4.宗教学講義 宗教制度

P167

  宗教学講義 宗教制度 

 

 

1. 冊数

   1冊

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   220×142mm

3. ページ

   総数:209

   本文:209

4. 刊行年月日

   不明。ただし,『東洋哲学』(第2編第8号,明治28年10月2日)などの講義録の広告によれば,宗教学部に「宗教学 講師文学士井上円了」と記されており,このころと推測される。

5. 句読点

   なし

6. その他

   (1) 氏名や固有名詞などは,各種の辞(事)典をもとに,できる限り表記を改めた。

   (2) 統計や年月日については,誤植を訂正したが、それ以外は原文のままとした。

   (3) 原文の文章上で疑問と思われる語句には,〈 〉を付した。

(巻頭)

     序  論

 今や海外より種々の宗教入りきたり、すでに数年前よりときどき衝突の兆しを現せりといえども、いまだ争乱をひき起こすに至らず。しかるに今後、内地雑居、外人混入の暁には、更に異端邪道の伝来せざるを保すべからず。しかるときは一大争乱を宗教の間に激発するに至るも計り難し。故にわれわれ国民たる者は、今より世界の宗教を探究しその真偽、利害を審判して、宗教の前途を一定することをつとめざるべからず。今、余が宗教学を講ずる本志は全くここにありて存す。

 およそ宗教を研究するに二道あり。理論上、実際上の二者これなり。理論上より研究するものはこれを理論的宗教学といい、実際上より研究するものはこれを実際的宗教学と称す。理論的宗教学はいわゆる宗教哲学もしくは比較宗教学にして純正哲学、倫理学、心理学等に関係を有し、実際的宗教学は政治、道徳、教育、風俗等に関係を有す。もし更に宗教学全体につきてこれを考うるに、教説的研究法と学科的研究法との二種に分かるべし。教説的研究法は宗教の経典を注釈し教祖の遺訓を継述するに過ぎずして、決して批評的あるいは懐疑的に論究することなし。これに反して学科的研究法は、あるいはその教説の裏面に貫通せる道理を抽象して推理的に講究し、あるいは他学科の考定せる学説に照合して比較的に講究するの類をいう。後者の研究法はこれを前者に比すれば大いに困難を覚ゆといえども、今日にありてもっとも須要の研究法は後者の上にあること明らかなり。さきに余がいわゆる理論的、実際的の二種の宗教学は、ともに後者の研究法に属す。しかしてまたその研究法に内外の二様あり。すなわちその一は外部より比較的に研究するものにして、その二は内部より抽象的に研究するものこれなり。またその抽象的研究法には古来より発達しきたれる変遷の次第を講究するものと、一教全部に貫通せる学理をその性質組織に従い講究するものとの二様あり。すなわち前者は歴史的研究の方法にして、後者は組織的研究の方法なり。宗教哲学、比較宗教学および余がいわゆる理論的、実際的宗教学は、みな後者の研究法に属するものと知るべし。しかりしこうして、ここに宗教制度と題するは実際的宗教学の制度に関することを述ぶる意なるも、制度を講ずるには実際に関する凡百の事項を述べざるを得ざるをもって、宗教制度はすなわちいわゆる実際的宗教学なりと想して誤解の恐れなかるべし。左に講述の項目を定めてその順序を示すべし。

  第一 宗教の種類

  第二 宗教の制度

  第三 宗教の儀式

  第四 宗教の功用

  第五 宗教の歴史

 以下、この五段の順序に従って講述すべし。


 

   第一段 宗教の種類

 古来宗教の種類を区分する法種々ありて、あるいは多神教、一神教、拝物教、拝天教、祖先教、万有教、偶像教、有神論、無神論等の名称によりて分類し、あるいは智力的宗教、感情的宗教等の分類あるも、宗教学として講ずるときは顕示教(天啓教)と自然教との二類に区別するを可とす。顕示教とは神仏聖賢の直接に啓示顕現せるより起こる教をいう。ユダヤ教、ヤソ教、回教〔イスラム教〕のごときこれなり。なんとなれば、ユダヤ教はモーセなるもの天帝の命を伝えて開教し、ヤソ教はキリスト、神子となりて啓示を与え、回教はマホメット、預言者となりて顕示せるをもってなり。これに反して自然教は自然に人智の発達に伴って起こる教なり。たとえば孔子教のごときは別に天帝の啓示を得て開立せるにあらず、人智自然の進歩に伴って次第に発達せしものを継述したるに外ならず。故にこれを自然教の一種となす。しかして仏教は釈迦の顕示に出でしこと明らかなれば、もとより顕示教の一種なりといえども、また自然教の意味を有するところあり。故にあるいはこれを顕示、自然両教を兼有するものと称して可ならんか。もしそれ古今東西に起こりし顕示、自然両教のいちいちを尋ぬるときは、実に幾百種あるを知るべからず。またその各教に数百の宗派あり。ヤソ新教のごときは二〇〇ないし四〇〇の流派ありという。仏教はわが国にて八家九宗と唱うるも、もしこれを細分すれば幾百種あるを計り難し。小乗のみにても五〇〇の異論ありという。もしその大数を挙ぐれば八万四千の法門ありという。その数実に夥多なりというべし。しかれども世界の宗教中、古代に盛んにして今日に衰うるものあり、上古に存して中古に滅せしものあり。またその勢力の強弱に至りては、宗派の異なるに従って大いに不同あり。もしその今日に存して勢力の強きものを挙ぐれば、

  仏教、ヤソ教、回教、ユダヤ教、婆羅門教、火教

 これに儒教、道教を加うれば八大教となる。もしヤソ教をギリシア教、ローマ教、新教の三種に分かたば、世界の宗教は一〇大教となるべし。もしまた古代の宗教を合すれば数十種となるべし。左に人種によりて分数せる表を示すべし。

   一、エジプト教(今日はエジプトの宗教は回教なれども、これは回教以前のその国固有の古教をいう。)

   二、バビロン教

   三、アッシリア教

   四、ユダヤ教(これに新旧二称を分かつ。旧教はヤソ以前のユダヤ教をいい、新教はヤソ以後のユダヤ教をいう。)

   五、孔子教

   六、道教

   七、日本教(神道)

   八、インド教(婆羅門教)

   九、仏教(これにインドの仏教、シナの仏教、日本の仏教の三種あり。)

  一〇、ペルシア教(火教あるいはゾロアスター教と称す。)

  一一、ギリシア教およびローマ教(これヤソ以前のギリシアおよびローマ固有の古教をいう。ヤソ教中のギリシア教、ローマ教をいうにあらず。)

  一二、スラボニック教(スラボニック〔スラブ〕人種すなわちロシア人種固有の宗教)

  一三、チュートニック教(チュートニック〔チュートン〕人種固有の宗教)

  一四、マホメット教(回教)

  一五、アメリカ教(アメリカの古教)

  一六、ヤソ教

 このうちヤソ教のごときはその分派すこぶる多くおよそ三〇〇余種ありというも、左にその主要なる宗名を挙ぐれば、

  一、アルメニア教(アルメニア国にて紀元二〇〇年のころヤソ教中より第一に分派したるものなり)

  二、ギリシア宗あるいは一名東宗(ギリシア、トルコ等に現今行わるるもの)

    付 ロシア・ギリシア宗(これギリシア宗より独立して別にロシアの国教を組成せるもの)

  三、カトリック宗(旧教または一名ローマ宗)

  四、プロテスタント宗すなわち新教

 この新教中にまた数百の分派あり。その大なるものは左のごとし。

   (イ) ルーテル〔ルター〕宗(ドイツのルター氏これを開く)

   (ロ) カルヴァン宗(フランスのカルヴァン氏これを開く)

   (ハ) イギリス国教(エピスコパル宗すなわち監督教会)

   (ニ) スコットランド国教宗(プレズビテリアン〔プレスビテリアン〕宗すなわち長老教会)

   (ホ) 改革宗(これオランダに行わる。すなわちリフォームド・チャーチと名付くるものこれなり。)

   (ヘ) メソジスト宗(メソジスト教会あるいは訳名、守法教)

   (ト) 独立宗(一名組合〔会衆派〕教会すなわちコングレゲーショナル宗)

   (チ) バプテスト宗(浸礼教会)

   (リ) クエーカー宗(同朋宗すなわちフレンド宗)

   (ヌ) モラビアン宗

   (ル) アーヴィンギスト宗

   (ヲ) スウェーデンボリ宗

   (ワ) モルモン宗(俗にいわゆる多妻宗)

   (カ) ユニテリアン宗(唯一神教)

   (ヨ) ユニバーサリー宗(宇宙神教)

   (タ) 自由神教(一名ラショナリスト宗)

   (レ) 救世軍

 仏教またしかり。その流派の多き、ヤソ教より一層はなはだしきを覚ゆ。大乗小乗、一乗三乗、権教実教、顕教密教、聖道浄土等は大体の区別に過ぎず、もし各宗の名称を列挙すれば倶舎宗、成実宗、律宗、法相宗、三論宗、天台宗、華厳宗、真言宗の八宗は日本伝来の宗派にして、『八宗綱要』にあぐるところなり。これに禅、浄土、真言、日蓮の四宗を加うれば一二宗となる。これ現今の仏教宗派の分類なり。その他、小乗諸部の流派を尋ぬるときは、その数到底いちいち挙示するにいとまあらず。

 以上列挙せる各宗教の勢力の強弱はその信徒の多寡によりて判知するを得べきをもって、ここに各宗教の統計を示さんとす。しかしてその統計はもとより精確の数を得難きも、二、三書に示せる表につきていささか概算を掲げんとす。まず『ビートン字書』によるに、

  仏教徒    五億人

  ヤソ教徒   三億人

  回教徒    一億三〇〇〇万人

  インド教徒  一億五〇〇〇万人

  ユダヤ教徒  七〇〇万人

  火教徒およびシク教徒(Sikhs)  二〇〇万人

  自余諸教徒  一億万人

  (総 計  一一億八九〇〇万人)

 これ大数を挙げたるものに過ぎず。もし『チャムバー事彙』によれば左のごとし。

  ユダヤ教徒  八〇〇万人

  ヤソ教徒   三億五三〇〇万人

  回教徒    一億二〇〇〇万人

  婆羅門教徒  一億二〇〇〇万人

  火教徒    一〇〇万人

  仏教徒    四億八三〇〇万人

  自余諸教徒  一億八九〇〇万人

  (総 計  一二億七四〇〇万人)

 また『ヘードン字書』によるに、

  ローマ宗徒(ヤソ旧教徒)  一億九五四六万二〇〇人

  新教宗徒          一億三八万五〇〇〇人

  ギリシア宗徒        八一四七万八〇〇〇人

   (以上三宗すなわちヤソ教徒合計  三億七七三二万三二〇〇人)

  仏教徒           三億六〇〇〇万人

  自余アジア諸教徒      二億六〇〇〇万人

  回教徒           一億六五〇〇万人

  ユダヤ教徒         七〇〇万人

  異教徒           二億人

  (総 計  一三億六九三二万三二〇〇人)

 以上二書の統計大いに異なるところあるは、一は統計したる年代の新旧によるといえども、また算定の標準とするところ同じからざるによる。かつ世界人口の総計すらいまだ一定せざるをもって、宗教徒の統計は決して一定すべき理なし。ただしフィッシャー氏の『ヤソ教史』(西暦一八九二年刊行)に表示せる統計表はやや最近の調査に属するものなれば、左にこれを掲ぐ。

  ギリシア宗徒      八一〇〇万人

  新教徒         一億六〇〇万人

  ローマ教徒       二億一〇〇万人

   (以上ヤソ教徒合計   三億八八〇〇万人)

  ユダヤ教徒       七〇〇万人

  神道宗教(日本神道)  一四〇〇万人

  孔子教徒(儒教徒)   八〇〇〇万人

  婆羅門教徒       一億七五〇〇万人

  回教徒         二億一〇〇万人

  仏教徒         三億四〇〇〇万人

   (以上非ヤソ教徒合計  八億一七〇〇万人)

  (総 計  一二億五〇〇万人)

 この表にては仏教徒の数、ヤソ教徒より少なし。その点は『ヘードン字書』に示せるものに異ならず。けだしその表はヤソ教徒の手に成るをもってかくのごとく算定するも当然のことなるべしといえども、仏教信徒の外に神道と儒道との教徒を別計したるは、仏教徒の数を減ずるに至れるゆえんなり。しかして普通の統計には神道、儒道を分かたず、みなこれを仏教徒中に合算するをもって仏教徒の数自然にその多きを加うるに至るといえども、すでにわが国のごときは一人にして神仏両道の教徒に属するもの多く、シナもやはり儒仏両道の教徒となるもの多きをもって、この二者を別算することはなはだ難し。故に神儒二道の教徒は仏教徒の方へも加えざるべからず。もしこれを仏教に合算すれば、仏教徒四億三四〇〇万人となるべし。もっともフィッシャー氏の表中にも統計上の異説を掲げ、仏教徒の数を算定することの難きを示せり。その中にヒュブネル氏の統計を出だせしをもって、左にその表とリス・デヴィッズ氏の『仏教論』中に出だせる表と二者対照して示すべし(括孤内の表はリス・デヴィッズ氏の『仏教論』による)。

  ヤソ教徒  四億三二〇〇万人すなわち世界人口の一〇〇分の三〇・一

    ローマ宗徒  二億一八〇〇万人

     (ローマ宗徒  一億五二〇〇万人すなわち世界人口の一〇〇分の一二)

    新教宗徒  一億二三〇〇万人

     (ローマおよびギリシア二宗を除き自余のヤソ教徒  一億人すなわち世界人口の一〇〇分の八)

    ギリシア宗徒  八三〇〇万人

     (ギリシア教徒  七五〇〇万人すなわち世界人口の一〇〇分の六)

    自余宗徒  八〇〇万人

  回教徒  一億二〇〇〇万人すなわち世界人口の一〇〇分の八・三

     (一億五五〇〇万人すなわち世界人口の一〇〇分の一二・五)

  ユダヤ教徒  八〇〇万人すなわち同一〇〇分の〇・五

     (ユダヤ教徒  七〇〇万人すなわち世界人口の一〇〇分の〇・五)

  仏教徒  五億三〇〇万人すなわち同一〇〇分の三五・〇

     (仏教徒  五億人すなわち世界人口の一〇〇分の四〇)

  婆羅門教徒  一億三八〇〇万人すなわち同一〇〇分の九・六

     (インド教徒  一億六〇〇〇万人すなわち世界人口の一〇〇分の一三)

  拝物教徒  二億三四〇〇万人すなわち同一〇〇分の一六・三

     (火教徒 一五万人、シク教徒 一二〇万人、自余諸教徒 一億人)

   総 計  一四億三五〇〇万人

     (総 計  一二億五〇三五万人)

 かつ同書に、シナの人口および宗教徒の数一定せざるをもって、世界の教徒を算定することの難きゆえんを示せり。しかれどもこれひとりシナのみならず、いずれの国にても宗教徒の数を確定することは最も難きものなれば、わずかに概数を知るをもって足れりとせざるべからず。故に自余の異説はこれを略す。

 仏教の統計につきてはリス・デヴィッズ氏の『仏教論』中に掲ぐるところやや精確なるものなれば、左にこれを転載するもまたあえて無用にあらざるべし。

     南部仏教徒

  セイロン島           一五二万五七五人

  イギリス領ビルマ        二四四万七八三一人

  ビルマ             三〇〇万人

  シャム             一〇〇〇万人

  安南              一二〇〇万人

  (ジャイナ教徒)        四八万五〇〇〇人

    合 計  およそ三〇〇〇万人

     北部仏教徒

  オランダ領およびバリ(Bali)五万人

  イギリス領           五〇万人

  ロシア領            六〇万人

  琉球島             一〇〇万人

  朝鮮              八〇〇万人

  ブータンおよびシッキム(Bhutan and Sikkim)  一〇〇万人

  カシミール(Kashmir)     二〇万人

  チベット            六〇〇万人

  蒙古              二〇〇万人

  満州              三〇〇万人

  日本              三二七九万四八九七人

  ネパール            五〇万人

  シナ本部            四億一四六八万六九九四人

    合 計  およそ四億七〇〇〇万人

   南北両部総計  四億九九七八万五三一七人

 つぎにヤソ新教各派の統計を挙げて、新教中いずれの派最も勢力を有するやを知らしめんとす。しかるに余、最近の統計表を有せざるをもって『チャムバー事彙』に出だせる二〇余年前の旧統計表を左に掲ぐ。これ現今の統計表に比すれば大いにその数の少なきを覚ゆといえども、各派勢力の大小強弱の一端を知ることを得べし。

   一、ルーテル宗徒(Lutherans)  三〇七六万七九二四人

   二、カルヴァン宗徒(Calvinistic Churches)  一二七一万六九五八人

   三、イギリス国教宗徒〔Episcopal〕  一四四五万九〇〇〇人

   四、プレズビテリアン宗徒(Presbyterians)  三八六万六〇〇〇人

   五、バプテスト宗徒(Baptists)  二四三万九四三六人

   六、コングレゲーショナル宗徒(Congregationalists)  一四四万五六八三人

   七、メソジスト宗徒(Methodists)  四四〇万六四二二人

   八、クエーカー宗徒(Quakers)  二〇万三〇九一人

   九、スウェーデンボリ宗徒(Swedenborgians)  一万二〇〇〇人

  一〇、モラビアン宗徒(Moravians)  一五万七九二五人

  一一、ユニテリアン宗徒(Unitarians)  六五万六〇〇〇人

  一二、ユニバーサリスト宗徒(Universalists)  六五万六〇〇〇人

  一三、自余諸小教会宗徒

     ブレズレン宗徒(Brethren)  一〇万八四二二人

     キャンベリスト宗徒(Campbellites)  七一〇人

     クリスチャン・チャーティスト宗徒(Christian Chartists)  二二〇人

     クリスチャン・ディサイプル宗徒(Christian Disciples)  二四七一人

     エバンジェリカル・ユニオン宗徒(Evangelical Union)  一万三一九人

     フリー・クリスチャン・ブレズレン宗徒(Free Christian Brethren)  三四〇人

     アーヴィンギスト宗徒(Irvingites)  六〇〇〇人

     モルモン宗徒(Mormons)  一〇万九〇二人

     サンデマニアン宗徒(Sandemanians)  一〇七〇人

 かくのごとく世界における各種の宗教徒の統計を示したる以上は、更にわが日本帝国の宗教統計を示すの必要を感ぜり。故に二六年度内閣印行の『統計年鑑』によりて、まず神仏各宗の名称を掲ぐべし。

       神道一〇派

   一、神 道

   二、神宮教

   三、大社教

   四、扶桑教

   五、実行教

   六、黒住教

   七、修成派

   八、大成教

   九、神習教

  一〇、御嶽教

       仏教一二宗

   一、天台宗三派

     (一)天台宗(山門)   (二)寺門派  (三)真盛派

   二、真言宗(古義新義の二派あれども宗制上これを分かたず)

   三、浄土宗二派

     (一)浄土宗(鎮西)   (二)西山派

   四、臨済宗一〇派

     (一)天竜寺派  (二)相国寺派  (三)建仁寺派  (四)南禅寺派  (五)妙心寺派

     (六)建長寺派  (七)東福寺派  (八)大徳寺派  (九)円覚寺派  (一〇)永源寺派

   五、曹洞宗

   六、黄檗宗

   七、真宗一〇派

     (一)本願寺派  (二)大谷派   (三)高田派   (四)木辺派   (五)興正寺派

     (六)仏光寺派  (七)出雲路派  (八)山元派   (九)誠照寺派  (一〇)三門徒派

   八、日蓮宗

     (一)日蓮宗(一致派)  (二)妙満寺派  (三)興行派    (四)八品派

     (五)本成寺派     (六)本隆寺派  (七)不受不施派  (八)不受不施興門派

   九、時 宗

  一〇、融通念仏宗

  一一、法相宗

  一二、華厳宗

 もしこの一二宗の寺院および住職の数を挙ぐれば左のごとし。

  天 台 宗   寺院 四八〇八     住職 二七八六

  真 言 宗   寺院 一万二七七六   住職 六七四八

  浄 土 宗   同  八三〇二     同  六一〇四

  臨 済 宗   同  六一四六     同  四二〇八

  曹 洞 宗   同  一万四〇七二   同  一万一二八九

  黄 檗 宗   同  六〇四      同  三四六

  真   宗   同  一万九一四六   同  一万六七八四

  日 蓮 宗   同  五〇六六     同  三六三五

  時   宗   同  五一五      同  三六九

  融通念仏宗   同  三五八      同  二一三

  法 相 宗   同  四五       同  一九

  華 厳 宗   同  二一       同  一〇

 すなわちその合計左のごとし。

  寺院  七万一八五九カ寺

  住職  五万二五一一人

 以上はやや繁冗にわたりたれども世界および日本の宗教統計を表示せり。これより宗教の制度を講述すべし。


 

   第二段 宗教の制度

 これより宗教の制度を講述するに当たり、政教の関係および教会の組織の二項を設けて説明を試みんと欲す。

     第一項 政教の関係

 まず第一項の政教関係を考うるに、これに三様あり。曰く国教、曰く公認教、曰く平民教これなり。国教は政教一致の主義に基づきたるものなれば、一国の寺院、僧侶を統轄するの全権はその国の君主これを握り、寺法を制定し教職を進退するがごときは、みな君主の指命するところとなる。かつ国教にありては大教院もしくは神会(ホリーシノッド)のごときもの政府の一部分に加わり、宗教をもって政治の機関とするに至る。故にこれ全く政教二途を混同したるものなり。欧州諸国においては、古来大抵みな国教を制定して政教混同の主義を唱えしも、近年ようやく政教混同の弊を知り政教分離の論ようやく起こり、すでに二、三の国のごときは国教の制度を廃して公認教の規則を置くに至れり。つぎに公認教はその主義とするところは政教分離論に基づくるものにして、大いに国教とその性質を異にす。故に公認教のごとく政府がこれを用いて政治の機関とするにあらず、また一国の君主が一宗統轄の権を専有するにあらず。ただ公認教は一国中の宗教にして最も勢力を有するものあれば、政府よりこれを特別に待遇することあるのみ。故にこれを特認教、もしくは特待教というべし。語を換えてこれをいえば、一国の宗教中にてその国の歴史上に縁故あるもの、もしくは多数人民の奉ずるところの宗教は、政府にてこれを特別に監督待遇するをいう。現今欧州諸国中にてロシア、イギリスのごときはなお国教の組織を用うるも、フランスのごときは旧来の国教を廃して公認教の制度を置き、その国に一〇万以上の信徒を有するものはみなこれを公認教とする規則を設く。故に当時その公認教中に加うるもの四教あり。曰くヤソ旧教、新教、ユダヤ教、マサルマン教(回教の一種)なり。オーストリアも従来旧教をもって国教としたる国なれども、現今は公認教の制度を用い旧教、新教、ギリシア教、ユダヤ教の四教をもって公認教と定めたりという。これによりてこれをみるに、欧州各国は、往古はみな政教一致なりしも今日は政教分離の方向に進み、国教を廃して公認教を置くに至れり。しかれども、いまだ全く宗教を政治の外に放擲するに至らず。欧州各国の政府中には今日なお教部省を置きて一国の宗教を管理するがごときは、政治と宗教のいまだ全くその関係を絶たざるゆえんなり。しかしてその国の憲法にはみな信教の自由を公達して、その人民がいかなる宗旨を奉ずるももとより自由なりといえども、その自由の下になお公認教もしくは国教を置くがごときは、いまだ全く自由を得たりというべからず。故に今日は欧州各国において、信仰の自由を許していまだ宗旨の自由を許さずというべし。その宗旨の自由を許さざるがごときは、その国の政治上に大いに関係するところあればなり。

 国教、公認教の外に平民教と称するものあり。これ政教二途判然相分かれたるものにして、政府はすこしもその国の宗教に関係せず、政府部内には大教院もなく教部省もなく社寺局もなく、管長を置かず教職を命ぜず僧侶の区別を立てずして、僧侶は一般の人民と同等同権なるものとするなり。余はかくのごとき制度を名付けてここに平民教という。北米合衆国の宗教すなわちこれなり。合衆国にては政府中に教部省を置かず、公認教もしくは国教の制度を設けず、信仰の自由を許し、あわせて宗旨の自由を許すものなり。その主義たるや、全く政教分離の極点に達したるものなり。これを要するに、政教の主義と国教、公認教、平民教の関係を示すこと左表のごとし。

  政教関係 政教一致 国 教

       政教分離 公認教

            平民教

 すなわち国教は政教一致の主義に基づき平民教は政教分離の主義をとりておのおのその極端に達し、公認教は政教一致を変じて政教分離となる中間に位し二者に関係するものなり。しかるに方今欧州各国は国教もしくは公認教の制度を用い、ひとりアメリカは平民教を用うるは、必ずしかるべき理由なかるべからず。これ大いにその国の歴史、政体等に関係を有することなり。すなわち欧州各国は強国互いに隣接比肩し互いに競争併呑せんとするの勢いありて、一国の独立を維持するにはなはだ難きの事情あり。アメリカはしからず。幸いに遠く欧州の強国と懸隔せるをもって外寇の憂いなく併呑の恐れなく、たやすくその独立を維持することを得るなり。つぎに欧州各国は歴史上古例旧慣を重んじ人民の間に上下貴賎の階級を有する国なれども、アメリカは新開国にして古例旧慣なく上下貴賎なく、社会の上に秩序階級なき国なり。故に欧州各国にありてはその国に縁故ある宗旨を優待し、その国の秩序に関する宗教を特認するは、一国の独立を保全し政体を維持するに必要なる事情あり。これをもって国教もしくは公認教の制度を立つるに至るなり。しかるにアメリカはその事情大いに欧州各国と異なるところあるをもって、いかなる宗旨のその国に入りきたるも、これに対して制度規律を設くるを要せざるなり。かつアメリカは地広くして人少なく、人民の注意はただ開墾殖産の一点に集まるをもって、一国の人心を結合するに宗教を利用するの必要を見ざるなり。今わが日本国の政教関係をみるに、従来の神仏二教は今日に至りては国教にあらず、また平民教にあらず。すでに憲法上にありては信教の自由を公達しヤソ教も公許を得たりといえども、政府はいまだヤソ教を公認せざることは、その宗派に管長を許可せず、僧侶寺院の名称を設けず、内務省社寺局の管轄の下に置かざるを見て明らかなり。果たしてしからば、神仏二教は実にわが国の公認教なり。これに対してヤソ諸派はわが非公認教なり。この二者の別は今日実際上にすでに存するも、政府はいまだその名称を設けざるのみ。故に二、三の論者は、わが国は信教の自由を許す以上はヤソ教もまた公認せざるべからずといい、あるいは社寺局を廃すべしという者あれども、これ全く政教関係を知らざる愚論にして、わが国はアメリカと大いにその事情を異にするゆえんを知らざる僻見なり。

 つぎに欧米各国の政教の関係およびその国に行わるるところの宗教の種類を示さんとするに、まずロシア、プロイセン、オーストリア、フランス、イタリア、イギリスの六強国より始むべし。

       一 ロシア帝国

 この国はギリシア〔正〕教をもって国教とし、皇帝をもってその主宰とするなり。しかして政府の組織中に大教院すなわち神会ありて国教に関することを議定し、その会の費用は毎年およそ数千万円にして、皇室より国教を補助する金額もまた数千万円なりという。この国は国教を置くといえども、他の宗派も人民中に行わるるあり。これを非国教宗という。まず国教宗の寺院、僧侶、信徒の数を挙ぐれば、本山の数六七〇カ寺、末寺の数四万三二四七カ寺、礼拝堂の数一万九七八四棟、僧侶の数九万二五六五人、信徒の数六五〇〇万五四〇〇人なり。つぎに非国教宗の信者は、ギリシア教アルメニア教合同派五万五〇〇〇人、ローマ教〔宗〕八三〇万人、新教諸派二九五万人、ユダヤ教三〇〇万人、回教二六〇万人、異教諸宗二万六〇〇〇人なりという。

       二 ドイツ帝国

 ドイツ帝国の憲法には信教の自由を許し、その政教の関係のごときは各連邦の制度に任じ、別に一定の規則を設けず。今、各宗信者の数を概算するに、新教派三〇〇〇万人、ローマ宗一五八八万二〇〇〇人、自他のヤソ諸派一二万六〇〇〇人、ユダヤ教五五万四五三〇人なり。もしこれを全帝国人口に比例すれば、新教派に属するもの一〇〇分の六四、ローマ宗一〇〇分の三四、ユダヤ教一〇〇分の一半〔一・五〕なりという。これ帝国全体の統計なり。もし帝国中プロイセン王国につきて考うるに、プロイセン国にてはルーテル宗最も勢力を有し、ローマ宗これに次ぐ。このルーテル宗とカルヴァン宗とを合して、これをエバンジェリカル宗と称す。これプロイセン新教にしてその国の国教なり。政府の組織中には教部兼文部省なるものありて宗教のことを管理す。国会の上院には本山の管長出席することを得、下院にても僧侶は被選権を有するなり。政府より国中の勢力ある宗派に与うるところの補助金は、新教旧教ともに数百万円なり。しかして各宗信者の割合はその国民の三分の二は新教派に属し、三分の一はローマ宗に属す。すなわち新教派一八二四万四四〇五人、ローマ宗九六二万三二六人。自他のヤソ諸派八万二〇三〇人、ユダヤ教三六万六五二五人、新教派の僧侶九一四六人、ローマ宗の僧侶八三〇〇人なりという。

       三 オーストリア

 この国は旧教をもって国教となすというも、その実公認教の国なり。当時その国にありて公認を得たるものは旧教、新教、ユダヤ教なり。ギリシア教もまたその一なりという。この国の法律によるに信教は自由なるも、公認教にあらざるものは公然会堂を立て公然聴衆を集むることあたわざるの制規あり。かつその国には州会と帝国会の二種ありて、州会には各教正出席の権を有し、帝国会には上院下院の別ありて、上院には各大教正(一〇人)、教正(七人)出席し、下院には僧侶被選権を有して出席することを得るなり。政府の官省中には教部兼文部省なるものありて宗教に関する事務を管理す。オーストリアはその実オーストリア、ハンガリー両国を合併したるものにして、通常澳匈〔オーストリア・ハンガリー〕国と称す。故にその国の宗教はオーストリア部およびハンガリー部の両部に分かちて論ぜざるべからず。今その部内の宗派をみるに、オーストリア部の統計は、ローマ宗僧侶一万五〇二六人、信徒一七六八万六〇〇〇人、ギリシア・カトリック宗信徒二五四万一〇〇〇人、新教諸宗信徒四〇万人、ユダヤ教徒一〇〇万五〇〇〇人にして、ハンガリー部の統計は、ローマ宗信徒七九〇万五〇〇〇人、ギリシア・カトリック宗一五〇万五〇〇〇人、新教諸宗三一七万四〇〇〇人、ユダヤ教六四万一〇〇〇人なりという。これを合計するに、オーストリア、ハンガリー両国を合して旧教信徒二五五九万一〇〇〇人、ギリシア・カトリック宗徒四〇四万六〇〇〇人、新教諸派三五七万四〇〇〇人、ユダヤ教徒一六四万六〇〇〇人なり。その他二、三の宗あれどもこれを略す。

       四 イタリア

 この国はローマ宗をもって国教とす。政府中には司法兼教部省なるものありて宗教の事務を管理す。この国にては僧侶たるものは国会に選挙せらるる権を有せず、全国の人民は大抵みなローマ宗を奉ず。ローマ宗はその総管長はローマ法皇なり。法皇の下に法老(カーディナル〔枢機卿〕)と称する官名ありて法皇の内閣を組織す。その数七〇人をもって定員とす。この法老の外にイタリア国内にある寺院僧侶の統計は、大教正五一人、教正二二三人なり。しかしてこの教正中七三人はただちに法皇に属し、一二人は大教正に属す。寺院の数は五万五五六三、僧侶の数は七万六五六〇人なり。ローマ宗の外に新教諸派の信徒六万二〇〇〇人、ユダヤ教の信徒三万八〇〇〇人あり。

       五 フランス

 この国は当時国教を廃して、一〇万以上の信徒を有する宗旨を公認教となすの規則あり。現今公認教を得たるものは旧教、新教およびユダヤ教にして、この諸宗には毎年政府より一〇〇〇万円以上の保護金を与えり。この外マサルマン(Mussulman)〔イスラム〕教あり。これまた公認教なり。政府の組織中には司法兼教部省なるものありて宗教に関する事務を管理す。この国の僧侶は国会に選挙せらるるの権を有す。今、全国人民の各宗に属するものを挙ぐれば、旧教信徒二九二〇万一七〇三人(人口一〇〇分の七八・五)、新教諸派信徒六九万二八〇〇人(人口一〇〇分の一・八)、ユダヤ教信徒五万三四三六人、自他の諸宗三万三〇四二人、無宗旨七六八万四九〇六人。つぎに僧侶の数を挙ぐれば、旧教僧侶五万四五二六人、新教僧侶七〇〇人、ユダヤ教僧侶五七人なり。しかしてマサルマン教徒はアフリカ州内フランス植民地アルジェリアに住するものなれば、ここに掲記せず。

       六 イギリス

 この国は新教の一種なるエピスコパル宗(Episcopal)をもって国教とす。国教の管長は女皇なれども、カンタベリー大教正その事務を摂理す。けだしこの大教正は女皇に代わりて宗務を総裁するものなり。故に政府の組織中には別に教部省の設けなく、また政府より保護金を下付することなしといえども、人民より国教税を徴集して寺院保存費に当つるなり。この国教税より徴集する金額と寺領地より納むる所得、および信徒の喜捨金の総額は年々およそ一〇〇〇万ポンド、すなわちわが一億円に達すという。国会の上院には大教正二人(すなわちカンタベリー大教正、ヨーク大教正)、教正二四人必ず出席する権を有す。国教宗の寺院僧侶の数を挙ぐれば、大教正二人、教正三一人、寺院一万四五七三、僧侶二万四〇〇〇人、信徒一三五〇万人なり。この国にては国教を定むといえども信教は自由にして、いかなる宗教を信奉するも随意なり。その国教にあらざる宗派は、総じてこれを非国教宗と称す。非国教宗中のおもなるものを挙ぐれば、メソジスト宗会堂一万三二七〇、コングレゲーショナル宗会堂二六〇三、バブテスト宗会堂二二四三なり。その他種々の異宗派ありて、非国教に属するもの大数一八〇派已上ありといい、その僧侶の総数九七三四人なりという。

 大英国中スコットランド国は別にその国固有の国教ありて、その宗はプレズビテリアン宗(Presbyterian)の一種なり。これをスコットランド教宗と称す。その宗の会堂、僧侶、信徒の数は、会堂一六四二、僧侶一七〇〇人、信徒五七万九〇四三人なり。その他、国教宗に反対する宗派あり、これをスコットランド非国教宗と称す。その主なるもの、フリー・チャーチ宗、ユナイテッド・プレズビテリアン宗の二宗なり。フリー・チャーチ宗(Free Church)は一一二九会堂、一一九〇僧侶、三三万三一〇〇信徒を有し、ユナイテッド・プレズビテリアン宗は六一七会堂、六一四僧侶、一八万二一七〇信徒を有す。スコットランド部内にあるイギリス国教宗は教正二人、僧侶二六六人、寺院二六八カ寺、信徒八万人ありという。

 つぎにローマ宗のイギリスおよびスコットランド部内にあるものを挙ぐれば、イギリス部内、僧侶二三八〇人、寺院一三〇六、同信徒一三五万四〇〇〇人、スコットランド部内、僧侶三四一人、寺院三二四、信徒三二万六〇〇〇人なり。しかしてこの両部内にあるユダヤ教信徒は七万人なりという。

 アイルランドは別にその国固有の国教なし。ただし人民の過半はローマ宗を奉じ、大教正四人、教正二三人、信徒三九六万八九一人を有す。その他この国内にある他宗派は、イギリス国教宗信徒六二万人、プレズビテリアン宗信徒四七万七三四人、メソジスト宗信徒四万八八三九人、コングレゲーショナル宗六二一〇人、バプテスト宗四八七九人、クエーカー宗三六四五人、ユダヤ教四七二人なり。

 以上は欧州六強国に行わるる宗教を講述したるものなり。今更にこの六強国につぎて強国の名を有する三、四の国につきてその宗教の事情を示さんとす。

       七 スペイン

 この国の国教はローマ宗にして、全国の人民大抵この教を奉ず。その国法にては宗教の自由を許すも、その実自由ならず。非国教宗を奉ずる者は国教を保護するの責任を免れずという。その信徒の統計は、ローマ宗一七三二万四三九九人、新教諸派六六五四人、ユダヤ教四〇二一人、ラショナリスト(Rationalist)九六四五人、自他宗教五一〇人、無宗旨一万三一七五人なり。

       八 ポルトガル

 この国はローマ宗をもって国教と定む。一人のパトリアルク、二人の大教正、一四人の教正ありてその宗務を管理す。全国を分けて三九七九教区となし、各教区に寺院あり。この教区の寺院の外に昔時は六三二僧坊、一一八尼坊あり。これに住する僧尼合わせて一万八〇〇〇人ありしも、方今はこれを廃するに至れり。国民の新教を奉ずる者わずかに五〇〇人にして、その他はみな旧教徒なり。

       九 オランダ

 この国の王室および人民の過半は新教の一種なるリフォームド・チャーチ(Reformed Church)を奉ずといえども、他教を奉信するも自由なり。その信徒の数は、新教二四六万九八一四人、旧教一四三万九一三九人、自他のヤソ諸派および宗旨を定めざる者一万五七三九人、ユダヤ教八万一六九三人なり。この新教と旧教とユダヤ教はいわゆるその国の公認教にして、政府より毎年若干円の保護金を下付するなり。

       一〇 ベルギー

 この国の人民は大抵旧教を奉ず。新教を奉ずる者はわずかに一万五〇〇〇人、ユダヤ教に属する者三〇〇〇人に過ぎず。その国の憲法にては信教の自由を許すも、旧教、新教、ユダヤ教の三宗には政府より毎年若干の保護金を下付するなり。故にこの国の宗旨は公認教の資格を有するなり。

       一一 スイス

 全国の人民の一〇〇分の五九はカルヴァン宗(新教)を奉じ、一〇〇分の四一はローマ宗を奉ず。すなわちカルヴァン宗徒一六六万七一〇九人、ローマ宗徒一一六万七八二人、ユダヤ教七三七三人なり。

       一二 デンマーク

 この国の国教はルーテル宗なり。その宗は七人の教正ありて事務を管理す。僧侶の数一三五三人なり。国教の外に種々の宗派あり。その信徒の数は、ユダヤ教三九四六人、ローマ宗二九八五人、カルヴァン宗一三六三人、モルモン宗一七二二人、バプテスト宗三六八七人、アーヴィング宗一〇三六人、自他宗教一九一九人、無宗教一九四一人なり。その他はみな国教宗に属す。

       一三 スウェーデン

 この国はルーテル宗をもって国教と定む。国教宗には教正一二人、寺院二四一〇カ寺、信徒四五四万四四三四人あり。寺院の費用および僧侶の生計は、大抵寺領地より得るところの物によりて支弁すという。自他の新教諸派に属するもの一万六九一一人、旧教に属する者八一〇人、ギリシア宗一七人、アーヴィング宗八九人、ユダヤ教二九九三人、モルモン宗四一四人なり。

       一四 ノルウェー

 当国の宗教は新教宗なり。全国の人民大抵ルーテル宗を奉ず。自他の新教諸派を奉ずる者わずかに七二三八人にして、その他はみなルーテル信徒なり。

       一五 ギリシア

 国民の過半はギリシア宗を奉ず。他の宗派を奉ずる者また少なからず。すなわち人民中一六三万五六九一人はギリシア宗に属し、一万四六七七人はローマ宗および自他のヤソ諸派に属し、二六五二人はユダヤ教に属し、九一七人は回教に属す。

       一六 アメリカ合衆国

 この国はさきに述ぶるところの平民教の国にして、国法上にて信仰の自由を許し、その宗旨の自由を許すものなり。政府の組織中にはもとより大教院、教部省のごときものなく、純然たる政教分離の国なり。故にその国内には種々の宗派あり。しかして新教の信徒最も多し。新教中その主なる宗派はメソジスト宗、バプテスト宗、プレズビテリアン宗、ルーテル宗、コングレゲーショナル宗等なり。その各宗の信徒の数を最近発行の統計表によるに左表のごとし。

  ( 一 ) メソジスト宗 牧師 二万一三八六 信徒 三二八万六一五八   

  ( 二 ) バプテスト宗    一万八七一六      二四三万九五   

  ( 三 ) プレズビテリアン宗   七八九七     八八万五四六八   

  ( 四 ) ルーテル宗       三〇二五     五六万九三八九   

  ( 五 ) ディサイプル・オブ・クライスト宗

                   三六五八     五五万五九四一   

  ( 六 ) コングレゲーショナル宗 三五七四     三八万四八〇〇   

  ( 七 ) エピスコパル宗     三二一五     三三万六六六九   

  ( 八 ) ユナイテッド・ブレズレン宗

                   二一七八     一五万五五七九   

  ( 九 ) リフォームド・チャーチ宗 七五五     一五万四〇〇三   

  (一〇) ユナイテッド・エバンジェリカル宗

                    四二五     一四万四六六六   

  (一一) クエーカー宗       八七八      七万四三一三   

  (一二) モルモン宗       三八一六      七万二六八四   

  (一三) ユニバーサリスト宗    六九一      三万六八九一   

  (一四) ユニテリアン宗      三八二      一万九七八四   

  (一五) モラビアン宗       一〇三      一万六一二七   

  (一六) スウェーデンボリ宗     九二        五五三八   

 これみな新教諸派の牧師および信徒の統計なり。その他、旧教には六三六六人の僧侶ありという。その信徒の数は五、六年前の統計表によるに、六八三万二九五四人の信者あり。しかして寺院の数は新教八万六一三二カ寺、旧教五九七五カ寺ありという。

 余、近日西洋の寺院僧侶の統計表を作りてわが国の寺院僧侶の多寡を論ぜし一文あれば、左にその全文を掲げて一考に供す。

  わが国の寺院僧侶はその国勢およびその人口に比例して過多なるか不足なるかは実際上の一問題にして、これを判定するは西洋諸国の比例を取るより外なし。故に余は西暦一八九五年発行の『英国統計年鑑』(The Statesman's Year Book)、および明治二六年一一月刊行内閣編纂『日本帝国統計年鑑』、その他二、三の書によりてその比例割合を算定すること左のごとし。

  まずイギリスの宗教統計によるに、国教宗および非国教宗に属する寺院の数、大小二万五八五七カ寺(スコットランドおよびアイルランドはこれを除く)にして、これをイギリスの人口二五九七万に配すれば、人口一〇〇四人につき一カ寺の割合なり。また国教宗の信徒は一三五〇万人にして、国教宗寺院の数は一万四五七三カ寺、僧侶の数は二万四〇〇〇人なり。故にその割合は信徒九二六人につき寺院一カ寺、信徒五六二人につき僧侶一人に当たる。またロンドンは人口大数四〇〇万と称し、およそ三八〇余万の住民ありという。しかして市中の寺院、国教および非国教を合しておよそ一四〇〇カ寺あり。その割合二七一五人につき一カ寺に当たる。

  以上はイングランドおよびウェールズの統計なり。もしスコットランドの統計によれば、人口三七三万にして牧師一六六〇人なり。故に人口二二四〔七〕人につき牧師一人の割合なり。またスコットランド国教宗は信徒五七万九〇〇〇人にして会堂一六四二棟、牧師一七〇〇人を有す。故にその割合は、信徒三五二人につき会堂一棟、三四〇人につき牧師一人に当たる。またアイルランドは大半旧教信徒なるも、イギリス国教宗の信徒も六二万人あり。しかしてその寺院一五〇〇カ寺、その僧侶一七五〇人なれば、その割合、信徒四一三人につき寺院一カ寺、信徒三五四人につきその僧侶一人に当たる。

  つぎにフランスの統計を考うるに、旧教徒二九二〇万一七〇三人にしてその僧侶五万四五二六人なれば、その割合、信徒五三五人につき僧侶一人に当たる。新教徒六九万二八〇〇人にしてその牧師七〇〇人なれば、その割合、信徒九八九人につき牧師一人に当たる。

  つぎにドイツの統計を考うるに、プロイセン新教徒一八二四万四四〇五人にしてその牧師九一四六人なれば、その割合、信徒一九九四人につき牧師一人に当たる。旧教徒九六二万三二六人にしてその僧侶八三〇〇人なれば、その割合、信徒一一五九人につき僧侶一人に当たる。

  つぎにオーストリアの統計を考うるに、オーストリア部は信徒二三八九万五〇〇〇人にして僧侶四万一一九五人なれば、信徒五八〇人につき僧侶一人の割合なり。ハンガリー部は信徒一七三四万八〇〇〇人にして僧侶一万九一八七人なれば、信徒九〇四人につき僧侶一人の割合なり。

  つぎにイタリアの統計を考うるに、旧教徒およそ二八〇〇万にしてその寺院五万五二六三カ寺、その僧侶七万六五六〇人なれば、その割合、信徒五〇六人につき寺院一カ寺、信徒三六五人つき僧侶一人の割合なり。

  つぎにロシアの統計を考うるに、国教信徒七〇七一万八二八〇人にしてその寺院五万七二〇カ寺、その僧侶五万二三三三人なれば、その割合、信徒一三九四人につき寺院一カ寺、信徒一三五一人につき僧侶一人に当たる。

  つぎにアメリカの統計を考うるに、新教徒大数三〇〇〇万にして同会堂八万六一三二棟、同牧師七万七六四人なれば、新教徒三四八人につき会堂一カ所、同信徒四二三人につき牧師一人の割合なり。また旧教徒六八三万二九五四人、同寺院五九七五カ寺、同僧侶六三六六人なれば、旧教徒一一四三人につき寺院一カ寺、同信徒一〇七三人につき僧侶一人の割合なり。その他諸国の宗教統計はこれを略す。左に以上の統計を表示して一覧に便にす。表中の数字はみな信徒の数にして、信徒幾百人につき寺院一カ寺、僧侶一人に相当するやを示すなり。

  これをわが国の上に考うるに、余はわが国民の一〇〇分の九九は仏教信徒と断定して不可なしと信ず。今、左に全国の戸数および人口を掲ぐれば、

    全国戸数 七八〇万六三六九戸  (二四年一二月調査)

    全国人口 四〇七一万八六七七人 (二四年一二月調査)

     その人口一〇〇分の九九はすなわち四〇三一万一四九〇人 (仮定仏教徒)

     同   一〇〇分の一はすなわち四〇万七一八七人     (仮定非仏教徒)

  しかるに寺院および住職の数は左表のごとし。

    寺院総計 七万一八五〇カ寺 (二四年一二月調査)

    住職統計 五万二五一一人  (同上)

  その他、境外仏堂三万五九五九棟あれども、ここにこれを除く。また住職の外に僧籍にある者また数万人あるべしといえども、その数確定し難し。仮に住職に倍するものと定むれば、

    僧侶統計 一〇万五〇二二人

  となるべし。これを全国民ことごとく仏教徒として算定すれば、

    戸数   一〇八戸につき寺院一カ所 人口五六六人につき寺院一カ所

    戸数   七四戸につき僧侶一人   人口三八八人につき僧侶一人

  これを西洋の統計に比するに、その多寡おのずから判知するを得べし。すなわち日本は寺院僧侶の割合、やや多きに過ぐるを知るべし。かつ寺院の多寡は人民貧富の度によるものなれば、西洋諸国とわが国と国力人口の比較をもって論ずるときは、わが国の寺院は現今の半数にて足るべしと考うるなり。ことに寺院の数と住職の数とを較するに、無住職寺院二万の多きを占むるを見る。これ寺院の過多なる一斑を証すべし。かつ明治一五年度の統計と二四年度の統計とを較するに、寺院の数五一五カ寺を減じ、住職の数四三九四人を減ずるに至れり。かくのごとく寺院住職ともに漸減する以上は、従来の数の多きに過ぐるによること明らかなり。故に余は寺院の数を今日の半ばに減じて可なりと信ず。

 上来論述したるものは実際的宗教学中、宗教と政府の関係を示せるものなり。

     第二項 教会の組織

 つぎに宗教政府の組織に移り、教会の組織を述べんとす。およそ宗教上よりこれをみるに、社会を大別して世俗社会と宗教社会とするなり。世俗社会には土地人民に関する政治法律あり、宗教社会には寺院僧侶に関する政治法律あり。これをもって世俗社会には世俗政府あり、宗教社会には宗教政府なかるべからず。今、余が講述せんと欲するものはこの宗教政府のことなり。しかして宗教政府はその性質大いに世俗政府と似たるところありて、世俗政府の例に照らしてその組織を考うることを得るなり。まず世俗政府には三種の組織あり。その一は君主政治、その二は貴族政治、その三は共和政治これなり。今、宗教政府もまた三種の組織あり。その名目左のごとし。

  第一 管長組織(世俗政府の君主政治に比すべし)

  第二 会議組織(世俗政府の貴族政治に比すべし)

  第三 独立組織(世俗政府の共和政治に比すべし)

 この三種の区別を解釈するに、第一、管長組織は、僧侶に上下の階級を分かち、各級その権を異にし、主治者と被治者との別あり。教正、大教正、法王等の高僧ありて、その位一般の僧侶の上にあるのみならず、その職一宗内の諸事諸件を監督総裁するものなり。第二、会議組織は、僧侶に上下の階級なく教正の名称なく各僧もとより同等なるも、諸僧中やや知徳名望あるもの一般の選挙に応じて議員となりて議会を組織し、宗教上の事務はすべてこの会議によりて議決するものなり。第三、独立組織は、ただに僧侶に上下の階級なきのみならず、一宗総体の会議を設けず各教会の自由独立を唱え、したがってこれを統轄する本山なく教正なく、ただ檀家の協議によりてその教会を管理するものなり。もしその主権のあるところを述ぶれば、教会主宰の権は、管長組織にありては管長にあり、会議組織にありては僧侶にあり、独立組織にありては檀家にあるの別あり。

 つぎに各宗派につきてこの三種の例を示さんとするに、第一に管長組織によりて立てたる宗派は左の諸宗なり。

  ローマ宗  ギリシア宗  イギリス国教宗(エピスコパル宗)  ドイツ新教宗(ルーテル宗)

  その他回教、仏教等(日本の仏教各宗および神道みなこの組織に属す)

 この組織中また二種の別あり。一を一管長組織と称し、他を多管長組織と称す。ローマ宗は一管長組織なり、ギリシア宗は多管長組織なり。また一管長組織中に選定と世襲の二種あり。ローマ宗、イギリス国教宗のごときは選定組織なり、日本の二、三の神道教会および本願寺宗は世襲組織なり、回教もまた世襲なり。世襲とは父子の間に管長の職を継承し、一般の選挙によらざるものをいう。その表左のごとし。

  管長組織 一管長 選定

           世襲

       多管長

 この選定組織も詳細に分類するときは、一般の選挙によるものと、国王の特選によるものと、席順によるものと、年長によるもの等の別あり。つぎに多管長組織にては、各管長おのおのその配下を統轄する全権を有する上に、更にその管長の間に会議を設けて一宗総体に関する事件を議定するものをいう。故にこれを会議組織の一種に属すべし。しかるにその会議は管長の会議なれば、会議組織と同一にみなすべからず。故にもしこれを世俗政府に比するときは、これかえってまさしく貴族政治に当たるべし。しかして会議組織はかえって共和政治に当たるなり。およそ国教を立つる国にありては、管長の上に更に国王をいただき、これを総管長とするを例とす。これ他なし、国教にありては政府が宗教をもって政治の機関に応用するものなればなり。しかれども畢竟かくのごとく国王を総管長と定むるは、ただ政治上の意味のみ。もし一宗の教義上よりこれをいえば教正その総長にして、国王といえどもその命令を奉ぜざるを得ず。今、国王総管長の例を挙ぐれば、ロシア国教宗、イギリス国教宗これなり。

 つぎに会議組織の例を示すに、カルヴァン宗、メソジスト宗、スコットランド国教宗、スコットランド非国教宗(フリー・チャーチ宗およびユナイテッド・プレズビテリアン宗)これなり。日本の二、三の仏教宗にては会議組織を用うるものあれども、僧侶に上下の階級を分かち本山を置き管長を設くるをもって、この会議組織と同一に論ずべからず。

 つぎに独立組織の例を挙ぐるに、アメリカに行わるるところのヤソ宗派は多くこの組織に属す。すなわちコングレゲーショナル宗、バプテスト宗、ユニテリアン宗等これなり。この組織は各教会の独立を唱え、本山を置かず会議を設けずといえども、毎年一、二回一宗の連合会あり。しかれどもその会はただ有志の連合にして、もとよりこの会議によりて宗制寺法を議定するにあらず。故に会議組織と大いに異なるところあるを知るべし。

       一 管長組織

         (甲) イギリス国教宗組織

 余はこれより管長組織の形式につきていちいち講述せんと欲す。まずイギリス国教宗にその例を取りて大要を示すべし。なんとなれば、その宗の組織、これを他の宗に比するに最も完全なるものなればなり。今これを左の三項に分かちて論及せんとす。

  第一、行政上教区のこと

  第二、立法上会議のこと

  第三、司法上裁判のこと

 (第一、行政上教区のこと) イギリスにては宗制上便宜のためにその全国(イングランド、ウェールズ二州)を分かちて二大教区とし、その一をカンタベリー大教区と称し、その二をヨーク大教区と称す。この各大教区の下にあまたの中教区あり。カンタベリー大教区の下に二四中教区、ヨーク大教区の下に九中教区あり、これを合して三三中教区なり。その下におよそ一万四〇〇〇の小教区ありという。しかして各中教区に一本山あり、教正その長たり。各小教区に一寺院もしくは二二寺院あり。各寺院には住職および住職の補佐あり。故に総じて三三本山、三三教正、一万四五七三寺院、二万四〇〇〇僧侶ありという。イギリス国教宗にては僧侶の階級を教正(ビショップ)、訓導(プリースト)、試補(ディーコン)の三種となす。教正には大教正および教正の別あり。訓導にはその職務に応じて種々の名称あり、インカンベント、キュアレット、ディーン等の類これなり。試補は僧侶の初門にして訓導の候補者なり。およそ俗人にして僧籍に入る者は、まず試補となるを例とす。試補は一寺の住職となるの資格を有せず、進みて訓導に至れば住職となることを得るも、いまだ本山の管長となることあたわず。昇りて教正に達すれば一本山の管長となることを得るなり。大教正と教正との別は、教正は中教区を管理するの権を有し、大教正は大教区を総理するの権を有するにあり。しかれども、これただ政治上の区別のみ。その宗義よりこれを論ずれば、大教正も教正ももとより同等同権ならざるべからず。しかして大教正の名称は、ただカンタベリー教正およびヨーク教正の位置を占むるものに与うるのみ。故にカンタベリー中教区の教正は同時にその大教正の管長なり、ヨーク中教区の教正は同時にその大教区の管長なり。大教正はヨーク、カンタベリーともにその名称および権限において異なることなきも、その順序カンタベリーを第一としヨークそのつぎに位するをもって、おのずから正副の別あるがごとし。カンタベリー大教正は僧侶中の最高位にあるものにして、一国中よりこれを見れば、その位女王のつぎに列するものとす。そもそもイギリスは国教の国なれば一宗の総管は女王なれども、女王みずから宗務を総裁せずしてその命をカンタベリー大教正に伝え、大教正これを総理するなり。つぎに、訓導には本山僧と寺院僧との別あり。本山僧にはディーン、カノン、アーチディーコンの名称あり、ともに訓導なり。ディーンはなお僧長というがごとく、本山にありて事務をとる衆僧の長官なり。その衆僧をカノンと称するなり。これ本山役僧というがごとし。これに大カノン、小カノンの別ありて、本山の事務を分担するなり。アーチディーコンは教正の随従もしくは候補者とも称すべきものにして、教正の左右にありてその職務を補佐し、教正の代理となりて受け持ち区内を巡視するものなり。かつこのアーチディーコンは教正の欠くるときはその選挙に当たるべき資格を有するものなり。その員数はおよそ一本山につき教正一名、ディーン一名、大カノン四名、小カノン四名、アーチディーコン三名を通例とす。しかれどもその数、本山によりて一定せざるなり。つぎに寺院僧にはインカンベント、キュアレットの名称ありて、ともに訓導の位にあるものこの名称の職に就くことを得るなり。インカンベントは一カ寺の住職たるものにして、なお本住職というがごとし。キュアレットは住職をたすくるものなれば、なお補佐住職というがごとし。この本住職にまた二種の別ありて、一をレクターと称し一をビカーと称す。ともに住職に与うる名称なれども、レクターの名称はビカーの上に位するものなり。これ寺の資格に応じてその名称を異にするのみ。もとより実際上の権限に至りては区別あることなし。なおレクターはその意大住職というがごとく、ビカーは小住職というがごとく、その所得の上に異同あり。各寺院にはインカンベント一名、キュアレット一名ないし二、三名あるを常とす。しかしてキュアレットの数は寺院の大小、職務の多少に応じて一定せざるなり。その他、寺院には必ずディーコンすなわち訓導の候補者ありて、寺院の礼拝儀式等を助くるなり。今更に以上述ぶるところの僧侶の階級および職名を挙げて示すこと次頁の表のごとし。

 各寺院には僧侶の外に俗人ありて俗務を負担す。その名称チャーチワーデン(世話人というがごとし)、サイズメン(副世話人というがごとし)、ベルジル(掃除人というがごとし)なり。チャーチワーデンは檀家の総代にして、檀家中の老輩篤志の者を選定してこの職に当たらしむるなり。その職寺院の俗務をとり会計を整理するものにして、これが監督をなすものは住職なり。サイズメンは世話人の輔佐をなすものなり。ベルジルは堂内の掃除、門戸の開閉等をつかさどり、かつ寺院の留守番をするものなり。その数大抵一寺院につき世話人三名、副世話人三名、掃除人一名ぐらいの割合なり。この俗人は本山にては使用せず。本山の職務はすべてカノンこれを任ず。ただ二、三名の掃除人あるのみ。

 今ついでに住職および教正の職務を述ぶるに、住職は一カ寺の財産所有者にしてその事務を監督しその教区を

  僧侶(Clergy) 僧位 教正(Bishop) 大教正(Archbishop)

                     教正(Bishop)

             訓導(Priest)

             試補(Deacon)

          僧官 本山僧 大教正すなわち大教区管長

                 教正すなわち中教区管長

                 僧長(Dean)

                 役僧(Canon) 大カノン(Major Canon)

                         小カノン(Minor Canon)

                 教正侍従(Archdeacon)

             寺院僧 本住職(Incumbent) 大住職(Rector)

                            小住職(Vicar)

                 補住職(Curate)

                 試補(Deacon)

視察するの責任を有し、かつその監督視察せるところを教正に報告し、および教正の命令を区内に伝達するをつかさどるものなり。教正は中教区の事務を総裁し、かつその配下の末寺僧侶を監督し、住職の進退賞罰および僧侶の拝命得度の全権を有するものなり。住職の俸給はその寺院の大小、貧富によりて異なるをもって一定し難しといえども、およそ一年二〇〇ポンド(一ポンドはわがおよそ一〇円)より一〇〇〇ポンドに至るの金額を毎年得るものとす。教正もその本山によりて一定せずといえども、その少なきは二〇〇〇ポンド、その多きは一万五〇〇〇ポンドの年俸を受くるなり。ディーンの年俸は一五〇〇ポンドないし二〇〇〇ポンド、カノンの年俸は五〇〇ポンドないしみな一定せざるなり。キュアレットの年俸も寺に応じて一定せず。一般の例によるに、寺院住職の俸給はその所有の財産によりてこれを定む。故にその住職に当たるものその総額を受け取るべきわけなれども、事務多端もしくは住職病弱にしてその任に耐えざるときは、キュアレットを置きてこれを助けしむるものなれば、住職はその俸給中より一部分をキュアレットに分与するを例とす。世話人と協議の上、別に寺院の収入中より給与することありという。ディーコンもまた俸給を受くるものなるとも、その額いたって少なきものなり。世話人および副世話人は檀家中の富有のものその任に当たるをもって、俸給を受けざるを常例とす。掃除人は貧困にして篤志なる者なれば、多少の給料を賦与するなり。

 つぎに教職および僧侶の任命の順序を述ぶるに、およそ俗人にして僧侶とならんと欲する者は三項の性質を完備するを要す。学力、品行、信心、これなり。この三点はあらかじめ教正の方にてその従来経歴せる神学校の卒業書、勤惰表、履歴書、その他臨時の試験等によりて審定して、その可なるものはまず試補に命じ、つぎに訓導に命ずるなり。試補の年齢は二三歳以上、訓導は二四歳以上、教正は三〇歳以上の規則ありて、その年齢に達せざれば拝命することあたわず。すでにその年齢に達すれば、試補および訓導を叙任するの権は教正の鑑定にあり。教正を選定する法は本山僧の会議による。しかしてその選挙に当たるものは大抵アーチディーコンなり。この選定の結果は女王に上申し、女王の指命を要するなり。ただし教正に就くの式は他の教正にてこれを行い、女王の関するところにあらざるなり。

 (第二、立法上会議のこと) およそイギリス国教宗にては、教義上に関する諸事諸件は会議によりてこれを決し、またその宗内の法律規則は会議によりてこれを定むるを例とす。しかして会議に三種の別あり。すなわち小教区会議、これをベストリー(Vestry)と称す、中教区会議、これをコンファレンス(Conference)と称す、大教区会議、これをコンヴォケーション(Convocation)と称すこれなり。小教区会議は毎年ヤソ上天の日、教区中の人民(すなわちわが氏子というがごとし)その寺院に会し、一寺に管する事項を評定するなり。そのとき世話人の改選を行う。この会古例にては僧侶の休息室において開きたる縁故あるをもって、その名をベストリーという。ベストリーとは僧侶休息室に与うる名称なり。中教区の会議はその本山の下において毎年これを開き、その開会は教正これを命ず。そのときは一中教区内の各寺に住職相会し、教義に関する事項を議定するなり。大教区の会議は毎年一回にして、女王陛下国会を開くの勅令を発すると同時に、カンタベリー大教正に命じてこれを開かしむ。大教正はその命をヨークの大教正に伝え、ヨーク、カンタベリー両区内において開会す。ヨークの会議はヨーク大教正これを総裁し、カンタベリーの会議はカンタベリー大教正これを総裁するなり。この大教区の会議は政府の国会のごとく上下両院をもって組織し、上院は中教区の教正相集まり、下院は小教区より選挙せる名代人相集まりて議事を開く。その名代人たるものは、あらかじめ中教区の会議において各寺の住職中より推選せるものなり。その外、大教区会議には俗人会を開くことあり。すなわち各寺院の世話人その名代人を選挙してこの会に列せしむるなり。しかれどもこの会議は規則によりて定めたるものにあらざれば、毎年必ず開会するにあらずという。イギリスにては教正たるもの大教区の上院を組織するのみならず、政府の上院に列席するの権あり。すなわちその列席の教正は大教正二人、教正二四人、都合二六人を限りとす。

 (第三、司法上裁判のこと) つぎに立法上の会議に大教区会議、中教区会議の別あるがごとく、裁判にもまた中教区裁判と大教区裁判あり。各寺院の住職および僧侶に関する裁判の一事は、各教正の下に宗教裁判所ありてこれを判決するなり、これ地方裁判所というがごとし。この判決を不当とするものは、大教正の裁判に控訴することを得。大教正は大教区中の裁判を決するために大教区裁判所を置く、これいわゆる控訴院なり。しかしてまた大教区裁判に不服なる者は、政府の枢密院に上告することを得、これなお大審院のごとし。およそ宗教上、人を賞罰するは、小教区にありては住職これを任じ、中教区にありては教正これを任ずるの規則なるも、住職は一寺の全権を所有するものなれば、あるいはその権を濫用しその責任を怠るがごとき不正の行為なきにあらず。これを視察監督するものはアーチディーコンその職なり。アーチディーコンは教正に代わりてときどきその配下を巡視し、住職僧侶の勤惰を視察するなり。故にこれをあざなして教正の眼という。教正も少なくも三年一回必ずその配下を巡回して信徒を教導する規則なれば、自ら監督視察することを得るなり。その外、住職の勤惰を監督するものは世話人なり。世話人は住職の勤惰を監督して、直接に教正のもとへ報告する特権あり。

         (乙) ローマ宗組織

 つぎにローマ宗の組織の大要を述ぶるに、ローマ宗は管長組織中、一管長選定組織を用うるものにして一宗中に派類を分かたず、一総本山を置き一総管長を立つるものなり。その総長を法王と称す。法王所住の寺を総本山となす。法王は神祖ヤソの代官にしてこの世界を神に代わりて管理するものなれば、一宗の全権を特有するものなり。かつ法王は選挙法によりて代々相続するものなれども、伝灯相承を唱え、その第一世ペテロ法王より当代に伝え、当代レオ一三世は二六三代目の法王なり。法王の下には法老あり大教正あり教正あり、この三種を高僧とす。高僧の下に平僧あり、平僧に三種の別あり。寺僧、俗僧、坊僧これなり。寺僧中にまた正僧、権僧の二種あり。およそ寺僧の名称を有するものは、一寺の礼拝、読経、説教、産婚葬等の儀式のごとき法務に従事するものをいう。そのいわゆる正僧には訓導、試補、権試補の三種の階級あり。これみな寺院に奉職するものなればこれを寺僧という。権僧には番僧、手伝い、見習小僧のごときものあり。これまた寺院に奉職するものなれば寺僧に属す。つぎに俗僧とは、宗内にて設立せる学校の教員、貧院、育児院、幼稚院、訓盲院等の監督に従事するがごときものを総称するなり。つぎに坊僧とは、全く世間を離れ俗事をすてて坊庵中に止宿するものをいう。故にその表左のごとし。

  ローマ宗僧侶 高 僧 法老(Cardinal)

             教正 大教正

                教 正

         平 僧 寺僧 正 僧 訓 導

                    試 補

                    権試補

                権 僧(番僧、手伝い等)

             俗僧

             坊僧(Monk)

 これらの僧侶の上に立ちて一宗を総轄するものは法王なり。高僧の拝命、黜陟〔ちゅっちょく〕は全く法王の意より出ず。そのつぎに列する法老は、法王の内閣を組織し法王を助けて宗政に参与するものなれば、すなわち法王内閣の大臣参議にしてまた法王の候補者なり。教正はその所属の教区を監督し、かつ配下の寺僧を進退するの権を有するものなり。ローマ宗は行政上小教区、中教区、大教区の設けありて、教正は中教区を監督し、大教正は大教区を監督することはイギリス国教宗と同一なり。一八八〇年度のその宗の統計表によるに、世界中にある同宗教正の数、大教正を合して一一三四人、信徒の数一億八五〇〇万人ありという。法老の数は時宜により一定せずといえども、宗規にては七〇人を限りとす。これに三種あり、第一、教正法老、第二、訓導法老、第三、試補法老これなり。すなわち教正法老六名、訓導法老五〇名、試補法老一四名、合計七〇名を定員とす。しかれども当時は教正法老六名、訓導法老四二名、試補法老一二名、合計六〇名なり。この三種の法老ともにその位法王に次ぐものなり。その各級の中にては拝命の前後によりて順次を定む。しかしてローマに住する法老中、最も年数を経たる教正法老が総法老の長となるという。法王は宗務上の要件ありて議事を要するときは、総法老を呼び集めて法老会を開く。これをコンシストリー〔コンシストリウム〕(Consistory)という。たとえば教正を選定するときのごときは法老会の議決を要するなり。しかしてこの法老は法王内閣の大臣に当たるべきものなれば、おのおの分担するところの法務あり。しかして諸指令布達は必ず法王の命を待たざるを得ず。かつ法老をその職に任ずるの権は全く法王にあり。これに反して法老は法王を選挙し、かつ法王に選挙せらるべき資格を有す。すなわち法老は選挙、被選挙の両権を有す。左に法王選挙の方法を略述すべし。

 法王逝去するときは、その位を継ぐべきものを選挙するために法老会を開く。この会をコンクレーブ(Conclave)と称す。その会場の名もまたコンクレーブという。そのときは法老おのおの投票を取り、その表面に選挙者の姓名と被選挙者の姓名を併書し、これを密封して神壇の上に置きおのおの誓式を行う。その式終わりて投票を開き、票数その総数の三分の二以上を得たるものは法王に当たるの規則なり。もし三分の二以上を得たる者一人もなきときは、更に投票を行うを例とす。法王すでに定まりたるときは、ことごとくその投票を焼没するという。つぎに教正を選定する方法を述ぶるに、その法は国々によりてその政府と法王との間に結ぶところの規約に従って異なり、この規約をコンコルダート(Concordat)という。まず一般の例によるに、その国の王より教正に推挙すべき人名を法王のもとに奏達し法王の訓命を請うなり。もしこの規約なきときは、教区内の僧侶一同その本山に相会して三名を選挙し、その名を法王のもとに呈出し、法王はその中より一名を選びて教正と定むるなり。またアイルランドの規則によるに、一人の教正死するときには、その教区内より一名の僧侶を推選して相続者となさんことを法王のもとへ奏願す。これと同時にその国内の教正中より別に二、三名の相続者を認定して法王に上申す。しかるときに法王はこれを法老会の共議に付して選定するを例とすという。

 以上はローマ宗行政上の組織なり。もし立法上の組織を述ぶるときは、会議の種類を挙ぐるを要す。会議に三種あり。曰く、中教区会議、大教区会議、総会議これなり。まず中教区会議は教正の下にその配下の寺僧相集まりて開くものなり、大教区会議は大教正の下に諸教正相集まりて開くものなり、総会議は法王の下に諸国の教正大教正ことごとく相集まりて開くものなり。かくのごとく会議の組織あるも、一宗の法律は必ず法王の認可裁定を要し、あるいは法王の独断に出ずるものなり。故に法律の源は法王にありというべし。これその宗のイギリス国教宗に異なるゆえんにして、この二宗ともに君主政治に比すべきものなれども、ローマ宗は君主擅制に比すべし。イギリス国教宗は君主限制もしくは君民同治に比すべし。

 つぎに司法裁判の組織にも、中教区裁判と大教区裁判と法王内閣の裁判あり。法王内閣の裁判は終結の裁判なり。

         (丙) ギリシア宗組織

 つぎにギリシア宗多管長組織の大要を述ぶるに、ギリシア宗は管長組織の一部分なれども、ローマ宗の組織と大いに異なるところあり。すなわちローマ宗は一管長組織にして世俗政府の君主擅制に比すべき、ギリシア宗は多管長組織にしてこれを君主政治といわんよりむしろ貴族政治に比すべし。けだしギリシア宗には数名の管長ありて、各国に独立の本山あり。しかしてこれが総長たる管長なく、またこれを総轄する本山なし。ただその諸管長の間に会議を開くことあるのみ。故にその性質貴族政治に比すべく、またこれを会議組織に属すべきに似たれども、その各管長はその配下を監督管理するの特権を有するをもって、これを管長組織に属するなり。ギリシア宗は法王を立てずして法長と称するものを置く、その名をパトリアルフ〔総主教〕という。パトリアルフに四名あり、コンスタンティノポリス法長、アレクサンドリア法長、アンテオケ法長、エルサレム法長これなり。この四法長は権限において同等なるものなれども、コンスタンチノープル法長をもって法長の首席とするなり。ロシアにもギリシア宗あれども、当時法長の名称を置かず。その他僧侶の名称には数種ありて、これを総括するときは高僧の二種となる。その表左のごとし。

 高僧中主教正とは一国の首府に住する教正に与うる名称なり。平僧中坊僧は一名黒僧と称するはその法衣黒色なるにより、俗僧を白僧と称するはその法衣白色なるによる。この宗には二七九教区すなわち教正管轄区と一〇

  高僧 法 長(Patriarch)

     主教正(Metropolitanus)

     大教正

     教 正

  平僧 坊 僧(黒僧)

     俗 僧(白僧) 大訓導

             訓 導

             試 補

             権試補

             諷経者

大本山あり。その一はコンスタンチノープル府にありて、法長その管長となる。その下に一二九教正管轄区あり。第二の本山はアレクサンドリア府にありて、法長その管長となる。その下に五教正管轄区あり。第三はアンテオケ〔アンタキア〕府にありて、その管長は法長にしてその下に一七教正あり。第四はエルサレム府にありて、その管長は法長にしてその下に一四教正あり。その他は左表を見て知るべし。

  第 五  ロシアのギリシア宗、その下に六三教区ありて六三教正これを分轄し、その他五六教正ありて僧坊を管轄す。

  第 六  サイプラス島のギリシア宗、これに四人の教正あり。

  第 七  オーストリアのギリシア宗、これに一一人の教正あり。

  第 八  マウントシネーのギリシア宗、これに教正一名あり。

  第 九  モンテネグローの同宗、これに教正一名あり。

  第一〇 ギリシアのヘレニック宗、これに三一大教正および教正あり。

 以上の一〇本山はみな独立して一宗の組織を設くるものなり。しかれどもその主義とするところみな同一にして、これをその宗の正教と称するなり。かつこの法長の間には会議を設けて議事を開くことあり。ひとりロシアのギリシア宗は全く独立してその始めモスクワ府に法長を置きたるも、ピョートル大帝以後これを廃し、今はロシア皇帝その総管長にして、数十名の教正一国中の教区を分轄するなり。

 ギリシアはギリシア宗の国にして、その寺院僧侶はコンスタンティノポリス法長の所轄なれどもこれただ名義のみにして、その実独立の組織を有しギリシア一国の神会によりて宗務を管理するなり。

 これを要するに、ギリシア宗は一般に神会の組織ありて会議組織を用うるものなりといえども、法長教正のごときは純然たる管長にして、その権限ローマ宗の教正に異なることなし。

         (丁) ルーテル宗組織

 つぎにルーテル宗の組織を述ぶるに、ルーテル宗はローマ宗に抗して宗教の改革を唱え、管長組織に反対して一種の新組織を開きたるものなれども、その宗の今日実行するところの組織を見るに、なお管長組織を有するものといわざるべからず。なんとなれば、その宗には法王を置かずといえども、あるいは教正を設け、あるいは監主を置きて教区内の事務を監督するは、すこしも管長組織に異なることなし。故に余はこれを管長組織の一部に属するなり。

 まずルーテル宗のスウェーデンおよびデンマークにあるものを見るに、みな教区教正の設置あり。すなわちスウェーデンにては一二人の教正ありてその配下に二四一〇カ寺の小教区あり、またデンマークにては七人の教正ありてその区内の寺院を監督するなり。つぎにドイツ国中にあるルーテル宗は教正の名義を設けずといえども、なお監主総監主の名称を設けて教区を監督するなり。すなわちプロイセンにてはその国内に行わるるところのルーテル、カルヴァン両宗を連合して一宗と成さんことをつとめ、一八一七年においてプロイセン政府の権力をもってついに両宗の連合をしとげたりき。この連合宗をエバンジェリカル宗という。しかるにその連合はただ外形上政治上の連合にとどまり、内実上宗教上の連合にあらず。故にルーテル宗に属する寺はやはりルーテル宗なり、カルヴァン宗に属する寺はやはりカルヴァン宗にして、更に変更するところを見ず。ただ政治上その管理をなすにおいては両宗を合同して一宗となし、これをその国の国教とし、国王その総管長にしてその下に宗教会議庁を置きて一宗の事務を分割せしむ。また小教区の上には別にその区内を監督する者あり、これを監主という。その監主の上に総監主と称する者あり。総監主は各県に一人ずつ置くの割合なり。これを叙任するの権は宗教会議庁これを有し、国王の認定を得るを要す。しかして教区内の僧侶は総監主もしくは監主これを叙任するなり。プロイセンの政府には教部省の一部ありて、また各府県には教部課あり。しかして宗教会議庁には教部課と役員と県下の一寺住職たるべき者相会するなり。この宗教会議庁は政府の命によりて各県に置くところのものなり。その名称をコンシストリーという。この会議庁の外にシノッドと称する会議あり。このシノッドには、郡区会、県会、総会の三種あり。およそその会は僧侶三分の一、俗人三分の二より成るものなり。その人員は小教区より選挙せるものにして、その会議はあらかじめ期日を定めて開会するものなり。そのうち総会は全国中の大会にして、六年一回これを開くの規則なり。けだしプロイセンにおいてシノッドの会を設くるゆえんは、政府より教区内の人民に寺院に収納すべき課税を定むるをもって、その税の徴収法を協議するためにこの会を置くという。その他の事務はみな宗教会議庁にて管理するなり。

       二 会議組織

 上来管長組織の諸例を略述したれば、これより会議組織の大意を述ぶべし。会議組織は管長を置かず教正を設けず本山を有せざる一種の組織にして、その宗内の僧侶相会して一種の会議を組織し行政、立法、司法ともにその権をこの会議によりて有するものなり。プロイセンの国教宗のごときは、一半は管長組織なりといえども一半は会議組織なり。いかにとなれば、宗教会議庁を置きて一宗の行政、立法、司法の三権を実行するがごときはすなわち会議組織なり。その会議組織の最も完全なるものはスコットランド国教宗なり。故にまずスコットランド国教宗の組織を述ぶべし。

         (甲) スコットランド国教宗

 スコットランドにはおよそ三種の宗派あり。その一を国教宗と称し、その二をフリー・チャーチ宗(Free Church)と称し、その三をユナイテッド・プレズビテリアン宗(United Presbyterian)と称す。第二第三両宗は非国教宗なり。この三宗ともに会議組織にして、その性質同一なるものなり。ただその異なるは会議区を異にするにあるのみ。まず国教宗はスコットランドの人民によりて組立せる一宗にして、その宗旨を保護するの義務をその人民一般に有するものなり。故にその国の土地所有者は、その教区寺院すなわち氏寺に所得のいくぶんを収納するを要す。この宗の組織は三種の会議を設くるこれなり。すなわち小会議、これをプレズビテリー(Presbytery)といい、中会議、これをシノッド(Synod)といい、大会議、これをゼネラル・アッセンブリー(General Assembly)すなわち総会議という。小会議区内にはあまたの寺院あり、その寺院連合して小会議を組成す。しかして各寺院にまた寺院会議あり、これをキルク・セッションという。キルク・セッションにはその寺の住職およびその教会の世話人相会し、住職議長の席に着くを例とす。この宗にては一般に議長のことをモデレーター(Moderator)と称し、世話人の名はエルダー(Elder)という。長老の義なり。長老はその寺を監督し、かつ住職を助けて寺務の一部分をとるものなり。この寺院会議の上に小会議あり。小会議はその教区内の住職と、各寺院より選挙せる一名の長老相会して開くものなり。そのときは住職の一人を選定してモデレーターすなわち議長の席に着かしむ。この小会議は毎月一回開くものとす。その上に中会議あり。この会議区はあまたの小会議区を連合して組成せるものなれば、その下にあまたの小会議区あり。その会に列席するものは小会議に列席するものと同一種のものなり。この会議は毎年二回開くものとす。つぎに中会議の上に大会議あり、毎年一回これを開く。この開会のときはイギリス女王よりスコットランドの貴族に命を下し、その貴族をして女王の代理となりて開会の命を伝うるを規則とす。この貴族はただ開会を命ずるのみにて、すこしも会議上に関渉するの権を有せざるものなり。会議に列席すべき議員は、各小会議区より選挙せる代議士より成るものなり。その議員中よりモデレーター一名を選挙して議長の席に着かしむ。この女王の代理人をロイヤル・コミッショナーという。この会議には僧侶の名代人と、世話人の名代と、その外スコットランド大学の名代人も列席するという。その組織は一宗の立法部にして、あわせて司法部なり。故にこの会議組織はすなわち裁判組織なり。小会議の裁判を不当とするものは中会議に控訴し、中会議の裁判に服せざるものは大会議に控訴することを得べし。もしこれを行政上の組織に比するときは、小会議はあたかも郡区役所のごとく、中会議は県庁のごとく、大会議は中央政府のごとし。今その会議区の数を掲ぐれば、

  大会議  一

  中会議  一六

  小会議  八四

  寺 院  一一八三

  僧 侶  一六六〇人

 つぎにスコットランド非国教宗の第一、フリー・チャーチ宗の組織を述ぶるに、その組織、国教宗と同一にして、小中大の三種の会議あり。その会議の数左のごとし。

  大 会 議  一

  中 会 議  一六

  小 会 議  七三

  教会寺院  一〇二四

  住  職  一一四一

 つぎに非国教宗第二なるユナイテッド・プレズビテリアン宗の組織もまた国教宗と同一にして、ただその異なるは小中両会議あるのみにて大会議を置かざる点にあり。その会議区の数左のごとし。

  小会議  三二

  寺 院  五六〇

  住 職  五九八

         (乙) メソジスト宗組織

 つぎにメソジスト宗(Methodist)の組織を述ぶるに、これまた会議組織の一種にして、その会議に大中小の三種あり。まず小会議は各教会区において毎年四季にこれを開き、その会に列席するものはその教区中の牧師と俗吏数名なり。その上に中会議あり。これ半年ごとに開くものにして、その議長は大会議によりて定むるものなり。つぎに大会議は毎年一回にして、その会に列席するものは僧俗二種なり。ともに各教会より選挙するものなり。イギリスメソジスト会議の規則によるに、その議員の数、牧師二四〇人、俗史二四〇人なり。この大会議をその宗にてはコンファレンス(Conference)と称す。故にこの宗においては司法、行政、立法の三権は会議これを有し、なかんずく大会議これを有するなり。

         (丙) カルヴァン宗組織

 つぎにカルヴァン宗(Calvin)の組織を述ぶるに、この宗はローマ宗に反対して各寺の独立、僧侶の同権を主唱せるものなれば、もとより一宗の本山なく管長なき組織にして、宗務は会議によりて決するものなり。その主義、新教諸宗中の会議組織を起こすに至りしものなれば、会議組織の宗家と称して可なり。スコットランドの会議組織は全くこの宗の主義を伝えしによる故に、その組織の大要はスコットランド国教宗につきて見るべし。

       三 独立組織

 以上会議組織の大略を述べたれば、これより独立組織の大要を示さんとす。独立組織は本山を置かず会議を設けず、管長も教正も議長もなき一種の共和組織にして、その主なるものを挙ぐればコングレゲーショナル宗およびバプテスト宗これなり。コングレゲーショナル宗は一名独立宗と称し、その宗の教会はおのおの独立を唱え、一寺の規則はその教会所属の信者の協議によりてこれを定む。決して他教会の干渉を受くることなし。ただその宗には一宗の連合ありて毎年およそ二回これを開くの規則なれども、その会はスコットランド国教宗、メソジスト宗等の会議と大いに異なるところありて、ただ有志の連合会というがごときものなり。故にその宗の僧侶住職たるもの必ずしもこの会に出席するを要するにあらず。またこの会は一宗内の立法行政等の権を有するにあらず。これこの宗の独立宗なるゆえんにして、各教会はその教会の牧師と檀家との協議によりて成立するものなり。しかして一寺統轄の権は牧師よりむしろ檀家にあるものにして、住職を進退するの権は檀家これを有す。これ余がさきに管長会議、独立組織の区域を論じて、一宗主宰の権は管長組織にありては管長もしくは高僧これを有し、会議組織にありては僧侶もしくは会議に列席すべき資格を有する者これを有し、独立組織にありては檀家すなわち教会の人民これを有すといいたるゆえんなり。

 つぎにバプテスト宗は、その主義といいその組織といいコングレゲーショナル宗と異なるところなく、ただその異なるは洗礼の一点にあり。故にその宗はもとより独立組織にして、ただ一宗有志連合会を毎年一、二回開くことあるのみ。

 つぎにユニテリアン宗もまた独立組織にして、一宗の連合会の外、別に本山もなく会議もなく、各教会みな独立なるものなり。

 つぎに一種性質の異なる教会はクエーカー宗なり。この宗は独立宗に属すべきものなれども、また独立宗にも異なるところあり。その異なる点は、第一に一定の寺院なく一定の僧侶なく一定の儀式なく、その信者の毎日曜に会同する所これを同朋集会所と称し、寺院とも教会所とも称せず。またその教会中には一定の牧師なきをもって、集会所にありて同朋中説教せんと欲する者は立ちて説教し、祈誓せんと欲する者は立ちて祈誓す。音楽を用いず礼壇を設けず講座を置かず、その式大いに他教会に異なり、この宗と同一の性質を有するもの、イギリスにてはプレマウスブレゾレンと称するものなり。

 その他、会議組織に属するものユダヤ教会なり。その教会のイギリス中にあるものについてその組織を考うるに、各寺(シナゴーグ)みな独立を唱え、その下に一教会を組織し、その教会に関する諸事は職員の会議によりて議定し、他の教会とほとんど全く関係なきものなり。この教会の事務を負担するものに三種あり。曰く管理員、僧侶、属吏これなり。その役名をあぐれば、第一監督(バルナシム)その数二人ないし三人にて、二年もしくは一年ごとに改選するものなり。その職シナゴーグの事務を総裁するものなり。そのうち一人はシナゴーグの長と定む。そのつぎに会計を調理する財務員(ゴベー)あり。つぎに貧民救助慈善に従事するものあり、その名をゴベツェダカという。その他、助員数名あり、これを総じて名誉役員という。その名誉役員、毎月一回相会し議事を開く。名誉員の外に会計検査員あり、その数三名にして毎年改選し、建築営繕係あり、その数五名にして毎三年改選する規則なり。つぎに僧侶には住職と小僧の二種あり。住職をチャザムと称し、小僧をシャマスという。みな礼拝供養に関することを任ずるものなり。つぎに属吏は通常の吏員にして、管理員の指揮に従ってあるいは帳簿を保存し、あるいは金銭を徴収するを任とするものなり。

       四 結  論

 上来宗教政府の組織を論述し終わるをもって、これより宗教と政治との間にいかなる関係あるかを一言せんとす。宗教政府の組織は要するに管長組織、会議組織、独立組織の三種ありて、これを世俗政府の組織に比するに、管長組織は君主政治に当たり、会議組織は貴族政治に当たり、独立組織は共和政治に当たるというも、その実しからず。管長組織中の一管長組織は君主政治に当たり、多管長組織は貴族政治に当たり、会議組織と独立組織はともに共和政治に当たるものなり。今、欧米各国の政治と宗教を比較するに、これと同一の関係のその間に存するを見る。すなわち君主政治の国には管長組織の宗教あり、共和政治の国には会議組織および独立組織の宗教あるは、これ一国の政体と宗教とその組織を同じうするの関係あるによる。今、その例を示すに、イギリスの政体は君主政治なり、故にその国に行わるるところのヤソ新教すなわちイギリス国教宗は管長組織なり。プロイセンの政体は君主政治にしてその国の宗教はまた管長組織なり、すなわちエバンジェリカル宗これなり。ロシアは帝国にして、ロシア国教宗すなわちギリシア宗はまた管長組織なり。オーストリア、イタリア、スペイン、ポルトガル等はみな君主国にして、その国の宗教すなわちローマ宗は管長組織なり。ひとりアメリカは共和政治の国なれば、その国に行わるるところの宗教また欧州諸国と異なりて、独立組織および会議組織を有したる宗教なり。かくのごとく君主政治の国には管長組織の宗教行われ、共和政治の国には独立および会議組織の宗教行わるるは、宗教と政体との間に密着なる関係の存するゆえんを知るに足る。しかりしこうして、君主国に会議、独立組織の宗教全くなきにあらず、また共和国にも管長組織の宗教あり。すでにイギリスのごときはそのいわゆる非国教宗は独立もしくは会議組織を有したるものなれども、これを国教宗に比するにその勢力数等を譲るものなり。またアメリカには管長を有する宗派なきにあらざれども、これまたその勢力微なるものなり。しかるにこれを実際に考うるに一、二例のこの規則に合せざるものあり。すなわちその第一は、アメリカの宗教は独立および会議組織なるに、近年その国に管長組織を有したるローマ宗次第に行わるるはいかなる理由なるや、その第二は、フランスはその政体共和政治なるに、その国の宗教は管長組織のローマ宗なるはいかに。この第一〔の〕難〔問〕に答えんとするに、アメリカに近来ローマ宗の行わるるは、欧州中のローマ宗を奉ずる国より人民の陸続移住せしによる。まずアイルランド、スペイン、イタリアはローマ宗固結の国なり。しかしてその人民多くアメリカに移住せり。また欧州中の新教の国にても、下等の人民にはローマ宗を固信する者多し。たとえばドイツのごとし。その国新教なれども、その下等の人民は多くローマ宗を信ず。しかしてこれらの国よりアメリカに移住する者、大抵みな下等の労力社会にしてローマ宗に熱心なる者なり。故をもってアメリカには近来旧教信者大いに増加するに至る。しかれどもその信者は下等人民中に多く、かつその数、新教信者の数より少なきをもって、したがってその勢力新教に対抗すること難し。故に合衆国は新教の国と断言して可なり。つぎに第二の問難に答えんとするに、フランスはその人民の八分は旧教を信じて、しかしてその政体は共和政治なるも、これまた理由なきにあらず。第一に、フランスに共和政治の起こりたるは、多少ローマ宗の近世大いに衰えたる影響によることを知らざるべからず、第二に、フランスの共和政とアメリカの共和政とは大いにその性質を異にすることを知らざるべからず。フランスはその政略中央集権なること、すこしも君主国に異なることなし。ただ君主の代わりに大統領を置くをもって共和政の名称を得るのみ。第三に、フランス人民中には今日なお帝政王政の組織を回復せんことを図るものありて、ややもすれば君主政治に復せんとする傾向あり。かつその帝政王政を首唱する者は大抵みなローマ宗固結の信者なりという。第四に、フランスには旧教の外に新教信者ありて、その新教中のカルヴァン宗は会議組織によりて成立せるものにして、その主義とするところローマ宗に反対して寺院僧侶の平等同権を唱えたるものなれば、その性質共和政治に適するものなり。以上の四項の事情によりてこれをみるに、フランスはローマ宗の国にして今日共和政治の行わるるも、決して怪しむに足らざるなり。

 もしまたわが国につきて考うるに、わが国は君主国なり、故にその宗教は管長組織ならざるべからず、しかるにわが神道教会および仏教各宗はみな管長組織なり。かつわが国は皇統一系をもって組織したる政体にして、開国以来今日に至るまで帝室の連続したるがごときは万国にその比を見ざるところなり。しかるにその宗教はあるいは血統相承、あるいは伝灯相承を唱え、なかんずく真宗および神道のごときは血統をもって相承する宗風なり。自他の諸宗は血統相承を用いざるも、伝灯相承、法脈相承をもって立つるものなり。これまた国体と宗教との間に密着なる関係の存する一例を知るべし。

 かくのごとく政治と宗教との組織の間に同一の関係あるは、必ずしかるべき理由なかるべからず、その理由を説明することまた難きにあらず。そもそも人の宗教に対して有するところの思想と、政治に対して有するところの思想と、ともに一人の心中より出ずるものなればもとより同一にして、宗教に対して共和独立の正理なることを知れば、政治に対してまた共和独立を唱うるに至り、政治上に中央集権、血統相承の当然なるを信ずれば、宗教上にまたその組織を唱うるに至るはけだし自然の勢いなり。故に人もし一方において見るところのものと、他方において見るところのものと同一ならざるときは、その一方において信ずるところのものをもって他方を準ぜんとするに至り、もし両方において同一の組織を見るときは、その二者の間に疑念を生ぜざるものなり。これ古来、宗教と政治の組織の同一ならざることあるときは、必ず一方に革命を起こして二者の上に同一の組織を見るに至りてやむゆえんなり。これをもって共和政治の下にはこれと同一の組織を有する宗教行われ、君主政治の下にはまた同組織を有する宗教の行わるるを見るなり。その例は更に欧米の歴史につきて知ることを得べし。

 欧州にありて中古ヤソ教のさかんなるに当たりてはその権勢政治上に及ぼし、各国の君主を進退するの権はみな法王の掌握するところとなれり。このときに当たりて、人民中かくのごとき圧制専横は宗教の正義なるや否やを怪しむものありて、宗教上の自由独立を世間に唱うるに至り、ついに新教革命の乱をひき起こすに至れり。新教の乱ひとたび定まりて人民宗教上に自由独立を得るに至れば顧みて政治上を見、また君主の擅制の正理に反するを怪しみ政治の自由独立を唱うるものあり、ついに各国に政治上革命の乱を見るに至れり。これによりてこれを考うるに、一方において得るところの自由の思想は必ず他方に向かいて発し、二者同一の点に至りてとどまるゆえんを知るべし。つぎにアメリカの歴史を案ずるに、今日の合衆国はその初め宗教信者のイギリスより渡来して植民を開きしより起こる。そもそもイギリスにありてはヘンリー第八世のとき君主をもって宗教の管長と定むることを布達し、エリザベス女王のときに国教の制度を一定して信教の自由を許さざりしをもって、宗教の自由を唱え国教の主義に反対する者、その本国を去りて遠くアメリカに移住するに至れり。この信徒を純教徒(ピューリタン)という。けだし宗教の純美、正理を固守するを義とす。しかしてその徒の主義とするところは宗教上の自由共和、平等同権を唱え、その徒の組織するところの教会はまた独立共和組織より成る。しかるにこの徒ひとたびアメリカに渡り、その地に植民をひらきてより人民次第に蕃殖し、ついに独立して共和政治の礎を起こすに至れり。これ今日の合衆国なり。しかしてその今日の政体は、その教徒が初めに宗教上に有したるところの自由共和、平等同権の主義に出でたるものなり。これをもって政治上および宗教上ともに自由共和、平等同権の組織を見るに至れり。もしまた顧みてイギリスの歴史を閲するに、クロムウェル氏政府を転覆して共和政治を唱うるに当たり、その国教と反対の主義を有する独立組織の宗派を用うるを見るも、また宗教上の独立組織は共和政治に適するゆえんを知るに足る。

 以上論ずるところによりてこれをみるに、宗教の政治に加わりて社会に与うるところの利益は多言を待たずして知るべし。一国もしその政体を維持せんと欲せば、その国の宗教中これと同一の組織を有する宗派を保護すること必要なり。これ他なし、政治上の思想を貴賎、上下、一般の人心中に保持せんとするには宗教より便なるはなし。けだし宗教にあらざれば一般人民の思想を結合すること難し。故に宗教は政府がその政治の目的を達するにおいて欠くべからざる必要有益の機関なり(これもとより政治の一方より宗教を評論せるのみ。もし宗教の一方よりこれをみれば、宗教は決して政治の機関たるべきものにあらざることを知らざるべからず。しかれども今はただ政治の一方より論ずるなり)。これを第一の益とす。

 つぎに宗教の政治を助けて与うるところの第二の益は、門閥世襲を重んずる圧制国において、下等下流の人をして自由に昇進上達せしむる通路を開くものこれなり。たとえば一国の人民中に貴賎上下の階級ありて、貴族あり士族あり門閥血統あるときは、その下等の地位に生まれ門閥もなく血統もなき者は、なにほど才学あるも上位に転進すること難し。しかるに宗教にありては人民の門閥血統を問わず、たれびとにてもその才学に応じて上位に昇進することを得るなり。故をもって、宗教は門閥政治もしくは圧制政治の下にありて人才上進の道を開き、上下の懸隔を調和するに加わりて力あるものなり。

 つぎに第三の益は、貴賎上下、官民農商、異種異等の人民の間に交際を開き情義を通ずるこれなり。そもそも教会講社は一種属の人民によりて組成せるものにあらず、各教会中には異類異等の人民相会し、互いに談話を開き互いに交情を通ずることを得るなり。これをもって人民中上下内外の懸隔あるもの、教会講社の媒介によりて互いにその事情を知り、その交際を通ずるの便益を得るなり。

 つぎに第四の益は、政治上郡県町村の区域と宗教上教区教社の区域と同一ならざることこれなり。政治上の区域には郡県あり町村あり県庁あり郡役所あり戸長役場あり、宗教上の区域には大本山あり中本山あり末寺あり。大本山の配下は県庁の配下と異なり、中本山の配下は郡役所の配下と異なり、末寺の配下すなわち末寺に属する教会人民は戸長役場の配下の人民と異なり、一町村必ず一個の寺院あるにあらず、一村の寺院はその檀家を他村にまたがりて有す。これをもって、戸長役場にて連合することあたわざるものは教会にてよくこれを連合し、戸長役場と役場との間に不和を生ずるときはこれを和解して両方の気脈を通ずるは教会の力にあり、他村の間に結婚し他郷の間に知友を得る、古来多くは教会のその間にありて媒介をなすによる。

 つぎに第五の益は、政治の力人心をして一主義に結合せしむること難きも、宗教の力よく人心をして一致結合せしむるにあり。これ他なし、宗教は一主義によりて立てたるものにして、しかも下等人民の心中に入りてその思想を支配するによる。

 つぎに第六の益は、宗教の力よく人心変化の際に旧来の精神を維持し、その間におのずから一国独立の気風を保存するにあり。これ他なし、宗教はその性質古今の間に一脈の精神思想を連結して変化離散せしめざるにあればなり。

 つぎに第七の益は、人をして安心満足せしむるにあり。けだし政治上いかなる完全の法律を設くるも、人をしてことごとく満足せしむることあたわず、一方に満足するものあれば一方に不平を抱くものあるは勢いの免るべからざるところなり。しかるに宗教は政治上に満足を得ざる不平不幸の人をして安心満足せしむるものなり。この宗教上の安心満足は大いに政治上の不平を和らげ、一国の治安を助くるに功あるは必然なり。

 つぎに第八の益は、国内各地の交通旅行を開き、往来、移住、開墾、貿易の媒介をなすこれなり。たとえば宗教信者はその宗の本寺本山に参詣し、その開祖の霊地旧跡を巡拝し、内国の一隅より他隅に来往交通し、人をして四方の風俗人情を接見せしむ。かつ宗教上の縁日祭日等は大いに商業貿易に関係あるものなり。

 以上の諸益は後に宗教の功用と類して開陳するはずなれども、今政教の関係を論ずるにつき参照を要するところあれば、ここにその理由を掲述せり。しかしてその益、決してこれに尽きたるにあらず、もしこれを詳論すれば数十カ条の益あるべし。しかしてここに注意を要する一点は、いずれの宗教にてもこの益を有すというにはあらざるこれなり。もしこの益を宗教上より得んと欲せば、まず宗教の組織性質について淘汰するところなかるべからず。第一にその国の政体国風に適合する宗派を取るを要し、第二に他邦別して敵国と全く関係なき一国別立の組織を有する宗派を取るを要し、第三にその国に久しく伝わり多数人民の奉信するものを取るを要し、第四にその国の史上に縁故ありその国内に旧跡旧地多きものを取るを要するなり。これすなわち欧州各国が信教の自由を唱えながらその下に国教もしくは公認教を設けて、その国の歴史に縁故ある宗派を優待するゆえんなり。果たしてしからば、わが国の将来の政教の関係はいかなる主義を取るべきか、たやすく判知することを得べし。

 

   第三段 宗教の儀式

 これより本講第三段に移り儀式の大要を述ぶべし。およそ儀式に四種あり、社交的儀式、宗教的儀式、国家的儀式、国際的儀式これなり。社交的儀式とは朋友親戚等、各個人相互の儀式にして、単に儀式のみならず諸種の礼法をあわせ称するなり。これを小にしては、互いに名刺を通ずるがごとき贈物をなすがごとき、応対の語法、書状の認め方等すべて一個人の間に存する儀式なり。宗教的儀式とは人間以外の体すなわち神または幽界の精霊に尽くすの儀式にして、神壇の前にて礼拝し読経し供養する等の儀式なり。国家的儀式とは一国全体に関する儀式にして、帝王の即位式、憲法発布式、国会開設式等なり。国際的儀式とは独立国と独立国との成立する儀式にして、公使大使を派遣する等の類なり。

       一 社交的儀式

 社交的儀式は常に宗教的儀式と連結せるものにして、その重要なるは冠婚葬祭の四なりとす。そのうち祭はむしろ宗教的儀式なり。なおこの外に産礼あり。故に現在世における儀式は産冠婚葬の四となすべし。この四礼はまた多くは宗教の関するところとなり、ことに葬儀のごときは宗教的儀式に属する部分多きにおる。古来いずれの国といえども、これらの儀式は宗教の関係を有すること大なり。西洋にありてはその関係最もはなはだしく、ヤソ教はこの四の大礼をことごとく支配せり。わが国にありては仏教は多く葬儀に関し、神道は産冠婚の儀式に関せり。シナにありては儒教この四に関係をなせり。故に社会の大礼は一方より見れば社交的儀式なるも、他の一方よりいえば宗教的儀式なり。しかして社交的儀式中重要なるものは、西洋にありては産冠婚葬なるも東洋にては冠婚葬祭なり。もとより西洋においても全く祭祀の儀式はなきにあらざるも、東洋のごとくこれを重要の儀式となすにあらず。また東洋にありては西洋のごとく産礼を重要となさざるなり。

 けだし東西両洋かくのごとく差異を生ずるに至りたるは、必ずその因由なかるべからず。もとより西洋にても古代にありては祭祀の儀式盛んに行われたるもののごとし。しかるに近代に至りてはこの儀式ようやく一般に衰うるに至り、民間にては更に亡霊を祭る等の儀式なし。これ全く人情生前を大切にし死後を顧みざるより起こるものなり。故に人間生前のことは最も鄭重にして、友人の産日は必ずこれを記念し、当日には互いに贈り物をなすの風習あり。また人と始めて交際を結ぶに当たりても、まずその人の産日を問うを常とす。これに反して死後は少しもこれを顧みることなく、その死せる年月すらこれを記憶するものはなはだまれなり。しかるに東洋にありては友人の誕生日はもちろん、あるいは自己の誕生日をも知らざるものあり、しかしてその死亡の月日は必ずこれを記憶して忘却することなし。さりとて西洋人は墓所を設けざるにあらず、かえってわが国の墓所に比すれば一層壮麗にして、埋葬所はあたかもわが公園地のごとく花卉を植え風致を装い、わが国の埋葬所の比にあらず。しかれども西洋人は死者の月日を紀念して墓前にて祭祀供養をなすことあるを見ず。わが国においては墓参は毎月これを行い、なおその外に盆正月には必ず墓前の供養をなすの風習なり。自余のことは後に葬礼を説くに当たりて述ぶべし。

 東西感情の異なることかくのごとし。しかしてその良否のいずれにあるやは容易に判ずべからざるも、ともにその偏習たるを免れず。たとえばわが国の年忌会のごとき田舎は特に盛大にして、貧家にて家屋の狭小なるときは仮舎を設け、数日間引き続きて仏事を行い、遠方の客人は数日前よりきたりて相待つあり。故をもって一回年忌会を行わんとせば数年前より注意して貯蓄をなし、その貯蓄せるものを僅々数日間に消費し尽くすごときは、これを称して美風良式というべからず。その儀式は壮麗なりとも、これあに死者に尽くす礼の至れるものならんや。かつはなはだしきは祭席に列して豪飲暴食、あるいは歌いあるいは舞い、あるいは争いあるいは闘う等の弊風は、今日においても民間全くなきにあらず。これもとより儀式の本意を誤るものなり。さればとて西洋のごとく両親兄弟の忌日さえこれを知らざるごときは、決して良風俗というべからず。かの国にて父死すればこれを埋葬場に送り、一家みな流涕して家に帰る。すでに家に帰りて遺言状を読むやたちまち兄弟相争い、財産の分配につきて死せる親をうらむに至ることありという。かくのごときの風習儀式、なんぞこれを善良なりということを得んや。シナにては人死すれば他人を雇いて泣かしむる礼ありという、なんぞ虚礼のはなはだしきや。かくのごときもの、いかでか真正の礼儀と称すべけんや。しからば余輩はよろしく東西を折衷して、その善良なるものを採取せざるべからず。思うに将来わが国の礼儀法式必ず大いに変化をなすの日あらん。もしこのときに当たりていたずらに西洋の風を取るごときことあらんか、ついにはわが美俗を破滅し去り悪風を伝播するに至らん。わが国の識者よろしく察知せずんばあるべからず。

 (一)産礼 前すでにいえるごとく、産礼は東洋にありては一の儀式としてさほど重んずることなきも、西洋にてはこの儀式を重んずることはなはだしく、宗教的儀式のみならず社交的一大儀式として存せり。けだし人の生日を祝することは遠くヤソ教以前に行われたる風習にして、ギリシアおよびローマにおいてすでに行われたるものなり。ギリシアにては生日をGenethlionといい、ローマにてはこれをNatalitiusと称し、ともに大いに鄭重の儀式に属せり。特に有名なる人の生日は一層これを重んじ、神の生日には世界の人民一般にこれを祝し、帝王の生日にはその国の人民ことごとくこれを祭り、詩人の元祖は詩人の仲間において祭り、職工の元祖は職工の組合において祝せり。あたかもわが国において神農を祭り菅公〔菅原道真〕を祭り、太子講、恵比須講等あるに異ならず。ただかれは多く生日を用い、われは死日を用うるの異同あり。ローマにてはかの有名なる詩人ヴィルジル(紀元前七〇年に生まれ同一九年に死す)の生日には、詩人相集まりて祝祭をなすことはなはだ盛んなり。かつローマ時代にはこの祝日に現れたる兆候をもって翌年の吉凶を占いしことあり。かつまた産礼はただ形体上の産出を意味するのみならず、その人の位地官職に変化をきたすときは、またその日を一種の産日として祝する風あり。たとえば判任官の奏任官となりたるときのごとき、あるいは皇太子の王位にのぼりたるときのごときの類これなり。この祝日には壮大なる儀式を挙げ、神前に種々の供物を捧ぐる等、わが国の祭典と異なることなし。その衣服のごときもこれを新調してその日のきたるを待つことも、あたかもわが国にて盆正月を待つと一般なり。西洋にヤソ教の伝播せし以後は、ヤソの誕生日すなわち一二月二五日をもって最も大切なる祝日となせり。他の祝日にはある一部の人の休業するに過ぎざるも、ヤソ誕生日には各国の人民ことごとく休業し、遠方の人には書を送り、朋友親戚の間は互いに進物をなし、貧民には金銭等を施与する風習なり。そもそもこの誕生日を祝日となしたるは紀元九八年以来のことにして、公然とこれを定めたるは紀元一三七年ローマ法皇テレスフォルス氏のときなり。イギリスにおいて昔時はこの一二月二五日の多くは、日本のおおみそかのごとく終夜街頭にろうそくをともし薪を焼きて、あたかも白昼のごときありさまなりしが、新教起こりて以来その風大いに廃れ、現今にてはただヤドリギをもって神木と称し、これを門あるいは窓にはさむの風習のみ存せり。その状あたかもわが国の正月の飾り付けのごとし。そのヤドリギを用うるは、ヤソ教以前の宗教にドルイド教と名付けしものありしその余風の今日イギリスに存するものなり。要するにヤソ新教はその儀式一般に簡略なるも、ひとりイギリス国教宗は壮厳の儀式を用い、花木をもって堂内を装飾し、鄭重の音楽を奏する等のことあり。旧教は一層盛大にして、堂内にキリスト降誕場を造り、夜半と天明と朝との三回大供養を行うをもって常例とするなり。

 この産礼は社交的儀式として存するのみならず宗教的儀式として行わるるをもって、この儀式を述ぶるには社交上より論ずると同時に宗教上より論ぜざるべからず。そもそも宗教上の儀式はこれをサクラメント(Sacrament)と称し、その種類七種あり。そのうちこの産礼に関係するものは洗礼式なり。およそ西洋の風習として、人生まるれば一週間内に寺院に行き洗礼を受けて実名を定む、これをクリスチャン・ネーム(Christian name)と名付く。すなわちヤソ教界の人に加入せるを義とするなり。このクリスチャン・ネームはわが国の仏教にて用うる法名戒名と同じ。ただ法名は死後に与うるも、クリスチャン・ネームは誕生の節に付するなり。この洗礼儀式たるその起源はなはだ古くして、キリストは三〇歳のときバプテスマのヨハネ氏より洗礼を受けたり。なおさかのぼればユダヤ教のときより始まれり。しかしてこの洗礼式を行うにつきてその意を解釈するに、宗派の異なるに従ってその見を異にし、また人によりてその説に異同あり。一説に曰く、この洗礼式はノアの洪水を紀念するより起これるものなり。なんとなれば、かの大洪水は実に世界の汚穢を洗除せしものなればなりという。しかれどもこの儀式たるやただにヤソ教に存するのみならず、インドにギリシアにローマにエジプトに、その他ヤソ教国にあらざる地において行われたるものなり。すでに仏教にも潅頂の儀式あり。果たしてしからば、その起源は他に求めざるべからず。それ水の性たる汚穢を洗除して清潔にするものなるが故に、ただに肉体上の汚穢を洗除するのみならず、精神上の汚穢もまたこれを洗除し得べしとの想像よりきたれるものなるべし。ヤソ教においてはその始め児童の上に施すことなく、成長したる人に罪障を滅し汚穢を除くために行えり。しかるに紀元九七年ごろより小児にこれを施すに至り、コンスタンティヌス大帝の治世紀元三一九年に洗礼壇を設けて公然この式を行えり。その式は全体を水に浸すなり。この全体を水に浸すの式は当時ギリシア教に行わるるも、ローマ教にては頂上に水をそそぐにとどまれり。新教にてはその一派なるバプテスト(浸礼教会)は全体を水に浸せり、故に浸礼教会の名あり。かつこの派はこの儀式を小児に行うことなく、一二、三歳以上の成童に施すをもって例とす。けだしその意、東西をも弁ぜざる無知無識の小児に施すも全く無功に属するをもって、一三、四歳の弁別力を有するものにこれを施して、自らヤソ教信者なることを覚知せしむるこそ必要なれというにあり。かくのごとくこの派は他の新教諸派とその見を異にせるをもって、ついに一派をなすに至れり。要するにその洗礼を施すの方法は軽重の異同あるも、新旧いずれの宗派においてもその式を行うを常とす。しかるにひとりクエーカー宗のみこれを用いざるなり。けだしクエーカー宗はただに洗礼のみならず、諸種の儀式装飾等はすべてこれを無用なりとして廃せり。しかしてただ一心専念、神を信奉するをもって本意となせり。この宗派の人は世界中において正直謹慎をもって有名なるものにして、かつその派の人は自由平等主義を取り、上下の区別をなさず、戦争を忌み、博愛を唱え、万人を同一視せり。洗礼の儀式はその初め一年に二回これを行いしも、後には一定の日時なくいつにても臨時にこれを行えり。ことにその後、堂内に洗礼場を設け洗礼器を用うるに至れり。

 旧教においてはこの洗礼によりて、生まれながら有する罪障を滅し神の恵みをうくるものなりと信ぜり。国教宗にてはしからず。人のこの世に出ずるもいまだ宗教内の人というべからず、故に洗礼を行いて初めて宗教内の人となるものとなせり。婦人産室を離るるに至れば、これをChurching of women(女の寺参り)という。日本の宮参りと同じ。旧教、ギリシア教等はこの儀式を用う。

 (二)冠礼 西洋においては別に冠礼なるものなく、ただ宗教上に確信式〔堅信式〕(コンファーメーション)なるものあり。もとより冠礼と同一にあらざるも、児童一四、五歳に至れば寺に詣し、教正自らその頭上に手を加えるところの儀式なり。この儀式は古代より行われ、紀元三四年および五六年にヤソの門弟これを実行せり。紀元一九〇年に至りて一般に用うることとなれり。古代は洗礼を受くればただちにこの確信式を受けたるも、後世に至りてはしからず、宗派によりて異同あり。まずギリシア教にては洗礼後ただちにこれを行い、ローマ教にては洗礼後数年を経てこれを行い、イギリス国教宗およびドイツ新教は児童一五、六歳に至りてこれを行い、アメリカ新教には儀式なし。かつギリシア教にては一カ寺の住職たるものはなんぴとにてもこれを行うことを得るも、旧教およびイギリス国教宗等にては教正以上の職にあるものにあらざればこれを行うことあたわざる制規なり。故にイギリス国教宗にては本山の教正少なくも三年ごとに一回その配下を巡回し、年齢一四、五歳なる児童に対してこの式を行うを例とす。けだしヤソ教にて確信式を行うの意は信仰を固めるためなり。故に洗礼後ただちにこれを行わず、数年を隔てて児童の弁解力の発達を待ちて授くるなり。西洋諸国においては、女子にしてこの儀式を授かりたる後は成人の服に変ずる風習ありという。これ全く宗教上の儀式にして、政治上に関係することなし。しかしてその服制を変ずるごときはわずかに社交上の儀式の混ずるもののみ。

 (三)婚礼 つぎに結婚式は宗教上重大なる儀式にして、かつ政治法律上に関係を有するものなり。この婚礼に全婚と半婚とあり。全婚とは普通の婚姻にして、半婚とはめかけを蓄うをいう。古代にありては法律上この半婚を公許し、めかけをもって妻の一種となせり。全婚にまた重婚あり、売婚あり、自由結婚あり、圧制結婚あり。まず重婚とは多妻をめとるをいう。これ古代盛んに行われたる風習にして、今日にありても回教およびモルモン宗等はなおこれを許す。つぎに売婚は古代アッシリアおよびバビロン等に行われたる風習にして、年々結婚年齢の婦女子を集めてこれを競売し、最も高価を命ずる人に売り渡す法なり。もし醜婦にして買い手なきものには、最美人にして過分の金を得たるもののいくぶんを分与するなり。つぎに自由結婚は今日西洋諸国に行わるる法にして、媒介人あることなく男女意気相投ずれば結婚を約し、しかる後は父母の許可を請うものなり。圧制結婚は東洋諸国に行わるる法にして、双方の両親まずその可否を定め、後に本人の意志を尋ね、あるいは本人の承諾なきに強いて結婚せしむるものあり。自由結婚につきての弊害は今日西洋人の唱うるところにして、その極、醜婦あるいは貧女はついに生涯結婚することあたわざるに至る。これ西洋に独身にて生涯を送る婦女子の多きゆえんなり。圧制結婚は以上の弊害なきも、夫婦むつまじからずして一家和合せず、かつ離縁をなす者多きの弊あり。今、左に自由結婚の始末を述ぶべし。

 そもそも自由結婚は本人相互の約束より成り立つものなれば、双方同意の節はまず男子より女子に指環を贈り、もって結婚約束の証とす。これを約束の指環という。その指環は普通のものと異なることなし。すでに結婚すればまた指環を贈る。その指環は純金にして装飾なきものなり。約束後ただちに結婚の儀式を挙ぐることなく、半年一年ないし三年ぐらいを隔つるを常例とす。西洋にて結婚の法律は紀元前一五五四年ギリシア、アテナイ王ケクロプス氏始めてこれを定め、ローマにては紀元前一八年にこれを定めたり。僧侶に妻帯を禁ぜしは紀元前三二五年にして、四旬斎(Lent)の間結婚を禁じたるは紀元三六六年なり。四旬斎とは、三、四月ごろにヤソ上天の日と称して祝する祭典あり、これをイースター(Easter)という、この祭日前四〇日間に与うる名称なり。これは斎戒沐浴して謹慎し、もって昇天日の準備をなすという。また僧侶に妻帯を禁じて独身たるべき誓約をなさしむることは紀元一〇七三年より始まれり。この結婚式を宗教上の儀式となししは、紀元一一九九年法皇インノケンテウス三世のときなりとす。結婚の儀式は今日にては宗教上の儀式と結合せるも、法律上においては必ずしも宗教上の儀式をふむを要せざるなり。しかれども昔時は宗教上の儀式なければ無効に属せしをもって、習慣上今日にありてもおおむね寺院において結婚するなり。その儀式は各宗派によりて多少の異同あり。イギリス国教宗にては寺院に結婚帳ありて、結婚者はこれに記名するにとどまり役所に届け出ずるに及ばず、寺院は一年に四回結婚の姓名をその筋へ届け出ずるなり。非国教宗にては寺院の儀式のみにてはその効なく、必ず結婚すべきことを前日に役場へ届けおき、その当日は役員の立ち会いを要するなり。その他、結婚の順序方法も国によりて異同あり。イギリスにては婚姻に三種あり。法律結婚、報告結婚、特許結婚、これなり。法律結婚とは、寺院に至りて儀式を行うに及ばず役場の手続きを経るのみ。報告結婚は、これに反して結婚前五週間にその旨を寺院に通知し、寺僧はこの結婚に関し異議なきや否やを三回の日曜日において説教の間に公衆に告ぐるものなり。特許結婚は、公衆に報告せらるるを嫌忌するものに、その手続きを省略することを特許するものなり。この特許を得るにはカンタベリー大教正に願書を出だし、その指令を待たざるべからず。イギリス国教宗はその教区を大中小の三種に分かち、その一小教区ごとに寺院を設置し、その配下に属するものはおのおのその寺院へ結婚の事由を通知して報告を依頼するなり。もし男女教区を異にするときは双方の寺院において報告するなり。この三回の報告に故障を言い立つるものなきときは、結婚は整頓したるものと定む。イギリスにおいては、婚礼は午前に行い葬儀は午後に行うを例とす。まず婚礼の順序は、あらかじめその場所と時日とを定めてこれを親戚朋友に通知し、その当日には新郎(むこ)まず予定の寺院に至る。新婦(よめ)のきたるを待つ。新婦は通例父と同車して寺院に至る。一人もしくは数人の付添婦これに伴行す。その婦は姉妹、従姉妹等親戚のものに限る。かくして一同寺院に集まれば、僧侶(その寺の住職)神前に立ちその面衆人に向かう。新郎、新婦およびその父三人おのおの僧侶および神壇の方に向かいて列立す。新郎は神壇に向かいて右に立ち、新婦は左に立ち、父はその婦の左方に立つ。かくして席定むれば僧侶はまず経を誦し、つぎに男女に対して語を唱え、終わりてただ男のみに対してまた唱う。男はこれに答えてアイ・ウィル(I will)という。つぎに女に対してまた唱う。女はこれに答えてアイ・ウィルという。この式終われば新郎新婦は父と僧との媒助によりて互いに握手し、僧侶は経を誦してその手を離すなり。つぎに新郎はあらかじめ持ちきたれる指環を出だしてこれを経典の上に置き、僧侶これを新婦に渡す。新郎はこれを受け取りて己の第四指にはむるなり。つぎに男女ともに礼壇に向かいてひざまずき、僧侶祈祷を行う。つぎに来客に対して語句を唱え、かつ礼壇に向かいて経文を読み、式ようやく終わる。その間およそ一時間を要す。ここにおいて来客は互いに握手し、初めて挨拶をなすなり。この挨拶終われば男女は僧に伴われて僧侶の休憩室に入り、その室に備えある結婚帳に記名するなり。寺院の式ここにおいて全く終わる。これより新夫婦および来客は一同新婦の家に行き供応を受く。僧またその席に加わる。席順は食卓の両頭に新婦の父母相対して座す。これ当席の主人なり。一方、中央に新夫婦の席を設け、新婦の側に僧侶の席あり。その他、来客みな一定の席あり。この供応を朝飯と称す。食物は冷肉を用い、白糖製の大菓子を新婦の前に置くを儀式とす。これを結婚菓子(ウェディング・ケーキ)と名付く。新婦はその菓子を切りて来客に配与するを要するなり。すでにこれを配与し終われば、新夫婦は別室に入り旅装を着け旅行の途に上る。その日数と場所とは少しも他に通示することなき風習なり。その日数はおよそ一カ月間を期限とするも、あるいは二、三週間、あるいは二、三日間を期し、貧富によりて異同あり。この旅行を蜜月(Honey Moon)という。けだし夫婦の交情の蜜のごとく甘きを祝する意なり。しかしてその家にては朝飯すでに終わるも、来客なおとどまり夕餐(ディナー)の供応あり。この供応にはおのおの酒を傾け舞踏をなし、十分の歓を尽くすなり。新夫婦は帰郷およそ一週間前にその日限を父母に通知し、父母は別に新宅を求めて住居の準備をなしおくなり。故に新夫婦帰るも父母の家に行くことなく、ただちにこの新宅に入りて自営するなり。これをもって、西洋にありては夫婦生活することを得るの資財なければ婚姻を結ぶことあたわず、これ西洋に結婚の遅き一原因なり。すでに新宅に居住すればこれを親戚朋友に報知し、その来訪を受くるなり。以上はイギリス国教宗における儀式風習なるも、自他の国においても大同小異なりと知るべし。

 (四)葬礼 葬式は西洋にありては習慣上午後と定まり、一時より三時までの間に最も多しとす。古代は寺院の境内に葬りしも、近年は市外に埋葬場を設置してこれに葬ることとなれり。その方法順序は国によりて多少の異同あり、かつ田舎と都府とはまた差異あり。しかれども総じてその儀式は簡略なり。これあえて西洋人の死後を顧みず、人倫の情薄きによるにあらず、社会の事情によりてしかるなり。わが国にては社会の事業いまだはなはだ複雑ならず間暇の時間多きも、西洋にありてはしからず。一瞬息の間をもなお争って、むなしく消光せざらんことをつとむるのありさまなり。故に葬礼に関しても自然に簡略に流れ、時間を徒費せざらんことを欲するなり。わが国においても近来その儀式の次第に簡略に移るを見るも、またこの理によるものなり。しかれば葬儀簡略なりとて、あながちに人倫の情薄きというべからず。また葬礼儀式を盛大にしてその忌日には種々の供応をなし、はなはだしきは豪飲暴食をなし夥多の金銭と時間とを消費するをもって、また決して人情の厚きものというべからざるなり。

 今、西洋葬儀のありさまを略述せしに、各町村に葬式取り扱い人なるものあり。人死すればまずこれに通知して万事を取り扱わしめ、家族親戚はこれに関係することなし。故に自家に死人あるも、なお商業を営むことを得るなり。かつ日本のごとく人死すれば僧侶きたりて通夜読経する等のことなく、ただ葬式の当日に読経するのみなり。親戚朋友はその当日に死者の家に至りて葬式の列に加わるあり、またただちに埋葬場に会葬するあり。西洋にて一般に用うる棺はわが国のものと大いに異なり、臥棺にして死人を棺中に仰向けて横臥せしむるなり。その大きさ人身を入るるまでのものにして大ならず。これ西洋は墓地広からずわずかに畳一枚敷きぐらいのものなれば、なるべく棺の面積を減じ、地を深く掘り数重の棺を積みかさねて埋葬するをもってなり。葬式の列には棺馬車を始めとし医師の馬車を最後とす。僧侶は宗派によりて異なるも、イギリス国教宗にては白衣を着し帽をいただき、寺院の住職一人もしくは小僧番僧のごときもの一、二人随伴することあり。田舎の葬式も大同小異なり。フランスにおいては道に棺馬車に遭遇すれば、だれにても必ず脱帽して礼をなすを見る。これ美風というべし。

 埋葬場 西洋においては往古ギリシア、ローマ時代には火葬盛んに行われしも、ヤソ教ローマに入りてよりは埋葬に変ぜり。しかしながらこの埋葬はヤソ教以前すでにユダヤ教の用いしところにして、紀元前一八六〇年ごろアブラハムのときより始まれりという。かつ最初は一定の埋葬地を設けざりしも、紀元二一〇年カルキスタス法王の時代に至り一定の埋葬場を設置せり。これを市内に設くるに至りしは紀元七四二年にして、寺院境内に設置せしは紀元七五八年なり。最近世に至りては市内は戸口稠密なるをもって余地少なく、かつ衛生上に害ありとて市外に設置することとなれり。しかれども田舎にありては今なお寺院境内を用うる所あり。イギリスにおいて埋葬場を内外に設けしは近年のことにして、紀元一六三二年ケンサルグリーン〔Kensal Green〕の設置をもって嚆矢とす。このケンサーグリーンの埋葬場はイギリス第一の広大なるものにして、その面積は建設の当時五三エーカーありて、現今その中に七万の墓墳ありという。要するに西洋の埋葬場ははなはだ広壮美麗なるものにして、あたかも公園のごとし。その場内には必ず寺堂あり、もって儀式を執行する用に供す。その寺堂また宗派によりて異なり、イギリスにありて国教宗の寺堂は非国教宗これを嫌い、非国教宗の寺堂は国教宗好まざるをもって、一埋葬場において二個の寺堂を設置せるものあり、また旧教の埋葬場は別に設置せる所あり。これみな各宗派相いれざるのいたすところなり。フランスにてはパリ市に二二の埋葬場ありて、そのうち特に大なるもの一カ所あり。市の東部絶景の地にありて、市街を一目の下に瞰することを得るなり。この場内にある墳墓の数は二万有余なりという。墳墓の装飾はまた宗派によりて異同あり。旧教は概して華美にして新教は質素なり、なかんずくアメリカ新教は粗略なり。墳墓の広狭はその国によりて異同あり。イギリスの首都ロンドン、フランスの都パリ等は土地の需用多きをもって、つとめて面積を減縮せり。ドイツの首都ベルリンはやや広き土地を占め、その墳墓はわが国のものと似たるところあり。フランスは旧教信者多きをもって、したがってパリの埋葬場の墳墓ははなはだ華麗なるもの多し。富商もしくは貴顕の墳墓は石室より成り、その内には礼壇、写真、花瓶、燭台、油画等、種々の装置あり。イギリスの墳墓はフランスのごとく広大華美ならざるも、平坦なる盤石を墓上にしき、その一方に高き碑を立て、死者の姓名および年月を記し、かつ美麗なる彫刻等あり。しかれどもわが国の碑のごとく堂々たる文章を記する等のことあらず。ドイツにては墓の上に銅石もしくは木をもって製したる十字架を立つるなり。イギリス、フランスまたこれを用うるものあり。

 葬式の際は棺を埋葬場の寺堂内の棺台に載せ、僧侶はまず読経し、終わりて棺を墳墓に持ち行き、墓所においてまた読経し、終わりてこれを埋葬するなり。旧教にては僧侶は空に十字をえがきて神水を棺にそそぎ、つぎに親戚等の会葬者またこの式を行う。葬儀すでに終われば会葬者は死者の家に集まり、茶を喫して遺言状を読む。そのとき財産分配について往々、兄弟親子の間に争論を起こすことありという。西洋においては墓地の価高くかつ年限ありて、その年限を過ぐれば墳墓をあばき、またこれを他に売却する等のことあり。貧民にして土地を購求することあたわざるものには、埋葬場の一隅にポーパー(Pauper)と名付くる場所を設けこれに合葬するなり。埋葬場はあるいは政府にて管轄するものあり、あるいは会社にて監督するものあり。イギリスにおいては多く会社の所有に属すという。

 イギリスにおいては有名なる学者、政治家、軍人の像をロンドン市内の名刹に安置す。名刹中にて最も著名なるものはウェストミンスター寺およびセントポール寺なり。ウェストミンスター寺はヤソ教ロンドンに入り、始めて建設したるものにして最も古き寺院なり。これらには古来の有名なる学者、政治家、文人等の像を置けり。すなわち理学者にてはニュートン氏、ダーウィン氏等、文人にてはチョーサー氏、スペンサー氏等、政治家にてはウィリアム・ピット氏、ワーレン・ヘスチング氏等の像を安置せり。セントポールはロンドン教区の本山にして、その堂内には有名なる軍人の像を安置す。すなわちネルソン氏、ウェリントン氏等の像あり。そもそもかくのごとく名刹中に古来の学者、英雄、豪傑の像を置くは、ただにその人の効績を紀念するためのみならず、教育上の奨励となるものなり。なんぴとにても、驚天動地の偉業をなせるものを見れば必ず奮励の心を起こし、学界を横行して芳名を万世に輝かせる碩学を見れば必ず志気を立つるものなり。

 上来社会の大礼たる産冠婚葬につきてその概略を陳述せり。今、要を挙げてこれをいえば、西洋の儀式は東洋に比すれば一般に簡略なり。もっとも古代にありては壮厳を極め華奢を尽くし、その結果ついにローマ滅亡の原因をなせり。このローマの滅亡とおよび新教の興起とによりて、旧教もその儀式やや簡略となり、新教に至りて特にはなはだし。けだしこれ世の進歩のしからしむるものなることは上に述べたるがごとし。かくのごとく西洋の儀式は世の進歩と伴いきたりしものなるも、現今に至りまたその弊害なきにあらず。すなわち西洋人が死者に対する感情の薄き、これなり。東洋主義はその反対の極端に走れるをもってもとより可とすることあたわざるも、西洋の人情をもって決して東洋より善良なりというべからず。まず東西両洋の主義の異なる原因を考うるに、西洋にありては親は子を養育成長せしむべき義務あるものなり。もし父母老いて余産なく、子の補助を受くるがごときは父母の恥辱なりとす。しかるに東洋にては親は子を養育すれば、子はこれに奉事するの義務ありとす。故にもし父母老いてその子これを養うあたわざるときは、子の恥辱なりとの観念を有す。かくのごとく一家の情義の根本東西全く異なるをもって、政治道徳等すべて両洋の主義全く反対の地に立てるに至る。しかしてそのいずれが是なるやは容易に判断すべからず。なんとなれば、すでに根本の標準全く異なれるものなれば、まずその標準の可否を判定せざるべからず。しかるにこの可否を判定することははなはだ困難なることにして、「郷に入りては郷に従え」の格言のごとく、おのおのその国の歴史および国情を参考せざるべからず。しかして西洋において宗教上父母の葬祭等の簡略なるも、上にいえる事情よりきたれるものにして、これすなわち西洋の国情に応ぜるものなれば、単に不義なりというべからず。ただに葬祭のことのみならず、万事父祖に対する情および子孫に接する心は東西大いに異なるところあり。局外に立ちてこれをみるに、東西ともに一方の極端に走るもののごとし。父母にして子を産めば、これを養育する義務あるや明らかなり。しかるにその子壮年に至れば、親は早くも退隠し単にその子に依頼して生活せんとす。これ大いにその子の学術上の進歩、職業上の発達を妨ぐるものなり。西洋にてはその子の学業成り自ら生活するに至るも、親のその上に依頼することなきをもって、その子の研学、修業にますます進達することを得べし。東洋において早くその子に依頼するは事情のやむべからざるものあるべしといえども、なんの事情なくしてただ早くその子により、自己は退隠せんとするは、もとより不可なりといわざるべからず。しかれどもまた西洋のごとく親子互いに相依頼せず独立独行を目的とするも、またその極端に走るものといわざるべからず。思うに将来必ずわが国の風俗に一大変動をきたすの日あらん。このときに当たりて西洋の極端に走らず、東西折衷の正路を取るを要するなり。

       二 宗教的儀式

 上にいえるごとく社交的儀式には宗教的儀式混淆せるものなれば、これと同時に宗教的儀式にはまた社交的儀式の分子を含めり。けだしこれ宗教は風俗人情を支配せるものなれば、多少両者の混入せるは免るべからざることなり。その社交的儀式はすでに論述せるをもって今、宗教的儀式をのべんに、宗教的儀式はこれをサクラメント(Sacrament)という。これに七種あり。第一、洗礼式(Baptisma)、第二、確信式〔堅信礼〕(Confirmation)、第三、餐礼式〔聖餐式〕(Lord's Supper)、第四、懺悔式(Penance)、第五、得度式〔叙階式〕(Ordination)、第六、婚礼式(Marriage)、第七、油礼式〔塗油式〕(Extreme unction)なり。旧教およびギリシア教にてはこの七種の儀式を用うるも、新教諸派は洗礼と餐礼との二種のみを用い、クエーカー宗は一種の儀式をも用うることなし。この七種の儀式中、洗礼と婚礼と確信式とは社交的儀式においてすでに陳述せり。故にここにはただ他の四儀式のみを述ぶべし。

 (一)餐礼式 この儀式はヤソ教において最も重要なるものにして、旧教にてはこれをマス(〔Holy〕Mass)〔ミサ・Missa〕と称し、新教にてはロード・サパーといい、イギリス国教宗にてはホーリィ・コミュニオン(Holy Communion)と称す。この儀式はヤソ・キリストすでにこれを行えり。『新訳全書』マタイ伝二六章に曰く、(前略)「食するとき、ヤソ、餅を取り(祝して)これをさき、門徒にあたえて曰く、取りてこれを食らえ、これすなわちわが身なり。また、杯を取り祝い謝して衆にあたえて曰く、なんじみなこれを飲め、けだしこれすなわちわが新約の血は、衆のためにして流し、もって罪をゆるすをいたすものなり。」(食時耶蘇取餅而擘之予門徒曰取食之此乃我身也。又取杯祝謝而予衆曰爾皆飲之蓋此乃我新訳之血為衆而流以致赦罪者也。)〔哲学堂文庫所蔵の『新約聖書』では、*1=穌 *2=取餅祝而 *3=約〕と。これ餐礼式の起源なり。この餐礼式においてパンを食しブドウ酒を飲むことにつきてはその解釈種々あるも、これ神学上の問題なればここに述ぶるの要なし。ただその大要をいえば、旧教にてはそのパンと酒は真に神の血および肉に変質するものと信じ、ルーテル宗にてはパンと酒は実際神の血肉に変質するにあらざるも、これによりて神と通ずることを得るものとなせり。あるいはこれをもって唯一の儀式にとどむるものとなせる宗派あり。

 (二)懺悔式 これを儀式として用うるは旧教に限る。ギリシア教もこれを用う。この儀式は神前において既往の過失を懺悔し、神の救助を請うものなり。その懺悔をなすの方法規則は種々ありて、あるいは断食するあり、あるいは巡拝する等あるも、その要は罪悪を消滅するためなり。

 (三)得度式 この得度式は僧門に入るときに行うものにして、制度上に関するものなれば後に制度の部に至りて更に陳述せんとす。ただ儀式としては教正が入門者の頭上に手を加うるのみなり。この儀式は旧教のみならず、イギリス国教宗においても用うるなり。しかれども他の新教は更にこれを用いず。けだしアメリカ風の新教に僧俗の間に区別階級なければ、僧侶になるの儀式別に存する理なきなり。

 (四)油礼式 この儀式は旧教およびギリシア教において用うるなり。その法は人のまさに死なんとするに際し、手を油に浸し病人の身体の各部に十字の点潅を施す式なり。けだしこれ一には罪垢を洗除して神の救助を得るを意味し、あわせて病症の快復を意味す。ただしこの式は重病のものに限るなり。

 以上宗教的儀式を陳述し終わるも、なおこれに付加して述ぶべき儀式あり。これをパルガトリー(Purgatory)という。すなわち人の死していまだ他の世界にいかざる間に読経するの式なり。けだし旧教にありては人の死してなお宇宙に彷徨するの間読経供養せば、いくぶんかその人の罪障を減ずることを得べしと想像するより起こるものなり。

 およそいずれの国においても儀式は多少宗教と混同せるものなるが、西洋は特にはなはだし。けだしこれ、西洋各国はその始め一宗教の支配を受けたるに起因せるものなり。昔時ヤソ教のローマに入りて公許せらるるや、数世の後ローマ法王は非常の権力を得、ただに宗教上のみならず政治上においては欧州各国の王公を支配し、各国王は即位を始め万般のことみな法王の裁可を仰ぐに至れり。かくのごとくヤソ旧教は長く欧州の政教の全権を掌握せるをもって、その後ローマの瓦解をきたし各国独立しておのおの一派の新宗教を奉ずるに至りても、民間においてはなお旧教の儀式を伝えて一般の風俗となすもの多し。また民間の大祭のごときはみな宗教に関係を有せざるなし。一年中の大祭、大祝日はヤソ降誕日と上天日なり。誕生日のことは前すでに述べたり。上天日は最初一定の期日なく、三月二一日より四月二五日までの間のある日曜日をもってその日と定めたりしが、その後紀元三五二年においてローマ法王の命によりユダヤ暦を用い、上天日を一定してその暦の一月一四日以後にきたる最初の日曜日となす。この上天日の前四〇日間をレントと称して、斎戒沐浴し、断食をなし、晩餐に生肉を禁ずる等のことあり。故にこれを訳して四旬斎という。そのことは前すでに一言せり。

 

   第四段 宗教の功用

 世に宗教あれば必ず教会を組織し寺院を設立して安心立命を講ずるに至る。故に余はこれより寺院の功用を述べんとす。

 (寺院の功用 第一) 宗教上にありてその直接の利益は精神に快楽を与うることなり。たれびとにても真に深く宗教を信ずれば必ず愉快を精神上に感ずるものにして、寺院はその機関その媒介となるものなり。しかるに人あるいはいわん、もし果たして宗教の性質として愉快を人に与うるものならば、寺院なきも差し支えなかるべしと。曰く、しからず。とかく人心は変化しやすきものにして、その境遇に影響さるること実に大なり。故に特別に宗教の心を誘起するには、これを養成する特別の場所を要すべし。これ寺院の必要なるゆえんなり。あたかも上戸の酒店の前を通行せば酒にのみ心を傾け、婦人の呉服店の前を過ぐれば衣服のことのみを考うると同じく、人にして寺院に至れば自然に宗教心を引き起こすものなり。寺院には礼壇あり偶像あり経文あり、その他一切の儀式装飾はみな宗教心を喚起するの誘因となるべきものなれば、宗教心を起こさしむるには最も適当なる場所なりとす。故に信徒は朝夕寺院に行き礼拝供養をなし、もってこの宗教心を練習し、ますます強固ならしむべし。しかれども道路の遠きため、あるいは繁忙のために朝夕寺院に至ることあたわざるものは、一〇日に一度、もしくは一週間に一度、寺院に行きもって宗教心を練習せざれば、宗教心は漸々消滅しあるいは全くその跡を絶つに至るべし。しかるにまた寺院の外にその一部を自己の家中に設けて朝夕これを礼拝し、もって宗教心の練習をなすものあり。これ民家に内仏もしくは神棚なるものの起こるゆえんなり。

 およそ人生究極の目的たるや快楽を得るにあり。しかして快楽に肉体上の快楽あり、精神上の快楽あり。衣食住によりて得るところの快楽は肉体上の快楽なり。また有形的学術、器械学、製造学、医学等は、主として肉体上の苦痛を脱し快楽を与うるを目的とす(多少精神上に関係せるも主とするところは肉体上にあり)。故に世のいわゆる技芸もしくは実業等は畢竟、肉体的快楽幸福を与うるものなり。しかれども肉体上の快楽は、これを求めて人ことごとく得ることあたわず。貧者はなにほどこれを求むるも、衣食住の快楽を得ること難し。富者は衣食住の自由を得るも、なお病患の苦痛を免れ難し。畢竟人類の要求する快楽は無限なれば、外界はこれに満足を与うることあたわざるなり。故に肉体上の快楽は無限に求め得べきものにあらざるなり。しかるに精神上の快楽はよく人を満足せしむるものにして、これを与うるは実に宗教の本務なりとす。これ人類に宗教の必要なるゆえんなり。しかしてこの精神上の快楽は肉体上のごとく階段あるものにあらず、貧人も富者も賢不肖みな同等にこれを求め得るものなり。かの肉体上の快楽も一時は人に満足を与うることを得るも、その前後はかえって一層の苦痛を増すこと多し。しかるに精神上の快楽は平常に無限の快楽を与うるものにして、遭難苦痛の間なお継続することを得るものなり。故に世人は一般に災難病患にかかりて始めて宗教心を起こすものとす。これ宗教は苦痛患難を慰安するに功用あるによる。しかして世人はその強壮、平安、得意の日にありては更に宗教の必要を感ぜず、かえってこれを無用視し有害視し、一朝悲哀の境遇に接するに及びにわかに宗教心を起こすを常とす。古来はなはだしき排仏家にして一朝愛子を失い、もしくは不時の変に会して急に宗教信者となりしものあるは、この理由によるなり。されば宗教の必要なることは必ずしも毎日その用あるにあらず。しかして平日はただその精神の帰着するところを定むるのみ。ただに宗教のみならずおよそ世間に用ありと称するもの、必ず常に用あるにあらず。医薬は必ず用あり、もって人の生命を救うべし。しかりといえども、この医薬また必ず平日服用してその利益を見るべからず、否かえって害を招くことあり。宗教またかくのごとく、宗教の必要なるはむしろ失意のときにあり。故に得意の際にその利益を見ること少なし。しかりしこうして、失意の事情は不時に吾人の身上に発現しきたるものなれば、そのときを待ちて宗教を信ぜんか。これあたかも盗人を捕らえてのち縄を製すると同一般にして、あにそのいとまあらんや。故に吾人は平常無事強壮のときにおいて宗教心を練習し、不時の変難に備うる覚悟なかるべからず。世間に寺院の存するは全くこの準備をなさんとするによる。かつ人はこの社会にありて日々業務に鞅掌するや、必ず身心の疲労をきたすべし。その疲労は市中雑沓の地もしくは民家陋醜の場所にありては休安を得ること難し。これをもって静閑清潔なる寺院に行き、もって精神の安逸を求むるなり。故に寺院は精神休息所もしくは安心練習所と称すべし。これその功用の第一なり。

 (寺院の功用 第二) つぎに教育上に有するところの間接の利益を挙ぐれば、寺院は道徳練習所というべし。道徳練習のことはもとより精神休息、安心練習等と結合せるものなりといえども、今全くこれと目的を異にしたる点より論ずるも、寺院は道徳練習の効能あるものなり。すなわちこの効能は寺院が教育上に関係して有するところのものなり。そもそも教育とは短簡にいえば、その目的人をして完全の人たらしむるにあり。すなわち智徳兼備、身心両全の人を養成するにあり。しかして教育の語はその意広くして万事万物の上に適用すべきも、普通に教育と称する意味は主として学校教育を指すなり。もとより学校は教育のために特に設けられたる場所なるには相違なしといえども、この学校教育のみをもって人をして完全の人たらしむることあたわず。なんとなれば、幼童の学校に上がるや六歳以後数年の間に過ぎざれば、この短日月をもってなんぞ智徳兼備、身心両全の人をつくることを得んや。しかしてかくのごとき人をつくるには、学校教育の外に家庭教育、社会教育等を要することもちろんなり。およそ人は家庭にありては父母兄弟の教育を受け、社会に出でては知己朋友の教育を受けざるべからず。たとえ学校に在学する間にても教師より直接に受くるところのものの外、広く朋友に交わり多く世人に接して受くるところのもの、いたって大なり。故にただ学校のみにては教育を完成することあたわざるや明らかなりというべし。しかしてこれら諸種の教育上において最も力あるものは寺院なりとす。なんとなれば、人の教育は智育にせよ徳育にせよ、四囲の事情に影響せらるること大なるものにして、まず家庭教育において必須のものは、土地の高燥にして静閑なると、家屋の清潔にして広壮なるとにありとす。しかるに普通の民家にては以上の諸事情をことごとく満たすことははなはだ困難なることなり。ひとり寺院は一村一郷中最も高燥静閑の地にあり、かつ最も広壮清潔なるものなれば、よくこの事情に適合するものなり。故に古来民間一般の風習として、父母は必ず児童を携えて寺院に行き、知らず識らずの間に教育を与えたるものなり。世に富豪の家は以上諸事情に適合すること寺院と同一なるものなきにあらざるも、富者はおおむねその生計驕奢を極むれば、児童がその家にありて日夜見聞するところのものは、決して道徳心を喚起せしむるに足らざるなり。あたかも料理店にありて道徳練習をなさんとすると一般なり。故に貴賎貧富の別なく寺院は家庭教育上に大いに裨益を与うる、疑いをいれざるなり。かつこの家庭教育を完全ならしめんとせば、まずその教育者たる父母を教育せざるべからず。しかしてまた寺院はこの父母をしてその教育の程度を進め、道徳心を養成せしむることを得るなり。

 上来寺院の教育上に大関係あることを略述せるも、更に徳育に関して一言せざるべからず。そもそも徳育を進むるは、到底学校教育のひとりよくすべからざるところなり。なんとなれば、学校教育の方法たるやもっぱら智識開発を目的とし、その主とするところは智力を養成するにあればなり。もとより学校教育も徳育に関係なきにあらざるも、その方法の知力的なることは免るべからざることなり。もしそれ道徳そのものの性質につきていうときは、智力よりはむしろ感情に属するものにして、理論よりはかえって実際に属するものなり。これを実際に属するものとなすときは智、情、意の三者中にて道徳の作用は意力に属さざるべからず。しかしてこの意力をして十分に働かしむるものは習慣の力なり。善悪の学理は人智の進歩とともに明了となるべきも、実際上これを履践することなくんば、道徳なんの用かあらん。世人の往々善悪を識別しながら悪に誘導せられて善を行うことあたわざるは、これ意力の薄弱にして断行の力に乏しきによる。この断行の力に乏しきは習慣のいまだ熟さざるに由来す。もし習慣熟するときは決行すること容易なるに至るべし。たとえば朝の早起きはだれも衛生上に益あるを知るも、これをなすことあたわざるは習慣なき故にして、早起きが習慣となれば、いかに夏の短夜にても早起きすること容易なるがごとし。しかしてこの習慣は短時間の経験をもってなし得べきことにあらず、必ず長時間の経験を要するなり。果たしてしからば、学校教育のごとき限りある短時間をもって、到底道徳性を慣成することあたわざるや明瞭なりというべし。故に平常寺院にありて道徳の練習をなし、もって習慣性を養成することは実に必要なることあり。

 ある論者曰く、学校教育は決して徳育の目的を達することあたわず、ただよくこれをなすものは宗教あるのみ、故に学校内に礼拝堂を設け、もって生徒の道徳を養成すべしと。しかれどもこの説たるや深く考察せざるべからず。もしこの説のごとくんば、寺院の外に学校を建築するは無益のことにして、むしろ寺院をもって学校の用に供すべしというに至るべきも、余をもってこれをみるに、教育と宗教と混同することは果たして策の得たるものなるや否やは即時に断定すべからず。もとより古昔にありては東西両洋ともにこれを混同せり、わが国の寺子屋のごときこの類なり。これ古代は分業いまだ盛んならざりしをもってのみ。しかして今日は世の進歩とともに分業いよいよ進み、したがって寺院と学校との間にも分業の行わるるに至れり。故に今日にありてはなんぞ再びこれを混同するの必要あらんや。けだし学校教育は智力上に訴えて道徳を奨励し、寺院教育は全く感情上より道徳を進めるものにしてその主義を異にせるものなれば、分業上その二者を別途に置き、子弟たるもの学校に入りてはその智力を練り、寺院にありてはその感情を和らげ、もって道徳を修習するときはかえって好結果をきたすに至るべしと信ず。たとえば一日中において全く情緒に関する書と全く智力に関する書とを読まんとするには、その時間を異にし場所を異にするをかえって便利なりとするも同一理なり。故に宗教と学校とは互いに分離して、互いに相助け相待つことを期すべし。

 (寺院の効用 第三) つぎに寺院は政治および社会上に与うるところの効用あり。その効用は主として世人の交際を結合する媒介となるをいう。これさきにすでに宗教と政治との関係を論じたる際陳述せしも、更に重複をいとわずここに略言すべし。けだし人類は自他おのおのその利害を異にすることはなはだしきものなれば、理論の衝突は自然に人間をして分離せしむる傾向を有するものなり。故に理論一方によりて結合せんとするもその功なきものにして、必ずその間に人情なる親和力ありてこれを結合せざるべからず。これをもって、表面上学術もしくは政治法律のごとき厳格なる理論的制裁を有する裏面には、必ず感情のごとき一種の調和剤ありて、もって社会の団体を形成するに至るべし。これ宗教の社会進歩に必要なるゆえんなり。今、一家につきてこれを見るも、父子夫婦の間互いに同等同権の理論を述べ立てたらんには、決して一家親和することを得べからず。必ず道理の外にこれを結合する愛情ありて、よく一家団欒の和合を見るなり。一国あにこれに異ならんや。しかして感情を支配するものは実に宗教の力なりとす。もし社会にしてこの力なく、ただ実利一方の主義人心を左右するに至らば、昔時野蛮の社会に立ち戻るの外あるべからず。利といい用というは主として智力上のことなり。現今西洋の器械的の文明によりて利用厚生の学術大いに進み、吾人は現にこれによりてその利を得るも、これみな利用を目的とするもののみ。故に利用の点よりこれを見れば、その必要なることもちろんなりといえども、ただこれのみにてはいまだ社会の完成を期すべからず。けだし東西文明の差異は主としてこの点にあり。特にわが国の文明のごとき、その主要なる性質は用にあらずして美にあり。故に西洋の文明は用に偏し、東洋の文明は美に僻したるものというもあえて不可なきなり。すなわち東洋にありては用を主とすべき部分にまで美を用い、西洋にては美を主とすべき部分にまで用を用う。たとえば画は美術なり、故にその目的とするところは風趣雅致にありて、なるべく人の感情想像を鼓舞して美術快楽の念を起こさしむるものならざるべからず。しかるに西洋においては美術中に多少器械的の性質を混入し、大いに風致を減殺することあり。これに反して東洋にては用を主とする食物中に、多少美術思想を混入するを見る。たとえば日本の料理の刺身、口取りの類、その排置、色どりのごときは美術の趣向を帯ぶるものなり。西洋人のわが国の料理を指して美術的料理というも無理ならぬことなり。東西の文明はかくのごとくおのおの一方に偏するところありて、いまだともに完全と称すべからず。真正の文明はこの二者を兼ぬるを要するなり。すなわち智に属する文明と情に属する文明とを併存せざるべからず。故に社会の発達進歩には智情二元素の両全を要すること明らかなり。これによりてこれをみるに、社会、政治、交際上にありて法律学術の外に、親和結合を目的とする宗教の一元素の加わらざるを得ざることまた明らかなりと知るべし。

 そもそも政治上にありては人に貴賎の階級を立て貧富の待遇を異にし、華族といい士族といい平民というがごとき区域あれば、自然の勢いその間に不和を生ぜざるを得ず。しかるに教会にありては貧富貴賎の区別をなさず、上下智愚みなもとより同等同種とみなすをもって、各信者の間に秋毫の隔歴あることなく、相ともに席を同じうし、相ともに手を携えて同情一味の交誼を通ずることを得べし。これ宗教の社交上の媒介をなし、上下貧富の間を連絡するゆえんなり。また社会にありてその職業を同じうするものはその間互いに交際することあるも、その職業を異にせるものに至りては自然疎遠なるものなり。しかるに教会は士に商に農に工に、その職業のなんたるを問わずみな同一の権利をもって組織するものなれば、自然に異職業者の間に立ちて交際の媒介をなすことを得べし。また政治上においては男女老少の区別ありて、その間おのずから隔離するものなり。たとえば男子は政治に関するも女子はこれに関せず、老者は常に退きて壮者ひとりことをとるがごときこれなり。しかるに教会はこの懸隔を去り、老若男女同じく一堂に会して互いにその情を通じ、ともに親睦を結ぶことを得るものなり。これにつき一言すべきは、近来説をなすものありて曰く、わが国人はその習慣として男女間の隔絶特にはなはだしく、男の集まる所には女の至ることなく、女の行く所には男のきたることなし。男女の間全く交際を通ずるの便なかりしも、西洋はこれに反して男女間の交際密にして、常に同所に相会し親睦をなすの風習なりと。これ全く日本の事情を知らざるものなり。西洋にありても男女の交際を通ずるは主として教会の媒介によるものなり。政治上においては男女その職務を一にせざるがごときは、あえて東洋と異ならず。宗教上においてはわが国といえもど男女相ともに一堂に会して、礼拝を行い説教を聞くことは古来の風習なり。世人はわが国の宗教を度外視して眼中に置かず、ただ政治上一方よりわが国情を見るが故に、かくのごときの妄評を与うるに至るなり。また政治上の区域は教会の組織を異にして、一村あればこれを支配するの役所あるも、その役所の権は隣村に及ぶことなし。故に自然隣村と交通上疎遠に傾く勢いあり。しかるに教会の区域は全くこれと異なり、自村他村の区別なくただ同志相集まるものなるをもって、自村と他村との間の交際を親密にすることを得べし。なお広くいえば、政治上には村の上に郡あり、郡の上に県あり府あり、これを統治するの官庁ありてその区域を異にし、一者は他者に関渉することなく、かつ地方人は地方政府の管轄内にあるをもって、人民直接に中央政府との間に関係を有することなしといえども、宗教上においては教会の組織数村にまたがり数郡数国に及ぼし、中本山あり大本山ありてこれを統轄し、一地方の人民は他地方に動き、もって見聞を弘め智識を進め、各地の事情全国中に通ずるの便あり。

 以上述ぶるごとく教会の世間を利する点は、これを要するに左の四条なり。

  第一条 貧富貴賎の間に交情を通ずること

  第二条 異職業の間に交際を開くこと

  第三条 男女老少の間に交誼を結ぶこと

  第四条 各村各地の間に事情を知ること

 これ教会が政治を助けて世間を利するゆえんにして、国を治むるにも宗教の親和力を要するゆえんなり。なおさきに論述せる宗教政府の組織論の結論を参考すべし。この政治上の利益とかの教育上の利益とは宗教が世間に与うる間接の功用にして、これに直接の利益を加うるときは左表のごとし。

  宗教功用 直接(安心立命)

       間接 教育上(道徳練習)

          政治上(交際結合)

 そのうち安心立命は宗教の本分にして、その世間を益するやいかんは余が弁解を待たずして明らかなり。

 

第五段 宗教の歴史

 これより宗教の歴史を講ずる意なるも、宗教歴史は別に一科の学として講ずべきものなれば、ここにただ各宗教の大意を述べてその責をみたさんとす。しかしてその宗教はヤソ教に限るにあらずユダヤ教、回教、インド教等をもあわせて述ぶる意なるも、上来もっぱらヤソ教の制度を講じたるをもって、まずヤソ教のことを述ぶべし。

 そもそもヤソ教はヤソ・キリストより起こり、『新・旧両約全書』をもって一宗の本経となし、最初は宗派の別なく世間に伝播せしが、数百年を経てようやく異論を唱うるものあり。分かれて二派となり三派となり、今日に至りてはその派の多き一〇〇をもってかぞうるなり。その諸派、ある点においては全く反対の主義を取り、ある点においては互いに一致するところなきにあらず。その一致せる点をあぐれば、第一にヤソ教は天神の教にして天神より起こること、第二に天神の真に存在すること、第三に人類は天神の創造より出でたること、第四にヤソは神と人との間に立ちて天神の意を人に示せること、第五に死後の未来賞罰あること等なり。これ諸派の一致せる点にして、ヤソ・キリストをもって開祖とし『バイブル』をもって本経とするに至りては諸派同一なり。しかして天神とヤソとは父子の関係を有すること、一宗の総管長を定むること、その他、滅罪、信心、修行、儀式等に至りては諸派同一ならず。したがって『バイブル』の解釈も諸派多少の異説を有す。これ諸派の分かれしゆえんなり。

 ヤソ教の歴史は史家の説に従って一定せず。今一、二の説に従えば、第一にヤソ立教のときより新教の乱までこれを六世期に分かつ。すなわち左のごとし。

  第一世期 初め三〇〇年間、すなわちヤソのときより紀元三一二年に至る。

  第二世期 ローマ、ディオクレティアヌスの朝、ヤソ宗徒を処刑せるときよりグレゴリウス〔第一世〕大法王のときに至るまで、すなわち三一二年より五九〇年に至る。

  第三世期 グレゴリウス大法王のときよりカール大帝の死時まで、すなわち五九〇年より八一四年に至る。

  第四世期 カール大帝の死時より法王グレゴリウス第七世に至るまで、すなわち八一四年より一〇七三年に至る。

  第五世期 グレゴリウス第七世より法王ボニファティウス第八世に至るまで、すなわち一〇七三年より一二九四年に至る。

  第六世期 ボニファティウス第八世より新教の乱に至るまで、すなわち一二九四年より一五一七年に至る。

 また一説によるに、ヤソ立教のときより今日までを四世期に分かつ。すなわち左のごとし。

  第一世期 ヤソ立教のときよりローマ大帝コンスタンティヌスのときまで、すなわち紀元三二四年まで。これヤソ教のいまだローマ政府の公許を得ざりしときなり。

  第二世期 コンスタンティヌス大帝のときより偶像争論のときまで、すなわち三二四年より七二六年に至る。これヤソ教の公許を得てローマ帝国にその勢力を得たるときなり。

  第三世期 偶像争論のときより新教の乱まで、すなわち七二六年より一五一七年に至る。これローマ法王の威権最盛のときなり。

  第四世期 新教の乱より今日に至るまで、すなわち一五一七年以後。これ新教次第に勢力を得、旧教次第に衰えたるときなり。

 今、余が講義の目的はヤソ教史を説くものにあれば、かくのごとく世期を分かちて講述するを要せず、ただ各宗派につきてその起源発達を略言せんと欲するのみ。しかしてその講述の順序は左のごとし。

  第一、 ローマ宗すなわち旧教

  第二、 ギリシア宗すなわち東宗

  第三、 アルメニア宗

  第四、 ルーテル宗(新教)

  第五、 カルヴァン宗(新教)

  第六、 エピスコパル宗(新教)

  第七、 その他新教諸派

 故にまずローマ宗のことを述ぶべし。

       第一 ローマ宗(Roman Catholic)

 ローマ宗はローマン・カトリック教と称すれども、その名称は新教より与えたるものにして、本宗にては単にカトリック教という。これヤソ教の本宗にして、自余の諸宗はみなこの宗より分派せるものに過ぎず。まずその宗の他宗に異なる点は、ローマ法王を奉戴して一宗の総管長となすにあり。そもそも法王は法脈相承の主意に基づきヤソ教の本義を世々伝灯相続するものにして、ヤソ徒弟ペテロをもって第一世とし、その後相伝えて第二六三代なる当代法王レオ一三世に至る。当時ローマの大本山の位置はペテロ死刑に処せられし地なりとの伝説ありて、その堂内にはペテロの像を安置す。ペテロ以後二、三百年間は宗教史上に見るところのもの明瞭ならず。けだしそのローマ帝国ヤソ教を厳禁し、しばしばその信徒を死刑に処せし等のことありて、秘密に民間に流布したりしによる。しかして帝国の公許を得て公然布教するに至りしは、第四世紀すなわち紀元三〇〇年代コンスタンティヌス大帝のときなり。帝はみずからヤソ教に変宗し、帝国をして一時にヤソ国とならしめたり。故にこのとき始めて寺院を建設し金銀、財産、位官を寺院および僧侶に賦与し、その組織のごときは全くローマ政府に模擬し、僧官寺法等このとき始めて起こる。けだしローマ法王が他の教正の上に位して宗権をとるに至りしは、このときに始まりしというべし。しかれども当時は法王の階級他教正の上に位せしのみにして、実際の権力に至りては等差なかりき。しかるに年月を経るに従い自然の勢いその権力ようやく他教正を制御し、一宗の全権を掌握するに至れり。かくして東部の教正すなわちコンスタンチノープル府の教正は同等同権を主唱して大いに法王の権力に抵抗せしが、ついに四九六年カルケドン会議によりて、ローマ法王とコンスタンティノポリス教正とは位階の外すべて同等の権力を有するものなることを決定せり。しかれどもその後法王の威権次第に増長し、天下に法王と帝王と二主あるのみにして、そのうち法王は帝王より一層尊重なるものというに至れり。すでにして五九〇年グレゴリウス大法王位につくに及び、法王の権力一宗を総轄しあわせて世俗世界に及ぼし、諸国の君主の上に立ちてこれを指揮するに至れり。これよりローマ法王は純然たるヤソ教世界の帝王となれり。かつ本宗に偶像を拝し霊跡を巡り墓参、祭式、その他種々の礼拝儀式は大抵みなこのときに始まる。寺院をもって罪人悪徒の隠退する所となし、ひとたび寺院に入るものは法律をもって罰すべからざるの風習を起こせるはまたこのときなり。かくして第七世紀すなわち紀元六〇〇年代はローマ国王次第に法王の管轄に属し、第八世紀に至り偶像廃毀論起こり、その結果ヤソ教東西両部に分かるるに至れり。東部はすなわち今日のギリシア宗なり。その本部はコンスタンチノープル府にありて同府の法長(パトリアーク)その主位を占め、全くローマ法王の管轄を離れて独立し、偶像を寺院より除き去りてこれを崇拝することを厳禁せり。このとき東西両部の間に戦乱を生ずるに至れり。すなわち東部にありてはロンバーデ国王、偶像廃毀論を唱え、西部にありてはフランク国王ピピン、つぎにカール大帝、ローマを助けて兵を起こし、その結局東西両部おのおの独立するに至れり。東部はすなわちギリシア宗なり。西部にありては当時ローマ法王の権力いたって盛んなりしもいまだその最上に達せざりしが、第九第一〇世紀の間は暗世の中夜に当たり、文教全く地を払い道徳遠く跡を絶ち、愚民の輩は妄信の極に達し、僧侶は私欲をほしいままにし内には妻妾を蓄え外には暴行を極め、法王相続のごときは暗殺毒害の方法を用い、宗教域内に修羅場を開くに至れり。史を読みてここに至るもの、悄然として恐れざるものなし。このときに当たり一大目的を抱きて法王の位に昇り、史上に新世期を開きたるものグレゴリウス第七世にして、その即位は一〇七三年なり。この法王は一方には宗風を改良するの計画を起こし、一方にはヤソ教世界ことごとく法王政府の臣下となさんとするの目的を有し、第一に着手したるは官位売買と妻妾私蓄の改良なり。この法王の勢力政治社会を圧倒し、各国の君主を進退するに至れり。つぎて第一二および第一三世紀の間に十字軍の起こるに当たり、法王みずから兵士を指揮し欧州兵馬の権を掌握し、各寺院夥多の領地財産を有するに至れり。十字軍の終わりにあたりインノケンティウス第三世は一種の見識を有する法王にして、宗義上の新問題を起こし新儀式を作り、僧風寺弊上に改良するところありて托鉢僧の制を組織せり。宗教裁判所を置きて異教徒を糾問せるも、この法王の組織するところなり。その後故ありて法位を両所に置き、一時は二法王もしくは三法王の並立せることありしが、一四一四年のコンスタンツ会議によりて一法王に帰するに至れり。これよりさきに古文学再興の期に際し文教始めて民間に起こり、学校を建設し書籍を発行するがごとき事業大いに起こりしも、宗教内にては依然として旧習を固守し、人民の思想の大いに変更せるも全く知らざるもののごとくありし。かくして一五世紀中に宗教改革の必要を論ずるもの諸方に起こるに至りしも、法王はこの異論を鎮定するは圧制より外に良策なしと信じ厳刑苛法を用いて抑制せしも、第一六世紀に至りては苛法もその功なく新教の争乱を諸邦に見るに至り、ついに一五四五年有名なるトリエント会議を引き起こすに至れり。その後数十年間の騒乱を経て新教の諸宗各国に独立し、ローマ法王の権力大いに減じ、今日に至るまで記すべきほどのことあらざるなり。

 以上はローマ宗歴史の大略なり。今その礼拝式を考うるに、洗礼式、確信式等の二種あることはさきに儀式を論ずる際にすでに略述せり。またその宗にて餐礼のときにパンと酒を神前に供するは、その二種が神の肉身と血液に変体すると立つることもさきに述ぶるところなり。その宗の堂内にはヤソおよびその母ならびにその徒弟の偶像を安置し、これを祈念すれば相応の福利ありと信じ、徒弟および高僧の遺骨は尊重に保存しその忌日を紀念し、死後の供養は冥福のために必要なりと考え、ローマの本山をもって各寺院の父母とし、法王をもって神の代理者とし、巡礼納金等は信徒の神に対して尽くすべき行為なりと信ずるなり。

       第二 ギリシア宗(Greek Church)

 ギリシア宗すなわち東宗〔東方正教会〕は一名正教(Orthodox)と称し、ヤソ教の一宗にしてローマ法王の管轄を離れて東方に独立したる一宗なり。その独立したる原因は、政治上にてローマ帝国東西両部に分かるるに至り、西ローマはローマ府に中央政府あり、東ローマはコンスタンチノープル府に政府ありて、東西両立せるをもって、その宗教は東西同じくヤソ教なれども、法王の位置はローマ府にありてローマは宗教世界の中央政府なるがごとき勢いありしをもって、自然の勢いコンスタンチノープル府の法長これと対立して権勢を争うに至り、ときどき争論のその間に起こるありて、ついに紀元八〇二年フォシュス〔タラシオス〕法長のときに大争論を起こし、その後いったん和解したりしも第一一世紀において再び大争論を起こし、一〇五四年において法長セリュフリュス〔ミカエール一世〕のときに始めて東部に一宗の独立を見るに至れり。この独立したるものをギリシア宗という。およそその宗のローマ宗に異なるは主としてローマ法王を奉戴せざるにありて、その宗の組織は貴族政治の形を有し、コンスタンティノポリス法長を首座として四人の法長ありておのおの同等同権を唱え、一宗の大事は法長間に設くるところの会議によりて決する規則なり。これに反してローマ宗は君主政治の組織を用い、法王は一宗中の君主もしくは帝王のごとき権力を有するものなり。これ宗教組織上の異同なり。その他その主義とするところ両宗大いに異なり、まずローマ宗にては法王をもって神の代理者となし、これに対して奉納供養するは信者が神に対して尽くすべき義務なりと信ずれども、ギリシア宗は全くその説を用いず、またローマ宗は諸聖者が修めたる善行の余徳は吾人の身に受くべきものと信じ、またこの世にありて神を信仰すれば現世世界の罪悪をほろぼすことを得るというがごとき説を唱うれども、ギリシア宗は一もその説を用いず。ローマ宗は偶像を崇拝しヤソの母および徒弟の諸像を尊奉すといえども、ギリシア宗は画像を用うるのみにて他種の偶像を用いず。その他両宗の間に二、三の異説あるも、要するにギリシア宗はローマ宗に一段の改変を加えたるものなり。しかして礼拝式のごときはこの宗においてもローマ宗のごとく七種を設くるも、洗礼のごときは全身を三回水中に浸すをもって通式となす。また餐礼のときに用うるブドウ酒には水を混和する制規なり。油礼は病人等に用いて肉身上の病を医すると同時に精神上の罪を清むるの力ありと信じ、教正の職にあるものおよび坊庵内に住する僧侶には妻帯を許さざれども、通常の僧侶は必ず一回妻帯せざるを得ざる規則あり。かつこの宗にて用うるところの教義はローマ宗のごとく『バイブル』の外に種々伝説を許すも、神霊は神父よりきたるのみにて神子よりきたるにあらずというに至りてはローマ宗と同じからず。かくのごとくギリシア宗は改良の主義を取りたるものなれども、外形上の儀式に至りてはやはり繁雑荘厳に過ぐるの風あり。断食のごときはその度数最も多く、かつその制規最も厳なるものなり。

 ロシア・ギリシア宗は一五世紀の中年において、コンスタンチノープル府の落城以後一派の独立を唱え法長をモスクワ府に置きたりしが、ピョートル大帝のときにこれを廃しペテルブルグ府に神会を設けて国教を組織し、帝王をもって一宗の総管長となせり。これ今日のロシア宗なり。この国教宗の外に別に連合ギリシア宗と称するものあり。これロシア宗より分立せる一派にして、その宗義はギリシア宗なるもローマ宗に結合してローマ法王を奉戴するものなれば、ギリシア宗中一派その性質を異にするものなり。しかしてその結合はひとり法王を奉戴するにとどまり、その宗内の儀式教義に至りては全くギリシア宗の主義を用うるものなり。この宗、当時はかえってロシアに少なくしてオーストリアに多しという。

       第三 アルメニア宗(Armenian)

 アルメニア国には第二世紀ごろに早くすでにヤソ教民間に入り、第四世紀に至りて一派独立の宗教を組織し、第五世紀には『バイブル』をその国語に訳してこれを用うるに至れり。これこれをアルメニア宗という。そもそもヤソ教の教義においてヤソに二種の性質を有するものと立つる説と、一種の性質を有するものと立つる説との二様あり。しかるにこの宗は一種説を取りて二種説を排す。かつこの宗にては精霊はひとり神父よりきたるものと立つるなり。礼拝式においてはこの宗もやはり七種を設くれども、洗礼式と確信式とを結合し、洗礼は三回水を振り掛くるのみ。餐礼のブドウ酒には水を混和せざるものを用い、油礼はこの宗にては僧侶にのみこれを行い、かつ絶命後その死体の上に用うるなり。その宗の長官をカソリコスと称し、エチミージンの本山に住す。すなわちこの宗の法王なり。本宗の信者は一生一回必ずここに詣するを要す。つぎに俗僧に一回婚礼を許すがごときはギリシア宗と同一なり。これを要するに、この宗の主義はローマ宗よりむしろギリシア宗に類するものなり。

       第四 新教(Protestant)

 新教は宗教改革の乱によりて独立せる一宗にして、その争乱は第一二、三世紀ごろに早くすでに胚胎し、その胚胎せる原因は、中世欧州一般に文教地を払い暗愚蒙昧の世界となり、妄信ひとり民間に行わるるに当たり、ローマ法王その権力をほしいままにし暴威暴行をもって人民を圧服したるも、世間妄信のはなはだしきだれもこれを怪しむ者なかりしが、第一五世紀に至り古文学の再興と印刷の発明とによりて世人にわかに学理を解するに至り、始めて法王の威権の道理に反するを知り、当時法王は官職を売買し僧侶は妻妾を密蓄し、不正不道の行為多かりしをもって、人民中宗教の弊害を論じて改革を唱うる者処々に起こり、なかんずくルター、ドイツに起こりてローマ宗に抗して新教の主義を主唱するに至れり。ルターはドイツ、ウィッテンベルクの神学教師にして、ローマ宗の悪弊を痛論し宗教改革の必要を唱導し広くその説を世間に伝え、法王の命令を火中に投じて公然宗教の独立を宣布したるに、法王はこれを異教者と断定し、その命によりてルターは糾問を受け一時禁錮の身となりしことあり。その際に自ら『新約全書』を訳し、ついで『旧約全書』を訳したりという。その後新教の主義ようやく諸邦に行われ、たちまち天下の大争乱を起こすに至れり。これを宗教改革の乱という。しかるに一五三〇年アウグスブルクの会議において新教派の団結始めて成り、このときよりルーテル〔ルター〕宗一派独立の組織を開くに至れり。ルターと同時にローマ宗に反して新教を唱えたる者スイスにはツウィングリ氏ありて、アウグスブルクの会に当たりて別にストラスブールの会を開き、その会にてツウィングリ派の独立を見るに至れり。ルターとツウィングリとはともにローマ宗に反対して改革を唱えたるものなれども、その主義に至りては二者大いに異なるところありて、二派一致することあたわざりき。ツウィングリの派はこれを改革宗と称し、その死後同主義を唱えたるものフランス人カルヴァン氏なり。故に改革宗はカルヴァンの主義と連合してカルヴァン宗と称するに至れり。その後新教は欧州諸邦に独立するに及び、その影響大陸よりイギリスに伝わり、同国にてはルーテル主義によりて新教を組織し、スコットランドにてはカルヴァン主義によりて新教を組織するに至れり。宗教改革の紀元を示すこと左のごとし。

   国名           主唱者                年代  

  フランス         アルビゼンセス(Albigeneses)    一一七七年

  イギリス         ウィクリフ(Wycliffe)        一三六〇年

  ボヘミア         フス(Hus)              一四〇五年

  イタリア         サボナローラ(Savonarola)      一四九八年

  フランス         ファレル(Farel)           一五一二年

  ゲルマン〔ドイツ〕     ルター(Luther)          一五一七年

  スイス          ツウィングリ(Zwingli)        一五一九年

  デンマーク        ボーデンシュタイン(Bodenstein)   一五二一年

  プロイセン                           一五二七年

  フランス         カルヴァン(Calvin)         一五二九年

  スウェーデン       ペトリ(Petri)           一五三〇年

  イギリス国教設置     ヘンリー第八世(Henry Ⅷ)     一五三四年

  アイルランド       ブラウン大教正(Archbishop Browne) 一五三五年

  スコットランド国教設置  ノックス(Knox)           一五六〇年

  オランダ国教設置                        一五六二年

         (イ) ルーテル宗(Lutheranism)

 ルーテル宗はルターの改良主義によりて一派独立したる新教宗にして、『バイブル』一巻を用い自他の伝説を取らず、礼拝式のごときはこれを旧教に比するに大いにその数を減じて洗礼と餐礼の二種のみを用い、その餐礼にパンとブドウ酒とを用うるの意やや旧教と異にして、旧教にてはこの二者神の肉と血とに変体するものと立つれども、この宗にてはその二者の中に神の性質を通現するも変体するにあらずという。その他、僧侶の妻帯を許し、偶像崇拝を禁じ、坊庵を廃し、死後の供養等に至りては、大いに旧教とその意見を異にして種々改良の点あるを見る。しかしてまたその宗には儀式中に旧教の風を存するありて、たとえば礼壇を設け壇上に十字架上のヤソ像を安置しろうそくを点ずる等は旧教に同じ。かつその組織のごときもこれを旧教に比するにまたやや類似するところありて、デンマーク、スウェーデンにおいては現に教正ありて教区を監督すること旧教の制度に異ならず。プロイセンにては教正の名称を設けざるも、監主総監主ありて僧侶の監督をなすがごときはその宗の他の新教派に異なるところなり。これを要するに、ルーテル宗はローマ宗に数段の改良を加えたるも、なおこれをカルヴァン宗に比するにいくぶんか旧教の制度を存するところありといわざるべからず。

         (ロ) カルヴァン宗(Calvinism)

 カルヴァン宗はルーテル宗に反し改良主義の一層その極点に達したるものにして、一切偶像を廃し礼壇を置かずろうそく供養等を用いず、各寺院の独立、各僧侶の同権を唱えこれを監督する教正を置かず、ただ一宗の会議を設くるのみ。故にこの宗は会議組織にして、僧侶と俗人相合して会議を開く制度なり。かつこの宗の教義もルーテル宗と異なるところありて、その要点を挙ぐれば、神はいまだ世界を創造せざるときにありて、あらかじめ人類中に若干数を選びてその人に限りこれを救助せんことを定めたるをもって、その数にもれたる者は永世楽界に至るの望みなきものなり。ヤソの死のごときは、我人に代わりてその苦を受けたるものなれども、天帝の意はその死によりてそのあらかじめ定めたる救助すべき人のみを救助するにありという。また我人の祖先アダムがいったん神の命に背きて罪業を犯せしをもって、天帝が救助することを予定したるものに至るまでその果報として子孫万世苦痛を受くべき理なれども、その罪いまだ全く天帝に見捨てらるるに至らざりき。しかるに天帝はその子ヤソをこの地にくだせるをもってあらかじめ救助を受くべきものは、これにつきてその教えを聞き一心にこれを奉信するときは天国に至ることを得るなりという。かくのごとく立つるところのものすなわちカルヴァン宗の教義なり。しかるにまたカルヴァン宗中に一派の論ありて、天帝の予定を説くことかくのごとくはなはだしからず。その徒をモデレートカルヴァン宗徒という。これに対して厳重にその主義を主唱するものをハイカルヴァン宗徒という。そもそもカルヴァン宗はその初めスイス、ジュネーブ市中に行われ、従いてドイツ、フランス、イギリス等に行われたり。ドイツにてはこの宗を改革宗と称す。オランダにては改革宗をもってその国民一般の宗教となすに至れり。スコットランドにてはこの宗の主義に基づきて国教を組織せり。その主唱者をノックスという。カルヴァンの門弟なり。しかしてその宗は今日に至り次第に衰えたるがごとしといえども、その主義他の宗派中に入りて存するもの多し。すなわちプレズビテリアン宗、ゴングレゲーショナル宗、バプテスト宗、メソジスト宗等はみなその主義より分派せるものなり。

         (ハ) イギリス国教宗すなわちエピスコパル宗(監督教会)(Episcopal)

 イギリス国教宗のイングランド地内にあるものと、アイルランドおよびスコットランドにあるものと、アメリカその他海外の諸領地内にあるものを総じて、これをアングロ・カトリック宗またはアングリカン宗という。しかれどもスコットランドにはスコットランドの国教宗あり、アイルランドには当時国教なきをもって、イギリス国教宗はイングランドおよびウェールズ地内の国教宗を義とし、その起源を知るにはまずイギリス古今のヤソ教史を一言せざるを得ず。

 そもそもイギリスにヤソ教の始めて入りたるは、その年月史上に明らかならざるもすこぶる古きことにして、ヤソ教のいまだローマ帝国の公許を得ざりしときに早くすでにその国に入り、第三世紀には多少の信徒ありしこと史上に見えたり。その後サクソン人種イギリスを一統せるに及び、その人種異教を奉ぜしをもって土民のヤソ教を撲滅するに至れり。しかるに紀元五九六年ローマ法王グレゴリウス第一世が、セント・アウグスティヌスと名付くる高僧をイギリスに派遣してヤソ教を宣布せるに及び、たちまち国王もその宗門に帰し一国挙げてヤソ教徒となるに至れり。セント・アウグスティヌスの滞留せし地は現今のカンタベリー大本山の地にして、現今のカンタベリー大教正はセント・アウグスティヌスの法脈を伝えしものなり。故をもってその宗はローマ宗にして法王の配下に属せしも、やや独立の勢いありて宗弊もローマ宗のごとくはなはだしからざりしが、その後ようやく独立の風は衰え全くローマ法王の管轄を受くるに至れり。しかるにヘンリー第八世のときに宗教の革命に乗じて法王の管轄を脱し、新教の主義によりて国教を組織し国王その長となれり。実に一五三四年なり。その後マリー女王のときに一時ローマ宗に復せしことありといえども、エリザベス女王位につくに及び再び旧教を廃して国教を一定するに至れり。実に一五五九年なり。その宗義はゲルマン〔ドイツ〕にて起こりたるルーテル宗の主義に基づき新教中の一宗を開立せるも、実際の組織に至りてはローマ宗の旧制により教正を置き、ただその異なるは法王の代わりに国王をいただくこれのみ。かくしてその後国法をもって他宗他教を禁止し信教の自由を許さざりしが、クロムウェル氏王政を転覆して共和政を組織するに至り、国教の制を破りて他宗の自由を許せり。その後王政に復するに及び再び国教の制度を用い、一六八九年宗教自由の規則を制定せるまでは他宗に布教の自由を与えざりき。

         (ニ) イギリス非国教宗(Nonconformist or Dissenter)

 イギリスにて国教に反対する宗派数十種あり、これをノンコンフォーミストといい、またはディセンターという。ここにこれを訳して非国教宗と称す。その名称の中にはローマ宗とユダヤ教とは通常含有せざるなり。そもそもイギリスに非国教宗の起こりたるはエドワード王第六世のときに始まれりというも、エリザベス女王のときに至りてその宗徒大いに増加せり。その宗徒の主義とするところは宗義の純粋なるものを守るにあるをもって、ピューリタンすなわち純教徒(あるいは清教徒と訳す)の称あり。この教徒は信教の自由を得んがために本国を去りて遠洋を渡りアメリカに植民せり。しかるに本国にありては一六四九年の革命によりて一時宗教の自由を許せしも、ついで王政に復するに及び非国教宗を抑圧すること旧時に異ならざるのみならず、種々の法律を設けて非国教宗徒は五人以上相会して宗義を談ずるを禁じ、非国教宗の牧師は都府をへだたること五里以内に入るを禁じ、非国教宗徒は一切文武官に就職するを禁ずる等のことありき。しかしてこの宗徒の布教上に自由を得たるは、一六二八年信教自由の布達ありし後なり。すでに自由の布達ありしも、なお非国教宗のものは国教宗に対して国教税(タイス)を納むるを要し、国教を奉戴するの誓約を行うを要し、会堂を設立するに国教宗の教正の認可を経るを要する等の束縛ありき。その後漸々自由を得て、一八二八年に至り信教自由の布達以前に設けたる規則を廃し、一八八〇年に至り非国教宗はその宗にて定むるところの法式によりて葬式を執行することを得、今日に至りては国教宗も非国教宗も二者ほとんど同権同等の勢力を有するなり。もし非国教宗の主なるものを挙ぐればプレズビテリアン宗、コングレゲーショナル宗、バブテスト宗、メソジスト宗、クエーカー宗等なり。その各宗の大意は後に至りて弁明すべし。

         (ホ) スコットランド国教宗

 スコットランドにヤソ教の始めて入りしはおよそ二、三世紀ごろのことなりしが、当時その信徒は土民のために虐殺せられ、一時その地に跡を絶たんとするありさまなりしも、その後ローマ宗次第に民間の勢力を得、ついに一国全くローマ法王の配下に帰入するに至れり。しかるにイングランドにありてはヘンリー王第八世、ローマ法王の管轄を脱して一国独立の新教を組織したる影響おのずからスコットランドに及ぼし、一時国内の争乱を醸せり。そのうちスコットランドにて新教の独立を組織せるものはノックス氏なり。氏は一時スイス、ジュネーブ府にありてカルヴァンの教会に入り、一五五九年にスコットランドに帰りカルヴァン主義の新教を唱導し、ついにスコットランドの一宗を制定するに至れり。これ今日のスコットランド国教宗なり。国教宗の総会は一五六〇年一二月二〇日初めてこれを開き、会議組織の宗制を議定せり。初祖ノックス氏は一五七三年一二月二〇日に死せり。その死後数十年を経てイギリス国教宗の組織を制定し、スコットランド国教宗を廃するに及び一大争乱を起こし多年紛擾やまざりしが、クロムウェル氏政権をとるに及び一時会議宗は布教の自由を得たるもその後また自由を失い、一六八九年信教自由の布達ありしより以来スコットランド国宗始めて自由独立を得て、ついにスコットランド人民一般の宗教となり一派別立の国教を見るに至れり。これ実に一七〇七年なり。その後一七三三年に至り国教宗僧侶中に異論を唱うるものありて、その宗門を脱し別に一会を組成せり。その主唱者をエベネゼル・アースキンという。ついで一七五二年トマス・ギレスピと称する者、異見ありてまた別に教会を開けり。しかるに一八四七年この二教会相合して一宗を設立せり。これをユナイテッド・プレズビテリアン宗という。その他スコットランドにては国教宗中に教会の独立に関して動議を起こすものありて、その主義とするところ、各教会はその牧師を選定するに自由の権を有するものにして他の干渉を受くべきものにあらずというにありて、その論一宗の争いとなりて久しく決せざりしが、一八四三年に至りこの主義公然独立して一派をなし、フリー・チャーチすなわち自由宗を起こすに至れり。以上、ユナイテッド・プレズビテリアン宗およびフリー・チャーチ宗はこれをスコットランド非国教宗と称すれども、その実宗義において国教と異なるところあるにあらず。故にこれを国教宗の分派と称して可なるべし。

         (ヘ) アイルランド国教宗

 アイルランドにヤソ教寺院の初めて設立ありしは第五世紀のことにして、セント・パトリックをもって開基とす。その後多少の盛衰なきにあらざりしといえども、その教漸々民間に弘まり寺院僧侶の数、年を追って増加し、教区教正等の設置ありしといえどもいまだ国教の組織を見ざりき。ヘンリー第八世イギリス国教宗を設立せるに及び、アイルランドのヤソ教を一変して新教となさんことをつとめ、ブラウン氏を命じて大教正の位に置き、これをして宗教改革を実行せしめたり。故をもって、一五三六年のアイルランド国会においてイギリス国王を奉戴して管長となし、ローマ法王の管轄を脱することを議定せり。しかして教義礼式等に至りてはアイルランド国教宗とイギリス国教宗とはおのずから差別ありしが、一八〇〇年の布達によりて二者始めて同一宗となり、両国合して一体の国教を有するに至れり。しかして一八六九年更に布達を発してアイルランド国教を廃せしをもって、今日は国教の組織を有せざるなり。

         (ト) プレズビテリアン宗すなわち長老宗(Presbyterian)

 プレズビテリアン宗はイギリス非国教宗の一種にして、訳して長老宗という。宗内の長老会議によりて政府を組織するによる。スコットランド国教宗およびフリー・チャーチ宗はみなこの長老宗にして、その宗のイギリス、アイルランドおよび合衆国等にあるもの、これをプレズビテリアン宗というなり。イングランド国内に始めてこの宗の寺院を設立せしは一五七二年なりとす。アイルランドにこの宗の寺院を創立せしはスコットランドの植民地に始まり、ジェームズ第一世のときなりとす。合衆国にこの教会の組織を起こせしは第一七世紀の末年にして、一六九〇年に設立せる寺院をもって初めとす。現今この宗の合衆国内にあるもの分かれて四派となり、北部プレズビテリアン宗、南部プレズビテリアン宗、連合プレズビテリアン宗およびカムポルラント・プレズビテリアン宗と称するものこれなり。

 このプレズビテリアン宗は新教中最も早くわが日本に入りたるものにして、一八七七年アメリカのプレズビテリアン宗とスコットランドの同宗とおよびアメリカの改革宗と連合して、その名を一致教会と称せりという。

         (チ) コングレゲーショナル宗すなわち組合教会(Congregational)

 コングレゲーショナル宗一名独立宗はイギリス非国教宗の一種にして、その宗徒のイギリスに初めて起こりしはエリザベス女王の朝なりとす。しかしてその主義の世に出でたるは一五八〇年ごろにして、その主唱者をロバート・ブラウン氏とす。氏はイギリス国教宗の寺法宗風を駁撃せる故をもって、本国を逃れて他邦に隠れざるを得ざるに至れり。数年の後再び本国に帰りけるに信徒のきたりて服徒するもの多かりしも、エリサベス女王の朝にはその徒中苛刑に処せられしもの多きをもって、過半はオランダに移住するに至れり。この徒をブラウンニストという。その徒中にロビンソンと称する一牧師ありて、ブラウン主義を改良して独立組織を構成せり。これを独立宗の開祖とす。一六一六年ジェーコブと称するもの本国に帰りて、独立宗の寺院をロンドン市中に創設せり。これをイギリス独立教会の濫觴とす。クロムウェル氏政権を握るに及びこの宗派一時大いに勢力を得たるも、その教会の全国中に散在せるに至りしは一七〇〇年以後なりとす。

 アメリカにこの教会の始めて設立ありしは一六二〇年のことにして、これを創立せる人はジョン・ロビンソン氏なり。

         (リ) バプテスト宗すなわち浸礼教会(Baptist)

 この宗と独立宗とは主義も組織も同一なれども、洗礼の一段において意見を異にす。すなわちバプテスト宗にては小児の洗礼を行わず、ようやく成長して一三、四歳に至り理非を弁別することを得るに及びて洗礼を行うを例とす。かつ洗礼のときには全身を水中に浸すをもって規則とす。これこの宗を浸礼宗と名付くるゆえんなり。そもそも小児洗礼の論は第二世紀ごろにすでにヤソ教中の一問題となり、第五世紀に至りては小児洗礼を不可とするものは異教徒として処分せしことあり。しかれどもその後浸礼主義ようやく世間に行われ、第一二世紀の初年にはこの説を唱うるもの欧州諸邦にほとんど八〇万人ありしという。当時この主義を唱うるものゲルマン中に最も多く、イギリス中にはいまだその論の起こりしを見ず。イギリス王ヘンリー第八世のときには、この説を唱うるものを厳刑に処したることあり。しかるにくだりて一六〇八年に至り、初めてロンドン市中にバプテスト教会の創立ありしを見る。一八八一年の表によるに、合衆王国(イングランド、スコットランド、アイルランド三国)中に三五三七会堂ありしという。アメリカにこの宗の始めて入りしは一六三〇年にして、ロジャー・ウィリアムズの伝えしところなり。その国には信徒の多きイギリスに倍せり。

 バプテスト宗徒に二派あり。一を特別バプテスト教会と称し、一を普通バプテスト教会と称す。特別派はカルヴァンの宗義を取りてヤソの死は上帝があらかじめ救助せんことを定めたる者のみに及ぼすの説を唱え、普通派はヤソの死は衆人一般に及ぼすの説を唱うるの別あり。またこの宗には新教会、旧教会の二流ありて、旧教会は惟一主義すなわちユニテリアン主義を取りてヤソを神子にあらざるの説を唱え、新教会は三位主義すなわちトリニテリアン主義を取りてヤソを神子とするの説を唱うるの別あり。しかるに旧教会はその数はなはだ少なく新教会はいたって多し。

 バプテスト宗徒と洗礼主義を同じうする一宗徒あり、これをアナバプテストという。この宗徒の説には洗礼は成長したる人に行うにあらざればその功なきをもって、その教会に加名するものは再度の洗礼を受くるの必要を唱うるなり。この宗名は新教争乱の初年ごろにゲルマンに起こりたる一種の教徒に与えし名称にして、その徒ただに再度の洗礼を唱うるのみならず貴賎同等、財産共有説を唱え、社会党と同主義を有するものなり。その唱導者をトーマス・ミュンツァーと名付く。この人スイスに入りて教会を組織し、その風次第に伝播して四隣に及ぼし、オランダにその徒最も多しという。ミュンツァー氏は一五二五年において死刑に処せられたり。その後オランダにてはメノーと称する人ありてアナバプテストの主義を唱導し、メノニスト〔Mennonite〕と名付くる一派を組織せり。

         (ヌ) メソジスト宗すなわちメソジスト教会(Methodist)

 メソジスト教会は大別して二派となり、その各派また数小派に分かる。まず二大派を挙ぐれば、一はウェスリアン・メソジストと称し、一はカルヴィニスティック・メソジストと称す。

  第一大派すなわちウェスリアン・メソジスト宗はジョン・ウェスリーを宗祖とし、アルミニアン主義〔Arminianism〕を取るものなり。

  第二大派すなわちカルヴィニスティック・メソジスト宗はジョージ・ホィットフィールドを宗祖とし、カルヴァン主義を取るものなり。

 この二大派の外にアメリカの教会あり、これをメソジスト・エピスコパル宗と称す。これ第三大派なり。

    第一大派すなわちウェスリアン・メソジスト宗(Wesleyan Methodist)

 この宗の主義を説明するにはまずアルミニアン主義を略述せざるべからず。そもそもアルミニアン主義とはアルミニアン宗徒の信ずるところの説にして、アルミニアン宗徒とはアルミニウス氏の説を奉ずるものをいう(アルミニアン宗はさきに掲げたるアルメニア宗とは全く別宗なれば混同せざるように注意すべし)。アルミニウス氏は新教の僧侶にして、第一七世紀の初年ごろにオランダに出でて一種の新説を唱えたる人なり。その説はカルヴァン説を変更したるものにして、カルヴァン説によるに、上帝はあらかじめ人民中に救助するものと救助せざるものとを分かち、その救助せざるものの中に加わりたるものはなにほど上帝に祈願するも、到底救助を得るの望みなきものなりとす。しかるにアルミニウス氏の説によるに、上帝の予定は未来数万世以後の結果を前知して、甲は必ずわれを信念すべし乙は決してわれを奉信せざるべしと、無数の人類中その一生間の念慮行為を予知して、その神命を奉信するものはこれを救助し、奉信せざるものはこれを放棄するがごとき予定をなせりという。その説カルヴァン宗徒のいれざるところとなり、オランダにありては両派間の争論を起こし、政府は一時アルミニアン宗を禁ずるに至りしも、一六三〇年以後布教の自由を得てその宗今日に存するに至れり。これをアルミニアン宗またはレモンストラント〔Remonstrantie〕宗という。

 今ウェスリアン・メソジスト宗の主義はこのアルミニアン宗の説を取り、上帝はいまだ人類を造出せざりしときに、早くすでに救助する人と救助せざる人とを区別したるも、もとより故なくしてかくのごとく定めたるにあらずして、あらかじめその人の果たして神命を奉信するや否やを知りて定めたるものなれば、上帝を奉信する人は必ず神の救助にあずかることを得べしと立つるなり。この宗の寺法教式等に至りてはイギリス国教宗と非国教宗とを混和折衷せるものにして、実際上の組織のごときは会議組織を用うるものなり。

 つぎにこの宗の由来を考うるに、一七二九年ジョン・ウェスリーなるもの、その弟チャールズ・ウェスリーとともに毎夕教義講習のため小会を設けしことあり。これをこの教会の起源とす。当時その小会にはもっぱら規律作法を厳にせるをもってメソジストの名称を用いたり。メソジストとは法式宗を義とす。故に訳して守法教という。開祖ウェスリーはその後本国を辞して植民地に遊びしに会し一時その教会を解散せしも、一七三八年再び本国に帰るに及びウェスリー兄弟はともに力を合わせて説教に従事せしが、いたるところ信者群を成し、その勢い教会を組織せざるを得ざるに至れり。その後教会は年を追いて隆盛に赴き、一八四四年ロンドンにおいて初めて一宗の大会議を開き、全国を区画してあまたの教区を設置せり。

 ウェスリアン・メソジスト宗には左の諸分派あり。

  第一派 本教会(Original Connection)

  第二派 新教会(New Connection)

  第三派 プリミティブ・メソジスト(Primitive Methodists)

  第四派 バイブル・クリスチャン(Bible Christians)

  第五派 ユナイテッド・メソジスト・フリー・チャーチ(United Methodist Free Church)

  第六派 ウェスリアン・リフォーマー(Wesleyan Reformers)

 このうち第一派はウェスリー自ら組織せる教会にして、前に述ぶるところのものこれなり。

 第二派は一七九一年ウェスリーの死後、教会の組織に関して異論を生じ、一派分立せるものにしてこれを新教会と称す。本教会には一宗の会議には牧師のみ相集まり更に俗人の加入を許さざる成規なるも、新教会は僧俗相合して会議を組織する規則なり。これ両教会の分立せるゆえんなり。新教会の公然分立せしは一七九七年にして、その主唱者はアレキサンダー・キルハムなり。

 第三派はプリミティブ・メソジストまたは一名ランターと称し、一八一〇年に始めて起こりし教会なり。その教会は本教会の分派にして、近代僧侶の精神大いに昔日より減ずるを見て、初代の精神を回復せんとする説に基づきて起こりしものなり。

 第四派すなわちバイブル・クリスチャンまたは一名ブライアニストと称するものは、メソジスト教会の分派にあらずして初めより独立して教会を組成するものなり。その開祖はブライアンと称し、初めウェスリアン教会の説教師なりしが一八一五年独立して一教会を造成せり。その主義および組織に至りては本教会と同一なり。

 第五派すなわちユナイテッド・メソジスト・フリー・チャーチは、一八四八年ウェスリアン教会中宗務上の組織に関して異論を起こせしものありて、その徒ことごとく本教会より除名せられしに及び、互いに連合して一教会を組織せるものこれなり。これを最初はウェスリアン・メソジスト・アソシエーションと称せり。

 第六派は一八五〇年大会議に異見を抱き本教会より除名せられたるもの独立して組織せる教会なり。このとき本教会を脱したるもの一〇万人なりしという。その一半はウェスリアン・メソジスト・アソシエーションに合体してユナイテッド・メソジスト・フリー・チャーチを組織せり。

    第二大派すなわちカルヴィニスティック・メソジスト宗(Calvinistic Methodist)

 この宗にまた二小派あり。一をカウンテス・オブ・ハンティンドン教会と称し、一をウェルズ・カルヴィニスティック・メソジスト教会と称す。ともにホィットフィールド氏の説に基づきて起これり。

 第一派はハンティンドン伯の夫人がホィットフィールド氏の説に帰依して教社を結び、その先導者となりしより起これり。その教義および法式は大抵イギリス国教宗と同一にして、教会の組織は独立宗の制度を用うるなり。

 第二派は一七三六年ハリスと称する者の組織せる一派にして、その教義はカルヴァン説によるも、イギリス国教宗と同一なる点多しという。

    第三大派すなわちメソジスト・エピスコパル宗(Methodist Episcopal)

 この宗名は合衆国に流布せるウェスリアン・メソジスト宗に与うるものにして、これをエピスコパルと称するは、その宗イギリス国教宗のごとく教正を置きて僧侶を監督する制規を有するによる。そもそもこの宗の初めてアメリカに入りしは一七六六年にして、当時アイルランド人その地に移住してこの教会を組織せり。今日に至りてはこの宗の信者はなはだ多く、その宗派も多岐に分かれりという。

         (ル) ユニテリアン宗すなわち惟一教会(Unitarian)付 人間宗

 ヤソ教中に二大義あり。一をトリニテリアン主義といい、一をユニテリアン主義という。トリニテリアンは神に三体あることを説きヤソの神子なりと立つれども、ユニテリアンはこれに反し一神体を立つるものにしてヤソは神子にあらずと説くなり。その一神説中にはヤソの体を定むるに数様の義を立つるものありて、一説にはヤソはその体神にあらざるも人類中最上に位し無上の知徳を有し、世界のいまだ分立せざりしときより世に現存せるものなりといい、また一説にはその知も徳もともに人類中最上に位するものなるも、その地球上に生を現せし前より世に生存せるものにあらずといい、また一説には人類一般と同等なる性質を有し、ただこれを普通の人に比するに一段進みたる知徳を有するものなりという。かの『バイブル』中に挙ぐるがごときヤソの奇跡怪誕は、ユニテリアン宗の一般に取らざるところなり。

 今その宗の由来を尋ぬるに、第三世紀にありてサベリウス氏、第四世紀にありてアリウス氏ともにこれ惟一主義を唱えたりしが、くだりて第一六世紀に至りその論再発して大いに世間に弘まり、セルヴェストス氏のごときその主義を唱えたる罪をもって一五五三年火刑に処せられたり。イギリスにても第一六および第一七世紀において同一の主義世間に弘まり、第一八世紀に至りてはプレズビテリアン宗の僧侶にしてこの説を賛成するもの多かりしという。かくしてプレズビテリアン宗の寺院の変じてユニテリアン会堂となりしものありて、ついにイギリスに公然教会を設立するに至れり。これすなわち一七三〇年なり。教会の組織はコングレゲーショナル宗のごとく独立組織を用い、各教会の独立自裁をもって宗制と立つるなり。

 古代のユニテリアン主義と今日の同主義とを比較するに、古代の方はヤソの性質を論ずるに神に近きものとし、今日は人に近きものとするの別あり。これを尋常一般の人と同等とみなすときは、その死のごときも常人が宗教のために生命を損ずると同一ならざるべからず。しかるときは我人はなにほどヤソ教を祈念するも、その自ら有するところの罪を滅することあたわざるべき理なり。故にユニテリアン宗にては、我人が上帝の救助を受くる道は自ら諸善業を修むるより外なしと説くなり。ユニテリアンの主義、「ここに至りて人間教と同一に帰するをもって、人間教の大意を叙述することまた必要なりとす。その他ソシニアンと称する一宗あり。これまたユニテリアン宗と同主義」なれば、あわせてその宗意を略言すべし。

 まずソシニアン(Socinian)宗を述ぶるに、この宗はソシナス〔ソッツィーニ Sozzini〕と名付くる人より起こりしをもってこの名称あり。ソシナスは一五三九年に生まれ一六〇四年に死したる人にして、その説によるに神父ひとり神にして神子はその体神にあらず、神霊もまた一個の神体にあらずと立てて三位説を排し、かつ人類はアダム以来罪業を有する悪人なりとなすの説、および上帝が人類中にあらかじめ救助するものと救助せざるものとを定めたりとの説等、もとよりその宗の取らざるところなり。故にその宗の大旨はユニテリアン宗と異なることなしといえども、細点に至りては二者おのずから異なるところありという。

 つぎに人間教(Humanitarian)の性質を述ぶるに、ユニテリアン主義の一歩進みて宗教の範囲を脱したるものにして、シナの孔子教のごときものこの一例なり。西洋にありてはヤソ教中のユニテリアン主義ようやく進みて、ヤソは全く我人とその性質を同じうするものと定むるに至れば、我人はヤソを祈念することを要せざるのみならず、ヤソが説くところの神を尊奉するを要せざるなり。もしこれを尊奉するを要せざるときは、その体に向かって救助を祈請する道理なきはもちろんにして、我人はわが智力によりて是非善悪を識別し、その善に就きてこれを実行すればすなわち善人なり、あに上帝を信ずると信ぜざるとによりて善悪を分かたんやと論ずるに至る。宗教論進みてこの点に達すればまた宗教にあらず、よってこれを人間教という。人間教の一種にコント宗あり。左にその要旨を略述すべし。

 コント宗とはフランスの哲学者オーギュスト・コント氏の組織せる一種の宗教なれども、全く普通の宗教と異なりたるものにして、もとよりヤソ教の部類に入るべきものにあらず。そもそもコント氏は人世の歴史を三段に分かち、第一世を神教の世と称し、第二世を虚想の世と称し、第三世を実理の世と称し、ヤソ教のごときは第一世にして、今日は実理実験の世なれば、ヤソ教の代わりに実理実験に基づきたる宗教なかるべからず。しかしてその宗教たるや上帝主宰を説かず天堂地獄を立てず、ただ人情をもって本源とし社会をもって目的とする人道宗ならざるべからず。これをもってコント氏は人心中に宗教の原理あることを発見し、人体を分かちて有形的身躯と無形的生力の二辺となし、またその生力を分かちて一八種となし、これを合すれば精神となるという。また氏はこの一八種中一〇種をもって精神中の主作用をつかさどるものとし、その内七種は利己心にして三種は利他心なりという。この利他心はコント宗の目的とする本心にして、一家、一国、一社会もしくは人類総体の福利はみなこの心より生じ、この心よく利己心に勝つときは善人となり、利己心もしこの心に勝つときは悪人となり、善悪の標準もこの心によりて定まるという。故にコント宗は人情宗もしくは博愛宗というも可ならんか。かくのごとく利他すなわち社会的愛情を宗教の原理と定むるをもって、愛を表示するものを立ててこれを宗教の目的とし、婦人すなわち慈母、良妻、令女を礼拝するに至れり。実に異風の宗教なり。この宗には教会の組織あり会堂あり講義あり教式あり、およそその宗の信者たるものは毎日三回静思観念して利他心を想起するを要し、産婚等は社会的愛情を表示するものなればその式を大切に施行するを要し、古来の仁人君子を回想してその徳を心頭に念起するを要するなり。その宗の僧侶すなわち講師は諸科の学術専門家に限る。この講師を養成するために数千の大学を設立し、その宗義を全地球に及ぼす計画なりしも、いまだその目途を達するに至らざるなり。

         (ヲ) クエーカー宗すなわち同朋宗(Quaker)

 クエーカー宗は自ら称して同朋教会といい、その会堂を称して同朋会所と名付け、一定の寺院なく一定の僧侶なく、洗礼餐礼を用いず音楽唱歌を用いず、礼壇を設けず講台を置かず、一切外形上の装飾礼式を禁じたる、すこぶる異風の宗派なり。そもそもその宗の本義とするところは、神を外界に求めずして内界の心頭に想見するを目的とし、外形上の儀式を廃し静座観心これ務め、礼拝日にはただ同朋一所に会することあるのみ。会上おのおの黙座沈思し、だれにてもその心に説教せんことを感ずれば立ちて説教し、祈請せんことを感ずればふして祈請し、すこしも一定の規律あることなし。けだしその宗にては心頭に感ずるところのものは神の命ずるところなりと信ずるによる。その他この宗特殊の性質は、男女貴賎の階級を立てず平等同権を唱え、虚名虚飾を忌み高位顕官をいさぎよしとせず、質素勤倹を守り遊芸遊興を避け、ばくち飲酒を慎み、争乱をいとい平穏を願い、世間通常用うるがごとき産婚の儀式もほとんどこれを廃し、言語、応接、衣服に至るまでみな世人一般の風と異なるところあり。もし道徳品行の一段に至りては、ヤソ教中この宗門の人を第一位に置かざるを得ざるがごとし。

 この宗を開立せる者はイギリス人ジョージ・フォックス氏なり。氏は一六二四年に生まれ、幼より神典を読み深くその義を尋ね、二二歳のときに至り突然自ら神助を得たることを感じ、始めて宣教に従事せりという。これよりフォックス氏は諸州を経歴して法を説き、いたるところ信徒群を成せしも当時布教の自由を得ざりしをもって、信徒中その本国を去りてアメリカに移住せしもの多し。

 この宗の組織は会議組織にして、イギリス国教会の中心はロンドンなるデボンシャイア・ハウスにおいて毎年一回開くところの大会議これなり。これこの宗の中央政府にして、行政司法等みなこの会議によりて議定しかつ執行する規則なり。この大会議の外に小会、月次会、四季会あり。小会は一教会の小集会なり、月次会は諸小会を合して組織せるものにして毎月これを開く、つぎに四季会は諸月次会を合して組織せるものにして四季ごとにこれを開く。その上に年会あり、これ大会議なり。大会議には書記数名を選定して諸事を負担せしむ。イギリス国教会の報告によるに、小会の会堂三二六カ所、月次会およそ八〇カ所、四季会およそ二〇カ所なり。

 この宗にて設立せる小学の数およそ七〇、教師の数およそ一五〇〇人、学生の数およそ一万七〇〇〇人あり。またこの宗付属の外国宣教会ありて、インドおよびマダガスカル両地をもって中心とし、毎年五〇〇〇ポンドをもって宣教費とす。その信徒の数総計一五万人にして、そのうち一〇万人はアメリカ部内にありという。

 アメリカ同朋宗 アメリカ中にこの宗布設の計画ありしは一八二七年以後にして、当時その宗二派に分かれ、一をオーソドックス・フレンドと称し、一をヒックシット〔Hicksites〕と称す。その第一派は保守主義にして、開祖フォックスの唱えしがごとき旧義を保守せんとするものにして、その派に属するもの三万五〇〇〇人あり。その第二派は改進主義にして、これを第一派に比すれば大いに自由寛大の風あり。その派の分立せしは一八五三年にして、その主唱者をヒックスという。故にヒックシットの派名を存するに至る。

         (ワ) プリマス・ブレズレン宗(Plymouth Brethren)

 プリマス・ブレズレン宗とはプリマス同胞宗の義にして、この宗は一八三〇年イギリス、プリマス(地名)において一宗創立の初会を開きしをもってその名称あり。当時この教会はひとりイギリスのみならず、アメリカおよび欧州大陸中にも分派ありという。そもそもこの宗を創立せし人はイギリス国教宗の僧侶にして、その名をダービという。故にこの宗を一時はダーバイト〔Darbyites〕と称せり。ダービは宗義の解釈上においてイギリス国教宗と異なるところありしをもって独立して一派を組織し、上帝予定説(プレデスティネーション)を信じ、成年の洗礼を定め餐礼を行い、各教会は独立主義によりて組織し、一定の僧侶を置かず一定の宗制を設けず、会日には男子なればだれにても自由に説教するを許し、一同静座黙思をこれ務むるがごときは、すこしもクエーカー宗に異なることなし(ただしクエーカー宗にては男子にても女子にても自由に説教するを許し、この宗にては説教は男子に限るの別あり。かつクエーカー宗は洗礼餐礼を用いず、この宗はこれを用う。これまた両宗の異なるところなり)。

         (カ) モラビアン宗(Moravian)

 本宗は一名ボヘミアン・ブレズレンまたはモラビアン・ブレズレンまたはヘルンヒューテル宗と称し、第一五世紀中にボヘミア〔チェコスロバキア〕国の首府プラハにおいて起これり。故にボヘミアンの宗名あり。今その宗の由来を尋ぬるに、第一五世紀の初年に当たりボヘミアン人にしてジョン・フスと称せしものあり、宗教改革を主唱しローマ宗を転覆せんことを謀りたる罪をもって、一四一五年火罪に処せられたり。その死後、徒弟散亡してシレジアおよびモラビアの地に入り遺教を伝播せり。これを本宗の起源とす。故にその宗モラビアンの称あり。モラビアン宗の外にフスの徒弟によりて組織せる教会中にカリクスチンスおよびタポリッツあり。これを総称してフシットという。フスの徒類を義とするなり。もしモラビアン宗を究のフシット宗徒に区別するときは、ユナイテッド・ブレズレン(連合同胞宗)の称を用う。モラビアン宗徒はローマ宗徒のために苛酷残忍の待遇を受けたりといえども、その信向の堅きとその品行の正しきとによりてその信徒は次第に増加するの勢いありき。かつその徒四方に転任して欧州諸邦に布教を開き、ドイツ、フランスを経てイギリスに漸入せり。今この宗に立つるところの教義を見るに、人類はアダムのときすでに罪悪に陥りしをもって、その子孫永く天堂に生まるる望みなく、また生まるべき力を有せざるものとす。しかるに天帝の仁愛の厚き、およびヤソが我人に代わりてその苦を受けたるをもって、幸いに我人は神の救助にあずかることを得るという。かつこの宗には三位一体を立ててヤソをもって神子となすなり。またこの宗にては将来ヤソの再び此土にきたることを信ず。つぎにこの宗の組織は管長組織にして、僧侶に三等の階級あり。すなわち教正、長老、試補これなり。そのうち僧侶を訓令するの権は教正ひとりこれを有すといえども、教正は教会の俗務に干渉するの権を有せず、俗務に当たるものは別に役吏あり。この宗には独身にして一生を送る男子を一家に集めて、おのおのその長ずるところの工業を修めしむることあり、また女子の独身なる者をあつめて職務をとらしむる法あり、その上に種々の役吏ありてこれを監督す。その役吏をエルダーという。これに男女の二種ありて、男吏は男子を監督し女は女子を監督す。しかして教会総体に関する俗事はエルダー間の会議によりて決定するなり。かつこの宗徒は品行端正をもってその名あり。舞踏、カルタ、その他一切無益の遊興は道徳に害ありとしてこれを禁ず。しかしてまたこの教会の一種他に異なるところの性質あるは外国布教これなり。その海外布教は最も早く着手せしをもって、現今にありては地球全面この宣教の及ばざる所なし。けだしヤソ新教中、外国布教はこの宗をもって嚆矢とす。一八八一年に外国布教一五〇年期を祝せり。その年月の間宣教師を外国に派遣したる数二一七一人にして、一八八一年にはその海外にある宣教師の数三一五人、各地の土民にして宣教の助手をなせる者一五二四人、宣教所九九カ所ありしという。

         (ヨ) ジェズイット宗〔イエズス会〕(Jesuit)

 ジェズイットとはキリストの教会を義とし、ローマ宗に属する一派の教会なり。この宗の初めて起こりしは一五三四年にして、その初祖をロヨラと称す。この宗門に入る者は清貧、貞節、徒順を守る外に、法皇に対してその命を奉ずるの誓いをなすを要す。この宗徒の法皇の命令によりて公然一教会を団結するに至りしは一五四〇年のことにして、そのとき法皇パウロ〔パウルス〕第三世がロヨラを命じてその宗徒の総長となせり。故にロヨラはこの教会の全権を掌握するものなり。その後数年を出でずしてこの教会欧州諸邦に宣布し、ついで東西両半球中にあまたの宣教所を設立するに至れり。初祖ヨロラは六五歳の寿をもってローマにおいて没去せり。すなわち一五五六年七月なり。氏はこの教会の長たること一六年間なりき。この宗徒の布教に熱心なることは古来ほとんどその比を見ざるところにして、その徒は千死百難をおかして異邦に伝道するをもって、自ら天神ならびに法王に対して尽くすべき義務なりと信じたり。この宗の組織を考うるに一種の管長組織にして、そのいわゆる総長は管長なり。総長の任はその人の一生を期限とし、諸役人を進退するの全権は一人にしてこれを有す。故に君主専制の風あり。その下にあまたの教区あり、各教区に支配人ありて、その支配人は各教区事情を総長に報告し、およびその間に会議を設くるの制度あり。その宗の僧侶はローマ本宗の僧侶にして、坊僧のごときものを見ず。

 この宗開立以来の変遷を見るに、一五九四年フランスより追放せられ、一六〇四年イギリスにおいて禁止せられ、その他の国々においても追放または廃禁の命を受け、ただオーストリアおよびドイツ連邦中の二、三の国において自由を得たるのみ(この宗は旧教より分派せるものなれども、今、仮に新教諸宗の間に掲ぐ)。

         (タ) モルモン宗(Mormon)

 モルモン宗はアメリカにおいて起こりしヤソ教の一派にして、その初祖をジョセフ・スミスという。一八〇五年に生まる。その家貧にして両親の風評またよからず。氏は一八二三年において神使のくだりて古記の存する所を告ぐるを見る。その古記はモルモンと名付くる聖者の手に成るものなり。よってスミスはその場所に至り古記を検するに、その文字エジプト字体より成り金板の上に印刻するものなり。氏はこれを訳して一書となす。これをモルモン書という。その後天使またきたりてその金板を携え去り、だれ一人としてその原文を見しものなし。ただ氏の門弟中二、三の者これを見たりという。スミスひとたびこの神告を唱えてより、その説を非とする者多く集まりその徒を虐殺する等のことありき。故をもってその徒は一八三九年合衆国中イリノイ州に逃亡し、ノヴーと称する一邑を起こせり。一八四一年その邑中に壮大の寺院を創立せり。しかるに一八四四年人民四方に暴起してその邑に侵入するに及び、スミスならびにその弟ハイラムを囚虜となし、ついにこの両人を射殺せり。その死後ヤングと称する者その宗徒の長となり、一八四六年その徒を率いてロッキー山を越え、その山外に一平原あるを見てここに住居を定めたり。ときに饑寒のために死する者多かりしも、その地に一部落を開くことを得たり。すなわち今日ソルトレーク・シティと称するものこれなり。その地合衆国ユタ州に属せり。その州内にこの宗を奉ずるもの一五万人以上ありという。その宗の教義は自他のヤソ宗と大同小異にして、神体に三位を立て、人類はアダム以来罪悪を有するものなり、ヤソその身を殺せるをもって我人はその本来有するところの罪悪すでに滅せりという。故にわが死後に受くるところの賞罰は、わが一生間の行為に応報するものに外ならず。この宗の洗礼は全身を水中に浸すの法を用う。一八五二年この宗にては公然多妻は宗義に反せざることを唱え、その宗門中の勢力ある者はみな多妻を有するなり。なかんずくヤングのごときは六〇人の妻を有せりという。

         (レ) スウェーデンボリ宗(Swedenborg)

 スウェーデンボリ宗、一名ニューエルサレム宗はヤソ教中の一宗にして、スウェーデンボリ氏の開立するものなり。スウェーデンボリ氏は一六八八年に生まれ、少時はもっぱら物理数学を攻究し、なかんずく鉱物学を研修し一時は名声内外に聞こゆるの勢いなりしが、その後氏は突然自悟するところありて理学を廃し、宗教を説きたるは一七四五年のことなりき。けだし氏はこの年において、精神界に交通するの神力を得、鬼神精霊と交話することを得たりという。これより氏はもっぱら宗教上の真理を世間に開示せんことをつとめ、自ら精神界に入りて実視せるものを書して世に公布せり。故にその書中には天堂地獄の現状、死後の情態等を開示せり。一七七二年、氏ロンドンにおいて没死せり。けだし氏の意、宗派を新開するにあらず。故に教会の規約等を設けざりしも、その門弟に二人のイギリス国教宗の僧侶あり。その後五人の同類を得て互いに相会し相語りしが、次第にその社に入るものありて一七八七年に至り一教会を組織せり。その宗の教義儀式のごときは他の教会とほとんど同一にして洗礼餐礼の式あり。ただその宗にて唱うるところの一種の異義は、天神は一七五七年に最後の審判を世界の上に行い、旧時の天地はそのときすでに過ぎ去りて新天地を現せりというにあり。その他この宗にては神父、神子、神霊の三体はヤソの一身中にありて具備するなり、天神の救助を受くるには信心と善行とを兼備せざるべからず等と伝うるなり。

         (ソ) アーヴィンギスト宗(Irvingist)

 アーヴィンギスト宗は一名カトリック・アポストリック宗と称し、エドワード・アーヴィング氏の開立するところなり。氏は一八二九年ごろにこの宗を開立し、その宗義は他の宗派と大同小異なるも、ただ一点において大いに異なるところあるを見る。すなわちヤソの再び此土に来生することを信じ、常にその準備をなすことこれなり。その宗の僧侶には四種の階級あり、その宗の儀式はいたって煩雑なり。

         (ツ) ワルデンス宗(Waldenser)

 この宗はその初めアルプス山間イタリアに属する部分に住せる一種の民族より起こりしものにして、その名もこの種族の名称より出でたるものなり〔このワルドー派はリヨンのワルドーによってはじまる〕。その宗義はカルヴァン宗に近く、ローマ宗の悪弊を改良するの主義を唱え、その起源つまびらかならずといえども、一説に第一二世紀中に起これりという。その宗徒は数百年間虐殺苛刑に処せられ、近年に至り始めて奉教の自由を得たり。

         (ネ) サルベーション・アーミー宗(Salvation Army)

 サルベーション・アーミー〔救世軍〕とは、ヤソ教者が軍人の服を着し、衆人をして神教に服従せしめんために組織せる一団体にして一種の教会なり。その教会は一八六五年ロンドン市中に起こり、ウィリアム・ブース氏をもって初祖とす。ブース氏は一八二九年イギリス、ノッティンガムに生まれ、その初めイギリス国教宗の人なりしもその後ウェスリアン宗に変じ、その宗の牧師となりて諸方を巡回し、一八六五年に至りロンドンの東部にきたり、ここに住する者宗教のなんたるも天神のなんたるも知らざるを見、この数万の人民をして宗教内に誘入するには別に良法あるべきを思考し、サルベーション・アーミーを組織するに至れり。その教会に入るものは男女老少を分かたずみな一定の軍服を着し、伍を成し隊を成し、つづみを鳴らし歌を誦し、街上を往来して公園、会場、その他一切人の群集する場所に至り、あるいは貧屋、酒店等の戸外に立ち布教伝道するをもってこの宗の本務とす。故にその宗には一定の会堂なく一定の僧侶なく、戸外街上人の往来群集する所すなわちこの宗の会堂なり。その相屯集する場所を名付けて兵営、本営、分営の称を用い、その隊の長たるものを将、佐、尉のごとき名称を用う。ブース氏はすなわちその宗の大将なり。現今その隊中に加名するもの三〇万人、隊数二二五八隊ありという。

         (ナ) ユニバーサリスト宗(Universalist)

 本宗の立つるところによるに、今日の世界に存する罪悪は他日ことごとく消滅し、人類は今日罪悪を有するも他日ことごとく神に救助せらるるときあるべしという。しかしてその宗中にまた種々の異説を唱うるものありて、ある一派はたとえひとたびこの世界にありて犯せる罪悪の果報として本来の罰苦を受くるも、その時期に限りありてすでにその罪に相応したる苦を受け終われば転じて楽界に昇進すべしといい、またある一派は全く死後の苦界なしと断言し、ただ死後受くるところの幸福の分量に多寡の相違あるのみという。以上の説明のごときは経典の釈義によるより、むしろ道理上の講究によるものなり。しかしてその説の初めて起こりしはよほど古きことなりしも、近世に至りてようやく世間に播布するに至れり。けだし一七七〇年マーレーと名付くる僧侶この主義を弘むるに大いに力ありしという。一八六二年発行のその宗の報告によるに、当時寺院の数九九八カ寺ありしという。しかしてこの宗を奉ずる者多く三位説を排するをもって、ユニテリアン宗に一致するなり。

         (ラ) ラショナリズム宗(Rationalism)

 本宗はこれを道理教もしくは合理教と訳し、道理を標準として経文を解釈するものをいう。従来ヤソ教のごときはその経典はただちに天神の金言となし、一言一句といえどもその間に疑念を挟むべからざるものとし、宗教は全く道理以外人智以上のものとなせしも、人智ようやく進み哲理の研究ようやく行わるるに当たりて、世人の宗教上に与うる解釈のごときも道理を標準とし、人智をもって理非を判定するに至れり。これ西洋に近世、道理教の起こるに至りしゆえんなり。ユニテリアン、ソシニアン、ユニバーサリストのごとき、みな道理教の一種に属さざるべからず。この教の主唱者は左の諸氏なり。

  ライマールス氏(Reimarus)  一七六八年死

  パウルゼン氏(Paulsen)

  アイヒホルン氏(Eichhorn)

  ラインホールト氏(Reinhold)

  シュトラウス氏(Strauss)

 以上はみなドイツ人なり。もしイギリスにありて道理上宗教を論究せるものを挙ぐれば左のごとし。イギリスはすこぶる宗教の勢力を有する地なれどもその間におのずから思想の自由ありて、随意に宗教の可否は道理上にて論究せるもの多かりしは左表について知るべし。

  ハーバート氏(Herbert)は一六四八年に死す。道理上にて宗教の説明を試みたる人なり。

  ホッブズ氏(Hobbes)は一六七九年に死す。宗教は単に想像によりて起こりたるものにして、政治上人心を制抑するに適したる機関なりとし、道理に基づきたるものにあらずと唱えり。

  シャフツベリー氏(Shaftesbury)は一七一三年に死す。氏は宗教を道教上に適用しきたりて単純の道徳教を主唱せり。

  トーランド氏(Toland)は一七二二年に死す。道理主義の宗教論者なり。

  マンドヴィル氏(Mandeville)は一七三三年に死す。人の欲情悪心は国家の進歩に欠くべからざるものとし、道徳も宗教もこの道理に基づきて起こるゆえんを主唱したる人なり。

  コリンズ氏(Collins)は一七二九年に死す。宗教上奇怪に属する事跡を排し、有形質有感覚の神体を斥したる人なり。

  ウォラストン氏(Woolaston)は一七二四年に死す。氏はヤソの奇跡は比喩の一種に帰し、その説を弁護するためについに牢中にありて死せり。

  ティンダル氏(Tindal)は一七三三年に死す。氏は経典は道理に基づきたるものなり、ヤソ教は世界創造のときより存したる教なりとの説を唱えり。

  モーガン氏(Morgan)は一七四三年に死す。氏は宗教は種々雑多の私心より生じたるものその中に混入して歴史上に存し、僧侶の政略工夫に出でたるものすこぶる多しという。

  チャッブ氏(Chubb)は一七四七年に死す。氏はヤソ教は本来自然の道徳上の規律を啓示し、これを犯すものを罰するものなることを論じ、ヤソの徒弟はその意を誤解したりという。

  ボリングブルク氏(Bolingbroke)は一七五一年に死す。従来宗教の世間に関して用いたる政略はいずれの時代にありても同じきことにして、決して中世以後に生じたるものにあらざることを主唱せり。

  ドッドウェル氏(Dodwell)は学術と宗教との一致をはからずして、宗教的信仰は諸思想作用の外にあることを証明せり。

  ヒューム氏(Hume)は一七七六年に死す。懐疑主義をもって道理を排斥したる人なり。

 

   付 講

     第一 古代宗教

 本講は宗教学の実際に属する部分を講述せんと欲し、もっぱらヤソ教の制度組織を講述してここに至れり。これわが国の宗教家の参考に最も必要なることを感ずればなり。しかるに各宗教の大要を略弁するもまた実際上必要なれば、ここに古代宗教および現今宗教の二段を設けてその一斑を示すべし。まず古代宗教はこれを神代史談すなわちミソロジー(Mythology)と称し歴史以前の空想を伝えきたり、もって古代宗教を組織するに至りたるものにして、その最も著名なるものはギリシア神代史談なり。エジプトにもペルシアにもインドにも、ともに大同小異の神怪談あり。インドはこれによりて婆羅門教起こり、ペルシアはこれによりて火〔ゾロアスター〕教起こるに至れり。今,左に掲ぐるところはエジプト、ギリシア等の神代史一斑なり。

         (イ) エジプト古代宗教

 エジプトの古代宗教は一神にして、その後多神教に変じたるとの説を唱うるもの〈あるもの〉あれども、これおそらくは誤りならん。その国に開闢以来多神教風の一種の信仰を有し、その発達するに当たりて思想二途に分かれ、おのおの正反対の方向を取るに至れり。その一方は民間通俗の宗教的思想ならびに他邦の鬼神についての諸思想混入しきたりて、多神の思想いよいよ発達するに至れり。また他の一方は多神の思想ようやく変じて次第に一神の思想を養成するに至れり。ここにおいてこの二者を折衷せんと欲して一神の表相に多神の現示するありて、表面の多神は裏面の一神のその随伴として造出せられたるものなりと想定するに至れり。

 エジプトの神談は二種の思想より生ず。その一は、光は闇に勝ち生は死を制すと信ずることこれなり。しかしてその光の闇に勝ちたることをあらわすに、全く有形上エジプトの主神なるラー(Ra)と蛇神アパップ〔アポピ〕(Apap)との争闘をもってせり。また生の死を制するは、他の主神なるオシリス(Osiris)がひとたびその弟のセト(Set)によりて殺され、その妻のイシス(Isis)によりて哀れまれしも、その子ホルス(Horos)の復讐するところとなり、ついに再び此土に来生するに至れりという。この比喩は日月歳時の循環してそのもとに帰するがごとく、人の生死も循環してひとたび死したるものもまた蘇生すべきゆえんを示すものなり。オシリスの神にしてすでに死してまた来生したるをもって、人はみなその神のごとくならざるべからず。また神は死して後その精霊天界にありて光輝を放つをもって、人もその死したる後は星界中に光を放たざるべからずという。

 つぎに第二種の思想は万物創造に関する想像にして、最上至尊の神とおよびこれに付属する諸神との作用によりて成りたる創造の事業をいう。その第一神として立つるところのものはプタハ(Ptah)と名付くる神にして、その体は宇宙の精神たる火の形質を取りたるものなり。つぎに水神、これをクナム(Cunum)という。ナイル河神、これをハピ(Hapi)という。ともに創造作用を有せり。

 エジプト人の多く崇拝する神はオシリスならびにイシス二神にして、なかんずくイシス神は衆人の奉信するところとなれり。

         (ロ) アラビア古代宗教

 アラビアの古代宗教はその種族によりて多少奉ずるところ異なるも、また多少一致するところのものあり。まず日神を崇神するがごときは諸族みな一致するところなり。また諸星、木石、山岳等もみな精霊のその体中に存するものとして崇拝せり。しかして偶像崇拝は後にシリア地方より入りきたりたるものにして、最初より存するにあらず。そのひとたび入りきたりし偶像崇拝はマホメット氏出世の当時一般の風習をなすに至れり。しかるに氏は新たに一宗を唱えて宗教改良を実行せり。

         (ハ) バビロンおよびアッシリア古代宗教

 この両国はその開明の程度については高下の相違あるも、宗教に至りては大異なし。崇拝するところの神に日神あり、これをサマス(Samas)といい、火神あり、これをシン(Sin)といい、文芸の神あり、これをナバ(Nabu)という。

         (ニ) アーリア人固有の宗教

 今日比較言語学の進歩によりて、インド人もペルシア人もギリシア人もローマ人もロシア人もゲルマン人も、みな同一源の人種より分かれきたりたることを発見するに至り、また比較宗教学の進歩によりて、この原始の人種は同一種の宗教を有したりしことを発見するに至れり。その原始の人種これをアーリア人種という。けだしその人種は一定の言語と一定の宗教を有せしものなり。すなわちその固有の宗教は比較上これを推究するに、日月星辰に神の名を配して崇拝したりしもののごとし。その第一の神を天父とし、これ最上の神なり。その他、雷電風雨等の諸神ありしことも比較上想定することを得べし。インドおよびギリシア等の宗教は多少その後に変更するところありしをもって、その名称を始めとしその間に一致する宗教点を見出だすこと難しといえども、なお比較上多少一致するところあるを発見すべし。その他女姓の神あり。これ男神と人間との中間に立ちて二者の媒介をなすものなり。要するに、アーリア人固有の宗教は一神教にあらずして多神教なり。

         (ホ) ギリシア古代宗教

 ギリシア古代の宗教はアーリア人固有の宗教とその類を同じうし、人種も宗教もインドおよびゲルマン等とその起源を同じうするゆえんを知るべし。すなわちギリシア古代の宗教はその神代史談によりて組織せるものにして、天体を神に配し別に偶像を用いず、山上においてこれを崇拝したるものなり。しかしてその後エジプトおよびその隣邦の宗教思想混入しきたりてややその形を変ぜしものなきにあらざるも、その原形に至りてはアーリア人起源の性質を失わざりき。かくしてようやく変遷するに際し詩人の空想のこれに加わるありて、天上神は一変して人間性のものとなり、人体に類似したる形質を有するに至れり。しかしてただ神と人との異なるは寿命の無限なるにあり、その他、神は人と同様に愛情の情念を有し、苦痛病患をも有するなり。かつギリシア人の崇拝する神に一種特別の風あるは、道徳をもって神の原則と立てざるにあり。神はなににてもその欲を満たし、その意に適せざることあれば不正不義の行為をもってこれを達せんとせり。しかりしこうして、その神は無限の威権を有し人間普通の規則の外にあるものなれば、人間はこれに従順しこれを奉戴せざるべからず。もし人間にして神に対して悪事をなすときは、その罰はたちどころに至り決して死後未来を待つを要せず。そのいわゆる未来は無生活、無快楽の空寂の境界にして、苦楽賞罰の果あることなし。ただ最大無比の悪人および最大無比の勇士に限り、未来に至りても一はもって永遠の苦を受け、一はもって無上の快楽を受くべし。故に尋常の人はその死するに当たり、形骸は地にありて畑に化し、精神はあたかも夢のごとく恍惚として過ぎ去るべしという。

 ギリシアの神には三類の別ありて、第一類は天上に住し、第二類は海中に住し、第三類は地下に住す。そのうち天上に住する神に一二体あり。すなわち左表のごとし。

   一、ジュピター(Jupiter or Zeus)は諸神中の最上、天上の王にして左手に電光を握る。

   二、アポロ(Apollo)は第一神の子にして太陽の御者なり、また詩歌音楽の神なり。

   三、マルス(Mars or Ares)は軍神にして殺害をもって楽とす。

   四、マーキュリー(Mercury or Hermes)は諸神の使節にして商業貿易の保護者なり、また弁舌の神なり。

   五、バッカス(Bacchus)は酒の神なり。

   六、バルカン(Vulcan or Hephaistos)は鍛鉄匠の神なり。

   七、ジュノー〔ユノ〕(Juno or Hera)はジュピター神の妻なり。

   八、ミネルヴァ(Minerva or Athena)は女神にして智慧の神なり。

   九、ビーナス(Venus or Aphrodite)は女神にして愛の神なり。

  一〇、ダイアナ〔ディアナ〕(Diana or Artemis)は女神にして猟神なり。

  一一、ケレス(Ceres or Demeter)は女神にして農神なり。

  一二、ヴェスタ(Vesta or Hestia)は女神にして火神なり。

 つぎに海中の神はその名左のごとし。

  一三、ネプチューン(Neptune or Poseidon)

 つぎに地下の神は左名のごとし。

  一四、プルト(Pluto)〔ハデス〕

 古来伝うるところによるに、ジュピター神はクロノス(Cronos uranus)の子にしてその弟をネプチューンとす。海中の神にしていわゆる水神なり。その他、以上挙ぐるところの諸神より一等劣りたるものに数種あれども、今これを略す。この神と人間との間に半神の時代あり。およそギリシアの開闢説は天神創造説とはやや異にして、天地の間に種々の神力ありて、その競争抗排によりて種々の変化を生ぜしことを想定せるもののごとし。しかして神には種々の神ありて互いに闘争与奪するを見たり。その神中最も古きものをウラノス(Uranus)と名付く、これにつぐものをクロノスと名付く、そのつぎをジュピターという。そのうちひとりジュピターを崇拝してそれ以上を崇拝せざるなり。今その開闢説として伝うるところによるに、太初には宇宙間に一事一物なきの渾沌未開の暗所を現せしのみ。その中より地を現す。その形は球のごとくならずして、盆のごとく円にして平らかなりとなす。すでに地その形を現して宇宙無限の空間以下二段に分かれ、上段は明界にして下段は冥界となるに至れり。これより宇宙の上、中、下三段の階級を立て、前に挙ぐるがごとく三類の神を区別するに至れり。これギリシア開闢説の大略なり。

         (ヘ) ローマ古代宗教

 ローマの古代宗教はその国古伝の想像説と、東方諸邦より入りきたりたる神怪談と混同して成りたるものにして、その神を説くに至りては多くギリシアの古説を伝えしなり。まず神中の主なるものを挙ぐれば、

  テロス神(Tellus)

  サトゥルヌス神(Saturn)

  オプス神(Ops)はサトゥルヌスの配偶なり。

  ジュピター神ならびにジュイ神(前に挙ぐるものと同一なり。)

  ヤヌス神(Janus)ならびにダイアナ神(Diana)

  ファウヌス神(Faunus)ならびにファウナ神(Fauna)は林神なり。

  ピクス神ならびにピルムヌス神(Picus and Pilumnus)は農作および田野の神なり。

  以下これを略す。

 この諸神にそれぞれ階級あり。またその受け持ちとするところおのおの異なりて、天を支配するものあり、地を支配するものあり、なおギリシア人の想するところと同じ。さきに挙げたるギリシアの諸神はローマ人みなこれを用い、ジュピターを最上とし、そのつぎをマルス軍神とす。ファウヌス神は吉凶禍福の判決を与うる神とす。

 ローマ人は以上の神を崇拝するに、預言者僧侶のごとき媒介をなすものを用いず、ただちに神に向かいて祈念すること、ギリシア人のなすところに異ならず。また神を拝しかつこれを祭るに犠牲を用い、唱歌舞踏をなす等、ギリシア人のなすところに同じかりしという。

     第二 現今宗教

 その教古代に起こりて今日に伝わらざるものと存するものあり。その伝わらざるものをすでに講了したれば、これよりその存するものをなお講述すべし。まずユダヤ教より始むべし。

         (イ) ユダヤ教

 そもそもユダヤ教は人種教にして、他教と大いにその性質を異にするところあり。故にその教の起源を知らんと欲せば、その人種の起源を知らざるべからず。ユダヤ人の名称は歴史上にて人のよく知るところにして、イスラエル人またはヘブライ人とも称するなり。そのうちヘブライ人の名称をもって最も古しとす。その名称はアブラハムの祖先ヘーベルという者の名より転化せりという。しかしてイスラエルの名称はヤコブのときより始まりしという。イスラエルとはヤコブの異名なり。つぎにユダヤの名称はこの人種がバビロンにおいて囚虜となりしときより起こるという。ユダヤとはジューダースと名付くる人より起こる。およそユダヤ人は一般にアブラハムをもってその人種の祖先と定む。その子をイサクという。イサクの子をヤコブという。ともにこの人種の長なり。イサクの死後この人種分かれて一二種族となる。紀元前一〇八〇年ソールと名付くる者その種族の王となる。これを最初の王となす。紀元前九七五年に至り、一二種族中一〇種族共同して従来の王国を離れ別に一王国を構成するに至り、従来の王国はただ二種族のみによりて組織し、二王国併列するに至れり。その二種族の方の王国はレホボームをもって王となせり。レホボームはソロモンの子なり。その後この王国は一九代を経てアッシリア国王シャルマネセルの征討するところとなり、人民の大半囚虜となれり。紀元前五八六年ネバカドネザルと名付くる者エルサレムを陥れ、人民の過半また縛につき、七〇年間バビロンに禁錮せられたり。一〇種族の王国も同時にシャルマネセルの征討するところとなり、その国王全く滅亡せり。その後ユダヤ人種の歴史明らかならず。紀元前一〇〇年代に至りローマの兵エルサレムを陥れ、その国ローマの付庸となるときにヘロデと名付くる者付庸国の王に命ぜられたり。その後ローマ王ティトゥスと称する者エルサレムを征し、市街を焼き堂宇をこぼち、一一〇万のユダヤ人を殺せしをもってその国全く滅亡し、その人種四方に散布転住するに至れり。その後今日に至るまで、再び団結して国家を形成せざるなり。ティトゥス帝のユダヤ人を殺せしは紀元七〇年九月八日のことなり。滅国後ユダヤ人の運命は記するに忍びざるもの多し。近世に至りてはヤソ教諸国はみなこれを仇敵視して種々の禁令を下し、その人種の権利をそぎ奴隷同様の取り扱いをなせり。イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、その他の王国において、あるいは土地所有権を与えず、あるいは国会選挙権を許さず、あるいは大学に入るを禁じ、はなはだしきに至りては一国内に住居の土地を限り、その地外に出ずるを禁じ、あるいは厳刑を設けて死罪に処する等のことありき。ルターのごときも宗教革命を唱うるに当たりユダヤ教を敵視し、その経文、その学校、その寺院を焼くことを主唱せりという。しかるにこの人種はその苛酷の待遇を受けしにもかかわらず、屈せずたわまず商業に従事に巨万の財産を作り、自然に各人民の間に勢力を得るに至れり。当時ロシアのごときは多少の制限をその人種の上に加うるといえども、その他の諸国は全く従来の制限を解きその宗教の自由を許し、フランス、オーストリアのごときはこの宗教をもってその国の公認教の一に加うるに至る。現今ユダヤ人の世界中に散布せるもの六〇〇万の多きに達せりという。この人民は統一の国土を有せず統一の政府を有せずといえども、同一の風俗を守り古来の習慣を重んじ宗教を奉じ、他種の人民と雑婚することなし。

 ユダヤ人はアブラハムをもって祖先とし、アブラハムおよびモーセの伝うるところの訓令を守り、なお一神を信ずる宗徒なり。そのヤソ教に異なる要点は、ヤソをもって神の子となすを許さざるにあり。故にヤソはその宗徒の讒言によりて死刑に処せられたり。これをもって、ヤソ教人民は今日に至るまでユダヤ人民を仇敵視せり。この宗徒の用うるところの経文は『旧約全書』にして『新約全書』を用いず、その文はヘブライ語に成るものを用い訳文を用いず、土曜日をもって安息日となし、金曜日の日没と土曜日の朝すなわち一週両度礼拝式を行う。これそのヤソ教と異なるところなり。ヤソ教は日曜日をもって安息日となすといえども、これヤソ死後に起こりし習慣なり。その以前にありては土曜日をもって安息日となせり。これ上帝が第一日より世界創造の事業に着手し、第二日第三日を経て第六日に至りてその事業を終え、第七日目に安息を取れり。故に一週の第一日すなわち日曜日は上帝創造を起こせし当時にして安息日にあらず、第七日すなわち土曜日こそ安息日というべけれ。しかるにヤソ教者が日曜日をもって安息日となせしはその故あり。すなわちヤソは金曜日において死刑に処せられ、日曜日において上天せり。故にその教徒は金曜日をもって大凶日とし、日曜日をもって大吉日となし、土曜日の安息日を日曜日に移すに至れり。かつユダヤ人はヤソの紀元を用いず、上帝世界創造の年をもって紀元と定む。その創造の年はヤソ紀元にさきだつこと三七六〇年と三カ月なりという。その暦日もヤソ教人民の用うるところのものと異にして、太陰暦を用うるなり。

 つぎにユダヤ教の分派を略述すべし。エルサレム滅亡以前はファリシー〔Pharisees パリサイ派〕、サジュシー〔Sadducees サドカイ派〕の二派あり。ファリシーはユダヤ教徒中の正教とも称すべきものにして、保守主義をとり規律を厳にし儀式を重んじ、政治交際上に至るまで宗教の制度によらざるはなし。その教義に至りても古来の伝説を固信し、上帝の外に神使鬼神の存在を説き、運命前定説を唱うるものなり。サジュシーはこれに反して改進主義をとるものなり。故にこの宗徒は儀式規律の繁雑をいとい、古来の伝説を用いず、上帝の外に神使の存するを説かず、人世は一代をもって限りとし死後の賞罰を立てず。これひとりファリシーの説に反するのみならず、一般の宗教説に反するものなり。その後ユダヤ教中に一種の異端説起これり。その主なるものをノスチックという。その宗徒の説はユダヤ教にヤソ教および東洋哲学を混入せるもののごとし。紀元第八世紀に至りカレートと名付くる一宗派起これり。この宗徒はユダヤ教中の最も有名なるものなり。ロシアの一地方、トルコ、ペルシア等のユダヤ教徒は多くこの宗徒に属す。その教義は普通のユダヤ教義に比するに、正理に合し妄信を離れたるものなり。故に一説にこの宗派をサジュシーと同一種となす。その宗徒の現今存するところのものを挙ぐるに、ビルナ地方に五〇〇人、ガリシアに一五〇人、オデッサに二〇〇人、クリミアに四〇〇〇人あり。コンスタンチノープル、エルサレム、アレキサンドリア、その他小アジア、ペルシア等におのおのその教会あり。一六七〇年シェプセンと名付くる一教会サマリア人によりて組織せられ、第一八世紀に至りチャシジムと名付くる一教会独立せり。この教会はポーランド、ハンガリー等の地内に信徒を有す。しかして現今に至りてはユダヤ教徒二大派に分かる。すなわち保守主義教徒と改進主義教徒これなり。その二者の間に画然たる分界を立つること難しといえども、改進派の極端を取るものはヤソ教とはなはだ相近く、保守主義の一辺を守るものはヤソ教を去ること遠きの別あり。以上はユダヤ教の大略なり。

         (ロ) マホメット教すなわち回教

 マホメット教とはマホメットの開立せる宗教に与うる名称にして、ヤソ教者より唱うる名称なり。その教徒は自ら称してモスレム〔ムスリム〕といい、その教を指してイスラムという。イスラムの義たるや神に服従するを義とす。その経典を『コーラン』と称す。あるいはこの教徒をマサルマンと称することあり。その義モスレムの信徒を意味するならん。

 教祖マホメットは紀元五七〇年八月アラビア、メッカの地に生まれ、六三二年六月八日同国メジナに死せり。年四〇にして始めて宗教改良に心を傾け、メッカ近傍の山中に隠れ苦心焦思するの際しばしば神告を得、出でて宗教の真理を世間にしかんことに決心し、メッカに帰り人を集めて宗教の新説を唱道せるにこれに抗するもの多く、六二二年マホメットのがれてメジナに隠るるに至れり。回教徒はこの年をもってその宗の紀元と定む。その後マホメットは兵力をもって新宗教を弘めんことに決意し、兵器をとりて四隣を攻め、数年を出でずしてその教遠近に播布するに至れり。

 マホメット教は一種の有神教にして、これを分析するにアラビア教、ユダヤ教、ヤソ教の三種より成るものなり。アラビア教とは古代よりアラビアの地に伝来せるその国固有の宗教をいう。マホメットの新たに宗教を起こすに当たりて、この固有の宗教の外に世間にユダヤ教ありヤソ教ありしをもって、マホメット氏これを統合しかつその改良を計り、もって一層完全なる一大宗教を開立せしなり。故にその教中ユダヤ教に似たるところあり、ヤソ教に似たるところあり。その教の要点は独一神を立つるにあり、これをもって教祖のごときは神の子にあらずして、ただ神告を得たる者とするのみ。これその教のヤソ教の三位説に異なるところなり。かつこの宗は神の外に神使鬼神の存することを許し、神使に善悪二種あることを説く。その体精美にして火のごとき分子より成り、上帝が人類を造出する前にこの身を造出せりという。およそ人の死するときにはこの神使が人身中より精霊を引き出だし、これを天堂にまで導くことをつかさどるものとす。またネーケルおよびムンキュルと名付くる二体の神使は、人の死するときにまずその罪悪を審判し、その罪あるものは地獄に至りて苦痛を受けざるを得ず、地獄にはまた種々の悪神ありて処刑をつかさどる。その他ガブリールと名付くる天使あり、これを天使中の第一とす。信者を弁護することをつかさどる。またイブリスと名付くる大魔王あり。悪人に刑罰を命ずることをつかさどる。わが閻魔王のごとし。天堂は七界に分かれ、地獄また七界に分かる。地獄の状況および罪人処刑のありさまは、仏教に談ずるものに異なることなし。その極楽もまた同一なり。その宗にて定むるところの信者の行は懺悔、祈請、断食、布施、巡拝等なり。祈請は一日五回を期し、『コーラン』の一部分を誦し、上帝に対して讃嘆の語を唱え、屈身匍匐することを常とす。金曜日には寺院に公会を開き祈請を行う。断食は回教暦九月、毎日日の出より日没までこれを行う。巡拝すなわち教祖の霊地メッカに参詣することは、この教徒の一生涯に一度行わざるを得ざるものなり。その他、この宗教の儀式中には古来野蛮の儀式を改良せしもの多し。ひとりこの宗の欠点は多妻を許すにあり。妻は四人までを限りとし、その定数の外にめかけを蓄うるを許す。殺児、飲酒、ばくち等はこの宗の禁ずるところなり。

 マホメット教の宗派は教祖死後、大小七三派に分岐すべし。そのうち本教の正義に合するものただ一派あるのみと教祖自ら予言せりという。今日存するところのもの三大派あり。その一をスンニといい、その二をシーアといい、その三をワッハーブという。そのうちスンニはアブー・バクル、オマルおよびオスマーン(第一第二は教祖の養父、第三は教祖の養子)の三人を教祖の正当なる相続人と立つるをもって、本教の正宗と自称するなり。この宗にまた四小派あり。つぎにシーア宗は教祖の法統はただちにその姪アリーに伝わりしという。その宗は教祖の死後三五〇年までは勢力を有せざりき。その宗にてはアリーをもって第一の相続者となし、一二世を経てアブカシンに至る。アブカシンは回教紀元二五八年忽然として消失し、将来世界の終期に至りその人再び来生すという。かくしてこの宗は一二人の外に教祖の法統を続くものを立てざるなり。本宗に属する小分派三二ありという。つぎにワッハーブは近世起こりたる一新宗にして、その開宗は一五〇〇年以前なりという。この宗徒は三大派中最も過劇熱心なるものにして、本教の改良を唱え、古代の精神を回復し、兵力をもって宗教を弘めんことをつとめり。シーア宗はこれをスンニ宗に比するに、その儀式やや厳なるものとす。トルコ、エジプト、アラビアおよびインドなる回教徒は大半スンニ宗に属し、ペルシアなる回教徒はシーア宗に属し、アラビア東部の住民はワッハーブ宗に属し、その他アフリカ内地に回教信徒多しといえども、その状態極めて下等なるものなり。

 回教は諸教中にありて最もその進歩速やかなるものにして、教祖始めてその教を唱えしよりアラビア全国その教を奉ずるに至りしは、わずかに二二年間の短歳月なり。これよりその教は漸々相進みて遠方に及ぼし、シリア、ペルシア、北部アフリカみなこの教を奉信するに至り、第八世紀の初年に当たりてはその教スペインに入りその地内に一帝国を開立し、およそ八〇〇年の久しきその土を領せり。これを欧史上サラセン帝国という。またアジアにありては遠くインドおよびシナに及ぼし、インド中には一帝国を起こし久しくその地を領せり。つぎにオスマン帝国の起こるに及び、回教の勢力また大いに天下に張れり。オスマン帝は一四五三年コンスタンチノープル府を陥れ一大帝国を開き、その領内の人民みな回教を奉ずるに至りしをもって回教の勢力最高の点に達せり。その後オスマン帝国たちまち衰え、回教また大いに衰う。

         (ハ) インド教すなわち婆羅門教

 インド教は一名婆羅門教と称し、ブラフマー神を崇拝するインドの宗教なり。この宗教にありては人民の階級を四等に分かちて、その第一を僧侶なりとす。その教に用うるところの経典は『マヌ』法典および『ヴェーダ』神典なり。『マヌ』法典はいずれの時代に成りしやつまびらかならずといえども、およそ紀元前六〇〇年ごろに成りしものなりという。『ヴェーダ』神典ははるかにこれより古きものにして、紀元前一〇〇〇年代のものなりという。これらの経典はもっぱら道徳および宗教上の行為を訓示するものにして、その目的に至りては最も完全、最も恒久なる独一神の現在を示すものなり。その神をブラフマンという。しかるに宗教としてはブラフマンの体を崇拝せず、またこれに対して殿堂を建て祭典を行う等のことあらず。これ他なし、ブラフマ神は無形の体にして、これに向かいて祭祗を行うを要せずと信ずるによる。しかしてこの無形の神体が形象を取るときは三体の神となる。これをインドの三神と称す。その第一をブラフマーという創造神なり、その第二をヴィシュヌという保護神なり、その第三をシヴァという破壊神なり。この三体はブラフマンの神体より分出せるものなり。この各体にはおのおのその偶像あり祭典あり、これに従って宗派の別あり。そのうちブラフマーを祭るものははなはだ少なく、ヴィシュヌおよびシヴァを祭るものははなはだ多し。ブラフマーは創造神なれば、天地を造り風雨を製し種々の神人を造出せり。その口より僧侶を生ず、これを人民の第一等とす。その腕より軍人を生ず、これを第二等とす。その胸より商人を生ず、これを第三等とす。その足より奴隷を生ず、これを第四等とす。これ人民の階級なり。

 インド教の宗派は三神の各体を崇拝するに従って分かれ、ヴィシュヌを崇拝するものはヴィシュヌをもって真神とし、シヴァの信徒はシヴァをもって真神とす。したがって各宗派の間に互いに相争い互いに相排するの勢いあり。しかしてブラフマーは最上の神体なるをもって、その体に化するはインド教の最上の目的とするところなり。この目的を達するには種々の誡法を守らざるべからず。殺生を禁じ諸欲を制し、『ヴェーダ』神典中に掲ぐるところの行儀を守るを要す。その儀式中には野蛮の風を存するもの多し。たとえば沐浴して滅罪の助となし、牛を摩し、太陽を仰ぐ等の儀式あり、みな滅罪の法なりとなす。無生物もまた滅罪するを要す。土地の滅罪式には一夜牝牛をしてその上を通過せしむるを要し、衣服の滅罪式には水をその上にまくを要す。その寺院に詣するときは堂内に入るにさきだちて懸鐘をうち、供物を献ずるをもって礼とす。その他断食を行うこと、殿堂を建築しあるいは修繕すること、霊地を巡拝すること等はみなその教信者の務めとなす。その最も異風なるものは、ガンジス、ジャムナー両河の合流に溺死するをもって信者最上の名誉とすることこれなり。すなわち信者その中流に至り一身を犠牲にせんとするときには両岸に立ちてその死を見るもの群集し、信者速やかに水中に沈むときは人みな喝采して、たやすく水神の領納するによるとなしこれを称讃す。およそ人の妻たるものは、その夫死するときに生きながらその身を焼殺するをもって最上の務めとす。もしその夫僧侶を殺し、あるいはその朋友を殺し、また人の恩義を破る等のことあるときは、その妻はその身を殺すをもって罪をあがなうものとす。かつこの教にては輪廻転生説を立つるなり。以上インド教の大意なり。

         (ニ) ペルシア教一名火教

 ペルシア教は古代ペルシアに起こりし宗教にして、火を崇拝するをもって火教の称あり。その徒をパルシーといい、その初祖をゾロアスターといい、その経典を『ゼンド・アヴェスタ』という。ゾロアスターはペルシア人にして、いずれの年代の人なるやつまびらかならず。一説に紀元前一二〇〇年の人なりという。『ゼンド・アヴェスタ』はこの教の本典にして、ゾロアスターの作るところとなす。あるいはいう、その書は紀元前二二〇年ごろ本教の古書によりて別に編集せるものなりという。その書五巻に分かれ、巻中説くところはゾロアスターに天啓ありしものを載せ、創造のことを掲げり。その説に曰く、世界に善悪二神あり、善神をオルムズドといい、悪神をアフリマンという。この二神より一切万物現出せり。世に善悪、明闇、生死の別あるはこの二神のおはするにより、人に生を与うるは善神のなすところ、人の生を害するは悪神のなすところなりという。しかして人の服従崇拝すべきはこの善神に限る。この教にて火を祭るは、火は神を表示するものと信ずるによる。けだしこの火は神火と称し、ゾロアスターが天より将来せしものなりという。

 この教徒は紀元前六三八年までペルシア国内に住せしも、当時回教の兵勢さかんなれば、その兵のためにペルシア王国滅亡せしをもって、その徒逃れてインドに入りボンベイに居住を定めり。パルシーとはインド人がこの教徒に与えし名称なり。回教徒はこれを呼びてグューベルスという。ともに他教より唱うる名称なり。この教徒は自ら称してベヘンデスという。その義、真実の教徒を意味するなり。しかるにヨーロッパ人は一般に称して火教徒という。一八四九年その徒のボンベイにありしもの一一万四六九八人なりという。

 教徒は他教徒と交際を異にし、他教徒と雑婚を行わず、他教徒の作りし食物を食せず、肉食を禁じ多妻を禁じ、姦通はこれを罰するに死をもってす。

 以上は実に各宗教の大意中の大意を講述せるに過ぎず。これよりこの講義を結ぶに当たり、余がかつて某学会において東西宗教の大相撲と題して講演せるところを述ぶべし。

     第三 宗教の将来

 さて今日は東西各国の宗教が打ち寄りて大相撲を興行する時節となれり。これ実に得難き時節なれば、願わくばその勝敗を一見して将来の宗教のいずれに定むるやを知らんことを。まず世界の宗教の種類は一〇大教あるいは数十宗にかぞうれども、その今日まで現存して純然たる宗教の性質を有し、かつ社会に多少の勢力を有するものは六大教あるのみ。左にこれを信者の数に応じてその名を列挙すべし。

  第一………仏  教………信徒五億人

  第二………ヤ ソ 教………信徒三億五〇〇〇万人

  第三………回  教………信徒二億人

  第四………婆羅門教………信徒一億五〇〇〇万人

  第五………ユダヤ教………信徒七〇〇万人

  第六………火  教………信徒一〇〇万人

 信徒の統計は諸説一定せざれば、余はしばらく二、三の統計を対照して大数を示せるのみ。この六教がみなアジア地方に起こりしは実に奇というべし。けだし宗教はアジアの特産と称して可ならんか。もしこれを宗教の性質によりて分類するときは二大教となるべし。すなわち智力教と意力教なり。仏教、婆羅門教、火教の三種は智力教にして、ヤソ教、回教、ユダヤ教の三種は意力教なり。前者を智力教と名付くるは、その性質元来理屈道理をもととし、哲学思想によりて組織せるものなればなり。しかして後者を意力教と名付くるは、神の命令法律をもととし、服従実行を本意とするによる。けだしかくのごとく世界の宗教上に性質の異同を見るに至りたるは、人種の異同と教理の発達とに関係を有せり。まず人種の異同とは、仏教、婆羅門教、火教の三種は同一人種すなわちアーリア人種中より起こり、その人種の特性は智力の発達にあり。古代ギリシア人種のごとき、今日欧州各国人種のごとき、みなアーリア人種にして、その古来学術思想に富めるは元来智力性の人種なるによる。これに反してヤソ教、回教、ユダヤ教はともにセミティック〔セム〕人種より起こり、その人種は意力性にして智力性にあらざるをもって、古来なんらの学術もその人種中より起こりたるを聞かず。ただ一種の命令的精神をもって、活気いな殺気を人間社会に与うるをもってその特性とす。回教徒がその教を弘むるに剣と『コーラン』とをもってしたるはその一例とみなして可なり。つぎに教理の発達とは、仏教も火教もともにインドの古典『ヴェーダ』経より転化したるものにして、『ヴェーダ』経は婆羅門の本経なれば、仏火両教ともに婆羅門教より直接あるいは間接に変化したるものなり。しかして婆羅門教は最も智力性を胚胎せる宗教なれば、これより転化したる宗教もまたみな智力性の宗教を組織するに至れり。仏教は婆羅門諸派の教理に反対して、はるかにその上に超絶せる真理を開発しきたれるものなれども、歴史上の発達においては婆羅門の教理より変化したるものといわざるべからず。火教はその年代つまびらかならずといえども、これを仏教に比するにやや古きものなるべし。しかしてその教理は仏教のごとく婆羅門と直接の関係を有せざるも、やはり『ヴェーダ』思想の方向を転じたるものなるべし。故にその性質また智力を帯ぶるに至れり。これに反してヤソ教および回教はその源ユダヤ教より起こり、ヤソ教はユダヤ教の嫡子、回教はユダヤ教の庶子なるがごとき関係あるも、ともにユダヤ教の一神的命令教の分身変体に外ならず。これ現今は六大教が自然に智力意力の二大種に分かるるに至れるゆえんなり。今その二大種を年代の前後に応じて列挙すること左のごとし。

  智力教すなわち アーリア 人種教 婆羅門教

                  火  教

                  仏  教

  意力教すなわちセミティック人種教 ユダヤ教

                   ヤ ソ 教

                   回  教

 もし勢力によりてこれを較すれば、智力教の代表者は仏教にして、意力教の代表者はヤソ教ならざるべからず。婆羅門教、回教そのつぎにして、火教、ユダヤ教またつぎなり。故にもし六大教の相撲取り組みの番付を作らば、必ず左のごとくなるべし。

  宗教大相撲取り組み番付 東の方 大関……仏  教

                  関脇……婆羅門教

                  小結……火  教

              西の方 大関……ヤ ソ 教

                  関脇……回  教

                  小結……ユダヤ教

 かくのごとく東西両方の取り組み自然に定まりたれば、これより第二〇世紀の青天白日に当たりて、一大勝負を世界の土俵の上にて決するに至るべし。勝敗の数はいずれに帰するや今より確定し難しといえども、双方の事情を比較対照するにおいてはやや判知するを得べし。もし信徒の数をもって較すれば東の方、西の方より多きこと一億人なり。

  (東) 仏教五億・・婆羅門教一億五〇〇〇万・・火教一〇〇万 総計六億五一〇〇万

  (西) ヤソ教三億五〇〇〇万・・回教二億・・ユダヤ教七〇〇万 総計五億五七〇〇万

 この数によりて勝敗を判ずれば、勝利は東の方に帰せざるべからず。しかるに仏教等は全くアジアの微弱なる国に信徒を有し、ヤソ教等は多く西洋の富強の国に信徒を有するをもって、その勢い西の方かえって勝算を有せざるべからず。しかるに更に第二〇世紀の天象を観測するに、社会はますます智力道理の世界となるは必然の勢いなれば、宗教もまた智力道理の宗教にあらずんば、その際に生存すること難きに至るべし。果たしてしからば、世界の機運は智力教のためにその道をひらきつつありというべし。機運は天なり、人力の動かすべきにあらず。故に余は勝算の七分は智力教にありと信ず。仏教に志ある者、あに一杯をあげてその前途を祝さざるを得んや。