1.倫理通論

P15

  倫理通論 

 

 

1. 冊数

   2冊

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   205×140mm

3. ページ

   総数:385

   序言: 1

   目録: 13

   本文:366

   資料: 5〔倫理学者年代考〕

4. 刊行年月日

    第1(第1編~第4編)

   初版:   明治20年2月

   底本:再版 明治20年8月10日

    第2(第5編~第9編)

   初版:   明治20年4月

   底本:再版 明治20年8月18日

(巻頭)

5. 句読点

   なし

6. その他

  (1) 原本は2冊になっているが,通しページになっていたので,1冊にまとめた。

   (2) 原本(第2)の倫理学者年代考は省略した。

       序  言

 余、近ごろ世間の需に応じてこの書を編述するも、たまたま病床にありて、数書を捜索するの便を得ず。ただ余がかつて集録せる倫理学の手記中より前後抜抄し、かたわら余が一己の意見を付するものに過ぎず。故にその書、もとより謬誤疎脱なきを保し難しといえども、またもって倫理の一斑を知るに足るべしと信ず。よって題して『倫理通論』というなり。

  明治一九年一二月                  著 者 誌  

 

     第一編 倫理緒論

       第一章 倫理学の義解

 倫理学とは西洋の語にてエシックスと称し、あるいはモラル・フィロソフィー、またはモラル・サイエンスと称するものこれなり。近ごろこの語を訳するに道徳学、道義学、修身学等、種々の名称を用うるものあれども、余は特に倫理学の名称を用うるなり。そもそも倫理学すなわちエシックスは、善悪の標準、道徳の規則を論定して、人の行為挙動を命令する学問をいう。しかして余がここに論定すると題したるは、論理上考定究明するを義とし、仮定憶想に出ずるを義とするにあらず。しかるに古来世間に伝わるところの修身学は、仮定憶想に出ずるものを常とす。すでに孔孟〔孔子孟子〕の修身学のごときは仁義礼譲をもって人の道と定むるも、いかなる理由ありて仁義礼譲は人の道たるを究めずして、ただ一にこれを天然に定まりたるもののごとく信じ、いやしくも人たるものは必ずこれを定むるべきものと仮定するに過ぎず。またヤソ教の道徳を論ずるにも、有意有作の天帝をもって衆善万行の基址標準なりと想定し、その果たして真正の標準なるや否やの考証に至りては、いまだ究めざるもの多し。これみなその帰するところ仮定憶想の説にして、余がいわゆる論理上考定究明したるものにあらざること明らかなり。故に余は、かくのごとき修身学に倫理学の名称を与うるの不適当なるを知る。およそ理学すなわちサイエンスの名称は、論理上種々の事実を考究して一定の規則を審定し、一派の学系を組成するものをいう。物理学生理学等みなしかり。心理学のごとき無形の学問にありても、今日はすでに論理の規則に従って理学の一組織を構定するに至れり。今、修身学においても余がみるところによるに、種々の事実を考究して一定の規則を論立するをもって、余はこれを一種の理学として、ここに倫理学の名称を用うるなり。

       第二章 倫理学は一種の理学に属すべきこと

 倫理学はすでに今日にありては、理学研究の方法によるをもって一種の理学に属さざるを得ざる道理なれども、いまだ純然たる理学となるに至らず。これ全くその考究の容易ならずして進歩の遅きによる。およそ有形の学問すなわち物理学生物学のごときは、事実を考索するはなはだやすしといえども、無形の学問すなわち心理学のごときに至りては、ただに確実なる事実の得難きのみならず、これについて考定するところの説、人々同一なるあたわず。はなはだしきに至りては氷炭相いれざるものあり。別して倫理学のごときは確然たる基址標準を要する学問にして、しかもその標準を一定する最も容易ならざるをもって、理学上その学を組成するはまたはなはだ難しとするところなり。これ道徳論の数千年の古代に起こり相受けて今日に至るも、いまだ著しき進歩を見ざるゆえんなり。故に西洋にありても今日なお、道徳を論ずるに大抵その説をヤソ教にかり、天帝をもって衆善万行の基址と定むるなり。世間全く理学上道徳を講ずるものなきにあらずといえども、その力いまだヤソ教に抗して世人の注意を引くあたわず。しかれども今日の学者は汲々として宗教の範囲の外に純然たる倫理の一学を起こさんことを務むるをもって、これを数十年前に比すればまたいくだんの進歩を見るに至れり。これによりてこれを推すに、将来理学上道徳の原理を考究して、純然たる倫理の一学を定立するの日はあらかじめ期することを得べし。故に余もあくまで古来の憶説を用いず、もっぱら理学の規則に基づきて、倫理のおおもとを定めんことを務むるなり。

       第三章 倫理学は一種の実用学なること

 以上論ずるところによるに、倫理学は一種の理学に属さざるべからず。もしこれを理学に属するときは、いかなる点をもって他の理学に分かつべきや。今その別を示さんと欲せば、まず理学中に理論学と実用学との二種あることを論ぜざるべからず。およそ種々の事実を考究して一定の規則を立つるもの、これを理論学とし、その規則を実際に応用して人を命令指揮するもの、これを実用学という。他語をもってこれをいえば、理論学は甲の性質はかくのごとし、乙の規則はかくのごとしというにとどまり、実用学はこの性質に従うべし、かの規則を破るなかれ等と命令するものなり。すなわち物理学のごとき物質の性質規則を考究するにとどまるものは理論学なり、器械学のごとき物理の規則を実際に応用して人を命令するものは実用学なり。今、倫理学は種々の事実を考見して道徳の性質規則を審定するだけは理論学に属すべき理なれども、これを審定する外に人の行為挙動を命令して倫理の規則に従わしむるを教うるをもって、またこれを実用学に属さざるべからず。これ余がさきに倫理学の義解を下して、善悪の標準、道徳の規則を論定して人の行為挙動を命令する学問なりというゆえんなり。他語をもってこれをいえば、規則を論定するは理論学にして、人を命令するは実用学なり。しかしてその理論に属する部分は倫理学の主とするところにあらずして、そのこれを論ずるは実用の目的を達するに必要なるによるのみ。故に倫理学は一種の実用学なりと定めざるをえざるなり。

       第四章 倫理学と心理学との関係

 これによりてこれをみるに、倫理学はその主とするところ実用学にして、かたわら理論上道徳の性質規則を論定するものなり。しかしてその性質規則を論定するには、まず人心の作用を考究せざるべからず。これ倫理学を講ずるに心理学の必要なるゆえんなり。故にここにその両学の関係を略述するは、決して無用の言にあらざるを知る。そもそも心理学は理論上人心の性質規則を考定する学問にして、すなわち一種の理論学なり。今その考定するところを見るに、人心に情感、意志、智力の三種の作用あり。通常、智、情、意と称するものこれなり。情感は外界の事情に接触して苦楽を心内に感起する作用なり、智力は事物の影像および概念を心内に識別思量する作用なり、意志は外界に対して現示する行為の作用なり。あるいは目的ある諸作用を総称して意志と名付くることあり。今、倫理学は行為挙動を命令する学問にして、すなわち目的ある作用に属する学問なるをもって、その原理を知らんと欲せば必ず心理上意志の性質を究むるを要す。故にあるいは倫理学は、心理学中の意志作用に属する実用学と称するも不当にあらざるなり。これをもって余は、心理学は人心の理論学にして、倫理学はその実用学の一種なりと断言するなり。これを要するに、心理学は倫理学の基礎にして、両学の関係の密接なることすでに明らかなりと知るべし。

       第五章 倫理学と政治学との関係

 心理学中、意志に基づきてその実際の応用を示すものひとり倫理学に限るにあらず、倫理学の外に政治学と称するものあり。この二者ともに人の行為挙動を命令する学問にして、互いにその性質を同じうするも、またおのずから異なるところあり。今その異同を略言するに、まず政治学は国家の政法を論ずる学問にして、倫理学のごとき一個人の関係を論ずるものにあらず。たとえ政治学上一個人の挙動を命令することあるも、これを国民の一人としてその国の政府または憲法に対していかなる関係を有するかを示すのみ。倫理学はしからず。一個人の私に他人に対して呈する行為を命令するものなり。故にこれを約言すれば、政治学は一国政法の上に行為の規則を論じ、倫理学は一身一個人の上に行為の規則を論ずるの別あり。しかれどもこの二者はその関係密接にして、全く相離れたるものにあらず。一個人の道徳修まらざれば政治その目的を全うすることあたわず、一国の政治そのよろしきを得ざれば道徳またその実功を示すことあたわず。道徳の及ばざるところは政治これを助け、政治の足らざるところは道徳これを補い、二者互いに相助け相補って、始めておのおのその目的を全うすることを得るなり。これをもって、両学の必要およびその偏廃すべからざるゆえんを知るべし。もしまた古代にさかのぼりてこれを考うるに、政治も道徳もみな相混じてその別なきを見る。すでにシナの孔孟の教えのごとき道徳上政治を論じたるは、当時政治学と道徳学のいまだ分かれざるによる。西洋にありても学問上二者の判然相分かれたるは近く今日のことにして、古代の道徳学は大抵政治学と混同せしものなり。これまた政治と道徳の密接なる関係を有する一斑を知るに足る。

       第六章 倫理学と宗教との関係

 古代の道徳学は大抵政治学と混同するのみならず、宗教とまた相混ずるを見る。すでに今日にありても西洋学者の論ずるところの倫理は多少天帝の想像を用うるありて、いまだ全く宗教の範囲を脱することあたわず。別して中古にありては道徳の全権は宗教者の握るところとなり、世間ヤソ教のほか別に修身を論ずるものなく、道徳の本源は全く天帝に帰し、『バイブル』一部をもって修身の本経となすに至れり。くだりて近世に及ぶもなおその影響を存し、学者の力宗教に抗して倫理の一学を開立することあたわざるの勢いあり。これをもって、今日にありても倫理学中、往々宗教を混入するを見るなり。しかれどもこれ、ひとり古来の習慣によるにあらず、習慣のほか別に考うべき種々の事情あり。今その事情の主たるものをあぐるに、第一に、西洋の理学哲学はその進歩いまだ十分ならずして、宗教の範囲の外に別に倫理の一学を開くに至らざるにより、第二に、世間常に愚民に富みて学者に乏しきをもって、理学上構成したる修身学のかえって世間に適せざるにより、第三に、宗教と道徳の関係密接なるによる。それ宗教は未来の幸福を目的とするも、その目的を達するには現世の勧善懲悪をもってせざるべからず。他語をもってこれをいえば、道徳修身は宗教の目的を達するに欠くべからざるものなり。道徳もその力を宗教にかるときは、またたやすくその目的を達することを得べし。これをもって、古来道徳と宗教の常に相混同するに至りしなり。

       第七章 倫理学と他の諸学との関係

 これによりてこれをみるに、倫理学は心理学政治学および宗教と密接なる関係を有することすでに明らかなり。その他、倫理学は純正哲学、社会学、人類学等の諸学とまた大いに関係するところあり。今、倫理学に関する人心の性質作用を知るは心理学によらざるをえずといえども、倫理の本源を論定するに至りては純正哲学を待たざるべからず。また道徳の発達進化を論ぜんと欲せば、人類の成来、社会の変遷を知らざるべからず。これ倫理を研究するに、人類学社会学等を要するゆえんなり。その他、倫理学と間接の関係を有する学問は幾種あるを知らざるなり。

       第八章 諸学関係の要略

 以上述ぶるところこれを約していえば、今日の倫理学は一種の理学なれども、その学の物理生理等の諸理学と異なるは、有形無形の別あるによる。すなわち物理等は有形上の実験学にして、倫理学は無形上の論究学なり。しかるに心理学は倫理学と同一に無形の論究学なれども、一は理論学にして、一は実用学なるの異同あり。つぎに政治学は一種の実用学にして倫理学と同一なるに似たれども、その範囲おのずから異なるところありて、一は一国一政府の上に属し、一は一身一個人の上に属するの別あり。つぎに宗教も一種の実用学にして、しかも一個人の道徳に関するものなれども、一は未来の幸福を目的とし、天帝の命令をもって善悪の標準と定め、一は現世の幸福を目的とし、理学の原則をもって道徳のおおもとを立つるの別あり。かくのごとく諸学みな多少その性質を異にするも、また互いにその間に密接なる関係を有するをもって、倫理学をしてその目的を全うせしめんと欲せば、必ず他の諸学を待たざるべからざるなり。

       第九章 諸学の目的

 上来大略倫理学の性質関係を述べたるをもって、これより倫理学の必要を述べんとす。およそ人のこの世にあるや、その目的いまだ明らかならずといえども、人類の永続、社会の繁栄をもって目的とせざるべからざるは、余が第二編に入りて論ずるところを見て知るべし。すなわち人の目的は社会の安寧幸福にあり。他語をもってこれをいえば、その目的社会を利するにあり。これを実利主義という。諸学諸芸の目的も、要するにこの主義に外ならず。あるいは諸学の目的は真理を開発するにありと称するものあれども、その実すこしも世間に関係を有せざるものの世間の真理となるべき理なきをもって、真理もし果たして実益の外にありとするときは、これを目的とする学問は決して世に存すべからず。かつ諸学中理論と実用との両学ありて、理論学はその目的真理を開発するにありとするも、実用学は世間を益するをもって目的とするは言を待たず。これによりてこれをみれば、学問上真理を考索するもの、なおその目的実益を走らすにあり。別して政治、道徳、宗教のごとき実用を主とする学問にありては、その目的社会の安寧幸福にあること問わずして知るべし。これ他なし、諸学諸芸は人生の目的を達する方法に過ぎざればなり。しかして人生の目的すでに幸福実利にある以上は、政治も道徳も宗教もみな実利をもって目的とせざるべからざるは必然の理なり。故に余はしばらく諸学の目的は社会の幸福安寧にありと前定して、政治宗教のよくこの目的を達するや否やを見んと欲するなり。

       第一〇章 政治法律の欠点

 まず第一に、政治法律はよくその目的を達する力あるや否やを考うるに、その一部分を達するの力あるも、全体を達するの力なきは瞭然たり。第一に、法律は人の外行上に発覚したるものにあらざれば賞罰を加うべからざるをもって、人の内心に抱きたる悪念を禁止することあたわず。第二に、たとえその悪念行為上に発してその実公然たる社会の罪人たるも、法律の目に触るるにあらざればこれを罰することあたわず。第三に、たとえまた法律の目に触るるも、そのすでに定めたる規則に照らして罰すべき明文なきときは、これまた罰することあたわず。第四に、すでに罰すべき明文あるもその罪非常に重きときは、またこれに正当の罰を与うることあたわず。たとえば一人を殺したるものも死罪に処し、一〇〇人を殺したるも死罪に処するがごときは、その罪同じからずしてその罰同じきものなれば、刑罰の正当を得たるものにあらざるなり。第五に、もし犯罪者の権力非常に強くして法律に抗抵するの力あるときは、これまた罰することあたわず。第六に、法律はときどき変更するものなれば、昨日の法律にて無罪なるもの、今日の法律にて有罪となるの不公平あり。これをもって、法律は人を賞罰して社会の安寧幸福を保たんとするも、その力の及ばざるところありて、全分の目的を達することあたわず。故にもしその全分の目的を達せんと欲せば、法律の外に他の方法を待たざるべからず。

       第一一章 宗教の欠点

 しかるにこの法律の欠点を補って、よく社会の安寧を保つものは宗教なり。まず第一に、法律は人の内心の悪を罰することあたわざるも、宗教はよくその悪を禁止し、第二に、法律は法律の目に触れざるものおよびその明文なきものを罪〔罰〕することあたわざるも、宗教は一善一悪といえども賞罰に漏らすことなし。第三に、法律は非常の重罪にかかるものと非常の権力を有するものを罰することあたわざるも、宗教はよくこれを罰することを得。第四に、法律はときどき変更して賞罰一定せざるの憂いあるも、宗教はこの憂いなし。これ宗教の法律を助けて人生の目的を達するゆえんなり。しかれども宗教も今日なお不完全の点ありて、全体の目的を達することあたわざるは明らかなり。およそ宗教と称するもの、その種類一ならずといえども、想像説をもって立つるを常とす。第一に神仏の現存およびその威力を想像し、第二に来世の苦楽賞罰を想像するものなり。しかしてその賞罰はすべて神仏の意に出ずるものとし、死後に至るにあらざればその結果を見ることあたわずという。故に宗教の欠点は、第一に、人に未来の賞罰を勧むるをもって目前の結果を示すことあたわず、第二に、ひとたび死したるものは再びこの世にかえらざるをもって、人その死後の賞罰を試むることあたわず、第三に、現世にありて悪をなしてかえって福を受け、善をなしてかえって禍に遇うの理を解することあたわず、第四に、神仏は我人の目に現見せざるをもって、その体果たして現存しかつ非常の威力を有するを信ずること難し、第五に、宗教異なればその説くところの賞罰また異にして、いずれの説果たして真なるや知るべからず。これらの諸点は宗教の短所にして、人をしてことごとくその教うるところに従って幸福安寧を全うせしむべからざるゆえんなり。別して智者学者社会に対しては宗教の力はなはだ弱くして、なにほど力を尽くすも、これをしてその教えを信ぜしむることはなはだ難し。これ他なし、宗教の道徳は愚民に適するも学者に適せざるによる。これをもって、宗教の人生の目的を全うするの力なきゆえんを知るべし。

       第一二章 倫理学の必要

 果たしてしからば、宗教も法律もともにその目的の一部分を達することを得るも、全体を達することあたわざるは明らかなり。しかして、よくこの二者の欠点を補って社会の安寧を保全すべきものは倫理学なり。まずその宗教の欠点を補って社会を利するゆえんを述ぶるに、第一に、宗教は想像上神仏を仮定するをもって、あるいは人智の発達を妨ぐるの恐れあるも、倫理は理学上道徳のおおもとを論定するをもって、人をして道理に明らかならしむるの益あり、第二に、宗教はその性質智者学者に適せざるも、倫理は最もよく智者学者に適するの益あり。これをもって、倫理学の社会に必要なる一端を知るべし。

       第一三章 倫理学は論理をもって構定すべきこと

 これによりてこれをみれば、倫理学は徹頭徹尾道理をもって論定することを要するなり。古代の修身学のごとき仮定憶想をもって立てたるものは、決して今日の倫理学を組成すべからざるは明らかにして、別して宗教の元素をその中に混入し、天帝をもって道徳の本源となすがごときは、すでに今日の事情に適せざること問わずして知るべし。これ宗教と倫理学の今日すでにその区域を分かちて、おのおの独立せんとする傾向あるゆえんなり。しかれども世間常に愚民多く、かつ従来の習慣あるをもって、いまだ全く宗教の範囲の外に倫理の一学を構成するに至らず。故をもって、往々天帝の憶想をその中に加うることあるも、これ決して倫理学の目的とするところにあらず。故に今日の学者は理学の規則に基づきて倫理の一学を組成し、これをして一種純全の理学となさんことを務むべし。

       第一四章 孔孟の修身学は仮定憶想に出ずること

 かくのごとく論じきたれば、ここに東洋の修身学について一言を付するを要す。そもそも東洋に行わるるところの修身学は、孔孟の教えをもって第一とす。孔孟の教えは天帝の想像を用うるものにあらず。故に孔孟学者は儒教をもって今日の倫理学となすべしというといえども、これ大いなる惑いなり。孔孟の道徳は天帝の想像を用うる宗教の道徳に比すれば大いに長ずるところあるも、その説の理学の考証を説き論理の規則に合せざること、余が言を待たずして知るべし。他語をもってこれをいえば、孔孟の教えは仮定憶想に出ずるもの多し。今その一、二点をあぐれば、第一に、孔孟は仁義をもって人の道と定むれども、仁義はなにをもって人の道なるやを論ぜず、第二に、人の行為の善悪を説くも、その善悪の標準いずれにあるを究めず。これ他なし、仁義は天然に人の守るべき道なりと仮定し、善悪は天然にその差別あるものと憶想せしによるのみ。別して儒者の性と天道とを説くがごときは、仮定憶想の最もはなはだしきものなり。人の性は天よりうくるものなりというも、もとよりそのしかるゆえんを究めたるにあらず。人みな同一に善性を有すというも、またその実験あるにあらず。人を教育すれば同一の善人に化すべしと勧むるも、これまた仮定を免れず。天道は善人に福を与え悪人に禍を下すと説くも、道徳の標準は万世不変なるものと定むるも、またまた憶説に過ぎず。これをもって、孔孟の修身学は今日の倫理学となすべからざるゆえんを知るべし。

       第一五章 孔孟の修身学は論理の規則に合格せざること

 更に進んで孔孟の修身学の論理の規則に合せざるゆえんを示すに、まずその学者の説くところの性善論を論理の定式に配置するに、人の性は天よりうくるものなり、天よりうくるものは善ならざるべからず、故に人の性は善なりという。この推論の論理の規則に合格せざることは一見して知るべし。人の性は果たして天よりうくるの証ありや、かつ天はなにものにして果たしてよく人にその性を与うるの力ありや、また天よりうくるもの必ずしも善なるの理ありや。もしこの理を証示せんと欲せば、まず天のなんたるゆえんを説き、そのなすところ必ず善なるゆえんを考定せざるべからず。しかるに孟子は性善の証を示さんと欲して人に仁、義、礼、智の四端あるを説きたるも、これいまだ性善の証となすべからざるは、余が第五編において論ずるところを見るべし。かつ孟子は人の悪心はいかにして生じ、人をしてその自然の性に任じてこれに教育を施さざるときはかえって悪人となるはいかなる理によるや等の問題に至りてはすこしも証明を下すことなくして、ただ人に一、二の善心存するをもって人の性はみな善なりと断言するのみ。荀子はこれに反して、人に一、二の悪心あるを見て人の性は不善なりと断言したるも、ともに論理の許さざるところなり。その後、楊〔揚〕雄の善悪混説を唱えたるも、孟荀の両説を調和するものにて、別によるところあるにあらず。くだりて宋朝に至り、性に本然、気質の二種を分かちたるも、論理の規則に基づきてしかるにあらず。本然の性は一として善ならざるはなし、しかして人に悪あるは気質の性なりといい、あるいはまた性に善なく不善なし、しかして善あり不善あるはこれ情なりというがごときは、前後撞着の難を免れず。けだし情は性の動きて生ずるものにして、その情に善悪の二種あるときは、性にまた善悪の二種なくんばあるべからず。また性果たして善のみにして全く悪なきときは、その性の発動して悪を生ずべき理なし。その他、性は理なり理は気なり等といって、理気同体を説きてまたその別を立つるがごときも、論理の決して許さざるところなり。そもそも性理論は孔孟哲学の要点にして、その修身学は全くこの理に基づきて組成したるものなり。しかるにその説すでに論理の規則に合格せざれば、その修身学をもって今日の倫理学を構立することあたわざるは瞭然たり。これを要するに、孔孟の修身学は、第一に道徳の原理明らかならず、第二に善悪の標準定まらず、第三に人心の分析密ならず、第四に政治と道徳の相混じ、第五に上古の道徳を模倣するがごときは、みなその学の不完全なるゆえんにして、その今日の世界に適せざるゆえんを知るに足る。

       第一六章 老荘の道徳説は実際に適せざること

 人あるいは孔孟の道徳は浅近に過ぎて道理上考うるに足らざるもの多きも、シナには孔孟の外に老荘〔老子荘子〕の一学ありて、ひとしく道徳の大道を説きたるものなり。しかしてその説くところいたって高尚深遠にして、大いに論理の考うべきものあり。決してこれを孔孟の学と同一視すべからずと唱うるものあれども、老荘の学の今日の倫理学となすべからざるは余が言を待たざるところにして、その論かえって空想の最もはなはだしきものなり。かつ世間の実際に適せざるの弊を免れず。今その点をあぐるに、第一に、老荘の目的とするところ太古の無為自然に帰するにあるをもって社会の進歩改良を計ることあたわず、第二に、人の無我無欲を勧むるをもってその進取の気風を害するに至り、第三に、人をしてその愚に安んぜしむるをもって智力の発達を妨ぐるの勢いあり。これその教えの実際に適せざるゆえんなり。かつ今日の人民をして太古蒙昧の人民に化せんとするがごときは、その教えの最も今日の社会に実行すべからざる明証なり。

       第一七章 仏教の理論は理学の考証を欠くこと

 古来、孔老の外に東洋に盛んになりしものを仏教とす。仏教は一種の純正哲学にして、また道徳宗教の実用を教うるものなり。故に、あるいはこの教えをもって今日の倫理学を組成してしかるべしと考うるものあるも知るべからずといえども、余がみるところによるに、仏教は理論の高妙なる孔老両学の遠く及ぶところにあらずといえども、その論あるいは高妙に過ぎて実際に適せざるところあり。かつその道徳を論ずるがごときは世間の外に真理を求むるの傾向ありて、これを実行するははなはだ難しとするところなり。もしこれを実行せんと欲せば、まずこれを今日の事情に応合して改良を施さざるべからず。これ他なし、仏教はその実、一個人と万物万境の本体なる真如の理性との関係を示すところの一種の純正哲学にして、実用の倫理学にあらざるによる。故に、その物心万境の本体を説くに至りては実にその妙を究むるも、道徳修身の実用を説くに至りては大いに迂遠なるの評を免れず。しかしてその教えの下等社会に行われて世間の道徳を維持するがごときは、純然たる想像上の宗教にして、もとより論理をもって組成したるものにあらず。故に仏教をもって今日の倫理学を構定することあたわざるなり。しかれどもその教え純正哲学の原理より成るをもって、他日これを改良して、よくその理を実際に応用するに至らば、あるいはかえって論理の貫徹したる倫理の一学を構成するに至るも計るべからずといえども、その初めて起こるや三千年前の古代にありて、理学実験の考証を欠くをもって、高妙の論理もついに空論となるに至る。かつその教えは外面よりこれをみるに、人情に反し世間に遠ざかるの性質ありて、社会の繁栄幸福を目的とせざるもののごとく見ゆるは、これまたその教えのただちに今日の倫理学となすべからざるゆえんなり。

       第一八章 ヤソ教の理論は浅近に過ぐること

 かくのごとく東洋には孔釈老の三教あるも、みなおのおのその欠点ありて、一として今日の倫理学となすべきものなし。これにおいて論者ありて曰く、現今の倫理学はヤソ教を用うるより外なしと。余おもえらく、ヤソ教はおよそ千余年間欧米社会の道徳を維持して今日に至るをもって、あるいは現今の道徳を講ずるにこの教えを用うるは儒仏を用うるに勝るところありとするも、その教えまたすでに今日の事情に適せざるところありて、決して完全なるものにあらず。けだしヤソ教は従来永く活動社会に行われしをもって、これを儒仏二教に比すれば弊習いたって少なしといえども、論理の推究に至りては、あるいはかえって東洋の諸教にしかざるところ多し。別して善悪の賞罰をもってことごとく有意有作の天帝に帰するがごときは、その教えの仏教に数歩を譲るところなり。かつその教えの理学実験の考証を欠きたるもの多きは余が言を待たざるところにして、かの『バイブル』経中に説くがごときは、その妄誕不稽なる儒仏両教の比にあらざること、たやすく知るべし。現今にありてはこれに理学上の解釈を付会して倫理の基礎を論定せんことをつとむるものあれども、到底これをして純然たる理学上の倫理を構成せしむることあたわざるは瞭然たり。これによりてこれをみるに、ヤソ教もまた今日の倫理学となるべき性質を有せざること疑いをいれず。

       第一九章 従来の諸教の外に倫理学を組成するを要すること

 果たしてしからば、孔孟の教えも老荘の教えもみなおのおのその欠点ありて、ともに倫理の目的を全うすることあたわず。釈教もヤソ教もまたおのおの完全ならざるところありて、ただちにこれをして理学上の倫理を構成することあたわず。故に今日の倫理学は、従来の諸教諸説を離れて一種の新基礎の上に開立せざるべからず。すなわち理学の原理に基づき、論理の規則に照らして、道徳修身の道を論定するを要するなり。しかるに人あるいは宗教の範囲の外に道徳の教えを設くるは、言うべくして行うべからずと難ずるものあるべしといえども、西洋学者の今日論ずるところのもの、大抵宗教の範囲の外に道徳の基礎を立つるを見る。たとえその基礎いまだ全く完成せざるも、これを従来の進歩に比すれば、その完成に達するの日近きにあるは推して知るべし。あるいはまた道理に基づきて立てたる道徳は愚民に適せずと疑うものあるを保し難しといえども、永く愚民を社会に存するは決して学者の目的とするところにあらず。もし愚民を開導してこれをして高等の智力を発達せしめんと欲せば、高等の道徳を起こさざるべからず。故に今日の学者は、純然たる倫理学の新組織を構成するをもって目的とするを要す。しかれども余が意、従来世間に伝わるところの道徳は全くその用なしというにあらず。孔釈の教えもヤソの教えも、ともに今日の事情に照らして多少の欠点あるも、またおのおのその長ずるところありて理論上取るべきところあるは、あらかじめ知ることを得べし。故に余が期するところは、理学上倫理の新礎を起こしてこれを従来の諸教諸説に考え、長短取捨して完全の道徳を立つるにあり。

       第二〇章 わが国に倫理学のいまだ進歩せざること

 近くこれをわが国現今の事情に考うるに、政治法律もすでに泰西の模範に倣いやや完全なるものを組成するに至り、理学諸科もすでに欧米の定むるところについて実究を施すに至り、心理学論理学のごときもすでに多少の進歩を見るに至りたれども、ひとり倫理学に至りてはただにその進歩を見ざるのみならず、いまだその学をわが国に講ずるものあるを知らず。これ一は西洋の学問世界にいまだ完全なる倫理学を見ざるにより、一はわが国の開明、日なお浅くして学者いまだ倫理を研究するのいとまなきによるというも、またほかにその原因なくんばあるべからず。すなわちわが国の学者は、修身道徳の一学に至りては従来孔孟の学問の存するありて、あえて西洋の倫理学を待つを要せずと信ずるによる。しかしてその学問の今日の事情に適せざるを知らず。これをもって、世間倫理を講ずるものひとり孔孟を説きて、更に西洋の倫理を問わざるに至りしなり。

       第二一章 わが邦人の道徳を改良するの必要

 退きてわが邦人の道徳を察するに、その極めて下等の地位にあるはみな人の知るところなり。無智不学の人民はしばらくこれを問わず、多少の学識を有したる中等以上の人について考うるに、その十中の八九はほとんど道徳のなんたるを知らず。たまたまこれを知るものあるも、口にその必要を論ずるにとどまりて、実行のこれに及ぶものなし。その他の道徳家は孔孟に心酔せしもののみ。あるいはわずかに西洋学を修めて孔孟の教えの陳腐に属するを知るに至れば、道徳のごときは全く講ずるに足らざるものと信じ、更にそのいかんを問わず。しかして顧みてその自身の品行を察するに、実に醜態見るに忍びざるものあり。したがってその害を子孫に伝えその毒を社会に流すは、勢いの免るべからざるところなり。それ道徳品行の良悪は、これを小にしては一家の存亡、これを大にしては一国の安危に関す。世人あに傍観座視するに忍びんや。いやしくも一家の繁栄、一国の安寧に志あるもの、よろしくここに注目すべし。これ余が倫理学を講じて、わが国旧来の道徳を改良するは今日の急務なりというゆえんなり。

       第二二章 倫理学をわが国に起こすの便益

 更に進んで諸学進歩の実況をみるに、器械学製造学のごとき実用学は、わが邦人なにほど上達するも、今日の勢い到底西洋の進歩に超駕することあたわず。物理化学のごとき実験学もまた、われのかれに及ぶことあたわざるところなり。ひとり無形の論究に至りては、われ必ずしもかれにしかざるの理なし。別して倫理学のごときは、西洋にいまだその完全したるものなきをもって、もしひとたびこれをわが国に研究するに至らば、他日あるいはかえってわれをしてかれの上に加えしむるに至るも計り難し。けだし西洋に倫理の新礎を開立するの難きは、主としてヤソ教の人心を固結するのはなはだしきによる。しかるにわが国においては幸いに宗教の妨障なきをもって、その範囲外に倫理の基礎を開くははなはだやすしとなすところなり。故にこれをわが国に研究するは、実に現今の要務というべし。他日もし果たして西洋にさきだちて新理の新礎を立つるに至らば、ひとりわが学者の栄誉のみならず、わが国家の栄誉なり。かつ余がみるところによるに、わが国の学者は有形上の実験学に至りては到底かれに競争するの力なしといえども、無形上の真理を論究するに至りては決してかれに一歩を譲らざるを知る。これ古来わが国に無形の学問の行わるるありて、学者多少思想の論究に長ずるによる。これによりてこれを推すに、倫理の論究はあるいはかえってわが邦人に最も適するところあるを知るべし。これまた、倫理学を講ずるのわが国に必要なるゆえんなり。

       第二三章 帰 結

 以上すでに倫理学の性質関係を論じ、またこれを研究するの必要を述べたるをもって、これより本論に入りて倫理全体の組織を細論せざるべからず。今これを論ずるに当たり、まず第一に人生の目的を論ずるを要す。人生の目的はすなわち倫理の目的にして、目的定まらざれば善悪の標準定まらず、標準定まらざれば、なにに基づきて道徳を立つべきや。かつすでにその目的および標準を論ずれば、また道徳心の本源およびその発達を論ぜざるべからず。その他、諸家の異説を挙げてこれを分類するも、また必要となすところなり。故に余は本論を六大段に分かち、第一段は人生の目的を論じ、第二段は善悪の標準を論じ、第三段は道徳の本心を論じ、第四段は行為の進化を論じ、第五段は各家の異説を掲げ、第六段は諸説の分類を示すものなり。

 

     第二編 人生目的

       第二四章 人生の目的に異説あること

 およそ修身斉家の道たる、これを帰するに、人間畢生の目的を達する方便に外ならず。政治も一種の方便なり、道徳も一種の方便なり。故に倫理のおおもとを論ずるには、必ずまず人生の目的を論ぜざるべからず。そもそも人生の目的は古来種々の異説ありて、いずれが真いずれが非なるや、いまだ知るべからず。あるいは人に一定の目的なしと唱うるものあり、あるいは一定の目的ありと唱うるものあり。この第二説を唱うる論者中に、幸福を目的とするものあり、幸福にあらざるものを目的とするものあり。その一を幸福説といい、その二を非幸福説という。この幸福説を唱うる論者中に、自己の幸福を目的とするものと、他人の幸福を目的とするものと、この二者を合して自己と他人との幸福を目的とするものの三種あり。その一を自愛説といい、その二を愛他説といい、その三を自他兼愛説という。これに対して前二者を偏愛説という。しかしてまた非幸福説を唱うる論者中に、知識をもって目的とするものあり、徳行をもって目的とするものあり、正理をもって目的とするものあり。その他、諸家の異説に至りては、いちいち挙ぐるにいとまあらず。

       第二五章 人に一定の目的なきこと

 まず第一に人に一定の目的なしと唱うる論意を述ぶるに、凡人のこの世にあるや、その生ずるも天地自然の規則に従い、その死するもまたこの規則に従い、禽獣、草木、土石、みなしからざるはなし。故に人間すでに一定の目的あれば、草木も土石も一定の目的ありといわざるべからず。もしまた宇宙の際涯なきに比すれば、人類はもちろん、その棲息する所の一地球も微々たる一小分子に過ぎず。たとえ人類は五〇年ないし一〇〇年の歳月をもって一寿とするも、これを限りなき時間に比すれば、また一瞬一息の外に出でず。かくのごとき最短最小の人にして一定不変の目的ありと論ずるがごときは、畢竟我人の迷夢たるを免れずという。あるいはまた人に一定の目的なきを論じて、およそ人の知識は限りあるものにして、目前現時の事物を知るの力あるも、物質元素のなんたる、宇宙全体のなんたる、心性霊魂のなんたる、万物の元始、世界の尽期、みな我人の知らざるところなり。かくのごとき有限の智力をもって、いずくんぞよく永遠の目的を知らんや。たとえ目的の真に存するあるも、我人の力これを究むべからざるは明らかなり。あるいはまた古来の経験に考うるも、人生の目的と定むるもの世によりて変じ、人によりて異にして、いまだ一定不変の目的あるを見ず。これまた人に真正の目的なきゆえんを知るに足る。しかして人の目的とするところは、時々刻々内外の事情によりて定まるのみ。決してその事情を離れて別に一定の目的あることなしという。かつそれ我人の一定の目的を立つるは、従来の経験に考えて、これは目的なり、かれは目的にあらずというに過ぎず。これ、あに真の目的とするをえんや。しかして従来の経験によるにあらざれば、将来の目的のいかんもまた定むべからず。これによりてこれをみるに、人はそのときの事情に応じて一時の目的あるも、一定不変の永遠の目的あらざること瞭然たり。もしまた社会の変遷よりこれを考うるに、人世は時々刻々に変遷していまだかつて休止することなし。その間、あにあえて一定の目的の変ぜざるものあるをえんや。たとえその目的あるも社会の事情とともに変遷して、昔日の目的は今日の目的にあらず、今日の目的は将来の目的にあらざるべしという。

       第二六章 人に一定の目的あること

 しかれども、もし果たして人にその必ず達すべき一定の目的なくんば、人々おのおのその思うところに任じその欲するところに従い、すこしも外よりこれを懲戒しこれを賞罰することを得ず。あにまたいわゆる義務責任なるものあらんや。いやしくも人の守るべき義務あり尽くすべき責任あるは、その必ず達すべき目的あるによる。またこれを古来の経験に考うるも、人の目的と定むるものときどき変遷することあるも、その帰するところの極意に至りては、古今一定して二途あることなし。かつ人の古代より次第に進んで今日に至るゆえんのものを見るに、常に期するところの一定の目的ありてきたるもののごとし。すでに古代より今日までその目的ある以上は、今日より将来に向かってまたその目的ありということを得べし。あるいはまた人の知識は限りありて真正の目的は知るべからずとするも、その知識以内にありてはおのずから一定の目的ありて存するを知るべし。更に進んでこれを考うるに、社会常に変遷して果たして一定の目的なきこと明らかなるときは、あるいはかえって一定の目的なきをもって目的と定めてしかるべし。もしまた人の目的とするところ、社会とともに変遷進化して一日も休止することなきときは、すなわち変遷進化をもって人生の目的と定めてしかるべし。これを要するに、人智以外にある真正の目的はその有無なお知るべからざるも、人智以内に人のよく知るべき目的のあるありて存するは必然なり。たとえその目的なしとするも、実際目的なからざるをえざる事情ありて存するは明らかなり。故に余は、人は多少定まりたる目的を有するものなりと許して論ぜんと欲するなり。

       第二七章 目的に二種の説あること

 古来人生の目的を論ずるに学者の説二派に分かれ、一は幸福をもって目的とし、一は幸福にあらざるものをもって目的とし、両説並存して、その争い今日に至りていまだとどまざるなり。在昔ギリシアにありてはエピクロス学派始めて幸福説を主唱し、ストア学派これに反対し、近世に至りてバトラー氏幸福説を排し、ベンサム氏この説を興し、その後の学者あるいは一方を取りあるいは他方を取りて、両説今なお存すといえども、幸福説の方大いにその勢力を得たるもののごとし。余もまた幸福をもって人生の目的と信ずるものなり。

       第二八章 非幸福論者の異説

 非幸福説中の主唱するところをあぐるに、ソクラテス氏は智識をまっとうするをもって目的とし、プラトン氏は理想に達するをもって目的とし、犬儒学派は妄念を脱離するをもって目的とし、ストア学派は天命に従うをもって目的とし、孔子は至善にとどまるをもって目的とし、釈迦は惑障を断じて仏果を成ずるをもって目的とし、老荘は無為自然に帰するをもって目的とし、カドワース、クラーク、プライス等の諸氏は道理説を唱えて目的を論じ、バトラー、リード、ステュアート等の諸氏は良心論を唱えて幸福を排す。その他種々の異説あるも、これを要するに、その説全く幸福の反対を取るものと、幸福の一部分を許すものの二種に分かつべし。第一種は全く人生の快楽幸福をすてて道を求むるものをいう。すなわち犬儒学派のごときこれなり。第二種は諸善行の完備したるものはおのずからこの世の幸福を得べきをもって、この世の幸福を得るには必ず徳義正善を守らざるべからずという。その意、徳義正善は人の目的にして幸福はその結果なりというにあり。すなわち近世の非幸福論者の説、みなこれに属すべし。しかれども、この両説ともに一種の空想たるに過ぎず。広く世人のなすところを見るに、一として幸福快楽の方向に進まざるものなし。古人も今人も、野蛮人も開化人も、小児も大人も、みなしかり。これすなわち幸福はその目的たるゆえんなり。ただその幸福とするところ人によりて異なるをもって、往々幸福にあらざるものを目的とするものあるがごとく見ゆれども、その実、幸福にあらざるはなし。徳義も幸福なり正善も幸福なり、幸福を離れて別に徳義正善あるべき理なし。かつ、かの世間の快楽をすつるをもって目的とするがごときも、その実、世間の外に幸福を求むるの意に外ならず。故に人生の目的は幸福にありと断言すべし。

       第二九章 幸福論者の異説

 幸福を主唱するもの、ギリシアにありてはエピクロス氏をもって初祖とし、これを継述するもの、近世にロック、ヒューム両氏あり。ベンサム氏またその説を改良して功利教を唱う。世に実利主義と唱うるものこれなり。ミル父子これを伝承す。今日にありてもベイン、スペンサー等の諸氏は、これを帰するに、またみな幸福をもって目的とするものなり。しかしてこの幸福に、自己の幸福と他人の幸福との別あり。近世の初年に当たりホッブズ氏自愛説を唱えて、自己の幸福をもって目的とす。シナにありて楊朱の自愛説あり。これに反して、愛他をもって目的とするものあり。すなわちシナの孔孟のごときはややこの説に属すべし。この自愛と愛他両説を結合して、自己の幸福と他人の幸福との兼全を目的とするもの、これを兼愛説という。ベンサム氏の功利教はその実、兼愛説なり。墨子はこれと大いに異なるところあるも、また一種の兼愛説なり。スペンサー氏も自愛と愛他のおのおの一方に僻するを見て、この二者を結合調和するものをもって目的とせざるべからざるゆえんを論ぜり。これを要するに、幸福をもって目的とする論中に、自愛と愛他と兼愛の三説ありと知るべし。

       第三〇章 兼愛説

 この自愛と愛他と兼愛との三説中、いずれか人生の目的に定むべしと問うものあれば、余はこれに答えて、兼愛をもって目的とせざるべからずといわんとす。自愛は自己の一方に僻し、愛他は他人の一方に僻し、ともに中正の説にあらざることすでに明らかなり。しかるに兼愛はこの二者を結合折衷するものなれば、その説最も中正を得たるものといわざるべからず。これただに論理上しかるにあらず。実際上これをみるも、人みな自身の幸福のみを祈りて他人の禍患を顧みざるときは、社会は一日も成立することあたわず。他人の幸福のみを祈りて自身の禍患を顧みざるも、またひとしく社会の生存を期すべからず。けだし社会は自身と他人と互いに連合団結して成り、自身ひとり社会にあらず、また自身を離れて別に社会あるにあらざれば、自身も他人と相全うして始めて社会の生存を見るべし。もしまたこれを歴史の上に考うるに、古代の人民はただ自愛あるを知るのみにて愛他を知らず。ようやく進んで始めて愛他の説起こり、いよいよ進んで自他兼愛の欠くべからざるを知るに至る。かつ今日にありても、野蛮人は自愛を知りて愛他を知らず、開明人は自愛愛他の両全を知るの異同あるを見る。すなわちその進歩、自愛より始まりて兼愛に終わるなり。これによりてこれを推すに、将来の目的は兼愛に定めざるべからざること明らかなり。

       第三一章 幸福説の難点

 さてこれより非幸福論者の説を挙げて、幸福の目的とするに足らざるゆえんを述ぶるに、第一に、人の幸福とするところおのおの異にして一定すべからざること、第二に、幸福は古来の経験の結果に過ぎずして、これをもって永久の目的と定むべからざること、第三に、幸福の義解を下すの難きこと、第四に、幸福の多寡良悪の算定すべからざること等の諸点なり。この点は、非幸福論者の幸福論者に対して難詰するところなり。

       第三二章 難点の説明

 まず第一難の意を述ぶるに、甲某の幸福とするところにして乙某の幸福とせざるものあり、丙某の幸福とするところにして丁某の幸福とせざるものあり。たとえば、甲某は妻子を有するをもって幸福とし、乙某は妻子なきをもって幸福とし、丙某は富貴をもって幸福とし、丁某は富貴をもって不幸とすることあり。かくのごとく人々の幸福とするところおのおの異なるをもって、いずれを取りて真の幸福としてしかるべきや、これを判定するはなはだ難し。故に幸福をもって目的と定むべからずという。つぎに第二の意を述ぶるに、たとえ一定の幸福ありと許すも、幸福の人生の目的たるを知るは、従来の経験によること問わずして知るべし。すなわち従来の経験上、人みな幸福を求むるの結果あるをもって、幸福は人生の目的なりと想定するに過ぎず。他語をもってこれをいえば、幸福は結果にして目的にあらず、なんぞこの結果をもって人間畢生の目的と断定するの理あらんや、いわんや人を命令してこの目的に服従せしめんとするをや。我人の必ずしもこれを遵守すべき道理なきは必然なり。故に人生の目的は幸福にあらざるものをもって定めざるべからずという。つぎに第三の意を述ぶるに、幸福をもって目的と定むるには、まず幸福のなんたるを知らざるべからず。今、幸福論者の定むるところの義解を見るに、あるいは快楽すなわち幸福にして苦痛すなわち禍患とするものあり、あるいは諸楽の総和と諸苦の総和と互いに加減して、諸楽の諸苦より多きときはこれを幸福とし、諸苦の諸楽より多きときはこれを禍患とするものなり。これを要するに、幸福は苦楽の感覚の上に属するなり。すなわち楽を長ずるも苦を減ずるも、あるいはまた同時に楽を長じて苦を減ずるも、ともに幸福の分量を増すことを得るなり。すでにかくのごとく解するときは、苦楽のなにものたるを知らざるべからず。あるいは楽はわが意識内に保存せんとする感覚にして、苦はわが意識外に放棄せんとする感覚なりといい、あるいは我人の性力をして進衝せしむるものは楽感にして拒止せしむるものは苦感なりといい、その他種々の義解あるも、要するに我人の就き近づかんとする感覚は快楽にして、避け遠ざけんとする感覚は苦痛なりというより外なし。しかれども、これただ苦楽の判然たるものについて義解を下すのみ。もしその性質を考うるときは、苦も転じて楽となり、楽も転じて苦となり、苦楽に一定の分界なきを見るべし。たとえば美色良味は人の快楽とするところにして、これを欠くは人の不快とするところなれども、久しく同一の美色に接すればまた快楽にあらず、過度に良味を用うればかえって苦痛を生ずるがごとく、過度と不足とは苦痛にして、二者の中庸は快楽なり。故に知るべし、人に一定の苦楽なきを。苦楽すでに一定せざれば幸福もまた一定せざるべきをもって、幸福は人生の目的と定むべからずという。つぎに第四の意を述ぶるに、幸福快楽にはあまたの種類ありて、心性の快楽あり、肉身の快楽あり、有形の快楽あり、無形の快楽あり、耳目の快楽あり、思想の快楽あり、情緒の快楽あり、意志の快楽あり。苦痛もまたしかり。苦楽すでにその種類一ならざれば、これより生ずるところの幸福禍患もまた、あまたあるべし。もしまた諸楽の総和より諸苦の総和を減去したるものを幸福とするも、肉身の苦楽はなにほどにして心性の苦楽はなにほどなりと、いちいちその分量を加減算定すべからざるは明らかなり。果たしてしからば、幸福快楽の分量をもって人生の目的と定むべからずという。

       第三三章 幸福をもって目的とすべき理由

 この四条の諸点は幸福をもって目的とする説を難駁するものなれども、これいまだ幸福説を破斥するに足らず。余がさきにすでに述ぶるごとく、人智以外にある真正の目的は我人の知らざるところなれば、その目的とするところ果たして幸福なるや否やを論ずべき理なしといえども、もし人智以内にありて目的を定めんと欲せば、従来の経験に考えざるべからず。従来の経験に考うれば、幸福をもって目的とせざるべからず。そもそも我人の幸福とするところ、人によりて異なり時によりて不同あるは勢いの免るべからざるところなりといえども、衆人一般に幸福とするところのものは大抵一定したるもののごとし。たとえば、富貴安逸は人の一般に幸福とするところにして、貧賎困難は人の一般に不幸とするところなり。世間往々貧賎をもって楽とし富貴をもって苦とするものあるも、これもとより例外の例にして、これをもって一般の通則となすべからず。故にもしその一般の幸福について論ずるときは、人の目的はおのずから一定すべし。かつこの富貴安逸のごときは、幸福の目的を達する方便に過ぎず。人の富貴を欲するも長寿を祈るも、その実、幸福を求むるものに外ならず。これを求むる方便人によりてかくのごとく異なるも、その期するところの目的に至りてはともに幸福にして、人々同一なりというべし。しかるにこの幸福は経験の結果にして目的にあらずと難ずるものあれども、人の目的を定むる良法は従来の経験によるより外なし。もしその経験によらざれば、その説空想に陥るを免れず。故に人生の目的は経験の結果によらざるべからずと知るべし。その他、苦楽にあまたの種類ありて一定の幸福を算出すべからずといい、苦楽の性質分界明らかならざるをもって幸福もまた一定し難しというも、これいまだ幸福説を排するに足らず。なんとなれば、これを実際に考うるに苦楽は算定し難しといえども、人の幸福とするところのものおのずから定まるを見る。かつ人はその自然の勢いに任ずるも、苦を避け楽に就き、禍害をいとい幸福を求むるの性あり。しかしてその快楽幸福の上等善良なるものを選んで、これを目的とするなり。故に人の目的は幸福に定めて決して不可なることなし。

       第三四章 幸福にあらざるものは目的とすべからざること

 もし仮に幸福は目的にあらずして禍患すなわちこれ目的なりと定むるときは、いかなる結果をきたすべきかを見るに、快楽は幸福にして苦痛は禍患なるをもって、人をして禍患を求めしむるはすなわち楽を避けて苦に就かしむるものなり。果たしてかくのごときに至らば、人類は一日も生存すべからざるなり。なんとなれば、苦痛は人の生存を害し、快楽は人の生存を助くるものなればなり。人類もし生存することあたわざれば、社会また成立することあたわざるは言を待たず。人類、社会ともに滅亡するに至らば、人生の目的も同時に廃絶すべし。けだし人生に目的あるは人類、社会の存するによる。人類、社会の存するなくして目的ひとり存するの理、万あるべからず。これをもってこれを推すに、禍患をもって人生の目的と定むべからざること明らかなり。もしこれに反して幸福をもって目的とするときは、人類はますます生育し、社会はますます繁栄するに至るべきは自然の勢いなり。故に人生の目的は幸福に定めざるべからずというなり。

       第三五章 幸福を求むるは人の天性なること

 かつまた人の天性を見るに、その勢い苦を避け楽に就くはみな人の知るところなり。すなわち禍患をいとい幸福を求むるは人の自然の情にして、小児のいまだ発達せざるに当たりてすでにこの性を有し、いよいよ生長してますますその発達を見る。これ他なし、人類進化の際、この性を有せざるをえざる事情あるによる。その事情とは、人にこの性なければ、その種類次第に発育進化して今日に生存すべき理なきをいう。かつまたこの性を有すること多きものはその生存いよいよ易く、少なきものは生存したがって難く、生存の難易長短はこの性を有するのいかんをもって判定することを得るなり。これによりてこれをみるに、人の目的は幸福快楽に定めざるべからざるなり。

       第三六章 衆人をして同一の幸福を得せしむるの難きこと

 しかるに、ここにまた一難問あり。一人の幸福を全うすれば同時に他人の幸福を全うすることあたわず、自愛愛他は両全すべからずというものこれなり。故にもし自他兼愛をもって目的とするときは、まずこの難問を解釈せざるをえず。今その難問の理由を述ぶるに、第一に、およそ世上のことたる、一方に利あれば他方に害あるは勢いの免れざるところなり。たとえば、甲地方の米を取りて乙地方の窮を救うときは乙に利あるも甲に害あり、甲乙同時に利益を得せしめんと欲するも実施すべからざるは必然なり。第二に、衆人ことごとく同一に最上の幸福を得るに至れば、幸福は転じてかえって不幸となるべし。たとえば、仮に衆人ことごとく同一の富貴を得るものと想するときは、富貴はすでにその人の快楽とならざるに至らん。けだし人の富貴を得てこれを楽しむは、他にこれを得ざる人あるによる。もし衆人ことごとく同一にこれを得るに至れば、富者もその富をもって楽とするに足らず、貴者もその位をもって幸いとするに足らざるに至るべし。第三に、人口次第に増殖して衣食住の欠乏を生ずるに至らば、その勢い人の幸福を減殺せざるをえず。地球広しといえども住するところの地限りありて、これより産出するところの食物また限りあり。しかして人口の増殖は定限なし。この限りある飲食住居をもってこの限りなき人口に供給せんとするも、早晩欠乏を感ずるのときあるべし。果たしてその欠乏を感ずるの期に達すれば、衆人ことごとく同一に幸福を全うすることあたわざるは必然の勢いなり。そのときもし一人十分の衣食住を得れば、他にこれを得ざるものありて起こらざるをえず。これらの事情について考うれば、自他衆人をして同一に幸福を得せしめんと欲するがごときは全く架空の妄想にして、実際行うべからざるものなりという。

       第三七章 苦楽は相対して存すること

 その他、心理学の理論上より生ずる一難問あり。およそ我人の苦楽幸福は相対して存し、苦を離れて楽なく、禍を離れて福なし。故に人もしその楽を得んと欲せば、まず苦を求めざるべからず。苦を感じて後、始めて楽を知ることを得べし。苦いよいよ多きときは楽いよいよ多し。労苦して後に得たる食物は、平時より一層の快楽を感ずるものなり。貧者はこれを富者に比するに、苦のみありて楽なきがごとく見ゆれども、快楽の分量に至りては貧者は決して富者に譲らざるを知る。なんとなれば、楽は苦によりて生ずるものなればなり。けだし苦楽は余がさきにすでに述ぶるごとく、全くその種を異にするにあらずして、過と不足は苦となり、その中庸は楽となるの別あるのみ。故にいかなる快楽もこれに接すること久しければ、また快楽にあらず。これによりてこれをみるに、人をしてことごとくその苦を去りその楽を得て最上の幸福に安んぜしめんと欲するも、これまた架空の妄想に過ぎずという。

       第三八章 幸福の分量と品位を増進すること

 以上挙ぐるところの難問によるに、地球上に生存せる衆人類をして、ことごとく同一に有楽無苦の純全の幸福を得せしめんとするは、けだし人の得て望むべからざるの理すでに明らかなりといえども、多数の人に多量の幸福を与うるは、あえて望むべからざるにあらず。たとえば、従前は一〇人中四人は幸福を得て他の六人は禍害を受けたるに、今後は一〇人中六人は幸福を得て四人は禍患を受くるに至らしむることを得べし。また従前は苦の量楽の量より多かりしを、今後は楽の量をして苦の量より多からしむることを得べし。これいわゆる幸福を増進するものにして、余はこれを幸福の進化と名付く。幸福の進化とは、幸福の分量を増し、幸福の品位を進め、あわせてこれを受くる人の数を増加するをいう。他語をもってこれをいえば、最上等の幸福と最多量の幸福を最多数の人に与うるものこれなり。この幸福の進化は、昔日より今日まで経歴したる成果についてすでに証することを得るをもって、今後といえどもまたこの方向に従って進むことを得べき理なり。故に今、幸福の進化をもって目的と定むるも、決して架空の妄想にあらざるを知る。もしそれ昔日の人も今日の人も、富貴の人も貧賎の人も、幸福の実量に至りては同一なりというものあらば、余これに向かって、なにをもって今日の人は昔日の人となることをいとい、貧賎の人は富貴の人となることを望むや。これ全く幸福の品位分量の、古今貴賎同一ならざるによる。故に余が幸福をもって目的とするは、その品位と分量を増進するをいうなり。もしまた幸福の実量は古今貴賎同一なりとするも、人をして上等の幸福をすてて下等の幸福に安んぜしむることあたわざるは必然なり。かつそれ人みな下等の幸福に安んじて上等の幸福を求むるの念慮なきときは、社会は決して進歩すべからず。ただ次第に衰滅するのみ。これをもって、人生の目的は幸福を増進するにあるゆえんを知るべし。

       第三九章 幸福の進化

 この理によりて幸福の社会とともに進化するゆえんを知るべし。すなわち社会進化すれば幸福の品位も分量もともに進化するをいう。昔日の人民は極めて下等の幸福を有し、今日の人民はやや上等の幸福を有し、その今日の人民も貧民は下等の幸福を有し、富民は上等の幸福を有するなり。今後更に進化して貧民も上等の幸福を有し、富民は一層上等の幸福を有するに至らば、幸福の分量もまたこれに準じて増加すべし。昔日は自己一人の幸福をもって目的とし、今日は自他衆人の幸福をもって目的とし、昔日は幸福を受くるもの極めて少数にして今日は多数に至るをもって、今後もまたこの方向に従って進化すべき理なり。以上は従来の経験に照らしてすでに明らかなれば、決してこれを空想と称すべからず。これ余が幸福の進化をもって人生の目的となすゆえんなり。しかるに学者中進化に定限あるゆえんを論じて、社会進歩して一定の極度に達すれば退歩するより外なしと唱うるものありて、幸福もその極度に達すれば進化することあたわずという。しかれども進化に果たして定限あるや否やはいまだ知るべからず。またいずれの点が極度なるやも知るべからざれば、あらかじめ進化に極度ありと想定して、幸福の進化は人の目的にあらずというを要せんや。かつさきに挙ぐるところの衣食に限りありて人口に限りなきをもって、幸福は目的とすべからずというも、いまだその極点に達するにあらざれば、いかんとも決し難し。すべて将来のことは人智をもって明知すべからざれば、ただ従来の経験に照らして推量するより外なし。もしその経験に照らして推量するときは、幸福を増進するをもって人生の目的と定めざるべからざるはもちろんなり。

       第四〇章 帰 結

 以上論ずるところこれを帰結するに、政治道徳は人生の目的を達する方便に外ならざるをもって、倫理を論ずるにはまず人生の目的を定むるを必要なりとす。しかるに古来学者のこれを定むるおのおの異にして、いずれが真いずれが非なるやいまだ知るべからずといえども、その説の主たるものについてこれを分類するに、人生に一定の目的なしと唱うるものと、一定の目的ありと唱うるものとの両説ありて、第二説中また、幸福をもって目的とするものと、幸福は目的にあらずと唱うるものの両説あり。この諸説中、従来の経験に照らして真非を判ずるときは、幸福をもって目的とするの説最もその当を得たるものなり。しかして幸福説中、自己の幸福を主とするものと、他人の幸福を主とするものと、自己と他人との幸福を主とするものの三説あるも、自己と他人との両全を主とするもの最も論理の中正を得たるものなり。しかるに非幸福論者ありて、幸福は真正の目的とするに足らざるゆえんを論ずれども、人智以外にある真正の目的は我人の知るべからざるものなれば、その目的幸福にあるか幸福にあらざるかも論ずることを得ず。もし人智以内にありとするときは幸福をもって目的とせざるを得ざるは、従来の経験より生ずるところの結果について知ることを得るのみならず、幸福にあらざれば目的とすべからざる理由ありて存するなり。しかるにこれを実際に考うるに、衆人をして同一の幸福を得せしむべからざる事情あり。またこれを理論に考うるも、苦楽禍福は互いに相対して存するものにして、純全の幸福は得て望むべからざる性質あるを見る。しかれども昔日と今日と相較し、自己と他人と相較するときは、幸福の品位と分量は次第に増進するを得べし。これすなわち幸福は社会とともに進化するものなり。故に人生の目的は下等の幸福を上等に高め、少量の幸福をあわせ多量めに進めて、これを受くる人の数を増加するにありと定めてしかるべし。

 

     第三編 善悪標準

        第四一章 端 緒

 前編は人生の目的を論じて、人間畢生の目的は幸福を増進するにあるゆえんを証したるをもって、これより倫理の性質を論ぜざるべからず。しかして倫理を論ずるには、まず善悪の分界を立てざるべからず。善悪の分界を立つるには、まず善悪の標準を定めざるべからず。標準まず定まりて後、始めて善悪是非を論ずべし。その善とはなんぞや、曰く、この標準に合したるものをいい、その悪とはなんぞや、曰く、これに合せざるものをいうなり。故に善悪の標準は道徳の基址なりと知るべし。今その基址のいかんを考うるに、すでに人生の目的を論定すれば善悪の標準はおのずから一定すべき理にして、その目的に合したるものを善とし、その目的に反するものを悪としてしかるべし。たとえば、人生の目的は幸福なりと定むるときは幸福すなわち標準なるをもって、幸福を助くる行為は善にして、幸福を害する行為は悪なりといわざるべからず。しかれども古来、学者の道徳の基址を論ずる種々多端にして、いずれが真いずれが非なるや判定し難きをもって、ここに二、三の諸説をあげて逐次論及せんとす。

       第四二章 標準の異説

 今、諸説中その主たるものについてこれを分かつに、まず第一に、一定の標準なしという論と、一定の標準ありという論との二種あり。この第二種中にまた数様の異説あり。第一に天帝の命令をもって標準となすものあり、第二に君主の命令をもって標準となすものあり、第三に道理をもって標準となすものあり、第四に道念をもって標準となすものあり、第五に自利をもって標準となすものあり、第六に実利をもって標準となすものあり。以上六説はみな一定の標準ありと立つる論なり。これに一定の標準なしという一論を加うれば七説となるべし。その諸説の異同優劣は、以下、章を追って論明せんとす。

       第四三章 一定の標準なきの説

 まず第一種の一定の標準なしという論の意を述ぶるに、第一に、善も悪も相対の名目にして、善に対して悪あり悪に対して善あり、一善として定まるものなく一悪として定まるものなく、彼我相対して始めて善あり悪あり、これ畢竟善悪に一定の標準なきによるという。その二に、善悪は世によりて変じ人によりて異なり、昔日善なるもの今日は悪となることあり、甲の善とするところ乙これを悪とすることあり、これまた善悪に一定の標準なきを証するに足るという。もしまたその標準なきを唱うる論を分類するに二種あり。その第一種の説は、善悪は全くその体なきものにして差別を有すべき理なし、しかるにその差別を見るは我人の惑いに過ぎず、もしその惑いを離れて道徳の本体に帰すれば、善もなくまた悪もなしという。仏教中の一部分および老荘のごときは、ややこの意を胚胎するもののごとし。また懐疑学派の唱うるところは大いにこれとその意を異にするも、真理の原則を疑って事物の標準を空するがごときは、また一定の標準なきを唱うる論中に入るべし。その第二種の説は、善悪は一定の標準なきも、その時とその人とによりておのずから標準の定まるあり。たとえば、古代と今日とはその標準大いに異なるところあるも、古代は古代の標準あり今日は今日の標準ありて、善悪の判然相定まるを見る。これ今日の進化論者の唱うるところなり。この前後両説の異同は、一は善悪の標準は全くこれなしといい、一は善悪の標準はその時に応じて存するも古今変遷して一定せずというにあり。今、進化論者の唱うるところを考うるに、道徳の基址は世とともに変遷して古今一定の標準なしというにあるをもって、これを標準なきを唱うる論に属すべしといえども、古代には古代の標準あり今日には今日の標準ありと論ずるをもって、またこれを標準ありと唱うる論に属しても不可なることなし。これを要するに、標準進化説は、標準ありと立つるものと標準なしと唱うるものの中間に位するものなり。しかしてこれを進化説と称するは、下等の標準の次第に進みて高等の標準を生ずるをいう。

       第四四章 一定の標準あるの説

 これに反対して一定の標準ありと唱うる論者曰く、道徳に一定の基址なきときは行為に一定の善悪あるべからず、行為に一定の善悪なきときは人の悪を懲らし人の善を勧むることあたわず。果たして人を勧懲することあたわざれば、いずれのところにか修身の道を論ぜんや。また果たして一定の標準なきときは、なにによりてか道徳の基本を立てんや。今日の善は明日の善にあらず、一人の悪は他人の悪にあらず、かくのごとく論ずるときは、畢竟世間に修身の道を講ずることあたわず。いやしくも修身の道を講ぜんと欲せば道徳の基址なからざるべからず、いやしくも善悪を勧懲せんと欲せば一定不変の標準なからざるべからず。これ実際上、道徳の標準の必要なるゆえんなり。もしまたこれを理論上に考うるも、古今一定の標準なきがごとく見ゆれども、その標準とするところの極意に至りては古今一なり。すなわち古人は天帝および君主の命令をもって標準と定めたるも、その意、人をしてその目的を全うせしめんとするにあり。外人は道理または良心をもって標準と定めたるも、その意また、人をしてその目的を全うせしめんとするに外ならず。故に道徳の標準とするところ古今異なるは、人生の目的を達するの方法、その時の事情に従って同じからざるによるのみ。もしその極意に至りてこれをみれば、善悪の標準は人類の生存、社会の安寧の外に出でず。他語をもってこれをいえば、人生の幸福すなわち善悪の標準なり。しかれども古来、人の見るところおのおの異なるをもって、その標準と定むるところまた同じからず。左にその諸説の大意を述ぶべし。

       第四五章 天帝をもって標準とする説

 古代にありては人智いまだ進まざるをもって、道理上道徳の標準を立つることあたわず。故に天帝の命令をもって善悪のおおもととす。古代の道徳学、大抵みなしかり。すでに今日に至りてもなお天帝をもって標準とするものあり。すなわちヤソ教の道徳論これなり。ヤソ教にありては『バイブル』経をもって道徳の基本とし、人のなすところこれをその経中に考えて、天帝の命に合すればこれを善とし、合せざればこれを悪とす。善悪の別は全く天帝によりて生ず。かくのごとく立つるときは、道徳の標準は一定不変なることを得るなり。

       第四六章 君主をもって標準とする説

 しかるに天帝をもって標準とするがごときは、仮定憶想に出ずるものなり。その体すでに我人の目前に現存することあたわず、またこれを実験に考えて証明することあたわざれば、これに基づきて立つるところの道徳は空想の一種たるを免れず。これにおいて、天帝の外に別に善悪の標準を定めざるべからず。まずホッブズ氏の論ずるところを見るに、君主をもって標準と定む。けだし氏は、君主はこの世にありて天帝の命を奉じて、善悪を判決賞罰する体なりと立つるによる。すなわち氏の意、天帝は遠きにありてその所在を知るべからざれば、その果たして人を賞罰するや否や明らかならざれども、君主は目前にありて直接に人を命令左右することを得ればなり。

       第四七章 道理をもって標準とする説

 しかれども君主をもって道徳の基本とするがごときは、ただ一時の便宜に出でたるものに過ぎずして、決して道理上許すべきものにあらず。もし果たして君主を標準と許すときは、道徳は政治と同じく、国によりて異なり世によりて異なるに至るべし。かつ政治と道徳の混同を免れず。故にもし道理上道徳のおおもとを論定せんと欲せば、天帝君主の外、別に標準を求めざるべからず。すなわちカドワース、クラーク、プライス等の諸氏は、道理をもって善悪の標準とするものなり。たとえば、言行の相合する行為はこれを善とし、相合せざる行為はこれを悪とす。しかしてこれを判定するは人の道理力によるという。故にこの説を道理説または智力説と称す。カント氏の道徳論はカドワース等の諸氏とその趣を異にするも、道理をもって道徳の基本となすに至りては、道理説の一種に属さざるべからず。

       第四八章 道念をもって標準とする説

 しかるにまたこれを実際に考うるに、我人の善悪是非を分別するは、教育経験を待ちて後しかるにあらず、また道理の判定を待ちてのち知るにあらず、我人に生来固有の本能力ありて、ただちに覚することを得るなりという。故にこの力を直覚力といい、これに基づきて立つるところの教えを直覚教という。

 この直覚の道徳心をここに道念と名付く。孟子のいわゆる良知良能これなり。あるいはこれを良心という。良心とは我人の生まれながら善悪を弁別し、善の求むべく悪の避くべきを知るところの本能力なり。故にこの説を、あるいは道念論または良心論と称す。古来世間の道徳を論ずるもの、大抵みなこの説に属す。すなわち西洋にありてはバトラー、リード等の諸氏あり、シナにありては孔孟の諸氏あり。これみな道念をもって標準と定むるものなり。その他シャフツベリー、ハチソン両氏の唱うるところも道念論の一種にして、古来の説を改良して今日の説に適合するものなり。

       第四九章 自利をもって標準とする説

 この良心論は人々生まれながら道徳の本心を有すというにあるをもって、これを天賦論と称すべし。すなわちその論、道徳心をもって天賦とするものなり。これに反対して道徳は天賦にあらずと唱うるもの、これを経験論と称す。経験論は人の智識も道徳もともに経験よりきたり、人の生まれながら有するものにあらずという。今その説くところをみるに、人の道徳心はすべて自愛自利より生じ、愛他も兼愛もその実自愛に外ならず。その人を愛するは人の己を愛せんことを欲してなり、その人を利するは人の己を利することを欲してなり。これホッブズ氏の自愛教を唱うるゆえんなり。これによりてこれをみるに、自愛自利の外、別に道徳の標準あるべき理なし。これをその身に考えて利あるものは善となり、害あるものは悪となり、善悪の別は自利を離れて別に存するにあらずという。ただちにこれを見れば、利他を善とし自利を悪とするもののごとしといえども、利他はその実自利より起こり、自利の極他人に及ぶものなり。故に自利すなわち標準ならざるべからず。この説を唱うるもの、マンドヴィル氏あり。氏は自利をもって道徳の標準と定むるものなり。

       第五〇章 実利をもって標準とする説

 しかれども自利必ずしも善悪の標準なるにあらず。通常人の善と称するものは自利にあらずして利他なり。しかして自利は人の一般に称して悪となすところなり。たとえ利他はその実自利より生ずとするも、利他と自利とは全く相反したるものにして、利他を指してただちに自利というべからず、自利は自利にして利他にあらず。この点よりこれをみるに、善悪の標準は自利にあらずして利他なりといわざるべからず。すなわち利他の行為はこれを善とし、自利の行為はこれを悪とせざるべからず。しかれどもこれまた正当の標準にあらざること、たやすく知るべし。およそ人の善悪を判定するに、利他をもってするものあり、自利をもってするものあるも、自利ひとり一定の標準なるにあらず、利他また必ずしも一定の標準なるにあらず、この二者はおのおのその一方に偏するの僻説たるを免れず。故にもしこの間に中正の標準を立てんと欲せば、自利利他両全をもって標準となさざるべからず。これベンサム、ミル等の諸氏の唱うるところにして、これを功利学派の説とす。その説すなわち人間一般の幸福実利をもって目的と定むるものなり。余はこれをさきにベンサム氏の幸福説または兼愛説と称して、自己の幸福と他人の幸福との兼全を目的と定むるものなり。すでにこれを目的と定むれば、道徳の基址も善悪の標準も、またみなこれによりて定むることを得べし。すなわち人間一般の幸福を全うしたる行為は善にして、これを妨ぐる行為は悪なり。自己一人を利して他人を害する行為も悪にして、他人を利して自己を害する行為もまた完全の善行と称し難し。しかれども、そのときの事情に従って必ずしも自利利他兼行することあたわずして、あるいは自利を主とすることあり、あるいは利他を主とすることあるも、その期するところ自利利他兼全にあるときは、すべてこれを善行と称すべし。たとえ自他兼全をもって目的とするも、そのときに応じてあるいは身を殺して仁をなすことあり、あるいは人を害して善をなすことあるべし。故にこの兼愛説をもって善悪の標準と定むるときは、自愛も愛他もみなこれを統合して、その範囲内に帰せしむることを得るなり。

       第五一章 六説の異同

 以上、善悪の標準について大別六説あるうち、その異同の要点を挙ぐれば、第一の天帝説および第二の君主説は、外界において標準を立つるものなり。すなわち善悪の標準を人心の外に定めて、人をしてその標準に従わしむるものをいう。第三の道理説および第四の道念説は、内界において標準を立つるものなり。すなわち善悪の標準を人心の内に定め、その力によりて善悪を判定すべしと立つるものをいう。この諸説はみな道徳の原因に基づきて標準を定むるものなり。これに反して第五の自利説および第六の功利説は、行為の結果について善悪を判ずるものなり。すなわち一は原因をもととし、一は結果をもととするの別あり。

       第五二章 諸説の優劣

 この六説中いずれの説をもって正当の標準と定めてしかるべきやを考うるに、第一と第二の両説は、人の想像または便宜によりて定めたるものなれば、正当の標準にあらざること言を待たず。第三と第四の両説は、道徳の標準は心内にありて存すと推定するにとどまりて、その標準はいずれよりきたり、いかにして生じ、果たして人のことごとく有するところなるや、またいかなる理由ありてこれを標準に定めざるべからざるやの疑問に至りて、明らかに解することあたわず。たとえば、人の生来有するところの良心をもって道徳の基本とするも、その良心はいかにして生じ、果たして人のことごとく有するところなるや、野蛮人種の極めて下等なるに至れば全く良心を有せざるものあるはなんぞや、たとえ良心を有するも、そのいまだ発達せざるものあるはなんぞや、すでに発達するも往々その作用を示さざることあるはなんぞや。これ良心説の証明することあたわざるところなり。かつ良心も世と人とによりて同一ならざれば、これをもって善悪の標準を一定すべからざるは明らかなり。しかるに幸福説は古来経験の結果より生ずるものにして、古人も今人も、野蛮人も開明人も、みなこの標準を取らざるはなし。そのうち一人の幸福を主とする自利説と、衆人の幸福を主とする功利説との二種あり。この二者中いずれが正当の標準としてしかるべきやと問うに、その功利説の正当の標準なること多言を要せずして知るべし。たとえ理論上、自利は本にして利他は末なりというも、これを実際に施すに当たりては、自利利他兼行せざるべからず。たとえまた古代は自利のみありて利他なしとするも、今日にありては自他兼全せざれば人生の目的を達することあたわず。これ他なし、利他は自利の進化したるものに外ならざればなり。かつ余は前編において、人生の目的は自他兼全の幸福にあるゆえんを論じたれば、善悪の標準もまたこの説に定めざるをえざるなり。

       第五三章 古今の幸福説の異同

 しかるにまたこれを第四三章に述ぶるところの、一定の標準なきを唱うる論中の第二説に考うるに、道徳の標準も社会とともに変遷して古今一定せざること明らかなり。古代は自利をもって標準とし、今日は自利利他をもって標準とするは、標準の世とともに変遷するによるにあらずや。別して兼愛をもって標準とするがごときは、大いに事実に反するの難を免れず。古今東西そのときの事情に応じて、自利の標準となることあり、利他の標準となることあり。かつ今後といえども、必ずしも兼愛をもって標準とするの理なし。故にもし単に幸福をもって標準とするときは、自利は自己一人の幸福、利他は他人の幸福にして、ともにその目的幸福にあるをもって、その説ひとり古今一定の標準と称すべきも、兼愛は決して一定の標準となすべからずというものあらん。この問難を解するには、まず標準の進化について一言することを要す。

       第五四章 増進幸福をもって標準とすべきこと

 標準の全体についてこれを考うるに、古代の標準も今日の標準も、ともに幸福にして一定不変なりといえども、その種類を論ずるに至りては、古今変遷して一定の標準なしといわざるべからず。たとえば、昔日は自利を標準とし、今日は利他または自利利他を標準とするがごときは、標準の世とともに変遷するものなり。これを標準の進化という。標準の進化とは、下等の標準の次第に進んで上等に達するを義とするなり。すなわち自利は標準の下等なるものにして、自利利他はその上等なるものなり。自利進んで自利利他を生ずるに至るは、いわゆる進化なり。さきに第三八章に述ぶるごとく、人生の目的は幸福を増進するにあるをもって、善悪の標準も幸福を増進するに定めざるをえず。かくのごとく定むるときは、古今の標準一定することを得るなり。たとえば、古代は自利、今日は利他または自利利他と次第に変遷するものと定むるも、みなまさしく幸福増進の規則に従うものなり。一人の幸福をもととするもの、進んで他人の幸福をもととするに至り、他人の幸福をもととするもの、また進んで自己と他人両全の幸福をもととするに至り、少量下等の幸福を少数の人に与うるもの、進んで多量上等の幸福を多数の人に与うるに至るべし。これすなわち幸福を増進するものにして、余がいわゆる幸福進化これなり。故に幸福の進化はすでに人間畢生の目的にして、また善悪の標準なり。これを標準とするときは、幸福を増進すること最も多きものは最上の善とし、やや多きものは中等の善とし、いよいよ少なきものは下等の善とすべし。

       第五五章 増進幸福は従来の経験の結果なること

 しかるにまた人あり。幸福を増進するをもって善悪の標準となすがごときは、従前の経験より得るところの結果について知るのみ、故にこれ果たして今日の標準なるの理なく、また今後必ずしもこの標準の変ぜざるの理なしというものあらん。余これに答えて、従前の経験に考えて定めたる標準は、これを想像憶説に出でたるものに比すれば、その確固たる標準なること別に証するを要せず。かつ今日にありて善悪の標準を定めんと欲せば、従来の経験上より得るところの結果によらざるをえず。従来の経験果たして真なるや否やはいまだ知るべからずといえども、今日の人智をもって定むべき標準は、従来の経験に考うるよりほかに真正の標準を立つることあたわざるや必然なり。あるいは後来いかなる真正の標準の生ずるや知るべからずと唱うるものあれども、これまた一種の空想に過ぎず。たれかよく後来にいかなる説の起こるを洞視するや。もし後来を知らんと欲せば、従前の経験に考えて推想するより外なし。経験上これをみれば、人生の目的も善悪の標準も、ともに幸福を増進するにあること瞭然たり。

       第五六章 道徳の規則

 すでに善悪の標準の幸福を増進するにあるゆえんを知れば、道徳の規則はなにに基づきて起こるかは問わずして明らかなり。古来学者の定むるところの道徳の規則は種々あるも、その帰するところ幸福を増進するにあるのみ。近くは孔子の五倫五常、ヤソの十誡〔戒〕、仏教の五戒十善等、みな社会人類の安寧幸福に外ならず。これひとり道徳の規則のみしかるにあらず、法律またしかり。しかしてこの二者の異同あるは、一は天然の規則に基づきて起こり、一は人為をもって定めたるの別あるによる。

       第五七章 賞罰の種類

 すでに一定の規則あれば、したがって賞罰の方法なからざるべからず。すなわちその規則を守らざるものはこれを罰し、守るものはこれを賞する方法をいう。しかしてその賞罰の原因は、宗教上にては天帝に帰し、政治上にては政府に帰するも、道徳上にてはしからず。これに内外の二種あり。外は社会の賞罰なり、内は自身の賞罰なり。社会の賞罰の一半は政府の法律上よりきたり、一半は世論交際上よりきたる。まず法律上よりきたる賞罰とは、法律上の罪人として賞罰を下すをいい、世論交際上よりきたる賞罰とは、世間の擯斥を受くるの類をいう。つぎに自身の上の賞罰とは、一身の健康快楽およびその子孫の上に及ぼす影響をいう。たとえば不品行のために一身の健康を害し、その余毒を子孫に遺伝するの類これなり。この内外の賞罰あるをもって、人をしておのずから自他兼全の幸福の方向に進ましむることを得るに至るべし。しかれどもこれ悪事の外行に発現したるものを懲戒するに過ぎずして、その原因を断去することあたわず、またこれをそのいまだ発せざるに防止することあたわず。かくのごときは人の智力の発達を要するところにして、純良の教育を待たざるべからず。しかして道理上善悪の起こるゆえんを示して、人をしてその目的を全うせしむるものは倫理学なり。倫理学の必要推して知るべし。

       第五八章 帰 結

 以上論ずるところこれを約言するに、人の行為に善悪あるは、必ずその標準なくんばあるべからず。しかして前編すでに人生の目的を論じたるをもって、善悪標準もこれに準じて知ることを得べし。すなわち人生の目的幸福を増進するにあれば、善悪の標準もまた増進幸福ならざるべからず。しかるに古来学者の標準を論ずるに種々の異説ありて、これを一定するはなはだ難しといえども、大別して六種となす。すなわち第一は天帝標準説、第二は君主標準説、第三は道理標準説、第四は道念標準説、第五は自利標準説、第六は実利標準説これなり。そのうち第一第二は外界にありて標準を立つるものなり、第三第四は内界にありて標準を立つるものなり、第五第六は内外両界の経験上標準を立つるものなり。もしこの六種の異説の優劣を較するときは、第一は想像によりて立つるものなり、第二は便宜によりて立つるものなり、第三第四は原因を推測仮定して立つるものなれば、ともに実験上の結果にあらざるをもって、倫理上これを善悪の標準と定むることをえず。しかして第五第六はともに実験上の結果より立つるものなれば、この説ひとり標準と定めてしかるべし。この二説のうち、第一の自利説は自利の一方に僻するをもって、これを将来永久の標準と定むることあたわず。これに対して利他説も利他の一方に僻するをもって、これまた永久の標準と定むることあたわず。故に第六の実利説の目的とするところは、最上等の幸福と最多量の幸福を最多数の人に与うるにあるをもって、いわゆる幸福の進化なり。故に余は、幸福を増進するをもって善悪の標準とするなり。

 

     第四編 道徳本心

       第五九章 端 緒

 前編は道徳の基址すなわち善悪の標準はなにによりて判定すべきかを述べたれども、いまだ人の道徳心はいかにして生ずるかを論ぜず。故にここにその本心を論ずるを適当なりとす。それ世の古今を問わず地の東西を分かたず、いやしくも人と称せらるるものは必ず多少の道徳心ありて存するを見る。すなわち人にはその善を善とし、その悪を悪とし、善のもって求むべく、悪のもって避くべきを知るの力あり。これを道徳の本心という。前に挙ぐるところの良心と称するものこれなり。この本心はいかにして生じ、いかにして発達するかは、余がここに論ぜんと欲するところなり。

       第六〇章 道徳心の異説

 古来道徳の本心を論ずるに二種の説あり。第一説は天賦論と称して、道徳心は人の生来有するところにして、経験を待ちて始めて生ずるにあらずといい、第二説は経験論と称して、道徳心は教育経験によりて発するものにして、人の生来有するところにあらずという。しかしてまたこの二者を調和する一説あり。これを遺伝論という。この遺伝論者の唱うるところによるに、道徳の本心は経験よりきたるも、一人一代の経験よりことごとく生ずるにあらずして、数人数代の経験より生ずる結果なりという。すなわちこの心を一人一代の経験より生ずるにあらずとするは天賦論の唱うるところと同一なるも、これを数人数代の経験より生ずとするは経験論の唱うるところと同一なり。故に第三の遺伝論は、天賦と経験との二論を結合したるものというべし。しかれどもその実一種の経験論にして、天賦論にあらざること明らかなり。

       第六一章 天賦論

 まず第一に天賦論の起こる理由を述ぶるに、その第一由は、我人の善悪を判定するは即時即刻に起こり、その果たして善なるか果たして悪なるかを思惟推究するを要せず。あたかも目をもって色の黒白を弁じ、皮膚をもって温の高下を知るがごとし。たとえばここに一人の窃盗罪を犯したるものありと想するに、これを聞くもの即時にその行為の悪なるを知り、これをその心に推究してのち始めてその悪なるを知るにあらず。これ人に天賦の良心あるゆえんなり。第二由は、道徳心は人間共有の性質なり。すなわち人の賢愚利鈍を問わず同一に善悪を判定するの力を有して、善を善としてこれに就き、悪を悪としてこれを避くることを知る。孟子のいわゆる惻隠羞悪の心、人みなこれありというものこれなり。第三由は、生来道徳上の教育を受けずして不良の習慣に接するものも、なお道徳の本心を有するをいう。たとえば、野蛮人のごときも哀憐の情あり、盗賊のごときも悪を知るの力あるの類これなり。第四由は、道徳心はその性質、他の心性作用と大いに異なるところあるをいう。たとえば智力作用のごときは、これを弁別力契合力等の単純の作用に分解することを得るも、道徳心はこれを単純作用に分解することあたわず。この四由は、みな道徳の本心は天賦に属するゆえんを示すに足る。故に天賦論者はこの理由をあげて、道徳心は経験より生ずるにあらずという。

       第六二章 道徳心は天賦にあらざること

 しかれども、これいまだ天賦良心を証するに足らず。まずその第一由に、善悪は人の即時に判定することを得るをもって、これを判定するの力は人の生来有するところなりというといえども、人の生来有せざるものも経験数回にわたりたるときは、猶予思慮を要せずして即時に判定することを得るに至るべし。たとえば詩を作るがごとし。これを作るの力は人の生来有するところにあらざるをもって、初心の輩に至りては猶予思慮を要すといえども、経験数回の後に至れば、習慣の力即時に数詩を製作するに至るべし。これに反して行為の善悪はたやすく判定することを得るというといえども、これ単純の行為にとどまる。もしその複雑なるものに至りては、これを判定するはなはだ難し。たとえば舜の告げずしてめとるがごとき、その果たして善なるや果たして悪なるや、たやすく判決すべからず。つぎに、第二由の人みな同一に道徳を判定するの力ありというがごときは、これまた事実に反するものなり。もしその大なるものに至りては古今東西ともにその説を同じうするも、その小なるものに至りては大いに異同あり。たとえば、人を殺すがごときはだれもその不善を知るといえども、多妻を蓄うるがごときは、あるいはこれを善とするものあり、あるいはこれを不善とするものあり。つぎに第三由もまたしかり。野蛮人の最下等に至れば、善の求むべきを知らざるものあり、悪のいとうべきを知らざるものあり。すでに台湾人の人肉を食し、士巴多〔スパルタ〕人のその子を殺してすこしも哀憐の情を動かさざるものあるは、道徳心を有せざるものといわざるべからず。第四由の道徳心は分解することあたわずというも、これまた事実に反せり。けだし道徳心も複雑なる一種の心性作用にして、他の心性作用のごとくこれを分解して、その元素に帰せしむべし。もしこの理を明らかにせんと欲せば、余が次編に論ずるところを見て知るべし。

       第六三章 道徳心は教育によりて発達すること

 更に進んで道徳心の経験より生ずる例証を挙げて、その天賦にあらざるゆえんを述ぶるに、第一に道徳心は人の生長発達に伴い、教育経験を待ちて生ずる事実あるを見る。もし人、生来果たして道徳心を有するにおいては、教育経験を待たずして自然にその心の発育するに至るはもちろんの理なり。しかるにこれを実際に考うるに、経験に富みたるものは道徳心発達し、経験に乏しきものは道徳心また乏し。善良の教育を受けたるものは善人となり、不良の教育を受けたるものは悪人となるを一般の規則となるはなんぞや。たとえ一、二例のこの規則に反するものあるも、この規則の起こるは果たしていかなる理由ありてしかるや。かくのごとく論ずるときは、天賦論者は必ず言わん、人の生来有するところのものは道徳心の元種に過ぎずして、その発達はもとより教育経験を要するなり。あるいは曰く、天賦の道徳は原形にして、これにみたすべき資料は教育経験よりきたるものなり。たとえば物品を製造するに、これを製造する作用は内にありて、その資料は外よりきたるがごとしと。果たしてしからば、教育経験を受けたるものは必ず道徳心の発達すべき理なれども、なにほど教育経験を与えても発達せざるものあるはなんぞや。人々有するところの天賦の良心は、おのおの同一なりや、また異同ありや。天賦論者はこれに答えて同一なりというべし。果たしてしからば、人に同一の教育を与うれば同一の善人となるべき理なれども、同一の善人とならざるはいかなる理によるや。これみな天賦論の解するあたわざるところにして、経験論にあらざれば知るべからざるものなり。

       第六四章 道徳心の元種原形は知るべからざること

 もし道徳心の元種原形は天賦にして人の生まれながら有するところなりというときは、その元種原形はいずれよりきたり、いかにして生ずるやの疑問、ついで起こらざるをえず。強いてこの疑問を解釈せんと欲せば、その元種原形は天帝の賦与するところなりというより外なし。人に生来元種原形ありというも、元種原形は天帝の賦与するところなりというも、畢竟無証の空想に過ぎず。かつまた人の道徳心の中に、経験を待ちて生ずるものと本来有するものと二種ありとするも、道徳心中のいずれの部分は本来有するところの元種にして、いずれの部分は経験によりて発達したるものなるやの分界を立つることあたわざるは明らかなり。果たしてしからば、天賦道徳論は想像憶説の一種なりというべし。

       第六五章 善悪の原因解し難きこと

 もしまた人みな天賦の良心を有して、生まれながらよく善悪を弁別して、その善を善としてこれに就き、その悪を悪としてこれを避くるの力ありと定むるときは、人その平時にありて善悪を弁別するも、その一時の事情によりて善悪を弁別せざることあるは、いかなる理によるや。良心はそのときに存せざるか、良心存するもその作用を示すことあたわざるや。果たしてしからば、いかなる事情によりてその作用を示すことあたわざるや。別して孔孟学者のごとく人の性はみな善なりとするときは、その悪はいかにして生ずるか明らかに解すべからず。これに反して荀子のごとく人の性はみな悪なりとするも、善悪いかにして生ずるかまた知るべからず。けだし人の心の善なるも悪なるもそのときの事情に応じて起こるものにして、昨日善をなして今日悪をなす者あり、悪心は転じて善心となり善人は変じて悪人となることあり。これ他なし、善悪はそのときの事情に応じて生ずるものなるによる。もしこれを天賦に属するときは、善悪の外情に応じて変ずるゆえんを解すべからず。

       第六六章 天賦論の難点

 以上論ずるごとく道徳心を天賦なりとするときは、第一に、善悪を判定する力、人により異なり世によりて異なるゆえん解すべからず、第二に、人の良悪は主として教育の善悪によるゆえん解すべからず、第三に、道徳心の元種はいずれよりきたるや知るべからず、第四に、道徳心のいずれの部分は天賦にしていずれの部分は経験なるや、その間に分界を立つることあたわず、第五に、善悪を弁別すべき人にして往々善悪を弁別せざるゆえん解し難し。これみな道徳の天賦にあらざるゆえんを証するに足る。

       第六七章 経験論

 これに至りてこれをみれば、天賦論を排して経験説を取らざるべからず。経験説によれば、道徳の本心は人の生まれながら有するところにあらず、その生長発育の際受くるところの教育経験によりて生ずるなりという。教育経験そのよろしきを得れば良心の発達するに至り、そのよろしきを得ざれば良心また発達することなし。善人となるも悪人となるも、みな教育経験のしからしむるところなり。けだし人決して同一の経験に接し同一の教育を受くることあたわざるをもって、道徳の本心も人々同一なることあたわざるは自然の理なり。すなわち道徳の世によりて変じ人によりて異なるは、その時の事情とその人の経験の同じからざるによる。かくのごとく解するときは、第一に、良心の人の生長に伴って発達するゆえんを知るべく、第二に、良心の人によりて異なり世によりて変ずるゆえんを知るべく、第三に、道徳の元種原形を天帝の賦与するところに帰するを要せず、第四に、その天賦の元種と経験の結果との分界を立つるを要せず。この諸点は経験論の天賦論に勝るゆえんなり。

       第六八章 教育経験の影響

 しかるにこれを実際に考うるに、いまだ経験に富まざる小児輩にしてすでに発達したる良心を有するものあり、また善良の教育を受けてかえって悪心を生ずるものあり。これいかなる理由によるやというに、およそ人の経験は長じてのち始めて起こるにあらず、母の胎内を脱して外界に出ずるやただちに起こるものなり。教育もひとり学問上の教育をいうにあらず、父母の教育、親戚朋友の教育、社会一般の教育をいうなり。故に一方の教育不良なるも他方の経験〔教育〕善良なることあり、一時の経験不良なるも他時の経験善良なることあり。もしその善良なる教育経験の不良なる教育経験に勝つときは、良心を発達するに至るべき理なり。けだし教育経験は人の時々刻々に接するところにして、知らず識らず善良の教育経験に接して道徳心を発達するに至るも、ただいかなる教育経験に接していかなる道徳心を発達せしや知定すべからざるのみ。

       第六九章 道徳心の遺伝

 しかれども、経験論はいまだ道徳心の起こるゆえんを証明するに足らず。なんとなれば、人の良心は果たして経験より生ずるときは、同一の経験に接する者は同一の良心を生ずべき理なり、またいかなる者も善良の教育を与うれば善良の人となるべき理なり。しかるにこれを実際に考うるに、良心の発達は必ずしも教育経験の良悪に関せざるは、いかなる理によりてしかるや。これ父祖の遺伝の異なるによるというより外なし。およそ人はその体質ひとり父母に類似するのみならず、その性質また父母に類似することは、みな人の知るところなり。しかしてその体質の類似は父母の性質を遺伝したるものにして、その体〔性〕質の類似は父母の性質を遺伝したるものなり。すでに性質の遺伝するゆえんを知れば、道徳心もまた遺伝すべきはもちろんなり。すでに道徳心の遺伝するゆえんを知れば、人の生来有するところの道徳心の異なるゆえんを知るべし。故に人に道徳心あるはひとり、一人の経験より生ずるにあらずして、父母の性質を遺伝するというなり。

       第七〇章 天賦良心は父祖の遺伝なること

 かつ人に生まれながらその行為の善悪を弁別して、その善に就きその悪を避くるの性あるはまた遺伝の結果にして、決してこれを全く教育経験より生ずるものとなすべからず。すなわち父祖数世間得たるところの道徳心は、これをその子孫に伝うるをもって数世の後に至れば遺伝性をなし、人々生まれながら良心を有するに至るなり。しかしてそのすでに有するところの良心は、自身一代の間に受けたるところの教育経験によりて更に発達し、そのすでに発達したるものをまたその子孫に伝えて、ますます発達したる良心を生ずるに至るべし。これ余が、天賦の良心は父祖の遺伝より生ずというゆえんなり。

       第七一章 遺伝説は天賦経験両説を調和すること

 これによりてこれをみるに、道徳の本心はひとり経験より生ずるにあらずして、また遺伝より生ずるなり。他語をもってこれをいえば、遺伝と経験相合して始めて今日の人の道徳心を生ずるなり。これを遺伝論という。遺伝論は経験と天賦の両説を統合したるものなり。すなわちこの論によれば、道徳心の一半は人の生来有するところにして、一半は人の一生間に発達するところなりという。しかしてその生来有するところなりとなすも、天賦論のごとくその原因を天帝のごとき知るべからざるものに帰するにあらずして、これを父祖数世間の経験に帰するなり。故に遺伝論は一種の経験説なり。ただその経験説に異なるは、一人一代の経験をいうにあらずして、父祖数世間の経験をいうなり。

       第七二章 遺伝順応の交互作用

 この遺伝論によるときは、道徳心の人と世によりて異なるゆえんも、その始めて生ずるゆえんも、その次第に発達するゆえんも、みな知ることを得べし。けだし人その一生間経験上得るところの道徳心はこれをその子に伝え、子はまたその一生間経験上得るところの道徳心をその孫に伝えて、いまだ発達せざる道徳心の次第に進んで、すでに発達したる道徳心を生ずるに至るべし。これを遺伝順応の規則という。順応とは、人の一生間外界の事物に接して自体を変化してその事情に適合するものにして、いわゆる経験これなり。この遺伝と順応相合して、始めて道徳の進化を見るなり。これ道徳の社会とともに進化するゆえんなり。もし遺伝のみありて順応なきときは、道徳心の次第に発達して今日に至るべき理なく、もし順応のみありて遺伝なきときは、同一の経験に接すれば同一の道徳心を発達すべき理なり。しかるに経験同一なるも、善悪を判定する力、人々異なるはなんぞや。これ遺伝の存するによる。遺伝同一なるも、善人となるものあり悪人となるものあるはなんぞや。これ順応の存するによる。この二種の規則によりて、道徳は次第に進化することを得るなり。これをたとうるに、遺伝は元金のごとく順応は利息のごとし。元利相合して道徳の進化を見るに至るべし。これを進化の定則とす。

       第七三章 良心の順応遺伝より生ずること

 この進化の定則によりて、天賦の良心の生ずるゆえん、たやすく知ることを得べし。良心とはさきにしばしば述ぶるごとく、善悪を識別してその善に就きその悪を避くる本心をいう。故に、ベイン氏は良心を解して、是非善悪を判定し、および悪を去りて善に就かんとする性力に与うる名称とし、アベルクロンベー〔アバクロンビ〕氏は人の愛欲を規制する力なりという。ダーウィン氏は、人一時私情をほしいままにしてのち公情を回想するときは、心中必ず不快の思いを感ずるに至るべし、これを良心とすという。すなわち良心は孟子のいわゆる惻隠羞悪、是非辞譲の心これなり。盗賊もよく善悪を弁別するの力あり野蛮人も哀憐の情あるは、みなこの良心の人に存するゆえんにして、その心の存するに至るは父祖数世間の順応によるものなり。父祖数世間の経験上悪をなして害を招き、善をなして福をきたすの関係あるを知り、また教育上悪の戒むべき善の勧むべきをおしうるをもって、習慣遺伝の末良心を形成するに至り、人多少この遺伝を有せざるものなきをもって、今日にありては人みなこの心を有するに至る。かつ良心すでに習慣性を成すに至れば、人即時に善悪を判定することを得るに至るも、またもちろんの理なり。すでに今日の我人はみな数世間の習慣遺伝を経たるものなれば、生まれながらすでに発達したる良心を有すべきは自然の勢いなり。これ人の教育経験を待たずして善悪を識別する力あるゆえんなり。

       第七四章 遺伝の不規則なること

 しかるに、ここに遺伝論はいまだ良心の発達を証するに足らずと唱うるものあり。今その意を述ぶるに、天賦の良心は父祖より遺伝したるものとなすときは、悪人の子には必ず悪人あり、善人の子には必ず善人あるべき理なれども、尭の子に丹朱あり、瞽瞍の子に舜あるはいかんという。余これに答えて、父祖の遺伝善良ならざるも、その一生間の順応よろしきを得るときは、生来悪人の遺伝を受けたるものの転じて善人となることを得べし、また父の方の遺伝善良なるも母の方の遺伝不良なるをもって、善人の子に不善なるものを生ずることあるべし、また父母両方の遺伝善良なるも祖父母の不良なる性質を遺伝したるをもって、不良の子を生ずることあるべし。けだし遺伝には連続遺伝と間歇遺伝との二種あり。父子の間相続きて遺伝するは連続遺伝なり、一代または数代を隔てて遺伝するは間歇遺伝なり。しかして間歇遺伝の起こるは、父祖より受くるところの性質の、その発達すべき事情に接せざるをもって発達せざることあるによる。故に、父の性質のただちにその子に伝わらずしてその孫に伝わることあり、その孫に伝わらずして数世の後に発することあるも、その性質の全く遺伝せざるにあらずして、遺伝したる性質を発達せしむべき事情に接せざるによる。この理を推して、不良の父に善良の子あり、善良の父に不良の子あるゆえんを知るべし。

       第七五章 帰 結

 以上の論これを帰結するに、古来道徳の本心の起こるゆえんを論ずるに三種の説あり。その一は天賦論にして、人の善悪是非を識別するの力は生まれながら有するところにして、教育経験を待ちて生ずるものにあらずという。しかれどもこの説にては、道徳心のいずれより起こり、だれの賦与するところなるや、またこれを有するものいかにして人々みな同一ならざるや等の理を解することあたわず。これにおいて第二の説起こる。第二説は経験論にして、道徳の本心は人の本来有するところにあらずして、教育経験を待ちて生ずるものなりという。しかれどもこれまた、人の生来多少善悪を知るの力あり、不良の教育に接して善良の人を生ずることあるの事実を解することあたわず。これにおいて第三の遺伝説起こる。遺伝説は前両説を統合折衷したるものにして、両者の欠点を補って、その解すべからざるところを解することを得るものなり。もし天賦論者のいうところひとり真にして他説は非なりとするときは、教育経験を待たずして衆人みな同一に善人となるべき理なり。もしまた経験論ひとり真にして他説は非なりとするときは、婦女子も野蛮人も禽獣に至るまで、これに同一の教育経験を与うれば同一の善人となるべき理なり。しかれどもこれを実際に徴するに、かくのごとき道理あることなし。もしこれに反して遺伝論によるときは、人の性質の一半は父祖より遺伝し、一半は自身の経験より成来するをもって、教育経験を待たざれば善良の性質を発達すること難し、また人々その父祖より受くるところの遺伝同じからざるをもって、これに同一の教育を与うるも同一の善人になすべからず。故に遺伝論は天賦経験両説を統合折衷して、その欠点を補うものなりというべし。他語をもってこれをいえば、遺伝論は道徳の進化を証示するものにして、その進化を証示するに順応遺伝の二種の規則を用うるものなり。なおその理を明らかにせんと欲せば、次編に述ぶるところの行為進化論を見るべし。


第五編 行為進化 第一

       第七六章 端 緒

 前編は道徳の本心を論じて、人に道徳心の起こるゆえんを述べたれども、いまだ十分その理を開示するに至らず。もし明らかにその理を開示せんと欲せば、ここに挙動行為の進化を論述せざるべからず。挙動行為の進化はすなわち道徳の進化なり。およそ地球上に生活を有するものは、禽獣魚虫を問わず必ず多少の挙動を有す。挙動の進化して一定の目的を有するに至れば、これを行為という。行為の進化して善に就き悪を避くるに至れば、これを道徳という。けだし道徳上の行為は人のひとり有するところにして、禽獣の有せざるところなりというといえども、さきにすでに示すごとく、人類中にありても古代の野蛮人と今日の開明人とは大いに異なるところありて、野蛮人のその母をすてその子を殺してすこしも哀憐の情を動かさざるがごときは、全く道徳上の行為を有せざるものと称せざるをえず。しかるに今日唱うるところの進化論によれば、開明人種は野蛮人種より次第に進化し、野蛮人種は動物より次第に発達してきたるものなりという。果たしてしからば、高等人種特有の道徳も、その原因となるべきものすでに動物中にありて存せざるべからず。故に余は、これより道徳の行為およびその本心の起こるゆえんを論究して、その原因果たして動物界にありて存するや、かつその原種のいかに発達して純然たる道徳を形成するに至りしや、および野蛮人の有するところの下等の道徳のいかに進化して高等の道徳を形成するに至りしやを証明せんとす。

       第七七章 目的ある挙動

 道徳は人の外界に対して呈するところの作用にして、他語をもってこれをいえば、人と他人との間に起こるところの行為なり。たとえば、君に忠を尽くし親に孝を尽くすがごときの類これなり。故にこれを行為挙動の一部分に属さざるべからず。しかして挙動に二種あり、一を目的なき挙動といい、一を目的ある挙動という。たとえば、犬の食を求めて走り、鼠の猫を恐れて隠るるがごときは、みな目的ある挙動なり。これに反して、自ら期するところなくして無意偶然に動くは目的なき挙動なり。この二者を区別せんために、余は仮に目的なき挙動を単に挙動といい、目的ある挙動を行為という。今、人類のこの挙動と行為の二種を有するは人のみな知るところにして、動物にもこの二種あるはまた人の許すところなり。しかれどももし動物中の下等に至れば、その有するところのもの全く単純の挙動にとどまりて、別に行為と称すべきものあるを見ず。また高等動物は目的ある挙動を有するも、いまだ余がいわゆる道徳なるものを有せず。これによりてこれをみるに、道徳の行為は道徳なき行為より起こり、目的ある挙動は目的なき挙動より起こるといわざるべからず。かくのごとく論ずるを、ここに道徳の進化という。余は今この道徳の進化を論ずるに、まずかくのごとき下等の挙動を有する動物より次第に進みて人類に及ぼし、その有するところの道徳の行為を論究し、あわせて道徳心の起源を弁明せんと欲するなり。これを総じて、ここに行為の進化というなり。

       第七八章 目的ある挙動の進化

 そもそも下等動物の有するところの目的なき挙動、および高等動物の有するところの目的ある挙動は、保存の規則に従って発達するものなり。保存の規則とは生存を保全するの規則にして、これに自身の保存と種属の保存との二種あり。自身の保存とは自身一人の生存を保全するをいい、種属の保存とは子孫同種類の生存を永続するをいう。およそ宇宙間に生存するもの、一としてこの二種の規則に従わざるはなく、またこれに従わざるをえざる事情あり。もしこれに反すれば、その種属は決して生存永続することあたわず。故にいかなる動物も必ずこの規則に従って進化するなり。これをあるいは称して自保自存の規則という。今、目的なき挙動の進みて目的ある挙動を生ずるに至りしも、その実この理に外ならず。すなわち行為の進化は、すべて自身の保存と子孫の永続とを全うすべき事情あるによる。ことに生物中最もよくその生存を保全せんとするものは、一挙一動必ずその期するところの目的に適合するを要す。これをもって進化自然の勢い、知らず識らず一身の挙動のその目的に適合するありて、目的なき挙動も次第に進みて目的ある挙動を生ずるに至る。他語をもってこれをいえば、行為の進化はその生存永続を益するの事情あるによる。これを要するに、行為いよいよ進化して、その一身に害あるものはこれを避け、利あるものはこれに就くに至れば、自身の生存はもちろん、子孫の永続もまた必ず全かるべき理なり。

       第七九章 保存の規則によりて善悪の分かるること

 これによりてこれをみるに、いかなる挙動もいよいよ進化してよくその目的に適合することを得るに至れば、ますますたやすく自身および種属の保存を全うすることを得べし。故に行為の善悪の別あるも、その実、行為のよくその目的に適合するとせざるとに外ならず。かくして、その目的に適合したる行為はこれを善とし、その目的に適合せざる行為はこれを悪とするに至る。けだし善悪の語はその初め利と不利とに与えたるものにして、その生存に利ある行為はこれを善といい、その生存に害ある行為はこれを悪という。今、一歩進みてこれを考うれば、その自身に利あるものこれを善とし、その自身に不利なるものこれを悪とするなり。他語をもってこれをいえば、善悪の別は保存の規則に合すると合せざるとによりて起こる。しかるに世間のいわゆる善はひろく他人を利するの行為をいい、そのいわゆる悪はひとり自身のみを利するの行為をいうは、この道理に反するもののごとしといえども、その実、自身の利害に外ならず。その他人を利するの行為の善となるは、その行為の自身の生存に利あるにより、その自身のみを利する行為の悪となるは、その行為かえって自身の生存に益なきによる。これを要するに、行為の善悪は全く保存上の利害によりて分かるるなり。

       第八〇章 利他の行為は保存上必要なること

 かくのごとく定むるときは、利他博愛をもって道徳の行為となし、自利自愛をもって不道徳の行為となすゆえん、すでに知るべし。下等の野蛮人種に至れば、自利の行為を知るのみにて利他の行為を知らざるものあり。別して動物界に入ればただ自利の行為あるのみにして、道徳と称すべき行為なきはもちろんなり。もしその間に行為の善悪を論ずるときは、自利すなわち善ならざるべからず。これ他なし、社会のいまだ団結せざる禽獣世界にありては、自利にあらざれば一身の保存を全うすることあたわざればなり。しかるに禽獣なおその子を愛するを知り、野蛮人なおその眷属を親しむを知るはなんぞや。これまた生存永続に必要なる事情あればなり。もしこれに反して、禽獣ことごとくその子を殺し、野蛮人常にその眷属と争うときは、その種属たちまち滅亡して、決して今日に永続すべき理なし。故に諸動物人類いやしくも今日に生存する以上は、その自然の性、この規則に従わざるをえざるなり。これをもって、愛他心の一端、早くすでに禽獣世界にありて存するを見るなり。この一端の心次第に発達して完全なる道徳心を形成するに至るをもって、道徳心の本源は早くすでに動物世界にありて存するを知るべし。今、人類社会の愛他の行為をもって善行とするごときも、その実、生存永続の規則に基づくものなり。

       第八一章 自愛の極愛他となること

 かつそれ人の愛他を善とし自愛を悪とするは、社会の団結したる後にあり。社会の団結せざるに当たりては、自身の生存を全うするに愛他を要せざるのみならず、愛他を全うせんと欲せば、かえって一身の生存を害せざるを得ざるの事情あり。しかれども、社会団結の今日に至りて自身の生存を全うせんと欲せば、必ず他人を愛せざるべからず。われより他人を愛すれば他人またわれを愛し、われより他人を害すれば他人またわれを害す。故にわが生存を全うしわが子孫を永続せんと欲せば、まず他人を愛し、まず他人を利せざるべからず。かつ人ひとたび他人を愛してその自身の生存に益あるを経験すれば、再びその経験を重ねんとする勢いあり。再三これを重ぬれば、習慣の力ついに一種の気風性質を成し、人たるものは必ず他人を愛せざるべからず。他人を愛せざるものは、一般に目して悪人となすに至る。故をもって、利他博愛は道徳の行為となるなり。しかれども一歩進んでこれを考うるときは、その他人を愛するの本心は、自利の心を離れて別に存するにあらざること、たやすく知るべし。故に愛他は、自愛の極ここに至るものとみなしてしかるべきなり。

       第八二章 愛他心の諸原因

 以上の論これを帰するに、今日今時の社会にありて自利を悪とし利他を善とするに至りしは、すべて自保自存の規則によるものにして、すなわちその自身の生存、種属の永続に益あるものはこれを善とし、害あるものはこれを悪とするの規則によるものなり。故にもし道徳の起源にさかのぼりてこれをみれば、ただ自利の一行あるのみにして、そのいわゆる善も、そのいわゆる悪も、またみな自利に外ならず。これ野蛮人種および動物世界に、ひとり自利の行為あるを見るゆえんなり。この自利の行為次第に進みて社会団結の後に至れば、利他すなわち善にして、自利かえって悪となる。これ進化自然の勢い、やむをえざる事情あるによる。その他、経験、習慣、教育、遺伝等、種々の事情のその勢いを養成するありて、ついに一種固有の道徳心を形成するに至る。かつ人の他人を愛するをもって道徳の行為となすに至りしは、世間の名誉を愛するの情および同類相憐むの情より生ぜしこと、また疑いをいれず。その他、宗教政治の人心人行を懲戒するによること、また明らかなり。このことの諸事情によりて、今日の人は生まれながら利他の善にして自利の悪なるを知り、一種の良心を養成するに至るなり。しかれども、利他の行為のみを善として自利は全く悪なりとなすがごときは、進化の影響一方に僻するによるものにして、自利利他兼行するにあらざれば正当の善行となすべからざるの理、またたやすく証示することを得べし。たとえば、仮に人みな他人のためにその身を殺すをもって善となすとせんか。この目的をもって進むときは社会たちまち退歩して、人類ついに滅絶するに至るべきは心然なり。故に知るべし、自利利他兼行するにあらざれば道徳の行為となすべからざるを。しかりしこうして、進化の影響利他の一方に僻して、世間ほとんど自利の必要を忘るるに至りしは物理自然の規則にして、すべて物はある事情に応じて一方に進むときは、その事情の存せざるに至るも、なお永くその方向を保たんとする習慣性あるによる。故に余は、自利利他両全をもって道徳の本行とするなり。

       第八三章 保存と苦楽との関係

 上来はただ保存の規則上、行為の善悪の相分かるるゆえんを述べたるのみ。これより心理学に基づきて善悪の相分かるるゆえんを述べんとす。今、心理の規則によるに、保存に益あるものはこれに接して快楽を生じ、保存に害あるものはこれに接して苦痛を生ずという。かくのごとく苦楽と保存の密接なる関係を有するは、また進化自然の結果なり。もしその理を知らんと欲せば、まず苦楽の性質を知らざるべからず。苦楽は余がさきにすでに義解を下したるがごとく、外物外界に接触して、われよりこれに就き近づかんとする感覚を快楽とし、われよりこれを避け遠ざからんとする感覚を苦痛とするなり。もしこれに反して、保存に益あるものはこれに接して苦痛を生じ、保存に害あるものはこれに触れて快楽を生ずるに至らば、我人は一日もその生存を全うすることあたわざるは必然なり。なんとなれば、保存に益あるものを避けて、保存に害あるものに就くに至ればなり。故に進化自然の影響、保存に益あるものはこれに接して快楽を生ずるをもって、我人のこれに就かんとする性を発達するに至り、保存に害あるものは苦痛を生ずるをもって、我人のこれを避けんとするの性を発達するに至りたるなり。しかれども、動物も人類もその初期にありて、早くすでにこの苦楽と保存の関係を有するにあらず。けだしその初期にありては、あるいは全くこの関係を有せざるものあり、またこれを有するものもわずかにその一端を有するにとどまりて、決して今日の人類のごとく密接なる関係をその間に有するにあらざるなり。もしまた全くこの関係を有せざるものはたちまち滅亡に帰して、その種属の今日に存すべき理なきは問わずしておのずから知るべし。もしわずかにその一端を有するものは、進化の際自然にその性の発達するに至るもまた道理のしかるところなり。これをもって、今日の諸動物人類はみな多少の苦楽と保存の関係を有し、その最も発達したるものはその関係最も密接なるを見る。これ余がこの関係をもって、進化自然の影響、結果に帰するゆえんなり。

       第八四章 苦楽と善悪との関係

 以上すでに保存と苦楽の密接なる関係を有するを知り、また保存に益ある行為を善とし、保存に害ある行為を悪とするの規則あるを知るときは、快楽はすなわち善となり苦痛はすなわち悪となりて、善悪の別はその初め苦楽の感覚より生ずるゆえんを知るべし。そもそも道徳の善悪は人類特有の行為にして、動物界にありてはいまだその別あるを見ずといえども、苦楽の感覚に至りては諸動物大抵みなこれを有し、楽に就きて苦を避くるの性質は禽獣なおことごとく有するところなり。もし果たして人類は動物より進化したるものと定むるときは、人類中の善悪の行為は、その原因すでに動物中にありて存せざるを得ず。およそ動物中の諸類はいまだ善悪の行為を有せざるも、その初めよりすでに苦楽の感覚を有する以上は、この二種の感覚次第に進化して善悪の行為を生ずるに至るというも、理のもとより許すところなり。すなわち我人の経験上、快楽を生ずる行為は次第に進んで善行となり、苦痛を生ずる行為は次第に積んで悪行となるなり。これもとよりに生じ一朝一夕に成るものにあらず、数世数万年間の習慣相積み、遺伝相受けてここに至るなり。かくしてすでに善悪と苦楽と同一の関係を有するゆえんを知れば、禍福と善悪の同一の関係を有するゆえん、またしたがって知るべし。果たしてそのしかるゆえんを知れば、人生の目的は幸福にあり、善悪の標準は幸福に外ならざるゆえん、またおのずから知るべし。仁というも徳というも、諸善諸行その実みな快楽幸福に基づくゆえん、またまた知るべし。これによりてこれを推すに、自身の快楽は善行の原因となり、自身の苦痛は悪行の原因となるの理、すなわち愛他は自愛より起こるの理、たやすく了解することを得るなり。

       第八五章 道徳の諸情

 もしまた心理学について道徳心の起こるゆえんを考うるに、人の情緒を分かちて、驚、愛、怒、懼、我、力、行、同、智、美、徳の一一情の外に宗教の情を加えて一二情とするなり。そのうち徳情とはすなわち道徳の情にして、これ人の善を喜び悪を憎むの情をいう。すなわち人のその身をすてて他人を愛するの情をこのうちに属するなり。いわゆる愛他博愛の情これなり。しかれども更に進んでこの情の起こるゆえんを考うるに、愛、我、同の三情より生ずるなり。愛情とは愛憐の情にして、人のその妻子を愛し器具を愛するの類をいう。我情とは自利自愛、自高自慢の情にして、人のその身を重んじその名を愛する等の情をいう。同情とは同感同憐の情にして、人の苦を見て哀れみ人の楽を見て喜ぶの情をいう。この三種の情相合して、余がいわゆる道徳の情を形成するに至るなり。

       第八六章 道徳の諸情の保存の規則より生ずること

 まず愛情はなにによりて生ずるかをみるに、これもとより保存の規則により、その情の転じて道徳の情を形成するもまたこの規則によるなり。すなわち人のその妻子を愛するがごときは、その一身およびその種属の保存に必要なる事情あるによる。もし同情およびその他の諸情のこれに加わることあるときは、その極ついに愛他無私の徳情を生ずるに至るも、その実、自身を愛するの私情より起こること明らかなり。つぎに我情とは自利の情にして、人のこの情を有するに至るもまた保存の規則によるものなり。すなわち自身を愛重するは野蛮社会にありては生存上欠くべからざる事情にして、今日にありてもその情の生存に必要なること、またすでに人の知るところなり。つぎに同情は全く愛他の情のごとく見ゆれども、これまた自愛自利の私情より起こることはたやすく証示することを得べし。たとえば、人の苦を見て哀れむは自身の苦を想出するにより、人の楽を見て喜ぶは自身の楽を想出するによる。けだし人はその苦楽の内情を外貌に発顕するを常とするをもって、外貌を一見すればただちにその同情のいかんを察知することを得べし。これをもって、他人の苦楽はたちまち自身の苦楽を感起して、その苦を見れば自らその苦に当たるの感覚を生じ、その楽を見れば自らその楽を受くるの感覚を生ずるに至るなり。しかれども、もしわが経験上この苦楽と外貌との関係を知らざるときは、たとえその外貌を見るも同情を動かすべき理なきをもって、赤子のごときは人の死するを聞くも苦痛を感ぜず、人の喜びを見るも快楽を生ぜざるなり。これによりてこれを推すに、同情の生ずるは他人の苦楽を他人の苦楽として感ずるによるにあらず、他人の苦楽を自身の苦楽として感ずるによる。他語をもってこれをいえば、他人を哀憐するの情は自身を愛するの情より起こる。これを要するに、道徳の情は主として愛、我、同の三情より成り、愛、我、同の三情はその実、自愛自利の私情に外ならざるをもって、利他博愛の善行はその実、自愛自利の私情より発達したるゆえんを知るべし。しかしてこの私情の発達して道徳の公情を形成するに至るは、進化自然の規則によるものなり。

       第八七章 惻隠心の起源

 以上論ずるところについてこれを考うるに、利他博愛の情は自愛自利の心より生じ、善悪の行為は苦楽の感覚より生ずるものにして、その次第に発達して道徳心を形成するに至りしは、全くその進化の際、保存の規則に従わざるを得ざる事情あるによる。かくのごとく論ずるときは、道徳心は全く経験より生ずるの論に帰すべし。しかるに経験論に反して天賦論を唱うる者は、人に本来道徳の本心すなわち良心なるものありて存すという。今、孟子の論点をあげてその証を述ぶるに、人には生まれながら惻隠、羞悪、辞譲、是非の四心ありて、この四心は仁、義、礼、智の四端にして、人のこの四端を有するは、本来仁義の良心を有するによるという。故にもし道徳の果たして進化経験の結果なることを示さんと欲せば、まずこの四端の果たして経験より生ずるゆえんを論ぜざるべからず。第一に、惻隠の心とはすなわち人に忍びざるの心にして、孺子の井に入らんとするに当たりて、人みな見るに忍びざる心を生ずるものこれなり。これ果たして孺子を愛するの善心なるや、また自身を愛するの私情なるや。余をもってこれをみれば、これすなわち同情より生ずるものにして、その実、他人を愛するの公情にあらずして自身を愛するの私情なること、前章に述ぶるところを見て知るべし。かつホッブズ氏いえることあり、人の危難を見て惻隠の心を生ずるは、自身の上に危難を受くるがごとく想像するより起こると。その意、惻隠の心は自愛心より起こるゆえんを示すものなり。

       第八八章 羞悪心の起源

 第二に、羞悪の心とは自身の不善を恥じ他人の不善を憎むものにして、いわゆる良心なり。人にこの良心の存するをもって、自ら不善をなして悔悟の情を発するに至るべし。自ら不善をなして悔悟の情を発するゆえんは、フィスク氏の論ずるところを見て知るべし。氏曰く、人の心中には社会一般の公利を思うの情は終始常に存すといえども、その情一時に激発することなし。これに反して、私利私欲をほしいままにせんとするの情は一時に衝起するをもって、その力いたって強きもその永続する時間はなはだ短く、かつこれを脳裏に記念するまた薄し。故に人その一時の衝力によりていったん私情をたくましくすることあるも、その智力思って平常記念するの点に復すれば、たちまち良心の再起するありて悔悟の情を生ずるに至るなりと。これすなわちダーウィン氏の人類成来論中に論ずるところの意なり。これによりてこれをみるに、けだし物の性たる、縦にその時長ければ横にその力弱く、横にその力強ければ縦にその時短きを通則とす。今、私情のごときはその力横に長きをもってその永続する時間短く、博愛無私の情はその時縦に長きをもってその一時の力私情のごとく強からず。故にいったん私情の衝起するに当たりては、あるいはこれを制抑することあたわざるも、公利を思うの情常に記憶中に存して間断なきをもって、たちまちこの情を想起して悔悟の良心を生ずるに至る。これにおいてか、自身の不善を恥ずるの心を生ずるなり。すでに自ら不善を恥ずべきを悔悟すれば、これを人に及ぼしてその不善を憎むに至るもまた自然の理なり。これ人に羞悪心の起こるゆえんにして、たとえその心の人に存することあるも、これ決して天賦の良心なるにあらざることすでに知るべし。

       第八九章 辞譲心の起源

 つぎに、辞譲の心とは己を退けて人を推すの心にして、人のこの心を有するは教育経験の結果なることまた明らかなり。今その原因を考うるに、これ、自身の生命を保ち自身の快楽を全うせんとするの性より生ずるなり。他語をもってこれをいえば、人を尊敬するの情に出ずるにあらずして、自身を愛重するの心より生ずるなり。およそ人の野蛮世界にありて腕力相争うに当たり、一身の生存をその間に保全せんと欲せば、弱者常に強者の前に屈伏遜譲せざるべからず。しからざれば弱の肉は強の食となるのみ。かつ人の性たる、いったん恭敬辞譲を尽くしてその身に益あるを知れば再三これを重ねんとするに至り、再三これを重ねてますますその身に利あるを験すれば、次第にこれを及ぼして上下一般の礼義を組成するをもって、その習慣遺伝の力ついに一種の性を鋳造するに至るべし。これ礼譲心の人に起こるゆえんにして、すなわちその心の自身を利するの私情より生じたるゆえんなり。

       第九〇章 是非心の起源

 つぎに、是非の心とは善を見てこれを是とし、悪を知りてこれを非とするの性力にして、これまた良心作用の一なり。今ヒューム氏およびその他の功利学家の唱うるところによるに、善悪是非を識別するの良心は各人経験するところの苦楽の感覚より化生すという。これすなわち善悪の本源は苦楽にありというの意なり。故にベイン氏も天賦良心を排して、我人今日にありてはただちに善悪を識別するの力を有すといえども、この理をもって良心は天賦なりと断言するを得ず。なんとなれば、習慣因襲の久しき、おのずから一種の天性を鋳造することあればなりという。かつ余がさきにすでに論ずるがごとく、我人日夜経験実行するの際、苦痛を与うるものはこれを悪とし、快楽を与うるものはこれを善とし、善悪は全く苦楽より生ずるをもって、苦楽を識別するの力次第に発達して、善悪を識別するの性を鋳造するに至るなり。果たしてしからば、人に善悪是非を識別するの力あるは、全く習慣経験よりきたるものなりと知るべし。

       第九一章 良心の起源

 これによりてこれをみるに、世に天賦の良心と唱うる惻隠、羞悪、辞譲、是非の四心はその実天賦にあらずして経験より生じ、利他博愛の公情はその実天賦の愛他心にあらずして経験の際得るところの自利の私心より生ずること、すでに明らかなり。かつまた自利の私心はその実、苦を避け楽に就くの情に外ならざるをもって、仁、義、礼、智の四端みなただ苦楽両感覚の発達分化したるものに過ぎず。しかしてその発達分化の第一原因は、さきにしばしば挙ぐるところの進化保存の規則による。すなわち保存に害あるものはこれに接して苦を感じ、保存に利あるものはこれに接して楽を感ずるに至るはいわゆる進化の結果なり、苦を避けて楽に就くはいわゆる保存の規則なり。しかれどもこの規則に従って道徳心の発達するは自然の勢いここに至るものにして、あらかじめ意識を用いてこれをなすにあらず、また自らこれを知覚するにあらず。かつその始めて起こるや、もとより著しき変化を有するにあらずといえども、およそ物の性たる、ひとたび一方に動けば永くその方向に進まんとする規則あるをもって、苦を避け楽に就かんとするの性、いったんその起源より発する以上は永くその性に従って進まんとするの傾向あり。その他、この傾向を養成する種々の事情ありて良心の発達を見るなり。しかして良心の発達は順応遺伝の二種の規則に従うゆえんは、余が前編においてすでに証示せるところなれば、またここに贅言せず。

       第九二章 道徳心の進化

 以上の諸論これを要するに、道徳上の愛他の心は自愛の情より発達し、利他の行為は自利の行為より成来し、善悪の別は苦楽の感覚より分化するなりというにあり。これ全く進化の結果にして、下等動物の進みて上等動物となり、上等動物の進みて野蛮人種となり、野蛮人種の進みて開明社会となるの際、その永続保存に必要なる事情あるによる。他語をもってこれをいえば、保存の規則に従って進化するによる。もしその規則に従わざるときは、人類動物の今日に存すべき理なし。故に余は、道徳は全く保存の規則に基づき、進化の結果によりて生ずるものなりという。その他、道徳の発達に必要なる事情は、智力の発達と言語の発達なり。智力のいまだ発達せざるに当たりては記憶および推理の力いたって弱きをもって、過去の経験を想起し未来の結果を前定することはなはだ難し。また言語のいまだ発達せざるに当たりては、衆人の経験思想を結合通達することあたわず。故に言語智力の発達するにあらざれば、道徳もまた発達せざるべし。その他、種々の事情のこれに加わるありて、道徳の行為も本心もともに進化するに至るなり。

 

     第六編 行為進化 第二

       第九三章 進化競争の規則

 前編は保存の規則に従って、善悪の行為および道徳の本心の進化発達したるゆえんを述べたれば、これより更に進んで生物および社会一般の進化を論じて、道徳の世に起こる順序次第を明らかにせんと欲す。故にまずここに、進化全体に関してその原因事情を略弁せざるべからず。そもそも進化の原因は種々ありといえども、その主たるものは生存競争なり。生存競争とは、禽獣または人類のその生存を全うせんと欲して、同類または外情に抗敵競争するをいう。故に競争に二種あり。曰く、外情の競争と同類の競争なり。外情の競争とは晴雨寒暖、飲食住居、地形空気、生物無機等に対して抗争するをいう。たとえば人あり、生まれて体質柔弱なるときは、寒暖風雨に対して抗争することあたわず。もし果たして抗争することあたわざるときは、その生存を全うすることあたわざるは必然の理なり。もしこれに反して体質生まれながら強壮なるときは、外界の諸事情に競争して生存を全うすることを得べし。これを適種生存の理法と称す。すなわち生物のその外界の諸事情に適合するときは生存し、適合せざるときは滅亡するの規則をいう。つぎに、同類の競争とは同種同類間に起こるところの競争にして、その起こる原因は人口の増殖と衣食住の欠乏とによる。別して食物の欠乏をもって第一原因となす。けだし食物には一定の限りありて、人口の増殖には定限なし。もしその限りある食物をもって限りなき人口に供与せんとするときは、その極、同種同類間に競争せざるを得ざるは自然の勢いなり。競争ひとたび起こるときは、強かつ優なるものは勝を制し、弱かつ劣なるものは敗を取るもまた必然の理なり。これを優勝劣敗という。これまたいわゆる適種生存の理法に基づくものなり。この二種の競争を合して、ここに生存競争の規則とす。生物および人類の進化も、社会および道徳の進化も、みなこの規則によるものなり。

       第九四章 順応遺伝の規則

 競争の規則に続きて進化に必要なる原因事情は、順応と遺伝との二種の規則なり。この二種の規則は余が第四編においてすでに略述したるところなるも、いまだその規則の起こるゆえんを示さず。けだしその起こるは、生存競争の規則および適種生存の理法に基づくによる。まず順応とは、わが体を変化して外界の諸事情に適合することにして、これに間接順応と直接順応との二種あり。間接順応とは胎児のその母の体を隔てて受くるところの順応をいい、直接順応とは胎内を離れて外界よりただちに自体に受くるところの順応をいう。およそ宇宙間に生活を有するもの、その生存を全うせんと欲せば必ず外界に対して競争せざるべからず。競争ひとたび生じてその間に生存を全うせんと欲せば、自体を変化して当時の事情に適合せざるべからず、しからざれば生存すること難し。故に生物進化の勢い、おのずから外情に順応せざるを得ざるに至る。今、道徳の発達もまたこの規則に従うものなり。上等動物の種々の事情に接して知らず識らず道徳の元種を有するに至るも、野蛮人種の種々の経験をへて自然に道徳の行為を現ずるに至るも、開明人民の種々の教育を受けて道徳の本心を開発するに至るも、みな順応の規則によらざるはなし。教育はすなわち順応の一種なり。つぎに遺伝とは、生物その自ら有するところの性質を子孫に遺伝する規則にして、これに固有遺伝と得有遺伝との二種あり。固有遺伝とは、人の生来その祖先または父母より得たるところのものを子孫に遺伝するをいい、得有遺伝とは、その人の一生間偶然に経験より得たるところのものを子孫に遺伝するをいう。故に得有遺伝は、順応と遺伝の二種相合したるものなり。しかしてまた固有遺伝中に連続遺伝と間歇遺伝との二種あれども、その二者の別はさきに第四編七四章においてすでに述ぶるをもって、ここに論ずるを要せず。この順応と遺伝の規則によりて、道徳の本心および行為は次第に下等より上等に進化するなり。これを要するに、動物および人類はその生存競争の際、体質および心性上に得たるところの変化をその子に伝え、その子はまたその一生間に受くるところの順応教育をその孫に伝え、子々孫々次第に相順応し相遺伝して、下等の道徳も上等の道徳に転化するを得るなり。これを道徳進化の通規とす。

       第九五章 淘汰の規則

 以上、競争、順応、遺伝三種の規則は進化必要の事情なるをもって、これを進化の三要因となす。この要因によりて、強はますます強、弱はますます弱となりて分かるるなり。これを自然淘汰の規則とす。自然淘汰とは、天然力によりて優劣強弱を取捨淘汰するをいう。たとえば、動物の人類に進み、野蛮の開明にうつるはこの規則によるものにして、道徳の発達またこの規則による。これに反して、別に人為淘汰と称する規則あり。これ人為によりて淘汰する法なり。今、上等動物および野蛮人種の父子朋友の相愛すべきを知り、優かつ強なるものの相敬すべきを知るがごときは自然淘汰の結果にして、父母の教育、学校の教育をもって子弟の道徳を養成するがごときは人為淘汰法なり。故に道徳は、自然淘汰と人為淘汰の両法によりて発達するものなりと知るべし。

       第九六章 習性連想の規則

 その他、道徳の進化に必要なる事情は習慣と連合との二種の規則なり。連合は思想の連合にして、これを略して連想と称す。習慣は因習性をなすの規則にして、あるいは称して習性の事情となす。まず習性とは、すべて物ひとたび一定の方位に動けば永くその方向に進まんとする傾向あるをいう、あるいはまた人類動物のひとたびなすところのもの再三反復せんとする性あるをいう。連想すなわち思想の連合とは、人の諸動作感覚のしばしば付近連接して起こるときは、その間互いに相付着連合するありて、一者心に触るれば思想上おのずから他者を惹起するの作用をいう。これを要するに、連想は習性によりて生ずるなり。故にモルフェー〔マーヒィー〕氏はその習性智力論中に習性の義解を下して曰く、習性なるもの、これを大にしては諸生物の動作性質を反復因襲してその子孫に遺伝すべき一種の性法に与うるの名にして、有識無識両作用の基礎なり、かつ思想連合の規則もこの一部に属するものなりと。けだし種々の思想の互いに相連合するは、同一の経験を反復因習するによる。これいわゆる習性の作用なり。習性の作用によりて連想の作用あり、連想の作用によりて道徳進化の作用あるなり。今、習性連想の作用によりて道徳の進化するゆえんを証示するに、まずここに生物一体の進化および社会一体の進化を略言せざるべからず。

       第九七章 生物の進化

 およそ宇宙間に現存せる事々物々、一として進化の規則に従って開発せざるものなし。けだしその初めて開くるに当たりて、一理分かれて物心両界となり、一物分かれて有機無機両体となり、有機分かれて動植人類となりしは、今日の実験に照らしてすでに推知することを得るなり。しかるに生活を有する有機体の、生活を有せざる無機物より分化したりというの一論に至りては、学者の説いまだ一定せずといえども、動植の一源より生じ人類の同祖よりきたるの理は、種々の実事に考えて疑うべからざるものあり。故に余は、まず生物一体の進化より道徳の起こるゆえんを述べんとす。およそ生物その生存を全うせんと欲せば、内外の適合を得ざるべからず。適合とは、さきのいわゆる順応これなり。他語をもってこれをいえば、内情の外情に適せざるときは、病患災害を身体の上にきたして生存を害するの恐れあり、内外両情の互いに相適するときは、健康保全を得て生存発達すべし。たとえば、体質柔弱にして極寒極暑に耐え難きもの寒帯または熱帯地方に住するときは、これいわゆる内情の外情に適せざるものにして、その生存を全うすべからざること明らかなり。もしこれに反して体質寒帯に適したるもの寒帯に住するときは、これいわゆる内外順応したるものなり。たとえその初め寒帯に適せざる体質を有するものも、次第に内情の変化するありて外情に適するに至れば、これまた内外適合したるものなり。しかしてそのよく内外両情の適合を指示するものは苦楽の感覚なり。楽感は心身の活動を進め苦感は心身の活動を減ずるをもって、生物もし苦を避け楽に就くの挙動を有するときは、ますますその活動を促しその発達を進むるに至るなり。すでに苦を避け楽に就くの生存上実益あることを経験すれば、習慣の力ますますその方向に従って追進するの性あり。これをもって、諸生物は自然に苦を避け楽に就くの本性を発達して、その苦は進んで禍患となり、その楽は進んで幸福となり、善悪曲直もまたこれに従って分かるるなり。もしこれに反して生物の性、楽を避け苦に就くときは一日もその生存を全うすべからざること、余がしばしば論明せるところなり。かつその苦を避け楽に就くの性あるも、性の最もよく発達したるものは最もよく生存繁栄することを得るは、また生存競争の規則なり。これをもって生物進化の力、自然に苦を避け楽に就くの性質を発達するに至る。これ全く適種生存、自然淘汰の規則に従うものにして、さきにいわゆる保存の規則に従うものなり。

       第九八章 人類の進化

 生物一体にすでに内外順応の作用を有し避苦就楽の性質を有するをもって、生物中その最も高等に位する人類のごときは、その最も発達したる性質作用を有すべし。かつ諸動物の作用は大抵無意無心に出でて、自然の性法に従って発達するものなれども、ひとり人類に至りては有意に出ずるもの多し。有意とは、我人その意力を用いて苦を避け楽に就き、もって生存を保全するの方向に進むものをいう。これをもって、人類は最も著しくこの性質の発達するに至るなり。しかして人類の有意作用中に最もその発達に力あるものは教育なり。教育には父母の教育、学校の教育、世間の教育等あるも、みな人をして内外順応の性質を進長するに大いに益あるものなり。その他、動物中にはいまだ純然たる目的ある挙動を有するものを見ずといえども、人類に至りてはその行為大抵みな期するところの目的ありて、これに向かって進むもののみ。これいわゆる有意上の作用にして、意力をもって内外の順応を命令指揮するものなり。かくして、楽を求むるの性次第に発達して善を求むるの性をなし、目的なき挙動次第に変遷して道徳の行為を生ずるに至るも、その実、道徳は内外順応、適種生存の規則に従うものにして、これすなわち進化淘汰の結果なりというべし。

       第九九章 社会の進化

 しかるに人類もその初期にありては道徳の行為なきはもちろんにして、無意自然の性に従って苦を避け楽に就くがごとき、あたかも目的なき挙動を有するのみ。たまたま目的ある挙動を有するも、その行為は進んで道徳の行為となるは人類間の競争淘汰によるというも、他に一大原因なくんばあるべからず。その原因とは、すなわち社会の団結これなり。動物および最下等の人類に至りては、おのおの離散して生活を営み、いまだ群居団結して互いに相助くるに至らず。しかるに種属間互いに相競争するの際、各人離散して相争うは、衆人集合して相争うの益あるにしかざるをもって、進化自然の勢い互いに相集合するに至り、すでに集合すれば、そのよく団結したるもの勝を制するをもって、また自然の勢い協力分労の起こるに至る。これをもって、ひとたび集合したる人類はますます団結合成して協力分労の制、最もそのよろしきを得るに至るべし。しかしてそのよく社会の団結を合成するには、互いに相親愛せざるべからず。互いに相親愛するには、己をすてて人を愛せざるべからず。ここにおいてか、利他博愛の人の普通の道徳となるに至る。これ社会進化上やむをえざるに出でたるものにして、道徳の世間に起こりし一大原因なり。故に自利自愛の進みて利他愛他となりしは、社会団結の事情によるものと知るべし。

       第一〇〇章 心理の進化

 これによりてこれをみるに、生物進化の際いやしくも生活を有するものはみな苦を避け楽に就くに至り、人類進化の際目的なき挙動の目的ある挙動を生ずるに至り、社会進化の際互いに相抗争離散せるもの互いに相親愛団結するに至り、苦楽の感覚は進んで善悪の行為となり、自利自愛の私情進んで利他愛他の公情となる。これみな淘汰保存の規則に従うによる。その他、心理上の進化に従って道徳の進化を見ることあり。これ、さきに挙ぐるところの習性連想の作用によるものなり。この作用によりて苦楽の感覚の進んで善悪の良心となるゆえんは、ミル、マッキントッシュ両氏のすでに証明せるところなり。ミル氏曰く、思想はつねに思想に伴い観念はつねに観念に伴うをもって、わが覚官の活動する間は耳目触覚等の感覚互いに相感応して休まざるのみならず、一感覚起こるあれば必ず一思想のしたがって生ずるあり、一思想の生ずるあればまた他の思想のしたがって生ずるありと。マッキントッシュ氏曰く、諸思想連合するときは、全くその各思想より異なりたる思想を得るに至るべしと。これを要するに、事物は反復因習するの性を有し、その性に従うときは互いに相連合するの結果を見るに至り、動作、感覚、思想みな相連合伴生して一物より他物に及ぼし、有形より無形に入り、実事より虚想にわたり、その極、我人のいまだ一回も見聞経験せざるものを想見するに至る。これによりてこれを推すに、我人の日夜感触する苦楽の感覚の進んで善悪のごとき虚想を結ぶに至るも、一人一己の私利を求むる心進んで公衆一般の利益を思うの情を生ずるに至るも、みな理のすでにしかるところなり。その他、父母の教育、教師の訓導、政府の法律、宗教の懲戒、社会の世論等ありて、人をしておのずから悪を捨てて善にうつらしむるに至るにあらずや。

       第一〇一章 道徳全体の進化

 以上論ずるところによるに、道徳の行為は下等動物の挙動より次第に進化発達したること明らかなり。けだし動物はその進化の初期にありてはいまだ目的ある挙動を有せざるもすでに活動作用を有するをもって、内情をして外情に適合せしむることを得べし。しかしてすでに内外両情の互いに相適応することを得るに至れば、その性発達して目的ある挙動を生ずるに至るべし。その挙動も動物界にありては無意無識に出ずるもの多しといえども、人界に入りてこれをみれば有意有識に出ずるもの多し。これ進化自然の勢いのしからしむるところなり。別して社会団結の後に至れば、愛他の行為にあらざれば自愛の目的を達することあたわざるをもって、その勢い自然に今日のいわゆる道徳なるものを生ずるに至るなり。これ全く教育、経験、習性、連想の事情による。この事情によりてひとたび発達を得たる道徳はその子孫に遺伝するをもって、ますます発達したる良心と進化したる行為を有するに至るなり。故に道徳の進化は全く競争、淘汰、遺伝、順応の規則によるものと知るべし。

       第一〇二章 進化は万象万化の通則なること

 それ進化の理法たるや、偶然に定まりたるものにあらず、また一、二の経験によりて知るものにあらず。宇内に現ずる万象万化、一としてこの理法に従って進化せざるものなし。天体も進化し、地質も進化し、動植も進化し、人類も進化し、社会も進化し、心性も進化し、政治も宗教もみな進化するをもって、進化は万象万化の通則、宇宙全体の通理と称して可なり。故をもって、一事一物これを験するに、必ず進化の規則に従って発達成来するを見る。決してその規則は一、二の事物にとどまるにあらず。果たしてしからば、道徳もただに実験上その進化するゆえんを見るのみならず、道理上そのしかるゆえんを推論すべし。かつすでに人の身体も心性もともに進化の規則に従って成来したること明らかなれば、道徳の本心も道徳の行為も人の心身を離れて別に存するものにあらざるをもって、ともに進化の規則に従って成来するゆえん、もとより準知すべし。これによりてこれをみれば、進化は天地万物、心身内外の通則通理にして、ただに道徳従来の発達この規則によるのみならず、今後の変化もまたこの規則に従わざるをえざるの理、またすでに瞭然たり。他語をもってこれをいえば、道徳の変化は古今将来を問わず、下等より次第に上等に転進するものなり。これにおいてか、進化は道徳の性質にして、人生の目的は道徳にあるゆえん、また知るべし。

       第一〇三章 道徳は進化の結果に帰せざるべからざること

 もしあるいはこれに抗して、道徳は古今一定したるものにして、決して古来の道徳は下等にして今日の道徳は上等なるの理なしと唱うるものあらん。しかれどもこれを実験に照らすもこれを理論に考うるも、古来一定不変の道徳あるを見ず。かつ人たるもの、ことごとく同一の良心を有するにあらず。またその標準とするところ、世によりて同一なるにあらず。カーペンター氏かつてこれを論じて曰く、曲直を裁定するの性力は、要するに人種、教育、習性、連想等に属するをもって、その標準とするところ人々おのおの同一なるあたわず、はなはだしきに至りては全く相反するの標準ありと。ベイン氏またこれを評して曰く、古今万国、善悪を断定するにその説の合同すること少なしと。しかして古今の諸説一定せざるは、善悪道徳は進化の結果なるによる。他語をもってこれをいえば、道徳の発達は教育、経験、順応、遺伝によるなり。かつまたこれを事実に考うるに、人類の高等に位するものと動物の下等に位するものと相較するときは天壌の懸隔ありといえども、最上等の動物と最下等の人類と相較するときはその差異はなはだ少なきを見る。別して道徳の一点に至りては、ほとんどその別なきもののごとし。これによりてこれをみれば、道徳の行為は人たるもののことごとく有するところなりということを得ず。もし最下等の人類なおこれを有すと許すときは、動物もまたこれを有すといわざるべからず。故に道徳の行為は、今日にありて高等に進化したる人類中にひとりこれを見るも、その原種となるべきもの動物界にありてすでに存するは、理のもとよりしかるところなり。しかしてその原種の発達して高等の道徳を現ずるに至りしは、全く進化の規則によるものなりというより外なし。

       第一〇四章 将来の進化

 しかるにまた人ありて余が進化論を駁して、今進化は万象万化の通則にして、道徳もその規則に従って発達したるものなりというも、これただ従来の経験に照らして、昔日より今日まで宇宙間に現ずるところの万象万化について定むるもののみ。故にこの規則をもって将来永遠の規則なりと断定すべき理なし。すでに今日にありてこれをみるに、古来次第に進化してきたるものと次第に退歩してきたるものとの二者あり。その退歩してきたるもの、これを溶化という。従来すでに進化と溶化の二種ある以上は、今後あるいは進化の方向を取らずして、かえって溶化の方向を取ることあるも計り難し。これをもってこれを推すに、道徳の将来の進化はあらかじめ今日にありて一定すべからず。故に進化をもって道徳の将来の目的と定むることを得ずというものあらん。しかれども余をもってこれをみるに、道徳は将来に向かってますます進化するものなるを知る。およそ人の将来を卜見してその目的進路を想定せんと欲せば、従来の経験によるより外なし。従来の経験に考えてことごとく真なるものは、これを推して将来永遠の規則と定むることを得べし。たとえば、一と二を合して三となるの規則、および一因あれば必ずその果あり一果あれば必ずその因ありの規則のごときは、従来の経験によりて知るところなれども、これを推して将来もまたこの規則の真なるを期すべし。今、進化の規則もまたこれに準じて将来に向かって真なるを知るべし。果たしてしからば、道徳の進化もまた将来の目的と定むることを得べきにあらずや。かつそれ従来の経験によるに、進化するものと溶化するものの二種ありというも、溶化は進化の大波動間の小波動に過ぎず。すなわち歴史上溶化ありて進化あり進化ありて溶化あるも、今日に至りて古来の進溶二化を加減してその結果を考うるに、一大進化あるのみ。他語をもってこれをいえば、一小部分において溶化するものあるも、全体についてこれをみればただ進化あるのみ。果たしてしからば、道徳もその全体についてこれをいえば、進化するものなること明らかなり。故に道徳は将来永く進化の方向を取るものと定めてしかるべし。

       第一〇五章 進化の極度

 しかるにまた学者中、進化に極度ありと唱うるものあり。その言に曰く、事物にはすべてその極度ありて、進んでこの点に達すれば退くより外なし、故に進化にもまたその極点あるべし、かつ宇宙全体の進化にすでにその極点あれば、一部分の進化にもまたその極点あるべし。これをもってこれを推すに、道徳の進化にもまた必ずその極点なくんばあるべからず。もし進んでその極点に達すれば、道徳もまた溶化するより外なし。およそ道徳上の行為の進化するは、余がさきにしばしば述ぶるごとく、保存の規則に従って内情をして外情に適合せしむるにあり。内情をして外情に適合せしむることを得るものはその生存を全うし、しからざるものは生存を全うすることあたわず。かつ内外適合の最もそのよろしきを得たるものは、ただにその一生間病患なきのみならず、生物をしてよく長生不死を得せしむるに至るべし。今、人類のごときはその外界に対して呈するところの行為は有意有識に出ずるもの多きをもって、内外両情の適合そのよろしきを得たるものなり。しかるに今日なお病死等あるは、いまだその適合の十全ならざるところあるによる。故に人もし今後いよいよ進化して十全の適合を得るに至れば、諸生物ことごとく長生不死を得るに至るべし。諸生物ことごとく長生不死を得るに至りて、その子孫なお常のごとく増殖するときは、地球上生物の住する地なく食する物なきに至るは、勢いの免かるべからざるところなり。果たしてかくのごときに至れば、生物間互いにその生存に向かって競争せざるべからず。ひとたび競争すれば、優勝劣敗、弱肉強食の結果を生ぜざるべからず。弱肉強食の結果を生ずれば、長生不死を全うすることあたわず。故に人もしいよいよ進化して内外の適合を全うし長生不死を得るに至れば、また進むべからずして退くより外なし。もしまた道徳の目的幸福安寧にありて、社会進化の極、人々みなその道を守りその義務を尽くして互いに相争うことなきときは、政府も法律も宗教も道徳も世にその用なく、いわゆる黄金世界となるべし。これ実に幸福安寧の極点といわざるべからず。道徳もこれに至りてその目的を全うすというべし。故に進んでこの点に達すれば、また進むべからざるはもちろんなり。かつ今述ぶるところによりてこれをみるに、人みな長生不死を得るに至れば人口の増殖免るべからず、人口増殖すれば衣食の欠乏免るべからず、衣食欠乏すれば生存競争また免るべからず。故に世なにほど進化するも、将来永く政府、法律、宗教、道徳のその用なきに至ることあたわず。これをもってこれを推すに、ひとたび進んでその地位に達すれば、たちまち進歩して政府、法律、宗教、道徳の必要を見るに至るべし。これを要するに、道徳の進化は必ずその極点ありて、その点に達すれば自然の勢い溶化せざるべからず。これ道理のもとよりしかるところにして、理論上決して疑うべからざるものなり。しかれどもいまだその点に達せざるに当たりては、あくまで道徳の進化を目的とせざるべからず。かつその極点は幾年後に至りて達すべきや、いまだ期すべからざるのみならず、その点の果たして存するや否やもいまだ明らかに知るべからず。もしこれを知らんと欲せば、まず今日より将来に向かってこれを試みざるべからず。故に今日にありては、進化をもって目的と定めてしかるべし。

       第一〇六章 帰 結

 以上、編を重ね章を連ねて論ずるところは、道徳上の行為の進化の規則に従って発達してきたりしゆえんを示すにあり。前編は主として道徳の行為およびその本心の発達の、自保自存の規則に従って下等動物より次第に進化してきたるゆえんを述べ、この編は総じて進化一体の規則を掲げて、道徳もまたこの規則に従うゆえんを述べて道徳は進化の結果なることを示し、あわせて進化は将来の目的なることを論ぜり。他語をもってこれをいえば、前編は道徳自体の発達を論じてその進化を示し、この編は宇宙一体の進化を論じて道徳の発達に及ぼすものなり。これを要するに、道徳はその行為もその本心もともに生存競争、自然淘汰、遺伝順応の諸則に従って進化し、今後またその諸則に従って発達すべしというにあり。すなわち進化は道徳の通理通則なりというにあり。これによりてこれを推すに、余が人生の目的は幸福を増進するにあり、善悪の標準も進化幸福にあり、道徳の本心も進化によりて生ずというゆえんを知るべし。しかれども古来の道徳を論ずるもの、おのおの一家の異説を唱えて、今日に至りてもいまだ進化の説を取らざるものあり。故にここにその諸家の異説を挙げてこれを比考し、もって今日の進化説の勝るゆえんを示すを必要なりと信じ、次編に各家の異説を略叙するなり。

 

     第七編 各家異説 第一

       第一〇七章 端 緒

 前編は行為の進化を論じて、目的なき挙動の進みて目的ある挙動を生じ、目的ある挙動の進みて道徳の行為を生ずるゆえん、および高等の道徳心の下等の感覚より生ずるゆえんを述べたれども、これ全く進化学者の唱うるところの道徳論にして、古来の諸論ことごとくしかるにあらず。故にここに諸家の異説を列叙して、その異同を示すを必要なりとす。そもそも進化の原理に基づきて道徳を論ずるは近世のことにして、古代にありては学者みな道徳は古今東西一定不変なるものと信じ、一定の標準、一定の規則ありと唱え、別して東洋にありては近世に至るも、いまだ進化論に基づきて一種の道徳説を起こしたるものを見ず。かつその一定の標準規則を立つる論者も、快楽幸福をもって道徳の目的となすものはなはだ少なくして、大抵みな非幸福論者なり。またその非幸福論者は、愛他をもって道徳の行為と定むるを常とす。これを要するに、古代および東洋は非進化論、非幸福論、非自愛論もっぱら行われ、近世に至りて始めて進化幸福論ようやく行わるるに至る。その順序、以下叙列するところを見て知るべし。

       第一〇八章 釈迦の説

 東洋諸教中、宗教上人民の道徳を維持して今日なお勢力を有するものは釈迦の教えなり。釈迦の教えは世間出世間の二門に分かれ、道徳はその世間門に属するものなり。しかして世間門は釈迦の教えの本意とするところにあらざるをもって、その教中、世間の道徳を説くことはなはだ少なし。かつその出世間を説くに当たりては、ただに道徳のいかんを問わざるのみならず、あるいはかえって道徳主義に反することあり。これ他なし、仏教は万物万境の本源本体たる真如の理体と、我人の関係を論ずるものなればなり。これをもって、仏教は人情に反する教えなり、非幸福を主とするものなり等の評をきたすに至る。しかれどもその出世間の教えたるや、帰するところ幸福を目的とするものにして、すでに『起信論』に衆生をして一切苦を離れて究竟楽を得せしめんためなりとあるを見れば、その説全く非幸福に属するにあらざるを知るべし。かつ仏教はその極意に入りてこれをみれば、世間を離れての出世間にあらず、世間すなわち出世間なりと立つるをもって、その目的とするところ全く出世間にありというべからず。畢竟その出世間を勧むるもの、またただ世間のためのみ。かつその教中すでに世間門を設けて人道を説きたるは、釈迦の意、全く社会の道徳を顧みざるものにあらざること明らかなり。今その世間門中、五戒十善を設けて善を勧め悪を戒めたるは、仏教のいわゆる道徳なり。しかれども釈迦の説、表面に出世間をもととし裏面に世間をもととするの次第あり。またその伝来の際、出世間道のみ発達して世間道の発達せざる事情ありて、ついに仏教は世間の道徳を教うるものにあらざるがごとく見ゆるに至る。かつその教えの世人に擯斥せらるるに至りしゆえんは、一はその述ぶるところ深遠高妙に過ぎて、尋常の人のよく解するところにあらず、一はその説数千年前の上古に出でて、当時百科の理学いまだ開けざるをもって、実験に照らしてその理を証明せざりしによる。これをもって余は、仏教は改良をその上に加えずしてただちに現今の道徳学となすべからずというなり。その改良に関しては余は別に一説あれども、ここに論ずるを要せず。

       第一〇九章 孔孟の説

 釈迦の教えはその実、宗教または純正哲学にして純粋の道徳教にあらずといえども、東洋にありては別に道徳をもととする一派あり。これを孔孟の教えとす。孔孟の教えは修身と政治を相兼ねたるものなれども、その実、修身をもととして政治を談ずるものなり。故にこれを修身一方の学となしてしかるべし。かつ孔子は先王古聖の言語行為に基づきて道徳のおおもとを説きたるものなり。しかして道の体を天に帰し、天道にのっとりて人の道を設くるもの、これ孔子一家の道徳教なり。故にその学風、世態人情をもととして世間の外に道を求むることなし。すなわちその学の実際に僻して理論に乏しきゆえんなり。しかしてその立つるところの道徳の標準は、帰するに仁の一義に外ならず。『論語』に夫子の道は忠恕のみとあるを見て知るべし。その仁には種々の義解ありて、その意義を一定するはなはだ難しといえども、要するに利他博愛を義として、『論語』に人を愛すというものこれなり。すなわちその仁とは衆善の称にして、万民一子のごとく愛憐して、私欲のために他を害せざるものをいう。故に余は、孔子の教えを評して愛他教と称するなり。その愛他を唱うるの本意は、人をして幸福安寧を得せしめんとするにあり。すなわちその目的、苦を離れて楽を得るにあり。かつて孔子の門弟より、貧しくしてへつらうことなく富みておごることなきはいかんと問うたるに、孔子答えて、いまだ貧しくして楽しみ富みて礼を好むものにしかずといわれたることあり。また孔子の言に、これを知るものはこれを好むものにしかず、これを好むものはこれを楽しむものにしかずといわれたることあり。これによりてこれをみれば、孔子の教えは幸福快楽を目的とするものなること明らかなり。しかしてその快楽は心性の快楽を主として、肉身の快楽を主とするにあらず。『論語』に曰く、蔬食を食い水を飲み、ひじを曲げてこれを枕にす、楽またその中にあり、また曰く、不義にして富みかつ貴きは、われにおいて浮雲のごとしとあるを見て知るべし。これ今日の幸福論とややその意を異にするゆえんにして、別して進化幸福の一段に至りては、孔子の学派の夢にだも知らざるところなり。これを要するに、孔子の教えは仁慈博愛をもととして、人をして幸福快楽を得せしめんとするにあり。もし人その意のごとくならざるものありて自ら楽しむことあたわざるときは、これを天に帰してその心を安んぜしむ。故にその教え、いたって平易にして入りやすく行いやすし。これその長ずるところなり。しかしてまたその欠点は理論に乏しきにあり。天命の従わざるべからざるを説きて、その体のなにたるを示さず、仁義の守るべきを説きて、そのなにによりて果たして守るべきを証せず。その他、人生の目的、道徳の標準を論定せざるは、実にその教えの浅近を徴するに足る。

 つぎに、孟子は孔子を祖述するものなり。しかれどもその説またやや異なるところありて、第一に孔子はもっぱら仁の一字を説きたるも、孟子は仁義の二字を説き、別して性善を論じて、人に本来良心の存するゆえんを示したるは孟子に始まる。しかれどもその説全く孔子の意を開張するにとどまりて、その論は天賦愛他説に属するものと知るべし。かつその説、人倫のもとは古今一定せるものと信じ、人々有するところの天性は同一なりと立つるがごときは、今日の進化論者の説と全く相反するものなり。

       第一一〇章 老荘の説

 つぎに、シナに道徳論を唱えて一家をなしたるものは老荘の一派なり。老子は虚無恬澹の説を唱え、無為自然に帰するをもって目的と立つるものなり。故に老子曰く、物あり、混成し天地にさきだちて生ず、寂たり寥たり、独立して改めず周行してあやうからず、もって天下の母たるべし、われその名を知らず、これを字して道というとあり。けだし老子は道を天地未判の時に定め、人心未動の時に設け、その未動未判の時に帰復するをもって人の目的とするなり。故をもって、仁義を取らず孔子を排するに至る。これを要するに、孔子は人道をもととし、老子は天道をもととす、孔子は人為、老子は自然をもととす、孔子は進取、老子は退守をもととするの異同ありて、その主義全く相反するものなり。しかして老子の仁義人道を排するがごときは社会の幸福安寧を目的とせざるもののごとしといえども、また全くしかるにあらず。その目的とするところ、時弊を矯正して人をしておのおのその楽を得せしめんとするにあるは、たやすくその書について知ることを得べし。ただこれを矯正するの方法、孔子と異なるのみ。孔子は有為仁義をもって天下を治めんと欲し、老子は無為自然をもって治めんと欲す。その他、老子はもっぱら盛衰循環の理に基づきて、富を辞して貧におり、栄を避けて辱に就くことを勧むも、また一家固有の道徳論なり。

 老子の教えを伝うるもの、関尹子、列子、荘子、韓非子等あり。なかんずく老子に継ぎてその名を得たるものは荘子なり。荘子は老子を祖述すというも、その論かえって老子の右に出ずるもののごとし。けだし荘子はその斎物論中に説くところをみるに、人の互いに相争うてその心を苦しむるは、彼我是非の差別を固必するによる。もし彼我の差別を看破して是非の同一理なるゆえんを知れば、人々互いに相自得して、おのおのその心を安んずることを得るなり。故に荘子の意も、人をしてその苦を去りその楽に就かしめんとするにあり。これを要するに、老荘の長ずるところは、道のおおもとを説きてその説の高遠なるにありて、その弊たるや、世間社会の道徳安寧を顧みざるの風にあり。しかしてその道のおおもとを説くに当たりては虚想に出ずるもの多く、いちいちこれを今日の実験に照らして証立すべからざるは明らかなり。故に余は、この教えをもって今日の道徳学となすべからずというなり。

       第一一一章 楊墨の説

 ここにまた老荘の学派と孔孟の学派の中間に位する一種の学派あり。これを楊墨の一派とす。楊子は自愛を唱え墨子は兼愛を唱うるをもって、二者ともに孔孟の説に異なり、まず楊子は、生を楽しみ身を逸するをもって目的となす。故にその言に曰く、およそ人の生や、なにをかなし、なにをか楽しまんや、美厚のためのみ、声色のためのみとあり。これいわゆる自愛自利なり。墨子は、人おのおの己を愛して他を愛せざるときは必ず乱る、故に天下の人をして兼相愛せしむるにしかず、他人を愛することその身を愛するがごとく、他人の父を愛することその父を愛するごとく、他人の妻を愛すること自身の妻を愛するがごとくすれば、決して天下に不孝不慈の子弟あらんや、天下必ずよく治まらんという。これいわゆる兼愛なり。かつ墨子は非命論を唱えて、事はすべて人為になりて天然になるものにあらずという。これその老荘に異なり、あわせて孔孟に異なるゆえんのものなり。

       第一一二章 荀楊の説

 およそシナの道徳論に一種特有の性質あり。すなわち人性の善悪を論ずるものこれなり。さきに孟子ひとたびこれを善と定めてより、その後、諸説百出、性悪を唱うるものあり、善悪混を唱うるものあり。そのこれを悪と定めたるものは荀子なり。孟子は人の生まれながら仁義の四端あるを見て人性は善なりと証したるも、荀子は人に利欲の情の生まれながら存するを見て人の性は悪なりという。人の性悪なるをもってその自然の性に任ずるときは悪人となり、これをして善人とならしむるには、善良の教育習慣を与うることを要するなり。これその説のやや経験論に類するところなり。経験論にありては、善人は生まれながらその性善なるにあらず、生長発達の際、善良の教育経験を受くるによるという。荀子もまたしかり。しかれども荀子は、その人の悪なるは天然の性なりという。もしこれを経験論に考うれば、その悪性もまた教育経験によるといわざるべからず。もしまた遺伝論につきてこれを考うれば、人の性は生まれながら多少異なるところありて、これに与うるに同一の教育をもってするも、これをして同一の善人とならしむることあたわざるの理、すでに明らかなり。しかるに荀子は人みな同一に悪なりという。故にその説は経験論にも遺伝論にも異なるところありと知るべし。その後、楊雄性を論じて善悪相混同すという。すなわちその言に、人の性や善悪混ず、その善を修むれば善人となり、その悪を修むれば悪人となるというものこれなり。その説、全く孟荀両氏を折衷して成るものなり。しかしてその道徳人倫を説くに至りては、荀子も楊子もみな孔子を祖述するものなり。

       第一一三章 宋儒の説

 儒家の性論はその後いよいよ発達して、宋朝に至りて本然気質の説起こる。すなわち程伊川の言に、性はすなわちこれ理、理は尭舜より途人に至るまで一なり、才は気にうく、気に清濁あり、その清をうくるものを賢となし、その濁をうくるものを愚となすとあり。張横渠の言に、形ありてのち気質の性あり、よくこれに反すれば天地の性あり、故に気質の性は君子性とせざるものありという。これみな性に本然気質の二種を分かちて、人に賢愚善悪の生ずるゆえんを示したるものなり。すなわちその本意、孔孟の両説を調和するにあり。孟子は人の性は善なりといい、孔子は性相近しというて性相同じといわざるは、孟子の言に合せざるもののごとし。故に程子はこれを調解して、孔子は気質の性を説き、孟子は本然の性を説きたるものなりとなす。そもそも本然気質の論は程張に始まり朱氏に成るものにして、人をして気質の性を矯めて本然の性に復せしむるをもって、修身のおおもととなすものなり。けだし程子の意、本然の性は明々白々なれども気質の性に覆われてときに暗きことあり、故にその固有の本性に復すれば明々白々の善人となるべしと信ずるによる。これを要するに、シナ哲学はその初めいたって浅近なるも、宋に入りて周濂渓、太極説を起こしてより、始めて理気の説あり。程張諸氏もっぱらこれを唱え朱子これを受けて、その説すこぶる理論にわたる。これをもって、修身論もまた理論をもって立つるに至る。しかれどもこれを西洋の倫理学に比するに、いまだ浅近の論たるを免れず。かつその論、論理の規則に合せざるもの多く、道徳の進化説のごときは、シナ学者の夢にだも知らざるところなり。かつ心身自他健全の幸福の、人生の道徳の目的たるゆえんもまた、いまだ知らざるところなり。ただ人は生まれながら有するところの天然の本性ありて、その性は善なるも、気質の性のこれに加わるありて悪を生ず。もしその悪を去りて本然の性に復すれば、人みな善人となるべし。故に気質の性を矯めて本然の性に復するは、人生の目的、修身のおおもとなりと定むるのみ。しかして人の性はなにによりて本来善なるや、また人はいかにして本然の性に復せざるをえざるやの理由を証示せざるはシナ学者の欠点にして、別して人生の目的、道徳の標準、善悪の本心、行為の進化を論明せざるはその学の不完を知るに足る。かつその論、徹頭徹尾論理の規則に合せざるところあるは、その学の今日の倫理学を構成するに足らざるゆえんなり。

       第一一四章 ソクラテス氏の説

 つぎに、西洋諸家の倫理説を通考するに、その説近世に至りてようやく進歩を見るも、その本源すでにギリシア学中に存するや疑いをいれず。故に、ここにまずギリシアの哲学家の異説を叙述するを必要なりとす。そもそもギリシアの哲学は遠く紀元前六〇〇年代に起こるといえども、その後数百年間の哲学は宇宙の原体、万化の原因を究明するにとどまりて、社会人事に関してすこしも論究したることなし。しかして社会人事の上に哲理を論じて倫常の道を立つるもの、ソクラテス氏をもって始めとす。故に氏は道徳学の初祖なり。しかるに氏の道徳を論ずるや、ただその行為のいかんを述ぶるのみにて、人生の目的、善悪の標準を定むるに至らず。今その述ぶるところを挙ぐるに、氏おもえらく、道徳は智識より生じ不徳は無智より生ずと。けだし人の不善をなし不徳を行うは不学無智にして、その力善悪邪正を分別することあたわざるによる。人たれか不善をなすを好むものあらんや、人たれか善をなすをにくむものあらんや。しかして人の不善に陥り悪行を顧みざるは、行為の結果を知定するの智力なきによる。もしこれをして悪をすてて善に移らしめんと欲せば、まずその智力を開発せざるべからず。その他、氏は道徳の目的は幸福にあらずして善行なりという。なんとなれば、善行にあらざれば幸福を得ることあたわざればなり。しかしてそのいわゆる善行とは、人のその自ら尽くすべき義務を全うする行為を義として、人をしてこれを全うせしむるに最も要するところのものは智識なりという。すなわち氏の道徳は全く智識をもととするにあること知るべし。故にその論、智識の一方に偏すというも不当にあらざるなり。

       第一一五章 プラトン氏の説

 つぎに、プラトン氏の道徳論はソクラテス氏を祖述したるものなるも、その理高遠に過ぎて了解しがたきの恐れあり。けだし氏は、人の目的は欲念を脱離し、その心をして理想の真際に達し、天神に合同せしむるにありという。故に幸福快楽は氏の人生の目的と定めざるところにして、快楽と智識相待ちて始めて道徳を生ず。すなわち智識あるにあらざれば我人快楽を得ることあたわず、学理を研究するは我人の最も快楽とするところなり。人もし無学不徳なるときは、決してその身に幸福の存すべき理なしという。これ氏のソクラテス氏の説を継述したるによる。その他、ソクラテス氏の門弟にして一家の説を起こしたるもの、アンティステネス氏およびアリスティッポス氏あり。アンティステネス氏はキニク学派の初祖にして、アリスティッポス氏はキュレネ学派の初祖なり。この両学派は主として人生の目的を論ぜり。キニク学派の唱うるところは、意を世間普通の快楽に傾けず、よく苦痛を忍んで不足なきの地位に住し、天神と同一の地位に達するをもって道徳の目的とす。そのいわゆる天神は、諸事ことごとく完備して不足なきものをいう。この学派にディオゲネス氏と称するものあり。氏はアンティステネス氏の門弟にして、常に大桶の中に起居し山野を遊行す。その状あたかも犬のごとし。故に世間、氏を呼びて犬儒と称せり。キュレネ学派もその目的に至りてはキニク学派と同一にして、ただその異なるは方法のいかんにあるのみ。

       第一一六章 アリストテレス氏の説

 つぎに、アリストテレス氏はプラトン氏の道徳論の理想の一方に僻するを見て、中庸の道を立つるものなり。すなわちプラトン氏とエピクロス氏とを折衷して、その中を取るものなり。しかして氏は人の諸行為の標準は善に外ならず、諸善中最上の善をもって標準中の標準とす。幸福もまたしかり。人の目的とするところ種々の幸福あるも、その諸幸福の最上の幸福をもって真正の目的とし、肉身飲食の幸福のごときは真正の目的にあらずという。しかしてその標準目的を判定するは、学識あるものを待たざるべからず。故に社会の中に立ちて最も経験に富み学理に明らかなる者、よくこれを判定すべしという。つぎに、氏の道徳学のプラトン氏に比して完全なるは、宗教と道徳を混同せざるにあり。プラトン氏は道徳学中に宗教を混同して天帝を説きたれども、アリストテレス氏は道徳論中に天帝を説かず、宗教と道徳とをして判然相分かたしめたり。

       第一一七章 ストア学派の説

 以上、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの三大学派の外に、当時世間に両学派ありて互いに相争いたるもの、ストア学派とエピクロス学派の二派とす。この二派にプラトン、アリストテレスの二学派を加えてギリシアの四大学派と称す。ともにソクラテス氏より分かるるものなり。そのうちプラトン、アリストテレス両学派はすでに略言したるをもって、これよりストア学派の大要を述ぶるに、その初祖をゼノン氏と称す。その説、宇宙は天帝の主宰するところにして、道徳の本源は天帝にあり。これをもって、善なるものは福を得、悪なるものは禍を受くるなりという。これ氏の神学上道徳を立つるによる。もしまた心理上論ずるところを見るに、人の行為は天地自然の規則に従うを要するなり。しかして天地万物の原理は自保自存の規則に外ならず。すなわちその自身に害あるものを避けて、生存を保全するの規則をいう。これ生物一般の本性にして、苦楽もこの性の生長して生ずるところなりとす。故に氏は、苦楽をもって道徳の原因となさざるなり。またその人生の目的を論ずるや、快楽は必ずしも善なるにあらず、苦痛は必ずしも悪なるにあらず、よくその苦痛に耐えて正道に帰するを善とす。これその学派の堅忍厳粛に僻するの風ありて、他の学派に異なるゆえんなり。かつその教えの弊たる、人をして自高自慢の気風を養成するにあり。すなわちその教中に説くところ、我人は天帝とその徳を同じうするをもって、よく正道を守れば我人ただちに天帝となるべしという。これをもって、人をして天帝同体の思想を起こさしめ、自高自慢の気風を生ぜしむるに至るなり。

       第一一八章 エピクロス氏の説

 この説に反対したるもの、エピクロス学派あり。エピクロス氏は、善悪の標準は苦楽にして、苦すなわち悪、楽すなわち善なり、我人の善を求め悪をいとうは、その実、楽を長じ苦を減ずるの本心に外ならずという。かつ氏は苦楽を心性の苦楽と肉身の苦楽との二種に分かちて、人の生長の際、心性の苦楽の発達するは肉身の苦楽の後に起こるも、二者の軽重を較すれば、心性の苦楽をもって重しとすべしという。なんとなれば、肉身の苦楽は一時にして、心性の苦楽は前後に永続するものなればなり。これを要するに、氏の道徳と幸福との関係を論ずるは、ともに快楽をもととするものにして、苦を減じ楽を長ずる行為はすなわち善なりとす。故に氏の説自利をもって道徳の基本とするもののごとしといえども、その実、下等の快楽を得るをもって真正の道徳とするにあらず、その目的とするところ、もとより高等の快楽を増長するにあり。しかるに世間エピクロス氏を評して、その説くところの幸福は嗜欲感覚の快楽なりとなすは、氏の説を誤解するもののごとし。

       第一一九章 中古の諸説

 その後ギリシアの諸学大いに衰え、また哲学上倫理を説くものなし。ただ一時世間に行われしもの、懐疑学の一派なり。この学派は疑念に過ぐるの弊ありて、真理の標準を疑ってついにこれを排するに至る。その論いたずらに空理を争うにすぎず。くだりてローマに入り一、二の学派ありしといえども、その論全く東洋よりきたるところのものと、ギリシアより伝わるところのものと、二種の外に出でず。しかしてこれをギリシア盛時の諸説に比するに、いたって浅近にして、また考うるに足らず。その後ヤソ教のローマに盛んなるに当たりて、社会の道徳は全くその教えの占領するところとなり。『バイブル』をもって倫理の本経となすに至れり。その後、中古の末に当たり、煩瑣理学と称する一種の学派欧州に行われ道徳を論じたるも、その説ヤソ教をもととし、かたわらアリストテレス氏の倫理を混入したるものにして、これまた道理上考うるに足らざるなり。しかるに近世に至り新見新説の続々起こるありて、倫理上数種の説互いに相争うを見るは、あに驚かざるをえんや。

 

     第八編 各家異説 第二

       第一二〇章 ホッブズ氏の説

 近世にありて一種の倫理を立てたる者、ホッブズ氏をもって始めとす。氏は政治上道徳を論じ、国家の法律をもって善悪を判定する規律とし、その目的とするところ自利自愛にありという。この目的を全うするもの、政府の法律よりよきはなし。故に氏は君主をもって道徳の基址となすに至る。これ全く自利の目的を達する良法なるによる。けだし氏の説常に自利自愛をもととし、道徳の良心はみな自利の心より発し、他人を愛憐し自身を軽賎するがごときも、その実、自愛の私情に外ならずという。これをもって氏の道徳論を、あるいは呼んで自愛教と称す。その他、氏の論の一種異なりたるは、道徳と政治と混同するにあり。すなわち氏は、人の行為の規則は国民の主権者によりて制定すべきものとなし、天然の規則は人為の規則にしかずといえり。これ氏の、君主をもって道徳の標準となすゆえんなり。

       第一二一章 カンバーランド氏の説

 ホッブズ氏ひとたびこの説を唱えてより、これに反対する論者前後相接して起こる。その主たるもの、カンバーランド、カドワース、クラーク、プライス等の諸氏これなり。カンバーランド氏はホッブズ氏に抗して一派の説を起こし、道徳の標準は人民一般の幸福を進捗するに外ならず、もし一般の幸福を進捗せざる行為は決して善行と称すべからずという。故に氏は、一般の幸福を進捗するをもって道徳の規則と定む。その説はなはだ今日の功利学家の論に近きを知る。かつ氏は、人の道徳心はすべて道理力より生じ、良心も道理力に外ならずという。すなわち人の世間一般の幸福を進捗せんことを務むるもの、すべてこれ道理より生ずるなりというの意なり。しかるにホッブズ氏は道理をもって道徳の本心と定めずして、人の願望心をもって善悪の本心と定めたるは、両氏の大いにその見解を異にするところなり。これによりてこれをみれば、カンバーランド氏の説は幸福主義にあること明らかなりといえども、その意、自身の幸福を減殺して他人の幸福を増進するを義とするものにあらず。すなわち自身の幸福を全うするをもって目的とするものにして、その他人一般の幸福を進捗するがごときは、自身の幸福を全うするに必要なるによるのみ。その他、氏は人為の規則の天然の規則にしかざることを論じて、ホッブズ氏に抗せり。

       第一二二章 カドワース氏およびクラーク氏の説

 カンバーランド氏の外にホッブズ氏に抗するもの、カドワース氏およびクラーク氏なり。この両氏の説は大抵その帰を同じうす。まずコッドウォルス氏は、善悪邪正は天然の規則によるものにして、決して人の意志をもってその標準と定むべき理なしという。なんとなれば、事物はすべて天然によりて生じ、人為によりて生ずるものにあらざればなり。故にかの国家の法律を善悪の基址と定むるがごときは、大いに道徳の性質に反するものなりとす。またこれを天帝の意に帰するがごときも正当の標準にあらず。なんとなれば、善悪は天然にその定まりありて、天帝の故意をもって定むべきものにあらざればなりという。しかしてまた氏は、人の道徳心の原因は智力なりとす。これ氏の説の、カンバーランド氏とともに道理教と称せらるるゆえんなり。その他、氏は幸福の人生の目的たることを説かず、ならびに道徳の天帝に属せざるを唱うるがごときは、その説の諸学者に異なるところなり。

 つぎにクラーク氏は、人の行為のよくその一定の規則に従って事物の関係に適合するをもって道徳の目的とす。故に善悪の標準は適合に外ならず。言行の一致適合して齟齬するなきものすなわち適合なりという。かくのごとく事物行為の適合を立つるもの、氏の一種の道徳論なり。しかして氏は道徳の本心を論じて、すべて人の智力より生ずるものにして、苦楽の情感によりて生ずるものにあらずとするは、氏の論のホッブズ氏に反対してカドワース氏に合するところなり。

       第一二三章 ロック氏の説

 つぎにロック氏ありて経験論を唱え、道徳は経験より生ずという。まず氏の道徳の基址を論ずるや、善悪は苦楽に外ならず、最上の快楽これを幸福とし、最大の苦痛これを禍害とするなり。しかしてこの苦楽より生じたる道徳の本心は、三種の規律によりて次第に発達するに至るという。三種の規律とは、第一に天帝の訓令および未来の賞罰、第二に国家の法律およびその刑罰、第三に世間の世論名誉これなり。けだし人はこの規律に従って道徳の行為を呈するに至るなり。故に氏はもっぱら天賦論を排して、道徳心は人の生まれながら有するものにあらず、この苦楽の情と、天帝、政府、世論の三種の規則、および教育風習によりて生ずるものなりという。また人生の目的は苦を避け楽を得るに外ならずという。

       第一二四章 バトラー氏の説

 ロック氏に反対して天賦論を唱うるものはバトラー氏なり。氏は人に本来良心の存するありと立てて、善悪の標準はこの良心に外ならずという。故に氏をもって良心論者と称す。かつ氏の心理を論ずる、自愛と愛他の情と、嗜欲の情と、良心との三種ありと立てて、そのうち良心をもって優等の道徳心なりとす。かつ氏は人生の目的は自己一人の幸福にあらざるゆえんを論じて、人の務むるところは良心の命令に従って仁慈の行為を施すにありとす。故に幸福を求むるがごときは人の直接の目的にあらずして、仁徳を求むるもの、これその目的なりという。

       第一二五章 ハチソン氏の説

 バトラー氏の外に一派の良心説を唱うるものはハチソン氏あり。氏はバトラー氏の説と異なるところあるも、一種の道徳の本心をもって善悪の標準と定むるに至りては同一なり。今、氏は人の情を分解して動静の二種となし、その各種をまた分かちて自愛と愛他の二種となす。静性の情は人を愛する無私の公情にして、動性の情は自身の満足を目的とするものなり。これをもって氏は情に上下の種類を分かち、公情を高等の情となし、私情を下等の情となせり。しかして高等の公情は人々固有の本心にして、私情は外界に接して生ずるところの感情なりという。その他、氏は人生の目的を論ずるにも愛憐の情をもって第一とするなり。

       第一二六章 マンドヴィル氏の説

 これに反対して、人に本来道徳心の存せざるゆえんを証したるものはマンドヴィル氏なり。氏は人の本性は自利の私情あるのみにて、道徳の善心もとより存するにあらず。しかるに道徳心の人に起こるに至るは世間の識者の工夫に出でたるものにして、その意、人の私情の害ありて公情の益あるを知り、人をして道徳心を起こさしむるを欲してなり。しかして氏の論の最も他の学者の説に異なるは、高慢心をもって道徳心の起源となすにあり。けだし氏は、人の道徳を愛し善行を欲するは虚名を好むの高慢心あるにより、道徳者が人を勧誘して道徳を修めしむるもまた、人にこの情の存するによるという。

       第一二七章 ヒューム氏の説

 つぎに、ヒューム氏は別に一派の道徳論を起こし、善悪の標準は功利すなわち人間一般の幸福なりという。功利の説ややこのときに起こるもののごとし。かつ氏は道徳の本心を論じて、道理および人情の両心相合して生ずるものとす。故に氏は人に仁慈博愛の心ありと許すも、全く自身をすてて人のためにするがごとき、純然たる無私の心の存するを主唱するにあらず。氏の意、ただ人の道徳心は他人を愛するの人情と、自身を愛するの私心と相合して生ずるものと信ず。この二心あるによりて、人は自他兼全の幸福を目的とするに至るなりという。

       第一二八章 プライス氏の説

 つぎに、道理をもって道徳の本心と立つるものプライス氏なり。氏は道理すなわち理解力をもって善悪の標準とし、行為の適応してよくその事情に合同するときは善行となり、適応合同せざるときは悪行となる。しかしてそのよく適応するとせざるとを観察知定するは、道理力によらざるべからず。故に道理力は諸善行の基本にして、道徳の本心もこの力に外ならずという。かつ氏は人に無私の公情存するのゆえんを論じて自利論者の説を駁し、仁慈博愛の心はひとり教育風習によりて生ずるにあらずという。しかれども、人生の目的は人間一般の幸福にありと定むるなり。

       第一二九章 アダム・スミス氏の説

 ここにまた同情をもって道徳の本心となすものあり。すなわちアダム・スミス氏これなり。氏は善悪の標準は局外者の判断を待ちて定むべしという。けだし人はみな己に僻するの弊ありて、自身の説をもって善悪を判定すること難ければなり。故にもし自身の行為の善悪を知らんと欲せば、まず自身を他人の位置にありて批評を与うるものと考えて、その行為のいかんを断見するを要す。これにおいて、己を推して他に及ぼすの情なからざるべからず。故に氏は同情すなわち同憐の情をもって道徳の本心とするなり。同憐の情は仁慈博愛の本心にして、この情の発達したるものは上等の道徳者にして、発達せざるものは下等の道徳者なりという。故に氏の説は同情論と称すべし。

       第一三〇章 リード氏の説

 しかるにまた道理力の道徳の基本にあらざるゆえんを論じて、天賦の道念を唱うるものあり。すなわちリード氏これなり。氏は、智力は外界の知覚判定するものなれども、内界の道徳を知定するは道徳の本心の初めより心内に存するによる、これを良心と称すという。しかして氏の立つるところの良心は、その一半は天賦にして、一半は教育経験によりて次第に発達したるものとなすも、良心のいかなる部分は天賦にして、いかなる部分は得有なるかは判定し難しという。

 リード氏に継ぎて天賦の良心を唱うるものステュアート氏あり。氏は、道徳の標準基址は内界にありて存し、人の生まれながら有するものなりという。ブラウン氏もまた本然の道念を立つるものなり。この両氏の説はリード氏の説と大抵同一なるをもって、ここに殊更に叙述せざるなり。

       第一三一章 カント氏の説

 以上はイギリスおよびスコットランドに起こりたる道徳論なり。これに反対して、ゲルマンに起こりたる一派あり。その派の初祖たるものをカント氏とす。氏は一種の道理学派にして、道理をもって道徳の基本と定むるものなり。その哲学もと心理学より起こり、心理に智力、意志、情感の三種あるをもって、哲学また三種に分かる。その意志に属する哲学を実用の道理を論ずるものとし、道徳および政治学はこの部分に属す。けだし氏は道徳の原理を原形と実質との二種に分かち、実質は外界の経験よりきたり、原形は心内にありて存するところの純理より生ずという。純理は普通必要の性質を具するをもって、決して経験の結果にあらざるなり。これを意志の原理とす。すなわち道徳の基本なり。かつ氏はこの原理を定むるに、意志の自由、聖霊の不死、天帝の現在を立つるなり。かつ氏は人生の目的を論じて、徳すなわちこれ目的にして、幸福は目的にあらずという。しかしてまた人の目的は全く幸福を離るるにあらず、そのよくこの徳と幸福とを契合して人の目的となるは、人の力にあらず経験の結果にあらず、これすなわち天帝のなすところなりという。

 カント氏の門弟にヤコービと称するものあり。その説のカント氏に異なるは、道理に代うるに情操をもってしたるにあり。

       第一三二章 フィヒテ氏の説

 ついでフィヒテ氏と称する哲学者ゲルマンに起こり、良心に基づきて道徳を論じて、道徳の原理は良心に随順するにありという。しかしてその良心に随順するは、ただにこの目前の世界の現存を信ずるのみならず、精霊世界の現存もまた信ずることを要す。故に氏はもとより道徳上天帝を立つるも、通常人の解するところの天帝と大いに異なるところあり。ただこれを道徳の本源とするに過ぎず。その他、氏は幸福をもって人の目的となさず、徳を修むるをもって最上の善となすなり。

       第一三三章 シェリング氏およびヘーゲル氏の説

 フィヒテ氏に継ぎて道徳を論じたるもの、シェリング氏およびヘーゲル氏なり。シェリング氏は道徳の基本は天帝を信ずるにありとし、天帝の現存するをもって道徳世界の現存するを得るなりという。故に道徳は我人の精神のその中心なる天帝に帰向するより生じ、この帰向あるものこれを徳とす。しかして徳と幸福とは同一にして、徳の完全を得たるものはすなわち幸福なりという。

 つぎに、ヘーゲル氏はシェリング氏を受けてカント氏を継ぐといえども、また大いに両氏に異なるところあり。けだしヘーゲル氏の哲学は三断より成る。三断とは、三種の論断ありて次第に論及するをいう。故に氏の倫理を論ずる、またこの論法による。まずその論、第一は純理の道徳、第二は一個人の道徳、第三は社会の道徳の三段に分かるるなり。しかして氏は心性作用中意志をもって道徳の起点とし、そのいわゆる善は純理上の道徳の進んで行為上これを実践するに至るものをいい、これに反するものを悪とするなり。

       第一三四章 ペーリー氏の説

 つぎに、ペーリー氏と称するものありて、道徳の標準は神意および功利すなわち幸福にありという。しかして氏は天賦の道徳心を排し、幸福を目的とするに至りては功利家の説にはなはだ相近し。故に氏は人に本来無私の公情の存するを説かずといえども、その論天意を立つるをもって、人に仁心あるは天帝の命ずるところなりとす。故に氏の説は、功利説と天帝説の相合して成るものというべし。

       第一三五章 ベンサム氏の説

 現今世間に行わるるところのいわゆる功利説は、その始めベンサム氏より起こる。氏は道徳の基址標準は功利すなわち幸福を進捗するに外ならずという。この説すでにヒューム氏およびペーリー氏の唱うるところのものと、その原理に至りては大抵同一なりといえども、広くこの原理を応用して道徳法律一般の目的と定めたるはベンサム氏なり。かつ論理上精密にこの説を構定したるものもベンサム氏なり。これ氏の功利説の初祖と呼ばるるゆえんなり。氏は道徳も法律も、その帰するところ苦楽の両情に基づくものとす。故に氏は道徳心を分析して自愛心と愛他心の二種となすも、その実、苦痛と快楽との両情に関するものを義として、純然たる無私の道徳心の存するをいうにあらず。しかして人に無私の愛情あるは、連想すなわち思想の連合によりて生ずるなりという。つぎに人生の目的に関しては、氏は幸福一途を立つるものなり。そのいわゆる幸福は無苦有楽を義として、最大苦を除きて最大楽を求むるをもって我人の目的とす。すなわち最大の幸福を最多数の人に与うるをもって目的とするなり。故に氏の説を、あるいは称して最大幸福説という。しかして氏の説のペーリー氏に異なるは、功利一途を目的として神意を取らざるにあり。

       第一三六章 マッキントッシュ氏の説

 つぎに、マッキントッシュ氏はベンサム氏と同じく功利説を取り、人生の目的および道徳の標準は幸福に外ならずと唱うるも、その解釈に至りては少異あり。すなわち氏は、幸福は人の直接の本心にあらずして、諸善行の標準なりという。しかして氏は、良心をもって本来存するものにあらずして経験連想より発達したるものなり、その発達の際無私博愛の情の生ずるに至りたるも、そのいまだ生ぜざるにありては自利の私心あるのみという。しかして幸福を論ずるに至りては、自愛と愛他の両説を合して道徳の目的とするなり。

       第一三七章 クーザン氏の説

 当時フランスに倫理を論ずる哲学者あり。その一人をクーザン氏と称す。氏は功利論を駁して、道徳は決して感覚上の経験より生ずるものにあらず、徳義は決して自利の私情より生ずるものにあらずといい、また氏は仁愛愛憐およびその他の情をもととする論者に対して、情感は時々変更して永続せざるをもって道徳の原理にあらずという。故に道徳の原理は道理に外ならずして、我人の諸行為は常にその善悪を道理によりて判定するなり。しかしてこの善悪の判定より道徳の規律を生ずるに至るなりという。

 クーザン氏の門弟にジュフロワ氏と称するものあり。その説クーザン氏を継述するも、また少異あり。純善をもって道徳の基址とし、道理をもって道徳の本心とし、幸福をもって人生の目的とするなり。

       第一三八章 コント氏の説

 つぎに、フランスに実験哲学の初祖たるコント氏と称するものあり。氏は哲学の研究を形而下にとどめて、形而上の空理を論ぜず。故にその学を実験哲学と称す。今、氏の見るところによるに、倫理学は社会学の一部分なりとす。すなわち氏は、人の行為の規則は一個人について知るべからずして、社会について知るべしという。けだしその意、人の互いに相愛し相親しむは一個人の経験論究より生ずるものにあらずして、社会の人情中おのずからこの親愛の情ありて存するによるというにあり。この情に基づきて道徳を立つるもの、これコント氏の倫理学なり。

       第一三九章 ヒューエル氏の説

 ここにまた常識をもって道徳を立つるものあり。これを常識論という。ヒューエル氏の論ずるところのものこれなり。常識論とは、常人普通の知識に基づきて善悪を定むるをいう。およそ常人の考うるところによるに二種の説あり。一は徳をもってもととし、一は楽をもってもととす。ひとりその一方を取りて他を排すれば僻説たるを免れず。すなわち楽の外に徳なしというも、徳の外に楽なしというも、ともに世人の許さざるところなり。これをもって、氏はこの両説を結合折衷せんことを務めり。故に氏の人生の目的を論ずるもひとり幸福のみを取らず、その幸福と徳との二者を取るなり。もしまた氏の道徳の本心を論ずるを見るに、行為の原因を数理に分かちて嗜欲、愛欲、安全を欲する情と、道徳を判ずる心等より生ずるものとするなり。

       第一四〇章 ミル氏の説

 近年ベンサム氏に継ぎて功利説を唱うるものをミル氏とす。ミル氏は父子ともにこの説を主唱す。今その論の大要を述ぶるに、道徳の標準は幸福なり、幸福を進むる行為は善にして、禍患を生ずる行為は悪なりという。そのいわゆる幸福とは快楽ありて苦痛なきをいい、禍患とはその反対をいうなり。しかしてこの快楽と苦痛は人の情感にして、善悪は全く単純の情感より生じ、道徳の本心とする天賦の良心もみな単純の情感より生じ、愛他の公情は自愛の私情より生ずという。かく単純の情感の次第に発達して複雑の道徳心を生ずるは、連想の規則あるによる。連想とは思想連合の規則にして、我人の感覚上経験したるもの心内に再現して思想を生じ、諸思想互いに連合して複雑の思想を生ずるなり。この理によりて道徳の発達を証明せしもの、すなわちミル氏なり。

       第一四一章 スペンサー氏の説

 しかるにまた、近年進化説をもって道徳論を唱うるものあり。スペンサー氏これなり。氏はミル諸氏のごとく人生の目的は幸福にありというも、進化の原理を応用して善悪の標準、道徳の本心を論ずるに至りては、他の功利学者の説に異なるなり。すなわち氏は、道徳は目的ある挙動より生じ、目的ある挙動は目的なき挙動より生じたるものにして、人類の道徳上の行為は下等動物の目的なき挙動より発達したるものなり。この目的なき挙動ようやく進んで目的ある挙動となり、この挙動のよくその目的に適合したるときは生存を全うし、適合せざるときは生存を害するをもって、その生存を助くる行為は善行となり、その生存を害する行為は悪行となる。これにおいて行為の善悪起こる。他語をもってこれをいえば、善悪は苦楽より起こるなり。すなわち苦は生存に害あり楽は生存に益あるをもって、道徳上の行為は苦楽の感覚より生ずること知るべし。しかして氏の道徳の本心を論ずるに至りては、ひとりこれを経験に帰せず、またひとりこれを天賦に属せず、その一半は経験よりきたり、その一半は生来有するところの本能力なりとす。しかしてその能力は、父祖数世間の経験より生ずという。故に氏の論その実一種の経験論なりといえども、一人一代の経験を取らずして、父祖数世間の経験を取るなり。これを要するに、その論、経験論者の説と天賦論者の説を取捨折衷するもののごとし。その他、氏は道徳の目的を論じて自愛も愛他もともに一僻論たるを知り、二者の中庸を取らざるべからざるゆえんを論ぜり。

       第一四二章 帰 結

 以上、東西古今の諸大家の異説を列叙し終わるをもって、ここにその結果について一言を付するを必要なりとす。東洋の諸説は大いにギリシアの諸説に類するところあるも、理論上これを較するときは、ギリシア学者の論大いに長ずるところあるを見る。ただにその理論の長ずるのみならず、その説の数種多端なること、また東洋学の及ぶところにあらず。東洋の諸説は大抵一説に雷同するの風ありて、ギリシアの諸説は互いに相抗争するの風あり。これをもって、ギリシアにありては倫理の諸説も著しき進歩を見るに至りしなり。けだしギリシアは近世の諸説諸論の本源にして、近世の諸説諸論一としてその源をギリシアに発せざるはなし。倫理もまたしかり。今日の倫理上の諸説は、大抵みなギリシアにありて多少すでに発達したるものなり。故に今日の倫理学は、ギリシア学の再興なりと称するも不可なることなし。しかれどももしその説の長短優劣を較するときは、ギリシアの諸論の近世の諸論にしかざること、また問わずして明らかなり。別してその論理の周密にして事実に適合することは、古代の諸説遠く及ばざるところなり。今、更に倫理の要点について近世の進歩をみるに、古代の諸説は道徳の目的は幸福にあらずして徳義正善にありといい、今日に至りてもなおその説を唱うるものあるも、幸福を目的とするの論次第に勢力を得るに至れり。また古代の説は道徳の本心は天賦にして経験より生ずるにあらずといい、今日に至りては学者中大いに経験論を唱うるものありて、道徳心は天賦にあらずというに至る。その他、古代は善悪の標準は古今東西一定不変なりと立つれども、今日は人智とともに進化して一定せざるものとす。これ古今の諸説の異同ある要点にして、余がいわゆる道徳の進化説は、数千百年来の進歩の結果なること明らかに知ることを得べし。すなわちこの説は、近年行わるるところの幸福説と進化説を結合したるものなり。故に余は、これを進化幸福説という。その説は古来の諸説の会帰するところなることは、今叙列したる諸家の説を対照してもなお了知すべきなり。

 

 

     第九編 諸説分類

       第一四三章 端 緒

 以上、第一編に倫理の性質関係を論じ、第二編に人生の目的は幸福を増進するにあるゆえんを論じ、第三編に善悪の標準のまた幸福に外ならざるゆえんを論じ、第四編に道徳の本心は天賦にあらざるゆえんを述べ、第五第六両編に人の行為心性は進化の規則に従って発達するゆえんを述べ、第七第八両編に古今諸家の異説を略叙して、進化幸福説の近年に至りて始めて起こりしゆえんを示せり。論じてここに至れば、全論を帰結して批評をその上に与えざるを得ず。故にここに諸説分類と題したるも、その実、前八編の帰結論なり。今これを帰結するに当たり、各家の諸説を分類してその関係を示すを必要なりとす。

       第一四四章 道徳の目的を論ずるに二大派あること

 諸家の道徳を論ずるその基址いまだ定まらざるをもって異説百出、これを一定するはなはだ難し。故にその分類もまた一定せざるなり。あるいは心理上の分類をなすものあり、あるいは哲学上の分類をなすものあり、あるいはその目的の異同に従い、あるいはその方法の異同に従って分類をなすものあり。今その目的上の分類によるに、直覚教および主楽教の二種に分かつを常とす。直覚教は徳義をもって目的とし、主楽教は快楽をもって目的とす。けだし直覚の語たるや、さきにすでに示すごとく、経験推論を待たずしてただちに知覚識了するをいう。たとえば、目をもって色の黒白を弁じ、耳をもって声の清濁を知るがごとし。我人の道徳上行為の善悪を判定するがごときも、経験推論を待たずしてただちに識覚することを得るなり。故に直覚論者は、道徳は人の心性作用中直覚力に属するものなりといい、あるいはまた道徳は天賦固有の良心より生ずるものなりという。すなわち我人の善悪を識別してその善に就きその悪を避くるは、経験推理の結果にあらずと唱うるものこれなり。しかるにこれに反対する論者は、そのいわゆる良心も経験推論より生ずるものなりという。これすなわち主楽教者の唱うるところなり。かくのごとく解するときは、主楽教は経験をもととし、直覚教は天賦をもととするの別あるがごとし。しかるに今ここに余が論ずるところは、必ずしも天賦経験の二種についていうにあらず。ただその一は徳義正善を目的としてその快楽苦痛の結果に関せざるものをいい、その一は快楽幸福を目的として結果について善悪を判定するものをいう。たとえば行為の善悪を判定せんと欲せば、まずその結果のいかんを見、その結果の快楽最も多きものはこれを最上の善行とし、その快楽少なきものは中等の善とし、全く快楽なきものを悪とするは主楽教なり。もしこれに反して、その結果の快楽の有無多少に関せずして行為の善悪を論ずるは直覚教なり。故に余いわく、直覚教は行為の結果に関せざるものにして、主楽教はその結果に関するものなりと。

       第一四五章 直覚教

 今、古来の学者の論ずるところを見るに、その説直覚教に属するもの多し。東洋にありては孔孟はいわゆる直覚教の一なり。西洋にありてはソクラテス、プラトン等の諸氏はみな直覚教を唱うるものなり。近世に至りてもリード、バトラー、カント、フィヒテ等の諸氏はみな直覚教なり。その他、現今にありても直覚教を唱うるもの決して一、二人にとどまらず、倫理学者中、良心の本来を立つるものみな直覚教に属す。しかして人のこの教を唱うるや、あるいは普通の見解によりて、人生まれながら道徳の本心を有して、行為上自然に守らざるべからざるものありと。一に信許して更にその理のいかんを論究せざるものあり、これを常識直覚教と称す。これに反して、徳義正善の本心を論究してその理を証明するものあり、これを哲理直覚教と称す。すなわち一は常人の知識に基づきて立ち、一は哲学の理論に基づきて立つるの別あるをいう。あるいはまたその目的を論ずるに、知徳をもととするものあり、純善をもととするものあり、完成をもととするものあり、義務をもととするものあり、仁慈をもととするものあり、正理をもととするものあり、克己をもととするものあり、礼譲をもととするものありて、学者の説いまだ一定せずといえども、その帰するところ、もとより大異あるにあらず。孔孟のいわゆる仁というも義というも礼というも、これを行ってその目的を達するに至れば、みな同一に帰すべし。かつ細密にこれを考うれば、仁というも義というも徳というも善というも、ただその名称異なるのみにて、その実不同なるにあらず。故に余は仁、義、徳、善等の名称について分類をなさざるなり。

       第一四六章 主楽教

 つぎに、主楽教は快楽幸福を目的とするものにして、ギリシアのエピクロス氏の初めて唱うるところなり。その主義伝えて近世に至り、ホッブズ氏、ロック氏の継述するところとなり、進んで現今の功利教の基を開くに至れり。すなわちベンサム氏、ミル氏等の幸福論はこの主楽教の一種なり。しかれどもその主義、衆人の幸福を進むるにありて、一人の幸福を目的とするにあらず。これに反して、エピクロス氏の主義は一人をもととするもののごとし。シナにありても、楊朱の主義は自利自愛を主とするものなり。故に主楽教は一人快楽を目的とするものと、衆人の快楽を目的とするものの二種に分かたざるべからず。しかしてまた衆人の快楽を目的とするもののうち、愛他と兼愛との二種を分かたざるべからず。そのほか、肉身の快楽を主とするものと、精神の快楽を主とするものの別あり。かつこの主楽教も直覚教のごとく、常識主楽教と哲理主楽教の二種に分かつことを得べし。

       第一四七章 二教の分類全図

 以上、倫理教の分類をなすに当たりて主楽直覚の両教に分かち、その各教を種々に分かつ方法あるも、余は簡短に一己と衆同の二種に分かたんと欲するなり。すでに主楽教は一人の快楽を目的とするものと衆人の快楽を目的とするものの二種ある以上は、これを一己主楽教と衆同主楽教とに分かつことを得べし。しかしてまた直覚教もその目的完徳にありと定むるときは、一己の完徳を目的とするものと、衆同の完徳を目的とするものとの二種に分かつことを得るべきをもって、これまた一己完徳教と衆同完徳教との二種に分類することを得べし。その図、左のごとし。

  倫理教 直覚教 一己完徳教

          衆同完徳教

      主楽教 一己快楽教

          衆同快楽教

 そのほか学理上よりこれをみれば、常識と哲理の二種に分かつことを得べし。しかれども以上の分類は、もとよりその関係を尽くすものにあらず。ことに倫理のごとき無形の道理にわたるものは、適当の分類を与うることはなはだ難しとするところなり。

       第一四八章 道徳の本心を論ずるに二大説あること

 つぎに、道徳の本心を論ずる諸説を分類するに、経験と本然すなわち天賦の二種に分かつことを得べし。良心論者は天賦論なり、功利学家は経験論なり。しかしてまた、道徳心の一半は天賦にして一半は経験なりと唱うるものあり。これカント氏の論なり。あるいはまた道徳は一人一代の経験によらざるも、父祖数世の経験によるなりと唱うるものあり。これスペンサー氏の論なり。この二者を区別せんため、ここに一を統合論、一を遺伝論といい、左にその図を示すものなり。

  道徳論 単元 経験

         天賦

      混元 統合

         遺伝

 単元とは経験の一元または天賦の一元のみを立つるものをいい、混元とは二者を立つるものをいうなり。

 もしまた東洋学者の論ずるところをみるに、諸家必ず性の善悪を定むるなり。すなわち孟子は性善を唱え、荀子は性悪を唱え、楊雄は善悪相混、韓退之は性有三品、程朱は本然気質を唱うるものこれなり。

  性 一元 善

       悪

    諸元 善悪相混

       性有三品

       本然気質

 仏教にても心性の善悪を論定することは、その立つるところの心の所有法の中に、大善地法、大不善地法等の名目あるを見て知るべし。

       第一四九章 心理学上の分類

 つぎに、心理上与うるところの道徳の分類をみるに、情感によりて立つるものと、智力によりて立つるものとの二種あり。人を愛憐する情をもととするがごときは情感の道徳なり、善悪を識別する智をもととするがごときは智力の道徳なり。カドワース、クラーク等の諸氏は道理をもととするをもって智力の道徳に属し、バトラー、リード等の諸氏は良心をもととするをもって情感の道徳に属す。孔子の人情に基づきて倫常を説きたるは情感の道徳なるにより、釈迦の断感証理を説きたるは智力の宗教なるによる。これを要するに、心理上道徳を論ずるときは、情感をもととするものと、智力をもととするものの二種に分かつことを得るなり。

       第一五〇章 哲学上の分類

 つぎに、哲学全系上倫理の分類を与うるに、宇宙全体の道理に基づきてその原理法則を定むるものと、心性一部の規則に基づきてその原理法則を定むるものの二種あり。今この二者を区別せんために、仮に一を哲理上の論とし、一を心理上の論とするなり。すなわちインドおよびギリシアの諸学者のごとく、宇宙万物の本体と我人の関係を論じて人の道徳を立つるがごときはその第一に属し、イギリス近世の諸家のごとく、心理の性質作用を論じて人の道徳を立つるがごときはその第二に属するなり。しかしてまた、その第一に属する哲理上の論に二種あり。一を形而上の論とし、一を形而下の論とす。すなわちプラトン氏の形而上の理想に基づきて道徳を立つるがごときは形而上の倫理論にして、コント氏の形而下の物理に基づきて道徳を論ずるがごときは形而下の倫理論なり。つぎに、心理上の論にまた二種あり。一を経験上の倫理論、一を天賦上の倫理論とす。すなわちミル、スペンサー諸氏のごとく、感覚上の経験に基づきて道徳を論ずるは経験上の倫理学なり。カント、リード諸氏のごとく、天賦の良心に基づきて道徳を論ずるは天賦上の倫理学なり。以上これを要するに、その図、左のごとし。

  倫理論 哲理上 形而上

          形而下

      心理上 天賦上(良心)

          経験上(感覚)

       第一五一章 神物心各体の関係

 更に進んで、その諸説の分かるるゆえんおよび諸分類の起こるゆえんを知らんと欲せば、まず神、物、心三体の関係を知らざるべからず。この三者の関係は哲学諸科の分界を定むるに最も必要なるものにして、倫理の分類を論ずるにもまた欠くべからざるものなり。およそ我人目を開きてその前に現ずるものこれを物といい、目を閉じてその内に動くものこれを心という。すなわち物を知るはこれ心にして、心を知るはこれ物なり。物と心とは互いに相待ちて存することを得べし。故にこれを哲学上にて相対の物心という。しかるに一歩進んで、更にその本源を考うるときは、物はいずれよりきたり、心はなにによりて生ずるか知るべからず。ただにその本源知るべからざるのみならず、その二者互いに相契合応和するゆえんのもの、また知るべからず。もし強いてその原因を知らんと欲せば、物心の外に他の一体を設けざるべからず。その体これを神とす。神は物心を造出し、あわせてこれを経営媒介するものなり。宇宙広しといえども、けだしこの三者の外に出でず。物にあらざればこれ心なり、心にあらざればこれ物なり。物にもあらず心にもあらざればこれ神なり。故にこれを宇宙の三大元とす。諸学この諸元に基づかざるはなし。道徳の本心も行為もまた、みなこの諸元の関係より生ずるものなり。

       第一五二章 神物心と諸学との関係

 まず諸学の関係を示すに、およそ学問と称するもの、これを大別して宗教と理学と哲学との三種とす。これすなわち物、心、神の三元より分かるるものなり。神をもととするの学これを宗教とし、心をもととするの学これを哲学とし、物をもととするの学これを理学とするなり。他語をもってこれをいえば、神の性質作用を論じてその物心各体の上に与うるところの影響を説くものは宗教なり、物の性質作用を論じて物理の規則を定むるものは理学なり、心性思想の性質作用を論じて無形の真理を究むるものは哲学なり。しかしてまた哲学中にもこの関係の存するを見る。すなわち神の外に物心なしと説くところの唯神論あり、物の外に神心なしと唱うるところの唯物論あり、心の外に物神なしと立つるところの唯心論あり。これを推して、心理学および倫理学中にこの関係の存するゆえん、また知るべし。

       第一五三章 神物心と心理諸説との関係

 心理学も倫理学もともに古代にありては、宗教上よりこれを立てて心理の本源実体は神なりといい、我人のこれを有するも神の与うるところなりといい、その発動を見るも神のなすところなりといい、その善に就き悪を避くるも、人を愛し物を憐れむも、またみな神の命ずるところなり。罰を招き禍をきたすも、楽を得幸福を得るも、またみな神の定むるところなりといえり。これすなわち物、心、神の三元中、神をもって心理および倫理の本体を立てたるものにして、いわゆる宗教なり。近世に至りて心理学は思想上の論究によりて説明を付するに及び、宗教の範囲を脱して一派の哲学となりしは、いわゆる三元中、心をもととするものなり。しかるにまた現今にありては物理をもって心理を論ずるに及び、心理学は一派の理学となるに至れり。今、倫理学もまた宗教の範囲を脱して一派の倫理哲学となり、更に進んで今日は理学の研究法に基づきてその規則を定むるに至る。これによりてこれをみるに、心理学も倫理学もともに、神をもととして立つるものと、心をもととして立つるものと、物をもととして立つるものとの三種あることを知るべし。しかしてまた道徳の本心を論ずるにも、これを神に帰せざれば物心二元に帰して、その原種は生まれながら人の心中にありて存すというものあり、これを天賦論または良心論と称し、その原種は経験より生ずというものあり、これを経験論と称す。かつそれ道徳は物心両界の間に現ずる行為にして、意力の作用に属するものなり。意力の作用は心性の外界に対して現ずるところの作用にして、心理学上これを目的ある作用となす。今、道徳の行為も外界に対する目的ある作用にして、物心両界の間に現ずる作用なること明らかなり。故に倫理を論ずるにも、この物心二者の関係を知ることを要するなり。

       第一五四章 倫理学総体の帰結

 以上、倫理の分類も大略論じ終わるをもって、ここにその全体の帰結を挙げて本論の終局を告げんと欲す。そもそも倫理学は東洋の学と西洋の学との二種あり。西洋にはギリシアの学と近世の学の二種あり。近世にはイギリス、フランス、ドイツの数種ありて、その説くところおのおの異なるも、ギリシアおよび東洋の諸学は虚想に偏するの弊ありて、これを近世に比するに、もとより完全なるものにあらず。しかるに近世に至りては、倫理学はまた虚想上の空論にあらずして、理学の研究法によりてその原理原則を立つるに至る。これ余が本論の目的とするところにして、これをここに道徳学といわずして倫理学というゆえんなり。故に今日にありては従来伝うるところの民間普通の道徳は、すでに今日の事情に適せざるところあるは明らかなり。すなわち仏教も儒教も道教もヤソ教も、ただちにこれを用いて今日の倫理学となすべからざるなり。果たしてしからば、今日の倫理学は西洋の理哲諸学に考えざるべからず。しかしてまた理哲諸学に立つるところの倫理学は、進歩日なお浅くして、いまだ完全したるものと称し難し。故に余は、そのすでに西洋に研究したるものに一己の意見を加えて、一段の進歩をその上に与えんことを務むるなり。今これを論ずるに当たり、第一に人生の目的を定めざるべからず。人々その期するところの目的なきときは、その一生間尽くさざるを得ざる一定の義務あるべき理なし。しかしてその目的果たして存するや否やいまだ知るべからずといえども、これを実際上に考うるに、一定の目的なからざるを得ざる事情あり。かつ人にその目的あるは人類社会の存するによる。もしその存せざるなきときは、目的もまたなき理なり。故に人生の目的は、人類の繁殖する方に定めざるを得ず。すなわち幸福快楽をもって目的とせざるべからず。すでにその目的幸福にある以上は、善悪の標準またたやすく定むることを得べし。すなわちその標準も幸福なり。幸福を助くる行為は善にして、幸福を害する行為は悪なり。かつこれを助くること最も多きものは最上の善にして、これを害すること最もはなはだしきものは最大の悪なり。これをもって、幸福の増進をもって目的とせざるを得ざるに至る。すなわち幸福の増進とは、幸福の分量と品位を進むるをいう。余はこれを幸福の進化と称す。この幸福の進化はただに従来の経験の結果なるのみならず、将来の道徳の目的と定めてしかるべし。すでにかくのごとく人生の目的、善悪の標準ともに進化幸福にありとするときは、そのよく善悪を弁別し、善を好み悪を避けんとする道徳の本心は、いずれより起こるかを論ぜざるべからず。これを論ずるに当たりて天賦論と経験論との二種ありて、一はその本心は人の生まれながら有するものなりといい、一は経験よりきたるものなりという。しかしてこの二者を折衷するもの遺伝説なり。この説によれば、道徳は父祖数世間の経験の積習遺伝するによるという。この理を証明せんと欲せば、行為全体の進化を論ぜざるべからず。下等動物に至りては、もとより道徳の行為も本心もともに有せずといえども、すでに苦楽の感覚を有して、苦を避け楽に就かんとするの性あり。これ生物保存の規則に従って生ずるものにして、進化自然の勢いここに至るなり。この規則によりて、目的なき挙動も次第に進んで目的ある挙動を生ずるに至る。目的ある挙動の進化したるもの、すなわち道徳上の行為なり。心性もまたこれに伴って発達し、ついに道徳の本心を生ずるに至る。これみな物理進化の規則に従うものなり。これにおいて、道徳も進化の規則に従うゆえんを知るべし。けだしこの進化と幸福との両説は、近年始めて学理に考えて証立したるものにして、古代および東洋にいまだかつてその論あるを見ざるなり。今その発達の次第を示さんと欲して、余はここに諸家の異説を略叙し、インド、シナ、ギリシアの諸説より次第に及ぼして今日に至るなり。すでにこれを叙述してその結果を見るに、古来の異説を分類するを要す。これを分類してその要を挙ぐれば、あるいは直覚教と主楽教との二種に分かつことを得、あるいは哲理上と心理上の二種に分かつことを得、あるいは経験と本然との二種に分かつことを得るなり。以上、これを全論の大要とす。

       第一五五章 倫理学以上の問題

 上来論ずるところによるに、道徳の目的標準はともに幸福にして、その発達は全く習性、経験、順応、遺伝によると称するも、一歩進んで深くこれを考うるときは、人智をもっていまだ知るべからざるものありて存するを見る。まず幸福についてそのなんたるを究むるときは、幸福は快楽なりというより外なし。快楽は情感の作用にして、その実、心性の発動なり。故にもし快楽のなんたるを知らんと欲せば、心性のなんたるを知らざるべからず。これを知るは心理学にありというも、心理学は心性の現象を論ずるにとどまりて、その実体を究むるものにあらず。これを究むるは純正哲学の目的とするところなり。あるいはまた道徳の本心は経験より生ずとするも、その経験は物界のみにて起こるにあらず、また心界のみにて起こるにあらず、物心両界の関係より起こる。故に、もし道徳の発達を知らんと欲せば物心の関係を知らざるべからず、物心の関係を知らんと欲せば物心各体のなんたるを究めざるべからず。物心の各体およびその関係を論ずるは、これまた純正哲学を待たざるべからず。その他、善悪の標準を定むるにも、道徳の原則を論ずるにも、標準の標準、原則の原則を知らんと欲するにも、純正哲学に入らざるべからず。これみな倫理学以上の問題にして、今、倫理学を論ずるに要せざるところなり。故に余が上来論じたるところはかくのごとき純理をいうにあらずして、ただ理学の研究法に基づきて道徳の性質発達を論ぜしにとどまる。もしその原則の原則、原理の原理のいかんに至りては、余、別に一説あり。請う、他日を期して更に論ずるところあるべし。