5.解説:小林忠秀

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   解  説                  小 林 忠 秀  

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 本巻に収録してある井上円了の著作は、井上円了(一八五九・安政六年・・一九一九・大正八年)の六十一年にわたる生涯のうち、比較的に後半世に著されたものが集められているが、それらは、円了が四十二歳(明治三十二年)から六十歳(大正六年)にかけての著作である。

 ところで明治三十二年に雑誌『太陽』が行った「明治十二傑投票」の記録によると、当時、井上円了は、通俗的には宗教思想家・宗教活動家として名を知られていた人物であったように思われる。雑誌『太陽』は、明治二十八(一八九五)年一月、博文館から創刊され、以来昭和三(一九二八)年二月の廃刊に至るまで、明治・大正期の論壇と文壇に地歩を占めて、当代日本の資本主義発達期におけるブルジョア自由主義的な思潮を代表する総合雑誌であった。「明治十二傑投票」というのは、『太陽』誌が企画して読者に呼びかけ、政治家・文学家・科学家・軍人・宗教家・教育家・法律家・医家・美術家・商業家・工業家・農業家など十二部門別に、斯界の名士の人気投票を試みたものである。最終的な結果は、同誌明治三十二年五月の第十号誌に掲載してあるが、それによると、井上円了は宗教家として四位の票を集めている。ちなみに宗教家部門でトップの座を占めたのは釈雲照であり、以下南条文雄・本多庸一と続き、円了のあとには、五位に釈宗演が位置を占めている。そのほか、井上円了は教育家および文学家部門でも票を集め、それぞれ下位ではあるが顔を出している。ちなみに教育家部門ならびに文学家部門のトップは、それぞれ福沢諭吉と加藤弘之である。文学家といっても、それは単に小説家・エッセイストの類をのみ意味するのではなく、今日のいわゆる評論家に相当する文筆家をも含むカテゴリーであったもののようである。

 人気投票そのものは、いかに当時の論壇や文壇において有力な雑誌の企画したものであるとはいえ、単なる興味本位の、むしろ浅薄といってよい試みであろう。投票も、対象となる人物の表裏を十分に知ったうえでの責任あるものではなかっただろう。しかし、当時、多少は文章に興味があり、国内・国外の社会的状況に意識的な眼を向けていた人士に、井上円了をはじめ人気投票の中でランクされている人物がどのようにイメージされていたかを知ることはできる。円了は、なによりもまず宗教家として人々に受け止められていたのである。

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 ところで明治三十二年当時、世人に宗教家井上円了のイメージがあったとしても、それは無理からぬところであっただろう。円了自身の出自を問うまでもなく、その言論界における発言と社会的活動は、少なくともこれを外面的に観察する限りでは、常に宗教・・とりわけ明治仏教界の近代化をめぐって展開されていたところがあったからである。したがって、宗教家・・それも優れた宗教家井上円了という世人の評価は、全く当を得ないものというわけではない。しかし、円了を単に明治仏教界の近代化を志し、宗門人の思想の改革とその生活様式の改善を主張して、外来の諸宗教・・特にキリスト教の理念と対決した人物とのみイメージしたのでは、かれの実像を矮小化してとらえたことになるだろう。円了は単なる宗教家ではなかった。思想面においても、実践面においても、単なる宗教家を超え出た宗教家であった。

 井上円了は明治十八(一八八五)年七月に東京大学文学部哲学科を卒業した。同年十月には、他の法・理・医・文四学部の卒業生らとともに学位授与式に臨んだ。哲学科ただ一人の卒業生であった円了は、学生総代として前に進み、文学卿大木喬任をはじめ、二百余人の来賓と東京大学総理加藤弘之ら関係者多数が見守る中で、謝辞を朗読している。ときに卒業生総員四十七名、理学部数学科の卒業生の中には、後に金沢の四高校長として、その教育方針について、学生西田幾多郎・鈴木貞太郎(大拙)らの崇敬を集めた北条時敬の名前も見えていた。そして同年の十月に、円了は、早くも第一回哲学祭を挙行し、釈迦・孔子・ソクラテス・カントのいわゆる四聖の画像を渡辺文三郎に描かしめ、中村敬宇に賛を請うてこれを祭っている。円了二十八歳のときの行状である。

 この東大卒業の年の前後から、おそらくは円了自身の世界観・人生観の形成過程を反映してのことと思われるが、かれの研究活動・言論活動は、活発の度合を増してくる。すなわち、円了は東大卒業の前年(明治十七年)に、おそらくかれにとって最初の公刊された著書である『三学論』を上梓した。そして同年一月には、円了は同志と語らって、すでにかれ自身も参画して組織されていた文学会を二つに分けて哲学会と国家学会とし、そのうち哲学会の発会式を神田錦町の学習院において開催している。(ちなみに、国家学会は明治二十年に設立された。国家学会の設立に際しても、円了は中心的存在であった。)哲学会の発会式に参集した者は二十九名、その中には加藤弘之・西周・中村正直・西村茂樹・外山正一・島地黙雷・大内青巒らの名前があった。同会は、明治二十年二月より、機関誌『哲学会雑誌』(明治二十五年に『哲学雑誌』と改称)を発行しはじめた。同誌は円了がその意見を公表する重要な機関の一つであった。かれは死の前年(大正七年)に至るまで、同誌に三十編近い論稿を寄せ、その中には、井上哲次郎の道徳=宗教同一論に対する反論で有名な「余が所謂宗教」(明治三十四年)等、重要なものも含まれている。

 そして、再び井上円了が東大を卒業した年(明治十八年)に戻れば、かれは、この年に『明教新誌』紙上に八号にわたって、「ヤソ教を排するは理論にあるか」にはじまる論稿を連載した。その内容は、上記の連載第一編の論文題目で明らかなように、キリスト教的世界観とその信仰箇条を吟味してその妥当性いかんを論じる、いわゆる排耶論の書である。同紙に連載された諸論稿は、公表されるや直ちに寄せられた反論に基づいて訂正加筆され、『真理金針』三巻にまとめられた(明治十九・二十年)。該書を一瞥すれば、われわれはここで円了が単に偏頗な排耶論を展開しているのではないことを明らかに読み取ることができる。「(……)仏者口に自教を興すを唱えてかえってその衰微をきたし、心に洋教の廃滅を祈りてかえってその弘流を助くるがごとき事情あり。はなはだ怪しむべし、あに疑わざるべけんや。」『真理金針』はこのような文言ではじまるが、その文言の通り、円了はキリスト教思想あるいはキリスト教信仰者に対決することを最終目的としたのではなく、むしろキリスト教批判を通して、仏教界の人士に自覚を促すことを目的として同書を著している。再び円了の言を借用するならば、「その論決してヤソ教に対して難詰を試みたるものに非ずして、仏教中の一、二の徒は理論をもって余輩の同胞兄弟なるヤソ教を排すべしと信ずるをもっていささかその者に対して惑いを解かんとするにあるのみ。」すなわち、仏教界の人士に対する啓蒙の書、これが少なくとも円了が同書を公にしようと志した意図であっただろう。

 そこで円了がどのようなことを仏教界の人士に提示し、これを啓蒙しようとしたのか、同書の内容に則して瞥見しておこう。

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 『真理金針』がキリスト教批判の書であるというよりは、仏教界の人士の自覚を促す啓蒙の書であるとするならば、同書はそのキリスト教批判をもって重要なのではなく、当の批判の位置付けの仕方において重要であるといわなければならない。言い換えると、われわれは、同書のキリスト教批判について、その妥当性を云々するよりは、むしろそのキリスト教批判がどのような形で手懸かりとして使用されて、円了本来の主張が展開されているかということに注目すべきであろう。

 『真理金針』の論述は、すでに述べた通り、「ヤソ教を排するは理論にあるか」という主題からはじめられるが、それがいわば同書の第一部を構成し、以下第二部は「ヤソ教を排するは実際にあるか」、そして第三部「仏教は知力情感両全の宗教なるゆえんを論ず」をもって完結する。全編を四百字詰原稿用紙に書き写せば、五百五十枚を超える分量になるかなり大部の著作である。けだし力作であろう。円了はこの大部の著作の中で、理論的には大乗仏教的世界観の諸原則、とりわけ唯識説・中道の原理を手懸かりにして、キリスト教的世界観の諸相を吟味し批判している。すでに述べたように、こうした批判の内実に立ち入ってその妥当性を検討するよりも、われわれはその批判の仕方に注目しなければならない。すなわち、円了は、単にキリスト教という宗教に対抗させて大乗仏教という宗教を推し立ててこれを批判するのではなく、二つの宗教あるいはそれぞれの宗教的信条に基づく世界観を俯瞰できる視点から批判を展開しているのである。その視点とは、円了のいわゆる「学理」である。「学理」とは「真正純全の真理」を究める営み、すなわち哲学であり、なかんずく「純正哲学」の営みである。そして「純正哲学」とは「形而上の純理を論究する」ところの哲学的営為と説明されている。したがって、円了は仏教とキリスト教を同一の舞台において眺め渡せる視点を、哲学あるいは形而上学に見出していることになる。

 こうして円了は、かれ自身が是とする哲学的世界観の舞台に仏教とキリスト教それぞれを登場させて、その世界観としての完全性いかんを吟味してゆく。更に円了の吟味の筆は伸びて、当の世界観を支える宗教的信条あるいは信仰箇条の中にまで立ち入って、それらの学としての客観的妥当性いかんの解明にまで及んでいる。そして円了が仏教とキリスト教両宗教を吟味する舞台として採用した世界観が、すでに述べたように唯識説・中道の原理に基づいたものである以上、かれの宗教批判は、キリスト教の信条のうちでも、とりわけ創造神の理念に対して向けられることになる。あわせて、キリスト教的信仰箇条や人間観・社会観についても、すでに明治十年代の知識人の間に知られていたダーウィン、ハックスレーらの生物進化論、ならびにスペンサーの社会進化論の論旨を武器として、これの批判が試みられている。そして結論として、仏教的世界観の、「学理」に依拠した妥当性が主張されるに至る。

 上記が、『真理金針』のいわば第一部に当たる「ヤソ教を排するは理論にあるか」の論旨の概要である。そして、ここには、円了が当代の仏教界の人士に伝達したかったメッセージの内容が、いくつか含まれている。その第一は、仏教界の人士が仏教とキリスト教という二つの宗教・・というよりはそれぞれの宗教的な営みを基礎づける二つの世界観を、偏見を排して吟味することのできる普遍的な視点を獲得すべきこと、これであろう。しかし円了によれば、このような普遍的な視点は、これを外に求める必要はないのである。円了は、そうした視点がすでに仏教的世界観を基礎づける諸原理の中に含まれていることを力説してやまない。仏教界の人士は、このことに気付かなければならない。これが円了のメッセージの第二であろう。要するに、円了は、仏教人自身がすでに依拠している世界観の普遍妥当性を自覚し、自信をもってこれを宗教的な営みのうちに展開すべきことを、強く主張しているのである。

 円了のこうした態度は、『真理金針』の第三部に相当する「仏教は知力情感両全の宗教なるゆえんを論ず」においては、仏教的世界観ではなく、宗教としての仏教に関わって更に鮮明にされている。ここでは、仏教は「知力の宗教」と「情感の宗教」の両部門をあわせ持つ十全な宗教と評価される。知力の宗教とは、円了のいわゆる「聖道門」に属する諸宗派を指し、倶舎・成実・法相・三論・華厳・天台等の宗門がこれであるといわれている。そして情感の宗教とは、「浄土門」の諸宗派であり、この部門には浄土宗ならびに真宗が分類されている。要するに、円了は、世界観の完成を志し、当の世界観を基礎づける理法を追求して精進する行為と、こうして解明された世界の理法を、人それぞれの在り方に則して身につけ、享受するようにすすめる行為とを兼ね備えた宗教・・それが仏教であり、仏教のみがそうした円満な宗教であるとしているのである。

 こうして円了は、仏教を世界観ならびに宗教的な営みという双方の局面から整理して、それが知的批判に十分に耐えることのできる完全性を具備している普遍的な思想であり、実践の指針として活用できるものであることを示す。そして、このような分析解明のよりどころとなるものが、円了の「純正哲学」の眼、すなわち形而上学という視点であった。哲学の眼をもって仏教に関り、その思想を解明して、当の思想を生きる宗教的な営みの妥当性を示そうとする態度が、ここに明白に現れている。したがって、この『真理金針』第三部で、円了が仏教界の人士に伝えたかったこと、それは仏教をその思想と実践の両面において、哲学的に摂取し、その完全性を自覚すべしということであったと考えられる。『真理金針』が公刊された明治十九年には、更に『哲学一夕話』が世に出されたが、ここではかれの形而上学的視点の内容が明確に語られている。すなわち『哲学一夕話』は、円了が『真理金針』を著した基本的な視点を更に開示してみせたものとして、これを評価することができるであろう。

         (4)

 ところで円了は、こうした宗教批判の基本的な視点を終生変えることはなかったように思われる。それどころか、この視点は、その内容において更に拡充されて、単に宗教批判という課題にとってのそれであるばかりでなく、円了の教育活動や文明批判等の基本的な拠点となっていったように思われる。井上円了を明治中期の啓蒙活動家として位置づけることができるとするならば、その啓蒙活動の内実は、「知力情感両全の宗教」たる仏教の精神を自覚した社会人として、これを現実世界の諸活動のうちに展開することをすすめること、このことにあったということができるであろう。

 そして、その萌芽は、すでに今ここで主として手懸かりとしている『真理金針』の第二部「ヤソ教を排するは実際にあるか」にもすでに認められる。ここで円了は、宗教がもつ社会的役割をつぎのように把握して、これを実践活動の側面からする宗教批判の発端としている。少し長くなるが引用しておきたい。

 「宗教は安心立命をもって目的とするも、これを世間に実行するにあらざれば、世間の宗教となるべからず。これを世間に実行せんと欲せば、社会に実益を与えざるを得ざるはもちろんにして、社会に実益を与えざるときは、その教え世間に衰滅するは勢いの免かるべからざるところなり。かつ宗教は社会進化の際、自然に世間に現出し社会と共に発達してきたるをもって、決して社会を離れて存すべき理なし。また宗教の目的はひとり安心立命にありとするも、社会の幸福、国家の安寧を得るにあらざれば、その目的を全うすべからざるやまた疑いをいれず。もしあるいは宗教は理論相争うにとどまるものとなすときは、これ理論の学にしてこれを称して理学、哲学といわんのみ。しかして宗教の理学、哲学に異なるは実際の応用を主とするによる。」

 現代の人々は、あるいは宗教の社会的役割とか、国家組織に及ぼす影響などということをテーマとすること自体が非合理な時代後れの所業であり、場合によっては偏頗な時代逆行の営為であると誤解するかも知れない。しかし、宗教という言葉で指し示されている事態がどんなことであるかを考えてみるならば、その誤解は解消するであろう。いま円了は、宗教が社会に与える「実益」を問題にしている。そして、その実益とは、社会の幸福と国家の安定に志向づけられた個人の安心立命にあるといわれている。この社会や国家は、抽象的に概念化された社会や国家ではないであろう。人々の目の前にある現実の社会や国家である。その社会や国家のいわば安心立命のために宗教的実践が奉仕するというところに、宗教の歴史的な存在理由が見出されているのである。円了によれば、宗教が社会や国家に与える実益は、以下の五条にまとめられるという。

 第一条は「国際上」の実益・・「国権の拡張を祈り、国力の養成を助け、富強独立の精神を維持して、わが国をして万国に競争対立せしむること」。明治十九年の時点に立ってこの文言を考慮してみると、これは国家としての日本の他国に対する主体性の確保を意味する。

 第二条以下は、国家組織の基盤となる社会あるいは共同体に関る実益である。円了の文言を列挙しよう。繁雑になるので引用符は省略し、現代の日本語表記の慣習にほぼ従って引用させていただく。

  第二条 政治上に関して実益を与うること

   すなわち、政府の制令・法律の及ばざるところを助け、欠くるところを補い、よく人民を教導戒訓して、人をして正理を守り、公道を踏み、政治社会に対する権利・義務を全うせしむること。

  第三条 道徳上に関して実益を与うること

   すなわち、その徳義を重んじ行為を慎しみ、名望を養い節倹を守り、慈善を施し貧を救い、孤を憐み老をたすけ、病苦を問い禍患を弔い、悪事懲戒の善心を勧め、人の人たる道を全うせしむること。

  第四条 教育上に関して実益を与うること

   すなわち上下の知識を開導し、内外の学芸を勧奨し、童蒙を育し、英才を養い、人情を移し、風俗を化し、大小百般の教育を任ずること。

  第五条 開明上に関して実益を与うること

   すなわち宗教の弊害を去り、愚民の頑陋を医し、進化開新を主として、諸学の進路を啓き、開明の障害を除くこと。

 第五条の「愚民」という表現には時代の制約を感じるが、当該条項の主旨は「開明」、とりわけ迷信等に代表される不合理な束縛からの民衆の啓蒙というところにあろう。いずれにせよ、上記各条項の文言を通覧すると、いわゆる「実益」の内容は多岐にわたっている。しかし、その多岐にわたっている内容を通じて、これをまとめている一筋の道が浮かび上がっていることもまた明らかであろう。明治初年度から二十年代にかけて、日本は国家的にも社会的にも、合理的なシステムの形成ということを至上の課題として、その課題の解決のために狂奔していた。すなわち、国家・社会近代化の基礎作業である。そして円了は、こうした基礎作業が自分たちの基礎作業となるための鍵を握るものが、宗教的な営みであることを示唆しているのである。

 おそらくは円了がその青春期から東大生であった時期に受けた教育の成果であろうか、かれには、国家あるいは社会という合理的な制度が、真にそこに生きる人々のものである制度となるための条件を洞察しようとする志があったようである。すなわち、国家・社会が、そこに生きる人々に共通な人倫の態度(エートス)に媒介され、自分たちの共同体として成立しなければ、真に強固で持続する制度とはなりえないということへの洞察である。こうした条件を満たさない国家・社会は、仮に一時は歴史的状況の偶然から成立しても、ほどなくその足下から瓦解してゆき、決して盛大な発展は期待できないであろう。このいわば国家・社会を外的に人々を規制する管理と支配の機関ではなく、内発的な自律のルールの機構たらしめるもの、これがエートスであると円了は洞察していた。そして、こうしたエートスの根源となり、更にこれを育成するものが宗教的な営みであると、かれは考えていた。したがって、円了にとって、宗教が国家・社会に与えることができる「実益」とは、基本的には、国家あるいは社会に生きる人々がこれらの制度を共通に自分たちのものとしてとらえるための根拠を与え、それを育成するというところにあったのである。円了が上掲の国際上・政治上・道徳上・教育上そして開明上の五カ条にわたって書き記している「実益」の数々は、こうしたエートスが共同体という次元で展開された具体的諸相であると考えてよかろう。エートスは知的で合理的な判断に基づく行為ではない。その行為を真に自分たちの行為とする社会的な心情あるいは慣習にほかならない。しかも宗教的な諸活動は、明らかにこのような心情あるいは慣習と深く関って展開されるのである。したがって、宗教家井上円了の眼は、歴史的世界において成立し、展開してゆく宗教の社会的役割を、明確にとらえていたということができよう。

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 ところで『真理金針』は、すでに述べた通り、単なる排耶論の書ではなく、主としてキリスト教的世界観とそれに基づく宗教的営為と対比して仏教のそれを吟味し、その完全性を顕示して仏教家の自覚を促すことを目的とした書であった。そして仏教的世界観については、その普遍妥当性が明らかにされ、それについての仏教者の自覚が要請されていた。そればかりではなく、仏教・キリスト教両宗教がそれぞれ内包する世界観を、平等に見渡せる視点の必要性が求められていた。それが円了のいわゆる純正哲学的視点であり、仏教家にたいして、こうした視点の体得ということも主張されていた。

 そこで残る問題は、上述の世界観に基づく宗教的な営み、あるいはその成果という観点から、両宗教を比較してみたらどうなるかということである。より具体的にいえば、仏教とキリスト教・・これら両宗教は、歴史的世界に自らを展開させるに当たって、国家や社会にどれほどの実益を与えて今日に至っているか、その比較の問題である。円了によれば、一宗教の盛衰は、この一事に懸かっているのである。「これにいたりてこれをみれば、社会の事情に適合しその実益を増進するは宗教盛衰上免かるべからざる通規にして、仏教の隆替もこれによりて卜定すべきなり。」宗教が、宗教的実践活動として歴史的世界の中で展開され、国家あるいは社会の主体的な存立の鍵を握っていると考えられている以上、この主張は当然であろう。宗教的実践は、国家や社会の自立の根拠を人々に提供することを究極の使命とするとされているからである。

 そして円了は、宗教が国家・社会に与える実益の度合という点についてみれば、キリスト教は仏教をはるかに凌駕しているという。「けだし西洋諸国のその勢いを今日の世界に輝かすに至りしはヤソ教の力最も与りて功あり。もしヤソ教徴せばその国いずくんぞよく今日の富強を致さんや。これ欧史を一見する者のみな信ずるところなり。」その原因は「ヤソ教者の実際に尽くすところの精神によるのみ」といわれる。このキリスト教信仰者の精神性(エートス)は、具体的にはつぎのような様相をもって展開されてきている。「ヤソ教者は法に尽くすところの心をもってよく国に尽くし、国に尽くすの心をもってよく法に尽くす、尽くすところの心は一にして対するところの義務は二なり。この心をもって国家に対すれば愛国となり、この心をもって教法に対すれば護法となる。よくこの護法愛国の両義を実際に尽くして、死してなお余栄あるもの、それただヤソ教者にある人のみ。」ご覧のように、円了はもっぱら国家の自立ということに焦点を合わせて、宗教(キリスト教)が与えるいわゆる「実益」の様相を説いている。しかし、ここで円了の念頭にある国家とは、明らかに人々の安心立命の場となる国家である。言い換えれば、それは自分たちが、自分たちのために形成すべき国家であっただろう。円了にとって、そうした国家とは、宗教的エートスに媒介された共同体だったと考えられる。この宗教的エートスの媒介という一点において、「愛国」と「護法」・・共同体の自立と宗教的信条の確立とは結びつくのである。そして、円了は、キリスト教を奉ずる人々の場合には、これら二つのことがらが効果的に結びついて、共同体の繁栄に力を借していると評価しているのである。

 ところで、仏教を奉ずる人々の間ではどうであろうか。以前には、仏教者は「世間の知者学者」として「一村一郷一国の師父となり顧問となり大いに文化の進歩を助け」、また「慈善家」として、あるいは「社会開進の先導者」として活動していた。しかし今日の仏教者はそうではない。円了の批判はなかなかに厳しい。今日の仏教者・・とりわけ今日の僧侶に対して、「学識もなく道徳もなく資力もなく精神もなきをもって、いずくんぞよく世間の実益を与えんや」と痛罵を浴びせかけるのである。円了が『真理金針』を世に問うた目的は、すでに述べた通り、実にここにあった。彼は、こうした批判を通して、仏教者の学識と実践の両面にわたる自覚を促す目的をもって、この著作を公にしたのである。

 さて、筆者は円了の『真理金針』にいささか立ち止まり過ぎたかもしれない。しかし、円了のその後の言論と事業の諸活動を見渡すとき、それらの活動の様々な在り方の底に一貫して流れているプリンシプル、そしてそれら諸活動に存在理由を与えているなにものかが、この書のうちに明らかに読み取れることも確かであろう。それならば、円了のその後の諸活動の底から透けて見えるプリンシプルとは何か。さきに紹介した円了の言葉を使っていえば、「護法」と「愛国」・・宗教的信条の確立と自立した共同体の形成ということであろう。しかし円了の眼は、これら二つのプリンシプルに直接注がれるというよりは、むしろそれらを越えた、より根源的な地点に向けられていたように思われる。つまり『真理金針』以降の円了の活動を見ると、それが言論執筆の活動であれ、学校教育あるいは社会教育の活動であれ、すべては宗教的精神性の育成という課題の実現に収斂しているのである。したがって、円了は、その生涯の活動目標を、上記二つのプリンシプルの実現を共に可能とする、宗教的信条に生かされた精神性の育成というところにおいていたように思われる。精神性は宗教的信条とは同一ではない。それは日常に生きる人々が交わりを結ぶに際して、お互いに踏まえておかなければならない人倫の基本的態度であり、共同感情であろう。したがって、それはまた、共同体のあらゆる営み、すなわち文化の根として機能するはずのものであるだろう。円了は、こうしたいわば文化の根を宗教的信条の媒介のもとに形成し、更にその根を堅固にすることを生涯の目標としたと考えられる。それ故、円了は、単に自分が生まれ育った真宗大谷派という一宗門の再興を目指したのでもなければ、外来のキリスト教に対抗して日本に古来の仏教の無反省な称揚と復権を志したのでもない。かれは宗教が社会あるいは国家においてもつ重要な機能に注目したのである。すなわち、かれは、宗教は社会あるいは国家を主体的な共同体として成立せしめる基盤に関って決定的な役割を演ずることに注目した。その役割の内実については、ここで改めて詳述する必要はないであろう。要するに、宗教は、共同体を人々が自分たちの手によって作り上げるための基本的条件として機能するということである。その意味で、宗教もまた共同体の文化の根なのである。

 こうして円了は、宗教を・・というよりは真の宗教的精神を手渡すために、人々の間にわけ入ろうとした。そのために彼が選んだ道は、教育事業、そして言論活動であった。円了は、明治十八年、東京大学卒業に際して、彼の新潟時代の恩師石黒忠悳が勧めた内閣書記官への道を固辞している。更に同時に、円了は、彼自身の修学に大きな力となった真宗大谷派宗門における後継者教育の職位をも辞退して受けず、在野の一私人として活動する決意を示した。

 ところで、人々に真の宗教的精神を手渡すためには、必ずしも専門的な宗教界の用語を必要とはしない。むしろ、そのような専門用語がよって立つ基本的なものの考え方、あるいはものごとのとらえ方を、だれにでも理解できる言葉と文章で語ることが大切であろう。場合によっては、そうしたものの考え方やとらえ方に則した心情の動きや生活の有様に注目して、これについて語る必要も生じてくるかも知れない。すなわち、平俗な言葉と語り口で、宗教的信条とその普遍的根拠、そしてそれらの実践の在り方について、これを知識人に対してではなく、むしろ一般の人々に対して解き明かすことが要請されてくる。言い換えれば啓蒙活動・・それも一般の庶民の間に分け入っての啓蒙活動が要請されてくるのである。そして円了の生涯は、異郷大連の地における死(大正八年)に至るまで、しかもその晩年にさしかかるほどにますます、一般の庶民への啓蒙活動に明け暮れた生涯であった。円了は、市井の宗教家・教育者、そして思想家を志したのである。

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 ところで、円了は明治二十年に有名な『仏教活論序論』を刊行した。同年にはその第二編に相当する『仏教活論破邪活論』も上梓されている。同書は、明治二十三年に出版された第三編『仏教活論顕正活論』をもって未完ながらひとまずピリオドを打たれるが、円了の主著といってもよい体裁を備えている大作である。その内容の是非について論ずるのは筆者の任を超える。しかし、ここでも指摘しておきたいのは、やはり円了が同書を執筆した態度である。それは『仏教活論序論』に明らかである。「およそ人たるもの一志もって護法に立つるなく、一事もって愛国に尽くすなくんば、なんの面目ありてよく社会に対しよく世間に接せんや。」すなわち、円了は前著『真理金針』の場合と同じ態度でもって、『仏教活論』を著そうとしているのである。言い換えれば、円了は、宗教が社会・国家に与えうる実益という観点から、同書を執筆しようとしているのである。もちろん、円了が選び取った宗教は仏教である。なぜ仏教を選び取ったのか。その理由は、すでに『真理金針』の全編にわたって明示されていた。その理由の明示をも含めて、円了は『仏教活論』の中で、改めて仏教が人々のいわば手作りの共同体形成に、どれほど有効な手懸かりを与えることができるか、そのゆえんを解き明かそうとするのである。

 したがって、同書は、まさに仏教的世界観とその精神性を開示する書、仏教を世に活かす書・・仏教の活論にほかならない。ここでは、基本的に仏教だけが「その説大いに哲理に合するを見る」という立場が明示されている。そして仏教的世界観の普遍妥当性を開示するわざ、すなわち「愛理」の営みは、直ちに「仏教を改良してこれを開明世界の宗教となさんこと」に結びつくと考えられる。円了の「護法」の精神は、こうして「愛理」の営みに基づく「仏教改良」、つまり仏教の活性化を目指した活動として具体的に示されたことになる。更に、このような「仏教改良」の実践が、単に宗門各派の内部にとどまらず、いわゆる「世間」という場面で展開されるときには、それは真正の仏教的精神性に媒介された理想的な共同体の実現を志す活動を意味することになるだろう。すなわち「愛国」の精神の具体化を意味することになる。円了は、こうした理想的な共同体の実現の営みを、ここでは「護国」ということばで表現している。つまり欧米諸国からのいわゆるカルチャー・ショックに対する国家の自立という当代日本の課題を強く意識した表現が使用されているのである。要するに、円了にとって「護法」の精神は、「愛理」の営みを媒介として「仏教改良」の活動として具体的に展開さるべきものであった。そればかりではなく、同じ「護法」の精神は、やはり「愛理」の営みを通して「護国」の活動としても実現さるべきものであった。そして円了は、「護法」の精神を社会・国家の場面において実現しようとする路線に、自分の生涯を委ねる。彼は、仏教的精神性に媒介された理想的な共同体を育成することのうちに、「護法」の実をも挙げようとしたのである。「護国愛理」という、円了といえばすぐに引き合いに出される用語も、上記の観点から理解さるべきであろう。それは、決して超国家主義的な理念を表明した用語ではない。円了にとって、国家の自立は、彼のいわゆる「哲理」にかなった共同体の形成をもって、はじめて実現されることがらであった。

         (7)

 こうして円了は、自らの路線を明確に打ち出すと共に、その実現のための活動を始める。目指すところは、彼の理想的共同体を支える有為の人物の育成にある。明治二十年六月、円了は「哲学館開設の旨趣」を公表した。すなわち、東洋大学の前身である哲学館開設の趣意書である。それによると、哲学館は「世の大学の課程を経過するの余資なき者、ならびに原書に通ずるの優暇なき者」に開かれていた。そしてかれらに哲学の諸分野、および「これらと直接の関係を有する諸科」を研修するの「捷径便路」を開くことを目的として設立されたのが哲学館であった。同館に学んだ者は、後日「社会に益し、国家を利し」、こうして「世運開進の一大補助」となることが期待されている。このことから明らかなように、円了は世のいわゆるエリート階層の子弟を受け入れるために同館を設立したのではない。むしろ一般民衆の中で、向学心の豊かな有為の人士に、理想の世界観を身につけさせるために哲学館を設立しているのである。しかも、その世界観は、単なる理論的理念としてではなく、実践的指針として機能すべきものであった。すなわち、哲学館では、実用のための哲学が、民衆のために教授される予定であった。後に円了は、その生涯で最後の論稿となったものの中で、自らの哲学上における使命を、哲学の通俗化と実行化においたと語っているが(『哲学上に於ける余の使命』・東洋哲学・大正八年二月参照)、その言明の通り、彼は民衆のみを対象として、民衆の語る言葉で哲学を語ろうとしたということができる。その証しが、本巻に収録されている円了の諸著作なのである。平俗なその語り口は、しばしば世人から「誠に浅近にして哲学の威厳を具えず、突然滑稽演説を聞くがごとく思わる」(『六合雑誌』・第八十四号、明治二十年十二月参照)などと酷評されているが、円了は民衆と同じ次元で哲学について語り、しかも民衆を哲理にかなった理想的な国家・社会の形成に向かわせる契機となる哲学について語ることをやめなかった。

 したがって、哲学館はまさに民衆のための大学として設立されたということができる。同館は、上述の設立趣意書が公表された後、約三カ月を経て、すなわち明治二十年九月に本郷区竜岡町三十一番地(現在の住居表示では文京区湯島四・一・八)の麟祥院において発足し、直ちに授業が開始された。そして、円了の民衆のための大学という理念は、更に展開され、早くも明治二十一年には、「本館に通学することあたわざるものの便を計り、館外生の制を設け、毎月三回講義を印刷してこれを頒つ」という、通信教育のシステムとしても実を結んだ。今日の通信教育制度と違って、同課程を修了したからといって、一定の公式な資格が与えられるというわけではなかったようだが、哲学的な営みを民衆のものとして、それを理想的な共同体としての国家・社会の形成に有効に機能させようとする円了の精神に、この「館外生」の制度は大いに合致したものということができよう。いずれにせよ哲学館が発行する講義録は人気を呼び、「当時の好学の士にして一度はこれを手にせざるはなき」状況であったといわれている(『東洋大学創立五十年史』、昭和十二年参照)。円了の眼は当初から、学校にきたり集まる青年のみならず、学校の枠を超え出て、真に妥当な世界観を生きて、国家・社会に貢献しようと志すすべての青年に向けられていたのである。

 ところで、世に開かれた教育機関を設立して哲学の通俗化と実行化を企画し、こうして民衆が普遍妥当な世界観を体得するために貢献しようとする志、これこそは、円了の生涯の活動を統一的に理解する鍵といってよいだろう。円了は明治二十一・二十二年、明治三十五・三十六年、および明治四十四・四十五年の前後三回にわたって、欧米諸国を中心に世界の各地へ視察の旅に出ている。目的は教育事情の調査・見聞である。しかし彼は、単に既存の教育制度あるいは教育上の慣習を調査したのではなかった。彼は、むしろそれらのものを支える諸国民の精神性、そしてそうした精神性を育成した自然的・社会的諸条件の方に注目していたように思われる。この態度は、円了の外遊報告あるいは帰国後の活動から推し量ることができる。例えば、彼は最初の外遊の報告の中で(「欧米周遊日記・第二回」・『日本人』、明治二十一年十一月)、「米国米人の富強隆盛を進むゆえんの一要因」を当地の苛烈な天候と雄大な地勢に求めている。更に、明治三十七年に設立され、円了の後半生の事業のひとつとなった「修身教会」活動も、かれの外遊時の経験にその根をもつものであった。修身教会設立の趣意書の中に、つぎの文言がみられる。「(……)西洋諸国は学校以外に日曜学校ありて、毎週精神の修養をなさしむ、思うに彼国において人民の知識と共に徳義また進み、なかんずく社会道徳、実業道徳の大いに発達せるは、全くこの教会の効果なりというも過言にあらざるべし。」円了は、いわゆる「日曜学校」という、キリスト教諸教会における宗教教育上の慣習のなかに、西欧的精神性が生成する社会的条件を見たのである。つまり、彼は宗教が国家・社会に与えることのできる最高の実益・・道徳感情を育む土壌のひとつを、ここに認めたのである。

 円了のこうした態度は、結局は彼自身を哲学館の枠外に飛び出させることになったように思われる。第一回の外遊から帰国して後、彼は明治二十三年から哲学館日曜講義を開催すると共に、同館に三年制の普通科の上に更に二年制の専門科の設置を企画し、その資金募集のために国内各地の巡講を始めた。そして大正八年の死に至るまで、円了は九十回を超える巡講の旅に出かけた。特に円了が哲学館大学長・京北中学校長の職を辞した明治三十九年以降、巡講の回数は飛躍的に増大し、六十数回を数えている。円了の死去を悼んで編まれた書『井上円了先生』(東洋大学校友会編、大正八年)の巻末に「巡講踏跡図」があるが、それを参照すると、北は北海道から南は九州・沖縄に至るまで、円了の足が及ばなかった地域は皆無に近い。更に円了は樺太(現在のサハリン)・台湾・朝鮮の地まで足を延ばし、そして中国・満州への巡講の途次、大連において客死するのである。その巡講の目的は、とりわけ彼が哲学館を去った時点からは、すでに学校教育の内容充実という枠を越え出たものになっていた。すなわち、円了自身の言葉を借りていえば、「もっぱら社会教育、民間教育」のための巡講となっていたのである。円了は明治三十六年に、さきに購入しておいた東京府下江古田村和田山(現在は中野区松が丘一丁目)の一万五千余坪の土地に「哲学堂」を建立し、いわゆる四聖を祭り、「道徳山哲学寺」と自称して、広く社会的に民衆の道徳感情の育成を目指す活動の本拠とする意図を明らかにしていた。言い換えれば、「哲学堂」は、彼の修身教会設立の運動や日曜講話、更にはその延長である国内各地を経巡っての道徳講話(巡講)の中心地としての意味をもった道場だったのである。円了は、この「哲学堂」という設備とそこでの活動の中に、「通俗化」された哲学・・人々の真正な道徳感情を育む土壌として活かされている哲学的な営みの結晶を見ていたように思われる。それ故に、それは哲学の「実行化」の拠点としての意味をもつものでもあっただろう。

 こうして、円了の「哲学」は、聖(宗教)と俗(社会・国家)という二つの領域を批判的に媒介するロゴスとしての意味をもつ重要な営みであった。そして二つの領域が接する具体的な地平が、円了にとっては、現実に生きる人間の精神性(エートス)であり、それによって育まれた道徳感情であること、既述の通りである。このこと自体は、別に円了によって初めてとらえられた新しい事柄というわけではない。それは哲学という営みがもつべき本来の役割だからである。しかし、円了がこの哲学本来の役割を正しくとらえているということ、このことに注目しなければならない。理想の国と現実の国とを出会わせる地平を成り立たせる営み、したがって現実の国を理想の国へと救い上げる営み、それが哲学であるが、円了はこのことを正しくとらえていた。そしてこの営みの最も優れたものが、仏教的思惟と実践のうちに含まれていると、円了は主張しているのである。そしてこのことを、彼は民衆に語り続けたのである。たしかに井上円了は、宗教家を超えた宗教家であった。しかし、それは彼が真正の哲学者だったからそうたり得たのである。また、それ故に、円了は教育活動を人々の生活と文化の根に結びつけることができたのである。

       (8)

 円了の教育活動の本領は、すでに述べてきたところから明らかなように、哲学教育・・とりわけ日常の生活の場で、哲学的な営みをどのように生かしてこれを律するかということを、具体的な事例に則して教授してゆくというところにあったということができる。円了は、常に市井の平凡人の卑近な生活に結びつけて、哲学を語った。哲学の背後には、常に民衆の生活と人生があったのである。このことは、円了が座談風に哲学を語る場合ばかりではなく、体系的に語る場合でも変わりはなかった。本書に収録されている四著作において、読者はこの特徴を十分に汲み取られることと思う。

 いま、四著作のそれぞれについて、簡単な紹介をしておきたい。

 

   通俗講談

   言文一致 哲学早わかり

 これまでに再三にわたり言及してきたことであるが、円了は、その最晩年に書かれた論稿の中で(『哲学上に於ける余の使命』大正八年)、自己の生涯の使命を、哲学の通俗化と実行化においていたということを明らかにしている。もはや老境に入った円了が、自分の生涯を総括した言葉として、注目しておくべき発言であろう。いま少し円了の発言の内容に立ち入って紹介しておくと、彼は「余が前半生の事業」が哲学の通俗化の活動に相当し、その拠点が「哲学館」にあったと言明している。「哲学館」を中心にした当代の著作と教育活動は、もっぱら「(……)高尚の哲学を通俗化して世間に普及する道」を開くためのものであったという。そして円了はこうした活動の一環として、講義録の配布や全国各地を巡講しての「哲学の通俗講話」も意図されたことを明らかにしている。

 ところで、ここに収録してある『哲学早わかり』は、まさに彼の「哲学の通俗講話」の一事例と受け取ってよいであろう。このことは、本書の序言で円了自身が言明しているところからも明らかである。すなわち「本書は余が府県巡回の際、その地方において特に有志者の依頼に応じ、一夕の茶話として口述したるものの筆記」と述べている。その平俗な語り口は一読すれば十分に了解せらるる態のものであり、ここに冗説するまでもないだろう。本書のタイトル副題にある通り、「通俗講談・言文一致」の文章である。ただ本書は十二回連続の講話という構成になっている。円了のいわゆる巡講は、同一地に数日滞在して講話を連続して行うのではなく、ほとんど毎日場所を変えて、一回ないし多くとも二回の講話をして移動するという形式をとっていたようである。このことは、円了の生前に第十五編まで公刊された巡講日誌『南船北馬集』(明治四十一・大正七年)の記録を参照すれば明らかである。したがって、本書は巡講における実際の講話の記録そのものではないであろう。むしろ講話のスタイルを借りた啓蒙書であると考えられる。もちろん、十二回に分けられた講話の内容のうち、一部分は巡講に際して語られた題材を踏まえているかも知れないが、その詳細について実証することは現時点では不可能である。

 いずれにせよ、円了は、「通俗の全く哲学のなんたるを解せざるものに対し、哲学の一端を知らしめんと欲する」ことを目的として、本書を著している。それ故、本書は仏教でいうところのいわゆる「方便」の書である。これに今日の言葉でタイトルを付けるならば、「哲学入門」とするのが最も妥当であろう。

 その構成を見ると、第一講話より第七講話に至るまでは、哲学のなんたるかを論じ、あわせて「理学」(科学)ならびに宗教的営為との連関において、哲学という学の性格を浮き彫りにすることに力点が注がれている。この箇所は、その内容において、明治二十三年に刊行された『仏教活論顕正活論』の第二段、「哲学総論」のそれとほぼ軌を一にしており、その要点を摘記している形になっている。そこでは、哲学は、これを理学(円了は特に注釈をつけて科学の代わりに理学の語を用いるとしている)と対比してみるとき、もっぱら人間に関り、そのものの考え方を問題として、そこに現れる人間自身ならびに世界を律する道理を解明する学であるとされている。したがって、哲学はまず精神的領域そのもの、およびそこに生起する諸問題について吟味する。その意味で、哲学は無形なることがらについての学といわれている。とりわけ「心および神の二者を研究する学」である。その本旨は、哲学は心象についての学ということであろう。

 しかしながら、哲学はただ心象に関って、それについて研究すれば足れりとする営みではない。哲学は、心象のあり方という形で透けて見える世界と人間を律するロゴスへと探究の歩を進める。円了の言葉を借りるならば、哲学は、もっぱら「理学」が研究の対象とする「物象」あるいは有形なるものを在らしめる「物体」の真相を探り、「心象」を基礎づける「心体」のそれに迫り、更にこれら両者を規定する「宇宙全体の真理」、すなわち「理体」のなんたるかを究めようと試みる。こうした試みを展開する哲学的営為に、彼は「純正哲学」の名をかぶせ、ここに「哲学の本分」があるとしている。このような意味での哲学は、円了のいわゆる「理学」の諸部門の成果にあい対して、それら諸部門そのものの成立根拠をも問いただし、統一的に理解する「絶対の学にしてかつ統合の学」ということになろう。

 『哲学早わかり』は、更に第八講話から第九講話にかけて、哲学史の話となり、特に「西洋哲学」の思想の流れが、タレス、ソクラテスからコント、スペンサー、ヘーゲルに至るまで概略たどられる。ちなみにこの本では収録しなかったが、本書の末尾には、「西洋哲学者年表」が付録として付けられているが、索引または注釈的な役割を果たしているこうした配慮は、当時の市販された邦書には珍しかったのではないだろうか。さて、本書は第十講話から第十二講話まで、哲学が社会・国家に与える実益について語ることをもって集結する。その主旨は、第十講話の結論にあたるつぎの一文に尽きよう。「(……)哲学が根となり幹となりて器械の花を開くに至れりと申してよい。とにかく哲学思想の進歩は人知の進歩を意味することなれば、今日の文明は哲学の進歩によりて現れたというても差し支えはありませぬ」。ここでいわれている「人知の進歩」とは知識の進歩のことではなく、知恵の拡充のことと解すべきであろう。円了は、これまで述べてきたことから明らかなように、哲学という営みの機能を、正しくとらえているのである。本書は、円了の哲学観を簡易に明らかにしてくれる。

   哲界一瞥

 われわれが現在JR中野駅と池袋駅を結ぶバスに乗ると、その中間、やや中野寄りの地点に哲学堂前というバス停留所があることに気が付く。バスを降りると、そこは樹木の多い、さわやかな風が吹き通る清涼の地である。標識を頼りに木立の間に踏み込むと、われわれは中野区営の野球場とテニスコートの間をたどることになり、やがて哲学堂の正門ともいうべき哲理門(俗称妖怪門)の前に導かれる。門をくぐると、広場を隔てて、右手には特異なフォルムをもつ六賢台、左手前方には四角正面の四聖堂と切妻ポーチを備えた宇宙館(講堂)、ならびに木立の間から三角形の四阿三学亭の姿が眼に飛び込んでくる。更に、四聖堂と宇宙館の間、奥まった所にある絶対城(図書館)の建物も目撃される。哲学堂と総称される「哲界」の中心部分ともいうべき箇所であろう。園内は広い。前述の野球場とテニスコート、ならびに園の東端に隣接する小遊園地の敷地を合わせると、円了が明治三十五年に同地を購入した面積とほぼ同じ広さになるが、一万四千余坪になるといわれている。現在、同地は中野区が管理事務所を置いて整備している公園になっているため、よく手入れが行きとどき、街の騒音も木立に遮られて気にならず、散策にはもってこいの場所であろう。

 鎌倉時代の武将和田義盛の居城跡、明治維新以前には毛利氏の山荘があったと伝えられるこの地に、円了は、明治三十七年、四聖堂を建立した。この間の事情は、本書の「はしがき」の冒頭で、円了自身が簡明に語っている。再説するまでもないだろう。ところで、本書は円了自身が語る哲学堂建設の由来記、そして哲学堂の結構の解説と、そこに祭られている東西両洋にわたる哲人・賢人について、その選択の理由およびそれぞれの人物の略伝をあわせたものである。総じていえば、哲学堂の紹介書といってよかろう。

 円了は、すでに述べたように、自分の後半生を学校教育を更に超えた社会教育に献身すべき時期と思い定めていた。すなわち、円了のいわゆる「哲学の実行化」のために活動すべき時期である。こうした活動の本拠として、この哲学堂が構想され、建設されたのである。さて、哲学の実行化の内容であるが、それは本書「はしがき」の文言によれば、「国民道徳の大本たる教育勅語の御聖旨を普及徹底せしむる」ための、各町村を拠点とする「社会教育、民間教育」の振興ということであった。円了の生涯を律する活動基準・・道徳的心情の育成ということの軸に、教育勅語(明治二十三年発布)の主旨が据えられていることのうちに、彼の帝国主義的ナショナリズム追随の性向を見る人がいるかも知れない。しかし円了が教育勅語の中に読み取ったものは、決してもっぱら政治的次元において展開さるべき民族主義的な国民感情の称揚ではなかった。むしろ、彼は、そうした国民感情をも包み込み、これを理想的なものへと洗い上げてゆくための指針を具体的に読み取っていた。これを読み取らせたものは、円了の「哲学」であった。より正確にいえば、彼の「純正哲学」の眼、そしてそれを民衆の生活の場に生かそうとする志であった。円了には「愛理」の精神性に媒介された「愛国」または「護国」の営みの理想が、「忠孝為本」と彼が読み取った教育勅語のモチーフの中に現れていると見えたのである(『日本倫理学案』明治二十六年参照)。言い換えれば、円了は教育勅語のモチーフの中に、日本が理想的な共同体として自立するための文化的・道徳的基礎理念を見たものと考えられる。

 いずれにせよ、哲学堂は、円了のいわゆる「教育的、倫理的、哲学的精神修養」のための「公園」として組織された。彼は、この哲学堂を「道徳山哲学寺」とも呼んでいた。彼は、確固とした哲学の眼・・世界観を身につけ、これを日常の生活の場において生きる営みのうちに、宗教性の本質を見ていたようである。円了は自分の宗教観をつぎのように語っている。「(余の)信仰を自白すれば、表面には哲学宗を信じ裏面には真宗を信ずるものである。人あるいは信仰に二途あるべからずというであろうも、余は信仰そのものにも表裏両面があると思う。すでにわが心に知情両面あるごとく、信仰にもやはりこの両面ができるようになる。これと同時にその体は一つであるから、哲学宗の立て方を裏面より眺むればたちまち真宗となり現れてくる。もとより真宗に限るというわけではない。一つの哲学宗が裏面の眺め方によりて、禅宗ともなれば浄土宗ともなり、真宗ともなれば日連宗ともなる」(『哲学上に於ける余の使命』大正八年)。哲学と宗教(信仰)の関係を、表裏の関係に例えていて、いささか難解であるが、円了は世界観としての哲学と、それを生きる実践としての宗教(信仰)を、表裏の関係に則してとらえていると考えてよかろう。ここでいわれている宗教は、いわゆる向下門において見られた宗教であろう。円了は、常に理念を生きた思想家であった。

 なお付言しておくが、哲学堂の構内各所には、本書のうちに述べられているように、哲学理念の形象化としての意義付けがなされていて、独特の名称が付けられている。まさに「哲界」と呼ぶにふさわしい雰囲気作りが配慮されているのである。理念の形象化、あるいは理論の「実行化」・・思想を知恵へと受肉させる営みに専念した円了を象徴する行動といってよかろう。

 

   哲窓茶話

 哲学館は、明治二十年九月、本郷竜岡町三十一番地麟祥院において呱々の声を挙げたが、明治二十二年になると、駒込蓬莱町二十八番地(現在は文京区向丘二・二十三)に新校舎を建設して移転した。新校舎での授業は、同年の十一月から開始された。ちなみに同校舎は明治二十九年十二月に、同一敷地内にあった郁文館中学から出火した火災によって類焼の憂目にあい、そのため哲学館は、一時、誕生の地麟祥院の近くにあった勧工場跡(本郷竜岡町三十六番地)に場を移さざるを得なくなった。しかし、翌明治三十年七月に、小石川原町鶏声ケ窪の高台に再度新校舎を建築し、この地に移転した。すなわち、現在の東洋大学白山校舎の地である。

 ところで、哲学館が蓬莱町へ移転したとき、あわせて寄宿舎も設けられた。『東洋大学八十年史』によると、当時の寄宿舎は、ほぼ六畳二十室、約四十名の収容能力があったという。同時に「寄宿舎概則」も作られたが、その第十三条につぎの文言が見られる。「本館の精神はひとり学理を研究するにとどまらず徳義を養成するにあれば寄宿舎内に毎朝夕茶会を設け徳義に関する談話をなすべし」。あわせて「茶会規則」も定められている(『哲学館講義録』第一期第二年報・第三十二号所収の「本館記事」を参照。推定明治二十二年十一月二十八日発行)。全条二十三カ条よりなるこの「茶会規則」を見ると、茶会は土曜・日曜および祝祭日を除き、毎日朝は七時から、夜は九時三十分から開かれていたようである。寄宿生は必ず出席しなければならず、「舎員の在否」も「点検」されていた。通学生も、希望すれば夜の会合に限って会合に参加することができた。会合の時間は、朝は十五分程度、夜は三十分ないし一時間と定められている。会合には、袴を着用するか、または「洋服装等」を用いるか、いずれにしても略装で出席することは許されなかったようである。もちろん、会合中の喫煙は禁じられていた。会合での講師については、特に定められてはいないが、第二十三条に「館主病気もしくはやむをえざる事故ありて出席することあたわざるときは必ず代理者を立つべし」とあるところからみると、原則として哲学館の学長・・井上円了であったであろう。

 こうした規則の内容からみて、寄宿舎で開かれていた茶会は、課外の道徳教育の軸として制度化さえされている重要な会合であったと考えられる。円了が、その本来の教育方針に基づいて、自ら主催した会合なのである。いわば、学校という枠内における社会教育・・したがって、民衆の世界に哲学的営為に媒介された精神性の育成という、円了の基本的な教育方針の一環として意義づけることのできる会合であった。

 そして本書は、その「茶会」における円了の講話の一部を記録したものである。本書の序言で、円了はつぎのように語っている。「そこで余の教育法は、特に有形の知識を授くる外に、無形の道徳をも養成しなくてはならぬという主意で、特に寄宿舎に重きをおき、それによって平素の主張を貫徹せんことをつとめ、(……)朝夕、ときのよろしきを計って、茶会というものを開き、道徳もしくは知識に関する談話をなし、あるいは遊戯し、あるいは談笑し、愉快にしてかつ親密なる学校生活の間に、学生の徳性を涵養し、実学の練習にも資することとした。」こうした性格の会合における円了の談話を、一人の学生が記録していた。これを上梓したのが本書である。発行の年月は大正五年五月であること、奥付の通りであるが、この円了の談話が記録された期日は、それよりずっと以前にさかのぼる。本書の中には、いわゆる四聖(釈迦、孔子、ソクラテス、カント)を選び、これを祭る営みの意義、ならびに四聖を祭る「哲学祭」が毎年十月二十七日に挙行される理由についての談話はあるが、哲学堂についての言及は皆無である。したがって、本書に収められている談話がなされたのは、少なくとも哲学堂落成(明治三十七年)より以前の時期と推測される。

 ところで、本書の内容である。一読して明らかなように、話題は多岐にわたっている。前述の四聖の話、哲学祭の話をはじめとして、哲学と宗教のなんたるかについて説き、欧米諸国を視察した経験を踏まえた日・英比較文化論、自然環境と思想との関り、更には鬼神の話に至るまで話題の足は延びている。しかし、それら多様な話題を一貫して流れる円了の基本精神は、つぎの談話に尽きるであろう。これは「日本主義」というタイトルを付せられて、本書に収められている談話の一部である。「いやしくも愛国心のあるものは、たとえ日本主義とか、保存主義とかいうことを唱えずとも、わが国のかれにまさっているものをもって基本となし、その上にかれの長じたるところを取りて、われの短きところを補い、もって漸次隆盛の域に進めて行かなければならぬ。これが日本主義保存主義の本文ではなかろうか。」円了の開かれた愛国の心情・・普遍的な世界観に媒介された自立した共同体の形成への思い入れ、これこそが円了の茶話を貫く基本精神であったといえよう。円了は確かにナショナリストである。しかし偏頗なナショナリストではない。万国と肩を並べて交通し合い、しかも自立した国家と社会の育成を志すナショナリストであった。

 最後に、本書には心学に言及した数章が収められている。「心学」・「正直と孝行について」・「堪忍のことについて」・「心について」の四章である。ここで心学と呼ばれているものは、日本近世の享保時代(十八世紀初頭)より幕末期(十九世紀中葉)に至るまで、地域的にも階層的にも極めて広い範囲の人々の間に信奉者を見出した一種の思想運動のことを指して呼んだ名称である。『日本思想大系・石門心学』(4)2(岩波書店)に寄せられた柴田実氏の解説によると、この思想運動の本質的な性格ならびに思想史的な意義についての評価は、未だ完全には定まっていないとのことであるが、いずれにせよこの思想運動は、円了のいわゆる実学としての学を志した営みであったことは確かであろう。心学の代表的思想家である石田梅岩、手島猪庵、中沢道二、柴田鳩翁、更に布施松翁らは、いずれも関西の商家・医家の出か、そこに奉公した人物・・要するに民衆に出自を有する人物であった。かれらは、当代に一般的に普及していた儒教的倫理思想を軸として、神・仏両派の思想を合わせ、日常の生活に則した修身・斉家の在り方を民衆のことばで説き明かして人々をひきつけていた。かれらの教説は、単なる処世訓ではない。「心」と呼ばれる道理、あるいは世界に貫徹するロゴスの在り方にかなう生き方を人々にすすめる態のものであったようである。心学者たちは、ひとつの確固とした世界観を日常の生活において生きるところに、修身と斉家の理想があることを主張していたと見ることができよう。

 心学が成立した歴史的背景はともかくとして、円了は少なくとも心学者たちの語り口、および彼らの学問への取り組み方に心ひかれるものを感じたもののように思われる。更に、心学者たちが俗(民衆)の世界に出自を持つばかりではなく、終世、俗の世界から離れなかったその生き方にも、円了は共感を覚えたのかも知れない。彼は、心学について、つぎのように語っている。「およそ心学は、極めて通俗的に、手近かなることより説き起こして、人に感動を与うることが多い。」円了は仏門の出であるから、とりわけ真宗の説教僧たちの生き方と語り口に通じていたでもあろう。しかし、心学者たちの生き方と語り口も、円了の信念の表現方法にひとつのモデルを提供したのではないだろうか。

 

   奮闘哲学

 『哲窓茶話』は、円了が哲学館寄宿舎において開かれた茶会の席上で行った講話を収録したものであった。それに対して、本書は、序言の中で円了自ら語っているように、哲学堂における講話に多少の手を加えた上で収録したものである。講話の時期は、同じく序言によれば、大正五年であった。円了が、いわゆる「哲学の実行化」のために日々心を砕いていた時期である。本書は、この観点から読まれるべきであろう。

 ところで本書は、これを構成の点からみると、まず哲学についての論議が冒頭に据えられている。その論議の中で注目すべきところは、円了の世界観が簡明に語られているということである(六、余の宇宙観)。そこで叙述されている統一的な世界理解の内容は、彼自身が明らかにしているように、『哲学新案』(明治四十二年)のそれと軌を一にしている。『哲学新案』は、円了の世界観が理念的に最も充実した形で表明されている好著であるが、彼は、同書においては、かつて『哲学一夕話』(明治十九・二十年)および『仏教活論』の諸編(明治二十・二十三年)において鮮明に打ち出した相依相即の論理を更に縦横に駆使して、統一的な世界理解の跡を示したのであった。円了は、こうした世界理解に基づいて、本書においては、人生を語り、国家・社会を意義づけ、国家・社会に生きる人々の営みの諸相を評価し、最後に、そうした営みの中でも、まさに統一的に理解された世界を生きる営みそのものである宗教的な行為について論ずるのである。したがって、本書は講話の単なる集積ではない。ひとつの確固とした世界観に媒介された、ある意味で体系的な講話の収録と見てよかろう。

 しかしながら、円了の哲学は単に統一的な世界理解にとどまる営みではなかった。彼は自分自身の哲学を、「実際上人生を向上するの学」と規定している。したがって、円了の哲学は、人生を救い上げて、これを理想の在り方へと指し向ける「意志」を育成する哲学ということになろう。人生を救い上げて、これを理想の在り方へと指し向ける活動を、彼は「奮闘」あるいは「社会における活動」という言葉で呼んでいる。すなわち、彼の哲学は、「奮闘」のための哲学であり、それを生きなければ無意味となる世界理解の営みであった。再び円了の規定を借りていうならば、「ひとたび絶対を究明して得たる結果を人生に応用して社会も国家も個人も共に向上発展せしめんとする」活動を基礎づけ、それを推進する世界理解・・それが円了の哲学にほかならない。

 こうした円了の哲学観が、本書では、他のいかなる彼の著作にも増して明確に打ち出されている。それは、円了が世に活動を始める当初において明らかにした活動方針が本書においても一貫して維持されていることを示すものでもある。具体的にいえば、円了は『真理金針』の諸編のなかで、国家・社会に実益を与えうる宗教的精神性の育成、そして、そうした宗教的精神性を基礎づける世界観の形成ということにその生涯を費やす立場を鮮明にしていたが、その立場がここでも一貫して保たれているということである。円了が実益という言葉を口にするとき、それは単に当面する時点においての国家・社会への利益という意味ではない。これまで述べてきたところから明らかなように、それは、彼のいわゆる実益は、理想への向上と結びつけられた理念である。すなわち、現実の国家・社会を在るべき姿へと指し向けてゆく営みとの連関で語られている言葉である。このような円了の基本的な立場が、彼のその後の活動の中で、生き生きとした仏教的精神の確保とそれに媒介された実践の主張、あるいは哲学の通俗化と実行化のための活動、そして哲学(世界観)を生きる行為としての宗教理解といった形をとって展開されてきた。本書の序言において再び言及されている「護国愛理」のモットーも、上記の意味での哲学あるいは宗教的精神に媒介された理想の共同体形成の志を表明したものとして理解されるべきであろう。

 ところで本書では、このような活動方針を更に徹底して推し進めるために、円了はしきりに「活書」を読み、「活学」を営むことをすすめている。「実にわが目前に現るる天地万物、わが周囲に交われる社会人類はみな活きたる書物である。筆に染み紙に印したる書物のごときは死物である。故に活学を修めんとするものは、この死書を捨てて活書を読むようにしたい」。現実を読み、現実と関って学的な営みを展開するとき、それが真正な学的な営みである限り、そこで学び取られたものは、必ずや現実を理想へと指し向けてゆく手段となり得るであろう。けだし学的な営みは、少なくとも円了にとっては、普遍にして妥当な在るべき世界と人生の姿を追い求める営みのはずだからである。しかし学的な営みの出発点は、現実の中であり、現実に生きている人々の間である。円了はこのことを、当の現実に生きている人々に向かって、ここでも語ろうとしている。それ故、円了は、ここでもだれにでも理解できる言葉で語ろうとしている。語り口はまことに平明である。しかし平明な語り方で提示される事柄の内容は、安易で浅薄なものではない。円了は、かつて心学者や布教師たちが試みたように、俗謡・換え歌等、当代の民衆の感覚に合うあらゆる方法を用いて、平明でない事柄を平明に語ろうとしているのである。その内容のいちいちについては、具体的に本書を通覧されたい。

 井上円了の死を追悼して編まれた文集『井上円了先生』(東洋大学校友会編、大正八年)の中で、一人の校友がつぎのように語っている。「予は学としての博士よりは、人としての博士を尊く思うたのである。(……)そうして高い高い哲学が低い低い実行に引き下げられて、それが博士の人格教育となって現れ、知らず知らず、われわれ学生の思想界を支配し緊張させたのであった。」確かに、円了は終生哲学の実行化を説き続けた哲学者であった。そしてそこに宗教的な営みの神髄を見た宗教家であった。そして更に、このことを人々に啓蒙することの中に、教育の本質を見出した人だったのである。