円了漫録

遺言予告


それ人生は無常なり、  老少は不定なり、 人だれか何歳まで存命するを保すべけんや。 まして余のごとき春夏秋冬、 東奔西走するものにおいてをや。 そのいつ山に死するか海にたおるるかを知るべからず。  ゆえに、 余は今より毎年遺言状を作りて、 不時の備えとなさんとす。 けだし、 世間の慣例として遺言状は秘して人に示さざるものなるも、 余はこれを秘するの必要を認めず、 なるべく広く知人に示して、 余が意の存するところを知らしめんとす。  これ公開遺言状なり。 今ここに「漫録」を印刷するに当たり、その巻首にこれを登載す。 もし広くいえば、この「漫録」全部、 すなわち余が遺言状なり。 今、 ただその中に掲げざる特殊の事項を、  ここに別記するのみ。

一、 余死するも、 葬式の時日を友人に報告し、 または新聞に広告するに及ばず。 葬式すみたる後にて新聞に広告すれば足れりとす。  これ、 人々の多忙なるに、 貴重の時日を割きて会葬せらるるを恐れてなり。

一、 余死するも、 棺前の通夜は衛生に害あれば無用のことなり。一、 葬式は質素を旨とし、 できうるだけ費用を節減すべし。

一、 香典、 贈り物等は一切謝絶すべし。

一、 遺族は余が著書の収益によりてカッ カツロを糊することを得る見込みなれば、 余が死後、 決して哀れを人に請うがごときことをなすべからず。

一、  学校(哲学館および京北中学校)と井上家とはもとより別物にして、 両者の資産は余が手許に保管せる学校創立以来の帳癖に判然明記しあれば、 これに照らして処理し、 決して二者を混同すべからず。

一、 学校は余が社会国家に対する事業として着手せしものなれば、 井上家の子孫をしてこれを相続せしめ、またはこれに関係せしむる道理なく、 また必要なし。  ゆえに、 余の死したる日には、  学校に関する諸事は細大となく、  すべて左の方法によりて議定し、  および決行すべし。

余が死後二週間以内に、 哲学館および京北中学校教職員、 哲学館講師および特別館賓の総会を開き、 左の評議員二十名を推選すべし。

哲学館得業(受験得業および認定得業)中より

五名同講師(称号規程の講師および大学規程の学士)中より

名哲学館および京北中学校教師中より 二名

哲学館特別館賓中より 二名

同    館賓中より 二名

同    館友中より 二名

哲学館幹事および京北中学校幹事 二名都合二十名(講師中には名誉講師をも含む)

この二十名の評議員に学校管理の全権を一任すべし。 よって、諸事みなその決議によりて定むべし。右の評議の顧問は加藤弘之、 石黒忠悪両男爵に依頼すべし。

 一、 今回新たに着手せる修身教会の事業は哲学館に付帯せるものなれば、 前条の評議の範囲内にあるものとみなすべし。

一、 現今、 余の居住せる家屋は全く余の自費をもって建てたるものなれば、 永く井上家の財産となるはもちろんなれども、 敷地は学校の所有なれば、 余が死すると同時に学校へ返地するはずなるも、 家族の同家に住する間は現今のまま井上家に使用せしむべし(その坪数はおよそ百五十坪くらいなり)。

以上の諸条中にもれたること、  および今後修正を要することを思い出だしたる場合には、 後日の「漫録」

発行の節記載すべし。

明治三十六年十一月十五日 井    上    円    了

左に、 参考のために哲学館創立以来五十円以上の寄付者を掲ぐ。  これみな特別館賓なり。団体よりの寄付および予約未納の分はこれを除く。

特別館賓一覧

金六百四十円金六百円

金三百九十円金三百円

金百五十円

 尾張国丹羽郡東野村下総国成田町

越後国三島郡浦村

東京市麹町区上六番町越後国中頸城郡大洛村

森    田    徳太郎石    川    照    勤高    橋    九    郎大    橋    新太郎山    田    辰    治

金百三十円

播磨国印南郡伊保村伊    藤    長次郎

金百二十円

盛岡市仙北町 佐    藤    徳    清

金百十円

 東京市本郷区弓町一丁目渡    辺    真一郎

 金百五円 長野市大門町 宮    下    甚十郎

金百円 東京市赤坂区氷川町 (故)伯爵 安    芳

金六十五円 越後国北魚沼郡下条村 酒    井    文    吉

金六十円 越後国北魚沼郡下条村 関    矢    橘太郎

 金六十円 東京市下谷区根津須賀町(故)  井    上    貞    兼

 金五十円 武蔵国川崎大師河原 (故)  深    瀬    隆    健

金五十円金五十円金五十円金五十円金五十円金五十円

越後国中魚沼郡鐙坂村信濃国上水内郡柳原村越後国三島郡才津村 新潟市本八間町越後国三島郡与板町東京市浅草区老松町小    山    伝    吉草    間    愛三郎遠 六太郎白    勢    春輪    潤太郎小    林    清一郎

(図書購入費および柔道道場建築費中への寄付はこの表中に加算せず)

以上は明治三十六年十月= 十一日までの分なり。

 


円了漫録


左の「漫録」は、 平素目に触れ、 心に浮かびたる種々雑多の事柄を、  筆に任せて集録したるものなり。  ゆえに、  これを題して「円了漫録」という。 その書たる、 もとより世道人心になんらの碑補するところなかるべきも、 余が自伝の一小話なれば、  これを刻して知人に示す。

第一話    貧国強兵

本年(明治三十五年)二月、 播州〔兵庫県〕行の途中、 たまたま赤松連城翁に会せり。 翁曰く、「西洋諸国は富国強兵をもって世界に鳴る。  わが国も明治維新以来、 富国強兵を予期して今日に至る。 しかしてこの三十余年間において、 果たして最初の目的を達し得たりやいかんと考うるに、 強兵の方は、 先年の日清戦争および一昨年のシナ事件の成績に徴するに、 西洋諸国に対して篭も遜色あるを見ず。  ただ富国の一段にいたりては、 はるかに西洋の後に睦若たるを覚ゆ。  ゆえに、 現今の日本は富国強兵の国にあらずして、 貧国強兵の国なりというべし」と。 余、 大いにその言に感じ、 さらに東洋諸邦をみるに、  シナは兵力極めて弱きも、 その人民には富裕なるもの多く、 全国の金力を較するときは、  わが国の及ぶところにあらず。  されば、  その国を称して富国弱兵の国というべし。  これに反して、 朝鮮は国貧にして兵また弱し。 よろしくこれを貧国弱兵の国と名づくべし。  ここにおいて、 余は仏書のいわゆる四句分別を大成するを得たり。

果たしてしからば、 わが国の将来は、 もっぱら貧国を転じて富国となさんことを望まざるべからず。 しかしてその任はだれの上に属するや。 余はこれに答えて、 今日の青年の上にありといわんとす。  ゆえに、 青年の将来は任重くして道遠しといわざるべからず。 しかるに近来、 青年翡の気力も風儀もともに堕落せるは、 実に国家のために慨すべきの至りなり。


第二話     貧国の原因

シナはなにゆえに兵弱きもよく国を富まし得るや、 わが国はなにゆえに兵強きも国なお貧なるや。  その原因を知ること決して難からず。 もし一言をもってこれを示せば、  シナ人は忍耐辛抱の力に富み、 日本人はこれを欠くによる。 今日文明国をもって称せらるる諸国中、 日本人ほど一時に性急にして、 長く耐え忍ぶことあたわざるものは少なかるべし。  すべてなにごとも倦みやすく飽きやすく、 ために成功を見ること難き風あり。 ゆえに、 余は一謎を案出し得たり。日本人の気風と掛けてなんと解く。貧乏人の嫁入りと解く。

その心は長持がない。かかる長持ちのない気風にては、 到底貧国を転じて富国となすことあたわざるべし。  ゆえに、 まずこの気風を矯正せざるべからず。

 

第三話    気風の養成

余、  かつて日本人の気風を桜花に比するは、 教育上害ありて益なし、 むしろ梅花と牡丹とをもっ てその気風を養成するにしかずと論ぜり。  その後、 川端玉章翁に梅花と牡丹とのまざりたる幅面の揮奄を請い、  このごろ出来上がりたれば、 今後はこの図を講堂に掲げて示教せんと欲す。 これ、 気風養成の一案なり。

 

第四話 詩歌の改良

わが国、 いにしえより朗吟しきたれる詩歌は、 花鳥風月を詠ずるもの多く、 世の風教に関するもの少なく、またま道歌のごときものあるも、 人心を鼓舞して勇敢進取の気象を起こさしむるものは、 千万の詩歌中    つも見ることを得ざるなり。  これ、 古代はかくのごとき気象を喚起する必要なきによる。 しかるに、 今日は大いにその必要あれば、 今より詩歌の改良を実行せざるべからず。 今日の詩人・歌人たるもの、 請う、 活眼を開きて青年の先導者となれ。 世界の大勢、 もはや退守的厭世的詩歌を弄するときにあらざるなり。  退守的厭世的、 必ずしも排斥すべきにあらず。 人、 もし世間において不平不満にたえざる場合には、 世外に向かいてその心を放つも、  また心病を医する一方便なりといえども、  その中にいくぶんの活動的精神を包含せしめざるべからず。  これ、  ひとり詩歌において要するのみならず、 音楽、 絵画におけるもまたしかり。 なかにつきて、 宗教ことにしかりとす。


第五話    宗教の活動

人、 仏教を見ればたちまち斥して厭世教となすも、 厭世といい愛世といい、 ただ宗教そのものの進路の方向いかんにあるのみ。  これを船行に比すれば、 かじの取り方にあり。 しかしてその進向の右すべきか左すべきかは、時勢の風潮に考えて定めざるべからず。  これをもって、 従来厭世的の方向を取りつつありし仏教が、 今より世間的に進向するを要するなり。 余がいわゆる活仏教とはこれをいうのみ。 近来、 世上に旧仏教を排し、 新仏教をしてこれに代わらしめんとする声ようやく高きも、 余はこれとややその意見を異にし、 今日の急務は旧仏教を廃して新仏教を立てんよりは、 むしろ死仏教を変じて活仏教となすにありという。 もし新仏教の主唱者が、 そのいわゆる活仏教はすなわち新仏教なりといわば、 余あえて弁解するを要せずといえども、 目今の新仏教主義の人は、多く重きを理論の上に置き、 従来の各宗各派の教理を根本より改変せんとする傾向あり。 しかるに、 余は重きを実際の上に置き、 各宗各派の教理はその祖師開山の定むるところに一任し、 実際上厭世的宗風を一変して世間的となし、 もってこれをして社会に活動せしめんとするにあり。 しかしてその世間的は、 各宗各派の教理のもとより是認するところなり。 例えば、 真宗のごときは真俗二諦の両脚の上に立てたる宗旨にして、 その俗諦はすなわち世間道なり。 ほかの諸宗も同じく世間と出世間との二門を兼備せるものなれば、 今より後は世間門を表に開きて、 あくまで競争場裏に勇進活動せざるべからざるなり。


第六話    人生非夢

仏者、 ややすれば人生の無常を観じて夢なりとなすも、 余は人生夢にあらずという。 その故は、  人生もし真に夢ならば、 人の一生の間に聞くところの仏法も、 唱うるところの念仏も、 もとより夢ならざるべからず。 夢の仏法、 夢の念仏ならば、 成仏も往生もみな夢中の空想に帰しておわらんのみ。 果たしてしからば、 仏者が自ら人生を真夢となすは、 自家撞着の過失を免れざるべし。  ゆえに、 余は左のごとく記せり。

人生元非レ夢、 俗諦是仏門、 欲和戸 未来楽ー  先報二現世恩

(人生はもとより夢にあらず、 世俗の道理は仏の門。 未来の楽しみを得ようとするならば、 まず現世の恩に報いよ。)


第七話    悠長の学風

昔日は仏教のみ活動を欠けるにあらず、 すべてその当時の学問教育、一つとしてしからざるはなし。  ことに修学の方法にいたりては、 実に気楽と悠長とに驚かざるを得ず。 余、  かつて「経済弁」(一名「大学或問」)を一読せるに、 左のごとく記しおけり。

学校は文武を兼ね習わしむ。 武士の子、 八、 九、 十歳より学に入りて、 成りやすきことより教え、  手習いは一日に一字ずつ習わしむ。 十一、  二より経伝を読ましむ。  一日に一句ずつ教うべし。「大学之道在品四明徳一 在レ親レ民、 在レ止  至善ご(儒家のいう大学の教育目的は、 天賦の明徳を明らかにし、 民心に親しみ理解し、 至極の善に安住するにある。)この一章を四日に教う云云 。

この割合にて修学すれば、 千字文の習字だけに全く二年を費やし、「論語」の読修だけにおよそ十年を要するなり。  されば、 今日の尋常小学を卒業するに、 生涯を費やしてもなお足らざるべし。  かかる悠長気楽の風は、 今日幸いに修学上において一新し得たるも、 風俗習慣上にはなお依然として存するなり。 しかして、  これを一新するの任はだれの上にありや。 余は哲学者の上にありと信ず。


第八話    哲学者

世間にて哲学者を目するに、 世情に迂闊にして事理に通ぜざるものとなす。  ゆえに、 哲学を学ぶものは偏人か奇人か、  さなければ出家解脱を本とする宗教家に限るとなす。 余が初めて哲学館を創設したる際には、 全国中の奇人と呼ばれ、 偏人と目せられたるもの、 多く集まり来たりたるがごとし。  その中には哲学館を仏教学校とみなせしものあり。 若州〔福井県〕人にて歌原一次氏、 東京に遊学中、 たまたま哲学館の開校に会し、  これに入学し、その報を郷里に伝うるや、 父兄、 親戚の者大いに驚き、  一次は僧侶になりたるかといえりとぞ。  この一例によりても、 哲学館は坊主学校のごとくに誤解されたることあるを知るべし。  かかる誤解を正して哲学の実用を知らしむるは、 哲学館出身者の業務および言行に考うるよりほかなし。 しかるに、 その出身者の従事するところは、   半は教育、  一半は宗教にあるがごとし。  これ、 宗教と教育とは哲学の直接の応用たるによるといえども、 余は哲学の応用はそのほかになお多々あるを信ず。 政治も実業も美術も、 みなその応用の一っなり。  ことにわが国の実業につきて、 最も欠けたるものは哲学の応用なり。  その応用とは実業道徳の修養をいう。 今日わが国の実業家が、 実業に道徳は無用なるがごとく唱うるもの多きは、 実に嘆ずべきの至りなれば、 今後、 哲学館出身者は進みて実業界に入り、 実業道徳を奨励して、 実業と哲学との間に密接の関係あることを示されんことを望む。


第九話    哲学館教育の主義

貧国強兵を変じて富国強兵となすには、 実業を興さざるべからず。 実業を興すには、 道徳を進めざるべからず。 しかして実業道徳の根本は、 忍耐すなわち辛抱にほかならず。 けだし、 辛抱は実業の本となるのみならず、百事の基なれば、 哲学館教育の主義を定めて辛抱主義となさんとす。  すでに主義を定めたる上は、 まず余の身に行きて人に示さざるべからず。  ゆえに、 余は哲学館創立以来今日に至るまで、 己の身に修めたるものは辛抱の二字にほかならず。 願わくは、 本館に在学せるもの、 またよくこの二字を服贈して、 本館教育の主義を実行せられんことを。

 

第一 〇話    命

館生某、 余に請いて曰く、「親戚の者に初めて男子を得たるものあり。 先生、 よろしくその名を命ぜよ」と。余、 本人の家業を問えば、 実業家なりという。 よって、 実業道徳の本たる忍耐の字を取り、  これに命名して忍一郎となす。 某またその意を含みたる文句を、 額面および幅面にしたためられんことを請う。 余、 ただちに筆を執り「一忍勝一百徳」(一忍耐は百の徳にまさる)の五字、  および「百徳不>如二  忍」(百の徳も一忍耐におよばず)の六字を書してこれに与う。


一話    大黒神

世に大黒を呼びて福神となす。  みだりにこれに祈りて福を求めんとするものあるは、 愚の極みなり。 ある人、大黒をえがき、  その上に、

大墨 冗来称二福神一 祈之求福世間人、 福之所集君知否、 励業孜孜在苦身。

(大黒は元来福の神と称され、 これに祈って福を求めるのは世俗の人である。 福の集まる所は君知るやいなや、 仕事に励み、  おこたらずにつとめて身を苦しめるにあるのだ。)

と題せり。  これ、 大いに余が意を得たり。


二話    無

余、  北国巡回の節、「人は昼夜間断なく業務を勉励せざるべからず。 試みに万物を見よ。  太陽は毎日東より昇りて西に沈む。 天地開闊以来、 いまだ一日も休みたることなし。 また、 河は昼夜の別なく流動して、  一刻もとどまることなし。  いわんや万物の霊長たる人間においてをや」と説ききたりたれば、 真宗信者の一人ありて、「仏菩薩はいかん」と問えり。.余これに答えて曰く、「仏菩薩の孜々として倦まざるは言をまたず。  すなわち、「正信〔念仏〕偶    には「大悲無>倦常照>我』(仏菩薩の人の苦を救う心はうむことなく、  つねに我身を照らしたもう)とあり、 「〔浄土〕和讃」には「観音勢至もろともに、 慈光世界を照曜し、 有縁を度してしばらくも、 休息あることなかりけり」とあり。  この引文によりて知るべし」と。

 

第一三話 北国は仏教国なり

 

日本全国中、 仏教全盛の地は、  北国すなわち加能越〔石川    新洞・富山・福井県〕の右に出ずる所なかるべし。

余、  一昨年その地にありて目撃するに、 やや厭世病にかかるもののごとし。 例えば、 真宗にて教うるところの真俗二諦のごとき、  これを信ずるものみな真諦一方に傾き、 人生の苦患をいといて、 未来の安楽を望む風あり。  ゆえに、 余これを打破して曰く、「仏教は俗諦門において人となる道を教え、 真諦門において仏となる道を教う。しかるに、 俗諦を捨ててひとり真諦を取るがごときは    いまだ人となることを得ずして、 ただちに仏となることを望むがごとし。 我ら生まれて、 よく人となることを得ずば、 いずくんぞよく仏となるを得んや。 これを不具の仏法という。 不具の仏法は病的仏法にして、 健全の仏法にあらざるなり」と。


第一四話    合掌して人を迎う

北国は仏教国なり。 仏教国なるをもって、 人を迎うるに合掌の敬礼をもってす。 先年、 余が能州〔石川県〕を巡回せしとき、 洋服を着し長髪をこうむるにもかかわらず、 途中往々老婆が走り出でて、 余に向かいて合掌するを見る。 本年越前を巡回し、 池田地方に入るや、 児童はしり来たりて余に向かいて合掌するを見る。 もって仏教繁盛の一斑を知るべし。 しかして、 老婆の合掌より無我無心の児童の合掌は、 誠に殊勝に感じたり。

 

第一五話    天狗の祟

越前池田地方は山間の一部落なり。  土地僻遠なれば、 人知したがって開けず。 五、 六年前、 うんか多く発生して秋穫を見ざることありたれば、 村民相伝えていう、「日清戦争に山々の天狗、 みなシナヘ渡りて日〔本〕軍の応援をなし、 その助力にて百戦百捷の大勝利を得たり。 しかるに戦争後、 さらに天狗に対して礼祭を行わざれば、天狗大いに怒りてうんかを放ち、 飢饉を起こし、 もって国民を苦しむるなり」と。  かくのごとき愚民の妄説は、ひとり池田地方に限るにあらざるなり。


第一六話    奇遊談

天狗のなにものたるやにつきては古来種々の説あるが、 そのうち「奇遊談ここに掲ぐ。」の説は一種異なるところあれば、天狗ということは、 人のしらぬことを天狗とはいうなり。 愛宕寺にて毎年正月二日の夜、 天狗酒盛りということあり。  これは評定始めの式にして、 人にしらさぬことなれば、 夜になりて執り行うことゆえに、 天狗酒盛りという。 されば、 世に大なる爪のごときものの、 なんともしられぬものを天狗の爪といい、 掘症のたぐいにてあてどもなく行きしを天狗につかまれしというも、  この類なるぞかし。


第一七話    俗説は滑稽なり

 俗に、 癒に茄子を食するを忌むも、 余、 そのなんのために忌むかを知らず。  一日「夜光珠み、 その中に、と題する一書を読俗に寇のいゆるを落つるというによりて、  茄〔子〕.瓜の類は熟しても落ちぬものなれば、 言葉の縁をとりて児女のいいならわせる僻言なり。

とあるを見て、 茄子は落ちぬものとの一種の滑稽より出でたるを知る。第一八話    守り札にもまた滑稽あり

播州〔兵庫県〕明石町〔現・市〕に人丸神社あり、 守り札を出だす。 火よけの御札と安産の御札なり。 しかして火よけと安産とは、 人丸その人になんらの関係なきことなり。 ただ音便上、 人丸は「火止る」および「人生まる」に通ずるによるという。 笑うべきの至りなり。


第一九話    苓荷の俗説

俗に「苓荷を食すれば物忘れする」と伝うるは、 仏弟子の般特が墓より初めて生れ出でたるによるという。 般特は生来愚痴にして己の名をも忘れたる人なれば、 その墓に生じたる若荷までを避け嫌うは、 あえて怪しむに足らず。 しかるに俗説には、 苓荷は般特の再生なりといい、 あるいは若荷は名を荷うの意にして、 般特の故事なりという。  その故事とは、 般特が愚痴にして己の名を記憶することあたわざれば、 人が般特のために名を記して、その首に掛けしめたるをいう。  これより若荷の名起これりとは、 抱腹の至りなり。 あたかも俗説に「笑」の字を解して、 犬が旅をかぶりてかけまわるに、 人これを見て笑いたり。 しかして筑は竹にて造りたるものなれば、 竹冠に犬の字を合して「笑」と名づけたるに出ずというに同じ。 しかりしこうして、  インドの故事をもって若荷を解するは、 梵語と漢語とを混同せるものなり。  これまた一種の滑稽にあらずしてなんぞや。


第二    話 法春の話

多少知識のあるものより俗説を見れば、 抱腹に堪えざること多しといえども、 昔日の無学時代においては、村一郷にありてわずかに四角の文字を読み得るものは、 医者、 僧侶、 神官に限り、  一般の百姓は己の名をも記することあたわざるほどなり。 その一例に、 北国のある真宗の信者が京都に上り、 本願寺より法名を賜り、 その名を法春と記せられたり。 本人郷里に帰り、 村内の者に示すに、  一人もよく読み得る人なかりき。 その隣家に医者ありて、 これを見て曰く、「法は法名の「ほうなり、 春は春秋の『はる』なり。  ゆえに、  これを読みて『ほうはる    というべし」と。  また、 その近傍に神官ありて、 これを読みて曰く、「これ「ほうはる』にあらず。 法は御法の『のりなり、 春は春日大明神の「かすなり。  ゆえに「のりかすと呼ぶべし」と。  その後、 村民みな呼びて「のりかす」といえり。 すでにしてその隣村に己の寺あれば、 ここに至りてたずねたるに、 住職曰く、

「これ『ほうはる」にあらず、 また『のりかす』にもあらず、『ほうしゅ ん」なり」と。  かく三度たずねて、 初めてその名を聞くことを得たりといえる話あり。  かかる無学時代にありては、 梵語と漢語とを混同して怪しまざるは当然のことなり。


第ニ 話     シナ人の滑稽談

シナには特に滑稽諧誂を集めたる書あり。 李卓吾〔李贄〕の「四書笑』と題する書のごとき、 すなわちその一っなり。 儒者某ありて妾 を蓄えんとす。 その妻これをとどめて曰く、「一夫には一婦を限りとするは聖賢の定むるところなり。 しかるに今、 妾を入れんとするはなんの経典に出拠ありや。」その夫曰く、「『孟子」に出ず。  すなわち斉人一妻一妾ということあり、 また妾婦の道ということあり。  ゆえに、 妾はいにしえよりこれあるなり」と。 妻これに応じて曰く、「もし古人の書中の語句を引きて証するならば、 われもさらに一夫を招きて可なり。その故は、「大学』序に河南程氏両夫とあり、 また『孟子」に大丈夫小丈夫とあり」と。


第二二話    笑府の一話

「笑府』と題する書中の一話に、 ある人問いて曰く、「孔門七十二人の賢哲中、 すでに冠するもの幾人にして、いまだ冠せざるもの幾人ありや。」答えて曰く、「すでに冠するもの三十人、 いまだ冠せざるもの四十人」と。「なにをもってこれを証す」と問うに、 曰く、「「論語」の中に冠者五、 六人とあり。 五六は三十に当たる。 童子六、  七人とあり。 六七四十二人なり」と。  また問う、「孔門三千人の弟子は、 後になにを業とするに至りしや。」答えて曰く、「時まさに戦国ならんとす。  ゆえに、 二千五百人は軍人となり、 五百人は客商となれり」と。 あえてその証を問えば、「「論語」の註にいわく、  二千五百人軍となり、 五百人旅となるとあり」と。  シナの滑稽談は多く卑猥にわたりたるもの多きも、  この一話のごときは、 滑稽談中の上乗というべし。


第二三話    尾州は腹張国なり

世間には天性滑稽のオに富めるものあれども、 余のごときは全くそのオを欠けるものなり。 たまたま閑暇の余りこ、  工夫を凝らして半滑稽を案出することあり。 先年、 尾州〔愛知県〕丹羽郡に遊び、 演説会上にて「当国を尾張の国というは間違いなり。  これ腹張の国なり。 いま日本全国を人身にたとうるに、 奥羽は頭部に当たり、 武相〔東京都・埼玉・神奈川県〕両野は胸部に当たり、 東山道の山脈は背骨に当たり、 北陸道諸国は背部に当たり、 房総および伊豆の両半島は左右両手に当たり、 九州を足とし、  四国中国を両脚として考うるときは、 尾州はまさしく腹部の張り出でたる所に当たるべし。  ゆえに、 今より速やかに尾張国を改めて腹張国と称すべし」といいたるは、 余が滑稽中の上出来なるものなり。

 


第 二四話 若州は頭国なり

 

余、 本年若州〔福井県〕に遊び、  その国と余が郷里たる越後国とは、 道の相さること百数十里を隔つといえども、 ともに北陸道七カ国の中に加わる以上は、 兄弟の間柄と称して可なり。 もし北陸道を人身にたとうれば、  若州は頭部に当たり、 越後は臀部に当たり、 佐渡は足部に当たるといえば、 若州人これをなじりて曰く、「若狭は北陸中の最小国にして、 越後の十分の一にも及ばざるほどなり。  いずくんぞこれを頭部に比せんや」と。 余、 答えて曰く、「若州の小なるはその頭部なるゆえんにして、 越後の大なるはその臀部なるゆえんなり。 余、  いまだ頭部の臀部より大なるものあるを聞かず。  ゆえに、 若州は北陸の頭部と心得て差し支えなかるべし。  すでに頭部なる以上は、 ほかの六カ国の先導者となりて、  これを主宰する力なかるべからず。 余は、 若州人が果たしてよくその力を有するやいなやを怪しむところなり。  ゆえに、 今より後は奮然立ちて北国の首領となり、 先導とならんこと、  これ余がもっぱら若州人に望むところなり。」

 


第 二五話 人は多事なるをよしとす

人の病患は多く瀬惰より生じ、 健康は多事によりて得らるるものなり。  ことに少壮のときをしかりとなす。

『南屏燕語」にこれを戒めて曰く、およそ少年のうちは多事ばかりよきはなし。 孔子も「小人閑居して不善をなす」の語あり。 漉益大師〔智旭〕も「少年の閑はこれ不祥のことなり。 寿をくじくにあらざればすなわち福を損す」といえり。 在家の少年なども、 読書、 撃剣、  弓馬、 諸礼、 種々講習するを、 石臼芸などそしるは僻言なり。 事は異なれども精神は一なれば、 彼此互いに融じて相長ずるなり。 遂げざるは精誠なければなり。  そのうち、 好みにより性にかないて偏長はあるべきなり。『左氏〔伝〕』にも「宴安は鵡毒なり」と見えたり。  上古の人は衣服、 器物も不足なれば、 自ら座臥行住事足らぬより、 百事労に慣れ身軽に挙動し、 ゆえに気血の循環もよく、 自然と無病長寿にもありつるなり。 今しも辺鄭の百姓などの、 長命壮健なる〔ある〕を見て思うべし。

ゆえに、 幼少のときより勉強の習慣を養成するを肝要となす。 余は近年、  一年ごとに多事多忙となり、 自宅にあるや毎夜十二時を過ぐるにあらざれば寝に就くあたわず。 したがって、 身体も昔日に比するに一年ごとに健康を加え、 病魔のために苦しめらるること、 はなはだ少なきに至れり。 よって余は、 酒客が「酒は万病の薬または百薬の長」といえるに擬して、「多事は万病の薬または百薬の長」といわんとす。  これに反して、「無事、 閑散、瀬惰は万病のもとにして百毒の長なり」というべし。


第二六話    人事はすなわち学問なり

「海亭夕話    の問答中に、「問いて曰く、 俗事しげくいとまなきものは、 いかにして学問いたすべきや。 答えて曰く、 愚、  かつて聞けり、『人のほかに道なく、 道のほかに人なし」と。 今日の人事はすなわち今日の道なり。そのいとまをもって学び、〔学んで〕また人事を治む。 他なし、  これ学問なり。 なんぞ事しげきをもって患とせんや」とあり。「論語』には「いまだ学ばずというといえども、 われは必ずこれを学びたりといわん」とあり。 余案ずるに、  学問に虚学と実学との別あるがごとし。 書を読み理を闘わすは虚学なり、 実地に就き実務を執るは実学なり。 あるいはこの二者を死学、 活学と名づくるも可なり。 しかして余は活学を究め、 実学を修めんと欲するものなり。

 

第二七話    貴族的学者と平民的学者

独り自ら高尚の学を究め深遠の理を楽しみ、 超然として高く構え、  一般の社会、 多数の人民の知識いかんを顧みざるもの、 余はこれを名づけて貴族的学者という。  これに反して、 己の学び得たる知識を一般の人民に割愛し、 衆とともに楽しみ世とともに移るもの、  これを平民的学者という。 しかして、 余の望むところは平民的学者にあり。

 


第二八話 四千余万の蒼生をいかんせん

 

故木戸松菊〔孝允〕、 かつて詩を賦して、「三千余万奈ーー蒼生    (三千余万の人民をいかんせん)といわれとあるが、  これ政治家の精神なるのみならず、  学者もまたこの心なるべからず。 わが国今日、 表面には文明国を装うも、 多数の人民は無学無識にして、 あたかも五里霧中に迷いおるがごとし。  しかしてこの人民が知識の眼を開くにあらざれば、 真実の文明を見ることあたわざるは明らかなり。  ゆえに、  学者たるものは必ず四千余万の蒼生をもって己の心とし、  その知識を啓発するをもって己の任とし、 ともに進み並び行かんことを望まざるべからず。 もし世界の人類につきていわば、 幾億万の生霊をいかんせんとの心を有せざるべからず。  学者中、 宗教および教育に志あるものは、 ことにこの心の必要を感ずるなり。


第二九話    富士山顧の呼ぴ声

近ごろ井上巽軒〔哲次郎〕博士の宗教論、 気炎万丈の勢いあり。 しかるにその声の高くしてかつ大なるは、ぶんか学者の意を引くことを得るも、 到底凡俗の耳に入らざるをいかんせんや。  ゆえに、 余をもってこれを評せしむれば、 富士山韻に立ちて疾声大呼するがごとし。  かくのごとき声は、 宗教としてなんらの効力なきものなれば、  学者の一迷夢たるに過ぎざるなり。 もし、 加藤〔弘之〕博士の宗教論はいかんといわば、 井底にありて疾声大呼するがごとし。 山顧の声と井底の声とは、 ともにその中を得たるものにあらざるなり。


第三 〇話    大乗的人物と小乗的人物

近刊の「東洋哲学    に加藤博士と巽軒博士との人格を比較して、 前者は崇高にして後者は下劣なりとなす。  これ、 やや酷評なるがごとし。 余をして両博士を評せしむれば、 大乗的人物と小乗的人物の差あり。 余、 かつてこれを聞く、 佐々木東洋翁が宇都宮三郎翁を評して、 菩薩以上の人なりといえりと。 加藤博士もその学説は仏教のいわゆる断見外道なるも、 その人格は菩薩以上の人なり。  ゆえに、 余はこれを尊称して番町大菩薩という。  これに比すれば、 巽軒博士は小乗の声聞的人物ならんか。 もし、 余の人物はいかんと問うものあらば、  一個の凡夫なりといいて答うるよりほかなし。


第三一話    摂生の二主義

宇都宮翁と福沢〔諭吉〕翁とは、 余の久しく交わりをかたじけのうしたる先輩なりしが、 今や、 ともに冥界の人となれり。  この両翁の摂生における、 全く正反対なり。 福沢翁は食事の時間、 食物の性質、 起臥、 運動等、 衛生の規律極めて厳重なるに、 宇都宮翁は眠食ともに規律なく、 制限なく、 眠を欲すればいつにても眠り、 食を欲すればいつにても食す。 その代わりに、 眠を好まざるときは徹夜数日に及び、 食を好まざるときは絶食幾回にわたり、 眠食はただ意の欲するところに従う。 両者ともに極端に失するを免れずといえども、 これを摂生の二大主義と名づけて可なり。

 

第 三二話 中村翁と福地翁

余、  一日福地源一郎翁を築地の僑居に問う。 翁曰く、「中村(敬宇)〔正直〕翁と作文を交換したることあり。 翁は漢文に巧にして、 仮名交じり文に拙なり。 余は仮名交じり文に長じて漢文に短なり。 翁、 仮名交じり文をもって「西国立志編    を草し、 余に添削を請う。 余これを一読するに、 行文の未熟なること児童の草するもののごとく、 実に文章家に似合わざる拙劣なるに驚く。 しかれども、  みだりに筆を加うるも翁の意を害せんことを恐れ、賛辞を添えて原稿のまま返却せしかば、 翁かえって大いに怒り、「君の仮名交じり文に妙を得たるを知りて削正を請いたるに、  一字一句も改宣せずして返却するは、 あまり不深切の処置にあらずや』といいて、 再び原稿を持参せらる。 余ここにおいて、 思うままに語句を改剛し、 毎紙半面朱字をもってみたすほどに加筆して返稿したれば、 翁すなわち大いに喜び、 余に謝するに金円をもってせり。 余これを受けずして曰く、「謝金は余が望むところにあらず、 別に願うところあり。 余は漢文に拙にして、 人より碑文の依頼あるも、 意のごとくつづるあたわず、 自らもって遺憾となす。  このごろ友人のもとめに応じて碑文を起草せり。 翁、 願わくはこれに添削を加えよ」と。 翁その文を一読して曰く、「君は仮名交じり文においては驚くべき筆力を有するも、 漢文においては実に拙劣を極むるものなり    と。  たちまち筆を下して、 全文改蹴せるほどに朱字を施せり。 その後、 両三回漢文の添削を請いたれば、 翁曰く、「拙劣なる漢文を添削するは、 自ら起草するよりもその労多ければ、 今後は仮名交じり文にしたためて寄稿ありたし」との注意を受けたり」と。  これ、 技術の交換というべし。


第 三三話 仁斎と東涯

「閑散余録」に、〔伊藤〕仁斎と〔伊藤〕東涯と性質の異なる点を挙げて左のごとく示せり。

仁斎は一編の文、  一首の詩を作りて人に示さるるに、  その人賞嘆をなせども、 あながちにその喜びの色を見ず。 他人いかように嘆美をなすといえども、 自ら心に満ちざれば、 その顔色自若たり。 東涯はしからず、あるいは文、 あるいは詩、 人見て賞すれば、 自らも喜びてその色面にあふれたりとぞ。  これ、 仁斎は大量にして人の毀誉にかかわらず、 東涯は篤実にして人を信ずればなり。

この一例にて伊藤父子の性質を見るべし。


第三四話 天文学者と一漁夫

昔時、 渋川某と名づくる天文学者あり。  数学と天文とをもって世にあらわる。  その人余暇あれば、 船を海上に浮かべて釣りを垂るるをもって楽とす。 某年秋期、  一日快晴、 満天雲なく海陸ともに平穏なりければ、 釣り器を携えて漁家に至り、 船を出ださんことを命ず。  このとき漁夫、 出船を拒みて曰く、「海上はるかに一点の雲あるを認む。 後に必ず大暴風雨あらん。  かつ今日は立春より算するに、 まさしく二百十日目なり。 余、 五十年来これを試むるに、  二百十日より二百二十日までの間には、 必ず海上巽の方より狂風起こり、 海陸ともに大荒れとなるを常例とす。 今日はすなわちその期に当たる」といいて、  ついに船を出ださず。 渋川某もとより漁夫の言を信ぜざれども、 やむことをえずしてむなしく帰途に就けり。  すでにして一陣の暴風、 砂塵を巻きて来たり、 にわかに烈風大雨となり、 漁夫の予言と奄もたがうことなし。  ここにおいて渋川某、 大いに嘆じて曰く、「余、 多年天文を学びてその理を究めたるも、 無学なる一漁夫の経験に及ばざるは恥ずべきの至りなり」とて、  これよりさらに進んで実地の研究に心を潜め、  二百十日の災日なるを確知し、 これを暦の中段に入るることとなせり。  これ、 世に唱うる二百十日の厄日の起源なりという。 この一話は、 学理の研究に実験の必要なる一例とすべし。

 

第三五話    日の吉凶

「春雪解話」は荒井発民の著すところなり。  その書中に、 荒井氏は日に吉凶あることを信じ、 梅を探るまでに吉日を選びたりという。 氏は某年、 友人と杉田の梅を探らんことを約し、 まず時日を選び、 左の一絶を賦せり。

遊歩佳期猶未>遅、 梅花消息今初知、 今年欲>踏二探行約    華暦先開_選一日時

(遊歩によい日はなお遅くはない。 梅花のようすについては今初めて知った。 今年は観梅の約束を果たそうとして、 花 暦 をまず開いて日時を選ぶのである。)

しかるに友人笑いて、「杉田は行程一日に過ぎず。 なんぞ吉日を選ぶの要あらんや」と。 荒井氏曰く、「沐浴、結髪も、 君子日を選ぶは慎の至りなり」といえり。 今日にありてこれをみれば、 荒井氏は愚の極まりなりといわざるを得ず。 もし探梅に日を選ぶならば、 ただ晴天の日を卜するをもって足れりとす。  しかして現今にありて晴雨を卜するには、 毎朝新聞をひらきて天気予報を検するを第一の良法となす。  ゆえに、 余は前の詩を改めて、

遊歩佳期猶末油遅、 梅花消息今初知、 明朝欲函炉探行約    早起先閲新聞紙。

(遊歩によい日はなお遅くはない。 梅花のようすについては今初めて知った。 明朝は観梅の約束を果たそうとして、 早く起きてまず新聞紙の天気予報を見るのである。)

右のごとくなさんとす。 もし、 結句の平仄韻字不調というならば、「早起新聞先手披」としてはいかん。 文字上の修飾は詩文家の受け持ちにして、 余の関するところにあらざるなり。


第三六話    迷信一束

日の吉凶を信ずるは、 もとより迷信のはなはだしきものなれども、 民間の迷信には、  これよりなおはなはだしきものあり。 左に「願懸重宝記    に記するところを抜抄すべし。 その地名はみな東京市内にあり。

本所、 中の郷、 業平橋西詰南蔵院に石の地蔵尊あり。 心願あるもの、 ここにゆきて思うことを願い、 縄をもって地蔵尊のからだをくくり、  かえるとき、 十七日が間に願望成就なさしめたまえと祈念なし、 また願望成就のときに、 くくりたる縄をときまいらせんと願をかけて、 そののち願成就のとき縄をとき、 そのうえにて花を供して拝するなり。脚気にてわずらうもの、 芝牛町の大木戸にいたり願こめなす。  すなわち、  この道々古き雪踏のかねをいくつにても心に数をさだめ、 拾いとりてこれをはさみ、 願がけをなしてかえるに、  すみやかにその苦痛平癒なすこと神のごとし。両国橋のまんなかにいたりて、 飛騨の国錐大明神と念じて、 北の方へむかい、 錐を三本ずつ川の中へ流して、 疾癒のわずらいを平癒なさしめたまえと願がけするに、 日ならずして、 たちまちあとなくいゆること神のごとし。 平癒してのち、 ふたたび錐を三本、 川へ流し礼拝なせば、 ふたたび発することなし。

京橋の欄檻、 北側のまんなかなるぎぼうしを荒縄をもってくくり、 頭痛の願掛けをするに、  治すること神のごとし。 平癒のとき、 青竹の筒に茶を入れてこれをそそぎかけ、 また、 かのぎぼうしにかけおくなり。

これ、 維新前の迷信を記するものなれども、 今日なお、  この類の迷信すこぶる多し。  かかる迷信を愚民の心中より除き去るにあらざれば、 国家の文明を大成したりというべからず。 しかしてその任はだれにあるや。 これ、教育家、 宗教家の任なること明らかなり。

 

第三七話    越中の大岩不動

余、 昨年中、 越中巡回の途次、 大岩山に登れり。  この山上の岩石に刻したる不動明王は、 行基菩薩の作なりと称し、 日々信者遠近より雲集す。  一般に伝うるところによれば、  眼病者ひとたびこの石像に祈願すれば、 たちどころに平癒すという。 故をもって、 参詣者の過半は眼病患者なり。  患者は堂内に座しておのおの板木をたたき、

「南無大悲大聖不動明王」と幾遍となく繰り返して唱うるなり。  この一心不乱のありさまは、 ほとんど狂するが一見してだれも驚かざるものなし。 今日の青年輩および多少の知識あるものは、  これをみて大いにその愚を嘲笑する風あるも、 余は決して嘲笑すべきにあらずして、 愛憐すべきものとなす。 その故は、 彼らはこの一事のほかに、 己の心を安慰する道を有せざるものなり。 赤貧無学頼るべき知人もなければ、 たのむべき恩人もなく、 しかして身は不幸の淵に沈み、 不治の病にかかる。 自ら安んぜんと欲するも安んずるあたわず、 己を慰せんと欲するも慰するあたわず、 百計ここに尽きて哀れを石像に請い、 もっていささか慰安するのみ。  ゆえに、 いやしくも人間に生まれて博愛の本心を有するものは、  一滴の涙をもってこの輩を迎えざるべからず。  いわんや教育、 宗教に従事するものをや。


第三八話    肉付き面

越前国吉崎〔現・金津町〕にてその名高きものは、 願慶寺の肉付きの面なり。  当時、 吉崎に真宗中興の蓮如上人留錫ありければ、  これより一里余り隔たりたるある村の農家の嫁、  上人の徳を慕いて毎夕参詣せしに、 その母これをにくみ、  一夕途中に潜み、 嫁の来たるを待ちて鬼面をかぶり、 突然躍り出でて嫁を驚かせり。 しかるに、 嫁は自若として歌いて曰く、食は食め、 喰はゞくらへ、 金剛の、 他力の信はよもやはむまじと。 その後、 右の面は母の顔に付着して離れざりしとの由来より、 肉付きの面ととなうるなり。  この話の真偽は差しおき、 人みなこの歌のごとき決心あらば、 いかなる妖怪といえども施すところなかるべし。

 

第三九話 わが国の歌にて

 

心と誠

心だにまことの道にかなひなば、 祈らずとても神やまもらんの一首は、 実に世の迷信をひらきて余りありというべし。 しかるに愚民は、 平素一善を修めたることなく、  一徳を植えたることなく、  ただ「困りたるときの神だのみ」といえるごとく、 己の力にていかんともなしあたわざるときに、 急に仏を念じ神に祈るは、 実にあさましき限りなり。  ゆえに、 余は前句の反対をよみて、心だにまことの道にかなはずば、 祈ったとても神やまもらじ。この心得にて宗教を信ずること肝要なり。


第四〇 話    守り札の話

「秋斎間語    に左の一話を掲げて、 守り札のかえって身の害となりたることを示せり。

尾州〔愛知県〕名古屋にありしとき、 夜道にて百姓を浪人の殺せしことあり。  この百姓、  さまざまの守りをあつめ、  二月堂、 九重をはじめ、 神社にてははらい串まで錦の袋に入れて首にかけたるを、 浪人は金子ならめと思い、  これを取らんと殺害し、  さて袋を見てあれば、 守りのみ多く入れたるゆえ、 興ざめて立ちのきしが、 やがて捕えられて罪せられし。  この男、 さまざまの守りをかけずば殺されもせまじ、 浪人も欲心をおこるまじく、 その身をほろぼしもせまじきに、 守りたのみにて両人は死したり。  この理、 物知る人に問うべし。 守りかけて難にあうは不信心ゆえといいのがれ、 愛宕の火事は坊衆のつとめ方あしきゆえのことと、 まず入るもの主となりて転じがたき人あり。 それは、 ともにかたるにたらず。

この例によって、 守り札のみにて身を護することあたわざるを知るべし。 もしまた、 その人にまことの徳を備うるならば、 守り札を帯ぶる必要なきなり。


第四一話    鼻たらし国

わが国は、 表面は文明国の列に加わりたるも、 裏面はなお未開の民たるを免れざるところあり。 例えば、 迷信の多きがごときその一っなり。  また、 風俗につきても種々論ずべき点多し。  その一例は、 児童の鼻を垂るる癖あるを見て知るべし。 東京にても地方にても下等社会の子供は、  みな鼻の下に二本棒を垂らしおらざるはなし。  これがために、 鼻の下は常にただれて赤く見ゆるなり。  かくして鼻汁ようやく流れて口内に入らんとすれば、  これを口中にすすり込みて、 舌にて味うものあり。 驚き入りたる次第にあらずや。 我人は平素この鼻垂れを見慣れておるゆえ、 格別きたなく感ぜざるも、 西洋人がわが国に来たりてこれを目撃したるときには、 必ず日本は野蛮なりとの観念を起こすに相違なかるべし。 せっかく日清戦争によりて数万の人命と幾億の費用とをなげうちて、 ようやくあがない得たる文明国の評判が、 児童の鼻垂れの一事によりてたちまち取り消され、 昔時のごとく野蛮国をもって蔑視せられては、 残念の至極にあらずや。  ゆえに、 鼻垂れの一小事といえども、 決して軽々に看過すべからず。

 


第四二話    飲食の悪習慣

日本人と西洋人とを比するに、 日本人は一般に食いだおれの風あり。 婚礼をはじめとし、 すべての儀式、 会合、 交際、一つとして飲食を媒介、 いな主眼とせざるはなし。 古賀精里翁もこの悪風を指摘して、「十事解」中に左のごとく言われき、

今、 民間婚嫁などの時節、 隣伍より酒肴を送り、 嫁開きなどをするに、 飲みつぶし食いつぶし過分のことなり。 自然馳走せざるなどいうときは、  若き者どもわやくをなし、 あるいはその所に居住もならぬに至る。その大費を恐れて、 怨女職夫あるほどの義にてはなはだしきことなり。  死喪のときも数日飲食をむさぼり、そのほか淫祠胡神に金銭をなげうち、 あるいは参宮彦山詣でなど、 われもわれもと思い立ち、 銭をぬきて僧巫に与うること、 年貢よりも厳なり。 積み重なりて安産を破れとも察せず、 遊惰放陣のなかだちとなること多し。

かかる悪習が今日なお依然として存するは、 文明国の一大汚点なれば、 今よりようやく改良せざるべからず。



第四三話    畜生国

「燕居偶筆」にも、 芝居・遊女は国家を治むる砒霜石といい、 隠元禅師はじめて日本に渡り、 京洛の遊山所を一見して、  これ畜生国なりと評したりといえり。  けだし、 風俗の乱れるを見ていうならんと記せり。 その当時と今日とは数百年を隔つるも、 依然として畜生国の遺習を存するは、 慨すべきのいたりなり。



第四四話    公然の窃盗

わが国民には公徳なしとは近来の問題なるが、 都郡ともに多数の会合する場所および場合には、 比較上紛失物の多きは、 国民に公徳なきためにぬすみ去るものあるによる。 料理屋の徳利、 杯などを盗み取るは当然のことのように思い、 かえっ てこれを己の手柄として公然、 人に向かいて誇るありさまなり。  一昨年、 余、 越後国東頸城郡松山温泉に至り、 その持ち主より聞くに、「入湯客中、 夜具蒲団を盗み去るものありて、 年々蒲団を失うこと数次なり」といえり。  また、 田舎にては夜中、 瓜、 茄〔子〕、 大根、 筍、 栗、 柿などを盗み取るは若者の常習となり、 盗むものも盗まるるものも、 互いに許して罰せざる風あり。 ある地方の話に、 村内の若者がもし人の庭園にある筍や果物を盗まんとするときには、 その仲間中の一、 二人は家の出口の戸を守り、 公然たる挙動をもって盗み取るという。 そのとき家内のもの出でてこれをとどめんと欲し、 戸を開かんとすれば、 外よりおさえおるをもって、 出ずることあたわず。 もし内よりこれに抵抗し、 あるいはその盗み事を妨害するときには、 意外の復讐を受くるをもって、 盗まるるものはすべて泣き寝入りの状なり。  かかる悪風は速やかに除去せざるべからず。

 

第四五話 公徳と鉱毒

 近年、 新聞紙上にて喋々する二大問題は公徳と鉱毒なり。  この二者、 国音相近くして、 その実大いに異なり。公徳は興さざるべからず、 鉱毒は禁ぜざるべからず。 しかして、 鉱毒問題には幸いに田中正造の熱心家あれども、 公徳問題にはかかる熱心家あるを見ず。  ゆえに、 余は公徳問題における田中正造の出でんことを望むなり。



第四六話 三才究理頌

古来詩歌中、 道徳風教に関するものはなはだすくなきは、 実に遺憾とするところなり。  ゆえに、 余は詩句中の徳義に関する語はなるべくこれを集録せんとす。 左に「三才究理頌』の数句を抜記せん。

人之在世誰無欲、 欲中善悪各不斉  ゜

(人のこの世にあっては欲のない者はない、 ただしその欲の中身の善悪はそれぞれ違うのである。)

聖人設レ教謹二天戒 仏者立>言覚執迷

(聖人は教えをさだめて天の戒めをつつしましめ、 仏教者は言葉をもってとられた迷いを覚らせる。)

人為二陽悪ー有顕罰一 人為陰悪有幽誅

(人があからさまな悪をなすときには、 あからさまな罰があり、 人がかくれた悪をなすときには、 鬼神によるかくれた誅罰がくわえられるのだ。)

天網恢恢疎不失、 形影不欺自然符。

(天の網は広く目もあらいが捕らえ失うことはない、 形と影が離れないのは自然の証拠である。)第四七話    和拾得詩

「和拾得詩」中に抜粋すべきもの二、 三首あり。

四民勤二  業阿鼻。常守二其国儀一 貴者能謙譲、 富者能布施、 貧人不>為レ悪、 賤人不』起>痴、 生前即浄土、 死後何

(士農工商の四民はそれぞれその業につとめ、 常にその国法を守り、 位高い者は謙譲を心がけ、 富める者はよくほどこしをなし、 貧しい人は悪をなさず、 身分ひくい者はおろかなことをしなければ、 生きているときは清らかな世界であり、 死後はどうして阿鼻地獄に落ちょ うか。)

一心正直人、 能可免百殊無レ不当。一芸修熟士、 徳不玉羞二帝王無憂無病者、 常可』安ーー臥床一 精神苦益壮、 誠求

(ひたすらに正直を心がける人は、 もろもろのわざわいを免れることができ、  一芸に熟達する人は、 その徳は帝王の仁徳に羞じない。 うれいなく病のない者は、 常に安らかに床に臥すことができ、 精神は苦しむもますますさかんに、 誠に求めるならばかなわないことはない。)

勿>急又勿>解、 修>道如>織レ布、 貧賤不>可>貪、 富貴能可知施、 無中自生>有、  治世仮礼義一 富貴騎  貧賤。貧賤倹    富貴。

(急ぐことなかれ、 またおこたることなかれ、 道を修むることは布を織りあげるようなものである。 貧賤ならばむさぼることをしてはならず、 富貴ならばよく人に施すべきである。 無のなかにおのずと有を生じ、  治世は礼義をかりて治まるもの、 富貴にして騒れば貧賤となり、 貧賤にして倹約に努めれば富貴となるであろう。)

由来道在レ近、 何以求二遠津一 素位勤業耳、 瞳又易苦辛  ゜

(もとより道は近い所にある、 どうして遠い渡し場を求めることがあろうか。 本来なすべきは業に勤めるのみである、 ああ、 またどうして苦辛しようか。



第四八話    立    志

修身の詩句のほかに立志の詩句を誦することまた肝要なれども、 これまた古人の詩文中に多く見るを得ず。今、 左に『視志緒言』の立志論を抜録して、 青年の訓戒となす。

学問は、 目的を立つるを第一手を下すのはじめとすることなり。(中略)目的とは余の義にあらず、  まことの人とならんと志すばかりのことなり。 さて、 まことの人となるはいかんとなれば、 他事にあらず。 親につかうるに至孝ならざるは、 まことの人にあらざるなり。 君につかえて至忠ならざるは、 まことの人にあらざるなり。  されば、 いかなるが至孝至忠の道ならんと、 その理を自身の心神に問い、 仰ぎて古聖賢の書に芳求し、 必ず至道を知りて、 もってここに至らんと目当てを定むる、 これ学問初発の射侯(目的)なり。

いにしえの人に勝れし人も他にあらず。  これを見ること早く、 手を下すこととき故に、 聖賢君子、 英俊姦傑とよばる。  みな千辛万苦して精神を励まして、 後にこの域に上りしなり。 尼父の志学、 孟子の願孔、 顔子の「舜何人也」(舜はなん人ぞや)はいうもさらなり。 明道先生〔程願〕が十四、 五歳「便学ーー聖人  」(すなわち聖人に学ぶ)朱文公〔朱窯〕が八歳のときに『孝経』の上に題して「不如>此便不如屈人」(このようでなければ人にはなれない)といい、 陳白沙〔陳献章〕が「有二天民者    達可伝行二於天下一而行レ之」(天命を受けた民というべき者がいて、 道の天下に行われるべきであるとして仕えて実行するのである)を読んで、「大丈夫行>己当>如>此也」(大丈夫が己を行うとすれば、 まさにかくのごときであるべきだ)といいたるも、  みなこのところへ第一に目をつけたるなり。 伊藤仁斎先生十七歳のとき三井寺に登り、 琵琶湖を望み、 慨然遠想し、

「男児勿ーー空死一 大哉神馬功」(男児たる者はなにもせずにむなしく死すなかれ、 偉大なるかな、 神馬の功績は)という詩を作りたり。 その後、 属精苦学して一代の碩賢となりたれば、 またその志に背かずというべし。  人の材徳は草木のごとし。 同じく天地の気を受けしものなれば、 日々に生滋するもちまえなり。 草木生長せざれば枯るるなり。  人の材能も進まざれば退くよりほかなし。 韓文公〔韓愈〕が「聖益聖、 愚益愚」(聖人はますます聖、 愚者はますます愚)と言われしはこのことなり。 予は厄弱愚歴の至りなれども、 願わくは市井の小人と異なりたしとおもい、 師友に切磋して性善の言を篤信し、「鞠射尽レカ、 死而後已」(つつしんで力を尽くし、 死してのちやむ)というを平生侃服し、 命あらん限りは苦学する鄭衷なり。「欲ーー持贈>君無二長物    山中只有二白雲飛ご(君に贈り物をするのに無駄なものはないようにしたい。 山中にはただ白雲の行く姿があるのみである。)この心、 諸子とこれをともにせんと欲するのみ。

この中の「男児勿二空死ー  大哉神馬功」の句、  および「鞠豹尽>力、  死而後已」の語は、 平素心頭に銘じて奮然励精あらんこと、  これ、 余が青年諸子に望むところなり。

 


第四九話 日本人よく世界を一統す ぺし

英国の領分に日の没したることなしとは、 英人のもっぱら誇るところなるが、  わが国も他日ここに至ること、あえて難きにあらざるなり。 今、 国民の数を四千三百万とし、 その一人の両手の延長平均四尺五寸とし、 国民全体が互いに手と手とを一直線につなぎ合わせたるときは、 その延長一万四千九百里となる。 しかるに地球の周囲はわずかに一万二百里なれば、 日本人の手よく地球を一周して、 なお余りありというべし。  ゆえに、 もしこの国民が奮然立ちて国家のために「鞠射尽力、 死而後已」の精神を起こしたるときは、 日本の領分に日の没したることなきを歌うのみならず、 世界を一統することもあえて難きにあらざるなり。

 


第五 〇話 日本の形勢

今や白人種、 天下に雄飛して東洋の列国を併呑し、 わずかに命脈の存するもの、 日本のほかに二、 三国あるのみ。  その国も死生旦夕にせまり、 余命、 日をかぞえて待つべきありさまなれば、 わが日本も古語にいわゆる「唇ほろびて歯寒し」を歌わざるを得ざる場合となれり。 もし他日、  シナ、 朝鮮の滅亡したる暁には、  ひとり歯の寒きのみならず、 全身に凍寒を感ずべきことなれば、 余はさらに歌いて「西風に着物はがれて体寒し」といわんとす。 とにかく今日は、 日本男児の大いに大和魂を奮起すべきときなり。



第五一話    遊説の困難

今日は日本男児の大いに奮起すべきときなれば、 余も大いに奮いて国家のために尽くさんと欲するも、 ほかに尽くすべき道なければ、 自ら私立大学を起こし、  一は国家の教育を助けて、 もって報国の大義を全うせんとし、一は「鞠射尽力、  死而後已」の精神を実行して、 もって青年の子弟を導かんとす。  かくして、 数年前より海内を一周して遊説を試むるに、 諸事意のごとくならず、 その困難実に言うべからざるものあり。 昨年越中巡回の際、某村にて演説開会を約し、 後に見合わせを申し来たれり。  その内情を聞くに、 村内の相談に、 井上博士を聘して演説を聞くよりは、 むしろその費用をもって相撲を興行せんと、 衆議これに決し、 開会を見合わすに至れりと。往昔、 孔子は「余、 いまだ徳を好むこと、 色を好むがごときものを見ず」といわれたり。 余もこれに擬して、「余、 いまだ演説を好むこと、 相撲を好むがごときものを見ず」といわんとす。  これ、 余が嘆息の声なり。



第五二話    学校の恩致

昔時、 親鸞聖人、 その師法然上人に関係ありとて北越に流罪となれり。 そのとき聖人の言に、「われもし流罪に処せられずんば、 なにをもって僻辺の群類を化せん。  これみな師教の恩致なり」と。 余、 近年火災にかかり、校舎ことごとくみな烏有に帰せり。  その後、 新築費を募らんと欲し、 全国周遊の途に上れり。 よって親鸞聖人に擬して、「われもし火災にあわざるときは、 なにをもって辺僻の群類に接せん。  これみな学校の恩致なり」と。これ、 余が満足の声なり。

 

第五三話    佐渡の名物

余、 かつて佐渡の国に遊び、 本荘了寛氏の明治記念堂を訪うに、 その堂は日清戦争の記念堂にして、 傍らに博物館あり。  その後、 落成式挙行に際し    一言の祝詞をもとめらる。 余、 即時に狂句をつづりて曰く、

佐渡の地に過ぎたるものが三ツある、 真野と金山、 記念堂なり第五四話    若州の名物

本年夏期若州〔福井県〕に遊び、 また若州の三大名物を詠じて、若州に名高きものが三つある、 景色、 藪蚊と午睡なりけり



第五五話    言文一致の詩歌

余は和歌を知らず雅言を解せず、 純粋の国学には盲目同様なり。  されど今日和歌を詠ずるに、 みだりに不通の雅言を集め、 古風の歌法を守るは、 余が好まざるところなり。 むしろ言文一致体の歌を習うにしかず。 しかるに、 世間にては言文一致の詩や歌をば狂詩、 狂歌と名づくるは、 余は名実不相応の名称なるがごとくに感ずるなり。 元来、 詩も歌も感に応じ事に触れて、 その思うところのままを口に発するものなれば、 言文一致こそ詩歌の本色なるべけれ。 今日の言語と異なれる古語雅言を用うるもののごときは、 かえって狂詩、 狂歌と名づけて可なり。 その故は、 時節をたがいて咲く花を狂花というに同じ。  ゆえに余は今後、 なるべく言文一致をもって詩歌の常体となさんとす。



第五六話    国体の歌

余は、 日本には万国無比、  一種特有の国体と人倫あり、  これを人倫の上にては絶対の忠と名づく。  けだし、 忠に相対の忠と絶対の忠との二種あり、 相対の忠は万国に通じ、 絶対の忠は日本に限る。  この人倫を因として結びたる果が一種無類の国体となる。 そのことを余は言文一致体の歌をもって示して曰く、相対の忠と孝との二つをば合せて見れば絶対の忠 敷島の大和心をたねとして生ひたつ幹は絶対の忠 絶対の忠の道をば幹として咲きつる花はわが国の体



第五七話    狂    詩

古来、 言文一致体の詩、 すなわち世のいわゆる狂詩中に大いに興味ある句すくなからず。 ただ、 昔時の狂詩には往々卑猥の語を交ゆるは、 今後改めざるべからず。 今、「太平新曲あれば、 左に転載すべし。中に東西両京の風俗人情を詠じたるもの木高水清  食物稀、 人人飾玉表内証 晦、 牛糞路連二大津一滑、 茶粥音向二叡山ー飛、 算盤出  合  無一立引筋壁連中仮 権 威一 女雖二奇醐  立小便、 替物茄子伯ーー数違 (京都風俗)

(木は高く水は清らかに食い物は少ない。  人々は 表 を飾ってくらしむきは乾いている。 牛糞の散らばる路は大津につらなってすべりやすく、 茶粥をすする音は叡山に向かってひびく。 算盤をあわすもはりあうことなく、 筋壁の連中は権威をかりている。  女は奇麗ではあるが立ち小便をし、 替え物の茄子は数の違うことを心配する。)

 風荒火早  狗糞多、 汲立水道泥雑砿沙、 殺レ網  買>鰹食倒客、 売レ娘出レ祭  浮気 爺、  喧嘩割レ頭中 直早、 喪礼荷函桶鼻歌除、   身上徒  磨ーー銅壺 蓋年中上下頼二質家(東都風俗)

(風は荒く火の回りは早く、 狗の糞は多い。 汲みたての水には泥が砂にまじる。 蚊帳を買うのをやめて鰹を買う食い倒れの客、 娘を売っても祭には顔を出す浮かれ親父、 喧嘩で頭を割られても仲直りは早く、 喪式には棺桶をかついで鼻うたがひびく。 とりえはやたらに銅壺のふたをみがきたて、 年がら年じゅう物価の上がり下がりに質家を頼みとしている。)

これ維新前の東西両京の比較なるも、 明治の今日なおこの特色を存するを見る。  つぎに「五十三次道中詩選」の中にも両京を詠ぜし句あり。

割厨  碁盤  分ーー竪横洛中洛外行儀正、  女色白如>倒硝子一 水結構不レ異二水晶山巡 入 家  斉 摺  鉢一 人揚 昧 噌謂  天  乎    雖 何  雖細彼無遥違事、 日本真中平安城。(京都)

(町を碁盤の目に切って、 たて横にわけ、  洛中洛外ともに行儀よく、 女はいろ白でビー ドロをさかさまにした様子である。 水はまことによく水晶に匹敵し、 山は人家をとりまいてすり鉢の形をとり、 味噌を揚げて太平と称し、 なんでもかでもきっちりすることは、  さすが日本真ん中の平安城である。)

引    寄富士置  鼻  先一 根厨 親船   繋籐   辺    諸国名産打>手至、 山海珍味有 目 前一 諸事有レ勇心忽砕、 万端無レ角人自円、   寛  奇妙希代之地、    住   江戸日本橋辺。(東都)

(富士を引き寄せて鼻の先に置くようにみて、 親船を根つけにして腰につけ、 諸国の名産品は手をうてば至るように、 山海の珍味は目前に並ぶ。 諸事に勇ましいがたちまちに心はくだけ、  すべてにかどたたぬようにして人はおのずから円い。  まことに奇妙希代の地にして、 住むならば江戸は日本橋のあたりであろう。)

また、「青物詩選』に出でたる元旦雑烹の句を挙げん。

家家年暮 揚、 御慶雑烹開、痰   障  依>人在、 腹持親レ我来、 祝言  逢二吉礼一 法事  問ー一年回為レ鏡神前坐、仏称  曰一善哉

(家いえは年の暮れに餅をつき、 新年の祝いに雑煮をつくり、 痰のさわりになるかは人によるが、 腹もちがよいのは我にとってはよい。 祝言の時には吉礼にかない、 法事には回忌をたずね、 鏡として神前に置かれるときは、 仏は善哉とのたもう。)

「半可山人詩紗」の中に歳暮の詩あり。

未如呼門松穴先聞ーー煤 掃 音一 釜随二賃餅ー走、 豆入ーー福茶一沈、 年内無ーー余日一 世間多二借金一 空空待二正月一却羨子供心。

(まだ門松の植えこむ穴も掘らぬうちに、 まず煤払いの音が聞こえてくる。 釜は賃餌の頼みで走り回り、 豆は福茶に入れられて沈む。 かくて年内も余す日はなく、 世間に借金する者が多く、 ただただ正月を待つのみとなり、 かえって子供の正月を喜ぶ心をうらやむばかり。)



第五八話    詠桜の詩

『半可山人詩紗」中に詠桜の詩あり。  一吟するに足る。

八重桜出二奈良都一 折向二唐人一欲>撫>蹟、  莫>言四百余州広、 如>此名花一本無。

(八重桜は奈良の都を出処とする。 手折って唐人に向かってひげをなでようとした。  四百余州は広いなどというまい、  このような名花は一本もないのだから。)

余はこれを改作して左のごとくなさんとす。

八重桜出  奈良都一 折向二洋人一欲>撫>蹟、 莫_巳口欧米冠二天下{  如>此名花一本無。

(八重桜は奈良の都を出処とする。  手折って西洋の人に向かってひげをなでようとした。 欧米は天下第一等などとはいうまい、  このような名花は一本もないのだから。)



第五九話     シナの狂詩

世に「漢国狂詩選」と題する書あり。 その中の狂詩二、 三首を抜記せん。

山近月ー遠覚二月小一 便道此山大二於月一 若人有眼大如元天、  還見山小月更闊。(山房詩)

(山は近く月遠くして月が小さく見える。  そこでこの山は月よりも大きいという。 もしも人の眼が大きくて天のようであったなら、 かえって山は小さく月はさらに大きく見えるであろう。)

春日春風有レ時好、 春日春風有レ時悪、 不レ得春風花不開、 花開又被二風吹'落  (春風詩)

(春の日春の風は時によっては好く、 春の日春の風は時によっては悪し。 春風がなければ花は開かず、 花開けばまた風に吹き散らされるのだ。)

前有二芙蓉  後有>梅、 歳寒心事向レ誰説、 傲レ霜不レ入二時人眼一 独有二淵明一識ー得明。(菊花詩)

(前に芙蓉があり後ろには梅がある。  固く節操を守る心をだれに説明しようか。 霜をものともしないことは時の人々の眼にはうつるまい。  ひとり陶淵明だけがよく識っているのである。)

 二杯通 天 道、一斗合二自然一 但得、二酒中趣勿下為二醒者丘界(酔歌)

(三杯のんで大道に通じ、  一斗のんで自然にかなう。 ただし、 酒中のおもむきを得ても、 醒むる者のために伝えることはやめよう。

 


第六 〇話    哲学詩類

余が随筆中に哲学的の詩一首を掲げたるが、  その後、 古人の詩中に哲学の意味を含蓄せるものを求むるに、

「朱子語類」中に出でたる詩句のややこれに近きものあるを得たり。有レ物先二天地一 無レ形本寂蓼、 能為二万物主一 不下逐二四時面愕

(物ありて天地にさきんじてあり、 形はなくもとよりもの静かに、 よく万物の主となり、 四季にしたがってしぼむことなし。)

撲落非他物一 縦横不二是塵一 山河井大地、 全露  法王身。

(払い落とすは他の物にあらず、  四方のものは塵にあらず、 山河も大地もすべては仏の身をあらわす。)また、「朱子誦経」の詩も哲味を帯ぶるもののごとし。

端居独無事、 柳披二釈氏書一 暫息二塵累牽一 超然与>道倶、 門掩ーー竹林密晏如  。禽鳴二山雨余一 了一此無為法{  身心同

(平生ひとりなにごともなく、 いささか仏書を開く。 しばらくは世俗の縁をやめて、 超然として道とともにす。 門は竹林の繁茂するにおおわれ、 小鳥は山雨の後に鳴く。  この無為の法をさとり、 身心ともに安らかで落着いている。)

また、 仏印禅師〔智侃〕の詩偶に哲学の趣味を帯ぶるものあり。

大道体寛無>不レ在、 何_拘  動植与二飛潜一 行観坐看了無凝一 色見声求心自厭  ゜

(大道はひろくすべてが備わっており、 どうして動物や植物あるいは空を飛ぶものや水にもぐるものにこだわる必要があろうか。 行きて観る、 座して看るなどにさまたげるものはなく、 色にみ声求むるも心はおのずから安らかである。)

古人の詩中に哲学的詩句を探るときは、 多少の禅味を帯びたるもののほかには、 ほとんど見出だすことあたわざるなり。



第六一話    通俗的家訓

古来、 訓言訓戒の文句があまりシカツメらしくして、 人をして自然に敬して遠からしむる傾きあり。 むしろ通俗的にやわらげて、  人をして親近せしむるにしかざるなり。 余、 本年播州〔兵庫県〕に遊び、 東播の富豪伊藤長次郎氏の家に泊す。  主人、 先代の家訓五十四条を示さる。 余これを一読するに、 すこぶる通俗的にして、 しかもその裏面に一種の処世哲学を胚胎せるがごとし。 左に二、 三カ条を抄録すべし。

一、 よろしき身代というは、 調子のひくい家なり。 調子が高いとよろしき身代とは人がいわぬ。 衣食住をシマツせよ。

一、 寺はずいぶんなかよくせよ、 敬せよ。 布施はわが身上相応に上げよ。 軽きは経を値切るの罪なり。 僧もまた布施だけには読経せずば、 経を盗む罪なり。 自他に罪の心得あるべし。

一、 不調法いたした人を見て慎み、 手柄いたした人を見てまねすべし。 さすれば世間に笑う人はなし。 不調法する人もわが師匠なり。

一、 女の美なるは傾国の端なりといえり。 よって、 女房は美女はわるし、 心ばえのよろしきを吉とせよ。 また、 姑に似た嫁が来るという。  さすれば代々に悪方なり。 よって、 きりょ う好みすな。

一、 旦那も心得あしく、 慎みもなく、 行いもあしきは、 結構な瓦家におるは、 蒔絵の重に茶のかすを入れたかみしもようなものなり。  また、 絹の着物で上下を付けたら、 腐りたる瓜を錦のふくさにつつむようなものなり。 慎むべし。

一、  四十歳までの無事しあわせは役にたたず。 若きときは難儀して、  老いてしあわせが大いに吉。 よって、出家も武家も難儀いたしたほど大徳なり。 末を思ってシンポウせよ。

一、 しあわせは勤めとシンボウの報いと知れ。 ほかにしあわせも運もなし。

一、 朝早く起きてよく勤めたら、 八百万の神々もよく守護しなさる。 どうらく(道楽)ものが頼みたりとて脇見してござるなり。

一、 むそう働け、 清う食えといえり。 たとえ牛馬の糞を手でこねても、 家業ならばよく勤めよ。 また、 清う食えとは、 いげ豆一勺でも、 盗みた物を食うな。

一、 運は栴が大いに吉、 運次第運次第とはいうべからず。 倹約してよく働けば、 必ず必ず運来たるべし。    一、 今日より騎奢と思う人は一人もなし。 これだけのことは大事なし、  これだけは大事なしと、 じりじりといつの間にやら騎奢となる。 万事分限をせよ。

一、 きさまはそのようにしていつまでいきる、  また持て死ぬるかというやつあり。 親の名跡あり、 子孫あり、 家は末代なることを思わざるべからず。

これみな金石の訓言なれば、 世に生まれて身を立てんとするものは、 よろしく服贋すべし。

 

第六二話    余の伝記

近来、 伝記大いに流行し、 存命中、 自ら筆をとりて己の伝記を吹聴する人あり。 世に功労のありたる人は可なり。  さほどの人物にあらずして伝記を吹聴するは、 恥ずかしきことなり。 先ごろ書林の来たりて、 余の伝記を記せられんことを請う。 余、 たちまちその属に応じて、

人以云有レ伝為伝、 余以無伝為伝。

(人は伝えるものがあって「伝」を作る。 余は伝えるべきもののなきをもって「伝」となすのである。)と書してこれに授く。



第六三話    自己を評せよ

近年の学生は、  ことに他人を評することにその妙を得たるがごとし。 しかして、  その一身は言語道断のもの多し。  ゆえに、 余は学生を戒めて曰く、

他人を品評するよりまず自己を品評せよ。

終日他人を品評するも、  その身になんらの得るところなし。 あたかも他人の財産をかぞうるがごとし。  これ、あに愚の至りならずや。



第六四話    人は多方面なり

世間のもの、 他人の立身出世を見て、 彼は無学なり、 彼は高慢なり、 彼は不品行なり、 彼は不人望なり、しかるに、 かくのごとき富貴利達を得たるは全く撓倖なりなどと評して、 その人を擦斥せんとする風あり。  これ、 人の多方面なるを知らずして、  一方面なるがごとく心得る過失なり。 とかく学者は、 人を評するに学問の有無を標準とするも、 人の世に立ち、 事を成すには、 学問のみの力によるべからず、 学問のほかに実地の経験も必要なり、 才能機敏も必要なり、 辛抱の気風も必要なり、 勤倹の習慣も必要なり。  そのうち    つを欠くも他を具するときは、  一人前以上の事業を成し遂ぐるを得るなり。  すなわち、 世に学問なくしてよく大事業を成功し得たるものは、 必ずほかの点において人に超絶するところありしは疑いなかるべし。  ゆえに余は、 人おのおのその修めたる因に相応じたる果を得るものにして、 真に撓倖というべきものはいたって少なしと信ずるなり。 しかして、 世の学者が学問の一方面をもって人を品評上下するがごときは、 余があえて取らざるところなり。  これを要するに、人は世に撓倖なしと信じて、 奮然自らっとめざるべからず。



第六五話    実行は難し

人を品評するはやすく、 自ら実行するは難し。 諺に「子を持ちてはじめて知る親の恩」、 また「子を持った後の心にくらぶれば、 昔は親を思はざりけり」とあるがごとく、 なにごとも自ら実行を試みて、 はじめて他人の歎難辛苦を思いやらるるなり。  ゆえに、 もし人を評せんと欲すれば、 まず自ら実地に試みてのち語るべし。  いたずらに空言を弄するなかれ。



第六六話    天    税

人、 なにほど賑難し辛抱し勉強しても、 なお種々の天災不幸を免れ難きは、 世間一般に迷うところなるも、  よそ人事には人力の及ぶものと及ばざるものとあり、 意のごとくなるものとならざるものとあり、 天災のごときは人力のいかんともすべからざるものなり。 ゆえに、 余はこれを名づけて天税という。 あたかも爵に人爵、 天爵の二種あるがごとく、 税にも人税、 天税の二種あり。 人税とは政府にて課するところの税にして、 天災のごときをいうなり。  けだし、 人生じて一定の国土に住するときは、 必ず政府に向かいて人税を納めざるを得ざるがごと一定の生物界すなわち人間界に生存する以上は、  また必ず天税を納めざるべからず。  ゆえに、 不幸にして天災にかかりたるときは、 天税のかかりたるものと心得て、 あきらむるを肝要とす。第六七話    安心税天税のほかに安心税あり。 安心税とは、 安心を得んがために支出するところの諸費をいう。 その税中、 最も大なるものは宗教に向かいて支出するところの費用なり。  わが国にありて、 人民が毎年神社仏閣に納むるところの金額は実に莫大なるものなり。 いずれの人も損得を知らざるものなし。  すでに損得を知りながらかかる大金を神仏に費やすは、 ただ一口に迷信または習慣というべからず。  これみな安心のために支出するところの税なり。  医者、  医薬等に費やすところの諸費も、 いくぶんの安心税を含むものと知るべし。



第六八話    心理療法

余、  かつて心理療法を唱え、 精神上病気を治療する法ありと信じおりしに、 その後、 今泉玄祐の著たる「療治夜話    を読むに、 その中に移精変気の法を解けり。  これすなわち余が心理療法なり。 その書に曰く、

それ移精変気とは移しかうるなり。  すなわち精神を移しかうるなり。 変は変え改むるなり。  すなわち心気を変え改むるなり。  すなわち、  この心に迷いを生じて病を醸しなすことあり。  そのとき、 その病の根元をたずね求めて、  その迷いを説き解いてその病をいやすの法なり。 医の万病を療治する、 必ずこの意を心に含みて療治すべし。 中にも心気病のごときは、 ぜひにこの法を行われざれば、 ただに服薬のみにては、 なかなか治することあたわざるものなり。 人は七情によりて病を生ずること最も多きものにて、 世に心気病を患うる人もまた多きものなれば、 よくその心気病たるを診し得て、  この移精変気の法を行うときは、 言外の奇効を得ることあるものなり。

移精変気の法は最も広きことにて、 そのときに臨みその人に応じてこれを行うべし。しかしてその証明を古書に求め、 左の数条に分かちて示せり。

術をもって病者の心を転じて治すること。口語をもって病者を説諭して治すること。法をもって病者の心を変じて治すること。

疑惑によりて病を生じ、 その疑惑を解きて療治すること。そのいちいちの実例は本書につきて見るべし。



第六九話    信仰療法

余はまた心理療法の第一は信仰療法なりとて、  医者の人を療するに、 診察投薬の力よりは、 むしろ病者が医者、その人を信ずると信ぜざるとの方、 大いに医治上に効験ありといいしが、「療治夜話あり中にもこれに類したる語医たるもの、 常に移精変気の法を心にたくわえて治療するときは、 言外の奇効を得ることあるものなり。もっとも療法に臨むときは、 医の心中まさに病を治するの意純一にして、 篭も他意を挟まず、 厳密に四診

(望、 問、 聞、 切)をもって診察し、 医案を定めて療治すべし。 しかるときは病人、 医者を信心するの意おのずから生ずるものなり。 信心の意生ずるときは、 服薬せざる前、 すでに病勢十中の一を減ずべし。 しかして薬を投ずるときは、  その効実に速やかなり。  これまた移精変気の法にして、 すなわち兵家にいわゆる敵の鋭気をくじく法なり。

なお本書には、 著者が諸病客にこの移精変気法を施して効験ありし例証を示せり。 しかれども今日の医家にありては、  この心理療法を排斥する風あり。  ゆえに、 余はこの療法を教育家および宗教家の任ずるところとなさんとす。  しかしてこれに関する意見は、 他日を待ちて発表すべし。


第七 〇話    応声虫

「三国塵滴〔問答〕」に応声虫の話あり。 曰く、「応声虫といえるは、 人の腹中にて物言うたびごとに、 同じように返答するに、  医者も療治の手にあぐんで、 病人にすすめて本草の薬名をよませければ、 雷丸の条下に至りて声なし。  すなわち雷丸を付方として療治せしかば、 全く平癒したり」とあり。  これ、 西洋のいわゆる腹話術に似たるも、 さきごろ丸茂医学士の話に、「己の引き受けたる病客中に、 腹中にて巧みに声を発するものあり。  これ、腹中の空気の加減によりて発するものならん」という。「三国塵滴」の応声虫も、 けだしこの類なり。



第七一話    犬    神

また、「三国塵滴〔問答〕』に犬神の問答を出だせり。

問い。土佐の犬神、 安芸のトウビョ ウ、 備前のスイカズラなど申して、 下劣もののするわざに、 物を呪いて人にとりつかせ苦しめて、 金銀、 絹布をむさぼること多く相見え候。 唐にも定めてかようのわざをなすもの候うや。

答え。唐には国広く、 北は鞄鞄、 西は天竺、 南蛮の国々はてしなければ、 かようの怪しき術、 非常の業はなおもって多きことなり。 金蚕などと申すことも犬神に似たることなり。 重ねてこれは申すべし。 まず猫鬼と名づけてよく似たること候。『野客叢書」に出だしていわく、「南北朝のとき虫毒多きが、 中に猫鬼というあり。 隋の独孤施が伝に見ゆ。 その家、 毎夜子の時をもって猫鬼をまつる。 その猫鬼つねに人について殺すときは、 その殺さるる家の財物、  ひそかにいつとなく猫鬼を蓄う家に移り来るという。  これによりて、 そのとき世詔を下しこれを禁ずること、 はなはだっ とめてせんさくあり。 猫鬼を蓄うものをば、 遠国の離れ島に投ずという。 はじめこの猫鬼といえるは、 なにものたることをさとらざりしに、 巣氏、 病源をみるによってこれを知る。 猫鬼というはすなわち老狸野物の精、 変じて鬼域となって人によりつき、 人また術をもってこれをつかい、 人を毒害す。 その病、 心腹刺すがごとく、 痛く人の腑臓を食い、 吐血して死す。 すなわちこれ猫鬼のなすところなり」とある。  これを虫毒といえり。  日本の犬神はかくのごとくに人を害するに至らず、 ただいったんの物とりにすることと見えたり。犬神は土佐のみならず四国いたるところに唱うるものなるが、 出雲の人狐、 信州のオサキ等と同じく、 精神病の一種にほかならざるなり。



第七二話    狂をいやしたる話

余、  これを播州〔兵庫県〕巡遊中に聞けり。 播州某地に一人の小学教員あり。 生来数学のオに長じ、  かつこれを好む。 しかるに、 あるときより精神錯乱して事理を弁ぜず、 すなわち精神病の状態を呈せり。  これにいろいろの治療を加うるもその功なし。 しかるに一日、 友人たずね来たり、 数学の問題を示し、 その解法を問うに、 当人大いに喜びて一心に工夫を凝らせし間に、 たちまち精神のもとに復するを見たりという。  これ一種の治療法なり。

 

第七三話    精神の力よく病を起こす

加州〔石川県〕能美郡草深村〔現・川北町〕、 藤原某氏の実験談は、 精神と病気との関係を知るに適すれば、  ここにその談話のままを掲ぐ。 藤原氏、 先年二、 三月ごろ、 少々風邪の気味にて、 ときどき咳と痰との出ずるあるも、 格別意にとめざりしが、 ある朝起きて庭前に向かいて痰を吐き出だしたるところ、 その色赤くなりて見えたれば、 自ら肺病なりと速断し、 急に心臓の動悸大いに高まり、 体湿も平熱以上にのぼりたるがごとく覚え、 食事進まず、 気分快からず、 早速臥床に就き安臥するに、 病勢ますます進み、 咳も痰もようやく加わり、 自ら思うに余命一年を保ち難しと。  死後のことなどを想像し、 苦悶胸に余るほどなれども、 その実を家族に打ち明かしたらば、 定めて非常に心配せんことを恐れ、 終日秘して人に告げず、 ただ独り憂慮しておりしが、 とにかく明朝は遠方より名医を聘して診察を請わんとて、 まず自分の吐きたる血痰を検するの必要ありと思い、 夕刻庭前に出でて、

これを探り見るに、 朝時に血痰と認めしは全く誤りにて、 己の吐きたる痰が地上に落下せる椿花の断片に付着し、  一転して痰の上に花片を浮かぶるに至りたるものを、 縁側の上より望みて血痰なりと誤認したるに相違なきことを発見し、 自ら全く肺病にあらざることに疑念全く晴れたれば、 心臓も体温もともに常態に復し、 気分もにわかに爽快になり、 食事も急に進み、 平時の健康と篭も異ならざるに至れりといえり。 もし、  その椿花の断片なることを発覚せざるにおいては、 多分肺病患者となりて、  ついに不帰の客となりたるに相違なかるべし。 けだし、 世間にかくのごとき精神作用によりて病気を起こせし例、 必ず多からんと信ずるなり。


第七四話    加能越三国の境

余、 先年能州〔石川県〕河合〔谷〕村〔現・津幡町〕に入り、 本年また加州種谷村〔現・津幡町〕に至る。 ともに加能越〔石川県・富山県〕三国の国境なり。 演説の聴衆中には、 三国の人をあわせ見るを得たり。 よって、 余は一堂併見三国人といいたれば、 その国境の所に標木あり。 通行の者、 馬をこの標木につなぎていこうに、 その馬三国の草をあわせ食すという。 よって、 さらに一馬併食三国草と詠じたり。



第七五話    分水駅

いずれの地にありても、 河流の水源は必ず一帯の山脈より発し、 その両面おのおの水源を異にす。  ゆえに、  これを分水嶺と名づく。 しかるに丹波国氷上郡石生村〔現・氷上町〕は郡内の一小駅なるも、 街路の北側より流下する水はようやく流れて北海に入り、 南側より流下する水は別に流れて南海に入る。 その中には一棟の家屋にして屋根より落つる雨水が、 前面は北海に入り、 後面は南海に入るものあり。 かくのごときは分水嶺にあらずして、分水駅といわざるべからず。


第七六話    牛    カ

山陽道より山陰道に越ゆる所、 近来車道を開きたるも、 道なお険にして人力よく車を動かし難し。 よって、 人の代わりに牛を用いて人力車を引かしむ。 丹波より但馬に越ゆる間にも同様の所あり。  これ、 人力にあらずして牛力というべし。


第七七話    本邦のアラピア

加州〔石川県〕河北郡木津村〔現・七塚町〕は一帯に砂漠にして、 灌漑水はもちろん飲用水も欠乏し、  一村二百戸以上に対し、 共同用の井戸一個あるのみ。  この水を運搬するに、 その遠きは一石につき十銭を要し、  一家の需用、  一年およそ十五円を要すという。  ゆえに、 毎戸雨水を貯蔵する方法を設け、  一滴の雨もむなしく消失せざるように注意す。  これ、 実にわが国のアラビアなり。  かくのごとく水に乏しき場所なれば、 火災の節、 消火のために水を用いずして砂を用うという。 砂や土は火を滅するに適当するものなれば、 ほかの地方にてもこれを慣用して可なり。



第七八話    北国の三大都

北国の三大都といわば、 加州〔石川県〕の金沢と越中の富山と越前の福井なることは、 問わずして知るべし。  この三大都が互いに申し合わせたるがごとく、 縁起のよき名を有するは奇というべし。  すなわち、  金の沢と富の山と福の井戸なり。  かかる名を有する以上は、  この地に住するものは名実相応するように望まざるべからず。


第七九話    播州赤穂の二大名物

播州〔兵庫県〕赤穂の名の海内に高きは、 義士と製塩あるによる。 義士のいわゆる義は精神の本となり、  塩は調理塩梅の本となる。  ゆえに余、 題して曰く、「義者心之養也、  塩者身之養也」(義なるものは心の栄餐であり、 塩は身の栄養である)と。  一は有形、  一は無形の別あるも、 その養本たる点においては一なり。  ゆえに、  この二大名物は互いに関係ありと知るべし。



第八〇 話    越前の七不思議

余は妖怪研究以来、 各国巡遊中、 その耳目に接触して    いやしくも奇異の感を誘起するものあれば、  これを収集して、 その中より七種の不思議を選定するを例とす。  さきに能州七不思議、 紀州七不思議を選定し、 今また越前七不思議を選定す。  すなわち左のごとし。

第一、 福井市橋本景岳先生の墳墓

はるかにその芳名を聞き、 いかに神社然たる霊廟ならんと想像してその墳墓に詣するに、  四辺の光景さらに墓場の体裁をなさず、 殺風景の中に一大偉人の眠れるを見る。 だれかその予想外なるに驚かざるものあらんや。  これ、  七奇の第一にかぞえて可なり。

第二、 三国町小学校の構造

全国の小学校中、 構造のこれより美なるものあり、  また規模のこれより大なるものありといえども、 三国町小学校のごとき城楼的または望楼的大観を有するもの、 他に決して見ざるところなり。  その壮観、 実に全市街を鎮圧する勢いあり。 遠くこれを望むに、 田舎の参謀本部然たる学校なり。  ゆえに、 これを七奇の一っに加うるも、  おそらくは他に比して遜色なかるべし。

第三、 坂井郡 棗 村〔現・福井市〕願念寺の石額、  および鷹巣村〔現・福井市〕専念寺の棺石

願念寺の石額はその形畳一枚より大なるに、 文字をその上に刻し、  これを本堂の扁額となす。 他に多く見ざるところなり。 専念寺の手洗い石は古代の石棺にして、 長さ九尺、 幅四尺ほどの大石なれば、  これ実に希有の遺物なり。  この二者ともに石類なれば、 これを束ねて一奇となす。

第四、 丹生郡四ケ浦村〔現・越前町〕善性寺の本堂

善性寺の本堂は二階建てにして、 階下に庫裏を置き、 階上に本堂を設く。  すなわち一棟の下によく庫裏と本堂とを併置するものなり。  けだし、 全国十万以上の伽藍中、  かくのごとき堂宇は唯一無二というべし。 今より後は三都をはじめ各都会の地面高価なる場所は、  みなこの本堂に倣って改造してはいかん。 必ずや将来、 堂宇建築の一模範となるべし。

 第五、 丹生郡糸生村〔現・朝日町〕浄勝寺の蔵経

蔵経六千巻の多き、 よく一代の間に三遍通読校閲し、 句読を施し誤脱を正し、 毎巻ていねいに書き入れをなし、 巻尾にいちいち閲了の年月を記せり。  これ、 実に驚くべき大事業なり。 到底今人の企て及ぶところにあらず。

第六、 今立郡池田村〔現・町〕飯田広助氏の居宅

全棟大槻をもって構造し、 柱の太さことごとく一尺三寸角にして、 横木の厚さ三尺以上なるあり。 寺院の本堂といえども三舎を避くる勢いなり。 要するに民家建築としては、 全国に無類のものなるべし。

第七、 大野郡勝山町〔現・市〕の鮎料理

大野地方はすべて鮎をもって夏期の特産とす。 したがって、 その調理法の発達せること全国第一なり。 なかんずく鮎の刺身は、 他にいまだ聞かざるところなり。  この刺身の料理は大野、 勝山両町に行わるるも、  これを発明したるものは勝山町にありという。 今、  これを七奇の最後に加うるなり。



第八一話    無鬼門

余、 本年居宅を新築し、 これを名づけて有福堂という。 庭園に一小門を設く。  これを名づけて無鬼門という。無鬼門は有福堂の対語にして、「福は内、 鬼は外」の義を取るなり。 また無鬼門とは、「鬼門なし」の意に解するも妨げなし。

 

第八二話 孔子、 怪力乱神を語る

ある人、「孔子は怪力乱神を語らず」といえるを難じて曰く、「「大学」には、 孔子自ら十目十手の怪物あることを説けり。  その証拠は「十目所>視、 十手所>指」 目の視るところ、 十手の指すところ)とあり。 これ、 怪力乱神を語るものというべし」と。  この話はあたかも昔話に、 ある漢学者が、 人の股にはれもののできたるを見て曰く「これ瘍なり」と。 怪しみてその故を問えば、 答えて曰く、「「詩経」に、 桃(股)の夭々(瘍々)とあるにあらずや」といえるに同じ。

 


第八三話 白髪とやかん

すべて物事には幸と不幸とあり。 肺病も胃病も同じくこれ病気にして、 胃病にかかりたるものあれば、 人これを斥して過飲暴食の招くところとなし、 肺病にかかりたるものあれば、 人これを憐れんで勉強励精のいたすところとなす。  これと同じく、 人老いて頭上白髪をいただくものと、 やかんを呈するものとあり。 人、 白髪を見れば苦労の果となし、 やかんを見れば大酒の果となす。 余はやかんの恐れなきも、 白髪の兆しあり。 早晩、 半白の老翁となるべし。  これをやかん連に比すれば、 まず幸福の方なり。

 


第八四話 念仏と題目

日蓮宗村雲尼宮殿下、 信州〔長野県〕善光寺に詣り、 仏前に参拝して最初九遍は題目を唱え、 最後の一遍は念仏を唱えられたりと伝う。  これ、 いわゆる「郷に入りては郷に従う」の諺のごとく、 寺に入りては寺に従うものというべく、 誠に敬服の至りなり。 今後もし、 善光寺の本願上人身延山へ参拝あらば、 最初九遍は念仏を唱え、 最後の一遍は題目を唱うべし。  かくして前後差し引き勘定すれば、 題目十遍と念仏十遍の割合となる。


第八五話

世に気がききて間のぬけたるものあり、  また気がきかずして間の抜けたるものあり。 しかしてその人いたって正直なるあり。  これを愚直という。 越後三条町〔現・市〕は毎朝夕、 河水をくみとりて飲料となす。 下男に雇わるるものは、 必ず水を荷桶にて運ぶことを常業とす。  一人の愚直なるものあり。 水を運ぶに慣れず、 途中過半を外へこぼせり。  主人これに教えて曰く、「尻を振ればこぼるることなし」と。 しもべ謹みて諾し、 そののち水を運ぶに、 途中水の桶よりこぼるるごとに、 その桶を地上に置き、 独り自ら尻を振り立て、 暫時にしてまた桶をにない、 水の外に落つるを見れば、 また前のごとく桶を地上に置きて尻を振れり。  人みな指してこれを笑うも、 自ら覚えざりきという。 余、  その愚直というべきか、 あほうまたはばかというべきかを知らざれども、 世にかくのごときものは決して少なからざるなり。


第八六話    小学教員の質問

ある地方の小学教員が、 郵便局にて書翰の上に粘付せる郵券の消印を忘れたるもの二、 三枚を添え、 余に、 再びこれを用うるは道徳上可否いかんの質問を寄せられたり。 その意に曰く、「ひとたび粘付したるものを(たとえ消印なきも)、 再び用うるは法律の禁ずるところなり。 さりとてこれを棄失するは濫費の恐れあり。 はなはだこれが取捨に苦しむ」と。 余おもえらく、 かくのごとき場合に自ら正路を取らんと欲せば、 その郵券を郵便局へ返納するよりほかなかるべし。  さりながら、 道徳の善悪をかかる瑣々たる小事の上に論ずるは、  一種の病的道徳に陥らざるべからず。 けだし、 今日の道徳上論ずべき問題中には、  これより重大にしてかつ急要なるもの多し。世の教育家、 よろしく病的に陥らざるように注意すべし。



第八七話    専門家の所見

人はその境遇とその職務とによりて、  おのおの見るところを異にす。  理学者より世界をみれば、 万事みな理学となりて現れ、 哲学者より世界を望めば、 万有みな哲学となりて見ゆるものなり。 余、 かつて「数度雷談」と題する一書を読み、 その書中に世界人事すべて算数のほかに出でざることを述ぶるを見て、 専門家の識見はみな、かくのごとくならざるべからざるものと思えり。  その書は昔日の数学随筆なり。 左にこれを抜抄す。

問いて曰く、「なにがしは算学熟する名人なりと。  この人はいかなることを会得するや。 天文を測り、 暦を造り、  七曜の運行、 日月の食のごとき、 みな算術をもって考え知ること実に大なることなれども、 その算術、 開平方の上に出でず。 田野の検地、 税務の法則、 または客殿を営み、 城を築くの類、 商工の器財を作り、 売買の損益にいたるまで、 算術を知らざる人もその業をつとめて世を渡ること、 算術熟する人と異なることなし。  されば、 算道の大要とするところは、 なんらのことをいうや、 その説を聞かん。」

答えて曰く、「足下の問うところ、 はなはだ理にあたれるに似たり。 世人みな、  この理に惑えり。  これ、算道の世に用いられざるゆえんなり。 しかれども前章にいうがごとく、 数は自然の数にして、 三オの道これを免るることなし。 その用たる算道なれば、 大要なくんばあるべからず。  それ、  つつしんで命を上帝に受け、 百官を万邦にのぞみ、 万民を撫育して四海を統御するは、  これ天子の算なり。  治にして乱を忘れず、 乱にして治を忘れず、 外に文事あるときは、 内必ず武備を全うし、 外に干文の変あるときは、 内必ず文徳をおさめ、  これが基本とし、 用を節して民の時を奪うことなく、 常に兵を習わし武を講じ、 朝廷の干城となるは、  これ諸侯の算なり。 士農工商おのおのその家業にうとからず。 倹約を守り奢を省き、 分限相応の楽をもって身を養い、 日々にその業をつとめて家をととのうるは、 これ庶人の算なり。  上、 天文に通じ、 下、 地理を察し、 虚をいたし静を守り、 数学の玄々を極め、 権変を知り、 人事の数に惑わず、 数の死活を悟るは、  これ君子の算なり。 算をもって己を利せんことを欲し、 怪談をもって人を惑わし、 誉れを求めて人世に迂遠なることを好み、 空理を設け手段を争い、 我意をもっぱらにして人をそしり、 書を読むことを欲せず。  ゆえに、 野にして文なく、 算学の人をして劉累が徒たらしめ、 惜しむべき日を費やし、 進むべき人を堕落せしむるは、  これ小人の算なり、 云云  ゜

その論たる、 もとよりコジッ ケ理屈なれどもかるべからず。一科専門の士には、 必ず世界をその専門に化せしむるの識見なり。

 

第八八話    夢遊集

「夢遊集」の「序文」には、 世界ことごとく夢なりと観じ、  一も夢、  二も夢、 三もまた夢と見たるもおかしきことなり。 左にその文を転載せん。

夢の世に夢のみおもふ夢心、  かたるも夢か夢のさめなで。 花も夢にさき、 柳も夢に緑なり。  月も夢に照らし、 風も夢に吹き、 こしかたはすぎつる夢、 未来は行く末の夢、 現在は目のまえの夢なり。 有情は夢にまよい、 仏は夢にさとりたまう。

うつつも夢とおもへとも、 夢には夢を 現 とぞおもふされば、 夢と思うも夢ならんか。 目をとじて夢をかたり、 目をひらきて夢をかたる。  これは夢か夢にあらざるか、 夢のうちに大河におちて渡らんとするゆえに、 大勇猛の心をおこして上るべき行をなす。  その行によりて夢覚めたり。 覚めてみれば行も夢、 大河も夢なりと、 はじめの御法に説きたまいけり。 されば、 夢の中の苦しみは、  現 の苦しみにかわりなし。 苦にかわりなきときは、  上るべき行をなしたるも、 いたずらならず。 生死の長夜にまよい、 無明の眠りふかく、 是非の夢を苦しむ人は、 智識をたずねて正法を求め、 念仏して念仏し、 経を読みて心を知らんもいたずらならじ。  いずれにても大信心をおこし、  この心清浄なるときは、 生死涅槃もきのうの夢のごとし。 正信なくて夢をさめんと思う人は、 はしごなくて天にのぼらんとせんに似たり。  わが身夢にありながらも、 人の夢あわれまざらんとにあらず。 夢の心うつりゆくよしなしごとを、 そこはかとなくかきちらせば、 あやしうこそものぐるをしけれ。  さめて夢をかたるとにはあらず、 かたるも夢と本意なくおもう。 思いながら夢ものがたりするうつつなさに、 ただこれ夢の中にあそびたわむるわざなれば、 名づけて「夢遊集」というなりかし。

わずかに一枚に足らざる「序文」中に、 夢の字三十九見えたるは驚くよりほかなし。  かく人間万事みな夢なりと説くがごときは、 余が感服せざるところなり。  されど、 もし世界ことごとくこれ夢なりとみきたれば、 夢にあらずと知るも同一に帰すべし。



第八九話    謎の詩

シナには、 詩句をもって謎を組み立つるもの多し。  その一は「用字」の謎なり。

一月復一月、 両月共半辺、  一山又二山、 三山皆倒懸、  上有二可>耕田一 下有二長流川一 六口共一室、 両口不ーー団円

(一月また一月、  二つの月形は共に半分ずつ、  一山また一山、 三つの山形はみなさかさまにかかっている。上には耕すべき田(形)があり、 下には長く流れる川(形)がある。 六つの口は一室を共にし、  二つの口はまとまっていない。)

その二は「門字」の謎なり。

惜 花間紅 日西墜、 閉朱戸  不見 多オ傍 欄奸  東辺隠隠、 悶無心瀬傍 粧 台

(花間に惜しみて紅日西に沈み(日を取る)、 朱戸を閉ざして多オなる者を見ず、 欄杵をかたわらに東辺かくる。 悶して心無く粧台にそうにものうし。(日・オ・東・心を取り去って門とする))

また「君子不器」の謎あり。

群羊折散覚何之(君)、 孫学無レ之不自見レ糸(子)、  一介人児頭頂>板(不)、  一工四口共相依(器)。

(群羊散らばってついにいずこにか行く(君)。 孫の学はなく糸をみず(子)、(不)、 ーエ四口ともにより集まる。(器ー  器の俗字))また「春夏秋冬」の謎あり。

ー人の児頭に板をいただ<三人同行去観>花(春)、 百友元来共一家(夏)、 禾火二人相対坐(秋)、 夕陽橋下一双瓜(冬)。

(三人同行して花をみる(春)、 百友はもとより共に一家(夏)、 禾火の二人がたがいに対して座し夕陽の橋下にふたつの爪(冬)がある。)秋)、

かくのごとく韻字平仄までを考えて謎を作るは、 その苦心、 察するに余りあり。  されど、 かかる無益のことに心力を労するは愚の至りなり。  一場の慰みに謎を案出するは、 あえて一興なきにあらざるも、 これに思慮を労し工夫を凝らすがごときは、 青年、  学生の大禁物と知るべし。



第九〇話     古詩の改作

およそ人たるもの、 事に感じ物に触るるときは、 その思うところを詩に賦し歌に詠ずるは、 己の情を慰め心を楽しましむる益ありといえども、 あまりこれに苦心するはよろしからず。 余は旅行中、 山光水色に接するごとに、  これを詩に写して人に伝えんとするも、 生来文芸のオに乏しきものなれば、 詩句その意に任せず。 かくのごとき場合には、 古人の詩中その風光に近きものを取りて、 多少の改剛をその上に施すこととなす。 例えば、 越後の国にありて晩晴のありさまを賦せんとするに、 明人の詩に、

水国秋来少>見乙晴、 夕陽忽映二小窓一明、 西風颯颯林間葉、 乍聴猶疑是雨声。

(水辺の多い地に秋がきて晴れる日を見ることもまれになった。 夕日が忽然として小窓を照らして明るい。西風がさかんに林間の葉を吹きぬけ、  ふとあるいは雨の音かと聞いたのであった。)

この詩の「水国」を「越国」に改めきたれば、 まさしく余が意を詠じたるものとなる。 また、 友人の北越に帰るを送らんとするときには、 賣至の李侍郎を送る詩に、

雪晴雲散北風寒、 楚水呉山道路難、 今日送レ君須レ尽レ酔、 明朝相憶路漫漫  ゜

(雪がふりやんで雲も散り、  北風が寒い。 楚の水、 呉の山はいずれも道路は困難がつきまとう。 今日、 君を送るに酔を尽くすべきであろう、 明朝にはおたがい路のはてしないことを思うのだから。)

とあるうち、 第二句の「楚水呉山」を「信水越山」に改むれば可なり。 必ずしも毎句を新たに案出するに及ばず。 しかるときは、 人あるいはこれを評して剰窃といわんも、 今日のいわゆる新発明、 新工夫を見るに、 その多くは古人の工夫せるものに多少の新趣向を加えたるまでにて、 全分全体を工夫せるにあらず。 しかるにこれを剥窃といわざる限りは、 詩歌においてひとり剥窃視する理あらんや。 要するに、 余は詩歌のために過度の思想工夫を労するは、 愚の極みとなすものなり。

 

第九一話    方言歌

元来、 詩歌の本意は思慮工夫を凝らすにあらずして、 たまたま事物の心に感ずることある場合に、 その感が心中にあふれて言外に発するときに、 詩となり歌となるのみ。  ゆえに余は詩も歌も、 今よりようやく言文一致の方針を取らんことを望む。 世間にて方言あるいは俗語をもって狂句体に詠みたる歌に、  すこぶる味あるものあれば、 俗調決して排斥すべきものにあらず。 先年、 水戸にて聞きたる歌に、 水戸の百姓が烈公〔徳川斉昭〕の上京を祝して詠みたりと伝うる方言の歌あり。

筑波山、  つくばつてさへでつかいに、  立っ たら天をつんざくだんべこれ大いに味あり。 また本年、 越前にていたるところ、 春岳侯〔松平慶永〕を詠じたる俗歌あるを聞けり。春岳か按摩のやうな名をつけて、  上をもんだり下をもんだりこれもまたおもしろし。 余はかかる歌をもって正歌となさんとするなり。

 


第九二話 愛風の説

 シナにては儒教の弊として、 富をいやしみ貧を貴ぶ風あるより、 その極み 風 を愛するに至る。 笑うべきなり。

『娯息斎〔詩〕文集」に愛風の説あり。

およそ天地の間、 憎むべきものは蚤、 蚊、 蠅なり。 風はその形いたって静かにして、 少しく仁者の風あり。 交わりを襦袢の裏に結び、 形を縫い目の間に潜む。 飽くまで食い、  暖かに衣る。  風は虫の富貴なるものなり。 人を食いて、 悠々然として死を恐れざるは大丈夫なり。  これ勇にあらずや。 唐土の親玉曰く、「仁は必ず勇あり」と。  ゆえに、 われは風を愛す云云  ゜

風をもって虫の富貴なるものとなすはおもしろし。 それはとにあれ、 昔日の書生は多少の風を有せざるはなし。 書生にして風を有せざるものは、 書生の資格を欠けるもののごとく考えり。 しかるに、 今日は一人の書生として風を有するものなく、 もし書生にして風を有するものあらば、 ほとんど交際謝断の不幸を見るに至る。  これ、 書生の進化というべきなり。

 

第九三話 藤田東湖と原坦山

藤田東湖、 水戸にあるの日、 奥州〔東北地方〕よりはるかにその名を聞き、 その徳を慕って来たり面会を請うものありしに、 東湖多用のかどをもってこれを謝絶せり。 その人、 しいて請いて曰く、「あえて談話を望むにあらず、 ただお顔だけ拝すれば足れり」と。 東湖すなわち出でて来たり、 玄関の戸の間より顔を差し出だし、「これ東湖の面なり、 よろしく拝すべし」といいつつ、 ほかに一言を交えずして退けりという。 原坦山存命の節、 群馬県に遊びしことあり。  そのとき人あり、 絹地を携え来たり、 しいて坦山に揮憂を請えり。 坦山固く辞してその請いをいれざりしが、  その人再三再四懇願してやまざりければ、 坦山曰く、「なにを書きてもよろしきや」と。  その人曰く、「文字、 語句は師の意に一任す」と。 坦山すなわち筆を執りて絹地の上に「イヤダ、  イヤダ、 心カライヤダ」と大書せりという。  これ好一対の奇話なり。

 


第九四話 巻菱湖と勝海舟

 巻菱湖、 新潟にありて人のもとめに応じ、 神社の幡を揮篭せしに、 衆人群がりてこれを傍観せり。 その中の一人、「この字は実に美なり」といいて称賛したれば、 菱湖立ちて一拳を食らわせて曰く、「貴様らが字の巧拙を評するは無礼千万なり」と。 千葉県人、 勝海舟翁に揮奄を請い、 その礼として清酒一樽を持参して拝謁を請う。 翁すなわちこれに接見して、 大声叱して曰く、「余が揮篭をもって酒の一升や二升に比するか、 無礼の至りならずや。 余はかかる謝金や贈品に対して揮篭するがごとき不見識のものにあらず」と。  これまた好一対の奇談なり。


第九五話    旧弊の三大傑

明治の時代にありて旧弊の豪傑をかぞえきたらば、 浅田宗伯、 佐田介石、 平野五岳の三人の右に出ずるものなし。  この三人ともに西洋風をいとうこと蛇蝠よりはなはだしきも、 またおのおの、 そのいとうところを異にす。浅田宗伯は人力車を西洋風なりとてこれを用いず、 常に東京市中を駕籠にて乗り回れり。 佐田介石はランプは西洋風なりとてこれを全廃せんと欲し、 ランプ亡国論を唱うるに至れり。 平野五岳は西洋館を見ることをいとい、これを一見すれば終日頭痛を催すとて、 たまたま人車に乗じ西洋館の前に至れば、  つねに目を閉じて過ぐという。  これ、 旧弊の三幅対なり。

 

第九六話    余の豪傑

余の人にすぐれたるところ三つあり。 白昼いつにても自在に眠りに就くことを得る、 その一なり。日三度の食事中、  一食や二食を欠くも空腹を覚えざる、 その二なり。 連日徒然として一室に孤居するも、  さらに退屈を感ぜざる、 その三なり。  この三つを除きて、 そのほかは平々凡々たるのみ。


第九七話    学生の複産業

近年、 農家の複産業を設けんとて、 しきりにその急要を説くものあり。 しかるに余は、 複産業の急要はひとり農家に限るにあらず、 学生にもその必要あり。  学生の修むるものに正科と傍科とを分かち、 傍科は正科の余暇をもって修め、 むなしく碁、 将棋、 カルタ等の遊戯に費やすところの時間を利用するものなり。 例えば哲学館の学科を正科とすれば、 その余暇に傍科として、 あるいは詩歌、 あるいは習字、 あるいは図画、 あるいは音楽、 あるいは茶儀、 あるいは挿花、 あるいは造化、 あるいは撃剣、 あるいは柔術、 あるいは園芸、 あるいは彫刻、 あるいは簿記、 あるいは速記等を修むべし。  これすなわち複産業なり。 先年、 越中人にして瀬尾某氏、 哲学館に在学し、 その余暇に鍼医を学び、  幸いにその免許状を得て国に帰り、 口に哲学を講じ、 手に鍼術を行い、  一身に両様の所得ありて、 財政したがって富裕なるを得たりという。  これ、 余がいわゆる複産業なり。 諺に「口も八丁手も八丁」とはこのことなり。  ゆえに余は人はすべからく十六丁あるを要すといえり。 十六丁とは、  口の八丁に手の八丁を合したるものをいう。


第九八話    貧生の学資を得る道

アメリカにては、 貧生が半日労働して、 よく半日の学資を得るというも、 わが国のごとき労力の安き国にありては、 労働によりて学資を得ること難し。  ゆえに、 他にしかるべき方法を講ぜざるべからず。 その一法として余が案出せるものは、  上京留学費毎月十二円と定むれば、 同郷の知己および有志十二名に請いて、 毎月一円ずつ出金せしめ、 卒業後何年の間に、 漸時に返済する契約を結び、 もし半途にて病死する恐れあれば、 返済すべき金額に相当する生命保険を約し、 万一の場合には、  この金によりて返済の道を立つることにすべし。 例えば、 十八、九歳の者にして保険金四百円を得んと欲すれば、 毎年六円五十銭ないし七円を払い込めば足れり。 あるいはまた、 三年間の学資金を一人の篤志家より借り入れ、 成業のうえ返済の見込み立たざる場合には、 いつ死しても元金を二倍にして返済する約束を結び、 三年間の学資金仮に四百円と定むれば、 その二倍は八百円なり。 しかして八百円の生命保険料は毎年およそ十三円くらいなれば、  この保険料を払いおれば、  死時元金を二倍にして返済することを得べし。  この方法によりて学資を得るは、 労働によりて得るより容易なること明らかなり。



第九九話    時間は黄金より貴し

西諺に「時間はこれ黄金なり」とあるも、 その実、 時間は黄金よりはるかに貴重なるものなり。 なんとなれば、 黄金はひとたびこれを失うも再び得ることあり。  ひとり時間にいたりては、  ひとたび去りてまた帰らざるものなり。  人生の一日一時は万劫にも再び得難き一日一時なれば、 禄々として日を送り、 徒然として時間を消費するは、 実に終天の遺恨というべし。 人生再来を期すべからず。  一日再晨を得難きは、 学生の深く心頭に銘じて自ら戒しむべきことなり。  ことに少年の一日は、 老後に百倍して貴重なるものなり。 古歌に、

老いぬれば早くも歳のくる    かな、 昔しに同じ月日なれども

とありて、 少年のときは月日の移るを遅きがごとく感じ、 老年の後には速やかなるがごとく感ずるものなり。  ゆえに、 少年の一日は老後の百日にまさると心得て、 光陰を徒費せざるように心掛くべし。