1.妖怪学講義 
純正哲学部門

第一講 偶合編


   第一節    概論

 世間のいわゆる前知、 予言、 暗合、 偶 中 等の類を、 今、 純正哲学の部門に入るるゆえんは、 第一に、 これらの原理はみな吾人経験の範囲外に属して、 経験上より知ることあたわざること、 第二に、  これらの事項はみな宇宙万有の一部より説明することあたわずして、 全体上より説明するのみなることの二つの理由あり。  かつ、  これを他の諸学の上に比考するも、 理学に入るるべきものにあらず、 医学に入るるべきものにあらず、 さりとて心理学に属すべきものにもあらず、 その他いずれの学もみな確かにこれに適するものあるを見ず。  ゆえに、 今はしばらく純正哲学の部〔門〕に加えて、  これが解説をなさんとするなり。 それ、  この部門に属する問題は、 実に重大にして、  その影響するところ、 またすこぶる広大なるべし。 なんとなれば、 人間社会の吉凶、 禍福、 利害、 得失のよって起こるゆえん、 貧富、 貴賤、 栄枯、 窮達のよって分かるるゆえんを説明するものなればなり。「宗教〔学〕部門」において講ずる問題は、 重大はすなわち重大なりといえども、 世間はこれをもってひとり死後の禍福を談ずるものとみなすをもって、 宗教を信ぜざるものはさらにかえりみず。 また「教育〔学〕部門」において述ぶることも、 その影響大なりといえども、  これまた直接に禍福、 利害に関せざることなれば、 人々の注意もしたがって冷淡なる傾向あり。 しかるに卜筮、方鑑、 相術等に至りては、 直接に一身上に関することなれば、 世間この門に迷うもの実に夥多なりとす。 堂々たる士君子にして、 なおその一流に加わるものまたすくなからず。 予これを聞く、

社会の不景気、 日一日よりはなはだしきをもって、 百計ここに尽き、 車馬を飛ばして卜者の門をたたき、 その鑑定を請うもの、 また日一日よりはなはだしと。 けだし今日の勢い、 人みな今日今時のことに汲々として、 全心を目前の営利に注ぎ、 死後冥界のごとき五十年、百年の後のことをかえりみるの余地なきに至れり。 ゆえをもって、宗教家の門前草を生じて、 方術家の戸外市をなすの勢いなり。 予雖、 あにその理を講究せずして可ならんや。

 この種の方術中、 古来、 最も世間の信用を得たるものは易筵にして、 その書は天地の機密を開示せるものなり。

かつ「繋辞〔伝〕』には「聖人設レ卦観レ象繋>辞焉而明二吉凶ご(聖人、 卦を設けて象をみ、  ことばをかけて吉凶を明らかにす)とありて、 その哲理は往々一読三嘆の点なきにあらざるも、 これをその吉凶を判定する器具となすに至りては、  一考再考を重ぬるにあらざれば決して首肯すべからず。  その他の諸術に至りては、 実に妄誕を極めたるもの多し。 しかして、 その効用を演述するや、 売薬の効能書も三舎を避くありさまなり。 方位家は曰く、「相たたりと方とは車の両輪のごとし、 互いに用うべきことなり。 家相吉なりといえども、 凶方を犯すときはその 祟 速やかにして、 軽きは公難、 病災、 重きは家を破り、 命殺の祟をこうむるに至る」(「八門九星初学入門  序)。 人相家は曰く、「それ相法は聖人天下をおさむるもとなり、 知らずんばあるべからず」またその効能を説きて、「第一、   れらの身の吉凶をさとし、 悪事をしりぞけ吉事にすすみ、 さすれば子孫繁昌の基なるべし」(「人相指南秘伝集」序)。  また家相家は曰く、「およそ人の宅地、 陰陽五行、 相生相剋の理、 自然に備わる。 その吉祥の理をしくときは、 家富み、 人さかんに、 忠信孝貞の道おのずから興る。 また凶相を備うるときは、 その理にひかれ種々の横難、災病おこる」(「家相図説」序)。 また淘宮家はその術を自称して、「宇宙万有の変遷、 吾人の吉凶、 禍福、 天然自然、 運気の上下、 病症、 諸難、 災害を未来に会得、 覚悟せしむる一大明鏡、 云云」(川瀬〔勝〕氏「淘宮学秘書と説き、 木島〔大照斎〕氏の幹枝学に至りては、 その協会設立趣旨に、「それ幹枝学は哲学の大礎にして、 有形無形を問わず、 すべて宇宙万有の活動を未然に覚知するの真理たり。(中略)これを大にしては国家の安危に関し、 これを小にしては各人各個の貴賤、 貧富、 幸不幸に関するものにして、 邦国の栄誉、 人類の命脈、  みなこの学によらざるはなし」と題せり。  たれかこれを読みて一驚を喫せざるものあらんや。

 ここにまた、 近年組織せる蓮門教会と名付くる一種の宗派あり。 その説くところは幹枝方位家と異なることなし。 その教会より発行せる『普照』第十五号の論壇に、「今、 現世に現証の利益ある教法たるや、 わが蓮門教これなり。 なんとなれば、 それ盲は明を得、 聾は聡を得、 廃人はたち、 痛者は癒え、 不幸をして幸となし、 貧宴をして富有とならしめ、 夭は寿を得、 愚は賢となる。 火もやくあたわず、 水も漂わすあたわず。  これをこれ、 現世現証の利益という」と述べたるを見る。  ここに至りて百驚千驚を喫せざるべからず。 以上のごとき効能書は、 だれも信ずるものなかるべしといえども、 また全くかくのごときは野蛮の遺風、 つも取るに足らずとして度外視すべきや。 世間その門に帰するもの、 日に多くを加うるをいかんせん。 いずれの世にても盲者千人、 明者一人の割合なれば、 その門に帰するものあるも、 やむをえざることとして看過すべきや。 予は、  その盲者千人をして明者にするをもって、  学者の責任なりと信ずるものなり。 かつ、  このことたるや、 そのうちにいくぶんか講究すべきものを含有するかも計るべからざれば、  その真偽は多少の考察を経て判定せざるべからず。  ゆえに予は、 そのうちのいくぶんは信ずべく、 いくぶんは信ずべからざるかを類別し、 また、 その信ずべき部分も、 非学術的道理に基づきたるものなれば、  これに代うるに学術的方法をもってせんことを望むなり。

 かの干支、 五行のごときは、 今日にありては、 すでに陳腐の説に属す。  たといその応用に至りては多少の効験あるも、  これに代用すべき学術的新法を発見するを要す。 諺に「まず陳より始めよ」といえるがごとく、 予、 その不肖をかえりみず、 哲学的卜痙、 学術的相法を仮設して、 試みにこれを実施せんとす。 今その緒論として、  これより偶合論を講述すべし。



   第二節    偶合論の種類

 偶合の種類に種々あり。 今大別して、 空間上の偶合および時間上の偶合の二つとす。 空間上の偶合とは、 甲乙互いに遠く相離れて、 各一方に起こりし事実の暗合するをいう。 例えば、 身は故国百里の外にありながら、  一夜たまたま父兄の死を夢み、 あるいは夢ならずとも、 なにか突然目に見え、 あるいは耳に聞こえ、 あるいは心に感ずることありしなど、 多少の徴候を感じたるとき、 果たしてその父兄の故郷に死するあるがごとき類にして、  その例、 世に多くあるなり。  こは場所の上の偶合なれば、 予はこれを名付けて空間上の偶合というなり。  つぎに時間上の偶合とは、 予言、 前兆等のごときものにして、  これによりて数日前もしくは数年前に、 将来に起こるべき事件を前知するをいう。 種々の卜笈、 相法もしくは天象を観察して、 変動を予知するがごとき、  すべて自然の現象および人意の判断によりて将来を知るもの、  これを時間上の偶合とす。 しかるにまた、 他の分類法あり。  すなわち、 自然の出来事によりて禍福を察知するものと、 人の鑑定によりて吉凶を判断するものとの二つとなすことを得べし。 自然の出来事による法は、 天文の変動を察し、 あるいは草木の嘉瑞、 あるいは鳥獣の不祥をみて、

ずこにはかくかくの凶変あるべし、 何日にはかくかくの吉事あらんなど占考する類にして、 人為の鑑定による法は、 易箇もしくは人相等によりて、 吉凶、 禍福を判断する方術をいう。 その自然法にまた偶然と注意との二様あり。 天に瑞雲現れ、 田に嘉禾を見て吉兆となすは、 偶然に出ずるものなり。 もしロー マの占考法のごとく、 丘山にのぼりて四面を見渡し、 もって兆候を見んことを求むるは、 注意によるものというべし。  また人為法にも、 直接に人の身心に関する、  人相、 夢判じのごときものと、 他の事物の上にもとづき、 陰陽五行、 方位、 時日の吉凶を、 人の上に適用しきたりて鑑定するものあり。 今、 以上の分類を合括して示すときは左表のごとし。



   第三節    偶合考察の目的

 世間の人が前表の時間および空間の上において、 種々のことを考察、 鑑定する目的は、 畢覚、 人間の吉凶、 禍福の上につきて、 禍を去り福を得、 凶を除き吉を求めんとする意にほかならず。  これを小にしては一身および一家の凶を除き吉を求め、  これを大にしては一国の福利をねがうにありというべし。  ゆえに、 偶合に関する諸法の目的は、 吉凶、 禍福の複線軌道の外に出ずべからず、  かつ吉凶、 禍福のうちにつきても、 ときには国家の安寧、変乱等に関することなきにあらずといえども、 概して一身一家の上にかかわるもの多く、 生涯の無事息災、 子孫の無難繁栄を熱望する一片の利己心より起こるものを常とす。 人たれかは利己の心なからん。 されど、 世路の眼難なる種々の災害、 常に道をふさぎて、 百事意に任せず。  さればとて、 いかにしてこれを避くべきや、 自らその良法を知らざるより、 古来伝わるところの卜筵、 人相または天文雲気に考えて、  この利己の目的を全うせんとするに至る。 果たしてしからば、  かかる鑑定法は、 到底、 人間の一種の迷心といわざるべからず。 すべて世間には福あれば禍あり、 不幸なくして幸ひとりあるべからざるは、 理のおのずからしかるところ。 しかしてこの間に、よく人力の左右し得るものあり、 あるいは全く人力のいかんともすべからざるものあり。 他語にていえば、 ある度までは人力によりて、 禍を転じて福となすことを得ざるにあらずといえども、 ある点より以上に及びては、 全く人力によりて自由に動かし得ざるものあり。 しかるに世界のこと、 なにもかもすべて人力によりて左右せんと欲するがごときは、  これその迷誤たるゆえんなり。  かつ、 たとい人力にて左右し得べき範囲内においても、 方術の鑑定に一任して自らつとむべきをなさずんば、 いずくんぞ一身の幸福を全うせんや。 もし果たして禍を避け福を求むる意あらば、 ただ一心に丹精を凝らし、 朝夕孜々として自らっとめざるべからず。 しかるに、 いたずらに手を懐にして、 安座して粟をつかまんとするがごときは、 迷誤の最も大なるものなり。 もし、 無知の人民みなことごとくこの迷池の泥中に沈まば、 小にしては一身一家の不幸、 大にしては実に国家の大害なりというべし。 しからば、  これらの理を講究して、 人力の左右し得べき範囲の内外を明らかにし、 いかにせば禍災の苦海をのがれて、  幸福、 快楽の安宅に住するを得べきかを知らしむるは、 世を益すること大なるは疑うべからざるなり。



   第四節    通俗的説明

 時間および空間上の偶合は世人一般にあり得べきことと思惟し、 吉凶、 禍福もまた前知し得るものと考え、 多少の説明を与えて、  この理由を解せんことを試む。 しかれども、 その解説たる、 要するに神秘的のものというべく、 憂も学術的と認むべきものなし。 この神秘的説明のうち、 第一、 神意に帰するものと、 第二、 天運に帰するものとあり。  その第一説明によるに、 宇宙には天地万物を主宰するところの神あり、 あるいは吉凶、 禍福を前知し得るところの神ありて、 よく吉凶、 禍福を左右することを得。  ゆえに、 もし人この神を信じて神慮にかないなば、 畢 党、 神力にかりて禍福を前定しあたわざるの理あらんや。  かの天に変動あり、 地に災害あるがごときは、みな神意より出でて人を戒むるゆえん、 決して偶然にあらず。  ゆえに、 人にして内にかえりみ自ら修めば、 天地もまたおのずから和順すべしと信ずるなり。

つぎに他の一派は曰く、 吉凶、 禍福は天運の循環より起こる。 今これを予知するを得るゆえんは、 世界万有の変化は、 天地人間、  一身一家、 社会国家のことに及ぶまで、 みな同一天運によりて支配せらるるものにして、   とたび天文中に起これる変動を知れば、 これより推して人間中に起こるべき変動をも察知し得べき理ありとす。けだし、  この派のものは、 天、 地、 人の三オは、 もと一気の分化より起こるものなれば、 互いに交感応合すべきものと信ずるによる。  この神意説はヤソ教の唱うるところにして、 天運説はシナ学者の唱えしところとなす。  し

かれども、  この二者にありては    いまだ明らかにいかなる道理によりてさることありやをつまびらからず、 畢覚、  二論の深底に進み入れば、  理外すなわち神秘の二字に帰するよりほかなし。 しかるに近来、 実験学の開くるエー テルに従い、 諸学の一部を取りて、 偶合、 偶中の理を付会し説明を試みんとするものあり。 例えば、 電気および精気の二気は、 ともに空間に遍満せるがゆえに、 その媒介によりて、 身はここにありて遠方の人にも相通ずるを得るゆえんなりと説くがごとし。 しかれども、  これいまだ学術上の説として許すべきものにあらず。



   第五節    学術的説明

 しかるに、 今これを学術上より考うるに、 遠方のこと、 未来のこと、 必ずしも知り得られざるにあらず。 なんとなれば、 宇宙万有は一貫の理法によりて組織さるるものにして、 その間に行わるるところの変化は、 因果一条の大原理、 縦横にこれを貫連せり。 もし果たして宇宙なるもの、  かくのごとき因と果と相結んで、 無始より無終に至るまで、 不変性に合成せる一団の組織体なりとせば、 世界の一物一事として必ず十分の道理、 必然の原因ありて、 決して偶然なるものの存すべきにあらず。 今日雨降るは偶然降るがごときも、 前日すでに今日の雨を催すべき種々の事情、 必然の理由ありしなり。 しかして前日の事情、 理由は、 またこれを推すに、 前々日においてすでにその事情、  理由となるべきものあり。  かくのごとく

いよいよ推していよいよさかのぼらば、 前年の事情熟して今年の現状をきたし、  一昨年の原因集まりて昨年の結果を生じ、 今年、 今月、 今日、 今時の状態は、  すでに十年、 百年、 千年の前に定まり、 さらにさかのぼりてその大源を探れば、 世界開 闘 の当時より前定せることを発見すべし。  これ、  ひとり物質の変化に限るにあらず、 精神上においてもまたしかり。  すなわち、 今ある一事を思考しおるは、 みな内外両事情の前時にこれが原因となるありて、 さらにさかのぼれば、 今日より昨日、 今年より昨年、 ないし十年、 百年、 千年、 万年、 世界開闊の太古のときにすでに定まれり。 それより因果相続して今日あるに至りしものというべし。

果たしてしからば、 太古よりすでに今日を知るべき理あるはもちろん、 なお今日のあらゆる事情を集めて推考することを得ば、 十年、 百年、 千年、 万年の後までも推知し得べからざる理由あるを見ず。 しかれども、 こはただ理論上のことのみ。 実際上において、 人間の知識は、 決して今日世界にあらゆる事情を集めて知りつくさんことは、 到底なし得べきことにあらず。 いわんやこれを比較し考察すること、 いかでよくすべけん。  かくて、 ただに百年、 千年の後を知るべからざるのみならず、 明日雨降ることすら、 今日より予知するに百発百中なることあたわず。 社会の変遷、 人心の活動の状態のごとき、 複雑、 円転極まりなきものに至りては、 到底、 人知のその一端すらうかがい知るべきにあらず。 したがって、 人事上に現るるところの吉凶、 禍福の類も、  人知の測るべき限りにはあらざるなり。 しかれども今、 実際上に考うるに、 多少偶合の事実は、 現にその例あること疑うべからず。夢と事実の合したりしこと、 人相の判断、 天文の占考、 みな多少偶合することあり。 もしかくのごときは、 果たして人知の測知し得べきものにあらずんば、 なにに向かいてその原因を帰すべきや。 今この理由を明らかにせんがために、 第一に客観上すなわち物理上より説明し、 第二に主観上すなわち心理上より説明すべし。 もっともこのことたる、 もとこれ神秘的のものにして理外に属し、 道理上より測知すべきものにあらずとせば、 物理、 心理の説明も無用に属すといえども、 予は道理上より説明し得らるるものと信ずるをもって、  これよりその説明を述ぶべし。



   第六節    物理的説明

 物理上より考うるに、 種々雑多の変化事実の中には、  一、  二の偶然に暗合することは、 必ずあるべき道理にして、 これありとて竜も怪しむべきことにはあらず。  これにつきて、 まず偶然、 蓋然、 必然の三種の意味を説明せざるべからず。 偶然とは、  一般の規則に合せざるものにして、 すなわち一般の規則にて測定し得べからざるもの

を指す。 必然とは    一般の規則にもとづき起こるものにして、 決してその規則にはずれざるものをいう。 蓋然と

一般の規則によりてある部分は知られ得るも、 ある部分は知られ得ざるものをいう。 他語にていえば、 十は十ながら人は必ず死すというがごとき、  一般の規則にはずるることのなきことは必然にして、 十中の七八は明らかなれども、  二、 三はいまだ定かならざるは蓋然なり。 例えば、 今日の天気によりて明日を察するに、 大概は雨降るならんというも、 必ず雨降るとはいうべからず、 これ蓋然なり。 しかるに全く予想に反して、 十は十ながらあてにはずれて、 晴天ならんと思いしに、 かえって雨降り、  この人は今年中に死するならんと思いしに、 かえって生きたるときのごときは、 これを偶然とす。 今、 友人互いに相約して、  一日相会うことあらんに、 はじめより約束したることなれば、 これを偶然とは呼ばず。 また互いにその居相近くして、 ときどき相会うべき機会ありて、果たして会合することありとも、 これまた偶然とはいうべからず。 甲乙遠く相へだたり、 決して相会うべきはずなかりしに、 突然途上に相遇うことあらんか、 呼んでこれを偶然という。

 さて、 以上の偶然、 必然、 蓋然の三つにつき、 この三つはおのおの異なる規則によりて支配さるるものなるや、あるいは同一の規則にもとづくものにやを考うるに、  みな一脈の理法によりて成立し、 篭も偶然と必然また蓋然の間において、 判然たる区別あるを見ず。 なんとなれば、 世人一般のいわゆる偶然と称するところのものも、 深く事実を察するときは、 必ずしかあるべき理由あるを発見す。 例えば、 遇うべからざる友人と突如途上に相遇えば、 人もって偶然となす。 しかれどもその実、 必然にして偶然にあらず。 なんとなれば、 友人はある必要の件ありて、 己が地にきたりおりしゅ え遭遇したるものなれば、 そは当然のことなるのみ。  すなわち、 必然遇うべき事情ありしものなれば、 決して呼んで偶然というべからず。 今、 さらに偶然と必然とその別なきゆえんを証するに、もし果たしてこの二者その別ある以上は、 これより上は偶然にして下は必然なりとの、 確固動かすべからざる分界なかるべからず。 しかるに人知の程度、 経験の多少、 あるいは時の古今、 国の東西、 文明の高下に従いて、 大いに偶然、 必然の区界を異にし、 昔時偶然に属せしものも、 今日必然なるを発見したるものはなはだ多し。 例えば地震、 風災、 水難のごとき、 昔時は偶然にしてその原因を神に帰したるも、 今日これを必然の道理によりて説明するに至る。


果たしてしからば、 この二者の別は、 事物の上にあるにあらずして人心の上にあり。  すなわち一つの事実が、その原因明瞭にして、 心に了解し得らるるときはこれを必然とし、 その原因、 事情複雑にして、 明瞭に心に了解せられざるときは、 名付けてこれを偶然というのみ。  ゆえに知識の度に応じて、  一人は偶然と見るも一人は必然とし、 甲は必然とするも乙は蓋然と見るに至る。 要するに、 なにごともみな一系の因果、  経緯のほかに出でず。換言すれば、 みな必然にして    いわゆる偶然なるものあることなし。  すでに偶然なく、 天地の事物いちいちみな必然の理法によりて変々化々するものなるがゆえに、  学術的の研究もこの理に基づきて成立するなり。 もし必然のほかに偶然ありて存せば、  学術の研究は無益なるべし。 しかるに、 世すでに偶然なきがゆえに、  学術の研究は日を追ってその功を奏するに至れり。 しからば偶然の暗合も、 また必然にほかならざるを知るべく、 すでにこれ必然ならば、 また必ず学術上より説明すべきものならざるべからず。



   第七節    偶然の算定法

 数学上に、 蓋然に属する事柄を算定する規則あり。  これを蓋然法という。 その法は、 ここに一事あり、 甲度数において起こり、 乙度数において敗るるときは、 その起こる度数を算定するに丑 ' の算式を用い、 その敗丑るる度数は  刑咄刈. なり。  すなわち、 甲乙の和をもってその要するものを除算するなり。 例えば、  ここに一個の

六面体の行あり。 その行を投じて三星の面を出だす蓋然数を求めんと欲せば、 その出ずる数は   ー にして、 その出でざる数はーー なり。  すなわち甲は一にして乙は五なり。  ゆえに賽を六回投ずるときには、 平均一回三星の面の出ずる割合なり。 また、 同様の賽をもって奇数の面を出だす蓋然数を算するには、 奇数の面は一と三と五との

三面なるをもっ て、 ーー  なり。  すなわち、 平均二回に一度出ずるの割合なり。 また、  二個の在をもって双方ともに同一の面を出ださんとするときは、 その数なり。もしまた嚢 中 に白球五個、 赤球七個をいれ、 その中より一個の赤球を出だす蓋然数は、 これを最初の算式に照らせば、 甲を赤とし、 乙を白として、左のごとく算定するを得べし。すなわち十二回に七遍の割合あるいはまた謹中に赤球五個、 白球三個、 黒球四個を入れ、 その中より二回続けて赤球を得る場合は、 第一回においての蓋然数にして、 第二回にもまた同数なればーー  となる。 もしまた同一の獲中において、第一回に取り出だしたる球をその中に復せずして、 第二回を行うものと定めて算するときは、 第一回は   ー にして、 第二回は一個不足したるをもってなり。 ゆえに、 その蓋然数はなり。 その他この例に準じて、すべて必定すべからざる出来事を算定するを得。 よろしくトドハンター 氏もしくはスミス氏の代数学を参見すべし。 けだし、 今日の生命保険および火災保険の掛け金の割合は、  この算定法によりて、 人の病死および火災の平均を推算して定むるなり。 もししからば、 人の運不運、  幸不幸のごとき偶然に属することも、 多少この法によりて算定し得べし。 偶合あに奇怪とするに足らんや。


   第八節    心理的説明

 すでに物理上より、 偶合の起こるべき理由を述べたれば、 これより心理上の偶合の起こるべきゆえんを説明せざるべからず。

第一、  およそ偶合の事実は、 世にいたって少なきものなれども、  この希有なるものは、  かえって最もいたく人の注意をひき、 また最も長く人の記憶に存するものなれば、 人々の間にはこれら偶合の事実は割合より多くあるがごとく思われ、 偶合せざることはその実最も多けれども、  かえって人の注意をひかず、 したがって記憶に残らざるなり。 しかして、  これを平均するときは、 蓋然の算式によりて知らるるごとく、 少数の偶合の事実の存在したればとて、  そは篭も怪しむに足らざるものとす。

第二、 人は自己の心意をもって事実を補うこと少なからず。  これに、 その全分を補うと一部分を補うとの別あり。 全分を補うとは、 例えば、 ここに    つの予言または前兆あらんに、 これに応合すべき事実なきも、 自己の想

像をもって構造するなり。『哲学会雑誌』第二冊第十九号に、「隔感の憶説」と題する項あり。  ここに参考すべき好適例なれば、 左に摘載すべし。

甲なる人の死亡または非常の厄難と、 遠方にいるその友人または親戚などが心に感ずるところと符合することありとは、 しばしば人のいうところにして、 あるいはこれを隔感、 すなわち所を隔てて他人のありさまを覚知することあるの証なりとなすものあり。  これにつきてプロフェッサー・ジョ シアー・ロイス氏が、 本年四月発兌の「マインド」雑誌において説明を与えたるものあり。  けだし、 氏はこのことをもって記憶力の幻想に起こるとす。  すなわち、 人なにか非常にその心に感触することに出遇うときは、 ただちにその記憶力の幻想を起こして、 その人をしてこのことのきたる前に、  すでにこれを預料せりと想像せしむるに至る。 例えば甲なる人、 乙の訃音に接するときに、 たちまち己すでに乙の死を予想せりとの幻想を起こす。

しかして、  この幻想たるや、 その力はなはだ強くして、 ほとんどその起こるを防ぐを得ざらしむ。  ゆえに、あたかもそのことの起こるにさきだちて、真にしかく予想せしかの思いあらしむ。ロイス氏はその憶説の 証憑  として、  二重の記憶と称するものを指摘せり。  二重の記憶とは、 例えば、 はじめて一つの場所にあるに、すでにかつてそこにありしごとき感覚をいだくことあるをいうにて、 決して珍しきことにあらずという。 かつ、 氏が憶説の中にいうごとき幻想は、 狂人においてしばしば見るところなりとて、 氏は二例を示せり。 その一っ は、 恋情に関する出来事のために狂を発したる可憐の一少女にして、 その身につき一事の起こるごとに、  すなわちいう、「予の情人、 これらのことをいちいちあらかじめ指示せり」と。 第二の例もまた、 発狂したる一壮年にして、 この者つねに信ぜらく、 その郷 狂 院に送られしより、自己の受けし取り扱いをはじめと

して、 院中において起こりたる一切の事件は、 その前すでにある人々との談話の中に聞き知れるところなりと。 しかして、 この壮年自らいう、「これらの談話(実にありしにあらず、 ただその幻想のみ)ありし当座は、別にこれを心にとどめざるも、 後にその出来事の果たして起こるときに至りては、 たちまち以前の談話を思い出だす」と。 しかも、 この少年の実事を記憶するの力は少しも衰えずという。

また、  一部分を意をもって補うとは、 例えば、 前に夢中に見たりしことを今は全く忘却し、 何日何時にさる夢を見たりしやは、もちろん記憶中に浮かばざる場合において、偶然夢中の事実と関係ある事件に遭遇したるとき、初めてかつてさる夢ありしことを心中に思い起こし、  すでに記憶に存せざりし時日を追憶して、 夢もまたこの事実と同日に起こりしがごとく想像する類これなり。余かつて一夜、夢に隈札を他人より受け取りしことありしが、翌朝寝床を離るるときは、 もはや全く忘失して心にも浮かばざりしに、 両三日を経て後、 ある新聞紙上に贋札の件ありければ、 これを読みて、  ふと先夜の夢を思い起こししことありき。 世に夢の事実と偶合すと思うものは、この類決して少なからずと思わるるなり。  およそ人はほとんど毎夜夢みざることなけれども、 よく記憶しおることははなはだまれにして、 たまたまこれに関したる事実に接して、  この事実より夢の方を想起しきたりて偶合せるがごとく考うるを、  これを一部分自己の意にて補うものとするなり。

第三、 記憶中に無意識的に存したりし観念が、 予期の時日に至り意識中に現れて、 偶合のごとく考えらるることあり。 例えば、 今より一年前に友人に会せしとき、 その友人の容貌の虚弱なるありさまを見て、  おそらくは一

年ぐらいにて    ついには不帰の人とならんなど自然に想像することあらんに、 その後は全然忘却しいたりしも、

その記憶はかえって無意識中に存して、  一年の後、 偶然夢中にその記憶の浮かび出ずるがごとき場合あり。 そのとき、 あたかもその友人もまたついに黄泉の客となりしことあるときは、 人みなもって偶合となすべしといえども、 こは心理学上の無意識精神作用より説明し得べきことにて、 別に奇とするに足らず。  その他、 あるいは他人の談話のふと耳にとまりしとか、 もしくは他人の手紙中にてちらと見受けたる事実等の、 無意識的に記憶の中に存して、 夢中意識の上に浮かびきたることありて、 そのことの実際に合するときは、 自己のかつて知らざりしことの、 偶然、 神の知らせによりて知り得たるがごとく怪しみ、 篭も無意識的に心中にとどまりおりしことには気付かざるなり。

第四、 身心の関係によりて察知することまた多し。 人、 相見の人の容貌を見て、 運不運、 吉不吉を判じ、 あるいは心中のことを推知するがごときは、 みな身心の関係より察知するものにして、 心に思うことあれば身に現るるは理の当然なればなり。 もっとも、 人を相するをもって専門となしおるもの、  または観察力の発達せし人は、人の顔色、 容貌を一見して、 よくその心内に思惟するところを知り、 その人の気風、 性質、 運不運に至るまで知りつくし得るゆえんのものは、 多年の経験等よりきたるところの結果にして、  いちいち思想に訴え、 身心の関係に考えて判断するにあらず。  これなお医者の注意を用いずして、  一目よく病者を弁じ、 探偵の一見よく掏児を見

あらわすに異ならず。 また易筵のごときは、 易に明文あるがゆえに、 人意によりて判断するにあらざるがごとしといえども、 易に書したるところの文は    いたって簡短にしていかなる意味にも解釈し得らるるものなれば、  この文意をもって、 いちいちに起こりきたるところの事情にあてはむるは、 みな人の工夫をからざるべからず。  経験多き人ほど判断のあたるは、 畢 党、 これがためなり。 ゆえに、 易をもって判ずるとはいえ、 その事実に関する種々の事情を聞くにあらざれば、 単に易の文言のみにて判ずることは、 筵者のはなはだ難しとするところなり。もし筵法に熟達せるものに至りては、 ただ二、 三の事情を知れば、 早くも将来あまたの運命を判定するなり。 しからば易も、 身心の関係について、 外部の事情より内部を察知するものと知るべし

第五、 予期および信仰より起こるところの偶合また多し。 こは実際その卜 定、予言せし事実の的中するにあらざれども、 ただこれを信仰して、 必ずかかる事実のきたるならんと予期し、  これによりて、 その結果を招きたるものこれなり。 例えば、 戦陣に臨みて明朝の製撃は勝敗いかにと危ぶみて、  これを卜筵に問いしに得るところ吉なり。  すなわち出でて敵と戦うに、 果たして勝ちを得たらんがごとき、  これ卜筵を信じたる精神の力なり。 また予言者ありて、 なんじは必ず何月何日に病死すべしといわんに、 その人これを信ずること固ければ、 果たしてその日に至りて病をおこし、 死に及ぶがごときもあり得べきことなり。  かかるたぐいは、  みな信仰の力すなわち精神の作用なること疑いなし。  ことに疾病のごときは、 精神の作用に関係すること最も多しとす。  すべて人間の吉凶、 禍福は、 多少精神によりて左右せらるるものにして、 心に福あるを期すれば、 よく  禍  を転じて福となすを尋べく、 凶事あるべしと思えば、 吉事もかえって凶事となることあるべし。  このゆえに、 卜斌、 予言等にて必ず福のきたるあらんといえば、 銀難を忍び労苦にたえて、  ひたすら幸福のきたるをまつがゆえ、 いつかはこれに出会することあるべく、これに反して必ず禍のきたるあらんといわば、恐怖の情によりてその全心を支配せられて、きたるべき幸福も去りて、 去るべき禍害もきたることあるに至るなり。 仮に今、  一家の滅亡もしくは大事の失敗というがごときことは、 不幸の重なり重なりてここに至るものにして、 いわゆるまわり合わせの悪きより起こることなれども、 それに一層精神作用の加わるありて、 ひとたび失敗すればその志大いにくじけて、 さらに第二の事業を興すも、 すでに前時の失敗によりて精神の力を減じ、 ためにその思考するところ大いに不完全をきたし、ついに再び失敗し、 三たび失敗し、 不幸相重なるの運に至るべきなり。  これに反して、  ひとたび事の成就するあらんか。  二度、 三度を重ぬるに従って、 いよいよ思想その健全を保ち、 精神その作用を誤らず    ついには幸福に重ぬるに幸福をもってするに至る。  これみな精神の影響にあらざるはなし。

以上五カ条に分かちて述べきたりしもの、 これを括約すれば左のごとし。

第一、 偶合の事実は人の注意を引き記憶に残りやすきこと

第二、 自己の心意をもって多少事実を補全すること

第三、 無意識観念の作用によりて偶合を起こすこと

第四、 身心の関係によりて内情を察知すること

第五、 予期および信仰によりて自ら偶合を迎うること

これを要するに、 余が意、 人の精神作用によりて、 実際、 暗合的中の少なきものを、 割合に多からしむるに至るというにあり。



   第九節    帰結

 されば、 偶然の暗合あるいは予言、 察知等の類は、 物理上の道理に照らしても、 多数の場合、 中に一、  二度の事実存在したりとて、 別に怪しむに足らず。 いわんや、  これに加うるに精神作用をもってし、  一層自然に起こるところの場合より、 はなはだ多き割合を得るをや。  これ、 人をして奇怪の念を起こさしむるなり。  ゆえに、 これら偶合、 暗中等の原因は、 外界にありては事物の事情、 内界にありては精神の作用、  および内外の中間にては物心の関係、 もしくは身心の関係の三つを出でず。 しかるにこの三種の原因、 事情のほかに、 なおここに参考を要すること一、  二あり。そは、 第一には伝説、 諺語等より起こるものにして、 例えば、 鳥のなき声によりて人の死を知るといい、 窓に鳥影のさすときは客あるべしといい、 人のうわさすればその人きたるといい、 昼、 右の耳かゆきときはよきことをきき、 夜、 左の耳かゆきときはあしきことを聞くという。 その他、 くしゃ みの数によりて吉凶を判ずる諺あり。すなわち、  一ほめられ、  二くさされ、 三ほれられ、  四かぜひくというこれなり。  かくのごときは、  みな実にしか

るべき道理ありて起こりたるにあらず。 極めて瑣細の出来事、 あるいは人のなんの意なしにいいし言葉が、 自然にその主なる原因となりしものにて、 中には多少の経験、 習慣によりて起こりたるものもありて、 わずかに両三回、 同一事の引き続くことあれば、 なにかその間に必然の関係あるがごとくに思い、  ついに一般の伝説となり諺語となりて、 世人はこれをもって一種の規則のごとくに考うるに至る。

第二には、人の故意をもって作為するより起こるものにして、その中には一種の政略上より出でたるものあり。

例えば、 殷の武帝が夢に偲説を得てこれを用い、 後漢の明帝が金人の光を放つと夢みてインドより仏教を入れしがごときは、  みなこれ一種の政略と見るよりほかなし。 あるいは微賤よりただちに抜きて人を用いんは、 世間の物議にはばかるところあり、 あるいは他国より異教を入るるは、 人のこれに反対せんことを恐れて、  ことさらにこれを夢に託したるものなるべし。  わが国にありても、 後醍醐帝の笠置の夢における、 楠公の聖徳太子の未来記におけるがごとき、 あるいは一種の政略なりしやいまだ知るべからず。 余はかつて「張良論」を著して、 その黄石公の会合のごときも、  一種の政略的故造説なりと断定せり。 その他、 人造的奇怪は「雑部門」第一節に述ぶるところを見るべし。

第三には、 たとい世間にては確実なるものといい伝いたることあるにもせよ、 今日にありては、 その果たして確実なりやいなやを明らかにすることあたわざれば、 古来民間に伝わりたる事実は、  ことごとく虚なりということあたわざると同時に、 またことごとく真なりということを得ず。 なにほど確実のことにても、 その中に大誤謬を胚胎するや知るべからず。  これまたよろしく参考して、 偶合の起こる場合を考えざるべからず。



   第一一節    偶合の諸例

 これより、 近年、 余が手帳中に記載せる単純の偶合の二、 三例を挙ぐるに、 先年ロシア皇太子の来遊ありし際、これに不敬を加えたりし津田三蔵の津の字につきては、 その不敬を加えたりし地は大津にして、 その場所は津崎岩次郎の前なりしといい、 かつ、 津田の本籍は伊勢の津なりというがごとく、  すこぶる津の字のみにちなみあるがごとく見ゆれども、 こはただ自然の偶合にして別に不思議なるにあらず。 また、  この不敬事件は五月十一日なりしが、 大久保内務卿の遭難は明治十一年、 大隈伯の難は十一月十一日、 森文部大臣の変死は二月十一日というがごとく、 すべて十一の数に合し、 また明治十八年一月二十三日に浅草の劇場猿若座の焼失ありしが、 その前十五年の一月二十三日にも焼失したることありき。  すなわち両度ともに同月同日なりしという。 また、 大塩平八郎の兵を挙げて大阪市中を焼きたるは、  二月二十日にして、 島原騒動の二百年目に当たり、 同月同日の出来事なりという。 かかる類は、 みな物理上循環の理にて説明すべきものにして、 奄も奇怪なることにあらず。  ここに他の一例を示さんに、 余が郷里の某氏、 戊辰の際ひとたび家を出でて諸方に奔走し、 数年の間、 信を絶ちて帰らざりしかば、 家族はみな戦死せしならんとおもいて、 その家を出立せし日を忌日と定め、 毎年これを弔祭しいたりしに、  すでに七年にもなりしかば、 親戚、 故旧相集まりて、  七年忌の法事を営みし折しも、 某氏は久しく関東に流浪せしが、 まさしくこの日の暮れにその家に帰りたりしことあり。 当夕集まれる人々は、  みな法事、 読経の功徳なりとて大いに喜べりというも、 これもとより普通の偶合なり。 在昔、 平氏の軍大内を守るや、 重盛祝して曰く、

「年は平治たり、 地は平安たり、 しかしてわれは平氏なり。  これ天、 吉兆を示すなり」と。  また関ヶ原の役、 徳川家康、 岐阜に至りしとき、 ある人大柿を献ぜり。 家康喜んで曰く、「大垣わが手に落ちたり」と。 すなわち大垣、大柿と国音相通ずるによる。 また、 孔子は三十にして立ち、 釈迦は三十にして成道し、  キリストは三十にして救世主となる。 なにをもって、 その年齢のかく応合するや。  また、 哲学者ヘー ゲルはライプニッツとその死日一月十四日)を同じくするも、 あに奇ならずや。 しかれども、  これみな自然の偶合にして、 あえて怪しむに足らざるなり。


   第 一節    前知の諸例

 前節の諸例は偶合中の最も単純なるものなれば、 これよりやや錯雑なるものを挙ぐるに、 あるいは卜箇、 人相、種々の鑑定法等によりて吉凶、 禍福を知る諸術あれども、  こは後に部類を分かちて詳論すべければ、 くわしくここに述ぶるに及ばず。 今、 安倍晴明の占術における、 その他これに類したる一、  二例を、 史談中より抜記して左に示すべし。

安倍晴明は、 本邦著名の天文博士にして、 陰陽推歩の術を学び、 占術に通ずる奇中、 神のごとし。 本邦陰陽雑占を業とするもの、  みな晴明を推して祖となす。 世伝えいう、 華山帝の位をのがれ、 夜潜かに宮を出ずるや、 娯 妾 といえどもこれを知らず。 この夜晴明、 暑を庭中に避け、 仰ぎて天象に変あるを見、 大いに驚き走りて朝に至る。 帝果たしていまさず。 また華山帝、 在位のとき頭風を病みたまう。 雨気あるときはことにはなはだし。 医療さらにしるしなし。 晴明奏しけるは、「君の前生はやんごとなき行者にておわします。 大峰に入りて入滅したまう。  その徳によりて今、 天子と生まれさせたまえども、 前生の憫艘、 岩のはざまに落ち入りはべるが、 雨気には岩ふとりてつめはべる間、 御いたみあり。 御療治においてはかなうべからず。 かの獨悽を取りて広き所に置かれ候 わば、 御平癒ましまさん」とて、 しかじかの谷底にと教えて人をつかわし、

獨悽を取り出ださしめければ、 御頭風ながく御平癒ありたりと。(「大日本史および「古事談」等の書に見ゆ。


「本朝語園巻七)に、「陰陽師吉平は晴明が子なり。 あるとき医師雅忠と酒をのみけるに、 雅忠杯を取って酒を請け、 しばらく持ちたりけるを吉平見て、「御酒とく進りたまえ、 ただいま地震のふり候わんするぞといいけるに、 やがて地震のふりて酒を覆しけり。  ゆゆしくぞかねていいける」とあり。

また同書に、「北条平時頼、 民の辛苦を問わんとひそかに諸国をめぐる。 日暮れてある所に宿す。 夜に及んで宿主、 庭に出でて仰ぎ見て曰く、「天文異あり。 星わが家に降る。 これ、 天下の権をとる者ここにきたれるの象なり。 また奇ならずや」その妻ききてあやしむ。 そののち時頼、 鎌倉に帰り、 かの者を召して天文博士となす。 惜しいかな、  その姓を失って伝わらず」

その他、 これに類する奇談はいくたあるを知らず。 もし、  これをして真に実ならしめば、 実に不思議といわざるべからざるも、 さきに述ぶるところの物理的および心理的説明に考うるときは、 またあえて深く奇とするに足らず。 そのうち地震前知のことのごときは、 今日にありてもはなはだしく地震を恐るるものは、 自然の感覚によりて前知するなり。 明治十八年二月六日午後二時、 かなり大なる地震ありしが、  芝区巴町の靭絵学校の門柱に、本日午後地震ありと記せし紙札を貼したるものありしと(当時の新聞)、これその一例なり。ことに雷に至りては、十二時間くらい前に知るものあるも、 だれも怪しむものなし。 その他、 種々の吉瑞、 吉兆のことにつき、『訓蒙浅語」に論じたる一章は、  ここに参考を要することなれば左に抜粋す。

書伝にいう、「目躙得ーー酒食一 灯火華得二銭財{  乾鵜喋而行人至、 蜘蛛集而百事喜。」(目 躙 して酒食を得、灯火華さいて銭財を得、 乾 鵜 さわいで行人至り、 蜘蛛集まっ て百事喜ぶ)(『西京雑記」巻三)。 目躙とは、 目の端のぴ<ぴくすることなり。乾鵜喋とは、唐 嗚、かささぎのなきさわぐことなれども、今わが国にても、喜 鶉がなくときは、 遠方に参りおる人が帰るという。 蜘蛛はくものことなれども、 これは高蒟といいて足高ぐもを指すなり。 天華板(藻井、 綺井はみな合天井のことなり。  ただの天井は天華板というなり)より足高ぐもがさがれば、 諸事吉なりという。 また、 俗間に烏 の糞に衣服を汚さるれば、 最も大吉事なりという。往々験あることに似たり。 また夢なども、 俗間に「一富士(不二)二鷹三茄子」とて、 吉夢にも、 吉に段々の次第あるをいう。  さて「周礼』『列子』には六夢のことを載せたれど、 それはあながち吉凶にかかわることにあらず。 ただ『周礼」に、「季冬献二吉夢子王一 王拝而受>之、 乃舎  萌干四方一 以贈二悪夢ご(季冬、 吉夢を王に献ず。  王拝してこれを受け、 すなわち四方に舎萌し、 もって悪夢を贈る)(『周礼    占夢職)とあり。 舎萌とは釈菜というがごとし。 野菜の初芽を採りて供する祭りなり。  四方の神々へ初芽供物の祭りをなして、一年中の悪夢の分はみな祓除すということなり。 しかし「詩経』に、 幽王のとき諸事乱れ間違いたるを刺護して、「召ーー彼故老一 訊二之占夢  」(かの故老を召してこれが占夢をたずぬ)といえり(「斯干」「無羊」の夢占は常例のおはなしなり)。  さすれば、 今の『周礼』にいうところは、 実に周の典礼にや、 または 劉款等が加筆にや。  これらの条、 はなはだおぼつかなきところなり。 しかし「泰誓」に、「朕夢協二朕ト一 襲二子休祥    戎レ必克。」(朕が夢、 朕の卜にかない、 休祥をかさぬ。 商に戎 せば必ずかたん)(「本二干周語単襄公語、 及左伝昭七年衛史朝之語一也。」)(「干周語単襄公語

および「左伝」昭七年衛史朝の語にもとづくなり))といいしは、 少しも間違いなきことなり。「逸周書」(程宿解第十三)に据ゆるに、 太似(武王の母)「夢見ーー商之庭

産>棘、 武王取二周庭之枡 (与>槃同)樹二干閾間{  化為二松柏ご(商の庭に棘 の産するを夢み、 武王周庭の枡

(壁と同じ)を取りて闊間にうゆるに、 化して松柏となる)(この下に杵械字ありて、 下に閾文あり)。  この夢は太娯、 武王の夢なれば、 まさしく殷ほろび周興るの吉兆を示したること顕然たり。  これより以前に、 高宗の博説を夢に見しもやはり同様にて、 霊夢いささかも相違なし。 漢文帝の夢に、 部通に助けられて、 推して天に上せられたることは験なくして、 衣〔袈〕帯後のうがちたることばかり後の験あり(文帝、 後に部通を媚子に召し遣わさるるは帯後敗るる象なり)。 文帝ほどの賢君にても、 右ようなる間違いの夢あれば(古人の詩に「可る憐一覚登』天夢、 不盗ぞ商巌声ぞ櫂郎ご(憐れむべし一覚天にのぽるの夢、 商巌を夢みず櫂郎を夢む))、 常なみなみの人は、 魔神の夢枕に立ちて欺聡すること多かるべし。 必ず霊夢なりといいて、 乾没の企てごと、  または乗るか反るかなどのことは、  すべきことにはあらず。

梁武帝は、 某月某日に天下一統となるという夢を見たり。 某月日に至りて魏の叛人候景、 果たして降参しきたれり。 朱弄もまたせいぜいとりもちて慾憑せしにつき、 武帝大いによろこびて引きいれたり。 その後、候景に謀反せられて、 餓死して滅亡に及べり。 これらは実に魔神の欺 証したること顕然たり。 また夢にも限らず宋王偲(康王ともいう人)は、 城の隅にて雀の  鶉  を生みたるにつき、 国家ますます広大になるの吉瑞と判じて、「射>天笞>地」(天を射、 地をむちうつ)の暴虐をなせしゅぇ、  ついに滅亡に及べり(射>天笞>地のことは「呂氏春秋」戦国策新序につまびらかなり)。 宋の徴宗の宰相王顧は、 家の柱に玉芝を産するにつき、ますます繁栄の吉兆と判じて、 徽宗へ言上し御覧を願いたり。 徽宗御幸のとき、  王副の家、 内官の頭梁師成と隣家にて、 家の内より通路ありて往来し、 別段入魂にする様子認められ、 それにて平日なにごとによらず

椅角して打ち合わせすることを気づかれ、  ついに滅亡に及べり。 明太祖の宰相胡惟庸は、 神姦鬼詰ともいうべきオ知抜群の人にして、 始終太祖の目を忍び、 種々の姦曲のみをなししが、  当人思えらく、 太祖は匹夫より起こりて天下を取るほどの賢明なれば    いずれ永き年月のうちには、 己が悪事を見出ださるること必ずあ

るべし。 その節は手早く兵を挙げ、 不意を製いて    ついでに天下を取るべしとかねて覚悟をなし、 極密に往来する日本人までも、 応援に頼みおきたり。 しかるに、 胡惟庸が先祖の墓所に、 毎夜炎火のごとき光明あらわれ、 また家の井戸より石 筍 の生ずるを見て、 希代なる吉瑞なり、 速やかに謀反すべしと決心して、 それぞれの手配をなししかば、  さすがに明祖のことゆえ、 すぐさま心付き、 生どりて極典に処し 誅 滅したまえり、云云この説明はいまだその理を尽くさずといえども、 吉瑞、 吉兆のたのむに足らざる一斑を知るべし。



   第 二節 経験の諸例

 古来の物語あるいは伝説等を根拠とし、 あるいは今日までの多少の経験、 習慣を一種の規則として、  これより未来を前知することもまた民間に多し。 しかれども、  この経験、 習慣によるというも、 決して今日のいわゆる学術上の帰納法にはあらず。 わずかに両三回、 同一の事実に際会すれば、 たちまち不変の関係のその間に存するものとみなし、  ついに、 自然にこれをもって未来を予知する規則とするに至る。 今また、 左にその二、 三例を挙示すべし。

「酉陽雑俎  に、「猫洗>面過>耳則客至」(猫、 面を洗い耳を過ぐせば客至る)、 また「奇説 集 井には、「猫、面を洗いてその前足耳を越すときは、 雨降るという」とあり。 また「物理相感志 禽魚編)に、 猫児の目によりて時を知る歌を出だせり。 曰く、「子午線卯酉円、 寅申巳亥銀杏様、 辰戌丑未側如レ銭。」(子午は線、 卯酉は円、 寅申巳亥は銀杏よう、 辰戌丑未 はそばだちて銭のごとし)しかるに、「新童子手 習  鑑 』と題する書中に、 猫の目にて時を知る歌あり。 曰く、「六つ丸く五七は玉子四つ八つは柿の核なり九つは針」と。  また同書に、 鼻息にて時を知る歌あり。「六つと四つ八つは鼻いき右かよう五つ九つ七つ左ぞ」と。 貝原〔好古〕氏の「  諺  草    に、「丁子頭たてば 旱 し百花霜に火点ずれば雨晴るる」という。 また「日用晴雨管窺    に左の

歌あり。

山の形春なっ ちかく秋冬はとをとを見ゆるを雨気とそ知る夢見るは雨と日和の二つなり変らぬ時に見るはまれなり 小便のしけきは日和のむ水の腹にたもつを雨と知るべし 鳥の声すみてかるきは日和なりおもく濁るを雨気とそ知る

しる人はかんかへて知れ書筆のおもはくよりもまはらぬか雨

のみや蚊のきわめてしけく喰ならは雨のあかりと雨気つくころ


香の火の何よりはやくたちぬるは雨のあかりと雨気つくころね心のあしき夜ならは雨としれ掬はぬす人ゆたんはしすな蛍火のすくなき年は秋の田の刈穂も実のりよしと知るべし、また「旅行用心集に左の歌を掲げり。

筑波たれ浅間くもりて賜鳴かは雨はふるとも旅もよひせよ

五月西春は南に秋は北いつも東風にて雨ふるとしれ

また「相庭高下伝」に、「飯矧鳴の弁」と題して、「大和河内の間、 鳴く翌日は、 必ず雨降るなり。 京にては多

少晴れ、 大阪にては雨晴定まらず」とあり。  また「商家秘録   には、「稲は柳に生ずとて、 柳の栄ゆる年、 米よく熟するものなり。 本朝にては、 梅田びは麦という。 考え見るに、 この説たいていたがわず」とあり。

以上は、 みな従来の経験によりて定めたるものなり。 このほかに人の病患、 生死、 禍福、 吉凶等につき多少の経験を根拠として、 前知予定する方法もあれども、「当たるも八卦、 当たらぬも八卦」の類にて、 もとより信ずべからず。  かつ、  ここにいちいち挙示するにいとまあらず。 その他、 世のいわゆる諺語は、 積年の経験より得たる結果に基づきしこと、 また疑うべからず。 例えば、「人間万事塞翁が馬」「陰徳あるものは必ず陽報あり」「思い内にあれば色外にあらわる」「油断大敵」「朱に交われば赤くなる」「可愛い子に旅させよ」の類これなり。  これらは経験にもとづきたるものなれども、 ただちにこれをもって必然の規則となすべからず。  まず、 偶合論はここに一段落を結び、 以下その種類に応じて項目を分かち、 さらに説明を与えんとす。




第二講 陰陽編


   第一三節    陰陽論  緒言

 そもそも純正哲学の問題は、 宇宙の本源、 万有の実体を推究するにほかならざれば、 今その大要につきて一言せざるべからず。  さきに「理学部門」第一講において、 物質の本源、 世界の開 闊 を論述したるも、  これ客観的有形上より考察したるものにして、 いまだ主観、 客観両界の上にさかのぽりて、 万有未生、 天地末剖の真際より論下したるものにあらず。 あたかも平地にありて山嶺を望みて、 いまだ山顧にありて平地を諏下するものにあらざるがごとし。 もし、 吾人が思想の山顧に登りて、 物心万境を ご諏するときは、 必ずその見るところ異ならざるべからず。 しかして、 物心の本源は通常これを名付けて神というも、 むしろ理もしくは理想と名付くるを適当なりとす。 仏教の真如、 老子の無名、 易の太極、 みなこの体に与えたる異名にほかならず。 今、 その体の果たして存するやいなやはこれをおき、 もっぱら物心の世界と、  理想の本体との関係につきて述ぶべし。

すなわち、 甲図は有神論にして、 物心二元並存を唱うるものを示す。  すなわち二元論なり。 その論にては、 物心二元のほかに、 理想すなわち神の実在を唱うるなり。 乙図は、  理想と物心とその体を同じくする論にして、 これを一元論という。  この二論中、 今日の学説にては、 乙図の方を取らざるべからず。 また、 物心の現出せるゆえんを説明するに、 甲図の方にては創造説を唱えて、 あるいは大工が家屋を造成するがごとく、 神が人類を造出せりといい、 あるいは父母が子を産出するがごとく、 神が物心を現出せりといい、 あるいは太陽が光線を発散せるがごとく、 神が万象を現示せりという。  これ、 ヤソ教家のもっぱら唱うるところの要論なり。  これに反して乙図にては、 大別二様の異見あり。  その    つは、 理想を死物視して、  その体本来凝然として動くことなく、 その外面に物心の表象を具有すと唱うる論にして    スピノザの本質論これに属す。 他の一っは、  理想を活物視して、 理想そのものの内部より自ら有するところの勢力によりて、 物心を開発すと唱うるものをいう。  すなわちシェリングの論これに属す。 そのうち今日の学説にては、 活物的開発論を取らざるべからず。  これ、 実に西洋近代の説なるも、 東洋の儒教も仏教も、 ともに活物論なり。

すなわち、 易の太極論および起信の縁起論は、 西洋今日の活物的一元開発論なることを知るべし。  これ、 余が東洋の古説の高妙なることを唱うるゆえんなり。 しかりしこうして、 その説明はここにこれを略し、  シナ哲学の大原理たる陰陽論を述ぶべし。


   第一四節    河図、 洛書

 卜筵    方位等の方法を説明するには、  まず陰陽五行の理を述べざるべからず。 陰陽五行の理を述べんとするには、 また、 そのよって起こるところの河図、 洛書について一言するを要す。 今、 河図、 洛書の起源に関して、「易学啓蒙』中に引用せる文を見るに、 曰く

易大伝曰、 河出レ図、 洛出レ書、 聖人則ら之、 孔安国曰、 河図者、 伏犠氏王二天下{  竜馬出レ河、 遂則二其文    以

画 入 卦ー  洛書者、 馬治>水時神亀負レ文而列二於脊    有砿奴至レ九、 馬遂因而第>之、 以成ー九ー   類一 劉歎云、 伏犠

氏継元天而王、 受ーー河図一而画レ之、 八卦是也、 馬治二洪水一 賜ーー洛書一 法而陳>之、 九疇是也、 河図洛書相二為経緯一 八卦九疇相二為表裏

(『易大伝」に曰く、「河図を出だし、 洛書を出だし、 聖人はこれにのっとる」孔安国曰く、「河図は伏犠氏天下に王となり、 竜馬河を出でて、  ついにその文にのっとり、 もって八卦を画す。 洛書は馬水を治むるとき、神亀文を負って背に列し、 数あり九に至る。 馬ついによってこれを第し、 もって九類をなす」 劉 欽曰く、

「伏犠氏天に継いで王たり。 河図を受けてこれを画す、 八卦これなり。 萬、 洪水を治め洛書を賜う。 のっとりてこれをのぶ。 九 疇 これなり。 河図、  洛書経緯を相なし、 八卦、 九疇表裏を相なす」)

また『河図洛書示蒙抄 」に、 河図のことを述べて曰く異朝のいにしえ、 伏犠氏天下の王たるとき、河の中より竜馬あがりたるが、 その背に上のごとき文あり(図略す)。 人々怪しみて朝に訴えければ、 伏犠自ら見て、 天地自然の数を示したまうところなりとて、 のっとりて易をつくりたまう。  理数の図ゆえ、 河図とはいうなり。 河図を出だすというを、 絵図を箱に入れ負い出でたるさまをえがけるなど、 後世の誤まりなるべし。 馬の毛の旋毛に形を備えたるなるべし。

しかして、 八卦の痙法は、  この河図にもとづきたるものにして、 九星の占法は、 洛書に因せしものなりとす。



   第一五節    陰陽の原理

 この陰陽論なるものは、  シナ哲学中一種特種の説にして、 かつ、 極めて重要なる原理なり。 陰陽の本源はすなわち太極にして、 太極分化して陰陽となり、 万物となるなり。『易〔経〕』の「繋辞伝」に、「易有太極一是生二両儀、  両儀生二四象

四象生二八卦ご(易に太極あり。  これ両儀を生ず。 両儀四象を生じ、  四象八卦を生ず)とある

これなり。 太極とは、  これを解して『王氏易学」に曰く、「太極無象、 象非方非円、 不可得而形容    強名レ之曰レ極而已。」(太極は 象 なし。 象は方にあらず円にあらず、 得て形容すべからず。 しいてこれを名付けて極とい

うのみ)また『読書録』に曰く、「太極万物之総名也」(太極は万物の総名なり)。  また『易学啓蒙通釈』に曰く、

「太極者象数未>形而其理已具之称」(太極は象数いまだあらわれずして、 その理すでにそなわるの称)と。  しかして、  周 源渓の「太極図説    には、  これを無極にして太極といえり。 無極とは、『読書録』にこれを解して曰く、

「無極而太極、非>有乙一也、以一無声無臭一而言、謂ー一之無極いぞ極至之理一而言、謂二之太極一無声無臭而至理存焉、故曰無極而太極。」(無極にして太極、 二あるにあらざるなり。 無声、 無臭をもっていえば、  これを無極といい、極至の理をもっていえば、  これを太極という。 無声、 無臭にして至理存す。  ゆえに曰く、「無極にして太極」)と。

つぎに、 天地と太極との関係につきて、 朱子のこれを説明したるあり。「朱子語類    に曰く、「太極只是天地万物之理、 在二天地二言、 則天地中有二太極   _在一万物二言、 則万物之中有二太極(太極はただこれ天地万物の理、 天地にありていえば、 すなわち天地の中に太極あり。 万物にありていえば、 すなわち万物の中に太極あり)と。  ま

た陰陽と万物との関係につきて、 朱子の説くところをみるに、 曰く、「天地之間、 無三征而非二陰陽    一動一静一語一黙、 皆是陰陽之理、 無こ  物不レ有二陰陽乾坤一 至ーー於至微至細草木禽獣一亦有一牡牝陰陽ご(天地の間、 ゆくとして陰陽にあらざるはなし。  一動一静、  一語一黙    みなこれ陰陽の理    一物として陰陽乾坤にあらざるはなし。 至微至細、 草木禽獣に至るもまた牡牝陰陽あり)

これを要するに、  シナの宇宙論は、 太極一元論にして、 太極分かれて陰陽となり、 五行となり、 万物となり、次第に開発することを説くものなれば、 これを一元開発論となすなり。  すでに太極開きて陰陽となり、 陰陽交わりて万物を生じたるものなるがゆえに、 万物には陰陽の理を具し、 陰陽と万物とは太極と通じて一体をなすものとす。

今、 この説を西洋哲学の上に考うるに、  スピノザの本質論、 ライプニッツの元子論、  ヘー ゲルの理想論等のごとき、 多少、 陰陽論に似たるところなきにあらずといえども、 いまだ陰陽の二元より万有の開発したることを説きしものを見ず。 古代哲学中、 ピタゴラスの万有の本源を数に帰し、 奇偶の二数より万有を成すといいしは、 すこぶる陰陽論に似たるがごとしといえども、これを陰陽論に比するに、もとより数歩を譲るといわざるべからず。

また、  エンペドクレスの愛憎ニカによりて、 万物変化の理を説明せるものも、 やや類似したるがごとく思わるるといえども、 これまた、 陰陽二元のごとく道理を尽くしたるものにあらず。

しからば、  この陰陽論は実にシナ哲学中の最も特種の説にして、  かつ最も重要なるものなるは疑いをいれず。しかして、  この理を説けるものはすなわち易にして、 実に易は陰陽の理によりて天地の機密を開示したるものというべし。  ゆえに「繋辞伝」に曰く、「夫易聖人之所  以極>深而研五幾也」(それ易は聖人の深きをきわめ、 幾をみがくゆえんなり)と。 また曰く、「古者包犠氏之王一一天下一也、 仰則観  象於天俯則観二法於地一 観三鳥獣之文与一地之宜    近取二諸身一 遠取二諸物{  於>是始作ー一八卦ー  以通二神明之徳    以類二万物之情ご(古者、 包犠氏の天下に王たるや、 仰いではすなわち象を天にみ、 俯してはすなわち法を地にみ、 鳥獣の文と地のよろしきとをみる。 近くはこれを身に取り、 遠くはこれを物に取る。  ここにおいて、 はじめて八卦を作り、 もって神明の徳を通じ、 もって万物の情を類す)と。 また「程序伝」に曰く、「易変易也、 随>時変易以従レ道也、 其為レ書也広大悉備、 将下以順二性命之理五竺幽明之故竺事物之情盃型ば開レ物成レ務之道上也。」(易は変易なり。時に従って変易してもって道に従うなり。 その書たるや広大にしてことごとく備わり、 まさにもっ て性命の理にしたがい、 幽明の故に通じ、 事物の情を尽くし、 物を開き務めを成すの道を示さんとするなり)と。『林子全書」に曰く、

「周易一書、 伏犠始>之、文王周公成>之、 孔子終>之、 所下以闊二性命之微呻ハ中心身之学ビ(『周易」の一書、 伏犠これを始め、 文王周公これを成し、 孔子これを終う。 性命の微をひらき、 心身の学を明らかにせんとするゆえんなり)

されば易理は、 実にシナ哲学の根本にして、 かつ最も深妙なるものなれども、  これを実際に応用して、 社会人事の吉凶、 禍福を予定するがごときに至りては、 大いに疑いなきことあたわず。 そは後に卜痙編においてくわしく論ずべし。

かく論定してさらに一考すれば、 陰陽論もいまだその理を尽くしたるものというべからず。 換言すれば、  これ万古不易の真理なりと定むべからず。  そのゆえは、 世界万有は陰陽二元より成るというも、 全く空想、 憶説にして、 もとより演繹的に論断したるものにほかならず。 しかるに、 これを実際に考えて、 万物みな相対によりて存立するを見、  これ陰陽二元より成るを証すべしというものあるべきも、 事物の相対と陰陽とは、 決して同一にみなすべからず。 なんとなれば、 陰陽相合して第三元を生ずるも、 相対相合して他物を生ずるにあらず。

また、 事物には有形、 無形の別あり、 生物、  死物の異あることは、 判然明瞭にして、 物心の二大元をもって、万有を分類するは適当なりといえども、 物心の代わりに陰陽を用い、 形の有無、 物の生死の別なく、 ことごとくこれを配当するは、 畢 覚、 空想に出ずるを免れず。  いわんや、  この二元より万物を化成すというにおいてをや。その独断、 憶定のはなはだしきを知るべし。 もし一歩を譲り、 陰陽論は仮に真理に合すとするも、  この二元より五行八卦、 草木禽獣等の分化せる道理を説明するに至りては、 実に妄説のはなはだしきものあり。 左にその理由を述ぶべし。


   第一六節    八卦

 太極分化して陰陽となり、 陰陽の両儀、 さらに分かれて四象となり、  四象また分かれては八卦となる。 その図左のごとし。




この八卦また分かれて六十四卦となることは、 後に至りて別に述べん。



   第一七節     五行

 つぎに五行とは、 木火土金水にして、 そのもとは「書経」の「洪範」にあり。 むかし夏の萬王、 洛書に基づきて洪範をつくる。 すなわち九 疇 これなり。 のち殷の箕子この洪範の占に達し、 殷のほろぶるときこれを周の武王に伝えたりという。


その、 いわゆる九疇とは、 第一、 五行、 第二、 五事、 第三、 八政、 第四、 五紀、 第五、 皇極、 第六、 三徳、 第

七、 稽疑、 第八、 庶 徴、 第九、 福極これなり。 左にその義解を示さん。

五行とは、 水火木金土なり。 五事とは、  貌、 言、 視、 聴、 思にして、 八政とは、   食、  貨、  祀、 司空、司徒、 司寇、   賓、  師、 五紀とは、 歳、 月、 日、 星、 暦なり。 また皇極とは、 皇帝至極の義にして、 君たるものは、 人倫の至るを尽くすべきをいう。 三徳とは、 正直、 剛克、 柔克なり。 ただし克は治むる義、 剛柔は抑揚、 進退の用なり。 稽疑は、 疑わしきことあれば卜箇を考うるなり。 雨の兆しは水、 審の兆しは火、 蒙き兆しは木、 繹<兆しは金、 克の兆しは土なり。 庶徴は、 雨、  喝、   澳、 寒、 風、 時ありて豊かなり。 五つのもの、 また水火木金土に属せり。 福極は五福とて、 寿、 富、 康、 寧、 好むところ徳なり。 老いて命を終わる。六極とて、 凶短折、 疾、 憂、 貧、 悪、 弱、 五福六極は、 君にありては、 極の建つと建たざるとにかかり、 民にありては、  訓 の行うと行わざるとによるものなり。 以上、 一日もかくべからざる人倫の道にて、 この理をうらかたに用うること、 易は天地の道理を述ぶるものにて、 また吉凶を 卜 うに用うるごとし。(『河図洛書示蒙抄 による)

五行をもって吉凶を判ずることは、  すでにかく古代より存したるもののごとしといえども、 最初は易のごとく盛んに行われざりしに似たり。

しかるに漢以後に及びて一切のものを五行に配当して、  その配当より吉凶、 禍福の判断をなすこと大いに流行するに至れり。  その五行配当の表を掲ぐれば左のごとし。

畢 覚、 かくのごとく五行を万物に配当するは、 陰陽の万物における関係と同じく、 天地万物、 っとして五行

にあらざるものなしとの想像より起こりしものにして、  五行家はみなおもえらく、  天地は万物の父母、  五行は天地の用と。  ゆえに、  万物一っ として五行の気を受けざるものなく、  なかんずく人は五行の正気を受けて生まるるものとなす。  また五行の気は、  年々循環生殺あり。  もし、  その気にしたがうときは幸を受け、  逆らうときは禍を受くという。  これ、  すなわち五行をもって万物に配当するのみならず、  また、  これをもって吉凶を卜するゆえんにして、  その不合理なること、  別に余が言をまたざるべし。  すでに今日学術上にありては、  万物の分類は、  決して五行をもって総括し得たりとなすことあたわざるはもちろんなり。  安積艮斎の五行につきて弁じたるものあれば、  左にこれを引かん。


以為二狂妄   余亦不二敢自信一間更就ーー聖経盃器竺究之{ 其説益可>疑突、夫五行者、 民人之所二頼以生一天下不>

可二  日而無  之也、 故大萬加 穀 於五行一 謂 乏 六府ー 物有 其 官ー 官修一耳其方一 而愁 遷 有無一 以利二天下之用一以致二財成輔相之道一 書曰、 政在レ養>民、 水火金木土穀惟脩、 是也、 箕子淵二源子大萬ー  言二其曲直従革之性 以立二養>民之実政一 使=天下之人遂二其仰事俯育之願{  洪範五行是也、 漢儒以来異説始起、 有下以二五行ー配二十二支干四時玉戸芙、 有下以二五行一配二仁義礼知信玉? 突、 有下以二五行込喪天地造化之理辛戸突、 其説皆牽合博 会、 非二聖人所>謂五行之本旨一也、 且箕子所レ云、  一曰至五 曰一 是次第之目也、 而諸儒皆以為 五 行之生数一然八政、 一曰至入 曰一又四  以為二生数  乎、 箕子所>云五事者、是治>身之至要也、 而諸儒_以一五行ー配>之、 至 於八政五紀一 則又不缶?分配一 而其説窮突、 此其附会之易>見者、 蓋聖人所レ謂五行者、 皆就一輝デ民之実政一而言>之、 易嘗有ーー諸儒紛転之意一哉、案医家素問、載二五行配当之説一甚悉、素問周秦間書、其説已先二漢儒一而有レ之、 則方技家伝来之説、 而京房、 谷永、 董仲舒、 劉向父子之徒、 借以論二災祥一 説二識緯二経一為中災異休徴之書い後世諸儒雖=一頗知一其無稽一 而五行之非、 則未二之察一也。遂至下以二春秋洪範

(五行の説、 漢儒以来、 伝習すでに久し。 漁洛の諸大儒に至りて、 その義大いに備わる。 しかるに、 余ひそかに疑うところあり。 かつて朋友とこれを論ず。 みな祗 笑 してもって狂妄となし、 余もまたあえて自ら信ぜず。 間々さらに聖経についてこれを攻究して、 その説ますます疑うべし。  それ五行は民人のよってもって生ずるところ、 天下一日もこれなかるべからざるなり。 ゆえに、 大馬は穀を五行に加えて、 これを六府という。

物にその官あり。 官その方を修めて有無を懲遷し、 もって天下の用を利し、 もって財成輔相の道をいたす。書に曰く、 政は民を養うにあり、 水火金木土穀これおさむと、  これなり。 箕子、 大萬に淵源して、 その曲直従革の性をいいて、 もって民を養うの実政を立て、 天下の人をしてその仰事俯育の願いを遂げしむ。「洪範」の五行これなり。 漢儒以来、 異説はじめて起こり、 五行をもって十二支を四時に配する者あり、 五行をもっ

て仁、 義、 礼、 知、 信に配する者あり、 五行をもって天地造化の理を論ずる者あり。 その説みな牽合偲会、聖人のいわゆる五行の本旨にあらざるなり。  かつ箕子のいうところ、  一に曰くより五に曰くに至る。  これ次第の目なり。 しかして、 諸儒みなもっ て五行の生数となす。 しからば八政は、  一に曰くより八に曰くに至るまで、 またもって生数となすべきか。 箕子のいうところの五事は、 これ身を治むるの至要なり。 しかして、諸儒五行をもってこれを配す。  八政五紀に至りては、  すなわち分配すべからずしてその説窮す。  これ、 その付会の見やすきものなり。けだし聖人のいわゆる五行なるものは、みな民を猥うの実政についてこれをいう。

なんぞかつて諸儒紛転の意あらんや。 案ずるに、 医家「素問」に五行配当の説を載せてはなはだっ くす。 素問に周秦の間の書、 その説すでに漢儒にさきだちてこれあり。 すなわち、 方技家伝来の説、 しかして京房、谷 氷、 董仲 舒、  劉  向 父子の徒、 借りてもって災祥を論じ、 識緯を説き、  ついに「春秋」「洪範    の二経をもって災異休徴の書となすに至る。 後世の諸儒、 すこぶるその無稽を知るといえども、 しかも五行の非は、すなわちいまだこれを察せざるなり。

余もまた、  かつて五行の妄を論じたることあり。 載せて「天則」第五編につまびらかなり。 今、 これを抜記すこと左のごとし。

当時、 世間に五行、 干支、  九 星等によりて、 人の吉凶、 禍福を卜定する法、 大いに行われ、 これを東洋の真理、 あるいは哲理と称して、 愚民を 班 惑するものあるがごとし。 しかして、 愚民はその道理を弁ぜざるをもって、  これを偏信し、 手を懐にして福利を握らんことを望むに至る。  これ、 大いに世の進歩を妨ぐるものなれば一言もってその妄を弁じ、 その惑いを解かざるべからず。

そもそも五行家、 干支家、 九星家の談ずるところ、  おのおの異同ありといえども、 人の吉凶、 禍福を説くに当たりては、 もっぱら五行相 生、 相剋の理をもってす。 九星家のごときも、 なお相生、 相剋の理によりて吉凶を判定するなり。 しかして、  これによりて判定するところ、 事実適合するといなとは、 別問題として、今まず相生、 相剋の道理の、 学理に合せざるゆえんを示さんと欲するなり。

ここにおいて余は、『河図洛書示蒙紗』に出でたる五行の解釈を左に掲げり。

こと

木は東をつかさどりて春に応ず。 木の言たること触なり、 冒なり。 陽気触れ動くときは、 地を冒して生ず。水、 東に流れ、 移りてもって木を生ず。 木上に発して下を覆う。 自然の質なり。

火は南をつかさどりて夏に応ず。 火の言たること化なり、 燈なり。 陽上にありて、 陰下にあり。 体然として盛んにして、 万物を変化す。 木を鑽て火を化す。 木の生ずる所なり。 しかれども火に正体なし。 体もと木なり。 出でてもって物に応じ、 尽きてまた入る。 すなわち自然の理なり。

金は西をつかさどりて秋に応ず。 金の言たること禁なり。 陰気はじめて万物を禁止して摯 欽す。 砂を披いて金をえらぶ。  土の生ずる所なり。  土より生じて、  土に別なり。  すなわち自然の形なり。

水は北をつかさどりて冬に応ず。 水の言たること潤なり。 陰気濡 潤 して万物を任養す。 水は西よりして東す。  金の生ずる所なり。 水流れて曲折、 順下して達す。  すなわち自然の性なり。

土は中央をつかさどりてかねて西南に位し、 長夏に応ず。 土の言たること吐なり。 万物を含吐す。 まさに生ぜんとするものは出で、 まさに死せんとするものは帰す。 万物の家たり。  ゆえに夏の末に長ず。 火の生ずる所なり。  土あるいは水は勝つ。 水、 すなわちかえって一なるは自然の義なり。 相剋というものは、 子みなよく母のために讐を復すとす。 木の土を剋する。 その土の子の金、  かえって木を剋し、 木の子の火、 かえって金を剋し、 金の子の水、 かえって火を剋し、 火の子の土、 かえって水を剋し、 水の子の木、 かえって土を剋す。 互いによく相生ずるはすなわちその始め、 互いによく相剋するはすなわち〔その〕終わりなり。  みな天の性に出でたり。

強(木)は弱(土)を攻むべし。  土、 木を得て達せられ、 実(土)は虚(水)に勝つべし。 水、 土を得て絶う。 陰(水)は陽(火)を消すべし。 火、 水を得て滅す。 烈(火)は剛(金)に敵すべし。 金、 火を得て欠く。  堅(金)きは柔(木)を制すべし。 木、 金を得て伐たる。 ゆえに、 五つのもの流行してかわるがわる転ず。 順なれば相生じ、 逆なれば相剋す。  かくのごとくなれば、 すなわちおのおの用をなしてその道を成すなり。

これ五行の説明なれども、 古代、 人知未発、  学問未開のときにありて、 この五つのものをもって万物の原体となせしのみ。 かのインドおよびギリシアにおいて、 地水火風をもって原体と信ぜしものと同じ。  しかるに、 今日は物理の学大いに開け、 万物の理大いに明らかになりたれば、 またかくのごとき古説を唱うる必要なきは明らかなり。 今、  この五行と地水火風の四大とを較するに、 五行中に風を説かざるは、 その四大説に一歩を譲るところなり。

なんとなれば、 五行中の火土水は四大中にあり。 金は四大中になきも、 地の中に摂することを得。 木は四大中になきも、 もと四大は無機物のみの分類なれば、 木の加わらざるを当然なりとす。 しかるに、 風は一種その性質を異にすれば、 これを五行中に加うべきに、 これなきは、 その分類の尽くさざるものありといわざるべからず。また、 五行中に木を加えたるは、 はなはだ怪しむべし。 もし草木のごとき有機物を加うるときは、 鳥獣をもこれに加えてしかるべきなり。  ゆえに万有を分類するに五行をもって尽くせりとなすは、 実に不当の分類を免れず。いわんや、  これをもって万物の原体となすをや。 古代にありてかくのごとき説をなすはやむをえざれども、 今日にありてこれを唱うるは、 実に愚かといわざるを得ず。 例えば、 五行家の火は南をつかさどりて夏に応ずというがごときは、 日本、  シナ等の赤道以北の国のみを見て想像したるもののみ。 今日は赤道以南に国あるを知るに至りたれば、 その理を赤道以南の国において説くべからず。  また、 水は東に流るるものとなすがごときも、 古代シ

ナ国のみを見て想像したる妄説にして、  シナ国の地勢、 西方に山を帯び、 東方に海を抱くをもって、 諸川みな東流して海に入るゆえに、  シナ人は、 日は西に動き、 水は東に流るるは、 世界一般の常則なるがごとく想像せしなこの五行論につき、 重野〔安繹〕博士が学士会院にて講演せられしものあれば、  その一節を左に掲載すべし。

(前略)  もしそれ五行説は、 はじめて書の「洪範」に出ず。「洪範   は殷の箕子伝述せしものにて、 首に五行の目を叙し、  その五気の応を、 いちいち人事に徴し、 もって休  咎 を験す。  これを庶徴という。  これ、 けだし夏殷、 連山、 帰蔵易の余波なるべし。  この二易は、 周易と殊異にして、 陰陽五行と人事とを比合して、天変地災のごとき、 あるいはこれを君徳不明なるがためとし、 あるいは臣権上に迫るの象とするの類、 みなこれより起これり。 殷人は鬼をとうとぶとあれば、 磯 祥 災変の説、 この代に盛んに行われしと見ゆれども、周易出でてよりこれらの説は自然消滅せしに、 漢代に至りて、 また大いに行われたり。「史記」の都術の伝に、その説少しく見ゆれども、 記録はまた漢儒の手に出でしなれば、 術が当時に果たしてこの説をなししや、まだ知るべからず。 董仲 舒に至り、 はじめて「春秋繁露」を著し、 その義を敷術して、  ついに識緯学の源を開きたり。  それ仲舒は、 漢代の醇儒と称するも、 すでにこれが桶を作りたれば、 靡然風を成して、  ついに漢世に盛行し、 京房のごときは、 易学をもって、 もっぱら推占の一門戸を開きたり。 爾来、 その説世々に行われ、 宋の 部薙に至りて、 大いにその精奥を究めたり。  これをもってみれば、 陰陽五行説は、「洪範」に淵源し、 漢儒に盛行して、 後儒に成れるものたること、 知るべきのみ。 しかるに、 世あるいは、 儒者はみな主として、 陰陽五行を講ずる者とするは非なり。 世人は語孟中に、  一語ここに言及せることあるを見たるが、 必ずこれなきなり。 いわんや、 十翼中に説けるも、 天地自然の象を究明せるまでにて、  これをもって、 人事に徴せるにはあらざるをや。「春秋」日蝕を記するも、 その非常のことたるをもって、 当時 仲 尼はこれを直書せるのみ。 その人を書するに、 あるいは名をもってし、 あるいは字をもってし、  一に旧史に従いて直書したると、 同一例にして、 後人の説のごとく、 牽 強 博会し、深意を寓して、 戒を垂れしにはあらざるなり。 かつ、事理をもってするも、 天象、 人事は、 おのずから別なり。 人事、 もとより天象を左右するあたわず。 天象も、またなんぞ人事のために    その常度を変ぜんや。

五行説の、 万有変化の理を尽くすに足らざることは言をまたず。  いわんや、 五行をもって人事に関係あるものとするをや。 その妄、 識者をまたずして知るべし。


   第一八節    生剋

しかるに五行のみにては、  いまだ吉凶、 禍福のよって起こるゆえんを判定するあたわず。  ゆえに、 五行の性に応じて、 その相 生 するや、 相剋するやにつきて、 吉凶の判断、 禍福の卜定をなすに至る。 けだし、 相生はこれを吉とし、 相剋はこれを凶とすること、 左図のごとし。

木生火 水剋火

火生土 火剋金

相生大吉

土生金金生水

相剋大凶

金剋木木剋土


水生木 土剋水

かくのごとく相生、 相剋によりて吉凶を判ずといえども、  これまた篭も道理なきものなり。 なんとなれば、 木

火土金水の五行そのものにしてすでに不合理のもの、 非学術的のものなるに、  さらにこれを付会しきたりて、  その生剋をもって吉凶を判ずるは、 妄に妄を重ねたるものというべし。 余かつて「天則」雑誌においてこれを論じたることあれば、 今左に掲載すべし。

相生、 相剋の説明に至りては、 実に捧腹に堪えざるもの多し。 今、「河図洛書示蒙紗」に出でたるものを挙ぐれば左のごとし。


木生火

火はもと木より出ず。『論語』に、 隧を鑽り火を改むとあり。 例えば、  四時その応ずる樹より火を取り、 その火をったえ日用につかいしなり。  檜 を相磨すればおのずから火出ず。 これ檜のみにあらず。 その火に薪をくぶれば燃ゆるも、 木の性に火を生ずる気あるゆえ、 金石を投じては燃えず。


火生土

火の物を焼いて灰となすも、 ついには土に帰す。 開 闊 より大地山岳備われども、 そのもとは太陽の火気より焼かれてなりし土なり。

土生金    金銀銅鉄、  土中に産するは説くに及ばず。


金生水

世界の水はもと金気よりなりたるものにて、 金に水を生ずる理、 備わりあるゆえ、 火にあえばその形水になる。


水生木

木は水の力を得て生い立つものなり。 竹も、 草も、 木というにこもり、 水の力に生いたつ木ゆえ、 なま木はもえざれども、乾かせば水気しりぞき、 もと火を生ずべき理を含みあるゆえ燃ゆるなり。これを五行の相生という。 相はたがいという義にて、 五行の木は火を生じ、 火は土を生じ、 た 力しこ  生じ合うなり。  ゆえに水は木の母とし、 木は水の所生とし、 すべて五行生ずるもとを母にたとえ、 生ず

るところを子にたとう。

以上五行の相生、  このうちにまた剋あり。 木は火を生ずれども、 火尽くれば木は灰儘となる。 火、 土を生ずれども、  土、 盛んなれば過滅せらる。  土、 金を生ずれども、  土、 盛んなれば埋没せらる。  金、 水を生ずれども、 水、 盛んなればかならず沈溺す。 水、 木を生ずれども、 水、 盛んなればまた漂流さる。  この類、  みな生じながらかえって忌むところあり。  これを生中に剋ありというなり。 相剋とはたがいに剋のいいなり。水剋火    火は水にあえば消滅す。

火剋金    金は火にあえば形を損ず。

金剋木    木は金にあえばきりからさる。 木剋土    土は木にあえばその性を薄くす。土剋水    水は土にあえば止めらる。

以上五行の相剋、  このうちにまた生あり。 水、 火を剋すれども、 火、 盛んなれば水の剋するをよろこぶこと、 失火を消し防ぐにて知るべし。  これを既済功をなすとす。 火、  金を剋すれども、 土中に出でたるままの金は用をなさず。 火にきたえて形をなし、  その用大なり。  これを緞煉功をなすとす。  金、 木を剋すれども、斧を用い、   鋸  をもってその材をなす。木、 土を剋すれども、 土厚ければ木の剋を喜ぶ。 これを山林を 秀  茸すという。  土、 水を剋すれども、 水盛んなれば土の剋するをよろこぶ。 堤を築きて洪水をふさぐにて知るべし。  この類みな剋して、  かえって美をなすところあり。  これを剋中に用ありというなり。 相生は河図の北より東、 東より南と序ずる数、 相剋は河図の生数、 洪範またこれにありて、 地の五行たがいに生じて用をなし、また、 たがいに剋してその用いよいよ大いなり。 生も剋も循環して端なし。  これ乾坤自然の玄妙なり。 生剋制化ということ、 生中に剋あり、 剋中に用あるが制なり。 天地造化の道具なるゆえ、 化というなり。 五行は天地の間の五つの気にて、 大いに論ずれば不増不減のものなり。 たとえば千歳の古樹をきりて、 薪となし火に投ぜんに、 木の質は滅して跡なし。 しかれども、 もとこれ一粒の種に木を生ずる理を備えて、 両葉より生い立ち、  おいおい繁茂せしものにて、 薪はくだけば別に若樹を生じ尽くる期なく、 天地の間の木気においていささかも増減なし。 灯を点ずれば火現る、 吹き消せば形なし。  これも火気に増減なくみゆると、  みえぬまでなり。 人畜の体の暖かなるは、 天地の火気を得て生まるるゆえ、 かりものなり。 死すれば暖去りて冷ゆる。かりたるとかえしたるとなり。  ここにほりを掘り、 その土を大海になげ捨てんに、 ここの土、  かしこにうつるまでなり。  土の減じたるにあらず。 ほりにたたゆる水も、 新たに増したるにあらず。 土中にありし〔水〕、ほりとなりて現れたるまでなり。  金気増減なきははなはだ見やすし。  この国満潮なれば、 万里かの国は干汐なり。 この地急に暴雨ありて、 水潔あふれ流るる。  この水も、  かの地にて蒸しのぼせ雲とたちし水気の散じ

たるにて、 暫時はれきたりて、 うるおえる平地たちまちかわく。 形はかわけども気はそこを去るまでなり。水を小さく語れば、  唾 にて紙をぬらし日に干す。 この唾は己がものと思えども、  すべて天地の間の水にて、生まれ出ずるとき天地のかりものなり。 さて、 日に干したる唾はかわき、 水の形は干去れども、 五行の水気において減ずるにあらず。 下水をさらえ、 川へ流し、 海に入る水は遠く去りたりとも、 消滅せしにあらず。五行の大いなるを知りて、 はじめて天地を語るべし。 目前の形の有と無とをもって説かば、 いかんぞその理に達せん。


さらに、「八門遁甲或問 紗 」に述ぶるところを抜粋して左に掲ぐべし。

水生木とは、 水は木の母たり、 水つくれば木枯るる。 根をきりたる木も、 水に浸しおけばしばらく生じおる。 また諸木の 菓 を見るに、 いまだ熟せざる前はみな水なり。 諸花も同じく揉み破ればみな水なり。 これ水生木の理なり。

木生火とは、 木は火の母なり、 木なくては火の燃ゆることなし、 木尽くれば火消ゆ。 また深山には、 諸木風のために摩れ合って火出ずる。  これ木生火の理なり。

火生土とは、 もろもろの物燃ゆるときは火なり、 消えてはすなわち灰となる。 これ、 灰と土とは一体なり。

ゆえに火生土という。 人あるいは曰く、「地震うとき破裂して火出ずることあり。  これ、 火の土中に含めるなり。 なんぞ土生火といわざる」と。  その説、 理あるに似たれども、 きわめざるものというべし。

土生金とは、 金は土より生ず、 本朝にも金山あり、 これ土生金なり。 しかるに人また曰く、「前の土生火を非となさば、 なんぞ土生木といわざる。  それ、 金はいずれの土地にも生ずるものならず。 木はいたるところに生ぜざるはなし」と。 その理、 至極せりといえども、 木は水の生ずるところにして、 なんぞ両母あらんや。金はもろもろの鉱類最も多くして、 砂石もまた鉱質の部分なり。 なんぞ、 必ずしも金はいずれの地にも生ずるものならずといわんや。  これ土生金の理あること明らかなり。

金生水とは、 金を火にてあぶれば上に水浮く、  これ金生水なり。  また金石一体という説あり。 たとえば井を掘るに、 底に至りて砂石に掘り当てて水出ずる、 ゆえに金生水といえり。

水剋火とは、 水を注げば火消ゆること明らかなり。

火剋金とは、 火よく金を溶解す、  これ火剋金の理なり。

金剋木とは、 金よく諸木を戟切す、 ゆえに金剋木なり。

木剋土とは、 木を植えんと思うときは、 まず木を植うるほどの間、  土をうがち取る、 これ木剋土なり。 また、 木よく土を圧す。 また、 諸木よく根を諸方へさす。  みな木剋土なり。

土剋水とは、 水よく川海を流る、 しかれども、 堤を築きこれをうずむれば流れ浸すことあたわず。  これ、土は水に剋つの理なり。

この生剋の説明と前書の説明とを比較して、 その妄を弁ずるに、 水生木とは木は水によりて生長するゆえなり

との説明なれども、 木の生ずるにはひとり水を要するのみならず、 日光も空気も土地も、 ともにこれを要するなり。 もしそのうち水生木というを得るときは、  これと同時に土生木というを得べく、 また日生木(火生木)と しヽうを得べき理なり。  かつ、 水は木を生出するにあらず、 むしろその生出の媒介をなすのみ。 いずくんぞ水木を生ずというを得んや。

つぎに木生火とは、 木なくては火の燃ゆることなしとの説明あれども、 油なくてはまた火の燃ゆることなく、石炭なくてはまた火の燃ゆることなきをもって、 水(油)生火もしくは土(石炭)生火とも同時にいうことを得べき理なり。 また、 木を摩すれば火生ずとの説明あれども、 金と金と相摩し、 石と石と相摩するも、 ともに火を生ずるにあらずや。 しからば金生火というべき理ならずや。

つぎに火生土とは、 火にて物をやけばみな灰となりて、  土に帰すというとも、  これ火土を生ずるの説明となし難し。 例えば、 枯れ葉を火に投ずれば灰となるも、 枯れ葉はそのまま土に埋めて腐らせても土に化するにあらずゃ。 たといまた、 火にあらざれば枯れ葉を化して土に変ずることなしとするも、  これ、 ただ火は変化の媒介をなすのみにて、 決して土を生ずるの意味にあらず。  かつ、 火は水を温めてこれを蒸気に変ずることを得るも、 これを土に変ずるあたわず。 また、 火は金をとかすことを得るも、 金はやはり金にして、 火のために土となるにあらず。

つぎに土生金とは、 土中に金を掘り出だすを引ききたりて説明となせども、 土を掘れば水を出だすことを得るをもって、 土生水ともいうことを得べく、 木は土より生出するをもって、  土生木ともいうを得べく、 地震にて地の裂けたるときは火を吹き出だし、  および噴火山はつねに火を噴出するをもって、  土生火ともいうことを得べき理なり。

つぎに金生水とは、 金を火にてあぶれば水をその上に浮かぶるといい、 砂石をうがてば水出ずるといい、 金をとかせば水のごとくになるというがごとき説明あれども、 その妄は余が弁をまたずして明らかなり。 また、『万暦大雑書三世相大全」にはその証を示して曰く、「金銀や銅鉄ある所はみな水あり。 諸国の金山を掘るに、 水のために妨げられて掘り難きゆえに、 水ぬきの穴を掘るを見て知るべし」という。  ここに至りて付会もまた極まれり。つぎに水剋火とは、 火は水によりて滅すとの説明あれども、 水は火によりて蒸発してその形を失うをもって、

火剋水ともいうことを得べき理ならずや。

火剋金とは、 金は火にあえば形を損ずとの説明あれども、 火は木も水もその形を損ぜしむる力あり。  ゆえに火剋木ともいうことを得べき理なり。

金剋木とは、 木は金によりてきらるとの説明あれども、 木を殺すものはひとり金のみにあらず。  かつ、  金は土石も破ることを得るをもって、 金剋土ともいうことを得べき理なり。

木剋土とは、 木は土を圧し、 また土をうがつとの説明あれども、 土をうがつものは鋤、 鍬のごとき金器にしくものなきにあらずや。

土剋水とは、 水は土にあえばその行をとどむとの説明あれども、 水の流れをとどむるものは金も木も土と同様なり。  かつ、 水はかえって堤防を破り山を崩す力あるにあらずや。  かくのごときは水剋土といわざるべからず。古来、 五行について種々の説明あれども、 大抵みなこの類にて、 今日の学理に照らしては、 さらに厘毛の価値なきものなり。  ただし今、  一例をここに挙げてその妄を示さんとす。  すなわち、「乗 燭 或問珍  と題する書あり。その中に、 雪の色の白きはいかなることにやとの問いありて、  これに答うる文に曰く、

およそ五行の色をいうときは、 木は青く、 火は赤く、 土は黄に、 金は白く、 水は黒し。  されば、 雪も水なるによりて色の黒かるべきに、 白はこれ母の色なり。 母の色というは、 その生ずるもとを母という。 たとえば木生火とて、 錐をもって木をもむときは火出ずるなり、  ゆえに火の母を木とす。 火の燃ゆる中に必ず青きところあり。 また灯の根も色青し。  これ母の色なり。 火生土とて、 万物みな火に焼かれて土となる、 ゆえに土の母を火とす。  土の色は黄なれども赤土あり。  これ母の色をあらわすなり。  金は土より生ず、  ゆえに金の母を土とす。  金は色白きものなれども、 母の土の色をあらわして黄金あり。 また金生水とて、 水は地中の金より生ず、  ゆえに水の母を金とす。  さるによりて、 水の色は黒けれども、 母の金の色をあらわして、 雪の色

はみな白し。 消ゆるときは水となりて、 本体の色、 黒をあらわす必然の理なり、 云云  ゜

この説明に至りて、 実に妄諒もまたはなはだしといわざるべからず。 また、「陰陽方位便覧  には、  四時の循環

の理をもって、 五行の生剋を説明し、 木は東に位して春をつかさどり、 火は南にして夏、 土は中央にして四季、金は西にして秋、 水は北にして冬となすも、 なにゆえにかくのごとき配合を用うるかに至りては、 必然の道理な

きは明らかにして、 畢 覚、 空想、 憶断に過ぎず。 例えば、 春は草木生長するをもって木に配するが、 しかるに木は毎春地中より発生するにあらずして、 ただ新芽を枝上に開くのみ。 しかして、 その新芽も三月以後に至りて発生するなり。  ただ草は年々春期に発生するをもって、 木を春に配するよりは、 むしろ草を配するを適当となす。ゆえに、 もし五行は四時の変化について起こりたるものならば、 木火土金水を変じて、 草火土金水となすべし。また、 春は東風吹くをもっ て、 その方位を東に取るとするが、 風の方位は地形、 位置によりて異なるものなれば、決して春の風を東に定むるを得ず。 また、 秋は物を殺すをもっ て金に配するも、 秋に至りて草木の枯死するは気候の寒冷なるがためなり。  ゆえに、 物を殺す力は冬に至りて一層はなはだしければ、 冬は金より一層鋭利なるものをもって配せざるべからず。  しかるに、 水をもってこれに配するは、 また、 その事実に合せざるを知るべし。かつ、 それ五行の四時の配当は、  シナのごとき地球上赤道以北の暖帯地方に限ることにて、 これを赤道以南の国において論ずべからず。  この一事について考うるも、  その説たるや、  シナ人の妄想たること火をみるがごとく明らかなり。

しかるに、「草木子」と題する書中(第一管窺編)、 天地の開発にあたりて、 五行の次第にその形をなせる順序を左のごとく説けり。

天始惟一気爾、 荘子所レ謂漠滓是也、 計ーー其所>先莫>先二於水一 水中滓濁歴レ歳既久精而成>土、 水土震蕩漸加二凝衆ー水落土出遂成「山川一 故山形有二波浪之勢一焉、 於>是土之剛者成レ石而金生焉、 土之柔者生レ木而火生焉、五行既具酒生二万物一 万物化生而変化無レ窮焉。


(天のはじめはこれ一気のみ。 荘子のいわゆる涙滓これなり。 そのさきんずるところをはかるに、 水よりさきなるはなし。 水中の滓濁、 歳をへてすでに久しく精にして土となり、 水土製蕩してようやく凝集を加え、水落ち土出で、  ついに山川をなす。  ゆえに山形に波浪の勢いあり。  ここにおいて、 土の剛なるものは石となりて金生じ、 土の柔なるものは木を生じて火生ず。 五行すでにそなわりて、  すなわち万物を生じ、 万物化生して変化きわまりなし)

この論は、 ギリシアのター  レスあるいはストア学派の天地説に近く、 大いに道理あるに似たれども、  これまた

近世の学説に合することあたわざるは明らかなり。 ゆえに、 五行をもって有形の万有の上に考うるときは、

なる説明を用うるも到底妄説たるを免れず。 もし、  これを無形の気なりとし、 天地間に万有を形成すべき五種の気あるものに与えたる名称なりとするときは、 いくぶんか実際上の不合理を免るることを得べし。 しかれども、天地の気になにゆえにこの五種ありや、 なにをもってその実在せるを証せしやを難問するときは、 無証の空想に帰するよりほかなし。 畢 党 するに、 五行の原理すでに大いに誤れり。 これを人事の上に応用するに至りては、 妄のまた妄、 あに余が弁をまたんや。 余、 参考のために、〔貝原益軒〕「自娯集」巻四に「五行生克論」と題する一編あれば、 左に掲記すべし。

五行〔之〕相生、 只是言二四時之代運、  四気之迭盛、 其次序如  此而已突、 蓋春木生二夏火一 夏火生二土旺一 土旺生ーー秋金{  秋金生ーー冬水一冬水又生二春木一其相生自如>此也、 非>言二五行之形質本始必資>之而生一也、 若言二其形質之初生一則須如ーー水火木金土之序一也、蓋如二木生で火、只是言ーー有>火而後可ー和ぞ薪相伝一也、非レ言二其始自>木生ルハ也、 蓋水火者陰陽之徴兆、 而先ー一金木一而生也、 非下資ーー金木之気一 而始生〔者〕上也、 若言二鑽>木即生  火則憂レ石亦火生、 非こ  生二干木一而已い如二火生  土、  若言下火焚>物則忽成レ灰、 灰化而後為占土、 則尚可也、 然

木之腐朽亦能生>土、 若言一土之始生時、 資>火而生ー則不可也、 蓋土即地、 地之始生也、 与>天相対而成、 混沌之気軽清者運転為レ天、 重濁者凝緊而為レ地芙、 然則土登資レ火而後成者乎、 如ーー土生>金、 誠是如>此、 如>曰ニ

金生江水者最無レ理、水火者陰陽之始生者、如  前所巳言也、天下水多金少、天下幾多之水、登特待二微砂之金気而後生乎、 水生レ木者固有二此理一 然土能生>木、 非二其初生皆特自>水而生ュ木也、 且五行之相克、 亦必不レ然、如 禾'哀  土無  此理ー  木資レ土而生、 不缶已言>克レ土、 土克レ水、 此以一堤防一而言耶、 或水中加レ土、 而混雑則水忽汚濁、 久而〔後〕乾涸、是以謂二之土克>水耶、然水之生一一土中ー 由ーー至陰之気諏盆四而出、猶二木之自ュ土而生一然則謂  土生江水惟可也、 蓋土之克レ水者較小、 而水之自>土生者常多芙、 唯如二水克元火分明是如レ此、 然火煎敷則水亦耗尽突、 謂二之火克江水亦可也、 如二火克え金亦固如>此、 然金以>火鍛錬而成、 則金亦有二資>火而成一不>可偏  言灰  克>金也、 如 歪 克>木、 固是如>此、 然火之焚>木也尽滅二形質一可>謂一火克>木也、 夫生克之理、 古

人之説、 固有二必然者一 復有ーー必不レ然者    只是四時相生之序、 而非二万物自然之常理一 以>此為ー常一  理一 意是術者之説、 附会牽合之論而已、 恐非二聖賢至当之達論一也。

(五行の相生は、 ただこれ四時のかわるがわるめぐり、  四気のたがいに盛んなる、 その次序かくのごとくなるをいうのみ。 けだし、 春の木は夏の火を生じ、 夏の火は土のさかんなるを生じ、  土のさかんなるは秋の金を生じ、 秋の金は冬の水を生じ、 冬の水はまた春の木を生ず。  その相生することおのずからかくのごときなり。 五行の形質、 もとはじめより必ずこれによりて生ずというにあらざるなり。 もし、 その形質の初めて生ずるをいえば、  すなわちすべからく水火木金土の序のごとくなるべし。 けだし、 木の火を生ずるがごとき、ただこれ火ありてのち薪をもって相伝うべきをいうなり。  そのはじめ木より火を生ずるをいうにあらざるなり。 けだし、 水火は陰陽の徴兆にして、 金、 木にさきんじて生ずるなり。 金、 木の気によりてはじめて生ずるにあらざるなり。 もし、 木を鑽りてすなわち火を生ずといわば、 すなわち石を夏してもまた火を生ず。   に木に生ずるのみにあらず、 火の土を生ずるがごとき。 もし火、 物を焚けば、 すなわちたちまち灰となり、灰化してのち土となるといわば、  すなわちなお可なり。 しかれども、 木の腐朽もまたよく土を生ず。 もし、土のはじめて生ずるとき、 火によりて生ずといわば、  すなわち不可なり。 けだし土はすなわち地、 地のはじめて生ずるや、 天と相対して成る。 混沌の気、 軽情なるものは運転して天となり、 重濁なるものは凝集して地となる。 しからばすなわち、  土あに火によりてのち成るものならんや。  土の金を生ずるがごとき、 まことにこれかくのごとし。  金の水を生ずというがごときは最も理なし。 水火は陰陽のはじめて生ずるもの、 前にいうところのごとし。天下、水多く金少なし。天下いくたの水、あに特に微 砂 の金気を待って後に生ぜんや。水の木を生ずるはもとよりこの理あり。 しかして、 土よく木を生ず。  その初めて生ずる、 みな特に水よりして木を生ずるにあらざるなり。  かつ五行の相剋する、 また必ずしからず。 木の土に克するがごとき、 この理なし。 木は土によりて生ず、  土に克すというべからず。  土の水に克する、  これ堤防をもっていうか。 あるいは水中土を加えて混雑すれば、 すなわち水たちまち汚濁し、 久しくしてのち乾涸す。  これをもって土、 水に克すというか。 しからば、 水の土中に生ずる、 至陰の気、 集潤するによりて出ず。 なお木の土よりして生ずるがごとし。 しからばすなわち、 土、 水を生ずというもこれ可なり。 けだし、 土の水に克するはやや小にして、 水の土より生ずるは常に多し。 ただ水の火に克するがごときは分明なること、 これかくのごとし。 しからば火煎黙すれば、  すなわち水もまた耗尽す。  これを火、 水に克すといわばまた可なり。 火の金に克するが

ごとき、 またもとよりかくのごとし。 しからば、 金は火をもって鍛錬して成る。  すなわち、 金もまた火によりて成るあり。  ひとえに火、 金に克すというべからざるなり。  金の木に克するがごとき、 もとよりかくのごとし。  しからば火の木を焚くや、  ことごとく形質を滅して火、 木に克すというべし。  それ生剋の理、 古人の説もとより必ずしかるものあり、  また必ずしからざるものあり。  ただこれ四時相生するの序にして、 万物自然の常理にあらず。  これをもって常理となす。  おもうに、  これ術者の説、 付会牽合の論のみ。  おそらくは聖賢至当の達論にあらざるなり)

ここに至りて余の五行論を帰結するに、 その要点は左の数条にあり。

第一に、 五行家は五行をもって天地万有の元素と考うれども、 これ古代の妄説にして、 決して今日の学説の許すところにあらざること。

第二に、 仮に五行は万有の元素なりと許すも、 その生剋の理は理論、 実際ともに合格せざる付会説にして、今日の社会にありてかたるべからざること。

第三に、 仮に五行、 生剋は道理に合するものと定むるも、 これと人事とは全く関係なきものなれば、 五行の順逆によりて吉凶を判定するは妄中の妄説なること。

第四に、 仮に五行と人事と関係ありとするも、  シナおよびその隣邦一、 二の国をもって限りとせざるべからず。 

決して、  これを全地球の諸国の上に応用して論ずべからず。

これを要するに、 今日わが国にて五行を唱うるものは、  シナ崇拝の最もはなはだしきものにして、 自ら妄の妄たるを知らざるものなり。 なんとなれば、 その論者は曰く、「この説は「書経    の「洪範」に出でて聖賢これを伝

えり」と。 これ、  シナの太古をもって円満完美の黄金世界となし、 萬王、 箕子のごときをもって万学諸理に暁通、熟達せるものと信じ、 諸学、 諸術の道理一切シナにありて具備せりと考うるものなればなり。 なんぞその見の井蛙にひとしきや。  これ、 実に管中の天地に住するものなり。 あにその愚を笑わざるを得んや。  すでに五行の原理の妄誕不稽たる以上は、 これにもとづきて講ずるところの開運、 観理の諸術は、 問わずしてその妄なるを知るべし。 もし、 わが国の五行家にして余が批評に服せざるものあらば、 よろしく泰西に行わるるところの哲学を講究して、 静かに考察すべし。 必ず大いに悟るところあらん。  これ、 余が五行をもって陳腐説となすゆえんにして、これに代用すべき、 今日の学理にもとづきたる新法を組織せんことを企図するゆえんなり。  その方法に至りては、 本部門講義の結論をまちてこれを公にすべし。


   第一九節     十干、 十二支

 十干、 十二支は、 また五行の配当より出でたるものにして、 十干は天に配し、 十二支は地に配す。 天にありては気にして、 地にありては形を成す。  その気はこれを寒、 暑、 燥、 湿、 風の五運とし、 これを五行に配すれば、寒は水気、 暑は火気、 燥は金気、 湿は土気、 風は木気なり。  この五種の運気、 地に降りて木、 火、 土、  金、 水の五行の形象をなす。  これを十二支に分かつ。 十二支に鳥獣の名を命じたるものはただ便宜に従うのみ、 決して鳥獣そのものに意味を有するにあらず。 名付けてこれを干支というは、 幹より枝を生ずるがごとしとの意なり。  この十干、 十二支を五行、  四季、 方位に配当すること左のごとし。


十干、  十二支の起源につきては、「暦日講釈」および「河図洛書示蒙抄』等の諸書に示せるも、  今、  ここには

「示蒙抄 の文を挙ぐべし。

清陽は天となり、  五行あらわれて十干立つ。  濁陰は地となり、  八方定まりて十二支分かる。  運移り気うつりて歳々〔して〕盈虚紀すべし。  上昇下降して物々変化期すべし。  干支配合してともに妙用にいたるゆえんなり。  しかして、  干支の目なにびとに始まるやつまびらかならざれども、  黄帝の〔師〕大撓、  甲子を造りて時を正す、  云云。

十干に陽干、  陰干の二種あり。  甲乙はともに木性なれども、  甲はその性強く、  乙はその性弱きをもっ て、  その一つを陽干とし、  他の一っを陰干とす。  通俗に十干を称してエトという。  なお兄弟というがごとし。  甲は兄にして乙は弟なり。  この十干を十二支に配当するときは、  六十支となる。  これを年に配すれば、  六十歳にして干支一周するものとす。  その六十支につきて、  各支おのおのみな性質を異にするなり。  これを納音と称す。  その配当を示すこと左のごとし。


干支の起源および名称につきては、「中古叢書」および「和漢暦原考」に出でたるものあり。 参考のため、 左にこれを掲ぐべし。

一、 幹支起源

世本曰、 大撓造二甲子

呂氏春秋曰、 黄帝師二大撓

黄帝内伝曰、 帝既斬二蛍尤一 命二大撓ー造ー一甲子一 正正時。 月

令章句曰、 大撓探二五行之情一占二斗剛所>建、 於>是始作二甲乙一以名>日謂二之幹一作二子丑ー以名>月、 謂一之支一支幹相配、 以成二六旬

(「世本    に曰く、「大撓甲子を造る」と。「呂氏春秋」に曰く、「黄帝、 大撓を師とす」「黄帝内伝」に曰く、「帝すでに蛍尤をきり、 大撓に命じて甲子を造らしむ、 時を正さしむ」と。「月令章句」に曰く、「大撓五行の情を探り、 斗剛の建つるところを占い、  ここにおいてはじめて甲乙を作りてもって日に名付け、  これを幹といい、 子丑を作りてもって月に名付け、  これを支という。 支幹相配して、 もって六旬をなす」と)

劉氏通鑑外紀云、 黄帝命ーー大撓

探一五行之情

占二斗剛所>建始作  甲子一甲乙、 丙丁、 戊己、 庚辛、 壬癸、 謂二之幹    子、 丑、 寅、 卯、 辰、 巳、 午、 未、 申、 酉、 戌、 亥、 謂ー一之枝一 枝幹相配、 以名白日、 而定レ之以二納音

(劉氏〔 劉 恕〕「通鑑外紀    にいわく、「黄帝大撓に命じ、 五行の情を探り、 斗剛の建つるところを占い、  また、これを枝という。 枝幹相配してもって日に名付け、 これを定むるに納音をもってす」)

明遠按、 幹支之称、 難>詳二其所訟呵  但記レ歳定>時待五此而不>姦、 則其起二子上世一也可>知突、 然則其以為三黄帝命二大撓一者或可>拠焉耳、通鑑外紀、皇王大紀等書、又為レ始二於天皇氏二間以二闊逢困敦等之名一為二其所乙定、

夫天皇氏逸突尚突、 以二荒洪之世一 安得レ有二其称謂一邪、 此蓋以ーニ司馬貞補史記収二其歳名干天皇氏之下一 故就ニ爾雅所>言而耳、 是以今不レ取云  ゜

(明遠案ずるに、 幹支の称、 その始まるところをつまびらかにし難し。 ただ歳を記し時を定むる。  ここに待ちてみだれざれば、 すなわち、 その上世に起こるや知るべし。  しからばすなわち、 そのもって黄帝、 大撓に命ずとなす者、 あるいはよるべきのみ。『通鑑外紀』に、 皇王、 大紀等の書、 また天皇氏に始まるとなす。 しかして開逢、 困敦等の名をもってその定むるところとなす。 それ天皇氏は選たりひさし。 荒洪の世をもって、いずくんぞその称謂あるを得んや。  これけだし司馬貞の補せる「史記』に、 その歳名を天皇氏の下に収むるをもってなり。  ゆえに『爾雅』のいうところにつくのみ。  これをもって今は取らず)



二、 幹支名称



周礼春官凋相氏云、 十有二辰、 十日。 質公彦疏曰、 十有二辰者謂二子丑寅卯之等一 十日者謂二甲乙丙丁之等

(「周礼」の春官 凋 相氏いわく、「十有二辰、 十日。」買公彦の「疏」にいわく、「十有二辰とは、 子、  丑、 寅、卯、  これらをいう。 十日とは甲、 乙、 丙、 丁、 これらをいう」)

史記律書云、 十母、 十二子。 素問六節蔵象論云、 天有二十日一 日六覚而周>甲、 又本病論云、 天地二甲子、 十干十二支  ゜

史記」律書にいわく、「十母、 十二子」「素問』六節蔵象論にいわく、「天に十日あり、 日六覚にして甲をめぐる」また、「本病論    にいわく、「天地二甲子、 十干、 十二支」)

礼月令云、 春其日甲乙、 夏其日丙丁、 中央其日戊己、 秋其日庚申、 冬其日壬癸  ゜

(「礼記」の「月令」にいわく、「春はその日甲乙、 夏はその日丙丁、 中央はその日戊己、 秋はその日庚申、冬はその日壬癸」)

霊枢陰陽繋日月編云、 寅者正月、 卯者二月、 辰者三月、 巳者四月、 午者五月、 末者六月、 申者七月、 酉者八

月、 戌者九月、 亥者十月、 子者十一月、  丑者十二月。

(「霊枢陰陽繋    日月編にいわく、「寅は正月、 卯は二月、 辰は三月、 巳は四月、 午は五月、 未は六月、 申は

七月、 酉は八月、 戌は九月、 亥は十月、 子は十一月、 丑は十二月」)

淮南子天文訓云、 凡日甲剛乙柔丙剛丁柔、 以至ーー干癸一 甲乙寅卯木也、 丙丁巳午火也、 戊己四季土也、 師鵡ヰ肛肘  庚辛申酉金也、 壬癸亥子水也、 又云、 正月指如寅、  二月指>卯、 三月指>辰、  四月指>巳、 五月指レ午、六月指>未、  七月指>申、 八月指>酉、 九月指>戌、 十月指>亥、 十一月指>子、 十二月指>丑、 終而復始。

(『淮南子』天文訓にいわく、「およそ日の甲は剛、 乙は柔、 丙は剛、 丁は柔、 もって癸に至る。 甲乙、 寅卯は木なり、 丙丁、 巳午は火なり、 戊己は四季の土なり(案ずるに四季は辰未戌丑をいうなり)、 庚辛、 申酉は金なり、 壬癸、 亥子は水なり」またいわく、「正月寅をさし、  二月卯をさし、 三月辰をさし、  四月巳をさし、五月午をさし、 六月未をさし、  七月申をさし、 八月酉をさし、 九月戌をさし、 十月亥をさし、 十一月子をさし、 十二月丑をさし、 終わりてまた始まる」)

天中記引一察邑独断一云、 干幹也、 其名有>十、 亦曰二十母一 即甲乙、 丙丁、 戊己、 庚辛、 壬癸、 是也、 支枝也、其名二十有二、 亦曰二十二子一 即子、 丑、 寅、 卯、 辰、 巳、 午、 未、 申、 酉、 戌、 亥是也、 明遠按、 十干陽也、以為二日名一 而属  天之運行ー 是十二其五行一 各有ーー陰陽一 蓋甲者木之陽、 乙者木之陰是也、 十二支陰也、 以為ニ月名一而配 地 之方位ー  是十己一其五行一 亦各有二陰陽蓋亥者水之陰、 子者水之陽是也。

(「天中記」に察邑の『独断    を引きていわく、「干は幹なり。 その名十あり、 また十母という。  すなわち甲

乙、 丙丁、 戊己、 庚辛、 壬癸これなり。 支は枝なり。 その名二十有二、 また十二子という。 すなわち子、 丑、寅、 卯、 辰、 巳、 午、 未、 申、 酉、 戌、 亥これなり。 明遠案ずるに十干は陽なり、 もって日の名となして天の運行に属す。  これその五行を十にしておのおの陰陽あり。  けだし甲は木の陽、 乙は木の陰これなり。 十二支は陰なり、 もって月の名となして地の方位に配す。  これ、 その五行を十二にしてまたおのおの陰陽あり。けだし、 亥は水の陰、 子は水の陽これなり」)



三、 幹支名義

(甲 史記律書云、 甲者、 言下万物剖二符甲一而出上也。 漢書律歴志云、 出二甲於甲    許慎説文云、 甲位二東方之孟    陽気萌動、 林下木戴二子甲一之衆い 鄭玄月令註、 劉熙釈名所>解、 同ー一律書

(『史記」律書にいわく、「甲とは、 万物符甲をさきて出ずるをいうなり」「漢書

律歴志にいわく、「甲に出甲す」許慎の『説文    にいわく、「甲は東方のはじめに位し、 陽気萌し動く木の学甲をいただくの象に従う」

鄭玄の『月令」の注、  劉 煕「 釈  名の解するところ、『律書に同じ)


(乙)  律書云、〔言〕二万物生軋軋一也。 律歴志云、 奮二軋於乙

白虎通云、 乙者物蕃屈有レ節。 釈明云、 乙軋也、自二抽軋  而出也。 説文云、 乙象二春岬木克曲而出    陰気尚強其出乙乙也、 徐曰、 乙乙未>展也。

(『律書』にいわく、「万物生じて軋軋たるをいうなり」「律歴志」にいわく、「乙に奮軋す」と。「白虎通」にいわく、「乙とは物の蕃屈して節あり」「釈名」にいわく、「乙は軋なり、  抽 軋よりして出ずるなり」「説文にいわく、「乙は春の草木のよく曲がりて出ずるをかたどる。 陰気なお強し、  その出ずるや乙乙たるなり」徐曰く、「乙乙はいまだのびざるなり」


(丙)  律書云、〔言〕二陽道著明一 故曰>丙。 律歴志云、 明森心於丙註同。

釈名云、 丙柄也、 物生柄然皆著見也。 月令

(『律書』にいわく、「陽道著明なるをいう。  ゆえに丙という」『律歴志』にいわく、「丙に明柄たるなり」『釈名」に曰く、「丙は柄なり。 物生じて柄然としてみな著見するなり」『月令」注、 同じ)


(丁 律書云、 丁者言二万物之丁壮一也。 律歴志云、 大盛二於丁釈名云丁壮也、 物体皆丁壮也。 白虎通云、 丁者強也。

(「律書」に曰く、「丁とは、 万物の丁壮なるをいうなり」「律歴志』に曰く、「大いに丁に盛んなり」『釈名に曰く、「丁は壮なり。 物体みな丁壮なるなり」『白虎通』に曰く、「丁は強なり」)


(戊)  律歴志云、 豊  椒於戊物已成>固也。

月令註云、  戊之言茂也、 万物枝葉皆茂盛。 類書纂要云、 戊者固也、 三陰彰露、

(『律歴志』に曰く、「戊に豊椒たり」『月令』注に曰く、「戊の言たる茂なり。 万物枝葉みな茂盛す」「類書纂

要』に曰く、「戊は固なり。 三陰あきらかにあらわれ、 物すでに固をなすなり」)


(己)  釈名云、 己紀也、 皆有一定形可  紀識一也。 月令註云、 其含秀者抑屈而起。 白虎通同、 類書纂要云、 己者巳也、 言ーニ陰気殺レ物、 物将 収 成一也。

(『釈名』に曰く、「己は紀なり。  みな定形紀識すべきことあるなり」『月令』注に日く、「その含秀なるもの抑屈しておこる」『白虎通』同じ。『類書纂要』に曰く、「己とは巳なり。 陰気物を殺して物まさに収成せんとするをいうなり」)


(庚)  律書云、〔言〕三陰気庚二万物一 故曰>庚。 釈名云、 庚猶>更也、 庚堅強貌也。 説文云、 万物庚有>実也。 月令註云、 庚之言更也、 万物粛然改更。 律歴志云、 緻二更於庚

(「律書」に曰く、「陰気万物を 庚 むるをいう。  ゆえに庚という」「釈名』に曰く、「庚はなお更のごとし。 庚は堅強の貌 なり」『説文   にいわく、「万物庚として実あるなり」「月令」注に曰く、「庚の言たる更なり。 万物粛然として改更す」「律歴志    に曰く、「庚に叙更す」)


(辛)  律書云、〔言〕二万物之辛生一 故曰レ辛。 律歴志云、 悉新二於辛也、〔初新〕者皆収成也。 月令註云、 秀実新成。

白虎通云、 辛者陰始成也。 釈名云、 辛新


(「律書「白虎通に曰く、「万物の辛生するをいう。  ゆえに辛という」「律歴志」に曰く、「ことごとく辛に新たなり」に曰く、「辛とは陰のはじめてなるなり」「釈名」に曰く、「辛は新なり。 はじめにして新たなるはみな収成するなり」「月令」注に曰く、「秀実新たになる」)


(壬)  律書云、 壬之〔為〕>言任也、 言二陽気任  養ー一万物於下一也。 律歴志云、 懐二任於壬妊也、 至三子而萌也。釈名云、 陰陽交接懐

(「律書に曰く、「壬の言たるや、 任なり。 陽気万物を下に養うに任うるをいうなり」『律歴志」に曰く、「壬に懐任す」「釈名」に曰く、「陰陽交接、 懐妊するや子に至りてきざすなり」)


(癸)  律書云、 癸之〔為〕>言揆也、 言  万物可二揆度一 故曰>癸。 釈名云、 揆度而生、 乃出>之也。 月令註云、 揆然萌芽。

(「律書」に曰く、「癸の言たるや、 揆なり。 万物揆度すべきをいう。 ゆえに癸という」「釈名度して生ず、  すなわち、  これを出だすなり」「月令」注に曰く、「揆然として萌芽す」)に曰く、「揆


(子)  律書云、 子者滋也、 言=一万物滋二於下一也。 律歴志云、 芽二萌於子也。 白虎通云、 子李也、 珪芽無>巳也。

釈名云、 子李也、 陽気始萌二草於下

(「律書」に曰く、「子は滋なり。 滋とは万物下に滋するをいうなり」「律歴志」に曰く、「子を芽萌す」「釈名にいわく、「子は珪なり。 陽気はじめて下に萌李するなり」「白虎通」に曰く、「子は李なり。 珪々してやむことなきなり」)

(丑 律書云、  丑者紐也、 言三陽気在ー上未>降、 万物厄紐未  敢出〔也〕。 釈名云、  丑紐也、 寒気自屈紐也。

(『律書」に曰く、「 丑は 紐 なり。 陽気上にありていまだ降らず、 万物厄 紐 していまだあえて出でざるをいうなり」「釈名」にいわく、「丑は紐なり。 寒気自ら屈紐するなり」)


(寅)  律書云、〔言〕二万物始生蛾然〔也〕、 故曰玉寅。 律歴志云、 引二達於寅    釈名云、 寅演也、 演生物也。

(「律書」にいわく、「万物はじめて生じて蛾然たるをいうなり。  ゆえに寅という」「律歴志

に曰く、「寅に引達す」「釈名    にいわく、「寅は演なり。 物を演生するなり」)

(卯)  律書云、 卯之為>言茂也、 言二万物茂一也。 律歴志云、 冒二卯於卯一 師古曰、 卯叢生也。 説文云、 卯冒也、

二月万物冒レ地而出、 象 血炉門之形    釈名云、 卯冒也、 戴冒上一而出也。

(「律書」にいわく、「卯の言たる茂なり。 万物茂るをいうなり」『律歴志」に曰く、「卯に冒卯す。 師古曰く、

卯は叢生なり」「説文    にいわく、「卯は冒なり。  二月、 万物地をおかして出ず。 門を開くの形にかたどる」

「釈名」にいわく、「卯は冒なり。  上に戴冒して出ずるなり」)

(辰 律書云、 辰者、〔言〕万物之娠也。 律歴志云、 振美於辰    説文云、 辰震也、 三月陽気動、 雷電振、 民晨時也。 釈名云、 辰伸也、 物皆伸、 舒而出也。

(『律書』に、「辰とは、 万物の娠するをいうなり」「律歴志」にいわく、「辰に振美す」『説文』にいわく、「辰は震なり。 三月、 陽気動き雷電振るい民農のときなり」『釈名』にいわく、「辰は伸なり。 物みな伸ぶ、 のびて出ずるなり」)


(巳)  律書云、 巳者、 言二陽気之已尽一也。 律歴志云、 巳盛 於巳陽気畢布巳也。

白虎通云、 巳者物必起。 釈名云、 巳巳也、

(「律書「白虎通にいわく、「巳とは、 陽気のすでに尽くるをいうなり」「律歴志」にいわく、「巳はすでに盛んなり」にいわく、「巳とは物必ず起こる」「釈名」にいわく、「已は巳なり。 陽気ついにしきおわるなり」)


(午)  律書云、 午者陰陽交、 故曰>午。 律歴志云、 嗚二布於午下、 上与>陽〔相〕件逆也。白虎通云、 午物消長。 釈名云、 午件也陰気従レ

(「律書にいわく、「午とは、 陰陽交わるなり。  ゆえに午という」「律歴志」にいわく、「午に男布す」「白虎通」に曰く、「午は物の消長なり」「釈名』に曰く、「午は件なり。 陰気は下よりし、 上り陽と相件逆するなり」)

(未)  律書云、 未者〔言〕一万物皆成、 有滋味一也。 律歴志云、 昧二愛於未一 師古曰菱蔽也。 白虎通云、 未味也。釈名云、 未昧也、 日中則戻向二幽昧一也。 説文曰、 五行木老二於未一 象三木重一枝葉一也。

(「律書」に曰く、「未とは、 万物みな成り、 滋味あるをいうなり」「律歴志」に曰く、「未に昧愛す」師古曰く、「愛は 蔽 なり」「白虎通    に日く、「未は味なり」「釈名」に曰く、「未は昧なり。 日、 中すればすなわち

かたむき、 幽昧に向かうなり」「説文」に曰く、「五行の木は未に老ゆ。 木の枝葉を重ぬるにかたどるなり」)


申)  律書云、 申者言三陰用云事、 申一賊万物{  故曰>申。 律歴志云、 堅申ーー於申体一 各申二束之徊竺備成一也。釈名云、 申身也、 物皆成二其

(「律書」に曰く、「申とは、 陰事を用い万物を申賊するをいう。 ゆえに申という」「律歴志」に曰く、「申に堅申す」「釈名    に曰く、「申は身なり。 ものみなその体をなし、  おのおのこれを申束し備成せしむるなり」)

(酉 律書云、 酉者万物之老也。 淮南子云、 酉者飽也。 律歴志云、 留二熟於酉    白虎通云、 酉者老物収緻也。釈名云、 酉秀也、 秀者物皆成也。

(『律書」に曰く、「酉とは、 万物の老ゆるなり」『淮南子』に曰く、「酉は飽くなり」『律歴志』に曰く、「酉

に留熟す」『白虎通』に曰く、「酉とは老物収緻するなり」「釈名』に曰く、「酉は秀なり。 秀とはものみな成るなり」)


(戌)  律書云、 戌者〔言〕二万物尽滅{  故曰>戌。 律歴志云、 畢入二於戌也、 亦言脱也、 落也。釈名云、 戌憔也、 物当三収飲衿コ憔之一

(「律書」に曰く、「 戌 とは、 万物ことごとく滅するをいう。  ゆえに戌という」『律歴志に曰く、「ことごと< 戌に入る」『釈名」に曰く、「戌は 憔 なり。 ものまさに収 叙して、 これを衿愉 すべし。 またいう、 脱なり、落なり」)

(亥)  律書云、 亥者該也、 言ーニ陽気蔵二於下一 故該也。 孟康云、 閏蔵塞也、 陰雑二陽気一蔵塞、 為二万物 咋げ種也。

律歴志云、 該ーー閏於下    釈名曰、 亥核也、 収ー一蔵万物一 核ー一取其好悪真偽一也、 亦言物成皆堅核也。

(『律書』に曰く、「亥は該なり。 陽気下に蔵るるをいう。  ゆえに該なり」孟康曰く、「閏は蔵塞なり。 陰、 陽気をまじえて蔵塞し、 万物のために種を作すなり」『律歴志』に曰く、「下に該閏す」『釈名に曰く、「亥は核なり。 万物を収蔵してその好悪、 真偽を核取するなり。 またいう、 もの成りてみな堅核なり」)

これを要するに、 干支は全く五行に基づくものなり。 ゆえに、 すでに五行の不合理なる以上は、 干支もまた不合理なること弁をまたず。  かつ干支の説も、 地球の一隅に位せるシナ一国にありて想像したる井蛙の見にして、世界全体の上に観察して得たるものにあらざること明らかなれば、 学術上考究する価値なきことはもちろんなり。 いわんやこれをもって人の性質に配し、 これにより運不運、 吉凶等を占定せるは、  その不稽もまたはなはだしといわざるべからず。  そのつまびらかなるは後の鑑術編において論ずべし。






   第二    節 二十八宿


二十八宿 はシナ古代の天文説にして、今日の天文学に照らして取るに足らざることは論ずるまでもなし。しか

るに、  この二十八宿を人に配当し、  これによりてまた吉凶等を占定するは、 その妄、 干支、 五行と異なることなし。  二十八宿は天界を分位して、 東西南北四方に各七宿を配したるものなり。 その表、 左のごとし。


これら各宿の位置、 性質等に関しては、 これを述べたる諸書少なからざれども、 今は必要なきがゆえに、  これを略すべし。 近くは「和漢三才図会」巻二を見るべし。  この星宿の起源につき、「漢事始に左のごとく記せり。

馬総が「通歴」にいう、「地皇氏、 星辰を定めたまう」後漢の「天文志」の注にいう、「黄帝星次を分かちたまう」「礼記」にいう、「帝轡よく星辰を 序 たまいぬ」これによりて見れば、 地皇氏はじめて星辰とし、黄帝またこれを名付け、 帝鬱に至りてその序をなせるなるべし。  劉  昭 が「補漢志』には黄帝星次を定めたまうとあれば、 十二次、  二十八宿の度、  みな黄帝よりこれを始めたまう(以上『事物紀原』)。 先儒の説を案ずるに、 星はこれ気の精英の凝集するものなり。 けだし、 天の積気を辰とす。  およそ天の星なき所みなこれ辰なり。 なお地の土のごとし。 積気のうち光耀あるものを星とす。 二十八宿および 衆 星これなり。 なお地の石のごとし、 声平

また、「宿曜 経 』に星宿のことあり。

夫取一宿直一者、 皆月臨レ宿処、 則是彼宿当直、 又月行有二遅疾頌言京 >之可>解、 頌曰、宿月復有二南北前後随合如何可>知、 則以二後六宿未知到名>合>月九宿如二禎随>母行十二宿月左右合   従二奎宿ー数応二当知頌言沃  宿未到名合月一者、 則従玉奎婁胃昂畢背、 此六宿月未>到>宿、 則名二彼宿直一也、 十二宿月左右合者、 即参井鬼柳星張也、 九宿如禎随母行者、 則配>月為>母、 配>宿為>積、 則月居二宿前{  宿居一月後像一也、  当以 此 頌  復験乏  於天一 則宿月用レ之無レ差、 此皆大仙密説也。如二噴随>母之

(それ宿直を取るは、  みな月の宿に臨むところ、 すなわちこれ、 かの宿の当直なり。 また、 月のゆくに遅疾あり、 宿と月とにまた南北、 前後の随合あり。  いかにか知るべき。  すなわち、 あとの頌の言をもってこれを求めて解すべし。 頌に曰く、

六宿はいまだ至らず月に合うと名づく、 十二宿は月の左右に合う、九宿は 噴 の母に従ってゆくがごとし、 奎宿より数えてまさに知るべし頌に六宿いまだ至らず月に合うと名づくというは、  すなわち奎より婁、 胃、 昴、 畢、 背まで。  この六宿は月いまだ宿に至らざれば、 すなわちかの宿直と名づくるなり。 十二宿は月は左右に合うとは、 すなわち参、 井、 鬼、 柳、 星、 張なり。 九宿は摂の母にしたがってゆくがごとしとは、  すなわち月を配して母となし、 宿を配して祖となす。  すなわち月は宿の前におり、 宿は月のあとにおる。 摂の母にしたがうのかたちのごときなり。 まさにこの頌をもって、 またこれを天に験すべし。 すなわち、 宿月はこれを用うるにたがうことなし。これみな大仙の密説なり)

また、 俗間に二十八宿の占法を用うるものあり。 近年印行せる「天元二十八宿指南」と名付くる書の序に、「いにしえ、 聖人易をつくり八卦を残して、 天下庶民に授け知識を甜きたまう。  されば、  この天元二十八宿も、 すなわち易学の一つにして、 われ、 かれとともに開運、 家福を願わんと欲するものは、 信じて疑うべからざること明らかなり」とありて、 そのうちに二十八宿によりて吉凶を知る方法を指示せるも、  これもとより信ずべきものにあらず。 しかしてその説くところ、  みな五行説にもとづくものなれば、 その妄また干支と異なることなし。



  第三講 占考編


   第ニ〇節 占考論


占考とは、 天然の間に自然に起こりたる現象、 変化を観察して、 吉凶、 禍福を考定するものをいう。 例えば、天気を見て吉凶、 禍福を判じ、 あるいは草木によりて祥 瑞を知るがごとき、 みなこの類なり。  そのうちにても、天気の晴雨、 年の豊凶を予知するがごときものは、 多少従来の経験よりきたれるものなれば、 全然これをもっ て妄説となすことあたわずといえども、 天地自然の現象、 変化を観測して、 ただちに人事上の吉凶、 禍福を判定せんとするがごときは、 憂も必然の道理あるものにあらず。 しかして、 今これらの想像の世に起こりし次第を考うるに、 畢 覚、

つは、 世界に有意の神ありて万有を支配し、 人間もまた万有と同様にその支配の下に立ち、 神は人間の善悪を賞罰するに、 天地の上に変化を起こして、 その意を示すものなりと信ぜしによる。 あるいは、 天人もとみな一気なるがゆえに、 天、 地、 人三オの間におのずから気の交感応合するありて、  一方の変動は必ず他方に表現すべしとの想像に基づきしによる。 第一の有意神の説はヤソ教等のいうところにして、 第二の交感説は儒教の理気論を立つるものの説くところとす。 しかれども、  この二者は今日の学術上より見るときは、 ともに許すべきものにあらず。 よしや、  シナ哲学のいわゆる天地一気論のごときはすこぶる道理あるものなりとするも、  これを実際に応用して、 人事上の吉凶、 禍福はすべて天地自然の上に顕現するものなりというに至りては、 もとより論理に合せざる妄説なり。

もし、 果たしてかかる道理の成立することを得るものなりとせば、 天地の現象によりてひとり人間の吉凶、 禍福を判じ得るのみならず、 また、 これによりて草木の変化をも察し得べく、 草木の変化によりてさらに禽獣の災害、 禽獣の災害によりてなお山川の変動をも知られ得べき道理なり。 また、 なんぞ必ずしも人事の吉凶、 禍福のみに限るの理あらんや。 さりながら、  かかる説の説妄なることは、 いやしくも事理を弁ずるものには証明を要せずして知るべし。


   

   第二二節 天気予知法

占考法中、ひとり天気予知法は多少従来の経験によれるものなれば、いくぶんの道理あるものなりといえども、一般に世人の信ずるところのうちには妄説とすべきものもまた多し。 例えば十干、十二支の上において、  甲 子の日には天気いかん、  丑の日、 辰の日はいかんなど、 干支を日に配して晴雨を判断するがごときは、  みな取るに足らず。  その他、 天文のありさまより推測すと称するものも、 人知末開の当時の経験に基づくものなれば、 原因、結果の関係をも究明することなく、 わずかに二、 三の事実より憶測して得たるものを不変の理法と定めたるものなれば、  これまたもとより信ずべきものにあらず。  さりながら、 天気予知法と称するもののうちには多少参考となるべきものもあれば、 数書に見えたるもののうちより左に掲げて読者に示さん。 まず、 その引用参考書目を掲ぐること左のごとし。


つぎに、 天気の晴雨は部類に応じて左のごとく分かつ。  そのうち重複したるものもあれども、 異書に出ずるものなれば、  そのままこれを掲ぐ。

晴れの部

数日、 雨降りて、 後、 朝くもりて、 ようよう遅く晴るるはよし。

日の入るとき、 よく照るは晴れ。 また、日入り、 雲赤けれども、 その色かわらず、 ようやく薄くなりて消ゆるはよし。 また、 日の入るとき雲なく、日のかたち見えて入れば、 明日も雲はれて、 天気よし。 赤き雲気、 日の上下にあり、 色変ぜずして、 ようや

く薄くなるときは、 晴れてまた風も吹かず。 日に耳ありて南にあるは、 晴れ。 両方に耳あるときは、 雨なし。 また、 耳ながくして下へたるるは、 久しく、 晴れと知るべし。 月の饉、 たちまち消え去るは、 晴れなり。 西風、 北風は多くは晴れ、 なかんずく北風は西風よりいよいよよし。 戌亥の風は必ず晴るるゆえに、戌亥風を日吉という。

日の入るとき、 よく照るは晴れ。節季交わるの日、 暮霞するは、 必ず晴天なり。

雪中に雷あれば、 百日まさに晴れ多きなり。日月の鉦気全く去るものは、 晴れの兆しなり。流星、 東より南へ向かい去れば晴れなり。 天の河にもし雲気往来することなく明朗なれば、その旬中は必ず晴れ多し。

六甲の日(六甲とは、  甲 子の日を一甲とし、  甲 寅の日を二甲とし、  甲 辰の日を三甲とし、  甲 午の日四甲とし、  甲 申の日を五甲とし、  甲 戌の日を六甲とす)、 天気晴明なれば、 一旬十日のうち、 晴れ多し。 雨天において、 琴、 三味線、 鼓、 太鼓の鳴る音さわやかなるは、 翌日晴るる兆しなり。 鳶、 夕方に鳴けば、

明日晴るるなり。 鶴、 仰ぎて鳴くは、 晴れを告ぐるなり。 雨後に天盈りても一星の見るべきあれば、 その夜、 必ず晴れ、 明日も晴るるものなり。 虹の下雨ふるは、 晴れ。 朝、 西に紫の雲立つは、 晴れのしるしなり。 久しく雨降りて後、 雲 巽 へゆけば、 晴るるなり。 日の出ずるとき、 雲日に向かいて東の方へ行くは

日和よし。 日の出ずるとき、 虹たつも日和よし。 東の方に立つもよし。 朔日晴れて、 日和よければ、 三日までよく、 三日までよければ、 十二、 三日までよし。 十五日(望日)晴れて天気よければ、 十二日間打ち続きて天気よし。 三日月のさき、 とがるも、 日和よし。 また四日月のさきとがり、 月の光つよければ、 その月中、

日和よし。四、 五、 六月までは、 西風、 南へまわれば日和よく、 十一、 十二、 正月までは、 まぜ、 西南へ回れば日和よし。 〇いなびかり、  みだれてきらめくは、 雨晴れて、 風も吹かずと知るべし。 その南風は日和なり。

雉子の尾を立ておきて試むるに、 尾、 直にたてば必ず日和なり。 朔日日和なれば、  その月中、 日和多し。 久しく雨ふれば 庚 の日晴るる。 久雨はまた丙  丁 に晴るる。

狗、 青草を食えば晴るる。秋の夜ばかりは北風にて晴るる。暮霞千里を行くべしということあり、 晴るることなり。二月の末、 三月の初旬、山野霞むは、 朝十時まで曇るとも、 西風または北風にて吹きあげ、  四つ過ぎよりは晴るることとしるべし。夏至、 東南の風あれば晴るる。

雨の部

すべて夜の十二時、 昼の八時もしくは四時より降り出だす雨は長雨にて、 昼の十時もしくは六時の降り出だしは暫時にして日和となり。 また夜の八時、 四時、  および昼の十二時の降り出だしは、 大抵 バラバラ雨に

して長く降ることなく、 昼の二時、 六時、  および夜十時の降り出だしは、 わずか半日を待たば、  たちまち晴天日和となるなり。

東風は通常雨になるべきものなれども、 入梅と土用には降りつづききたりたる雨もかえって晴れ、 東風急なるときは夜晴れをつかさどる。  春夏、 西北の方より吹ききたる風は雨を報じ、 秋、 西より吹けば雨必ず降る。 冬の日、 南風吹けば霜をつかさどる。 西風、  北西風は日和にして、 東風、 南風は雨風なり。流星、南へ飛べば晴れ、 西へ飛べば雨降り、 月の出色の白きも雨、 月のかさに星あるも雨、 月の光強きも雨、 朝、

虹、 西にあるは三日のうちに雨降るの兆しなり。 雨降らんとしては、 礎うるおうものなり。 烏、 水をあびるは必ず雨のしるし。 鳩鳴きて、  かえす声あれば晴れ、  かえす声なきは雨のしるしなり。 朝に鳶鳴けば雨降

り、 夕に鳴くは晴るるなり。  かまどの煙もやもやとして下へさがるは雨にして、 直に立ちのぽりて滞るなは晴れなり。 天一太郎、 八専次郎、  土用三郎、 寒四郎とは、 天上が朔日にあたるを天一太郎といい、 八専が入りて二日目を八専次郎といい、  土用が入りて三日目を土用三郎といい、 寒が入りて四日目を寒四郎という。 いずれもこの日において雨降るときは、 天気あしくなるものなり。 また、 出雲、 入り雲にて日和を予知すること、 国によりて異なり、大阪にて雲のあし丑寅の方へ行くを入り雲といいて雨となり、 また 未申の方に行くを出雲といいてこれもまた雨となれども、 風強く吹くときは日和になることあり。

天気、 時候は国、 所によりて異なり、 同一の定義をもってこれに付すべからざるも、  おおよそ関東は、 西風にて晴れ、  東風にて雨降る。 関西は、 西風にて雨降り、 東風にて晴るるが通常なり。

雨降り予知に関する古諺あり。  すなわち、

ふっきりは、  てっきり たっきりは、 ふっきり

右の諺は一般日和を知るの妙語にて、 霧降れば天気となり、 霧立ち上れば雨となること疑いなし。 その語簡にして、 その実に当たれるは妙語というべし。 日の出、 黒きは雨にして、 青く白きは風雨なり。 また、日の出ずるとき晴れ、 やがて曇りて晴れざるは、 また風雨となるべし。 数日雨降りてのち日出でて、 はやく

晴るるはかえって雨降る。 日の入るとき、 よく照るは晴れ、 雲の中に日入るは、 夜半の後に雨となる。  しからずば明日必ず降る。 黒雲日の入りにつづくは、 明日天気よからず。

日に耳ありて、  北に見ゆるは雨。新月仰のきて上にたまりあれば、 その月雨多し。 新月の下に黒雲横たわれば、 翌日雨降る。 月はじめて生じ、 形大にして幅小なるは、 三日のうちに雨降る。 日の色、 赤く、 夜、 月の色白きは、 雨の兆しなり。

久雨のとき、 暮れがたにわかに雨やみ、 雲ひらけ、 満天星見ゆるは、 その夜に天気あしくなり、 翌日必ず雨ふる。  星、 常より大に見ゆるは雨なり。

日の輩は雨降る兆しなり。 ただし朝日にかさありて、 ようやくに消ゆるときは晴れなり。 月の饉は雨、 黒気あるも雨。 しかれども春霞、 花曇りなどいうことのあれば、

たとい量ありても雨降らざることあり。 東風急なれば蓑笠を備うべし。 東北風も雨。 南風は、 その日たちまちには降らず、 明日もしくはその日の暮れにか必ず降る。

春、 北風吹けば時雨多く、 秋は西風にて雨ふる。 南風は四時ともに雨ふる。 しかし南に海あるところ、  および東に海を受けたるところは、 雨ふらぬところもあるという。 土、 死すということあり。 そは湿多く、 湿不足し、 または前年の大寒、 小寒に極寒して、水凍りてとけざるとき、 大極寒にあって死するなり。  ゆえに田畑の土、 春の陽気をうけて、 よくさり、 作物よく繁れども、 土、  死して気力なきゆえに、 五穀生長短くして、 虫つくものなり。  この年は大風の難はなけれども、 媒雨、 大雨の難あり。 朝霧急に起これば、 必ず大雨あり。 久しく陰晦りて、 朝たちまちに霧起こるときは、 午の後に必ず雨あり。 朝開き再び覆うものは、 雨の 徴 なり。 節季交わるの日、 朝霞は、 門を出でずして必ず雨あり。 春、 雷はじめて起こるとき、 その声依々として大いに震わざるものは、 雌雷なり。  その年雨水多し。 すべて雷声呵烈なるものは、 雨、 大いに降るといえども、 必ず晴れやすし。 雷声殷々として呵ぶものは、 卒然に晴れ難し。 一夜雷、 鳴れば、 雨降ること三日やまざるなり。 初雷、 子の方に当たりて鳴るときは、 その年雨降ること多く、 辰巳の方に鳴れば、 雨 雹五穀を損ず。 夏月、 雨降りて後に雷なるは、 雨再び大いに降るなり。 虹、 見はるるときは多くは陰雨あり。  その色蒼白なる、 多くは雨なり。 日輪、 はじめて出ずるときに祉気あれば、 その日必ず雨あり。  その色の白きは風雨なり。  およそ日月の饉気、

漸々に盛んにして、 蛋気中、 暗黒なるは、 必ず雨あり。 日の出ずるとき東の方に黒雲いで、  また赤き雲あるときは、  四、  五日も打ち続きて、 日和あしく、 日の出ずるとき、 もしくは出ずる前に、 日あしさせば、 雨または風吹くなり。

きのえきのと ひのえひのと っちのえっちのと かのえかのと

すべて青雲あれば 甲  乙 の日、赤雲は 丙  丁 の日、黄雲は  戊    己  の日、白雲は 庚  辛みずのえみずのとの日、 黒雲は  壬    癸  の日、 いずれも雨降る。

俗諺に曰く、「雲、 東に行けば雨跡なく、 雲、 西に行けば馬泥にそそぎ、 雲、 南に行けば水そそよい深し。 雲、  北に行けば雨すなわち降る」また曰く、「大雨まさに至らんとするに、 その雲はなはだ重潤なるものなり」と。 流星、 東より西に向かって流去すれば、 明日雨降り、 西より北に流るるは、 風雨大いに起こる。 北より東に去るは、 連日雨降り、 北より西に去れば雨水田地をひたす(ただし夏月はこの限りにあらず)。 〇夜間天の河を望み、 そのうちに微星多きを見るときは、 雨多きなり。 天河の中に黒雲あって往来するは、「黒猪渡>河」(黒猪河を渡る)という。 当夜必ず風雨あり。 六甲の日、  および五卯の日(五卯とは 乙 卯、  丁 卯、   己  卯、  辛 卯、    癸  卯これなり)、 夜間天河を見るに、 もし雲気その間に往来することあらば、 その旬中必ず風雨多し。 六甲の日、 もし雲気あって、 日月および北斗星をおおうときは、 その旬中十日の間、 天気陰雨多し。 また六甲の日、 雲気あって四方に合うときは、 当日雨降る。  その雲多きは雨多く、 少なきは雨少なきなり。

上弦の月(六日、  七日までの月)傾きとがれば、 雨なく、 平らにすぐ横たわれば、 雨ふること、 俗間つねにいうことにて、 人々みな知れり。 しかるに経験にては、  上弦の月、 そばたち傾くとき、 かえって雨降ることあり。 また、  上弦の月の平らかに穏やかなりとして、 雨の降るべきに、 かえって雨の降らざることまれにあり。 日の量、  一重なるは小雨、  二重なるは雨風、 三重なるはわるしと知るべし。 申の時より後に、 日の両脇に耳のごとく雲あるは、 明日雨ふると知るべし。

日のかたかたに雲あるは、 半の日降りやみ、 両脇にあるは、 長の日降りやむなり。

朝日赤くして地をやくは、 小雨降ると知るべし。

虹立ちて西にあらば、 明日必ず雨降るべし。

西北の方に電光見ゆるは、 雨降るべし。 夏のいなずまは大雨なり。 東の方にいなずまあるも、 南の方にあるも、 同じく大雨なり。北の方にあるは雨風なり。 夜、 ぬえの二声なくは雨なり。 飛蟻の出ずると、 魚の水上に躍るとは、 みな雨風のしるしなり。 朝霧には雨ふり、 卯の刻に風吹けば、 その日雨ありと知るべし。 月すでに畢宿 をはなるれ

ば、 雨降ること車軸をながす。 梢に風そよそよと吹き、 礎ぬれて雌鳩飛び回り、 ぶゆのむらがり飛ぶは、な雨のしるしなり。 西北の方に黒雲起こるは雨なり。 夏、 雷おびただしく赤き雲、 日の出に出ずるは雨なり。 魚鱗のごとくなる雲起こるは、 雨降らねば風吹くべし。 秋は東南の方より風吹けば雨降る。 夏と秋と

の境に、 大風あれば、 必ず雨降り、 大水あるべし。 申、 子、 辰の時に降り出だす雨はながく、 巳、 酉、  丑の〔時の〕降り出だしはやがて日晴るるなり。 寅、 午、 戌の〔時の〕降り出だしは、 降りふらず曇る。 亥、 卯、  末の時の降り出だしは、 やがて日晴るるなり。 寅、 卯の時、 寅卯の方に帯のごとくなる白雲、  また黒雲たなびくは、  甲  乙 の日、 必ず雨降る。 辰、 巳の時、 辰巳の方に白雲、 また黒雲たなびく時は、  丙  丁 の日雨ふる。 午、  未 の時、 午未の方に白雲、 黒雲ありて、 日を襲うは、 戌亥の日雨ふる。 旺相の日雨ふれば、 万物を損ない枯らすなり。

陽の月は、 風の後に雨ふる。 三月の霜、 降りて後、 必ず雨ふるなり。

朝起きてなんとなく気分すぐれず、 頭かゆく、 耳熱く、 かおほかほかとし、 たむし、 がん癒等わるがゆきときは、 近きうちに雨降る。 琴、 三味線、 鼓、 太鼓の鳴り音よからぬは、 雨の降るしるしなり。 朝、 鳶鳴けば雨降る。 鶏、

おそくとまるは雨。 烏、 雀など、  かけりとんで天に騒ぎ舞うは、 雨風のしるしなり。 鶴、 うつむきて鳴くは雨降ることを告ぐるなり。 水鳥、 木にとまれば必ず雨ふる。 猫、 青草をかめば雨ふる。 蜻蛉、 たちまちに乱飛するは雨。 蚊、 空に集まれば雨あり。 牛、 ほゆれば天曇り雨風あり。 晴雨は雉子の尾を立てて試むべし。

雨降らんとするときは尾、 必ず垂るる。 天に雲なくして、 北斗の上下に雲あれば、 五日のうちに大雨降る。

夏、 にわかにあつきは雨ふる。  春の日寒きは雨多し。 八専に入りたる翌日は雨ふる。 俗に八専の丑降りという。 正月元日、 日、 いまだ出でざるとき、  黒雲、 東にあれば春、 雨多く、 南にあれば、 夏、 西にあれば秋、  北にあれば冬に雨多し。 立春の後、 第五の戌の日を社日という。  この日多くは雨ふる。 八月十五夜に雲あれば、 来年正月十五日雨降る。 十二月において雷、 雪の中になれば曇り、 雨降ること久し。 寒のうちに雨多くふれば、 来年、 雨しげく、 水、 出ず。

月の二十五日を月交という。  この日雨ふれば久しく陰るなり。

〇乙の日、 大風ふけば、 丙丁の日雨ふる。 酉の日、 大風吹けば、 大雨ありと知るべ毎月四日、 十四日、二十四日の風は番の風という。  この日、 子、  丑にあたるときは雨ふる。

毎朝、 水の量をはかり見て、 は雨多く、 軽きは少なきなり。 春の霜は雨をつかさどり、 三日を出でずして必ず降る。  七月の末、 辰巳より戌亥の方へ雲行けば大雨、 または大風と知れ。


旱 の部

日の色、 白く、 夜、 月の色、 赤きは、 旱せんとする兆しなり。日の輩、 赤きは、 旱、 紫なるは、 大旱なり。 秋の夜、 天象をみるに、 はなはだ遠く見ゆるがごときは、 旱のしるしなり。 明朝、 露下らずして、 雨もまた降らず。 春、 雷はじめて起こるとき、 その声拍々と猛烈にして、 露震たるものは、 雄雷にして、 その年旱多し。 初雷、 午の方に当たりて鳴れば、 夏旱多し。 雷、 申の日に鳴れば、 春旱あり。虹、 西方にあるは旱なり、 赤色なるまた旱なり。 日畳の赤きは旱なり。 紫なるは大旱なり。 流星、 南より東へ去れば旱なり。 西より南へ移れば、 当年旱水の災いあり。 日出でて火炎のごとくなる気、 上にのぼることあるは、

大いに旱するなり。 月食の色、 赤きは大いに旱するなり。  立春の日、 赤き雲気あらば、 大いに旱す。 冬至の日、 赤き雲気あれば旱す。 秋の、 巳卯の日、 風吹けば、 旱することあり。 冬の土用寒ずること強ければ、

六月の土用旱なり。 六月土用に雨ふれば、 冬の土用に旱と知るべし。

西の方にいなずまあるは旱なり。春多く雨降れば、 夏必ず旱す。 春、  甲 子大雨なれば夏大旱し、 夏、 甲子に雨ふれば秋旱す。 元日に雨ふれば春旱す。

三月三日晴るるときは旱し、 また三月節の日、 晴るれば同じく旱す。九月十三日晴るれば、 その後旱することあり。 毎年十一月において雪少なければ、 来年旱し、 十二月朔日風雨あれば来春旱す。

二月雷なれば、 来年旱すとしるべし。 丁 の日、 大風吹けば旱し、 巳の日に吹けば大旱す。 露なければ旱とす。 立春の日、  丙  丁 なれば多く旱するものなり。正月朔日において、  一天雲なきときは一年旱するものなり。 正月において三の巳、 三の午あれば、 大いに旱するものと知るべし。 三月三日の夜、  蛙なけば旱す。 日の下に、 黒雲の形鶏のごとく、  または鶏の争うさまあるは、 旱することと知るべし。 八月朔日に晴るれば、 冬に達して旱あり。


水の部

月、 はじめて生じ、 形、 小にして、 幅、 大なるは、 水の禍あり。白気、 月をつらぬくこと、 夏なれば大水あり。  黒気、 月をつらぬくこと、 夏なれば大水、 春秋も水、 または盈ると知るべし。月の傍らに黒雲起こるは大水。

日の祉、 黒きは大水なり。 雷、 亥の日になれば大水あり。 酉の日もまた大水なり。 立春の日、黒き雲気あるときは洪水あり。冬至の日、 黒き雲気あれば水なり。蛇、 木に上ることあれば必ず水あり。立夏の日に祉あれば洪水出ず。 五月朔日雨降れば、 水多し。 夏至に日の慨あれば、 大水出ず。 七月七日に雨ふれば、 八月に水出ずるなり。十二月朔日風雨すれば、 来夏大水出ず。酉の日、 大風吹けば洪水あり。檀  の木、 忽然と花開けば大水ありと知るべし。 正月において、 三の亥の日あれば、 必ず大水あり。 二月において雷のはじめて起こりたるときの声、 亥子の方にあればその年水あり。 十月、 雷の中に霰あれば、 来年五のうちに水あり。 正月歳朝の風、 西北なれば、 大水ありと知るべし。

雹 降ること多きは、 大水のしるしなり。 酉の日、 亥の日に雷なれば、 大水あり。 初雷、 子の方になれば、 百川みなぎる。


風の部

日没の赤青なるは、 常に風にして、 乱雲飛び、 雲の色、  紅白なるは、 いずれも大風なり。 また夜、 霧降れば、 翌日大風吹き、 流星東へ飛べば、 また風吹く。 月の色白きは、 風。 月の量かさなれば、 大風吹く。 山あざやかに見ゆるときは、 陽風にて、 山かくれて見えざれば、 陰風なり。 日の出赤きは、 風。 日入って後、ようやく紅のごとくにして、 やがて色かわるは、 風吹き、 もしくは雨ふる。 日の入るとき、 雲赤けれども、その色かわらず、 ようやく薄くなりて消ゆるはよし。 赤き雲気、 日の上下にあるときは大風吹き、 日の色黄に見ゆるはまた風なり。 白気、 日月の上下にひろくしくは、 三日のうちに悪風雨あり。 月に輩あるは、 風必ず最の欠けたる方よりきたる。 月の初め、  二日、 三日まで月見えざれば、 その月、 風雨しげし。新月、下へそりて、  かけたる弓のごとく、  上にたまりなきは、 その月、 雨少なく、 風多し。白気、 秋月を貫くときは、 風ふく。 月の上下に黄なる雲、 暗く覆うは大風なり。 日の輩、 青く赤きは大風、 白きは風雨なり。七、 八月のころ、 大風ふかんときは、 必ず虹のごとくにして切れたる雲たつ。  これを腿母という。 冬日、 くれて風和らかになるときは、 明朝また風はげしくなる。は悪し。 日の中に風やむはよく、 夜半にやむはわるし。

寒天のとき、 日の中に風おこるはよし。 夜おこる土、 生まるということあり。 そは冬の極寒もなく、暖にして、 流れも凍らざる年なり。  ゆえに春の雨あがりに、ぉ ち風かならず吹く。  この年は作物よく成長して、 やまいけなけれども、 土、 勢いつよきゆえに大風吹く。 されど悪風にあらざれば、 作のいたみにならず。

暮れ霧、 夜起これば、 明日大風あり。 俗諺に曰く、「いまだ雨降らずして、 まず、 雷声を聞くものは、 舟行を慎むべし。 必ず暴風起こることあり。」  夏月、 電光の赤白なるは、 大風あり。 日祉、 青黄の二色なるは、大風なり。 月の饉、 半辺なるもの、 東の方に向かえば風あり、 五穀をやぶる。 西に向かうも風雨ありて、

五穀を害す。 北に向かうは風とし、 また 旱 とす。 もし、  重 祉するときは、 必ず大風起こるなり。 すべて、量気は日月とも、 その一辺を去るは風のしるしなり。

朝、 西の方に、 燃ゆるごとき雲たつは風吹くなり。

天気よきに、 虹二っ たつは大風なり。

流星、 西より東に去れば、  二日のうちに風吹く。

孫子曰く、「箕、壁、 翼、 診、 およそ四宿は、 風の起こる日なり」という。 また孫子曰く、「昼、 風吹くときは、 長く、 夜、 風吹き出だせば、 短し」とかや。  これも理を述べたるまでと見ゆれども、 出所たしかなる語なり。 日の出に雲あり、 日の両脇に付きたるは、 大風吹くべし。 午の時の前に、 日に量あるは、 北風吹き、 午の時後にあれ

ば、 風静かなり。  日の盤、 朝に白く、 タベに赤きは、 大風砂を飛ばし、 石を動かす。  日の入りに黒く赤き日の色あれば、 雨なし、 風ありと知るべし。朝日赤くして天をこがすは、 風吹くなり。日の光、 かがやくは必ず風吹くとしるべし。 月の色、 黄にして青きは大風あり。 虹立ちて東に見ゆるは、 雨降らずして風吹くべく、  虹立ちてきれぎれにちるは、 風大いに吹くべし。 日暮れに東南に虹たつも、 必ず大風吹く。 夏の風はいなびかりの方より吹き、 秋の風は電光の方に向かって吹くなり。 秋のいなずまは風吹き、 冬のいなずまも大いに風吹く。ぬえの夜なく声、  一声なるは風なり。 夏秋のさかい、 星の光きらめきて白きは、 風ありと知るべし。 月の二十五、 六日に雨降らずば、 来月の三日、 四日に大風ありと知るべし。 〇うわ雲は大風を生じ、  久しく消えざるは長く、 早く消ゆるは風強し。 大風吹くべきときは、 前日より大海の潮、 ぬるみ、

ふとると知るべし。 雲切れて、 はやきは、 大風生ずるなり。 虹立ちてあと、 先、 中、 早く消ゆるは、 にわかに大風、 また大雨降るべし。 雨のあし細かにして、 陰風生じ、 太くして陽風生ず。 陰月、 紫の雲立てば、大風生じ、 陰の月に戌亥に雲立てば、 風生じ、 陽の月に、 巳午に雲立てば、 風生じ、 陰の月は、 雨の後、 風

生じ、 陰の月、 陽の風は久しからず。 陽の月に、 陰の風も、 久しからずと知るべし。 三方に雲立ちて、 うごくとも、 北の黒雲少しありて、 動かば、 陰陽の風生ずるなり。 とうもろこしの根あらわれ、 高くからみたる年は必ず風吹く。 節分〔から〕二百十日、〔二百〕二十日の内外に、 大風、 大雨あるは、  四季の陽気、 移りかわるゆえなり。 八月のうちに甲 寅、   己  丑の日あらば、 必ず風吹くべし。 鳶、 朝夕のほかに鳴くときは風吹く。

虎うそぶくときは風起こる。  七、 八月のころ、 大風吹かんとするときは、 必ず虹のごとくにして切れたる雲立つものなり。天気よきに、 虹二っ たつは大風なり。黒雲飛びて銀河をふさぐときは、 三日のうちに狂風あり。 海上、 沖の方鳴るときは、 北風吹く。 晦日に雨なければ、 来月のはじめ必ず風雨あり。

その形かやに似たる風草、  またはちから草というものあり。  その節 つのときはその年に一度の大風吹き、  二つの年には二度、 三つあるときは三度、 大風吹き、 また節、 もとにあれば春、 中にあれば夏秋、 末にあるときは冬、 大風吹く。 二十五日、  二十六日雨なきときは、 来月三日、  四日に風吹く。 月に白盤あるにヽ      一重なればその日、  二重なればその月必ず風雨あり。 毎月四日、 十四日、  二十四日が卯辰にあたるときは、 風雨あり。 二月は天気よくとも、 辰巳の風吹くときは、 その風次第に強くなり、 雨ふりて西風吹くべし。夏はいなずまの光る方より風吹き、 秋は、 光る方へ向かいて風吹く。 虹の棒柱は、 大風、 津波の兆表と知るべし。


寒熱の部

日の色青く、 夜、 月の色青きは、 寒の兆しなり。夏の夜、 星多きは、 明日必ずあつし。


夏至の日、 雲あれば暑し。十月に  壬  子の日なきときは、 冬暖にして、 来春寒きこと疑いなし。桐は晴明の日はじめて花さく。 もし咲かざれば、 その年大いに寒ず。霧の部

夏至の日、 雷あれば三伏冷ややかなり。流星、 南より北に去るときは、 明日霧降る。 〇およそ秋冬にありて晴れず、 くもらず、 朦々として温かなるは、 謁、 霧のしるしなり。


露の部

秋の夜、 天象下に垂れて、 星、 月、 低く見ゆるは、 明朝露深しと知るべし。  四時の夜中に、 天象低く垂るるときは、 必ず露あり。


霜の部

年中に桃、 再び花咲けば、 夏必ず霜あり。  李、 再び花咲けば、 来春大いに霜降ることあり。


秋夜、 流星

南より西に去れば、 霜多し。立春よりのち八十八日にあたる夜、 大いに霜降る。冬の南風は三日霜降ふる。正月において夜寒ずるは高霜としるべし。



雪の部

夏、  土用の内に、 南風吹きて、 北の方へ吹きかえしなければ、 寒のうちに大雪あり。 毎日平旦に東方をうかがうべし。冬夜、 流星、 南より西に去れば、 雪多し。冬大いに寒じて小鳥、 群がり飛び、 もしくは大寒、 にわかに暖になる等のことあるは、 みな雪の降るしるしなり。熊、 深山を出ずることあれば大雪あり。蛇、 深山を出ずるも大雪の兆しなり。 冬にわかに暖になれば、 必ずや雪降る。 蔓の葉、 例より大なれば、  この年雪深し。 三伏のうち、 大いに熱すれば、 冬必ず雨雪多し。



叡の部


諸木、 再び花咲けば、 夏雹多し。雹、 田地を損ず。夏月、 電光の黄なるは、 雹氷、 降ることあり。雷、 戌の日に鳴れば、


雷の部

およそ夏月、 朝の間に五色の雲気、 交錯して、 さらに赤雲ありて、 その間に往来して、  擾 乱するものは、これ、 すなわち天の威怒するなり。 必ず、 その日あるいはその夜において、 大いに雷電、 風雨あるものなり。もし黄雲零少なれば、 雨降ること少なし。


豊凶の部

およそ、 春の霜は草木をからし、 夏の霜は草木の葉をやぶり、 秋の霜は草木の苗をやぶり、 冬の霜は草木の根をやぶる。 霜時にあらずして、 降りて草木をからせば、 その年蜻虫ありて、 飢饉す。 冬の雪、  一尺にみつれば、 来年大いに豊かなり(けだし中国にしての考え)。 冬月に雪降ること多ければ、 歳うるわしくして、人民和順なり。 正月に雪降りて、 三日の内に消ゆれば、 その年豊かなり。 もし七日消えざれば、 秋の穀いろまず。 二月に雪降りて、 七日消えざれば、 百菓実らず、 秋穀熟せず。 三月に雪降りて、 日を経て消えざれば、秋穀熟せず。 冬三月に雪少なければ、 五穀実らざるなり。 初雷、 丑寅の方に鳴れば、 五穀やすし。 卯の方、五穀たかし。 辰巳の方雨雪、 五穀を損ず。  未申の方、 蜻虫、 五穀をやぶる。 酉の方、 金鉄貴し。 戌亥の方、五穀半熟、 民に病あり。 今、 図をもってすれば、昼は五穀豊かなり。夜は五穀半熟す。

南方開髯誌噂 。西方暉翡   悶   疇五  。虜闘靡砂託霞  ゜

子の日の雷は、 年大いに豊かなり。  丑の日は、 牛馬にわる<、 寅の日は米穀たかし。 巳の日は蜻虫多く

ひうちして、 年凶なり。 未の日は、 民に疫疾多し。 電光は、 陰、 陽、 相うちて光を放つなり。  隧 の金石、 相うち

て火を出だすがごとし。  いなずま、 大暑(六月の中節)前後にあれば、 早稲はうすく、 晩稲は大いにのぽる

という。 春の地震は、 草木さかえ、 夏の地震は、 五穀をやぶり、 秋の地震は、 民に疫疾あり。 冬の地震は、

来年大いに豊かなり。

九は病、 五七雨風、  四つひでり、 六つ八つならば、  さわがしきこと。

日二つならび出ずるは、 四海太平、 天下長久のしるしなり。 昔、 舜帝の即位のとき、 日ならび出でて、 天下大いに治まれりと。 日出でて光なく、 その色赤く、 血のごとくなるは、 国、 飢饉としるべし。

日の半分黒く、 半分白きことあるは、 大いに悪し。 人民多く死す。  また日の色黒く、 光なきは、 万民、 また万物にたたり損ない破ると知るべし。

日二つ出でて一所にすれ合い、 重なりかかることあらば、 大いに国にたたることと知るべし。 日と月と一所に出でて、 日すでに月の中に重なり入ることあらば、 これ大いに凶なり。日の色黒く光なく、 日食に似たるは、 人民大いにわずらい死すること、 百八十日のうちにありと知るべし。月、 日の中にありて、 東方に見ゆるは、 天下太平の瑞と知るべし。月の色、 黄にして、 青きは、 飢饉なり。 赤は火災、 黒は水災なり。

満月二つにわれて見ゆるは、 国家大いにわるし。

月の周りに、 三つの星ありて、 月に近くして、  鼎 の三足のごとく見ゆるは、 大いにわるし。 十日のうちに禍ありと知るべし。 三日月の下に星ありて

つ光明あるは、 大いにあしく、 三日、  四日の月の両のとがり、 星あるは、 人民わずらい死すべし。月二つならび出ずるは、 大悪と知るべし。 漢の呂后のときありき。日出でて黄なる雲、日の三方に耳のごとくつき出ずるは、 天下太平、 国家安穏のしるしと知るべし。 五色の雲出でて、 日をのせささげたるは、  これも天下太平、 五穀成就、 万物ゆたかにして、 民、 大いにさかゆるしるしと知るべし。日の近きところに黄なる雲、 うるおいありて立ちたるは、 吉祥雲と名付く。 天下国家、 太平の瑞雲と知る雲気の形、 蛇のごとく、 日を貫き、 色青きは、 疫病はやる。 色白きは、 大いに悪し。

白き雲出でて、 日を貫けばわるし。 万民飢死す。 貫通せずは、 死せずと知るべし。 古書に曰く、「観ー乎天文年示二地変観平  人文咋竺成天下一是以政道当レ理則風雨順>時国家豊也。」(天文をみ地変を察し、 人文をみて天下を化成す。  これもっ て政道理に当たれば、 風雨ときにしたがい国家ゆたかなり)と。  まことにその年の土の生死を知るは、 五穀生長の善悪を知るなり。 その年の難をはかりて、 耕作をなさば、 その徳なきにあらず。 これ百姓の至実なり。 春の社日に雨降れば、 その年豊かにして菓多く、 秋の社日に雨降れば、 来年豊年なり。

除夜に東北の風あれば五穀大いによし。

以上は、 学術上考定せるものにあらざるをもって、 ここに引証せるは全く無益なるがごとしといえども、 また、そのうちにいくぶんの参考すべきものあるべしと思い、 余自ら数書を閲して集録したることあれば、  その冗長にわたるをかえりみず、  ここに掲記せり。 余もとより、  これ、 みな盲目的経験よりなりたるものなれば、 その過半は確実とするに足らざるを知る。 しかれども、 いずれが確実にしていずれが不確実なるかは、 また実際上の経験をまたざるべからざれば、 広く世間に対して、 余が数書より抜粋せるものについて、 その真偽を試みられんことを望む。 そのうち、 日を干支に配して晴雨を判定するがごときは、 もとより妄説にして取るに足らず。 しかして、これによりて考定せるものの事実に合することあるは、 物理的説明の限りにあらずして、 むしろ心理上、 注意あるいは予期の作用に属するものなるべし。  また、 鳥獣の天候を前知する力あることは、 民間にて一般に唱うるところなるが、 これも信拠し難しといえども、 あるいは雉子は地震を前知し、 あるいは蟻は晴雨を前知する等のことあれば、 動物中には一種の発達したる本能性感覚を有するものありて、 空気の温度、 気圧等の変化を、 多少自然に感知する力を有するものあるは疑うべからず。  ゆえにこのことは、 物理的道理によりて一部分説明し得るものと見るべし。

以上の予知法に淵れたるものは地震を前知する法なり。  わが国は古来震災の多きにもかかわらず、  これを前知する法を述べたる書あるを見ず。 晴雨、 水旱を前知する法を示したる書中にも、 さらに地震のことを掲げず。  これ、 けだし予知することの難きによるならん。 しかれども、 俗間には多少その予知法として伝うるものあり。  その一、  二を挙ぐれば、 雉子はあらかじめ地震を知り、 地震の前には鳴きさわぐものなりという。 あるいは他の鳥の中にも、  鶏、  鶉 のごときは多少これを前知するという。 また、  鯰が地震を前知する力ありて、  その起こる前には騒ぎ立つるというも、  これはなはだ信じ難し。 第二には、 寒暖と地震と関係ありて、  その起こる前には気候なんとなくにわかに渦暖となり、 風死してあたかも四面を密鎖したる室中にあるがごとき感あるものとす。  ことに天象大いに平時に異なるところありて、 宿星最も近く、 星光最も大なるものなりとす。  その他「地震考」と題する書中には、 地震の前兆を示して日く、「霞せんとするとき、 夜間に地に孔数々できて、 細き壌を噴出して、 田

鼠    盆〔が〕ごとしと。 これ、 土竜などの持ち上ぐる類ならんか。 また老農、 野に耕すときに煙を生ずるごときを見て、 まさに震せんとするを知ると。 また、 井水にわかに濁り湧くもまた地震の徴 なり。 また世に伝うは、 雲の近くなるは地震の徴なりと。  これ、 雲にはあらず気の上昇するにて、 煙のごとく雲のごとく見ゆるなり」と。  これ、 もとより確実なる予知法にあらざるは明らかなりといえども、 今日、 学術上いまだ地震を予知する法を発見せざる以上は、 従来多少の経験によりて一般に伝えきたりし方法を参考して、 他日、 確実なる予知法を考定せざるべからず。  すでにわが国のごときは、 最も地震多き地なれば、 その予知法を考定するも、 わが国をもって便なりとす。  ゆえに余は、 従来伝うるところの俗説を掲げきたりて、 地震予知法の一考となすなり。

以上はわが国の俗説にもとづきて、 天地の変動を予定する方法を示したるものなるが、 近来、 気象学の書中に、西洋の予知法を示したるものあり。 余は左に、『「アネロイド」晴雨計詳説及用法」と題する書中に掲げたるものを転載すべし。

およそその日の晴曇を論ぜず、 日没のとき、 天、 紅色を呈するは好天気の予兆なり、 病むがごとき緑色を呈するは風および雨の予兆なり、 代赫色を呈するは雨の予兆なり。  日の出に天、 赤色を放つは悪天あるいは多風(あるいは雨)の兆しなり、 灰色を呈するときは好天気なり。 天明高きときは風にして、 天明低きときは好天気なり。

天明高きときは、 曙光を一堆雲の上に見るをいう。

天明低きときは、 曙光のとき極めて


低き光輝を地平線ちかき所に見るをいう。

およそ美麗にして和色ある雲は軽風、 好天気の兆しにして、 周辺厳界ありて脂油を流すがごとき雲は風起こるの兆しとす。 天色暗黒、 朦朧として藍色を帯ぶるは風多きの兆しなれども、 天色淡藍色にして光沢あるときは好天気の兆候なり。 〇おおよそ雲の形状いよいよ穏和なれば、 風いよいよ少なき(ただし雨はいよいよ多し)を期すべく、 雲の形状いよいよ脂ぎりて参差錯乱すれば、 きたるべき風はいよいよ強きの確兆な

り。 日没において、 天空黄色を帯びて光沢あるときは風起こるの兆しにして、 淡黄色は湿気の前兆とす。

すべて天候の変換は赤、 黄、 灰色等、 各種の現象によりてもなおよく予知することを得べし。  いわんや、  これに加うるに器械の助けあるにおいては、 最も精密に予知するを得ること疑いなし。

すべて黒色の小雲は雨を兆し、 浮き雲、 もし暗黒たる塊雲を横切りて疾走するときは、 ただ風のみの兆候とす。

上層の雲、 もし下層の雲もしくは下層の風と相異なる方向をもって日月星を横切るときは、 風をして上層雲の向かう方に変ぜしむるの兆候とす。

天気晴朗なるの後に、 輝線よう、 あるいは巻き毛よう、 あるいは把梨よう、 あるいは斑点ようの白雲遠く

空際に現出して、 次第にその大きさを増すは変換をきたすべき第一の兆候にして、  この兆候あるときは、 黒霧たちまち全天に禰漫してついに  デ天となるべし。 この兆候は、 風あるいは雨に従い多少油色あるいは水

色を呈し、 必ず変換をきたすの確徴なり。


前上のごとき諸雲の空際に現出することも、 その変化は全部にわたるなり。

いよいよ高くいよいよ遠ければ、 天気の変化すること漸次なる


天色経兆穏和にして、 周辺判然たる凝雲あるときは雨をきたすの前兆にして、  かつ多分は強風あるべし。霧雲高所に現出して、 あるいは停止し、 あるいは増加し、 あるいは降下するときは、 風あるいは雨のきたるを兆す。

もしその雲昇騰し、 あるいは消散するときは、 天気改まりて晴天となるべし。


露および霧はともに好天気の兆候なり。 けだし、 露と霧とは風あるいは陰天のときには生ずるものにあらず。 風のために霧の飛散することは人のときどき見るところなるも、 吹風中に霧の起こることはいまだかつてこれあらざるなり。

地平接近のところ空気いちじるしく清明なるとき、 あるいは退遠なる物体(山岳のごときもの)のことに著明なるとき、 および濠気のため 登 見するとき、 または声音のよく耳に達するときは、 たとい風を起こすの兆しならずとするも、 なおかつ湿気をきたすの兆候とすべし。

灌気差の多きは、 偏東風の南方に順転するの兆候とす。

星の光非常に燦爛たるとき、  および月角、 月量あるいは盤雲の不分明なるとき、 または虹覧の現出するときは、 風を帯びあるいは帯びざる雨をきたすの兆しにあらずとするも、 なおかつ風力の増加する前兆とすべし。 量雲とは、 断雲上にあらわれたる虹寛の一片をいう。  およそ風の方向を測るには、 春秋両分時の前後に、 太陽の出没により真東西線を定めて風の方向をとるか、 もしくは極めて遠隔せざる所の下層雲と、 風見または煙との方向を比較して風の方向をとるを最もよしとす。

その他、「世事百談』に、 草にて大風、 大水を知る法を示せり。 そのことたる、 あまり奇なれば左に掲ぐ。

知風草という草あり。 和名を「ちから草」とも風草ともいう。 茅に似たり。  そのふしの有無を見て、 その歳大風のあるなしを知る。 節    つあればその年一度大風吹く。  二つあれば二度吹く、 三つあれば三度吹く。

本にあれば春吹く、 中にあれば夏秋吹く、 末にあるときは冬大風ありと、「〔万宝〕郡事記  に見えたり。 また、

兼酸の葉にて出水を知ること、 その年の気候によりて洪水というまではあらずとも、 田などに水押しのある

ことあり。しからば 湊 田、河付きなどの田を作る人はこれを心得て、たとわば今絃は水三合いでんと思わば、河付きにて植出しのいでくる地なりとも用心して、 水にあいても稲のいたみにならぬほどの所まで植えてよし。  さてその水の出ずるを知るには、  二月、 三月のころ、 兼苗の若ばえの葉をとりて見れば、 葉にくせあり

て節あるものなり。  この節    つあるは出水一度なり。 もし二つあらば二度、 三つあらば三度水出ずると知るべし。 水の多き少なきは、  この節はっきりとあらば大水出ずると知るべし。 もし、  かすかにあらば出水すくなく、 五分、  七分、 それは節のありようを見て定むべきなり。 月を知るには、 蔵葉を中央より二つに折りて二枚となし、 それを二枚のままにてまた三つに折りて開き見れば、 折り目六段に付くなり。  さて、  これを月に配当するに、 正月より三月までは出水の節にあらず、 十月より十二月までもまた水の出ずるときにあらざれば、  春の三カ月と冬の三カ月とをば捨てて、 葉の中の折目に入れず、  四月より九月までの六カ月を割り付くることにして、 葉の本の方の一段を四月、  二段を五月と、 だんだんに九月まで順に配当して、 その月に当たりたるところの節にて、 某月出水ということを知る。 また、 その一カ月のうちを上、 中、 下と、 十日ずつ、三つに割りて見れば、  上旬の出水か、 下旬の出水かということも明白に分かることにして、 その験、 数年試し見るに、 いささかもたがうことなしと、 云云

この知風草の説はもとより信ずべからずといえども    いかなる出来事よりかくのごとき説を伝うるに至りしや、 たといこれを偶然とするも、 また多少の原因なかるべからず。 いかなる妄説も原因なくして起こるものにあらず。  すべて妄説の起こる原因を探るは、 かえって学術上興味あることなり。 俗に寒割りと称して、 寒三十日間を一年に配し、 毎日の天気によりて一年中の晴雨、 水旱を予定するものあり。 民間大いにこの法を信ずるものあれども、  その妄、 知風草となんぞ選ばんや。なお、 飢饉のことについて一言せざるを得ず。  そのことは、 さきに豊凶の部に諸書より引証してこれを前知する法を示したるも、 その説、 愚民間に行わるる迷信より出でたるものなれば、 もとより確実なるものにあらず。今、『救荒時宜』と題する書中に、 よく諸書を参考して適切に飢饉について注意を示せるものあり。 左にその一部分を抜粋すべし。

およそ飢饉のおこることは、 にわかにその年の内に始まるにあらず。  二、 三年もしくは四、 五年も前かたより、 米穀なんとなくとりおとり、 そのうえ水旱、 稲虫などの災い、 国々より聞こえありて、  ついには大ききんとなることなれば、 牧民の官たるものはいうに及ばず、 そのほかとてもその心がまえすべきことなり。

「礼記』の王制編にも三十年の通ということありて、  その間に九年のたくわえをなすことをいえば、 近くは三十年の内外、 遠くは四、 五十年の内には、 ひとたびううることあるものなれば、  王制にいえるごとく、 三年のたくわえなくては、 国そのくににあらずというべきなり。  ゆえに国天下のあるじたらん人は、 常にその用意ありたきことなり。 黒羽の鈴木武介という人、 物せし「農喩   に曰く、「太平以来、 寛永十九年  壬  午ききん、  さて三十三年を経て、 延宝三年 乙 卯ききん、 これより五十七年を過ぎ、 享保十七年  壬  子ききんこののち五十一年ありて、 天明三年  癸  卯ききん、  これにあいし人は今に多し。  この凶年の難たびたびありしことかくのごとし。  さてその年数を計りしに、 近ければ三、  四十年の間あり、 遠くとも五、 六十年の内にはきたることと心得、 今にも来まじきことにあらずと思い、 深く恐れ、  このことをつねにわすれず、 農業を一途にはげみつとめて、 穀物を余したくわうるように心がけ、 少しも怠るべからず。  このききんは人間世界の大変なり。  このときに当たりて人の死すると生くるとは、 ただ手あてのなきとあるとによるのみ。 手当てのたくわえなきときは、 じつにあやうきことなり」「農喩に、 延宝三年より五十七年をへて、 享保十七年のききんとあれど、 元禄十四年より享保六年までの間、 米価の高かりしこと、 太宰純が「経済にも見え、 享保より天明までの間にも、 宝暦五年 乙 亥、 東国、 北国、 大飢饉にて、 餓死のものも多かりしこと、 建部清庵が「民間備荒録」に見えたり。  かくのごとく、 まるで四、 五十年豊作つづきて、 ききんのことなしということは、 なしと思うべし。  されば上たる人は、 平日にその御心得ありて事に臨んで、 早くその備えありたきことなり。

貝原〔益軒〕氏の「農業全書にいわく、「およそ飢饉年の兆しをば、 知ある人は夏のうちにもはや見及ぶべし。 もっとも七月末、 八月初めにてたしかに見ゆるものなり。  されども民は愚かなるものにて、 その年なみ五穀の色を見て飢饉を悟り、 早く身持ちを引きかえてつとむることを知らず。 先秋の実りできぬればよろこびいさみて、 春のききん、 餓死すべきことをもわきまえず、 心にまかせ飲み食い、 よろずの物を用にしたがい求むるゆえ、 春の蓄えたらずして、 年明くればやがて飢うる者おおし。 しかれば、 秋に至り凶年の兆し見えば、 農の惣司たる人、 心を用いてつまびらかに察し、 民をよくよくさとし導きて、 春の餓死を救う心遣い肝要なり」

以上述ぶるところによりてこれを見るも、 飢饉のきたるにおよそ一定せる年限あることは、 従来の統計上明らかにして、  その原因は多少物理上より説明し得べし。  そもそも天運は、  一定の年月の間に循環してそのもとに復することは、 暦日の上において我人のすでに知るところなれば、 水旱の災いもまた循環して一定の年月の間に、互いに来往すること疑うべからず。 果たしてしからば、 飢饉のきたるも大略予定し得べき道理なり。 しかして、わが国は米穀の国にして、 米穀の豊凶は大いに人民の生命に関することなれば、 飢饉のこと、 あに講ぜざるべけんや。 外国にありては、 あるいは商をもって国を立つるものあり、 あるいはエをもって国を興すものあれども、今わが国は農をもって生存する国なり。  ゆえに、 年の豊凶は大いに国力の消長、 民心の苦楽に関する一大事なれば、 余、 特にその一事を述ぶるなり。 しかれどもそのことたる、  これを予知することを得るも、 そのときに迫りて予防することあたわざるものなり。 もし、 その予防をなさんと欲すれば、 平年多少の貯蓄をなすよりほかなし。昔時、 鎖港のときにありては、 平年米穀の貯蓄をなすを要せしも、 今日は外国通商の便を得たれば、 金銭を貯蓄するをもって足れりとす。  かくのごとく考えきたれば、 人間一生は戦々恐々として薄氷をふむより危うきがごとし。 ああ、 なんぞ不幸多き世界なるや。 仏教に厭離機土、 欣求 浄 土の説あるはこれがためなり。 しかりしこうして、 人知ようやく進み徳教いよいよ起こり、 余がいわゆる道徳光明の新天地を各自の心中に開くに至らば、

なる災害ありといえども、 またなんぞ恐るるを要せん。 ただし、 人のこれを恐るるは、 その心光いまだ明らかならざるによるのみ。 思うてこれに至れば、天国のわが眼前にあるを知るべし。 此土即 寂 光浄土とはこれをいうなり、 けだし、 人の心をして動かざらしむるものは宗教にして、 その知をして明らかならしむるものは教育なり。もし真正の宗教、 真正の教育、  並び進みてともに行わるるに至らば、 百災しきりにいたるも、 またなんぞ恐れん

ゃ。

以上述ぶるところ、  これを要するに、 天気予知法は多少妄説の混同するところあるも、 物理的道理によりて説明し得べきものにして、 心理的に属するものにあらず。 しかして、 これを物理的に属するも、 従来伝うるところのものはいまだ確実なるを得ず。「随意録」にもその信拠し難き一例を示して曰く、「関東気運、 三冬不>雪、 則明

年必大水、 往往有二其験    而去歳癸丑、 三冬不>雪、 至二歳_晩  甚温、 人皆言、 来年必大水突、 而今伍甲寅、  春来雨少、 自>夏至>秋旱、 秋来風雨以>時、 五稼豊熟、 更不レ見二三冬不>雪之験一 是亦気運之変也哉。」(関東の気運、 三冬雪ふらざればすなわち明年必ず大水あり、 往々その験ありと。 しかして、 去歳  癸  丑三冬雪ふらず、 歳晩に至りてはなはだ温かなり。  人みないわく、「来年必ず大水あらん」しかして、  ことし甲 寅、 春きたり雨少なく、 夏より秋に至りて 旱 し、 秋来風雨、 時をもってす五稼豊熟。 さらに三冬雪ふらざるの験を見ず。 これまた気運の変なるかな)と。  かくのごとく事実に合せざるものあるべしといえども、 また多少参考すべきものありて、 他日確実なる方法を考定するには、 必ず従来経験せる事実を比較、 抽象するよりほかなかるべし。  これ、 余がその煩をいとわず俗説を列挙したるゆえんなり。


   第二三節    運気考

 天気予知法は物理上、 説明し得るところあるも、 天象によりて人事の吉凶を考定するに至りては、 妄中の妄説にして学術上の沙汰にあらず。 今この説を運気考と名付けて、 これよりいささか弁明せんとす。  そもそも運気の説たるや、 種々の書に見えたりといえども、 要するに干支、 五行の妄説より出でたるものなれば、 物理をもって説明すべからず、 また心理をもって解釈すべからず、 実に全分非理学的というべし。 今その例を挙ぐるに、 干支、一行を日月に配当して、  甲 子の年月あるいは日は、 吉とか不吉とか、 または水災、 風災の有無を論じ、  乙 丑の時日には吉凶いかん、  丙 寅、  丁 卯等の日、  おのおの天気、 人運の吉凶、 良否を判定するがごときをいう。 今、民間に伝わるところの「東方朔秘伝置文」と題する書中に、「六十甲子吉凶〔のこと〕」の一章あり。 その中に日く、「甲子の年は二月、 三月水あり。  四月、 五月沢水あり。 六月、  七月日旱、 八月雨ふり雷あり。 九月に風吹く。 田畑大いによし、 麦よし、 蚕よし。 盗人多し、 火事あり、 謹むべし。 万物みのり豊かなる年なり」とあり。 その他、乙、  丑、 丙、 寅等、  みな吉凶のあらかじめ一定せるもののごとくに記載せり。  これ、 あるいは従来の経験上より定めたる説なるべしといえども、 余はしからざるものなりと断言せんとす。 もし、 その真偽を試みんと欲せば、公平に年々の水旱、 吉凶を統計してこの説と比較すべし。 しかして干支、 五行家の説は、 水にあたる年には大水あり、 火に当たる年には火災ありというがごとき判断にして、  これ実に無道理のはなはだしきものなり。 もし、その説をして真ならしめば、 毎週水曜日に雨降りて、 日曜日に晴れ、 火曜日には気候暖かなるべしと断定するも、確実なるものとなさざるべからず。 世間たれか、 かくのごとき妄断を信ずるものあらんや。  これ余が、 干支、   行を時日に配当して、  その年月の吉凶を考定するの非道理的の妄説なりというゆえんなり。

つぎに同書の第二章に、「日輪を  候  て吉凶を知る〔こと〕」と題するものあり、 また第三章に、「月輪を候て吉凶を知ること」、 第四章に「星を候て吉凶を知ること」、 あるいは雲、 あるいは虹、 種々の天象を候て年の豊凶、天下の治乱を考定することを掲げ示せり。 そのうちの二、 三の例は、 すでに前節、 豊凶の部の下に抜粋したればぜい

今さらに贅せず。  その説の妄なることは、 干支の配当となんぞ選ばん。 しかるに、  これを天気予知法の条下に掲げたるは、 晴雨に連帯するところあるによる。  これ、 もとより物理的説明の限りにあらず。  その他、 天変と人事との関係あることは、 古来一般に信じたるところなれども、 その迷信、 妄想に過ぎざることは、 理学部門、 天変、地妖の両編において、 余がすでに述ぶるところなり。 過日、 友人三上参次氏が、「天則」紙上において、  わが国の歴史上にかくのごとき妄信の盛んなりしことを掲げ、 その主なる原因を漢学および仏教の渡来に帰せしもののご

とし。 今、 左にその文を引証すべし。

「古事記」「日本〔書〕紀」の時代に生存せる、 われわれの祖先が、 外界の奇異なる現象を、 怪しみなどして、その迷信の盛んなりしことは、 もとより言を要せず。 しかして、  おいおいに東漸せし、 漢学と仏教とは、 他の事柄におきては、  わが祖先の知を進め、 徳を明らかにし、 情をさかんにせしこと多きにも似ず、 迷信の一点におきては、 ますますこれを固くせしことは、 疑いをいれず。「天垂象見吉凶」(天象を垂れて吉凶をあらわす)といい、「国家為起、 必有禎祥。  国家為亡、 必有妖翌。」(国家ために起これば必ず禎祥あり。 国家ためにほろぶれば必ず妖睾あり)というの類は、 漢学のもとより、 教うるところたり。 しかのみならず、 陰陽五行の説、 次第に盛んなるに従いては、「土木しきりに興り、 男女の風俗乱るるときは、 稼 稿 ならず」といい、

「法律をすて、 功臣を追い、 太子を殺し、 妾をもって妻とするときは、 火、 炎上せず」というがごときこと、学者の脳 漿 に固着したり。また、仏教の弘通するに従い、この観念のいよいよ動かすべからざるに至りしは、かの平安京の時代に、 真言秘密の修法、 ほとんど、 日としてあらざるはなく、  上下、 祈頑、 禁厭に、 狂せしがごとくなりしを見ても知らるべし。

今、 余も漢学および仏教の影響なるべしと信ずるも、  これ儒仏二教の正説にあらずして俗説なること、 また明らかなり。 換言すれば、 儒仏二教の道理を正当に解釈して起こりたるものにあらずして、  これを誤解し、 あるいは愚民の妄想を付会したるものに過ぎず。 例えば、 五行の説の儒教の正説にあらざることは余が弁をまたず。 天変と人事との関係のごときは、  シナ人のもっとも多く喋々するところなれども、  これまた俗説のみ。 孔子の「怪力乱神を語らず」とは、 かくのごとき俗説に対して戒めたるものなるべし。 また、 修験者の唱うるところのごときは、 仏教の正説にあらざることは問わずして明らかなり。 あるいは業感の説、 あるいは輪廻説のごときも、  その俗間に伝うるところに至りては、 愚民の迷信によりて付会したるもの、 決して少なからず。 ゆえに、 かくのごとき妄説の歴史上に多く存するは、 その当時の人民の不学無知なるによると断言して可なり。 今、 左に「東方朔秘伝置文

および「 拾 芥 抄 」の書中に出でたる一、  二節を引証して、 その妄を明らかにせんとす。『東方朔秘伝置文  に曰く、「彗星は天下太平の世にはかくれてあらわれず、 無道の世には多し。  すなわち、出でて災いをしめすとなり。 あるいは月のかたわらにあらわるるは大いにあしく、 星の色白きは田畑、 五穀不作にして悪し。 黄なるは洪水ありて万物をそこないやぶる。色赤きは大いにあしく、 五穀高直にして人民、家をはなれ財宝をうしなう。 南に出ずるを焚惑星と名付く。 天下日旱と知るべし。 大いにあしし。  北にいずるを大謀星という。  このほしあらば大いにあししとしるべし。 西に出ずるを金星と名付く。 大いに国中に盗賊おこる。 東に出ずるを軍星と名付く。 大いに国にたたりあしし。 中央の空に見ゆるは、 大乙星と名付く。洪水、 旱魃、 火災、 疫摘、 蜻虫、 飢饉、 さまざまあしきこと見ゆる。  昼見ゆるは災い、 いよいよはげし」

「拾芥抄    に曰く、「天地瑞祥志第十云、 師畷曰、 正月拝二旦四方一 終日之間有>雲、 五穀成熟、 無>雲為>飢

也、 有一青雲気一 天熱有ー疾疫一 赤雲気大旱不熟、 白雲気小熟、 人民小不安、 黒雲気小熟多水、 人民小厄、 黄雲気歳大熟、  人民安楽、 蒼白雲為二小水若小疾一 蒼赤為二小旱若小疾一 蒼黄為二小吉一 有ーー土霧一 人民疾病也、懸象体倒云、 正月十四日十五日夜半時、 以二  丈竹一而立>之、 度ーー其月影{  得二九尺八尺{  多疾病、 不>病者其

ナルトキハ

火災、 得二七尺一是歳美尤好、 影六尺      、 天下人多疾病、 国人患一優其悪一得ー五尺一天下人多疾病、 国人憂ニ逆節一也、 得二三尺二尺一 天下大旱、 地不>生五草、 悪逆之象也、 或又五尺、 天下人多疾病、 国人悪二逆節一也。」

「天地瑞祥志」第十にいわく、 師嗽曰く、「正月 旦 に四方を拝す。 終日の間雲あれば五穀成熟し、 雲なければ飢えとなすなり。 青雲の気あれば天熱して疾疫あり。 赤雲の気は大いに 旱 して熟せず。 白雲の気は小熟して人民すこしく不安。  黒雲の気は小熟多水、 人民すこしく厄す。 黄雲の気は歳大いに熟し、 人民安楽。 蒼白の雲は小水、 もしくは小疾となす。 蒼赤は小旱、 もしくは小疾となす。 蒼黄は小吉となす。  土霧あり、 人民疾病す。 懸象体倒にいう、 正月十四日、 十五日夜半のとき    一丈の竹をもってこれを立て、 その月影をはかり、 九尺、 八尺を得れば多くは疾病す。 病まざれば、 それ火災あり。 七尺を得れば、 この歳美もっともよし。影六尺なるときは、 天下人多くは疾病す。 国人の患いはその悪を患憂す。 五尺を得れば、 天下の人多くは疾病す。 国人逆節を憂うるなり。 三尺、  二尺を得れば、 天下大いに旱す。 地草を生ぜず、 悪逆の象なり。 あるいはまた五尺なれば、 天下人多くは疾病す。 国人逆節をにくむなり」)

かくのごときことは、 もとより妄説にして信ずるにたらざるなり。

また『東方朔秘伝贈文』に、  四季の気を見て吉凶を判ずる法について、「春は木青色なり。 寅卯のとき東へなびくは、 家のうち口説あり。 寅卯のとき南へなびくは、 家内に死人あるべし。 夏は火赤色、   巳  午のとき東へ立てば、 家内に死人あるべし。 下人、  口説あり」等と説きたるは、 笑うべきのはなはだしきものなり。  ただしその書の末章に、「軍中において雲煙の吉凶を知ること」と題する条下に、「敵軍の気、 林木のごとくに立つは合戦すべからず。 その気、 わが 軍 の上にあらば必ず勝つべし。 気、 日の光のごとく、 赤きは大いによし。 気、 天上して白きことあり。 悦気と名付く。 望むところの軍、 必ず大利を得べし。 軍営の上に五色の気ありて、 天よりくだり連なりてあらば、 これ天の守護の気なり。 赤、 白、 黄の三つの気立てば、  みなこれ大いによし。  みだりに攻むべからず。 敵軍の上よりわが陣所へ雲気きたり終日やまずば、 出でて合戦なすべからず。 凶なり」等と述ぶるがごときは、 妄説たるや論をまたずといえども、 兵の勝敗は人心に関することなれば、 物理的道理によりて説明すべからざるも、 心理上、 多少説明し得べき道理あり。  すなわち、 雲煙の気が勝敗を定むるにあらずして、 そのことを信仰する精神の力によりて勝敗の定まるをいう。 換言すれば、 勝敗の原因は雲煙にあらずして信仰なり。 また、俗間に八門遁甲と名付くる術を伝うるあり。  その法、 あるいは漢の末に起こるといい、 あるいは黄老にはじまる

、、、 いまだ確説を得ずといえども、 三国のとき、 孔明この術を用いてしばしば戦功を奏せしことあり。 これより世に知らるるに至るという。  そのうちに説くところのものは、 やはり信仰の作用に帰するよりほかなし。

天象、 天変と人事との関係なきことは明らかなれども、 古来、 儒者は孔子の迅雷風烈に畏敬せられし例を引きて、 天に賞善罰悪の作用あるがごとく論ぜしものあり。 大橋順蔵〔訥庵〕氏のごとき、 すなわちその一人なり。「闘

邪 小 言 巻二)に曰く、「これをもって思うてみよ。  すでに化育をたすくる理あれば、 人事乱れて悸 逆 ならば、

天の憂傷怨怒をいたして、 妖壁変異を生ずるも断々固として疑いなからん。  そは今にもあれ、 人主たるもの、 淫

侠 騒 奢度なくして、 行を屯し民を股し、  衆 敏の政行わるれば、 あるいは彗李出現し、 あるいは海沸き山崩れ、

あるいは地震、 水旱あるにて、 その明赫を験すべし。  これが洪範 九  疇 に庶徴を挙げたるゆえんにして、 漢の童子の対策にも、 天人の理を複説して、「人之所為、 其美悪之極、 乃与二天地一流通、 而往来相応。」(人のなすところその美悪の極は、  すなわち天地と流通して往来相応す)といい、「国家有一年な道之敗一 而天乃先出ーー災害ー  以譴二告之一 不>知二自省ー 又出二怪異ー以智二憚之一 尚不>知>変、 而傷敗乃至。」(国家道を失うの敗ありて、 天すなわちまず災害を出だしてもってこれを譴告し、 自ら省みることを知らざれば、 また怪異を出だしてもってこれを警憚し、

なお変を知らずして傷敗すなわち至る)といいたるは、 さすがに達人の言にして、 俗儒の及ぶところにあらず。かかる明赫の天をもって、  冥然無覚のものとなし、 その変異をもおそるることなく、 平常のこととなさんとするは、 あにその心の頑痺せるか、 そもそもその目の睛せるか、 目して土偶といわんも可なり」と。  その言の奇にしてその論の妄なる、 ともに笑わざるを得ず。  けだし、 儒教においては、 天道は善悪賞罰の力を有するがごとく解するをもって、 かくのごとく人事の感応を説かざるを得ざれども、 その説たるや、 畢 覚 するに付会を免れず。 しかして善悪の応報は、 必ずしも外界において現ずるにあらず、 内界においても善悪の応報あることは疑うべからず。 もし人、 善をなさばその心に無上の快楽を占領するを得、 悪を犯せばその心つねに安からずして、  冥々裏に悪鬼に苦しめられざるを得ず。  これを良心の賞罰という。 古来の学者この説を知らざるによりて、  ついに付会の説をなすに至る。  家田〔大峯〕氏の『随意録」に、 天変と人為とに関係なきことを論じて曰く、「古今之人、 有一日月星辰之変一則占以為畑炉於人事一者、 皆惑也、 已日月星辰、 見二変異一之時、未口必有=地上起一災乱一地上起二災乱之時、 未"必有一日月星辰見ーー変異{  而其変異与  災乱ー相会者、 偶然而已、 非二必相応一也、 但風雨水旱之順逆、 則是陰陽升降之事、 而或有下与二人気ー感通上焉、 故古昔三公、 論レ道経>徳、 畑ぞ理陰陽一然則所レ謂天変者、 謂二風雨水旱

之異    而非>謂ー一日月星辰之変一也、 若一夫日月之薄食、 星辰之怪異一則非ー一敢関二於人事一也。」(古今の人、 日月星辰

の変あれば、  すなわち占してもって人事に関するとなすは、  みな惑えるなり。  すでに日月星辰変異をあらわすのとき、 いまだ必ずしも地上に災乱を起こさず。 地上災乱を起こすのとき、 いまだ必ずしも日月星辰変異をあらわすことあらず。  しかして、 その変異と災乱と相会するは偶然のみ、 必ずしも相応するにあらざるなり。  ただし風雨、 水旱の順逆はすなわちこれ陰陽、 昇降のことにして、 あるいは人気と感通するものあり。 ゆえに古昔の三公、道を論じ徳を経て陰陽を嬰 理す。 しからばすなわち、 いわゆる天変なるものは、 風雨、 水旱の異をいって、 日月星辰の変をいうにあらざるなり。 それ日月の薄食、 星辰の怪異のごときは、 すなわち、 あえて人事に関するにあらざるなり)この論、 もとよりいまだその理を尽くさずといえども、  一種の卓見というべし。 天変もし果たして人事に関係あらば、 木の枯るるも、 草の死するも、 鳥の飛び、 虫の鳴くも、 みな人事に関係ありといわざるべからず。 世間あに、  かくのごとき道理を信ずるものあらんや。


   第二四節    占星術


わが国の運気考に類するものにして、 西洋に伝わるものに占星術

ぼくじよう

なるものあり。  この術は天界の星の位置によりて未然の出来事、なかんずく人の運不運を卜 定 する方法なり。この方法は西洋にても中古以来大

いに行われ、 近代に至りても下等社会には今なお存し、  その起こりは東洋に始まれるものなりといえり。 げにやシナにも星宿分野の説ありて、 天を分かちて国に配り、 天界のいずれの部分に変動ありしゅ え、 地のいずこにか

くかくのことあらんと判定す。  また、  インド    エジプト等にもいにしえよりこの説行われ、 しかしてその術の欧

州に入りしは実にヤソ紀元のはじめ、  ロー マに伝えられたるときにありとす。  これより占星家四方よりロー マに集まり、  ついに政府はこの術を行うものを厳刑に処したりといえども、 到底その跡を絶つことあたわざりき。 後に回教の世に起こるに及び、 その主義の運命を重んずるところ占星術と相合するがために、 第七世紀より第十三世紀に当たりては、 アラビア人の一般に信仰するところとなれり。 しかして、 ギリシア人にはこれを信ずるものなかりしという。 ヤソ教にては、 ある信者はこれを排斥せしといえども、 あるいはこれを主張したりしものもなきにあらず。  また、 当時の学者も一般にみなこれを取りしもののごとしといえども、 近世コペルニクス氏が天文の新説を唱えてより以来は、 自然に、 かかる妄説は学者社会にその跡を見ざるに至れり。 現在においては、 わずかに下等人民の間に存するのみなれども、 なお暦日には、  この術によりて考定せし晴雨、 豊凶等を載せたるものあり。

この術にては、 まず第一に星宿を定め、 その定むる方法は一定ならずといえども、 最も普通に用うるものは、これを十二宮に分かつを常とす。  その分かち方は、 南北両極を通じて十二の区画をなし、 なかにおいて地平の上に六、 地平の下に六とし、 その第一は生活の星宿、 第二は富有の星宿、 第三は兄弟、 第四親戚、 第五児女、 第六健康、 第七結婚、 第八死生、 第九宗教、 第十官位、 第十一朋友、 第十二仇敵の星宿となし、  これを時と場所とに配当して、  人の運、 不運、 吉凶、 禍福を考定す。 例えば、 人の初めて生まるるやその星宿を考え、 その生来の性質ならびに未来の出来事までも前定するなり。 しかして、 その各星宿はみな性質を異にし、 各宮にはまた星を配当してその宮の主宰と定め、 さらにこれを人の上に配当す。  これらの類はシナにもなお多く存するところにて、現にわが国に行わるる九星術のごときも、 またこの理にほかならず。  また、 前講に掲げたる二十八宿も占星術の一種にして、  これによりて吉凶を判ずるなり。『暦日諺解にその占考法を示して曰く、「 牛  宿 は吉祥の宿とす。この日生まるる人は福徳あり。 なにごとも求めざるに心にかなうなり。 別してこの日、 午の時を大吉祥とす。 畢、翼、 斗、 壁の四宿を安住の宿とす。 普請、 造作、 種蒔き、 婚礼、 あるいは諸道具を求め、 または仏事等に用いるによし」とあり。 以下これを略す。 以上の諸術は、 もとより一っとして信ずべからず。 その説明は第五講鑑術編に譲る。




   第二五節     祥瑞


古来、 和漢ともに、  ひとり天象運気に考えて人事の吉凶、 禍福を判定するのみならず、 種々の奇瑞、 異象に考えて幸、 不幸を予知するものあり。 あるいは甘露降るといい、 あるいは奇草生ずとか、 奇禽出ずとか、 種々の瑞祥  によりて、 その年その家の吉凶を定む。  これらのことはシナ書中には特に多く、「左伝  『史記』『漢書」等に出ずる例、 いちいち挙ぐるにいとまあらず。「名物六帖」(巻一)によるに曰く、「王維詩、  四海方無>事、 三秋大有年、 白虎通、 甘露美露也、 降則物無レ不レ盛者也、 漢書、 元康元年甘露降ーー未央宮一大赦、 以ーー甘露連降一 改>年為ニ甘露一 白虎通、 孝道平則楚甫生二庖厨一 筵蒲者樹名也、 其葉大ーー於門扉一 不レ揺自扇、 於二飲食一清涼、 助一供養一也、白虎通、 継嗣平則賓連生二於房戸一 賓連木名也、 其状連累相承、 故生二於房戸一 象ーー継嗣一也、 白虎通、 徳至二草木 則朱草生、 晋書五行志、 京房易伝曰、 邪人進賢人逃天雨>毛。」(王維の詩に、 四海まさに事なく、 三秋大いに年あり。「白虎通」に、「甘露は美露なり、 降ればすなわち物として盛んならざるはなし」「漢書」に、「元康元年、 甘露未央宮に降る。 大赦す。  甘露しきりに降るをもって、 年を改めて甘露となす」「白虎通」に、「孝道平らかなればすなわち簑 甫庖 厨 に生ず。 薙蒲は樹の名なり。 その葉、 門の扉より大なり。 うごかさずしておのずからあおぐ。 飲食において清涼、 供養を助くるなり」「白虎通」に、「継嗣平らかなればすなわち賓連房戸に生ず。 賓連は木の名なり。 その状、 連累相承す。  ゆえに房戸に生ず。 継嗣をかたどるなり」「白虎通」に、「徳、 草木に至れば

すなわち朱草生ず」「晋書五行志」京房易伝に曰く、「邪人進み賢人逃るれば天毛をふらす」)また「瑞命記   に曰く、「王者仁慈則芝草生突。」(王者仁慈なればすなわち芝草生ず)また「義楚六帖」に曰く、「醗泉美泉也、 水之精也、 君乗レ土而王、 其政太平則醗泉出湧。」(醗泉は美泉なり、 水の精なり。 君、 土に乗じて王たり。 その政太なればすなわち醜泉出湧す)また、「本朝語圃」(巻一)に慶雲のことを載せり。

さる

貞観十八年七月二十七日申の一刻、 東山に五色の雲を見る。  山の根にそって南北にわたる。 形、  虹のごとくにして虹にあらず。 広さ一丈五尺ばかり、 長さ四、 五丈ばかりに及ぶ。  二刻のころに及んで、 いよいよよこたわって上り、 嶺に至っ て消散す。『天文要録祥瑞図』に曰く、「『非レ気非>煙五色紛縞』(気にあらず煙にあらず五色紛継)なるこれを慶雲といい、 また景雲という」占に曰く、「王者の徳、 山陵に至るときは、  すなわち景雲出ず」また曰く、「天子孝なるときんば景雲あらわる」と、 云云。  この夜戌の時、 黒雲同山の嶺よりおこり西南にわたる。 形、 四幅の帳のごとし。 長さ十丈ばかり。 ときに四方晴明にして雲気あることなし。

「文献通考  物異編には、 木異、 草異、 穀異、 金異、 玉石異、 人異、 詩異、 服異等を列挙せり。 三上参次氏の論

〔「天則」〕にも曰く、「瑞祥の方についていわば、 麒麟の出現こそ、 聖人出でて天下治まるの象といい、 学者多くこれが解をなせるほどなれども、 わが国にてはなきことなればいわず。 その他、 珍禽、 奇獣の出現はわが国にありても、 いかにそのときどきの人を喜ばせたりしか、 試みに年代記をひもときて、  これにちなみある年号の少なからざるを見れば、 多弁をなさずとも、  おのずから明らかなるべし。 異常なる一塊の雲が天の一方にあらわるるときは、 今日の天気予報のごとく、 ただに二十四時間内の気象を示すにとどまらず、 怪雲ならばいた<恐れられ、慶雲ならば大瑞として改元あり(文武天皇、 大宝四年を改めて慶雲元年としたまう。 その後三年、 唐の容宗に景雲の年号あり。  この文いちいち祥災の事例を挙げずといえども、  この二年号は大抵同時のものゆえ、 特にここにしるす)。 大赦もあるのみならず、 六位以下、 文武官の主典以上、  および孝子、 順孫、 節婦、 義夫に位をたまい、鰈寡孤独を賑懺 し、 田租を免じたまうこともありき」かくのごとき奇瑞、 吉祥は、  さきの運気考と同じく無証の妄説なるべきも、 物理上、 多少一理を有するものなきにあらず。 例えば、 大雪をもって豊年の兆しとなすがごとき、 あるいは穀瑞、 嘉禾の生ずるを吉祥となすがごときこれなり。 冬寒ければ夏暑く、 冬多く雪ふれば夏雨少なくして天候順を得べき理なれば、 雪と豊年との関係はたやすく知るべし。 また、 嘉禾を生ずる年は通常豊年にして、 稲苗の生育いたっ てよき年なり。 年すでに豊 饒 なれば、 人気穏やかに天下無事なるべし。 もし心理的に考察しきたるときは、 人の感情および想像上より、 あるいはこれを迎え、 あるいはこれを造り出だせるや明らかなり。 人もし奇異の現象に接すれば、 その心必ず迷い、 必ず動き、 これにつき種々の妄想像を描き、  一現象を認めて吉瑞となすときは、 その心ようやく安んじ、 したがってその結果幸福を得べく、 これに反して凶兆となすときは、 その心に疑燿の念を生じ、 自ら不幸を招くに至るべし。

しかしてまた、 祥瑞の偶然に属するものもすくなしとせず。『三余清事」(巻六)にその一例を示して曰く、「近年我京師亦盛相伝甘露降、 有二  樵人一告>予曰、 此即猥妄突、 春夏之交、 葉上虫糞、 夜中為>露所二泊濡一則微液貼

滞有伽竪軟饒一 祇>之較甘、 偶有二  軽薄少年    戯>之以為ー甘ー   露一 則一口伝>百、 百伝>千、 遂至二川騰海沸一耳、 樵人告語如>是也、 予謂古来震旦君臣、 指以為二甘露醗泉朱草紫芝白麟赤雁神雀鳳凰一者、 皆応>類>此。」(近年わが京師また盛んに相伝う、  甘露降ると。  一樵 人あり、 予に告げて曰く、「これ、  すなわち猥妄なり。  春夏の交、 葉上の虫糞、 夜中露のために油濡せられ、  すなわち微液貼滞し、 軟鍋に似たるあり。  これをねぶればやや甘し。 たまたま一の軽薄の少年あり、  これに戯るるにもって甘露となす。  すなわち一口百に伝わり、 百、 千に伝わり、  ついに川のごとくにのぼり、 海のごとくにわくに至るのみ」樵人告げて語ることかくのごとし。 予おもうに、 古来震旦の君臣、 指してもって甘露、 醜泉、 朱草、 紫芝、 白麟、 赤雁、 神雀、 鳳凰なるもの、  みなまさにこれに類すべし。)これ実に卓見なり。 世の瑞祥たいていかくのごとくなるべし。 また、同書に祥瑞の信ずるに足らざることを弁じて曰く、「或有如炉余曰、 歴代祥瑞皆可>信敗、 予答>之曰、 彼多妖妄而近>説、 不缶?悉信一也。」(あるいは予に問うあり、 曰く、「歴代の祥瑞みな信ずべきか」予これに答えて曰く、「かの多くは妖妄にして説に近し。  ことごとく信ずべからざるなり」)また曰く、「儒有レ真有レ俗、 真儒不>説一祥瑞一又不恥即災異言北子是也、 論語云、 子不レ語二怪力乱神ご(儒に真あり俗あり。 真儒は祥瑞を説かず、 また災異を説かず、 孔子これなり。『論語にいく、「子は怪力乱神を語らず」)と。  これまた活眼というべし。 人もしその心に一点の雲影をとどめず、  ひとり良心の月光その清輝を放つときは、 なんぞ物象の吉凶を論ずるを要せんや。 しかるに、 その心明らかならざるをもっ て、  かくのごとき迷いを生ずるなり。  ゆえに人の祥瑞を談ずるは、  一片の迷心より出ずること明らかなり。  すでに祥瑞を論ずれば、 凶変、 不祥について述べざるべからざれども、 天変、 地妖と人事との関係について古来想像せし妄説は、 理学部門第一講および第二講に掲げたるをもってこれを略す。



   第二六節

鶉鳴き、  犬鳴き


本邦民間にては、  鶉 の鳴き声、 犬の鳴き声等によりて、 吉凶を前知し得るものと信ぜり。 禽 獣 の鳴き声に関しては、  ひとりわが国のみならず他国にてもまたこれを唱うるなり。 もし、 これを経験に徴するに、 多少その事実なきにあらざるがごとし。  人のまさに死なんとするや、 鶉の四辺に集まりてしきりに鳴きさわぐがごとき、 あるいは犬の声のもの悲しげなることあるがごとき、  これ必ず道理の存するところならん。  これにつきて余は一説を立てて、「哲学会雑誌」に載せしことあり。 その意は、 鶉あるいは犬のただちに人間の死を知れるにはあらざれども、 ここに天気の晴雨のこれが媒介となるありて、 雅も犬もこの天気によりて鳴き、 長く病床に臥したる人も、この天気によりてついに絶命に及ぶことあり。 すなわち通例、 病者の息を引くときは、 天気濠々として暗く、 精神の鬱々晴れざるときに多し。  かかる天気のときは、 健康の人にても気分おのずから快からず、 いわんや病者をや。 犬の声のもの憂く、 鶉の声のすさまじげなるも、  また、 かかる天気の日にありとす。 しからば犬、 雅の鳴くは、 人間の死に直接の関係あるにあらずして、 人の死すべき気候、 天気に関係を有するなり。 換言すれば、 犬、鴻は天気に対して鳴き、 病客は天気によりて絶命に及ぶなり。  ゆえに、 かくのごときは偶然的暗合なり。 しかるに、 禽獣よく人の死を予知する力ありと思うがごときは、 全く原因、 結果の関係を知らざるより起こりしものといわざるべからず。

これ、 畢覚 するに物理的説明なり。 もし心理的説明によれば、 犬や鶉は平日にてもときどき鳴くことあるも、だれもその声に注意せず。  しかるに人の死せんとするに当たりては、 その声の人の耳に入りやすき事情ありて、人の死と犬、 鶉と関係あるもののごとくに考うるに至る。 かつ、 犬、 騰が人の死を前知する力あることは、 従来一般に唱うるところなるをもって、その記憶はたれびとの心中にも存するがゆえに、いわゆる予期意向によりて、犬や鴻の声がなんとなくかなしく聞こえ、 死を予言するがごとく感ずるなり。  ことに病客の危篤なるや、 そのそばに伴う者みだりに言語を発せず、  一家しんしんとして四隣寂蓼たるものなり。  かくのごとき場合には、 鳥声、犬語の人の耳に触れやすきものなり。  いわんや人に予期意向なるものあるをや。  これに加うるに、 病客も平素、犬、 嗚と絶命との間に関係あることの記憶を有するをもって、 その声の耳に触るるや、 知らず識らず自ら迎えて死を招くに至ることも、 またなしというべからず。

以上、 物理的、 心理的二種の原因によりて、 犬、 鶉が人の死を前知するがごとき結果を生ずるに至るなり。 決して禽獣の知力よくこれを前知するにあらず。  またある人の説に、 病客の死するに臨んでは、  一種のガスをその体より発散するものにして、 鶉のごとき鳥はその気に感じて鳴くものなりという。  これ全く物理的説明にして、化学上の問題に属し余が専門外なれば、 その真偽の判定はその学科専門の人に譲る。

従来、 鶉および犬は人の吉凶を前知する力ありと信じたるをもって、 その鳴き声のあしきときはあらかじめ凶事の起こらんことを察し、 これを避くるマジナイのごときものあり。『万宝大雑書』に、 鶉鳴きのあしきときに、

「鴻なくよろづ神のちかひにやあじほんふしやうかしはふくとく」といえる歌を、 三べん唱えれば災害なしという。  また、 雅の鳴き声について吉凶を知る法を同書のうちに掲げり。  その一例を挙ぐれば、 寅の時に東の方にて鳴けば人より物を受くることあり、 午の時に南方にて鳴けば争いあり、 酉の時に西方にて鳴けば客人きたる等とえり。  また同書に、 犬の長吠えについて吉凶を知る法を示せり。  子の日に吠ゆるときは人多くきたる、  丑の日れば五人きたる、 寅の日なれば人死する等といえり。  かくのごときは妄中の妄説にて、 もとより信ずるに足らず。  しかれども禽獣、 多少末然のことを前知する力あり。  その中には、 物理上必然の道理ありて存するものなきにあらず。 しかれども、 世間一般に信ずるところはその道理以外に及ぽすをもって、 余はこれを排斥するなり。

例えば、 鶉がその年の風水を知り、   築  が天気の晴雨を知り、 蛇もあらかじめ水の出ずるを知り、 蟻も晴雨を知るというがごときは多少その理由あるも、 決して通俗の信ずるがごとく確実なるものにあらず。 もっとも、 動物中には一種の本能力ありて、 特殊の感覚においては人類に勝るものあり。 例えば、 蟻の砂糖における、 雀の穀物における

一種特殊の感覚によりてこれを感ずること速やかなるによれり。  ゆえに、 気圧の変化、 寒暖の変化のごとき、 人類の感じ得ざるものを、 動物よく感ずることあるべし。『随意録」に、  鼠 に火災を前知する力あることについて、「伝言、 鼠能知ーー火災一 予避二其所一 唐李骸国史補云、 舟人言、 鼠亦有レ霊、 舟中露鼠散走、 旬日必有二覆溺之患一 然則不二独火災一也、 此佗鳥獣、 前二知風雨災_変  者、 亦多有焉。」(伝えいう、「鼠はよく火災を知り、 あらかじめその所を避く」と。 唐の李 肇 の『国史補』にいわく、「舟人いわく、『鼠また霊あり。 舟中の群鼠散じ走れば、 旬日にして必ず覆溺のうれいあり。  しからばすなわち、  ひとり火災のみにあらざるなり』」この他、 鳥獣の風雨、 災変を前知するものまた多くあり)と説きたり。 しかれども、  かくのごときは必然の道理よりは、 むしろ偶然の暗合に属すること多きをもって、 決して信拠すべからず。  これを要するに、 禽獣の前知力について愚俗一般に信ずるもののごときは、 たいてい妄説と断言して可なり。



第四講 卜吟巫編



第二七節

卜策論


前講に、 占考に属する判定法を講述したるが、  これ、 自然に現ずる変象について吉凶を判断するのみ。 もし、全く人為に属するものを挙ぐれば卜痙これなり。  これ、  いわゆる人術にして自然に定まるものにあらず。 人相のごときも人術なるも、 人の相貌そのものは自然に定まるものなれば、 卜痙とおのずから異なるところあり。 余はこれより卜筵について講述する意なるが、 その術の果たして適中すべきやいなやは、 第一講においてすでに一言せるごとく、 はなはだその結果を怪しまざるを得ず。 世の諺にも「あたるも八卦、 あたらぬも八卦」といえり。こは十中の五はあたれども、 残りの五はあたらずという意にして、 これ、 そのあたるは偶然なりというを義とす。しかるに世の卜痙家は、 自ら十は十ながらすべて適中するものなりというは、 自信のはなはだしき、  ひとり世間を欺くのみにあらず、 また自身を欺くものなりというべし。 なんとなれば、  これを実際上に試むるも、 百発百中となることのごときは、 決してありうることにあらざればなり。 古来、 和漢ともに卜笈をもって種々の出来事を占定したるは、 もと天地一元、 天人相感のシナ人の想像より出でたるものにして、 その妄なるはいうまでもなしといえども、「籠のすさび」にその理を示して曰く、

しるし

「卜筵の 験 あるはなにをもってしれることにや」と問う人ありしに、 ある人のこたえに、「嫌疑、 猶予を決するに、 奇か偶かと物をなげうちて占うがごとし。 その応否は問うに及ばぬことなり」という。  余はしからずとて、 中庸先知のことをひきていいしことありしが、 今おもうに、 遠く書を引きていうをまたず。  およそ

天、 地、  人は一気にて、  これに呼べばかれにこたえ、 感ずれば通ずるの類にて、 つも験なきはあらず。 肉眼ことごとく見ることを得ざるゆえなるべし。 あるいはきざして変じ、 きざさずして忽然と出できたるもあるべし。  ゆえに、 人ことごとくこれを見ず、 見ても信ぜず意とせざるにや。 俗諺に「人をそしらばめしろをおけ、 呼びにやるよりそしるがはやき」のごとき、 その人きたらんとする機すでにこれにこたえて、  おぽえ

ず知らずその人を思い出ずるによりて、 誹謗の言も出だすなり。 これらのことにても思い半ばに過ぎんか。これ天、 地、 人、 感応の理を説くものなれども、 今日の学理に照らして証明すべからざること明らかなり。 井 上毅氏の「易論」に曰く、「卜笈太古之俗也、 非  聖人之制作一也、 逸古蒙昧神人不>分、 其民茫茫然若有>失焉、 較有ーーオ知一者創二作神異之説ー曰、 人生吉凶之不>定、 悔吝之不レ均、 冥冥之中、 有下主二宰之至界 至誠求ら之、 可ー以前知一也、 為 ト'筵之始  焉、 好>事者従脩二其辞而託 乏 聖人一 於>是乎有ーー易之書一故儒者之有>易、 猶二仏之有  天堂地獄之説{  而非二上智之所>取也。」(卜筵は太古の俗なり。 聖人の制作にあらざるなり。 逸古蒙昧神人分かれず、その民は茫々然たり。 もし失あれば、 ややオ知ある者、 神異の説を創作して曰く、「人生の吉凶の定まらざる、 悔吝のひとしからざる、 冥々のうちにこれを主宰するものあり。 至誠これを求めばもって前知すべし。 卜筵のはじめとなす。 事を好むもの、 したがってその辞を修してこれを聖人に託す。  ここにおいてか易の書あり。  ゆえに儒者の易あるは、 なお仏の天堂、 地獄の説あるがごとし。 しかして、 上知の取るところにあらざるなり」)と。 これ、易をもって太古の遺俗とする論にして、 すなわち排易論なり。 余も卜笈を排するものの一人なり。 しかれども、みだりにこれを斥して虚妄となすにあらず、 そのうちに取るべきところはこれを取り、 排すべきところはこれを排するなり。  まず、 次節にその理由を述ぶべし。



   第二八節    卜筵の通難


卜筵に対して通俗の難ずるところは、  主として下のニカ条にあり。 第一、 卜筵によりて果たして未来のことを

前知すべきものなりとせば、 今、 甲乙両人おのおの同一事を卜定せんに、 その結果つねに相違するはいかん。 また一人にても、 もし同一事を両度うらなうことあるときは、 前後おのおの異なりたる結果を示すはいかん。 はなはだしきは全く反対の結果を生ずることあり。  これ最も疑うべしとなす。 第二、 卜筵によりて果たして吉凶、 禍福を占定すること、 十は十ながら確実なるほどのものならんには、 これを信ずるものの家はつねに富貴、  幸福を得て、  これを信ぜざるものは常に不幸に陥るべき理なれども、 実際上決してしからずして、 かえってこれを信ずるものは下等貧賤の地位にあるもの多きはいかんと。 以上ニカ条の難問は普通の疑問なるが、  これに対して卜痙家の答うるところを見るに曰く、「もとより卜筵によりて吉凶、 禍福を判定するには、 たといいかなる場合にても同一の結果を生ずべきは必然なり。  さりながら、  すでにひとたびこれをうらない、 また重ねてこれを問うがごときは、  これ卜筵そのものを疑うゆえんにして、 換言すれば、 卜痙を信仰せざるものなり。 信仰せざるものには天地神明の真を告ぐる道理なし」と。  また曰く、「人もし真に神明に通ずることを得ば、 百発百中もとより違うことあるべき理なし。 しかれども、 かくのごとき人は世間まことにまれなるがゆえ、 また自らしかるあたわざるのみ」と。 卜筵家のいうところ、 果たしてこれ道理ありとなすか。 もし、 再び問うがごときは疑念を抱くものなれば、 神明その真を告げたまわずといわば、 問うこと一回なるものはその結果確実を得、 再びするものは必ずその結果正しからざるべき理なり。 しかるに、 かえって一回にして誤り、 二回にして適中するがごときことあるはいかん卜筵家の言、 けだしまた遁辞なるのみ。

つぎに、 神明に通じ得たるものの卜定するところは、 決してあやまりなしというか。 しからば、 そのいわゆる神明に通じたる人とはいかなる人にして、 なにを標準としてこれを定め得べきや。 もし、 神明に通じたる人のト定するところ必ず適中すといわば、 よく適中し得たる人、 すなわちこれ神明に通じたる人とせんか。 愚痴、 無学の老翁かえってよく事実に適中し、 知識ある人の卜筵はかえって事実に反するがごとき結果をみることあるはなんぞや。 つぎに、 卜筵家は第二条の疑問に答えて曰く、「卜笈なるものは、 すべて人の行為の方針を指示するに過ぎず。  すなわち、  かかる場合にはかくせざるべからず、 他の場合にはかくなすべからずと教うるのみにして、 それより以上は、 その人が卜者の言に従ってこれをその身に行わざるべからず。 しかるに、 世の卜筵を妄信するものは、  みだりに卜筵に依頼して、 さらにその身に行うべきことをなさず。  ゆえに、 卜策によりて幸福を得ざることあり。  しかれども、  これ、 卜痙の罪にあらずして、  これを妄信するものの罪なり」と。 あるいは曰く、「生来不幸多き人にして火災、 盗難、 病患等、 続々その家に起こるべきものも、 いったん卜痙を信じて、 あらかじめその起こることを知り、  これにより禍害を未発未然に防ぐことを得るときは、 多少その不幸を減じ得るは必然なり。もし卜筵を信じて、 なおその身に寸分の不幸なきを保すべからずといえども、 その人にして卜痙を信ぜざるときは、  これに数倍せる不幸に際会すべし」と。  これ、 もとより易者の遁辞にして信ずるに足らず。  およそ世界のこと、  すべて人力をもって左右し得べきものにあらず。 孔子のいわゆる天命、 天道は、 人力にて動かすべからざるものをいう。 例えば、 人の生死のごとき、 国家の盛衰のごとき、 世事の吉凶、 禍福のごときは、  みな人力のいかんともすべからざること、 あたかも気候の寒暖、 天気の晴雨のいかんともすべからざるがごとし。 吾人の貧富も人力によりて左右し得というも、 そのうちにまた、  おのずから動かすべからざるものありて存す。例えば、 吾人の欲望は実に無限にして、  これをみたすべき材料は有限なれば、 たとい世界の人がことごとくト筵を信ずるというもいかでこの有限の供給をもって無限の需要を満たすを得んや。 かつそれ、 天下みな卜旅信じなば、 天下みなことごとく幸福を得て禍害を免るべしとせんか。  これ、 決してその理あることあたわざるな一方に不幸のことのなくんば、 なにをもって他方に幸福のものあらんや。  ここに富貴者あるは、 かしこに貧賤のものあるによる。 富貴、 貧賤、 吉凶、 禍福はみな相対的成立にして、 その一なければ他も同時に成立せざるべし。  一方に富貴あるは他方に貧賤あるゆえんにして、 たとい神仏の力といえども、 決してこの相対的成立を動ぜいちくかすべからず。いわんや、わずかに応巫竹によりて卜するをや。もっとも易痙家は曰く、「易はヤソ教の神のごとく、天然に一定せる不幸、 禍災を転じて幸福となすというにあらず。 ただ禍福、 吉凶を前知してこれを防ぐ道を講ずるのみ」と。 しかるに、 易筵によりて未然の変化を前知し得るというは、 その信ずべからざること、 ヤソ教の造物主が六日間に世界万物を創造せりといえる説となんぞ選ばん。 もし、 痙竹によりて未然を知り得るならば、 箸を用うるも、 碁石を用うるも、 同様に知り得べき理なり。 雲の飛び、 葉の舞い、 水流れ、 鳥なくについても、 吾人の一心この点に会注しきたらば、 同じく未来のことを感知し得べき理なり。 なんぞ、  ひとり筵竹に限るの理あらんや。  さきに第一講において余が述ぶるがごとく、 明日、 来年、 もしくは未来幾百千年の後といえども、 今日の原因より相連続してきたすところの結果にほかならざれば、 もし吾人の知光赫々として天地六合を遍照するカあるときは、 未来のことも今日にありて知るを得というも、 あえて怪しむに足らず。  しかれども、 易書に伝うるところの方法により、 数十本の筵竹に考えて、 未然を前知するというに至りては、 いやしくも今日の学術の一端をうかがうものは、 信ずることあたわざるは明らかなり。 しかして、  これを固信するもののごときは、  シナ崇拝の極、  ここに至るものといわざるを得ず。


   

   第二九節    卜築につきての意見

およそ世の卜痙を信ずるものはただ一心にこれを信じ、  これを排するものはまた一口にこれを排し、 ともに偏見たるを免れず。 今、 余は偏信家にくみせず、  また全排説に賛せず、 その中間にありて一説をとるものなり。 そもそも易理の高妙にして、  シナ哲学中の第一位を占むるものなることは、 余が第二講においてもすでに一言したることにして、 その最も高妙なる点は、 太極進化の理を説くにあり。 しかしてまた、 その理を人事に応用して、天人一体の原理にもとづき、 もって修身経国の道を論ずるは、  これまたその妙なきにあらず。 予、 先年「易論」

を著してこのことを論ぜり。 今、 その論意をここに述ぶるは卜痙論を評するに必要なれば、 左にその大要を摘示すべし。

それシナ哲学一種の特風は、 天人一体論によりて修身を立つるにありて、 その国の学者は古来、  上尭舜より下孔孟老荘に至るまで、  みなことごとく人道のもとは天にありと信ずるなり。 今その理由を述べんに、 第一に、  シナ学者は人にさきだちて天地すでに存するありと考え、 天地の二気交感して人類万物を化生するに至ると信ずるをもって、 天地の規則はすなわち吾人の規則なりと定むるなり。 第二に、  シナ学者は天地も万物ももと一体の太極より開発したるをもって、 人も天地も同体一理なりと信じ、 天象を考え、 天理にもとづきて人倫を立つるに至るなり。 第三に    シナ人は人は天に勝つべからず、 天つねに人を制するをみて、 自ら天のおそるべきを知り、  これに従いこれにのっとりて、 もって人の道を立つるに至るなり。  これらの理によりて、 天理をもって人道のもとと定むる一種の学風の起これるならん。 しかして、 その起こるゆえんは易をもって知るべし。 今、 易書に述ぶるところによりて、 試みに天地と人との相似たる点を挙ぐれば、 万物は天地化合によりて生育し、 社会は君臣共和によりて成立す。 天地和せざれば災害起こり、 君臣和せざれば争乱起こる。 天に日月の別あり、 人に男女の別あり、 日は剛強の性を有し、 月は柔順の性を帯ぶ、 男女またしかり。 天に昼夜四時の変あり、 人に盛衰死生の変あり、 天運循環して際涯なし、 人事またしかり。  ゆえに人、仰ぎて天象をみれば、 たちまち天人の相似たるを知るべし、 俯して地理を察すれば、 また人の天地とその徳を合するを知るべし。  これ、  シナ人の天にのっとりて教えを設くるに至りしゅぇ んなり。 かつそれ、 人老いざらんと欲するも、 歳月とともに移りてとどまることあたわず、 人死せざらんと祈るも、 天運とともに去りてまためぐらすべからず。  これまた自らシナ人をして、 天に従うをもって道を定めしむるに至りしゅぇ んなり。  かつ、 易中説くところを考うるに、  シナ学者は天地万物すでに太極一元より分化したるをもって、 人また天地とともに次第に進化すべしと信ず。  社会の発達、  一個人の生長、  みな同一理をもって論じたるは、 実に古今の卓見というべし。 易中六十四卦を序列するや、 はじめに乾坤二卦を置きて、 つぎに屯蒙需 訟 と次第するは、 天地ありてしかして後に、 万物の漸々生長発育するゆえんを示すなり。 すなわち「序卦〔伝〕   に説くがごとし。 かくして万物の進化、  社会の進化、  一個人の進化、  みな簡易に始まりて複雑に赴くゆえんを知らしむ。 方今、 西洋進化学家の説くところの順序、  これにほかならず。 別して、 その万物は社会および一個人とともに進化すとなすがごときは、 西洋学者の論意とその軌を同じくす。  ゆえに、 年月をもってこれを較すれば、 進化論の濫腸 はシナに起こるというも、 あに不可ならんや。

以上論ずるごとく、 天人一体の理を知り、 人の天に勝つべからざるゆえんを知るときは、 天理にもとづきて人道を立つるゆえん、  およびその理に従うと従わざるとによりて善悪の分かるるゆえん、 また知るべし。 天理に従えば吉となり、 天行に抗すれば凶となる。 吉はすなわち善にして、 凶はすなわち悪なり。 人をしてその凶を避け、その善に就かしむるもの、  すなわち道なり。  これ、 孔子の易理をもって人道を説くゆえんなり。 今、 その証を挙ぐるに、「繋辞〔伝〕」に曰く、

一陰一陽之謂>道、 継>之者善也、 成>之者性也。

(一陰一陽これを道という。  これを継ぐものは善なり、 これを成すものは性なり)聖人設>卦観>象、 繋>辞焉而明二吉凶

聖人は卦を設けて象をみ、 辞をかけて吉凶を明らかにす

天地設>位、 而易行二乎其中 、 成性存存道義之門也。

(天地、 位を設けて易そのうちに行わる。 性をなし存すべきを存するは道義の門なり)

これを卦の辞に考うるに、 気候の増長を見て悪の増長を戒めて、 霜をふんで堅氷至るといい、 天運極まりあるを見て栄利に乗ずべからざるを戒めて、 充竜悔ありという。  これ、 天理によりて善悪、 吉凶の起こるゆえんを示すなり。  また、  これを象の辞に考うるに、 君子の天をみて自ら戒むるを説きて曰く、

天行健、 君子以自強不>息。 地勢坤、 君子以厚徳載伝物。 雲雷屯、 君子以経綸。 山下出泉蒙、 君子以果レ行育レ徳  ゜

(天行は健なり。 君子もって自強してやまず。 地勢は坤なり。 君子もって厚徳をもて物を載す。 雲雷は屯なり。 君子もって経綸す。 山下に出泉あるは蒙なり。 君子もって行を果たし徳をやしなう)

かくのごとく、 天地にのっとりて行うものを君子とし、 行わざる者を小人とす。  すなわち、 天に従うと従わざるとによりて、 君子、 小人、 吉凶、 善悪分かるるなり。 天地の理は盈鹿、 消長の変あるをもって、  その理を見て行いを戒むるを人道の要点とす。  すなわち、 天運循環の変を見て人事循環の理を知り、 不中不正を凶とし、 中正を吉とするなり。  ここにその証を引くに左のごとし、

繋辞曰、 日往則月来、 月往則日来、 日月相推而明生焉、 寒往則暑来、 暑往則寒来、 寒暑相推而歳成焉、 往者屈也、 来者信也、 屈信相感而利生焉。

「繋辞に曰く、「日ゆけば月きたり、 月ゆけば日きたり、 日月相推して明生ず。 寒ゆけば暑きたり、 暑ゆけば寒きたり、 寒暑相推して歳なる。 ゆくとは屈するなり、 きたるとはのぶるなり。 屈信相感じて利生ず」)又曰、 易窮則変、 変則通、 通則久。

(また曰く、「易は窮まれば変じ、 変ずれば通じ、 通ずれば久し」)

象曰、 日中則戻、 月盈則食、 天地盈虚、 与>時消息、 而況於>人乎、 況於一鬼神一乎  ゜(象に曰く、「日、 中すればすなわちかたむき、 月みつればすなわち食く。 天地の盈虚は、 時と消息す。 しかるを、 いわんや人においてをや    いわんや鬼神においておや」)

又曰、 君子尚二消息盈虚一 天行也。

(また曰く、「君子の消息、 盈虚をたっとぶは、 天の行なればなり」)

又曰、 天道肪>盈而益>謙、 地道変>盈而流>謙、 鬼神害>盈而福>謙、 人道悪>盈而好>謙(また曰く、「天道は盈をかきて謙に益し、 地道は盈を変じて謙に流き、 鬼神は盈を害して謙に福 いし、 人

道は盈をにくみて謙を好む」)

諸卦の変化、 またこの理にもとづく。 乾卦極まれば坤に変じ、 泰極まれば否となる。 大有に次ぐに謙をもってし、 随に次ぐに盤をもってす。  これみな天運極まりあるゆえんを示すなり。 天にありては一寒一暑、 地にありては一栄一枯、 人にありては一生一死、 国にありては一盛一衰、 自然の理にして吾人の免るべからざるものなり。安楽に過ぐれば憂患起こり、 富貴に乗ずれば貧賤となる。  これ事実上の結果にして、 帰納の規則というべし。  これをもって、 人もしその生を全うし、  その楽を長ぜんと欲せば、 よろしく中正を守りて一方に偏筒すべからず。

ゆえに、「繋辞    にこれを戒めて曰く、

危者、 安二其位一者也、  亡者、 保二其存玉者也、 乱者、 有二其治一者也、 是故君子安而不レ忘>危、 存而不>忘レ亡、治而不レ忘>乱、 是以身安而国家可如保也。

(危うしとする者はその位に安んずる者なり、 ほろびんとする者はその存を保つ者なり、 乱るるとする者はその治をたもつ者なり。  このゆえに君子は、 安くして危うきを忘れず、 存してほろぶるを忘れず、  治まりて乱るるを忘れず。  これをもっ て、 身安くして国家保つべきなり

また曰く、

危者使>平、 易者使傾、 其道甚大、 百物不廃、 催以終始、 其要無咎、 此之謂易之道一也。

(危ぶむ者は平らかならしめ、  易 る者は傾かしむ。 その道はなはだ大にして、 百物すたれず。 おそれてもっ

て終始すればその要はとがなし。  これを、  これ易の道というなり)また、「文言」にこれを戒めて曰く、

君子進袖裟ぎ業、 忠信所ー和盆喪徳也、 修レ辞立二其誠{  所二以居>業也、 知玉至至>之、 可二与幾一也、 知>終終>之、可ー与存涵義也、 是故居一上位 忘四不臼醗、 在ーー下位一而不>憂、 故乾乾、 因二其時一而揚、 雖レ危無>咎突。

(君子は徳に進み業を修む。 忠信は徳に進むゆえんなり。  ことばを修めその誠を立つるは、 業におるゆえんなり。 至るを知りてこれに至る、 ともに幾(をいう) べきなり。 終わるを知りてこれを終わる、 ともに義を存すべきなり。  このゆえに、  上位におりておごらず、 下位にありて憂えず。  ゆえに乾乾す。 そのときによりておそる。 危うしといえどもとがなきなり)

また曰く、

冗之為レ言也、 知>進而不レ知>退、 知レ存而不レ知丘」、 知>得而不>知祉其正一者、 其唯聖人乎 其唯聖人乎、 知二進退存亡而不レ失二

(冗の言たる、 進むを知って退くを知らず、 存するを知ってほろぶるを知らず、 得るを知ってうしなうを知らざるなり。  それただ聖人か。 進退、  存亡を知ってその正を失わざるものは、 それただ聖人か)

卦の辞にも、「無>平不品阪無レ性不>復、 限貞無込咎」(平なく、 破なく、 性なく、 復せず、 銀貞とがなし)とあり。あるいは「其亡其亡繋二干芭桑  」(それほろびなん、 それほろびなんとて、 芭桑にかかる)とありて、  みなもって人の一方に偏椅すれば害あるゆえんをおしうるなり。かくして卦中、 中位を得るを吉とし、  これを得ざるを凶とす。 善悪これによりて分かる。 中庸は易理にもとづきて起こること明らかなり。 しかして易中、 中附を貴ぶの意、 人をして永く吉利を得せしめんとするにあり。  ゆ

えに卦交の辞に、  つねに吉凶または利不利の字を添えて、 もって人を戒む。 その吉利はいわゆる人の幸福なり。

これによりてこれをみれば、 易の目的は人の幸福を増進するにあり。 ゆえに象に曰く、乾道変化、 各正二性命一 保一合大和一 乃利貞、 首二出庶物一 万国咸寧  ゜

(乾道変化しておのおの性命を正しくし、 大和を保合するは、  すなわち利貞なり。 庶物に首出して、 万国ことごとくやすし

坤卦の辞に曰く、

君子有レ餃>往、 先迷、 後得レ主。

(君子ゆくところあるに、 さきんずれば迷い、  おくるれば主を得)

その他、 毎卦、 利を説かざるはなし。  かつ易に、 天理にもとづき勧善懲悪を論じて「文言に曰く、

積善之家必有二余慶一 積不善之家必有二余残{  臣試二其君一 子試二其父一 非二  朝一夕之故一 其所ーー由来一者漸突、由=一方  之不二早弁一也。(積善の家には必ず余慶あり、 積不善の家には必ず余殊あり。 臣にしてその君を試し、 子にしてその父を試、  一朝一夕のことにあらず。 そのよってきたるところのもの漸なり。  これを弁じて早く弁ぜざるによるなり)

といい、「繋辞」に善不>積不レ足二以成る名、 悪不レ積不>足二以滅玉身、 小人以二小善一為レ無>益而弗レ為也、 以二小悪一為レ無レ傷而弗>去也、 故悪積而不缶ジ掩、 罪大而不缶?解。

(善積まざればもって名を成すにたらず、 悪積まざればもって身を滅ぽすに足らず。 小人は小善をもって益なしとなしてなさざるなり、 小悪をもって傷 うなしとなして去らざるなり。 ゆえに、 悪積みておおうべからず、 罪大にして解くべからず

これによりてこれをみるに、 天地の理にもとづきて道徳のおおもとを立つるがごときは、 千古の卓見というべし。 しかるに、  ここにひとり怪しむべきは、 余が前節に述ぶるがごとく、 易を卜研巫に用うるにあり。 易の書たるや、 陰陽二気の変化を論じたるのみにて、 その体もとより神にあらず。 あに、 よく未来の吉凶を前見するの力ぁらんや。  しかるに、 世間これをもって運命前知の具となすは、 道理上解するあたわざるところなり。 余おもえらく、  これ、 もとより易の方便にして本意にあらざるなりと。 しかして、  これを卜策に用うるに至りしは、 またその理なきにあらず。  まずその方便に過ぎざるゆえんを述ぶるに、 古代の人民は一般に知浅く理に暗きをもっ て、はなはだ事を判じ疑いを決するの力に乏し。  ゆえに、 聖人その迷いを定めんがために易を用いたるなり。  これを

「繋辞」に考うるに、

夫易何為者也、 夫易開>物成レ務、 冒ーー天下之道一 如>斯而已者也、 是故聖人以通二天下之志一 以定二天下之業一以断 天下之疑

(それ、 易はなんするものぞ。 それ、 易は物を開き務めをなし、 天下の道を冒う。  かくのごときのみなるものなり。  このゆえに聖人は、 もって天下の志を通じ、 もって天下の業を定め、 もって天下の疑いを断ず)

「黄氏易伝    にまたいえるあり、

昔者聖人之作>易也、因ーー河図一而画>卦命レ交、因ーー卦交一而取>象繋レ辞、更ニニ聖人一而卦交象辞始備、其要皆依ニ

卜筵    以為函教使下天下後世之人、 得中以決二嫌疑己生猶予一 不占迷二於吉凶悔吝之途一而已  ゜

(昔、 聖人の易を作るや、 河図によりて卦を画し交に命じ、 卦交によりて象 を取り辞をかけ、 三聖人をへて

卦交、 象辞はじめて備わる。 その要は、  みな卜笈によってもって教えをなし、 天下後世の人をしてもって嫌疑を決し、 猶予を定め、 吉凶、 悔吝の途に迷わざるを得せしむるのみ)

この言によるに、 易は聖人の、 天下の人をして吉凶、 運不運に迷わざらしむる方便なること明らかなり。  かつ易の書たる、 理は本にして象数は末なり。 人もしただちにその理に体達することを得ば、 象数を用うることを要せずといえども、 よくこれを知るもの少なきをもっ て、 聖人その意を象数に寓するなり。  ゆえに「易雅」に、

昔者聖人作レ易、 将ー以明>道也、 道無形、 易従而明>之、 唯寓二之象数一而已、 象数非 薪二以為ら易、 非二象数一則無  以見>易、 易不缶?以見一 則道何由而明哉、 是故求>道者、 必於レ易求、 易者必於二象数

(昔、 聖人の易を作る、 まさにもって道を明らかにせんとするなり。 道は無形なり。 易、 したがってこれを

明らかにする。 ただ、  これを象数に寓するのみ。 象数は易をなすゆえんにあらざるも、 象数にあらざれば、すなわちもって易をあらわすことなし。 易もってあらわすべからずんば、  すなわち道はなにによりて明らかにせんや。  このゆえに、 道をもとむる者は、 必ず易において求め、 易は必ず象数においてす)

とあり。  これによりてこれをみれば、 象数すでに易理を示す方便にほかならざること明らかなり。 果たしてしからば、 卜筵の方便なるは別に証するを要せざるなり。 しかして、 世間これを卜筵に用うるに至りしは、  またあえて偶然にあらず。  その原因、 第一に、 易の陰陽六十四卦のうち、 古今東西、 天地万物、 変化の理、  一として具備

せざるはなきをもって、 未来の天運、 人事、 吉凶、 禍福の理、 またことごとくこの象数のうちに備わると信ずるにより、 第二に、 人と天は同体一理なるをもって、 人心明らかなれば、 天必ずその上に現ずと想するによる。 その証を挙ぐるに左のごとし。

繋辞曰、 知二変化之道一者、 其知ー一神之所立為乎  ゜

(『繋辞」に曰く、「変化の道を知る者は、  それ神のなすところを知るか」)又曰、 夫易彰>往而察>成、 而顕>微聞レ幽  ゜

(また曰く、「それ易は往をあきらかにして成を察し、 微をあらわし幽をひらく」)

又曰、 易無レ思也、 無レ為也、 寂然不証動、 感而遂通ーー天下之故一 非二天下之至神ー  其執能与二於此

(また曰く、「易は思うことなきなり、なすことなきなり。寂然として動かず、感じてついに天下の故に通ず。天下の至神にあらざれば、  それ、 たれかよくこれにあずからん」)

又曰、 非二天下之至精    其執能与二於此

(また曰く、「天下の至精にあらざれば、 それ、 たれかよくこれにあずからん」)又曰、 非二天下之至変一 其執能与二於此

(また曰く、「天下の至変にあらざれば、 それ、 たれかよくこれにあずからん」)

易序曰、 与二天地ー合二其徳一 与二日月ー合二其明一 与二四時ー合ーー其序一 与一鬼神ー合一其吉凶易也。然後可ーニ以謂ー一之知

(『易』の〔「文言伝」〕に曰く、「天地とその徳を合し、 日月とその明を合し、  四時とその序を合し、 鬼神とその吉凶を合す」(しかる後に、 もってこれを易を知るというべし))

これみな易中に将来の吉凶、 禍福の理を具するゆえん、  および人心明かつ誠なれば、 その理に体達すべきゆえんを述ぶるなり。 卜筵の起こる、 けだしこれにもとづく。 たとい卜筵は易の本意にあらずとするも、 余、 あえて卜筵は世に益なしというにあらず。  人の嫌疑を決し猶予を定め、 吉凶、 禍福の道に迷わざらしむるもの、  すなわちその益なり。 かつ人、 誠心一志これを行うにおいては、 占兆のその応えある理、 もとよりしかるべし。

これを要するに、 易に理と用との二様ありて、 易理の上よりみるときは、  すこぶる高尚なる哲理を含有するものにして、 シナ哲学中の上乗なりといえども、 易用の上よりみれば、 ただ一種の方便に過ぎざるものというべく、もし、 易用として多少の信をおくべきものありといわば、 そは全く精神作用によるものなりというのほかなきな り。 換言すれば、 易そのものの力にはあらずして、  これを信ずる精神の力にありというにあり。  すなわち、  これを信ずることのあつきときは、 果たして吉凶の事実をして予期のごとくならしむるに至るものにて、 卜筵の効験あるは主としてこの理によるものとす。 これ、 心理学のいわゆる予期意向の力なり。  ゆえにその理由は、「総論」説明編および「心理学部門」に譲る。 もしそれ、 これより一歩を進むるときは、 精神の内部に理想の関門を開き、これと相通じてその巧妙なる趣味を感知することあるべし。  これ、 余がいわゆる仮怪を払いて真怪を開くものにして、 易家が古来、 神明の感応と称するものも、 あるいはこの点をいうに似たり。 しかれども、 すでにここに達すれば、 もはや不可思議の境界にして、 その感見するところ、  みな絶対関内の風光にほかならざれば、 これをもって、 決して現象有限世界に応用して説くべきものにはあらず。 もちろん相対と絶対とはその体、  一なりといえも、 表裏相反してまた自ら混同すべからざるものあり。  これ余が、 表裏両面、 不一不二の関係と称するところ

なり。

されば、 易を信ずるときはよく絶対の風光に接見するとなすも、 その関内に見るところのものと、 目前に現見するところの諸象とを混じて同一に論ぜんとするは、 卜痙家の妄断といわざるべからず。  かつそれ、  この万有界なるものは、 もと一元一気の開発より成るとはいえども、 種々複雑なる原因、 事情の結合によりて成立せる世界なれば、 わずかに現象界の一部を考えて一切万事の変化、 運命を卜定し得べき理は万々あるべからず。 別して人間社会のことのごときは、 複雑に加うるに極めて変化しやすきものなれば、 卜筵をもってこれを予知することは決して望むべからず。  ことに易に説くところによるも、 凡庸の輩の知り得べきことにあらず。  さきに掲ぐがご

とく、 天下の至精にあらざれば    いずれかよくこれにあずからんとあるを見て知るべし。  また「紫巌易伝」に曰

く、「易之変化、 其妙通>神、 聖人実体レ之。」(易の変化、 その妙神に通ず。 聖人実にこれを体す)とあるをみていよいよ明らかなり。  しかるに世間、 卜筵家をもって自ら任ずるもの、 果たして至聖、 神に通ずる人なるか、 予の大いに怪しむところなり。 世間、 多少知識あるものは、 むろん卜筵を偏信するがごときことなしといえども、 下等愚民社会にはこの類すこぶる多しとなす。 余は恐る、 卜痙の行わるるところの結果は、  これが与うる利益よりは、 むしろその害のはなはだ大なることを。 かの愚民のごときは、 身上の吉凶は卜痙に一任して、 自ら謹慎する

ぎようこう

ことをなさず、 みだりに一時を 撓 倖せんとする弊あるは、 もってその一斑を証するに足るべし。 けだし、 社会人

事は勉強、  忍耐により、  おのおの務むべきを務め、 守るべきを守りてこそ幸福も期すべけれ。  いたずらに卜痙の類に迷って一身の道徳を誤るがごときに至りては、 あに戒めざるべけんや。



   第三    節    卜箆の種類


卜痙の種類には種々ありといえども、 今、「文海披沙』巻五に載するところを挙ぐれば左のごとし。

古人推卜之法、 惟著与ら亀、 今江南多用丞巫、 而江北多用レ亀、  二者之外、 有二大六壬卜、 小六壬卜、 霊楳卜、 梅花数卜{  皆古法也、 俗用者有二響ト一即古鏡聴折字卜、 天狸時卜、 六壬時卜、 降箕卜、 開光卜、 神仏前皆以二

菱杯ト一 又寿安県有ー瓦卜    池陽有二油ト一 契丹有ーー羊骨ト一 嶺南有二鶏骨ト一 蜀有二鶏子ト一 毒西有二鳥ト一 又

有鼠  卜、 米卜、 牛骨卜、 田螺卜、 竹蔑卜、 璽卜、 風卜

(古人推卜の法は、 ただ著と亀となり。 今、 江南には多く筵を用い、 江北には多く亀を用ゆ。  二者のほか、

大六壬卜、 小六壬卜、 霊楳卜、 梅花数卜とあり。  みな古法なり。 俗用には、 孵卜あり。  すなわち古鏡聴折字ト、 天翌時卜、 六壬時卜、 降箕卜、 開光卜なり。 神仏前にはみな菱杯卜をもってす。  また寿安県には瓦卜あり、池陽には油卜あり、契丹には羊骨卜あり、嶺南には鶏骨卜あり、 蜀 には鶏子卜あり、毒西には鳥卜あり。また鼠卜、 米卜、 牛骨卜、 田螺卜、 竹蔑卜、 璽卜、 風卜あり)

また「玄同放言」に、 銭卜のことについて種々の卜筵あることを示せり。  すなわち左のごとし。

案ずるに、 銭をもて吉凶、 悔吝をうらなうことは、 漢の京房にはじまれるか。「事文前集」(巻三十八)に載す。「京房卜易、卦以>銭榔、以ーー甲子』炉卦。」(京房が卜易は銭をもってなげうち、甲子をもって卦を起つ)といえり。 京房は前漢の元帝の時の人なればふりたり。 ただ、 銭をもて卜するのみにあらず。 いにしえのよく卜するものは、 事物によりてその応験あらざることなし。「陸亀蒙雑説曰、 季札以函楽卜、 趙孟以>詩卜、 襄仲帰父以乙言卜、 子滸子夏以二威儀ート、 沈弔氏以五政卜、 孔成子以ふ礼卜、 其応也如レ響、 無二他図一 在ー精誠一而已、 不二精誠一者、 不>能二自ト一 況吉凶他人乎。」(陸亀蒙『雑説」に曰く、「季札は楽をもって卜し、  趙孟は詩をもって卜し、  襄  仲 帰父は言をもって卜し、 子浩、 子夏は威儀をもって卜し、 沈手氏は政をもって卜し、孔成子は礼をもっ て卜す。 その応ずるや響きのごとし。 他のはかりごとなし。 精誠にあるのみ。 精誠ならざる者は、 自ら卜することあたわず。 いわんや吉凶、 他人をや」)これなり。 国俗のすなる橋占などいうことも、

いにしえの遺卜なるべし。 辻うらというもおなじことなり。  むかしはみやこ人、  一条戻橋のほとりに立ちて兆問いせしという。 橋占のことは『源平 盛 衰記』(巻十)中宮御産の段にみえたり。 また『念仏三心要集」に、 恵心僧都、 西方往生の得否を戻橋にて占いしことをいえり。「神社考云、 安倍晴明役二使十二神将一 妻畏ニ識神形一因呪以置二十二神干一条橋下ー有>事喚而使レ之、自レ是世人、占二吉凶干橋辺一則神必託>人以告。」(『神

社考    にいう、「安倍晴明は、 十二神将を役使せり。 妻、 識神の形を畏れき。 よって呪してもって十二神を一条の橋下に置きて、  ことあればよびてこれを使いき。  これより世人吉凶を橋辺に占うときは、  すなわち神必ず人に託してもって告ぐ」)といえり。  その説ようやくくわしくして奇異にわたれり。 天朝の卜筵は神世よりありけり。「神世紀云、 時天神以二太占{  而卜合之、 乃教曰、 婦人之辞其已先揚乎、 宜、 更還去、 乃卜一定時旦    而降之、 又云、 高皇高産霊神伸矢  児屋命以二太占之卜事一 而奉中仕焉  」『神世紀』にいわく、「ときに 天神、 太占をもって卜してこれに合う。 すなわち教えて曰く、『婦人の辞、 それすでにまず揚げたれば、 宜、 さ

ぼくじよう たかみむすびのかみ        あめのこやねのみこと

らにかえり去りぬ」と。  すなわち時日を卜 定 してくだす」またいう、「高産霊 神、  天 児屋 命 をして太占のト事をもってこれに奉仕せしむ」)というこれなり。 卜痙は著亀にはじまり、 また鹿の肩骨を抜きてうらない

けいちゅう かわゃしろ おおえのまさふさきよう

しという。 契 沖 の「河 社 」(上巻)に、「旧事記  「延喜式」および大江匡房 卿 の歌(かく山のははかか下にうらとけてかたぬく鹿の妻こひなせそ)を引きて、 亀卜は後のことにて、 神の代には鹿の肩骨を抜きとり

あかしてうらないけるなりといえれど、  つまびらかならず。  かつ「旧事記

は 証 にしがたし。 桜桃は中葉まで御卜の料にせられしかば、 匡房卿の歌はなおよしあることなるべし。 亀策は「史記」に伝あり。 しかれどもその

書はなし。 漢土にもそのこと絶えて定かならざりしならん。 堵先生が補は「索隈正義

ともにこれをそしれり。 天朝軒廊の御卜は亀卜なるよし、「江家次第」(巻第十八)にみえたり。 匡房卿の説も「史記」によれる

のみ。  ここにもふるきは伝わらぬなるべし。

以上数十種の卜筵中、 易筵その最たるものなれば、 まずこれを掲げてその方法、 応用を説明すべし。 他はこれに準じて知るべきなり。 易に六十四卦あり、  すなわち左のごとし。

しかして、師等と次第せり。  これを「序卦に示して曰く、「有一ー天地一然後万物生焉、 盈二天地之間一者唯万物、 故受ら之以>屯、 屯者盈也、 屯者物之始生也、 物生必蒙、 故受之以乙蒙、蒙者蒙也、  物之稗也、  物膵不レ可呆    養也、  故受レ之以>需、  需者飲食之道也、 飲食必有>訟、  故受レ之以レ訟、  訟必有桑  起{   故受>之以砧師、  云云。」(天地ありて、  しかるのちに万物生ず。  天地の間に盈つるものはただ万物なり。ゆえに、 これを受くるに 屯 をもってす。 屯とは盈つるなり。 屯とは物のはじめて

なり。  ゆえに、  これを受くるに蒙をもってす。  蒙とは蒙かなり。  物のおさなきなり。  物おさなければ養わざるべからず。 ゆえに、 これを受くるに需をもってす。 需とは飲食の道なり。 飲食すれば必ず 訟 えあり。 ゆえに、 これを受くるに 訟 をもってす。 訟えには必ず衆の起こるあり。 ゆえに、 これを受くるに師をもってす、 云云)とあり。この順序は天地進化の次第によるものにして、  まことに妙なり。  また、  各卦に与うる辞も大いに味あるもの多しといえども、 その語たいてい誓喩体にして、 文字、 文章ともに論理の、 いわゆる汎意に属するもの多し。 例えば

「潜竜。 勿品用。 見竜在』田。 充竜有>悔。 腹レ霜堅氷至。 括レ梃、 無込咎無>誉。」(潜竜なり。 用うることなかれ。 見

竜田にあり。  充 竜 悔あり。 霜をふんで堅氷至る。  展 をくくる、 咎もなく誉れもなし)等の類のごとし。  かくのごとき文章は、  これを解釈する人の意に応じて、 自由に左右することを得べし。  これ、 易者によりてその解釈を異にするゆえんにして、 また、  そのときの事情と境遇とに応じて、 適意に解釈を与うるを得るゆえんなり。  ゆえに、 その文意の誓喩体なるは、 卜旅者の判断をなすに大いに便宜を与うるものにして、判断に巧拙の分かるるも、主としてこの点にあり。

卜筵の判断と事実と相合すると合せざるとは、精神作用すなわち信仰によるものなれば、これを行うにおいて、

その儀式、 方法を厳粛丁重にすること必要なり。 これ人の信仰心を増さしむるゆえんなり。 その方法につきては、

本式と略式と二様あり。 方今、 わが国にて高島呑 象〔嘉右衛門〕翁は卜筵家の泰斗と仰がるる人なれば、 その著書

「易断」に掲ぐる卜策の方法を左に示すべし。

およそ易占の筵法は古来種々の異説ありて一定せずといえども、  いま世に現行するところの笈法は大別して、 本筵(十八変)、  中 筵(六変)、  略 筵(三変)の三つとす。 基本筵の法は「繋辞伝    につまびらかなれども、 なお小異ありて一様ならず。  かつ「繋辞伝」の「十有八変而成レ卦、 八卦而小成。」(十有八変にして卦を成し、 八卦にして小成す)というにつきても、 十八変にして成るものはいわゆる三画卦にして、 重画六交の卦を成すには三十六変せざるべからず等の説ありて、 容易にその黒白を弁ずべからずといえども、 これらの談はしばらくおいて、 今わが輩の常に用うるには三変の略筵法なるもの最も適当せり。 畢 党、筵は己の至誠をつくして神命を受くるの器なれば    いずれの法によるも、 よく神命を受け得るに至ればすなわち    つなり。 しかるに常人は全く妄念、 雑慮を絶つあたわざれば、 十八変の長時間には必ず念慮の動くことなきを得ざるなり。 精神わずかに動けば決して感通することあたわざるがゆえに、 むしろ略痙なりとも、 至誠専一にして占筵の間、 よく精神充備して少 弛なきを貴ぶなり。 ゆえに予は数十年来の実験により、断じて略筵を用いてあえて多きを求めざるなり。 よって今、 識者に教うるというにはあらざれども、 初学のために略筵の大要を示さん。

およそ占わんと欲するの事項ありて痙をとらんと欲するときは、 まず手を洗い口をすすぎ身をきよめ、 心を静かにして閑室に端座し、 謹んで筵竹をとるべし。  笈竹の数は五十本なり。  すなわち大術の数にして、  この五十本の痙竹は、 数理上変化をなして鬼神を行うゆえんの神物なり。 しかして、 筵竹の探り方は、 その全数五十本の中より一本を除いて用ゆ。  これを太極にかたどりて中央の筵鞭に立て、 残りの四十九本を、 左の

手にて本を握り、 末を少しく扇形に開き、 右の手の母指をもって箇竹の少し広がりたる中辺に当て、 余りの四指は外よりこれを抱えて額の上に捧げ、 しかしてその占問せんと欲するの事項を心に念じ、 目を閉じ息をおさめ誠意正心にして、 あたかも神明と額を合わせて教えを受くるがごときの観想に任じ、 精神を一にして一点の私を挟まず、 その至誠極まるのときにおいて、 右の母指をもって手に従って平分して二となすなり。

(至誠極まるのときは、 すなわち鬼神に感通するのときなり。 感通のことたる、 電気の四肢に感ずるがごとく、 得て名状すべきものにあらず。  その感通するの機会、 間髪をいれざるところにおいて筵を分くるを肝要とす。  けだし、 感通のことは口をもって言い難く、 筆をもって記し難く、 師弟の面授といえども教え得べきものにあらざるなり。  ただ、 占者自ら修練してこの妙境に達し得べきのみ。  かの禅僧の以心伝心、 不立文字というも、 またかくのごとき境をいうか)すでに分かちて二となす。  これ天地陰陽の両儀にかたどるなり。つぎに右の策を机の上に置き、 そのうちより一本を取りて左の手の小指の間に挟み、 もって天、 地、  人の三オにかたどるなり。  つぎに右の手にて、 左の手にとりたる筑竹を数うるなり。  その数え方は、  二本ずつを四たび四たびと、 すなわち八本ずつだんだんに数え除きて、 前の小指の間に挟みたる一本をも加えて数え終わり

一本残れば二本残れば五本残れば如の卦なり声の卦なり 配の卦なり二本残れば四本残れば六本残れば七本残ればの卦なり 席   匹霜  芸

すなわち序のごとく、 天、 沢、 火、 雷、 風、 水、 山、 地の八象なり。  かくのごど くにして、 はじめの高にて得たる卦を内卦と称して下に置き、 再びまた前のごとくにして笈を分かちてこれを数え、 その残り高にて得たる卦を外卦と称して上に置き、 初めて重画六交の一卦をなすなり。 六十四卦のうち、 いずれの卦が現れずということなし。 たとえば、 はじめに一本残れば乾にしてこれを下に置き、  つぎに五本残れば巽にして上に置く。 上下合して風天 小 畜 の卦となるなり。 また、 はじめに二本残り、 つぎに六本残れば水 はじめに三本残り、 つぎに七本残れば叫炉釦一の卦なり。 はじめに四本残り、

つぎに八本残れば地ちら雷い_ふ復くの卦なり。 六十四卦みなこの例に準じて知るべし。こう とすでに前のごとくにして卦を得たる上にて、  つぎに交の変をみるなり。  その笈竹の探り方はすべて前のごとくなれども、 ただ苑を数うるに前の卦を得るには八本払いにするは、 卦は八卦あるがゆえなり。 今、 交は六交なるがゆえに、  二本ずつを三たび三たびと六本払いにして、 余りの数を取るなり。  すなわち一本残れば

交にして、  二本残れば二交とだんだんに数えて、  ついに六本の満数なれば 上交と見るなり。 その一、  二、三の位は下より逆に数え上ぐるなり。  ゆえに最下を初といい、  二、 三、  四、 五と数え上げて六本目を上交というなり。  ここにおいて初めて、 なんの卦、 なんの交と、 相当卦定まるなり。


右のごとく卦の決したる上にて、 卦辞と(乾為天の卦なれば「乾、 元亨利貞」(乾は元いに亨りて貞 きに利ろし)というの辞をいうなり)象辞と(「大哉乾元、 万物資始、 云云」(大いなるかな乾元、 万物資りて始 む、 云云)とあるの辞をいうなり)大 象 と(「天行健、 君子以、 云云」(天行は健なり。 君子もって、 云云)

の辞をいうなり)の辞にて、 その占筵したる事項の大体をみ、 その得たる交の辞にて一時の吉凶、 悔吝を断ずるなり。  そは本文の解釈について判断すべし。


また、「易学通解に述ぶるところによるに、「けだし、 事ありて占わんと思うときは、 まず雑念をはらい捨て身心清浄にし、 さて伏毅、 馬王、 文王、 周公、 孔子の五聖ならびに朱子、  邪 子等の喪を拝し、 神酒を献じ香をたき、 筵竹五十本を一握りに捧げ持ち、 さて己が姓名を称し、  つぎに、 ただいま占うところの事を人に説くがごとく心の中に言い尽くし、  このこと吉凶、 悔吝明らかに告げたまえ。「仮二爾泰痙有加常」(なんじの泰策つねにあるによる)と二度唱え、 しかしてのち苑竹を分かつべし」とあり。  しかして、 その筵法はやはり略筵なり。 もし本筵の方法を知らんと欲せば、 易の「繋辞伝とし。をみるべし。 今、 本書〔「易学通解  〕についてこれを示すこと左のご


大術之数五十、 其用四十有九(王弼曰、 演二天地一之数所>頼者五十也、 其用四十有九則其一不用也、 不用而用以>之通、 非>数而数  以>之成、 斯易之〔太〕極也、 四十有九数之極也、 夫兌>不缶竺以>先明一必因二於有一故常於一有物之極一 而必明二其所>由之宗一也。)分而為乙一以象>両、 掛二  以象レ三、 裸レ之以>四、 以象二四時一帰ーー奇於肋ー以象レ閏、 五歳〔有〕再閏、 故再肋而後掛(奇況下四探之余不ら生復探至 也、 分而為乙一、 既探之余合掛ニ

於一一 故曰再肋、 而後掛凡閏者十九年七閏為二  章一 五歳再閏者二故略挙二其兄一也。)天数五(五奇也)、 地数五(五椙也)、 五位相得而各有>合(天地之数各五、 五数相配以合二成金木水火土一)天数二十有五(五奇合為ニ二十五地数三十(五椙合_為 』二十凡天地之数五十有五、 此所下以成二変_化  而行中鬼神上也(変化以レ此成、鬼神以>此行。)乾之策二百一十有六(陽交六    一交三十六策、  六交二百一十六策。)坤〔之〕策、  百四十有四(陰交六

ご父二十四策、 六交百四十四策。)凡三百有六十、 当ー一期之日

二篇之策、 万有一千五百二十、 当万物之数一也(二篇三百八十四交陰陽各半、 合万一千五百二十策。)是故四営而成>易(分而為>二、 以象>両一営也、 掛二  以象レ三二営也、 探  之以レ四三営也、 帰ーー奇於肋ー四営也。)十有八変而成>卦、 八卦而小成、 引而伸>之(伸ーー之六十四卦   、 触>類而長>之、 天下〔之〕能事畢突。

(大術の数五十、 その用四十有九(王弼いわく、 天地を演ずるの数の頼るところは五十なり。 その用四十有九、  すなわち、 その一、 不用なり。 不用にして用いるはこれをもって通ず。 数にあらずして数うは、 これをもって成る。  これ易の太極なり。  四十有九、 数の極なり。 それ、 無をもって明らかにすべからざるなし。 必ず有によりて、 ゆえに常に有るものの極において、 必ずそのよるところの宗を明らかにすべきなり)。 分かちて二となし、 もって両にかたどり、  一を掛けてもって三にかたどり、  これをかぞうるに四をもってし、 もって四時にかたどり、 奇を功に帰してもって 閏 にかたどる。 五歳にして再閏あり、  ゆえに再肋して後に掛く。

(奇は四探の余り、 また探うるに足らざるなり。 分けて二となし、 既探の余り合して一に掛く。  ゆえに再肋という。 しかるのちに掛くとは、 およそ 閏 は十九年に七閏ありて一章をなす。 五歳再閏とは二故略その兄を挙げるなり)天の数五(五は奇なり)、 地の数五(五は椙なり)、 五位相得ておのおの合うことあり。(天地の数おのおの五、 五の数を相配してもって金木水火土に合成す)天の数二十有五(五は奇、 合して二十五となす)、 地の数三十(五隅、 合して三十となす)、  およそ天地の数五十有五。  これ変化を成し、 鬼神を行うゆえんなり。(変化これをもってなり、 鬼神これをもって行う)乾の策二百一十有六(陽交六、  一交三十六策、 六交二百一十六策)、 坤の策百四十有四(陰交六、  一交二十四策、 六交百四十四策)およそ三百有六十、 期の日に当たる。  二編の策は万有一千五百二十、 万物の数に当たる(二編三百八十四交、 陰陽おのおの半、 合して万一千五百二十策)。  このゆえに、 四営して易をなし(分かちて二となす。 もって両にかたどり一営なり。   をかけ、 もって三にかたどり、  二営なり。  これをかぞえて四をもって三営なり。 奇、 肋に帰して四営なり)、十有八変して卦を成し、 八卦にして小成す。 引きてこれを伸べ(これを六十四卦に伸ぶ)、 類に触れてこれを長くすれば、 天下の能事おわる)

この十有八変の法は本筵なり。  しかるに、 また略筵中の略法あり。『八卦辻占 独 判断』と題する書中に示す法

は、 まず六厘の銭を持ちて突き並ぶべし(一厘銭六枚を並ぶるをいう)。 文字の方上に出ずれば 一(陽交)、 文なき方陰交)と知るべしとありて、 実に簡略なり。 以上、 本略種々の筵法あるも、  これみな儀式に過ぎず。

例えば箇を行うに当たりて、 あるいは手を洗い身をきよめ、 あるいは神酒を献じ香をたくがごときは、 その目的、全く人の信仰心を迎うるに過ぎず。  すでに易策は人の疑いを決し惑いを定むるにある以上は、 儀式によりて人の信仰心を導くは大いに必要なることなり。 また閑室に端座し、 目を閉じ息を収め、 謹みて筵竹をとるがごときも、

また、 信仰、 注意を一点に集め、 その意志をして動かざらしむるにほかならず。  かくして笈竹をとるときには、その指において神明の感通ありというも、 その神明は、 決してわが体のほかに存する鬼神もしくは造物主のごときものにあらずして、 わが精神そのものの感動なることは、 少しく心理学をうかがう者の信じて疑わざるところなり。 しかるに易筵家が、  これをもって天にある神明のわが体に感通して吉凶を告ぐるものとなすは、 妄信の一種に過ぎず。もし在天の神霊われに感ずることありとするも、その交感たるやわが心と神霊とその体同一にして、わが心はすなわち神霊の一部分なりとの説に基づきて解釈せざるべからず。 たといこの解釈によるも、  これによりて未来の吉凶、禍福を前定し得べからざることは、少しく哲学をうかがう者のまた信じて疑わざるところなり。果たしてしからば、 卜筵の方法はすべて人の信仰を導くにほかならざるものと知るべし。


また、 筵竹を五十本と限り、  これを分かつに一定の法則を設くるは、  おのおのその理あるがごとく、「繋辞伝」の上において説明あれども、  これまた哲学者の許さざるところなり。「繋辞伝」の上にては、 天数二十有五、 地数三十、 合して天地の数を五十五となせども、 なにゆえに天地がかくのごとき数を有するやは、 決してその理を知るべからず。 ただ天は奇数、 地は偶数なれば、 天一、 地二、 天三、 地四と配当してこの数を定めたるに過ぎず。しかるに、 なにゆえに天は奇数にして地は偶数なるや、 その理いまだつまびらかならず。 ただ天地をもって陰陽に配し、 陰陽をもって奇偶に配するによるのみ。 しからば、 なにゆえに陽は奇数にして陰は偶数なるや、 また、なにゆえに陽は偶数なるべからず陰は奇数なるべからざるや、 その理いまだつまびらかならず。  かくのごとくいちいちその理を推究するときには    ついにこの天地の数は、  シナ古代の人の偶然想像したるものに過ぎずして、

決してそのうちに必然の道理ありて存するにあらざるを知るべし。  ゆえに今日、 さらに反対の想像をもって地を奇数とし天を偶数となすも、 またあえて不都合なる理あらんや。 今、 仮に地一、 天二、 地三、 天四等と相配して地数二十有五、 天数三十とし、  これによりて卜痙を組織するも、  その結果、 なんぞ今日の卜筵に異なるの理あらんや。

そもそも陰陽二元の理は、 この世界万有は吾人相対性の知識の上に成立し、 右あれば左あり、 上あれば下あり、大あれば小あり、 長あれば短ありて、 たがいに相対立するをもって、  シナ人はその二元に与うるに陰陽の名をもってし、 陰陽二元説を起こすに至れり。  すなわち、  その陽は二元相対の一端に与え、 陰は他端に与えたる名称なり。  これを積極、 消極の二種となすも可なり。 積極の方より他方をみてこれを消極となすも、 消極の方にありて積極をみれば、 積極かえって消極とならざるべからず。 ゆえに、 今日の陽を陰となし陰を陽となすも、 ただその位置、 標準を異にするのみにて、 実際上、 道理上、 決して不合理なるにあらず。 もし、 宇宙間に二元相対の存する以上は、 その二者おのおの性質を同じくせざることは明らかなれば、 その間おのずから強弱、 剛柔、 清濁、 軽重の別あるは自然の理なり。  ゆえにシナ人はこの両性を区別せんために、 その    つを陽とし他の一っを陰としたるなり。 しからば、 天地に数を配して天数、 地数を定めたるがごときは、 決して必然の真理ありて存するにあらずして、 むしろ便宜上定めたるものというべし。 しからば筵竹の数のごときも、 天五に地十を乗じて五十を得るも、 なんぞ必ずしも五十本をもって限るべき理あらんや。  すでに五十本の筵竹に限るべきにあらざるを知らば、百本を用うるも二百本を用うるももとより不可なることなく、  これと同時に十本を用うるも五本を用いるもまた不可なることなし。 果たしてしからば、 五十本の応巫竹を用うるも二、 三本の箸を用うるも、 その結果に至りては、またあえて不同を生ずる理あらんや。  すでに『繋辞伝』には十有八変して卦をなすとあるも、  これいわゆる本筵の法にして、 略痙はわずかに三変して卦をなすなり。 しかるに高島氏のごときは、 この略筵をもってかえって便益なりといえり。 もししからば、 旅法は必ずしも何変に限るべきにあらず、 あるいは三変して卦をなすよりは一変して卦をなすの法、 かえって便益なるも知るべからず。

ゆえに余おもえらく、 錯雑なる筵法を用うるよりは、  二、 三本の箸にて一変して結果をみる方法の、 かえって大いにまさるところあるべし。 あるいは銅貨一枚をとりてこれを地に投じて、 その表面の出ずるか裏面の出ずるかを見て卜する法、 かえって便利ならん。 なんぞ煩わしく易筵によるを要せんや。 畢 党 するに、 卜旅の用は疑いを定め惑いを決するにほかならざれば、  一枚の銅貨も吾人よくその上に信仰を置くときは、 疑心を一定するの功あること必然なり。 ただその方法あまり簡略に過ぐるときには、 人の信仰を 惹起し難し。 これをもって、 易筵のごとき繁雑なる応巫法の世人の信用するところとなりて、  ことさらにその専門家に鑑定料を払って卜筵を依頼するに至れり。 他日その知識ようやく進みて、 菰竹も銅貨もその功用において憂も異なる理なきゆえんを信ずるに至らギたれかまた易筵に考うるものあらんや。  たまたま疑念の決し難きことあらば、  自ら銅貨を投じてその出ずる面を検すれば足れりとす。  これ余が卜痙に対する意見にして、  易理は実に巧妙なるも、  易用すなわち卜痙に至りては疑心を一定するにほかならざれば、  決して社会、  人事の吉凶、  禍福を予定する力なきものと信ずるなり。しかるに実際上、  卜旅と事実と符合したる例あるも、  これ決して卜菰そのものの力によるにあらずして、  他にその原因ありて存するや疑いなし。  すなわちその原因とは、  吾人の精神作用の影響結果をいう。  この精神作用によりてその原因を説明するは、  余がいわゆる心理的説明なり。



   第三二節易苑の応用は「易経」

易箆の応用に説くところによりて知るべしといえども、  民間にはこれを種々に活用しきたりて種々の痙法をみるに至る。  世に梅花心易と称するものあり。  その法、  易にもとづくも大いに易に異なるところあり。これ 部 康節〔部薙〕の発見せるものとなす。  その序に曰く、宋朝の慶暦年中(宋第四主、 仁宋皇帝の年号なり。  日本六十九代、 後朱雀院長久に当たる)、  部康節は仁宋皇帝召して諸官を経れども、  病と称して官を辞し、  山林に隠居して易学に心をとめ、  ひたすら易を学び、  玄冬の寒き夜も囲炉裏のもとによらず、  炎天の夏の日も扇をつかわず、  ただ易に心を尽くし寒暑を忘る。  しかれども、  なおいまだ易の妙理、  至極に至らず。  ゆえに易書を壁に張り付け、  日夜座するときもこれを見、  臥すときもこれを見る。  一刻もかつて心目、  易書にあらずというこ

にして午睡せられけるに、  鼠 きたりて前にてはなはだあれければ、 枕をはずし鼠にあてられけるに、 鼠はにげて当たらず二つに砕ける。 立ちより見られけるに、 枕の中に文字あり。 取りて見るに文字十七あり、「この枕、 卯の年四月十四日巳の時に鼠を見て破れん」とかきたり。  部康節感じて曰く、「万物みな自然の数あり」ここにおいて、訪い問いてこの枕をやきたる瓦師の家にたずね行き、「この枕の中に文字書きたる人はいかなる人ぞ」と問う。 瓦師答えて曰く、「昔一人の老爺あり、 手に「周易を持ちきたりて、 瓦を焼くほとりに休みいたりしが、  この文字を書きし人は定めて翁にてあるべし。 今は見えず、  すでに久しくなりぬ。 しかし、われその人の家を知る。  つれだち参らん」といいて、 部康節を誘引して老人の許に行きそのゆえを問う。 家人の曰く、「その老人は今は死して亡し、ただし書を一巻残しおかれたり。老人死期をわれに告げて曰く、「何の年、 何の月、 何の日、 何の時、  一人の秀オの人きたるべし。  すなわち、 その人にこの書を授くべし。 わが身のことを尽くしおくなり。 慶厚からん」と遺言せり。 年月日時ともに少しもたがわず。 よく相あたる」といいて書を一巻、  部康節に授く。

この書を開き見るにすなわち易書なり。  すなわち、  この占いの例にてその家を占いみれば、 なんじが臥床の下に白金一壷あるべし。  その所を掘りてこの金を取り出だし、 かの老人の跡を弔うべしと教う。 家人、 教えに従いて臥す下を掘りてみるに、  いうにたがわず白金一壷ほり出だしたり。 部康節、 書を授かり礼をなして帰り、  ひまのとき、  この数学を究めもてあそぶに、 諸事の占い、 卜筵を用いずして吉凶を知ることはなはだやすし。 その効験あらずということなし。  これ、  すなわち易数至精至微の深妙なり。 その後、 梅の木の枝にて雀二羽くい合い地に落つるを見て、  この書の占例にてこれを占う。 明日の晩に隣女きたり、 花を折り取りその股を傷つけんことを知る。 けだし、  この占いによりて後世相伝えて観梅の数とし、 梅花心易を一部の題号とす。  その牡丹を占いて、 明日午の時、 馬この花をふみ、  そこなわんことを知る。 また、 西林寺の額を占いて、 友人の禍あらんことを知る。 けだし、  この三例は先天の占いなり。

先天の占いとは    いまだ卦を得ざるさきに数を得、 数を得てのち卦を起こす、  ゆえに先天という。 もしそれ吾人、 憂いの色あるを見て占いて、 魚を食して禍あらんことを知る。 少年喜びの色あるを見て占いて、 妻をめとるの喜びあることを知る。  鶏の鳴くを聞きて占いて、  にて食われんことを知る。 牛の鳴くを聞きてこれを占いて、 牛の必ず殺されんことを知る。  この四例みな後天の占いを論ず。 けだし、  いまだ数を得ざるさきに卦を得たり。 卦を立ててのち数起こる、 ゆえに後天という。 ある日椅子を置きて、 その年月日時にて考え、 推してこれを卜す。 椅子の底に書き付けて曰く、「何の年、 何の月、 何の日、 何の時、 この椅子に仙客きたりて座すべし。 そのとき折れやぶるべし」その書き付けたるときに至りて、 果たして一人の道者、 部康節をたずねきて椅子に座す。 椅子たちまち破る、 道者恥ずる色にて、 たちて謝す。 部康節の曰く、「物の成ると破るはみな定まりたる数あり。  また、 なんぞ意に介するに足らん。  かつ、 公は真の神仙の人なり。 幸いに今日過ぎて款話す」よって椅子をかかげて、 底に書き付けたる文字をしめす。 道者、 愕然として走りたちて出

ず。 たちまち失いて見えず。  すなわち、 知る数の理、 玄々微妙なること、 鬼神といえども逃るることなし。いわんや人間においてをや、 万物においてをや。

これ売薬の効能書と同一にして、 人の信仰を引かんがために設くるものにほかならず。 しかれども、 今日にありて、 いやしくも普通学を修めたるものは、だれもかくのごとき効能を信ずるものなかるべきをもって、 畢覚 無効に属すべし。  また、 民間に伝うるものに「古易察病伝」と名付くるものあり。 その凡例に曰く、「それ病人を筵して病因、 病症、  治法等を決せしめんと欲せば、 まず医書をよみて、 医の道を学びてのち筵すべし。  けだし、 その神農氏の草をなむるときは、 伏親氏の卦を画するがごとし。 黄帝の「内経しようは文公の象の辞のごとし。  秦越人の「難経は周公の象 の辞のごとし。 仲景〔張機〕の「傷寒雑病論は孔子の十翼のごとし。 易道四聖にしてそなわり、 医道もまた四聖にして全備せり」等と説ききたりて、 痙によりて病を判ずる一、  二例を示して曰く、病人を筵して恒の 鼎 を得たり。 断じて曰く、「持病の積気心下につかえ、 熱はなはだしくして病変する象あり。   上交変は常をうしなう」という意なり。  ゆえに六日目に死すという。 果たして六日目ゆうべに死す。

また、 筑して節の 中 学を得たり。 曰く、「変卦大離のゆえに大熱あり。 本卦経に苦節とあるゆえ、 身のふしぶしいたみて危うし。  ここに狐の霊あり。 六年以前、 狐を捕らえ縄をもってつなぐくるしみなけれどもしらず、  ついに四日目に縄を食い切り去る。 炊を狐とし、 巽を縄とし、 卦変をかぞうるは四を経て遁となる。遁はさるなり。 兌の口炊のむすぶに合う。  ゆえに食い切る象、 今これがために冠せらる」というに、 果たしてあたれり。 頼人の曰く、「あるとき山に行きて、 谷底にて小狐を捕らえ、 葛をもってつなぎおき、 かえりたることあり。  ゆえに、 祈りて速やかに癒ゆ」

出産を筵して遁の旅を得たり。 貞遜のゆえに母は難を免れて、 安悴は旅なり、 生子に旅の義なし、 これ死なり。 昨日午の時、 女子生まれ死するなりという、 果たして爾なり。

臨産を箇して解の恒を得たり。 断じて曰く、「今、 女子生まれたり、 帰り見るべし。 ただし産後三日目、 産門はなるるなり。 元来、  この女いやしくして貴き家に嫁し、 不正の女のために妨げられ、  すでに夫を去られんとす。  これを労して気体虚し腫れるなり。 子を産みて、 夫の心かわり去ることをとどめ、 常となる神のごとし」

また、「医道便易  と題する一書あり。  その中には、 身体の各部および病気の種類を八卦に配し、 もって笈法によりて病気を診断することを示せり。 その診断を考うるに、 乾為天の卦の下に解釈を付して曰く、「気鬱、 寒熱の往来頭重く、 積気、 動気の病治し難し。 陽盛んに陰衰うる象なり。 外見分よりも内あしし。 また水腫、 心痛の意、病変わることあり。 走る人をとどむるものなきごとくにして、 満ちて欠くるばかりなり。 極陰、 極陽は必ず凶物なり」と。  かく六十四卦におのおの解釈を付して、  これに照らして病気を診断するものと見ゆ。 愚もまたはなはだしといわざるべからず。 もし、 真に易蹴によりて病症を診定し得るならば、 医学の講究の無用なるは申すに及ばず、 医師を養成するの必要あらんや。 世の愚者は易を迷信するのはなはだしき実にここに至る、 あに笑わざるベけんや。

また、「古易八卦考」によるに、 八卦に数種あることを記せり。 曰く、「夫所謂八卦者、ニ四天王八卦、・一天心五星、 三皇帝、 四地陽、 五竜説、 六天門、 七心陽、 八陰陽、 八卦也。」(それいわゆる八卦とは、 一に四天王八卦、ニに天心五星、 三に皇帝、  四に地陽、 五に竜説、 六に天門、  七に心陽、 八に陰陽、 八卦なり)と説き、 陰陽八卦き び のおとどのさねやすあ そ  ん かいぴゃ<

の法は吉備大臣真保朝臣の伝うるところとなし、 天地開 闊 より近世に至るまでの間の年歴を上、中、 下三元に分かち、 六十年を一元とし、 百八十年をもって三元一周すと定め、 これに八卦を配して人々の性質を卜 定 する法を示せり。 その説、 儒仏相混ずるもののごとし。

また、「年中八卦  と題するものあり。  これ全く人の生まれ年を上、 中、 下三元に配し、  これをまた八卦の上に

考えて吉凶を卜定する法にして、 儒仏二教相混じ、 陰陽、 五行の両説相合するものなり。

また、 俗に揉卦と名付くる法あり。『八卦秘伝抄』にその伝来を示して曰く、「昔、 南京の易学者陽森明という人、 長崎へきたりしときこの法をもって占いせしに、 物として当たらずということなく、あたかも蒻 中 の物を探るがごとし。 時人、 その神妙なるを感じあえり」とぞ。  そもそも易は六交にして太極両儀を生じ、 両儀四象八卦を生じ、 八卦六十四卦となる。 またおのおの変交ありて、 宇宙万物これに備わらざるなし。  しかりといえども、易は聖人の大経にして容易にあらず。 今この書(『八卦秘伝抄」)は、 易に志す童蒙のためにその短法を著し、 ただ三本の卦木にて卦象を起こし、 急速の用に備うることを示す。  これ陽森明伝授の法なり。 俗にこれを揉卦という。 あるいは、  この書を『清明早  占  』と名付くという。  しかして揉卦の伝法は、  まず占わんと思うとき、 身を清め、 三つの卦木を掌中に握り、 占うことを唱え、 手の中にてもみ合わせ、 机上に投げて、 その起こりたる卦を引き合わせ判断すべしとあり。 その他、 民間に行わるる卜筵の書、 幾種あるを知らず。 もって世に迷信者の多きを知るべし。 諺に「盲者千人明者一人」といえるは、 実に適言というべし。

また、 世に事物の吉凶を即座に占う法あり。「卜痙早考」と題する書によるに、 その法算をもって占うなり。 見物は三つ離とす。 聞く事は八つ坤とす。 得物は二つ兌とす。 失物は七つ艮とす。 待ち人は一っ乾とす。 怪事は六つ炊とす。 願望は四つ震とす。 出行は五つ巽とす。 売買は同上。 公事の類は二つ兌とす。 病はそのわずらいつきたる日と月とをもって占うなり。 子の日は吹とす。 寅の日は艮とす。 卯の日は震とす。 辰巳は巽とす。 午は離とす。  未 申は坤とす。 酉は兌とす。 戌亥は乾とす。 もし日の知れざるときは月をもってす。 正月は地天泰、 二月は雷天大壮、 三月は沢天央、  四月は乾為天、 五月は天風妬、 六月は天山遜、  七月は天地否、 八月は風地観、 九月は山地刻    十月は坤為地、 十一月は地雷復、 十二月は地沢臨なり。 いずれもそのたのむ当人の    年のかずと、  その日のかずと、 その時のかずと合わせてぱちぱちとはらって、 のこる数にて卦を定む。  一は乾、  二は兌、 三は離、四は震、 五は巽、 六は炊、  七は艮、 八は坤なり。 例えば、 見物は離があたりまえの卦なり。 それに二十歳の人、五日の五つ時に占うときは三八二十四とはらって、 残り六つ炊なり。  これを変交の卦と定めて、 離の卦にとり合わせ見て吉凶をことわるべし。 その吉凶の占いは当卦と変交の卦とみな凶とあれば、大いにあしし。 かたがた吉、かたがた凶とあれば、 半吉と知るべし。  みな吉とあらば大いによしと知るべし。 いずれもみなこの心にて占うなり。  これ算数によりて占う法なれども、 篭も必然の理ありて存するにあらず。 しかるに、 もしこれによりて占定せるところ実際に符合することあるも、  これ偶然の暗合もしくは精神の予期によるのみ。

日本中、 東京は最も卜苑、 人相等を信仰するもの多く、 したがってこれを専門とする家すくなからず。 その中には極めて富有なるものあり。 余は研究のために、 ときどき会員を派して専門家を訪いその実況を探知するに、本郷区にて有名なる売卜専門家某について問い合わしたる報告の大要、 左のごとし。(その文中、 氏とは売卜専門家を指し、 予とは探偵者自らをいうなり)

氏自ら曰   、「国の興衰は眸底に現れ、 五州の治乱は掌中に知るべし。  ゆえに願望、 商法、 晴雨、 縁談、旅行、 転宅、 病気、 普請、 待ち人、 失せ物、 出産、 男女等、 各人の疑いを決し、 災禍を避けしめ、 幸福を得せしむる、 云云」と。 予これにつきて一身の運気を問うに、 氏は十分くらいの時間をもってほぼこれを卜して曰く、「来月は願うことかなわず、 思うことならず、 万事意を得ることなし。 易卦水山登を得たれば寮の宝

を望む意にて、 たとい眼前に宝の山をみとむるも、 自ら進んで取ることあたわず」というのみにて、 また他をいわず。

かくのごとき判定はだれもなし得ることにして、 なんぞことさらに鑑定料を払って依頼するを要せんや。 たといまた、  この判定によりて実際功験ありとするも、  これ決して神明の告示にあらざること明らかなり。  しかるに世間、  かくのごとき判断を信じ、 鑑定を請う者遠近よりきたり集まるとは、 なんぞ世間に愚民の多きや。 また、易に五行を交え干支を混ずるものあり。 妖怪研究会員某が、  かつて下谷区に住する卜箇家某につきて探究せる報告を挙ぐれば、 左のごとし。

氏は木島、 佐藤の幹支幹理を駁して限偽なりと罵倒し、 自ら一流無比の判断者たることを公言せり。  神棚に月と稲荷とを祭り、 その判断の体裁は卜臨と異なりて 巫竹を用いず、 幹枝と異なりて卦木を用い、 まず「真理易学」といえる写本より、 当人の母胎に宿りたる年月日および生誕の年月日を繰り出だし、  これによりて卦木を運転し、 吉凶、 禍福を筆答をもって示す。 予、 問いて曰く、「この術はいかなる人の発明にかかり、 いかなる書を標準とするや」と。 答えて曰く、「この法は大学者隠士某の発明にかかり、 予はその直伝の術士にして、 書は師の著せる秘伝書一部あるのみ。 もしその真理方法を知らんと欲せば、  一円の束脩を納めて秘伝を受けざるべからず」と。 通例、 見料十銭以上、 入門後月謝五十銭の制規なり。

これ、 別に一般の卜筵と異なりて特効あるべき理なし。 しかるにその束脩、 月謝の高価なるには驚かざるを得ず。 また、 易筵に算盤を用うるものあり。 あるいは、 単に算盤のみによりて人の運命、 吉凶を算定するものあり。すでに四谷辺りに住する方術専門家について探偵したる会員の報告、 左のごとし、

氏は算盤をもって人の善悪、 吉凶を判じ、 また、 よく算盤をもって悪を変じて善となし、 禍を除きて福となすという。 予、 試みにこれをたずねみるに、 氏が住居は軒に「天真宗社出張」といえる標札を掲げ、 その傍らに「見料十銭以上」「祈頑禁厭謝絶」といえるはり紙をなし、 家を四囲は七五三縄をもってまとえり。 内に入れば座の側面に神殿を設け、 また種々なる供物をなせり。 氏はその前に高さ三尺余の小座を設け、 常にその上に座し方術を行い、 また出入りの人に接す。 予、 その家に入るや、 あたかも一婦人、 座下にありて氏の占いを請いいたりしも、 いくばくもなく去れり。 予は突然「私も占っていただきとうござります」といいたれば、 彼は曰く、「こは算盤の理責め法にて卜占の類にあらず。 易占は牽強 付会信ずるにたらざれども、予がこの術は、 師の時代においてはじめて発明され、 予に至りて二代目の他に類なき真理なり。 元来、 天下のことたる、 吉凶、 禍福みな算数より起こるものなり。  ゆえに、 この理にはずれたるものは凶となり禍となる、  この理に合いたるものは吉となり福となる。 予がこの術は、  すなわちこの理を応用したるものなれば、百発百中、 篭も誤ることなし」とすこぶる傲然たり。

予、 運命を試みもらわんと請えば、  まず年齢と生年月日とをたずねり。 しかしてまた、 それいずれの年、いずれの方角よりきたりたるやを問えり。 予、 答えて「一昨年、 西より東に向かいてきたりき」と答えたり。 彼、 少しく算珠を動かして、「君、 東京にとどまることすこぶる悪し。 君は郷里より西へ向かい行きてこそ立身出世もすべけれ。 しかるに、 陽より陰に向かいてきたりたるゆえ、 過去も未来も成ることなし。 もし、ひとたび帰りて西に行くことあらば、 君の開運三年を期して待つべし」と。 ここにおいて予、 問いて曰く、

「予は今なにをなしつつ、 なにを志しおるものと見ゆるか」答えて曰く、「君の心、  および行い、  一定せず。途上に防復せるものと見ゆ」と。 予また曰く、「予が運かくもよからずとならば、 君の法をもって直しもらうことはできざるか」曰く、「できず。 元来、  人の一生には悪、 凶、 禍というものはあるにあらざれども、  人誤りてその方角およびその事業等に遭遇するなり。算数はそれを見出だすまでにて、左右することあたわず。

ゆえに病気といえども、 その吉凶、 方位を指示して理責めに指固するまでなり。 現に、 いままでここにきたりし婦人は、 今より三年前、 予これを判じて、 三年のうちに運必ず開くべしといいたることありしが、 今や果たして十分なる運を開き、 立派なる商法にありつけり」と。 予また問う、「君、 病気のことを理責めにするとはいかん」曰く、「数理をもってその方角をさけ、  その方角の業を用いざらしむるのみ」と。 あたかも方位家の説のごとし。たまたま車声轟々、門に入る者あり。絹布の 袴、羽織を着し、 すこぶる大菓子箱を携え、きたりて慇懃、 前日の恩を謝するもののごとくして去る。 彼、 予に向かいていう、「今の人は某華族の家扶なり。 同家ご夫人の病気平癒によりて、 礼のために参られたるなり」と。 彼は禁厭は謝絶すと題しながら、 そのときやや禁厭にひとしきことをなせり。  そは紙片に数字をすりたるものを紙袋に入れ、 外より見るべからざるように封じ込みたるものなり。

この鑑定のごときもさらに感服すべき点なく、 だれにてもなしうることにして、 たといこれによりて効験を得たりとするも、 篭も不思議とするに足らず。  しかるに、 世間にこれを信ずるものあるは、 これこそかえって不思議なれ。  ことに華族のごとき国民の最高位に位するもの、  かくのごとき鑑定家の門をたたくに至りては、  これ実に奇怪千万といわざるべからず。 その他、 府下有名の卜筵家数名について、 会員の探知したることあれども、 その報告大同小異なれば、 いちいちこれを掲げず。  かつ余も従来、 試験のために数回卜痙によりて鑑定を与えたることあり。  そのうち七、 八分は幸いに的中せり。  これもとより偶然の暗合にして、 憂も怪しむに足らざるなり。近く余が卜痙によりて予言を下し、 まさしくその実に合したる一例を挙ぐれば、 昨年十一月、 相州大磯町松林館に滞在したる際、 館主、 余に対して、 しきりに近ごろ来客の少なきを憂う。  一日、 余まさに大磯を発して東京に帰らんとし、 戯れに本日来客の有無を易筵によりて卜定せしに、 十名以上あるべきを知るを得たり。 よって余は館主に告げて曰く、「今日、 十余名の来客あるべし。 客室必ず満たん。 ゆえに余、 早く去りて新客にこの室を譲らん」と。 ときに館主、 余が言を信ぜずして戯言なりとせしが、 余が去りたる当夜、 予言のごとく、 果たして十一名の来客ありたりという。  ここにおいて館主大いに驚き、 翌日、 余に謝状を送れり。 人もしこのことを疑わば、よろしく大磯松林館につきてその実を問い合わすべし。 余のごとき盲筵家にして、 なおよくかくのごとき符合を得る以上は、 卜筵専門家の鑑定の的中することあるも、 またなんぞ怪しむに足らんや。  かつ、 余が大磯にて行いたる卜筵は、 篭も先翡の定むる方式によるにあらず。 自ら臨時考出せる方法により、 筵竹の代わりに小楊枝十本を取り合わせ、 卦木を用いずして卜定せり。 しかるになお、 その事実に適合せることかくのごとし。  これによりて、 易筑の実際に符合的中するは、 易そのものの作用によるにあらざるを知るべし。  ことに卜痙家と称せらるるものの判断は、 多く曖昧として意義両端にまたがり、 万一鑑定の誤りたるときには、 遁辞を用うるに便なるもの多し。

すでに「視聴雑録」(上巻)に、「巫現の妄筵」と題して論じて曰く、「往年、 武蔵国大城の東北、 浅草に住みける商 買某、 その家の黄金を失い、 親戚とはかりて卜筵せんことを欲し、 某所の巫蜆某痙に名ありと、 ついにこれを招きてこれを筵せしむ。 親者、 外よりきたりて筵していう、「この金は必ず外に求むべからず。  おそらくは爾増  の内にあらん。 もし内ならずんば必ずこれを外に求むべし」と。 悪俗にいう両手ぎりとは、 これらの言をまいふめる。 巫蜆の妖妄を見るべし」とあり。 卜筵家の判断のかくのごときもの、 世間その例に乏しからず。 余、 かつてこれを聞く、 ある一人の妄信家ありて、 卜筵の大家につき、 自己の生命を予知せられんことを請う。 筵者す

なわち告げて曰く、「今より幾年の後、 某月某日に必ず死すべし」と断定せり。 妄信家固くこれを信じて、 その年月までことごとく財産を消費し、  ついに当日に至りては一銭の余財なく、 ただ自らその身を棺中におさめて絶命を待てり。 しかるにその日ついに死せず、 翌日に至るもなお依然として存命せり。 しかるに、 ときに飲食を欲するも、 余資のもってこれを購求するなく、 ほとんど飢渇に迫らんとせり。  ここにおいて、 はじめて自ら卜痙家に欺かれたるを知り、 にわかにその家に至り、「なにゆえにわれを欺きしや」と詰問せしに、 箇者曰く、「余、 決して欺きたることなし。 足下は某月某日に死すべきことは、 天運によりて定められたるものなり。 しかるに、 その日に死せざりしは、 けだし他に原因あるべし。  足下は人を救助したりしことなきや」妄信者曰く、「すでに死の定まれるを知りしをもって、 財産を残すの必要なきを悟り、  これをことごとく人に施与して貧民を救助せり」痙者すなわち曰く、「これにてその理を解せり。 足下は人を救助せし余徳をもって、天は特にそのひとたび必定せる寿命を延長したるなり」と。

この一話はもとより作為せる虚談に相違なきも、 卜筵家の説明中には、 これにひとしきもの全くなしというべからず。  また、 卜痙者の鑑定にして事実に的中適合したる例、 世間に伝うるもの比較的に多きがごときも、  これまたほかに原因なきにあらず。 人もし卜臨家に判断を請いて、 その鑑定の事実に合中せざることあるときは、 これを人に秘して伝えざるも、 たまたま合中したることあるときは、 広くこれを世間に伝え、 永く人の記憶に存するがごとき事情あり。  このことと全くその性質を異にするも、 先年、 田舎の見せ物に「ラクダ」と大書したる看板を掲げたるものあり。  これを見るもの真に略舵ならんと信じ、 争いて木戸銭を払いてその内に入れば、 賂舵にあらずして肥大の男が、 時まさに三伏炎暑の候なれば、 裸体になり、 手に団扇をとり、 これをつかいながら「アア、 ラクダ(楽だ)、 ラクダ」といいつつ横臥しおれりと。  これを見て出ずるもの、 そのあまりばからしくして人にその実を告ぐるをはばかり、 遇うものごとに語りて曰く、「『ラクダ』の見せ物ばかりは、 真に奇にしてひとたび見ざるものは大ばかなり」と。 卜筵の判断を信じて自ら欺かれたるを知るもの、 かえってその実を告げざるは、あるいはこれに類したるものなきにあらざらんか。

これを要するに、 卜 巫は決して吉凶前定の力なきものにして、 ただその用人の疑いを決するにあるのみ。 しかして、卜痙と実際と相合する例あるも、これ全く精神作用もしくは他の原因によりてきたすところの結果にして、決して卜応巫の作用にあらざること明らかなり。その神明の感通というがごときは、畢 覚 するに精神そのもののカにあらざるはなし。  ゆえに、  この点は精神すなわち神明なりと解するにあらざれば説明すべからず。 また、 その疑いを決する功用のごときも、 必ず従来用いきたれる卜痙に限るにあらず、 ほかになお種々の方法あるべし。  これ、 余が今日の学理にもとづきて、 新たに一法を考出せんことを望むゆえんなり。 また従来、 卜筵によりて人の疑心を一定したりし功ありとするも、 これと同時に、 卜筵によりてかえって人の疑燿心を増さしめたることなきにあらず。 もし、 その利害を較するときは、 今日の社会にありては、 卜筵全く無功、 無用のものたりと断言して可なり。  すべて世に功用ありやなしやを知らんと欲せば、 仮にこれを社会より除き去らば、 いかなる影響をきたすかを想像すべし。 農業は有用なり。 なんとなれば、 社会よりこれを去らば、 人民の生存を保つべからず。 法律も有用なり。 なんとなれば、 国家よりこれを除かば、 国民一日も安堵することあたわず。 宗教も有用なり。 なんとなれば、 世に宗教なくんば、 人その安心立命の地を失わざるべからず。 しかるに社会より卜筵を去るも、なる不便、 不利ありや。 篭も社会の盛衰と関係せざることなり。 西洋にはわがいわゆる易笈なし。  しかれども、その社会になんらの不便をも感ぜざるにあらずや。 もって卜筵の世に必要なきを知るべし。  かく論じきたるも、余は決して易学そのものを排するにあらず。 もし、 哲学としてこれを講究するときは、 易は実にシナ哲学第一流に位するものというべし。


   第三三節    亀卜、 銭占、 歌占

 わが国に一の吉凶を予知する法は、 古来大いに力を用いて講究したるものとみえて、 その種類の多きこと実に驚かざるを得ず。 そのうち易笈を第一とし、  これに次ぐものは亀卜なり。 亀卜は古来わが国に行われしも、 今日はこれを用うるものなし。 今、「筆のすさび」と題する書中に曰く、「亀卜は対州にのこりてあり。  その法、 亀甲をうらより小刀にてうがち、  一寸ほどを薄くするを鑽亀という。  かの地にてタフという木はとげある木なり。 それを箸のようにして、 その先に火をつけ、  かの薄らげしところを裏よりやき、 表にひらき入りたる紋出できたるが 灼 亀という。 その紋のさけようを見て吉凶を卜す。 その法は、 あるとき吉田家より望まれしかども伝えず。 甲は乾きたるを用う。 生き亀にあらず」また『昆陽漫録」に曰く、「亀卜の法、 西土に伝わらず。  かえってわが国には神功皇后の三韓征伐のときより、 対馬国に亀卜の法伝わりたりといえども、 いまだその書を見ざりしに、 対州の儒臣雨 森〔芳 洲 〕氏が著せる「狂草    に亀卜のことを載せたれば、 対州には亀卜伝わること明らかなり。  その文、 左のごとし。

この国につたえし亀卜はいにしえの遺法ならんとおぽゆ。  吐うるわし、 普うるわし。 加身ひきのまま、依身ひきのまま、 多女まったしといえるは 赴 のただしきにして、 くしみつけ、 そうあり、 りようしといえるは訃の変なり。  こまかにいえばとゆるいたとよりめ、 ときれた、 とさく、 とそれた、 とついた、 としいたと  いえるは、 吐の変なり。 ほそういた、 ほみた、 ほきれた、 ほささ、 ほそれた、 ほかくめたといえるは普の変  なり。 加身いきし、 加身をたしい、 加身きれた、 加身なるたえといえるは加身の変なり。 依身いきしい、 依  身おたしい、 依身なるた、 依身なるたえといえるは、 依身の変なり。 多女うちとおれた、 多女ほかとおれた、 多女きれた、 多女ぬきことをし、  つき多女といえるは、 多女の変なり。  おおよそ、 卜法は舟をえてよしあし  をしるなり。 卜の字はその〔か〕たちにして、 たていつつ、 よこみつにうがちた、  おもてやき吐よりはじむ」  また『〔日本〕社会事彙』によるに、 成島甲が「亀卜考」(『花月新誌」三十九号)にいう、「シナ人の痴なる、 みだりに卜策を信じて、  ついにその晒 習 をわが国に伝えたり、 云云」「わが国上世、 亀卜の行われたる、 余そのつまびらかなるを知らずといえども、後世においてわずかにその遺法を存するは対馬国のみ。けだし上世もその法、対馬、 壱岐の地方に盛んなりしならん。「三代実録』にいう、「貞観十四年、 官主従五位下兼丹波橡、 伊岐宿禰是雄卒、 是雄者、 壱岐人也、 本姓卜部、 改為二伊岐始祖忍見足尼命、 始届戸神代一 供ーー亀卜事一 蕨子孫伝二習祖業一備於  卜部是雄卜数之道、 尤充二其要貞観十四年、 官主従五位下兼丹波橡、 伊岐宿禰是雄卒す。 是雄は壱岐

の人なり。 本姓は卜部、 改めて伊岐となる。 始祖は忍見足尼命。 神代より始めて亀卜のことを供し、 その子孫、祖業を伝習し卜部に備う。 是雄卜数の道、 もっともその要にみつ)と。 もって卜部の亀卜をつかさどりしをみるべし」その卜法は『亀卜秘伝』「卜法類書』等に出ず。

易痙および亀卜は諸うらない中の最たるものなれども、 その他、 多々の種類あることは

第三節に示したるを見て知るべし。  そのうちには実につまらぬものもあれども、  その理はいずれも    つにして、  一方にて百発百中すべき理ありとすれば、 他方にもまたその理あるべし。 そのいわゆるつまらぬものとは、 あまり単純なるをいう。単純なれば人の注意を引き信仰を起こさしめ難きをもって、  これを複雑なるものに比して効験少なきことあるべしといえども、 これ決して卜筵そのものの力にあらずして、 人意の作用なるにて明らかなり。 今ここに、 種々のつまらぬ卜筵を掲げて説明せんとす。

まず歌占は、「梅園日記」に「婦女子、 無心にて百人一首の草紙をひらき、  その歌をもてうらなうを歌卜という。 もろこしにも似たるわざあり。 巻卜といえり。『卿斎志異」〔(白秋練条)〕にいう、『女一夜早起挑レ灯、 忽開>巻悽然涙螢、 生急起問ら之、  女曰、 阿翁行且レ至、 我両人事、 妾適以>巻卜、 展>之得二李益江南曲一 詞意非>祥、 生慰解  之日、 首句嫁 得 樅塘買    即已大吉、 何不祥之与有、 女乃梢催。」(女一夜早起きし灯をかかげ、 たちまち巻を開いて悽然として涙おつ。 生、 急にたってこれを問う。 女曰く、「阿翁行きてまさに至らんとすとは、 わが両人のこと、 妾たまたま巻をもって卜してこれをのぶるに、 李益の江南の曲を得たり。 詞意祥にあらず」生これを慰解して曰く、「首句は糧塘買を嫁得す」と。  すなわち、  すでに大吉、 なんの不祥かこれあらん。  女すなわちゃゃょろこぶ)」とあり。 また「嬉遊笑覧」に、「歌うら、『和訓栞」に、 歌およびうたい物をもて占いをするなり、 短冊の占いもありといえりとあり」また、 俗間に伝わる書には、 安倍晴明の歌うらないと称して、 天照大神、 八幡大菩薩、 春日大明神、  この三社の神の示現にまかせ、 易の六十四卦をかたどり、 六十四首の和歌を集めて、 歌占と名付くる由。 その取りようは右の名を三遍となえ、「いにしへの神の子とものあつまりて、 つくりしうらぞまさしかりけり」といいてうらなうなり。  これ、 全く一心不乱の信仰の起こさしむる方便に過ぎず。

また銭占のことは『玄同放言』に、「小説載、 桶狭間之役、 信長夜謁二熱田神詞一 祗レ之曰、 駿兵百万、 既陥ーー数城一 勢呑二中国一 士卒戦栗、 不レ知二謀所乙出、 自レ非下仮二神威ー以逆中撃之い登可レ得レ克二大敵一乎哉、 因顧一軍士ー曰、孤欲下以二銭卜 向炉雌雄上焉、 今所投数銭皆形、(俗曰二銭面一為レ形)孤必大捷、  若無(俗曰二銭背一為レ無)則議>和焉耳、 此明神之心也、 祝了、 手自榔一数銭於幣壇一 使ーー左右抗ル火視>之、 乃其銭皆面、 時神宮中、 忽聞一鳴鑢一士卒感激、 勇気百倍、 信長亦大喜、 明日進>兵、 大戦二子桶狭間一 一挙獲敵  将義冗首級一 蓋信長好 詭計一 窃用ーー両面銭奨 士卒又以 鳴 錮  誘粂  心而  己、 是謂二両面銭卜 芸。」(小説「桶狭間の役」を載す。 信長、 夜熱田の神詞に謁して、 これにいのりて曰く、「駿兵百万すでに数城を陥れ、 勢い中国をのむ。 士卒戦慄して、 はかりごとの出ずるところを知らず。 神威をかりてもっ てこれを逆撃するにあらざるよりは、 あに大敵にかつことを得べけんや」と。よって軍士をかえりみて曰く、「われ、 銭占をもって雌雄を試みんと欲す。 今投ずるところの数銭みな形(俗に銭面をいって形となす)ならば、 われ必ず大いにかたん。 もし無(俗に銭背をいって無となす)ならば、  すなわち和を議せんのみ。  これ明神の心なり」祝しおわりて、 手ずから数銭を幣壇になげうち、 左右をして火をまげてこれをみせしむれば、 すなわち、 その銭みな面なり。 ときに神宮のうちに、  たちまち鳴 鍾 を聞き、 士卒感激して、勇気百倍せり。 信長もまた大いに喜ぶ。 明日兵を進め、 大いに桶狭間に戦う。 一挙して敵将義元の首級を獲たり。けだし、 信長は詭計を好めり。  ひそかに両面銭を用いて士卒をはげまし、 また鳴錆をもって衆心を誘うのみ。  これを両面銭占というこの小説は、 宋の仁宗のときの名将秋青がことと相類せり。『 凋 氏知頚全集」(巻十五智術部)曰く、「南俗尚レ鬼、 秋武襄征二僕智高一時、 大兵出二桂林之南{  因祝曰、 勝負無二以為>拠、 乃百銭自持>之、 与>神約、 果大捷、 則投二此銭一尽面、 左右諫止、 個不>如>意、 恐阻>師、 武襄不>聴、 万衆従視、 巳而揮>手條一榔、 百銭皆面、 於>是挙兵歓 呼、 声震二林野一 武襄亦大喜、 顧一左右ー取ーー百釘ー 即随二銭疎密一 布>地而帖二釘之一加以二青紗籠一手自封焉、 曰、 侯二凱旋一 当二謝>神取>銭、 其後平二屋州玉茫師如>言取レ銭、 幕府士太夫共視、 乃両面銭也云云。」(南俗、 鬼をたっと ぶ。 秋武 襄、 傑智高を征するとき、 大兵桂林の南に出ず。 よって祝していわく、「勝負もって拠となすことなし。すなわち百銭自らこれを持し神と約す。 果たして大捷せば、 すなわちこの銭を投ぜんに、  ことごとく面せんと、 左右諫止す。 もし意のごとくならずんば、  おそらくは師 をはばまん」と。 武襄聴かず、 万衆 査 視す。  すでにして手をふるって、 たちまち一榔するに、 百銭みな面す。  ここにおいて挙兵歓呼し、 声林野に震い、 武襄もまた大いに喜ぶ。 左右をかえりみて百釘を取り、 すなわち銭の疎密に従っ て、 地にしいてこれを 帖 釘し、 加うるに青紗籠をもって手ずから自ら封じて曰く、「凱旋をまってまさに神に謝して銭を取るべし」と。  その後、 邑 州 をたいらげ 師 をかえし、 言のごとく銭を取る。 幕府士太夫ともにみるに、 すなわち両面の銭なり、 云云)といえり。 本邦の野史ひそかにこれをとりて、 総見院右府の軍略にせしならんとあり。 しかして、 銭卜の漢の京房に始まりしことは前すでにこれを述べたり。 また、 俗間に伝うるものに投げ銭占いの法あり。  その法、 銭三文を手にもち、

その銭を投げ、  かくして出でたる表裏の面について吉凶を判ずるなり。 その効用はみな人の疑いを決するにあれども、 もし人、 その知をみがきて心鏡いよいよ明らかなるに至らば、  一切の卜臨跡を絶つことあるべし。  ゆえに吾人は、 卜筵絶亡の日の一日も早くきたらんことを望むものなり。




   第三四節 太占、 辻占


以上挙げたる諸法は、  みなシナ伝来もしくはシナに行わるるものを模擬したるに過ぎず。 しかるに、 わが国に

も神代より一種の占法ありしことは歴史上に見えたり。  これを「ふとまに」(太占)と名付く。「古事記    神代、美斗能麻具波比の段、 水蛭子の生まれたまいしとき、「爾天神之命以、 布斗麻邁爾卜相而云云。」(ここに天つ神の命もちて、 太占卜相い、 云云)とあり。 平田翁の「古史伝』に曰く、「布斗麻邁は、 神の御心を問い奉る卜事の名なり、 云云」また「古事記」天石屋戸の段に、「内抜二天香山之真男鹿之肩一 抜而取ーー天香山之天之波波迦一而、 令ニ占合麻迦那波一而云云。」(うちに天の香山の真男鹿の肩を抜きに抜きて、天の香山の天の朱桜を取りて、 占合いまかなわしめて、 云云)とあり。 肩を抜くとは、  その骨を抜き取るをいうなり。  上代のうらないはおよそ、  かく鹿の肩骨を用いられたり。 亀を用うるは、 漢の字を学べる後のことなり。 そもそも大兆のことは、 わけて神たちの始めたまえるなるを、 そのはじめはなにをもって、 いかようにしてうらなえたまえり云云と。 かつて知るべからぬを、  この波波迦の火もて鹿の肩骨をやいてうらなう法は、 このときより起これりしこと疑いなし。  さて、 後に鹿卜を亀卜にかえたること、 またそのうらなうる状などのことも、〔伴〕信友が「正卜考」につぶさに記したり(以上は「〔日本〕社会事棠」占卜部より摘載せり)。

また「つじうら」と称するものあり。「「和訓栞」にいう、「「万葉集」に夕衛をゆうけとよみ、 八十の衛 の夕占にもよめるこれなり   その法種々あり。「正字通   に、「鏡聴俗禰二宵神一 随一釜中杓所>指之方一 懸二鏡胸前一 窃聴二人語声{  卜ニ吉凶一 俗曰二響ト一 南楚曰二街卜  』(鏡聴の俗はかまどの神にいのり、 釜中の杓 の指すところの方に従い、 鏡を胸前にかけ、  ひそかに人の語声を聴き、 吉凶を占う。 俗に孵 卜という。 南楚に街卜という)とみえたり。  またいう、ゅ うけ、「万葉集』に夕占、 夜占、 夕衛などをよめり。 俗にいう辻占なり。 夕食の義にや。「後拾遺〔和歌〕集」に、「ゆうけをとわせける    と見えたり。「ゆうけの神    とも見えたり。  また黄楊小櫛と名付く。  そ

の法、 十字街に出でて、 黄楊の櫛をにぎりて、 道祖神を念じて、 見えきたる人の語をもて吉凶をうらない定むといえり」(「〔日本〕社会事梨」による)。 その他、 石占、 灰占、 橋占等、 幾種あるを知らず。 世に吉凶、 禍福の門に迷うもの多きを知るべし。



   第三五節     兆占

すでに和漢の占法を略述したれば、  これより西洋の占法を 二   するを要す。 その法も数種ありといえども、 今ここに、  ローマにて行われし一種の 兆 占を示さんとす。  これをオー ギュリー占と訳せり。  これ、 ローマにありて極めて古代より伝わりし法にして、 紀元前七と名付く。 予はこれを兆年ごろ、  すでにこの占いを本職とするものありしという。  その職は僧侶の一種にして、 神意を人民に告ぐるものなり。  ゆえに、 なにごとも公私にかかわらず、 占者にたずねて神の意をうかがわしめ、  その命によりて、 すでに議定したりしことまでこれを廃毀する等、 その勢力実に盛んなるものなり。 今その法の一斑を示すに、 第一に、 天象について占うことあり。

すなわち占者丘陵に上り、 東向して礼拝読経し、 天を望み、 その左に雷電のごとき一種の天象を見れば吉、 右に見れば凶なりとす。 第二に、 鳥の飛行を見て占うことあり。  この法はギリシア人のつねに用うるものにして、マ人もこれを重んじ、 攻戦、 講和、 っとしてこれによらざるなし。 その判定は、 第一に鳥の種類により、 第ニに鳥の事情による。 例えば、 右より左に飛行すれば凶、 左より右へ飛行すれば吉となる。  また鳥の種類をわかちて、 あらかじめこの鳥は吉、  この鳥は凶とするなり。 第三には、 雛鳥の食を好むといとうとによりて占うることあり。 すなわち、 その好むは吉、  いとうは凶なり。 以上三者のほかに、 獣類について卜することあり、 あるいは人のくしゃ みについて卜することあり、あるいは塩を食卓の上に振りかけて卜することあり。これを要するに、ロー マ人は天地間の自然の現象の常に異なるを見て、 これ神意を示すものなりと信じ、 その現象の裏面に神意ありて潜在するがごとくに考えしなり。

その他、 西洋今日の社会にも、 東洋に行わるる卜筵にひとしきものありて、 いずれの国も愚民の状態は同一なるものなり。 ただし、 もしその多少を較するときは、 西洋は東洋のごとくはなはだしからざるは余が弁をまたず。しからば、 社会開明の程度は、 卜痙の盛衰によりて判定するを得べきか。


   第三六節     夢占

つぎに、 夢占について古書に散見せるものを挙ぐれば、  王達が『筆 疇 に、「夢者非二自>外致一也、 日之所レ為也、 日之所レ為、 有ー一善悪一夜之所>夢、 有二吉凶一云云。」(夢は外よりいたすにあらざるなり。 日のなすところなり。日のなすところ善悪あり。 夜の夢むるところ吉凶あり、 云云)「芸文類衆』第七十九に曰く、

周書曰、 大娯夢見ーー商之庭産>棘、 太子発取二周庭之梓樹於闊   梓化為一松柏一械杵寝覚、以告ーー文王一文王乃召ニ太子発一 占ーー之干明堂一 王及太子発、 並拝二吉夢

受二商之大命子皇天上帝東観漢記曰、 諸将勧二光武ー立、 乃召 寓異{  上曰、 我夢乗>竜上>天、 覚 悟心中動悸{  異因下>席再拝賀曰、 此天命発二於精神ス心中動悸、 大王重慎之性也、 異遂与二諸将 』生議上二尊号ー 又曰和憲皇后常夢、 門二天体一蕩蕩正青、 滑有レ若二鍾乳{  后仰唆>之以訊五  夢ご言尭夢 攀乙大而上一湯夢ーー反>天祇ら之、 此皆聖王之夢、呂氏春秋曰、 孔子絶二糧乎陳察之間一黎羹不>

樹七日不祉    粒、 昼寝、 顔回索レ米得而来、 猫レ之幾熟、 孔子望見、 回捜二其甑中{  而飯レ之食熟、 謁二孔子一而進レ之、 孔子起曰、 今者夢見二先君食伽糸欲>餓、 顔回対曰、 不缶?袈食一埃煤入二甑中一棄る食不レ祥、 因捜而飯>之、(埃煤煙塵煤也)苑嘩後漢書曰、 察茂夢見ー一太極殿上有二三穂禾一 茂跳取乙之得二其中穂一 輌復失>之、 以問二主簿一 郭賀因離レ席慶曰、 大殿者宮府之形像也、 極而有二禾人一 臣之上禄也、 取二其中穂一者是台之位、 於レ字禾失為レ秩也、 旬月而茂徴焉、 乃辟>賀為>橡  ゜

(「周書」に曰く、「大娯、 夢に商の庭に棘 を産するを見、 太子発、 周庭の梓樹を闊に取る。  梓 化して松柏となる。 械杵寝覚めてもって文王に告ぐ。 文王すなわち太子発を召してこれを明堂に占い、 王および太子発、ならびに吉夢を拝す。 商の大命を皇天上帝に受く」『東観漢記』に曰く、「諸将光武を勧めて立たしむ。  すなわち凋異を召す。  上曰く、「われ夢に竜に乗りて天に上り、 心中動悸を覚悟す    異、 よって席を下りて再拝し賀して曰く、「これ天命なり、 精神に発し心中動悸するは、 大王重慎の性なり」異、  ついに諸将と議を定め、尊号をたてまつる」また曰く、「和憲皇后つねに夢む。 天体をひねるに蕩々としてまさに青く、 滑鍾乳のごときあり。 后、 仰いでこれ嗚う。 もって占夢にたずぬ。 いわく、 尭は天を攀じて上ると夢み、 湯は天に反してこれを祇むと夢む。  これみな聖王の夢なり」『呂氏春秋』に曰く、「孔子、 糧を陳察の間に絶たれ、 黎羹くまず、 七日粒をなめず、 昼寝ぬ。 顔回、 米をもとめ得てきたり。 これを鋸してほとんど熟す。 孔子望見す。回、  その甑 中 をつかみ、  これを飯するに食熟す。 孔子に謁してこれを進む。 孔子たって曰く、『今は夢に先君繋を食し餓せんと欲するを見る    顔回こたえて曰く、「骰食すべからず、 埃煤甑中に入る。 食をすつるは不祥、 よりてつかんでこれを飯す(埃は煤煙、 塵煤なり)」苑嘩の「後漢書に曰く、「「察茂、 夢に太極殿上三穂の禾あるを見る。 茂、  おどりてこれを取りて、 その中穂を得てすなわちまたこれを失う」と。 もって主簿に問う。 郭賀、 よって席を離れて慶して曰く、『大殿は宮府の形像なり。 極めて禾人あるは、 臣の上禄なり。 その中穂を取るはこれ台の位、 字において禾失は秩となるなり。 旬月にして茂徴せらる。  すなわち賀を辟して橡となす』」)

シナにては夢を判ずるために占夢の官さえありしほどなれば、  つまらぬ夢までもこれが吉凶を判定するなり。その判定は道理上考うるに足らずといえども、 よくこれを事実に適合して判断を下すは、 人の頓知に出ずるもの

なり。 今、 左に『酉陽雑俎 三冊目)に出ずる例を示すに、

魏楊元積能解レ夢、 広陽王元淵、 夢着二衰衣一 侍二愧樹一 問二元稲一 元槙言、 当>得』一公一 退謂>人曰、 死後得三公一耳、 椀字木傍鬼、 果為二爾朱栄翫び殺、 贈二司徒

(魏の楊元稲よく夢を解す。 広陽王元淵、 夢に衰衣を着て椀の樹による。 元穣に問うに、 元槙のいわく、「まさに三公を得べし」と。  退いて人にいいて曰く、「死後、 三公を得るのみ、 椀の字は木傍に鬼なり」と。 果たして爾朱栄のために殺され、 司徒を贈らる)ト人徐道昇言、 江淮有二王生者一榜言解>夢、 賀客張瞭将>帰、 夢炊二於臼中ー問二王生一生言、 君帰不>見>妻突、臼中炊固無>釜也、 賀客至>家、 妻果卒已数月、 方知ーー王生之言不品空矢゜

(卜人徐道昇いわく、「江淮に王生なる者あり。 榜していわく夢を解す」と。 賣客 張 朧まさに帰らんとす。

「夢に臼中に炊ぐ」と、  王生に問う。 生いわく、「君帰れば妻を見ず。  臼中に炊ぐはもとより釜なきなり」と。

賣客家に至れば、 妻はたして卒してすでに数月、 まさに王生の言の謡いざるを知る)

また、 わが国にも古来、 夢に相して判断を与うることあり。 今、=本朝語薗  に出ずる例を転載すること左のごとし。


「本朝語園巻一に曰く、「崇神天皇四十八年正月十日、 天皇、 豊城 命、 活目 尊 に勅して曰く、「 汝 ら二人の御子、 慈愛ともにひとし、  いずれを嗣にせんことをしらず、  おのおのよろしく夢みすべし。  これを占いて帝位をゆずらん』と。   二の御子ここにおいて命を承り、 浄沐して祈りて寝たり。  おのおの夢を得て、 曙に兄    の豊城命、 夢の 辞 をもって奏して曰 く、『自ら御諸山にのぽりて東に向かいて八回鉾をふり、 八たび刀

繋ちす弟の活目尊、 夢の辞をもって奏すらく、「自ら御諸山の嶺にのぽり、 網を四方にはえて粟を食う雀を逐う」すなわち、 天皇相 夢してのたまわく、「兄は一片に東に向かい東国を治むべし。 弟はこれことごとく四方に臨み、 よろしく朕が位を継ぐべし」四月十九日、  活目尊を立てて皇太子とす(垂仁天皇と号す)。 豊城命をもって東を治めしむ。  これ上毛野君、 下毛君の始祖なり」

同書、 巻七に曰く、「大入道殿兼家いまだ納言たりしとき、 夢に逢坂の関をすぎたまうに、 雪ふりて関路ことごとく白きを見たまいて大きにおどろきたまい、 雪を夢みるは凶なりとおぽしめして、  すなわち夢解きをめしてとかしめらるるに、 夢解き申していわく、『この御夢想きわめて御吉相なり。 たしかにもって御気づかいあるべからず。 そのゆえは、 人かならず斑牛をたてまつるべし」と申しけるが、 果たして人、 斑牛をたて

まつる。 兼家公、 よろこびのあまり夢解きに禄を賜う。 かくてのち、 大江匡衡参らしむるに、  この由を御物語りあり。 匡衡大いに驚き申していわく、「夢解きに賜りし禄を召し返さるべし。 合 坂 関の関の字は関の字なり、 雪は白の字なり。 必ず関白に至らしめたまうべき」由申すに、 大きに感ぜしめたまう。 その明年、 関白の宣旨をこうむらせたまいける」俗間に夢の判定をなす書あり。『夢はんじ」と題する書には、 天晴るると見れば官位に上る、 日の出、 月の出を見ればその日のうちによろこびあり、雲四方にたつと見ればあきないごとあり、大いに吉等と判断を与うるなり。また、『夢 合  長 寿 宝 』には、 天地の部、 人倫の部、 神釈の部、 器械、 生植、 気形の部を設けて、 天地の部には、日月、 山川、 風雨等の諸象を見たるときに、 吉とか凶とかの判断を与うるなり。 俗に夢は逆夢と称して、 事実と反対するものとす。  ゆえに、 夢中の不幸は覚時の幸を得る前兆なりとし、 夢中に葬式、 死去のごときことを見るも、 だれも意とするものなし。  これけだし、 夜と昼とは全く表裏相反するによる。 また、 俗に歯の落ちたる夢を見るときには、 必ずその親戚に死人ありという。 余案ずるに、 歯は年齢を義とするをもって、 歯の落つるは年齢の尽くるといえる連想より起これるものならん。 しかして、 実際その夢の事実に合することあるも、  これ偶然にして、 十人は十人必ず事実と相合するにあらず。 その理由は前に述べたるものに準じて知るべし。

かく夢について吉凶を判ずる規則なれば、 また自ら吉夢を得、 悪夢を避くる方法あり。 正月、 宝船の画紙を枕の下に置きて眠れば吉夢を見るといい、 また悪夢を除く方法あり。 その法、 あるいは悪夢払いと称して、「赫赫陽陽、 日出東方、 断絶悪夢、 避除不祥、 急急如律令。」(赫々陽々、 日東方に出でて、 悪夢を断絶し、 不祥を避除す。

急々律令のごとし)という句を七遍唱うれば悪夢を払い去るべし。 また、 摸と名付くる獣を枕および会 にえがけば、 その獣よく悪夢をくらうをもって、 悪夢払いとなるという。 あるいはまた、 主夜神の呪い「婆珊婆演帝」の五字を書きおくも悪夢を防ぐべしという。  これみな精神作用によりて悪夢払いの功あること、 問わずして明らかなり。



   第三七節    御閥、 神簸

また、 わが国の神社仏閣に御閾を備えて、 人をしてこれを探りて吉凶を判知せしむることあり。  そもそも厖には多く種類のあるものにして、 その要みな人の決心を定むるにほかならず。 易痙の策竹を探るとなんぞ異ならんや。「嬉遊笑覧に、  つまびらかに閾の種類を示せり。  すなわち(巻八    に曰く、閾 をくじというは紙とおなじかるべし。 字書に「園は手に取るなり」とあり。  ゆえに猜枚を蔵 閾 といえり。「下学集    に「閾不見而枯物也」(圏は見ずして物を枯ずるなり)「続日本紀  「天平二年正月云云、 令採

短籍、 書以仁義礼智信五字、 随其字而賜物。」(『続日本紀、 天平二年正月云云、 令採短籍、 仁、 義、 礼、 知、信の五字をもって書す。 その字に従って賜う物)これ閾取りなり。「南朝紀伝清水に詣で、 御閾を取りて将家の家督を定めしことあり。

正長元年正月、 畠山満家、 石今用うる観音簸は、 いつのほどよりありしものにか。「谷響集(九)、 釈門正統名菩薩簸云云、 叙其事者、謂是菩薩化身、 所撰理或然云云。」(『谷響集』(九)釈門正統、 菩薩簸と名づく、 云云。  そのことを叙すれば、これ菩薩の化身、 選するところ理あるいはしからん、 云云)また紙閾は『智覚禅師伝」にいう、  二紙閾を作りて二願を決することあり。関帝簸というがあり。  その語、 東披の作というは非なり。 そを見しに銭をもて占うなり。「群砕録』(陳継儒)に、「今之卜者以銭蓋、 唐時已用之。」(今の卜者銭をもっておおう、 唐時すでにこれを用う)

今、 俗に人のくちうらを聞くというは口占なり。「俳諧懐子五)「吹風の口占でしれ今朝の秋」泉州堺に市の町、 湯屋の町というところの辻を占いの辻という。 俗伝に、 安倍晴明この所に占いの書を埋めたりといえり。 今、 辻占に用うる誦歌は、「艶遣通鑑    に、「つげの櫛を持ちて道祖神を念じ、  四辻に出でて辻やつじ四辻がうらの市四辻うら正しかれ辻うらの神」とあるこれなり。石卜。「万葉〔集〕」(三)「夕衛占問石卜以而吾屋戸爾」(夕衛占、 問石卜、 もってわが屋戸に)、 これは石を踏んで占うことなり。(中略)ただし後人、 石を踏んで占うにはあらず、 石を挙げてするわざなり。 そのこと

今に伝う。「埋抄 」に、 幸神の祠に、 丸石を置いて石の軽重をもて事の吉凶を卜することをいえる、  すなわちこれなり。「金葉集」寄石恋(前斎院六条)「あふことをとふ石神のつれなさに、 わが心のみうごきぬる哉」今も石神というもの諸方にあり、 坂東の国にはことに多し。

また、  わが国の仏閣にて備うるところの御閾は、 元三大師の 百 紙にして、「元三大師御閾判断」と題する書によるに、 そもそもこの百縦と称するは、  王城の鎮守比叡山根本中堂に立たせたまう伝教大師第三の僧正慈恵大師の定むるところ、 大師は永観三年正月三日寂をさせたまうがゆえに元三大師と唱うるなりという。 またその効用を示して曰く、「七千余軸の中に「観音薩埋無蘊利益不可勝計  (観音薩唾、 無醤の利益あげて計うべからず)なり。 経に曰く、「十方諸国土無刹不現身」(十方諸国土、 刹として身を現ぜずということなし)、 月の衆水に印するごとく、 春の万国に行けるに似たり。 衆人合掌して求むるところを請うときは、 吉凶を決すること響きの声に応ずるがごとし。 百発百中、 ああ、 無辺の大慈大悲、 深いかな深いかな、 あがむべし、 玄妙不可思議。  こいねがわくは、 簸をたっとぶもの、 異を欺き奇に誇ることなからまくのみ」と。

またその規則を示して曰く、「この占いは法華普門品三巻読誦し、 正観音千手十一面等その言三百三十三べん、礼拝三十三度し、 しかる後に取るべきものなり」と。  これ、 ただ人の信仰を一点に集めしむるものにほかならず。簸筈は一定の寸法ありて、 高さ一尺、 幅四寸四方なり。 その中に百本の御簸竹をいれ、 その各本に大吉、 吉、 半吉、 小吉、 末吉、 末小吉、 凶の文字を記入せるものなり。 その百紙に対する吉凶の判語は、 五言四句の詩をもって示せり。 例えば、 第一、 大吉にして、 その語に「七宝浮図塔、 高峰頂上安、 衆人皆仰望、  莫>作二等閑看ご(七宝浮図の塔、 高峰頂上に安んず。 衆人みな仰望、 等閑の看をなすなかれ)とあり。 第二、 小吉にして、 その語に

「月被二浮雲磐    立事自昏迷、 幸乞陰合祐、 何慮不ーー眉開ご(月は浮き雲に酪せらる。 立事おのずから昏迷、  幸いに請う陰合祐、 なんぞおもんぱからん眉の開かざるを)とあり。 以下これを略す。  これ全く易筵に同じ。  ゆえに、その用は愚民の迷心を一定するにありて、 多少の功なきにあらざるも、  これを迷信するときはまたその害あり。しかして、 その理由は易筵と同一なれば、 ここに略す。 また、「法華宗御閥絵紗  と名付くる書あり。  その序文に曰く、「およそ人は、  すべて賢きも愚かなるも、  いまだきざさざる行く末のことを知るべからず。  これによりて、一心浄々にして信力をてらし、 わが願うところ吉凶、 善悪をうかがい、 判然決心すべきことなり。 しかして、 その語句は全く元三大師の定むるものと異なることなし。 ただ簸宮に、  一方は観音大慈大悲大士菩薩と書し、  一方は南無妙法蓮華経と書するの別あるのみ」

また、 神社にもこれにひとしき簸法を用うるなり。『神紙五十占』と題する書の序に曰く、「これまで神社にて仏    占  百番にて吉凶をみることになりきたるところ、  こたび王政復古維新の折から、 両部神道御廃しになりて、神社にて仏占相用うることはいかにと思い、  こたび出雲大社の神に祈り請い申して、  一七日神の広前にて神歌御さとしをこうむり奉りて、 太占の心をとりて吉凶の御さとしをあまねく天下の神社の広前に置きて、 今までの仏占のごとく、 世の人に吉凶の迷いを神の御心として知らしめば、 諸人の助けともなりなんと、 かくものするなり」と。  ゆえに、 その法は元三大師百簸と異なることなし。  これを要するに、 御紙の法は易斌とその理を同じくすれ ば、 その可否は易旅の批評に照らして知るべし。 もし、 よく精神一到してこれを行えば、 その疑いを決し意を強むるの功験あるは、 また疑うべからず。  ただ、 世の迷信の弊を除くは妖怪学講究の目的なれば、 余輩いささかこのことに力を尽くさんとするのみ。

以上論ずるところは、 物理〔的〕および心理的説明によりて諸種の卜痙を評論したるものなり。  これ、 余がいわゆる仮怪なり。  すでにそのものたる仮怪なれば、 その迷雲を払い去るは妖怪学研究の目的なり。 しかして、 もしその真怪に至りては、 余、 別に一説あり。 結論をまちてこれを開陳すべし。



第五講 鑑術編


   第三八節鑑術総論

鑑 術 とは 九 星、 干支のごとき、 人の生年、 方位等によりてその吉凶、 禍福を鑑定する方術をいう。  その卜筵と異なるゆえんは、卜策は臨時に定まるものなりといえども、鑑術にありては生来定まるものなりとするにあり。されば、 鑑術より卜 巫を見るときは、 卜研巫ははなはだ不確実かつ不安心のものなりとなせり。 なんとなれば、 ト痙はここに一事の起こるあれば、そのときどきに応じて卜 定 するがゆえに同一事件といえども、二人別々にうらなえば別々の結果を得、 また再度問うことあらば、 前後別々の結果を示すべければなり。 しかるに鑑術は、 その生まれたる年月によりて、  その吉凶、 禍福を考定するものなるがゆえに、 天然に定まる性質は、 これを鑑定するものの意志によりて動かすことあたわず。  これをもって、 その確実なることを知るべしという。 しかれども、 もし局外者よりこの両者を見わたすときは    いずれも不確実の度においてさほど高低あるものにあらず、 みな同一に信ずべからざるものとなすのほかなきなり。 そもそも鑑術は陰陽五行をもととし、 相 生、相剋の理により吉凶を判ずるものなり。  すなわち干支、 五行を時日に配当して、 何年何月何日に生まれたる人は、  その干支、 五行はかくかくなれば、 その人の性質はしかじかなりなど、  すべて五行生剋の法則によらざるなし。  かつ五行を方位その他すべてのものに配当し、 これとその生まれたる時日の五行と相照らして、 吉凶等を判定するなり。 鑑術にあまたの種類ありといえども、 要するにこの方法に出ずることなし。 しからば、 鑑術はその原理すでに妄なりというべし。 なんとなれば、 五行生剋の理は、 余すでに第二講においてその妄なることを証明したればなり。 かつ、人の吉凶、 禍福はすべて生まれながらにして定まれりというがごときは、 最も信ずるに足らざるものとす。

およそ人間生涯のことたる、 内外種々の原因、 事情に従いて変化するものにて、 決して出産したりし当日の原因のみによりて、  一生の万事既定すべきものにあらず。  また、 よし生時にすでに人の性質は確定するものなりとするとも、 その生まれし年月、 時日と人との間に、 決してさほど深き関係あるべき道理なし。  いわんや、 五行の配当は全地球上において考定したるものにあらざるをや。  すなわち、 この五行説はシナにおいて起こり、 中古以来日本に行われ、 赤道以北の暖帯地方において定めたるものなり。  ゆえに、  これを春夏秋冬の上に配当して、 夏ならばその気は火にして、 その色は赤、 その方角は南なりといえり。 もし南半球に至らば、  これに反対の配当をなさざるべからざるに至らん。 また、  この地球以外において、 星界にもしわが世界のごときものありとせんに、この干支、 五行の規則は、 果たしてここにもまた当てはまり得べきやいなや。 畢 党、 かかる干支、 五行の配当のごときは、  シナ、 日本等の北半球の一部をもって全世界なりと見たりしときの想像説にして、 広く全世界の上に応用すべきものにあらず。  ことに時日のごときは太陽と地球との関係より起こるものにして、 宇宙全体よりいえば極小部分の関係なるのみ。  されば地球上にても、 あるいは昼夜の区別なくして、 半年全く夜にして半年全く昼のみの土地もあり、 所々に従いて昼夜の長短もおのずから異なれば、 寒暑の来往も等しからず。  このゆえに、 暦日のごときもただその土地土地の便宜によりて組み立てしものにして、古今東西、暦日の制おのおの相異なれり。しかるに、  この時日の上に五行を配当するがごときは、 大いに疑うべきものたるのみならず、 さらにこれを人事上に適用せんとするに至りては、 妄もまた極まれりというべきなり。 たとい五行は天地の間にわたれる気なりとするも、  そは時日そのものの上にかかる関係あるべき理、 万あるべからず。

いずれにしても鑑術の不確実なることは、 卜痙と相比して憂も等差なきを知るべし。 また今、 仮にこの説をして成り立たしめんか。 なお、 大いにここに論難すべき一点あり。  すなわち、 もし今この理に従いて、 同年同月同日に生まれたる人は必ずみな同一の性質を有して、 同一の運命に際会するものなりとせんか。  およそ世界の人間

は、 これを時間に割るときは    一秒時にして六十人ずつ生まれ出ずるものとす。  しからば、  これらの人々は同性質、 同運命を有するものたらざるべからず。  ナポレオンと同日同刻に生まれたるものは、 少なくとも二、 三十人前後はあらん。 しかして、  これらの人はみなナポレオンと同性質、 同運命を有せざるべからざるにあらずや。 釈迦と生年時日を同じくするもの、 家康と生年時日を同じくするもの、 ともにみな釈迦、 家康とその運命を同じくせざるべからず。 たといこれに方位等の他の事情を参考すとも、 同時日に生まれし人の全く異なる運命に会うがごときは、 決して説明することを得ず。  かかる難をもってこの鑑術の上に加えば、 なおなおあまたあらん。  いちいち挙ぐるにたえざるなり。

干支、 五行を時日の上に配当して吉凶、 禍福を談ずるの妄なるゆえんは、 余ひとりこれを唱うるにあらず。『梅園叢書』に論ずるところ、 実にその意を尽くせり。  これただに鑑術に関するのみならず、  すべて暦日の上にて吉凶を判ずるものについてその迷いをひらきたるものなれば、 余がこれより講述する各講の参考に必要なれば、  ここにその一論を挙示すべし。

物としてその弊あらざるはなけれども、陰 陽家の説もっとも人に害あること多し。そのことはもと陰陽五行を推して旺 相 死囚労の理を出でずといえども、 ついには枝により葉により、大いに理に戻ることあり。 四季に大将軍遊行の方ありて、 春は東、 夏は南、 秋は西、 冬は北をふさがりとして諸事動作にいむ。 正月丑、二月辰、 三月 末、 四月戌、 五月子、 六月卯、 七月午、 八月酉、 九月亥、 十月寅、 十一月巳、 十二月申のごと

き月ふさがりとし、 六十 甲 子寅より午に至り金神遊行の方とし、 日をもっていえば、 子の日に子の方、 丑の日に丑の方をいむ。 また、 方に金神七殺の方あり。 九炊、 五貧、 十死、 帰亡、 往亡、 凶会、 大禍、 赤口、 赤舌、 狼藉、 滅門、 没日、 滅日、 黒日などいいて、 多く事を廃することあり。 なるほど一通俗にしたがい、 冠婚のごとき大事には吉日をえらぶもよかるべけれども、 ものごとに忌み嫌う心ふかく、 時を失うこと愚なるに似たり。 諺にも「陰陽師の門に 蓬 たえず」とて、 あまりつよく物をいめば、 草とる日とてもなくなりはベる。 よき日なりとて悪事をなしなばあしかるべし、 悪日なりとも善事なしなばよかるべし。 目のあたり試むべきことには、 天火、 地火の日なりとも、 五穀を植えてよく培い 転 りたらんには、 よき日を選びて植え培わず転らざるよりは、 はるかによかるべし。 もしまた麦の春の霜にいたみ、 稲の秋の風にあれんは、 吉日にうえたるも悪日に植えたるも、  おなじく損なわるべし。 もしまた鴻水、 火難等にあわんには、 吉日に建てたる家も悪日に建てたる家も、おなじく波にゆられ、また一片の儘となるべし。「武王以二甲子一興、紺以二甲子    」」

(武王は甲子をもって興り、  紺 は甲子をもってほろぶ)ということあり。 周の武王殷をせめ、 甲子の日にあたりて殷の紺王をほろぽしたまえり。同甲子なれども、武王のためには吉日にして紺王のためには悪日なり。みなとにかかる船の東にゆくは、 西風を順風といい東風を悪風という。 また、 西にゆく船のためには、 東風順にして西風不便なり。 もとより風に順逆はなく、 われゆくに順逆あり。 日に吉凶なし、 われに吉凶あり。とかく、 あしきことをする日はすべて悪日なり、 よきことをする日はすべて吉日なり。 吉凶あに、 ほかにもとむべけんや。 適日を選ばずして成就せざることあれば、 手をうちて日時をえらばざるゆえなりといいおもう。  さあらば、 吉日選びてんには千が千成就すべきや。 世の中の吉凶、 禍福は人間の常にして、  たとえばあざなえる縄のごとく、  上になるもの下になり、 下なるもの上になり、 変化定めなきものなり。

たとえば一握の糠をとりて水にながさんに、 さきだちて流るるあり、  おくれて流るるあり、 風にふかれていずかたともなく吹きゆくもあり。 また、 さきだちたるが石にさまたげられておくれ、  おくれたるがさきだつもあり。  おなじくたなごころに入り、一同にたなごころをはなれても、 そのゆく所おのおの同じからず。

また一本の木なりとも、  一段は神を彫り仏を造り、 首をかたぶけ手を合わせて人に貴ばれ、  一段は踏み板、足駄の類となりて人に踏まれ、 木屑は薪となりて灰汁桶の苦にあう。  おなじく生をうけながら、  その用いらるるところは天壌なり。 よっておもえば、 年月日時をくり合わせ、 易の六十四卦に配し、  一代の吉凶をとくはおぼつかなきことなり。 かつ、 はなはだしき害ともいうべきは、 その生年によりて女、 男をころすことあり、 男、 女をころすことあり、 弟に丑の年の者あれば嫡家に祟ありなど、 口にいうのみならず書に筆し、 人を誤ることあげて嘆くべからず。 諺に「盲千人目明き千人」といえども、 盲千人目明き一人にも及びがたければ    一人の手一河の流れ支えがたく、 人の心に城をなし郭をなし、 その惑いときがたし。

異朝にもかかることありしにか、 斉の威王の少子に靖郭君田嬰といいし人の妾懐妊して、 五月五日に子を生みけり。  そのころの諺に「五月五日に生まれたる子は、 男子なれば父を害し、  女子なれば母を害す」といえり。  これによりて田嬰快からずおもい、  ゆめゆめこれを生育すべからずといいけるを、 その母かくしてこれを養い田文といいけり。 長じてその兄弟へ頼み、 父田嬰に逢いけり。 田嬰よろこばず、 その母にいいける

は、「われ、  この子を養うことなかれといいしに、 なにゆえにかくはこしらえけるぞ」といいければ、 田文かしこまりて、「なにゆえ、 かくは五月の子を忌みたまうか」と問いけるに、「五月の「子者長与レ戸斉、 将レ不レ利 其 父母

(子は長じて戸とひとし、 まさにその父母に利あらざらんとす)」と答う。 田文ききて、「人生まれて命を天に受くるか、 また命を戸にうくるか、 もし命を戸に受くとならば、 ずいぶんその戸を高くすべし。たれかその戸とひとしかるべき」といいける。 田嬰も理に屈し、 その後は余子とおなじくつかえけるが、 田嬰子ども四十余人ありし中にも、 この田文こそ孟 嘗 君とて、 斉の国もこの人ありしゅ えに、 隣国よりもおもくおもわれける。 今、 男をころす女、  女をころす男などいえるも、 往々しるしをたててみるべし。  ことごとく、 さあるにあらず。 またそのほかの年の人も、 早く夫に後れ妻に離るるもいくばくぞや。  これはその人々の幸不幸なり。 全く年のしわざにあらず。

明の太祖天下を得たまいてのち、 朕と年月日時を同じくして生まれたらんものはいかがあるべしとおぼしめし、 あまねくたずねたまいしに一人をもとめきたれり。 見たるところ、 やせつかれたる野夫なり。「なんじ、 なにを業とするぞ」と問いたまいければ、 蜜十三籠をやしないて世をわたる由こたえけるに、  このもの、なにごとをかなすべきとて、 放しかえしたまいしとなり。 あるいは畜をもとめ、 木をきり、 首途家移り方を立て、 日時を改め、 禁忌はなはだ多し。 東家の西、 西家の東とて、 東のかたの家の西は西の家の東なり、 南におるとおもう人もまた、 その南におる人のためには北なり。 屋敷は水難なかるべく、 山潮などきたらず、月日の影まさしくうくる所をよしとす。  されども、 あるじの心あしくば家退転のもとなるべし。 婦は婦徳正しく従順至孝ならば、 方あしくとも繁昌すべし。 烏のなき、 犬のとがめ、  馳、   巣  ようのもののなき、 菌の生、 灯のきゆるにも忌み嫌う僻のふかくて、 こころを悩ますごとき笑うべし。  孟嘗君がいえるごとく、 わが命を烏、 犬などにうけなばさもあらん。 もし命を天にうくるとならば、 彼ら、 いかんぞ人に禍をなすべき。あるものは鳴き、 羽あるものはとぶ、 人のものいいかたるがごとし。 禽 獣 は、 もとより天地の偏気にして 無知のものなり。 それに万物の霊として天地と並び立ちて三オともなるほどの人、  かの無知の禽獣に教えられなば、  人はた禽獣の下に立つべきか。 たとえば数代相伝の君、 譜代の家来につかえたるがごとし。  みな理というものをしらざるよりおこれり、 いたむべし。

この論は実に卓見にして、 方位、 暦日を迷信する徒をして、 その妄を悟らしむるを得べし。  かつ、 方位のごときは天然に定まりたるものにあらずして、 仮定のものたることを知らざるべからず。 吾人が日本の地にありて左右を望めば、 その日の出ずる方は東にしてその入る方は西なり、 その陽は南にしてその陰は北なり。  ここにおいて東西南北の別起こるといえども、 もし、 ようやく北方に進み北極の中心に達するに至らば、 なお東西の別を存するや。 半年間は昼のみにして、 半年間は夜のみなる地に至らば、 日の出入りによりて東西を判定することあたわざるは明らかなり。  ゆえに、  北極の中心に達すれば、 東西南北四方のうち、 ただ南方の一方位を存するのみなりという。 今日の方位家がかくのごとき場所に至らば、 いかなる説明をなして可ならんや。  また、 南極の中心に至るも、 同じく東西南北の別を談ずべからず。 方位家はなにによりて方位を判断するや。  これによりてこれをみるに、  この一地球上においてすら、 なおよく方位説の仮設の憶説なることを知るべし。 もし、  その説にして真ならば、 世界中いずこに至るもその理を応用すべきはずなるに、 地球上においてすらある一定の界限内において応用し得るも、 全地球上において応用すべからざる以上は、 決してこの説をもって必定不変となすべからざるは、識者をまたずして明らかなり。 もしそれ、 宇宙全体の上より観察しきたらば、 東西南北の方位の全く存せざるを知り、 あわせて方位説の空想、 妄見なることを知るべし。  われ人いったん去りて地球の外に出でて、 天空中にどまりて天地間を望見するときにはいずれを東としいずれを西とすべきや。 宇宙天界にその別なきこと、 たやすく了知するを得べし。  ゆえに、 仏教には「迷故三界常、 悟故十方空、 本来無二東西    奈所有二南北ご(迷うがゆえに三界は常、 悟るがゆえに十方は空、 本来東西なし。 いずれの所にか南北あらん)と説きて、 方位説の人の迷心より生ずるゆえんを示せり。  これ実に卓見というべし。 今、 その要点を摘示すること左のごとし。

方位説は地球の外において談ずべからず。

方位説は地球上の一部分に限りて応用すべし。

この二条によりてこれを考うるに、 方位説の仮設の憶説なること明らかなり。  かつ、 方位は地球と太陽との関係によりて仮に現ずるものなれば、 本来地球そのものに存するにあらざること、 また問わずして知るべし。  これ余が方位説を排するゆえんにして、 いやしくも論理の一端を解するものは、  かくのごとき妄説を信ずるものあらんや。 しかるに方位家は、 方位の順逆によりて人事の吉凶、 禍福の必定し得べきものとなす。 その妄、  ここに至りて極まれりというべし。



   第三九節    鑑術の応用

鑑 術 は、 以上のごとくこれを妄説中の妄と排するのほかなきものなりといえども、 また、 その応用に至りて事実に適中することあるは、  一概にしりぞくべからざるなり。 世上の論者のごとく、 ただひたすらに排斥し、 あるいはひたすらに信仰するは、 ともに中庸を得たる正論にあらず。 余がみるところをもってすれば、 鑑術は理論上もちろん不合理のものなりといえども、 実際上、 事実に符合すべき理由あることは、 前講に論じたるところと畢覚、 同一理なり。 これ、 もとより物理的説明により証明し難しといえども、 心理的説明によりてその一部分を証するに足る。  すなわち、 鑑術を信ずる人にありては、 その信仰予期の力によりて好結果をみることあるなり。 換言すれば、 精神そのものの作用によりて事物の適中をみるなり。 例えば 九 星、 淘 宮 等によりて、 たれがしはその性質温順なりと判定せらるるときは、  これを信ずるものはおのずから温順の性質に傾き、 強剛なりといわるるときはおのずから強剛に傾くがごとし。 余、  かつて人の名称の大いに教育上に力あるものなることを論じたることありしが、 鑑術者の判断の人の性質を変化するに力あるもまた、  この理によるものなるべし。  その他、 第一講において論じたりしがごとく、  すべての暗合、 偶中は種々の事情より起こるものにして、 その割合は、 適中せざるものより適中したるもの多数なるがごとく思わるるものなり。すでに物理的説明のみによるもなおその理あり。いわんや、  これに加うるに心理的説明の存するをや。 ゆえに、 実際上の適中、 暗合に至りては多少事実によりて証明し得るも、  これ実に適中暗合なるのみ。 決してこの暗合の一事をもって、  その道理の真なることを証するの理あらんや。 たといいかに鑑術に妙を得たるものといえども、 百は百ながら千は千ながら、  ことごとく適中せざることは明瞭なる事実にして、 鑑術家がなにほど弁護するも、 数理の応用のごとく必然なるものにあらざること疑いをいれず。

佐藤安五郎氏の組織せる五行協会の広告によるに、 曰く、「そもそも余が推究したる観理術と名称するものは、寸間も休止なく旋転する天地陰陽活動の順逆あるいは出没変化により、 宇宙間の森羅万象に波及するところの関係、 前、 現、 末来を顕明知得すること、 あたかも鏡をもって掌中を指すに等し。 なかんずく各人ごとに差異ある性質を明知し、 加うるに天地の活気を挙用し、 人身の凶禍を転じて吉福となす等に至りては、 千発千中にして実に神のごとしとす。 満天下の諸位、 余が観理術をもって、 かの名ありて実無き虚飾の術学と同一視するなかれ」とあり。 また、 木島文六氏の設立せる幹枝学協会の雑誌中に、 その効能を述べて曰く、「医師よく病理を明らかにするをもっ て人心を知ることあたわず。 しかるに、 わが幹枝学は医師のよくせざるところ、 また西洋学者といえども、ことに困窮するところの人心を看破するくらいは、最もその初歩としてなんぴとにも容易に明らめ得べく、これを小にしては一身一家の幸福、 災厄より、  これを大にしては一国の盛衰、 天災地変に至るまで、  ことごとく予知し得ることすでに世の許すところなれば、 その益の大なること、 もとよりいうまでもなし」と。 また幹枝学協会の広告に、「斯学は天下無双、 修身行為の指南器たるべきところの一大新学術たり。 真に処世の六餡三 略 たるべきなり。 ああ東洋に斯学新術あり、 ひとり花の魁なると山水の秀美なるにとどまらざるべし。 江湖の諸子よ、権変詭謁、 優勝劣敗ほとんど極まりなきの活世界に身を処し、 常に勝利強健を保たんには、 すべからく一定の眼瞼なかるべからず。 所論すでにしかりとせば、 各自その身の性質、 適業を知り、 天時を洞察し、 各天稟、 幹枝の相配合するところの方針によりて処事進退をなすときは、 百事如意ならざるなし。 したがって、 世評のいわゆる今世をしていたずらに悲哀界なりとの慨声を発せしむるに至らざるべく、 真に幹枝学術は世の救い主なりと大声疾呼するに躊躇せざるべし」という。  これ売薬の効能書と同一なるべきも、 あまりその言の誇大に過ぐるは一驚を喫せざるを得ず。 たといその専門家はいかようの大言をなすも、 その鑑定の必然性にあらざること、 余が弁をまたずして知るべし。

例えば、  一と二を合すれば三となるがごときは、 いわゆる必然性道理にして、 天地間いかなる場所、  いかなる場合に応用するもっとしてこれに反するものあることなし。  しかるに鑑術に至りては、 十中若干の適中するとあるも、  これもとより偶然といわざるを得ず。 もし、 鑑術にして百発百中、 千発千中ならば、 世に不運の人なく国に不幸の家なく、 天下つねに太平、 国土つねに安穏なるべく、 かつ、 その術はたとい国法をもって禁止すとも、 その勢い蕩々として世間に流布し、 たちまち天下を支配するに至るべし。 しかるに、 古来数千百年間の経験によるに、 世の文明の進むに従い、 その術の退歩する結果をみるは、 千発千中の法にあらざることを証明するものなり。 しかれども、 その適中するとせざるとは人の信仰のいかんに関するをもって、  これを信ずる者には多

少の効験あるべきは、 前講の卜笈と同一なるべし。 しかして世間のことたる、 多少、 人の精神によりて左右し得るものと、 全く人の精神によりて動かすべからざるものとの二種あり。 その動かすべからざるものに至りては、いかなる鑑術もこれをいかんともすべからず。  ゆえに、  その専門家の広告に百発百中というがごときは、  人の注意を引き、 人の信仰をむかうるまでに過ぎず。 決してその術、 実に百発百中なるにあらず。 余、 府下のこの術を専門とするものを見るに、 十中    二は多少の財産を有し富裕の生活をなすものありといえども、  その多数は貧賤の生活を営むものなり。 もし、 その術にして、 果たして人心の凶禍を転じて吉福となす力あるにおいては、 なんの求むるところありて自ら貧途にくるしむことをなすや。  これ実に自家撞着、 言行一致せざるものといわざるべからず。

今、 仮に一歩を譲りて鑑術は適中すべき理ありとするも、  これによりて生ずる利害はまた、 あらかじめ考察するところなかるべからず。 もし、 世の愚民をしてこれを信ぜしむるの結果は、 果たしていかがあるべきや。 愚民は必ず、 いながらにして幸福を得らるるがごとき妄想を起こし、 徒然として光陰を消費するがごとき場合あるべし。 あるいはこれを応用して悪事をなすの階梯とし、 なになにの日に窃盗をなさば必ず好結果あらんなど信ずるもの、 また全くなしというべからず。  これ、 もとより鑑術そのものの罪にあらずして妄想の弊なりといえども、今日これを信ずる徒は愚民中に多き以上は、 その弊の起こるべきを恐れざるべからず。  ゆえに余は、 これらの諸術はたとい多少の便益ありとするも、 むしろこれを全廃して真正の教育を興し、 宗教を隆んにし、 愚民をして人間の常道を守らしめ、 もって鑑術の芳径に迷わざらしめんことを期せんとす。 もし、 あるいは鑑術を改良して世の進歩に適合せしめんと欲せば、 陳腐の五行説にもとづくものを廃毀して、 今日の学説にもとづきて新たに一種の方法を考出せざるべからず。  これ、 余が第二の目的なり。



   第四    節 鑑術の種類

 鑑術の名称は余がひそかに定めたるものにして、 その下に属するものは 九星天源、 淘 宮、 幹枝 術 方位、方鑑、 本 命 的殺、 八門遁甲の類なり。 ゆえに、 その名称は諸種の観理術、 開運術、 方鑑術を総称したるものと知るべし。  この諸術と卜筵とその性質を異にし、  一時の機変によりて考定する術にあらずして、 既定の性質にもとづきて鑑定する法なりといえども、 また二者の互いに相似たるところあり。  すなわち、  これを応用して人事の吉凶、 禍福を判断することこれなり。  この鑑術の中に、 人性につきて鑑定するものと、 方位につきて鑑定するものとの二様あり。 人性につきて鑑定するものは天源、淘宮等にして、 これ人の年月を基礎として鑑定を与うるなり。また、 方位につきて鑑定するものは、 方位そのものに年々一定せる吉方、 凶方ありとして鑑定を与うるなり。 しかして、 この二法また互いに一致するところありて、 五行にもとづき、 相 生、 相剋によりて吉凶を判ずるは一なり。  ゆえに、  これを前講に比するに、 卜痙編は河図の八卦にもとづきたる種類を主としてこれを講じ、 この編は洛書の九星にもとづきたる種類を主としてこれを講ずるの別あり。 換言すれば、 前講は陰陽の応用、 本講は五行の応用なり。  ゆえに、 前講は易筵を第一に置き、 本講は九星を第一に置くなり。  しかして、 各種の鑑術のいかんは、 以下いちいちその節を掲げて略述すべし。



   第四一節    九星

九星は全くシナに起こりたるものにして、 河図洛書中の洛書にもとづきたるものなり。 今、 その河図および洛書の図を示すこと左のごとし。〔次頁〕

この洛書の図はすなわち九星の固にして、 これ、「和漢三才図会」に掲ぐるものによる。  かつ十干の位置を示して曰く、「子午卯酉得二天陽数一而居二四正{  寅申巳亥得二地陰数一而居二四隅一 丑未辰戌為>土無二定位ー寄二居四隅

(子午卯酉は天の陽数を得て四正におり、寅申巳亥は地の陰数を得て四偶にあり、丑 未 辰戌は土となして定位なくして四偶に寄居す)とあり。  また、 各数の位置を示して曰く、「戴>九履>一、 左>三右>七、  二四為>肩、 六八為>足、 五居二中央二(九をいただき一をふみ、 三を左にし七を右にし、 二四を肩となし、 六八を足となし、 五は中央におる)と。 また、 その数の総和を示して曰く、「一合>九、 二合レ八、 三合  七、  四合レ六、 皆為>十、 五居>中縦横共十五数。」(一は九に合し、 二は八に合し、 三は七に合し、 四は六に合し、 みな十となす。 五は中におりて、 縦、横とも十五の数なり)と。 今、  さらにその数のみを示さば左のごとし。



第四純正哲学部門



これを西洋にてマジック・スクエア

その総和を十五となるように配置したるものなという。 その配置法は、  ひとり一より九までの数に限るにあらず、 あるいは一より十六まで、 あるいは一より二十五まで、 あるいは一より三十六まで、 いずれも縦、横ともにその総和をして同一ならしむるを得べし。 余、 いま「算法閾疑抄」によりて左の固を転載す。

まず、  一より十六までの数を図のごとく方形に配列するときは、 縦、 横および角より角に至る四個の数の総和は三十四となる。 もしまた、  一より二十五までの数を図のごとく配列するときは、 各行六十五となり、  一より三十六までの数を配列するときは、 各行百十一となる。

このうち一より九までを方形に並べ、 縦、 横、〔対〕角線ともに十五なるを洛書の図とし、 九星の占いに用うるすべし。

先天の数は極数の九より逆に退きて用をなす。  甲   己  子午を九とし、を七とし、  丁   壬  卯酉を六とし、   戊    癸  辰戌を五とし、 天に配する十干すでに尽きて、 地に配する十二支の巳と亥と残る。  これを四として終わる。 亥は天門、 巳は地戸にて、 純陰純陽の位、 開閾の枢となりて五行を関鍵するゆえんなり。 天門、 地戸とは、 日輪天を行きて昼夜をなすところにつきていうものなり。  このゆえに十二時にても、 子午は昼と夜の九つ時なり、 丑末は昼と夜の八つ時なり、 寅申は昼と夜との七つ時なり、卯酉は昼と夜との六つ時なり、 辰戌は昼と夜との五つ時なり、 巳亥は昼と夜との四つ時なり。 九より次第に八七六五四と逆に退くをみるべし。  この数にまた用あること左のごとし。

五行納音は先天の数を取り、 天干地支とて十干、 十二支を数え、 陰陽双数を得て五ずつ払い捨て、 残る数にて五行と定むるなり。 古洪範五行の数、  一水、  二火、 三木、  四金、 五土なりし。 今、 火一、  土二、 水三、金四、 水五とす。  これは五行おのおのその声によりて次ぎしものなり。 声とは、 例えば火は水をそそいで声あり、 金は木にてたたきて声あり、 水は金を投じて声あるごとし。 声を受くるの義、  すなわち受は納なり、声は音なり、 よって納音という。 さて甲子乙丑を金とするにていわば、 前にいう先天の数、 甲は九、 子も九、乙は八、  丑も八、 合わせて三十四、 五六三十と五ずつ六つ払い四余る。  これを洪範、 今の数といえる火一、土二に引き合わせ、 金四なるゆえ四あまれば納音金と知る。  そのほかこれにならえ、 云云  ゜

しかるに、 民間にて六十干支、 納音早見として伝うる捷 径の法あり。 その図、 左のごとし、

この図について納音のくりようは、  甲 子ならば、 甲は一っ、 子も一っ、 合わせて二つと知りて、 二の下を見れば金と知るべし。   壬  午ならば、 壬五つ、 午一っ と知りて、 合わせて六つ、 これを五つ払えば    つ残る。  一の下は木なり、  これ木と知るべし。  すべて六以上は五つ払い、 残りの数にて知る。  すなわち、 その数五ならば土、   ならば火、 ないし一ならば木なり。  この法によりて人の性質を定むといえども、 余は五行そのもののすでに陳腐の説たることを唱うるものなれば、 これによりて鑑定するの妄なることは、 あに言をまたんや。 しかれども、 九星の占法は大いに民間に流行するものなれば、 左に二、 三の書によりその大略を示すべし。 まずその名目、 左のこれを年に配し、 月に配し、 日および時に配し、 かつ、  これを五行相生、 相剋の理に考えて吉凶を鑑定するなり。  ゆえに、 毎年その年に当たる星あり。  その星を中央に置く、  これを中宮という。 例えば、 五黄をもって中宮とし、  その循環する次第を矢の方向によりて示すこと左のごとし。

右、 指示せる方向に従いて、 各星年々その位置を転ずるなり。 例えば、 五黄に当たる年の翌年は四緑にして、その図四緑中宮となり、  右下図のごとく変ずるなり。 しかして、 その翌年は三碧をもって中宮とし、 またその翌年は二黒をもって中宮とす。 その数九より次第に減じて一に至るなり。  しかして、 その循環の順序は、  上なるものは下におり、 下なるものは上にのぼる。  これ、 天地陰陽自然の理なりといえども、 その理をもって九星の図を説明するがごときは付説たるを免れず。 今、 その図の全体を示さんとす。


七赤と定む。 しかして、 九星おのおのその性質を異にするをもって、 民間に行わるる一書によりてこれを示すこと左のごとし。

一白の年に生まるる人は、 多くは心尊く諸人の尊敬を受くるなり。  ゆえに、 心に仁慈を守ればますます発達す。

二黒の年に生まるる人は、 そのなすところの事業によく功をあらわし人に用いらる。  ゆえに、 その事業についてますます勉強なさば立身すべし。

三碧に生まるる人は、 万事進みやすく、 かえって過ちありと。 また、 決定のはやき性ゆえ、 物事発明なれども、 親戚、 朋友の交際むつまじからず。

四緑に生まるる人は、 常に愚痴なることをいい、 人を疑う心あるがため家内むつまじからず。 損失をすることあるべし、 慎むべきなり。

五黄に生まるる人は、 その星中央の土徳を主とするがゆえに、 性剛気にして我慢づよく、  一己の志を立て通すなり。 生家を離れざれば吉事なし。  この人、 多く衣食に乏しからず。

六白に生まるる人は、 愛敬うすく、 親戚、 朋輩の交わり絶ち、 かつ吝 裔 の心あるがゆえに、 人にうとまるるなり。 もっともその性質朴なるものなり。

七赤に生まるる人は、 その星金性なれば世用をなし、 かつ万事器用にして人に用いらる。  その他弁舌よく、それがために吉なることあり。 また、 損耗することあり、 女難などあり、 内心に殺伐の気あり、 慎むべし。

八白に生まるる人は、 性剛にして表は温順なるものなり。 しかれども、 短気を起こすゆえ、 事を破ることあり。  また、  思慮深くして急なることも心を落ち付け、  かえって利を失う。

九紫に生まるる人〔は〕、  諸事美麗なることを好み浅はかなる性にて、  災いを引き受くることあり。  口舌絶え間なき性にて、  よくよくつつしみ、  口論せぬようにすべし。

これ、  九星によりて人の性質を憶定する秘訣にして、  これに年を配するときは

この割合となるをもっ て、  幾年前に生まれたる人も、  これによりて推算すれば、  その人の星を知ることを得ベし。  ゆえに、「八門九星初学入門」と題する書に、  古人の九星生性を算定して左のごとく示せり。神武天皇        一白 釈迦如来        五黄 応神天皇        九紫 仁徳天皇 碧聖徳太子         六白 弘法大師        二黒 菅原道真          二碧 円光大師        八白親鸞聖人         八白 日蓮上人        五黄 一休和尚         二碧 役行者 八白平清盛 八白 源頼朝 六白 源義経 四緑 弁慶 二碧足利尊氏        二黒 平信長 七赤 秀吉 五黄 光秀 四緑家康 八白 家光 九紫

これ、果たして星の性質とその人の性質と的中するやいなやは、前に掲げたる各星の性質に照らして知るべし。そのうち一部分は性質の的中するをみるも、 全体にわたりて的中するにあらず。 いわゆる「当たるも八卦、 当たらぬも八卦」の部類なり。  しからば、  これまた偶然の暗合というよりほかなし。

また、  この星におのおの一定の方位を配して吉凶を判定するなり。 今、 ある書によりて示すこと左のごとし。

(一白) 

 この人、 本宮北方をつかさどるゆえに、 井、  厠、 不浄のものを北方に置くべからず。 この人、 四緑中宮の年月日時に六白の方へ行くか、 また六白中宮の年月日時に四緑の方へ行くときは、  その人立身出世すべし。


(二黒)

この人、 本宮坤をつかさどるゆえに、 井、 厠、 その他不浄のものを坤の方へ置くべからず。 この人、九紫中宮の年月日時に六白の方へ行くか、 または六白中宮の年月日時に九紫の方へ行くときは、 開運発達うたがいなし。

(三碧)  

この人、 本宮東方をつかさどるゆえ、 井、 厠、 不浄物を東方に置くべからず。  この人、  一白中宮の年月日時に九紫の方へ行くか、 あるいは九紫中宮の年月日時に一白の方へ行くときは、 開運発達うたがいなし。

(四緑)  

この人、 本宮辰巳をつかさどるゆえに、 井、 厠、 その他不浄物を 巽 の方へ置くべからず。  この人、一白中宮の年月日時に九紫の方へ行くか、 または九紫中宮の年月日時に一白の方へ行くときは、  立身出世うたがいなし。

(五黄)  

この人、 中央本宮なるがゆえに、 井、 厠、 その他不浄の物を置くべからず。  この人、 九紫中宮の年月日時に六白の方へ行くか、 六白中宮の年月日時に九紫の方へ行かば大吉なり。

(六白)  

この人、 本宮戌亥の方をつかさどるゆえに、 井、 厠、 その他不浄の物を置くべからず。  この人、赤中宮の年月日時に二黒の方へ行くか、 あるいは一白中宮の年月日時に二黒の方へ行くときは、 その人発達開運すべし。

(七赤)

  この人、 本宮西方をつかさどるゆえに、 井、 厠、  および不浄の物を置くべからず。  この人、 六白中宮の年月日時に二黒の方へ行くか、 または一白中宮の年月日時に八白の方へ行くときは諸事吉なり。


(八白

この人、 本宮丑寅の方をつかさどるゆえに、 井、 厠、 その他不浄の建物を置くべからず。  この人、六白中宮の年月日時に九紫の方へ行くか、 または九紫中宮の年月日時に六白の方へ行くときは大吉なり。

(九紫) 

 この人、 南をつかさどるゆえに、 井戸、 厠、 不浄の物を置くべからず。  この人、 八白中宮の年に三碧の方か、 または三碧中宮の年に二黒の方へ行くときは、 その人大吉なり。 それも年月日時を合わせ動くべし。人、 もしこの方位を犯すときは必ず災害ありという。 しかして、 そのしかるゆえんを証明することなし。 実に妄断というべし。 また、 ある書にこれをのがるる法を示して曰く、「方位凶殺の悪方を免れんとするときは、 年月日時のその人の星に相生ずるの、 吉星の巡る方の神仏の地より砂を取りきたり、 その宅の殺方へまくべし。 もし堂宮の吉方になきときは、 清き所の水をくみて凶方にまくべし。 必ず災いを免るること疑いなし」と。  かくのごとき非道理的方法によりて果たして災いを免れ得るということは、 少しく知識を有するものの解すべからざることなり。  ただし、 方位のことは後にさらに論ずべきはずなれば、  ここにこれを略す。  つぎに、 月の九星は年によりてその中宮とする星に異同あり。

子午卯酉の年の正月は八白なり。

丑辰 未 戌の年の正月は五黄なり。

寅申巳亥の年の正月は二黒なり。

そのいわゆる正月は旧正月、 立春の節より起こる。  二月、 三月等、  みな一年中の二十四節に従う。  つぎに日の九星を考定する法は、 全一年を陽遁、 陰遁に分かち、 おのおの上、 中、 下三元に分かち、 十一月冬至 甲 子の日より六十日ずつかぞえてこれを一元として、  これに九星を配当するなり。 時間にも一定の規則ありて、  これに九星を配当するなり。  おのおのその表あれども、 煩わしければこれを略す。

この三元ということにつき、 年月日時ともにこれを唱う。 まず年家三元とは、 甲子より  癸  亥にいたる六十干支を一元とし、  上、 中、 下の三元合わせて百八十年をいい、 月家三元とは、 子午卯酉の年を上元とし、 辰戌丑未の年を中元とし、 寅申巳亥の年を下元とす。 日家三元とは、 冬至甲子の日を陽遁上元に入るのはじめとし、 雨水甲子の日を陽遁中元に入るのはじめとし、 谷雨甲乙の日を陽遁下元に入るのはじめとす。  また、 夏至甲子の日を陰遁上元に入るのはじめとし、 以下六十日ずつをもって中元、 下元とす。 すなわち陽遁百八十日、 陰遁百八十日、合わせて三百六十日なり。 時家三元とは、 子午卯酉の日を上元とし、  丑辰未戌の日を中元とし、 寅巳申亥の日を下元とす。 その他のことは、 よろしくその専門の書につきて講究すべし。

この九星によりて考定するに、 多少事実と合することあるはいかなる道理によるや。  これ、 人の多く問わんと欲するところにして、 余のもっばら説明せんと欲するところなり。 しかして、 その説は物理的にあらずして心理的なり。  すなわち、 わが精神をもって知らず識らずそのきたらんとする結果を迎うるによる。 そのことは前講卜筵編において論述せしものに同じゅ えに、 たとい事実に合中することあるも、 決して九星の功として称揚すべからず。 もし、 九星にして単に人の性質を説き    一白の人は心尊き性を有するをもって、 よろしく仁慈を守るべし、二黒の人は事業をなし得べき性を有するをもって、 よろしく勉強すべしと。 人を戒慎するがごときは治心の術として賛成すべきも、 これによりて種々の吉凶、 禍福を予知する力ありとするは、 畢 党 するに闇夜の迷夢たるにほかならず。  すでに昨年のことなりしが、 飯沼一雄と名付くる九星家ありて、  一大新法を発見したりとて余を訪問し、 自ら考出せられたる新案を示されしに、  これを一見するに、 全く九星より一転して成りたるものなれば、 今ここにその名称を挙示すべし。

飯沼氏はその学を名付けて化気学といい、 化気学を解して生活変遷の定則を講ずるものなりといい、  これに九類を分かてり。

一、 平和二、 放胆二、 い四、 患難 五、 主権六、 剛直 七、 世華 八、 思慮 九、 陽壮

これ全く九星にもとづきたるものなれば、 別に論ずるに足らず。 その他、  これに類したるもの種々あれども、みなシナの古説にもとづき、 その原理すでに不合理的のものなれば、 問わずしてその妄なるを知るべし。 ゆえに、もしかくのごとき鑑定法を今日に行わんと欲せば、 今日の学理にもとづきて新法を組織せざるべからず。 もしまた、 九星の事実と合するゆえんを証明せんと欲せば、 さきに掲げたる縦、 横ともに十五ずつの図によらずして、さらにほかの図によりて随意に左のごとき図を仮設し、 かつ、  これによりて占法を考案し、 その結果、 古来用うるものと事実に的中するにおいて差異ありやいなやを試むべし。 余は、 その的中するは九星の図式のいかんに関

するにあらずして、 これを信ずる人の精神のいかんに関するものとなす。  ゆえに、 いかなる図式にても、 よくこれを信ずることを得る以上は、 その結果また同じかるべし。  これを要するに、 余は九星の占法も易筵と同じく人の疑心を一定するに過ぎずして、 決して社会人事の吉凶、 禍福を予知する力なしと信ずるなり。



   第四二節 天源、 淘宮、 幹枝学、 観理術の起源

 九星とその類を同じくするものに天源、 淘 宮 の諸術あり。 その術は従来秘訣として師弟相伝え、 多く口伝によるものなれば、 その伝来およびその要領を知るに苦しむ。 予、 久しくその書をもとむるもいまだこれを得ず。 しかるに去歳、 青柳保元斎なる者ありて予が宅にきたり、 天源、 淘宮の要領を語り、 かつ、 予にその所持せる秘書数巻を授けて、  これを一覧せんことを勧む。 予、 深くその厚意に感じ、 その書を一読するに、 ややその術の一斑あたわず。 今、 保元斎氏より伝聞するところによれば、 その術は易筵、  九星と大同小異なるもののごとし。 同氏は多年天源、 淘宮を究めて、 その極意を得たりという。 まず、 氏が授くるところの書によりてこれをうかがうに、天源術の伝来は、 太古神聖のまします世より相伝わりて今日に至る。  しかして、 いにしえの神聖もかかる妙術の機密をもらすことを恐れ、 あえてみだりに人に伝えず。 親子、 兄弟、 夫婦の間といえども、 みだりに伝授せざりしという。 しかれども、 その口訣によるに、 天源術はいにしえ人易と称す。 その人易のわが皇国に入りしはいずれの時なるかを知らずといえども、 冷泉天皇安和年間に伊予国津島に芳彦という者あり。  人易を伝えて深くその理に通じ、 済世の徳世間に普及せるにより、 死後その霊をあがめて芳彦明神と称し、 その 祠 今なお津島に存在すという。 芳彦の後、 人易の伝来いまだつまびらかならず。 しかりしこうして、 文化のころ京都に葛 城 昇 斎という者あり。 医を業として兼ねて天源術を伝え、 観相をもって世に聞こえ、 その門に奥野南北という者あり。 また、天源術と相法につまびらかなり。  この人、 江戸小日向に住居せりという。 また、 天源術を専業とする唐沢某氏の話によるに、この術はシナにて馬王の始めたるものにして、唐に至り一行禅師これを究めてようやく完全せしめ、

爾来いよいよかの国に発達せり。 しかして、 わが国に入りては加茂康成これを伝え、 安倍晴明、 畠山重忠、 楠公父子、 恩地左近、 武田信玄等これを研究し、 かつこれを応用したり。  かくして近世に至り、 小泉正卓なるものさらに大いに研究するところありて、 天源を改めて天元とせりという。 そもそも天源の術たるや、 人生の本源にさかのぼりその天運、 命数を究明する法にして、 人のはじめて天より受くるもの、 これを気という。 その気に種々の別ありて、 あるいは命に厚きものあり薄きものあり、あるいはオに賢あり愚あり、あるいは性に善あり悪あり、疾病、 健康、 貧賤、 禍福等、 その異なるはみなこの気によらざるはなし。 よくこの気の原始にさかのぼりてその本源を明らかにするものはすなわち天源の術にして、 天源とは、 はじめにさかのぼりて源をたずぬる義なり。 その気結びて質をなす。  ここにおいて形体を生ず。 あるいは大小肥摺、 あるいは五官の正不正、 あるいは血色の潤枯等、  これを一見して観相をなすを得べしという。

つぎに洵宮の起源を考うるに、 その実、 全く天源より出でたるものにして、 奥野南北の門人に横山三之助なるものありて、 はじめてこの術を起こせり。 三之助は丸三と号し、 また春亀斎と称せり。 安永九年、 東京小石川小日向に生まる。 年四十二歳にして奥野の門に入りて天源術を受く。 丸三翁かつて自ら考うるに、 己は悪気強く薄命にして、 官禄も保ち難く寿命も五十歳に満つべからず。 翁よって気質を捨て心教を受け、 もって福法を得んことを願い、  一心これを究め、  ついにその功現れ、 かつ、 その術を諸人に伝うるに至れり。  これよりその術を洵宮と称せり。 これ、 実に天保五年なり。 洵宮の二字は門人の選定するところなりという。 爾来、 弟子ようやく多く、その門に列するもの無慮千有余人ありという。 丸三翁は七十五歳にして没し、 その正統を継ぎたるものを新家春三という。  これを新亀斎と号す。  その家今なお存し、 淘宮の本家のごとく称せらる。 また、 丸三翁の門人に佐野量丸と名付くるものあり。 これ、 新家氏と並び称せらる。  春三、 量丸二氏ともに近年没せり。  その術は天源より出でて、 もっぱら十二支にもとづき、 人の生年月によりてその資性、 命運を判定するも、 その要は治心にあるをももっ て一般の方術とはやや異なるところあり。 その性質、 むしろ道二等の唱うる心学に近きものなり。

また、 天源術より出でて別に一家をなすものあり。  これを幹枝学と称し、 木島文六氏の唱うるところなり。 氏は大照斎と称す。 従来の天源、 淘宮はおもに十二支を説きて、 いまだ十干を説くに及ばざりき。 しかるに木島氏、この二者の応用を発見せりという。 その記事によるに、 昔時千有余年前、 吉備大臣の唐より帰朝するや、 干支なるものの端緒を著したるのち、 三百年を経て安倍晴明これを継ぎ、 もっぱら干支の二字を説明し、 その功徳を十二神と奉祭し、 ほぼこれが用法を論じたり。 しかれども、 その論ずるところ大概十二支のことのみにして、 いまだ十干の用法をいうに及ばざりし。 大照斎氏これにみるあり、 拮据精励ついに干支の応用を発明せり。  ゆえに、これを名付けて幹枝学というとあり。 また、 佐藤安五郎、 その号観元氏、 別に一派をなして観理術と称す。 その説くところ、陰陽五行の理に基づき天地の活動を講じて、開運を目的とするものなり。その口演によるに、「さて、この陰陽の活動は、  これを天と地の気節にとるを、 春、 夏、  土用、 秋、 冬の五つの相異なる活動となります。 しかして、 天と地の気動を青赤黒黄白あるいは木火土金水になぞらえ、 もってあまねくこれを万象、 万物に配的して、 諸種万般の活動を顕明するものであります。  ゆえをもって、 いかなる物性といえども、 その有形たるとまた無形たるとを問わず、  およそ宇宙間にあらゆるものは、 決してその活動のあらわれぬということはありません」



   第四三節 天源、 淘宮の鑑定法

天源、 淘宮ともに十二支に基づきて鑑定を下すことなるが、 子、  丑、 寅、 卯等の名称を用いず、 滋、 結、 演、豊、 奮、 止、 合、 老、 緩、 随、 煉、 実の述語を用う。 左に、 新家氏の「十二宮伝」および川瀬氏の「淘宮学秘書によりてその鑑定法を示す。

〇滋 商家大吉 水難

その形ちいさく、 その色薄黒し。 その心いたってりんしよくにして恥多し。 その病、 筋つまる。 湿気強く、中風あり、 福禄多く、 官薄し。  この気は福禄充満するの気なり。 諸願成就。 門入り、 婚礼、 店開き、 転宅、旅行、  かけ合い、 はじめ吉なり。 乗船よろしからず。 中風は治し難し。  そのほか病気早く治す。結 出家大吉その形大きく、 その色黒し。 その心守ることいたって堅固なり。 その病、 隔 症、 癒毒、 胸にたたえる病深し。 福禄うすし。  この気は万物中道に滞り、  上へ発せず下へ通ぜず、 しかれども破れなし。 婚礼吉なり。 水辺よろしからず、 乗船つつしむべし。 病気永けれども治す。

〇演 武家大吉 火難

その形、 頭小さく、 せい細く高し。  その色黒し。  その心猛気あり、 また威す気あり。  その病、 手足筋つまる。 官禄ありて、 福薄し。  この気は諸願成就。 旅行、 門入り、 転宅、 掛け合い、 はじめ吉なり。 物事進んでよし。 婚礼、  金談凶なり。 病気早く治す。

農人、 出家、 医師大吉

その形大きくして、 肉満つる。 その色青し。  その心ゆたかにしてまた静かなり。 その病、 足おもく水気あり。 官、 福禄大いに備わる。  この気は諸願成就。 掛け合い、 はじめ吉なり。 しかれども、  ゆるみ滞るゆえによろしからず。 急に進んでよろし。 婚礼、 移徒、 棟上げ、 店開き吉なり。 水辺、 乗船よろしからず。 中風は治し難し。  そのほか病気永けれども治す。

奮        剣難、 火難

その形大きく、 肉少なくして筋骨高し。  その色青し。  その心、 外へ発して怒る気強し。 ただし長命なり。その病、 筋つまる。 湿毒、 眼病、 また乱心あり。 官、 福禄破る。  この気は万事争いごと生じやすく、 天災、剣難の気なり。  ゆえに諸願成就し難し。 また、 成就するときに至りては急なれども、 かえって災いのもといなり。 破ることに用うるときは、 対談等に動ありて吉。 そのほか凶なり。 他行等にも慎むべし。 乱心、 眼病、治し難し。

〇止 万物大吉

その形小さくして、 いたって美麗なり。 その色黄なり。 その心嫉妬深し。 その病、 労症、 鬱 癒 あり。 その

ほか無病。 官、 福禄大いに備わる。 この気は諸願成就。 門入り、 転宅、 店開き、 旅行、 掛け合い、 はじめ万事吉なり。 婚礼凶なり。 乗船慎むべし。 病気永けれども治す。

火難

その形大きく、 肉満つる。 その色赤し。 その心愛しやすくしてまた離れやすし。 にぎやかなることを好む。その病、 心火熱して湯、 水、 茶を好む。  ゆえに留飲あり。 逆上、  眼病、 熱病あり。 福禄きたれども保たず。この気は一日に取れば、 朝四つ半時ごろまでは大吉なり、 それよりのち凶なり。 店開き、 旅行、 乗船吉なり。門入り、 婚礼、 人を召し抱えること凶なり。 熱病、 眼病、  治し難し。  そのほか病気早く治す。

出家大吉

その形小さく、 その色白し。 その心ていねいにて曲がることを好まず。 また一芸に達するの気なり。 その病、 労症、 鬱癖、 逆上、 頭痛あり。 福禄薄し。 門入り、 旅行、 婚礼よし。 また、 密々にて人と談ずること和合して吉なり。 住所に労することあり。 転宅凶。 乗船に風気あるべし。 心得てよし。 病気永けれども治す。


緩        火難

その形大きく、 肉あり。 その色薄赤し。 その心、 世話事を好んで辛苦絶えず。 また衆人と和せず。 その病、眼病、 逆上、 耳聾、 難産あり。 官禄あり。  この気は万事できやすきようにしてついに遂げず。 早きことは成就するなり、 永きことはよろしからず。 転宅、 店開き、 旅行、 乗船吉なり。 門入り、 婚礼、 はじめて交わること、  人を召し抱えること凶なり。 乱心、 眼病、 治し難し。  そのほか病気早く治す。

医師大吉

その形小さく、 その色白し。 その心、 知恵深くして人をはかる。 貴きこと、 大なることを好んで身を破る。しかれども、 諸芸に達し器用なり。 音声清し。  その病、 逆上、 悪血、 腫物、 眼病、 難産あり。 官ありて福禄薄し。 この気は事を治むる義に、 いたって吉なり。 門入り、 転宅よし。 棟上げ、 店開き、 乗船凶なり。 また、密々にて謀ること凶なり。 病気永けれども治す。

煉        剣難    火難

その形小さく、 その色つやなくして白し。 その心、 内へ怒る気強くして凝るところに意地悪し。 しかれども、 義をたもつ。 自分勝手なり。 ただし長命なり。 その病、 せむし、  眼病、 悪血、 また乱心あり。 官、 福禄破る。  この気は家内に争いごと生ずるなり。 早朝より心をはれやかにもつべし。 他出等、 そのほかともに万事凶なり。 病気発するも凶なり。

水難

その形大きく、 中肉なり。 その色黄なり。  その心わきひら見ず一途なり。  その病、 腰より以下水気をた<わう。  ゆえに腰冷え、 足痛み、 引きつることあり。 官、 福禄、 中分に備わる。  この気は門入り、 婚礼、 人を召し抱えること吉なり。 諸願成就して中年より富貴に至ることあり。 乗船、 棟上げ凶なり。 病気早く治す。

また、 天源、 淘宮家の鑑定に三輪の説あり。大輪 四十より六十までこれを『淘宮学軌範」に考うるに左のごとし。

三輪とは大輪、 中輪、 小輪を総括しての言にして、 大輪とは、 生まれたる月より十力月既往にさかのぽりたる的月が、 母の胎内に子をはらみたる月なれば、 すなわちこれを大輪というなり。  すなわち、 各人々の固定質なり。 この固定質は大輪の善悪ともに天気天姓にして、 淘宮学上、 三輪変 豹 の標的縄 墨となり、 三輪組織の濫腸 ともいうべきものにして、 本学全体中最も必要のものなり。 しかれども、 大輪の善悪、 禍福も、中小輪の変豹によりて禰縫することあり、 中小輪の善悪、 禍福を大輪の固定質によりて破綻することあり。これすなわち、 天地と同体なる人身の尊重を全うし、 自己の淑徳を増進せしむる洵宮学最大の目的なり。 たとえば、 三輪説明方針の亀頭に掲ぐるところにより、 文化元年子年の正月に生まれし者は亥年の懐妊と知る

ことばべし。 正月とは陰暦の 詞 にて、 その正月は寅にて、 十五日過ぎに生まれしものは午の月の懐妊と知るべし。中輪とは、 既往にさかのぼらざる全く生まれたる月をいうものにして、 小輪もまた同じくその生まれたる日をいう。

また「諸活幹枝大礎学』と題する書に、 人々の懐妊せし十二支、 十干を知る説を掲げり。  すなわち左のごとし。

人々、 生まれ日より二百六十五日後ろへかぞえ、 当日寅なれば演の小輪なり。 その月丑なれば結の中輪なり。  その年子なれば滋の大輪なり。  その時子なれば豊の小小輪なり。  右四支合わせてこの宮を滋結演豊という。 もって天稟禍福の厚薄、 その遅速の専行をはかり知るべし。

人々、 生まれ日より二百六十五日後ろへかぞえ、 的日 甲 なれば甲の小輪なり。 その月  癸  なれば癸の中輪なり。 その年  壬  なれば壬の大輪なり。 その時 丁 なれば  戊  の小小輪なり。 右四幹合わせてこれを壬癸甲戊という。 もって天稟運起の厚薄、 該遅速の専行をはかり知るべし。

その他、 なお記すべきこと多けれどもこれをその専門の書に譲り、  ここにいささか一言の評を与えんとす。 それ、 天源なり淘宮なり、 干支五行の理にもとづく以上は、 その不合理的なること明らかなり。 もし、  これによりて人事の吉凶、 禍福を予定し、 かつ、  これによりてただちに運を開きて福を得と信ずるに至っては、 その妄いっそうはなはだしといわざるべからず。 ただその要、 疑心を一定するにあるも、 人知ようやく明らかなるに至らば、決疑解惑の功もまた、  これによりていたすべからざるや瞭然たり。  ゆえにもし人、 今日にありて迷心をひらきて楽地に達せんと欲せば、 今日の哲学の妙境に入りて、 よろしくその玄路を究むべし。  けだし世に安心の法、  これより健全にして、  かつ確実なるものあらず。 しかれども、 もし天源、 淘宮の術をして、 昔日の心学のごとく治心の一具となすにおいては、余あえて排斥するを欲せずといえども、治心の法も今日別に講ずべきものある以上は、なんぞ非学術の淘宮法を仮るを要せんや。



   第四四節    方位、 本命的殺、  八宅明鏡、  八門遁甲

つぎに、 民間にありて和漢ともに喋々として可否、 得失を講ずるものは方位、 方鑑の説なり。 近世、 松浦琴鶴なるもの方鑑にくわしきをもって名あり。  その著書「方鑑弁説   に、「そもそも方位の吉凶は五行の生剋よりなる

ものにて、 触るるところの神殺はすなわち陰陽の二気なり。 いわゆる陰陽は五行の綱縄、 五行は陰陽の条目にして、 もとより変化窮まりなし。 けだし、 いささかも気機その徳を失するがごときときは、 天地の間に妖を示す。

必ずその国危うきことあり、 云云」と説き、 また同著『本 命 的殺即鑑』に、「およそ事に好悪あり、 方に吉凶あり。  そのいやしくも吉方に合するときは、 富貴を招き官禄を進め、 田財を益し、 貴子を生ずる等、 無窮の吉徳をあらわす。 また凶方に合するときは、 必ず困窮をつかさどり、 家運傾き、 親族離散し、 病災を発す。 最厳に至りては死亡にも及ぶことあり、 云云」と説けり。  また、 尾島碩聞氏もまた方鑑の術に明らかなりと称す。 今なお存命なり。 その著書「方鑑必携」によるに、 吉星、 凶星を示して生気星、 砒和星の所在を吉方という。  およそ人、ト地、 造家、 修繕、 動土、 転居、 求財、 進官、 婚姻、 開業、 生産、 旅行、 出船等、  すべてこれ吉方を用うべし。方徳をもって福稽こもごもきたり、 家運隆盛にして子孫繁栄す。 なお天徳、 天道、 月徳、 生無の四大吉星の所在に会せば方徳十倍すといい、 また凶方を示して殺気星、 死気星の所在を凶方という。 万事この方を用うべからず。なお暗剣殺、 五黄殺、 歳破、 月破、 本命宮、 的殺の六大凶に会合せば、 盗難、 剣難、 破産、  死亡等、 その害、 実にすみやかなり。  かつ、  この六凶は吉方に所在するも方災きわめて強し、 決して用うべからずという。

以上はその術を専業とするものの言なれば、 あえて怪しむに足らずといえども、 その原理すでに五行生剋にもとづく以上は、 その不合理なること弁をまたず。 しかして、 その術の民間に行わるるは、 世に迷信の徒多きによるのみ。  たといその術一理ありとするも、 暗夜に一点の灯を用うるがごとし。 もし学術界の真理の日光、 愚民の心内を照らすに至らば、 かくのごとき灯光もまたなんの用かあらん。 ああ、 吾人の目的は、 ただこの迷夢を破りて真怪の光を開くにあるのみ。

方位の説は相術および暦日に関係を有するをもっ て、 後に至りてさらに述ぶるところあるべしといえども、 ここにただその九星に関係を有するものを掲ぐべし。  かつて尾島碩聞氏の門弟なりとて一書を寄するものあり。  その一部分を左に摘示すべし。 ただし、 九星を五行方位に配当することは前に示せるをもってここに略す。

九星みな五行の気を備えて相生じ相剋す。 その生気とは、 われを生ずるもの、 すなわち父母なり。 例えば、一白の水を生ずるは六白七赤の金なり。  ゆえに、  一白は六白七赤をもっ て生気とす。 砒和とは比肩すなわち兄弟なり。  たとえば五黄土と二黒八白とはともに土にして比肩兄弟なり。  ゆえに五黄は二黒八白をもっ て砒和とす。  退気とはわが生ずるもの、  すなわち子なり。 例えば、  一白水は三碧四緑の木を生ず。  ゆえに、  一白は三碧四緑をもって退気とす。  死気とはわが剋するものにして、  一白の水九紫の火を剋するがごとく、  一白の水は九紫をもって死気とす。 殺気とはわれを剋するものなり。 二黒五黄八白の土一白の水を剋す。 ゆえに、

一白は二黒五黄八白をもって殺気とす 白の水、 九紫の火は九星中独星にして、 同性なきがゆえに一白九紫は砒和すなわち兄弟なし)。 しかして死気、 殺気の二星は本命星(本命星とは九星の一名にして、  その人出生の年の中宮在座の九星をもって一生の本命星となす。 そもそも本命星の運行たる、 三元九星年々こもごも中宮につらなり入るものにして、  これ、  すなわち一歳中の主星たり。 人この主星の気をうけて生ずるがゆえに、 これを本命星とす。 これを方鑑の根基となし、 中央八方九宮に巡るところの九星に相対し、 その相生、相剋によりて吉凶を定むるものなり)の相剋星と名付け、 その巡る方を凶方となす。 また、 そのほか大凶殺六あり。 曰く、 暗剣殺、 五黄殺、 歳破、 月破、 本命、 的殺方これなり。  これを犯せば災害あり。  この六大凶殺は、 たとえば本命星の相生星同会するも、 決して用うべからざる大凶殺方なり、 云云  ゜

その他、 年家三元の説あることは前すでにこれを述べたり。  この三元の次第につきて命殺を探る法あり。  これを本命的殺という。  その探り方は、 その方の書には一定の図を掲げてこれを示し、 だれにてもたやすく探り得らるるようになせり。 今、 煩をいとうてこれを略す。

また、 方鑑の一法に八宅明鏡と名付くるものあり。 その法は唐は楊蒟の追術にして、  筈冠道人これを伝授し、清の康煕、 乾 隆 二帝これを校訂せられしという。 それ八宅とは、 男女生年の支干にして八命に分け、 これを東西に分配して、 東四命(離震炊巽)の四宅の人は東向きに住み、 西四命(乾兌坤艮)の四宅の人は西向きに住すること、 これ禍を転じて福となすの術なりという。 また、 八門遁甲と名付くる一法あり。  この法は孔明の用いしものにして、 もっぱら出陣に用うる法となす。 ゆえに、 和漢の軍記中に多く見えたり。 まず遁甲とは、 福、 生、 喪、社、 崇、 死、 驚、 開の八門なり。 これは東西南北、 丑、 寅、 辰、 巳、  未、 申、 戌、 亥の八方に出行するとき、 その日の十干、 十二支によりて相違あり。 福、 生、 崇、 開に当たる方に出行すれば吉なり。 養、 社に当たる方に出行すれば半吉、 半凶なり。  死、 驚に当たる方に出行すれば大凶なり。「遁甲奇門」に曰く、「遁甲の法に三重あり、三オをかたどる。  上層は天をかたどりて九星をつらね、 中層は人をかたどりて八門を開き、 下層は地をかたどりて八卦を定む。 これ天、 人、 地の定位なり。  乙を日奇とし、  丙 を月奇とし、  丁 を星奇とし、   戊、   己、  庚、辛、   壬、   癸  を六儀とす。 甲は用いずといえども、 天乙貴神とす。  つねに六儀の下に隠れてその発用をなす。

ゆえに、  これを遁甲というなり」また同書に、 出征の呪、 隠身の呪、 浄宿の呪、  行 肛の呪の秘伝ありといえども、  これは軍用なり。 遁甲はただ方角の吉凶を考うるの専用を知るべし。

以上、 鑑術に関する諸法を略説したるが、 これを物理的に考うるも、 心理的に考うるも、 ともに不合理的迷信、妄想といわざるべからず。 たとい一理ありとするも、 これを信ずる徒のなすところをみるに、 迷中の迷たること

よしやす

明らかなり。 寺島良安氏も、「凡毎歳有ーー吉凶方位一 大抵以ー一生剋砿  レ之、 非レ無二  理一也、 然以二上方一神悉忌>之、則家作移徒等、  経>年不>可>就、 或病人招>医不>論二其人{  止択二方角一之類、 惑之甚者也。」(およそ毎歳、 吉凶方位あり。 たいてい生剋をもってこれを断ず。  一理なきにあらざるなり。 しかも上方をもっ て神ことごとくこれを忌まば、  すなわち家作、 移徒等、 年を経るもなるべからず。 あるいは病人医を招くも、 その人を論ぜず。 ただ方角をえらぶの類は、 惑えるのはなはだしきものなり)といえり。  また、 大塩中斎も左の言をなせり。 曰く、

世俗方位之説、 固非突、 然方位二字、 非  曲士杜撰一也、 周官曰、 惟王建缶国、 弁全方正>位、 即是其濫腸歎、 然其弁レ之与元正者、 非ーー所レ謂鬼門星宿之事一 鬼門星宿之事、 於二聖経如 レ見、 則不ら足品取也、 雖レ不ら足品取、 護事王  木宮室之事君子必為>之也。則非レ道也、_雖一非玉道則無森火、 君子決不>為也、 而弁之与>正如二周公之制一 則雖>有>災、

(世俗方位の説、 もとより非なり。 しかも方位の二字は曲士の杜撰にあらざるなり。 周官に曰く、「ただ王国を建てて方を弁じ位を正す」と。  すなわち、  これその濫腸 か。 しかも、 そのこれを弁じて正にくみするものは、 いわゆる鬼門、 星宿のことにあらず。 鬼門、 星宿のこと、 聖経において見るなく、  すなわち取るに足らざるなり。 取るに足らずといえども、 設りに土木宮室のことを事とするは、 すなわち道にあらざるなり。 道

にあらず、  すなわち、 災なしといえども、 君子は決してなさざるなり。 しかして、  これを弁じて正にくみするは、 周公の制のごときは、 すなわち、 災ありといえども、 君子は必ずこれをなすなり)

ああ、 世の吉凶、 禍福の道に迷うもの、 早く仮怪の門を開きて真怪の境に入るべし。 脱苦得楽の道、 けだし、これをほかにしていずれにかあらん。



第六講 相法編

   第四五節    相法総論

前講の鑑術編は、 人の生年日時に基づいて吉凶を判定する諸法を評論したるものなり。  しかるに、  ここに人体もしくは住居について人の吉凶を判定する法あり。 人相術、 家相術等すなわちこれなり。  これらを総称して相法という。 今、 相法の書によるに、  およそ相法に三種あり。 天相、 人相、 地相これなり。 しかして、 天を相するは明星鏡により、  人を相するは天眼鏡により、 地を相するは千里鏡によるという。 余案ずるに、 さきに述べたる占星学のごときはこれを天相術というべく、 また陰陽五行のごときも、 これを応用して天地自然の変化を予定するに至りては、 これまた天相術なり。  これに対して、 以下に講述せんとするところのものは、 人相術および地相術なり。 ゆえに、 まず相法を大別して人相、 家相の二種とし、 さらにまた人相を小分して、 人の体貌を相する法と、人の挙動を相する法との二つとす。 しかして、 人体を相するものに面相術、 骨相術、 手相術、 爪相術等、 その他種々あり。  つぎに家相については、 地相と連帯して説くをもって、 家相、 地相の二種を分かたざるべからず。

今、 相法の起源を案ずるに、「広博物志』にいう、「伯益始相>獣、 周史侠始相>人」(伯益はじめて獣を相し、  周史侠はじめて人を相す)とあり。「五雑俎』にいう、「卜者自ーー管略郭瑛一之後、 至ーー李淳風一而神突、 相者自二姑布子卿唐挙一之後、 至二哀天綱一神突、 宋之費孝先、 明之哀忠徹皆詣>極、 数百年来未>有二継>之者一也。」(卜者は管略、郭瑛より後、 李 淳 風に至りて神なり。 相者は姑布子卿、 唐挙より後、 哀天綱に至りて神なり。 宋の費孝先、 明の哀 忠 徹、 みな極にいたる。 数百年来いまだこれに継ぐ者あらざるなり)と。  また「和漢_   オ図会」に、 和漢の人を相せし例を示して曰く、皇甫王善相>人、 至下以>吊抹>眼_摸一其骨体一便知中休咎い百不>爽>一也。

(皇甫王よく人を相す。 吊をもって目を抹し、 その骨体を模し、 すなわち 休  咎 を知るに至る。 百に    つもたがわざるなり

百済王仁通二干諸典一 又能察二人相一 而大鱚鶉皇子奏二即位前相

(百済の王仁、 諸典に通じ、 またよく人相を察し、 しかして大 鱚  鶉 皇子の即位の前相を奏す)

三善清行、明達博治而得二術数ー 察>有ーー右大臣道真毀言之難

奉二書於右府一諫ー一致仕、明年辛酉運当二革命ー二月建卯、 将>動ーー干文一公翼知二其止足一察二其栄分月被>識、 左  遷太宰府檀ー風情於姻霞一 蔵二山智於丘堅一 右府不>聴、 果翌年ニ

(三善清行、 明達博治にして術数を得、 右大臣道真毀言の難あらんことを察し、 書を右府に奉じ、 致仕をいさめて曰く、「明年 辛 酉、 運革命に当たる。  二月卯に建す。 まさに干文を動かさんとす。 公ねがわくば、 その止足を知り、 その栄分を察し、 風情を煙霞にほしいままにし、 山知を 丘堅に蔵せよ」と。  右府聴かず。 果たして翌年二月證せられ、 太宰府に左遷せらる)

また「乗 燭 或問珍」に、  人相のことについて左のごとく述べたり。

人相の占いのこと、 和漢ともにそのためし多し。 その起こること周服、 許負に始まりて、 唐挙、 天岡なんという者、 みな相者の名あり。 そのほか一切の動静、 事物に相者の法ありて、 もっとも漢の世に盛んなり。

「史記」に、 窟賢という人、 位大鴻臆卿なりしとき、 相者にあう。 相人のいう、「公はまさに三公の位に至りたまわん」と。 尊賢よろこびて、  四人の子を呼び出だし相人に見せしむ。 相者、 次男の玄成を見て、「この人貴き相あり、 これ三公に昇りたまわん」という。 章賢笑いていわく、「われ三公と成りなば、 嫡子にこそ官禄を譲るべけれ、 なんぞ次男に譲るべき」と争い用いざりしが、 年を経て窟賢、 相者のいいしごとく丞相の位に昇り(丞相の官はすなわち三公なり)、  死してのち嫡子は罪ありて家をつがず、 次男玄成家をつぐ。  果たして三公に至りしとなり。  そのほか「史伝』に載するところはなはだ多し。 本朝にも相者の名ある人、 挙げてかぞえ難し。 およそかくのごとく相法ありて、 その 詞 あたかも掌を指すがごとしといえども、 みな形によりて相し行うよし。 さること不審、 古昔の大 舜 は御眼に重瞳あり。 楚の項羽もまた重瞳あり。 大舜は古今無双の大聖人なり。 項羽は不仁の悪人なり。  されば、 あながち形にはよるべからず、 平生の行いによるべし。 されば、 善相といえども悪をなすときは悪人なり、 悪相にても善をなさば善人なり。 形にかぎることなし。 それ、  人の生ずることはかろきことにあらず。 無極の真、  二五の精妙合して凝り、 乾道は男となり坤道は女となる。 そもそも無極の真というは形あるものにあらず。 太極を兼ねていいしものにして、 真とは理なり、 精とは気なり。 理気二つのものありて、 天道流行して造作をなすなり。 < わしくいうときは、 この理ありて後この気あり、 この気あつまりてこの形を生ず。 かるがゆえに、 人の生ずるに必ずこの理を身に得て、 健、 順、仁、 義、 礼、 知、 信の性となるなり(孟子曰く、 性は善なり)。  また、  この気を得るゆえに、 魂塊、 五臓、 百体の身となり、 その陽気の健なるを得たるは男となり、 その陰気の順を得たるは女となるなり。  人にかぎらず、 麻竹の類といえども牝牡あり。 されば、 人の生ずるは天地陰陽の気を得て己が性とし具たるものにして、気これが形をなす。 形にあしきことありとも心にあしきことなし。 形によきことありとも心にあしきことあらば、 なんぞよしとせんや。 そのうえ、 すべて人は性をそなえて善なるものなり。 ゆえに、 それにしたがって行わば道にかなわざらんや。 性のままに行ってあしきことあらば、 それはなんぞ憂うるにたらん。  これをもってみるときは、相者といえどもその人の行いをみていわんこそ実の相者といわめ。「徒然草  に書しおく、「秦の重射が下野の入道信願が落馬の相ありとてみしは、 好んで桃尻の馬に乗りしゅ えなり」とあり。  これらこそ実の相者とやいわん。

以上の諸例によりてみるに、 人の外貌、 挙動について、 その精神思想のいかんを判定し得ること明らかなりといわざるべからず。 果たしてしからば、 なにゆえに外貌によりて精神を判定し得るか、 また、 なにゆえに現時の相貌によりてその人の将来の運命までを予定し得るや。  これ、 学術上の考定を要するところなり。 世の論者をみるに、  一般に、 卜猿、 鑑術の理なきことを論ずると同時に、 あわせて相法をも不合理なるものとして排斥する傾きあり。 されども、 相法の事実に適中するの理は、  ひとり心理上より説明せらるべきのみならず、 また物理上にてもその道理あるものなるをもって、  この相法は決してかの卜笈、 鑑術と同一にみなすべからざるなり。



   第四六節    物理的説明

今、 これを物理的説明によりて証せんに、  およそ心身両者の間に密接の関係あることは、 今日学者の一般に許すところにして、 これにつきて、 第一、 精神と容貌との関係、 第二、 精神と挙動との関係の二段に分けて弁明せざるべからず。 古語にも「思い内にあれば色外にあらわる」といえるがごとく、 いやしくも思想の内に存する以上は、 必ずその発動を肉体の上に現すものなり。  ひとりこれを顔色の上に現すのみにあらず、 あるいは骨相、 あるいは手相等の上にもそのありさまを示すべし。 喜ぶときは喜ぶ色あり、 怒れるときは怒れる相あり。  その他、人の賢愚、 利鈍等に至るまでも    いちいちみな容貌によりて知らるるなり。 古来英雄、 豪傑と称せらるる人は、一見容易にその人の才能、 器用の有無を知り、 あるいは広く交際になれ経験を重ねし人は、 ただちによく他人の性質を判断し得るなり。 英雄、 豪傑のよく人をみるの例は、 諸書に載するもの多し。 今、「先哲叢談  によりてその一、  二を挙ぐれば、 天海僧正が木下順庵の幼時これを見てもって異人となし、 自ら教養せんことを求めたりしがごとき、 また、  かつて熊沢蕃山と由井正雪と某侯の所に相会することあり、 互いに相見てその凡人にあらざることを察したりしがごとき、 また、 大石良雄の伊藤仁斎に学ぶや、常によくねむりてその講義を聞かざりけるに、同僚みな排斥してその瀬惰なすことなきを嘲笑せしに、 仁斎ひとり良雄は平凡の人にあらず、 のち必ず大事をなさんといえしがごとき、  この類のこと、 なおすこぶる多かるべし。

かくのごとく、 異常の人はよく人心を看破するの眼力あるは、 実にみな精神と外貌との関係あるによらずんばあらず。 しからば、 もし、 よくこの術に長じて経験を重ね熟練を得たらんには、  通常人の知るべからざることをも一見よく知ることを得。 その眼力のいよいよ明らかなるに従って、  人の心中に浮かびきたるところの観念は、いちいち容貌の上に発現して、 その容貌によりてその心内の巨細を知ること、 あたかも顕微鏡によりて物をみるがごとくなるに至らん。 しかれども、 人相家の人を相するは、 必ずしも心身の関係する道理を知りていちいちその理に考えて判断するにあらず、 単に従来伝えられたる規則と、 自ら実験したる結果とを結合して、 知らず識らずその人の性質を判じ、 その性質より将来の状態をも推測するに過ぎず。  されど、  これを今日の学理上よりみるに、 多少道理あるものと許して可なり。  つぎに、 人の精神と挙動行為との関係を考うるに、 精神思想の発して言語、 手足の上に現ずるはもちろん、 あるいは書法および碁、 将棋等一切の遊芸の類に至るまで、 いやしくもその心をもってこれを行う以上は、 いくぶんかその心をえがきあらわし、 その性質を示すものなり。 言語、 文章もしくは筆跡、 書法等において、 性質の温順なるか粗暴なるかをあらわすことあるは、 人のみな経験して熟知するところにして、 かの平将門の反するや、 藤原秀卿行きてこれを見る。 ともに食するにあたり飯粒前に落つ。 自ら拾ってこれを食いしかば、 秀卿そのともに大事をなすに足らざるを知りて去りしことは、 たれびともよく知るところなり。

この一例によりても、 精神と挙動との間に密接の関係あるを知るべし。 また、 書法に至りてもその巧拙はしばらくおき、 親子、 兄弟の間にその風のおのずから類似するところありて、 よくその性質をあらわすを見て知るべし。  この理によりて、 いまだ面会せざる人も、 まずその書によりてその性質を知り得るものなれば、 民間に伝われる墨色と称する相法も、 全く一理なきにあらざるがごとし。 その他、 家相、 地相等を見て、 ここに住する人のために利害を判ずるがごときは、 人相に比しては道理なきに似たれども、 多少今日の衛生上、 建築上の規則におのずから合するものなきにあらず。 もっとも、 古来の専門家はその道理のなんたるかを知らず、 盲目的経験によりて得たる結果にもとづくものなり。  ゆえに、 その中に一、 二の道理に暗合せるものなきにあらざれども、 多くの部分は道理に合せざるなり。 特にシナ、 日本にありては五行生剋の説盛んなるがため、 人相、 家相、 地相等すべてこれを五行に配し、 その相 生 相剋より吉凶、 禍福を断ずるに至りしかば、 その妄、 畢覚、 五行鑑術と異なることなきものとなれり。 しからば今日より、  この中より不道理なる妄説の部分を除去し、 心身関係の原理に基づきて人相、 墨色等の規則を定め、 建築学、 衛生学の道理によりて家相、 地相を判定することあらば、 世を益すること、 けだしまた大ならん。 かくいわば、 人あるいは疑わん、 心身関係の道理によりて人を相するがごときは、ただその人の現在の性質いかんをみるのみにして、 将来の吉凶、 運不運を卜知すべき理あるべからずと。 それしかり。  しかれども、 すでにその人の性質を明知する以上は、 これによりて将来を推測することは、  一口にこれ妄誕なりというべからざるか。 よく確固不抜、  百折不撓の精神を有する性質の人は、将来必ず立身成名の好結果あるは必然なり。 もしこれに反していかに才能を有すとも、 軽躁浮薄にして遠大の思想なきものは、 その生涯のなすところもまた推量すべきのみ。  ゆえに、 もしよく性質を鑑定するを得ば、 その将来の結果も多少予定するを得べし。  その他、 地相、 家相によりて、 将来病人の有無もまた多少推測するを得べき理なり。 しかれども、 今日の相法家の 喋  々 するがごときは、 もとより妄誕、 不稽にして信ずるに足らざるなり。



   第四七節    心理的説明

 以上、  これを物理上より考うるも、 相法はすでに多少信ずべき理由あるを知る。 しかるに、 さらに心理上に考うるも、 相法と事実との相合することの多きは当然といわざるべからず。 例えば、 第一に、 人相を見るには、 相者の体裁あるいは周囲の装飾等の多少の装置を要するは、みな人の信仰心を惹起せんがためのものにして、もし、人相そのものによりてただちに人の性質、 吉凶を定むるを得ば、  これらの体裁、 装置は全く無用なるに似たり。しかれども、 実際これを要するゆえんのものは、 ただ、 その信仰心を促して精神をこれに集合せしむるためなり。第二に、 人相家の予言果たしてよく事実に合したりというものは、 多くは性質の単純にして信仰しやすき人にして、 その予言の合せざるものは、 複雑の精神を有し信仰し難き人なり。 これ、 全く精神作用のしからしむるによる。 第三に、 相者にしてもし世人の信用を博し、 かれはよく人を相せしにその妙を得るの評ありて、 その相するところ必ず事実に合すとの評判世に立たば、その相者の判定するところまた必ず効験多きをみる。これに反して、人の信用を得ざるものは、 したがって判断の事実に合せざるをみる。 諺に「 鰯 の頭も信心から」といえるがごとく、  これみなもって精神作用の影響なるを知るべし。

果たしてしからば、 相法は心理上に考うるも、 その事実に合すべき道理あること明らかなり。  ゆえに今日よりさらに、  これを学術的に講究し、 もって新相法を組織するに至らば、 その世を益する、 けだしまた大なるべし。しかれども、 今日の相法には不合理的の分子を含有すること多きをもって、 決して即時にその全術を賛成すべからず、 なおここに一言せざるを得ざることあり。  およそ相者の人を相するや、 ただその人を見たるのみにて、   だちにその性質、運命を判じ得るものにあらず。 必ず、 まずその年齢もしくは親子、兄弟の有無等、そのほか種々の事情を尋問するを常とす。  これ他なし、 相者はこれらの問いに答うる言語、 挙動を察して、 これを判断の土台となし、 これに自己の多年の経験をあてはめ、 もってその性質より将来の成り行きまでも想定するものなり。 しかるに、 世の人相を信ずるものは、 単にその相貌によりて万事を判じ得るがごとく思うは大なる誤りなり。 もっとも、 学術上の道理より考うれば、 心身の関係は実に密接なるものなれば、 すべて外貌によりて内情を判定し得べき理由あれども、  そはただ理論上のことにして、 今日の人間の眼力は到底いまだこれに達するあたわず。 ゆえに、 相者は種々の質問を起こして、 その答えのいかんをもって判断の土台となすに至る。



   第四八節    面相論

上来相法について、 その果たして事実に適中すべき道理あるかいなやを評論したれば、  これよりこれに属する各種の相法を掲げて、 いちいち評論を与えざるべからず。  まず、 人相術について述べんに、  この術中にてもっとも世間に行わるるものは、 面貌によりてその性質、 運命を判定する術なり。  これをここに面相術と称し、 これよりいささか論ずるところあらんとす。

そもそも面相のことは、『神相全編』『三世相』その他、 民間に伝われる人相の書に説けるところなるが、  その大要はほぼ相同じといえども、 その細目に至りては、 各専門の相家いずれも多少その説を異にせり。 今、 予はかくのごとき細目にわたりて論ずるにあらず、 ただその大要のみを述べんに、『人相千百年眼』と題する書の序に曰く、「昔黄岐論二色脈一 古公相二文王一 阿私陀仙人目二釈迦文一 而還我上宮太子、 鈴鹿老人、 皆以二風鑑ー著、  蓋風鑑之要在下預知一人之吉凶一 奨二其善盃盟告其悪ビ(昔、 黄岐は色脈を論じ、 古公に文王を相し、 阿私陀仙人は釈迦文を目す。 しかして、 またわが上宮太子、 鈴鹿老人、 みな風鑑をもって著す。  けだし風鑑の要は、 あらかじめ人の吉凶を知り、 その善をすすめてその悪をはばむにあり)と。 しかれども、 わが国の人相と、  シナならびにインドの人相とは、  おのずから異なるところなかるべからず。 いかんとなれば、 風土、 衣食住異なれば、 その面貌、 相色もしたがって異なるところあればなり。  ゆえに、『本朝人相考』には、「からの書物を閲するに、 人生まれて乳汁をはなるるいなや、  家、 羊、 鶏の類を、 日本の魚物をくらうごとくす。  かつ常の衣服大いにかわり、  胸 隔を開かず、 腰には膀布ようなるをまとい、 その上に礼服を着する体、 はなはだもってあつくるしき姿なること、 世の人の知れるところにして、 言辞、 動履、 日本に大いに相異せり。 飲食といい常の行作異なるときは、 その相もまた異なることなくんばあらず。 近くは京、 江戸、 大阪の人物をみるべし。 衣服はたがわずといえども、 その形相、 言辞、 少しく類して大いに異なり、 いわんや数百里を隔つる唐土においてをや。 古書に形変じ相変ずといえ一概の定途にかかわるべからず」とあるがごとく、 国によりて多少その方法を異にせざるべからず。 しかして、 わが国の人相は主とてシナによりたるも、  また多少従来の経験をこれに加えて、 自然にわが国一種の面相法を考定するに至りしものなり。

それ、 面相がその精神と直接の関係あることは、 喜怒哀楽の色に表るるを見れば明らかなり。 特に相家の定めしところの方法は、 古来有名なる人々の相法を広く集めきたりて、 近くこれを帰納して成りしものなれば、 実験に基づきしものというべし。 しかれども、 今日人相家の伝うるところのものをみるに、 右の実験上の帰納そのことが極めて不合理にして、 学術上篭も価値なきものなり。 いかんというに、 今日の相家は顔面に表るるところの特殊の点、 例えば黒痣、 斑点のごときものについてこれを判断し、 あるいは鼻口の大小、 形状についてその性質を察する一定の規則を定むといえども、 かくのごとき点は人の性質と必然の関係あるものにあらず。  これ、 多くは人の母の胎内に宿して生育する間に受けしところの変化にして、 決して人の賢愚、 利鈍の表象にあらざればなり。 ただにわが国の相者は、 右のごとき瑣 小 の点について論ずることの不合理なるのみならず、 その他、 第一に人の顔面に五行を配当して、 相生相剋の理をもって判断し、 あるいはシナの五岳を面部に配当し、  これによりて判断するがごとき、 実に妄誕のはなはだしきものといわざるべからず。「南翁軒相法」の序に曰く、「凡夫相法大意者、就ニニ停六府五官十二官五岳之骨骸二眠一見身体之泰否二明ーー察髪毛爪歯皮肉筋骨血色語声二叩自然神明眼熟、

終至二幽玄一也。」(およそそれ相法の大意は、 三停、 六府、 五官、 十二官、 五岳の骨賂について身体の泰否を観見し、 髪毛、 爪歯、 皮肉、 筋骨、 血色、 語声を明察して、 自然に神明に眼熟し、  ついに幽玄に至るなり)と。  この三停、 五岳、 五官、 十二官等を面部に配当してその性質を論ずるは、 全く道理なきものなり。 今また、「人相千百年眼    中につきて、  その説明するところをみるにそれ、 人相は面部の霊居をつらね、 五臓の神路に通じ、 三オの象を存し、  一身の得失を定むるものは面部なり。 面に五星六曜あり。 額を火星とし、 鼻を土星とし、 口を水星とし、 左耳を木星とし、 右耳を金星とするなり。 また左眉を羅喉とし、  右眉を計都とし、 左眼を太陽とし、 右眼を太陰とし、 印堂を紫気とし、 山根を月李とするなり。  しかして、 また三停六府をそなう。 髪際より眉に至るまでを上停とし、 眉より準額に至るまでを中停とし、 準頭より地閣に至るまでを下停とす。 輔骨を上の両府とし、 顧骨を中の両府とし、 願骨を下の両府と定むるなり、 と。

これらの配当は実に杜撰を極むるものといわざるべからず。 また、「南翁軒相法』に、 人面に五行の相あることを論じて、 面方に耳正しく、 節しまり、 肥えず、 やせず、 色白きは金形なり。 体細長く面長く、 色青く、 眼睛青く、  口ひろきは木形なり等の説明をもって、 その相生を吉とし、 相剋を凶とするがごときは、 愚中の愚といわざるを得ず。  その他、 面の各部に五行を配当し、 眼を木とし、  眉を火とし、 口を土とし、 鼻を金とし、 耳を水として論ずるがごとき、 なんぞ妄誕のはなはだしきや。 けだし、 今日の相法はみなかくのごとき妄説によりて説けるものなれば、  その論ずるところ決して信ずべからざるなり。 しかるに、 相者の言の往々事実に適中することあるはいかん。  これ一考せざるべからず。  この適中せし例は前すでにこれを掲げしが、 なお「綴耕録」

左のごとし。にいうところ

元国初有二李国用者一 嘗遇二神仙教一 以二観日之法    能洞ーー見肺腑一 世称ー神相一 能望>気占ー休ー   咎一時逍文敏公風癒満レ面、 李遥見、 即起迎曰、 我過レ江僅見二此人一耳、 疱愈、 官至二  品名聞ー四海一 果然  ゜

(元の国はじめ李国用なるものあり。  かつて神仙の教えに遇い、 観日の法をもってよく肺腑を洞見す。 

世神相と称す。 よく気を望みて休  咎 を占う。 ときに逍 文敏公、 風癒面に満つ。 李はるかに見、 すなわちたって迎えて曰く、「われ、 江を過ぎてわずかにこの人を見るのみ。 癒いゆれば、 官一品に至り、 名、 四海に聞こえん」と。 果たしてしかり)

わが国にもこれに類する例はなはだ多し。  これ、 果たしてなにゆえなるか。  けだし、 その理由は前に掲げたりし、 物理的ならびに心理的説明によりてそのしかるゆえんを知るべし。  かつ、 真に相法に熟通するものは、 決してかかる五行等の妄説に束縛せられず。 多年の経験を稜み、 もって他人の面貌を一見するや、 直覚的にその人の性質を察知するの妙を得たるものなり。 しかれども、 吾人はいかに相法に熟達すとも、 決していわゆる天眼、 神通を有するものにあらざれば、 十中十までことごとく、 外貌によりてその真相を啓発することあたわざるや必せり。 しかして、 今日書籍上に伝われる適中の例は、 これ数千数百の例中にて特に二、 三の適中したるものを伝うるや明らかなり。  これ、 いわゆる適種生存の理にして、 そのよく事実に適中したるものは、 世間伝えて永く後世に存せしも、  その適中せざる多くの例は、 人これを伝えざるをもって今日に存せざるなり。

かつ、 それ相家の説くところの不道理なるは、 ひとり五行等の妄説に基づくのみにあらず。 また、 人の面貌によりてその賢愚、 利鈍を判ずるはもちろん、 その他、 生涯の病患、 天災、 運命、 寿命の長短までを判定するがごときは、 その不合理たること識者をまたずして知るべきなり。 けだし、 予がさきに述べたるごとく、 人の性質の賢愚、 利鈍によりてその一身の栄枯盛衰を判定し得べき理ありといえども、 人の性質と全く関係なき天災地変に逢遇すべきかいなやに至りては、  これを知るべき道理あらんや。 その他、 疾病、 夭寿のごときも、 人の性質によりて定まるものなりといえども、 その原因はことごとく人の性質にありというべからず。  すなわち、 その原因の一斑は人の生来有するところなれども、 他の一斑は外界の事情にありて存するなり。 生来心身の虚弱なるものは病にかかりやすく、  かつ、 その寿も短命なるべしといえども、  これ原因の一斑にして、  これに外部の事情加わりて、  その病患、 寿命のいかんを定むるものなり。  これをもって、 内部の原因は長寿を得難きも、 摂生、 療養そのよろしきを得れば長寿を全うすることあり。  これに反して、 その資性は強壮なるべきも、 摂生、 注意の至らざるがため、 あるいは人の性質と全く関係なき天災に遭遇したるがため夭折することあり。 しかるに、 人相家は人の面相のみを見て、 あるいは水難の相、 火難の相、  または剣難の相ありと告ぐれども、  これらは篭も吾人の性質と関係なき外部よりきたるものなれば、 なんぞ面貌によりて、 判定せらるべき理あらんや。  しかもなお、 かくのごとき判定の往々事実に適中することあるは、 もとより学術上説明の限りにあらず。 ただ、  これを偶然の暗合といわんのみ。

以上は面部全体について論じたるものなるが、 なおその他に、 面の各部について人相を判定する方法あり、 あるいは色相、 音相について判ずる法あり。  すなわち、 色に十二色、  七十二法ありなど称すといえども、  これによりてその性質を判定せんことはなはだ難し。 古語に「思い内にあれば色外にあらわる」とありて、 精神の状態は必ず外に動くものなりといえども、 そのいわゆる色と顔面の皮閲色とはもとより同一にみなすべからず。 けだし皮閲の色は、  一は生来によるも多くは気候、 日光等の関係より生ずるものなれば、 その性質と直接の関係あるものにあらざるなり。 また音相をもって人の性質を判ずる例に、 高斉のときに呉の士双盲なるものあり。 人の声音を聞きてその貴賤を知る、 験あらざるはなしといい、 また大江匡房卿はあるとき禁裏において、 障子を隔て、 因幡守清隆卿のものいう音律を聞きて、 大いにかんじ、 この人、 官は正二位中納言にすすみ、 寿は六十歳なりと相ことばせられしが、 果たしてその 詞 のごとしという。「万暦大雑書三世相大全」に曰く、

声は底に力ありてさわやかに静かなるを貴しとす。

音声たかき人は心正しく、 声しまりありて大音なりしは大いによし。

口先にて早口に物いう人は貧なり、 孤独にして脊属そだたず。

馬のいななくごとく笑う人は心奸倭なり、 散財すること多し。はなしするに仕かたする人はよくうそをいうものなり。

小声にてのど下へいるごとく物いう人は心たくみありて悪心なり。男に女のごとき声にて物いうは散財して業を破るなり。

こどもの小声にて物いうものは心に毒あり。

右のごとき例ありといえども、 音相によりて人の運命を卜定するは、 面相によりて判定すると同じくはなはだ困難なり。 しかして、 その事実に適中したるがごときは、 偶然といわざるべからず。 音声は主に声門、 咽喉の構造を異にするに応じて、 その発声も異なるものなれば、 人々によりておのおの音声を異にするは、 もとより自然の勢いなり。  ゆえに、 音声を聞きてその人のだれなるかを知ることを得べしといえども、  これによりてたやすく人の性質を判定すべからず、 いわんや該人将来の吉凶、 禍福をや。 しかれども、 声音と性質とは全く関係なしというべからず。  ことに言語の連絡、 抑揚等は大いに人の思想を発顕するものなれば、 性情の状態は多少知ることを得べき理なり。

また、 面部の官能によりて相する法あり。 特に眼官によりて相するがごときは最も判じやすきものにして、 人相の術に通ぜざる人といえども、 初面接の人に対してその性質を判ずるがごときは、 多く眼相によれるなり。  されば、 人相家も眼相にはことに重きを置くものと見え、 その書に「それ、 眼は精神輻湊の所、 相中第一の鏡とするなり。 そのゆえ、 天地の寒暖は日月の運行を徴とし、 人身の栄枯は眼目の善悪をもって定む。  されば他の相吉なりとも、 眼相あしきときは吉とすべからず」とあり。  このゆえに、 人を相するにあたりて眼相に注意するはもっとも肝要なることとす。  しかれども、  かの人相家の喋  々 するがごとく、 眼孔の形状について煩わしき規則を

設け、  これによりて機械的に判断せんとするがごときは、 迷えるのはなはだしきものというべし。  その他、 鼻について相する法あり、  口、 舌、 歯について相する法あり、 あるいは耳の形状によりて判ずるあり、 あるいは額、頂、 眉、 髪、 蹟等について相する法ありといえども、 いちいちここに述ぶるにいとまあらず。  また鼻と口との間

にくぼみたる溝あり、 これを人中と名付く。 これについて判断する方法あり。 その書に曰く、「人中は上狭く下広きを吉とす。  運発達して滞ることなし。  上広く下狭きは水の流れによどみてあふるるがごとし。  ゆえに運の滞ること必定なり」と。  これ、 けだし鼻を岳にたとえ、 口を海に比するをもって、 人中はあたかも河のごとく、 水の岳より流出して海中に朝 宗するを、 人の一生にたとえ、 その滝滞をもって不吉と判断せしものなり。 すべて相家の判断にはかくのごとき類多し。 たれかその妄を笑わざるものあらんや。 その他、「人相指南秘伝集』には、 顔面にある傷痕、 黒痣、 赤斑等について、 火難、 水難、 剣難の有無を論ずれども、 これ妄のまた妄なるものにして、論評するに足らざるなり。

これを要するに、 人の性質を知るはその相貌中、 面部をもって最良とす。 しかして、 面相中特に注意すべきは、顔面全体の相貌と、 眼官の状態とを第一とす。 人の賢愚、 利鈍は多く眼官に表るるものにして、 白痴、 狂人の眼相の大いに常人と異なるを見るも、  その理をさとるべし。 また、 貧富、 貴賤の相は顔面全体の相貌に表るるものにして、 貴人には貴人の面相あり、 貧民には貧民の面相あり、  おのおのその分に応じて特殊の相を示し、 決して欺くべからざるものあり、 しかして、 この相によりてその実を判知するは、 多年の経験より得たるところの直覚によらざるべからず。 これ、 人相法の起こりしゅぇ んにして、 その理論とするところは実に可なりといえども、これを実際に応用するにあたりては種々の妄説を付会し、 もって不合理の規則を考定し、 機械的に判断を下すがごときは、 予のあくまで排斥せんとするところなり。


   第四九節    西洋人相術

人相を 喋  々 するはひとり東洋に限るにあらず、 西洋にも人相を論ずる術あり。  これを「フレノロジー  」すなわち骨相学と称す。 骨相学とは、 人の頂骨の外貌をみてその内状を鑑定する法を論ずるものなり。  この法を定めたるはドイツの医師ゴー ル氏(西暦一七五八年に生まれ一八二八年に死す)にして、 氏に継ぎてその説を拡張したるはスパルチャ インおよびジョー ジ・コムの二氏なり。 今、 その説の基づくところを見るに、 精神の各作用は吾人の脳髄中の一定の場所に存し、 その能力の強弱、 鋭鈍はその部分の大小に関係すというにあり。 また、 脳髄は両半球より成れるをもって、 心の作用も両半球に分かるるものなり。 もし教育によりて知識、 思想を発育せしむるときは、 その発育したる知識、 思想の部分は必ず頂骨の外貌に発表するものとす。  この頂骨と精神との関係について定めたる規則あり。 骨相学にて説くところによれば、 吾人の心には種々なる能力あり。  この各種の能力はそれぞれ異なりたる作用を有し、  これによりて人々は諸種の作用を現ずるものなり。  この能力はいわゆる心の元素なり。 人の心は決して一元素すなわち一能力より成立するものにあらずして、 種々の能力により成立せるものなれば、 したがって能力の異動によりて心全体の性質、 作用を異にすべき理なり。 しかりしこうして、 各能力は脳髄の各部分において特殊の機関を有するものにて、 総じて心の作用は機関によらざれば発動することなし。 例えば、 なお物の色をみるには必ず目の機関を要するが、 もしこのゆえに脳中の各能力は、みなその特有にかかわる各機関を有するものとす。 かくのごとく脳の各部分は特殊の機関に属し、 したがって特殊の作用を呈することは、 生理学および解剖学によりて知るを得べし。  すなわち諸部分を刺激して、 ある部は視覚をつかさどり、 ある部は聴覚をつかさどること等を知るべし。  すでに能力と機関とは直接の関係ありとせば、その機関部位の大小に応じてその能力にも強弱、 鋭鈍の差異あること明瞭ならん。  この理によりて骨相を観測する規則を設け、 また心の能力を分かちておよそ三十種となせり。  この分類法はゴー ル氏の定めしところにして、氏の説を祖述せしものはさらに増加して三十五種となせり。 今、  これを大別するときは三類となる。  その〔第〕一は知力、 第二は感情、 第三は獣心なり。  しかして脳髄を頂骨の上より三段に分かち、 脳の前部は知力、 その中央部および上部は感情、 その後部は獣心の住する所となす。  いわゆる三十五種の能力とは、  一恋愛、  二慈愛、 三専心、  四愛情、 五闘争、 六破壊、  七秘隠、 八利欲、 九構造、 十自重、 十一好誉、 十二戒慎、 十三仁恵、 十四恭敬、十五剛毅、 十六誠意、 十七希望、 十八驚愕、 十九意想、  二十機知、  二十一模擬、  二十二個体、  二十三形状、  二十四大小、 二十五軽重、 二十六彩色、 二十七地位、 二十八数目、 二十九順序、 三十事情、 三十一時間、 三十二音調、三十三言語、 三十四比較、 三十五明因これなり。

右の学理は近来の実験に基づきたるものにして、 帰納の方法により定めしところなりと唱うれども、 いまだこれをもって学理の証明を得たるものというべからず。 たとい近年は生理解剖の学進みて、 人心は脳髄中に存すること明らかとなり、 また脳髄の状態によりて心意の上に変動を生じ、  かつ精神は脳髄の各部分の上におのおの特殊の作用を有することを観知するに至れりといえども、 しかもこれを外面より観測して、 その知識、 思想の大小、強弱を判定するは、  ついに憶測、 妄断のそしりを免るべからず。  ゆえに    一時はこの説大いに学者の注意をひきたれども、  その後ようやく学理に合せざるものなるを知り、 今日の学者はまたこれを顧みざるに至りたり。

また西洋には手相術あり、  これを「 パルミストリー 」 と名付く。  この術はいずれの時代より起こりしものなるかをつまびらかにせずといえども、 今日これに関する著書の俗間に行わるるもの多し。 今これらの書によるに、 手相術に二種あり。 その一っ を「キログノミー  」 といい、 他の一っ を「キロマンシー  」 という。 第一種は手全体の格好ならびに諸指の形状をみて判定するものにして、 第二種は手掌の筋紋、 高低、 その他の印象を観ずるものなり。  これらの術も種々の経験より出でたるものにして、  そのはじめは有名の人物および罪人、 悪徒等の手相を広く収集して比較的に考定し、 もって一定の組織、 規則を成すに至りしなり。  ゆえに、 この術を首唱する人々は同じく帰納的研究によりて定めしものなりと主張すれども、  これみな盲目的に事実を比較せしのみにて、 もとより学理的に考定したるものにあらざるなり。 しかるに、 その術を専門とする者いわく、「人の性質は面貌、 眼光によりて知ることを得れども、 これと同時に手相によるもまた知るを得べし。 いかんとなれば、 人の喜怒哀楽の情はみな手相の上に発現し、 性質の状態もまた手上に見ることを得べし。 特に面貌、  眼光は多少自己の意によりて左右するを得るがゆえにその実を告げずといえども、 手は意によりて左右せらるること少なきがゆえに、  かえってその実を告ぐるものなればなり」と。 しかれども、 いやしくも学理のなんたるかを知りしものにして、 たれがかかる説を信ずるものあらんや。 けだし、 西洋に伝うる手相学は占星学と相関せるものにして、 従来の手相学は占星学と相合して説明せり。  すなわちその説によるに、 母指にヴィー ナスを配し、 人さし指にジュピター、 中指にサター ン、 無名指にアポロン、 小指にマー キュリー  (以上みな星の名)を配当し、 また各指について各関節を分かちれに哲学的関節、 物理的関節等の名称を付し、 指端に近き第一指を神界とし、 第二節を論理界とし、 その次節を物質界とするがごとく、 みなそれぞれに配当し、 もって手相により精神の状態を観測するものなり。

以上述べしところは、 主に「キログノミー  」の方についていいしものなり。  これに反して「キロマンシー  」の方にありては、  主として手掌の筋紋によりて判断するものなり。  その方法は、 わが国の手相術にはなはだ類似するところなり。 人をしてあるいはその起源の同一なるかを疑わしむるほどなり。 例えば西洋にて、 掌中に上右図のごとき横紋ある人は深慮遠謀ある知者となす。  すなわち吉相なり。  これ、 西洋の手相術の一例なるが、  これに対してわが国の手相術の一例を挙ぐるに、 前頁左図のごとく天、 地、 人の三紋(掌中の三紋を天、 地、 人に配していうなり)正しくして深きは、 男女ともに運強く家業繁昌し生涯に思いごとなく、 総じて吉相とすという。

また「罪人相貌学』と題する書に、 罪人の種類に応じて相貌の異なることを示せり。 その説もとより信じ難しといえども、 参考のために左にその一節を抜記すべし。

動物学者は獣類の歯と爪とを吟味し、 猛悪の性を有するものは肉食獣にして、 温柔の性を有するものは草食獣なることを知り、  ついで骨相学者が両種の頭顧を相比較し、 歴然その性質、 嗜欲を判別して一層悪獣の性格を確かめたり。 人間社会中にも、 また一種特異の性格を有する有害的の種族あり。  犯罪人これなり。 もとより罪人を一般に悪人とみなし難しといえども、 体格、 相貌はもちろんのこと、 解剖、 病理学等より論究するも、画然これを他の人々より区別するを得べきものあること、あたかも疾病の異同を区別するがごとし。センプラソー 氏は九百八十人の小児を取り調べて、 罪人の性格は幼少のときにても知り得べしといえり。 近時欧州にては、  犯罪者の種族およびその異同を見分くるにおいて非常に進歩をなしたり。  その犯罪の種類によりては病理上よりこれを観察し、 またはその祖先の前因よりこれを推及してあらかじめこれを知り、 なお有名なる罪人の脳髄につきて精細なる調査を遂げたるに、 これが結果として、  犯罪人の脳髄および脳蓋は通常人に異なるところあるを発見したり。  この一事よりして、  およそ殺人罪を犯すものは、 十中八九に至るまで、 大酒または掘掘等にて精神錯乱する人々の子孫なるを明言し、 かつ囚徒はたいてい顕骨高く、 聰大に、蹟なく、 色蒼白に、 額低く、 鼻彎 曲 に、 髪黒き人なりといえり。 しかして、 多くの学者は男囚髯なしとの事実に一致し、 諺にいわゆる「悪人に髯なし」とのことを確認せり。 以上は、 諸学者が依託を受けて当局者と調査を遂げたる事実なり。の事実をして古来、 相貌学者が精薮詳論せる一定の原則に照応しきたれば、  これに格致の証左および莫大なる価値を与えたり。 けだし、 吾人はつねにこれを実際に試み須哭も不便を感ぜざるのみならず、 その統計より得たる結果はすこぶる貴重なる問題を発見したり。  されば、 罪人相貌学を研究する人々も、  犯罪者の容貌を審査してその罪科のなんたるかを予察し、 その活用法のいかんによりては、  その効応けだし鮮少ならざるべし。 大岡越前公は深く相貌学に通じ、  これを罪人に応用したることは近時世人のみな知るところなり。 公の裁決を記載せる「大岡仁政録』は、相貌家の眼孔をもって顕微鏡的にこれを見れば、 大いに公が罪悪読心術に長じたるを称嘆すべきもの多し。

今また、 左にその表を掲ぐべし。



また、 左に道徳狂の相貌の表を掲ぐべし。

この相貌、 果たして事実に適中して寸分も違うことなきやは疑いなきあたわずといえども、 罪人に一定の相貌あることは事実に照らして明らかなり。 常に罪人を取り扱ってこれに慣れたるものは、 人を一見してその盗賊なるやいなやを判知すという。 警察の探偵の、 よく窃盗、  スリを発見するを見て知るべし。  かつ、 大盗に髯なしというは統計上の事実なりとのことなるが、 余はこれに対してかつて説明して曰く、「これ、進化淘汰の理にもとづくものなり。 大盗強賊、 必ずしも最初より髯なきにあらざるべし。  しかれども世間一般に、 強盗には髯ありていたって恐ろしきもののごとくに考うるをもって、 強盗中かくのごとき人相を有するものは、 人目に触れやすくしてたちまち捕縛につき、 髯なくして状貌婦人のごときものは、 幸いに人の目に触れずして強盗の目的を全うすべし」ゆえに余は、  これを進化の規則の適種生存によるものとなす。

右、 西洋の相法とわが国の相法とを比較するに、 西洋の古代はいざ知らず、 近世にありては解剖、 生理の学開け、  その理に基づきて規則を組織せしものなれば、 多少学理に関係するところあり。  これをわが国の相法に比す

れば    一歩を進めしものといわざるべからず。 特にわが国の相法は解剖、 生理の道理を顧みずに、 もっぱら五行

の道理によりて成りしものなれば、  これを評して妄説、 憶断というもなんぞ不可ならん。 しかれども、 西洋の相法といえども、 全く学理に合したるものというべからざるはもちろん、 その中にはすこぶる妄説にわたりて、 篭もわが国の相法と異ならざるもの多ければ、世人はよろしくこれらの法術に迷わざるよう注意すべし。要するに、その相法は他の法術と異なりて、 いくぶんか事実上よるところあるは明らかなれば、 その妄誕の点あるがため、ただちにこれを全廃すべきものにあらざるなり。 予がすでにわが国の相法について論述せしごとく、 人の思想、感情の外貌上に発現するは疑うべからざる事実なるがゆえに、  これを基礎として相法を組織せば、 多少道理に合するところあるや必せり。 これをもって今日よりさらに孜究を進め、 よくその理を明らかにするに至らば、他日、学理と符合せるまったき相法を考定することあらん。  この術に従事する者はよろしくつとむべきなり。


   第五    節 五体の相貌

さきにわが国の面相術について述べたるも、 いまだ身体各部の五体については、 手相、 肩相、 胸相、 腹相、 乳相、 謄相、 腰相、 臀相、 足相等の別あり。  これみな五体の各部についての相法なり。  その他、 五体の挙動については行相、 座相、 臥相、 食相等あり。 なかにつきてまず手相を述べんに、 手相にはまた掌相、 指相、 爪相等あり。

「万暦大雑書三世相〔大全〕」に手相の図解を下して曰く、「それ手相を見るは、 男は左、  女は右に見るべし。 指先長きは器用なり、 短きは不器用なり、 爪の長きは吉とす。 指先細きは器用なり。 指先平た< 爪横に広きは悪し」と。 また同書に、 五手を脊族に配当して、 大指を祖先とし、 食指を父として、 中指を母とし、 無名指を夫婦とし、小指を子孫とし、 これについて判断を与えて曰く、「無名指ゆがみまた傷あるは、 夫婦仲あしく常に苦労あり。 小指ゆがみまた傷あれば子に縁なし」等とあり。 また、 掌中の紋について、 その大紋を天、 地、 人の三に配し、 三紋正しくして深きときは、 武士は高禄を得て大いに名を起こすべし。 出家は高僧となりて法弟をも多くもち、 町人、 農人は運強く家業繁昌し、  女子は善き良人をもつ等と称して、 これを吉相とす。 もし、  これに反して三紋浅くあるいは正しからざるものは、 なにごとも遂げ難く、  一般に凶相とす。 なお、 この紋に黄、 紅、 紫の三色の相あることを論じ、 これについて吉凶を判ずるあり。 その他、 指の節々の間にいちいち名称を与えて判ずる方法あれども、 これみな論ずるに足らず。 また、 爪相の吉凶を判ずる方法なれども、 煩わしければこれを略す。 その他、全体の相貌について寿相、 富相、 貴相、 威相、 厚相、 清相、 古相、 孤相、 破相、 悪相、 貧相、 夭相、 死相等の伝あれども、 これまた繁雑なればこれを略すとし、 ただ左に、「万暦大雑書三世相大全」に述べてある「見相心得秘伝」を掲げん。

まず、 人に対してその形容を見るに心得あり。 その人肥えて肉をあらわさずというは、 肉のしまりたるをいう。  ぶた肥えはあししと知るべし。  やせて骨をあらわさぬは貴ぶなり。 座に着きてすわりたるかたち大山のごとく、 久しく座しても動かざるように見ゆるは福人なり。 心正しく一生衣食に不足なし。 座して総身、足、 膝などをふるい動かすは、 俗にも貧乏ゆるぎといいて、 大いに悪し。 必ず貧なり。 座して膝がしらをすぼめる人は、 必ず心さだまらず住所動くなり。

座して膝がしらをひろげる人は、 望み大にして散財す。 元来ふしまりなる人にて、 よく他の身の上をのみこみ、 世話をやく人なり。 座して居合いごしなる人は分別なく、 心の落ちつかぬ人なり。

座して尻のおちつかぬは、 住所動き家業の定まらぬ人なり。

座して居なり正しく、 尻のおちつき、 威儀ととのう人は大福力あり。

座してさびしく見ゆるは貧なり。

座して横たいに見ゆるは火難にあうしるしなり。 よくかんがえて見るべし。これらの相法中には多年の経験によりて考定せられ、 やや道理に合するものなきにあらざれども、 今日、 相家の喋  々 するところのものは、 多くは妄説に基づけることなれば、 世人はすべからくその言に迷わざるよう注意せんことを要す。 面相および全身の挙動に関して相するがごときは、 最もその術を得やすしといえども、 手相、足相等に至りては、 たとい精神といくぶんの関係あるにもせよ、 人力をもってこれが判断を下さんことは、 到底望むべからざることなり。  ゆえに、 掌紋について吉凶を察するがごときは、 もちろん不合理として排斥せざるべからず。



   第一五節    人相  結論

今日世間に伝うるところの相法は、 はなはだしく妄誕、 不稽の部分を混入すといえども、 人相そのものに至りては心身相関の理に基づき、 必ずその道理を存するものなり。  これをもって古来、 英雄、 豪傑、 聖人、 君子にはおのおの一種の相あり。  これに反して、 強盗、 大賊、 悪徒にはまた一種の相あり、 決して欺き難し。「人相早学第一編の序に曰く、

それ尭 の眉は八采を分かち、  舜 の目には重瞳あり、 大馬の耳には三漏あり、 成湯の腎には四肘 あり、 文王は竜顔にして虎の眉、 漢高は斗胸にして隆準なり、 周公の反握は興周の相なり、 重耳の絣 脅 は覇晋の象なり。 常人の相貌、 古聖の英姿に比すべからずといえども、 不凡の相に奇形、 異骨あるときは、 常人にもその分に従い、 貴賤、 吉凶の相あることを知るべしと。

かくのごとく特殊の相あるほかに、 貴人には貴人一般に通ずる相あり、 聖人には聖人一般にわたれる相あり、盗賊、 悪徒みなおのおの一般普通の相あり。 この相によりて人を判ずるときは、大抵その実を失わざるものなり。

「怪談諸国物語」と題する書中に、 心身相関の一例を示して曰く、中比、 宅魔法眼という絵師あり。 常に牛をえがくことを好めり。 あるとき筆をもちながら居ねむりしを物のかげより見れば、 宅魔が形、 牛に変じたり。 したしき友なりければ、 いつぞやのゆめすがたを告げしかば、われ他念なく一心に牛を好みてえがくゆえに、 かたちまでもそのものにうつりけるにや。 色心不二の理は万法の至極と聞くにたがわず、 はじめて漸愧、 改悔の心を発し、 あけくれあみだの尊像をえがきけるに、 年経て後ふしたるかたち仏のごとく、 胸より光明をあらわせることたびたびなりしとかや。 今にたくまが弥陀とて、 霊仏のひとつなり。

右の絵師が一心に牛をえがかんと欲せしよりその念、 形に表れて牛の相を呈せりとは、 これ全く「思い内にあれば色外にあらわる」の道理によるものなり。  ゆえに予はいわん、「人相学は心理学者等のもっぱら研究すべきことにして、 他日これにより新たに確固たる規則を考定するに至らば、 その世を稗益すること必ず大ならん」と。

また「牛馬問」といえる書に、 人相のことを論じて曰く、

ある人の曰く、「人相の説その源つまびらかならず、 大抵戦国のころより権輿す。 おもうに、 形を相するは心を論ずるにしかず。  ゆえに荀子「非相編」を作りて、 これがために惑うものをおしゅ。 日本にも近世この術さかんにして、 文盲、 浅廼なる 輩、 かがみを揚げて人の貴賤、 禍福をいう。 その趣を見るに、 一身をもって衣服の精粗によりて禍福たちまち門をことにし、 富める人は賞し、 いやしき人は常に凶なり。  人に益なきものか」予が曰く、「その術にっ たなくして、 うりて銭を求めるもの、 なんぞ相者のみならんや。  その庸下なるを見て一切にこれを破す、  一枝の枯れたるを見てその幹をきるに異ならず。 その術の妙なる人に逢わば益あるべし、 不可なるものによらば笑いを開くべし。 また一切に相法を破すとも、 正心誠意にし陰徳を行わば、  これ相せずして吉、 今も奇なるものあり。 予、 親しくこれを見る。 むかし、 宋元の間に鬼眼という者あ一人、 かれに至る。 鬼眼これを指さして曰く、「公は大いに富める人なり。 しかれども惜しいかな、 中の前後三日のうち命数定まれり」客おそれて帰る。 ときに八月の初めなり。 揚子江というところに舟をとどむ。 江の浜を見れば一婦人、 天に仰ぎて大いにさけぶ。 客ゆえを問えば、 婦人曰く、「わが夫は小本銭をもて売買し、 家に帰れば本銭を分けてわれに渡し、 利分をもって日用とす。 常にかくのごとし。 今われ、  その本銭を失う。 身のおきどころなきのみにあらず、夫に面を合わすべき申し訳もなし。 ゆえにここに身を沈めん」という。  客嘆じて曰く、「金銭をもて人の命は買うべからず」とて、 失うところの一倍をあたえて家に帰り、鬼眼がいうところを父母に告げ、 親戚、 故旧、 相集まりかなしむことはかりなし。  さて、 命つくるの日を待つにつつがなし。  ついに年を越ゆれども死なず。  ゆえにまた他に行き、 かの揚子江の岸にのぼれば、 去年銭を与えし婦人、 小児を抱きてきたるに途中に遇う。 婦人礼拝して曰く、「去年、 君の御恩こうむりしより、 まもなくこの子を産し、 親子よわいをながらうこと、 再生の御恩忘れ申すまじ」と、 感嘆して謝す。  それより鬼眼に至れば、 鬼眼諮きて曰く、「公は中秋になんぞ死なざる」つまびらかに形色を見て笑いて曰く、「これ陰徳のいたすところなり。 必ず一老陰少陽の命を救うならん」と。 客その術を奇とす。  この類多く古書に見 ゆ。 古人われを欺くにあらず。 くわしき人に逢いてのち信ずべきのみ。

右の例によれば、真に人相術の妙に達したる人は、いかなる未然の出来事をも知り得べきがごとく論ずれども、これはなはだ疑わしきことにして、 人相を偏信するものというよりほかなし。 けだし、 相貌によりて内状を察知することを得といえども、 人の精神、 思想と全く関係なき外部の出来事は、 これを前知しうべき理なければなり。かつてある相者あり。  一人を相して曰く、「何年何月何日には必ず死すべし」と。 その年月日を一定して告げしかば、 該人は一にその言を信じ、  すなわち右の月日までに己が死亡の用意をなし、 わが一切の財産はみな右の日限までに蕩尽して、 一銭の余財をも残さざるべしと決心し、 それより一身の酒食、栄華に金銭を用うるはもちろん、

その余りは人に施し貧民を救い、 もって死日の至るを待てり。 しかるに、該日限に達するも奄も身体に異常なく、翌日に至るもなお依然として生存せり。  ここにおいて、 はじめて相者に欺かれしことをさとり、 憤然大いにこれをなじらんと欲して相者の家に至る。 相者たちまちその答弁に困じ、 工夫一番、 頓知を出だして曰く、「氏は先年判断せしがごとく必ず昨日に死すべき命数なれども、 なお今日まで生存するは、 他にこれを動かすべき原因ありしこと疑いなし。 けだし、 これ他人を救助し慈恵慈善を施したるによれるならん」と。  その人答えて曰く、「すでに死日の一定せしをもって、  死後に金銭を残さん必要なしとおもい、 貧民にあうごとに多少の施与をなしてこれを救えり」と。 相者、 ここにおいてか得々として説いて曰く、「これ、 実に氏が命をして長からしめし原因なり。もしかかる慈善を施さずば、 必ず予定の日に死すべき命数なれども、 その功に対し天とくに氏の命を延ばししなり」といえりとぞ。  おもうに、 今日の相家の判断には必ずこの類のこと多からん。 これ、 あに妄誕のはなはだしきものにあらずや。  ゆえに、 今日世上相家の言、 もとよりことごとく信ずべからず。  これをしてかかる妄誕を去り、 道理に合せしめんには、 さらに心理学の原理に考えて、 学理的に方法、 規則を定めざるべからず。 しかるに従来、 世間の相者は種々の妄誕、 無稽の言をなして憂もかえりみるところなきより、  すでに荀子のごときは往昔において、『非相編』を著してこれを排斥せり。 その中に曰く、

相入  之形状顔色一而知二其吉凶妖祥一 世俗称レ之、 古之人無>有也、 学者不レ道也、 故相>形不品如レ論只心、 論レ心不>如>択>術、 形不>勝>心、 心不>勝>術、 術正而心順>之、 則形相雖>悪而心術善、 無>害>為二君子一也、 形相雖>善而心術悪、 無如ロレ為恥  人一也。

(人の形状、顔色を相してその吉凶、妖 祥 を知る。世俗これを称するも、いにしえの人ありとすることなく、学者いわざるなり。  ゆえに、 形を相することは心を論ずるにしかず、 心を論ずることは術を択ぶにしかず、形は心に勝たず、 心は術に勝たず、 術正しければ心これにしたがう。  すなわち、 形相は悪しといえども、 心術善ければ、 君子たるに害なきなり、 形相はよしといえども、 心術悪しければ、 小人たるに害なきなり) 又曰、 長短小大、 善悪形相、 非  吉凶一也。

(また曰く、 長短、 小大、 善悪、 形相は吉凶にあらざるなり)

これ実に荀子の卓見にして、 人相によりその人の心と全然関係なき、 将来の吉凶、 禍福を前定すべきにあらざることは、 予も信じて疑わざるなり。 ただ、 予は心身相関の理に基づきて、 外貌より精神内部の事情を判定する法を考究せんと欲す。 今日にありては、 心理学上、 精神作用の分析すでに明らかなれば、 これに対して一定の人相の配合を究め、 知に対する相貌はいかん、 情に対する相貌、 意に対する相貌おのおのいかんを考えきたり、 もって一定の規則を設くべきなり。 近世西洋に伝うる骨相術のごときは、 ややこの分析法に基づけるものなりといえども、 骨相よりはむしろ面相において精神の真相を察知しうべきものなれば、将来ますます研究を進めて、知、情、 意の各心性作用の配合を衆人の面相上に定めんこと、  これ予の切に望むところなり。



   第五二節    墨色

相法にはただちに形体について相するものと、 挙動について相するものとの二種あることは、 前すでにこれを述べたり。 しかるに他方よりみるときは、 直接に相するものと、 間接に相するものとの二様ありて、 右に挙げたる身体の相貌および挙動について、 ただちに相するものはいわゆる直接的相法なり。  これに対して、 心内の状を他物の上に転写せしめ、 これによりて相するはすなわち間接的相法なり。 この間接的相法に墨色と名付くる一種の相法あり。  その法は人をして文字をえがかしめ、 これにより間接に該人の心性を相するものなり。 また、  手もしくは足の印跡を見て、 これにより相する方法あり。 もし小児のごとき、 文字を書することあたわざるものを判ぜんとせば、 その手もしくは足を灰のごとき物の上に印せしめ、 その遺跡について相するなり。 しかれども、世上多く用うるところは手跡について判定する方法なれば、 予はこれより墨色の起源および方法を述べんとす。

さて、 墨色の起源は「墨色 小 笙」と題する書中に出でたり。  すなわち左のごとし。

墨色はすなわち相字の法なり。 なお折字、 相印、 相押字等、 数種の術あり。 相字の法は、「百家名書」に載せたる、 相字心法あり。 人に文字を書かしめ、 その字画を見て、  その人の吉凶を断ずる術なり。 謝氏なるもの、 この術に奇なるよし記せり。 また、 明の胡文換が書する『銭塘副墨」にも相字のことあり。 折字の法は、「左伝」の亥に、「有ーニ首六身「相印書曰、 相印法本出二陳長文(二首六身あり)というに権輿す。 相印の法は、「魏志」の許允が伝の注に、 本出二漢世一 有ーー相印相笏経ご(「相印書」に曰く、「相印の法はもと陳長  文に出ず。 曰く、「もと漢の世に出ず相印相笏経あり」」)と見えたるこれなり。 相押字とはいわゆる書き判を相する術なり。  この術は郭 若 虚が「画論」に「如下世之相二押字知界  謂ーー之心印一本_自一心源   `竺成形迩

迩与>心合、 是之謂>印。」(世の押字を相する術のごとき、 これを心印という。 もと心源より成形の跡を思い跡と心と合す。  これ印という)また「南郭遺契」巻の九に、「今按吾邦俗間、 亦有知四押字一 未>知五始二何時一

若画  論云一 則郭時已有>之、 而漢世相印、 雖>非二花押    其術所レ由蓋亦旧突。」(今案ずるに、 わが国の俗間、また押字を相するあり。 いまだいずれの時に始まるを知らず。『画論』にいうがごとくんば、  すなわち郭の時すでにこれあり。 しかして、 漢世の相印は花押にあらずといえども、 その術のよるところ、 けだしまた旧し)など見えたるこれなり。 しかれば、 墨色の権輿またひさしというべし。 この術わが国にて用いそめしことは、いずれの世のことならん。 ただ「雑々拾遺』に、 後醍醐天皇の御時、 天文博士安倍有宗入道、 人の判の形を見てその人の吉凶を占うに、 違うところなかりしよし、 しるせり。  この有宗入道は〔安倍〕晴明が十五代の孫と聞こえしかば、 その祖先よりうけ伝えしところありしことにや。  またこの術、 有宗入道に始まれることに や。  そのはじめはいまだつまびらかならずと、 先賢新井白石の説なり。 花押のことは、 花押藪に天子の御押は、 後深草帝以来、 人臣の押字は、 参議藤 原 佐理卿以来を載せたれども、 すでに令に天子御画のこと見えたれば、 そのはじめもまたひさしきことしるべし。

また、 その方法は、墨色伝と名付くる書中に示せるものを転載すべし。

まず 硯 を清め、 清浄の泉をうつし、 清き墨筆をもって硯に向かい、 その占うことの由を心中に唱えて、 墨をすりて、 奉書杉原の類、 墨うつりよき紙に一文字を引きて、 吉凶を占うなり。  しかしながら、 占いごとをひとすじに思って、 ただ無念無想に引くべし。  たとい墨かするとも、  つくろいなどすることあしし。 もし遠方へ行く人の生死か、 久しく逢わぬ人のことか、 病人のよしあし、 または下人等の新参にかかえるとき、の人の気性のよしあし等、 人のことにても占うときは、 その本人の心をもって一文字を引くべし。 同時同筆にて引きし一文字といえども、  その品のかわりしは、 みな墨色替わりて、 くわしく吉凶、 虚実をあらわすなり。 人より墨色持ちきたり占うときは、 わが心を無念無想にして、 墨色に心をとめ、 八卦、 六神、 六府、 筆形、 十二形、 陰陽、 浮沈、 潤滞、 清濁、 軽重、 厚薄を委細に考え、 吉凶をうらなうこと肝要なり。

この方法に無念無想をもって一心を込め、厳粛鄭重に行うべきよう示せるは、大いに理由あることというべし。およそ人の精神を外物に写さんには余念を交えず、  一心に一事のみをおもわざるべからず。  かつ、  その方式の鄭重なるは、 人をして信仰心を起こさしむる一手段なり。 ゆえをもって『墨色小笙」には、 机の高さに至るまで一定の規を設け、 前は五寸五分、 後ろは六寸二厘とし、 また筆軸の長さは、 小は六寸、 中は七寸、 大は八寸となせり。 これらはみな、 人をして信仰を深からしむる手段にほかならざるなり。  つぎに、 その判断には、 文字の上に八卦、 六神、 六府等の名目を付し、 これを文字の各部に配当して判断を下すものなり。 今、  上に八卦および五行を、  一なる文字の上に配当せし図を示すべし。   この八卦を配当したるものを八宮の図と称し、 その各部について考うる一定の規則あり。 例えば「乾宮に滞り、 または墨色悪く、 あるいは欠くるか、 いずれあしきことあるは、 口舌あるいはあらそいごとできるなり。 高位、 貴官、 父兄、 老人、  すべて目うえのとがかまた不和なり。  また吉色にてよくしまれば、 目うえの引き立てありて、 物の頭となる」のごとく各宮みなそれぞれの解釈ありて、  これにより判断を下すなり。もしまた、一人の一代における吉凶を判定せんと欲せば、

一なる文字を三部に分かち、 これを初年、 中年、 晩年として、 その各部につき吉凶を判ずるなり。 今、 左に「墨四門に分かち、 その各部に命名すること左のごとし。

八所の説明に曰く、「かくのごとく虎頭より書きはじめる人は、短気にして、強気をもって無理に事をなさんとする気質ある人なり。 よく試みるべし」と。 南山以下これを略す。  つぎに四門の説明に曰く、「天運はほそく盤にじまず、 清くして、 自然に美なるを佳とす。 もし坐にごり、  またはかすりて彩なく、 筆勢きるがごときはみな凶とす。 仕官は君に離るることあり。 諸人おおむね父母につきて難ありとす」と。 以下これを略す。 もしまた、 この環について年限を知らんと欲せば、 左のごとき図式によるなり

函窮芋如器

およそ、 暴色にてその人一代の盛衰、 禍福を見ること ま'、  いたってあきらかに察知するの法あり。  まずその人に示して一円を書かせて、 年限を配付す。 図のごとく一円の中に井の字を、 爪形にて条理をつけ見れば、 その当たる年の吉凶を知るなり。 墨にじみたる年は必ず辛苦眼配のことあり。

以上の判断は、 もとより妄誕、 不合理のものとみなさざるを得ず。 かつ、 これに年限を配当して、 生涯の吉凶、禍福を予知しうることを唱うるがごときは、 妄誕中の妄誕なり。 けだし、 筆跡は多少人の性質を模写するものなれば、  これによりて精神のいかんを判定するを得べしといえども、 かの精神とは直接の関係なき、 外界よりきたれる吉凶、 禍福を判定すべき理は、 決してこれあるべからず。  このゆえに、 予はこの方法をも改良して、 今日の学理に基づける一種の規則を考定せんことを望むものなり。

また、 世に折字法と名付くるものあり。  その方法は例えば「董」の字を折りて冠を除くときは、 千里の二字となり、 また合の字を折りて、「人一口」となすがごとき類にして、  これにより吉凶の出来事を判断せんとするものなり。  これ、  一層妄の妄なるものにあらずや。  わが国にても「いろは」について折字の判断ありと見え、  これを掲げたる書あり。  その「い」の字の解に曰く、「もと以の字とす。 以の字の形は一人あおぎ、  一人ふし、 中に一点あり。  客あおぎ主のぞむ、 夫いざない婦したがう、 中に一物の争うべきあり。 百事吉兆、 財丁を催すことありとす。  主客の墨色の善悪を見て、 よくよく禍福を断ずべし、 云云」以下これを略す。

また、 字画の数を五行に配当して吉凶を判ずるものあり。 その配当法は左表のごとし。

かくのごとき説に至りては、 その妄誕、 言語にたえたり。 古来、 墨色の法中にて最も用いらるるものは、 人をして一なる文字を書かしめ、 もって吉凶を判定する法これなり。『墨色指南」と題する書中にその理由を示して曰く、「人、 胎内にあるときは太極なり。 生まれてはじめて日月を見て父母を知る。 これ、 陰陽を知りそむるものな一より起こりて一にとどまるは天理なり。  ゆえに一の文字をもって、 人の願望または運不運、 住所変宅、 婚姻、 産婦、 待ち人、 すべて吉凶をわくるものなり」と。 総じて右らの説明はシナの陰陽五行説に基づきしものに一は土の数、  二は金の数、 三は火の数四は木の数、 五は水の数としるべし。

そして、 陰陽の理は妄誕にあらずといえども、  これを応用するに当たりてはおおむね妄誕に陥り、 そのいかんの理また、 印字について吉凶を相する方法あり。 はじめて漢の世に起こり、 相印経と名付くるものありという。「印判秘訣集」によるに、 五を相する方法は七点五位を設けて判断を下すものなり。 五位とは木火土金水の五行にして、  七点とは命運点、 愛敬点、 福徳点、 住所点、 知恵点、 脊属点、 降魔点これなり。  その説明は右「秘訣集」につまびらかなれども、  ここに必要なければこれを略す。「吾園随筆    巻の二に印相を記して左のごとくいえり。

俗人刻二名印    動論ー一印相佳悪一 喜一印文平正一 忌ーー上下左右断而不ら続、 印相西土亦有レ之、 虞世南北堂書抄曰、相印法、 本出二陳長文一 以語二章仲将一 印工楊利従二仲将一受>法、 以語二許士宗一 私以占二吉凶一 十可>中一八九一仲将問二長文一従>誰得>法、 長文曰、 本出二漢世一 可レ見拘忌家之情、 古今東西不>期而同突。

(俗人名印を刻す。 ややもすれば印相の佳悪を論じ、 印文の平正を喜び、  上下左右たえて続かざるを忌む。印相は西土にもまたこれあり。 虞世南の『北堂書抄」に曰く、「相印の法はもと陳 長 文に出でて、 もっ て窟仲   将 につぐ。 印エ楊利、 仲将に従って法を受け、 もって許士宗につげ、  ひそかにもって吉凶を占う。 十に八九をあつべし。 仲将、 長文に問う、『だれに従って法を得たる』長文曰く、『もと漢の世に出ず』

と。  見るべし、  拘忌家の情、 古今東西期せずして同じきことを)

以上これを要するに、 書は多少人の性質を表すものなれば、 手跡、 墨痕によりていくぶんかその性質を判定し得べしといえども、 未来の吉凶、 禍福に至りては、 決して前定せらるべきものにあらず。  これその精神、 性質にのみ関係するものにあらざればなり。  ゆえに、 予はこの相法を改良せんと欲し、 先般、 筆跡鑑定法を設けて目今その試験に従えり。



   第五三節    家相

すでに人相を講述し終わりたれば、  これより家相のことを述べざるべからず。 家相と人相とは大いにその性質を異にし、 人相は人の身体に固有せる生来の状貌について判ずるものなれば、 たとい不吉の相ありとも、 随意にこれを変ずることあたわず。 しかるに家相に至りては、 もし不吉の相あれば、 人意をもってあるいはこれを改築し、 あるいは移転して避くることを得べし。 以下、 家相の可否、 得失を評論する前に、 その起源および方法を略述せんとす。そもそも家相の起源は極めて古きものにして、  シナにおいては黄帝より起こり、 日本にありては遠く神代より始まれり。 すなわち『家相図説』に載するところ左のごとし。

素箋嗚 尊、 八雲立つその瑞現を仰ぎみ、 俯してその地の霊なるを察したまい、 八重垣を造らしめたまう。

また神代巻に、  天 児 屋  命、 太占をもって仕えたまうとあるも、 あながちに大己貴 尊 の御行跡をいぶかり占いたまうのみにあるべからず。 皇尊の御為に御舎居地の設、 その吉凶考察、 太占を用いずしてなんぞゆるがせにしたまわんや。 また漢土においても、 室宅を相するの法、 黄帝より起こりて、 すでに周 公旦、 洛陽経営のとき、 中央八方位の理をつまびらかにして、 宮室の設その 準  縄 をしきたまうこと、「尚書  に見えたり。

また、仏説には如来に三十二相そなわることを説き、あるいは釈尊王舎城より良き方位を選んで 竜 庶山をひらき、 なお  壬  午の日をもって仏閣の上棟を営みたまうこと、『 玉 免 集 」に載するところなり。 かつまた「日本〔書〕紀」に曰く、「推古天皇十年冬十月、 百済僧観勒来レ之、 初貢暦  本及天文地理書一云云。」(推古天皇十年冬十月、 百済僧観勒まいりけり、 よりて暦の本および天文地理の書を貢ぐ、 云云)しかして上宮皇太子、大和の国斑鳩の宮において、  臣下大 友 村主、  大陽胡史祖玉陳、 山 背 臣日立等に仰せて、 その貢するところの書伝を学ばしめたまうこと、「太子伝暦」に見ゆ。 居地、 屋宅を相すること、 太古よりその法これありといえども、 ここにおいてその伝を大いにくわしくす。 よってもって後世の今に授け伝うることを得たり。  これみな太子の余光というべし。

また「家相秘録」の序には、 家相はその本源は兵書にありといえり。  その言に曰く、

それ家相とは、 家宅を五行に配当して吉凶を考うるをいう。 その源、 兵書より出でて、 陣法にもとづけり。

かの臥竜が 蜀 主をたすけて呉魏を苦しめ、豊臣家の四海の蜂起を破りて天下を治めたまいしも、みなこれ陣法の正しきがゆえなりと。

また、 家相の人事と関係あることについては、 左の二書に示せるところを掲げん。

「黄帝宅経」にいう、「地よければ苗しげり、 宅、 吉なれば人栄う」またいう、「宅の吉なるは、たとえば相あしき人もよき衣装着るときは、 衣装の神彩その一半をそうるがごとし」と。『三オ発秘」にいう、「それ宅は人の身を修め、 命をやしなうの根基にして、 細事にあらず。  昼はすなわちその内に飲食し、 夜はすなわちその内に臥し、  上は先祖を祭り、 下は代々のよつぎを立つるところにして、 人生のよるところこれより大なるはなし。 あにゆるがせにすべけんや。 また、 相宅の法は聖人の制作したまうところなり。 それ、 またなんぞうたがわんや、 云云」と。

また、 人相と家相との優劣について、『家相秘録』に左のごとく説明せり。

人相はその人一人に限りて善悪を弁じ、  宅相はその家に住人いくばくの人数たりとも、  上下おしなべてその家の善悪について吉凶、 禍福をうくること、 必定の理なり。 しかるに、 人相はその相あしきとて、 あらためかゆることならざれども、 住宅のあしきはあらためなおすことやすし。 わずかの小窓、  一株の樹木たりとも、 その善悪によって住む人の禍福、 盛衰をなすの類、 あげてかぞえがたし。  ことさら新宅をつくり、 あるいは旧宅を移しかゆる人々など、 その宅の善悪、 吉凶をよくよく考えて、 災いをまぬがれ幸いを得るように、はからうべきこと肝要なり云云と。

しかれども、 これ果たして家相の人相にまさるか、あるいはかえってその劣る点なるかは、 即時に断定し難し。また、 家宅に虚実の二種あることを同書に示して曰く、

「黄帝宅経  にいう、「宅に五虚あり。  宅大にして人すくなく、 門大にして内ちいさく、  堵 院まったくととのわず、 井戸、 かまど、 その所を得ず。 宅地ひろく家すくなくして、 空地はなはだ多き、  この五つを五虚という。 宅小にして人多く、 宅大にして門ちいさく、 増院まっとうしてよく調い、 宅地次第によくして広すぎず、 宅水順にながるる、 この五つを五実という。 五虚の宅は住人次第に貧ならしむ、 五実の宅は住人をして

次第に富貴ならしむ。 また清の石天基が曰く、「人多くして屋少なきは、 これ人宅に勝りて吉とす。 屋多くして人少なきは、 これ宅人に勝りて吉ならず、 云云」」と。

家宅の相法には、 家宅全体について考うるものと、 その各部について相するものとあり。 門、 窓、  窟、 井戸、厠、 土蔵、  庖、 鶏棲等は、 みなこれ、 家屋の部分に属するものなり。 その他、 家屋の周囲に関する部分には垣、屏、 樹木、 池、 溝等あり。  みな吉凶の相ありて、  これにより判断を下すなり。  また、 地面についてはその高低、形状、 方位によりて吉凶を判ずる方法あり。 これ、 いわゆる地相に属するなり。 つぎに家屋全体に関する相法は、その形状、 間取り、 柱の位置等について考うるものにして、 いわゆる一種の建築法なり。

そもそも家宅の吉凶を判定するは、 地位、 風水の上より論ぜんことを要するものにして、 地相および家相は互いに相待たざるべからず。  ゆえに家相と連絡して地相を述ぶべきなれども、 まず家相のみについて評論を下し、次節において地相の上に評論を与えんとす。 予、  二、 三の家相書を閲するに、 その所説中には、 往々今日の衛生学および建築学に適するところあるを見るなり。 しかれども、  その原理原則とするところに至りては、  シナの陰陽方位の説に基づくものなれば、  これを妄誕、 不合理と断ぜざるべからず。 今、 家相について吉凶を判定する方法、 規則は民間多くその書を伝うるをもって、  ここにしばらくこれを略し、 ただ予がこの方法について有するところの意見を述べん。 それ、 従来の家相法は、 たとい一、  二の今日の学理に適するものあるにもせよ、 その十中七八は不合理的妄説なること、 今日識者の一般に認むるところなり。 特にその原理と仰ぐところのものは、 古代の妄説に基づけるのみなれば、 よろしく当今の学説を根基としてその方法を一変せんことを、 斯道に従う者に望まざるを得ず。

多年、 家相法を研究したる人なりとて、 青柳保元斎なるものしばしば予が宅にきたり、家相のことに関して二、三の問答を交えたることあり。 後また、 氏は自ら書を寄せてその説明をなせり。  その言によるに、 家相は定理と風水との二者相待たざるべからず。 風水一方に偏するも不可なり、 定理一方に偏するも不可なり。  しかるに世の家相家は多く一方に偏するをもって、 その判断もまた誤れり、 云云といえり。 いかにも家相において風水、 地相を考うべきことは、 予のもとより知るところなり。 しかれども、 その二者相合するにもせよ、 家相は人意をもって左右変更することを得べきものなり。  ゆえに、 もし家相の理に精通し、 地相も家相もともに吉相を具備せしめば、 その家は必ず福利を得べき理なり。 しかるに、 家相専門家に限り富貴を有する人極めて少数なるは、 そもそもなにゆえなるか、 予の大いに疑うところなり。  かつ、 わが国は家相、 方位を論じてしきりにその吉凶を談ずれども、 西洋にはいまだかくのごときことを説くものあるを聞かず。 しかも西洋の国富み民ゆたかにして、 今日文明の第一位にあるは、  これなにに原因するか。 もし真に家相は家を富まし国を強むるものならんには、 家相の行わるる国々はもちろん十分の富裕、 盛大をいたすべき理なるに、  かえってその貧弱なるものあるはなんぞや。 家相家はこれに対していわん、「西洋にはこの術行われずといえども、  けだし偶然にその吉相を得て富強を極むることならん」と。  これあるいはしからん。 しかして、 これをわが国に見るも、 切々として家相に心を用うるものかえって福利を得ず。  これに反して、 さらに意を家相に用いず、 いわゆる偶然吉相に適中して富裕なるもの少なからず。  これによりてこれをみれば、 家相は必ずしも家相家にはかりて鑑定を請わざるも、 富貴、 福利を得るに関係なしといわざるべからず。

果たしてしからば、 予は家相全廃説を唱えんと欲す。  いかんとなれば、 家相を講ずるも富貴を得ることなく、

これを不講に付するも、 西洋のごとく国勢駁々たればなり。  ゆえに予は、 むしろわが国にも西洋と等しくこれを講ぜざらんことを望むものなり。  そもそもまた、 家相家および卜筵家の論ずるところは、 社会進化の原則と相いれざるものなり。 けだし、  社会進化の原則は、 到底貧者なくして富者のみを得ることを許さざるや明らかなり。もし貧者なくんば、 なんぞ富者を分かたん。 また富者なくんば、 なにをもって貧者を弁ぜん。 畢 覚、 両者は必ず相待つものにして、 富は貧に対し、 貴は賤に対して存するものなり。  ゆえに、 家相にしてたといその効あらしむるも、 到底富貴の一方のみを得べからざるなり。 しかのみならず、 社会の大勢はその進化するに応じて、 ますます不平均を生ずる傾きあり。  すでに生物は、 その太初にありては動物も植物もその間に差別なかりしが、 ようやく進みて懸隔を生じ、 いよいよ進みていよいよ差等あるに至れり。 社会の進化もまたこれと等しき傾向を有するものなり。  ゆえに、 西洋諸国はわが国に比すればはるかに文明に進みたりというも、 貧富の懸隔はかえってわれより一層はなはだしきをみる。  これ、 実にやむべからざる勢いなり。

予はもとより貧富の懸隔を喜ぶものにあらず、  これを矯救せんため道徳、 宗教によるべきことを唱うるものなれども、 社会をして貧賤を去り、 富貴のみを得しめんことは、 到底家相等のよく及ぶところにあらざることを一言するのみ。 かつや、 すでに有形上には到底差別、 懸隔を免るべからざるものとせば、 吾人はむしろ精神上においてその一致、 融合を求むべきなり。  これ、  すなわち宗教、 道徳の目的とするところなり。 しかるに家相家は、いたずらに有形上に局して他を知らず。 人々をして同等の富貴を得せしめんとするは、 社会進化の理に暗きものといわざるを得ざるなり。 しかりといえども、 予は決して自ら家相説を全廃せんことを求むるものにあらず。 むしろこれをして進歩改良せしめんため、 その中に混入せる妄誕的分子を除去して、 さらに今日の衛生学、 建築学の真理に基づきて、  一種の別法を新設せんことを欲するなり。 また従来の家相法を継続するものも、  いたずらに尭舜以前の規則を崇拝せずして、 今日の学理に考え、 その方法を改変せんことをつとめざるべからず。 以上はこれ、 予が家相についての意見なり。



   第五四節 地相、 風水

 すでに家相を述べたれば、 これより家相と連接せる地相に説き及ぽさんとす。 さて、 シナにありては風水の説、盛んに行わる。 この術はもっぱら墓地の吉凶を鑑定するものにして、 同国にては大いに墓地を重んじ、 その地よろしきを得れば子孫繁昌し、 よろしきを得ざれば子孫衰廃すと称し、 なるべくその地のよき所を選びて埋葬を行うより、  この術の大いに流行するに至りしなり。『葬経」に曰く、「山欲二其凝一 水欲二其澄一 山来水廻逼>貴豊>財、山止水流虜>王囚>侯。」(山はその凝らんことを欲し、 水はその澄まんことを欲す。 山きたり水めぐれば貴に逼り財豊かに、 山とどまり水流るれば王を虜とし侯を囚とす)とありて、 山は樹木の繁れるをよしとし、 水は流れの澄めるをよしとす。 かくのごとき地を相して墓地を定むる術を風水という。 郭瑛これを解して曰く、「気乗>風則散、 界な水則止、 古人衆レ之使>不レ散、 行レ之使>有>止、 故謂  之風水ご(気風に乗ずればすなわち散じ、 水を界すればすなわちとどまる。 古人はこれを集めて散ぜざらしめ、  これをやりてとどまることあらしむ。  ゆえにこれを風水という)と。  しかして、  この風水の術は、  シナにても上古より行われしものにあらずして、 秦漢以後、 五行の説世に盛んなるに従って、  墓地の吉凶を鑑定することもまた行わるるに至りしなり。  その起源および発達については、『哲学会雑誌』第五冊に島田〔重礼〕博士の説明あれば、 よろしく参見すべし。 そもそもこの風水はすなわち地相を察する術にして、 家相とは相関係して離るべからざるものなり。 今、 松浦琴鶴の「家相秘伝集」による

『営造宅経』に曰く、「人宅左に流水ある、  これを青竜という。 右に長道ある、 これを白虎という。 前に汚池ある、 これを朱雀という。 後ろに丘陵ある、  これを玄武という。  すなわち最貴の地とす。 いわゆる流水、長通、 汚池、 丘陵の四形は、 震、 兌、 炊、 離の卦 象 より生じ、 青竜、 白虎、 朱雀、 玄武の四名は、 大小陰陽の四気より成り、 物理自然の形名なり。 けだし、 物理の自然たるや、 陰は陽に交わり、 陽は陰に合し、 偏重ならずして万物生育す。  これをもって、 人の居所におけるもまた、 前後平坦にして、  四方正直なる地を吉とす。 すなわち、 地球偏重ならざるの象なり」「宅経    に曰く、「およそ宅地平坦なるを名付けて梁土とす。  これに居するときは吉なり」と。  すべて高低欠張あるは地形の類にして、 好みて作るべきにあらず。 しかれども、 山谷の地あるいは通路、 溝川に隣たる所等は、  おのずから高低欠張ありて、 貧福窮達の相をあらわす。

ゆえに、 その高低欠張は陰陽偏重なるものなれば、  これを平和して、 もっぱら利益に移し損害を避け、 人をして富貴、 延寿の幸慶を得せしめんがために、 聖人陰陽向背の法を立て、 もって地宅相法の術を万世に施したまう。 それ仰がざるべけんや。

かくのごとく地位、 地相のよろしきを得ると得ざるとによりて、  人事上に至大の利害得喪ありとなすは、 必ずしもみな妄説というべからず。  けだし、 人の健康、 疾病は多くその住居、 地位に関係し、  死亡者の多きも少なきもまたその住所によることは、 今日の学理に照らして明らかなり。 樹木繁茂し、 河水清澄にして空気の流通よき所は、  これを住居として人身に適すること、 なにびとも疑わざるところなり。 また「象吉通書』に曰く、「宅地、後ろ高く前下がるを名付けて普土という。  これに居する者は吉なり。 前高く後ろ下がるを名付けて楚土という。これに住する者は凶なり」と。  これまた大いに理あることにして、 みな学理に適中せるものというべし。  その他、家相において、 陽気に向かいて陰気を避くるを旨とし、 地相もまた東南の陽気を受けて西北の陰気を避くるを良しとするがごとき、 いずれも自然に学理に合せるものなり。 それ、 風水とはこれを今日の語をもっていえば、 空気と水となり、 人の住居につきてその健康に必須なるは、 空気と水とに勝れるものならん。  されば、 空気よく流通し、  また飲水の清澄にして、 雨水、 汚水の滝滞なく疏通する地が健康に適することは、 古代にありて当今の学

理を知らざりし際も、 多年の経験によりて、 無意識的にその理を暗知せしもののごとし。  これと同時に、 家相においても、 空気、 日光等と至大の関係あることなれば、 家を建つるに陽気に向かいて陰気に背き、 門戸の位地、間取りの前後、 順序に注意せしは、  これまた今日の学理に符合せしものといわざるべけんや。

ゆえに予は、 地相、 家相ともにこれを排斥せんとするものにあらざるなり。 しかるに、 今日の相家が唱うるところを見るに、 十中七八は妄誕、 不稽の言語多く、 特に地相のごときは方位、 方鑑の術に基づき、 五行、 相 生 相剋の理により、 種々の妄説を付会して人事の吉凶を鑑定せんとするものなり。  そのはなはだしきに至りては、 純然たる糊口営利のために無知の人民を釣らんと欲し、  ことさら種々の奇怪なる説を敷術して客の意を迎えんとするものあり。 かつ、 相家のいうところによれば、  一家中に起こる一切の吉事、 凶事はみな家相、 地相より起因するもののごとく説けども、 これ、 はなはだしき誤りなり。 もとより家相は右に述べしがごとく、 多少その原因たるものなりといえども、 人事の吉凶、 禍福、 健康、 疾病は他の原因よりきたるもの多く、 その事情極めて複雑錯綜せり。 あにこれをもって一概に家相にのみ帰すべけんや。  このゆえに予は、 家相、 地相の説を全廃せんと欲せざると同時に、 また進みてこれを排斥せんことを首唱するものなり。  けだしその意、 妄誕、 不稽の部分を除き、

さらに今日の学理上より、 新たに    つの方法を考定せんことを望むにほかならざるなり。 なお、  この地相、 家相のことについては、 鬼門のことをも論ぜざるを得ざるなれども、 その論題は次講に譲りてさらに述ぶるところあらんとす。




第七講 暦日編

   第五五節    暦日論

 従来の暦日は学問のいまだ開けざる蒙昧のときに当たり、 愚人の想像に基づきて組み立てたるものにして、 太陽もしくは太陰あるいは四季等に種々の吉凶を配当して、 何々の日に転居するは凶なりとか、 何々の月に旅行するは不吉なりとか、 あるいは何の月に結婚するは吉なり、何の日に出産すれば慶ありとか、種々の縁起を付して、持てはやされたるものにて、 今日少しく学識あるものはもとよりこれを信ずるものなく、物理上の説明においては全くこれを妄説とするよりほかなしといえども、 心理上より考うるときはまたいくぶんの道理なきにあらず。 例えば、 暦日の上にて凶日と定まれる日に事をなすときは必ず凶事あり、 吉日と定めたる日には諸事必ず吉なることは、 十は十ながら相合すとはいうべからざるも、  七、 八分はよく符合するがごとき事実あるは、 けだしこれ、 前にいいたる信仰作用に 基 するものなるべし。 信仰作用のみ、 実に連想作用ということありて、  これまた大いに関係を有するものとす。

すなわち今、 暦日の上にて凶日となりおる日に事をなさんか。  この凶日よりこれを関連して種々の凶事を想起しきたるをもっ て、 ために精神を弱め気力を減じ、 平常はよくなし得べきことも、  この日はあしき結果を招くがごときことは、 実際あり得ることたるや疑いなし。  かつ、 暦日の上に日の吉凶を定めたるは、  みな多少の経験によるものにして、 奇数の日は何、 偶数の日は何、 あるいは月末は何、 年末は何というは、  みな奇数の日にはこれこれのことありとか、  月末には病人、  死人多かりしとか、  過去に両三度かかることの発見されたらんには、  いまだいかなる原因によるものにやなど因果を知るの力なきがため、  ただ日そのものが凶なりとか、  月そのものが凶なりとかいうに至りしものなり。  ひとたびさることの定まりし以後は、  全くその吉凶を知らざりしときにはなんらの影響なかりしも、  すでにこれを知るに及びては、  連想と信仰との二事情よりして、  おのずから凶日には凶事あり、  吉日には吉事あるを見るに至るなり。  されば、  今より暦日の上には全くこれらの吉凶の類を談ぜざることとし、小児をして生まれながらかかることを一切知らしめざる方法をとり、もっ て普通教育を進むることを要す。しかるときは、  かえって人をして安心してその職業に就き、  その生涯を渡らしむるを得べし。  今試みに、  わが旧来の暦日上に付会せる妄説を掲げて評論を加えんとす。



   第五六節    歳徳、  金神、  八将神

歳徳とは年中有徳の方角にして、  ここに万福みな集まりきたる吉方とす。「曾門経』に曰く、「歳徳者歳中之徳神也、 十干之中五陽五陰、 陽為二君道陰為二臣道君以二自任 玉戸 徳、 臣以レ従>君、 為>徳、 故陽年在二本干一 陰年在否  干所レ理之地万福咸集、 衆残自避。」(歳徳は歳中の徳神なり。  十干のうち五陽五陰、  陽を君道となし、  陰を臣道となし、  君は自ら任ずるをもって徳となし、  臣は君に従うをもって徳となす。  ゆえに陽年は本干にあり、陰年は合干にあり、  理するところの地、  万福みな集まり、   衆 殊おのずから避く)と。  すなわち、  その歳の十干の方角を用うるものにして、 五陽五陰と八十干を陰陽に配当し、  甲、  丙、   戊 、  庚、   壬  を陽干とし、  乙、  丁、己   、  辛、   癸  を陰干とす。 陽干の歳にはその歳の干に相応する方角を用い、 また陰干の歳にもその歳の干に相応する方角を用うるなり。  これを陽年は本干にあり、 陰年は合干にありという。 しかして、  これらの方角には万福ことごとく集まりて、 衆殊おのずから避くるものとす。

つぎに麿珀  釈とは、 邸広固    虹し距叩 知町神、 広印う神、 歳破神、 歳殺神、 黄幡神および 豹 尾神これなり。

この八将神と歳徳神とのことにつき、 安倍清明の『篤篇』に記して曰く、「歳徳神というは南海の娑翔羅竜王の御娘にして、 天下第一の美人なるゆえに、 牛頭天王こいうけて后 としたてまつり、 八人の王子をうみたまう。 これ八将神という」と。  かくのごときはもとより妄説にして取るにたらずといえども、 参考までにこれを掲げしなり。またある説に、 その本地を仏に帰し神仏混同して左のごとく示せるあり。 すなわち、 太歳神は本地薬師なり、 大将軍は本地他化自在天王なり、 大陰神は本地 正 観音なり、 歳刑神は本地堅牢地神なり、 歳破神は本地河伯大水神なり、 歳破神は本地大威徳明王なり、 黄幡神は本地摩利支天なり、 豹尾神は本地三宝荒神なりと。『三才図会』に八将神を解釈して曰く

太歳木星之精、 歳之君也、 所在之辰不缶?修作一 百事皆不>宜犯>之殺二宅長一破>家。

(太歳は木星の精、 歳の君なり。 所在の辰、 修作すべからず。 百事みなよろしからず。  これを犯せば宅長を殺し家を破る)

大将軍金星之精、 方伯之辰、 百事不缶ジ犯、  犯>之三年死滅。

(大将軍は金星の精、 方伯の辰、 百事犯すべからず。  これを犯せば三年死滅す)

大陰土星之精、 太歳后妃、  犯レ之主二女人小口    招二陰私之厄一 只二宜学レ道吉

(大陰は土星の精、 太歳の后妃、  これを犯せば女人の小口を主とし、 陰私の厄を招く。  ただよろしく道を学んで吉なるべし)

歳破太歳所>沖、 天上之天翌也、 犯レ之損二宅長

(歳破は太歳の沖するところ、 天上の天岡なり。  これを犯せば宅長を損ず)歳殺陰陽毒害之辰、 皆在二歳之死地一 犯>之主レ有二官災疾病失財一 主恥空子。

(歳殺は陰陽毒害の辰、 みな歳の死地にあり。  これを犯せば、 官災、 疾病、 失財あることを主とし、 子を殺すことを主とす)

黄幡太歳墓也。

(黄幡は太歳の墓なり

豹尾与二黄幡ー相対、 動静疾速如二豹尾一也、 向ー一其方示'>可ーー嫁要  作ーー百事一忌ら之、 損二小口六畜

(豹尾と黄幡とは相対して、 動静、 疾速、 豹尾のごとくなり。  その方に向かいて嫁とりすべからず。 百事をなすことこれを忌む。 小口六畜を損ず)

そのうち、 世間にて最も喋  々 するものは大将軍の方位なり。 けだし、 大将軍は十二支を四方に配して年々その方角を定むるものにて、 これを俗に三年ふさがりと称す。  すなわち、  一方角に三年間ずつとどまるをもって、この方角において樹木を切り、 土功を起こすこと等は大いに忌むところなり。  この八将神のほかに人の最も恐るるものは金神なり。  この神に関する俗説を挙げんに、「永代大雑書三世相」に曰く、

金神というは「篤筵」にいう、「これより南三万里に国あり、 夜叉国という。  その主を巨旦という。 悪鬼神なり。  これを金神という。 常に人を悩まして日本のあだとなる。  このゆえに牛頭天王南海よりかえりたまうとき、 八将神をつかわして討ち平らげたまう。  この巨旦は金性なるにより金神と名付く。 金性のたましい七つなり。  この七つのたましい、  七所にいて害をなす。  ゆえに金神七殺という。 殺はころすとよむゆえ、 この方をおかせば必ず七人取り殺すゆえ七殺ともいう。 家に七人なければとなりをそえて殺すという。 よくよくつつしむべし。 五節句の取りおこないは、 この巨旦を 調 伏する儀式なり。 まず、 正月の白赤の餅は巨旦の骨肉なり。 三月三日の草の餅は巨旦が皮膚なり。 五月五日の 菖 蒲の粽 は巨旦がたぶさなり。  七月七日のそう

めんは巨旦の筋脈なり。 九月九日のきくのさけは巨旦が膿血なり。  七夕の鞠は巨旦が首なり。 的は巨旦が眼にかたどり、 門松をたてて墓じるしとすといえり。 また、 牛頭天王南海よりかえりたまいて、  祇菌精舎において、 六月朔日より三十日が間、 巨旦を

調伏したまうなり。  このゆえに、 今の世まで六月朔日の歯がためをば、 正月の儀式というはこのことなり」という。

これ人のもっとも忌むところにして、 その方角は甲、   己  の年は午、  未、 申の方にあり。乙、  庚 の年は辰、 戌の方にありとす。 その余はこれを略す。 かくのごとく、 方角には一定の凶方ありて、 これに触るることあたわざるも、 また遊 行 日と称するものあり。 大将軍にも金神にも一定の遊行日ありて、 その日に限りこの方角をおかすも害なしという。 例えば金神の遊行日は、 春は五日間東方に遊び、 夏は南に、 秋は西に、 冬は北に遊ぶをもって、 その間五日間は金神の方位をおかすも害を受くることなし。 ただし、 その遊行せる方位をおかすべからず。「茅窓漫録」に中神、 金神のことを記して曰く、

この国、 昔より方違い、 方 塞 り、 方忌みなどいいて、 中神、 金神を避くることあり。 物語の類に多く載せたり。「源氏〔物語〕」帯 木の巻に、「中神内よりはふさがりて」と書きたるは、 内裏より左大臣の御所辰巳の方にあるゆえなり。 中神は「倭名抄」に天一神、 なかがみと訓ぜり。 天一神は地星の霊とて、 中央に立つゆえに中神という。「金匝経』に、「天一立二中央玉四午'二将』生吉凶二(天一は中央に立ち、 十二将となり吉凶を定む)とあり、 陰陽書に、「天一遊行方角、 百事犯ー一向之ー大凶。」(天一遊行の方角、 百事これに犯し向かえば大いに凶し)という。 暦家に、 この神四方に五日ずつ、  四維に六日ずつ巡り行く。  すべて四十四日下土を巡り、日を重ねて長くあるにより、一〔名〕長神ともいう。こののち上に上りたまう間、  癸  巳を始めとし  戊申を終わりとし、 およそ十六日を天一天上と名付け、 八方へ行きても忌むことなしという。「通書大全  に「鶏神遊方、 毎日各有二避忌ー、 但癸巳日到ー一戊申日一 鶏神在レ天、 無ーー避忌者ご(鶏神の遊方する、 毎日おのおの避忌あり。 ただし、 癸巳の日より戊申の日に至る、 鶏神天にありて避忌するものなし)というもこの神にて、

『百鬼経』に、 天女の化身ともいえり。 この神に向かうを方違い、 方塞がりといい忌み避くるなり。「北山抄」に方忌みというもこのことにて、「+ 訓抄」に、 俊頼朝臣曰く、 白河院淀に御方違いの行幸ありと見ゆ。  またこの神を太白神ともいう。「袋草紙」に、「明日有ー還御」(明日還御ある)は「当二太白之方」(太白の方に当たる)と書きたり。 元来は陰 陽 家雑書より出でたることにて、 物語の類に多く載せたるを、  ついには陰陽家の職となりて、 後世に伝わることになりぬ。『後撰〔和歌〕集』に、逢事の方ふたがりて君こずは思ふ心の違ふばかりぞ「金葉抄    に忌むこそは一夜巡りの神ときけなど逢事の方違らむ。

また、金神を忌み避くるも保元、平治以前よりと見えて、「百練抄云、後白河天皇保元二年十二月二十二日、諸卿定下申諸道勘元中一金神一方忌可畑少棄哉否事上件、 方角、 永長、 定俊真人依二申出ニニ四代所二忌来一也、 自>今以後不缶?忌避乏 由宣下有>之、 仁安二年二月二十三日為 御 方違石  二幸鳥羽殿一 修二理大膳職一之間、 為>

避ー一金神方ご(「百練抄    にいわく、 後白河天皇保元二年十二月二十二日、 諸卿、 諸道金神にあたるを勘し、方忌みすてらるべきやいなやのことを定むるの件、 方角は永長、 定俊、 真人の申し出でによりて、 三、  四代忌みきたれるところなり。 今より以後忌避すべからずの由、 宣下これあり。 仁安二年二月二十三日、 御方違いのため鳥羽殿に行幸し、 大膳職を修理するの間、  金神の方を避くるとなす)と。  この金神は、「山海 経「万鮒明珠」「三才図会」などに載せて、「西方隊収、 金神左耳有二青蛇一 乗二両竜一而目有>毛、 虎爪執>鍼。」

(西方の昭  収、 金神の左の耳に青蛇あり。 両竜に乗りて目に毛あり。 虎爪鍼をとる)とあり。  これも元来、陰陽家雑説にて正史になきことなり。 しかるを昔より忌みさくるは、 高位権貴のそばに陪侍の女多くいて、雑説、 奇談を聞くごとにその君に言上し、 十に八九は女とともに忌み避くることになりぬ。「聖人不レ語二怪力乱神ご(聖人は怪力乱神を語らず)また、 有識の人は雑説、 方忌みは決して信ぜず。 そのわけは、 漢土にて大歳を忌み避くること、  この国、 中神、 金神を〔忌み〕避くると同じ(太歳は「三才図会」に見ゆ)。 しかるに

「酉陽雑俎」に、「百姓王豊常於二太歳上一掘>坑。」(百姓王豊つねに太歳のほとりにおいて坑を掘る)といい、宋の仁宗は嘉祐年中東華門を建つるときに、「東家西、 乃西家東、 西家東乃東家西、 太歳果何在。」(東家の西は、  すなわち西家の東、 西家の東は、 すなわち東家の西、 太歳果たしていずくにかある)といい、  菫表 儀は土を掘りて肉塊を得たるを、 人太歳というを聞きて、 河に投げてなんのさわりもなきこと、『幽怪録」に載せたり。 有識の人はかくあるべきことと思わる。(鬼門、  金神のこと、「本朝但諺」にも委しく論ぜり)

以上のごとく方角に吉凶を定めその利害を説くことは、 古代の妄説より出でしものなること、 予が弁をまたずして知るべし。 金神といい、 八将神といい、 また歳徳といい、 その妄、 たれか疑うものあらんや。 しかるに、 従来の暦書には必ずまずこれらの方角を示し、 もって人をしてその凶方を避けて吉方につかしめたり。 人知のいまだ開けざる古代には、  これなおゆるすべしといえども、 今日にても民間なおかくのごとき方角に迷えるもの少なからず。 予招、 あに口を極めて排斥せざるを得んや。  これらの無知の愚民は、 もしひとたび凶方、 吉方の別あることを聞かんか。 その到底払い難き惑いを生ずるや必せり。 すでに惑うたる以上はこれをいやせんには、 やはり暦日の指定する方位に従い、 凶を避けて吉を取らしめざるを得ず。 しかれども、 もし生来かつてかかることを耳

にせずして、 その記憶中に奄も方角の妄説を有せずんば、 また迷いを生ぜん恐れ決してあらざるならん。 これをもって、 予は暦書はいうに及ばず、 家庭教育ならびに一般の教育上において、 全然かかる談話を去らんことを望むものなり。  これかえって、 なにびとにも安心を得せしむべき最良方法なりとす。




   第五七節    鬼門


鬼門の起源については、「南畝叢書」中の「神巷談園」にいう、「いま東北の隅を鬼門という。 もとは黄帝の「宅経」に出でたり。 はかせどもこれを知らず、 鬼門関のことまでを引きて鬼門の文字を証せり。  みなあやまりなり。

「宅経」についてみるべし」と。

また「考証千典」によるに左のごとし。

神異経糾育曰、 東北有ーー鬼星    石室三百戸、 共一門、 石膀題曰二鬼門

(『神異経    「中荒経』)に曰く、「東北に鬼星あり。 石室三百戸。 ともに一門、 石膀、 題して鬼門という」)

独断巻上曰、 海中有度朔之山一 上有二桃木一 蝠二屈三千里一 卑枝東北有二鬼門一 万鬼所二出入一也。

(「独断」巻上に曰く、「海中に度朔の山あり。  上に桃木あり。 三千里に蝠屈す。 卑枝の東北に鬼門あり。 万鬼の出入するところなり」)

史記五帝本紀曰、駆案海外経曰、 東海中有>山焉、  名曰一度索    上有ー大桃樹一咆  ぎ 千蝠 木ー蝠 屈 三千里ー  東北有>門、 名旦  鬼門一 万鬼所>衆也。

(「史記   五帝本紀に曰く、 頗項、 蝠木に至る。(駆案ずるに「海外経    に曰く、 東海中に山あり、  名付けて度索という。  上に大桃樹あり。 三千里に蝠屈す。 東北に門あり。 名付けて鬼門という。 万鬼の集まるところなり))

黄帝宅経曰、 鬼門宅堕気欠薄空荒、 言犯>之偏枯淋腫等災和細匹知醒暉頭凍方

(黄帝の「宅経」に曰く、「鬼門は宅ふさがり気欠薄く空荒なり。  いわく、  これを犯せば偏枯、 淋腫等の災いあり。(八日 甲   己  日吉を修し、 東方に甲 子  己  巳日を用いず)」)

拾芥抄諸頌部日、  艮呻遠東鬼北エ

(「 拾 芥抄 諸頌部に曰く、「艮(丑寅東北の方、  これを鬼門という)」)

その他、 余が読み過ごせる書中について、 鬼門に関する説明をここに抜抄すべし。

随意録曰、 成瀬豊州不祗竺緯忌一人也、 語>予曰、 某之燕室、 東北隅壁而無如呻、 出入不レ便、 故曾穿函壁為>

腫、 当時家人皆云、 不>可>穿也、 是鬼門也、 某諭レ之曰、 此従>内則北出也、 若従>外則南入也、 以為二従凩外之澗ー則可也、 家人乃聴焉、 晉孫逮伝云、 此宅之左則彼宅之右、 何得>忌二於東一又宋仁宗曰、 東家之西乃西家之

東、 西家之東乃東家之西、 太歳果何在、 是与二豊州之言ー相似突、 海外経曰、 東海中有レ山焉、 名曰二度索    上

有天  桃樹一 屈 蝠 三千里一 東北有伽門名曰  鬼門一 万鬼所如永也、 天帝使二神人守ら之、 此固怪説非>可>信也、 然

拠此  説ー 亦其山東北門名曰一鬼門一耳、 非下凡称二東北方和岱炉鬼門上也。

「随意録」に曰く、「成瀬豊 州 は緯忌に惑わざるの人なり。  さきに予に語りて曰く、「それがしの燕室、  東北の隅、  壁にして澗なし、 出入不便、 ゆえにかつて壁をうがちて澗をつくる。 当時、 家人みないわく、 うがつべからず、 これ鬼門なり。  それがし、 これに諭して曰く、  これ内よりすれば北出なり。 もし外よりすれば

すなわち南入なり。 もって外よりの漏となさばすなわち可なり」と。 家人すなわち聴く。「晋孫遂伝」にいわく、「この宅の左はすなわちかの宅の右、 なんぞ東を忌むことを得ん」また宋の仁宗曰く、「東家の西は、  すなわち西家の東、西家の東は、 すなわち東家の西、太歳果たしていずくにかある」これ豊州の言と相似たり。

「海外経」に曰く、「東海中に山あり。 名付けて度索という。  上に大桃樹あり、 三千里に屈蝠す。 東北に門あり、 名付けて鬼門という。 万鬼の集まる所なり。 天帝、 神人をしてこれを守らしむ』と。  これもとより怪説信ずべからざるなり。 しかもこの説によれば、 またその山の東北の門、 名付けて鬼門というのみ。  すべて東北の方を称してもって鬼門となすにあらざるなり」

「百物語評判巻四)にいう、「かたへより問いて曰く、『世に鬼門だたりと申し 候 えて、 たいがいの人忌み恐れはべるが、 たまさかにわすれてもおかし候えば、 かならずわざわいにあうこと多く御座  候  は、 なにと丑寅の方は人間のいむべき方にて候や。  おぽつかなく候』と問いければ    先生答えて曰く、『鬼門ということは東方朔が「神異経」に、 東方度朔の山に大なる桃の木あり。  その下に神あり。 その名を神荼鬱塁といい

て、 も゜ろもろの悪鬼の、 人に害をなすものをつかさどりたまえり。  ゆえに、 その山の方を鬼門というと見えたり    かくはいえども、  これまさしき聖賢の書に出ずるにもあらず。 そのうえ、 その書にも鬼門をいむということみえはべらず。 もとよりわが朝のならわしに、 丑寅の方をもっぱらいむこと、 いずれの御時よりはじまれりともさだかならず。(中略)たとい鬼門へむきても善事をなさばよかるべく、 辰巳へ向かいても悪事をなさばあしかるべし。 なお鬼門にかぎらず、 軍家にもてはやしはべる日取り、 時取りのよしあしもかくのごとし。 悪日たりとも善をなせば行くさきめでたく、 善日たりとも悪をなさば後にわざわいあるべし。 また、

その家々にて用いきたれる吉例の日もあることに候。むかし周の武王と申す聖人、天下のために殷の 紺 王と申す悪人を討ちたまうに、 その首途の日往亡日なりければ、 群臣いさめけるよう、『きょ うは往亡日とて、 ゆきてほろぶる日なれば、 暦家にふかくいみ候さ候えば、 御出陣無用    のよし申し上げるを、 太公望きかずしていわく、「往亡ならば、 これゆきてほろぼす心にて、 いちだんめでたき日なり』とて、  ついにその日陣だちして、 もっとも紺王を討ちほろぼし、 周の世八百年治まりけり。  このゆえに、 武王は往亡日をもてさかえ、紺王は往亡日をもてほろびたり。 同日にして吉凶かくのごとくなれば、 名将の歌に、「時と日はみかたよければ敵もよし、 ただ簡要は方角を知れ」とよみたまえるもおもいあわせられ、 その人によりてその日によらざることあきらけし。  おのおの手前をつつしみたまうべきなり」

「乗 燭 或問珍」に曰く、「あるいは問うていう、「世に鬼門ということもっぱら恐れ慎み、 たまたま鬼門の方に移徒し、 あるいは門窓などをあけぬれば、 必ず禍ありとて忌み恐るることはなはだし。 もし、 その方角に移れば 祟あること往々見聞せり。  これいかなることぞや」こたえて曰く、「鬼門のことひさしくいいきたりて、 いずれの御代よりいいはじめけることをしらず。 しかれども、 いずれの書にも見えたることなし。  ここに東方朔が「神畏経」に、 東方度朔の山に二つの神あり。 その名を神荼鬱塁という。 もろもろの悪をつかさどる神なり。  この神のおる方を鬼門というなりと記せり。 しかれば、 鬼門の名はしれたれども、   艮  を忌むということなし。 ただ東方とばかりあり。 また熊沢〔蕃山〕氏が書には、 日本上代の風として、  みだりに家造りするときは山林を荒らすゆえに、 方角を忌みおいて、 むざと木をきらせまじきためなりといえり。 しかれども、 そのこと『正史実録」にも載せざれば、 かつて証拠とするにたらず。 また一説に、 北方は万物極まりてまた生ずる方なれば、 天地の苦しむ方角なり。  このゆえに北を避くるといえり。  この説またたしかならず。 陰陽家の説には、 鬼門というは定まりたる方位なし。  その人の性によりて鬼門あり。 たとえば水性の人は南を鬼門とす。 南は五行に配しては火なり。 しかれば、 水と火と剋するゆえ、 水性の人には南を避くるといえり(木性ノ人ハ西方、 火性ノ人ハ西方、 金性ノ人ハ東方、 土性ノ人ハ北方卜、 云云)。  この説理に似たれども、 これも竪説にして取るにたらず。 予、 かつてこのことを案ずるに、 これ上代の遺風なり。「貿易」に曰く、「上古穴居野処、 後世聖人易>之以ー一宮室 上古穴居野所、 後世の聖人、 これにかゆるに宮室をもってす)

とあり。 しかれば上代、 家居のはじまらざるときは、 穴を掘りて人その内に住居せしとなり。 後世の聖人とは黄帝をいうなり(黄帝ノときエ唾トイウ者、 ハジメテ宮室ヲ造レリ。  ツマビラカニ「黄帝内伝  「穆天子伝オヨビ「白虎通」「世本」等ニアリ)。 わが朝にては伊弊諾 尊、 伊弊再 尊、 緞駆慮島に降りいまして、 八尋御殿を立て天柱を立てたまうとあれば、  この二神以前は穴居なりと見えたり。 人代に至りても、 いやしき者はみな穴中に住居せしと見ゆ。  すでに神武天皇の   詔   にも、「巣に住み、 穴にすむ、  この習、 これ常」とのたまえり。  これをもって考うれば、 後までも穴に住みけること知るべし。  上代の穴の跡、 今、 河内国伊駒の岳の麓、 服部川の千塚、 和州山部郡の千塚、 そのほかところどころにあり(世俗コレヲ、 往古火ノ雨ノ降リタルトキ、 人ミナコノ穴ニコモレリトイウ、 誤レリ)。 これらの古穴ことごとく南向きなり。 これ上古人の住居せしところなれば、 南の陽に向かい北の陰を避けたるものなり。  そうじて家居は南表をよしとす。  冬は温かに夏涼しく、 陰陽向背の理にかなえばなり。 今の鬼門というもいにしえの遺風にて、 昔を学びたるを、   一つのころよりか取りちがえ、 巫現にまどわされて心定まらず。  このゆえに、 その方角へわたましすれば必ず祟  あり。 これ自心より禍を生ずるものなり。中華にては病人を必ず北の方に置くなり。 北は万物終わりてまた始まる方なれば、 病人の生気を助けんためにこの方角に置くとなり(病根尽キテ本復ヲ待ツユエナリ)。 しかるときは、 かえって北はよき方なり。 唐土にては西の方へ家を広むることを忌む。 西は金気殺伐の方なるによってなり。  およそ妖怪というは、  みな手前よりまねくものなり。  いかんとなれば、 わが朝にては人つねに北を忌むゆえ、  北へうつれば禍やあらんと心に恐るるによっ て、  自然にその気を感じて妖きたるなり。  わが朝にて西を忌むということをしらざるゆえ、  西へ移りてはかつて禍なし。  また唐土にては、 西を忌むゆえ西へ移れば禍あり、  北を忌むことなきによって北に家居すれば祟なし。  およそ天地の間に、  なんぞ禍ある方角あらんや。  よくこの道理をわきまえて家居するときは、  西に移りても北へ広げても、  禍かつてあるべからず   」

また『暦日講釈』によるに、  いわく、乾 の隅をもって天門とし、    坤   の隅をもって人門とし、  巽 の隅をもって風門とし、   艮  の隅をもって鬼門とす。  乾、  坤、  巽の方はさわりなき方なるがゆえに、  暦にしるしおかず。  ただ鬼門の一方ばかりしるしお

<ま、  いたっ てあしき方なればなり。  第一、  家づくり、  わたまし等にはなはだいむべきなり。  もしこの方を犯すときは、 その禍い大なり。 なかんずく 厠、 塵塚等、 この方に立つること深く忌むべきは、 これに過ぎたるはなし、

古来わが国にても上下一般に鬼門を恐れ、  比叡山は皇城の鬼門にあたるをもっ て、  ここに精舎を建てて天下安 寧、 皇城衛護の霊山となせり。 また江〔戸〕城にても、 上野に精舎を建てて鬼門の固めとなせり。 また『奇説 集 岬」には、「日本風騒士_以 二奥州白川関在二東地隅一 称二鬼門関ご(日本風騒の士、 奥州白川の関は東地の隅にあるをもっ て、  鬼門関と称す) とあり。  シナにありては、  日本を指して鬼門関となすという。  民間にてはこの方角を忌むことはなはだしく、  ここに移転しあるいは建築することをいとい、  また厠、  塵塚のごときものをその方位に置くをあししとなせり。  かくのごとく上下一般にこれを厭忌するは、  なにに由来するかは今つまびらかにし難しといえども、 陰陽家の説によれば、  この方角は陰悪の気の集まる所なれば極めて凶方なりという。『博物笙』に曰く、

「鬼門をいみさくることは、 日の出ずる方なるゆえに、 たっとみおそれて、 諸事を行せず。 春分には東方卯の方より日いずれども、 まず地下をはなるるには丑寅のあいだなり。  これによるものか」とあり。  これを要するに、陰陽方位家の妄想より描き表したる説にして、昔日といえども学識あるものは篭もこのことを信 憑 せず、ただ民間瞭昧の徒のこれを唱えしのみ。  ゆえに今日に至りては、  すでにかかる妄説を信ずべき理なしといえども、 民間なおその説に迷い、  これがために移転、 建築等に実際上の不便をきたすこと極めて多し。 実に嘆ずべきことならずや。

おもうに、 わが邦人にして鬼門説を信ぜんか。  これすなわち、 己が国をもって大凶国と信ずるとなんぞ異ならん。  いかんとなれば、 鬼門に向かい突出したる国は、 日本よりはなはだしきはなければなり。  ゆえに、 もし、 その説のごとく鬼門に向かいて突出せし邦国を凶悪なりとせば、 わが国はもっとも凶国ならざるべからず。 しかるに、  この国や建国以来皇統連綿として天長地久、  一種無比の神国なるをもってみれば、 鬼門説の妄なるを証して余りありというべし。  かつそれ方位の説は、  みな古代の地平説に基づきしものなるか。 もし、 今日の地球説によれば、 東西南北の方位はもとより一定不動なるものにあらず。  シナより日本を指して東にありというも、 さらにアメリカよりせば、 わが国を指して西にありとするものなり。 しからば、  一定の方位なき地球の上において鬼門の方位を談ずるがごときは、 その愚かなること識者をまたずして明らかなり。


   第五八節 土公、 天一天上、  八専、 方暮れ、  土用

その他、 暦書の上に見ゆるものは実に枚挙にいとまあらずといえども、 なかにつきて世間一般に喋  々 するものを挙ぐれば、 まず土公と名付くるものあり。 その俗説を見るに、「大雑書三世相」に曰く、「土こうというは「篤蓋    にいう、 三千世界のあるじ堅牢地神のことなり。  これを三宝荒神という。 大地をいただき、 もろもろの不浄をうけて、 三熱のくるしみまします。 されば御心たけく、 御かたちおそろしく、 ものごととがめ多し。  このゆえに、 かまどを荒神となづけて家々にまつるなり。 土公神、 春は 窟 にあり、 夏は門、 秋は井戸、 冬は庭にあるという」また、 天一神のことにつき、 俗説を挙ぐれば同書に曰く、「天一天 上というは、   癸  巳の日より  己  戌の日まで十六日の間をいう。 帝 釈 天の臣下に天一神というあり。帝釈天の仰せをこうむりて人間にくだり、 四十日の間八方をめぐり、 人の善悪をしるし、  四十六日めに天上したまう。  これを天一天上という。 天一天上十六日のあいだは、 天一神のかわりに日遊神という臣下くだりたまいて、 家の内にましますなり。  このゆえに、 天一天上十六日のうちに、 女人産するときは別屋へ出だして産さすべし。 家をこぼち、 殺しょ う、 よめとり等にいむなり」

また、「暦日講釈    に天一天上の解釈を示して曰く、「天一星という星、 八方をめぐりたまいて天上したまう日なり。 水の神にて北辰の眷属なり。  四十四日のあいだ、 天一星めぐりたまう方へ向かいて産をすべからず。 そのほか弓を射、 喧嘩口論に、 万事あらそいごとなすべからず」また、 八専、 十方暮れについては「暦日講釈」に曰く、

「  壬  子の日に入りて  癸  亥の日におわるゆえ、 都合十二日なり。 その内に間日四日あるゆえ八専という。  これは十干、 十二支ともに、 同じ性なる日八日ずつなり。 この日は家作、 柱立てには吉、 婚礼、 家来をかかゆる等、

また売買、 そのほか物をし始むることには忌むべし。  甲 申の日に入りて  癸  巳の日に終わる。 すべて十日の間なり。  このあいだは十干、 十二支相剋して、 天地八方ともに曇りがちなるゆえに十方暮れという。  この日はなにごとにてもよろしからず。 和合、 相談、 旅行、 門出などには深く忌むなり」また、 土用のことについて「暦日諺解によるに左のごとし。「天地の間、 常に五行の気循環す。 しかれども、 四時によりて互いに主となり客となる。 たとえば、 春は木主にして火金水は客なり、 夏は火主にして水木金は客なり。 ただ、  土のみ中央位して五行中のまことの主なり。  ゆえに、  四時ともに十八日二十六刻ずつ旺するなり。  これを土用という。  一年三百六十五日あまりを四季に分くるときは、  おのおの九十一日余なり。  このうち、 各十八日二十六刻は四季ともに土用なり。 残り七十三日五刻ずつを、 春夏秋冬各つかさどる日数とす。 木火金水ともに、 みな土より生じてまた土に帰る。  ゆえに、  四季の終わりにみな土用あり」

右はこれ、 旧来暦書の中段に掲げたるものなり。 なお下段には、 大 明 日、 天恩、 母倉、 天赦等種々の名目あれども、 今ことごとくこれを略す。  また、 旧来の暦には月建と名付くるものあり。  これ、 北斗星の向かう方角をいうものにして、 北斗星はまた破軍星とも称せり。



   第五九節    七曜、 九曜、  六曜、 十二直、 十二運

七曜は西洋の暦によりて現今一般に用うることとなりしも、  その実、 わが国にては古代よりこれを伝えしものにて、 新たに西洋より輸入せしにあらず。『宿曜 経 』に曰く、「七曜者日月火水木金土也、 其精上曜二子上一 神下直手  人一 酉  以司ー一善悪  而主中吉凶上也。」(七曜は日月火水木金土なり。  その精上って上にかがやき、 神下って人に直す。 善悪をつかさどり、 吉凶をつかさどるゆえんなり)と。  かくのごとく七曜に当たる日に吉凶、 善悪ある・ものと信ずるは、  これ、 その今日の七曜と異なるところなり。 また九曜星と称するものは、 すなわち羅喉星、  土曜星、 水曜星、 金曜星、  日曜星、 火曜星、 計都星、 月曜星、 木曜星これなり、  つぎに六曜星なるものあり。  すな

わち先勝、 友引、 先負、 仏滅、 大安、  赤 口これなり。 その繰り方は、 例えば正月なれば、 先勝を朔日とし、 友引を二日、 先負を三日とくるなり。 かくのごとき方法をもって日々の吉凶を判ずるもの、  これを孔明六曜占いとい、

つぎに、 十二直と名付くるものは、 建、  除、 満、  平、 諷 釦    や厨 紐叫    お剛ヽ 犀、 加これなり。  これらにもそれぞれ日に配する方法ありて、 各日の吉凶を考うるなり。『循環暦」に曰く、「夫十二直者、 即暦之中段也、 陰陽書堪余経云、 上配二子星辰一 下主二万物一 以配二於人事一 故吉凶最大也、 不レ可云有呆ーニ用捨ご(それ十二直は、  すなわち暦中の中段なり。 陰陽書『堪余経」にいわく、「上星辰に配ししも万物をつかさどり、 もって人事に配すゆえに吉凶最も大なり。 用捨せずんばあるべからず」)と。 また、 十二運と名付くるものあり。  すなわち胎、養、  長、 沐、 冠、 臨、 帝、 衰、  病、 死、 墓、 絶なり。  この十二のうち胎、 養、 長、 沐、 冠、 臨、 帝に当たるを

有卦とし、 衰、 病、 死、  墓、 絶に当たるを無卦とす。 あるいは有気、 無気、 あるいは有慶、 無慶とも書けり。 有卦の年に当たるを吉とし、 無卦に当たるをもって凶とす。 しかして、 その年繰りようは、 人々の性によりて別あり。 例えば、 木性の人は酉の年八月酉の刻に有卦に入り、 卯の年まで七年の間よし、 右七年を経れば、 八年目より五カ年の間を無卦となすがごとし。 有卦、 無卦の起源につき「古今要覧」を浴し、 丑に冠帯し、 寅に臨官し、 卯に王し、 辰に衰え、 巳に病し、 午に死し、  未 に葬る。 胎より王まで七気を七相の気として、  これを有気といい、 衰、 病以下を死没の気として、  これを無気というなり。  これによれば、  このこと隋より前に、 はや伝うるところありしならん。

以上のほか、 暦書中に見ゆる吉凶説は極めておびただしといえども、 いちいち枚挙するにたえず。 わが国、 民間にて古来より暦日の上に吉凶を談ずるのはなはだしきことは、 右に掲げしところによりて知るを得べし。  このことに関する予が意見は前すでに述べたれば、  ここには古人の説を掲げて示さんとす。 まず『草茅危言』によるに左のごとし。

一暦は土御門家の職司なれば、 外人のあずかり知りてみだりに議すべきにはあらざれども、 華域の暦を伝え見るに、 さしてかわりたることもなし。 畢 覚、 わが国の暦は華暦を受け作りたるものゆえ、 今そのもとについて議すべし。 総じて暦の肝要は月の大小をたて、 干支をわりつけ、  二十四気を配分し、 日蝕、 月蝕をしるし、  土用の入り、 八十八夜、  二百十日をしるすなどの数項に過ぎず。 そのほかは一切無用に属す。 八将軍などいつのときより書出せることにや、 暦法にかつてあずかるものなし。 多分、 道士の方の名目にてもあらんか。  ひたすら無稽の妄誕なり。 世に中段と称する建、 除の名は暦法に古く見えたることなれども、 これまたはなはだの曲説にて、 そのほか下段と称する吉日、 凶日みな言に足らざることどもとす。 また方角の開塞をいうこと、 大いに世間の害をなす妄誕なり。  さなきだに天下愚昧の民、 惑いやすくしてさとしがたきに、暦書にしかと書きあらわし示すゆえ、 ますます惑いの深くして一向にさとされぬことになりゆきけり。 嘆ずるに余りあることなり。 先王の四誅 の    つに、 鬼神時日をかりてもって衆を疑わずば殺すとあり。 今の暦書の八将、  金神は鬼神をかり、 中段、 下段は時日をかり、  みなもって衆人を疑惑せしむるのもっともなれば、

まさしく先王の誅を犯したるものなり。 実に深く制禁を加え、 大いに暦書を改めたきものなり。 まず巻首の八将軍のところを残らず削りすてて、「期年三百六十日一切是吉、 昼夜百刻十二時末二嘗有  凶。」(期年三百六十日、  一切これ吉。 昼夜百刻十二時、 いまだかつて凶あらず)などと大書し、  つまびらかにかな付けをし、その傍らに、「天下の人、 その家の親、 先祖の年に一度の忌日を凶日として吉事を行うべからず」など、  ことわりがきあるべし。 あとは毎月の干支、 大小、  二十四気、 土用、 日月食など年分入用のことのみにして、 余事をさらりと削りたらば浄潔の暦書なるべし。 唐太宗出陣のときにある人いさめて、「今日は往亡日とて、 はなはだ不吉の日なり、 延引あれかし」といいしに、 われゆき、 かれほろぶるとてすぐに軍を出だされ、 果たして勝利ありし。 関ヶ原大戦に、 関東御出陣のとき、 ある人いさめて、「今年は西方ふさがりなれば、 方違いをして出ださせたまえ」といいしに、 西、 今まさにふさがるゆえ、 われゆきてこれをひらくなりとて、 ただちに門出したまい、 めでた<御代となりたり。 明君、 英主の識見、 前後符合というべし。 天下の大事さえかくのごとし。  いわんや細民の行事に、 なんぞ拘忌泥滞を費やすべきや。 今の暦に由なきことを考え示すより起こりたること、  かえすがえすも苦々しきことなり。  およそ天下を宰する人、 かの英明の跡を追いて、 天下の惑いをひらくることをつとめざるべけんや。 昔、 大阪古林の元祖見宣は名医の誉れあり。 ある人見宣に向かい、「灸するに悪日あり、 また禁穴ありということをきく。 しかりや」と問う。 見宣曰く、「ずいぶん、 きっとあることなり」と答う。「素人にても覚えおかるるほどのことにや」と問うに、「いかにも覚えやすし。悪日、 禁穴ただ    つずつなり」とあれば、「しからば、 なにとぞ授けられたし」という。 見宣襟を正して、「その伝授は、 年中にて灸すまじき日は正月元日、 身内にて灸すまじき所は目玉なり」と答えし。 卓見というべし    一技にても妙を得たる人は、 見所の 超 邁、 天理に明らかなることかくのごとし。 まして司天の職にて天地陰陽の理を究むる身をもって、その拘泥執滞して理に通ぜず、万人の惑いを 慾 洒するはいかなることにあらん。古人すでに暦日の上に吉凶を談ずるの妄を駁することかくのごとし。 いわんや今日諸学の開けたるにあたり、民間愚俗の輩はしきりに方位、 吉凶を談ずるにもかかわらず、 学者のさらにこれを問うものなきは、 予その意を解することあたわず。 これ、 予が妖怪学講述の必要を感ぜしゅぇ んなり。 けだし吉日、 凶日を談ずるがごときは、もし物理的説明よりすれば、 全く妄誕として排斥するよりほかなし。  しかして、 もし心理的説明をもってせば、いくぶんか愚民をしてその惑いを定めしむるに利あり。  ゆえに、  一種の方便としてこれを用うるも不可なきがごとしといえども、 さらに深くその結果を考察するときは、 かかる方便は人心を定めんよりは、 むしろいよいよ惑いをはなはだしからしむるものなり。 特に、  かくのごとき説を信ずるものあるがため、  これを専門とする徒は人民の愚に乗じ、 種々の怪談、 妄説を付会して、 もって自ら私利を営まんとする弊あり。  このゆえに、 いやしくも今日の教育を受けたるものは、 かくのごとき妄説を排し、  かつ、 その惑いを解かんことに従事せざるべからず。これ、 予が暦日吉凶に関しての意見なり。




第八講 吉凶編



第六〇 節    吉凶論

およそ時日の上に吉凶ありと信ずることの無道理なるは、 前講に述べたると同一にして、  これを物理的説明に考うるに、 全然妄説なりというて不可なることなし。  ただ過去二、 三回の経験に徴し、 時日に全く一定の吉凶あるがごとくに信じ、 世間一般の諺語となり伝説となるに及びては、  ついには自ら迎えてその吉凶を招ききたすに至るべし。 例えば、 西洋にてはヤソの傑殺せられたる日、  すなわち金曜日をもって不吉の日と定めあれども、 そはただヤソ一人の死せし日にて、 ほかになんの関係あるにあらざれば、  わが日本人のごときはかかることを知らざるがゆえに、 なにごとをなすも凶事の起こるを見ずといえども、 西洋人にしてもしこの日に旅行し、 あるいは転居する等のごときことあらば、 あるいは凶事に際会することあるべし。  これ、 全く信仰作用に起因するというよりほかなかるべし。  かくのごとく、 物理上よりは妄談となすべきものにても、 精神上よりこれを迎うるものはなはだ多し。 かの民間にいう厄年のごときは、 多少よるところなきにあらず。

例えば、 その年ごろには、 身体のまわりあわせにて、 重病にかかりやすきがごとき関係あり。 あたかも国家の興廃、  四季の循環のごとく、 けだし一身上にも一定の変化の段階あるものなるべし。  ゆえにこれ、 古人の盲目的経験の結果なりというべし。 しかるに、 かかる物理的説明のほかに、 余輩の最も参考せざるべからざるは、 いわゆる心理的説明にして、 その第一はすなわち信仰なり。  すでに凶年、 凶日等の観念を小児のときよりその脳中に保持せるがゆえに、 年長ののち道理力の大いに発達するに及びても、  ついによくその観念にかつことあたわずして、 時日の吉凶のために支配せらるる傾きあり。  これに加えて、 その作用は単にわが意識上の判断によりて時日の吉凶を取捨するのみにあらず、 無意識的に凶日にはなにごとをなしても、  すべて好果を得ざるがごときこと、世間に実に多く存するところなり。  これ、 幼時に脳裏に注入せしことは、 無意識的にその人を支配するの力あるによる。 第二の説明は連想の事情なり。 例えば、 人の四の数をいとうは四と死とその音近きをもって、 思想上不快の情を想起するがごとき、 あるいはすでに   一般に凶日と称せし日に凶事に際会しやすきも、あるいは連想上、

その心に凶事の観念を喚起すによるがごときこれなり。 左に述ぶるところの例証について、  おのずからその理を知るべし。



第六一節

厄年、  厄日俗に男女の厄年を定めて、 男は二十五、  四十二、 六十一、  女は十九、 三十三、 三十七となし、 なかんずく男子は四十二歳、  女子は三十三歳をもって大厄となすなり。  この厄年のことにつき「和漢三才図会」に曰く、

男四十二為二大厄二則年謂二前厄一翌年謂二挑厄一忌ーー前後三年一或四十一歳生>子、則謂一之四十二之二歳子己炉之、 称二他姓ー以為二他人子一之類、 亦惑之甚者也。

(男は四十二を大厄となし、 前年を前厄といい、 翌年を挑厄といい、 前後三年を忌む。 あるいは四十一歳、子を生めば、  これを四十二の二歳子といいてこれを忌み、 他姓を称してもって他人の子となすの類、 また惑えるのはなはだしきものなり

凡当伝厄前年節分夜、追灘炒豆用二年数ご添レ銭棄>之、 或取二古積鼻揮ご諾一之道衝ー則無祟、此等皆慰二其心一避>禍也、 忌字即己心也、 雖二小人一貪欲守>度、飲食色欲守レ節者、 祓レ厄除ぬ災上策也、 太公曰、刀剣函ヂ快不>斬ニ無罪之人横禍不>入二慎家之門

(およそ厄に当たるの前年の節分の夜、 追健の炒り豆に年数を用い、 銭を添えてこれをすて、 あるいは古ふんどしを取りてこれをちまたに捨つれば、 すなわち祟 なしと。 これらはみな、 その心を慰めて禍を避くるなり。 忌の字はすなわち己の心なり。 小人といえども貪欲度を守り、 飲食、 色欲、 節を守るは、 厄をはらい災いを除く上策なり。 太公曰く、「刀剣快なりといえども、 無罪の人をきらず。 横禍は慎家の門に入らず」)

この厄年はいかなる理によりて定めたるものなるかつまびらかならず。 ある書に厄年の問いに答えて曰く、   いにしえにおいて定説なし。『栄花物語  に、  四十二は死の訓に通ずることあり。 かようの説は小児、 女子の戯れにして、 大丈夫の心とすることにあらず。『霊枢経』に似たる説あれども、  この義にあらず。

要するに、  この厄年なるものは多年の経験上、 その年ごろにおいて病患にかかるもの多きをもって、 統計上よりその年数を定めたるものならん。 しかるに、 愚俗のいわゆる御幣カツギ翡が、 その数と死もしくは苦の音とを連合して、 十九は苦と通じ、  四十二は死に通ず等の妄像を起こししより、 連想上大いに人の迷信を強からしむるに至りしなるべし。

また、 年数によりて病の軽重を知る方あり。「万宝全書」にいう、「先起二病人年幾歳一 次加二日月得レ病時一 因レ三除>九、 見 余 数一 三軽、 六重、 九難伝医。」(まず病人、 年幾歳を起こし、 つぎに日月、 病を得るときを加う。 三より九を除し、 余数を見る。 三軽く、 六重く、 九いやし難し)と。 例えば四十七歳の人、 三月九日にやまいを得れば、 その方まず四十七歳に三月の三と九月の九とを加えて五十九を得、 これに三を乗じて百七十七を得、  これを九にて除すれば六数の余りを得べし。 しかるときは、 そのやまいの重きを知るがごとし。  また厄年と称して七歳を起点とし、  これに九ずつを加えて十六歳、  二十五歳、 三十四歳、  四十三歳、  五十二歳を厄年となす方あり。されども、 これはそのなにに基づきて定めしものなるかを知らず。 けだし、 九の数は苦に通ずるをもってしかるか。 また、「万宝郡事記」に「病人の生死を知る法」と題して、 病気の生死を見るに、  爪の上をおして白くなるが、やがてもとのごとく赤くなるは生き、 あかくならざるは死すといえり。

その他、 俗に「六三」と称する一法あり。「九は頭、 五七の肩に、  二六脇、  四腹八股、 三一の足」と称して、 もし肢体に疼痛を覚ゆることあるときは、 患者の年齢を九にて除し、  その余数を上の歌に照らし、 果たしてこの歌の示す部に疼痛ある場合にはこれを「六三」となし、 いわゆる「六三よけ」によりてこれを癒やすものとす。 例えば、  二十五歳の人にして肩に疼痛あらんか。  これ「六三」なり。 なんとなれば、  二十五を九にて除すれば七の余数を得、「五七の肩」に照合すればなり。 もし除したる上、 余数なきときは九をもって余数とみなすものとす。かくのごとくして算定するに、 疼痛の部が歌の示すところに符合せざるときは、  これは「六三」にあらざるなり。以上「六三」の方法は、 信州阪口栄之助氏の報にかかれり。 また群馬県にても六三と称して、 この年に当たり  たるものは六三よけの祈躊をなすという。  これ、 群馬県成瀬延吉氏より報ぜられしところなり。  これらのこともいかんの理に基づきて起こりしか知るべからざれども、畢 覚 するに、愚民の妄像に出でたるや疑いなし。今、「擁書漫筆    に厄年のことを掲げたるをもっ て左にこれを転載す。男女厄年のことは、「空穂物語」楼上の下巻に、「左大臣どのの厄年におわするとて大饗せられぬは、 云云」

『源氏物語』薄雲の巻に、「くちおしう、 いぶせくてすぎはべりぬることと、 いとよわげにきこえたまう、     十七にぞおわしましける。 されどいとわかく、 さかりにおわしますさまをおしく、 かなしと見奉らせたまう、つつしませたまうべき御年なるに、 はればれしからで、 月ごろ過ごさせたまうことだに、 なげきわたりはベりつるに、 御つつしみなどをも、 つねよりもことにせさせたまわざりけることと、 いみじうおぽしめしたり、云云」若菜の下巻に、「今年は三十七にぞなりたまう、 見奉りたまいし年月のことなども、 あわれにおぼしいでたるついでに、 さるべき御いのりなどつねよりとりわきて、  ことしはつつしみたまえ、 云云」「栄花物語」かがやく藤壷の巻に、「ことしぞ十三にならせたまいける、 云云」「ことしは人のつつしむべきとしにもあり、云云」「宿曜などにも心ぼそくのみぞいいてはべれば、 云云」「水鏡  の序に、「つつしむべき年にてすぎにし、きさらぎのはつむまの日、  竜 蓋寺へもうではべりて、 云云」「ことし七十三になんなりはべる、 三十三を過ぎがたし、 相人なども申しあいたりしかば、 岡寺はやくをてんじたまわりて、 もうでそめしより、  つつしみの年、  つとにきさらぎのはつむまの日、 まいりつるしるしにこそ、 いままで世にはべれば、  ことしつつしむべきにて、 まいりつる身ながらも、 云云」「日次記」十七の巻、 康治三年三月五日の条に、「又始二聖観音護摩一願趣同エ上、 但加二祈今年平安一 但護摩者今年許可候也、 依二厄年一也云云。」(また聖観音の護摩を始む。 願趣上に同じ。 ただし今年、 平安を加え祈るのみ。 ただし護摩は今年許可  候  なり。 厄年によるなり、 云云)(〔小山田〕与清、「公 卿 補任」「参考保元物語  『大系図  「大日本史」など案ずるに、  このとき悪左府二十五歳なり)「源平盛衰記』十の巻、 丹波少将上洛事の条に、「治承三年二月二十二日、 宗盛卿大納言ならびに大将を上表あり。 今年三十三になりたまいければ、 重厄の慎みとぞ聞こえし、 云云」「吾妻鏡  十九の巻、 建暦元年十二月二十八日の条に、「将軍明年、 依知四当太一定分御厄一 今日被>行二御祈等一葉上房律師、 栄西定宣、 法橋隆宣等奉一仕之一 又親職泰貞勤ーー天曹地府一 祭二武州一沙汰之給云云。」(将軍明年、 太一定分の御厄に相当せらるるにより、 今日御祈り等を行わせられ、 葉上房律師、 栄西定宣、 法橋隆宣等これを奉仕す。  また親職泰貞、 天曹地府を勤め、 武州を祭る沙汰したまう、 云云)(与清案ずるに、 太一定分の厄年は、『 拾 芥抄 下の巻八卦部に見えて、 このとき〔源〕実朝公二十歳なり)同二十八の巻、 寛喜三年十二月六日の条に、「為二明年太一定分御厄一御祈云云。」(明年太一定分の御厄のため御祈り、 云云)(与清案ずるに、 このとき〔九条〕頼経将軍十五歳なり)「高 国 記」下巻、「公方、 高国と不和」の条に、「大永五年四月、 高国四十二の重役とて出家あり、 云云」(与清案ずるに、 役は厄と同音字なるがゆえに借用したり)『拾芥抄

下の末巻八卦部に、「厄年十三、  二十五、 三十七、  四十九、 六十一、 八十五、  九十九、 云云。」(与清案ずるに、 太一定分の厄年はこれと同じからず)『霊枢』十八の巻、 陰陽二十五人編に、「黄帝曰、 得二其形不狛戸 其色ー何如、 岐伯曰、形勝レ色、 色勝>形者、 至ーー其勝一時年加、 感則病行、 失則憂突、 形色相得者富貴大楽、 黄帝曰、 形色相勝之時、年加可>知乎、 岐伯曰、 凡年忌下上之人大忌、 常加二九歳一 十六歳、  二十五歳、 三十四歳、  四十三歳、 五十二歳、 六十一歳、 皆人之大忌、 不>可呆'ー自安一也、 感則病行、 失則憂突、 当二此時血  玉為二姦事一 是謂二年忌一云云。」(黄帝曰く、「その形を得るもその色を得ずんばいかん」岐伯曰く、「形、 色に勝ち、 色、 形に勝てば、その勝つに至るとき年加わる。感ずればすなわち病行われ、失えばすなわち憂う。形色相得れば富貴大楽」黄帝曰く、「形色相勝つのとき、 年加知るべきや」岐伯曰く、「およそ年忌は下上の人大忌なり。  つねに九歳を加う。 十六歳、  二十五歳、 三十四歳、  四十三歳、 五十二歳、 六十一歳、  みな人の大忌にして自ら安んずべからざるなり。 感ずればすなわち病行われ、 失えばすなわち憂う。 この時に当り、 姦事をなすなく、  これを年忌という、 云云」)「仏説灌 頂 菩薩 経   に、「如レ是我聞、  一時仏在二怯羅堤山一 与ー大菩薩声聞衆ー倶、 阿難舎利弗白レ仏言、 何以故由、 此菩薩一切衆生有ーー依枯者一 仏_告一阿難舎利弗二言、 諦聴諦聴、 善思二念之一三界衆生年厄為>難、 此菩薩本縁>我当レ為レ説、 若七歳、 若十三、 若三十三、 若三十七為>厄、 此経毎日五巻読誦者、 其年内悪事皆消滅、 五体安穏、  若四十二、  若四十九、 若五十二、  若六十一、 若七十三、 若八十五、 若九十七、若百五為レ厄、 此経毎日十巻読誦者、 諸怖畏急難一時消滅、  一切所>求随意円満、  一生之間毎日一巻読誦者、

身中一切悪病皆消滅、 衆生為二擁護哀敵少故、 三世諸仏随喜、 一切菩薩亦然、 即十方浄土往生、 仏説二此経 、一切声聞天竜八部皆大歓喜、 信受奉行云云。」(かくのごとくわれ聞く。 一時、 仏、 怯羅堤山にあり。 大菩薩、声  聞 衆 とともなりき。 阿難舎利弗、 仏にもうしてもうさく、「なにをもってのゆえにより、 この菩薩は一切衆生に依枯するものありや」仏、 阿難舎利弗に告げていわく、「諦 聴 せよ諦聴せよ、 よくこれを思念せよ。三界の衆生年厄を難となす。 この菩薩もとわれによりてまさに説をなすべし。 もしくは七歳、 もしくは十三、もしくは三十三、 もしくは三十七を厄となす。  この経、 毎日五巻読誦せば、 その年内の悪事みな消滅し、 五体安穏ならん。 もしくは四十二、 もしくは四十九、 もしくは五十二、 もしくは六十一、 もしくは七十三、 もしくは八十五、 もしくは九十七、 もしくは百五を厄となす。  この経、 毎日十巻読誦せば、 もろもろの怖畏急難一時に消滅し、  一切の求むるところ随意円満ならん。  一生の間、 毎日一巻読誦せば、 身中一切の悪病みな消滅す。 衆生、 擁護哀慇をなすゆえに、 三世の諸仏随喜せん。  一切の菩薩もまたしかり、  すなわち十方の浄土に往生す」仏、 この経を説きおわりて、  一切の声聞、 天竜八部みなおおいに歓喜し、 信受奉行す、 云云)

与清案ずるに、  この経一切経中に見えず。 けだしや後人の偽作ならん)

続高僧伝    二十五の巻、  常 山衡唐 精 舎 釈 道泰伝四に、「釈道泰元魏末人、 住孟吊山衡唐精舎一 夢人謂曰、 若至二某年 血デ終二於四十二五心悪>之、 及>至 期 年    遇 重病  甚憂    悉_以_   身資五ジ福、 友人曰、 余聞供一養六十二億菩薩一 与こ_称_   観音

同、 君何不ーー至心帰依ー  可二以増』寿、 泰乃感悟、 遂於二四日四夜ー専精不五絶、 所私坐帷下忽見二光明    従』戸外而入、 見 観 音ー 朕課間金色朗照、 語レ泰曰、 汝念二観世音面罪牙泰袈』帷、 須央不二復見一 悲喜流>汗、 便覚ー一体

軽    所>患遂愈、 年四十四、 方為二同意一説>之、 泰後終二於天命一 更有ニニ置 其縁同>泰、 故不疏耳云云。」(釈道泰は元魏末の人。 常山の衡唐精舎に住す。 夢に人いいて曰く、「もしその年に至らば、 まさに四十二に終わるべし」泰、 心にこれをにくむ。 期年に至るに及び、 重病にあいてはなはだ憂え、  ことごとく身資をもって福となす。 友人曰く、「余聞けり、 六十二億の菩薩を供養すると、 一たび観音を称すと同じ。 君、 なんぞ至心に帰依し、 もって寿を増すべからざるや」泰すなわち感悟し、  ついに四日四夜において専精して絶えず。 座するところの帷下、 たちまち光明を見、 戸外よりして入り観音を見る。 鉄課の間、  金色朗照たり。 泰につげて曰く、「なんじ観世音を念ずるや」と。 泰、 帷をかかぐる須央におよんでまた見えず。 悲喜汗を流し、  すなわち体の軽きを覚え、 うれうるところついにいゆ。 年四十四、 方に同意なるがためにこれを説く。 泰、 後に天命を終う。  さらに一僧あり。  その縁、 泰と同じ。  ゆえに疏せざるのみ、 云云)「法苑珠林』二十五の巻、 敬仏編第六の六、 観音部、「魏常山衡唐精舎釈道泰云云(この間の文まったく「続高僧伝』とおなじくて、 わずかに一、 二字異なるのみなれば省きつ)悲喜流>汗、 便覚二体軽一 所>患悉愈、 聖力所>加、 後終延年云云。」(悲喜汗を流し、  すなわち体の軽きを覚え、 患うるところことごとくいゆ。 聖力の加うるところなり。 のちついに延年す、 云云)など見え、『坂東三十三所観音霊場記」五の巻第十五番、  上州白岩山長谷寺の条、『和漢三才図会』五の巻、「東具記」下巻、『丹水子」下巻、『守武千句」油粕、「滑稽太平記』高島玄札が伝、「活版節

用集」下巻、 也の部、「茅窓漫録」下巻、「北山医話    下巻、「東澗子    四の巻、「牛馬問    三の巻、「扶桑見聞私記    十五の巻、(与清案ずるに、「安斎随筆    長えぼしの巻、 漫録の巻などに江戸青山の浪人須磨不音とい

う者、「扶桑見聞私記」を偽作して一名を「大江広元日記    とも名付けしよし見ゆ)「月次記事」十二月節分の夜の条、『和州旧跡幽考』十五の巻、 高市郡竜蓋寺の条、『塩尻』十一の巻、『諸国独吟集」下巻、「滑稽雑談』二十三の巻、 十二月上の部、『安斎随筆」二上峰の巻、 雲隠の巻、 頴録の巻、 赤鳥の下巻、「山陰雑筆」一の巻、『類集名物考』八の巻、 人事一忌請の条、『文藻行潔」五の巻、 野の部、「朝野群載」三の巻、 十五の巻、「宗長紀行十二月節分の条、『華実年浪草三余抄十二の巻、 厄払厄落の条、『名物六帖人事第四節序、礼俗部、「秋苑日 渉 」七の巻、 民間歳節下追難の段、「簾 中  抄八卦の条、「道の幸中巻、 大和竜蓋寺の条、「本朝世事談綺」五の巻、 雑事門、「閑窓倭筆」下巻、「本朝佳言」巻の五、 也の部、「俳諧新式」十二月の詞の条、『日本歳時記』七の巻、「遠碧軒記下巻、 人事の条、「源氏物語頭書、「湖月抄」「万水一露  「眠江入楚』『細流抄』『弄花 抄 」『河海抄」「花鳥余情」「窺原抄』『紫明抄」「一葉抄」「明星抄  「孟津抄  「源氏物語提要』『源氏物語紹巴抄』「源注拾遺』「源氏物語新釈』(以上の源氏物語注釈の書どもは、 いずれも薄雲の巻上、 若菜の下巻とに見ゆ)『熙朝楽事  十二月二十四日の条の類にも、 厄年、 厄払いのことども、  これかれいえり。 また『性霊集』神闊抄九の巻、「祈二誓弘仁天皇御厄一表」(誓弘仁天皇御厄祈る表)、「文徳実録一の巻、 嵯峨天皇太后嘉智子の伝、「漢書   路温舒伝、「南史梁世祖紀」「梁書四祖紀」「文選」王命論、「酉陽雑俎   五の巻、『太平広記」八十の巻の費鶏師が談、『続斎諧記」『荊楚歳時記』の九日の条、 などにも厄のこ

とあれども、 そは定まりし厄年を指すにあらず。『禁秘抄』毎月事の条、『禁中日中行事』『公事根源  『三十九則簾中抄陰陽師の祭りの条、『撮 壌  集 』祈躊部、 同、 年中行事部などに、 代厄 祭 というもあり。 毎月行わるる祭りなり。


また同書に、 男女厄年の事の条に、「『関秘録』七の巻の竹は六十年目に尽きる、 芹は四十二年目に尽きる。 よって四十二年の厄年に、 芹を食わぬ人もあるなりというを補うべし」とあり。 また「国 朝 佳節録』にも左の説あ凡庚申之夜、 不レ採待>旦者、 太上感応篇曰、 有二三戸神五竺人身中一毎>到二庚申日一輯上詣一天曹一言二人罪過ー

註三戸在 入 身中    毎玉至 庚申日一 与一身中七醜  上詣 天 曹一 言二人罪過一 乃其職也。

(およそ庚申の夜、 寝ねずしてあしたを待つは、『太上感応編』に曰く、 三の日に至るごとに、 すなわち上天曹に詣りて人の罪過をいう。 注に、 三神ありて人の身中にあり、 庚申は人の身中にあり、 庚申の日に至

るごとに身中の七暁と上天曹に詣り、 人の罪過をいう。  すなわちその職なり)

かくのごとき類、 諸書に散見すること枚挙にいとまあらずといえども、 多く愚俗の迷信に出でしものなれば、いちいち説明するを要せざるなり。



   第六二節 吉日、 凶日、  願成就日、 不成就日

吉日、 凶日のことは、 民間に行わるる『大雑書三世相』中に多く見るところなるが、 その源は『篇簑』に出でたり。 今、 その大吉日として伝うるところを見るに、 正、 五、 九月は亥の日、  二、 六、 十月は丑の日、 三、  七、十一月は申の日、 四、 八、 十二月は巳の日なりとす。「年 中 吉事 鑑 」と題する書には、 年中毎日の吉凶を示せり。

例えば、 正月二十日には物の売買または新衣を裁することを忌み、  二月十四日は遠方に出ずることを忌み、 三月七日は願いごとを忌む等の類これなり。  その他「大雑書三世相」に掲ぐるところによれば、 建築、 移転、 旅行等はいうに及ばず、  宵 を塗り、 井を掘り、 味噌、 酒を製し、 新 席 を敷く等の日常細事に至るまで、 みな吉日と凶日との別あることを示せり。

また、 俗に願成就日と称して、 左の日に神仏に祈るときは必ずその効験ありとなすなり。  すなわち正月は寅、二月は巳、 三月は申、 四月は亥、 五月は卯、 六月は午、 七月は酉、 八月は子、 九月は辰、 十月は 未、 十一月は戌、十二月は丑に当たる日これなり。  また、  これに対して不成就日なるものあり。  この日にはすべて神仏の祈願成就せざるがゆえ、  これを忌むものとす。  すなわち正、  七月は三日、 十一日、 十九日、  二十七日。  二、 八月は二日、十日、 十八日、  二十六日。 三、 九月は朔日、 十四日、 十七日、  二十五日。  四、 十月は四日、 十二日、  二十日、 ニ十八日。 五、 十一月は五日、 十三日、 二十一日、 二十九日。 六、 十二月は六日、 十四日、 二十二日、 三十日なり。かくのごとく、 日に吉凶を論ずるは古来一般に伝うるところなれども、 もとより愚民の妄想より出でたるもの  なれば、 その理由を説明するを要せず。 しかれども、 たといそのはじめは妄想に出でたりとなすも、  すでにひとたび一般にこれを伝うるに至れば、 世間知力に乏しき招はひたすらこれを迷信して、 吉日には吉事多く、 凶日に凶事多しとの結果を見るに至るべし。  されどこれ、 日そのものに吉凶あるにはあらずして、 迷信そのものによりて生ぜし結果なり。 換言すれば、 物理的原因によらずして、 心理的原因によるものなりとす。


第六三節     古来の説明

いずれの国を問わず、 愚民は一般に日の吉凶を論ずれども、 知者、 学者に至りてこれを信ずるものなく、  かえってその妄説を排棄せんとす。 孔子は「怪力乱神を語らず」といいて、 日の吉凶のごときはもとよりこれを論ぜず。 仏教においても、 愚民迷信中には種々奇怪の説ありといえども、 識者に至りてはこれを排斥せり。  わが国中古には、かくのごとき迷信の一般に仏教中に行われしことと見え、真宗のごときはもっぱらこれを排斥したりき。親鸞上人の「教行信証し。蓮如上人の「五帖御文」には、 経文を引証してこれ戒めたり。 今、  これを左に抄出すべ涅槃経に曰く、「如来法中無>有>選二択吉日良辰ご(如来法中、 吉日良辰を選択することあることなし)般舟経に曰く、「優婆夷、 聞二是三昧一欲>学者、 匂自帰二命仏一 帰二命法一 帰二命比丘僧示'>得>事二余道

不>得>拝ー於天ー  不>得>祠二鬼神一 不>得如竺吉良日ご(優婆夷よ、  この三昧を聞き学ばんと欲せん者は、(ないし)

自ら仏に帰命し、 法に帰命し、 比丘僧に帰命し、 余道につかうることを得ず、 天を拝することを得ず、 鬼神をまつることを得ず、 吉良日をみることを得ず)大集月経に曰く、「得二於正見一 不知笙歳時日月吉凶ご(正見を得て、 歳時日月の吉凶を択ばず)

これらの経文の語によりて見るも、 仏教また、 日の吉凶を論ぜざりしこと明らかなり。 また『随意録』と題する書に、 日の吉凶に関して左のごとく論ぜり。

倭暦之中段、 紀一日之吉凶一 何屑屑然、 日行大数三百六十六度、 登夫天之行度、 固有二吉切一乎哉、 先王之礼或有 玉'レ日之事一則示口臣子之不三敢以二私褻一耳、而世之伽二緯忌一者、毎撰二日之吉凶一亦久芙哉、予之挙>事、未ロ嘗有敢  撰二於暦日一 止問一日月之大小、 寒暑之候一焉耳、 妻奴亦為>事、 未二敢拘一日之吉凶

然挙家恒安穏、 未嘗有ー疾病災故之憂一也、 嚢新営二居宅一匠請下択二吉日ー以勝中作事い予曰、_不一風雨一之日可二以為>吉。(倭暦の中段に、 日の吉凶を紀するは、 なんぞ屑々然たるや。 日行大数三百六十六度、 あにそれ天の行度もとより吉切あらんや。 先王の礼、 あるいは日を卜するのことあるは、  すなわち臣子のあえてもって私褻せざ

ることを示すのみ。 しかして世の請忌をうれうる者、  つねに日の吉凶を選ぶもまた久しいかな。 予のことを挙ぐる    いまだかつてあえて暦日を選ぶことあらず。 ただ月の大小、 寒暑の候を問うのみ。 妻奴また事をなす、  いまだあえて日の吉凶にかかわらず。 しかして挙家つねに安穏、 いまだかつて疾病、 災故の憂いあらざるなり。 さきに新たに居宅を営む。  匠 吉日を選び、 もってことを勝作せんことを請う。 予曰く、「風雨ならざるの日もって吉となすべし」)

後漢之時、 河南呉雄、 下邪趙興、 二人挙レ事、 不如炉時月一 不レ伽二緯忌一 多犯一妖禁一 然三世顕盛、 爵禄豊熾、卒不畑竺災害{  汝南陳伯敬者、 行必矩レ歩、 坐必端レ膝、_呵一叱狗馬ー終不レ言レ死、 視聴行止不乙触二緯忌一然不>得 富 貴一 終坐 女婿事一而見 殺 害一 事詳 於 郭射伝

(後漢のとき、 河南の呉雄、 下邪の 趙 興、 二人事をあぐるに、 時月を問わず、 緯忌をうれえず、 多く妖禁を犯す。  しかして三世顕盛、 爵禄豊熾、  ついに災害にあわず。 汝南の陳伯敬は、 行必ず歩を矩とし、 座するに必ず膝をただしくし、 狗馬を呵叱するについに死をいわず、 視聴行止緯忌に触れず、 しかも富貴を得ず。  ついに女婿のことに座して殺害せらる。 事は「郭 射 伝また、「万物故事要略」(巻三)に左の説を載せたり。

につまびらかなり)

五月に生まるる子の二親に利あらずなりというは実か。全くその証なくかえって吉例多し。『晋書』にいう、

孟 嘗 君五月に生まれたり福貴比なし。毎日に三千人の客を裡す。また王鎮悪五月に生まる。親に利あり。『西京雑記」にいう、 田文五月に生まれたり。  また王鳳五月五日に生まる。  みな二親に孝あり、 云云。  さらにもって凶事なし。  これ夫婦とも五月子で御座すゆえ、 これをわずらえたまう。 苦しからざることなり。 また寅の年にて御座す。 寅年また嘉例多くはべり。 ただし五月に生まれたる必善にも定まらず。 同寅年も定めてよしとすべからず。 人間の善悪、 貧福はみな先業によるといえり。  さらに年月によるべからざるなり。

以上の説明によりてみるときは、 年月歳時に吉凶を論ずるの妄信たること明らかなり。



   第六四節    実際上の利害

時日の吉凶を定むることの道理上取るに足らざることは、  上来論じきたるところのごとしとせんに、 なお、 さらに実際上においての利害いかんを考うるに、 その理を説くものはまず第一に、 人心を安んぜしむるにおいて必要なりといえども、 余はかえって人心を安んぜしむるよりは、 むしろ、 人心を惑わすものなりといわんとするなり。 もし人、 はじめより時日の上に吉凶あることを知らずんば、 旅行、 転居、 なにごとか安心ならざらん。 しかるに、  ひとたび吉凶のことを知りし以上は、 大いに惑いを起こすこととなり、 転居ののち病人にても出でたらんには、 転居の日のあしかりしがためなりけりなど、 いらぬ苦心を重ぬることとならん。 第二に、 かかる時日の吉凶のごときは、 大いに人の精神を弱むるの不利あり。 人、 もし一心に事業に従わば必ず成就すべきことにても、日があししとか、 方角はいかん、 五行の配当はいかんなど、 種々のことに配慮するときは、  ついには成し遂げあたわざるにも至らしむるものなり。 およそ人事をなす、 すべからく人盛んなれば、 天に勝つという心あるを要す。しかして時日の吉凶談のごときは、 実に人をしてこの心を失わしむるものなり。 第三に、 吉凶を時日の上に配していちいち事をなすに至らば、日常の業務の上に大いなる妨害を与うべし。今日は仕事に出でてよきやあしきや、転居しては凶か吉か、 婚礼しては善悪いかんなど    いちいち考うるに及ばば、 出ずべき仕事にも出ずることあたわず、 なすべき転居もなすことあたわず、 婚礼にも不用の時日を費やして、  ついに機を失うなどの例は、 必ず世に多かるべしと信ず。 第四に、 人をして事業の結果の善悪は、 ただ時日の吉凶に関するものとのみ思わしめ、  ひたすら時日のよきを選ぶに汲々として、 篭も自己の精神と行為のいかんを問わず、 その弊、 自ら手を懐にして富貴を 撓 倖せんとするの妄念を起こさしむべし。

しからば、 時日の上に吉凶を定むるは、 世に害ありて益なきものなること明らかなり。 もし、 果たして益なきものとせば、 速やかにこれを減除するの方法を講ぜざるべからず。 しかるに今日、 下等社会ならびに婦人社会の八、 九分はみなこれを信ずるものにして、 ために、 児童は学校においてはなにほど完全の教育を受くるも、 家庭の教育にて常にかかる不道理の習慣をもって教育し、 ようやく長ずるに及びては、 また世間の御幣担ぎの連中に交わるをもって、 今日の勢いとうてい終身、 迷信のほかに超出することを得ざるに至る。  ゆえに、 もしその弊を除かんと欲せば、 すべからく父母、 兄長に向かいてその道理を知らしめざるべからず。


第六五節    結論

以上、 数講数十節に分かちて講じきたりしところのもの、 これを概括するに、 吉凶、 禍福を人力によりて判断することは、 全く不道理の妄説なりというに帰す。 しかして、 世人のこれを信ずるものあるは、 知識の程度のはなはだ低きをもって、 自ら起こすところの迷誤たるに過ぎず。 たとい物理的説明に照らして多少の道理ありとするも、  そは極めて少部分のことにして、  これを職業とする卜痙家、 相法家も、 またその説を迷信するものも、 全く迷雲の間に初裡して、 帰宿する所を知らずというべし。 また、 心理上の説明より見るときは、 いくぶんの道理ありといえども、 その道理たるや、 人の迷誤によりて、  かかる結果をきたすべしというに過ぎざれば、 物理上よりいうも心理上よりいうも、 ただ    つの迷誤たるに過ぎざるは明らかなり。 しからば、 今日よりこれを処するの方法はいかにすべきというに一切かくのごとき鑑術、 相法を廃絶するか、 しからざれば、  そのうちより不道理的の部分を除き去りて、  これに代うるに学術的方法をもってすることこれなり。 そは第六講相法編において論じたるがごとく、 相法の類はすこぶる道理あるものなれども、 今日はこれに多少の不道理なる元素を混合して世に行わるるがゆえに、 今後、 新相法を興して学術的に考定し、 もって今日の害を去り迷誤を除かば、 また多少、 世を益することを得べし。 しかれども、  これに関する万全の策は、 世人をしてその身に道徳を行わしめ、 人に対して恥じず、 天に対して恐れず、 その心中、 実に青天白日にして一点のりなき身とならば、 時日の吉凶、 善悪はいかん、 方位また天運のいかんは奄も念頭にかくることなく、 泰然その心に満足してもってその本分を全うし、その生涯を送ることを得べき理を知らしむるを第一とす。

かくして、 人をしてことごとく道徳界中の聖人たらしむるを得ば、  これ実に人を迷誤の泥中より救い出だすの最上策なり。「尚書」に語あり曰く、「鬼神無ーー常饗一 喫二干克誠ご(鬼神はつねにうくることなく、 よく誠なるにうく)と。「左伝に曰く、「鬼神非一一人実親惟徳惟依」(鬼神は人、 実に親しむにあらず、 ただ徳ただよる)と。あるいはわが国の歌に「誠の心に神宿る」とも称して、 その心に危櫂するところなくんば、 天下一物も恐るべきものなく、 この世界そのままにて、 実に天堂楽園あるいは黄金世界となるべし。 しかるに、 ただ余が恐るるところは、 今日の人をしてことごとく聖人君子となさしむることあたわざるを。 これをもって、 余は今日の不道理的卜筵、 鑑定、 相法等に代うるに道理的方法をもってし、  すでに第一節に述べたる哲学的卜筵、 学術的相法を考定して世間に発表するの意なりしも、  これを考定するまでに数回の試験を行うを要するをもって、 その結果を公にするは他日をまたざるべからず。  ゆえに、 今回の「純正哲学」の講義はここに結了を告ぐるなり。 読者請う、  これを了せよ。