3.禅宗哲学序論

P247

  禅宗哲学序論 

 

 

1. 冊数

   1冊

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   182×127mm

3. ページ

   総数:211

   緒言: 1

   目録: 2

   資料: 63〔禅宗歴史他〕

   本文:145

4. 刊行年月日

   底本:初版 明治26年6月19日

5. 句読点

   なし

(巻頭)

6. その他

  (1) 章のはじめに列記されていた節の見出しを,節ごとに配置するなどの変更を行った。

  (2) この本は『禅宗真宗二宗哲学大意』(四聖堂,明治34年2月27日,「寺院統計表」などを除く)に再録され,その際に読点などの加筆訂正がなされたので,本書では同書を参考にした。

  (3) 著者作成の書き下し文に「 」を付し,一部のかなを濁音とした。

       緒  言

 余禅宗を知らず、あに禅学を知らんや。ただその一種異風の宗旨なるを知る。近頃二、三の書についてその大意をうかがうに、高妙の哲理を含有するをみる。今その理を開示し、題して禅宗哲学と名付く、なお禅宗の哲理というがごとし。しかして本書はただその一端を摘示するのみ。故に題して『禅宗哲学序論』という。他日、本論を著してこれを詳論することあるべし。しかれども余が禅学を講ずるは、師についてその意を得たるにあらず。また余が禅書を読むも、年月を積みてその理を究めたるにあらず。本書の成るもまたわずかに数日の間にあり。故にその論、誤謬の点なきを保し難し。しかれども世間いまだ哲理に照らして禅学を講述したる書あらざるをみて、本書を世に公にするに至れり。もしその誤脱のごときは、請う、禅学に精進せる士これを補正せよ。

  明治二六年五月二〇日                  著 者 誌  



   禅宗歴史

     第一 インド伝灯

 在昔、釈迦牟尼世尊、成道ののち四九年、一日霊山会上にありて、華を拈じて衆に示せり。在会の人天みなその意を解するあたわず。ひとり摩訶迦葉ありて破顔微笑せり。世尊曰く、われに正法眼蔵涅槃の妙心あり、今汝に付嘱す、汝まさによく護持すべしと。故に迦葉をもって禅宗第一祖とす。これより二八伝して達磨に至る。その伝灯左表のごとし。

   一  迦葉     二  阿難     三  商那和修   四  優婆毱多   五  提多迦

   六  弥遮迦    七  婆須密多   八  仏陀難提   九  伏駄密多  一〇 婆栗湿縛

  一一 富那夜奢  一二 馬鳴    一三 迦毘摩羅  一四 竜樹    一五 迦那提婆

  一六 羅睺羅多  一七 僧迦難提  一八 伽耶舎多  一九 鳩摩羅多  二〇 闍夜多

  二一 婆修盤頭  二二 摩拏羅   二三 鶴勒那   二四 師子    二五 婆舎斯多

  二六 不如密多  二七 般若多羅  二八 達磨

     第二 シナ伝灯

 達磨は南インドの王族より起こり、六十余年、五インドを教化したりしのち、その師般若多羅の遺訓を奉じてシナにきたれり。実に梁の大通元年なり(西暦紀元五二七年)。達磨武帝のためにその法を伝えんとせしも、帝これを会得せざりしをもって、すなわち北魏に入り、嵩山の少林寺に至り、面壁九年、ついに大同元年に入寂せり。これをシナの第一祖とす。達磨その法を慧可に伝え、五伝して弘忍に至り、その門下より南北両派を分かてり。その伝灯左記のごとし。

  一 達磨  二 慧可  三 僧璨  四 道信  五 弘忍

 弘忍の門下に慧能、神秀両人出で、慧能は南宗を開き、神秀は北宗を開けり。

 南宗はのちに分かれて五家七宗となり、北宗は純一にして宗派を分かたず。五家とは潙仰宗、臨済宗、曹洞宗、雲門宗、法眼宗、これなり。これに楊岐宗、黄竜宗を加うれば七宗となる。

 ここに南宗の伝灯を挙ぐれば、その開祖慧能はシナ第六祖にして、大鑑禅師または曹渓大師と称す。その門下に二流を出だし、一を南岳懐譲とし、一を青原行思とす。南岳の門下に臨済、潙仰二宗を出だし、青原の門下に曹洞、雲門、法眼三宗を出せり。また臨済の門下に楊岐、黄竜二派を分かてり。まず南岳はその法を馬祖道一に伝え、道一はその法を百丈懐海に伝う。懐海の下二流に分かれ、一を黄檗希運とし、一を潙山霊祐とす。希運の門弟を臨済義玄という。これ臨済宗の開祖なり。霊祐の門弟を仰山慧寂という。しかして潙山、仰山の二師の法を伝うる者、これを潙仰宗と名付く。つぎに青原の上足に石頭希遷あり。希遷の門下、天皇道悟および薬山惟儼を出す。惟儼はその法を雲巌曇晟に伝え、曇晟はこれを洞山良价に伝えり。良价別に一宗を成す。これを曹洞宗と名付く。故に良价は曹洞宗の開祖なり。しかして道悟ののち、竜潭崇信、徳山宣鑑、雪峰義存、次第に相承し、義存ののち、雲門文偃あり。これを雲門宗の高祖とす。また玄沙師備あり。師備の法孫に当たるもの法眼文益あり。この宗風を伝うるものを法眼宗と名付く。

 今ここに五家七宗中、特に臨済、曹洞二宗の伝灯相承を表示すれば、左のごとし。

  大鑑慧能(南宗開祖) 南岳懐譲・馬祖道一・百丈懐海・黄檗希運・臨済義玄(臨済宗開祖)

             青原行思・石頭希遷・薬山惟儼・雲巌曇晟・洞山良价(曹洞宗開祖)

     第三 日本伝灯

 日本に流伝するところの禅宗は現今、臨済、曹洞、黄檗の三宗なれば、今この三宗の伝来を述ぶるをもって足れりとす。しかりしこうして、昔時、北宗禅を伝えしものあれば、その由来を一言せざるべからず。北宗開祖神秀の孫弟に道璿と名付くるものあり。聖武天皇天平八年、シナより日本に渡来して、北宗禅を行表に授け、行表はこれを最澄に伝えり。故に伝教大師の伝うるところの禅は北宗なり。これ別に宗派を開立するに至らず。しかして現今伝うるところの臨済、曹洞、黄檗はみな南宗禅なり。左にこの三宗の歴史を掲ぐべし。

 臨済宗 本宗はわが国栄西禅師のシナより伝うるところにして、臨済義玄を開祖とするをもってその宗名起これり。義玄のことは前に述ぶるがごとし。義玄の嗣を興化存奨とし、存奨の嗣を風穴延沼とし、延沼の嗣を首山省念とし、省念の嗣を汾陽善昭とし、善昭の嗣を慈明〔石霜〕楚円とす。楚円の弟子中、楊岐方会、黄竜慧南の二人おのおの一宗を起こし、共に中興の祖となる。さきに臨済門下に楊岐、黄竜二宗を分かつというは、これなり。黄竜の法統は晦堂祖心、霊源惟清、長霊守卓、無示介諶、心聞曇賁、雪庵従瑾、虚庵懐敞を経て日本に伝われり。栄西禅師伝うるところ、これなり。楊岐の法流は白雲守端、五祖法演、円悟克勤、虎丘紹隆、応庵曇華、密庵咸傑に伝わり、これより破庵祖先、松源崇岳の二家を分かち、祖先の法は無準師範を経て日本に入り、崇岳の法は無明慧性および運庵普巌とに分かれて、また共に日本に入る。しかして本邦南宗の伝来は文徳天皇の御宇、馬祖門下に属する斎安国師の上足、義空禅師、日本にきたりて洛西に檀林寺を創して禅宗を唱えたるを嚆矢とす。しかれども時機いまだ熟せざりしをもってシナに帰れり。その外、伝教等の諸師唱えしものは、前に述ぶるがごとく北宗禅にして、かつ一宗を開立するに至らず。ひとり明庵栄西禅師ありて、再びシナに入り、虚庵禅師について臨済門下の正宗を伝え、帰朝して洛東建仁寺を創せり。時に建仁二年なり。これを本邦臨済宗の開祖とす。そののち禅道ようやくさかんにして、北条、足利二氏執政の間最もその盛を極めたり。すなわち建長元年北条時頼、建長寺を起こして、宋の蘭渓禅師をまねいて開山とし、仁治年間九条道家、東福寺を創して弁円禅師を請じて開山となさしめ、文永一〇年北条時宗、円覚寺を建てて宋の無学禅師を推して開山とし、永仁年中亀山法皇、竜山の離宮を改めて南禅寺となし、無関禅師を聘してこれにおらしめ、嘉暦元年赤松円心、大徳寺を開きて宗峰禅師をしてこれにおらしめ、建武元年花園法皇、花園の離宮を変じて妙心寺となし、関山禅師をその開山とし、暦応二年光厳天皇、足利尊氏に勅して天竜寺を創して、夢窓国師をその開山とし、延文五年佐々木氏頼、永源寺を建てて寂室禅師を開山とし、永徳三年足利義満、相国寺を起こして春屋禅師をこれにおらしむ。以上、一〇刹相伝えて、現今一〇派をなす。すなわち左のごとし。

  建仁寺派 天竜寺派 相国寺派 南禅寺派 妙心寺派

  建長寺派 東福寺派 大徳寺派 円覚寺派 永源寺派

 以上各派の開山および本山所在地は、のちに別項を掲げて略示すべし。かくしてくだりて徳川氏の時代に至れば、愚堂、無難、正受、白隠等の諸師ありて、よく宗風を扶持せり。

 曹洞宗 本宗は道元禅師のシナより伝うるところにして、洞山良价を開祖とす。良价は洞山に住し、第六祖慧能は曹渓に住せり。故に第六祖を曹渓と称し、良价を洞山と称す。この曹と洞との二字をとりて、曹洞宗の名称起これり。洞山より雲居道膺、同安道丕、同安観志、梁山縁観、大陽警玄、投子義青、芙蓉道楷を経て、九伝して丹霞子淳に至る。子淳の門下上足を真歇清了といい、そのつぎを天童正覚という。清了を悟空禅師と称し、正覚を宏智禅師と称す。共に洞門の中興なり。悟空禅師より天童宗珏、雪竇智鑑を経て天童如浄に至る。時にわが国道元禅師シナに入りて、如浄に就き洞門の正宗を伝え、帰朝して四条天皇天福元年、山城宇治の興聖寺を開き、嵯峨天皇寛元二年、越前永平寺を創せり。これを日本曹洞宗の開祖とす。その宗特称して高祖という。高祖より孤雲懐弉、徹通義介を経て瑩山紹瑾に至る。これ能登総持寺の開山なり。これを太祖と称す。二祖の伝記およびその伝灯はのちに至りて述ぶべし。

 黄檗宗 本宗は後光明天皇承応三年、隠元禅師シナより来朝し、山城国宇治に万福寺を創立してこれを開く。故に隠元を開祖とす。しかしてこれを黄檗宗と名付くるは、さきに挙ぐるところの南岳懐譲の法統中、黄檗希運と名付くるものあり。けだしこれを宗祖とするによる。かつ隠元禅師はシナ黄檗山に住せしをもって、黄檗の名称を用うるなり。師退隠ののち歴世シナよりきたりて、その法嗣となれり。本宗は最初臨済宗の一派に属せしも、現今は独立して一宗をなすに至れり。しかしてその宗義は臨済宗と異なることなしという。

   禅師伝記

     第一 達磨大師 付門弟

 達磨大師は南インド香至王の第三子にして、姓は婆羅門種なり。もと菩提多羅と名付く。のち二七祖般若多羅本国に至り、王の供養を受け、師の密迹を知る。よって試みに二兄と施すところの宝珠を弁ぜしむるに遇うて、心要を発明す。すでにして尊者いいて曰く、汝諸法においてすでに通量を得たり、それ達磨は通大の義なり、よろしく達磨と名付くべし。よって改めて菩提達磨と号す。六十余年インドを教化し、梁の大通元年般若多羅の遺訓を奉じて、海にうかびて広州に至る。広州の剌吏蕭昂これを館し、表をもって奏聞す。すなわち武帝これを迎う。帝問いて曰く、朕、即位以来寺を造り経を写し、僧を度することあげて数うべからず、なんの功徳かある。師曰く、ならびに功徳なし。帝曰く、なにをもって功徳なきや。師曰く、これただ人天の小果、有漏の因、影の形にしたがうがごとし有といえども、実にあらず。帝曰く、なにをか真の功徳という。師曰く、浄智妙円にして体おのずから空寂なり、かくのごとき功徳、世をもって求めず。帝曰く、なにをか聖諦第一義となす。師曰く、廓然無聖。帝曰く、朕に対する者はだれぞ。師曰く、知らず。帝領悟せず。師すなわち機のかなわざるを知り、遅留数日、ついに江をわたりて魏にゆき、嵩山少林寺に寓止し、面壁して坐し、終日黙然たり。人これを測ることなし。よってこれを壁観婆羅門という。魏の孝明帝これを聞き、三召すれども至らず。すでにして門弟群をなす。なかんずく道副、尼総持、道育、慧可の四人は、最も抜群なるものなり。大同元年、師まさに入寂せんとす。道育、慧可等、請うて曰く、ただ願わくば慈忍久しく世間に住せんことを。師曰く、われ化縁すでにおわり、伝法人を得たり、われすなわち逝かんと。端坐して寂す。門人全身を奉じ、熊耳山定林寺に葬る。自ら言う、寿百五十余歳なりと。

 達磨大師かつて門弟にいいて曰く、汝らなんぞおのおの所得を言わざるや。ときに門人道副こたえて曰く、わが所見のごときは、文字を執せず文字を離れずして道用をなす。師曰く、汝わが皮を得たり。尼総持曰く、汝いま解するところは慶喜して阿閦仏国を見、一見して更に再見せざるがごとしと。師曰く、汝わが肉を得たり。道育曰く、四大本空五陰非有にして、わが見処一法の得るべきなしと。師曰く、汝わが骨を得たり。最後に慧可、礼拝してのち位によりて立つ。師曰く、汝わが髄を得たり。以上四人これを皮肉骨髄の四師という。これにおいて達磨大師、慧可を顧みて告げて曰く、むかし如来正法眼をもって迦葉大士に付す、展転嘱累してわれに至る、われいま汝に付す、汝まさに護持すべし、ならびに汝に袈裟を授け、もって法の信となす、おのおの表するところあり、よろしく知るべしと。可曰く、請う、師指陳せよ。師曰く、内法印を伝えて、もって証心に契し、外袈裟を付してもって宗旨を定むと。

 慧可禅師、字は神光、姓は姫氏、武牢の人なり。幼より志気群ならず、ひろく群籍に通じ、よく玄理を談ず。常に家事を業とせずして、山水の遊を好み、のち仏書をみて超然として自得し、宝静禅師によりて得度す。年四〇、神告ありて曰く、まさに聖果を証せんとす、ここに滞るなしと。師曰く、神すでに汝を助く、行きて道を求むべし、われ聞く天竺の達磨、近頃少林にあり、よろしく行きてこれによるべしと。慧可、少林に至る。達磨、端坐して顧みず。たまたま天大いに雪ふる。慧可、雪中に立つ。積雪膝を過ぐるに至る。磨問いて曰く、汝久しく雪中に立つ、なにごとをか求むるや。慧可曰く、ただ願わくば大慈甘露門を開き、広く群品を度せんことを。磨曰く、諸仏無上の妙道、曠劫にもあい難し、あに小徳、小智、軽心、慢心、真乗をこいねがわんと欲して、いたずらに勤苦を労せんや。慧可、誨励を聞きて喜びて自らたえず。すなわち利刀をもって自ら左臂を断ち、達磨の前に置く。磨曰く、諸仏最初、道を求む、法を重んじ身を忘る、汝いま臂をわが前に断つ、求むるもまた可なり。慧可その言をうけて、すなわち名を慧可と改む。達磨これに衣法を授けて法嗣となす。故に慧可はシナ伝灯第二祖なり。かつて北斉に至る。一居士に遇う。姓名を言わず。慧可曰く、この心これ仏、この心これ法、法仏無二、僧宝またしかり。無名氏曰く、今日始めて知る、罪性、内にあらず、外にあらず、中間にあらず、その心またしかり、仏法無二なりと。慧可これを器とし、すなわちために剃髪していう、これわが宝なり、よろしく僧璨と名付くべしと。具戒を授け、かつ告げて曰く、大師天竺よりきたり、正法眼蔵をもってひそかにわれに授く、われいま汝に付すと。故に僧璨はシナの第三祖なり。慧可、鄴都において宜にしたがって行化し、三十余年を経たり。すなわちあとをくらまし俗に混す。最後に筦城県匡救寺に行きて法を説く。聴者雲集す。沙門弁和なるものあり。寺中において『涅槃経』を講ず。学徒、慧可の説を聞きてようやく引き去る。弁和、憤怒にたえず。これを邑宰に謗る。宰被らしむるに横害をもってす。慧可怡然として逝く。実に開皇一三年なり。寿一〇七歳。

     第二 弘忍および神秀、慧能諸師

 シナ第五祖弘忍禅師、姓は周氏、蘄州黄梅の人なり。児時異僧あり。見て曰く、この子ただ七種の相を闕きて如来におよばずと。のち第四祖道信に遇うて法を伝わる。弘忍禅師かつて付法の時至るを知り、衆に告げて曰く、正法解し難し、いたずらにわが言を記持して己が任となすべからず、汝らおのおの自ら意にしたがって一偈を述べよ、もし語意冥符せば衣法を付せんと。ときに会するもの七百余僧、その上座に神秀と名付くる者あり。学内外に通じ、衆の推仰するところとなる。神秀もまたその右に出ずるものなきを自負し、あえて思惟せず、偈を作り数度呈せんと欲して堂前に至る。つねに心中恍惚として全身汗を流し、呈せんと欲すれどもこれを得ざること前後四日、一三度に及べり。これにおいて思えらく、しかず廊下に向かいて書き示さんには、もし師の見て可なりといわば、すなわち出でて礼拝していわん、これわが作なりと。もし不可なりといわば、去りて山中に向かいて年を数えんと。この夜三更ひそかに灯を取りて、偈を南廓の壁間に書して、所見を呈して曰く、「身はこれ菩提樹、心は明鏡の台のごとし。ときどきに勤めて払拭して、塵埃を惹かしむることなかれ。」と。ときに忍師この偈を見て、これ神秀の作なりと知りて、すなわち嘆じて曰く、後代これによりて修行せば、また勝果を得んと。各人をして念誦せしむ。ときに慧能、碓坊にありてたちまちその偈を誦するを聴きて、すなわち同学に問う、これなんの章句ぞ。同学曰く、汝知らずや、師法嗣を求めておのおの心偈を述べしむ、これ神秀上座の述ぶるところなり、忍師深く歎賞を加え、必ずまさに付法伝法せんとす。慧能曰く、その偈云何と、同学ために誦す。慧能やや久しうして曰く、美なることはすなわち美なり、了することはすなわちいまだ了せずと。同学呵して曰く、庸流なにをか知らん、狂言を発するなかれ。慧能曰く、子信ぜずば、願わくば一偈をもってこれを和せん。同学答えず、相見て笑う。慧能、夜に至りて一童子に告げて引きて廊下に至り、自ら燭をとりて童子をして秀偈のかたわらに一偈を写さしめていう、「菩提もとより樹にあらず、明鏡もまた台にあらず。本来一物なく、いずくにか塵埃を惹かん。」、ときに一山の上下この偈を見て、みな大いに嘆じて曰く、これ実に肉身の菩薩なりと。忍師のちにこの偈を見て、これ慧能の作なるを知るも、衆の慧能を害せんことを恐れて、故らに曰く、これだれの作ぞ、またいまだ見性せずと。ついにその偈を擦し去れり。衆、師の語を聞きてしかりとし、またこれを顧みるものなし。すでにして夜に入り、忍師ひそかに人をして碓坊より慧能を召さしむ。しかして告げて曰く、諸仏出世一大事のために機の大小にしたがってこれを引導し、ついに十地、三乗、頓漸等の法ありて、もって教門をなす、しかれども無上微妙秘密円明真実の正法眼蔵をもって上首大迦葉尊者に付す、展転伝授すること二八世、達磨に至りて此土にきたり、慧可大師を得て相承してわれに至る、いま法宝および所伝の袈裟をもって汝に付す、よく自ら保護して断絶せしむることなかれと。慧能ひざまづきて衣法を受く。これシナ伝灯第六祖にして、南宗の開祖なり。第五祖弘忍は唐高宗上元二年に入寂す。大満禅師と諡す。北宗開祖神秀は中宗神竜二年に入寂す。大通禅師と諡す。南宗開祖慧能は睿宗先天二年に入寂す。大鑑禅師と諡す。

     第三 南岳懐譲禅師

 南岳懐譲禅師、姓は杜氏、金州の人なり。年一五にして荊州玉泉寺に行き、弘景律師によりて出家す。一日自ら嘆じて曰く、それ出家は無為の法たり、天上人間、勝処あるなし。ときに同学禅師の志高きを知り、師を勧めて嵩山安和尚に謁せしむ。和尚これを啓発す。すなわちただちに曹渓にまいりて六祖に参す。祖問う、什麼の所よりきたる。曰く、嵩山よりきたる。祖曰く、什麼の物か恁麼きたる。曰く、「一物を説似するにすなわち中ならず。」、祖曰く、かえりて修証すべしや否や。曰く、修証はすなわちなきにあらざるも、汚染せばすなわち得ず。祖曰く、ただこの不汚染は諸仏の護念するところ、汝すでにかくのごとし、「われもまたかくのごとし。」と。禅師、豁然として契会し、左右に執事すること一五年、唐の先天二年、衡岳に行きて般若寺におる。玄宗天宝三年に入寂す。大慧禅師と諡す。

     第四 青原行思禅師

 青原行思禅師は吉州安城の人なり。姓は劉氏。幼時出家し、群居して道を論ずるごとに、禅師ただ黙然たり。のち曹渓の法席を聞きて、すなわち行きて参礼し、問うて曰く、まさになんの所務か、すなわち階級に落ちざらん。祖(第六祖)曰く、汝かつて什麼を作しきたる。禅師曰く、聖諦もまたなさず。祖曰く、なんの階級に落ちん。曰く、聖諦なおなさず、なんの階級か、これあらん。祖深くこれを器とす。会下の学徒おおしといえども、師その首におる。唐玄宗開元二八年坐化す。のちに弘済禅師と諡す。

     第五 臨済義玄禅師

 臨済義玄禅師は曹州南華の人なり。姓は邢氏。黄檗希運に参じ、三度仏法の大意を問い、三度打たれてついに辞して山を下る。希運、指して高安大愚の所に行きて去らしむ。師、大愚に至りてついに黄檗の用処を見る。これによりて再び黄檗に回る。師資、契会す。大機大用卓として一時に冠たり。のちに郷にかえりて趙人の請いにしたがいて、城南臨済禅苑に住す。唐懿宗咸通八年に至りて入滅す。慧照禅師と諡す。

     第六 洞山良价禅師

 洞山良价禅師は会稽の人なり。姓は兪氏。幼時師に従って『般若心経』を念ずるによりて、無塵根の義をもってその師に問う。師、駭然としてあやしみて曰く、われ汝が師にあらず。すなわち指して五曵山霊黙禅師に行かしむ。年二一、嵩山に具戒す。ついに雲巌に嗣法して、青原第四世の嫡嗣となる。唐懿宗咸通一〇年に入寂す。悟本大師と諡す。

     第七 栄西禅師

 栄西禅師は明庵と号す。姓は賀陽氏。備中国加陽郡吉備津宮祠官の子なり。八歳父に従って『倶舎頌』を読む。聡敏群児にすぐ。一一にして郡の安養寺静心に師事し、一四にして落髪し、叡山の戒壇に登る。一九にして蔵経を閲す。仁安三年夏、商舶に乗じて海にうかび、宋国明州界に着す。すなわち孝宗乾道四年なり。これより台嶺に登り、『天台新〔天台宗〕章疏』三十余部六〇巻を得て帰り、座主明雲に呈す。明雲、疏を見て嘉歎す。そののち文治三年再び宋域に入り、インドに赴かんと欲し、事をもって果たさず。すなわち虚庵禅師について伝法す。虚庵曰く、伝え聞く、日本密教はなはだ盛んなりと。「端倪宗趣の一句はいかん。」、師対して曰く、「初発心時、すなわち正覚を成ず。生死動かずして涅槃に至る。」と。虚庵、慰誘して曰く、子の言のごときはわが宗と同じ。師これより心を尽くして、鑽仰親炙するもの数歳なり。すでにして虚庵、天童に移る。師また従行す。紹熙二年秋、虚庵を辞す。庵、書して曰く、日本国千光院大法師、宿に霊骨あり、〔中略〕洪にこの法を持し、万里を遠しとせずして〔中略〕わが炎宋に入り、宗旨を探賾す。乃至〔中略〕むかし、釈迦老士まさに円寂せんとし、正法眼蔵、涅槃の妙心をもって摩訶迦葉に付属す。これより二八伝して達磨に至り、六伝して曹渓に至り、また六伝して臨済に至り、八伝して黄竜に至り、また八伝して予に至る。今もって汝に付す、汝まさに護持すべしと。師、拝謝してはしり出て、慶元府に至り船に乗じて帰朝す。ときに建久二年なり。師の道ようやく都鄙に行わる。師、衆に示して曰く、わがこの禅宗は単伝心印、不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏、その証、散じて諸経論中にありと。建仁二年、将軍頼家その徳に感じて、地を王城の東に卜し、大禅苑を営み、建仁寺と名付く。建保三年七月五日入寂。千光国師と諡す。寿七五歳。臘六三。師は知見広大にして、三たび大蔵を閲し、法道の寄をもって己が任となす。故に顕密の教、補弼するところ多し。禅門に至りては前すでにこれを伝うるものありしといえども、宗旨を開立せるは師をもって始祖となす。かつて曰く、われ没して五〇年に禅宗大いに興らんと。文応、弘長より以来、宗法果たして興る。誠にその言のごとし。

     第八 道元禅師 付紹瑾禅師

 道元禅師、姓は源氏、京都の人なり。村上天皇の裔、源内府の子なり。八歳にして母をうしなう。喪におりて世の無常を観ず。九歳にして『倶舎論』を閲す。一三歳にして叡山に上り、一四歳にして落髪具戒し、一五歳にして栄西禅師に参す。禅師遷化ののち明全禅師によりて菩薩戒をうけ、ふたたび大蔵を閲す。貞応二年、明全禅師とともに入宋して、天童如浄禅師に参じ、ついに曹洞の宗旨を伝受す。一日、如浄巡堂し、僧の坐睡するを見て、呵して曰く、それ坐禅は身心を脱落せんがためなりと。道元禅師、傍らにありてこれを聞き、豁然として大いに悟る。早晨、丈室にいたり、香を焼いて悟るところを告ぐ。如浄すなわち印証す。従持すること四歳、ことごとく洞上の秘要を得たり。その帰るに臨み、如浄まねいて入室せしめ、付するに芙蓉楷祖の法衣、宝鏡三昧五位の顕訣、および自賛の頂相嗣書をもってす。かつこれに嘱して曰く、汝、本邦にめぐり深山遠陬に隠れ、国王大臣に近づくことなかれと。師、拝揖して発す。洋中颶風にわかに起こる。衆、色を失う。師、普門品を誦す。風涛たちまちやむ。太宰府に着く。本朝安貞元年なり。すなわち京都に上りて建仁に寓す。天福元年、弘誓院正覚等、地を宇治に相して禅苑を構営し、興聖宝林寺と名付く。師を請じて開山第一世となす。寛元二年雲州の太守、波多野義重、勝地を越前志比に得、師を請じて開山始祖となす。すなわち吉祥山永平寺、これなり。建長五年八月二八日、偈を書して曰く、「五十四年、第一天を照らす。箇の★(𧾷+孛)跳を打して、大干を触破す。咦、渾身もとむるところなし。活きながら黄泉に陥る。」と、筆を投じて坐化す。寿五四、臘四一。明治一二年勅して承陽大師と諡す。

 紹瑾禅師、字は瑩山。越前国多禰郡の人、姓は藤氏。生まれて常児に異なり、やや長じて塵中におるを楽しまず。年一三、永平孤雲和尚に投じて祝髪納戒す。和尚その志を察し、すなわち曰く、この子、大人の作あり。他日、人天の師とならんこと必せり。和尚遷化ののち、徹通義介禅師によりて随侍す。一八歳にして通を辞し、はじめて寂円和尚に謁し、のち宝覚慧暁の諸老に見ゆ。再び帰りて義介禅師に従い、講究七年、一日のごとし。悟道ののちついに嗣法す。五四歳のとき、後醍醐天皇の勅詔に応じて一〇種の疑問に答う。天皇大いに悦び、特に葚服を賜う。諸岳総持寺はもと律寺たりしも、住持定賢師の道を慕い、変じて禅寺となし、師をまねいて開基となす。ときに詔あり、その寺をもって賜紫出世道場となす。正中二年八月、疾を洞谷に示す。一五日夜半、侍者をよびて沐浴浄髪、衣を整え衆に示して曰く、「念起らばこれ病、続かざるはこれ薬なり。一切の善悪はすべて思量なく、わずかに思量を渉ること白雲万里なり。」、すなわち偈を書して曰く、「自ら耕し、自ら種うる閑田地は、いくたびも売り来り買い去りて新たなり。限りなく霊苗の繁茂したる処、法堂の上に挿鍬人を見る。」、筆を投じて入寂す。寿五八、法齢四六。仏慈禅師と諡し、のちまた弘徳円明国師と諡す。

     第九 隠元禅師

 隠元禅師、諱は隆琦、姓は林氏。明国福州の僧なり。承応元年、将軍家綱公、足利氏の故事に准じ、禅刹一宇を創建せんと欲して、道徳優長の僧をシナにもとむ。長崎興福寺の住持逸然、命を受けて、これをシナ径山寺費隠の法嗣、黄檗山隠元禅師に通じてその渡来を請う。禅師すなわち応諾し、三年七月帰化して、山城国宇治に黄檗山万福寺を創す。これを本邦黄檗宗の始めとす。それ禅師は九歳にして学に就き、一六歳にして、仰ぎて天文星宿を感じて、自ら仏道を学ぶの心生ず。そののち閩中黄檗礼賜紫、鑑源寿公禅師に詣で、祝髪授戒す。ついで天童の密雲禅師に投じ、参学すること五歳、のち径山費隠禅師の室に入りて嗣法す。そののち黄檗席を空うするをもって、師を請じてこれに住せしむ。のちまた福厳および竜泉にうつり、ついに再び黄檗に帰る。しかしてわが国に来朝せしは六三歳の時なり。延宝元年四月三日入寂。寿八三。その病革なるに当たり、勅して大光普照国師の号を賜わる。

   本山および開山

     第一 臨済宗

       一 建仁寺派

 本山は建仁寺と称し、京都市下京建仁寺町にあり。開山は栄西禅師なり。伝記前に出づ。

       二 天竜寺派

 本山は霊亀山天竜寺と称し、京都府葛野郡天竜寺村にあり。開山は疎石禅師、すなわち夢窓国師にして、崇光天皇観応二年に入寂せり。寿七七、法臘六〇。

       三 相国寺派

 本山は万年山相国寺と称し、京都市上京今出川御門前にあり。開山は妙葩禅師(春屋)、すなわち善明国師にして、後小松天皇嘉慶二年に入寂せり。寿七八、法臘六四。

       四 南禅寺派

 本山は瑞竜山南禅寺と称し、京都府愛宕郡南禅寺村にあり。開山は仏心禅師(無関)、すなわち大明国師にして、伏見天皇正応四年に入寂せり。寿八〇歳、法臘六二。

       五 妙心寺派

 本山は正法山妙心寺と称し、京都府葛野郡花園村にあり。開山は慧玄禅師(関山)、すなわち円成国師にして、後光厳天皇延文五年に入寂せり。寿八四、法臘六四。

       六 建長寺派

 本山は巨福山建長寺と称し、相摸国鎌倉郡山之内村にあり。開山は道隆禅師(蘭渓)、すなわち大覚禅師にして、宋国人なり。後宇多天皇弘安元年に入寂せり。寿六六。

       七 東福寺派

 本山は東日山東福寺と称し、京都市下京本町にあり。開山は弁円禅師(円爾)、すなわち聖一国師にして、後宇多天皇弘安三年に入寂せり。寿七九。

       八 大徳寺派

 本山は竜宝山大徳寺と称し、京都府愛宕郡東紫竹大門村にあり。開山は妙超禅師(宗峰)、すなわち興禅大灯国師にして、光厳天皇延元二年に入寂せり。寿五六。

       九 円覚寺派

 本山は瑞鹿山円覚寺と称し、相摸国鎌倉郡山之内村にあり。開山は祖元禅師(子元、別号無学)、すなわち仏光国師にして、宋国人なり。後宇多天皇弘安九年に入寂せり。寿六一、法臘四九。

      一〇 永源寺派

 本山は瑞石山永源寺と称し、近江国愛知郡高野村にあり。開山は元光禅師(寂室)、すなわち円応禅師にして、後光厳天皇貞治六年に入寂せり。寿七八。

     第二 曹洞宗

 本山は越山、能山の両本山あり。越山は吉祥山永平寺と称し、越前国吉田郡志比の庄にありて、道元禅師すなわち承陽大師の開く所なり。能山は諸岳山総持寺と称して、能登国鳳至郡門前村にありて、瑩山紹瑾禅師の開く所なり。両禅師の伝記は前に出づ。

     第三 黄檗宗

 本山は黄檗山万福寺と称し、山城国宇治郡五ケ荘村にあり。明国人、隠元禅師の開く所なり。禅師の伝記は前に出づ。

   寺院統計表

     第一 三宗寺院僧侶統計

     臨 済   曹 洞    黄 檗  合 計

寺 院  六一五二  一四〇七七  六〇三  二〇八三二

住 職  四二五二  一一一五六  三一六  一五七二四

管 長    一〇      一    一     一二

教 師  六三六三  一一一五五  二七二  一七七九〇

非教師   二七二  一〇〇〇五  一九八  一〇四七五

     第二 各府県三宗寺院統計

     臨 済  曹 洞  黄 檗  合 計        臨 済  曹 洞  黄 檗  合 計

東 京  一〇二  二二八   一五  三四五   神奈川  三八五  五〇九   四七  九四一

埼 玉  一三六  五六五    四  七〇五   千 葉   八四  三九七    九  四九〇

茨 城   三八  二〇九    一  二四八   栃 木   五七  一九三    三  二五三

群 馬   四三  三五九    九  四一一   長 野   九九  五三〇   一五  六四四

山 梨  三二一  六〇四    一  九二六   静 岡  六五四 一四三九   二九 二一二二

愛 知  三五五  九九四   一三 一三六二   三 重  一八二  四五九   一三  六五四

岐 阜  五六二  二三六   二四  八二二   滋 賀  一六三  二一一   五二  四二六

福 井   八六  二七一    二  三五九   石 川   一三  一二〇    〇  一三三

富 山   一九  一〇六    〇  一二五   新 潟   一五  六八一    四  七〇〇

福 島   九〇  四八八    一  五七九   宮 城  一一四  五〇二    九  六二五

山 形   一一  七五五    二  七六八   秋 田   一七  三三一    二  三五〇

岩 手   三一  三一〇    五  三四六   青 森    七  一〇五    四  一一六

京 都  五八五  四〇九   四〇 一〇三四   大 阪   八二  一二八   五五  二六五

奈 良   一四   七八   二三  一一五   和歌山  二一五   七八   一三  三〇六

兵 庫  三〇四  四三三   三一  七六八   岡 山  一一一  一八五    五  三〇一

広 島  一二四  一八二    〇  三〇六   山 口   七六  二四九   二七  三五二

島 根  一五六  三三〇    一  四八七   鳥 取   一三  一九六   一三  二二二

徳 島   二六   二三    三   五二   香 川   二〇    四    〇   二四

愛 媛  二四五  一七九   一五  四三九   高 知   一一   一三    〇   二四

長 崎   三二  一二〇   一一  一六三   佐 賀  一七六  二五八   二九  四六三

福 岡  一二三  一三八   四八  三〇九   熊 本   二三  一四〇    六  一六九

大 分  二一三  二一四   一八  四四五   宮 崎   一〇   五七    〇   六七

鹿児島    二    五    〇    七   沖 縄    六    〇    〇    六

北海道    一   五九    一   六一

総 計 六一五二 一四〇七七 六〇三 二〇八三二

(以上は明治二五年一〇月刊行の統計年鑑による。)

     第三 臨済各派寺院統計

建仁寺    五八    天竜寺   七八

相国寺    八五    南禅寺  四四七

妙心寺  三六五〇    建長寺  四八四

東福寺   三五〇    大徳寺  二〇八

円覚寺   一五〇    永源寺  一二〇

(以上は明治二三年各宗合議所の調査簿による。故にその合計は、前に挙ぐるものと相合せざるも、怪しむことなかれ。)

   臨済宗意大綱 (『人天眼目』による)

     第一 臨済門庭

 臨済宗は大機大用、羅篭を脱し窠臼を出づ。虎のごとくに驟き竜のごとくにはしり、星のごとくに馳せ電のごとくに激し、天関を転じ地軸をめぐらし、天に沖る気を負い、格外の提持を用う。巻舒、擒縦、殺活、自由なり。この故に、三玄三要、四賓主、四料簡を示す。金剛王宝剣、踞地獅子、探竿、影草、一喝不作一喝用、一喝賓主を分かち、照用一時に行ず。四料簡とは中下根の人きたれば、〔境を奪いて法を奪わず、中上根の人きたれば、〕境を奪い法を奪いて、人を奪わず。上上根の人きたれば、人境ふたつながらともに奪う。出格の人きたれば、人境ともに奪わず。四賓主とは師家に鼻孔あるを主中主と名付け、学人に鼻孔あるを賓中主と名付け、師家に鼻孔なきを主中賓と名付け、学人に鼻孔なきを賓中賓と名付く。曹洞の賓主と同じからず。三玄とは玄中玄、体中玄、句中玄なり。三要とは一玄中に三要を具す。自らこれ一喝の中に三玄三要を体摂するなり。金剛王宝剣とは一刀に一切の情解を揮断す。踞地獅子とは言を発し気を吐きて威勢振立し、百獣恐悚し、衆魔脳裂す。探竿とはなんじらに師承あるか師承なきか、鼻孔あるか鼻孔なきかを探る。影草とは欺謾して賊となりてなんじの見か不見かをみる。一喝して賓主を分かつとは一喝中に自ら主あり賓あり。照用一時に行ずとは一喝中に自ら照あり用あり、一喝一喝の用を作さずとは一喝中にかくのごとき三玄三要、四賓主、四料簡の類あり。大約、臨済の宗風かくのごとくなるに過ぎず、臨済を見んことを要すや。青天に霹靂をとどろかし、陸地に波涛を起こす。〔『人天眼目』は五山版と考えられる。〕

     第二 臨済要訣

 大雄の正続、臨済の綱宗、黄檗に西来意を問うによりて痛く烏藤三頓を与えて、ついに大愚に往きて打発して、親しく肋下の三拳をふるう。言下にすなわち老婆心、切なるを見て、はるかに知る、仏法多子なきことを。奔雷の喝を奮い猛虎の鬚をとり、赤肉団辺を迸開して至る所に白拈の手段を用う。星を飛ばせ竹を爆し石を裂き岸を崩す。水凌上に行き剣刃上に走る。全機電巻き、大用天旋る。赤手にして人を殺し単刀直入、人境ともに奪い、照用並び行ず。明頭来、暗頭来、仏もまた殺し祖もまた殺す。古今を三玄三要に弁じ、竜蛇を二主二賓に験ず。羅篭を透脱して意解を存せず。金剛王宝剣を操りて竹林の精霊を掃除し、獅子の全威を奮いて群虎の心胆を振裂す。末梢に正法眼蔵、瞎驢辺に滅却す。徹骨徹髄、血脈貫通、頂きに透りて乾坤独露す。綿々漏らさず、器々相随う。けだしその宗祖高明、子孫光大なり。これ臨済の宗風なり。〔*∥伝〕

    古徳綱宗頌

横に鏌鎁を按じて烜赫として光り、八方の全敵謾りに茫茫たり。竜蛇並びに隠れて肌鱗脱す。雷雨同じく施して計略荒なり。仏祖点じて涓滴の響をなす。江山結抹して並びに芬芳たり。廻途索寞として郊坰遠し、舶を失する波斯楚郷に落つ。

    大慧頌

全機を突出して理事玄なり。東村の王老夜銭を焼く。等閑に路を得て明らかなること日のごとし。歩を挙げて頭を回して直きこと絃に似たり。玄要ならび行じて別路なし。機縁わずかに兆せば伝うるに堪えず。従来大道に拘束なく、手にまかせて拈じきたれば百事全し。

    景福順頌

長江雲散じて水滔々、忽爾として狂風あれば浪すなわち高し。漁家玄妙の意を識らず、ひとえに浪裏に風涛を颭ぐ。

     第三 四賓主

賓中の賓  双眉を展べず眼に筋なし。他方役役として知己に投じて、衣中無価の珍を失却す。(一)

賓中の主  尽力して追尋すれども処所なし。昔年なお自ら些些を見る。だれか知る今日双瞳瞽なることを。(二)

主中の賓  わが家広大にして実に論じ難し。求むるところ悋かならずして高下なし。貴賎同途にして一路平らかなり。(三)

主中の主  七宝虧ることなし金殿宇、千子常に聖顔を囲繞す。諸天順わざれば輪を飛ばせて挙す。(四)

    翠岩真頌

賓中の賓  語を出して相因らず。いまだ諦審に思惟せず、牛に騎て孟津を過ぐ。(一)

賓中の主  相牽て日卓午、展拓して自ら能することなし。しばらく他の門戸を歴る。(二)

主中の賓  南越両秦を望み、寒山拾得に逢う。擬議すれば乙卯寅。(三)

主中の主  当頭坐してすべからく怖るべし、万里流沙を渉り、だれかいう仏と祖とを。(四)

    雪豆頌

賓中の賓  喜び少なく嗔ること多し。丈夫の壮志まさになんびとにか付すべき。(一)

賓中の主  玄沙の猛虎、半合半開、ただ自ら相許す。(二)

主中の賓  故を温ねて新しきを知る。互換相照らし、獅子嚬呻す。(三)

主中の主  正令斉しく挙す。長剣天に倚る。だれかあえてまさに禦ぐべき。(四)

     第四 四科簡

    翠岩真和尚頌

奪人不奪境、日月自ら流通す。山河および大地、片雨蛮天を過ぐ。

奪境不奪人、禅を問えばなんの処か親しき、相逢うて祇揖せず。暁夜に関津を渡る。

人境両倶奪、鼓を声して紅楼より墜す。縦横に巨闕を施す。だれかあえて当頭に立たん。

人境倶不奪、閻浮に転ずること幾遭ぞ。南に面して北斗を看る。いかでかこれが曹に合うことを得ん。

    仏鑑懃頌

甕頭酒熟して人みな酔う。林上煙濃やかにして花まさに紅なり。夜半灯なくして香閤静かなり。鞦韆垂れて月明の中にあり。(奪人不奪境)。

鴬は春の暖かなるに逢うて歌声滑らかなり。人は時の平かなるに遇うて笑臉開く。幾片の落花か水にしたがいて去る。一声の長笛雲を出しきたる。(奪境不奪人)。

堂堂たる意気雷霆を走らしむ。凜凜たる威風霜雪を掬う。将軍令下りて荊蛮を斬る。神剣一揮すれば千里あけす。(人境両倶奪)。

聖朝の天子明堂に坐す。四海の生霊ことごとく枕を安ず。風流の年少金樽を倒す。満院の落花錦よりも紅なり。(人境倶不奪)。

     第五 四喝

    汾陽昭の頌

金剛の宝剣最も威雄。一喝よく摧く万仞の峰、遍界乾坤みな色を失す。須弥倒に卓つ半空の中。(ある時の一喝は金剛王の宝剣のごとし)。

金毛踞地衆威存す。一喝よく胆魂喪わしむ。岳頂峯高うして人到らず。猿白日に啼きてまた黄昏。(ある時の一喝は踞地金毛の獅子のごとし)。

詞鋒の探草当人を弁ず。一喝すべからく知るべし偽と真とを。大海澄澄として万象を含む。牛跡を将いて清深に比することを休めよ。(ある時の一喝は探竿影草のごとし)。

一喝当陽勢い自ら彰る。諸方ことごとく好商量あり。衢に盈ち路に溢れて歌謡する者、古往今来常を変ぜず。(ある時の一喝は一喝の用を作さず)。

    智海普融平の頌

一喝金剛の剣を用うる時、寒光爍爍として坤維を射る。語言擬議すれば鋒刃に傷けらる。遍界の髑髏知るや知らずや。(一)

一喝金毛軽く地に踞る。檀林襲襲として香風起こる。しかも爪距かつて施さずといえども、万里の妖狐みな遠く避く。(二)

一喝まさに探竿の草となす。南北東西いたらざることなし。短長軽重錙銖を定む。平地茫茫としてすべからく靠倒すべし。(三)

一喝は一喝の用を作さず、三世古今別共なし。落花三月睡り初めて醒む。碧眼の黄頭みな夢を作す。(四)

     第六 三玄三要

    汾陽頌

第一玄  照用一時に全し、七星光燦爛、万里塵煙を絶す。

第二玄  鉤錐利にして更に尖なり。擬議すれば腮を穿ち過ごし、面を裂きて双肩に倚る。

第三玄  妙用方円を具し、機にしたがいて事理を明かし、万法体中に全し。

第一要  根境ともに亡じて朕兆を絶す。山崩れ海竭きて瓢塵を洒ぎ、寒灰を蕩尽して妙なるを空となす。

第二要  鉤錐察弁して巧妙を呈す。縦去奪来掣電の機、匣を透る七星光晃耀。

第三要  釣を垂れ、ならびに釣を下すことを用いず、機に臨む一曲楚歌の声、聞く者をしてことごとく来て返照せしむ。

    慈明頌

第一玄  三世の諸仏なにをか宣べんと擬す。慈を垂れば夢裏に軽薄を生じ、端坐すれば還て断辺に落つることを成ず。

第二玄  霊俐の衲僧も眼いまだ明らかならず、石火電光もなおこれ鈍なり。揚眉瞬目に関山を渉る。

第三玄  万象森羅宇宙寛し。雲散じ洞空じて山岳静かなり。落花流水長川に満つ。

第一要  あに聖賢の妙を語らんや。擬議すれば長途に渉る。眸を擡ぐれば七たび顛倒す。

第二要  峯頭に楗を敲いて召す。神通自在にきたる。多聞は門外に叫ぶ。

第三要  起倒人をして笑わしむ。掌内に乾坤を握る。千差すべて一照す。

   曹洞宗意大綱 (『人天眼目』による)

     第一 曹洞門庭

 曹洞宗は家風細密にして言行相応ず。機にしたがいて物に応じ、語につきて人を接して他の来処をみる。たちまち偏中に正を認むるものあり。たちまち正中に偏を認むるものあり。たちまち相兼帯す。たちまち同、たちまち異なり。示すに、偏正五位、四賓主、功勲五位、君臣五位、王子五位、内紹外紹等のことをもってす。〔偏正五位、〕正中偏とは体より用を起こす、偏中正とは用より体に帰す、兼中至とは体用並び至り、兼中到とは体用ともに泯するなり。四賓主とは臨済に同じからず、主中賓は体中の用なり。賓中主は用中の体なり、賓中賓は用中の用、頭上に頭を安んず。主中主は物我ならびに忘じ、人法ともに泯す、正偏の位にわたらざるなり。功勲五位とは参学の功位、非功位に至るを明かす。君臣五位とは有為無為を明かすなり。王子五位とは内紹は本自ら円成し、外紹は修あり証あることを明かすなり。大約、曹洞の宗風は体用偏正賓主に過ぎず、もって向上の一路を明かす。曹洞を見んと要するや、仏祖未生空劫の外、正偏有無の機に落ちず。

     第二 曹洞要訣

 新豊の一派、荷玉流を分かち、始め水を過ぐるによりて渠にあうて、無情説法を見る。当今、触れず、手をのべて玄に通ず。五位正偏を列し三種の滲漏を分かち、夜明簾外、臣位を退きて、もって君に朝す。古鏡台前子身を転じて父に就く。雪は万年の松径をおおう。夜半正明、雲一峰の峰巒を遮る。天暁不露、道枢綿密にして智域囦深なり。空劫已前を黙照す。湛々たる一壷の風月、威音那畔に坐徹す。澄々たり満目の烟波、不萌枝上に花開き、無影樹頭に鳳舞う。機糸掛けず、箇の中金針をならび鎖す。文彩縦横、裏許暗に玉線を穿つ、双明唱え起こす。鋒を交うる処天然あることを知る。兼帯たちまちきたる枯木の上、だれかよく主とならん。正位を存せず、なんぞ大功を守らん。今時を及尽す。むしろ尊貴にとどめんや。情塵の見網を截断し金鎖の玄関を掣開す。妙叶全く該き歴々として類中に跡を混ず、平懐常実明々として炭裏に身を蔵す。巻舒功勲に落ちず、来去ついに変易なし。異苗をして翻茂せしめんと欲せば、貴ぶらくは霊根を深固するにあり。もし柴石野人にあらざれば、いかでか新豊の曲子を見ん。

    古徳綱宗偈

荊棘の叢林、三三五、煙雲径を罩むいずれかよく尋ねん。烏鶏雨を冐して陽焔を衝く。赤蝀楼を穿ちて唖音を和す。広沢の蘆花雪を蔵して密なり。綸を垂る鈎艇彎深を弄す。軒に当て黯黯として秦鏡なし。髪を散じ眉を斜にして翠岑を下る。

    古徳宗旨頌

洞下の門庭理事全し、白雲岩下に安眠することなかれ。縦饒枯木に花を生じ去るも、芒郊を返照すれば銭に直らず。

    汾陽頌曹洞機

楼閣千秋の月、江湖万里の秋、蘆花異色なし、白鳥汀洲に下る。

    門風偈

刹刹塵塵処処に談ず。弾指を労せず善財参ず。空生また消息を通ずることを解す。花雨巌前鳥銜まず。

月炙り風吹いて草裏に埋む、他の毒気に触れればまた還て乖く、暗地にもし死口を開かしむれば、長安旧によりて人のくることを絶す。

死の中に活を得るこれ常にあらず、密用は他家別に長あり、半夜の髑髏一曲を吟ず、氷河の紅焔かえって清涼。

一法元なし万法空ず、箇の中なんぞ許さん円通を悟ることを。まさにいえり、少林の消息を断ちて、桃花旧によりて春風に笑う。

    自得暉頌

宮楼沈沈として夜色深し。灯残り火尽きて知音を絶す。木人位転ず玉縄の暁。石女夢回りて霜、襟に満つ。

     第三 五位

    悟本五位頌

正中偏  三更初夜月明の前、怪しむことなかれ。相逢うて相識らざることを、隠隠としてなお昔日の嫌を懐く。

偏中正  失暁の老婆古鏡に逢う。分明覿面更に他なし。更に頭に迷うてなお影を認むることを休めよ。

正中来  無中に路あり塵埃に出ず。ただよく当今の諱に触れざれば、また前朝断舌の才に勝らん。

兼中至  両刃鋒を交えて廻避せんことを要す。好手はまた火裏の蓮に同じ。宛然として自ら衝天の気あり。

兼中到  有無に落ちずだれかあえて和せん。人人ことごとく常流を出でんと欲す。折合してついに炭裏に帰して坐す。

    克符道者頌

正中偏  半夜の澄潭月まさに円かなり。文殊の匣裏に青蛇吼う。毘盧を驚得して故関を出でしむ。

偏中正  演若が玉容古鏡に迷う。笑うべし、牛に騎りて更に牛を覓むることを。寂然として動せず毘盧の印。

正中来  鳳子竜孫釣台に坐す。高僧当今の諱に触眷すれば、花冠を蔵却して笑い一同。

兼中至  驁怒り竜奔りて九江沸く。張騫孟津の源を尋ね得て、崑崙を推倒して依倚なし。

兼中到  竜旗御街に排出すること早し。ほぼ仙仗を開く鳳楼の前、尋常諱当今の号に触る。

    汾陽昭頌

正中来  金剛の宝剣天を払いて開く。一片の神光世界に横わる。晶輝朗耀として塵埃を絶す。

正中偏  霹靂の機鋒眼を着けて看よ。石火電光もなおこれ鈍。思量擬議すれば千山を隔つ。

偏中正  輪王正令を行ずるを看取せよ。七金千子すべて身にしたがう。途中になお自ら宝鏡を覓む。

兼中至  三載の金毛爪牙備わる。千邪百怪出頭しきたるも、哮吼一声すればみな地に伏す。

兼中到  大に無功をあらわして作造することを休む。木牛歩歩として火中に行く。真箇の法王妙中の妙。

    草堂の清の頌

正中偏  了角の崑崙室裏に眠る。石女の機梭声軋軋、木人袖を舞いて庭前に出ず。

偏中正  澄潭印出す蟾光の影、人人ことごとく影中に向かいて円かなり。影滅し潭虚うしてだれか影を弁ぜん。

正中来  火裏の蓮華朶朶として開く。根苗あにこれ尋常の物ならんや。妙用は応世の才に同じきにあらず。

兼中至  交戦の機鋒忌諱を絶す。丈夫彼彼英雄を逞うす。点著するにきたらざれば粉碎と成る。

兼中到  鉄牛喫し尽くす欄辺の草、かえって牧童に問うなんのところにか居す、鞭は東西を指して一宝なし。

    宏智の覚の頌

正中偏  霽碧たる星河冷ややかにして天を浸す。半夜の牧童月戸を敲く。暗中に驚破す玉人の眠り。

偏中正  海雲依約す神山の頂、帰人の鬢髪白くして糸のごとし。羞ずらくは秦台に対すれば寒くして影を照らすことを。

正中来  月夜の長鯨甲を蛻して開く。大背天を摩りて雲羽を振るう。鳥道に翔遊して類して該ね難し。

兼中至  覿面に須いず相い忌諱することを、風化傷うことなし的意玄なり。光中に路ありて天然に異なる。

兼中到  斗柄横斜にして天いまだ暁けず。鶴夢初めて醒めて露気寒し。旧巣飛出して雲松倒る。

    自得の暉の頌

正中偏  混沌初めて分る半夜の天、転側せる木人夢を驚かして破す。雪蘆眼に満ちて眠を成さず。

偏中正  宝月団団として金殿寒し。明に当て犯さず暗に身を抽んず。眸を回せば影は西山の頂に転ず。

正中来  帝命かたわらに分けて化才を展ぶ。杲日初めて昇りて世界静かなり。霊然としてかつて纎埃を帯びず。

兼中至  長安の大道閑かに遊戯す。処処私なくして空空に合す。法法帰するところを同じうして水水に投ず。

兼中到  白雪断ずる処家山妙なり。驪竜明月の珠を撲砕す。崑崙海に入りて消耗なし。



 

     第一段 緒 論

       第一節 発 端

 時間を窮めて終極なく、空間を尽くして際涯なきものは宇宙なり。その間靄然として浮かび、浩然として行わるるものは理想の精気なり。この気たるや実に霊妙不可思議にして、発して森然たる万有の上に現れ、結んで湛然たる一心の中に開く、日月はその気の凝塊にして、人類またその気の結晶なり。仰ぎて眼前を望めば、山青く水清き所、おのずから霊妙の趣あるを感じ、伏して心内を顧みれば、夜深く人静かなるとき、またおのずから霊妙の光あるを見る。これ理想の光景にあらずしてなんぞや。故に烱々たる哲眼をもって徹照しきたらば、一物として霊ならざるなく、一事として妙ならざるなく、一大宇宙ことごとく理想鏡裏にありて現立するをみるべし。これをもって心田の地いずれを穿ちきたるも、ところとして理想の水を湧出せざるなく、物天の雲いずれを払い去るも、時として理想の光を開現せざるなし。これ実に霊々妙々不可思議といわざるべからず。この不可思議の哲理を推究論定するものは哲学にして、この不可思議の玄門を開示し、かつこれに到達する要路を指導するものは仏教なり。しかりしこうして、その門路一ならず。漸次に昇進する法を説くものあり、頓速に悟入する道を講ずるものあり、客観上に安心を談ずるものあり、主観上に成仏を勧むるものあり。これ仏教中に諸宗の分立するゆえんなり。今、禅宗は単伝直指真参実証の法と称して、主観上より不可思議霊妙の理想界に頓入直達する一種の別法なり。故にこれを教外別伝とす。もし人この門に入りて自己の心地を開発しきたらば、身心共に霊々妙々の風光中に安住するを得べし。その極趣真味は実に文句思議の外にありて、千言万慮を尽くすもなおその一斑を形容すべからずといえども、言亡慮絶の間自ら心月の円照独朗するをみる。これ実に不可思議中の不可思議というべし。これを禅宗にては本来の面目あるいは本地の風光を開現すという。けだし我人、本来理想の一滴より結晶してこの身心を凝成せる以上は、その心底最も深き所、一条の暗渠ありて理想の源泉と通ぜざるべからず。しかるにこの暗渠を開ききたりて、ただちに理想の本色真相を啓発するものは、ひとり禅宗あるのみ。故に禅宗は仏教哲学中、最も霊妙なるものというべし。果たしてしからば、いやしくも哲学に志あるもの、あにその理を討究せざるべけんや。これ余がここに禅宗哲学を講述するゆえんなり。

       第二節 皇国の三霊

 今、禅宗哲学を講述するに当たり、ここに一言せざるを得ざるものあり。そもそも宇宙万有はことごとく理想海水の凝結して構成せる以上は、一事一物として霊妙ならざるはなしといえども、その霊妙の気はなかんずくわが皇国神州に雲集するをみる。今その最も特粋なるものをえらびてこれを提出すれば三種あり。曰く富峰、曰く国体、曰く仏教なり。余はこれを日本の三大不思議という。実に世界不二、万国無類の霊気妙体なり。しかしてこれを霊気妙体と称するは、さきにいわゆる理想の特粋なるもの凝結して、この三者を現成せるによる。けだし理想の体気、物界に発すれば、山河の形を現じ、人界に集まれば国家の体を結び、心界に開けば宗教の光を放つ。今わが国は、物界にありては古来、勝区霊境に富めるをもってその名あり。しかして富峰その最たり、世界万国いまだかつてかくのごとき名山あるをみず。けだしわが国に霊妙の美術発達せるは、かくのごとき名山勝景に富めるをもってなり。また人界に対しては、われわれ国民は建国以来一種特有の国体を護持し、一統連綿の皇室を奉戴して今日に至る。これまた霊妙と呼ばざるを得んや。以上の二者は共にわが国固有の現象なるも、別に他邦より入りきたりて一種の特性を啓発するものあり、仏教これなり。仏教はその源をインドに発し、流れてシナ、三韓に入り、分かれて日本に数派の源流を開き、千有余年相伝えて今日に至り、この霊妙の国体と相結びて、一種の霊光妙景を宗教界裏に開くものなり。今日これをインドの仏教に比するも、シナの仏教に較するも、深浅高下大いにその趣を異にし、大乗霊妙の教理ひとりわが国に盛んなるをみるは、これあに日本特有の宗教といわざるべけんや。しかしてその宗教は理想の本色真相を開示指導したるものなれば、世界万国その比をみざる玄妙の教門というべし。故に余はこれを富峰、国体とあわせ称して、皇国神州の特霊とするなり。

       第三節 三霊の関係

 以上の三霊は全くその体を異にするも、また互いに相関するところあるは疑いなし。我人常に富峰の風采に接見すれば、その容わが心鏡の上に映じて精神の霊光を現じ、その光わが同胞の間を照らして国体の精華を開く。しかして富峰と国体との間にまたがりて心天茫々たるところ、妄念を払い真理をひらき、人をして歓天楽地の間に安住せしめ、もって国家の福祉を増進し、皇運の隆盛を扶翼するものは仏教なり。故にこの三霊相合してこの国の独立を構成すというも、あに不可ならんや。しかりしこうして、もしその霊のよって起こる本源を尋ぬれば、宇宙万有の実体たる理想中より発するを知る。故に余はこれを理想特粋の気、わが国に雲集すというなり。しかるに世間、富峰、国体の二霊あるを知りて、仏教の一霊あるを知らざるもの多し。これ余が大いに国家のために遺憾とするところにして、十余年来、微力を仏田の開鑿に尽くしたるゆえんなり。そもそも仏教は三千年古の遺物なりというも、その中に万世磨滅すべからざる哲理の真金を含有するありて、世運の開け人智の進むに従って、ますますその光輝を宇内に発揚せんとし、今やようやく欧米に伝播して、ヤソ教の本城内に旗影を翻さんとするの勢いなり。かくのごとき宗教のわが国に久伝し、日本特有の宗風を養成せるに至るは、実にわが諸霊中の一にして、いやしくも日本国民たるもの、あにその講究を忽諸に付すべけんや。

       第四節 禅宗は霊中の妙宗なること

 仏教すでに日本特有なれば、禅宗またもとより特有ならざるべからず。しかるにその宗はシナの地に起こり、シナの風を帯ぶるをもって、シナ宗と名付くべきも、日本宗と称すべからざるがごとしといえども、その宗かれに衰えてわれに盛んなり。かつその伝来の際、わが国の事情に応じて多少の変遷ありて、わが国風に同化したる以上は、日本特有と称して不可なることなし。ことに禅宗の教外別伝、不立文字を唱うるがごときは、世界万国いまだその比類を見ざる一種特色の宗教なり。あにひとり仏教中の別伝なるのみならんや。ヤソ教にも経文あり、回教にも経文あり、婆羅門教、ペルシア教〔ゾロアスター教〕、みな経文あり。ひとり禅宗は経文によらず、以心伝心をもって相続し、仏の心印を直指単伝するをもって本旨とす。その宗旨わが国に最も盛んなるをみるは、日本特有の別宗といわざるべからず。果たしてしからば仏教すでにわが国三霊の一なれば、禅宗は霊中の妙宗というも、あに過言ならんや。その宗にてただちに自己の心門を叩きて理想の活体をひらくがごときは、また霊々妙々不可思議宗というべし。これ余がその哲理を講述して世人に明示せんと欲するゆえんなり。

       第五節 禅宗哲学講究の必要

 余かくのごとく論じきたらば、禅門にあるもの必ず言わん、禅宗は教外の別宗なればもとより哲学にあらず、もし哲理をもってその宗意を講究するに至らば、これ禅宗にあらずと。余これに答えて曰く、禅宗は教外別伝、不立文字の宗旨なるも、あえてことごとく経論を排斥するにあらず、その直指人心、もって見性成仏するの理は、大乗諸宗の経論によりて証せざるべからず。『維摩経』『楞厳経』『円覚経』『起信論』『原人論』等は、みなその宗の用うるところなり。すでに経論を用うれば、必ず道理によらざるべからず。すでに道理によれば、これを哲学と称するも、あに不可ならんや。たとえその道理は禅宗の方便にして真実にあらずとするも、方便を離れて真実を示すべき道なきをもって、哲理の講究は禅学において欠くべからざるものと知るべし。もしまた禅宗は真に道理言語を離れ、黙々寂々のところに心印を単伝するものとするも、すこしもそのしかるゆえんを、言語に発せず道理に考えざるときは、人をしてそのなんたるを知らしむるあたわず。いやしくも道理に照見しきたるときは、必ず真非を判定せざるべからず。これ、禅宗に哲学を要するゆえんなり。もしまた禅宗は世界不二の宗旨なれば、これを日本の特宗として海外万国に伝播せんとするときは、ますます哲学講究の必要を感ずるなり。故に禅門に出入するもの、よろしくその教中に潜在せる真理を証明することを務むべし。今、余は試みにその先駆をなさんとす。しかしてここに題して禅宗哲学というは、禅宗は一科の哲学なりとの意にあらずして、その宗の裏面に含むところの哲理を開示論定するの意なり。今まずその要点を指摘するの目的なれば、これを『禅宗哲学序論』と名付く。

       第六節 全論講述の順序

 ここにその序論を講述する順序を挙ぐれば、最初に哲学総論を掲げて不可思議の実在を論定し、つぎに仏教総論を掲げて仏教各宗の異同を述べ、かつ禅宗と諸宗との関係を示し、つぎに禅宗総論を掲げて禅門総体に関する宗意教義を論じ、つぎに禅宗各論を掲げて理論上、見性悟道の規則事情を示し、かつ実際上、利生行持の方法理由を明かさんとす。すなわち左表のごとし。

  禅宗哲学序論 哲学すなわち哲学総論(第二段)

         仏教 各宗すなわち仏教総論(第三段)

         禅宗 禅宗総論(第四段)

            禅宗各論 第一、出世間道(第五段)

                 第二、世 間 道(第六段)

 この禅宗各論中、禅宗理論は仏教のいわゆる出世間道をいい、禅宗実際は世間道をいうなり。しかして最後に結論(第七段)を掲げて全論を一結し、あわせて禅宗の長短優劣を判定せんとす。

 

     第二段 哲学総論

       第七節 純正哲学の目的

 我人、哲学世界にありて思想最も高き所より望見すれば、宇宙は一大哲学にして、哲学は一大宇宙なるを知るべし。宇宙の霊妙は哲学の中に開き、哲学の霊妙は宇宙の上に発するなり。しかるに世人は有字の書を読むことを解して、無字の書を読むことを解せず、有書の学を修むることを知りて、無書の学を修むることを知らず。これをもって学は死学となり、書は死書となる。それ天地は活学にして、万有は活書なり。人もし宇宙の霊妙を観察せんと欲せば、よろしく活学活書について討究せざるべからず。これすなわち活哲学を研修する活道なり。今その道によりて研究すれば、たちまち宇宙の本体の不可思議なることを知るべし。これを証見する方法に二種あり。一は理学、一は哲学なり。理学は外界万有の上にこれを証せんとし、哲学は内界一心の中にこれを究めんとし、理学は形而下においてし、哲学は形而上においてし、理学は宇宙の一部分においてし、哲学は宇宙の全体においてし、理学は物心の現象の上においてし、哲学は物心の本体の上においてするの異同あれども、これ不可思議に達する駅路に二様の別あるによるのみ。もし進みてまさしく不可思議の本城に入るに至りては、理学的論鋒も哲学的論鋒も、共に哲学部下の一軍たるに過ぎず。けだし理学の討究によりて得たるものは唯物論にして、哲学の推理によりて得たるものは唯心論なり。この二論相合して理想論を生ず。しかして唯物論も唯心論も理想論も、みな哲学中純正哲学の論題にして、道理上不可思議の関門をたたきてこれを開かんとするは、純正哲学の目的なり。故に純正哲学は、左に理学的論軍をひきい、右に哲学的議兵をひきい、大挙して不可思議の本城に攻入せんとするものと知るべし。

       第八節 宇宙の分界

 我人つらつら宇宙の内外を観察するに、人智をもって知るべき部分と、知るべからざる部分との二大範囲ありて併存するをみる。これを哲学上可知的界、不可知的界と名付くるなり。しかしてそのいわゆる不可知的界は、今日不可知的なるも、将来可知的となるべきものをいうにあらずして、到底人の智力の及ぶべからざるものをいう。これすなわち不可思議なり。もしそれ人智の進歩によりて将来知り得べきものは、これを名付けて未知という。これに対して既知あり。この二者は共に可知的界に属す。その表左のごとし。

  宇宙 可知的 既知

         未知

     不可知的

 そのうち可知的は現象世界なり、物心世界なり、不可知的は無象世界なり、理想世界なり。なにをもって不可知的は到底人智の及ばざるところなるを知るや。曰く、人智の性質に反すればなり。人智は有限相対にして、不可知的は無限絶対なり。有限の人智をもって不可知的を推測し得るときは、すでに有限に制限せらるるをもって、これ無限にあらず。しかりしこうして人智の性質は有限なるも、なお有限の範囲を超えて無限に進まんとする傾向あれば、表面に有限力を示すも、裏面に無限性を帯ぶるものというべし。これをもって純正哲学は人智の学なるも、その無限性によりて不可知的を推究せんとするなり。これを要するに、理学、哲学共に人の智力に基づくものなれども、理学は全くその有限力によるをもって、その研究は可知的の範囲に限り、哲学は一部分その無限性に連なるをもって、可知的より不可知的に向かって進まんとするなり。しかりしこうして理学の研究においても、事々物々の観察上自ら不可思議の霊妙を感知することあるは、一は智力中の無限性の有限に伴って外発することあるにより、一は感情中の無限性の智力に加わりて湧出することあるによる。これをもって我人は物心内外両界において、不可思議の霊気妙体を感見することを得るなり。

       第九節 外界の不可思議

 まずこれを外界の経験に考うるに、文字を知らず学問を修めざるものは、天地の現象、四時の運行を見て更にその理のなんたるを知らざるも、なおその心に霊妙を感ずるはなんぞや。春花秋月、よくかくのごとき人をして感喜に堪えざらしむるはなんぞや。人心中自ら不可思議を感見する力を有するによる。もしそれ多少書を読み文を解する者、一吟の鳥声を聞くも、半窓の花影を見るも、高きに登るも流れに臨むも、雨夕風晨、一として万有の霊妙を感ぜざるはなし。もしまた専門の学によりてその蘊奥を究むれば、天地万有ことごとく不可思議界中にありて存立するを知るべし。たとえば天文学によりて天界を観測し、宇内の茫々漠々、広大無辺なるを見、その間に日月星辰の歴然としてあやをなすを見るときは、実に無限の趣味を感じ、また生物学によりて動植物を実究し、小虫細胞の形状を見るときは、またおのずから無量の美妙を感ずるに至るがごとし。物理学を修むるも化学を修むるも、地質学、金石学、人類学、生理学を専攻するも、一としてしからざるはなし。これなんぞや、外界の事物は不可思議の現象なるによる。故に余曰く、この世界は不可思議の結晶凝塊なりと。また曰く、天地万有は活学活書なりと。けだし望遠鏡、顕微鏡は不可思議界内をうかがう窓隙なりというも可ならんか。これによりてこれをみるに、今日の人類に数千万倍する智力を有するものありて、この世界を観見しきたるときは、たちまち絶妙完美の極楽世界なることを了知するを得べし。在昔、釈尊多年の苦行によりて、三〇歳二月八日の暁天、明星の現ずる時、菩提樹下に端坐して、廓然として大悟せられたるは、なんぞ知らん、当日の風光よく不可思議の霊気を浮かべ、一大宇宙ことごとく不可思議霊妙の世界となりて釈尊の眼中に落ちたるを。余案ずるに、釈尊は我人に数倍せる大智眼をもって、万有の裏面に潜在せる霊気妙体を看破せられしによるならん。果たしてしからばだれびとも大智眼を開現しきたらば、釈尊と同じく我身即仏、此土即極楽の妙鏡に入るを得べし。かれも人なりわれも人なり、なすことあるもの、みなかくのごとし。我人あに勇猛精進せざるべけんや。これすなわち禅門にて仏教は釈尊実験の法なりとし、釈迦なんびとぞ、われなんびとぞ、その精神をもって見性成仏を唱うるゆえんなり。

       第一〇節 内界の霊妙

 つぎにこれを内界の観念に考うるに、我人その智力の多少を問わず、静夜独坐して沈思黙慮すれば、おのずから不可思議の観念を生ずべく、またひとり書を読み、あるいは人と共に語るも、会心得意の点に至れば、一段の真趣妙致を感知すべし。その他、一事一物を思慮するも、進みていやしくも絶対無限の一端に接触すれば、言うべからざる無量の趣致を感知せざるはなし。これなんぞや、我人の心界は有限無限の両界にまたがりて、有限の観念中に無限の思想を胚胎するによる。そもそも心界は心象、心体との二者より成り、心象は有限にして可知的なれども、心体は無限にして不可知的なり。あたかも物界に物象、物体あるがごとし。しかして物象を見て不可思議を感ずるは、その中に物体霊妙の気を示すにより、心象を顧みて不可思議を感ずるは、その中に心体霊妙の気を現ずるによる。もしまた心象を分析すれば、智、情、意の三種となる。この三者はおのおの有限なるも、共に心体の上に現立するものなれば、表面に有限を示して裏面に無限を含むものなり。換言すれば心象の裏面に無限性の粘液ありて、これをして絶対性心体に付着せしむるなり。故に智力にも有限無限あり、情感にも有限無限あり、意志またしかり。これをもって智力によりて推理する間に無限を知得し、情感によりて感受する間に無限を直覚することを得るなり。しかれども智情共に有限範囲内に成立するをもって、全然無限を知了すること難し、ただ心象発動の間に無限の電光の閃々たるを見るのみ。あたかも黒雲流動の間に、月光の微白を漏らすがごとし。智情意は有限界の黒雲なり。これを仏教にて有漏という。有漏とは煩悩の異名なり。その裏面に不可思議の月光ありてこれを照らすをもって、たまたま有限性の薄きところに至れば、多少その光影を漏らすことあるべし。

       第一一節 心体と物体との関係

 すでに智情意と心体との関係を知らば、心体と物体との関係について一言するを要す。心体も物体も共に無限絶対にして、我人の知識以外にありて存せざるべからず。しかして物体の実在は唯物論によりて知るべく、心体の現存は唯心論によりて知るべし。唯物論にありては動植人類の構造機能を実究して、心は物によりて生ずるゆえんを証明す。かくしてすでに物の外に心なきゆえんを知らば、その物たるや絶対なり。絶対なれば無限ならざるべからず。無限なれば不可知的ならざるべからず。もし更に進みて物そのもののなんたるを推究すれば、我人のいわゆる物質は感覚上に現立せる色、声、香、味、触の五境に外ならざるを知るべし。これを物象という。すでに物象あれば、これを現出する実体別に存せざるべからず。これを物体という。この物体論と唯物論とを照合すれば、物体は絶対無限不可知的なるを知るべし。唯心論にありては、外界の諸象を分析して、物質そのものは感覚上の現象に外ならざるを知り、また物心を識別して、物の外に心なきを論定するがごときは、みなわが思想の作用に外ならざるを知るべし。これにおいて心の外に物なきゆえんを論定するに至る。すでにそのしかるゆえんを知らば、心は絶対無限ならざるべからず。しかるに、わがいわゆる心性は智情意の三種にして、互いに相制限するものなれば、決して無限というべからず。かつこの三者は共にわが肉体の機関の上に発動し、外界の経験によりて成育せるものなれば、心の現象にして本体にあらず。もしこの心象によりて心体あるを論定し、これに唯心の理を照合すれば、必ず心体は絶対無限不可知的なるを知るべし。すでに物体も心体も共に不可知的ならば、我人の智識によりて、いずくんぞよくその二者を識別せんや。もしまた二者果たして両立並存するならば、あにこれを絶対というを得んや。ことに物心二者の関係について、互いに契合一致すべき理を考定しきたらば、心体も物体もその実、一体なるを知るべし。しかしてその体たるや、物にもあらず心にもあらず、これを名付けて理想という。儒教の大極、仏教の真如、これなり。故に理想は物心万境の本源実体にして、唯物、唯心の合して一となるものなり。これ実に絶対無限不可知的、霊々妙々不可思議の体なりと知るべし。

       第一二節 理想と可知界との関係

 つぎに理想と可知界との関係について、更に一言するを要す。理想は不可知的なる以上は、人知なにほど進むも、その有限の性を帯ぶる間は、全然その体を知得すべからず。たとえば唯物論にありて天地万有は一物質なるを知るも、物質そのもののなんたるに至りては到底知るべからず。これを小にして元素に達すれば、元素そのもののなんたるを知るべからず。これを内にして勢力あるを知るも、勢力そのもののなんたるを解すべからず。また唯心論において心象のなんたるを知るも、心体のなんたるを解すべからず。もしまた宇宙そのものの無限、有限の問題に至りては、到底我人の智力の及ばざるところなり。これをもって理想の不可知的なるを知るべし。しかりしこうして我人の多少理想の状態を論定するを得るは、さきにいうがごとく、智力の裏面に無限力を帯ぶるをもって、有限を推究する間に、自然に無限に向かいて進まんとするによる。その他、我人の理想について感知するは、情感、意志の作用による。けだし我人は可知的の境遇にありながら、多少無限の智力によりて理想の一斑をうかがうことを得る以上は、理想そのものの活動の力は必ずわが身心上に及ぼして、我人これを感知することあるべき理なり。わが方より理想を推測するは智力の作用にして、理想の方よりわれに啓示するを感知するは情感の作用なり。情感にも有限、無限の二性を具有するをもって、その中の無限性によりて無限を感知するなり。故に理想界と可知界とは不一不二の関係を有す。すなわち二者その性質異なるは不一なるゆえんなり。しかしてその間に感知接触するを得るは、二者その体、一にして不二なるゆえんなり。換言すれば外面にありてその別を示し、内部にありてその体を同じうするゆえんなり。故に余は理想と物心両界との関係を論じて、一物に表裏両面あるがごとく、表面に物界を現じ、裏面に心界を示し、表裏の本体すなわち理想なりという。この関係の上に存するもの、これを力といい気という。もしこれを相対有限に区別するときは、無限の力、霊妙の気というべし。これみな理想より発して物心の上に現ずるものなり。しかしてこれを霊妙と名付くるは、単に不可知的なるをいうにあらず、不可知的なるがごとくにして可知的なり。可知的なるがごとくにして不可知的なる状態をいう。およそ妙の言たる有中に空を示し、空中に有を現じ、有限中に無限を見、相対中に絶対を知り、なんともかとも名状すべからざる中に自ら名状すべきものあるをいう。故に理想の不可思議は暗黒の不可思議にあらずして、光明の不可思議なり。沈静の不可思議にあらずして、活動の不可思議なりと知るべし。

       第一三節 哲学と宗教との関係

 以上すでに哲学上理想と物心との関係を略述したるも、なおこれより哲学と宗教との関係について一言せざるべからず。この二者共に理想を目的とするも、哲学は道理によりてこれを推究せんとし、宗教は直覚によりてこれを感知せんとす。これ一は智力により、一は情感によるゆえんなり。また哲学はこれを知了するをもって足れりとし、宗教はこれに到達せんことを務む。今、仏教は哲学宗教を兼備せるをもって、一方にありては理想の実在を推究し、一方にありてはこれに到達する方法を開示するなり。その到達の方法に二道あり。その一はわが方より進みて理想に合せんとす、その二は理想の方より下りてわれに通ぜんとす。しかして理想の性質本体を論定するところは、諸宗おのおの異なりといえども、要するに自力、他力の二道に外ならず。今その二道によりて理想に到達する方法を述ぶるに、物界も心界も共に理想の現象に外ならざるも、我人これに到達する道は心界中にありて求めざるべからず。なんとなれば、これ直接に理想に通ずる道なればなり。しからば心界にありて智情意三種中、いずれによりて理想に到達するを得るや。この三者おのおのその裏面に無限の性力を具し、これによりて理想に結合する以上は、智の無限力を養成して、進みて理想と合体するに至れば、これ智力的宗教なり。仏教中の三乗、一乗等の聖道自力諸宗はこれに属す。情の無限性を開発してただちに理想を感知するに至れば、これ情感的宗教なり。すなわち他力門の宗教はこれに属す。もしまた意志の自由力によりて理想を活捉しきたらば、これ意志的宗教というべし。仏教諸宗中ひとり禅宗は、これに属するもののごとし。もし我人、物心の本体は理想にして、わが心性の理想の一滴より凝成するゆえんを知らば、その凝塊を氷解し、もしくはわが心中に存する無限の性力を開現しきたらば、理想に一致合体することを得るの理はたやすく了解すべし。しかしてこの点に到達せんと欲せば、必ず多少の修行練習を要するをもって、いずれの宗教も戒行、観法等の規則を設くるなり。

       第一四節 智情意の性質

 かくのごとく宗教は心性作用に基づくものなれば、ここに宗教と心性との関係を略述するを要す。今心象中、智は識量を義とし、これによりて講ずるものは学術なり、情は感受を義とし、これに関して起こるものは美術なり、意は動作を義とし、これに基づきて論ずるものは道徳なり。もし哲学中にありて特にこの三者に属する学科を挙ぐれば、智に属するものに論理学あり、情に属するものに美学あり、意に属するものに倫理学あり。またこの三種の性質を挙ぐれば、智の上に真妄あり、情の上に美醜あり、意の上に善悪あり。学術は真を究むるを目的とし、美術は美を全うするを目的とし、道徳は善に進むを目的とす。これを合して真美善という。あるいは正真、純善、完美と称するも可なり。これ実に智情意の目的とするところにして、進みてこの目的を完成するに至らば、三者合して一となり、もって理想に合体すべし。今、宗教は普通一般の説には情感によるというも、その実、智情意三者によりて理想に到達するものなれば、この三種の性質を完成するをもって目的とせざるべからず。しかるに余は、宗教は更にこの三者の上に位して、三合して一となる点を目的とするものなりといわんとす。なんとなれば、宗教は直接に理想に関係して存すればなり。しかして余は、この三の合して一となるものを名付けて、妙あるいは霊妙といわんとす。これ全く絶対に属する性質にして、真美善の三はなお相対に属する性質を免れず。果たしてしからば、この妙は真美善の最上に達したるものにして、ひとり宗教の目的とするところなり。

  妙すなわち霊妙(宗教) 真すなわち正真(学術あるいは論理学)

              善すなわち純善(道徳あるいは倫理学)

              美すなわち完美(美術あるいは美学)

 もしこの性質を体象の上に配当すれば、妙は心体即理想の性質にして、真美善は心象即智情意の性質なり。しかして我人、心象の上にありて真美善を全うするは、妙を開現するゆえんにして、上理想に達する階梯たるを知るべし。かつそれ真美善は心象の性質とするも、理想に連接して現象中に存するものなれば、三者共にその裏面に妙を具し、真妙、善妙、美妙と称して可なり。仏教上には智に二種を分かち、有漏智、無漏智となすは、智に真妄二種あるを義とするなり。無漏智は真妙の智をいい、有漏智は虚妄の智をいう。けだし法相宗にて転識得智というは、妄智を転捨して真智を開発し、これによりて理想と合体するをいうなり。

 

     第三段 仏教総論

       第一五節 仏教諸宗の目的

 そもそも仏教は皇国神州三霊の一にして、その高きこと富士山の屹然として雲間に秀づるがごとく、その広きこと太平洋の茫乎として津涯を見ざるがごとく、実に最大甚深の宗教なり。その中に無量の法門あり。今これを摂約して大乗小乗、三乗一乗、顕教密教、聖道浄土等の諸宗となす。しかるに余これを大別して、理宗、通宗の二類となし、更に理宗を分類して物、心、理の三宗となし、通宗を分類して智、情、意の三宗となす。理宗とは理論宗にして、通宗とは実際宗をいう。また物心理三宗とは仏教のいわゆる有門、空門、中道の三宗をいい、智情意三宗とは禅宗、日蓮宗、浄土門の三種をいう。その表左のごとし。

  仏教 理宗 物宗すなわち有宗(倶舎宗)

        心宗すなわち空宗(法相宗ならびに三論宗)

        理宗すなわち中宗(天台宗、華厳宗、真言宗)

     通宗 意宗(禅宗)

        智宗(日蓮宗)

        情宗(浄土宗ならびに真宗)

 かくのごとく諸宗その門を異にするも、不可思議の玄門を開きて、これに到達する要道を講ずるに至りては一なり。しかしてその不可思議の体、これを真如といい、法性といい、一如といい、法界というも、余がさきにいわゆる理想これなり。これを証する智を菩提といい、智によりて現したる理を涅槃という。その体、不可知的なるも、我人の力よくその理を証見することを得るをもって、我人とその体との関係に至りては、実に奇々妙々にして名状すべからざるものあり。故に仏教中、妙法、妙理、妙心、妙空、妙有等の語を用う。これ余がさきにいわゆる霊妙なり。この霊妙不可思議を開顕するに、深浅高下の次第によりて、小乗大乗、有空中等の諸門を設くるに至る。

       第一六節 倶舎および法相宗の理論

 まず理宗において不可思議の実在を証明する順序を考うるに、有宗すなわち小乗倶舎宗にありては、物心万有を分類して七五種となし、その体おのおの実在せるを唱え、いまだ真如の本体を開示するに至らず。その中の択滅無為の一種は涅槃を義とするも、これ消極的空寂の涅槃にして、積極的活動の真如にあらず。しかれどもその論中自ら真如不滅の体ありて、七五種の根拠となるの理を胚胎するをみる。すなわちその宗にて七五種の体の恒存実在せるを論じて、法体恒有、三世実有という。もし更にその実有なる原因について推究しきたらば、その根拠に一大不滅の体ありて存せざるべからざるゆえんを想定し得べし。故に倶舎宗はあたかも真如の月光の山川草木を照らすを見て、草木そのものの光なりと認むるがごとく、あるいはあたかも迷雲を払い去りて、空々寂々の大虚を見て、涅槃なりと認むるがごとく、いまだ真如の月体を見ざるものなり。故にその宗にては、いまだ深く不可思議霊妙の趣味を感得することあたわず。しかるに一歩進んで空宗すなわち権大乗に入れば、法相宗にては万有を分類して百法とす。そのうち無為法の六種は真如の性質を表示せるものなれば、真如の一法に帰し、有為法の九四種は識心の中より開発せるものなれば、識心の一部に帰す。しかして識心の本体は真如なりという。かつその宗にては遍、依、円の三性によりて真如の実在を証し、有空中の三教によりて中道の真理を示せり。これにおいて不可思議霊妙の光景、始めて開通するを覚ゆ。これを唯識中道の妙理という。しかりしこうして、その宗なお識心と真如との間に界線を画して、いまだ真如の水動きてただちに万法の波をなすゆえんを示さず。これその権大乗たるゆえんなり。もし空宗中の空門と称する三論宗に至れば、一切差別有限の心象を払い去りて、真如月下一点の雲影をとどめず、浩々たる大虚の中おのずから霊妙の光気ありて、満天ために朧然たるを見る。その趣、実に言亡慮絶にして、その味、実に計るべからざるものあり。これ破邪極まりて顕正を生じ、空門窮まりて中道を開くものなり。

       第一七節 中道諸宗の理論

 かくしてようやく進みて中道宗に至れば、万法の風波そのまま真如の理水にして、一草一木、一色一香、みなその理水の一滴一分子なれば、水流れ花落ち、雲動き風起こる中に、おのずから霊妙の風光を感見し、天地万有の上に不可思議の世界を開くをみる。この理を示したるものは実に天台宗なり。その宗は仏教中の理論の最も高妙を究めたるものにして、理想と万有との関係の不一不二、融通自由なることを証明せり。これを理事無礙論という。華厳宗も真言宗も多少そのみるところを異にするも、万有の上に不可思議を開顕するに至りては一なり。華厳にては真如融通の理を万有の上に応合しきたりて、事々物々の中に一切万有を包容して余すところなく、一塵一毛の中に天地山川を含蔵し、互いに主となり伴となり、重重無尽無礙自在なり。これを事事無礙論という。すなわち万有の上にただちに不可思議の玄理を開き、微妙の深法を示せり。また真言のごときは一種の密門を地、水、火、風、空、識の六大の上に開き、金胎両部の一致を唱え、物心渉入、理智冥合の秘奥を説示したるものなれば、仏教の不可思議ここに至りて窮まれり尽くせりというべし。しかりしこうしてこれ理論上の講究にして、実際上真如界に到達する方法にあらず。換言すれば仏教中哲学の部分にして、宗教の部分にあらず。もしその宗教的方法を論ずれば、有空中三宗共に智力中の無限力によりて真理を証見し、これに安住することを唱うるも、その方法、修行に至りては大いにその理論に反し、煩雑迂回の風なきあたわず。これ理宗に伴って通宗の起こるゆえんなり。

       第一八節 通宗の性質

 通宗は大別して三類となるも、共に実際を本旨とし、成仏開悟の近道を主唱するものなり。理宗中、天台は真如万法の同体不離を論じて、一味平等を唱えたるをもって、日蓮宗はやはりその平等論によりて即身成仏の法を説けり。これ余がこれを智宗と名付くるゆえんなり。禅宗も平等論なれども、言語思慮の階梯によらずして悟道を求むるをもって、智宗というべからず。かつ日蓮宗は客観上に平等を唱え、禅宗は主観上に平等を唱う。これ両宗の異なるゆえんなり。これに反して浄土宗および真宗は客観上差別論を唱う。これその宗の、以上の二宗に異なるゆえんなり。しかりしこうしてこの諸宗はさきの理宗の理論に基づきて、別に一門を開きたるものなれば、いずれも不可思議を目的とせざるはなしといえども、その体を論定するに至りては、客観上に立つるものあり、主観上に唱うるものあり、平等上に立つるものあり、差別上に唱うるものあり。もしその不可思議に体達すれば、その得るところの霊妙の趣味は、いずれの宗も同一ならざるべからず。たとえば禅宗と真宗とはその説くところ大いに異にして、禅宗は自らその霊源にさかのぼりて、真如の不可思議を自己の心中に開発し、真宗は阿弥陀仏の他力に依憑し、我人をしてその不可思議の光明の中に遊ばしむる法なれども、その霊妙不可思議を感ずる点に至りては一なり。ただ禅宗にてはこれを主観上に説き、真宗にてはこれを客観上に説くの異同あるのみ。浄土宗の念仏も日蓮宗の唱題も、人をして不知不識の間に自ら霊妙を感見せしむるに至りては、また同一なりというべし。

       第一九節 禅宗の性質

 以上は理宗、通宗の教義と霊妙不可思議との関係を摘示したるもののみ。もし特に禅宗の悟道を心理学上に考うるときは、意志作用に属するをもって、余はこれを意宗といわんとす。しかして禅門にあるものは必ずいわん、本宗は決して智情意の階梯によりて真如の本境に到達するにあらずして、ただちに単騎突進して不可思議城内に超入するものなり、故にこれを単伝直指教外別伝というなりと。余曰く、しかり、これ実に禅宗の目的とするところなり。しかして実際上、智情意三者の一によらざればその目的を達し難し。なんとなればわが心いやしくも動けば、これと同時に智情意の作用を現ずればなり。しかれどもその宗の本意は、端坐静慮によりて諸心象を鎮定せんとするにあり。およそ我人の心海は真如理想とその体を同じうするも、外界万境の風、これを動かして智情意の波を起こさしむ。故に我人もし静坐によりてひとたびその風縁を絶つときは、心象の諸波ことごとく平定して、心天ただ真如の一月の円照するをみるべし。禅宗の目的は全くこれに達するにあり。故にその宗は智情意の階梯によらざるものというべし。しかりしこうして、そのいわゆる真如は空々寂々の死物にあらずして、勢力あり生気ある活動体なり。この活真如を活捉しきたりて、自己心中に活天地を開発するもの、これ禅宗の目的とするところなれば、その作用は意力に属さざるべからず。わが心力によりて真如を活捉するも、これを心中に開発するも、みな意志の発動ならざるはなし。この点は禅宗と三論宗との異なるところにして、三論は鏡面の塵を払うがごとく、払い終わればこれにて足れりとす。禅宗は宝蔵の扉を開くがごとく、開き終わりてその中より真如の珍宝を運出せざるべからず。これ大意力にあらざればなしあたわざるなり。しかしてその意力は心象の裏面に連絡せる無限性自由の意力にして、直接に理想に関係して存するものなり。故に余は禅宗を呼んで意力宗となすなり。

       第二〇節 諸宗の批評

 ここに至りて、以上の諸宗を概括して一言を下さんとす。仏教は前に開陳するがごとく、天地万有の外に真如の実在せるゆえん、真如より万有の開発するゆえん、事々物々の真如の一部分一分子たるゆえん、事物と真如とその体一にして、融通自在なるゆえんを証明しきたりて、我人のこれに体達し得るゆえんを開示したるものなり。その証明は理宗、において説くところをもって尽くせりとなす。しかしてこれ理宗の哲学門、すなわち理論門にしてもしその宗教門、すなわち応用門に至りては、修行の種類を分かち成仏の階級を設くるをもって、決して頓入直達の法にあらず。これにおいて、禅宗は理宗の理論門をただちに宗教門に応用しきたりて成仏の近道を開き、教外の別伝を唱えたるものなり。もしそれ理論門についてこれを較すれば、小乗倶舎宗は法体恒有を説くも、内に包蔵せる真如の理いまだ現ぜざるをもって、霊いまだ霊ならず、妙いまだ妙ならずといわざるを得ずといえども、大乗法相宗に至りては、その唯識中道の理のごときは、実に霊妙といわざるべからず。更に三論に至れば、八不中道の理は妙々霊々というより外なし。また進みて天台に入れば理事無礙融通互具の理は、霊中の霊、妙中の妙、至れり尽くせりというべし。その他、華厳の事事無礙重重無尽の法門は、霊中の妙、妙中の霊というべく、真言の六大渉入、両部不二の理は、霊外の霊、妙外の妙というべし。以上の諸宗はこの霊妙不可思議の理論に基づきて、成仏得道の法を開説したるも、応用上においてはいまだ頓速にこれを実施するの門路を発見せざりしをもって、禅宗に至りて単刀直入の別伝を唱えきたりて、一切の妙、一切の霊を応用門に集め、また我人の無限性の大意力によりて活真如の本性を自己の心中に打開し、霊々妙々不可思議を即時直接に感得する一種の新門を建立せり。これひとり仏教中の教外別伝なるのみならず、世界古今千種万類の宗教中の教外別伝というべし。

 

     第四段 禅宗総論

       第二一節 禅宗の伝来

 禅宗の本邦にあるもの三種あり。曰く臨済宗、曰く曹洞宗、曰く黄檗宗なり。この三宗はその伝来相承を異にするも、その教義に至りては一味にして二致あることなし。今そのよって起こるところを尋ぬるに、『大梵天王問仏決疑経』に曰く、梵王、霊山会上に至り、金色の婆羅華をもって仏に献じ、仏に請うて群生のために説法せしむ。世尊座に登り、華を拈じて衆に示す。人天百万ことごとくみなおくことなし。ひとり金色の頭陀あり、破顔微笑す。仏曰く、われに正法眼蔵涅槃妙心、実相無相微妙法門あり、摩訶迦葉に分付すと。これその起源なり。しかしてその年代つまびらかならずといえども、その宗伝うるところによるに、釈尊成道以来四九年の時なりとす。これより祖々相伝え二八伝して達磨に至る。達磨これをシナに伝う。故にシナの第一祖は達磨なり。達磨は南天竺〔南インド〕の王族より起こり、その師の遺訓を奉じてシナにきたれり。時に梁の武帝これを迎え、問いて曰く、朕かつて寺を造り経を写し、大いに僧尼を度せり、いずれの功徳かある。達磨曰く、無功徳。帝また問う、いかんがこれ聖諦第一義。達磨曰く、廓然無聖。帝曰く、朕に対するものはなんぞ。達磨曰く、不識。帝これを領悟せず。達磨その機縁のかなわざるを知りて北魏に行き、嵩山の少林寺にとどまりて、終日面壁打座せりという。これより六伝して慧能に至る。この時、南北両宗相分かる。慧能は南宗の開祖なり。その下に二流を出だす。一を南岳懐譲とし、一を青原行思とす。懐譲より五伝して臨済義玄に至る。これ臨済宗の開祖なり。行思より四伝して洞山良价に至る。これ曹洞宗の開祖なり。しかして本邦へ始めて臨済宗を伝えたるものは栄西禅師にして、曹洞宗を伝えたるものは道元禅師なり。つぎに黄檗宗は隠元禅師のシナよりきたりて開きたるものにして、臨済宗の中より分派したるものなり。すなわち隠元は臨済下三二世の孫なり。シナには南岳懐譲より四伝して黄檗希運と名付くるものあり。けだし黄檗の名称は希運より起こる。しかれどもシナには黄檗の宗名なし。これを宗名としたるは本朝に始まる。

       第二二節 禅宗の義解

 以上、三宗これを総称して禅宗という。禅とは梵語にして禅那という。禅那とは寂静、静慮、あるいは定と訳す。この語をもって宗名となしたるは、達磨の自称にあらずして他より与えたるものなり。けだしその宗は坐禅によりて得道するものなれば、これを禅宗と名付くるも不可なることなし。かつ仏教にては戒、定、慧の三学と称し、戒は悪業を制止するゆえん、定は乱心を鎮静するゆえん、慧は煩悩を断破するゆえんにして、この三者共に仏道を修むるに欠くべからざるものとす。禅宗にて坐禅を勧むるは、心を鎮静する目的なれば、三学中禅定に基づく宗旨というべし。しかりしこうして、その宗門にて唱うるところによるに、そのいわゆる禅定は必ずしも三学中の禅定、六度中の禅定をいうにあらず。いわんや四禅八定の禅のごときはもとよりその指すところにあらずして、三学六度、大小半満等を余さず漏らさず円具せるところの最上参禅を義とするなりという。故にその宗門の書に、禅に深浅階級あることを示して、上をよろこび下をいとうて修する者はこれ外道禅なり、正しく因果を信じ、また欣厭をもって修する者はこれ凡夫禅なり、我空偏真の理を悟りて修する者はこれ小乗禅なり、我法二空あらわすところの真理を悟りて修する者はこれ大乗禅なり、もし頓に自心本来清浄にしてもと煩悩なく、無漏の智性もと自ら具足し、この心すなわち仏なりと悟りて、ここによりて修する者は、これ最上乗禅なり、また如来清浄禅と名付くという。この最上乗禅は一行三昧、もしくは真如三昧と名付け一切三昧の根本とし、または三昧中の王三味となす。達磨門下相伝するもの、すなわちこれなりという。しかりしこうして禅宗の本意は経教によらずして、ただちに自己の心地において仏の心印を伝うるにあるをもって、以心伝心教外別伝宗なり。その詩に曰く、「初祖安禅して少林にあり。経教を伝えずただ心のみを伝う。後人もし真如性を悟らば、密印由来の妙理深し。」と。故に一名これを仏心宗という。

       第二三節 禅宗の宗義

 禅宗はかくのごとく経論によらず、仏心を単伝する宗旨なれば、人によりて伝灯を異にすることあるも、義によりて宗派を分かつことなき道理なり。しかれどもシナにありては達磨門下のちに分かれて南北二宗となる。すなわち前節に述ぶるがごとく、慧能の時にこの二派相分かる。慧能は南宗の開祖にして、北宗の開祖は神秀なり。この両人共に弘忍の門下に出づ。弘忍あるとき門下に示して曰く、正法解し難し、いたずらにわが言を記して己が任となすべからず、各自その意に従って一偈を述べよと。時に神秀、南廓の壁間に一偈を書して言う、「身はこれ菩提樹、心は明鏡の台のごとし。ときどきに勤めて払拭して、塵埃を惹かしむることなかれ。」と。そのとき師曰く、後世これによりて修行せば、また勝果を得ん、一同に誦念せしむ。慧能ときに碓坊にありてこれを聞きて曰く、美なることはすなわち美なり、了することはいまだ了せずと。よって偈を作りてこれに和して言う、「菩提もとより樹にあらず、心鏡もまた台にあらず。本来一物なく、いずくにか塵埃を惹かん。」と。弘忍この偈を見て、その夜ひそかに碓坊より慧能を召して衣法を授けたりという。これ南北二宗の分かれたるゆえんなり。伝通縁起によるに、五祖(弘忍)の下に南、北宗を分かち、南宗にまた五家七宗を開く。北宗は純一にしていまだ必ずしもあらそわず。五家七宗とは、潙仰宗、臨済宗、曹洞宗、雲門宗、法眼宗、楊岐宗、黄竜宗、これなり。このうち日本に伝わりしものは、臨済、曹洞の二宗にして、余はみな伝わらず。この南北両宗は多少その主義を異にするところあり。南宗は名句言語によらず、もっぱら以心伝心の本意を単伝し、北宗は仏性、涅槃等の義を説きて言教による。これをもって南宗を頓とし、北宗を漸とす。すなわち南頓、北漸と称するなり。わが国、道璿、伝教〔最澄〕諸師の伝えられたるものは北宗禅にして、栄西、道元、隠元、三禅師の伝えられたるものは南宗禅なり。また如来禅、祖師禅の名称あり。この名称は南北分立ののちに起これりという。けだし如来禅は『楞伽』『般若』等の経文により、如来の言教をもって導くものをいい、祖師禅は言教によるは達磨の本旨にあらずとして、もっぱら以心伝心、不立文字を唱うるものをいう。これによりてこれをみるに、北宗は如来禅にして、南宗は祖師禅なり。かくのごとく、禅宗中にその主義を異にすることあるも、人に賢愚利鈍の別ありて、言教によらずして即時に大悟するものあり、また言教によりて漸時に悟入するものあり。故にその主義の分かるるに至るも、またやむをえざるなり。石頭大師曰く、人根に利鈍あるも、道に南北のへだたりなしと。ただし、その門にあるもの一方に偏せずして、祖師禅の裏には如来禅あり、如来禅の裏には祖師禅あることを忘れざるを要するなり。

       第二四節 不立文字の説明

 今更に不立文字、教外別伝の意を開陳するに、禅宗は経巻論釈の外に別に一種秘伝の法ありて、文字言句をからず、ただ自己の心地をもって仏の心印を単伝し、ただちに人心を指して仏性を開悟せしむる宗旨なれば、釈尊一代の説教は全く人をしてここに至らしむるにありとす。文字言句あにその目的とするところならんや。しかれども人の性質一ならず、機類同じからざれば、やむをえず言教によりて随機開導の方便を用う。これをもって三乗十二分教等あるに至るという。けだしその意、文字言句は月を指す指のごとく、魚を取る筌のごとし。筌と指とに執着して、月と魚とを忘るべからずというにあり。在昔、達磨の門下に道副、尼総持、道育、慧可の四人あり。おのおのをしてその得るところを言わしむ。道副は文字に執せず、文字を離れずして道用をなすという。師曰く、われ皮を得たり。尼総持は一見更に再見せずという。師曰く、われ肉を得たりと。道育は一法の得るべきなしという。師曰く、われ骨を得たりと。最後に慧可に至る。慧可礼拝してのちに位によりて立てり。師曰く、われ髄を得たりと。達磨ときに慧可を顧みてこれに告げて曰く、むかし如来正法眼をもって迦葉大士に付す、展転嘱累してわれに至る、われ今汝に付す、汝まさに護持すべしと。これ慧可は無言によりて心印を伝えたるによる。いわゆる維摩の黙不二も、またこの意なり。これによりてこれをみるに、禅宗は無言宗と名付くるも可ならんか、なんぞ経論を要せんや。『楞伽経』に曰く、仏語、心を宗となし、無門を法門となすと。本宗のごときは実に無門をもって門となすものなり。決して一経一論のよるところあるにあらず、すでに一経一論に偏依せざれば、一切の経論ことごとく所依とするも、またあえて妨げず。故に『興禅護国論』に曰く、「与へて之を論ずれば、一代蔵経皆是れ所依なり。奪て之を論ずれば、一言の所依なし。」と。また『宗門無尽灯論』に曰く、「正眼に看来れば、五時八教、三乗一乗、斉く是れ祖師向上の一著子なり。」と。これすなわち教外別伝の別伝たるゆえんなり。これを要するに、禅宗は古来仏教各宗のいたずらに文字言句の末に走りて、言外に甚深微妙の意あるを知らざるがごとき風あるを見て、不立文字を唱え、また真如仏心の本性は実に霊々妙々不可思議にして、一経一論の中において全味を感了すべからざるゆえんを示して、教外別伝と称するに至る。ここにおいて仏教の最高至大幽玄微妙の真源始めて開け、真如の霊光ここにおいていよいよ明らかなり。これ実に禅宗の卓見といわざるべからず。我人すでにそのしかるゆえんを知らば、教外別伝の中におのずから経論の伝うべきあるを忘れず、不立文字の下にまたおのずから文字あるを記して、仏学の研修を怠るべからず。達磨大師も法を慧可禅師に授くるときに曰く、われに『楞伽経』四巻あり、またもって汝に付す、すなわちこれ如来心地の要門なり。諸衆人をして開示悟入せしめよと。もってその意のあるところをみるべし。故に『宗門無尽灯論』に曰く、「今時往々、没意智を以て禅となして、経論を用ひず、却て道ふ、教外別伝、何ぞ経論を用ひん。殊に知らず、教外分明ならば、教内何ぞ妨けん、教外若し教を容れざれは、教外も亦真にあらず。」と。

       第二五節 見性悟道の理由

 つぎに禅宗にて直指人心、見性成仏を唱うるゆえんを説明するに、これ全く理宗の教義に基づきて立つるものにして、中道諸宗の理論を離れて別に禅宗の理論あるにあらず。しかして中道諸宗の理論は純然たる哲学にして、理想真如と物心万法との関係を明示したるものなり。すなわち前段に略述せるがごとし。しかしてその論の高大深遠なること、実に思議すべからざるものあり。故に仏成道の初めに華厳の法門を説かれたるに、これを聞くもの聾のごとく唖のごとくなりしという。また『維摩経』には「一切の声聞是の不可思議解脱の法門を聞きて、皆応に号泣して声三千大千世界に震ふべく、一切の菩薩応に大に欣慶して、此法を頂受すべし。」と。これ他なし、仏教は我人に真如不可思議の妙門を開きて絶対無限、平等自在の実相を示したるによる。もしその絶対の大海に入れば、もとよりわれもなくかれもなく、声もなく香もなく、物心もなく智情もなく、古今東西の別なく、迷悟凡聖の異なく、一切差別相対の現象は全く絶無に帰せざるべからず。これをもって禅宗にありては本来無一物という。かくのごとく平々等々の海面に万象歴然として現じ、物心炳焉として存するを見るは、実に天台の空仮中三諦の妙理にして、不可思議の不可思議たるゆえんなり。果たしてしからば万有一として真如ならざるはなく、事物一として不可思議ならざるはなし。しかりしこうして我人は一念の迷心、一片の妄情に隔てられて、その実相を観見するあたわず。故にもしその迷心を払い去り、妄情を断じきたらば、だれか霊妙の光景に接触せざるものあらんや。これによりてこれをみるに、わが自己の心地は実に不可思議界に出入する要門にして、真如も万法もみなおさめてわが一心の中にあれば、この心ひとり重重無尽の宝蔵というべし。これいわゆる涅槃の妙心なり。栄西禅師の書に曰く、「大なる哉、心や。天の高き極むべからず、而して心は天の上に出づ。地の厚き測るべからず、而して心は地の下に出づ。日月の光は踰ゆべからず、而して心は日月光明の表に出づ。大千沙界は窮むべからず、而して心は大千沙界の外に出づ。其れ大虚か、其れ元気か、心は大虚を包て元気を孕むものなり。天地我を待ちて覆載し、日月我を待ちて運行し、四時我を待ちて変化し、万物我を待ちて発生す。大なる哉、心や。已むを得ずして強て之に名くるなり。是を最上乗と名け、亦第一義と名け、亦般若実相と名け、亦一真法界と名け、亦無上菩提と名け、亦楞厳三昧と名け、亦正法眼蔵と名け、亦涅槃妙心と名く。」とあり。ここにおいて禅宗にてはただちに人心を指して、見性成仏を唱うるに至る。故に余曰く、禅宗は理想哲学、ならびに唯心哲学の原理を実地に応用しきたりて、一種別伝の宗教を開立するものなりと。

       第二六節 禅学の階梯規則

 かくのごとく心門を打開して、真源を啓発するには、多少の階梯なかるべからず。すなわち古則公案の規則あり、端坐参禅の方法あり。けだし悟道の妙旨は義をもって解すべからず、言をもって伝うべからず、文をもって詮ずべからず、識をもってはかるべからずといえども、古人先哲の案牘によりて、悟道の跡を明らかにするを要す。これを古則公案という。公案とはこれを解して聖賢その轍を一にし、天下その道を同じうする至理を公といい、聖賢理をなすことを記する正文を案という。これに一千七百則あり。あるいはまた公案の功用を論じて、情識の昏暗をともす慧炬なり、見聞の翳膜を掲ぐる金箆なり、生死の命根を断つ利斧なり、聖凡の面目を鑑みる禅鏡なり、祖意これをもって廓明し、仏心これをもって開顕すという。また禅宗は坐禅参禅をもって仏道の正門とす。在昔、釈尊端坐六年にして、悟道の大果を得られたることはみな人の知るところなり。また達磨も面壁九年、終日黙然たり、人そのゆえんを知らず。故に坐禅を宗とする婆羅門なりと称せりという。古聖すでに端坐面壁あり、今人なんぞ坐禅を修めざらん。道元禅師の『弁道話』中に「宗門の正伝に云く、この単伝正真〔直〕の仏教は、最上のなかに最上なり。参見智識のはじめより、焼香礼拝念仏修懺看経をもちいず、ただし打坐して身心脱落することをえよ。もし人一時なりというとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる」とあり。「人若し坐禅を行ふに当ては、正身静坐して諸縁を放捨し、万事を休息し、善悪を思はず、是非に管する莫れ」と。これ実に禅門の要術なりとす。この方法によりて心月明朗、自照霊然たるを得べしという。すなわち悟道の結果なり。その関内の風光状態を開示して、臨済宗にありては四喝、四料簡、四賓主、三玄、三要等の提唱あり。曹洞宗にありては洞山の五位、道元の身心脱落等の名目あり。これを要するに禅道を修むるに坐禅を要するは、さきに述ぶるがごとく、わが智情意の有限性心象を鎮定して、心体の本性を開発するにあるなり。なお次段に四喝、四料簡、五位等の名目を解釈すべし。

 

     第五段 禅宗各論 第一

       第二七節 坐禅の規則

 前段において禅門一般を総説したるをもって、これより各論にわたりてその宗の悟道に対する修法と、その宗の処世に対する行法との二段に分かちて述ぶるところあらんとす。前者は出世間門にして、後者は世間門なり。すなわち各論第一段は禅宗の出世間道を論じ、同第二段は禅宗の世間道を論ずるなり。まず出世間道を述ぶるに、端坐参禅はこの宗の正伝要門なれば、その規律方法を摘示せざるべからず。その規律に身体上に関するものと、精神上に関するものと二種あり。前者は調身法にして、後者は調心法なり。まず調身法はその宗の一、二の書によるに、静室を選び、飲食を節し、坐褥は厚く敷き、道場は清潔なるを要す。あるいは結跏跌坐し、あるいは半跏跌坐し、ひろく衣帯をつないで斉整ならしむべし。つぎに右の手を左の足上に安んじ、左の掌を右の掌上に安んじ、両手の大拇指相ささえて正身端坐し、左にそばだち右に傾き、前に窮まり後に仰ぐことを得ず、耳と肩と対し、鼻と臍と対せしむるを要す。舌は上腭に掛けて唇歯相着け、目はすべからく常に開くべし。鼻息かすかに通じ、身相すでに調うて、欠気一息、左右揺振して、兀々として端坐すべし。もし坐よりたたば、徐々として身を動かし、安然としてたつべし。軽躁の挙動をなすべからず。もし坐禅の時、身あるいは熱するがごとくあるいは寒きがごとく、あるいは堅きがごとく柔かなるがごとく、あるいは重きがごとく軽きがごときは、みな息の調わざるによる。故によろしくこれを調うべし。調息の法はしばらく口を開張し、長息なれば長に任せ、短息なれば短に任せ、漸々にこれを調うべしという。この調身法は心思を休息し、情意を鎮定するに欠くべからざるものあり。なかんずく坐禅に要するものは四囲境遇の事情なり。いやしくも心念を散乱する媒介となるものは、一切これを避けざるべからず。清潔静閑の境遇にあらざれば、打坐の地に適せず。故に緑水青山これ経行の所、谿辺樹下これ澄心の所なりという。禅寺の多く静閑の地にあるはこの故なり。つぎに調心法を考うるに、『普勧坐禅儀』にこのことを掲げて、「身相既に調ひ〔中略〕兀々として坐定まるときに、箇の不思量底を思量す。不思量底の思量如何、曰く非思量なり。」という。これ禅家の用語にして、普通に解し難しといえども、けだし一切の心思識量を超過して、悪を思わず善を思わず、迷悟生死を離却し、安住不動の地に体達し、もろもろの言論を絶したる境界をいうならん。その宗門の古人いえるあり、「妄息しては寂生し、寂生すれは知現し、知現すれは真見る」と。故にもし妄心を尽くさんと欲せば、必ず善悪の念慮を休止すべく、また必ず心思うところなく、身事とするところなく、一切放捨すべしとなすは、実に禅門調心の秘訣なり。これ禅宗に坐禅をもって安楽の法門にして、菩提を究尽する修証なりとなすゆえんなり。

       第二八節 悟入の状態

 つぎに坐禅によりて実証するところの状況を述ぶるに、悟道の最上に達するには、無階段の中に自ら階段あり。これを天台の空仮中三諦の上に考うれば、最初に差別実有の妄見を破して、一切皆空無一物の平等界を観じ、つぎに平等海上に差別の諸象の仮立するを見、つぎに平等と差別と相合して、有にあらず空にあらず、非有にもあらず、非空にもあらざる中道の真理に体達するがごとし。今禅門にて唱うるところによるに、人にして坐禅参禅の功積むときは、平生の心意識情すべて行われず、痴々黙々として、理尽き詞窮まり、一時に打失して気息もまたまさに絶せんとす。これ大道現前の時なり。この時に当たりて一念の異解を生ずることなく、一念の退意を生ずることなく、身心を放捨して一も求むるところなく、二乗の見現せば二乗の見に一任し、外道の見現せば外道の見に一任す。これ真ならずと知りてまたあえて怖れず。全身陥墜してあくまでその源を尽くし、殊更に心意を起こして取捨することを忌む。ただその中において一回放身捨命するを要す。すでにして時節到来すれば、忽然として落節して消息を知る。これを嶮崖手を撒じて、絶後に再びよみがえるという。たちまち一念子の間において、根源を知り得て、自性、他性、衆生性、煩悩性、菩提性、仏性ないし穢土浄土、一見に徹照して毫芒をとどめず、大事を了畢し生死を透脱すという。これいわゆる悟道の状態なり。果たしてしからば禅門の悟道はひとたびこの心を殺して、またこれを生かすがごとし。けだしそのこれを殺すは有限性心象を滅するをいい、そのこれを生かすは無限性意力を起こすをいうならん。また禅宗は自己の心性を証見して成仏することを勧むるをもって、師について教えを受くるを要せざるがごとしといえども、その証するところを試むるために、ときどき明師に参尋して、精進真修することを勧む。たとえ心性明らかにして、無差別の智を生ずるも、その智をもって差別の智をくらますことを恐る。あたかも鏡を磨するに、明体たちまち現前して、よく一切の物を分かつも、もし毫末も不分明のところあらば、これ明体すでに現ずといえども、余垢いまだ尽きず、磨跡なお存して真体を隔つるがごとし。故に証悟ののちといえども、決して已得の情を起こさず、休歇の心を生ぜず、ますます明師に参禅すべしと教ゆるなり。

       第二九節 悟後の階級

 かくのごとく禅宗において悟後ますます進修することを勧むるをもって、臨済も曹洞も共に悟後の状態を開示して、五位、四料簡等の名目あり。これ無方便中の方便、無階級中の階級なりとす。まず五位とは洞山和尚の設くるところにして、曹洞門下の唱うるところなり。すなわち正中偏、偏中正、正中来、兼中至、兼中到、これなり。この意義は禅門最極向上の玄意を五段に分かちて示したるものにして、到底言語をもって説明すべからずといえども、その門にて解するところによるに、正位は空なり、偏位は色(事相)なり、空色は真性の異名なり、自性の本体廓然清浄にして、物の名付くべきなし、強いて名付けて正という。自性体中差別の法に従って物として現ぜざるなし、強いて名付けて偏という。第一位正中偏とは、自性の本体平等坦々として、一物の面目を現ぜざるところに、朧然として万差の諸法を具し居るをいう。たとえば夜半に日中の状況を具し居るがごとし。故に洞山大師はこの趣を夜半正明ともいえり。けだし夜半かとすれば日中なりとの意なり。第二位偏中正とは、あたかも第一位正中偏の旨意を裏面より説きたるがごとくにして、偏位中に正位の理を具し居るをいう。たとえば日中に夜半の状況を具し居るがごとし。故に洞山大師はこの趣を天暁不露ともいえり。けだし暁かとすれば夜半なりとの意なり。第三位正中来とは、これ更に向上出身の一路にして、遠く言外に超出せる境遇なり。けだし従前の所得なおいまだ塵埃を出でず、この一路に至りて塵埃なきところにおいて始めて塵埃を出づ。これを無中に路あり塵埃を出づという。この上更に兼中至、兼中到の二位ありて、一位ごとに段階を進めて玄奥の旨を説く。しかして一位中に五位を具し、五位即一位にして、正偏兼中回互宛転を妙旨とす。要するにこれみな相対の天地を離れたる絶対関内の真景なれば、到底言思をもって議すべからず。ただ有力の士、自ら究決実証するより外なし。頌に曰く、「偏中帰してまさに幽玄を極む。正去り偏きたりて理事全し。すべからく知るべし、正位は言説にあらざることを。朕兆依稀として有縁に属す。兼至去来して妙有を興す。到兼なんぞ更に言詮を逐わん。出没あによく世界を談ぜんや。蕩蕩として依なく鳥道玄なり。」、もってその玄味の一斑を知るべし。つぎに臨済の四賓主、四料簡、四喝もみな悟後の状態を開示せるものなれば、曹洞の五位に異ならず。四賓主とは賓中主、主中賓、主中主、賓中賓、これなり。四料簡とは「ある時は奪人不奪境、ある時は奪境不奪人、ある時は人境倶奪、ある時は人境倶不奪。」、これなり。四喝とは「ある時の一喝は金剛王の宝剣のごとく、ある時の一喝は踞地金毛の獅子のごとく、ある時の一喝は探竿影草のごとく、ある時の一喝は一喝の用を作さず。」、これなり。頌に曰く、「一喝は賓主を分かち、照用一時に行ず。箇中の意を会得して、日午三更を打つ。」、その結句の意は自由自在なるをいう。また臨済には三玄三要の語あり。言思路絶す。これを玄といい、言思絶するところ分明に履践し、万象森羅歴々孤明なる、これを要という。およそ宗乗を演唱するには、一句語にすべからく三玄門を具すべく、一玄門にすべからく三要を具すべしという。その意もとより言語の沙汰にあらず。頌に曰く、「三玄三要事分かちがたし、意を得て言を忘ずれば道親しみやすし。一句明明として万象を該う、重陽九日菊花新なり。」と。またある頌に曰く、「句中透しがたしこれ三玄、一句該通す空劫の前、臨済の命根元と断ぜず、一条の紅線手中に牽く。」と。以上は臨済宗にて唱うるところなり。しかるにまた曹洞宗には身心脱落の名目あり。これ曹洞特有の宗趣にして、洞山の五位と表裏を相なす。その語シナにありて天童如浄、始めてこれを唱え、道元禅師これを受けてわが国に伝えり。浄和尚、一日後夜の坐禅に衆に示して曰く、参禅は身心脱落なりと。師聞きて忽然として大悟し、ただちに方丈に上がりて焼香せり。和尚問いて曰く、焼香の事作麼生。師曰く、身心脱落しきたれり。和尚曰く、身心脱落、脱落身心。師曰く、這箇はこれ暫時の伎倆なり。和尚みだりに某甲を印するなかれと。和尚曰く、われみだりに汝を印せず。師曰く、いかにこれみだりに印せざる底。和尚曰く、脱落身心。師礼拝せり。和尚曰く、脱落脱落と。これその名目の起源なり。今その意を案ずるに、自己を忘れ他己をほろぼし、自己の身心および他己の身心をして脱落せしめ、遍法界に自なく他なく、衆生なく仏なきに至り。しかしてそのところに山あり川あり、仏あり衆生ある妙味を現じ、七通八達無礙大自在の境界に至るをいう。故にこれを鳥の空中に飛び、魚の水中に行くにたとえて、鳥飛んで鳥のごとく、魚行って魚に似たりともいう。これを修証不二に配当すれば、身心は修証にして、脱落は不二なり。すでに修の外に証なければ、身心の外に脱落なし。身心即脱落にして、脱落即身心なり。要するにその妙旨、水を飲んで冷暖自知するにあるのみという。

       第三〇節 理致機関、向上の解釈

 以上、禅宗悟道の状態を略述したりといえども、更に理致、機関等の語意を説明せざるべからず。さきに述ぶるがごとく、禅宗は教外別伝、単伝心印の法なるも、見性の路上、種々の関門ありて、門なきところ更に門あり、路窮まるところ更に路ありて、心源至って深うしてかつ遠し。故をもってその路上生じてまた死し、死してまた蘇せざるべからず。もしわずかに一門を透過して自ら得たりとなすときは、祖庭なお天涯を隔つといいて、真正安楽の心地に至ることあたわず。もし果たして祖師最後の機縁をみんと欲せば、決して見性の一理に滞りて休止することなく、あるいは明師に参禅し、あるいは古人の公案について所得を決断するを要す。これにおいて理致、機関の別を生ず。すなわち見性所見の境界、これを理致という。しかるに見性の一理に執滞し、皮骨に粘着して、仏祖差別の妙処を徹証することあたわざる者あるをもって、これを救わんがために、あまた差別の言句を提起してこれを衝かしむ。これを機関という。上世は少しく機関を示して、多く理致をあらわしたりといえども、中古以来、人物邪曲にして途程に滞り、果証をむさぼるが故に、仮に関門を立てて所得を決断す。すなわち公案、これなり。なお関吏の真偽を審査して、のち入ることを許すがごとし。これいわゆる機関なり。故に見性の端的はみな理致なり。仏祖、多少難解の言句はみな機関なり。しかして理致、機関、もとこれ一致となす。しかるに更にこの上に向上出身の一路あり。これを祖師不伝の一著という。あるいは向上の一路千聖不伝という。これ禅宗の諸宗に冠たるゆえんなりとなす。しかして一千七百則の公案のごときみなこの消息なりとなす。故に曰く、公案を理会してもって是となすなかれ、公案上に向かいてこれを求めば、「遠にして遠なり。」と。その玄境の状態もとより言語をもって開示すべからずといえども、大灯国師の偈に曰く、「一回雲関を透過しおわって、南北東西活路通ず。夕処朝遊賓主没し、脚頭脚底清風を起こす。」、また曰く、「雲関を透過して旧路なし。青天白日これ家山、機輪通変人到りがたし。金色の頭陀手を拱して還る。」、もってその一斑をみるべし。

       第三一節 正念相続の必要

 すでに悟道の最上に達し、向上の一著を識得したる上は、またすべからく履践分明ならざるべからず。これを正念相続という。達磨曰く、明道の者は多く、行道の者は少なしと。洞山曰く、相続また大いに難しと。もし履践明白ならずんば、大機大用を発することあたわず。故にすでに向上の旨趣を知りたる上は、実践力行最も肝要となす。正宗を扶起し、正眼を流通するものは、すべて斯中にありという。またあまたの関門をとおり、見性の真源に達したるのちも、なお師承を捨てて自ら得たりと住著すべからず。けだし師承を貴ばず、自悟自見もって己が智分をほしいままにするときは、これなお外道の一種にして、所見いまだ妙を尽くさず、故に師承のこと最も肝要となす。また仏祖伝付するところの大因縁を徹証したる上は、祖恩に報ずることを思わざるべからず。これを報恩という。その他、悟後の処世の方法について論ずべきことなお多しといえども、そのことたる世間道に属するをもって次段に譲る。

 

     第六段 禅宗各論 第二

       第三二節 禅宗の世間道

 前段において禅宗の出世間道の大要を述べたれば、これよりその宗の世間に対する行法規則を述べざるべからず。禅宗は参禅修定、もって真如本来の面目を開現するを目的とする以上は、出世間厭世の一方に偏し、更に修身斉家、社会の盛衰、国家の興亡を顧みざるもののごとしといえども、無差別中に差別を見、空中に有を存し、真如界中に万有を開くは、仏教の妙理にして、禅宗あにひとりこの理に基づかざるの道理あらんや。故に教外別伝のうち自ら教内を捨てず、不立文字の中におのずから文字を存し、無差別窮まりて差別を見、出世間極まりて世間を生じ、心内に向かいて開きたる真月の光は、顧みて世間を照らし、一身もこれによりて修まり、一家もこれによりてととのえ、一国もこれによりて安きを得べし。その始めて悟道に向かうに当たりては、その目的自ら真楽を得るにあれば、自利の行為にして、更に利他を知らざるもののごとしといえども、悟後顧みて世間に対すれば、一言一行の葉上に、慈悲博愛の甘露を浮かべざるなし。けだし仏教には智慧門、慈悲門の二種ありて、仏果に向かいて進む方は智慧門に属し、仏果に達して世間を顧みるに至れば慈悲門を生ず。また智の上に根本智、後得智の二種を分かち、真如の理を証見する方を根本智といい、すでにこれを証見して差別の衆生界を照らすに至れば、これを後得智という。後得智は衆生を化育する大悲なり。仏教中、大乗諸宗は一としてこの慈悲門を唱えざるはなし。禅宗もまたこの慈悲門によりて世門を利益することを説く。今、左に禅門の世間道を説明せんとす。

       第三三節 威儀行相

 前段に述ぶるがごとく、禅宗は悟道ののち正念相続するを貴び、また威儀行相を貴ぶ。正念相続すれば威儀自ら備わるをもって、殊勝を求めずして、殊勝自ら至るという。しかるに禅門中に誤りて儀相をもって細行とし、不羈をもって脱落とする者あるに至りては、法身を壊滅し、道情を打失し、仏法の威徳、一時に絶し、僧道の行儀、地を払うて尽くるに至る。けだし禅家にて用うるところの活脱、灑落、脱落等の語は、大いに通俗の語とその意を異にす。その宗の古徳の言に活人を死尽して始めて活人をみる。活処を得んと欲せば、すべからく死処に向かいて求むべしとありて、正念相続していよいよ進みいよいよ努め、その極、縦横与奪自在放行するに至り、瓦礫光を生じ、乾坤色を失す、このうち仏法なおなし、なんぞ世間あらんや。身心なお忘る、なんぞ儀相を見ん。かくのごとき時節に参得すれば、これを活脱の境界、蕩々自在、灑々落々地という。故に学者儀相にかかわらずとは、正念を失わざらんがためなり。至人は儀相なしとは、正念現前して儀相を忘るるをいうなり。果たしてしからば禅門にありても、修身道徳は悟道者に自然に具備すべきものなり。かつその門に入るものは、まず初めに決定堅固の心を起こし、大誓願を発するを要す。すなわち見性大徹せずんば、畢竟して休まず、一念の退意を生ぜず、卑劣の心を生じて宗風を辱めず、不実心をはさみて人情に貪著せず等と誓いきたりて、勇進力行するを要するなり。果たしてしからば一身の道徳は悟道の前後を問わず、必ず守らざるべからず。

       第三四節 慈悲博愛

 また禅道を修むるものは、社会に対して慈善博愛を本旨とするを要す。すでに前段に述ぶるがごとく、見性悟道の士は正宗を弘め、衆生を度せざるべからず。すなわち広く世間を利益して、菩薩行を起こさざるべからず。もし見性の一理に滞りて、菩薩行を起こさざるときは、たとえ証悟ありともなんの用をなさんや。かつそれ見性の真源に徹して、いわゆる活脱自在、あるいは身心脱落の境界に達すれば、修証不二、動静不二、迷悟不二、苦楽不二、生仏不二の境界に至るべし。すでにここに至れば、なんぞ自身にいとうところあらんや、また求むるところあらんや。すでに求むるところなくんば、なんぞ自身に楽しむところあらんや。すでに自身において楽しむところなし。故にただ衆生を度するをもって楽とし、すでに自身において行うところなし。故にただ世間を利するをもって行となす。これにおいて大慈大悲をもってあまねく世間衆生を利益せんことを求むるに至る。しかしてその利生には、大なるものあり小なるものあり、有形あり無形ありて、一句一偈の法をも布施すべし、一銭一糸の財をも布施すべし。治生産業もとより布施にあらざるなしと説ききたりて、一切の善心善行はみな悟道の上に成立することを示すなり。また初めて禅門に入るものも、前節に述ぶるがごとく、一大誓願を発するを要す。すなわち見性もし徹せば、永く菩薩行を起こすべし。畢竟して一切衆生を度すべしと誓うを要するなり。およそ修行の正路は発願を本となし、願力は利他を本となす。故に仏教中大乗は自利利他兼行を目的とし、その志望極めて大なり。今、禅宗も大乗宗なれば、利他もとよりその目的とするところなり。『興禅護国論』にも「外は律儀にして非を防ぎ内は慈悲にして他を利す之を禅宗と謂ふ」とあり。故に修禅学道の士は利他博愛の目的たることを忘るべからず。

       第三五節 懺悔受戒

 前すでに述ぶるがごとく、禅家は三界唯一心の理に基づき、本来無一物の論を唱うるも、あえて差別相対の諸象を無とするにあらず、三界六道の生死を説かざるにあらず。故に一方に頓悟頓入の門あれば、他方に漸進漸入の法なかるべからず。しかして人の機類同じからざれば、おのおのその力に応じてその門をえらばざるべからず。これ仏教の応病与薬の法たるゆえんなり。これをもって禅宗は単伝仏心の宗門なるも、三宝を奉敬し、諸仏に帰依し、戒法を修習することを勧むるなり。曹洞教会にて用うるところの『修証義』によるに、「今の世に因果を知らず、業報を明らめず、三世を知らず、善悪を弁へざる邪見の党侶には群すべからず。」という。また懺悔滅罪の功徳を説きて、「此の如く懺悔すれば、必ず仏祖の冥助あるなり。心念身儀発露白仏すべし。発露の力、罪根をして銷殞せしむるなり。」という。また受戒の必要を述べて、「深く仏法僧の三宝を敬ひ奉るべし。生を易へ身を易へても、三宝を供養し敬ひ奉らんことを願ふべし。」といい、あるいは「衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る。」とも、また「受戒するが如きは、三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提、金剛不壊の仏果を証するなり。」ともいう。故に禅宗教会にては、あるいは種々の戒法を持たしめ、あるいは種々の仏体を念ぜしむるあり。これ禅門の本旨にあらずして、随機開導の方便なること明らかなれども、修証もと不二なれば、方便すなわち真実なり。けだし仏教の諸教に冠絶するゆえんは、また全くここにあり。これ余が仏教を評して、表裏両面智情兼備の宗教というゆえんにして、仏教中いずれの宗派も、みなこの二様の関係を具有し、禅宗にも自然にその表裏に真実、方便の二門を開くに至るゆえんなり。

       第三六節 行持報恩

 およそ悟道の士の社会に対して慈悲博愛を本とし、一身に対して受戒懺悔を要することは、今述ぶるがごとし。その外に報恩の義務として、世間に対して尽くさざるべからざるものあり。すでに道元禅師の語中にも、「今の見仏聞法は仏祖面々の行持より来れる慈恩なり。仏祖若し単伝せずんば奈何にしてか今日に至らん。一句の恩尚ほ報謝すべし、一法の恩尚ほ報謝すべし。況んや正法眼蔵無上大法の大恩之を報謝せざらんや」云々、あるいは「畜類猶ほ恩を報ず、人類争か恩を知らざらん」云々とありて、報恩の大切なることを示せり。しかしてその報恩の業務は日々の行持を守るにありとす、あるいは自ら証得するところの正宗を伝えて将来に流布し、仏祖の慧日をして断絶せざらしむるにありとす。果たしてしからば世間に対する一切の善行、みな報恩の業務となすも、あに不可ならんや。すなわち身を修め家を斉え、天下国家を平冶するも、兵力を養い殖産を興すも、みな仏祖に対する報恩ならざるなしというべし。栄西禅師の語にも(『興禅護国論』)、「四時の坐禅懈怠なく、念々国恩に報じ、行々宝筭を祝すべし、寔に帝業久く栄え、法灯遠く耀んが為めの故なり」と。これ実に愛国尊王の至れるものなり。けだし仏教は慈悲を本とし、僧侶は利生を本とするものなれば、いずれの宗派にありても、一方に出世間道を説くと同時に、他方に世間道を説き、仏教と国家と共に隆盛ならんことを望むものなり。禅宗またこの二道を並説す。これその仏教たるゆえんにして、またその説の完備せるゆえんなり。

 

     第七段 結 論

       第三七節 全論の帰結

 上来段を重ねて論述しきたるものを一括していうときは、第一段に宇宙万有の霊妙不可思議なることを述べ、第二段にその理を哲学に考え、第三段にその理を仏教に照らし、仏教は不可思議の玄門を開きて、霊妙の光景を示すものなることを述べ、これより禅宗の真如の本境に体達する順序階梯、ならびに社会国家に及ぼせる関係影響を説明せんと欲して、第四段に禅宗総論を掲げ、第五段に禅宗各論中、出世間道を掲げ、第六段に世間道を掲げてここに至れり。これを要するに禅宗はただちに霊源にさかのぼりて妙泉を汲み、自ら心天をのぞきて真月を見るものというべし。けだしその光景は、言わんと欲すれば言窮まり、慮らんと欲すれば慮絶し、霊妙共に極まりて無霊妙、箇裏またおのずから霊妙の風光を現ずるあり。この界内に単刀直入するもの、これ禅宗なり。しかして関中の風月を序して五位、四料簡、身心脱落等の提唱を立つれども、その趣はもとより門外の人のうかがい知るところにあらず。しかれどもその理は華天〔華厳、天台〕一乗諸宗の証明するところにして、また泰西諸学の論定するところなれば、あにあえて疑いをいれんや。そもそも禅宗のいわゆる妙心は真如なり、仏教のいわゆる真如は理想なり、哲学のいわゆる理想は宇宙万有の本源実体なり。すなわち第二段において説明せるがごとし。これをわが心田の上に開ききたりて一宗を建立せるは、禅宗の世界万国の諸教中にありて一種別伝の宗旨なるゆえんなり。これ実に不可思議中の霊妙、霊妙中の不可思議宗というべし。これを要するに、華厳、天台等の理宗はその霊妙を智の上に感じ、浄土門中真宗はこれを情の上に感じ、禅宗はこれを意の上に感じ、また浄土宗は

  心像 智 意識内 法相、天台、華厳、真言

       意識外 日蓮宗

     情 意識内 真宗

       意識外 浄土宗

     意 意識内 禅宗

       意識外 禅宗

これを意識外に感じ、日蓮宗は同じくこれを意識外に感じ、禅宗はこれを意識内外に感ずるなり。

 これただ外見一部分の比較のみ。もし各宗の極意に入りてこれをみれば、諸説みな一味同感の仏説なるを知るべし。あに意識の内外を論ぜんや。果たしてしからば仏教は不可思議の太陽にして、霊妙の光を八方上下に放つものなり。余がこれを神州三霊の一となすも道理ありというべし。

       第三八節 禅宗の長所

 今この一論を結ぶに当たり、禅宗の他宗に比して有するところの長所および短所あることを論じ、かつ今日の余弊を述べて、仰ぎて大聖釈迦牟尼世尊の蓮台の下に訴うるところあらんとす。まずその長所を挙ぐれば、その門にて養成せられたるものは、

  第一に、識見大いに高く、細事に拘泥せず、釈迦なんびとぞ、われなんびとぞの思想を有すること(智)。

  第二に、風流殊勝の趣向に富み、私欲の情念を離れ、超然脱俗の風あること(情)。

  第三に、胆力を練成して、心意を不動の地に置くこと(意)。

 これその長所なると同時にまたその短所なり。識見あまり高きがために、順序階級をふみて学業を修習するに難く、情念至って淡薄なるがために、国を愛し人を愛するの熱血に乏しく、胆力あまり剛大なるがために、放任に過ぐる等の傾向なきにあらず。けだし一長一短は人の免れざるところなりといえども、禅門にして以上の短所あるがごときは、決してその真の短所にあらずして、その弊なること明らかなり。換言すればいまだ禅道を透徹せざるより生ずる誤謬なり。もし真に大悟の地に達すれば、なんぞかくのごとき短所あらんや。たとえば前段に述ぶるところの禅家の活脱を誤りて放蕩となすがごときは、これもとよりその短所にあらずして誤解なり。故にその門にあるものはすべからく誤解の弊を矯正して、真正の面目を発露せざるべけんや。

       第三九節 禅宗の短所

 また世間一般に唱うるところの禅門の短所は、第一に遁世脱俗の風に偏して、社会競争の今日に適せざること、第二に各自の心体上に宗教を立つるをもって、これによりて人心の結合をはかるべからざること、これなり。その第一項の意は、禅宗は各自の心内に向かって悟道を求むるものなれば、自然に厭世の風に傾くをいうなり。しかれども前段第三二節に述ぶるがごとく、これ禅門の表面をみて裏面を知らざる論なり。もし裏面に入りてこれをみれば、厭世の法一変して愛世となるべし。あに遁世に偏倚する宗旨ならんや。また第二項の意は、各自の心性は真如に到達する関門なれば、悟道の目的は自己の上にあり、更に自己を離れて一物の待つべきなし、故にその教たるや各自孤立の風あるを免れず。これに反して浄土門諸宗のごときは、阿弥陀仏一体を専念することを勧むるをもって、衆人の心を一結するに力ありとす。ヤソ教も天神一体を立つるをもって、また民心を結合するに功あるべし。しかれども、そのこれを結合する道理においては、禅門も余宗も決して異なることなし。ただその結合の方法同じからざるのみ。すなわち浄土門諸宗およびヤソ教は外界すなわち客観上においてこれを結合し、禅宗は心内すなわち主観上においてこれを結合するの異同あり。

 たとえば上の図について、仮にイロハニホを個人的心性に比し、甲を客観上の神仏の本体に比し、乙を主観上の心性の本体に比して考うべし。禅宗にて唱うる心性の本体は真如の理体なれば、衆人の心の合して一体となりたるものをいう。故にその体は主観上において人心を結合するものというべし。果たしてしからばこの二条もまた決して禅宗の短所にあらざるなり。もしそれこれをその宗の短所と仮定するも、その短所のかえって長所なるを知るべし。けだし宗教に遁世の風あるは、宗教の宗教たる真面目にしてその社会を裨益するところあるも、また主としてこの点にあり、数日間社会に立って人と共に競争してその心思を労すれば、一日閑処について精神を休息するを要す。あたかも昼間労働すれば、夜間眠息を要するがごとし。これ民間に寺院の設けあるゆえんにして、また教会の定日あるゆえんなり。故に教会日には衆人男女老少を問わず、寺院に参集して数日間の苦心を医し、精神を別世界に遊ばせて、翌日より再び社会に出でて衆と共に争わざるべからず。果たしてしからば宗教に遁世の風あるは、かえって社会に益あるゆえんなり。また禅宗は主観上に目的を立てて、人をして孤立せしむる風ありとするも、およそ人は他に依頼し過ぐる弊あるを免れざれば、独立の気風を養成するを肝要とす。この気風を養成するには、各自の心中に不羈自由の別天地を開き、無限性活動的の大意力を発せしめざるべからず。これ禅宗の本色にして、その孤立の風あるは独立の風あるゆえんなり。故に余曰く、禅宗の短所はかえってその長所なりと。

       第四〇節 禅門の一問題

 更に禅宗の上に起こる一問題あり。禅宗はその理その味共に霊妙なるも、これを実際に弘通するに当たりて、愚俗をしてこの宗に入らしむること難し、いかにしてこれを通俗に適用せんや。およそ人に賢愚の別ある以上は、高尚なる教理は愚者の耳に入らず、浅近の宗旨は智者の心に感ぜず、一方に適すれば他方に適せざるは勢いのやむべからざるところなり。そもそも仏教はあまたの法流あるも、流れて根本性海に入れば、ひとしく一味の智水なる、あたかも百川流れて大海に入れば一水となるがごとし。しかして各宗その門内にありてこれをみれば、自宗ひとり真実にして、他はみな方便なるがごとくみゆるをもって、禅家にては釈尊一代の説教は、要するに仏心を開示し、群生をして悟入せしむるにあり。ただ人の機類一ならざるがために、やむをえず三乗十二分教を説くも、これみな方便なりという。今その門の人の他教を評するところを挙ぐれば、『無尽灯論』に、「教乗は偏に途路の親疎を論じ、禅門は頓に途路の超過を示す。教乗は遥に成仏の妙境を説き、禅門は直ちに成仏の端的を試む。譬へば貧家の財宝を論ずるかが如し。論じ得て妙を尽くすと雖も、自ら用ふること能はず、何んの益する所かあらん。譬へば庶人の国王の尊貴を論ずるが如し。論じ得て妙を尽すと雖も、依然として是れ庶人なるのみ。若し国王の尊貴を望み、富家の財宝を羨まんより、自ら獲得して好まんには如かず。」という。これ他宗は理論にして、禅宗は実際なることを述ぶるなり。また浄土門諸宗にて難易二道を分かち、禅宗をもって難行道の一種となすに対して、禅宗の論ずるところをみるに、おおよそ難行、易行には諸宗通じて二義あり。方便門中には念仏をもって易行となす、諸余の行業は心専精ならざるが故なり、実乗門中には見性をもって易行となす、一切の仏法みなこれより出づるが故なりという。その意、差別門にありては浄土門を易行とし、平等門にありては禅宗を易行とするなり。これ禅宗は仏教の理論をただちに実行上に応用したるによる。その理論宗に対して易行なるも、なお難行たるを免れず。故に禅宗にては前段第三五節に述ぶるがごとく、修証不二の道理により、通俗に対しては懺悔受戒、行持報恩の仏道修行に欠くべからざることを示せり。これにおいて賢愚二種の人をその門内にいるることを得るに至る。けだし仏教は表裏二面を兼備したる宗教なれば、表面に基づきて立てたる宗派は、裏面を開ききたりて始めて全きを得、裏面に基づきて起こしたる宗派は、表面をあわせきたりて始めて完きを得。故に真宗のごとき差別門に基づきて説きたるものも、その裏面に平等の理を存し、禅宗のごとき平等門を開きて出でたるものも、その裏面に差別の法を捨てず、いずれの宗派もみな完全円満を得るは仏教の特性にして、その法の諸教に冠絶せるゆえんなり。

       第四一節 仏教の盛衰

 かくのごとく論じきたらば、仏教中の諸宗諸派は、いずれも優劣長短なきに似たるも、またおのずから可否得失の存するあり。しかしてその得失は教理の上にあらずして応用の上にあり、応用の上にあらずして時と人との方にあり。すなわち禅宗の相応する時機と、他宗の相応する時機あり。見性悟道の適合する人と、適合せざる人あり。これにおいて優劣を生ず。しかれどももし仮に各宗共に表裏両門を開きて教化するにおいては、時と人とを選ばず、同様に適応することを得ると定むるも、なお大いに可否得失の論ずべきものあり。すなわち布教の方法のそのよろしきを得ると得ざると、ならびに伝道の僧侶のその人を得ると得ざるとによりて、盛衰の関係を生ずるなり。これ実に各宗興廃の起因せる一大事にして、諸宗の長短もまた多くこれによりて起こる。畢竟するに、仏教今日の衰頽をきたせるは、その原因これを外にしては布教そのものの上にあり、これを内にしては僧侶その人の上にあり。各宗の振るわざるも、その原因また全くここにあり。これ余が天下にさきだちて大声一呼、仏教の改良を唱道したるゆえんなり。果たしてしからばこれを改良するも、仏教そのものの上にあらずして、僧侶その人の上にあり。もしその人にして智徳ならび進み、宗教家として恥じざる人物を得るに至らば、布教の方法もそのよろしきを得、伝道の結果もその実を挙げん。わが輩なんぞ仏教の興盛せざるを憂えんや、なんぞ各宗の振起せざるを慨せんや。願わくば今よりしてのち、各宗各派の優劣は、理論の上に問わずして実際の上に考え、法律の上に照らさずして道徳の上に尋ね、他人の上に責めずして自己の上に顧みんことを。かくのごとくにして始めて仏教に対して本分を尽くし、仏祖に対して恩義を報ずることを得べく、かくのごとくにして始めて仏門内の忠臣孝子と名付くるを得べし。しかるに余局外にありて禅林今日の光景をうかがうに、凄風蕭雨、仙源一面、やや荒涼の色あるを覚う。顧みて門外、明治の新天地を望めば、光風霽日、満目朗然たるを見る。なんぞ内外風光の異なること、かくのごとくはなはだしきや。そもそも禅門は、世界万国にいまだその比をみざる一種霊妙の宗旨にして、今この寂寥たる光景に接す。いやしくも宗教に志あるもの、あに感慨に堪うべけんや。そのいわゆる千聖不伝の向上の一路、今やまさに深雪の中に埋没して世に知られざらんとす。ああ、また遺憾ならずや。禅林深きところ、なんぞ一人の幽谷より出できたりて、喬木枝上回春の一声を発せざるや。これ余が、今日仏心宗の光景を観察して黙止するに忍びず、あえて自ら三〇〇〇年のいにしえにさかのぼり、霊山会上拈華の座に向かいて訴うるところあらんとするゆえんなり。