも、依立相合するときはその体独立なり。

  第七 たとえ宇宙に大原因ありとするも、その原因必ずしも天地万物を主宰経営するにあらざるべし。

  第八 もし進みてその大原因はいかにして生ずるかを考うるに、因果の理、天神を構立し、天神、因果の理を組成するにあらざるを知るべし。

  第九 もしまたさらに進みて、その大原因の起こるゆえんを考うるときは、天神全くわが心内に帰入するなり。

 第二三節 我人仰ぎて天地間の万象万化を観察するに、ただに人獣草木にその原因あるのみならず、一滴の水も、一点の雲も、一毛の塵も、一として偶然に生ずることなく、その生ずるは必ず生ずべき原因あるによる。これを知るを因果の規則とす。今我人の棲息する世界は全くこの因果の経緯をもって組成せるものにして、因果は天地間の通則なること多言を費さずして知るべし。しかれどもこれただ宇宙間のことのみ、決してこの規則を推して宇宙外に適用すべき理なし。他語にてこれをいえば、これ宇宙内の事物と事物の間にわたる通則なれども、宇宙自体と宇宙外の他体との間にわたる通則にあらず。故に宇宙内にこの規則あるをもって、宇宙外にもまたその規則あるべしと推測論決するは論理の許さざるところなり。もしこの規則を応用して宇宙全体の大原因別になかるべからずといわば、これ宇宙内の規則をもって宇宙外の規則とするの難を免れず。たとえ宇宙外にその規則真に存するも、その果たして存するや否やは、我人のいまだ知らざるところにして、すでにこれを存せりと想定するときは、これ論理の規則に反するものなり。

 第二四節 すでにそのしかるゆえんを知れば、目前の現象を見て天神の実在を想出するの非なること明らかなり。しかれどもまた必ずヤソ教者ありて説をなしていわん、わがいわゆる天神は全く宇宙を離れて存するにあらず、宇宙の内外にわたりて存するなり、故に宇内の規則をもって天神に及ぼすことを得べしと。曰く否、天神は宇宙の内外に存すというも、宇宙すなわち天神にあらず。もし宇宙をもって天神とするときは、ヤソ教は万有神教とならざるべからず。すでに天神を有意有作の一個の造物主となすときは宇宙と同一ならざること論を待たず。すなわち天神は能造者なり、宇宙は所造物なり。かつ第二〇節に述ぶるごとく、天地の大原因は天地にさきだちて存し、かつ天地と異なるものなりとする以上は、宇宙と別物なること明らかなり。しかるにあるいは宇宙は天神の自体より派生せるをもって、天神と同一の規則を有せざるべからずというものあるべしといえども、その果たして同一の規則を有するや否は今まさに証明せんとする点にして、すでに証明せるものにあらず。すなわち未証にして既証にあらず。なんとなれば、もしすでに宇宙は天神の体より派生せるものなることを知れば、これすでに造物主あるを知るなり。いまだ造物主あるを知らざるに当たりて、早くすでに宇宙をもって天神の派生となすはもとより論理の許さざるところなり。

 第二五節 しかるに仮に一歩を譲りて、宇宙と天神と同一の規則を有するものとするも、さきに第八節に仮定するごとく、一部分の規則をもって全体の規則となすの理いまだ解すべからず。けだし一部分について経験するところのもの、必ずしも全体の上に適合するにあらず。たとえば物質には気形、固形、液形の三種ありて、液形の一部分について経験するときは増減生滅の変化あるも、物質全体の上について経験するときは物質にはその定量ありていかなる変化を受くるも、すこしも増減生滅なきを知るべし。故に一部分に増減あるをもって、全体の上にもまた増減あるべしということを得ず。あるいはまた地球上至るところ東西の方位あるをもって、地球の外に同一にその方位ありと思うも、地球の外に出づれば、東西南北の方位なきにあらずや。これによりてこれを推すに、結果あれば必ずその原因ありというはこの宇宙内の事物と事物との間の事のみ、すなわち一部分の規則のみ。しかして天神と宇宙の関係に至りては宇宙全体に関するものなり。しかるに一部分の規則を推して、宇宙もまた一結果にしてその大原因たる天神別に存せざるべからずというがごときは、全く論理を知らざる妄論というべし。

 第二六節 かく論定するときはヤソ教者また必ず説をなして曰く、一部分について経験するところのもの全体の規則となるの例、全くなきにあらず、かつ天神のごときは我人の耳目の感覚をもって実験すべからざること明らかにして、その存否を知るは全く推理法によらざるべからず、しかして推理より知るところのものことごとく虚妄なりというの理なし、たとえば人の心性のごときはその体無形無質にして、わが耳目をもって視聴すべからず、しかれどもその真に存するを知るにあらずや、また化学元素のごときは、その体微細微小にして我人の五官の力これを感触するあたわず、しかれどもその現に存するを許さざるを得ざるにあらずや、また光線の媒介となるエーテルのごときは我人の見るべからず、さぐるべからざるものにして、なおその存するを許すにあらずやと。今この論難に答うるまた容易なり。第一に一部分の規則は、あるいは全体の上に適合せざることあり、あるいは適合することありとするときは、もとより一部分の規則は全体の規則にあらずと断言することをえずといえども、これまた同時に一部分の規則は全体の規則なりと断言することを得ざるなり。しかるにヤソ教者は一部分の規則を全体の上に及ぼして、天神は実に存せりと断言するは論理の反則なること明らかなり。もしそれ天神の有無は耳目の感覚上知るべからざるをもって、推理想像によらざるべからずとするも、その想像と理学上の想像と同一にみなすべからず。たとえば第一に心性または元素のごときは我人その実体を見ざるも、その作用はわが日夜目撃するところなり。しかるに天神のごときはただにその実体を目撃すべからざるのみならず、その作用も物心の作用を離れて別に実視すべからず。しかして我人の天神の作用と認むるものはみな物心の作用にして、たとえ物心の作用は天神の生ずるところとなすも、その天神の作用はわが直接に知るところにあらず。しかるにヤソ教者は心性および元素の存在は推究によりて知ることを得るをもって、天神の存在もまた推究によりて知ることを得べしというといえども、その実二者の推究全くその性質を異にするをもって、論理上あにこれを同一視するの道理あらんや。

 第二七節 つぎにエーテルの存在のごときは全く理学上の想像説なるも、なおこれを天神の想像説に比すれば、その間に真否を判ずることもとより容易なり。請う、試みにエーテル説には十分の真理なしとするも、七、八分の真理ありと許して可なり、しかるに天神説はたとえ真理を有すとするも、真理の二、三分を有するに過ぎざるべし、なにをもってこれを知るや。曰く、エーテル説は今日にありては理学者一般に唱うるところにして、実験上推究するにその存在を想定せざるを得ざる道理ありて存するをみる。これに反して、ヤソ教の天神説は学者の一般に許すところにあらず、かえってこれを許すものは学者中の少数にして百中一、二人あるのみ。かつ天神を想定せざれば、宇宙の解釈を与うることあたわざるにあらず、これただ宇宙解釈中の一説なるのみ。たとえ哲学上の有神説は宇宙の解釈に必要なるものとするも、ヤソ教の有神説はその解釈に必要ならざること明らかなり。故にそのいまだ一定せざる天神説をもって、理学上の考説と同一視するは、ヤソ教者の偏見なることまた疑いをいれず。

 第二八節 論じてこの点に達すればヤソ教者必ずいわん、宇宙間の規則をもって宇宙の外に及ぼすことを得とするときは、神ありというも、神なしというも、みな我人の宇宙間の経験によるものなるをもって、神ありの論もいくぶんの真理ありと許さざるべからず。もしまたその有無共に宇宙間の規則をもって知るべからずとするときは、神ありの論に対して、これを虚妄なりとなすの論、また虚妄にして、神なしと断定するがごときは決して論理の許すところにあらざるべしと。余これに答えていわんとす。余が論全く宇宙内の規則をもって宇宙外に及ぼすことあたわずというにあらず、ただ宇宙内の規則必ずしも宇宙外の規則なるにあらずというにあり。他語にてこれをいえば、宇内の因果の規則は十分真なるも、宇外の天神の実在は十分真なるあたわずというにあり。かつそれ天神の有無のごときは全くわが耳目感覚の外にありて、想像上の推究によるより外なしといえども、想像上の推究はいかなる説も同量の真理を含有するにあらず。これ余が第一五節中にすでに論ずるところにして、天神なしというも想像説なり、天神ありというも想像説にして、共に実験説にあらざるも、両説相較するときはそのうちに含むところの真理に差等ありて、一説は三分の真理を有し、一説は七分の真理を有するがごときことあるべし。しかるに余が論究するところによるに、神なしと立つる説は、神あると立つる説よりかえって真理の元素を含むこと多きを知る。他語にてこれをいえば、有神説より無神説の方かえって実験説に近きを知るなり。なんとなれば、ヤソ教者は因果論をもって有神説を立つれども、因果の規則を正当に応用すれば無神論を唱うるより外なければなり。しかるに因果の規則によりて有神論を立つるがごときは、全く論理の応用を誤るものなり。その理は余がこれより論ぜんと欲するところなり。

 第二九節 そもそも我人のいわゆる原因結果は相対の原因結果にして絶対の原因結果にあらず。およそ一原因にしてこれに対待するものなく、常に独立自存して更にその原因の原因となるべきものなき、これを絶対原因とす。これに反して因果相対して存し、原因もこれをその原因の原因に比すれば結果となり、結果もその結果の結果に比すればまた原因となりて、独立自存せざるもの、これを相対の原因とす。たとえば甲イロハの四個について、イはロに対しては原因なれども、甲に対すれば結果なり、ロはイに対すれば結果なれども、ハに対すれば原

  第3図   甲 イ ロ ハ

因なりとするときは、これいわゆる相対の因果なり。もしこれに反してイロハを合して一の結果とし、甲はその原因にして更にほかに甲の原因となるものなきときは、これを絶対の原因とするなり。今ヤソ教はこの絶対の原因を説くものにして、そのいわゆる天神は図中の甲にして、そのいわゆる天地万物はイロハなり。しかしてその天神の実在を推知するはイロハの規則をもって甲に及ぼすによる。他語にてこれをいえば、イロハにおのおのその原因あるをもって、イロハを合したるものにも、またその原因あるべしと論定するなり。これあに論理の許すところならんや。我人の知るところのイロ等の原因はなんぞや。曰く、相対の原因なり。相対の原因は絶対の原因と同一なりや。曰く、大いに異なり。果たしてしからば、相対の原因を見て絶対の原因なかるべからずと論決するは、論理のその当を得たるものにあらず。けだしわが経験するところによるに,果あれば必ずその因あるは事物の通則なるをもって、天地にもまたその大原因あるべしと推論するは一理あるに似たれども、そのわが経験内の原因はまた一結果にして、その原因の原因別に存せざるべからず。しかるにその原因の原因あるを問わざるは、因果の規則の一部分をみていまだその全体を尽くさざるものなること明らかなり。たとえば父母は子の原因とし、子は父母の結果とするも、子はこれを孫に対すればまた一原因にして、父母はこれを祖父母に対すればまた一結果なるがごとく、あるいは雲は雨の原因にして雨は雲の結果なるも、雲をもって海洋江湖より蒸騰する水気に比すればまた一結果にして、雨をもって海洋江湖の内に潴溜する水体に比すればまた一原因なるがごとく、我人の知るところの原因はみな相対の原因なり。しかるにこの理を推して、天地に大原因あり、万物に大原始ありと論定するは、これ相対の原因の外に絶対の原因を立つるものなり。しかるにそのいわゆる絶対の原因はわが全く知らざるところにして、もしわが知るところの原因をもって、天神のなんたるを推知せんと欲せばよろしく天神もまた一結果にして、その原因の原因別に存すべしと論定せざるべからず。しかるにヤソ教者は天地万物の大原因を天神に帰して、更にその天神の原因を問わざるは全く原因論を誤用するものにして、その論定するところのもの決して真理として許すべからざること明らかなり。

 第三〇節 ヤソ教者あるいはいわん、わが宇宙間に経験するところの原因は相対なるも、その相対の原因を推すときは独一の原因ありて存するを知るべし。たとえば世界に億万の人民あるも、古代にさかのぼりてその起源を考うれば、ただ二、三の人民ありしを知るべく、草木禽獣もその今日に存するものを見るに、幾種幾類あるを知らざるも、太初にはただ二、三の原種ありしを知るべきがごとし。この理によりてこれを推すに、世界万物に一大原因あるを想定すべしと。この一説のごときは当時、学者社会に行わるる進化論の原理とその趣向を同じうするものにして、進化論にありては太初に一大原種ありて、その体開発して二となり、三となり、四となり、その順序あたかも甲よりイロを生じ、ロよりハニを生じ、ニよりホヘを生ずると同一なり。これを世界の進化開発という。かの易に太極両儀を生じ、両儀四象を生ずというもの、またこれのみ。この理によりて推究するときは、天地万物の一大原因となるべきもの、太初に存せざるべからざるを知るといえども、ヤソ教者のいわゆる天神の存するを知るにあらざることは、多言を要せずして明らかなり。今進化論と天神説の異同を挙ぐるに、第一に進化論にありては動植人獣は一源同祖より分化派生せるものと立つるも、ヤソ教にありては人獣動植おのおの別に天神の創造したるものとす。第二に進化論にありては動植の初祖本源となるべき一物初めより存することは許さざるをえずといえども、その一物は天神の創造したるものなりというにあらず。しかるにヤソ教にありては万物おのおのその原種なかるべからざる以上は、その原種を創造するところの天神存せざるべからずと論定す。これ天神説の進化説に合せざるのみならず、論理の規則に反するものなり。けだし今日の実験に考うるに、動植人獣の同一の祖先より分化したるの理はすでに明らかにして、有機無機も同一物より派生したるの理、また大いに信ずべきところあり。すなわち天地万物は一物の分化開発に外ならざるゆえんを知るべし。これ近世唯物論の起こるゆえんにして、この説は第一に『バイブル』の創造説に反対するものなれば、ヤソ教者がこれを目して妄誕不経の進化説とみなすものなりといえども、論理上進化説を追究するときは一物開発説を主唱せざるをえざるものあり。たとえその説いまだ全く真とするに足らざるも、これを『バイブル』の創造説に比していずれが妄、いずれが真なるを判ずるははなはだやすしとするところなり。

 第三一節 しかれどもこの論点のごときは後に進化説を論ずるに当たりて弁明すべきをもって、ここにはただ開発進化説をもって天神説を証立すべからざる一点を論究せんとす。そもそも人にはその先祖の先祖ありて、本邦にてこれをいえば我人は諾冉〔イザナギ、イザナミ〕二尊の末孫、西洋にてこれをいえばアダム・イブ二人の末孫なりとするも、その二人の先祖は果たして天神の創造に帰するより外なきか、あるいはほかにその原因を説明すべき道理ありや。もしほかに説明すべき道理あるときは天神創造の想像説を用うるを要せざること明らかなり。けだしこれを見るべからず知るべからざる天神の創造に帰するは、畢竟人種の本源を解釈することあたわざるによるのみ。しかるに今日にありてほかに解釈すべき道理ある以上は、もとよりかくのごとき空想説は全く無用に属するを知るべし。もしまた万物一源論によりて太初に宇宙間に渾沌たる一物あり、次第に開発して鳥獣草木、人類土石を現出するものと定むるときはなおさら天神創造説の不理なることをみるべし。たとえば試みに天地万物の本源は太極なりとせんか。太極の体は決して天神にあらず。なんとなれば、その体両分四散して天地万物となる以上は、天地万物の体すなわち太極ならざるべからず。太極は天地万物の外にありて、これを創造主宰するものにあらざること明らかなり。しかるにヤソ教者は一方に天地万物の原種なかるべからざるをみて、他方に創造主宰神を想立するは、ただに空想の範囲を脱せざるのみならず、畢竟一時の方便説たるを免れざるべし。他語にてこれをいえば、天神を立つれば宇宙の解釈を与うるに便宜なりというにとどまる。故にその論もとより論理上真なりと許すことあたわざるなり。

 

     第三段 原因論 第二

 第三二節 前段は主として、かのヤソ教者が天地万物の原種初祖となるべきものなかるべからざるの理を推して、天神の現存を想定する一論に対してかくのごとき理なきゆえんを示したるのみ。もし万象万化の起源にさかのぼりて天地万物の進化開発を考うるときは、その開発はいかなる原力によりて生ずるかの問題を論明せざるをえざるなり。およそ物の進化開発するには必ず力の発生を要することは事実上明らかなることにて、宇宙の大機関もまたその活動を始むるにさきだちてこれに与うるところの力なかるべからず。たとえば時計の動くは人のまずこれにその力を与うるにより、舟車の運転も蒸気または人力のその運動を与うるによるがごとし。しかるにその力は天地にさきだちて天神の存するありて与うるものとするはヤソ教者の通説なれども、余をもってこれをみれば、これ一も天神の実在を証するに足らざるなり。第一に天神を設けざれば果たして進化の原力を説明することあたわざるか。もしいやしくもほかに説明すべき道理あるときは、天神の想定を要せざることもちろんなり。たとえまたその道理なしというも、進化の一事はすこしも天神に関せざることなり。他語にてこれをいえば、物の進化する以上はその進化を営むべき原力なかるべからずということを得るも、この理によりて別にその力を与うるところの天神ありというの証となすの理なし。しかして時計の運動あるはこれにその力を与うるもの別に存するによるというがごときは、これ全くその例を異にするものにして、第一に第八節中に弁ずるごとく、部分をみて全体を想定するの論難を免れず、第二に畢竟かくのごとき想像を起こすは天神と人為と同一視するによる。天神と人為とを同一にするの不当なる理はのちに至りて述ぶべし。これを要するに、今日の実験上、物にその原種あり、力にその原力あるを知るべきも、これ物の実在および力の実在を証するにとどまり、これをもって造物主宰者の別に存する証となすの理、決してあるべからず。もしこれをもって天神の実在を証するときは、あたかもイの存在をみて甲の存在を想定すると同一にして、これあに論理の許すところならんや。なんとなればイの起源知るべからざるをもって、これを甲に帰するも、甲のなんたるまた知るべからざればなり。他語にてこれをいえば、一方の事物を知らんと欲してこれに代うるに、他方の知るべからざるものをもってするがごとし。もし強いてかくのごとき証明法を許すときは、これ一時の便宜によると評するより外なかるべし。すなわち万物万化の本源を知るべからざる有意有智の天神に帰するにあらざれば、無智蒙昧の衆人をしてその威力をおそれ、その徳性に感ぜしむること難きによるなり。しかして更に顧みて天地万物の本源を考うるときは、あえて便宜の天神を設けざるも、学理上開発進化の原因を証明することを得べし。この点は余がつぎに論ぜんと欲するところなり。

 第三三節 もし因果論について天地万物の本源を考うるときはいかなる定説を結ぶべきやというに、物質不滅、勢力恒存の理法の存するを知るより外なし。今そのゆえんを述ぶるに、因果論は一因あれば必ずその果あり、一果あれば必ずその因ありといえる因果の規則に基づくものにして、この因果の規則は一事として偶然に生ずることなく、一物として率爾に滅することなく、その生ずるも、その滅するも、必ずしかるべき原因事情あるによるといえる実験に基づくものなり。しかしてこの実験は今日物質不滅、勢力恒存の理法の起こるゆえんにして、かの化学者が一物の変化して、あるいは気形となり、あるいは液形となり、あるいは固形となるも、同量の物質の依然として存するありて、一分子たりとも真に滅するにあらざるを知るがごとく、また物理学者が一力の変化して、あるいは運動力となり、あるいは熱力となり、あるいは電力となるも、その力の実量に至りてはすこしも消滅することなきを知るがごとく、物質に生滅あるはその形体の変化にとどまり、勢力に増減あるもその事情の変化にとどまり、その実体、実量に至りてはすこしも生滅あることなしという。もしこの規則を広く応用するときは因果不滅の理を知るべし。すなわち物に増減生滅なく、力に増減生滅なき以上は、一事として偶然に生ずることなく、一物として偶然に滅することなく、一結果あれば必ずしかるべき原因あり、一原因あればまた必ずその結果ありて、有を転じて無となし、無を転じて有となすことあたわざるの理に達することを得べし。故に余は物質不滅、勢力恒存の理法は因果の規則と同一理に帰するものにして、因果の規則はこの理法の実在を示すものなりとするなり。

 第三四節 しかるにヤソ教者は一因あれば必ずその果あり、一果あれば必ずその因ありというの規則を応用して天神の実在を証明すといえども、これ全く証明法を誤るものにして、この因果不滅の規則は有神論の証にあらずして、かえって無神論の証なるのみ。今試みにこれを論ぜん。さきにすでに述ぶるごとく、仮に因果論に基づきて天地に一大原種原力あることを知るとするも、その原種原力はいやしくも偶然率爾に生滅することなき以上は、不増不減、不生不滅ならざるべからず。もしまた物質不滅、勢力恒存の理法に照合して考うるときは、その原種原力と今日の万物と同量同体ならざるべからず。すなわち太極は両儀四象と同量同体ならざるべからず。もし太極より両儀はその量多く、両儀より四象はその体加わるとするときは、ただに物質不滅、勢力恒存の理法立たざるのみならず、因果の規則もまた立つことあたわざるなり。たとえばここに「伊」なる一物あり、これに「呂」を加うるときはイロの結果を生じ、これに「波」を加うるときはイハの結果を生じ、これに「仁」を加うるときはイニの結果を生ずるものとせんか。しかるときは原因異なれば結果また異なるを知り、あわせて物質の不滅を知るべし。もしこれに反して、「伊」は「伊呂」および「伊波」と同一の結果を有するときはただに因果の規則に合せざるのみならず、物質不滅の理法に反すべし。故に因果の規則の真なるは、すなわち物質不滅、勢力恒存の理法の真なるゆえんを証するに足り、あわせてこの規則をもって有神論の一証となすの非なるゆえんを知るに足る。

 第三五節 そもそも因果の語は広く事物の関係を示す語にして、その一条の関係の一端を原因とし、他の一端を結果とす。すなわちすべて事物の変化を生ずるに要するところのもの、およびこれをして生ぜしむるものは、原因としてすでに変化を生じて、その後にきたすところのものを結果とするなり。故に仏教にては原因に二種を分かちて曰く、因曰く縁とするなり。因とは変化を生ずる親因なり、縁とはこれをして生ぜしむる疎因なり、この二者相合して果を生ずるゆえんを示すものは仏教なり。今物質不滅、勢力恒存の理法は有形の実験学より起こりたる規則なるをもって、これを因果の規則に比するに、その意味はなはだ狭しといえども、物質不滅、勢力恒存の規則はすでに今日にありては、ひとり有形の上に適用するのみならず、無形のものに至るまでみなこの規則に照らして論ずることを得べし。かの心理学のごとき、社会学のごとき、みな無形に属するものなり。しかるに勢力恒存の理法をもって、その規則となすことを得るに至れり。果たしてしからば、因果の規則と勢力の規則は同一理に基づくものと知るべし。もしこの規則をもって宇宙の解釈を与うるときは、天地万物は不生不滅、不増不減なりというより外なし。これ余が因果の規則を正当に応用すれば、有神説を排して無神説を立てざるべからずというゆえんなり。

 第三六節 すでに因果の規則によりて天地万物の不増不減、不生不滅なるゆえんを知れば、宇宙は無始無終となさざるべからず。なんとなれば、宇宙に原始ありとするときは、万物はその生ずべき原因なくして偶然に生ずるものと定むるか、否むれば天神の特造を立てざるべからず。しかして天神の特造を立つれば、因果の規則に反すべし。けだしヤソ教者の宇宙の原始を説くは、目前の事々物々の変化に終始ありと考うるによる。たとえば歳時にも終始ありて、春を始めとし、冬を終わりとし、流水にも終始ありて泉源より出づるを始めとし、海洋に入るを終わりとす。人獣またしかり。人類にはその始めて世界に現ずる時あり、獣類にもその初めて地球上に現ずるの時あり。この現象についてただちに考うるときは、事物には必ずその起源あり、すでに起源あれば、これを創造するものなかるべからずという。しかれども、これただ人の浅見のみ。深くその理を究むれば、春の前にも春あり、冬の後にも冬ありて、歳時循環して尽くることなきを知るべく、海洋の水はのぼりて雲となり雨となり、また降りて地中に入り湧きて泉となり、流れて百川となり、入りて海洋の水となり、循環して際涯なきを知るべし。もしさかのぼりて万物の本源を考うるときは、人類には人類の原始あり、獣類には獣類の原始あるがごとき想像を脱することあたわざるも、これまた一部分の観察のみ。もし進化論の定説に従って、人類は獣類より分化するものと定むるときは、あえて人類の原始を立てて、これを創造するものを設くるを要せず。もしまた更に進めて、有機は無機より分化するの唯物論をとるときは、有機を創造するものを殊更に設くるを要せず。しかして、無機はいかにして生じたるかの問題に至りては、あるいは天神の創造を立てざるを得ざるがごとしといえども、もしその体無始無終と立つるときは、またなんぞこれを創造するものを立つるを要せんや。けだし人のこの原始点に至りて天神の実在を想定するは、全く無始無終、循環無窮の理を知らざるによる。しかして無始無終、循環無窮の原理は、不生不滅、不増不減の規則より生ずること疑いをいれず。あたかも、春秋歳時の循環して尽くることなく、江河海洋の水の変化して生滅なきと同一般なり。故に原因結果の理法について宇宙の原始を考うるときは、世界万物の無始無終、循環無窮の原理に達し、無神論の真理を示すに至るなり。

 第三七節 これに至りてこれをみるに、およそ世界の開闢を説明するに二種の考説あり。その一は世界をもって有始有終とし、その二は世界をもって無始無終とするもの、これなり。もしこれを有始有終とすれば、これを造出するものなかるべからざるの想像をきたすに至り、もしこれを無始無終とすれば、別に造物主を立つるを要せざるなり。これ仏教とヤソ教と、全くその天地開闢説を異にするゆえんにして、仏教は無始無終と定むるをもって造物主を立てず、ヤソ教は有始有終と定むるをもって造物主を立つるなり。しかしてそのこれを立つるも、立てざるも、共に因果論に基づきたるものにして、かのヤソ教は結果あれば必ず原因あるの理を推して、世界を創造する天神ありといい、仏教は原因結果の関係は不生不滅の原理を証示せるをみて、世界は無始無終なりというなり。そのうちすでに因果論はヤソ教の有神論を証するに足らずして、かえって無神論を助くるゆえんを論明せしをもって、今ここに有始有終説と無始無終説とを比考して、我人は無始無終説をとらざるべからざるゆえんを述ぶべし。たとえばここに一線あり。これを直線とみるときは必ずその前後に尽くるところなかるべからずといえども、これを環線とみるときはその前後尽くるところなきを知るべし。すなわち第7図においてロハを一直線とみるときは、イはその前端にしてニはその後端なるを知るべしといえども、第8図についてイロハニを環線とみるときはその間に一定の前後なし。ただその住止するところに従って前後の別を生ずるのみ。たとえばロ点にありてこれをみれば、イはその前端にしてハはその後端なり、ハ点にありてこれをみれば、ロはその前端にしてニはその後端なるのみ。この二者の関係はあたかも無始無終論と有始有終論との関係を示すものなり。有始有終論にありては、世界を一直線とみるをもって、万物の起源あり天地の終局ありといわざるべからざるも、無始無終論にありては世界を環線とみるをもって、天地万物の変化は循環して窮まりなきものなりという。もし環線中の一部分にとどまりてこれをみれば、前後終始あるをみるも、これ真の前後始終にあらず、ただその前後の諸点を対照してことごとく始終あるをみるのみ。故に世界の永続を環線とみるときは、造物主を立つるを要せざるなり。

 第三八節 しかりしこうして、これを直線とみると環線とみると、いずれが真理に近しというに、もし因果の規則に考証するときは環線論をもって真理に近しとせざるべからず。ことに物理化学の定則たる物質不滅、勢力恒存の理法に考証するときはますます環線論の真なるを知るべし。これに反して、直線論は因果の規則に基づきて立つるものなれども、その実かえって因果論に反するものなり。ことに天神特造を立つるがごときは、物質不滅、勢力恒存の理法に合せざるをもって、有始有終論はこれを無始無終論に比するに、畢竟愚者の妄見に過ぎず。仮に地球説について、その関係を示さん。往時は大地をもって平坦なりと立つるをもって、当時の人民は地の方位にその極端ありて、一方を指して長く航海するときはその一端に達し、大地の外に落つることあるべしといえり。これ地平論を立つるときは必ず伴って起こらざるを得ざる論点なり。あたかも直線論において、イの極端あり、ニの極端ありと想せざるを得ざると同一般なり。しかるに近時に至りては、輿地は球円なりとなすをもって、だれも地球の平面に極端あるを想するものなく、またなにほど一方を指して航海するも、その端に達するの恐れなきを知る。これあたかも環線論において、その両端なきと同一なり。世界の終始を論ずるも、またこれと一理にして、かの太初に万物を特造するものありと思うがごときは、地面の平坦を信ずると同一の愚見なり。もしこれを変化循環して、際涯なく、終始なく、増減生滅なしと立つるがごときは、近古地球円体論の発明と同一にして、その説たるや哲学界中近時の新説卓見というべし。しかれども地球の一部分にとどまりてその前後を見るときは、あたかも平坦なるがごとく、たとえこれを球円なりというも、ほとんど信ずることあたわざると同一般にして、世界の一小位に住し、時間の一小部にとどまりて、その前後を見るときは、あたかも終始極端あるがごとく、たとえこれを循環無窮なりというも、ほとんど信ずべからざるがごとし。しかれどももし因果の原理を精密に推究するときは無始無終論の疑うべからざるを知るべし。更に他の例をかりてこれを証せん。昔時の蛮民は雨の天より下りて尽くることなきを怪しみて、天に淵泉あるべしと思い、水の海中に入りて海水の増さざるを怪しみて、水底に水門あるべしと思いたるなり。もしこの人をして淵泉、水門の想像を生ぜざらしむるときは、雨を製する雨神、水を払う水神の想像を生ずるは必然なり。しかれども畢竟かくのごとき想像を生ずるは循環の理を知らざるによる。もし海水は蒸騰して雲となり雨となり、また下降して海水となり、循環運行して際涯なく終始なきを知るときは、始めて雨神、水神の想像の妄なるを知るのみならず、淵泉、水門の想像もまた全く無用に属するを知るべし。今世界開闢論に天神特造の想像を用うるは、雨神水神、淵泉水門の想像を立つると同一般なり。もしこれに反し、無始無終、循環運行の理をもって世界の開闢を立つるに至れば、たちまちその想像の妄にしてかつ無用に属するを知るべし。これを要するに、ヤソ教は因果論に基づきて世界開闢を説き、仏教も因果論に基づきて世界開闢を説くも、このいわゆる因果論はヤソ教の有始有終論を排斥して、仏教の無始無終論を証立し、あわせて有神論の妄想浅見にして、無神論の学説真理なるゆえんを明示するものなり。

 第三九節 近世、学説大いに進み、地球の円体にして平坦ならざるゆえんを発見したるは、空間上に環線論起こりて直線論を排したる学界の一大革命というべし。しかしていまだ時間上にその革命をみざるは、かえって学説の進歩の不完を示すのみ。余をもってこれをみれば、時間上直線論を用うるは古代の妄想にして、早晩その革命あるべきを信ず。しかるに余、仏書について環線論のそのうちに存するをみて、従来の有神説を破して一大革命を学界に開くもの、ひとり仏教にあらんことを知る。そもそも仏教は因果教なることはみな人の知るところにして、当時インド外道中に大自在天を立てて、万物はその自在力によりて生ずと唱うる、いわゆる造物論あり。これに対して、因果の正理を開立し世界万物をもって無始無終と立つるもの、これ仏教なり。しかしてその無始無終の間に因縁相感して果を生じ、もって無量の変化をみるも、その実、循環運行に過ぎずして、万物一として真に滅するものなく、一として真に生ずるものなく、いわゆる不生不滅、不増不減なりという。およそ事物の単純より起こりて複雑に進み、一様より出でて多様に移るもの、これを進化という。これと反対の方向をとるもの、これを退化という。ただちにこれをみるに、世界の進化するは余物のこれに加わるにより、退化するは自体の減殺するによるがごとしといえども、今物質不滅、勢力恒存の理法に考うるに、その進化するも、その退化するも、事物の外形上の変化にして、その実体に至りてはすこしも増減生滅あることなきを知る。果たして実体上に増減生滅なき以上は、進化にその極点ありて、進みてその点に達すれば退化し、退化にもまたその極点ありて、降りてその点に達すればまた進化し、進退両化互いに循環交代して終始なく、際涯なきゆえんを知るべし。この循環際涯なきもの、これを循化という。この循化に基づきて世界の開闢を論ずるもの、すなわち仏教にして、仏教は天地万物をもって無始無終、不生不滅と立つるなり(『哲学要領』後編、第一段および第一一段を参見すべし)。

 第四〇節 およそ今日の天文学者の説くところによるに、太古にありては宇宙間にただ非常の高熱を有したる渾沌の雲気あるのみ、その熱度ようやく減じて、その体ようやく重く、その力ようやく中心に引くの勢いを生ずるに至る、これを求心力と称す。求心力の生ずるに従って、また中心を離れんとする勢いを生ず、これを遠心力と称す。遠心力もし求心力に勝つときは、一体の火雲分かれて、数塊となり数球となりて、互いに相引き互いに相排し、もって今日の天地を構造するに至れりという。これを星雲説と称す。しかるにここに一問あり。その星雲のいまだ分化せざるに当たりては、その体いかにして生じ、いかにして回転を始めたるや。すでに今日の実験は、かくのごとき太古にさかのぼりて、その原始のいかんを知ることあたわざるをもって、この問いに答うるの力なしといえども、今そのなんたるを知らんと欲せば、実験上より得るところの規則に考うるより外なし。もし今日の実験上の規則に考うるときは、物質不滅、勢力恒存の理法によらざるべからず。もしこの理法によるときは、その太初の原体は全く新たに生じたるものにあらずして、無始以来、現存せるものというより外なく、またその太初の原力は外より新たに与えたるものにあらずして、その体と共に無始永遠に存するものなりというより外なし。すなわち宇宙は無始無終にして万物は不生不滅なりと断定せざるべからず。つぎに世界の終局を考うるに、将来天地の諸象、次第に接近して互いに相衝突し、今日の日月星辰みな相合して一体となり、従来の運動は変じて熱力となりて、再び太初の星雲に帰すべしという。これいわゆる世界滅尽の時なり。しかれどももし物質不滅、勢力恒存の理法を真なりとするときは、その滅尽の期に至るも、万物ただその形象を変ずるのみにて、その実体に至りてはすこしも増減生滅なき理なり。

 第四一節 この理を推して天地開闢の前を見、万物滅尽の後を察するに、開闢の前にも世界あり、滅尽の後にも世界あるを知ることを得べし。ただその間にあるいは渾沌たる一塊開きて万象を現じ、あるいは森然たる万象閉じて一塊に帰するの変化あるのみ。その相開く、これを世界の大進化といい、その相閉づる、これを世界の大退化という。その進化の初めは天地開闢の時にして、その退化の終わりは万物滅尽の時なり。もしその退化滅尽の終わりと、進化開闢の初めと同一の形情を有するものとするときは、天地の開閉もまた循環の規則に従うゆえんを知らざるべからず。すでにそのしかるゆえんを知るときは、世界の前に世界あり、世界の後に世界あることを許さざるべからず。すなわち天地万物は、開きてまた閉じ、閉じてまた開き、循環際涯なしといわざるべからず。もし人ありて、進化開闢の初めと退化滅尽の終わりと同一なりというがごときは、ただ想像論にしていまだ実験説にあらずというものあるべしといえども、物質不滅、勢力恒存の規則によれば、世界の前に世界あり、世界の後に世界ありて、無始無終、循環無窮と断言せざるをえず。これ余がいわゆる環線論にして、その論、仏家所立の千古の卓説なり。すなわち倶舎論に、成住壊空を論じて進退両化の循環際涯なきゆえんを示し、法体恒有を説きて万物に増減生滅なきゆえんを示したるもの、これなり。かくのごとく想定するときは天神を立てざるも、天地万物の原始を解釈することを得るなり。しかして我人の天神の現存を想せざらんと欲するも、得べからざるはなんぞや、これその心に宇宙直線論を固信するによる。あたかも雨の天より降るを見て地より上がるを知らざるときは、雨を製する神を想定せざるを得ざると同一般なり。もし宇宙環線論に基づきて世界の開閉循環窮まりなしとするときは、あたかも海水は上がりて雲雨となり、雲雨は降りて海水となりて、循環際限なきを想すると同一理なり。

 

     第四段 原因論 第三

 第四二節 余は前段において世界万物の循環不滅の理を論じたれば、これよりその上にきたすところの駁論に対して弁明せんとす。まずヤソ教者ありて説を起こして曰く、天地万物は無始無終にして循環際涯なしとするも、その循環際涯なきものは果たしていずれより生ずるや、たとえばイロハニ互いに相原因となり結果となりて、変化循環際涯なしとするも、そのイロハニの全体はいかにして生じ、いずれよりきたるや、これに至りて天神の想定を要するにあらずやと。余これに答えて曰く、しからず。天地万物は無始無終、循環無窮なりと許す以上は、なんぞこれを創造する天神を立つるを要せんや。これを立つるはただにその必要をみざるのみならず、大いに論理に反するものなり。なんとなれば、天神を立つるときは天地万物にその原始ありといわざるべからず。しかして始めなき万物に始めありというは、論理の許すところにあらざるなり。もし無始無終の天地万物について、なおその原因を求めその始終をさぐらんとするときは、天神にもなおその原因を求めその終始をさぐらざるをえず。たとえばここに、イなる一体ありて、その体無始無終なりとするに、その無始無終の原因を求めて甲の体を得て曰く、イはこの体より生じ、イの無始無終はこの体のあらかじめ定めたるによると。しかして、甲の体はなにものなるやと尋ぬるときは、彼必ずいわん、これ無始無終なりと。しかれどもイを無始無終なりとしてなおその原因を求むるときは、無始無終の甲にも、またその原因を求めざるをえざる理なり。言を換えてこれをいえば、世界はなにによりて生じ、いずれよりきたるやと尋ぬるときは、これと同一に、天神はなにによりて生じ、いずれよりきたるやと尋ねざるをえざる理なり。

 第四三節 しかるに余輩もしヤソ教者に向かって、天神の原因はなんと定めてしかるべきやと問わば、彼必ずいわん、天神は無始無終にして原因なきものなれば、その原因を問うべき理なしと。余をもってこの答えを評せしむれば、その言かえって論理の規則に反するものなり。もし無始無終、不生不滅の体に対してその原因を求むることあたわざるときは、ヤソ教者自ら天神の存在を論定することあたわざるべし。なんとなれば、天地万物はすでに不生不滅、無始無終にあらずや。この無始無終に対して原因を尋ぬることを得るとするときは、天神に対しても、なおその原因を求めてしかるべき理なり。もしまた無始無終に対して原因を尋ぬることを得ずとするときは、天地万物に対してこれを造出する天神を立つるの理なし。この二論中いずれをとるも、ヤソ教者の天神説の論理に合せざること明らかなり。

 第四四節 今更に一歩を譲りて、天地万物の外に無始無終の天神ありと許すも、決してこれをもって宇宙の解釈を尽くしたりというべからず。なんとなれば、天地万物の本源知るべからざるをもって、天神の実在を想して、これ天神の創造するところなり、これ天神の主宰するところなりというといえども、更に進めて、その天神のなんたるを推究するに、これまた一層知るべからざるものなり。たとえばここにイなる知るべからざるものあるに、そのなんたるを知らんと欲して、別に甲なる一層知るべからざるものを設くると同一般なり。故に宇宙の解釈を与うるに天神をもってするは、一の知るべからざるものあるを知らんと欲して、他のこれより一層知るべからざるものをもってするがごとし。これ決して、解釈のその当を得たるものにあらざること明らかなり。今また一歩を譲りて、有神論も無神論も同一に宇宙間に知るべからざるものの痕跡を絶つことあたわずとするも、その知るべからざるものを近く天地万物の上にとどめて、その外に出さざるをよしとするか、あるいは遠く天地万物の外に更に別に知るべからざるものを設けて、宇宙と天神と共に知るべからざるものとなすをよしとするか。余をもってこれをみれば、天地万物の外に別に知るべからざるものを立つるを要せざるなり。もし天地万物を論究して、いやしくも宇宙間に知るべからざるものあれば、よろしく天地万物の上についてこれを知らんことを求むべし。あに煩わしく宇宙の外に知るべからざるものを設くるを要せんや。しかるにもしヤソ教者ありて曰く、実際上宇宙の外に別に天神を設くるの必要は人民の心を安んじ道徳の大本を立つるにありと。果たしてこの点をもって天神を立つるとするときは、有神論は真にそのしかるべき道理あるにあらずして、ただ便宜のために設くるものというより外なし。すなわち天神説は一時の方便説に過ぎざるなり。もしまた今日いまだ宇宙間に知るべからざるものある以上は、天神を立てざるをえずというときは、これに答えて、将来知るべきに至らば、天神は無用に属すべしということを得べし。

 第四五節 前節述ぶるところ、これを要するに、物質不滅、勢力恒存の理法によりて宇宙の起源を考うるときは、世界万物は不生不滅、無始無終にして、その体を離れて別に天神なしと断言するより外なし。しかるにこれを有神論に考うるときは、天地万物の代わりに天神の体を設けて、その体不生不滅、無始無終なりという。これによりてこれをみるに、有神説をとるも無神説をとるも、共に宇宙の解釈上、不生不滅、無始無終の考説を許さざるをえざるなり。果たしてしからば、不生不滅、無始無終の考説を、近く世界の事物の上にとどむると、遠く天神の上に及ぼすと、いずれをとるや。余をもってこれをみれば、その考説を事物の上にとどむるをもって足れりとす、なんぞ別に天神を設けてその体に帰するを要せんや。たとえば第12図において、イのみありて甲を立てざるときはイは無始無終の体となり、イの外に甲を立つるときは甲は無始無終の体となる。しかしてイは我人の直接に知るところの世界にして、甲は我人の知らざるところの天神なり。今イを知らんと欲して、殊更に知るべからざる甲の体を設けて無始無終とするより、むしろ直接に知るところのイの体を無始無終とするをよしとす。なんとなれば、無始無終は二者中いずれにか属せざるをえずして、一は知るべからざるもの、一は知るべきものなればなり。かつ我人が天神の実在を論ずるもの、みなイなる事物世界において経験するところの道理に基づくや明らかなり。すなわち因果論も、不滅論も、みなイの範囲中にありて知るところのものなり。しかるにその論をもって、遠く甲なる未知体の上に帰するより、むしろイなる既知体の上にとどむるの当然なるは、論理を待たずして知るべし。かくのごとく論究すれば、世界の外に天神を立つるは全く一時の方便とするより外なきなり。

 第四六節 しかるにここに一論者あり。無始無終、不生不滅の理を事物世界の上に立つるべからざるゆえんを述べて、第一に我人の住するところの世界は、変化の世界にして常住恒存の世界にあらず、第二に依立の世界にして独立自存の世界にあらずという。まず第一の論意を述ぶるに、万物万象は一時一刻も変化なきあたわず。人獣、草木、山川に至るまで、みな時々刻々変化を営まざるはなし。果たしてしからば、物質世界は変化の世界なり。いずくんぞ、この変化の世界をもって、不生不滅、常住恒存の世界とすることをえんや。故に不生不滅、常住恒存の体は天地万物の外に立てざるべからずと、これ有神論者の一説なり。しかれども、変化の世界とは事物の外形上の現象のみ。もしその実体を験すれば、不生不滅、常住恒存ならざるべからず。たとえば物質には固形、液形、気形の変化を現ずるも、勢力に運動、電熱等の変化あるも、その実量に至りてはまた生滅なきことは、物理学の実験せるところなり。故に物質の上に不生不滅、常住恒存を説くは決して無証の空説にあらざるなり。この万物の実体の常住恒存なるゆえんを示して、仏教中には法体恒有という。もしまた哲学中の実体論者の説によるに、物に属性と真体との別を立てて、色、声、香、味等のわが感覚上に現ずるものはこれを属性とし、その諸象の本体となるものこれを真体とするなり。余はこれを名付けて、一を物象と称し、一を物体と称す。しかして物象はもとより変化の現象なれば、時々刻々生滅するも、物体は現象の実体なるをもって不生不滅、常住恒存ならざるべからず、これ仏教に真如実相の不生不滅を説くゆえんなり。これによりてこれをみるに、不生不滅の体は物質の外に立てざるべからずというの理あらんや。

 第四七節 つぎに第二の論意を述ぶるに、天地間の事物はみな他のものに倚依して成立し、人獣は食物によりて生存し、草木は大地によりて生長し、地球は太陽によりて運行し、一として独立自存するものなし。かくのごとく互いに相よりて成立する以上は、いずれのところにか独立の一体ありて存せざるべからず。たとえばここ

  第13図   甲   イ ロ ハ ニ

に、ニなる一物ありて、ハによりて成立し、ハもまた独立することあたわずしてロによりて成立し、ロはイによるとするときは、そのイロハニのよりてもって成立するところの独立の体なかるべからず。これにおいて甲の体を立てざるをえざるなり。これ独立の天神ある一証なりという。しかれども余をもってこれをみれば、これまた天神の実在を証するに足らず。なんとなれば、事物は依立なるも、依立相合すれば独立となる。他語にてこれをいえば、一部分については依立なれども、全体については独立なり。たとえばイロ二物ありて、イはロにより、ロはイによるときは依立なれども、イロ互いに相よりて独立自存するときは独立なり。すなわち動物は酸素を取りて炭酸を吐き、植物は炭酸を取りて酸素を吐くは、動植互いに相よるものなり。君主は人民を待ち、人民は君主を待つは、君臣互いに相よるものなり。もし互いに相よりておのおのその生存を全うするときはいわゆる独立なり。今我人の世界は依立の世界なること明らかなりといえども、その全体の上に観察を下せば独立となる。たとえばニはハにより、ハはロにより、ロはイにより、イはまたニによるときは、すなわち互いに相よりてもって独立することを得るなり。更に一例を挙げてその理を示すに、宇宙間に日月星辰の諸体おのおのその位置を定めて秩序を失せざるはなんぞや、地球の空中に懸かり月球の天辺に懸かるはなんぞや。これ他なし、天体の間に求心力、遠心力の交互作用ありて、おのおのその位置を保つことを得るなり。他語にてこれをいえば、互いに相よりて独立するものなり。しかるに古代はその理を知らざるをもって、太陽を引くところの神、あるいは地球を頂くところの神を設けたれども、今日にありては月の天界に懸かるは月と地球との関係によりて起こり、地球の空間に懸かるは地球と太陽との関係によりて起こり、太陽は他の恒星との関係によりてその位置を保つことを知るをもって、別に天体を支うる神を設くるを要せざるに至る。これすなわち無数の恒星、惑星の互いに相よりてもって天体の独立をみるものなり。独立に、独立の独立と、依立の独立の二種ありて、他によることなくして独立するものは、独立の独立なり。互いに相よりてもって独立するものは、依立の独立なり。今わが宇宙は依立の独立なり。しかるにヤソ教者は、宇宙は依立にして独立にあらず、故に独立の体はその外にありて存せざるべからずというといえども、依立相合してよく独立することを得る以上は、宇宙の外に別に天神ありというを要せず。もしまた実体論者の説くところによりて、物象と物体を分かつときは、そのいわゆる依立は物象に関し、独立は物体に関すること瞭然たり。すなわち物象は物体によりて独立するなり。この点よりこれをみるも、宇宙依立論をもって天神の実在を証するの非なること明らかなり。

 第四八節 更に一歩を譲りて、宇宙の大原始たる天神別に存するものと許し、そのいわゆる天神は不生不滅、無始無終、独立自存なるものと定むるも、その体果たして万物を造出したるや、いまだ知るべからず。たとえ造出せるものと許すも、我人を命令主宰するや、いまだ疑いなきあたわず。今因果論についてヤソ教者のいうところを案ずるに、太初に天地万物の大原因なかるべからず、その体すなわち天神なりというも、いまだそのいわゆる天神は人の手をもって物を造出するがごとく、天地万物を造出したりというの証となすべからず。たとえその証となすことを得るとするも、人獣草木おのおの別に造出せられたりとするの理あらんや。いわんや、これを主宰するというをや。かくのごときの理、万あるべからず。

 第四九節 またこれを実際に考うるに、今日の万物はみなそのすでに定まりある自然の規則に従って変化し、我人の一挙一動またみなこの規則に従うのみ、すこしも天神のその間に手を下すを見ず。しかしてヤソ教者は、そのいわゆる規則は最初に天神の定むるところというも、今日の我人はこの規則によりて制せらるるのみにて、直接に天神によりて制せらるることなき以上は、たとえ天神実に存するも、今日の我人はこれと直接なる関係を有せざるなり。果たしてしからば、太初、万物創造の時に当たりては天神の必要をみるも、今日にありてはこれをありとするも、なしとするも、更に我人の上においてその必要をみざるなり。

 第五〇節 もしまた重ねて一歩を譲りて、天神の実在およびその我人の上に有するところの関係は、みな事実上明知することを得るとするも、天神の有無は全く因果の原理より派生せることは、前にしばしば論ずるところをみて明らかなり。すなわちここに一因あれば必ずその果あり、一果あれば必ずその因あるの規則に基づきて、今日の我人は目前に現ずるところの万象万化の結果あるをみてその原因あるを想し、始めて天地の一大原因たる天神あるを考定するなり。すなわち子孫あれば必ずその父祖あり、草木あれば必ずその種子あり、寒暖風雨の変化あれば必ずその原因事情あるの理を推して、我人はもちろん、動植、山河、星辰に至るまでみなその本源あるを知り、ついに天神創造説の起こるに至るや必然なり。けだし我人の天神あるを知るは天地人民あるを知るによる。いまだ人民あるを知らずして、突然天神あるを知るにあらず。もし果たして、まず無形を知りてのち有形を知るならば、赤子のいまだ自己の生存および万物の実在を知らざるもの、早くすでに天神あるを知り、ようやく長じて天地あるを知り、いよいよ長じて人類万物あるを知るべき理なり。しかれども、余いまだかくのごとき人の世間に存するを見ざるなり。今史を案じて、太古野蛮の原人にしてすこしも因果の関係を知るの智力なきに至れば、天神の有無共に知らざるなり。これをもって動物界には信教拝神の行為なきをみる。人智ようやく進みて動物界を離るるに至り、始めて天神の有無を想するに至るなり。これ当時の人民、多少因果の関係を知るによる。いよいよ進みて開明の域に達すれば、天神説いよいよ明らかなるに至る。これ当時、因果推究の法ようやく密なるによる。これにおいてこれをみるに、天神説の起こるは人のすでに因果説を知るによる。他語にてこれをいえば、天神説は因果説より派生したるものなり。果たしてしからば、因果は本なり天神は末なり、因果は実なり天神は虚なり。なお波の水におけるがごとく、影の形におけるがごとし。天神は波なり影なり、因果は水なり形なり。すなわち因果の理、相結んで天神を生じ、因果の理ひとたび散ずればまた天神なし、あたかも形あるをもって影を生じ、水あるをもって波を結ぶと同一般なり。これに反して天神説立たざるも、因果の理立たざるにあらず。たとえば影を失うも形滅するにあらざるがごとし。これを要するに、因果の理滅すれば天神たちどころに滅し、天神滅するも因果の理滅するにあらざるなり。これ他なし、天神は因果の理によりて造出構成したるものに外ならざればなり。更に他の比喩をかりてこれを証するに、ここに一家あり、その体、木石二種より成るとせん、木石相合して家を成すをもって、木石を解散すればまた家なし、しかれども家を解散するも木石なきにあらず。故に知るべし、因果は本にして実なり、天神は末にして虚なるを。もしこれを試みんと欲せばよろしく因果の理を除き去るべし。その理を離れて、いかにして天神の存するを知ることを得るや。しかして天神の存せざるを知るも,また因果の理による。果たしてしからば、天神説は因果の理の一小部分に過ぎざるなり。これをいずくんぞ、純全の真理と称するをえんや。今仏教とヤソ教の別は、一は天神を本とし、一は因果を本とするにあり。果たしてしからば、ヤソ教の原理は全く仏教の原理より派生したるものなること明らかなり。これをもってヤソ教の原理は排することを得るも、仏教の原理は排することあたわざるゆえんも、また知ることを得べし。これ余が仏教をもって真正の真理とするゆえんなり。ああ、仏教の因果不滅の原理に基づきて教体を組織したるは、だれか感嘆せざるものあらんや。

 第五一節 今更に因果の理によりて天神の有無を推究すべきゆえんを考うるに、その推究すなわち論理の作用なり。今、果あれば必ずその因ありとは論理の原則の一にして、今日目前の世界ある以上は天神なかるべからずというがごときは、全く論理の原則の応用に外ならず。故に広くこれをいえば、天神の有無は論理より生ずるなり。これを有りとするも論理なり、これをなしとするも論理なり、論理を離れて天神の有無共になきこと明らかなり。果たしてしからば、論理は本なり、天神は末なり、論理の経緯相合してその一隅に一団の模様を現出したるもの、すなわち天神なり。もしこれを証せんと欲せば、よろしく論理を人の思想の中より除き去るべし。論理なきときは天神なきは疑いをいれず。しかれども天神なきも論理なきにあらず。たとえば一圏をとりてこれを論理の境界と定むるに、その中に有神無神の両部分あるべし。なんとなれば、神ありと論ずるも論理なり、神なしと論ずるも論理なればなり。故に知るべし、有神を除き去るも論理の境界滅するにあらず、論理を除き去れば有神の全界滅せざるをえず、その他、有神論者の天神の実在を証するも、無神論者のこれを駁するも、有神論者のその駁するところを駁するも、みな論理ならざるはなし。ああ、ヤソ教者はいかにして論理の外に天神あるを証するや、論理によらずしていかにして天神の実在を知るや。故に余まさにいわんとす、ヤソ教中より論理を去れば、また天神なく、またヤソ教なし。しかして我人の天神あるを推知するは、論理の仮に合して一団の虚形を現ずるに外ならず。たとえば炎雲の集まりて奇峰を形成するがごとく、激浪の翻りて白雪を湧出するがごとく、その体真に奇峰なるにあらず、白雪なるにあらず、ただ雲波の仮に合してその形を現ずるもののみ。今論理上天神を想出するもまたしかり。すなわち論理海中の激波相合して仮に天神の虚形を結び、論理界内の炎雲相合して仮にその空想を現ずるに過ぎざるなり。

 第五二節 もしそのいわゆる論理はいずれより生じ、いずれに属するかを考うるときは、意識思想の作用なること別に証するを要せず。思想作用はすなわち論理作用にして、論理の原則はすなわち思想の原則なり(『心理摘要』第七章を参見すべし)。故に天神もし論理の範囲内に現出するときは、これ意識思想内の天神といわざるべからず。しかしてそのいわゆる思想とはなんぞや。曰く、心なり。すなわち思想の体いわゆる心にして、心の作用これを思想と名付くるなり。今我人の通常心と称するものも、すなわちこの思想を指して名付くるや必然なり。ここに至りてこれをみれば、天神は心界の一現象にして、心界を離れて別に存するにあらざること瞭然たり。故に余まさにいわんとす、天神、我人の心を造出するにあらず、我人の心、天神を造出するなり。これを要するに、さきにいわゆる因果の理も、不滅の理も、有神論も、無神論も、みな心性の作用に出づるのみならず、われも、人も、神も、万物も、またみな一心界中の現象に過ぎず、仏教の唯心説、これに至りていよいよ明らかなり。その経論中、「万法はただ一心のみにして、心の外に別法なし。」(万法唯一心心外無別法)の言、「森羅万象はただ識の変ずるところなり。」(森羅万象唯識所変)の説は実に仏教の妙理卓見というべし。

 

     第五段 原因論 第四

 第五三節 前三段は、事物に原因あるの理を推して、太初に大原因なかるべからず、その体すなわち天神なりというの論に対して、因果論は天神の実在を証せざるゆえんを論明せり。しかるにヤソ教者の原因論によりて天神の実在を証するに、自然の事物の上に考うると、人為の上に考うるとの二種あるをもって、余はさきに一を因果論とし、一を創造論と定めり。そのうち因果論はすでに論じ終わるをもって、これより創造論に説き及ぼさんとす。今それ因果論は太初に一大原因なかるべからずというにとどまり、いまだ万物を創造主宰するものの存するゆえんを示すあたわず。故にもしその創造主宰するものの存するゆえんを示さんと欲せば、人の行為について考えざるべからず。これをもってヤソ教者は、天神に意志智力ありて天地万物を創造経営したるゆえんを示すに、家屋器械あれば必ずこれを造出する職工あり、書籍あれば必ずこれを述作経画する著者ありという。しかして天神の人民を主宰命令するゆえんは、父母のその子を制御し、君主の臣民を統轄するの例に比して推知するに過ぎず、今余は、もっぱらヤソ教者が人の行為と天神の行為を比較して、天神の創造主宰を説くの妄なるゆえんを示さんと欲するなり。

 第五四節 この点を証示するに当たり、まず左の順序を設けて次第に論下するを要す。

  第一 人類は天地万物中の一部分なれば、その部分の例をもって全体の規則となすべからず。

  第二 人為は自然の媒介をなすのみにて、万物を造出するにあらず。

  第三 天神の万物を主宰するの想像は人事の上に生じたるなり。

  第四 更に進みてこれを考うるに、天神はかえって人の造出するところとなる。

 第五五節 余、今ヤソ教者に向かって、天地万物の大原因たる天神の創造力を有することはなにによりて知るやと問わば、彼必ず『バイブル』中の説を挙げてその証を示すか、しからざれば人為によりて造られたるものをみて、舟車、器械、家屋等は、作者の手を経て成るにあらずや、果たしてしからば、天地もまた大作者の手を経て成るべしと答うるより外なし。かくのごとく論ずるを大工説と称し、その天神を大工神と称するなり。なんとなれば、その万物を創造する、あたかも大工の家屋を造出すると同一般なればなり。これを要するに、その説人工を見て、天神の造工を想定するものなり。しかれども、人は天地間に現存せる万物万類の一部分にして、一部分に造工作用あるを見て、天地の大原因にもこの作用あるべしと想するは論理の許さざることは、さきに第八節においてすでに論ずるところなり。請う、試みに目を放ちて宇宙間に散布せる諸物諸類を見よ。その現ずるも、その散ずるも、自然の力によるもの最も多くして、人工を経て成るものわずかに千万中の一、二に過ぎず。しかるにその一、二の特例を見て、千万の諸物諸類をしてことごとく人工と同様なる造作を経て成ると想するは、憶測の最もはなはだしきものなり。もしまた宇宙間の目前の現象について太初の事情を考定するときは、万物は自然にして生起し、自然にして変化し、自然にして消滅すといわざるべからず。なんとなれば、宇宙間の現象は大抵自然の作用によるものなればなり。

 第五六節 かつヤソ教者の天神に智力あり、意志あり、目的経画あり等と説くもの、畢竟人為についてそのしかるゆえんを知るもののみ。およそ人は一書を著さんと欲せばまずその心に思慮工夫せざるべからず、一器械を発明せんと欲せばまたその心に思慮工夫せざるべからず。故に人工には必ず智力および意志の作用を要するなり(智力意志のことは『心理摘要』を見るべし)。これをもってヤソ教者は天神の造作を人工に比して、天神にも智力、意志、目的経画なかるべからずというなり。しかれどもこれみな天神と人類を同一に比較するより起こる。けだし人のそのすでに見るものよりいまだ見ざるものを心中に想出し、そのすでに知るものよりいまだ知らざるものを心内に構成するもの、これを構想という(『心理摘要』第六章を見るべし)。今天神の想像もこの構想より生ずること疑いをいれず。すなわち人の平常なすところの行為を目撃して、その理をいまだ目撃せざる万物の大原因に及ぼし、天神の作用を想出構成するなり。しかれども、かくのごとき想像は、必ずしも事実に適合するにあらざることは、夢中の想像の事実に適合せざると同一なり。故に万物の大原因たる天神に創造力ありと想定するはもとより真とするに足らざるなり。

 第五七節 更に進みて人工のいかんを考うるときは、人工と神造とを同一視するの不当なること、いよいよ明らかなり。人はよく物を造出するがごとく見ゆれども、その実、造出するにあらず、ただ一物を他形に変じ、他所に移すの媒介者となるのみ。しかしてその物を造出変化するは、全く自然力による。たとえば人は家屋を造築するの力ありとするか、その材料とするところの木石はみな自然によりて成長せしものにして、人の造出するものにあらず、その自ら用うるところの器械用具もみな自然に出づるものより成り。そのこれを地上に建つるも重力の理法に従うを要し、またその自ら造築の媒介となる手足身体の運動筋力も自然によりて成るのみ。その他、人の耕作製造におけるみなこれと同一にして、人力はただ天然物の位置および外形を変更する媒介となるに過ぎず。しかしてその人の身体、思想、動作、またみな天然によりて成るものなり。故に人工は人力によりて成るというも、その実、唯一の自然力あるのみ。しかるにヤソ教者は自然の事物中人工に属するものあるを見て、家屋あれば必ずこれを造築する職工あり、今宇宙は一大家屋のごとし、故にその初め必ずこれを造築する大智大能の造物主あるべしという。天神の造工、果たしてかくのごとくんば、われまさに天神の果たして創造力を有するかを疑わざるをえず。要するに、天神の創造は万物なき所に万物を作り、人の造出は万物ある所に万物を作るの異同あり。故に天神と人工を同一とするときは、天神万物を創造したるにあらずして、万物を変化するの媒介をなしたるのみといわざるべからず。かつその万物の原種は天神いずれよりとり、その原種の原種はなにものなるやの問い、したがって起こらざるをえず。これに至りてこれをみれば、ヤソ教者の人工を見て、天神に創造力の存するを推知せしは、全く事実に反したるものなりと知るべし。

 第五八節 つぎにヤソ教者が天神は人類を主宰するものなりといえる説を起こしたるは、人類社会に君主と人民の別ありて、君主たるもの人民を統御するをみて推測したるや、また疑いをいれず。すなわち一社会あれば必ずこれを統御するものあるをもって、天地万物あればまたこれを主宰するものなかるべからず。この理を推して、天神は万物を主宰するの想像を起こしたるなり。およそ人が天神について有するところの想像は、世の開未開によりて異なりといえども、人事を推して天神のいかんを想定するに至りては同一なり。たとえば世の未開に当たりては、天神は人と同一の形体を有するものと信じ、ようやく進みて人と同一の形体を有せざるを知るも、人と同一の作用を有するものと信じて、天神に意志あり、智力あり、命令主宰の作用ありという。ただその人に異なるは、智力、意志の分量の多少にあるのみ。人は智能の少量を有し、天神は大智大能を有す。これ初めより、天神は人の上に立って、人より勝れるものなりと想像するによる。けだし人類中には力の強きものと弱きものあり、智の長ずるものと足らざるものあり、人を制するものと制せらるるものあり、父はその子よりこれをみれば一個の天神なるがごとく、君主は人民よりこれをみればまた一個の天神なるがごとし。これをもってこれを推すに、天地万物の大父大君なかるべからず。しかしてその大父大君の天地万物を主宰するは、あたかも父がその子を主宰し、君主がその人民を主宰するがごときものと信ずるなり。今ヤソ教者の解するところの天神も、またただこの思想を高尚にしたるもののみ。これによりてこれをみるに、天神に命令主宰の力ありと想定せるもの、また全く人事を観察して推測したるものに過ぎざるなり。

 第五九節 以上の論これを要するに、天神の創造主宰論の起こりたるは、天地間の一部分に住する人類社会の行為現象を観察し、人よく事物を造出しかつ主宰するを見て、天地万物の大創造者、大主宰者なかるべからずと推究したるもののみ。しかるに深くその理を考うるに、人はただ事物の変化の媒介者となるのみにて、これを造出するにあらず、かつ人類は天地万物中の一部分にして、その一部分に創造主宰の作用あるを見るも、これをもって天地万物全体にも、また必ず創造主宰者あるべしと論決するの理なし。しかるにヤソ教者は、天地をもって創造の成績を読むの典籍とし、人類をもって天地の主宰を代表するものとするは、全く論理の考証を転倒するものなり。畢竟かくのごとく論定するはあらかじめ天神の実在を仮想するによる。しからざれば、天地間に日月星辰あるも、人類に父子君臣あるも、これをもって、天神の創造の考証となすの理あらんや。もしかくのごとき考証を論理に合するものと許すも、天神と万物を相較して、二者中いずれが最も真なるやと問わば、万物の実在最も真なりと答えざるをえず。なんとなれば、万物の現象を見て、天神の存在を推想するは、あらかじめ万物の存在真なりと許すによる。万物もし真ならざれば、ただに創造のみならず、天神の実在も真なることあたわざればなり。また人事を観察して天神を想出するは、あらかじめ人事は実なり、真なりと許すによる。たとえば測量器械に誤りなければ、その測量によりて得るところの結果正しきことを得べきも、測量器械誤りあれば、その結果真なることあたわざるがごとし。今人類万物は天神を実測する測量器械なるをもって、天神の想像真なることを得るは、この器械の正しきによる。この器械正しからざれば、天神の想像真なることあたわず。しかして器械正しきも、これを用うるの方法に誤りあるときは、その結果もまた誤りなきを得ず。これを要するに、天神の実在を証するには万物の実在は必要なりといえども、万物の実在は必ず天神の実在の証となるにあらざるなり。

 第六〇節 更に進みてこれを考うるに、ヤソ教者が天神は天地万物を創造主宰するものなるの理を知りたること、ひとり人の行為思想によるのみならず、そのヤソ教と称するもの、一として人によらざるはなし。そもそも天神の実在を証示して、その大智大能を説くものはだれぞや。曰く、人なり。神命とか神戒とか称するもの果たしてだれの定むるところなるや。曰く、人なり。モーゼ、天神の命を奉ずというも、そのモーゼもとより一個の人なり。キリスト降誕すというも、その人界にあるや、またこれ人なり。その言を筆して世に伝うるものも、これを聞きて人に語るものも、みな人なり。神ありというも人なり、神なしというも人なり。われこれを知るというも、知らずというも、またみな人なり。けだし人にいかなる力ありて、よくかくのごとき判断を下すや。曰く、これ人の思想力の作用に出でざるはなし。故に知るべし、天神の創造も主宰も、みなわが思想中の一現象にして、思想の外に別に天神あるにあらざるを。この思想論は仏教の妙理卓説にして、ヤソ教の人外に神を立つるがごとき凡説とは、もとより同日の比にあらざるなり。

 

     第六段 秩序論 第一

 第六一節 前段の原因論はヤソ教者の天神の実在および創造を証立せんと欲して、第一に宇宙間の万物におのおのその原因あるをみて、太初に万物万類、総体の大原因あるべしと考定し、第二に人がその智力意志をもって事物を造出統轄するをみて、天地万物にもまたその創造主宰者あるべしと憶想せる有神論に対して、余はその考定、憶想はみなかえって無神を示すのみにて有神の証とならざるゆえんを論明せり。しかれども有神論の証はこれに尽きたるにあらず。以上の原因論のほかに秩序論あり。秩序論とは天地万物の変化作用に一定の秩序和合ありて、万物万化みな整然として条理あるをいう。しかして、この秩序和合は決して偶然に生ずべき理なく、また無智盲目の物質より成るべき理なく、必ず大智大能を有するもののあらかじめ経営するところならざるべからずという。これヤソ教者の秩序論に基づきて有神論を唱うるゆえんなり。今その説くところを述ぶるに、仰いで天文を見れば日月星辰、その数いくばくなるを知らずといえども、みなおのおの一定の秩序ありて常にその秩序に従って運行するを見、伏して地理を察すれば鳥獣人類、山川草木に至るまでみな一定の法則ありて、いまだかつてその法則上に変更を生じたることあらず。すなわち寒暖、晴雨、潮干はもちろん、一滴の水も一定の法に従ってその質を変じ、一葉の草も一定の法に従ってその形を結び、一物一化として秩序法則のあらざるはなし。この秩序法則は智力および意志あるもののあらかじめその心に経画するところあるによるという。

 第六二節 今この秩序論のいまだ天神の創造を証明するに足らざるゆえんを示さんために、ここに左の諸点を設けていちいち論及せんとす。

  第一 天地万物の配置和合そのよろしきを得ること

  第二 天地万物の変化運動の一定の規則に従うこと

  第三 外界は人類の需用に応ずること

  第四 万物おのおのその用あること

  第五 生物の造構機能のその生存に適すること

  第六 動物に天然の本性あること

  第七 万物みなその妙を現ずること

以上七点は、余がここに総じて秩序論と称するものにして、ヤソ教者の天神の大智大能を証示する必要の論点なり。しかれども余がみるところによるに、この論点は一も天神の大智大能を証示するの力を有せざるものなり。けだし天地の秩序をもって、天神の妙工に帰するがごときは、初めに天神の実在を信ずるを要す。もし初めに天神の実在を疑うときは、この秩序論も全くその力を失うに至らん。たとえまた天神真に存在すると許すも、この秩序和合はもとより天神の経営に出でたりと定むるの理なし。別してこの点をもって天神の大智大能を証せんとするがごときは、論理の決して許さざるところなり。

 第六三節 まず第一点について批評を下すに、ヤソ教者曰く、天に日月星辰あり、地に山川草木あり、邦国あり、人民あり、住所あり、食物ありて、万物の配置おのおのそのよろしきを得、互いに相和し相合して互いに成立発育することを得、これ天神の経営によらずしてなんぞやと。しかれども進化論について天地の開闢、万物の分布を案ずるに、みなしかるべき原因事情ありて起こるなり。すなわちさきに第四〇節に述ぶるごとく、太初に存するところの渾沌たる雲気、ようやく回転しようやく減熱して、求心力、遠心力の関係を生じ、この関係によりてその体、分かれて数球となり数塊となり、その大なるものは中央体となり、その小なるものは付属体となりて、天文諸象を開立するに至る。地球も太陽に対すれば、その付属体の一なり。そもそも地球は今日にありてはすでに固形を結ぶといえども、その初めは高熱を有したる流体なり。その体ようやく回転して球円となり、その熱ようやく減散して固形を現ずるに至れり。しかれどもその初め高熱の流体なることは種々の経験に徴して知ることを得、まず第一に太陽を見るに、今日なお高熱を有していまだ固形を結ばず、地球もその初めこれと同一の形状を有せしも、小なるものは大なるものよりその熱減じやすき規則あるをもって、地球は太陽にさきだちて減熱したるなり。しかして熱の減ずるには、まず物の外部に始まりて、次第に内部に入るを常とす。故に地球も、その外部はすでに固形を結ぶも、内部は今なお流体の形状を存するなり。すなわち火山の噴火、温泉の湧出、地震の現象、その他、種々の経験に徴して地球の内部に火気の存するを知るべし。しかして地球の表面に山川の生じたるは、流体の変じて固形となるの際にあり、およそ流体の固形に変ずるに当たりては、その体、収縮して地質の所々に凝集するを見る、地質所々に凝集するときは、その勢い凸凹を地面に結成するに至るべし、これ地上に山川の高下を生ずる起源なり。そののち地震噴火の変動によりて地面に変形を与え、空気、雨水等の流動によりてまた地変を起こし、桑田変じて海となり、塵土積みて山となるは全くこの理による。かくして幾億万劫の久しき歳月を経て、今日の地球の表面を現ずるに至りしなり。その歳月の間、草木の生ずるあり、動物の発するあり、人類の起こるありて、次第に成長繁殖して全地球上に万物の分布をみるに至りしなり。けだし万物の地球全面に分布するに至りしは、人獣動物は自動の力を有するをもって、必ずしも天然の媒介を要せずといえども、草木は自動力を有せざるをもって、その分布は主として空気、流水の媒介による。故に今日遠近の孤島に鳥獣、草木の分布を見るも、またあえて怪しむに足らず。第一に潮水風浪の媒介あり、第二に桑海の変異ありて、昔日大陸に接続したる地の一朝変じて孤島となることあり。これ近古千百年間の短歳月中に、すでにその証跡あるをみる、いわんや億万劫の久しき歳月間の変動をや。これを要するに、天地万物の配置分布は自然力の媒介によりて起こり、決して天神の媒介によりて起こるにあらず。しかるに、そのいわゆる自然力は天神の力なりというものあるべしといえども、その自然力と天神といかなる関係を有するや、いまだつまびらかならざる以上は、かくのごとき憶説は決して論理上その真を許すべからず。かつ自然力と天神の力と同一にみなすがごときは、すでに初めより天神の体のなんたるを知るによる。今天神の在否を推究するに際しては、かくのごとき証明法は全くその功力を有せざるものなり。

 第六四節 しかるにまた天地万物はただにその配置よろしきを得るのみならず、その変化運動に一定の規則ありて、いまだかつてその規則を破らず。日月の運行、四時の循環、草木の栄枯、地質の変遷、人類社会の現象、声音光熱に至るまで、みな一定の規則を有するをみる。これをもってヤソ教者は、宇宙は一体の天神の創造より生ずという。しかれども、これまた決して天神の存する証となるべからず。今天地万物に一定の規則ありといえる論案より、万物は同一体のものの分化ならんというの断案を結ぶことを得るも、万物の外に天神ありて、これを創造せしによるといえる断案を結ぶことを得ず。たとえば地球上に住息せる人民に億万ありて、みな相類似せる性質を有するをもって、その祖先は一なりということを得るも、その祖先を創造するものありと論決するの理なし。たとえまた天地万物も人民の祖先のごとく、みな同一の規則を有するをもって、その初め一体のものより成来したるものなりということを得るも、その一体のものは天神の創造に出でたりと論決するの理なし。しかして天地万物は同質同体の一物より分化したりとの論は、余がいわゆる世界開闢説にして、その説さきにすでに述ぶるごとく、太初に一体の雲気ありて、その体四分五散して数塊となり数球となり、その各球の表面に種々の固形を結び種々の生類を現ずるに至りしゆえんを証示するものなり。すなわち万物に一定の規則あるはその各体は一物より分化派出したるによるなり。しかるにヤソ教者はこの万物に一定の法則あるをみて、天神創造の実証となすがごときはいかなる論理に基づくや、実に怪しまざるを得ざるなり。

 第六五節 つぎに第三条の問題に移りて一言すべし。そもそもこの問題はヤソ教者が、天地万物は人類動物のために天神の特別に造出せられたる機関なることを示すものなり。彼曰く、ここに見る力を有する眼官あれば見るべきの境界あり、聞く力を有する耳官あれば聞くべきの境界あり、食欲あればこれを満たすべきの食物あり、疾病あればこれを医すべきの薬草あり、風雨を避けんと欲すれば家屋を作るべき材木あり、寒暑を防がんと欲すれば衣服を製すべき毛糸ありて、万物万境一として人獣の需用に応ぜざるものなし、これをもって天神が万物を創造したる本意を知るべしと。これ実に愚見のはなはだしきものなり。今仮にこれを天神の故意に出でたりとせんか、余、天神に向かって問わざるを得ざるものあり。万色を見せしめんために目を造出して、目もって見るべからざる色あるはなんぞや。万声を聞かしめんために耳を造出して、耳もって聞くべからざる声あるはなんぞや。人に飲食の欲を与えて人ことごとくその欲を満たすことあたわざるはなんぞや。もしこれらの諸欲は、みな人に幸福を与うるためなりとせんか、果たしてしからば、耳に声を聞き、目に色を見たるときは、みなわが心内に幸福を引き起こすべき理なり。しかるに耳に声を聞きて苦痛を感じ、目に色を見て不快を感ずることあるはなんぞや。もしその美声、美色に接して快楽を感ずるよりこれをみれば、人に耳目の器官を与えて幸福を生ぜしむる天神の本意なりということを得るも、その醜声、醜色に接して不快を感ずるよりこれをみれば、耳目は不快を生ずるの器官にして、天神の本意、人に不幸、不快を与うるにありといわざるべからず。しかして人は耳目あるをもって快を生ずること少なくして、かえって不快を感ずること多きはなんぞや。たとえ快と不快と相半ばするものと定むるも、ひとりその快を感ずるをもって天神の本意とするはなんぞや。かつ飲食の欲のごときも、これによりて快を生ずることあるも、また不快を生ずることあるはなんぞや。目前の万物は人の諸欲を満たすために作られたるものにして、その欲を満たすことあたわざるはなんぞや。魚は人の食欲を満たすために作られたるものとせんか、魚中に毒を含むものありて、人これを食すれば死に至るはなんぞや。草は病を医するために作られたるものとせんか、草中に病に適せざるものありて、人これを用うれば健全に害あるはなんぞや。かつ医学者の報ずるところによるに、世に真の毒物なし、これと同時に世に真の薬物なし、ただ薬と毒との別はこれを用うる分量の多少に属するのみ。すなわちいかなる薬物もこれを用うるに、その適度を失するときは必ず毒となる、いかなる毒物も適度に用うればかえって薬物となるという。ヤソ教者はこの点に至りて、いかに天神の目的を解するや。天神決して人のために薬物を作るにあらず、また毒物を作るにあらず、薬も毒もみなかえって人の自ら作るところなり。もし果たして外界は我人の需用に応ずるために作られたるものにして、万物みなわが幸福、快楽を助くるものなりとするときは、かくのごとき難問続々相起こりて、ヤソ教者も必ずその解釈に苦しむなるべし。もし仮に数歩を譲りて、万物みなよく人の需用に適して、その快楽を助くるものとせんか、かくのごとく定むるも、いまだこの点をもって、天神の故意ありて万物を造出したるの証となすの理なきは明らかなり。これを要するに、天地万物は天神の意志ありて創造したるものにあらずして、自然進化の規則に従って現出したるものなり。しかしてその進化の規則は、のちに至りて弁明すべし。

 第六六節 ヤソ教者また曰く、万物おのおのその用ありて、一として真に無用のものなし、これまた天神のあらかじめその意志ありて造出したるによると。この憶想のごときは事実に照らして考うるに、大いにその誤りあるを知る。まず人の身体についてこれを験するも、不用の部分はなはだ多きをみる。方今、生理学、解剖術大いに進み、人身の造構機能を験して、男体に乳腺の存するを知り、また人に動耳の筋の存するをみる。乳腺は乳を製出する器械にして、婦人にその用あるも、男子にその用なきものなり。天神なにをもって、かくのごとき不用の器械を男子に与うるや。人類は耳を動かさざるをもって、動耳の筋を要せざるに、なおその筋あるはこれまた不用に属するにあらずや。故にもしこれを天神の創造に帰するときは、天神なんの意ありて、かくのごとき不用の部分を人類に賦与せしや、はなはだ解するに苦しむところなり。しかるにもしこれを進化の結果とするときは、たやすくこの難点を解することを得。進化論によれば、人獣その祖先同一なりと立つるをもって、人獣相分かるるののちに至るも、なお同一の組織を存して、人類に不用なる動耳の筋の存するをみるなり。すなわちその不用の筋の今日なお人に存するは、人獣同祖の一証なり。しかしてこれを動物に比するに、はなはだ著しからざるは、用あれば次第に発達し、用なければ次第に減殺するの規則あるによる。また女に用ありて男に用なき器械の男子に存するも、もしこれを男女共に天神の特造とするときは、その天神の本意を解すべからざるも、もし進化説によりてこれを遺伝の結果とするときは、この難点もまたたやすく解することを得るなり。そのほか動植物中には無用のものいくたあるを知らず。ただに無用なるのみならず、有害のものまた多し。たとえば毒草のごとき、毒虫のごとき、なんの用ありて天神これを創造するや。また回虫のごときはなんのために人を苦しましむるや。あるいは近年医家の説に疫病も肺病もみな微小の有機体によりて生ずという、かくのごとき生類はなんの用あるや。もしこれを天神の意ありて造出するものとするときは、はなはだ解するに苦しむ。もしこれを進化より生ずるものとするときは、たやすく解することを得るなり。

 第六七節 つぎに第五点について考うるに、ヤソ教者曰く、地球上の諸生物を見るに、みなその風土に適したる身体と性情を有し、たとえその住居を転じて適せざる地方に至るも、自然にその地の事情に適応することを得るに至る。また動物人類はたとえ無智無識なるも、自然に転住移居してその最も自身の生育に適したる風土につくを知る、また人身の造構を見ても、目は光線の強弱を調節するの器能ありて、口舌は栄養に利あるものと害あるものを感別するの作用あり、胃液は肉を消化するの力あるも自質を消化せざるの妙用あり、その他、心臓、肺臓、血管、神経等の造構作用を験するに、一として奇々妙々ならざるはなし、これみな天神の創造に出でたるによると。今これを弁駁するには、適種生存の理法について一言せざるべからず。

 第六八節 およそ生物が、地球上に出でてその生存を全うせんと欲せば、必ず外界の事情に対して競争せざるべからず。風雨もわが敵なり、寒暖もわが敵なり、飲食住居もわが体質に適せざれば生存に害あるをもって、これまたわが敵なり。ことに飲食は生存上最も必要なるも、その量に定限あるをもってことごとく生物の需給に応ずること難し。もしその需給を達せんと欲せば、同類に向かってまた競争せざるをえず、すでに風土同類の間に競争を生ずれば、その強くしてかつ事情に適合するものは生存し、否れば生存することあたわず、これを適種生存の理法とす。適種生存とはそれ自体の性質、外部の事情に適合すれば生存し、適合せざれば生存することあたわざる規則をいう。これによりてこれを推すに、今日現存せる諸生物は、すなわち外部の事情に適合するの性質を有するものなること明らかなり。なんとなれば、もしその事情に適合することあたわざれば、その種類早くすでに滅絶して今日に永続せる理なければなり。しかしてそのよく事情に適合するもののみ生存して、適合せざるものは滅絶する、これを自然淘汰の規則とす。自然淘汰とは自然力によりて適と不適とを淘汰するをいう。この淘汰の規則によりて、生物はいよいよ下等より高等に進化することを得べし。すなわち適種生存および自然淘汰の規則は進化の原則なり。この理を推して往古の史上を考うるに、生物の始めて地球上に現ぜしときより、みなすでに外部の事情に適合するの性質を有するにあらず、その数種の生物中には一、二の外部の事情に適合せざるものあるべしといえども、かくのごときものは自然に変化してその事情に適するに至りしか、否むれば漸々消尽滅亡して今日に存せざるべし。たとえばここに甲乙丙の三種ありと仮定するに、甲種は外部の事情に適し、乙種は事情に適せず、丙種は事情に適せざるも次第に変化してその事情に適合するに至るべき性質を有すと仮定するに、その三者中、甲と丙とは現存することを得るも、乙種は現存することを得ざるべし。故に今日現存せる生物は、その初め多少外部の事情に適合すべき性質を有するものならざるべからず。およそ生物のその事情に適合するに三件あり。すなわちその第一は生来の性質よくこれに適するもの、たとえば寒帯に生まるるものは生来寒に耐うるの性質あり、熱帯に生まるるものは生来暑に耐うるの体質あるがごときをいう。その第二は生来の性質しからざるも、習慣によりて変形変質することを得るもの、たとえば寒帯に生育せるもの、熱帯に至れば自然にその体質の上に変更を生じて、炎熱に耐うるの性を有するに至るをいう。その第三は種々の手段工夫を用いて事情に適合するに至るもの、たとえば衣服、家屋を設けて寒熱を避くるがごときをいう、これなり。人獣のよくその風土事情に適合することを得るは、全くこの自然の規則による。

 第六九節 しかるにヤソ教者は、熱帯には熱帯に適する生物のみあり、寒帯には寒帯に適する生物のみあるは天神の定むるところなりというも、余をもってこれをみれば、これ適種生存、自然淘汰の結果なり。またヤソ教者は、木葉に住する虫は木葉とその色を同じうするをもって鳥の餌食を免れ、北地の獣は雪とその色を同じうするをもって人の目を逃るるも、また天神のしからしむるところにして、自然のなすところにあらずというも、その実、進化の影響にあらざるはなし。もしこれを試みんと欲せば、その反対について考うべし。たとえば仮に木葉に青色の虫を生ぜずして赤色の虫を生ずるとせんか、しかるときは虫の色と葉の色と全く異なるをもって、その虫はただちに鳥の目に触れてその餌食となり、ついにその種類をしてのちに永続せざらしむるに至らん。しかしてそのよく鳥の目を逃れてのちに永続せるものは、青色を帯びたるものなるべし。かくしてその初め多少青色を帯びたるもの、そののちいよいよ青色を増すの傾向あり。またその体質を子孫に遺伝するの事情ありて、数世ののちには木葉と同一の色を有して、容易に識別することあたわざるに至るなり。その他の諸例も、またみなこれに準じて知るべし。これを要するに、生物は適種生存、自然淘汰の規則に従って、その成長発育の際、第一に、自然にその外情に適合して自体の上に変化を生ずるに至り、第二に、そのすでに生じたる変化をその子孫に伝うるに至るものなり。その一を順応の規則といい、その二を遺伝の規則という。この二種の規則によりて、生物は生まれながら外情に適合するの体質、性情を有するに至るなり。

 第七〇節 また人の身体の造構のごとき実に奇々妙々にして、到底造物主の手にあらざればこの妙工を現ずべき理なきがごとしといえども、人類は諸動物中最も高等に進化したるものにして、その今日の形体を有するに至りしもの、幾億万劫の久しき歳月の間、自然に競争淘汰し自然に順応遺伝して得たるところの結果なり。故にその初めは人類も諸動物のごとく簡単不完の造構を有したるも、次第に進化して今日のごとき複雑にして、かつやや完全なる造構を有するに至りたるなり。これによりてこれをみるに、その今日有するところの造構は、最もその生存発達に適したるものなること、自ら知るべし。かつその機能作用が、今日にありて最もその生存発達に便益ある事情を有するも、道理のしからしむるところなり。今、人の食物中これを味わって楽感を生ずるものは、大抵その栄養発育に益あるものにして、不快を感ずるものは大抵栄養発育に害あるものなるは、これまた進化淘汰の結果なればなり。もしこれに反して、その発育に害あるものかえってその人の楽を引くときは、いかなる結果を生ずべきかを考うるに、その人たちまち夭折して、その子孫滅絶するは必然の勢いなり。また目に調節機能ありてよく目を護するもしからざるをえざる事情あり、皮膚の寒冷に遭って収縮するもまたしからざるをえざる事情あり。もしこれに反して、その反対の方向をとるときは人みなその目を保存し、その身体を維持することあたわざるべし。胃液の肉を消化する力を有して自体を消化せざるも、この理によりて知ることを得べし。故に人身の造構機能のその生存長育に適する事情を有するは、天神の特意をもって定めたるにあらずして、自然の勢いここに至るものなり。すなわち人類は億万劫の久しき歳月を経て、発達進化したる結果なるをもって、その各部分の作用も、またみな発達進化に適するの性力を有するに至りしなり。

 第七一節 以上はただ造構機能のそのよろしきを得るものについて論じたるのみ。故にこの点はことごとく一歩を譲りて、天神の特意に出でたりとするも、造構機能のそのよろしきを得ざるものあるの理、いまだ解すべからず。人の目は完全の造構なりとせんか、これを完全なりとするは下等の動物に比較していうのみ。もしその目の自体のみについていうときは、いまだ完全ならざること明らかなり。たとえば目に調節の機能あるも、これただ尋常の時のみ。もし非常に強き光線に遭い、非常に遠き物に接すれば、その眼力を調節して、これに適合せしむることあたわず。故をもって、目は視力を有するも、微細のものおよび最遠のものに至りては明視することあたわず、かつ目の内部には明視点と称する一点ありて、外物の光線、この点の上に落つるにあらざれば、その物を明視することあたわず、また眼球内に盲点と称する一点ありて、外物の光線、この点に落つるときは全く見ることを得ず。これみな造構の不完全を証するに足る。身体の栄養に利あるものは口舌に触れて楽感を生ずというも、往々この関係を誤ることあり。また病気のときには外気に触るることをいとうの性を有すというも、往々この性を誤ることあるをもって、身に病死をきたすに至る。これまた機能の不完を証するに足る。その他身体の造構機能が、一身の生存保全の指針とならざることあるの例、いちいち挙ぐるにいとまあらず。これを要するに、もし人身の造構は天神が人をしてその生命を保全せしめんために造りたるものとせんか、しかるときはその造構の不完全にして、ために身体の健全を害することあるの理解すべからず、かつ生物中機能がその生存に適せざるものありて、これがために病死を一身の上にきたすことあるは、また天神のしからしむるところなるや。しかるにヤソ教者はひとりその生存健全に適するの例を挙げて、天神の特造を証し、その適せざるものあるを問わざるは、実に偏見僻説といわざるべからず。もしこれに反して、進化説によりて人類は下等動物より次第に変遷発達してきたるものとせんか、しかるときは第一に、その奇々妙々の機能を有するに至りしは、幾万劫の久しき歳月の間、進化淘汰したる結果なるにより、第二に、その今日なお不完の点あるを見るは、その進化発達のいまだ十全ならざるによる。ただ人はこれを下等動物に比して、いくぶんの完全を得たるのみ。

 

     第七段 秩序論 第二

 第七二節 つぎに余が論ぜんと欲するものは、人獣の本能天性なり。本能天性とは教育経験を待たずして、生まれながら有する能力をいう。今無智無識の動物がその自然の性に従って、禍害を避けて生存を全うするの行為挙動あるを見るは、全くこの本能性の存するによる。たとえば禽獣が食物を探るに自然によくその栄養に害あるものをすてて益あるものをとり、住所を定むるにその身体に害ある場所を去りて益ある場所に就き、火の避くべきを知り人のおそるべきを知るは、これみな本能性と称して人獣の生来有するところなり。ヤソ教者は、人にこの性あるをみて、これ天神の賦与するところの性なりといい、これをもって天神実在の一証となさんとす。

 第七三節 しかれども人獣の本能は天神の賦与に帰すべからざるゆえんを証するに、左の五点あり。すなわち第一に人々個々の本能性は同一ならざること、第二に最も高等に進化したるものは最も高等なる本能性を有すること、第三に人類中にても野蛮人および小児輩は下等の本能性を有すること、第四に経験積集すれば新たに本能性を生ずること、第五に本能性と得有性と判然たる分界なきこと、これなり。もし天神、果たして人獣に本能性を賦与せるものとするときは、人々個々、生来平等なる本能性を有すべき理なり。なんとなれば、天神は平等にその子孫たる人獣を愛せざるべからざればなり。もし果たしてこれを天神の不平等に分賦せるものとするときは、その不平等なるの理解すべからず。しかるに今、本能のごときは心理進化の定説によるに、全く反射作用より出でたるものにして、広くこれをいえば反射作用の一種といわざるべからず。故に本能の起源を知るにはまず反射作用の起源を知ることを要す。反射作用とは、我人が外部の刺激に応じて意識の命令を待たず、ただちにその動作を現示する作用にして、その作用は経験の反復積集するより生ずること、今日の学者のほとんど一般に唱うるところなり。たとえばわれわれが練兵を稽古するに、初めには命令を聞きていちいち注意を加えざるをえざりしも、終わりには命令を聞きてただちに動作を現ずることを得るに至る。これすなわち、意識作用が経験によりて反射作用に変じたるものなり。これによりてこれをみるに、反射作用は経験より生ずること明らかなり。しかしてその経験は必ず一世一代の経験に限るにあらず、数世数代の経験を結合することあり。およそ生物には父母の性質をその子孫に遺伝するの性を有し、反復数回経験したる動作は一種の習慣を形成す。故に生物はその外界の経験によりて得たるところの性質を習成して、これをその子に遺伝するの性あり。かくして生来教育経験を待たずして、自然に種々の心性作用を現示するに至る。これ本能作用の起こるゆえんなり。故に本能作用は反射作用の一種にして、そのやや複雑なるものなりと知るべし。果たしてしからば本能作用は、あるいはこれを解して、人獣の生まれながら有する天然の智力にして、教育経験にさきだちて生ずるものなりというといえども、その実、数世数代の経験積集の結果なること明らかなり。今、人獣の飢えるときは食うべきを知り、渇するときは飲むべきを知り、火のよく物をたくを知りてあえてこれに触れず、水のよく人を溺らすを知りてみだりにこれに入らず、これみな本能性に出づるものにして、必ずしも教育経験を待ちて知るにあらずといえども、これを数世数代の経験習慣の子孫に遺伝したるものとするときは、あえてこれを天神の賦与に帰するを要せざるなり。

 第七四節 ただちにこれをみれば、動物の生まれながら禍害苦痛を避け保存安全に就きて、一身の生長発達を全うするを知り、生まれながらその子の育すべきを知り、その住居の営むべきを知るは、実に天神の教ゆるところというがごとき想像を人の心中に生ずべしといえども、その実、数代の経験習慣の遺伝したる結果に外ならず。しかしてかくのごとき経験の数回反復するに至りしは、いかなる原因によるや、これまた一言せざるをえず。およそ物理の規則に、物一方に動けば永くその方向に進まんとする性ありという、これを物理の習慣性と称す。この習慣性はひとり物質上に適合するのみならず、心性の上にも適合することを得。たとえば生物が、その一身の生存とその子孫の永続を全うするには、その生存永続に必要なる方向をとらざるべからず。たとえばここに甲乙丙の三者ありて、甲は生存永続の方向をとり、丙はこれに反対したる方向をとり、乙はその中間にありてやや甲とひとしき方向をとるとするときは、いかなる結果を生ずべきや。甲と乙は生存してその子孫永続すべきも、丙は永続することあたわざるべし。すでにひとたび生存の方向をとれば、物理の習慣性に従って子々孫々ますます生存永続の方向をとり、ますます禍害苦痛を避けて便益快楽に就くの性を養成するに至るべし。かくして生存永続に必要なる事情は、子々孫々に遺伝して固有の習慣性をなし、その極ついに一種の本能性を形成するに至る。故に人獣の本能性となるものは、最も生存永続に必要なる性質に限る。すなわち父祖数世の間、反復経験したるものに限るなり。これを要するに、動物に生来一身の保存を全うすることを知るの本能性あるは、父祖伝来の習慣性にして、すなわち子々孫々、数世間の経験の反復積集するにより、その経験の反復積集するは生存永続上必要なる事情あるによるなり。

 第七五節 その他、高等動物別して人類には他の行為を模倣するの性ありて、他のもののひとたび試みてその身に益あるをみれば、自らまたこれにならってその益をとるを知る。けだし生物進化の際、一群の動物ありて偶然同一の挙動をなし、幸いにその生存を全うすること二、三回に至れば、自然の勢いその挙動と生存の間に連合の関係を生じて、その群中の一個、再びこれと同一の挙動を現ずれば、他のものみなその挙動を模倣するに至る、これ模倣作用の動物中に起こるゆえんなり。しかして、ひとたび模倣してその身に益あるを経験すれば再三模倣せんとし、再三模倣してますますその生存に利あるを試みればその勢いいかなる挙動もみなこれを模倣せんとするに至るは、前節に挙ぐるところの物理の習慣性に基づくものなり。これをもって、生物はますます生存の方向に進み、本能性の発達をみるに至るなり。

 第七六節 これによりてこれをみるに、人獣の苦を避けて楽に就き、危難を防ぎて安全を求め、もって一身を保存し子孫を繁殖するは、進化淘汰の際、父祖数世間の経験習慣の集合したる結果に外ならざるなり。しかるにヤソ教者は人の生まれながら知るところの知識は天神の賦与に帰せざるべからずと断定して、その本能性を挙げて、これ天神の現存の実証なりと喋々するがごときは、実にその愚を笑わざるをえざるなり。たとえ数歩を譲りて、その本能性は経験よりきたらざるものとするも、いまだ断じて天神の賦与となすべからず。ただこれに至りて、人の生来かくのごとき性力を有するは、外より入りきたりしものなるや、また内より発生せしものなるやの二問、相分かるるのみ。もし内より発生するものとするときは、脳髄を組成せる物質元素中に本来その力を有するものありて、その力外界の事情に応じて発生するによるというの想像をきたすか、あるいは元素各個中にその力を有せざるも、その各個の関係、すなわち各元素の配置結合より発生するによるの想像を生ぜざるをえず。もしこれを外よりきたるものとするときは、天とか神とかの賦与に帰せざるべからず。たとえこの二者はいずれの想像をとるも、畢竟空想を免れずとするも、天神の賦与に帰するの説、ひとり真なりとなすの理なきは明らかなり。かつ天神賦与説は、この空想説の一半なるにあらずして、その一半中の一小半を占むるに過ぎず。たとえば図中の甲は内より生ずるの説を表し、乙は外より入るの説を表するに、外より入るの説には儒者のいわゆる天より賦与するの説あり、婆羅門のいわゆる神より造与するの説ありて、ヤソ教者のいわゆる天神より賦与するの説は、その範囲内の一小部分を占有するに過ぎざるなり。故にその小部分の想像をとりて、この説ひとり真なりと断定するは論理の断じて許さざるところなり。

 第七七節 ここにまた一論者ありて曰く、われ天神の創造を実験上および論理上に照らして知ることを得ざるも、出でて万物を観察するに、自然に奇々妙々の思想を引き起こすにあらずや。たとえば望遠鏡によりて天文をうかがえば、絶美の一世界を天空中に見、顕微鏡によりて草木虫類を験すれば、また微妙の一世界を見ることを得、その他、四時の運行、社会の変動のごときも、直接にこれをみれば怪しむに足らざるも、深くこれを観察すれば、一として奇々妙々ならざるはなし、これ決して偶然にして生ずるにあらず、必ず大妙工を有するもののなすところなるべしと。また一論者ありて曰く、学術の進歩に従ってますます宇宙は大妙工の手に成りたるゆえんを発見す。まず天文のごとき、古来はだれもその間に秩序定律あるを知らざりしも、今日星学の進歩によりて始めて天文に整然たる秩序あるを発見し、また地質のごとき、古代は偶然に成りたるもののごとく考えしが、今日地質学の進歩によりてその形成に一定の規則ありて決して偶然にあらざることを発見し、動植物のごときもその機能造構の妙は今日生物学の進歩によりて始めて発見せり。しかしてその秩序妙工は、大智大能ある大工夫者に帰する外、別にその解釈を与うることあたわず。すなわち天地は天神の創造経営によりてこの妙を呈すというより外なし、かつその妙の凡眼に見えずして、智者学者の目にあらわるるがごときは、ただますます宇宙は天神の妙工に出でたるを知るのみ。故に曰く、天神の大智大能は宇宙の造構についてみるべく、天地万物は天神の性質作用を読む典籍なりと。これヤソ教者の天神の実在および創造を証する一点なり。

 第七八節 しかれども、ヤソ教者のかくのごとき想像を起こすは、あらかじめ世界は天神の創造より成りしといえる憶想を有するによる。もしその憶想なきときは万物の妙は万物の妙なるのみ、なんぞこれを万物の外の神体に帰するを要せんや。たとえばイなるものありて、その造構機能、至って妙なるも、これイの妙なるのみ。しかるにイの妙をもって、ただちに甲の妙とするの理あらんや。故に人の山川草木、春秋日月の妙を見て、これ天神の妙なりとするは、余その論理に暗きに驚かざるをえず、かつそれその妙と不妙はただわが識見の上に属するなり。すなわち識見狭きものの妙とするところと、識見広きものの妙とするところと大いに異なるをみる。たとえばイ圏内の識見を有するものは、ロを見て妙といい、イロ両圏の識見を有するものは、ハを見て妙というなり。今凡人は仮にイ圏の識見を有するものと定め、学者はイロ両圏の識見を有するものと定むるに、学者は凡人の妙とするところのロ圏はすでにその妙にあらずして、凡人のいまだその妙を知らざるハ圏を見てこれを妙とす。けだし妙とは、われわれが一事一物の結果を見て原因を知らず、現象を見て実体を知らず、一部分を見て全部を知らざるより起こる。たとえば顕微鏡をもって一片の木葉をとり、その組織の細密なるに驚きて、これ実に奇々妙々なりという。すなわちその組織のいかにして成り、いかにして構造すべきを知らざるによる。これをもって、古代の奇とするところ、今日の奇にあらざるに至る。たとえば古代の野蛮人は電雷を聞きて不思議と思い、日月を見て妙と呼び、夢想、病死、虚影、空響等みなこれを奇妙とし不思議とせり。しかるに今日はそのすでに不思議にあらざるを知るをもって、だれもこれを不思議として怪しむものなし。また維新の初年にありては、わが人民は蒸気、電信等を見て、奇なり、妙なりといいたるも、今日はだれもこれを奇妙として驚くものなし。果たしてしからば、奇妙不思議は人智によりて変遷するものにして、人智進歩すれば今日の奇とするところのもの、明日は妙とするに足らざるに至るは必然なり。これによりてこれをみるに、古来、神と称するものは不思議の異名に過ぎざることまた知るべし。たとえば野蛮人は電雷日月を見て、そのなんたるを知るの力なきをもって、これを神として祭り、雷神、月神等を拝するものあるに至りしなり。今ヤソ教の天神も、またこの不思議に与うるの異名に過ぎず。すなわち天地万物の原因およびその現象中、奇々妙々にして、人智をもって知るべからざるものあれば、その不思議の本体を天神と称し、これを万物万境の本源とするなり。果たしてしからば、そのいわゆる天神の思想は世によりて変じ、人によりて異ならざるをえず。すでに今日にありても、ヤソ教者が天神に与うるの解釈はおのおの一定せざるを見、また古代より今日までその解釈の大いに変遷せるを見る。これによりて将来を推すに、数百年の後の天神と、今日の天神とは大いにその性質作用を異にして、同じくヤソ教の天神なるも、全く別体の天神なるがごとき不同を生ずるに至らん。これ他なし、人智イにとどまればロを見て天神とし、人智ロに進めばハを見て天神とするの変遷あるによるなり。その他わが不思議と知り奇妙と称するは、一はわが感覚の不完全を証するものにして、たとえば眼力不完全にして微細を見るあたわざるときはこれを妙なりといい、遠大を知ることあたわざるときはこれを不思議というのみ。果たしてしからば、不思議とはわが感覚の不完全なるゆえんなり。しかるにこの不思議の存するをもって、天神の存する実証となすがごときは、あにその愚を笑わざるをえんや。もし一歩進んで考うるときは、これを不思議とするも、奇妙とするも、みなわが意識思想の作用に属し、その不思議をもって、天神の不思議とするがごときも、またわが意識の作用なり。かく論ずるときは、ヤソ教の天神説は全く仏教中のいわゆる唯心論に帰せざるべからず。

 第七九節 更に進んで、この世界は天神が人獣動物のために造りたるものなるや否やを考うるに、ヤソ教者は人獣の体質作用を験して、そのよく気候風土に適するを見、また宇宙間の万物のよく人獣の需用に応ずるを見て、この世界は天神の人獣動物のために造りしものなりという。今その非を証することはなはだ容易なり。請う、活眼を開きてみるべし。人のこの世に生まれて種々の欠乏不足、妨害患難のために終身無事安楽に日を送ることあたわざるものあるはなんぞや。気候風土に適せざるがために早世死亡するものあるはなんぞや。艱難憂患の間に日を送るものと、無事安楽の間に日を送るものと、いずれがその多きにおるや。長寿を得るものと、早世するものと、いずれが多数を占むるや。かつ生物おのおのその生を全うせんと欲せば、その勢い互いに相食し相殺さざるをえず。しかしてそのよく生存を全うするものは生物中の強かつ優なるものに限る、その弱かつ劣なるものに至りてはその食物を得ざるがために自ら早世死亡するか、しからざれば強者の餌食奴隷となるを免れず。すなわち強者一人の生存を全うするに弱者、数十百人の生命を損ずるものなり。試みに動植人類の繁殖するの力を計算するに、ここに一個の年草あり、毎年二個の種子を生ずるものとすれば、二〇年間には一〇〇万の多きに至るべしという。また象は動物中の最も繁殖の遅きものとす、しかるに七五〇年間には一九〇〇万の多きに至るべしという。人間もその生殖に妨害なきときは二五年間にその総数の一倍に至り、百年間には男の総数一六倍に増加すべしという。しかして食物住居の方はその定限ありて、決してこの比例をもって増加するものにあらず。故にその勢い互いに相競争し、互いに相殺害せざるを得ず。その他生物は早世死亡するもの多きは、ただに同類間の競争殺害によるのみならず、生まれてただちに気候風土に対して競争し、その力よくこれに勝つことあたわずして死するもの最も多しとす。かの疾病のために早世するもののごときは、みなこの天然の競争に敗をとるによる。これその造構機能が外界の事情に適せざる一証となすに足る。かつ生物はその一個の生存を保全せんと欲せば、その勢い他の数十のものを殺さざるを得ざる事情あり。たとえば一個の人類の生存を保全せんと欲せば、これが食物となる数十の動植物の生命を害せざるをえざるなり。これによりてこれをみるに、世界は実に殺虐残忍の修羅道といわざるべからず。しかるにもしこの世界をもって天神の意ありて創造せしものなりとするときは、天神は生物をして互いに相殺害呑噛せしむるために世界を作りたるものなりといわざるべからず。けだしヤソ教者のこの修羅世界を見て、天神が人獣動物に適するように造りしものなりと想像したるは、ひとり競争淘汰の結果の上に観察を下したるによるのみ。すなわち彼は生物中互いに殺害呑噛したるのち、その当時の事情に適したるもののみ今日に生存せるを見て、曰く、生物みなかくのごとく外界に適合して生存するは、これ天神の仁心より出づるなりと。しかしてそのよく外界に適合する前に、殺虐残忍の修羅場を経過し、その際に幾億万の生命を損じたるを知らざるは、なんぞ見ることの浅きや。

 第八〇節 あるいはまたヤソ教者は天地万物の美を呈するを見て、曰く、花容のかくのごとく美なるも、鳥声のかくのごとく美なるも、山川風月のかくのごとく美なるも、みな天神の仁慈より生ずるにあらずしてなんぞやと。ああ、これまた、その美の一辺を見て、その醜の一辺を知らざるの僻見なり。花容鳥声には美なるものあり不美なるものあり、山川風月にも美なるときと不美なるときあり。もしこの美をもって天神の仁慈に帰したるときは、その醜もまた天神の仁慈に帰せざるべからず。あに美は天神の与うるところにして、醜は天神の与うるところにあらずというの理あらんや。もしあるいはヤソ教者これに答えて、美を美とするには醜美相対せざるをえざるをもって、天神の醜を設くるは美をして美ならしめんためなりといわんか、かくのごとくいうことを得るときは、これと同時に醜を醜とするには醜美相対せざるをえざるをもって、天神の美を設くるは醜をして醜ならしめんためなりということを得るにあらずや。しかるにヤソ教者はこの左右両点の一方を見て他方を顧みざるは、余がはなはだその意を解するに苦しむところなり。またヤソ教者は宇宙間、無用有害のものなしというといえども、実際上これを験するに、無用と有用とは互いに相半ばするにあらずや。五穀を種ゆれば雑草のその生長を妨ぐるあり、果実を得んとすれば雑虫のその成熟を害するあり。その妨害のため成熟を得ざるものと、その妨害を侵してよく成長するものと、いずれが最も多きは、余が言を待たずして知るべし。これをもって人たるもの食物を得んと欲せば、ただにその量の乏しきのみならず、これを産出してその良種を得るにはなはだ苦しむをみる。これによりてこれをみれば、世界は天神の目的ありて造るものにあらずして、自然進化の結果なるの理いよいよ明らかなり。

 第八一節 しかるにここに論者ありて、今日の天地万物は天神の創造経営に帰せざるときは、なにに帰してしかるべきやと難ずる者あり。余これに答えて、自然の規則によりて進化開発せるによるといわんとす。その自然の規則とはなんぞや、また自然の規則いかにして万物を造出するや。余これに答えて、自然の規則とは今日の万物が現に一定の規則に従って変化運行するもの、これなり。すなわち天地万物の規則なり。しかしてこの規則は万物を造出するにあらず。けだし造出の語はすでに天神の実在を予定するより起こる。しかるに余は初めより、万物は無始無終、不生不滅なりという、なおヤソ教者の天神自体を解して不生不滅、無始無終となすがごとし。故に万物は造出せられたるものにあらず、なお天神は造出せられたるものにあらざると同一般なり。しかしてその万物普有の規則、これを自然法というなり。たとえば一物の進化開発して動物となり人類となるは、この自然の規則によるものにして、その規則は太初の渾沌たる一物中にすでに具有せるものとす。すなわち万物自然法を造出するにあらず、自然法万物を造出するにあらず、万物はその法と共に本来現存するものなり。これ仏教の所説にして、さきに挙ぐるところの倶舎の法体恒有というもの、これなり。もしまた真如説についてこれを考うれば、物質の生滅なきはその本体たる真如の生滅なきをあらわすものなり。しかしてその無始無終、不生不滅の物質が自然の規則に従って無量の変化を営み、開きてまた閉じ、閉じてまた開き、循環開合窮まりなきは、仏教の成住壊空説とその帰趣を同じうす。故に余が説に対して、物質はだれの手に成り、自然法はだれの定むるところなりと難ずるも、全く無用の言なり。畢竟かくのごとき難問を起こすは、余が説とヤソ教説を同一視するによるのみ。

 第八二節 論じてここに至ればヤソ教者必ず言わん、物質は無心なり無智なり、しかして万物の造構機能は一定の秩序目的ありて、無智無心のものなにほど相集合するも、よくこれを造成すべきにあらずと。これまた余が説を有神説と同一視するより起こる。万物の造構機能に目的ありとするは、意志を有するものの手に成るというの憶想を脳中に挟むによる。およそ事物の変化は内外因果の関係より生じ、そのいわゆる目的とするところ、またただこの関係に外ならず。あえて別に天神より定められたる目的あるにあらず。たとえその目的ありとするも、事物の現に変化するはただこの因果の事情に従うのみ。今万物が造構機能を現ずるも、またただこの事情によりて生ずるに外ならず。すでにこれを造出するものなし、あにその目的を定むるものあらんや。

 第八三節 つぎにヤソ教者の無智無心のいわゆる盲目の物質元素が、いかにしてかくのごとき造構機能を構成するやというの難問に答えて、余はこれまたあらかじめ天神の特造を想定するより生ずるものなりといわんとす。今余の説は全く物質をもって真の盲目となし、造構機能はその暗合より成るというにあらず。かつ道理上よりこれをみるも、物質をもってひとり盲目となすの理なし。およそ物質に有生と無生の二種あり。この二種を同一物となすもの、これ余が説なり。仏教に「一切衆生はことごとく仏性あり。」(一切衆生悉有仏性)と説き、「草木国土、ことごとくみな成仏す。」(草木国土悉皆成仏)と説きたるは、この動植無機を同一体となすの説なり。この説は西洋の唯物論と同一なるがごとくにして、またあえて同一なるにあらず。かの唯物論は有機は無機より生ずるの理を説くも、その物質は全く無智盲目のものとす。しかるに仏教はこれを活物となす。今余はこの仏教をとるものなり。故にもし人類動物をもって盲目無智となすときは、無機物質は盲目無智といわざるべからずといえども、もし人類を有智とすれば、無機もまた有智とせざるべからず。しかるにヤソ教者は人獣木石おのおの全く異なりたるものと予定するをもって、無智の物質いかにして有智の人類を化生するやというがごとき難問を立つるも、余が説に対しては更にその功力なきものなり。

 第八四節 ヤソ教者また必ずいわん、もし有機と無機と同一ならば、なにをもって、一は有智の作用を呈し、一は無智の変化を生ずるの別あるやと。この難問に答うるもまた難しきにあらず。請う、比喩をもってその意を述べん。ここに一万の人あり、おのおの分離孤立して事をなす、また別に一万の人あり、互いに団結共同して事をなすと仮定するに、一は死物のごとく、一は活物のごとき運動を現ずるを見る。しかしてその二者共に人より成るにあらずや。また水車も車より成り、時計も車より成る。しかして一は全く死物のごとく、一は生物のごとき異同を見るはなんぞや。これによりてこれをみれば、同一の元素もその結合の異なるに従って、その作用また異なること明らかなり。しかして元素の相合して適宜の造構を組成するに至るは、また決して暗合にあらず、これみな必然の理法ありてしかるなり。この理は次段の進化論に入りて明示せんとす。

 

     第八段 進化論 第一

 第八五節 つぎに余はヤソ教者の進化説に基づきて天神の実在を証示するゆえんを述ぶるに、彼曰く、『バイブル』中に示すところの開闢説はすこしも進化説に齟齬するところなし。かの天神、六日間に天地万物を造出すというがごときは、人みな妄誕不経の言となすといえども、六日とは六世期のことにして、この世期の説は今日地質学の進歩によりて、すでにその妄誕にあらざるを知るに至るという。しかれどもその説の進化説と同一ならざること、および地質学の実験に合せざることは、いやしくも公平無私の目をもって進化説をみるものの明知するところなり。ことに近年地質学の進歩によりてヤソ教の開闢説はその従来の解釈を変更せざるを得ざるに至りしは、全く地質学は『バイブル』の所説を証明するにあらずして、かえってその反対を証明するものなるを知るべし。しかれども余はあえて『バイブル』をもって一部の理学書となすものにあらず、かつ世人もこれをもって、天文地質の理を説きたる究理書となすものなきを信ずるをもって、たとえその開闢説の理学の実験に合せざるところあるも、余はあえて深くとがむるを欲せざるなり。

 第八六節 ヤソ教者また曰く、進化説は天神の実在を論破するものにあらずして、かえってこれを証示するものなり。すなわち、その要点を挙ぐれば左のごとし。

  第一 進化説はすでに存するものの次第に変遷開発するゆえんを示すものにして、天地万物の起源を示すものにあらず。

  第二 進化説は秩序和合の叙次を示すものにして、その起源を示すものにあらず。

  第三 進化説は純一的のものの次第に開発して錯雑的に赴くを論明するも、いかにして純一より錯雑を生ずるかを明示するものにあらず。

  第四 進化説は有機有心の起源を示すものにあらず。

以上の四点はヤソ教者が天神の実在および創造の真なることを示し、あわせて唯物論者の無神論を駁する要点なり。余はこの考説に反対して、進化説は決して天神の実在および創造を示すものにあらざるゆえん、および生活、心性等は自然の進化によりて生ずるゆえんを述べんとす。

 第八七節 第一に進化説は仮に万物の原種を示すの力なきものとするも、この理によりて天神の実在を証するは大いなる誤りなり。ただ進化説は万物の原種を知るの力なしというにとどまる。故にこの点のみにては、いまだ天神の有無を判定すべからざるなり。第二に進化説は仮に進化開発の原力を知るの力なしとするも、いまだこの点をもって天神力、創造力を有するの証となすの理なし。なんとなれば、天神果たして存するか存せざるかは、なお半信半疑の間にあればなり。第三に進化説にては太初の純一的のものいかにして錯雑的に化するの理を解すべからずというといえども、これまた天神ありてこれが媒介をなすの陽証となすの理なし。第四および第五に、有機無機、有心無心の別は進化説によりて証明すべからずとするも、これまた、天神特造の陽証となすの理なし。けだし天地万物の起源にさかのぼりてこれをみるに、論理上ただ神ありとするか、神なしとするかの二途あるのみ。しかしてこの二途は進化説によりて全く推究すべからざるものとするも、一方ひとり真にして、他方全く虚なりというの理あるべからず。しかるに余がみるところによるに、進化説は全くこの点を推究するの力なきにあらず、かつその説によりて正当に推究すれば、かえって無神論を証示するに至るべし。これ余がこれより論述せんと欲するところなり。

 第八八節 まず第一点について、進化説はよく万物の原種を知ることを得るゆえんを述ぶるに、さきに第四〇節においてすでに示すごとく、世界は渾沌たる一体の雲気より始まり、次第に分化開発して万物を形成すという。もしこれを勢力恒存、物質不滅の理法に考うるに、その気体は本来すでに分化開発の勢力を含有するや必然なり。更に進みてその気体のいまだ現ぜざる時を考うるときは、今日の世界の前に他の世界ありしを想するに至る。これをもって将来を推すに、将来また今日の世界の開き尽きて太初と同一の形状に達し、再び第二の世界を現示するに至ることあるを知るべし。その太初無差別の一体開きて万物万差の諸象を現ずる、これを世界の進化といい、その諸象の再び閉じて太初無差別の形状に復する、これを退化という。進退両化互いに循環運行して際涯なきもの、これ世界の実情なり。故にその進化するも退化するも、開発するも閉鎖するも、物質の実量に至りてはすこしも増減生滅あることなし。その開発の初期にありては無差別の一体を外に現ずるも、その内部には万差の諸象を含有す、これを外延に無差別を示して内包に差別を含むという。すなわちイの図、これなり。その進化の極点に至りては、万象を外に示して無差別を内に含む、これを外延に差別を示して内包に無差別を含むという。すなわちロの図、これなり。故にその開くるもその閉づるも、物質の定量に増減あるにあらず、ただ外延と内包がその地位を異にするのみ。しかるに世人は世界の次第に開くるをみて、物質の次第に増加すると思うは大いなる誤りにして、別して天神の特造を想定するがごときは、妄見中の妄見なり。けだし勢力恒存、物質不滅の理法真なる以上は、世の開くるも閉づるも、進化するも退化するも、一定の物質ありてつねに存在せることを知らざるべからず。かつ今日の世界の前にも世界あり、今日の世界の後にも世界あることを許さざるべからず。これを要するに、進化説は万物の起源を知るの力なしとするも、今日の実験説によりてその起源を推究するときは、万物は不生不滅、無始無終にして開端の起源なく、能造の天神なきゆえんを明知するなり。しかして人が天神の創造を想出するがごときは、始めより開端の起源ありと予信するによる。あたかも流水を見てその起源を想するがごとし。今ヤソ教者は万物の起源あるを知りて、その起源は真の起源にあらざるを知らざるは、あたかも源泉は流水の起源なるを知りて、更にその源泉の起源別に存するを知らざるがごとし。すなわち、源泉の起源は雨水等の地中に浸入せるものにして、その雨水の起源はやはり地上の流水等の蒸騰したるものなり。今わが万物の起源として知るところのもの、更に進みてそのなんたるを考うるときは、別にその起源の起源となるものあるをみる。すなわち、一定の物質勢力の次第に変遷循環するに外ならざるを知るなり。しかしてその変遷循環するは内外因果の事情によるものにして、仏教のいわゆる因縁相感して果を生ずというもの、これなり。すなわち流水の蒸騰して雲となり雨となり、下降して潦水となり池水となり、湧出して源泉となり流水となりて、循環窮まりなきものみな因果相感の結果ならざるはなし。これ余が世界をもって無始無終、物質をもって不生不滅とするゆえんなり。

 第八九節 つぎに余は第二点について、無神論のよく天地開発の原力を証明することを得るゆえんを述ぶるに、物の進化する以上は、これをして進化せしむる勢力なかるべからず。その勢力はいずれより生じ、いかにして発するやというに、これ物質と共に不生不滅なるものなり。その不生不滅、これを勢力恒存の規則というなり。かくして勢力はすでに不生不滅なるをもって無始無終なり、無始無終なるをもって変化循環際涯なきを得るなり。故に天地の始めて開くるに当たり、すでに進化を発すべき勢力はその原体中に包容して存し、決して外より新たにその力を賦与したるにあらず。しかしてその力と物質はいかなる関係を有するかを考うるに、二者常に相伴って存し、力を離れて物なく、物を離れて力なく、ほとんど一体不二なるがごとき密接なる関係を有するなり。故に物と力は一物に表裏両面あると同一の関係を有するものと知るべし。すなわち力は物をしてその変化を生ぜしめ、物は力をしてその作用を示さしむるものなり。故に物すでに不生不滅なれば力また不生不滅ならざるべからず。これすなわち物には物質不滅の規則あり、力には勢力恒存の理法あるゆえんなり。もし人あり、余に向かって勢力の起源を問わば、余はこれに答えて、勢力は不生不滅、常住恒存なりといわんのみ。しかして勢力不滅の道理は物理学の原理にして、今日の諸学みなこの理に基づかざるはなし。しかして仏教は全くこの理に基づきて組織したるものなり。すなわちその教に造物主を立てざるはこの不滅の原理に基づくによる。故に今日にありては、仏説は理学実験の基礎の上に立つものというべし。これを要するに、勢力不滅の規則は諸学の原理にして、その原理真なる以上は勢力はいずれの時に始まり、だれの賦与したるものなるやと尋ぬるは、全くこの規則を解せざるによるといわざるべからず。

 第九〇節 果たして勢力は物質と共につねに存してかつ相離れざるときは、その二者相合して無量の変化を生ずるもの、これ因果合感の道理に基づくものなり。すなわち、内外の諸因諸情の相合して果を生ずるものなり。今諸元素相合して複雑精細の造構機能を現出するも、またこの道理に外ならず。およそ元素の種類に六〇ないし七〇の定限あるも、その数は無量にして、みなおのおのその体に固有なる力を有し、因果事情の関係によりて分合集散等、無量の変化を営み、無量の形状を結び、その極ついに複雑精細の造構機能を現出するに至る。我人これをみてその妙工に驚くといえども、これまた比較上のことのみ。人類より小虫を見て、その小にしてよく妙工を現ずるに驚くは、あたかも小虫より一層微細なる有機体を見て、その微妙に驚き、人類より一層大なる神人ありてまた人類の妙工に驚くと同一なり。たとえばハよりイを見ればその造構の微細なるに驚き、ホよりハを見ればまたその微細なるに驚くのみ。もしその複雑の造構のいかにして生ずるかを考うるに、これまた種々結合の重複したるものに外ならず。たとえばここに単純の結合あれば、その他の単純のものと結合して複雑の結合をなし、更にまた他の結合体と結合して一層複雑の結合をなし、再三かくのごとくするときはその極非常に複雑したる結合を得るに至るべし。これ複雑造構の起こるゆえんなり。

 第九一節 ここに一論あり。たとえば無量の物質元素が種々結合して複雑なる造構を結成するに至るは内部の諸事情によるというも、その複雑の結合体がよく複雑の結合体と合し、適宜の元素と互いに相合するは、もしこれを天神の媒介に帰せざれば、自然の暗合に帰するより外なし。自然の暗合よくかくのごとき妙工を結成するに至るやと、難ずるものあり。この難問に答うるに、第一に、論者がこの結合を見て、自然の暗合に過ぎたるものとなすは、彼はひとり結果の上を考見して憶断を下すによる。第二に、論者が自ら自然の暗合と称するところのものは、全く死物の暗合および運数の偶合と異なるものなり。今我人が江河の大なるを見て、これ一杯に満たざる源泉より成るといい、泰山の高きを見て、これ一塵の土壌より成るというも、はなはだ信じ難しといえども、地質の歴史に考うるときは、山の起こり海の成るは幾万劫の久しき年月の間、自然進化の際、種々の事情変化に応じて生じたる結果なること、たやすく知ることを得べし。たとえばここに一川あり、一日に一粒の砂石を海中に流出すると定むるに、幾万劫の久しき年月を経れば、必ず高かつ大なる山を海中に形成するに至るべし。故に久しき年月の間には種々の元素相複合して最も複雑なる結合を見るに至るも、もとよりそのところなり。しかるにひとりその幾万劫の年月を経たる結果を見て、かくのごとき複雑なる造構は、天神の工夫にあらざればあたわざるなりと断言するがごときは、全く世界万物は僅々千百年間に成りしものなりとの予想を脱せざるによる。しかしてその変化は幾万劫の久しき歳月間の結果なるを知らざるは、実に浅見のはなはだしきものというべし。およそ事物の変化はひとりその結果を見て、そのよりてきたる原因事情を考えざるときは、往々驚かざるを得ざることあり。たとえば深雪の山間に生ずる木は、その質堅きを見て曰く、山間に生ずる木、もしその質弱きときは、たちまち深雪のためにたおされ成長することを得ざるべきも、幸いにその質堅きが故に成長することを得るなり、これ決して偶然に帰すべからず、必ず意志を有するものありて、あらかじめ経営するところあるによると。人にして、もしかくのごとき言を発するものあらば、だれかその愚を笑わざらんや。これひとりその結果をみて、その結果のよりてきたる原因事情を考えざるより起こる。しかしてその質初めより堅きが故に、深雪の間に成長することを得たるにあらずして、その質弱きものはそのいまだ成長せざりしときにすでにたおれ、ひとり強きもののみよく深雪を侵して成長を全うせしによる。この理を知らずしてみだりにその原因を意志あるものの経営に帰するがごときは、実に愚かと言わずしてなんぞや。ヤソ教者の世界を見て天神の創造に帰するは、あたかもこの愚見に異なることなし。彼はただ万物の今日に現存せる結果のみをみて、かくのごとき配置適合のよろしきを得たるは、必ず大智大能を有する造物主宰者あるによると一時に憶断し、更にその自然に進化淘汰してきたれる必然の原因事情の別に存するを問わざるをもって、天神の妄想を心中より脱することあたわざるに至るなり。故に人いやしくも天神の妄想を脱せんと欲せば、よろしく世界をもってヤソ教者の談ずるがごとく、数千年間に成立したるものとなさずして、仏教に談ずるがごとく、無始久遠、幾億万劫の歳月を経過したるものと想定すべし。かくのごとく想定するときは、たやすく万物の形成は自然の進化に出でたるゆえん、および仏教の真理を了解することを得るなり。

 第九二節 つぎに余は万物の造構結合は死物元素の暗合に過ぎたりといえる一論に対して論明せんとす。けだし化学的の元素はその各個決して人獣動物のごとき作用を有するにあらず、かつ我人がいわゆる無機はその死物元素より成るをもって、これを活物となすはだれも許さざるところなりといえども、またこれを純然たる死物となすの理なし。しかれども余はかくのごとく一歩を譲りて、元素は純然たる死物にして、その各元素の結合して適宜、造構を形成するに至るは、全く文字の暗合して文章をなし、運数の暗合して僥倖を得るものと同一にみなして論ずべし。ヤソ教者曰く、文字なにほど相合するも、これをただその暗合のみに任ずるときは、決して李白、杜甫の詩のごときものを形成すべからず、これを形成するには、あらかじめ意想を有するものありて工夫せざるべからずと。余おもえらく、しからず。すでに文字に限りある以上は、これを七言四句ずつに配当するときは、幾億万回の限りなき度数を反復すれば、必ず李白の七絶と同様のものを形成するの時なかるべからず、これ数理のすでにしかるところなり。今、碁、将棋のごときはその手段変化、実に無量無数なりといえども、無量無数の年月を経て、無量無数これを弄するときは、必ず終始同一の手段変化を現ずることあるべし。ただその手段変化、無量なるをもって、千年ないし一〇〇年の短き歳月の間にその暗合を得ること難きのみ。果たしてしからば、元素は死物なるもその数すでに限りある以上は、太初より無限の時間を経過するの際、いかなる暗合を得て、いかなる複雑なる造構を結成するに至るも、すでに数理上疑うべからざる事実なれば、決してこれを断じて空想に帰すべからず。ただし世界の開闢を五千年ないし一万年間に限るときは、あるいはその暗合も難しかるべしといえども、無始無終、久遠永劫の年月の間にはもとよりかくのごとき暗合あるも、あえて驚くに足らざるなり。それ時間は無限なり。一点を認めてこれを時間の開端とすれば、すでに時間の中にありて、その開端の前に更に他の時間存せざるべからず。他の点を認めて時間の終局とすれば、またすでに時間の中にありて、その終局の後に更に他の時間あれば、すなわち時間に際涯を立つることあたわざるなり。故に仏教にては無始無終とす。その無始無終の歳月の間には、いかなる変化、暗合を得るも、あえて難きにあらざるべし。しかるにヤソ教者は無始無終の時間に殊更に際涯を立てて、世界創造を説き、ことにその創造を五千年ないし一万年内に限るをもって、無智元素の暗合、決してこの複雑なる造構機能を形成すべからずというがごとき疑問を起こすに至るなり。

 第九三節 以上はただ元素を無生無力の死物として、その暗合を論じたるのみ。故にこれより元素は純然たる死物にあらざるゆえんを述ぶべし。今もし元素は死物にあらずというときは、生物なるかの問いしたがって起こらざるを得ず。余これに答えて、余がいわゆる死物にあらずというは純然たる一個の生活的の現象を有するをいうにあらず、ただその体化学的の作用を有するをもって各元素の間に互いに相引き相結ぶの力を有し、その作用ほとんど生物の作用と同一にして、すなわち一種の活動物というも不可なることなし。故にその相合して複雑造構を結ぶは全く物質元素のその体に有するところの力によるものにして、もとより文字、運数の暗合と同一ならざるなり。たとえばイロハ三個の元素ありと仮定するに、その初め各個の距離同一なるも、イとロは互いに相引くの力を有し、イとハは互いに相離るるの力を有し、ロとハは互いに相引くこともなく、また相離るることもなきときは、ロは次第にイに近付き、ハは次第にイに離るべきは必然の道理なり。もしかくのごとくにしてイロ互いに相合するに至らば、これまた偶然の暗合というべきか、これを偶然の暗合とすれば、天地のいまだ分かれざるに当たりて、一体の火雲次第に回転し、求心遠心両力の関係によりて分排して、今日の日月星辰の諸象を天際に見るに至りしも、また偶然の暗合といわざるべからず。雲結んで雨となり、気動きて風を生ずるも、またみな偶然といわざるべからず。もしこれを偶然の暗合にあらずして必然の道理より成るというときは、諸元素相合して異象の諸物を形成するも、また偶然にあらずして必然といわざるべからず。けだし天地の初めて分かるるに当たりて、物質の諸元素すでにおのおの異なりたる化合力を有し、互いにその固有の力をもって、あるいは相合し、あるいは相離れ、自然に自他交互の間に種々の関係を生じて、第一の結果は第二の原因となり、第二の結果は第三の原因となり、もって種々の変化を呈するに至るなり。これみな必然の道理より起こるものにして、これを自然の規則とも万有の定則ともいうなり。すなわち原因には第一、第二の別あり、結果にもまたその別あるも、要するに連続不断の原因結果にして、太古より今日に至るまでその間、一点の間断なし。ただに太古より今日まで間断なきのみならず、世界の前の世界より、世界の後の世界に至るまで、みな一条の原因結果の永続に過ぎず、これ因果循環の理にして、前世界の原因は現世界の果を生じ、現世界の原因は後世界の果を生ずるものなり。仏教に立つるところの三世因果の説、全くこの理に基づく、これを必然の理という。その偶然の暗合と同一ならざることすでに明らかなり。今宇宙間の万物はみなこの必然の理より成る。しかるにもしこれを天神の創造に帰するときは、これかえって必然にあらずして偶然といわざるべからず。

 第九四節 更に進みて物質のいかんを考うるときは、その体すなわち一活物なることを知るべし。なんとなれば、宇宙間の万物は一体の物質の分化派生に外ならずとせんか、しかるときは有機も無機も有心も無心も、その体一なりといわざるべからず。これを一体とするときは、動物も植物も人類も、みな無機物質より成るといわざるべからず。すでに宇宙進化論において、宇宙の太初は一体の雲気より成るという。その雲気次第に分排して今日の世界を現示する以上は、動物も草木も人類も、みな一物の分派なりといわざるべからず。しかしてその原始の一物すでに無機物質なる以上は、人獣草木は無機物質より派生すといわざるべからず。かつ地球もその初期にありては非常の高熱を有して、あたかも今日の太陽のごとき形状を有せしという。果たしてしからば有生物の昔時、地球上に存せざりしことまた明らかなり。およそ有生物の生ずるには、水気の地上に存するを要す。しかるに地熱の高き時に当たりては、水分は蒸気となりて空中に散じて存し、いまだ地上にその形を結ばず。故にこの点に考うるも太初に生活物の地球上に存せざりしことを知るべし。しかしてこの理は地質の実験についてまた知ることを得るなり。すなわち地球の初期にありては、絶えて生物の痕跡なく、ようやくその痕跡を見るも、その初めは下等の生活物にして、次第に進みて高等動物の痕跡を見るという。故にもし生物は天神の特造とするときは、下等より次第に上等に至るの理を解すべからず。かつ動植人類を造出するに幾万劫の久しき歳月を要せしゆえん、また解し難し。天神、果たして無量の智と力とを有する以上は、動植人類を造出するも、一朝一夕もしくは一瞬時を待たずして可なり。また必ずしも幾万劫の歳月を経て、下等より上等に漸級するの序次によることを要せざるなり。これ畢竟万物は天神の特造にあらざるによる。

 第九五節 もしこれを天神の特造に帰せざるときは、かの有生物はいかに解してしかるべきや。曰く、物質元素の結合造構のそのよろしきを得たるによるなり。しかしてそのよろしきを得ると得ざるとは、余がさきに挙ぐるところの必然の理法に基づく。果たしてしからば、無機元素もまた一活物といわざるべからず。元素すでに活物なるをもって、その結合より成るものもとより活物となることを得るなり。しかれども、元素の集合したるものことごとく活物となるにあらず。元素はすでに活物となるべき性質を有するも、その活動作用を現ずるに適したる造構装置を得るにあらざれば、活物の作用を示すことあたわず。たとえば時計は金属より成るも、時計の造構装置を得ざる金属は、時計の作用を呈することあたわず。また水車も車なり、蒸気車も車なり、しかしてその作用の異なるは造構適用の同じからざるによるのみ。すなわち造構の最も複雑にしてよくその適合を得るもの、ひとり妙用を呈するなり。故に知るべし、元素必ずしも活物ならざるにあらず、ただ活動作用を現ずるに適せざる造構を得るときは死物のごとく見ゆるのみ。果たしてしからば、元素をもって活物となすも全く無証の妄言にあらざるなり。

 第九六節 すでに地球はその初期にありては、生活物を現ぜず、ようやく進みて有機の現ずるをみる以上は、その有機は天神の特造に帰するか、自然の開発に帰するか、この二途の外、他に解釈すべからず。しかして二者中いずれの説をとるも、憶想を免れざるなり。しかれども今もし物質不滅、勢力恒存の理法に考うるときは、自然開発説をとらざるべからず。かつこの理法は諸学の実験上すでに一定したるものにして、天神説は実験外の憶想より出でたるものなれば、その二者の間に真非を較するときは、もとより天神特造説を捨てて、自然進化説をとらざるべからず。

 第九七節 かつこの勢力恒存の規則に従うときは、物質相合して生活物を生ずるはその生活の原力すでに物質中にありて存せざるべからず。けだし物質の有するところの力に二種あり。一を活力といい、一を緊力という。活力とは発顕したる力をいい、緊力とは潜伏せる力をいう。今生活力はこの活力の一種とすべし。すなわち活力の最も複雑なるもの、これを生活力とするなり。しかしてその複雑なる活力の生ずるは、物質造構の複雑なると、分子抱合の複雑なるとにより、その造構、抱合の複雑なるは、盲目分子の偶然の暗合にあらずして、活物分子の必然の理法に従って営むところの結果なり(『哲学要領』後編、第二段を参見すべし)。これ余が以上論ずるところの大意にして、仏教の所説を敷衍するときは正しくこの理に帰すべし。故に仏教にてはただに禽獣草木のみならず国土山川に至るまで、ことごとく有機活物とみなして、一切万物同一に仏性を具するゆえんを示す。なおそのつまびらかなるは「顕正活論」に入りてみるべし。

 第九八節 しかるにヤソ教者ありて更に一難を起こして曰く、万物みなことごとく活物なりとするも、世界の太初は動植人類の別なく、同質同性、純一無雑の一物あるのみにして、今日は万物万類、異質異性を現じて、極めて錯雑なるはいかなる理によるや、他語にてこれをいえば、純一的のものいかにして錯雑的に変ぜしや、この点は天神の特造を許すにあらざれば解釈することを得ずと。余これに答えて曰く、物質元素すでに活物にしてその体固有の力を有する以上は、その力によりて種々無量の変化を営み、万物万境を開現するに至るもあえて怪しむに足らず。かつ余が第八八節に説くところの内包外延の関係について、これを考うるときは、世界はその初め同質同性の純一的の一体より次第に進みて、異質異性、錯雑の諸象を現ずるゆえん一層明らかに知ることを得べし。およそ世界の初期にありては、外延に平等を示して内包に差別を含むをもって、外面よりこれを見れば純一的のごとしといえども、その内部には今日の諸象を現ずべき錯雑的の諸象を含有するは必然なり。ようやく進みて万境を開現するに至れば、これいわゆる外延に差別を示すものにして、従来の純一的もたちまち変じて錯雑的に化すべき理なり。あにあえて太古の純一的より錯雑的を生ずるをみて、天神の特造を想するを要せんや。これ畢竟世界は一活物にしてそれ自体に有するところの活動の力をもって、自然に成長発達するによるなり。

 第九九節 これより更に進みて、余は物質分子ひとり活物なるのみならず、宇宙全体もまた一活物なりといわんとす。今仮に比喩を引きてその理を明示すべし。試みに宇宙をもって一社会に比せん。社会はその各分子すなわち一個人の上にてこれをみるも一活物にして、その全体の上にてこれをみるも一活物なり。すなわち衆多の活物相団合して一大活物となるものなり。あたかも物質の諸活物相集合して宇宙の一大活物を構成すると同一般なり。しかして一大社会の一小部分には、あるいは一個人相離れておのおのその一身の生活を営むものあり。衆人互いに共同団結して一小会社を結立して事業を起こすものあり。今その衆人団結したるものと、一個人分立したるものとの事業を較するときは、その間ほとんど有機と無機と同一の差等あるをみる。すなわち各人分立して事をなすは、あたかも無機組織をなすものにして、共同してことをなすは有機組織をなすものなり。今宇宙間の万物に有機と無機との別あるも、これと同一理にして、数個の分子相集まるも、その間に共同結合のよろしきを得ざるときは無機となり、共同結合そのよろしきを得れば有機となるのみ。しかれどもその有機も無機も、その体別なるにあらず。あたかも共同して会社を組成するものも、分立して生存するものも、その体別なるにあらずして、みな同一に一個一個の人より成るがごとし。この理を推して宇宙間に有機無機の別あるゆえんを知るべし。すでに有機無機その体同じく一活物なるゆえんを知るときは、宇宙全体を指して一活物と称することを得るなり。なんとなれば、宇宙間の万物は一物の進化開発に出づるものなればなり。これをもって万物おのおの一定の法則に従うゆえん、また知るべし。

 

     第九段 進化論 第二

 第一〇〇節 前段述ぶるところによりて、有機無機はその体同一なることほぼ明らかなりといえども、これ勢力恒存の規則と宇宙進化の原理に基づきて推論したるもののみ。この推論を証示するに、近世の実験説また多し。今その一、二を挙ぐれば、

  第一 地質学の実験によるに、太初に有機なくして次第に進みて草木禽獣の地上に存せしをみるという。

  第二 生物学の実験によるに、諸種の動植物を拾集してこれを配置するに、動植の間判然たる分界の存するをみず、またその動植の最下等に至れば二者共に同一物なるがごとく、かつ無機物と大差なきをみるという。

  第三 化学および物理学の実験によるに、有機体を組成せる元素は無機体の元素と同一にして、ただその異なるは有機成分中に炭素の抱合の多きをみるのみ。しかして炭素は諸元素中最も複雑なる抱合を営むの力を有し、かつその元素を含有すること多きものは活力の発生またしたがって著しきをもって、有機の有するところの生活力はこの炭素の抱合の多くして活力の発生の著しきによるという。

その他、今日の実験上無機の規則をもって有機の上に適用することを得るがごときは、またもって有機と無機のその体同一なるを知るべく、かつ近年化学の実験上無機元素をとりて有機質の性あるものを造出せりというがごときは、みなもって有機無機の同一物なるを証するに足る。これを要するに、今日の諸学は自然に万物一体、諸法一理を証明するの方向に進むものにして、仏教のいわゆる万法一真如の理に合するものなり。これをもって今日の学説の帰するところ、仏説にあるゆえんを知るべし。

 第一〇一節 しかるにヤソ教者はこの点について、かえって天神の実在を証示せんとす。その論に曰く、

  第一 万物一体、諸法一理なるは、すなわち宇宙は一神の創造にかかるを証示せるものなり。

  第二 地質学および天文学の推究によりて初めに無機ありて、つぎに有機あるを知るは、すなわち『バイブル』の巻首にあぐるところの天神の特造説を証明するものなり。

  第三 無機はなにほど発達するも無機にして、有機は永く有機なるは、天神の特造に帰するより外なし。

  第四 有機はもし果たして無機より生ずるものならば、今日にありても有機の突然、無機中より生ずることあるべし。しかるにその生ずることなきは有機無機の別、本来存するによる。

  第五 有機果たして無機と同体なるときは、生物身体中いずれの部分にしても、同一に生活力を有すべき理なり。また肉身上に損失を見ずして、死することあるの理を解すべからず。

  第六 無機物質相合して、感覚、思想、智力、意志を生ずるの理解し難し。

 第一〇二節 以上の諸点に対して解答を与うることまた容易なり。まず第一の論点が論理に反することは前しばしば述ぶるところをみて明らかなり。すなわち今日の実験上、万物一体、諸法一理ということを知るも、これただ万物一体、諸法一理というにとどまり、決してこの理を推して天神創造の実証となすの理、万あるべからず。なんとなれば、われわれがかくのごとく想定するには、まずその前に一体一理なるものは必ず一神の創造に出づるの証明を要すればなり。しかるにその証明なきに当たりて突然これ天神創造の実証なりというは、憶定もまたはなはだしといわざるべからず。今これを論理の法則に照すに左の形式を得るなり。

  我人は実験上天地万物の一体一理なることを知る    (第一提案)

  一体一理なるものはすべて天神の創造に出づるものなり (第二提案)

  故に天地万物は天神の創造に出づるものなり      (断  案)

今ヤソ教者の立論はこの論式中、第二提案の証明なくして、ただちに断案を結ぶものなれば、その論理の規則に合せざること言を待たず。しかるにもしこれを物質不滅、自然進化の理法に考うるときは、その一理一体なるは、万物は不生不滅、常住恒存の一体より分化開発したるゆえんを示すものなりということを得べし。

 第一〇三節 つぎに第二の地質学の実験をもって『バイブル』の証明となすがごときは、実に誣ゆるもまたはなはだしといわざるべからず。今日の地質学の説と『バイブル』の説と徹頭徹尾ことごとく符合せざることは、余が弁を待たざるところにして、かつその合するがごときは直接に『バイブル』を解してしかるにあらずして、従来与うるところの解釈を種々変換付会して殊更に合せしめたることも、また識者の知るところなり。かつ『バイブル』をもって理学の実験説を予言したるものとなすがごときは、ヤソ教を妄信する人に限り、いやしくも学理を知るものの許さざるところなれば、余は『バイブル』の章句の上に批評を与うることを欲せざるなり。ただ余が本編において論述するところは、天神は真に存するや、創造主宰は果たして実説なるやを証明するにあるのみ。

 第一〇四節 つぎに第三点は一言を費さざるをえざるなり。まず有機と無機との第一の別は、内部の造構を有すると有せざるとにあり。しかして有機の無機より出でてその造構を有するに至りしは、さきに第九三節に述ぶるごとく、内外の事情必然の関係より起こるものにして、ひとたび有機造構を有するに至れば、永くその地位を保持せんとするは万物一般の通則なり。この通則を物理学にては運動の習慣性という。およそ物ひとたび動けば永く動かんとし、ひとたび止まれば永く止まらんとするの性ありて、すなわち一体の物質その内外の事情に応じて、あるいは動き、あるいは止まるの結果を生じ、すでにその結果を生ずれば、永くこれを持続せんとするの性あり。今有機もまたしかり。内外の諸事情に応じて一体の物質分かれて、あるいは有機となり、あるいは無機となりたる以上は、有機は永く有機の性を保持し、無機は永く無機の質を保持し、いよいよ進めばいよいよその性を変換すること難きに至るものなり。これただ有機無機の間に存するのみにあらず、人獣草木の間にもこの性ありて、人は永く人にして獣に変ぜず、草木は永く草木にして動物に変ぜず、松は永く松にして杉に変ぜざるも、この習慣性あるによる。すでに進化論の説くところによれば、人獣草木その祖一なりという。たとえ人獣その祖を異にするも、動物中の馬や牛や犬のごときは、その祖一なりと定めてしかるべし。しかるに馬は馬にして牛に変ぜず、牛は牛にして犬に変ぜざるは、いかにこれもとより習慣性によるものにして、同一の祖先ひとたび分かれて、一は犬の方位をとり、一は馬の方位をとりたる以上は、永く馬は馬の性を保持し、犬は犬の性を保持して、犬をして馬に変ぜしむることあたわず、馬をして犬に化せしむることあたわざるに至り、いよいよ進めばいよいよその性を変換すること難きに至る。これ他なし、物質一般の通則なる習慣性は、動植物中にも存すればなり。これをもって有機の永く有機にして、無機の永く無機なるの理を了すべし。人の子は人にして、犬の子は犬なる、いわゆる遺伝性もまたこの規則に基づくを知るべし。すでにそのしかるゆえんを知るときは、有機は有機にして、無機は無機なるも、もとより自然の道理にして、あえてこの点をもって天神創造の証となすの理なきこと明らかなり。

 第一〇五節 しかるにここに一論あり。無機は果たして有機を産出することを得るときは、今日今時にありても有機の偶然無機中より化生することあるべし。しかるに古来いまだその例なきはなんぞや。これ有機の無機より生ぜざるゆえんならずやという。この論に答うるに、種々の異説ありて、あるいは無機の有機に化するにはまず有機に化せざるをえざる事情を要す。しかるにその事情はたやすく得難きをもって、現に無機より有機に化するの例を見ざるなりといい、あるいはしばしばその事情に接するも、その有機に化するの際また他のこれを妨ぐる事情の起こるありて、これをしてその結果に達することをえざらしむるなりといい、あるいは今日今時にありて往々無機より有機に化せんとする中間の形状を有するものあるを見るといい、あるいは無機の有機に化するはよほど永き歳月を要することにて、一〇〇年や千年間にてその結果を見ることあたわずという。これみな一理なきにあらずといえども、いまだこの理をもって、何故に今日今時、有機の無機より生ずるの例なきやとの問いに答うるに足らざるなり。これ唯物論者の大いにその解釈を与うるに苦しむところにして、ヤソ教がその短所に乗じて天神創造説を立てんとするところなり。しかれども余ここに一説ありて、よくこの点を解釈すべきを知る。

 第一〇六節 余おもえらく、西洋の唯物論者は有機の無機より化生するの一端をみて、いまだ無機のいかなる形状を有したるときに有機を生ぜしかを知らざるをもって、この難点を解釈するに苦しむなり。もしたやすくこの点を解釈せんと欲せば、まず無機より有機の生ずるにあらずして、有機でもなく無機でもなき一体の物質次第に進みて、一方は無機となり、一方は有機となりしものと仮定すべし。しかしてこの仮定は決して空想にあらざるなり。そもそも宇宙の太初にありてはただ渾沌たる一体の雲気ありて、その体次第に減熱縮小し回転分排して今日今時の万物を現ずるに至りしことは、さきにしばしば述ぶるところをみて知るべし。故に地球の体質もその初期にありては、熱度といい、形状といい、今日と同一にあらざることは疑いをいれず。ただに熱度形状の異なるのみならず、その体内の状況性質も、またしたがって今日の無機物質と異なるところあるも推して知るべし。これによりてこれをみるに、太古有生物のいまだ分化せざるに当たりては、無機物質のみ存すというも、そのいわゆる無機は今日今時の無機と性質、状況を異にするをもって、これを同一に無機と称するはすでに不当なり。故に余はこの二者を区別せんために、一を無機とし、一を有機にもあらず無機にもあらずとするなり。すなわち無機にもあらず有機にもあらざる一体の物質開発して二方に分かれ、一方は有機となり、一方は無機となりしものと知るべし。その順序あたかも今日の進化論にて、その初め、人にもあらず猿にもあらざる一種の動物がようやく進みて二方に分かれ、一は猿猴となり、一は人となるといえる説に同じ。故に有機無機の進化の理を知らんと欲せばよろしく人獣進化の上に考うべし。

 第一〇七節 およそ物質の有機に化するも無機に変ずるも、必ずその変化に必要なる外部の事情を要するはもちろんにして、その他、内部の状況のここに至るを要するなり。たとえば人を智者にするは外部の事情すなわち学問上の教育を要するも、一、二歳の稚児になにほど学問を施すも、ただちに智者学者となすことあたわざるは、内部の状況のいまだその地位に達せざるによる。また野蛮人に開明の宗教を与えても、ついに偶像教となるもこの理による。更に他の例をあげてその理を示すに、一年間において春夏の際は草木共に繁茂するの候にして、秋冬の際は零落するの候なれば、みだりに草木をして春夏の間に零落し秋冬の間に繁茂せしめんとするも、そのあたわざるは必然なりと同一理なり。物の進化分派するにもおのおのその程度ありて、いまだその程度に達せざるか、あるいはその程度の外に出でるときは、その要するところの結果を見ることあたわざるは明らかなり。すなわち一体の生物ありて次第に発達繁殖するに、イの程度に至れば動植分化し、ロの程度に至れば人獣分派することを得るも、イの程度にありて人獣分派し、ロの程度に至りて動植分派することあたわず。今有機無機の進化もまたしかり。太初より一体の物質進化して、ハの点に至れば有機派生し、ニの点に至れば動植分派するの程度ありて、ハの点にて人獣を分化し、ホの点にて有機を派生せしむることあたわざるべし。これを要するに、有機の地球上に生じたるは一体の物質太初より次第に進化して、これを生ぜざるをえざる程度に至りてその生ずるを見るものにして、その生ずべからざる時にみだりに生ぜしむることあたわず。しかるにその生ずべからざる時にしてこれをして生ぜしめんとするは、あたかも秋冬の際に草木の繁茂を見んことを求むると同一なりというにあり。

 第一〇八節 これによりてこれをみれば、何故に今日有機は無機より生ぜざるやの問いに答うること、はなはだ容易なり。すなわち今日は物質の性質状況が有機を生ずるの程度の外にあればなり。今日の有機は無機より分化して、以来幾億万劫の久しき歳月を経たるをもって、ますます有機とその性質状況を異にし、到底無機中に有機を生ぜしむることあたわざるなり。あたかも今日にありては犬をして人に化し、人をして猿に変ぜしむることあたわざると同一般なり。しかるに論者ありて、今日の無機をして太初の物質と同一の熱度形状を有せしむるに至れば、有機を生ぜしむべき道理ならずやといわば、余これに答えて、もし人の力よく今日の無機をして、太初の物質と同質同性になし、一点の差なからしむるときは、もとより有機をそのうちより分化せしむることを得べきも、到底同質同性になすことあたわざるは明らかなり。あるいは一時一部分をしてかくのごとくなすことを得るも、全体の物質をしてその形状を得せしむることあたわざるは必然なり。果たしてしからば、今日今時にありて人造をもって有機体を製出するのはなはだ難きこと明らかなり。あるいはその極めて簡単なるものに至りてはしばしばよくすべきことあるも、やや複雑なるものに至りては幾万劫の歳月を経たる結果なれば、一朝一夕に化生すべからざるはもちろんなり。今日はすでにその幾万劫の歳月を経たるのちなるをもって、自然の力もとより無機を転じて有機となすことあたわざるなり。あたかも木を鳥に変じ獣を人に化することあたわざると同一般なり。以上は主として物質内部の事情の古今相違あるゆえんを示すもののみ。もしこれに外部の事情を参見するときは、ますます有機をして今日今時に突然無機より生ぜしむるの難きを知るべし。これ今日無機より有機を生ずる例を見ざるゆえんにして、たとえその例を見ざるも、決してこの一点をもって天神創造の実証となす理なきは明らかなり。

 第一〇九節 つぎに第五点の問難は格別喋々を要するまでのものにあらず。生物はその身体中いずれの部分も活動の力を有すといえども、高等に位する生物に至れば、身体中におのずから能動、所動の二部ありて、相分かれ能動作用の主部分は神経なり。神経はその造構至って細密精微なるをもって、したがって感覚運動のごとき複雑なる作用を現ずるに至るなり。しかしてその一部分に小変動を起こして生命を損ずることあるも、実地その損所を目撃せざることあり。これ他なし、造構の精密にして我人の力その損所を知ることあたわざるによるのみ。たとえば懐中時計のごときも機関上に肉眼にてほとんど見るべからざるほどの小害あるときは、たちまち運動をとどむるに至る、いわんや生物のごときその造構極めて精微なるものにおいてをや。

 第一一〇節 しかるに生物中わずかにその一小部を損じて生命を失するものと、その体を二分または三分してなお生命を失せざるものあり。たとえば人類のごとき、その一小部分を損ずるもたちまち死亡し、鰻のごとき、これを二分するもなおその各部分活動するを得るはいかなる理によるやというに、これまた殊更に弁明するを要せざるなり。近世の学者は社会をもって一個の有機体となすをもって、有機体の事情を知らんと欲せば社会の上にて考うることを得るなり。社会中その下等なるものに至りては、協力分労の制いまだ判然相立たざるをもって、その一部分を失うもあえて全社会の生存を害することなしといえども、もし協力分労の制、判然相立ち農工商おのおのその職を分かつに至れば、その社会の一部分を欠くも全社会の生存を害するに至るべし。今下等動物はその全組織間にいまだ協力分労の制、判然相立たざるをもって、これを両分するも四分するも、各部分みな独立して生命を保つことを得といえども、高等動物別して人類のごときに至りては協力分労の制、判然相立ち、心、肺、腸、胃、脳、脊、みなおのおのその職を分かつをもって、その一部分を欠くも全身の生命を失するに至るなり。

 

     第一〇段 進化論 第三

 第一一一節 前段は主として有機総体の進化を示したるのみ。更に進んでこれより第六点に移り、有機体中に有感無感、有智無智の別あるゆえん、他語にてこれをいえば、動植人獣の別あるゆえんを略明せざるべからず。

  第25図

      物質  無機(水、土、空気等)

          有機 無感(植物)

             有感(動物) 無智(禽獣等)

                    有智(人類)

この有機中に動植人獣の別あるは今日の進化論によるに、その初めみな同一の祖先より進化派生してきたるものなりという。今余が論ずるところによるに、これみな一体の物質の分化に外ならず。この説は近世の唯物論者の唱うるところなれども、仏教の所説より論究するも、またこの点に帰入することを得べし。まずこれを論ずるには、有感無感、有智無智の間に判然たる分界なきことを予定せざるべからず。およそ我人はその最も相異なるものを見て、人獣動植の別を立つるも、ことごとくその種類を集めてこれを排置するときは、動物にもあらず植物にもあらざる中間の一種を得ることあり。これ今日すでに生物学上実験するところにして、その学者が動植の定義を下すに苦しむゆえんなり。通常定むるところによるに、動物は感覚運動を有し、植物はこれを有せずと立つるも、動物中に移地運動を有せざるものあり、植物中にやや感覚に似たる一種の作用を有するものあり。また人類と動物の別は、一は智力意志を有し、一はこれを有せずと立つれども、人類中にはほとんど意志智力を有せざるものありて、かえって動物中にこれを有するものあるをみる。これ作用上、動植人獣の間に判然たる分界なきゆえんなり。もし造構上よりこれをみれば、ますますその分界なきを知るべし。神経、内臓、五官、筋肉は人の有するところにして、獣類またみなこれを有す。また獣類の病はこれを人に伝染することを得、人に功験ある薬はこれを獣類に用いてもその功あり。これによりてこれをみるに、獣類の高等なるものと人類の下等なるものとは、その懸隔かえって人獣各種中の上等と下等との間の懸隔のごとく、はなはだしからざるを知るべし。動物と植物もまたしかり。その両種中互いに相近きものをとりて較するときは、その各種中互いに相遠きものをとりて較するより、その懸隔かえって小なるをみる。故に動植人類はただ上等下等の階級あるのみにて、判然たる分界あるにあらざるなり。しかして判然たる分界をその間に立つるは、人の殊更にこれを定むるによる。他語にてこれをいえば、動植人類は客観上その別なくして、主観上その別を立つるのみ。

 第一一二節 この客観上その別なきゆえんを明らかにせんために、獣類の心性作用を有することを一言するを必要なりとす。およそヤソ教者は天神特造を立つるをもって動植有別を信じ、別して人獣は全くその祖先を異にすと説くをもって、余はこれに反して、今日の進化論に基づき人獣同祖を立てんとす。人獣同祖を立つるには、人獣にその別なきゆえんを示さざるを得ず。けだし人獣の別は有智無智をもってすというも、概してこれをいえば、一は心性作用を有し、一は有せずというにあり。心性作用には、情感、智力、意志(『心理摘要』を見るべし)の三種ありて、獣類もこの三種を有することは当時動物学者がすでに実験せるところなり。まず獣類に喜怒苦楽の情あることは犬や猫についても知ることを得べし。智力に至りてもその初級なる知覚、記憶の諸作用を有することは、たやすく一、二の高等動物について知ることを得、また動物学者のいうところによるに、犬などにも夢を結ぶことありという。すなわち獣類に構想作用あることを知るべし。その他、推理作用もその極めて簡単なるものに至りては動物すでにこれを有することは、動物学者の種々の例を挙げて証するところなり。今余が新しく経験するところによるに、余が郷里に食を盗むに巧みなる犬あり。人の家に入らんとするや、まず手をもってその戸をたたきて人の有無をうかがう。そのとき戸内にこれに応ずる声なきときは、手の爪をもって戸を推し開きて忍び入るを常とす。これ推理力にあらずしてなんぞや。これを要するに、獣類は人智のごとき完全なるものを有せざるも、智力の一部分を有するや疑いをいれず、かつ動物は弁別力、契合力、記住力(『心理摘要』を見るべし)のごとき智力の原種となるべきものを有するは必然なり。その他獣類に復讐、親愛等の情あるもまた明らかなり。これに反して、人類中にも蛮民および幼児輩に至りては、かえって智力および諸情を有せざるものあり。つぎに獣類に意志および良心を有することは、次編に道徳論を述ぶるに当たりて弁明せんとす。これによりてこれをみれば、人獣の別を立つるに有智無智をもってするは不当なりといわざるべからず。人類すでに心性作用を有すれば、獣類もまたそのいくぶんを有すといわざるべからず。ただその異なるは、一はその力やや発達してその作用やや完全なり、一はその力発達せずしてその作用不完全なるにあるのみ。

 第一一三節 以上は主として今日今時の動植人類の上に判然たる分界なきゆえんを示したるのみ。もしその起源にさかのぼりてこれをみるに、同一物または類似したるものより次第に分派してきたるや疑いをいれず。すべて進化の規則は一様より錯雑に移るものにして、動植人獣もその初期にありては、今日のごとくあまたの種類あるにあらず。故に今日にありてすでにその種類の間に判然たる分界なきは、その初期にありて判然たる分界なきによることまた明らかなり。あたかも諸生物のその発育の初期にありてはみな相似たる形状を有すると同一般なり。これによりてこれをみれば、動植人獣の間にその別を立てるは、主観上のことのみ、客観上もとよりその別あるにあらず。たとえ客観上その別ありとするも、これただ諸生物の発達進化したる今日今時にあるのみ。その初期にさかのぼれば、かくのごとき差等あることなし。この理を推して、諸生物の間に判然たる分界なきゆえん、あわせて動植人獣は一物の進化分派に出づるゆえんを知るべし。

 第一一四節 今その分界なきゆえんについて、諸生物の次第に進化する階級をみるに、あたかも左のごとき関係を有するなり。すなわち甲より次第に発達進化して丁に至るなり。今仮に甲より乙に至るまでを植物界とし、乙より丙に至るまでを動物界とし、丙より丁に至るまでを人類界と定め、かつ便宜のため一物の発達、まず下等の植物界より進みて動物界に入り、下等の動物界より進みて人類界に入るものと定むるに、人は今日にありてはその最も高等に位するものなり。かつこの図によりて、その今日存するところの動植の分界も、ただ主観上便宜のために設くるものなるを知るべし。たとえばイ点にありてニ点を見、ハ点にありてヘ点を見るときは、その間大いに懸隔するところあるも、ロ点とハ点を較し、ニ点とホ点を較するときは、ほとんどその間に懸隔を見るあたわず。これをたとうるに、一九歳以下を少年とし二〇歳以上を成年とするに、一四、五歳のものと三〇前後のものを較するときは大差あるも、一九歳の一二月三一日の時と二〇歳の一月一日の時とを較するときは、少年も成年も同一なりといわざるべからず。今人獣動植の別もこれに異ならず。故に余は諸生物の異同は、客観上に存するにあらずして、主観上に存するなりというなり。語を換えてこれをいえば、生物そのものに人獣動植の別あるにあらずして、わが思想上仮にその別を設くるなり。しかして客観上にありては諸生物あたかも一直線の連続のごとく、下等より漸次に高等に進化発達したるをみるのみ。

 第一一五節 この直線進化、漸次発達の理は、ただに動植人獣の間に存するのみならず、有機と無機との間にも存するなり。さきに述ぶるごとく、有機無機共に一物の分化とするときは、その漸々次第に下等より上等に発達すること、すでに明らかなり。漸次発達なれば直線進化なることまた疑いなし。しかるに通俗の人は有機と無機はその初めより全く異なりたるものとなすをもって、天神特造のごとき憶想をなさざるをえずといえども、もし一直線にして間断差等なしとするときは自然開発説の真なるを知り、天神特造説の妄なるを知るべし。しかしてかの有機はいかにして無機より生ずるや等の問いは、あたかも成年はいかにして少年より生ずるやといえる問いのごとく、全く発達進化の理を知らざるより起こるもののみ。

 第一一六節 以上の論これを帰するに、諸生物は一物の次第に発達したるものにして、その間判然たる分界なしというにあり。しかしてその次第発達の一証は、一個体の発育についてまた見ることを得べし。これを一個人についていえば、その始めて母胎にやどりしより一個の細胞の次第に分裂増加して発育するの順序は、あたかも下等の有機体が次第に進化して高等の動物を生ぜし順序に異なることなし、ただその異なるは年月の長短にあり。有機体の進化は幾万劫の永き歳月の間に経過したるものを、一個人は一月ないし一年間に経過するなり。すなわち一個人の発育に有機総体の進化と同一の階級あるは、有機進化の順次を遺伝したるものというより外なし。他語にてこれをいえば、一個人の発育上に動植人獣全体の進化の状況を見ることを得るなり。これによりてこれを推すに、人類の動物界にありし形状はその小児のときの形状を見て知るべし。およそ人類と獣類との異なるは智力意志にあらずして、一は言語歩行の力を有し、一はこれを有せざるにあり。しかるに小児のごときはその一、二歳のときにありてはあたかも獣類同様にして、口に言語を発することあたわず、足に歩行を命ずることあたわず、ただ喜怒の情感を有するのみ。これけだしその祖先の動物界にありしときの形状なるを知るべし。

 第一一七節 かくのごとく論定するときは、これに対して左の論難を起こすものあり。

  第一 人は動物より進化してきたるときは、これを変じてまた犬となし猿となすことを得るや。

  第二 発育の初期にありては諸動物みな同一の形状を有するも、次第に発育するに従い、犬は犬となり、人は人となるは、その初期すでに異なるところありしにあらずや。故に生物進化の初期にありておのおの同一の形状を有するも、その今日に至りて異なるところあるを見れば、最初すでに異なりたるを知るべし。

  第三 一物次第に進化して、一は植物となり、一は獣類となり、一は人類となるはいかなる原因事情によるや。

  第四 人の特有する意識思想のごときはいかにして生ずるや。

  第五 人の精神は老いてますますさかんなるはいかなる理によるや。

 第一一八節 第一問および第二問のごときは、さきに述ぶるところの習慣遺伝の規則によりてたやすく弁明することを得べし。たとえば一種の動物が分派して、一方は人となり、一方は猿となると定むるに、すでに両方に相分かれたるのちは、おのおのその一方に進むの習慣性あるをもって、今日に至りては、猿はますます猿の方向をとり、人はますます人の方向をとり、人をして猿に変じ、猿をして人に化せしむることあたわず。これ全く遺伝性の存するによる。つぎに同一の形状より出でておのおの異なりたる方位をとるも、これまた今日にありては、諸生物おのおの異なりたる遺伝性を、その発育の初期にありてすでに含有せるによる。

 第一一九節 つぎに第三の問難は、さきに述ぶるところの自然淘汰の理によりて証明することを得べし。およそ淘汰の起こるに、競争、順応、遺伝の三事情ありて、競争ひとたび起これば、その結果必ず外界の事情に応じて自体の上に変化を生ず、これを順応という。その順応したるものの子孫に伝わる、これを遺伝という。その他、結果自乗、不用減殺等の事情ありて、ますます進化の勢いを助くるなり。結果自乗とはひとたび高等の方位をとりたるものは結果に結果を重ねてますますその方位に進まんとする傾向あるをいい、不用減殺とは用ある部分は次第に増長し用なき部分は次第に減殺するをいう。

 第一二〇節 つぎに第四の問難は一言を費さざるをえず。通常解するところによるに、人は意識思想を有し、動物はこれを有せずという。もし進化説によるときは、意識思想は意識思想なきものより進化してきたらざるをえざる理なり。果たしてよく進化してきたることを得るや。余これに答えて、かくのごとき問難は、第一に意識思想は人類のひとり有するところとなすの誤見より起こる。しかれども意識思想の元素は動物なおこれを有するなり。第二にその問難は生物進化の際、突然意識思想なきものより意識思想あるものを生ずと予信するより起こる。しかれどもその生ずるは漸時次第に生ずるものにして、あたかも小児の発育の際、意識思想のなきものより次第にあるものを生ずると同一なり。小児はその一、二歳のときにありて意識思想なきも、七、八歳に至り意識思想を有するは、これもとより突然不意に生ずるにあらず、いわゆる次第漸生なり。今便宜のために左のごとく仮定して、その発達の順序を示さん。たとえば小児は三歳まで全く意識思想を有せず、四歳に至り意識の一部分を有し、五歳に至り二部分を有し、六歳に至り三部分を有すと仮定すべし。しかるときは動物中全く意識思想を有せざるものは、あたかも小児の三歳以下の状況を有するものにして、今日なおその位置にとどまるか、または他の方向に進むかの二途の外に出でざるべし。もしまた動物中に意識の一部分を有するものあらば、小児が四歳のときの状況を有してその後永くその地位に住するか、しからざれば他の方向に走りてその上に進まざるによるならん。これを要するに、意識の発達はあたかも一直線を追って次第に漸生するものにして、これより意識なき部分、これより意識ある部分と、判然たる分界のその進化の際に存するにあらざるなり。

 第一二一節 更に進んで意識作用の起源を考うるに、さきに第七三節に示すごとく、人の動作の意識の命令を待たずして起こるもの、これを反射作用という。その反射作用に運動の反射と思想の反射ありて、運動の反射は熟眠中に手足を動かすがごとき作用にして、身体中脊髄中より発するものとし、思想の反射は我人、猶予思考を待たずしてすぐに智力作用を現ずるものをいう。これ脳髄中の反射なり。動物および小児輩の心性作用は多くこの反射作用に属す。しかして小児はその成長に従って、従来の反射作用は転じて意識思想作用となるをみるに至る。故に思想作用は反射作用の発達複雑したるものなることを知るべし。これに反して思想作用はまた反射作用に変ずることあり。たとえば詩人が詩を作るに、その初めは思想工夫を凝らしたるも、熟達したるのちに至れば、口を発すればその言おのずから詩となるに至る。これによりてこれをみれば、反射作用と思想作用とは全くその種類を異にするにあらざるゆえんを知るべし。二者もし果たしてその種類を異にするときは一者変じて他者となるべき道理なきなり。

 第一二二節 およそ反射作用は生理上これを論ずるに、神経の造構、極めて簡単にして、その間に感伝する動波一方より入りきたりて、たやすく他方に流出するより起こる。もしこれに反して造構複雑にして繊維多岐に分かれ、一方より入りきたりたる動波、猶予躊躇して、たやすく他方に向かって流出することあたわざるときに思想作用起こる(『哲学要領』後編、第三段を参見すべし)。もし経験反復してその動波出入の際、猶予躊躇の時を要せざるに至れば、思想作用たちまち変じて反射作用となる、無意作用の変じて有意作用となるも、またこの理に考えて知るべし。有意とは意志ありてなす作用をいい、無意とは意志を要せずして現ずる作用をいう。しかしてその意志を要するものの要せざるに至るは、その作用が反射に変ずるによる。

 第一二三節 今試みにこれを社会国家の上に考えて、国家は一個の有機体とし、政府の組織は神経の組織として論ずるに、社会次第に発達すればしたがって完全なる政府の組織をそのうちに生じ、また政府中にも地方政府と中央政府の別をみるに至る。その国家中の一地方に起こりたる事件を、中央政府に達するを待たず地方政府のみにて判決裁可するときは、あたかも反射作用の起こる時に比すべし。もし地方政府にして裁可することあたわずして中央政府の議決を請うは、あたかも思想作用の起こるときと同一なり。しかしてまた中央政府中にても、従来の規則に照らして猶予躊躇を要せず、ただちに裁可すべきものと、新たに議決の上裁可すべきものあり。その猶予を要せざるものはいわゆる中央政府中の反射作用なり。これに準じて脳中の諸作用の起こるゆえんを知るべし。これによりてこれをみれば、意識思想作用は反射作用の発達複雑したるものに外ならざること明らかなり。

 第一二四節 およそ有機体の発達は社会の発達と同一にして、その初めは各部分みな同一の性質作用を有し、いまだその職業を分かつに及ばず、ようやく進んでおのおの異なりたる性質作用を有するに至り、始めてそのいわゆる分業の組織あるをみる。故に下等動物に至りては、身体の各部分みな感覚力を有するも、いまだ感覚のみをつかさどる造構を有せず、ようやく上等に進んで、始めて神経の組織発達して感覚作用のみをつかさどる部分を生ず。いよいよ高等に進めば、神経の組織中に諸部分相分かれて、おのおの別に感覚、知覚、智力、情感等をつかさどるに至り、始めて神経中に各部分の分業相生ずるなり。なお政府組織中に各部分の分業あると同一なり。およそ分業の制は大いにその作用をして完全ならしむるものにして、分業いよいよ密なればいよいよその作用をして完全ならしむることを得るなり。故に神経組織も分業のいよいよ密なるに従い、ますます完全に達して思想意識等の高等の作用を現ずるに至る。かつ分業いよいよ密なれば、分業の各部分にまた分業を生じて、その間に主属両部分を分かつに至る。故をもって神経組織中にも中央部と付属部相分かれ、その中央部にもまた分業ありてその中心に位するもの、これを大脳中の主作用たる思想作用の本位とす。なお政府の組織中に地方と中央の別あり。中央政府中に内閣諸省の別あると同一なり。かつ神経組織は地方人民中その最も才幹あるもの相集まりて地方政府を構造し、地方政府中その最も才幹あるもの相集まりて中央政府を構造すると同一なり。たとえば有機の身体は細胞と称するものより成り、神経また細胞より成る。しかして神経細胞は全身を組織せる各細胞中、最も複雑なる成分を有するものにして、すなわち諸細胞中最も才幹あるもの、あるいは各細胞の名代人と称してしかるべし。その名代人相合して脊髄神経節のごとき部位の神経組織を構造し、その部位の神経中最も才幹あるもの相合して脳髄組織を構造し、その組織中また最も才幹あるもの脳髄中の主作用をつかさどるものと知るべし。しかして余がここに神経中の才幹あるものと称したるは、細胞中その性質成分の複雑細密にして変化感動しやすきものをいう。すなわち心性作用を発現するに最もその力あるものをいうなり。これを要するに、身体発達の際、その各部分を組成せる諸細胞の間に分業主属の別起こり、その最も変化感動しやすきもの相集まりて神経組織を構造し心性作用を現示するに至り、その組織中また最も変化感動しやすきもの相集まりて大脳の組織を構造し、思想意識作用を現示するに至るなり。故に意識思想をつかさどる神経も、各部分の細胞も、その体異なるにあらずして、ただその造構成分の異なるのみ。なお社会中政府に立つものも、民間におるものも、同じくこれ人にして、その体異なるにあらざるがごとし。しかしてその一身体中にかくのごとき成分を異にする細胞を生ずるに至るは、進化淘汰の結果なること、さきに論ずるところをみて知るべし。

 第一二五節 すでに身体中各細胞のその体同一なるを知り、心性作用は神経組織中にあることを述べたるをもって、今ここにその神経と心性のいかに相関するかを一言せんとす。余がみるところによるに、神経は造構にして、心性は作用なり。他語にてこれをいえば、神経は物質にして、心性は勢力なり。ここに物質あれば必ず勢力ありて、勢力と物質の相離るるべからざることは前すでにこれを論ぜり。すでにその相離れざるゆえんを知るときは、物質の造構、極めて複雑精微にわたれば、その勢力の作用また複雑精微なることおのずから知るべし(『哲学要領』後編、第二段を見るべし)。故に余まさに断言せんとす、心性は勢力の一種なりと。心性果たして勢力の一種なるときは、人類ひとり心性を有して、動物植物は全くこれを有せずということを得ず。ただに動物これを有するのみならず、水火土石なおそのいくぶんを有せざるべからず、ただ動植人類の異なるは、一は心性の発達したるものを有し、他は発達せざるものを有するの別あるのみ。果たしてしからば、仏教に動植無機ことごとく仏性を有すと説きたるは全く無証の妄言にあらざること明らかなり。

 第一二六節 つぎに第五問に移り、人の身体老衰してその精神のますます盛んなるゆえんを説明するに、心性もし身体の造構を離れて別に存せざるときは、身体の老衰に伴って心性また衰弱せざるべからざるの理なり。故に普通の人は身体と共にその精神も老衰するを免れず。しかるに往々身体ひとり衰えて、精神の依然として盛んなるものあるを見る、これまたその理なきにあらず。第一に身体中脳髄の部分は、その発達遅きをもってその衰うるまた遅きの事情あり。第二に身体中の一部分の勢力衰うれば、他の部分に盛んなるの事情あり。第三に精神の十分発達したるものは、これを他の部分に比するに速やかに衰えざるの事情あり。第四に精神の力平時に衰うるも、その一時の力かえって平時より盛んなるの事情あり。今この第一点のごときは、人の身体は二五歳に至りてその成長を全うすというも、脳髄の発達はそののちにあるをみて知るべし。第二点は人の身体中の勢力は大抵その限りありて、一方にその力を増せば他方に減ぜざるをえず。たとえば上の図において、イの部分に増すときは、ロハの部分に減ぜざるを得ず。すなわち手足を労働するときは精神思想の力を減じ、思想を労働するときは手足の感覚を覚えざるをみて知るべし。故に人往々身体の諸部分の勢力減じて、ひとり精神の方にその力を増すことあり。第三に身体中その発達十分なる部分はその衰うること遅きの規則ありて、精神の発達のこれを他の部分に比するに、やや十分に達したるものは他の部分の老衰するも、なお精神の力を減ぜざることあり。第四に精神の力、身体と共に老衰に達したるも、一時の変動に応じて平時の権衡を失し、ために他方の力大いに減じ精神一方の力の増すことあり。しかして一時ののちその平時の状況に復することあり。以上の諸事情によりて、身体老衰してなお精神の盛んなるをみることあるなり。故にこの例をもって、精神は身体を離れて別に存するゆえんの証となすべからず。もし精神は果たして身体の外にあるをもって、老衰してなおその盛んなるをみるとするときは、身体と共に老衰するものあるの理を解すべからず。これによりてこれをみれば、心性は勢力の一種なるの理いよいよ明らかなり。

 第一二七節 以上の論これを帰結するに、宇宙間に万物万類の現存するを見るも、これ決して天神ありていちいちその原種を特造したるにあらずして、自然進化の規則に従って次第に開発したるものなり。すなわち太初に一体の物質ありて進んで有機無機の二類を派生し、また進んでその有機中に動植人類の別を現ずるに至るなり。しかして物質と勢力とは常に相離れざるをもって、一方に物質の造構あれば他方に勢力の作用あり、一方の造構複雑なれば他方の作用また複雑にして神経組織に心性作用を現ずるに至る。故にその心性作用は物質固有の勢力の一種に外ならず、生活力もまたもとより勢力の一種なり。故に心性は人類ひとりこれを有するにあらず、生活は有機ひとりこれを有するにあらず、土石水火、無機諸類に至るまでみな心性、生活の元素を含有すること必然なり。仏教の「一切万物はみな真如なり。」(一切万物皆真如)の性を具するの説、これにおいて始めてその真を知る。しかるにヤソ教者は今日なお天神特造説を固信して、人類に心性ありて動物に心性の元素なしといい、動物に感覚ありて草木に感覚の原力なしと断言して、その有心無心、有感無感の別あるは天神特別にその原種を創造したるによるという。しかして有心無心、有感無感の間に判然たる分界なきを知らず。かつ一物の開発よりこの万類を派生すべき理あるを知らざるは、実に愚者の浅見と評せざるを得ざるなり。

 

     第一一段 道徳論 第一

 第一二八節 ヤソ教者が天神の実在およびその創造主宰を証するところの原因論も、秩序論も、進化論も、みな無神を証するのみにて、一も有神を証するに足らず。しかるにここにまた道徳の必要普遍を唱えて天神の存在を論ずるものあり、これを道徳論という。その道徳論の第一は、人は生まれながら道徳心を有するをもって自然に悪を避けて善に移るの性あり、これ天神の賦与するものにあらずしてなんぞやといい、第二は、今日の世界にありては天神をもって道徳の基本と定むるにあらざれば人生の幸福、社会の安寧を期すべからず、故に天神の実在を説くは道徳上必要なりといえり。その第一説は、余がここに論ぜざるを得ざる問題なれども、第二説のごときは実際上の論にして、ただ今日今時に必要というにとどまり、この説は天神の現存を証すべきものにあらざるをもって、第三編の「護法活論」に譲りて論ずべし。今第一説を論ずるに当たり、余は便宜のために左の二論に分かつなり。

  第一 良心論

  第二 意志論

 第一二九節 まず良心論者の論ずるところによるに、人は生まれながら善悪邪正を弁別するの力ありて、自然にそのおのずから尽くすべき義務本分を知り、もしその本分を尽くさざれば、己を責むるを知りかつ悔悟の心を生ずるもの、これを良心という。その意は一人一代に限りてこれを有するにあらず、いやしくも人たるものはいずれの時代にても、いずれの国にても、みなこれを有す。故にこの心は教育経験によりて生ずるにあらず、天神の賦与するところならざるべからずという。これヤソ教者の通説にして、この説によりて天神の実在を証せんとす。しかしてそのいわゆる良心は孟子の仁義の四端とほぼ相同じ、孟子もこれを天賦とす。しかれども西洋近世の説によれば、これを経験遺伝の結果とするなり。今その理を述ぶるに、良心論者はいずれの国、いずれの人にても、みな一般にこの心を有すという。しかれども古代にさかのぼりて蛮民の事情を考うるに、あるいはこの心を有せざる者あり。たとえこれを有するもいまだ完全ならざるものあり。また今日にありても孤島の蛮民のごときは現にかくのごとき心を有せざるものあり。すでにその子を殺し、その父母を捨て、その兄弟を食みて、すこしも愛憐の情を起こさざるものあるは良心の存せざるを知るに足る。かつ良心を有する人にても、その力に強弱、多少の差等あるを免れず。たとえ同一の教育を与うるも良心の発達に大いに不同あるをみる。もしこれを天神の賦与に帰するときはその不同あるの理解すべからず、天神はいかなる意をもって、一人には良心を多く与え、一人には少なく与えしや。かつまたヤソ教者はこの心の有無をもって人獣の別となせども、人類には人を殺して愛憐をとらざるものありて、獣類中にはかえってその子を愛する情の厚きものあり。ただその多数について考うるときは、人類は良心を有し動物はこれを有せずということを得べきも、多数の人、良心を有するをもって、良心は天神の賦与なりと論決するの道理なし。かつその多数の人の中においても、良心の多量を有するものと、少量を有するものの異同あるはなんぞや。天神果たして良心を賦与するときは、人類中の一部分には全くこれを与えず、一部分にはその一半を与え、一部分には全分を与うる等の異同あるは、天神の人を見る実に偏頗ありといわざるべからず。しかるにもしこれを進化説によりて解するときは、この難点たやすく明解することを得べし。

 第一三〇節 以上は人に善悪邪正を弁別するの力おのおの異なるゆえんをあげて、良心は天神の賦与にあらざることを示したるのみ。もしその善悪邪正はなにものにして、いかにして定まるやを考うるときは、ますます良心の天賦にあらざること明らかに知ることを得べし。善とはなんぞや、悪とはなんぞや、ヤソ教者必ずこれに答えていわん、善悪共に天神の定むるところにして、人にしてよく天神の命を奉じてその教を守るものは善人にして、これに反するものは悪人なりと。その意すなわち善悪の標準は、天神の定むるところなりというにあり。果たしてしからば、善悪は古今一定して変更あるべき理なし。しかるに古代の善人とするところと、今日の善人とするところと、多少異なるところあるは歴史上に考えても知ることを得べし。また野蛮人の一般に称して善行とするものと、開明人の一般に許して善行とするものの大いに異同あるもまた知ることを得べし。かつ甲の目して善となすところと、乙の目して善となすところと、寸分の異同なきあたわざるもみな明らかなる事実なり。これを要するに、善悪の標準は世と人とによりて一定せざるなり。これをもって社会の道徳は、古今東西その風俗習慣に従って異なるをみる。他語にてこれをいえば、善悪の標準は社会と共に変遷するなり。故にもし良心は天神の賦与するところとなすときは、人々その有するところの良心に従って行うところの善悪に不同を生ずべき理なし。しかしてその不同あるは良心は天神の賦与するところにあらずして、善悪は天神の定むるところにあらざるによる。

 第一三一節 およそ人は自利私欲の情およびその行為を悪とし、利他博愛の情およびその行為を善とするも、これ今日の社会にありての区別のみ。もし古代野蛮社会に至れば、自利自愛をもって一般の行為とし、自利かえってその社会の善行となる。もしまた社会いまだ団結せざる時に至れば、人々個々おのおの散居自立して生存するをもって、当時いまだ利他博愛の行為あらず、かつその勢い自利自愛にあらざれば、各自の生存を全うすることあたわず。これ時に当たりては自利かえってこれ善、利他かえってこれ悪ならざるべからず。これによりてこれをみるに、道徳の行為は果たして天神の定むるところとするときは、その古今の善心善行とするところのもの、表裏相反するゆえんを解すべからざるなり。

 第一三二節 もしこれに反して、進化説によれば人の道徳も百般の事物と共に進化するものにして、善悪を弁別する良心も、善悪の行為も、またみな進化の結果なりという。およそ動物は純然たる道徳心を有せざるも、その基本となるべきものを有するは必然にして、かの苦楽の感覚を有するもの進みて善悪の二情を生じ、その自ら試みて生存に利あるもの次第に因習して善となり、生存に害あるもの次第に因習して悪となりたる以上は、善悪と苦楽は全く異なるもののごとくみゆれども、事物はすべてその思想の発達に従って、実より虚に入るものなり。天神の思想のごときも、古代の人民は有形有質のものと信じたるも、その智進むに従って無形無質の体となる。霊魂のごときも、その初めは形質あるもののごとく考え、次第に進みて無形質のものとなるに至る。これみな思想の進歩、実より虚に入るによる。今有形上の感覚の苦楽が進みて、無形上の思想の善悪となるも、全くこの理に外ならず。

 第一三三節 つぎに道徳の行為もまた進化より生ずるものなり。動物は道徳の行為と称すべきものを有せざるも、身体の挙動を有す。その挙動がおのずから要するところの目的に合するに至れば、初めて善悪の行為起こる。すなわちその目的に合する行為は善となり、合せざる行為は悪となる。これ他なし、挙動のよくその目的に合すればその生存を保全するに利ありて、合せざれば害あるによる、これを自保自存の規則という。およそ生物の進化して今日に至るに最も要するところのものは、その自身の生存と子孫の繁殖に外ならず。故に生物中その生存繁殖に利ある行為挙動を有せしものは、子々孫々伝続して今日に生存し、しからざるものは次第に消滅して今日に存することあたわざるは必然の理なり。故に今日に生存する生物は、その行為のよくこの自保自存の規則に合するによる。別して人類のごときはこれを諸動物に比するに、進化の高点に達するをもって、その挙動のこの規則に合すること一層密なるべし。これ人類に道徳の行為をみるゆえんなり。

 第一三四節 これを要するに、人の善悪の情は苦楽の感覚より生じ、善悪の行為は目的ある挙動より生ずるなり。しかしてその発達するは生物進化の際、自保自存の規則の存するによる。すなわち生物はその自然の勢い、自保自存の方向に進まざるを得ざる事情ありて、ここに至るなり。故に道徳は人類特有にあらず、動物もその元素のいくぶんを有すること疑いをいれず。すでに相愛し相憐むの情および同類相求むるの情のごときは、動物すでにこれを有することはみな人の知るところなり。ただ動物と人と異なるは、動物の有するところは自利自愛の私情にして、人類は私情の外に愛他の公情を有する、これなり。しかれどもこれまたしかるべき道理あり。すなわち動物は群居類集するものあるもいまだ協力団合するに至らず、人は協力団合していわゆる社会なるものを組成するの別あるによる。しかしてその社会を組成するに至りしものもまた進化の結果にして、競争淘汰の影響ここに至るなり。社会ひとたび団結すれば互いに相親愛せざるべからず。互いに相親愛するの必要を知るときは、衆人を汎愛する公情ついで起こらざるを得ず。かくして次第に進みて、己をすてて人を愛するがごとき純然たる愛他心を生ずるに至る。故に人に愛他の公情あるは全く社会進化の結果なり。

 第一三五節 以上の論のみにては、いまだ人に生まれながら良心の存するの理を証するに足らず。もし良心は天賦にあらずとするときは、経験よりきたるとせざるべからず。しかるに人の生まれながらこれを有するはいかにというに、この理は遺伝の規則によりて解明することを得べし。すなわち良心は一人一代の経験より生ずるにあらずして、数世数人の経験相合したる結果なり。けだし人はその父祖の時より子々孫々、道徳の行為の生存上実益あるを経験して、知らず識らず、その行為は終生の習慣となりてその子に遺伝し、子はまたその一代間の経験上愛他の実益あるを知り、その習慣性に一層の発達を加えてその孫に遺伝し、数世ののち一種の良心を形成するに至る。故に良心は数世数代の経験の結果なりというべし。

 第一三六節 すでに道徳は経験の結果なるゆえんを知れば、人々有するところの良心同一ならざるゆえん、また知るべし。なんとなれば、その遺伝と経験は人々同じからざればなり。かつ良心は経験の結果なるをもって、教育順応によりて多少変更することを得べし。すなわち善良の教育に接すればますますその良心を発達し、不良の風俗に接すればかえって良心を減殺するなり。かくして不良の教育を受けて悪人となるものあるときは、これを不良の順応、善良の遺伝に勝つという。もしまた不良の教育に接してなお善人となるものあるは一時の教育、不良なるも、その父祖数世間受くるところの教育経験の善良なるによるものとす。これを善良の遺伝、不良の順応に勝つという。もしこれに反して、善良の教育に接してなお不善人を生ずるは、不良の性質を遺伝したるによるものとす。これまた遺伝の順応に勝つものなり。しかれども概してこれをいえば、父祖数世間の経験上、道徳善行の実益ありしをもって、自然その本心行為が人の性質中に感染して一種の習慣性を形成するに至り、その勢い利他博愛の公情にあらざれば道徳となさざるに至るなり。しかして人に自利の心を断つことあたわざるも、また経験の結果なり。人その数世間の経験上自愛心を有するをもってその生存を全うするものにして、もしこの心なくして愛他心のみ存するときは、社会の生存もまた難し。故に知るべし、愛他も自愛も共に生存上必要なる事情ありしをもって、両心共に人に存するに至り、かつ完全の自愛は愛他を待ちて始めて行わるるをもって、いよいよ高等に進むに従いますます愛他の必要を感じ、かつ自愛心の中に一種の愛他心を形成するに至るなり。動物に愛他心なきは全く愛他心を生ずべき地位までに進化せざるによる。他語にてこれをいえば、愛他心の必要なきによる。これに反して人類は愛他心の必要なる事情を有するのみならず、ひとたび愛他心の必要を感ずれば習慣の力ますますその一方に偏倚するの傾向あるをもって、その勢い自然に自愛をすててひとり愛他をとらんとするに至る。これ良心の起こるゆえんにして、人の道徳と称するものは自愛を悪としてこれを制止し、愛他を善としてこれを鼓舞するに至るなり。

 第一三七節 かくのごとく考うるときは、人に羞悪悔悟の情あるゆえんまた知るべし。すでに進化の勢い愛他心の一種の習慣性を形成するに至れば、しばしば自愛自利の私心これに抗して起こることあるも、ついにその習慣性に勝つことあたわず、これにおいて悔悟の情起こる。けだし愛他も自愛も共に我人の経験上必要にして、自愛は直接にわが生存に関し、愛他は間接にわが生存に関するも、社会団結の上は間接の愛他、かえって直接の自愛よりその生存に益を与うること多きをもって、ついに数世の経験上、愛他心の習慣性を起こすに至る。しかれども自愛心もこれに伴って常に存するをもって、往々愛他心に抗してその力をたくましうせんとすることあり。しかして自愛心は直接なるをもってその力強く、愛他心は間接なるをもってその力弱し。故をもって一時は自愛心の愛他心に勝つことあるも、愛他心は習慣性をなすをもって一時ののちその習慣性に復するに至る。あたかも池水が一時の風波のために高低をその面に起こすも、一時ののちまたその平面に復すると同一なり。これにおいて悔悟の情起こるに至るなり。

 第一三八節 つぎに人に惻隠忍びざるの心ありて、たとえその平日嫌悪するところのものにても、一朝病患にかかりて死するを聞けばおのずから哀憐の情を生ず。これまた人に良心の存する一証なるがごとしといえども、その実自利の私情より生ずること疑いをいれず。けだし人には同感の情ありて、人の苦楽をみればこれと同一の感情を発するものなり。これを同情という(『心理摘要』第八章を見るべし)。しかして同情の起こるは我人すでに経験上種々苦楽の状況を熟知せるをもって、ひとたび人のその状況にかかるものをみれば、その自ら前時経験したる苦楽を想起するによる。故に人の苦をみて哀憐の情を生ずるは、これをその人の苦として感ずるにあらずして、かえって自身の苦として感ずるなり。すなわち人を愛するの情に出づるにあらずして、自身を愛するの私情に出づるものなり。しかして人の死するを見てこれを救治せんことを思うは、これを救治するの外、自身の苦を医するの方なければなり。これをもって孺子の井に落つるを見て、これを救助せんとするの情を生ずるなり。故に惻隠忍びざるの心は自愛の私情より進化したるものと知るべし。

 第一三九節 つぎに人に、生まれながら己を退けて人を推し、君父尊重を恭敬愛重するを知るは天賦の良心に出づるもののごとしといえども、これまた進化淘汰の結果より生ずるものなり。およそ人の野蛮世界にありて腕力相争うに当たり、一身の生存をその間に保全せんと欲せば、弱者はつねに強者の前に屈伏遜譲せざるべからず。しからざれば弱の肉は強の食となるより外なし。かつ物の性たる一旦恭敬辞譲を尽くしてその身に益あるを知れば、再三これを重ねんとするに至り。再三これを重ねてますますその身に利あるを験すれば、ただに一身の習慣となるのみならず、数世遺伝の後は一種の天性となりて社会の礼義を組成するに至る。故に礼義辞譲の心は真に人を愛重するの良心に出づるにあらずして、自身を愛重するの私情より生ずるものと知るべし。

 第一四〇節 かくのごとく論定するときは、仁義礼譲の心は古代に存せずして今日に存すべき理なり。しかるに今日よりかえって古代にその行為を有するもの多きはなんぞやと難ずるものあり。この難問に答うるには、まず左の諸条を考定せざるべからず。第一に、古代と称するも太古野蛮の極点に至れば、もとより仁義礼譲の存すべき理なし。すでにかの父子を殺し人肉を食するがごとき蛮民に至りては、禽獣となんぞ択ばん。故に仁義礼譲の存するは人類社会のやや発達したる時にあり。第二に、古代にありて人口少なく土地広く衣食に汲々せざるときは、人類間に生存のため競争するを要せず。競争するを要せざるときは、仁義礼譲の存するがごとくみゆるなり。しかるに人口次第に繁殖し衣食その需用を満たすに足らざるに至れば、おのおの人その生存を全うせんと欲せば互いに相競争せざるを得ず。これにおいてかえって礼譲の破るるがごとくみゆるなり。しかれどもその実古代の倫常は倫常とするに足らず、ただ衣食の競争なきをもっておのおの自ら満足するのみ。第三に人類生存の際、ひとたび愛他の益あるを知れば、みだりにその一方に偏倚する傾向を生じ、その後また自愛の欠くべからざるを知りて愛他心と共存するに至る。すなわち古代はその偏倚の傾向を生じて、ために著しき愛他心をみることあるなり。以上の諸事情によりて古代に仁義礼譲の大いに発達するをみるも、その実、仁義礼譲は社会進化の規則に従って次第に発達したること疑いをいれず。

 

     第一二段 道徳論 第二

 第一四一節 つぎに意志論とは意志の性質作用をいうにあらず(意志の性質作用のことは『心理摘要』第九章を見るべし)。ただ人に自裁、自断、自択の作用ありて自在に選択決断するの力あり、これを自由意志という。この自由意志はいかにして生ずるかを証明せんとするにあり。ヤソ教者は、人にこの自由意志の存するは天神の賦与するところなりと定めて、もって天神の実在を証せんとするも、その実、自由意志なるものは天神の賦与するものにあらずして、これまた良心と同じく進化の規則に従って発達したるものなり。その発達の次第は良心の発達に考えて知るべし。しかれどもここに余が一言せんと欲するものは、自由論と必然論の関係、これなり。自由論者曰く、人は天賦の意力をもって自在に諸作用を命令指示すべしと。これに反対して一事一物、人意をもって自在に動かすべからず、我人の思うこと行うこと、みな必然の規則事情ありて起こるというものあり、これを必然論という。けだし万物はさきに第九三節に述ぶるごとく、一として偶然に生じ偶然に滅するにあらず、その生ずるもその滅するも、みなしかるべき原因事情あるによる。人の心性作用もまたみなしかるべき原因事情ありて起こるなり。

 第一四二節 まず第一に、人の作用と外界の事情との関係について、我人の果たして自由なるか自由ならざるかをみるべし。もしそのなすところその思うところ、外界の事情のために妨げられ、意を曲げて事に従い、身を屈して人に従うにおいては、決して人は自由を得るものというべからず。しかるに我人の日夜なすところ思うところ、大抵意のごとくならざるはみな人の知るところなり。人だれか富貴を楽しまざるものあらんや、人だれか名利を欲せざるものあらんや、人だれか病苦をにくみ老死をいとわざるものあらんや。しかしてかえって貧賎に沈み不利不幸を招くものなんぞや、これ人の外界の諸事情のために制せられて自由を得ることあたわざるによるにあらずや。すなわち人の快楽を受くるも、苦難にかかるも、みな当時の事情によりてしかるなり。

第一四三節 もしまた内界の事情と意志の関係についてこれを考うるに、人は事情の有無に関せず、自由に善悪利害を判断し自由に一を選び他を捨つることを得、かつ天然に善人の崇ぶべきを知り天神の敬すべきを知るもののごとし。これによりてこれをみるに、人の行為は天賦の意志ありて命令指揮するもののごとしといえども、畢竟、選択決断作用の起こるは内界の事情と外界の事情の結果に外ならず。たとえば一事を行うに当たりその行為を実施するに二途の方向ありて、左をとるか右をとるか、いまだその心に明らかならざるときは猶予躊躇すること起こる。その猶予躊躇の間に内想上種々の事情を連起対照して、その結果両方軽重なきに至ればなお猶予して判決を下すことあたわず。もしその間に軽重の少差を生ずるときは、その軽き方を捨てて重き方をとるに至るべし。これにおいて選択判決作用起こるなり。たとえば忠孝両ながら全うすることあたわざる場合に際して、孝をすてて忠をとるは内想上、前後の得失事情を比較商量して得たるところの結果をとるものなり。けだし内界には種々の思想連合して存するをもって、一事の思想上判決することを得ざるものあるときは、これと連合したる思想次第に連起し、自然にその間に比較軽重するに至る、これにおいて選択起こる。しかれども選択は、すなわち内界の事情に従って生ずるものにして、もとより人の生まれながら有する一定の意力ありてしかるにあらず。通常我人の有するところの意力はみな内界の事情によりて生ずるものなり。ひとり内界の事情によりて生ずるにあらず、これに外界の事情の加わるありて生ずるなり。たとえば天気快晴に際して野外に散歩せんと思いたるに、また考うるに今日は友人の来訪あるの前約あれば在宅せざるべからざるを思い出し、猶予躊躇していまだ決せざるに、たまたま友人の書簡きたり、本日はほかに用事出来せることを告げきたりたるに会し、いよいよ遊行に決したりと仮定するに、その天気と書簡は外界の事情なり、前約を想起したるは内界の事情なり、この内外両界の事情によりて意力の作用をみるなり。

 第一四四節 かくのごとく。外の諸事情によりて意力の作用を現ずるをもって、事情異なれば意内の判決また異ならざるべからず。甲の判決するところと乙の判決するところと異なり、昨日選択するところと今日選択するところと異なるは、全くこの理に基づく。もし人に、生まれながら一定の意力ありとするときは、この異同あるゆえんを解することはなはだ難し。また天神は人々におのおの自由意志を与うるものとするときは、甲に与うるところと乙に与うるところと、その分量同一ならざるはなんぞや、またなにをもって天神はこの差等を生ぜしや。余輩その意を解するに苦しむ。もしこれを必然の事情によりて起こるものとするときはたやすくその理を解すべし。

 第一四五節 しかるにこの必然論に対して難ずるものあり。意志の判断は必ずしも内外の諸事情を比較商量するを要せずして即時に判決を下すことを得るはなんぞや。曰く、これまたもとより必然の事情による。しかれどもそのこと簡単にして、極めて判決しやすきもの、および従来数回経験したるものに至りては、猶予思慮を労せずして即時に判決することを得るなり。たとえ自ら数回経験せざるも、父祖数世間の経験によりて是非得失の明らかなるものは、本能遺伝の力によりてまた即時に判決することを得べし。試みに政府の組織についてこれを論ぜん。地方事件の極めて簡単なるもの、および従来数回経験したるものに至りては、内閣の議決を経ずして即時に判決を下すことを得ると同一なり。かつまた簡単なる判決力に至りては、人類ひとりこれを有するにあらず、動物もまたこれを有す。たとえば犬が道の二途に分かるる所に至ればその左すべきか右すべきかを判決し、二種の食物の目前にあるを見れば、そのいずれをとるべきかを選択する、これなり。これ小児の意力と同一にして、もとより比較思量ののち判決するにあらず、ただ天然の能力によりて知らず識らず判断を下すものなり。故にこれを本能力の作用という。本能力は一人の経験によりて生ぜざるも、数世間の経験の結果なること、前すでに述ぶるところなり。これによりてこれを推すに、意志力はその元素となるべきもの、動物界にすでに存するゆえんを知るべし。故に動物界の簡単なる判決力が進みて、人類の有するところの複雑なる判決力を生ずるに至るは必然なり。しかるにヤソ教者は意力をもって人類特有となすは事実に反するものなり、かつ人に自裁自断の力あるをもって天神の賦与に帰するがごときは、実にその妄想に驚かざるを得ず。別してこの点によりて天神実在の一証となすがごときは、妄もまたはなはだしといわざるべからず。事実についてこれを考うるに、自由意志も進化の結果なること疑いをいれず。

 第一四六節 以上論ずるところこれを帰するに、ヤソ教者は人に天賦良心および自由意志の存するをみて、天神の実在およびその創造主宰を証示せんとするも、事実についてこれを考うるに、良心は決して天賦にあらず、意志は決して自由にあらざること明らかなり。しかして人に生来良心の存するあるは、社会進化の際その生存を全うせんと欲するの心、次第に発達して父祖数世間に遺伝したるものに外ならず、かつ人に生来、自裁、自断、自択の力あるは、その内外因果の諸事情のしからざるを得ざるものあるによる。仏教の因縁開発の説いよいよ真なるを証するに足る。

 

     第一三段 人性論

 第一四七節 以上はヤソ教の有神論に反対し、物理進化の規則に基づきて天地万物は一物の開発に外ならざるゆえん、およびその一物は無始無終、不生不滅にして天神の創造にあらざるゆえんを示せり。しかるにヤソ教者の有神を証するに歴史上の事実を用うることあり。すなわち第一にいかなる古代野蛮の人民といえども、多少天神あるを信ずるの傾向あり、第二にいかなる英雄碩儒といえども、その心に全く天神の念想を絶つことあたわずというもの、これなり。これをここに人性論という。すなわち有神説は人性固有なりというにあり。その固有なるゆえんも、また進化の規則に照らして証示することを得べし。

 第一四八節 第一に野蛮人もその自ら崇信するところのものあるは明らかなりといえども、必ずしも天神を崇信するにあらず。あるいは英雄を祭り、祖先を祭り、山川を拝し、草木を拝し、禽獣を拝するなり。その天神を崇信するも、ヤソ教者の今日述ぶるがごとき天神にあらず、あるいは風神、雨神、日神、月神、善神、悪神等、あまたの神を拝するなり。かつその神なるもの有形有質にして、人獣同一の形質を有するもの多しとす。しかして無形無質、独一至尊の天神を拝するは、人智やや進歩したるのちにあり。これによりて人智は実より虚に入るゆえんまた知るべし。

 第一四九節 およそ人の一般に崇信するところあるは、一は人に恐怖の情あると、一は人に結果をみて原因を求むるの念あるとによる。けだし恐怖の情は人ひとりこれを有するにあらず、動物もまたこれを有す。しかしてこの情の人獣普有なるは進化の結果にして、生物もしその生存を全うせんと欲せば強者を畏懼してこれに随従せざるべからず。もし畏懼することなくしてこれに抵抗するときは弱者は強者の食となるより外なし。故に競争淘汰の勢い、自然に人獣をして恐怖の心を生ぜしむるなり。しかして人はその智力の発達、獣類の上に位し、かつ団結したる社会の中に住するをもって、一層その恐怖心の発達せるをみる。加うるに、人は恭敬礼譲の心を有するなり。恭敬礼譲の心は第一三九節に述ぶるごとく、弱者が強者に対してその生存を全うせんために起こりたるものにして、やはり進化淘汰の結果なり。ことに人類は結果をみて原因を求むるの智力に長ずるをもって、天災地変、山川草木を見てその原因を求め、人獣より一層強大の力を有するものを想定し、その平常強者を畏懼崇敬するの心を推して、一層その万物の大原因に対して崇敬畏懼の心を生ずるに至るなり。かつ人のこれによりてその惑いを解き、その心を安んぜんとするもまた自然の道理なり。これ世間に宗教の起こるゆえんにして、天神の想像もまたこれに外ならず。故にたとえ一歩を譲りて、人みな生まれながら天神を崇敬するの心を有すとするも、これをもって天神実在の証となすべからざること明らかなり。

 第一五〇節 つぎにヤソ教者はいかなる英雄碩儒にして自ら神なしと断言するものも、窮厄に際しあるいは死期に臨むときは天に向かって神を呼ばざるものなし、これ有神は人性固有なるゆえんにして天神の実在疑うべからずといえり。これ最も浅薄なる説にしてあえて考うるまでにあらずといえども、ここに一言してその妄を明らかにせんとす。第一に古来の英雄碩儒ことごとく死期に臨みて天神を呼ぶにあらず。第二にたとえ一歩を譲りて人みなことごとく天神を呼ぶとするも、これ一は習慣遺伝の影響によるもの多しとす。ヤソ教国にありては、人その幼少の時よりヤソ教の教育を受け天神を崇信するの心すでに習慣性を成し、そののち成長して道理上天神の存せざるを知るも、その幼時の習慣性を滅絶することあたわずして、事変に臨みてその情の動くことあるは必然なり。あたかも我人が幽霊のその実なきを知りて、なおこれを恐るると同一なり。かつ人はさきに述ぶるごとく、生来恐怖の情を有するをもって、事変に臨みてその心を動かすも、また勢いやむをえざるなり。もしまた幼少の習慣にあらずとするときは、儒教国の人民は死に臨みて天を呼び、仏教国の人民は仏を呼ぶものなんぞや。もし天神、人をして己を呼ばしむるものあらば、人みな天を呼ばず、仏を呼ばずして、神を呼ぶべき理なり。もしヤソ教国の人の死期に天神を呼ぶを聞きて、これ天神実在の証なりということを得るときは、仏教国の人の死期に仏を念ずるをみて、仏の存在は実なりと同一に論決することを得るなり。その他、英雄豪傑の窮阨に際して神を崇敬するがごときは、あるいは当時の人心を引かんとする政略に出づること、あえてその例なきにあらず。これを要するに、かのヤソ教者が人みな天神を崇信するの心あるをみて、これ天神の真に存するによると断言するがごときは、論理の決して許さざるところなり。

 第一五一節 しかるにまたヤソ教者曰く、天神を信ずるものは幸福を得、天神を信ぜざるものは幸福を得るあたわず、たとえその人、外に幸福あるがごとく示すも、その心、常に憂苦に耐えざるなりと。ああ、これまたなんの言ぞや。およそ人に信ずるところあれば大いにその心を安楽にするものは、宗教の世に必要なる第一点なりといえども、その信ずるところの宗教は必ずしもヤソ教に限るにあらず、仏教を信ずるものも無上の快楽をその心に営むは、信仏者についてみるべし。しかるに仏教者の快楽は真の快楽にあらずして、ヤソ教者の快楽は真の快楽なりとはいかなる理によりて判定するや。かつ快楽の有無は、天神の存否を証するに全く関係なきものなり。故にここにそのことを喋々するも無用なりとす。

 第一五二節 しかるにヤソ教者また曰く、世界に天神なくんば人みなその望みを失し、そのたのむところを失い、一日もこの世に立つことあたわずと。余これに答えて、人その崇信するところを失えば、これいわゆる憑依するところを失うものにして、人たるものその心を安んずることあたわざるべしといえども、ヤソ教の天神説なきも他に崇信すべき宗教あるときは必ずしもかくのごとく論ずるを要せず。すなわちヤソ教に代うるに仏教をもってするもよく、人をして安心せしむることを得るは疑いをいれず。ヤソ教者また曰く、人の心中より天神の思想を脱去することあたわざるはいかなる理によるやと。余曰く、これ宗教は人心に固結して習慣性をなすをもって、一朝にして変更すべからざるによるのみ。故に人の心中よりその思想を脱去することあたわざるものは、従来伝習せる宗教に限る。わが国のごとき従来他教を奉ずる国においては、その人民の心中よりヤソ教の天神を脱去することあたわざるにあらず。しかれども人の性質、生来ヤソ教を信じやすきものなきにあらず、およそ人の好悪、千差万別にして、あるいはヤソ教の天神説のごときものの最もよくその性質に適するものあり。これ釈迦の法を八万四千に分かちておのおのその機類に応じて修せしめたるゆえんなり。

 

     第一四段 神力論

 第一五三節 以上述ぶるごとく、原因論も、秩序論も、進化論も、道徳論も、人性論も、一として天神の実在の証となすべからず。しかるにここに神力の不思議に関して天神の実在を示さんとするものあり。その論に曰く、

  第一 宇宙間には神妙不思議にして物理の規則をもって証明すべからざるものあり。これ天神の不思議に帰せずしていかに解釈すべきや。

  第二 人世の吉凶禍福の理は因果の道理をもって説明すべからざるものあり。これまた天神の不思議に帰せざるをえず。

  第三 人智は限りあり、しかして天神は大智大能を有す。故に天神は人智をもって知るべからざるも、その体果たして存せずと断言するを得ず。

この三条は一として天神の実在を証するに足らず。ただにその実在を証すべからざるのみならず、かえって天神の存せざる証となるべし。しかしてその論、帰するところただ世界に神妙不思議にして測知すべからざるものありというの意に外ならず。しかれども神妙不思議なるものありというのみにては、いまだその体すなわち天神なりというの証とならざるは明らかなり。たとえ天神は神妙不思議なるも、神妙不思議なるものことごとく天神なりというの論理あらんや。今われわれが物を見てその不思議なるを知るも、これを天神の不思議とする方、道理に近きか、物の不思議とする方、道理に近きか。余は物の不思議は物の不思議とし、心の不思議は心の不思議とせざるをえざるを知る。別してこの不思議の存するを見て、天神の創造主宰を論定するがごときは断じて論理の許さざるところなり。

 第一五四節 今宇宙間の事物に普通の道理をもって解すべからざるものありこれを妖怪という。ヤソの降誕よりその昇天まで一世間なしたることはこの妖怪に属するもの多し。ヤソ教者はこの点をもって天神の実在およびヤソの神の子なることを証せんとするも、これ識者の大いに笑うところなり。けだし世には妖怪に属する事実なきにあらずといえども、その妖怪は第七八節に示すごとく、第一に人智の発達に応じて増減ありて、愚民の妖怪とするもの智者の妖怪にあらず、昔日の妖怪は今日の妖怪にあらず。第二に妖怪と妖怪にあらざるものとの間に判然たる分界なくして、ただちに見て妖怪と信ずるもの、深く考えて妖怪にあらざることあり。第三に今日にありて世界一般に妖怪となすもの、これを学術の原理に考うるときは、ただちにその真の妖怪にあらざることを発見したる例最も多し。この三事実について案ずるに、妖怪の真に存するにあらざることほぼ推知すべし。もし妖怪の真に存するときは、あに妖怪の世によりて変じ、人によりて変ずべき理あらんや。

 第一五五節 つぎに人世の吉凶禍福の定まりなくして、善人にして禍に遭い、悪人にして福を受くるものあるは、因果の理をもって知るべからずというも、これを天神に帰するときはなお一層疑惑を生ずるのみ。天神は見ざるところなく、聞かざるところなく、至らざるところなし。しかして善人にして福を得ざるものあり、悪人にして禍を免るるものあるは、いかにたとえ死後に至りて更に賞罰ありとするも、死後に至らざれば賞罰を受けざるものと、死後を待たずして賞罰を受くるものの別あるはいかん。かつヤソ教者のいわゆる善とはなんぞや、悪とはなんぞや。曰く、天神の教を奉じその命に従うものを善とし、これに反するものを悪とす。すなわち善悪の標準は天神なり。その標準天神なるときは、他教を奉信するものはたとえ純全の善人なるも、天神の救助を得ることあたわざるべし。果たしてしからば、天神の教を聞きてなお信ずることあたわざるものは、これを罰するも一理あるに似たれども、いまだ天神の教の存することは夢にだも知らざるものにして、天神の教を奉ぜざるものは、また等しくこれを罪人とするや。西洋人は早くヤソの降誕に会うてつとにその教を聞きたるも、東洋人はヤソの降誕なきをもって今日今時まではその教の存するを知らず。故をもって往時の東洋人はみな他教を奉ぜり。そのうちには悪人もあれども、また世のいわゆる善良の君子なきにあらず、これまた天神の罪人なるや。余ここに至りて、天神は公平に子孫を愛せざるの疑いなきにあらず。東洋人も西洋人もヤソ教者のいうところに従えば、みな同一に天神の子孫にあらずや。同一の子孫にして西洋およびアジア西部の人民には殊更にヤソを下して早くその教を伝え、東洋、インド、シナおよびわが国の人民には今日に至るまでその教を伝えざるは、果たしてなんの意によるや。東洋人にいかなる罪ありて、西洋人にいかなる徳ありしや。たとえ今日に至りて東洋人もヤソ教を聞くことを得たりとするも、これを西洋人に比するに数千年前後の不同あるはいかん。これ実に天神の賞罰公平ならざるを怪しまざるをえず。

 第一五六節 その他、ヤソ教の賞罰の非理に関して、余が問わんと欲するものは禍福のなにものたるにあり。禍とは我人の苦にして、福とは我人の楽というより外なし。しかして我人の感ずるところの苦楽は人々同一なるあたわず、一人はこれを苦となして、一人はこれを楽となすものあり。けだし天神の人を賞罰するや、おのおの人の嗜好性情に応じてその方法を異にするか。もし人の性情を察せずして同一の賞罰を与うるときは、天神の人を処する不公平なりといわざるべからず。かつ人の罪悪には大小軽重の差異なきあたわず。所犯の罪に差異あれば所課の罰にも差異なかるべからず。小罪を罰するに小刑をもってし、大罪を罰するに大刑をもってするは理の当然ならずや。故に仏教にては罪に品位を分かち、罰にまた品位を設く。しかるにヤソ教にては罪の品位を論ぜずして同一に罰するもののごとし。今その一例を挙ぐるに、ヤソ教者曰く、ノアの大洪水は当時の人民ことごとく天神に対して罪あるをもって、天神これを罰するによると。当時の人民みな天神に対して多少の罪ありと定むるも、その人、百は百ながらことごとく同一の罪を犯し、寸分も差等なしというをえんや。もし寸分の差等あるときは、これを罰するに同一の洪水をもってするは、不公不平の賞罰といわざるべからず。

 第一五七節 その他、ヤソ教の賞罰の不公不平なるは、初め天神はアダム、イブ両人が神禁を犯すの罪あるをもって、男を罰するに汗労の苦をもってし、女を罰するに妊娩の難をもってすという。たとえアダム、イブには罪あるをもって、これを罰するはその理ありとするも、何故にその両人の罰を子孫万世に及ぼして、男子に汗労、女子に妊娩の苦難を与うるや。祖先の罪をもって同一にその子孫を罰するがごときは、不公平の賞罰といわざるべからず。かつ女に妊娩の苦あるは人類に限るにあらず、諸動物大抵みなしからざるはなし。これ果たしてなんの罪あるや。しかして動物中の最下等に至れば、全く男女の別なきものあり、懐妊の苦を有せざるものあり、これなんの徳あるや。ヤソ教者また曰く、ヤソは人にあらずして神なり、しかしてその十字架上に死したるは衆人に代わりてその苦を受けたるものなりと。これまた余が解することあたわざるところなり。ヤソすでに神なれば、死生更に苦楽とするところにあらず。故にその身死刑に遭うも、あえて衆人に代わりて苦を受けたりとするに足らず。かつヤソの目的、世人を救助するにあれば、一時の死をもって衆人の苦に代うることを得たるはもとより自ら欲するところなるべし。その欲するところはその楽しむところなり。果たしてしからば、ヤソの死はヤソの苦にあらずして楽なり。故にヤソを人とすれば、その苦を弔して可なり、これを神とすればその楽を祝さざるをえざるなり。

 第一五八節 その他、『バイブル』中の神変妖怪説のごときは学者の許さざるところにして、かつ余がこの編の目的とするところにあらざるをもってことごとくこれをおき、これより禍福賞罰は天神の定むるところにあらずして、因果の理によりて定まるゆえんを一言せんとす。試みに思え、たとえ天神は無量の不思議力を有すとするも、人の不幸を転じて幸いとなし、人の福を転じて禍となすことあたわざるべし。けだし福のきたるも禍の生ずるも、みなしかるべき原因ありて、決して偶然に起こるにあらず。福因を修むれば福果あり、悪因を修むれば悪果あり。たとえ天神はその子を愛するも、善因を修めずして善果を得せしむることあたわざるは明らかなり。故をもってヤソ教を奉信するものもその身の不幸を免るることあたわざるなり。しかりしこうして、世間往々善因を修めて善果を得ざることあり、また果を得るに前後遅速の不同あるは、原因の一ならずして諸因連続混合して果を生ずるによる。すなわち前時の原因いまだ果を結ばざるに、更に後時の原因を修むるときは、前果の尽きざる間はその果をみざることあり。また後因は前因に混合して更に他の因となることあり。その他、内外両界、種々類々の原因ありて、その一部分に善因を修むるも、他の部分において善因を欠くときはまた完全の善果を得ることあたわざるべし。かつ人は原因を知らずして結果のみをみることあり。結果をみずして原因のみを知ることあり。これをもって目前に不期の幸、不時の不幸をきたすことあるも、因あれば必ず果あり、果あれば必ず因あるの理法に至りては、古今を貫き東西にわたりて変ずることなし。けだし天神真に存するも、この理法を変ずることあたわざるは明らかなり。もし因果の法すなわち天神の法なりとするも、これ畢竟空想にしてその証なきはもちろんなり。たとえその証ありとするも、我人は因果の法の真なることを知りて、これを守りこれに従うをもって足れりとす。あに因果の法を左右することあたわざる天神に対して服従するを要せんや。果たしてしからば、人の善悪と禍福との関係はみなこれを因果の理法に帰して可なり。あえて煩わしく、知るべからざる天神の想像をかりてその理を托するを要せんや。天神は仮説の空想なり、因果は実験の真理なり。仮設の空想をかりて実験の真理を排するは、論理を知らざる妄論というより外なし。

 第一五九節 この因果の道理より考うるときは、天神の万物を創造する目的および人を賞罰する理由、解すべからず。まず天神創造の目的は、あるいは曰く、人の幸福を完全ならしめんためなり、あるいは曰く、神徳を表顕せんためなりと。しかれども人のこの世にあるや、楽を受くるも禍に遭うも、みな因果の規則によりてしかるものにして、その規則を離れて福を得ることあたわず、かつ今日の事情、人をしておのおのその幸福を全うせしむることあたわず。甲その幸福を全うせんとすれば乙の不幸をきたし、一方の幸福を補えば他方の幸福を欠くは、勢いやむをえざるなり。しかれども更に一歩を譲りて、人の幸福はこの世において完全なることあたわずして、未来に至りて完全なることを得るものとするも、天神なんのために人を作り、かつこれを賞罰するや、はなはだその意を了解し難し。余聞く、天神は大智大能を有して十方を通観し万世を洞察すと。果たしてしからば、天神は始めて人を造出するときに、我人の善をなすも悪を行うも、福を受くるも禍に遭うも、みなすでにこれを知りかつこれを定めたるなるべし。ただに我人の善悪の行為を知定するのみならず、そのいずれの時に悪をなし、いずれの時に善をなすかも知定せざるべからず。すでにそのしかるゆえんを知るときは、天神の目的、人を作りてこれをして幸福を得せしむるにありというがごときは、なんの意に出でたるや、実に疑団を抱かざるをえず。

 第一六〇節 かつこれを『バイブル』に考うるに、天神初めにアダム、イブを作りて、その果たして善をなすか悪をなすかを試みんと欲し、蛇に命じてその厳禁したる菓物を食わしめたりという、これはなはだ怪しむべきにあらずや。またその子孫の世を経るに従い、悪心次第に増長して神戒を犯せるを見て、天神これを罰するに大洪水をもってすという、ただますます惑うのみ。しかしてそののち千余年を経るに及び、人民天神の存するを忘れその命を奉ぜざるを見て、殊更にヤソを降してその人民に天神の教を伝え、あわせてこれをして成道受楽せしめんことを望めりという、ああ、またこれなんのためなるや。しかしてまたユダヤ人のヤソを嫌悪してついにこれを十字架上に刑するに至るを見て、これヤソの人民に代わりてその苦を受けたるなりという、誣ゆるもまた過甚ならずや。もし果たしてその言のごとくんば、けだし天神は我人を作りしのみにて、その善をなすか悪をなすかを知るの力なきものと想するより外なし。もしこれを知らば、なんぞ菓物をもってこれを試み、大洪水をもってこれを罰し、ヤソを降してこれを教うることを要せんや。かつ天神、果たして大智大能を有する以上は、アダム、イブの神命を奉ぜざるも天神これをせしむるなり、その子孫の善を守らずして悪に赴くも天神これをせしむるなり、ユダヤ人のヤソを刑殺したるも天神これをせしむるなりといわざるべからず。しかるにヤソ教者、今日にありて人の悪をなすを見て、これ天神の命に逆らうものなり、ヤソ教を奉ぜざるものを見て、これ天神の意を害するものなりというは、果たしてなんの意ぞや。その悪をなすも、その教を奉ぜざるも、みな天神の定むるところにして、おのおのその定むるところに従って、あるいは悪をなしあるいは善をなすにあらずや。故に天神の創造説を真なりと許すときは、善人の善をなすも、悪人の悪をなすも、みな天神の定むるところにして、ヤソ教をにくみヤソ教を害するものも、またみな神命を奉ずるものというべし。もしあるいは悪をなし不善を行うは天神の意にあらずと定むるときは、天神決してその意にあらざる悪人を世間に生ずべき理なし。もしまたヤソも天神の子なり、ユダヤ人も天神の子孫なり、今日の我人みな天神の子孫なりとするときは、天神、ユダヤ人をしてヤソを刑殺せしめたるは、あたかも自身の子孫をもって自身の子を殺し、もって自身の子孫に代わりてその苦を受けしめたるなりというに同じ、あに笑わざるをえんや。けだしユダヤ人は生来、天神の与うるところの性に従ってヤソを殺すをもって、いわゆる天神の命に従うものなり。しかしてヤソ教者はユダヤ人をにくみて天神の意を害するものとなすは、余輩ユダヤ人のためにその冤を訴えざるをえざるなり。

 第一六一節 その他、東洋人のヤソ教を奉ぜざるも、回教者のヤソ教に抗するも、みな天神より与うるところの性に従うものにして、これを天意に適するものというより外なし。かくのごとく考うるときは、ヤソ教者ひとり天意神命を奉ずるのみならず、仏教者も回教者も、理学者も哲学者も、無宗教者も悪人も、禽獣草木に至るまでみな天神の命に従うものと定めざるべからず。釈迦が世に出でて、因縁教を説きたるも、孔老が世に生まれて道徳教を説きたるも、みな天神の意を奉じてなすところにして、その教すなわち天神の教なりといわざるべからず。しかしてヤソ教者はヤソ教を奉ずると奉ぜざるとによりて人を是非し愛憎するは、余が解することあたわざるところなり。天神は人を造出してそのなにをなすかを知らず、人に心性を賦与してそのいかなる作用を有するかを前知することあたわざるか。もししからば天神は平々凡々の我人となんぞ選ばんや。故に余おもえらく、天神創造を立つるときはただにその説の論理上不当なるのみならず、これをもって勧善懲悪の道となすべからざるに至らん。その教を奉ぜんとする者、深くこの点について考えざるべからず。

 第一六二節 かくのごとく解するときは、ただますます天神のなんのために人を作りなんのために善悪の別を設くるかを、怪しまざるを得ざるなり。余をもってこれをみれば、天神、人を造らずして可なり、善悪を設けずして可なり、あにあえて煩しく人を造るを要せんや。天神、人を造るの意、自らその徳をあらわしその楽を補わんとするにあるか。余案ずるに、天神もとより苦楽の差別を有すべき理なし。またたとえこれを有するも人を作るにあらざれば、その楽を長じその徳を示すの方法なきにあらざるべし。なんぞひとり人を作りてその目的を達せんとするや。あるいは天神の人を造るはその目的自ら楽しむにあらずして、人を楽しましめんとするにあるか、これをして楽しましむるも楽しまざらしむるも、みな天神の力にありて我人の知るところにあらざるなり。かつ人は未来天国に生ずるにあらざれば、今日の勢いおのおのその楽を全うすることあたわざるは明らかなり。果たしてしからば、世界億万の人ことごとく成道得果して天国に生ずるをもって、天神その目的を全うすといわざるべからず。もししからば、天神なんぞ殊更に人を天国の外に作るや。たとえひとたびこれを作るも、その人を殺してことごとく天国に生ぜしむるも、また天神の力にあり、天神なんぞ早くこれをなさざるや。かつ天神始めより人の善悪を知りてこれを作り、また人運のいかに変じいかに続くべきかを知るにあらずや。人は果たしてことごとく死後の楽を受くべき時あるも時なきも、また天神の始めより知り始めより定むるところなり。もしこれをその時なきものと定めんか、しかるときは天神そのあたわざるを知りてその時を待つは愚かといわざるべからず。もしその時ありと定めんか、しかるときはその時のきたるときに至ればおのずからきたるものにして、今より天神の汲々として一日も早くその時のきたらんことを欲するはまた愚かというべし。ヤソ教者が天神の目的を助けんと欲して、その教を弘むるに孜々汲々するもまたはなはだ愚かなり。人のなすこと行うこと、みな天神のしからしむるところなるに、ヤソ教者は自身の力をもってその教を弘めて人を天国に導かんことを努むるは、真に天神の大智大能を信ぜざるによるというより外なし。もしこれを信ずるにおいては、我人が天神の目的に関してその成否を祈るの愚かなるを知らざるべからず。

 第一六三節 かくのごとくいずれの点より天神の目的を考うるも、余が疑いを解くあたわず。ただ我人の知るところは、人の善をなし悪をなすは天神すでに大智大能を有する以上は、これを創造するときにすでにこれを知りこれを定めたるべし。天神これを定めこれを知りて人を作り、その善をなすか悪をなすかの結果を見て楽しむは、あたかも小児の遊戯のごとし。もししからば、天神が人を造りしは一場の遊戯に出でたりというべし。

 第一六四節 つぎに天神創造の目的はその神徳を表顕するにありとするの説、また同一にその理を解することあたわず。けだしその神徳を表顕すとは、天神、宇宙万物を作りてその大智大能あるゆえんを示すをいうなり。これますます天神の創造の遊戯に過ぎざるを笑わざるべからず。畢竟かくのごとく解するは、人と天神と同一にみなすより起こるなるべし。人に至りては、あるいはその妙工をあらわさんと欲して種々の奇巧を示すものあれども、天神に至りてはかくのごとき名誉を欲するの念、万あるべからず。かつその徳を表顕すれば天神にいかなる利あるや。表顕するもせざるも、天神の徳は天神の徳にして終古変ずることなかるべし。あに表顕するときはその徳増加し、表顕せざるときは減殺するの憂いあらんや。もし天神、果たして、その徳を表顕するをもって自ら楽とするときは、我人の名利栄達を求むる心となんぞ選ばんや。

 第一六五節 かつその徳を表顕するには傍観者ありて、これを称揚するを要す。しかしてその傍観者はすなわち人なり。人その宇宙の諸象を見てこれ天神の創造なりと称揚して、始めて天神はその徳を表顕するの目的を達するなり。他語にてこれをいえば、天神はその妙工を示しかつその称賛を得んがために、人を天地間に作るものなり。論じてここに至れば、天地創造はいよいよ天神の戯工に過ぎざること明らかなり。ここに至りてこれをみるに、ヤソ教の天神説はいよいよ出でて、いろいよ疑団を増すのみ。もしこれを仏教の所説に考うれば、その因果の法といい、唯識の説といい、真如の理といい、みなよく世界万物の現出するゆえんを明示して、余輩をして決して天地は天神の戯工なりというがごとき一笑を、その間にいるることあたわざらしむるなり。

 第一六六節 つぎに論点をさきに列するところの第三条に移し人智有限説を述ぶるに、ヤソ教者曰く、人智は有限なり、天神は無限なり、有限の智力をもって無限の天神を知るべからず、しかれどもその知るべからざるは天神の存せざるによるにあらずと。果たしてしからば、ヤソ教者はいかにして天神の存するを知るや。彼曰く、人智による。人智は有限にして無限の天神を知るべからざるにあらずや。彼曰く、人智有限なるも有限の外に出づることあたわざるにあらず。これを要するに、ヤソ教者は自ら天神の存するゆえんを説くときは、人智は有限の外に及ぼす力ありといい、自ら天神の実在を明示することあたわざるに至れば、人智は有限なるをもって無限を知るの力なしという。これ一見して論理の規則に合せざるを知るべし。しかしてヤソ教者は、人心は有限無限両様の関係を有するゆえんを知らず。この両様の関係を仏教にては差別と平等との名称を与えて区別するなり。すなわちそのいわゆる有限の心はこれを差別の上の心といい、そのいわゆる無限の心は平等の上の心という。差別の心よりこれをいえば、心に彼我自他の別ありて世界中の一部分に住する心となり、平等の心よりこれをいえば、世界万物みな心内の現象に外ならず、天神ももとよりその現象の一なり。しかしてこの差別平等の二様の心、その体一にして二ならざるゆえんを明示するもの、これ仏教なり。この点に至りて、始めてヤソ教者の天神説は一種の妄想に過ぎざるを知るべし。これ余が「顕正活論」の問題なればその説明は次編に譲る。

 第一六七節 かくのごとく論定すれば、ただに天神をもって無限不思議の力を有するものとなすは不理なるのみならず、天神の実在およびその創造も全く妄見に属するゆえんを知るべし。しかして余はここに天神の不思議力の解すべからざるゆえんを述べて、この一段を結ばんとす。ヤソ教者曰く、天神は自在力を有すと。なにをもってこれを知るや。曰く、天地創造、これなりと。しからば天神物なきに物を作り、原因なきに結果をきたすの力ありや。曰く、天神なる原因ありてこの世界を生じ、天神なる物体ありてこの万物を生ずるをもって、物なきに物を作り原因なきに結果をきたすにあらざるなりと。ここに至りて二点の論難起こる。その第一点は果たしてしからば天神は物理の規則に従うものにして、これを左右するの力なきや。すなわち物なきに物を生じ、原因なきに果を生ずることあたわざるや。もししからば、天神の力を称して不思議なり神妙なりと称するをえず。ヤソ教者これに答えて、天神は自在力を有するをもって、物理の規則も因果の理法も変更することを得べしといえども、そのこれをなさざるは道理に反すればなり、天神は正理を本とし非理をなすものにあらざるなりと。果たしてこの言のごとくなれば、第一に我人は因果の道理に従ってその理に背反することなくんば、すなわち天神の意に従い天神の命を守るものといわざるべからず。第二に物理の規則、因果の理法は天神の定むるところの道理なりとは、彼いかにしてこれを知るや。これ全く天神の実在と創造とを仮定して、万物は天神の創造に属する以上は、その規則すなわち天神の規則ならざるべからずと憶定したるものに外ならず。つぎにその第二点は、我人のいわゆる物理の規則、因果の理法は、天神の万物を創造するがごときものとは天壌の差異あり。天神の万物を創造するは、それ自体の一部分を分割して万物を造出するにあらず。すなわち万物造出するも、それ自身の体は依然として増減なきなり。果たしてしからば、これいわゆる物なきに物を作るものなり。すでに物なきに物を作る以上は、これまた原因なきに結果を生ずといわざるべからず。かつ『バイブル』中に説くところは、今日の物理の規則に反するものいくばくあるを知らず、これみないかに解釈してしかるべきや。余をもってこれをみるに、ヤソ教者の天神の創造を今日の物理に応合せんとして汲々するがごときは愚の至りといわざるべからず。天神はすでに自在力をもって、その一言の下に天地万物全備したるにあらずや。すでにかくのごとき力を有する以上は、天地万物を創造するに必ずしも六日間の長きを要せず、一瞬一息の間にもよく造出し得べきなり。しかるにヤソ教者はその六日間の解釈を下して、今日のいわゆる六昼夜のことにあらずして六時期をいうなり。その他、種々の説を付会して、『バイブル』の所説をして今日の実験説に合せしめんとす。これ畢竟天神の不思議を信ぜざるによる。

 第一六八節 かつ『バイブル』は今日の物理書にあらざること、余が言を待たず。その創世紀のごときは古代の妄説なること、識者の一見して知るところなり。その書によるに、地球を宇宙の中心とし、日月星辰はあるいはこれに光を与え、あるいは空中の装飾のために天神の創造するなり。また人を地上に作るは、万物の霊長としてこれを統轄せしむるなり等と説くがごときは、種々これに付会の説を下して今日の実験説に合せんとするも、到底その合すべからざるは必然なり。かつその人種の起源を説くや、これをアジアの一地方に定め、これを六千年以内に限るは、またヤソ教者の浅見というより外なし。今進化説についてこれを考うるに、人民の初めて地球上に生ぜしは幾千万年の先なりしやは知るべからずといえども、僅々六千年以内のことにあらざるは明らかなり。その原始に当たりては人なお動物界にありて、今日の禽獣とその祖先を同じうし、ようやく進みて獣類とその方向を分かち、いよいよ進みて人類の起源となり、また進みて一社会を団成するに至る。故にその始めて動物界を去りてより文字歴史を有するに至りしまで、すでに幾億万年の歳月を経過せしや、我人のよく計り知るところにあらず。その間地球表面の変形幾回なるや、また知るべからず。数万世の久しきその際、山岳は変じて河海となり、江湖は変じて桑田となるももとよりしかるところなり。故に人種の起源を論ずるに、今日の地球上にその方位を定むるは管見といわざるべからず。試みに地質実験の結果をみよ。今日北方寒帯の地に熱帯の獣類草木の痕跡あるはなんぞや。これ今日北極と称する所、昔日の赤道なりしか、また昔日は地球の熱度一般に高くして極部と赤道と同一の地熱を有せしかの二者の外に解すべき理なし。かつ地球進化の順序を案ずるに、さきにしばしば述ぶるごとく、地球の太初は高熱の気体にしてようやく進みて流体となり固体となり、いよいよ進みて今日の地質を結ぶに至るという。しかれどもその初めもとより今日のごとき山谷の高低あるにあらず、動植の別あるにあらず。数回の天変地異その他自然の変化を経て、山はいよいよ高く谷はいよいよ低く、無機は化して有機となり、植物は変じて動物となる。これによりてこれをみれば、地球始めて成り人類始めて起こりしより以来今日に至るまで、その年月の久しきほとんど算数の及ぶところにあらず。故に余はこれを幾億万劫という。たとえ今日の人民その初め一眷属に出づるにもせよ別種属に出づるにもせよ、現今の地球上にその方位を定むべからざるや明らかなり。およそ同一種属のものにてもその外面に接するところの事情変化すれば、別種属のものを化生すべきは理の当然なり。今、人と禽獣とその初め同一種属よりきたるゆえんの理、またこれに基づく。かつまた同一の事情に接すれば物、同一の体に変ずべきの理あるをもって、地球上に人民の化生せしは必ずしも一地方の小部分に限るを要せず、いずれの地方にありてもその人を生ずべき事情の変化同一なれば、その地に人類を生ずべき理なり。しかしてその生ずるは必ずしも一地方に起こりしや諸方に起こりしやは、今日の実験いまだ明らかならざるをもって断定するあたわずといえども、今日今時の地球上にその方地を定めその年月を期するがごときは、あえて信を置くに足らざるなり。かく論じきたらば、地球全面の住民決してアダムの子孫にあらず、天神の末裔にあらざること明らかなり。しかるにこれを天神の末裔となすは無証の妄説というより外なし。

 第一六九節 以上は地球上の人類生物について論じたるのみ、いまだ地球外の動植を論ぜざるをもって、ここにその有無を討究するを必要なりとす。宇宙間には幾万の恒星、幾千の惑星あるやはいちいち算定し難しといえども、良夜晴空に羅列する衆星を見てその数の多きを知るべし。その星体は大小遠近の不同あれども、みな一地球一太陽なるの理は今日星学家のすでに証するところなり。その最も遠くかつ微なるものに至りては、明らかにこれを捜索するに難しといえども、その最も近きものについて実験を施すに、星体中に山谷の高低あり生類の生存あるもやや知るべしという。たとえば太陽中には動植の存すべき理なしといえども、月球中には山谷の高低あるは疑いをいれず。その間今日にありては生類の生存を見ずといえども、昔日にありてはその生存ありしはやや信ずべき証あり。つぎに火星の体質をみるに、そのうちには海もあり水もあり空気もあり雲もあり、極部には氷もありて地球と格別異同なきがごとし。その形状よりこれを推すに、あるいはそのうちには人類の繁茂するありて文明の一社会を開くも知るべからず。望遠鏡範囲内にありてすでにかくのごとき実跡あるを見れば、その範囲外にいかなる世界ありて、いかなる社会を組成せしや、また計るべからず。仏教中に十方微塵世界と説きたるは実に道理ありというべし。今余がヤソ教者に問わんと欲するは、かくのごとき地球外の人民はだれの子孫に属するや、天神別にその地に他のアダムを生ぜしか、なんぞそのことの『バイブル』書中に見えざるや。かつかくのごとき虚空中に人類の生存することあるは、天神が地球をもって宇宙の中心として、その周囲に衆星を羅布して虚空の装飾に用いたるの本意に合せざるをいかにすべきや。故に『バイブル』をもって今日の実験説となさんと欲するときは、かくのごとき難問続々起こりて、なにほど付会するも到底解釈することあたわざるは必然なり。

 

     第一五段 結 論

 第一七〇節 前来段を重ね節を連ねて論ずるところ、これを帰結するに、第一にヤソ教者は事物みなその原因あるの理を推して、宇宙の大原因なかるべからず、その体すなわち天神なりと論定して、天神の実在を証示せんとす。余はこれに対して、宇宙に大原因あるべしと想定するも、その原因は大智大能を有する造物主宰なりというの理なし、かつ事物のいわゆる原因は因果相対循環の原因にしてその原因を推して、絶対自立の原因を宇宙の外に立つるの理なし。しかして因果相対循環なるは物質不滅、勢力恒存の理法と合するものにして、すなわち万物万象の不生不滅、無始無終を証示するもののみ、故に因果の理を追究すればかえって無神論に帰するゆえんを論ぜり。第二にヤソ教者は万象万化に一定の秩序法則あるをみて、これ一体の天神の創造に出づるによるというも、余はこれに対して物質不滅、勢力恒存の理法を証示するものにして、天地万物は不生不滅、無始無終の一物の進化開発に出づるによるのみ、決してこの点をもって有神論の証となすべからざるゆえんを論ぜり。第三にヤソ教者は進化論は万物の原種、万化の原力を証明するの力なきゆえん、および有機、有感、有心は無生無心の物質より派生せざるゆえんをあげて、進化論はかえって有神を証するものなりというも、余はこれに反して、進化論は万物万化の原種原力を知るの力なしとするも、その原種原力は物質不滅、勢力恒存の理法に考うるに、無始無終、不生不滅なることすでに明らかなれば、あえて天神の創造を仮定するを要せざるゆえん、および人獣動植の今日に現存するは不生不滅の一体、次第に進化開発するによるゆえんを論ぜり。第四に、ヤソ教者は人に本来良心の存するゆえんおよび自由意志の存するゆえんをあげて有神を証せんとするも、これまた進化の規則に基づきて証明することを得るをもって、余は天賦良心、自由意志は天神の創造を証すべからざるゆえんを論ぜり。第五に、ヤソ教者は神怪不思議の世間に存するをみて、これ天神の実在を証すべしというも、余はこれに対して、そのいわゆる不思議は我人の智力の上に属する不思議にして、天神の不思議にあらざるゆえんを論ぜり。これを要するに、以上の諸論はその意、有神説は空想妄説に過ぎずというにあり。

 第一七一節 更に前来の論を約言するに、余が説は天地に開端の起源なきゆえんを証明するものなり。すなわち天地万物はその身、不生不滅、無始無終にして、その現ずるところの変化は循環運行して、あるいは進化し、あるいは退化し、あるいは開発閉鎖して、際涯なきものなり。その際涯なきの間に種々の世界を現じて、一大世界開きてまた閉じ、閉じてまた開くのみ。しかしてその進退開閉して際涯なきは因果相続相関の一理法あるによる。言を換えてこれをいえば、万物唯一体、諸法唯一理なり。この理を示すもの諸教中ひとり仏教あるのみ。その教中に説くところの物体不滅説、因果相続説は、理学の原則たる物質不滅、勢力恒存の理法も同一なるものにして、その理法の真なる以上は仏説また真なりといわざるべからず。かつ物質不滅、勢力恒存の理法と天神説は両存すべからざるものにして、不滅説真なれば創造説真なることあたわず、創造説真なれば不滅説真なることあたわず。なんとなれば、すでに創造あれば終始生滅ありといわざるべからず、不生不滅なれば創造あるべき理なければなり。これ余は仏教をもって真理とし、ヤソ教をもって非真理とするゆえんなり。

 第一七二節 しかれども仏教の説はこの物質不滅、勢力恒存のみにて尽きたるにあらず、そのいわゆる物体不滅、因果相続説は仏教の初門にして、これ全く客観の事物の上についての説のみ。これに対して主観の念想上より起こる説あり。しかして仏教は主客両観の上に立つるものなれば、客観上の説はただその半面に過ぎず。故に仏教の全面を知らんと欲せば、主観上の解釈を知らざるべからず。しかるにヤソ教は全く客観上の一説なるのみ。故にその真偽を論ずるは、仏教中の初門なる客観上の所説に考うるをもって足れりとす。これまた、ヤソ教は仏教中の一小部分に過ぎざるゆえんを知るに足る。

 第一七三節 客観上よりこれを論ずるに、ヤソ教の天神説は全く愚者の妄見なること、さきに述ぶるところについてすでに明らかなり。もしまた主観上これをみれば、一層その説の妄想に属することを知るべし。しかれども主観上の見はひとり仏教中に存して、ヤソ教者の全く知らざるものなれば、余はこの編においてひとり客観を論じて主観を論ぜざるなり。しかして仏教の本義はかえって主観上に存するをもって、仏教の真理を立つるには主観論によらざるべからず。これ余が次編においてもっぱら主観を論ぜんとするゆえんなり。しかれども今この編を結ぶに当たり、客観論の転じて主観論となるの序次階梯について一言するは、最も本論の目的を達するに必要なりと考うるをもって、余はこれよりその序次階梯を述ぶべし。

 第一七四節 すでに前数段において、客観の一境は全く一物の進化開発に外ならざるゆえんを示したれば、宇宙間に不生不滅の一大物質の存することを知るも、いまだその物質はなにものなるやつまびらかならず。もしこれを知らんと欲せば二種の解釈ありて相分かる。すなわちその一は時間上の解釈、その二は空間上の解釈、これなり。時間上の解釈とは、今日の物質はそのよりてきたるところなかるべからずと推究して、その太初の起源を求むるものにして、ヤソ教の天神論は全くこの問題について起こる。すなわち万物の本源は天神にして、天神その原種を造出すというもの、これなり。しかれどもこれただ時間上の解釈の一部分のみ。およそ時間上の解釈にまた二種ありて、その一は万物は開端の起源ありとす。すでに起源ありとすれば、これを造出するものありとせざるべからず。これヤソ教の天神論の起こるゆえんなり。その二は万物は無始無終、不生不滅、循環運行して開端の起源なしとす。すでに起源なしとすれば、これを造出する天神を立つるを要せず。これ仏教の天神を立てざるゆえんなり。この二者は余がさきに第三七節に示すところの直線環線両論にして、ヤソ教は直線論をとり、仏教は環線論をとるものなり。しかして時間上の解釈は、余はさきにこの環線論によりてすでに証示したれば、ただここに空間上の解釈を略言するを要す。

 第一七五節 空間上の解釈とは宇宙の終始に関しての解釈にあらずして、万物の性質についての解釈なり。他語にてこれをいえば、世界の起源はなにものなるやの解釈にあらずして、万物自体はなにものなるやの解釈なり。今万物自体はなにものなるやの問題に関して、理学上与うるところの解釈は、これを化学的の元素とするなり。すなわち万物万類は一体の物質より成り、一体の物質は数個の分子より成り、分子は小分子より成り、小分子は微分子より成る、微分子はすなわち化学的の元素なり。故に物質の自体は元素なりという。しかして元素には六〇ないし七〇の種類ありて、その種類さまざまに拘合配置して万物万類を現生すという。これ理学上の解釈にして、余がいわゆる空間上の解釈なり。しかれども空間上の解釈ここに尽きたるにあらず。もし物質自体を元素なりとするときは、更に元素自体はなにものなるやの解釈を要す。もしこれをまた一個の物質としてその元素の元素別にありとするときは、更にまたその元素の元素はなにものなるやの問難起こる(『哲学要領』後編、第四段を見るべし)。故にこの点は理学上にて到底解釈すべからざるものなり。すなわち客観上の解釈はここに至りて極まるというべし。しかしてこの客観上の解釈に対して主観上の解釈あり。故に空間上物質のなんたるを知らんと欲せば、客観の解釈極まりて主観の解釈によらざるべからず。これ論理推究の順序、客観極まりて主観に入るものなり。今仏教は、時間上の解釈は天地万物を無始無終、不生不滅と立てて更にその開端の起源を論定するを要せざるをもって、退いて空間上の解釈に移り、物質の自体は客観上知るべからざるをみて主観上その解釈を与うるものなり。

 第一七六節 これを要するに、世界の解釈につぎの数種あり。このうち仏教は時間上環線論をとり、空間上主観論をとるものなり。しかして主観論をもってその奥義とす。

  第30図

      世界解釈 時間上解釈 直線論(有始有終論)

                 環線論(無始無終論)

           空間上解釈 客観論(元素論)

                 主観論(心理論)

 第一七七節 これより主観論について物質の解釈を下すに、物質はなにものなるやの問いに答えて、色、声、香、味、触(形質)の五部分より成立するものとす。これ物質を分析して五種の性質となすものにして、わがいわゆる物質は全くこの五種の性質の相合して成るものなり。故にこの性質を離れて物質なく、この性質すなわち物質なりということを得べし。果たしてしからば、第二の問題はこの五種の性質はなにものなるやの点にあり。今、色は目によりて現じ、声は耳によりて現じ、香は鼻によりて現じ、味は舌によりて現じ、触は皮膚によりて現ずること疑いをいれず。他語にてこれをいえば、五種の性質は感覚の上に現ずるものなり。これに至りて感覚のなんたるを知らざるべからず(『心理摘要』第四章を参見すべし)。

 第一七八節 感覚は心性の外部の作用にして心性作用の初級とす。これに五種あり。すなわち視感、聴感、嗅感、味感、触感、これなり。今心性全界を内外両部に分かち、内部を思想とし、外部を感覚として示すこと第32図のごとし。

 

 

 

 

 

もしこの図を物界に合して示すときは第33図のごとし。

 

 

 

 

 

しかるに物質は色、声等の五種の性質より成立せるをもって、物界全体もまた五境に分かたざるべからず。すなわち色境、声境、香境、味境、触境、これなり。

 第一七九節 しかしてこの五境は感覚の上に成立すること明らかにして、色境は視感の上に成立し、声境は聴感の上に成立し、香境は嗅感、味境は味感、触境は触感の上に成立するなり。故に五境と五感の間に主客を分かつときは、五境は客感(所感とも)、五感は主感(能感とも)となるべし。すなわち物質はそのいわゆる客感なり。しかして客感主感共に一感覚にして、感覚を離れて主感なくまた客感なし。故に五境は全く感覚の範囲内に入るなり。他語にてこれをいえば、物質は感覚内の物質にして感覚外の物質にあらず。これにおいて物界(外界とも、客観とも)全く心界(内界とも、主観とも)の中に帰入するなり。すなわち第33図変じて第35図となる。これ余がさきにいわゆる客観論の主観論に変ずるものにして、すなわち客観上物質の解釈究まりて主観の解釈に入り、物質自体は内界の感覚なることを知るものなり。これ仏教の心理学の起こるゆえんにして、その法相宗に主観論を説き、外界は内界より現ずるゆえんを示して、「森羅万象はただ識の変ずるところなり。」(森羅万象唯識所変)と立つるゆえんなり(『哲学要領』後編および「顕正活論」に入りて見るべし)。

 第一八〇節 余はこれよりこの感覚論をヤソ教の上に応用して、感覚を離れて天神なくまたヤソ教なきゆえんを示すに、今それヤソ教者は天神の現存を信じ天神の創造を想するに至りしは、なにによりて生ずるやというに、余おもえらく、これみな感覚上よりきたるものなりと。けだし感覚上動植人類がおのおのその祖先を有し、万象万化おのおのその原因あるを実視するをもって、この理を推して天地万物の本源本体たる天神なかるべからざるゆえんを想像するに至りしや明らかなり。故に感覚の十分発達せざる動物界に至りては、余輩いまだ天神の創造を想する牛馬あるを見ず。しかして人類に限りてこれを想すれば、その感覚大いに発達して実験大いに明らかなるによる。その他、天神の現存、ヤソの降誕等、一として感覚より生ぜざるはなし。在昔モーゼ氏山上に登りて天神に面接したりというは、視覚によりてこれを見たるにより、また神戒を受けたるは聴覚によりてこれを聞きたるによる。ヤソ昇天してのち四〇日間しばしばその形を門弟に示せりというも、門弟の視覚に触るるにより。ヤソ在世間、種々の奇術を施せりというも、人の感覚上にこれを現ずるによる。もしこれに反して人に五官の感覚なくんば、いかにして天神の創造を想しヤソの降誕を知ることを得んや。たとえまた感覚あるも、その力極めて不完全にしてかつ確実ならざるときは、これより生ずるところの創造、降誕の諸説ひとり確実なるを得んや。故にヤソ教の諸論諸説はすべて感覚よりきたり、その真偽全く感覚の事情に属すというべし。

 第一八一節 かくのごとく論定すれば、ヤソ教は全く感覚の範囲内に成立するゆえんすでに明らかなりといえども、この理を推して感覚真なるときはヤソ教また真なりというを得ず。言を換えてこれをいえば、感覚妄なるときはヤソ教必ず妄なるも、感覚真なるときはヤソ教必ず真なりと論決することを得ず。かつこれを理学に対比して考うるに、理学も感覚上の実験より成立せるをもって、その真偽全く感覚の事情に属すということを得るも、その実験大いにヤソ教の実験と異なるところあり。すなわちヤソ教はモーゼまたは徒弟のごとき一人一個、一世一時の実験にして、不完全不確実の感覚によるものなり。理学は衆人数世の実験を重ね、今日目前の感覚によるものなり。二者中いずれが最も信ずべく、いずれが最も疑うべきは智者を待たずしてたやすく判ずべし。かつヤソ教は感覚範囲内の一小部分に現ずるものに過ぎざるをもって、感覚を滅無するときはヤソ教全体滅無に帰せざるべからず。他語にてこれをいえば、感覚を離れてヤソ教なく、ヤソ教を離るるも感覚あり、感覚滅すればヤソ教また滅し、ヤソ教滅するも感覚滅せざるなり。すなわちヤソ教は感覚境内の一幻象に外ならざることを知るべし。これを要するに、まず感覚ありてのち天神ありヤソ教あり、まず天神ありてのち感覚あるにあらず。果たしてしからば、天神の想像は全く感覚海内の一波動に過ぎざるなり。

 第一八二節 かく論じきたれば、天地万物ことごとく感覚の範囲内に入り外界の実験全く感覚の作用に属するを知り、あわせて天神の現存、ヤソの昇天みな感覚より生ずるを知るべし。しかして感覚は内界の一部分なるをもって、天地万物もヤソも天神も、みな心内の一現象なることまた推知すべし。しかるにここに一論ありて、感覚は心界の一部分とするも、その外部に位するものにして心性の本位にあらず、心性の本位は思想にして感覚と大いにその性質を異にす、かつ感覚は外界に接触して成立するをもって、これを心界のみに属するもまた不当なりとす、もし精密にこれを解すれば感覚は内外両界の中間に位するものといわざるべからず、故に外界は全く感覚の範囲内にありとするも、いまだ心内にありと断言するを得ずという。この論一理なきにあらずといえども、もし進みて感覚のなんたるを究むるときは感覚全域、思想界中に存することを知るべし。すなわち我人が感覚を解して心面の外部に位するものなり。内外両界の中間に位するものなりと論ずるもの、果たしてなんぞや、これ思想の作用によるにあらずや。我人が実験は感覚作用に属するを知り、外界は感覚の範囲に帰するを知るものなんぞや、これみな意識の作用によるにあらずや。もし意識思想の作用によらざるときは、感覚を感覚として知ることあたわざるなり。いやしくも色の色たるを知り、声の声たるを知り、感覚の感覚たるを知るは、みな意識の存するによる。他語にてこれをいえば、感覚は全く意識思想の上に存立するものなり。これを要するに、感覚なるものは意識思想の知覚にして、意識思想あるにあらざれば、我人その感覚のいかんを知るべからず。ただにそのいかんを知るべからざるのみならず、感覚を感覚として知り、外界を感覚範囲内の一現象として知り、ヤソ教も天神説もみな感覚の上に成立するものと知るも、またみな意識思想の作用なり。意識思想なくんば感覚また現ぜざること明らかなり。故に天神も物界もこれを帰するに心界の一現象にして、世界万境唯一の意識、唯一の思想あるのみ、これ仏教に三界唯一心の説あるゆえんなり。

 第一八三節 しかるにここにまた一論者ありて曰く、物質に現象と実体の別あり、いま色声香味触は物質の現象にして、これを物象という、その物象の実体となるもの別になかるべからず、これを物体という、すなわちその物体が感覚範囲内に入りて色声等の影像を結ぶもの、これを物象とするなり、故に物象は感覚内に存すということを得るも、物体は感覚の外にありといわざるべからずと。この論また一理あるに似たれども、物体はただ感覚の外にありというにとどまり、意識思想の外にありということを得ざるはまた明らかなり。すでに物体は物象を離れて存し感覚の外にありて存すと知るものなんぞや、これみな意識思想の作用にあらずや。故に余まさに意識思想を離れて物体なしと断言せんとす(『哲学要領』後編を参見すべし)。

 第一八四節 これによりてこれをみれば、日月星辰、山川草木、禽獣人類はもちろん、天神も物体も宇宙も、時間も空間も、過去も未来も、我も人も、みな一心海中に帰入せざるを得ず、実に三界唯一心というより外なし。すでに三界唯一心とすれば物も心もみな一心中の現象にして、心に二種あるを知るに至る。その二種の一を平等心といい、一を差別心という。すなわち平等心とは絶対心にして万物万境を総括したる心なり、差別心とは相対心にして物心相望の我人の心なり。しかるに通常我人の称するところの心は物心相望の心にして、平等心をいうにあらず。故に平等心に心の名称を与うるもまたすでに不当なれば、これを理体という。すなわち仏教の真如、これなり。この平等の真如と差別の物心と同体不離の関係を示すもの、これを仏教とす。すなわちそのいわゆる真如是万法、万法是真如、これなり。

 第一八五節 ここに至りてこれをみれば、真如は本体にして物心は現象なり。あたかも一物に表裏両面あるがごとく、物は真如の一面にして、心は他の一面なり。すなわち真如の外面に物心の諸象を具するなり。しかるに世人はその理を解せざるをもって、仏教は万物万境を虚無とする教なりという、妄評もまたはなはだし。万物は真如の上に現ずるをもって真如を離れて万物なしということを得るも、万物の現存は虚無なりというにあらず。顧みて真如の上をみれば、万物万境歴然としてその象を現じ、決して空にあらず無にあらざるなり。しかるにまた仏教の平等心を説きて三界唯一心というを聞きて、日月はわれを離れて存するにあらずや、わが心の外に他人あるにあらずやと難ずるものあれども、これまた平等心と差別心の関係を知らざる妄評のみ。今わが心の外に万物万境を見るは差別の心なり、わが心を離れて万物万境なきを知るは平等の心なり。この二者の関係は「顕正活論」に入りて明示すべし。

 第一八六節 再び以上の論を帰結するに、客観上万物万類は不生不滅、無始無終の一物が進化開発に出づるを究めて、ヤソ教の天神創造説の妄なるを知り、あわせて仏教の法体恒有説の正なるを知り、また万象万化の因果の規則に基づきて循環運行して際涯なきを見て、天神主宰説の偽なるを知り、あわせて因縁相続説の真なるを知るに至る。しかして再びその無始無終の一大物質のなんたるを究め、外界は全く感覚の上に成立するをみて、感覚の範囲を離れて物もなく神もなきゆえんを知るに至る。更にまたその感覚のなんたるを究めて、内外両界共に一心の現象に外ならざるを知り、あわせて仏教の三界唯一心説の真なるを知り、ヤソ教の天神は一心の妄想に過ぎざるを知るに至る。更に進みてその一心のなんたるを験すれば、心に差別、平等の二種ありて、そのいわゆる三界唯一心の心は平等の心なるを知り、これを差別の心にえらんで真如の理体と名付くるゆえんを知るに至る。これに至りてこれをみれば、物も心も真如理体の現象にして、さきにいわゆる物質不滅、勢力恒存の客観上の規則は、この真如の不生不滅、無始無終を現示するものなるを知るに至れり。

 第一八七節 かく論じきたれば、ヤソ教は仏教中の客観界の一小部分に成立するものにして、仏教大海の一隅に浮現するものに過ぎず。かのヤソ教徒の論ずるところ、もとより因果の理を離るることあたわず、その信ずるところ、またただ心の境を脱することあたわず。天神ありと証するも心にして、心の本体知るべからずというも心なり、知るべからざる心の体、すなわちこれ天神なりと考うるもまた心なり。故に諸教中、心をもって起点と立つる教は、天神をもって原理と定むる空想に勝ること幾倍なるや、ほとんど知るべからず。そもそも天神説は仮定説中の最も仮定説にして、その存滅全くわが思想の方向に属す。われこれをありと思えばすなわち天神存するがごとくなれども、われこれをなしと思えばすなわちまた天神なし、ひとり心に至りてはわれこれを空滅することあたわず。心なしと思うもこれ心にして、心ありと考うるもまたこれ心なり。仏教の唯心論、真如説ここに至りてただますます明らかなり。あに驚嘆せざるべけんや、あに称揚せざるべけんや。