1.心理摘要

P11

  心理摘要 

 

 

1. 冊数

   1冊

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   126×187mm

3. ページ

   総数:240

   序言: 2

   索引: 8

   資料: 16〔心理学系統史略〕

   目録: 8

   本文:184

   総数: 22〔試験問題,東洋

        心理学大意〕

(巻頭)

4. 刊行年月日

   初版:   明治20年9月

   底本:4版 明治32年3月10日

5. 句読点

   なし

6. その他

  (1) 原本の索引,試験問題,東洋心理学大意は省略した。

       第五版序言

 本書は、余が先年初学の者に心理学の一端を授けんと欲し、多忙の際そうそう編述せしものなれば、誤謬、疎脱もしたがいて多かりしが、図らず読者の愛顧を得て、日ならずしてこれを再版し、続きて第三版、第四版を重ね、またここに第五版を刻するに至る。今これを刻するに当たり、更に「東洋心理学大意」を付録として巻末に加え、もって東西心理学の比較研究に便にす。左に本書総目録〔前出〕を掲ぐ。

  明治二八年八月一日                  著 者 誌  





       心理学系統史略

 心理学は近世の学問にして古代の学問にあらず。古代にありては、哲学家中全く心理を論ぜしものなきにあらざるも、いまだ一科独立の学問として研究したるものあらず。ただただこれを純正哲学の一部分として論述したるのみ。たとえばギリシア学者中プラトン氏、アリストテレス氏等の論ずるところ、すなわちこれなり。しかるに今日にありては、心理学は純正哲学の範囲を離れて独立の学科となり、心性の現象作用を実究してその規則を考定する理学となれり。故に今日の心理学は、心性の本源実体を論明する哲学にあらずして、心性の現象作用を実究する理学なり。術語にてこれをいえば、心体の学にあらずして心象の学なり。しかして心体を論究するは純正哲学の部門に属す。しかるに古代にありて心性を論ぜしものみな心体を問題となせしは、いまだ純正哲学の範囲を脱して心理学の独立せざりしによるのみ。近世に至りても、その初代にありてはなお心理学と純正哲学との混同せしを見る。しかしてこの両学の判然相分かれたるは、今をさる二〇〇年以後のことなり。

 そもそも心理学は英国哲学家の得意とするところにして、またその哲学の特性というべきものなり。まずベーコン氏・Bacon)ひとたび哲学研究の方法を定めてより、ホッブズ氏、ロック氏、バークリー氏、ヒューム氏等相続きて起こり、おのおの心理を論究したるも、いまだ純然たる一科独立の学科となるに至らざりき。その後心理学派二種に分かれ、その第一派はリード氏を祖としスコットランド学派の心理となり、第二派はハートリー氏を祖とし英国学派の心理となる。この二者の異同は、スコットランド学派は先天説を用い、英国学派は後天説を用うるにあり。しかして余がいわゆる今日の心理学とは、この後天派の英国心理学をいうなり。その学ハートリー氏に始まるというも、ホッブズ氏、ロック氏等の説中にその源を発せり。しかしてその説を完成したるは、ハートリー氏以後、ミル、ダーウィン、ベイン、スペンサー等の諸氏の力による。今その諸氏の心理説をいちいち論述するにいとまあらずといえども、ホッブズ氏以下諸氏の小伝を掲げて、その系統を略示せんとす。

 ホッブズ氏(Hobbes)は紀元一五八八年英国マームズベリーの地に生まる。僧侶の子なり。オックスフォード大学において学業を修め、学成るの後、貴族の師傅となり欧州諸邦を漫遊し、当時の大家に接見し、イタリアにありてはガリレオと相知り、本国にありてはベーコンと相親しむ。一六五〇年『人性論』と題する一書を著す。その前後、著書はなはだ多し。その政治を論ずるや王権を主唱せるをもって、晩年人民の厭悪するところとなる。一六七九年に至りて死す。寿九一歳なり。氏にさきだちてベーコン氏哲学研究法を講じ、実験帰納の必要を論じたるも、その論ひとり客観上の事物に関し、いまだ人性心理のいかんに及ばざりしが、ホッブズ氏に至り実験帰納の論理を人心の上に応用し、心理を論ずるに物理を用い、人の智識思想の作用は、分子の離合集散によりて物質の変化を現ずると同一理に帰し、諸感覚の離合によりて思想作用を発現するなりという。また、感覚を解するに分子運動の理をもってせり。これまさしく世の唯物論の端を開くものというべし。その論ロック氏に至りていよいよ明らかなり。

 ロック氏(Locke)は一六三二年英国リングトンの地に生まる。法律家の子なり。その学をオックスフォード大学に修め、もっぱら理学および医学を研究す。一六六四年英国公使に随従して独国に遊び、ベルリン府に滞在す。一年を経て本国に帰り、貴族の家に客となり医を業とす。その後再び欧州大陸を漫遊し、帰りて貴族の師傅となり、ついで書記官となる。氏一代の傑作『人智論』は一六七〇年に稿を起こす。一六七四年故ありて本国を去り、数年を経ていったん帰朝せるも、一六七九年再び本国を去り、爾後オランダに住す。一六八八年に至りまた本国に帰る。その前年『人智論』の稿を脱し、その翌年これを刊行す。一七〇四年七三歳の寿をもって遠逝す。氏の心理説は『人智論』中につまびらかなり。その論の主眼は、人に本然の性情なきことを論定し、人智は経験によりて来生するゆえんを説明するにあり。これを説明するに感覚、反省の二種を分かち、感覚は身体外部の作用にして、反省はその内部の作用なり。なお外部の感覚、内部の感覚というがごとし。この内外両作用によりて、我人が外界において経験するところのもの心内に積集し、かつ結合して思想となり智識となるという。故にその説全く経験説なり。

 氏の説を一歩進めて、翻りて唯心説を起こせし者はバークリー氏(Berkeley)なり。氏は一六八四〔五〕年アイルランドに生まる。一七〇九年『視力論』を著す。一七一〇年『人智原論』を著し、外界は識心の作用を離れて別に存せざるゆえんを証明し、唯心論の源を開く。一七五三年に至りて死す。氏とやや同時代に出でてロック氏の説を継ぎ、その極端に走りたるものはヒューム氏(Hume)なり。氏は一七一一年スコットランド、エディンバラ府に生まる。史家ならびに哲学家としてその名あり。一七三九年『人性論』を著し、一七四八年『人智論』を著す。ともに哲学上有益の書なり。その論、虚無を唱え懐疑に陥る。一七七六年に至りて死す。その他二、三の心理説を唱えたるものあれども、これを略す。

 更に眼向を転じてスコットランド哲学の系統をみるに、その学はハチソン氏(Hutcheson)に始まる。氏は一六九四年アイルランドの一地方に生まれ、スコットランド大学に在学し、学成るの後グラスゴー大学の教授となり、倫理学を教授せり。その後アダム・スミス氏、リード氏等、教授の職にありしも、みな主として倫理学を講述せり。リード氏(Reid)は一七一〇年スコットランドの一地方に生まれ、学をアバディーン大学に修め、心理学に関する著述数部あり。故にスコットランド学派中、心理を論ずるもの氏をもって祖とせざるべからず。リード氏に継ぎてステュアート氏(Stewart)スコットランド哲学を講じ、ブラウン氏(Brown)また一家をなすといえども、スコットランド哲学者中最も勢力を有するものはハミルトン氏(Hamilton)なり。氏は一七八八年スコットランド、グラスゴーの地に生まれ、オックスフォード大学に成業の後スコットランドに帰り、一時エディンバラ大学において史学の教授となりしも、一八三六年以後哲学科の教授となり、ついに一八五六年エディンバラ府に死す。氏の哲学はリード、ステュアート両氏を継述すといえども、独国カント氏の説に影響を受けしところ少なからず。氏はカント氏のごとく心性の現象を智情意の三種に分かち、智力に内覚外覚の二種を分かち、外覚によりて外界の事物を知り、内覚によりて内界の事情を知るものとす。しかしてその知るところの内界の事情は心性の現象にとどまり、実体を知るにあらずという。ハミルトン氏に継ぎてスコットランド学を唱うるものフェリアー氏(Ferrier)あり。氏は一八〇八年エディンバラ府に生まれ、大学教授となり、一八六四年に至りて死す。以上、スコットランド学者の唱うるところの心理説は、英国心理学者ロック以下の論と大いにその性質を異にし、先天性の思想を本拠として立論するものなり。しかるに英国経験派は客観上の経験を本拠とする性質あり。故に余はさきに、前者は先天説、後者は後天説なりといえり。また、スコットランド哲学家は多少心理学と純正哲学とを混同して論ずるをもって、その心理学はいまだ全然独立の学科を成すに至らず。しかしてその学の全く独立せしは最近のことなりといえども、そのよりてきたるところを尋ぬるに、ハートリー氏の連合説より始まる。

 ハートリー氏(Hartley)は一七〇五年英国アームレーの地に生まる。僧侶の子なり。その父はこれを教育して将来僧侶となさんと欲しケンブリッジ大学に入るるも、氏は僧侶となるを欲せず、自ら医術を修む。その後『人類視察論』を著す。この著の初稿は二五歳のときこれを起こし、一六年間その校正に力を用い、一七四九年これを世に公にす。一七五七年に至りて死す。氏の著書中一代の卓見と称すべきものは、脳髄振動説と観念連合説との二点なり。その説、ニュートン氏の理学上の新説を、心理上に応用したるものに外ならず。まず氏の振動説を考うるに、脳髄および諸神経は感覚を生ずべき機関にして、その分子の振動によりて感覚を生ずるものなり。故にもし外物ありて神経の末端に触るれば、神経分子の振動によりて精神作用を興起するに至るという。つぎに連合説を考うるに、諸感覚観念互いに連合する性ありて、感覚は連合して思想となり、単純の思想は連合して複雑となるという。これ思想発達の規則にして、今日の心理学の原理とするところのものなり。氏の門より出でてその説を伝うるものはプリーストリー氏(Priestley)なり。氏は一七三三年英国フィールドヘッドの地に生まる。氏は初め神学を研究して組合教会の牧師となるも、その後哲学に苦心し、哲学上の著書を発行す。すでに改宗してユニテリアン教会の牧師となる。一七九四年アメリカに遊び、一八〇四年同地に没す。氏はハートリー氏のごとく振動説ならびに連合説を主唱すといえども、多少異なるところなきにあらず。およそ物質の形体は分子の集合離散の度に応じて現出し、精神作用は脳髄の機械的作用の上に生じ、脳髄を離れて別に心体あるにあらずという。しかして物質全体とその固有の勢力とを合したるものに至りては、その体無比最上の神体の上に成立せざるべからずと説ききたりて、唯物論と有神論とを接合せるもののごとし。

 ハートリー氏ならびにプリーストリー氏と同説を唱うるものはエラスムス・ダーウィン氏(Erasmus Darwin)なり。ダーウィン氏は一七三一年に生まれ、医学を修め医を業とすといえども、生理学ならびに心理学に関する著述あり。一八〇二年に没す。その心理を説くや、ハートリーおよびプリーストリーと同説をとる。その説によるに、宇宙間に物心二元あり、心元は運動を生じ、物元はこれを伝うるものなり。物質の運動に三種あり、物理的、化学的、生活的、これなり。動植物の運動ならびに心性作用は、この第三種生活的運動に属すという。しかして心性作用の生ずるゆえんを説くに、感覚神経の運動をもってし、その運動の連続より思想の連合を生ずとなす。

 その他、ハートリー氏の連合学派に属すべきものタッカー氏(Tucker)あり。一七〇五年に生まれ一七七四年に没す。またペーリ氏〔Paley〕あり。一七四三年に生まれ一八〇五年に死す。タッカー氏はハートリーの学派よりむしろリードの学派に近し。ペーリ氏はただ倫理上に一新説を立てたるのみ。しかしてハートリーの学説は、当第一九世紀に至りミル、ベイン、スペンサー諸氏を得て大いに発達せり。

 ジェームズ・ミル氏(James Mill)は一七七三年スコットランド、モントルーズに生まる。エディンバラ大学に入りて業を修め、その初め僧侶となる予定なりしも、中途にして志を変じ文学を専修す。氏の著書中哲学に関するものは一八二九年の発行にかかる『心理書』なり。これを心象分析論と名付く。一八三六年に至りて没す。氏の学はハートリー、ヒューム両氏を継ぎ、実験心理学を唱え、観念連合説を取る。まず感覚と観念との関係を論じて、感覚去りたる後、心面にとどまるものを観念となし、その間に連合ありて、一者起これば他者これに従う。その前なるものは感覚にあらざれば観念なり、その後なるものは観念に限る。しかしてその連合の強弱は、反覆、習慣等の事情異なるによるという。かくして観念連合の道理は、氏に至りていよいよ明らかなり。氏の子をジョン・ステュアート・ミル(John Stuart Mill)と名付く。氏は一八〇六年に生まれ一八七三年に没す。その著書中哲学に関するものは論理書『ハミルトン哲学批評』およびその父の心理書を訂正したるもの等なり。氏は純正哲学にてはホッブズ、ヒューム、コント三氏の説を取り、心理学にては父の説とブラウン氏の説とを取るもののごとし。

 ハートリー氏およびミル氏の心理説に基づき、心身の関係を明示せるものはベイン氏(Bain)なり。氏は一八一八年に生まれ、アバディーン大学の教授となり、一八五四年『感智論』を著し、一八六五年『情意論』を著し、一八六八年心理学ならびに倫理学の書を著す。実に近世心理学家中の泰斗なり。氏の心理を論ずるは唯物論を唱うるにあらず、肉身を離れて別に精神の存する説を排斥するにあらずといえども、その説明に至りては、全く物理の規則により連合の道理を取るものなり。

 スペンサー氏(Spencer)も近世心理学者の一人なり。氏は一八二〇年に生まれ、英国ダービーの人なり。幼時より数学を好み、長じて土木工学を学び、中途にして文学に転じ、ついに哲学家として世間に称せらるるに至る。氏の哲学は五大部より成り、第一部を『哲学原理』という。一八六〇年の発行なり。第二部を『生物論』という。二冊より成る。その第一冊は一八六六年、第二冊は一八七二年の発行なり。第三部を『心理論』という。二冊より成る。その第一冊は一八七二年、第二冊は一八七三年の発行なり。第四部を『社会論』という。二冊より成る。ともに既刊なり。第五部を『倫理論』という。しかしてその第三部『心理論』につきて、氏の心理説をうかがい知ることを得るなり。その説、ハートリー、ベイン等を継ぎ連合の原理を用うといえども、一家の新説は進化の原理を心理学上に応用せるにあり。故に氏は、心性作用は生活作用より進化し、生活作用は内外応合より発達すという。かつその発達は一世一代の経験に限るにあらず、数世数代の経験によりて進化すという。この説明によるに、氏は過激の唯物論者なるがごとしといえども、自ら称して実体論者なりと称し、物象の外に本体の実在を許せり。かつ氏は『哲学原理』中に可知的界の外に不可知的界の存することを説き、物心万象の本体は人智をもって知るべからずとなす。

 以上叙述せるところ、これを一括すれば、ハートリー氏よりスペンサー氏に至るまで、これを総じて連合学派と称す。観念連合の規則によりて心性の発達を説明するによる。これ英国心理学の特色にして、ハートリーをもってその開祖となすも、もしその源を尋ぬるときはホッブズ、ロック等の諸氏の経験説に基づく。しかして心理学の純正哲学の範囲を脱して一種独立の学科となりしは、ハートリー氏以後相伝えて今日に至り、ベイン、スペンサー等の諸氏の尽力に帰せざるべからず。余の本書中に述ぶるところは、ハートリー学派の連合説と、スペンサー氏等の唱うる進化説とを参酌し、これを一科の理学としてその大要を摘示せるものなり。故に題して『心理摘要』という。

 本書は英国学派の実験心理説の摘要なれば、ここに独国心理学派の系統を述ぶる必要なしといえども、独国にも実験心理を講究する学派あれば、その人名を列挙するも、またあえて贅言にあらざるべし。そもそも独国において実験心理学の祖と称せらるるものはヘルバルト氏(Herbart)なり。氏は一七七六年に生まれ一八四一年に死す。その学カントに基づくといえども、心理学をして一科独立の学科とする道を開きたるは、実に氏をもって始めとなす。けだし氏の心理学は実験、数理、および純正哲学の三元素をもって科学的に講究したるものなり。しかしてこれを英国学派の心理説に比するに、純正哲学を心理学の基礎とするの別あり。これ一般に独国学派と英国学派と、その見を異にするところなり。しかるに独国哲学家にして、英国派の心理を唱道したるものはベネケ氏(Beneke)なり。氏は一七九八年に生まれ一八五四に死す。その説のヘルバルト氏に異なるは、純正哲学および数学を心理学の基礎中に加うる説を排斥するにあり。また独国哲学家中にて、実験心理学に関係を有するものはロッツェ氏(Lotze)なり。氏は一八一七年に生まれ一八八一年に死す。その心理は哲学上の憶説を混同し、いまだ純正哲学の範囲を脱せずといえども、また実験上の説明を用うるをもって実験学派の一人に加うるなり。つぎに物理上より心理学を攻究し、いわゆる精神物理学の開祖と称すべきものはフェヒナー氏(Fechner)なり。氏は一八〇一年に生まれ一八八七年に死す。また、生理学上より心理を論じたるものはヘルムホルツ氏(Helmholtz)なり。氏は一八二一年に生まれ、医学ならびに生理学をもって聞こゆ。しかれどもその心理を論ずるや、完全なる学科的組織を開きたるにあらず。しかして生理上試験的に心理を攻究し、いわゆる生理的心理学を完成し、現今独国実験心理学の泰斗と仰がるるものはヴント氏(Wundt)なり。氏は一八三二年に生まれ、今なお存命なり。その学説はこれを略す。





 

     第一章 緒 論

       第一節 端 緒

 今、我人が天地の間に立ちて目に色を見、耳に声を聞き、口に味を感じ、あるいは喜び、あるいは笑い、あるいはかなしみ、動かんと欲して動き、とどまらんと欲してとどまり、物の善悪、事の利害を識別思量するは、けだし人にいかなる作用ありてしかるやと問わば、これ、わが生来有するところの精神作用によるといいて答うるより外なかるべし。これをここに心性作用という。この心性作用を論究する学、これを心理学と称す。およそ学問には理学、哲学、政治、法律等、その種類いくたあるを知らずといえども、一として心性作用によらざるはなし。故に諸学はみな心理学と多少の関係を有するものなり。ことに教育、倫理、論理等の諸学は心理学と密接の関係を有することは、余が弁明を待たざるところなり。故にいやしくも学理を研究せんと欲するものは、必ずまず心理学を修習せざるべからず。その他、医師が病客を診察するにも、裁判官が罪人を審問するにも、その人の性質気風を知ることまた必要にして、宗教家が人を教うるにも、政治家が人を治むるにも、父母が子を養育するにも、詩人が詩を作り楽人が楽を奏するにも、人の性質を明らかにすることは実に欠くべからざる要点なり。今、心理学を講習するもの、必ずしも人の心中を察知すべきにあらずといえども、ひとたびその学に入りて、外貌と内想といかなる関係を有するかを究むるときは、これを実際に施して多少の益あるは必然の理なり。これによりてこれをみれば、心理学は人の目的業務のいかんを問わず、だれにでも一般に研究せざるを得ざる最重至要の学なりというべし。

       第二節 物界心界の別

 すでに心理学は心性の学にして、最重至要の学なるを述べたれば、これより心性とはいかなるものにして、心性の学とはいかなる学問なるかを弁明せざるべからず。およそ我人が目を開きてその前に見るもの、これを物質と名付け、目を閉じてその内に動くもの、これを心性と名付く。あるいは物質を客観といい、心性を主観という。あるいは客観の一境はこれを物界と称し、主観の一域はこれを心界と称す。あるいはまた、心界は内にあるをもって内界と呼び、物界は外にあるをもって外界と呼ぶことあり。その図表左のごとし。

 しかして物質は延長を有し、心性は意識を有す。これ二者の異なる特性なり。意識とはこれを解して自知といい、心性の覚知性を義とし、諸作用みなその範囲内において起こるものとす。

       第三節 心体心象の別

 更に進んで、そのいわゆる意識界すなわち心界はいかなるものなるやを考うるに、第一節に述ぶるがごとき声色の感覚、喜哀の情、挙止、動作、識別、思量等の諸作用に外ならざるを知るべし。しかるに、すでにかくのごとき作用ある以上は、これを発現する本体別になかるべからず。なお、太陽の実体ありて光線の発現あるがごとし。この心性の実体、これを心体と名付け、その心体より発現するもの、これを心象と名付く。心象とは心性の現象を義とす。しかして心象の存するは我人の直接に知るところなれども、心体のいかんに至りては到底知るべからず。ただ論理上その有無を推究するのみ。

       第四節 心象の種類

 かくのごとく、心体はそのいかなるものなるや知るべからざるのみならず、その果たして存するや否やなお判定し難きをもって、今、心性の性質を論ぜんと欲せば、ひとり心象のいかんを述ぶるをもって足れりとす。それ心象はその種類いくたあるを知らずといえども、大別して三大種となす。すなわち感情、智力、意志これなり。あるいはこれを略して単に情、智、意と称す。しかしてまた、感情に感覚と情緒との二種を分かつ。すなわち第一節に挙ぐるところの目に色を見、耳に声を聴くは感覚なり。あるいは喜び、あるいはかなしむは情緒なり。動かんと欲して動き、とどまらんと欲してとどまるは意志なり、識別思量は智力なり。以上、心性の分類を図表を掲げて示すこと左のごとし。

  (甲) 心性 心体

        心象 感情 感覚

              情緒

           智力

           意志

 この三種の心象は、みな意識の範囲内において起こるものをいう。しかるに我人の身体中には、意識作用の範囲外に属するものあり。たとえば腸胃、心臓等の活動のごときこれなり。また、意識作用中にも一半無意識なるものあり、あるいは最初有意識にして数回反覆の後、無意識に変ずるものあり。かくのごとき意識作用はこれを反射作用と名付く。しかして智、情、意三種はみな意識作用なり。

       第五節 心理学は心象の学なること

 ここに至りてこれをみるに、心理学は心象の学問なりや心体の学問なりや、これを判定することまた容易なり。すなわち心理学は心象の学なりと知るべし。しかれども、これただただ今日のいわゆる心理学に限る。もし古代の心理学を論ずれば、心体の学と称せざるを得ず。なんとなれば、ギリシアおよびインド学者の唱うるところは、その目的、心体のいかんを論定するにあればなり。しかして心体のいかんを論定するは、哲学中別に形而上哲学すなわち純正哲学の一科なり。故に古代の心理学は、純正哲学の一種に属するを適当なりとす。

       第六節 心理学と純正哲学との関係

 すでに心理学は心象の学問にして、心体のいかんを論ずるは純正哲学なりと定むるときは、両学の関係いかんはこれによりて推知すべし。そもそも哲学は事物の原理原則を論究する学問にして、簡短にこれをいえば、形質なきものを論究する学なり。たとえば、水土のごときは形質を有するものなり、心、神のごときは形質を有せざるものなり。この形質を有するものを実験する学、これを理学といい、形質なきものを論究する学、これを哲学という。しかるにその無形質中に、現象を有するものと有せざるものとの二種あり。心性は現象を有するも、神体は現象を有せず。また心性中にも、心体のごときは現象なきものといわざるべからず。また物質はすでに形質を有するをもってもとより現象を有するも、物質の実体に至りては現象なきものに属さざるを得ず。故に神、心、物三者の実体はともに無現象に属し、心象は有現象に属すべし。この無現象を論究する学、これを純正哲学とし、この心象を論究する学、これを心理学とす。故に純正哲学を形而上哲学すなわち無象哲学に属し、心理学を実験哲学すなわち現象的哲学の範囲に入るるなり。

       第七節 心理学と哲学諸科との関係

 つぎに心理学と他の哲学諸科との関係を論ずるに、美学、論理学、倫理学等もみな形而上の純理を論究するものにあらざるをもって、現象的哲学に属すべきはもちろんなりといえども、この諸学の心理学と異なるゆえんに至りては、更に一言せざるを得ず。心理学は心象の事実を論究してその規則を考定する学問なれば、これを現象的哲学中の理論学に属し、美学、論理、倫理の諸学は心理学に定むるところの規則を実際に応用するものなれば、これを実用学とすべし。すなわち心理学は感情、智力、意志三種の性質作用を論究してその規則を考定するにとどまるも、美学は心理学に定むるところの感情の規則の実用を説き、論理学は智力の規則の実用を説き、倫理学は意志の規則の実用を説くの異同あり。なお物理学、純正化学、天文学等は理学中の理論学にして、器械学、製造学、航海学等は理学中の実用学なるがごとし。

       第八節 学界の全表

 以上論ずるところ、図表をもって示すこと左のごとし。

 そのほか哲学中に社会学、政治学、歴史哲学、言語哲学、宗教哲学の諸科ありて、心理学と多少の関係を有すること明らかなるも、今ここに挙ぐるところは、直接に心理学と関係を有する諸科に限る。ただし教育学の一科

  (甲) 学問 理学(有形質)

        哲学(無形質) 形而上哲学(一名純正哲学)(無現象)

                現象的哲学(一名実験哲学)(有現象)

  (乙) 現象的哲学 理論学(心理学)

           実用学 美 学(感情の実用)

               論理学(智力の実用)

               倫理学(意志の実用)

のごときは、最も心理学と密接なる関係を有するものなり。そのうち身体の教育と心性の教育との二種ありて、心性の教育に至りては、心理学の感情、智力、意志三種の実用につきてその発育法を教うるものなり。

       第九節 心理学の研究法

 これによりてこれをみれば、古代の心理学と今日の心理学と同一ならざるゆえんを知るべし。その異なる要点は、古代の心理学は心体を論究し、今日の心理学は心象を論究するにあり。その他、心理を研究するの方法に至りては、古今大いに異なるところあり。古代の研究法は事実のいかんを問わず、世間一般に信ずるところの道理に基づきて解釈を与うるを常とす。かくのごとき方法を、論理学上にて演繹法という。これに反して、事々物々を実験して一般の規則を考定する法あり、これを帰納法という。今日の心理学は帰納演繹の両法を用うるものなり。また古代は主観一法を用い、今日は主観客観両法を用うるの別あり。主観法とは、自己一人の心象を考定して心理を研究する方法なり。客観法とは、広く他人外物の性質作用を研究して心象の規則を考定する方法なり。今、古代の研究法をみるに、主観の一法を取りて客観の考証を欠くもの多し。あるいは全く客観法を用いざるにあらざるも、これを一、二の人に験するのみにて、広く東西古今衆人の上に試むることなし。ことに諸動物を比較して神経の組織を考定するがごときは、古人の全く用いざる方法なり。今日はしからず。研究上ただに主観客観両法を用うるのみならず、客観の研究法大いに進歩して、心理学上著しき発達を見るに至れり。

       第一〇節 帰 結

 以上の論点を帰結するに、心理学は心性の学なるも、心性には心体と心象との別ありて、心象一方を論究するもの、これを今日の心理学とす。故にもし心理学の解釈を下さんと欲せば、よろしくこれを心象の学というべし。すでにこれを心象の学と定むるときは、現象的哲学に属せざるを得ず。しかしてまたその学、理論上心象の規則を考定するのみにて、更にその実際の応用を説かざるをもって、現象的哲学中の理論学に属すべし。もしまた今日の心理学と古代の心理学との異同を挙ぐれば、古代の心理学は心体を論究するをもって一種の純正哲学なり。かつその研究の方法に至りては、古代は演繹一法を用い、今日は帰納演繹両法を用い、古代は主観一道を取り、今日は主観客観両道を取るの別あり。これ、今日の心理学が一種の実験哲学となりしゆえんなり。

 

     第二章 種類論

       第一一節 心性の彙類法

 前章に述ぶるごとく、心理学は心象の学問にして心性作用の現象を論究するにとどまるも、その現象には千種万類の別ありて、その種類互いに相合して作用を現ずるもの、これを複合作用という。その複合作用を分析して単純作用に帰し、単純作用を合類して一、二の種類に減ずるは、心理学研究において最も必要とするところなり。すなわち諸作用中同一の性質を有するものはこれを合して一小種となし、諸小種中同一の関係を有するものはこれを合して一大種となす。これを心性の彙類法(あるいは分類法)という。なお鳥獣を合して動物となし、動植を合して生物となすがごとし。今この彙類法によりて心象の種類を定むるに、三大種となすことを得べし。すなわちさきに挙ぐるところの感情、智力、意志これなり。

       第一二節 感情の種類

 この三種中につきて、まず第一に位する感情の種類およびその性質を述ぶるに、感情には第四節中の図表に示すごとく、感覚と情緒との二種ありて、感覚は普通に分かつところによるに、五官すなわち眼、耳、鼻、舌、皮膚の五種の覚官の上に起こるところの心性作用をいう。また、その作用を分かちて視感、聴感、嗅感、味感、触感(すなわち視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚これなり)の五種となす。すなわち視感は眼官の上に起こり、聴感は耳官の上に起こり、嗅感は鼻官の上に起こり、味感は舌官の上に起こり、触感は皮膚の上に起こる。これを総じて五感(あるいは五覚)と称す。この五感の外に有機感覚(あるいは体感)を加えて六感となす。有機感覚とは身体の組織間に起こる感覚をいう。すなわち飢渇、疲労等の感覚これなり。あるいは前の五感は身体の一部分に固有の感覚なるをもって特有性感覚と称し、第六感は一定の位置を有せざるをもって普有性感覚と称するなり。つぎに、情緒とは喜怒愛憎の情にして、これを一二種に分かつ。すなわち驚情、愛情、怒情、恐情、我情、力情、行情、同情、智情、美情、徳情、宗情これなり。また、これを単純と複雑との二種に分かつ。驚、愛、怒、恐、我、力、行は単純の情にして、同情、智情、美情、徳情、宗情は複雑の情なり。故にその一を単情と称し、その二を複情と称す。すなわち左表のごとし。

  感情 感覚 普有性(有機感覚)

        特有性 視感

            聴感

            嗅感

            味感

            触感

     情緒 単 情 驚情

            愛情

            怒情

            恐情

            我情

            力情

            行情

        複 情 同情

            智情

            美情

            徳情

            宗情

       第一三節 感情の性質

 感情の一種固有の性質は苦楽の二感にして、心性作用上苦痛を感じ快楽を覚ゆるもの、これを総じて感情と称す。たとえば目に花を見て快を覚し、耳に音楽を聞きて楽を覚え、病にかかりて苦痛を感じ、死を弔して不快を覚ゆるの類これなり。しかして感情中感覚と情緒との別を立つるは、前者は感情の単純なるものにして、後者は感情の複雑なるものの異同あるによる。しかれども、感覚はただに苦痛と快楽との二感を有するのみならず、外物を識別覚知する作用あり。たとえば目に見て物の遠近を覚知し、手に触れて物の大小を識別するがごときこれなり。かくのごとき作用は感情の性質と称し難きをもって、むしろ智力作用に属せざるべからず。故に感覚は感情の一種にして、また智力の一部となるなり。

       第一四節 智力の種類および性質

 つぎに、智力は事物を識別思量する作用にして、これに外覚と内想との二種を分かつ。外覚とは目前に現見する外物の現象を識別覚知する作用をいい、内想とは心内に想出推理する作用をいう。故にその一を表現的(あるいは直現的)と称し、その二を内現的(あるいは再現的)と称す。しかしてまた、内想中に実想と虚想との二種あり。実想は事物の実形実状を再現想出する作用をいう、すなわち想像作用これなり。虚想は実形実状を離れて心中に思惟考出する作用をいう、すなわち思惟作用これなり。実想に再想(すなわち再生想像)、構想(すなわち構成想像)の二種あり。虚想に概念、断定、推理の三種あり。その表左のごとし。

 たとえば色を見て紅白を弁じ、声を聞きて鐘鼓なるを知るがごときは外覚作用なり。心内に昨年の月花を想出し、夢中に異郷の風景を想見するがごときは実相なり。人の人たるゆえんを考定し、是非善悪を思量するがごときは虚想なり(感覚は感情の分類中に掲げ、またこの智力の分類中に入るるは智力の起源なるによる)。

  智力 外覚 感覚

        知覚

     内想 実想 再想

           構想

        虚想 概念

           断定

           推理

       第一五節 意志の種類および性質

 つぎに、意志は外界に向かいて命令実行する心性作用にして、歩行談話より選択、決断、制止等の諸作用に与うる名称なり。たとえば我人が朋友を訪わんと思いてその家に至るも、相会してその思うところを語るも、悪心を制して善心にかえるも、忠を捨てて孝を取るも、みな意志の作用なり。これを執意という。しかしてその作用は必ずなさんと欲する目的を有するものなれば、あるいはこれを解釈して目的ある作用という。この目的ある作用を有意作用と称し、これに反して目的なき作用を無意作用という。たとえば歩せんと思いて足を動かすは有意作用なれども、熟眠中に偶然足を動かすがごときは無意作用なり。今、意志はこの目的ある作用を義とするものにして、有意作用のみに与うる名称なること明らかなりといえども、ある挙動に至りては、有意に属するか無意に属するか、判然相分かつべからざるものあり。故に、ここにしばらく両作用を合して意志と称するなり。しかしてその有意作用にも単純と複雑との二種あるをもって単意、複意を分かつ。その表左のごとし。

  意志 無意

     有意 単意

        複意

       第一六節 感情智力意志三者の異同

 以上、感情、智力、意志の種類およびその性質を弁明したれば、これよりこの三者の関係を略示すべし。まず感情は外界の現象を心内に感受して起こり、智力は内界の範囲内に諸想を比較推理して起こり、意志は内界の決心を外界に実行せんとして起こるの異同あり。他語にてこれをいえば、第一は外界より内界に入り、第二は内界中にあり、第三は内界より外界に向かうの別あり。その図左〔上図〕のごとし。

 すなわち甲より乙に入るは感情なり、乙より丙にわたるは智力なり、丙より丁に出ずるは意志なり。故に第四節中の乙図、左〔下図〕のごとく変ずべし。

 すなわち智力は心象中の内部に位し、感情、意志は外部に関して存するを知るべし。しかれども、これただただ大体の区別のみ。もしこれを細論すれば、この三種の間に判然たる界線を引くことあたわざるなり。

       第一七節 感情智力意志三者の関係

 已〔以〕上三種の心性作用は、その性質多少の異同あるをもって互いに抗抵する性あり。また、その間判然たる分界なきをもって互いに結合する性あり。その一を抗排性と称し、その二を連結性と称す。抗排性とは、感情強き者は智力、意志ともに弱く、智力盛んなるときは感情、意志ともに衰うるがごとく、三者同時にその力をたくましくすることあたわざる性質あるをいう。たとえば人はなはだしく怒るときは、智力をもって事物の道理を弁別することあたわず、意志をもって身体の挙動を制止することあたわず、また深く智力を用いて思想を労するときは、自然に耳目の感覚を減じ、手足の挙動をとどむるに至るがごとし。これに反して連結性とは、一作用起これば他の作用のこれに連結して起こるをいう。たとえば身体上に苦感を生ずるときは、智力および意志作用のこれに伴いて起こるありて、その位置を知定し、その苦を避けんとする挙動を見るがごとし。これ他なし、三者互いに連結するによる。けだし教育上智力を養成すれば、感情、意志またしたがいて発達するを見るも、この連結性の存するによる。しかして三者の発達の、人々の業務習慣に応じて差等を生ずるを見るは、抗排性の存するによるなり。故に心性作用には抗排、連結の両性ありと知るべし。

 

     第三章 発達論

       第一八節 心性の発達

 前章はもっぱら心性にあまたの種類あることを述べたれども、その種類は発達の前後によりて不同あり。およそ人の幼時にありてはその種類少なくして、長ずるに及びようやくその数を増すは、みな人の知るところなり。たとえば情緒は一二種ありと定むるも、幼時にありてはわずかに喜怒の二情を有するに過ぎず、更にさかのぼりてその初期に達すれば、ただただ苦楽の感覚を有するのみにて、別に情緒と称すべきものあるを見ず。ことに智力意志のごときに至りては、単純の感覚と運動とを除きて、外は人の発達したる後にあらざれば発現せざるなり。そもそも心性作用はその身体とともに発達するものにして、その発達の順序、あたかも一個の種子より草木の次第に生育して、茎幹枝葉を開発するがごとし。今、人類進化説によるに、人は動物より変遷しきたるというにあらずや。その説果たして真ならば、心性の本源は動物中にありて存せざるべからず。しかるに一般の動物は感覚、運動の外、別に心性作用と称すべきものを有せず。これによりてこれを推すに、人の有する感情、智力、意志も、この発達せざる感覚、運動より進化してきたるといわざるを得ず。これを心性の進化という。

       第一九節 智力の発達

 これより心性各種の発達を述ぶるに当たり、まず智力の発達を論ずるを必要なりとす。智力は心性の内部に位し、諸作用の中心となるのみならず、人類の動物に異なり、開明人の野蛮人に異なり、大人の小児に異なるゆえんのもの、主としてこの力の発達するとせざるとによる。その力発達せるものは、感情意志もまたしたがいて発達し、その力発達せざるものは、諸作用もまたしたがいて発達せざるなり。故に智力の発達を論ずるは、心理学を研究するに最も必要となすところなり。今その発達の順序を考うるに、さきに第一四節の表に示すごとく、外覚より内想を現じ、実想より虚想を生ず。更にその順序を列記すること左のごとし。

  第一次 感覚

  第二次 知覚

  第三次 再想

  第四次 構想

  第五次 概念

  第六次 断定

  第七次 推理

 すなわち、智力の発達は感覚より始まり推理に終わる。これ前章に、感覚をもって智力分類の一部分となすゆえんなり。

       第二〇節 知覚の感覚より生ずるゆえん

 まず初めに感覚よりいかにして知覚の生ずるかを述ぶるに、感覚は外物の五官に触れて直接に起こすところの単純なる心性作用にして、その作用はただただ目に色を感じ、耳に声を感じ、手足に形質を感じ、鼻舌に香味を感ずるにとどまり、その感ずるところの諸性質を合成して一体の物質を覚識するにあらず。よくこれを合成して、一物を一物として覚識するは知覚の作用なり。故に知覚はこれを感覚に比するに、心性作用のやや複雑なるものとなす。たとえばここに一個の果実ありと想するに、目に見てその色を感じ、手に触れてその形を感じ、舌に接してその味を感ずるは感覚にして、その色、その形、その味相合して、これを一個の果実なりと認識するは知覚なり。故に知覚は、諸感覚相合して生ずるところの結果なりと知るべし。しかしてこの感覚と知覚とはただちに外物に接触して起こるをもって、あるいはこれを外覚(あるいは表現的)と称するなり。

       第二一節 内想の外覚より生ずるゆえん

 つぎに内想の発達を考うるに、その第一に位する再想(再生想像)とは、亡友を想出し故郷を想見するの類にして、目前に現見せざるものを想像上に現見する作用をいう。しかしてその想像上に現見せるものは、前時すでに一回もしくは数回、外覚上に覚識したるものに外ならざるをもって、その体全く知覚よりきたるものとするなり。故にこれを再生と名付く。これを再生と名付くるは、ひとたび外覚上知覚したるものの、再び想像内に現生するを義とす。つぎに構想(構成想像)とは、いまだ一回もその形状を現見せざる外物の現象を、想像上構成する作用をいう。たとえば、いまだ一回も面接せざる数千百年前の古人を想見し、いまだ一回も経過せざる異邦の地形を構成するがごとし。しかしてその想像上構成せるものを分解するに、その各部分みな再想の諸影像より成るを見るべし。故に構想は再想より派生せるものとするなり。

       第二二節 虚想の実想より生ずるゆえん

 更に進んで虚想の起こるゆえんを考うるに、虚想とは、事々物々固有の実形実状を離れて、事物一般にわたるところの思想に与うる名称にして、その体全く実想より派生するなり。まず虚想の第一に位する概念の性質を述ぶるに、概念とは一個一個の事物の実想をいうにあらずして、事物の一種または一類総体にわたる思想をいう。たとえば、木と称するときは、松でもなく梅でもなく杉でもなく、樹木総体にわたる思想を生じ、鳥と称するときは、烏でもなく雀でもなく鶏でもなく、鳥類総体にわたる思想を生ずるの類これなり。この事物総体にわたる思想は、一個一個の事物の実想を離れて別に発達すべき理なきをもって、概念は実想より変化してきたるものとなす。つぎに断定とは、二個の概念相合して生ずるところの思想作用にして、たとえば人は死すべきものなり、山は動かざるものなりというがごとく、なにはなになり、これはこれなりと断定する作用をいう。つぎに推理とは、諸断定相合して生ずるところの論理作用にして、一断定より次第に論究して他の断定を結ぶものをいう。たとえば人は死すべきものなり、しかるに仙人は人なり、故に仙人は死すべきものなりと論定するがごとし。かくのごとく概念相合して断定を生じ、断定相合して推理を生ずる以上は、推理は断定よりきたり、断定は概念よりきたるというべし。これを要するに、虚想は実想より発達し、内想は外覚より発達せるものと知るべし。

       第二三節 智力の経験より生ずるゆえん

 これによりてこれをみるに、智力は外界の経験よりきたること明らかなり。すなわち我人、日夜外界の物象に接触して、その耳目の上に覚知識了するところのもの、次第に心内に積集して智力を構成するに至るなり。あたかも生物のその食物を外界より摂取して、体内の栄養を営むがごとし。智力の栄養は外界の経験なり。故に経験に富むものは智力に富み、経験に乏しきものは智力にもまた乏し。けだし小児の智力の大人にしかざるゆえんは、この理によりて解すべし。故に感覚上の経験をもって智力の材質とするなり。

       第二四節 発達の原力

 果たしてしからば、智力を構成する材質は感覚上の経験よりきたるとするも、これを構成すべき原力は心内にありて存せざるべからず。なお身体の発育上、外界より摂取せる食物を消化すべき原力は、腸胃中にありて存するがごとし。しかしてその原力は人の生来有するところのものにして、外界の経験よりきたるものと定むべからず。これに三種あり。曰く、弁別力、契合力、記住力、これなり。弁別力とは、一物またはその性質を、他物または他の性質に識別する力なり。契合力とは、一物またはその性質を、他物または他の性質に類同する力なり。記住力とは、ひとたび感受したるものを、心内に保持して消失せざらしむる力なり。たとえばここに一個のリンゴありと定むるに、これを見てリンゴなりと識了するには、まずこれをリンゴにあらざるものより識別せざるべからず。これを弁別力という。また、そのリンゴの他のリンゴと同一の性質を有することを認識せざるべからず。これを契合力という。しかしてまた、この二力をもって外物を知覚想像するには、その前に経験したるものを心内に保持する力を有せざるべからず。これを記住力という。この三力中その一を欠くも、智力の作用を現ずることあたわず。故にこれを智力発達の原力と名付くるなり。これによりてこれをみるに、智力の発達は、外界の経験と内界の原力と相合して生ずるものと知るべし。

       第二五節 発達の事情

 かくのごとく、智力の発達は外界の経験と内界の原力との結合作用なりというも、その作用を促しその発達を助くるところの事情、別になかるべからず。しかしてそのいわゆる事情は、演習、習慣、連想の三種に外ならず。第一に演習とは心生作用の実習にして、たとえば視聴の作用を実習すれば、知覚の力したがいて発達するがごとし。つぎに習慣とは、すでに一方に向かいて発達するものは、常にその方向に進まんとする習性あるをいう。しかしてこの性を起こすものは演習の影響にして、演習反覆すれば自然にその習慣を生じて、漸々高等の地位に進むことを得るなり。つぎに連想(観念連合の略称)とは、経験の際、事物の観念の互いに連合するありて、一観念起こるときは他の観念のこれに伴いて起こる規則をいう。けだし観念とは種々の意義を有するも、心理学上特に用うる意は、事物の心理的現象、あるいは外物の主観的影像を義とするなり。これを要するに、智力は内界の原力と外界の経験とによりて発達するはもちろんなりといえども、感覚相合して知覚を生じ、知覚相集まりて再想を生じ、再想相会して構想を生じ、実想相結びて虚想を生じ、概念より断定、断定より推理と次第に相生ずるは、演習、習慣、連想の三事情の、互いに相助くるによると知るべし。

       第二六節 感情意志の発達

 以上は智力の発達につきて論じたるのみ。これより感情、意志の発達につきて考うるも、同一の規則の存すること疑うべからず。すなわち内界の原力と、外界の経験と、演習、習慣、連想の事情とによりて、単情は発達して複情となり、単意は発達した複意となるに至る。けだし感情は単純なる感覚より起こり、意志は単純なる運動に始まりて、次第に高等複雑の情意を生ずるに至るは、全くこの発達の規則による。これを要するに、智力も感情も意志も、ともに同一の規則に従いて発達するや、また明らかなり。

       第二七節 発達の全表

 今、内界の原力を内因とし、外界の経験を外因として、心性発達の規則を表示すること左のごとし。

  (甲) 心性発達 原因 内因 弁別力

                契合力

                記住力

             外因―経 験

          事情 演習

             習慣

             連想

 この表によるに、内因の三力は人の生来有するところのものなるも、その他はみな経験よりきたるもののごとく見ゆれども、ここに外界の経験を待たずして、生まれながら有するところの智力あり。これを本能(あるいは本性)という。本能とは、教育によらずして生来有する知識を義とし、小児の生まれながら手足の動かすべきを知り、飲食の用うべきを知り、父母の畏るべきを知り、朋友の愛すべきを知るの類をいう。故に内因中に、原力の外にこの本能を加うるを適当なりとす。その他、外因中にも風雨、寒暖、土地、食物等の天然の現象より生ずるものと、眷属、朋友、国民の交際上よりきたるものとの二種あり。今この二者を区別せんために、その一を物理的とし、その二を社会的とす。すなわち左表のごとし。

  (乙) 心性発達 原因 内因 原力

                本能

             外因 物理的

                社会的

          事情(前表のごとし)

 これ、心性発達の全表なり。しかるに内因中に原力、本能の二種を分かつは、一世一代の人につきてのことのみ。もし数世数代の人につきて論ずるときは、本能は原力と外因との相合して生ずるところの結果なること明らかなり。なんとなれば、本能は父祖数世間の経験より得るところの結果を、その子孫に遺伝したるものなればなり。故に、一にこれを遺伝性という。

       第二八節 遺伝順応の規則

 論じてここに至れば、遺伝のなんたるを一言せざるを得ず。遺伝には体質の遺伝と心性の遺伝との二種ありて、父祖の性質、気風をその子孫に遺伝するもの、これを心性の遺伝という。この規則に対して順応の規則あり。順応とは、自体を変化して外界の事情に適合する規則にして、教育、経験等によりて生ずるところの変化は、みなこの規則に属す。およそ人たるものはその一生の間、順応によりて発達したる心性作用をその子に遺伝し、子はその一生の間、順応によりて得たる結果をその子に遺伝し、子々孫々互いに順応、遺伝して、野蛮人種も次第に進んで開明に達するに至る。しかして順応の起こる原因は、これを前節の乙表に考うるに、物理的、社会的の外因なること、問わずして明らかなり。故に心性の発達は順応、遺伝の二種の規則によると知るべし。

 

     第四章 感覚論

       第二九節 感覚の義解

 今、智力の発達を論ずるに当たり、感覚はその起源なるをもって、まず感覚より始めざるべからず。それ感覚は一般に解するところによるに、外物の五官に触れて直接に起こすところの心性作用にして、すなわち身体の外部において生ずるところの一種の意識作用なり。もし精密にこれを論ずれば、ひとり外部の作用のみを義とするにあらず、内部の諸組織内の感覚もその中に加えざるを得ず。これ第一二節に、視感、聴感、嗅感、味感、触感の外に有機感覚を加えて六感となすゆえんなり。故にあるいは感覚を解して、求心性神経の末端の刺激に伴いて起こるところの単純なる心性作用なりという。およそ身体中、心性作用を営むところの部分は神経の組織にして、これに繊維と細胞との二種あり。もしその色につきてこれをいえば、白質神経と灰白質神経の二種なり。しかして細胞は心性作用を起こすところの中心なるをもって、その集合せる部分を中枢器と名付く。すなわち脳髄脊髄等これなり。その中枢作用を伝導するものは繊維なれば、これを伝導器と名付く。その伝導作用をつかさどる神経にまた求心性、遠心性の二種ありて、求心性神経はその末端に受くるところの刺激を中枢に向かいて伝導し、遠心性神経はその中枢に起こるところの興奮を末端に向かいて伝導するものとす。故に、感覚および知覚作用を導くところの神経はともに求心性に属す。

       第三〇節 感覚の種類

 感覚の種類中、第六の有機感覚は飢渇、寒暑、疲労、爽快のごとき、全身の組織内に起こるところの感覚にして、一種特有の部分を有せざるも、視聴等の五感はおのおの一定の部位ありて、互いにその作用を転換することあたわざる性質あり。たとえば視感は目の部分において起こり、聴感は耳の部分において起こり、味、嗅は舌、鼻の部分において起こり、耳をもって色を見ることあたわず、舌鼻をもって声を聞くことあたわずといえども、有機感覚はしからず。手を労動すれば手に疲労を感じ、足を労動すれば足に疲労を感じ、脳髄を用うれば脳髄に感じ、腸胃を用うれば腸胃に感じ、身体中疲労を感ずべき一定の部位あることなし。これ、前者を普有性感覚と称し、後者を特有性感覚と称するゆえんなり。今、普有性感覚の種類を挙ぐるに、第一は筋肉の感覚にして、労動または休息によりて筋肉上に生ずる感覚これなり。第二は飢渇の感覚にして、食物、血液の過不足より生ずる感覚これなり。その他、呼吸上酸素の多寡によりて生ずる感覚もこれに属す。第三は寒温の感覚にして、身体の諸部分において寒冷温暖を感覚するをいう。この第三の感覚は常に皮膚の上に起こるといえども、内部の組織間にもまたこの感覚あり。故に皮膚上の寒温の感覚は特有性の触感に属し、内部の組織間に起こるものは有機感覚に属するなり。以上三種の外、腸胃中の消化の感覚、血管中の血行の感覚も、みなこの感覚に属す。

       第三一節 感覚の弁別力

 およそ人たるものは、感覚の度量および性質を弁別する力あり。たとえば外物の五官の上に与うるところの刺激強きときは、これに伴いて生ずるところの感覚また強く、刺激弱きときはその感覚また弱し。これをもって、声の大小、色の濃淡等を弁別することを得。これを度量の感覚と称す。また、我人は色の赤白、声の清濁を弁別する力あり。これを性質の感覚と称す。その他、感覚には時限と地位とを識覚する力あり。まず時限とは、感覚の連続する時間の長短をいう。たとえば食物の舌に与うる感覚はその連続する時間多少長く、光線の目に与うる感覚は短き類これなり。また感覚上、時間の経過を測知することを得。たとえば目に一物を見るに、一分間の感覚と一時間の感覚とは、その長短の感覚を異にするがごときこれなり。つぎに定位とは、同一の官能中においてその刺激するところの部分異なるときは、これに伴いて生ずるところの感覚もまた異なるをいう。たとえば右の手において感ずるときは、その感ずるところ右の手なるを知り、左の手において感ずるときは、その左の手なるを知るがごとし。けだし人はこの地位の感覚を有するをもって、外物の大小、広狭、容量、距離等、すべて空間の現存を知ることを得るなり。かくのごとく感覚には度量、性質、時間、地位を弁別する力を有するをもって、その結果、智力の発達を助くるに至る。しかしてこの弁別力は、諸感ことごとく同一なるにあらず。五感中、視感のごときは最も弁別力に富み、味覚のごときは最もその力に乏しきを見る。ことに有機感覚に至りては、全く弁別力を有せざるにあらざるも、ほとんど智力の発達を助けざるもののごとし。今、その力を有すること最も多きものを第一次に置きて、諸感の序次を定むること左のごとし。

  第一次 視感

  第二次 聴感

  第三次 触感

  第四次 嗅感

  第五次 味感

  第六次 有機感覚

       第三二節 嗅味両感の作用

 この順序によるに、特有性感覚中最も弁別力に乏しく、智力の発達を助けざるものを味嗅両感とす。しかれども苦楽を感起するに至りては、この両感は五感中その力最も強きものなり。故に味感および嗅感は智力の性質を有すること少なくして、感情の性質を有すること多きものと知るべし。もしこの二者の間において、いずれが最も多く智力の発達を助くるに力あるかというときは、嗅感をもって味感の上に置かざるを得ず。なんとなれば、味感は直接にその官能に触れたるもののみを感ずるをもって、すこしも外物の遠近方向を知ることなしといえども、嗅感は外物より発散せる分子に触れて起こるをもって、多少隔たりたる外物の遠近方向を知ることを得べし。これ、嗅感の味感の上に位するゆえんなり。その他、嗅味の性質の他の諸感に異なるは、感覚を連続する時間の長きにあり。すなわち食味を感ずるも香臭を感ずるも、その原因去りてなおしばらく、前時の感覚を連続する事情あるをいう。

       第三三節 触感の作用

 つぎに、触感は皮膚面の感覚なるをもってその区域はなはだ広しといえども、その主たる部分は唇頭および指端となす。しかしてその有するところの弁別力に至りては、もとより味嗅両感の比にあらず。すなわち味嗅は同時に諸性質を弁別して感ずる力なしといえども、触感は同時に諸性質を弁別して感ずる力あり。かつ触感は時間の連続短きをもって、一物を感じてただちに他物に触るるも、前後の感覚を混同することなり。これに加うるに、触感は地位を知定する力に長ずるをもって、よく物の大小、広狭、遠近を弁別し、したがいて智力の発達にあずかりて力あり。

       第三四節 聴視両感の作用

 つぎに、聴感はこれを触感に比するに、外物を感覚する力一層細密にして、音声の大小高低のみならず、その種類のいちいちを弁別して感ずることを得。すなわち聴感は、音声の度量、性質を感ずる力に富めるものと知るべし。また、聴感特有の性質は時間の連続経過を知定するにあり。けだし音声の感覚は前後連続して起こるをもって、これによりて時間の長短および前後を識別することを得べしといえども、外物の地位を知定する力に至りては、はなはだ乏しきがごとし。けだし聴感は左右両耳に感ずるところ異なるによりて、多少外物の方向距離を知るべしといえども、これを触感、ことに視感に比すればその力大いに微なるを覚ゆ。視感は諸感中最もよく外物の性質、度量および地位を弁別し、智力の発達を助くるものなり。語を換えてこれをいえば、視感は色の種類を弁別するのみならず、外物の大小遠近を指定する力あるものとす。しかれども視感によりて外界の事情を知了するは、その実、他感のこれに加わるによる。その理は次章知覚論に入りて述ぶべし。

       第三五節 筋覚の作用

 以上挙ぐるところの六感の外に筋覚と称するものあり。この感覚は普有性感覚にあらずして一種の特有性感覚なれども、また五感の中に加え難し。もしこれを細論すれば、これに感覚の名を与うるすらすでに不当なりとす。なんとなれば、すべて感覚は外物の感触を待ちて起こるものにして、その作用を外物の上に及ぼして、自らこれに感触するものにあらず。他語にてこれをいえば、感覚は所作用にして能作用にあらず。しかるに筋覚のごときは能作用にして所作用にあらず。これ、その他の感覚と異なるゆえんなり。しかしてその作用は普有性感覚に類するがごとしといえども、普有性感覚は全く所作用にして、この感覚は能作用なるをもって、また同一にあらず。しかれどもこの感覚は常に視感、触感と連合して起こり、決して独立して起こらざるをもって、特有性感覚中別にこの一感を設くるを要せず。しかるに、ここに別にこれを論ずるは、その作用の智力の発達に最も重要なる関係を有するによる。そもそも筋覚には運動の感覚と抗抵の感覚との二種ありて、運動の感覚は手足または全身の運動に伴いて起こるところの感覚をいう。この感覚によりて、外物の方向および距離を知ることを得るなり。たとえば、手足を右に動かすと左に動かすとは異なりたる感覚を生ずるをもって、左右の方向を知ることを得、また手足の伸縮は異なりたる感覚を手足の上に生ずるをもって、空間の距離を知ることを得るがごとし。その他、運動の感覚は時間の経過を測知することを得べし。たとえば、長く運動したるときと短く運動したるときとは異なりたる感覚を生ずるをもって、時間の長短を感知するがごとし。つぎに抗抵の感覚とは、手足または全身をもって外物に接触衝突して起こるところの感覚にして、この感覚によりて、外物の固質、重量、弾力性等を知ることを得るなり。たとえば足をもって一物に触るればその軟硬を知り、手をもって一物を挙ぐれば、その軽重を知り、物を支うるときは、時間の長短に従いて異なりたる感覚を生ずるがごとし。この二種の筋覚は、身体中主として手足と両眼との作用によるをもって、触感と視感とに密接なる関係あるものと知るべし。けだし手足と両眼とは身体の構造上、自在に左右上下に運転すべき装置を有するをもって、外界の諸部分において諸事情に感触し、もって視触両感をして外界の状態を明知するを得せしむ。これすなわち筋覚の力なり。もしこれに反して手足の運動なきときは、あたかも草木のごとく、外物のきたりてこれに接触するにあらざれば、外界の事情を知ることあたわず。また両眼の運動なきときは、外界の一点を明視するのみにて、同時に諸点を併視することあたわず。故に視触両感は筋覚と相合して、大いに智力の発達を助くるや明らかなり。しかして筋覚は、視触両感なきときは、またその作用を示すことあたわず。なかんずく、触感は筋覚を起こすに欠くべからざるものなり。

       第三六節 感覚の発達

 これによりてこれをみるに、感覚は感情の一種なるも、あわせて智力の起源なること疑いをいれず。しかして感覚によりて智力の発達するは、前章に挙ぐるところの発達の規則によることまた言を待たず。けだし感覚の力よく外界の事情を覚知することを得るは、弁別、契合、記住の三力の発達せるによる。すなわち弁別力の発達によりて、外界の諸事情、外物の諸性質を弁別して感ずることを得、契合力の発達によりて、同一の事情および同一の性質を有するものを、たやすく覚知することを得るなり。しかしてこの二力の発達は、記住力の存するによる。たとえば紅色を見てたちまち紅色なるを感じ、哭声を聞きて哭声なるを感ずるは、前時すでに見聞経験したるところの声色を記憶中に保持せるによる。その他、感覚の発達は演習、習慣、連想の事情によることは別に説明を要せず。かくして感覚上外物に接触して、ますます微細の種類を弁別し、微細の性質を感知するに至る。これを感覚の発達と称す。しかしてその発達の力は衆人ことごとく同一なるにあらず。また諸感中一感のみ発達して、他感の発達を欠くものあり。これ一は遺伝の影響により、一は順応の結果によるものと知るべし。





 

     第五章 知覚論

       第三七節 知覚と感覚との別

 前章述ぶるところの感覚作用は、その体ただちに知覚にあらずといえども、感覚相集まりて知覚を生ずること明らかなり。しかして知覚は智力の初級なり。今、感知両覚の関係を知らんと欲せば、二者の異同を論ずるを要す。すなわち左表のごとし。

  第一に、感覚は単純にして知覚は複雑なり。

  第二に、感覚は外物の刺激を感受するのみにて、これを一個の物体として認識することなく、知覚は外物の地位を認定し、これを一物として識了するなり。

  第三に、感覚は所作用にして、知覚は能作用なり。

  第四に、感覚には再現作用少なく、知覚には再現作用多し。

 まず感覚は目に色を見、耳に声を聞くにとどまり、色と声とを合して事物を覚知するにあらず。故にその作用単純なりといえども、覚知に至りては色も声も香も味も諸性質を合して、これを一物として識了するをもって、その作用やや複雑なり。この複雑作用を有するをもって、知覚は外物の地位事情を知定することを得るなり。すでに外物の地位事情を知定するに至れば、その作用すなわち能作用なりと称せざるべからず。能作用とはわが方よりその心力を外物の上に及ぼして、その体のいかんを知定するをいう。もしこれに反して、外物の方よりわが方を刺激してその運動を生ずるときは、外物は能作用にして、われは所作用なり。これ、感覚の所作用に属するゆえんなり。かつ感覚は目前に起こるものを感ずるのみにて、前時に感じたるものを想出して感ずるにあらずといえども、感覚は諸感覚を合して起こすところの能作用なるをもって、過ぎたるときに起こりし諸感覚を想出して覚了する性あり。故に知覚作用は再現に属すといわざるべからず。再現とは、過ぎたるときに起こりしものを再び想出するをいう。その他、感覚と知覚との異なるは、前者は苦と楽との二事情を有し、後者は有せざるにあり。これ、感覚は感情に属し、知覚は智力に属するゆえんなり。以上述ぶるところによりてこれをみるに、知覚の義解を下すこと容易なり。すなわち知覚は諸感覚を統合して外物を一個体の物質として認識する、一種複雑なる心性作用なりと知るべし。しかしてこれを複雑と称するは感覚に対していうのみ。もしこれを内想の智力に比すれば、一種の単純作用に過ぎざること言を待たず。

       第三八節 知覚の触感より生ずること

 知覚は感覚の集合より成るをもって、諸感ことごとく知覚を構成するに欠くべからざるものなりといえども、五種の感覚同一にその力を有するにあらず。五感中最も多くその力を有するものは触、視両感にして、最も少なきものは味、嗅両感なり。もし人の一般に信ずるところによるに、知覚は主として視感より生ずるがごとしといえども、触感より生ずることまた疑うべからず。およそ外物の大小、方円、軟硬、軽重は触感によりて知るべきものにして、なかんずく軽重と軟硬とは、これを知るは触感に限る。しかしてこの軽重と軟硬とは、外物の一個体の物質となるに最も要するところの性質なるをもって、触感は外物を知覚するに最も必要なる作用なりといわざるべからず。その他、感触は前章に述ぶるごとく地位の感覚を有して、外物の皮膚上異なりたる部分に接触するときは、異なりたる感覚を生ずるをもって、外物の距離、空間の存立を知ることを得るなり。

       第三九節 知覚の筋覚より生ずること

 しかれども、外物の距離および空間の存立は、所作用の触感のみにては明らかに知ることあたわず。明らかにこれを知るは、能作用の筋覚によらざるべからず。能作用の筋覚中よくこれを知るは、ひとり運動の感覚にあり。すなわち手足の運動によりて生ずるところの感覚これなり。今この感覚によりて外物の地位、方向、距離を知るべきゆえんを述ぶるに、たとえば左手を動かして外物に触るるときは、その物の左方にあるを知るべく、遠く手を伸ばして外物に触るるときは、その物の遠きにあるを知るべきがごとし。つぎに、この感覚によりて外物の形状、大小を知るべきゆえんを述ぶるに、我人が指端を転じて外物の諸点に連触するときは、その諸点に生ずるところの感覚相連なりて、物の大小、方円の知覚を生ずるをもって、触感は筋覚と相合して、よく外物の容量立体を知覚するなり。たとえば手をおいて一小体を握るに、その第一指、第二指ないし第五指は、おのおの異なりたる部分に接触して異なりたる感覚を生ずるをもって、その諸感相合するときは一物の立体を知ることを得るがごとし。すでに一物の形状立体を知るときは、必ず一個体の物質の知覚を生ずべし。たとえばここに数個の木石あるときは、その一塊の数個の物質より成るを知るがごとし。また手をもって動くところの外物に触るるときは、その物の空間の一点より他点に移転するを知り、したがいて運動の方向および速力を知ることを得べし。その他、物質の寒温、軟硬、軽重、麁滑等、みな触感によりて知るべきは、人の常に経験するところなり。

       第四〇節 知覚の視感より生ずること

 触感の外に外物の地位、方向、距離、大小、形状および空間の現存は、視感によりて知ることを得べし。およそ視感の起こるは、眼球内に網膜と称する膜面あるによる。すなわち外よりきたるところの光線その面に影像を結ぶをもって、外物の形状を知ることを得るなり。しかれども網膜は、その全面ことごとく外物を明視する力を有するにあらず、その最もよく明視すべき点は、膜面の中央なる黄色を帯びたる一点にあり。今、外物よりきたるところの光線、正しくこの点に落つるにあらざれば明視することあたわざるをもって、我人一物を見るに、同時にその諸部分を明視することあたわず。もしその諸部分を明視せんと欲せば、上下左右に眼球を転ぜざるを得ず。これ視感をもって外物の距離、形状を知るには眼球の運動を要するゆえんにして、すなわち能作用の筋覚を要するゆえんなり。能作用の筋覚と所作用の視感と相合するときは、ただに外物の形状、距離を知るのみにあらず、容量、立体も推知すべく、一物を一個体の物質として認識することを得べし。したがいて外物の運動およびその速力を知ることを得べし。しかれども、人生まれながら視感の作用のみをもって外物の地位、形状を知るべからず。そのよくこれを知るに至るは、人の成長の際、自然に視感と触感との相合して発達するによる。

       第四一節 知覚の聴感より生ずること

 つぎに、聴感の外物の形状および空間の存立を知るに至りしは、視感および触感に数歩を譲らざるを得ず。これ聴感は、第一に、皮膚および網膜のごとき平面の部分を有せざると、第二に、頭足の運動を待つにあらざれば、自ら運動することあたわざるとによる。しかれども外物の地位、方向は、その体より発するところの音声、わが左右両耳に感ずるところ異なるによりて、やや判定することを得べし。その他、外物の遠近は音声の大小明微につきて多少知るを得べきも、方円の形状に至りては全く聴感の知るあたわざるところにして、これを知るは視触両感を待たざるべからず。しかれども、時間の連続長短を知覚するは聴感の作用なり。けだし時間の知覚は視感の聴感に及ばざるところにして、視感は空間を知覚する力を有し、聴感は時間を知覚する力を有すというも不可なることなし。

       第四二節 知覚の発達

 これによりてこれをみれば、感覚発達して知覚を生ずること明らかなり。およそ人、その幼時にありてはわずかに単純の感覚を有するのみにて、いまだ知覚と称すべきものを有せず。ようやく進みて知覚を有するも、粗大の点を知覚するのみにて細密の点を知覚するに至らず。たとえば幼児は精密に外界の距離、方向を測知することあたわざるをもって、往々外物に衝突するの恐れあり。また精密に他人の形状、容貌を知覚する力なきをもって、ときどき他人を混同することあり。いよいよ成長して始めて精密の知覚を有するに至る。かつその発達も感覚の発達のごとく人々同一なることあたわざるは、演習、習慣、順応、遺伝の事情の同一ならざるによるなり。

 

     第六章 実想論

       第四三節 再想の影像

 つぎに、再想すなわち再生想像の知覚より生じたるゆえんを考うるに、たとえば目前に山河の風色を見、友人の容貌に接するがごときは知覚にして、去年見たるものを想見し、昨日接したる人を想出するがごときは再想なり。故に知るべし、知覚ありて後、再想あり、再想ありて後、知覚あるにあらざるを。なお、つまびらかにこの二者の関係を知らんと欲せば、まず影像の性質を知らざるべからず。そもそも影像とは、外物の脳中に入りてとどめたる印象に与うる名称にして、これに暫時の影像と久時の影像との二種あり。暫時の影像とは、影像の連続する時間の短きをいう。たとえば太陽を見て目を他に転ずるときは、暫時の間その影像を見る、これなり。これを知覚の影像という。これに対して、若干の時日を経てなおその影像を見ることあり。これを久時の影像と称す。すなわち再想の影像これなり。この二種の影像は全く異なりたるもののごとしといえども、また互いにその関係を有するや明らかなり。けだし知覚上暫時の影像あるは、神経組織に与えたる刺激の暫時の間その興奮を連続するによる。しかして再想の影像あるは、知覚の影像のその印象を永く心面にとどむるによる。

       第四四節 再想と知覚との別

 すでに再想の知覚より生ずるゆえんを知るときは、ここに二者の異同につきて一言するを必要なりとす。その異同左のごとし。

  第一に、知覚は直接にして、再想は間接なり。

  第二に、知覚は意志によりて左右すべからざるも、再想はしからず。

  第三に、知覚は場所を転ずるごとにその影像を異にするも、再想はしからず。

  第四に、知覚はその生滅ともに速やかなるも、再想は徐々なり。

  第五に、知覚は明瞭なるも、再想は不明なり。

 この意を敷衍するに、知覚は現時目前に外物を覚知するをもってその作用は直接なるも、再想は知覚によりて印したる影像を再起するものなればその作用は間接なり。その作用間接なるをもって、随意にその影像を左右することを得べし。たとえば再想上亡友の容貌を想見するに当たり、これを転じて他の影像を想出することを得といえども、知覚上現見したるものはこれを見ざらんと欲するも、その目を他に転ずるにあらざれば他の物を現見すること難し。しかるに知覚上もしその目を他に転ずれば、前者の知覚たちまち滅して更に他の知覚を生ずべしといえども、再想は運動して場所を転ずるも、前時の影像依然として連続することを得るなり。かつ知覚は目を開きて外物を現見すればその形象たちまち心内に浮かび、目を閉ずればその形象たちまち滅するも、再想はその生ずるも漸々に生じ、その滅するも漸々に滅するの異同あり。その他、知覚は直接に目前に外物を現見するをもってその形象明瞭なるも、再想は間接に心内に想見するをもってその影像不明なるの別あり。

       第四五節 再想の事情

 およそ再想の起こるは、感覚および知覚上、心面に印したる外物の現象の再起するによるというも、その再起を促すところの事情、別になかるべからず。その事情に六条あること左のごとし。

  第一は印象の深浅、すなわち外物より与うるところの印象深くかつ著しときは、これを再起することやすく、浅くかつ微なるときは、これを再起すること難きをいう。

  第二は意向の有無、すなわち意力の帰向したるものは再起しやすく、帰向せざるものは難きをいう。

  第三は脳髄の事情、すなわち脳力の健全かつ強壮なるときは再生することやすく、しからざれば難きをいう。

  第四は時間の遠近、すなわち心面の印象の時日を経るに従い次第に消滅するをいう。

  第五は習慣の規則、すなわち反覆数回印象を与えたるものは再生しやすきをいう。

  第六は観念の連合、すなわち連想の規則にして、その規則によりて再生の起こることは次節に述ぶべし。

       第四六節 連想の種類

 およそ連想と称するものは、第二五節中に略解するごとく、諸観念互いに連合する性質ありて、一感覚もしくは観念起これば、他の観念これに伴いて起こる作用をいう。しかしてそのいわゆる観念とは、実想の影像これなり。この作用に三種あり。一を付近連想と称し、二を類同連想と称し、三を背反連想と称す。付近連想にまた空間上の付近と時間上の付近との二種あり。空間上の付近とは、空間上互いに付近せるものの連合するをいう。たとえば海と船とは境遇上互いに付近せるをもって観念上また二者の連合するありて、海を思うごとに船を想出し、船を見るごとに海を想見するがごとし。つぎに時間上の付近とは、時間上互いに付近せるものの連合するをいう。たとえば電光と雷鳴とは前後相接して起こるをもってその間に観念の連合するありて、電光を見て電鳴を想し、雷鳴を聞きて電光を思うがごとし。つぎに類同連想とは、同類中の互いに類同したるものの連合するをいう。たとえば水を見て酒を想出するは、水と酒との相似たるより生ずるがごとし。つぎに背反連想とは、同種類中の全く反対したるものの連合するをいう。たとえば暑に遇いて寒を想起するがごときは背反連想なり。その表

  連想 第一、付近連想 空間上の付近

             時間上の付近

     第二、類同連想

     第三、背反連想

右のごとし。

 その他、原因と結果との連合、部分と全体との連合、本体と現象との連合等あり。

       第四七節 連想の事情

 この数種の連想の起こるに関係あるものは、意向と習慣との事情なり。まず意向の事情とは、意力の傾向ある部分はよく連合するをいい、習慣の事情とは、演習習慣によりて反覆数回経験したるときはよく連合するをいう。これによりてこれをみれば、観念の連合は外界の経験を待ちて生ずること明らかなり。これらの諸事情によりて、数種の連想また互いに相連合するに至る。すなわち空間上の連想と時間上の連想とは互いに相合するの類これなり。また、諸感覚の間に互いに連合するありて、外物の色と声と形質との間に連合し、記号と実物との間に連合することあり。たとえば名を聞きてただちにその形を思い、文字を見てただちにその実物を想するがごときこれなり。その他、感覚と運動との間にも連合するあり。また、感情、智力、意志の間にも連合するありて、口舌を動かせばその話すところの語音はなにを義とするを知り、紙筆をとればその書するところの文字はなにを示すを想することを得るなり。これを要するに、再想作用はこの連想の規則に基づくものなり。すなわち目を閉じて心内に想見するところの影像の間に、多少の連合あらざるはなきを見て知るべし。かつ記憶のごときは、全く連想の助けを要すること疑いをいれず。たとえば歴史上の事実を記憶するにも、その前後の事実の連合によるはもちろん、他国または他の時代の事実中、類同したるものの連合につきて記憶することあり。けだし記憶の作用たるや、前時に知覚、経験したるものの心内にその印象をとどめ、若干の時日を経て再び想出するをいう、すなわち再想なり。しかして記憶の再想に異なるは、記憶上想出したるものは、前時に知覚せしものと差異なきことを保証するの意を含むにあり。語を換えてこれをいえば、記憶は多少事実の保証を意味するなり。これに有意と無意の二種あり。意志を用いずして自然に生ずる記憶を無意的記憶といい、意志を用いて生ずる記憶を有意的記憶という。もし意志を用いてもなお想出することあたわざるときは、これを失念という。しかしてこの記憶の作用は、全く連想の作用によりて生ずるなり。故に連想は、再想ならびに記憶を起こすに欠くべからざる作用なりと知るべし。

       第四八節 構想の性質

 以上、再想の事情を述べたるをもって、つぎに、構想の性質を論ぜざるべからず。構想すなわち構成想像は、智力発達の順序中再想のつぎに位するものにして、再想より発達したるものなり。もしその関係を知らんと欲せば、まず想像(想像の語は再想、構想ともにその中に摂して、一は再生想像、一は構成想像と称するも、世人の一般に用うる想像の語は構成想像を義とするをもって、ここに挙ぐるところの想像もまた構成想像を義とするなり)と影像との異同につきて一言せざるを得ず。そもそも想像は過去の印象をそのまま現出せるものなれども、想像は多少その印象を変じて、一種の新影像を生ずるものなり。これを構想という。故に構想は、種々の影像相合して構成するところの新影像なりと知るべし。今その起こるゆえんを考うるに、我人の前時すでに経験したるものを想出せんとするときは、記憶の力よくその印象のままを再現するをもって構成の想像力を要せずといえども、もしいまだ一回も見聞せざるものを想出せんとするときは、これ未経験のものなれば、一種の新影像を構成するを要す。たとえば、旧友を想するときは前時に見たる容貌のままを再現すべきも、古代の英雄、学者を想するときは、他の人々につきて有するところの種々の影像、多少混同変形して想像上の新影像を現出するがごとし。

       第四九節 構想の種類

 およそ構想作用には、再想上の影像の一部分のみを現じて他の部分を除去することあり。たとえば、鳥の形を現ぜずして声のみを想することあるがごとし。また、別に新部分を付加して現ずることあり。たとえば、人に羽翼をそなえたるものを想することあるがごとし。この除去する作用と付加する作用と相合して、そのいわゆる構想作用を構成するなり。今、我人が談話を聞きてその事実を想するも、地図を案じてその風景を思うも、文章を作り新法を発明するも、みなこの作用によらざるはなし。しかしてこの作用によりて適宜に種々の影像を除去、付加して、要するところの新影像を構成するはまた連想の作用による。連想中、類同連想によりて構成せるもの最も多しとす。これにまた、自然に生ずるものと有意によりて起こるものあり。たとえば、夢中に諸想の現出するがごときは自然に生ずるものなり、詩文を工夫し、器機を発明するがごときは意力によりて起こるものなり。今、有意によりて起こる構想作用の種類を分かつこと左のごとし。

  構想 感情構想

     智力構想

     意志構想

       第五〇節 構想の三種

 まず智力構想とは、その目的知識を得るにありて、人の学問得識はこの構想力の作用による。たとえば書を読みてその意を解するにもいちいち情況を心内に構成するを要し、そのすでに知るところのものより、そのいまだ知らざるものに及ぼすにもまたこの構想作用を要す。ことに理学上一種の新規則を発明するがごときは最も精密なる構想力を要し、哲学上無形の真理を究むるにもまた構想力によらざるべからず。けだし我人の従来いまだ経験せざることを想定し、事実のいまだきたらざることを予知するがごときは、多少虚想作用に関することあるも、構想作用によること疑いをいれず。つぎに意志構想とは、その目的、我人の行為挙動をして外界の事情に適合せしむるにあり。たとえば談話、歌舞、応接等をなすに当たり、これをしてそのいまだ経験せざる事情に適合せしめんとするの類をいう。すなわち小児のその成長の際、次第に坐作進退の適合を知るに至るは、この作用によりてしかるなり。つぎに感情構想とは、その目的とするところ快楽を得るにありて、美術的構想なるをもって、智力構想および意志構想とは大いにその性質を異にす。故にその構想は、あるいは道理に合せず、あるいは事実に適せざること多し。世間一般に称するところの想像は、主としてこの構想をいう。すなわち詩文中に用うるところの想像これなり。けだし人の感情は想像によりて満足することはなはだ多し。たとえば、父母はその子の成長を予期して満足し、少年は将来の成業を予想して満足するがごときは全く構想作用による。書画彫刻等の人をして楽しましめ、小説演劇等の人をして感ぜしむるは、みなこの想像による。故に感情構想は、人に快楽満足を与うるに必要なるものと知るべし。これを要するに、この三種の構想中、あるいは知識の進歩を助くるものと妨ぐるものあり。また、人には生来その第一種の想像に長ずるものと、第二種あるいは第三種の想像に長ずるものの別ありといえども、みだりにその一方に偏傾するは、もとより称すべきことにあらず。その要、ただこの三者をして互いに相助けて人智を高等に進むるにあり。

       第五一節 実想の発達

 以上述ぶるところ、これを帰結するに、実想は外覚より生じ、構想は再想より生ずというにあり。しかしてその次第に発達するは、演習、習慣、連想の三種の事情による。これによりてこれをみれば、智力は経験によりて発達すること、言を待たずして明らかなり。他語にてこれをいえば、智力は順応、遺伝の規則によりて発達するなり。およそ人の生来記憶力に富みて再現の力に長ずるものあるは遺伝の結果にして、その成長の際教育によりて発達するは順応の影響なり。また、人に色の記憶の強きものと声の記憶の強きものの別ありて、五感の記憶力のおのおの異なるもまた、この二種の規則あるによる。構想の発達もまたしかり。もし自らその果たして経験より成るゆえんを証せんと欲せば、一の構想を分解してその諸部分につきて考うべし。しかるときは必ず、その部分ことごとく前時に経験したるものの再現に外ならざるを見るべし。

 

第七章 虚想論

       第五二節 思考作用

 前章に述ぶるところは、智力作用中一個一個の事物を再現構成する作用なれば、これを実想と名付く。すなわち記憶上の映像を再現して前時に経験したるものを想見し、あるいは諸映像を結合して一種の新映像を構成するがごとき、実物実形より成るところの想像なり。これに反して、一個一個の事物を離れて、一種類または諸性質全体に関する思想あり。これを虚想という。あるいはこれを単に思想と称す。しかしてこのいわゆる虚想の生ずるは、知覚によりて認識したるもの、および記憶によりて再現したるものをよく結合抽象するに外ならざるをもって、虚想は外覚および実想より発達せるものとす。けだし、かくのごとく結合抽象して、事々物々特有の性質中に普有の規則を肯定するもの、これを思考作用(あるいは思惟作用)という。すなわち思想の作用なり。しかしてこの作用は、外覚作用のごとく弁別、契合の二力によりて事物中の性質の相異なる点を弁別し、相似たる点を契合するにあるなり。ただその知覚および感覚に異なるは、直接に外物の性質を契合、弁別するにあらずして、記憶上存するところの実想を契合、弁別するにあり。これをもってこれを推すに、虚想の実想より生ずるゆえんを知るべし。

       第五三節 比較分合抽象概括作用

 およそ思考作用を施すに要するものは比較作用および分合作用にして、比較作用とは、二個以上の物体を互いに比較対照して、その間に存する類同点もしくは差異点を発見するをいう。つぎに分合作用とは、総合、分解両作用を合称したる名目なり。そのうち、まず分解作用とは、諸部分混合して成りたるものをその各部分に分解するをいい、総合作用とはその反対をいう。たとえば我人が一事一物を思考せんと欲するときは、必ずこれと他の事物とを比較せざるべからず。しかしてその比較に、知覚上の実物を取ると記憶上の影像を取るとの別ありて、知覚上の実物を取るとは、目前に現見せる実物と実物との間に比較するをいい、記憶上の影像を取るとは、再現の諸想の間に比較するをいう。また、事物の観念は諸感覚あるいは諸想像の互いに混合して成るをもって、もしその間に類同点を発見せんと欲せば、その混合したる性質を分解せざるべからず。また、その各性質を総合して一思想を形成せざるべからず。なお理化学の研究上に分解、総合両作用を要すると同一般なり。その他、抽象作用および概括作用と称するものあり。抽象作用とは、相異なる点を除去して相似たる点を抽出するをいい、概括作用とは、性質の同一なるものを総括して一種類の思想を構成するをいう。これらの諸作用相合して思考作用を生ずるなり。

       第五四節 虚想の三種

 以上述ぶるところの思考作用につきて三段の階級あり。その第一は事物普通の思想、すなわち一種または一類全体にわたる思想にして、これを概念と称す。第二は諸概念相合して構成せる命題にして、これを断定という。第三は諸断定相合して前案より次第に論下して断案を結ぶものにして、これを推理という。この三者を虚想の三種となす。その表左のごとし。

  虚想 概念(たとえば、人、仙人、死すべきもの、の類)

     断定(たとえば、仙人は人なり、人は死すべきものなり、の類)

     推理(たとえば、人は死すべきものなり、仙人は人なり、故に仙人は死すべき       ものなり、の類)

 この概念、断定、推理は心理上の名目にして、論理上の名目にあらず。論理上にてはこれに代うるに名辞、命題、論式の名目をもってす。これ、心理学は心性思想の上にその名を与え、論理学は言語文章の上にその名を与うるの別あるによる。

       第五五節 名目および彙類作用

 今、我人が人という一名辞につきて思考するときは、甲某でもなく乙某でもなく丙某でもなく、普通一般にわたる人を想起するがごとく、人または動物の普通名辞あるときは、これに応合する普通思想の心内に想起するもの、これを概念という。しかして概念を形成する法は、まず初めに甲某を見、つぎに乙某を見、つぎに丙某を見て、甲乙丙等に普通なる性質を知るの作用にして、その作用はいわゆる比較、抽象、概括等の作用によるものなり。これらの諸作用の外に、概念を形成するに必要なるものは名目作用なり。名目作用とは、事物に名目または名称を与うる作用にして、すなわち同一の性質を有する事物を合して一種類となすときに、これに適宜の名目を付して他の種類に分かつことこれなり。たとえば猫と犬と同一の性質を有するをもって、これに獣類の名目を付して、他の魚鳥に分かつがごとし。その他、彙類作用と称するものあり。これまた同一の性質を有するものを集めて一種となし、同種のものを合して一類となす作用なり。この二者はともに概念作用に密接なる関係を有するをもって、ここに一言せるなり。

       第五六節 概念のあいまい不明なる原因

 およそ概念は、知覚および再想と異なりて、あいまい不明なるもの多しとす。けだしその不明なるゆえんに四条の事情あり。

  第一に、知覚および再想の不明

  第二に、比較および抽象の不明

  第三に、言語名目の不適当および不明瞭

  第四に、時間の経過および記憶の消失

 まず第一の事情を述ぶるに、概念は知覚および再想の種々結合して変成せるものなるをもって、知覚および再想の不明なるときは概念また不明ならざるを得ず。つぎに第二の事情を述ぶるに、知覚および再想の変じて概念を生ずるには、比較および抽象作用によらざるべからず。故に比較および抽象作用完全ならざるときは、概念もまた不完ならざるを得ず。つぎに第三の事情を述ぶるに、抽象作用によりて形成せる概念は、これを表称するに言語名目を用うるをもって、もし言語の意義明瞭ならず、かつ名目と意義と適当せざるときは、概念またしたがいて明瞭ならざるなり。つぎに第四の事情を述ぶるに、時間の経過するに従い概念を結合する連想の力次第に減じ、記憶もまた次第に減じて影像の消失をきたすをもって、概念もまた必ず不明ならざるべからず。これらの諸事情によりて、概念はこれを知覚および再想に比するに、不明かつ不完なり。しかれども、概念は知覚および再想より発達したること疑いをいれず。つぎに構想と概念との関係を述ぶるに、概念は抽象作用によりて得たるところの結果を結合して一種の虚想を構成するに至りては、全く構想作用によるものなり。かつ概念を構成するに、いまだ見聞せざる事実を心内に想出するときは、また構想作用によらざるべからず。その他、概念は実物の外にわたる虚想にして、これを表示するに言語名目を用うるをもって、もし言語の意象を想見せんと欲せば、想像上虚想の影像を構成せざるべからず。これを要するに、概念は再想および構想作用より成来せること明らかなりと知るべし。

       第五七節 断定作用

 概念作用の一層複雑なるものは断定作用にして、断定作用の概念より成来せることは、第五四節中の表につきて見るべし。すなわち人は死すべきものなり、仙人は人なり、犬は動物なり、雪は白きものなり等はみな断定なり。かくのごとく断定は概念の結合より成るも、みだりに概念を結合して、仙人は雪なり、犬は白きものなりと称するも断定にあらず。故に断定を形成するには、原因結果、部分全体の規則に従うを要す。この規則に従いて断定を形成するは、さきにいわゆる総合作用によるものなり。たとえば仙人と人との二個の概念を総合して、仙人は人なりと断定するがごとし。故に、あるいは断定作用を解して概念を結合する総合作用ということあり。しかして概念を形成するに抽象作用を用うるは、分解作用によるものとす。なんとなれば、事物の諸性質を抽象するに、まずこれを分解することを要すればなり。もしまた、そのすでに分解したるものを相合して概念を構成するに至れば総合作用なり。故に虚想は総合、分解両作用によるものというべし。

       第五八節 信憑作用

 つぎに、断定作用に密接なる関係を有するものは信憑作用(あるいは信仰作用)なり。すなわち概念を結合して断定を形成するには信憑を要す。たとえば犬は動物なりと断定するには、まず犬は動物なることを信認せざるべからず。もしこれに反して概念のその間に存するときは、この断定を下すあたわず。しかして信憑の起こるは、経験と連想とによりて生ずるものとす。すなわち経験数回にわたるものは連想の力強く、連想の力強きものは信憑することやすきをいう。たとえば火に燃焼の力あるは我人の平常経験して知るところなるをもって、これを信憑するはいたってやすしといえども、もし地球の中心は火なりというも、わが経験いまだ明らかならず、連想の力はなはだ弱きをもって、これを信憑することまた難きがごとし。これを要するに、信憑の生ずるは連想の強弱により、連想の強弱は経験の多少による。しかれども、ただに経験の多少をもって信憑の原因となすべからず。小児は経験乏しきも信憑に富み、成長して経験に富むに至ればかえって疑念を増すはなんぞや。これ他なし、小児は経験に乏しきも、その有するところの観念すこぶる単純にして信憑を妨ぐべき事情なく、大人は経験に富むも、他の種々の連想の同時に生ずるありて、一方に偏信することあたわざる事情あるによる。また、信憑は言語の連合より生ずるものなり。すなわち聖賢の格言、俗間の諺語、および自身の常に反覆せる言語のごときはいたって信憑を生じやすきものにして、たとえば人の言うところ、あるいは自ら思うところのもの、よくこの諺語格言に合するときは信憑しやすく、しからざれば信憑し難きをいう。かつ人はその情に適するものは信憑しやすく、その情に適せざるものは信憑しがたき事情あり。これを感情の影響とす。たとえば自らにくむところのものにして禍害に遇いたるを聞けば、たやすく信憑するがごときこれなり。故に信憑を生ずる原因は左の三種とす。

  第一は経験の多少

  第二は言語の連合

  第三は感情の影響

       第五九節 推理作用

 虚想の種類中最も複雑なるものは推理作用にして、その作用の断定より成ることは、第五四節中の表を見て知るべし。故に推理作用も概念および断定作用のごとく類同点を発見抽象して、これを総合概括するにあること明らかなりといえども、概念はこれらの作用を事物の上に施し、断定は事物と事物との関係の上に施し、推理は事物の関係と関係との間に施すの異同あり。これを第五四節中の表に参見するに、概念は一個一個の人につきて抽象概括し、断定は人と仙人との関係につきて抽象概括し、推理は仙人は人なりという一種の関係と、人は死すべきものなりという一種の関係との間につきて抽象概括するなり。

       第六〇節 推理の種類

 推理作用には包含推理と表現推理との二種あり。また、演繹推理と帰納推理との二種あり。たとえば甲種の材木の水面に浮かぶを実視して、乙種の材木もまた水面に浮かぶべしと推測するがごときは、一個の事物より他の事物を推理するに、その間に存する規則を明知公言せざるも、おのずからその規則の語中に包含して存するをもって、これを包含推理という。もし乙種の材木の、甲種の材木のごとく水面に浮かぶゆえんの規則を知りて推理するもの、これを表現推理という。すなわちその規則とは、材木はすべて水面に浮かぶものなりといえる命題これなり。つぎに、一個各別の事実より普通一般の規則に論及せる推理作用あり、また、普通一般の規則より一個各別の事実に論及する推理作用あり。前者を帰納推理といい、演繹推理という。さきに第九節に帰納法、演繹法と称せしものこれなり。たとえば甲某も死し、乙某も死し、丙丁戊等みな死せしをもって、人はみな死すべしといえる断案を論定するは帰納推理なり。もしこれに反して、人はみな死すべしといえる既定の規則を甲某に適合して、彼は必ず死すべしと論決するは演繹推理なり。

       第六一節 論理の過失の生ずる原因

 およそ人の推理を施すに、帰納法を用うるものあり、演繹法を用うるものあり、演繹帰納両方を用うるものあり。この両方を用うるもの、これを複雑推理という。理学および哲学上の論究は、大抵この複雑推理によるものなり。これを要するに、演繹帰納両法相合して、始めて正確の論理を見るものと知るべし。しかして論理の往々正確ならずして過失を生ずることあるは、主として左の事情より起こる。

  第一は、経験に乏しきより生ずること。

  第二は、概括の全からざるより生ずること。

  第三は、因果の関係明らかならざるより生ずること。

  第四は、事実の確実ならざるより生ずること。

  第五は、憶説の加わるより生ずること。

  第六は、断定の判然せざるより生ずること。

  第七は、言語文章の明瞭ならざるより生ずること。

  第八は、一般の規則の誤謬より生ずること。

 たとえば小児のごとき経験に乏しくかつ事物の類同点を抽象概括する力発達せざるものは、論理の過失をきたすことあり。また、事物の間に存するところの原因と結果との関係明瞭ならず、あるいは論理を組成せる事実の確実ならざるときは、必ず誤謬を生ずべし。もしまた事実の考証を欠きてみだりに憶説を用い、および推理を構成せる断定または推理を表示せる言語文章の意義判然明瞭ならざるときは、正確なる論理を成立することあたわざるべし。その他、演繹推理は普通一般の規則によるをもって、その規則の正確ならざるときは、論理の上に誤りあるは自然の勢いなり。

       第六二節 虚想の発達

 以上論ずるところにつきてこれをみるに、推理は断定より成り、断定は概念より成り、虚想は実想より成ること明らかなり。けだしその順序は、単純より次第に進みて複雑に達す。すなわち虚想中の最も単純なる概念に始まりて、最も複雑なる推理に終わる。もしまた推理中にありても、論理の発達は包含推理に始まりて表現推理に終わり、演繹帰納各別作用に始まりて両法結合作用に終わるは、みな単より雑に及ぼすの規則によるものなり。しかしてその発達するゆえんは演習、習慣、連想の三事情によること、また言を要せず。しかるに人生まれながら虚想に長ずるものと長ぜざるものの別あるは、これまた遺伝の影響に帰せざるべからず。

 

     第八章 情緒論

       第六三節 感情の義解

 前数章は智力各種の性質およびその発達の順序を略述したれば、これより心性作用中他の一種なる感情の性質およびその発達を論明すべし。今これを論明するに当たり、まずその義解を下すを必要なりとす。そもそも感情は苦楽を感起する心性の情況に与うる名称にして、これに感覚、情緒の二種あれば、これを合して感情と称す。しかれども、感覚はただに苦楽の情況を有するのみならず智力の性質を帯ぶるをもって、またこれを智力の一部分となす。これを要するに、感覚中その外界に対して有するところの作用は智力に属し、その内界に対して有するところの情況は感情に属すべし。しかして感覚の性質およびその発達はすでに第四章に論述せしをもって、今ここに情緒のことのみを説明せんとするも、情緒に単情と複情との二種あれば、まず初めに単情を説明すべし。

       第六四節 情緒の種類

 およそ情緒には数種類あるも、第一二節中の表に示すごとく驚、愛、怒、恐、我、力、行の七情をもって単情とし、同、智、美、徳、宗の五情をもって複情とし、合して一二情とす。まず驚情とは、新奇なるものに触れて驚き、予想外のことに遇いて驚く等の情をいう。故に、新奇を好むの情および変化を欲するの情はこの中に摂す。けだしこの諸情はすべて相対性の情と称す。なんとなれば、その情は平常の習慣に反する境遇もしくは事物に接触し、前後の情況の比較相対より感起するものなればなり。たとえば人の物品の珍奇を喜び、風景の変化を欲するがごとき、みな平常の状態に比較して生ずる情なり。しかしてその性質は快楽と苦痛との二様あり、あるいは驚愕の場合には、苦楽の外に不苦不楽を感ずることありという。つぎに、愛情とは父母のその子を愛するの類にして、その性質は快楽の情なり。あるいは他人を愛し、あるいは禽獣を愛するがごときも、もとよりこの情に属す。つぎに、怒情とは憤怒の情にして、その原因は苦痛性なるも、その結果は快楽性なりとす。なんとなれば、およそ憤怒の発するはその心に不平不満の感情あるより起こり、もしすでにこれを発してその不平を晴らすを得ば、多少の快楽なかるべからざればなり。つぎに、恐情とは恐怖畏懼の情にして、もとより苦痛性なり。その起こるや、まさにきたらんとする危難損害を予想するによる。つぎに、我情とは自重、自貴、自高、自慢、および名誉を愛する等のごとき、わが身を尊重する情にして快楽性なり。つぎに、力情とは力量を較してその優れるを見るときは喜ぶの情をいう。たとえば人の相撲、撃剣等を喜ぶの類これなり。行情とは行為を施して目的を達するを喜ぶの情をいう。たとえば、農夫が労役して秋穫を見るを喜び、学者が苦心して著書の成功を喜ぶの類これなり。以上七情はみな苦痛もしくは快楽の情況を有するをもって、これを感情に属するなり。

       第六五節 感情の発顕

 およそいかなる感情にても多少外貌に発顕する規則ありて、驚、愛、怒、恐等の諸情の性質はもちろん、その各情の強弱多寡に至るまで、みなよく外貌を一見して察知することを得べし。今この発顕を分かちて普有性発顕と特有性発顕との二種とす。まず普有性発顕とは笑い泣きの類にして、この発顕は人々あまねく有するところなるをもって、これを普有と名付く。もしこれに反して、恥ずるときにその面を覆い、困りたるときにその首をかくがごときは、人々あまねく有するところにあらざるをもって、これを特有と称す。あるいはまた、これを分かちて本能的と経験的との二種とすることあり。すなわち喜ぶときは笑い、悲しむときは泣くの類は、人の生まれながら有するところの発顕なるをもって本能的に属し、恥ずるときにその面を覆い、困りたるときにその首をかくがごときは、平常の経験習慣より生ずるをもって経験的に属するなり。

       第六六節 苦楽の種類

 つぎに、感情固有の性質なる苦痛と快楽との種類を考うるに、その種類は感情の種類に従いて分かつことを得。その表左のごとし。

  苦楽 感覚上の苦楽 普有性感覚の苦楽

            特有性感覚の苦楽

     情緒上の苦楽 単情の苦楽

            複情の苦楽

 まず、普有性感覚の苦楽は有機組織間に起こるものにして、すなわち飢渇寒暑等より生ずる苦楽これなり。しかしてこの苦楽は、身体中いずれの部位に起こるかは明らかに指定することあたわず。これに反して、特有性感覚の苦楽すなわち五官の苦楽、およびこれに属する運動、抗抵の苦楽すなわち筋覚の苦楽は、明らかにその部位を知ることを得るなり。その他、普有性の苦楽と特有性の苦楽との異なるは、普有性にありては苦感多くして楽感少なきの一点なり。けだし血液の運行、食物の消化そのよろしきを得るときは、組織内に多少の快楽を感ずるも、その快楽の度はこれを血行の不順、食物の不消化より起こるところの苦痛に比するに、やや弱気を覚ゆ。つぎに、単情の苦楽とは前に挙げたる驚、愛、怒、恐等より起こる苦楽をいい、複情の苦楽とは同情、智情等より起こる苦楽をいう。この苦楽の情況には一定の規則ありて、我人その規則に従えば身体の健全を得、その規則に反すれば身体の損亡をきたす傾向あり。これを自保規則と称す。たとえば、寒きときに寒風に触るれば身体に害あるをもって苦感を生じ、暑きときに涼風に接すれば健康に益あるをもって楽感を生ずるがごとし。また人の諸欲中、その力最も強くしてかつ快楽の最も多きは色欲と食欲にして、この二者は我人の生存永続に最も必要なるものなり。故に我人は快楽の方向に進むときは、自然に身体を保全するを得べし。しかれどももしその適度を失するときは、かえって身体の保全に害あるをもって、よろしくその度を誤らざることに注意せざるべからず。

       第六七節 複情と単情との別

 つぎに複情の性質を考うるに、その単情と異なるのは二、三の単情の複合せるにあり。あるいはまた単情は一個人に関したる私情にして、複情は社会一般にわたる公情なるの別あり。たとえば人のその身を愛し、その名を愛し、その父母を愛するがごときは、全く一人の私情より成るものなればこれを単情に属し、真理を求め、国家を思い、生類をあわれむがごときは、全く私情を離れたる公情なればこれを複情となす。その他、複情と単情とは、智力作用の加わると加わらざるとによりて分かつことを得べし。この複情を一名情操と称す。情操に同、智、美、徳、宗の五情あることは、前しばしば述ぶるところなり。

       第六八節 同情の性質

 まず、同情とは同気相感じ同類相あわれむの情にして、人の朋友を愛し、社会を愛し、禽獣草木を愛するは、みなこの情のいたすところなり。けだし感情はさきにすでに述ぶるごとく一定の発顕あるをもって、外貌を一見してその心内の苦楽の情況を察知することを得るものとす。ここにおいて、他人の苦楽を見て喜び、他人の苦痛を見て哀れむこと起こる。しかしてその起こるに要するところの事情三あり。曰く、観察、再想、構想これなり。すなわち第一に、同感の起こるには外貌を観察してその内情の発顕を明知するを要し、第二に、かつて経験せる自身の発情の情況を再現して、現時の情況と比較対照するを要し、第三に、想像上その発顕につきて内情のいかんを想像構成するを要するなり。

       第六九節 智情の性質

 つぎに、智情とは智識を愛し真理を求むるの情にして、人の学問智識を得るを喜び、無智不学をいとうは、全くこの情の存するによる。また、人の疑問を明断し、新法を発見するを喜ぶも、この情に外ならず。けだし人にこの情存するは、新奇を好む驚情と、名誉を好む我情と、優劣を較する力情と、目的を達せんとする行情との存するによる。すなわち単情中の諸情相合して、この一種の複情を生ずるなり。この複情の発達によりて、人智いよいよ高等に進み、社会いよいよ開明に移ることを得るなり。

       第七〇節 美情の性質

 つぎに、美情とは通常美術の情と称するも、ただに人造の美のみをいうにあらず。およそ美には、天成に属するものと、人造に属するものあり。たとえば山川の風致のごときは天成の美なり。これに対して人造の美あり。すなわち建築、彫刻、書画、音楽、詩歌、これなり。この人造の美を美術と称す。あるいは視術、聴術と称することあり。視術とは視感上の美術にして、書画、彫刻、建築をいう。聴術とは聴感上の美術にして、音楽、詩歌をいう。かくのごとく美には天成、人造の二種あり。しかしてそのいわゆる美とは、美麗、宏壮、適合等の現象をいう。もしその種類を分かたば、美麗、宏壮、可笑の三種となる。これらの現象を見聞して起こるところの快楽の情を美情という。故に視聴両感は、この情の媒介となるものとす。すなわち書画を見てこれを楽しむは視感の媒介により、音楽を聞きてこれを喜ぶは聴感の媒介によるなり。

       第七一節 徳情の性質

 徳情すなわち道徳の情とは、人の徳義を愛し、倫常を重んじ、義務を全うせんとする諸情に与えたる名称にして、すなわち意志行為に関する情なり。およそ人の行為の善悪邪正に関するものは、これを道徳の行為という。その行為の目的に合するもの、これを善かつ正とし、合せざるもの、これを悪かつ邪とす。しかしてその目的とするところは、社会一般の幸福安寧に外ならず。かつ人の道徳の情を有するには、まず善悪邪正を弁別判定する本心なかるべからず。その本心を良心という。良心は人の生まれながら有するところにして、この心によりて我人は善の善たるを知り、悪の悪たるを知り、悪を避けて善に移るを知るなり。故にこれを道徳の本性と称す。しかるに今日唱うるところの進化の学説によるに、その心あえて天の賦与するところにあらずして、父祖数世間の経験より成るという。語を換えてこれをいえば、一人の経験より成るにあらずして、父祖数世間の順応遺伝の結果なりとするなり。

       第七二節 宗情の性質

 つぎに、宗情すなわち宗教の情とは、我人の人間以上の体、人智以外の世界に対して有するところの一種複雑の感情にして、諸複情と多少の関係を有し、なかんずく、徳情と密接なる関係を有するものなり。他語にてこれをいえば、善を求め悪を避くるの本心に基づくものなり。ただその情の徳情と異なるは、後者は良心を標準とし現在世界を目的とするも、前者は人間以上の無量の智と力とを有したる体を標準とし、見るべからず知るべからざる世界を目的とするにあり。しかしてその体、その世界のいかんに至りては、古今の解釈種々ありて一定し難しといえども、その宗教上に立つるところの神体を論定するに、古代の有形有質はようやく進みて無形無質となり、中古の有意有作は更に進みて無意無作となるに至る。換言すれば、有限性より無限性に進向するなり。故に宗情は我人の有する無限性の情操にして、智識の進歩に伴いてようやくその性を開発するものと知るべし。

       第七三節 情緒の発達

 以上論ずるところの単情複情はいかにして発達するやを考うるに、これまた演習、習慣、連想の三事情によりて、感覚より情緒を生じ、単情より複情を生ずるに至ること明らかなり。しかれども、数種の情緒ことごとく一人の経験によりて発達するにあらず、父祖数世間の経験によりて発達す。故にこれを順応遺伝の結果とするなり。かつ複情のごときは単情より発達すること、たやすく知るべし。たとえば智情のごときは驚、我、力、行の諸情より発達せること、第六九節にすでに述ぶるところなり。美情は驚情、愛情等より発達し、徳情は愛情、同情等よりも発達したることも、更に論ずるを要せず。しかしてまた同情のごときは、全く単情より発達したるものとなす。かつそれ、複情のごときはただに単情のみによりて発達するにあらず、智力中の再想、構想、推理のこれに加わるありて、いよいよ高等に進むものなり。その発達の順序は、小児の成長につきて知ることを得べし。小児はその初期にありて、ただ下等の単情を有するのみ。ようやく成長して智力の発達するに至りて、始めて複情の発達を見るなり。

 

     第九章 意志論

       第七四節 意志の義解

 つぎに意志の性質作用を述ぶるに、およそ意志なる語は、心性の外界に対して発示せる行為挙動を義とするものなれども、すでに発示したる行為挙動のみを称するにあらずして、いまだ発示せざる心性の作用すなわち行為にさきだちて生ずるところの心性の方向は、みな意志に属すべし。故に意志の作用を分かちて内外両作用とするなり。内作用とは、いまだ外界に発示せざる心内の意志作用をいい、外作用とは、すでに外界に発示せる心外の意志作用をいう。また、単意と複意との二種に分かつことあり。すなわち、直接目前の目的を有したる単純の行為挙動はこれを単意に属し、これに反したる複雑の行為挙動は複意に属するなり。しかして単意のいまだその作用を外に発示せざるときは、これを内作用と称し、複意もすでにその作用を外に発示するに至れば、外作用と称せざるを得ず。故に単意も複意も、ともに内外両作用を有するなり。あるいはまた、意志を解して目的ある作用となすあり。この義によるときは、知らず識らず発顕せる挙動は意志と名付くべからず。故に意志作用は、第一に意識の範囲内に起こり、第二に一定の目的ありて起こるとの二事情を兼有せざるを得ず。しかるに第一五節に、無意識にして偶然に起こる作用を意志中に加えたるは、発達上二者の密接なる関係を有するによるのみ。

       第七五節 意志と他の諸作用との関係

 今、意志と他の諸作用との関係を述ぶるに当たり、まず意志と感情との関係は、感情の意志の方向を導き発動を促すを見て知るべし。たとえば感情上、楽を感ずればその方に意志の向かうを見、苦を感ずればその反対の方に意志の傾くを見るがごとし。つぎに、意志と智力との関係は、意志の目的は智力によりて定むるを見て知るべし。たとえば用談ありて人を尋ねるは意志作用の一種なれども、その人を尋ぬるにさきだちて、あらかじめその用談の弁ずべきか否〔か〕を思考せざるべからず。これいわゆる智力なり。しかしてここに至り、意志と意向との異同を一言するを要す。意向とは心性の一方に帰向する作用にして、心力の一方に会注するより起こる。今、意志作用中の外作用は意向とやや異なるところあるも、内作用に至りてはほとんど全く意向作用によりて生ずるものなり。すなわち選択、決断等は、心力の一力に会注、帰向したるものに外ならざるなり。

       第七六節 願 望

 その他、意志作用に要するところのものは体欲と願望なり。体欲とはわが肉体上に有する欲をいい、願望とはわが精神上に有する欲をいう。けだし意志は快楽の方に向かいて動き、苦痛の方に反して進むの性あるをもって、体欲、願望と直接の関係を有するものなり。およそ我人の性たる、ひとたびその身に試みて快楽を感ずるときはこれを欲望し、苦痛を感ずるときはこれを厭棄するを常とす。しかして意志の作用の苦を避けて楽に就く規則に従うは、全くこの欲望すなわち願望とその性質を同じうするによる。すなわち一物を願望するときは、意志の作用のこれに伴いて起こるありて、その願望するところの方に向かいて身体の挙動を現ずるに至るべし。しかれどもいまだそのいわゆる願望をもって、ただちに意志作用なりと定むるを得ず、ただこれを意志作用の初級とするのみ。なんとなれば、意志はそのすでに発達したるものにつきて考うるときは、願望と大いに異なるところあればなり。たとえば美味ありて、これを食わんとする願望はその味を想像するのみにて足るも、意志はいかにこれを食うの方法、情況までを想見することを要するがごとし。語を換えてこれをいえば、願望はその目的とするところの事物を再現するのみにて足れりとするも、意志はその目的を達する方法までも再現せざるベからず。しかして願望の起こるは智力、感情両作用の相合するによる。まず、願望の智力より生ずるゆえんは、その再想および構想より生ずるを見て知るべし。たとえばここに我人の願望する一物あらんに、そのこれを願望する情の起こるは、内想上その物の性質を再起し、または構成するによる。すなわち再想構想両作用を要するなり。つぎに、願望の感情より起こるゆえんは、前に述ぶるところを見て推知すべし。

       第七七節 単意と複意との異同

 つぎに、単意と複意との異同を示すこと左のごとし。

  第一に、単意はその目的とするところ近きにあり、複意は遠きにあるの別あり。

  第二に、単意は単一の衝力すなわち刺激によりて起こるも、複意は雑多の衝力によりて起こるの別あり。

  第三に、単意は智力作用を要せざるも、複意は智力作用を要するの別あり。

 たとえば小児の挙動のごときは直接目前の快楽を求むるに過ぎざるも、成長したるものの行為に至りては永遠の目的を期し、間接の利益を量るものなり。また、小児が手を出して食物を握るは、単に食物を欲するの願望に外ならざるも、大人が殊更に自身の食物を分かちてこれを他人に与うるがごときは、その人を愛する情と、その人より報酬を得んとする願望と、その他種々の衝力相合して起こりたる結果なり。故に単意は自然の衝力に任じて起こるべきも、複意は智力作用によらざるべからず。すなわち再想、構想、推理の諸作用を要するなり。しかれども、複意は単意より発達したること疑いをいれず。しかしてその発達を助くるものは演習、習慣、連想の三事情にして、その生来有するところの本能力に教育、経験の加わるによる。故にこれを順応遺伝によりて発達すという。

       第七八節 単意の起源

 更にさかのぼりて単意の起源を考うるに、無意偶然に起こるところの挙動より始まること明らかなり。しかしてその挙動に三種あり。一を本能性挙動とし、二を模倣性挙動とし、三を偶然性挙動とす。まず本能性挙動とは、人の生来有するところの能力にして、赤児の生まれながら物を握るに手をもってし、言を発するに口舌をもってするを知るがごときをいう。つぎに模倣性挙動とは、小児の大人のなすところを見てこれを模倣するがごときをいう。つぎに偶然性挙動とは、身体自然の構造活動に従い、その運動、神経の興奮に応じて自然に手足を動かすがごとき挙動をいう。この三種の挙動相合して意志作用を発現するに至るも、その初めは目的なき作用にして、さきにいわゆる無意作用なり。その無意作用、次第に発達して有意作用となる。しかしてまた、有意作用の変じて無意作用となることあり。たとえば詩歌を作るに、はじめは意力を用いたるものも、多年熟習したる後は、意を用いずして自然に詩歌の成るに至るがごとし。これ全く習慣によるものなり。

       第七九節 習 慣

 習慣のことは、さきに第二五節にすでに略述したりといえども、更にその発達につきて一言すべし。およそ習慣性を養成するに三種の事情あり。曰く、注意、反覆、不断、これなり。注意とは、常にある一方に意を用うるをいう。すなわち意向これなり。反覆とは、反覆数回同一のことを営むをいい、不断とは、多少の時間接続して一事をなし、その間に余事をまじえざるをいう。この習慣性は智力の発達に必要なるのみならず、意志の発達にも必要なり。かつ有意作用の無意作用に変ずるは、全くこの習慣性の影響による。しかしてひとたび習慣となりたることは、これを変じて他の習慣を養成するには、また大いに意力の作用を要するなり。たとえば友人の改姓したる後その名を呼ばんとするときは、自然に旧姓を口に発するものにして、もしこれを避けんとするときは、その名を呼ぶごとに大いに意力を用いざるべからざるがごとし。

       第八〇節 意志の衝力

 およそ意志は、心内に起こるところの刺激すなわち衝力に応じて発現するものにして、その衝力は主として感情および願望より生ず。かつその衝力常に単純直接なるにあらず、あまたの衝力の同時に複合して起こることあり。たとえば、炎天に歩行するときに暫時休息を取らんとする衝力と、他所に水を探りて渇を医せんとする衝力と、相混じて起こるがごとし。かくのごとく種々の衝力同時に起こるときは、衝力の間に互いに抗争する勢いあり。その衝力もしくは衝力間の抗争比較によりて得たるもの、これを動機という。動機は実に意志作用の原因なり。しかして、もし一方の衝力が他方の衝力よりその力強くして、その一方に意志作用の決向するを見る、これを決断という。もしその二者の前後の事情を比較して暫時猶予する状あるときは、これを思慮するという。しかして一方に決断を取らんとして猶予、思慮するもの、これを意志の労力という。もし暫時思慮の後、種々の事情によりて一方を捨てて他方を取るに至れば、これを選択という。また、思慮の後、自らかくなさんとあらかじめ決心を定むるを決定という。しかしてその断定の確固として動かざるを堅忍という。

       第八一節 克己作用

 つぎに、意志中に克己作用と称するものあり。これ己を制止する作用にして、道徳の主作用ともいうべきものなり。これに種々の克己あり。たとえば、高等の目的を達せんと欲して下等の動機を制する克己あり、衆人の利益を計りて一人の私情を制する克己あり、永遠の利害を計りて一時の欲望を制する克己あり。あるいはまた、意志の克己と、感情の克己と、智力の克己との三種を分かつことあり。まず意志の克己とは、行為挙動を制する克己をいう。たとえば手をもって人をうたんとするに際して、その後に起こる利害を思いてその挙動を制止するがごとし。つぎに感情の克己とは情緒を制止する克己にして、たとえば人のわれを敬せざるを見て憤怒の情の起こりたるときに、これを制止するがごとし。第三に衝力の克己とは、智力上想像思考するものを制止して、他の想像を引き起こす克己なり。この三種の克己は道徳の行為のよりて起こるところにして、人にかくのごとき作用の起こるは、心性の発達したる後にあること明らかなり。人すでに発達したる心性を有すれば、前後の事情、将来の影響、および衆人の感想を比較酌量して、一時の利益より永遠の利益を選び、一時の快楽より永遠の快楽を取るに至るなり。

       第八二節 自由意志論

 かくのごとく、人には一を捨てて他を取るの選択作用あり。また、一を制して他に就くの克己作用あるは、これ人に一種独立の意志ありて、自ら決断を下すによるというものあり。これを自由意志論と称す。しかれども、かくのごとき自由意志の人に存することは、はなはだ信じ難し。およそ選択、決断、克己等の起こるは諸衝力の同時に起こるありて、その間互いに抗争するによる。ひとたび抗争を生ずれば、その力最も強きもの勝ちを制するは必然なり。故に暫時猶予思志ののち一方に精神を傾くるに至るは、その方の力他方より強きによるのみ。もしその力両方相敵してその間差等なきときは、永く判決を与うることあたわざるべし。しかれども多少の時間猶予する間には、自他の諸事情のこれに加わりて自然の勢い、一方の衝力、他方より強きの差等を生ずるに至るべし。故に人に自裁、自断、自主、自在の力あるは、みな諸衝力、諸事情の結果にして、自由意志の生来別に存するによるにあらざるなり。しかして人に生来意志の力の異なるものあり。また意志中にても、決断力の強きものと、堅忍力の強きものと、克己力の強きものとの別あるは、これ習慣、遺伝、順応、教育等の事情の異なるによること、また明らかなり。





 

     第一〇章 結 論

       第八三節 結 論

 以上、章を重ねて論述せるところ、これを帰結するに、心性には感情、智力、意志三種の作用ありて、感情は苦楽の情況を感起するをもってその性質とし、智力は事物を識別思量するをもってその性質とし、意志は行為挙動を指定するをもってその性質とするなり。かくのごとく三種の作用おのおのその性質を異にするをもって、その間互いに抗排する性を有し、三者同時にその力をたくましくすることあたわずといえども、また互いに密接なる関係を有するをもって、一作用起こればこれに伴いて他の作用の起こるを見る。またその発達するや、三者ともに同一の規則に従うものとす。すなわち弁別、契合、記住の三種の原力と、演習、習慣、連想の三種の事情と相合してその発達を見るなり。けだし人の発達の初期にありては、いまだ三種の作用を具せざるは明らかにして、ただ単純の感覚と運動との二者を有するのみ。ようやく成長するに従い、単純の感覚は進んで複雑なる感情智力を派生し、単純の運動もこれに伴いて複雑なる有意作用を発現するに至る。ここにおいて感情、智力、意志の三種の作用相分かるるに至る。しかしてその作用の人によりて生来同一ならざるは、遺伝、順応の同一ならざるによるとなす。これ全く現今の実験心理学派の説にして、進化論に基づくものなり。もし先天学派の説によらば別に論ずべきこと多しといえども、ここにこれを略す。

       第八四節 心理学の全表

 今更に表を掲げて心性作用全体の分類を示すこと左〔次ページ上段〕のごとし。

 この表を第一六節中の図形に照合し、心体を心性全体の中心に置き、虚想を心象の中枢と立てて、仮に各作用の関係の一端を示すこと左〔次ページ下段〕のごとし。

       第八五節 他の諸学の問題

 この図はただ心性の一部分すなわち心象の組織を示すもののみ。もし心体のいかんを論ずるに至りては、更に他の図式によらざるべからず。しかれども、その論のごときは心理学の問題にあらず。心理学はさきに義解を定むるごとく心象の学問にして、心体のいかんを論ずるは純正哲学なり。かつ心理学は理論の学にして、心性作用の実用を示すものにあらざるをもって、以上論ずるところもただ心象の規則性質を論述するにとどまり、いかにこれを人事の上に適用するやを問わず。しかしてその人事の適用を論ずるは実用学の問題なれば、美学、論理、倫理等の諸学を待たざるべからず。

       第八六節 純正哲学の大意

 しかるにこれらの諸学も心理学と直接の関係を有するをもって、ここにその大意を一言するも、また全く無用

  心性作用 種 類 感 情 感 覚 普有性

                   特有性

               情 緒 単 情

                   複 情

           智 力 外 覚 感 覚

                   知 覚

               内 想 実 想 再 想

                       構 想

                   虚 想 概 念

                       断 定

                       推 理

           意 志 無 意

               有 意 単 意 内作用

                       外作用

                   複 意 内作用

                       外作用

       発 達 原 因 内 因 原 力 弁別力

                       契合力

                       記住力

                   本能力

               外 因 物理的

                   社会的

           事 情 演 習

               習 慣

               連 想

に属するにあらず。まず純正哲学は事物の原理原則を論究する学問にして、心性の実体なにものなりや、物質の実体なにものなりや、天神の実体なにものなりや等の問題を説明する学科なり。しかしてこの問題に関して種々の異説ありて、物の外に心なしと唱うるものあり、これを唯物論といい、心の外に物なしと唱うるものあり、これを唯心論といい、神の外に物もなくまた心もなしと唱うるものあり、これを唯神論という。これに対して物心二者並存を唱うるものあり。この二者並存を唱うるもの、これを二元論といい、二者中一のみありて他なしと唱うるもの、これを一元論という。今、心体のいかんを論定するにもまた、この諸説の分かるるを見る。すなわち心と物とその性質を異にするをもって、心体は物体の外に存すと唱うる二元論者あり、心は物を離れてその作用を発せざるをもって、心性は物質固有の勢力に外ならずと唱うる唯物論者あり、物は心によりてその現象を示すをもって、物質は心性の妄見に外ならずと唱うる唯心論者あり、また、心象の外に心体なしと唱うる論者あり、感覚の外に世界なしと唱うる論者ありて、いまだ一定の説あるを見ず。

       第八七節 美学の大意

 つぎに美学、論理、倫理等の諸学は実用学にして、心理学は理論学なり。理論学はその目的とするところ主として真理を究むるにありて、ただちに実際の利益を示すにあらず。故にもし心性作用の実益を知らんと欲せば、論理倫理等の諸学を研究せざるべからず。まず、美学は第七〇節に略言するがごとく感情の実用学にして、書画、詩歌、音楽等の原理を実際に応用するものをいう。かくのごとく人造に属するものを美術と称す。美術の種類および事情は、前に論ぜしところを見て知るべし。今ここに美術に必須の目的を挙ぐるに三点あり。曰く、第一に、快楽をもってその直接の目的とするを要し、第二に、不快を生ずべき部分はことごとく除去するを要し、第三に、衆人をしてともにこれを楽しましむるを要す。まず第一の要点は美術の飲食等と異なるゆえんにして、飲食の直接の目的は飢渇、疲労、病苦を医するにありて、快楽をもって直接の目的とするにあらず。しかるに美術は快楽をもって直接の目的とす。第二の要点はすでに快楽をもって目的とする以上は、不快を生ずべき部分はなるべく除去せざるを得ず。第三の要点はまた美術に欠くべからざる性質にして、一、二人少数のものを楽しましむるをもって目的とするにあらず、衆人多数のものをしてことごとく同一の快楽を得せしむるをもって目的とす。その他、美術に要する点は、第一に、その美術を組成せる各部分の互いに適合するを要し、第二に、方法と目的とのよく合中するを要し、第三に、全部分を明示せずして、その幾部分は人の想像をして補わしむるを要するにあり。たとえば、書画のごときはその字形線様の適合、音楽のごときはその調子の適合、そのよろしきを得ざれば、人をして快楽を得せしむることあたわず。また、人の頭上に大盤石をいただかするがごとき図は、器械的方法の器械的目的に適合せざるものにして、かえって人をして不快を感ぜしむるものなり。また、想像をもってその欠けたる部分を補わしむるは、大いに想像上の快楽を増すものなり。その他、美術の目的および性質に関して種々の異説あり。また、その原理および規則につきても衆説一定せず。これらはよろしく美学に入りて研究すべし。

       第八八節 論理学の大意

 つぎに、智力の実用を論ずる論理学あり。その学、演繹帰納の二法に分かる。まず演繹法は一般に論式より成り、論式は命題より成り、命題は名辞より成る。すなわち第五四節中の表に挙ぐるところを見て知るべし。その表中の、概念は論理学にて名辞といい、断定は命題といい、推論は論式という。かくのごとく命題、論式を立てて、一命題より他の命題に論究するもの、これを推度という。推度に間接および直接の二種ありて、直接推度は、たとえば人はみな死すべきものなりの一命題より、ただちにある人は死すべしの他の命題に論及して断定するがごとき推度をいい、間接推度は、人はみな死すべきものなり、仙人は人なり、故に仙人は死すべきものなりと、次第に論及して断決する推理をいう。しかして立論推理の正邪真非は、人の思想に普遍必要の規則あるをもって、これに照合して定むることを得べし。つぎに、帰納法はこれに完全帰納と不完全帰納との二種ありて、完全帰納は、経験上すでに知りたる事実につきてその規則を定め、これをそのいまだ経験せざるものに及ぼさざるをいい、不完全帰納法は、すでに経験したるものよりいまだ経験せざるものに及ぼしてその規則を定むるをいう。しかしてこれを定むる方法に観察と試験との二種あり。観察法は、天然の現象をそのまま目撃して規則を考定する法なり。試験法は、人為をもって殊更にその変化を試みて考定する法なり。この法によりて規則を考定するに、また種々の法則ありて、その考定するところの法則に合するにあらざれば、確実なる帰納にあらず。もしまた帰納と演繹といずれが最も必要にして、いずれの作用第一に起こるかの問題、および論理の原則、真理の標準いかんに関しての問題は、論理学よりはむしろ純正哲学の問題に属するなり。

       第八九節 倫理学の大意

 つぎに、意志の実用を論ずる倫理学あり。倫理学は人の行為の善悪を指定する学にして、これを指定するに関して人生の目的、道徳の本心、善悪の標準等の諸論起こる。まず人生の目的を論ずる中に、幸福を目的とするものと、幸福を目的とせざるものあり。また道徳の本心を論ずる中に、天神の賦与するものなりといえる説と、経験によりて発達せしものなりといえる説あり。また善悪の標準を論ずる中に、不変の標準ありと唱うるものと、不変の標準なしと唱うるものの諸説あるも、いまだ一定の説あるにあらず。しかれども、現今一般に行わるる進化説によるに、道徳の本心は数世数代間の経験積集の結果なるをいい、善悪の標準は世によりて変遷するものなりといい、人の目的は最多数のものに最大幸福を与うるにありという。また道徳のごとき目的ある挙動は、目的なき挙動より発達し、愛他の心は自愛の情より発達し、行為上の善悪は感覚上の苦楽より発達したるものなりという。

       第九〇節 教育学宗教学等と心理学との関係

 その他、心理学の実用に属するものに教育学あり。教育学には体育、心育の両部分ありて、体育の方は生理学および健全学の実用なるも、心育の方は全く心理学の実用なり。およそ心育に三種あり、美育、智育、徳育なり。美育とは美情の教育にして心理学中感情の実用に属し、智育とは智識の教育にして智力の実用に属し、徳育とは徳行の教育にして意志の実用に属するなり。すなわち心理学にて論究せる智情意の発育養成法を指定せるもの、これ教育学なり。故に、心理学と教育学とは密接の関係を有すること、問わずして明らかなり。また、宗教学も心理学の実用となすを得べし。なんとなれば、宗教は我人の感情および信憑作用に基づくものなればなり。しかれども、その信憑は有限の範囲外に出でて、直接に無限性神体に関係して起こるものたれば、余は宗教学をもって純正哲学の実用となさんとす。その他、社会学、政治学、経済学等、みな人の精神作用に基づくものなれば、心理学の実用となすもあえて不可なることなし。