2.南船北馬集 

第十編

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南船北馬集 第十編

 

1.冊数

 1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)

 188×127㎜

3.ページ

 総数:116

 目次:〔1〕

 本文:115

(巻頭)

4.刊行年月日

 底本:初版 大正4年2月4日

5.発行所

 国民道徳普及会

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東参全部、西参一部巡講日誌 付尾濃数カ所

 大正三年六月三十日、夜行十一時新橋発に駕して、愛知県三河国に向かう。三河は十郡より成り、北設楽、南設楽、宝飯、渥美、八名五郡を東参と呼び、碧海、幡豆、額田、西加茂、東加茂五郡を西参と称す。余はまず東参の巡講にかかる。

 七月一日 晴れ。午前八時半、豊橋〈現在愛知県豊橋市〉着駅。随行森山玄昶氏と相会す。宿所は駅前旅館岡田屋なるが、対客の設備は当市第一との評にして、応接室に扇風機をかけ、便所に芳香を薫ずる等の用意あり。駿遠地方はすでに挿秧を終わりたるも、豊橋付近は今なお田植え最中なり。午後、高等小学校において講話をなす。井口師団長も臨場せらる。また、渥美郡長菅政治氏も来会あり。主催は市教育会にして、会長田部井勝蔵氏(高等校長)等の発起にかかる。同氏は文部〔省〕より選奨せられ、県下における最高級の校長なりと聞く。市長は大口喜六氏なり。この日暑気高く、夜に入るも〔華氏〕八十二度より下らず。

 二日 炎晴。午前は高等女学校にて談話をなす。校長は本間小左衛門氏にして、余と同県の出身なり。午後、中学校に移りて講話をなし、更に職員のもとめに応じて妖怪談をなす。校長は山崎新太郎氏なり。哲学館出身雨宮信順氏は久しくここに奉職す。夜に入りて明治銀行に転じ、更に講演をなす。愛知銀行支店長福田釣夫氏の主催にして、同行に奉職せる法学士笠原敬輔氏もっぱら奔走せらる。氏はかつて東京帝国大学在学中、寓を和田山哲学堂内に卜し、天狗、幽霊と隣居せられしをもって互いに相知る。豊橋滞在中、人に向かいて市の名物を聞けば、納豆と空屋なりと答う。豊橋に師団を置かれし際にあまり貸屋を建て過ぎしために、今日は空屋の多きを見るに至るという。納豆はいわゆる浜納豆にして従来の名物たり。ただし当市は生糸の集産地にして、その市場のにぎわえるは他に多く見ざるところなる由。また、従前は薩摩薯の産地としてその名高し。江州にてはその薯を三州薯といい、三州にては吉田薯という。豊橋の薯におけるはなお岡崎の味噌におけるがごとくなりしが、近年薯に代うるに桑をもってし、大いにその産額を減ぜりという。吉田とは豊橋の旧名なり。

 三日 炎晴。渥美郡視学栗野常懐氏とともに車行一里にして湾口に達し、石油発動船に駕し、海上十里を三時間半にて渡り、渥美郡福江町に着し、これより更に車行一里余にして伊良湖岬村〈現在愛知県渥美郡渥美町〉に至る。ときに午後一時なり。会場は小学校、宿所は曹洞宗常光寺、発起は村教育会長小久保波作氏等とす。この村は渥美半島の尽頭にして、海岸に勝地ありと聞くも、杖をひくの余暇なし。宿所は郡内大寺の一にして、前後に松丘を襟帯し、涛声日夜枕屏をおかす。ときに一絶を賦す。

渥美尽頭尋梵城、境閑最好洗我情、風涛日夜欺天楽、松籟亦成般若声、

(渥美半島の尽きるあたりに寺院をたずねれば、このあたりは閑静でわが心情を洗うに絶好である。風と涛が日も夜も天然の音楽をかなでるかと思われ、松風もまた般若の声となっているのである。)

 四日 炎晴。車を福江町〈現在愛知県渥美郡渥美町〉にめぐらし、小学校にて開演す。昨日本日の暑気は〔華氏〕九十三度に上る。人みな近年になき大暑と称す。宿所万松楼は田舎不似合の上等旅館なり。当所開会は村教育会および教員組合会の連合主催にして、町長鈴木権六氏、校長松浦規矩雄氏等の発起にかかる。町長は郡内町村長中の長老なりと聞く。

 七月五日(日曜) 炎晴。車行一里半強、平坦なり。泉村〈現在愛知県渥美郡渥美町〉に至りて開演す。会場小学校と宿所南岑寺(真宗)とは境相連なり、ともに茂林の中にあれども、午風力なく、暑威炎々たり。夜に入りて微雨一過するも、いまだ熱気を洗うに足らず。ただし村頭の松韻と洋上の涛声とは、いささか吟懐を清涼ならしむ。よって一詠す。

一帯連山半島長、客程出入水雲郷、講余苦熱身如死、松籟涛声意自凉、

(一帯の連なる山が半島に長く、旅客は水と雲の里に出入りするようすである。講演ののちはあつさはなはだしく死ぬるかとさえ思われたが、松に吹く風と波の音が涼をもたらすように感じたものである。)

 遠州灘の涛声は日夜一帯の連山を経て客窓に入りきたる。本村の開会は村長鈴木辰蔵氏、校長林茂氏の発起にかかる。村内には耕地整理の外に宅地整理を実施せし一部落ありと聞く。福江より豊橋の間には乗合馬車の往還するを見る。その形は重箱形にして、その色は赤色なるは東参特色の一なり。

 六日 炎晴。車行一里半弱、途中、小坂路を経て野田村〈現在愛知県渥美郡田原町〉に入る。これ県下唯一の模範村にして、全国無類の大貯水を有す。その面積六十町歩あり。これによりて潅漑する田地は二百五十町歩余なりという。耕地整然たる所に秧色蒼然たるを望むは、いささか目をたのしましむるに足る。会場および宿所たる西円寺(真宗大派)は郡内第一の大伽藍と称す。開会は昼夜にわたり、発起は村長白井善吉氏、校長松山登氏なり。夜に入りて豪雨あり。

 七日 曇り。車行約二里、田原町〈現在愛知県渥美郡田原町〉に至る。夜来の降雨のために暑気大いに減じ、毎朝〔華氏〕八十度以上の熱度が今朝〔華氏〕七十四度に下る。昼間の会場は小学校にして、町長山本右太郎氏、校長伊奈森太郎氏等の発起なり。会後、歩を移して勤王の名士なる渡辺華山翁の遺跡をたずぬ。校側に城趾ありて、もと巴江城と称せしが、今は神社のみをとどむ。その社内に遺物を保存す。ここに「不忠不孝渡辺登」と自ら書せられしものあり。社畔の公園に石碑あり。川田剛〔甕江〕氏の撰文なり。更に歩を進むること数丁にして、翁の旧邸に当たる所に自刃の遺跡あり。石標に「華山先生玉砕之趾」と刻せるを見る。この地を池の原公園と称す。更に踵をめぐらして城宝寺に至る。浄土宗なり。その境内に翁および渡辺一家の墳墓あり。ときに所感一首を浮かぶ。

蹈破東参尽処烟、巴江城畔吊前賢、先生今日当瞑目、霽月光風繞墓田、

(東参の地を踏破して煙の見えぬ所に至り、巴江城のほとりに昔の賢者を弔った。華山先生、こんにちはまさに瞑目すべきである。はれた月、ひかる風が墓をめぐっているのだ。)

 当夕、竜泉寺に至り大谷派婦人法話会のために演説す。住職は本多敬華氏なり。宿所は当所一等旅館にして、その名を水戸三〔みとさん〕というはおもしろし。料理兼業のために管絃の声ときどき夢を破りきたる。

 八日 晴れ。車行一里半、老津村〈現在愛知県豊橋市〉村社参篭殿に至りて開演す。社殿新築まさに成る。発起は村長彦坂伊作氏、校長彦坂利作氏なり。この地方は挿秧いまだ終わらず。全国中、田植えのおそきこと第一なりという。田地一反の収穫平均五、六俵にして、売価は五百円ぐらいなる由。宿所は造酒家鈴木新兵衛氏の宅なり。

 九日 晴れ。朝気清涼、〔華氏〕七十度に下る。午前、車行約二里、豊橋師団所在地たる高師村〈現在愛知県豊橋市〉長栄寺に至りて開演す。村長芳賀太郎氏、助役大竹藤知氏、軍人会長戸狩松太郎氏、青年会長浦川重右衛門氏等の主催にして、戸狩氏最も尽力あり。本村には哲学館出身加藤謙成氏所住せり。午後、更に車を走らすこと約二里、豊橋を経由し牟呂吉田村〈現在愛知県豊橋市〉字吉田方小学校に転じて開演す。村長土倉市平氏、校長伊藤要蔵氏、山本茂氏等の発起なり。村内には神野新田と称し、海を埋めて水田を開きたる所あり。すこぶる大工事なり。当夕、豊橋駅前岡田屋に宿す。郡内は一週間を通して栗野郡視学、案内の労をとられたり。

 十日 炎晴。汽車にて宝飯郡蒲郡町〈現在愛知県蒲郡市〉に移り、駅より車行約一里、五井常円寺に至りて開演す。住職多田公嵓氏、副住職同鼎氏は余の旧知たり。その書院は近く山に対し、遠く海を望み、その間秧田の蒼々たるを見るは旅懐を散ずるに足る。壁上に高島秋帆の詩軸を掛くるを見、その韻を次ぎて一絶を賦す。

向海対山軒正開、樹陰秧色繞高台、臥牛石畔聞蝉臥、一陣清風入座来、

(海に向かい、山に対して書院がたつ。樹々の陰や稲田の青さがめぐる高台である。臥牛石のかたわらで蝉の声を身を横たえて聞けば、さっとばかりに清らかな風が座に入ってきたのであった。)

 庭内に巨石その形臥牛に似たるものあり。よってこれを詩中に入るる。当所開会発起は多田氏なり。

 十一日 曇り、雨のち晴れ。天いまだ明けざるのとき、遠雷を聞くも雨きたらず。五井を発して蒲郡海浜常盤館に入りし後に降雨あり。同館は停車場をへだつること七、八丁、建築、庭園ともに宏壮かつ整頓し、背後の山上に休亭数棟あり。また、私設動物園を置く。その内に数種の禽獣、なかんずく数十頭の小猿あり。また、海上には本館特有の石油発動の遊船を備うるあり。けだし東海道第一の旅館ならん。これに加うるに軒前の風光の明媚にして、穏波を隔てて遠嶂近嶼と応接するところ、また静岡、名古屋間にはこれに対抗するものなし。当面には円巒の海中に浮かぶあり、巒上樹木鬱然たり。これを竹島と名付く。その島内に弁天社あり。江州竹生島より分社したるものなりと伝う。その左方に大島小島ありて、ともに風光を助く。館の入口に「肺病及疑似病者を御断り申候」と掲示せるはすこぶる奇抜なり。また、一泊一円二十銭、昼食六十銭と表記せるは比較的安価なり。この館の建設費、総じて十万円なりと聞く。当日、所見一首を得たり。

渥美山囲海作湖、弁天島似一浮壺、常磐館上坐相望、疑是軒前掛画図、

(渥美の山は海を囲んで湖を作る。弁天島は一壷の浮いているように見える。常盤館の上に座って眺めれば、これこそ軒の前にかけられた絵画とみまごうばかりである。)

 この日、午後に至り雨やむ。会場は南部小学校にして、発起は町長尾崎幸助氏、在郷軍人会長大橋崧次郎氏(陸軍中佐)、青年会長大竹直治氏、校長伊与田幾次氏等なり。また、別に哲学館同窓の小集ありて、雨宮信順氏、榊原音禅氏、加藤謙成氏、静恵循氏、宮島為三郎氏来会し、常磐館の大座敷において晩餐をともにす。当所旅館として常盤館のつぎに位するものは健碧なり。旅館としては珍名ならん。

 七月十二日(日曜) 暁来雷雨、これに次ぐに豪雨をもってす。午前、鉄路によりて御油駅に降車し、これより大雨を冐して車行約一里にして国府町〈現在愛知県豊川市〉に至る。会場および宿所は長泉寺にして、発起者は町長白井九一郎氏、教育会役員山科国作氏等なり。郡長村上金一郎氏来会せらる。

 十三日 晴れ。郡視学梶村勝太郎氏とともに車行二里、牛久保町〈現在愛知県豊川市〉法信寺に至りて開会す。発起は住職榊原祐成氏、町長内藤元次郎氏等なり。しかして郡内各所の開会は蒲郡を除くの外はすべて郡教育会の主催にかかる。宿寺の中庭には躑躅林あり。その数わずかに三株なれども、枝葉全庭をおおう。住職自ら称して天下一品という。この隣村に八幡村字千両と名付くる一部落あり。その地には公徳販売を実行しつつありと聞く。また、牛久保は吉田薯の本場なりという。

 十四日 炎晴。郡書記高田佐一郎氏とともに車行約半里、豊川町〈現在愛知県豊川市〉妙厳寺に入る。余は明治二十三年、ここにきたりしことあり。当寺は客席宏闊にして、一千人以上を宿泊せしむる余地ある由。本殿は目下新築工事中なるが、その費用数十万円を要するならん。聞くところによるに、門内には平素僧俗を合わせ二百人ぐらい居住せるをもって、たとえ千人前後の団体が先ぶれなしに一時に押し入りきたるも、たちまちその膳部を整理するを得という。前住職福山黙童氏なお健在、現住職福山白麟氏は病気にて転地療養中なりと聞く。山門の内外および廊下はもちろん、各室までにいちいち「懐中物要慎」の掲示あるは、なにびとも異様に感じ、豊川にはこのようにスリが多いかと思わしむ。ときに豊川の盛況を一吟す。

老杉繞境寺門幽、人在豊川閣上休、祈請始時鼓声起、衆僧入殿作勤修、

(老いた杉が境内をめぐってたち、寺の門も奥深い様子を見せ、人々は豊川妙厳寺で休憩するのである。お祈りの始まるときには太鼓の音が起こり、もろもろの僧は仏殿に入って勤業するのであった。)

 本日の会場は小学校、発起は郡会議員斎藤代三郎氏、町長宮地要作氏等なり。晩食は村上郡長等とともに割烹店若葉楼支店にて喫了す。

 十五日 晴れ。朝七時、豊川駅より鉄路にて吉田駅、すなわち豊橋駅に着し、豊橋より腕車をとり、八名郡下川村〈現在愛知県豊橋市、豊川市〉に至る。郡視学波多野虎之助氏同行せらる。会場は第二小学校、宿所は正円寺(臨済宗)、発起は村長中村猪三郎氏、校長杉山忍、伊藤鎌吉両氏、住職金川宗諄氏等にして、主催は郡内すべて郡教育会なり。本郡の特色は全く鉄道のなきことと、大野町を除くの外は営業人力車なきこととの二点なり。したがって旅行の不便を感ずるも、各町村間の道路平坦にして、車の通ぜざる所なし。よって脚車すなわち自転車を用うるもの多し。産業としては従前の薯畑を変じて桑圃となし、養蚕盛んに行わる。

 十六日 晴れ。暁天正面に石巻山と対観するところ、やや爽快を覚ゆ。山態は松茸状をなして蔚立す。これを望みつつ車行半里余にして石巻村〈現在愛知県豊橋市〉に入る。医師後藤一郎氏の宅に休憩の後、小学校に移りて開演す。発起は村長杉浦惣三氏、校長今泉房松氏、ほか四校長なり。演説後ただちに腕車を飛ばし、更に行くこと約一里、秧田尽くる所に山門あり。嵩山正宗寺という。ここに至りて午餐を喫す。当寺は臨済宗の名刹にして、郡内第一の大寺なり。その位置は山腰の林間にありて、飛泉堂側にかかり、樹陰四隣をめぐる。天然の山を装って庭園となし、清涼と静閑とは実にその特有たり。これに加うるに堂広く室清く、盛夏三伏の消暑に最も適す。食後午睡一枕、ひぐらしの蝉吟に驚かされて夢ようやくさむ。夜に入れば泉声一段の幽趣を添う。ときに二首を賦す。

石巻渓頭路自蟠、行看禅寺踞林巒、法堂聴瀑傾般若、水浸塵心夏亦寒、

(石巻村の谷のあたりの道はおのずからまがりめぐる。行きて禅寺に至り見れば、林と山によってたつ。法堂に滝の音を聞きつつ杯を傾ければ、泉水は塵に汚れた心を浸し、夏なのに寒さを感じさせたのだった。)

渓寺鳴蝉送夕陽、泉声入夜更清凉、世間苦熱人堪憫、七月嵩山心結霜、

(谷の寺では蝉がないて夕日を見送る。泉水の音が夜になるほどにさらに清涼さを増す。世の中では暑熱に苦しんで同情にたえないが、七月の嵩山は心に霜のおりる思いがするのである。)

 十七日 晴れ。朝気冷ややかにして〔華氏〕七十度にくだる。あたかも秋のごとし。嵩山を発し車行約二里、賀茂村〈現在愛知県豊橋市〉に移る。渥美郡および八名郡は各郡の火の見梯を改造し、木梯の代わりに石礎鉄骨、四脚柱を用うるはすこぶる文明的なり。会場は小学校、宿所は林平八氏宅、発起は村長竹尾恒次氏、校長村瀬助五郎氏、その他三村の村長および校長とす。

 十八日 晴れ。車行二里余、郡役所所在地たる八名村〈現在愛知県新城市〉字富岡に至り、小学校にて開演し、真言宗洞雲寺にて休泊す。発起者は村長浅見滝助氏、校長柳瀬左右吉氏、ほか四校長なり。郡長国宗鹿太郎氏も出席せらる。

 七月十九日(日曜) 炎晴。馬車を駆ること二里、舟着村〈現在愛知県新城市、南設楽郡鳳来町〉日吉小学校に至りて開演す。宿所は有志家原弥三郎氏宅、発起は郡教育会長鈴木宇良安氏、副会長兼村長松本駿蔵氏、校長磯野守之助氏、ほか八名なり。この日、車上所吟一首あり。

一条豊水抱村流、設楽山連境自幽、馬上八名城外暁、蝉声桑色助吟遊、

(ひとすじの豊川は村をいだくように流れ、設楽の山波のあたりはおのずから幽遠なおもむきがある。馬車にゆられて八名村外の暁の中をいけば、蝉の声と桑の緑がこの吟遊のおもいを助けてくれるのである。)

 当地方にては味噌汁を一種変わりたる手桶に入れて客前に出だす。これを汁手桶という。汁を手桶にいるるは全国無類ならん。その一個を鈴木氏より寄贈せらる。

 二十日 車行三里半、渓深く林密なる間を一過して山吉田村〈現在愛知県南設楽郡鳳来町〉に入る。この渓間には黄柳〔つげ〕の木多し。よってこれより流るる川を黄柳川という。会場兼宿所たる満光寺は郡内有名の大寺なりしも、維新の際、檀家ことごとく神道に転宗せしために、荒廃を極む。庭園も郡内第一と称せられしも、これまた荒につき、いささか古色をとどむるのみ。聞くところによれば、村内に七滝の名勝あり、一渓の流水七回かかりて七滝をなすという。よって一吟す。

一渓曲々水淙々、飛瀑七懸流作江、遺憾山深人不識、東参此勝本無双、

(ひとつの谷の水は曲がりくねり、さらさらと流れ、七つの滝をつくり、大きな川となる。残念ながら山深い所であるためこの名勝を人々は知らず、東参の地でもこの景勝はならぶものがないであろう。)

 発起者は村長田中貞重氏、校長本田清七氏(奏任待遇)等なり。

 二十一日 炎晴。車行二里、往々密林深叢の中を過ぎ、渓流に伴い、左岸に長篠古戦場を望みつつ大野町〈現在愛知県南設楽郡鳳来町〉に至る。これ豊橋より信州飯田に通ずる要駅なり。途中、往々水底崖頭の巌石の吟賞するに足るものあり。会場小学校は山に踞し、校屋内に階段数十級あり。あたかも信州諏訪中学に似たり。宿所徳島屋は前面は菓子店にして、後部は旅館なり。ときに三階新築まさに成り、前後両軒ともに鬱葱たる山林と相対す。よって楼名を選して対翠楼となす。発起者は町長鈴木喜重氏、校長彦坂寿一氏等なり。鈴木氏は七滝名物の子抱石を恵まる。本郡旅行中は一回も腕車に出会せるなく、脚車数十回、馬車二、三回を見たるのみ。この地方は林業最も盛んにして、県下山林の大王たる大橋正太郎氏ここに住す。

 二十二日 炎晴。馬車にて豊川にそい下行すること三里、弁天橋を渡りて南設楽郡新城町〈現在愛知県新城市〉に入る。郡衙所在地なり。会場永住寺(曹洞宗)は郡内大寺の一たり。主催兼発起者は町長長田利七氏、校長青木三之氏等とす。浄泉寺住職片桐梨潭氏も助力あり。しかして宿所は鈴木屋旅館なり。当町は東参第二に位する都会にして、豊橋のつぎに列す。本郡長河野省一郎氏は十余年前、越前大野郡巡講当時の旧識たり。八名郡各所を案内せられたる波多野氏は、ここに至りて本郡視学原乙三氏と交代せらる。

 二十三日 炎晴。車行一里半、東郷村〈現在愛知県新城市〉に入る。本村字有海なる新昌寺には鳥居強右衛門の墳墓あり。この辺りより鳳来寺に至るの間はいわゆる長篠古戦場なり。ときに所感一首を賦す。

車上一過長篠村、稲田桑圃繞山根、文明今日勤生産、古戦場頭養富源、

(車上にあって長篠村をよぎった。稲田と桑畑が山の麓をめぐっている。文明はこんにち生産を奨励し、古戦場のあたりも富の源となっているのである。)

 会場は東小学校、発起は村長山内五寿雄氏、校長河合末治郎氏等、宿所は信玄病院長牧野文斎氏の宅なり。この病院は設備の大なると患者の多きとは東参第一の評あり。

 二十四日 酷暑なるも、林深く気清き渓上を通過するために清涼を覚ゆ。車行二里、寒狭橋を渡り、渓流の激湍するを臨みつつ鳳来寺村〈現在愛知県南設楽郡鳳来町、新城市〉に入り、玖老勢小学校にて午前中に開演す。午時、炎暑をおかし行くこと約半里、坂路を上下し鳳来寺山下角谷、旅館小松屋に入りて喫飯す。午後、驟雨きたり、雷これに伴い、人みな一滴千金と称す。草木もために蘇生し、晩に至りて涼味掬するに堪えたり。この日また一絶偶成す。

車入鳳来寺畔村、煙巌一路是仙源、山皆深翠渓皆碧、七月清風掃暑痕、

(車は鳳来寺山下の村に入る。煙巌山への道は、まさにこここそ仙人の住む里である。山ふところはみな深く緑におおわれ、谷もまたみどり色であり、七月の清らかな風は暑さをふき払うのである。)

 発起は村長今泉米作氏、林業家丸山喜兵衛氏、校長片桐喜惣太郎氏、ほか五名なり。当地は硯石を産す。その名を鳳鳴石また金鳳石という。黒色の間に白紋を交え、すこぶる雅致あり。丸山氏、余に珍硯を恵まる。小松屋は別座敷新たに成り、命名をもとむ。軒前に鳳来寺畔の雲煙を仰ぐをもって鳳雲館と題す。山上に三宝鳥ありて晴夜、仏法僧と呼ぶという。これ必ず鴟梟〔ふくろう〕の一種ならん。

 二十五日 曇り。暁天微雨あり、午時雷雨あり。早朝、煙巌山上にのぼる。石階一千三百四段あり。登路九町と称するも二十町ぐらいあるを覚ゆ。途中、傘杉あり。樹齢五百年、周囲二丈五尺、全高二十八間、枝下十七間と標記す。山頂の懸巌は縦横ともに数百丈ありて仰視すべし。その巌根に薬師堂あり、東照宮あり。この宮は従来日光山、久能山とならび立ちて、全国の三山と称せられし由。東照宮より路一曲すれば観望台あり、遠く碧海青巒を望むを得、近く草木の鬱蒼たるをみる。ときに山主のもとめに応じて翠煙台と命名す。この日、たまたま雲煙に遮られて遠望するを得ざるも、陸上の霧海を現ずるはまた妙趣あり。よって一詠す。

古寺高懸万丈峯、千三百四石階重、台端一望雲如海、綻処青巒似嶋縫、

(古寺は高く万丈の峰にたてられ、そこには千三百四段の石段が重なる。観望台の端より一望すれば、雲は海のごとく広がり、そのほころぶところに見える青い山は、まさしく島をぬいめとするおもむきなのである。)

 鳳来寺の名物は納豆と大杉と懸巌と三宝鳥なりという。その寺は真言宗に属す。山をくだりて歩すること十余町にして腕車に駕し、更に走ること二里、海老町〈現在愛知県南設楽郡鳳来町〉に至る。郡内はいたるところ渓深く林満ち、すこぶる幽邃を覚ゆ。会場は小学校、宿所は渡辺旅館、発起は町教育会長伊藤静三郎氏、町長竹下茂吉氏、校長鈴木鯛次郎氏とす。しかして郡内各所の主催は町村教育会なり。

 七月二十六日(日曜) 晴れ。この日、原郡視学と相別れ、車行二人びきにて北設楽郡に入る。山路一里半にして清崎に至り、これより里道に入り、険難を冒して車行一里半、段嶺村〈現在愛知県北設楽郡設楽町〉字田峯日光寺に着す。その村名は本郡第一の高嶺、段戸山下にあるより起こる。午後、雷雨きたる。この地にて鴬声、鵑声、およびひぐらしの声とを併聴するは、なんとなく仙郷の趣あり。発起は村長竹下浅蔵氏、校長窪田五郎氏、住職菅谷同一氏等なり。

 二十七日 晴れ。朝気〔華氏〕七十度、やや清泠を覚ゆ。田峯に有名の観音あるを聞き、早朝登詣して車に上り、再び清崎を経て本郡の首府たる田口町〈現在愛知県北設楽郡設楽町〉に至る。行程二里半、郡書記清水福太郎氏の同行せるあり。会場は福田寺、宿所は伊藤旅館、発起は青年会長関谷守男氏、町長今泉佐六氏等なり。この日、戊申詔書宣誓式あり。毎年一回これを行うという。他にいまだ聞かざるところなり。郡長斎藤已太郎氏に面会す。田口は地位最も高く、したがって夏の暑気しのぎやすく、暑中蚊帳を用いずというも、全く蚊声を聞かざるにあらず。従前は南信に出入する要駅に当たり、旅客を相手として生計を立てたる由にして、その当時の俗謡いまなお存す。

  田口通らばいそいで通れ、田口飲みどこ喧嘩どこ、

 しかれども今日はいくぶん面目を改めたりという。

 二十八日 雨。道路険悪、腕車通ぜざれば、馬上に駕して包石峠の峻坂をこゆ。その前後の峰頭における巌石の青松を擁して半空に聳立せる状態は、雪舟山水の図を実現せるがごとし。また、いたるところ山また山、渓また渓、その間に白雲の去来するありさまは飛騨山中の趣あり。本郷村〈現在愛知県北設楽郡東栄町〉に入る所に戦橋あり。東京の鎧橋の好対なり。この日、行程五里、途中大雨に会す。郡視学松沢銀次郎氏は草鞋をうがちて同行せらる。この日、旅行日なるをもって開会せず。午睡の間に即吟一首を得たり。

設楽山中樹鬱蒼、羊腸一路夏清凉、深渓時聴鴬声滑、衝雨孤鞍入本郷、

(設楽の山中は樹がうっそうとしげり、羊の腸のごとく曲がりくねる道に夏の清涼を覚える。深い谷にはときにうぐいすの声がなめらかにきこえ、雨の中を一人馬上に身を託して本郷村に入ったのであった。)

 二十九日 晴れ。本郷滞在、午後開演。会場は尋常小学校、主催は六カ村連合、発起は村長関谷義夫氏、助役鈴木伊一氏、局長仲井伊九太郎氏、校長谷辺宇吉氏、御殿村長金指百之氏、その他三輪村、園村、下村、振草村の村長または助役なり。宿所福島屋は小旅館なるも、庭内に太鼓橋ありて、客室と勝手場とを連結す。本郷もまた南信に通ずる要駅にして、人家相集まり自然に市街の形をなす。里標は豊橋へ十六里、大野へ五里、飯田へ二十二里と表示す。すべて北設楽郡内は蚊の少なき代わりに蠅と蚤の多きを覚ゆ。この日また一首を賦す。

夏木森々設楽山、夕陽懸処白雲還、風生夜気冷如水、鎖得人間苦熱関、

(夏の樹木がさかんにしげる設楽山、夕日のかかるところに白雲もかえろうとする。風が生じて夜の空気は冷えて水のように、世の人の暑熱の苦しみをとじこめてしまうのである。)

 三十日 快晴。いわゆる日本晴れなり。渓行五里、そのうち本郷より古戸まで二里半腕車、これより二里半馬上、その間に段戸嶺をこゆ。段戸山と名同じくして実異なれり。登坂約一里あり。馬疲れて進まず、遅々として登る。東参旅行中、渥美郡にては船に駕し、北設楽に入りて馬を用う。これいわゆる南船北馬なり。嶺頂に達すれば高原あり。下津具、上津具〈現在愛知県北設楽郡津具村〉両村ここに相連なる。上津具駅より信州国境、伊那郡界までわずかに一里半を隔つるのみ。その地は海抜二千二、三百尺の高所にありて、気清く風冷ややかに、夜蚊帳を用いず、実に避暑の良地たり。この日は明治天皇祭にして、ところどころ国旗の風にひるがえるを見る。会場は両村の中央なる曹洞宗金竜寺、発起は組合村長佐々木信氏、住職高木大祥氏、局長本多亀雄氏、軍人分会長佐々木浩一氏等なり。当日の偶成、左のごとし。

夏山★(うまへん+夸)馬歩渓林、侵暑徐登段戸岑、走入禅関日過午、清風一陣価千金、

(夏山に馬にまたがって谷や林をすすむ。暑さをおかしてゆっくりと段戸嶺に登ったのである。馬を走らせて禅寺に入るときは正午をすぎていたが、清らかな風の一吹きは千金の価があると思ったのであった。)

 当夕は山間の名産なるアメの魚、その大きさ鯉のごときものを供せらる。

 三十一日 炎晴。朝七時、鞍馬に鞭うちて寺門を出でて、一嶺を上下す。嶺頭より回望するに連山波涛のごとき形勢あり。この山路には石垣を築き、喫煙するものは必ず、その内にてなすべしと表示せる所あり。余ははじめてかかる公道喫煙所を見たり。もとより山火を防ぐためなるも、用意周到というべし。これより嶺を下り、名倉を経て稲橋村〈現在愛知県北設楽郡稲武町〉に至る。山田にはまれに早稲の穂を吐きたるものあるを見る。その名を問えば北海道種なりという。行程五里、六時間を要せり。途中の暑気やくがごとく、金もまたとけんとする中を一過して午後一時、美濃屋客舎に入る。この日、旅労をいやするために休憩す。四時後に至れば暑威大いに減じ、夜に入りて更に一段の涼風加わる。当夕、武節村に祭礼あり。同村と稲橋とはわずかに一橋を隔つるのみ。よって役場は連合なり。たまたま半輪の明月天にかかり、一陣の清風襟をはらう。歩して橋上に至れば、すでに秋涼を覚ゆ。

 八月一日 炎晴。朝霧あれどもたちまち散ず。午前、曹洞宗瑞竜寺において開演す。発起は連合村長古橋源太郎氏、助役三浦真鉄氏なり。古橋氏は旧家にして、その先代の名望は遠近にあまねし。本郡は県下の北海道と呼ばれ、山深く渓長く、腕車の通ぜざる所多し。渓間に稲田あるも、なおいくぶんか米穀輸入を要す。しかして主なる産業は養蚕と植林なり。風俗は南信に接近せるをもって伊那郡に似たるところあり。民家の板ぶきに石を載せたるごときは伊那に同じ。郡内巡講中、連日松沢郡視学が穿鞋の労をとられたるを謝せざるを得ず。

 八月二日(日曜) 炎晴。前日より東加茂郡視学加藤貞祥氏の出でて迎えらるるあれば、今暁未明三時に起き四時前に発し、鵑声に送られつつ車行二里、山路高低あり。郡界を越えて伊勢神嶺の洞道に達す。洞内長さ百八十間、山口県佐波山トンネルに対抗すべき長隧なり。嶺頂ははるかに伊勢を望むを得るとて、古来衆人ここに登り大廟を遙拝せり。よって伊勢神の名を生ず。茶店に一休して弁当をひもとき、朝飯を喫す。更に行程四里、渓間に沿いて郡道あれども、半里余、腕車の通じ難き所あり。車行に交ゆるに歩行をもってし、東加茂郡旭村〈現在愛知県東加茂郡旭町〉字小渡町に入る。矢作川の上流に浜せる小市街なり。その対岸の地は美濃恵那郡に当たる。会場は増福寺、発起は村長安藤真一郎氏、助役同東五郎氏、収入役松井愛次郎氏、校長後藤英基氏、ほか六校長等なり。宿所藤屋旅館は江流に臨める新館を造り、工事いまだ終わらざるも、命名を嘱せられたれば、余は枕流館と名付く。夜に入れば江上の清風窓に入り、山間の明月軒にかかり、山高く月小にして赤壁の趣あり。ときに左の七絶をうそぶく。

両峰夾水一街通、樹影波光共入櫳、江上清風欺赤壁、山間明月想蘇翁、

(ふたつの峰にはさまれて川流があり、一市街がある。樹の影と川波のきらめきがれんじまどをとおして入ってくる。江上の清らかな風は赤壁の古戦場を思わせ、山あいの明月は蘇軾〔赤壁賦の作者〕を思い起こさせたのである。)

 三日 曇り。車行三里、一嶺を上下す。群峰起伏して渓路高低多し。会場および宿所は阿摺村〈現在愛知県東加茂郡足助町〉字実栗願永寺、発起は村長横山銀太郎氏、校長藤野礼一氏等なり。午後、雷雨あり。

 四日 曇りのち晴れ。暑はなはだし。巨石累々、渓水怒号の間を過ぎ、更に田蹊をわたりて県道に合し、足助町の東瑞を経て賀茂村〈現在愛知県東加茂郡足助町〉字桑田和久遠寺に至る。行程約三里、歩行車行と相交わる。本村の面積は群内第一なるも、山重々、渓曲々の地勢なり。開会は村長鷹見栄次郎氏、校長山本謙次郎氏等の発起にかかる。この日、新聞の飛報あり。中欧の列強戦国となり、独〔ドイツ〕露〔ロシア〕兵を交ゆと報じきたる。

 五日 開晴。暑威鑠金。車行二十五町にして本郡の首府たる足助町〈現在愛知県東加茂郡足助町〉に入る。その市街は左右両山の間に挟まれ、一帯の渓流に沿える小都会なり。会場宗恩寺住職鷹見円教氏は哲学館出身たり。発起は町長深見林右衛門氏、助役鈴木誠之氏、校長中根政太郎氏、および鷹見氏とす。当夕は郡長鶴見専太郎氏等と会食をなす。この夜再び宗恩寺に至り、共同救護社の依頼に応じて講話を聞く。会場はその地盤高ければ、市街を一瞰するに適す。たまたま旧六月十四日に当たり、月まどかに光満ち、この良夜をいかんせんの趣あり。帰りて旅館三島屋に入れば暑気いまだ減ぜず、電扇の下にてようやく眠りに就く。

 六日 全晴。一天無雲、暑気炎々。早朝、足助町の古刹曹洞宗香積寺をたずぬるに、山に踞し林を抱き、幽邃かつ清閑なり。もと風外和尚の所住せし寺なりとて、多くその遺墨を所蔵す。住職梶田氏は学徳兼備の評あり。茶一喫の後、郷社八幡社に隣れる足助神社を訪う。南朝の忠臣足助重範公を祭る。ときに所感一首を賦す。

参陽何地滌塵煩、尋到真弓山下村、香積寺中茶一喫、八幡社前弔忠魂、

(三河のいずれの地で俗塵のわずらわしさを洗いすてようかと、真弓山の麓の村にたずね入った。香積寺に至って茶を飲んでのどをうるおし、八幡宮に参拝して忠臣の魂を弔ったのであった。)

 真弓山は足助町にあり。これより車行一里半、盛岡村〈現在愛知県東加茂郡足助町〉楽円寺に至りて開演す。村長加納金作氏、校長神山常在氏等の発起にかかる。宿寺の書院新築まさに成らんとす。その寺は丘上にありて、軒前に崇山と相対するところ、大いに幽趣あり。よって光風台と命名す。夜に入りて満月晴空にかかり、清光白昼を欺く。

 七日 全晴。早晨四時、星と月とをいただきつつ盛岡を発し、松平村にて朝飯を喫し、これより徒歩または乗車して松平嶺を登る。途中、山腹に大石巨巌の突出せるを見る。本村は石の産地なりと聞く。行程六里、午前十時、下山村〈現在愛知県東加茂郡下山村〉東大沼に着す。山間の小市場なり。会場小学校は高地にありて眺望佳なる上に、新築日なお浅くして校舎清新なり。発起は助役大河原新八氏、校長松井鈴太郎氏、僧侶本多円曄氏等とす。宿所角一旅館も開店日なお浅くして、いまだ楼名を定めずと聞き、一鶴楼と命名す。

 八日 晴れ。暁霧あり。冷気にわかに生じて秋のごとし。昨昼〔華氏〕九十度なりし温度が今朝〔華氏〕七十五度に下る。この日、車行三里降路のみ。途中、横渓に入ること五、六丁、松平村〈現在愛知県豊田市〉徳川家祖先の廟所たる高月院を訪う。浄土宗なり。徳川一門の系図および数点の書類を蔵す。また、本堂には武装せる家康公の木像を安置す。境内すこぶる静閑なり。その寺より帰路二丁余にして、徳川家祖先の住せし旧邸の跡あり。松平家いまなおここに存す。その屋後に小社および石井あり。余の懐古の一首、左のごとし。

客遊今日入松平、幽谷猶存古梵城、憶昔徳川発於此、流作覇江注大瀛、

(旅客は遊歴して、こんにち松平村に入った。奥深い谷にはなお古い寺院が存在している。思うにここはむかし徳川家発祥の地であり、流れは覇業の大江となり、大海に注ぐのである。)

 会場吉祥院にては各宗寺院の主催にかかる、昭憲皇太后奉悼式あり。ついで郡教育会の主催たる講演会あり。発起者は村長中根隣治氏、校長林真作巍氏等なり。宿所材木商白木屋に命名して白樹軒となす。加藤郡視学は全郡を通じて案内の労をとられたり。

 本郡は、山岳の多くして平地に乏しき点は、決して北設楽に譲らず。あるいはそれ以上ならんも、渓間を利用して車道を通じおるだけ旅行に便なり。郡内の山林は用材林にあらずして雑木林なれば、養蚕と薪炭とを特産とす。気候に至りては北設楽よりも朝夕の暑気高きを覚ゆ。郡衙所在地たる足助町は従前、名古屋および岡崎より南信に通ずる駅道の咽喉を占め、物産の集中せる地なりしが、中央線全通以来、非常の打撃を受けたりと聞く。

 八月九日(日曜) 炎晴。この日、東加茂を去りて西加茂郡に入る。郡視学佐藤文之正氏の先導にて、車行四里、挙母町を経、平田と松丘とを一過して三好村〈現在愛知県西加茂郡三好町〉に入る。丘上には天然の盆栽的稚松多し。会場満福寺は浄土宗西山派にして稲荷堂を併置す。従前はその繁昌豊川稲荷に下らざりしが、今は昔時のごとく盛んならざるも、なお三好稲荷と称してその名遠近に聞こゆ。宿所原田重助氏は当地の富豪にして、邸宅、庭園ともに美なり。その令息は京北中学校出身たり。庭園は大ならずといえども、木石ともに趣向を凝らし、大いに風致に富む。余、これに一楽荘と命名す。発起者は柴田房吉氏、校長加藤富士男氏等なり。本郡は東加茂と異なりて平坦部多く、往々丘陵あるも道路の高低少なし。ただし丘上に禿頭赤土を露出せるもの多し。物産は米と繭のみ。目下秋蚕最中にて、聴衆はいたって少なし。夜分の暑気と蚊とは東加茂以上なり。日中〔華氏〕九十度にのぼり、夜に入るも〔華氏〕八十五度より下らず。

 十日 炎晴。車行二里、本郡の首府たる挙母町〈現在愛知県豊田市〉に着す。もと内藤家の城下なりという。その地は矢作川の西岸に位し、岡崎まで舟筏を通ずべし。会場は第一小学校にして、発起は町長寺内悠磨氏、校長榊原保重氏等なり。しかして郡内各所の主催はすべて郡教育会なり。当夕、沢屋旅館に宿す。昨今は欧州独、露、英、仏の間、交戦ようやくたけなわにして、その影響まさに東洋に及ばんとす。よって所感一首を賦す。

西欧今日戦雲昏、波及東洋動国論、誰使吾身遊物外、悠々講道亦皇恩、

(西欧の地では、いまや戦雲がたちこめ、その余波は東洋にまで及んで国内に論議をまき起こしている。いったいだれが私を世間の騒々しさから離れさせているのか。ゆったりと道徳を講論するのも、また天子の恩恵によるのである。)

 十一日 炎晴。車行十八丁、高橋村〈現在愛知県豊田市〉字寺部に至る。挙母とはただ矢作川を隔つるのみ。郡長森民重氏も来会せらる。本村にては公会堂新築まさに成り、諸般の設備みな清新。役場と連接し、農学校と比隣す。今日の講筵は実に本堂初回の開筵なりという。しかして平素は読書室とする設計なり。ほかに客室あり浴室ありて、村落の模範的会堂なり。目下秋蚕多忙を極むるをもって、聴衆は比較的少なし。ときに男爵渡辺半蔵氏も出席せらる。当夜ここに宿泊す。食事は隣家たる農学校の調理なるはすこぶる妙なり。発起者は村長今井幾四郎氏、農学校長高野豊治郎氏等とす。

 十二日 炎晴。車行一里、再び渡橋して対岸に移り、猿投村〈現在愛知県豊田市〉字花本光明寺に至りて、午後開演す。住職大谷静照氏は哲学館出身なれども、大谷派高田別院に奉職中にて不在なり。発起は村長近藤万吉氏、および保見、石野両村長とす。夜に入りて驟雨数回きたる。

 十三日 晴雨不定。午前四時、暗を破り暁を払って宿寺を発し、猿投山根をめぐりて小原村に向かう。山あれども高からず、松あれども密ならず、地質硬确なる所多し。藤岡村字飯野にて喫飯し、更に坂路を上下して小原村〈現在愛知県西加茂郡小原村〉字大坂に至る。行程五里、途中、水車の相連なるを見る。聞くところによるに、瀬戸陶器の原料はこの地より出ず。これを粉砕するために水車を用うるなり。小原村は大村にして、面積四方里を有し、四十四字より成る。その字中に大坂と大平との地名あるが、大坂に坂なくして大平に坂ありとは、あに奇ならずや。この日の途上吟、左のごとし。

夜来驟雨未全晴、緑稲青桑暁色清、行尽猿投山下路、松風送我水車迎、

(昨夜からのにわかな雨がまだ晴れやらぬうちに、稲の緑と桑の青さが暁の色に清らかである。猿投山の下の道を行き尽くせば、松に吹く風が私を送り、こんどは水車が迎えてくれたのであった。)

 会場は松月寺、発起は村長梅村富次郎氏、校長上田紋作氏等なり。演説後、雨ますますはなはだしく、風またこれに加わりたるも、風雨をおかして車をめぐらすこと二里、飯野旅館綿屋に至りて宿す。ときに日まさに暮るる。この間には車道あれども凹凸はなはだし。これ陶器原料を馬車にて搬出するためなり。小原は三河の最北端にして、美濃恵那郡と境を接し、その中央より岩村町まで六里内外なり。郡内巡講中は佐藤視学と郡書記大橋釼治氏と両人にて案内の労をとられたり。

 十四日 炎晴。朝六時半、飯野を発す。これより山路三里半、猿投山の背を迂回して、尾張東春日井郡瀬戸町に出ずる車道あり。その道凹凸多きために腕車は三人がかりならでは進まずと聞き、荷馬車に便乗して悪道をわたり、赤津に一休して前進す。荷馬車旅行は北海道にて数回試みしことあり。渓間一帯水車連続、転々の声相応して数里に及ぶ。これによりて瀬戸陶工の盛んなる一斑を推想するに足る。同行者は出迎え人野田師氏なり。瀬戸町は中央に小流ありて、両岸に人家櫛比す。各戸陶器を陳列せるが、中央の陳列館はすこぶる美大にして、実に陶都の趣あり。途上偶成、左のごとし。

参山尽処路崎嶇、攀石穿泥車漸駆、渓上水輪声不断、赤津飲馬入陶都、

(三河の山の尽きる所、山道はけわしく、岩石によじのぼり、泥濘をうがつようにして馬車はようやく進む。谷川のほとりに水車の音は絶えず、赤津で水飼った馬はかくて陶都に入ったのであった。)

 瀬戸より電車にて名古屋市に至り、五、六丁の間腕車をとり、更に犬山行きの電車に乗り込み、午後一時、丹羽郡岩倉町〈現在愛知県岩倉市〉に着す。暑気やくがごとし。会場は証法寺、主催は岩倉仏教会、宿所は発起者たる梅村捨次郎氏宅なり。

 十五日 炎晴。早朝、岩倉より電鉄に駕して一ノ宮町に至り、歩行三、四丁にして本線に移り、美濃国岐阜市〈現在岐阜県岐阜市〉に入る。市内には本派別院大堂巍立す。その大広間にて午前一席、午後一席、両度開演す。聴衆、場にあふる。一千三百人以上の目算なり。主催は真宗青年会、発起は会長渡辺栄吉氏、副会長篠田樹一氏、および有志家河村透氏とす。河村氏は昨夏、遠州浜松にて相識となれり。この日より後藤慧晃氏(菊麿改名)が、森山氏に代わりて随行することとなる。宿所小橋旅館は別荘的にして庭園にドウダンを満栽せるも、いまだ秋期に入らざれば吟賞するに足らず。終夜扇風機によりて除暑をなすもなお暑し。当市の名物は鵜飼と焼物なりとす。焼物は金華山焼と称して、やや雅致を有する陶器なり。

 八月十六日(日曜) 炎晴。午前、汽車にて安八郡大垣町〈現在岐阜県大垣市〉に移る。午後は縁覚寺、夜分は宝福座(劇場)にて開演す。ともに盛会なり。主催は青年会にして、尽力者は服部伝七氏、同伝吉氏、種田光次郎氏等、総じて十五名ありとす。当所名物柿羊羹は天保十二年の創製にして、槌谷祐七氏の家伝なり。大垣より養老までは近く鉄道を架設して往復の便を開けり。宿所は永田旅館(本玉屋)なり。

 ここに三河国を巡了したるにつき、その国なかんずく東参の言語、風俗、習慣の耳目に触れたる二、三件を紹介せんとす。三河の言語は概して解しやすく、尾州と同県なるも名古屋語のごとく耳障りの語調なく、東京の標準語に近し。三河人曰く、家康公が三河武士を引率して江戸城を開かれしをもって、従来の旗本語は三河語より出でたるものなりと。しかりしこうして、三河には京阪に似たる点あり。つまり三河は東海道筋において東京風と京阪風とのよって分かるる所なり。故に浜松までは関東風にして、豊橋以西は上方風を有す。実に八名郡がその境界線となる。言語またしかり。例えば八名郡までは居るをオルといい、山脈を越えて遠州地に入ればイルというの類なり。今まず方言の特殊なるものを挙げん。宝飯郡内にて聞くに、

人の宅へ行くことを誰某のガリへ行くという。ガリとは許の義なり。○カナシキことをウイという。これまた雅言なり。○髪を刈ることを頭をツモルといい、草を刈ることを草をツモルという。○ワルイ品をヤグイといい、隅のことをクロといい、人に向かいてユカナイカというべきを、ただイカナイという。すなわちイカナイカの義なり。

 つぎに設楽郡内にては、はなはだしいまたは非常というべき場合にトテモの語を用う。トテモ善イとか、トテモ旨〔うま〕イとかいうの類なり。この方言は南信と一致す。また、設楽地方にて淫売婦のことをカボチャという由。これも、南信より伝われる語となす。名古屋ではモカとかヤシャコラという。設楽のカボチャに同じ。また、設楽にては葬式道具を早道具という。市街の看板に「早道具アリ」と掲示せるは、葬式道具の義なり。また、設楽山中にて独木水車をボンブラともボットリともいう。また、藁塚を西参にてスズミ、東参にて稲倉という。また三河のみならず、愛知県一般に人と相対して互いに話すときに、話の筋が横道に入りたるときに「茶ノ木畑ヘハイッタ」という。これ、話が軌道を外れて脱線せる意なり。

 つぎに村名、人名等の珍奇なるものを挙げんに、西加茂郡内松平村の大字に酒呑と書きてシャチノミとよむ地名あり。最初、校名を酒呑小学校とせしも、学校には不適当の名なりとて鯱海校と改めたる由。また、同村に提立とかきてソダメタチと訓じ、同郡盛岡村に大字国閑と書きてカイゴと読むあり。また、西加茂郡内の地名に福谷をウキカイとよみ、筯生をアサブともよむ。先に掲げたる宝飯郡の千両をチギリとよむもみな奇なり。人名につきては八名郡内に、ある家の男児四人に一 ーヽノ の名を付けたり。一はハジメ、ーはススム 、ヽ はシルス、ノはモトルとよむなりという。あに珍名ならずや。名古屋には他県より愛知県へ移住して生まれたる子にヱと名づけたるものあり。これをアイチとよむ。アと一とを合したる字なるによるという。西加茂郡挙母町に女子の名を真次とつけたるものありて、往々男子に間違えらるる由。また、同郡にて戸籍に男子を女子と記入せるものあり。学齢に達して小学校へ入学のとき、はじめて男女の間違いを発見せりという。その原因は、当人の生まれしときに役場へ届け出だしたるも、その親は文字を解せざる故、役場員が代筆し、名はナルミというを聞き、いちずに女子と思い、戸籍に女と記入せしも、その実男子なりし由。これ一奇談なり。三河には姓に鈴木と安藤とが非常に多いために、鈴木、安藤、犬の糞と呼ぶ。

 つぎに風俗につきて述ぶるに、渥美郡にては夏時、農家は五回食事をなす。第一回(朝起きたるときの小食)を茶ノ子といい、第二回を朝飯、第三回を昼飯、第四回をユウサケ、第五回を晩飯という。ユウサケとは夕酒ならんも、午後三時ごろ酒をのまずに食事のみするのを夕酒と名付くるは奇なり。しかるに北設楽郡は毎日四回を常慣とし、朝五時に茶ノ子を食し、十時に朝飯、午後二時に昼飯、晩八時に夕飯を食すという。よってこの地方にては演説の時間を大抵午前十一時開会と定む。乗合馬車の色が東参は赤塗り、西参は黒塗りなるも奇なり。迷信につきては八名郡内にて聞くに、狐がついた、蛇がたたったといい、つきものは狐に限り、たたりものは蛇に限るがごとくに信ずという。また、同郡は牧畜に適するも、村によりて牛村と馬村とが分かれ、牛村にては馬を牧することを忌み、馬村にても牛を養うことをいとう。もしこれを犯すときは必ずその村に災害ありと信ずる由。宗教につきては、西参と東参とは大なる相違あり。西参は真宗最多数を占め、信仰の勢力盛んなり。これに反して東参は禅宗九分を占め、真宗極めて少なし。八名郡には真宗二カ寺、南設楽郡には三カ寺あるのみ。しかして北設楽には皆無なり。この地方はほとんど全く禅宗に属す。北設楽のごときは全部曹洞宗なり。したがって迷信大いに行われ、現世の吉凶禍福を祈念することはなはだし。聞くところによるに、豊川の御祈祷の盛んなるを見ても、その一斑を知るべしという。しかし山間部は交通不便なるために、旧慣を固執する風ありて、文化におくるる傾向なきにあらざるも、人情の醇朴なる点は大いに称揚すべし。また、渥美半島もすこぶる素朴の美質ありとて、従来、愛知県下の鹿児島と異名を付せられし由なり。

 

     東参全部、西参一部開会一覧

   市郡    町村     会場    席数   聴衆     主催

  豊橋市          小学校    二席  六百人    市教育会

  同            中学校    一席  六百五十人  校友会

  同            同前     一席  三十人    職員

  同            高等女学校  一席  三百五十人  校友会

  同            銀行     二席  百人     銀行有志

  渥美郡   田原町    小学校    二席  六百人    町教育会

  同     同      寺院     一席  四百人    婦人法話会

  同     福江町    小学校    二席  四百五十人  町教育会

  同     同      同前     一席  三百人    教員組合会

  同     伊良湖岬村  小学校    二席  四百五十人  村教育会

  同     泉村     小学校    二席  五百五十人  村教育会

  同     野田村    寺院     二席  七百人    村教育会

  同     同      同前     一席  三百五十人  仏教壮年会

  同     老津村    社務所    二席  四百五十人  村教育会

  同     高師村    寺院     二席  六百人    村教育会

  同     牟呂吉田村  小学校    二席  四百人    村教育会

  宝飯郡   蒲郡町    小学校    二席  八百五十人  町教育会

  同     同      寺院     二席  六百五十人  会場住職

  同     国府町    寺院     二席  七百五十人  郡教育会および町教育会

  同     牛久保町   寺院     二席  八百人    郡教育会

  同     豊川町    小学校    二席  七百五十人  郡教育会および町教育会

  八名郡   大野町    小学校    二席  六百人    郡教育会

  同     八名村    小学校    二席  五百五十人  同前

  同     下川村    小学校    二席  五百人    同前

  同     石巻村    小学校    二席  五百五十人  同前

  同     賀茂村    小学校    二席  五百人    同前

  同     舟着村    小学校    二席  四百五十人  同前

  同     山吉田村   寺院     二席  五百人    同前

  南設楽郡  新城町    寺院     二席  六百人    町役場

  同     海老町    小学校    二席  三百人    町教育会

  同     東郷村    小学校    二席  六百五十人  村教育会

  同     鳳来寺村   小学校    二席  四百五十人  村教育会

  北設楽郡  田口町    寺院     二席  四百五十人  町青年会

  同     段嶺村    寺院     二席  三百五十人  村教育会

  同     本郷村    小学校    二席  五百五十人  六カ村連合

  同     上津具村   寺院     二席  三百五十人  三村連合

  同     稲橋村    寺院     二席  二百五十人  連合村役場

  東加茂郡  足助町    寺院     二席  六百人    町教育会

  同     同      同前     一席  七百人    共同救護社

  同     旭村     寺院     二席  四百五十人  村教育会

  同     阿摺村    寺院     二席  五百五十人  村教育会

  同     賀茂村    寺院     二席  四百人    郡教育会および村教育会

  同     盛岡村    寺院     二席  三百五十人  村教育会

  同     下山村    小学校    二席  六百五十人  郡教育会および村教育会

  同     松平村    寺院     二席  五百人    郡教育会および村教育会

  西加茂郡  挙母町    小学校    二席  四百五十人  郡教育会

  同     三好村    寺院     二席  三百五十人  同前

  同     高橋村    公会堂    二席  三百人    同前

  同     猿投村    寺院     二席  二百人    同前

  同     小原村    寺院     二席  三百人    同前

   合計 一市、七郡、四十町村(十二町、二十八村)、五十カ所、九十三席、聴衆二万四千百八十人、日数四十四日間

 

     付

尾濃三カ所開会一覧

   市郡       町村  会場  席数   聴衆     主催

  丹羽郡(尾張)  岩倉町  寺院  二席  五百人    仏教会

  岐阜市(美濃)       別院  二席  一千三百人  真宗青年会

  安八郡(同)   大垣町  寺院  一席  五百人    仏教青年会

  同        同    劇場  一席  八百人    同前

   合計 一市、二町、四カ所、六席、聴衆三千百人

    三河および尾濃演題類別

     詔勅および修身に関するもの………………四十席

     妖怪および迷信……………………………三十三席

     哲学および宗教………………………………十三席

     教育………………………………………………八席

     実業………………………………………………五席

     雑題………………………………………………無席

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滋賀県巡講第四回(湖北)日誌

 大正三年八月十七日。午前六時、美濃大垣駅より三等急行に駕し、米原を経て滋賀県伊香郡木之本駅に降車す。随行は後藤慧晃氏なり。まず湖北に入りて第一に目に触るるものは、田頭に枯木林立せるなり。これ秋穫のときに稲をさらすために備うるものにして、いわゆる稲ハサなり。その木を万年杭と名付くるはおもしろし。第二に目を引くは、農家の茅屋がみな破風形をなし、屋棟の両側に空気を流通すべき窓口を有することなり。木之本より郡視学小谷源助氏とともに、車行半里、歩行半里、舟行一里にして塩津村〈現在滋賀県伊香郡西浅井町〉に達す。歩行の場所は史上に名高き賎ケ岳の山脈にして、大音より飯之浦に至る間なり。故にその坂路を大音坂という。飯之浦は湖畔の小部落なるが、ここに地獄、娑婆、極楽の三道ありと伝う。その村よりただちに北国本道に出ずるすこぶる険難なる山道あり。これを地獄坂と名付く。これに反し山麓を迂回し湖浜に沿える砂路あり。これを娑婆と名付く。しかして湖上を舟にて渡る方を極楽という由。ある人の狂歌にいう。

  世の中に弘誓の舟がありながら、ゼンナク地獄へ往くぞかなしき、

 湖上を渡るには舟賃を払わざるべからず。銭なきものは余儀なく地獄坂に向かうとの意ならん。

 塩津村は鉄道開通前までは大湖の要津にして、北国へ来往するものは必ず当村より大津の間を舟行するために、自然に物貨の集散点となれり。故にその当時は腕車二百台、船舶数百艘、旅店数十戸ありし由なるが、北陸線ひとたび通じて以来にわかに寒村と化し去り、一台の腕車なく、駅道に草を生ずるがごときありさまとなり、わずかに数艘の船舶と二、三の旅店をとどむるのみ。本村より越前国境まで二里半、敦賀港まで六里、大津市まで二十一里あり。当地の会場は小学校、主催は青年団、発起は村長田中丑之助氏、宿所は敦賀屋なり。宿所より会場まで十二、三町を隔つるが、腕車なきために炎々たる日光の下を徒歩にて往復したり。

 十八日 炎晴。未明四時に晨起し、鶏声、茅店の月に応接しつつ五時出帆の汽船に駕す。幸いにその船は竹生島に寄航せるために、甲板より親しく山内を望見するを得。所見二首を賦す。

鶏声報暁月猶残、湖上晴嵐夏亦寒、賎岳帯烟未全見、旭光先入竹生巒、

(にわとりの声が夜明けをしらせ、残月はなお天にあり。湖上にたちのぼる山気は、夏なお寒く、賎ヶ岳は霧をおびてその姿をすべては現さず、朝の光はまず竹生の山にさしたのである。)

湖心一点挟孤山、竹髪松眉開笑顔、近見弁財天廟静、風光都是小仙寰、

(湖心の一点にぽつんとうかぶ山をもち、竹を髪とし松を眉として笑うがごとし。近くには弁財天のみたまやが静かに立ち、風光はすべて小さな仙人の郷である。)

 これより長浜に上陸し、更に汽車に移乗して木之本村〈現在滋賀県伊香郡木之本町〉に至る。同村は湖北における第二の都邑にして、町を公称すべき市街なり。当地の地蔵尊は県下にその名高く、人をして木之本の地蔵か、地蔵の木之本かと称せしむ。その地蔵はむかし行基菩薩が大樹を三分して、三体の地蔵を彫刻せられしとき、木の本の方にて造りたる由来より、木之本の地名起これりと聞く。毎年八月二十三日、二十四日両日は地蔵の大縁日にして、非常の雑沓を極むという。この地蔵を信仰すれば眼病全治すと信じ、眼病者遠近より雲集す。その寺を長祈山浄信寺といい、時宗に属す。本日の会場たる妙楽寺は大谷派にして、湖北第一の大寺との評なり。本堂は広くして千人以上をいるるに足る。演説後、地蔵尊に参拝して、その寺内の明治天皇行在所を拝観す。当地の春秋二期の馬市もすこぶる盛んなりと聞く。主催兼発起者は村長藤田直弘氏にして、宿所は藤田旅館なり。町内ところどころ清水湧出す。

 十九日 炎晴。車行約一里、北富永村〈現在滋賀県伊香郡高月町〉字雨森に至る。会場兼宿所の芳沢寺副住職天守正隆氏は東洋大学在学中なり。この字は戸数百四十戸にして、寺院六カ寺あり。一カ寺の檀家平均二十三戸の割合なるには驚けり。当夕、郡長木村市太郎氏と会食す。主催は村および仏教青年会にして、野村与一郎氏その村長たり。

 二十日 晴れ。車行一里、稲田いまだ出穂せず。古保利村〈現在滋賀県伊香郡高月町〉字西野充満寺にて開演す。青年会長兼村長小沢修氏の主催にかかる。住職は川崎最氏なり。寺内には客席数室あり。聴衆は名のごとく堂内に充満す。この地には水閘竇と称する長さ百二十余間、山根の巌石を貫ける隧道あり。天保十一年起工、弘化二年竣工せりと記す。水害を除くために下水の道を開きたるなり。今より八十年前の工事としては驚くべし。哲学館出身松尾徹外氏は本村に住し、数回来訪あり。

 二十一日 炎晴。車行一里、南富永村〈現在滋賀県伊香郡高月町〉字高月存法寺にて開会す。村長田川雅太郎氏、校長森田譲氏等の発起なり。高月には比較的料理店多しと聞く。夜に入りて蛩語喞々、あたかも秋来を報ずるもののごとし。伊香郡には式内神社最も多く、その数三十余社ありという。

 二十二日 炎晴。車行一里余、東浅井郡に入り、朝日村〈現在滋賀県東浅井郡湖北町〉正賢寺にて開会す。午前、当村の公園たる朝日山に登る。正面は多景島、側面は竹生島に対し、湖上を一瞰すべし。帰路、小学校の養蚕実習を一覧す。しかして演説後は哲学館大学出身柴田甚五郎氏の宅を訪い、酒肴の饗を受けて宿寺にかえる。発起は村長藤居助太郎氏および柴田氏なり。本村を一貫して湖に注ぐ小流あり、これを余呉川という。その源を余呉湖に発するによる。よって一詠す。

炎晴八月客江州、満目稲田穂未抽、午下気蒸朝夕冷、余呉川上已催秋、

(もえるような暑さ、晴天の八月、近江国に客となり、みわたすかぎりの稲田に穂はなおいでず。午後の大気は蒸すがごときも、朝夕は冷えて、余呉川のほとりにはすでに秋の気配がただよっている。)

 八月二十三日(日曜) 朝晴れ。午前風ありて涼し。車行約一里にして竹生村〈現在滋賀県東浅井郡びわ町〉に入る。本村は竹生島の正面に当たれるとて、その島を所轄す。湖上五十町を隔つ。正午より大雨となる。この日、ドイツに対して宣戦詔勅下る。会場は源慶寺、発起は村長村田政治郎氏なり。宿所上野源之丞氏の宅には、多く古書画、古器物を珍蔵す。

 二十四日 雨のち晴れ。車行一里半、速水村を一過して小谷村〈現在滋賀県東浅井郡湖北町〉に入る。会場は竜本寺、発起は村長脇坂駒吉氏、校長伊吹政治氏等なり。本村には浅井長政の城趾たる小谷山あり。懐古一首を浮かぶ。

小谷村頭城跡存、満山樹色動吟魂、追懐三百年前事、一夜松風掃夢痕、

(小谷村には浅井長政の城跡があり、全山の樹の色は詩魂をゆさぶる。三百年前のことを思い、一夜、吹く松風は英雄の夢のあとをはらうのであった。)

 山上には松樹鬱然たり。宿所平森元治氏の宅は醸酒家にして、小谷山より流下せる渓水をくみて酒を醸す。その酒名は「松露」という。よって「小谷涓々水、集成松露泉、汲来醸春酒、一酌化神仙」(小谷山よりわずかに流れる水は、やがて集まって「松露」の泉となる。春に醸成せる酒をくみきたれば、一酌して神仙になるのである。)の五絶を賦して壁上にとどむ。

 二十五日 晴れ。車行一里半、小谷山麓を迂回して田根村〈現在滋賀県東浅井郡浅井町〉字高畑に至る。詩宗小野湖山翁の出身地なり。よって一吟す。

伊吹之北大湖東、山水相逢産此翁、老後文壇占独歩、詩名九十七年崇、

(伊吹の北、琵琶湖の東、山と水の逢うあたりに詩宗小野湖山翁が生まれた。老年に至っても文壇に独自の位置を占められ、詩人としての名声は九十七年の高さをもつのである。)

 その寿九十七歳にして没す。江州と聞けば商業家のみのごとく想するも、昔時にありては中江藤樹、浅見絅斎を出だし、近時は詩人として岡本黄石(彦根)と小野湖山を出だし、書家としては巌谷一六(水口)と日下部東作(彦根)を出だせり。会場兼宿所は光現寺、発起は村長山田与平治氏、助役松浦為三氏、青年会幹事横山良太郎氏、および役場書記なり。

 二十六日 風雨。山越一里半の所、車道を迂回せるために約三里にして、上草野村〈現在滋賀県東浅井郡浅井町〉字野瀬光福寺に至る。途中、豪雨に会す。本村は草野の上流たる渓間に位し、前後山脈を襟帯す。宿寺は仏光寺派にして、湖北名刹の一なり。庭泉また趣あり。主催は仏教徒同盟会なるも、村長草野谷十氏等の発起なり。

 二十七日 晴れ。山路一里半、峻坂を上下す。登路十八丁、すこぶる険にして諸車通じ難し。嶺頭湖面を一望するところ、大いに壮快を覚ゆ。婦人の背上にて薪炭を運出するもの相連なる。会場は東草野村〈現在滋賀県坂田郡伊吹町〉字吉槻光泉寺にして、発起は住職稲田千外氏、村長船川万平氏等なり。本村は伊吹山の背部に位し、姉川の上流にまたがり、三里にわたれる山村にして、美濃揖斐郡の山奥と境を接す。山高く谷狭き間に多少の稲田ありて過半出穂せり。物産は薪炭と牧牛なる由。目下、水力電気の工事中なり。当夕、荒川客舎に泊す。

 二十八日 晴れ。旅店を発し、徒歩十三、四丁、小坂をくだれば腕車の迎うるあり。車道を迂回して七尾村〈現在滋賀県東浅井郡浅井町〉に入る。行程三里なり。むかし織田信長と浅井長政と干戈を交えたる姉川古戦場はこの村にあり。姉川は湖北第一の川なり。

伊吹山下一川長、此地伝言古戦場、満目稲田緑無際、昔年兵馬跡茫々、

(伊吹山のふもとに一本の川が長々と流れる。この地は姉川の古戦場と伝えられる。みわたすかぎり稲田の緑がかぎりなく広がり、昔の兵馬抗争の跡も茫々としてみえず。)

 会場兼宿所たる存光寺は天然の洪岳を客席の庭にかたどる。また、室内の装飾品はすべてシナ製を用う。哲学館出身大田見明氏は、坂田郡神照村に住するも、この寺を実家とす。同じく近年の卒業生たる大富秀賢氏は本村に所住す。発起兼尽力者は住職佐野即語氏、僧呂寺義恵吟氏、村長川崎房美氏、助役中川治一氏なり。夜に入りて雷雨きたる。

 二十九日 風雨、大いに冷気を催す。車行一里、湯田村〈現在滋賀県東浅井郡浅井町〉誓願寺に入る。本派の寺院中、由緒ある寺なりという。その梵鐘は歴史的にして、南北朝時代の鋳造なる由。発起は村長堀井惣治郎氏(医師)、助役久保田荘豪氏、校長山田佐一郎氏等なり。当日、鹿児島以来の旧知たる松見善月氏来訪あり。

 八月三十日(日曜) 晴れ。車行一里弱、郡衙所在地たる虎姫村〈現在滋賀県東浅井郡虎姫町〉に至る。本村は元三大師〔良源〕誕生地にして、その遺跡に栄光山玉泉寺あり。本堂は二重屋根にして山門なし。堂側に古井あり、産湯水と称す。毎年八月七日は母御の没せられし日なりという。当日、この井中に必ず多少のもみの浮かぶあり。これにつきてその年の豊凶を卜する由。奇怪というべし。本堂には大師自作の木像あり、日々御鬮〔みくじ〕を請うものたえず。会場は大谷派五村別院とす。本堂、書院ともに広闊なり。書院は昨年の新築にかかる。当地は明治四十二年湖北大震の中心に当たり、家屋の破壊せるもの多かりき。書院もそのときたおれたるために再築に及べり。境内数カ所に清泉噴出せるを見る。当日、郡長有馬正清氏も出席せらる。郡内巡講中は視学立川浅七氏および書記松村隆治氏、両三回来訪ありたり。演説後、別院内において哲学館出身者の同窓茶話会あり。柴田甚五郎、大田見明、松尾徹外、松見実言四氏出席す。本郡内の特色としては、大字に寺の字の付きたる地名多き一事なり。その数十二カ所あり。虎姫主催は仏教徒同盟会なるも、村長田中豊文氏が主なる発起なり。

 三十一日 晴れ。車行二里、坂田郡北郷里村〈現在滋賀県長浜市〉に至る。会場兼宿所たる順慶寺は大谷派にして、湖北における第二の大寺なりとす。室内には書画骨董、累々山をなす。また、珍奇の盆栽多し。庭前には一小池あり、その形鴛鴦に似たり。細流あり、蛇形をえがきてこれに入る。また、その周囲には古松新楓相交わる。秋光最もよしという。長久山はその山号なり。

長久山頭有小池、松楓囲水緑将垂、我来諷詠時猶早、遺憾霜風未染枝、

(長久山順慶寺の前に小池があり、松や楓が池をめぐって、緑もしたたるばかりである。私が訪れて吟詠するにはなお時期が早く、残念ながら霜を伴う風もなく、まだ枝葉を染めるまでにはいたっていなかったのである。)

 本日の主催は青年団にして、発起は住職橿原信英氏、団長(村長)木村半次郎氏、役場員矢場徳之進氏、大塚八十八氏、ほか五名、校長堀田末松氏、官吏矢野正一氏、有志家中島吉雄氏等なり。郡役所よりは視学大橋岩次郎氏病中なりとて、書記林慶司氏代わりて来訪せらる。

 九月一日 晴れ。車行二里余、春照村〈現在滋賀県坂田郡伊吹町〉字村木正光寺に至りて開会す。本村は伊吹山麓に近し。この隣村の伊吹村字上野が実に登山口なり。東海道線によるものは長岡駅に降車し、これより腕車をやとい、春照村を経て上野に達す。その里程一里なり。上野にて案内をとり、登ること一里半にして絶頂に達すという。発起は住職西村大厳氏、村長林繁太郎氏、青年会長森徳之進氏等なり。その夜、鼠軍襲来、枕頭の茶菓を略奪して去る。この村は美濃不破郡と境を接す。村木より国境まで一里を隔つ。

 二日 晴れ。この日、二百十日の厄日なるに、天気平穏なれば農家みな豊年を歓呼す。車行二里半、南郷里村〈現在滋賀県長浜市〉に至る。道路平坦。稲田ようやく穂をぬき始む。会場は極性寺、休泊所は同寺の隠宅なり。主催は四恩会にして、明治天皇および昭憲皇太后奉悼会を挙行し、続きて先帝の御聖徳を演述す。聴衆、堂の内外にあふれ、すこぶる盛会なり。村長木野四郎吉氏、および役場吏員ことごとく大いに奔走尽力あり。本村は蚊帳製造の工場を有し、一カ年の産額二十万円に上るという。この日の暑気、日中〔華氏〕八十八度、日暮るるもいまだ減ぜず、夜中なお〔華氏〕八十二、三度なり。しかして明月晴空にかかり、夜気清朗たり。

 三日 曇りのち晴れ。車行一里、大原村〈現在滋賀県坂田郡山東町〉字野一色円徳寺に移る。その客席は小庭を控え、風の流通すこぶるよろしきも、なお炎熱たえ難し。同寺の家族中に京北中学校出身者あり。本郡にはかつて郡長の勧奨により、町村吏、宗教家等、互いに結合して組織せる四恩会あり。本村もまたその主催なり。しかして住職中原大定氏、村長箕浦相教氏、四恩会幹事房岡誠意氏等、もっぱら尽力あり。宿寺にはシナ仏像(石仏)の古雅珍奇なるものを所蔵せらる。地名を野一色と称するは、昔時一面の原野なりし故ならんも、今日は一面の米田となりたれば、農一色と改称して可なり。

 四日 晴れ。車行約一里にして長岡駅に至り、更に汽車十分以内にて柏原村〈現在滋賀県坂田郡山東町〉に達す。これ美濃国境に接続する旧中山道の要駅にして、世に名高き寝物語の市街なり。この日、郡長鵜飼元吉氏、長浜より出張ありて会談するを得たり。午後、安立寺において先帝および皇太后の奉悼会ありたれば、その席にて聖徳の一滴を敷衍す。つぎに小学校に移り、一般公衆に対して演述し、篤志家松浦久雄氏の宅に至りて宿泊す。その庭園小なりといえども趣味あり。当夕、旧暦七月十五日に当たり、明月輝を放つ。村内の旧慣なりとてタイマツ祭りあり。大タイマツを作り衆人これを提げ、山上を一登一降して墓所に至る。故に墓所大いににぎわう。ただし九時より月食始まり、十時後は八、九分どおり光を失う。発起は村長松浦千代松氏、住職野上覚珉氏、校長奥田喜三郎氏等なり。

 五日 晴れ。風ありてややしのぎやすし。車行二里、旧中山道を一過し、醒井より里道に入り、東黒田村〈現在滋賀県坂田郡山東町〉字志賀谷に至る。会場は福願寺、宿所は森田見道氏の宅なり。森田氏は俗称善之助なりしが、信仏のあまり僧となり、見道と改名せし由。発起者村長高森慶多郎氏、僧侶広瀬了明氏(会場住職)、同南谷智鏡氏(安能寺住職)、大いに尽力あり。この郡内の米田の平均所得を聞くに、一反につき米六、七俵、小作米三俵ぐらいのものなりという。

 九月六日(日曜) 曇り。朝夕の涼風やや秋冷を感ず。車行一里にして醒井村〈現在滋賀県坂田郡米原町〉に入る。旧中山道の一駅にして、余は明治十年夏期、この地を一過せしことあり。街頭に清泉湧出、中央を一貫して潺々として流る。その冷ややかなること氷のごとし。炎暑の候といえども、手足を五分間以上水中に浸すことあたわず。もってその寒冷のはなはだしきを知るべし。もしその源頭に至れば、巌石の間より非常の勢いをもって湧出する水あるを見る。その傍らに古色を帯びたる一石が水流中に介立せるあり。これを日本武尊御腰掛の石と標示す。また、別に湧出口あり。これを西行水という。その清泉の豊富なるは、若州瓜割水を除くの外は余のいまだ見ざるところなり。瓜割水も岩石の間よりほとんど沸騰するがごとき勢いをもって流出し、瓜を水中に浸せば亀裂を生ずというより、その名起これり。醒井の地名もこの水より起こる。ときに七絶一首を賦す。

醒井街頭一帯川、清冷徹底自潺々、霊仙山上三冬雪、解入巌根作此泉、

(醒井の街頭には一貫して流れる川があり、その清らかで冷たいこと氷のごとく、おのずからさらさらと流れる。霊仙山の上に三冬を経た雪が、ようやくとけて巌石の根を通ってこの泉となるのである。)

 会場は小学校にして、宿所は法善寺なり。発起および尽力せられたるは村長野瀬甲助氏、校長滝沢半之平氏、および役場員にして、当地旧家江竜清城氏も助力せらる。江竜氏の先代は典学館を開きて郷党の子弟を訓育せられたりとて、門生相集まりて頌徳碑を建てんとす。余はもとめに応じて、その旨趣書に題すること左のごとし。

典学館已閉、門生今尚滋、追憶先生恩、誠意各投貲、醒井泉清処、欲建頌徳碑、

(郷党の子弟を訓育した典学館はすでに閉じられるも、門下生はいまもなお多く、先生の恩を追憶し、誠意をもっておのおのが資金を出し、醒井の泉の清らかなる所に、頌徳碑を建てようとしているのである。)

 七日 晴れ。車行二里、入江村〈現在滋賀県坂田郡米原町〉に至る。米原はその大字なり。米原行の一吟あり、左に掲ぐ。

江北山河気壮哉、風光自作養心媒、伊吹在右霊仙左、当面琵湖向我開、

(近江の北の山河はまことに壮大なるかな。風光はおのずから心を養うなかだちとなる。伊吹山は右にあり、霊仙山は左にあり、正面の琵琶湖は私に向かって開いているのだ。)

 会場青岸寺は曹洞宗にして、境内、堂上ともに清閑なり。その庭園のごときは天然の山に人工を加え、すこぶる趣向を凝らせり。ただ、池中に水なきを欠点とす。河合鉄城氏その住職たり。演説後、停車場前井筒屋本店に移りて宿泊す。米原は蚊の名所として名高きも、昨今秋冷のために大いに減ぜり。終夜汽車の出入たゆるときなく、その震動相伝わり、ときどき地震を夢みて驚き醒む。開会に関しては村長中川謙三氏、非常の尽力あり。役場員また、みな一方ならざる奔走により、哲学堂維持金の方は湖北三郡中において第一の好結果を得たり。当夕、深更まで揮毫に従事す。

 八日 晴れ。車行一里、鳥居本村〈現在滋賀県彦根市〉に至る。その村はもと中山道の一駅にして、磨針嶺の南麓にあり。嶺頭に旧時茶店を開きし古屋、今なお残る。本村より彦根までも約一里ある由。会場兼宿所たる専宗寺は、本県における本派の大寺中の一におる。発起者は村長野口十次郎氏、宿寺住職松浦徹城氏、および光善寺住職奥山菊寿氏、在郷軍人会長武田佐重郎氏等なり。宿寺書院は座して湖面を一望するを得。

 九日 晴れ。車行二里、米原を経由して法性寺村〈現在滋賀県坂田郡近江町、長浜市〉に至る。途上、水田穂すでに全身を抽出し、稲花白を浮かぶ。一見、豊作の色あり。よって一詠す。

行尽磨針山下郷、晴風一道稲花香、戦雲未散秋将熟、人祝年豊幾挙觴、

(磨針山の麓の村を行き尽くせば、晴れやかな風が道に吹き、稲の花が香る。大戦はいまだ終結していないが秋はまさに成熟のときを迎えようとし、人々はみのり豊かなるを祈っていくたびか杯を挙げたのであった。)

 会場福田寺は真宗中祖蓮如上人の旧跡にして、本派の別格別院たり。伽藍したがって巨大なり。しかして宿所は村長伊部重平氏の宅にして、会場を隔つること十五町あり。その家、醸酒を業とす。名酒を「胆富貴」と名付く。けだし伊吹山に取りたる名称ならん。発起者は伊部村長の外に校長宮川千代一氏、徳善寺住職飯村祐念氏なり。本村は近江真綿の産地なりと聞く。

 十日 曇り。車行一里、神田村〈現在滋賀県長浜市〉字加由薫徳寺に移る。主催は神田、六荘、西黒田三村連合なれば、聴衆も必ず過多ならんとて堂外へ掛け出しをなせり。発起者は青年団長辻川原重氏、神田村長坂松太郎氏、同校長田中保太郎氏、六荘村長高田藤太夫氏、校長伊香豊太郎氏、西黒田村長清水哲雄氏、校長田附文之助氏にして、みな大いに尽力あり。この地方は農業の外に縮緬織の工業地たり。聞くところによるに、神田村字神田は人家二百戸余の所に寺院七カ寺あり。一カ寺の檀家、平均三十戸以内に当たる。毎度ながら、滋賀県の寺院の夥多なるには驚かざるを得ず。

 十一日 晴れ。車行一里、湖北第一の都会たる長浜町〈現在滋賀県長浜市〉に移る。午前、県立農学校にて講話をなす。校長は石田彰氏なり。午後、大谷派別院大通寺にて演説を開く。聴衆、大広間に満つ。この別院は本堂、書院すべて広闊にして、その深殿には古来の妖怪談あり。なかんずく衆人の目を引くものは、山門の宏壮なると老松の巨大なるとの二なり。開会主催は町青年会にして、その会長は町長中村喜平氏なるも、両三日前にわかに郡長の更送ありて、本日その送迎会のために、助役中沢安治郎氏代わりて来会せらる。しかして副会長は小学校長にして、幹事は石居寅蔵等の諸氏なりとす。演説後、停車場付近なる井筒屋旅館に一休し、当夜の急行にて帰東す。

 以上、湖北三郡を巡了したるにつき、ここに見聞の数項を述ぶべし。まず三郡中にて町名を公称せるは長浜だけにして、その他はみな村なるは他県にも少なき例なり。将来、町の候補としては木之本と米原とを推す。本県に寺院の多きは、各郡みなしかりといわざるを得ず。ただし、宗教の勢力あるは湖北三郡を第一とす。湖北のある村にて聞くに、檀家の戸主たるもの死するときは、葬式の礼として寺院に納むる金額は下等にても二、三円を下らず、中等にて五円以上、上等は十円以上を常とす。そのほか永代読経料として金ならば五円、十円、米ならば一俵、二俵を納むるなり。その他、寺院の修繕費を負担するはもちろん、住職の長男の修学費までを負担する由。また、真宗檀家にて法事のときに浄土三部経の読誦を請うときは、三円以上を納むという。故に寺院にては檀家二、三十戸あれば普通の寺となし、五十戸あれば上等の寺と称し、百戸以上は特別上等と呼ぶとのことなり。これ一村落の所談なるも、この一例に照らして他を推測するを得べし。しかしこの旧慣が将来永く続くべきか否につきては、今より一考しおかざるべからず。したがって寺院の警戒を要するなり。

 湖北にて再三実見せしが、客に対して飯を出だすに円体の飯櫃にあらずして、長方形の大重を用うるなり。これをサカイジュウという由。その文字、堺重ならんか。あるいは入れ子ともいう。また、婚礼の披露のときに、湖南にては九ツ組の杯を用うと聞きしが、湖北にては十二組の杯を用う。その台杯には酒一升二、三合ないし一升五合をいるるべしという。これ江州特有なるべし。最初、江州は蚊と瘧との名物と聞きしが、残暑の候に入りしためか、夜分の蚊は案外少なく、ただ朝夕の薮蚊に苦しめらる。瘧に至りては幸いに免れたり。つぎに一言しておきたきは湖北の風呂桶なり。その構造は湖東の中郡の風呂と大同小異なり。桶の横面に出入の窓口を付くることと湯のいたって浅きこととは、両地方相同じきも、桶の上の方は同じからず。中郡にては上方の蓋は固着して動かすべからざるを常とするに、湖北の方は蓋が蝶ツガイになりて、自在に開閉し得るなり。かつその蓋の中央に長さ二尺ぐらいの小竹を結び付け、入浴者が内部よりその竹を引けば、たちまち蓋の閉じらるるようの仕掛けなり。これ中郡の風呂より一段の改良というべし。しかるに右様の風呂の江州に用いらるるは倹約主義より出でたるに相違なきも、衛生上より考えきたらば最も不都合の仕掛けといわざるべからず。その内部の暗黒にして空気の流通の悪しきのみならず、外部にて身体を洗うこと難し。かつ湯の量極めて少なきをもって、両三人入浴の後には、湯中に垢をとどめ、湯臭を発するを免れず。したがってトラホームや伝染病の媒介をなすの恐れあり。故にいかに国粋保存とはいえ、この特有の風呂だけは全廃せられんことを望む。もし倹約主義ならば、近年流行の長州風呂を用うべし。

 旧来の江州の居室は窓口に乏しく、光線の入り難くして陰気なる方多かりしが、近年は漸次改良せられしように見えたり。ただし便所の窓口に乏しくして、空気の流通を欠けるもの多きがごとし。これまた改良を望むところなり。湖北に至りては青年と婦人間の風俗おもしろからずとは往々耳にしたりしも、実際の情況を熟知せざれば、かれこれの批評を加え難し。もしかかる事実ありとせば、青年は大いに自警あらんことを望む。

 上来述ぶるがごとく余が遠慮会釈なく所望を開陳したるは、無礼の罪免れ難きも、余の一片の婆心より出でたるものなれば、よろしく寛恕せらるべし。そもそも滋賀県巡講は二月以来九月まで四回にわたり、各所において多大の厚意と分外の優待とに接したるは、深く感謝するところなり。実に江州人の忍耐力に長じ、宗教心に富めるは感賞してやまざるところとす。ことに湖北の宗教の盛んなるは、二十六カ町村の開会に対して小学校を会場とせしはただ三カ所のみ、その他はみな寺院なり、宿所も八分どおりは寺院なりしを見ても知らるるなり。終わりにおいて、余が近江八景を賦したる一絶を録す。

琵湖六十里余程、一碧万波冬夏清、水色山光何限八、四辺都是紫明城、

(琵琶湖の六十里余におよぶ行程を経た。湖のみどりと万波は冬、夏ともに清らかであった。水の色も山のかがやきも、どうして八景に限る必要があろうか。四辺はすべて山紫水明の地なのである。)

 余は湖北巡講中、霊魂不滅、未来有無の説明をもとめられ、因果の原理に照らして立論したり。ときに詩を賦してその意を人に示せり。付録として左に掲ぐ。

夭寿本難期、栄枯非所知、仁人災荐至、逆賊福還随、

(早死にか長寿かはもとよりその時を知ることはできないし、栄えるか枯れるかも知ることはできぬ。仁徳の人にも災いはしばしば至るものであり、逆賊の人にも福はめぐりくるものである。)

善悪若無報、神明必有私、仏経説因果、此理復奚疑、

(善悪にもしむくいがないならば、神の明知にも必ずや私情があることになる。仏典には因果が説かれているが、このことわりもまたどうして疑おうか。)

 

     滋賀県湖北三郡開会一覧

   〔郡    町村    会場  席数   聴衆     主催〕

  伊香郡   木之本村  寺院   二席  五百人    村長

  同     塩津村   小学校  二席  二百五十人  青年団

  同     北富永村  寺院   二席  五百人    村青年会および仏教青年会

  同     古保利村  寺院   二席  六百人    青年会

  同     南富永村  寺院   二席  四百五十人  村役場

  東浅井郡  虎姫村   別院   二席  九百人    仏教徒同盟会

  同     朝日村   寺院   三席  四百五十人  教育会

  同     竹生村   寺院   二席  五百人    村役場

  同     小谷村   寺院   二席  四百人    村青年会

  同     田根村   寺院   二席  四百五十人  村青年会

  同     上草野村  寺院   二席  一千人    仏教徒同盟会

  同     東草野村  寺院   二席  四百五十人  村役場

  同     七尾村   寺院   二席  四百五十人  村役場

  同     湯田村   寺院   二席  五百人    村長および寺院

  坂田郡   長浜町   別院   二席  八百五十人  町青年会

  同     同     農学校  一席  二百五十人  校友会

  同     北郷里村  寺院   二席  六百人    村青年団

  同     春照村   寺院   二席  四百五十人  村役場

  同     南郷里村  寺院   二席  七百五十人  村役場および四恩会

  同     大原村   寺院   二席  四百人    村役場および四恩会

  同     柏原村   寺院   一席  五百人    奉悼会

  同     同     小学校  二席  六百人    村役場

  同     東黒田村  寺院   二席  五百五十人  村役場

  同     醒井村   小学校  二席  六百人    村役場

  同     入江村   寺院   二席  三百人    村役場

  同     鳥居本村  寺院   二席  五百五十人  村役場

  同     法性寺村  寺院   二席  五百人    村青年会

  同     神田村   寺院   二席  六百五十人  三村連合青年会

   合計 三郡、二十六町村(一町、二十五村)、二十八カ所、五十五席、聴衆一万四千九百五十人、日数二十六日間

    演題類別

     詔勅および修身に関するもの……………二十四席

     妖怪および迷信………………………………十二席

     哲学および宗教………………………………十一席

     教育………………………………………………二席

     実業………………………………………………四席

     雑題………………………………………………二席

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伊香保温泉漫遊記

 本年〔大正三年〕は七月、八月の間、半日の休暇なく、炎暑をおかして巡講を継続したれば、心身ともに疲れて綿のごとくなれり。よって帰宅早々、群馬県の温泉休養を思い立ち、大正三年九月十六日、晴れ、午前十時、上野発にて前橋に着し、これより電車にて渋川町に至る。同町は神社の祭日にして、市中雑沓を極む。電車連絡不便のために一時間以上を徒費す。しかるに高崎よりは電車の直通あれば、大いに便利なり。午後五時、伊香保に着す。停留場より約三丁にして木暮武太夫別館に入る。明治四十三年初夏、ここにきたりしときには電車なかりき。

 九月十七日 曇り。朝霧、楼を埋ずむ。のち雨、ときどき遠雷をきく。終日横臥、夜に入りて按摩を呼ぶ。伊香保は海抜二千八百尺の高地にあれば、朝夕すでに寒冷を覚ゆ。楓樹の末葉すでに紅を帯ぶるあり。客舎は大小合して四十一戸のうち、大旅館は十戸、なかんずく最大なるは木暮武太夫、蓬莱館(木暮金太夫こと)、および千明仁泉亭の三戸とす。

 十八日 快晴。朝気ことに冷ややかにして〔華氏〕六十度に下り、綿衣と火炉を要するほどなり。この日、緩歩して水沢観音に至る。坂東十六番の札所なり。寺古く堂荒れ、一人の賽客なく、ただ六角堂内に古色を帯びたる六地蔵の、蕭然として輪立せるを見るのみ。行程、約五十丁。

 十九日 好晴。峻坂険路を攀じ、十丁にして物聞山に登り、更に進むこと五、六丁にして見晴らし台上に至る。県下の平坦部を一瞰するに、あたかも飛行船に駕して鳥眼を放つがごとき思いをなす。

 九月二十日(日曜) 曇り。終日休養。

 二十一日、晴れ。午前八時に発し、徒歩二里余にして榛名湖畔に至る。そのうち一里の間は坂路、他は平坦なり。坂路も下駄にて上下するを得。湖水は周囲一里半、色青くしてものすごし。料理兼旅館の湖畔亭にて一望するに、対岸の正面に棒名富士なるもの秀立す。その形、富士に似たりというよりも、すり鉢を顛倒せるに似たり。よって倒鉢山と名付くるを適当となす。また、峰頂に巌石の林立せる奇山あり。棒名の名物は湖水の美と岩石の奇なりという、実にしかり。湖畔亭より登ること一丁にして嶺頭に達す。これを天神峠という。榛名神社の大鳥居と茶店あり。これより下ること十八丁にして神社に達す。その間に葛篭岩と名付くる奇岩、高さ三十丈なるものが屹立す。その形は鶴の頚をのばしたるごとく、またロクロ頚の抜き出でたるがごとき状ありて、岩中の妖怪たるものなり。社殿は巨巌併立せる間にありて規模大ならざるも、美麗を極め、小日光と称して可なり。古来、大和の多武峰の談山神社を関西の日光ととなうるが、榛名は決してこれに譲らざるの価値あり。また、その巌石に囲繞せらるるのありさまは耶馬渓の羅漢寺をしのぐ。もし紅葉の期節に至らば、満山錦世界なるべきは想するに足る。故にひとたび伊香保に遊ぶものは、必ずここに遊覧せざるべからず。午後二時、帰館す。この日、行程、往復とも五里以上なり。

 二十二日 晴れ。館を出でて歩すること六、七丁にして七重滝に至る。滝小にして、みるに足らず。これより更に樵路を登降すること三十丁余にして弁天滝に至る。すこぶる壮観なり。ここに伊香保電灯の発電所あり。これより帰路に向かい、途中左折して横道に入る。その悪道は野獣の行路にひとし。行程二十丁ぐらいにして大滝に達す。弁天滝に及ばざること数等なり。ここに製氷所あり。大滝より七重滝まで十二、三丁を隔つ。夜に入りて雨声をきく。

 二十三日 晴れ。午前、徐行し、温泉の源頭を探りて帰る。左に、榛名湖畔亭の所見と神社の風光とを詠じたる即吟二首を録す。第二首の蝋立とは、ろうそくの形をなせる巨巌並立せるをいう。

湖畔旗亭景物奇、風寒九月暑残時、呼杯問起何殽好、唯有鱒魚味最滋、

(湖畔の料亭から見る景色はまことによく、九月残暑の時節であるが風は冷たい。酒をたのんで何かいい肴をときけば、ただ鱒の美味なるがあるだけという。)

路入榛名湖外郷、巨巌蝋立挿祠堂、此奇此美只当比、巌是馬渓宮日光、

(道は榛名湖畔の村里に入る。そこには巨巌がろうそくのように祠堂をはさんで立っている。この奇観、この美観にくらべられるのは、まさに耶馬渓と日光であろう。)

 二十四日 雨。高崎直行の電車にて帰京す。伊香保市街の特色は、街路が石段より成り、平坦の通路なきことと、各家の屋根がすべて板片〔こば〕ぶきにして、防風のために、その上に小竹を縦横に交差することなり。その他、温泉の水量の豊富にして、湯槽の浴水がたえず新陳代謝すると、遠近の名山大河を眼下に一瞰し得るとは、ともにその特有とするところなり。

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福島県石白三郡巡講日誌

 福島県巡講を記述する前に、二、三項を叙述するを要す。大正三年十月九日、私用ありて東海道大磯に至る。今より十五年前には幾回となく来遊せしが、近年絶えて足をとめたることなし。昔日と今日とはやや趣を異にし、昔日は旅館全盛時代なりしが、今は別荘全盛時代となり、四面みな別荘にして、旅館はかえって衰微の兆しなり。まず旅館としては山手の方に招仙閣、長生館あり、市街の方に山本屋、角半楼あり、海浜には涛竜館あるくらいなり。余は招仙閣に宿泊せり。停車場に隣接して汽車の昇降にもっとも便なればなり。晩景に及び当所の新公園たる千畳敷に登る。登坂約八丁あり。頂上の風光は到底、舌頭筆端をもって尽くし難し。実に天然のパノラマなり。当日の漫吟、狂作は左のごとし。

  扶杖独攀千畳台、豆山相海眼前開、富峰函嶺呼将答、絵島浮吾脚底来、

(杖をついてひとり千畳敷の台地に上る。伊豆の山なみ、相模の海が眼前にひらけ、富士の峰、箱根の山も呼べば答えんばかり。江ノ島の浮かぶも、わが脚下にあるように思われた。)

  夜もすがら枕にひゞく汽車の音は、招仙閣と唱へつゝ行く、

 十月十八日(日曜) 晴れ。午前八時、上野発にて水戸市〈現在茨城県水戸市〉教育会に出演す。途上の秋田、稲刈り最中なり。正午、水戸駅に着し、環翠亭にて旧友菊池謙次郎氏、立見四郎氏と会食し、ただちに県会議事堂に至り、南〔半〕球旅行談につきて講述す。ときに千頭清臣氏に邂逅す。午後三時発にて新治郡土浦町〈現在茨城県土浦市〉に移り、夜会を開く。仏教青年会および婦人会の主催にかかる。会場および宿所は曹洞宗神竜寺にして、秋元梅峯氏これに住す。翌朝、東京に帰る。余の水戸に至るは第四回目なり。

 大正三年十月二十三日 雨のち晴れ。午前八時上野発、福島県巡講の途に上る。午後二時、野州黒磯駅前煙草屋に休泊す。車中は塩原観楓客をもって満たされたり。宇都宮以東は穫稲すでに終わる。黒磯駅より三里を隔てて那須温泉あり。

 二十四日 晴れ。朝気〔華氏〕五十度、秋冷はなはだし。東京と寒暖十度以上の相違あり。午前、黒磯を去り、十時半、須賀川駅に降車し、これより一里余、阿武隈川を渡船して石川郡川東村〈現在福島県須賀川市〉に入る。白河以東は稲田なお黄色をとどむ。しかして林葉は晩秋の色を呈し、紅楓、黄稲相映ずるところ一段の趣あり。農家は一般に稲刈り、麦まき最中にて繁忙を極む。この地方にては田中に杭を立てて稲を乾かす。その場所を方言にてハゼまたは稲垣と呼ぶ。ハサのことなり。会場は小学校、主催は川東村、小塩江村、大森田村との連合、発起は村長水野七郎氏、校長吉田茂市郎氏、医師江藤健雄氏等にして、宿所は折笠常松氏の宅なり。村長特に尽力あり。郡視学菅野三郎治氏石川町より出張せられ、福島正氏田村郡より来訪せらる。

 十月二十五日(日曜) 晴れ。川東村より車行四里半にして、本郡の首府なる石川町に移る。途中、阿武隈川三大勝の一なる乙字滝に車をとめてその奇勝を吟賞す。瀑布は乙字橋畔にあり、阿武隈の全川巌頭にかかりて落下するなり。一見あたかも北米ナイヤガラ瀑布に似たり、よろしく小ナイヤガラと名付くべし。岸頭、水底ともに巌石累々として築くがごとき状あるは奇勝の名に背かず。ときに拙作一首を浮かぶ。

  奥原風物映吟髯、看到山隈景更添、乙字橋辺崖一断、巨川懸作百聯簾、

(奥原の風物は吟詠の身のひげに映えて、山の一隅をみるに至って景色は更にます。乙字橋あたりの断崖は、巨川が落下して百連のすだれをかけたようである。)

 路傍の茶店に少憩せるに、土足のままにて地炉中に踏み込める設備あり、これ北国式なり。この勝地は泉村に属す。つぎに、泉小学校に休して石川町〈現在福島県石川郡石川町〉に至る。古石旅館の別棟に入宿す。午後、小学校の開会は教育会の主催にかかる。発起は郡長吉野勝氏、中学校長森嘉種氏、町長添田一二氏、小学校長緑川幸三郎氏、郡書記猪狩雄祐氏、郡視学菅野氏等なり。夜に入りて、吉野郡長、森校長等と会食す。この地には鉱石の標本を産出すという。また、ラジウム冷泉あり。

 二十六日 晴れ。この日、車行約三里、浅川村〈現在福島県石川郡浅川町〉に至る。途中、猫啼温泉場を過ぐ。すなわちラジウム鉱泉場なり。石川町をへだつること二十丁、岸頭に客舎二戸あり。その対岸の地名に兎田と名付くる所あり。猫と兎と相対するは奇というべし。浅川村は本年夏期、大火にかかりて、いまだ再築をおわらず。会場は小学校、発起は村長小針啓太郎氏、校長黒沢真明氏、教員藤田三郎氏、永昌寺南祐暁氏等、宿所は芳賀定吉氏の宅なり。本村より棚倉町までは一里半を隔つるのみ。

 二十七日 晴れ。浅川より車行四里半にして西白河郡矢吹町〈現在福島県西白河郡矢吹町〉に移る。この町は白河町をへだつること四里、須賀川町を離るること三里にして、両町の中間に位す。会場小学校には桜樹並列し、紅葉半庭を染む。旅館筑前屋は相当の設備を有するは、この地に岩瀬御猟場あるためなりという。発起は町長武藤一策氏(陸軍少佐)、校長遠藤美次氏、町書記荒井平爾氏なりとす。郡視学鎌田金之助氏はここに出張せらる。当日は旧九月九日節句に当たり、かつ矢吹神社の祭日なりとて町内大いににぎわう。

 二十八日 晴れ。矢吹より汽車にて白河町〈現在福島県白河市〉に移る。農家の稲刈り、大半すでに終わる。刈りたる稲は、これを田中に仮立せる柱杭の周囲に積み上げて乾かす。その状あたかも五百羅漢の林立せるがごとし。白河は海抜千百尺の高地にありて、東京と仙台間の線路中、冬時の寒気最も強し。ただし、積雪は一尺ないし二尺くらいに過ぎずという。午後、郡会議事堂にて開会す。郡長丸野実行氏は不在たり。鎌田視学、および小学校長慶徳多一氏等、開会を主任せらる。会場の傍らに楽翁公〔松平定信〕の茶室あり、蘿月庵と称す。庵前に垂桜一株あり。所吟、左のごとし。

  路入白河時未寒、紅楓黄稲繞城巒、楽翁公去星霜久、唯有草庵蘿月残、

(道を白河にとって入ったときはまだ寒くはなかったが、いまや紅楓と黄稲が町や山をめぐっている。楽翁公がこの地を去ってからの歳月は久しく、ただ草庵蘿月が残るのみである。)

 当地には県立農学校あり。また、馬市は日本一との評なり。毎年十月下旬、十日間これを開く。馬数一万頭、北海道より九州までの馬ここに集まるという。宿所は白陽館なり、通称ホテルと呼ぶ。その前に県下第一と称する大劇場の建築中なり。

 二十九日 晴れ。午前、町長藤田新次郎氏の案内にて、楽翁公の遺跡たる南湖公園を一覧す。南湖は松巒一面をとざし、楓樹四辺をめぐり、その紅葉は松と水とに対映して画図のごとし。市街をへだつること約半里、湖畔の偕楽亭にて茶を一喫す。

  行嘯白河関外風、南湖秋色入詩中、万松巒下楓千樹、霜葉映波々亦紅、

(行く行く白河関外の風に詩をうたい、南湖の秋色は詩中に入る。万松の山下に楓樹幾千本となく、霜葉の水に映じて、水もまた紅である。)

 これより車行二里、五箇村〈現在福島県白河市、西白河郡東村〉に至る。その途中、河流に面する所に断嵒絶壁あり、その巌石のまさに墜下せんとする所に感忠碑と刻せるあり。これ南朝の忠臣結城氏の城趾にして、その書は楽翁公の筆跡なりという。これを搦山と称す。会場は小学校、発起は村長尾股銀蔵氏、校長村越慶三氏、宿所は郡内第一の資産家にして醸酒家たる大谷五平氏の宅なり。村内、造酒家数戸あり。

 三十日 微雨蕭々の中、山道を経て金山村〈現在福島県西白河郡表郷村、東白川郡棚倉町〉に入る。車行二里、旅店鈴木屋に休憩し、正金寺にて開会す。発起は金山、高木、大関、社各村の村長校長なり。日暮るるころより雨はげしく降れる中、腕車を雇いて東白川郡棚倉町〈現在福島県東白川郡棚倉町〉に向かう。泥路凹凸多く、車まさに顛覆せんとすること数次なるも、幸いに安着す。行程二里半の所、二時間半を費やせり。不日、白河よりこの町まで五里の間、鉄路を敷くと聞く。

  磐城山野望茫々、気冷草枯秋色荒、泥路冥濛雲隠月、初更衝雨入棚倉、

(磐城の山野は望めば茫々として、空気は冷え草も枯れて秋の景色も荒々しい。泥路は暗く雲も月を隠して、初更〔十九―二十一時〕のころに雨の中を棚倉町に入ったのであった。)

 棚倉町の宿所は浄土宗蓮家寺なり。

 三十一日(天長節) 雨。午後、小学校にて開演し、更に旧城内の園遊会に列し、後に亀文館の晩餐会に連なる。この日は郡内青年大会にして、煙火、余興の催しあり。雨天にもかかわらず聴衆場内に充溢す。発起かつ尽力者は郡長原田一忠氏、郡視学田口貢氏、町長高橋信成氏、有志家石沢寛一氏、小学校長日下東吾氏、宗教家宿寺住職萩野谷聖隣氏、常隆寺住職鈴木玄峰氏等、三十九名なり。揮毫所望者非常に多く、両夜とも深更まで忙殺せらる。この夕、旧九月十三夜に当たるも、雲のために遮られて観月するを得ず。当町はもと阿部家の城下なりしが、近来交通不便のために不振に傾けるも、鉄道敷設の声とともにやや活気をめぐらせりという。この地に一種の陶器を製出す。その色純白にして、但馬出石焼に類するところあり。これを鹿の子焼と呼ぶ。

 十一月一日(日曜) 雨のち晴れ。棚倉より竹貫村まで山路六里、腕車通じ難ければ、隣郡浅川、石川を迂回す。行程八里、渓山の間を出入し、流水とともに上下して竹貫村〈現在福島県石川郡古殿町〉に入る。未明より正午まで六時間を費やす。本村は石城郡に通ずる駅道にして、平町まで十一里あり。会場竜台寺にては黄金を入れたる瓶を土中より掘り出だせりと聞き、「有陰徳者必有陽報、有宿善者必有現福」(陰徳有る者には必ず陽報有り、宿善有る者には必ず現福有り)と記す。住職渡辺徳仙氏は余と同郷の出身なり。発起は竜台寺、亀堂院、広覚寺、東禅寺、西光寺、竹貫村長中河西長太氏、宮本村長我妻政之助氏とす。当夕、山田屋旅館に宿す。この地方の物産はタバコと蒟蒻なり。

 二日 快晴。竹貫より車行二里半、鮫川村〈現在福島県東白川郡鮫川村〉字赤坂中野に至る。泥深くして車動かず、半ばは歩し半ばは乗り、巨巌激湍にそいて、石渓に入る。岩石堆をなして渓頭に重なり、流泉泡を吐きて石間におどり、前後の紅葉相映じて林壑一面に錦を染め出だせるは、郡内勝地の一に加えて可なり。

  雨後秋山泥未乾、鮫川一路欲攀難、聴泉漸到渓窮処、楓葉染林天地丹、

(雨後の秋の山は泥もまだ乾かず、鮫川への道はなかなかのぼりにくい。泉流の音を聞きながらようやく谷の窮まる所に至った。楓葉は林を染めて天地もために赤くなったように思われた。)

 本村は郡内の模範村なりと聞く。一村の地積広くして、長さ七里に達すという。各戸、煙葉を日にさらすを見る。また、馬もこの地より産す。会場にあてられたる公会堂は千人をいるるに足る。主催は村長須藤千代之助氏、助役水野市之助氏等なり。当夕、円屋旅館に宿す。宿泊一等五十銭、二等四十五銭、三等三十八銭、もって物価の程度を知るべし。時たまたま旧九月十五夕に当たり、満月皎々として昼を欺かんとし、吟情勃然として動く。

  探尽武陵渓水源、客楼誰不動吟魂、満天霜気秋光冷、月白磐城深処村、

(武陵桃源の渓水の源を探し、旅館にだれか詩情をかきたてられずにおられようか。天に満ちわたる霜気に秋の光は冷たくさえて、月は磐城のふところ深い所にある村を白々と照らしている。)

 三日 晴れ。鮫川より常豊村〈現在福島県東白川郡塙町〉に至る。行程三里半、山多けれども高からず、渓長けれども深からず、道路高低凹凸多くして、車通じ難き所あり。この山間にては野袴をうがつ、これを山形県のごとくモンペと呼ぶ。また、独木水車あり、これを方言にてボンカリという。田には桑枯れ、稲むなしうしてみるべきものなきも、山には紅葉黄樹の相映ずるあり。駅路より一里も隔たりたる所に天狗橋あり。大磐石の自然にかかりて橋を成せるものなりと聞く。常豊会場は小学校、発起は村長荒川小左衛門氏、助役藤田幸太郎氏、宗教家和田秀玉氏ほか三名なり。当夕、青年会長荒井彦惣氏の宅に宿す。氏は邸内に個人経営の図書館を有す。蔵書一万三千冊、これを山中図書館と称す。夜中、偶成一首あり。

  看過山楓雨後紅、秋風一夕宿常豊、夜深門巷水車歇、静聴渓声悟色空、

(山の楓をみるに雨後の紅が目立つ。秋風吹くこの夕べ、常豊村に泊まる。夜も更けて門への小道にある水車の音もやんで、静かに渓水の音を聴きつつ色即是空を悟るのである。)

 四日 晴れ。車行二里半、石井村〈現在福島県東白川郡塙町・矢祭町〉に移りて開演す。会場は小学校、発起は石井村長鈴木小太郎氏、高城村長金沢源吉氏、豊里村助役藤田温信氏、宿所は石井館なり。この夜また皎月天にかかる。しかして夜気すこぶる暖かなり。

 五日 晴れ。午後、少雨あり。朝、石井を去り、行くこと一里余にして矢祭の勝地に達す。昔時、源義家この地に滞在し、弓の矢をとどめて去れり。村民遺徳を慕ってその矢を祭れりとの由来より、矢祭の地名起こるという。久慈川上流の岸頭およそ七、八丁の間、奇巌万丈、並立しておのおの妙趣を現ず。耶馬渓、瀞八丁の絶勝に比するも遜色なし。実に東北の一大勝に加うるの価値あり。ことに千態万状の奇巌の間に青松の点々起臥し、これに交ゆるに秋葉のあるいは紅、あるいは黄の相映ずるありて、一面の錦の半天にかかるがごとし。ときに一作あり。

  矢祭風光望転迷、全山一面似虹霓、奇巌万態樹千色、真是磐城耶馬渓、

(矢祭の風光はみてますますまどわされる。全山一面は虹のごとく七色に彩られ、奇岩は万態、樹は千色を帯び、まことにここは磐城の耶馬渓である。)

 郡視学、村長等とここに手を分かち、更に車行すること半里余にして茨城県の国境に達す(以下、茨城県日誌に入るる)。

 ここに石白三郡を巡了せしにつき、風俗、言語に関し一言を付記せんとす。東京より福島県西部に入りて町村の家屋を見るに、瓦屋なく、茅屋または木片ぶきのみなり。道路は国道県道を除くの外は深泥にして凹凸多く、腕車すこぶる苦しむ。村落の指道標に普通の格言、または勅語詔書の一句ずつを表記せるを見受けたり。または、ある村落にて民家の軒前に納税表彰の塗り札をかけおくを認めり。言語は奥州弁なるも比較的解しやすし。なかんずく棚倉は発言最もよしという。また、関東流のダンベは一般に用う。もし方言中の他に通ぜざるものを挙ぐれば、市子、口寄せ、神巫のことを、ワカといい、またアガタといい、あるいはまたシンメイともいう。この三者は多少異なるところある由。赤児を入るるツブラ(藁にて作りたるもの)をイチコといい、縄をつくることを縄をモジルといい、人を追うことを人をブクルという。白河に限る方言としては、大層というべきをナニという。例えば、大層ウマイというべきをナニウマイというの類なり。ナマケモノを越後の方言にてノメシというが、福島県にてはクサシという。藁塚をミョウという。他県にてニュウまたはノウというと語原を同じくす。会津地方、津地方にては、稲を掛くる棚(ハサ)をハセという由。白河地方にてハゼと呼ぶことは前に出だせり。昔時は関東、関西とも旅館にては毎朝梅干を出だすを例とせしも、今日にては関東だけにその習慣をとどむるがごとし。千葉、埼玉、栃木、茨城諸県はもちろん、福島県にても旅館は必ず朝茶に梅干を添う。また、福島県の民家にては、お茶菓子の代わりに漬物、煮物を出だす習慣あるは九州に同じ。また、食事の終わりに、茶の代わりに白湯を用うるは北国に同じ。迷信に関しては、二月初午の日に茶を喫することを厭忌す。その由来は、むかしこの日、茶をのみたるために大火ありし故なりと伝う。

 

     福島県石白三郡開会一覧

   市郡    町村   会場    席数   聴衆     主催

  石川郡   石川町  小学校    二席  五百五十人  郡および町教育会

  同     川東村  小学校    二席  四百五十人  三村連合

  同     浅川村  小学校    二席  四百人    小学校

  西白河郡  白河町  郡会議事堂  二席  五百人    郡教育会

  同     矢吹町  小学校    二席  四百人    町長および議員

  同     五箇村  小学校    二席  三百五十人  村長および校長

  同     金山村  寺院     二席  五百五十人  村長および校長

  東白川郡  棚倉町  小学校    二席  一千人    連合青年会、教育会、仏教慈善会

  同     竹貫村  寺院     二席  三百五十人  二カ村連合

  同     鮫川村  公会堂    二席  四百人    村長

  同     常豊村  小学校    二席  五百人    二カ村連合

  同     石井村  小学校    二席  四百五十人  三村連合

   合計 三郡、十二町村(四町、八村)、十二カ所、二十四席、聴衆五千九百人、日数十二日間

    演題類別

     詔勅修身     八席

     妖怪迷信     七席

     哲学宗教     三席

     教育       四席

     実業       一席

     雑題       一席

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茨城県珂北三郡およびほか二郡巡講日誌

 大正三年十一月五日 晴れ。朝、福島県東白川郡石井村を発し、矢祭を経て国境を越え、有名なる断崖七曲の石径を一過し、更に里道に入ること一里にして、茨城県久慈郡黒沢村〈現在茨城県久慈郡大子町〉に達す。石井よりの行程三里半あり。この地方は刈稲すでに終わり、麦まき最中なり。会場は小学校にして、村長益子繁氏、校長岡部秀松氏等の発起にかかる。本村は模範村なりと聞く。午後、少雨あり。郡視学柴沼与太郎氏、太田町より出張せらる。宿所吉本旅館は蝿の多きこと満州以上なり。夜に入るも群れをなして睡顔をおかす。この夕、過暖〔華氏〕七十四度に上り、雨はなはだしく至る。

 六日 晴れ。黒沢より大子を経て依上村〈現在茨城県久慈郡大子町〉に入る。行程四里あり。昨日以来の車上の所見を詩中に寓す。

探尽磐城風月幽、仙笻携去入常州、満山霜葉紅如錦、吟賞久慈川上秋、

(磐城の風月のおく深さを求めつくさんとして、仙人のもつような竹の杖をたずさえて常陸の地に入った。霜をうけた葉はくれないの色となって全山をかざり、あたかも錦のように、久慈川のほとりに秋を吟詠し、鑑賞したのであった。)

 会場は小学校、休憩所は役場、宿所は菊屋、発起は村長木沢源太郎氏、助役塚田忠次郎氏、校長松田彬氏等なり。村長は体格、酒量ともに豪傑の風あり。本村は栃木県馬頭町に通ずる駅道に当たり、県界まで約一里なれば、聴衆中にその県下の人も加われり。久慈郡は水戸タバコの本場にして、本村だけにても一年の産額二万円なりという。

 七日 晴れ。車行一里半にして大子町〈現在茨城県久慈郡大子町〉に移る。稲田なお禾をさらし、麦圃すでに芽を吐く。当町は郡内北部の都会にして、山間部の市場なり。四面めぐらすに群山をもってし、中間に久慈川の貫流せるあり。いたるところ山紫水明、ことに昨今は満山錦を染め出だせるは、大いに旅情を慰むるに足る。物産としては蒟蒻をもって名あり。会場は小学校、主催兼発起は町長益子彦五郎氏、校長内田熊蔵氏にして、宿所は三美亭なり。亭は山に面し水に枕して、風光すこぶるよし。

面山枕水一軒開、欲払客衣塵作堆、満目風光誰敢怪、久慈川上小蓬莱、

(前面に山、水を枕とするような地に一軒のやど三美亭があり、ここに旅の衣服の塵を払い落とせば、それは積もるかと思われるばかり。目に入るすべてのすぐれた風光については、だれも疑いをさしはさむ余地はない。この久慈川のほとりは、まさに神仙が住むという蓬莱なのである。)

 この夕、青島〔チンタオ〕陥落の飛報あり。ときに雷鳴一過、あたかもこれを祝するもののごとし。

 十一月八日(日曜) 開晴。朝八時発、車行一里、更に横道に入ること十二丁にして、奇巌骨立せる名山の下に達す。これを月居山という。その山容は満州鳳凰城の奇山にひとしく、また、讃州小豆島の寒霞渓に似たり。巌際に秋葉黄赤二色相映ずる所、最も妙趣あり。この山麓より獣道を攀じ、鉄索に助けられて行くこと五丁、不動堂あり。その堂に踞すれば、顔前に一大瀑布の四段となりて、巨巌万丈の絶壁にかかるを対観す。真に魂飛び神躍らんとする趣あり。その名を袋田の滝という。地名に基づく。また、四度の滝ともいう。四段にかかれるによる。これ郡内第一の絶勝となす。高さ四十丈、幅二十四丈、実に日本名瀑の一なり。余の所吟、左のごとし。

一帯渓山総不凡、樹毛石骨互相銜、攀蘿対瀑看堪訝、銀漢倒懸千丈巌、

(このあたりの谷も山もすべてにすぐれたようすがあり、樹木と岩石がたがいにいだきあう。つたにすがってのぼり、この瀑布に対面すれば、天の川がさかしまに千丈の絶壁巨巌にかかるかと、うたがいあやしむのであった。)

 これより歩をめぐらして本道に復し、更に登ること二里にして峠の頂上に達す。これを境の明神という。昔時、この絶頂をもって奥州の国界となせし由。ここに約二丁半の長隧あり、隧内二カ所にランプを点ず。この地には武田耕雲斎の戦場ありという。これより下行して天下野村〈現在茨城県久慈郡水府村〉に至る。大子と太田との中間駅にして、大子より六里強、太田まで五里弱。この地方には紙の原料たる三叉コウゾを産出す。また、水戸タバコの本場中の本場たる赤土は、ここより西南一里を隔つ。会場は小学校、発起は校長木村菊次郎氏、村長森藤九郎氏、宿所は油屋なり。

 九日 雨。車行約五里、道平滑、二時間十分にて太田町〈現在茨城県常陸太田市〉旅館美よし屋に入る。ただちに腕車を命じ、大雨をおかして柴沼視学とともに瑞竜山徳川家累代の墳墓に詣す。道程一里余、太田町の北方誉田村にあり。樹木鬱然として幽邃閑雅の地なり。葬式は代々儒礼をもってせりとて、墓形は全くシナ式なり。最初に梅里先生〔徳川光圀〕の墓を拝観す。これ義公退隠のとき、衣冠を埋めたりし所なり。自ら称して梅里先生という。石背に自作の碑文を刻す。その中に曰く、「神儒を尊びてしかも神儒を駁し、仏老を崇めてしかも仏老を排す云云」の語あり。その銘に「月雖隠瑞竜雲、光暫留西山峰、建碑勒銘者誰、源光圀字子竜」(月は瑞竜山の雲に隠るとはいえ、光はなおしばらくは西山の峰にとどまる。碑を建てて、銘を刻む者はだれぞ。源光圀、字は子竜なり。)とあり。これより石階を登りて義公の墓を拝し、更に低地に下りて朱舜水の墓を拝す。朱氏の墓石には「明徴君子朱子之墓」と刻せり。所感一首を賦す。

景慕高風到瑞竜、墓前攀尽石階重、蕭々秋雨祠林寂、想見当年修史蹤、

(梅里先生のすぐれた人柄を仰ぎ慕って瑞竜山に至り、墓前にのぼれば石のきざはしもおもおもしい。ものさびしく降る秋雨のなか、やしろの林もひっそりとして、当時の『大日本史』著述の事跡を思いみたのであった。)

 太田町会場は中学校講堂、発起は町長武弓作之助氏、助役斎藤泰治氏、収入役中村幸之介氏、中学校長塚原末吉氏、小学校長古茂田敬太郎氏、銀行頭取猿田仙右衛門氏、法然寺住職岸上良雄氏等十四名なり。郡長鈴木庄之助氏に面会す。当夕、臨時の依頼に応じ、寺院にて更に一会を開く。法然寺、浄光寺、帰願寺等の発起にかかる。

 十日 晴れ。午前、太田町を去り、桃源橋を渡り、西山の碑石ある所より左折して渓間に入れば、老松古杉鬱立せる林荘あり。これすなわち義公が元禄十三年に退隠して草庵を結ばれし西山荘なり。太田より三十丁を隔つ。草庵はすこぶる質素の建築なり。庭内に心字池あり、観月台あり、庫中に公の木像を安置す。毎年二回、公衆の参拝を許すという。余は特別をもって拝観するを得たり。その傍らに胞衣塚あり。表門は扉を上方に展開する奇匠を用う。当日所吟、左のごとし。

路向桃源橋上通、見碑左折入林叢、西山秋老霜風冷、紅葉声中拝義公、

(道は桃源橋の上に通じ、碑石を見つつ左に折れて草木のしげるなかに入る。ときに西山の秋ふかく、霜をふくんだ風が冷たく吹いて、紅葉の風おとのなかで義公の木像を拝したのであった。)

 西山を拝辞して駅路を登ること数丁、峰頂に至れば関東の平野を一望するを得。これより下行して久慈川を渡れば、対岸に那珂郡大宮町〈現在茨城県那珂郡大宮町〉あり。太田より三里と称す。会場は小学校、主催は大宮町ほか七カ村連合、発起は町長井坂正太郎氏、校長郡司篤則氏、および役場員、教職員なり。しかして宿所は坂井屋旅館なり。当地の小学校には鐘楼を有す。郡視学出村巴氏ここに出張せらる。この近郷は県下有名のタバコ産地にして、山村はすべてタバコを専業とす。一カ村にしてその収入一カ年十万円ぐらいなるものありという。大宮町にタバコ専売所ありて買い入れをなすに、毎日平均二千円の支払いをなすと聞く。

十一日 快晴。車行三里、戸多村〈現在茨城県那珂郡那珂町〉に至る。大宮より一里半の所に県社静神社あり。はるかに社林を望みて過ぐ。戸多村は那珂川に浜するために、年々多少の水害を免れずという。会場は小学校、宿所は医師佐藤留吉氏宅、発起は村長館愛之助氏、校長長岡純一郎氏なり。本村は穫稲いまだ終わらず。

 十二日 快晴。車行二里余、菅谷村〈現在茨城県那珂郡那珂町〉に至る。途中、青島陥落の旗行列に会す。会場は小学校、主催は青年会長軍司繁松氏、副会長照沼信氏等なり。郡長滝田浩氏出席せらる。本村は郡役所所在地なるも、市街の形をなさず、商店の軒を連ねたる所なし。宿所藤屋旅館の小便所に「露ほども外へこぼすな急ぐとも心静かに中の小便」と張り出だせるはおもしろし。また、旅宿料一等一円二十銭、二等八十銭、三等五十銭と掲示せり。当地には三村組合立の農学校あり。

 十三日 晴れ。車行一里にして神崎村〈現在茨城県那珂郡那珂町〉に至る。会場小学校門前茶亭中庭方にて休憩す。発起は村長加藤正義氏、軍人分会長福地安氏、校長園部、寺門両氏なり。本村よりは杉、桧、松等の苗木を産出す。午後、演説をおわりてただちに車を駆ること一里半、石神村〈現在茨城県那珂郡東海村〉に移る。途中、旧浜街道を一過するに、両側に老松の並木、今なお隣立す。この夜、多賀郡日立鉱山煙臭を感ず。近在、煙害の苦情多しという。当地小学校にて夜会を開く。村長根本通彬氏、校長笠原秀之允氏の発起なり。村長の宅は学校を去ること約十町、久慈川の岸頭にあり。当夜、これに宿す。この地方は昨今やや農閑期に入る。

 十四日 晴れ。暖気、日中〔華氏〕六十八度に上る。車行二里、浜街道を一過して佐野村〈現在茨城県勝田市〉に入る。途中、松林と麦田多し。麦すでに青芽を吐く。

秋暁遠晴風亦和、老松擁路影婆娑、那珂原上望無極、雲際青山是筑波、

(秋の夜あけは遠く晴れわたり、吹く風もまたやわらかに、老松が道をはさんでたちならび、その姿はあたかも衣をひるがえして舞うがごとくである。那珂のこのあたりは遠く望んで果てしもなく、はるか雲のかかるところに青い山が見えるのは、まさに筑波の山なのである。)

 会場は小学校、発起は村長清水安之允氏、校長木名瀬捨蔵氏等なり。宿所柳屋は名のごとく軒前に垂楊一株あり。村長は柔術の達人なりと聞く。

 十一月十五日(日曜) 雨。行程二里の所、一半汽車、一半腕車を用い、川田村〈現在茨城県勝田市、水戸市〉に入る。午前、大雨にわかにきたり、晩に至りて晴るる。会場小学校は那珂川に架せる寿橋に隣し、江を隔てて水戸市と相対す。発起は村長軍司良、校長川崎已之助、僧石沢興栄、吉田智山四氏なり。宿所有志家石津重太郎氏の宅は那珂川の岸頭にありて、山遠水長、眺望大いによし。氏は台湾、朝鮮等より持来せる珍奇数品を恵与せらる。ときに拙作一首を賦呈す。

家枕珂川面水城、軒前一望夕陽平、銜杯坐賞舟車走、汽笛声和談笑声、

(家は那珂川を枕にするかのような岸辺に建ち、水戸の町に向かい合う。家の軒を背に立って一望すれば、夕日にてらされて平らかにみえる。酒杯を口にはこびながら、そぞろに舟や車のゆきかうのをめでていると、汽笛の音と談笑の声とがのどかにきこえてくる。)

 今日、過暖〔華氏〕七十度に達し、夜中蚊影を見るは異常なり。当村内に無二亦寺と名付くる寺あり。日蓮宗にして、住職吉田氏は東洋大学の出身なり。

 十六日 晴れ。暁霧あり。石油発動機船にて那珂川を下り、陸軍大佐坂本左狂氏とともに湊町〈現在茨城県那珂湊市〉に至り、ゑび藤旅館に入る。館広く軒開け、海望最もよし。余は明治十五年ごろ那珂川を棹下し、湊を経て大洗に至りし当時を回想するに、桑海の変遷ありしを感ず。当町は戸数二千四、五百を有し、県下の一大都会にして、海産物の大市場なり。一カ年の魚類の収穫高二十万円内外なりという。公園あり、眺望をもってその名高し。また、町立商業学校あり。会場尋常校は丘上にありて、鹿島沿岸銚子に至るまでを一望の中に入るる。

湊是常州第一津、漁舟朝暮去来頻、隣楼入夜絃歌起、声圧岸頭鯨浪瞋、

(那珂湊は常陸国の第一の港であり、漁船は朝な夕なにしきりと出入りする。となりの旅館からは夜になると弦歌の声がおこり、その声は岸辺にうち寄せる大波のいかりをおさえるかと思われた。)

 ここ茨城県一帯の海岸は冬季は温暖にして、春季の初めに海風凜冽、寒威骨に徹すという。発起は町長安藤俊章氏、商業学校長稲葉鶴次氏、小学校長佐川重善氏、同佐藤栄作氏、ほか町内有志六名なり。この日、わが軍青島入城式あり。

 十七日 温晴。湊町より発車し、勝田駅にて転乗し、大甕駅に降車し、更に行くこと半里にして久慈郡久慈町〈現在茨城県日立市〉に達す。その地たるや久慈川の港口にありて、一望太平洋を眼中に納む。全町の八、九分どおりは漁農兼業なり。会場小学校は丘上にありて眺望大いによし。当日好晴なれば、町家は大半漁猟に出船したるも、近在より聴衆入りきたりて満堂するを得たり。宿所久慈館三層楼は望海するを得。発起者は町長五来要之介氏、助役渡辺幸次郎氏、校長渡辺清吉氏なり。当所にて聞くところによるに、漁業に船主と漁夫との別ありて、漁獲の利益を分配する慣例あり。例えば一船にて千円の漁獲あるときは、その一割を船の使用料とし、更に一割を食料の支払いとして、船主の方に納め、残り八百円を船主と漁夫と互いに折半すという。

 十八日 風雨。汽車にて助川駅に降車す。これすなわち多賀郡高鈴村〈現在茨城県日立市〉なり。休泊所天地閣はすこぶる壮大の設備を有し、眺望また快闊なり。隣村日立村は鉱山地にして、その事業、年を追いて繁盛をきたし、今は全国一、二の大鉱山となる。目下建設中の煙筒その高さ五百十尺にして、世界第一と称す。ただし煙毒が遠近の樹を枯死せしめ、本郡内に有名なる助川の風景も大いに減殺せらるるに至る。ときに所感一首を賦す。

助川駅外望荒皐、五百尺余烟突高、鉱気漲天樹多死、殺風景使泣吟曹、

(助川駅の外は望めばひろくゆるやかな地形で、五百尺余の煙突が高だかとそびえる。しかし鉱山からのぼる煙毒は天にひろがり、多くの木々を枯死させて、その殺風景であることは吟詠の人々を嘆かせるのである。)

 会場小学校は駅を去ること十丁余あり。発起は村長皆川平次郎氏、小学校長桑原房三氏、同芥川雄介氏、ほか六名なり。この地には鉱山用の電車ありて、営業的人力車なしと聞く。郡視学長淵濃波氏来会せらる。

 十九日 晴れ、ただし風寒し。行程一里の間汽車に駕し、小木津駅に降車す。すなわち日高村〈現在茨城県日立市〉なり。本郡は西北に山を負い、東南に海を帯ぶるをもって、県下における暖地なれば、蜜柑も生熟するを得。また、穫稲もいまだ終わらざる所あり。会場は日高小学校、発起は村長石川俊之介氏、校長茅根午之介氏等とす。演説後、更に汽車に駕し、次駅川尻に降車し、駅前の旅店に入泊す。その名を海月亭というも、楼上海を見ず、また月も見えず、無海月亭なり。

 二十日 晴れ。海月亭より腕車にて行くこと二十丁にして豊浦町〈現在茨城県日立市〉に至る。会場小学校は正面に一碧万里の波頭を望む。当所は海産物多くして全く漁業地なり。名物としては鰹の塩からあり。宿所たる本叶屋旅館にては、特に鰹の肉たたきと名付くる一種の塩からを製す。味最もよし。発起は町長大津福二郎氏、校長坂本力之介氏なり。郡長藤尾武吉氏ここに出張せらる。当町にては古来の慣例として、かたく雉子を食することを忌むという。

 二十一日 曇り。川尻駅より高萩駅に降り、これより三十町にして松岡村〈現在茨城県高萩市〉に入る。途上、郡役所門前を一過す。郡衙は松原村字高萩にあり。この地方は炭坑地なり。松岡の会場および宿所たる小学校は清美にして、かつ一種特別の建築を有す。すなわち校舎は四角の周辺を囲み、中間に庭園を設け、各種の植木を満栽す。また、校外に公徳箱と題するものを掲ぐるを見る。今夕は校内の裁縫室に宿す。発起は村長穂積竹次郎氏、助役作山民部氏、校長照山敬彦氏等にして、作山、照山両氏特に尽力あり。この地はもと中山〔信実〕男爵の居城地なり。

 十一月二十二日(日曜) 快晴。早暁、松岡小学校を発し、馬背にまたがり、山行四里、郡書記大部七郎氏の案内にて仙道坂をこえ、高岡村〈現在茨城県高萩市〉字下君田に至る。今朝、満地霜色白く、馬上寒風膚をおかす。山多けれども高からず、道平らかならざるも険ならず、薪炭を運出する牛馬、前後相連なる。本村は材木、薪炭および牧馬の産地なり。戸数わずかに三百余の小村なるも、面積広く、小学校を六カ所に置く。ただし寺院一カ寺、医師一人なり。当地にては今朝〔華氏〕三十二度、瓶水氷を結びたりという。そのいかに気候の寒冷なるを知るに足る。途上吟一首を得たり。

暁色如銀満地霜、侵寒馬上向高岡、青松紅葉山如畵、看到仙源洞裏郷、

(あかつきの色そまるうち、銀のように霜が地に満ちあふれ、寒さをおかして馬の背にゆられつつ高岡に向かった。青い松、紅葉にいろどられた山は画のごとく、仙人の住まいするような里を見る思いがしたのであった。)

 会場および宿所は松岩寺にして、発起は校長鈴木甫氏、和田基四郎氏なり。夕刻、北風颯々として雨雪を散じきたるも、少時にしてやむ。この村は郡内第一の僻地と称す。いわゆる多賀の北海道なり。村内に独木水車多し。その名をバッタリと呼ぶ。また、本村特殊の方言は皿をセイジといい、栗の木の立ち枯れになりたるものをトデゾウと呼ぶ由。トデゾウの意解し難し。

 二十三日 快晴。瓶水、田水ともに氷を結ぶ。早天暁霜を踏み、残月をいただきて出発し、馬上約四里、松岡村より運炭用の鉄道に便乗して高萩駅に着し、駅前の松陽館に一休して昼餐を喫し、これより汽車にて北中郷村〈現在茨城県北茨城市〉字磯原に至る。この日また馬上吟あり。

山村霜気暁稜々、田水入冬初結氷、林外有嘶何処馬、幾群載炭度峻嶒、

(山村の霜は暁にきびしく、田の水は冬の季節に入って初めて氷となった。林の向こうにいななくのは一体どこの馬なのであろうか。いくつかの馬の群れは、薪炭を背にけわしい山をこえてゆくのである。)

 磯原は新開地にして、会場にあてられたる小学校近傍は今より十年前、炭坑の開けしよりにわかに桑田変じて市街となりたりという。発起は校長高畠常紀氏、山形子之太郎氏、鈴木力之介氏、ほか三名なり。高畠氏特に尽力あり。当夕は多賀仏教同志会の依頼に応じ、再び磯原小学校に至りて開演す。宿所は駅前の小松屋旅館なり。

 二十四日 曇晴。汽車にて関本駅に着し、更に車行半里にして大津町〈現在茨城県北茨城市〉に入る。磯原より陸路二里弱、途中に天妃山の名所ありて波上に鬱立す。これより大津までの浜頭には白砂青松の間を一貫せる車道あり。大津は海水浴の好適地としてその名高く、夏時遊来の浴客すこぶる多しという。旅館八勝園は設備、眺望ともに大いによし。宿泊料一等一円三十銭、二等九十銭、三等七十銭と表示せり。即吟一首を得。

楼対蒼溟八勝園、潮風一過掃千煩、怒涛打岸来還去、響似六軍万馬奔、

(旅館八勝園は青々とした大海原に対し、さっと吹く潮風はあらゆる俗事のわずらわしさをはらう。怒涛は岸辺にうちつけてはひきかえし、その波のひびきは六軍〔七万五千人〕の軍勢、一万の軍馬が奔走するがごときである。)

 会場小学校は高崖の上にあり。もと寺院の境内なりしために、旧時の鐘堂をそのまま保存して時報の用となす。校前に怒涛打ち寄せきたりて、すこぶる壮快を覚ゆ。発起は校長江原利之介氏、医師武内善重氏、有志家黒沢吉次郎、村上潔、永山富士太郎諸氏等なり。この日、郡長も出席せらる。大津町より平瀉を経て福島県の国境に至るまで、わずかに一里あるのみ。東海道五十三駅は大津のつぎが京なるが、この地も大津のつぎが境なり。ただ、京と境との相違のみ。ここに珂北三郡の巡講に関しては、県庁学務課長の平賀周氏の紹介の労をとられたるを謝す。

 二十五日 快晴。午前八時、大津発、関本駅より乗車、正午、高浜駅に降車。これより腕車四里にして、行方郡現原村〈現在茨城県行方郡玉造町〉小学校に至りて開演す。村長小沼亀之助氏、校長小松崎保平氏の発起にかかる。この日の途上は背に筑波山を負い、左に霞ケ浦を帯びつつ行方郡に入る。ところどころに平岡ありて地勢高低多し。低地はすべて水田なり。

晴岡起伏路相従、霞浦風光未入冬、背視雲間蒼影聳、一頭両角是波峰、

(明るい岡の起伏に道はそれにともなって高低し、霞ケ浦の景色はまだ冬の季節に入っていない。背後には雲まに山かげがそびえて、一頭両峰の姿こそは筑波山である。)

 これ当日の実景を写せるなり。演説後、郡視学川上春次郎氏とともに半輪の明月をいただき、車行里余、玉造町稲荷屋に入泊す。この地方は湖魚、なかんずく鯉魚、白魚の産地なり。

 二十六日 晴れまた雨。車行一里弱、駅道坦然、手賀村〈現在茨城県行方郡玉造町〉小学校に至りて開演す。内務省地方改良嘱託講師井口丑二氏は東京よりここに出張あり。郡長内藤雅楽助氏も出席せらる。発起は村長青木庄次郎氏および学校教員諸氏なり。夜に入りて天全くはるる。明月を仰ぎつつ稲荷屋に帰宿す。駅道には黒色の乗合馬車の往復するあり。

 二十七日 晴れ。車行二里、丘にそい湖を望みつつ行方村〈現在茨城県行方郡麻生町〉根本陳平氏方に休憩し、小学校にて開演す。校舎の粗悪なるは郡内第一との評あり。早晩必ず新築の挙あるべし。校前に露店を張りて菓子類を商う。あたかも神社祭礼のときのごとし。発起は校長田中吉三郎氏、農会長茂木清七郎氏等なり。本郡内の水田は稲根より更に芽を吐き、その青き色は六月中の秧田を望むがごとし。夜に入りて更に車行二里、郡衙所在地たる麻生町〈現在茨城県行方郡麻生町〉に移り、旅館大黒屋に宿す。湖畔一帯の道路その坦、といしのごとし。大黒屋は設備の完備せること県下屈指の中に加わる。本郡は東京に接近せる方なれば、各所とも食事料理は全く東京風なり。

 二十八日 晴れ。風やや寒し。車行約四里、丘陵を上下し、郡中を横断して北浦に出でて、武田村〈現在茨城県行方郡北浦村〉に入る。丘上には松林、麦圃多し。また、途中に繁昌と名付くる村落を一過す。武田村会場の小学校は丘上にあり。これに隣接せる臨済宗寺院自性寺に宿す。寺は万竿の修竹をめぐらし、庭内清潔洗うがごとし。本村は県下の模範村なる由。発起は村長額賀銀之助氏、住職近藤芳洲氏、校長河野嘉生氏なり。

 十一月二十九日(日曜) 晴れ。今朝、厳霜薄氷を見る。本年の初寒なりという。宿寺を出でて二、三丁の所に、皁莢すなわちサイカチの老樹ありとてこれを一見す。周囲一丈八尺、高さ八間余、骨のみありて肉なく、日本珍木の一に加わる。車行六里、麻生を経て潮来町〈現在茨城県行方郡潮来町〉に移る。田家は昨今、水田の打ち返しに着手す。郡内の水田はすべて一毛作なるに、秋穫後一回、春時二回、都合三回、田打ちをなすという。潮来は海潮の塩分がこの地まできたるとの意にてその名を得たる由。これをイタゴとよむにつきては、鹿島近傍に潮宮とかきてイタミヤとよむ社名あり、これより出でたりと聞く。その地は郡内の要津にして千葉県に隣接し、一帯の江流を隔て、対岸はすでに香取郡なり。佐原町まで二里を隔つ。

双湖挟郡々如洲、田繞水涯松擁邱、行到潮来地将尽、一江両断総常州、

(二つの湖沼が行方郡をはさんでなかすのごとく、田は水をめぐらし松は丘をおおう。行きて潮来に至って地はまさに尽きようとし、利根川が常陸と下総の地に両断しているのだ。)

 この日、小学校において青年大会ありて、内藤郡長も出席せらる。演説後、競争、煙火等の余興ありて、聴衆観客は校の内外にあふる。町長河須崎千代松氏、校長岡見進氏等の発起なり。当夕、角菱旅館の三層楼上に宿す。この地に臨済宗長勝寺あり。源頼朝公の建立にかかる。その寺にある古鐘は国宝に編入せらると聞く。また、この町に伊勢オンドに類する特殊の踊り、すなわちアヤメ踊りありと聞く。

 三十日 好晴春のごとし。車行四里、麻生を経て大和村〈現在茨城県行方郡麻生町〉に達す。同村は北浦の湾頭にあり。その村内の天掛丘上は眺望すこぶる佳なりという。これより鹿島大社へは五里あり。小料理店高崎方に一休して後、小学校にて開演す。校庭に幕を張りて、聴衆のために麦湯接待所の設あり。開会は村長藤崎嘉兵衛氏、校長岡野宇三郎氏等の発起にかかる。日すでに暮れて車をめぐらす。一輪の明月皎然として霜気を帯び、満天ために白し。北浦湾頭より霞〔ケ〕浦浜畔まで横断二里程あり。当夕、麻生小学校にて講演をなし、大黒屋に宿泊す。麻生発起は町長永井弓男、校長宮本恵之助両氏なり。

 十二月一日 晴れ。霜暁をおかして六時半旅館を出でて、霞〔ケ〕浦の汽船に駕するに、四面霞気を帯び、茫として遠望するを得ず。霞〔ケ〕浦の名を実現すというべし。川上郡視学の送行あり。途中に井上と名付くる地名あり。船中のボーイが客に向かってアナタ方は井上デスカとたずぬる故に、ワシガ井上デアルと答えんとせしに、他の人々が余にさきだちて井上だと答うるもの三、四人ありしを聞き、なんぞ井上の姓の多きやと怪しみたるに、ボーイの問いは井上の地に上陸するかとの意なりしことを知り、自ら笑みを含めり。その他、各所を経由して土浦に着す。この間、舟路八里にして、四時間を要せり。土浦より十二時の汽車に乗じ、佐貫にて軽便に乗り換え、龍ケ崎より腕車に移り、行くこと約一里半にして、稲敷郡生板村〈現在茨城県稲敷郡河内村、千葉県印旛郡栄町〉妙行寺に入る。山号を満足山という。余も茨城県を無事に巡了してここに至り、まず一満足するを得たり。住職大宮孝順氏は哲学館出身、東洋大学講師にしてインド通をもって世に知らる。余のこの寺にきたるは二回目にして二十年ぶりなり。

 二日 晴れ。当村には今より百年前、片岡万平と名付くる一義人あり。代官の横暴苛税を憤り、幕府に直訴して獄中に縛せられ、ついに毒殺せられたり。墓所は妙行寺内にあり。本日はその法要を営み、追弔演説を開かる。龍ケ崎中学校長板垣源次郎氏も出演あり。余は同校教員岩崎弥之造氏の詩韻を次ぎて左の七律を賦す。

義侠如翁誰敢当、欲除苛税救窮郷、済生忠胆堅於鉄、決死威風凜似霜、仰毒獄中身已朽、留名墓下骨猶香、英魂今日人来弔、一百年過更放光、

(正義のため強者をくじき弱者をすくうおとこだての、翁のような人はだれもいるまい。苛酷な税をとり除き、貧窮の村をたすけようとしたのである。人の生を救おうとする誠の心は鉄よりもかたく、死を覚悟したいかめしいようすは、身のひきしまるきびしい霜の寒さを思わせる。とらわれて獄中に毒殺され、その身はすでに朽ちはてたとはいえ、名をこの世にとどめて、墓下の骨はなお高い香りをのこしている。そのすぐれた心を慕って今もなお人々はおとずれてはねんごろに霊をなぐさめ、一百年を経てさらに輝きを放っているのである。)

 発起かつ尽力者は大宮氏をはじめとし、石山栄太郎氏、長峰浜次郎氏、大野菊次郎氏、ほか十名なり。

 三日 晴れ。朝七時、妙行寺を発し、佐貫駅にて随行永井氏と相別れ、十時、上野に帰着す。ここに茨城四郡巡講中の耳目に触れたる二、三項を記述せん。福島県より茨城県に入りて第一に感ずるは道路の佳なること、瓦ぶきの家屋あることと、米飯の味のよきことと、火鉢に火箸を添付せざることと、蝿の多きことと、急坂曲路にいちいち警察にて車行者のために注意を掲記しあること等なり。また、路傍に馬櫪神もしくは馬力神と刻する石碑あり。これ馬の屍体を埋めし場所に建てたるものなりという。彼らが死して神と称せらるるは、馬の光栄その分に過ぐというべし。宗教につきては実に言語道断なり。むかし水戸藩が排仏を実行せしために、水戸領にあらざる地方までこれを学ぶに至れりという。水戸藩にては寺院の鐘を徴発して大砲を鋳造せし由なるが、その残物をただいまにては役場や小学校にかけて時報の用に備う。往々学校境内に鐘楼あるを見受くるはこれがためなり。民家の仏壇をうかがうに親祖先の位牌あるのみにて、全く仏像を置かざるもの多し。県下にて最も宗教に冷淡なるは行方郡との評なり。他地方にては葬式の後に法事を営むも、この郡に限り葬式のみにて、法事はもちろん、七日も三十五日も営むことなく、葬式後に寺院へ仏参すること全くなく、ただ盆に一度墓参りするのみなりという。要するに法事を勤め墓参りすることをなんとなく縁起悪く思い、これを避け嫌う気味ありと聞く。この点は北海道のアイヌに似たるところあり。茨城県下へは昔時、北国なかんずく越後より移住せしものあり。これらは別に部落をなして居住するが、一般の町民より多少擯斥せらるる傾向ありて、その間には決して交婚せずという。実際はこの移住の方に成功者多しとのことなり。むかし外国から日本に移住せしものを擯斥して穢多、非人をもって取り扱えるも、この一例に照らしてサモあるべきを推知するに足る。つぎに方言としては、奥座敷をデーといい、藁塚をノウといい、嘘をチクという。例えば人の話を聞きてソレハ嘘デアリマショウというべきを、ソレハ「チク」デショウといい、嘘バカリイッテイルというべきを、「チク」バカリイッテイルというの類なり。奇名につきては、茨城県にアクツといえる姓多し。その字を圷と書く。圷は他県に見ざる字なり。薩州の畩〔ケサ〕の字のごとし。筑波郡には村名にも圷ありという。水戸市には曲尺町とかきてカギノテとよまする町名あり。天下野村の大字に百目木と書きてドメキと読ましむ。また、姓に中言〔チュウゴン〕というものあり。

 

     茨城県珂北三郡ほか数カ所開会一覧

      (福島県石白三郡日誌の前に出だせる水戸、土浦もこの表中に入るる)

 市郡   町村    会場    席数   聴衆     主催

水戸市        県会議事堂  一席  七百人    市教育会

新治郡  土浦町   寺院     二席  三百人    仏教青年会および婦人会

久慈郡  太田町   中学校    二席  六百五十人  町有志

同    同     寺院     一席  三百人    仏教会

同    大子町   小学校    二席  五百五十人  町長および校長

同    久慈町   小学校    二席  四百五十人  町役場

同    黒沢村   小学校    二席  三百五十人  村役場

同    依上村   小学校    二席  五百五十人  村役場

同    天下野村  小学校    二席  二百人    役場、学校

那珂郡  湊町    小学校    二席  一千人    教育支会

同    大宮町   小学校    二席  五百五十人  八町村連合

同    菅谷村   小学校    二席  四百五十人  青年会

同    戸多村   小学校    二席  六百人    小学校

同    神崎村   小学校    二席  三百人    軍人分会、教育会、青年会

同    石神村   小学校    二席  三百五十人  小学校

同    佐野村   小学校    二席  四百五十人  村長

同    川田村   小学校    二席  二百五十人  修養会

多賀郡  豊浦町   小学校    二席  四百五十人  町役場

同    大津町   小学校    二席  六百人    町有志

同    高鈴村   小学校    二席  四百五十人  南部教育会

同    日高村   小学校    二席  三百人    小学校

同    松岡村   小学校    二席  四百人    村教育会

同    高岡村   寺院     二席  二百人    青年会

同    北中郷村  小学校    二席  六百人    三村連合教育会

同    同     同前     二席  百五十人   仏教同志会

行方郡  麻生町   小学校    二席  六百人    郡教育会

同    潮来町   小学校    一席  八百人    郡青年会

同    現原村   小学校    二席  三百五十人  青年会、教育会

同    手賀村   小学校    二席  五百人    同前

同    行方村   小学校    二席  四百人    教育会

同    武田村   小学校    二席  五百人    教育会

同    大和村   小学校    二席  四百人    教育会、青年会

稲敷郡  生板村   寺院     一席  七百人    義民追弔会

   合計 一市、六郡、三十町村(十町、二十村)、三十三カ所、六十二席、聴衆一万五千四百人、〔日数〕二十九日間

    演題類別

     詔勅修身     二十七席

     妖怪迷信      十四席

     哲学宗教       六席

     教育         二席

     実業         五席

     雑題         八席

P209--------

福島県信達三郡巡講日誌

 大正三年十二月九日、午後十一時、上野発急行に乗り込み、十日朝五時、福島県安達郡二本松町〈現在福島県二本松市〉に着す。天いまだ明けず、雪片の空中に舞うあり。旅館大宗楼に入りて休泊す。楼は三層より成る。暁窓、四山みな白し。余は今日初めて雪を見る。郡長佐瀬剛氏来訪あり。午前、郡視学石田弼常氏の案内にて安達原の旧跡をたずぬ。石田氏は一昨年双葉郡以来の旧識なり。市街を出でて歩すること十町、桑圃を一過して阿武隈川の対岸に移れば、土墳の上に老杉と古碑との孤立せるあり。これを黒塚と呼ぶ。昔時、鬼女の屍を埋めたりし所と伝う。これより数歩を隔てて一寺あり、観世寺と称す。天台宗なり。境内に巨巌累々として堆積せる所あり。これを鬼女の住せし石窟なりという。そのそばに観音堂あり。鬼女所有の遺物を陳列せるも信拠し難し。ときに一詩を案出す。

  安達原頭桑圃連、当年鬼窟在何辺、奇墳怪石皆難信、唯有口碑千載伝、

(安達原のあたりは桑畑が連なり、そのむかし鬼女の住んだという石窟はどの辺りにあったのか。奇怪な古墳と巨岩もみな信じがたく、ただ伝説が千年も伝えられているのみなのである。)

 堂後の丘上に個人経営の小公園あり。午後、市街より小坂を隔てたる第二尋常小学校講堂に至りて開演す。同校にては時鐘の代わりに太鼓を用う。その響きすこぶる勇壮なり。二本松はもと丹羽家の城下にしてその名遠く聞こゆるも、今日は昔日のごとく盛んならず。市街は茅ぶき、瓦ぶき、木片ぶき、相交わる。瓦は赤瓦なり。近在に上川崎と名付くる村落あり、製紙を本業とす。年額十万円を産出する由。これを川崎紙と称す。開会主催は町長田倉孝雄氏、校長安藤正年氏、同須藤由一郎氏等なり。

 十一日 曇晴。馬車にて行くこと二里半、小浜町〈現在福島県安達郡岩代町〉に入る。途中、渡橋あり、小坂あり、旅店戸新亭に休憩す。会場は茅ぶきの劇場なり。この町より三春まで三里半ありという。旅店は室広くして風寒し。その名は戸新なるも、戸みな古色を帯ぶるはまた妙なりとす。この地にも個人経営の公園あり。その名称を日渉園という。国分道秀氏は山木屋村より来会あり。氏は信達三郡開会のために奔走の労をとられたり。当地の大根は半身微紅を帯ぶ。また、戸ごとに串柿をつるしおく。柿多く産出する故ならん。開会主催は青年協会にして、町長松本亀太郎氏、校長丹羽栄太郎氏、協会長松本松二氏等の発起にかかる。

 十二日 曇晴。山行約二里にして太田村〈現在福島県安達郡岩代町・東和町〉に入る。渓頭の紅葉落尽して山林蕭颯たり。泥路、半ばすでに凍れるありさまは東京の極寒の時に同じ。午後雨を催し、晩来雪となり、たちまちにして地みな白し。しかるに聴衆は午前よりすでに小学校にあふる。主催は地方連合青年会なり。煙花あり、余興あり。帰路、雪花すでに道を埋め、余初めて雪を踏む。宿所は篤志家荻生謙斎氏の別宅なり。室中に炬燵を設けらる。

  奥山飛錫入仙郷、烟火声中人満堂、講道未終寒醸雪、暮天一白掩林岡、

(奥山に杖をついて仙人の住むがごとき里に入る。花火の音の中で聴衆は会場に満ちた。講話の終わらないうちに寒さは雪をもたらし、日暮れには真白に林や岡をおおった。)

 村長本多勘三郎氏、校長田代盛人氏、竹内庄介氏、青年代表者安斎儀蔵氏および松原正次氏等の発起なり。

 十二月十三日(日曜) 晴れまた雪。暁望天青く地白く、室内の寒気三十三度に下り、硯水もまた凍る。太田より針道を経て伊達郡川俣町〈現在福島県伊達郡川俣町〉に至る。行程三里半、坂道多し。これに加うるに雪泥大根おろしのごとく、車行大いに苦しむ。途中、約三時〔間〕半を費やせり。午後、雪また紛々たり。聴衆、雪泥をうがちて劇場に集まる。講話を結ぶとき、日まさに暮るる。主催兼発起は青年会長石川政十氏にして、外に幹事二十名あり。町長は佐藤源吉氏、校長は広田和三郎氏なり。この町は郡内第一の都会にして、羽二重の産地をもって聞こゆ。ただ、汽車線路に遠きを欠点とす。宿所岩城屋旅館は設備佳良なり。昼間は機織の声耳に入りてやかまし。この日、郡役所より視学海野文蔵氏出張せらる。

 十四日 晴れ。川俣を去り、渓流にそいて下行すること二里半にして小手川村〈現在福島県伊達郡月舘町〉に至る。泥路いまだ乾かず、風また寒し。本村は丘山群起の間にあり、昨秋未曾有の大水害ありて、三十余戸一時に流失せりという。目下、堤防復旧工事中なり。その川名を広瀬川と称す。会場は小学校、宿所は曹洞宗茂林寺、発起かつ尽力者は村長金谷重郎治氏、校長三木常次郎氏、宿寺住職佐藤諦堂氏、真徳寺野田甫先氏、真法寺伊藤康宗氏等なり。この地方は郡内を挙げて県下における蚕業最盛の地にして、織物業また盛んなり。すべて養蚕を本業とし、農作を副業とするという。余はその実況を詩をもって示す。

  広瀬川頭路自斜、桑林連処有人家、冬来蚕婦勤紡織、霜暁機声送我行、

(広瀬川のほとりの道はおのずから斜めに、桑林の連なる所に人家がある。冬がくると養蚕の婦人達は今度は紡織に精を出すのである。霜のおりる明けがたにもかかわらず、機織の音が私の出発を送ってくれるのだ。)

 十五日 快晴。渓山起伏の間を一過して掛田町〈現在福島県伊達郡霊山町〉に入る。行程約二里あり。会場は小学校、主催は役場、学校、青年会にして、尽力者は町長飯沼与四郎氏、校長石上三郎平氏、および町内有志諸氏なり。当夕、白木屋旅館に宿す。哲学館大学出身大室恭英氏、この町内に住職せるをもって来訪あり。当町より行程三里半にして霊山に達すべし。その山は実に名のごとく霊山なり。奇石怪嵓の人目を驚かすものある由。山上に北畠〔顕家〕氏の城趾あり。また、山麓に霊山神社ありと聞けるも、登覧の時間なきを遺憾とす。掛田より県道十里余にして、相馬郡中村に達すという。

 十六日 晴れ、ただし両三回微雨襲来す。掛田より保原町〈現在福島県伊達郡保原町〉の間一里半の所、軽便鉄道あれば三十五分間にて達す。この辺りは蚕業の中心にして、平野広闊、桑園はてなし。午前は婦人会、午後は青年会、会場はともに小学校、発起かつ尽力者は小学校長荒井温氏、町長久保源太郎氏、青年会幹事高橋義一氏、佐藤亀蔵氏、太宰一三氏等とす。開会の報告にはすべて煙火を用う。郵便局長熊坂六郎兵衛氏より自製の印材袋を恵与せらる。宿所は新今亭なり。

 十七日 温晴。保原より一里半、軽便に駕して梁川町〈現在福島県伊達郡梁川町〉に達す。この間、平野数里にわたる。近く枯桑の田頭に連なるを見、遠く群山の白雪をいただくを望む。もし夏時にありては、緑桑相連なりて波を起こす。その状、桑の海のごとしという。発起は町長田口留兵衛氏、校長岡山幸太郎氏、収入役阿部長兵衛氏等にして、会場は劇場広瀬座、宿所は旅館広瀬館とす。当所には有志者中木儀左衛門氏あり、よく古実を語らる。小学校の敷地はもと伊達政宗公の旧城趾と称す。その庭内に古池あり、片葉の葦と片目の鮒ありという。また、市街を離れたる所に興国寺あり。曹洞宗の名刹にして僧堂を有す。また、鶴岡公園より多く介石を出だすとて、その一、二種を中村幸助氏より拝受す。聞くところによれば、男爵石黒忠悳氏はこの地にて出産し、三歳まで滞在せられしという。当時、父の名は平野順作と称せられし由。旅館は広瀬川に臨み、遠近の風光すこぶる佳なり。楼前に巨橋ありて市街を連結す。橋名もまた広瀬なり。詩をもってその景を写す。

  水浄沙明広瀬川、客楼対処一橋懸、斜陽影裏山将没、時有絃声破暮烟、

(水もみぎわの砂もきよらかな広瀬川の流れ、旅館のむきあう所に一本の橋がかかっている。西にかたむいた日かげのうちに山も暗く沈もうとし、時あたかも絃歌が起こり、煙るような宵の静かさを破った。)

 両岸には料理店ありて軒を並ぶ。

 十八日 晴れ、ただし北風強くしてかつ寒し。車行二里、阿武隈川を渡船し、藤田村〈現在福島県伊達郡国見町〉小学校に至りて開演す。これより宮城県国界まで約一里半、聴衆中にもその県下よりきたるものあり。発起は村長斎藤勘六氏、校長清野新五郎氏なり。当夕は田舎不似合いの美館と聞きし観月楼に宿すべきのところ、臨時、故障ありて中村旅館に泊す。

 十九日 雪。道みな白し。午後に至りてはるる。藤田駅より汽車に駕す。車中にて伊達郡長神子伴助氏に相会す。雪霏々白皚々を望みつつ安達郡本宮町〈現在福島県安達郡本宮町〉に移る。会場は本宮座にして改良式新劇場なり。しかして主催は一町九カ村の連合青年大会なり。雪路を踏みて会する聴衆、場に満つ。佐瀬郡長、石田郡視学も出席せらる。発起者は青年会長伊藤市之介氏、校長小桧山農夫雄氏、訓導武藤長吉氏等にして、伊藤氏特に尽力あり。本町は二本松と郡山との中間に位し、郡山まで四里を隔つという。宿所堺屋旅館にては客室に卓上電話を設置す。

 十二月二十日(日曜) 晴れ。再び汽車をめぐらして伊達駅に降り、これより車行三十丁にして瀬上町〈現在福島県福島市〉に移る。当町の旧家宍戸栄太郎氏宅に泊す。庭池に大鯉を餌養せらる。夜中、小学校にて開演す。発起は校長高玉良助氏、青年会長宍戸宇太郎氏、副会長島貫平之助氏等なり。当地の特色は斬髪床屋に文庫を設け、これに入るものをして読書せしむるにあり。これ文庫の新意匠なり。

 二十一日 晴雨不定。瀬上を発し車行一里半、阿武隈川の仮橋を渡り、岡山村〈現在福島県福島市〉小学校に至りて開演す。校内には三十三年勤続と三十年勤続との両教員あり、また二十五年勤続の校僕ありと聞く。郡長遠藤辰雄氏来会せらる。発起は修養会長横山玄彰氏、軍人分会長渡辺友之助氏、青年会長阿部浅之助氏、校長馬場三省氏等なり。夜に入りて香沢山安洞院に至りて宿す。住職横山氏は東洋大学の出身たり。寺は山腹に踞して隣家なく、ただ松風颯々の声を聴くのみ。実に禅心を養うによろし。よって壁上に「香沢山辺身雲如々、安洞院裏心月朗々」(香沢山のほとりに身は雲のごとくありのままに、安洞院のうちに心は月のごとくあきらかに)の連句をとどむ。

 二十二日 晴れ。朝、宿寺の所管にかかる観音堂に登拝す。世にいわゆる信夫文字摺の遺跡なり。台下に一巨石の虎臥せるあり。石面には文字の形を見ず、そのそばに一小石あり、文その面に現る。台上に河原左大臣の古歌を刻せる碑石あり。塔堂ともに古色を帯び、風光また明媚なり。余、ときに一首を浮かぶ。

  一首古歌人所知、遙尋遺跡到東陲、観音台下無文石、呼作信夫綟摺碑、

(一首の古歌は人のよく知るところであり、遠く遺跡をたずねて東の国ざかいまで来た。観音台の下に無文の石があり、これを呼んで信夫綟摺の碑という。)

 これより車行一里、福島市〈現在福島県福島市〉高等女学校にて講話をなす。校長小泉於菟彦氏は、先年豊前企救郡にて初めて相識れり。首席教諭戸城伝七郎氏も旧知たり。同校の特色は寄宿舎を家庭組織とし、一室ごとに炊事場を別置せるにあり。これより更に車行三十丁、清水村〈現在福島県福島市〉小学校に至りて開演す。村長大内六右衛門氏、校長松本清高氏、青年会長佐藤利助氏の発起なり。宿所斎藤竹三郎氏の階上の新座敷に鶴栖堂と命名す。

 二十三日(冬至) たちまち晴れ、たちまち雪。早暁、地すでに白し。北風凜冽、厳冬の時のごとし。車行二里余にして庭坂村〈現在福島県福島市〉に達す。会場は小学校なり。校内の各教室にいちいち地炉を設けて、火鉢の代わりとなすはその特色とす。発起は校長根本八重治氏、村長後藤七右衛門氏、学務委員遠藤金吉氏等なり。庭坂はもと米沢街道の要駅に当たり、風俗の米沢に似たること多し。冬時は婦人みな米沢袴すなわちモンペを着用す。物産として梨実を多く輸出すという。これより山間に入り、羽前に隣接する所に僻村あり。丘山群立の間にありながら、李平、大平などの地名を有するは名実不相応なり。当夜、汽車にて福島市に至りてホテルに入宿す。停車場をへだつること一、二丁の点にあり。

 二十四日 暁雪霏々、朔風凜々、後ようやくはれたるも凍風衣に徹して寒し。車行一里、大森村〈現在福島県福島市〉円通寺に至りて開演す。堂内ことに寒気の厳なるを覚ゆ。日中なお〔華氏〕三十八度より上らず。発起は村長二瓶熊吉氏、校長福尾寅吉氏、青年会長鈴木長助氏等なり。渡辺松太郎氏の老母九十三歳なりと聞き、寿詩を賦呈す。夜二更、寒月をいただき、霜風を破りて福島藤金旅館に帰宿す。路上の泥水すでに氷を結ぶ。

 二十五日 晴れ。福島より平野村〈現在福島県福島市〉まで自動車を駆り、約二里の間を二十分以内にて達す。会場は小学校、発起は村長中村吉太郎氏、校長小沢恒太郎氏、青年会長中村顕宜氏なり。演説前に校長の案内にて当所の古跡医王寺をたずぬ。寺は真言宗にして、義経および弁慶の遺物を所蔵す。また、堂後に古松あり。その形、虎尾に似たりとて虎の尾と呼ぶ。義経の手植えにかかると伝う。枝葉全く普通の松と異なれり。更に歩すること丁余にして、信夫荘司佐藤勝信親子の墓あり。その墓石は瘧をいやするに特効ありとて、ひそかにきたりて石角を砕き取るもの多く、ために碑面の文字まで抹殺せらるるに至れり。ときに所感一首を得たり。

  梨圃桑園繞梵城、老杉護境寂無声、一株虎尾松猶在、留得英雄千古名、

(梨の果樹園や桑畑が寺院〔医王寺〕をめぐってあり、老杉は境をまもるようにたち寂として音もない。ひと株の虎尾の松はいまなおあり、英雄の名は千古にとどめられている。)

 村内には梨園ことに多し。演説後、車を連ねて行くこと半里、飯坂温泉に至る。途中、小坂あり、これを仏坂と呼ぶは奇なり。宿所桝屋は摺上川に踞して、終宵渓流の潺々を聴くは一段の雅趣を添う。浴後、杯を傾け、酔いに乗じて漫吟す。

  摺上渓頭有熱泉、湯煙凝処夕陽円、連楼浴客時呼酒、酔後何人不楽天、

(摺上川のほとりに熱湯がわく。湯煙のかたまり上るところ夕日もまどかに、軒を連ねる旅館の浴客は酒を求め、酔った後はだれもが天命を楽しむのである。)

 本年に入りて飯坂に入浴すること二回の多きに及ぶ。天野郡視学に対しては、約一週間を通じて各所へ案内の労をとられ、かつ最後に温泉地を指定せられたるの厚意を謝す。

 二十六日 曇り、午後雨。飯塚より二里半、自動車に駕して福島市に移り、到岸寺にて開演す。主催は仏教慈善会連合団なり。団長野田天真氏(川俣町)、副団長石川廓然氏(桑折町)、主事鈴木徳隣氏(長岡村)、同石山善随氏(会場住職)等の発起にかかる。とき歳晩に迫り、日降雨に際し、聴衆極めて少数なり。宿所大平館主人平沢鉄三郎氏は余と同郷の出身なりと聞く。

 十二月二十七日(日曜) 雪。汽車にて松川駅に降車し、これより腕車にて行くこと一里半、伊達郡飯野村〈現在福島県伊達郡飯野町〉に至る。雪途泥を混じ、これに加うるに坂道多く、車行遅々たり。車外一面銀世界を開く。会場は劇場、休憩所は常陸屋旅館なり。村長菅野亀治氏、校長福田復一郎氏、実業家水上理一郎氏、観音寺、東光寺等の発起にかかる。本村は松川より川俣に至る中間にありて、蚕業、機業ともに盛んなり。米麦は一年中、四、五カ月を支うるに過ぎずという。福島市にては旅宿料を五等に分かち、一泊六十銭より三円までと表示す。しかるに飯野にては一等一円、二等七十五銭、三等五十銭と広告す。これによりて、この地方の物価の一斑を知るべし。午後七時半、腕車をめぐらし、半輪の淡月と半凍の泥途を踏みて松川に至り、十一時の夜行にて帰東す。随行永井氏とは郡山にて相別る。翌朝六時、上野に安着す。

 信達三郡巡講中、見聞に触れたる二、三点を列挙す。第一に、人力車夫に老いたるもの多きがごとし。他地方にては年が若いから車夫になろうというに、この地方にては年が寄ったから車夫になろうという由。つぎに、夜具の掛け蒲団は関西風にて、袖なきものを用う。また、人の姓に藤の字の付きたるもの過半を占む。遠藤、佐藤、伊藤、近藤、斎藤、武藤、須藤、加藤のごときこれなり。けだし藤原家の末孫多き故ならん。教育に関しては、校舎の外観の美なるものなきも、内容のいかんは外観をもって判ずべからず。講堂または雨中体操場を備うる学校はいたって少なし。宗教に関しては、福島県中この三郡最も勢力ありというも、北国などに比すれば寂々寥々たるものなり。民家の仏壇は多く戸棚兼用にして、なにもかもその中に雑居せしむるありさまなり。そのいわゆる本尊は多く仏菩薩にあらずして、祖先の位牌を用う。葬式の外に法事を営むも、不景気または凶作のときにはこれを行わず、あるいは多数の檀家相集まり、一時に協同法会を営むことありという。これすこぶる経済的なり。これを要するに、福島県は曹洞宗七、八分を占め、真宗極めて微々たり。したがって従来寺院において民間の布教をなしたることなし。ただ真宗の多数を占めたる地は福島市と梁川町なりという。近年、禅学が県下の各地に流行し、官吏、教員などに禅を談ずるもの多きに至れるは、禅宗の多き影響と、政治家の元老たる河野広中氏の指導の結果ならん。ただし本県の宗教として称揚すべき一事は、県下各郡を通じ各宗各派合同して慈善会を組成せるにあり。かくのごときは、他府県においていまだ見ざるところなり。つぎに、方言、俗謡に関しては、

  オタマジャクシをガエルコまたはオタマコといい、タニシをツブといい、藁塚をワラミョウという。

 また、衆人相会して酒をのむときに、杯の献酬なきときは、ドスの権現講のようだという由。ドスとは癩病患者のことなり。また、俗謡としては福島のサンサシグレが名物なり。祝宴の席にて必ず歌い出だすものは、

  メデタ★★(原文では、くの字点表記)のかさなる時は、鶴と亀とが舞ひ遊ぶ、

  雉子のメンドリ小松のしたで、妻を呼ぶやらチヨ★★(原文では、くの字点表記)と、

  サンサシグレかカヤノゝ雨か、おともせできてぬれかゝる、

 この歌の終わりへ必ず「アル生涯ナ」の語を添うるを常例とす。また、福島市にて昨今流行の俗謡を聞くに、左のごとし。

  人は心のおき処、柳は風にさからはず、人にはまけよ我に勝て、渡る世間に鬼はなし、

 以上、伝聞のままを記しおわる。

 

     信達三郡開会一覧

   市郡   町村    会場    席数   聴衆     主催

  福島市        寺院     一席  百人     仏教慈善会

  同          高等女学校  一席  四百人    校友会

  安達郡  二本松町  小学校    二席  五百人    白銅会

  同    本宮町   劇場     二席  一千五十人  連合青年会

  同    小浜町   劇場     二席  四百人    青年協会

  同    太田村   小学校    二席  八百人    連合青年会

  伊達郡  川俣町   劇場     二席  九百人    青年会

  同    掛田町   小学校    二席  六百五十人  役場、学校、青年会

  同    保原町   小学校    二席  六百人    青年会

  同    同     同前     二席  三百五十人  婦人会

  同    梁川町   劇場     二席  一千人    通俗教育会

  同    小手川村  小学校    二席  七百五十人  村有志

  同    藤田村   小学校    二席  三百人    校長

  同    飯野村   劇場     二席  六百人    村有志

  信夫郡  瀬上町   小学校    二席  七百五十人  青年同和会

  同    岡山村   小学校    二席  三百五十人  修養会、軍人分会、青年会

  同    清水村   小学校    二席  二百五十人  学校、青年会

  同    庭坂村   小学校    二席  二百人    村有志

  同    大森村   寺院     二席  百五十人   村長

  同    平野村   小学校    二席  二百五十人  学校、役場、青年会

   合計 一市、三郡、十七町村(八町、九村)、二十カ所、三十八席、聴衆一万三百五十人、日数十八日間

    演題類別

     詔勅修身     十七席

     妖怪迷信      五席

     哲学宗教      七席

     教育        二席

     実業        四席

     雑題        三席

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大正三年度報告

 余の本年中における事業を報告せんに、著作の方にては、

  人生是れ戦場  全一冊  大正三年二月二十四日  弘学館発行

  おばけの正体  全一冊  大正三年七月五日  丙午出版社発行

 哲学堂経営の方にては、図書館の新築に着手し、大半竣功せり。本年は豪雨、洪水のために山崩れありて、唯物園に多大の損害を与え、復旧工事に多額を支出せり。また、論理関に傘亭を新設し、その周囲に小庭を築造せり。

 つぎに巡講の方は、前掲の合計を再掲せんに、

  一郡、一村、一カ所、一席、五百人(神奈川県足柄下郡土肥村)

  九郡、六十二町村、七十三カ所、百三十四席、三万百九十人(滋賀県湖東南西)

  五郡、十一町村、十六カ所、二十七席、八千八百人(三河国西部、播摩国東部)

  一市、二郡、十四町村、二十二カ所、三十席、一万一千五十人(佐渡国全郡、越後国一部)

  一市、七郡、四十町村、五十カ所、九十三席、二万四千百八十人(東参全部、西参一部)

  一市、二郡、二町、四カ所、六席、三千百人(尾濃三カ所)

  三郡、二十六町村、二十八カ所、五十五席、一万四千九百五十人(滋賀県湖北三郡)

  三郡、十二町村、十二カ所、二十四席、五千九百人(福島県石白三郡)

  一市、六郡、三十町村、三十三カ所、六十二席、一万五千四百人(茨城県珂北三郡ほか数カ所)

  一市、三郡、十七町村、二十カ所、三十八席、一万三百五十人(福島県信達三郡)

   総計 五市、四十一郡、二百十五町村、二百五十九カ所、四百六十席、十二万四千四百二十人

 すなわち演説四百六十席を重ね、聴衆十二万四千四百二十人に対し、御詔勅に基づきて精神修養上の講話をなせしなり。

  (付) 哲学堂会計報告

一、収入合計 金一万一千六百二十六円二十六銭

    内訳 金六千七百七十八円七十二銭    揮毫謝儀

金七円也             篤志寄付

金四千六百九十二円五十五銭    前年度剰余金

金百四十七円九十九銭       銀行利子

一、支出合計 金四千六百八十九円四十七銭

    内訳 金三千九百二円六十九銭五厘    建築費、修繕費

金百七十一円二十銭        書籍、報告、規則印刷代

金六百十五円五十七銭五厘     事務費(俸給、手当、郵税等)

差し引き 金六千九百三十六円七十九銭      剰余金

  およそこの半額は基本金として積み立て、他の半額は大正四年度支出の方に充用するの見込み。

 以上  大正三年十二月決算

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大正四年の元旦を迎う 付 九カ年間演説会計通算表

 大正三年十二月二十八日、福島県より帰京するや、旅労をいやせんためににわかに思い立ち、三十日東京を発し、伊豆国修善寺温泉に入浴し、新井旅館において新年を迎う。新年に入るや私用ありて急に帰京し、更に大正四年一月十四日、伊豆国熱海温泉に入浴す。宿所は露木旅館なり。入浴中の吟草を左に合録す。

       大正四年元旦作二首

大正星移卯換寅、乾坤何処見清新、干戈猶動欧洲路、諒闇未終皇国春、政海怒涛声破寂、戦場毒霧影侵晨、書窓幽趣人知否、独与光風霽月親、

(大正の年は寅より卯に移る。天地の間、いずこも清新となる。戦争はなお欧州では続いているのであるが、大正帝はまだ先帝の喪に服したまますめらみくにの春となった。政界では怒涛のごとき声が静けさを破り、戦場の毒霧のかげは夜あけをおかす。書斎の窓べに静かさを好む人はこのことを知っているのかどうか。ひとり光るような風とはれた月とに親しんでいるのである。)

諒闇未終年此新、欧天猶暗戦場塵、東洋幸得砲煙歛、愁裏観迎奏凱春、

(明治帝の喪のいまだ終わらぬなかで、年はここに新たとなった。欧州の空はなお戦場の塵におおわれて暗い。東洋は幸いにして砲煙もおさまり、心配ななかでなごやかな春を迎えたのである。)

     大正農業訓(「擬二宮翁報徳訓」(二宮翁報徳訓になぞらえて))

明治改暦大正開元、皇日国光偏照乾坤、今後経営在拡実力、拡充実力在養富源、養成富源在興産業、興起産業在開田園、開鑿田園在持勤労、持続勤労在教子孫、教養子孫在保国家、保全国家在戴至尊、日々夜々可仰皇徳、年々歳々勿忘国恩、

(明治の年はあらたまり大正の年が始まる。すめらみくにの光はあまねく天地を照らす。今後の国家事業は実力を拡充するにあり。実力を拡充するには富の源を養うことにあり。富の源を養うには産業を振興するにあり。産業を興起するには田園を開拓するにあり。田園を開拓するには勤労を持続するにあり。勤労を持続するには子孫を教育するにあり。子孫を教え養うには国家を保持するにあり。国家を保全せしむるには至尊をいただくにあり。日も夜も天子の仁徳を仰ぐべく、年ごとに国家の恩徳を忘れてはならない。)

 余の所持せる自然木の如意は、これを立つるに観音の相を現じ、これを臥せしむるに怒潮の形を示す。よって自ら左のごとく題せり。

立形似観音、臥容類怒潮、人心亦如此、和則現観音、激則起怒潮、

(立つるときの形は観音の様子に似て、横たえれば怒れるうしおのさまに似ている。人の心というのもこのようなものであろう。なごやかなときは観音のごときであり、激昻するときは怒れる潮のごとく波だつのだ。)

 哲学堂図書館内に四聖の像を石に刻して安置することに定め、田中百嶺氏をして原図をえがかしめ、田中良雄氏をしてこれを刻せしめ、その台石に余自ら左の記文を筆して刻せしめたり。

凡哲学東西相分、在東洋支那哲学以孔聖為宗、印度哲学以釈聖為首、西洋則古代以瑣聖為宗、近世以韓聖為首、故本堂欲合祀斯四聖而代表古今東西之諸哲、茲刻影像以致鑚仰之誠、如其位次則従年代前後、非有所軒輊也、

(おおよそ哲学は東西にわかつ。東洋のシナ哲学においては聖人孔子をもっておおもととなし、インド哲学においては聖人釈尊をもってもととす。西洋では古代においては聖人ソクラテスをもっておおもととなし、近世は聖人カントをもってもととなす。故に本堂にこの四聖を合わせまつって、古今東西のもろもろの哲学者を代表せしめ、ここにその像を刻み、その学徳をあおぎしたうのである。その順序は年代の前後によるのであって、優劣によるものではないのである。)

 大正四年一月 後学 井上円了識併書   

 また、哲学堂の建築費および維持金を積み立つる一方法として、全国巡講の際、各所において揮毫のもとめに応ずることに定めたりしが、目下工事過半竣成したれば、筆塚を設くることに決し、左の記文を草せり。

余欲建設哲学堂使人修養身心、荷筆歴遊諸州、応需揮毫、積其謝報充此資、大半既成、於是築筆塚以記其由云、

(私は哲学堂を建設して人々の身心を修養せしめようとし、筆を持って諸州を歴遊し、求めにこたえて揮毫して、その謝礼をためてこの建設の費用に充ててきた。大半はすでに建設し終わったので、ここに筆塚を築いてその理由を記すのである。)

 大正四年一月 哲学堂主 井上円了併書   

 ついでに哲学堂雑詠数首を録す。

清風一過万松鳴、自作唯心唯物声、聴到門前有知己、幽霊天狗笑相迎、

(清らかな風がひと吹きして松の木々が音をたて、おのずから唯心、唯物の声をあげる。これを耳にしつつ門前に至れば私をよく理解してくれるものがある。すなわち幽霊梅と天狗松がほほえむように迎えてくれるのである。)

哲学堂成已十秋、友賢師聖復何求、一箪蔬食吾生足、身不自由心自由、

(哲学堂ができてからすでに十年を経た。賢師、聖人を友とする生活で、これ以上なにを求めることがあろう。ひとつのわりごと粗食でわが生活は十分であり、身は不自由であろうとも心は自由なのである。)

哲学堂前過者誰、出門相見是吾師、嚢無一物難賒酒、笑使幽霊陳謝辞、

(哲学堂の前をよぎる者はだれであろうか。門を出て見ればそれはわが先生であった。財布にはなにもなく酒をおくることもできない。仕方なく笑って幽霊梅にあやまりの言葉をのべさせたのであった。)

 ときに軍人勅諭を詠じたる拙作あり。

尽忠知礼重、養武覚身軽、併得信兼質、一心只守誠、

(忠節を尽くし礼儀を重んずるを知り、武勇を養って身を鴻毛の軽きにおくをさとる。あわせて信義と質実を身につけ、ただ一心に誠を守るのみ。)

 拙著『人生是れ戦場』に題する五絶は左のごとし。

男児須健闘、国運未全昌、天下無寧日、人生是戦場、

(男児はすべからく健闘せねばならない。国家の命運もすべてさかんとはいえぬ。天下には一日として安らかな日はない。人生とは戦場なのである。)

 名教裨補の一助として毎首教育勅語中段の聖語を冠し、国民道徳訓三十韻を賦す。

  一、東韻(「冠以孝字」(冠するに孝の字をもってす))

孝是倫常本、移之則作忠、養成斯二道、皇運永無窮、

(孝はもとより人倫の常とすべき本、視点を移せばすなわち忠となる。この二つの道を養成すれば、すめらみくにの命運は永くきわまりなし。)

  二、冬韻(「冠以友字」(冠するに友の字をもってす))

友愛期深厚、持身宜守恭、終生誠一貫、徳望必相従、

(友愛は深く厚からんことを期す、身を保持するにはつつしみ深きを守るべし。生涯誠をもって貫けば、徳高く人望は必ずついてくる。)

  三、江韻(「冠以和字」(冠するに和の字をもってす))

和気洋々裏、春風自満腔、笑声如湧処、暖月照心窓、

(和気の満ちたりるうちに、春の風はおのずから全身にいきわたる。笑い声の湧きおこるところに、やわらかな月の光が心の窓を照らすのである。)

  四、支韻(「冠以信字」(冠するに信の字をもってす))

信去人難立、詐来事竟危、万全唯一道、誠実是常規、

(信を人よりとり去れば、人として成り難く、いつわりごとばかりで事業はついにあやういこととなる。安全であることの唯一の道は、誠実を常道の規範とすることである。)

  五、微韻(「冠以恭字」(冠するに恭の字をもってす))

恭譲人難守、道心逐日微、奈何修徳士、寥似暁星稀、

(うやうやしくへりくだることは、これを守ることも難しく、道徳心は日を追っておとろえていく。どうしてなのか徳を修める人士は、さびしいことに暁に星の光のまれであるのに似ているのだ。)

  六、魚韻(「冠以倹字」(冠するに倹の字をもってす))

倹徳安吾分、優游楽陋居、省身無疚処、何問毀兼誉、

(つつましく人におごらぬ徳によって、わが相応の分にやすんじて、ゆったりとせまい住居に楽しみくらす。わが身をかえりみてやましいところはない。いったいどうして毀誉褒貶などを問題にしようか。)

  七、虞韻(「冠以博字」(冠するに博の字をもってす))

博識人皆貴、却多弱行徒、不如修実学、積徳作真儒、

(博識は人のみな貴ぶところ、しかし、かえって行動力に欠ける人々が多い。むしろ、実用の学を修めたほうがよい。そして徳を積んで真の儒教の徒となる。)

  八、斉韻(「冠以愛字」(冠するに愛の字をもってす))

愛情須及衆、仁徳与天斉、桃李無言下、人来自作蹊、

(愛情はすべからくもろもろの人に及ぼすべし。仁徳は天と同じように広く、大きければ、桃李はもの言わねど、その下には人がやって来て、おのずから道を作るように慕われる。)

  九、佳韻(「冠以学字」(冠するに学の字をもってす))

学山高不測、文海濶無涯、余力能修習、何為井底蛙、

(学問は山のごとく高く測ることはできぬほどであり、文学は海のごとく広く果てはない。余力をもってよくこれを修習すれば、いったいどうして井の中の蛙となろうか。)

  十、灰韻(「冠以業字」(冠するに業の字をもってす))

業有難兼易、只要不恃才、孜々無倦怠、好運不祈開、

(事業は難きもやすきもあるが、ただ才能におぼれることのないようにするのが肝要である。勤勉につとめうみ怠ることなければ、好運は祈ることもないのだ。)

  十一、真韻(「冠以智字」(冠するに智の字をもってす))

智眼欺星月、武威驚鬼神、皆無非聖沢、余滴及微臣、

(英智の目は星月のごとく輝き、武威は鬼神をも驚かすほどである。みなその恩徳のめぐみであり、その余沢は私ごとき身にも及んでいるのだ。)

  十二、文韻(「冠以能字」(冠するに能の字をもってす))

能忍人常勝、成功在克勤、不論文与武、奮闘致殊勲、

(よく人に忍んで常にまさり、成功はよく勤めるにある。文と武とを問わず、奮闘して殊勲をもたらすのである。)

  十三、元韻(「冠以徳字」(冠するに徳の字をもってす))

徳樹多枝葉、孝忠為道根、精華相発処、光被万邦村、

(徳の大樹は枝葉も多く、孝と忠をもって人の道の根本となす。そのすぐれた美しさが発揮されるところ、光はあらゆる国、あらゆる村をおおう。)

  十四、寒韻(「冠以器字」(冠するに器の字をもってす))

器大其成晩、約身心自寛、徐行宜戒慎、前路望漫々、

(大器は晩成という。身をひきしめて心はおのずからゆるやかに、ゆったりと事を行い、よろしく戒め慎しむべきである。かくして、前途はひろびろと広がるのである。)

  十五、刪韻(「冠以公字」(冠するに公の字をもってす))

公徳分文野、無之即是蛮、可憐君子国、今化小人寰、

(公徳は文化と野卑とをわかつ。これがなければすなわち野蛮となる。気の毒なことに君子の国は、今や小人の天下となっているのだ。)

  十六、先韻(「冠以益字」(冠するに益の字をもってす))

益人先忍苦、報国豈期全、奮進忘身命、死生只任天、

(人のためになるにはまず忍苦があり、国に報いるにはすべてのことに全きを期せんと願う。奮進しては身命を忘れ、死生をただ天にまかせるのみ。)

  十七、蕭韻(「冠以世字」(冠するに世の字をもってす))

世海波難穏、人舟自動揺、我心常卓出、高歩渡雲霄、

(世の海の波はおだやかならず、人も舟もおのずからゆれ動く。わが心は常にこれより出て、高く雲の上を行くのである。)

  十八、肴韻(「冠以務字」(冠するに務の字をもってす))

務本能持巳、何関世上嘲、喫茶観得失、両是碗中泡、

(本を務めるにはよく己を保持し、なんで世上のあざけりを気にしようか。茶をのみつつ得失をみれば、ふたつながら碗中の泡とみるのである。)

  十九、豪韻(「冠以国字」(冠するに国の字をもってす))

国歩何時進、人心似濁醪、独醒窺自己、性月一輪高、

(国のあゆみはいずれのときか進まん。人の心はにごり酒にも似て、ひとりさめてみずからをうかがえば、こころばえを示す月が一輪、空高くうかんでいる。)

  二十、歌韻(「冠以憲字」(冠するに憲の字をもってす))

憲法除苛政、由来民福多、喜吾潜草莽、同是浴恩波、

(憲法は苛政を除き、それ以来、人民の福をもたらすこと多く、喜ぶべきことに私のように民間にひそかに生きる者でも、同じく恩恵の波に浴するのである。)

  二十一、麻韻(「冠以国字」(冠するに国の字をもってす))

国体三千載、皇家一系遐、何縁成此美、忠孝樹頭花、

(国家の体制は三千年をへ、皇室はひとすじにつたえられることはるかである。なにによってこの美しい伝統があるのか。それは忠孝の花が樹上の花のごとく咲きほこっているからなのだ。)

  二十二、陽韻(「冠以法字」(冠するに法の字をもってす))

法令須厳守、徳風当発揚、丹心能淬砺、国運必隆昌、

(法令は厳しく守るべきものであり、そして、道徳の風俗はあらわれかがやく。まごころはよくとぎみがかれ、国の運命は必ずや隆昌せん。)

  二十三、庚韻(「冠以義字」(冠するに義の字をもってす))

義如千岳重、死似一毛軽、国歩艱難日、忘身竭至誠、

(義は千山のごとく重く、義に比して死は一毛の軽さにも似ている。国家の歩みは艱難の日多く、一身を忘れて至誠をつくすのみである。)

  二十四、青韻(「冠以勇字」(冠するに勇の字をもってす))

勇風蒙北塞、仁雨澍南溟、仰見吾皇徳、炳焉如日星、

(勇敢の礼風は北方の要害の地をおおい、仁慈のめぐみは南海の果てまでうるおす。わが皇室の仁徳を仰ぎみれば、そのかがやきは日や星のごとくきらめくのである。)

  二十五、蒸韻(「冠以奉字」(冠するに奉の字をもってす))

奉戴皇宗訓、拳々欲服膺、人心如暗夜、句々是明灯、

(皇室宗祖の遺訓を奉戴し、つつしんでよく忘れぬようにしたい。人の心は暗い夜のごとく、勅語の一句一句は明るいともしびとなって導くのである。)

  二十六、尤韻(「冠以公字」(冠するに公の字をもってす))

公私徳何異、百行本同流、尋到道源地、唯看忠孝舟、

(公と私の道徳は異なることなし。もろもろの行いの根本は同じ流れなのである。道徳の根源にさかのぼれば、ただ、忠孝を舟とみたてることができるのである。)

  二十七、侵韻(「冠以扶字」(冠するに扶の字をもってす))

扶老憐孤独、施人以赤心、応知慈海水、一滴是千金、

(老いの人をたすけ、孤独の人をあわれみ、人に対するおもいやりは真心をもってするべきである。これこそ慈海の水と知るべきであり、一滴は千金の重みをもつものである。)

  二十八、覃韻(「冠以翼字」(冠するに翼の字をもってす))

翼成何処向、鵬志欲図南、富国有先務、耕田与養蚕、

(翼はいったいどこに向かおうとするのか。おおとりの志は南へ向かわんとしている。国を富ますにはまず務めるべきことがある。それは田を耕すことと養蚕なのだ。)

  二十九、塩韻(「冠以皇字」(冠するに皇の字をもってす))

皇沢如春雨、洋々四海霑、国威侔夏日、六合仰其炎、

(天子の恩沢は春の雨のように、ひろびろとして天下をうるおす。国家の威厳は夏の陽光にひとしく、天地四方のすべてがその炎熱を仰ぐのである。)

  三十、咸韻(「冠以運字」(冠するに運の字をもってす))

運悪何須歎、志堅能透岩、只憂天下士、情義薄於衫、

(運の悪さを嘆く必要はない。志が堅ければ岩をもとおすというではないか。ただ天下の志ある人々は、情義が肌着よりも薄いことを憂うるのみである。)

 また、さきに戊申詔書八条の聖語を冠して三十韻を賦したることあり、あわせてここに録す。

  一、東韻(「冠以上字」(冠するに上の字をもってす))

上和而下睦、億兆竭精忠、皇室千秋秀、神州万古隆、

(上は和して下はむつまじくし、億兆の人民がまごころを尽くせば、皇室は千年もひいで、この神の国は万古もさかんである。)

  二、冬韻(「冠以下字」(冠するに下の字をもってす))

下臨河海大、上仰日星重、静坐観天地、豁然開鬱胸、

(下は河や海の大なるを臨み、上は日や星の重きを仰ぐ。静かに座して天地を観察すれば、からりとして胸のふさがりがひらける。)

  三、江韻(「冠以一字」(冠するに一の字をもってす))

一系三千載、巍々聳万邦、祖宗深樹徳、忠孝両無双、

(ひとすじに三千年、たかだかと世界にそびえたつ。先祖より深く仁徳がたてられ、忠孝ふたつながら世にならぶものはない。)

  四、支韻(「冠以心字」(冠するに心の字をもってす))

心如明鏡照、万象納其姿、発則為忠孝、凝成国体基、

(心はくもりない鏡の照らすがごとく、万物のあらゆる姿がそのなかに映されている。光発するときには忠孝となり、凝固すれば国家体制の基となる。)

  五、微韻(「冠以忠字」(冠するに忠の字をもってす))

忠君気時発、幸見武威輝、若更勤生産、兵張国亦肥、

(君に忠を尽くす心の発するとき、幸いにして武力の勢いの輝きをしめす。もしさらに生産につとめれば、兵は国に設けられ、また富む。)

  六、魚韻(「冠以実字」(冠するに実の字をもってす))

実業扶財政、年々国債除、従今益勤倹、輸出有常余、

(実業は国家の敗政をささえ、年を経るごとに国債は除かれる。いまよりますます倹約に努めれば、輸出するにも常にゆとりがあろう。)

  七、虞韻(「冠以服字」(冠するに服の字をもってす))

服膺皇祖訓、国体下相扶、読到無窮句、拝天万歳呼、

(皇室祖先からのおしえをむねに忘れず、国家の下にあいたすけあう。かぎりない内容をもつ句を読んで、天を仰いで万歳をさけぶのである。)

  八、斉韻(「冠以業字」(冠するに業の字をもってす))

業進多蹉跌、学成心却迷、一誠能自守、何物得排擠、

(事業が進めばつまずくことも多く、学業が成るときには心がかえって迷う。誠をもってよく守れば、なにものもおしのけることはできないであろう。)

  九、佳韻(「冠以勤字」(冠するに勤の字をもってす))

勤労期奮闘、勇進百難排、他日成功後、陶然送老涯、

(勤労は奮って努力することときめ、勇み進めばあらゆる困難もおしのけられよう。さすれば成功の後には、悠々として老後を送ることができるというものだ。)

  十、灰韻(「冠以倹字」(冠するに倹の字をもってす))

倹素兼勤勉、相持福自開、笑他迷信客、祈仏欲除災、

(倹約質素と勤勉を兼ねもてば、それによって福運はおのずから開けよう。笑うべきはかの迷信の人、仏に祈って災いを除かんとしていることである。)

  十一、真韻(「冠以治字」(冠するに治の字をもってす))

治家以勤倹、処世不如仁、先聖有遺訓、節身而愛人、

(家を治めるには勤倹をもってするべきで、処世にはおもいやりが最も大切なのだ。いにしえの聖人の残されたおしえにもあるように、身をつつしんで人を愛することである。)

  十二、文韻(「冠以産字」(冠するに産の字をもってす))

産業勿荒怠、行余宜学文、乾々曾不倦、富国即忠君、

(産業ではおこたることなかれ。そして、その余暇には文学を学ぶべきである。おこたらず努力してうむことなければ、国を富まし、とりもなおさず君主に忠義をつくすことになる。)

  十三、元韻(「冠以惟字」(冠するに惟の字をもってす))

惟精惟一処、自有道心存、平素専修養、輸誠報国恩、

(ただ精進するのは一つのみ。かくておのずから道徳の心を存す。平素はもっぱら修養につとめ、誠をつくして国家の恩愛にむくいる。)

  十四、寒韻(「冠以信字」(冠するに信の字をもってす))

信是成功柱、倚之無不安、人生多逆境、何恐立身難、

(信というものは成功の柱ともいうべきもの。これによって行えば不安はない。人生にはとかく逆境におかれることが多いが、どうして立身のしがたきを恐れよう。)

  十五、刪韻(「冠以惟字」(冠するに惟の字をもってす))

惟時明治改、大正此開関、前途猶遼遠、要知国歩難、

(これ、ときに明治はあらたまり、大正の世がここに開かれた。前途はなおはるかに遠く、国家の進むことの困難さを知るべきである。)

  十六、先韻(「冠以義字」(冠するに義の字をもってす))

義勇為常操、体躯期健全、身心常活動、志気足凌天、

(義勇はつねにとるところ、身体も健全であることをねがう。身心を常に活動せしめて、志気は天にも達せんばかりである。)

  十七、蕭韻(「冠以醇字」(冠するに醇の字をもってす))

醇々民自楽、奉戴聖明朝、欲浴人文沢、唯憂国未饒、

(人情味豊かな民はおのずから楽しみ、すぐれた天子の御代をいただいている。この文明の恩沢をうけるにも、ただ国のいまだ豊かでないことを心配するのである。)

  十八、肴韻(「冠以厚字」(冠するに厚の字をもってす))

厚薄情難免、須修管鮑交、尊卑何有別、四海本同胞、

(情に厚薄のあるのはさけられぬ。あの管仲と鮑叔の交わりに学ぶべきである。尊と卑にはいかなる区別もない。世界はもとよりはらからなのだ。)

  十九、豪韻(「冠以成字」(冠するに成の字をもってす))

成敗尋常事、当難貴気豪、虚心観世海、鋭意渡風涛、

(成功と失敗は平常よくあること。気力のさかんであることのみを貴ぶべきではないが、虚心に世間をみわたし、鋭意世の波風をわたるべきである。)

  二十、歌韻(「冠以俗字」(冠するに俗の字をもってす))

俗中常見雅、怒裏自含和、人格須如是、家門福必多、

(世俗の中に常にみやびな部分を見いだし、怒りのうちにもおのずと和を含むことを知る。人柄はとかくかくのごとくありたいもので、さすれば家門には福が必ずや多くやってくるであろう。)

  二十一、麻韻(「冠以去字」(冠するに去の字をもってす))

去就只任意、虚栄豈足誇、冥々植陰徳、心苑発精華、

(去るかとどまるかは思いのままにすれば、表面的な栄誉などは誇るに足りないことがわかる。人知れぬうちに仁徳を施して、心のうちにこそそのすぐれた花が咲くであろう。)

  二十二、陽韻(「冠以華字」(冠するに華の字をもってす))

華美雖娯目、何如倹徳芳、布衣蔬食裏、真性放余香、

(華やかで美しいものは目をたのしませるものではあるが、つつましい人徳のかんばしさをどうしようか。一般庶民のそまつな食事のなかにこそ、本もののかんばしさがあるのだ。)

  二十三、庚韻(「冠以就字」(冠するに就の字をもってす))

就卑為水性、向上是人情、常養青雲志、遠舒鵬翼行、

(ひくきに流れるのはもとより水の性であるが、上に向かって努力するのは人の情である。常に青雲の志をやしない、遠くおおとりのごとくはばたいて行きたいものである。)

  二十四、青韻(「冠以実字」(冠するに実の字をもってす))

実成花自散、人老気凋零、我願白頭後、心如春草青、

(実を結べば花はおのずと散り、人が老いれば覇気もおのずからしぼむ。私の願いは白髪となっても、心はなお春の草のように若々しくありたいということなのだ。)

  二十五、蒸韻(「冠以荒字」(冠するに荒の字をもってす))

荒居自知足、積善見家興、節用汎施衆、是為真大乗、

(すさんだ住まいでもみずからこれでよいと思う。善行をつむ家は必ず盛んになるものである。倹約をしてひろく民衆のためにはからえば、これこそ真の大乗の心であろう。)

  二十六、尤韻(「冠以怠字」(冠するに怠の字をもってす))

怠時易生病、勤処足忘憂、何事尤多幸、在忙兼不休、

(怠けの心あるときにはとかく病にかかりやすいものである。努力するところでは心配は忘れることができる。なにごとにおいてももっとも幸せなのは、いそがしく休まないところにあろう。)

  二十七、侵韻(「冠以相字」(冠するに相の字をもってす))

相愛相憐処、人々発道心、積年修養後、漸見徳成林、

(たがいに愛したがいに憐れむところに、人々の道徳心が発揮される。年をかさねて修養して後に、ようやく徳義が林のごとくなるのである。)

  二十八、覃韻(「冠以誡字」(冠するに誡の字をもってす))

誡人先自慎、制欲始於貪、心地清如月、対天無所慚、

(いましめを重んずる人はまずみずから慎しみ、欲のむさぼる心に起こることを抑える。かくして、心は清らかなること明月のごとく、天に対してもなんらはじるところのない境地に至る。)

  二十九、塩韻(「冠以自彊」(冠するに自彊をもってす))

自彊開世務、内省守清廉、人海風波悪、身安心亦恬、

(みずからつとめはげまして世のために事をはじめ、たえず自己をかえりみて清廉を守る。さすれば、人間界の風波がいかに荒れようとも、身を安んじ、心もまた静かである。)

  三十、咸韻(「冠以不息」(冠するに不息をもってす))

不息常従業、功名共絶凡、位高身愈謙、世上有誰讒、

(やむことなく常に事業をなせば、てがらと名声とはともに群を抜くことになる。位が高ければ身をいよいよへりくだるようにすれば、世のだれも中傷はしない。)

 

       九カ年間演説会計通算表

 余の国民道徳普及のために全国巡講の途に上りたるは明治三十九年にして、大正三年の末まで約九カ年を経たり。その間の巡講総計表は左のごとし。

  明治三十九年度、六市、一国、一島、十五郡、九十町村、百五十一カ所、三百二十三席、六万五千人

  同四十年度、六市、一島、六十六郡、百七十三町村、二百九十一カ所、五百十四席、十一万五千四十五人

  同四十一年度、六市、四十五郡、二百三十五町村、三百七カ所、五百七十六席、十七万人

  同四十二年度、三市、二島、二十八郡、百五十五町村、百九十三カ所、三百六十三席、九万八千七百七十人

  同四十三年度、六市、四十七郡、百九十町村、二百三十六カ所、四百五十一席、十一万二千八百三十人

  同四十四年度、一市、三島、一郡、三十五町村、四十四カ所、七十六席、一万七千五百七十人

  大正元年度、三市、二十一郡、八十三町村、百三カ所、百九十二席、四万五千百五十人

  大正二年度、七市、五十一郡、二百六十町村、三百十カ所、五百八十九席、十七万三千二百五人

  大正三年度、五市、四十一郡、二百十五町村、二百五十九カ所、四百六十席、十二万四千四百二十人

 右総合計 四十三市(外に一国、七島)、三百十五郡、一千四百三十六町村、一千八百九十四カ所、三千五百四十四席、九十二万一千九百九十人

 すなわち九カ年間において、三千五百四十四席を重ね、九十二万一千九百九十人の聴衆に対して演説したるなり。一国とは朝鮮国を指し、七島とは台湾、樺太、小笠原島、八丈島、伊豆大島、対馬、隠岐を指す。琉球は郡の中に算入せり。

 つぎに九年間の収入支出を通計するに、

    収入通計

  金二万四千百八十九円十八銭五厘       明治三十九年より五カ年間

  金二千六百十七円三十七銭          明治四十四年度

  金二千百二十八円八十銭           大正元年度

  金八千九百七円二十六銭           同 二年度

  金六千九百三十三円七十一銭         同 三年度

   総計 金四万四千七百七十六円三十二銭五厘

    支出通計

  金二万二千八百九十四円七十九銭五厘     明治三十九年より五カ年間

  金四千四百十二円三十一銭          明治四十四年度

  金二千七十二円三銭             大正元年度

  金三千七百七十円九十三銭          同 二年度

  金四千六百八十九円四十七銭         同 三年度

   総計 金三万七千八百三十九円五十三銭五厘

  差し引き剰余 金六千九百三十六円七十九銭

    (前掲の大正三年度報告決算参照)