3.純正哲学講義

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純正哲学講義

     緒  言

 余が第一年級において講述する純正哲学は、先年発行せる『哲学要領』前後二編を講本とし、傍ら他書を参見してそのうち聴講者に必要なる点を指摘せるものなれば、館外員も『哲学要領』二編を原本として修習あらんことを望む。しかるに今、講義筆記としてここに掲記するものは、『哲学要領』中に見えざる部分と、ならびに要領中の改正すべき部分との筆記に外ならざれば、決して重複の恐れなし。まず左に哲学総論を述ぶべし。この総論は要領中にこれを欠き、『宗教新論』ならびに近著『顕正活論』中「哲学総論」中に散見せるも極めて大略に過ぎざれば、更に講述の順序を追いて掲載すべし。読者『宗教新論』ならびに『顕正活論』を参照すれば一層便利を得べし。

 

  哲 学 総 論

   第一段 緒  論

     第一項 哲学の名義

 哲学の名称はフィロソフィを原語とし、ギリシアより起こり、碩学ピュタゴラス氏始めてこの語を用うという。その字知恵を愛するを義とし、これを直訳すれば愛知者もしくは知学と名付くべきものなり。しかるにだれの工夫に出でたるやをつまびらかにせずといえども、世間一般に哲学の語を用うることとなれり。今日に至りてその語の妥当ならざるを知るも、すでに慣用しきたりたるもの容易に変更すべからず。あるいは一時、理学の語を用いしことありたれども、理学の語は帝国大学にてフィジカル・サイエンス、すなわち有形的理学に適用しきたり、理学部、理科大学等の名称を定められてより、今日その語を哲学に適用するは両学混同の恐れあり。故に今日は哲学の訳字をそのまま用うるより外なしといえども、もし名義の最も近きものをとるときは、理学もしくは知学の語かえって妥当なるべし。

 哲学の名称はいたって新奇にして世人その意を探るに苦しみ、当時種々の解釈を付会し、あるいは哲学は賢哲の学を義とし、孔孟聖賢の道徳学を意味するものなりといい、あるいは哲学は幽玄高妙の学を総称する語にして、シナにては老荘の学、インドにては釈迦の学を意味し、禅門の空理、台家の妙法等をその中に含有するものなりという。当時大学にて哲学部中にシナ哲学、インド哲学をおき、孔孟老荘の学をシナ哲学と称し、仏教哲学をインド哲学と称せられしことあり。これ大いに世間付会説の考証となれり。そののち、政法哲学、経済哲学、教育哲学、宗教哲学等、種々の書世に出でて、言語哲学、洒落哲学等の書またついで世に行われ、世人をして哲学のなんたるを判知するに苦しましむ。しかしてのち、哲学の名称は世間一時の流行となり、なにもかにも哲学の名称を付し、処世哲学、色情哲学、変哲学、雲助哲学等の書、続々発行ありしを見る。哲学名称の濫用ここに至りて極まれりというべし。そもそも哲学の濫用ここに至りしゆえんのものは、世人その語の新奇にしてその意を解するに苦しみ、これを知らんことを求めしに当たり、世間奇を好むもの、世人の注意を引かんと欲し、自ら哲学のなんたるを知らずして、みだりに哲学の語を適用し変哲学、雲助哲学の世に出づるに至りしなり。これによってこれをみるに、哲学の名称の新奇なりしは、哲学そのものにおいては大いに不幸なる結果をきたせりといわざるべからず。しかしてその名称の意外に速やかに世間に伝わり、一時の流行となりしは、その語の新奇なりしによることなしとせず。これ哲学そのものにおいての幸なるか。もしその幸と不幸と差し引き勘定するときは、不幸の方多量を占むること明らかなり。

 果たしてしからば、哲学はいかなる学なるや。その正義はいかように解してしかるべきや。これ一種の難問にして、一時即座に解答を与うることあたわざるべし。その故なんとなれば、古来哲学の解釈種々変遷しきたり。今日にありても、甲学者の解するところのものと、乙学者の定むるところのものと一致することなきをもってなり。もししからば、世人のその意を誤解するも当然なりというべきか。曰く否、今、哲学の正義を判定するに困難なりというは、通俗普通の解釈をいうにあらず、学術上の解釈をいうなり。他語にてこれを示せば、哲学大体の解釈をいうにあらず、精細の定義をいうなり。もしそれ学術上精細の釈義を定めんと欲せば、その困難はひとり哲学の名称の上に存するにあらず。理学にても、政治学にても、経済学にても、物質にても、心性にても、人類にても、動物にても、一定不変の釈義を与うることは、学者のすこぶる困難とするところなり。例えば物質すなわちマターの語は、通俗にはこれを有形のものと解するも、有質のものと解するも、だれも疑いを起こすことなしといえども、物理学においてその義解を定めんと欲するときは、学者種々の異説を唱えて、これを一定することすこぶる困難なり。もし哲学の定義も学者の異説に関せず普通一般に了解するものを用うるときは、その義を一定することあえて難きにあらず。その語はさきに示すごとく、知恵を愛する字義より転用しきたりたるものにして、今日一般に適用するところの語意は道理の学、もしくは原理の学を義とするもののごとし。けだし万物万有には、おのおのその形裏に包含する道理あり。その道理を我人の知力をもって探求し、これを組織して一科の学となすものはすなわち哲学なり。しかしてその探究の方法において次第に浅より深に入り、卑より高に進むは哲学研究の目的なれば、事々物々、一個一個の道理を帰納摂約して、万有普遍の原理大法を究明するものはすなわち哲学なり。故にこれを道理の学、もしくは原理の学というべし。これ余がさきに哲学の名称の代わりに理学の名称を用うる方、かえって妥当なりというゆえんなり。余かくのごとく哲学を解するときは、人必ずいわん、色情には色情の道理あり、処世には処世の道理あり、いやしくもその道理を論ずる以上は、みな哲学にあらずや。余これに答えて曰く、しからずんば、およそ道理に通俗の道理と学術の道理との二種あり、もしこの通俗の道理を論ずるもの、すなわち哲学なりと許すときは、いかなる書にてもみな哲学の名称を適用すべし、なんぞひとり色情哲学、雲助哲学に限らんや。野蛮人の手に成る一書ありと想するに、これも一種の哲学書なりと許さざるべからず。かつかくのごときもの果たして哲学書なるときはいかなる人にても、いやしくも道理を知るときはみな哲学者なりと許さざるべからず。しかるに哲学上いわゆる道理とは、かくのごとき通俗凡常の道理をいうにあらず、学術上許すところの道理をいうなり。学術上の道理とは、学術上定むるところの論理攻究の方法規則あり。この方法に従い、この規則に基づきて考定するところの道理をいう。故に余はさきに哲学を解して、道理を組織して一科の学となすものなりと定めり。その組織するの字に注意して見るべし。通俗の道理は組織を有せざる道理なり。学術の道理は組織を有する道理なり。例えばここに五色の糸ありと想定するに、これを組織して五色の模様を有する一疋の織物となすは、あたかも学術の道理に比すべし。もしその五色の糸をそのまま取りて、これは赤色なり、これは青色なりといいて人に示すは、あたかも通俗の道理に比すべし。これによってこれをみるに、色情哲学、雲助哲学のごときは断じて哲学の部類に入るるべからず、哲学を濫用すること実にはなはだしといわざるべからず。しかれども哲学には哲学の発達あり。そのいわゆる学術上の道理は、通俗の道理より次第に発達してきたるものなり。故に古代にありて哲学と称せしもの、今日よりこれをみるに未だ組織したる道理を有せず、未だ哲学の部類に入らざるものなり。かくのごとき組織なき道理を次第に組織して一科の学となすに至りしは、すなわち人知の進歩、学問の発達なり。その理由はのちに第三項 哲学の発達論を述ぶるに当たりて説明すべし。故に雲助哲学のごときも古代野蛮の哲学の一種となすことを得るも、今日哲学発達の時代の部類に入るるべからざること明らかなり。

 つぎに学術上用うるところの哲学の解釈はいかにというに、さきに普通一般の解釈を挙げて道理の学、原理の学と説きたるも更にこれを吟味して、その道理とはいかに、その原理とはいかに、なんの道理、なんの原理を意味するか等と推究するときは、一層精細の釈義を定めざるを得ざるに至る。その定義に関しては、学者の説十人十種にして、あるいは哲学は原因結果の関係を究明する学なりといい、あるいは宇宙の道理を解釈する学なりといい、あるいは事物の理性を究明する学なりといい、あるいは諸学中の学なりといい、あるいは諸理を統合する学なりというの類、いちいち挙ぐるにいとまあらず。かくのごとく十人十種の説あるも、その要一点に帰するを知るべし。このことに関しては別に説明を要するをもって、のちに本論を講述するに当たり、いちいちその理由を論示すべし。

     第二項 哲学の功用

 余前講において世人の哲学釈義の誤解、名称の濫用を大略弁明したれば、これより世人の哲学の功用を誤解し、大いに哲学の進歩を妨害するに至りしゆえんを説示せざるべからず。世人すでに哲学の名義を濫用し、色情哲学、雲助哲学等、世に出づるに至りたる以上は、その功用を誤認するも自然の勢いなるべし。この学に関係せざるものは、その功用をいかに解するも、更に問うところにあらざるも、この学に従事するものは、その功用の誤解大いにその学の盛衰、その身の利害に関係するものなれば、力を尽くしてこれを弁護し、世人の迷雲を一掃し、哲学の月下に一点の光輝をさまたげうるものなきに至らしめざるべからず。これひとり哲学の忠臣なるのみならず、真理の益友なり。かつ真正の哲学は実に国家を益し、社会を利し、人間世界に無上の幸福を与うるものなれども、不真不正の哲学はその反対の結果をきたすの恐れあり。世人、哲学を誤解するの極、あるいはこの反対の結果をみるに至るも、未だ断じてその憂いなしというべからず。故にその害の未だここに至らざるに当たり、早く真正の哲学を世間に弘め誤解の哲学を正し、社会の幸福を進むるをもって、我人、哲学者の任となさざるべからず。

 さてこれより哲学の功用を述ぶるに当たり、まず世間の誤解説を示すべし。その説およそ四種に分かる。

  第一種 哲学有害無利説

  第二種 哲学無害無利説

  第三種 哲学有利有害説

  第四種 哲学有利無害説

 この四種の説中、世界一般の利害を指すものと、日本一国の利害を意味するものとの別あり。また古今万世の利害を論ずるものと、今日今時の利害を唱うるものとの別あり。その一は場所を限ると限らざるとの別にして、その二は時間を限ると限らざるとの別なり。今煩わしきをいといてその別を挙げず。まず第一種の有害無利説は、別段に説明せざるも、世間その非なるを知るべし。ただその説の口実とするところは、フランスに哲学者出でて革命の原因となれりというにあり、これその事情を知らざる論にして、フランスの革命はその原因ひとり哲学者の過激論によるにあらず。もし哲学者をもってその直接の原因とするも、この一例をもって哲学の利害を審定すべからざること明らかなり。およそいかなる物にても学にても、利あるものは必ず害あり。一利一害は事物の免るべからざる通則なり。例えば我人の生存上最も利あるものはなんぞや。曰く、空気と日光と水なり。この三種は人を活かすと同時に、人を殺す力あることはみな人の知るところなり。薬物は人の病を治して人を活かす力あると同時に、また人を殺す力あり。世間一般に称して良薬となすものはすなわち毒薬なり。ただこれをその病症に応じて適度に用うれば、良薬の功を示すのみ、故に古来医者のさじ加減といえる諺あり。学問もまたしかり。物理化学のごときは世間を利するとなすか害するとなすか、人みないわん、世間を利するものなりと。余その学の一方に世間を利すると同時に、他方に世間を害することあるを知る。なんとなれば理化学の進歩によりて、我人は日用必需の物品の改良便利について大いにその益を得たるも、またその進歩によりて製造商売上において贋物偽物の進歩をきたせりという。近来西洋などにて理化学の進歩するに従い偽造の術また大いに進み、その真偽を発覚することはなはだ難しということを聞きたるがごときは、理化学の世間を害する一例にあらずや。政治、法律もまたしかり。その目的、人を保護し権利を伸張するにありというときは、実に世間を利用するものと称せざるべからず。しかるに法律の進歩と共に非を是とし、理なきを理ありとし、議論をまげ事実を誣ゆるがごときに至りては、大いに世間を害するものなり。余は今日世間に、良民のこの不幸にかかるものその例に乏しからずと信ず。かくのごときは、法律を知るもの、法律を知らざるものを害するというより外なし。もし更に論じて政法理化等の諸学の世間を益するはその学の本色本分なるも、世間を害するは、その応用を誤りその目的を違いたるものなりといわんか、あるいはその害は諸学の弊なりといわんか。余もとより知る、かくのごときは諸学真正の目的にあらざるを。あたかも人を活かすべき薬をもって誤りて人を殺すと同一般なり。果たしてしからば、哲学の世を害せしことあるも、その応用を誤りその目的を違いたるものなりというべし。これあに哲学そのものの罪ならんや、これを濫用するものの罪なり。ただこれを哲学の腐敗したる弊というべきのみ。しかるに世間ひとりその弊を挙げて、哲学は世を害するものなりと断定するは、粗忽もまたはなはだしといわざるべからず。もしまた事物の弊のみを挙げてその利害を判断するときは、物理も、化学も、政治も、法律も、空気も、日光も、医薬も、みな大害物なりと憶定すべき道理ならずや。もしその利を挙げて哲学の功用を判ずるときは、その世間を益する一歩も理、化、政、法等の諸学に譲らざるなり。かつまた哲学は真に有害無利のものならば、その世間に伝わり今日に存すべき道理なし。いやしくも世間に存しかつ古来漸々発達してきたる以上は、その世間に適し社会を利するところあるによるや疑いなし。たとえその害ありとするも、その利は害より多量なるによるや明らかなる道理なり。故に世間、哲学を評して有害無利となす説あるも、あえて論壇の一問題となすに足らざるなり。

 つぎに第二種の無害無利説はこれを前説に比するに、世間に同意を表する者やや多きものと信ずるをもって、一言の説明を要するなり。その説の口実とするところは、哲学は高尚に過ぎて実際に適せざるところあり。実際に適せざるをもってその用なきも、実際に関係せざるをもってまたその害なしというにあり。しかしてその引証するところは哲学の問題を挙げて神の有無を論ずるも、精神の本源を論ずるも、宇宙のなんたるを説くも、時間のなんたるを説くも、みな帰するところ空理空論にわたり、実際上の利害を去ること遠しというにあり。この誤解の第一点は、哲学の問題は宇宙神心の本源実体を論究するに限るものと憶定するにあり。これ誤解のはなはだしきものなり。これ畢竟、哲学のなんたるを知らざるによるのみ。そもそも哲学は万事万般の原理を究明する学なれば、宇宙の問題、天神の問題を論ぜざるにあらざるも、かくのごときはその範囲中の一部分なる純正哲学すなわち形而上哲学の問題なるのみ。しかるに哲学中には純正哲学の外に論理学あり、心理学あり、倫理学あり、社会学あり、教育学あり、審美学あり、これらの諸学は宇宙天神を論ぜざるものなり。世間の論者はこの諸学をもって哲学の範囲外におくが、今更に一歩を譲り、世間の論者の哲学と指すものは純正哲学を意味するなりと仮想して、純正哲学は無害無利のものなるや否を査定すべし。通俗的近視眼をもってこれをみるときは、宇宙天神の問題はすこしも実用に関せざるもののごとしといえども、その実決してしからず。まず余が世間の論者に注意を請わんと欲するは、実用を興さんとするときは理論を進めざるべからず。理論高尚に進みて実用その目的を達するを得るというの一点にあり。古来文明の次第に開発して今日に至るものなんぞや。理論の進歩によるにあらずや。物理学といい、化学といい、みな古代になき学問なるも、近世ようやく発達してその理論次第に高尚に進むにあらずや。その理論高尚に進みしをもって、その世間を益することも、またしたがいて大なるにあらずや。例えば地球の重力を推測するも実際上なんの益あるや。彗星の軌道を算定するも実際上なんの用あるやといいて、ことごとくかくのごとき理論を排棄して可なるか。かくのごとく理論の進否は実際の利害に関するものなれば、高尚の理論を見て、みだりに空理空論なりというべからず。哲学の理論もまたしかり。古代はその論いたりて浅近なりしをもってその実用もすこぶる迂遠なりしも、今日はその論高尚に進みしをもってその用また大いに進歩するに至れり。これを要するに、哲学の理論次第に高尚に赴くはその進歩するゆえんにして、その実用の発達するゆえんなりというべし。しかるに、もしその実用の一辺を説かずして、単に理論の一方を挙げてこれを論ずるときは、あるいは実用に遠きがごとき感あるを免れざるも、これひとり哲学に限るにあらず。物理学にても、化学にても、天文学にても、生物学にても、みなしからざるはなし。もしまた、その理論は実用を離れざるものにして、理論の進歩は実用の進歩なりとするときは、純正哲学といえども、もとより有用有益の学なり。しかしてその問題の天神宇宙を論ずるがごときは、いかなる実用に関係を有するやの疑問に至りては、後に本論を説くに当たり理論学、実用学の関係を述ぶるときに弁明すべし。

 更に一問を掲げて、世間の論者にたださんと欲することあり。曰く、そのいわゆる実利、実益、実用とはなにを標準として立つるや。余が察するところによるに十中七、八は我人の生命を保全するに必需のもの、すなわち衣食住を標準とするならん。もし果たして衣食住を標準とする論者あらば、これ近眼的百姓論を免れず。余試みにこれを論ぜん。一人ありて曰く、哲学は食物を作るになんの用あるや、衣服を製するになんの補あるや、住家を建つるになんの助けあるや、病人を医するになんの功あるや、哲学は無用の長物にあらずやと。これ実に抱腹に堪えたる戯論にして、児童もなおその非を知るべし。余ここに比喩を挙げてこれを示さん。例えばここに若干の桃樹あり。その実を養いてこれを売り、もって糊口の助けとなすものあらん。一日、その主人桃樹の生育して枝を成し、葉を成し、幹を成し、花を成し、実を成すを見て曰く、わが目的とするところのものは枝にあらず、葉にあらず、幹にあらず、花にあらず、桃実その物にあり、桃実はわが糊口の一助なれば、これ真にその用あるも枝葉に至りてはなんの用ある、これらは畢竟無用の長物なりと。その僕を呼びて曰く、早くこの無用の枝を去り、葉を去り、幹を去り、その根までもこれを去り、ただ有用の果実のみを存せよ。また曰く、以後再びかくのごとき無用の枝葉をして繁茂せしむるなかれと。この言を聞くもの、だれかその狂いを笑わざるものあらんや。いかなる田夫野人といえども、かくのごとき狂言を弄するものあらんや。けだしその枝といい、葉といい、その幹といい、根といい、これを発育するはすなわちその目的とする桃実を、大かつ多からしむるゆえんなり。故に枝葉、根幹はその実用一歩も桃実に譲らずといわざるべからず。今、衣食の実用と哲学との関係またしかり。衣食と直接の関係なきものはことごとく無用なりというは、あたかも桃実を除きその他の枝葉は無用なりというに異ならず。もし衣食をしてますますその品質を進め、その製産を増さしめんとするときは、学理の研究を盛んにせざるべからず。理学、哲学みなあずかりて力あり。純正哲学またもとよりその一部分に加わりて裨補するところあり。今更に論点を一転して、世間の論者のいわゆる実利実用とは、我人の幸福安寧を標準とするものにして、衣食住を標準とするにあらずと定むるときは、百姓的標準より一歩進みて道理的標準に達するものなり。この標準を用うるときは、決して純正哲学を目して無用の長物となすことを得ず。なんとなれば、人の幸福とは肉身五官の快楽のみを義とするにあらずして、精神道理上の快楽をもあわせ称すればなり。しかして純正哲学の精神上に快楽を与うるゆえんは、余が証明を要せず。

 更に一言の注意を世間の論者に請わんとするものあり。すなわち理論上にて研究するところのもの、十は十ながらことごとく実際に益ありというべからず。あるいは実際の利益を目的として、その結果かえって不利をきたすことあり。一例を挙げてこれを示さん。今ここに北氷洋の中に航海の路を発見して世間を益せんと企つるものありて、巨万の金と数百人の生命とを費やして、数回これを試みたるも、その結果到底世間を益すべからざることを知るに至らば、世間は必ずこれを目して有害無功の事業なりというならん。学問の研究にもこれに類すること多し。その研究は古人の未だ一回も経験せざる学界に向かいて、その針路を開かんとするものなれば、あたかも茫々たる大洋に向かいて航路を探るがごとく、その目的を達せずして中道にして廃することなしとせず。これひとり哲学のみしかるにあらず、物理、化学、天文等みなしかり。しかるに世人その点を挙げて哲学の無用なる証拠なりというものあるも、これ哲学の真に無用なるゆえんにあらざることは、知者を待たずして判知すべし。

 つぎに、第三種の哲学は利ありまた害ありと唱うる説に対して一言すべし。古来、哲学をその歴史上の事実に徴するに、あるいは害をなすことあり、あるいは利を与うることあり。これ余がさきに述ぶるごとく、一利一害は事物の免るべからざる通則なるをもって、ひとり哲学に限りてしかるにあらず。諸学一としてこの通則に従わざるはなし。例えばここに利剣あり。これを人を活かすために用うれば利あるも、人を殺害するために用うれば害あり。語を換えてこれをいえば、これを盗賊を防ぐために用うれば利あるも、盗賊自らこれを用うれば害あり。しかして我人はその剣を利の方に用いて、害の方に用いざることを務めざるべからず。今、哲学も利ありまた害ありとするときは、その害あるゆえんすなわちその利あるゆえんにして、我人はその害を除きてその利を取らざるべからず。世人一般に哲学を誤解し、不真不正の哲学を唱えて世間に弘むるに至らば、その結果大いに社会を害することあるべし。故に我人は国家のために真正の哲学を興して、世人をして哲学の目的功用を誤解せざらしむるように務めざるべからず。ここに至りて、余またまさにいわんとす、真正の哲学を講ずるは真理の忠臣なるのみならず国家の功臣なりと。

 つぎに第四種の論を述ぶるに、世人必ず第三種の説を道理ありと許し、一利あれば必ず一害ありとする以上は、利ありて害なしという説を許すべからず。この二説は両立すべからざるものなりというならん。しかるに余は両説共に道理ありと許さんとす。しかして哲学そのものの目的と、歴史上の事実とはもとより混同して論ずべからず。第三種の説明の下に、余が哲学に一利一害ありといいたるは、歴史上の事跡についての考説のみ。もとより哲学そのものの目的をいうにあらず。もしその目的を論ずるときは、有功無害と判定せざるべからず。なんとなればその害のごときは、哲学濫用もしくは不真不正の哲学より生じたるものに外ならざればなり。これを例うるに、盗賊は刀剣を用いて人を殺害するも、これ刀剣そのものの目的にあらず。これを用うるもの、その目的を誤りていわゆる濫用したると同一般なり。故に余は哲学を正当に解釈すれば、利ありて害なしといわんとす。しかれども絶対的の意味をもって有利無害と断定することは、事実において許さざるべし。なんとなればこの世界中の事物は、その利害共に相対的のものにして、未だ一事一物として純全の有利無害なるものあらず。また純全の有害無利なるものあらざればなり。もし相対上利害相較して、その利多くしてその害少なきときは、我人はこれを目して利ありというのみ。

 以上四種の説中、第一と第二とは余はこれに反対し、第三と第四とは余はこれに同意するもののごとしいえども、その同意する点はただ有利という一言にあるのみ。もしその利の性質、種類を論ずるに至りては、世間の説に一致すること難し。およそ世間にてその利を唱うるものは、人々の見るところに応じて一定せずといえども、未だ哲学の真の利にあらざること明らかなり。今その一例を挙ぐるに一人ありて曰く、哲学を研究すれば道理に明らかなる結果を得べし、道理に明らかなれば難事に当たりて迷わず、迷わざればその心安し、その心安ければ自ら受くるところの利益ありと。これ哲学の利益の一部分となすことを得るも、その利益ここに尽きたるにあらず。もしその利益のいちいちを知らんと欲せば、その学科の種類ならびにその各科の関係を知らざるべからず。これ余が本論に入りて述ぶべき論題なれば、今これを略す。

     第三項 哲学の発達

 世人ややもすれば曰く、古代の哲学も今日の哲学も同一なりと。これ哲学の発達を知らざる陳腐説なり。哲学は決して無精神無気力の死物にあらず。年々歳々発達成長する活動物なり。山川は死物なるもなおよく物移り星換わりて桑海の変動あり。昔日の山川は今日の山川にあらず、神代の日本は明治の日本にあらず。いわんや活動の哲学をや。今を去ることおよそ二千五百年前にありて、ギリシアにタレス氏起こり、宇宙水体論を講じたるときより、年々歳々発達進化して今日に至り、一滴の源泉流れ出で流れ去りて河となり江となり、哲学の一大海洋を開くに至れり。タレス氏再び今日に生まれて、この哲学の大海を望むときは、彼必ずいわん、これ哲学にあらずと。あたかも家郷を去りて数十年の久しき他国に遊び、再び旧里に帰りてその幼児の朋友のみな頭上に霜雪をいただきて、旧時の形容を一痕だもとどめざるを見て、これわが旧友にあらずといいて怪しむに異ならず。ああ、年々歳々花相似たり、歳々年々哲学同じからざるの嘆なきあたわず。しかしてその同じからざるは、昨日は美少年、今日は白頭翁なるをいうにあらず。今朝は紅顔の花に酔い、今夕は白骨の煙に化するをいうにあらず。一滴の水は集まり集まりて河海の大をなし、一塵の土は積み積みて泰山の高をなすがごとく、一言の哲語、半句の哲理、年々歳々積み集まりて高大無辺の哲学を開くをいうなり。これ余がここに哲学の発達を論ずるゆえんなり。

 哲学の発達を論ぜんと欲せば、まず学問一般の発達を論ぜざるべからず。なんとなれば哲学も、自余の諸学も、その期限同一なればなり。学問とはなんぞや。曰く、学理を攻究するをいう。学理とはなんぞや。曰く、事物の形裏に胚胎する道理をいう。その道理を攻究する方法、古今大いに異なりて、古代はもっぱら一人一己の思想に考えて、真理の有無を想定する方法を用う、これを主観的研究法という。近世はこの主観的の外に更に客観的研究法を用う、客観的研究法とは、広く事々物々の上に研究を施して真理を攻究するをいう。また古代は主として世間一般に真理なりと許すところの倫理上の原則を本とし、これに照合して事物の真非を判定する論法を用う、これを演繹的論理法という。近世は演繹的の外に事々物々の道理を抽出概括して、事物一般の原理を考定する方法を用う、これを帰納的論理法という。更にさかのぼりて古代の古代に達すれば、主観的研究法も演繹的論理法も一切学問攻究の方法を見ざりしときあり。当時の学説は、想像憶断より成り、雨の降るは雨神の水瓶を傾くるにより、風の生ずるは風神の凧嚢を開くにより、雷の鳴るは雷神の雷鼓を鳴らすによるといえり。これを字して百姓流の学説という。しかして当時、多少客観的研究法、帰納的論理法に類似するものあり。雷神の雷鼓を鳴らすは現に雷雨中にこれを実視したるものあり。風神の風嚢を有するは、たれがし現にこれを目撃せりといいてその考証となす。また年々日々の経験を集めて一種の規則を作り、彗星の出づるは変乱の前兆なり、日食の起こるは神の怒りなり、カラスの鳴くは人の死を報ずるなり、夢中に歯の落つるを見ればその親戚に死人あり、くしゃみするは人のわれをうわさするなりという。これみな百姓流の考証帰納法なり。更にさかのぼりて百姓流の研究法の起こるゆえんを知らんと欲せば、学問の起こるゆえんを知らざるべからず。

 学問の起源は宗教の起源なり、哲学の起源は理学の起源なり。理学も哲学も宗教も同一の源泉より発し、ようやく流れようやく去りて東に向かうあり、南に進むあり、北に分かるるありて、諸学の別を生ずるなり。そのいわゆる源泉とはなんぞや。曰く、人心中に疑懼の念あるものこれなり。およそ人のこれ曠漠無限の天界中にありて、森羅の諸象を観察するときは、そのなにものたるを怪しみ進みでその理を窮めんとする。情その心中に動きとどまらんとするも、とどまるあたわず、安んぜんとするも安んずるあたわず。知力ようやく発達してますますその刺激の切なるを覚ゆ。日月の両塊、毎日毎夜東より出でて西に入るも、そのなんたるをつまびらかにせず。草木の栄枯、人獣の死生、年々相迎え相送るも、そのなんのためなるを知らず。手の動き足の進む、呼吸脈搏の休まざる、情思念想の現ずる、変化窮まりなきも、それなんの道理に基づくを解するあたわず。天災地変、病患禍害の意のごとくならざるも、そのなんの理由ありてしかるを明らかにせず。これを大にしては宇宙天体のなんたる、これを小にしては一身一思のなんたる、だれもその理由を知らんと欲して知るあたわず。疑団百結、東西に迷い、一時片刻も安んずることあたわず。とどまらんと欲するも知力の刺激、内に動きてとどまるあたわず。進まんと欲するも万象の迷雲、外に鎖して進むあたわず。ただその心を苦しむるのみ。しかして人の性たる、苦を避けて楽を求めんとするものなれば、知力の刺激に乗じて強いて進みて迷路を開かんとし、宗教学術の萌芽を心田に発生するに至る。語を換えてこれをいえば、心思を安んぜんとする情と、道理を究めんとする念と相合して、宗教学術の源泉を開くなり。そのいわゆる安心は宗教の性質にして、そのいわゆる究理は学術の性質とするところなり。その源泉二者同一なりといえども、その方向異なるをもって教学その流派を異にするに至る。例えばここに雷鳴あるも、そのなんたるを知らざるをもって疑懼の念おのずから心中に生ず。その理を究めて安心を得んとするは宗教学術の起こるゆえんにして、これを知力の法廷に訴えてその道理を審判せんとするは学術なり。これを情感の鏡面に照してその想像を映出するは宗教なり。すなわち雷の起こるべき道理を究むるは学術にして、雷は一種人間以上の体にして鼓を空中に鳴らすものなりといい、雷神の想像説を信じて安心するは宗教なり。語を換えてこれをいえば、知力情感の発達上、その進むは学術にして、そのとどまるは宗教なり。故に宗教と学術とその方向を異にすというも、全くその区域を異にするにあらず。雷のなんたるを知らんと欲してその理を説明するに、雷神の鼓を空中に鳴らすによるというがごときは、古代未熟の学術なり。ただその道理の今日のごとく発達せざるのみ。しかして人もしその説を信じてその心に満足するときは、これ宗教なり。更に進みて雷神のなんたるを窮めんとするは学術なり、その窮めたる道理を信拠するは宗教なり。学術進歩すれば宗教また進歩すべし。この二者はあたかも理論と実際との関係を有す。学術は理論なり、宗教は実際なり。学術上考究して得たるところの真理を実地に応用して、その心に安心を営むは宗教なり。故に余はこの二者を比較して、学術は昼間労働を取るがごとく、宗教は夜間休息に就くがごとしといえり。しかるに世間の論者は、宗教と学術とは全くその起源ならびにその性質関係を異にせるものとなす。これ宗教発達の道理を知らざるによると評するより外なし。けだし今日世間一般に目して宗教となすものは、ヤソ教のごとき造物主を立ててその体を崇信礼拝するものに限るとなす。これ宗教の一種なるも、宗教必ずしもかくのごとくなるにあらず。そもそも天神説の世に起こりたるは雷神、風神、雨神、水神、山神等の多神説のようやく変化したるものに外ならず。もしその初期にさかのぼれば、今日の野蛮人の崇拝するがごとき有形有象の神体その数はなはだ多く、万物万象の体をことごとく神に帰し、いわゆる雷神、風神等、種々異形の神体を想見せしも、これ当時人知の程度いたって下等に位し、万物万象中に普通の原理ありて存するを知らざりしによる。語を換えてこれをいえば、学術の未だ十分に発達せざりしによる。しかるに人知ようやく進み学術ようやく発達し、かくのごとく多神は実際の道理に合せざるを知り、その数ようやく減じてついに一神教を現ずるに至れり。これにおいて従来の有形有象の天神はやや無形無象となるに至れるも、なお有意有作の一個体を有する天神にして、未だ平等普通の理体となるに至らず。しかるに今日学術進歩の結果、その有意有作の天神はすでに学者の弁護を失い、人知の法廷に敗訴するに至りしは、実に憫然たらざるを得ず。そのしかるゆえんは、今日哲学者の解釈せる天神の名義、およびヤソ教中のユニテリアンの義解等について知るべし。かつ人知自然の進歩は有形より無形に入り、実想より虚想に入り、個体より普通に入るを見ても、そのしからざるを得ざるゆえんを知るべし。これ今日宗教世界の一大革命といわざるべからず。その革命の動波は未だヤソ教海、一般の人民に及ばざるも、今後十年ないし二十年を出でずして、欧州全社会その波間に浴するに至るべし。けだし宗教の革命は学術世界の真理の旭日、吾人愚俗の地平線上に昇りて光輝を放ちたる結果にして、古語に日昇りてまず高山を照すというがごとく、その光は人知の程度やや高き知者学者の心頭を照らして、未だ下等人民のごとき暗愚の深谷に潜むものを照すに至らず。しかれども早晩学日の中天に懸かりて、深谷を照すの時あるべし。しかして学術上定むるところの天神は普遍平等の体にして、万物万象の本源実体を義とし、有意有作を離れたる自然の理性なり。故にこれを理想あるいは理体という。仏教に説くところの真如これなり。けだしインドは釈迦出世の前後、学術思想大いに発達して、決して今日のインドの比にあらず。当時真如説の世に出でたるを見て、その一斑を知るべし。しかるにその後、人知ようやく退歩して真如説はあまり高遠幽妙にわたり、当時の人心中これをいれるべき余地なきをもって、ついにバラモンのごとき有意有作の天神を立つる説、世間の信用を得、仏教ためにひとたび地を払うに至れり。しかして仏教は東漸してシナおよび日本に伝わりしも、理想上の考究はようやく世間の注意せざるところとなり、無意無作の理体は一変して有意有作となり、無形無象の仏体は再変して有形有象となり、雷神、風神、山神、水神、異類異形の偶像を安置してこれを崇拝するに至る。これあに仏教の真面目ならんや。けだし文運ようやく衰え迷雲世間を鎖し、仏日をしてその光輝を放たざらしめたるによるのみ。仏日そのものの滅するにあらず。しかして天運循環してまたその往時に回帰することあり。一朝飛び去りたる花も明年に至りてまた開き、一夕西に沈みたる月も、明夜また東山の上に見るべし。実に今日は仏日再び現じ、仏花再び開くの時なり。仏教に志あるもの奮起努力せざるべけんや。これを要するに宗教も学術も、その起源同一なるも、一はとどまり、一は動き、一は想像の藩籬内に安心の住家を営み、一は推理の海面上に考究の航路を開くの別ありて、二者その方向を異にするなり。しかして学術進歩すれば宗教また進歩し、学術その形を変ずれば宗教またその形を変じ、昔日の学術は今日の学術にあらず、古代の宗教は現時の宗教にあらざるに至る。故に学術と宗教とは終始密接の関係あるものと知るべし。

 以上は宗教と学術とその起源を同じうするゆえんを論じて、未だ哲学と理学とその起源を一にするゆえんを示さずといえども、さきにいわゆる人心中に生ずる疑懼の念およびこれを解かんとする情は、理学ならびに哲学のよりて起こるゆえんなれば、別にその起源を証明するを要せず。そもそも哲学も理学もその初期にありては二者互いに混同して、その区域を分かたざりしときあり。かつ当時の学説は極めて下等不完のものにして、今日のいわゆる百姓的学説なり。例えば雨の天より降るを見てその原因を説明せんとするも、水気蒸騰の理を知らざるをもって天原に大池あり、その水下降するなりといい、百川海に流れ入りてその水の増加せざるを怪しみ、海底に水門ありてこれを漏らすなりといいたるがごときは、古代の百姓的学説なり。これを学説というよりむしろ俗説というべく、これを俗説というよりむしろ妄説と云うべし。かの百姓が天界に数万の星の点ずるを見て、これ雨の落つる穴なりといいて説明し、阿波の鳴門を見てこれ海水を漏らす水門なりといいて説明したるがごときは、妄説中の妄説というべきも、古代の学説は多くはこれに類するものにして、かくのごとき妄説ようやく進みて今日の学説を見るに至りしや明らかなり。往昔ギリシアにタレス氏出でて哲学を唱えたるは、この百姓的学説の上に一段の改良を加えたるや疑いなしといえども、今日にありてこれを考うるに、その説なお極めて不完なるものなり。しかしてその以前、雷神、雨神、風神等の俗説ありて学説の起源となりたるや瞭然たり。ただ哲学を講ずる者タレス氏をもって元祖となすは、百姓的学説の一段進歩したるものをもって起源を定むるもののみ。故に今日の哲学、理学はその初め百姓的学説の漸々徐々一歩一歩を積みて、駑馬千里を致すの結果に外ならずと知るべし。さきにいわゆる一滴の水集まり集まりて河海の大を成し、一塵の土積み積みて泰山の高を成す、これなり。およそ人知の発達するは草木の発育するがごとく、漸々次々にその序を追いて、高に登るに卑よりし、遠に行くに近よりするに異ならず。故に今日は百姓流と学者流とは大いにその説を異にするも哲学、理学の起源にさかのぼりてこれをみれば、百姓流の源泉こんこんとして流れ出で流れ去りたるものに外ならず。例えば左図において、人知は甲乙丙と次第に下等より高等に進みしものと仮定し、甲を百姓流とし、丙を学者流としてこれを考うるに、古代は甲のごとき百姓説のみ世に存せしが、今日は百姓説の外に丙のごとき学術上の新説世に起こるも、その新説は百姓説の次第に発達したるものに過ぎず。かつ今日なお百姓説の世に存するを見るは、今日は丙程度の人知を有するもののみにあらずして、乙程度、甲程度の人知を有するものあればなり。これを要するに哲学と理学とはその起源同一にして、起源は百姓的俗説より発生したるものなりというにあり。もし理学と哲学と後世その道を異にするに至りしゆえんは、本論に入りて説明すべし。故に、「緒論 第三項 哲学発達論」はここにこれを結び、これより本論の項目に移る。

   第二段 本  論

     第一項 諸学の問題

 これより本論を講述するに当たり、まず哲学上用うるところの述語の二、三を説明せざるべからず。およそ我人宇宙間にありて眼を開けば、森然たる諸象目前に現立するを見る。これを物質と称す。物質とは形質あるものに与うる名称なり。眼を閉ずれば綿然たる諸想の脳裏に連起するを覚ゆ。これを心性という。心性とは形質なきものに与うる名称なり。しかして目前の物質境はこれを物界または外界と称し、脳裏の心性境はこれを心界または内界と称す。ここに一人あり。花木を見て悲喜の情を連起せりと仮定するに、花木は外界の物質なり。悲喜の情は内界の心性なり。今、我人のいわゆる学問は外界の物質上に存現するにあらずして、内界の心性上に存するものなり。しかれども悲喜の情は外界の花木によりて起こるがごとく、内界の学問思想は外界の事物によりて起こるなり。例えば外界に動物あればこれに対する動物学あり、外界に天文あればこれに対する天文学あるがごとし。故に学問を構成する能力は内界にありて存するも、構成せらるべき材料は外界にありて存するなり。語を換えてこれをいえば、学問の思想は内界にあり、研究の物柄は外界にあるなり。これをもって学問そのものを知らんとするには、まず外界の事物そのものを知らざるべからず。学問中の種類を知らんと欲せば、まず事物中にいかなる種類存するやを知らざるべからず。

 これより外界の種類を尋ぬるに、天に日月星辰あり、地に山川草木あり、これみな有形有質なればこれを物質というべし。しかるに更にその種類を検するに、禽獣あり、人類あり。そのうち人類のごときは有形有質の肉体の外に、この肉体を命令指揮する一種の能力を有す。これいわゆる心性なり。故に外界は物質のみ存するにあらず。物質と共に心性の存するを見る。これを総じて仮に事物と名付く。よりてその世界を事物世界と称し、これに対する学問の部分を学問世界と称す。学問世界にて研究する物柄は必ず事物世界に存するものにして、事物世界に物質心性の二種すなわち有形象、無形質の二種ならび存するをもって、これに対する学問世界もまた二種の学問ありてならび存せざるべからず。すなわち理学哲学これなり。

  事物世界 物質

       心性

  学問世界 理学

       哲学

 そのうち理学は有形質の物質を研究する学にして、哲学は無形質の心性を研究する学なり。これ理学と哲学との区別を立つる一点なり。更に進みで事物の起源および物心の関係を考究して、物質はその初めいかにして成り、心性はその初めいずれより生ぜしや、物心二者いかにして互いに相契合して作用を呈するや。またいかにして互いに相分離して生命の滅することあるや等の問題に至れば、物質上よりも説明すべからず、また心性上よりも解釈すべからず。心性中より物質の発生するものと定むるときは、無形質中よりいかにして有形質を生ぜしやの理を解すること難く、物質中より心性の現出するものと定むるときは、有形質中よりいかにして無形質を出だせしやを知るに苦しむ。また物心二者契合して存するものと立つるも、いかなる理によりて二者相離れて生命を失することあるゆえんを知るあたわず、もし本来相離れて存するものならば、なにをもって相合して生命を生ずるやの理を示すべからず。これにおいて自然の勢い、物心二者の外、更に他の一種を設けて説明を下すに至る。その一種とは世にいわゆる神これなり。これをここに天神と名付く。天神は物心二者の本源にして、かつこの二者を契合する力あるものをいう。これにおいて天神創造主宰説起こる。これ当時哲学講究の未だ尽くさざるところあるによる。この神を基本として組織したるものは通俗の宗教なり。しかして宗教と学問とはその性質を異にするところあれば、学問世界の名称を一変して教学世界となし、前表を変じて左のごとくなすべし。その一を事物世界の三元とし、その二を教学世界の三元とするなり。

 つぎに天神は有形なるや無形なるやを考うるに、その体無形なるや論を待たず。これを無形とするときは天神と心性との別はいかに定むべきや。天神は無形なるも心性と同一視すべからざれば、無形中に有象(有現象)、無象(無現象)の二種を分かたざるべからず、しかして心性を有象とし、天神を無象とせざるべからず。なんとなれば有象とは直接に作用を外界に現示するを義とし、心性は我人が外界上に現示する作用なれば、、これを有象に属するなり。天神はしからず。我人直接にその作用を見ることあたわざれば、これを無象とせざるべからず。例えば喜怒愛悪のごとき心性作用は、我人直接にその表象を見ることを得るも、天神の性質作用は我人の直接に知見すべからざるものなり。故に天神は無形質にしてかつ無現象なりといわざべからず。

 しかるに世間一般の天神説は、あるいは現象ありといい、あるいは形質ありという。かの野蛮人の信ずるがごとき多神は手足あり、耳目ありて、現に有形質の天神なり。人知ようやく進みて無形質の天神を想出し、一神教を見るに至るも、なお有現象を免れず。すなわちそのいわゆる天神は一個体たる意志を有し、知力を有し、愛憎の情を有し、その作用をこの世界に現示するものなり。これ今日普通のヤソ教者の一般に唱うるところにして、その説未だ尽くさざるところあり。故に更に進みで天神は純然たる無現象の体なりと定むるに至れば、これ仏教の真如説に達するものにして、ここに天神の名称を与うるは不適当なるを知る。ここにおいて理想、もしくは理性、もしくは理体の名称を選ばざるべからず。もしこの二種の天神を区別せんと欲せば、有現象の天神の方を神象と名付け、無現象の天神の方を神体と名付くべし。ヤソ教は今日なお神象を立つる宗教なり。今後更に進みて神体を立つるに至らば、仏教と同一点に回帰すべし。故に余はヤソ教一変すればユニテリアンに至らん、ユニテリアン一変すれば仏教に至らんというなり。

 更に一歩を進めてこれを考うるに、体と象との別はひとり天神の上に存するのみならず、物質心性の上にも存するなり。すなわち物質には物体物象の別あり。心性には心体心象の別あり。しかしてさきにいわゆる物質心性とは単に物象を指していうのみ。しからばいかなるもの果たして物体にして、いかなる体果たして心体なるや。これ哲学上の一問題なり。通例われわれの解するところによるに、象も体も同一にして、外物のわが目に現ずるもの、すなわちこれ物象にして、またこれ物体なり。木葉の青色を現ずるはその現象にして、葉形の楕円なるはその実体なり。人の顔色の黒白同じからざる、面貌の大小ひとしからざるがごときは、その人の現象なり。人体の重量寸尺のいかん、すなわち周囲何尺、身長何尺、体重何貫目等はこれ人の実体なりとなす。しかるに学術上これを考うるときは、重量も寸尺も形色もみな現象にしてこれを物象といい、物体はその外に存するものと定むるなり。けだし象とは我人の感覚上に現ずる性質に与うる名称なれば、目に感ずるところの色、耳に感ずるところの声、身に感ずるところの形質、鼻舌に感ずるところの香味は、みな物の現象にして実体にあらず。しかして外界の万物万象は、この五感の上に現ずる色声等の諸形質に外ならざれば、そのいわゆる物質はこれを物象といわざるべからず。語を換えてこれをいえば、物質のわが心面に映じて現ずるところの影像なり、あたかも鏡面に現ずる山水の影像と同一なり。もしこれを心性の方よりみるときは、心光に照されて現示したる外物の表象なり、あたかも日光に照らされてその色を現ずる草木と同一なり。これをもって我人は物象の外に物体あることを想定するに至る。すなわち我人の実験上、現象あれば必ず実物あり、影象あれば必ず真体あることを知るをもって、物体そのものは我人の知らざるところなるも、物象を見てその体を推測したるのみ。ここにおいて物象物体の別起こる。これあたかも空中に実を定め無中に有を想するがごとき論にして、信ぜんと欲するも信ずべからざるがごとしといえども、決して山中に不死人を尋ね、海外に不死薬を求むるがごとき空想と同一視すべからず。雷に声あるをもって、雷神は太鼓をそなうるものなりと想定するがごとき妄想と同日に論ずべからず。しかれども物象を見て体を想定するは、有数を見て無数を想し、有限を知りて無限を定め、相対より絶対に及ぼし、部分より全体を測ると同一般にして、論理自然の勢いかくのごとく想定せざるを得ざるなり。なお結果をみて未だ原因を知らざるに、必ず原因ありと断定するに異ならず。故にその想定は百姓流の想定と同一視すべからざるなり。

 つぎに心性に体象の二種あることは、以上の同一例にて推量することを得べし。さきにいわゆる心性とは、目を閉じてわが脳裏に動くところの諸想に与えたる名称なれば、これみな心象といわざるべからず。なんとなれば外界、外物に関係して現ずる諸想に外ならざればなり。例えばわが眼を閉じて連起する諸想を検するに、一として外界の現象もしくは事情の影像反射ならざるはなし。かくのごときは断じて心象といわざるべからず、かつ心象と物象との別は、我人の心外にありて見るものこれを物象といい、心内にありて見るものこれを心象というにあるのみ。語を換えてこれをいえば、心光が物理を照して物象を現じ、物象が心面に集まりて心象を生ずるなり。果たしてしからば、心性にもまた本体ありといわざるべからず。なんとなれば、象あれば必ず体あるべき道理なること、物象の物体におけると同一なればなり。例えば水は体なり波は象なりと定むるに、波あれば必ず水あるがごとし。これにおいて物心共に体象の別ありて、さきにいわゆる物質心性は物象心象の二者を義とするものなりと知るべし。その表左のごとし。

  神 体=理性もしくは理体

    象=通常の神

  物 体=無形質無現象

    象=通常の物質

  心 体=無現象

    象=通常の心性

 これを形質現象の有無をもって配当するときは左表のごとし。

  事物 有形質(物象)

     無形質 有現象(神象および心象)

         無現象(物体、心体、および理体)

 さきにいわゆる事物世界三元はここに至りて右の表のごとく変ぜり。これを問題としてその道理を研究するものは理哲諸学なり。故に諸学の問題とするところは、宇宙万般の事物なりというべし。

     第二項 理哲の区別

 理哲の区別はさきに宇宙の三元に対する学界の三元を挙げたるをみて、その一斑を知るべきも、前項の終わりに至りて事物に有形質、無形質を分かちたるをみて、理学哲学の判然その別あるゆえんを知るべし。すなわち理学は形質あるものを研究する学、哲学は形質なきものを研究する学にして、その研究の目的とする物柄両学大いに異なるところあり。また哲学中にも有現象、無現象の二種あるをもって、有象哲学、無象哲学の二種あるべし。この有象、無象の名称は余の与うるところなれば、従来の哲学にては実験哲学、純正哲学の語をもってその二者を別つべし。すなわち左表のごとし。

  学問 理学すなわち有形質(物質)の学

     哲学すなわち無形質の学 有象哲学すなわち有現象(神象、心象)の学

                 無象哲学すなわち無現象(物体、心体、理体)の学

 かくのごとく配当するときは、理哲両学の間に判然たる区別あるがごとしといえども、その実画然たる界線を引くことあたわざるものなり。およそいかなるものにても、他者と区別を立つるは憶想憶断に出づるものにして、その物自体の性質真にしかるにあらず。例えば春と夏とは判然分界あるがごときも、その別あるはただ百花爛漫の時と三伏鑠金の日とを比するときのみ。もし幾日何時より春去りて夏きたるかと問わば、だれもこれに答うるものなかるべし。仮に四月三十日をもって春の終わりと定め、五月一日をもって夏の始めと想するに、四月三十日と五月一日とはその差いくばくぞや。三十日果たして春ならば一日もまた春なるべし。なんとなれば、気候風景の決して一夜中に突然変更して、かくのごとき春夏の差を生ずべき理なければなり。もし更に精細にこれを論ずるときは、四月三十日夜半十二時までは春の部にして、これより一分一秒一刹那を移し去れば、五月一日の区域に入り夏の部に属するなり、気候あにこの一瞬一息の間にかくのごとき変更あらんや。果たしてしからば、気候そのものに春夏秋冬の判然たる分域あるにあらずして、我人の思想上その分界を仮設するのみ。語を換えてこれをいえば、客観上にその分界あるにあらずして、主観上にその分界あるなり。動物と植物とを較するも、その中間に位するものに至りては、実に分界を立つること難し。白人種と黄人種とを較するも、同じく分界を立つるに苦しむを知るべし。物みなしかり。学問あにこれとその理を異にせんや。理学といい、哲学といい、これを区別するはただ大体上のことのみ。細密なる点に至りては決して分界を示すことあたわざるべし。かつその学問の目的とすること物みな判然たる区域なきものなり。有形質と無形質とを区別するも、有現象と無現象とを区別するも、共に困難なるを免れず。果たしてしからば、学問上に分界を立つるの難きは、あに当然の理ならずや。

 以上は理学と哲学との区別にして宗教には関係せざる論なり。しかるにさきに宗教をもって一元として、教学の三元を立てたるをもって、宗教と理哲両学の区域について更に一言するを要するなり。

 それ宗教は、さきにすでに一言するがごとく信仰安住を目的とし、理哲両学と大いにその性質を異にするをもって、その一を教と付け、その二を学と名付けくるなり。しかしてもし宗教の目的とする体を研究するに至れば、これ哲学にして宗教にあらず。すなわち宗教学というものこれなり。しかるに宗教学にも解釈的と論究的との二種あり。解釈的とはその宗教中に用うる経典の字々句々を訓読説明する研究法をいう。かくのごときは哲学の部類に入るべからず。これに反して宗教に立つるところの天神の有無、霊魂の死生等を理論上考究するものは、哲学中の一科となさざるべからず。これ他なし。その論究するところの体すなわち天神霊魂のごときは有形質にあらずして無形質なり。もし更に宗教学の部類を論じて、哲学中の有象哲学に属するか無象哲学に属するかを定むるに至りては、後に哲学の種類を論ずる条下に譲るべし。

     第三項  哲学の種類

 木に喬木あり潅木あり、馬に肥馬あり痩馬あり、人に賢あり愚あり、夢に吉あり凶あり、色に五色あり、星に七曜あり、孔門に十哲あり、国に八十四州あり、病に四百四種あり、東京に八百八町あり、煩悩に八万四千あるがごとく、哲学にも数種数類あり。純正哲学あり、心理学あり、論理学あり、倫理学あり、審美学あり、教育学あり、宗教学あり、社会学あり、政治学あり、経済学あり、歴史哲学あり、文章哲学あり、言語哲学あり。あたかも理学中に物理学、化学、動物学、植物学、生理学、人類学、天文学、地質学等あると同一なり。この諸学はその研究の目的とする物柄無形質なるをもって、これを哲学の部類となす。そのうち有現象、無現象をもって分かつときは、純正哲学は物体、心体、理体のごとき無現象の体を論究する学なるをもって、これを無象哲学とし、心理学、論理学、社会学等は有現象の研究なれば、これを有象哲学とするなり。なんとなれば、心理学はその研究するところ心体にあらずして心象なり。しかして心体の研究は全く純正哲学に譲り心理学の範囲外となす。

 心理学は有象哲学とするも論理倫理はいかにして有象哲学なるや、これを有象哲学とすれば心理学といかなる区別あるや、その理由を弁明せざるべからず。簡単にこれをいえば、心理学は心象の理論学にして論理倫理はその応用学なり。これにおいて理論学と応用学の別を知らざるべからず。理論学は事物の道理規則を研究するにとどまり、かの道理はかのごとく、かくの規則はかくのごとしというのみ。決して実際の応用いかんを問わず。これに反して応用学は理論学によりて究明したる道理規則を実際上に考え、かくあるべし、かくなさねばならぬと人を命令指揮する学なり。今、心理学は心象の三種すなわち知情意の三作用の性質道理を考究する学なれば、これを有象哲学中の理論学とし、論理学はその三作用中の知力の道理を実地に応用して、かくのごとき推論法は正なり不正なりと説ききたりて人を命令指揮するものなれば、これを有象哲学中の応用学に属す。倫理学は心象の三種中意志の作用を実地に応用し、行為の善悪正邪を指定する学なれば、これまた応用学の一種なり。審美学は美の学を義とし、広く美の原理を講究する学なれども、なかんずく美術の原理を研究するに学にして、美術は心象中情感の作用に属するものなれば、その学はすなわち情感の応用学にして、心理学によりて講究したる情感の道理を実地に応用したるものに外ならず。故にこれまた有象哲学中の応用学なり。しかして心象の三種すなわち情感、知力、意志(情、知、意)の性質関係のごときは心理学の問題なれば、今ここに説明を与えず。これを要するに、以上諸学の関係左表のごとし。

  心象 情感 理論………心理学

        応用………審美学

     知力 理論………心理学

        応用………論理学

     意志 理論………心理学

        応用………倫理学

 つぎに教育学は一種の応用学にして、心象の応用を講究して心性の発達を目的とするものなり。今、教育学の部類を掲示すれば左のごとし。

  教育学 体育

      心育 美育(情感の発育)

         知育(知力の発育)

         徳育(意志の発育)

 このうち体育は哲学に関するよりむしろ理学に関すべきものにして、その学理は生理学に基づかざるべからず。しかれども教育の目的はもっぱら心育を進むるにありて、体育のごときはその目的を達する方便に過ぎず。なんとなれば心性の発達を期するには身体の発育を要すればなり。

 以上挙ぐるところの諸学は、主として一個人の上に関する学にして未だ一国一社会の上に関する学を説かず。もし衆人相集まりて結成せる社会の上に生ずる現象を論究する学を挙ぐるときは、社会学あり、政治学あり、経済学あり。社会学は社会の現象を論究してその規則を考定する学なるをもって理論学なり。政治学は国家の政治の組織を講究する学なり。これ応用学に属す。さればこの政治学および社会学は有形なるや無形なるやを案ずるに、一国一社会を組織せる一個人の体についてこれをいえば、有形なれども、その現象に至りては無形といわざるべからず。すなわち無形中の有象に属さざるべからず。故にここに哲学中の有象学の一部に加うるなり。経済学もまた有象哲学にして、その一半は理論学、その一半は応用学に属するなり。

 以上の諸学すなわち心理学、社会学等はみな哲学なるも、これを純正哲学に比するに、実体の学にあらずして現象の学なり。しかして純正哲学は実体の学すなわち物体、心体、理体の学なり。故にさきに一言するがごと

  哲学 有象哲学 理論学 心理学

              社会学

          応用学 論理学

              倫理学

              審美学

              教育学

              政治学

     無象哲学即純正哲学 物体哲学

               心体哲学

               理体哲学

く、この二者を区別するために現象の諸学の方を有象哲学とし、純正哲学の方を無象哲学とす。しかして無象哲学すなわち純正哲学中には物体哲学、心体哲学、理体哲学の三種あり。以上の諸学を分類して示すこと右のごとし。

 この分類も決して精密なるものにあらず。応用学にしてその中に理論学の一半を含むものあり、理論学にしてその中に応用を兼ぬるものあり、理論学とも応用学とも区分すべからざるものあり。あるいは無象と有象とを弁別することあたわざるものありといえども、余は従来存する諸学をその主要なる点について、かつかくのごとく分類せしのみ。

 つぎに宗教学はさきにも論ずるごとく、理論上講究するときは哲学中の一種となさざるべからず。しかして宗教学に二種あり。その一は神の現象を論究するもの、その二は神の本体を論究するものこれなり。前者は神象の学、後者は神体の学すなわち理体の学というべし。理体の学は純正哲学なれども、これを宗教として論究するときは応用学となるべし。なんとなれば宗教は応用を目的とすればなり。故に神象の学も有象哲学中の応用学に属すべし。その理由は『顕正活論』中「哲学総論」について見るべし。その他歴史の原理を論ずる学これを歴史哲学といい、言語文章の原理を論ずるものこれを言語哲学および文章哲学という。法律の原理を論ずるものこれを法理学すなわち法律哲学というなり。

 更に心、物、神、三者を体象の二種に分かち、その各種に関する哲学の名称を列すべし。

  心 象………………………心理学

    体………………………純正哲学

  物 象………………………理学

    体………………………純正哲学

  神 象………………………宗教学(普通)

    体(理体)……………純正哲学ならびにその応用学すなわち高等宗教学

 以上は哲学の分類法なり。もしその学を理学に対して義解を与うるときは結合の学と称することあれば、左にその理由を述べて理哲両学の関係を明示すべし。

     第四項 理哲の関係

 そもそも哲学を解して結合の学と称するは理学に対して唱うるものにして、理学はこれに対するときは部分の学といわざるべからず。例えば物理学、化学、生物学、天文学、地質学、生理学等はみな理学なり。この諸学は宇内の事物の一部分を実究して、一部分の規則を考定するに過ぎず。すなわち生物学は生物の規則を考定するも、天文の規則を考定するにあらず。天文学は天文の理法を実究するも、地質の理法を実究するにあらず。物理学はその学の専門とする部分あり、化学はその学の目的とする部分ありて、諸学みな分業専門の方向を取るときはこれを統轄総合する学なかるべからず。しからざるときはただ事物一部分の真理を知るのみにて、宇宙全体の真理を知るべからず。しかるに哲学は宇宙全体をもって目的とし、その間に存する万有万物の真理原則を考究する学問なれば、生物一方の学にあらず、物理一方の学にあらず、化学も天文も地質もこれによりて考定するところは規則はみな哲学の規則なり。これによりて与うるところの材料はみな哲学の材料なり。哲学はこの諸規則材料を柱礎として万学諸理を完結し、もって宇宙全体の学を組立するものなり。故にこれを統合の学、もしくは全体の学という。理学はこれに対して部分の学といわざるべからず。これを例うるに、哲学は中央政府のごとく、理学は地方政府のごとし。

 以上挙ぐるところの哲学すなわち統合の学とは、主として哲学中の純正哲学を意味するものにして、心理学、論理学、社会学のごときは心理一方、論理一方、社会一方の学なれば、これを理学中に入れざるべからず。もしこれを理学とすれば理学中に有形無形の二種を分かたざるべからず。すなわち物理化学等は有形的理学にして、心理論理等は無形的理学なり。しかるに当時わが国に単に理学と称するときは、そのうちひとり有形的理学を意味し、しかしてそのいわゆる無形的理学は哲学中に入るるなり。これを例うるに哲学中純正学は中央政府中に内閣のあるがごとく、心理論理等は中央政府中の八省のごとし(この一段は『仏教活論第二、顕正活論』中の『哲学総論』につまびらかなり)。

   第三段 結  論

 前段講述するところによるに、実に哲学は諸学の王と称することを得べし。これを王と称するは諸学を統轄主宰する一方より名付くるなり。もしその応用を論ずるに至りては、学問世界の水なり空気なりということを得べし。なんとなれば、一切の学問みな哲学の原理を呼吸し摂入して生活するものなればなり。故に哲学はその位置高くして、かつその用大なりと評するも過言にあらざるべし。なにをもってこれを例えんや。余は日輪をもってこれに比せんとす。およそわが眼前に見るところのものにして、家よりも高く、木よりも高く、山よりも高く、空気よりも月輪よりも高きものは日輪なり。その体かくのごとく高くかつその我人を去ること最も遠きも、その光線、温熱の我人および衆類衆物に及ぼして利益を与うること、また実に広大無辺なり。これいわゆるその位置高くしてその用大なるものなり。実語教に曰く「山高きが故に貴からず、樹あるをもって貴しとす」とは用あるを貴しとするの意ならん。故に余はこれに対して学問を評して曰く「学高きが故に貴からず、用あるをもって貴しとす」と。今、哲学は高くしてかつ用あり、なお山の高くしてかつ樹あるがごとし。あにこれを貴しといわざるべけんや。世の文字を解せざるものは哲学を呼びて鉄学となす。けだし鉄は哲と国音相通ずればなり。しかして曰く、哲学は鉄のごとく堅牢にして凡常の知力をもって破砕すべからずと。けだし哲学の了解し難きをいうならん。しかるに余は世人、哲学を鉄学と評すべきも、あえてその誤りを正すを要せずと思うなり。なんとなれば鉄は金属中最もその用多きものなれば、哲学を呼びて鉄学となすは、その用多きを意味するものと想することを得ればなり。人また哲学者をあざけりて、その研究はあたかもネギの皮を去りて、その実を探らんとするに異ならず。甲皮を除き去れば更に乙皮ありて内に存するを見る、また乙皮を除き去れば更に丙皮ありて内に存するを見る、また丙皮を除き去れば丁皮を見、丁皮を去れば戊皮を見る、これより己皮、庚皮等いちいちこれを除き去ればその極一物の真中に存せざるを見、ついにその実を探り出すことあたわず。哲学の研究もあたかもかくのごとくにして、根掘り歯掘りその極一事一物の得るところなくしてやみ、その研究に力を用いたるものは全く徒労に属すという。今仮に哲学の研究はネギの皮を去るがごとしと定むるも、その実を採るに力を用いるがごときは決して全く徒労に属するにあらず。ネギに皮のみありて実なしというも験せずして知ることを得ず。すでに験して果たしてその実なきを知るに至れば、これ一の知識にあらずや。在昔、神農は百草をなめて医薬を定めりという。百草中には薬用をなすものとなさざるものあり。しかして神農は薬用をなすものを知らんと欲して、薬用をなさざるものまでをなめたるも、だれかこれを徒労に属すというや。哲学の用、実に多くしてかつ大なり。大なるが故に人知らず。多きが故に人これを忘る。あたかも我人が水火日光の用を忘るるがごとし。余は今、かつて『哲学会雑誌』の発行を祝したる論文の一端を掲げてこの一段を結ばんとす。

 月界に立ちて地球の全面を一瞰するに、三分の二以上は海洋江湖等の水体にして、陸地はわずかに三分の一に過ぎざるを見るべし。しかれども、これただ表面の観のみ。もしその水底に入りてこれを験すれば、すべてこれ陸地なるを知るべし。果たしてしからば海洋江湖の根拠となりて、これをしてその区域を保ち、これをしてその位置に安んぜしむるものは陸地なり。今、学問世界もまたこれに類するあり。人もし世俗社会にありて学界の全面を望観すれば、哲学はその一小部分を占有するに過ぎずして、その大部分は理学、工学、文学、史学、法学、政学等の諸学科より成るを見る。しかれども、これまた表面の浅見のみ。もしその深底に入りてこれを験すれば、理、文、政等の諸学の根拠となりて、これをしてその区域を保ち、これをしてその位置に安んぜしむるものは哲学なり。哲学の関係実に大なりというべし。それ哲学は通常理論と実用との二科に分かつも、要するに理論の学にして、思想の法則、事物の原理を究明する学なり。故に思想の及ぶところ、事物の存するところ一として哲学の関せざるはなし。政法の原理を論ずるもの政法哲学あり、社会の原理を論ずるもの社会哲学あり、道徳の原理を論ずるもの倫理哲学あり、美術の原理を論ずるもの審美哲学あり、宗教の原理を論ずるもの宗教哲学あり、論理の法則を定むるもの論理哲学あり、心理の法則を定むるもの心理哲学あり、歴史には歴史の哲学あり、文学には文学の哲学あり、教育学も哲学の理論により、百科の理学も哲学の規則に基づく。故に余まさにいわんとす、哲理ようやく明らかにして始めて諸学の進歩を見るべしと。哲学の必要推して知るべし。

 

(以下は『哲学要領』前後二編を講本として講述せるをもって、別に講義録に掲載せず)