2.円了講和集

P327

例言

余の博土の門に遊ぶこと、  すでに久しい。  本集は、  その久しきにわたりて、 博士が全国各所の請聘に応じて講演せられたるものや、 あるいは各種の新聞、 雑誌の上で談論せられたものを、 不才無能の余がひまにまかせて手録したのが、 積んで一大冊を成すに及んだ中の数十編を選びて博士の認諾を得、 書肆鴻盟社にはかりここに集録刊行して、 同志にわかつことに至ったのである。

ひとたびわが国思想界の原頭に立って、既往および現代における思想の発展を達観したならば、 哲学上、 宗教上、 はた教育上の方面に向かって、いかに博士の力があずかった〔こと〕であるか。  世にいわゆる哲学の開山と称され、 妖怪の博士とあざなさるるだけ、 それだけ、 わが国の思想界に多大の効果を与えたであろう。  こは、世のすでに詳知するところである。 あえて余が鴃舌を弄して博士の功能を喋々するの要はないが、 本集はそれが思想史の一端であるから、 読者を益すること、 決してすくなくなかろうと信ずるのである。

本集、その内容、 編次の順序については、 文学、 宗教、 倫理、 教育、 および雑部の数編に分類しようと思いしも、 実際は不可能事に属した。 それはほかでない、 あるいは哲学と宗教、 あるいは宗教と教育、 はた倫理と宗教等が相混じているからである。 ゆえに、到底的確な分類をなすことは不可能事だ。 よって、今は年月の順序によりて編次することにした。 これが、 かえって博士の思想史として適当の程路だろうと思う。

本集は博士の校訂を請わんと思いしも、 博士は元来、 かのいたずらに文章を華にし字句を麗にして、 かえってその実なきの虚飾は好まれぬ。  かれらは駕空天馬か骨董的学者として、 博士の取らざるところである。 ゆえに、 今一字一句も取捨訂正を加えず、 旧稿そのままを上木した。  これがかえって博士の真面目である。 ただ、筆者の誤謬と植字の欠淵あらんかを恐れ、  ことに熟視校正に努めた。 されど、 不敏なる余のもとより些少の欠点なきを保し難い。  ひたすら読者に請うのである、  願わくは累を博士に及ぼさざらんことを。

本集は『甫水論集』に次いで世に公刊する予定であった。 されど、 博士帰朝以来、 欧米周遊の土産として、 各所の講演に演述せられた最近のもあわせ収め、そして読者に対して斬新なる資料を供しようと計ったので、ついに遅延するの余儀なきに及んだのである。

本集「付録」として甫水雑詠を掲載した。 読者、あるいは詞章の通俗的であり、 韻礎の雅粋でないということを云々するものもあろう。 ソハ、まだ博士の主義を知らぬからである。博士の詩は、かの尋常詩人がいたずらに詞章を拈弄し韻礎を揀択し、そして区々たる小域に花烏風月を吟賞し、山水最色を詠じて興がるような、筐庭的詩人の詩と同日にみるべきの詩ではない。 博士の詩は、いわゆる志を言うにあって実際的である。 ゆえに、一字一句も後進の教訓でないのはなく、一詞一韻も社会の諷戒でないのはない。この故に、 読者よろしく熟読吟詠したらば、俗中かえって無限の真味あるをさとるであろう。

本集編纂するに当たり、『哲学雑誌』『東洋哲学』 『太陽』『新仏教』『和融誌』 『妙好華』『通俗仏教』『教育界』『教育時論』『日本人』『小学教師』等の編集諸士より転載の快諾を得て、ここに公刊するの栄を得るに至ったは、 深く諸士の厄意を謝するところである。

明治一二十七年紀元節の日                                編者しるす

 


   一 大乗仏説論


 将棋を争うに当たり、 王将より飛車を大切にする者あらば、 人これをなんとか言わん。  一家を治めるに当たり、 妻子より奴僕を愛する者あらば、 人これをなんとか言わん。  今ここに論者ありて、 須弥説は非仏説なりといわば、 仏教家喋々その非を論じ、 大乗は非仏説なりというに、 黙して答えずんばいかん。 これ飛車を愛し、 僕婢を大切にすると、 なんぞ異ならんや。 今や大乗非仏説問題、  はからずも世間の文壇に上がり、ようやく気炎を吐くに当たり、 仏者中うんともすんともいう者なきは、 余輩の大いに惑うところなり。 今日の仏者は単に大乗の名目の下に衣食するにあらずして、大乗仏説の下に糊するものなり。 換言すれば、  大乗を大天や竜樹の所造として世に広むるにあらずして、 三千年古、 釈迦仏金口の直説として人に伝うるものなり。 果たしてしからば、 この非仏説問題に対しては、 勇を奮い熱をそそぎて大いに論ぜざるべからず、 決してこれを冷眼蒋情をもって送迎すべからず。 余察するに、 仏者中あるいはこの問題は書生衆の空論、 壮士難の暴言として不問に付するものあらんか。 もししからば、余はまずその空論暴言にあらざることを示さんとす。 ここにおいて、余は第一に非仏説論の証明をあげ、第二に仏説論の弁護を示し、 第三に二者中論理いずれが確実なるかを判知すべし。

     第一段    非仏説論の証明

 大乗非仏説論はインドおよび西洋をまたず、 シナおよび日本において古来伝うるところなり。  今、 わが国先輩の非仏説論を考うるに、 いずれもみな排仏家なり、 外道流なり。  まず、 富永仲基氏の『出定後語』(巻上の一)には左のごとく論ぜり。

釈迦文既没、 僧祇結集、 迦葉始集三蔵、而大衆亦集三蔵分為両部、而後復分為十八部、然而其言所述以有為宗、事皆在名数、全無方等微妙之義、足所謂小乗也、 於是文殊之徒、作般若以上之、 其言所述以空為相、 而事皆方広、 是所レ謂大乗也、 此時大小二乗未有年数前後之説、其張大乗者則曰、自得道夜至涅槃夜常説般若、其張小乗者則曰従転法輪経至大涅槃集作四阿含。

 (釈迦文すでに没して、 僧祇結集あり。  迦葉はじめて三蔵を集め、 大衆また三蔵を集め、 分かれて両部となる。 しかしてのち、 また分かれて十八部となれり。 しかるにその言の述ぶるところは有をもって宗となす。ことみな名数にありて全く方等微妙の義なし。これいわゆる小乗なり。 ここにおいて、 文殊の徒は般若を作りてもってこれに上せり。 その言の述ぶるところは空をもって相となす。しかしてことみな方広なり。 これいわゆる大乗なり。 このとき、 大小二乗にいまだ年数前後の説あらず。 その大乗を張る者はすなわち曰く、得道の夜より涅槃の夜に至るまで、 常に般若を説くと。 その小乗を張る者はすなわち曰く、『転法輪経』より『大涅槃』に至るまで、 集めて四阿含となすと。)

 以下は、 法華、 華厳、 方等、 禅、 真言の諸大乗は、みな仏滅後に互いに前者に加上せんと欲して作為せるものなることを論ぜり。 しかして最後に至り、

是諸教興起之分皆本出于其相加上、不其相加上則道法何張、 乃古今道法之自然也、 然而後世学者皆徒以謂、 諸教皆金口所親説、多聞所年親伝、殊不知其中却有許多開合也、 不亦惜乎。

(これ諸教興起の分かるるは、  みなもとその相加上するに出ず。  その相加上するにあらざれば、  すなわち道法なんぞ張らん。  すなわち古今道法の自然なり。 しかるに後世の学者、 みないたずらにおもえらく、 諸教はみな金口、 親しく説きしところ、 多聞、 親しく伝えしところと。 ことに、 その中にかえってあまたの開合あることを知らざるなり。  また惜しからずや。)

同書にまた曰く、

余嘗云、 大小部乗、 各作経説、皆上証之迦文亦方便已、 昔者秦緩死、 其長子得其術而医之名斉于秦緩其ニ三子者不勝其忌、於是各為新奇而託之于父以求勝其兄、非不愛其兄也、以為不有以異于兄則不得以同于父、天下未有以決也、他日其東隣之父得緩枕中之書而出以証焉然後長子之術始窮于天下、此事出于毛元仁寒檠膚見、是則似之。

(余かつていわく、 大小部乗、 おのおの経説を作りて、みな上これを迦文に証するはまた方便のみと。 昔は秦緩死す。 その長子、その術を得て医名、 秦緩に斉し。 その二、 三子の者、 その忌にたえず、 ここにおいておのおの新奇をなし、 これを父に託してもってその兄に勝らんことを求む。 その兄を愛せざるにあらざるなり。 おもえらく、 もって兄に異なるところあらざれば、すなわちもって父に同じきを得ずと。 天下いまだ決することあらざるなり。 他日その東隣の父、 緩が枕中の書を得て出だしてもって証す。 しかるのち、 長子の術、 はじめて天下に窮まる。 このこと毛元仁の『寒檠膚見』に出ず。 これすなわちこれに似たり。)

また日く、

如是我聞、我者何、後世説者自我也、 聞者何、後世説者伝聞也、 乃至経説多仏後五百歳之人所作、 故経説多五百歳語、云云。 

(如是我聞の我とはなんぞ。 後世の説者の自我なり。聞とはなんぞ。後世の説者の伝聞なり。 ないし〔中略〕、 経説の多くは仏後五百歳の人の作れるところ、ゆえに経説には五百歳の語多し、 云々。)

これ、 富永氏の大乗非仏説論の要点なり。もし服〔部〕天游の『赤倮倮』によるに、 その開巻第一に曰く、

王元美いえらく、一切経みな仏説と称すといえども、 その間、 後人の仮託なきにあらず。  その大乗諸経はもとより議すべきにあらずといえども、 小乗諸経のごときは仏滅後、 竺土の僧の作れるところにして、  名を迦文に託せるものなりと。 これ、 了義の説をもって真とし、 不了義をもって仮とす。  理においては当たれるに似たりといえども、 事において考うればはなはだ疎なり。 予はかえっていえらく、 その人天小乗の教え、四阿含等のごときは、 その間あるいは一、二、真に仏の金口に出でたるものもあるべきか。  およそ諸大乗経は、みなこれ後人の仮託なること疑うべき者なし。 いかんとなれば、 およそ小乗の説は事実なり、 大乗の説は空理なり。  たとえば釈迦の行由を述ぶるがごとき、 小乗には十九出家、三十成道、 八十入滅と説く。 大乗には仏成道より以来すでに久遠劫をへたり。 また滅度を示すといえども実は滅度せず、 常に霊山におわして説法すと説く。  これ、 まずその事実ありて、 後に空理を付会せること明らかなり。 かつまた小乗の名目はみな正義なり、 大乗家は、 多くは小乗の名目をかりて、 翻案してその大乗の義を成せり。 たとえば四諦のごとき、 諦は審実不虚の義にして、 苦は実に苦、 集は実に因等と説く。 これ本義なり。 しかるに大乗には、「諦非苦非集」(諦は苦にあらず、 集にあらず)等と説く。 また、 蘊は「積聚有為」(有為を積聚す)の義にして、もとより無為を摂せず。 しかるに、 大乗には蘊即無為と説けり。 かつまた法数についていうに、 小乗は四大を説けば、 大乗には五大、 六大、 七大を説く。 小乗に六識を説けば、 大乗には七識、 八識、 九識、 十識を説く。 これみな、 後々漸々に増加せるなり。 如上の三端はほぼ一、二の例を示すのみ。 余は準知すべし。  かくのごとくなれば、まず小乗ありて後に大乗起これるに決せり。しかるに、 その小乗の諸経さえ多くは後人の手に成りて、真説ははなはだまれなるべし。なんとなれば、 今『雑阿含』を見るに、阿育王法事を起こすことを載せたり。これ仏滅百年後のことなり。 しからば、小乗経も後人の手に成りたること、 彰々然として明らかなり。いわんや、 また大乗はその後に出でたるをや。

 これ、 大乗のみならず小乗までも、仏説にあらずして後人の述作となせり。 そのほか、同書付録に論ずるところもまた一考するに足る。 すなわちいわく、

蓋釈迦一代教法止於小乗焉、 仏既入滅後諸弟子乃結集三蔵、其迦葉等大阿羅漢於七葉窟内号之上座部、是仏門正統也、 数万凡聖於岩外号之大衆部是則労流也、 正旁雖異、法唯一味、二部和合蔑有諍競、及仏後百年、大衆部中有一師名曰大天、始起異見別立新義唱生死涅槃皆是仮名之旨、蓋後然大乗之説既胚胎于此一云、 而大衆部則信而用之、 上座部則悪其違旧義、大起乖諍、互相謗毀不復和、其後第二百年乃至四百年二部漸分破遂為二十部、於是乎部執峰峙、 諍論波騰、 逮第五百年後、馬鳴竜樹無着天親等諸師、 後先挺出、 因見諸部紛紜欲下唱方広深義而破之、 遂乃擬造大乗修多羅以弾斥小乗三蔵教、其徒又撰述諸論以羽翼之、摩訶衍法於是盛興。

(けだし釈迦一代の教法は小乗にとどまる。 仏すでに入滅してのち、 諸弟子すなわち三蔵を結集す。その迦葉等の大阿羅漢、 七葉窟内におけるをこれ上座部と号す。これ仏門の正統なり。 数万の凡聖、 窟外におけるをこれ大衆部と号す。これすなわち旁流なり。 正、 旁異なるといえども法はただ一味、 二部和合して諍競あるをさげすむ。 仏の後、  百年に及び、 大衆部中に一師ありて、 名を大天という。 はじめに異見起こし別に新義を立て、 生死涅槃みなこれ仮名の旨を唱う。 けだし、 後世の大乗の説、 すでにここに胚胎せり。 いわく、大衆部はすなわち信じてこれを用い、  上座部はすなわちその旧義にたがうことをにくむ。  大いに乖諍起こして互いに相謗毀し、 また和合せず。その後、 第二の百年ないし四百年して、  二部ようやく分破し、 ついに  十部となる。  ここにおいて部執は峰峙し、 諍論は波騰す。 第五の百年の後におよび、 馬嗚、 竜樹、 無着、 天親等の諸師、 後にも先にも挺出し、 諸部紛紜するをみるによりて、 方広の深義を唱えこれを破せんと欲す。ついにすなわち大乗の修多羅を擬造し、 もって小乗の三蔵の教えを弾斥す。 その徒はまた諸論を撰述し、 もってこれを羽翼とす。 摩訶衍の法はここにおいて盛んに興る。)

 その後、  悪口の名人、 嘲弄の隊長たる平田篤胤翁ありて『出定笑語』と題する一告を著し、 その中に仲基の『出定後語』と天游の『赤倮倮』とにもとづき、 さらにその意を敷衍して大乗非仏説を論じたる一段あり。  すなわち左に引用すべし(本書巻中の三十三)。

 大乗の経々はもとより、小乗阿含部もともに釈迦の入滅後、 迦葉、 阿難の輩が三蔵を結集したるときよりはるか後の世の人の書いたもので、 そのうち小乗阿含部の経々は先に記したるもの故、 十の中に三つ四つは実に釈迦の口から出でたるままのこともあれど、 大乗というもろもろのものは、 すべて全く後人の釈迦に託して偽り作ったものに違いはないでござる。 それはどうして知れると申すに、小乗阿含部の説どもは右申すごとく、 釈迦生涯の事実をもとに記してその事実のちなみに法を説き、 大乗の経々の説どもは空理ばかりをいったものでござる、 云々。

 その証拠として挙ぐるところは、『出定後語』と『赤倮倮』との焼き直しに過ぎず、 ただ文章をやわらげて俗調に変じたるのみ、いな、罵詈調子に変じたるのみ。 そのほか尾州の人にて朝夷厚生と称する者も、 やはり大乗非仏説を唱えたり。この人は文化年代に世にありしものにて、 その著由は『仏国考証』『釈迦文実録』等、 数部あり。 まず同氏の『釈迦文実録』に自ら題するところ、 左のごとし。

十九出家、 三十成道、  八十老比丘、 生尽而命尽、 是其真也、  阿僧祇劫常在霊鷲山、是其説之幻也、 十年行苦楽、樹下成正覚是其実也、 成仏以来無量無辺百千万億那由陀劫是其説之愈幻也、  而称其幻為了義説、云云。

 (十九にして出家、 三十にして成道、  八十にして老比丘の生尽き、 命尽きること、これその真なり。 阿僧祇劫に常に霊鷲山にあること、これその説の幻なり。十年苦楽を行じ、 樹下に正覚を成ずること、これその実なり。 成仏以来、 無量無辺百千万憶那由陀劫とは、これその説のいよいよ幻なり。 しかもその幻と称するを了義説となす、 云々。)

また同氏の『釈氏古学考』自らの序文中には、「迦葉結集止有宗已矣、 未嘗有二摩訶衍説之非若後世諸家以懸空自張貶他也」(迦葉、 結集はただ有宗のみ。 いまだかつて摩訶衍ありてこれを説かず。 後世の諸家、懸空をもって自ら張り、 他をおとしめるがごとくにはあらざるなり)とあり、 あるいは「迦文教法之真専在於実学、東漸以来支那諸流以摩訶衍為宗、其翻経訳師率亦空家、一従其意楽、主張空宗雖三蔵梵本翻之支那国界寥寥乎莫講之者、惜乎竺土之旧廃復不振殊不知仏滅五百年間竺土仏法三蔵外亦無余蘊也」(迦文の教法の真はもっぱら実学にあり。 東漸して以来、シナの諸流は摩訶衍をもって宗となし、 その翻経訳師もおおむね空家なり。  一にその意楽より空宗を主張し、 三蔵の梵本これを翻するといえども、  シナ国界寥々としてこれを謡ずる者なし。 惜しいかな、 竺土これ旧廃してまた振るわず。 ことに仏滅して五百年間、 竺土の仏法は三蔵のほかに余蘊なきことを知らざるなり)とあるがごときは、 みな大乗非仏説の意を述ぶるものなり。  かつまた同書の付録に摩訶衍不審十条を列挙して、 大乗のはなはだ疑うべきものなることを示せり。  その論証はすでに『出定後語』および『赤倮倮』等に出ずる理由と同じきもの多きも、 重複をいとわずこれを掲ぐべし(本書は写本にて伝わり、文字の誤脱多ければ、その読解し難きところは、あるいは省略しあるいは修正し、原文のままを出だせり。 かつ割り注はすべてこれを除くこととなす)。

 仏滅後五百年にして、 大いにわかれて五百部となる。「日仏法過五百蔵後各各分別有五百部、従是以来以求諸法決定故自執其法、不知仏為解脱故説法、 而堅着語言、聞般若諸法畢竟空如又傷心」

(曰く、仏法五百歳を過ぎてのち、おのおの分別して五百部あり。これより以来、 諸法決定するを求むるをもっての故に自らその法に執し、 仏の解脱のための故に説法するを知らず。しかも堅く語言に着し、 般若の諸法畢竟空なるを聞きて心(むね)をさするがごとし)とあり。 五百部にわかれたれども、  みな三蔵学者にして有をもって宗とするものなり。 この時、いまだ大乗というものあらず。 五百年過ぐるころ、馬鳴、竜樹が徒起こりてより、三乗の名、小乗に属す。また無着、 天親等の諸師起こり、ようやく方等微妙の経説大成して、 大いに大乗を唱う。 これ、 竺土仏法の一大変なり。これまで竺土仏民の争論しばしばありしも、 双方ともに三蔵家(小乗家)の部執なり。 大乗家起こりて後は、五インド諸国、 大乗家と小乗家と部執争論やむときなし。 シナにて仏氏の諍論とは大いに異なり、シナにては大乗中諸流の争いなり。 また、 天竺にては大乗小乗という名目は大乗家の貶語にて、 他門にてはいわざる称呼なり。 小乗家にては三蔵経を仏道の正統、釈迦の真説、 その一代の説法ことごく四阿含等に尽きて、仏滅後、迦葉等結集の三蔵経に仏説遣漏なしとし、このほかに別に大乗の説あることは許さざることなり。ゆえに、 大乗家を空家外道と称して仏説にあらずとするなり。  ゆえに、 竺土にては後世までも小乗家多きゆえんなり。ここ竺土仏氏の風儀はシナ、 日本にて大乗を貴ぶ流とは大いに相違なり。 玄奘等西遊のとき見聞するところ、 五竺の仏氏の習俗かくのごときなり。  また、 大乗家にてはその説を自張せんがために、みな小乗家にて大乗家は後出なる故、小乗は如来の説にあらずとは誣い難けれども、 大小乗とも如来一代の真説とすれども、その経説異なる故、小乗教をもって如来の前説とするなり。 よって如来説、 時の説を設けて法相三論は三時とし、 天台は五時と判ずる等の説起こる。 シナヘは大乗家の説が伝わりし故、 シナの仏道ははじめより諸流みな大乗を宗として、 三蔵学を宗とする仏者は一向これなき故、 大小乗の名目が定まりたる仏経の階級のごとくなされたるなり。  それ故、 まれに小乗家ありても大乗家と衡を争うことあたわずして、 自ら小乗家とし、 大乗経をも信じて兼学するなり。かつまた、 はじめより聞きなれしこと故、 大乗を尊び小乗をいやしむるの説を、  愚夫愚婦までもみな、 もっとものこととするなり。  この段、 前文にいうごとく、  竺土仏者の風儀とは天地懸隔の相違なり。

(一)迦葉等、 三蔵結集のときに摩迦衍法(大乗経)を説かざりしなり。 その証拠には、 竜樹大乗家なれども、 このことを『大論』に述べたり。「問曰若仏嘱累阿難是般若波羅蜜仏槃涅槃後阿難共大迦葉結集三蔵、此中何以不説、 答曰摩訶衍甚深難信難行、仏在世時有諸比丘、聞摩訶衍示信不解故従坐而起何況仏涅槃後乎、以是故不説」(問うて曰く、もし仏、 阿難に嘱累せば、 この般若波羅蜜は仏の槃涅槃ののち、  阿難の大迦葉とともに三蔵を結集するに、この中になにをもって説かざるや。 答えて曰く、摩訶衍は甚深にして信じ難く行じ難し。 仏、 在世の時、もろもろの比丘ありて摩訶衍を聞くも、 信ぜず解せざるが故に、坐よりたつ。 いかにいわんや仏涅槃の後をや。 これをもっての故に説かず)(以上)。  この問答を翫味するに、 摩訶衍法は仏滅後五百年間世にこれなきことなれば、これ仏説にあらずと世人疑うをもって、 その疑いを防がんために作りたる自問自答なり。 しかるに、問うところの理ははなはだ明らかに聞こゆれども、 かえって答うるところの理明らかならず。 手を回して繕いたる趣、 ひとたび看過してしらるるなり。 かつ、 末に至りて今一問すべきはずなり。 肝要のことを問わずしてやめたるはいぶかし。 その一問の義をいわば、 如来阿難に属累せられしとあれども、 後世の凡夫僧のみなよく解釈するところの大乗経を、 親しく仏の側に朝夕随侍して居たりし大徳の羅漢たちが信解することあたわざりしということ、 その理通ぜざることなり。「且又何  況仏涅槃後乎、以是故不説」(かつまた、いかにいわんや仏涅槃の後をや。これをもっての故に説かず)ということ、またその理通じ難し。 涅槃の砌仏を去ること遠からず時の人を、いかにいわんや信解すべけんやといわば、 滅後五百年の久しきを経たる後の人は、 またいよいよいかにいわんや信解すべけんや。これ疑うべき一なり。

(二)阿難、 霊鷲山において仏滅後摩訶衍を集むといえども、 衆生志業の大小を籌量しこれを説かば、 錯乱弁を成し難きを恐れて説かず。一人至道をしり同門の諸声聞へも秘して説かずといい、 不実面柔の人というべし。  人を教えて倦まざるは仁なり。 阿難、 なんぞ不仁なるや。 これ疑うべき二なり。

(三)日夜、 仏の側に随侍せし羅漢たちの信解することのあたわざる摩訶衍を、 釈迦も阿難も滅度の後に至り、 何者かこれを解釈して五百年の後に伝わるべき。 これ疑うべき三なり。

(四)阿難その弟子へ伝え、 それより次第次第に師々相伝えきたりしといわば、 さほど次第次第に相伝承すべきことならば、いかにして五百年の久しき間、 仏法はただ三蔵経のことのみにて、その経文年々増加分別せしことと、およびその学者部執争論の沙汰つまびらかに伝わりしに、 数々の大乗経が、そのうち一経もその経文の沙汰なかりしこと、これ疑うべき四なり。

(五)『無量義経』等に四十余年の説法を未顕真実の説とし、法華に正直捨方便但説無上道といえり。しかるに仏滅後、 迦葉等結集のときに、 未顕真実の経説のみを結集して、 その最も専要とすべき無上道を結集せざれば、 迦葉等の結集もなんの益なしというべし。  これ疑うべき五なり(仏滅後、 迦葉結集の上座部および諸僧凡聖の徒の大衆部ともに、 今いう小乗の説にして、 あまたの大乗経の説、 一も散在せざること、これ大いに怪しむべきにあらずか)。

(六)『金剛経』にいう、「 一切諸仏及諸仏法皆従此経出、 無量義云、 令衆疾成無上菩提、法花経云、唯有一乗法無二亦無三、大品云、一切法皆摂入般若波羅蜜中、金光明云、 十方諸仏常念是経、法鼓云、一切空経是有余説、唯有屁  経是無上説一 涅槃経云、 従仏出十二部経、従十二部経出修多羅、従修多羅出方等経従方等経出般若波羅蜜、従般若波羅蜜出大涅槃、猶如醍醐、 十住論云、 以六度等為自力、其功遅、 念仏等為他力其功疾真云、 中蜜具自他二力是皆大乗経之説。」(一切の諸仏および諸仏の法はみなこの経より出ず。『無量義』にいわく、 衆をしてはやく無上菩提を成ぜしむ。『法花〔華〕経』にいわく、 ただ一乗法のみありて二つなく、 また三つなし。『大品』にいわく、 一切法みな般若波羅蜜中に摂入せん。『金光明』にいわく、 十方の諸仏は常にこの経を念ず。『法鼓』にいわく、 一切の空経はこれ余説あるなり。 ただこの経のみありて、 これ無上の説なり。『涅槃経』にいわく、 仏より十二部経を出だし、 十二部経より修多羅を出だし、 修多羅より方等経を出だし、 方等経より般若波羅蜜を出だし、 般若波羅蜜より大涅槃を出だす。 なお醍醐のごとし。『十住論』にいわく、 六度等をもって自力となすはその功遅く、 念仏等をもって他力となすはその功はやし。 真にいわく、 中の蜜に自他の二力を具すはこれみな大乗経の説なり。)その経つねに無上の経説とし、 他の大乗経を劣れりとす。 これ、一経つねにその経の作者ありてその説を自張せんがために、 他を貶するの辞なることはなはだ明らかなり。  諸大乗経を参考し照らし合わせて翫味すれば、 経つねにそれぞれに作者の趣向ありて作者異なること、 始終の証意によりてよく分かるなり。 あまたの大乗経ことごく一人の口より出ずるとは、 決して成り難し。 しかるに諸大乗経みな仏経とす。  これ疑うべき六なり。

(七)経説に声聞、 縁覚、 菩薩を三乗とす。 声聞、 縁覚を小乗とし、 菩薩を大乗とす。 よって迦葉、 阿難等を声聞とするは、 古風の仏道の三蔵学者にして、三蔵を小乗とすればなり。 仏滅五百年後に起こりたる馬嗚、竜樹、 無着、天親の徒、菩薩をもって称すること大乗家なる故なり。 しかるに馬鳴、 竜樹をはじめとして、 すべて仏氏たる者はみな阿難、 迦葉を祖とせざることを得ず。 その祖たる阿難、 迦葉はわずかに声聞として、その末流たる馬嗚、 竜樹等、 みな菩薩と成りてその上に立たば、 大いに転倒というべし。 されば、 大乗の説にてはその経文を菩薩とし、 三蔵学を小乗とする故、 しからざることを得ざるなり。 しかるにその説をもって仏説とすること、  これ疑うべき七なり。

(八)  小乗家の説は事実なり。 迦文の事迹を説くにも、 十九出家、 三十成道、 八十の老比丘、 生尽きて入滅すと説くなり。 大乗家にいうところは幻説なり。 これを了義の説という。  その説に仏成道より以来、 無量無辺百千万劫を経たり。 滅度を示すといえども実は滅度せられず、 常に霊山にありて説法すと説くなり。このことをつらつら考えみるに、 迦文存命のとき、  世人に対してかようの奇怪なる大言を語られなば、 聞く人これを信ずべきや。 いかなる愚昧の人にても、 これを聞かば狂人とすべきなり。 すでに釈迦の太子たるとき、 はじめ浄飯王の城をこえて出家せられし阿、 若、憍、 陳、 如など五人の者、父王の命によって太子に随身して同じく山林におりしが、 太子始終出家を遂げらるべきことを信ぜずして、 得道証果せらるべきことは、 五人ともに心に許さざりしなり。 実録の六時は幻説と相違なることかくのごときなり。 しかるに数百年も昔のことは、 奇怪のことをも信ずるものなり。 大乗の説は仏滅五百年の後のことなれば、 竺人の愚昧なる往古、 かかる不思議奇特の人もありしことやと信ずる人ある故に、 かようの幻説を作りたるなり。 今日まさしく目前に飲食語笑する肉身の人少なく、 少しく大言を吐きても承知せるが人梢なり。 しかるを、 かの大乗家の幻説を仏在世の経説とすること、〔これ〕疑うべき八なり。

(九)「大迦葉語阿難自転法輪至大涅槃集作四阿含」(大迦葉、  阿難に語る。『転法輪』より『大涅槃』に至る。四『阿含』を集めて作せりと)(『智度論』)。これによりてみれば、 説法の最初より後に至りて、 始終阿含を説かれしと見えたり。また「始自成道夜常説般若」(はじめ成道の夜より、 常に『般若』を説く)(『大論』)。 この説によってみれば、 仏説法の最初より最後に至りて、 始終般若を説かれしと見えたり。  また「十二年説阿含、三十年説大品八年説法華」(十二年『阿含』を説き、三十年『大品』を説き、八年『法華』を説く)(『法界性論』)といい、またあるいはいう、 菩提流支の説には成道二十八年に『瓔珞経』を説き、 三十八年に『解深密経』を説き、 四十二年に『観無量寿経』を説くという。しかるにまた華厳を成道最初の説とし、これを日輪のまず大山を照らすにたとう。 また『無屈義経』に「 四十余年未顕真実、種種説法以方便力」(四十余年にはいまだ真実をあらわさず。 種々に法を説くこと方便力をもってす)といえり。  この諸説の異同を和会せんとして、 法相三論に三時教を立てて、 前に小乗を説き後に大乗を説くとす。 天台また、 華厳、 阿含、 方等、 般若の四時に法華涅槃を同時として五時に判ずれども、  これもまた密合せざる故に、 頓漸秘密不定の四教に約して判摂をなす。 誠にやむことをえざるの説なり。 右くだんの諸説は、 諸家の異同を和会せんがため付会の説にて、  畢竟その経文を仏の真説とせんがための繕いごとなり。 諸大乗経、 実に仏の真説ならば、 種々の工夫をなして諸時を擬造などし、 繕うべきようなし。  これ疑うべき九なり。 

(一〇)そのはじめ、 迦葉等誦出するところは三蔵経わずかに数章にして、 三蔵本と一書の名といえば一切経というもの、 そのはじめいたっ て小部なりしを、 仏滅後四百年に至り二十部となり、 第五百年に至り五百部となる。 その後、 大乗の諸経ありてよりは次第に増加して数千万巻となる。  はじめ結集のときわずかに数章の仏経が、 後世に至り数百千倍となること、 そのはじめ少なく後世多し。 なんぞ、 かくのごとく莫大の相違なるや。 しかるに仏氏のいわゆる一切経文みな仏説にして、 阿難の結集するところなり。  これ疑うべき十なり。

 以上、 十難はひとり朝夷の説にあらず、 必ずその前より伝われる大乗非仏説を統計して十力条となせしものならん。 そのほか、 悪口の隊長、 嘲弄の名人なる平田翁も『印度蔵志』中にさらに大乗非仏説を論ぜられし点、 数カ所あれども、 さきに掲げたる『出定笑語』の論点と別に異なることなし。 今、 左に二、三節を引用せん  『(印度蔵志)巻二十三の十一左)。

 さて『起信論』に「修多羅説、 若人尊念西方極楽世界阿弥陀仏修善根廻向願求生彼世界即得往生、如是摩訶衍諸仏秘蔵、 我已総説、 若衆生欲入大乗道当持此論、云云」(修多羅の説、 もし人、 もっぱら西方極楽世界の阿弥陀仏を念じ、 修するところの善根を廻向して、 かの世界に生ぜんと願求すれば、すなわち往生することを得と。  かくのごとく摩訶衍は諸仏の秘蔵なり。われすでに総じて説けり。 もし衆生ありて、 大乗道に入らんと欲せば、 まさにこの論を持すべし、 云々)とあり。  しかるに四阿含中に西方極楽世界の説法なく、 阿弥陀仏という仏名あることなければ、これは四阿含を撰録せるときまでの世人はさらなり。 仏祖が説かざる世界の、 仏祖が知らざる仏にぞありける。 さればその修多羅は、これ比丘がひそかに造りて仏祖に託せる偽経なること疑いなし。さてこそ、ここに諸仏の秘蔵なれども、われすでに説くとはいえり(この一をもっても、いわゆる普賢、 文殊をはじめ無数の菩薩どもの名は、みなこの比丘が寓作なることを知りわきまうべし)。 さて、その修多羅は何経ならんと案ずるに、かの方等部と称する『大宝積経』にぞありける。 それはこの経の第五会に無量寿如来会とて、仏祖耆闍崛山に住して万二千の大比丘と倶なるに、普賢、 文殊、弥勒など無量の菩薩来集せり。このとき阿難が問いに応じて、 往昔法処比丘といいしが、 四十八願を興して無駄寿仏と成りて、 西方極楽世界に住する由を賛し、発願往生に勧めたる由に造れる、 これぞはじめと見ゆればなり。それはこの経、大乗方広部の祖経と見ゆるに、極楽世界阿弥陀仏の本縁に載せると、 その大乗説は馬鳴に始まり、かつ『起信論』に右のごとくいえるにて論いなし。 仏にては阿弥陀、 阿閦をはじめ、 菩薩にては普賢、文殊をはじめ、無数の仏菩薩どもの阿含中に見ざる名などは、 みなこれ馬嗚が造れるなり。

 また、 同書(巻二十三の三十左)竜樹菩薩の伝記を叙する下に、

(前略)さて本文に採れる綱要に、「所有仏法皆悉伝持」(あらゆる仏法みなことごとく伝持す)といい、上に引く『付法蔵経』にあらゆる仏経を敷演せる由言えるにつきて、 なお『西域記」にも「竜猛菩薩以釈迦仏所宣説法及諸菩薩所演述論鳩集部別」(竜猛菩薩は釈迦仏ののべられたる説法、  および諸菩薩の演ぜられたる述論をもって鳩集し、 部別す)ともあるは、 これまでにつぎつぎいできておわし大乗教法に鳩集敷演して部を分かち、 自ら持し世に弘伝せる由なり。それはみな己が識旦をもって敷演せるにはあれど、 世に持ち伝うる教説とはたがえる敷演を他人の信まじく思いて、 竜宮なる諸経の精説なるを得てきたれる由して取り出だしたるにて、 それはこの比丘が新工夫の幻説なり。

 これを要するに平田翁の説にては、 竜樹が自ら敷衍せる大乗諸経を世人をして信受せしめんがために、 竜宮といえる幻説を工夫して人を欺きしというにあり。 しかして大乗教は小乗異部中、 大天の唱えし大衆部の説中より産出せりとの意なり。  ゆえに、 同書(巻二十一の三十四右)に曰く、

(前略)そはその大乗説のここ(大衆部)に胚胎せることは、すでに出だせる大衆部の説中に「 一刹那心相応般若  知一切法、諸仏世尊尽智無生智恒常随転乃至般涅槃。」(一刹那心は般若に相応して一切法を知る。 諸仏世尊は尽智、 無生智、 恒常に随転して、すなわち般涅槃に至る)とあるは、これまさに大乗般若の胚胎せるなり。されば、これを敷演してそれより出でたる一説部に「諸法唯一仮名無体可得」(諸法は唯一仮名にして体の得べきなし)という胚説を生み出だし、 多聞〔部〕に「一無常、二苦、三空、 四無我、五涅槃寂静、 此五能引出離道」(一つには無常、 二つには苦、三つには空、 四つには無我、 五つには涅槃寂静、この五つはよく出離道を引く)という説を生み出でたり。これをもって、かの大乗弘通の魁首たりしいわゆる馬鳴論師、 大衆部の本義を取捨敷衍して『大乗起信論』を作り、その多聞部の説を襲いて「苦空無我第一義諦皆悉空寂」(苦、空、 無我、第一義諦、 みなことごとく空寂)と立言し、 またその弟子ともいう竜猛論師も大乗般若の旨を専一となして、 かの『大智度論』をぞ作りたりける。 されば、この徒みな、かの大天が子孫にあらずしてなんぞ。 またすべて大乗説を奉ずる徒、 この大天が苗裔にあらずしてなんぞ。

 そもそもこの宗輪論の作者、 世友などのもとより上座一切有部の人なれば、大天が新義を擯斥せんことはその旧義の廃れんことを思えるにて、実にさもあるべき挙なるを、その後に出だし、 かの国の大乗論師らはさらなり。 その大乗般若をにない持ち来たし、玄奘がこの論を訳しつつも、右の由来をわきまえば、この比丘をはじめ諸越の比丘等、 また皇国の仏者たちも、  みな大乗を信じつつ、 かの大天が異見をしも口を極めてそしりにくむは、その大乗教法の父をのみ尊みて、  その教本の祖父を卑しむる道理になもありける。

 平田翁が『印度蔵志』に述ぶるところ、 大略かくのごとし。  そのほかは『出定後語』および『赤倮倮』を引用して、 その受け売りをなすまでなり。 前に掲げたる朝夷厚生の『釈迦文実録』および『釈氏古学考』は、『印度蔵志』中に引用せるを見ず。 けだし、 その書は平田翁の手に入らざりしならん。  もしその手に入りしならば、  必ず「開いた口に牡丹餅」と思いて、  すぐさま吹聴するに相違なかるべし。 余はここには引用せざれども、  この朝夷厚生の『仏国考証』と題する一書は、 平田翁も一見せしとみえて、『印度蔵志』中にその書名を掲げたり。

  そのほか大乗非仏説を論ずるもの、『釈教正謬』と題する書中に出ず。本書は洋人艾約瑟迪謹〔ジョゼフ・エドキンス(Edkins,J.)〕氏の著すところにして、 その材料は多くシナにて諸家の排仏説より拾集せるや明らかなり(その書、 漢文にしてシナにて発行)。 その第一章は経典を論じ、第二章は教乗を論ずと題し、大乗非仏説の意を述ぶ。 まず、 その第一章に曰く、

釈氏経典数千巻、 皆云釈迦牟尼所説、 以梵文訳華言費千百年数百人之心力非一時一人所能弁、漢唐以来講求経旨分有数派亦可証経非一人所説矣、如是則作釈典者必有多人皆仏諸弟子仮託仏口増以如是我聞四字而已。

(釈氏の経典数千巻、  みな釈迦牟尼の説く所という。  梵文をもって華言に訳すに、 千百年数百人の心力を費やし、一時一人のよく弁ずるところにあらず。  漢、 唐以来、 経旨を講求するに、 分かれて数派あり、 また経の一人の所説にあらざることを証すべし。  かくのごとくなれば、  すなわち釈典を作るは必ず多人ありて、な仏諸弟子、 仏の口に仮託し、 如是我聞の四字をもってするのみ。)

仏氏所言諸経説於何地述自何人、毎多仮託如華厳経序、言竜樹菩薩在前漢中葉講大乗、大乗経典中華厳最著、 孰知本竜樹自作、欲人尊敬故託名如来耳。

(仏氏のいうところ、 諸経は説くこといずれの地においてし、 述べることなんびとよりせるや。 つねに仮託すること多くして、『華厳経』の序のごとし。 いわく、 竜樹菩薩、 前漢の中葉にありて大乗を講ず。 大乗経典の中、 華厳最も著し。 いずれがもとの竜樹の自作なるを知らん。 人の尊敬を欲するが故に、 名を如来に託すのみ。)

 つぎに第二章にいわく

梵文摩訶衍三字、  即所謂大乗也、 摩訶大衍乗也、 小乗梵文希那衍三字、 小乗四十二章経、 仏本行集経等、大乗華厳楞伽大涅槃諸経、 大乗所載弥陀阿閦薬師諸仏、 文殊普賢観音諸菩薩、 小乗無之、 奉仏諸国、 其教早分南北、南信小乗、北信大乗、南方経典不用大乗諸仏菩薩、 惟云七仏千仏而已、北方経典大小乗咸備、愚思小乗為如来親授、大乗諸経即北方釈徒所偽為者也、中国漢明帝時迦葉摩騰所繙不過小乗、迨魏晋六朝始有大乗経典、如起恐釈氏所言如来金口宣言十二部経者大非真実話頭也、 案晋法顕経歴西域諸方参学或従大乗、或従二小乗、蓋当時北方諸国所習大乗中猶未尽去小乗一也、 二十八祖達摩来東土、 以七仏相伝為正法眼蔵、彼南天竺未有他仏菩薩、亦可証大乗非如来親授矣、 学仏者宜知観音勢至文殊普賢非如来実有此諸弟子、無非馬鳴竜樹天親等聳人観聴憑空結撰、即彼法中所云、華厳楼閣弾指応現也、 釈氏復恐人視小乗為不足観、 於是造作大乗、一娑婆世界、化而為華蔵世界、一仏一経化而為十方三世無数諸仏名経、 大為塗飾、 以炫人目。

(梵文の摩訶衍の三字は、 すなわちいうところの大乗なり。 摩訶は大、衍は乗なり。小乗の梵文は希那衍の三字、 小乗は『四十二章経』、『仏本行集経』等なり。 大乗は『華厳』『楞伽』『大涅槃』の諸経なり。 大乗に載せられたる弥陀、 阿閦、 薬師の諸仏、 文殊、 普賢、 観音の諸菩薩、 小乗にはこれなし。  仏を奉ずる諸国、その教えは早くして南北に分かる。 南は小乗を信じ、 北は大乗を信ず。 南方の経典は大乗の諸仏菩薩を用いず、 ただ七仏千仏をいうのみ。 北方の経典は大小乗をみな備える。  愚思うに小乗は如来の親授たり、 大乗の諸経はすなわち北方の釈徒の偽りなすところのものなり。  中国漢の明帝の時、 迦葉摩騰のひもとくところは小乗に過ぎず。 魏晋六朝におよんではじめて大乗経典あり。 かくのごとくなれば、 おそらくは釈氏のいうところの如来金口の宣言せる十二部経は、 大いに真実の話頭にあらざるなり。 案ずるに、晋の法顕は西域の諸方を経歴して参学し、 あるいは大乗に従い、 あるいは小乗に従う。 けだし、 当時の北方諸国の習するところの大乗の中には、 なおいまだ小乗をことごとくは去らざるなり。  二十八祖達摩東土にきたりて、 七仏をもって相伝し、 正法眼蔵となす。  かの南天竺、 いまだ他の仏菩薩あらざるは、 また大乗は如来の親授するにあらざるを証すべし。 学仏者はよろしく知るべし、 観音、 勢至、 文殊、 普賢は、 如来実にこの諸弟子たることあるにあらざるを。 馬鳴、 竜樹、 天親等、人の観聴にそびえ、 空によって結撰するにあらざるはなし。  すなわち、かの法の中にいうところの、華厳の楼閣は弾指の応現なり。 釈氏また人の小乗をみて、 観ずるに足らずとなすを恐れ、 ここにおいて大乗を造作し、  一娑婆世界を化して華蔵世界となし、一仏一経を化して十方三世の無数の諸仏名経となす。  大は塗飾をなしてもって人目を炫ず。)

小乗中如来於邪悪世界欲化人去邪皈正者所論無甚裔遠、惟出家証空及輪廻因果之説而已、 大乗中此等言語、  已為小果、 小乗中惟婆羅門及商客等与如来相問答、 大乗中乃有無央数衆、 虚空諸大菩薩来聴説法矣、(中略)仏子欲信大乗不能更信小乗、以小乗為是必以大乗為非云云 。

(小乗中の如来、  邪悪の世界において、 人を化し邪を去りて、 正に帰せしめんと欲する者の論ずるところは、  はなはだ高遠なることなし。 ただ出家は空および輪廻、 因果の説を証するのみ。 大乗の中のこれらの言語は、  すでに小果たり。  小乗中にはただ婆羅門および商客等、 如来とともに相問答す。 大乗中にはすなわち無央数の衆ありて、 虚空のもろもろの大菩薩、 来たりて説法を聴く。(中略)仏子、 大乗を信ぜんと欲すれば、  さらに小乗を信ずるあたわず、  小乗をもってこれをなさば、  必ず大乗をもって非となす、 云々。)

 そのほか、 シナにて大乗非仏説を論じたるものあるも、 余その書を所持せざるをもってここに掲げず。 ただシナの書中に、 仏教はシナに入りて老荘を剽窃して作為せるところ多しとなす論は、 往々見るところなり。 今、 その一例を示さん。

朱子曰道家有老荘書却不知看、 尽為釈氏窃而用之、 却去倣傚釈氏経教之属、譬如巨室子弟所有珍宝悉為人所盗去、 却去収拾他人家破甕破釜。(朱子語類)

(朱子曰く、 道家に老荘の書あるもかえってみるを知らず。ことごとく釈氏窃してこれを用い、 却去して釈氏、 経、 教の属なることを倣傚せり。たとえば巨室の子弟、  所有せる珍宝ことごとく人の盗去されるところとならば、 却去して他人家の破甕、 破釜を収拾するがごとし。)(朱子語類)

又曰宋景文唐書賛説、仏多是華人譎誕者、攘荘周列禦寇之説佐其高、此語甚好、如欧陽公只説自家義理不見他正贓、却是宋景文捉得他正贓。

(また曰く、 宋景文の『唐書賛』に説く、 仏は多くこれ華人の譎誕者にして、 荘周、 列禦寇の説をはらい、その高きことをたすく。この語、はなはだ好し。 欧陽公のごときは、 ただ自家の義理を説き、 他の正贓を見ず。  かえってこれ宋景文、 他の正贓を捉得せり。)

 その意、 仏教はシナに入りて老荘の説を剽窃したるものなりというにあり。 古来、儒者中にはこの説を唱うるものあれども、これあえて論ずるに足らず。 かえって、 宋儒の説こそ仏教を剽窃したるなれ。 もし、 この二者の間に窃盗罪の軽重を論ずれば、 宋儒の罪重きは言をまたざるなり。

 つぎに、西洋にては一般に大乗非仏説論を唱うれども、余が所持せる書中には、いまだ非仏説の実例を挙げて証明せるをみず。 要するに、 西洋にては、 大乗非仏説を当然の論として証明を要せざるものとし、 大乗仏説を唱うるもののみ証明を要するものとなすがごとし。 しかして西洋学者は、 多くインド今日の仏教すなわち小乗教をもって純正の仏教と信じ、  これと合せざるものすなわち大乗はむろん非仏説なりと信ぜり。 もっとも、『法華経』のごとき現今インドに存する僅々二、三の大乗経文につきては異説百端にして、 総じて仏滅後の作となす。 しかれども、 そのいずれの年代になにびとの作為せるやは、 いまだつまびらかならざるがごとし。

 今、 さらに仏教の結集につきて考うるに、『仏祖統紀』(巻四の十四右)に掲ぐるところ、 左のごとし。

荊渓論結集三蔵則有三処一千結集、 正当最初(仏滅後四月十五日)、 七百結集為滅後百年、跋闍檀行十事(周厲王三十四年見通塞志)五百結集為四百年後、因伽昵咤王請僧論道不同(未検所出)。

 (荊渓は結集三蔵を論ずるに、すなわち三処あり。 一千の結集はまさに最初なるべし(仏滅後の四月十五日)。七百の結集を滅後百年となす。 跋闍ほしいままに十事を行ず(周の厲王三十四年、『通塞志』に見ゆ)。五百の結集を四百年後となす。 伽昵咤王の僧を請い、道を論ずるに不同なるによる、 と(いまだ所出を検せず)。)

 もし安然の『教時諍』(二十紙左) によるに、 小乗の結集に十文の不同ありという。  すなわち第一は『智度論』の説、 第二は『法蔵経』の説、 第三は『西域記』の説、 第四は『阿育王伝』の説、 第五は『智炬宝林伝』の説、第六は『真諦執論疏』の説、 第七は『湛然大師記』ならびに『沙門大覚記』、 第八は『大覚記別部執疏』、 第九は『湛然大師記』、 第十は『沙門大覚記』の説にして、おのおの多少の異同あるをいう。 そのうち第七の『湛然大師記』ならびに『沙門大覚記』には、 仏滅度ののち百年に、 毘舎離国に跋闍檀に十事を行ずるによりて、阿難の弟子耶含舎比丘、七百人を集めて重ねて三蔵を誦すという。 第八の『大覚記別部執疏』の説には、 仏滅後百十六年に大天比丘五事を論ずるときに分かれて上座、  大衆の両部となる、 しかして上座部中に、 諸阿羅漢、劫賓国にありて重ねて三蔵を誦すという。 第九の『湛然大師記』には、四百年のうちに迦膩咤王僧に請いて斎を設く。 道を論ずること不同なり。  これ故に、 五百の聖衆王舎城にいきて重ねて三蔵を集むという。 第十の『沙門大覚記』には、  このとき三蔵三過誦出、 第一に七葉巌中にて誦出し、 第二に毘舎離国重ねて誦す、  第三にこのとき劫賓国重ねて誦するなりという。以上の異説を合すれば、結集四回の多きに及ぶ。ゆえに、『教時諍』には「前後都合乃成四処」(前後都合してすなわち四処となる)と説けり。  すなわち、

  第一回は、 仏滅後上座大衆の結集なり。

  第二回は、 仏滅後百年において毘舎離耶舎含比丘の結集なり。

  第三回は、 仏滅後百十六年を経て上座部中の諸阿羅漢劫賓国における結集なり。

  第四回は、 仏滅後四百年のとき五百の聖衆、 王舎城における結集なり。

 以上、 前後数回の結集はみな小乗教なり。 今、 第一回の大結集を考うるに、『仏祖統紀』。(巻四の十六左)には左のごとく記せり。

如来滅後於畢鉢羅窟立三座部主結為三蔵、阿難誦出経蔵、迦葉誦出論蔵、 優波離誦出律蔵此即上座部、 更有一千賢聖命波戸迦於窟外結集名大衆部、 此二部通称為僧祇律、是為根本。 

(如来の滅後に畢鉢羅窟において、三座の部主を立て、結んで三蔵となす。 阿難は経蔵を誦出し、 迦葉は論蔵を誦出し、 優波離は律蔵を誦出す。 これすなわち上座部なり。 さらに一千の賢聖あり。 婆尸迦に命じて窟外において結集して大衆部と名づく。 この二部を通称して僧祇律となし、 これを根本となす。)

 また、結集に上座、大衆二部の分かれたるゆえんを考うるに、『智度論』(巻二の七右)および『西域記』(巻九の十三左)等の数書に出ずるも、その文長ければここにその要を摘示すべし。  すなわち仏滅後、 大迦葉まさに三蔵を結集して、法をして久しく住せしめんと欲し、 仏の弟子中、 神力を得る者を選んで千人をとれり。 そのとき迦葉禅定に入りて天眼をもってみるに、 阿難一人煩悩いまだ尽きざれば、 ともに結集すべからずと思い、 その手をひきて衆中より出ださしむ。 ここにおいて阿難は大いに慙泣し、 ついに勤求して羅漢果を証し、 別に迦葉の結集に加わらざるもの凡聖数百千人を集めて五蔵を結集せりという。 五蔵とは経律論三蔵に雑集蔵、 禁呪蔵を加うるなり。 迦葉所居の場所を畢鉢羅窟といい、 あるいは王舎城七葉巌という。けだし異名同所ならん。 阿難はその窟外において結集せり。 この迦葉の結集を上座部と名づく。 阿難の結集を大衆部と名づくるは、 迦葉は僧中の上座にして窟内結集の主なれば、これを上座部といい、阿難等は別に窟外において凡聖の同じく会せるをもって、 これを大衆部というなり。『撰集三蔵及雑蔵伝』に、「仏涅槃後迦葉阿難於是摩竭国僧伽尸城北、撰三蔵及雑蔵経」(仏涅槃ののち、 迦葉、阿難、 この摩竭国僧伽尸城の北において、三蔵および雑蔵経をえらぶ)とあるこれなり。すなわち、  この二者ともに小乗教の結集と知るべし。 しかして大乗の結集は、  いずれの時、 いずれの場所にありしや明らかならず。 まず『智度論』(巻百の二十五左)には「仏滅度後文殊師利弥勒諸大菩薩亦将阿難集是摩阿衍」(仏滅度ののち、 文殊師利、 弥勒の諸大菩薩とまた阿難とをひきいてこの摩訶衍を集む)とあり。 つぎに『仏祖統紀』には左のごとく記せり。

如来在此鉄囲山外十方諸仏並皆雰集説法、 亦名説経、 後時文殊召諸菩薩及大阿羅漢結集大乗法蔵。

(如来はこの鉄囲山の外にいます。 十方の諸仏ならびにみな雲集して説法す。 また説経と名づく。 後時に文殊はもろもろの菩薩および大阿羅漢を召し、 大乗の法蔵を結集す。)

つぎに『義林章諸蔵章』(巻二本の九左)によるに、

西域記云、 夏安居初十五日大迦葉波説偈言曰善哉諦聴、 阿難聞持如来称讃集素咀纜蔵、我迦葉波集阿毘達磨蔵、優波離持律明究、 衆所知識集毘奈耶蔵、雨三月尽集三蔵訖、大乗三乗西域相伝亦於此山同処結集、 即是阿難妙吉祥等諸大菩薩集大乗三蔵。

(『西域記』にいわく、 夏安居の初めの十五日に大迦葉波、 偈を説いて言いて曰く、 善かな、  諦聴せよ、  阿難の聞持は如来の称讃したもうものなり。  素咀纜蔵を集めよ。 われ迦葉波は阿毘達磨蔵を集めん。  優波離の持律明究せるは、 衆の知識するところ、 毘奈耶蔵を集めよと。 雨の三月ことごとく三蔵を集め訖んぬ。 大乗の三蔵は西域の相伝、 またこの山において同処にして結集す。  すなわちこれ阿難と、 妙吉祥等の諸大菩薩と大乗の三蔵を集む。)

しかして『八宗綱要』には、「迦葉波等結小乗三蔵於畢鉢之窟場、阿逸多等集大乗教法於鉄囲山之中間 」(迦葉波等は、 小乗の三蔵を畢鉢の窟場に結し、 阿逸多等は、 大乗の教法を鉄囲山の中問に集む)と述べたり。もし『教時諍』によらば、 大乗の結集に六文の不同ありという。 その文、  左のごとし。

一大般若経云他方菩薩未聴般若各還本土結集法蔵雨大法雨、利諸有情、二金剛仙論口仏在二鉄囲山中間説仏話経已告大衆、汝等所聞皆当説之云云、 三菩薩処胎経云仏滅度已経七日七夜大迦葉告五百羅漢、乃至爾時阿難最初出胎化蔵為、第一中陰蔵、第二摩訶衍方等蔵、 第三戒律蔵、 第四十住蔵、 第五雑蔵、 第六金剛蔵、 第七仏蔵、 第八是為釈迦文仏経法具足矣、  四智度論云迦葉与阿難於王舎城結集小乗三蔵、文殊弥勒将阿難於鉄囲山間結 集摩訶衍蔵、五天台大師引仏話経云文殊昇高称如是我聞大衆悲号云云、 六憬興法師弥勒疏云有説外国集経伝云如来滅時云云。

(一に『大般若経』にいわく、 他方の菩薩はいまだ般若を聴かず、  おのおの本土にかえりて法蔵を結集し、大法雨を雨ふらしてもろもろの有情を利する。  二に『金剛仙論』に曰く、 仏は二鉄囲山の中間にあり、 仏話〔語〕経を説きおわりて大衆に告ぐ。 汝等の聞くところ、  みなまさにこれを説くべし云々。  三に『菩薩処胎経』にいわく、 仏滅度しおわりて七日七夜を経、 大迦葉五百羅漢に告ぐ。 ないし、  このとき阿難最初に出胎化蔵を第一とし、 中陰蔵を第二とし、 摩訶衍方等蔵を第三とし、 戒律蔵を第四とし、 十住蔵を第五とし、 雑蔵を第六とし、 金剛蔵を第七とし、 仏蔵を第八とす。  これ釈迦文仏の経法具足となす。 四に『智度論』にいわく、 迦葉は阿難とともに王舎城において小乗三蔵を結集し、 文殊、 弥勒は阿難をひきいて鉄囲山の問において摩訶衍蔵を結集す。 五に天台大師、『仏話〔語〕経』を引いていう、文殊高きに昇りて如是我聞と称うるに大衆悲号す、 云々。六に憬興法師、『弥勒疏』にいわく、 あるは説く外国の集経の伝に、 如来滅時という云々。)

  ゆえに、『教時諍』には大乗結集には四所ありとす。 すなわち、一は『般若経』のとき他方結集、 二は『仏話〔語〕経』のとき此土結集、 三は迦葉、 阿難、  五日結集八蔵のとき、 四は文殊、 弥勒、  阿難結集これなり。

 以上の記事を考うるに、 小乗の結集は事実なるがごときも、 大乗の結集は年時、  場所ともに判明せず。 あるいは鉄囲山の外にありて結集すといい、 あるいは小乗と同所において結集すというも、 ともに信を置き難し。 ゆえに、 大乗非仏説論者はその論鋒をこの点に集中して、 攻撃すこぶる急なるがごとし。

 そもそも仏滅後、 仏教流伝の次第は『宗輪論述記』、『三論玄義』等の数書に出ずるところなるが、 今その大要を述ぶるに、仏滅後四百年間は小乗教盛んに行われ、 異論したがって競い起これり。そのうち、滅後百年間は小乗中いまだ宗派を分かつに至らず、百余年を経てようやく二十部の分派を生じ、もって互いに相争うに至れり。その後さらに相分かれて、ついに五百の異部を派生せりという。 しかして五百年のときにありては、 諸派の外道大いに興り、 仏教これがためにその光を隠さんとせしが、 六百年のとき馬嗚出でて、 七百年のとき竜樹起こりて、 大いに外道を排斥して、 大乗を振起せりという。  今、 左に『八宗綱要』の又を引用すべし。

伝聞如来滅後四百年間、 小乗繁昌、 異計相興、大乗隠没納在竜宮、就中一百年間純一写瓶、百余年後異計競起、 是以摩訶婆徒吐五事之妄言、婆麤富羅未捨実我之堅情、乃至遂使四百年間二十部競起五印度乃至五百交諍、 五百年時外道競興、 小乗稍隠況大乗耶、 爰馬鳴論師時将六百、始弘大乗、乃至次者有竜樹菩薩六百年季暦、七百初運、 紹干馬鳴独歩五印、云云。

(伝え聞く、 如来の滅後、 四百年間は小乗繁昌し、 異計相興る。 大乗は隠没にして竜宮に納在せり。  なかんずく、  百年間は純一に写瓶し、  百余年ののち、 異計競い起こる。  これをもって摩訶提婆いたずらに五事の妄言を吐き、 婆麤富羅いまだ実我の堅情を捨てず。 ないし〔中略〕、ついに四百年間に二十部をして五印度に競い起こらしめ、ないし〔中略〕、 五百交々あらそわしむ。 五百年のとき、 外道競い興り、 小乗やや隠る。 いわんや大乗をや。ここに馬嗚論師、 時まさに六百にならんとしてはじめて大乗を弘む。 ないし〔中略〕、 つぎに竜樹菩薩あり。 六百年の季暦、  七百の初運に、 馬鳴についで五印に独歩せり、 云々。)

これによりてこれをみるに、 仏滅後小乗ひとり行われて大乗の伝わらざりしは明らかなり。 しかして、 大乗の世に起こりたるは馬鳴、 竜樹に始まる。 もし竜樹の大乗を伝えたる由来を考うるに、  一般に竜宮に入りて将来せりとなす。 まず『華厳経伝記』をみるに、  左のごとく記せり。

西域伝記説竜樹菩薩往竜宮見此華厳大不思議解脱経有三本、上本有十三千大千世界微塵数偈四天下微塵数品、中本有四十九万八千八百偈一千二百品、下本有十万偽四十八品其上中二本及普眼等並非凡カ所持、 隠而不伝、下本見流天竺、蓋由機悟不同所聞宜異故也、 是以文殊普賢親承具教、天親竜樹僅覩遺筌云云 。

(西域伝記に説く、 竜樹菩薩は竜宮にいき、  この華厳大不思議解脱経を見るに三本あり。  上本には十の三千大千世界微塵の数の偈、 四天下微塵の数の品あり。 中本には四十九万八千八百偈、 一千二百品あり。 下本には十万偈、  四十八品あり。  その上、 中の二本、  および普眼等は、 並びに凡力の持するところにあらず、 隠して伝わらず。 下本は天竺に流るるを見る。 けだし、  機悟同じからざるによりて、  所聞よろしく異なるべきが故なり。  これをもって文殊、 普賢は親しく具教を承く、 天親、 竜樹はわずかに遺筌をみる、 云々。)

依文殊般涅槃経仏去五世後四百五十年文殊師利猶在世間、依智度論諸大乗経多是文殊師利之所結集此経則是文殊所結、 仏初去後、 賢聖随隠、 異道競興、 乏大乗器、摂此経在海竜王宮、六百余年未伝於世、竜樹菩薩入竜宮日、  見此淵府誦之在心、 将出伝授、 因茲流布。

(『文殊般涅槃経』によらば、 仏世を去りてのち四百五十年、 文殊師利なお世間にあり。『智度論』によらば、 もろもろの大乗経は多くこの文殊師利の結集するところにして、この経すなわちこれ文殊の結するところなり。 仏初めて去りしのち、 賢聖したがって隠れ、 異道競って興る。 大乗の器に乏しく、この経をおさむるに海竜王宮にありて、六百余年、いまだ世に伝わらず。 竜樹菩薩、 竜宮に入りたる日、この淵府に見てこれを誦して心にあり。 まさに出でて伝授せんとし、ここによりて流布す。)

 果たしてしからば、『華厳経』は仏説より出でたるや、 あるいは後人の偽作なりしや、 はなはだ疑わしきところあり。  今日の人に向かいて竜宮より将来せりといわば、 小学児童もなおこれを信ぜず、  いわんや大人をや。 畢竟するに小説的寓言に過ぎず。  ゆえに、 大乗非仏説論者はこの点をもって大乗攻撃の好材料とみなし、 大乗は竜樹の作るところと唱うるものあるに至る。

 つぎに『法華経』の由来を考うるに、 華厳と法華とは大乗の親玉なれば、 確実なる徴証なかるべからざるに、これもやはり華厳のごとく怪談中より生まれ出でたり。  すなわち『法華経伝記』によるに、

西域伝記説、  竜樹菩薩逕海竜宮見此法華平等摩訶衍経有大千界微塵偈、 四天下塵数品具記録奇瑞問答重重往覆、東方土相南西北方四維上下光中所現又二百億灯明一一説法華経儀歎十方三世諸仏智慧土大事因縁、化三乗人開悟一乗(中略)、 今長安所伝四本不同、一五千偈、 正無畏所伝是也、  二六千五百偈、 竺法護所訳是也、 三六千偈、 鳩摩羅什所伝是也、四六千二百偈、 闍那崛多所伝是也、 三本是多羅葉、什本白氎也、 此土所伝尚有偈数増減、西方経何量云云。

(西域伝記に説く、 竜樹菩薩、 海にいたるとき竜宮にて、  この法華平等摩訶衍経を見る。  大千界微塵の偈、四天下臨数品あり。  つぶさに奇瑞問答を重々往覆せるを記録す。 東方土の相、 南西北方四維上下の光中に現ずるところ、 また二百億の灯明はいちいちが『法華経』の儀を説く。 十方三世の諸仏の智慧は大事の因縁なるを歎ず。  三乗の人を化して一乗を開悟せし、(中略)今、 長安に伝うるところの四本は同じからず。一には五千偈にして、 正無畏の所伝これなり。 二には六千五百偈、 竺法護の所訳これなり。 三には六千偈、 鳩摩羅什の所伝これなり。 四には六千二百偈、闍那崛多の所伝これなり。  三本はこれ多羅葉、 什の本は白氎なり。  この土の所伝すら、 なお偈数に増減あるに、 西方の経、 なんぞ量らんや、 云々。)

若依文殊師利般涅槃経仏滅度後四百五十年文殊師利猶在世間、依智度論六諸大乗経是文殊結集、 若依集法伝有三種阿難、阿難此云歓喜持声聞蔵、阿難跋陀此云歓喜賢持独覚蔵、阿難迦羅此云歓喜海、阿難昇高、 衆生三疑一疑仏大悲従涅槃起既説妙法、二疑更有仏他方来住此説法、三疑彼阿難転身成仏為衆説社法、 今顕如是所説之法、我昔侍仏二十五年親所曾聞年非仏既起他方仏至転身成仏為除此疑故、 諸経初皆言我聞、真諦三蔵云、 微細律明阿難昇高集法蔵時、 身如諸仏具二諸相好、下座之時還復本形、良由権行具足三徳共伝大小、此経則是阿難海所結、 若仏話経文殊在座先唱題目阿難昇高復述而集、 智度論拠之而言文殊結集諸大乗経、具結集已即書文心葉収宝葉窟、 天人竜神王臣大衆競興供養、仏去世後賢聖随隠如大象去子随去、九十五道粉乱起、 十八異師専崇小典、 摩訶衍経多分隠没於世不行、 此経結集已隠蔵不行、 西方相伝大雪山中有宝塔収法華梵夾具如具真諦三蔵云、西域伝記説、仏円寂後五百年未有一比丘深解大乗如獲得無生遍求深経、往至雪山開宝塔戸披閲梵夾於中而住、 守護受持、 六百年初、 南天国中有一梵士種洞達四韋陀五明大義十八異経名馳五天独歩諸国名曰竜樹捨邪帰正、  出家具戒、  九十日中議誦三蔵、既求深法無有得処遂入雪山塔中、比丘以此経梵本授与竜樹受誦愛楽、  頗知実義、 周遊諸国広求余経、於閻浮提遍求不能具得、独在静室水精房中思惟此事、 大海竜王見而愍之接八大海於宮殿中発七宝函以華厳法華諸摩訶衍雲経太雲華手般舟諸方等深奥経無妙法授之、竜樹受誦九十日其心深入体得実利、竜王知其心問曰読経未不、答曰汝諸函中経多無量、  経劫不可尽、  我所読去已十倍閻浮提経、竜王言如我宮中所有経典諸 処此比不可数知各各塵数不妨不礎不可思議、  竜樹言願得深経将還閻浮提大弘仏教摧外道、竜王言我宮有華厳不思議解脱経三本(中略)、  法華平等大会経有十世界微塵数偈不可説品、自余経典甚太広博、  竜樹言我見妙典不可思議将如何伝、竜王言不思議解脱経上中二本至非閻浮提之人力所中受持不可伝之、法華深経略本在閻浮提、広本並秘在我宮中、即授下本華厳並諸経一箱、竜樹既得一箱深入無生、竜樹逆出於南天竺大弘仏教摧伏外道広摩訶衍作三部大論、  千部別論、  大論中多引華厳法華等釈幽微旨云云、  若淮此伝記既有大本並秘在竜宮隠而不伝。

(もし『文殊師利般涅槃経』によらば、仏滅度後四百五十年に、文殊師利なお世間にあり。『智度論』 六によらば、 もろもろの大乗経はこれ文殊の結集なり。 もし『集法伝』によらば、  三種の阿難あり。 阿難はここに歓喜といい、 声聞蔵を持す。阿難跋陀はここに歓喜賢といい、 独覚蔵を持す。 阿難迦羅はここに歓喜海という。  阿難高きに昇るとき、 衆生に三疑あり。  一には、 仏は大悲をもって涅槃より起こり、  すでに妙法を説くやを疑う。二には、 さらに仏ありて他方より来たりてここに住して説法するやを疑う。  三には、  かの阿難身を転じて仏となりて、 衆のために説法するやを疑う。  今かくのごときの所説の法をあらわすは、  われむかし仏にはべりて二十五年、 親しくかつて聞くところなり。 仏すでにたち、 他方の仏至りて身を転じて成仏するにあらず。  この疑を除かんがための故に、 諸経のはじめにみな、 われ聞くと言えり。 真諦三蔵いわく、 微細は律に明かせり。阿難高きに昇りて法蔵を集めるとき、 身は諸仏のごとく、もろもろの相好を具し、 座に下るのとき、かえりて本形に復する。まことに権行によりて、三徳を具足し、ともに大小を伝う。この経、すなわちこれ阿難海の結するところ、 仏話経のごとく、 文殊、  座にありてさきに題目を唱うれば、阿難は高きに昇りてまた述べて集む。『智度論』はこれによりて、 文殊はもろもろの大乗経を結集するという。つぶさに結集しおわりて、  すなわち文心葉に書して宝葉窟に収め、 天、 人、 竜神、  王臣、 大衆、 競いて供捉を興す。  仏、 世を去りてのち、 賢聖はしたがって隠れる。 大象去りて、 子、 したがって去るがごとし。 九十五道紛乱起こり、 十八異師もっぱら小典を崇ぶ。 摩訶衍経は多分に隠没して世に行われず、  この経、 結集しおわりてのち、 隠蔵して行われず。 西方に相伝し、 大雪山中に宝塔あり。 法華の梵夾を収める。 つぶさには真諦三蔵のいうがごとし。 西域伝記に説く、 仏円寂ののち、 五百年末に一比丘あり。 深く大乗を解し、 無生を獲得す。 あまねく深経を求めて雪山に至り、 宝塔の戸を開いて梵夾を披閲す。中において住して守護、  受持す。 六百年の初めに南天国中の一梵士種ありて、  四韋陀、 五明の大義、 十八異経に洞達す。 名は五天を馳せ、 諸国を独歩す。 名づけて竜樹という。  邪を捨して正に帰す。 出家具戒す。  九十日中に三蔵を議誦し、  すでに深法を求めて得処あることなし。 ついに雷山の塔中に入る。 比丘、  この経の梵本をもって竜樹に授与せり。  受誦愛楽し、  すこぶる実義を知る。 あまねく諸国を遊し、  広く余経を求め、 閻浮提においてあまねく求むるも、 つぶさに得るあたわず。  ひとり静室にありて、 水精房中でこのことを思惟せり。 大海竜王はみてこれをあわれみ、 八大海に接する宮殿中において七宝の函を発し、 華厳、 法華のもろもろの摩訶衍、 雲経、 太雲、 華手、 般舟、 もろもろの方等深奥経の無量の妙法をもってこれを授け、 竜樹は受誦すること九十日にして、  その心深く入り実利を体得す。 竜王その心を知りて問いていわく、 経を読むはいまだしやいなや。 答えていわく、 汝の諸函中には経多くして無量なり、 劫を経るも尽くすべからず。  わが読去するところは、  すでに閻浮提経に十倍せり。 竜王のいわく、 わが宮中の所有の経典のごとし。 諸処はここに比ぶるに数知るべからず。  おのおのの塵数は妨げず、 礙げず、 不可思議なり。 竜樹いわく、  願わくは深経を得て、 まさに閻浮提にかえりて大いに仏教を弘めて外道を摧伏せんと。 竜王のいわく、  わが宮に華厳不思議解脱経三本あり。

(中略)法華平等大会経は十世界の微塵数の偈、 不可説品あり。 自余の経典ははなはだ広博たり。  竜樹いわく、  われの妙典を見るは不可思議なり。 まさにいかにして伝えんとす。 竜王いわく、 不思議解脱経の上、 中二本は閻浮提の人力の受持するところにあらず、 これを伝うべからず。  法華深経は略本にして閻浮提にあるも、 広本は並びに秘してわが宮中にあり。  すなわち、 下本の華厳ならびに諸経の一箱を授く。 竜樹すでに一箱を得、 深く無生に入る。 竜樹は逆に南天竺に出でて大いに仏教を弘め、 外道を摧伏して摩訶衍を広め、 三部の大論、 千部の別論を作る。 大論中に多く華厳、 法華等を引き幽微の旨を釈す、 云々。 もしこの伝記に准ずれば、  すでに大本あり。 ならびに秘して竜宮ありて隠して伝えず。)

これによりてこれをみるに、『法華経』もやはり竜宮の怪談中より現出せり、 あるいは雪山の塔中より伝来せりとなす。  これまた識者のとらざるところなり。 けだし、 西洋にても『法華経』の真偽につきては異説すこぶる多しという。 果たしてしからば、 大乗非仏説論者は鬼の首を取りたる心地にて得意然たるに相違なかるべし。 法華は実に大乗の鬼の首なり。  その他の大乗教は手や足に比して可ならん。 しかるに、  その首すでに敵手に落ちたる以上は、 大乗仏説論者は降旗を立てざるべからざる場合となれり。 しかしてその果たしてしかるやいなやは、余は別に意見あれば後に論弁すべし。

 つぎに、 大乗中の真言教はいかん。 これも妖雲怪霧中より出生せるや、あるいは青天白日の伝来なるや、 今『略付伝法』によるに、

第三祖名曰那伽閼剌樹那菩提薩埵(唐言竜猛菩薩旧云二竜樹)、誕迹南天、化被五印、尋本則遍覆初生如来、 現迹則位登初地、或遊邪林而同塵同事、 或建正幢以宣揚仏威、〔作千部論論摧邪顕正、上遊四王自在処、〕下入海中竜宮誦叩持所有一切法門、遂乃入南天鉄塔中親授金剛薩埵灌頂誦持秘密最上曼荼羅教流伝人間。

(第三祖は名づけて那伽閼剌樹那菩提薩埵という(唐に竜猛菩薩という、 旧に竜樹という)。 迹を南天に誕し、 化を五印に被る。 本をたずぬればすなわち遍覆初生の如来なり。 迹を現ずればすなわち位、 初地に登る。 あるいは邪林に遊び、 しかも塵に同じ事に同ず。 あるいは正幢を建ててもって仏威を宣楊す。〔千部の論を作りて邪をくだき正をあらわす。  上は四王の自在処に遊び、〕下は海中の竜宮に入る。 所有の一切の法門を誦持して、  ついにすなわち南天の鉄塔の中に入り、 親しく金剛薩埵の灌頂を授く。 秘密最上曼荼羅の教えを誦持して人間に流伝す。)

大弁正三蔵表制集曰昔毘廬遮那仏以瑜伽無上秘密最大乗教伝於金剛薩埵数百歳方得竜猛菩薩而伝授焉。 

(大弁正三蔵の『表制集』に曰く、むかし毘慮遮那仏、 瑜伽無上秘密最大乗の教えをもって、 金剛薩埵に伝えたまい、 数百歳してまさに竜猛菩薩を得て伝授す。)

 もし『八宗綱要』によらば、「如来滅後七百年時、 竜猛菩薩開南天鉄塔遇金剛薩埵受職灌頂、 然後広流伝之、金剛薩埵親承大日如来、大日如来是教主也」(如来の滅後、 七百年のとき、 竜猛菩薩は南天の鉄塔を開き、金剛薩埵にあいて受職灌頂す。 しかるのち、 広くこれを流伝す。 金剛薩埵は親しく大日如来に承く。 大日如来はこれ教主なり)とありて、 その意『略付法伝』と同一なり。 果たしてしからば、 真言教も妖怪の真窟中より誕生せりといわざるべからず。 竜樹は南天の鉄塔中に入りて数百歳の昔なる金剛薩埵に遇いたりというがごときは、常識を有する者のみな信ぜざるところなり。

 以上、 大乗中の実大乗と称する天台、 華厳、 真言三教の起源を略述しおわりたるが、 なおそのほかに大乗中の権大乗と名づくるものあり。 すなわち法相宗これなり。 その宗は総じて六経十一論によると称するも、 別して『解深密経』、『瑜伽論』、『唯識論』の一経二論をもって所依の経論となせり。  しかして『瑜伽論』のごときは、仏滅後九百年、弥勒菩薩、都率天より中天竺阿踰闇国謡堂に降臨して説かれたるものなりという。すなわち『八宗綱要』に記するところ、 左のごとし。

如来滅後九百年時、 弥勒菩薩従都率天降竺中天竺阿瑜遮国於瑜遮〔那〕講堂、説五部大論(瑜伽論、分別瑜伽論、 大乗荘厳論、 弁中辺論、金剛般若論)、補処薩埵位居十地、是則如来在世親聞所伝、 非空非有中道妙理、 於諸教中寔為明鏡、如瑜伽論者巻軸百巻、諸教悉判故名広釈諸経論。

(如来滅後九百年のとき、 弥勒菩薩、  都率天より中天竺の阿瑜遮国に降り、 瑜遮那の講堂において、 五部の大論(『瑜伽論』『分別瑜伽論』『大乗荘厳論』『弁中辺論』  『金剛般若論』)を説きたもう。 補処の薩埵、 位十地に居す。  これすなわち如来在世の親聞の所伝にして、 非空非有の中道の妙理なり。 諸教の中においてまことに明鏡となす。『瑜伽論』のごときは巻軸百巻、 諸教ことごとく判ずるが故に広釈諸経論と名づく。)

 ゆえに、 法相宗の伝灯は仏より弥勒に伝え、 弥勒より無着に伝え、 次第に相承すとなす。 しかるに仏在世のときにまのあたり仏の説法を聴きたりし弥勒菩薩が、九百年を経て都率天より降臨してその法を伝えりというがごときは、 局外者の目よりみれば、 やはり怪談の胎内より生まれ出でたりというべし。  これを要するに大乗経は、あるいは竜宮より将来せり、 あるいは鉄塔中より伝来せり、あるいは鉄囲山の外にありて結集せり、あるいは都率天より降来せり等と唱えきたりて、いずれも妖怪畑の寓言談にあらざるはなし。ゆえに、これを小乗と相較するに、 大乗の起源ははなはだ疑わしきところ多ければ、 非大乗家は日清戦争の日本人のごとく百戦百勝の勢いにて、  すでに旅順を陥れ、 威海衛を抜きたれば、  これより一挙して北京城を衝くべしとの勢いなるがごとし。 今、さらに『出定後語』に論ずるところを引用すべし。

 (前略)於是法華氏之言興、 其言云従成正覚来、 過四十四年、無数方便、 引導衆生、我所説諸経法華最第一、但為菩薩不為小乗、観諸法実相是名菩薩行、無量義経亦云、 四十余年未顕真実種種説法以方便力是可見、 其託諸四十余年後而愚法従前諸家、亦託諸実相而破従前有空、是法華氏乃大乗中別部、幷従前二乗而斥之者也、 然而後世学者皆不知之、 徒宗法華以為世尊真実之説経中最第一者誤矣、 年数前後之説実肪于法華、幷呑権実之説亦実肪幷法華、広大方便力熒惑古今人士者、 何限、 嗚呼孰蔽之者非出定如来示能也。 

((前略)ここにおいて法華氏の言興る。その言にいわく、 成正覚よりこのかた四十四〔余〕年を過ぐ。  無数の方便、 衆生を引導す。 わが所説の諸経、 法華最第一。 ただ、 菩薩のためにして、  小乗のためにせず、 諸法の実相を観ず。 これを菩薩行と名づくと。『無量義経』もまたいわく、四十余年、いまだ真実をあらわさず、種々の説法は方便力をもってすと。これみるべし、 そのこれを四十余年ののちに託して、 従前の諸家を愚法にし、 またこれを実相に託して、  従前の有空を破る。  これ法華氏はすなわち大乗中の別部、 従前の二乗をあわせてこれを斥する者なり。 しかりしこうして後世の学者はみなこれを知らず。 いたずらに法華を宗として、 もって世尊真実の説経中の最第一となせる者は誤る。 年数前後の説は、 実に法華にはじまる。  権実を幷呑するの説もまた、 実に法華にはじまる。 広大の方便力、 古今の人士を熒惑するは、なんぞ限らん。 ああ、だれかこれをおおう者、 出定如来にあらざればあたわざるなり。)

解深密経云、初小乗、中空教、後不空、亦法華氏之党也、 又案三蔵之目始起於迦葉、而法華文有三蔵学者、是知法華経出于後、又案法華蓋普現之徒作大論遍吉之語可見。

 (『解深密経』にいわく、  はじめ小乗、 なか空教、 のち不空と。  また法華氏の党なり。 また案ずるに、三蔵の目、 はじめて迦葉に起これり。 しかして法華の文に三蔵学者あり。  ここに知る、『法華経」はのちに出でたるを。  また案ずるに、 法華はけだし普現の徒作る。『大論』の遍吉の語をみるべし。)

於是華厳氏之言興、乃託之二七日前説円満修多羅以斥従前小乗、又譬之日輪之先照諸大山王以斥従前大乗、而特作一家経王矣、誠加上者之魁也、後世或復信此方便而曰此経最上至極頓之頓者亦誤矣。 

(ここにおいて、 華厳氏の言興る。  すなわちこれを二七日の前、 円満修多羅を説くに託して、 もって従前の小乗を斥し、 またこれを日輪のまず諸大山王を照らすにたとえて、 もって従前の大乗を斥し、 特に一家の経王を作れり。 誠に加上する者の魁なり。 後世あるいはまたこの方便を信じて、この経を最上至極、 頓の頓という者はまた誤れり。)

舎利弗目連、 異時異処共入仏法、然此会即有舎利弗等五百声聞祇洹林普光法堂、 此時並未建立而此文具述之、是皆作者方便逗漏処、又案華厳有諸法実相般若波羅蜜之語是知此経亦出于三経後。

(舎利弗、 目連は、 異時異処、 ともに仏法に入れり。  しかるにこの会、  すなわち舎利弗等五百声聞あり。  祇洹林、 普光法堂は、このときならびにいまだ建立せず。 しかしてこの文、 つぶさにこれを述べたり。  これみな作者の方便逗漏の処。 また案ずるに、 華厳に諸法実相、般若波羅蜜の語あり。ここに知る、この経もまた三経ののちに出でたるを。)

かくして漸次に方等部、 禅家部を論じて真言部に至り、 その下に曰く、

不空師云、 経夾蔵于鉄塔数百年、 竜猛始獲焉、 然而竜猛所説無一言及焉者、唯秘密之号出于竜猛、故後世崇奉之至蓋依以為然也。

(不空師いわく、 経夾を鉄塔に蔵して数百年、 竜猛はじめてこれ獲たり。 しかりしこうして竜猛の所説は一言のここに及ぶものなし。 ただ秘密の号、  竜猛に出ずる、 ゆえに後世の崇奉の至れり。 けだし、 よってもってしかりとなすなり。)

 これを要するに、富永氏の説は大乗加上論にして、小乗の基礎の上に一階、 二階、 三階を加上して、 最後に実大乗のごとき最上無北の層楼高閣をみるに至るとなす。 また重ねて、『赤倮倮』の大乗経および五時判釈に与うる批評を提示せん。

 まず、 華厳を最初の説とするは始成正覚の語あるをもってなり。 しかれども諸部の小乗にも始成の語ありて、 鹿苑をもって最初の説とす。 荊渓よりて言う、 これは小機の見るところにして、大乗の始成に異なりと。 荊渓もしこの説を主張せられば、おそらくは矛盾の過ちあるべきか。いかんとなれば、それ鹿苑を成道最初の説とすることは『法華』方便品にも見えたり。いわゆる『我始坐道場」(われはじめて道場に座して)より法僧差別名に至り、  この一段六十四句の偈これなり。 その大意をいわば、 世尊成道ののち三七日思惟したまわく、 われただちに一乗の法を説くべしといえども、衆生根鈍にして信ずることあたわじ。 しかるに過去の諸仏みな、 方便をもって三乗を説きたまえり。 今、 われもその例に従わんとて鹿苑に趣き、 五比丘のために四諦の法を説く。このとき、はじめて三宝の名ありとなり。 かくのごとくなれば、  法華の始成はすなわち小乗の始成に異なることなければ、法華もまた小機所見の説というべしや。これ別義にあらず。 元来華厳は法華より後に出でたる経なれば、法華においてその沙汰はなきはずなり。 しかるに、 天台大師信解品の長者窮子のたとえにおいて五時を配当し、  その傍人急追を華厳の擬宜を領するの文とす。 これ付会のはなはだしきなり。 今、試みに本文のみを平らかに読み去るべし。 なんぞ、かつてかかるせんさくに及ばんや。いわんや旧訳『正法華』のこのたとえは文句はなはだ異にして、 五時に配すべきようかつてなし。  されば、天台の説巧なることは巧なれどもついにこれ、この経作者の本意にはあらず。 かつまた『華厳経』につきて考うるに、 かの作者成道最初の説に託すといえども、 所々に破綻の文ありて、覚えず後出の消息を漏逗せり。  それ小乗の教ありて、 しかしてのち声聞の人はあるべきことなり。 しかるにこの経、 入法界品に舎利弗等の五百の声聞あり。 このとき、いまだ小乗の名さえあるべきようなきに、 舎利弗等いずくよりいずれの法を学び得て声聞とは成れるや。 かつ祇園精舎は、 仏成道六年の後はじめて造立ありしなり。 しかるに、 この品のはじめに祇園精舎あり、 これ前後相違にあらずや。 つぎに、 阿含を第二時とすること、  信解品の脱妙著麤の文によりてなり。 しかれどもこのたとえ、 五時にあずからざること、  すでに上に弁するかごとし。 いわんや旧訳には脱妙著麤の文もなきをや。 つぎに方等を第三時とするは、『大集経』の如来成道はじめて十六年の文によれり。それ方等経もいたってひろし。 その間、 説時の異説まちまちなり。 今、 ただ大集一経をもって余の一切を概せんこと、不平のはなはだしきというべし。つぎに般若を第四時とするは、 仁王に「如来成道廿九年既為我説摩詞般若」(如来成道して二十九年、 すでにわがために摩訶般若を説きたまう)というによれり。 しかれども仁王の意は、 その前二十八年中に華厳、 阿含、 方等の三時を説きおわれりといえるにはあらず、 ただ成道以来諸部の般若を説きて二十九年に至れるの義なり。  つぎに法華涅槃を第五時とするは、 四十余年および臨滅度時の文によれり。 しかれどもこれみな、二経の作者自張自大の談のみ。 他経をもって律すれば、その説合わず。 近くは『遺教経』のごとき、 如来臨滅中夜の説にあらずや。 これみな小乗の所説なれば、 阿含部かえって法華涅槃の後にあり。 以上指出するところ、 五時の破綻かくのごとし。 ないし、 ああ、 両宗(天台、 華厳)の祖師、 諸経はみな後人の手に出ずることを知らざるほどの人ならんや。 ただこれ護法の念勝りてただちに説破するに忍びず、 多方に遷就回互し、 後の学者をして圏套中に陥れて跳不出ならしむ、 嘆ずべし。

 今その論中にも出ずるがごとく、『遺教経』は仏最後の経にしてしかも小乗なるは、 非大乗家の大いに怪しむところなり。『遺教経』は釈迦牟尼仏最後の説法に、 度すべきところのものみなすでに度しおわりて、 娑羅双樹の間においてまさに涅槃に入らんとす。  そのとき中夜寂然として声なし、 諸弟子のために説かれたるものなりという。 その説小乗に属するをもって、 蔵経中にては小乗部に編入せり。 しかしてその経題は、 あるいは『仏垂般涅槃略説教誡経』と称し、 あるいは『遺教経』と称するも、 ただ繁略の異あるのみにて、 義意相同じという。 またこの経を義通大乗となす説あり。 あるいは小中の大となす説あるも、 一般に小乗教中に加うるなり。 もし仏の本意大乗にありとせば、 なんぞその入滅に臨みて大乗を説かずして小乗を説きしや。 これ非大乗論者の疑難なり。 以上、 大乗非仏説論者の論拠を挙示してここに至れば、 さらにその要旨を一束して通覧に便にす。

 (一)小乗の説は事実にして、 大乗は空想なり。 例えば、 小乗の経説にては十九出家八十入滅といい、 大乗の経説にては久遠劫来の仏にして、 滅度を示すといえども、いまだ滅度せずというの類これなり。

 (二)大乗は小乗の説の上に敷術加増せるものに過ぎず。 例えば小乗にて六識を立つれば、 大乗にてはその上に七識、八識ないし十識あることを説くの類これなり。

 (三)仏滅後の三蔵結集は上座、  大衆ともに小乗にして、 大乗にあらず。 

 (四)大乗の諸経は仏滅後五、 六百年を経て、 あるいは竜宮より将来し、 あるいは塔中より伝来せりと称し、  さらに確信すべき事実を伝えず。

 (五)仏滅後四百年間は小乗ひとり行われて、 大乗の伝わらざりしはいかん。

 (六)仏滅後部執争論の囂々たる中に、さらに大乗の沙汰あるを聞かざりしは、はなはだ怪しむべし。 

 (七)仏入滅後はもちろん仏在世といえども、 諸羅漢たちの信解することあたわざる大乗が、 滅後何者かよくこれを信解して、 五百年後まで相伝えたるや。

(八)仏在世の羅漢すらなお了解し難き大乗が、 五百年後、馬嗚、 竜樹これを唱うるに当たり、世間一般にたやすくこれを了解せるは、 あに怪しまざるを得んや。

 (九)大乗諸経はおのおのその経をもって最勝既上の教となして、ほかの大乗教を貶斥する点よりこれをみるに、  大乗経は一仏一人の所説にあらざること明らかなり。

 (一〇)阿弥陀や観音や普賢や文殊等の大乗の仏菩薩をはじめとし、 大乗の名義が『阿含経』中に見えざるはまた怪しむべし。

 (一一)仏最後涅槃に入らんとするときに説かれたる『遺教経』の小乗教なるはいかん。

 (一二)馬鳴、竜樹はみな阿難、 迦葉を祖として、その伝うるところを述ぶるにもかかわらず、 仏書中には阿難等を声聞として下に置き、 竜樹等を菩薩としてその上に置くゆえんまた解し難し。

 (十三)漢明帝のとき、 迦葉摩騰が将来せる仏教は小乗にして大乗にあらず。 禅宗の祖師達磨、 東土に来たり小乗にて用うる七仏をもって相伝えて正法眼蔵となせり。  かつまた小乗の阿難、 迦葉等は実に仏の弟子たるに相違なきも、 大乗の観音、 勢至、 文殊、 普賢等は想像上の菩薩にして、 実に世に存在せるものにあらず。  これらの事実も大乗非仏説の一考となすに足る。

以上の疑難のほかに、  さらに左の三条を加えて可ならん。

 (一四)仏教中『唯識論』、『顕楊論』等に大乗非仏説論に対する弁駁あるを見れば、 大乗非仏説の疑難はインド古代においてすでに行われしは明らかなり。 しかして小乗非仏説の論あるを聞かず。  これまた大乗の疑うべき一点なり。

 (一五)仏教の本家本元たるインドには小乗教のみ行われて大乗あるを知るものなし。 たとい大乗あるを知るも、大乗をもって真の仏説となすものなきは、 また大乗の疑うべき一点なり。 

 (一六)大乗、小乗の名は大乗家の用うるところにして、小乗家には大乗はもちろん、小乗の名目すらこれを用いず。  もし仏在世においてこの二種ともに説かれたるならば、小乗経中に大乗の名義なきにもせよ、小乗の名目ありて可なり。 しかるに小も大もともに見えざるは、 当時小乗のみありて、 大乗なき一証となすに足る。

 以上十六条の疑難は、小乗家もしくは局外者の大乗攻撃の鎗なり、薙刀なり、鉄砲なり、 軍艦なり。 大乗家、なんぞこれに対して備うることなくして可ならんや。たといスペイン弱小なりといえども、 アメリカこれに備うることなくして勝を制するを得んや。もし、日本仏教家の決心は愚民の迷信中に城するにあらば、あえて局外者の攻撃に備うるに及ばずといえども、いやしくも学術世界へ羽翼を張らんと欲せば、 まず大乗の真に仏説なることの証明を与えざるべからず。 しかるに古来、 仏教家が『顕揚論』、『唯識論』をはじめとして大乗非仏説に答うる弁護あれば、  別に備えをなすに及ばずというものあらんといえども、 余はこれらの弁護をもって今日の勁敵に備えんとするは、 あたかも種子島の火縄砲をもって、精巧なる兵器を有する敵と相闘わんとするに異ならずと考うるなり。  今、 その果たしてしかるやいなやを示さんと欲し、 まず古来の大乗仏説論を掲ぐべし。

 

     第二段    仏説論の弁護

 

 インドにありて大乗非仏説に対する仏説の弁護は、 まず『荘厳論』に出ず。  その巻一(三紙左)に曰く、

釈曰有人疑此大乗非仏所説、云何有此功徳可得、 我今決彼疑網、成〔立〕大乗真是仏説、偈曰、

   不記亦同行  不行亦成就  体非体能治  文異八因成

(釈していわく、  人ありて、  この大乗は仏の所説にあらず、 いかんがこの功徳得べきありやを疑う。 われ今かの疑網を決し、  大乗は真にこれ仏説なるを成立せん。 偈にいわく、

   不記とまた同行と  不行とまた成就と  体と非体と能治と  文異との八因よりなる)

釈曰成立大乗略有八因、一者不記、  二者同行、  三者不行、 四者成就、 五者体、 六者非体、  七者能治、八者文異、 第一不記者先法已尽、 後仏正出、 若此大乗非是正法、何故世尊初不記耶、 譬如未来有異、世尊即記此不記故知是仏説、第二同行者声聞乗与大乗非先非後、 一時同行、汝云何知此大乗独非仏説、第三不行者大乗深広、 非忖度、人之所能信、況復能行、 外道諸論彼種不可得、 是故不行、 由彼不行故、是仏説、 第四成就者若汝言余得菩提者説有大乗、非是今仏説有大乗、若作此執亦成我義、彼得菩提亦即是仏如是説故、 第五体者若汝言余仏有大乗体、此仏無大乗体、若作此執亦成我義、大乗無異体是一故、第六非体者若汝言此仏無大乗体、則声聞乗亦無体若汝声聞乗是仏説故有体、 大乗非仏故無体、 若作此執有大過失、若無仏乗而有仏出、説声聞乗者理不応故、 第七  能治者山依此法修行、 得無分別智、由無分別智、能破諸煩悩由此因故不得言無大乗、第八文異者大乗甚深非如文義、 不応一向随文取義言非仏語。 

(釈していわく、大乗を成立するに略して八因あり。一には不記、 二には同行、 三には不行、 四には成就、五には体、 六には非体、  七には能治、 八には文異なり。 第一の不記とは、 先法すでに尽きて、 後仏まさに出ず。 もしこの大乗これ正法にあらずんば、 なに故に世尊はじめに記せざるや。 たとえば未来異あれば、 世尊すなわちこれを記するがごとし。  不記の故に、 これ仏説なるを知る。 第二の同行とは、 声聞乗と大乗と先にあらず、 後にあらず一時同じく行わる。 汝いかんがこの大乗ひとり仏説にあらずと知るや。  第三の不行とは、 大乗は深広にして付度して人のよく信ずるところにあらず。いわんやまたよく行ずるをや。 外道諸論はかの種不可得なり、 この故に不行なり。彼、 不行によるが故に、これ仏説なり。 第四の成就とは、 もし汝、余の菩提を得る者は大乗ありと説く。 これ今の仏説には大乗あるにあらずといわん。  もしこの執をなさば、すなわち反りてわが義を成ず。  彼、 菩提を得るも、 またすなわちこれ仏のかくのごとく説くが故なり。 第五の体とは、 もし汝が余の仏は大乗の体あり、 この仏は大乗の体なしといわん、 もしこの執をなさば、 またわが義を成ず。 大乗は異なく、 体はこれ一なるが故なり。 第六の非体とは、 もし汝がこの仏に大乗の体なしといわば、  すなわち声聞乗にもまた体なし。 もし汝、  声聞乗はこれ仏説なるが故に体あり、 大乗は仏説にあらざるが故に体なしといわん、 もしこの執をなさば大過失あらん。 もし仏乗なく、しかも仏出でて声聞乗を説くものあらば、 理応ぜざるが故なり。  第七の能治とは、 この法により修行するによって無分別智を得、 無分別智によりて、よくもろもろの煩悩を破す。 この因によるが故に大乗なしということを得ず。 第八の文異とは、 大乗は甚深にして文義のごとくにあらず。 まさに一向に文にしたがって義をとり、 仏語にはあらずというべからず。) 

もし『顕揚論』(巻二十の十一)によれば、 左のごとく説けり。

問云何応知大乗言教是仏所説、答有十種因故、一先不記別故、 二今不可知故、 三多有所作故、 四極重障故五非尋伺境界故、若不先聞不能如是尋思計度、是故若言是余所説不応道理、六証大覚故、若未成仏能説仏教不応道理、七無第三乗過失故、 八此若無有応無一切智者成過失故、九縁此為境、 如理思惟対治一切諸煩悩故、 十不応如言取彼意故。

(問うていわく、 なんぞまさに大乗の言教、  これ仏の所説なりと知るべきや。 答う、 十種の因あるが故に。一にはさきに記別せざるが故に。  二には今知るべからざるが故に。三には多く所作あるが故に。  四には極重の障の故に。 五には尋伺の境界にあらざるが故に。 もしさきに聞かざれば、 かくのごとく尋思計度するあたわず。  この故にもしこれ余の所説なりといわば、道理に応ぜず。 六には大覚を証するが故に。 もしいまだ成仏せずして、 よく仏の教えを説くは道理に応ぜず。七には第三の乗をなくする過失の故に。 八にはこれもしあることなければ、 まさに一切智者の成ずることなかるべき過失の故に。 九にはこれを縁して境となし、理のごとく思惟して一切もろもろの煩悩を対治するが故に。十にはまさに言のごとくかの意をとるべからざるが故に。)

 すなわち『荘厳論』には八因を掲げ、『顕楊論』には十因を掲ぐるの不同あれども、 その意たいてい相同じ。

もし『唯識論』(巻三の二十一) によれば、『荘厳論』にもとづきて七因を挙げて弁護せり。『荘厳論』の頌文は弥勒の説なるをもって、『唯識論』には慈氏の説となせり。  すなわち左のごとし。

聖慈氏以七種因証大乗経真是仏説、一先不記故、 若大乗経仏滅度後有余為壊正法故説、 何故世尊非如当起諸可怖事、先預記別、二本倶行故、 大小乗教本来倶行寧知大乗独非仏説三非余境故大乗所説広大甚深非外道等思量境界、彼経論中曾所未説、  設為彼説亦不信受、故大乗経非非仏説、四応極成故、 若謂大乗是余仏説非今仏語、則大乗教是仏所説、 其理極成、 五有無有故若有大乗、即応信此諸大乗教是仏所説離此大乗不可得故、 若無大乗声聞乗教亦応非有、 以離大乗決定無有得成仏義、誰出於世説声聞乗、故声聞乗是仏所説非大乗教    不応正理、六能対治故、 依大乗経、勤脩行者、 皆能引得無分別智、能正対治一切煩悩、故応信此是仏所説、七義異文故、  大乗所説意趣甚深、不可随文面取其義便生誹謗謂非仏語、是故大乗真是仏説、 如荘厳論頌此義言。

(聖慈氏、 七種の因をもって、 大乗経は真にこれ仏説なりと証したまえり。一には、 さきに記せざるが故にという。 もし大乗経は仏滅度ののちに、  余の正法を壊せんがための故に説くことありといわば、 何の故ぞ、世尊のまさにもろもろの可怖のことの起こらんかというごとく、 さきにあらかじめ記別したまわざりしや。二には、 もとより倶に行ずるが故にという。 大小乗教はもとより来たり倶行す。いずくんぞ大乗のみをひとり仏説にあらずということを知るや。 三には、余の境にあらざるが故にという。大乗の所説は広大甚深にして、 外道等の思飛の境界にあらず。かの経論の中に、 かつていまだ説かざるところなり。たとえ彼がために説くとも、 また信受せざらん。ゆえに大乗経は非仏の説にはあらず。四には、 まさに極成すべきが故にという。 もしいわく、 大乗はこれ余仏の説なり。 今仏の語にはあらずといわば、 すなわち大乗教はこれ仏の所説なりということ、 その理極成せん。五には、有と無の有との故にという。 もし大乗あらば、 すなわちまさにこの諸大乗教は、  これ仏の所説ぞということを信ずべし。 これを離れては、 大乗というもの不可得なるが故に。 もし大乗なくんば、声聞乗の教えもまたまさにあるにあらざるべし。 大乗を離れては決定して仏となることを得る義あることなきをもって、だれが世に出でて声聞乗を説かん。 ゆえに、声聞乗のみこれ仏の所説なり、 大乗教にはあらずということ、 正理に応ぜず。 六には、 能対治の故にという。大乗経によって勤めて修行する者、  みなよく無分別智を引得して、よく正しく一切の煩悩を対治す。 ゆえに、まさにこれはこれ仏の所説ぞということを信ずべし。七には、 義が文に異なるが故にという。 大乗の所説は意趣甚深なり。 文にしたがってしかもその義をとって、 すなわち誹謗を生じて仏語にあらずとはいうべからず。この故に、 大乗は真にこれ仏説なり。『荘厳論』にこの義を頌して言うがごとし。)

 この唯識の論は『唯識述記』巻四本(二十六紙左より三十四紙左まで)に詳解せり。 今これを和解するに、 第一の理由は、小乗家の言うがごとく、大乗経は果たして仏滅後の偽作なるものあらば、仏あらかじめそのことを説きおかざるべからず。しかるに仏にその予言なき以上は、滅後の偽作にあらざるべし。 第二の理由は、大乗教は最初より小乗教と並び行われり。もし大乗は仏滅後の作ならば、 最初より小乗とともに並び行わるるはずなし。 第三の理由は、 大乗の所説は広大甚深にして、 外道あるいは小乗家の思量し得るところにあらず。 ゆえに、仏はかくのごとき徒に対して、 大乗を説かざるなり。これ、小乗経中に大乗の説を見ざるゆえんなり。 第四の理由は、 もし反対論者の言うがごとく、 大乗は迦葉等の余仏の説にして、 釈迦仏の説にあらずといわば、  これ取りも直さず大乗は仏説なりというに同じ。 なんとなれば、 仏智互いに相等しければなり。 第五の理由は、 もし大乗は釈迦仏の説にあらずといわば、 だれか世に出でて小乗を説きしや。小乗は大乗を離れて、 決定して成仏するを得べからず。 もし小乗をもって仏説なりとなさば、 大乗ももとより仏説ならざるべからず。 第六の理由は、 大乗経によりて勤求修行すれば、 みなよく仏智を発して一切の煩悩を断滅すべし。 ゆえにこれ仏説なり。 第七の理由は、 大乗の所説は意味深長なれば、 文に従いて義をとるべからず。ただちにこれを見れば、小乗と大乗とは意義背反するがごときも、 深くその義を探らば、二者相契合するを知るべし。 ゆえに大乗は仏教なりと。  これ、 大乗非仏説に答えたる弁明なり。 よろしく『唯識述記』および『了義灯』(巻四本の二十五右)をあわせ検すべし。そのほか、『摂大乗論釈』(無性菩薩造)巻(七紙左)には「大乗真是仏語」(大乗は真にこれ仏語)の句あり、また同害巻三(十八紙右)に「大乗教真是仏語、 一切不補特伽羅無我性故」(大乗教は真にこれ仏語にして、一切は補特伽羅の無我性に違わざるが故に)の語あり。  これを『因明大疏』(巻四の十五左)、『瑞源記』(巻の十二右)に引きて、 随一不定の失ありとなす。  そのほか経論中に、 余いまだ小乗家に対して大乗仏説の証明あるを見ず。

 以上の『荘厳論』『顕揚論』『唯識論』の大乗非仏説に対する答弁は、 局外者に示さばいかなる批判を下さんや。  これ必ず自分免許の論法、  内弁慶の立論といわん。 なんとなればその論は、 大乗は甚深高妙にして、  小乗人の知るところにあらず、 あるいは仏あらかじめ大乗非仏説を示さざるをもって、 仏説に相違なし等と憶断するにすぎざればなり。 今日の仏教家は、この証明をもって大乗非仏説論者を降伏するに足ると思うか。  おそらくは一人も、かく考うるものなかるべし。 果たしてしからば、今日は今日の人に満足を与うべき証明を別に工夫せざるべからず。

 もし、 古来わが国の大乗非仏説論に対して与えたる答弁は、 左の数布につきて見るべし。

  (一)富永仲基の『出定後語』に答えたるものに、 潮音師の『摑裂邪網編』上下二巻あり。 

  (二)服部天滸の『赤倮倮』に答えたるものに、同師の『金剛索』一巻あり。

  (三)平田篤胤の『出定笑語』に答えたるものに、 無名氏の『摑邪新編」五巻あり。 

 しかして余いまだ、 平田篤胤の『印度蔵志』に答え、朝夷厚生の『釈氏古学考』に答えたるものあるを見ず。

富永の『出定後語』に答えたるものに無相文雄師(京都人)の『非出定後語』ありというも、 余いまだその書を検せざれば、ここに論及することあたわず。そのほか、シナ刊行の英国人著作の『釈教正謬』に答えたる杞憂道人の『釈教正謬初破及再破』合三巻あれば、 あわせてここに挙示すべし。まず『摑裂邪網編』に破して曰く、

汝以大乗為後人偽造、管見所起有二、  一大小二乗其義有異故、二仏滅度後小乗流布最衆大乗流布稍寡至馬嗚竜樹時広称大乗、是二事所以生迷也、 吾今告汝、 大小二乗根機各別、 故知所教亦有別、雖然全是一具仏法如函蓋不相離如増一阿含経曰菩薩発趣大乗、又曰方等大乗義玄邃、 又此経中如大乗経説他方世界奇光如来国土、如成実論属小乗部、所明法相経律論三蔵之外更立雑蔵菩薩蔵、此菩薩蔵当大乗諸経如婆沙論五十九(十三右)云是勝義者則一法自性応是一切法自性一法生時一切法応生、 是亦合大乗義、更按真諦三蔵説、小乗中有大衆部弘華厳涅槃勝鬘維摩金光明等経、況復於大乗経中有得小悟者小乗経中亦説菩薩得記、大乗所説三十七品十二因縁等皆仮用小乗名、如法華説決了声聞法是諸経之王、如涅槃経扶小乗律談大乗常応知大小二乗一具仏法無有矛盾、可謂小乗経典以大乗為其内証、大乗法門以小乗為其階梯何為非一具仏教、且如仏滅後小乗流布至後時大乗稍、物有顕晦、一切諸法皆然是則無佗、 正法之時衆人各各小乗教証無漏果、事已足矣文殊等大菩薩雖持大乗不落凡手、付法蔵師多以大乗心心密付不遇時故、 深恐破法故、 至像法始衆人著名相徒好諍論、悟人稍少、当比運也馬喝竜樹等諸大菩薩開闡大乗法門授深深修行地、汝言為加上説誰亦惑之。

(汝、大乗をもって後人の偽造となすに、管見起こるところ二あり。一には大小二乗はその義異なることあるが故に。二には仏滅度ののちに小乗の流布は最もおおく、大乗の流布はややすくなし。 馬嗚、 竜樹のときに至りて、 広く大乗を称す。 この二事は迷いを生じるゆえんなり。われ今汝に告ぐ。 大小二乗の根機はおのおの別なり。ゆえに知る、教うるところもまた別あり。しかりといえども全くこれ一具仏法のにして、 函と蓋の相離せざるがごとし。『増一阿含経』 にいうがごとく、 菩薩は大乗を発趣すと。 またいわく、 方等、 大乗の義は玄邃なりと。またこの経の中に大乗経のごとく、 他方世界に奇光如来の国土を説き、『成実論』のごとく小乗部に属するも、明かすところの法相は経、律、論の三蔵のほかにさらに雑蔵、 菩薩蔵を立つる。この菩薩蔵は大乗の諸経に当たる。『婆沙論』 五十九(十三右)にいうがごとく、これ勝義とはすなわち一法の自性は、  これ一切法の自性なるべし。一法生ずるときは一切法まさに生ずべし。これまた大乗の義に合す。 さらに真諦三蔵の説を案ずるに、小乗の中に大衆部ありて、『華厳』『涅槃』『勝鬘』『維摩』『金光明』等の経を弘む、  いわんやまた大乗経の中においてをや。小悟を得る者ありて、 小乗経の中にまた菩薩の得記を説き、 大乗所説の三十七品、 十二因縁等はみな小乗の名を仮用す。『法華』に説くがごとく、 声聞の法は決了する、  これ諸経の王なりと。『涅槃経』のごとく、 小乗の律をたすけて大乗の常を談ず。 まさに知るべし、 大小二乗は一具の仏法にして矛盾あることなきを。いうべし、 小乗の経典は大乗をもってその内証となし、 大乗の法門は小乗をもってその階梯となすに、 なんぞ一具の仏教にあらずとなさんや。 しばらく仏の滅後に小乗流布し、 後時に至りて大乗やや盛んなるがごとく、 物には顕晦あり。一切諸法はみなしかり。これすなわち他なし、 正法のとき衆人はおのおの小乗の教えを学んで無漏の果を証すに、ことすでに足れり。文殊等の大菩薩は大乗を持すといえども凡手に落ちず。付法蔵師は多く大乗をもって心心密付して時にあわざるが故に、 深く破法を恐れるが故に、 像法の始まりに至りて、衆人は名相に著し、いたずらに諍論を好む。悟人やや少なし。  この運に当たるや、 馬嗚、 竜樹等の諸大菩薩は大乗の法門を開闡して深々の修行の地を授く。 汝のいうことを加上の説となす。 だれかまたこれに惑わされんや。)

この文によれば『増一阿含経』中に大乗の名目ありという。よって、余これを検するに、

菩薩発意趣大乗(同経巻一六右)

(菩薩は意を発して、大乗に趣く(同経巻一の六右))

発趣大乗意甚広(同巻一七右)

(大乗を発趣して、意ははなはだ広し(同巻一の七右))

方等大乗義玄邃(同巻一八左)

(方等、大乗の義は玄邃なり(同巻一の八左))

善逝有此智、質直無暇穢、勇猛有所伏、求於大乗行(同巻十八左)

(善逝はこの智を有し、 質直にして瑕穢なし。 勇猛は所伏を有し、 大乗行を求む(同巻十の八左))

 また、奇光如来の名称は『増一阿含経』巻二十九の五右に出ず。これによりて大乗の名目および大乗の如来の『阿含経』中に存するを証するも、この一事だけにてはいまだ非大乗論者を屈伏するに足らず。 なんとなれば、四阿含中わずかにその一部に大乗の名目あるのみにて、大乗の教義の別に存することを開示せざればなり。ことに大乗の名ありて小乗の名なきは、 人の大いに怪しむところなり。 かつ考証せるところの『阿含経』はシナ訳にして、インドの原本にあらざれば、いかなる原語に大乗の文字を配合せるやも、 必ず局外者の疑うところならん。要するに大乗の名目の一、二ヵ所に散見せるのみをもって、大乗の真に仏説なるゆえんを証するに足らざるなり。 また、大小両乗は一具の仏法にして、別に矛盾するところあらずと論ずるも、これまた大乗は仏説なりとの考証に備うるに足らず。 なんとなれば、もし後人の偽作とするに、その作者の目的は、これを仏説らしく装いて世を欺かんとするにあらば、 種々工夫を凝らして矛盾のなきように作為するに相違なかるべし。ゆえに、その矛盾なきは決して大乗仏説の証拠とはならざるなり。 また、 仏滅後小乗ひとり行われて大乗の伝わらざりしは、時に顕晦ありて大乗はその当時の事情に適せざりしによるとするも、 付法蔵の師は心心密付して大乗を伝えたりといえり。すでに心心密付といえば、 禅宗のいわゆる以心伝心と同様にして、 歴史上および客観上の事実をもって証明し難きを自白せるに同じ。  ゆえに、 世間の非大乗論者はこの心心密付論を聞きて、 事実上大乗仏説を証明すべからざるものとなすは明らかなり。 これを要するに、 仏教外の批評的論者に対しては、『摑裂邪網編』の立論はさほどの価値なきものと知るべし。 

つぎに『赤倮倮」に対する『金剛索』を検するに、 その論旨『摑裂邪網編』に異なることなし。 かつそのいちいち返駁するところ、 瑣々たる小瑕を挙げて喋々するにすぎず。すなわち、いわゆる一種の水掛け論法なり。 もししからざれば、 誹謗罵詈の語すこぶる多し。  例えば、 巻首に「服天游妄言雖不足論亦恐痴人受邪計漫揮禿毫駁其大方」(服天游、 妄言論ずるに足らずといえども、またおそらくは痴人は邪計を受け、  みだりに禿毫をふるいて、 そのおおかたを駁す)といい、 あるいはまた「汝以邪心向如来正徧知恰似螂臂衝竜車」(汝、邪心をもって如来正徧知に向かうは、あたかも螂臂が竜車を衝くに似たり)というがごとき、 その一斑を知るに足る。 昔日の学者はいさ知らず、 今日の学識あるものは、この種の論法を読みて感服するもの、 けだし一人もあらざるべし。  ことにその語気あまり毒気を帯びて、大人、 君子の言にあらざるなり。しかれども、『摑裂邪網編』および『金剛索』はなお多少参考するに足るも、『出定笑語』に対する『摑邪新編』にいたりては、ただみだりに悪口毒舌を陳列せるのみにて、実になんらの価値なき駁論なり。その相手とするものが悪口の隊長なれば、 このくらいの毒舌は当然なりといわば、 余あえてこれを責めず。畢竟、悪口の展覧会なり。 まず『摑裂新編』の毒舌の一端を示さば、

 この邪論、 文言もっとも卑陋にして読むに堪えず。およそ言語の麤暴なること、 いまだかくのごとくなるものを見ず。

 汝がののしるところの一部四巻の麤悪語は、蛍の火をもって大海をてらし、蚊の翼をもって扶桑木をたおさんとするがごとし。

 汝、 邪俗下愚の分斉として仏道の真面目を語るなどとは、 古今未曾有の増上慢なり。

 一編の文章みなこの調子にて、 悪口の博覧会を見るがごとし。  ひとり平田篤胤をののしるのみならず、 富永仲基までもその悪口の渦中に巻き込めり。  すなわち曰く(巻二の四十一)、

 ここに仏滅後二千六百九十余年に当たりて、 滔天の大悪人富永仲基という者あり。 すこぶる黠智ありて文字を識るが故に、 黄檗の鉄眼禅師あわれんで蔵経翻刻の筆耕をゆだぬ。  これによりて一切経を見ることを得たり。このとき邪智を振るいて、ついに『出定後語』という邪書を作りて万人を惑わせり。 彼いささかも人情ある者ならば衣食の恩をも報ずべきに、 仏物をぬすみてかえって仏敵となる。  怨をもって恩を報ずる畜生にも劣りたる所業、 実に天誅もいるるところなし。 されども、 東照宮の神徳によりて仏教興隆する世の中なれば、  かくのごときの邪書は取る人もなくして、 数十年紙魚のえさと成りいたりしが、 宝暦年間なりけん、京師に無相文雄という人ありて『非出定後語』という書を著して破せられしが、 所破の書だに知人まれなるほどのことなれば、  この『出定後語』も知る人まれなりけん。  かくのごとくして六、七十年を経て、  本居、平田等の邪人の手に入りて、 同気相求めていよいよ非中に非を飾りて、かの糞器に玉をちりばむるとかいうように、 見るにもたえざるののしり草を集めて、 四巻の邪書を草稿したりしかども、  邪人もさすがに仏性を具したる故にや、 かくのごとく書きは書きたるものの、  この仏法繁昌の世の中にかかる未熟の書を出だしたりとも、 目に触るる人もあらじ、  かつは少しにても仏教を読み得る人あらば、  微塵に破斥せらるべしと、  彼この世の嫌を恐れて、 世には披露せざりけん。 文政年間に江戸駒込の潮音師、『摑裂邪網編』、『金剛索』の著ありしかども、  この篤胤が邪書は見ざりしよしなり。 しかるに世くだるに従っ て、 治世の恩沢に甘えて、 学問を怠る者多くして、 仏学衰廃に及びしかば、  この弊に乗じて邪学いよいよ流行し、 草稿のころより三十五年ばかりを経て、 嘉永二年に当たりて、 浪華座摩社の社司近江守資政というもの、 択法眼なくただ人の好むところにおもねりて、 活字板に物してこの『出定笑語』を世に広むることになりぬ、 云々。

 かかる口調をもって立論せり。『出定後語』は世間に知るものも読むものもなかりしに、 本居大人の『玉勝間』中にその書を称誉せられてありしを、 平田翁これを読みてその書を捜索し、  かつ大いに吹聴せられたりしをもって、 はじめて世に知らるるに至りしことは、 平田翁自ら『出定笑語』(中巻二十五紙)に述べおかれたり。  今『摑邪新編』はだれの作なるを知らず。 その撰述の年時は慶応三年なり。  その中に述ぶるところは今引用せるもののほか、 別に参考するに足るべきものなし。 ただここに大乗非仏説に答えたる一節を引用せん。

 今、 汝が言うところのごとく、仏経は一部一冊として釈迦の真経にあらず、みな後世の偽作なりといわば、 なにをもってか智者党者と名づくべけんや。  ゆえに今仏陀というは、 内権実二智を具して、 外よく衆生の機に応じて、 権実二教を施して、 仏知見を開かしむるもの、 これを仏という。 ないしこの二教はともに如来の大悲心より流出して    一言一句として真実ならざるものあることなし。 もし邪人のいうところのごとく一代経みな後人の偽作ならば、 釈迦は仏にあらずして後世の人師こそ仏なるべけれ。 もし後世の人師これ仏にして、 釈迦これ仏にあらずんば、 なにが故に後世の人師を仏と仰がずして、 釈迦をのみ仏とは世に仰ぎけるぞ。 しかるに、 邪輩宿福なくして択法眼というものを具せざれば、  いかなるかこれ大乗、 いかなるかこれ小乗という綾目を分かたず。 大小乗の仏教、 聖者にあらざれば、 説くべからざる由を知らず。  かかる非人に対して大小権実の差異を談ずるは、 たとえば盲者の前に錦繡の校鞣を張り、 聾者の前に糸竹管弦の楽を奏するがごとく、 畢覚して益あることなし。

 その論旨たいていみなこの類なり。 その全編、一読の価値なきは推して知るべし。 古来、 仏教家の論いずれも独断自許に過ぎて、 批判的道理に乏し。 ゆえにその立論、 同党一味の人をして満足せしむるを得るも、 局外者を心服せしむることあたわず。 もし公平に評すれば、『掴裂邪網編』、『播邪新編』等の論は、これを『出定後語』や『赤倮倮』に比するに、 論理上の値直においては数歩を譲るといわざるべからず。 富永仲基はなにものぞ。 彼は大阪の町人にして、俗称道明寺屋吉右衛門なり。 服〔部〕天游はなにものぞ。  彼は京師の職工にして、 織造をもってその家業となせりという。 ああ、 僧正とか上人とか禅師とか称せらるる名僧方がその論ずるところ、大阪の一町人、 京都の一職工にだも及ばずとは、 あに残念至極にあらずや。 今日の仏者は今少々論理の眼を開くにあらざれば、 到底将来に向かいて仏教の再典を期すべからず。 仏教青年の諸子、 それ奮起せよ。

 以上の数書のほか、 なおここに引用するを要するものあり。  すなわち、 前に一言せる『釈教正謬』に対する杞憂道人(鵜飼徹定師)著『釈教正謬初破及再破』中、大乗非仏説に対する答弁これなり。 左にその初破の文を掲ぐ。

破曰指華厳為竜樹所自作、尤為妄誣徒取笑于大方而已、 夫華厳為  諸経之王唯心之祖也、 千経万論皆従此華厳海中流出、 故八万四千之法、 数百千年之教、 渾属厳華海中之波瀾、雖尽未来際不能説 尽焉、 是所以頓教之為頓数也、 是以印度諸国大乗寺必以文殊大士為上座、小乗寺  以二賓頭盧尊者為上座、蓋文殊大士為華 厳之盟主、是崇重大乗左証之一也、又印度外道徒多動輒欲觔法為取勝雖氣古今未曾聞一人以華厳為偽造者、唯識論挙七因明弁大乗為仏説是、左証之二也、又文殊阿難於鉄囲山集摩訶衍為菩薩蔵云矣、由此観之、華厳最為菩提樹下之魁断可知矣、 是左証之三也、経論雖浩繁至如其理義大小乗教皆出一轍、古今無有差異、四十二章経名目与諸大乗咸相同、決非後人可摸擬者、是左証之四也、 唐王玄策使西域有維摩居士石室、以手板縦横量之得十知是褒貶弾訶之跡、 歴歴可想見耳、 是左証之五也、 非竜樹偽造明矣如謂華厳竜樹菩薩於竜宮取出猶如孔子壁中捜得蝌斗書、復何足怪乎。

(破して日く、 華厳を指して竜樹の自作せしところとなすは、もっとも妄誣となす。いたずらに笑いをおおかたにとるのみ。それ華厳は諸経の王にして、 唯心の祖となすなり。 千経万論みなこの華厳の海中より流出す。ゆえに八万四千の法、 数百千年の教もすべて華厳の海中の波瀾に属す。 未来際を尽くすといえども、 説尽することあたわず。これ頓の頓教たるゆえんなり。これをもって、インドの諸国の大乗寺には必ず文殊大士をもって上座となし、小乗寺には賓頭盧尊者をもって上座となす。 けだし、 文殊大士を華厳の盟主となすは、これ大乗を崇重する左証の一つなり。また、インドは外道の徒多し、 ややもすればすなわち法を觔しておさめ勝をとらんと欲す。 しかりといえども、 古今にいまだかつて一人の華厳をもって偽造となす者を聞かず。『唯識論』に七因を挙げて明らかに大乗の仏説なることを弁ず。  これ左証の二つなり。 また文殊は阿難に、 鉄囲山において摩訶衍を集めて菩薩蔵をなす、 云々。これによりてこれをみるに、 華厳は最も菩提樹下の魁となす。 断として知るべし。  これ左証の三つなり。  経論は浩繁なりといえども、 その理義のごときにいたりては大小乗の教えはみな一轍に出ず。 古今に差異あることなし。『四十二章経』の名目はもろもろの大乗とみな相同じ。 決して後人の摸擬すべきものにあらず。  これ左証の四つなり。 唐の王は玄策を西域に使いす。  維摩居士の石室ありて、 手板をもって縦横これを量るに十笏を得たり。 知りぬ、  これ褒貶弾訶の跡にして、 歴々として想い見るべきのみ。 これ左証の五つなり。 竜樹の偽造にあらざることあきらけし。 華厳は竜樹菩薩が竜宮において取り出だすというがごときは、 なお孔子の壁中に蝌斗〔おたまじゃくし〕の書を捜得するがごとし。 また、 なんぞ怪しむに足らんや。)

破曰夫転小向大、従浅至深、閻浮一化之通軌也、 仏成道時、所思惟法門即華厳也、 初説出華厳時諸大菩薩、信解証入如来智恵、二乗声聞不信不解如聾如啞、故応機説諸小乗法摂引比丘是逎挙扇喩月撼樹譬風之術也、 然而性有賢愚、才有大小所以有一音異解之説也、 蓋声聞之行猶儒依小学習進退、菩薩之行如入大学以講礼楽大学不廃小学大乗豈捨小乗、故華厳云、菩薩不捨声聞縁覚、法華云、汝等所行是菩薩道、十輪経云若不先学小乗即学大乗無有是処、無力飲河水詎能呑大海、可見大小一如矣。

(破して曰く、 それ小を転じて大に向かい、 浅きより深きに至るは閻浮一化の通軌なり。 仏成道のとき、思惟するところの法門はすなわち華厳なり。はじめに華厳を説き出だすとき、もろもろの大菩薩は如来の智恵を信解して証入すも、二乗の声聞は信ぜずして解せず、譬のごとく啞のごとし。 ゆえに機に応じてもろもろの小乗法を説いて比丘を摂引す。これすなわち扇を挙げて月にたとえ、 樹を撼して風にたとうるの術なり。しかりしこうして、 性に賢愚あり才に大小あり、一音異解の説あるゆえんなり。  けだし声聞の行はなお儒の小学によりて進退を習うごとし、 菩薩の行は大学に入りてもって礼楽を講ずるがごとし。大学は小学を廃せず、大乗あに小乗を捨てんや。ゆえに『華厳』にいう、 菩薩は声聞、 縁覚を捨てず、『法華』にいう、 汝らの所行はこれ菩薩道と。『十輪経』にいう、 もしさきに小乗を学ばずしてすなわち大乗を学ばば、 このことわりあることなし、 河水を飲む力なきもの、なんぞよく大海をのまんや。見つべし、 大小一如なることを。)

つぎに、 再破の文を挙示すること左のごとし。

破曰竜宮事跡載在諸経乃至且夫著書必閲大家之鑑而其可否矣、 蓋当竜樹菩薩之時東有馬鳴南有提裟西有竜樹北有童受世号曰四日、若有竜樹偽造之事諸師豈允許之耶。

(破して曰く、 竜宮の事跡は載せて諸経にあり。 ないし〔中略〕かつそれ書を著すは必ず大家の鑑を閲し、 しこうしてその可否を定むるなり。 けだし竜樹菩薩のときに当たりて、  東に馬鳴あり南に提婆あり西に竜樹あり北に童受あり。 世に号して四日という。 もし竜樹の偽造のことあらば、 諸師あにこれを允許せんや。)

破日四十二章経漢土訳経之祖也、此時竺法蘭訳出十住断結経、法海蔵経、仏本行経、仏本生経合十五巻、惜乎今亡、然与今十住断結経、法海本行諸経同本、如梁高僧伝及開元釈教録所論、 然則大乗之訳亦昉干漢句知也、邪徒以為漢明時所繙不過小乗王者井蛙之見耳、明王世貞以大乗為如来直説、今邪徒以乗為直説、共失正義。

(破して曰く、『四十二章経』は漢土の訳経の祖なり。このとき竺法蘭は十住断結経、法海蔵経、仏本行経、仏本生経あわせて十五巻を訳出す。 惜しいかな今は亡ぶ。 しかるに今の『十住断結経』『法海』『本行』の諸経と同本にして、 梁の『高僧伝』および『開元釈教録』に論ずるところのごとし。 しからばすなわち、 大乗の訳はまた漢にはじむること知るべきなり。  邪徒のもって漢明のときにひもとくところは小乗にすぎずとなすは、 井蛙の見なるのみ。 明王の世、 貞しくは大乗をもって如来の直説となし、 今の邪徒は小乗をもって直説となす。  ともに正義を失せり。)

又按大小乗相通其旨不一而足如成実論詳明四無所畏四摂法及四諦四果五戒十善四禅八定三報三障等教、故収小乗部中、 雖然所云心性本浄念生滅無去相無住相、心意識同体異名成正覚為大業、四沙門果為小業、不可説中無有一異、諸法実不可得、 因果了不可得、無諍智、一切智等説、皆是不異大乗、当知小乗名義正通大乗也、又按、阿含経及生経説錠光維衛然灯弥陀諸仏之夙縁、百縁経説弥勒普賢諸菩薩之授記、豈為小乗中無其名乎。

(また案ずるに大小乗の相通ずること、その旨は一にして足らず。『成実論』のごとく、 詳しく四無所畏、四摂法および四諦、四果、五戒、十善、 四禅、 八定、 三報、 三障等の教えを明かす。 ゆえに小乗部の中に収む。 しかりといえども、いうところは心性本浄にして、 念生滅し去相なく住相もなし。 心と意識とは同体異名にして正覚を成じ大業をなす。  四沙門果を小業となし、 不可説中に一異あることなし。 諸法は実に不可得にして因果もあきらかに不可得なり。 無諍智、一切智等の説は、 みなこれ大乗に異ならず。 まさに知るべし、 小乗の名義はまさに大乗に通ずるなり。 また案ずるに、『阿含経』および『生経』に錠光、 維衛、 然灯、弥陀の諸仏の夙縁を説き、『百縁経』には弥勒、 普賢の諸菩薩の授記を説く。 あに小乗の中にその名なしとなすや。)

 以上の大乗仏説論は、 潮音師の論と大略相同じく、 やや一歩を進めたるところなきにあらざるも、いまだ歴史上あるいは客観上の事実に照らして証明せるものにあらず。 従来の仏教は徳川三百年間、 一方ならざる政府の保護を受け、 その下に発達しきたりしをもって、 局外よりいかなる駁論攻撃あるも、 仏教城内はあたかも太平無事のごとく、 店臥安眠もって日を送り、『世の中に寝るほど楽はなかりけり浮世の馬鹿が起きて慟く」と歌いて自ら安んずるありさまなれば、世間の駁論に対して理の可否正邪を述べ立つるよりは、 讒謗、 罵詈、  悪口、 毒舌を並べ立つる方、かえって世人をして感服せしむることを得たりしも、すでに今日となりては道理上および事実上、 なるべく明瞭に、 なるべく確実に、 立論証明するにあらざれば、 かえって世間より冷笑せらるるよりほかなし。  ゆえに、 従来の内弁慶流の答弁は、 今日の学識社会に対しては全く無効と称して可なり。

     第三段 大乗非仏説、  仏説両論中、  いずれが取るべきかを判ず 

 以上、  すでに古来の大乗非仏説論と仏説論を掲げ、 その論者の間の問難答弁を示したれば、  これよりこの二論の可否得失を判じ、 あわせてこれに対する余が意見を述べざるべからず。 しかるに余をもってこれをみるに、 従前の仏者の論理および証明は、かえって敵者の論に数歩を譲るやの疑いなきあたわず。ゆえに、今日の仏者は大いに感蛮するところなかるべからず。 しからずんば、 仏教将来の存亡いまだ計るべからず。  ゆえに余は、 大乗仏説および非仏説の問題は、 実に仏教の死活問題なりといえり。 もし仏者は愚夫愚婦を相手として、 下等社会に毫城する決心ならば、  大乗非仏説論いかに四隣にやかましきも、 毫も懸念憂慮するに足らずといえども、 もしいやしくも上流社会学術世界ヘ一歩だも踏み込まんと欲せば、 従来の証明をもって決して満足すべからず。  必ず今より仏教青年の学者がこれをその一身に任じて、 他日明確詳細の論証を世間に開示することに努力すべし。 今、 その参考となすべきものは普寂律師の論なり。 左に『顕揚正法復古集』(巻一の七紙以下)仏滅後弘伝を叙述せる下につきて、 その一節を引用すべし。

如来滅後七日尊者大迦葉集会千大阿羅漢伝摩竭陀国七葉巌結集三蔵、尊者阿難結集修多羅蔵、尊者優波離結集毘尼蔵、尊者大迦葉結集阿毘曇蔵名之上座部、爾時界外有数万大衆、凡聖聚会結集五法蔵、謂三蔵及雑蔵、 禁呪蔵名之大衆部、窟内窟外雖分己二部法乳一味無復認異諍、是名前番二部、後過百十余年有大士、名曰大天慨乎三蔵学者堕于名相転失聖旨乃取大乗空義合糅三蔵宣説生死涅槃但是仮名且以、一偈誦出五事、而上座部不信之、 痛加毀斥、大衆部乃信用之竝誦五事於是乎異執調然法道不融、 是名後番二部 。

(如来の滅後七日に尊者大迦葉は千の大阿羅漢を集会し、 摩竭陀国の七葉巌において三蔵を結集す。  尊者阿難は修多羅蔵を結集し、 尊者優波離は毘尼蔵を結集し、 尊者大迦葉は阿毘属蔵を結集す。これを上座部と名づく。  そのとき、 界外に数万の大衆ありて、 凡聖、  聚会して五法蔵を結集す。 いわく三蔵および雑蔵、  禁呪蔵なり。これを大衆部と名づく。 窟内と窟外とに二部を分かつといえども、法乳は一味にしてまた異諍なし。 これを前番の二部と名づく。のちに百十余年を過ぎて大士あり。 名づけて大天という。 三蔵学者の名相を堕し、うたた聖旨を失するをなげき、すなわち大乗空義をとりて、三蔵を合糅して、生死、涅槃はただこれ仮名なるを宣説す。  かつ一偈をもって五事を誦出す。 しかるに上座部はこれを信ぜず、  いたく毀斥を加う。  大衆部はすなわちこれを信用し、  ならびに五事を誦す。  ここにおいて異執は調然として、  法道は融けず。 これを後番の二部と名づく。)

寂窃謂前番二部非全無異上座部乃迦文嫡嗣、五師相承専弘三蔵不伝余蔵、大乗方等緊秘不伝、大衆部是傍派而伝持五蔵雑蔵之中出菩薩法且阿含中所言未曾有法宛似指大乗法豈非二部所執既有少異乎、真諦三蔵云、後番大衆部中有伝華厳般若金光明維摩勝鬘涅槃等大乗経者衆中有信此経者有不信此経者云云、又云多聞部中間唱深義参渉大乗云云、 由此説而推之乃知前番大衆部已密伝大乗而由是密伝後人乃有信焉者不信焉者、又後番上座部所出法蔵部経量部等立五法蔵其説亦渉深義旨趣往往順同於大衆部及大乗惟夫上座部弘伝緊秘深義故後至薩婆多興盛於世其弊転堕名相遂至不知如来有二甚深秘蔵偶聞説深義則謂之非仏説而嫌忌之猶如仇怨、三蔵実義殆乎将滅矣子時上座部中有慨乎自部之頽風将失聖旨者但就理長別作一計如法蔵部経量部等也、又其禁呪蔵中応有許多持明秘法、於中三部五部之秘経特顕如来秘蔵之玄極故伝法菩薩秘蔵諸修羅窟鉄塔等与、 由是観之不翅後番二部所計有異、 前番二部伝持異致可知。 問前番上座五聖伝持只三法蔵断乎無他何由知彼亦有秘蘊耶、 答斯有理教今且出教証焉、 付法蔵伝云商那和修降臨優婆毱多房手指虚 空便下香乳高山頂懸泉流注、問言毱多是何定相、 毱多即入己三昧深心観察不能暁了即問其師是何三昧和修答曰此名為竜奮迅定如是次第五百三昧問其名字都不了知乃至毱多当知如来三昧諸辟支 仏不識其名縁覚三昧一切声聞不能解了大目犍連舎利弗等所入三昧其余羅漢不丘能測度吾師阿難三昧定相我悉不知今吾三昧汝亦不知如是三昧吾涅槃後皆随吾滅七万七千本生諸経満足一万阿毘曇蔵有八万数清浄毘尼、如是之法亦随丘我滅是故毱多如来滅後賢聖隠没如是、法蔵漸当五衰損云、 以是証之諸聖内証有無量三昧智慧無量秘密法蔵非凡所如也、 然則当今人問受持之三蔵、 及大乗乃諸大羅漢付法蔵諸聖心中所証法蘊百千万分之一而已、 秘蘊可察理証頗多至下当知、 問拠婆沙論異部宗輪論等説和大天五事五邪説毀斥云云、 今之所叙与彼異者何耶、 答婆沙等所言蓋斯毘婆沙師誣謗之説爾所以知者善見律二地持論一説大天是聖者一時之大法将也、 瑜伽略纂及嘉祥三論玄〔義〕中出大天之事実可尋、 按大天所説全不違法印不乖諦理但発大乗秘密以顕三蔵実義一耳、所以大衆部本末諸部竝服膺之所祗誦五事亦有道理大衆本末咸、 誦  此偈上座所出正量部等亦誦五事毘婆沙師之所挙者斯指鹿作馬之説也可知、 問毘婆沙師何由悪大天之甚而作如斯無根非法之誣耶、 答上座部但弘三蔵緊禁為凡説上上法以謂大天所説乃犯極禁一諍已後互相毀斥憎如仇怨毘婆沙師去大天垂二百年漫録流言以抑彼計而已往古来今類例頗多不可怪焉、 梅冒風雪香気撲鼻、 鉄煉炉韛劒光射斗、 古賢所諍非凡所識也、学者莫容易評量之矣。

(寂窃にいわく、 前番の二部は全く異なきにあらず。上座部はすなわち迦文の嫡嗣なり。 五師は相承してもっぱら三蔵を弘め、 余蔵を伝えず。 大乗方等はきびしく秘め伝えず。大衆部はこれ傍派にして、 五蔵を伝持す。 雑蔵の中に菩薩法を出ず。 かつ阿含の中にいうところの未曾有法にして、 あたかも大乗法を指すに似たり。 あに二部の所執すでに少異あるにあらずや。 真諦三蔵いわく、 後番の大衆部の中に、『華厳』『般若』『金光明』  『維摩』『勝霊』『涅槃』等の大乗経を伝うる者あり。 衆中にこの経を信ずる者あり、 この経を信ぜざる者ありと、 云々。 またいわく、多聞部の中間に、 深義を唱えて大乗に参渉す、 云々。この説によりてこれを推し、すなわち知る。 前番の大衆部はすでにひそかに大乗を伝う。しかるに、これ密伝なることにより、 後人にすなわち信ずる者と信ぜざる者とあり。 また後番の上座部の出するところの法蔵部、経漿部等は五法蔵を立つ。その説もまた深義にわたる。旨趣は往々にして大衆部および大乗に順同す。おもうに、 それ上座部の弘伝はきびしく深義を秘する故に、 のちに薩婆多の世に興盛するに至りて、その弊は転じて名相に堕し、ついに如来に甚深なる秘蔵あるを知らざるに至る。 たまたま深義を説くを聞かば、  すなわちこれを非仏説といいて、これを嫌忌すること、 なお仇怨のごとし。 三蔵の実義はほとんどまさに滅せんとす。ときに、上座部の中に自部の頽風まさに聖旨を失せんとするをなげく者あり。 ただし理長ずるにつきて、 別に一計を作す。 法蔵部、 経凪部等のごときなり。 また、 その禁呪蔵の中にまさに許されし多くの持明の秘法あるべし。中において、 三部五部の秘経は特に如来の秘蔵の玄極をあらわすが故に、 伝法の菩薩はこれを修羅窟、 鉄塔等に秘蔵するとともに、 これによりてこれをみるに、 ただ後番の二部の所計は異あるのみにあらず。 前番の二部の伝持せし異致を知るべし。問う、前番の上座の五聖の伝持はただ三法蔵のみ断ず。 ほかになくしてなにによりて彼また秘蘊あることを知るや。 答う、これ理と教あり、 今しばらく教証を出す。『付法蔵伝』にいわく、 商那和修は優婆毱多の房に降臨し、 手は虚空を指すに、すなわち香乳を下す。 高山頂の懸泉より流注するがごとし。 問うていう、 毬多はこれなんの定相ぞ、 毯多はすなわち三昧に入り、 深心観察するも暁了することあたわず。 すなわちその師に問う、これなんの三昧ぞ。 和修答えて曰く、これを名づけて竜奮迅定となす。かくのごとく次第に五百三昧その名字を問う。すべて了知せず。 ないし〔中略〕、 毱多まさに知るべし、 如来の三昧を、もろもろの辟支仏はその名をしらず、 縁覚の三昧を一切の声聞は解了することあたわず。 大目犍連、 舎利弗等の入りたるところの三昧を、 その余の羅漢は測度することあたわず。 わが師阿難の三昧定相をわれことごとく知らず、 今わが三昧を汝もまた知らず。  かくのごとき三昧をわが涅槃の後、 みなわれにしたがいて滅せん。七万七千の本生の諸経満足し、一万の阿毘曇蔵に八万の数の清浄なる毘尼あり。かくのごときの法もまたわれにしたがいて滅せん。この故に毱多、 如来の滅後に賢聖隠没することかくのごとし。  法蔵ようやくまさに衰損すべし、 云々。これをもってこれを証するに、 諸聖の内証に無飛の三昧の智慧、 無量の秘密の法蔵あること、 凡の測るところにあらざるなり。 しからばすなわち、 当今の人の受持の三蔵および大乗を問うは、すなわちもろもろの大羅漢付法蔵のもろもろの聖なる心中所証の法蘊の百千万分の一のみ。秘蘊察すべし。 理証すこぶる多し。 下に至ってまさに知るべし。  問う、『婆沙論』『異部宗輪論』等の説によらば、 大天の五事をもって邪説をなすと毀斥すと、 云々。 今の叙べしところは彼と異なるはなんぞや。 答う、『婆沙』等のいうところは、 けだしこれ毘婆沙師の誣謗の説のみ、しかるを知るゆえんは善見律二地持論一説の大天はこれ聖者一時の大法将なり。『瑠伽略纂』および嘉祥の『三論玄義』の中に大天の事実を出だす。  たずぬべし、 案ずるに大天の所説は全く法印にたがわず、 諦理にそむかず、 ただし大乗の秘密を発してもって三蔵の実義をあらわすのみ。  ゆえんは大衆部の本末諸部ならびにこれを服膺し、 誦すところの五事にもまた道理あり。 大衆の本末みなこの偶を誦す。  上座より出でしところの正飛部等もまた五事を誦す。 毘婆沙師の挙ぐるところは、 それ鹿を指して馬となすとの説なりと知るべし。 問う、 毘婆沙師はなにによりて大天をにくむことのはなはだしく、 しかもかくのごとき無根、 非法の誣をなすや。答う、上座部はただし三蔵を弘めて、 きびしく凡のために上々の法を説くを禁ず。もっていう、大天の所説はすなわち極禁を犯すと。 一諍の已後互いに相毀斥して、 憎むこと仇怨のごとし。毘婆沙師、 大天を去ること二百年になんなんとす。みだりに流言を録して、もってかの計を抑うのみ。 往古来今、 類例すこぶる多かれども怪しむべからず。梅は風雪をおかして香気鼻をうち、鉄は炉韛にねりて釼光斗を射る。古賢のあらそうところは、 凡のしるところにあらず。学者は容易にこれを評飛することなかれ。)

二百年後従大衆部分出三部一一説部二説出世部、 三灰山住部二百年中又従大衆部出一部多聞部復出一部名多聞分別部復出二部一支提山部二北山住部本末合則成八部上座部宗二百年中無復異諍三百年初分為二部一上座弟子部二薩婆多部三百年中従薩婆多部出一部名可正地部三百年中従可住子部復出四部一法尚部二賢胄部三正量部四密林山部三百年中従薩婆多部復出一部名正地部三百年中従正地部復出一部名法護部三百年中従薩婆多又出一部名善蔵部三百年中従薩婆多部又出一部名説度部亦名説経部知是上座本末合  成十二部上座大衆本末部合則成二十部自爾已後支派分流成五百部宗計紛綸互相是非遂乃至隔河飲水、適化無方陶誘非一均以息累為門同以滅理為宗雖其施設門庭分五岐並不妨如来清浄法界折杖分氎之譬喩旨在于玆矣仏滅百年後優婆毱多有五弟子於毘尼蔵各作一家分為五部一曇無徳部二薩婆多部三弥沙塞部四迦葉遺部五婆麤浮羅部而此五部至于三百年後各出律本此五部律総別開合異説紛拏如律部鈔疏之中明可討。

(二百年後に大衆部より三部を分出す。一に一説部、二に説出世部、 三に灰山住部なり。 二百年中にまた大衆部より一部を出だす。 多聞部と名づく。 また一部を出だす。 多聞分別部と名づく。 また二部を出だす。 一に支提山部、 二に北山住部なり。 本末合すればすなわち八部となる。 上座部宗は二百年中にまた異諍なし。三百年の初めに分かれて二部となす。一に上座弟子部、二に薩婆多部なり。 三百年中に薩婆多部より一部を出だす。 可住子部と名づく。 三百年中に可住子部よりまた四部を出だす。 一に法尚部、二に賢冑部、 三に正量部、 四に密林山部なり。三百年中に薩婆多部よりまた一部を出だす。 正地部と名づく。  三百年中に正地部よりまた一部を出だす。法護部と名づく。 三百年中に薩婆多よりまた一部を出だす。 善蔵部と名づく。 三百年中に薩婆多よりまた一部を出だす。 説度部と名づく、 また説経部とも名づく。かくのごとく上座の本末合して十二部となる。  上座と大衆の本末部合してすなわち二十部となる。 それより已後支派は分流して五百部となる。 宗計紛綸して互いに相是非し、ついにすなわち河を隔て水を飲むに至る。 適化無方陶誘一にあらざるも、 ひとしく息累をもって門となし、 同じく滅理をもって宗となす。 その施設、 門庭岐を分かつといえども、 ならびに如来の清浄法界を妨げず。 折杖分氎の譬喩の旨はここにあり。 仏滅一百年後に優婆毱多に五弟子あり。 毘尼蔵においておのおの一家をなし、 分かれて五部となる。一に曇無徳部、 二に薩婆多部、 三に弥沙塞部、  四に迦葉遺部、 五に婆麤浮羅部にして、 この五部は三百年後に至りておのおの律本を出だす。 この五部の律は総別の開合にして、 異説紛拏は律部の鈔疏の中に明かすがごとし。たずぬべし。)

二部十八部五部等異説頗多如大集経文殊問経智論十八部論、部執異論、異部宗輪論、如三蔵記育王伝、法苑珠林等出可尋。

(二部、一八部、 五部等の異説はすこぶる多く、『大集経』『文殊問経』『智論』『十八部論』『部執異論』『異部宗輪論』のごとし。『三蔵記』『育王伝』『法苑珠林』等に出だすがごとし。  たずぬべし。) 

 曁于仏滅過五百年三蔵学者転執名相隠覆実義乃謬滞自所学至二于不知更有進趣於上上法。

(仏滅過ぎること五百年におよびて、 三蔵学者はうたた名相に執し実義を隠覆す。  すなわち自らの所学に謬滞して、 さらに上々なる法に進趣することあるを知らざるに至る。)

三蔵教法以詮三学乃使学人修戒定慧聖道現前入無為界於無累解脱心中漸転進於甚深上上法是為三蔵実義所以仏在世正法之初出家弟子同依律検行於二持跏坐空間修五停心観四念処以悟為則悟心現前則百千三昧無量法門悉由是処出学仏能事畢矣仏滅後三百年有迦陀衍尼子定慧抜萃聡明利根遊戯於阿毘達磨製八犍度五百論師結集広説承襲弘演毘婆沙宗於是勃興其学久 之稍稍生弊名相繁蕪如閙叢林専攻言詮不事真修剰不知大乗法是声聞乗所顕之真理妄加毀斥甘罹重愆豈不痛哉。

(三蔵の教法はもって三学を詮ず。 すなわち学人をして戒、 定、 慧を修し、  聖道は現前して無為界に入り、 無累の解脱心中においてようやく甚深上々なる法に転進せし。  これを三蔵の実義となす。 ゆえんは仏の在世正法のはじめ出家の弟子は同じく律検により二持を行ず。  空間に跏坐し、五停心を修し、 四念処を観じて、悟をもって則となす。 悟心現前すればすなわち百千三昧無望の法門はことごとくこの処より出ず。  学仏の能事おわる。仏滅後三百年に迦陀衍尼子あり。 定慧は抜萃、 聡明、 利根にして阿毘達磨に遊戯し、  八犍度を製し、五百論師は広説を結集して、承嬰弘演す。毘婆沙宗はここにおいて勃興す。その学は久しくして稍々弊を生じ、名相は繁蕪にして閙叢林のごとく、もっぱら言詮を攻め、 真修をこととせず。 あまつさえ大乗法はこれ声聞乗所顕の真理なるを知らざるに、 みだりに毀斥を加え、  甘ぜしめ重愆にかかる。 あに痛まざるや。)

於是乎有馬嗚竜樹無著世親堅慧等四依大士悲夫頽風愍其淪溺製造大乗阿毘達磨弘揚方等経典将籍此善功以通暢三蔵之実義乃弗獲已而施此適化耳非輒挙楊大乗而撥棄三蔵也於中如竜樹提婆二大士則依共般若示遍計空無著世親二菩薩則明唯識変顕依他有馬嗚堅慧二大士則説如来蔵顕円成中如上三宗施設雖殊其致不舛空有二教是大乗始門如来蔵教乃大乗終極是乃性海之波瀾人理之階漸也弘教大師為如来使降生閻浮分教立宗開発秘蔵以賑像運内鑑冷然無有乖諍過千年後有二論師一曰護法一曰清弁空有殊宗法戦交起如史伝載後賢評謂相破相成理固応爾矣時有竜智三蔵従竜樹大士伝曼荼羅秘経善無畏金剛智不空等大阿闍梨伝伝密付伝持是法三摩耶禁忌伝非器所以未至于別張門庭以摂群機也印度弘伝梗概如斯。

(ここに馬鳴、竜樹、無著、世親、堅慧等の四依大士あり。その頽風を悲しみ、  その淪溺をあわれむに、 大乗阿毘達麿を製造し、 方等経典を弘揚して、  まさにこの善功にかりて、  もって三蔵の実義を通暢せんとす。すなわちやむを獲ずしてこの適化を施すのみ。 たやすく大乗を挙揚して三蔵を撥棄するにあらざるなり。  中において竜樹、  提婆の二大士のごときは、  すなわち共般若により遍計空を示す。 無著、 世親の二菩薩はすなわち唯識変を明かし、 依他有をあらわす。  馬嗚、  堅慧の二大士はすなわち如来蔵を説き、 円成中をあらわす。  上のごとき    三宗の施設はことなるといえども、  それ致はそむかず。  空有の二教はこれ大乗の始門なり。如来蔵の教はすなわち大乗の終極なり。 これすなわち性海の波瀾は入理の階漸なり。 弘教大師は如来の使いとなり閻浮に降生し、 教を分かちて宗を立つ。 秘蔵を開発し、 もって像運をにぎわすも、 内鑑は冷然として乖諍あることなし。 過ぎること千年後に二論師あり。一は設法といい、一は清弁という。 空有は宗をことにし、 法戦交起る。 史伝に載するがごとく、 後賢は評して相破相成という。  理はもとよりまさにしかるべし。ときに竜智三蔵あり。 竜樹大士より曼荼羅、 秘経を伝えらる。 善無畏、 金剛智、 不空等の大阿闍梨は伝伝密付してこの法を伝持す。 三摩耶は非器に伝うるを禁忌す。 ゆえに、いまだ別に門庭を張り、 もって群機を摂するに至らざるなり。  インド弘伝の梗概はかくのごとし。)

 これ、 大乗は小乗の伝灯に伴いて秘密に伝えきたりしことを論述せるものなれば、 その文の長きをいとわずここに挙示せり。  この論によるも、 歴史上の事実によりて証明することの難きを知るべし。 すでに秘密に伝来せりとなすがごときは、 前に述ぶる心心密付と同意にして、 客観上の考証にあらず。  かつ、 さきに掲げし『顕楊論』、『唯識論』等の弁明すらも、一つとして歴史的考証にあらず。  果たしてしからば、 大乗仏説の難関は歴史的考証を欠くの一事にあるべし。 もしシナ、 日本の方面に存する内外の典籍にては、 到底歴史上証明するの道なしとせば、  インドおよび西洋に伝うるものに考うるよりほかなし。 しかるに、 その方面にては元来大乗非仏説を唱うるをもって、 これもとより断念せざるべからず。 ただ、 わずかに望みを属すべきはチベット仏教の探検なり。 その一事はみな人の着眼するところなれども、 余をもってこれをみるに、 これまた失望の結果をみるに至らんのみ。果たしてしからば、 釈迦仏の再誕か、 弥勒の再来を待つにあらざれば、 大乗仏説の真非を判ずる道なしといわざるべからず。これらの点につきては余、 別に卑見なきにあらざるも、 仏教各宗各派の総体に関する一大問題なれば、 仏教一般にこの点に注意着眼せられんことを望むのあまり、 余はこれを懸賞問題としてここに提出し、 広く天下の意見を徴集せんと欲す。この問題の判決は本講の結論に譲ることとなし、 結論に至りて応秘者の意見と余の意見とを併記して、 その結果を示すべし。



   二 大乗仏説、 非仏説の断案


 余おもえらく、大乗は仏説、 非仏説を今日において論ずるは、 水掛け論のはなはだしきものなり。 今を去ること二千余年のいにしえにありて、インドの地に起こりし非仏説論すら水掛け論となりて、ついに勝ちを制することあたわざりし問題が、今日において決することあたわざるはむろんのことなりと信ず。 もし、 今日にありては到底仏説とも非仏説とも決すべき確証を得難きにおいては、 わが日本のごときすでに千数百年の間、 仏説として伝えきたりし大乗は、 やはり仏説として後世に伝えて毫も不可なることなかるべし。 また、 たといこれを非仏説とするも、 現今の仏教を仏教として弘むるには、 なんらの差し支えあるを見ざるなり。

 大乗仏教を非仏説と論断するは一種の懐疑より起こる。ゆえに、その論者は懐疑派の一人に加えて可なり。もし懐疑の眼光をもって論断すれば、ひとり大乗のみならず、小乗もまた非仏説といわざるべからず。これ、ただ五十歩百歩の相違なり。 なんとなれば、 今日伝われる大小両乗の経論は、一つとして釈淳自ら編述せられたるものにあらずして、ことごとく仏滅後遺弟の手に成りしは、みな人の知るところなり。 我人、 阿難、 迦葉等を信ずるより小乗は真に仏説なりと判ずるも、 もしこれを信ぜざるにおいては、小乗もたちまち非仏説となるべし。 阿難、  迦葉その他の羅漢はみな大いに記憶に富み、 仏の説法を一言半語も漏らさず余さずしてこれを結集したりとするも、 なお小乗はいまだ仏説の真相を伝えたるものと許すべからず。 その故いかんというに、 第一に仏の説法は応病与薬にして機根に応じて説かれたりとするも、  仏その人は広大無辺の思想を有し、  これを聴くところの羅漢連中は小機劣根にして、 狭隘なる知見を有すとすれば、 仏所説の法の小部分がわずかに聴衆の脳中に入りてとどまる道理なり。 これをたとうるに、 太陽より発するところの光線は広大無辺なれども、 我人の眼孔中に入るものはその最小部分なるがごとし。 ゆえに、 阿難、 迦葉等の脳中に入りて記憶に存する部分は、 決して仏所説の法の全壁にあらずしていくぶんの断片に過ぎざること明らかなり。 また、 その間には誤聞誤解なきを保すべからず。  これ、 いずくんぞ仏説の真相を伝えたりと称するを得んや。 もし細密にこれを論ずれば、 言語文章は人の思想を表詮する唯一の器械なるも、 その力よく思想の全分を表詮すること難し。  これをもって、 往々言語文章のために思想の誤聞誤解を招くことあり。 しかのみならず、 もし広大甚深の思想にいたりては、 到底言語文章のよく尽くすところにあらざれば、  これを言語道断とも廃詮断思とも言亡慮絶ともいうなり。  果たしてしからば、 仏の言語の上に発したる説法は、 仏の思想大海の真相全分を表詮するあたわざるは疑いをいれず。  これを聴受せる羅漢たちの見解およびその結集は、また仏説の真相全分を伝えざるは明らかなり。ゆえに大乗のみならず、小乗も仏説を直伝せるものというべからず。かくして釈尊と迦葉、 阿難の間に誤聞謬伝あるうえに、 祖々相承の間には一層の誤聞謬伝あるべし。そのしかるゆえんは、 祖々相伝の間に、小乗教中に二十部ないし五百の異論を生じたるをみて明らかなり。これ、一は言語文章は不完全なるより起こり、一は祖々相伝の見解同じからざるより起こる。そのうえにわれわれが今日仏教として学ぶところは、インドの原文にあらずして、シナの訳文なり。 しかしてわれわれは、 その訳文をシナおよび日本の先輩諸師の注釈によりて講ずるものなれば、 その間には幾層の誤解謬伝あるや計るべからず。これによりてこれをみるに、 大乗も小乗もすべての仏教はみな非仏説なりと断定するも、一理ありといわざるべからず。

 かくのごとく懐疑的に論断すれば、 大小両乗とも非仏説の疑難を免れず。 もし祖々の相伝をはじめとし、 今日に伝われる経論はみな仏説の真相を得たるものと信ずるときは、 小乗も大乗もともに仏説と論断して可なり。 しかして二者の相違は、 五十歩百歩の等差にすぎざるなり。 その本土たるインドにありて大乗非仏説の疑難を起こすものありしは、 大乗の興隆に際してこれを抑圧せんと欲する反対者の言論なること疑いなし。 仏滅後百年を経て小乗に上座、 大衆の二部競い起こるに当たりて、 上座部は大衆部の説を斥して妄語妄言となせしことあり。 これ、 小乗の一部より他部をみて非仏説なりとなすものなれば、 小乗家が大乗を斥して非仏説となすは当然のことにして、 あえて怪しむに足らず。 すでにわが国にありては、 日蓮上人は他宗を斥して、 念仏無間、 禅天魔、 真言亡国、 律国賊と公言したるにあらずや。 これによりてこれをみるに、 小乗家および外道にありては、 大乗の勃興してその勢い他を圧せんとするを見て、 これを排斥せんとするのあまり世間に対して非仏説論を提出したりしも、あえてその論点を証拠として、 大乗は真に非仏説なりと断定するを得んや。『顕揚論』『唯識論』等に大乗非仏説論に答うる論理の極めて薄弱なるをみて、 余は非仏説論者の論点のまた極めて薄弱なりしを知る。 なんとなれば、 もし非仏説論者の方に強固なる論拠あるにおいては、 かくのごとき薄弱なる答弁をもって世人に満足を与うることあたわざりしは明らかなり。 これをたとうるに、 昔時の城壁や砲台の弱小なるは敵勢の微弱なるを示すと同じく、 答弁の薄弱は問難者の論拠の薄弱を示すものと知るべし。

 およそ仏教家の記憶すべきは、 仏教とヤソ教とその性質を異にする点を知るにあり。ヤソ教は単純の天啓教にして、 仏教は天啓教に道理教を兼ねたるものなり。 世間、 仏教を評して一半は哲学、一半は宗教なりと唱うるは、 天啓兼道理教なるによる。 もしその天啓教の見解によるときは、 大乗非仏説論に対してあくまで仏説の弁護を要するも、  これを一種の道理教とするときは、 仏説、 非仏説の問難はいずれに決するも差し支えなかるべし。もし大乗は迦葉の新造なりとせば、 迦葉その人を仏祖として崇拝して可なり。  大天より起こるとすれば、  大天すなわち仏なり、  竜樹より始まるとすれば、 竜樹すなわち仏なりとして敬重して可なり。 ただ、 仏は宇宙の真理を開発せるものなれば、 大乗の真理を発見したるものは、  みな大乗の仏祖たるべき道理にして、  必ずしも三千年古、 迦毘羅衛国浄飯王の子たる悉多太子に限るを要せんや。 すでに仏教中に小乗のほかに大乗ありて現に行わるるとすれば、  必ずこれを開説せるものなかるべからず。 その初めて開説せる人を大乗の祖と定めて可なり。  馬嗚にても、  竜樹にても、インド人にても、  シナ人にても、 あえてその人のいかんによりてその説を上下するを要せんや。  また、 われわれが仏教を信ずるにも、 その説の高妙甚深にして、 しかもよく凡俗の迷を転じて悟を開くことを得る点にある以上は、 これを説きたる人のいかんによりて大乗の価値を異にするの理なし。 換言すれば、 仏教を信ずるはその説の高妙なるを信ずるにありとすれば、いかに大乗非仏説論の謡々として四隣にやかましきも、すこしも意に介するに足らざるなり。 請う、わが国の仏者が大乗を奉信する点はいずれにあるかを見よ。

  そのこれを信ずるは、小乗と大乗とはその祖を同じくする点にあるか、 はた大乗の教理は小乗より高妙甚深なる点にあるか。

 仏者は必ずこれに答えて、大乗の教理の小乗より高妙なるにありといわんのみ。 果たしてしからば、 大乗非仏説問題はわが国の仏者に対しては痛くもかゆくもなき争論なれば、 傍観座視してその勝敗の決するをみて可なり。 しかるにヤソ教はこれに異なりて、 もし他教より『バイブル』はことごとくみな非キリスト説との疑難を提出せらるるときは、必死をもって弁護せざるを得ず。 これ単純の天啓教なればなり。

 仏教は一半道理教たるゆえんは、その教説はすべて真理をもって本となすを見て知るべし。 ゆえに、 仏教にては世間一般の学術といえどもいやしくも真理を本とするものはみなこれ仏説となす。 その証は『涅槃経』「文字品」に出ず。 曰く、

   仏告迦葉、善男子、 所有種種異論呪術言語皆是仏説。

(仏、 迦葉に告げたもう。 善男子よ、 所有の種々の異論、 呪術、 言語もみなこれ仏説なり。)

 これ、一切の学術みな仏説なりとの意にあらずや。  果たしてしからば、 釈尊はこの世に生まれて宇宙の真理を我人に啓示せられたるものにして、 仏説は宇宙の真理を説きたるものに与うる名目なりと解して不可なかるべし。 もしこの解釈によらば、 大天の説でも、 竜樹の説でも、いやしくも宇宙の真理を胚胎する以上は、 みな仏説と称して可なるべき道理なり。 ゆえに、仏教を道理教としてみるときは、 大乗非仏説論は仏教の利害得失にさらに関係なきを知るべし。

 仏教は一種の哲学にして、その所立の教説は多くこれを哲理に考えて証明するは、 まさしくその道理教たるゆえんにして、 余はこれを哲学的宗教と称す。 倶舎にありて七十五法を立てて論ずるも、 唯識にありて百法を分かちて論ずるも、みな世間もしくは宇宙の道理に訴うるものなれば、 これを哲学的論究といわざるべからず。 かくして仏教は一種の哲学なる以上は、大乗非仏説問題は毫も仏教の価値を下落するに至らず。ことに仏教中には禅宗のごとき不立文字、 教外別伝の宗風を伝え、釈迦なにびとぞ、 われなにびとぞの主義をとるものあり。これらの宗旨にありては、 大乗非仏説の攻撃は全く徒労に属する道理なり。 ゆえに仏教そのものにつきては、 大乗非仏説論は一、二の蚊か蚤が大象の手足に触るるよりも、 なおその痛みを感ぜざるは余が信ずるところなり。

 しかれども、 仏教は一半天啓教にしてその宗教たるゆえんは、 全くこの天啓の部分にあり。  ゆえに、 さらに天啓教の方面より大乗非仏説の影咽いかんを考えざるべからず。 もしこれを天啓教とすれば、 ヤソ教と同じく釈迦は人間以上の仏世尊にして、  涅槃の都城より此土に来現して、 十九出家三十成道の跡を垂れたまえるものとなさざる べからず。 しかるときは大乗も小乗も同じく一仏の所説にして、 釈尊の啓示に出ずるものとなさざるを得ず。  ここにおいて、 大乗非仏説論の大いに影響するところあるを知るべし。  ゆえに、 余はこれより大乗は仏説なりとして論明せんと欲す。 

 大乗仏説論も非仏説論も積極的に証明することあたわずして、消極的に証明せざるを得ざることは、 前に論じたるところによりて明らかなり。 もし消極的に証明せんと欲すれば、一は発達的に考うると、 一は存立的に考うると、二様の見解あるを知る。 第一の発達的見解とは、  釈迦は大小二乗を説かれたるに相違なきも、 滅後の発達は小乗まず行われて大乗のちに興るは発達の順序なりとす。 あるいはまた、 釈迦は小乗の内部に大乗を含めて説かれたるをもって、 滅後の発達も小乗の内部より大乗を開発するに至れりとなす。 外面よりたちまちこれを見れば、  小乗と大乗とは全く別物なるがごときも、内実より深くこれを検すれば、大は小を離れず、小は大を離れず、 大小両乗その体一なるを知るべし。 しかしてその開発するや、小乗の枝葉まず成りて、 後に大乗の花実を現ずるは、実に発達の順序なり。 もし理論上わずかに小乗の説を延長拡充すれば、 たちまち大乗の理に達するは、仏教の一端をうかがうもののみな知るところなり。 果たしてしからば、  小乗はその体内に大乗を包含するもの、すなわち大乗内包の教説なること明らかなり。  かくのごとく解しきたらば、 釈尊は大乗を説かずして、  ひとり小乗を説きたりとなすも、 あえて不可なることなし。 換言すれば、 釈尊は大乗内包の小乗を説きて、 後人をしてその中より大乗を開発せしむるように説き示されたりとなすも、 あえて不当にあらざるべし。 しかしてそのしかるゆえんは、 小乗と大乗との関係を一言すれば、 たやすく了知することを得るなり。

 古来、 仏教に三法印と称するものあり。 諸行無常、 諸法無我、 涅槃寂静これなり。この三印は仏教の真偽を鑑定すべき標準なれば、小乗はもちろん大乗といえども、この三印を具せざるはなし。 大乗は別に実相一印をもって標準と立つる説あれども、 その実、 三法印を離れたるものにあらず、ただ三法印中、 涅槃寂静を説くこと小乗よりつまびらかなるのみ。 小乗は表面より世界の転変無常を観察して、 最後に不生不滅の理あることを説き、 大乗はもっぱら不生不滅の理を開説したるは、 両乗の相異なる要点なり。  果たしてしからば、 大乗は小乗を延長もしくは拡充したるものにほかならず。 これをもって、 大乗家は決して小乗を非仏説視せず、 他人視せずして、 かえってこれを助けて己の説を進長する要具となせり。 ゆえに、 小乗の中には大乗の全分もしくは過半を包有すと称して可なり。 これによりてこれをみれば、 小乗にして真に仏説なれば、 大乗は別に証明をまたずして仏説たるの権利を有すというも、 あにあえて理なしとせんや。

 かくして小乗はその胎内に大乗を包有せる孕婦にして、 釈尊滅後ようやく生育して大乗の胎児を産出せりとなすときは、 古来の伝説と照合するを得べし。 けだし、 大乗は馬嗚、 竜樹に始まると称するも、 小乗異部二十部中には、 大乗とその差一髪を隔てざるものあり。 大天の説は大乗の一端を唱道したるものなりとは、先輩のすでに論ずるところなれば、 大天以来ようやく大乗の開発ありて、  馬嗚、 竜樹に至れるがごとし。 これみな、 小乗の胎中に内包せる大乗を外発したるものにほかならず。しかるに世間この説明を聞きて、これ山芋より鰻を生じ、 雀より蛤を生ずるの論法なりと評するものあらん。しかれども、 今日の仏教は大乗中といえども、 種々なる変遷発達を経てここに至れることは、小乗より大乗を生じたるの比にあらざるなり。 今日の天台なり、 華厳なり、 真言なり、 禅、 浄土なり、みな二千年の古代インドにありては全くみざる宗旨にあらずや、 いわんや真宗、 日蓮宗においてをや。  かくのごとき宗旨はインドにおいてみざるも、 日本の仏教家は二千年前のインド仏教の胎中に内包したるものなりと解するに相違なかるべし。 果たしてしからば、 馬鳴、 竜樹以後の大乗はそれ以前の小乗中に内包すというも、 あえて不可なるの道理あらんや。 ゆえに、 もし今日の大乗仏教の馬鳴、 竜樹の大乗仏教におけるは、  馬嗚、 竜樹の大乗教が大天の小乗仏教におけるがごとしといえる比例を立つることを得るならば、 小乗の仏説なるは大乗の仏説なるゆえんなりと断定して不可なかるべしと信ずるなり。

 以上は仏教発達上において大乗の仏説なるゆえんを論じたりしが、 仏者中には大乗も小乗も釈尊在世の間に兼説したまい、 その滅後もならび行われたることの証明を望むものあるべし。 余おもえらく、  これに三様の証明あり。 その一は口伝密授説、 これ普寂師等の唱うるところなり。 その説によるに、  釈尊は在世の間、 小乗と大乗とを兼説したるに相違なきも、 大乗は釈尊の極意を説きたるものなれば、 その滅後これを相伝するもの、  世間に対してはひとり小乗を伝道し、 深く大乗を秘して人に知らしめず、 ただ師弟相承の際、 口伝をもって密授したるものなり。ゆえに、大乗は仏滅後数百年の間は経典文字をもって世に伝えざりしに相違なし。 これ、 大乗経の馬嗚以前に伝わらざりしゆえんなり。 しかるに仏滅後数百年を経て外道諸派ようやく勃興し、 大いに理論を闘わすに至り、 仏教の小乗にては到底これと雌雄を争うことあたわざる勢いなれば、  馬鳴、 竜樹のごとき諸氏は、 従来口伝にて密授したる大乗の法門を世間に開示し、 もって外道をしてその後に瞠若たらしむるに至れり。 これ馬鳴以後、 大乗のにわかに興りしゆえんなりとす。 この秘密伝授は古来インドに行われたる一種の風にして、 日本の仏教にもなおその風を存せり。 そのほか、 柔道、 剣道のごときも、 その極意にいたりては口授密伝を守るものとなれり。  これによりてこれを推すに、 大乗の口授密伝説もやや一理あるがごとし。

 第二に、 大乗仏説の弁語は時機相応説なり。 最初、 釈尊は大小両乗を兼説したるも、 その滅後、 時機相応の法と不相応の法との別ありて、 小乗はよく時機に相応したるをもって世に行われ、 大乗は時機に不相応なるをもってようやく滅亡するに至れり。 しかるに馬鳴、 竜樹の時代に至りては、 時世一変して大乗相応の時機となれるをもって、 従来世間に埋没したりし大乗仏教がにわかに復典するに至れり。 けだし、  馬鳴、 竜樹はひとたび世間に埋没したる大乗仏教を、 山間の僻村もしくは海外の孤島よりさぐり得て、  これを世に伝えたりしならん。 古来、竜樹が大乗教を竜宮より将来せりとの伝説につきて、 大いに疑団を抱く者ありて、 付会の説したがって起こり、かえって世人をして惑わしむるに至れり。  その一説には、 竜宮将来とは自己の心門を開きてその中より現示したるをいうとなす者あれども、 これ禅家流の解釈にして、 大乗教は以心伝心をもって相承したりとなさば、 その説明にて足るべしといえども、 大乗非仏説の疑難は以心伝心をいうにあらざること明らかなれば、  己の心を指して竜宮となす説は決してとるべからず。  余おもえらく、  竜宮とは海外の孤島をいうならんか。 古来、シナおよび日本に竜宮に遊ぶの説あるは、 多く海外の孤島をいう。 古代、 風波のために漂泊して孤島に葬し、 いまだかつて見ざる異人および異風に接するときは、 必ず奇異の思いをなし、 竜宮もしくは仙境となせり。 古代、 他邦より日本を呼びて蓬萊となし、 あるいは徐福が不死の薬をこの地にもとめたりとの伝説は、 もとより信ずるに足らずといえども、 古来、 海外の孤島を竜宮仙境と考えし一例となすに足る。 また浦島太郎の竜宮談のごときは、 もしこれを実説とすれば、 海外の孤島に漂泊せしものと考うるよりほかなし。 これによりてこれを推すに、 竜樹の竜宮談も海外の孤島をいうならんか。 しからざれば山間の孤村にして、 人跡の多く至らざる所ならん。  かくのごとき場所は世間より仙境霊地と呼ぶことは、 古代においていずれの国にもあることなり。 しかしてかかる孤島もしくは孤村には、一時世間に廃滅したりし古代の風俗言語を伝えて後世に及ぼすものなれば、 仏滅後一時世間に廃れたる大乗仏教がかくのごとき僻地に存すべきは、 道理上やや信ずるに足る。  果たしてしからば、 竜樹の竜宮将来は世間普通の道理をもって解説するを得べし。

 第三は地位相応説なり。 古来の学者は教法には時機相応と不相応との別あるを説くも、 いまだ地位相応と不相応との別あるを説かず。これ、 その一を知りてその二を知らざる論なり。 ゆえに、 余はここに地位相応論を掲げて大乗仏説の一証となさんと欲す。 地位相応とは、 土地および気候の異なるに従って、 人の思想も嗜好もまた異なりて、 これに広まる教法上に相応と不相応との別を生ずるに至るをいう。 なお、 時機に相応、 不相応の別あるがごとし。 例えば、 日本は古来これを称して大乗相応の地となし、 そのはじめ大乗小乗ともにこの国に伝わりしも、  小乗は早く滅びて、 大乗のみひとり存するに至れり。  これ、 日本の地理気候、 人心人情の大乗に適して小乗に適せざるゆえんなり。  これに反してインドは昔時大乗小乗ともに行われしも、 今日は大乗を失ってただ小乗のみを存するは、 その地味人情が小乗に適して大乗に適せざるゆえんなり。 さらにその例をわが国に徴するに、 日蓮宗のごときは関東に盛んにして関西に振るわざるは、 その風土人情の適不適によるや明らかなり。  また真宗のごときは関東に微にして北国に栄うるは、 同じく風土人情のしからしむるところにあらざるはなし。 もし草木をもって例すれば、 南方温暖の地に適するものと、 北方寒冷の地に適するものとおのずからその別あり、  人間も多少これに等しき関係を有するがごとし。  今、  哲学思想と地理気候との関係を一言するに、  山深く谷かすかに、  これに加うるに気候寒冷なる土地に住する者は、 多く深邃なる思想を有す。  これに反して、 気候温暖にしてしかも海浜に接し、 交通便なる場所に住する者は、 思想深からずして万事多く実際を主とするに至る。 けだし、 西洋にありてドイツ哲学はなお深邃の趣ありて、  イギリス哲学は経験実際に傾く風あるは、 地理気候と人心との関係あるを証するに足る。 また、  シナにありては孔孟の学風と老荘の学風と大いにその趣を異にし、 前者は実際に適して解しやすく入りやすく、 後者は深邃幽玄にして解し難く入り難し。  これ、 老荘の地方と孔孟の地方とは山海その地位を異にするによる。 また、 同じく孔子の学統を継述するも、 孟子と荀子とは大いにその趣味を異にし、 孟子はこれを読むに流暢平易にして、  荀子はしからざるもその理一なり。  これによりてこれをみるに、 地理と思想とは大なる関係を有し、 したがって地理気候の異同に応じて学問宗教の適不適をみるに至るを知るべし。 世間に薩摩芋は川越を称し、 大根は宮重を称し、  かぶは天王寺を称するとなんぞ異ならんや。 そもそもインドの地たるや自然に半島の形勢を有し、 北方に山を負い、 東南西三面海をめぐらし、 中央にガンジス、 インダスのごとき大河横流するあり。  これをもって中央および南方と北方とは地勢上、山海高低の異同ありて、 したがって気候上大いに寒暖の不同をみるに至る。  果たしてしからば、 人の思想も南北その所に応じて大いに不同あるを免れず。 したがって学術宗教も、 北方に適するものと南方に適するものとは必ず大いに異ならざるを得ず。この理をもって、 大小両乗のその伝来を異にするゆえんを知るに足る。

 釈尊はその在世の間に小乗と大乗とを兼説したるに相違なきも、 その滅後に至りて大乗の深邃幽玄なる哲理は、  インドの中央および南部の気候炎熱、 交通自在の地に適せずして早くこれを失うに至り、  北方ヒマラヤ山の近傍、 地位高く気候寒冷なる場所に至れば、  ひとり大乗の哲理のこれに適するありて、 仏滅後永くその地に行われたりしは明らかなり。  これより、 仏教が北方チベットおよびシナの諸国に伝播するに及びては、  ひとり大乗教の適するをみるも、 また北方の気候と人心とが大乗相応の地なるによる。  これに反して小乗のごとき議論に乏しくして実際に適するものは、  インドの北方に伝わらずして、 中央および南部に行わるるに至れり。  かくして数百年の後には、 中央および南部の人は小乗あるを知りて大乗あるを知らず、 北方の高山深谷の間にありては大乗あるを知りて小乗あるを知らざるに至るは、 また自然の勢いにして、 あえて怪しむに足らざるなり。

 かくして馬鳴、 竜樹の時代に至り、  北方の山間に埋没せし大乗がようやく一般の知るところとなり、 これを中央インドに伝うる者ありて大乗再興の機運をみるに至れり。 ひとたび隠れたる大乗が再び世に出でたるは、 全く時勢変遷のしからしむるところにして、 中央インドに諸派の外道競起して、  その勢い仏教を圧せんとするに至りしによる。  けだし、  小乗仏教はその理論卑近にして到底これと抗争することあたわざれば、 自然の勢い北方の大乗を呼び起こすに至りたるや疑いなかるべし。 しかるに中央インドの仏教家は、 その当時すでに小乗あるを知りて大乗あるを知らざる者なれば、 大乗を目して非仏説となすに至る。 これ、 中央インドの仏教は小乗仏教の伝灯のみを知るによる。 今日シナおよび日本にて伝うる仏滅後の伝灯もやはりその小乗伝灯なれば、 大乗仏説を立つるにはなはだ困難を感ずるなり。 しかれども、 余が論ずるところあえて空想憶断にあらず。 前に掲げたる『法華経』伝来の一節に、 北方雪山の間より大乗を伝えきたれりというこの説によれば、 大乗は北方の山間に行われしは明らかなり。 しかるに竜樹、 竜宮将来の説あれども、 その竜宮とはいずれの所なるを知るべからず。 余はこれを海外の孤島もしくは山間の孤村なりと知る。 もしこれを孤村とすれば、 ヒマラヤ山間の一仙郷より大乗を将来したりしならん。『法華経伝記』〔『法華伝記』〕の説によるに、 雪山中に宝塔ありて大乗諸経を収む、 竜樹ここに至りて大乗経を得たることを記し、 また大海竜王、 竜樹をあわれみて七宝函を発して『華厳』『法華』等の諸経を授けたることを記せり。 これによりてこれをみるに、 竜宮とは海外の孤島を指すにあらずして、 雪山中の一地方なることを知るべし。 しかるにまた真言にては南天の鉄塔説を伝うれども、  これ釈迦所説の教にあらずして大日所説を唱うるものなれば、これを別説としてここに論ぜざるも可なり。 また『瑜伽論』等の大乗論は弥勒降天して伝えたりとの説あれども、 これを世間普通の道理に考うれば、 降天説は信じ難し。 ゆえに余おもえらく、 この当時にありて北方ヒマラヤ山間の地方よりくだりてガンジス近傍に来たりしものは、 これを天よりくだると伝えたるならん。 なんとなれば世間一般に、  北方に須弥山ありて、 その山頭に諸天あることを唱えたる時節なれば、北方の山地より来たりたるものを見て、  須弥山頭の天よりくだれりと考うるも当然のことなればなり。  果たしてしからば、 弥勒菩蔭、 都率天より中天竺阿瑜遮国にくだりて五部の大論を説きたりと伝うるは、 雪山の山中より出でて中天竺に来たりしをいうならん。 しかしてその伝灯は仏より弥勒に伝え、 弥勒より無着に伝えたりとなすは解し難きに似たれども、『名義集』によるに、  弥勒は唐に慈氏というすなわち姓なりとあれば、 仏在世のときの弥勒と、 五部の大論を講じたるものとは同姓異人なるやも知るべからず。 あるいは雪山中にありて仏滅後数百年の間、 弥勒姓の家にて大乗を伝承したりと解するもあえて不可なかるべし。 これを要するに、 大乗伝来は北方ヒマラヤ山の地方なりしはやや疑いなきがごとし。  これ、 大乗相応の地なるによるなり。

 以上、 余が大乗仏説論の大要を述了したれば、これより大乗非仏説論者の大乗の開祖と立つるものだれなるやを考うるに、 あるいは言う、 大乗は竜樹より起こると。 これ、 竜樹が竜宮より大乗経を将来せりと伝うる事実によりて想像せしに相違なきも、 竜樹以前に馬鳴ありて大乗を唱えたりし事実をいかに解説するや、 馬嗚の大乗と竜樹の大乗と一致するゆえんいかん。  かつ竜樹の当時にありては、  外道婆羅門諸派大いにさかんにして仏教まさに滅せんとする際なれば、 竜樹の偽作せる大乗にては決して世人がその説をいるるはずなかるべし。 けだし、 その当時にありて竜樹の説が真に仏説たることの信ずべき点ありしをもって、  その説世間に行われたるものなるべし。 もしまた非仏説論者は大乗は馬鳴の偽作となすも、 同一の理由をもってその説を否定するを得べし。 あるいはまた大天の偽作となすも、 大天はわずかに小乗部中に異説を立てたるまでにて、 いまだ大乗を創説せるにあらず。 しかるに、 大天の説は小乗中大乗に近きものなりとしてこれをみれば、 あるいは大天は北方所伝の大乗流を探知して、 その理を小乗中に混説したるやの疑いなきにあらざれども、 その伝記明らかならざれば、  事実の証明を与うることあたわず。 あるいは、 大乗は一人一時の所説にあらずして数人数代の所説なりとする説あれども、果たしてその説のごとくんば、 大乗諸派のともに一致し、  かつ小乗と道理上契合するところあるの理を解し難し。 そのほか、 大乗非仏説論につきて疑難すこぶる多ければ、 その論いまだ決して信許すべからず。以上、 余が所見を一括すれば左表のごとし。

       哲学的(道理教)

大乗仏説論                            大乗発達説(内包的解釈)

          宗教的(天啓教)                                     口伝密授説

                                         大小存立説(外延的解釈)      時期相応説

                                                                            地位相応説

 仏教は一半哲学的にして、一半宗教的なり。 哲学的方面にありては大乗非仏説なるも仏説なるも、 あえて論ずるを要せず。 宗教的方面にありては大乗仏説を立てざるべからざるも、 これに内包的、 外延的両様の解釈あり。また外延的にも口伝、 時機、  地位の諸説ありて、 大乗仏教たるの論拠はなはだ多しとす。 なかんずく地位説のごときは余が新たに考出したる説明にして、 最も仏説論の考証とするに足る。 もし、 以上の証明はみなもって信をおくに足らずとするも、 これを非仏説とする論者の論拠もやはり薄弱にして確信し難し。  果たしてしからば、 さらに数歩を譲り、 仏説論も非仏説論も双方ともに確固たる論拠なしとするときは、 結局今日まで仏説として伝えたる以上は、 やはり仏説として伝うるよりほかなしと考うるなり。  これ、 余が非仏説論に対する意見なり。

(右「大乗仏説論」および「仏説非仏説の断案」二題は、 かつて『哲学館講義録』に掲載せしものなり。 今や社会斯論嘖々たるに際し、 ただ一小部の『講義録』中に埋没するをうらみ、這回、博士に請うて本集に転載して、もって斯道研究の料に資せんとす。)


   三 仏教哲学史につきて卑見を述ぶ


 余は元来歴史に暗く、  かつ自ら歴史を専攻せるものにあらざれば、  歴史学そのものの何を講究するやを知らず、 仏教歴史にいたりてはことにはなはだし。  世間にありては、 歴史に関する書冊実に汗牛充棟もただならずといえども、  ひとり仏教においては二、 三の略史を除くのほか、 いまだ歴史と名づくべき書帙あるを見ず。 余の仏教歴史の知識に乏しきもまた当然なり。 しかれども、 仏教は数千年来、 社会国家の間にようやく発達流布して今日に至れる以上は、  必ずその事跡を明らかにせる歴史なかるべからざるは、 余輩といえどもなおこれを知る。 さきに村上〔専精〕学師『仏教史林』を発行し、 もっぱら仏教歴史の編纂に従事せらるるは、  その意全く、  この従来の欠典を補わんとするにあるは、  問わずして明らかなり。 しかして、 学師のいわゆる歴史はいかなる歴史なるやを知るべからずといえども、 余の考うるところによるに、  世の古今、  国の東西を論ぜず、  一般に歴史につきて内外二種あるべし。 仏教またしからん。 ゆえに、『仏教史林』のいわゆる歴史も、  この二種を合称せるものなるべしと信ず。

 今、 まずその二種の別を示さば、  通俗のいわゆる歴史は、 人間社会の上に現ずる事実の記録にほかならざるべし。 もしこれに一歩を進むれば、 その各事実につきて原因、 結果、  および相互の関係を論定するものに過ぎず。これ、  外部の観察のみ、  客観的の研究のみ。  これに対して内部の観察あり、 主観的の研究あり。  これ、  事実上の変遷を研究するものにあらずして、  理想上の発達を論究するものをいう。  いわゆる哲学史これなり。  今、 その発達につきてこれを考うるに、 今をさること三千年の往古、 釈迦仏陀の理想中よりひとたび流れ出でたるもの、 ようやく進化発達して、 小乗、 大乗、一乗、三乗、 顕教、 密教、 聖道、 浄土等に分派したるがごときものこれなり。 けだし、 その発達を論ずるものは、 実に仏教哲学史というべし。  これ、 すなわち仏教理想上の発達史なり。もし、  この理想上の見をもってさきのいわゆる事実上の歴史をみるときは、 かくのごときは歴史の現象にして本体にあらざるを知るべし。

 そもそも人間は理想的動物にして、 宗教もその理想の開発より現出したるや明らかなり。 しかして宗教の社会上に現ずる種々の事実はみな、 この理想の開発して外界に示すところの現象にほかならざるべし。 しかれども、現象あれば必ず本体あり、 本体あれば必ず現象あるべきをもって、 歴史にしてまた必ずこの内外の二種なかるべからず。  すなわち、 その一は事実的、 客観的、 現象的にして、 その二は理想的、 主観的、 本体的なり。  これ、 余が歴史そのものを知らずして、 みだりにこれが義解分類を想定するゆえんなり。

 かくして、仏教の歴史にもやはり事実、理想の二種ありとするときは、余はこれより、 その理想上の発達史につきて一言を費やさんとす。これすなわち、余がいわゆる仏教哲学史なり。 その発達は一脈の系統に従いて次第に進化して今日に至ること、 毫も草木禽獣の形質上の発育に異ならず。 およそ事実上の歴史をみるに、文明の進歩、 器具の発明等、 みな一より二、二より三と次第に変遷進達して、 下等より高等に及ぼせり。  理想上の歴史もまたしかり。 最初単純なるもの、 ようやく進んで複雑となり、ついに井然たる一大組織系統を開くに至る。  ゆえに、 その発達には必ず一定の規律ありて、 これに従いて組織を成すや明らかなり。

 そもそも理想発達の規則は、 もとより一様をもって論ずべからずといえども、 ある哲学派の定むるところによれば、 三断論法の形式によるとなす。三断論法のことは別に説明を要せずといえども、 今いささかその一端を述ぶるに、 およそ論法に二種あり。 両断論法、 三断論法これなり。 両断論法とは正断、 反断の二様に分解して論ずるものにして、 甲を分かちて乙、 非乙の二種とし、 乙を分かちて丙、 非丙の二種とするの類なり。 例えば、事物を分かちて有形、 無形の二種とし、 有形を分かちて有機、 無機の二種とし、 有機を分かちて有情、 無情の二種となすがごとし。  よろしく左表につきて見るべし。


       丁                 有情

    丙                有機

  乙    非丁         有形     無情

甲   非丙         事物    無機

  非乙              無形

 これ、 普通の論理学に用うる形式にして、  アリストテレス、  ベーコン等の唱うる論理はみなこの形式による。これに反して三断論法あり。 三断とは正断、 反断、 合断の三種にして、 ここに甲あればこれに反対する非甲あり、  ここに甲と非甲あればこれを総合する乙あり、 甲は正断、 非甲は反断、 乙は合断なり。 その表、 左のごとし。


  甲             正断

      乙  すなわち       合断

  非甲            反断

 これ単式なり。もし複式を示さば左のごとし。 

 

    乙

非甲      丙

    非乙      丁等

        非丙

 そのほか錯式と名づくべきものあり。  その表、 左のごとし。

   甲

   非甲

       乙

   甲

非甲

   非甲


 これを両断論法に比するに、 正反両断のほかに第三の合断あり。  ゆえに、これを三断論法と名づけ、 あるいは総合法と名づく。これ、思想自然の形式にして理想発達の規則なり。 ゆえに、 古今の哲学史は全くこの形式に従いて次第に発達し、 もって一大組織を成ずるものにほかならず。 しかしてその理を開示したるものは、 カントの哲学に胚胎してフィヒテ、 シェリングを経てようやく発達し、ヘーゲルに至りて大成せりという。 カントの哲学は純理批判、 実理批判、 断定批判の三段に分かれたるは、  三断論法の形式をなすものなり。 フィヒテの知識論もやはり三断に分かれ、 シェリングの哲学組織もまた三段に分かるるがごときは、 みな三断論法なり。  かくして、ヘーゲルにいたりては、  哲学全体を論理哲学、 万有哲学、 精神哲学の三大段に分かちしのみならず、 その論理哲学のごときは、 徹頭徹尾三断形をもって組織せるものなり。

 今、 もし哲学全史をひもときてこれをみるに、 古今数千年間の発達は、 全くこの形式のほかに出でず。 例えば、 古代にありてタレス氏、  ひとたび水をもって万有の原理と論定せしより異論百出、 なかんずくアナクシマンドロス氏は、  水は一定の形質を有するをもって万有を化生すべからずとし、 無形質無定限の空体をもって原理となせり。  しかしてアナクシメネス氏は、 タレスの水は有形に過ぎ、  アナクシマンドロスの空体は無形に過ぐるを見て、  これを折衷して空気論を唱うるに至れり。  これ、 自然は三断論法の形式によるものなり。 また、  イオニア学派は観察帰納の風を帯び、 ピタゴラス学派は空想演繹の傾きを有するをもって、  エレア学派はこれを折衷して単一論を唱え、 詭弁学派は人知の上に哲理を論じ、 それ以前の諸派は万有の上に深理を講じ、  おのおの一方に偏するところあるをもって、 ソクラテス氏はこれを統合して人倫哲学を起こせり。  また、 ソクラテスの門下に、  メガラ学派のごとき理論を主とするものと、 キニク、キュレネのごとき実行を主とするものとの二派を生じたるをもって、プラトン、アリストテレス等の学派は理論実行兼備の哲学を講じ、  プラトンは理想に偏し、  エピクロスは感覚に偏するをもって、 アリストテレスのごときはその中をとれるがごときは、 間接直接に三断論形をなすものなり。

 近世にきたりても、  ベーコン派は経験主義をとり、 デカルト派は独断主義によるをもって、 カント氏これを融合し、 フィヒテは主観的絶対論を唱え、シェリングは客観的絶対論を唱えたるをもって、ヘーゲル氏これを統合し、 ドイツ学派は高妙に過ぎ、 スコットランド学派は常識に過ぐるをもって、クーザン氏これを折衷するの類、いちいち挙示するにいとまあらず。

 これ、 ひとり西洋のみならず、 東洋においてもまたしかり。 孔子は利他教を説き、 楊朱は自利教を説き、  墨子は兼愛教を説くがごとき、 孟子は性善論を唱え、 荀子は性悪論を唱え、 楊子は善悪混合説を唱うるがごとき、  老荘は自然を論じ、 孔孟は人事を論じ、 申韓は老荘より出でて、 かえって刑名法律の学を講じたるがごときは、やはり三断論形ならざるはなし。 西洋古今ならびにシナ哲学の発達、  すでにかくのごとし。  インド、 あにひとりしからざるの理あらんや。 余は今、 その証を仏教の発達史につきて示さんとす。

 およそ仏教の理想上の発達に二様あり。 その一は釈尊在世間の発達、 その二は釈尊滅後の発達これなり。 在世間の発達は華厳、 阿含、  方等、 般若、 法華涅槃の五時教判の順序によれば、 大乗より始まりて小乗に移りしがごときも、  全体の上よりこれを見れば、  小乗より大乗に及ぼせし順序なり。 もし滅後の発達を見るに、 最初四百年問は小乗ひとり盛んにして、 六百年以後大乗ようやく興りしは、  小乗より大乗に及ぼせる順序なること明らかなり。 しかして、 小乗は万有諸法の体をもって実有となす説なれば、  これを有門となす。 大乗には権大乗、 実大乗の別ありて、 権大乗は心外の諸象一切空にして有にあらずとなすをもって空門なり。 これに対して実大乗は、 物心と真如と不一不二の関係あることを開示せるをもって、 これを中道の妙理となす。 この三つを合して有、 空、中の三門とす。 その有は正断、 その空は反断、その中は合断なり。 ゆえに、仏教全体の組織すでに三断論形をなすこと明らかなり。

 もし、 その各部分をさらに分解して考うるときは、有中にも有、 空二門あり、空中にも有、 空二門ありて、 三断論法の錯式をなすを見る。  すなわち、 小乗中、 倶舎は有門、 成実は空門にして、 大乗中、 法相は有門、 三論は空門なり。  その表、 左のごとし。

 

       有門(倶舎)

有宗(小 乗) 

       空門(成実)

               中道

       有門(法相)

空宗(権大乗)

       空門(三論)

 これ、 仏教を西洋のいわゆる三断論法と比較して述べたるのみ。  これより、 仏教中にかくのごとき形式を開示せるものありやいなやを弁明せざるべからず。

 仏教中には三断論法の名目なしといえども、 まさしくこれに対合すべき方則あり、 これを四句分別という。 すなわち四句論法なり。 余はこれを四断論法と名づけんとす。 その法たるや、 三断論法とその名称を異にするも、その義趣にいたりては一つなり。  ゆえに、 三断論法をもって仏教の形式を論ずることを得るがごとく、  四句論法をもって西洋の哲学を論ずることを得べし。 けだし、 仏教の四句論法は、 西洋の三断論法より一段その歩を進めたるものというも、 あえて過言にあらざるべし。 余はこれより、 もっぱら四句論法によりて仏教理想上の発達を述明し、 もって四句論法は哲学史の原形原則なることを開陳せんとす。 まず、  四句の名称および解釈を挙示すべし。

 四句とは有、 無、 亦有亦無、 非有非空の四断のごとき四句に分別せるものにして、すなわち正断、 反断、 合正断、 合反断なり。『大蔵法数』にこれを称して曰く(巻六十八の八右)、「四句者何答但挙一対或挙一字便成四句且如有無一対作四句者有無亦有亦無非有非無便是四句也」(四句とはなんぞや、 答う、 ただ一対をあげ、 あるいは一字をあげてすなわち四句と成る。しばらく有無一対のごとし。  四句を作るとは、  有と無と亦有亦無と非有非無とすなわちこれ四句なり) と。 これを有、空の二字に配すれば、  有、空、  亦有亦空、 非有非空となり、一、異の二字に配すれば、一、異、 亦一亦異、 非一非異となる。『教乗法数』の諸法四句の下 (巻四の三十一右) に出だせる例を、 正断、反断、 合正断、合反断に配合して示すこと、  左のごとし。

  正断・・・・・一・・・・・唯染・・・・・常・・・・・通・・・・・有・・・・・唯依

  反断・・・・・異・・・・・唯浄     無常・・・・局・・・・・無・・・・・唯正

  合正断・・亦一亦異・・・・或倶     双亦・・・・倶     双亦・・・・・倶

  合反断・・非一非異・・・・或泯     双非・・・・泯     双非・・・・・泯

 これ四句論法の単式にして、もしその複式を挙げば四句ごとに四句ありて、合わせて十六句あり。これに過去、現世、  未来の三世を乗ずれば四十八句となり、この四十八句に已起と未起とを分かてば九十六句となり、これに根本の四句を加えて百句となす。  左に『大蔵法教』(巻六十八の九左)に示せる説明を挙示すべし。

 復此四句毎句有四且有中四句者有有有無有亦有亦無有非有非無無中四句者無無有無無亦有亦無無非有非無亦有亦無中四句者亦有亦無有亦有亦無無亦有亦無亦有亦無亦有亦無非有非無非有非無中四句者非有非無有非有非無亦有亦無非有非無非有非無已上四句毎一句成四句成則成四四十六句也三世皆有此十六句成四十八此四十八句皆有已起未起成九十六句搭上本四句此則成百句也余法四句皆倣此。

(またこの四句に句ごとに四あり、  しばらく有中の四句とは有に有無あり、  亦有亦無あり、  非有非無あり。無中の四句とは無に有無なし、 亦有亦無なし、 非有非無なし。 亦有亦無中の四句とは亦有亦無に亦有亦無あり、また有亦亦無なし、 有亦無の亦有亦無。 非有非無なり。非有非無中の四句とは非有と非無とに非有と非無とあり、 亦有亦無の非有と非無非有の非無なり。 以上の四句に一句ごとに四句と成る、  すなわち四四十六句と成るなり。 三世みなこの十六句ありて四十八と成る。 この四十八句にみな已起と未起とありて九十六句と成る。  上の本四句にのせて、 すなわち百句と成すなり。 余法の四句みなこれに倣う。)

 かくのごとく、  四句に四句を分かちて十六句ないし百句に至るも、 いまだ真理の全分を表詮すべからず。 ゆえに、 真理は四句百非を離れたるものとなす。 すなわち『大蔵法教』(巻六十八の八右)に、百非の問答を掲げて曰く、『問如何是百非、 答凡作四句有本末三世已起未起積成百句皆非得真故云百非也」(問う、いかなるをかこれ百非ぞや、 答う、 およそ四句と作るに本末三世已起未起あり、 積みて百句と成る、  みな真を得るにあらざるなり。  ゆえに百非というなり)とあり。 ゆえに、『起信論』に真如の自性の不可説、 不可思議なることを示して曰く(『義記』巻中本八右 )、「当知真如自性非有相非無相非非有相非無相有無倶相非一相非異相非非一相非非異相非一異倶相」(まさに知るべし、 真如の自性は有相にもあらず、 無相にもあらず、 非有相にもあらず、 非無相にもあらず、 有無倶相にもあらず。一相にもあらず、 異相にもあらず、 非一相にもあらず、 非異相にもあらず、一異倶相にもあらず)と。 これすなわち、 四句百非を超絶したるをいうなり。 また、『楞伽経』 に百八句を設けて離言の真相を説示せり。すなわち曰く(『参訂疏』巻一の上二十右)、 不生句、 生句、 常句、 無常句、  相句、 無相句、 住異句、 非住異句、 刹那句、 非刹那句、 ないし字句、 非字句これなり。

 前に述べきたりしがごとく、 真理の実相は四句百非を超絶したるところにありというも、  またあえて四句によりてその一斑を表詮し得ざるにあらず。 ゆえに、 仏教は四句を用いて、 あるいは正定的、 あるいは否定的に論明をなす。 もし、 仏教全体につきてその論定するところを示さば、 有、 空、 中の三門にして、  さきのいわゆる正、反、 合の三断なれども、 そのいわゆる中を解するに、 正定的には亦有亦空とし、 否定的には非有非空とし、 もって四断論法の組織をなす。 もし、 天台の化法四教の上に四句を配すれば、 蔵教は有門、  通教は空門、 別教は亦有亦空門、 円教は非有非空門となるべし。 その各教に四門を分かちて、 蔵教にも有、 空、 亦有亦空、 非有非空の四種ありとし、 通教にも別円二教にも、 みなこの四種ありとす。  今、『八宗綱要』(巻下の十七右)によりてその例を示すに、『初三蔵教者、 小乗教中諸部分流然取要唯四、一有門小乗、 即毘曇是、  二空門小乗、 是成実論、 三亦有亦空門謂毘勒論、 四非有非空是迦旃経」(はじめに三蔵教とは、小乗教のうち、 諸部流れを分かつ、しかるに要を取らばただ四なり。一に有門小乗はすなわち毘曇これなり。  二に空門小乗はこれ『成実論』なり。  三に亦有亦空門、いわく『昆勒論』なり。四に非有非空、これ『迦旃経』なり)と。 他の三教にもおのおのこの四門あり。 よろしく『止観』(巻六の一)を見るべし。 また三論宗にては、 この四門を真俗二諦に配合して曰く、『一有為俗諦、空為真諦、二有空為俗、 非空非有為有、三空有、 非空非有為俗、 非非有非非空為真諦、四以前為俗、 非非不有非非不空為真」(『八宗綱要』巻下十三右)(一に有を俗諦とし、 空を真諦とす。  二に有と空を俗とし、 非空非有を真とす。三に空と有と非空非有を俗とし、 非々有非々空を真諦とす。  四に前をもって俗とし、 非々不有非々不空を真とす)。  これを四重二諦という。 よろしく『大乗玄論』(巻一の四左)につきて見るべし。  これによりてこれをみるに、一大仏教の全系は、 四句論法によりて組織したるものなりというべし。

 以上は仏教全体における理想の発達なり。 もし各宗各派の発達を見るに、  みな四句論法の規則によらざるはなし。一宗の骨目たる教理のみしかるにあらず、毛髪瑣末の点にいたるまで、 みなこの論式を用いざるはなし。 今ここに、 諸経諸論の中に見るところの四句論法を摘載するに、 まず『倶舎論界品』(巻二の二右)に、『若法境界有対、亦障礙有対耶、 応作四句」(もし法の境界有対なるは、 また障礙有対なりや。 まさに四句を作るべし)とありて、その四句とは、 第一句境対非礙、 第二句障礙非境界、 第三句亦境界亦即礙、 第四句非境界非障礙をいう。 また『同品』(巻二の十左)に、「若有成〔就〕眼界亦眼識耶応作四句」(もし眼界を成就するあらば、 また眼識をもせんや。 まさに四句を作るべし)とありて、 その四句とは、 第一句成眼不成識、 第二旬成識不成眼、 第三句亦成識亦成眼、第四句不成識不成眼をいう。この四句を単々倶是倶非と名づく。 すなわち、 前二句は単句にして、 後の二句は倶是倶非なり。 そのほか、 かくのごときの類にして『倶舎論』中に見るもの、 いちいち挙示するにいとまあらず。つぎに『成実論』を考うるに、「法漿品」(巻二の十七左)に法緊を掲げて曰く、「色法無色法、 可見法不可見法、 有対法無対法、 有漏法無漏法、 有為法無為法、 心法非心法」(色法と無色法、 可見法と不可見法、 有対法と無対法、 有漏法と無漏法、 有為法と無為法、 心法と非心法)とあるは、  四句中の前二句によりて類別したるは明らかなり。また「有我無我品」(巻三の十五左)に、『人死後若有、 若無、 亦有亦無、 非有非無云云」(人は死後に、 もしくは有、 もしくは無、 亦有亦無、 非有非無なり、 云々)とあり。 また「三業品」(巻八の十左)に、『経中説仏非有非無亦非有無、亦非非有、非非無云去」(経の中にては、 仏は有にもあらず、無にもあらず、 また有無にもあらず、 また非有にもあらず、 非無にもあらずと説く、 云々)とあり。かくのごときの類、往々散見するところなり。 つぎに『唯識論』につきてこれを考うるに、 また四句論法によりて解説するを見る。『唯識論本末図解』に、 本論および疏に出ずる四句分別を表示するものあれば、 今その二、三を転載するに、

 

                 一 有境無心(清弁順世)

心境四句分別(巻二の十右)    二 有心無境(中道大乗)

                 三 有境有心(小乗多部)

                 四 都無心境(邪見一説)

                 

                 一 有見有相(正量部師)

相見二分四句分別(巻二の十右)  二 有相無見(清弁師)

                     三 相見具有(余部および大乗等)

                                              四 相見具無(安恵等)


                  一 有成就転識非阿頼耶識(あるは転識を成就し、阿頼耶識にあらず)

瑜伽決択四句分別(巻四の八左)   二 有成就阿頼耶非転識

                      三 有倶成就

                      四  有倶不成


                 一 唯智非福

智禍四句分別(巻八の十二左)   二 唯福非智

                 三 亦福亦智

                 四 非福非智

 

 

                 一 或唯自利

自利利他四句分別(巻八の十三右) 二 或唯利他

                     三 或自他利

                                                  四 或倶非利

 その他はこれを略す。 また『唯識論』(巻三の五右)に、『法有四種、謂善、 不善、 有覆無記、 無覆無記」(法に四種あり、 いわく、 善と不善と有覆無記と無覆無記となり)とあるも一種の四句論法なり。 また『唯識述記』(巻三本三右)に、 極微の仮実につきて、 麤仮細実(経部十種)、 麤実細仮(大乗世俗)、麤細倶実(薩婆多等)、 麤細倶仮(一説部等)を分かちたるは、 またもとより四句論法なり。

 つぎに『三論玄義』に考うるに、  四句をもって分別するところ、 すこぶる多し。 その一例に(首書、三十三右)、「一但教菩薩不化声聞謂華厳経也、二但化声聞不教菩薩謂三蔵教也、三顕教菩薩密化二乗大品以上法華之前諸大乗教也。」(一にはただ菩薩を教え声聞を化せず、 いわく『華厳経』なり。  二にはただ声聞を化して菩薩を教えず、  いわく三蔵教なり。三には顕には菩薩を教え密に二乗を化す、 大品以上法華の前の諸大乗教なり。)また一例に(六十一右)、「一破而不取(下略)二取而不破(下略)三亦破亦取(下略)、 四不破不品取(下略)」(一には破して取らず(下略)、  二には取りて破せず(下略)、三にはまたは破しまたは取る(下略)、  四には破せず取らず(下略))というがごとき、みな四句論法なり。 また『三論玄義』(首書五右)に、 外道の種類を分かちて、邪因邪果、無因有果、 有因無果、 無因無果の四種となせしも、  一種変式の四句論法なり。 もし変式の諸例を挙ぐれば、『法華玄讃』(巻一の二十右)『五教章』(「冠註」巻上の三の十五以下)等に出だせる、 小乗六宗すなわち我法倶有宗、 有法無我宗、 法無去来宗、 現通仮実宗、 俗妄真実宗、 諸法但名宗の類別のごときも、 一種錯式の四句論法というべし。 また『華厳孔目章』に表示せる六十二見の名称は、 常、 無常、 亦常亦無常、 非常非無常、 有辺無辺、 亦有亦無辺、 非有辺非無辺等にして、  みな四句の重複せるものなれば、 これを重式というべし。 そのほか諸経諸論中に散見せるもの、 到底いちいち挙示するにいとまあらず。

 これを要するに、 仏教理想上の発達は、 あるいは三断論法、 あるいは四断論法、 なかんずく四断すなわち四句論法にあるものなり。 しかして、 その論式の正式あり、変式あり、単式あり、 複式あり、 重式あり、 錯式あるも、みな四断形式の変態に過ぎず。その形式たるや、ひとり思想の分化を規制するのみならず、 物質動植の分類にいたるまで、この式を用う。例えば、葷辛を分かちて四種となす。 日く、「葷而非辛阿魏是也、 辛而非葷薑芥是也、 是葷復足辛五辛是也、 非葷非辛自可知矣」(葷にして辛にあらざるは阿魏これなり、 辛にして葷にあらざるは薑芥これなり。これ葷にしてまたこれ辛たるは五辛これなり。葷にあらず辛にあらざるは自ら知るべし(『谷響〔続〕集巻六の三十五左)とあるがごとき、あるいは庵羅果の生熟を四句によりて分別して曰く、『内外倶生、外熟内生、外生内熟、内外倶熟」(『翻訳名義集』巻三の二十九)とあるがごとき、みな四句論法なり。これによりてこれをみるに、四句論法はインド人の一般に用いし思想の方規にして、 シナ、 日本の仏教家は、 この規則にもとづきて仏教を解説したるや疑いなし。 けだし、 一大仏教が幹より枝を生じ、 枝より葉を生じ、 ついに鬱然たる茂林をなすに至りしは、この論法によれりとなすも、 あえて不当の論断というべからず。  果たしてしからば、  この論法はいかなる原理にもとづくかを、  さらに探究するを要するなり。

 そもそも三断論法も四句論法も、 形式上詳略の別あるのみにて、 その本意にいたりては一つなれば、 この二者ともに思想自然の本性特質なること明らかなり。 例えば正断と反断とは、 我人の思想は相対性なる以上は必ず倶存するものにして、 思想動かずんばすなわちやまん。 いやしくも動かば、 必ずこの相反の思想を生ずべし。 しかしてその相反の二種たるや、一切の思想を概括網羅し、  そのほかに選ぶべき余地あるべからず。  ゆえに、 論理学にては不容間位と名づくる原則ありて、 甲と非甲との間に、 別に立つべき余地あるを許さず。  例えば昼と夜との二者は、 その中間に非昼非夜の一位あることを許すも、  昼と非昼との間には、 第三の乙をいるるべき余地なし。いわゆる不容間位なり。 しかれども、 もしこれを合断しきたるときは、 また第三断ありて生ぜざるを得ざるは、論理自然の理なり。 もし、  その三断をわが思想自然の本性たる相反性によりて、 積極および消極の両面より解釈するときは四句を生ずべし。 もし、 さらにその起こるゆえんをたずぬるに、  これ数学のいわゆる順列錯列(Per-mutation and Combination)と同一の規則によるものなり。

 例えばここに甲乙二者あれば、これに符号を添えて+a -a +b -bの四者ありと仮定し、これを順列によりて二字ずつに配列すれば、

   +a-b  +a+b

       -a+b  -a-b

となるべし。  このほかに、 別に一列を選ぶべき余地なし。  これを因果の二者に配合すれば、

  有因無果 有因有果

  無因有果 無因無果

 もし、  これを我法二空に配合すれば、 

  有我無法 有我有法

  無我有法 無我無法

 もしこの四句を、  上二句は単位をもってあらわし、 下二句は複位をもってあらわすときは、 左のごとし。

  有因(単)有因有果(複)      有我(単) 有我有法(複)

               また

  無因(単)無因無果(複)      無我(単) 無我無法(複)

 かくのごとく変形すれば、 たちまち正式とその形を同じくするに至るべし。

 もしそれ、+a -a +b -b +c -cの六者ありと仮定して、  これを二字ずつに順列すれば、

   +a+b  +a+c  +a-b  +a-c

   -a+b  -a+c  -a-b  -a-c

   +b+c  +b-c  -b+c  -b-c

 その他これに準じて知るべし。  これ数学の思想にして、 実に思想固有の形式なり。  ゆえに仏教の四句論法は、ひとり仏教固有の形式なるのみならず、 我人の思想固有の形式なりと知るべし。  この形式の諸経諸論中に散見するものは、  ことごとくこれを類集し、 その異同を比較的に研究するときは、 また一種の論理法を構成することを得るや必然なり。 余はわずかにその一端を論じて、 仏教哲学史の形式を示せるのみ。 しかしてその論法を大成するがごときは、 他日を期せざるべからず。 

 

   四 仏教史研究を聞きて


 従来、 仏教に対する世間の論難を見るに、 すこぶる多種あり。 あるいは仏教は外国に生出して日本に発生したるものにあらざれば、 よろしく廃すべしと論じ、 あるいは仏教は未来の禍福を厚く信じて現在世を軽んずるものなり、  ゆえに富国強兵を講ずるに妨げとなれりと論じ、 あるいは仏教は倫常にもとり忠孝に疎し、 ゆえに世道人心に害ありて益なきものなりと論ずるがごとき、種々雑多の論難蜂起せし時代あり。しかれども、それは万国交通に際会し、一朝文物の進歩するとともに消滅したり。 しかして、 その論の消滅するとともに新たに起こりきたる論難あり。 それは、 ヤソ教よりきたる論難これなり。 ヤソ教が仏教を攻撃する論難また多種ありといえども、要するに仏教は遁世離俗の法なり、厭世教の一種なり、仏教の性質はすでに厭世教の一種なれば、 今日文明の競争世界に活動すべきものにあらず、  国家の適用すべきものにあらずというにあり。  この論難は、 ヤソ教者が仏教を攻撃するにつきて、  唯一の兵器となせるものなり。  彼らは近来に至るまで、 仏教は厭世教なりというをもって、 仏教を駁する唯一の兵器として用いきたりしことなれども、 今やその時代まさに過ぎ去らんとす。 今やその時代の去らんとするにつき、 さらに新問題をまさに喚起せんとする時来たらんとす。 いな、 新問題の時はまさに来たれりというべし。 

 それ、 仏教は理論すこぶる高妙にして、 最も幽玄を極むといえども、 事実に照らしてその理を証明するにいたりては、 実に疎きものなり。 ことに歴史上の考索にいたりては、 全くこれを度外に付して、一向顧みざるもののごとし。ゆえに今日の勢いは、一大戦場を仏教と学術の間に開くに至るべし。果たして仏教と学術の間に一戦争を開くに至らば、いかなる結果を見るに至るべきか。 余ひそかに恐る、 仏教は理論に勝を取りて事実には敗を取るの不幸を招くことはこれなきかと。 実に事実に疎く歴史に暗きは、 仏教の大弱点なりといわざるべからず。 しかるに仏教者中、いまだここに注目する人を見ざるは、 実に仏教家の大欠点なりといわざるべからず。 世間いやしくも多少の識見を有する者は、 今後の仏教攻撃は理論にあらずして事実なり、  理想的にあらずして実在的なり、 主観的にあらずして客観的なり、  独断的にあらずして経験的なり、 演繹的にあらずして帰納的なり、 空間的にあらずして歴史的なりということの先見は、 必ずあるべきことと信ず。 しかれども、 仏教はこれに対する兵備を有するか。 余は、いまだその兵備を有せざるをうらむ。  これ、 仏教が今後に起こるべき新問題の論場に出でて、一敗を取るの不幸を招くことはこれなきかと、 余のひそかに憂慮するところなり。

 しかるに、余の友人村上専精師はつとにこの点に着眼ありて、早く歴史の攷究に従事しつつありと、余これを聴きて、あに賛助せざるべけんや。しかしてその歴史研究の結果として、 近ごろ『仏教史林』の発刊を見るに至る。これをひらくに、 編々句々すべて厳護法城の砲台ならざるはなく、開闡法門の旗艦ならざるはなし。 余は微力といえども、ここに一臂の応援をなさんと欲するものなり。 ほかの仏教家も、 奮進してこの挙を笠成あらんことを望む。

 


   五 吉凶禍福予知法について一言す


 世人の最も多く迷うものは吉凶禍福の門にして、 なにびとといえども、  一生の間必ずその門を通過せざるべからざるものなれば、 だれにても、 禍を免れ死を避けんと欲して、 汲々苦心するものなり。 在昔、  シナ、 日本にて、 仙人の法を修め不死の薬を求めたるがごときは、 その例の最もはなはだしきものなり。 しかれども、  人知ようやく進むに従い、 かくのごとき仙術のその功なきを知るに至りては、 また不死を求むるものなきに至れり。 さりながら、 死は元来一定せざるものなれば、一日も長くこの世に生存せんと欲するは人情の常とて、 無病長寿にして不幸を免れんことを求めて、 古来種々の方法を探求したり。 しかれども、 いまだその良法を発見せざるなり。

 およそ人の不幸は種々異なれるものにして、 生まれながら不幸なるあり、 老いて不幸なるあり、一時のものあり、 永久のものあり。  かくのごとき種々の不幸は、 なんのために来たり、 なんのときに起こるや、 世にこれを知るの道なし。 もし、これを前知することを得ば、これが予防をなすことを得べし。 ここにおいて、 世人はその前知の方法を考究するなり。 余が今述べんとすることも、  この方法に関することなりとす。 

 古来、  吉凶禍福を予知するの法として、 世に行わるるものその種類多く、 卜筮、 五行、 干支、  九星、 人相、 家相、 方位、  手相、 骨相、  墨色等にして、 その方法は、 近時さらにわが民間に流行するに至れり。  ここにおいて、吾人の研究すべき問題は、  これらの法は果たしてよくその実効あるものなるやいなやにあり。  つらつら日本社会の状況を案ずるに、これらの方法たる、維新前には大いに世間に行われ、 上下一般にこれを信用したりしも、 維新の革命に際し、 文物、 制度、  教育、 学術の変遷とともに、 これらの法は一時に衰え、 従来これによりて糊口せしもの、 多くはその業を廃せざるを得ざるに至り、  これを信ずるものは極めて下等の小民にすぎざるありさまに至りき。 しかるになんぞ計らん、 その法、 近ごろ再び勢方を得て民間に行われ、 特に都会の地に盛んなりとす。試みに東京市街を巡行し見よ。 周易に、 九星に、 人相、 家相等を営むものの多き、 実に驚くべきなり。 あるいは広大なる看板を掲げ、 あるいは人の目を引くべき門戸を張り、 あるいは新聞雑誌の広告、 あるいは辻々の掲示に、 あるいは会員を募集し、 あるいは柑籍雑誌を発行し、 その勢い昔日より一層盛んなるもののごとし。 地方より東京に来たるもの、  このありさまを見て一驚せざるはなし。  試みに書店に行きて見よ。 店頭第一に吾人の眼球に映じきたるものは、 右らの書なるべし。 その価を問えば、 決して廉価ならず。 その杏たる、  ただに古本のみならず、 近時の再版新刻にかかるもの、 またはなはだ多し。  ここにおいて、 一疑団のたちまち吾人の脳裏に浮かびきたるあるなり。

 そもそもわが国は、維新以来西洋の文物学芸を輸入し、 非常の速力をもって開明の域に進み、二十年前とは全く別乾坤をなせる今日において、二十余年前の遺法再び振興したるは、 実になんたる奇怪の現象ぞや。 もし、 現今の日本は旧日本に比して、 真に学術進歩せりとすれば、 この法も学術に伴いて並進すべきものと認定せざるべからず。 もし、 二者並進することあたわずとせば、 今日は学術退歩せりといわざるべからず。 しからざれば、 ト筮そのものの表面上隆盛なるごときも、 その実隆盛なるにあらざるか、いずれかその一におらざるべからず。 これ、 実に学者の攻究すべき問題なり。

 そもそも今日の学術と卜筮、 人相等とは、 他日はとにかく今日にありては、 同一の道理に基づけるものにあらざること言をまたず。 なんとなれば、  学術は万有普通の天則に基づき、 事実ならびに道理に照らして組織せるものにして、  これらの法はむしろ理外の理に基づくも、 決して普通の天則によるものあらざればなり。 かくのごとく二者全く相反対せるものなれば、 必ずや両立すべき道理あるなし。  しかるに実際、  この二者の両立並行してともに隆盛なるを見るは、 あに奇怪といわざるべけんや。  余は元来、 卜筮、 人相を専門とするものにあらざれば、深くその理を知らざるも、  この法の今日の学理と背反せるものなることは、 自ら信じて疑わざるところなり。  しかるに、この二者の同時に隆盛なるは、 余その理を解するに苦しむ。 わが国中、  文化の中心に当たり、 学術思想の最も進歩せるは、 東京の地なり。  しかして卜筮等の行わるるは、  国中、 東京をもって第一なりとす。  ここに至りて一層の疑団を重ぬるなり。 余はこれら卜筮等の法の、  果たして真理なるやいなやはしばらくこれをとどめ、ただここに一言せざるべからざることあり。 現今刊行せらるる右らに関する雑誌、  書籍、 そのほか広告、 掲示等をみるに、 その法は東洋の哲学なり、 真理なり、  哲理なりと断言せり。 もし、  これらのもの果たして哲理なり真理なりとすれば、 いやしくも哲学を専攻し、 真理を探求するをもって任とする吾人のごときは、 あに、いかで黙々に付し去ることを得んや。 今そのことを論弁するにさきだち、 さらにこれらの法の世に現れたることにつきて 一言せんとす。

 けだし、 卜筮、 五行、 干支、  九星、 方位、 人相の諸法の再び現時の社会に隆盛となりしは、  これ日本の文明が古代に復帰せしによる。 今その理由を述ぶるに、 維新の際は西洋主義わが国内を支配し、一にも西洋、 二にも泰西と、 東洋固有の百般の事物は、 ことごとくこれを捨てて顧みざるのありさまなりしが故に、 以上の諸法も世にすてらるるに至れり。 しかるに近年、 西洋主義一変して日本主義となり、 かの長を取りてわが短を補うこそ国是なれとて、 いわゆる国粋主義、 国家主義の発揮するに及び、 したがって東洋同有の事物ようやく再興するに至れり。  すなわち国学、 漢学をはじめとし、 インドの哲学、 日本の美術、 前後相続きて復興することとなれり。 この復興の勢い、 卜筮、 五行、 九星等の諸法のごときも、 東洋固有の一元素なりしをもって、 同時に世間に再興するに至りしならん。 なかんずくシナ学の流行によりて、 陰陽、 五行等の法の再興をきたせるなり。 かの易に説くところの太極、 陰陽の理のごときは、いたって高尚なるものにして、 今日これをシナ哲学と称するほどなれば、 決してこれを妄誕不稽というべからず。 しかれども、 その理をもってただちに人事に応用し、 吉凶禍福を予定するがごときは、 また決して真理に合せりというべからず。  かつ、 吉凶を予定するがごときは術なり。 術と学とはその類を異にせるものなれば、 その学は真理の一部分を含むとするも、 その術また真理に合すというべからず。 たといまた易は哲理を含有すというも、 いまだこれを一科の哲学と称すべからず。  いやしくも一科の学たる以上は、一個の系統組織なかるべからず。 易はいまだその系統組織を有せざるものなれば、 哲学を組織すべき材料を含有するに過ぎざるなり。  ゆえに、 易学いまだ一科の哲学と称すべからず。 易学すでにしかり、 いわんや卜筮等の法においてをや。

 かの五行、 干支、九星、 方位のごとき、たとい実際上見るべき成績あるにもせよ、 なにによりてその成績あるやの道理いまだ明らかならざれば、 決してこれを学理に合せり、 真理にもとづけり等と公言するを得ず。 ゆえにこれらはただ一種の術と称するをもって足れりとす。  もし、 すでにその術あれば、 ただちにこれを学と称すべしといわんか。 しかるときは社会の事々物々、  みなこれを哲学と称せざるを得ざるに至るべし。  かの農夫の田圃を耕し、 商人の商業を営むにも、 あらかじめその結果を計り、 これに合する事実を見るときは、 これまた哲学というべきか。 なんぞかくのごとき道理あらんや。 しかれども、 もし、 これらの術に従事する人にして、 この術を真に哲学の応用となさんと欲せば、 よろしくこれより、 その道理を宇宙万有の原理原則の上に考えて、 学術上の証明を施すべし。  しかして後これに哲学の名称を加え、 あるいは東洋哲学とか、 あるいは哲理応用とかいえる語を用うべし。 余いまだその術を知らざれば、  その中に真理の元素を含有するやいなやは、 もとより断言すべからずといえども、  今日学術社会において真理と許さざるのみならず、 いまだ万有の原則に照らして証明せざるものを、  ただちに真理なり、  哲理なりと報道するは、 過言もまたはなはだしといわざるべからず。  ここに至りて、 余輩あにその妄をゆるすべけんや。

 以上陳述せるごとく、卜筮、 五行、方位等の術は、たとい実際上その結果ありとするも、 今日にありては、 いまだ全く学術と関係なきものなれば、  ここに一言して、 世のあやまりてかくのごときものを東洋哲学なり、 真理なりと信ずる人に、 注意を請わんと欲するなり。



   六 極楽論


 編者曰く、 ある人の本誌に寄せたる質問中、 地獄極楽等の説は、 釈迦の真意に出でたるものなるか、 あるいは方便説なるかとの一疑難あり。 すなわち、 これ井上博士にただし左のごとき説明を得たれば、 ここにその大要を掲げ、

 

 「極楽論」と題して博士の尊名をおかせり。しかれども、 これただ博士が忽卒の際、 語るところわずかに二十四、 五分間、 誠に一場の談話たるに過ぎざるのみならず、 迂愚なる編者の記取するところなるが故に、 いまだもって博士が極楽論の一端をだにも、 紹介するに足らざるべし。責編者にあり、 読者請う、 これを了せよ。

 そもそも仏教のいわゆる極楽を論ずるには、 極楽の原理と、  極楽状態との二段に分かたざるべからず。 もしその原理においては、 決して方便というを得ざるも、 状態にいたりては、 あるいはこれを方便とし、 あるいはこれを方便にあらずとするの二説ありて分かるるべし。 今、まずその原理を考うるに、 仏教は因果説を本とし、  これに善悪を加えて善因善果悪因悪果を唱うるものなり。  かつ仏教は、 外界の境遇はみなわが惑業の所感、 あるいは唯心の所現と立つるものなり。 学術上この両説の真否は別問題にして、 今論ずるを要せざれども、 仏教上より見るときは、 いずれも釈迦の真説なりといわざるを得ざるはもちろんなり。 しかるに地獄極楽の説は、 この真説に基づきて起こりしものなれば、  これまた釈迦の真説にして偽説にあらず、 真実にして方便にあらずといわざるべからず。 なんとなれば、 善因善果悪因悪果の理、 三世六道を貫きて存する以上は、 今日現在においてなせる善悪の業因は、 必ずその果を未来他生において結ばざるべからず。 もし未来において善悪その果を異にするときは、必ず楽界と苦界との別ありて存せざるべからず。  その楽界はこれを極楽といい、 その苦界はこれを地獄という。これ、 善悪因果説に連結して地獄極楽説の起こるゆえんなり。 いわんや仏教は、 楽界も苦界もみなわが業感により現ずるところとなすをや。 善悪因果説は仏教の第一原理なるべく、 地獄極楽説は第二原理なるべく、 あるいは前者は原理にして後者は応用なるの別ありといえども、 両説ともに同一の道理にもとづきて起こりしは、 決して疑うべからず。  ゆえに、 余は因果説も極楽説も、 ともに釈迦の真意に出ずるものにして、 方便説にあらずと断言するなり。 もし善悪因果惑業所感の証明いかんにいたりては、 論題外にわたるをもってここに述べざるのみ。

 つぎに極楽の状態を考うるに、 同じく仏教中にありても甲乙その見るところを異にし、 あるいはこれを真実とするものあり、 あるいはこれを方便とするものあり。 今、 余がいわゆる極楽の状態とは、 極楽の地位、  形状等の特殊の事情をいう。 まずその位置に関しては、 此土すなわち極楽なりと唱うるものと、  十方に極楽ありと唱うるものと、 西方に極楽ありと立つるものと、 わが心中にありと立つるものとの別ありて、 異説多岐に分かれ、  いずれが釈迦の真意なるやを判ずるに苦しむ。  これをもって、 同一仏教中にありて、 甲は乙を排し乙は丙を駁し、 自宗所立を真実とし、 他宗所立を方便とすることあり。 しかるに余をもってこれをみるに、  いずれの説も釈迦の真意より出でたる真実説と称して不可なることなしと考うるなり。  まず極楽をもって此土にありと唱うる説と、 此土を離れてありと唱うる説と、 氷炭相いれざる不同あるも、  これ、 甲州人は富士山をもって南にありとし、  駿州人は北にありとするがごとく、 その見るところの地位異なるをもって、 極楽そのものの位置も異なるのみ。

 仏教中、 一乗家と名づくる宗旨にありては、 此土寂光と称して、 我人の居住する世界を指してただちに極楽なりという。これに反して浄土門にありては、 此土を離れて極楽ありという。一乗家は凡聖不二、 平等絶対の道理にもとづきて観察しきたるをもって、 此士と極楽とは一にして差別なしとなす。  これ、 もとより仏教の根本的道理にもとづけるものなれば、 真実の説に相違なきも、 そのいわゆる極楽は、 我人の凡眼をもって見るところの世界をいうにあらず、  ひとたび煩悩の妄縁を断尽せる、 仏果の地位にありていうところならざるべからず。  およそ土に浄穢の二種あり、 我人のごとき凡夫の現ずるところの世界は穢土にして、 仏のごとき聖者の現ずるところの世界は浄土なり。 浄土はすなわち極楽なり。  ゆえに、 仏の方よりみるときは、 此土すなわち極楽なりというを得べく、 凡夫の方よりみるときは、 此土を離れて別に極楽ありといわざるべからず。

 この両説は天壌の差あるにもかかわらず、 同一の原理にもとづきしは明らかにして、 絶対上の所見と相対上の所見との別あるのみ。 また、 極楽は心内にありと論ずるものと、 心外にありと論ずるものとの両様あれども、 唯心上の所見をもって論ずるときは、心内にありといわざるべからず、 もし客観上の所見をもって論ずるときは、心外にありといわざるべからず。  仏教中禅宗のごときは、 唯心の理にもとづきて極楽の所在を論じ、 浄土門のごときは、 客観の見によりて極楽の所在を論ずるをもって、 心内心外の別を生ずるも、 その原理にいたりてはまた同一なり。

 そのほか、十方に極楽ありという説と、 西方に極楽ありという説と両様あれども、 両説ともに一理ある論なり。 例えば、 東西南北の方位は仮設のものにして、 真如絶対の道理の上にはもとよりその別なし。 しかれども、我人相対の見解の上にはその別あり。 ゆえに、 東西ありというも東西なしというも、ともに真実の論なりというべし。  すでにそのしかるゆえんを知るときは、 十方に極楽ありというも、 西方に極楽ありというも、ともに我人相対の見解にもとづけるものにして、 その見解の程度に応じて、 あるいは十方と説き、 あるいは西方と説くの不同を生ずるなり。 例えば日本の地は、 四方に海をめぐらせる一大島国なれば、 十方に海ありといって可なるも、東京にある人に対しては必ず一定の方位を示して、 東南に海ありと説くがごとし。 しかして、 十方に海ありという説も、 東南に海ありという説も、 ともにしかるべき道理あり。

 かくのごときは釈迦の方便に出でたるがごときも、 我人の見解いかんによりて、 自然にその別を生ずるものなれば、いまだ必ずしも方便というべからず。 例えば盲者が雷に触れて、 白色とは冷ややかなるものと自ら認むるがごときは、 盲者の見解より自然に生ずるものにして、 決して盲者の方便にあらざるなり。  ゆえに、  仏教極楽の地位に関して種々の異説あるも、これ必ずしも方便に出でたるにあらず。  よしこれを方便とするも、 真実を離れたる方便にあらずして、 方便すなわち真実の方便なることを知るべし。

 つぎに極楽の形状につきて考うるに、 浄土門において談ずるところは、『阿弥陀経』中に見るがごとく、 宝池、珠林等、 種々有形上の荘厳を説くがごときは識者の大いに怪しむところにして、 世人のもっぱら釈迦の方便に出ずるというところなり。 もし、これを宗教的秘密をもって解すれば、 釈迦が極楽の真相を実験して、 我人のごとき盲人に示せるものなれば、 決して疑うべからずと断定すといえども、 その言たるやもとより道理の沙汰にあらず。  ゆえに、 もしこれを道理上解説せんと欲せば、 従来仏教家の与えし説明を一変せざるべからず。  すなわち、極楽の形状に関して述ぶるところの有形上の荘厳は、  みな極楽世界の歓楽の一斑を形容せるものに過ぎず。 換言すれば、 極楽の極楽たるゆえんを示すの方便に過ぎず。

 すでにこれを方便とすれば、 釈迦の愚民を開導する無実方便、 あるいは虚構方便に出ずるかの問いありて起こるべきも、 世人の用うるところの方便の意に二様あり。 その一つは目的に対する方便にして、 その一つは虚構を意味する方便なり。 小児に薬を与うるに、 砂糖を与うるは方便たるに相違なきも、 目的を達するための方便なり。 換言すれば真実の方便なり。 盗賊がその罪をのがれんと欲して、 その姓名を偽るがごときは虚構の方便なり。  この二者を区別せんために、 仏教にて用うるところの方便は、  これを善巧方便という。  経中に極楽の荘厳を説くがごときも、 また善巧方便の一種なるべし。 今、 仏教の説に照らすに、 我人凡夫は盲人同様のものなれば、これに対して極楽の実相を示さんとするには、 五色七色の美をもってするも無効なり。  必ずやその盲人の見解に相応せる快楽の状態を説きて、 その一斑を示すよりほかなし。

 極楽は五感以上の世界なり、 絶対的快楽の世界なり。 しかして我人の境遇は、 五感以内、 相対差別の世界なり。  この五感以内の世界の人に、 五感以上の世界の実相を示すには、 五感以内の所感につきて、 その一斑を形容するよりほかなし。ゆえに極楽世界の形状は、 自然の勢いとして、 有形感覚上の形容をもって示すに至れり。 しかして、  かかる五感以上の世界の果たして存するやいなやは、これまた別問題にして今論ずるを要せず。

 以上述ぶるところこれを約言するに、仏教中の極楽説は釈迦の真意に出でたるものにして、 決して方便説にあらず。ただ極楽の荘厳を説く一段にいたりては、これを宗教的秘密の意をもって解すれば、真実の説なりといわざるべからざるも、これを道理上より解するときは、一種の方便説に帰するがごとし。  しかして、 その方便は虚構的方便にあらずして、 善巧的方便なりというにあり。 もし、 仏教外に立ちて懐疑的に批評するときは、 種々の破壊的議論も起こるべきも、 仏教自ら立つるところの原理にもとづきて観察しきたるときは、  かくのごとく論定せざるを得ずと考うるなり。



   七 青年教育の方針


 余は数年前より教育に従事し、今後といえども、なお奮ってこれに従事せんと欲するなり。ゆえに、 教育の普及およびその改進につきては、 及ばずながら鞠躬励精、 一意力をこれに尽くさんことを期するものなり。 しかしてまた固く自ら信ず、  一国の文明、 富強、 独立を図ることも、 またこれによりてもって望むべきことを。  今日の日本は、 決して今日の日本をもって満足すべきにあらず。 その文明の程度はいかん、  その富強の等差はいかん、 その独立の地位はいかん。 今よりのち百年、 二百年の間といえども、 この教育を改良進歩し、 その文明を進め、 その富強を増し、 その独立をかたくせざるべからず。 余が旦暮に教育の進歩改良を唱うるゆえんのものも、全くこの点にありて存するなり。 しかして今日の青年者は、  今後この社会国家を継承すべきものにして、  その運動は国家に社会に、 実に重大の関係あれば、 今日において教育の進捗を固り、その弊害を洗滌するの急務なることは、  これによりて考うるも明らかなることなりとす。

 余は数年前よりこの学校(哲学館を指す)を起こしたるも、 教育をもって目的とし、この学校より出でたる者も、 また大抵この種の事業に向かいて力を尽くすに至るべきは、 すでにすでに世間に対して、  その主旨を発表せしところにして、 余の国家に対する希望をみたさんとするも、このことにほかならず。 しかりしこうして、 余は今日までの教育の進歩をもって満足するものにあらず。いな、ただに満足せざるのみならず、 諸種の弊害蝟集して、かえって教育の発暢を妨害することあるを知れり。 ゆえに今日において、 教育をして真正の進歩をなさしめ、 教育をして真正の目的に到達せしめんには、 まずこの弊害を排除し、 その教育上における迷見を破らざるべからず。 今、 従来の教育上における迷謬の点を挙げきたらば、 実に夥多なるべしといえども、その大なるもの二つあるを知るなり。

第一は、維新以来わが国教育の方針は、ことごとく従来存立せし事物を打破して、みな法を西洋に取り、 その風を学ばんとせしことこれなり。  それ、 従来存在せしあまたなる事物の中には、 その文明進歩と相伴うことあたわざるもの、 あるいはまた改めざるべからざるものありしといえども、  これら旧来の事物を見て、 全然これをすつべきにあらざるなり。 およそ世に伝われること永きものは、 自然知らず識らずの間に改良淘汰せられたるもの多く、一朝にこれを改めんとするは、 大早計といわずしてなんぞや。 わが日本のごときも、 国のよりてきたること久しきとともに、人情、 風俗、 国体に適応して、 最も切実なるものの存せしは明らかなり。 しかるを維新以来、 その是と非とを問わず、 その善なると悪なるとを顧みず、  ことごとく旧来の事物を棄却することあたかも敝履のごとく、 学問といい、 教育といい、  みなそのありさまを変ずるに至り、 その道徳心はいかん、 その愛国心はいかん、 実に余が憂うるところのものあり。

 第二は、 学問の理論の一方に偏僻せることこれなり。 すなわち学問といえば、 知力の一方に偏して実行を顧みず、  その学術思想の、 日に月に進むにかかわらず、 事業をあぐることあたわざる者のみ出でて、 実に教育上いくたの不具者を見るに至れり。 かくのごときは、 教育の弊にあらずしてなんぞや。 しかしてこれらのことには、 その学生たりし者の父兄、 またあずかりて罪なしとせず。 なんとなれば、 なにがしのあまたの父兄たる者の中には、  その子弟を学ばしむれば、 たちまちにして家を興し資産を得、 はなはだしきは一攫千金をも得べしと信ぜし者なきにあらず。 その子弟の学生となれる者は言うをまたず、 二、 三年の時日を費やせば大学者となるを得るの考えにて、 飄然故郷を去りて都下に出でて、 世の風潮に誘われて、 政治学ばざるべからず、 法律講ぜざるべからずとなし、また一方にはその身実業家なれば、 あるいは商業に、 あるいは工業に、 おのおのその学校に入りて、卒業の上はただちにこれを、 その業務の上に応用せんとせり。 しかしてその目的を問えば、 二、三年にして政治学、  法律学、あるいは商業学、工業学等の一科をおえ、一躍ただちに政治上、 実業上に向かいて雄飛せんとするものにあらざるはなし。 ゆえに、その学問をなすにも普通学をも修めずして、 ただちに高等の学科を修めんとし、 普通学の知識は毫も有せざるの弊を生じたり。  これらのごとき、 実に教育上の謬見にして、  ついに弊害を起こしたる原因となせり。

 その弊はひとりこれにとどまらず、  かく数万の学生都下に集まり来たり、 その思想定まらざる身をもって、その経験なきの身をもって、 ただ一時の空想のためにその身を駆られ、 しかのみならず、 いつしか他の耳目の欲のために心を奪われ、 貴重なる時日も資金も、  みな酒食のために浪費するに至る。 また、 たとい二、 三年にして幸いにその業をおえたる者といえども、  いよいよこれを政治上あるいは実業上に応用せんとする日に至れば、 最初の目的とは全く牴牾し、 己の意のごとくなることあたわず、 地方に帰らんか。 また、 その資産を守ることあたわず、いわんやその資産を興すがごときは容易なる業にあらず。 その学びたる政治あるいは法律もしくは商業、工業等、 これを実地に応用せんとするもその所なく、  かつ商業、 工業のごときは、 西洋に行わるる規模の大なるものを移し学びたる故をもって、 決してこれを小なるものに応用すべくもあらず。 例えば、 商業家には数学必要なりとて、    いにしえより必ずまず算盤を授けたるものなるが、 その平素必要なる算術は、 わずかに加減乗除に過ぎざることは、  今日もなお一般なり。 しかるを代数、 幾何、 三角術、 微分、 積分、  いずれの所に応用すべきぞ。  これと同じくその学びたるところは、これを多年の経験に照らさずして、ただちにその業務に応用して、 好結果を見るべき理なし。もし、みだりに高尚の学理を、 ただちに地方の実地上に応用するときは、 必ず失敗をきたすべし。 これらはみな、 学問と実際との関係を知らざる弊というべし。

 今日までわが国教育界の事情は、 かくのごときありさまなるをもって、  莫大の学資を好やして都下に学びたる学生中、 その効果ありたる者は実にすくなし。  そのすくなきのみならず、 地方の実際につきて観察すれば、 これらの人は学問をなしたるために、  かえって害をなしたるがごとき傾きあり。  ゆえに今日に至りては、 地方の父兄は、その子弟を出京せしめて、 学問をなさしむるは無益なり、 また学問なるものが、 家業にとりては実に無益なるものなりとの考えを起こすに至れり。  これ自然の勢いにして、 余はむしろその早からざるをあやしむほどなり。 余は思うに、 この考えは今日のみならず、  ひいて後日に及び、 今後といえども学問のために金をなげうつことを拒むの風を、 自然助長するに至るやも知るべからず。 もし、 かくのごとくなれば、 教育の進歩を妨げ、  学問の発達を害すること実にはなはだしく、 世はまた維新以前の無教育の風に立ち戻らんとす、 慨嘆すべきことにあらずや。

 それ、かくのごとし。 ゆえに、この際最も注意すべきは、 学問の方向はいずれに取るべきやのことこれなり。そもそも高等の学科は、 普通学を修めたる者にあらざれば、 十分なる結果を見ることあたわず。 しかしてまた、幼年にして思想のいまだ定まらざるに当たり、  これをみだりに都下繁華の地に出だすは得策にあらず。 また、  これらの不結果をきたしたる学生が、 その郷里に帰りて、 いまだ独立の位置を有せざるに、 軽く政治上に狂奔し、いまだ実業の経験を積まざるに、 ただちに手を出だして失敗を招き、 ためにその家産を破り、 その資財を費やすがごときは、 その人のためにも国家のためにも、 最も蔓うべきことにして、 改めざるべからざることなり。  これらのことに関して、その教育の方針はいかにせば可ならんか、 その子弟のかかる風を矯正せんには、 いかにせば可ならんか。

 余の考えにては、 世人の従来、学問教育のことにつきて誤認せしものを改むるに至らば、その望みを達するにちかかるべきか。なんとなれば、 学問は理屈をのみ説くものにあらず、 教育は理論をのみ唱うる者を作るにあらず、  学問の要は人品を涵養し、人物を作出するにあればなり。すなわち人品を進め、人性を高むるにあるなり。学問の目的のすでにかくのごとくなる以上は、 この方針を取りて、 一国の開明望むを得べく、一国の富強期するを得べく、一国の独立固むるを得べし。 従来は全くこの学問の目的を誤りたるをもって、 教育の弊を生ぜしなり。 余は世人に向かいて、学問の目的は主としてここにありて、かの従来普通世人が抱ける学問教育に対しての思想は、多少謬見なるを知らしめんことを希望してやまざるなり。

 余は地方を巡回するの間、 これらの弊を救わんことを考えたるが、 まずその子弟の心をして、 浮薄軽佻なるの風を去り、 着実にしてなすことあるの風を養い、 もって一両年間の修業によりて、 ただちに大学者となることを望み、 あるいはその実力を計らずして、 みだりに富貴功名を得ることを欲するがごとき妄想を除かざるべからざるを感ぜり。 しかしてまた地方に至り、その子弟のありさまを見れば、 地方のいくぶんか資産ありて、 糊口にも窮せざる家の子弟なれば、 ずいぶん職業の余間もあるべきに、 もしその当人が精神上の楽しみを知らざるときは、 古人のいわゆる「小人閑居して不善をなす」の類にて、 往々悪戯、 不品行に陥り、 酒食上の楽しみにふけるがごとき弊あるを免れず。 ゆえに、これらの子弟には教育を施して、 その精神を開拓し、 その人品を改良し、これと同時に、  一方においてはその学問のために一家の職業を忘れ、 財産を破るの弊を防ぎ、 工業家は工業家の業を守り、 商業家は商業家の業をつとむるがごとき方針をもってこれを誘導教育せば、 従来の学問をもって単に無形の空理を唱え、 実行を顧みず浮薄雷同、  その祖先以来の資産を摩して、 父兄をしてますます学問をいとわしむるの弊を救うに至るべきなり。

 しかしてこの任を己が身に負い、 これらの弊を一掃するに適当せる者は、 この学校(哲学館)に養成されたる者なりと思わるるなり。 世間もすでに知れるがごとく、 この学校には教育学、 倫理学、 史学、 文学等の学科ありて、 これらの学科は人の性質を改良し、 品性を涵養するに切実なるものなり。 しかして方今地方の学校を見るに、 中学校のごときは、 いずれも県下に一カ所くらいあるに過ぎず、 そのほか小学と中学校の間に位する学校あらず。 ゆえに、 小学高等科を卒業したる者にて、なお学ばんとすれば、 中学校に入らざるべからず。 しかれども中学は、 なにびとも必ず学ばざるべからずというものにあらず。 すでに高等科を卒業すれば、 十中の八九までは、 おのおのその一家の本業に就かざるべからず。 しかして本業に従事の際、 多少の余間あるべきをもって、この余間を酒食遊戯によりてみたすよりは、 むしろ学問によりてみたすは、 その益実に大なるべしと信ず。 古人のいわゆる「行い余力あるときは、 すなわちもって文を学べ」とは、 このことなり。

 ここにおいて、 小学と中学との間に位する一種の学校を、 各郡各小都会に設置するを要す。 しかしてその学校は、 変則中学もしくは簡易中学程度のものにして、 その目的は、 地方にて多少の資産を有し、 中等以上に位する農商工の青年子弟をして、その実業の余間に精神上の楽を知らしめ、 その性質品位を高尚にし、 その志望挙動を着実にせしむるにあり。 余は今、 教育上における弊害を改良して、 ますますこれを進歩発達せしめんことに熱心なるあまり、 かくのごとき簡易中学を、 各地方に起こすの必要を感じ、 かつこの学校(哲学館)在学の人は、 最もこの任に当たるに適すれば、 この校にある諸氏は、このことに尽力せんことを希望するなり。  このことたる、その業甚小なるがごときも、 その功は実に大なりというべし。

 しかして地方においても、 その費用も多きを要せず、 純粋の学校のごとくせざるも可なり、 寺院をかりるも可なり。 その教員の給料のごときも、 その地方より一人もしくは二人、 東京へ留学せしむるものをもってこれに充つれば足れりとす。もし、その地方の資産家にして、  一家の家庭教育を兼ねてこの教師を雇い入るるに至らば、一層便宜となるべし。  かくのごとくなるを得ば、 その土地の子弟は、  居ながらにして学をなすを得。 決して繁華なる土地の空気を呼吸して、懶惰の風を養成するの恐れなく、 家産を破るの憂いなく、 従来の教育の弊も、  これによりて救うを得べく、  かの空想に傾ける思想を転じて着実に向かわしめ、 その品位を涵養し、 その徳義を堅実ならしむる等、  みなこれより望むを得べく、 なお進みては、 風俗の改良、  一国の文明、 富強、 独立みな希図せらるべきや必然なり。

 余がこの学校(哲学館)において教授するところのものは、 最もこの主義の教育に適したるもの、すなわち史学、 文学、 教育学、 倫理学のごとき着実にして、 人の品位思想を進むるに適切なるものを用いきたるをもって、当時在学の諸氏も、すでに卒業後の目的の定まりたるものはこの限りにあらざれども、しからざるものは、 他日この目的をもって民間の教育に従事せられんことを欲し、 また地方にてこの種の学校の必要を感じて、その教師を得んとするものあらば、この校(哲学館) へ向け照会あらんことを望むなり。

(以上、 哲学館において演説の大意筆記)

 



   八 倫理教育談


 さて今日お話しするのは、 あまり長いことは申しませんが、 倫理の教育上について、 少しく自分の経験した結果をお話ししたいと思う。

 その第一は、倫理教育としていちばん重きを置かねばならぬ点というものは、日本人の特性を明らかにするということであろうと思う。  今までのところにては他国の関係がないから、 自分の国だけでよろしい。 別段比較上、 日本人がどういう特性を持っておるなどということは取り調べる必要がなかったけれども、 今日となっては万国交通かつ競争の際なれば、 どうしても日本人はほかの国に違っておる特殊の点を、 よく明らかにしておかねばならぬと思う。 その特殊の点としては、 十分愚見を述べ、  またご意見も伺いたいと思うのであるけれども、 今日はお話しする時間もございませぬから、 わずかに一、二を申しておきますが、 よほど日本人は特殊の性質で、他国の人に異なっておるところがたくさんあると思う。

 まず第一に、日本人は負けぬ気ということがある。調子が高いとでも申しましょうか、よほどその気位が高いということは、 日本人の一つの特性である。  このごろ福沢翁が、 独立自尊という主義をとなえられる。 だいぶあちらこちらで、 やかましい論もある。 ところが私は、 あの自尊ということは日本人に吹き込むにはよろしくないと思う。  いったい、 日本人は自尊に過ぎるふうがある。 少し調子が高すぎて、 そうして実際のことがそれまでに運ばないというのが、 日本人の欠点である。 それはいろいろ例がある。一つ仏教の方で申しますると、 仏教に大乗と小乗との二とおりがある。  小乗というのはごく見識の低い方で、 大乗というのはごく調子の高い方だ。 ところが日本には、 昔は小乗も大乗も伝わったけれども、  小乗がとんと日本人の気風に適せぬ。 しかるに、  インドへ参るとその小乗が適しておる。  そのかわり、  また大乗が適せぬ。  日本人には大乗が適して小乗が適せぬ。 そこで今、 日本にある宗旨はみな大乗教である。 小乗というと日本人ではだれも相手にせぬというのをもっても、 日本人の調子が高いということが分かる。  ほかの例にとっても、 いくらもそういう適例がある。

 いずれにしても日本人は負けぬ気である。  隣のシナ人とくらべても、 たいへんな相違がある。  ごく手近い例を申すと、  シナに参りて人力に乗る。 たとえばシャンハイヘ行って人力を雇う。「どこそこまで十銭でゆけ」といって十銭で乗る。 そこまでいって約束どおり十銭渡すと、  シナ人の癖として「もう五銭増してくれ」とかなんとか言う。  こちらでは「十銭で約束したから、 それ以上やることはできない」というに、 彼は「ぜひちょうだいしたい」という。「いやだ、 やらぬ」という。  そこで一つ争いになる。 あまりいまいましいから、 日本人のことであると気が短い故、 すぐに洋傘なりあるいは杖なり、 持っているものでたたきつける。 たたかれてもシナ人は平気です。「どうか、 もう五銭増して下さい。」なんといっても天窓をさげて「もらいたい」という。 結局こちらが負けてしまって、二遍も三遍もたたいてやったけれども、 前のとおり「ぜひ増してくれ」というから、「たたき賃にも増してやれ」といって増してやる。  すると片方は「ありがとうございます」と言って喜んでゆく。  ところが日本に来て、 新橋あたりで十銭と約束して車に乗る。  先までいって「旦那、 もう二銭増してくれ」とか、 あるいは「五銭増してくれ」とかいう。「それは不都合なやつだ」といって、 もし乗っているお客さんが、 鞭なり杖なりをもって人力ひきの天窓でも打ったらどうであろうか。  たいへんなけんかが始まる。 いかに車夫、  馬丁でも、 天窓をたたかれて黙っておりませぬ。 前にもらった金までも投げ捨てて、「こんな物は要らぬ」といってけんかが始まる。 それはごくささいな話であるけれども、これでも日本人のよほど調子の高いことが分かるのであるから、 日本人はちと自尊にすぎる。 日本人の特性の弊を申したならば、 自尊の弊があると思う。 そこへ福沢先生が自尊主義というものを吹き込んだら、 日本人はいよいよ調子が上がってしまって、 ついには仕様のない人間ができはせぬか。そうでなくても、調子ばかり高すぎて実際が運ばぬところへ、 自尊がよろしいといって吹き立てられたら、天狗ばかりできて始末がつくまい。 これらは、 日本人の特性をよく研究しておかなくてはならぬ必要の点と、 私は考えておるのである。

 さて、日本人は調子が高いと同時に負けぬ気である。負けることが大嫌い。調子が高ければ、したがって負けることを嫌いなのはあたりまえなことであるが、 そのかわり自尊主義という中には、 よいこともたくさんある。廉恥などというようなことは、シナ人から見ると、 よほど日本人は重んずるふうがある。つまり、わが国がわずか三十年の歳月の間にこれだけ開けたのは、 日本人が調子が高いからできた、 調子が低かったらできはしない、負けぬ気であったからこれまで進んだ。そこで日本人の将来については、よほどその特性を見極めて、よい点があるなら取るがよろし、 悪いところならなるたけ防ぐ方法を講じてゆかねばならぬ。

 それからまだいくらも、この特性として研究すべき点がありまするが、もう一つ申すと、 日本人は量が狭い、いわゆる島国的思想とでもいいますか、 とにかく島国であるから、 したがって考えが小さいというふうがある。量が狭いから、 なにごとでも少し急ぎすぎるというふうがある。 ゆったりしておりませぬ。 そこでなにか一問題起こると、  その一時は、 実に全国こぞってそれがために騒ぎ立つというふうがある。 そうかと思うと、 少し日がたつと、 まるで忘れたるがごときありさまになる。  つまり、 量が狭く気が短く、 長持ちができぬというふうがある。 ゆったりしておりませぬ。  これは島国の人には多くありがちな性質で、  大陸の人には少ない。  これらも、 将来の教育上については、  大いに注意すべきことであろうと思う。

 それからまたほかの例を申すと、 日本人は利己心が強い。 だれでも利己心のないものはない。 うまれつきといってもよろしいくらいである。 けれども、 とかく日本人には利己心が割合に強い。 その利己心が強いために、 公共心が欠けておる。  これはだれでも言うことであるが、 日本で宗教などで実にその神社仏閣の再建とかなんとかいうと、 進んで金を出す者がある。  ちょっと見ると、 あれはたいへんな慈善家だ、 日本人はなかなか慈善心に富んでおるように思わるるけれども、 その内実を推してみると、  みな利己心。  一方でいうと、 神社仏閣へ金でも出して評判をよくしようというような考えもあるし、 それよりもっと強いのは、 自分一己の災難、 病気、 いろいろな不幸、  こういうことを免れたいという情が強い。 そこで、 神社仏閣でいちばんはやるといわれておるのは、  そこに願いさえすれば、  すぐに病気が癒える、 災難がなくなるというようなことを唱える所である。 そういうふうであるから、 日本人の宗教というものは、 だんだん推してみるとみな利己心。  人間は利己心を離れてということはむずかしいけれども、 しかし、 もう少し公共心とか、 あるいは利他心というものがないといけない。 日本人の中にはそういう人もあろうけれども、 なんにしても多数からいうと、 よほど日本人は利己心が強い。

 この間、 ある随筆を読んでみましたところが、 寺門静軒が書いた『痴談』という随筆がある。  いろいろ日本人の人情の癖したことなど書いてある。 その中に出ておる話に、 ある者が神様に願かけして、 どうか金をもうけさしていただきたい、 私に一万両ぜひもうけさしていただきたい、  一万両もうけさしていただけば、 そのお礼として九千九百九十九両だけは差し上げます。 そういって繰り返して願っておる。  傍らに聴いておる者が、「どうもいぶかしいことをいう。 君は一万両もうけさしていただきたいと願うはよろしいが、  九千九百九十九両お礼に出したら、 あと一両しか残らぬ。 それではなんにもならぬじゃないか」と言うと、 その人が細声にて「いや、 実はこれは内しょだ。 神様をだますつもりだ。 実はもうけさしてさえもらえば、  一文も上げない。 もうける手だてに神様をだますのだ」といったことがある。  そういうように、 日本人には欲心が強いために公共心に乏しい。  これは将来の教育上について、 大いに注目すべきことと思う。

 それからもう一つ申すと、日本人は自分の家という考えが強すぎる。もっとも日本は西洋とは違って、社会の組織、  国家の組織が家をもって成り立った国であるから、 どうしても家の観念の強いのはあたりまえである。 また、 その強いのがたいへんよろしいのだ。 よろしいのだけれども、 あまりその方の情が強すぎると、 それがために国家事業とか公共事業とかいうものが起こらない、 たいへん妨げになる。 ところが現在、 その弊が日本にある。  であるから、 日本の人で巨万の財産を積みましても、 それをただ自分の子孫のためにしたいという念ばかり強く、 自分の子が嫁を取る、 あるいは娘が嫁にゆくとかいうことには、 身代不似合いな金を使う。 あの婚礼は何万両支度料にかかったとかいって、 莫大な金を使う。 それのみならず、 子孫のために残すという考えが強すぎる。 しからば、 その子孫のために尽くしたのが、 果たして長く子孫が守っておるかというにそうでない。  もう一代か二代たつと、親の恩は忘れてしまう。 そうすると、 天から降った財産のように思って、 むちゃくちゃに使う、 なにも残りはせぬ。  しまいにはかまどまでつぶしてしまう、 家の煙も立てられぬようなありさまに陥るのがいくらもある。 決してそれは遠い例じゃない、近い所にたくさんある。 そういうことがたくさんあるにもかかわらず、  とんとそんなことに気がつかぬ。 やはり自分の家がいつまでも続くものだという一種の迷いが離れぬ。  というのは、 今までの風が家というものにばかり重きをおいてきたから、 とんと国家のためとか社会のためとかいう方の考えが薄い。  その点になると、 よほど西洋の方の考えが進んでおると思う。 あちらでは家という考えがないかわり、 子供にはわずかの財産を残して、 あとは社会のため国家のために尽くそうという考えが強い。  これらも今後の教育上に、 倫理の教育としては注意しなければならぬことと思う。

 そういうように、特性を明らかにすると、その中に良いこともあり悪いこともある。 良いところはどこまでも保存するがよろしい、  悪いところはなんとかこれを防ぎ、かつ正す方法を講じなければならぬ。  その点をよく注意したいものだと思います。

 ご承知のごとく、 加藤〔弘之〕博士が利己主義ということを唱えられる。 私はこれには大いに反対である。 日本人はすでに利己心が強すぎておるのに、そこへもってきて、 その上に学術上から利己が真理じゃ天則じゃというように吹聴されると、 ますます日本人をして利己の極端に陥らしむる。  はなはだ思わしくないことと思っておる。一方に福沢〔諭吉〕先生がすでに、 わが日本人は自尊の主義で自尊のおとしあなに陥っており、 自尊病にかかっておるのに、 そこへもってきて自尊を吹聴する、 また一方においては、 日本人は利己に偏しておるのに、 加藤先生は利己主義を唱える。どちらも明治の先輩としてそういうふうな主義を唱えられては、誠に困ると思っておる。しかし、 それにはいろいろ世間にも異論もありましょうが、 私一己の考えを申すと、 この両大家がそういうようにして教育されては、誠に困る結果をきたしはせぬかと憂えておるのである。徳川が三百年間無事に続いたなどというのは、つまり自尊の反対たる服従主義をひどく端極までほとんど圧制の極までに及んだためにあの維持ができた。 もっとも徳川の圧制などというのは、 もとより今日忌むべきことではあろうけれども、 しかし日本人の教育には、 いくらかこの服従主義ということを採らぬといくまいと思う。 もし、 日本人に今の自尊の主義を悪く吹き込むと、 なかなか国が治まらぬ。 日本人は銘々独り天下でいばっておるふうがあるのに、おまけに自尊主義をもって教育したならば、 どうしてもしまいには始末にならぬことができましょう。 ゆえに、 私は両大家の説は、 誠に感服せぬのでございます。

 それから第二の点は、 日本従来の倫理の特性を明らかにすること、これがまた必要であろうと思う。 日本人の特性を明らかにすることも必要であるが、  これと同時に、 今までわが国に講究しきたったところの倫理の特性を明らかにするということが必要である。 今までの倫理としてよろしいこともあるし、 また改良せねばならぬところもある。 例えば、 今日までの倫理としては忠孝ということを本として説いた。 また、 忠孝を本とするということについては、 別段これは、  かれこれいうわけにはゆくまいと思うけれども、 その忠孝というのがいたって狭い意味で今日まで講じきたっておった。  今日以後は、 もっとこれを広い意味に講じなければならぬときになっておる。 そこで今までの忠孝の例というものが、 あるいは新田義貞、 あるいは楠正成とかいう、  いよいよその国家の危急に際しては、 日本全国の人がみな楠のごとく、 新田のごとくならなければならぬ。  これはいうまでもないことである。 けれでも、  こういう危急存亡ということは、 そう始終あることではない。 またあってはならぬ。  ところがその危急存亡にならぬときに、 むやみに楠気取り、 新田気取りばかりでもいくまいと思う。 そうすると、 その忠孝はよろしいけれども、 もっと忠孝を泰平無事に、 万国平和の今日においてどういうようにするかという、そこをよく講究していかなければなるまい。 そうするには、 今までの倫理というものについて、 なお一層その特性特色を調べて、 今後いくらか、 また世の事情に応じて改良すべきところを講究していくということが、 倫理教育上に必要であろうと思う。 これについても、 私はいろいろ言いたいことがある。 倫理の将来、 日本倫理の将来ということについては、 今から多少変更改良を加えていかなければならぬと思う。 けれども、 その方法については今日は略しておきます。

 それから第三は、日本人の風俗習慣の現状および将来の変遷を知ること、これがまた必要であろうと思う。  今までの日本人の風俗はどう、習慣はどうということを調べ、 あわせて今後これが、 どういうように変遷するかということを調べる必要がある。到底今後は、風俗も習慣もともに変じなくてはならぬ。 それをどういうふうに変ずるかということを、 だんだん取り調べていきたいものだと思います。 まず、 近ごろ内地雑居になったという以上、 これから外国人もだんだん入って参りましょうが、 日本の風俗と外国の風俗とたいへん違うところがあります。  中には、 違っても差し支えないところもあるが、 また中には、 今までは違っておったけれども、これからは同じようにしていかなければならぬこともある。そこをよく比較してみたいと思う。 このごろもよく話を聞きますが、 汽車の中でたいへんに外国人に無礼を加えたという。 別段外国人を打ったたたいたのというのでなく、 下等社会ならゆるしてもよろしいが、まず上等汽車に乗っておるといえば、いわゆる日本の紳士である。 外国人はたいてい上等汽車か中等に乗る。その外国人と一緒に乗って、 そうして片方は腕まくりしてみたり、あるいは股まで出してみたりして、 外国人を困らせる。ことに外国人は婦人の前では行儀を慎むふうがあるのに、それにかかわらず無礼をしてみせる。 それがために外人に侮辱を加えたとかいって、 怒ったものがある話も聞いておるが、  それは日本の昔ではさほどとがめない。  暑けりゃ肌も脱ぐ、 肩を出すというようなことはなんとも思わなかったけれども、 今後外国と交際するに、 そういうふうをして見せては、 ただその人一個にとどまらぬ、 日本全体の名誉に関します。  よほど日本人は野蛮であるという考えを外国人に浮かべさせる。 しかし他方からいうと、それは実は罪がないかも知れない。 西洋の事情などは知らぬからでありましょうが、これからは知らぬといってすましておけない。 これはぜひ教育上において、 あるいは倫理教育上において、 西洋の風俗習慣と日本の風俗習慣とは大いに違う。 ゆえに西洋に対しては、 こういうことをやってはいかぬ。 中には日本の風俗習慣で、 西洋の風俗習慣と違って一向差し支えないことがある。 それは違ったままでどこまでもやるがよろしい。 また、 どうしてもこれは今までのふうではいけない、 今後は改良しなければならぬということもありましょう。 そういう点をいちいち比較して、 よく知らしておくことが必要だろうと思う。 まず西洋では、 ゲップーということが誠に無礼としてある。 あちらでは放屁よりはもっとこのゲップーの方が悪い、  むしろ放屁をする方がよろしい。  こちらではゲップーの方はさほどでないが、 放屁はひどく忌むというようなことも、 些細なことのようではあるが、 やはり外国人と交際するうえにおいては、心得ておらなければならぬ。  こんなことは、 ちょっと一遍知らしておけばそれでよろしい話である。 そう人のいやがることをやるにも及ばぬ。

これらのことをはじめとして、 些細なことに外国人の感情をいためるようなことがいくらもあろうと思う。  それは日本人としては一向知らぬ、 知らぬから罪がないようなものの、 外国人と交際するうえにおいては必得ておかなければなるまいと思う。 そういう点をだんだん取り調べて、 中学児童あたりによく吹き込んでおく方がよろしいと思う。 そのほかにも、 西洋とこちらと違っておることはたくさんある。 そこで、 西洋人の風俗、 あるいは男女間の交際とか、 あるいはあちらの礼式はこういうものだとかいうことは、 これから以後の国民としては、  すべて心得ておらなければならぬ。 それは中学などの倫理を話す間に知らしておけば、それで済むことである。ゆえに、 そういう注意を与えることが肝要と思う。

 それから日本の風俗習慣として、 今後私がおいおい改良していきたいと思うものは、 第一に碁であります。 碁はひろくどこへいってもはやっておりますが、これから世の中が忙しくなると、 なかなか碁など打っておることはできなくなる。 ずいぶん碁は、 遊びとしては上品なものでおもしろくもある、 またいくらか工夫を練る助けになる。  であるから、 決して悪い遊びではあるまい。 悪い遊びではあるまいが、 ただその時間が余計にかかると同時に、 碁というものは誠にふけりやすいもので、一遍碁を打とうとなると一席や二席で済まない、ついにはその日に避けがたい用事があっても、  まず用事を後にして碁を打とうというようになってきて、  昼前で済むことがなかなか済まず昼後になり、  昼後が夜になり、 徹夜して打つというようなことになる。  それのみならず、 前には負けたから今度はかたき討ちにいこうなどと、一遍の碁が二日も三日も続くということになって、 大いにほかの事業の妨げになる。これはなにかと改良したいものだと思う。 まず、碁ならば五目ならべくらいをもって限りとすることにして、 今後いくらかそういう遊戯の改良は必要と思う。 そのほかの遊戯にしても、 わが国の遊芸はみな昔の泰平の時代に発達した。 今日の競争のはげしい時代には適せぬ。 また、 今日いくらか当てはめて改良する道があろうと思う。

 それからまた、 私はほかに倫理教育として実地の経験もありませぬが、 ただ中学児童については先年から少し自分も実験したいと考えて、 あちらこちらを兼ねて倫理の話をして回ったこともあります。  こちらの実験の点については、 私よりはここにお集まりの諸君の方がよほどお巧者でありましょうから、 詳しくは申しませんが、  これまで中学の倫理として経験したるところによると、 倫理教育として倫理と修身との話のほかに、 修学の方針というものを一つ授けていかねばならぬように感じておる。これをなんと言いましょうか、 就学の方針を示し、 あわせて諸学の関係を知らしむることとでも言いましょうか、  そういうことが倫理教育として必要があると思う。それは倫理とは関係がないようだけれども関係がある。  倫理というのは人の立身出世する道を教えるのであるから、 今の問題のごときはやはり倫理の問題としてよろしい。

 まず、ご承知のとおり中学児童などになると、 修めるところの学問は割合に多い。いろいろな学科をみな一とおり普通に修めるわけになる。 英、漢、数のほかに、  理科といってもずいぶん動物、 植物、 鉱物、 生理などまでも、  みな一とおりやるというようなことになっておるし、 そのほか図画、  習字までもやるから、 中学児童がいちばんたくさんな学科をやる。  学科としては、 あらゆる学科を一とおりやるといってもよろしい。 あらゆる学科をやるが、 さてその学科の中に、 どれがいちばん重きをおかねばならぬ学科か、 どれが自分の将来について必要かということは、 児童においては分からない。 たまたまその教師が教え方でも上手であると、 さほど必要でない学科にたいへん身が入ってくるというようなことがある。 そうすると、 ぜひこの中学のいろいろな学科を総合して、 そうしてこの学はこういう学問で、 ほかの学問とどういう関係があるとか、 あるいはまた、 これから進んで中学以上の学問を修めるには、 この学はどういう関係があるとかということを知らせておくことは最も必要である。  児童が自分で選びをつける力があらば教師が言うに及ばぬけれども、 中学の間は学科がいちばん多くて、 そうして中学児童にはそれを選ぶ力を持たぬから、  これはぜひとも教師が授けてやらねばならぬ。 けれどもその授けるのには、  一科の専門の教師から授けるわけにはいかない。 物理学の教師が物理学を授けるときには、 物理学がいちばんよいもの、いちばん大切なものとして教育していく、国語学を教える人は国語がいちばん必要なものとして教える、 習字、 図画の教師は習字がいちばん大切だ、  図画がいちばん必要だと説いておる。  そういう場合には、 ぜひともそれを統合して、 これにはこれだけの重きをおくべきことを教うるがよろしい。

 学問の中には軽重があるから、 したがってその人々の目的によって、 中学時代はどれもやらねばならぬといううちに、 いくぶんか注意の置き方をきめねばならぬということがある。 かく諸学の関係をくわしく知らしておくということは、 ほかの学科でできぬ以上は、 やはり倫理の方で授けねばならぬと思う。 それからまた、 生徒には学問の方針が分からぬ。 とにかく中学の間というものは、 毎日の学科はやっておるけれども、 その学科がなんのためになって、 自分はなにをしてよろしいのかということが分からぬ。  中学のはじめにはそういう選択をつける必要はないけれども、 中学卒業近くになれば、 なにをやるかということはきめねばならぬ。 すると、 中学の上級に近づくに従って、いくらか学問の方針を示して、いくらかその生徒の特性に最も適したところの学問を選ばせる、 その方針をつけてやらなければならぬ。 古聖のいわゆる「斐然成章不知所以裁之」(斐然として章を成す。これを裁するゆえんを知らず)という場合だから、 いくらか裁するゆえんを授けなければならぬ。  それを裁するゆえんを授けるのは、 やはり倫理の教育であろうと思う。 そうすると、 倫理の学科というものはただ修身だけにとどまらずして、  すべての学問に対する関係、 方針というものまでも、 あわせて授けることにする。 例えば、一カ月に倫理の話を四遍するならば、 三遍は修身の学科を説いて、 あとの一遍は万般の学問を総合して話をするというようなことが、最も必要じゃないかと思う。 それはただ私が経験中、 心付いたことでござります。

 それから今一つ ここに申したいと思うのは、  すべての教育者に必要なことであるけれども、 なるべく倫理の教育家としては模範になるべき、 完全なる人物を理想上に構成することが要ると思う。 倫理を教育する人は自分の身をもって手本として、「なんでも、 わがなすとおりにせよ」といって教えるのがいちばんよろしいけれども、それは今日の普通一とおりの人ではとてもできない話である。 孔子様とかソクラテスとかいうような人が生まれかわっ てきたら知らず、 そうでないと、「私のなすとおりになせばよろしい」ということは決して言えぬ。 そうすると、 なにかここに一つ自分の理想上に、完全な人で、こういう人になりさえすればよろしいという考えをこしらえておかねばならぬ。  その理想はいくらか、 なにびとも持っておる。 ことに教育などに従事する人はみなあるけれども、 それをなるべく明瞭にしておかぬといけない。 その理想上の完全なる人物が、 ありありと目に見えるがごとくに、 一つの偶像同様に自分の脳髄中にできておらぬといけない。 そうして、  それを始終自分の手本とし、 しかして人に話すにも、 やはりそういう人になるようにという考えをもって話す。 自分の理想上でそういう一つ偶像を作って、 自ら崇拝し、 しかも人をしてそれを崇拝せしむる。 まず宗教の神とかなんとかいうもの、 これはすなわち理想上の偶像である。  そういうものを設けて、 人にみなそのまねをさせる。

 ところが今日教育上において、 倫理教育としては別にそういう宗教上の偶像は用いない。 宗教上の偶像でなくても、 自分がいちばん完全な人を理想上に作っておくがよろしいと思う。 その人というのは、 今まであった人からだんだんそれに理想を加えて、 そうして組み立てないとできぬからして、 今までの歴史上に現れた人物として、 どういう人がいちばんよろしいものかということをまず選出して、 その選出したところで五人なり十人なり、 銘々また、  この人にはこういうよろしいところがあるけれども、 この点が不十分だ、  この人にはこういうよろしい点があるけれども、  これが欠けておるということがある。 よって、 よろしいところばかり結び付ければ立派な人ができる。

 東洋の教育家としては孔子の右に出る人はない。 生民あって以来、  かくのごとき人はないとまで言われておるくらいだから、 立派な人であるけれども、 しかしまた局外の人から評すると、 どうも孔子は誠に「温良恭倹譲」でおとなしい人であるが、 そのかわり孔子には気慨というようなことが欠けておる。  これに反してソクラテスという人は、  これは毒殺までされたくらいになかなか気慨に富んだ人である。 気慨の点においては孔子はソクラテスに及ばぬ。 しかし、 そのいかにも「温良恭倹譲」なる点は、 ソクラテスよりも孔子の方が増しておるということを申しますが、  いくらかそういう気味があるかと思う。 そうすると、 まず孔子もよろしいが、 もうソクラテスの良いところも加えたいものである。  そのうえにほかの人の良いところも加えていくということになれば、実にわれわれの手本とすべき立派な理想上の人物ができる。  それを自分も常に冥々の中に崇拝し、  また人にもその考えを始終与えるようにして教育していかば、 よほど感化の効力が違うと思う。  そこで、 私が先刻申した著述家として四人を選んだというのも、 実は今の理想上の模範を作ろうという一つの考えである。 それは著述家としての話である。 あるいは教育家、 あるいは道徳家としては、 またそれぞれ模範とすべき者があろうと思う。 それを集めて自分の心頭に始終放さぬようにして人を教育すると、 よほど感化の点において効力があるに相違ないと思う。

 そのほかまた、  これらのことについていろいろ心付いたこともござりますけれども、 今日別に組み立てたのでない。  ただ、 倫理教育上について思い付いたことを書き抜いてある、 手帳同様なものを持って来てお話ししたのでございます。 先刻申しました漢字論などにつきましても、 日本人の特性が分かろうと思う。  まず、  この漢字論というものは今日始まった論ではない、 その前に原因するところが久しいといってよろしい。  一時、「仮名の会」というものが起こった際には、 実に全国みな「仮名の会」に同意しておるようなありさまで、 どうしても仮名になってしまいやせんかと思われるようであった。 ところが、 それが済むと火が消えたように、 仮名などを振り回ってみる者もない。 つぎに「羅馬字会」が盛んになったときには、 何万という会員があって、 実に非常な勢いであったけれども、  それが一時経過すると、 まるで火の消えたようなありさまである。 その後、  国学などが再興する。 そのつぎに漢学が起こり出して、 むやみに漢字などむずかしい文字を使うような風が行われてきた。  そこで漢字全廃論が起こってきた。  ところが漢字全廃が一時の世論のごとくになりて、 そのさきはどうかという後のところを考えない。 ただ一時の風潮に動かされて、  みな雷同唱和しておる。  これらが日本人の特性としての欠点ではないかと思う。  すでに唱える以上は、 どこまでもその精神を貫く考えで唱えるがよろしい。  またこれに同意を表するにも、 よく将来を見て同意を表するがよい。  ただ、一時そういう論が流行するからといって、 付和雷同ということはよろしくないと思う。  でありますからして、 まずこの漢字廃止一条についても、 日本人の特性のいかんということは、 十分わかるであろうと思う。

 なお、この日本人の中流以下の特性などについて、 特性というよりはむしろ悪風といってもよろしいことがたくさんある。 これらは、 よほどこれから研究せねばならぬことと思う。 今までの倫理教育でも小学教育でも、 始終上から下へくだしてくる。  中流以上の模範を取って、 下へ当てはめてくる。 だから下の方へいくと、 ほとんどかゆい所へ手の届かぬようなことが多い。  これからは、  ごく下流社会の方から組み立てていってみたいと思う。その一例を申すと、  日本の下流社会というものの一つの悪風は、 人の物を盗むということを、 さほど悪いという考えを持たない。 知れれば悪いということは知っておるけれども、知らぬ間に取る分はなんともないという考えがある。 下流社会ばかりでなく、 いくらか上流の方にもその風がある。 政府のことか、 あるいは会社のこととか、 あるいは大勢寄った場合になると、 断りなしになにを取ってもよろしいというような考えを持っておる、 盗んでもよろしいというような考えを持っておる。 それはよほど西洋と違う。 野蛮の社会ならゆるすべきも、 日本が西洋に敵対する文明国という方から見ると、 よほど欠けておるかと思う。

 先日、 私の学校で運動会をやろうというので、 ちょうどかの御慶事であった前の日でありました。 御慶事もあるから、 運動会の場所へ生徒同士が寄って、 アーチを造ろうというので取り掛かりおった。 大勢寄って、 どうかこうか素人細工だけれどもこしらえた。 ところが一夜のうちに、 近辺の長家あたりの者がみな持っていってしまって、  翌朝見ると跡形もない。 杭まで持っていってしまった。 いたずらにそんなことをするかというと、 そうではない。 たきぎにしたに相違ない。 かように、 物を取るということはなんとも思わぬ。 もし、 盗賊本職でやるなら致し方がない。 けれども、 そうでない、 平生盗賊をやっておる人間でない。 そのほかに、これまでたびたび盗まれて懲りておるが、  門の札を夜持っていってしまう。 哲学館なら哲学館という札、 あれを毎晩取り入れさせるのだけれども、 ことによると忘れる。 すると、 きっと盗んでいってしまう。 よって、 小さい札は必ず鉄釘で打ち付けておく。 そうせんと、 小さい札まで持っていってしまう。 しかし舎にいくと、 そういうことは少ないかも知れませんが、 ずいぶん日本人にはそういう癖がある。 上流社会にもいくらかある。 たとえば、 ある所で園遊会をやったところが、 その帰る人がいずれも、 たもと一ぱいに御馳走を詰め込んで、たもとをふくらして、 自分自分の食べる何倍となしに盗み取りて帰ったということを聞いております。 そういうことは、 日本人においては格別悪いという考えを持たない。 西洋人などから見ると、 実に日本人はイジがきたないとか、 あるいは野蛮であるように感じられると思う。 君子国などといって、 決していばれない。

 そればかりでなく、 日本人特殊のいろいろの弊がたくさんあるから、  今より矯正していかなければなりませぬ。 今一つ申さば、 下等社会にはなまけるという風が実にひどい。  まず土方などというような者から、  職人社会の下等な者になると、 監督者がおらなければなまけ放題になまけようという考えである。  それとまた、 貯蓄する考えがない。  ことにあの土方などの社会というものは、 実に仕方がない。 西洋にも下等の仲間には悪いことがたくさんあるけれども、 概して西洋の方はわが国よりはいくらか進んでおると思う。 土方ごときが仕事をするにも、 正直に勉強しておる。  こちらでは監督がなかったら、 なまけ放題になまけるという風がある。 そういうことは、 ほかのことが進んだにかかわらず、 今日まで一向改良ができておらない。  こんなことも、 だんだんこれから改良するの方法を講じていかねばならぬ。  ついては、 そういう下流社会のことは、 どうしても小学教育から始めねばならぬ。 下流社会の弊はどういうところにあるかということを調べて、  それを教育上に当てはめていくことが最も必要であろうと思う。 それらの点については、 少しく自分も注目しておるのでありますが、 今日はもとより時間もありませんからお話はいたしませぬけれども、 また折があったら私の意見も述べ、 また諸君のお説も承りたいと思う。

 そこでこれらの点は、いくらか地方地方によって、 特殊のこともありまするから、そこらを各地方の人が集まって研究したら、 よほどおもしろかろうと思います。  いずれにしても、 日本人のいろいろな特性あるいは弊風というようなところは、 ぜひともこの教育上から直していかねばならぬのはあたりまえである。 ぜひとも西洋に比較して、 今日どうであるということを明らかにしておきたいものだと思う。 なお、 それらのことについてお話ししたいこともございますが、 なにぶん時間も長くなりましたし、 また根本先生も先刻から来てお待ちになっておるし、 私があまり時間を一人で占領してもよろしくありませんから、  これでおきます。

 私は別に倫理科専門というわけでもなんでもありませぬが、 教育上としてはどうしてもこの倫理を中心としなくてはならぬという考えで、 いくらかほかの学校などから頼まれても、 倫理なら受け持つが、 ほかのことは御免こうむるといって、 あちこちの倫理を自分の経験と思って引き受けております。 中学倫理としては集英堂から前に依頼もありましたし、 自分も試みに書いてみたいという考えもありまして、 倫理書を編修いたしたわけでございますが、  それらの中にも、多少日本人の今までの倫理について、いくらかこれから改良を加えねばならぬということには、注意して書いたつもりでございます。  しかし先刻申した、  すべての学科を統一して修学の方針を示すなどということは、 別段倫理内には書きませんが、  これは倫理教授以外として、 折々そういう注意を与えるように、 倫理教育をつかさどる人の心得としてやっていただきたいものだと思います。  なおまた、 私もときどき地方へ出まするから、  ここでお目にかかったのを縁といたしまして、 また、 地方へ参った節、 地方の状況等につき私もいろいろ承りたいと思いますから、 今日は自分で自分を紹介する考えで、 取りとまらぬお話を思い付くがままに申し上げました。 はなはだ長い時間、 諸君の清聴をけがして恐れ入りました。



   九 禁酒論


 禁酒の可否を論ずるには、まず酒そのものの利害を論ぜざるべからず。世間の好酒家はしきりに酒の利を説きて「酒は百薬の長」なりといい、  厭酒家は酒の害を述べて「洒は百毒の長なり」といい、  洒そのものは一つにして、  その利害は人によりて異なるはいかん。 余は禁酒家の一人にして好酒家に反対するものなりといえども、 あえて酒そのものを排斥して百毒の長なりとなすにあらず。 換言すれば、 硬派の排酒論者にあらずして、 軟派の排洒論者なり。余おもえらく、 酒そのものにつきては利害を判定し難し、ただその結果につきて利害相分かるるのみ。ゆえに、これを有害視するも、 決して絶対的有害にあらずして、相対的有害なり。 換言すれば、 利害相較してその害その利より多きをもって、これを有害と断定するのみ。 また、 酒を無害視するものも、 やはり相対比較上の論なり。 ゆえに、酒の利害を判定せんと欲せば、 左の三条につきて考察するを要す。

  第一に、  身体上に及ぼす利害いかん

  第二に、  精神上に及ぼす利害いかん

  第三に、  社会上に及ぼす利害いかん

 この諸点につきて考察するに、 利もありまた害もありといわざるべからず。 もし、 人よく酒を適度に用うることを得ば、 必ず利あるべし。 しかれども、 実際上適度を守ること難く、 過度に失するの弊あるは、 人の通患とするところなれば、 世に禁酒論の起こるに至るなり。 

 世間往々、 禁酒論のほかに、  節酒論あるいは慎酒論をとるものあり。 節酒論者は禁酒の守り難きを知りて、 飲酒を制限せんとするものなれども、 実際上、 節酒は禁酒より難し。  慎酒論はこれを禁酒の意に解するものと、 節酒の意に取るものあり。 しかるに、 余は禁酒を解するに広意をもってし、 節酒も慎酒もみな禁酒の一部分として論ぜんと欲す。

 そもそも哲学的分類によらば、禁酒に絶対的と相対的あり、客観的と主観的あり。 絶対的禁酒とは無制限の禁酒にして、 いかなる場合、 いかなる事情を問わず、 常に全く禁酒するをいい、 相対的禁酒とは有制限の禁酒にして、 事情の許す限り禁酒するをいう。 また、 客観的禁酒とは実際的禁酒の謂にして、 たとい心に酒を欲するも、実際上口に杯を触れしめざるをいい、 主観的禁酒とは思想上の禁酒にして、 よく己が心を制して、 酒を欲する念慮を絶ち、 たとい目前に酒杯を見るも、 さらに酒情を動かさざるに至るをいう。 相対的および客観的禁酒はやすく、 絶対的および主観的禁酒は難し。 今、  この両種の禁酒につきて、 さらに一言を費やさざるを得ず。

 仏教に世間門、 出世間門の二道を設くるがごとく、 禁酒にもこの二門あり。 絶対的および主観的禁酒は出世間的禁酒にして、  相対的および客観的禁酒は世間的禁酒なり。 今、 仏教に凡聖迷悟の別を立つるがごとく、 禁酒にもまたこの別あり。 絶対的および主観的禁酒は悟界の聖人的禁酒にして、 相対的および客観的禁酒は迷界の凡夫的禁酒なり。 今日、 我人のごとき迷界の凡夫にありては、 到底、 絶対的禁酒あるいは主観的禁酒は難行にして持ち難きをもって、 相対的および客観的禁酒の易行を選ぶに至る。  かつそれ世間道にありては、 実際上、 絶対的禁酒の行い難き事情あり。 例えば、 婚礼のときの三三九度の杯酒のごとき、  祭礼のときの神酒のごとき、 そのほか寿杯祝酒のごとき際には、 遁世脱俗出世間の人にあらずんば、 禁酒を断行すること難し。  これをもって世間通俗の人は、 多く相対的禁酒を取る。 そのいわゆる節酒も慎酒も、  みな相対的禁酒の部類なり。 しかりしこうして、絶対的禁酒は出世間的禁酒のいまだ最上に達したるものにあらず、  ひとり主観的禁酒こそ禁酒門の仏菩薩なりというべけれ。 もし、 真に主観的禁酒によりて一切酒欲の本心を断絶するにおいては、 必ずしも絶対的に禁酒するを要せず。  その心すでに禁酒、 不禁酒の制限の外に超脱して無礙自在を得るものなれば、 たとい酒をのむものまざるがごとく、 杯をとるもとらざるがごとく、 不禁酒即禁酒の妙境に遊ぶものなり。  世間の禁酒家多年の修行によりて、 幸いにこの妙境に達することを得ば、これ実に大乗の仏菩薩にひとしく、 禁酒成仏の目的を達せるものというべし。  これを要するに

  客観的および相対的禁酒は世間道の凡夫的禁酒なり。

  絶対的禁酒は出世間道の聖人的禁酒中の小乗的禁酒なり。

 かくのごとき三段の階級あり。 しかるに、 高きに登るにはひくきよりするがごとく、 出世間道の禁酒は世間道より進み、 大乗的禁酒は小乗的より進まざるべからず。 いかなる人もただちに主観的を行わんと欲するも、  これ難中の難事なれば、 退きて客観的禁酒を守り、 客観的にありても絶対的禁酒はまた持ち難きをもって、 下りて相対的禁酒を修むるに至る。  しかして、 相対的禁酒にもまた種々の階段あり。

  第一、性質(すなわち、酒の種類により強弱その性質を異にするをもって、その強を禁じてひとりその弱を用うるの類をいう。 例えば、 日本酒を禁じてブドウ酒のみを用うるがごときこれなり)

  第二、度量(すなわち、  酒を用うる分量を節減して酒器に三杯を限るがごとき、 あるいは一、二勺ないし五勺を限りて、  その上に超過せざるがごときをいう) 

  第三、 場所(すなわち、一定の場所を限りて酒を用い、 そのほかは一切禁酒するをいう。 例えば、 自宅のほか一切禁酒するの類これなり)

  第四、 時間(すなわち、一定の時間を限りて酒を用い、 そのほかは一切禁酒するをいう。 例えば、一週あるいは一月に一回を限り、 あるいは一年中用酒日を限り、 そのほかは一切禁酒するの類これなり)

  第五、 事情(すなわち、 特別の事情ある場合を限り、 そのほかは厳禁するをいう。  例えば、 婚礼、 祭事の場合のごとき、 あるいは病中薬用の場合のごときはこれを用い、  通常の場合には一切禁酒するの類これなり)

 第五条は相対的禁酒の制限なり。  このうち、 ただ一制限を守るものと、 全制限をことごとく守るものと、 またおのずからその別を立てざるべからず。 もしこれを相対的禁酒の戒法の類別となすときは、  一戒を守るものと五戒を守るものとは、 その間に等差を立てざるべからず。  しかして、 余は出世間道の最上たる主観的禁酒を目的とするものなれども、 世人をしてことごとくここに至らしむること難ければ、  これに達する方便手段として、  客観的相対的禁酒を用うるの必要を感じ、  ここにその階段を示して、 漸次に、 あるいは一戒、 あるいは二戒、  三戒、四戒、 五戒を守り、  ついに大乗的禁酒門の無礙自在の妙境に入らしめんことを切望するなり。  これ、 余がいわゆる禁酒論の一端なれば、  ここに一言して嗜酒家の反省を請わんと欲する微意なり。

 



   一〇 花より団子の説


 かくのごとき題を掲ぐるは滑稽論説に似たるも、 決してさにあらず。 余は前号に「新年変更説」を掲げて、 毎年紀元節に新年の儀式を行うの、 わが国風民情に適するゆえんを述べたれば、 今その付説として、  人情の帰するところは「花より団子」にあるの連想を喚起し、  ここに本題を掲ぐるに至る。 花より団子とは、「目より口」という義にして、 心理学の語をかりて言うときは、 視感より味感ということなり。 衆人の楽は飲食に集まり、 衆人の情は飲食に引かるるものなり。 しかして、 飲食は我人の生存を保持するに最大必要のものたれば、 衆人の情も楽も目よりは口に集まり、  風景よりは飲食に引かるるは全く理由なきことにあらず。 ある人の狂句に「花の下より鼻の下」とよみたるもこれと同意なり。

 わが国ひとたび太陽暦を用いてより、 旧来の五節句を廃して、 天長節、 紀元節をはじめとし、 大祝日、 大祭日を定め、 五節句に代用することになりたるも、 その祝日、 祭日は五節句のごとくにぎわしからず。 また、  人のこれを待つや五節句のごとく切ならざるは、 いかなる原因によるかをたずぬるに、 旧来の五節句は、 数百年来の習慣によりて成りたるものにして、 今日の祝日、 祭日は僅々十年ないし二十年間に成りたるものなれば、  二者同日の論にあらざるなり。 しかりといえども今日の勢いにては、 旧来の五節句は年ごとにその旧に復し、 新祝日、 祭日はますます衰微の色をあらわすを見れば、 今日より数十年を経過するも、 新祝日、 祭日の旧節句のごとくにぎわしくなるを期すべからず。  果たしてしからば、 さらにほかの原因を、 そのことについて探求せざるべからず。

 余察するに、人情一般に花より団子を好み、 花の下より鼻の下を愛するものなれば、 旧五節句のにぎわしく、かつ人のこれを待つことの切なるは、 その付き物として一定の飲食あるによる。 例えば、 三月の節句には白酒あり、 草餅あり、 桜餅あり、 五月の節句には柏餅あり、粽あり、 人その節句を待つよりその食物を待つものなり。人の正月を待つも同様なり。 もし、 正月に屠蘇なく、 雑煮なくんば、 さほどこれを待つものもなかるべし。 白酒は何月にても飲むべく、 柏餅はいつにても食うべしといえども、 数百年間の習慣によりて、 飲食と節句との間に連想の関係ありて、 特別の飲食は特別の時節にあらざれば、  さほどその味の美なるを感ぜざるなり。 あたかも雑煮は一年中いつにても食し得べきも、 正月元旦のときのごとくその味を感ぜざると同様なり。  かくのごとく飲食のために制せらるるは、 児童に限るように考えらるるも、 たとい大人にても、 世間十中八九は花より団子を好むの人情なれば、 五節句を楽しむは五節句そのものの上にあらずして、  その付き物たる飲食の上にあることを知らざるべからず。

 果たしてしからば、 今日の祝日、 祭日を盛んにするには、 その季節に相応したる一定の飲食をもって付き物とするを要するなり。 例えば、 紀元節には紅梅餅をつきてこれを祝し、 天長節には菊酒を傾けてこれを祝することとなし、  そのほかの祝日、 祭日みな旧来の五節句のごとく一定の食品を設くるに至らば、 その日のにぎわしくなるはもちろん、  人のその日を待つや、 決して五節句に譲らざるに至るべし。  かくのごときことは、 多年の習慣によりて起こるものなれば、 数年の後には自然に新祝日、 祭日に一定の飲食の付き添うに至るべしというものあるべきも、 人ありて前もってその季節に応じたるものを選びてひとたびこれを定めたれば、 数十年の後に至るも自然に一定するを期すべからず。 また、  かくのごときは積年の習慣によりて、 儀式と食物との間に連想の生ずるに至らざれば、 その功なしというものあるべきも、 今よりこれを一定するにあらざれば、 幾百年を経とも、 その連想の生ずべき理なし。 あるいは一定の飲食を設くるも、  これを全国一般に普及すること難しというべきものあるべきも、 もしこれを一定して全国の小学校においてその例を示さば、 決して普及するに難きの憂いなし。

 かくのごときは瑣末のことにして、 大人の論ずべきことにあらずというものあるべきも、 世の風俗習慣を改良するには、 人の注意に触れざる瑣末のことをかえって大切にし、 決してこれを軽々に看過すべからず。 古諺にも「塵積もりて山を成す」というがごとく、 世の盛衰、 文明の進否も、 みな瑣末のことより起こる。 またそのことたる、 小児、 愚民の人情にもとづくものなりというものあるべきも、 この人情は社会多数の人を支配するものなれば、 これを適宜に導くは、 その功かえって大なるものなり。 かつ大祝日、 大祭日のごときは、 民の労苦を慰するの重要の恩恵日なれば、 多数の人民の人情を酌量して、これを適合すべき儀式を組織するを肝要とす。 もしそれ、一国の歴史に関係ある祝日、 祭日をして、人のこれを待つや盆正月のごとくならしめば、 国家的観念を養成するの一助となるべし。

 そのほか、 当日の儀式、 装飾等につき、  国家的観念を養成するの目的をもって新たに組織し、 あるいは改良すべき必要の件々あれども、 その論は他日に譲り、 まず前回「新年変更説」に付属して「花より団子説」を述ぶること、かくのごとし。

 



   一一 曹洞宗につきての所感を述ぶ


 私は当春、 御宗の大本山において、 宗祖の六百五十年忌の大法要が執行になると聞き、 そのころぜひ登山して参拝しようと思ったが、 不幸にしてその意を遂ぐるを得なんだに、 さきごろ越前地方へ旅行して、 しかも大本山のごく近傍まで行った。  この機失うべからずと思って、 今日は登山しようという前夜発病しまして、  これまたついに登山ができず、 むなしく東京に戻って来たは、 実に遺憾に存じておりました。

 ところで今回、 曹洞宗青年会において記念のため盛んなる演説会が開かれ、 しかも私まで招待を受けてこの席に臨むことを得た。  さすれば、 大本山に参拝せずとも、  ここに来て私の所見を申し述べれば参拝したも同様と思って、 今日は種々私の学校の事業その他に約束もあって非常に多忙なのでありますけれども、 約二時間ほど繰り合わせてようやく出席いたしました。  しかしてその述ぶるところは、  ここに掲げてある「曹洞宗についての所感を述ぶ」というのであります。

 つまりこの演題の主旨は、 本年御開山の六百五十年忌の大法要を営まるるは、 まことにめでたいことである。願わくは、  これに対してなにか立派なる記念を残してもらいたいというにとどまるのです。 しかしながらその記念というのも、  このごろ世間でやるように、 記念碑を建てるとか銅像を造るとかというようなのは、 私の望む記念ではありませぬ。 私のいわゆる記念とは、 もっとずっと大きなのを望むのです。 その理由をこれから、  いささかお話し申します。

 まず、 日本の仏教界のありさまをみますると、 海外に向かっての伝道の道は一つも立っておらぬ。  たまたま朝鮮、  シナなどに説教所とか出張所とかがあっても、 それは朝鮮人、  シナ人等の外国の人を相手に布教するのではなく、 ただ日本人のかの地に居留しておる者に対して布教伝道するということになっておる。 近ごろはアメリカのサンフランシスコにも布教所ができておるけれども、  これとて欧米人に向かって布教をするというにはあらずして、 ただわずかにサンフランシスコにおる日本人を相手に布教をするのみであろうと思う。  されば、  日本の仏教は日本国内だけに広まって、 海外諸国には少しも広まっておらぬ。 その日本国内の布教伝道さえも、 十分できておるかどうかは分からぬ。  しかしてこれに反し、  かのヤソ教などのありさまを見ると、 どうでありましょう、実に世界いたるところに万国行く所として、 布教伝道に着手せない所はありませぬ。 現に日本にても津々浦々に至るまで、 ヤソ教の布教伝道をやっておらぬ所はありません。 そこで、 どうしても今後の仏教者にあっては、 日本一国の布教をもって目的とせず、 奮って欧米各国に至るまで布教伝道をしなければなりませぬ。

 さて、それをしなければならぬということはわかっておるが、 その方法としてはどうしたらよかろうというのが、  これが最もむずかしい問題である。 だれも仏教を海外に広めたくないという人はない。 わが宗こそは率先して海外布教をなそう、  わが宗こそは人に後れず伝道に着手しようと思ってはおるが、 いまだ時機が至らないとしておる。 しかしながら、 時期が至っておらぬの、 実力が足りないのと言って躊躇しておったならば、 なかなか容易にできる気辿いはない。 されば、 なんとかして早速海外に向かって仏教を広むる道をひらかねばならぬ。  これについて、 私に一つの工夫がある。 仏教を海外に広むるには、  仏教でないほかの宗教と競争しなければならぬ。西洋各国ではヤソ教が盛んである。  ゆえに、  これに対して競争の結果、 仏教が機先を制さなければ広まるわけにはいかぬ。ところが、今日のこの仏教が進んで海外に行ってヤソ教と競争するということは、決して望むべからざることである。ところで私は、 仏教を海外諸国に広めるに、 異なった宗旨を対手にする二つの方法があるということを見いだした。その一つは、 異なった宗教はどこまでも敵とみなして打ちやぶっていくのと、 今一つは、異教をば敵とみなさず、  ヤソ教もやはり仏教だ、  マホメット教も同じく仏教の一分だとして、  みな一分の味方に入れて広めるというのとの二つである。 以前、 私は仏教を広めるには、 どうしてもヤソ教というものはこれを敵として打ち破らねばならぬという考えで、 あるいは『破邪新論』とか『破邪活論』というような書物を書いて、大いに罵詈をやった。 その後だんだん考えてみると、 駁邪ということは仏教の本義でないということをみた。  それは、 仏教がインドからシナ、 朝鮮を経て東漸したところの形跡にかんがみてよくわかる。 

 いったい、 仏教がこの東洋諸国に広まった事跡を見るに、 異宗教を一つとして排斥しておらぬということは、明らかなる事実である。 その結果として、  かくのごとくさかんに東洋諸方に広まったのである。  まずインドから申せば、いうまでもなく、  かの地はバラモン教が盛んであった。 しかして、 仏教からこれを邪教であるとか外道であるとかといって争ったのはずっと後のことで、 もう仏教が広まってから七百年も八百年も経ってから、 議論上相敵視することになったのである。 しかるに、 仏在世に仏教を広めらるるときには、  これを敵としておらない。 先方にはこちらを敵と思っても、  こちらからは決してそうしない。  そうしないという証拠は、 仏教中にはバラモン教で立てる神を、  みな仏教中のものとして説いておる。  すなわち、 弁才天とか帝釈天とか大自在天とかという天部を、 ことごとく自分の道具として使っておる。  お経の中にはたくさんこの天部の話が書いてあって、  人間界より天上界のすぐれておることが説いてある。  これすなわち、  釈迦がバラモン教を敵とせず、  かえってこれを味方とするという考えから、  これらをみな小乗教のお経となしておる。  小乗教のお経を翻して見ると、 半分はバラモン教、 半分は仏教というふうに思わるる。  要するに、 釈迦がインドに仏教を広めるに異宗教を打ち壊そうとはせず、 ずっと大仕掛けに外道も味方とした方がよかろうというふうに、  大風呂敷を広げてバラモン教を包んだ。  これ、  インドにたやすく仏教が広まったゆえんである。  インドの人民は宗教にはよほど熱心なもので、 今日はイギリス人にほろぼされてその属国となっておるが、 いかなイギリス人も、  国はほろぼしたがその宗教をほろぼすことはできなかった。  インドの人民は国家に対しては忠実でないが、 宗教のためには忠実なものだ。いにしえにおいて最も多くこれを見るようだ。 もしも釈迦があの当時バラモンを敵としたならば、  ただに仏法が広まらぬのみではなく、 釈迦のご生命さえどうなったか分からぬ。

 ここが仏の方便で、  これを敵としてはいけないというので、 外道もみな人天教として天部を立て、  バラモン教の説は人天教の一部として世間教に混じてみないれて、 しかしてその上に仏教があるということを知らした。  すなわち、 人間界の上が天上界で、  その上に仏界を立て、 バラモンの天部の神よりはもう一つ高い所に仏境界があるとして、バラモンの天部そのものを少しも敵と見ず、 自分の中のものとして仏教を広めた。  これすなわち、  インドに仏教が広まったゆえんである。  さてその広め方が、 シナヘ来ても日本へ来ても、 同じ轍を踏んで広まっておる。 シナにあっては、ちょうどインドにバラモン教があったがごとくに、 昔から儒教、 道教というのがあって、 いよいよ仏教を広めようというには、 どうしてもこれらと競争しなければならぬ。 そこで、  これを敵としては広まらぬということを観破して、 あたかもインドにあってバラモンをいれたごとく、  シナに来るとまた、 儒教、  道教を自分の中にいれて説いた。

 すなわち、 仏教では世間教と出世間教とを説く。 老荘の教えはこれを世間教となし、 やはり仏教だとして少しも敵としなかった。 しかして、仏教はこのほかに出世間教というものがある。 これは儒教でも道教でも説かない教えだといって、 甘く結び付けて広めた。 それからさらに日本に来れば、 すなわち神道なるものを少しも敵とせず、本地垂迹とか権化とかの説を立て、 神道もやはり仏教と一つのものとして広めたから、 まことに都合よく広まった。 以上の例に徴して、 すなわち仏教は異なった宗旨を敵とせず、 かえってこれを味方として広まったということは明らかである。

 かように考えてみると、 昔から西洋各国に仏教を広めるには、 やはり異宗教をこちらの味方に入れねばならぬ。 ヤソ教を邪教だといって反対しては、 どうも西洋に入れらるるわけにはいかぬ。 それよりもう一つ大きく、ヤソ教もやはり仏教だとして布教をする。 しかし、 そんなことができるかどうかというと、  これは仏教の特色といってもよい。 仏教は仕掛けが大きい、 風呂敷が大きいから、 どんな物でも包むことができる。  バラモン教も包み、儒教も包み、 道教も神道も、 それからヤソ教もマホメット教も、  さらに一歩を進めてあらゆる世界の宗教を、ことごとくこの大風呂敷の中へ入れて、 しかしてどしどし海外に向かって布教伝道をしなければならぬ。 しからば、 かくのごとき諸宗教を包み込むには、 どういうふうにしたらよいかという〔の〕が一つの問題である。  これは、  かのインドのバラモン教において造物主宰を立てる教で、 ヤソ教もバラモン教も同じである。 そのバラモン教を入れた仏教だから、 むろんヤソ教を入れることはできる。 しかしながら、 今日と昔とは思想が違うから、昔のバラモン教を入れたような仕方ではとてもいかぬ。  今日の時世に考えて、 ヤソ教を味方にする方法を講じなければならぬ。 

 それについて私がだんだん考えてみるに、 各宗中、 禅宗がいちばん適当しておるということを見いだした。  日本十三宗の中では、 禅宗の大風呂敷をもってヤソ教、マホメット教を入れたならば、 決して入れられないことはあるまい。 私は禅宗は不案内で、 禅三派のうち臨済と曹洞とはどれだけ違うかというようなことはわからぬが、今日はただ何の派として区別して望むのではない。  すなわち、 禅宗というものの風呂敷がいちばん大きいからいちばん都合がよい。 これをもって異教を包み込んで伝道をしたならば、 まことにたやすかろうと思う。 今までのような腐れ根性で、 ヤソ教を外道といってこれをしりぞけてはいけない。 すなわち、 インド、 シナに昔広まった成績に考えて、 自分の味方として広めるがいちばん良策である。 しからばなお進んで、 この禅宗の立て方がどうというふうにいくかどうかということをいわねばならぬが、  ことごとしく述べることは今日の席上ではでき難いから追ってのこととして、ただ要領だけを申しておきます。

 私の考えでは、 ヤソ教がもう一歩進んだならば、 あるいは禅宗になりはすまいかという想像がある。  ヤソ教の中にもいろいろ宗旨があるが、 新しくできる宗旨は議論も発達し考えも新しくなる。 その中にクエーカー宗というは最も新しい宗旨で、これはまた宗旨としてはそう多数の信者も勢力もありませぬが、しかしその宗旨の立て方としてはずいぶんおもしろい。 イギリスにはこの教会が二、三百もある。 私がある田舎の教会へたずねたそのときに感じたことは、 まるで日本の禅宗だとこう思ったことがある。  これにはだいたいほかの宗旨と違ったことを述べねばなりませんが、 まるきりヤソとしては毛色が変わっておる。これは第一、 教会とか寺とかというものを建てない。 寺や教会堂はヤソ教として建つべきものでないという主義で、 もし教会堂といえば、 世界みな教会所だ、 自分の家も人の家も、 山の上海の中みな教会、 いたるところ一つとして教会所ならざるはなしとしておる。それから牧師、 僧侶などを置かない。人間みな牧師だ、 彼も牧師われも牧師、 彼も僧侶われも僧侶という主義で、 いかなる者でもその信者は同格な者で、 それから神様の名を唱えるということを禁じ、 しかのみならず、礼拝に一定の式を設けず、 また堂内を飾るということも禁じてある。 そのときに私が行って見たありさまをお話し申せば、 日曜日にある教会所を参観した。 教会所は同信者の集会所で、 そこには大勢が集まっておる。 近傍に行って様子をうかがってみるとまことに寂寥で、 今日はここにはなにもないのかしらんと思って、 戸を開けて入ってみると満場だ。  その大勢の人があたかも眠るがごとく、  ごく静かにしておる。 入ってみて驚いた。  それはどうしたのかというと、 その宗旨ではみな集まって沈黙をする、 いわゆる禅宗の坐禅というようなものと考える。しかしてその座り方も、 どちらが上ともいずれが下ともわからぬ。  みな勝手な方面に向かって、 西を向いておる者、 東を向いておる者、 いずれも沈黙をやっておる。  やがて十分か十五分間ばかりも経つと、  ふと一人が立って説教を始める。  それはだれがやっても構わぬ。  それが牧師も僧侶も定まった者はないのだから、 沈黙の中になにか自分の心に思いつくことがあると、これは神の命ずるものだとして、 心に浮かんだ人がやりはじめる。  そのうちに信心の牧師が立って祈りをはじめるかと思うと、 しばらくするとまたこちらの方で、 ヒョコッと立って説教を始める。 ちょっと見ると、 まるで狂人の教会所のようである。 ほかの宗旨の様子とはまるで違っておる。  一時間か一時間半もそれを続けて、 それが済むと足音もさせないようにソッと外に出て行く。  ほかの宗旨では、 外に向かって拝み外に向かって祈る。  この宗旨では、 内に向かって祈り内に向かって信ずるので、 神を外に向かって求めない。 しかして、 必ず神に出逢うといっておる。

 すでに、 ヤソ教にかくのごとき新しき主義の宗旨があるとすると、 禅宗とはどの点が違うか、 ほとんど区別に苦しむことになる。  いったいヤソ教の立て方は、 わが神のほかに神があるというから、  すなわち客観的の説だといって哲学者などはこれを攻撃し、 漸々説がむずかしくなってきて一年増しに説が進み、  今のクエーカー宗のごとき、 精神の上に神を説くのだからいわゆる主観的で、この客観的に神を説く方はおいおいなくなってくる傾向がある。  この点から考えてみても、 今のヤソ教がもう一つ形を変じて、 神を精神的に求むるということになったら、 早晩西洋にはヤソ教の禅宗ができるだろうと思わるる。  ゆえに、 そのできないうちにこちらから特有の禅宗を持って行っ て、 これはヤソ教の一段進んだものだというふうに先んずれば人を制する。 一足先に行って布教に着手したならば、 知らず知らずの間に仏教に入れてしまうことができる。  これは禅宗の人にぜひやってもらいたい。 禅宗の大風呂敷、 なんぞヤソ教、  マホメット教を包むことあたわざらんやであります。 しかるに、 もしもこの策に出でずして外教をあくまで敵として、 かれをしりぞけてこれを広めようとしたならば、 千年万年の後はいさ知らず、 到底容易に広めることはできまいと思う。 前にも申したとおり、 禅宗は内心に向かって仏を求むるいわゆる主観的で、 しかしてヤソ教は外に向かって神を求むるいわゆる客観的で、 今やヤソ教の信仰は主観的に向かわんとしつつあるのですから、  この機失うべからずであります。 ぜひひとつ、 世界万国に布教をすることを禅宗の方々に講じてもらいたいのです。  かく申すと、 中には、 内地でさえまだ十分布教は行き届いておらんのに海外へ布教に出かけるとは、 大胆である冒険であるという人もあろうが、 その心配には及ばぬ。  この禅宗が海外にまでも広まるということになれば、 内地の布教伝道はその反響で、  おのずから広まるに違いない。

 そこで、これから大声をあげて、 西洋各国、 イギリス、 アメリカ、 ドイツ、 フランス、 どこへ行っても、 この禅宗を広むるはわけのない話だ、内地の布教がどうのこうのと、そんな意気地のない心配はさらにご無用だ。ゆえに、これから禅宗の僧侶方、ことに青年諸君はよろしく大奮発を起こして、 国家のためと思わば海外布教をなさることが、 このたび宗祖の六百五十年のご法事に対する大いなる一つの記念であろうと思う。 この記念演説会を開かるるも大法要を営まるるも誠に結構ではあるが、 これはまだ事が小さい。 なんでも世界歴史上に、 開山六百五十年の大記念を残してもらいたいものです。 これすなわち、 ただにご開山に対する報恩なるのみならず、  釈迦牟尼仏に対する報恩である。  このごろ世間ではやる、 石碑を建てるとか記念堂を建てるとかというようなことは無益なことだ。 どうかこの機を逸せず、海外に向かって布教伝道の道を開いてもらいたいというが、 私の望むところでございます。

 今日ははからずこの席につらなることを得、 喜びのあまり、いささか自分の所見を述べた次第でございます。




   一二  釈迦なにびとぞ


 釈迦牟尼仏、 ひとたび沙羅双樹の間に円寂を示されてより、 はや二千八百五十年を経ましたが、 その古今の状態を照らしみるに、 実に感慨に堪えざる次第である。  仏在世の当時およびその滅後千年間は、  インドの文物降盛を極め、 東洋はおろかのこと、 世界中第一の文明国でありしそのインドが、 三千年の今日、 白色人種いな赤髯人種の従属となり、 奴隷となり、 年々歳々、 苛政に苦しみ飢渇にたおるるの惨状を見るは、 なんと憫然のいたりではないか。  ひとりインドのみならず世界中、 仏の遺教を奉ずる四億五億の生霊は、  みな赤髯人種のえじきとなり、  おもちゃとなりて、 日々生き血を紋り取らるるありさまを見て、 不快の念を抱かざるものは、  おそらくは一人もあるまい。  これ、  仏教の末路、 東洋の滅亡期に達したる故であるか、 あるいは仏教そのものは徹頭徹尾消極的厭世的にして、 到底世迎の文運とともに並進両立することあたわざる故であるか、 我が輩大いに迷いかつ疑うところであります。

 諸君よ、諸君は日本国民として、 四千万の同胞兄弟とその利害を同じくし、 その苦楽をともにするがごとく、仏教信徒としてはシナ、  アンナン、  シャム、 ビルマの人民と、  また利害苦楽を一つにするに相違なかろうと思う。 そのいわゆる宗教上の同胞が、 今日飢えに泣き渇に苦しむ以上は、 決してこれを他人視し度外視することはできぬ。 必ず東洋仏教徒をして、 此土寂光の安楽地に住せしめなくてはなりませぬ。 もし釈迦牟尼仏をして、 今日の現状を目撃せしめたならいかがであろうか。  必ず己の愛子が継母の下に苦しみつつあるを見るより、 なおその心をいたましむるに相違ない。  およそ世間の道としては、 子たるもの互いに兄弟姉妹の患難を救い、 もって親の心を安んぜしむるは、 孝道の第一なるがごとく、 仏の遺教を奉ずるものは、 世界の仏教徒の艱苦を救い、 もって唯一の父たり母たる仏世粒の心を安んぜしむるは、 また仏祖に対する孝道と中すものである。  されば、  わが日本の仏教徒たるものは、  大いに奪って東洋の退勢を挽回することを努めなくてはなりませぬ。

 まず、 世界の人種を西洋人種と東洋人種との二つに分けて見るに、 西洋人種ひとり優等にして、 東洋人種は果たして劣等であるか。 彼も人でありわれも人である以上は、 決して天然にかかる優劣の差を生ずる道理はあるまい。 余がみるところによれば、 今日今時といえども、 東洋人種は決して西洋人種の下に立たぬと思う。 そのわけいかんとなれば、 西洋今日の文明は有形的、 物質的、 器械的にして、 そのよく世界を圧倒し東洋を蹂躙するも、そのいわゆる物質器械の力なることは疑いないことである。 しかるに東洋の文明は無形的、 精神的、 意志的にして、 古来久しく世界を支配したるも、 またこの点であります。 今その一例を挙げましょうならば、  今日広く五大州の人心を支配する宗教は、 西洋人の発明したるところのものか、 あるいは東洋人の工夫したるところのものであるか、 仏教もヤソ教も四教も火教も、  みな東洋より出でたるものに相違ない。  さすれば、 宗教上にありては、東洋人よく世界を一統したりといわなければならぬ。 けだし、 東洋の文明は精神の内部に向かいて発達し、  その応用を宗教の上に示すに至り、 西洋の文明は物質の外部に向かいて発達し、 その応用を器械の上にあらわすに至れりと申して差し支えない。 ただ、 今日の時機は器械的文明の跋扈する時代なれば、 東洋は西洋のおもちゃ、 えじきとなるの不幸を見たるわけである。 さりながら、 物質と精神とは相まつものにして、 完全なる文明は物質的の方面のみをもっていたすことはできぬ、  必ず精神的のこれに伴わなければならぬ。

 例えば戦争するに、軍艦、兵器の精巧のみにて勝利を得ることはむずかしい。もし兵士そのものが無気力、 無精神にして、 処女のごとく鼠のごとくでありてはいかに堅牢なる軍艦も精巧なる兵器も、 なんの役に立つものでない。  これに反して、 兵士はみな勇敢忠武にして、 敵を恐れず死もおそれず、その勢い山を抜き世をおおうほどの精神であれば、 百戦百勝の結果を見るに至るは相違ないことである。 しかし、  いかに兵士は尚武の気に富んでおりても、 粗悪なる器械にては、 また勝利を得ることはできますまい。 ゆえに、 精神と器械とは両方相またなければなりませぬ。  果たしてしからば、 今日の器械的文明に次ぎて大いに世界中に興さざるを得ざるものは、 余がいわゆる精神的文明である。 しかしてこの文明は東洋古来の特色でありて、 なかんずくわが仏教の特質であります。 

 そも仏教には小乗あり大乗あり、 世間的あり世外的ありまして、 あるときは厭世の形をとり、 あるときは消極の色をあらわしましたれど、 そのいわゆる大乗の精神を世間の上に開展しきましたならば、 実に世界を圧倒し、宇宙を併呑するの勢いを示すことは容易であります。 インドは早くこの精神的仏教を失いたるがために、 むなしく赤髯人種のえじきとなり、シャム、  アンナン等は小乗の厭世的仏教の中毒のために、 また自ら病死せんとするありさまである。 シナ、 朝鮮は幸いに大乗仏教の伝わりしも、 これを世外的一方に応用し、 社会国家の上に当てはめざりしは、 その国勢の振るわざるゆえんであります。 これに反してわが日本帝国は、 開教以来有縁の地と称し、十三宗四十派の仏教はことごとく大乗教であるのみならず、 その至高至大の教理を世間国家の上に開ききたりて、一大元気を発揚するに至りました。しかるに徳川三百年の太平のために、 そのいわゆる世間的はようやく世外的に傾き、 消極的に流れんとするようになりたれば、 今より大いに革新を諸宗諸派の上に断行し、  大乗の真面目を世界に発揚せなければなりませぬ。 しかしてその真面目とは、 仏のいわゆる三界唯一心の大精神のことであります。  この精神が機に触れ時に感じて、 唯我独尊の呼び声となり、 十九出家の発心となり、 三十成道の大覚となり、 五十年の説法となり、 八万種の法門となりました。

 諸君よ、 諸君はなんと広大無辺の精神ではないか、 甚深無量の法門ではないか。 けだしその精神たるや、 天地を包み、 万物を含み、 宇宙を含み、 六合をあわせても、 なお余りある絶大無二の一心である。  これを名づけて一如といい、 法性といい、 妙心といい、 真如というも、 みな仮名に過ぎない。 名のよく名づくるところにあらず、言のよくあらわすところにあらず、 実に不可思議の一心であります。  かかる一心がわれわれの五尺に足らぬ肉身の中にその門を開き、 わが体中に一心あると同時に、  この一心中にわが体ありて、 両者相離るべからざる関係がある。これを不一不二といいます。  それゆえに、  わが心のひとたび時事に感激するや、 水も溺らすあたわず、  火も焼くあたわず、 その勢い実に天地を動かし鬼神を泣かしめ、 彼我を離れ生死を忘るるに至る。 これを絶大無二の一心の感発に帰せずして、 なにに帰しましょうか。

 東洋精神的文明の原動者となりて、  かかる広大の一心の存在を指摘せる大乗仏教が、  インドよりシナに入り流れて、 儒教の田にそそぎ、 転じて宋儒の理気説となり、  陽明の唯心説となり、  さらに進んでは日本に入りて、わが国民の元気を発揚し、 そのいわゆる大義名分も忠君愛国も、 大乗的精神の直接もしくは間接の涵養に出でたるに相違ない。 要するに仏教の大乗的精神は、 日本に来たりてはじめて世間国家の上に開発したることは、 疑いなき事実であると考えます。 今や白色人種いな赤髯人種が器械的文明の鉾をもって、 黄色人種いな黄金人種をくるしめるに当たり、 よくこれに抗して東洋文明の特色を発揮し、 赤髯人種をして黄金人種の前に平伏せしむるには、 仏教のいわゆる大乗的精神を国家の上に発揮するほかに、 良策はあるまいと固く信ずるところである。  われわれ日本人は赤髯人種にあらず、  黄金人種であることを忘れてはならぬ。  すでに黄金人種である以上は、 赤髯人種の世界に跋扈し、 東洋を蹂躙するを見て、 だれも快く思わぬに相違ない。 いわんや赤髯人種のお供となり、 太鼓持ちとなり、 下足番となるにおいてをや。  これシナ人はいさしらず、  堂々たる日本男子の忍ばざるところである。 しかれども今日の勢い、 わが進歩彼に数百年おくれたるために、 百年みな彼を学び、 彼をまねせざるを得ざるも、  これ一時の方便にして、  われの決して目的とするところではない。 しかるにわが国民中に、 西洋の物質的文明に眩惑せられ、  一から十まで彼のなすところを学び、 彼の身振り、 声色をまねし、 彼の髯を払い、 彼のよだれをすすり、 もって自ら足れりとし、 本望を得たるがごとく思う輩があるかのように見えますが、  これはもってのほかの心得違いである。

 近ごろ国字改良を口実として、 漢字廃すべし、 ローマ字用うべしなどと唱うる連中には、 西洋崇拝の臭気ふんぷんとして、 鼻をうがつばかりのものがある。  また学中にも、 東洋学の特色たる唯心論を忘れて、 西洋学の特色たる唯物論を唱え、 もって鬼の頭を取りたるがごとく得意然たるものがある。  これみな、 大なる心得違いであります。  われわれ日本人は東洋人種、 黄金人種である以上は、 東洋固有の特性を維持し、  これに西洋の特性を混和し、  さらにその上に立ちて万丈の気炎を吐かなくてはならぬ。 東洋広しといえども、 よくこの大志を抱き、 この重任を負い、将来成功の望みあるものは、 日本人のほかに一人もなしと、 余が断言するに躊躇せんところであります。  願わくは将来百年の後には、  世界中より日本人を指して、 東洋人種中にもこの人種ありと称揚せらるるに至らんことを望まなくてはならぬ。

 果たしてしからば、 わが日本人の責任は西洋に同化するにあらずして、 東洋の特性を発揮するにあると信じます。しかしてこれを発揮するには、 西洋の物質的文明を吸収し消化して、 わが体の滋養とするがよい。  ゆえに、われより西洋の文明をみるは、 なおわれ牛肉をみ、  スープをみるがごとくすべし。 決してこれをもってわが精神となし、 生命となしてはなりませぬ。 しかるに、 日本人に対して独立自尊を喋々する先生が、 西洋に対すると不独立、 不自尊を示すがごとき今日一般の国風なるには、 あきれはつるよりほかはない。 あまり長く同じことを繰り返して、 下手な長談義になりては、 かえって聴衆諸君の迷惑である。 よって、 余は今日の演説の本旨を摘んで結ぶこととしましょう。

 畢竟するに、 西洋文明の特色は物質的にして、 東洋文明の長所は精神的である。 しかして、 その精神的の巨魁となり、  原動となるものは仏教である。 この仏教の大乗的唯心説を国家社会の上に応用し、 そのいわゆる絶大無二の大精神を物質的文明に混和し調合して、 活動的となし、 進取的となし、 もってその光輝を世界に発揚し、 仏滅後三千年の間潜勢力となりて、 静止せる大精神を物質的文明の馬上に駕して、 世界に長駆せしむるに至らば、東洋人種として再び世界を凌駕するの日を見るは必然である。  よくこの大望を有しこの大任を果たし得るものは、 東洋中ひとり日本国民あるのみなれば、 われわれ同胞四千万は、 今より大いに仏教の大精神を自己の心中に喚起し、 釈迦なにびとぞ、  われなにびとぞ、 その気力をもって、 まずこれを国家の上に発揚し、  一系連綿、 天壌無窮の国体をして東洋はおろか世界の舞台に独立独歩せしめ、  これと同時に東洋人種、 なかんずく仏教的人種をして、 再び世界を震動せしめんことを祈らなくてはならぬ。  しかして、 よくこの重任を託し得るは、 天保や嘉永生まれの老人ではない、 安政、  文久も望ましからず、  ひとり明治の御代に生まれたる青年諸君である。

 今日は曹洞宗の青年諸君の発起にて、かかる盛大なる涅槃会を開かれたることたれば、 いささか余が青年諸君に望むところを述べて、  涅槃会を祝したるまでである。 仏もしこれを聞かばなんといわれんかは、 余が知るところではありませぬ。

(明治三十四年二月十五日、 釈尊涅槃記念演説会において)

 



   一三 仏教研究上における改良意見


 まず、 今日宗教学校における弊風というはなんであるかというに、 そは学生が世間の書生と同じ精神となれることです。 元来、 世間学校と宗教学校とには、 いずこにか変わったところがなくてはなりませぬ。 しかるに、それがかわらぬというは心得違いであります。 たとい勉学の都合上、一時やむをえず服装は俗衣を着すといえども、 決して宗教者たるの意志を忘却してはなりませぬ。 そもそも宗教学校の目的は宗教が本旨にして、 学問はその目的ではありませぬ。 しかるに世間の学校は、 全く学問がその目的であります。 しかし仏教を一方面より見るときは、 哲学としての学問ではありますけれども、 その実は宗教でありますから、 いやしくも宗教学校にある以上は、 宗教者の本心を失わざるようにするのが第一であります。  すでに宗教が本旨なれば、 信仰を本としなければなりませぬ。 もし、 宗教にして信仰が欠けたならば、 学術と同じことになります。 宗教と学術との相違は、 ただ信仰心の有無に基因するので、 普通学は推理力をもって研究し、 宗教学は信仰力をもって研修いたさなければなりませぬ。 目下、 宗教学校においては宗乗余乗および泰西の諸科学を学んでおるのですが、 その仏書と科学とを同視せぬようにいたさなければならぬ。 しかるに、 現今宗教学生にして少しくその科学を知るに至れば、  とかく宗旨そのものを疑うようになる傾きがあります。 もし、  かようになったならば、 宗教は全く不用のものとならねばならぬけれども、 元来吾人の知力にては、 ある点までは知れ、 ある点以上は知ることができませぬ。 しかるに、 もし学術のみで知り得ることができることなれば、 今日より宗教を奉ずることをやめなくてはならぬ。  されども、人知は有限にして可知的のもの、 宗教は無限にして不可知的のものであるから、 人知にて知れぬところは宗教によって考察いたさなければなりませぬ。 なにほど人知が発達しても、 不可知の範囲は決して脱することはできませぬ。

 人類普通の知力にて知るべき範囲に属するものにして、今日なお知れぬところの部分が多くあります。 その知れぬところの部分は、  これを宗教によりて求めなくてはなりませぬ。  しかしこの点については、  人々の見解も異なりまするけれども、 宗教に従事するの人は、 深くこの点に注意しなければなりませぬ。 いやしくも宗教に身を寄せ心をゆだぬるからは、 第一信仰を基礎として、  すべての学問はつまり宗教研究の材料として学ばなくてはなりませぬ。  しかしてまた日進月歩するにしたがい、 昨日知らなかったものも今日これが知られてくるのは、 そは人間可知の範囲における未知が知られてきたまでのことにて、  人間不可知の部分はどのように人知が発達しても、 普通の学術では知ることができませぬ。 ゆえに、 宗教と学術とは全く別物であります。  しかして、 いよいよ学術の進歩によりて不可思議の実在を確かめるところの学術が、 宗教の不可思議分際を証明するようになるということを予想しなくてはなりませぬ。 そのときには宗教と学術とが衝突せぬようになるけれども、 ただ普通の学術眼をもって宗教を研究すれば、 ついに懐疑に陥りて宗教を破壊するの恐れがあります。

 つぎに、  昔の学問すなわち太平のときにゆるゆると学んで、いらぬ手数を費やせしところの旧元素と、  今日の新元素との衝突であります。 今日新元素の方は、 科学的見解をもって仏教を説明いたしまするによりて自然懐疑に陥るのきらいがあり、 旧元素たる保守派が説明すれば、とかく昔流になりておもしろくありませぬ。 そこで、新元素の人は旧風を打破せんとし、  これがため、ついに宗教そのものをも破壊するの恐れがあり、 旧元素の人は旧風を固守するがゆえ、 科学的脳髄のものをして信ぜしむることができませぬから、 これもまた宗教そのものを自滅せしむるの恐れがあります。 よって、この二者を調和するは、 現今の百年僧侶がなさねばならぬところの一大責任であります。  この調和がなりて、  はじめて旧来の弊風を撲滅し、  また懐疑者も、 宗教と学術との異なる点を了解することができます。

 昔より以来、 仏教の学問はずいぶん迂回なる研究をなしておるの点があります。 しかし宗教学は、  世間の学問と同様には申されませぬけれども、 むだな骨折りをする人がたくさんにあるゆえ、 その研究法を改良いたさなければなりませぬ。 現今までの仏教学者の仏学の範囲は、  極めて狭隘であります。 ゆえに青年諸士は、 今後大いに昔より層一層その範囲を拡張して、 研究いたさなくてはなりませぬ。 今までは倶舎、 唯識、 華厳、 天台等を学ぶはずでありましたけれども、 それをことごとく学ぶものは、 はなはだまれでありました。  倶舎に七年、 唯識に五年もかかりて年たけ、ついにそのうえに学問もせず、 昔からたくさんにある註釈本をせんぐり繰り返して大同小異の説を吐き、 点の付けようくらいに迷っておるのです。  かかることは「骨折り損のくたびれもうけ」というもので、 学問は一歩も進みませぬ。  およそ進歩的の研究とは、  昔よりいまだかつてあらざる経典の註釈をなすべきであります。  仏経はなかなかの大畑でありまして、 倶舎、 唯識などはほぼ開拓せられてありますけれども、 その余の部分はいまだ草ぼうぼうたるありさまです。 そこで、 後来続出する人々は、 よろしく未墾の大部分に向かって開拓せなければなりませぬ。 今日までは、『大蔵経』中において読むところの大抵は定まってあるようです。例えば仏教倫理には『大蔵経』中いくらもありましょうけれども、それを探しだすことをつとめず、ただ古人が引用しきたっただけのもので事足れりとするは、 はなはだ不可であります。  昔の人と今日の人とは見解が異なっておりますから、 書物でも昔必要であったものも、 今日に適せぬものがあります。 大いに『大蔵経』を探って、新しき引用書を見つけるが肝要です。  今日まで知れなかったよきお経も、 定めしたくさんありましょう。 ゆえに『大蔵経』を調べるにも、一見識を立てて調ぶるが今後のものの急務と存じます。

  つぎに、 青年諸君は自ら日本の歴史を編纂する急務があります。 今までの歴史は排仏家の神儒者によりて編述せられたのでありますから、仏教者の国家に尽くした偉大の事跡を記載いたしませぬ。かつ、 文学、 美術が仏教によりて非常に発達したことなどは、一つも掲げてありませぬ。 よって、 完全なる日本史を作るの必要があります。  この歴史が布教伝道の助けとなることは莫大なものです。  しかのみならず、『大蔵経』目録編纂の必要もあり、 そのほか完全なる仏教字典、 梵語字典、  仏教故実集、 索引等を作るの必要もあります。 これまで、  ずいぶん仏教学者もありましたけれども、 ただ経文の註釈くらいに一生を終えましたのみにて、 仏教海に新航路を開いたものがありませぬ。  よって、 以後は新しき方面に向かって道路を開通し、 古人のいまだ着手せざるところに手を下さなくてはなりませぬ。 どうぞ、 倶舎、  唯識も簡便に学べる工夫をいたしたいものです。 仏教者の事業を数えきたらば、  たとい千人の事業家があっても、 果たし得ざるほどたくさんにあります。  一人たちて新航路を開けば、 続々そのことに従うものが出て参ります。  かのコロンブスがアメリカを発見したるがごとく、 随喜者はいくらでもあるものです。 しかし、  一新機軸を開けば仏教を破壊するものと思うものもありましょうけれども、 決してさようなものではありませぬ。  かえって仏教の大進歩をなすのであります。  これは、  ひとり仏教のみのためにはあらで、 日本国のためです。  仏教の歴史上に新説を立てた者はあるけれども、  いまだ仏教哲学史としてその発達を取り調べた者はありませぬ。  このことはもっとも今後、 仏教者の急務とするところであります。 

 諸君は卒業後、 寺院に住職してその寺務に追われ、 思うように学問できないでしょうけれども、  百人が百人、千人が千人、  ことごとくそうとばかりはいわれませぬ。 志さえあれば、 寺務の傍らにも学問はできるものであります。

 さようにいたさなければ、いつまでたっても仏教の進歩をはかることはできませぬ。 もし、このままにして手を下さなければ、仏教のおいおいに退縮するのみであります。 なんとなれば、 世間の学問が時々刻々進歩しておるからのことです。 なおまた、 これまでは日本仏教各宗の比較をなした書類がありませぬ。 例えば、 真宗西山と時宗鎖西との比較、 曹洞、 臨済と、 天台、 日蓮等の比較品評をなすことです。 今日までは自分の宗旨のみが独聘のように聞こえて、 他宗余門の優劣を知らせたものがありませぬ。 そこで、 むやみと自分の宗旨のみをほめて、他宗をそしるような弊風が行われてあります。 されば、 手前味噌の味のみでなく、 隣家の味噌の塩加減をも味わってみなくてはなりませぬ。 その各宗儀式の比較、 本堂荘厳および仏像等の比較をなすは、 ぞうさもなきことです。

 かようなわけで、 少しく活眼を開いて眺むるときは、 仏者の事業は山のごとく眼前にかさんでおるのですから、 なにとぞ先鞭をつけてその事業に着手し、 仏教全体の進歩をはかられんことを望みます。

(浄土宗高等学院における演説)

 



   一四 教育と宗教との関係


 教育と宗教とに二様の関係あり。一は理論上の関係、 一は実際上の関係なり。  理論上にありては二者ともに哲学に基づき、 実際上にありてはともに国家に関するなり。 しかして理論上、 教育の基づくところの学科は心理学にして、 宗教の基づくところの学科は純正哲学なり。  この純正哲学の哲学たるは言をまたず、 心理学もまた哲学の一科なり。 実際上にありては、 教育は学校を設立して子弟を訓育し、 宗教は教会を設置して人民を教導す。 しかして、 教育も宗教もともに人心の上に成立するものにして、 そのうち教育は心の現象上に成立し、 宗教は心の本体上に成立す。  ゆえに、  吾人の一身中に心をもって教育と宗教との二者を結合するなり。  この関係を表示すれば左のごとし。

心理学     教育    学校

       (心象)

理論(哲学)  心     実際(国家)

       (心体)

純正哲学    宗教    寺院


 教育の目的は種々あれども、 その要は知識を開発するに帰すべし。 もちろん教育の関係するところははなはだ広漠にして、 単に知識のみならず、 感情にも意志にもまた肉体にも関係するものなり。  しかれども、 その主とするところは知識開発にありというを得べし。 宗教の目的はまた種々あれども、  そのおもなるものは心盤を安定するにあり。  この心霊と知識とはともに吾人の一心なり、 ただその間に体象の区別あるのみ。 すなわち、 心霊は心の本体を義とし、知識は心の現象に属す。  これを理論上よりいえば、 一は心理学に基づき、 一は純正哲学による。 また、これを実際上に応用すれば学校、 寺院の組織を生ず。 まず、 左に理論上の関係をのぶべし。

 およそ教育には体育と心育との二種あり。 しかして心育中また、 知育・情育・意育の三あり。 体育は生理学に基づき、 心育は心理学に基づく。 ゆえに、 教育は生理、 心理を並説するを要す。 しかれども、 教育本来の目的は心育にあり。その体育を加うるがごときは他なし、 心意の発達を期するには、 その身体の育成および健康を要するをもってなり。 ゆえに、 教育の根拠となる学科は心理学なり。 しからば、その学はいかなる関係を教育の上に有するかというに、 心理学は知、 情、 意の性質規則を攻究するものにして、その結果を実際に適用するものは教育なり。 すなわち、 心理学は理論にして教育は応用なり。 ゆえに、心理学の講究は教育に従事するものの欠くべからざる学問なりと知るべし。

 宗教はそのなんの種類たるを問わず、  みな心をもって目的とするものなり。 しかれどもその心たる、 生滅ある心を指すにあらず、  不変不化の霊魂をいうなり。 ゆえに、 宗教は学問上より考究するときは、 心体の実在を論定せざるべからず、 また神仏のごとき絶対無限の実体を証明せざるべからず。 しかして学問上、 心の本体、 神仏の実在を論明するものは、 哲学をおいてほかに求むべからず。  これ余が、 宗教は学問上にありては哲学に基づくというゆえんなり。

 しからば、 教育学はそのまま心理学にして、 宗教学はそのまま哲学なりやというに、 決してしからず。 教育学も宗教学も、 おのおの理論的と実際的との二種あり。 教育学中、 実際を主とする実際的教育学は直接に哲学に関係するものにあらず、 これに反して、 理論を主とする理論的教育学は直接に哲学の一科たる心理学に関係するなり。  また宗教学にも、 実際に属する儀式的宗教学と、  理論に属する論究的宗教学とあり、 いずれの宗教にも多少天啓として崇拝する経文あり。 仏教の一代経、 婆羅〔門〕教の『ヴェーダ』ヤソ教の『新・旧約〔聖〕書』 、 回教〔イスラム教〕の『コーラン』のごときこれなり。 しかして、 その本経の説くところの真理、 非真理はおいて問わず。  経文の一字一句を読誦解釈し、  これによりて布教伝道を目的とするものは、 余はこれを儀式的宗教学という。 あるいはその経文の解釈のみを事とするがごときは、 注釈的宗教学と名づくべし。  これに反して、  理論上よりその経文の説くところ、  果たして真理なりやいなやを攻究するものは論究的宗教学にして、 余が宗教学の哲学に基づくといいしはこの部分を称するなり。  かくのごとく、 教育も宗教も理論上よりいえばともに哲学に関係するなり。 

 つぎに心理学と純正哲学との関係をのべんに、  およそ哲学には二種の部分ありて、一を有象哲学といい、一を無象哲学という。 有象哲学のおもなるものは心理、 倫理等の諸学にして、 無象哲学はすなわち純正哲学なり。  かくのごとく、 心理学、 純正哲学は哲学中最も緊要なる部分を占むるものにして、 その原理に基づきて教育学、 宗教学を組成するなり。 今、 心理学と純正哲学とを比較せんに、 心理学は部分学にして純正哲学は総合学なり。 心理学は心の一部分を攻究し、  純正哲学は物・心・神三者の全体を考究す。 心理学は心の現象を研究し、 純正哲学は物・心・神三者の本体を研究するものなり。  かくのごとく二学の性質おのおの異なるがために、 その研究の方法もまたしたがいて異なり、 心理学は理学的方法にして、 純正哲学は哲学的方法なり。  理学的方法とは感覚上の経験を基とし、 哲学的方法とは思想上の論理を基とす。 けだし、 心の現象はわが感覚上の経験によりて実究することを得るものなればなり。 しかるに純正哲学は本体上の研究なるが故に、 感覚の及ばざるところに入りて証明せざるべからず。 ゆえに、  理学的方法は経験により、  哲学的方法は論理によると知るべし。

 心理学はその研究の方法、  理学的なるが故に、 またこれを理学(Science)の一つとするなり。  この点よりみれば、  理学に有形的と無形的とを分かたざるべからず。 有形的理学は物理、 化学等の諸学をいい、 無形的理学は心理、 倫理等の諸学をいう。 今、  教育学をこれに配すれば、 その心育の理論を講究する心理学は無形的理学に属す。 しかして教育中の体育は生理学の道理に基づくものにして、 その学は有形的理学なり。  この意味よりいえば、 教育学は全く理学に属するを知るべし。  古代にありては諸種の学術みな哲学中に包含せられ、 今日のいわゆる理学のごときもこれをナチュラル・フィロソフィー(万有哲学)と称せしが、 今日は哲学の区域、 理学のために削滅せられ、 心理学のごときも、  これをメンタル・サイエンス(心意的理学)と称し、 理学中に包括せらるるに至れり。  しかれども、 今日わが国に使用する理学なる語は、 単に有形的理学を称するものなれば、 無形的理学に属する教育学は哲学の一科といわざるべからず。 

 心理学を理学とし純正哲学を哲学とする説に従い、 教育は理学に属し、 宗教は哲学に基づくものとせば、  ここに理学と哲理との関係を一言せざるべからず。  およそ世界には可知的と不可知的との二種の部分あり。  なかにつきて理学の研究する場所は可知的の範囲に限るものなり。 哲学もまた、  理学と同じく可知的のみにとどむる学派あり。  すなわち仏国・コント等の唱えしところこれなり。 英国のスペンサーもまた多少これが影響を受け、 その哲学中に可知的、 不可知的の分界を説き、 学術上講究すべきものはひとり可知的の範囲内にありとなせり。 また、 可知的の中に既知と未知との別あり、  理学は既知より未知に進むものにして、 哲学は可知より不可知に及ぼすものなり。 しかして哲学は絶対上より論ずれば、 可知も不可知も一なりとす。 なんとなれば、 不可知的そのものも吾人の全く知り得ざるにあらず、  吾人はすでに不可知的なりと知りたるなり。  すでに不可知的なるものありと知れば、 不可知もまた可知なりといわざるを得ず。 もしまた相対上より論ずれば、 不可知的は不可知、 可知的は可知にして、この二者その別ありとするなり。 要するに理学は可知的界にとどまりて、そのうち既知より未知に及ぼし、哲学は可知的、不可知的の両界にわたりて、可知より不可知に及ぼすものなり。しかるに、今また未知と不可知とにつきて、 未知は人知によりて知り得べきものにして、 ただ今日いまだ知られざるのみ。 不可知は人知なにほど進むも、 到底知り得べからざるものに与うる名称なりとするも、 その分界明らかならざるをもって、  二者同一なりという者あり。 しかれども人知に限りある以上は、 その力の到底及ばざる不可知的あることを許さざるべからず。また、理学は可知的範囲内に限るものとなさざるべからず。 なんとなれば、  理学は感覚経験を基礎とし、 感覚経験上の事実に照らして知るべからざるものは、 確実と断定することあたわず。 しかるに感覚経験は有限なるものにして、 その力の及ばざるところあること明らかなり。

果たしてしからば、 未知と不可知とを分かち、 理学は可知的範囲内の学にして、 その範囲外に不可知的の存在するを許さざるべからず。  これに反して哲学は思想を根拠とするものにして、  思想なるものは有形無形を問わず、 過去と将来とを論ぜず、 可知的を超えて不可知的中に論入するものなり。  ゆえに思想には制限なく、 可知と不可知との区別も思想自ら定むるところにして、 いかなる定義も一切思想の与うるところなれば、 思想そのものには定義を下すを得ず。 しかして哲学は思想によりて推究するものなれば、 哲学にもまたその定義を下すこと難し。 しからば哲学はその区域極めて広大にして、  思想とその範囲をひとしくするものなり。 しかれども単に学術といえば、 理学も哲学もこの中に入らざるを得ず。  かつ理学、 哲学ともに一致する点ありて、  人知を中心とするは二者の相同じきところなり。 ただその研究の方法たるべきもの、一は感党をもってし、 一は思想をもってするの差あるのみ。 また、 単に既知の点にとどまりて考うれば、 未知も現在の不可知にして、 不可知もやはり未知なり。 しからば、理学、 哲学ともに可知より不可知に及ぼすものというも、 あえて不可なることなし。

 理学は単に相対の上に論じ、 哲学は相対絶対の上に論ずるものなるが故に、 理学は哲学に比すればその区域狭溢なり。しかして、哲学より理学の説くところを見ればはなはだ浅薄なるがごとく、 理学より哲学の論ずるところを見れば、 はなはだ不確実なるがごとく思わるるなり。 もし理学を単に有形的となさば、 なお一層狭監なるものなり。 心理学、倫理学等は古代にありてはみな哲学の範囲に属せしが、 今はこれを理学的に研究するの道を開き、 理学の中に加うるものあるに至れり。  これ、 ただ理学の意味に広狭の差あるによるのみ。

 もし、 理学もその広き意味によりて有形無形を総括すという説に従わば、教育は理学に属し、宗教は哲学に属すというべし。この区別によれば、 教育は可知的の範囲において成立し、 宗教は不可知的に関係して成立するなり。 今これを心の上につきていえば、 教育は人の生長とともに次第に変化する心象に基づき、 宗教は始終不変なる心体に基づく。 すでに教育は変化する心をとるをもって現在一世を目的とし、 宗教は不変の心に基づくが故に広く過去未来にわたりて三世に相関す。 畢覚、 教育は可知にとどまり、 宗教は不可知に基づくより、この差異を生ずるなり。 また道徳につきていえば、 教育、 宗教ともに道徳を支配するものなり。 しかれどもその間に区別ありて、 教育は心象上に道徳を説くをもって現在一世に限り、 宗教は心体上に道徳を談ずるをもって未来の共罰を説く。 しかして教育は、外部にありては社会の制裁をもって不義非道を矯正し、内部にありては良心の命令をもって善道を履行せしむ。 しかるに宗教は、 現世の行為を原因として未来にその結果あるを示し、  もって三世の賞罰を説く。

 これ畢竟、教育と宗教とはその目的相異なりて、 教育はこの世界に対して道徳を守らしめ、 もって完全なる人物を作らんとし、 宗教は人間以上、 世界以外のものに対して、 純善なる真心を開かんとするが故なり。 また真理の上につきていえば、 教育、 宗教ともに真理を目的とするものなり。 しかれども、 教育は可知的内においてし、宗教は不可知的内においてす。一は人間より見て真理とするもの、一は神仏より見て真理とするものにして、 その見るところおのおの異なり。 ゆえに、  教育の真理は時によりて変遷するを免れざるも、 宗教の真理は万古不易なりとす。 しからば、 教育は一般の学術に基づき、 宗教は学術以外に存するものなりというべし。

 これを要するに、  理論上においては教育、 宗教ともに哲学に基づくといえども、 その間相異なるところありて、 教育は可知的にとどまり、 宗教は不可知的に関するが故に、教育は理学に属し、宗教は哲学に属す。 これ一応の区別なり。 さらに深く考察するときは、 宗教は真理をもって万古不易と既定するものなれば、これを学術の範囲に入るるべからず。 かくのごとく論究するときは、 教育、 宗教の二者は全く相離れたるものと断言せざるべからず。  すなわち上来論ずるところの点は、 左の三段に分かる。

  第一、 教育も宗教もともに哲学に基づくこと。 

  第二、 教育は理学により宗教は哲学によること。

  第三、 教育は学術にして宗教は非学術なること。

 

この第三段の断言に従えば、 教育と宗教とはその性質全く異なるものにして、 教育のもとづくところの学術は可知より不可知に及ぼし、 宗教は不可知より可知に及ぼすものなり。 ゆえに、 教育と宗教とを対照せば、 一は勢力の作用により、 一は感情の作用により、一は論究を主とし、一は信仰を主とし、 一は道理に基づき、一は天啓に基づくものなり。  これを表示すれば左のごとし。

  教育(可知的)  知力  論究  思想  道理

  宗教(不可知的) 感情  信仰  直覚  天啓

 すなわち、 教育の道理は可知的界に属するをもって、 知力思想の論究によりて知るべしといえども、 宗教は人知以外、 不可知的に属する以上は、  わが感情上の信仰もしくは天啓によるよりほかにこれを知る道なし。 しかるに、ここに一問題あり。  すなわち、 宗教は不可知的より可知的に及ぼすというも、 吾人は知力の作用を借らずして、いかにして不可知的を知るを得るかということこれなり。  これを知るに宗教上二法あり。  一は人間中の大聖人あるいは予言者(例えば仏教の釈迦、  ヤソ教のキリストのごとき)によりて、  吾人自ら知るべからざることもその教示によりて知るを得べしといい、一は吾人各自の直接にその心に感知するによりて、 その事情を知るを得べしという。  すなわち、 吾人は乱心を沈め静かに考察するときは、 自然に不可思議の妙理を感受覚知することあるこれなり。この二法はともに天啓なれども、 前者は予言者の訓示を信じ、 後者は各人自ら直党するものなり。ゆえに、  二者ともに我人の方より推知するにあらずして、 不可知的の方より啓示するものなれば、  これを天啓という。  その一は間接の天啓にして、 その一は直接の天啓なり。 また、 内外両界において天啓を感ずることあり。内界は心内の直覚においてし、 外界は宇宙の現象においてす。 しかして、 内界は神秘すなわち神人交感をもって天啓とし、  外界は霊怪すなわち奇跡怪事もしくは万有の霊妙をもって天啓とす。  左に天啓の種類を表示すべし。

           間接すなわち預言者の訓示

    間接直接

           直接すなわち自己の直覚

天啓

           外界すなわち霊怪

    内外両界

           内界すなわち神秘

 しからば、  天啓はいかにしてあり得るか。 この天啓を説くに、 ヤソ教のごとく天変地異は人間と同様なる意志を有する神のなすところとすれば、  はなはだ容易なるべきも、 仏教のいわゆる真如のごときものより説明するは、  大いに困難なりとす。  今これを説明せんとするに、  まず人類は果たして完全なりやいなやということを考えざるべからず。  そもそも宇宙間に存在せる森羅万象を探究するに、  決して人類をもって完全なるものと断定するを得ず。 人類の感覚器官はその数わずかに五種に過ぎず、 しかもその五官はみな不完全なるを免れず。  また、 人類の知識思想は時々刻々変化して極まりなく、人々の知ることおのおの異なりて定まりなし。 ゆえに、人類より見ればこの宇宙には知るべからざるものありて、 不可思議の世界あること疑うべからず。 しかるに、 吾人の現在不可知となすものも、  将来知り得べきことあらんという者あり。

 しかれども人類の進歩には程度あり。  吾人の今日不可知とするもの、  将来その知力進みて今日に数倍せるものとならば、 いくぶんか今日知るべからざるものを知り得ることあるべきも、  なおその前にある不可知は必ず多かるべし。  十を得ば百あり、 百を得ば千あり、 千を得ば万あり、  到底尽くるところなくして無限ならん。  かつ吾人は将来幾万の星霜を経過せば、 あるいは最上至極の境遇に達するを得べしと仮定するも、  地球そのものにも一定の寿命ありとするときは、 人間にも全くその種類を絶滅するときあるべし。  果たしてしからば、  人類世界にありては不可知的なるもの、 永く存することは疑うべからず。

 かくのごとく人類は微弱不完全なるものなれば、 わが知力をもって進みて不可知的の本体を知るを得ず。  しかれども、 吾人の方より多少その体に向かって探るを得ば、 また不可知的の方よりも吾人に通ずるの道なかるべからず。  そもそも不可知的なるものは、  吾人を離れて遼遠なる所に独存するものにあらず、 吾人に最も近き所すなわち吾人の身心すでに不可知的なり。  渺茫たる天地より一摘の水、  一撮の土にいたるまで、 深くその理をきわむれば、一物として不可知的ならざるはなし。 なかんずく、 吾人に最も近き極点は吾人の心なり。 例えば地球の内部に含蓄せる火の外部に噴出するは、 その最も薄き層よりするがごとく、 可知と不可知との間に厚薄を異にする界壁ありと仮定せば、 その最も薄き所は心なり。 ゆえに、 不可知的のその気を可知界に噴出するには、  まずわが心をもって噴火口とし、 その内部に啓示を感ずるなり。  かの釈迦その人のごときは噴火口の最も大なるものなれば、  その心中において不可知的の霊気を噴出せること多かりしというべし。

 しからば釈迦のごときは生まれながら賢明にして、毫も修行も苦心も要せざるべき道理なりというに、 こはヤソ教において解すればやや困難なる点にして、 ヤソは父なくして生まるというがごとき、  すでにこの世界の規則を破りたるものなれば、 三十歳に達するを待たず、  生まれながら世界を震動するに足るべき不可思議を開現すべき理なれども、 仏教にていえば原因結果の規則を基本とするをもって、  この世界に生まるる以上はたといいかなる大聖人なりといえども、  万有自然の規則に従わざるを得ず。 釈迦はすでに人類の規則に従ってこの世界に誕生せる以上は、 その知識の開発もまた人類一般の規則に従わざるべからず。 しかれどもその結果に至らば、 大いに他に異なるところあるを見るべし。たとえば地中より出でたる宝玉は、その瓦石と異なるとこなきも、ようやく琢磨してその結果に至り、 大いに異なるところあるを見るがごとし。 けだし釈迦のごとき大聖人は、 その心内に包有する美玉は千里を照らす力を有するも、 その初めて人胎に宿りて形体を結ぶに当たりては、 さらに他人と異なるところなし。 ようやく生長して心内の美花ひとたび開くときは、 不可思議界より発する大光明をその上に放ち、 衆人の仰嘆するところとなるなり。 これを要するに、 可知不可知両界の交通する関門は吾人の心にして、 この心においてただちに不可知的の天啓を感受するなり。 これ宗教上において観念を修め戒律を保ち、 もって心の沈静を計るゆえんなり。 もしそれ妄念の雲霧ひとたび消散せば、朗々たる真如の明月は霊然としてその清光を四方に放つに至るべし。

 つぎに、 外界における啓示に二種あり。 その一は、 外界の規則に反するものをとりて啓示とする説、  これヤソ教の唱うるところにして、 原因なくして結果あり、 親なくして子を生み、 死せるもの復活するごとき、 みなその自在力のなすところとす。 かかる不道理なる啓示は今日決して許すべからず。 仏教にもまた外界の不思議を説くことなきにあらざれども、  これもとより道理の証明を待たざるべからず。  これに反して第二は、 外界の規則の秩然として乱れざる中において、 自然に不可思議を感知する説、  こは道理上許すべきものなり。 例えば、 秋の夜蒼々たる中天に懸かる明月を眺め、 冬の日満目皚々たる雪景を見れば、  おのずから天地の美妙を感じ、 不思議の観念を起こすがごとき、  これやはり一種の啓示というべし。

 これによりてこれをみれば、  この宇宙の内部には一大勢力を包有し、  この勢力の発現によりて天地その位を保ち、 万有その形を現ぜしがごとし。  この説たる、  単に宗教上の想像にあらず、  今日諸学者の唱うるところなり。理化学の攻究によるに、 宇宙のはじめ渾沌たる一物あり、  これを星雲という。  星実ようやく回転を生じて、  ついに千万無量の世界を形成するに至れり。 しかしてその回転するは、 その内部に包有せる勢力の開発ならざるはなし。  この勢力発現して物力となり、 生活力となり、 感覚力となるも、 その最も純粋なるものは人類所有の心なりとす。  この勢力とは余がいわゆる不可知的体中より発するものにして、 これを仏教にていえば真如自体より生ずる大活力なり。  この点より見れば、 天啓もまた全く道理なきにあらず。

 およそ宗教は、 いかなるものにても天啓を説かざるはなし。 もし天啓を加えざれば決して宗教となるを得ず。ただその天啓とするところ、  さきに挙ぐるごとく内界外界、 直接間接の別あるをもって、 宗教異なればその説くところまた異なるのみ。 今、 仏教のごときは主として内界の啓示を説くものにして、 あるいは「一切衆生悉有仏性」(一切衆生はことごとく仏性を有す)といい、 あるいは「心仏及衆生是三無差別」(心と仏および衆生はこの三無差別なり)といいて、 吾人もし妄念の雲を一掃すれば、 だれにてもその心内において真如の月光を開現せしむべし。  しかしてその雲を払わんと欲せば、 観法、 戒法等の手段によらざるべからず。  ゆえに、 吾人が道徳を行うも、 また妄念をはらう一手段たるに過ぎずとなす。  これ、 仏教一般の通説とするところなり。  これに反して、ヤソ教のごとき無限の自由を有する神を立つる宗旨は、 吾人は善をなすも、 その善果たして神の意に適するやいなや、  これによりて果たして神の救助をこうむるべきやいなや得て知るべからざるも、 神は善人を愛するものなるべきをもって、 吾人は善をなして神の意を迎え、 もってその救助の命を待たざるべからずと唱うるに至るべし。

 上来陳述せしところをもってこれを見れば、 教育は現在世界において完全なる人物を造出せんがために、 知識道徳の育成を期するに至り、 宗教は人類をして不可知界と通じ、  かつこれに達せしめんとし、 その手段に道徳を修めしむるなり。  かくのごとく教育は人類一生の間に限るものなれば、  その見解をもって不可知的にわたれる宗教の道理を領会し得らるべき理なし。  また、 宗教は不可知的に基づくものなれば、 教育の道理の極めて浅薄なるを感ずるなり。  かくして教育者は宗教を攻撃し、 宗教者は教育を擯斥するの傾きあり、 あるいはまた双方ともに他の領分をおかし、 これをして各自の範囲内に入れんとするふうあり。  ここにおいて二者の衝突を生ずるなり。しかるに二者その範囲すでに相異なるものなれば、 おのおのその本領を守り相おかすことなければ、 衝突の不幸をきたすべき理なし。

 しかれども宗教は不可知的一方に傾き、 天啓一方に偏するはこれまた誤りなり。 昔時、 学術のいまだ開けざりしに当たりては、 天啓一方に偏する弊ありしも、 今日にありてはつとめてその弊を避けざるべからず。 ヤソ教の奇跡怪談のごとき全く道理に反する以上は、 たとい天啓なりとするも決して真として許すべからず。 なんとなれば、 真正の天啓は道理に反するものにあらずして、  二者互いに表裏をなすものなればなり。 ゆえに、 真正の宗教は天啓と道理と相結合するを要するなり。 もし天啓一方に偏せば独断に陥り、 そのはなはだしきは妄信となり、道理一方に傾けば懐疑に陥る。 宗教を論ずる者、 あに戒めざるべけんや。

 しからば宗教はなんの道理によるかというに、 前述のごとく純正哲学によるものなり。 宗教の根本たる不可知的は、 古来哲学者の唱道するところにして、 易の太極および孔子のいわゆる天は不可知的なり、  老子の無名も不可知的なり、  そのほか荘子の真宰、 墨子の天鬼、 列子の疑独等、  おのおのその考うるところ異なれども、  みな不可知的を仮称せるなり。 また西洋の哲学者のごときも、 ソクラテスの神、  プラトンの思想、  スピノザの本質、  カントの自覚、 フィヒテの我、  シェリングの絶対、 ヘーゲルの理想、  ショーペンハウアーの意志、  スペンサーの不可知的等、 みなこれに同じ。 ただその形容の異なるのみ。 あたかも盲人の象を探りて、 あるいはその鼻をもって象とし、 あるいは尾をもって象とし、 あるいは足をもって象はかくのごときものなりとして、 ただその一斑を評して全体を知らざるもののごとし。かくして哲学上より探究するときは、 不可知的の存在を知るべしといえども、 哲学はこれに達する方法を講究するものにあらず。 しかるに、これに達する方法を説示するものは宗教なり。 しかして、 その方法ならざるをもって宗派の別を生ずるなり。

 上来陳述するところこれを要するに、  理論上にありては宗教と教育と全く相異なるところあり、 また相一致するところあり。  しかしてその相異なるは内外その道を異にし、 表裏その門を異にするまでにて、 その目的とするところにいたりては一なり。  すなわち、 真理に基づきて人心を目的とするにいたりては一なり。 ゆえに、  その講究はともに哲学によらざるべからず。  果たしてしからば、 教育家も宗教家もともに相和し相助けて、  おのおの人心の完全を期して、 互いに衝突することなきを望まざるべからず。

以上は、 教育そのものと宗教そのものとの関係について一言したるのみ。  二者の関係はなおこのほかに大いに論ずべきところあれども、  そは他日に譲る。 

 


   一五 人をして宗教心を起こさしむる方法を論ず


 今日の宗教家が知能成熟のものに向かって宗教を注入せんことをつとむるも、 これはいたずらに労多くして功の少ないことで、はなはだもっておもしろからぬことである。 そこで余がおもうには、 宗教心は幼稚の時に注入するに限る。 それはなに故であるなればいったい人の心には知と情との二とおりあって、 学問なかんずく理学、 哲学などは知にもとづくものである、 宗教などは情にもとづくものである。 そして人の成長するに当たっては、 知力の方よりも情力の方が早く発育するものである。  そが子供の初めて生まるるや、 だれしも、  理非を弁別し、 利害を判定することができぬが、 喜怒の情は早く内に動いておるのが見える。 そしてようやく成長するに従って、 情はますます発育していくけれども、 知の発育ははなはだ遅々たるものである。  それであるから、  かの理学などは幼年の子弟に授くると、  その功はなはだ少なくして、  かえって知育に害があるくらいであるが、  これに反して宗教は幼少の時ほど、 その功力が多くあるものである。 今、  その実例を挙げてこれを証明しよう。 

 わが日本において、 宗教の勢力が最も強くて、  そしてその信仰が最も深きものは、 いうまでもなく第一に真宗の信者であって、 日蓮宗これに次ぐことは事実である。  これ、  いったいどういうわけかというに、ほかではない、 その説くところが人に解しやすくて、  その立つるところが世に適しておるからでもなく、 また本山の布教、僧侶の教導がよく行き届いておるからでなく、 その第一の原因は、 特に家庭の訓育にあるのである。 もし、  そのわけを実際に知ろうと思うなら、 論より証拠、 まず真宗繁昌の土地に至りて見るがよい。  尾濃参や加能越地方にあっては、いかなる貧家であっても仏壇を安置してない所はない。 その華美なることは、 実に財産不相応といってもよい。 そしてその家庭は、二、三の子供に珠数を持たせ念仏を唱えさせ、 毎朝夕仏前にひざまずきて礼拝すべきものたることを教え、 やや長ずるに及んでは読経までも教え込み、 そして、 西方に極楽があって、 死んでの後は必ずこれに至るものであることを知らしめておる。  かく幼少の時から念仏礼拝の習慣を養成しておるから、知力のいまだ発達せん前に、 早くすでに心中には堅固なる信仰を結成するに至るのである。 これをもって、 小学および中学の教育を経ても、 先入してある宗教思想は決してその熱度を減ずることなく、 終身その心中に相続しておるのである。

 日蓮宗繁昌の土地もこれと同じく、 幼少の時から児女に題目を唱えることを教え、かつ唱題の功能を知らせておる。 欧米諸国にかのヤソ教の盛大を極めておるのも、  この道理と同じである。 欧米の人は理科学の思想に富むとはいうものの、その家庭にあっては、 知力のまだ発達しない児女にヤソ教を注入し、そして先入思想を形成せしめておる。 それだから、 長じて後に理学の教育を受けても、 その心中には依然として宗教の信念を持続し得ておるのであるが、これに反して禅家などは、 その民家にあっての宗教的家庭教育が比較的少ないから、 成長しての後の宗教の信仰力は極めて微弱であることが見える。 また、  わが日本人がヤソ教を信ずることの難きゆえんも、主として家庭教育にヤソ教の習慣がないからである。  これによりてこれをみるに、 宗教を普及する良法は、家庭教育に宗教を応用して、  知力いまだ発達しない前に、 早く宗教思想を注入し、  そして知らず識らずの間に宗教的習慣を養成するにある。

 世間には往々、 成長して後に初めて宗教を聞き、 そして即座に宗教心を喚起し、 堅固なる信仰を起こしたものもないではないけれども、  こは生来先天的に宗教心に富んだ人であって、 ただ幼少の時、 宗教のなんたるを聞かなかったから発しないのであるから、  これらは例外として見てよい。  そして十中八九までは、 幼時の習慣でなければ宗教心を喚起することは難い。 今、 ほかの例をもって比べて見るならば、 家庭にあって幼少の時から、 両親に対して朝夕の礼を述ぶる習慣を与うれば、 成長して後、  朝は「お早う」といい、 晩は「おやすみ」といいて挨拶するにも、 なんらの面倒を覚えないようになるが、 もし幼少の時にその習慣を養成しないで、 十二、 三歳になってからにわかに朝夕の礼を述べよと勧めたならばどうであろう。 なにやらきまりの悪いように感じて実行し難い。 今、 宗教は行儀よりはむしろ精神に関するものである。 けれども、 幼少の時から養成した習慣の力が大いに関係がある点にいたっては一つである。 それ故に、 宗教家はもっぱら幼時の習慣を形成するに注意を要するのである。 宗教心を喚起するように意を用いなければならぬ。

 かようなる道理があるからして、 余は宗教家が中等教育以上の学校を設け、 そして教育を施し、 よく世間の子弟をして宗教心を起こさせるようにしようとする方法は、  すこぶる拙策であって、  いわゆる労多くして功少なしというべきである。 それ故に余の考えには、  むしろ中学よりは小学、 小学よりは幼稚園を設くる方、  その功特に多くあろうと信ずるのである。 あるいは子守り学校を立つるもよかろう。  これらはいずれも経費が少なくして、しかもその効力多きものである。  かつ、  かかる学校を立つるには、 あえて本山の手をかりないでも、 各寺院の力で実行し得らるることであるから、 まず第一着手として、 寺院の境内に幼稚舎を設けてはいかがであろう。 あるいは庫裏の一部分を幼稚舎に用いてはいかがであろう。  かくのごとくすれば、 庫裏の維持方もおのずから成り立つことでもあるから、一挙両得である。  すでに幼稚舎を設けたうえは、 外観形式の方面から宗教思想を引き起こさしむるように意を用いなければならぬ。 幼児にあっては思想の発育不十分であるから、  むしろ外形上宗教的習慣を養成するにしかない。  すなわち、 礼拝を行い仏名を唱えさする等である。 幼年の時から礼仏唱名の習慣あるものは長じて後も、 いかに才学の秀でた人となっても、 仏前にあって礼拝することをいとわないけれども、 幼年の時からその習慣を養成してないものは長じて後、 心に全く宗教の必要なることを感じながら、 身口に礼拝唱名を行うことを好まない。 これ、幼時にあって両親に対して礼拝を述ぶる習慣なく、  長じてからにわかにそれを行うのはきまりの悪いように感じるのと同じである。  いささか人をして宗教心を起こさしむる方法につきて、  思い出でたるままを述べおわりぬ。



   一六 新仏教に望む


 今日の仏教はなお、 ちょんまげ時代、  かみしも時代、 子曰く時代、 草根木皮時代の仏教なれば、 目下の大勢に誘われ、 四面の光景に動かされて、  新仏教も起こるべし、 新宗教も現ずべし、 新宗教も出ずべし、  これ必然の勢いにして、 あえて怪しむに足らざるなり。  わが社会もまた、  これを冷遇せずして歓迎して可なり。 なんとなれば、  これ文運開発の一階段なればなり。

 しかりしこうして、 わが社会はただにこれを歓迎せざるのみならず、 仏教壮士の不平の声として、 耳をおおいて過ぐるがごときありさまなり。  これ、 余が仏教清徒のために遺憾とするところなり。 そもそも世間がかく冷遇するは、  必ずその原因なかるべからず。  今、 余が察するところによるに、  その原因の、

  第一は、 新仏教の論があまり理論的にして実際ならざるにあり。

  第二は、 破壊的にして建設的ならざるにあり。

  第三は、 ヤソ教の臭味を帯ぶるにあり。

 ヤソ教の臭味を帯ぶるとは、 新仏教者は自ら呼びて清教徒(ピューリタン)と称し、 またユニテリアンと握手の礼を行える等の挙あるを見て、 世間これを誤解せるによる。 北国のごとき旧仏教繁昌の地は、 仏教婦人会において仏教唱歌を唱うるすら、 なおこれをヤソ教くさしとて厭忌する今日にありて、  ユニテリアンと三三九度の杯を取りかわしたるがごときありさまを一聞したらば、 必ずびっくり仰天して、 新仏教はヤソ化したりとの誤想を抱くは、 勢いの免るべからざるところなり。 ゆえに余は、  新仏教がユニテリアンと握手の礼を行えるは、 失策の第一なりと考うるなり。  世人多くはその意を誤り、 新仏教は自立することあたわずして、 膝をユニテリアンに屈したるがごとく考え、ユニテリアンの賓客にあらずして居候なり、ユニテリアンの親族にあらずして養子なりと想像するがごとし。 ゆえに、 余が新仏教に望むところの第一は、  ユニテリアンと新仏教との関係を明らかにして、世人の誤解を正すにあり。

  つぎに、 新仏教に論ずるところ、 旧仏教を攻撃するのみにて、 新仏教の組織構造を明示せざるがために、 世人は仏教壮士が各自の不平を漏らさんと欲して、 破壊論を担ぎ出だしたるがごとくに考うるなり。 されば新仏教においては、 これよりその組織構造を明示して、 着実慎重の態度を取られんことを望む。 その所望の第一は、 新仏教の立教開示の本意を明かしたるバイブル、『選択集』『正法眼蔵』『教行信証』『開目抄』を撰述して、 広く世人に示すにあり。 そのほか余が新仏教に望むところは、 宗派に偏せざる仏教の書籍を編集し、 かつ発行するにあり。 世人往々、 仏教の大意をうかがわんと欲するものあるも、 良書なきに苦しむは余が常に聞くところなり。 たまたま一、二の仏教大意を講述せるものあるも、一宗一派に偏するのきらいあり。 例えば、 釈雲照律師の著のごときは真言に偏し、 釈宗演禅師の論は禅宗に偏するがごとし。 これ、 その立脚地を一宗一派の中に置くがために、 万やむをえざるによる。 ゆえに、 もし新仏教徒のごときいずれの宗派にも偏せざるものが、 仏教大意を編述したらば、必ず公平の見をもってすることを得べく、 したがって世間もその公平なるを許容するに至らん。 そのほか、 従来の仏教書籍は世間に通ぜざる雑句雑字を用い、 世人をして仏教は到底知るべからざるものと観念を抱かしむるをもって、  新仏教徒は続々解しやすく入りやすき仏書を編述して世人に示すは、 新仏教の事業として最も急要なることなり。  これに加うるに、 従来の仏教があまり

 (一)、非論理的なること、

 (二)、 厭世的なること、

 (三)、 倫理的ならざること、

 (四)、 国家的ならざること、

の傾向あるは、 局外者のもっぱら非難するところなれば、 新仏教が大乗仏教の真面目を開発して、 楽生主義、 道徳主義、 国家主義を唱道するも、 また目下の急要なり。  これみな新仏教の任務なりと信ず。  ゆえに余は、 新仏教徒が今よりかかる点に着眼し、 破壊的方針を変じて、 建設的方針を取らんことを望む。

 そのつぎの所望は、  理論的空論をやめて、 実際的実行を案出せらるるの点にあり。  そのいわゆる実際的実行とはなんぞや。 曰く、 宗教は哲学と異なりて、心内の道理または信仰にとどまらずして、外部の儀式礼法のこれに伴うを要するなり。 さきに巽軒〔井上哲次郎〕博士が、 先天内容の声のみをもって宗教を組織せられんとしたるも、  これ宗教の眼ありて足なきの不具的宗教たるを免れず。  その足とは、  すなわち実際上の儀式礼法なり。 ゆえに、 新仏教徒はこの儀式礼法の宗教に必須なるを知りて、 早くその方法を案定せられんこと、  これ余がもっぱら望むところなり。

 仏教の儀式としては、 従来葬祭の二者あるのみ。 その式、  あるいは古風を存して尊厳の観なきにあらざるも、また今日に適せざるところ多し。 例えばその経を誦するや、「ウンアボキヤ」「ギアテイギヤテイ」「トラキーキー 牛モーモー犬ワンワン」のごとき、 聴くものをして痴人の寝言と同様に感ぜしむるがごとし。 ゆえに、 今よりこれを改めて読経は邦語を用い、  人をして一誦三嘆せしむるように変ぜざるべからず。  そのほか、 読経中に太鼓を鳴らし、 柝をうつがごときも、 仏前に種々の雑多の食物を捧ぐるがごときも、 仏像に異様奇形のものを用うるがごときも、 人をして古代の蛮俗夷風を存するかを疑わしむるをもって、 今よりようやく改良せざるべからず。かくして葬祭は人事の大典なれば、 新仏教において今日の時勢に適するものを工夫して、 世に示さるるに至らば、世人の新仏教に耳を傾くるは、 必ず昔日の比にあらざるべし。

 葬祭のほかに社会の大礼は、 誕生式と結婚式なり。この二式は全く仏教に欠くるところなるが、 仏教上新たに組織することは、 実に目下の急務なり。 仏教唱歌、 仏教音楽の改良も、 その必要あり。 各宗各派に通じたる読経、 儀式、  唱歌、 音楽を一定するも、 僧衣、 僧帽の制を一定するも、  みな今日の急務にして、 新仏教の自ら任ずるところなるべし。

 仏教を世間化して楽世の方針を取らしむるにつきては、  軍隊布教、 工場教誨、 青年教会等の儀式を一定し、 したがってその道話法語を一定する必要あり。 今日の仏教家は世の無常を説き、 人生のたのむに足らざるを談ずるにおいては、 すでにその妙を得たるも、 世間的道徳を説き、 実業的法話をなすにいたりては、 はなはだ不得意なるところなれば、 新仏教はもっぱら世間的教誨に心を用い、 その模範を作りて旧仏教徒に示さんこと、これまた余が望むところなり。

 そのほか余が所望すこぶる多しといえども、 その要は、 新仏教が旧仏教の破壊者となりて世に立たんよりは、旧仏教の教師となり先導者となりて世に立たれんことを望むにあり。  ことに余が局外漢をもって新仏教をみるに、 手足のみありて頭なき一団体なるもののごとし。  これ、 団体としては一大怪物なるを免れず。 ゆえに、 余は速やかにその頭をいただかれんことを望む。 しかしてその頭としては、 村上〔専精〕博士を推してこれをいただくにしくはなし。 村上博士は『仏教統一論』を著し、 仏教統一宗を開かんとの主義をほかに漏らされたるも、  これ頭ありて手足なき状態なり。 ゆえに、 その頭ありて手足なきものを、 手足ありて頭なきものに結合するに至らば、  その妙ただに「あいた口にぼた餅」の比にあらざるなり。

 以上、 余が一片の婆心をもって、 新仏教に望むところを述べたるのみ。  その取捨のごときは、 清教徒の自由の選択に任するなり。

 


   一七 漢字と仏教との関係


 近来、 国字改良論がいよいよその声を高めてきまして、 帝国教育会においてもそれぞれ委員を設けて、 その方法を講究することとなりました。 けだし、 改良論の主旨というのは、  わが国で従来用いてきたところの漢字をもって不便極まるものとし、 むしろこれを全廃して新字を代用しようとするのであります。 しかしてその論者中には、 あるいは漢字の代用にローマ字をもってしようとするものもあれば、 あるいは仮名のみをもってしようとするものも、 あるいは仮名でもなくローマ字でもない新文字をもってしようとするものなどいくようもありて、 諸説一定はしませぬものの、 余は大いに漢字廃止論に反対しようと思うのであります。  その理由は別に論ずることとして、 ただここには、 わが国の宗教家は、  漢字廃止論に賛成すべきものであるやいなやを論定しようと思います。

 宗教家は己の信ずるところの宗旨そのものと利害をともにするものでありますれば、 宗旨以外の漢字の存廃は、 あえてかかわるところではないように見えます。 けれどもその実、 大なる関係を有しておりますから、 決してこの問題については、 対岸の火災視すべきものではありませぬ。  かりに一言をもってこれを言い定むると、

  漢字廃止は仏教の弘通に害がありて、 ヤソ教の伝播に利があります、

ということになるから、 仏教家は絶対的にこの問題に反抗しなければならぬといってよかろうと思う。 今その理由を大略申しますれば、 第一に、 仏教の経論はみな漢字漢文より成っておるものであって、 その原本というものは今日に伝わらないものが多いし、  そして英語およびその他の国語では、 到底仏教のなんたるを知ることができませぬ。 言を換えますれば、 三千年のいにしえにありて仏陀の説かれたる遺教は、 世界の国語中ただ漢字によってその命脈を今日に保っておるといってよろしいのであります。 もしこれを人身にたとえますれば、 仏教は精神であって、 漢字はその神経機関のようなものであります。 それ故に、 漢字全廃の暁となったならば、 仏教はひとたびは死滅に帰せなければなりませぬ。  第二に、 わが国に仏教が勢力のあるは、 千有余年間の歴史と習慣とを持ちておるからであります。 しかるに、その歴史と習慣とを維持してきた漢字がひとたび廃絶に帰した節には、 仏教はにわかにその手足五官を失った廃人のように、 自然に世間より拒絶せらるるようになりましょう。  第三に、宗教の信仰というものは、 多く文字の索縄によりて人心中に結び付けらるるものであって、 仏教信者の仏教に対する観念は、 漢字漢語の力によりて心面にその形をとどむるものであります。 ゆえに、 漢字を放逐したる日には、 仏教上の信仰に一大異動をきたすことは、必然の勢いであります。

 以上の三大理由は、漢字と仏教とその存廃興亡をともにするゆえんであって、すなわちそこが、 宗教家のあくまで漢字廃止論に絶対的反対をなさなければならぬゆえんであります。  これにかわりて、 ヤソ教は全くこの三大理由に対しては仏教と利害を異にするものでありますから、 将来の布教に対して、 漢字の廃止がかえって大いに利益のあることであります。

 以上はただ日本仏教にのみ対してのべたるところでありますが、 もし世界仏教の上よりこれをみるときには、漢字廃止のごときは、 なにもあえて憂うるには足りません。 けれども、 今日大小乗の経論は、  世界中漢字をはなるれば読修するの道がなく、  一乗三乗の教理は万国中日本のほかに研究するの地なき以上は、 漢字の存廃に関しては、  仏教家たるものは黙しておるべきことではありませぬ。 もし、 将来数百年の後になりて西洋諸国にも仏教が普及するようになり、 英語にてもドイツ語にてもたやすく仏教の経論をうかがい得るの日となったうえには、漢字の存廃よりきたるところの影響は、 きわめて少々でありましょうけれども、 しかし今日のところでは、 いやしくも日本仏教の上に一大頓挫を見るに至ったならば、 仏教を世界に宣揚せしむることは全く望みなきこととなるでありましょう。 ゆえに、 余が仏教家に絶対的反対をすすむるのはただ今日にありていうのみで、 他日五十年ないし百年の後、 日本仏教が世界に普及した暁には、 あるいはかえって漢字の廃止が、 仏教普及に得策なるようになるやも計りがたいことであります。  ただその日は今より幾年の後なるやは、 今日のところでは定むることはできませぬ。

 しかし、 論者はあるいは言うであろう。 日本仏教が世界諸国に普及しがたきゆえんは、 その経論、 書籍が西洋に通ぜぬ漢字よりなりておるからである。 ゆえに、 今日において漢字を廃するようになったならば、 仏教はかえって自然に英語やドイツ語などに翻訳せらるるに便利であって、 したがって欧人が仏教をはやく了解するの利益があろうと。  しかし、  これは仏教の実際を知らぬ書生論である。  すべてなにごとにても、  一変動あるには必ずこれに対する準備がなくてはなりませぬ。  たとえば、  おのれの家をこぼたんとするには、  必ずほかに移住すべき家がなくてはならぬようなもので、 もしドイツ語や英語などに翻訳の準備がなくて、 ながく仏教のすみかたる漢字を廃するのは、 ほかに移るべき家がなくておのれの家をこぼつと一般、  みずから路頭に迷うのみでなくて、 必ず大いに世間の笑いをまねくようなことになりましょう。 しかしてその準備は、 五十年の後であるか百年の後であるかは決めがたきことであるとしてみれば、 他日準備整頓の日までは、 どうしても漢字廃止に反対しなければなりませぬ。

 論者はまたいうであろう。  国字改良論者の漢字廃止は今日即時に実行するのではなくて、 やはり五十年、 百年の歳月を経たる後のことであると。 けれども、 もし漢字廃止論が世論となりて、  ひとたび教育上に勢力を得るようになったならば、 世間のものはますます漢字よりなっておる仏書をよむことをいとい、 したがって仏教を遠ざくるようになるのは必然の勢いであります。 ゆえに、仏教家は漢字廃止の実行を見るにさきだちて絶対的に反対して、  この廃止論を社会に勢力を得ることのできないように努力めなければなりませぬ。



   一八 将来の宗教


 はい、外遊出発前で非常に忙しく、学校の帳簿の整理、 不在中の予算など、 人を頼み夜をついでかかっておりますから、 全くその方へ頭をうずめて、宗教に関する別に新しいまとまった考えもありません。今度の視察ですが、 今度は政教視察というのでなく、 欧米の私立学校の盛んなる国へ行って、  主として私立学校の組織、 事務の整理法などをみるつもりでおります。 私立学校の維持法については、 大いに研究すべきものがあるを感じます。 インドヘはこの前に行かなかったものですから、 今度はインド皇帝の戴冠式でにぎやかなところも見られましょう・・・・。

 そうですか、 宗教は元来実際的のもので、 決して人を離れることはできない。  いかに立派な議論をとなえても、人よく法を広め、 法の自ら広まるにあらずで、 人物がなければみな空論となってしまう。 空論となっては、社会に実際上の利益を与うることはできない。 したがって宗教の価値はないです。 それで、 どうしても人物養成が目下の急務で、 それでもって宗教の改革をしていかねばなりませぬ。

 宗教の改革は社会の方面からすることができる。 しかし、  これは急の間に合わぬ。 今日、 実際宗教改良の必要を感じておる者ははなはだ少数である。 田舎の多数の人、 東京でも学者や書生を除けば、 なかなかそんなところに考えは及んでおらぬ。  この多数の人が宗教の改革を感じて、 それから手をつけようとするならば、 何十年の後になるかも知れない。  それまで、  この腐敗せる仏教を腐敗させておくわけにはいかぬ。  それについて、 私は政府の力をかりるが得策と思うのです。  世間では私の意見を誤解して、 はなはだ意気地のない議論だと評する者があるそうだが、 私は宗教家から政府の方へ嘆願して改革をするというのではなく、  政府自身の責任から割り出して改革せしむるのである。 元来、  国家が善良なる宗教を有せざることは、  非常に不幸なことである。  一国の盛衰興亡が大いに宗教の力によるということは、 明瞭なる事実である。 教育や実業が国の盛衰に関するから、 政府が力を与えて改良せしむるならば、  政府は社会の生命たるべき宗教の腐敗を等閑に付して、 これが改革を度外視する理由がない。 宗教改革は政府の責任である。 どうも今日のように、 日本の社会が諸般のことを自治的にやる力に乏しい時代には、  やはり政府の力をかりるが得策である。 医者の改良、  法律の改良、 教育の改良、  みな政府の力でできておる。 民間の事業として放任しておくならば、 とても今日改良を見ることはできない。  米国のごとき自治の力の発達しておる国ならば、 放任しておいてよいです。 日本の社会が自らその点に気がついて、 自ら改良をはかるというに任せておくならば、 幾十年の後のことか分かりませぬ。  しかして一方にますます宗教を腐敗せしめ、社会に害毒を流さしめては、 国家のために大なる損害である。 政府も宗教家もともに省みるべき点である。

 しかし宗教改革といっても、別に大なる問題があるのではないです。 改革というのは畢竟、 僧侶の知識道徳の 程度を高めることにある。  差し当たり一ヵ寺の住職たる者は、 中学以上の普通教育を授け、 その上に各宗専門の知識を修めしむるのです。  そうすれば諸般の弊害も自然に消滅し、 迷信のごときもだんだんなくなるです。 それで、 その教育の程度を高めるについて、 政府が干渉すべきです。 例えば学校のごときは、 設備が不完全であるとか、 規則どおりに授業が行われていないとかということがあれば、 文部省は学校の閉鎖を命じます。

 今日の寺院はどうです。 内務省からいくたの保護を受けておる。 しかも年中一度も説教も開かず、 なにひとつ布教らしいことをせず、 ただ法事とか葬式とかをもってくればそれは取り扱う。 しかのみならず、 俗人ですらせぬほどの不道徳を盛んに行っても、 それでも政府は少しも干渉をしない、 まるで制裁がない。  政府がかくのごときものに保護を与えつつ、 そのふらちを大目に見ておくという理由は毫もないです。  それで、 どうしても一カ寺の住職たる者は中学以上の教育、 特に中学の普通教育が必要である。 先年内務省が、 中学以上の学力を有する者でなければ住職を許さぬという訓令を出したが、 そうすると無住の寺が多くなるとかなんとか、 種々の情実を述べ立てて、 各宗本山がこれを無効にしてしまった。 元来、 本山などには教育の方針というものもなく、  人物養成というような考えもないです。 試みに本山が立てておる諸方の学校を見ても、 規則ばかりでなにも実地はやっておらぬ。 実際上行われておることは、僧位を売り僧官を売ることである。住職の許可は試験制度になっておっても、  その試験は賄賂で手加減をする、  はなはだしきは公に献金で許す。 本山一般の施政は「地獄の沙汰も金次第」というありさまで、 布教勧学とは口実で、 金を集めるのがその目的である。 しかして、 それまでにして集めた金はどうなるのやら、一向分からぬ。  本山は野僧俗物の巣窟。  かくのごとき本山に宗教家の教育などを一任するのは、  泥坊に金庫の番を頼むようなものです。 神道とても同じことです。  それで、 まず先年の内務省の訓令を復活するが急務です。  いったん無住の寺の多くできるは喜ぶべきことです。 経済上からも、 今日は寺院の合併を迫られておる。  維持の困難なる寺の坊主などは、  ろくなことしかしないです。

 教理の改革ですか。 それは宗教社会が改革されて、  人物がだんだん養成さるるに従い、 種々の実際的宗教家もできれば、 また純粋の専門的学者もできる。 その専門の学者が、 教理上の問題を解釈していくのです。 今日、 世間で教理の改正をせねばならぬと申しますが、それは学者や書生の少数の人間のいうことで、 田舎でも一村に二人や三人はある。 しかし、多数は今日その必要を感じておらぬ。 宗教は多数を目的とせねば行かない。 また、 今日学生が一般に懐疑に陥りておるのは、 これは一時の病気です。 元来、 今の書生は子供の時から、 少しも宗教的教育を受けたことはない。 ただ学校でいろいろ理屈を覚え、 また雑誌などを読む。 雑誌には懐疑の論が出でおる。 その感化を受けて懐疑になってしまったのです。 小学時代から宗教的教育を授けていけば、  決してそんなに懐疑に陥るものではないです。 今日のは一時の病的現象である。  ちょうど維新のころ、 政治的訓練のない者が、自由とか民権とかの説を聞いて、 騒いだのと同じことです。

 従来のごとく、 地獄極楽の論から宗教を説いておってもよいかというのですか。 それは、今日はまだこの問題が最も強く人心を動かしていきます。 しかし今日以後は、 道徳より入る者もありましょう。 また、  阿弥陀仏というについても、 その観念にいくたの変化もできてきましょう。 罪業を感じて救済を求むるという方を、  おもに説く者もあろう。 仏の摂理というようなことを主として喜ぶ者もできましょう。  人の気風はいろいろあるから、 宗教にもやはりいろいろの方面があるのがよい。 将来でも直心を本とする方がおもしろいという人もあろう。 因果の理法を推通して、それがおもしろいという人もあろう。 それは今までのごとく、 いろいろの仕掛けがありて種々の人を網羅していく方がよい、一つの方面に限ってはよくない。 しかし、 宗教というものはだんだん発達するもので、 仏教ならば、 種をまいたものは釈迦であるが、これを培養することにつきては、 どこから肥料を取って来てもさらに差し支えない。 ヤソ教からよいところを取ろうとも、マホメット教、 モルモン宗、 なんでも差し支えない。要するに人物養成が急務で、 まのあたり宗教家〔の〕普通教育を盛んにせねばなりません。 だんだん改革し宗教が進歩するに従って、 その結果いろいろな立派なものができましょう。 新仏教もそのときに至って確立いたしましょう。 改革の結果は同じことですが、 宗教家の教育の方から改良していくのが順序です。

 ・・・・はい、なるべく早く片づけて、来月十五日以前にも出発したいと思います。 自分だけの生活くらいならば苦しみもしませんが、 どうも学校という大きな飯食うものがありますから・・・・。

(三十六年十月十二日)




   一九 地方教育上の観察


 今日は四カ所に会がございまして、 今朝一回済まし、 それからこの会、  つぎにもう二ヵ所ありますので、 よほど会が重なりましたから、 実はお断りする考えでございましたが、 せっかくのご依頼でもありますから、 ほんの申し訳かたがた出ましたくらいのことで、十分の考えもございませんで、その段はあらましご承知おきを願います。

 演題は「地方教育上の観察」というのでございます。 私は昨年七月以来、  ほとんど半年の間地方を漫遊いたしました。  七月から八月へかけて濃州地方を巡回いたして、  それから九月十月と信州の南部の地方へ出まして、 十一月、 十二月と紀州のこれも南部の方へ行きました。  で、 ちょうど半年間というものは地方におりましたので、地方の教育上についていろいろ観察したこともありまして、 今日は幸いこの教育上の話をいたす考えでございましたから、 地方で目撃した状態をお話しをいたしたら、いくぶんかご参考にもなろうという考えで、  こういう題を置きました。  で、  地方の教育の状況というものは、 もとより所によって一定はできませんが、 ずいぶん近来は小学教育が普及いたしまして、 実にわずかな年数にこれだけ行き届いたというのは、 驚くような場合もたくさんございます。 また、 中にはずいぶんこちらの思いどおりに、 なにごともいくもんじゃアございませんから、  注文すればいくらも注文したいこともある。

 このごろ、  紀州の熊野路へ行きました。 熊野路と申すと日本中でいちばん山の多い国で、 おそらくは全国で第一の山国であろうかと思う。  したがって道の険悪なることというものは、 これもまあ日本一といってよろしい。私は日本中は六十何カ国と歩いて見ましたが、 その中でこれまで四国、  四国中でも土佐です。 土佐は道が悪いと思いましたが、 今度紀州の熊野路へ行って見ますと、 もう一層道路が険悪である。 しかしそういう山間であるのに、  小学教育は意外に実によく行き届いておる。 まず、この熊野路へ参りますると、  一カ村と申しましても、 あるいは五里、 あるいは六里、  はなはだしきにいたりますと十里も隔たっておる。  そういう中に学校を一つ建ててみたところで、 もうわずかな学生が就学するくらいなことで、 とても行き渡るはずはない。 そこで、 勢い一カ村に一校では足りないから、  三個四個あるいは五個と、  分教場というものを建てねばならぬ。 そうすると、 四十戸や五士戸でもって一個の学校を維持せねばならぬような場合になってくる。 しかるにそれが誠に行き渡って、五十戸百戸あれば必ず一つの小学校は建ててある。 中には二十戸か三十戸でも学校を建てておく。これには実に驚きました。  かくいう地方でございますから、 学校と思うものには必ず教員の住宅ができておる。 それと、 その教員は割合に一般人民から優待されておる。 まず学校の教師となるというと、 まずその地方ではいちばんの学者である、 物知りである。 なんでも分からないことがあると、 学校の教師の所へ行って聞きさえすればよろしい。  こんなふうであるから、 したがって優待を受けておる。  これはまあ、 紀州の山間において特別に感じたことである。私の今日話しまするのは、 紀州一国のことでなく、 全体にわたってお話ししようと思いますが。

 まず、 小学校教育の上で注文の点を申すというと、  この地方の人の考えが、  ことによると学校の建築の方に重きをおいて、 そうして教員の待遇というようなことにはあまり心をおかないというようなふうがある。  この建築というのは、 だれにも目に見えやすいものであるから、 隣の村に立派な学校ができていて、 自分の方にはそれだけの学校がないと、 なにかこう村の勢力に関するような考えから、 隣の村に負けないような大きな学校を建てようというので、 競争して自然立派な学校ができてくる。 外観は競争上から立派にできておるけれども、 そういうのは教師はというと、 十円や二十円高い月給の者と安い月給の者と、 表から見て分かるものでないから、  これにはなるだけ倹約して、 安い教師を雇うような弊がある。 一般にそうとは申しませんけれども、 これは注文したならば、 ずいぶん注文してよろしかろうかと思うのです。  学校の建築も、 それはもとより設備は完全にせねばならぬ。 けれども、その設備の競争よりも、良い教師を得よう得ようということに競争してもらいたい。 それからもう一つは、教師と父兄との間が、 少しも連絡がついておらない。中には紀州などの山間へ行って見ると、 大層その間が親密になっておる所もありますけれども、 学校は学校、  父兄は父兄で、 家庭教育と学校教育との連絡がないというのが、 まず一般当時のありさまである。  これは、  なんとか今後は改良の方針をとりたいものだと思う。まず一般の考えでいうと、 子供の教育なんというのは、 学校へ出しさえすればよろしい、 家にあるときは別段父兄がかれこれ監督するには及ばぬ、 大きくなれば学校へ出す、 そうすれば学校でなにもかも授けて下さるからそれでよろしいという考えで、 家では少しも子供の教育ということには考えを置かない。  学校の方で見ると、 教師というものは生徒だけの監督はする、 けれどもすでに学校の外へ出ては、 教師という者は勢力のないものである。  そうすると今日教員という者より、 生徒は一日二十四時間のうち、 五時間、 六時間くらいの教育を受けるもので、 そのほかはまるで無教育というようなありさまである。 そういうありさまで、 なかなか教育の行き届くはずはございません。 家庭教育と学校教育と連絡して、 一方の家庭教育の足りないところは学校で補い、 学校教育の足りないところは家庭で補い、  双方相まってはじめて完全なる教育を授けることができるというは申すまでもない。 しかるに今日の実際は、  学校は学校、 家庭は家庭で、 しかもその家庭は少しも教育には心を用いておらぬというようなありさまである。

 それともう一つは、 この社会教育とでも名づけましょうか、 詳しく申しますれば、  これは社会一般の風俗習慣、 あるいは朋友間の交際として得るところの感化ということになると、  これはだれでも心を用いておらない。地方へ行けばなおもってのことで、 教育といえば、 学校へ子供を出してそこで学ばしさえすればよろしいくらいの考えで、 家庭においてどういうように教育するか、  社会においてどういうように教育するかということは、 ほとんどだれも心をおいておらないようなありさまです。 今日の教育の欠点の第一といえば、 その点であろうかと思う。 だんだん地方に学校教育が普及すればするほど、 教育といえば学校だけのものだ、  こういう考えで学校以外の教育にはほとんど無頓着である。  そこで、  この土地の風俗を改良するとか習慣を矯正するとかいう点になると、 少しも昔と今日と比較してみて、 進んだありさまが現れておらない。 それは畢覚するにどういうことかというと、  学校以外に教育という考えを持たないから、いつまでたってもそれらの点の改良ができない。  ここにおいては、私も地方巡回中にいろいろ考えております。 ぜひ今後、 学校教育だけについてもこの目的を全うしようというには、  一方においては家庭、  一方においては社会、  この二つがたすけなければ、 いかに学校で良い教育をしても、 家庭で反対した教育を授け、 あるいは社会はまるで教育という考えを持たぬというような場合になると、決して学校教育が実行を奏するわけにいくもんでない。

 これについてはどうしたらよろしかろうと、 だんだん私の考えを申し上げるというと、 第一に、この教育の側から申しますると、 いわゆる学校教育の方から申しますると、 今日のような学校の教師というものは、 学校の校内だけにおいて勢力があり、 学校の門の外へ踏み出すと勢力がないというありさまでは、  これではもとより連絡はできない。 学校教師というものは、 その学校の中におる生徒に対しては、 それはもとより権力があるけれども、  その学校を出てはというと極めて勢力のないものだ。  それでは、 もとより家庭の教育だの社会教育だのに携わるわけに参らぬ。  これを直さねばならぬというについては、 ただ学校の教師ばかり責めるわけにいかない。  必ず学校の教師と、 それからその一町一村の人民、  この双方からひとつ改良していかなくてはならぬ。 学校の教師の方で申しますると、ただ今までの現状でいえば、私は学校の教師だ、 学校の教師であるから、学校以外のことには携わるには及ばぬ、 毎日出勤して一定の時間教授の労をとっておれば、 それで職務は尽くしておるというような考えの者が多い。 それではもとより、  その一町一村全体をどうするというわけには参らぬ。 そこで、 ぜひとも学校教師は学校の構外へ踏み出して、 そうしてことによれば家庭にも立ち入り、 あるいはまたこの社会上の風俗習慣というようなことは、 学校教師がさきだって改良する方針をとらぬといかぬ。 で、家庭教育ということは父兄の方と連絡をつければよろしいが、 社会の風俗習慣を改良するということになると、  これは学校を出たもので、いわゆる中年以上の者で、一町一村の青年というものの団体を作って、  学校教師なら学校教師が頭となって采配を取って、 そうしてだんだん青年の方から改良を企てていかなくてはならぬが、 所によると同窓会とか青年会とかいうようなものがあって、 学校教師が会長としてやっておりますけれども、 それが今日のところでは、 あまり思わしい結果を成しておらぬように見える。 ぜひこれは、 学校教師がひとつ十分自分の本職同様に、 自分の責任と思って改良の方針をとってやらぬといくまいと思う。

 であるが、 その学校教師に権力のないというにはいろいろ理由がある。 第一に、  小学教師というものは財産のない者が多い、 無財産の人が多い。  財産がないとなると、 どうしても勢力は得られぬ。  いわゆる学校に奉職するのも、 糊口のために奉職するのである。  であるから自然学校に奉職するにも、 なるべくその町村の人民の気にいらんといかぬ。  万一、 村会議員にでも反対されると自分の一身が危くなるから、 そこでなるべく地方の勢力のある者の御機嫌をとらねばならぬ。 したがって勢力もない。 また、 町村人民からいうと、 あの学校教師はわれわれが金を出して雇っておくので、 その進退は自分の権力にあるという点からして、 自然その学校教師というものは、さほどに優待しない。 学校以内の小さい生徒には、 もとより権力もありましょうが、 学校以外へ出ては無勢力である。 無勢力であるから、一町一村の青年、 中年の者を自分が率いて、 ひとつ改良しようということは、 もとより望んでもできないというようなありさまである。 そこでこれを改良させるには、 ぜひともこの学校教師の方で申すと、 学校教師は自分が学校内の生徒を教育するのみならず、 その一町一村の全体を自分が引き受けて改良していかんならぬという一つの精神をもって、その心得で教育に従事する。 もう一つは、一町一村全体の人民からも、学校教師に勢力を与えぬといかぬ、もう少し優待せねばいかぬ。  これは双方相またないといけまいと思う。  そのほかお話ししたい点はいくらもありますが、 それはずいぶん長くなる話だから、 やめておきます。

 いったい家庭教育と社会教育という点は、 ぜひともこれは宗教の方を応用せぬといかぬと思う。 ただ今のところ地方へ行って見ますと、 宗旨のなんたるは論じません。 宗旨のなんたるは論じませんが、 寺というものは今日でも、  ずいぶん行き渡っておる。どんな紀州の山間へ行こうが、 信州の山間へ行こうが、 村があれば必ず寺がある。紀州などへ行って見ましても、 戸数の割合に多いものは寺です。 家が五十戸、 六十戸とあると、 寺の一ヵ寺や二ヵ寺はきっとある。 なんのための寺かというと、  死んだときに葬式を行うということにとどまっておる。  葬式だけの寺であるとすれば、  ちと多すぎると思う。 そんなには要らない。 ところが今では、 どこでもそうですが、 寺というものは、 葬式か法事のほかには用のないもののように考えておる。 あれがないなら一層ないでよろしい。 また、  こいつが勝手にやめられるものならやめてもよろしいが、 こいつを今なくしようとしても、 なくすることはできない。 なるべくこれを利用するという方の考えを持たねばならぬというものなら、  これを利用して使った方がよろしい。 また、  いよいよこれが利用のできない不用物なら、 はやくやめた方がよろしい。 どっちにかきめたい。 それならば、 さてその寺をどういうように利用するかというと、 以前小学教育のいまだ十分行き渡らぬときには寺で教育をした。  ずっと昔は申すまでもない寺子屋というものがあったが、  近来でもまた寺を借りて学校にしてあった。 ただ今では学校は学校、 寺は寺で、 宗教と教育とはまるで別になっておる。  であるが、 しかし家庭教育とか社会教育とかいうものは、  これは学校でできない。 児童が学校へ出る間というものは五年か六年の間で、 そのほかは捨て置くといえば、 もとより立派な人間になれるはずもない。 そうすると、 学校の前後においてはどこで教育するか。  これは、 ぜひとも私の考えでは寺を当てはめなくてはいかぬと思う。

 紀州へ行って見ますると、 寺は今申すように五十戸か六十戸について一箇寺ずつある。 そのうえに天理教というのが大層勢力を得ておる。 まあ日本中で、 紀州と大和がいちばん天理教が盛んである。 つまらない村へ入って見ましても、 驚くべき立派な建築があるのは、それはいつでも天理教です。私は紀州の名物は山と材木と天理教と、  こう三つと勘定してきた。 天理教はそれだけに盛んである。  そのうえに寺も五十戸に一カ寺ずつもある。 それも人民が維持しておるのである。  そうして一方の寺はなにをするかというと、 葬式を取り扱い、  一方の天理教の会堂はなにをする、 疾病がはやるとお水をもらうとかなんとかいう。 つまり病気、 災難よけに建ってあるので、 教育という考えは少しもない。 もし、  これが疾病よけや死人取り扱いのためならば、 寺も多すぎるし、 会堂も立派すぎるのです。  すでにそういう会堂もあり寺もあるとすれば、 なんとかこれをほかに利用する方法を考えねばならぬ。  それについてはまず教育の方から申しますと、 家庭教育と社会教育は寺あるいは会堂を利用せんといかぬと思う。

 そこで寺というものは、 そういうような死んだとき葬式でも行う所だから縁起が悪いというので、 それで少なく繁昌してくるというと、 なにができるかというと料理屋ができる。  どんな辺鄙な所へ行って見ても、  少しく繁華になったという証拠はいつでも料理屋です。 料理屋が多くなる。 料理屋ではもとより教育のできるはずはない。  これはただその青年学生が集まってくる。 寺では縁起が悪い、  死んだときでなくちゃあいけないものであるという考えから、 自然料理屋もできる。  これをその料理屋など建てることをやめて、 寺なり会堂なり今あるものを利用して、  学生が集まるにしてもそういう所へ集まる。  一方においては、 風俗改良のためにはたいそう益があると思う。 したがって宗教の方にとっても、 その方がよほど布教上の便利はあるに違いない。  そこでこれについては、 私は少しく全国の宗教の事情から取り調べて、 そうしてそのうえで自分の意見を一つ吐きたいという考えがあるのです。 ぜひとも今後の教育というものは家庭とならびに社会教育だけは、これは寺あるいは会堂で引き受けるという方針をとって、 学校教育だけでこれで教育は済んだという考えでなしに、 まず家庭にあって父兄が子供を教育するうえには、  ただ自分の家の汚い無規律の所で教育のできるものでないから、 五日とかあるいは一週間に一遍とかいうものは、 子供を連れて寺へ行く、 会堂へ行くという習慣をつける。 それから、 小学校を卒業した中年以上の者は、 互いに集まるにも料理屋へ集まるということをせずに寺へ集まり、 あるいは会堂へ集まるようにして、  そうやっ てだんだんこの学校以外の教育の改良方針をとったならば、  ずいぶん地方の風俗習伯などを矯正することはたやすいことだろうと思う。

 西洋などで見まするというと、 学校以外の教育といえば寺が引き受けてある。 いわゆる日曜とかいう一週に一遍は、 必ず寺へ集まるという一つの習慣がある。 朝十時になると、 寺時と称して鐘が鳴ると家内中、  親たちが子供を連れて寺へ詣る。 それから夜分になるとまた、 その昼間寺へ行かない者が出かける。 例えば一家でいうと、一軒の家の親兄弟家族が昼間出かけるから、 下女下男は家の留守居をしておる。  それで夜分になると、 それらが出て寺へ行く。  この寺には青年協会だの婦人協会だのというものがあって、  これが家庭教育、 社会教育を引き受けておる証拠である。  それからまたその寺へ行く場合には、 子供まで着物を着がえ直して出かける。 寺着と称して、 寺へ行くとき着る特別の着物がある。  それを着がえて、 そうして参詣する。  それがやはり一つの教育になる。 例えば子供に行儀を教えようといっても、 家の狭い汚い所で教えようとしても、 暑いときには裸体にもなり肌も脱ぎ足も出す。 そういう所で行儀をお直しなさいと言ってもできない話だ。 寺というものがあって、 子供を連れて行けば肌を脱ぐわけにもいかず、 足を出すわけにもいかず、 さすれば自然そこで行儀を教えられる。  で、まず行儀をはじめとして、  そのほかの心得方にしたところで、 家で親たちがいくらか子供に相当な心得方を教えにゃならぬけれども、 寺とか会堂とかへ行って教会とかいうもので、 いわゆる幼年教会とかいうようなもので、教師が子供のために話をして、  それを親がまた取り次ぎするようにすれば、 その心だても直すことができる。  それから、  学校を卒業したうえの青年という者が、 料理屋へ集まろうというような考えを持っておるのをやめて、寺へ行って寺で、 また青年学生には青年学生相応な話を聴き、 お互いにまた話し合ってもよろしい。  そうやれいくらか青年の風儀を直すことができる。 

 いろいろの点から考えてみるに、 寺を利用すればこれらの欠点を補うことができるが、  そうでないと、 ほとんど家庭教育、 社会教育を授ける道がない。 ゆえに、 今後は寺を利用したいという〔のが〕私の意見である。  それを利用するというについては、  一方においては僧侶の改良をせねばならぬ。

 地方へ行って見ますると、 実に僧侶が学識もなし道徳もなし、  ずいぶんそれは見るに忍びないようなありさまの者が往々あります。  それは、 ある点においては僧侶だけに向かって責める点もございましょうが、 しかしよく考えてみると、 僧侶ばかり責めるわけにいかない。  僧侶に向かって、 お前はそんなことではいかないから学問なさい、 こう言っても、 学問というものは資本なしにできるものでない。 いったい僧侶というものは、 葬式ばかりを行う。 その葬式を行うためにいくらかの礼をもらう、 その礼だけで衣食をしていこうというのであるから、 毎日の糊口に苦しんでおる。 糊口にさえ苦しんでおる者が、 とても学問などできるものでない。 それだから、 まあ葬式でもあったらなるたけ余計に頭でもさげ、  少していねいにお経でも読んで、  一文でも余分にお礼をもらおうというようなわけで、 お経を上手に読んで檀家の機嫌をとることばかり考えておる。  そうでないと今日食うことに困る。 そいつに向かって学問なさい学問なさいと言っても無理な話で、 学問なさいと言うならば、  学問する道をつけてやらねばならぬ。  ずいぶんその中には特種な者もある。 地方へ行って見ると、 僧侶などでどうか学問したいという精神はあっても、 いかんせん学問する力がないので、 やむをえず引っ込んでおるというようなのもある。 で、 今後寺を一つの教育場と見て、 家庭教育、 社会教育はぜひ寺でもって授けるということにしたならば、僧侶を改良するということが最も急務である。 その僧侶を改良するには、  僧侶に学問のできる道をつけてやらねばならぬ。

 僧侶の改良などということは、 私の考えではそうむずかしいことでないと思う。 それが今日改良ができないというのは一方においては政府がさらにこういうことに心をおかないのと、 それからまた一般人民もそういう考えを持たないので、 そこで改良ができないのである。 今日までなにごとによらず改良改良と言っても、 政府で手を下さぬでできたものは一つもない。  学校が行き渡ってきたのも、 政府が勧めたからそうなった。  医者の改良ができたというのもやはりそうである。もし政府が教育などに少しも手を下さなかったならば、決して今日のように小学教育は進歩してこない。やはり、かの寺子屋と同じような教育できたったに相違ないと思う。もしまた政府がこの医者の改良ということに着手しなかったならば、今日もやはり草根木皮で昔どおりの医者であったろうと思う。しかるに、その医術あるいは学校教育などがよく今日まで進んできたというのは、 畢竟、  政府が着手したからである、 奨励したからである。 ただ今、 宗教の方へは政府がなるたけ手を出さないという方針であるから、宗教が改良されるはずはない。 今一つは、一般の人民が宗教の改良などには一向心を用いていない。 宗教のいちばん盛んに行われて勢力のある所へ行って、 どういうありさまかと見ると、  かえってその僧侶を堕落させるとも、 決して良くするというたすけにならぬ。

 まあ北国などへ行きますと、 ずいぶん宗教は盛んといってもよろしい。 寺のことならば、 なにをおいてもお取り持ちしましょうと、  こう言っておる。 それがかえって寺の住職に学問させるということは反対なんです。 それはどういうわけか。 寺を大切にし、 寺の住職たる僧侶を優待するはなんのためかというと、 自分が死んだときにお経でも懇ろに読んでもらいたい、 法事を丁重に営んでもらいたいという考えから起こるので、 それが学問をするために東京なり京都なりへ出かけられては、  おれが死んでも葬式をしてもらうことができないから、 そりゃよしてもらいたい。  法事があっても住職が遠方に離れていては、  すぐ来てもらうことができないというところから、 まあその土地に留め置いて、そうしてなんでも法事でもあれば、 いちばん先へ駆けつけて来るというのでないとよかない、 そうでないと気に入らない。 はなはだしきになるというと法事の席で・・・諸君ご承知かも知らないが、  北国あたりの宗教の繁昌な所へ行くと、 いちばんの上客が寺の住職で、いちばんの上席にいて、一般の客人に対してうまく取り持ちをせんといかぬ。 酒でもなんでもたっぷり飲めば、 あの和尚さんは酒がよく飲めてよろしいと言って喜ぶ。  これがもし酒の飲めぬ僧侶であると、 あいつは窮屈な和尚さんでいかないと言って、 すぐ排斥されてしまう。 酒でも飲んで謡の一つくらいうたえると、 たいへんもてがよろしい。 あの和尚さんは開けていてよろしい、 謡がよくできるというので、それをよろこぶという。これではとても改良などのできるものでない。

 これは一般人民に大いに罪があるだろうと思う。もう少し信徒とか檀徒とかいう者の見識が進んで、自分らの品行道徳の師範となるだけの僧侶を、ひとつ自分の寺には置きたいものだという考えがないといかぬ。  それが今のようでは、 まるで反対なんです。 宗教が繁昌しておるというのも外面だけで、 内実は右申すようなぐあいであるから、 良い僧侶はおらない。 学問もできず、 品行もおさまらぬというような者が多い。 そうして、 宗教の盛んでない所はそんならばどうかというに、  これは寺の維持に追われておるものであるから、 なおもって学問することもできない。 また、 この海岸などで魚漁の盛んな所へ行って見ますと、 この間あたりも聞きますれば、 魚がとれるといちばん先に寺へ持って行く。  寺ではその魚をもらうので、 いくらか歳入の助けになっておる。 そういう所へ魚を食べない住職が行って、  おれは魚は嫌いだからなどと言えば、 そこにおられぬ。 あんな窮屈な和尚さんじゃぁ困るというので、 壇家総代をはじめとして信徒が、  すぐにその住職を追い出してしまう。 そこで、  酒もたっぷり飲み、 魚もいくらか食べるというような住職が来ると、 よろこんで置く。

 そういうようなありさまで、それに類似した話はいくらもありますが、とにかく一般人民の考えから改良せんといかぬ。  一方において、 学校教育が進んでくるとともに、 まず家庭教育、 社会教育というものはどうするかと考え、それについてほかに方法があればよろしいですが、もしないとすれば、 私は宗教というものを利用せねばいかないと思う。 宗教を利用するには、 僧侶の改良ということが必要である。  そうすると、 やはり政府も国のためにそういう方針をとって、  学校教育、 医術の改良を奨励したるがごとくに、 宗教僧侶の改良をひとつ奨励するような方針をとり、  一般人民もこれに伴って改良していくようにしたい。  いったいわが国の宗教の改良ということは、  そうむずかしいことではあるまい。 しかるに、 今日のようになんでも放任しておかるるは、 はなはだ困ったことと思う。 実は昨年来も地方を巡回してみて、 そういうことに深く感ずるので、  ここにこのことを申し上げた次第であります。

 なお地方の実況について、 いろいろまた奇談もありますし、  お話ししたいこともありますけれども、 今日は二時から、 もう一つ会を約束しておりましてそこへ出ますので、  私はこれで御免をこうむります。




   二〇 小学教員の義務年限のことについて


 ただ今のところで、小学教員の義務年限は県によって多少取り扱い上の相違はあれど、 まずたいていは十ヵ年という年限に定まりておるようである。 その年限を定めたということは、 その県その県の小学教員を監督する上においてはやむをえぬことだけれども一方から見ると、  このために小学教員の進歩の道を妨げることになり、教育そのものの全体から考うれば、  ずいぶん不都合なことになりはすまいかと思う。  一例をいえば、 小学教員の中学教員を希望するものについてである。 小学教員にして中等教育に従事しようという希望があり、 また従事するに適当な人物でありても義務年限がありては、  その学と才とを伸ぶることができないで、 ぜひとも小学で暮らすべきことになっておる。  ひとり高等師範においてはその義務に関せずして入学を得られ、 卒業の上は地方の義務を離れて、 中等教育に従事のできるようになっておるが、 そのほかには小学以上に出ずる道がない。  これについての利害は、  大いに考えねばならぬことと思う。

 しかしここにまた、この三、四年前から中学教員の欠乏を感じて、 高等師範だけでは不足というところから、私立学校にして高等師範の専修科に準ずるものは文部省これを認可して、 中等教員の資格あるものとみなして特許を与えておる。  そうしてはじめて有効なのである。  これらの卒業生が入学の上、 三年の課程を踏めば教師の免状を渡さるることになっておる。  しかるに師範卒業生の方を見ると、 義務年限終了に関する地方長官の証明を要することになっておる。  ところが、  すでに義務年限の済んだものといえば、 卒業後十年以上を経たるものであるから、 年齢の上からいうも、 妻子その他一家繋累の方からいうも、 学業進歩の上に壮年者とは非常な相違があるのである。  ずいぶん師範学校卒業のころには優等の成績で将来有望であったものも、 十年間も田舎で子供相手にやっておる間には、 いつとなく気力も衰え、 もはや義務年限の終わるころには、 四十歳近くにもなれば学業の進歩も遅くなり、  たまたま奮発してある学校に入学するも進歩がはかばかしくなく、 英語科のごときはことに劣等のようである。

 どうせ師範学校卒業生をして中学教員になる道を開くならば、 なんとかして義務年限内、  すなわち年齢も若く、  妻子、 家事などの繋累もない、 学業進歩の早いときに学ばしめたいのである。 しかしかくいうときは、  一方においてこういう故障の申し立てもあろう。すなわち、もしかくのごとくに小学教員が義務年限中に中学へ進む道を開いたときには、  小学教員がみな中学教員に進もうという気になり、 初等教育のためには憂うべきことであるというかも知れないというであろう。 私の考えはこうである。小学教員をして中学教員になれる関門を開くのは、かえって小学教員の奨励になると思う。

 だが一利一害は免れないので、今、師範学生を募集するに、一生涯小学教師をしなくてはならぬようなる束縛がありては、 意気盛んなる青年時代に、 生涯小学教員で終わろうなぞという考えのものは、 まず無気力なる意気地なしと見なければならぬ。 師範の募集に応ずる大多数の人物は、 あまり教育家として頼もしからぬものでありそうに思わる。  しかるに、  これに反して小学教員にして幸いに品行、 学力、 資力等兼備しておれば、 これに応じてさらに高等の教育も受け得られ、 上級の教員になれるということを標榜して募集したならば、 ずいぶん有為のものも入ってくるに相違ない。 すなわち、 師範教育奨励の上にも必要である。 また、 数年師範教育を受けてひとたび小学教師になったものが、  さらに高等の教育を受け中学の教師となれる資格をそなえ、 そのうえで自ら進んで小学教育の任に当たり、 喜んで国民教育のことに従事しようという考えになるけなげなものも、 全くないではあるまい。 私は、 かくのごとき国民教育における熱心者が多く出でて、  国民教育における幹部となるようにしたいと思う。  されば、 中等教育に進む道を開いたからとて、 あながち小学教育者がからになるわけでもあるまい。それからまた、 中等教育に進もうという希望を持っておるものにつきて見ても、 希望を持っておるくらいであるから、  小学教育に従事してる間は、 あながち小学校のことを粗略にするものではない。  かえってこういう若手は、 よく勤めるものである。 また、 時機を得て志望どおりさらに高等の学校へでも入学するときには、  さらに活気のある後進が続々その後を埋めていけば、 小学教育は大いに活気を帯びて萬萬歳である。

 今一つは、  小学教員の欠乏と同時に中学教員の欠乏ということである。 地方では、 小学教員のために、  その教師をば養成する道を作りながら、 中学のためには、 その教師をどうしてつくろうかという道をつけていない。 中学の方は教員が足らぬから競争して取る、 高い俸給を掲げて取り合いをするのである。 それであるから、  中学教員は永く踏みとどまっておることができぬ。 小学教員に義務を付する必要があるならば、 中学教師にも足のとどまる方法を付けたいものである。 その一方法として、 義務年限内に中学教員になれる学校へ入れば、 卒業ののち小学の年限を中学に移してその県で義務を果たすとすれば、  いくぶんか中学教師の、 腰掛け半分の弊を防ぐことができようと思う。  これが一つの利益である。

 今一つは、 近来検定試験でもって教員を採用する。 中にはずいぶん小学教員もあるようだが、  これと一定の学校で三年以上修業して資格を得るものとの利害を考えなければならぬ。 いうまでもなく、  検定試験は一時の試験である。 従来の試験問題などをしらべてたいていの見当をつけ、 それにならって当て探りに準備をする。 うまく当たれば合格をするので、  思いもよらぬ人が合格し、 実力あるものが失敗することがある。 また、 合格というのはその学科のみの合格で、 準備といっても単にその科ばかりで、 補充科のごときはさらにない。  三年以上専攻科目と補充科とを兼ね修めていくに比すれば、 その価値の差はいわずと知れたことである。 また、  その検定なるものの中には、 中学の卒業も師範の卒業もなく、 中等教育の完了せざるものも多かろう。  されば、 一時の検定は大いに一考すべきことであろう。

 それから、 中学卒業生の中等教育を望むもののことをいおう。 第一に、 中学卒業者が教員になろうというのは誠に少ない。  彼らは中学に入るときから志望があるのである。  中学教育を終え、  よそうというものはとにかく、そのほかはみな高等教育を受けようとしておる。  教員になろうためではない。 ただ、 到底競争試験のために高等の学校に入ることができず、 やむをえぬから教員にでもなろうかといって、 成績のまずいわずかのものが入学を申し込む。  こういうでも教員は、 あまり望ましくない。 そこで、  どうしても師範学校の卒業生が中等教員になるのが順序でもあり、 いちばん適当です。 はじめから教員が志望で、 師範在学中にも教育者になる訓練を受けて授業法の心得もあるし、 小学教育の高等の級は、 中学教育の下等な級と同じだから連絡もある。  この点からいっても、 師範卒業生を中学教員に望むわけなのである。

 教員以外のことに望みを嘱するのは許すことはできないけれども、 それこれの事情をあわせて考えるときは、今少しく義務年限のうえに考案があらせたきものである。 今のべきたったようの希望を実施するとならば、  小学教育者欠乏の折柄大きに困るというのならば、 それならば十年間はぜひ勤めるとして、 教員志望でさらに高等の学校に入学したときには、 ちょうど徴兵猶予と同じに義務年限に猶予を与える。 そうして卒業の後、 義務年限内は必ず小学に従事させる。 そうして、 年老いてから学ぶべきものを、 繋累もない、 学業の進歩もできるときに、学ばしておいたらいかがであろう。

 以上は、 小学校の義務年限について、  ご希望の点を述べたのである。

 



   二一 小学校の資金を積み立つる方法につきて


 余はかつて小学校の資金を積み立つるについて一方法を案出せしも、 日来多事、 筆を執るの余暇なきをもって、 いまだ世の公評を仰ぐに至らざりき。 しかるに、  このごろ半日の少間を得たれば、  ここにその大要を録して識者の高見をたたかんとす。 しかして余が考案は、 社会の大礼たる結婚の革新に関連するものなれば、  まず結婚革新論の一端を開陳せざるべからず。

 文物百般の革新に伴って風俗習伯および儀式のごときも、また面目を一変せざるを得ざるは、勢いの免るべからざるところなり。  しかるに、 わが国の革新がいまだその点に及ばざるはなんぞや。  これ、 わが革新の年を経ること、 なお浅きによるというよりほかなし。 しからばこれを自然の勢いに任するも、  数年の後には必ず新面目を現出する日あるべしといえども、 その期を早からしむるは実に今日の急務にして、 また余輩の任するところなり。 ゆえに、 余は平素いささかこれに見るところありて、 第一着手に結婚の革新を実行し、 もって社会改良、 風俗矯正の端緒を開かんと欲するなり。

 それ結婚は社会の大礼中、  最も重要なるものにて、 その儀式も身分に応じて鄭重に営まざるべからず。  しかるに、 わが国の結婚は往々身分不相応の式を挙ぐることあるも、 その式の九分どおりは酒食にして、 通夜連日、 多数の賓客、 牛飲馬食、 もって大いに祝し得たりとす。  したがってその経費意外の多額に上り、 弊害の波及するところまた極めて大なるを立ゆ。 余、 西洋諸国の結婚を見るに、 儀式そのものを主とし、 飲食はわずかにこれが伴たるにすぎず。 しかるに、 わが国の結婚は飲食主となり、 儀式従となり、  そのいわゆる婚礼中より飲食の二者を除き去らば、 余すところほとんどゼロに近きありさまなり。  これ、 あに文明国の結婚というを得んや。  また、 近来欧米の結婚を模擬して、 新婚旅行を営み、 儀式を略するものあり。 新婚旅行必ずしも非議すべきにあらざるも、 旅行のみを取りて儀式そのものを廃するは、 例えば洋服を着せんと欲して、 ズボンだけをうがち、 チョッキ、  コートを廃するものに同じ。 不体裁もここに至りて極まれりというべし。 ここにおいて、 余は結婚の儀式を一定するの必要を感ずるなり。

 余が結婚革新に関する意見は、 すでに一、二の雑誌において世に公にしたることあれば、  ここにただその一端を示すをもって足れりとす。 西洋諸国にありては、 結婚の儀式は必ず寺院においてこれを挙げ、 夫婦両人神前に立ち、 住職導師となりて、 宣誓を行わしむ。  その間奏楽あり、 唱歌あり、 親戚朋友みなその席に列し、 儀式最も荘厳なり。 その式一時間内外にして結了し、 後に私宅において近親の者を饗応することあるも、 いわゆるウェディング・ブレックファストと称し、 冷肉を用うるを例とす。  すなわち、 わが国の冷や飯茶漬けに比すべきものにして、 比較的質素のものなり。  これ、 余が西洋の結婚は儀式を主とし、 飲食を従とすといいたるゆえんなり。  わが国もまたこの風に倣い、 飲食を質素にして、 儀式を鄭重にせんこと、  これ余がもっぱら望むところなり。

 西洋の結婚は宗教的なり、 わが国の結婚は非宗教的なり。 されば今より大いに改新して、 この非宗教的を宗教的に変ずるは、 種々の非難もあり、 また困難もありて、容易に実行すべからず。 ゆえに余は、 西洋の結婚が宗教的なるがごとくに、 わが国の結婚は国家的となさんとす。 しかして国家的とはなんぞや。  わが国の国家は世界万国とその類を異にし、 皇室その中心なり。 臣民その外囲となり、 幾千万の同胞は、 三千年間一系連綿天壌無窮の国体を維持してきたるものなれば、  かかる国民の結婚は、 また必ず皇室に対して宣誓するところなかるべからず。 換言すれば、 余がいわゆる国家的結婚とは、  小学校において陛下の御真影に対し奉り、 自今夫婦となりて、ともに国家のために力を尽くし、 皇室のために身をいたすことを誓わしむるをいう。 今その方法を述ぶるに、 甲某と乙某とともに結婚せんとするに、 あらかじめその式を挙ぐるの日を期し、 その場所は必ず最寄りの小学校と定めて、 両人の親戚朋友に通知し、 当日は時間にさきだちて親戚朋友小学校に至り、 両人の来たるを迎え、 校内にはあらかじめ講堂に聖影を奉安し、 もって式場にあつるの準備をなし、 生徒数十名をして、  特に結婚唱歌を誦せしめ、 ピアノをもってこれに和せしめ、 両人ここに入るや、 まず聖影に対し奉りて敬礼を行わしめ、  つぎに校長は勅語を奉読し、つぎに両人は「夫婦相和し」の聖諭を遵奉するの宜誓を行い、 その前後に媒灼人および知友の祝文を朗読し、 そのつど音楽唱歌を奏ぜしむるに至らば、 その儀式堂々として実にみるべきものあり、 毫も西洋の結婚に譲らざるのみならず、 国民的精神を発揮するにいたりては、 はるかに欧米の宗教的結婚にまさるべきは論をまたず。  かくしてその式を結了すれば、 その席において来密一同へ酒肴の代わりに茶菓を呈することとし、 もって従来の牛飲馬食の弊を除くは、 矯風上、 経済上ともに大なる利益あるは明らかなり。  これ余が婚礼革新案の大要にして、 その詳細はここに略するなり。

 これより、まさしく余が小学校の資金を積み立てる方法は、まったくこの婚礼革命案に基づくことを述べんとす。すなわちこの革命案によらば、その経費従来の十分の一、あるいは二、三分の一にて支弁するを得べし。かくして余したる金は、これを小学校の資金として寄付する方法を設くるは、実に余が方案の要旨なり。従来の結婚にては、飲食のために費やすところ貧富によりて等差ありといえども、その少なきは五円、十円、その多きは五十円、百円ないし千円を要すべし。しかるに、 婚礼革新案によりて酒肴を廃して、茶菓を用うるに至らば、 五円、 十円は減じて一円、  二円となり、 五十円、 百円ないし千円はさらに減じて五円、 十円ないし二十円となり、経費の上に多分の剰余を見るに至るべし。  この剰余金はそのつど学校へ寄付し、  これを資金として積み立つるときは、 たちまち千円、 万円の巨額に達すべし。 今、 仮に五百戸の一村に一年平均二十五回の婚礼ありとし、 一回の婚礼の剰余金平均二十円として算すれば、 毎年五百円ずつの積立金を得る割合なり。 この割合にて推算すれば、 その資金十年に五千円、 二十年に一万円となるべし。 もし、 一回の婚礼平均十円とするも、 なお二十年の終わりには五千円となるべし。 されば、 多年を待たずして学校は独立の資産を得、 月謝を廃し、 税金を課せざるを得るに至らん。 かくして、 すでに学校の資金余りあるを告ぐるときは、 さらにこれを一村の共同財産として積み立てて、 衛生代、 土木費、 兵事費その他、 なにに用うるも可なり。 果たしてしからば、  この婚礼革新によりて得るところは、  風俗の矯正と時間の経済とのほかに、 学校の資金と一村の共同財産とを積み立つるの利あり。  ゆえに、 その法は実に一挙万得といわざるべからず。

 かかる新案は、  人みな道理上その利あるを知るも、 旧来の習慣に牽制せられて、 断行することはなはだ難かるべし。 たとい一村中一、  二人のものがこれを実行せんとするも、 多数の者がこれに反対するときは、 かえって人のそしりを受け、 世の笑いとなりておわらんのみ。  ゆえに余は、 そのことの果たして利あるを知らば、  一村中の協議により、 村内の規約を設け、  必ずこれを実行するの制裁を作らんことを望む。  かかる制裁は、 市よりも町の方行いやすく、 町よりも村の方行いやすく、 大村よりも小村の方行いやすく、 都会よりも僻地の方行いやすきものなれば、 まず僻地の小村落において、  ひとたびこれを試むるをよしとす。  すでにこれを試みて、 その果たして利あるの実例を示すときは、 これを及ぼして他町村に行わしむることは、 決して難きにあらざるなり。もし、その規約法は町村の事情に参酌するを要するも、 今その大要だけを挙示すれば左のごとし。

 まず第一に、一村の貧富の度を三段ないし五段ほどの階級に分かち、 第一級は一結婚ごとに百円以上千円までを寄付することに定め、 第二級は七十五円、 第三級は五十円、 第四級は二十五円、 第五級は十円ないし五円くらいに定むべし。 あるいは各戸の所得もしくは財産につきて、 その何分の一の割合を立つるも可ならん。  かくして一村の制裁を設けて結婚法を断行するに至らば、 旧慣を打破すること、 あえて難きにあらざるなり。

 すでに町村の規約を設けて徴収するときは、 あたかも一種の課税のごとくなるに至るべし。  されば余は、  これを結婚税として取り扱うも、 あえて差し支えなかるべしと考うるなり。 その課税は、 軽きよりもむしろ重きをよしとす。 けだし、 わが国の風たるや、 自活の道を立てずしてみだりに結婚し、 結婚の後は妻子ともに糊口に苦しみ、 不幸にしてその夫の長病または遠逝に会するときは、 一家挙げて飢渇の淵に沈むに至るもの往々これあり。また早婚の風も、  みだりに結婚するの弊より起こる。 離縁の多きも、 最初結婚のときに用意周到ならざりしによる。 ゆえに、 今より結婚の重税を課して、 結婚の大切なることと自活の必要なることとを知らしめ、 決して軽率に行わざるように注意を与うべし。 もし一人にして再三結婚する場合には、 一定の課税のほかに、  さらに二、三   倍の増税を付加して可なり。しかるときは、 みだりに結婚するの弊を防ぎ、 あわせて早婚および離婚の弊をも漸々に減滅するを得べし。  かくして数年の後には、  わが国も欧米諸国のごとく、 人みな少壮の間によく勉強し、よく辛抱して多少の財産を積み、 終身自活し得るの見込みを立てて後、 結婚を行うに至るべし。  国家の独立富強もまた必ずこれに基づくは、  余が言をまたざるなり。

 これを名づけて結婚税ということあえて不可なきも、  むしろ結婚の祝儀として学校に寄付する名義を用うるをよしとす。 なお、  父母の死去せるときは、 祠堂金として数十円をその寺に寄付するがごとくすべし。 わが国の習慣として、 神社仏閣へ多額の金円を献納する風あるも、 いまだ学校へ寄付する慣例あらず。 余は今より、  国民をして神社仏閣へ寄付するがごとく、  学校へ喜捨する道を開かしめんと欲するものなれば、 その第一着手に、 結婚の祝儀として学校へ献金せしめ、 もってその慣例作るは、 実に今日での急務といわざるべからず。  これに対して学校と村民との関係を密にし、 学校にありては村民を優待する道を開くことまた肝要なり。  例えば、 神社仏閣には氏子壇家の名称ありてこれに対する待遇法あるがごとく、 学校にありても一村ことごとく氏子壇家とみなし、結婚の寄付金に上中下三段の階級あれば、  上級はすなわち学校の檀頭分なり。 もしその檀頭分の家にて、  主人たるもの死去するときは、 生徒一同会葬をなし、 中級の家にて主人たるもの死去するときは、  若干の教員生徒が一同に代わりて会葬をなし、 下級のもの死するときは、 弔文だけを贈るがごとき慣例を作るべし。  そのほか、 祝日などに村民一同が学校に会するにも、 上中下の等級に応じて待遇を異にする必要あるべし。 要するに余が望むところは、 村民が学校に対して厚意を表する以上は、  これに相応する待遇を設けざるべからずというにあり。 もしその会葬のごときは、 学校の授業に妨げありというものあらんも、 余はわが国も西洋諸国のごとく、 婚礼は必ず日曜日の午前と定め、 葬式は平日午後一時後と定めんことを望む。  しかるときは、 婚礼を学校にて行うも、 葬式に生徒を列せしむるも、 毫も授業の妨害とはならざるなり。  かくして学校と村民との間の情義を親密ならしむるは、 諸般の点につきて大なる便利あるは、 また言をまたざるなり。

 英国の結婚法に、甲某が乙某と結婚を約するときは、その式挙ぐる前に、寺院において毎日曜三回、公衆に対し報告をなすを常例とす。 もし、 上流社会の者にてその報告を好まざるときは、 特に金円を納めてこれを省略する法あり。 今、 これとその場合を異にするも、 余はしばらくこの法に倣い、わが国の結婚式も一般に学校において挙ぐるを常例とするも、 もし村内の富豪家にして、 その居宅の学校より広き場合には、 自宅結婚を許す特例を設けても可なるべし。 しかるときは、 結婚に対する寄付金を定額の二倍ないし三倍として納めしむべし。 しかしてその式は学校と同一にし、 教員生徒ともにその席に列するようにし、 飲食を廃して茶菓を用うるようにせざるべからず。

 以上述ぶるところの結婚革新案は、実に風俗改良の先達となり、文明的社会を造成するに最も重要なるものなり。  ゆえに、速やかにこれが実行を望むも、前にいうがごとく、一、二人の意見をもって断行すること難し。 されば、その断行は必ず町村の規約を待たざるべからず。これ余が、 試みに地方の一町村において実例を示されんことを望むゆえんなり。

 学校結婚について一つの困難なる問題は、わが国の婦人は西洋の婦人と異なり、衆人の前に出ずるを恥ずるふうある一事なり。今後はこのふう漸々に消滅すべきはずなれば、 当分の内に限り、 従来のごとく綿帽子もしくはこれに類したる被面衣を用うるも苦しからず。 ことに宮有者には二、三倍の結婚税を増課して、自宅結婚の特許を与うるにおいては、格別の困難はなかるべしと考うるなり。 これらの細目にいたりては、 余、 別に工夫あり。また、その地方の情況に照らして参酌を要すること多ければ、 町村の協議に一任して可なり。 これを要するに余が本志は、わが国従来の結婚のごとく、 町村の人民相集まりて暴飲過食し、 あるいは石を投じ水をかぶらせるがごときは、 野蛮の遺風にすぎざれば、 今より速やかにかかる蛮風を改良して、 文明的儀式を作らんことを望むにほかならざるなり。

 今日の勢いこの方法によるも、 十年ないし二十年の間に十分なる結果を見ること難からん。 いわんや、 その法の実行の非常に困難なるにおいてをや。 しかしてその困難とは、 その法の困難なるにあらずして、 旧慣を打破するの困難なるなり。 しかれども、  小学校の資金を積み立つることは、 実に急務中の急務なり。  すでにその急務なるを知る以上は、 その方法を工夫すること一層急要なるべし。  これ、 余が本案を考出するに至りたるゆえんなり。 もし、  この方法の実行し難き場合には、 その前半は時期を待つこととし、 せめて後半だけ実行したきものなり。 後半とは、 婚礼を学校にて挙行するとせざるとに関せず、町村内に結婚するものあるごとに、 必ず身分に応じて一定の金額を学校に寄付するの規約を設くるをいう。 しかしてその寄付の金円を多額ならしむれば、 自然に酒食に過分の費用を掛くる慣習も減滅するに至るべし。 ゆえに余は、 地方の情況により臨機の方便として、 まず後半だけを実行せられんことを望む。

 かくして十年ないし二十年の間に、一学校ごとに平均五千円ないし一万円くらいの資本金を積み立つる見込みなり。 今、 従来の統計によりて立算するに、  二十八年より三十二年までの毎年の結婚は、 その少なきは三十万偶、 その多きは五十万偶なれば、 平均一年につき四十万偶の結婚ある割合なり。  一結婚の税金すなわち寄付金平均二十円とすれば、一年の積立金全国の総計八百万円となり、  十年につき八千万円、  二十年につき一億六千万円となる割合なり。 もし、 一回につき平均十円とすれば、 まさしくその半額を得べし。 しかして、 小学校の数は全国を通計して二万六千校ないし二万七千校なれば 校につき一万円をもって算するに、一 億六千万円以上を要する割合なり。 もし、 結婚税金をしてこの金額に達せしむるには、  一回の平均二十円と定むるも、 なお三十年以上を要するなり。 ことに結婚税の実行によりて、 毎年の結婚数を減ずるの恐れあり。 ゆえに、 余は別に一方案を考出せり。  これを第二の方案と名づくるなり。

 そのいわゆる第二の方案は、 結婚税にして果たして実行し得るならば、  さらに出産ごとに小学校にいくぶんの寄付をなす規約を作るをいう。 今、 最近の統計に考うるに、 出生者毎年百三十万人に下らず。 もし、  一人につき平均二円ずつ寄付するものとすれば、  一年に二百六十万円、 十年に二千六百万円、  二十年に五千二百万円となる割合なり。  すでに出産につき寄付する慣例を作る以上は、 死亡につきても、  一人につき平均一円ずつ寄付するも差し支えなかるべし。 しかして死亡の統計は一年九十万人なれば、 一年につき九十万円、 十年につき九百万円、二十年につき一千八百万円となる割合なり。 そのほか法要、 新築等、  すべて祭事祝事あるごとに酒食に濫費する方を節減して、 いくぶんの喜捨を学校になすときは、 僅々二十年間に、  全国を通じて二億六千万円くらいの資金を積み立つることを得べく、  すなわち一校につき一万円の資金を積み立つることを得るなり。

 かくして積み立てたる資金は、 適当の方法をもって永世動かすべからざるものとし、 ただその利子だけを毎年消費するようにすべきはもちろんなれども、 余は別にその資金に関し深謀遠慮するところあり。  そはなんぞや。曰く、 勅語のいわゆる「一旦緩急あれば」の御聖諭に対し、 他日もし国家の一大事ある場合には、 その資金を挙げて軍用に充て、 もって天壌無窮の皇運を扶翼するの義挙に備うる見込みなり。 今日すでに敵国四隣に迫り、 外患四方に起こらんとするにあたり、 万一に備うるところなかるべからず。  ゆえに、 余は今より年々学校の資金を積み立てて、  この不慮の費に充てんと欲する意見なり。 その詳細の方法は、 他日を待ちてさらに論ずることあるべし。

 以上、結婚、出産、 死亡あるごとに学校へ寄付する慣例を開くも、 人あるいは、 二十年の間に二億三億の大金を積み立つることは空想にすぎず、 実際その十分の一をも積み立つること困難なるべしと難ずるものあらん。余、  これに答えていわん。  すべて世間は予想のごとくに実行を見ることあたわざるものなれば、 余が方案も、 到底予想の十分の一または二十分の一の結果を見ることあたわざる場合あらん。  しかるに余が意は、 たとい十分の一にても二十分の一にても、 いやしくも国家および教育のために大なる利益あること明らかなる以上は、 決してこれを不問に付すべからず、  必ずこれを実際に試みざるべからず。  かつその金は、 社会の祝事および祭事に当たりて、 飲食に濫残するものを利用するものなれば、 資金のほかに直接および間接の利益極めて多きは、 前に述ぶるところにつきて知るべし。  さればそのことたる、 実行の困難と結果の予期し難きとを見て、  黙止すべきにあらず。 よって、 余はここに己が思うままを記して、 世の高評を仰ぐに至る。 識者、 もっていかんとなす。




   二二 結婚式を小学校において行ってはいかん


 今日の演題は、  少しくご相談しようという考えで掲げたのです。  この題はまあたいていお分かりでございましょうが、まず社会の大礼として、冠婚葬祭の四つととなえておるその中で、わが国の今日までの風としては、  生まれるときと婚礼のときよりは、  死んだときとお祭りのときの方を鄭重にするというふうになっておる。 しかるに西洋の方では、  死んで祭るときよりは、 生まれて婚礼するという方に重きを置いておる。  これは西洋と東洋との違いといってよろしい、 東西の違いの一つである。  これについてどっちがよいか悪いかということは別問題としまして、 とにかく日本の今までのように、 死んだ後ばかりに重きを置いて、 生まれたり婚礼をしたりする方にはあまり重きを置かぬということは、  はなはだおもしろくないと思うのです。 すでに冠婚葬祭は社会の大礼であるならば、 少なくとも死んだときに劣らぬだけの重きを、 婚礼または生まれたときにも置かなければなるまいと思う。 それにはいろいろ原因があって、 今にわかに改良をするということはむずかしいかも知らぬが、 だんだんこの時勢が変遷してくると同時に、  すべての儀式もいくらか形を変えてこなければならぬ。 今日までの儀式は昔のありのままを伝えて、 まだこれという代わりができておらない。  これからまあ、 おいおいそれらの点にも変遷があるに違いないと思う。

 この儀式というものは、  ほかのことのように理屈ばかりではいかぬもので、 なぜかというと、 もとその成立が人情に訴えてできたものである。 あまり学術上の道理をもって組み立ったならば、  かえって不適当なものができるであろうと思う。  であるからして、 まあ儀式などは、 そのときの人情に相応したものをもって立てなければならない。 してみるというと、 今、 冠婚葬祭のような儀式を改良すると申したところで、  これをいかに西洋の今日の儀式がよろしいからといって、  すぐそれをわが国に当てはめるわけには参らない。 といって、 昔どおりの儀式のままを伝えるということは、  今日の時勢が変わっておる以上は、  これまたむずかしいと思う。 要するに、 儀式の改革というようなことは、  いくらかその国の昔の風を保存するということが必要である。 そうしてまた、 そのときのありさまをいくらか考えて改良するということが必要である。 つまり、 古いものと新しいものと折衷して、  しかもそのときの人情に当てはまるようなものができなければならぬと思う。  わが国の今日の風で見るというと、 儀式というようなことには、いまだなんらの変更を見ない、  改革を見ないが、 その実、 昔の儀式のままでは不適当であるというだけは、一般に感じておるようである。  そうして、 昔の儀式が不適当であるからとて、 それはどういう儀式を用いたいということについては、 懸隔がついておらない。 したがって、 今日の勢いで見るというと、 儀式というものは、 だんだん軽々しくなってしまって、  またますますまちまちになってしまって、銘々勝手に儀式を行い、 したがってその儀式が粗略に流れて、 社会の大礼というものが少しも大礼らしくないような形を持っておる。  それが現今の状態である。

 すでに葬式などでも、ただ今のところ、 多くは従来の仏葬式でなければ、 神葬式もある。ところが、 近来はヤソ教の儀式もある。 それからまた、 中江などいうような儀式を用いないというのがある。 またセントハイズなどの亡くなったときなども、一種の儀式、 新儀式をもって宗教にもよらない、 新工夫の儀式をもって葬式をすると、これからますます、  おいおいそういういろいろな儀式をもって葬式をするということがありましょうし、 したがって今までのようなむずかしい儀式をやめて、 なるべく簡略にしようというふうに流れてくるであろうと思う。

 葬式すでにしかりとすれば、 婚礼などになるというと、 これからますます軽々しくなって、 またますますまちまちになりてくるであろうと思う。 今日でも、 昔どおりの婚礼式は多数の上においては行われておりましょうけれども、 またその一部分について見るというと、  ずいぶんこの婚礼式というものについては、勝手次第な婚礼式を用いておる。 あるいは西洋風の結婚式を行って、 ヤソ会堂で執り行うという向きがあり、 また西洋の風俗をまねて、結婚旅行というものを近ごろするようになっておる。 そうかと思うと、  ごく古風にやる者がないでもないけれども、 古風にやっても昔のような、 あまり儀式に重きを置かない方の傾きがついてきておる。  このとおりで進むというと、 結局儀式が粗略になって、 もう儀式などは要らぬというようなことに陥りはせぬかと思うし、銘々勝手な儀式を行うということになっては、  これまた国民の統一という点において、 大なる影響のあることだろうと思う。  そこで今から、 なんとかひとつこの儀式そのものの上に、 少しくどういうように改良してよろしいかということは、 われわれが講究していかなければならぬと思う。

 それについて私がこの題を掲げたので、  これに関して第一の疑問は、 婚礼の儀式は宗教で行ったがよろしいかどうかという問題である。 西洋ではまず一般に、 宗教で婚礼式を行うということになっておる。 近来宗教によらずとも差し支えないというふうになっては参りましたけれども、 実際上なかなかそうはいかない。 宗教で婚礼式を行わなければ、 世界が婚礼と認めない。 たとい法律が許すといえども、 私交上で認めない。  であるから、 西洋ではやはり結婚をするときには、  必ず宗教で婚礼を行う。 わが国でもこのように宗教で結婚式を行ったらどうであろうか。 宗教必ずしもこの儀式に関係したものではない、 社会の大礼に関係すべきものではないけれども、 しかしひとたび宗教を信じてみれば、  その自分に信じておる宗教で行いたいというのは、  これまた人情の望むところであるし、 また宗旨の立て方によっては、 ぜひ宗教で儀式を行わなければならぬ理屈のものもある。  すなわち、 ヤソ教のごときになるというと、  この結婚というものは、  神の命によって結婚するのである、 神が結び付けるのであると、  こうように考える。 それで、 どうしても神の前に出でて、 結婚の誓いをしなければならぬということになってくる。

 しかながら、 わが国になってみるというと、 それは大いに考うべきもので、 今までわが国においては宗旨に神道と仏教とあって、 仏教の方は死んだ後を支配するようなわけで、 そうしてめでたい方の側というものは仏教でやらない。 めでたい方は神さまの受け持ちで、 悲しい方は仏さまが受け持つというのが、 神道、 仏教の根本となっておる。 そういうありさまになっておるのです。 そこへ持っていって、 今にわかに婚礼式を仏教でもって執り行うとする。 どうも今日までの習慣が許さぬ。 中には一、二人、 仏教で婚礼式をやった者があるけれども、 今までの仏教というものは悲しいことばかりに当てはめてきて、 にわかに変じて仏教で婚礼式をやるということはどうもできない。  仏教そのものからいうと、 必ずしも読経をしなければならぬということはないが、 ヤソのように神さまが夫婦を結び付けるというのではない。 考えが違う。  そうするというと、 今仏教でもって婚礼式を執り行うということは、 むずかしかろうと思う。 これはいろいろなそこに事情もある。 どうも今日、 わが国において婚礼をして宗教で執り行わしめるということは、 大いに考うべきことである。  私などは、 むしろそれを宗教以外において行うのがよろしかろう、  すでに今までめでたいことは神道で支配するということがあっても、 婚礼式を氏神の前において行ったということはない。 しからばわが国においては、 宗教以外に結婚式を立てるのがよろしかろうと思う。

 それからだんだん工夫して、 どうも今までの結婚式というものであるというと、  ごく親類やまた心安い者だけがその結婚式に連なりはしても、 その社会全体が結婚したかせぬか知らぬということがあるし、 それからまた田舎へいくというと、  ずいぶん結婚式というものに村中驚ぎをすることがある。 葬式なり、 婚礼なり、 村中そのために招かれてお祝いに出るというようなことがあるので、  これまた大いに弊がある。 村の中で一軒資産のある者が婚礼でもやるとなれば、 それがために村中待ち設けて、 毎日飲んだり食ったりして、 なかなか一日や二日で済まぬ。  そこで、 田舎で婚礼式などを行うというと、 実際の婚礼に掛ける費用よりは、 かえって騒いだために余計な役用が要る。  それをだんだん聞いてみるというと、  おびただしいものである。 私などが地方を巡回すると、  ことによると婚礼式のために演説会が成り立たぬことがある。 ある地方などは、 にわかに演説会を断られた。 だんだん聞いてみるというと、 その村の一人の金持ちがその日に婚礼をやる。 村中総掛かりで、 そこへいって飲んだり食ったりするというので、 それがために演説を断られたことがある。  一度ならず二度三度あった。 それのみならず、 村中騒いでそこへいって飲んだり食ったりしておる。  ずいぶん費用を積もり立ったら大きなものである。そういう弊があるし、 それからまた所によるというと、 婚礼式には昔の野蛮の風を今もって存しておる。 場所によっては、  ずいぶん石を投げるということをやる。 あるいは水をまく(哄笑する者多し)。 ずいぶん乱暴なことをやる。 それから、 私の国などは雪の降る国であるからして、 その雪球をぶっつける(哄笑する者多し)。 そのときには大勢若い者が寄って雪をかたく握って、 そうしてそれで思うままにぶつつけてやる。 それは、 昔の野蛮風の嫉妬心から起こったという話である。 その風が今もって存しておる。 そういうような乱暴なことが、 今もって行われておるとすると、 どうしてもこれは一大改良をしなければならぬ。 そうして今の婚礼式というものは、ほんとうの婚礼の座敷では、 田舎などはみな昔流のやり方で、  ずいぶん窮屈なものであるし、 そうして婚礼の席というものは非常に暇どって、 そのために酒などはむやみに長い。 ずいぶん婚礼のときには酒を強いて、 余計飲むという習慎がある。 ただむやみに飲み食うという傾向がある。  これはどうしても一大改革をしなければならない。

 そこで私の考えで、いくらかそれらの点からいうと、 西洋の方が適しておるところである。 なぜというと、西洋の方では、 なんでもわが国と違って忙しい世の中で、 そう結婚式だって悠長なことはできない。  そこで、 あちらで婚礼するときであれば、 前もって親戚朋友その他に通知して寺へ集まる。 いつ何日何時に、 どこそこの寺で婚姻式をするという案内を回す。  そうすると、 その時にみな寺へ集まる。 いつ集まっても、 寺は広いから一向差し支えない。  そうして寺へ大勢集まったところで、 婿さんとお嫁さんと双方から・・・あちらでごく下等なのは知らぬが、 中流になると馬車で・・・馬車を頼んで双方で寺へいく。 そうすると、 新たに夫婦になろうという者が、神さんの壇の前に向かって立つ。 その夫婦の前に寺の住職がおる。 その住職がつまり媒介者となる。 あちらでは、こちらのように媒介者というものはない。 仲人というものはない。 というのは、 自由結婚でおのおの約束してから結婚を取り結ぶものであるからして、 別に媒酌人というものはない。  そのかわり寺へいったときに、 寺の住職がつまり媒酌人の位置に立つ。  そうして、 その儀式の要点というものは指輪を贈るということになる。 それは夫の方から新たに迎える妻の方へ贈る。  それは夫が寺へ持っていく。 それを住職がまず受けて、  そのお嫁さんの方へ渡す。  それで儀式が済む。 その前にはいろいろいのりをしたり、  お経を読んだり、 それからいちばんしまいには、 両人が神さまに向かって、 将来約束を守るということを誓う。 それで儀式が済み、 みな別れることになる。 それからごく心安い者は、 今度家へ帰って昼飯の御馳走がある。 あちらでは、 その御馳走の仕方が日本とは違う。 嫁の方の実家へいってするのです。  すなわち、 寺で儀式が済むというと、 今度は夫婦同車してお嫁さんの実家の方へいって、 その婚礼の御馳走はお嫁さんの実家でする。 当たり前の結婚は朝十時ごろに行って、 それが済むというと、 そのお嫁さんの実家の方へ出かけていく。 そうして、 そこで朝飯というものを食べる。 それがあちらの習慣と見える。 その朝飯というのはいたって質素なもので、それはいくらか昔の質素を伝えたものかも知れぬ。  すべて冷やで温かなものはない。 こちらでいうと冷や飯です。 ただ、  そのときの婚礼の式として欠くべからざるものはウェディング・ケーキといって、 婚礼に限って用いる菓子である。 砂糖がぎょうさんかけてあって、 真っ白になっておる菓子である。  それをお嫁さんがその場で切って、 そうしてそこに列するお客さんに出す。 いちばん安い御馳走である。 なんでもこちらの婚礼式から見ると軽便で簡略なもので・・・簡略でないかも知らないが手軽にいく。  こちらの田舎あたりの婚礼式になると、 村中で幾日となしに、 時といとまとを費やしておる。 そういうものではない。 そうして、 しかもその儀式が鄭重にできるのです。

 そこで、いくらか良いところはまねてよろしかろうと思う。 ただそのままに日本へ移すというと、 宗教の傲式になるからして、 それはなんとかかれこれ工夫をしなければならぬと思う。 そこでだんだん工夫をした結果、  これを小学校で行ってはどうであろうかという考えが付いたのである。 神さんや寺の前へ持っていく所がなければ、ほかへ持っていく場所がない。 役場というわけにはいかない。 そうすると小学校・・・そこで小学校をいよいよ婚礼の式場とするといたせば、  これはちょうど西洋でいうと会堂になるヤソ教の会堂になる。  それから西洋では、その会堂において、 寺の住職が主となって婚礼の式を執り扱うことになっておる。 小学校だというと、小学校の校長がその代わりを務めなければならない。 校長がその婚礼式を行うということは、  これは最も相当なことだと思う。 なぜかというと、 その婚礼をしようというのは、 もと小学校で育て上がった人である。 どんな貧乏人であっても、 国民教育を受ける義務のあるものとすれば、 尋常小学校だけは出なければならぬ。  そうすれば男でも女でも、 その小学校のご厄介になったものといわなければならぬ。  それからまた将来、 教師もやはりその婚礼を自分で引き受けて儀式を執行してやるという義務もあろうし、 また小学教師の下に婚礼を取り結んでもらうということは、 両人についてももとより許すところであろうと思う。 そうして西洋で申すというと、 まあこの会堂にいったら、 宗旨によっては偶像を掲げる所もあるけれども、  とにかくそこに神さまがあるというふうに装置ができておる。 その神さまに向かって婚礼の誓いを立てる。

 ところで、 なにかそういうものがないというと婚礼式らしくない、 鄭重でない。 ただ、 婚礼式だけではそれほどに高尚でない、  重みがない。  そこで、 婚礼式として鄭重にするには神さまがなければならない。 西洋でいえば神さま・・・日本はなにごとも皇室を本として立った国柄で、 皇室宗といってもよろしいような国風である。 だからして、 小学校で婚礼式をするときに、  聖影をお飾りして、 その前で拝しつつ結婚式を行うと、  こうするというと、 結婚式が鄭重になってくる。 われわれ国民の結婚の式としても、 もっともなことであろうと思う。 聖影を拝礼し奉って、 夫婦となって国家のために力を尽くすと、  こういうことになる。  ことに教育の勅語の中にも「夫婦相和し」ということがある。  この「夫婦相和し」の詔に従って、 今日夫婦となった以上は、 国家のために尽くすという、  こういうことを誓わす。 そうすれば国家的の観念というものは、  これによって一層励まることになるであろうと思う。 それで、 小学教育の結果として小学校で婚礼をするということは、 もっともなことであろうと思う。  そうして、 そのときにはただそればかりでもいけないからして、 西洋ではまあとかく音楽というものはたいへんにぎやかなものであるから、 婚礼のときにはことににぎわしくするので、 あちらでは音楽をやる。 それで一層どうもにぎやかである。 また、 音楽はなかなか儀式にはにぎわしく感ずるものである。

 日本は婚礼式をやっても誠にさびしいもので、 ただ大勢寄って、 しまいになって謡をやったり、  酒を飲んだりするけれども、 それまでは葬式も婚礼式も同じようなもので、 誠にさびしいものである。  ところが西洋では誠ににぎやかである。 そこで、 小学校で行うというときには、 小学校の生徒がみな立ち会って、 そうして唱歌をやる・・・あるいは婚礼唱歌というようなものを作って、 生徒がみな立ち上がって歌うということにすれば、 やはり婚礼らしくなる。  ただ酒を飲んでばかりおっても仕方がない。  小学校の生徒が唱歌をやれば、 なかなか勇壮でにぎやかなものである。 そうして、 その唱歌の間に儀式をして聖影を拝し奉って、 その上で勅語にも「夫婦相和し」ということがあるから、  それに基づいてなにか誓いの言葉を、 その当人に述べさせるということにしたらよろしかろう。  そのうえで教師が祝文を読む・・・西洋でいうと寺の住職が経文を読むと同じく、 そのかわり婚礼の祝文を読むのです。 それで儀式をしまうということにすればよろしいと思う。  そういうふうにすれば、 別に宗教臭くもなにもない。 しかも儀式が鄭重になって、 そうして人が多く集まって、 大勢の人がみな結婚したということを知ることができる。 そのうえに日本のこれまでのようなつまらない、 金の要るようなことがなくなる。  その中でごく親類で親しい者は、 あるいは今度その実家へいって御馳走をするということがないということもなし、 またあるいは学校でもってザッとした饗応をしてもよろしい。 そういうふうに鄭重にするということは、 またこの結婚の当時ばかりでない。 生涯夫婦となって互いに相和する上においても、 よほど力のあることと思う。

 とかくこの日本の今日までの風として、 結婚がたやすくできると同時に、 またたやすく離婚をする。 このごろはだんだん民法などの制限によって、 昔とはいくらか離婚ということはむずかしくなってきたろうが、 それでも永い間の習慣であるから、 みだりに結婚し、 みだりに離婚するというような風がある。 また、 結婚というものの中には、  ずいぶん相当な儀式をやることもあるけれども、 中には儀式がだんだん乱れてきて、 今日では儀式でもなんでもないという風を生じてきておる。  そういうことは、 徳義上から考えてみてもよろしくない。  それが社会の大礼であるならば、厳重に執り行いたい。その厳重というのは、 飲んだり食ったりするということではない。儀式の鄭重というものは今申すように、 西洋なぞは神さまの前で結婚式を行うが、 日本ならば聖影の前で行うということが実に鄭重なゆえんである。 そういうふうにして、これから結婚式を改良したならば、 ただ風俗の一部分の改良ではあるまいと思う。ずいぶん家庭の徳義などに、 大いに改良を与うべきす。一つの手段になると思います。

 しかしこれは私の一個の愚案で、この演説を掲げまして、 諸君からこのことについて講究していただきたいと思うのです。 必ずしも小学校でなしに、 式は仏教でもって儀式を行いたいという説もあれば、 それも一つの議案である。 なにか一つ今日に適した婚礼式というものが今のうちに定まらぬと、 だんだん簡略になりまちまちになって、 しまいにはむしろ結婚式はなくてもよろしいというので、 犬や猫の結婚みたいなものになってそういうものになってしまっても困るから、 今のうちに今日に相当した結婚式というものは、 あらかじめきめておかぬといくまいと思うし、  これらは教育に従事する者は研究すべきことであろうと思う。

 国家の進歩というものは、 法律や機械で持っていくわけに参らない。 多数を支配しておる人情に関係したものを改良するというのが、いちばん力のあるものである。それで冠婚葬祭の儀式などいうものは、 最も大切であろうと思う。 そういうものからして、 だんだん改良をして、 初めて国家全体の改良ができると思う。 その点に注意して、 教育、 宗教に従事する者は、 今日の結婚式はどういうふうに改良したらよろしかろうということを、  十分に研究していただきたいと思うのである。

 なおこのことについても、 私もまだ十分ひとつ自ら取り調べもし、 また考えもしたいと思うので、 他日もう一層くわしく申すことがあるかも知れぬ。 今日はほかに思い付きがないから、 自分の腹案のままをちょっとお話しした次第でございます。



   二三  余がみたる英国


 ○進歩的英国 予は、 英国民があまりに保守的にして、 ためにその改良進歩を大いに妨ぐることを、 往々言うものあるを聞く。 しかれども予の愚見によれば、 これかえってその国民的特質中の最良の点なりと考う。 そもそもこの連合王国が強大にして泰然重厚の風あるは、 たしかにその保守性によれり。 けだし保守性というも、 これに二つの義あり。一つは、 例えばそのシナ人の保守のごとく、 人民はなんらの改善をもなさずして、 同一状態停滞するもの、一つは、 常に人民の行動し発育するも、 ただ同時にその国民的特形を保存するものなり。 しかして英国の保守性は、  すなわちこの後者の義なりとす。  これにつきて、 わが日本国民はやや欠点あるを免れず。  そは新形式をいるるにあまり急なればなり。  かかる欠点は、  英人の保守性に倣いて補正せられざるべからず。  英国民につきては、 なお吾人の嘆美すべきいくたの長所なきにあらず。 例えばその活動性や、 自助の精神や、 強大なる意力のごときこれなり。 要するに英国民が世界において最大なるは、 なおロンドンが世界の最大都府たるがごとし。

 ○英国の欠点 しかれども、 英国にはまた二、 三の欠点なきにあらず。  すなわち、 ただにその政治および工業に関してのみならず、 予のもっとも熟知せる教育につきてもまたしかるを見る。 予は今を去るおよそ十五年前この国に遊びしとき、  英人民が東洋諸国に関して知るところなきに一驚を喫しき。 日本をもって例せんか。その中にいかんの宗教の行わるるか、 その風俗習慣はいかに変化しつつあるか、 なにものを産しそれが輸出せらるるか等のことは、 最も教育ある人士といえども、 これを知るもの少なし。 あるいはわが国に鉄道および電信ありとききて驚き、 あるいは日本はシナの一部なりと想像せしほどなりき。 されど、 日清戦争以後はなにびとも、 児童すら、日本は独立国たるを知るに至りぬ。 これだけの点においては、 英人の東方アジアに関する知識は面目を改めたりといえども、 しかもなお日本の宗教、 教育、 風俗、 習慣、  歴史、  地理、 産物等に関する知識は、 依然として十五年前に異なるなし。 されば、 予はなお日本に茶を産するかを問わるるなり。 これ、 なお英人に向かって、 英国には石炭ありやとたずぬると同じく、 笑うべき極みならずや。一日ある僧は、 貴国に何種の宗教ありやと問いしにより、 予はわが国に神道という固有の宗教ありと答えしに、 彼は全くこれを知らざりき。 彼またシナの宗教を問いしに対して、 道教が主要の一教理たることを答えしも、 同じく茫然たりき。  これらの事実によりて予は、英人および僧侶の東洋およびその宗教を解するは、 わが国人の泰西およびその宗教におけるに及ばずと断定す。そもそもアジアおよびその国民と、 最大の利害および関係を有するは英国にほかならざれば、 自今教育によりて東洋に関する知識を該人民に与うるは、 はなはだ必要のことなりとす。

 ○学校および教会 予は英国の諸方における種々の学校をみたるに、 高等小学校にては、 なおラテン語、 ギリシア語ならびに該二国の歴史を教う。 しかれども予は、かかる死語および死事実よりも、 東洋の歴史および地理、 特に古代にあらずして近代のものを教うること、 さらに必要なりと思う。 予は、 貴国はなにゆえにかく死物に忠にして、生ける事実をゆるがせにするかを解するに苦しむなり。 おもうに、これ英国教育の一大欠点ならん。  つぎに、 万国の宗教につきても二、三の感ぜしことあり。 英国にては自由の観念大いに発達せりといえども、 その宗教教育はかえって自由なる思想の発達を牽制せるもののごとし。 その教育法は、 あまりに儀式的もしくは人為的なるを免れず。  これをもって、 英国人が特殊の宗派に対して不公平もしくは偏狭に過ぐるは、 該教育の結果なり。  されば、 予は児童の意識が一定の程度に発達して、  自ら選択もしくは弁別をなし得らるるまでは、該教育を施さざるをよしと考うるなり。

 ○非国教説 いくたの教会中、 まず国教教会につきていわば、 予らある人の評せしごとく、 該教会はあまりに儀式的なりとは思わず。 そは一定の儀式は何種の宗教にもはなはだ必要なればなり。 しかれども国教派に属する僧侶は、 その地位および勢力に満足して、 これを振興することを思わず。 したがいてその伝道についても、 非国教派の僧侶のごとく意を用うることなし。 彼らは国家の庇護の下にありて意満ち気おごり、 単に儀式一辺の説教をなすのみなるをもって、 他派の説教のごとく人心を動かすの力あらず。 けだし、 かかる国教制は往時にありては、 人民の感想を統一せんため必要なりき。 されど、 その時代はすでに過ぎつ。 今や国家が、 ある種の教会を立つるの必要あるなし。  これをもって、 予は英国があらゆる教会を国家より独立せしめ、 また一切の学校をして教会より分離せしめんことを望まざるを得ず。 かかる改革は、 英国のためはなはだ必要なるのみならず、 今やまさにその時期に達せりと思わる。 もし、これを断行することあたわざれば、 英国の保守性はついにシナ人のそれと一般なりといわざるを得ざるべし。

  (『ヘスチングス・メール・エンド・タイムス』掲載、 東哲抄訳) 

 


   二四 英国にありて哲学館第十三回卒業生に告ぐ


 天涯万里の外にありて、 はるかに諸子の卒業を祝す。  ただ遺憾なるは、 本年に限り余がその席に臨むことあたわざる一事なり。  されど、 余も欧州大陸の巡見をおわり、 昨今英国にありて帰航準備中なれば、 遠からず諸子と相会するの日あるべし。

 さて昨秋以来、 余が不在中、 本館はその筋より意外のご沙汰をこうむり、 多年、 忠孝為本、 国体為先の方針を取りながら、  かかることあるは実に遺憾のいたりに堪えず。  これがために諸子の中には方向を失いおるものすくなからざるべく、 その迷惑察するに余りあり。 余もこのことを聞き、  一時の驚愕はいうまでもなく、  その後といえども、「夜来風雨声、 花落知多少」(昨夜は風雨の音がしていた、 どれほどの花が散ったであろうか)の感あれども、  己の力にていかんともすることあたわず。 ただ、 余はこの累を忠実なる諸子の上に及ぼせるを憫然に思うの余り、 遺憾の涙自ら禁ずることあたわざるのみ。  爾来、 余英国にありて、  この国民が世界の歴史上偉大の功績を立て、  国勢、 民力ともに第一の位置を占むるは、 その原因いずれの点にあるやを熟考し、  帰するところ自治自立の精神に富めることを発見せり。 されば、 諸子も今より大いに感憤し、 深く自立の精神を養い、 日夜奮励努力あらば、 他日の成功は期して待つべきなり。 しかして日本臣民たるうえは朝夕忠孝の大道を守り、 寸時も皇運扶翼するの義務を忘れざるよう、 余の深く熟望するところなり。

終わりに際し、  一言もって講師諸君の懇切なるご教授に対し、 諸子とともに大いに謝せざるを得ず。  ことに本学年は一層講師諸君のご厚意を煩わし幹事の尽力を得たるは、 余が謝するその辞なきほどなり。 まず旅中にありて演説の大要を記すこと、  かくのごとし。

明治三十六年五月三十日    在英国     哲学館主 井    上    円    了 




   二五 余がみたるシナ


 シナ人の心は黄河とともに濁り、 日本人の心は富峰とともにきよしといいたるが、 十五年前と今日とさらに異なるところなし。 しかるに、 その国を大清国と称するは、 名実不相応といわざるべからず。 自今、 よろしく日本を大清国と名づけ、  シナを大濁国と呼ぶべし。

 日本人の性質はすべて富士山をもって表し得るがごとく、  シナ人の特色は黄河または楊子江をもって示しておる。 そしてシナ人の体貌面相の日本人に異なるは、 男女貧富を問わず、一般に緩慢なる相貌を有しておる点である。 ゆえに、その性質もまた緩慢であり、 その事業もまた緩慢である。 緩慢は実にシナ人の特色でありて、  その地勢も河流も同じく緩慢である。  余が上海に上陸するごとに、 楊子江の緩慢なるを見て、  シナ人の気風のよくこれに似たるところあるを想起せないことはない。  ゆえに余が常に言う、  シナは大濁国なるとともに大緩慢国である。 日本はこれに反して、 大清国であるとともに大急激国であると。 その性質急激にして諸事に敏速なる利あるも、 また度飛の狭陰に過ぐるの失がある。  もし、 日本人の気質七匁にシナ人の気質三匁を調合したならば、  必ず東洋人物の完全なるものを得らるるであろう。

 シナの市街には茶店と食店がすこぶる多くある。 しかれども飲酒店は見当たらない。 要するに、 シナ人はあまり飲酒はたしなまざるもののごとくで、ただ飲酒の代わりに阿片を喫するをもって、 無上の楽とするのみである。 日本人は阿片のかわりに飲酒をたしなむ。 阿片もとより害であるが、 飲酒もまた害がないとはいわれない。本邦人中、一代にして祖先以来の家産を蕩尽するもの多くあるは、 主としてその因は飲酒に出でないものはない。 ゆえに、シナ人に阿片の有害を説くと同時に、 日本人にもまた飲酒の有害を説きて、 よろしく戒慎を加えしめなければならぬ。

 シナの市街中で最も余輩の目に触れたるものは、 卜筮と人相と方位の看板を掲ぐる店である。 それはすこぶる多くある現象である。 シナ人は上下を論ぜず、 貴賤を問わず、 吉凶禍福みなこれを卜筮に問うを常とし、 病人あるも医師に頼まずして卜筮者にたずね、 不幸にして不怖の客となれば、 これ天命なりとしてあきらむるのである。 けだし、 その国に医術の発達しないのはこれがためである。 また、 宗教の振るわないのもこれに起因しておる。 しかして、 よくこの迷信を一掃するは、 もとより教育の普及をまたなくばならぬ。  されど、 また直接に卜筮の無効なることを諭示する方法もなければならぬ。 ゆえに、 先年岡本監輔翁、 余が宅に来られ、  シナ人の迷信を医するために、『妖怪百談』を漢訳にせんことを請わる。  余、 大いにその挙を賛し一本を翁に送り、 速やかに着手せられんことをもとめしも、  いまだその稿の成るを聞かず。 余、 今回深くかかるむの必要を感じたれば、 帰朝の上は岡本翁の手を待たず、 自らこれが漢訳に着手しようと思う。 

 余、  上 海にありて四面を一望するに、  山影の眼光に触るるなく、  平原百里に連なり、 河水縦横に流通し、いわゆる沃野千里なるもの、 清国の富源また実にこの間にあり。 しかして楊子江その脊髄となり、 上海その脳髄に当たるもののごとし。  それ、 楊子江世界無二の大河である。 しかしてその舟楫の通ずる所、 本流にありては三千里余もあり、 本支を合すれば四千里なりという。  これをわが国の大河と称する利根川や信濃川等の、 本支合して二百里内外なるに比すれば、 その差同日の論ではない。  これをもっても、  シナ国の一斑を知るに足る。  かかる天然の地利と富源とを有しておるにもかかわらず、 その国の形勢累卵もただならぬ今日あるに至るは、 その罪天にあらずして人にある。 しかしてシナ国民が泰西の文物を収容してその面目を一新するは、 いずれの日にあるや知るべからず。 大廈のまさに覆らんとするや、 もとより一柱一木のよく支うるところではない。 老大国の前途、 絶望の観なきあたわずだ。 ああ、 中原の鹿、 またなにびとの手に帰するか。

 東洋の多事、 今よりますますはなはだしからん。 ただ、 わが同胞は鞠射尽瘁、 よく「唇ほろびて歯寒き」の間に立ち風雲を一掃して、東洋の天地に青天白日をめぐらすことを期さなければならぬ。 願わくは教育に従事するもの、 終始一貫この心をもって心とし、 学生たるもの、 造次顚沛の間もこの心を失わざらんことを。 余、  平素ここに見るところあり。 今、シナの大陸に接見して、一層その感を強くし、 感慨のあまり一言を付して、 同窓諸子に告ぐるのである。

(「再航日記」中より抄出す)

 

 

 

   二六 日本に大乗の宗旨ありて大乗の信徒なし


 現今わが日本国内に流布する仏教は、 十三宗三十余派の多きに分かれまするが、 みな大乗宗でありまして、一つも小乗宗はありませぬ。  ゆえにいにしえより日本を大乗相応の地と称します。 しかして、 その大乗も小乗もともに仏教には相違ありませぬが、 大乗は仏があかせられたところの真理を、 ありのままに開示しました真実の教えでありまして、 小乗は相手の機根に応じて説かれたる方便教であります。  ゆえに、  大乗家は小乗を目して外道と申します。  およそ外道には、 内の外道と外の外道と二とおりありまして、 小乗は内の外道であります。  されば、 古来仏行中の外道を総称して九十五種あるいは九十六種とありまするのは、 外の外道を加えると加えないとによりて、  この相違があるのであります。  かような真実の教えがもっぱらわが日本に行わるるは、 大いに喜ぶべきことであります。 しかのみならず、 世界万国中仏教を奉ずる国は、  およそ十五カ国にまたがり、 その信徒五億人の多数を占めておりますが、 インド、 ビルマ、 シャム、 アンナンのような南部の諸邦には小乗教のみ行われ、シナ、 朝鮮等には大乗教ありましても、 ただわずかに大乗の痕跡をとどむるばかりであります。 ところが、 大乗の宗旨の依然として現存しておるのは、  ひとりわが日本あるばかりであります。  これ、 大いに喜ぶべきことであります。 私は以前、 日本名物は蚕糸でもなければ製茶でもなく、  王法と仏法であると申したことがありました。その王法の源は一系連綿の皇室より出ずるをもって、 世界第一でありますし、  その仏法は仏真実の法たる大乗が歴然として存しておりますから、  これまた世界第一であります。 かような世界第一の名物が存しておるにもかかわらず、 その信徒の行為は小乗的で大乗的でないのは奇怪千万でありまして、 また遺憾千万といわなければなりませぬ。 今、 その理由を述べてみましょう。

 大乗と小乗とは、 古来の解釈によって見まするに、 自利を目的とするものを小乗といい、 自利利他兼行を大乗といいます。 なかんずく大乗は利他博愛を本とし、 その自利は利他の目的を達する方便に過ぎませぬ。  思うに小乗を自利というのは、 単に自ら悟るを目的として、 他を悟らしむるを目的とはいたしませんからであります。 しかるに、 大乗は自ら成仏するばかりでなく、 他をして成仏せしむるのを目的といたします。 自ら成仏するは智慧でありまして、 他をして成仏せしむるは慈悲であります。  ゆえに、  大乗の仏は智慧と慈悲とを兼備しておる体であります。  これが大乗と小乗と異なる要点であります。  これをもって、 大乗の特色は慈悲にあるので、 慈悲はすなわち利他博愛である。  かかる利他博愛を本とする大乗宗が本邦に行わるるにもかかわらず、 その信徒をみるに、  世間門、 出世間門ともに自利一方の行人のようであります。 その仏道修行の上にありては、 自己ひとり成仏するをもって足れりといたし、 さらに他の成仏いかんを顧みません。 また布教の上にありては、 自ら法を聴き教えを信ずるばかりで、 他人を勧めてその教えを信ぜしむることをしないで、 他人をしてこれを信ぜしむるは僧侶の任であって、  信徒の関するところではないといたします。 ゆえに、  かような信徒を名づけて自利的信徒といおうと思います。

 もし、  その世間に対する行為をみるに、  一層自利のはなはだしいのが知れます。  およそ信徒と称して神社仏閣へ参詣祈願するもの、 多くは一身一家の無病息災を求むるばかりで、 社会国家のために国利民福を祈るものはほとんどありません。 あるいは名聞のため、 あるいは糊口のため、 あるいは営利のために仏を拝し寺を建つるようなことは、みな自利的信仰といわなければなりません。 故をもって、わが国に発達しないものは慈善事業であります。  私は悲しいことには、 いまだ仏教信徒の力によって堂々たる慈善病院、 慈善学校、 慈善養育院等の起こりしを聞きません。  すでに慈悲を本とする大乗仏教の信徒でありながら、 慈善事業を起こすもののないのは、 奇怪千万といわなければなりませぬ。  畢竟するに、 有名無実の信徒というそしりを免れません。

 仏教信徒ばかりそうとは申しません。 各宗の本山僧侶、 たいていみな自利的といわなければならぬ。  その布教でも勧学でも、 自己のためであって国家のためではなく、 糊口のためであって慈善のためではない。 財政上実際においてできないことではあろうが、 しかしこれまた小乗的本山、 小乗的僧侶といわなければなりませぬ。

 大乗仏教の大旨は利他的なるに、 その信徒、 本山僧侶みな自利的であって、 ヤソ教はかえって利他的である。西洋はむろんのこと、  わが国にありて慈善事業がヤソ教家の手に成っておるもの、 往々見聞するところであります。 もし、 信徒の数をもって比例しますれば、 仏教家はヤソ教家に百倍する慈善事業を起こすべき割合でありますのに、 かえってその十分の一にも及ばないのは、  かえすがえすも遺憾千万のことではござりませぬか。  ゆえに私は、 実際においてヤソ教は大乗的であって、 仏教は小乗的であるというをはばからんのであります。 もし、 自利を事とするものは小乗の羅漢果を得て、 利他を行とするものは大乗の仏果を得るとするならば、 成仏の楽果はヤソ教家の占領するところとなってしまい、 仏教家は灰身滅知の暗黒的涅槃に帰入するに至りはしまいか。  これは、 実に気の毒千万というべきである。

 世人は必ず仏教の小乗的利己的なるを見て、 僧侶の罪に帰するでありましょうが、  私は決してその罪をひとり僧侶に帰すべきものでないと思う。 なんとなれば、 今日の僧侶に恒の産あるものは、 あたかも暁天の星のようであれば、 僧侶ことごとく聖人君子でない限りは、 布教伝道の糊口的に流るるは、 万やむをえないことであります。  これに反して、  信徒中には恒の産あるもの決してすくなくありません。 ところがその行為全く自利的なるは、 実に怪しむべきことであろうと思う。  かつ、 宗教は僧侶と信徒と相合して成立するものであれば、 宗教の振るわないのをもって、 あながちにその罪を僧侶のみに帰してはなりません。 なお、 一国の振るわざるをもって、ひとりその罪を政府あるいは官吏に帰してはならぬと同じことであります。  かつ、 信徒の方に真に利他的精神さえあれば、 僧侶をしてここに至らしむるはあえて難いことではない。 なお、 信徒に宗教を改革する本心さえあれば、 宗教者間における弊風もたちまち改良することができるようなものであります。 今その一例を挙げれば、 今日わが民間に天理教のごとき迷信的宗教の行わるるはいかなるわけかというに、  これは人民の知識の程度はなはだ低いのによるというよりほか説明ありません。 ゆえに、 人民の知識ようやく進んで、 天理教の迷信たるを知るに至ったならば、 天理教そのものは自然に消滅するに相違ありません。 ゆえに私は、 仏教の改良は必ず信徒より始めなければならぬと思う。  今、 日本の大乗的仏教をして、 名実ともに大乗的ならしむるも、 また仏教信徒より始めなければならぬと信じます。

 さらに方向を転じて、  これを国家社会の上に考えてみまするに、 宗教の名実ともに大乗的となるとならぬとは、  大いに国家の盛衰に関するは、 私がかれこれ申すまでもありません。 もし、 自利的仏教が一変して利他的仏教となるようになったならば、 その当日より、 国利民福を増進することのできるは必然の勢いであります。 ゆえに、 仏教信徒はいやしくも日本国民たる以上は、 国家に対する義務として、 自利的仏教を利他的に一変せなくてはなりませぬ。




   二七 実業教育談


 現今、 わが邦人が実業の振輿に尽力するは、 はなはだ喜ぶべきことである。  また、 そのために公私立の実業学校を起こして、 大いに実業を盛んにしようとする。 しかし、 現今の日本の実業を盛んにするために、  単にそれらの学校を建てて、 それでよいと思うものがあるようだが、 我が輩の見るところでは、 それは少し疑問だと思う。すなわち、 日本人の性質から改めていかなければ、 到底だめだと思うものである。  それはなに故かといえば、  日本人の性質は人の上に立つことを好み、 自分はなんにもやらずにほかにやらせることを好む。 換言すれば、 気位の高いという一般的の特性がある。 それ故、 子弟を実業家にしようと思って実業学校に入れる。  そこに入って学問をすると、 実業は嫌になってしまう。 よし実業をやるとしても、 いわゆるお役人様ふうにやろうとする。  学問をすればするほど、 実業嫌いになるという性質である。 したがって、 学問ができないものはお役人様にもなれず、 またお役人様ふうもできないから、  仕方なしに鍬や鎌を持つが、 それは仕方なしにやることであって、 当人が好んでやることではない。  こういう気風のものに、  学校を立てて実業の学問をやらせれば、 それで実業が盛んになるであろうか。 あるいは、 実業的の学問をしたばかりであるから、  ほかのことはできずといって、 その実業は嫌いだというところから、 実業壮士とでもいうべき一種のゴロツキばかりできはすまいか。 我が輩の考えでは、  日本人の気風がどうも実業的でない。  この気風を改良することなしに、 実業教育をしてもだめだとおもう。しかし、 西洋人はこうでない。 いくら学問をしても実業を嫌わない。  十分な学問をしても、 やはり実業をまじめに熱心にやっておる。 日本人もそうならなければ、 とても実業は進歩しないのである。

 それならば、 日本人の気風をそういうふうに改良するにはどうすればよいかというに、 それには諸方面から改良していかなければなるまい。 まず子供の育て方というものを改めて、やたらに気位をばかり高くしないようにするも一つの方法であろう。  それから社会の風を改めて、実業もまた高尚なものだというふうにするも一法であろう。 日本ではいちばんよいものはお役人であるというふうになっておる。 それ故、 少し学問をすると、  お役人様かもしくはそれに似たものになりたがる。 社会全体の気風がこうであって、 実業家になることをば卑しむ。それで、 社会、 家庭、  小学、 中学等、 種々の方面から改良しなければならん。 それ故、 もとより急のことにはいかん。 けれども、 それはできんことではない、 また、 やらねばならんことだとおもう。 もし、 あまり急いでやろうとすれば実業壮士なぞができて、 実業を盛んにするどころか、  かえってこれを妨害するかも知れんことである。

 日本人の実業嫌いなことははなはだしいもので、 わざわざ大金を出して実業視察のために外国なぞを巡遊するものでも、 その人々が外国に行ってどんなようにするかとおもえば、 実業はほんの付けたりで、 あまりこれに関係もないような所を遊びまわり、 それからその余裕の時間と金とで、 やっと実業を視察するというありさまである。 しかし、 外国人が日本に実業視察に来れば、 決してそんなことはやらん。 十分熱心に詳密に目的の実業を視察して、 それからもし余りの時間や金があれば、 はじめて日光とか箱根あたりに遊ぶのである。  これはもとよりそうあるべきことであるけれども、 わが国人の仕方に比較すれば実に感心なことである。 わが国人は外国に行ったときばかりこうであるのではなくて、 田舎の人が東京に実業視察に来てもそうである。 上野、 浅草とか、 その他のつまらん所に遊ぶ方に時間と金銭とをよほど多く費やして、 それから鎌倉、 江の島なぞへは無理算段をしても遊ぶというありさまだ。  それからして、 わが国人で米国に商店を出しておるものもあるが、 それらの人の多くは、 旅行をするにも実に身分不相応なことをする。 どこに行っても一等の旅店、  一等の室に泊まるというありさまで、  かの地の上等な身分ある人とか、 大富豪でなければやらんような旅行をする。 しかるに、  かの地の人は身分相応な旅行をするので、 普通の商人ならばコマーシャル・ホテルというような、 商人向けの安い旅店があってそこに泊まるが、 日本人は貧乏でありながら貴顕紳士のまねをする。  日本人は実業をば、 やむをえず仕方なしにやるけれども、  かの地の人は実業をなによりよいものとし、 どんな実業をでも熱心にやる。 それ故、 実業も盛んになり財産もできるのである。

 あるとき、 日本人の所にその知人の米人が訪ねて行って、 種々のはなしをしていた。 そうして米人は帰ろうとするから、 日本人は「まあよいでしょう、 もう少しお遊びなさい」といった。 そうすると米人は「職務があるから」といって辞した。 そこで日本人は「職務がおありでも、 少しくらいはよいでしょう」ととめたれば、  米人は「いえ、  私は職務の奴隷ですから」と答えた。 よって、 また日本人は「人間が職務の奴隷になるなぞというはつまらんことだ」と評したれば、 米人は「人はなにかの奴隷にならなければならん。  そうだとすれば、  職務の奴隷がいちばん名誉です」といって、ついに辞しさった。 実に、人は職務の奴隷のつもりで熱心にやらなければならんのである。  英国人と日本人と英国で話をしたときに、「日本の芝居は何時から何時までありますか」と問うたから、「朝から晩まであります」と答えたれば、  英国人は大いに不思議に思ったという話がある。  かの国の人は、生きてるうちは働かねばならん。一日六時間とか七時間とか必ず働かなければならんとしているから、 夜なぞのような仕事の余りの時間をもって芝居を見るのである。  それ故、 朝から芝居をして一般の人が見物に行くなぞということは、 実に不思議に思うのである。

 こういうように、 欧米諸国では一般に実業を重んずるから、  かの地の小学中学なぞに農工の実業が加わっておるが、 その実習のときなぞに生徒の喜んでやることは非常なものである。 実業の実習をば子供のときからおもしろがってやる、 社会も実業も重んずるから、 実業はかのごとく発達し、 富力はかのごとく増大したのである。 しかるにわが国の学校はどうであるかといえば、 教場でむずかしい理屈をでも教えれば生徒は喜んでやるけれども、 もし実習となれば生徒は非常に嫌がるのである。 しかのみならず、 実業学校でもその傾きをもっておるというは驚くべきことである。  かくすべてのことが不実業的であるから、 実業はどうしても発達しないのである。 そこで、 根本的にこの気風から改良しなければ、 到底だめであるとおもう。

 つぎに、 その気位の高いこととか、 義気とか義俠とかいうことは、 日本人の天性である。 そうして、 もとより天性は変じ得べきものでない。  この天性は、 わが国の風土のありようや、  歴史上の事情によって化成したものである。 そうして、 しかもこれによって、 万国に比類なき国体ができておるのである。  このことと実業的気風というものとは、  決して一致しないことではない。  すなわち、 今までの天性をばますます発達せしめつつ、  しかも実業を盛んにしていくことができるのである。 わが国人の実業嫌いになったのは、 徳川時代かもしくはもう少し前からの社会的習慣であって、 決してこれが日本人の天性ではないのである。 徳川時代に士農工商というような職業の階級を造って、 武士は学問をして人を使って、 実業なぞをばやらずに生活する。 そうして、 それが最上級の職業であった。 農工商は学問をもせず、 ただ一心に実業をやるもの、 人に使われるもの、 下等なものとなっておった。それ故、今のような実業嫌いの人民、お役人様はいちばんよいものというような社会ができたのである。そこでこんどはそれを改良して、 忠孝のため国家のため、 ぜひとも実業をやらなければならん。 実業を盛んにして富力を増大することは、  すべての事業の土台であるから、  すなわちいかなる善行をするにも、 またいかなる美事をするにも、 さきだつものは金であるから、 どうしても実業を振興し、 人々が実業に熱心に従事するようにならなければならん、 という思想を社会一般に普及せしめることが必要だとおもう。

 ドイツでは昔から哲学が盛んであったが、 今また科学や実業が盛んになった。  これは、 かの国人の気風である。  かの国人の、 根気がよく忍耐強いという気風によるのである。 かの国人が別に学問のよくできる天性があるのではなく、 英国やそのほかの国で研究したところを持って来たのだが、 忍耐強いから、 根気よく本から末まで厳正に周密に研究して、 ああなったのである。 しかし、 国は連邦で国内の軋礫というものもあり、 地はロシアとともに一方に偏しており、 そうして海は少ないから、 はじめのうちはずいぶん貧乏な国であったが、 そのうちに国内の統一も成就し、 交通機関も発達してきたときに、他の国の富力に刺激せられて、 科学とか実業とかの方面にも着眼し、 そうしてその根気のよい忍耐強い気風をもってやりだしたのである。 ドイツ人の成功は実にこの気風によるのであって、  人品からいえば英国人なぞの方がずんと上であるが、 その気風においてはドイツ人の方が勝っておるのである。 実にその根気のよい忍耐強い気風は、 事業を成すの原動力であるから、 これをばぜひともわが国にも盛んにしたいとおもうが、 その方法いかんはいまのところ、 我が輩にとって未決の問題である。

 



   二八 仏教の前途


 今日は真宗宗祖大師の降誕日であるから、 広く仏教の前途いかん、 狭く真宗の運命いかんを卜し、 そして仏日を万世に輝かし、 法灯を無窮に伝えんことを祈ろうと思う。

 それ、 法の盛衰は人にあって法にはない。 だから、 古語にいわゆる「人よく道を弘む、 道の人を弘むるにあらず」とあるゆえんである。 ゆえに、 真宗将来の運命いかんは真宗そのものの上ではなくて、  これを広むる人の上にあるのである。 仏教の前途いかんは仏教そのものの上にあるのでなく、  これを伝える人の上にあるのである。しかるに余をもってこれをみるに、 仏教の門に衣食し、 真宗の家に成長し、 布教伝道に従事する者、 やや小成に安んじて、 遠大の志望を欠いておるかと疑わるる状態である。 今、 真宗について一例を挙げて見よう。

 真宗門内の僧俗どもがおもっておるには、 今日真宗の繁昌すでにかくのごとくである、 また将来の盛衰を憂うるには足らぬと。  これは、 日本一国あることを知って、 いまだ世界万国あるということを知らぬ井蛙の見である。 もし日本一国のみをもって論じたならば、 そは寺院の数も僧侶の数もまた棺信門徒の数も、 ともにその夥多なることは十余宗三十余派中、 真宗の右に出ずるものはない。  これに次ぐものは曹洞宗である。  そのつぎは浄土宗であるが、 もし本山の勢力をもってこれを比較するならば、 東西両本願寺はほとんど各宗本山総体に敵しても、 なお余りあるほどである。  これをもって、 真宗門内のものは得意揚然として真宗の万歳をうたって自ら安んじておることになる。  また大谷派門下のものは傲然として、 他宗はもちろん本派本願寺といえども、 その勢力にいたってははるかに大谷派に及ばないところがある。 すなわちその本堂は五十間四面で、 京都中随一の大観である。 いな、 日本八十余州中いずれの所に、 かくのごとき大堂あろうや。 これを見ても、 大谷派の勢力の強大なるを示すに足るといっておる。 しかるに一方、 本派本願寺派下の者にいわすれば、 そは大谷派の本堂はわれよりも大きくある。 けれども、 惜しいかな財政の一段にいたっては、  はるかにわれに及ばない。 大谷派は数十万の負債を有するのみで、 資金などは少しももたないではないか。 わが本派は、 数百万の基本財産を有しておる。  これ、他宗派にいまだその例を見ないところであると。

 

 かように、一は本堂をもって誇り、一は資金をもって誇る。本堂と資金との二者をもって、真宗の勢力強大であるという標本となすようなことは、 余輩の大いに惑うところである。 いな、  はなはだ慨嘆するところである。たとい真宗は日本最第一の宗派なることは事実であるとしても、  これはただ一国中のことのみにとどまる極めて小区域であるが、 もし海外万国に対して見たならば、 真宗の勢力の弱小なることは、 余が言をまたずとも知れておる。 例えば真宗は二万の寺院、  二百万の信徒があると称しても、 これをヤソ教に比べたならばいかがであろう。 実にお恥ずかしいほどである。  かのローマ教などは    本山の下に二億万の信徒を有しておる。 これをもって真宗に比べてみるならば、  その数はほとんど百倍に当たる。 もしまた伽藍の大小壮観からこれをみたならば、真宗の本堂は五十間四面、  ローマ教の本堂は百間四面である。  その比例はすなわち一と四との割合である。 また、 本派の資金は仮に三百万あると定むるも、 その毎年生ずるところの利子は大略十五万円になる。 しかるに英国の大僧正などは一人の年俸でさえ十五万円(英貨一万五千ポンド)であれば、 わが本山の収入とかの大僧正の収入と、 まさしく相敵するを見るくらいであるから、  これをもし英〔国〕国教宗の統計によるときは、 全国寺院収入の総額は、 毎年平均一億万円(英貨一千万ポンド)であるという。  これによりてこれをみれば、 真宗の微力なるを推して知るべしである。  これ、 あに真宗の万歳を謳歌するのときであろうか、 実に疑わし。 もし、  わが国の仏教家がみな、 五十間の本堂と三百万の資金とをもって満足するような狭小なる志望を有するにおいては、  ひとり真宗将来の運命のみでは〔なく〕、 日本仏教の寿命もいかがならんかと、  今からして憂えなければならぬことである。

 今やわが国も日進月歩の文明にあって、海外の交通一層頻繁を加うるに至り、 したがって万般の競争は日一日より激甚なる態勢である。  されば、 宗教の競争もまた従来の比でないことは明らかである。 果たしてそうであったならば、 五十間四面の堂をもって百間四面の堂と相争い、  二万の信徒をもって二億万の信徒と相争わなければならぬわけだが、 その勝敗の数いずれにあるかは、 識者をまたぬでも判知せられる。  かつそれ、 真宗の敵とするところは曹洞宗でもなければ浄土宗でもない、 また天台、 真言でもない。  そは全くヤソ教である。  これに対するときは、 曹洞宗や浄土宗などは兄弟である親戚である。 もし、 真宗の本堂と資金とがたといその兄弟親戚に超過しておるとするも、 その勁敵たるヤソ教を凌駕するに至らなければ、 いまだ決して真宗の万歳を祝するどころじゃない。 真宗は日本において開立したりしも、 あえて鎖国的宗教ではない、  世界的宗教である。 日本一国のみに限るべきでなくて、 よろしく世界万国へ流布すべき宗旨である。 しかるに、 現今海外派出の宣教をみるに、 真宗の教会はわずかにシナ、 朝鮮の二、 三カ所に存するのみで、  シナ以西に至りては皆無であるという始末である。これに反して、 米国のヤソ教会および英国、  仏国のヤソ教会が、 わが国三府五港はもちろん、 各県各郡にまで流布せるを見るも、  ニューヨーク、ロンドン、  パリなどの西洋の都会に、  いまだ真宗の寺院教会の設置を見ないのは、これ真宗の勢力の、ヤソ教に比して微弱なるを徴するに足るのである。 今日なお真宗の勢力かくのごとく弱小なるにもかわらず、 五十間四面の本堂や三百万円くらいの資金をもって、 自ら誇り自ら満足しておるようでは、  とても二十世紀の活社会に立ちて、  世界の宗教と競争していくことのできないことは、  火をみるよりも明らかである。 真宗門内の人たるもの、いやしくも一片の護法扶宗の赤心を有したらんには、 あに憤然としてたたざるを得んやである。

 仏教家はみな曰く、 近来ヤソ教の勢力大いに衰えたる状態に傾きつつあるから、 なにもそう恐るるには及ばんと。 ああこれ、 なんぞ迂愚のはなはだしき。  そはただ日本の一国のみを見て、  いまだ海外万国の状態を知らざる井蛙の言である。 わが国のヤソ教衰えたとはいうも、 なおわが国の各都会には教会堂もあり、 宣教師もあり、 信徒もあるではないか。 しかるに、 遠く海外に行って見るならば、 かの都会いずれの所にも、 いまだわが仏教の教会堂、 宣教師あるを見聞しない。これから見ても、 わが勢力のはるかにかのヤソ教の勢力に及ばないことは知らるるであろう。 他日もし、 わが国にヤソ教の教会堂を見ず、  一人のヤソ教の宣教師を見ざるように至り、  かえって欧米諸国の各都会にわが仏教教会堂を見、 またわが伝道師を見るにいたって、 そしてはじめて、 わが仏教の勢力がヤソ教を凌駕し得たというも、 あえて誇言ではなかろう。  されば、  ひとり真宗のみではない、  各宗門下の人はみなともに、 決して今日の仏教をもって満足とせず、 そして奮然蹶起して、 海外万国にまで仏日法灯を輝かすよう、  布教伝道をもって目的としなければならぬ。

 真宗将来の運命は、 真宗門内の僧俗の精神志望のいかんによりて判知し得らるるというに、 今日のような井蛙の見、 燕雀の志にては、 将来の衰微を招くは必然の勢いであると信ずるのである。 それ故に余は真宗門中にあって、 いやしくも宗祖の洪恩に報答しようとする微志あるものは、 決して五十間四面の伽藍や三百万円の資金をもって満足とせず、 他日世界第一の宗教となってその信徒その教会その寺院が、 海外万国にまで遍在するようになろうということを祈らなければならぬ。 もし果たしてその真宗門内に日の没したることなきような盛況を見るにいたって、 はじめて真宗の万歳を三呼してよい。  これひとり真宗ばかりではない、 他宗他派みなかくのごとき遠大の志望をもって、 孜々汲々として布教伝道するのでなければ、 将来の興隆を望むことはできぬ。 ゆえに今日からの護法扶宗家は必ずみな、  この心をもって心とし、  この志をもって志としなければならぬ。  かかる精神の上に建設したところの宗教は、 実に金城鉄壁よりもなお堅く、 万世無窮に伝うることを得るは自然の勢いである。

 今日、 真宗宗祖大師降誕会の席末をけがし、一はもって仏教各宗のため、 一はもって真宗一門のために、一言を述ぶることかくのごとし。  まず今日はこれにて・・・・。




   二九 仏教の医方


 インドは古代にありて、 各学術の分類の整頓せることは実に驚かざるを得ず。 遠く仏出世以前より、 学術を五類に大別して五明の名目を設けり。  すなわち内明、 因明、 声明、 工巧明、 医方明これなり。  さらにこれを細明して、 工巧明のごときは十二種に分かてり。 まず五明を解すれば、 内明は内教の学を義とし、 因明は論法の学、 声明は文字の学、 工巧明は工芸の学、 医方明は医術の学を義とす。 明はなお学というがごとし。

 今、 仏教中に散見せる医方明につきて述ぶるに、 その順序は自然に病種、 病因、 医療、 医薬の四段に分かる。まず病種を考うるに、  四諦論には、『病有二種一身一心」(病に二種あり、一は身、 一は心)とありて、 病総体を身病、 心病の二種に分かち、 さらにその各種を内外二種に分かつ。  すなわち、 身病の方は縁内起、 縁外起の二種に分かつ。  縁内起とは体内の不調より生ずる病をいい、 縁外起とは体外の逼触より生ずる病をいう。  これ、 なお今日の病に内科、 外科を分かつがごとし。  つぎに、 心病の方は内門感、 外門感の二種に分かつ。  感とは煩悩の迷いをいう。 また『智度論』によれば、 身病を内病、 外病の二種に分かつ。 内病は五臓の不調、  外病は外部の毀傷なれば、 縁内起、 縁外起に同じ。 つぎに病因を考うるに、『仏医経』には、 地水火風の四種より各病を起こすことを示せり。 けだし、  インドの古説には、 人身は地水火風の四元素より成りたるものなれば、 病気もまたこの四元より起こるとなす。 例えば一身中、 風増せば気起こり、 火増せば熱起こり、 水増せば寒起こり、  土増せばカ盛んなりと説きて、 地水火風の四元中、 地気多きにすぐれば、  これによりて百一種の病を起こし、 水気多きに過ぐれば、 また百一種の病を起こし、 火気も風気もともに多きに過ぐれば、  おのおの百一種の病を起こす。  ゆえに、 病に四百病ありという。 これ、総じて病因を説きたるものなり。 かくして病因を挙ぐれば、『仏医経』に十種を挙ぐ。  すなわち、一は久坐不飯(久しく座してくわず)、  二は食不節(食いて節せず)、 三は憂欲、 四は疲極、 五は淫佚、 六は瞋恚、 七は忍大便(大便を忍ぶ)、 八は忍小便(小便を忍ぶ)、 九は制上風(上風を制す)(上風とはしゃくりの類をいう)、 十は制下風(下風を制す)(下風とは放屁の類をいう)。 また『金光明〔経〕文句』には、 六種の病因を列す。 すなわち多坐、 多眠、 多行、 多倚、 多語、 多婬これなり。

 つぎに医療を考うるに、『雑阿含経』中には、 治病の秘法に七十二種ありという。 また『僧祇律』等には、四百四病中、 風大の一つは油脂を用いて治し、 火大の熱病は酥を用いて治し、 水病は蜜をもって治し、 雑病は上の三薬をもって治すと記せり。  酥とは牛乳を二度煎じたるものをいう。 また『増一阿含経』には、 もし風患者は酥を良薬となす、 もし疾患者には蜜を良薬となす、 もし冷患者には油を良薬となすとあり。 また『金光明経』『除病品」にも、 療病の法を示せり。  しかしてインドの治法は、 絶食を第一となすこと数書に見えたり。 例えば『西域記』に、  およそ疾病に遭えば、 粒を絶つこと七日す、  期限中に多く痊癒することありといい、『寄帰伝』に、およそ四大の身病生ずることあるは、  みな多食より起こるといい、 また同害に、  およそ病あるもの食を絶ちて、あるいは半月を経、 あるいは一月を経、 云云とあり、『蘇婆呼童子経』に、 飲食を多過すれば病を生ず、 傾ける家に支木を強くすれば、  かえって倒るるがごとしと説き、『遺教経』に、 多食すればよく三昧を障うることを説き、『十二頭陀経』にも節食の肝要を説き、『浄心誡観』にも、  四百四病は多食するをもって本とすと説くがごとき、  みな病は多食より起こることを戒めたるものなり。 ゆえに、  これを治するにも節食もしくは絶食を要すとなす。  そのほか経論中、 往々散見するもののごときは、 いちいち列挙するにいとまあらず。

 余案ずるに、  シナの医法中、  インドの医方の混入せることは疑うべからず。  インドに医方明の一科が早く開けたるを見ても、 医術のシナより進みたることを想見すべし。 しかれども、 その書の訳して伝わるものなきをもって、 そのいかんを知るに苦しむ。 しかして仏書中に往々散見するところあるも、  これその万一を知るに足らず。

 ただ余がその断片を拾いてここに掲げしは、 その意、 インドの医方を紹介するにあらずして、 仏教の医方を示さんとするにあり。 仏教の医方とは仏教特色の医方にして、 釈迦牟尼仏の発見せられたる療法をいう。 そもそも釈迦は大医王にして、  一切衆生の病苦を療せんがために八万四千種の薬法を説き、 もって衆生八万四千種の病症を治せんとす。 ゆえに、  その法を応病与薬という。 まず釈迦は衆生の病を内外二種に分かち、 肉体の病を外病と称し、 精神の病を内病と名づく。 しかして仏教は内病を治するものとす。  かつ、 外病も精神より呼び起こすものすくなしとせず。 ゆえに、 精神によりて療する法なかるべからず。  これをもって仏教は精神的療法を説く。 その一例はすなわち、 止観の法なり、 坐禅観心の法なり。  すなわち止法を修すれば、  よく衆病を治すというこれなり。余、  かつて精神的治療法を講じ、 あわせて仏法の治療法に論及せしことあり。 今またこれを論ぜんと欲して、 まず仏書中に散見せる医法を列挙したるゆえんなり。  しかして、 余が所見は他日に譲りて別に論述せんとす。




   三〇 僧家の内職を論ず


 近年、 余が地方巡回中、 各所の寺院につきてその生計法も視察するに、  世間より仏教繁昌をもって目せらるる場所は、 その僧侶の生計は全く壇家信徒の懇志によりて成り、 別に内職を営むものもなけれども、 仏教のあまり行われざる場所にいたりては、 多少の内職を営まざるはなく、 はなはだしきにいたっては、 内職の方がかえって本業となり、 葬祭仏事の方はかえって余業なるがごときありさまなり。 これ、 もとより当人の本意にはあらざるべきも、  生計上やむをえざるに出ず。  しかしてその内職は、 地方の情況によりて一定せず、 あるいは耕作を業とするものあり、 あるいは養蚕を業とするものあり、 あるいは傘張り、  提灯張りを業とするものあり、  そのはなはだしきにいたりては、 漁猟殺生を業とするものありという。 漁猟は禁物なれば、  これを犯すものは仏敵をもって論ずべし、 傘張りは賤業なれば、  これまたなすべからず、 耕作、 養蚕のごときも、 僧家の内職としてはあまり称賛すべき業にあらず。 余は必ずしも僧家に内職せよと勧むる意にあらざるも、 仏教の振るわざる地方にありては、 生計上の困難より寺院を頽廃に帰せしむるよりは、 むしろ相当の内職をもって維持法を立つるは、 万やむをえざることと信ずるなり。 たとい仏教繁昌の地にして、 読経説教をもって生計を立つることを得る場所にても、僧家の面目を損せざる限りは、 内職を営むもまた可なりと信ず。 日本中、 北国のごときは世間一般に仏教繁昌の地と称し、 その地の僧侶は読経説教に忙わしくして、 他を顧みるのいとまなしという。 しかしてその弊たるや、読経説教を一種の営業となし、 商法的にこれを強売する風あり。  世のいわゆる談僧と称するものの中には、  ずいぶん卑劣を極むるものなきにあらず。  ゆえに、 表面にては読経説教のほか余業を営まざるをもって、 僧家の面目を保つがごとく見ゆるも、 その実際の行為の卑劣なる点にいたっては、 傘張り、 提灯張りを内職とするものと大差なかるべし。  これ畢竟するに、 糊口の困難より起こらざるはなし。  ゆえに、  この弊を救うには、 やはり相当の内職を営みて、 一とおりの生計を立つる方法を設けざるべからず。

 僧侶の内職として参考すべき点は、 左の三条なり。

  一、 仏事の妨害とならざること

  一、 僧家の面目を損せざること

  一、 布教の手段となること

 この三条につきて、  職業の当否を考うるに、 左の兼業をもって最好の内職なりとす。

  一、 僧侶にして小学もしくは中学の教員を兼ぬること

  一、 僧侶にして医師を兼ぬること

 このうち、 医師を兼ぬるには多年の修業を要し、 その間の学費を弁ずる余力なきものあるべし。  また、 学校教員となるにも、 多少の修学費を要するほかに、 文部省の制度が宗教と教員とを混同せざるにあれば、 その実行いかんと難ずるものあるべきも、 知識および畢学上、 小学教員となる力なきものは、  到底宗教家の資格なきものと断念するよりほかなし。 また、 文部省の制度に対しては、  これを免るる道多々あるべし。 もし、 本山がこの方針を取りて内規を立つるにいたらば、 その実行を見るは実に容易なり。  これ、 余が積年主唱するところにして、 今日いまだ各宗本山がその方針を取らざるは、 余が平素けげんに堪えざるところなり。

 つぎに、 宗教家の内職とすべきは美術なり。  これ、 宗教を助けて人心を感化するに最も力あるものにして、一つ仏事の閑暇にでき得ることなれば、 宗教家の至適の内職というべし。  これに種々あり。

  第一は絵画、 第二は音楽、 第三は彫刻。

 そのほか挿花、 茶湯等も可なり。 あるいは造化や縫箔のごときも可ならんか。  これみな、  傘張り、 提灯張りにまさること万々なり。 もし造化、 縫箔等にいたりては、 婦女子をしてこれを営ましむるを得。  元来、 寺院は真宗を除くのほか、  みな妻帯を禁ずれども、 その実十中八九は妻帯なり。 たといその名義は大黒にもせよ、  弁天にもせよ、 飯盛りにもせよ、 実際は妻妾なり。 真宗の陽妻も他宗の陰妻も、 自今内職として一種の美術を営むに至らば、 寺院の品格を損せずして、 しかも糊口を助くることを得。 あに一挙両得の策ならずや。  かく内職は多少の練習を要することなれども、 もとよりやむをえざる次第なり。  およそなにごとにても練習を要せざるものなく、 農業にても商業にても一なり。 もし、 寺院僧家が最初よりその目的にて、 妻子あるいは小僧を養育するにおいては、 また美術をもって内職の一助となすこと、 決して難きにあらざるべし。すでに美術は糊口の一助となり、かつ布教の一手段となり、  これに加うるに自身に快楽を感ずるものなれば、 一挙三得の内職というべし。

 これを要するに、 余は僧家内職としては、 第一に教員、 第二に医者、  第三に美術家なりとす。 耕作、 養蚕のごときは、 余が賛成せざるところなり。  傘張り、 提灯張り等にいたりては、 余が絶対的に否拒するところなり。




   三一   仏教の善悪標準説


 近ごろ倫理学を講ずるには、 第一に善悪の標準を定むるを常とす。 あるいは知識をもって標準とするものあり、 ソクラテスこれなり。 あるいは理想をもって標準とするものあり、 プラトンこれなり。 あるいは君主の命令をもって標準とするものあり、 ホッブズこれなり。 あるいは天賦の良心をもって標準とするものあり、 ハチソンこれなり。 あるいは自利をもってし、 あるいは快楽をもってし、 あるいは道理をもってする等、 いちいち列挙するにいとまあらず。 今、 仏教はなにをもって善悪の標準と立つるや。  これ仏教倫理の一問題なり。

 そもそも仏教の倫理は諸宗の説くところ一様ならざれば、 善悪の標準もまた一定し難し。 例えば、 世間門における標準と出世間門における標準とは、もとより一様ならず。 あるいは小乗の所立と大乗の所立と相異なり、 自カ教と他力教とまた同じからず。 ゆえに、 一律をもって仏教の標準を規定すること、 はなはだ難しとなす。 しかれども、  その諸標準のよりて起こる根本の道理を推究すれば、 一定の基址あること、 おのずから了知すべし。 まず仏教にて諸悪の起こるゆえんを説くに、 凡夫の迷いより生ずるものとす。しかしてその迷いに煩悩、 所知の二障を分かち、  煩悩障は我執より起こり、 所知障は法執より起こるとなす。  すなわち、 我法二執は諸迷諸障のよりて起こる根本となす。 我法二執とは、 諸法の用に迷うと体に迷うとの別ありて、 もしその用に迷って別に一種の我体ありと固着するを我執といい、 その体に迷って実に法体ありと確執するを法執という。 しかしてその法執は、 大乗の人にあらざれば看破消遣することあたわずして、  小乗はただ我執を空することを得るのみとなす。  これを要するに、 我執は大小二乗にわたりて根本の迷執なり。 けだし、  インドの外道は何派何宗を問わず、  一般に我体の実有を信じ、  種々の妄見迷執に陥るをもって、 仏教はこれに対して、 我執は諸迷のよりて起こる根本なれば、 これを一破して無我の理を観ぜざるべからず。 ゆえに、 諸法無我をもって根本の道理となす。  これ、 仏教の善悪標準のよりて分かるるところなり。  かくして仏教の標準を考うるに、 無我を善とし我執を悪とするもののごときも、  これいまだその理を究めたるものにあらず。  そもそも仏教の真理は諸法本来無我平等なることを示すにあれども、  その平等の海面に彼我の差別を起こし、 我執の迷いを生ずるに至りたるは、 全く無知のしからしむるところとなす。  ゆえに、 その迷いを破して無我の理を証するは、 また智慧の力に帰す。  かく論ずるところを見るに、 仏教の善悪標準は知識にほかならざるがごとし。  すなわち知識標準説に帰着すべし。

 しかるに、 仏教をもって知識標準説となすは、 なおいまだその理を尽くさざるところあり。  これを知識標準説となすも、 ソクラテスの知識論とは天地の相違あることを知らざるべからず。 けだし、 仏教のいわゆる知には有漏、 無漏の二種ありて、 有漏はすなわち世間の知なれば、 ソクラテスの知識と同一視して可なるも、 無漏智にいたっ ては出世間の知にして、 他学のいまだ唱えざるところなり。  しかして、 仏教のいわゆる知識は無漏智を本とするものなれば、 世間の知識や道理をもって標準を立つる説とは、 もとより同日の論にあらず。 もし、 無漏智のよりて起こる本源を究むれば、 たちまち真如の理に達せざるべからず。 真如は仏教の最上究竟の道理にして、  これを仏教哲学の第一原理と名づけて可なり。 仏教の倫理もこの理を離れて講ずべきものなし。 今、 無漏智はこの大道理を観見するところの智慧にして、 その知の体はやはりこの直如なり。 ゆえに、 その窮極するところは、 真如自ら己の体に迷って我執の妄見を起こし、 また真如自ら己の体を観じて無我の悟りを開くことに帰するなり。

 果たしてしからば、 なに故に真如の自体に迷悟の別を生ずるやの問題したがって起こるべきは、  これ別問題に して、 標準説の関せざるところなればこれを略し、  ここに至りて善悪の標準を考うるに、 真如にほかならずといわざるべからず。  すなわち真如標準説なり。  さきにいわゆる我も無我も、 善も悪も、 有漏も無漏も、 真如の向背によりて分かるるなり。 換言すれば真如の理に随順するを善とし、  これに違戻するを悪とするなり。 もしこれを我人の方に寄せていえば、  われわれの目的は真如の理に体達するにあり。 仏教にて人間の目的を論ずるときは、真如に向かって進行するにありというよりほかなし。 その進行を助くる方はすべて善にして、 その進行を妨ぐる方はすべて悪なり。  七十五法あるいは百法の上にて、 あるいは善あるいは悪と判別するは、  みなこの意にほかならず。 ゆえに、 仏教の標準説は真如をもって根本とすること明らかなるも、  さらに目的と手段とを分かちて論ずれば、 真如は大目的にして、 善悪はこれに達する手段の上の区別と定めてしかるべし。 約言すれば、 真如の向背の上に善悪の別を生ずるなり。 ゆえに余は、 仏教の標準説は真如の向背あるいは逆順にありと断言せんとす。

 以上は、 仏教の原理につきて論定したるものなり。もし一宗一派の標準を定むるにいたっては、 別に論ぜざるべからず。 例えば、 他力教たる浄土門のごときは阿弥陀一仏を立つる宗旨なれば、 善悪の標準は阿弥陀仏の向背順逆にありといわざる べからず。 しかれども、 もし阿弥陀仏と真如との異同を窮むるにいたっては、  一体不二の関係あり。  ゆえに、 窮極するところは真如標準説に廂すと断定して可なりとなす。




   三二  天狗の起源


 わが国の怪談はシナより伝来せるもの多しといえども、  ひとり天狗の怪談にいたりては本邦固有のものたり。しかしてその名称は、  シナの古書より得たるならん。  これを漢籍に考うるに、 天狗の名目は数書に出でて、  そのなにものたるやほとんど一定するところなきがごとし。 あるいはこれを星の名とし、 あるいはこれを烏名また獣名とし、 あるいは草名、 あるいは竜名または仙人の名となすものあり。『史記』『漢書』『晋書』等に出ずるものは、  みな星の名なりという。『山海経』『述異記』『五雑俎』等に見るものは、 やはり星の名に近し。  また『山海経』の中には、 獣類を指して天狗と名づけしところあり。 杜甫の「天狗賦」に歌えるは、 一種の獣類を指していうなり。『焚椒録』『三秦記』『食物本草』等に出ずるものは、みな獣名なりという。『天地或問珍』に『本草綱目』を引きたるところ、『桂林漫録』に『古今談概』を引きたるところのごときは、  みな獣名となす説なり。『居行記』に『捜神記』を引証したるは、 天狗をもって鳥名となす説なり。『秇苑日渉』には『爾雅』を引きて、 天狗の鳥名なることを示せり。 また『天中記』には、 天狗は人参なりと解せりという。  これ草名なり。 また『物理小識』には石の名となすもののごとし。『瑯環記』にいうものは仙人にして、『酉陽雑俎』に見るところは竜名なりという。 余思うに、 天狗の名称は元来雷獣に与えたるものを、 後に転用して星の名、 鳥の名等になせしならん。その証は『史記』の「天官書」の文を見て知るべし。

 史記天官書(評林巻二十七の二十九紙)曰天狗状如大奔星有声其下止地類狗、 所堕及炎火云云。

  (『史記』『天官書』(『〔史記〕評林」巻二七の二九紙)に曰く、『天狗の状は、大奔星のごとくにして声あり。その下りて地にとどまるときは狗に類たり。  堕つるところ、 炎火に及ぶ、 云々。)

 この文を案ずるに、一光物の大流星のごときもの、 声をなして天より下り、 地にとどまるところを見れば、 狗に類するものありという意なり。  その狗は天より下りしをもって天狗と名づけしのみ。  これ、 わが国にていうところの雷獣なり(シナの書にも、 雷州に雷獣多きことを記せり)。 しかして一大光物は雷火にして、 声ありて地に下りしは落雷なり。 落雷のときに、 深山に住する獣類が飛行してその地に落ちきたることは、 わが国にて往々あるところにして、 その獣の形は『震雷記』中に図を掲げて示せり。 されば「天官書」の類狗とは、  この雷獣のことたるや明らかなり。  しかるに、 後人誤りて天狗は星の名なりと解し、 あるいは単に獣名となすあり。  これまた「天官書」の文にもとづきたるに相違なし。  また、 烏名となすがごときは、 獣名よりさらに転用したるものならん。 そのほか草名、 石名等にその名を用うるは、 必ずしも意味あるにあらず。 なお、 わが国にて天狗の名をタバコに用うるがごとし。 

 かく解するときは、 その名称は全くわが国の天狗と同名異体なり。  されば、 わが国の天狗はシナ伝来にあらずと知るべし。 もしこれを仏書中に考うるに、『延命地蔵経』および『正法念処経』に天狗の名目の出ずるあり。『一宵話』の書中には『年山紀聞』によりて『地蔵経』を引用し、 天狗の名は僧家より始まれりと記するも、『地蔵経』は本邦の偽作との説あれば信じ難し。『正法念処経』の天狗は『史記』の文によりて光物に与えたるものなれば、 わが国の天狗を証するに足らず。  ゆえに、 天狗はインド伝来にもあらざるなり。  ここにおいて、 わが国の古術につきて考うる必要あり。

 『天狗名義考』中には、 天狗神の名目が『旧事本紀』中に出でたるを見て、 天狗のことは神代より起これりと論ずれども、『旧事紀』は後世の偽作なりとのことなれば、 もとより信拠すべからず。 しかるに『日本書紀』「舒明天皇」の下に天狗の語あり。  これ流星に与えたる名称にして、 全く『史記』の「天官書」にもとづきしものなり。 ゆえに、  これみな天狗の名称の起源となすに足らず。 そのほか天狗の文字を掲げたるものは、 源平以後に出でたる中世の書のみ。 しからば、 天狗の名称はなにより起こりしや。 余案ずるに、 わが国の天狗とシナの天狗とその実を異にするも、 その名は『史記』『漢書』等に出ずる名目を転用したるならん。 もし人、 深山に入りて震響を聞き、  火光を見、 あるいは異獣に接したることありて、  これに天狗の名を与えたりとせば、『史記』の天狗と全く関係なきにもあらざるべし。  シナの書中に、  わが国の天狗談にひとしき怪談なきにあらず。 唐李綽が『尚書故実』に掲ぐる一話、および『広西通志』『異苑』等に出ずる怪談中に、 わが国の天狗談と符合せるものあり。ゆえに『和漢珍書考』には、『百鬼大弁録』に出ずる怪談中に長鼻肉翅の怪物ありて、  人ひとたびこれに接すれば、 たちまち顚衢すとあるを見、  これわが国の天狗談の起源なりと想定し、 天狗の名は顚衢の文字より転化したるものなりと速断せり。  かくのごときは、 もとより偶然の暗合に過ぎざるなり。

 天狗の本体いかんにつきて、 古来異説紛々たり。 寺門静軒の『痴談』および西島元齢の『慎夏漫筆』には、 天狗をもって仙人となせり。『善庵随筆』には狐の一種とし、『居行子』には深山の怪獣とし、『一宵話』および『和漢珍書考』には鷲の一種となすがごとし。 新井白石は木石の怪とし、 平田篤胤は樹神山鬼のごとき一種の怪物となす。『天地或問珍』および『訓蒙天地弁』には、 深山におる魑魅の類となす。 物〔荻生〕徂徠は三代以上、 ただこれを山神というと説けり。 林道春は霊鬼の著しきものにして、 高僧の化したるものとす。 森尚謙は一種の鬼神となす。『忍辱随筆』にも鬼神の類なりという。 馬琴は、『保元物語』および『太平記』に出ずる天狗は冤鬼なりという。 石川鴻斎は『夜窓鬼談』中に遊魂の一種となす。 平田篤胤も『妖魅考』中にても霊鬼説をとり、 僧、 山伏などの化したるものとし、  これを釈魔と呼べり。 しかして釈魔説は仏者のもっぱら唱うるところにして、『谷響集』には魔波旬の属なりという。『沙石集』『壒嚢抄』『聖鬮笠』『聖財集』に説くところ、 たいていみな魔鬼説なり。『仮寐夢』および『天狗名義考』中にも同様の説明あり。『真宗御文指示珠』には、 わが国の天狗はインドの大聖歓喜天のことならんという。  馬琴は『烹雑〔の〕記』中に、 天狗は五、 六百年前に僧徒のいい出だせし譬喩にて、  仏説に夜叉飛天を天狗というにもとづきて魑魅魍魎を天狗といい、 また転じて放慢の道俗を天狗と名づくるに至れりという。  かくのごとく異説紛々たるは、 天狗のごとき複雑を極めたる妖怪を単純なるものと思い、一面を見て説明を与えんとするより起こる。 余思うに、 天狗は山中におりて接触見聞せる、 種々の妖怪現象を総合して成りたるものにして、 極めて複雑なるものなり。  その図に見るところの形象によるに、 鳥のごとく、 獣のごとく、 人のごとく、  鬼のごとく、  一見たちまち怪物中の最も複雑なるものなるを知る。  その作用につきても、 あるいは震響を起こし火光を発し、 瓦礫を飛ばし樹木を倒し、 また奇々怪々の挙動を示すことあり。『稲生物怪録』につきて見るべし。 また、  人を捕らえ去り、 あるいは人に憑付することあり。 山崎美成の手記せる虎吉の天狗談あれば、  これまた一読すべし。 天狗につきて剣術を学び習字を伝わりし話も、 古来もっぱら唱うるところなり。かくのごとく、 天狗の怪談は複雑に複雑を重ねたるものなれば、 いちいち分析して説明せざるべからず。

 古来の天狗談中には虚構、 訛伝に出ずるものすこぶる多ければ、 まずこれを除き去るを要す。 また偶然の誤認より、 天狗にあらざるものを天狗として伝えしものまた多し。 その他の点は、 物理的方面と心理的方面の二面より考察せざるべからず。 物理的方面にありては、 深山幽谷の境遇いかん、 および鳥獣木石の状態いかんにつきて考察を下し、 心理的方面にありては、 恐怖、 予期、 専注、 想像等の精神作用によりて、 妄覚幻境を現ずるゆえんを実究するを要す。  かくのごとき研究は、 古来の伝説によるよりも、  今後起こりたる目前の場合につきて試むるをよしとす。

 以上述ぶるところこれを概括するに、 天狗の怪談はわが国固有のものにして、 決してインド、  シナより伝来せるものにあらず。 ただその名称は、 ある学者がシナの古書にもとづきて与えしものなるべし。 しかして天狗の名称を用いしは、 今より六、  七百年前のことならん。  されど天狗の怪談は、 その前より民間に伝わりたるに相違なし。  そのゆえんいかんというに、 わが国はシナ、  インドに異なりて、 いたるところ高山峻嶺多く、 その山頂には必ず祠堂を立てて神仏を祭りおけるが故に、 人のここに登りて渓谷を跋渉するもの、 そのあとを絶たず。 古代、天変の理、 気象の変、 物理学いまだ明らかならざるときに当たりて、 愚民のここに至るあらば、  必ず種々の奇怪を感じ妄想を現ずるは当然のことなり。  かかる伝説が相集まりて天狗談となりたるは明らかなり。  これに加うるに、 当時の仏前行者等は、  これを神仏に託してその霊験を示さんとせしより、 針の談は棒大となり、 相伝えて今日に至りしなり。  これ、  わが困に限りて天狗談の多きゆえんなり。 しかして民間に伝うる天狗の図のごときは、画工の作意に出でて、 一般に狩野元信より始まりしという。 ただ高慢と高鼻との関係につきては、 余いまだ明言するあたわず。 人相を論じたる書中には、 高鼻をもって高慢の相となせるものなし。 よって余思うに、 この二者は元来関係なかりしが、 後に偶然相合するに至りしならん。 高鼻の特相は、 山中は怪物にこれに類するものを見たるより起こり、 高慢の特性は、 仏家の説に、 高慢の僧死して天狗となるといえる説より出でたるなるべし。いささか愚考を付して識者の教えを待つ。




   三三  対露余論


 昨今わが政界の風潮は、 対露問題に集中し、 新聞も演説も一句一言としてこの問題に及ばざるなく、 物情ために騒然たるを覚ゆ。 されば、 余のごとき政界の事惰に暗きものも、 黙々として看過することを得ざる勢いとなりぬ。  しかしてこの問題たるや、 すこぶる重大にして、 対韓、 対清と同日の比にあらざることはいうもさらなり。これを内にしては、 二千六百年来の国権の消長、 帝威の隆替の関するところなり、これを外にしては、 東洋の治安、世界大勢のよりて分かるるところなり。  一朝、 和破れて戦端を開くに至らば、 列強の衝突となり、 世界の大戦となるやも計るべからず。 ゆえにこの問題たるや、 慎重に慎重を加え、 熟考に熟考を重ね、 決して軽挙短慮に出ずべきにあらず。  必ずや種々の方面より影響利害を審査熟察して、 のち大計を定めざるべからず。 青年血気の速断に任じ、  一時流行の浮熱に動かさるるがごときは、 憂国の士のなすべきところにあらざるなり。 しかれども、 今や朝に賢才多く、 野に策士すくなからざれば、 余輩の杞憂のごとき、 畢竟無用の贅言ならんと信ず。 ゆえに余は、  政治の方面につきてはもとより黙々を守る決心なるも、 他の方面において、 いささか立論せんと欲するなり。

 余かつてこれを聞く、 兵力によりて戦うは、  戦いの善なるものにあらず、 戦わずして勝つは、 真の勝ちというべしと。 しかれども、 戦いは人生の免るべからざるものなれば、 古来の諸教のあえて禁ぜざるところなり。 儒教のごとき、 もっぱら仁を勧めて利をいやしむも、 なお義によりて戦うは、 もとよりその許すところなり。 仏教にいたりては慈悲を本とし、 殺生を忌むにかかわらず、 なお護国活民のために戦うは、 その罪せざるところなり。左に、 経文を引きてこれを証せん。

  大薩遮尼乾子経日、 大王当知、 若為護面養活人民、興兵闘戦(中略)、 如是闘者有福無罪。

 (『大薩遮尼乾子経』にいわく、 大王まさに知るべし、 もし国を護し人民を養活するために、 兵を典し闘戦す(中略)、かくのごとく闘う者は福あり罪なし。)

 仏教は慈悲教なり、活人教なり。 ゆえに、活人のために戦うは、その慈悲の本旨にかなうものなり。 今、もし日露の間に干戈をまみゆることあらば、 仏者は進んでこれと戦うべきは当然にして、 仏恩に報ずるゆえんもこのほかにあるべからず。  なんとなれば、 その戦いは国家を護し同胞を養活するものなるはもちろんにして、 そのうえに広くシナ、 朝鮮等幾億の生霊を、 死地より救助する菩薩行なればなり。  これに加うるに、 露国はひとりわが国敵なるのみならず、 仏敵なり。その国たるや政教一致にして、 奉教の自由を許さず、 かつその人民を固結するや、宗教の連鎖をもってし、 その東洋人をみるや、 宗教の仇敵なりというをもってす。 ゆえにその戦いは、 一面においては政治上の戦いにして、 他面においては宗教上の戦いなり。 余、 昨夏露国に遊び、 その宗教の情態を見て大いに驚けり。 市中いたるところ、 巍然たる大堂天をつきて立ち、 金色燦爛人目を奪い去らんとす。 その建築の大、 荘厳の美、 実にイタリア・ローマをしてその後ろに睦若たらしむる勢いあり。 その前を通過せるものは、上王公貴人より下車夫馬丁にいたるまで、 脱帽拝礼せざるはなし。 もし、  その堂内に入らば信者群れを成し、 香を薫じ燭を点じて神前に平伏祈請せるありさまは、 三、  四百年前の欧州宗教の状態を見るがごとき思いをなす。出でて停車場に入れば、 その待合室には、  必ずヤソの偶像を安置し、 休憩人をしてその前に跪座敬礼せしむ。  去りて郵便局を訪えば、 偶像を奉安せることこれに同じ。  一見たちまち人をして、 露国のヤソ教か、ヤソ教の露国かを判ずるに苦しましむ。 けだし、 露国は平素神の力をかりて人民を圧し、  一朝事あるに当たりては、 神旗を掲げて愚民を扇動し、 神のために神敵を征誅すると唱えしむるという。  これ、 あたかも暗世当時の十字軍に異ならず。

 その国たるや、 かかる宗教為本の国なれば、 その日本に対するや、 彼必ず国敵といわずして神敵といわん。 ひとり日本のみならず、  シナに対するも朝鮮に対するも、 彼必ずこれを神敵というならん。 もし、 果たして彼よりわれをみて神敵というならば、 われより彼をみて仏敵といわざるべからず。  彼の軍が神軍ならば、 われの軍は仏軍なるべし。  ここにおいて、  露国はわが国敵となると同時に仏敵なり。  これに反して、  シナ、 朝鮮は同じくこれ東洋人種にして、  かつ同じくモンゴリアン人種なり、  黄金人種なれば、 わが兄弟一族なるうえに、 宗教上においてはもとより同宗同門の関係あり。 ゆえに、  これを救い彼を誅するは、  ひとり国民として尽くすべき義務なるのみならず、 教徒としてつくすべき本分なり。  もし、 露をして東洋を蹂躙せしむるに至らば、  これと同時に仏教地を払うに至るは、 火をみるより明らかなり。 その地を払うは、  ただに東洋にあとを絶つのみならず、 広き地球上において全滅せざるを得ず。 仏者は常に曰く、 万劫にも遇い難き仏法にして、 今これに遇うことを得たるは、  幸の中の幸、 喜の中の喜というにあらずや。  かかる万劫一遇の仏法をして、 むなしく南閻浮洲に永く堙滅せしむるに至らば、 仏者なんの面目ありて仏祖に対し、 なんの名義ありて仏恩に報ずるを得んや。

 わが国の宗派中、  最も多数の信者を有し最も強盛の勢力を有するものは真宗なり。  しかしてその宗祖の遺訓を見るに、 仏恩に報ずるには、 身を粉にして骨を砕きて尽くさざるべからずといえり。  果たしてしからば、 今こそ粉骨砕身の時節到来せりというべけれ。 もしこの時機を失わば、 万劫にも仏恩に報ずる機会なきは明らかなり。余が聞くところによるに、 今より二十年前、 東本願寺の本堂再建の挙あるに当たり、  各国の信徒競いて用材を献納せんと欲し、 越後国中頸城郡のある一村において、 老弱男女ともに深雪をおかして山路に入り、  用材を運搬せる際に、 いわゆる「雪なだれ」なるものありて、 数百の善男善女を一時に深谷の下に埋没し、 たちどころに四十余人を圧死せしめたるも、 その遺族中一人として本山を怨望するものなく、 不幸を悲嘆するものなく、 粉骨砕身の祖訓にこたえ、 仏恩報謝の本分を尽くすを得たりとて、  かえって感喜の涙にむせびたりといえり。  しかしてその物たるや一伽藍にすぎず、 再建は死物なり、  再建は小事のみ。 もしこれを仏敵に対して、 幾億万の同胞を救済するに比すれば、  月鼈、 雲泥もただならざるなり。 伽藍の再建にして竣功することなきも、 決して仏法の滅するにあらず。  これに反し、 もし露国にして東洋を一握するに至らば、 仏法たちどころに滅せざるを得ず。 ゆえに、いやしくも仏教徒たるものは、  一命を賭して日対露のために尽くすところなかるべからず。  これ、 真に仏恩に報ずるゆえんのものにして、 伽藍再建の功徳にまさること幾億万倍なるを知らず。  これに加うるにそのことあるや、  国民として尽くすべき本分なるをや。 今日仏教の依然としてわが国に存するは、 聖徳太子以来歴代の皇室の保護、 皇族の帰依に基づかざるはなし。  この点よりみるも、 仏者は仏恩のため、 皇恩のために、  死を決して戦うは当然のことなり。

 以上は余が今論ぜんとする点にあらざるも、 世間往々仏教は厭世教にして非戦論なりというを聞き、  ここにそのしからざるゆえんを一言したるのみ。 これより、 余のいわゆる対露策を述ぶべし。  そもそも戦争は変事のものにして、 常事のものにあらず、一時の勢いやむをえざるに出ずるものにして、 永遠に平和を維持するゆえんのものにあらず。 今、 日露問題の期するところは、 永く東洋の平和を維持せんとするにありて、 開戦のごときはこれに達する一時の手段にほかならず。 ゆえに余は、今日の勢い、あるいは開戦のやむをえざることとあるべきを信ずるも、 これと同時に今より、 開戦のほかになお講ずべき問題多々あるべきを信ずるなり。 しかるに世論の風潮は開戦一方に集中し、一も戦争二も戦争と唱えきたり、  ほとんど戦争以外に講ずべき問題あるを忘れおるもののごとし。 開戦問題および開戦以後における政治上の問題のごときは、  世これを講ずる人に乏しからざれば、 余輩の喋々を要せずといえども、 余は対露問題の第一は、 朝鮮、 満州、 蒙古等の人民をして、 その心より日本を景慕し、 日本に帰服するようにせしめざるべからず。 もし、 これに反して日本を怨望しかつ厭忌するにおいては、一時の戦争に勝利を得たりとも、 その結果は「骨折り損のくたびれもうけ」におわらんのみ。 もしこれらの地方人心が、 日本よりはむしろ露に帰向するにおいては、 結局露の所有となるは必然なり。  ここにおいて、 今日の急務は人心を帰服せしむる方法を講ずるにあり。 しかるにわが邦人は、 ただ兵力のみをもって東洋の平和を得たんとする傾向あるは、 余の大いにその意を解するに苦しむところなり。

 余、一昨年十二月インド旅行の際、 河口慧海氏とともにダージリンに遊び、 当所にあるチベット語学校の教師(すなわちチベット人) に面会し、 チベットと日本とはともに仏教国にして、 しかも大乗教を奉ずる国なれば、自今、 日本に限りて交通を許してはいかんとたずねたれば、 その教師の答えに、 チベット内地にあるものは日本国の名を知るも、 その果たして仏教国なるを知るものなし。  ただ日清戦争以来、  日本国は兵力をもってみだりに人の国を奪い取らんとするおそるべき国なりとの評判、  上下一般に伝わりおれば、  かかる国と交通を開きたらば、  己の国もたちどころにその餌食とならんと思い、 深く警戒しおるありさまなり。  ゆえに、 もし日本にしてその仏教国たるゆえんと、 その強奪主義にあらざることを、チベット内地のものに知らしむるに至らば、 交通を開くこと容易なるべしといわれたり。  よって、 余はさらに問いを起こして、  かくのごとく日本の実情を知らしめて誤解を正すには、いかなる方法を取るべきやとたずねたれば、 教師これに答えて、 我が輩のごときものが、一個人として建議してもなんらの効力なかるべければ、 日本よりシナ政府の紹介を経てその旨をチベット政府に伝え、 チベット政府より日本の事情視察のために人を派遣し、 その同一味の仏教国なるを明らかにするを得ば、 必ず交通を開くの運びに至るべしといわれたり。この対話によりて想像するも、 満州、 蒙古地方の人民も、 日本の実情を知らずして、  猛獣のごとき恐るべき国なりと思い、 大いに厭忌しおるに相違なかるべし。 これ、日本にとりて最も不利なるはいうをまたず、 たとい一時の戦争に勝利を占むるも、 東洋の平和は得て望むべからざるなり。

 朝鮮、  満州、 蒙古、 チベットおよびシナ本部の人民は、 人種の点より考うるも、 風教の上よりみるも、 露国より日本に同情を表し好意を寄すべきは必然の勢いなるに、 今日かえってこれに反する傾向あるは、  日本の政略がただ兵カ一方をもって、 東亜を鎮圧せんとするに起因せるがごとし。  ゆえに今日以後は、 わが国がこれらの地方に対して取るべき方針は、  兵力のほかに沿目するところなかるべからず。  これ、  余が対露の一策として論ぜんと欲するところなり。

 シナおよびその周囲の地方は、  儒教および仏教によりて人心を維持しおるは事実なり。  ゆえに、  これらの地方の人心を収攬するには、  またこの二教によらざるべからず。  しかるに、  わが国にはこの二教ともに依然として存し、その進歩発達においては、  その本家本元たるシナ、 インドを超駕し、  世界中この二教を代表すべき国は、  わが日本帝国をほかにして他に求むべからず。  現今のインドは仏教全くあとを絶ち、  その古教たるバラモン教が主として人心を維持しおるをもって、  英国にてこれを統治するには、 決してその本国のヤソ教をもってせずして、かえってバラモン教によりて人心を収攬しおることは、  みな人の知るところなり。  英国いかに兵力に強きも、 その力のみにてインドを統治することあたわず。  兵力は一時の強制のみ、  永遠の政略にあらざること明らかなり。かつ人をして心服せしむるには、 その心に好むところのものをもって迎えざるべからず。 もし、 他より強力のみをもって圧するときには、 人心畏懼するのみにて次第に離反し、 すきに乗じて大破裂をきたすは、  勢いの免るべからざるところなり。

 一昨年、 岡倉〔天心〕、 織田〔得能〕両氏インドに入り、 日本は仏教国にして、 その仏教はバラモン教と一家親戚の関係あることを説き、  東洋宗教の大会を日本に設けんことを唱えたれば、 インド人たちまちこれに賛同し、  有志金もたちどころに集まり、  その額一万円以上に上れりと聞けり。 岡倉、  織田両氏の遊説にして、しかも日本と宗教を異にせるインド人に対してすらも、  なお人心を動かすことかくのごとし。 いわんや同一の仏教を信奉する国民に対するにおいてをや。 宗教上より同情を買い好意を迎うるは、  必ずその効力の著大なること、  兵力の比にあらざるべし。 余が聞くところによるに、シャム国民が大いに日本に同情を寄せおるは、 彼我ともに仏教国なるによるという。  これらの事実によりて考うるも、  シナ周囲の地方において、 人心を露国よりは日本に帰向せしむるは、 儒教および仏教の力によらざるべからざるは明らかなり。 しかるに、 わが邦人が朝野ともに東洋の平和を維持する第一の機関たる儒教、 仏教が、 日本にありながらこれをすてて顧みざるのみならず、  かえって無用視するがごときは、  愚の至りといわざるべからず。  畢尭するに、 日本人は有形の兵力を見る目ありて、 無形の教化を見る力なしといわるるも、これを否定することあたわざるなり。

 儒教、 仏教によりてシナ周囲の人心を引き、 日本に帰向せしむるには、いかなる方法によるべきや。 これ、余が今より述べんと欲するところなり。 余思うに、 その方法多端なるべしといえども、  第一に実行したきは左の三条なり。

(一) 儒教および仏教の大学校を日本帝国内に設くること

 (二) 東洋学会の中心を日本に置き、 その支会を朝鮮、  満州、 蒙古、 チベット等の諸方に設くること

 (三) 仏教大会を日本に開き、 仏教を奉信せる諸国の宗教家を集め、 各所の仏教と気脈を通ずること

 まず、  この三大事業を日本に起こし、  これを東亜の諸邦に知らしむるより始めざるべからず。  これ東亜の人心を収攬し、 東亜の平和を維持する良法にして、 いわゆる戦わずして必勝を期する大算なり。

 先年、 織田得能氏、北京より来遊せるラマ貫主を送りて北京に至り、 ラマ教の本山内に寓居せしかば、 露国公使館より大いに嫌疑を受けたりといえり。 その内情を聞くに、 蒙古はラマ教の最も盛んなる地にして、 人民のこれに固結せること一方ならず。 治朝にてよく蒙古を統轄し得るは、 ラマ教の力による故に、 露国の日本に対して最も恐るる点は、 日本の仏教上よりラマ教に親近し、 蒙古地方と気脈を通ずるに至らんかを危懼するにありといえり。 果たしてしからば、 露国のわれを恐るるは、 兵力よりも仏教にあること、  この一例に考えて想像し得らるるなり。 このラマ教は蒙古のみならず、 満州地方にも蔓延し、  人心のこれに帰依せるはシナ本部の比にあらず。しかしてその教は日本と同じく大乗仏教にして、 わが真言宗と全くその流派を同じくす。 チベットのラマ教もまたしかり。 ただ、 チべットラマと蒙古ラマとの相違は、 新旧の別あるのみ。  ゆえに、 日本がこれらの地方において人心を得んと欲すれば、 まず仏教の力をからざるべからざるはなし。 チベットはわが国より大いに懸隔せるも、 他日日本が永く東洋の覇主となりて、 アジアを経綸せんと欲せば、 チベットにその位置を定めざるべからず。 けだし、チベットの地勢たるやアジア全州に君臨すべき位置にして、 天然の世界的鎮台なり。 もし露国をしてチベットを占領せしむれば、 アジアは露の掌中に帰すべく、 英国をしてチベットを併合せしむれば、 東洋挙げて英の嚢中に入るべし。  かかる有望の地たる以上は、 日本において今よりこれと交通を開き、 気脈を通じ、 人心を迎うるは、一大急務なること明らかなり。 しかして、 チベットをしてかくのごとくならしむるは、 仏教の力によらざるべからざるや、 また論をまたずして知るべし。これらの目的を達するの第一着手は、 日本帝国において仏教の大会を開き、 チベット、 蒙古、 満州の諸邦より仏教代表者を派遣せしめ、 わが国の仏教国たることを知らしむるにあり。 近ごろ大菩提会において、 日暹寺創立の挙ありと聞く。 余はもとより日暹寺創立の今日の美挙なるを知るも、 目下の形勢に徴するに、 これよりなお急要なるものありと信ず。  すなわち日暹寺よりは、  日韓寺、日満寺、 日蒙寺を創立する必要あり。  そは別問題とするも、 日暹寺創立にさきだちて、 各宗本山互いに協同して東洋における仏教大会を開き、 その余力として日暹寺を創立するは、 目下の急要に応ずる順序ならんと信ずるなり。 仏教家にして、 もし眼を東洋の大勢に注ぐものあらば、 必ず余とその所見を同じくすべきを知る。

 東洋学なかんずく東亜の学問は、  日本に集中せるにかかわらず、 東洋学の全権は西洋諸国に占有せられ、 万国東洋学会のごときも、 いまだ一回も日本に開くことを得ずして、 毎度西洋の開会に陪列随伴するに過ぎざるは、実に恥ずべきことなり。  これ、 日本が西洋学に心酔して、 自国固有の学問を忘れたるの罪にして、 自業自得というよりほかなし。 しかれども、 今より東洋経綸策を講ずるには、 まずかくのごとき学会を日本に設けざるべからず。  かくして日本の真価を東洋諸方に知らしむるは、 今日の急務なること多言を要せざるなり。 これと同時に儒教および仏教の大学校を設置するは、 また今日の急務なり。  シナ人の儒教に固結し孔子を崇拝せることは、 古今に通じて変わることなし。  されば、 この人心を引くには、 儒教によらざるべからざるや論をまたず。  ゆえに余は、 日本に儒教大学校を開きて、 日本の古典を研究すると同時に儒教の淵源を明らかにし、 もってわが国をして文明世界における儒学の中心とならしむるは、  シナ四百余州の人心を引くに、  これよりさきなるはなしと考うるなり。 もし儒教を興さんとするには、 まず漢学を盛んにせざるべからず。 しかるに近来、 漢学廃止、 漢学排斥の風潮あるは、 西洋心酔の迷夢いまださめざるによるというよりほかなし。  シナの運命は、 将来いかになりゆくかは予定し難しといえども、 その幾億万の国民が漢字を廃し漢学を絶つは、 今より得て望むべからず。 ゆえに、 日本がシナに対して、 欧米諸国よりも最大の便宜を有するは、 全く漢字と漢学とを有するによる。 将来日本人がシナ人に親近し、  シナ国に入りて利益を占むる見込みあるも、 またこの一事を除きてほかにあるべからず。  日本国は国小にして人多きに過ぐるをもって、 わが国民の将来活動すべきは米国とシナあるのみ。  しかして、  米国は万事われよりはるかに長ぜる国なれば、 日本人のかの地に渡航して事を成すはすこぶる困難にして、 ただ下等の労働者となりて、  買銀を得るにとどまる。  しかるにシナは文明の程度において、 われより下府にあるものなれば、他日その国の開放ありたる暁には、  わが国民ここに入りて、 万事の先導者となり指揮者となることは、  はなはだ容易なることなり。 もし、 この目的に向かって準備せんと欲すれば、 今より漢字漢学に心を用いざるべからず。この点より考うるも、 儒教大学校を設立する必要あるを知るべし。

 仏教大学の必要は、 前に述べたるところによりて大略を了解し得べしといえども、 さらに一言を付すれば、 東洋の多くは仏教国なるにかかわらず、 いまだ世界に対して仏教大学と公称すべきものあるを見ず。  ゆえに、 もし日本にこの大学を設立するに至らば、  インドよりもネパールよりも、 チベット、 蒙古、 朝鮮よりも、 留学生をここに引き付くることは、 決して難事にあらざるべし。 もし、  このことにして成功したる暁には、  これを内にして仏教各宗を統一すべく、  これを外にして東洋の仏教を連合せしむべし。  これと同時にシナ周囲の諸邦をして、 日本に同情を寄せ好意を通ぜしむるに至るは必然の勢いにして、 東洋経綸において大いに益するところあるは、 前述の理由に照らして明らかなり。

 以上大略、 余が対露策における意見を開陳しおわれり。 かく論ずるも、 余決して非戦論者にあらざるなり。 露の南侵策に対しては、 兵力をもってこれを遮塞するのやむをえざることあるべきを知るも、 兵力のみをもって束亜の平和を維持することあたわざるを主唱するものなり。 余、 ひそかにわが目下の時論を傍観するに、 万事みな兵力によるべきがごとく論ずるものあるを知り、 余はかかる兵力万能論に対して、  いささか微衷を吐露し、 もってその論者の反省を諮わんと欲するなり。

 



   三四 洋行雑話


(〔明治三十六年〕八月五日、 館主博士歓迎会の席上、 談話の大要を筆し記したるもの)

 ◎昨年十一月十五日横浜を抜錨して、 爾来およそ八カ月欧米各国を巡遊し、この年七月十一日に、 米国シアトル出帆の汽船に搭乗して帰国したのはつい一週間ばかりあとのことであった。  当時海上はほとんど冬衣で、 船室は絶えず蒸気で温められてあったくらいなのが、 横浜に上陸してこの方、  ことに昨今のたえ難き暑気は、 自分の尩弱なるためでもあろうが、 脳もどうやら蒸発してしまったように党ゆる。 しかし、 また寒くなったらかたまりましょうから、 まとまった話はその時分までお待ちを顕いたい。  で、 今日は欧米の話をせよとのことであるから、 思い出のまま、 少しお話ししてみたいと思う。

 出発以来ほとんど一カ月で、 はじめてインド・カルカッタに沼いた。 さて小国に生まれた悲しさ、 ヒマラヤは世界第一の高山と聞けば、 船の中にあるときからもう見えそうなものと、 いくら思っても無駄であったが、 それもそのはず、 後にわざわざヒマラヤ見物に出かけて、  二日目にようやく見えるのであった。  かえすがえすも小国に生まれた悲しさよ。

 ここで船中での話を一つしましょう。いったい西洋人は「かけごと」が好きだ。  今日は船はどこまで行くの、 何里走るのと、 かけるのである。 これらはまだよいとして、 ここにはなはだしいものがある。  カルカッタはもと河流をさかのぼること百マイルの地にあり、 舟行すこぶる危険なるをもっ て、「水先き案内」を雇うこと例なるが、 さてこの「水先き案内」は、 どこからどこまでというふうにそれぞれ受け持ちがあって、 幾百とおるのであるが、船の人々は、 このつぎに来る案内者の名前の頭字はなんであるかをかけるのである。 まず、 例えばみなが一円ずつをかけてクジをひく。  これにはABC等の文字がある。 そこで、 よくありそうな名前の頭字を引き当てるものと、 しからざるものとある。  で一人が、  お前のを五円で譲ってくれないかといいかける。 ほかの者は十円でという。  ここにセリが始まるのである。  こんなばかげた風が日本にないのは、  はなはだ喜ばしく思う。

 さてカルカッタに培いたとき、 上等船客で上陸するものは私一人しかなかった。 実は、 なれた人は一日前に上陸して、  カルカッタまで汽車でいったのである。 とにかく、 私一人のために十艘くらいのハシケがやって来た。  で、 上陸するものが私一人と見るや、 彼らはみんな私の乗ったハシケに乗り移っ て、 たった二つの鞄を大勢して相持ちにして陸に上がって、 やがて銘々、 賃をむさぼるのである。 なんと、  インド人の風儀が推し測らるるではありませんか。 ついでにお話ししますが、  インドでは郵便を出だすに、 差し出し人がまずもって一度、  郵便切手の消印をすることになっておることである。 さもなくば、  配達夫はおろか郵便局のお役人さえ、 その切手を盗み取らんとも限らぬとのことである。 ちょっとこれらのことを思い合わせてみても、 将来の独立などとは到底見込みのないことと思う。

 私が河口〔慧海〕氏に会ったのは、このカルカッタに着いて、大宮〔孝潤〕君(哲学館出身者)の宅で図らずも出会ったのである。 その晩「甲谷他哲学館同窓会」を開いたことは、 たしか前に通信したことと思う。  とまれ、余のヒマラヤ見物も、 またダージリンで両三日間のチベット生活をしてみたことも、  みな河口氏の案内と紹介を煩わしたのである。

 仏跡の参詣にとてガヤに向かったときにも河口氏と一緒であった。  このときカルカッタから九時発の汽車で参るつもりのが、 デリー戴冠式のために車中に一つも空席なく、 ために十一時発の汽車を待ったが、  またも乗りはぐれんとした。  このとき停車場まで送って来てくれられた大宮君が、  この汽車に乗れずば今日中にはまたとないはずだというので、 なんでもかかりの役人に少し握らしたのらしい。  おかげてやっと乗車することを得た。 いったいむこうでは、  このようなことは尋常のこととなっておるらしい。 日本などでは思いも寄らぬことである。

 翌日の午後二時 バンキポールに着し、  この駅にて不思議にも一人の日本人に出会った。 思えば今は故人となられた藤井宣正氏である。 当夜七時発の汽車で、 ともにともにガヤに至り、 ここにて大谷光端上人の一行に謁することを得た。 またしても不思議の縁である。 翌日は上人に随伴して、 つつがなくブッダガヤーに参詣することを得た。

 かくてインドにあること二十日ばかり、一月は早々ボンベイを発して、 二十四日というにロンドンに着した。ロンドンは前に長くおったことがあるので、  今度は少し民間の風習や教育、 宗教やについて視察しようと思うところから、 間もなくロンドンをさる北方二百マイル、 リーズ市近在の一寒村バルレー村に移ることとした。リーズ地方はご承知のごとく最も工業の盛んな地で、  バルレー村のごときもためにほとんど貧家を見いださぬ。この近辺の樹木はみんな煤煙にけがされて、  一目殺風景を感ずるが、 なんぞ知らん、  これやがて一方に富の度を示すものであろうとは。 

 バルレー村に滞在中は毎日のように方々を巡回し、 学校もずいぶん参観した。  この辺りは日本人の行ったことのないのとみえて、 ときに幾千の生徒の見世物になるのである。  一日、  この近在に設備の完全をもって称せらるる一小学校を訪うた。 実に驚いたものである。 衛生上の注意からなにからなにまで、 聞いたより行き届いておった。 あるいは空気を潤し、 または乾かすことさえできる大仕掛けがある。 しかしてその学校は無月謝である、貧民の学校である。  私は、 貧民のためにはあまりに過ぎた設備ではないかと問うことを禁じ得なかった。 ところが貧民の子供なればこそ、 せめて学校の中だけでも、 よき空気を吸わせてやりたいとの趣意に出でたものであるとのことであった。  ついでにいうが、 かの国の小学校ではどこといわず、 貧民の子供も決して鼻を垂らしておらぬことである。  日本では二本垂らすのが当たり前のようであるがと、 つくづく思った。

 なお一つここにいうべきは、 生徒中はなはだ覚えのあしきもののためには、  別に学校を設けてていねいに教授しておったことである。  これは大いに感心すべきことであると思った。

 その後アイルランドに移った。  アイルランドにおいて市街の最大なるものはダブリンで、これに次ぐものはベルファストである。 余ははじめにベルファストにおった。

 この地の学校には、  国立大学のほかに二コの宗教大学がある。 余は大学はもちろん、 市内の名ある学校はたいてい参観した。  ずいぶん不完全なのもあったが、 しかし、 もとより完全なものもある。 なかんずく、 ある財産家が百何十万の大金を投じて成った中学のごときは、 その建築の広壮なる、 優に大学をしのぐの勢いあり。 生徒には寄宿生と通学生とあれども、  この校の規則として、  通学生といえども必ず昼食料を納めて、  昼だけは学校の食堂において、 数十の教員と数百の生徒一同、 卓を同じくして喫飯するものであるということである。  私は校長の案内で、 その食事のありさまを傍観しましたが、  これはなかなかおもしろいやり方だと感じました。

 それからダプリンヘ参りましても、 各大学はもちろん男女の中学校から幼稚園まで、 たいてい参観しました。 学校参観に関する所感等も、 今いちいち申すいとまがありませんが、 ここにある日アレキサンドラという有名な高等女学校に至り、 刺を通じましたところが、 暫時応接所に待っておってくれということであったが、  そのうちに十二、  三の女子が出でて来て、日本語をもって余に応接した。 私ははなはだ不審に思ってたずねましたところが、 自分は横浜で生育したもので、 今は教育のために故国に送られて、 姉妹して同校に勉学しておるとのことであった。  とまれ、  日本人の一人も住せざるダブリンの地で、 日本語の通訳官を得たのは意外であった。

 前にもちょっと申したが、 英国の学校にはもとより完全なのはあるが、 また不完全なのもないことはない。これは全く英国の教育が、  その他の制度と同じく、  人民の自由に任せてある故である。 もちろん視学官はときどき巡視する。 しかるに、  断じて学校をいじめるためではなくて、 成績のいかんに応じて、 相当の保護金を与えてあるくのである。  思うに英国教育制度の長所は、  この辺りに存するのであろう。

 四月のはじめに、  アイルランドから再びウェールズに向かうことにした。  ここでも毎日所々をかけめぐること例のごとくであったが、 いちばん感じたのは言葉の全く違っておることで、  中等以下の家庭のごときは、 もっばらブリテン語すなわちウェールズ語が行われておるのである。  で教会のごときは、  このウェールズ語とおよび英語との二とおりの語によりて、  説教をするような仕組みにさえなっておるのである。

 英国漫遊中には、 なおお話ししたいことははなはだ多い。 まず普通に、  英国人は世界中の最大国民であるという。  私ももちろんそう感じた。 しかし、 それは決して英国全体のことではなくて、 その一部分であることを注意したい。 だれも知るごとく、イングランドとアイルランドとは全くその風俗人情を異にしておって、  アイルランド人のごときは話のたびごとに、 きっとイングランド人を悪口せではやまぬ。 私は一度アイルランドのある貴婦人から、 昨年ボーアとイングランドとの戦争の当時、 日本はいずれに同情せしやと問われたので、 とりあえず、 むろんイングランドにといって、 大いにおしかりを受けたことがあった。 ウェールズとても同様で、  イングランドとは同じ土地の上にありながら、 その人情気風が合わぬ。  第一、 宗教を別にしている。  それはなに故と問わば、 ウェールズ人自身も答うるのことばを持たぬ。 畢竟は、 同じ宗旨を奉じたくないというような我慢に過ぎぬのである。 しかして、スコットランドもまた他とその気風を異にし、  かくて銘々その風習を固く守って、 互いに相排し合っておるありさまである。

 それで私の申しましょうとするのは、 英国は世界の最大国民であるというが、 その本国の英国は英国全体を指すのではなくて、 その一小部イングランド人、 特にその北部にあるものを指すのであるということである。 この点、 大いに注意を願いたいと思う。 まず、 仮に日本全体と英国全体とを比ぶれば、 日本の方がいうまでもなくやや大きいのである。 まして英国の一小部イングランドに比して、 幾倍の国であることは明らかである。 してみると、わが日本人もまた、よく世界の最大国民となり得ぬ道理はないと私は考える。「あたわざるにあらず、 さざるなり」とは、  この辺りの消息を漏らしたものではあるまいか。

 ともあれ、  私がさきに特にバルレーの寒村を選んで、  いささか民情の視察に従事したゆえんのもの、 またここに見るところがあった故である。

 終わりに、  アイルランド人の気風についても少し申したい。 前にアイルランド人とイングランド人とは全くその気風を異にしておるといったが、 実にそのとおりで、  アイルランド人にはまずイングランド人のごとき堅忍不撓の気力がない。  要するに惰弱不規律である。 そしてその結果いかんというに、 もとより他の原因もあるにもせよ、貧民の多きことがまずもって目につくのである。 私はこの堅忍不屈の気象を欠くといい、ことに規律を守らざる風のあるというところから、 悲しいかな、 わが邦人に思い及ぶを禁じ得ぬ。 どう見ても日本人は、  イングランド人よりもアイルランド人に似ておるようである。  しかるに今も申したように、  私はアイルランドの村落貧民の状況を見ては、  多々益々わが日本の将来を思い浮かべて、 惆然として嗟嘆すべきものあるを覚えたのである。

 なお私は、 大陸にてはオランダ、ベルギー、 ドイツ、ロシア、スイス、 フランスを歴遊し、  アメリカを経て帰朝したことでありますが、 それらのことは、 また他日お話しする機会があることと存じます。




   三五  欧州所感


 私は昨年十一月から、インドをはじめとして、 欧米各国を巡回いたしまして、 本年七月中にこちらへ帰りました。  その巡回の日数は、 八カ月半ばかりになります。 しかしその巡回しました国々は、九カ国ほどでございますが、一カ国としてはだいたいの日数はおよそ半月ないし一カ月くらいなもので、 そういう短歳月の間の巡回でございましたから、 もとより十分の視察を遂げるわけには参りません。 しかしながら今より十六年前に、 欧米各国を巡遊したことがございますから、 今度は先年の復習同様なわけで、 歳月の短いわりには、 いくらかみることができたであろうとおもう。 そこで、 本日お話しするというのは、 はじめ私が漫遊しました十五、 六年前と今日とが、 どれだけ違っておるか、  私の目に触れたところの違いめだけを話して、 それから進んで、  その原因いずれにあるというところまで話そうと思う。 わが日本も近来一年増しに盛んになり、  かわってまいりましたが、 西洋各国は、 もう一層その進み方が早いように思う。 西洋各国は、  すでに今日まで十分進んでおるから、  このうえさらに進むということはむずかしいように考えましたが、 実際行って見ると、  この近い十五、 六年間の変わりようは著しいように思う。

 その一例を挙げてみましょうなら、 まずロンドンについてお話ししますと、ロンドンは先年私が参りましたときも、 世界一の都会であったが、 今度いってみますると今一層盛んなもので、 人口の上で申しますると、 先年は四百万ということであったが、 ただ今の人口は七百万ということであります。この東京は百五十万の人口とすると、 ざっとその五倍である。 そうして市街の大きくなった所は、  この前に市街の外といわれておった所が、今では市街の内になっておる。 ただ今じゃロンドンの市街にはてがないということであります。 私がロンドンの公使館へ行っていろいろ話をしてみましたが、 公使が話をせらるるには、 ロンドンはあまり大きくなったので、 日曜などに散歩に出かけても、 市街の外へ出てみることができない。 あちらには人力がないから、 馬車を雇って遊びに出ずるに、 市街の外まで行くことができない。市街の外へ行くまでに馬が疲れてしまう。 どこまでいってもまだロンドン、 ロンドン市街に果てがないというくらいであります。

 それからパリあるいはベルリンなどへ行っても、 先年よりはずっと変わっておる。 ベルリンなどは、 大きくなったばかりでない、 たいへん立派になっておる。  アメリカではニューヨークでありますが、 先年よりはいったいにアメリカは発達しておるが、  なかんずくニューヨークなどは、 先年よりほとんど三倍くらいは大きくなっておることを認めました。 先年ニューヨークには、 高い家というものはわずかに一つ二つできておった。 そのときには十八階というのがいちばん高かった。 東京では浅草の十二階がいちばん高いが、ニューヨークにはそのころ十八階が一つ二つあった。 今では二十階や二十五階どころでない、 いちばん邸いのが三十二階というのができた。それはどういうわけかというと、  ニューヨークは非常に地面の価が高い。 私も念のために、 地面の価はいちばん高い所でどのくらいなものかと問いたら、 まず一坪三千円から五千円する。 それ故、 もう一坪なんということはあまりいわん、  一寸四方いくらというくらいである。  土地の価がそういうように高いから、 家を横に広く長くすることは容易にできんから、 むやみに高くするということになる。 今じゃ二十階以上の家は、  いたるところにいくらあるかわからん。 最初私は考えるに、 日本などはまだ新しい文明国であるから、 五年十年の間に著しいことがあろうが、 西洋諸国のような十分発達した国なんぞは、 そう変化はあるまいと思ったら、 もうこの十五、 六年において、 そのとおり発達しておるには驚きました。 私はあちらへ参って、 米国はいかにも金の多い国であるという感覚を起こしました。 どこへ行っても、 金の光が現れております。  かかる繁華の所を見ては、 金がみちあふれておるであろうという考えが起こります。

 私はイギリスにおる間は、 スコットランドの方へ参りました。 このスコットランドの北の方へ参りますと、 海に鉄橋の架かった所があります。  これはなかなか大きいもので、 世界第一の鉄橋だそうです。  その建設費が三千万円かかったということである。 その鉄橋が田舎であるが、 田舎の鉄橋でさえそれくらい金をかけてあるところをもっても、 金がたくさんあるということがわかる。 その金のたくさんあるというについて、 われわれは一つ考えておかにゃならんことがある。 どうして、 そう金が多くなったかというに、 西洋各国どこへいっても一目してわかるが、  その金がどうしてできるかということは、 われわれの研究すべきことであろうと思う。

 紀元二百年、 三百年の昔、これらの国に金がたくさんあったかというに、決してそうでない。いかにも貧国であった。 ドイツなんぞが盛んになったのは、 二十年か三十年この方である。  それが今行って見ると、 非常に盛んなものである。  今一つ盛んな一例をお話ししましょうか。  イギリスのリバプールという港からアメリカヘ大西洋を航海する所において、 非常に大きい船を造って競争しておる。 しかも、 でき得るだけの速力をもって競争しておる。 この航海などは先年から見ると、 まるきりかわりておる。  アメリカ航路が開けてきましたから、  郵船会社なぞではずいぶん大きな船を造っておる。  わが日本の大きな船はどんな船かといったら、 六千四百トン、 これは欧州航路に用いてある。 それがいちばん日本で大きい。 ところが、 今大西洋を航海する船というものは、 たいていまあ一万トン以上である。 それから、その中でごく大きな船が二万トン以上、 私の乗りました船なぞは、  二万一千トン。  二万一千トンというような、 まあすばらしいもので、  長さが百二十間、 幅が十八間ある。 そういう船をもって競争しておる。 その大きな会社が二つある。 小さいのはたくさんあろうが、・・・・一つはキョーナルド、一つはホワイトスターというのでありますが、 船の速いことはキョーナルド、 船の大きいことはホワイトスターである。  それで、 互いにいい分がおもしろい。 キョーナルドの方は、 船が小さいが足は速いといっておる。  ホワイトスターの方は、  足は遅くても船体が大きいといって、 競争しておるそうである。

 それからドイツヘ行くとどうかというに、 ドイツのは大きくてそうして速い。 そこで、  イギリスでもドイツに負けちゃならん、 船でドイツに負けるのはいかにも残念であるというので、 今組織中だそうですが、 その船は聞くところが、 大きさもいちばん、 速さもいちばんだということです。 そんな船をもっておったとても間に合うものでないが、これは国力を示すものであるから、 国のためにやらにゃならんということであるそうだが、そういう競争の一例を挙げましたのは、 かの国に金がたくさんあるということがわかる。 もう一つお話しすると、 アメリカはたいへん汽車が発達した所で、よく整頓しておる。 先年よりは今度参って見ると、 食堂、 寝台のついた汽車はむろん、  これは日本の汽車にもついておるくらいであるから珍しくないが、 汽車の中に新聞室もあれば、 床屋もあれば、 料理屋もある。 日本でも中等以上の金満家になると、 自分に抱え車をおいておる。  ずっと金満家になると、 日本じゃ抱え馬車がある。  アメリカヘ行くと金満家はなんといってよいか・・・抱え汽車というものを持っておる。 自分の乗る汽車の箱だけ自分で持っておる。 その中には入浴場もあれば、 寝床の休む所から、 なんでもそなわった箱を持っておるそうである。 自分が出かけるときにゃそれに乗って、 帰ってくると会社へ預けておくということでありますが、 それはとにかく、 そういう例から考えてみると、 西洋各国がいかに金に富んでおるかということがわかる。  それについて、  私はどうしてそういうふうに、  金がたくさんになったかということを考えてみにゃなるまいと思う。  それには種々ある。  一とおりや二とおりでない。

 第一、 西洋各国の人種は質素倹約の国民である。 その中でもドイツ人がいちばん倹約である。 ドイツ人の倹約は実に想像外である。  一例を挙げていうと、  私がドイツのある地方を旅行した途中で、 時間の都合で待たされた。  それが晩の七時半であったから、  みな下りて晩食をするものであるから、 私も下りて見ておった。 なにを食べるかとおもったら、 晩食はビールをコップに一杯、  パン一切れ、 銅貨一文でビール一杯、 銅貨半文でパン一切れ、 それに塩をつけて食べるのであるから、  塩はただパンに塩をつけて、ビール一杯飲んで、 それで晩食をすましておる。 ドイツ人などはそういうふうに倹約しておるが、 日本人ではそうはゆかん。  また、 フランス人なんというと、  こちらから考えると非常にぜいたくなように思うが、  その実非常な倹約をしておる。 フランスで金を使うのは外国人で、  土地の人は決しておごらん。 人民の質素倹約ということは、 到底日本人などの及ぶところでない。  これが金のできる原因で、 もう一つは耐忍力である。 なにをやってもあちらの人は辛抱が強い。 ことにイギリスなどは、  世界各国に領分や植民地や新開地を持っておる。  そうしてわずか数十年の間に立派な国を開いて、暑くてもかまわず、 寒くてもかまわず、 赤道直下であろうが、  北極近い所であろうがかまわずして、 勉強と忍耐とをもって国を富ますというのが、 西洋各国人の性質であります。

 もう一つは、 人間が正直であろうか不正直であろうかというに、 人間が正直で信用がある。一例を挙げると、先年私が参りました際は、 いずれの汽車でも手荷物の合い札を渡したのであるが、 今度行って見ますると、 先年より人口が多くなって繁昌になったから、 もっと厳重にするかと思ったらそうでない。  手荷物の合い札なんぞは廃してしまった。 どこへ行ってもかまわん、 着いた所で荷物をならべる。  どれでも自分のものはお取りなさいという。 それでも間違いはないというのである。  この合い札をやめてから何年にもなるが、 いまだ一遍も間違いのあったことはないそうである。 日本でそういうことでもしたら、 もう、  すぐ取られてしまう。 日本のようにすりなんどということはない。 あるかもしらんが、 取られたということを聞かない。 婦人などが、 時計をこうちょっと引っ掛けておるが、 日本などではすぐ取られるが、 あちらではそんなことしておっても、  取られたということは聞かない。 そういう金でなくて、 自分の労力で自分が勉強してもうけた金が、 真実の金だというので、 正直に働くということが、 西洋人の特色である。

 そのほか知慮という点から考えても、 あちらの人は日本人のように無謀なことはない。  ずいぶんロンドンなどになると、 世界にないような貧民がおる。 東ロンドンなどは実に貧民の巣窟であるが、わが国の人が西洋だってこういう貧民があるというが、ロンドンの貧民はイギリス人じゃない。 ロンドンは世界の都で、 五大州から種々の国々の人が集まって、 各国の悪漢者で、 あるいは人殺しだとかばくちをうつとかいうような悪漢者が集まって、いわゆる「類をもって集まる」で、東の方に集まっておる。その中へ行って見ると、イタリア人もおればドイツ人もおるというように、 各国人の寄り集まりである。 それをもって、イギリスは貧乏大尽だということはできない。 また、  イギリスの田舎へ行って北部のごく田舎へ行って見ると、ごく貧乏人というものはない。 この中のいちばんの貧乏人を見たいからといって、 わざわざ紹介人を得ていって見ましたが、  この田舎のごくごくの貧乏人はどうかというと、 毎月十円ずつの積み金をして子供の資産にしておく。  また、 生命保険に入っておる。  そのうえ、 臨時〔に〕子供の病気などに使うために用意しておる。  実に驚いたものだ。  これが、 あちらのいちばん貧乏人である。

 日本人などはどうかというと、 よほど上等の方である。 また、 妻を迎えるといっても、 日本の人のようにあてどもないようなことはしない。  妻を迎えると自然子供ができる。 子供があればどうしたらよろしいということはわかっておる。 多少の貯蓄をした後に、 妻を迎えるということだ。  日本のはそうじゃない。 妻があろうが子があろうがかまわんであるから、 あちらでは貯蓄ということは非常に盛んに行われておる。 そういうように用心深い国民である。  これらの性質が原因となって、 欧米諸国は兵も強く国も富むという結果を現しておるということは、  争われん事実である。 それから、 西洋人は天然にそういう性質をもってきておるか、 あるいは生まれてから後そういうふうに発達したのかと、  こういう点も研究してみたいが、 私の考えでは、 なにも西洋の白人種に限って、  そういう性質が天然にそなわっておるというわけではあるまいとおもいます。 白人種に多くそういう性質が発達しておるというのは、 永い間教育薫陶のよろしきを得た結果である。

 その教育薫陶はどういうふうになったかというに、 ここが今日、 私がお話ししておきたいとおもうところであります。 それはどういうところかというに、一つに学校教育がそういうふうに、 ぐあいよく教え込んだのであろうと思われるであろうが、そうでない。 学校教育は、 今日ではわが国もよほど進んでおるから、 彼には負けない。ただ西洋の方は早く普通教育が発達したが、 日本の方は遅かった。 遅速の差はあるが、 今日となってみると、 ほとんど同等なところまで進んでおると思う。 しからば、 学校以外にどういう教育があって、 国民の性質を薫陶し養成しきたったかというと、 あちらにはこの宗教の教育というものがある。 まず、 あちらでは子供が学校へ出ないまでの教育、 学校を出た後の教育、 いずれもみな宗教の教育である。 人間は生まれるから死ぬまで教育を受けにゃならんが、わが国じゃ学校教育ばかりであるから、  学校をやめたらもう教育を受けるということはない。 尋常小学四年〔をおえて〕しまえば、 それで五十年でも七十年でも、 教育なしに生涯やり通す人がある。 西洋人は生まれるから死ぬるまで、 五十年でも百年でも教育を受けておる。  そりゃ、 だれにおただしになってもわかる。 そういうと、 また一方でいうには、 西洋はヤソ教のおかげであるというが、 そのヤソ教はどういうことを教えておるかというに、  その教え方は、  別にわが国で教うるのと変わりはない。  人間は勉強が大事である、 辛抱が大切である、  世を救い人をいたわるということが大事であると、 毎日寺院で教会を開いて、 われわれの修むべきことを教えておる。 そのくらいのことは、 なにもヤソ教に限ったことはない。  これは仏教でも、 神教でも、 儒教でも、 いやしくも教といわるるほどのものは、  みな説かんものはない。 西洋は、 あるいはヤソ教のおかげでもあろうが、 なにも人は正直にせにゃならん、 勉強せにゃならんということは、 決してヤソ教の特殊のおかげとして見るところじゃない。  わが国でも今日まで伝わっておる教えが、 西洋のごく一般人民の教育を引き受けて、 毎週一遍なり二遍なり、 いわゆる老若男女を集めて、 ヤソ教のごとく教育をいたしたならば、 ずいぶん立派な国民をつくり出だすことができるであろうと思う。

 わが日本も西洋の文明を入れてきたから、 だんだん文物が進んだようだが、  まだどうもすべてのことが規模が狭い。 それを大きくするというには金がない。 金のないのは、 今日その辛抱と勉強というものがないからである。  それくらいな理屈はだれでもわかっておる。 それはどこで教えるかというと、 尋常小学でも教える。 三年か四年かかって卒業する。 修身道徳の道も教えられ、 教育のお勅語も授けられてあるけれども、  この卒業してしまうと、 道徳の道の字もないようになる。 それが西洋人はどうかというと、 学校を卒業すればその後は寺があって、 倫理道徳の道を説き、 それが一遍や二遍でない。 毎週毎週に教えるのであるから、 それが重なって、いかにも辛抱は強く勉強はつよく、 これが一家にしては家が盛んになり、 一国にしては国が盛んになる。 してみると、この学校以外に修身道徳の教えをしくということは大切である。  わが国では幸いに昔から仏教の上には、 いかなる片田舎でもそれぞれ寺がある。  この教えをしくには、  すでに設備ができておる。 西洋も同じように修身道徳を教え込むところの設備だけはできておるが、 しかしながらその実あがっておらぬ。 これからわが国の将来は寺院を教育にあてて、 学校卒業の後は、 毎週日曜にでも、 互いに誘い合わせて寺院に集まり、 そうして今日われわれ人間としての心得べき道徳上の訓戒を授ける。  それではじめてわが国も、 西洋の文明国と同等の地位に立つことができるであろうと思います。

 それで、 私が今日西洋土産としてお話ししたのはそれまででありますが、  これも一層くわしくお話しするには、 到底一席の演説では十分できませんが、 他日またお話しすることとして、  今日はほかにも演説をせらるる方もありましょうから、 私はこれまでといたしましょう。





   三六 日本の特性を論ず


 諺に「所かわれば品かわる」とあるがごとく、 国異なれば、  おのおのその特性を異にするものなり。 西洋には西洋の特性ありて、 東洋には東洋の特性あり、 英国には英国の特性ありて、 露国には露国の特性あり。  かくしてわが日本には日本の特性ありて、 英にも異なり露にも異なるところあり。 しかして、 その特性に長所と短所とあり。 今、 余は日本の特性の短所のみを挙げて、 長所を略せんとす。  なんとなれば、 短所を知りてこれを補う方法を講ずれば、 その特性を完全にすることを得べければなり。

 日本の特性の短所を一言にて指摘するときは、  左の数〔文〕字の形容詞をもって表示するを得べし。

  狭小 短急 浅近 薄弱

 なかんずく、「小」の一字をもって特性中の特性を表し得ると考うるなり。 ゆえに、 余はまず左の数句を提唱して、 ようやくその次第を陳せんと欲す。

 

    地小、  山また小

    屋小、 室また小

 日本

   国小、  人また小

    身小、 心また小

 まず外界の事情より述ぶるに、  わが日本の国土は島国にして小国なり。  その諸島を総括すれば延長数千里に及ぶも、 幅員はいたって狭小なり。 したがってその国内に立つところの山はみな小にして低く、 走るところの川はみな小にして急なり。  湖水も平原もまた、 みな小にして狭し。 田畑も狭小なり、 市街も狭小なり、 道路も公園も家屋も居室もすべて狭小なり。 野外に生ずるものを見るに、 米粒もその形小にして、 りんごも小なり、 野菜、ねぎのごときも西洋種に及ばず。 ただし、 茄子、 大根のごときは例外とすべし。  風景にいたっては、 美はすなわち美なりといえども、  人工的庭園のごとき風致ありて、  すべて小景なり。 家屋、 居室すでに小なれば、 室内の器具またみな小なり。 茶碗のごとき、 酒杯のごとき、 水差しのごとき、  てぬぐいのごとき、 机のごとき、 枕のごとき、  すべてみな小なり。 ただ風呂桶は、 日本の方大なるがごとし。 包丁も日本の方たしかに大なり。  この一、二を除き、 その他はみな小なり。  ひとり文字の形にいたりては、 日本字は西洋字より著しく大なり。 そのほか大なるものにて西洋人に誇るに足るべきものは、  奈良の大仏あるのみ。

 つぎに人界を観察するに、 日本人のごとき体格の小にして発育のあしきものは、 世界中にすくなかるべし。  体軀小なれば手足も小なり、 胃腸、 心肺のごときもまた必ず小ならん。  これに準じて精神の方もまた小なり。  ゆえに、 余は日本を分解して左のごとく示さんとす。

     人体は小にして短

 日本人

    性質は小にして急

 故をもって、その嗜好するものも賞玩するものも想像するものも、 またみな小なり。 例えば、 美術のごときも、 絵画はその形小にして、 その景また小なり、 音楽はその器小にしてその声また小なり、 茶室のごとき盆栽のごとき、一つとして小ならざるはなし。 日本の名花として一般に愛賞する桜花は、 その形小にしてその寿短し。また、 日本の幽霊のごときは、 最も繊弱にして無気力の相あり。  また、 日本に特有なる怪物として知らるる天狗のごとき、 やや高慢の相あるも巨大なるにあらず、 その唯一の特色たる鼻は、 長きのみにてはなはだ小なり。 これによりてこれを推すに、 日本人の夢中に見るところのものも、  また必ず小ならん。

 これより、  さらに日本人の性質いかんを考うるに、 才知も小、 思慮も小、 度量も小、 志望もまた小といわざるべからず。 近来、 日本人自ら称して薄志弱行という。これと同時に、 余は小志急行といわんとす。 故をもっ て、そのなすところの事業も小、 その有するところの財産も小、 その期するところの目的も小なり。 小志なるが故に、  小成に安んじ、 小富に甘んじ、 小事をもって足れりとするふうあり。 また急行なるが故に、 徐々として進み、 乾々として倦まざるがごときことあたわず。 けだし、  わが国において古来、 大人物の出でたることなく、 大事業の起こりたることなきは、 これがためなり。 まず人物として英傑を挙ぐれば、 太閤秀吉の右に出ずるものなかるべし。  秀吉の目的は日本を家康に譲りて、 自ら大陸に入りて王とならんとするにありしなどと伝うれども、余は決して信ぜざるなり。 その軍を朝鮮に出だすがごときは、  国内を鎮静せんとする政略に過ぎざるべし。 古来、 著名の学者あり宗教家ありといえども、  シナあるいはインドより伝来せる学説を敷衍し、 もしくは杏籍を註釈せしにすぎず、 決して新学統を開き新教系を立てたるものあらず。 また画工、 医師のごときも、 みなシナ伝来のものに多少の修飾を施したるにすぎず、 そのなすところは、みな小刀細工なり。  ゆえに余は、 わが国に小人物ありて大人物なく、  小事業ありて大事業なく、 小発明ありて大発明なしと断せんとす。果たしてしからば、 大日本の称は名ありて実なしといわざるべからず。 あに慨せざるを得んや。

 かく日本国を分析すれば一も小、 二も小、 三も小にして、これを総合すれば小日本となるも、 大日本とならざるは、  いかなる原因によりてしかるかを考うるに、 自然の影響よりきたるものと、  人事の関係より生ずるものとあるべきは言をまたず。 今自然の影響をみるに、  国土の小、 地形の小、 山川の小、 その主因たるものなり。 しかるに余は、 既往にさかのぼりてその原因をたずぬるよりも、 将来に向かってこれを改変する方法を講ずるを、目下の急務と考うるなり。 その故は、 東洋多事の今日にあたり、 大いに世界に向かって活動雄飛せざるべからざる日本人にして、 身小、 心小、  思慮も小、 志望も小なるときは、 よくなにごとをかなし得べき、 その体格の小なるはしばらくおき、 その気釘の小なるは、  一日もそのままにみ過ごすべからず。 もし、 日本がこの片々たる東海のあきつしまを固守して、  その中に籠居するをもって足れりとするならば、  かかる小国気風を改変するを要せざるも、 もしこれをして東洋第一の雄大国たらしめんと欲せば、 まずこの小国的気風を融解して、  大国的気風を鋳造せざるべからず。 しかして、 大国的気風の養成は教育によらざるべからざるはもちろんなるも、 学校教育のほかに種々の方面より世界的思想、 宇宙的観念を注入し、  これをして日本人が祖先以来遣伝しきたれる、 忠君愛国の気象の中に包合せしめざるべからず。

 その方法につきては、 余の考うるところによるに、 学問上にありては、  世界地理、 世界歴史に通達せしむるを 最も効力あるべしと信ず。 これに次ぐに天文学、 哲学のごとき、 また遠大の思想を養成するに必ずその功あるべし。 そのつぎは美術の改良なり。 従来の日本美術は小国的気風を養成するに適するも、 大国的気象を鼓舞するに適せず。 ゆえに、これを改良して音楽も絵画も雄壮活発広大ならしめざるべからず。 その他室内の装飾品なども、 人の日夜接触するものなれば、  ことさらに注意を要するなり。 床の間の置物に地球儀を用い、 掛物には世界地図を掛け、 寝食の間これを注視せしむるようにすれば、 必ずその効果あるべし。 また額面にも「万事如夢」(万事夢のごとし)、「人生如浮雲」(人生浮雲のごとし)、「富貴非吾願」(富貴わが願いにあらず)のごとき遁世的文字を題せずして、「万事非夢」(万事夢にあらず)、「人生是戦場」(人生これ戦場)、「富貴吾所願」(富貨わが願うところ)のごとき進取的文字を掲ぐべし。 また掛物にも、「蝸牛角上争何事」(蝸牛の角の上になにごとをか争う)、「石火光中寄此身」(石火光中この身を寄す)のごとき句を用いずして、「陽気発処金石亦透、 精神一到何事不成」(陽気発するところ金石もまた透る。 精神一到なにごとか成らざらん)のごとき語を選ぶべし。

 余はかつて、 古人の詩にて厭世的の趣味を含むものは、  これを改作すべしと論じたることあり。 例えば、 最も人口に膾炙せる「人生五十愧無功、 花木春過夏己中、 満室蒼蠅払難去、 起尋禅榻臥消風」(人生五十功なきを愧ず、 花木春過ぎて夏すでになかばなり、 満室の蒼蠅払えども去り難く、 起ちて禅榻をたずねて清風に臥せん)のごときは、 余は「人生五十可成功、  遮莫春過夏已中、 満室蒼蠅払難去、 好敲北極送寒風」(人生五十功を成すべし、 さもあらばあれ、 春過ぎて夏すでになかばなり、 満室の蒼蠅払えども去り難く、 好んで北極をうちて寒風を送らん)のごとき意味に改作せんとす。  詩や歌の改良は人の気風を改変するに、 その効力最も多きものなり。 そのほか旅行、 野遊のときには、 なるべく高山に登り、 あるいは大海に浮かびて世界の広闊なるを見、 明月の夜に当たりては、 天空を望みて宇内の無際なるを思うがごとき、  みな思想を闊大にするの一助となるべし。  ただ憂うべきは、 日本人の癖として、 架空の理想を抱きてただちにこれに達せんとするにあり。  かくのごとき理想は、 目ありて足なきの不具者たるを免れず。  例えば、  遠大の目的を達せんと欲せば、  一朝一夕のよくするところにあらざるに、 わが邦人の癖として、  即時に直達せんとするふうあるなり。「精神一到何事不成」(精神一到なにごとか成らざらん)を聞きて、  一時の間は精神一到するも、  一時の後は精神を他に転ずるふうあり。  これ、 本邦人の大事業を大成することの難きゆえんなり。 ゆえに、 余がいわゆる遠大の思想を養成すべしとは、 決して架空の想像をいうにあらず。 いよいよ遠大の思想を養成するにおいては、 遠大の目的を定めて、  これに達するに遠大の方法を取るをいうなり。  しかして遠大の方法を取るとは、 急速に失せず、 徐々としていくたの歳月を経、 いくたの艱難を排して進行するをいう。  かくのごときは、 真に遠大の思想を有する人にあらざれば、 遂行することあたわざるなり。 もし、  一時に急ぎてたちまち倦怠するがごときは、 遠大の思想ある人と称すべからず。

 今やわが北門に当たり、 天候険悪を告げんとす。 海陸の警戒、 日一日より急なるを覚ゆ。 東洋の天地、 これよりようやく黯黮たらんとし、 その風雲いずれの日にか定まるを知らずといえども、 他日日本をして東洋の風雲を排して平和を維持するには、 余がいわゆる遠大の志望、 遠大の知慮、 遠大の計画、  遠大の実行を要するを思い、一片の愛国心より、  かく本邦人の短所を挙げて、  これを補うゆえんを論ずるに至る。

 この一論を草しおわりて傍らにある新聞紙を閲するに、 露国は傍若無人の態度をもって南進を図るとの報あるを見、 憤慨のあまり、 思わず知らず左の二句の口に浮かぶあり。 その句の句法に合すると合せざるとは、 余の関するところにあらざるなり。

  ぬらすなよいかに夜露はしげくとも

  払はずは我袖ぬらす今朝の露

 これは論文の余興とぞ知れ。





   三七 修身教会設立旨趣


       一、 緒    言

 余は今をさること十七年前、 哲学館を創立せしより、 学館拡張のため、 前後二回日本全国を巡遊し、 地方の宗教の振るわざるを見、 徳義の衰うるを察し、 不肖ながら国家将来のために、 いささか憂慮するところありき。爾来これを挽回せんと欲し、 百方工夫の結果、 各地方において修身教会を設置する方法を案出し、  これを東西両洋の事情に対照するに、 今日の急務これよりはなはだしきはなしと自ら信ずるに至る。 よってここにその意見を開示し、 同胞諸士の協賛を仰ぐ。 もし、 その方法のいまだ尽くさざるところあらば、 読者請う、これを補正せよ。

       二、 わが国の進歩

 明治維新以来、 三十余年間におけるわが国百般の進歩発達は、 実に世界にその比を見ざるところなり。 法制にあれ、 医術にあれ、 理科にあれ、 いずれも欧米諸邦と相伍して、 ほとんど遜色なきがごとし。 あに盛んならずや。しかりしこうして、国勢民力のいかんにいたりては、 これを英米に比するも、 仏独にくらぶるも、 はるかにその下にあるを見る。  これなんぞや。 必ずしかるべき原因なかるべからず。

       三、  国勢民力

 わが国の勢力の彼にしかざるところあるは、 両者の貧富大いに異なるによる。  しかして貧富相異なるはなんぞや。  これまた原因なかるべからず。 余をもってこれをみるに、 その原因はわが国民の道義徳行の、 彼に及ばざるところあるによると考うるなり。 それ、 君に忠を尽くし、 親に孝をつくすは、 わが国民の一般に熟知せるところなれども、その忠たるや多くは戦時の忠にして、 平日の忠にあらず、 その孝たるや極端の孝にして、 通常の孝にあらず。  ゆえに、国民みな忠孝を知りながら、 民力を養い国勢をさかんならしむることあたわず。  これ、 忠孝のいまだその意を尽くさざるところあるに起因すといわざるべからず。

       四、 忠孝の意義

 余案ずるに忠孝の意たるや、 これを小にしては、 よくその身をおさめ、  その家をととのえ、  これを大にしては、 よく社会国家をして宮強ならしむるの謂にして、 倹約、 勉強、 忍耐、 誠実、  信義、  博愛、 自由等の諸徳は、みなその中に含有すと信ずるなり。  しかしてこれらの諸徳の実行は、 わが国民の遠く彼に及ばざるところなるや疑いなし。  ゆえにわが国今日の急務は、  この諸徳を養成する方法を講ずるにあり。

       五、  学校の修身

 現今わが国にありて道義徳行を教うるは、 学校教育の修身科に限り、  そのほかにはほとんど徳義を教うる所なきは、  みな人の知るところなり。 しかして学校の修身は、 四年ないし六年間にすぎず。 進んで中学に入ればさらに五年の修身を課するも、 国民一般の教育としては尋常小学四年間の修身を聴くにとどまり、 小学入校前と卒業後は全く修身教育を欠き、 家庭にても社会にても、 ほとんどこれを放擲しおるもののごとし。 けだし、  文明国として世に知らるる国々の中に、 わが国のごとく、 学校以外の修身教育を度外視して顧みざるものはなかるべし。実に嘆かわしき次第なり。

       六、 家 庭

 わが国の家庭は貧富貴賤を問わず、 修身の教育場とするに足らざるもの多し。 例えば下等の社会にありては、父母はただ児童を乳養するのみにて、 教養するゆえんを知らず、 上流の社会にありては、 家庭の状態かえって不道徳の模範を示すがごときものすくなからず。 修身教育に最も重要なる家庭にして、 すでにかくのごとし。  これをたとうるに、 毎日学校において五時間、 道徳の熱をもって温むるも、 帰りて家庭に入れば十時間、 不道徳の水をもって冷やすがごとし。  されば、 学校教育の功を奏せざるは無理ならぬことなり。

       七、 社 会

 現今の社会は、  いたるところ不道徳の空気をもってみたされおるありさまなれば、 児童が学校より出でてこれに入れば、  その勢い必ず既得の道徳を、 知らず識らずの間に消失するに至るべし。  児童の道徳が学校卒業の後、数年を出でずしてたちまち破壊すというはこの理なり。 ゆえに、  国民の道徳を維持せんと欲せば、  必ず学校以外に修身を教うる道を考えざるべからず。 欧米諸国みなすでにその設あり。  わが国、 あにひとりしからずして可なるの理あらんや。

       八、 宗教

 わが国の家庭も社会も、ともに道徳の教育場となすに足らずとすれば、 学校以外になにものありてこれに依頼すべきや。 余が欧米の社会につきて実視せるところによるに、 いずれの国も宗教教会ありて、 家庭ならびに社会の道徳を維持しおるを見る。  すなわち日曜教会これなり。 毎日曜、  父母が児童を携えて会堂に至り、  これをして修身の談話を聴かしむるは、 家庭教育の練修にあらずしてなんぞや。 また、 学校卒業の青年輩が互いに相携えて会堂に上り、 音楽唱歌の間に道徳の講義を聴くは、  すなわち社会教育なり。  これを要するに、 欧米国民の道徳は、  学校教育よりもこの教会によりて維持しおるは疑いなき事実なり。

       九、  わが国の教会

 わが国にも種々の宗派あり、寺院あり、教会あれども、 その勢力はなはだ微弱にして、また弊害すこぶる多く、到底これに道徳教育を一任すべからず。 されど、  わが国民が今より道徳教育に宗教の必要なるを知りて、  これを改良するの方針を取るに至らば、 旧来の弊害を除くがごとき、 なんの難きことあらんや。  畢竟するに、 宗教の改良は、 宗教を弘むる人を改良するにほかならず。 しかしてその人を改良するは、  国民の意向いかんによりて、 たやすく実行することを得るなり。

       十、  西洋の教会

 欧米にありて、 一、 二の国は近来大いに宗教の勢力を減じたる所なきにあらざるも、 かくのごとき観あるは、必ずパリやベルリンのごとき大都会に限るべし。  もし地方の町村に至らば、 今日なお依然として宗教の勢力を存す。  また大都会にても、 普通の国民は宗教に帰依せること、 あえて昔日に下らず。  ゆえに国民一般の道徳は、  宗教の力によりて維持せられおるや明らかなり。

       十一、 道徳教育

 一国の道徳は、  その国民の多数によりて成り立つものなり。  国民ことごとく道徳家となることあたわざるも、多数のものよく道徳を守るに至らば、  その勢力によりて社会の道徳を振興し得べし。  しかして人民の数は上流より下流の方に多く、  貴顕より微賤の方に多きものなれば、 道徳教育はまず中等以下の人より始むるを便なりとす。  この目的に対しては宗教の力をからざるを得ざるは、  なにびとも疑わざるところなり。

       十二、  寺院教会

 わが国の宗教は大いに衰えたりというも、  いまだ廃滅せるにあらず。  国内いたるところ寺院のあらざるなく、僧侶の住せざるなく、  現今なお七、  八万の寺院と十万以上の僧侶ありという。  そのほかに神道教会あり、  ヤソ教会あり。  これらの寺院、  教会が毎日曜、  町村の人民を集めて、  修身の講話をなすに至らば、  その効力の著しかるべきは言をまたず。 しかるに、  わが国の寺院は葬式仏事を営むのみなれば、 儀式の一要具たるにすぎず。  しかして、  世間に対して宗教の最も大切なる修身教会は、  全くこれを欠きおるありさまなり。  されば、  わが国民の道徳の振起せざるは当然のことなり。  これ、  あに慨すべきの至りならずや。

       十三、  仏教の出世間道

 わが国において一、  二の宗教は、  もっぱら布教伝道に力を尽くし、  毎月教会を開くことあるも、  その説くところ多くは現世の道徳にあらずして、  死後の冥福にとどまる。  これを仏教の語にていえば、  世間の教にあらずして出世間の道なり。  しかして道徳は世間の道なり。  ゆえに、  かくのごとき出世間の法のみを説きては、  世間の道徳を振起すること難し。  これをもって、  余は仏教の教会を改修して、  出世間のみならず、  世間教を説くものとなさんとす。  けだし、  仏教には世間、  出世間の二道ありて、  この二者を兼説するがその本旨なるにかかわらず、  出世間一方に傾きたるは、 従来の時勢のしからしむるところなること明らかなり。されば、今日は今日の時勢に応じて、  死後よりも現世に重きを置くの必要あり。  すでにヤソ教のごときは、 近世一変して純然たる現世教となりたりという。  これ、  その修身教会に効力あるゆえんなり。

       十四、  仏教の世間教

 また仏教中、 世間を目的とする宗派なきにあらざるも、 その説くところ目前の吉凶禍福にとどまり、 ややすれば人をして迷信に陥らしむる場合なきにあらず。 これ、かえって道徳教育の妨害となるものなり。 ゆえに、 余が仏教に対して望むところは、 その教理上、 出世間道を欠くことあたわざるも、 従来のこの一方に偏するの弊を改め、表面には世間道を取り、 裏面には出世間道を捨てず、 しかも世間の道徳教育をもって自ら任ずるに至らしめんとするにあり。

       十五、 宗教と教育との一致

 仏教をしてかくのごとき方針を取らしむれば、 学校教育と宗教教会とは互いに一致することを得べし。 しかるに、 今日までは学校と宗教とは互いに反目するがごとき傾向ありて、 社会の道徳を進むるの妨害となりしことなきにあらず。 宗教は出世間の点にありては、  学校教育と相いれざることあるも、 世間道を説くに当たりては、 二者相一致せざるを得ず。 ゆえに余は、 今後宗教と教育とが互いに一致協同して、  国民の道徳を進むるに力を尽くすに至らんことを望むなり。 しかしてその宗教は必ずしも仏教に限るにあらざるも、 わが国にありて最も普及せるものは仏教につきて、  これを修身教育に応用せんことを論ずるなり。

       十六、 修身教会の目的 

 すでに学校教育と教会とは、 世間の修身道徳を説くにおいて一致協同すべきゆえんを知らば、  学校以外の修身教育は、  この二者相まち相たすけて、 その普及を図らざるべからず。  これ、 余が各町村において修身教会を設くるの必要を唱うるゆえんなり。 しかしてその旨趣たるや、 教育勅語に基づき、 忠孝を本とし、  国体を先とし、 忍耐、 勉強、 倹約、 誠実等、 百般の職業に必需の道徳を諭示し、 進んでは家庭の風儀、 社会の習慣を一新するに至らんことを期するなり。

       十七、 教会の会場

 修身教会の会場は余の考うるところによるに、 各町村の寺院をもってこれにあてつるを最も便なりとす。 しかして、 毎日曜もしくは隔週に町村内の老弱男女を集め、  その講師としてはひとり僧侶のみならず、 教員もこれに加わるをよしとす。  かくして、 僧侶と教員とともに出席して諄々訓誨するに至らば、 その効力あるは疑いをいれず。 しかして、 教会の組織は各町村一同の協議によりて相定め、  すべて町村の自治によりて成るようにすべし。ゆえに、 町長および町村会議員ことごとくその主唱者となり、 全町村をしてこれに賛同せしむるようにせざるべからず。 もし、 多少の経費を要することあらば、 町村の経済より支出して可なるべし。

       十八、 教会の組織

 以上述ぶるところを概括して、 その教会の組織に関する愚案を列挙すれば、 大略左のごとし。

  一、 修身教会の目的は国民に吾人の平常守るべき諸般の道徳を知らしめ、  かつ行わしむるにあり。

  一、  この教会は各町村人民の協議によりて設立し、 その団体の自治によりて管理し、 その地方の情況に応じて組織すべし。

   一、  この教会は毎日曜もしくは隔週に開くべし。ただし地方の情況によりて、冬期は毎週、 以期は一月一回とするも可なり。

  一、  この教会は寺院においてこれを開き、 僧侶、 教員おのおの出席して講話をなすべし。 しかして、会長には町村長もしくは町村中の最も名望あるものを推選し、 町村内の僧侶および教員をば、 みな講師として待遇すべし。

       十九、 教会の順序

 教会の時間は地方の情況により一定し難しといえども、 およそ日曜午前九時より十一時までをよしとす。 最初に勅語を捧読し、 つぎに教員の講話、 つぎに僧侶の教誨あるがごとき順序を設くべし。 僧侶の教誨は勅語の聖旨に基づき、 世間の道徳を講述するはもちろんなりといえども、 仏教中より例を取り譬を引き、 種々敷衍して説くはもとより妨げなし。 また、 有志の請に応じ、 世間道の教誨の後に、 引き続きて出世間道の講話をなすもまた自由なり。 あるいは都合により、 青年と老人とを分かちて、 午前は青年の教会を開き、 午後は老人の教会を開くも可ならん。  かくのごときは、 よろしく地方の情況に応じて定むべし。 ただ余の望むところは、 各町村に、 学校教育のほかに修身教会を設置せざるべからずというにあり。

       二十、 音楽唱歌および講話時間

 教会に欠くべからざるものは音楽と唱歌なり。 欧米の教会の盛んにしてかつ感化の著しきは、 音楽唱歌の力あずかりて多きにおるがごとし。 ゆえに、  わが国にても教会には必ず音楽唱歌を加うべし。  その音楽は西洋音楽をよしとし、  唱歌は勅語の徳目に基づきたるものを作りてこれを誦すべし。 しかしてその誦し方は、 あらかじめ会衆に教え込み、 当日一同相唱和するようにせざるべからず。 また、 教会の旨趣は勅語の拳々服膺の御聖諭にもとづくものなれば、 毎回勅語を捧読して謹聴せしむべし。 その順序、 左のごとし。

  第一次 音楽唱歌  第二次 勅語捧読  第三次 音楽唱歌  第四次 講話一席(教員)

  第五次 音楽唱歌  第六次 謡話一席(僧侶)  第七次 音楽唱歌

 講話は一席およそ三十分ないし四十五分を限り、 あまり長からざるをよしとす。 あるいは講話の第一席と第二席との間に、 十分ないし十五分の休憩を設くるも可なり。 あるいは便宜上、 前後二席の講話ともに僧侶これを任じ、  あるいは他町村より講師を聘する等は、 よろしく土地の状況に従うべし。 

       二十一、 町村の儀式

 かくのごとく修身教会を組織するときは、 町村内の結婚式もこの席において行うことを得。 しかるときは、  列席者に茶菓を配付するをもって足れりとす。 ゆえに、 従来の結婚式における牛飲馬食の弊を除き、 大いに冗費をのぞくことを得べし。 その他の儀式もこの席において行えば、 時間と費用とを節減するの便あり。  さらに一歩を進め、  この方法によりて町村一般の風俗習慣を改新すること、 決して難事にあらざるなり。

       二十二、 教会の利益

 この教会の設置は、 教育と宗教との間を調和することを得るのみならず、 町村内の政党の不和、 感情の衝突を融合し、 各人間の交際を円滑にし、 上下の事情を疏通することを得べし。 これに加うるに、 平日社会の競争場裏に立ちて身心を労役せるものに一日の休養を与え、 精神上の快楽、  理想上の趣味を感ぜしむるに至るべし。 果たしてしからば、 教会によりて得るところの利益はすこぶる大なりといわざるを得ず。

 

       二十三、 実業教育

 近来、 わが国にありて実業教育奨励の結果、 実業学校続々相起こるも、 余はこれによりて、 かえって実業の退歩を招かんことを憂うるなり。 その故は、 わが国民は実業に最も大切なる忍耐、 勉強の力に乏しく、 ただ人の上に立ちて座食することをのみ好むふうあれば、 教育の進むに従い、 力食者を減ずるの恐れあり。 換言すれば、 実業教育の結果、  かえって実業界の壮士を養成するに至らんことを恐る。  ゆえに今日の勢い、 実業教育にさきだちて、 青年輩の性質気風を矯正するを要す。 しかしてその矯正は、 ひとり学校の修身のよくするところにあらず、必ず家庭および社会教育の製造元たる修身教会の力をからざるべからず。 これまた、 教会より得るところの利益の一つなり。 もし、  この教会の旨趣を拡張して、 毎日曜に工場教会、 病院教会等を設説するに至らば、  その益するところ一層大なるべし。

       二十四、 宗教の改良

 宗教の良否は国家の隆替に関することは、 なにびとも疑わざるところにして、 宗教の改良は僧侶その人の改良より始めざるべからざるも、 また人の是認するところなり。 もし、 各町村の人民互いに合同して教会を組織し、僧侶をして毎日曜の教誨を実行せしむるに至らば、 自然に僧侶改良の実をあぐることを得べし。  これと同時に、宗教改良の功を奏することを得べし。  また、  ひとたび教会を設置したうえは、  町村自然の制裁によりて、  僧侶の淘汰おのずから行わるるに至るべし。

       二十五、 図書館の設置

西洋にては都会はもちろん、 村落にいたるまでたいてい図書館の設あらざるはなし。 ゆえに、 村民ときどきここに入りて新聞を読み、 雑誌を閲し、 あるいは書籍をひもとき、  これによりて見聞を広くし、 知識を進むること多し。 今わが国にては、 到底各地に図書館を別置することあたわず。  ゆえに、 もし修身教会を寺院中に設くるに至らば、  これと同時に寺院の一室を図書館に当てはめ、 日曜教会の前後に、  新聞、 雑誌等を閲読するの便を与うること難からず。  かくして休日に無用有害の遊びをなすことを防ぐを得ば、 その益するところまた、  すこぶる大なりというべし。

       二十六、 教会設置の順序

 かくのごとき教会を創設するには、 まず都会の地よりも、 地方の村落において試むるをよしとす。  その故は、東京のごとき大都会にありては、 常に雑踏繁忙を極め、 ために一町一区全体の人民を結合することはなはだ困難なれども、  地方の村落にいたりては一村全体の賛同を得ること容易なり。 ゆえに、 余はまずこれを村落に始めて、 漸々に都会に及ぼさんとす。 もし、  これを村落に試みて実効あるを知らば、 都会も自然にその風を学ぶに至るべし。  これ、 教会設置の順序ならんと考うるなり。

       二十七、 教会雑誌

 この教会は全く各町村の自治によるべきものなれば、 東京に本部を置きて統轄するの必要なし。 ただ各所の教会の間に立ちて、気脈を通じ事情を知らしむるの機関なかるべからず。 換言すれば、 全国の方面における教会の、通信の中心となるものなかるべからず。  ゆえに、 余は東京において『修身教会雑誌』を発行して、  この必要に応ぜんと欲す。  その雑誌には教会の購話材料を掲げ、 あわせて各教会の報告を載すべし。 その細則のごときは、 別に広告せるものに譲る。  また教会の唱歌も、 右雑誌発行所において編集して、 各教会に配布せざるべからず。  ゆえに、 余は懸賞をもって全国より唱歌を募集せんと欲す。 その内規も広告につきて見るべし。

       二十八、 結 論

 以上、 修身教会の趣旨を陳述して、 ややその大要を示せり。 もしその詳細にいたりては、  二、  三紙のよく尽くすところにあらざるなり。 よって余は、 近日雑誌発行の節、 逐号その細目を挙示せんとす。 しかれども雑誌のみにては、 なおその意を尽くすことあたわざるを恐る。 ゆえに、 余は自ら全国を周遊し、 各地において細説詳述せんと欲す。 昨年以来欧米各国を巡見し、 もっぱらかの国々の風俗、 習慣、  人情を視察し、 わが国と大いに異なるところあるを知了したれば、  地方周遊の節、 くわしくその事情を開陳して、 修身教会の急要を説明するつもりなり。 その際は有志諸君の厚意を煩わさんこと、 今よりあらかじめ懇望するところなり。




   三八 哲学館学科改正につきて


       一、 創立以来の方針

 本館は明治二十年九月の創立にして、 本年に至るまで十有六年の星霜を経、 入学者の数ほとんど三千人の多きに上らんとす。 また、 さきに本館の目的は東洋大学を起こすにあることを発表して以来、  またすでに十有余年、その間もっぱら力を基本金募集に尽くし、 単身奔走、  広く全国を遊説して数万人の賛成を待たるも、 前後二回の天災(風災、 火災)に遭遇し、 校舎の再築に莫大の資金を費やし、  こと予期と相たがうに至る。 しかれども、 時勢は駸々として私立大学の開設を促しきたり、 東校西塾みな大学を公称したれば、 本館もその予期するところを実行せざるを得ざるに至る。  これ、 今回本館において私立大学開設の準備に着手するゆえんなり。

       二、 教員免許の特典

 本館にて創立以来の入学者を験するに、 教育志望者の比較的多きを見、 文部省に向かいて、 爾来卒業生に対し教員免許の特典を得んことを請願せんと欲し、 明治二十三年第一回の願書を提出し、 同二十七年第二回の願書を提出し、 同三十二年第三回の願書を提出し、 はじめて同年五月認可の指令を得たり。  これより学科を改正し、 設備を進行し、 昨年十一月第一回の卒業生を出ださんとするに際し、 臨監の視学官より教科用柑に関し、 受け持ち講師中島徳蔵氏がミュー アヘッド倫理書の「意志編」を、 批評を加えずして教授せるは、 はなはだ不都合なりとの上告の結果、 十二月十三日付をもっ て文部省より認可取り消しの厳命下り、 十年間の苦心と努力とによりて培授しきたれる学庭の花が、 まさに開かんとしてたちまち凋落するに至れるは、 実に遺憾に堪えざるなり。

       三、 学科の改正、 大学科

 認可取り消しの厳命は、 果たしてその当を得たるやいかんは世間すでに定論あれば、 余輩あえて喋々するを欲せずといえども、 その累を無辜の生徒に及ぼせるは、 本館の情義として最も忍びざるところなれば、 その後認可復活の願書を提出せしも、 文部省にては、 あるいは本省の威信に関する等の理由をもって、 許可を与え難しとて拒絶せられたり。  されば、 世間いかに広きも、 もはや訴うるに所なければ、 残念ながら黙してやむよりほかなし。  退きて考うるに、  このうえは独立自治の精神をもって、 純然たる私立学校を開設せざるべからず。 ここにおいて本学年より学科を改正し、 さらに大学組織を起こし、 全科を分かちて予科、 専門科、  大学科の三科とし、 専門科は三年にて卒業、 大学科は五年にて卒業と定む。 専門科卒業を得業と称し、 大学科卒業を哲学士と称する予定なり。

       四、 予科および別科

 予科は一年間とし、 中学五年級の学科をか止き、 いまだ中学を卒業せざるもののためにこれを設く。 もし、 中学または師範学校を卒業せるものは、 無試験に本科に入ることを得。 もしまた、 中学を卒業せざるものにしてただちに本科に入らんとするものは、  これを別科生として本科の講義を聴講せしむ。 しかして別科入学生に対しては、  一定の試験を置きてその学力を検定し、 あるいは別に講習科を設けて、 中学程度の学科を講習せしむることあるべし。

       五、 教育部および教員検定試験準備科目

 以上のごとき学科の改正は、 文部省の認可を経たる後にあらざれば実行し難し。 ゆえに、  その認可あるまでは従来の学科に多少の修正を加え、 漸次に大学組織に進行する方針を取り、 本年九月十六日より始業すべし。 しかして、 九月より本館教育部の方は特に改正を要する点多ければ、 よろしく左に述ぶるところを見るべし。

 本館の学科は従来の学制に倣い、  教育、 哲学の二部に分かれ、 教育部は主として教育家を養成する目的なるも、  さきに文部省より教員免許の認可を取り消されたる以上は、 実力修養を主とし、 もっぱら教員検定試験に応ずるの準備をなすこととす。 しかしてその志望者に対しては、 検定試験に必需の学科を選びて聴講し得る便を与えんとす。 ゆえに、 本人の学力と勉強とによりては満三年を待たず、  一年にても半年にても試験に合格し得ることあるべし。  されば、 認可を有する学校にて必ず満三年を要するものに比すれば、  かえって教貝となるの捷径を開きたるものと称して可なり。 しかして受験の準備をなし得る学科は、 修身、 教育、 国語、 漢文、 歴史、 地理、習字等とす。

       六、 哲学部

 哲学部はもっぱら宗教家を養成する目的なるが、これを各宗所立の大学林に比するに、 大いにその方針を異にす。  すなわち本館にありては、 旧来の註釈的教授法を廃して、 達意を主とし、 活用を本とし、 将来の社会に立ちて各方面に向かい、 実地に活動し得る人を造らんとす。  ゆえに各宗の大学林にては、 今日なお「倶舎八年唯識三年」の迂闊なる教授法を用うるも、 本館にてはわずかに三年間にして倶舎、 唯識、 華厳、 天台を教授し、 傍ら倫理、 心理、  法制等を授け、 もっぱら英語もしくは漢学に重きを置き、  すべて実用に適切なることを主眼とす。

       七、 各部の随意科および第一科、 第二科

 教育部、  哲学部は単に教育家、 宗教家を養成するのみならず、  今日の時勢に応じ、 種々の方面において活動し得る人を造出せんとす。  これ、 正科のほかに随意科を示叫くゆえんなり。 また、 内国のみならず、 外国に出でて就職し得るように教授せんとす。  おもうに、 将来わが邦人の働くべき場所は、 アメリカとシナ、  朝鮮なり。 ゆえに、 教育部および哲学部の第一科は英語を主とし、  これに加うるに英語の会話、 作文等、 実用に適切なるものを授け、  他日アメリカに入りて生計を立つるの準備をなし、 つぎに第二科は漢文を主とし、  これに時文官話を交え、 他日シナ、 朝鮮に渡りて職業に就くの便利を与えんとす。

 



   甫水雑詠



       題東洋哲学

日域由来三道分、 真如一貫是斯文、 従今富士峰頭月、 照破泰西洋上雲。

(日本ではもともと神仰仏三道が存し、 真理一貫しているのがこの学問である。 いまからの富士山頂の月光は、西洋諸国の洋上の雲を照らし破るであろう。) 

       述 懐

天地山河是我居、 何須窓下惜三余、  欲窮活学開真智、  二十年来不読書。

(天地山河はわがすまいである。  どうして窓下に年の余りの冬や夜、 雨の日の余暇にのみ勉学することを大切にすることがあろうか。 活きた学問を見極め、 真正の智を開かんとねがって、  二十年来活学活書以外の書を読まずにきたのである。)

       誡後進詩十二首

欲使国光輝極東、 鞠躬須尽赤心忠、 泰西文物君知否、 都是千辛万苦功。

(日本の国を極東の地に光輝あらしめんと欲すれば、 つつしみ深い態度でまごころから忠を尽くさなければならない。 西洋諸国の文物について君は知っているのか、 それとも知らないのか、  すべてはあらゆる辛苦のうえでなしとげられたものなのである。)

徒食治家則自消、 力耕可必作豊饒、 古人有語君須記、 禍福無門我所招。

(むだ食いをして家産を治めようとすれば、 家はおのずから消滅し、 農につとめれば必ず豊饒をなすべし。 むかしの人の言葉は、 君よ、 記憶すべきである、 禍福には家柄があるわけではなく、  みずからが招くものであると。)

大道本来照人路、  吉凶何事嘆迷霧、 和歌有誡莫相忘、 心誠不祈神自護。

(人がふみおこなうべき道理は、 本来人の路を照らし、 吉凶なにごとか迷いの霧を嘆かん。 やまと歌には誡めがあり、 忘れてはならぬ。 心に誡めあれば、 神に祈ることもなくおのずから護ることになろう。)

人生非夢又非泡、  一寸光陰君勿抛、 他日業成為誰尽、  四千余万是同胞。

(人生は夢にあらず、  またうたかたでもない。  一寸の光陰も君なげすてるなかれ。  いつの日か事業が成功したときは、 だれのために尽くそうか、四千余万は同胞である。)

勤労何必限農工、 日夜励精為奉公、  一食一衣君自省、 幾多辛苦在其中。

(勤労することはなにも農工に限ったことではない。 日夜精励するのは公に奉仕するためである。 一食一衣にも君よみずからかえりみよ、 いくたの辛苦はその中にこめられているのだ。)

富家子弟出痴人、 俊傑所生多赤貧、 俚諺有言君可誦、  苦労真是楽之因。

(富む家の子弟にはおろか者が出る。  すぐれた人物の生まれる所は多く赤貧の家である。 民間のことわざにいわれるところ、 君よ誦すべし、  苦労はまことに楽のもとであると。)

 書生浮薄自成風、 徒弄多言実行空、 終日評人何所得、 不如評己省其躬。

(書生というものは軽佻浮薄でおのずから風格を作り上げ、 むだに言うところ多く、 実行はしない。  一日中人のしなさだめをしても、 なんの得るところもない。  おのれをはかりわが身をかえりみることがいちばん良いのだ。)

人生可惜只光陰、 年去老来誰得禁、 君謂千金当一刻、 我言一刻勝千金。

(人生はただ時間を惜しむべきである。 歳月はゆき老いのきたるをだれが止めることができよう。 君はいう千金は一刻にあたると、 われは一刻は千金にまさるといわん。)

興業須期養富源、 成功先要報皇恩、 這般秘訣為君語、  一忍羽於百徳尊」。

(事業を興すのは富の源をおさめんと期すのであり、 成功すればまず皇恩に報いるべきである。  この秘訣を君のために語げよう、 召耐は百徳を尊ぶよりも尊いのだ。)

忍耐遂開愚化賢、 勉強能変海為田、 人問万事皆如此、 勿謂窮通唯在天。

(忍耐はついに愚をさとして賢と化し、 はげみつとめれば海を変えて田とすることもできる。  人間とは万事がみなこのようであり、 行きづまるか順調かはただ天命なのだなどというなかれ。)

日夜勿忘祖宗訓、  居常当竭臣民分、  一朝若有国難時、 義勇奉公護皇運。

(日夜代々の君主の訓えを忘れてはならない。 常に臣民のつとめを尽くすべきである。  一朝もしも国難のある時には、 義勇をもって奉公し、 皇室の運命を護るのである。)

悪事可禁善可随、 東西何処莫斯規、 吾邦力有大倫在、 忠孝由来成徳基。

(悪事は禁止すべきで善には随うべきである。 東西諸国のどこにでもこのいましめはある。 わが国の力は人として守るべき大きな道徳にあり、 忠孝は元来徳をなすの基である。) 

       西洋人

人生五十可成功、 何患春過夏已中、 満室蒼蠅払難去、 好敲北極起寒風。

(人生五十功を成すべし、 なんぞ春過ぎて夏すでになかばなるをうれえん、 満室の蒼蠅払うも去り難く、 よし、北極をたたきて寒風を起こさん。)

       元旦所感(古句改作)

墜地梅花不上枝、 入海黄河不再婦、  人生日月如流電、 老来無復少年時。

(地におちた梅花はもはや枝にもどれず、 海に入った黄河はふたたびもどれない。 人生の日月はいなずまのごとくすぎ、 年老いてふたたび少年の時はない。)

       日東真男児

欲詠和魂敲又推、 線裁両句未成詩、 梅花為骨牡丹肉、  知是日東真男児。

(大和魂を詠もうとして推敲を重ね、 わずかに二句を作るもまだ詩の体裁を得ず。 梅花を骨格とし牡丹を肉とす、 知るこれこそ日本の真男児であるを。)

       再航口吟

力学多年在帝都、 始知碌碌読書愚、 欲扶後進開文運、  再上航西万里途。

(学問の修得につとめて多くの歳月を東京ですごし、  はじめて役にもたたぬ読書の愚かさを知った。  わが国を後進より救い学問・文化の気運をさかんにしようと願い、 ふたたび西方への航路万里の途についたのであった。)

        新橋発車

決意一朝辞帝京、 学生千百送吾行、 鉄車将動煙先発、 万歳声裡汽笛声。

(意を決してこの日東京に別れを告げる。 ときに学生千余人がわが旅立ちを送ってくれた。 汽車の動かんとするに煙がまず噴き上がり、 万歳を叫ぶ声のあがるなか発車の汽笛があがる。)

       横浜神戸間船中所感

火輪解擦武州湾、 房海相灘瞬息間、 一夢醒来駿遠尽、 船窓已認紀南山。

(外輪船は武蔵の湾でともづなをとき、 安房の海と相模灘をまたたくうちにすぎた。  一夜の夢をむすぶまに駿河・遠江もすぎて、 船窓からは早くも紀伊南の山を望めるのであった。)

       船中観月

万里壮遊如自今、 船窓廃睡到更深、 阜頭明月情如満、 不照江山照我心。

(万里をゆく壮大な旅は今より始まる。 船窓に眠ることをやめて深夜に及んだ。 阜頭の明月はあたかも満月のごとく、  江山を照らさずしてわが心を照らすかのようである。

       船到玄海

去国前途有所期、 玄洋一夕欲眠遅、 夜深猶見灯台照、 不是肥前必壱岐。

(国を去るにあたり前途には期するものがある。 玄海の一夜は眠りも遅い。 夜もふけてなお灯台の照らす光をみる。  これは肥前ではなく必ずや壱岐なのであろう。)

       上海偶感

城頭一望感無窮、 英艦露兵西又東、  大陸風雲日将急、 黄竜何歳見晴空。

(上海の市街を一望して往時を思い感慨きわまりなく、  英国の軍艦や露国の兵が西より来たり、 東より来たる。中国大陸の風雲は日々に急を告げようとし、 楊子江はいつになったら晴れやかな空を見せるのであろうか。)

       途上述懐

世紀一新形勢移、 男児立志在斯時、 満清老去三韓病、 東亜経綸属日旗。

(世紀は一新して天下の形勢も移る。 男児の志を立てるはこの時にあり。 満清は老い、 三韓(馬韓・辰韓・弁韓)は病む。 東亜を治め整えるのは日本の旗の下にある。)

       船向台湾海峡

火輪日夜走波間、 千里猶沼皇国山、 支那海南望将断、 白雲宿処是台酒。

(外輪船は日夜波まを走りつづけ、 千里も遠ざかったかと思われたがなお日本の山が見られた。  支那海の南のかたを望めばその終わるあたり、 白い雲のわだかまるところが台湾なのであった。)

       香港即事

海峡綾通港口開、 万船如織去還来、 地宜既得又天険、 真是東洋重鎮台。

(海峡がわずかに通じて湾の入り口が開け、 よろずの船が織るがごとく去来する。 地のよろしきを得てさらに天険あり、 まことに東洋の重要な陣営である。)

       安南海上偶作

赤日南風似夏期、 船窓午下暑如炊、 迎涼浴後呼氷菓、 正是本邦飛雪時。

(もえるような日と南の風は夏に似て、 船窓のひるさがりの箸さは炊かれるかのようだ。 涼を求めて浴後に氷菓子をとる。 いまやまさに日本では飛雷の時なのである。)

       船泊新嘉披(船はシンガポールに泊す)

船泊南涙第一関、 連楢林立幾湾湾、 晩雷送雨天如洗、 涼月高懸赤道山。

(船は南の果てにある枢要の港シンガポー ルに碇泊すれば、  帆柱は連なって林のごとく立ち、 いりえをみたしている。 日暮れて雷は雨をともない、 天は洗われるかのようであった。 やがて涼しげな月が高く赤道の山にかかったのである。)

       船入彼南港

去国西航已二旬、 洋中風色日加新、 今朝船入彼南港、 緑葉紅花冬似春。

(国を出て西に航行すること二十日、  海洋のけしきは日々新しく、 今朝、 船は彼南港に入れば、 緑の葉と紅の花

がさきみだれて、 暦の上の十二月はあたかも春のようである。)

       印度入津

輪船百里泝江行、 光景如春慰客情、 風白喜麻羅亜月、 花明加爾谷他城。

(外輪船は百里も江水をさかのぼって行く。 景色は春のごとく旅人の惰を慰める。  風までもが白い喜麻羅亜の月、  花は明るく咲く加爾谷他城。)

       雪峰遠望

鶏声残月暁天睛、 霞気浮紅日欲生、 四面冥濛人未起、 雪峰独帯旭光明。

(鶏の声となごりの月に夜あけの空は晴れわたり、 霞に紅の色をにじませて日は昇ろうとする。 あたりはまだ暗くしずんで人々はねむりについており、  雪をこうむる峰だけが朝日の光を受けてあかるくかがやいている。)

       望喜麻拉亜山二首(ヒマラヤ山を望む二首)

巍然雄岳聳雲間、 鎮圧閻浮幾万閲、 唯我独尊人遠去、 空留唯我独尊山。

(高くそびえる雄大な山が雲の間にそびえ立ち、  人間界のけがれをしずめること幾万、 唯我独尊の人は遠く去り、 空しく唯我独尊の山をとどめるのみ。)

岳勢巍巍圧四陬、 摩天積雪幾千秋、  人間一接斯光景、 豪気将呑五大州。

(高大なる山の姿は巍々としてそびえて四方を圧倒し、 天にもとどかんばかりの頂上は雪におおわれること幾千年であろうか。  人がひとたびこの光景をみるとき、 そのたけだけしさに五大州(世界)をのまんとするの思いをいだくことだろう。)

       発甲谷他向仏陀伽耶(カルカッタを発ちブッダガヤに向かう) 

遥尋仏蹟入便牙、 城市繁華百万家、 従是駅程三百里、 鉄車揺夢到伽耶。 

(はるかに仏跡をたずねて便牙に入る。城市は繁華にして百万の家がつらなる。これより宿駅の里程は三百里におよぶ。  汽車に揺られて夢は伽 耶に至ったのである。)

       伽耶懐古

伽耶懐古欲眠難、 早起回頭独倚欄、 正党山前残月淡、 尼連河上暁風寒。

(伽 耶にいにしえをおもえば眠ろうとしてねむられず、 早く起きて四囲をみわたして独り欄干に身をよせる。正覚山の前に残りの月も淡く、尼連河のほとりに夜明けの風がさむざむと吹いているのである。)

       詣仏陀伽耶二首

法灯滅尽已千年、 樹下盆場独傲然、 我亦遠来成道地、 香花相捧拝金仙。

(仏法の灯が消え果ててすでに千年を経るも、 樹下の霊場のみが厳然として残されている。 われはまた遠く成道の地に来たり、 香花を奉げて仏を拝したのであった。)

霊樹陰濃境自清、 宝台高聳迩愈明、 魔風一滅仏灯後、 竺土僅存此法城。

(霊樹の陰は濃く、 境域はおのずから清らかに、 宝台は高くそびえ仏迹はいよいよ明らかである。 魔風がひとたび仏灯を滅した後、 天竺の地でわずかにこの法城を残すのみとなった。)

       詣仏陀伽耶五律一首

遠来成道地、 俯仰思何窮、 正覚山前月、 尼連河上風、 跡残霊樹下、 塔登宝林中、 堪喜千年後、 猶看此梵宮。

(遠く釈尊成道の地に来て、 地に俯し天を仰いで感懐きわまりなく、 正覚山の前に月あり、 尼連河のほとりに風ふき、 釈尊の跡は霊樹のもとに残り、 仏塔はこの宝林の中にそびえて、 喜ぶべし千年の後に、 なおこの寺院をみることができることを。)

       霊跡懐古

古城依旧恒河辺、 聞説如来転法輪、 遺跡荒涼何足怪、 穢風狂雨幾千年。

(古城は昔のままに恒河のほとりにあり、 聞くところでは如来が仏法を説いたところである。 遺跡は荒れはてて、  それもまた驚くにはあたらない。  けがれた風が吹き、 くるった雨がふること幾千年であるのだから。)

        孟買途上(ボンベイヘの途上)

平原四望更無山、 唯見汽車忙往還、 英国富源君識否、 在斯恒印両河間。

(平原は四方を望むに山も見当たらない。 ただ汽車のみが忙しく往来するのみである。 英国の富の源を君は識っているのか、  この  恒・印の二つの河の間にあるのだ。)

       孟買元旦二首

西竺今朝遇歳元、 海風送煖曙光喧、 客中早起成何事、 遥向東方拝聖恩。

(西 竺にて今朝は元旦を迎う。 海の風は暖かさを送り、 あけぼのの光もあたたかい。 旅人は早く起きだして何をするかといえば、  はるかな東方に向かって皇恩を祈るのである。)

百発砲声破早晨、 異邦猶見歳華新、  挙杯先祝天皇寿、 不背真為日本民。

(百発の大砲の音が早朝の静けさを破り、 異国になお新年の光をみるのである。  杯をあげてまずは天皇の長寿を祝い、 まことの日本人たるにそむかぬようにしたいものだ。)

       印度洋雑詠二首

破風截浪火輪船、 亜海竺洋途万千、 連夜西航山不見、 唯見孤月印中天。

(風をうち破り浪をきり裂いて汽船は行き、 亜海と竺洋の航路は幾千万 哩である。 連夜西に向かって進み山も見えず、 ただぽつんと月が中天にかかっているのを見るのみである。)

印度洋中気似秋、  情風涼月掛檣頭、 夜来始認烟如帯、  即是亜羅比亜州。

(印度洋上の気候は秋に似て、 清らかな風がふき、 涼しげな月が帆柱の先にかかる。 夜になってはじめて煙が帯のようにたなびくのをみた。  これこそが亜羅比亜の国なのである。)

       亜丁港(アデン港)

船泊亜羅比亜湾、 望迷阿不利加山、  水枯草死人難住、 此地由来称要関。

(船は亜羅比亜の湾内に碇泊し、阿不利加の山に目をただよわす。 水は枯れ草は死して、人の住み難きを思う。この地は元来重要な関所なのだ。)

       紅海書懐

紅海尽頭風月幽、 亜山埃水入吟眸、 客身已在天涯外、 遮莫家郷憶遠游。

(紅海の尽きるあたり、 風も月もほのかに、   亜の山と埃の水が詩人の眸のなかに入っ てきた。 旅客の身はすでに天の果てにあり、 それはそれとしてもふるさとでは遠く旅にありと思っていることだろう。)

       蘇士運河(スエズ運河)

火輪一夜蹴波行、 夢裏過来百里程、 勿謂米山欧水遠、 従今旬日到英京。

(汽船は一夜波をけたてて行き、 夢の間に百里ほどがすぎ去った。  米山欧水は遠いなどとはいうまい。 いまより十日の後には英京に至るのだから。

       同

砂原連両岸、 送暑去来風、 蘇士船将泊、 関山夕照紅。

(砂漠は両岸につらなり、 暑熱を送る風が去来する。  蘇士に今や船は碇泊しようとし、  国境の山々は夕陽に紅く照りはえている。)

        地中海

昨出運河船向欧、 晩来風定水如油、 地中有海海中陸、  月下重看島影浮。

(昨日は運河をぬけて船は欧州に向かう。 夜には風もおさまって海面は油のごとく平らかである。 地中に海あり海中に陸あり、  月の下に重なるように島影の浮かぶのが見える。)

       航西途上一夕所感

一タ枕頭思万端、 苦眠不是客身単、  山河所過皆亡国、 志士何勝唇歯寒。

(今夜のまくらもとにあらゆることどもの思いがおこり、  眠られないのは旅の身である私だけではあるまい。いままで通りすぎてきた山河の地はみなほろび去った国々である。  国を思う志ある者として、 どうして唇がなくなると歯が寒くなるのたとえのように、 そんな思いにたえることができようか。)

       過意国米支奈海峡

船到米支海峡辺、 意州風月入詩編、  山容野趣似吾国、 満目青氈串是麦田。

(船は米支海峡に至り、 意州の風月は詩中に入れる。  山のかたちと野のおもむきはわが国に似て、  見わたすかぎりの青いしき物は麦畑である。)

       同

峡間船欲入、 山影落蘭干、 雲嶂晩来霽、 満天雪色寒。

(メッシナ海峡に船はさしかかれば、 山の影は船の闌干にうつる。 雲のかかった山の峰は夜になってはれ、 空一面に雪もようをもたらして寒ざむとしている。)

        馬耳塞(マルセイユ)

襟山帯水海門開、 馬港繁華亦盛哉、 汽笛相応声不断、  一船忽去一船来。

(山を襟として水を帯びて海門がひらけ、  馬港の繁華なることまた盛んなるかな。  汽笛はたがいに応えるごとくしきりに鳴り響き、  一船がたちまち去るかと思えば一船が来たる。)

       馬耳塞夜景

風寒人影少、 唯見電灯連、 終夜船来去、 汽声破客眠。

(風は寒く、 人影もまれに、 ただ電灯の連なっているのを見るだけである。  一晩中船舶が入港しては出航してゆき、 汽笛の音が旅客の眠りをさまたげるのである。)

       望ジブラルタル砲台

山勢屹然千仞余、 砲門高構厭坤輿、  金城鉄壁猶難比、  恐是当初帝釈居。

(山の形はけわしくそびえたつこときわめて高く、 砲台は高みに築かれて大地を威圧している。  金城鉄壁のようすは何ともくらべようもない。  おそらくはインド神話の帝釈天が仏教を守護したという善見城なるべし。)

       望リスボン府砲台

山自蒼蒼水自消、 灯台聳処是葡京、  星移物換人何去、 失却往年航海名。

(山はおのずから青あおとしげり、 水もまたおのずから清らかに、 灯台のそびえたっところが 葡の首都である。星移り物かわる歳月に人々はいずくにか去り、いまや往年の航海の名声も失われてしまった。)

       勁風高浪、 船体傾動

高浪蹴天船欲沈、 長風捲雪昼陰陰、 大人皆病児童健、 可識無心勝有心。

(高い波は空にとどかんばかり打ちよせて船を沈めようとし、 遠くより吹きよせる風は雪をまじえて昼なおくらい。  船中のおとなはみな船に酔い、 子供のほうが元気であるのは、 無心であることがなにごとかを考える心にまさったと知るべきであろう。)

       遥望英国海岸

雲烟断処陸端連、  知是大英南海辺、  十五年前旧遊地、 再来重見亦因縁。

(雲ともやの切れるあたりに陸地のはしが連なる。  これこそ大英帝国の南の海辺なのである。 十五年前のかつての旅遊の地である。 再び来てかさねてまた因縁を思う。)

       龍動府七律一首(ロンドン府七律一首)

龍動繁華実足誇、 伯林巴里豈能加、 廷無河上三春月、 海土園中四季花、 人満時看塵影暗、 夜深独聴市声譁、肩摩轂撃君休怪、 十里街区百万家。

(竜動の繁栄は実に誇るに足り、 伯林・巴里もこれをしのぐことができようか。延無河上の春の月、海土公園の中の四季の花々もあるのだ。 人出で満ちあふれる時には塵のために暗くなったようにみえ、 夜ふけてひとり市場のかまびすしきをきく。  肩をこすり車のこしきのぶつかり合いを君あやしむことなかれ、 十里の街区には百万の家があるのだから。)

       同

烟塵満城市、 尽日暗風光、 車馬忙於織、 行人走欲狂。 

煙と塵が市内に満ち、一日中風光も暗い。 車馬は織るよりも忙しく行きかい、 行く人は走りまわり狂えるかと思うほどだ。)

       龍動滞在中守倹約

紳士洋行漫費銭、 僕貧難伍此同連、 船乗二等車三等、  止酒禁煙倹約専。

(紳士の洋行というものはみだりに費用がかかるもの、 僕は貧しいのでこれらの人々と肩を並べて費消するわけにはゆかない。 船は二等に乗り、 汽車は三等に乗り、  酒はやめタバコもやめて、 倹約をもっぱらにしているのである。)

       接哲学館認可取消飛報

講堂一夜為風頽、 再築功成復化灰、 遺恨禍源猶未尽、 天災漸去叉人災。

(講堂は一夜にして風のために倒壊し、 再び築いて竣功したとたんに、 またしても火災にあって灰となった。 忘れられぬ恨みをいだくも、 禍の源はなお尽きず、 天災がようやく去ったかと思ったのであるが、 またしても人災(哲学館事件)が起こったのだ。)

       英国北部村落風景

江山如画自成粧、 人似薔薇心更芳、 英北風寒霜冷処、 誰知有此小仙郷。

(江山は画のごとくおのずからよそおいをなし、 人は薔薇にも似て心はさらにかんばしい。 英国の北風は寒く霜冷えする所であるが、  ここが小仙郷であるとだれが知っていようか。)

       同工場櫛比、 煙突林立

 渓谷縦横鉄路通、 凌雲無一不煙筒、 樹皆深黒河皆濁、 知得北英工業隆。

(渓谷には縦横に鉄道が走り、 雲をしのぐように煙突ばかりが立つ。 樹々は深く黒ずみ、 河はみな濁る。  しかしながら英国北部は工業が盛んであることがわかる。)

       彼招村豪邸即喃

一夕見招遊某荘、 来賓数十名成装、 女如孔雀男如燕、 両両相携上食堂。

(あるタベ招かれて某豪邸に遊ぶ、 来賓数十人はよそおいをなし、 女性は孔雀のごとく男性は燕のごとく、  一組一組あいたずさえて食棠に行くのである。)

       教会堂

喚鏑声裏往来忙、  士女如花満会堂、 日曜朝昏修養力、 能教国盲又兵強。

(鐘の音のひびくなかで人の往来することせわしなく、 紳士も叔女も花のごとく色とりどりに会堂にみちる。  日曜の朝から夕暮れまで修養につとめ、 それが国を富ませ兵を強くさせているのである。)

       到愛蘭土船中作(アイルランドに至る船中の作)

海風吹断月如環、 望裏送迎英北山、 汽笛一声驚客夢、 輪船已在愛蘭湾。

(海の風はとだえて月が輪のような姿をみせ、  これをはるかにみるうちに船は英国の北の山を送り迎えてすすむ。  一声の汽笛が船客の夢を驚かして、 輪船はすでに愛蘭のベルファスト湾の内に入ったのであった。)

       愛蘭土麻布工場

十万人家工又商、 街車如織往来忙、 煙筒林立凌雲処、 都是績麻製布場。

(十万の人家は工と商に従う、 街車は織るように往さ交って忙しい。  煙突は林のごとく立って雲をしのぐほどである。  すべてが麻布を製造する工場なのである。)

       泊ボルトラシー港

北游一夕泊津頭、 愛海風光慰客愁、 雲水渺茫望窮処、 青山一髪是蘇州。

(北のかたに遊び、 その夜は港に宿泊した。 愛の海の風景は旅人の思いを慰める。 雲と水ははてしなくひろがり、  さらにその果てをみるに、 冑い山がかすかに見え、  その地は蘇州である。)

       探巨人庭石

天工錬石造奇形、 絶妙使吾疑有霊、  西俗所伝君勿笑、 古来呼称巨人庭。

 (自然のたくみは石をねりあげて、  すぐれた形を造った。 その絶妙なることは私に神霊のあることを思わせる。西欧の俗説に伝えられることについて君笑うことなかれ、 古来、  ここは巨人の庭と呼ばれているのだ。)

       到愛蘭土首府途上

鉄車百里向西倫、 野外風光未見春、 遥憶故国三月末、 東台山下賞花人。

(汽車で行くこと百里、 西のロンドン(ダブリン)に向かう。 野外の風景にはまだ春の気配も見えない。  はるかに故国の三月の末を思い起こせば、 上野寛永寺の山下に花を廿でる人がいるであろう。)

       同達府即事

達府湾頭十万家、 愛州又見此繁華、 街如経緯人如織、 幾百飛梭是電車。

(達府湾のほとりに十万の家が建つ、  愛州にもこの繁華なさまをみる。 街は縦横に整い、  人は織るがごとく往来し、 幾白ものはたおりの梭のごとくゆきかうのは用車である。)

       愛蘭土貧民

村落東西風俗均、 大英猶見此往民、 家皆茅屋人皆跣、 破帽敝衣垢満身。

(村落は洋の東西を問わず風俗には似たものがある。 大英帝国にもなおこうした貧民を見かける。家はみな茅ぶきで人はみなはだしであり、 破れ帽子にくたびれはてた衣服を身につけ、 垢が全身をおおうといった様子である。)

       ウェールズ途上作

愛蘭為客已三週、  風雨凄凄気似秋、 遺恨花期猶未到、尋春四月入威州。

( 愛蘭に旅客となってすでに三週問を経た。風雨はいよいよすずしく気候は秋に似ている。 残念なことには花咲く時期はまだやってこない。 春をもとめて四月に威州に入った。)

       磐戈市風景

米寧湾口眼前開、雪動連峰背後堆、  誰謂大英風景乏、 磐戈真是小蓬萊。

(米寧湾が目前に大きく開け、 雪動の連峰は背後にうず高し。 だれが英国は風景にとぼしいというのであろうか、 磐戈はまことに神仙が住むという小蓬萊である。)

       帰龍動途上吟

烟青草煖牧田平、 満目已看春色生、 威海蘇山雲忽鎖、  鉄車衝雨入英京。

(けぶるような青草も暖かに、 牧場も畑も平坦の地であり、目に入るすべてはすでに春の色彩をおびていることがみてとれる。    威の海も蘇の山も雲がたちまちにとじこめ、 汽車は雨をついて英京ロンドンに入った。)

       遊べスティングス野外暁望

汽笛声高破暁煙、 山遥水遠望無辺、 平原一色青如染、 不是麦田渾牧田。

(汽笛の音も高らかに暁のもやを破る。  山ははるかに水辺も遠く、  一望するに果てもない。  平原は一色の青に染められている。  これは麦畑ではなくすべて牧場なのである。)

       同晩景

背山面海望悠悠、 月色潮声入客楼、 遥認波間光数点、 星星都是仏英舟。

(山を背後に海に面し、一望すればはるかに遠い。月の光と潮ざいの音が旅宿にとどく。 はるかに波間に数個の光あるを認む。  星の光のごときはすべて仏国と英国の舟である。)

       同古戦場

車行数里入田園、 処処春風草色喧、 欲間一千年古跡、 牧童教我杏花村。

(車で行くこと数里にして田園に入る。 ところどころに春風のなか草の色にもあたたかさがある。  一千年をへた古跡をたずねようとすれば、 牧童は私に杏花さく村を教えたのであった。)

       白耳義国訪古戦場( ベルギー国の古戦場を訪ぬ)

獅子岡頭一望平、  江山如恨動吾情、 林風時有鳴枝葉、 猶訝往年兵馬声。

(獅子が岡の上で一望すれば大平原である。 江も山も恨むがごとくわが感情をゆり動かす。 林を吹き抜ける風はときどき枝葉を鳴らし、 それはなお往年の兵馬のたてる音かとうたがいあやしませるのであった。)

       安港三名物(古版博物館、 船渠桟橋、 三人娘茶亭)(アントワープ港の三名物)

船渠棧上往来繁、 博物場中古版存、 此地可驚唯一事、 紅毛女子解和言。

(ドックの足場の上は人の往来もしきりである。 博物館には古版本が保存されている。  この地の驚くべき唯一のことは、 紅毛の女子が日本語をよく解することである。)

       遊和蘭

客游今日入和蘭、 麦緑菜黄春已闌、  四望無山江海闊、 田間到処水漫漫。

(旅人はめぐり行きて、 今日和蘭に入った。 麦の緑と菜の花の黄色が春たけなわであることを思わせる。 四方を望めば山もなく江海がひらけ、  畑の間にはいたるところに水がたたえられている。)

       遊海牙府詣須翁銅像(ハーグ府に遊びスピノザ翁の銅像を詣ず)

遠尋遺跡入蘭東、 像立海牙城市中、 身起賤民成碩学、 応知翁亦一英雄。

(遠く追跡をたずねて蘭東部に入る。  スピノザの像は海牙市街の中に立っている。 彼は卑賤より身をおこして碩学と称せられ、  まさにスピノザ翁もまた一英雄たるを知るべきである。)

       伯林即事

街灯如昼伯林城、  散歩人傾麦酒行、 深夜往来声不断、 夢余猶聴電車轟。

(街灯がまひるのように照らす伯林のまちで、 散歩をする人は麦酒を傾けてまた行く。 深夜にいたるも往来する人の声が絶えず、 夢のまにも電車のひびきがきこえてきたのであった。)

       市外春遊吟

雨過春風入野塘、 烟濃水煖百花香、 寒喧来往何其急、 昨日冬衣今夏装。

(雨一過して春風のなか野のつつみに入る。 油いかすみに水ぬるみ、 多くの花が香る。 寒暖のくりかえすこと、なんと落ちつきもなく、 昨日は冬衣、  そして今日は夏の装いとなる。)

       拝親流徳翁遺跡及遺物(ルター翁の遺跡および遺物を拝観す)

読史曾驚革命初、 憤然焼棄法王書、  今人追慕翁余徳、 此地猶存旧草盧。

(歴史を読んで、 かつてその革命の初めに驚いた。 憤然として法王の書を焼きすてたのである。 いま人々はルター 翁の徳を慕い、 この地にはなおもと住んだ建物が残されている。)

       詣韓図先生墓前賦呈(カント先生の墓前に詣で賦呈す)    

不出郷関八十春、 江湖遠処養天真、 先生学徳共無比、 我称泰西第一人。

(郷里の村を離れず、 八十年の歳月を送る。 江湖の遠いところで天然の性を養う。  カント先生の学と徳はともにくらべるものはない。 私は西欧第一の人と称している。)

       露国途上所見二絶(ロシア国途上の所見二絶)

雲煙漢漠望茫茫、 水遠村遥鉄路長、 露北荒原闊於海、 宛然陸上太平洋。

(雲ともやが遠くつらなり、 望めども茫々とはてしなく、 水辺も村落もはるかに鉄路のみが長々と続いている。

露国の北方は荒原が海よりもひろく、 あたかも陸上における太平洋のようであった。)

万里長途一物無、 唯看春草満平蕪、 車窓認得人烟密、 汽笛声中入露都。

(万里をゆく道は一物として見えず、  ただ春草の平原をみたすのをみるのみである。 車窓から人家の煙が濃密になったと思ううちに、 汽笛をならしつつ露都に入ったのであった。)

       露都滞在中所感二首

街路如網車馬忙、 紅塵深処暗風光、 燦然金色時驚目、 都是露宗天主堂。

(街路は網の目のごとく、 行きかう車馬はしきりであり、 紅塵の深くたちこめるところは風景も暗い。 燦然たる金色の建物が目を驚かす。 それらはすべてロシア正教の天主堂なのである。)

満城霞気暁如凝、 五月中旬猶結氷、 此地又驚無昼夜、 十時日没二時昇。

(市街のすべてが霞にとざされ、  暁もそのままこり固まったように思われる。 五月も中旬であるのになお氷を結ぶ。この地はまた驚くべきことに昼夜の区別がなく、 十時に日没を迎え、  二時には日が昇るのである。)

       来印河辺訪故人

満目斉山雨後新、 花光麦色已残春、 壮游未脱風流癖、 来印河辺訪故人。

(みわたすかぎりの青々とした山は、  雨に洗われて一新し、 花の色麦の色にすでになごりの春を知る。  この壮大な旅ではまだ風流心の癖がぬけ切らず、 来印河のほとりに故人(ゲーテ、シラー )の跡をたずねたのである。)

       瑞西途上即吟

緑葉森森五月天、 鉄車暁発古城辺、 従今深入瑞西地、 踏破千山万壑煙。

(緑の葉のしげる五月、汽車はあかつきに古城のあたりを発した。いまよりは深く端西の地に入り、 多くの山や谷のけぶるがごとき地を踏破するのである。)

       瑞湖風色

探勝春余沂㵎流、 瑞湖風色入吟眸、 水清樹緑山如活、 始見泰西日本州。

(風景のすぐれた地に春のなごりを求めて谷川の流れをさかのぼれば、 スイスの湖の風景が詩人の目に入る。 水は清く樹々は緑に、  山は活力にみちて、 はじめて西欧に日本の山水を見る思いがした。)

       五湖風景

雨過五湖春色研、 近山如笑遠山眠、 不知造化有何意、 画幅懸来瑞北天。

(雨があがって五湖の春景色はとぎすまされたように美しい。 近くの山はほほえむがごとく、 遠くの山は眠るがごとくもの静かにみえる。 造物主にいかなる意図があるかはわからぬが、一幅の画がスイスの北の天にかけられているように思われる。)

       巴里途上吟

瑞山雨霽夏光清、 駅路重重向仏京、 桑野麦田看不尽、  鉄車独破緑烟行。

(スイスの山は雨もはれて夏の光もすがすがしく、 鉄路はおもおもしげにフランスの首都に向かう。 桑の畑、 麦の畑が果てることなく続くのをみて、  汽車はただひたすらに緑のもやをうち破るように行くのである。)

       巴里夜景

巴里街頭夜色清、 樹陰深処電灯明、 満城人動春如湧、 酌月吟花到五更。

(巴里の市街は夜の景色も清らかに、 樹かげの深いところにも電灯が明るくともっている。 市中の人々の動きにも春があらわれ、  月に酒をくみ、 花に吟詠して楽しみつつ朝に至るのである。)

       涅毗峰 

遅日暖風渓色濃、 車窓一望洗心胸、 蘇山深処春猶浅、 白雪懸天涅毗峰。

(日藉れのおそい春の日、暖かい風に谷の色あいも濃く、 車窓より一望すれば心の中が洗われる思いがする。蘇の山々の奥深いところでは春のおとずれも遅く、白雪におおわれた涅毗山の峰が天にかけられたようにそびえている。)

       阿盆霊泉

阿盆江畔満山春、 詠月吟花且養神、 又有霊泉能医病、 年来活得幾多人。

(阿盆の渓流のほとり、  山は春に満ちみちて、  月や花を吟詠して精神を養生す。 また、  ここには霊妙なる温泉が湧き出てよく病をなおし、  いままで多くの人々を活かすことができたという。)

       詣牛董先生墓前賦呈(ニュートン先生の墓前に詣で賦呈す)

曾観墜果究天元、一代新開万学源、 身死骨枯名不朽、 永同日月照乾坤。

(かつて果物の落ちるを観察して自然法則の本源を究め    一代で新たなあらゆる学問の源を開いたのである。 身は死して骨枯れても、 名声は朽ち果てることなく、 ながく日や月と同じく天地を照らすのである。)

       詣達賓先生墓前賦呈(ダーウィン先生の廷前に詣で賦呈す)

進化唱来三十年、  一声能破万夫眠、 家禽淘汰鑑人力、 生物起源帰自然、 埋骨帝王廟前地、 留名学界史中篇、請君長臥九泉下、  誰怪偉功千歳伝。

(進化論をとなえて三十年、その論はよく万人の眠りを覚ますものであった。 家に飼う鳥の淘汰に人の力をかんがみる。 生物の起源は自然にもとづくものである。 ダーウィン翁の骨は英国王の廟前の地にあり、 名を学界の歴史の中にとどめている。ねがわくは君の永久に地下に眠らんことを。だれかその偉大な功績が千年の後に伝わることを怪しむだろうか。)

       大西洋上船中所感

輪船昼夜吐煙行、 鯤海鵬天万里程、 想起閣竜探険事、 半球日月待君明。

(外輪船は昼夜をとわず煙を吐きつつ行き、 鯤のおよぐ大海、 鵬の飛ぶ大空のもと万里をわたる。 コロンブス探険のことを想い起こす。 地球半分の歳月は君によりて明らかになったのだ。)

       新約府(ニューヨーク府)

街路如碁十里連、 層楼処処欲衝天、  通宵不断電車響、 残夜猶驚孤客眠。

(街路は碁盤のごとく十里も連なり、 高層の建物がところどころに天をつくほどの勢いで建つ。 夜を通して電車のひびきはたえず、 まだ明けきらぬ夜に孤独な旅人を驚かすのである。)

       遊自由島

建国以来已百秋、 月将日進不曾休、 自由島上自由燭、  照遍共和五十州。

(建国以来すでに百年、  その発展は日進月歩とどまることはなかった。 自由島の上の自由の灯は、 あまねく共和の五十州を照らしている。)

       暮須頓府途上吟(ボストン府途上の吟)  

昨夜辞新府、 今朝到北陲、 車窓何所見、 草野緑無涯。

(昨夜新府を離れて、 今朝は北辺の地に至る。 車窓から見えるところは何か、  それは草野の緑が果てもなく広がっていることだ。)

城市傍湖一面開、 早起先登百尺台、 波上茫茫看不見、 汽声独破暁烟来。

(市街のかたわらに湖が一面に広がり、 早起きしてまず百尺の楼台にのぼる。  湖の波の上は広々として見れども果てはみえず、 汽笛の声だけが朝もやを破って聞こえてくるのである。)

       加奈陀南部(カナダの南部)

七月加南夏漸生、 雷声送雨晩天晴、 麦田薯圃茫如海、 身在緑烟堆裏行。

(七月の加の南部に夏がようやくきて、 雷の音に雨が降り、夜空は晴れわたった。麦畑と薯畑が広々として海のごとく、この身は緑のけぶるような中を行くのであった。)

       聖得法爾(セントポール)

行尽湖西幾駅亭、 法爾城畔客車停、 朝来暑気如三伏、  雷声忽過天地青。

(湖の西に位置するいくつかの駅を行き尽くして、  法爾市に客車は停まる。 朝からの暑さは真夏のごとく、 雷の響きはたちまちすぎて天も地も青一色となった。)

       路機山即詠(ロッキー山即詠)

洛山深処暁冥冥、  雲影侵窓夢忽醒、 残雪懸天半空白、 老杉繞水一渓青、 絶無人跡渾蕭颯、  唯有風光自秀霊、今夕不知何地宿、 鉄車直下入旗亭。

(洛山の山なみの深いところは、 あかつきになお暗く、  雲の影は窓辺をさえぎって、 夢はたちまちに醒まされる。  残雪は天にかかるかのように空の半ばは白く、 老いた杉にめぐる水のある谷は背々としている。 まったく人の跡もない地はすべてものさびしく、 ただ風光にはおのずから霊妙さがある。 今夜はいずこに宿するかも知らず、 汽車をおりてそのまま居酒屋に入ったのである。)

       米国旅行中所感(長編)

独立以来歴年浅、  駸駸忽成富強基、  電気応用驚耳目、 器械工夫競新奇、 実業已能凌万国、 文芸又足圧四陲、政治平等定綱紀、 人民同権無尊卑、 汽車未設上中下、 学校豈分官公私、 斯邦前途誰得想、  恐有震動世界時。

(独立して以来、まだ年数は浅いが、 はやくも富強の基を作り上げた。 電気の応用は耳目を驚かせ、 器械についての工夫は新しくすぐれたものがある。 実業ではすでに世界の国々を超え、 文芸もまた周辺を圧するに足りる。政治は平等の規律を定め、人民は同権にして尊卑はない。 汽車は上中下の差を作らず、 学校にはなんと官公私を区分することはない。  この国の前途はだれが想像することができようか、 おそらくは世界を震動させるときがあろう。)

        太平洋帰航中所感(同船中在鉱業家及美術家)

輪船一夜辞舎港、轟轟遥向太平洋、天外雲鎖渾渺漠、檣頭風掛自清涼、更無山影入吟望、時有月光窺客牀、喜此波上甚静穏、  笑我閑中却多忙、 或説鉱業或美術、 談罷呼茶又挙觴、  勿謂五千里程遠、 従今旬余到家郷。

(外輪船は夜に舎港を出航して、 轟々たる音とともにはるかな太平洋に向かった。 天のかなたは雲がとざし、すべてが広く果てしなく、 帆柱の上を吹く風にはおのずから清涼の気がある。 そのうえ山の影すら詩人の目に入ってくることなく、 ときには月光が船客の寝台を照らす。  この波の極めて静穏であることを喜び、  わが閑中にかえって多忙なるを笑う。 なぜならあるときは鉱業について話し、 あるいは美術について語り合い、  談話につかれて茶を飲み、 また杯をあげるのだから。 五千里の航程が遠いなどはいうまい。 いまより十余日もすれば家郷に至るのだ。)

       同五律一首

輪船辞舎港、 転転上長途、 碧浪連千里、 白雲鎖四隅、 更無山影礙、 時見月光殊、 日域何憂遠、 旬余到帝都。

(外輪船が舎港を出航して、 やがて長い旅にのぼる。  みどりの浪は千里のかなたに連なり、 白い雲は四方をとざすかのようにたれこめて、  山影の一片すら見えず、 時には月光を見るのがかわったことといえる。 日本国の遠いことなぞどうして気にしようか、 十余日もすれば東京に至るのだ。)