4.南船北馬集 

第十六編〔遺稿〕

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南船北馬集 第十六編〔遺稿〕

 

1.サイズ(タテ×ヨコ)

 250×340mm(480字詰〔一部に232×157mmの便箋使用〕、および600字詰原稿用紙)

2.枚数

 総数:233

 目次:1〔「南船北馬集」第16編〕

 本文:192〔「南船北馬集」第16編、便箋20枚含む〕、40〔「静岡県巡講第1回(遠江国)日誌」〕

3.刊行年月日

 未刊

 底本:自筆原稿

4.その他

 (1) 巻頭の大正7年7月4日から21日までの「朝鮮巡講第三回(北鮮)日誌」は割愛した。

 (2) 第16編としてまとめられている原稿には朱書きで指定および推敲の筆が入っているが、最後の遺稿「静岡県巡講第1回(遠江国)日誌」には指定・推敲の筆は入っていない。また、この稿は第16編の目次のなかには入っていない。

 

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南船北馬集 第十六編

青森県巡講第一回(旧南部)日誌

 大正七年七月二十五日、午後六時、随行松尾徹外氏とともに上野発に乗り込む。乗客満室、終宵眠り難し。

 二十六日 晴れ。朝五時、仙台に停車するや、吉村善吉氏来訪あり。午前十一時半、青森県三戸郡三戸駅に着す。これより三戸町〈現在青森県三戸郡三戸町〉まで三十町、その途中に唐馬碑あり。往昔、シナよりアラビア馬を幕府へ献じきたりしとき、これを南部藩に賜りしという。爾来馬種の改良を得て、南部馬の声価を高むるに至れり。これその碑なり。午後、三戸小学校において開演す。同校は火災にかかり、昨年再築竣功、講堂は闊大なり。発起は町長北村芳太郎氏、校長山口清陽氏にして、宿所は丹波旅館とす。この日、炎暑〔華氏〕九十二度に上り、東京以上たり。郡視学大庭恒次郎氏、八戸より来会せらる。旅館の宿料を見るに、特等一円七十銭、一等一円、二等七十五銭、三等六十銭と掲ぐ。およそ朝鮮の三分の一なり。

 二十七日 炎晴。汽車にて北川村〈現在青森県三戸郡名川町・南部町〉字剣吉に移る。三戸より三里半あり。宿所は駅を去る七、八丁、旧家出町甫氏の宅なり。会場小学校はその背部の丘上にあり。その下の社側の小池は往古、田村将軍その水を見て剣を鍛えりとの伝説より地名起こりしという。この日、午後雷雨あり、のち大いに清涼を覚ゆ。夜に入りて更に降雨あり。主催は青年団、発起は村長工藤一郎氏、校長米田泰助氏等なり。

 七月二十八日(日曜) 炎晴。ただし風ありて涼し。午前、汽車に駕し、尻内にて換車し、八戸町〈現在青森県八戸市〉に至る。剣吉より四里半あり。午後、劇場錦座において一席は生徒のため、一席は公衆のために講話をなす。郡長尾上賢次郎氏出席せらる。主催は町青年団および郡教育会にして、発起は郡長、郡視学、および青年団副長稲葉万蔵氏、同顧問福田大助氏、校長岩泉亀松氏、教育会理事松原民弥氏等なり。本町は旧南部支藩の城下にして、戸数二千七百、青森、弘前に次ぐべき都会とす。余が今より二十七年前、本県を一巡せし際は、真宗大〔谷〕派願栄寺に宿泊せり。住職吉川円成氏、今なお健在なり。当地には哲学館出身者多し。高木一慰氏(中学校教諭)、福田祐記氏(旧名男児)、稲川義忍氏(新聞記者)、久慈政勝氏(旧名松原鉄太郎)これなり。八戸名物を聞くに、うにをアワビの貝殻に入れて焼きたるもの、これをヤキカゼという。カゼとはうにの方言なり。また、砂糖気のなき胡麻煎餅も名物とす。これを南部煎餅という。

 二十九日 曇り。朝来大いに清涼を覚ゆ。日中〔華氏〕七十六度。午前中に腕車にて行くこと約一里半、是川村〈現在青森県八戸市〉に入る。これ純農村なり。会場および宿坊清水寺は維新前は天台宗なりしが、明治二年、真宗大谷派に改宗せし由。その境内に観音堂あり。本尊は慈覚大師の作、本堂は左甚五郎の建築との所伝なり。門前に鳥居あるは寺院として異例とす。その地、山に接し林を擁して消暑に適す。また、静閑余りありて終日ただ蝉声を聞くのみ。よって壁上に一詩をとどむ。

車過田蹊入是川、観音堂畔老杉連、軒端一枕不知夏、林下清風冷似泉。

(人力車は田の小道をとおって是川村に入るに、清水寺の観音堂のかたわらに老いた杉が連なる。軒端でのひと休みは夏とも思えず、林の下より吹く清らかな風は冷たく泉水のさわやかさがあるのであった。)

 発起は村長東政之進氏、住職野沢静氏、助役林崎景年氏、校長平田慶次郎氏、収入役鈴木通孝氏にして、みな大いに尽力あり。昼夜、揮毫に忙殺せらる。

 三十日 晴れ。風ありて涼し。夜来の降雨、暁天に至りて収まる。はるかに杜鵑の声を聴く。午前八時、高等馬車に乗り、八戸を経て湊村〈現在青森県八戸市〉に至る。八戸と湊との間は約一里。会場は小学校、主催は本村と小中野、鮫との三村連合、発起は湊村長関春茂氏、助役湊允氏、小中野助役山田利也氏、鮫書記石田正太郎氏等なり。当夕、小中野村美野部旅館に宿す。湊より一里強、鮫海水浴場あり。避暑客多く集まる。石田旅館最もよしと聞く。この地方は岩手県と同じく、旅館の宿泊料の外に丸飯十二銭として掲ぐ。丸飯とは昼食用の握り飯をいう。

 三十一日 曇晴。暑気強からず。湊より汽車にて尻内に至り、これより四里の間馬車を駆り、午前中に浅田村〈現在青森県三戸郡五戸町〉に入り、字浅水村長坂本万次郎氏宅に休泊す。会場は小学校、発起は坂本村長と青年団長中川原貞機氏、校長小向政弘氏等なり。本日、途中にて青年が旗をたて、鼓を鳴らして田間を一過せるを見る。これ田家の虫祭りにして、害虫を駆除する旧慣なりと聞く。地勢丘山をなせるも高からず、路傍には稲田多し。本郡は養蚕いまだ盛んならず、田畑耕作をもって本業とす。南部には一戸、二戸等の町村名ありて九戸に及ぶ。そのうち四戸を欠けるが、浅田村が四戸に当たるという。しかしてその名称を用いざるは、四の字を厭忌せしによるという。また、浅水につきて一伝説あり。浅水は朝見ずより転化せし由。昔時、安達ケ原の鬼婆この地に住し、一夜のうちに人を奪い去れり。よって翌朝、ときどき人の見えざるに至ることあり。これ村名の起源と聞くも信じ難し。

 八月一日 炎晴。馬車にて行くこと約二里、高原を登りたる所に五戸町〈現在青森県三戸郡五戸町〉あり。会場は小学校、発起は高雲寺住職大竹保順氏、助役三浦梧楼氏、青年団幹事田中誠一、江渡慶次郎二氏なり。大竹氏は旧哲学館出身たり。その夕、桃喜旅館に宿す。当町は毎月七の日に市場を開く。物産として鶏卵を輸出す。助役三浦氏は子爵と同名なるはおもしろし。その風貌において、いくぶんか相似たるところあり。

 二日 炎晴。馬車にて行くこと四里半、下田を経て上北郡百石村〈現在青森県上北郡百石町〉に入る。本村は奥入瀬川の岸頭に立てる小市場なり。その川に架せる幸運橋は老朽して今は不運橋となる。会場は小学校、発起は村長三浦元次郎氏、軍人分会長村井惣次郎氏、校長永瀬佐太郎氏等なり。京北出身村井倉松氏の宅はこの村にあり。郡役所より視学清野真太郎氏ここに出張せらる。宿所は昆梅次郎旅店なり。当夕、街上に盆踊りあり。そのハヤシは単調なれども聞きとれず。校長通訳して「成にやとなされて何どやれ」を繰り返すなりという。その意味は「為せば成る為さねば成らぬ成るものを、成らぬといふは為さぬなりけり」の道歌に同じと聞く。

 三日 炎熱。駅道五里の間荷馬車に駕し、田圃と草原との間を一過す。シナ内地の旅行に似たり。中間に六戸村あり。市街の形をなす。午前中に三本木町〈現在青森県十和田市〉に着す。昔時、新渡米伝氏この地を開墾せし以来、全国各県より移住民集まりてこの市街をなせりという。今なお新渡米氏の墓には、ときどき参拝にきたるものある由。会場小学校は郡内第一の大校と称せらる。主催は町長原田鉄治氏、助役豊川毅氏、校長中山留五郎氏、宿所は金崎旅館なり。伯爵土方久元氏、当所の安野旅館に宿泊ありと聞き、講演後訪問す。同伯は、八十四歳の高齢をもって十和田湖の探勝にこられたりと聞く。その勇気敬服すべし。十和田は三本木より十二里、奥入瀬川はその湖より流下せる故、この川に沿いてさかのぼれば道路ほとんど平坦なれども、今日なお五、六里の間は腕車通ぜずという。郡長清水正澄氏もここにありて面会す。

 八月四日(日曜) 炎晴。行程三里、腕車にて七戸町〈現在青森県上北郡七戸町〉に至る。郡衙所在地なり。途中は全く新開地なるも稲田多し。七戸市街は渓谷の間にあり。ただ、会場小学校だけは丘上にあり。開会発起は町長野辺地俊夫氏、校長苫米地半次郎氏なり。篤志家工藤轍郎氏、哲学堂へ特別の寄付あり。また、旧館外員米内山瞰城氏よりも寄付あり。当夕は大重旅館に宿す。

 五日 炎晴。草原、牧野四里の間を馬車にて一走し、千曳駅に至る。これより一里の間は汽車によりて野辺地町〈現在青森県上北郡野辺地町〉に入る。千曳村には田村将軍の遺跡とて、途中に田村泉と称する清泉あり。往古、田村将軍弓の先をもって地をつきたれば、水たちまち噴出せりとの口碑伝わるという。本日、県下第一の牧場を通過せるとき、所見一首を賦す。

東奥平原望渺茫、馬過時見路塵揚、車行十里無人屋、半是農園半牧場。

(東奥の平原は一望すればかすむほどに広く、馬車のすぎるときは道に塵埃が上がるのを見る。行くほどに十里のうちに人家もなく、半分は農園、半分は牧場なのである。)

 昨日以来、郡書記鷹山胤三氏同行せらる。午後の会場は小学校、夜分の会場は曹洞宗常光寺、発起かつ尽力者は町長篠田竜夫氏、助役野坂彦治氏、常光寺、西光寺(真宗)、海中寺(浄土)、遍照寺(同)、有志野村治三郎氏、校長松内源次郎、成田常次郎二氏なり。宿所立花館は海に枕し、眺望広闊、海気清涼、消夏避暑に適す。よって即吟を楼上にとどむ。

奥北一湾風月饒、楼頭涼味夏宜消、雲封下北山難認、坐見帆光映暮潮。

(陸奥の北の湾は風月の景観もゆたかに、客楼は涼味にみち、夏の暑さを消すにはよい。雲は下北の山をかくして見えず、座して帆影の暮れなずむ海に映えるのを見るのであった。)

 楼名を潮花楼と命ず。

 六日 曇晴。海上に霧気あり。野辺地より下北郡郡役所所在地田名部町まで陸路十三里にして、車道あるも、その間馬車も人力も往復せず。強いてこれを雇用するときは多額の車代を払わざるをえずと聞き、当夕六時の汽車にて青森市浦町駅におり、浜町塩谷旅館に一休し、夜十時、南部丸の小汽船(七十トン)に駕す。客室満員、その横臥のありさまは大根漬けのごとし。室内風通ぜず、炎熱はなはだしきに加うるに蚊の襲来あり。海上濃霧のために深夜二時出航す。

 七日 曇り。朝七時、下北郡川内町に停船中、哲学館出身石沢慈興氏(旧名宇記)来訪あり。九時、大湊に着岸す。当所には海軍要港部あり。これより一里半馬車を駆り、田名部山理旅館に一休し、再び馬車に駕し、郡視学石田幸六氏とともに四里の間を一走して大畑村〈現在青森県下北郡大畑町〉に入る。その道は郡内有名なる恐山の山麓と海浜の間を一過す。路傍に牧場あり、また漁場あり。所見一首を賦す。

右望蒼溟左曠原、恐山雲鎖半天昏、潮風声裏浜頭路、一過漁村入寺門。

(右に青い海原を望み、左には広々とした原を望む。恐山の雲は空の半ばをとざしてくらい。潮風の音たてて吹く浜べの道を行き、漁村をよぎって寺の門に入ったのであった。)

 大畑の会場は真宗大〔谷〕派正教寺なり。住職竹園義亮氏は開会につき大いに尽力あらる。発起は竹園氏の外に村長宮浦力四郎氏、郡会議長森又四郎氏、信用組合長佐藤佐五郎氏、青年団長菊池察玄氏等なり。この日、清冷にして暑気を覚えず。本村は漁業者多く、昨今すでに名産の一たる烏賊の漁期に入るという。これより海峡を隔て函館に対するをもって、北海道出稼ぎ者多しと聞く。これより八里にして大間崎あり。下北半島の最北端なり。北海道の対岸へ海上わずかに六、七里に過ぎざる由。恐山の登路は大畑よりも田名部よりも同じく三里と称するも、大畑の方、道路平夷なりという。山上に地獄と極楽とありとてその名高し。地獄は山上の湯気の噴出する所、極楽は湖水ありてその浜の白砂洗うがごとく清浄なる所を指すとのことなり。旧南部領の人は死後必ずここに至ると信じ、生時に必ず登拝すという。余はその言を聞きて一絶を賦す。

峰頂風物自恢洪、世事関心忽作空、誰道天堂冥府遠、歴然近在此山中。

(恐山の峰の風物はおのずから広く、世の事への関心はたちまちに空しいものとなる。だれが極楽世界や冥土が遠いなどといおうか。いまはっきりと近くのこの山中にあるのである。)

 当夜の宿所は郵便局兼旅館なる槙屋なり。

 八日 雨。朝気冷ややかにしてフランネルを要す。午前中に馬車にて田名部〔町〕〈現在青森県むつ市〉へ帰り、午後、丘上に立てる小学校において開会す。郡長小西為助氏は回村中にて面会するを得ず。町長菊池門五郎氏、校長石井穣氏、円通寺、徳玄寺、浄念寺等の発起にかかる。田名部は維新の際、会津藩の移転を命ぜられたる地なり。これより野辺地まで数年中に鉄道全通すべしという。当地にて恐山の不思議を聞くに、山上に円通寺の出張所ありて、数百人止宿するを得。その他にも宿舎あれば、毎年七月二十四日には数千人登山してここに通夜すという。その湖畔に賽の河原と名付くる所ありて、小宇に地蔵尊を安置す。毎夜自然に小石の積まるるあり。夕刻ここに至りてその積石を崩すも、翌朝元のごとく積まるるは不思議の一なり。宿坊にありて、深夜地蔵尊の錫杖を鳴らす音を聞く。これ不思議の二なり。夜中降雨あれば、翌朝必ず堂内の地蔵尊の衣が雨にぬれているは、その三なりと聞く。登山者は大抵、前日より精進潔斎をなすという。

 九日 曇り。田名部より馬車によりて大湊に至り、これより陸路五里の間海路をとり、東北丸にて川内町〈現在青森県下北郡川内町〉に着す。休泊所は安部城鉱山持ち主田中平八氏の別荘なり。食事は季富旅館より送りきたる。会場は劇場にして、発起は町長谷山成章氏、校長三浦清磨氏、泉竜寺、多善寺、憶念寺、本覚寺等なり。憶念寺石沢慈興氏は最初より本郡の開会に大いに奔走尽力せられたり。これより十余里を隔つる佐井村より石沢寂良氏きたりて助力あり。郡内の真宗寺院は大抵みな石沢を姓とすという。

 十日 朝霧のち晴れ。午後、川内を発し、土呂車にて渓上をさかのぼること一里半、安部城鉱山に至る。途中、群虻襲来す。この地方は虻の名所にて、室内へもときどき襲撃しきたる。民間にては虻の多き年は必ず豊作なりとて、これを歓迎すという。虻が豊年の瑞兆とははじめてこれを聞く。休泊所は鉱山倶楽部、会場は娯楽館、発起は所長高橋芳雄氏、課長山田脩太郎氏、および秋元雄次氏なり。しかして講演は夜会なり。

 八月十一日(日曜) 炎晴。午前中に安部城を発し、川内町にて少憩して汽船南部丸に移り、宿野部村〈現在青森県下北郡川内町〉に上陸し、これより一里余を土呂にて走り、正午を過ぎて同村字西又鉱山に着す。持ち主は安部城に同じ。当夜、劇場にて開演す。発起は美濃部甲子郎氏、宇治清三郎氏等、宿所は関陽館なり。

 十二日 炎熱。日中〔華氏〕九十度に達す。午前、土呂にて走ること約十町、大正鉱山に移る。午後驟雨一過するも、炎驟夜に入りて去らず。休泊所は所長道野能迩氏の宅なり。会場は事務所内にして、晩食後講演をなす。発起は所長の外に小田桐辰蔵氏、工藤歳太郎氏とす。津軽の名物七夕祭り、これをネブタという。近年は南部地方にも伝播し、昼夜山車〔だし〕を引き回し、盛んに騒ぎ立つるを見る。一昨日来三カ日間、郡内の鉱山を巡講して所感一首を浮かぶ。

路与渓流共作彎、黄煙騰処是銅山、仙源今日化都会、車馬朝昏忙往還。

(道と渓流とはともに弓なりに曲がる。黄色い煙のあがるところは銅山である。仙人の住むような地は、こんにちは都会と化し、車馬は朝も暮れも忙しく往来しているのである。)

 石田視学は当所まで同行せらる。本郡は九カ町村にして、学校は分教場をあわせ五十五校ありという。

 十三日 朝雨のち曇り。暑気薄し。宿所より海岸まで一里余を土呂にて走り、正午乗船、午後三時、青森市に着す。石沢氏はわが行を送りてここに至る。市内は名物ネブタの最終日にして、山車の前後仮面をかぶり、仮装をなして相従う。その状ほとんど狂するがごとし。川内にて舟子が舟を漕ぐときの掛け声がイーヤセー、ゴーラヘーと繰り返し繰り返し、互いに調子を合わすはおもしろし。下北にて聞くに、南部の名物はへである。一のへ、二のへより九のへまでありて、なおその補助として尻がたくさんある。尻内、尻屋崎、尻労(みな地名)、最後にクソドマリがあるという、また奇ならずや。尻労をシッカリとよむ。普通語のシッカリセヨなどは尻に力を込むることにて、尻労の意なるやも計り難し。クソドマリは文字の方は九艘泊とかくも、読み方はクソドマリなり。その地名は宿野部の海岸にあり。これ下品の話なれども一笑にあたいす。青森の宿所は塩谷旅館なり。旧友平沼淑郎氏と期せずして会す。この日、県視学能登谷甚五郎氏、視学官に代わりて来訪あり。

 青森県下の旧南部と称する方面を巡了したれば、その地方の方言を記せんに、その中には他方面に共通のものも加われり。牛をベコ、蛙をビキ、ヒキガエルをモラビキ、飯を盛るシャモジをヘラ、鉄瓶をカマコ、農夫の編み笠をバオリ、ジャガ芋を二度芋、暑いを暖カイ。下北郡の下等社会は父をダダ、母をチチと呼ぶ。母をチチというは奇なり。乳よりきたりし語ならんとの説あり。赤児の生まれたることをニガナシタという。ナシタは産出の義なり。語尾にオマヘを付くることあり。例えばソウダオマヘというときのごとし。また、上北郡にてはセとヘの相違あり。例えば兵隊をセイタイといい、煎餅をヘンベイというがごとし。青森県にては町内の各戸に軒下の通路あり。越後にてこれをガンギというが、本県にてはコミセという。海岸に生ずる草にて、方言ニオと名付くるものあり。子供はこれをとりて食す。甘味ありという。旅宿につきては、本県は岩手県のごとく旅館と料理屋との兼業を許さざるは大いによし。下女は気がきかざるも質樸なるはまたよし。客室の風通し悪しく、室ごとに炉または大火鉢を置くがごときは、冬に適するも夏に適せず。ビールは物価騰貴のため、関西は大瓶一個四十銭なるが、本県は三十五銭なり。茶は旅館まで比較的上等の品を用う。

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南船北馬集 第十六編

青森県巡講第二回(旧津軽)日誌

 大正七年八月十四日 晴れ。昨夜来、青森市〈現在青森県青森市〉に入宿せしにつき早朝、知事川村竹治氏、内務部長児玉孝顕氏、視学官山中恒三氏を歴訪す。午後、新町小学校において開催せられたる市教育会に出講す。発起は会長工藤卓爾氏、副会長窪田春吉氏、幹事大平勝郎氏なり。市長阿部政太郎氏にも席上にて面会す。青森大林区署に在勤せる石塚茂孝氏は、東洋大学出身の縁故をもって当地開会に非常の尽力あり。演説後、晩六時半発にて東津軽郡中平内村〈現在青森県東津軽郡平内町〉字小湊に移り、夜会に出演す。会場および宿所は真宗泉流寺なり。聴衆満堂、その中に婦人の数男子よりも多きことと、念仏の声の演説中にときどき起こることとは、当夕の特色と認む。住職無井霊瑞氏は先遊の際、各所へ案内せられたる旧識にして、今回も大いに奔走あり。故に余は特に「無井而汲法水、無鋤而耕仏田、是即霊瑞不可議也」(無井〔井戸もない〕なのに仏法の水をくみ、鋤なくして仏教の田を耕す。これはすなわち霊瑞〔霊妙なめでたいしるし〕であること、議論の余地はない。)と書して氏に贈る。

 十五日 晴雨不定。午前、小湊曹洞宗東福寺において開演す。発起は村長森田盛健氏、校長種市有隣氏なり。これより汽車にて青森市に帰る。この里程七里の中間に浅虫温泉あり。先遊の節入浴せしに、極めて田舎式の客舎のみなりしが、今は全く面目を一変せり。東奥館、仙波館等あまたの旅館あり。青森に着するや塩谷旅館にて午餐を喫し、これより矢のごとき一直線の道路、一里余を車行して荒川村〈現在青森県青森市〉に入る。これを監獄道路と称す。本村に監獄署あるによる。会場は小学校、主催は荒川、大野、高田三村連合なり。荒川村長桜井文吉氏は、青森よりここに案内せられたり。典獄島田★(釒+敕)太郎氏および郡視学荒谷元一氏、出席せらる。東津軽郡長は藤原喜蔵氏なり。演説後、暫時茶話会し、ただちに哲学館出身柿崎平造氏の案内にて青森経由、油川村〈現在青森県青森市〉に至り、村長西田林八郎氏の宅に投ず。行程二里半、市外万頃の米田は往々すでに穂を吐きつつあるを見る。

 十六日 晴雨不定。午後、油川小学校において開演す。村長西田氏および校長佐藤良則氏の発起なり。西田村長は、事業家にしてかつ篤志家をもってその名高し。すべて公共事業には率先して力を尽くさるるという。本村は青森の根元地にして、今より二百七、八十年〔前〕までは北海道へ出入する要港なりしという。目下は外人の経営にかかれる鰯の缶詰を製造する工場あり。

 十七日 雨。朝、馬車にて西田氏の宅を発し、約一里、新城駅に至りて汽車に駕す。そのつぎに大釈迦と名付くる駅あり。奈良の大仏駅と好一対なり。午後、南津軽郡浪岡村〈現在青森県南津軽郡浪岡町〉小学校において開演す。村長岡田清平氏、主として大いに尽力せられ、その他海老名行氏、土屋俊蔵氏、岩谷節氏、寺山祐雄氏、平野喜太郎氏、山内英七氏等十三名の諸氏みな助力ありて、哲学堂維持金も望外の多額を拝受するに至る。宿所玄徳寺は真宗大谷派なり。当夕、虫声を聞きて所感一首を賦す。

津軽平野路縦横、稲田抽穂覚秋生、朝来風雨涼俄起、一夜客庭虫有声。

(津軽の平野の道は縦横にはしり、稲田には穂が出でて秋の気配をさとった。朝からの風雨に涼味がにわかに起こり、一夜の宿の庭に虫の声をきいたのであった。)

 岡田氏は哲学館の関係者上、先遊の際も奔走の労をとられたり。

 八月十八日(日曜) 晴雨不定。午前、浪岡を発し、川辺駅まで汽車、これより約三十町の間腕車をとりて、藤崎村〈現在青森県南津軽郡藤崎町〉に至り、午後小学校に開演す。村長藤本栄氏、校長千葉有定氏、教育会理事福士義光氏、副会長小笠原保雄氏等の発起にかかる。本村は真宗寺院称名寺ほか数カ寺あるも、ヤソ教信徒も少なからず、種々の宗教信者ありと聞く。演説後ただちに車をめぐらす。四望一面稲田なり。川辺より軽便に駕し、郡役所所在地たる黒石町〈現在青森県黒石市〉に入る。当夜、真宗感随寺において開演す。仏教洪済会の主催にて、住職穴水義鎧氏、来迎寺小鹿秀明氏、保福寺山口覚明氏、および法眼寺、円覚寺、長寿院の発起にかかる。なかんずく小鹿氏中心に立ちて非常に奔走尽力せらる。宿所は岡崎旅館なり。

 十九日 晴れ。早暁、旅館の三層楼より回望するに、岩木山と八甲田山との左右に勇ましく頭肩をそびやかせるを見る。午前、郡長松下賢之進氏来訪せらる。当日は旧七月十三日にして町家、寺院ともに繁忙を極む。故に午後、小学校において郡教育会のために講演せるも、聴衆いたって少なし。発起は郡長の外に町長山田文弥氏、校長大平喜三郎氏なり。当地にて盆の馳走を聞くに、赤飯とヤキ豆腐とモヤシとを用うという。モヤシは豆のモヤシにあらずして、蕎麦のモヤシなり。その味すこぶるよく、賞味するのあたいあり。夜に入れば、みな墓参をなす由。

 二十日 曇り。郡視学杉森秀一郎氏不在なれば、郡書記千葉恒之進氏各所へ同行せらる。午前、車行二里半、大光寺村〈現在青森県南津軽郡平賀町〉松崎小学校に至りて開演す。青年団長須々田孫九郎氏の発起なり。午後、車行約一里、柏木町村〈現在青森県南津軽郡平賀町〉小学校に移りて開演す。教育分会長工藤友太郎氏の発起なり。この両村は純農村にして、米作を本位とす。演説後、更に腕車を進むること一里余、丘山の間を漸次登りつつ竹館村〈現在青森県南津軽郡平賀町〉字唐竹相馬貞一氏の宅に至る。その宅はこの地方の旧家にして、庭園の老樹巨石、その配置雅にして趣あり。今夕旧盆十四夜に当たり、街上の盆歌相伝えて客席に入る。ときに微雲淡月なり。

一夕山荘養旅情、青松白石満庭清、朦朧月下聞歌曲、便是津軽盆踊声。

(一夜、山荘に旅の心を養う。青い松に白い石を配して、庭すべてに清らかさが満ちている。おぼろ月の光のもとに盆歌が聞こえてくるのは、すなわち津軽の盆踊り歌なのである。)

 津軽は盆踊りの名所として世に知らる。東洋大学出身者の一人たる相馬栄造氏は貞一氏の舎弟なるが、不幸にして隔世の人となられしにつき、当夕その宅において追弔の講話をなし、かつ遺像に左の語句を題す。

修学吾校、業成帰郷、心有所期、前途悠長、事与志違、身臥病牀、天何無情、君遂夭殤、予対遺像、茫然自傷。

(わが校に学業を修め、卒業して故郷に帰る。心にきめたことがあり、前途は遠く広いものであった。しかるにこと志にたがい、身は病床に臥すこととなった。天はなんと無情であることよ、君はついに若死にす。予は君の遺影にむかい、茫然としてかなしむ。)

 二十一日 晴れ。午前、唐竹小学校において開演す。村長相馬清助氏、軍人分会長丹代義男氏、校長藤林多三郎氏の発起にかかる。本村は林檎の本場、その産額一カ年七万円と称す。樹一株につき七、八百ないし一千個を収得すという。村内村外ほとんど檎樹をもって満たさる。

一過稲田入紫微、満林珠玉暑余肥、山村生産培檎樹、売果年々購食衣。

(稲田をよぎって紫微に入れば、林は珠玉のようなりんごに満ち、暑さのなかに大きくなってゆく。山村の生産はりんごの木を育てて、果実の利益は年ごとに上がり、衣食の費にゆたかにあてられているのだ。)

 午後二時、唐竹を発し、車行二里半、大鰐村〈現在青森県南津軽郡大鰐町〉小学校に至りて開演す。教育分会副長原源吉氏、青年団長今良健氏等の発起にかかる。当所は県下第一の温泉場たり。昨年火災にかかりしも新築たちまち成る。休憩所は工藤旅館なり。その館は江流に臨みて清風座に満つ。湯殿および便所の設置すこぶる清新にして、当所第一の旅館たるの名に背かず。この外に大鰐ホテルあり。これに次ぎて金森等数戸あり。名物は林檎とアケビ細工なり。晩食後、旧七月十五日の明月をいただき、三里の間汽車にて弘前市〈現在青森県弘前市〉に移る。車窓吟一首あり。

半日偸閑浴鰐泉、初更戴月向弘前、満天如昼清輝漲、望裏分明認倒蓮。

(半日ほどは時間をもうけて、大鰐温泉に浴し、夕暮れに月を頭上にして弘前に向かった。天空のすべては昼のごとく清らかな輝きにみち、じっと望み見るうちに、明らかに津軽富士の姿をとらえたのであった。)

 倒蓮とは岩木山すなわち通称津軽富士をいう。宿所石場旅館は駅より半里あり。旧遊当時の宿泊所なり。これに次ぐものに斎藤旅館あり。

 二十二日 晴れ。午前、物産陳列所を一覧し、名物の漆器、アケビ細工を購入す。午後、仏教護国団の主催にて開催せられたる開会に出演す。会場は公会堂なり。昨今は米価暴騰一升五十銭を呼ぶに至り、各所に貧民暴動ある際なれば、公会堂において米穀を安価にて売り渡すの広告あり。当市発起は左の数氏なり。

最勝院鷲尾照尭  長勝寺山口彰真  報恩寺小林道詢  法立寺八戸随静  円明寺下間芳山

天徳寺相馬励雄  分監長三浦一三

 以上の諸氏は一方ならざる尽力あり。市長石郷岡文吉氏も助力せらる。哲学堂維持金のごときは全国無比の多額を拝受す。その結果はただに青森県において第一たるのみならず、一カ所一日間の開会として実に空前の最好成績を得たり。これ発起諸氏に対し深くかつ大いに感謝するところなり。当市にてはあらかじめ法立寺内に井上博士招聘事務所を設けられ、住職八戸氏その主事となりて、百方尽瘁せられたるは特にその労を謝せざるを得ず。あまり賛成者多数に上りたるために、未明より深更まで揮毫に忙殺せしめられたり。

 二十三日 曇りのち雨。午後一時、弘前を発し、旧城跡今公園を一覧す。満池の蓮花まさにたけなわなり。これより車行一里にして中津軽郡大浦村〈現在青森県中津軽郡岩木町、弘前市〉に入る。会場は小学校、主催は河西倶楽部、発起は倶楽部幹事高谷英城氏(船沢村)、大浦村長斎藤普策氏、駒越村長柴田益太郎氏、岩木村長須藤市右衛門氏、船沢村長前田良直氏なり。橋雲寺住職手塚智猛氏および在京中なる野崎栄氏もともに尽力あり。宿所は郵便局長五十嵐長晴氏宅なり。夕刻、村内の某料理店において慰労会を設けらる。本村の特産はアケビ細工にして、その産額一年六、七万円という。本村は県下第一の名山岩木山に登る本道に当たる。毎年旧七月二十八日より八月十五日までの間は、白衣の行者群れを成して登山すという。

 二十四日 晴れ。馬車にて弘前を経、北津軽郡板柳村〈現在青森県北津軽郡板柳町〉に至る。行程四里、稲田全部出穂せり。人みな豊年を歓呼す。会場小学校は増築工事中なり。主催は青年会、発起は会長竹浪集造氏、校長笹惣太郎氏、村長吉村文蔵氏、正休寺住職高沢徹蔵氏、六郷校長工藤大成氏等にして、みな大いに尽力あり。晩食後、馬車を駆ること一里半にして小阿弥村〈現在青森県北津軽郡板柳町・鶴田町〉に入る。純農村なり。小学校において夜会を開催す。主催は同窓会、発起は村長安田常三氏、助役田沢三郎氏、校長高嶋徳太郎氏、訓導工藤金助氏等にして、いずれも尽力あり。宿所は工藤長吉氏宅なり。その家、水車および雑貨を兼業とす。この夜、明月天にかかり、清光空に満つ。旧七月十八日に当たる。

 八月二十五日(日曜) 晴れ。車行三里、北津軽郡五所川原町〈現在青森県五所川原市〉に至る。板柳とともに曾遊の地なり。この辺りは津軽平野の中心に当たり、山遠く田ひろく、津軽七十万石をこの間より産出す。不日、鉄道の開通を見るに至らん。会場は公会堂、発起は町長佐田正之丞氏、校長坂本紋作、釜萢彦作両氏、玄光寺住職柿崎智恩氏、青年会総代外崎千代吉氏等なり。この日、招魂祭余興の時間と衝突し、聴衆比較的少なし。郡長見坊田靍雄氏の代わりに、視学笹井正太郎氏訪問あり。宿所古一旅館にて望むに、今夕も一天片雲なく、明月皓然たり。

 二十六日 快晴。昨今は朝〔華氏〕七十度、昼〔華氏〕八十度ぐらいの気候となり、暑気しのぎやすし。午前、腕車にて稲花香裏を一過して金木村〈現在青森県北津軽郡金木町〉に至る。里程三里、一望無涯すべて稲田なり。その一部分は実すでに成りて頭を垂るる。平田の広闊なるありさまは庄内以上にして、越後蒲原郡内を一過するがごとき観あり。背視すれば津軽富士の高く半空にかかるを望む。その形改まりて円錐状をなす。よって一詠す。

平野無涯闊似州、稲花香裏路悠々、回頭岩木山容改、峰角衝天北郡秋。

(平野は果てしなく広く越後蒲原の地に似て、稲の花の香りにつつまれた道がかなたにのびている。ふりかえって見れば岩木山の姿もかわり、峰の一方は天を突くかと思われる北津軽の秋である。)

 途中、村社の祭礼あるを見る。各町村、各部落より青年輩が大太鼓をかつぎきたりてここに集まる。聞くところによるに、津軽地方にてはときどき太鼓の競打会ある由。祭礼の余興にこれを行う。江州愛知郡内に各村競って大太鼓を備うる所あるも、相集まりて競打をなすにあらず。よって競打会は津軽名物に加えて可なり。金木にては午後一時、宿坊南台寺において修養講話をなし、引き続きて第一小学校において国民道徳の講演をなす。更に夜に入りて、宿寺にて日曜学校生徒に対して談話をなす。その生徒みなよく真宗の正信偈を諳記し、仏前において異口同音に高唱す。すこぶる殊勝なり。発起かつ尽力者は住職生玉慈照氏、助役高橋良三郎氏、校長羽賀猛雄氏とす。高橋弥左ヱ門氏、高橋昌五郎氏、中村喜徳氏、木村園男氏も助力あり。当地は市街の形をなす。五所川原以北の都会なり。名物としては虎屋のシソマキあり。これを甘露梅という。終宵虫声喞々、秋味津々たり。

 二十七日 暁天、驟雨一過のち晴れ。車行三里半にして内潟村〈現在青森県北津軽郡中里町〉に達す。その地、一方丘山を控え、他方十三潟に浜す。半島の北端なる小泊に至る駅道に当たる。小泊まではなお六里あり。また、これより一嶺を越ゆれば三厩に至るべし。三厩は源義経、北海道に渡りし地として知らる。その村の義経寺に当時の遺物ありという。内潟会場は小学校、主催は役場、発起は村長奥田順蔵氏、役場員、各校長なり。奥田氏は村治改良に熱心なりと聞く。当夕は民家野上丑松氏の宅に宿す。戸前に盆踊りあり。越後の踊りと大同小異なり。津軽にては盆七日と称し、十四日より二十日まで踊るという。村内戸数約六百ありて一寺なきを特色とす。

 二十八日 炎晴。小舟に駕して十三潟を渡る。十三の江流集まりてこの潟をなせるより、その名を得たりという。周囲六里、長さ二里強、幅一里弱、州多く芦茂る。その水底に古城市ありと伝う。今より八、九百年前、土地陥落して城市ともに水底に入りしもののごとし。桑海の嘆なきを得ず。近年、浅渚を埋めて米田とす。舟中吟一首あり。

舟破十三湖上烟、波平風静棹声円、農村今日勤開墾、浅渚逐年為美田。

(舟は十三湖上にただようかすみをやぶって行く。波もなく風は静かで、かいの音もおだやかである。農村は、こんにち開墾に努力しており、水の浅いなぎさ近くは毎年のように美田に生まれかわっているのである。)

 一棹三時間にして西津軽郡十三村〈現在青森県北津軽郡市浦村〉に着す。本村は海口にありて、維新前までは津軽の要港なりしが、その後ようやく衰え、ことに東北鉄道開通以来大打撃を受け、船舶の出入なく、物産の集散なく、全く寒村となれりという。その地は湖海の間に挟まれる帯のごとき砂原にして、耕すべき田畑なければ、主として北海道の出稼ぎをもって生計を立つる由。会場は小学校、発起は村長横岡秀雄氏、校長大橋勇吉氏なり。郡視学小浜嘉七氏は自転車にて鰺ケ沢より十里余を一走してきたり会せらる。宿所今石旅館は日本海に向かいて開き、万里一碧、波光軒に入る。一絶を賦して壁頭に題す。

西郡尽頭登海楼、潮風洗暑冷於秋、万波一碧無遮目、夕日沈辺是露州。

(西津軽の地の果てに、海辺に近い旅館の階上にのぼる。海からの風は暑さを洗い流して秋よりも冷たい。打ちよせるすべての波がみどり一色に、一望して目をさえぎるものはなく、夕日の沈むあたりにあるのはロシアである。)

 楼頭より望むに、三里を隔てて海中に突出せる巌岬を認む。これ権現崎なり。その岬外に小泊ありという。当地にてはむかしより、蚊三匹生じたる年は豊年なりといえりと聞く。暑気の強きを意味するなり。近年衰微に伴って年々蚊の増加を見るに至るという。

 二十九日 炎晴。荷馬車に駕して十三村を発し、約七里の間を四時〔間〕半を費やして出精村〈現在青森県西津軽郡木造町〉に入る。途中は林巒と稲田の間を通過し、すこぶる無趣味なるも、当面に岩木山の尖峰の屹然たるを仰ぐは目をたのしましむるに足る。本日の暑気〔華氏〕八十六度、例年になき残暑なりという。会場は小学校、発起は村長高橋佐太郎氏、助役白戸平胤氏等、宿所は福島直三郎氏宅なり。本村は米作一方の農村にて畑地に乏し。一反歩の収穫平均四、五俵、そのうち小作料は二俵ぐらい、売買価額は二百円ないし三百円なりと聞く。村内水田のみなれば、民家の燃料乏し〔き〕をもって、サルキを用う。サルキは泥炭のことにて、五所川原以北の地下より掘り出だすものなり。草と泥との混結せるもの、これを薪炭に代用す。一種の臭気あるも、常用せるものはその臭を感ぜずという。その形は煉瓦よりも少々大形なるが、燃料騰貴のために一個一銭五厘ぐらいなる由。夜に入りて、隣家に砧声盛んに起こる。各戸より洗濯物の乾きたるを持ち寄り、少女が木盤の上にて槌をもって打つ。全く朝鮮式なり。このサルキと砧とは、これまた津軽の名物に算入すべし。

 三十日 曇り。車行約一里にして木造町〈現在青森県西津軽郡木造町〉に入り、公会堂において夜中開演す。発起は助役福士徳弥氏なり。これまた曾遊の地なれども、旧識と相会せず。旅館葛西館の浴室および便所は珍奇無類なり。雪中用の藁靴、方言〔の〕権平ツマゴ等を購入す。

 三十一日 晴れ。午前、公会堂において婦人会のために一席の講話をなし、ただちに車行一里強、森田村〈現在青森県西津軽郡森田村〉に移る。岩木山麓に接する村落なり。資産家の多きは県下第一と称せらる。会場は小学校、発起は村長島田惣作氏なり。しかして宿所は浄土宗浄業寺なり。昨今は堆肥用野草を刈る最中にて、聴衆いたって少なし。

 九月一日(日曜) 晴れ。車行三里余、郡役所所在地たる鯵ケ沢町〈現在青森県西津軽郡鯵ケ沢町〉に至る。本町は丘陵と海湾との間に細長く横たわれる市街にして、舞戸村と相連なり、市街の長きこと一里半に及ぶ。はるかに水天の間に北海道の山影を望む。午後、小学校、夜分、宿所来生寺において講話をなす。学校の方へは郡長酒井隆吉氏も出席せらる。住職園村義制氏は真宗大谷派の賛衆にして、活動家なり。今回も大いに尽力あり。主催は園村氏の外に、町長尾崎有隣氏、会社員園村義典氏、町会議員三橋洋氏、有志小山内健太郎氏、校長小山内鉄之助氏、町会議員富所忠次郎氏、助役中村皓氏、同長谷川哲郎氏にして、哲学堂維持金につきては弘前に次ぐべき大好成績を見たり。これ発起諸氏に深謝するところなり。先年ここに宿せし際は盆踊りの最中にて、終宵安眠を得ざりしことを今なお記憶す。当町の名物は難波煎餅と称し、満面砂糖を塗りたる煎餅なり。

 二日 晴れ。馬車にて約十里、海浜に沿い西北に向かいて走る。右には日本海の渺茫無際を望み、左には丘山の起伏せるを見る。中間の金木に一茶店あり、昼食を喫了す。深浦村〈現在青森県西津軽郡深浦町〉に入らんとするとき、夕陽すでに海中に沈む。十里の行程に八時間半費やせり。この間には大戸崎および吾妻の奇勝あり。あるいは巨岩海中に突出し、あるいは平岩の千畳敷きを成し、あるいは巌壁の屏立せる景色なり。途中に驫木の地名を見る。これをトドロキと〔よ〕む。珍名なり。車上吟、左のごとし。

車行十里度仙関、路在蒼烟碧浪間、背視秋天雲断処、一青影是北門山。

(馬車をはせて行くこと十里、仙人の住む里の入口に至る。道は青いもやとみどりの海の間を行く。背後を見れば秋空の雲間に、青い山影があるのは北の大地の山々である。)

 深浦は小湾深く入りて和船の避難に適す。汽車線路まで約二十里を隔つ。故に村内には汽車を知らざるもの多し。老男老婦は、汽車は汽船と同一の形を有するものと思うという。最初、汽車を陸〔おか〕蒸気と称せしより起こせる想像なり。東京〔の〕新聞は三日間、青森〔の〕新聞は二日目に着する由。実に大正の仙郷なり。開会は夜分、会場は小学校、発起は村長佐藤幸一郎氏、校長野呂喜代吉氏、僧侶今大路観梁氏等なり。当所の円覚寺は真言宗にして、有名の観音あり。海浦義観氏その住職なり。宿所秋田屋の掲示を見るに、宿泊料一等一円五十銭、二等一円十銭、三等八十銭、握り飯十銭、酒一本につき上方酒二十銭、大山酒(庄内)十七銭、地酒十四銭とあり。湯代は五銭、斬髪は十五銭、按摩は二十五銭と聞く。

 三日 曇り。午後大雨きたる。午前中に荷馬車に駕し、一嶺を上下して岩崎村〈現在青森県西津軽郡岩崎村〉に入る。登路一里、降路一里、その間に満庵〔マンガン〕鉄採出所あり。鰺ケ沢よりここに至るの間、山田みなすでに実を結べり。会場は小学校、発起は村長大屋重兵衛氏、校長小山内平内市氏、宿所は青年団長七戸藤之助氏の宅なり。郡役所より郡書記須田定雄氏、わが一行を送りてここに至る。

 四日 晴れ。早暁、荷馬車にて岩崎を発す。津軽の荷馬車はかまぼこ形の日よけありて、シナの客馬車に似たり。国界まで五里の間に奇洞二あり。その一はガンガラ穴といい、その二は仙北穴という。伝説によれば、むかしこの岩洞へ犬を追い込みたるに、その犬秋田県の仙北郡に出でたるより仙北のこの名称起これりという。二洞ともに海岸の断崖中にあり。また、渓流をさかのぼりたる所に日グラシと名付くる絶勝あり。人きたりてここに遊べば、日の暮るるまで去ることあたわずという。岩崎より国界まで五里、本郡は延長二十五里あり。国界にそびゆる白神山は、八甲田山、岩木山とともに県下の三大高山をもって知らる。国界より更に行くこと三里にして、秋田県山本郡椿鉱山〔八森村〈現在秋田県山本郡八森町〉〕に達す。この日、行程八里、休泊所は鉱山迎賓館なり。その館は海浜に立ちて、海山の眺望、鬱を散ずるに足る。当夕、宿所において講話をなす。所長八木章香氏は不在と聞く。庶務課長田村与之助氏および同課三輪和佐吉氏、諸事を斡旋せらる。鉱山事務所の名称は八盛鉱業所なり。椿の村名八森なるに基づく。本郡長荒田読之助氏は七、八年前、愛媛県にて相識となれり。視学鹿子畑秀重氏は三年前、十和田湖を案内せられたる旧知なり。視学はわざわざこの地にきたりて歓迎せらる。本日の車上吟一首を左に掲ぐ。

一路乗風入羽州、蝉声草色已催秋、海中何物蒼然立、不問自知雄鹿洲。

(一路、風にさそわれるようにして羽後の地に入った。蝉の声や草の色にもすでに秋の気配が見える。海中になにものか青々として立つものがあるが、きくまでもなく男鹿半島なのである。)

 五日 晴れ。早朝六時半、椿を発し、馬車にて行くこと五里、能代港町に着し、九時四十分発に乗車。秋田、山形経由、六日朝七時、上野に着す。

 津軽巡講中聞き込みたる名物盆踊りの俗謡二、三を左に採録せん。

  テタナ(出穂のこと)カヾダナ(穂のかがんだこと)前田の早稲よ、出タシ屈タシ苅るばかり。

  トダバ(いかにかの意)家このテデァ(父)山降りせねやァな、十日や二十日で山おりならねや。

  アベジヤ(行こうじゃないかの意)此の馬こ苗代地かぐに、行けば柳の若萌かせる(食わせる)。

  夕べ見た夢ァてんぽな夢だ、奈良の大仏様鳶ァさらた(鳶にさらわれたの意)。

  岳の白雪ァ朝日で融ける、とけて流れて吉田の川へ(岩木山の麓を流るる川の名)。

 その他、方言の加わらざるものに「高い山から谷底見れば、瓜や茄子の花盛り」、また「雨の降る様に銭金ふれば、野でも山でも倉たてる」等種々あるも、ここに略す。

 つぎに、方言につきて特殊なものを挙示するに、

蛙をモツケ、蝶をテコナ、猫をチヤッペ、蜻蛉をタンブリ、編み笠をトコマンボー、羽織をバオリ、虎杖〔いたどり〕をサシト、子供をモツケまたはワラシ、母をアッパ、父をテデ、子守をアダコ、物のはじめをショウジト、砧をジョウバ、巫女をイタコ、中座(神寄せ)をヨリ祈祷、若き女をメラシ、若き男をワカゼ。

 その他、ヤカマシイことをセワシイ、例えば波の音のヤカマシイを波がセワシイという。大層をジヤッキといい、トンチンカンをビコタコといい、耳語をヨダコといい、そこつをトンテキ、立腹をエセルといい、サビシイをシゲナイ、気持ちのよいことをアズマシイという。

また、ビックリ驚天転倒したというところを、ワイハ、ドンデン、ブチマケタという。ここに一話あり。青森県人が東京へ出ずるとき、東京にては物名の下にコを付くると笑わるるから、付くるなと注意せられば、その者東京にきたりて、キナコを買わんと思い、乾物屋に行き、キナはないかと尋ねたりとの奇談を聞けり。つぎに迷信につきては、疫病流行のときに念仏を唱えて道路を歩き回るという。また、大火のときには防火のマジナイとして、婦人の腰巻きを竿につけて振り回すという。また、葬式を出だすに丑の日を嫌うという。狐つきを信じ、巫女を信じ、病人のタマシイが遠方の親戚、友人の所に至りてその姿をあらわすものと信ず。西津軽郡に車力村あり(十三村に接近す)。その字牛潟の三五郎稲荷は非常に信者多く、毎年旧三月十日には数万の参詣群集をなす。みな病気を祈り福寿を願うためなりという。また、二百十日の前夜、ゆうがおを切りて田水の入口に立ておく。これ暴風のマジナイなりという。風俗につき〔て〕は秋田県と大略相同じ。婦人に歯を染むるもの多し。婦人が田畑に出でて働くときに、黒き風呂敷型の布をもって頭部を包む。この姿は南部地方において再三見受けたり。庄内のかぶり物とは異なれり。酒席において人に杯を献ずるときには、必ず台を付けて差し出だす。これ鹿児島の風に同じ。民家には座敷便所を置かず、苗代の田には稲を植えつけぬ等は東北一般なり。人の姓としては、一、工藤、二、成田、三、斎藤を最も多しとす。そのつぎは佐藤なる由。姓の多きをベコの糞という。すなわち牛糞のことなり。ついでに下等の方面も述べんに、寒村僻地の民家は糞紙の代わりに、藁屑、藻屑、木葉、木片等を用うという。むかしは張り縄をまたぎたる話もあり。

 青森県の地形は愛知県の地形に類し、ともに両半島が角のごとく突出しておる。愛知県の方はがまに似て、青森県の方は蟹に似ているはおもしろし。蟹が鋏を出だして北海道をはさまんとする形が、すなわち青森県なり。よろしくその地形のごとく、北海道の利益をつかみとるように努力ありたきものなり。

 

     青森県開会一覧

  (市郡)  (町村)   (会場) (席数) (聴衆)   (主催)

  青森市          小学校   二席  百五十人   市教育会

  弘前市          公会堂   二席  六百人    仏教護国団

  三戸郡   八戸町    劇場    二席  一千人    青年団および教育会

  同     三戸町    小学校   二席  五百人    同町

  同     五戸町    小学校   二席  五百五十人  青年団

  同     北川村    小学校   二席  四百人    青年団

  同     是川村    寺院    二席  三百人    同村

  同     湊村     小学校   二席  三百五十人  三村連合

  同     浅田村    小学校   二席  五百人    振興団および青年団

  上北郡   七戸町    小学校   二席  三百五十人  役場、学校

  同     三本木町   小学校   二席  四百人    町役場

  同     野辺地町   小学校   二席  五百人    役場、学校、寺院

  同     同      寺院    一席  百五十人   各宗寺院

  同     百石村    小学校   二席  三百人    村役場

  下北郡   田名部町   小学校   二席  二百五十人  各宗寺院

  同     川内町    劇場    二席  三百五十人  町長および有志

  同     同      劇場    二席  七百人    安部城鉱山

  同     大畑村    寺院    二席  六百五十人  村長および住職

  同     宿野部村   劇場    二席  六百人    西又鉱山

  同     同      事務所   二席  百五十人   大正鉱山

  東津軽郡  中平打村   寺院    二席  七百人    住職

  同     同      寺院    一席  三百人    村長

  同     荒川村    小学校   二席  百五十人   三村連合

  同     油川村    小学校   二席  二百五十人  村長、校長

  南津軽郡  黒石町    寺院    二席  三百人    洪済会

  同     同      小学校   二席  百人     教育分会

  同     浪岡村    小学校   二席  四百人    同前

  同     藤崎村    小学校   二席  二百五十人  青年団

  同     大光寺村   小学校   二席  四百人    青年団

  同     柏木町村   小学校   二席  三百人    教育分会

  同     竹館村    自宅    一席  三十人    相馬貞一

  同     同      小学校   二席  三百五十人  村長

  同     大鰐村    小学校   二席  四百人    教育分会

  中津軽郡  大浦村    小学校   二席  四百五十人  河西倶楽部

  北津軽郡  五所川原町  公会堂   二席  五百人    役場および寺院

  同     板柳村    小学校   二席  四百五十人  青年会

  同     小阿弥村   小学校   二席  二百五十人  同窓会

  同     金木村    小学校   二席  三百人    村役場

  同     同      寺院    一席  二百人    住職および檀家

  同     同      同前    一席  百五十人   日曜学校

  同     内潟村    小学校   二席  三百人    役場

  西津軽郡  鯵ケ沢町   小学校   二席  四百人    町役場

  同     同      寺院    二席  五百人    同寺

  同     木造町    公会堂   二席  四百人    町役場

  同     同      同前    一席  百人     婦人会

  同     十三村    小学校   二席  三百人    村長

  同     出精村    小学校   二席  三百五十人  村役場

  同     森田村    小学校   二席  百人     村役場

  同     深浦村    小学校   二席  四百人    村役場

  同     岩崎村    小学校   二席  二百人    村役場

  (付)秋田県山本郡八森村  倶楽部   二席  百五十人   八盛鉱山所長

   計 二市、八郡、ほか一郡、三十九町村(十二カ町、二十七カ村)、五十一カ所、九十六席、一万八千百八十人

    演題〔類別〕

     一、詔勅修身……………四十五席

     二、妖怪迷信……………二十三席

     三、哲学宗教………………十五席

     四、教育………………………六席

     五、実業………………………二席

     六、雑題………………………五席

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南船北馬集 第十六編

伊豆長岡温泉入浴記

 大正七年九月十七日。東京を発し、豆州田方郡川西村長岡温泉に入浴す。本年は二月以来東奔西走、ほとんど半日の休養をなすの余暇なかりしために、身心ともに大いに疲労を感じたれば、これをいやする目的なり。汽車は三島駅にて駿豆線に乗り換え、南条駅に降車す。これより十町にして古奈温泉あり。旧本陣と称する旅館の外には格別の客舎なし。これより更に八町にして長岡温泉に達す。南条駅より車賃二十五銭の規則なり。余は大和館に宿す。当所第一の評なり。これに次ぐものを肴屋とす。そのつぎに山田屋、橋本屋等、総じて十戸あり、みな内湯を有す。更に一丘を越ゆれば長岡館あり。地勢は谷間にして、四方に丘陵をめぐらす。故に遠望するを得ず、ただこの一事を欠点とす。楼上にありて望むときは、葛城山の一峰、軒前にかかるを見る。その形富士に似たれば、余はこれを長岡の小富士と名付けり。滞在中の漫吟二首あり。

狩野川西古奈傍、新泉沸処是長岡、四時万客来相浴、冬適避寒夏納涼。

(狩野川の西、古奈温泉の近く、新たに温泉の湧き出るところ、それが長岡温泉である。四季にわたって多くの客が来て入浴し、まことに冬は寒さを避け、夏は涼を得るにうってつけのところなのだ。)

荒壑開泉万客従、浴余吟賞翠雲濃、窓前山影知何物、即是長岡小富峰。

(大きな谷に開かれた温泉には多くの浴客がひきもきらず、沐浴の後は緑の濃密さを鑑賞する。窓の前に見える山影はなにかといえば、これこそが長岡の小富士なのである。)

 十九日はまさしく旧八月十五夜に当たり、天晴れて光朗らかなれば、所見一首を賦す。

養病旬余在豆州、客窓今夕会中秋、晴空一道光華漲、月白長岡泉上楼。

(疲れをいやして十日余も伊豆に滞在している。旅館の窓に今宵は中秋の名月を迎えた。晴れた空にひとすじの光があふれ、月は白く長岡温泉の楼閣の上にある。)

 二十四日、暴風雨。二十六日、快晴。徒歩三十町、三津浜に遊ぶ。これをミトとよむ。村名は内浦なり。海湾まどかにして鏡のごとし。当面に淡島あり。形、蓬莱に似たり。その島の上方はるかに高く富峰の巍立せるを望み、所吟一首を得たり。

洞道一過海面開、三津風月似蓬莱、烟消淡嶋明如画、天半忽懸倒扇来。

(洞穴の道をすぎれば海が開け、三津浜の美しい景色は、神仙が住むという蓬莱に似ている。かすみの消えさったあとの淡島はすっきりとえがかれたごとく、はるかかなたには天の半ばを占めて扇をさかしまにかけたような富士の雄姿が望まれる。)

 この地は長期の海水浴によしとて、西洋式のホテルもあり、日本式の旅館もあり。余は安田館に一休して帰路に就く。まさに長岡に入らんとする五、六町前、老松樹下に大黒堂あり。その堂には椀や草鞋をたくさんつるせるを見る。これ地方の迷信なるべし。三十日も雨晴れたれば、散歩して南条駅前に至り名物蕎麦を喫し、更に歩を進めて蛭ケ小島に至る。田間の孤松の下に磐石と碑石あるのみ。所感一首を賦す。

欲知蛭島跡如何、細径一条排草過、松下孤碑字難弁、多年風雨石将摩。

(蛭ケ小島の源頼朝が配流の古跡はどのような所であるかを知ろうとして、ひとすじの細い小道を草をふみわけて行く。松樹の下に立つ碑は字も読みとれぬほどとなり、長い年月風雨にさらされていまや消えさろうとしているのだ。)

 その傍らに立てる富南秋山の碑、かえって人目を引く。長岡よりここまで一里余あり。

 十月一日、帰京す。長岡滞在中の所作二、三を左に掲ぐ。

    教育勅語大意頌(隔句押韻)

肇国悠哉、樹徳深矣。兆民一心、万世済美。国体輝外、教育遍内。孝友和信、恭倹博愛。

修学習業、啓智成徳。開達世務、遵守法則。忠節護国、義勇奉公。扶翼皇運、顕彰遺風。

中外不悖、古今何謬。拳々服膺、孜々奮闘。朝野一徳、邦家万全。聖訓雖短、皇道無辺。

(皇御国〔すめらみくに〕のはじまりは悠遠なるかな。恩徳は深く国民にしみわたる。億兆の民は心を一にして、万世にわたってその美徳を成し遂げた。国家の栄光は外国にかがやき、教育は国内にあまねくゆきわたる。父母に孝を尽くし、兄弟仲良く、夫婦和親、朋友は信頼しあい、人にはうやうやしく、自らはつつしみ深く、博愛を旨としてふるまい、学問を修め、技術を習得し、智能を開発して道徳を成就し、世の責務を達成して国法を守り、忠節をもって国をまもり、義勇をもって公に尽くし、御国の命運をたすけて、祖先の残した教えをあきらかにあらわす。この道は内外ともにこれにそむかず、古今を通じてあやまることなく、ねんごろにいつも心にとめて忘れず、おこたることなくつとめはげむ。官民ともに道徳を一にして、国家はよろずにおいて完璧であり、おおきみのおしえは短くとも、ご政道は永遠である。)

    戊申詔書大意頌(隔句押韻)

人文日進、知識月啓。東西相倚、彼此共済。皆享福利、斉過盛世。修理外交、順応大勢。

発展国運、更張庶政。上下和衷、億兆愛敬。忠実服業、勤倹興家。去華就実、持正防邪。

常守自彊、以誡荒寧。祖訓如日、史跡似星。淬砺輸誠、拮据尽瘁。拝承鳳詔、遵奉聖意。

(文明は日々に進み、知識は月々にひらける。東西の国々はたがいにたよりとし、たがいにたすけあい、みな幸福と利益をうけ、ひとしくこの盛んな世をすごし、外国との交際をおさめ、日進月歩の文明の大勢にしたがい、国家の命運を発展させ、もろもろのまつりごとをあらためさかんにしなければならぬ。上下ともになかよくうちとけ、億兆の民は愛しうやまうようにし、忠実な心で仕事に従い、勤倹をもって家を豊かにせよ。華美なことをとり去って質実さをとり、正義を堅持してよこしまなことをふせぎとめ、常に自らをつよく保守し、誠をもっておおいにやすんぜよ。そして、祖先の残されたおしえは日の光のごとく輝き、国の歴史の跡は星のごとくきらめき、そのもとにとぎすました誠をつくし、心のそこから努力しつくせと。天子のみことのりを拝しうけたまわり、おおみこころにしたがいたてまつらん。)

    大正報恩賦(隔句押韻)

粒々悉皆皇恩、滴々無非聖沢。家雖貧食常足、髪已白心愈赤。忠為経孝為緯、義是杖仁是席。少時曾修学業、老後不繙典籍。素志願免徒食、微力欲広公益。縦令身難力耕、不厭心為形役。二十年育英才、十万里試壮遊。南船遠究海隅、北馬深入山陬。伝播勅語聖旨、扶翼詔書皇猷。心頭尋千古道、足跡印五大洲。活動寸陰是競、自彊終年無休。已尽人事如此、猶恐国恩難酬。

(小さなひとつぶひとつぶのごときものも、ことごとくおおきみの恩徳によるのであり、一滴一滴のごとき小さなものも天子の恩沢によらないものはない。家は貧しくとも食するものは満ち足り、髪はすでに白くなったが、心のなかにいよいよ赤心〔まごころ〕は大きくなる。忠をたて糸とし、孝をよこ糸とし、義を杖とし、仁をしきものとするように生きてきた。若いときには学問を修得することにつとめ、老いて後は書物をみなくなったが、もとより志すところは無駄な生き方はするまいということであり、微力ながら広く世の利益をはかりたいということであった。たとえ自ら耕やすことは難しくとも、心を肉体の奴隷とするようなことだけはしたくない。二十年来英才を育成し、十万里のかなたまで遊歴をこころみた。南には船をもって遠く海の果てまで行き、北には馬をもって深く山のくまにまで入り、勅語にこめられた大御心〔おおみこころ〕を伝え、詔書における天子の御はかりごとのお手伝いをしようとしたのである。心には千古の道をたずね、実際に足跡は五大州におよんだ。生きているうちはわずかな時もおしみ、自らつとめはげまして死に至るまでやめるまいと思う。すでに人としてなすべきことを尽くしたことは以上のごときであるが、なお皇国の恩徳にむくい切れないことをおそれているのである。)

 帰京の後、哲学堂へ左の一文を録してこれを掲ぐ。

余思うに、哲学の極意は理論上宇宙真源の実在を究明し、実際上その本体にわが心を結託して、人生に楽天の一道を開かしむるに外ならず、ここにその体を名付けて絶対無限尊という。空間を究めてはてなきを絶対とし、時間を尽くして際なきを無限とし、高く時空を超越してしかも咸徳広大無辺なるを尊とす。これにわが心を結託する捷径は、ただ一心に南無絶対無限尊と反覆唱念するにあり。人ひとたびこれを唱念するときは、たちまち鬱憂は散じ、苦悩は滅し、不平は去り、病患は減じ、百邪の波はおのずから鎮まり、千妄の雲は自然に収まり、たちどころに心界に楽乾坤を開き、性天に歓日月を現じ、方寸場頭に真善美の妙光を感得するに至る。これと同時に、宇宙の真源より煥発せる霊気がわが心底に勃然として湧出するに至る。その功徳、実に不可思議なり。しかしてこれを唱念する方法に三様あり。

 発唱=声をあげて南無絶対無限尊を唱う。

 黙唱=口をふさぎて南無絶対無限尊を唱う。

 黙念=目を閉じて南無絶対無限尊を念ず。

 この唱念法によりてわが心地に安楽城を築き、進みて国家社会のため献身的に奮闘活躍するを、哲学堂(自称道徳山哲学寺)において唱道する教外別伝の哲学とす。


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南船北馬集 第十六編

福島県会津巡講日誌

 大正七年十月、福島県会津一市四郡を巡講せんと欲し、これに入るの道を検するに、昔時は二道を用いし由。その一は野州塩原を経由するもの、これを会津東街道といい、その二は藤原を経由する道、これを西街道という。このうち西街道を取ることに定む。十月十三日夕は、東洋大学前学長大内青巒氏、新学長境野哲氏の送迎会に出席し、その翌日すなわち十四日、晴れ、午前九時、上野発に駕して巡講に就く。随行は森山玄昶氏なり。午後一時、日光線今市町に着す。当町には二宮報徳神社あり。今より四十年前、徒歩してこの町に至りしことを記憶す。余は日光見物に出掛けしこと三回に及ぶ。その当時の拙作を『未知句斎集』第一編に掲載することを遺忘したれば、左に録して補充となす。

祖廟燦然麗且崇、応知名匠尽神工、古来俚諺童猶誦、談美必先看晃宮。(東照宮)

(祖廟は燦然として壮麗かつ崇厳である。名匠が神妙のわざを尽くしたことを知るべきであろう。昔からのことわざは子供も口にする。美といえば必ずまず日光東照宮を見よと。)

老脚扶筇攀石崖、中禅湖畔景尤佳、一過紅葉林間路、湯本泉場解草鞋。(経中禅寺至湯本)

(老脚をもって杖をついて岩崖をのぼる。中禅寺湖畔の景色はもっともよく、紅葉の林間の道を通って、湯本温泉にわらじを脱いだのである。)

 今市より軌鉄に移り、更に土呂〔トロッコ〕により、栃木県塩谷郡藤原村〈現在栃木県塩谷郡藤原町〉滝温泉麻屋に入宿す。当所には鬼怒川発電所あり。今市より約四里半を隔つ。途中、穫稲に着手せるを見る。しかして紅葉は時なお一旬早きも、岩容水態、奇趣を呈し、実に仙源に遊ぶの思いをなす。旅館より石間を下りて水涯に至れば、澗底より温泉の湧出するあり。塩原の大網温泉とその趣を同じくす。渓流、石を鼓して囂然たり。一詩を録して柱間に掲げしむ。

桟楼踞石枕渓流、崖下激湍鳴不休、澗底霊泉宜洗俗、浴余吟賞野山秋。

(木のかけはしがあり、石に身を寄せ渓流を枕にして、崖下のはげしい早瀬の鳴りひびくをきく。谷川の底からは霊泉がわき出てまさに世俗の垢を洗い流すべきであり、湯を浴びた後は野山の秋の深まりを吟詠し鑑賞するのである。)

 夏時、蚊帳を用いずという。

 十五日 曇り。午前、旅館より三十丁を隔つる小学校に至りて開演す。発起は助役保坂清三郎氏、校長高橋秀治氏なり。午後二時、鞍馬にまたがりて宿所を去り、鬼怒川に沿いてさかのぼること三里、藤原村字川治に至り、温泉旅館近江屋に入宿す。日まさに暮れんとして山雨襲いきたる。

鬼怒川源樵路懸、吟鞍数里破雲烟、高原山雨客衣湿、走入仙楼浴薬泉。

(鬼怒川のみなもと近く、木こりの通るような道がはるかに続く。鞍上に吟詠して行くこと数里、雲煙を破って進む思いがする。高原山から降りはじめた雨に襲われて旅人の衣はぬれそぼつ。仙人の住むような宿に走り入り、薬泉を浴びて疲れをいやすのであった。)

 川治温泉は滝温泉と同じく、渓流の岸頭にあり。旅館より石坂を下りてこれに浴す。その前後、山また山、渓また渓、真に深山幽谷の趣あり。鬼怒川は名のごとく鬼の怒るに似たり。川治の対岸を高原という。高原山の山麓にあり。この部落にては鶏肉鶏卵を食することを忌む。もしこれを食するときは、たちまち山神のたたりありと信ず。また、この地方の風俗を聞くに、旧八月十五夜と九月十三夜には団子を作りてお月様にそなうるを例とす。十五夜に十五個、十三夜には十三個をそなうるなり。この団子を窃取して食するときは、年中風邪に冒されずとの迷信ありという。また、九月九日の節句には醴〔あまざけ〕と赤飯を設けて客を招く慣例ありと聞く。

 十六日 雨。この日、栗山村黒部にて開会の前約なるも、役場収入役大類元吉氏来訪ありて、去月の暴風にて橋梁落ち道路崩れ、通行危険なる上に、この雨天にては渓流もみなぎり、到底往復し難し。これに加うるに、栗山はその面積十里四方の間にわずかに三百四十戸各所に散在せる地なれば、雨天には聴衆きたり集まらずという。よって相談の結果、栗山行は後日に延期することに定め、一日、川治温泉にて休養することとなる。栗山は全く仙郷にして米田皆無なり。生涯米のなる木を見ずして死するものありという。民家の常食は稗とす。毎年十月末に降雪を見る。桜花は五月に入りて開く。東京より一カ月以上の相違ある由。古来、平家の遺俗と称し、平姓を有するもの多しと聞く。風俗、方言もしたがって異なれり。氷柱をアマンボウといい、マムシを口ハビという。川治は藤原村に属するも栗山に接近す。郵便局も医師も三里半を隔つという。寺院またなし。普通の病気は山中より野生の薬草を服用せしむという。実に太古の民たるを想出するに足る。夏時には蚊おらざるも蝿の多きを名物とす。外来の客は蝿よけのために蚊帳を用うる由。つまり馬を多く使用する故なり。路傍に馬力神と刻せる石碑多し。温泉入浴客の最も多きは四、五月の交にして、自炊客充溢し、畳一枚に二人あてに詰め込むという。米、味噌、布団はすべて持参し、畳代と器具代は持参せる米の余りをもって仕払うものありと聞く。また、浴槽中にて一夜を明かすものある由。山中の実況、推して知るべし。

 十七日 晴れ。朝、馬上にて川治を発し、行くこと二里、三依村〈現在栃木県塩谷郡藤原町〉字五十里にて一休し、再び馬にまたがり、一里半にして中三依に至り、塩屋旅店に入宿す。五十里または中三依より湯西川に通ずる山路あり、行程四里という。湯西川は栗山村の温泉場なり。この地方は一般に馬は多く牝馬を用うると、馬方は大抵みな婦人なると、男女すべてモンペを着するとを一特色とす。モンペを単に袴という。終日ほとんど行人に会せず、ただ牛馬の薪炭を負いて往来するを見るのみ。紅葉はすでに山林を染め、秋色まさにたけなわならんとす。馬上吟、左のごとし。

深峡何辺投客身、隔雲只聴水声頻、千山紅葉三依路、馬上秋風向会津。

(この深い谷あいのどこに旅の身を寄せようか、雲をへだてるようにただ水流の音をきくのみである。三依への道は千山紅葉して、馬上に秋風をうけて会津にむかう。)

 中三依にて夜会を開く。会場は真言宗宝蔵院なり。発起は住職山野辺路秀氏、有志阿久津房吉氏等とす。本夕はまさしく旧九月十三夜に当たるも、微雲に遮られて明月に接するを得ず。この地方の宿泊料は一等一円、二等八十銭、三等六十銭、酒一合十銭なり。炭は当所の特産なるが、昨今大いに騰貴して一貫目二十銭に上がるという。

 十八日 暁天微雨、のち快晴。午前七時、荷馬車に駕し、上三依および横川を経て県界たる山王峠にのぼる。道荒るるも幸いに嶮ならず、前後の諸山紅緑相半ばし、秋色えがくがごとし。山上に腕車のわれを迎うるあり。これに乗じて福島県南会津郡に入り、荒海村〈現在福島県南会津郡田島町〉字糸沢、真言宗豊山派竜福寺に一休す。名物蕎麦の饗応あり。住職は吉田義恩氏なり。郡視学渡部庄平氏ここに至りて歓迎せらる。中三依より県界まで四里、県界より当寺まで二里あり。これより更に車行一里、荒海小学校にて開演す。村長渡部徳三氏、校長束原八四郎氏の発起にかかる。演説後、再び車を走らすこと二里、その間大道坦然、四十五分にして田島町〈現在福島県南会津郡田島町〉に入る。宿所丸山館は三層の西洋館なり。この□□□〔欠損、以下同様〕約九里に及ぶ。

 十九日 晴れ。午後、田島小学校にて開会あり。昨今は穫稲期に入り、農家繁忙なるも聴衆堂に満つ。主催は連合青年会、発起兼尽力者は郡長高橋為雄氏、視学渡部氏、町長湯田千代作氏、小学校長馬場由太郎氏、慈恩寺住職弓田諦道氏、徳昌寺住職神田良全氏等なり。当夕、宿所において郡長および発起諸氏と会食す。夜に入りて一天雲なく、月光霜気を帯びて白し。旧九月十五夜に当たる。田島より若松まで十二里と称す。

 十月二十日(日曜) 朝霧のち快晴。車行三里、荒海川の岸頭を下行す。途中、頽雪防止林あり。冬時積雪の多きを知る。会場は小学校〔旭田村〈現在福島県南会津郡下郷町〉〕、発起は村長佐藤豊作氏、校長丹羽平治氏、および楢原、長江両村校長なり。本村より朝鮮人参および会津タバコを□□□□□□□田島町に帰る。農家は刈稲最中にして、□□□□□□□、夕陽黄稲に映射して、暮色ために黄なり。今夜また満天皎々、月色銀のごとし。よって一吟す。

荒海渓頭駅道長、山田稲熟暮烟黄、今宵月満明如昼、秋白会津南郡郷。

(荒海川のほとり、町への道のりは遠い。山田の稲は熟して夕暮れに黄いろくけぶる。今宵は月満ちてその明るさは昼を思わせ、秋の夜は白々と、ここは会津南部の里である。)

 本郡内の旅宿料は六等に分かち、特等一円五十銭、一等一円、二等八十銭、三等七十銭、四等六十銭、五等五十銭なり。その他の物価を聞くに、斬髪十五銭、湯賃二銭、下女月給三円、人力一里五十銭以上という。

 二十一日 好晴春のごとし。早暁、寒気〔華氏〕四十八度に下る。田島町は海抜千八百尺余の高地に位せるをもって、極寒の際〔華氏〕零度以下十七、八度に下り、鶏卵もビールもみな凍るという。町家は板屋に交ゆるに茅屋をもってし、山中の都邑の趣あり。当所より車行約三里、駒止峠の麓に至□□□□□□□□徒歩して登り、嶺頭の茶店にて□□□□□□□□後下行して渓間に達す。ここに腕車のわが行を待つあり。その里程、登降四里と称す。これより車行約三里にして伊南村〈現在福島県南会津郡伊南村〉字古町伊南館旅店に入る。この日、行程約十里。伊南峡間を一貫せる流水を伊南川という。その岸頭に駅路あり。道狭きも平らかにしてかつ滑らかなり。駒止山脈は本郡東西両部の界線となる。西部にも米田あり、桑圃あり。薪炭、木材を産出す。なかんずく下駄、木椀の原材を運出することおびただし。また、昨今は菌類の期節にして、その類数十種あり。駒止山頂は今秋すでに二回の降霜ありて、残葉落葉相半ばし、全く初冬に入るの趣をなす。しかして峡間に入れ□□□□□□□□□て紅葉最もよし。本村は汽車線□□□□□□□ありという。これより更に峡間をさかのぼりたる所に桧枝岐と名付くる一村あり。戸数わずかに八十戸。村内に医者なし、薬草を採集して病気に備う。冬期には熊を猟し、その胆を唯一の良薬とす。郵便局もなければ寺院もなく、米田は皆無なり。蕎麦とイワナ魚を名産とす。冬期、積雪中には運送杜絶すること多し。その節は米を送るに小包郵便を用うという。これより群馬県利根郡に通ずる山路あり。九里にして同郡片品村に達する由。実に会津山中の仙郷なり。

 〔二十二日〕 □□□後、照国寺にて開会す。時宗な□□□□□村は農繁期にもかかわらず、家業を休みて聴講することになり、満堂の盛会を得たり。発起は村長五十嵐徳太郎氏、校長馬場又一氏、有志馬場太郎右衛門氏、大宅宗六氏および隣村校長、村長なり。昼夜ただ水車の転々たる声を聞くのみ。

一峡両崖山又山、黄塵不到是仙寰、客窓終日寂如夜、転々水車心却閑。

(谷あいの両がわはきりたった山また山が連なり、ゆえに世間の俗事もここまで入りこまず、まさに仙境である。旅荘の窓べはひねもす寂として夜のごとく、ただ水車のまわる音のみがあって心ものどかになるのである。)

 二十三日 雨。車行三里、伊南川に沿いて下行し、富田村〈現在福島県南会津郡南郷村〉字和泉田に入り、小学校にて午後開演す。聴衆、堂に満つ。発起は村長目黒逸八氏、助役富沢甫氏、校長小畔忠氏等なり。本村は純農村にして米田比較的多し。穫稲はすでに九分どおり終了す。宿所は中央館なり。

 〔二十四日〕 □□□三里半、中間にて伊南川橋を渡り、北岸に□□□□□□□□〔朝日村〈現在福島県南会津郡只見町〉〕に入る。会場小学校は一半茅ぶき、一半板ぶきなり。聴衆満場、男女相半ばす。四里の遠きより相集まる。発起は助役吉津文次郎氏、校長酒井菊市氏、伊北校長渡部貞次郎氏等なり。本村は耕作半分、養蚕半分の産業地と聞く。宿所は旅館住吉屋なり。本村は戊辰戦役に長岡藩の人傑河井継之助氏負傷の治療その効なく、ついに終焉せられし地なり。

 二十五日 雪。晨起、窓を開けば屋上すでに白し、これ初雪なり。室内寒暖〔華氏〕四十二度。早朝、腕車を雇い逆行すること二里、小林に至りて憩う。渡部郡視学は各所を案内してここに至られたるの労を謝す。これより馬上にして渓間に入り、布沢の旅舎にて弁当を開く。更に布沢川の上流を徒渉すること四十八回にして郡界に至る。陋屋わずかに三戸あり。小林より三里半とす。嶺頭に有志者数名わが一行を迎う。換乗して急坂を下行すること一里、大沼郡野尻村〈現在福島県大沼郡昭和村〉に入る。その坂路の険悪なること、台湾生蕃界の道路を想起せしむ。更に行くこと一里にして、字下中津川正法寺に入宿す。曹洞宗なり。この日、行程七里半、午前は雪また雨なりしが、午後に至りてやや晴るる。本日、馬上吟一首あり。

雪途鞭馬入山陬、四十八回渉澗流、愛見会陽秋色異、青黄赤白染林丘。

(雪の道を馬に鞭うち、山あい僻遠の地に入るに、四十八回も谷川の流れをわたった。会津の秋色いささか他と異なるをめず。青黄赤白の色彩が林や丘を染めているのだ。)

 新雪と紅葉と相映じて一段の風致を添う。本村は山また山の間にあり、一条の渓流に沿いて部落をなす。鉄道線路まで二十余里を隔つ。郡役所所在地高田町へ出ずるには有名の博士峠を上下せざるを得ず、実に武陵桃源の趣あり。特産としてはカラムシ(方言アオソ)を培養す。これ越後縮の原料なり。夜に入りて天全くはれ、寒気大いに加わる。

 二十六日 晴れ。暁霜満地白し。宿寺において午後開演す。発起は住職大西泰也氏、助役本名一作氏にして、村長栗城倉吉氏、医師栗城定蔵氏、村会議員舟木初太氏、束原善吉氏等助力あり。大西、本名両氏は哲学館館外員の関係上、大いに尽力せらる。

 十月二十七日(日曜) 雨。馬上にて野尻川に沿いて下行す。村界の地点に小耶馬渓の価ある奇勝あり。両崖の紅葉、色まさにたけなわなれば、馬をとめて愛賞せんとす。途中、川口村船城利平次氏宅に少憩して、沼沢村〈現在福島県大沼郡金山町〉字中川に入る。この日、行程五里半。午後、小学校、夜分、宿坊滝谷寺にて開演す。主催は青年団、発起兼尽力者は校長長谷川泰蔵氏、住職島村泰順氏、その他有志家、目黒、田辺、長谷川、星、鈴木、大友等の十余名なり。郡視学安井弥橘氏もここに出張せらる。この地方は桐材の産地にして、下駄の原料を輸出することおびただし。

 二十八日 晴れ。早暁、馬上にて行くこと二里、沼沢湖畔に至る。その湖、周回約二里、連山をめぐらす。山名に赤岩、袴コシ等あり。水碧山紅、しかして霜葉は二月の花を欺く。一絶忽然として胸間より噴出す。

路沿湖辺曲如弓、磯頭駐馬嘯秋風、水如明鏡山如錦、身立詩天画地中。

(道は沼沢湖畔に沿って弓の曲がるように行く。水辺の岩のあたりに馬をとどめて秋風にうそぶく。水は明鏡のごとく山は錦のごとし。身は天然をうたい地文をえがくなかに立つ。)

 これより嶺を下り、川に沿うこと二里にして西川村字宮下に至る。その間の紅葉また大いによし。有志渡部禎二氏宅に一休して大登嶺をのぼり、中ノ川村〈現在福島県河沼郡柳津町〉字砂子原に入る。宮下より二里、この日、行程六里。村長金子卯吉氏宅にて喫飯し、午後、小学校にて開演す。発起兼尽力者は村長の外に西念寺住職山内教観氏、校長小沢毅氏、同鈴木鉄太郎氏、軍人会長伊藤伍一氏、青年団長菊地竜次氏、郵便局長金子金蔵氏、および真光寺、猿沢寺二氏なり。昨日と今日とは揮毫所望者非常に多く、昼夜運筆に忙殺せらる。演説後、徒歩約十丁、温泉場滝の湯館に入る。滝谷川の岸頭にあり。楼上所吟、左のごとし。

講余携筆入泉房、滝谷渓頭秋色荒、先恐暮寒侵老骨、潺湲声裏浴霊湯。

(講話を終え筆を携えて温泉の宿に入る。滝谷の谷のあたりは秋色もすさび、まず日暮れての寒さが老骨にしみこむことを恐れて、水のさらさらと流れる音のなか霊湯を浴びたのであった。)

 二十九日 晴れ。早暁、馬上にまたがり、長嶺を上下すること二回、前者を銀山峠という。昔時、銀鉱を採掘せし跡あり。後者を赤留峠という。赤留より高田町〈現在福島県大沼郡会津高田町・新鶴村〉まで半里の間は平田、その他はみな山路なり。この日、行程六里半。会場は高田小学校、発起は郡長山田直記氏、町長外井喜章氏、校長小室広治氏、白石恒蔵氏等にして、宿所は平石旅館とす。その宿泊料を見るに、一等一円五十銭、二等一円二十銭、三等九十銭なり。当町は僧天海の誕生地にして、その屋敷跡今なお存すという。物産は桐下駄なり。

 三十日 雨。午前、高田より約十五丁、永井野村〈現在福島県大沼郡会津高田町〉長福寺に移りて開会す。曹洞宗なり。主催は隣村旭と連合、発起は住職岩野泰堂氏、村長石田源伍氏、校長鈴木重正氏、郵便局長白井泰三氏、郡会議員杉原禎造氏、旭村長長嶺宇三郎氏、および松沢寺、竜門寺等とす。なかんずく村長、校長、大いに尽力せらる。午後、車行約半里、藤川村〈現在福島県大沼郡会津高田町、北会津郡北会津村〉小学校に移りて開演す。宿所は真宗本派正覚寺なり。村長長嶺善喜氏、校長佐治敬治氏、宿寺住職根本凝心氏、薬師寺(天台)住職中村孝照氏の発起にしてかつその尽力に成る。昼夜とも揮毫に忙殺せらる。

 三十一日(天長節) 晴れ。藤川より車行約一里にして本郷町〈現在福島県大沼郡会津本郷町、北会津郡北会津村、会津若松市〉に至り、小学校にて開演す。赤瓦ぶきの校舎は、この地方にきたりてはじめてこれを見る。発起は町長栗村五郎氏、常勝寺根本智正氏、校長星民太郎氏なり。栗村氏は羽山と号し、画をよくす。本町は一昨年五月、ほとんど全焼の災にかかりしも、再築すでに成る。産業は製陶を主とす。陶器製造を業とするもの六十戸、一カ年の産額四、五十万円という。本町より若松まで約二里、当夕は市街に連続せる川南村吉田旅館に宿す。

 十一月一日 快晴、いわゆる日本晴れ。本郷より高田を経て新鶴村〈現在福島県大沼郡新鶴村〉に入る。二里余、途上吟一首あり。

好晴今日似春陽、束稲曝風田色黄、仰見磐梯山一角、摩天勢圧会津郷。

(よく晴れた今日は春の陽気に似て、稲を束ねて風にさらすため田は黄一色となる。仰いで磐梯山の一角を望めば、天にもとどかんばかりの山勢は会津の里を圧するかのようである。)

 会津地方の山間部は穫稲を架木の上に掛くるも、平坦部は一束ずつ田上に立てて乾かす。故に満田黄色を呈す。新鶴の会場は第二小学校、発起は村長平山文八郎氏、第一校長山内昇氏、第二校長佐藤清氏なり。宿所中山弘安寺には有名の観音堂あり、会津三十三番の第三に当たる。信者遠近より来詣す。ひとたびこの観音を拝すれば、決して他郷の土とならずとの伝説ありて、遠方へ旅行するもの、または徴兵に出ずるもの、出兵するもの、必ずきたりて心願をなすという。その堂下の土を少々紙に包みて持参すれば、他郷にて死するおそれなしとも伝う。本村は田地広くして最も富裕の村として知らる。全村七百五十戸のうち、国会議員選挙権を有するもの四百戸ありと聞く。

 二日 午前晴れ、午後雨。新鶴より山路三里の所を車道を迂回し、坂下を経て河沼郡柳津村〈現在福島県河沼郡柳津町〉に入る。途中、坂路一カ所あり。柳津は虚空蔵様をもってその名高し。会津地方の仏閣中、信者の多きは大沼郡中山弘安寺観音と、河沼郡及川勝浄寺薬師(以上二者とも曹洞宗)と、柳津虚空蔵菩薩なり。そのうち柳津は会津に冠たるのみならず、東北第一の勢力を有す。しかも信者の多きは日本諸虚空蔵中の第一位を占む。その寺は円蔵寺という。臨済宗妙心派に属す。只見川の絶壁巌上に立つ。その台桟は京都清水に類す。渓流の曲折せる、橋影の虹のごとくなる、巨岩の奇形を現ずる、前後左右の諸山の媚を呈し錦を装うのところ、一詩なきを得ず。

渓橋横臥柳津川、人影岩光映碧漣、秋老千山紅葉雨、錦雲堆裏仏堂懸。

(谷にかかる橋は柳津川に横ざまにして、人影も岩影もみどりのさざなみに照り映える。秋も深まった山々に紅葉が雨ふるごとく、美しい錦雲のかさなるような木々のなかに仏堂がみえるのである。)

 会場は小学校、主催は報徳社および青年団、発起は円蔵寺住職沖津堪宗氏、村長佐藤忠亮氏、登記所長佐瀬雅蔵氏、小学校長菊池正一氏、青年副団長佐々木昇氏等なり。みな大いに尽力せらる。宿所月本旅館は三層楼にして、高等旅館の設備を有す。その楼上は小渓を隔てて円蔵寺と相対し、釣り橋を眼下に控え、眺望絶佳なり。当所は揮毫所望者すこぶる多し。

 十一月三日(日曜) 雨。朝食前、円蔵寺に登詣して書院に一休す。その本尊は弘法大師の作なりと聞く。年中の大縁日は一月七日、三月十三日、八月晦日(ともに旧暦)の三回なり。一月には裸体参りありという。この地にては虚空蔵様のために各戸、鶏肉、鶏卵、牛肉、ウナギを食せざる由。朝食後、馬車に駕し、帰行二里、塔寺村〈現在福島県河沼郡会津坂下町〉に至る。途中、桐林多し。塔寺会場は小学校にして、発起は村長遠藤新四郎氏、神職戸内繁氏、校長二瓶謙二氏なり。本村には有名の観音あり。身長二丈余、鎌倉長谷観音と比肩すべき巨像なり。午後、車行約一里にして、郡役所所在地たる坂下町〈現在福島県河沼郡会津坂下町〉に移り、午後、小学校にて開演す。発起兼尽力者は有志家加藤佐蔵氏、中山麟一氏、法界寺宍戸泰竜氏、光明寺小林祐静氏、光照寺和田祐意氏(哲学館出身)、定林寺海岳寛宥氏なり。当夕は伊豆屋旅館に宿す。坂下は会津原野の中心にして、若松へも喜多方へも柳津へも高田へも、おのおの三里あり。米田は幅四里、長さ七里に連なり、一望三、四十万石と称す。

会津平野望無隈、秋穫最中冬色催、博士磐梯雪猶未、飯豊山頂已皚々。

(会津平野は一望して果てもなく、秋のとり入れのまっさかりで冬の景色がきざしている。博士山や磐梯山にはなお雪を見ないが、飯豊山の頂きはすでに白皚々たる雪をいただいているのである。)

 飯豊山は岩代、羽前、越後の国境に屏立せる連峰なり。磐梯山は五千八百尺、博士山は五千三百尺、飯豊はそれ以上なるべし。さきに掲げる博士峠は、この博士山の低所を越ゆる道なり。山名の由来明らかならざれども、岩手県の仙人峠と好一対の珍名なるべし。

 四日 晴れ。朝、郡長水野虎三郎氏来訪あり。午前、車行二十五丁、広瀬村〈現在福島県河沼郡会津坂下町〉小学校に移りて開演す。村長宇内政次氏、校長小林淑氏の発起にかかる。午後、更に車行約一里、金上村〈現在福島県河沼郡会津坂下町〉小学校に転じて開演す。昨今は乾稲最中にて、各所とも聴衆少なきも、当地は比較的多きを認む。演説後、学校より十町離れたる小林惣吉氏の宅に至りて宿す。小林氏は哲学館出身にして大農家なり。一家六夫婦半にして家族三十八人、一棟の下に同居す。自ら耕作する田地は二十五町歩なるも、一切他人を雇わず、馬四頭と家族のみにて力作すという。日本第一の大農ならん。衣食住ともに質素を守り、家庭円満、四時風波の起こるなしと聞く。真に模範農民というべし。その家は真宗篤信なり。夜に入り、仏前において修養談をなす。

 五日 曇り。当方より殊更に注文して純農家式の饗応を求めし故、前夕は蕎麦、今朝は餅、しかも納豆餅を出だされしは、旅中の一大珍味なるを感ず。午前、車行半里、勝常村〈現在福島県河沼郡湯川村〉小学校にて開演す。発起は村長佐原庄作氏、校長大久保甚吾氏、勝常寺宇佐美慈明氏等なり。役場内に休憩して午後、約二里をはしり、堂島村〈現在福島県河沼郡河東町・湯川村〉小学校にて開演す。発起は村長伊野祐八氏、校長竜川七蔵氏、その他佐川弾正、田場川源佐武等の諸氏なり。当夕は宿所有志安西伝三郎氏宅にて一席の談話をなす。

 六日 雨。車行一里、日橋村〈現在福島県河沼郡河東町〉第二小学校に至り、婦人会のために午前、講話をなす。郡視学兼子友喜氏も出席あり。午後、車をめぐらすこと約一里、第一小学校に移りて青年会のために講演をなす。発起は教育家武内源作、真壁宗永、三橋熊千代、荒井平治、荒川忠次、武藤虎一等の諸氏、婦人会長八田せい子、副会長山口きん子、役場員前田、貝沼等の諸氏なり。当夕、広田駅畔朝日屋に入宿す。

 七日 雨。車行約一里半、北会津郡高野村〈現在福島県会津若松市〉に移り、午後、小学校において開演す。発起は村長小野成屋氏、校長宝田耕造氏なり。郡長相馬恒彦氏転任せられたりとて、視学曾我直治氏代わりて出席せらる。演説後、車を駆ること約一里、若松市栄町清水屋に入宿す。市内最高旅館なり。これに次ぐものを七日町清水屋とす。これ、余が明治十二年夏、初めて若松にきたりしときの宿所なり。

 八日 雨。寒気強し。午前、車行一里余、川南村〈現在福島県北会津郡北会津村、大沼郡会津本郷町・会津高田町〉小学校において開演し、荒海川橋畔小旅店にて喫飯す。発起は村長簗瀬新六郎氏、校長五十嵐重吉氏なり。午後、門田村〈現在福島県会津若松市〉小学校に移りて開演す。午前の会場より一里半を隔つ。発起は村長林数馬氏、校長田代寛治氏なり。演説後、約一里を走りて若松〔市〕〈現在福島県会津若松市〉に帰宿す。終日悪寒を感じ、夜に入りて発熱、いわゆる世界かぜなる流行感冒にかかる。ただし軽症なり。

 九日 晴れ。暁天一望、磐梯山の雪をいただくを見る。午前、高等女学校に至りて一席の講話をなす。校長は長谷川一興氏なり。つぎに、第五小学校に至りて開演す。主催は郡青年幹部会にして、校長は甲斐保之氏なり。しかして発起は郡視学曾我氏、郡書記佐藤俊彦氏なり。午後、中学校において学友会のために講演をなす。校長は落合寅平氏なり。本校生徒の特色は、校内においてすべて足袋を用いず、はだしなるの一事とす。前校長時代までは和服にモンペを着けたりという。演説後、市外なる飯盛山白虎隊の墓を訪うの約なりしも、風邪のために見合わせり。ただし絵葉書を一覧して所感を賦す。

若松城外望漫々、木落草枯冬欲闌、白虎墓前夕陽路、碑陰懐古使心寒。

(若松市郊外のかぎりない広がりを望む。木の葉落ち草も枯れ果てて、冬はまさにたけなわならんとする。白虎隊の墓前、夕陽の道、いしぶみの背後の文を読んで、往事をおもい心おののくのであった。)

 その墓地は宿所より三十丁を隔つ。

 十一月十日(日曜) 午前、宿所において揮毫、午後、第五小学校において講演をなす。発起は張崎幸寿氏(長命寺)、和田秀雄氏(興性寺)、松井浄観氏、沖井諦映氏(本光寺)、秋月等観氏(西蓮寺)等なり。市長松本時正氏も出席せらる。東洋大学出身木村武次氏、京北出身松崎覚惇氏に面会す。若松市の物産を聞くに、第一は漆器なり、第二は酒、第三は納豆なりという。当市より一里半にして東山温泉場に達すべし。今より十二、三年前、家族を伴い、一週間入浴せしことあり。そのときの宿所は新滝なり。これに対抗するものに向滝楼あるを記憶す。

 会津は一市五郡と称するも、余は明治四十三年秋、耶麻郡を巡回せしことあり。よって今回の巡講は一市四郡を限りとせり。会津地方の風俗、方言につきては、越後と米沢とを混和せるもののごとし。平均するに、米沢六、七分、越後三、四分ぐらいの割合ならんか。上下一般に男女を分かたずモンペを用う。これに細、中、大の三様あり、その細をモンペ、中をサル袴、大をフンゴミという。また、一般にイナゴを食す。旅館の食膳にもときどきイナゴの佃煮を添う。一見エビの佃煮に似たり。左に方言の二、三を挙げんに、

  語尾にナシを添う。ソウダナシというがごとし。これ山形県に同じ。越後にてはノシという。このナシを添うるは敬語の方にて、もし下に向かうときはベを付くるなり。関東にてはソウダンベというが、会津はソウダベという。

  小児をヤヤ、子の生まるるをヤヤナシタ、はなはだしいをトテモ(トテモサムイまたはトテモウマイ)、巫をワカ、稲塚をニュー、稲架をサテまたはイナサテ(越後にてハサといい、出雲にてハデという)、氷柱をスゴリ、独木水車をバッカリ、病気をアンベガワルイ、ワラジ代用の藁靴をゲンベイ、瓶形の竹篭をハケゴ。

 会津中の一地方にて池を井戸といい、井戸をツルベといい、釣瓶もツルベといい、手桶を手サゲという所ある由。また、一般にオマエは敬語に用う。若松高等女学校において禁止語と題して表示せるところを見るに、

(一)おれ、おら  (二)おまへ、おめい(同輩以上に対し)

(三)やんだ(拒否)   (四)くんちやい、くんつやい(下サイ)

(五)べ、べー   (六)う(同輩に対する返事)

(七)へあえ、せあえ(ナサイ)   (八)……な(感嘆の助詞)

(九)がま(デアリマスマア)   (十)げんじよ、げんじよも(ケレドモ)

 若松の雪の絵葉書に、左のごとく方言が添えてあるを見たり。

  道ツケニ、ナンギダコト、ナス。(ナスは助言)

  オハヨー、オザイヤシ、ヒデイフツタ、ナス。

  アラ★★(原文では、くの字点表記)★★(原文では、くの字点表記)フツタコト、トテモ、大ユキダコト。(トテモは、はなはだしきの意)

  ナンツウダベ、コ年ハ、フンマイートオモタラ、トテモ、フツタコト。

 キノコと柿は会津の名物といわるるが、キノコに数十種あり。毎日異なれるキノコをもって饗応せられたり。柿にニョロドウ(如露堂)と名付くる一種あり。水分多くして甘露のごとし。また、八朔と名付くる柿あり。

 人気は淳朴、風俗は醇厚なれども、交通不便のために物事に悠長なる風あり。衣食住ともに節倹にして、婦人が男子と同じくモンペをきて、よく労働するは称揚すべし。民家の財産は平均し、大なる富豪もなければ極貧もなきはかえってよし。宗教は不振の方なり。学校には校舎の壮大なるものと講堂の設備を有するもの少なきは、面積の割合に戸口稀薄なるによる。しかして中学入学志望者の比較的多きは、貧富の懸隔なくして中等の資産家多きによる。旅行中やや異様に感じたるは、婦人の別当と古峯〔こぶ〕神社なり。村々落々、一として古峯神社と刻せる石碑を見ざるなし。会津地はたがなぐりしかコブだらけ、というありさまなり。

 

     福島県会津開会一覧

  (市郡)  (町村)  (会場)  (席数) (聴衆)   (主催)

  若松市         中学校    一席  七百五十人  学而会

  同           高等女学校  一席  六百人    同校

  同           同前     二席  六百人    有志

  同           小学校    一席  三百五十人  郡青年幹部会

  南会津郡  田島町   小学校    二席  五百人    連合青年会

  同     荒海村   小学校    二席  四百五十人  役場、学校、青年団

  同     旭田村   小学校    二席  三百人    郡青年会

  同     伊南村   寺院     二席  五百人    連合青年団

  同     富田村   小学校    二席  七百人    連合青年会

  同     朝日村   小学校    二席  八百人    連合青年団

  大沼郡   高田町   小学校    二席  四百人    町村連合

  同     本郷町   小学校    二席  三百人    町長、校長、住職

  同     野尻村   寺院     二席  四百人    役場、学校、寺院

  同     沼沢村   小学校    一席  四百人    校長

  同     同     寺院     一席  三百五十人  住職

  同     中ノ川村  小学校    二席  四百人    組合村長

  同     永井野村  寺院     二席  二百五十人  村長、校長、住職

  同     藤川村   小学校    二席  三百人    村役場

  同     新鶴村   小学校    二席  二百人    同村

  河沼郡   坂下町   小学校    二席  五百人    町有志

  同     柳津村   小学校    二席  三百人    報徳社および青年団

  同     塔寺村   小学校    二席  三百人    校長

  同     広瀬村   小学校    一席  三百人    村長および校長

  同     金上村   小学校    二席  五百五十人  同校

  同     同     宿所     一席  四十人    主人

  同     勝常村   小学校    二席  二百人    役場、学校、寺院

  同     堂島村   小学校    二席  百五十人   青年会

  同     同     宿所     一席  三十人    主人

  同     日橋村   第二小学校  一席  三百五十人  婦人会

  同     同     第一小学校  二席  三百人    青年会

  北会津郡  高野村   小学校    二席  三百五十人  郡役所

  同     川南村   小学校    二席  四百人    同校

  同     門田村   小学校    二席  二百人    村役場

   合計 一市、四郡、二十四町村(四町、二十村)、三十三カ所、五十七席、一万二千五百二十人

 

     付

栃木県一部開会一覧

  〔郡   町村    会場    席数  聴衆     主催〕

  塩谷郡  藤原村   小学校   二席  三百人    青年会

  同    三依村   寺院    一席  百人     有志

   合計 二村、二カ所、三席、四百人

    演題類別

     詔勅修身     三十席

     妖怪迷信     十五席

     哲学宗教      七席

     教育        二席

     実業        三席

     雑題        三席

 ついでに十一月二十二日、二十三日、東京府豊多摩郡新宿町〈現在東京都新宿区〉大宗寺(浄土宗)において講演をなす。警察署の依頼による。すなわち、

  豊多摩郡  新宿町  寺院  二席  三百人

 その前日(二十一日)には、東京市日比谷公園において欧州大乱の休戦祝賀会ありたれば列会す。

P336--------

南船北馬集 第十六編

大正七年度報告

 例により本年中の余の事業経過を発表せんに、著作の方は、

  南船北馬集  第十四編  大正七年一月発行

  焉知詩堂集  全一冊   大正七年二月発行

  南船北馬集  第十五編  大正七年十一月発行

 哲学堂経営の方は、硯塚を建て、史垣を設け、四聖堂中に実行的本尊として唱念塔を置き、図書館内に雑誌をも閲覧し得る設備をなせり。

 巡講の方は前掲を再録して総計を示す。

  一郡、五町村、五カ所、十席、二千五百五十人(群馬県)

  八郡、四十七町村、五十二カ所、九十九席、二万三千八百人(愛知県)

  一市、七郡、五十三町村、七十二カ所、百二十八席、二万五千百五十人(和歌山県)

  十一府、二十六郡、三十面里、九十一カ所、百十六席、三万五千九百十人(朝鮮)

  二市、八郡、三十九町村、秋田県一カ村算入、五十一カ所、九十六席、一万八百八十人(青森県)

  一市、四郡、二十四町村、三十三カ所、五十七席、一万二千五百二十人(福島県会津)

  一郡、二村、二カ所、三席、四百人(栃木県一部)

  一郡、一町、一カ所、二席、三百人(東京府一部)

   総計 四市、十一府、五十六郡、二百一町村、三百七カ所、五百十一席、十一万八千八百十人

 もしこれに明治三十九年以来の総計中より重複せる市郡町村を除去し、府を市に合し、面里を町村に合して通算すれば、左のごとくなるべし。(重複せるものは京城、仁川、平壌、釜山の四府、丹羽郡、豊多摩郡の二郡と、岩倉町一町なればこれを除く)

  総合計 五十四市、四百八十一郡、二千二百六十一町村、二千九百八十六カ所、五千五百三席、百三十七万八千六百七十五人(聴衆)

 以上は余が学校退隠後、満十三年間の事業とするところなり。

 

  (付)哲学堂会計報告

一、収入合計 金一万三千五百三十四円五銭

   内訳 金三千百四十九円二銭   前年度剰余金

金一万八十六円五十三銭  揮毫謝儀

金八十二円也       篤志寄付

金二百十六円五十銭    銀行利子

一、支出合計 金七千百三十一円六十二銭

   内訳 金五千円也        基本財産へ移す(第五回)

金五百二十円四十五銭   建築費および器具購入代

金四十七円六十九銭    庭園手入れおよび修繕費

金六百九円八十銭     書籍、規則印刷費

金九百五十三円六十八銭  事務費(俸給、手当、郵税等)

 差し引き 金三千百四十九円二銭   剰余金

   以上、大正七年十二月決算

P389--------

南船北馬集 第十六編

大正八年迎歳記

 大正七年十二月十日東京を発し、神経痛療養のために相州湯ケ原温泉に入浴す。宿所は中西旅館なり。欧州大戦の結果につきて所感を賦す。

英雄何足崇、勝利在能耐、独帝勢如竜、敗為一鼠輩。

(英雄はいったいどうしてたっとぶ値があろうか。勝利を得るにはよく耐え忍ぶことが必要なのだ。ドイツ帝国の威勢は竜の天に昇るにも似ていたが、一敗地にまみえるや一匹の鼠のごとくとはなった。)

 滞在中、大内青巒氏の逝焉を聞き、七律一首を賦して弔辞に代う。

君是桑門一老儒、七旬余歳臥江湖、身通六芸凌先哲、学究八宗開衆愚、已落禅林芽再吐、将枯仏草気初蘇、化縁難奈今方尽、去向涅槃峰頂都。

(君は仏徒における一老儒であるが、七十余歳まで俗世に住んだ。身は儒学の六芸の易、書、詩、礼、楽、春秋に通暁して先人哲学者をこえ、仏教の八宗の倶舎、成実、律、法相、三輪、華厳、天台、真言宗を究めて俗衆の蒙を開き、すでに落泊せる禅門の芽を再び生ぜしめ、まさに枯れんとする仏草の気力をはじめてよみがえらせた。仏縁はいかんともしがたく、いまやまさに尽きて、ねはんの世界の最高の場に去ったのである。)

 二十四日帰京、自宅にて迎年す。

 大正八年一月一日、新年御題「朝晴雪」につき絶句二首を賦す。

大正八回移歳華、昇平瑞兆繞吾家、一天和気朝晴雪、四海春光夕彩霞。

(大正は八回の春の景色を迎え、平和のめでたいきざしはわが家をめぐる。天に和の気が広がる朝晴れの雪、世界が春の光につつまれる夕べの彩霞のときである。)

報年鐘破夢、晴色入書堂、富岳千秋雪、玲瓏照万邦。

(新年を知らせる鐘の音が夢を破るようにひびき、晴れやかな色彩が書斎に入りきたる。富士山につもる千年をこえる雪は、玉のように万国を照らすのである。)

 一月三日、初孫出産す。余は元旦より風邪に冒され、毎夜睡眠中に咳を発し、安眠し難ければ、十六日より相州葉山へ転地す。宿所は森戸神社前鍵屋なり。楼上所吟一首あり。

湘南風物絶塵縁、無客楼頭春寂然、終日貪看猶不飽、青天一白倒蓮懸。

(湘南の風物は俗世の縁よりはなれ、客のいない宿楼のあたりも春はわびしげである。一日中、もっぱら見るもなお飽きることなく、青い空に真白な蓮をさかしまにしたような富士山がかかっているのだ。)

 滞在中、海岸に沿って行くこと〔一〕里ばかり、西浦村に至るに浜頭に子産石あり。その石中より玉のごとき丸石を産出すという。これを得て家に帰らば、玉のごとき子を産すと伝え、三浦郡七奇石の一に数えらる。同村に円乗院と名付くる禅寺あり。その本堂の階段に「もろひとよ、はきものゝまゝ階段へ、上らぬやうに注意ありたし」との掲示あるはおもしろし。そのついでに便所にも「もろひとよ、小便するに壺外へ、もらさぬやうに注意ありたし」と掲示あらまほしく感ぜり。二十二日帰京す。葉山客中、哲学唱念和讃二十五首をつづる。

  世の哲学をながむるに、議論の花は開けども、

    未だ一つの応用の、実を結はぬは遺憾なり。

  高嶺の月を知らずして、麓の道に迷ひつゝ、

    有無の詮議に日を送る、こは哲学の時弊なり。

  人の心の渡るべき、道を示さぬ哲学は、

    向上ありて向下なき、不具の学と名くべし。

  向下門の哲学は、向上門の究竟理を、

    実践躬行する道を、教ふることに外ならず。

  斯る真理を世の人に、示して実行せしむるは、

    多くの道のある中に、唱念法こそ至要なれ。

  唱念法は口に只、南無絶対無限尊、

    唱ふる外に何事も、勤め行ふ用はなし。

  賢愚利鈍の隔てなく、唱ふるのみで安心の、

    岸に達する道なれば、捷径中の易行なり。

  南無絶対を唱ふれば、迷ひの雲は晴れわたり、

    暗き心もたちまちに、光りのみつる心地する。

  南無絶対を唱ふれば、よろづの波は鎮まりて、

    心の水に絶対の、月影浮び来るべし。

  南無絶対を唱ふれば、春の日和の如くにて、

    病苦の霜も煩悶の、氷もとけてのどかなり。

  南無絶対を唱ふれば、地獄と見えし人生が、

    忽ち変じ極楽の、世界となりて現はるゝ。

  南無絶対を唱ふれば、唱ふるうちに厭世の、

    心機転じてからだまで、喜び勇むやうになる。

  南無絶対を唱ふれば、唱ふるうちに我れ彼れの、

    差別も消えて絶対の、光りの中に摂めらる。

  南無絶対を唱ふれば、唱ふるうちに絶対の、

    徳も力も心底に、泉の如く湧き上る。

  南無絶対を唱ふれば、心にみつる悪念が、

    自然にうせて万善の、徳を積みたる人となる。

  口に唱ふる七文字に、斯る功徳の大なるは、

    不思議の中の大不思議、真実妙と名くべし。

  声を発して絶対と、唱へずとても一心に、

    黙念すればおのづから、同じ功徳を受けらるゝ。

  只一心に絶対を、念ずるうちに心中の、

    小我の声は静まりて、大我に帰して一となる。

  只一心に絶対を、念するうちに真善美、

    三つの光りが現れて、隈なく心を照すなり。

  唱へて念する其中に、絶対無限の勢力が、

    心のうちより刺戟して、大活動を起すべし。

  是より後は人生の、路を遮ぎる百難を、

    排して進むいと易く、大奮闘も出来るなり。

  其処に所謂犠牲的、大精神も湧き起り、

    命をすてゝ何事も、成し遂げらるゝやうになる。

  仁義の道も忠孝の、教も此に至らねば、

    うはべ計りのものとなり、真の実行出来難し。

  斯くして国に尽くす人、ありたいものと思ふなら、

    つねに絶対無限尊、唱へて念ずるやうにせよ。

  斯る理窟を離れたる、唱念法の立て方は、

    教外別伝西哲の、唱道せざる教なり。

 そのほか真宗蓮如上人の改悔文にならい、哲学改悔文。

 もろもろの哲学上、瑣々たる理屈を詮議するの心をふりすてて、一心に南無絶対無限尊、われらが人生においてふみ行うべき一大事が、ことごとくこの七字のうちにこもれりと信じて唱え申すべく候。唱うる一念のとき、心中の迷雲たちまち晴れ、安楽の光明たちどころに現ずるに至るは必定に候。そのことわりよく会得して、ひたすら唱念すること、教外別伝の哲学の極致にして、古往今来の西哲未知の妙趣と存じ、この上は世のため国のために身心を尽くして一期を限り活動申すべく候。

P395--------

〔遺稿〕

静岡県巡講第一回(遠江国)日誌

 大正八年一月十六日より二十二日まで、静岡県巡講準備のために相州三浦郡葉山村森戸、鍵屋旅館に滞宿す。逗子停車場より約一里を隔つ。滞在中、一日歩を散じて隣村西浦村に至るに、その海岸に子産石あり。その石中より玉のごとき丸石を産す。この石を拾い得て家に帰らば、必ず玉のごとき子を産すべしとの伝説ありて、三浦郡七奇石の一に数えらる。同村に円乗院と称する一禅寺あり。その本堂の階段に「もろひとよはきものの侭階段へ上らぬやうに注意ありたし」の歌を張り出だせるを見て、なるべくは便所へも「もろひとよ小便するに壷外へもらさぬやうに注意ありたし」と掲示ありたきものと感ぜり。また滞在中、所見一首を賦すこと左のごとし。

湘南風物絶塵縁、無客楼頭春寂然、終日貪見猶不飽、青天一白倒蓮懸。

(湘南の風物は俗世の縁よりはなれ、客のいない宿楼のあたりも春はわびしげである。一日中、もっぱら見るもなお飽きることなく、青い空に真白な蓮をさかしまにしたような富士山がかかっているのだ。)

 大正八年二月十二日、夜十一時東京発。十三日朝、静岡県遠州浜松駅に着。浜名郡長渡辺素夫氏、郡視学米山喜太郎氏、その他有志諸氏の歓迎を受く。随行大富秀賢氏もここにきたりて相会す。これより知人小栗捨蔵氏の案内にて、自動車を駆ること二里半、浜名郡豊西村〈現在静岡県浜松市〉字桓武の旧家小栗慶次郎氏宅に至る。午前、豊西小学校にて開演す。村長松島吉蔵氏、校長佐々木伊三郎氏等の発起にかかる。午後、北浜村〈現在静岡県浜北市〉小学校にて講話をなす。主催は郡教育会第一部および同心遠慮講にして、発起は校長中村初蔵氏、講員平野又十郎氏、竹田雄太郎氏、佐野一二氏なり。しかして横田栄次郎氏宅に休憩して、当夕、小栗氏宅に帰宿す。

 十四日 夜来の降雨、午後に至りてようやく晴るる。午前、車行一里、積志村〈現在静岡県浜松市〉字有玉の素封家かつ篤志家高林維兵衛氏の宅に休泊す。同家には古代の時計を収集せられ、その種類百余点の多きに及ぶ。午後、小学校講堂にて開演。村長橋本吉五郎氏、軍人分会長栩木伸氏、青年会長高林氏、東洋大学出身北野卓宗氏、校長鈴木速太郎氏等の発起かつ尽力による。本村には北野氏の外に、哲学館出身小楠(高瀬改姓)実翁氏あり。この日の所吟、左のごとし。

暁乗膏雨濶軽塵、烟裏風生霽色新、二月田家猶励業、織機声暖遠西春。

(暁からのめぐみの雨は軽やかな塵埃をうるおしてしずめ、もやのたなびくうちに風が吹き起こって、はれてゆくようすは新鮮な思いがする。二月の農家はなお仕事にはげみ、機織の音が暖かな遠江の西の地の春にひびく。)

 本郡は綿布織業盛んにして、一カ年四千万円の産額なる由。そのうち原料三千万円を引き去り、一千万円織工費として郡内に入る割合なりという。

 十五日 開晴、ただし風強し。車行約一里半、蒲村〈現在静岡県浜松市〉に至る。本村には蒲冠者範頼の足をとどめし跡あり。午後、小学校にて開演。教育会第二部の主催。部会長松本杢次氏、副会長大橋精一氏、校長河合孝太郎氏、および評議員諸氏の発起にかかる。休憩所は鈴木初蔵氏宅なり。演説後、日すでに暮れて車行半里、浜松市〈現在静岡県浜松市〉に入り、浄土宗玄中寺において夜会に出演す。市中各宗寺院の主催にして、谷沢孝道氏、会場住職大塚弁祐氏、善正寺住職鶴見鶴円氏等の発起かつ尽力にかかる。宿所は停車場前花屋支店なり。これと対立せる旅館に大米屋あり。

 二月十六日(日曜) 温晴、和気融々。午後、演武館にて開演す。市教育会、郡教育会連合の主催なり。しかして発起は校長石山逸八氏、橋本政次郎氏、中田儔太郎氏、大賀辰太郎氏、徳松愛治氏、および米山視学等なり。席上、旧友内田正氏に面会するを得たり。浜松近在市野村に哲学館出身林賢宗氏住す。

 浜名郡内の名物を聞くに、盆踊りと紙鳶なりという。盆踊りは念仏踊りと称し、毎年盆中に多数相集まりて隊を成し鐘を打ち、初めに念仏を唱え、つぎに和讚を歌いつつ踊る。新仏〔しんぼとけ〕のある家の軒前にてこれを行う。これ、三方ケ原古戦場の戦死者を追弔することより起これりという。他町村までおどり込むを例とす。途中、ほかの隊と衝突するときに、喧嘩に及ぶことある由。つぎに毎年五月ごろ、紙鳶の競争をなす。その競争は長崎にもあるが、遠州の方は大いなる紙鳶を用い、その盛んなること長崎以上なりとの評なり。そのほか浜松地方の特色は、結婚のときに多額の結納金を、嫁を迎うる家より迎えらるる家に贈る一事なり。ふつう少なくも五十円、中等以上は何百円の多額を贈るという。つぎに冬は風、夏は蚊の多きも名物にかぞえらる。その風はいわゆるカラ風にして、西風の強く吹きくるなり。群馬県と同じく、天晴るれば必ず西風起こる。ただし群馬県のごとく寒からず。

 十七日 温晴。彼岸ごろの暖気を感ず。野梅はすべて満開なり。午前、花屋支店を発し車行一里、芳川村〈現在静岡県浜松市〉小学校にて開演し、午後五時、車をめぐらすこと二十余町、浜松市外なる天神町村〈現在静岡県浜松市〉信用組合事務所に至り、劇場相生亭にて開演す。村内、織物を専業とするもの多し。当夜、また花屋支店に帰宿す。芳川の主催は教育会第三部にして、相生小学校長阪本宗十郎氏、芳川校長古山清恵茂氏等の発起にかかり、天神町は軍人分会長蒲生経行氏、青年副会長松井儀平氏等の発起なり。

 十八日 晴雨不定。午前十時、浜松駅を発し舞阪駅に着し、駅畔宝田屋旅店に休泊す。午後、東海官道堠松の間を一過すること約一里、篠原村〈現在静岡県浜松市〉小学校にて開演す。聴衆満場、立錐の地なし。主催は教育会第四部にして、発起は校長疋田櫃次氏、その他八校長なり。途中、「早道具一式」と題する看板を見る。これ葬式道具の方言なる由。本郡は三方ケ原と天竜川と浜名湖の間に延長せる平坦部にして、人口の多きと農工の盛んなるとは県下第一と称せらる。

 十九日 快晴。朝八時発にて鷲津駅に降車し、これより発動機船に移り浜名湖を渡る。風あれども強からず、波あれども高からず、はるかに東北の天際に富峰の雪をいただきて卓立せるを望むところ、すこぶる壮快を覚ゆ。

艇泛浜名湖上瀾、望中迎送幾林巒、遥懸富士峰頭雪、光入玻窓春亦寒。

(舟艇を浜名湖上の広々としたうちにうかべ、一望するうちにいくつかの林と山を送り迎える。はるかに富士の峰のいただきに雪のかかるのを見る。光はガラス窓より入るも、春はなお寒い。)

 午前中に北庄内村〈現在静岡県浜松市〉堀江に着岸し、これより馬車に移り行くこと十五丁、小学校に至る。校は丘上桑園、麦圃の間に孤立す。教室二棟、その長さおのおの五十間以上なり。主催は教育会第五部、発起は北庄内校長柘植清氏、南庄内校長新村清次郎氏等とす。演説後、馬車を後方にめぐらして堀江館山寺に入る。浜名湖は長さ五里、幅四里の大湖にして、その周辺勝地多きも館山寺をもって最勝とす。軒前一望、万象を眸裏に納むるを得。その宗旨は臨済宗なり。

館山寺静好修禅、湖上風光繞四辺、一鳥不啼春寂々、艇声時有破閑眠。

(館山寺は静かで禅を修業するによい。湖上の風光はあたりをめぐる。一羽の鳥もなかず、春はしずかにわびしい。舟艇の発動機の音が起こるときには、のどかなねむりを破るのである。)

 地勢ほとんど孤島のごとく、境内前後左右に海湾を有す。堂宇は林巒に踞して風光に富む。かつその閑雅幽邃愛すべし。秋葉山三尺坊の出張所ありて、火防の守り札を出だす。

 二十日 晴れ。朝、館山寺を下りて発動機に駕し、波上四十分にして引佐郡気賀町に着し、これより車行約二里、都田村〈現在静岡県浜松市〉小学校に至りて開演す。青年会長村松大作氏、副会長(校長)伊藤晃一氏、部長須部源一郎氏の主催なり。本村は田園あり、林巒あり、米田一反につき平均五俵の収穫ありて、そのうち地主七分、小作三分の配当なる由。また蚕業大いに盛んにして、年額二十五万円、そのほか藁筵産額三万円なりという。この地方の方言を聞くに、

  オタマジャクシを玉リンゴ  氷柱をチンボウ氷  稲塚をイナブラという由。

 下等語に「オマタオイジュ」とは「オマヘオ出デナサイ」の意なり。また、遠州一般にイケンというべきをオエンという。岡山県の方言と一致す。本日、昼食は吉中旅店、宿所は有志家鈴木喜作氏宅なり。

 二十一日 曇り。風なく暖気、雨を催さんとす。再び気賀町〈現在静岡県引佐郡細江町〉〔に〕かえり、午後、小学校講堂にて開演す。郡教育会の主催にして、郡視学清水識太郎氏、校長金原定吉氏の発起なり。郡長古川静夫氏、磐田郡へ転任の際にて、当夕、宿所吉野屋にて送別会あり。気賀より浜松の間は軽便鉄道の便を有す。本町の特産は琉球オモテなり。この地もと姫街道と称し、新居の関所を避け、婦人の通行する間道となりおれり。今夕、過暖〔華氏〕五十八度に上る。

 二十二日 雨。朝八時、腕車を雇い行程二里半、自然にのぼりつつ行くも坂路なし。桑麦の間を通過して山隈に入る。林木鬱蒼たる中に方広寺あり。臨済宗の一本山なり。門前に売店数戸、軒を連ぬ。門下に半僧坊大権現と標せるあり。これよりのぼること二、三丁にして本堂に達す。その間に五百羅漢の石像、林間巌頭に散在して参客を迎うるもののごとし。堂内広闊、一千人を宿泊せしめ得と称す。本殿は近年、新築全く成る。天井のごときは希有の大美板をもって張れり。開山は後醍醐天皇第十一皇子無文禅師なり。本堂に連接して開山堂および半僧坊殿あり。管長間宮英宗氏に面会す。

 この日、登山の即吟一首あり。

車過麦青梅白郷、奥山春雨望茫々、林間一杵鐘声動、知是半僧権現堂。

(人力車は青い麦畑と梅の花の白く咲く里を行く。奥深い山に春の雨がふりしきり、一望するもはるかにけぶる。林の間から一杵の鐘声がひびいてきたが、それは半僧坊権現堂からである。)

 昼食後、下山して気賀に帰り、これより更に車行三里、湖畔に出没し林丘を上下し山水明媚の間を一走して西浜名村〈現在静岡県引佐郡三ケ日町〉に入る。途中、子供が嫁様嫁様と呼びつつ集まりきたる。幸いに二時後より晴天となり、村落の梅、椿ともに満開せるは気候の温暖なるを知るに足る。山上はすべて矮松をもっておおわる。宿所は字三ケ日千鳥屋旅館なり。この地、姫街道の駅に当たり、今なお町形をなす。本村の名物は蜜柑にして、遠州本場の称あり。また畳表を産出す。

 二十三日 晴れ。名物西風起こる。午後、小学校にて開演。仏教護国団支部および小学校の主催にして、校長山本彦一郎氏、金剛寺住職吉山大宗氏、大福寺住職堀口真隆氏、延命寺住職織田禅英氏等大いに尽力せられ、揮毫所望者ことに多く、昼夜これに忙殺せらる。

 二十四日 穏晴和融。湖上平静盆水のごとし。早朝六時、西浜名より発動機に駕し、湖光巒影の中を一走して浜名郡入出村〈現在静岡県湖西市〉に着して、午前十時より開会す。主催は青年会、発起兼尽力者は村長船川利房氏、校長兼青年会長木村義十郎氏、副会長山本誠一氏等なり。本村は漁業本位にして、村民大抵みな漁家なりとす。湖上の漁額八分どおりは本村より漁出すという。午後再び乗船、陸路一里の間を二十分にして新所村〈現在静岡県湖西市〉に着岸、これより徒歩十丁にして高等小学に至り開演す。校名、湖西という。教育会第六部の主催にして、校長鈴木幸次郎氏、村長福嶋太郎吉氏等の発起かつ尽力にかかる。この湖畔は一体に養魚場多し。演説後、車行約一里、鷲津駅畔小花屋に入宿す。

 二十五日 晴れ。車行約一里、新居町〈現在静岡県浜名郡新居町〉に移る。会場は劇場住吉座、主催は軍人会、青年会、慈善会、積善会にして、発起は町長太田才一郎氏、署長鈴木喜輔氏、校長川合治栄氏、軍人会長青木一雄氏、慈善会長見崎徳祐氏、積善会理事永阪教然氏等とす。しかして宿所は紀伊国屋なり。当夕、蚊影を見る。宿泊料、上等二円、中等一円五十銭、並等一円。按摩は二十五銭と聞く。本町と舞阪との間に弁天島あり。避寒、避暑の良地とし、また海水浴場として近来大いににぎわう。客舎には茗荷屋(貴族的)、松月亭(平民的)の二戸をよしとする由。当所の物産としては、魚類の外に海苔あり。方言につきては、西浜名にて聞くところによるに、

  オトーサンをチャーサマ  アノソバをアノバ  コノソバをコノバという。

 また、新居にて聞くところによるに、

  恐ロシイことをオソンガイナといい、驚くときの発声にバーバーという。

 バーバーは東京のオヤオヤに当たる。新居の人が東京にきたり、バーバーと呼びたるを聞きて笑いたるにつき、東京にては驚きたるときなんと呼ぶかと問い返せば、東京はオヤオヤと呼ぶというを聞き、オヤのオヤはババではないかと答えたりとの話あり。その方言に、

  バーポータイナ コノモンニヤウガ カータケタ

という意味は、オヤツマラナイナ、この物がコワレタに当たる由なり。また、「春のヒートイブキ」という俚言あり。春は一日風が吹き、翌日休みて雨となるの意なり。新居町は旧関所の跡にして、その関所の西と東とは言語、風俗を異にすという。以西にては行って参〔さん〕じましたといい、以東にては行って参りましたというの別あり。また、以西は夜具布団に袖なきを用い、以東は袖あるを用うるの別あり。すなわち上方風と関東風のよって分かるるところなり。

 二十六日 晴れ、風やや寒し。今朝、関址を一覧す。その旧屋は町役場に使用せらる。遺物としては、正徳四年日付の高札あるのみ。今より二百六年前に当たる。これより汽車に駕し、浜松にて腕車に移り、二里の間を一走して磐田郡掛塚町〈現在静岡県磐田郡竜洋町〉に入る。町の入口に長さ四百八十間、すなわち八町の長橋あり。会場は劇場千歳座にして、夜会を開く。主催は修養会、青年会、軍人会、発起は国清寺鈴木大順氏、守増寺船明蟠竜氏、潜竜寺峯山経徳氏、松下民三郎氏、芥田辰五郎氏等とす。しかして宿所は浄土宗西光寺なり。当町は東海道鉄道開通せざりしときは、天竜川の材木の集散地にして大いににぎわいしも、開通以来次第に衰えりという。聞くところによるに、斬髪料十五銭、湯賃二銭なる由。

 二十七日 穏晴。哲学館出身鈴木芳之助氏の案内にて車行一里半、井通村〈現在静岡県磐田郡豊田町〉小学校に至り、午後開演す。校舎は東海道本道に面せる西洋館なり。明治七年の建築、八年の開校にして、当時全国八大学校の一にかぞえられたり。今は老朽せるも、よろしく村宝として保存すべき古建築なり。主催は興徳寺(住職小林祖桂氏)、安楽寺、正賢寺、豊田院等、曹洞宗寺院とす。みな大いに尽力せらる。演説後、車行二十四、五丁にして中泉村〈現在静岡県磐田市〉に入り、駅前友愛館に宿す。この日、途上吟一首あり。

春遊何処掃塵煩、遠山駿水好養魂、風暖天竜河畔路、梅花香裏過孤村。

(春の遊行はいずこに俗世の塵を掃きすてようか。遠江の山と駿河の水は魂を養うによい。風の暖かい天竜川のほとりの道に、梅花の香りただようなかを、ぽつんとある村をすぎたのであった。)

 二十八日 夜来少雨、暁天全晴。午前、農学校にて講話をなす。校長細田多次郎氏の主催なり。午後、役場階上の公会堂にて開演す。主催は中泉仏教和合会、発起は中泉寺、行泉寺、善導寺、西願寺、満徳寺等の各宗寺院なり。当所は四、五年前、鈴木氏の発起にて講演せしことあり。この地方の特産は甘藷の切り干しと蓮根なりと聞く。当夕は篤志家中津川敬三郎氏別邸に宿す。

 三月一日 温晴。日中〔華氏〕六十一度に上る。午前、車行半里、途中、県社八幡宮の社前を過ぎて見付町〈現在静岡県磐田市〉郡立女学校に至り、一席の談話をなす。校長は土居定雄氏なり。引き続き同所において、見付専売支局のために講話をなす。支局長は末次政一氏、事務課長は花田政春氏、製造課長は沖卯太郎氏なり。見付は郡役所所在地にして、郡長は最近、古川氏引佐郡より転任せられ、郡視学は桜井庄次郎氏なり。見付には県社矢奈比売天神あり。その祭礼は旧八月十三日夕をもって行う。神輿を送迎する人、みな裸体となる故に、天神の裸体祭りとてその名高し。午後、車行約一里、御厨村〈現在静岡県磐田市〉小学校にて開演す。青年会および寺院の主催にて、村長江塚勝馬氏、医王寺住職松本宥観氏、全久院住職寺田孝道氏、青年会長浦田嶺明氏、鎌田小学校長白井兼吉氏の発起なり。宿坊医王寺はこの地方における名刹にして、境内清森、薬師堂あり。真言宗智山派に属す。

 三月二日(日曜) 晴れ。午前、腕車にて行くこと約一里、中泉駅より乗車、袋井駅に下車す。駅標に秋葉山まで十里、可睡斎まで二十五丁、天理教山名大教会へ一丁と表示せるを見る。余は明治三十八年、可睡斎夏期講習会に出演し、近地数カ所において講演せしことあり。その当時、日置黙仙氏住職なりしが、今日は秋野孝道氏その後を継ぎて住職となれり。袋井町〈現在静岡県袋井市〉の会場は慈眼寺、主催は袋井町および笠西村各種団体、発起は青年会長沼野英二氏、笠西村長戸倉実太郎氏、袋井町長寺沢嘉平氏、袋井校長船越勇三郎氏、笠西校長宮崎正雅氏等なり。なかんずく船越氏大いに尽力せられ、揮毫所望者非常に多く、昼夜ともに多忙を極む。本夕は畳屋旅館に宿泊す。当地は鉄路四通の地に当たり、物荷の集散地なり。また、当所の名物は天理教の教会堂にして、大和丹波市の本山に次ぐべき大設備をなせり。そのほか一木喜徳郎氏の養家この地にありとて世に知らる。本郡内の巡講に関し、鈴木芳之助氏の各所へ紹介奔走の労をとられたるを深謝す。

 三日 快晴。この日、朝鮮李大王の国葬ありとて、学校などは休業す。午時、袋井を発し鉄道馬車に駕すること約二里半、周智郡飯田村〈現在静岡県周智郡森町〉小学校に至りて開演す。本郡視学山本芳太郎氏、ここに出張して迎えらる。演説後、腕車にて走ること半里余、本郡の首府森町に入り、大黒屋に宿す。旅館は森川橋畔にありて、橋上来往の車響、跫音、楼に入りきたる。森町地方は茶の産地にして丘山一面、茶園のために青し。

 四日 晴れ。朝寒霜痕を見る。腕車に駕し太田川の渓流に沿ってさかのぼり、ようやく渓間に入る。行程三里の間、地勢自然に高きも概して平坦なり。両岸に茂林修竹あり、また茶園の往々その間に交わるあり、野梅のなお残花をとどむるありて、いささか旅情を慰むるに足る。会場は三倉村〈現在静岡県周智郡森町〉小学校、主催は教育会および青年会、発起は青年団長田辺三郎平氏、小学校長吉筋義一氏等。つぎに、宿所は鍛冶屋旅館なり。当所は秋葉山へ五里、春名山へ三里、大日山へ三里半の位置にあり。この三カ所は、各専門の効験を有すと信ぜらる。秋葉山は神社にして火防の神護ありとし、春名山は梵天様と称し曹洞宗に属するも、狐付きをおとす祈祷を専門とし、大日山は漁業と熱病の祈祷を受け持ちとす。三倉村は三方に神仏の守護あれば幸福の村というべし。

 五日 快晴、一点の雲影を見ず。三倉より腕車を用い後押しを付け一嶺をこえ、行程三里にして犬居村に至る。これまさしく秋葉山麓なり。これより登躋五十丁にして神社に達す。一カ年の登山客、無慮十万人と称せらる。犬居より再び気多川の渓流に沿ってさかのぼること二里、途中、林影の蒼々と鴬語の喈々たるに応接しつつ気多村〈現在静岡県周智郡春野町〉に入る。この間、道狭きもやや坦にして車を通ずべし。会場は劇場気田座、主催は教育会、発起は気多村長高木松三郎氏、校長照沢理覚氏、犬居校長鈴木末吉氏、豊岡校長鈴木藤太郎氏、花島校長清水由太郎氏にして、みな大いに尽力せられ、揮毫所望者すこぶる多し。宿所対秋楼は秋葉山に対向する意なりというも、秋葉山は楼後にあれば、背秋楼と名付くるほう事実に近し。本村には王子製紙の分工場あり。この日車上所見、左のごとし。

一渓車路不嵯峨、林壑幽辺有気多、秋葉祠峰堪仰望、登山客破翠雲過。

(谷ぞいの人力車を通す道は割合に平坦であり、林と谷の奥深いあたりは山気豊かである。秋葉社の峰は仰ぎみるべく、登山の人はみどりの雲を破るようにして行く。)

 六日 快晴。車行前日の道を繰り返し、三倉に少憩して森町〈現在静岡県周智郡森町〉に至る。行程八里、午後一時着早々、小学校において講演をなす。当町富豪福川忠平氏、数万円を寄付して校舎を新築せられ、壮大の講堂を有す。主催は郡教育会、発起は郡長遠山驄橘氏、町長藤江勝太郎氏、校長山本文平氏、会長山本芳太郎氏なり。遠山郡長、会場へ出席せらる。宿所大黒屋に表示せるところを見るに、特等一円五十銭、上等一円二十銭、中等一円、並等八十銭とあり。この地方は、明治初年ごろの旅館組合一新講の看板を、今なお軒前に掛けるを見る。本夕、逓信省貯金奨励の幻灯会あり。夜中、雨を催しきたる。

 七日 晴れ。鉄道馬車にて走ること一里半、山梨町〈現在静岡県袋井市〉に至る。会場は周南小学校、主催は小学校、発起は小松栄氏、副会長松田次太郎氏等にして、休憩所は田中屋旅館なり。当夕、馬鉄にて山梨を辞し、袋井十時発に乗り込み、帰東の途に上る。

 八日 曇り。朝五時半、東京駅着。午後、和田山へ出張、哲学堂工事の相談をなす。

 三月九日(日曜) 晴れ。午前十時、京北中学卒業式に出席して一場の訓辞をなす。午後十一時発にて再び静岡県に向かう。

  十日 晴れ、風あり。早朝五時半、遠州小笠郡堀内駅に着。これより南山まで馬鉄あれども腕車を用い行くこと二里にして、平田村〈現在静岡県小笠郡小笠町〉旧家にしてかつ名望家たる黒田定七郎氏宅に休泊す。その家は霜古堂と号し、一棟全部、一株の巨松をもって建築せるものと聞く。青年団および軍人会の主催にて、小学校において午後開演す。村長鈴木治兵衛氏、青年団長杉田善一氏、軍人分会長鈴木勝平氏、校長鈴木源一氏等の発起なり。この地方は製茶を業とするもの多し。余は明治二十四年に、本村青竜院にて演説せしことあり。そのときの主催の一人たる橋本孫一郎氏は、双松学舎を開設して中学程度の教育に従事せらるる由。当地講演中、左の東洋大学出身者六氏より慰問を受く。

  南山村正林寺田中霊鑑  川野村東泉庵田中亮弘  朝比奈村小野勝司  西郷村法泉寺笛岡智達

  掛川中学教諭中西彦太郎 佐来村宗禅寺加藤禅童

 十一日 晴れ。車行二十町にして南山村〈現在静岡県小笠郡小笠町〉に移り、城東倶楽部の公会堂において午後開演す。主催は南山、川野、相草三村連合、発起は南山村長高木庄作氏、同校長松下三郎次氏、川野、相草組合村長荒畑正夫氏、同校長丸尾熊蔵氏、善勝寺住職広瀬亮渓氏、および出身者田中霊鑑、同亮弘二氏なり。霊鑑氏は本郡開会につき種々尽力せられしも、本山の布教用にて愛知県へ出張中なれば、豊巻宗峰氏代わりて斡旋の労をとらる。本夕、城東倶楽部の楼上に宿す。

 十二日 雨。春雨糸のごとし、また煙のごとし。午前、車行一里半、隧道を一過し鴬声に送られつつ朝比奈村〈現在静岡県小笠郡浜岡町〉小学校に至りて開演す。軍人分会長西原市次氏、青年団長榛原安次氏、同窓会長河崎忠平氏、閑田院住職谷口興随氏の主催なり。午後、山路十五丁の間を車路なきをもって大いに迂回し、比木村〈現在静岡県小笠郡浜岡町〉正福寺に至る。一里余あり、泥のために車進み難く、行くこと遅々たり。途中、梅花すでに尽き、桃花の笑みを含むを見る。村長萩原佐吉氏、小学校長桜井謙蔵氏、正福寺住職神原忍弘氏の発起にて開会す。当地方は丘山多く、丘上には松林と茶園と相交わる。

 十三日 晴れ、風やや寒し。比木を発し車行約一里の間、道狭くかつ不良なり。午前、佐倉村〈現在静岡県小笠郡浜岡町〉官長寺に開演す。村長水野信一郎氏の主催なり。午後、更に車行一里余、麦田、茶圃、柑園、梅林の間を一過して榛原郡白羽村〈現在静岡県榛原郡御前崎町〉増船寺に至る。曹洞宗なり。午後開会。御前崎、白羽、地頭方三村連合の主催にて、白羽校長横山勝右ヱ門〔氏〕、軍人会長松井仁平次氏、青年会長松下操平氏等の発起なり。なかんずく増船寺住職白鷺洲喚三氏、大いに尽力あり。御前崎灯台は五十丁を隔つ。村内漁家多く、物産としては海産物を第一とし、これに次ぐものを柑橘および干薯とす。

 十四日 穏晴。朝、増船寺の新築三層楼上より遠灘を一望して、一詩を賦す。

沙丘起伏路相連、尽処漁村是御前、岬角楼灯能照破、遠灘百里怒涛烟。

(砂丘は波のごとく起伏し、道が続いており、これらの果てにある漁村は御前崎である。岬の一角にたつ灯台は波のかなたを照らし、遠州灘百里の怒涛はけむる。)

 本村の海底より海松〔みる〕を産出す。これを方言ヤギという。住職白鷺洲氏より、イシヤギとイトヤギの二種を贈与せらる。白羽を発し車行一里半、小笠郡佐倉村桜池を一覧す。水野村長、案内の労をとらる。松林の間に神社あり、池宮と名付く。その右方に周囲約半里の沼池ありて、三面林巒を擁す。漁猟を漁し鉄器を水中に入るるを禁ずるをもって、池草を刈るに銅製の鎌を用う。その池は霊沼にして、古来、遠州七不思議の第一位にかぞえらる。伝説によるに、往昔、法然上人の師たる皇円阿闍梨、この池に入りて竜王となれりという。毎年九月、秋季皇霊祭の日に大祭あり。そのときは円形の巨櫃数個に、おのおのおよそ飯四升を入れ、これを池の中央において水底に沈むるを例とす。これを沈むる壮丁は一週間精進潔斎し、毎日海水にて身を清め六根清浄をなし、竜王に捧ぐる飯には一切婦人の手を触れしめずという。また伝うるに、この地は信州諏訪湖に通ずという。かくして沈めたる櫃は、数日を経て水面に浮かびきたる由。幸いにその一個を村長より寄贈せらる。

桜池南遠古霊場、林影映波々亦蒼、九月年々修禊事、円盤盛飯捧竜王。

(桜池は霊沼であり遠くいにしえからの霊場である。林の影は池の波にうつり、波もまた青い。九月には毎年みそぎ事を行い、円形のひつに飯を入れて竜王に捧げるのである。)

 これより十町にして池新田村〈現在静岡県小笠郡浜岡町〉に入り、第一小学校において青年団のために講話をなす。村長松本愛太郎氏、青年団長金原米平氏、後藤林平氏等の発起なり。宿所相良屋にて聞くに、桜池大祭の節は遠近より信者群来し、旅宿するもの二、三百人の多きに達し、廊下、縁側まで寸地を余さずという。

 十五日 雨のち晴れ。馬車にて行くこと四里、横須賀町〈現在静岡県小笠郡大須賀町〉に入る。途上の風光は「已見菜花発又聞鳴蛙声」(すでに菜の花が開くを見、また、鳴く蛙の声を聞く。)のありさまなり。その道海岸に沿って平坦なるも、防風林のために遮られて海を見るを得ず。路傍には梅林多く、その中に茶園あり。この地方より梅干しを産出すと聞く。午後、横須賀公会堂にて婦人会のために一席の講話をなし、夜に入り、再び同所において教育会のために二席の講演をなす。夜会は聴衆、場にあふる。発起は校長岡本安次氏町長石原市十氏、蓮舟寺住職安藤潜竜氏等なり。当夜、旅館佐野屋に宿す。満月皎として霜気を帯ぶるがごとし。本町の物産は柑類と製茶なり。

 三月十六日(日曜) 快晴、ただし遠州名物のカラ風起こる。早朝、車行一里半、大阪村〈現在静岡県小笠郡大東町〉貞永寺にて午前開演す。仏教護国団発会式あり。発起は住職小沢真浄氏および少林寺、撰要寺、窓泉寺、瑞雲寺、興徳寺なり。午後、更に車行一里、土方村〈現在静岡県小笠郡大東町〉小学校に至り、青年団のために講話をなす。団長野中芳蔵氏、副団長藤田和作氏、青野実平氏の発起にかかる。この地方の副業としておのおの藁縄の製造に従事す。道路の両側に起伏せる丘陵は多く茶園なり。菜花すでに開きて隴頭に金色を浮かぶ。演説後、風に逆って車をめぐらすこと二里半、横須賀町へ帰宿す。土方村には小笠山あり。その山上に天狗住すとの伝説あり。

 十七日 晴れ。朝、佐野旅館を発し、車行二十余町にして笠原〈現在静岡県袋井市、小笠郡大須賀町〉小学校に至り、午後開演す。主催は青年団および軍人団にして、発起および尽力者は軍人分会長鈴木武一氏、青年団長松本徳兵衛氏ほか数氏なり。校庭内に意匠を凝らせる戦役記念碑あり。遠州地方は大抵学校と役場と境を同じくし、その構内に壮大の記念碑を併置せるを一特色とす。演説後、軽便に駕して袋井駅に至り、駅前旭館に一休す。軽便は袋井と横須賀と三里の間に架設せる鉄道なり。これより更に本線に駕し掛川町〈現在静岡県掛川市〉に下車し、浄土宗天然寺に入宿す。掛川は郡衙所在地にして、郡長は太田吾一氏、郡視学は前田豊平氏なり。当地は余が三十年前曾遊の地たり。

 十八日 快晴。午後、宿寺において各宗道交会のために講演をなす。住職泉覚正氏、婦人会会計山崎茂七氏、永江院住職永江金優氏の発起にして、いずれも大いに尽力せられ、揮毫所望者も多数に達せり。当夕は法話会のために、円満寺において講話をなす。住職鬼頭了寅氏、鬼頭すま子、松本しげ子等の諸氏の発起なり。当町了源寺前住職曾我雨山氏は旧識なるが、本年米寿に達せりと聞き、「堪羨雨山古老生、迎来八十八新正、了源寺裏春如海、庭竹門松寿色栄」(うらやむべし、雨山老人、八十八歳〔米寿〕の新しい年を迎えられた。了源寺のうちに春は海のごとく深々とひろがり、庭の竹、門の松にもことほぐ色をふくんでさかんである。)の七絶を賦して贈す。これ雨山氏の寿詩に次韻せるものなり。終夜、はるかに蛙声を聞く、また近く蚊影を見る。

 十九日 穏晴。午前十時、宿坊天然寺を発し行くこと三、四丁にして報徳社に至る。門の石柱に道徳門と経済門との文字を刻せり。会堂は儼然たる殿堂式の建築なり。玄関の上に尊徳先生の像を安置せるあり。庭内の桜花すでに笑みを含む。平年より一週間早しという。所感の一作、左のごとし。

出門街路算春晴、園裏風光帯紫明、報徳殿堂儼然立、掛川城内拝先生。

(門を出ずれば街路に春の晴れやかさがあり、園のうちの風光は紫がかった明るさをおびている。報徳の殿堂はいかめしく立ち、掛川町に尊徳先生の像を拝したのでありました。)

 これより約一里半にして和田岡村〈現在静岡県掛川市〉に至る。純農村なり。途中、目に触れたるものは、秋葉神社の鳥居と田間の風車なり。その道は秋葉街道に当たれる由。風車は藁筵にて作り、風力を利用して米をつかしむるものなり。午前、小学校にて開演。村長吉岡和三郎氏、校長田中宅平氏の発起にかかる。午後、車行約一里、垂木村〈現在静岡県掛川市〉小学校に移りて開演。村長榛原重蔵氏、校長諏訪広吉氏等の発起にかかる。この地方における民家の副業は藁筵を製作するにあり。当時、桃花すでに開き、桜花また笑わんとす。午後過暖。演説後、宿坊常光院に入るや、たちまち迅雷一震しきたり、白雨をもたらしきたる。本年に入りて初めて雷鳴を聞く。

 二十日 開晴。昨夜の雷雨、天を洗い去りて今朝開晴となる。ただし風強くかつ寒し。車行半里強、雨桜村〈現在静岡県掛川市〉小学校に至る。校舎は丘山最高所にありて、出入り必ず急坂を上下せざるを得ず。この辺りは地勢一体に丘陵勝にして、丘上には松林の茂生せるあり。往々これに交ゆるに修竹をもってす。また、茶圃の散在せるあり。しかして渓間はすべて米田なり。昨今は桃花および彼岸桜のすでに満開せるを見る。午後、車行一里弱にして西郷村〈現在静岡県掛川市〉小学校に至る。開会主催は村長佐藤孫三郎氏、校長倉山多十氏、法泉寺住職笛岡智道氏なり。笛岡氏は、哲学館出身のかどをもって大いに尽力あり。この隣村倉真村は、前文部大臣岡田良平氏の郷里なり。演説後、車を駆り、その直きこと矢のごとき駅道を一走して、日のいまだ昏せざるうちに掛川町に入り、山口旅館に宿す。掛川より二里南方に当たり法多〔はった〕山観音あり。牡丹およびつつじ花の名所として、暮春より初夏の交、登山者すこぶる多く、その勢い可睡斎をしのぐという。

 二十一日 晴れ。車行二十四、五丁にして上内田村〈現在静岡県掛川市〉小学校に至り、午後開演す。青年団の主催にして、村長角皆友義氏、校長平岩文次郎氏等の発起にかかる。休泊所は雑貨店兼旅店鈴木屋なり。

 三月二十二日(春季皇霊祭) 晴れ。車行一里半、午前、内田〈現在静岡県小笠郡菊川町〉小学校にて開演す。中内田、下内田組合村長竹内弥平氏、校長竜ヶ崎九蔵氏、軍人会長田中春平氏、青年会長横山登氏の主催なり。本村には皇円阿闍梨の寺たる応声教院あり。近郷第一の名刹と称す。午後、更に車行一里、馬車軌道を横断して横地村〈現在静岡県小笠郡菊川町〉興岳寺に移る。開会主催は住職近藤聞桂氏と村長伊藤準作氏なり。宿寺は民家を離れ高丘の上に孤立せるも、夜半後、枕上蚊声を聞く。

 三月二十三日(日曜) 穏晴。山行約三里坂路あり、やや車を通ず。山上には松林と茶圃のみ。これを一過して渓間に入る所に、榛原郡萩間村〈現在静岡県榛原郡相良町・榛原町〉なる曹洞宗大興寺あり。本堂は近年の新築にかかる。開会主催は住職増田行海氏および村長横山新吉氏なり。本村は製茶を本業とす。茶はほとんど一村の生命と称すべきほどなり。聞くところによるに、茶園一段歩につき一カ年の収入およそ百五十円ぐらいという。葉を摘むこと四回の多きに及ぶ由。近年は製茶は一般に器械を用うることとなり、自然に茶園を有するものと製茶家とは分業するに至れりという。この渓上に石油坑あり。大日本石油会社の所有にかかる。

 二十四日 風雨。萩間より約二里、道路平坦、車走して相良町〈現在静岡県榛原郡相良町〉に入る。当所は御前崎より三里北方にあるも海に浜し、夏時の海水浴場に適す。物産としては鰹節、相良海老等あり。東京のいわゆる伊勢海老を伊勢にては志摩海老といい、遠州にては相良海老という。曹洞宗秋野孝道氏はこの地の出身なりと聞く。また、当町内に先生の姓を有するものあり。これをセンジヨウとよむ、奇姓なり。会場および休憩所は公会堂なるも、風雨のために妨げられ聴〔衆〕の少なきを遺憾とす。主催は仏教会にして、発起は平田寺竹中玄徹氏、般若寺西村恵隆氏、浄心寺黒田浄心氏、竜音寺樋口得成氏等なり。しかして最初より照会の労をとられしは大沢寺今井祐闡氏なり。相良より藤枝まで六里の間、軽便鉄道あり。夕刻、これに駕して藤枝に向かう。その中間に大井川の仮橋あり、その長さ六百間、本邦第一の長橋とす。この橋上は軽便通ぜず、人車鉄道をもって連結す。故に対岸に別に軽便の迎うるあり。これに再乗して藤枝に入る。駅名を藤枝新駅と称す。官線の藤枝駅と相隣る。当夕は風雨の影響にてこの方面すべて電灯全滅、全く暗黒界となる。駅畔の旅館に休憩すること二時間、ろうそく光下に揮毫をおわり、夜十一時、乗車して東京に向かう。

 二十五日 晴れ。早暁五時、東京着。午後、東洋大学卒業式に出席す。本年はじめて朝鮮人の卒業生を出だす。この日、過暖華氏六十九度、上野公園の桜花すでに開く。平年より早きこと約十日との評なり。夜十一時、東京駅発、再び静岡県に向かう。夜半後、少雨一過、気候にわかに変じて寒冷となる。

 二十六日 晴れ。

 

  〔本稿の最後は、このように「二十六日晴」と途中で終わっていて、未完である。〕