3.妖怪学雑誌

P143

妖怪学雑誌

 

 

1. サイズ(タテ×ヨコ)

  220×149㎜

2. 刊行年月日

  第1号 (明治33年4月10日) から第26号 (明治34年4月25日) までの1年間,毎月10・25日の2回発行

3. 句読点

  あり

4. その他

  『妖怪学雑誌』は『妖怪学講義』初版の出版形態である『哲学館講義録』「第7学年度妖怪学」

(巻頭)

  全24冊を再刊するために発行された。その際,論説・雑録・雑報等を付加して雑誌の形態とし,平均100頁ほどで構成された。収録にあたっては,既刊部分である講義と哲学館・京北中学校等の広告は削除し,妖怪学に関する記事を雑誌の発行形態のまま収録した。

5. 発行所

  妖怪学雑誌社(哲学館内)

P145

妖怪学雑誌

第 一 号(明治三十三年四月十日発行)

妖怪学雑誌広告(過般の広告に「妖怪学講義」とありしを「雑誌」と改む)

 本雑誌は毎月二回(十日および二十五日)発行。毎号、左の数欄を設く。

  論説  雑録  雑報  講義

 「論説」および「雑録」は妖怪研究会長、文学博士井上円了氏の起草および談話にかかるものを掲げ、「雑報」は全国各地の報道にかかる妖怪事実を掲げ、「講義」は先年、井上博士より宮内省へ献上して、天覧の栄をかたじけのうせる、妖怪四百余種の講義を掲ぐ。その編目は左のごとし。

  総論  理学部門  医学部門  純正哲学部門  心理学部門  宗教学部門  教育学部門  雑部門

 この八大部門中には、古今東西の妖怪不思議に関する事項は、大小にかかわらず、たいてい網羅し尽くせり。

 その他、毎号巻初には、妖怪不思議、あるいは神秘霊妙にわたる図画、写真等を掲ぐ。まず本号には、井上博士が日本全国を一周し、各所の神社仏閣へ参詣の節、拝受せられたる御守り札を集めて、荘麗なる額面を作り、朝夕尊重に捧持せらるる宝物を縮写して巻首に掲ぐ。ゆえに、本号を購求せられたるものは、また、これを尊重に保存せられんことを望む。

 次号以下続々、珍奇希有の図画を掲ぐべし。

***

 余は全国の神社仏閣の御守り札を彙集して、他日、一大額堂を建立する意なれば、諸国の有志者より続々御守り札を恵贈あらんことを懇望す。御恵贈の節は、これを大切に捧持するはもちろん、本雑誌にそのことを掲記し、もって厚意に答謝すべし。

 余が昨今もっぱら研究するところは、長寿法、無病法、感通法なれば、医薬医療を用いずして病気の全治したる特例、および精神感通の実例あらば報道あらんことを請う。今後の雑誌へは右に関する実験を続々掲載して、読者の一覧に供すべし。

   以上二件 東京市小石川区原町哲学館内 井上円了 拝白  

論  説

真 怪 論 妖怪研究会長 井上円了述  

 世界の広き、万物の多き、そのうちにはいくたの妖怪あるを知らず。幽霊、狐狸、天狗のみ妖怪なるにあらず、天変も妖怪なり、地異も妖怪なり、発狂も妖怪なり、ペストも妖怪なり。しかのみならず、妖怪の方面よりこれをみれば、天地も日月も、山川も草木も、禽獣も人類も、耳目も精神も、一つとして妖怪ならざるはなし。仏教のいわゆる三界六道はみな妖怪なり。ああ、吾人はかかる妖怪世界に生存して、妖怪の空気を呼吸し、その生まるるや、いずれより来たりしを知らず、その死するや、いずれに向かいて去るを知らず。病患の発するも、災難の起こるも、自らこれを前知するあたわず、五里霧中に彷徨するものなり。これを妖怪と呼ばずして、なんといわんや。けだし、人の迷いかつ苦しむは、妖怪の妖怪たるを知らざるによる。なかんずく、病患の期し難く、生死の定まりなきは、人の最も迷うところなり。故をもって、いかなる豪傑も、死期に臨んでは神仏に哀れみを請い、いかなる博識も、災難にあいては宗教に心を動かさざるはなし。古今数千年間の歴史上、東西幾億万の生霊が、終身その心を苦しめたるは、全くこの点にあり。

 ゆえに余は、多年この迷苦を除きて、安楽を与うる道を発見せんと欲し、古今東西の哲学および宗教につき、もっぱら生死、禍福の理を講究して今日に至れり。これ、余が妖怪研究に従事したるゆえんにして、また、その結果を世間に報道するゆえんなり。

 妖怪の種類すこぶる多くして、そのいちいちを列挙し難しといえども、もし、その大要につきてこれを分かたば、偽怪、誤怪、仮怪、真怪の四大種となるべし。そのうち偽怪、誤怪最も多く、ほとんど十中の七八分を占むるがごとし。しかして、仮怪、真怪はわずかに二三分に過ぎず。しかれども、もし妖怪の道理を究め尽くすに至らば、一切の妖怪みな真怪となりて現ずべし。人みな妖怪を恐るべきものとなすは、真怪を知らざるによる。もし、その心中に真怪の道理を明らかにするに至らば、この多苦多患の世界が、たちまち楽園、霊境となり、仏教のいわゆる娑婆即寂光の実際を見るに至るべし。

 ゆえに、余の目的は全く偽怪、誤怪、仮怪を払いて、真怪をあらわすにほかならず。偽怪は霧のごとく、誤怪は煙のごとく、仮怪は雲のごとく、真怪は明月のごとし。仮怪の迷雲を払うにあらずんば、いずくんぞよく真怪の明月を見ん。もしそれ、中秋三五の夜、万里雲晴れて月まさに中するに当たりては、人みな天地の霊妙を感ずるがごとく、胸中の迷雲晴れわたりて、心天ただ真怪の明月を仰ぐに至らば、その歓楽果たしていかんぞや。生死、禍福より生ずるあらゆる不平も苦痛も、たちまち消滅し去るべし。

 しかりしこうして、真怪のいかんは、妖怪の門に入りて、その理を究め尽くすにあらずんば知るべからず。ゆえに、もし世間に生死の道に苦しみ、禍福の理に迷いて、これを払い去らんと欲するものあらば、請う、来たりて真怪の道理を講究せよ。

雑  録

妖怪窟雑話(〔第一回〕)〔不思議庵主人〕  

 世間の妖怪談中には、人の故意に作れるもの多ければ、いかに不思議らしく見えても、ことごとく信ずることはできませぬ。その一例として、御一新前の出来事なれども、ここに偽怪の一話を述べましょう。昔、山城の国伏見町に市郎兵衛と申すものがありましたが、平素深く仏教に帰依して、仏前の勤め怠ることなく、暇さえあれば御寺に参詣して説教を聴聞し、殺生戒を持ちて、蚤や蚊までも殺さぬほどの信者でありしゆえ、近所近辺にては、市郎兵衛殿と呼ばずに、仏様と名づけておりました。その仏様がある夜の夢に、阿弥陀様の来現ありて御告げあらせらるるには、「われは汝が隣家の門口の土中に埋められて、年久しく隠れておるが、汝が信心のあつきに感じ、特にそのことを頼むから、早く土を掘りてわれを出だせ」と仰せられしと覚ゆるや、間もなく夢がさめ、いかにも不思議に思い、翌朝早速、隣家の主人にその夢知らせの次第を語りけるに、主人これを信ぜずして、土を掘ることを許しませぬ。そうすると、その後毎晩続きて七日の間、同じ夢知らせがありました。そこで、隣家の主人もやっと承知して、門口の土を掘り五尺までに達したれど、なにも見当たりませぬ。よって、主人は夢の妄なるを言い張りて、再び掘ることを許さざりしも、市郎兵衛は強いて請い、さらに一尺余り掘り下げたれば、仏身の銅像が出て参りました。そこで、隣家の主人も大いに感服し、たちまち近所近辺の大評判となり、みなこれを聞きて「感得の妙である」と申しました。その後、地頭の役人が、右両人の挙動に疑わしきところあるを怪しみ、これを捕らえて吟味せしに、両人大いに恐れ、白状して申すには、その前年互いに相談の上、ひそかに仏像を土中に埋めおき、このごろ夢に託して利を得ようと企て、かく奸計をめぐらしたる由をくわしく述べ、かつ罪をゆるされんことを願いました。

 その話は『怪談弁妄録』と題する書中に出ております。ずいぶん世間にはかかる奸物が多かろうと思いますが、己の利欲のために神仏を道具に使うとは、さてもさても驚き入りたる次第である。さぞ、神仏もこれには閉口せらるるでありましょう。世に妖怪退治の必要なることは、この一例につきても分かります。

雑  報

長野の怪談

 近ごろ、信州長野市に一大怪事起これり。そは同市横沢町字弁天坂に住する県属岩下神太郎氏方にて、越後産の下女一人を雇い入れてより以来、なにものの所為にや、その影も姿も見えざるに、昼夜の別なく、障子に穴をあけ、あるいは下駄の緒を食い切りておくかと思えば、今ここにありし物品が、たちまち隣家の畑に飛び去りてあるを見、またその下女の衣類より櫛類に至るまで、ときどきズタズタに断ち切られたるを見る等、実に奇怪千万なり。

近辺の評判にては、これは善光寺付近に棲める管狐の所為なりといいて、実地見聞に出かけるもの、いたって多しという。『信濃毎日新聞』の報ずるところによれば、その下女は越後東頚城郡棚広村、羽深某の長女にて、性質いたって朴直なるものなり。かつ、その家の資産も中等の農家なれば、生活には別に差し支えなければ、山間におるよりは都会に出でて奉公せんと思い、長野市に住める叔父を頼みて奉公先をたずね、岩下氏の方に雇わるることとなれり。岩下氏の実話なりというを聞くに、人の力にて及ばぬ所の木の枝に、下駄のかかりおりしこと、破られたる障子を繕うとき、下の方を貼れば上を破られ、上の方を貼れば下を破らるる等の奇怪なること、たびたびありし由。また、世間の風評を列挙すれば、ある知人の宅に遊びに行くとき、かむらせし小児の帽子が、いつの間にか岩下氏の味噌桶の中にありしこと、白き物が一夜その下女と狂い戯れおりしこと、岩下氏の令息、令嬢までが灰色の狐を見たりしこと、下女に赤飯を炊きて与えしに、一飛びに大峰山に至り、間もなく立ちかえりしこと等、実に不思議なりという。

 かかることは世間に多くある怪談なれば、あえて不思議とするに足らざれども、妖怪学を講究せざる人には、奇怪に思わるるも無理からぬことなり。

怪   音

 本年一月中旬、東京本郷区根津宮永町三十三番地、林勝次郎方の床下にて、聞き慣れぬ太鼓の音起こり、はじめは低くかすかにして、次第に音高くなり、終わりには騒々しきほどに聞こゆ。これぞ世にいわゆる狸囃子の類ならんとて、一家挙げてこれを恐れ、ついに同町の巡査派出所へ訴え出でたれば、巡査一名出張して取り調ぶるに、まさしく床下にあたりて、あるいは遠く、あるいは近く、たちまちにして緩、たちまちにして急、千変万化の調子は、実におもしろく聞こゆるにぞ、巡査も不思議に思い、床板をはがして正体を見届けんとせしに、音はパッタリやむかと思えば、はるかに隔たりたる場所にて、かすかにポコポンポコポンと打ちはやすように聞こゆれども、その正体はさらに見当たらざりきという。爾来、引き続き毎夜同刻限に、例のごとく怪しき物音始まりしとのことなりしが、これは誤怪の一種に相違なかるべし。

変幻男子

 前月の『読売新聞』に、号を重ねて米国の怪談を掲げ、「変幻男子」と題し、ひとたび死したる男子が、再びその形を現して、「自分は決して死したることなし」といい、しかもその証跡を挙げて説明したる事実を述べ、古今未曾有の怪談なりといえり。その大要を示さば、

 ひとたび死して埋葬したる男が、突然、他の地方に現れ出でて、やがて自分の葬られたる土地に帰りきたり、「自分は決して死したる覚えなし」と言い張りて、大いに世人を驚かしつつあるうち、彼はあたかも大地に舐められたるごとく、俄然、姿を隠して行方知れず。この男に関係したる二、三の人物は、むなしくそのあとに残りて、大悶着を生じたる一怪事なり。

 また、去月の『都新聞』でも、幽霊談と題して数十回を重ね、幽霊を実験したりし事実を集めて、霊魂の不滅と幽霊の実在とを証明せんことを試みられたり。その怪談は次号に譲る。

深川の幽霊騒ぎ

 東京深川区松村町九番地、飯島某の所有にかかる同番地の貸屋に、本年一月ごろより、毎夜二時過ぐるころになると、朦朧として怪しき人影が見ゆるゆえ、飯島方はもちろん、同町内の大評判となり、たれがしの幽霊が出ずるのだと言いはやせるより、ある好事家がその事実を探知せしに、飯島の隣家鈴木某というものありて、飯島に深き怨みを抱きながら死亡したり。その後三十五日を経て、飯島の女房が流行感冒の心地にて枕につきしが、病体ようやく重くなり、ついに鈴木の亡霊を見るに至り、それより幽霊の評判おちこちに伝わりしという。かかる幽霊は仮怪の一種にして、あえて怪とするに足らざるなり。

宮崎の狐憑き談

 去るころ、『宮崎新報』の報ずるところによれば、同県東諸県郡にて、光村某と西岡某との両人が、金円調達のため、瓜生野村に赴き、やがてその用事も済み、焼酎の馳走に銘酊して、己の村に帰る途中、光村が狐に誘われて薮の中に入り、その挙動の怪しかりし顛末を記せり。これ、狐憑にあらずして酒憑なり。世間にては狐の人を誑すを知りて、酒の人を誑すを知らず。

広  告

     妖怪研究会規則

第一条(目的) 本会は東京市小石川区原町、哲学館内に設置し、通信をもって妖怪に関する事項を研究するを目的とす。

第二条(方法) 本会は妖怪研究の方法として、今回発行の『妖怪学雑誌』を毎月二回(十日および二十五日)会員へ配付すべし。

第三条(科目) 研究の項目は、狐狸、天狗、犬神、幽霊、鬼神、奇草、異木、妖鳥、怪獣、異人、奇病、鬼火、神灯、魔法、仙術、卜筮、陰陽、五行、人相、家相、鬼門、方位、天堂、地獄、吉凶、禍福、霊験、感通、天災、地変等、およそ四百余種なりとす。

第四条(入会) 本規則に従い会員たらんと欲する者は、なにびとを問わず、いつにてもこれを許す。ただし入会の節は、必ず左の書式に従い、入会金および会費を添えて申し込むべし。

  妖怪研究会申込書 第二回目よりは申し込みと記せずして会費送金通知と記すべし

金何程也 入会金 第二回目よりはこの項記入に及ばず

金何程也 会費何月分 自何月 至何月

 合計金何程也 何為換

国  郡  町  村

右送金者 妖怪研究会会員 何 誰

  年号月日

(注意) 国郡、住所、姓名は楷書にて記入し、もし住所を転じたる場合には、必ず旧住所何々、新住所何々と、姓名の右傍へ新旧両住所を併記しおくべし。書状の表紙にも、なるべく姓名の上に、国郡町村のほかに妖怪研究会会員と記入あるべし。

第五条(会費) 会員たらんと欲する者は、左の表に従い入会金および会費を納むべし。

会   費 地方居住者 東京市内居住者 両料兼修 地方 および 東京

一カ月 三十五銭 三十三銭 六十四銭 すなわち一科 三十二銭

二カ月 七十銭 六十六銭 一円二十八銭

入会金 金二十銭

郵券代用一切謝絶

三カ月 (一時 前納) 一円 九十四銭 一円八十二銭

半年(同上) 二円 一円八十八銭 三円六十四銭

一年(同上) 四円 三円七十六銭 七円二十八銭

 ただし、左記の資格者には特別に入会金を免除し、もしくは減額すべし。

入会金全免 哲学館館友館賓、軍人、警察員、もしくは学校、学会、役場、寺院等の団体の申し込みにして、会員章、証書等を要せざる者

入会金半減 哲学館創立員、公私諸学校教員および生徒にして、その校の証明あるもの、もしくは貧生にして、学校または役場の証明ある者

第六条(納期) 会費は毎月三十日限り翌月分を前納すべし。もし既納の会費尽くるときは、さらに送金あるまで雑誌の発送を停止す。

第七条(領収) 入会金および会費を納金するときは、雑誌を配付するをもって別に領収証を発送せず。もし、発行期日後十五日以上を過ぎて雑誌到着せざるときは、その旨郵便をもって通知すべし(もし、返事を要する場合には、往復端書をもって問い合わすべし)。

第八条(退会) 本人の都合により会員を辞したるとき、すでに受領したる残金あれば、これに対する雑誌を送付し、現金をもって返還をなさず。もしまた、会費滞納二カ月以上に及ぶときは退会とみなすべきをもって、雑誌の再送を請う場合には、さらに入会の手続きをなすべし。

第九条(送金) 入会金および会費送付方は東京市小石川区原町、哲学館内妖怪研究会へあて差し出し、郵便為替ならば、払い渡し局名を駒込郵便局として取り組むべし。

第十条(質問) 会員にして、妖怪事項に関し、あるいは雑誌中の講義に関し疑問あるときは、通信をもってこれを質すことを得。ただし、質問は本会編集部において取捨を行い、その応答すべき分は雑誌上に掲載すべし。

第十一条(標章) 会費既納半年に達したる者には会員章を授与し、満一年以上研究せる者には研究修了証を授与すべし。

     付  則

○本会支部規則  会員五名以上ある場所には本会支部を設くるを得。支部はあらかじめ幹事一名を設け、その者より会員の姓名を報知し、かつ、毎月各会員の会費を集めて送金すべし。ただし最初申し込みの節は、会費のほかに各員の入会金を合送するを要す。支部の設ある場所へは、本会よりその幹事へあて各会員の雑誌を合送し、ほかに同会控え本として毎回一部ずつ無代価にて贈呈すべし。ただし、控え本の郵税は本会へあて毎月二銭(郵券代用不苦)の割合をもって寄送すべし。支部にして、もしその義務を果たさず、その資格を失いたる場合においては、その設置を取り消し、かつ贈呈の取り扱いなさざるべし。

○貧学篤志者特待法  貧学篤志者にして入会金および会費を自弁することあたわざる者には、会員五名以上を募集して本会へ通知するときは、支部の規則に準じ、当人へ雑誌一部ずつ無代価にて贈呈すべし。ただし、その取り扱いはすべて支部規則によるものとす。

第 二 号(明治三十三年四月二十五日発行)

広  告

 本号挿入の図画は、台湾に居住せる館友、足立格致氏より寄贈せられたる仏像を縮写したるものなり。これを、かの地にて仏像として崇拝する由なれども、その果たして仏像なるや、はなはだ疑わし。これを仏像とすれば何仏なるや、これを仏像にあらずとすれば何像なるや、これ、一つの疑問なり。ゆえに、ここにこれを妖怪の一種として本号に掲げ、もって読者の判断をまつ。

 次号にはインド人が深く秘蔵する御守りを掲ぐべし。これ、館友大宮孝潤氏がかの地より齎来するものなり。

 今後毎号、「論説」には多く真怪談を掲げ、「雑録」には多く偽怪談を掲ぐる意なれば、真怪および偽怪に関する事実材料は、続々寄贈あらんことを望む。

 「雑報」は各地の妖怪に関することを、大となく小となく、ことごとく集録して世間に報告するはずなれば、これまた読者諸君の報道を請う。

 本雑誌は、一部定価二十五銭、一カ月五十銭、三カ月一円五十銭の割合なるも、妖怪研究会加盟者に限り、左の入会金および会費寄送あれば、毎月二冊ずつ配達すべし。

一、入会金二十銭(入会の節一回これを納むべし。もし、すでに会員となりしものの紹介をもって入会するときは、その半額十銭を納むべし)

一、会費、一カ月分三十五銭 ●二カ月分七十銭 ●三カ月分前金一円 ●六カ月分前金二円 ●一年分前金四円なり。

 その他は妖怪研究会規則につきて見るべし(規則は本号中間の色紙にあり)。

   明治三十三年四月二十五日 東京市小石川区原町哲学館内  妖怪研究会  

論  説

医療医薬を用いずして諸病を医治する方法を論ず 井上円了述  

 この問題は余が多年研究するところにして、妖怪学項目中に特に「医学部門」を設くるは、その研究の結果を世人に示さんがためなり。今日の医学といい、医術といい、いずれもわれらの肉体にもとづき、決して精神の方面よりするものにあらず。しかるに、われらの一身は肉体と精神との両面より成るものにして、あるいは肉体の方面より病気を起こすことあり、あるいは精神の方面より病気を発することあり。これと同時に、その病気を治するにも、肉体の方面よりと精神の方面よりとの二途なかるべからず。しかるに、今日の医術はひとり肉体の方面より治療を施すものなれば、余、別に精神の方面より治療する方法あるべきを知り、多年その研究と工夫とに日子を費やせり。近ごろやや発見するところあれば、その考案を掲げて世評を請わんと欲す。

 この精神的治療法は、今日の医学にもとづきたる治療法とは全く相反し、毫も医薬を用いざるものなれば、第一に診察料、薬代の費用をのぞくことを得べし。ゆえに、この方法にしてひとたび行わるれば、世間の医者はたちまち飢渇に苦しむに至らん。されば、その法を名づけて医者殺しというべし。余、もし医者殺しの法を発明したりとの評判、全国の医者社会に伝わらば、あるいは暗殺せらるるに至るも計り難し。されど、余は決して今日の医術を排斥するにあらず、肉体的治療法と精神的治療法と並び行われんことを望むものなり。ゆえに、暗殺の恐れも飢渇の苦もなかるべし。しかして、その方法のいかんは、「医学部門」の講義に譲る。

雑  録

妖怪窟雑話(第二回)不思議庵主人  

 妖怪学を研究すれば、自然に世態、人情のありさまを知ることができる。とかく世間の学者は、己の学問に深くなればなるほど、世間の道理に暗くなり、極めて迂闊なる議論を立てて、俗人に笑わるることが多い。これは学者の通弊であります。この弊を救うには、妖怪学を研究するが第一である。そのわけは、妖怪学は無知、無学の俗人を相手にし、その言語、動作を材料として研究する学であるから、案外、下等社会の人情が分かります。例えば、余が去るころ田舎道を歩行しておる間に、その近辺の老婆連中が二人一緒に歩きながら話すところを聞くに、一人は、「私は今年中、精々働きかつ倹約して、孫どもに着物一枚をこしらえてやりたい。そのほかには、なんにも望みはない」といい、一人は、「子供や孫の着物には別に心配はないが、来年はぜひ成田山へ参詣したい。それさえできれば、死んでも残り多いことはない」と申しておりましたが、学者は人間の目的を大層らしく言い触らすも、右らの老婆連中の目的は、着物一枚と成田山参詣のほかにないとは、おもしろいではありませんか。それよりは一層興味ある話は、羽後の酒田港より海上四十里を離れて飛島と名づくる島があるが、その島には馬がおらない。よって、ここに居住せる八十余の老婆が申すには、「世間には馬という獣があるそうだが、生涯一度見て死にたいものである」といった話がある。また、その島にて小児が泣くときは、これを叱るに「酒田へ追いやるぞ」といえば、必ず泣くことをやめると申します。これらは妖怪学研究の好材料である。

雑  報

『都新聞』の幽霊談

 『都新聞』幽霊談中、ややおもしろき一例を抜きて左に記せん(渡辺某氏の話)。

 これは維新前のおはなしですが、私の郷里の藩中に名前はチョイと忘れましたが、二百石取りの侍がおりました。この男、元治元年長州征伐の際、七月十九日の蛤御門の戦いに加わりまして、手痛く働いておるうちに、敵の鉄砲玉にあたってあえなき戦死を遂げたが、国に残っておる女房はそれとも知らないから、サテこのごろはなんとしておいでなさる、出陣以来ついぞ一度の消息もないが、どうかまあ無事でいて下さればいいがとクヨクヨ心配しながら、夜の子の刻ころまでねむりもせずにふさいでおると、たちまち表の戸をトントンたたく音がする。

ハテナ、この夜ふけにだれだろうと寝床から起きて灯をつけ、表の戸を開ける途端に、冷やっこい一陣の夜風がさっと吹いてきて、手に持った灯火がプッときえてしまった。フイと見ると、戸の外にたたずんでいたのは紛れもない良人の姿で、出陣のときと同様の打扮で、黒の筒袖に韮山笠をかぶり、朱鞘の大小さえ腰に挟んでいたが、顔の色はなんとなく竜鐘としてやつれはてたさまであるから、女房は驚いて、「オヤ、お帰り遊ばせ」というと、先も物言いたそうに一足二歩前に寄ったかと思う間もなく、忽然とその姿が消えて、あとに残るものは夜嵐の音ばかりだ。そこで女房は二度びっくり。「さては野干などが、妾の心配しているその虚に突き込んで悪戯をしたのであろう。アア、ばかばかしい目にあった」とこぼしながら、そのまま寝てしまった。すると間もなく、頭役から蛤御門の役に戦死したという通知が来たから、全く幽霊であったかと三度びっくりしたということですが、不思議にも、その幽霊の現れたときと戦死したときとは、同夜同刻であったといいます。

浅草の誤怪

 浅草東仲町料理店松田方にて、花見客のいっぱい集まりて酒を傾けておる最中に、突然、徳利が倒れ、杯が覆り、寄せ鍋がこぼれる等、大驚ぎが起これり。よって、その原因を探究せるに、松田の隣家なる麩製造業横山太左衛門方にて、三馬力の粉ひき器械を据え付けて、運動を始めたることが分かり、別に不思議にはあらざれど、近所の迷惑一方ならねば、運動中止の談判を始めたりという。

横浜の船幽霊

 横浜山下町、ある商会の倉庫船三浦丸は、ある神社の神木をもって造りたる船なるがゆえに、妖怪出ずるとの風説高く、だれ一人として船番するものなく、ただ三木甚左衛門と申す漁者一人、弁慶の勇を奮い、船番をなしいたるに、去月十五日の夜、青き衣を着けたる大入道が枕頭に現れ、甚左衛門をにらみつけて、首筋を締めんとするに、甚左衛門出刃包丁を手に取り、無二無三に斬りてかかりしに、大入道は〔平〕知盛の幽霊のごとく消え失せたりという。これ心理的妖怪なれば、「心理学部門」の講義につきて研究するをよしとす。

川崎の妖怪屋敷

 神奈川県橘樹郡川崎町在大師河原に住する羽田仲次郎方にて、四、五日前より毎夜のごとくに、いずこよりとも知れず、瓦礫の宅内に飛びきたるより、はじめのほどは全く近所の小児の悪戯ならんと思いいたるも、そのつど戸外を取り調べみるに、さらにさる形跡の見えざるのみならず、夜々次第にその度数を加え、果ては二十余たびの多きに及べるときさえありて、いかにも不審の晴れざることのみ多く、たちまち狐狸、妖怪の所業なりなどとの巷説さえ喧伝さるるに至りしかば、川崎警察署長らは一昨昨夜わざわざ同家に出張して、その瓦礫の飛びきたれる方向を実見するに、全く上より落ちきたるようにも見ゆれば、同家の人をして隈なく天井を取り調べしめたるも、その原因らしきものを認めざるより、さらに隣家の捜索に及びたりしも、今もって原因を発見せざる由。かくのごとき場合には、原因は戸外にあるにあらずして、多く家の内にあるものなれば、その心得にて捜索するを要するなり。

怪しき音

 信州南佐久郡相木村の森林中、その地の氏神として祭れる社殿あり。先月二十日ごろより終宵奇異の音を放ち、その響き、あたかも妙法蓮華経信者のたたく太鼓のごとし。これ誤怪の一種にして、多分、社林中にすめる梟の音ならん。先年、尾州丹羽郡青木村の社林にこれとひとしき怪音ありしが、その原因は老樹の体内に空洞ありて、その内部に梟の巣を作りて住みおりし故なるを発見せり。また、福島県石川郡石川町にもこれに類する怪事ありしが、こは角鳥の声なりき。

第 三 号(明治三十三年五月十日発行)

会  告

 第一号に広告せしがごとく、余輩は自今もっぱら長寿法、無病法、感通法を研究して、その結果を妖怪研究会

員に報告せんと欲す。ゆえに世間に医薬医療を用いずして病気の全治したる実例あらば、報道あらんことを望む。

 従来、運命を前定する方法として、卜筮、干支、五行、御鬮等を用いたりしも、今日の学理に照らして、一つも取るべきものなし。ゆえに、余は会員諸氏とともに研究して、文明世界に適応せる新法を考定せんと欲す。近日、余の考案を本誌の上に掲げて諸氏の批評を請い、かつ諸氏がこれにつきて実験せられんことを望む。

 過日、諸国の神社仏閣の御札、御守りを寄贈あらんことを求めたれば、その後、二、三の諸氏より速やかに御恵贈の厚意にあずかり、感謝の至りなり。なお、今後、続々御寄贈の恵を得んことを望む。

 今回発行の本誌には、特に「雑報」欄を設けて、最近の妖怪事実をいちいち報道するつもりなれば、会員諸氏より、ときどき御報告を寄せられんことを望む。

   以  上 妖怪研究会長 井上円了  

 第二号は発送期日大いに延滞し、読者諸君より非常の督促に接したるは、実に申し訳なき次第なるが、右は全く雨天数日間引き続き、巻首の写真版を調製することあたわず、ために延滞するに至りしことなれば、よろしく御推恕あらんことを望む。

 妖怪研究会に加盟せんと欲するものは、前号および前々号の色紙に広告せる規則にもとづき、入会金二十銭、一カ月三十五銭(三カ月分一時前納は一円、半年分前納は二円)、送金次第、毎月二回ずつ本雑誌を配達すべし。

 会員章は目下図案中につき、出来上がりは本月下旬か来月上旬なるべし。よって、今一カ月間御猶予を請う。

   以  上 妖怪研究会および妖怪学雑誌社  

論  説

妖怪学と諸学との関係 井上円了述  

 ヤソ教者は神をもって全知全能の体となすも、余は妖怪学をもって全知全能の学となさんとす。なんとなれば、妖怪学は万学に関係し、これを研究するには万学に通ずるを要すればなり。まず天文、地質、気象に関する妖怪は、天文学、地質学、気象学に関係し、禽獣、草木、人身に関する妖怪は、動物学、植物学、生理学に関係し、精神の変態を論ずるときは、精神病学、心理学に関係し、鬼神、霊魂の有無を論ずるときは、宗教学、純正哲学に関係し、知力の変態に関しては、教育学、論理学に関係することあり。偽怪、誤怪に関しては、政治、法律に関係するところあり。ゆえに、余は妖怪学をもって全知全能の学となす。

 ここに降石の怪あり。さきに長野市弁天町に起こり、後に神奈川県川崎町に起こる。もし、これを人為に出ずるものとせんか。しかるときは、精神の変態すなわち一種の発狂より生ずるか、または復讐あるいは悪戯の故意に出ずるか、二者中の一におらざるべからず。これを一種の発狂とすれば、心理学および精神病学の問題となり、これを故意に出ずるとすれば、裁判上、警察上の一問題となるべし。もしまた、その原因を人力以外の神力に帰するときは、宗教学の問題となり、物理の作用に帰するときは、物理学の問題となるべし。一妖怪にして、諸学に関係することかくのごとし。他は推して知るべきなり。

 諸学に、事物の常態を論ずる部分と、変態を論ずる部分あり。その変態を論ずる部分は、みな妖怪学の範囲なり。しかして、常態は事物の表面にして、変態は裏面なり、常態は皮相にして、変態は蘊奥なり、前者は思議すべきものにして、後者は思議すべからざるものなり。ゆえに、妖怪学は宇宙の玄門を開き、事物の秘訣を究め、諸学の奥義を示す学なりと知るべし。換言すれば、不可思議の学なり。ゆえに、この学を研究しきたらば、自然に不可思議の妙趣、妙味を感得するに至らん。もし人、この多苦多患の世界にありて、いやしくもその心中に快楽の別天地を見んと欲せば、妖怪学を研究するにしかず。余、自らこれを実験せり、人また、なんぞ疑わんや。

雑  録

妖怪窟雑話(第三回)〔不思議庵主人〕  

 日本の事実談と称する中には、シナの事実を模擬して作為せるものがときどきあります。妖怪談中にも往々和漢同轍の事跡があるが、偶然の暗合としては、あまりできすぎておるように思われます。今、その一例を示さば、依田〔学海〕翁の『★(譚の正字)海』中に、左の一事実を掲げてある。

 田中丘隅(武州八王子の人)、かつて岳母の病を訪う。鱨魚一つを買い、携えて山路を過ぐ。罾にて雉を羅するを見る。喜びて曰く、「魚肉は鳥肉にしかず。余、しばらくこれに代えん」すなわち、魚を罾に置き、雉を取りて去る。猟夫、後に至る。驚きて曰く、「罾中魚あり、大いに奇なり」その徒に与え、はかりて曰く、「神ありてこれに憑るにあらざるを得んや」巫を召してこれを問う。巫、ことさらにそのことを張大にす。愚民これを信ず。魚を瓶に飼い、貨を集めて祠を建つ。すでにして風雷大いにおこる。里人震駭す。巫、ますます脅かすに神異をもってす。曰く、「享祀をさかんにせざれば、まさにもって大いにその民を害せんとす」と。民、ますます恐れ、巫に請いてこれをまつらしむ。すでに期あり。丘隅これを聞きて、村民にいいて曰く、「僕に術あり、よく神瞋を鎮す。ただ、われのなすところ、これ見よ」と。すなわち、夜ゆきて祠をこぼちて魚を取る。その材をさきて薪となし、あぶりてこれを食す。村民大いに驚き、みな丘隅をとがむ。よって、その故を告げ、かつ笑いて曰く、「世に神と称するもの、多くはこの類なり。神、あに信ずるに足らんや」

 以上は日本の事実談である。しかるに、シナにもこれに類したる話あること、『風俗通』に見えております。その話は貝原〔好古〕氏の『諺草』の中にも引いてあるが、余はこれを左に和訳して示しましょう。

 汝南鮦陽に、田において麏を得るものあり。その主、いまだゆきて取らざるなり。商車十余乗、沢中を経て行く行く望むに、この麏の縄に着くを見る。よって、持ち去りてその不事なるを思い、一鮑魚を持してその所に置く。しばらくありて、その主、ゆきて得るところの麏を見ず、ただ鮑魚を見る。沢中は人の道路にあらずして、そのかくのごときを怪しみ、大いにもって神となす。転々相告語して病を治し福を求むるに、多く効験ありという。よって、ために祀社を起こす。衆巫数十、帷帳鐘鼓〔あり〕方数百里、みな来たりて祷祀し、号して鮑君の神となす。その後数年、鮑魚の主、来たりて祀の下をへて、その故を尋問して曰く、「これわが魚なり。まさになんの神あるべきや」堂に上りてこれを取り、ついにこれをこぼつ。伝に曰く、「物の集まる所、ここに神ありというは、ともにこれを奨成するのみ」

 これはシナの事実であるが、前の話に暗合するは、いかにも不思議であります。

雑  報

読 心 術

 昨今、フランスの魔術師デルヘンス氏およびテップ嬢来朝し、築地ホテルにおいて演じたる読心術の模様を聞くに、デルヘンス氏あらかじめ見物人に小札を与えて、思うところを書かしめ、テップ嬢は目をおおわれたるまま、見物人の書きしとおりの仕業をなす。例えば、見物人が自分の帽子を取れとか、あるいは眼鏡を外せとか、あるいは花を折りきたれとか書きおけば、そのとおりの挙動をなすなり。嬢は黒き手巾をもって目をおおわれたれば、その書きたる文字が、本人に分かるべきはずなし。しかるに、嚢中のものを探るがごとく、一つも誤ることなきは、実に不思議なりという。また、デルヘンス氏は魔術の刀なる一芸を演じたり。その仕方は鋭利なるナイフをもって、見物人の腕足もしくは首などを切りつけ、見物人をして真に切れたるがごとくに思わしめ、しかも毛ほどの疵をも与えざる法なり。二者いずれも奇怪千万なるも、もしその聞くところをして事実ならしめば、手品の一種なるがごとし。しかれども、自らその現場を実視するにあらざれば、なんとも批評を下し難し。

提灯のおどり

 岡山市中に白毛大明神と称する淫祠あり。去るころ祭典を行いたりしに、多くの提灯の中で、ある一つの提灯に限りて自然におどり始めたり。しかるに、愚俗輩が寄り集まり、これはなにか神の意にかなわぬことありしならんとて、修験者を呼びて祈祷を頼みたれば、ある老婆に白毛稲荷が乗り移りて申すには、「岡山市中に数十カ所の稲荷があるうち、自分ひとり祭らるるは不本意である」とのことにて、人々その言を信じて、なるほどと感じ合えりとぞ。愚俗の迷信は大抵この類なり。

火屋に人面

 昨年のことなりしが、尾州葉栗郡宮田村大字南野、織物業栗本福太郎方にて、ある夜、工場につるしてあるランプが、十一時ごろにわかに薄暗くなり、たちまち左図のごとき人面が、火屋の裏面にあらわれ、一同図らずも大声を発して叫びたり。その声に応じて大勢駆けつけ、これを熟視するに、眉、目、鼻、口等、確かに描きしごとくそなわって、その頭部には毛髪乱れたるなど、いかにも奇怪に現れたり。よって近辺の評判には、なにがしの怨霊ならんとて、祈祷、読経を請うに至れり。これ偶然に出でたるものにして、あえて怪しむに足らず。例えば、着物の影が障子に映りて、偶然に人面と現るることあるも同様なり。

火 渡 り

 去月、駿州富士郡にて火渡りの式を挙行するを聞き、田中館〔愛橘〕理学博士自らこれを実験せんと欲し、ひそかにその地に至りて火上を渡れり。その説によるに、薪を積み重ね、その内部に木葉をみたし、これに火を点じ、一時は火勢炎々として燃え上がるも、薪のことごとく火に化したる後に、その中央よりこれを両断して、左右に分開せり。ここにおいて、内部の木葉は灰に化しながら火の上を覆い、人のこれを渡るころには、自然に下の火をして足を害せざらしむるの助けとなる。ゆえに、その上を渡りて火傷せざるも、あえて怪しむに足らずと。

大黒柱の怪

 頃日、甲斐国北都留郡七条村にて、ある家の大黒柱の割れ目より水を滴り、実に怪訝の至りなりとの報に接せり。要を摘みて示さば、大黒柱は栗の木にて作られたるものにて、その長さはおよそ二間半にて、階上まで貫き、二階の畳の上に二、三尺ばかり出でたるのみにて、屋根裏まで達しおるものにあらず、その大きさは一尺一寸角なり。滴る水は終日にあらず、あるいは午前八時ごろ、あるいは午後十時ごろ、あるいは終日出でざることもあり。その家屋は二、三十年前に建築したりしものなり。大黒柱の割れ目は四方にあれども、水の出ずるは前方一面に限る。その他は図面につきて知るべし。これ、いまだ実地を見聞せずして即時に判断し難きも、もしその実を知らんと欲せば、試みにその割れ目をうがちて、その原因を探るにしかざるなり。

インド人の守り札

 本誌の巻首に掲げたる図は、インド人の携帯せる守り札にして、大宮孝潤氏の、遠くセイロン島より寄贈せられたるものなり。同氏の書面を左に転載す。

 この貝葉書は、ヒンズー教徒が自己の生命よりも大切に思いなす、駆邪符または守護符にこれあり候。もし、これを懐中にして旅行すれば海陸とも安全に、これを懐にして敵と争えば必ず勝ち、悪魔、流行病の類、決して寄り付くことあたわずと信ずるところのものに候えば、彼らはこれを得んがためには、実に少なくとも四、五ルピーより十ルピーくらいまでの金を投じ、ある一種の曼陀羅(マンダラ)師に託して図写を請い、常に身にまとって秘蔵し、決して他人に示さずというほどのものにこれあり候。当地の仏教信徒中にも往々、かの婆羅門教者の曼陀羅を信ずるものすくなからず候えば、この符はある仏教者に託してようやく探し求めたるものに候。中央の神像はナーラーヤナと称する神にて、ヴィシュヌ神の化身なる由に候。周囲の文字は当地シンガリーの文字に候えども、その語はいわゆる秘密なる呪文にこれあり候ゆえ、たといこの文字を読み得るものにも、その意味を了解するあたわざる由に聞き及び候。ここに小生が疑惑いたすところのものは、この呪文にこれあり候。この画中の呪文はもちろん、この他いずれの呪文にも、呪文なるものは必ず首に唵(オム)の字を冠し、最後に娑訶(スワカ)の字を付し、この唵、娑訶なる文字は、婆羅〔門〕教の呪文には決して欠くべからざるところにて、仏教中には決してこれあることなき由に候。のみならず、曼陀羅(図画または偶像に向かいて呪文を唱うることの総称)なるものは、全くインド教者に属するものなること明白に候ところ、本邦仏教中、特に密部内にはこの曼陀羅をもって主とするのみならず、必ず唵、娑訶の文字これあり候は、いかがの故にてこれあり候や。後来、十分の研究を要すべきことと存じ候。右貝葉書ははなはだ粗末なるものに候えども、得難き珍奇のものに候間、失礼ながら拝呈つかまつり候。

第 四 号(明治三十三年五月二十五日発行)

会  告 妖怪研究会  

 御守り、御札は続々諸方より御寄贈あり、誠に感謝の至りなり。自今、なお引き続き御寄贈の恵を垂れんことを請う。

 会員章は調製になお時日を要するにつき、今しばらく御猶予を請う。

 会費尽きたるときは、さらに送金あるまで雑誌の郵送を中止するをもって、なるべく会費尽きざる間に送金あるべし(一カ月三十五銭、三カ月分前金一円)。

新著広告

 通俗絵入

 続妖怪百談  定価二十五銭、郵券四銭

右は妖怪研究会会員の申し込みに限り、当分のうち特別に一部十九銭にて渡すべし。ただし、郵税は別に相添うべし。哲学館内 妖怪研究会  

●怪物の書跡 ●狐の怠状

文政七年、東京赤坂伝馬町村木氏の家に出でたる怪物の書なり。その字「此屋受罪」と読むべし。   下野国宇都宮成高寺の什物

●駿台白狐の書(井上円了所持)

論  説

卜 筮 論 井上円了述  

 未来の吉凶禍福をいちいち前知予定するは、人力のなしあたわざるところにして、古来、卜筮家の言うところ、決して信ずべからざるなり。たといその予言の的中することあるも、これ、いわゆる「当たるも八卦、当たらぬも八卦」にして、その結果よく百発百中、千発千中を得るにあらざれば、卜筮そのものの上に信を置くことあたわざるなり。かつ、卜筮は易筮にせよ亀卜にせよ、その種のなんたるを問わず、今日まで民間に伝わるものは、すべて非道理的のものにして、学術上論ずべき価値あるものにあらず。そのうちひとり易学においては、シナ哲学中最も玄妙なるものにして、学術上講究するに足るといえども、これを人事に応用して、即座に未来の吉凶禍福を予知せんとするに至りては、非道理的のはなはだしきものなり。ゆえに、余は卜筮排斥論者の一人なり。

 従来の卜筮は、その原理、その応用ともに非道理的のものなるも、もし今日の学理にもとづきて別に道理的の方法を考定するに至らば、卜筮そのもの必ずしも排斥するを要せんや。今日は百般のこと、みな旧を脱して新につく際なれば、卜筮そのものもまた一段の改新を要する時機なり。しかれども、未来の吉凶禍福はとうてい人力の予知しあたわざるものなれば、いかに卜筮を改新すとも、これによりて運命の前定を望むべからず。ただ、余は人力の微弱なるために、往々取捨選沢に迷うことあり、猶予躊踟して決することあたわざることあり。かくのごとき場合に、卜筮の助けによりて己の意向を定むるは、今後人事の複雑なるに従い、いよいよその必要を感ずべし。ゆえに、今日以後の卜筮は、単にこの一事を目的とし、従来の非道理的に代うるに、道理的のものをもってせざるべからず。しかるときは、卜筮必ずしも排斥するに及ばざるなり。余、これにつきて一つの考案あれば、他日その大要を開陳して、世間の批評を請わんとす。

雑  録

妖怪窟雑話(第四回)不思議庵主人  

 一日ある紳士、突然妖怪窟に来たり余に面会を求めたから、余はこれに「なんのために来たるか」と問えば、紳士が申すには、「このごろ、ある商人一鏡を持ちきたり、光をもってその面に触れしむるに、『南無阿弥陀仏』の六字がその面より反射して前面の壁に現れ、いかにも不思議に見えました。しかしてその価を問えば、数百金にしてすこぶる高価なれども、もし真にかかる不思議が仏の力によりて現るるものならば、数百金をなげうつも、あえて高価とするに足らず。もし、仏力にあらずして、人工あるいは他の原因によりてしかるものならば、数十金なお高しとす。願わくは、その果たして仏力なるかいなやを審判せよ」といわれました。よって余は、

「これ、商人が利を得んと欲して、ことさらに仏力に託したるにあらず。古来、一般に魔鏡と称して、古き寺などにあるものにして、世人その原因を解せざりしをもって、ただ一にこれを仏力の不思議に帰したるも、今日は物理的作用によりて生ずるゆえん明らかなるに至りたれば、別段不思議とするに足りませぬ。余がこのことにつき、過日の『読売新聞』に掲げたる説明あれば、一覧ありてしかるべし」とて、左の一節を示しました。

 古来、神社仏閣の宝物中に魔鏡と称するものあり。その鏡たるや、光線のこれに触るるときは、その面より種々の影像あるいは文字を反射するの妙あり。例えば、観音の像を反射し、あるいは六字名号を反射するの類これなり。今その原因を考うるに、その反射するところの幻影は、全く鏡の裏面に存する仏像、あるいは名号なること疑いなし。もし、裏面に仏像のごときものありて、最初より多少の凹凸あるときは、その鏡面をみがく際に、自然に表面にも多少の凹凸を現すに至る。かくして、表面にいやしくも多少の凹凸あれば、その光線を反射する度において全面一様なることあたわず、したがって裏面の影像を表面に反射するに至るなり。よって今日は、これに魔鏡の名を命ずるの不当なるを知る。

 紳士、これを一見して大いに悟るところありたるがごとく、感謝して去りました。余は元来、仏力の不思議を信ずる一人なるも、その不思議は決してかかる浅はかなるものにあらずと信ずるものである。もし、仏力の不思議はこのくらいのものとすれば、神仏は手品師か魔術師に類するものにして、崇拝するに足りませぬ。古代の人知未開の時代ならば、かく考うるもなおゆるすべきも、今日の開明世界にありてかかる迷信を有するは、言語道断と申してよろしい。もし人、活眼を開ききたらば、天地万物ことごとく神仏の霊光の中に現れ、一大世界全く不思議の妙境に化するに至りましょう。さすれば、一魔鏡のごとき、決して不思議として驚くに及びませぬ。

     井上先生の非妖怪説を聞きて感あり    原  宏 平

   君によりまなびのみちのひらけなば

      あやしきもののなき世ならまし

      (同氏は越後国北蒲原郡新発田町町長なり)

雑  報

骨 相 学

 京都商業学校長高橋邦三氏は、先年、英国滞在中骨相学を研究し、大いに発明するところあり。爾来これを実地に応用して、また大いに得るところありたる由なるが、去るころ〔五月十五日午後〕、哲学館講堂において数百名の生徒に対し、骨相学の要領を講述し、かつ実地の試験を行われたり。氏の説によれば、骨相学は頭脳の発達により、知識、感情等の動作を推測する学にして、今を去ること百有三年前、ゴール氏はじめてオーストリア、ウィーン府において主唱せし以来、諸大家の賛成を得てようやく発達したるものなり。その原則とするところは左の数条なり。

第一 およそ心的機能の中枢は脳の皮質にあり。

第二 脳の皮質は単一なる機関にあらずして、個々特殊の機能を有するいくた機関(一名中枢)の集合府なり。

第三 頭蓋骨の外形は脳の外形とほとんど同様のものたるをもって、頭の外形をみて脳の外形を推知し得べし。

第四 他点(すなわち次項に挙ぐるところの諸点)異ならざるときは、各機能の強弱はこれをつかさどるところの機関、すなわち中枢の大小に比準するものなり。

第五 脳の組織、身体の資質、健康の良否、練習の有無、ならびに身辺を囲繞するところの諸般の状態は、各機能に著しき影響を及ぼし、遅速、鋭鈍の差をきたすものなり。

第六 各機能は個々に働き、あるいはやむことあり。また、数個連合して働き、あるいはやむことあり(遺伝、疾病等を得るの場合においても、個々にこれを得るあり、また数個一集にこれを得るあり)。

 氏はこれを骨相学と称せずして、生理的心理学と称せり。しかれども、これを一科の学と称するは穏やかならず、むしろ一種の術と称すべし。わが国には、古来いまだ骨相術を講じたるものなきも、人相術を専門とするもの多し。しかれども、いまだ一人の今日の学術に考えて研究せしものあるを見ず。余輩は、人相家が心理学を研究して、その理を人相術に応用し、もって一段の革新を実行せられんことを望む。

大貫の怪談

 近刊の『奥羽日日新聞』は報じて曰く、「遠田郡大貫村役場に、近ごろ雨天の夕べには、屋内において多勢の泣き声またはののしる声など聞こえ、そのものすさまじさいわん方なく、ために宿直するものなきに至りし」と。果たしてしかるやいなや。

車上の妖婦

 また、『都新聞』は報じて曰く、「赤坂新町五丁目といえば、柴垣、生垣打ち続きて、昼も閑静なるところなれば、夜はいとど寂しくして人通りさえまれなるが、五、六日前の夜の九時過ぎごろ、小雨そぼ降るその中を、空車をひきつつ一人の車夫の来かかりしを、フトいずこよりか立ち現れし怪しの男小声に呼び止め、『麻布十番までのせてゆけ』というに、どうせ帰途と喜びて、車賃もきめず打ち乗るを、そのままひいて駆け出だすに、男は車上より声を掛け、『十番へはゆくものなれど、今急に思い出したる用事あり。氷川神社の近辺の知り辺に立ち寄りて帰らん』というに、車夫は委細承知と轅を後ろへ回し、言われしままに氷川神社の辺りまで来たりしは、小夜更けの十時ごろなり。歩みをとめて回顧し、『旦那、モー氷川神社の前まで参りました』といいつつ母衣の中をすかし見れば、確かに男と見たりし車上の客は、いつしか女と変わりおりて、しかも年若き美人なり。

車夫は、これはとばかり打ち驚き、必定怪性ならんとおそれおびえてたたずむを、客はホホホと打ち笑い、『お前さん、なんだねえ、ソンナにビックリしなくっても、よいじゃないかえ、ここでちょっとおろしておくれ』と、手に銀貨一個を載せたまま、車を降り、これを車夫に渡すに、車夫は魂身に添わず、もらった銀貨を掌に握り、一生懸命に車をひいて、あとをも見ずににげ出だし、往来繁き町に出てホッと息つき、もらった銀貨をしらべ見しに、蜆貝でも石でもなく、掌に汗握った湯気の立てど、二十銭の銀貨に相違なければ、どうしたことかと疑いながらも胸なで下ろし、不思議不思議と仲間の者に吹聴すれば、『己も一昨夜、氷川の前で二十銭にありついた』と申すものもありて、その評判、今は界隈に隠れなしとか。察するところ、その付近に住する狂女などが、男の装いにてさまよい出でて、かかる戯れをするなるべし」と。

 さすれば、これもまた偽怪。

釜鳴りの怪

 茨城県筑波郡島名村、斎藤弥輔氏の報に、「その村内三、四カ所に釜鳴りの怪事あり。その音、法螺貝の声に似たり」と。その説明は『続妖怪百談』に出でて、釜内の水蒸気の作用が、物理学のいわゆるリズムをなすものにして、毫も怪しむに足らざるなり。よろしく本書につきて見るべし。

幽霊および悪魔の図

 幽霊および悪魔は、人々の想像をもって描きあらわしたるものなれば、その形状、古今東西同じからず。もし、これを比較して研究するはすこぶる興味あることにして、かつ講学上益するところ少なからず。ゆえに、今後発行の本誌には、続々各国の幽霊および悪魔の図を掲げて、読者に紹介せんとす。

第 五 号(明治三十三年六月十日発行)

妖怪研究会報告

一、左の諸氏より神社仏閣の御守り札を御寄贈下さり、御厚意の段、深謝の至りに御座候なり。

    東荘甚治郎君  渡辺 宗全君

    谷川 亮念君  押小路蓮秀君

二、妖怪問題は種々実験を要すること多ければ、なるべく各所に支会を設置し、本会より提出する問題につき実験せられんことを望む。支会規則は本号色紙に掲げたる本会規則中に見えたれば、よろしく一読せらるべし。その規則中にあるがごとく、支会設置の場所へは無料にて、本会雑誌を毎号一部ずつ贈呈すべし。

三、差し当たり実験願いたしは、目下脚気流行の折柄なれば、本号「雑録」中に掲げたるマジナイ中、第四法につきて、病者の上に効験ありやいなやを試みられんことを望む。

四、本会長井上館主は、きたる七月中旬より能州各郡巡回せらるるにつき、その地方の有志者にして妖怪学の講義を聞かんと欲するものは、前もって本会へ申し込み下されたく候。

論  説

骨 相 論 井上円了述  

 日本にては人相術あり、西洋にては骨相術あり。この二者おのおの一得なきにあらざるも、日本の人相術は古来の非道理的妄説の加わるありて、今日の学術界より排斥せらるるは自然の勢いなり。これに反して、西洋の骨相術は今日の生理学および心理学に考証し、これに加うるに実験の結果をもってしたるものなれば、日本の人相術の比にあらざるなり。もし、日本の人相術も、今後、心理学、生理学等を参考して改新するに至らば、学術界の信用を得ること、あえて難きにあらざるべし。

 ゆえに、余は新人相術の世に出でんことを望む。

 西洋の骨相術はわが国において、『図解欧米人相学』、『観相奇術』等、二、三の訳書あるも、いまだこれを応用して門戸を張りたるものあらず。近ごろ、高橋邦三氏もっぱらこの術を唱えてより、往々その門に入るものありという。もし、この術にしてよく人の性質を鑑定するを得ば、教育上益するところ必ず多からん。ゆえに、余は左に骨相術の図表を掲ぐ。(頭部の全図は前ページに別掲せり。よって、左の表と対照すべし)

第一、色情(男女間の情) 第二、愛情(子を愛する情) 第三、郷情(郷里を思う情)

第四、友情 第五、闘情(戦闘を好む情) 第六、破壊性

第七、隠蔽性 第八、畜財性 第九、構成性(破壊性の反対)

第十、自尊性 第十一、名誉心 第十二、慎重性

第十三、慈恵性 第十四、崇拝性(信仰心) 第十五、固守性

第十六、良心性 第十七、希望性 第十八、驚愕性

第十九、空想性 第二十、滑稽性 第二十一、模倣性

第二十二、認識性 物体を認定する力 第二十三、形状を記憶しまたは認識する性 第二十四、大小

第二十五、重量 第二十六、色彩 第二十七、地位

第二十八、数量 第二十九、順序 第三十、出来事 種々の出来事を記憶する力

第三十一、時間 第三十二、音調 第三十三、言語

第三十四、比較 第三十五、原因

 もし、この術を研究せんと欲するものは、人々の頭部につきて調査を行い、その当否を試むべし。

雑  録

妖怪窟雑話(第五回)〔不思議庵主人〕  

 世にマジナイの病気に効験あることを信ずるものが多いが、余は元来、世人とその意見を異にすれど、病気の種類と人の性質とによりては、全く効験なしとは思いませぬ。よって、人々、マジナイの効能がなにほどききめあるかを実験して、その結果を報道せられたし。つきては、左に、昨今流行の脚気病のマジナイ法を掲げましょう。

(一) 雪駄の鉄を人通り繁き所の石垣のすき間へ、人の見知らぬようにかたく挟みおけば、必ずその験ありという。(『人家必用〔小成〕』)

(二) 山牛房の生の根をせんじ、その汁にて赤小豆を煮て食うべし。もっとも、塩気をやめ飯を減じ、一切あぶらづよき魚類を禁ずべし。(『広益秘事大全』)

(三) 冬瓜の小口を切り、中の実を出してそのあとへ赤豆をつめ、黒焼きにして、寒中三十日がほど白湯にてのむべし。その翌年よりかっけ起こることなし。(同上)

(四) 釜の下の灰に足形を取り、その土ふまずの所へ灸三つすえ、四辻へすつるべし。(『まじない三百ケ条』)(この法は役行者の秘法なりという)

(五) 牛のつのをけずりこれを煎じ、毎日一椀ずつのむべし。いかほどおもき症にても、二週間ほどにて必ず治すること妙なり。(同上)

(六) 脚気症には毎夜、塩を股、膝等にすりつけ、なお毎夕、熱き湯に足の甲まで浸して温むべし。かくのごとくすれば、漸次に快癒に赴くものなり。(『奇術秘法』)

 以上六法のうち、単にマジナイに属するものと、薬方に類するものとの二種あるが、薬方は余の望むところではないから、純然たるマジナイを試みたく思う。その中で第四法は、役行者の秘法と申して古来より伝えおる上に、至極実行しやすき法なれば、試みにこの法を脚気病者ある場合に試みて、その結果いかんを報道あらんことを願います。

雑  報

台湾の怪談

 去月の『台湾日日新聞』に「歓看楼の怪談」と題して、数日間引き続き掲載したりし怪談あり。その発端は大略左のごとし。

 去月十七日午前十一時ごろ、台湾艋舺歓看楼と名づくる妓楼の娼妓小車といえるが、ふと庭先にて一匹の小蛇を見たり。この小蛇に小車は手水鉢の水を打ち掛けしに、小蛇は鎌首たてて小車をにらみたれば、気味悪くなりてわが部屋に逃げ帰り、かくと人に告げたるにより、帳場、板場の男どもは寄って集まって、件の小蛇の頭をくだき、ついに塵ためへ打ち捨てけるが、この夜、小車は己が部屋の天井の破れ目より、昼見たりし小蛇の頭をくだかれたるが、ぶらさがりたるを見てびっくりし、キャッと声立てて駆け出だし、この由を板場の者に告げたるにぞ、板場の者らはただちに小車の部屋へ来て見たれど、小蛇はあらず。なお、念のため部屋の隅々、天井裏まで捜索せしも、ついに蛇はおらざりし。さては小車のなにかと見違いしものならんと口々に言えど、小車はたしかに見たに違いなしと言い争うより、しからば昼の間、蛇を殺して打ち捨てたる塵ためを調べて来んと塵ため場にゆきて見れば、こはいかに、蛇の死骸はいずこへ行きしや影だになし。ここにおいて一同の者は、頭をくだきたる蛇が再び蘇生して、小車に怨みを言いに来たりしならんなど、からかい半分口々におどしたるが、その夜、小車は夢に一尺ばかりの小蛇が幾条となく首、手足にまといしを見て、人を呼ばんとせしも声出でず、苦しさに浴びるがごとき冷や汗をかきて目は覚めたれど、それより小車は気分すぐれず、なにごとか考えてのみ部屋にありしが、十八日の午前、気晴らしかたがた城内に買い物に出でたり。しばらくありて小車が城内より帰るや、悪寒、戦慄してたちまち人事不省となり、一時ののち気は付きしものの、このとき小車は気色は全く常と異なり、急に起き上がりて布団の上に座し、「妾は真実の小車にはあらで、去る一月、梅原末次郎と箱汽車の内にて情死せし鳴戸なり。いったん情に迫って梅原さんと情死したるも、まだこの世に執着が残って、十七カ日の間、冥府の苦患を免され、小車に生を託して、かくはこの世に出でたり。アアラ、閻浮懐かしや」と四方を見回す。その容貌、その声音までが鳴戸に似たるものから、傍輩娼妓らは恐れおののき、看病さえなさずなりぬ。

 かくして数日を経過したるのち二十四日に至り、突然はね起きて納涼台に上がり、急に伏し倒れ、一時人事を弁ぜざるありさまなりしが、しばらくありてウンと起き上がり、初めて夢のさめたるがごとく、数日間のことどもは一つも覚えおらざりしという。これ、怪談とすれば怪談なるも、恐怖のあまり一時の発狂をきたせるものなれば、あえて怪とするに足らず。

怪しき陰陽師

 過日の『中央新聞』に、ある陰陽師の祈祷の方法を示して曰く、

 彼らのいわゆる万病平癒の祈祷なるものはいかなる方法なりやというに、患者もし、彼のもとに至りて頭痛全治の祈祷を請えば、彼はただちに患者を二階なる本尊の前に導き、自身は暫時なにごとをか唱え、患者の頭部を数十回摩擦したる後、平手をもって三回打ちたたき、これにて祈祷を終わるなり。脚気、リウマチ、肺病、みな同一手段の祈祷を施し、本尊の効力によって平癒せしむべしという。しかして眼病と喘息は、目の周囲および咽喉部を摩擦したる上、御陽気と称して、三度患者の口中へわが息を吹き込み、御祈祷を行うなり、云云。

 かかる治療の効験あるは、畢竟、人知の程度の低きによるも、また患者自ら信仰する故ならん。

怪   影

 府下駒込の無名氏より、上の図を寄せて妖怪の参考にせんことを望まる。これ、室内の灯光が柱にかけたる着物に触れ、偶然、壁上に人影を現出せるものなれば、偶然的妖怪の好材料なり。

化け物屋敷

 福岡県遠賀郡蘆屋町浜田与一は、それ以前に一家二人の自殺者ありし化け物屋敷へ引き移りしが、一、二年を経る後、長男は突然病死し、妻もまた発病し、戸主与一も発狂の気味にて、平素の挙動はなはだ怪しかりしが、ある夜、なんと思いけん、妻子の熟睡せるを見て出刃包丁を持ち出だし、その咽喉を突きて即死せしめ、自身も咽喉を突きて自殺を遂げたりという(『東京日日新聞』)。

 これ、化け物屋敷との記憶が暗々裏に精神を動かして、ここに至らしめたるに相違なかるべし。ゆえに、世間にて化け物屋敷との風評を立てたる家には、なるべく居住せざるをよしとす。

各国の幽霊および怪物

 妖怪研究会にて、世界各国の幽霊および怪物の図を集めて比較研究をなさんと欲し、人類学会に請いて、その貯蔵の書中より三十余種を写し取らしむ。右は近日写了次第、おいおい本誌に掲げて世間に紹介すべし。

第 六 号(明治三十三年六月二十五日発行)

妖怪研究会報告

 東京帝国大学人類学教室には、西洋の怪物図を多く所蔵せらるるにつき、本会より坪井〔正五郎〕博士に請いてこれを模写し、すでに三十余枚脱稿したれば、本号より続々掲載すべし。

 過日来、左の両氏より御札、御守りの寄贈を得たれば、ここに御厚意を謝す。

    高橋 平治君  菅沼 春治君

 会員に限り妖怪の質問を許す。ただし、質問の種類に応じ、あるいは直接に本人へ向け回答し、あるいは本雑誌の上にて説明し、あるいは応答せずとも後日自然に解し得らるるべしと認むるものは、説明、回答をなさざることあるべし。

 左の問題につき、経験ある諸君は御通知を請う。

一、夜中眠り得ざるとき睡るの工夫

一、心配、苦慮の場合にこれを忘るる工夫

一、失敗、失策の折にあきらめる工夫

 会費尽きたる向きへは雑誌発送を見合わせる規則なれば、あらかじめ前金の尽きざるうちに、左表に従い会費送金あるべし。

    一カ月金三十五銭、 三カ月前金一円、 半カ年前金二円

 送金通知書式は本会規則につきて見るべし。

 (会員章) 半年分会費既納の諸君へは、会員章を発送する規則のところ、印刷の都合にて、今一カ月の御猶予を請う。

   明治三十三年六月二十五日 妖怪研究会  

論  説

死   論 井上円了述  

 人の恐るるもの、死よりはなはだしきはなし。病を恐れ、雷を恐れ、地震を恐れ、水災を恐れ、戦争を恐るるは、みな死を恐るるより起こる。少壮の徒も富貴の士も、安心して日を送ることあたわざるは、みな生死の常ならざるによる。縁起、禁厭、卜筮、相術の民間に行わるるは、みな生死の道に迷うが故なり。もし、人世に死なかりせば、人間ほど幸福のものはあらざるべし。もし、世に不死の薬ありて金銭にてあがない得らるるならば、世界中のあらゆる黄金を投ずるも、おしむに足らざるなり。

 死は人生の免るべからざるものたるは、宇宙万有の原則なり。この原則にして変ぜざる限りは、決して不死の道を求むべからず。しかるときは、死を免るる道を講ずるよりは、むしろ死を恐れざる法を講ずるにしかず。それ、人の死を恐るるは古今の通性なれば、仮にこれを名づけて恐死病といわんか。世に不死の薬なきも、恐死病を医する薬なきにあらず。余が家、幸いにこれを秘蔵するや久し。金満家は財を散じて貧民を救うべし、宗教家は法を説きて愚民を度すべし。前者これを財施といい、後者これを法施という。二者ともに慈善なり。医師は人命を救助するをもって、古来、「医は仁術なり」と称するも、その実、人の死命を左右し得るにあらず。死命はもと天の定むるところにして、人力のいかんともすることあたわざるものなり。ただ、医師は一時の病苦を移すことを得るのみ。病苦を移すはもとより仁術なり。されば、恐死病を医するもまた仁術なり。恐死病は病苦の最大なるものなれば、これを医するは仁術の大なるものならざるべからず。余が家、貧にして財施をなすの力なし。また、身、多忙にして法施をなすのいとまなし。しかれども、その家伝の秘法を施して恐死病を医するを得ば、財施ならびに法施に代用してなお余りありと信ず。ゆえに、余はこれより、その秘法につきて講ずるところあらんとす。(以下次号)

雑  録

妖怪窟雑話(第六回)不思議庵主人  

 「人間は万物の長なり」とは、善にも悪にも通ずる格言である。まず、悪の方の例を挙ぐれば、種々の禽獣一として欲を有せざるはないけれど、人間ほどはなはだしきものはありませぬ。その欲には、色欲、食欲だけならば禽獣なみなるも、衣服の欲、宮室の欲、金銭の欲、美術の欲をはじめとし、死後百世の欲まであります。余が取り調べたるところにては、人為的妖怪中に利欲怪と申す一種〔が〕あることを見いだしました。利欲怪とは、利欲のために種々の怪を作り出して、人を欺き世を惑わす一種の詐術のことである。人を欺くはその罪なお軽きも、神仏を欺くに至りては実に言語道断と申すよりほかはない。その一例は、寺門静軒の著せる『痴談』と題する書中に、おもしろき一話がある。ある強欲ものが、あまり金もうけしたさに、神社へ参り一心に祈願して申すには、「ドウゾ、私に金一万両をさずけていただきたい。さすれば、必ず九千九百九十九両を奉納いたします」と、しきりに願いておるところを、傍らに聴きておるものが奇怪に思い、本人にたずねて申すには、「君の勘定は間違いておりはしないか。一万両授けてもらっても、九千九百九十九両奉納しては、君の手に残るところはわずかに一両に過ぎない。それでは別に神に祈るにも及ぶまい。どういう所存であるか」とたずねたれば、本人細声にて答えて申すには、「今、九千九百九十九両を御礼として奉納するというのは、全く金をもうけさせてもらいたい方便の語である。イヨイヨもうかりたる暁には、一文も差し上げないつもりである」と白状したということを聞きました。これらは人を欺くではなく、神を欺くものである。実に人間の欲張りには驚き入りたる次第。さぞ、神仏も閉口せらるるでありましょう。

 世間にて、狐よく人をばかすといい、狐を妖怪の巨魁のごとくに申すけれど、人間は人をたぶらかし、また神仏をたぶらかすから、人こそ妖怪の大巨魁に相違ない。しかるに、世人はかかるわけを知らないから、妖怪学は狐か狸のことを研究するもののように心得ておるは、おかしき次第である。妖怪学の研究は人間が相手である。この大怪物の道理さえ明らかになれば、他の狐や狸のごとき小妖怪は、研究せずとも分かります。古語に「道近きにありて、かえってこれを遠きに求む」とあるがごとく、妖怪も近きにありながら、かえってこれを遠きに求むと申してよろしい。とにかく、人間が悪の点において万物の長であることは争われざる事実であるから、妖怪学の講究は一日もゆるがせにすることはできませぬ。

雑  報

船 幽 霊

 本邦にも船幽霊の話あり、西洋にも船幽霊の話あり。本邦の船幽霊は人頭が海面に現出するなり、西洋の船幽霊は巨大なる手が海上に現見するなり。本誌の巻首に掲げたる図は、すなわち西洋の船幽霊なり。かく東西幽霊の形に異同あるは、よろしく研究すべき一事なり。

無縁仏の涙雨

 近刊の『都新聞』に左の一項を掲げり。

 府下南千住町元南組九百二十六番地の法華庵は、昔の刑場なる小塚原通りにて、境内および近所には千人塚、無縁仏など、囚人の亡魂を祭りし墳墓あり。黐、樫、その他の雑木生い茂りて、すこぶる薄さびしき所なるが、四、五日前より天気快晴なるにもかかわらず、この境内の樹木よりポツリポツリと雨雫が落ちきたるを近所の者が認め、不思議だ不思議だと言い触らせしよりたちまち大評判となり、毎日、黒山のごとき人群がりにて、「昔、この所にて首をはねられた囚人が無縁仏となり、得道、解脱ができずして地獄の中に泣き叫ぶ、その涙雨が降るものならん」と噂し合うのを小塚原派出所にて聞きつけ、和田巡査が出張して取り調べたるも原因判然せざりしが、「この所は日本鉄道隅田川線荷物列車踏切の南に隣りおるゆえ、汽車が通行の際、汽罐より吹き上ぐる湯気が木の葉にかかって凝結し、雫となって落つるものならん」といい、また、ある者は、「樹の枝に虫が湧きて、風のために吹きおとさるるものならん」といえり。

 右にて大略原因を推量し得べし。

石碑の霊験

 下総国印旛郡酒々井町、畳屋某、耳聾して聴くことを得ず。あるとき山林に入り、草葉の下に埋もれたる石碑を見、その碑のなんたるを検せんと欲し、力をこめて引き起こしたる途端、不思議にも耳底に大破裂の響きあるを感じ、数年来の耳聾たちまち治し去りて、鳥語、水声をきくことを得るに至れり。その後、この一事ようやく近傍の大評判となり、全く石碑の霊験なりとて、種々の精神病にかかれるものは、みな争いてこの石碑を祈念するに、一つも治せざるはなしという。これ、石碑そのものに霊験あるにあらず、これを祈念する人の信仰の力よく霊験を生ぜしむるなり。もし、数年来の聾のたちまち全治したるがごときは、生理上の作用にして、信仰の有無に関せず。その理由は、『妖怪学講義』「心理学部門」および「医学部門」につきて見るべし。

亡魂出現

 下野国那須郡川西町、伝染病隔離病舎付近に、去るころより怪しき亡魂出現し、同地方の人心をして寒からしむること一方ならざる由。その次第を聞くに、形は人頭大の円形体にして、翩々として空中に浮かび、その色は赤もしくは青色なりという。これ、亡魂にあらずして燐火なること、実験をまたずして知るべし。

怪   屋

 長崎市東彼杵郡川棚村、某所住の隠宅に、大なる蛇三、四匹、天井の間に現出し、露滴ようのものを墜下するあり。一家これをいとい、隣家の者に請いて、その一、二匹を殺さしめたるに、その夜より毎夜、石瓦あるいは包丁、火箸等、空中より飛びきたりて、その家の娘にあたり、折々負傷せしむ。一日、右の娘、戸外にありて急に叫ぶ声あり。驚き出でてこれを見るに、はや娘のおる所を知らず。諸方捜索の末、宅後の山林中に臥しおるを発見せりという。その説明のごときは、『妖怪学講義』「雑部門」につきて見るべし。

長野の幽霊談

 『信濃毎日新聞』は、長野市横沢町の幽霊談を報じて曰く、

 その幽霊の場所は横沢町の塗り物師高橋元吉の宅にして、その姿は先妻ヨキの姿なりという。今その次第を聞くに、先妻ヨキが肺病にて一女キヨを残して死亡したるものなるが、ヨキはその臨終の際に良人元吉に遺言していうよう、「妾の亡きあとは、定めて後妻を娶りたまうことなるべし。さりながら、いまだおさなき乳飲み子もあることなれば、なにとぞその子を不便とおぼしめし、妹ノブを後妻にしてキヨを守り立てて下され」と言いつつ、眠るがごとく往生したりしは今より四年前、すなわち〔明治〕三十年十二月の六日なりしとぞ。しかるに元吉の母は、「たとい遺言なればとて、肺病にて死したる者の妹とあれば、やはり肺病の血筋なるべし。それと知りつつもらい受けなば、またこのたびのような嘆き悲しみを見るべきにつき、むしろ、ほかより無病の者をもらうべし」とありけるに、元吉も実にもとうなずきながら、いまだいずれとも決着せざる折柄、ヨキが死去後七日を経たる夜のこととか、二階に臥しおりたる元吉の枕元に、いつともなく、いずこより来たりたるともなく、ぼんやりとして煙のごとき人影のあるに、元吉はこわごわながら、つくづく瞳をすえて見つむれば、色蒼然たる顔はまさしく身まかりたる女房ヨキの姿なるに、あなやとばかり驚くを、ヨキは骨ばかりなる細き手にて押ししずめ、さもさめざめとして、「お前さんは、どうしても妹を女房にもらっては下さいませぬか。もしもほかよりもらうようにては、おさなき娘の不便さ、今より目にみるようなものなり。なにとぞ娘を不便と思われ、必ず必ず妹を女房にして下され。妾はそれをきめていただかねば参る所へも参られずして、このとおり今に迷っておるのでございます」というに、元吉ハッとして驚きみれば、姿はまたいつの間にか消え失せたり。

 その翌夜も右同断の幽霊を見たりという。これ、本人の目に見たるに相違なきも、妻の死後、その遺言のことのみ気にかけおりたるゆえ、かかる妄覚を生ずるに至りしなり。その説明は、『妖怪学講義』「心理学部門」につまびらかなり。

第 七 号(明治三十三年七月十日発行)

妖怪研究会報告

 過日発行の本誌に、役行者秘伝の脚気まじない法につきて、実地試験せられんことを願いおきたれば、その後、実験上全治したりとて謝状を送られしものありき。なお、脚気患者につき実験を願いたし。かつ、その結果いかんは、おついでの節御報道あらば幸甚なり。その他にも「まじない」の実験を願いたきことあれば、本誌に掲示すべし。その後、左の諸氏より御札、御守りの寄贈ありたれば、ここに御厚意を謝す。

    葛西 三弘君  星川 林吉君  備後比婆郡某君(誤りて姓名を漏らせり)

 今度、古今の妖怪に関係ある詩および歌を収集せんと欲す。幸いに、会員諸君の中に、古人、今人の作詩作歌を記憶せらるるあらば、御報道を請う。右の一例として本誌「雑報」中に、西洋人の訳述せる日本〔の〕怪談の巻首に題したる和歌を掲げり。

 その他、妖怪に関する格言、俚諺を募集する考えなれば、一、二の例を左に掲ぐ。

    幽霊の正体見たり枯れ尾花

    心の鬼が身をせめる

    妖由<レ>人興(妖は人によりて興る)

    鬼形木骨

   明治三十三年七月十日 東京市小石川原町哲学館内 妖怪研究会  

論  説

恐死病を治する法 井上円了述  

 人間の諸病中、最も重きものは恐死病にして、諸療法中、最も大切なるものはまた恐死病の療法なり。その療法は余が『妖怪学講義』中に詳述するところにして、その講義の全部ことごとく恐死病の療法と見てもよろしきほどなれば、ここに重説するを要せずといえども、もしその一端を挙げて示さば、左の点に帰着すべし。

 今、これを理論の方面より論ずることは講義の方に譲り、実際上その治病の処方を約するに、左の数条となる。

一、人を無意識化すること

二、来世を立つること

三、死の理を明らかにすること

 この各条につきて略解を下すに、第一条の意は、人の感覚を鈍くし、思想を虚にし、無神経、無意識に近づかしむるをいい、精神をして枯木、死灰のごとく、無知、不覚ならしむるの謂なり。あるいは、精神をして木石化せしむるの謂なり。草木には恐死病なし。禽獣にはこれあるも、人間のごとくはなはだしからず。ゆえに、人間の心をして禽獣草木のごとくならしめば、恐死病の苦を免るることを得べし。しかれども、これ到底実行し難し。つぎに、第二条の来世を立つる一法は、説明をまたずして知るべし。例えば、毎夜睡眠に就くも、だれも恐るることなきは、明日再び醒覚することあるを知ればなり。これと同じく、ひとたびここに死しても、再びかしこに生ずる望みあらば、あえて死を恐るるを要せんや。もし、来世は今世より一層幸福円満の世界なることを知れば、喜び勇みて死に就くに至るべし。これ、宗教信者の死をいとわざるゆえんなり。つぎに、第三条の意は、道理をもって死の恐るるに足らざることを知らしむるをいう。例えば、余が『妖怪学講義』のごときこれなり。その講義は、「総論」「理学部門」「医学部門」等の八大部門に分かるるうち、「宗教学部門」はまさしく「死はなんぞや」の問題を説明したるものにして、他の諸部門も多少この問題に関連せざるはなし。もし人、第一条および第二条の方法をもって満足せざるものあらば、請う、来たりて『妖怪学講義』を聴け。

雑  録

妖怪窟雑話(第七回)不思議庵主人  

 ある人、問いて申すには、「将来の国民は、みな戦場に死するの覚悟がなくてはならぬ。昨年も甲国と乙国との戦争があり、本年もかの国とこの国の戦争があるとすれば、いつ日本と外国との間に大破裂が起こるかも知れない。さすれば、なにごとも戦争の準備が肝要であると存じます。今や妖怪学は、この準備につきてなんらの関係もなきように思わるるが、いかがであろうか承りたし」余、答えて申すには、「大いに関係があります。第一に、戦争の準備中最も大切なるは、決死の精神を起こさしむることである。しかるに、その精神は妖怪学の研究によりて起こすことができる。第二に、人心を一定する必要があるが、これも妖怪学の受け持ちである。すべて人の迷いを解くことは、みな妖怪学の専売特許と心得てよろしい。その他、人の恐怖心を除くことは戦時には必要であるが、これまた妖怪学のもっぱら講ずるところであります」

 この恐怖心を除くということにつき、一口お話ししたいことがある。西洋の子供は、幼少のとき暗き室にひとりで眠り、あるいは暗き所へひとりで出でても、「恐ろしい、怖い」とは申さぬが、わが日本の子供は、暗き室にひとりで眠り、暗き所へひとりで出ずることは、どうしてもできぬ。必ず「恐ろしい、怖い」といって叫ぶに相違ない。これはなにゆえかとたずぬるに、西洋では子供に対して、決して化け物話をいたすことがない。わが国は子供に聞かする昔ばなしは、多く化け物話である。その上に親たちが子供を叱るに、「暗い所へやるぞ、化け物が出るぞ」といっておどす風がある。かくのごとく、幼少のときにすでに恐ろしい、怖いの習慣をつけるから、生涯、恐怖心が除けないようになる。これは、戦国の民となるには大妨害である。ゆえに、今後の家庭においては、右ようの化け物話を一切廃して、世の中には恐るべきものは不道徳のほかに一つもないから、道徳を守れば暗夜も白昼であるというように教え込むがよろしい。そうすると、その子供が成長しても立派の国民となり、ひとり戦争において強いのみならず、なにごとをなすにも勇気をもって当たることができます。この一事は、『妖怪学講義』中「教育学部門」において詳述しておきました。

雑  報

怪   井

 近刊の『毎日新聞』は「井筒の陰火」と題して、府下南葛飾郡の怪事を掲げり。すなわち左のごとし。

 南葛飾郡葛西村字大島の共同井戸より、フトこのごろの五月雨続く夜ごとのさびしさにつれて、青白き一団の陰火立ちのぼり、四、五尺の高さにてパッとかき消さるるを、彼も見たりわれも見たりとて、おいおい噂広まりゆき、昨今はわざわざこれを見物せんとて、近村より出かくる者もあるより、かかる場合の習慣にて、種々の浮説これに伴って起こり、かの井戸は何年前、これこれの女が恨みをのんで入水せしかば、その亡魂の夜な夜な不思議を現ずるものなるべしなど真実らしく語り伝えて、夜に入れば井筒の辺りは人山を築くばかりにののしり合うより、小松川署にてもついに聞き捨てならずと、昨夜横田巡査を出張せしめ、その実状を取り調ぶるはずなりしが、もし事実とせばポスポルの類なるべく、さなくば、例の灰吹きから出ずる大蛇のたぐいなるべし。

 これ、燐火なるはいうをまたざるなり。

蜃 気 楼

 先年(明治二十八年八月)、伊予宇摩郡金生村、星川宇四郎氏の実験談なりというを聞くに、同氏が夜中、隣村川之江字井地某方より帰路、数十歩前において人語の声あり。近づき見るに人影だもなし。その近傍に瓢山と名づくる小山あり。古来その山に老狸住して、夜中、舟を空中に現出すると言い伝えり。よって氏は、これを狸の所為なりと考え、二、三歩を進むる間に、およそ一丁ばかり離れて、空中に突然、蒸気船の現出せるあり。その船、南方に向かい進行しつつあり。間もなく光明を放ち、甲板に二人の欄によりて、下をながめおるを明らかに認むるを得たり。これより船に近づかんと欲し、その方に歩を進むる途中、知人の来たるに会せり。ただちにその船を指示せしに、知人も現にこれを目撃せり。かくして、暫時ののち船影は消失せしという。夜中の時刻と夜分の状況いかんを知らざれども、その談だけにつきて考うれば、蜃気楼と判断するよりほかなし。けだし、近海航行中の汽船、空気の変状によりて、その幻影を空中に浮かぶるに至りしならん。その他にも伊豆の海岸、佐州の海岸などには、まま右のごとき幻影現るるとの話あり。

弘前怪談

 近刊の『東奥日報』は「弘前だより」と題して、左の一怪事を報じきたれり。

 さて、去る十八日の宵は、久し振りにて雨持つ空のいとくらく、風さえ南を送りて、なんとなく五月雨の本性をあらわしたりけるが、かれこれ森町の鐘も十時を過ぎぬるころ、新寺町は日暮橋まで来かかりたる一人の男あり。なにげなく、むら立つ杉の木の間より慈雲院の方を見上ぐれば、こはいかに、提灯ほどなる火光の、色は黄柑をともいいつべきが、二つほど中空にふらつきおりけるを見つけ出したり。その男もたちまちゾッとふるい上がりておそれ、真向こうの新若松の弦声、灯影、手にとるごとく近きに駆けつけて騒ぎ出だしなば、必定正体を見るべきに、さなくとも今十二、三歩にて橋の向かい袂に至りなば、駄菓子なんど売る家もあるにと、気はいら立てどなんとかしけん、こんどはかえってたじたじ後方へとばかり引き戻さるる心地のしてきしをや、われも早や魅入られたかと果ては冷汗ほたほたになり、しょせんかなわじと一声高く叫べば、心柄にやあらじか、わが口はなにものかもて打ちふさがれたらんごとくなり、声さえ出なくなれり。男は生きたる心もなく、いまだ深更というにもあらず、なにとて今宵に限りてここをば人の通りなきことや、不審し不審しといぶかしめば、なおさらに迷い込みて、身はあらぬ道にぞ来たりてぞありけり。たった今ありし新若松楼の灯火も、にわかに変わる炎のごとき大火団となり、一上一下われに迫らんとするもののごとく、男は九死の境に入れり。とっさに大火団はパッと破裂しぬるかと見れば、その数、百をもってもかぞえつくされぬ小火炎となり、話に聞く狐火というものは、かくやあらんかと思わるるばかりなり。男は総身麻痺して気息淹々、眠るがごとくそこにバッタリとたおるれば、人事にわかに不省。このとき、一声鋭く耳もとに狐の鳴き声。ハッと今までの夢はさめてそこらあたり見回ししに、日暮橋にありたりし身は、いつの間にか慈雲院下の河原に運びこられてありたり。雨雲の間に星の光きらめき、風の音も小笹上にものすごく、あまり〔の〕こわさにまたも夢の心地に、わが家に一散走りして逃げ帰り、かたくこのことをば今に秘しおるとなん。どうで神経の所業なるべけれども、聞けるがままにまたも記しつ。

亡 霊 談

 越後国中蒲原郡覚路津村、某氏の長男、数十年前溺死せしことあり。その後二十日あまりを経て、夜中、その家に雇われおる下男の部屋へ、長さ六尺ほどの長棒を突き入れたるものあり。最初は近所の若者の悪戯ならんと思いおりしも、その翌夜は量目およそ七貫目もある銭箱を、右の部屋へ投げ込みたるより、一家大いに奇怪に思い、恐怖の念をいだくに至れり。その翌夜より、縁板を踏み鳴らすがごとき音を発せり。かくのごときこと連夜に及び、加持祈祷を行うもその験なかりしが、四十余日を経てようやくやみたり。人みな、溺死せる長男の亡霊がなすところならんといえりとぞ、その地方より報知ありたり。もし、これを亡霊の所為とすれば、そのなんぴとのためなるやを解するに苦しむ。かつ、一人の亡霊にして、かくのごとき怪事をなすことを得る以上は、あらゆる亡霊みな同様のことをなし得べき理なり。しかるに、他の亡霊にかくのごとき怪ありしを聞かず。これ『妖怪学〔講義〕』中「雑部門」の問題にして、「雑部門」を一読し去らば、その原因いかんはたいてい推量し得べし。

日本の怪談

 近ごろヘルン〔小泉八雲〕氏、『イン・ゴーストリー・ジャパン』(In Ghostly Japan)と題し、日本の怪談を訳して一冊子となせり。その書に題するに、左の歌をもってせり。

    よるばかり見るものなりと思ふなよ昼さへ夢のうきよなりけり

 著者は、これを左のごとく英訳せり。

Think not that dreams appear to the dreamer only at night : the dream of this world of pain appears to us even by day.

P206

妖怪学雑誌

第 八 号(明治三十三年七月二十五日発行)

妖怪研究会報告

一、井上会長は、本月十七日東京出発、二十日より八月三十一日まで能州四郡巡回、九月一日帰京の予定なり。

一、本会にては各地の奇跡、怪談を集めて編集するつもりなれば、会員諸君の郷里に存する奇跡、怪談は、なるべく広く集録して報道あらんことを望む。

一、本会にては児童の有する死の観念を取り調べたきにつき、会員諸君中、小学教員に従事せらるる御方は、小学児童につきて、

    人間は死後いかになりゆくか

    死はなにゆえに恐るべきものなるか

  右の二題を、試問せられんことを望む。

一、不学無知の農夫が、天地開闢につきて有する観念を取り調べたきにつき、

    この天地はなにものより成来したりしや

    天地の最初はいかなるものなるや

  右の二題を、農夫につきて試問せられんことを望む。

一、無学の老媼、老婆、婦女子につきて、左の現象に関して有する想像を取り調べたきにつき、

    雷、虹、彗星、流星、地震、その他の天変地異

一、広く老弱男女につき、人生の目的をいかように心得るかを取り調べたきにつき、

    なんのためにこの世に生存するや

    なにをもってこの世に生存する所詮とするや

    なにをか人間一生における最上の楽とするや

   明治三十三年七月 東京市小石川原町哲学館内 妖怪研究会  

論  説

戦 争 論 井上円了述  

 およそ戦争に三種あり。曰く天争、曰く人争、曰く心争なり。天と相争う、これを天争といい、人と相争う、これを人争といい、心と相争う、これを心争という。その一敗一勝は実に死生の相分かるるところなれば、われわれの生存上、これより重かつ大なるものなしといいて可なり。まず、天争につきていわば、われわれは己の生存を全うせんと欲せば、必ず風雨、気候に向かいて競争せざるを得ず。もし、その競争に敗を取らば、必ず己の健康を失い、疾病を起こし、ついに短折夭死するに至る。つぎに人争につきては、これに有形的と無形的との二種ありて、有形的戦争とは、兵器干戈をもって相争うものにして、普通にいわゆる戦争これなり。無形的とは、あるいは商業上、あるいは工業上、あるいは学問上、あるいは百般の事業上において、社会衆多の人とともに、体力、知力、意力等をもって競争するをいう。これ、すなわち社会間の生存競争にして、勝ちてはたちまち紳士となり、敗るればたちまち乞丐となるのみならず、生計の困難より種々の病患を引き起こすに至る。国家の盛衰興廃もまた、みなこれより起こる。つぎに心争に至りては、わが心中の善心と悪心との戦争にして、日々夜々精神の活動する間は、ほとんどやむときなし。その一勝一敗は直接にわれわれの生命に関することなきも、間接には一身および一国の死生に関す。また、悪心にしてよく善心に勝ちたる場合には、たとい身体は依然たるも、その精神はすでに死せりといいて不可なることなし。ゆえに余は、この三種の戦争はみな死生の相分かるるところなりという。しかして、国家の盛衰興廃に至りては、三種の戦争のともに関するところにして、一国の隆盛を祈らんと欲せば、必ず三種の戦争に勝利を得ることを望まざるべからず。

 以上三種の戦争の妨害物を考うるに、人の迷いを第一とす。まず、天争に対して勝利を占むることあたわざるは、種々の迷雲わが心天をとざして、天地の道理を明らかにするを得ざるによる。また、人争、心争に対して敗を取るは迷心の妨害あるによる。しかして、この迷いを退治するもの三種ありて、おのおのその方面を異にす。

一、前面より退治するものは教育なり。

一、背面より退治するものは宗教なり。

一、側面より退治するものは妖怪学の研究なり。

 もし、仮に迷雲台と名づくる一砲台ありと定むれば、前面より攻撃するものは教育軍なり、背面よりするものは宗教軍なり、裏面よりするものは妖怪軍なり。今、東洋諸邦中わが大日本を除くほかは、いずれの国も迷雲中に彷徨し、迷雲台を固守するものなれば、教育、宗教、妖怪の三軍連合して、一斉攻撃に着手せざるべからず。今、シナは欧米連合軍の攻撃するところとなれり。これに次ぐに教育、宗教、妖怪の連合軍をもってせざれば、永く東洋の天地に文明の日光を見ることあたわざるべし。

雑  録

妖怪窟雑話(第八回) 愚俗の迷信 不思議庵主人  

 洋の東西を問わず、愚俗の迷信はたいてい相似たるものである。宗教の迷信はことさらはなはだしきように覚えます。西洋にありては、ヤソ教は世界の宗教中、最も迷信を離れたる文明的宗教なりと申しながら、その愚俗の信者のごときは、今もって迷信の淵に沈みて出ずることを知らざるは、実に憫然の至りである。例えば、昔時ローマにヤソ教を厳禁したる際、ヤソ信徒を大罪人とみなし、強盗、人殺しと同一に死刑に処したりしことがある。古来ヤソ信徒は、その死骸を葬りたる場所より掘り出だせる骨片あれば、これを聖者の霊骨として大金をもってあがない、神壇の上に安置して朝夕礼拝することなるが、その骨のいくぶんかは強盗、人殺しの骨であるのに気づきませぬ。また、日本にては諸宗中、真宗ひとり迷信を離れたる宗旨と申すけれども、無知の愚民らは御法主殿巡教の節、その沐浴せられたる湯水を神聖なるものと心得、これを服用するものありといいます。御法主殿ならなおよしとするも、巡教中折々入浴なされぬことありて、その節は御法主の代わりに従者が入浴するとのこと。しかるに、信者は従者の浴水なるを知らざるゆえ、やはり御法主殿の浴水と心得、その余りをもらい受け、自宅に帰りて家族に分かち、あたかも神酒のごとく、これを服用するものありとは、実に驚き入りたる次第である。これ、東西の迷信の好一対と考えます。

雑  報

化け物退治

 先年の新潟『東北日報』におもしろき一話を載せたり。左にこれを転載す。

 三島郡出雲崎なる不動山西方院とて、いと古代じみたる木像地蔵尊を本尊となす真言宗の古伽藍あり。檐傾き壁くずるというほどならねど、位置が位置とて古木森々として昼さえ人足まれなれば、夜は一層もの寂しさ言わん方なきに、このほどよりその堂の後方にて、夜な夜な異様のなき声すとて大評判となり、住職渡辺某はじめ、必定世にいう化け物とやらんいう怪物ならんと、宵より衾を打ち被りて臥すほどなりしが、ツイ四、五日前の夜のことなりとか、たまたま近所の若者十四、五名、一杯機嫌のおもしろ半分、今夜こそは西方院の化け物を退治しやらんと、手に手に斧、鉞、棍棒などを取りつつ、台所なる炉に榾柮折りくべて団欒し、イザござんなれと待ち構うるとは知るや知らずや、夜も深々と更けわたる真夜中ごろ、果たして堂後に化け物の声すと聞くやいなや、一同スワこそと左右前後より滅多打ちにうちたたきたるに、なにものか手ごたえせるより、手燭よ松明よと灯をよび照らし見れば、これなん、年久しく伽藍の家屋にすみし一老大貂にして、背中のみ黒く、他の三分の二は白く、一見ゾッとするばかりの怪獣なりしに、さすがは血気の若者ども、そのまま料理して下物となし、酒は住職のおごりとなし、舌鼓して食い尽くせしとは、なかなかの快談にこそ。

菩薩来現

 右の化け物退治に類したる話があるが、昔、ある僧が京都愛宕山に廬を結び、多年修行を凝らしてその山を出でず。この山中に住する一猟夫、深くこの僧を尊信し、ときどき来たりて安否を問う。ある日、僧が猟夫に語るに、「われ多年修行の功によりて、このごろ毎夜、普賢菩薩の来現を見る。今夜は汝もここに泊して、われとともに拝礼すべし」と。猟夫謹んで諾せり。ときに夜まさに半ばならんとするころ、普賢菩薩、白象に乗りて来現あり。僧、五体を地に投じて拝伏せり。猟夫後ろにありてこれを熟視するに、決して普賢菩薩にあらず、これ獣類ならんと思い、急に弓を取りて一矢を放つに、菩薩たちまち地に倒る。よって、これを検するに老狸なりしという。古来、山中に天狗ありとの話も、おそらくはこの類ならん。

灯 明 楼

 信州上田町には、山口の一つ火と名づくる怪あり。大阪府下河内の国には、畑の灯明桜と名づくる怪あり。二者好一対の妖怪なり。畑の灯明桜につきて『大阪毎日新聞』の報ずるところは、南河内郡山田村大字畑という所の山麓に、一株の桜の老樹あり。夜に入ればその樹の梢に、灯明のようにホンノリと色の薄き火見ゆ。十町以上、一里以内の所にて見れば、その色極めて判然たれども、近づきて五、六町の所に至れば、その火はたちまち見えぬようになるを常とすという。

針跡ある柏実

 越後に親鸞聖人七不思議の一つとして、南蒲原郡田上村に榧の実の旧跡あり。これ、榧の実に針の跡あるものにして、聖人が珠数に用いし榧の実を取りて蒔きたるものが、後に生育してかかる不思議を現せりという。これと好一対の話は、東海鉄道山科停車場より程遠からぬ小野村に、随心院という大寺あり。その境内および近辺に、太さ三囲もあらんかと思わるる柏樹あまたあるが、その実のいずれを見ても、一つとして針の跡のなきはなし。その縁由というものを聞くに、深草少将が小野小町のもとに百夜通いをなしたるとき、数取りのため窓より小町の居間へ投げ込みしを、小町が拾いて針にて通し、糸につなぎおきしを、少将が凍死をせし後、おちこちにまき散らしたるものが、すなわち今の柏樹と生長したるものなれば、実はなおそのときのまま針の穴あるなりという。かかる言い伝えはもちろん沙汰の限りなれど、実に穴あるは事実なりとのことなり。

海   妖

 ある新聞に、舟乗りの妖怪実験談を載せたるものあり。その始末は左のごとし。

 予は旧北海道通いの風帆船に乗りおりし者なるが、明治二十七年五月、樺太へ鱒、鮭の積み込みのため函館港を出帆し、日を経て北見国宗谷岬にかかりしに、折しも午前一時、南の微風、曇天なりしが、わが船首およそ七、八丁の距離に一白灯を発見し、近づくに従いよくみれば、一汽船のここに停泊せるものなりしかば、わが船首を左舷に向けてその船を避けんとせしに、その船はわが船のまにまに、また船首に横たわれり。これは折から風の力弱かりしかば、潮流のためにおし流されしものならんと、またわが船を右に回せしに、不思議にもその船はやはりわが行く先にあり。見張りの水夫は驚きながら、舵が利かぬと舵夫と喧嘩をはじめしほどなりしが、とかくするうちに、その船との距離わずかに五、六間となりしかば、もはや衝突は免れ難しと気遣いながら、船員一同大声をあげて先方の船に注意を与えしかど、人の乗りおる気色もなく、船中寂として音もなければ、ますます不思議と思う間もなく、咄嗟その船と衝突せんとする一刹に、今までありし汽船はかき消すように消え失せたり。さては妖怪にてありしかと、みなみな気味わるく思いながら、針路を復して再び進航をはじめしに、見る見る一大汽船あり。数百の灯を点じ、全速力波を蹴たてて、われの真横にはしりきたり、すでにわが船の腹へ衝突せんとするように見えしかば、「危ない、危ない」と大声をあぐる途端に、その船はまた消え失せたり。かくすること二、三度なりしかば、船員はいくぶんかその怪になれて、最初の折ほど恐ろしきものには思わざりしが、しばらくありて、このたびは二斗樽ほどの火の玉、いずこよりともなく飛びきたり、わが船の前檣の頂上に止まりたり。かくと見たる船員は、われを忘れてあれよあれよと叫ぶうちに、その火はフワリフワリと檣の中央まで落ちきたり、なにか人の呼吸するようなる音聞こえしかば、一同は驚き恐れてみな船室の中へ逃げ入り、鳴りを静めていたりしが、午前四時ごろとなり、船員の一人恐る恐る船室を立ち出でてうかがい見しに、今まで檣にありし火は見る見る砕けて千万点となり、水に浮かぶ蛍火もかくやと思うばかりになり、間もなくただ一時に消え失せて、はや薄々としらむ東の空にあから引きて、水の色あおくすごく見えしとぞ。後に聞けば、この怪事に出あいし場所は、今より三十年前、異国汽船の沈没せし所なるよし。いずれにもせよ、このときの不思議は今に歴々と目に残れど、なにもののなせる怪事にや、さらに分明せず。

邪   神

 維新前のことなれど、豊州小倉の城内に一小祠あり。なにびとの神たるを知らず。城主おもえらく、この地穢れ多し、よろしく祠を城外清潔の地にうつすべしと。しかるに、城主たちまち眼疾を発し、焮痛忍び難し。左右の者、みなもって神の祟となし、祠をうつすことをやめんことを上申す。城主すなわち怒りて曰く、「これ邪神なり。穢を好みて潔を忌む。われ、なんぞこれを恐れんや」と。急に命じてその祠をこぼち、その神を焚かしめたれば、眼疾たちどころにえたりという。神にも邪正の二種ありと見えたり。

第 九 号(明治三十三年八月十日発行)

妖怪研究会報告

一、御守り、御札寄贈の諸君に対しては、井上会長帰京のうえ謝意を表すべし。

一、会費尽きたる場合には、雑誌発送を中止するにつき、本会規則に従い、前もって送金ありたし。

一、西洋の怪物は『山海経』等に出ずるものと大同小異なれば、最初に西洋の怪物図を掲げ、後にシナの怪物図を掲げ、もって比較研究の便をはかるべし。

一、小児(いまだ小学校へ入学せざる五、六歳の子供)のえがきたる図は、研究の一材料となるものなれば、会員諸君中に多少画心ある子供につきて、人類、動物、草木等の画を作らしめ、御寄贈あらんことを請う。

一、かつて広告せしごとく、長寿の方法を取り調べたきにつき、地方にて八十以上の老人あらば、その人の家業、性質、習慣等につき、なるべく明細に視察して御報道あらんことを請う。また、その人の衛生上の注意いかん等も、あわせて問い合わせ報告あらんことを望む。

一、本会にては、人の姓名と性質と大いに関係あることを取り調べ中なれば、地方において姓名と性質との相合するものあらば、これまた御報道を請う。

   例えば、孝吉は孝行もの、忠助は忠実もの、虎太郎、熊次郎は勇力に富むの類をいう。

一、毎回、種々の研究問題を掲げて報告を願う以上は、他日、有益の材料寄贈せられたる諸君に対して、多少の謝意を表する心得なり。

   明治三十三年八月 東京市小石川原町哲学館内 妖怪研究会  

論  説

運 命 論 井上円了述  

 王公貴人は百事意のごとくならざるなきも、ひとり意のごとくならざるものは、運命なり。運命の前には権力も金力も、さらにその用をなさず。諺に「地獄の沙汰も金次第」というも、運命の沙汰はこの限りにあらず。ゆえに、王公貴人も運命に対しては大いに迷うところあり。死生の動かすべからざる、病患の避け難き、禍福の期し難き等は、みな運命なり。あるいは富貴の家に生まれて、生まれながら富貴なるものあり、あるいは貧賎の地に生まれて、生まれながら貧賎なるものあり、あるいは天性英傑の才を抱きながら、ときの不遇のために、終身その才を伸ぶることあたわざるものあり、あるいは凡庸の力をもって僥倖を得るものあり、あるいは明治以前に生まれて尊王を唱え、その身もその名もともに湮滅して世にあらわれざるものあり、あるいは宗教革命の前に出でて革新主義をとり、ために身、戮せられて名の伝わらざるものあり。これみな人力、人知のいかんともすることあたわざるところにして、これを総称して運命という。これ、実に諸迷のよりて起こる根拠なり本城なり。この本城を一掃するにあらざれば、到底、迷苦の世界を変じて、不迷安楽の世界となすことあたわざるべし。しかして、これ実に妖怪学の目的とするところにして、また諸学の終極の目的なり。換言すれば、この問題にして解説し得れば、宇宙間のあらゆる疑問は、みな氷解するを得べしと信ず。

 今日百科の学問が、いまだこの点につきて、なんらの報告も説明も与えざれば、妖怪学が独力孤立にて、この最大至難の問題を解明すること難しといえども、諸学の研究より得たる結果を総合しきたりて、これを運命の上に応用すれば、いくぶんかその理を開示するを得べし。これ、余が『妖怪学講義』中、「純正哲学部門」において講述するところなり。その他、この問題につき種々工夫せるものあれば、おいおい報道して世の批評を請わんと欲す。

雑  録

妖怪窟雑話(第九回) 幽霊談 不思議庵主人  

 幽霊は、多く夜中、樹陰あるいは墓間に朦朧としてあらわるるものなるが、中には白昼正体を現し、人とともに談話し、ともに飲食したる話がある。すでに谷〔干城〕子爵が国家学会において演説せられたる幽霊談中に、土佐の某の幽霊は白昼出できたりて友人をたずね、ともに茶づけ一飯を喫したりとのこと。もし、これを事実とすれば、実に奇怪千万と申さなければなりませぬ。余、かつて田舎話を聞きたる中に、かかる幽霊の一例ともなるべき話を見ました。そは、ある田舎のことで、ある家の悴、家事上おもしろくなきことありて、ふと思い立ち、断りなしに江戸へ脱走したことがある。一家の者、本人のいずれに至りしを知らざるゆえ、親戚、友人の宅をいちいち問い合わしたるも、所在さらに分からず。かくして数日を経たる後、ある川下に一人の死骸のかかりおるを見たるものあり。行きて検するに、年齢といい面相といい、脱走せし当人に似たる点より、一同の説にて、本人は身を川に投じて自殺したるに相違なしと決定し、その家を出でたる日を本人の忌日と定め、急に葬式を行い、死骸を葬り、七日、三十五日の法会まで営み、全く亡きものとして取り扱いました。

しかるに、本人は江戸に出でてある家に奉公し、幸いに立身ができたならば国に帰りて、親たち、親類に面会せんと思い、それまではなんらの音信をせずにおりしが、三年目に至り多少貯金もできたれば、一度郷里に帰らんと思い、江戸を発してその家に至れば、一家の驚き一方ならず。すでに死せしもの再び来るはずなし、これ必ず幽霊ならんとて、一同気味悪く思い、だれも近寄るものがない。そこで、本人の方にてもきまり悪く思い、いろいろ幽霊でなきことを説明するも、近づくものはみな、幽霊の言なりとて真実に聞く人がない。それゆえに、本人も大いに閉口したという話があります。もし、そのとき本人があまりきまりのわるさに、再び思い立ちて江戸へ上りたるならば、永く白昼の幽霊談となりて後世に伝わるに相違ない。

 これに類したる話は、余が同郷に戊辰の戦争のとき、官軍に混じて家を出でて、奥羽より転じて東京に遊び、ついで上州に移り、数年の間、郷里へなんらの通信を発せざりしゆえ、郷里の方にては戦死したるに相違なしと信じ、出発の日を忌日として毎年法会を営み、かれこれ七年に及びたりしが、本人は一度父母、親戚を訪わんと思い、上州を発して家に帰れば、あたかも本人の七回忌法会を営みたる当日にして、一家みな幽霊が来たれりと申せし由を聞きました。これによりて推測するに、古来白昼の幽霊は、多くこの類ならんと考えます。

雑  報

幽霊実験談

 伊豆七島中の一つなる神津島より報ずるところによるに、鈴木久造の母、ある日、畑に出でて農業を営みおりし際、突然、清水福造の妻現れ出でたるを見たり。しかるに、当人は久しく病床に臥し、あたかも九死〔に〕一生の際なれば、決して家を出ずるはずなし。よって久造の母は、これ福造の妻にあらずして魔物ならんと思い、大声を発して「このヤツメー」と叫びたるに、妻の形はたちまち消失せりと。かくのごとき話は往々あることなれども、これをもって霊魂の実在あるいは感通を証するには、なお不足を覚ゆるなり。

福徳延命地蔵

 先年、米国よりアボット嬢来航し、東京神田錦輝館において魔酔術の実験を行いしことあり。そのとき児童を壇上に立たしめ、はじめにこれを持ち上ぐればたやすくあがることを試みおき、後に嬢が魔酔を施して再びこれをあげんとするも、大盤石のごとく動かず。傍観者中より随意に出でて試むるも、だれもよくこれを持ち上ぐるものなかりき。これにやや類したる話は、上野東叡山浄名院の福徳延命地蔵尊なり。その一名を、「伺い地蔵」あるいは「抱き地蔵」または「持ち上げ地蔵」という。その高さおよそ一尺ありて石像なり。この地蔵尊、ある年大阪にて開帳せしことあり。そのとき実験したるものの話に、まず地蔵尊を拝するに、極めて温和なる容貌にして、安座せる像なり。碁盤の上に蒲団をしき、その上に安置し、毫も怪しむべき点を認めず。最初拝礼して、つぎに両手をもって尊像の腰部を抱き、一心に「南無阿弥陀仏」を念じ、わが身に利益あらば御身を軽くせられんことを請い、後これを捧ぐるに、常の石に異なることなし。後また一心に祈念して、わが家に福徳あらば御身を重くせられんことを請い、これを試むるに、その重き大盤石のごとく、なにほど力をこむるも、毫も動かすことあたわず。ここに参詣したるもの、一人としてその不思議に感ぜざるものなしという。これ、世間にある「御伺いの石」と同一なり。

霊夢の感通

 岐阜〔の〕某氏の報道なりとて、『大阪毎日新聞』に載せたる霊夢談あり。すなわち、「濃州羽島郡笠松町、足立和兵衛氏の長男和三郎は、今より十年前、肺病にて二十三を一期として死亡したり。その生前すこぶる親密なりし、越前福井の取引先呉服商某は、一日炬燵に暖をとりうとうととしていたりしに、和三郎は痩せ衰えたる姿にて入りきたり、『今より冥途へ赴く身となれば、これまでのなじみがいに一片の回向を頼む』というかと思えば夢はさめたり。某は不思議に思って、そばにいたる兄を揺り起こしてそのことを語りしに、兄もまた割り符を合す夢の物語に、こはただごとにはあらざるべしと、ただちに手紙をしたためて足立方へ報じたると行き違いに、和三郎が死去の報知来たれり。その時刻は二人が夢を見たると同時刻なりしも一つの不思議なるが、二人の夢に見し和三郎の姿は、縦縞フランネルの寝衣を着て、縮緬の兵児帯を締めいたりしよしなるが、和三郎はまさにこの姿のままにて死したりというに至りては、実に不思議の不思議なるべし。当時、小生は笠松にありて親しくその話を聞きたるが、世にはかかる奇事もあるものにや」とあり。もし、これをして真に事実なりとせば、真怪の一種に加えて可ならんか。

衣類切断の怪

 すでに三、四年前のことなるが、東京市京橋区采女町九番地、活版を業とせる文英社主木村吉蔵方にて、箪笥に入れ置きし衣類の紋所、襟、肩など、四、五寸ずつ切り抜かれおり、また、物に掛け置くてぬぐい、前かけなどが途中より切れ落ち、下女の掛けおる前かけがそのまま二つとなりしなど、種々不可思議のこと多しとて、そのことついに警察の耳に入り、一応家中も取り調べられ、下女のお福(十五)というが、一日警察に置かれて事情を尋問されしなどのことありしが、別にこれという原因も見いだされず。そのとき実地につきて取り調べたる話を聞くに、その切り取りたる衣類等の切り口は、全く剪刀などの刃物にて切りたるに相違なく、かつ、人の見ておる前にて不思議のありしことなどは少しもなく、いずれも家内のものが見ざるうちに切られおりしというまでにて、このほか近隣にて風説するごとき妖怪らしき事実は少しも見当たらず。家内のものはしきりに人為にあらざるよう思いおるようなるが、これは妄信のためか、ただしは事情ありて、ことさらにかく言いおるなるべしと。その後、木村吉蔵自ら本会に来たりて、その顛末を報ずるところを聞くに、下女の所行に怪しきところあれば、速やかにこれを遠ざくべしと勧めたれば、本人もその勧めに従い下女を解雇すると同時に、その怪、全くやみたりという。これ、いわゆる人為的妖怪なり。

浅山葉山

 静岡県磐田地方より、人に神を乗り移らす法なりとて報ずるところによるに、一人に曲尺二尺ほどある棒と御幣とを持たしめ、そのそばに五、六人ありて唱えて曰く、「天でころころ地でころころ幣でごろごろ御諌め申すは、浅山葉山羽黒の権現ならびに豊川御稲荷大明神」と。およそ百二、三十度繰り返すうちに、本人目を閉じ幣を頭上に上げ、全身に汗を流し、ようやく振動を始む。つぎに自ら呼びて、「われはこれ、なになにの稲荷なり」という。つぎに、衆人代わり代わり問いを発して答えを求むるに、「みな事実に合す」という。この浅山葉山の歌は、先年流行せし御釜おどりの歌に類す。多分、その歌より転じたるものならん。

第 十 号(明治三十三年八月二十五日発行)

妖怪研究会報告

一、本誌挿画として、前三回西洋の怪物図を掲げしが、本号よりは地獄の図を掲ぐべし。日本にもシナ伝来の地獄の図あり、西洋にも地獄の図あり。この二者を較するに大同小異なり。地獄には獄卒あり猛火あるがごときは、東西相同じ。その相同じきは、想像の相似たるを証するに足る。

一、本会にて、全国の民間に行わるる種々の「まじない」(呪術)を集めたきにつき、

   瘧、虫歯、火傷、虫よけ、蟻よけ、衄血、船酔い等

  右らの「まじない」は地方によりておのおの異なることなれば、なるべく取り調べて御報道ありたし。

一、俗占と申すものも取り調べたきにつき、御報道を請う。

   (その例) 鴉が高き枝に巣を作る年は洪水あり ○耳の中のカユキときはよきことを聞く ○鉄瓶の口を間違えて湯をくまんとするときは坊主の客あり ○歯の落ちたるを夢みるときは親戚中に死人ありの類

  その他、婚礼、葬式の忌み物、漁夫、船頭などの忌み物の類

一、御守り札の効験を取り調べたきにつき、これまた御報道を請う。

   明治三十三年八月 東京市小石川原町哲学館内 妖怪研究会  

論  説

忘 憂 術 井上円了述  

 世人は記憶術の必要を知りて、失念術の効用を知らざるは、余が大いに惑うところなり。もし、記憶術と失念術といずれが大切なりといわば、失念術のまさること実に万々なり。およそ人は、楽事は忘れやすく憂苦は忘れ難きものにして、その忘れ難きがために、一憂のいまだ消せざるうちに他憂の来たるあり、一苦のいまだ尽きざる間に他苦の生ずるありて、憂苦に憂苦を重ね、ついに病患を醸し、夭死を招くに至る。けだし、世の不幸は憂苦そのものよりは、むしろ憂苦の忘れ難きにあり。憂苦にしてたやすく忘るるを得ば、憂苦ありともあえて憂苦とするに足らず。これ、余が先年失念術を講述したるゆえんにして、その大要は『妖怪学講義』「教育学部門」中にあり。

 人の忘れんと欲するもの多々あり。苦を忘れ、憂を忘れ、貧を忘れ、賎を忘れ、病を忘れ、老のまさに至らんとするを忘れ、死のまさに近づかんとするを忘れんとするも、古来いまだ失念術を発見したりし人なきをもって、憂はますます憂、苦はますます苦となるに至る。世運の開け、人文の進むに従い、日常の便利は日を追いて増加するも、憂苦の度は毫も減少するを見ず、かえって増長するのみ。ここにおいて、失念術の講究のますます切要なるを知るべし。

 失念術の方法のいちいちは、これを「教育学部門」の講義に譲り、ただここに一種の方法を示さん。すなわち口称の方法なり。西洋の宗教には、いまだ口称の方法を伝えたるものあるを聞かざるも、インドの宗教にはもっぱらこの法を伝え、日本にても各派たいていこの法を用う。その著しきものは浄土宗の念仏と、日蓮宗の題目なり。たまたま憂苦の心を悩ますあれば、日蓮宗は一心に題目を唱え、浄土宗は一向に念仏を称し、その間、さらに余念を混ぜず。これ忘憂術の一法なること明らかなり。余はこの方法をもって広く世間に応用し、上下一般に忘憂の一助となさんことを望む。その口に唱うるところは、必ずしも念仏、題目に限るを要せず、別に工夫して可なり。神道は神道の口称を用い、儒教は儒教の口称を用うべし。余はこれを名づけて口称的忘憂術という。

雑  録

妖怪窟雑話(第十回) 幽霊の写真 不思議庵主人  

 近来世間にて、幽霊が写真に現れたと申す話がある。去るころ、余が『続妖怪百談』を『読売新聞』に掲げたる際、幽霊の証拠として写真に幻影の現れたる例を引きて、「これは不思議庵先生には、いかように説明するか」とたずねたる人がある。その節、拙者に代わりて説明したる人もあるが、余もそのことは先年来、再三質問を受けたることもあり、また自身も現に二回までその写真を見たることがある。よって、その後写真師にたずねたこともあるが、毫も不思議とするに足りませぬ。某写真師の説に、「一度写したるガラスをよくみがき上げずして、再びそのガラスに写し取るときは、先影の朦朧としてその形をとどむることあり」といいました。さもあるべきことである。たとい幽霊現に存するも、幽霊に形体の具してある道理はない。もし形体があるならば、幽霊とはいわれませぬ。とかく愚民は幽霊に形のあるように心得ておるから、写真にも写るように考うるも、こは大間違いである。日本の幽霊は中古以来のことであると申すが、手ありて足がない。西洋の幽霊は手も足もともに具しておる。日本の幽霊は透明でない、西洋の幽霊はその体ガラスのごとく透明である。もし、この二者を較すれば、西洋の方が、いくぶんか幽霊としての価値があるように考えます。なぜなれば、日本の幽霊に手ありて足なきは、はなはだ解し難い。すでに手があるなら、足もありそうなものである。西洋の幽霊の透明であるのは、やや無形に近いと見てよろしい。今後もし幽霊をえがかば、なるべく朦朧として空中に浮かび、いくぶんの透明質を帯ぶるようにしたいと思う。さすれば、多少人をして無形の想像を浮かべしむることができる。しかし、全く無形にしては画にて示すことができぬ。もし、画に示すならば、なるべく無形に近きようにするがよろしい。昔時、〔円山〕応挙が幽霊の画を改良したりと聞きておるが、今日は第二の応挙が出でて、今一度改良を加えなくてはなりませぬ。余がもし画工ならば第二の応挙となるつもりなれども、サッパリ画心がないから、その改良は世の画工に望む次第である。

雑  報

天狗怪談

 伊賀国名張町より南およそ二里、国津村大字布生より、年齢十三歳なる男子二人、先年来、名張高等小学校へ日々通学しおれり。山間農家の小童なればずいぶん腕白ものにて、父兄ももてあますくらいなり。去るころ、某日、例のごとく出校のはずにて、両人とも早朝、弁当ならびに学校用具を携え、おのおの自宅を出でたるに、その夜帰宅せず。もっとも、これまで往々親類方に宿りしことあるゆえ、なにげなく打ち過ぎたるに、翌朝に至り戸外に人声あり。戸を開き見しに、右の両人厠の前に立ちいたり。驚きてよくよくみるに両人とも正気なく、そのうえ一人は軽傷、一人は全身に大傷を受けおれり。早速、座敷に上せ医師の診察を請いしも、「その原因明瞭ならず。その傷跡は焦爛のごとくなるも普通の焦爛とは異なり、あるいは岩焼と称する類なるか、ともかく全身の負傷なれば、生死のほど保し難し。よし回復するも、強壮体には復し難し」といえり。しかるに、不思議なることは、かかる大傷を受けたるにかかわらず、外部の衣類等は水に濡れおるのみにて、毫も破損しおらず。ことに、うがちたる股引のごとき、そのまま現存するに、その下の皮膚一面に負傷しおり、頭髪には少しく焦げ跡あり、足皮底は、あたかも数日間遠足せしごとく破しおれり。両三日を経てようやく正気に復したる軽傷者にたずぬるに、「名張よりおよそ七、八町前、大字夏見まで参り、同地にて携帯品を預けおき、大字高尾(名張よりおよそ三里)にある親類へ行かんとせしに、道筋に一銭、二銭の銅貨散乱しおるゆえ、行く行く拾い取り両袖の内に入れたるも、少しも存留せず。かれこれしてふと見上ぐれば、目前に数人団居して火をたき、博奕をなしおれり。寒気のころとて、なにごころなく近づき火にあたらんとせしに、一人の老人にわかに捕らえ、強いて火に近づけたり。その後はいかがせしか少しも覚えず」といえり。右負傷の体より考うるに、とても自ら歩行して帰宅し得べきものにあらず。近辺の風説には、全く天狗に玩弄せられたるものならんという。

天狗祭り

 一昨年、福井県坂井郡某村にて、突然行方不明となりしものあり。親たちは必ず溺死せしならんとて葬式まで営みたりしに、その者不意に帰宅せしかば、いずれへ行きおりしやとたずねしに、「われは天狗に誘われて天狗界に遊びおり、ちょっと通信をなさんと欲すれどもその便を得ず。よって、自ら暇をぬすみて帰宅したるなり。天狗界にては、『去る二十七、八年の役〔日清戦争〕には、日本のために非常の尽力をなせしに、人間はこれを知らずして天狗祭りをなさざるをもって、天狗ら大いに怒り、昨年は稲作に浮塵子を散布することとなり、われもこれに使役されおれり。なお本年も浮塵子散布の議あれば、本年は盛んなる天狗祭りをなし、村内にて最も高き樹上に鏡餅を供え謝罪すべし』と言いすてて、再びいずこへか立ち去りたり」という。最も信じ難き怪談なり。

怪   鼠

 福井県今立郡〔上池田村大〕字魚見村、魚見鉱山事務所の有岡栄治という人、その住宅内に夥多の鼠棲息して、珍重せる家什といわず衣類といわず、噛み損じて大害をなすより、あるときは猫を飼い、あるときは罠を構えなどして、あらゆる手段をめぐらしたるも、とても退治し果たせぬより、さらに一計を案じ、大なる飯椀に飯を盛りて、程よき一定の場所に据え置き、鼠の食うに任せたるに、一匹、二匹とそこに集まり、果てはその数四十二匹までも、辺頭狭しと押し寄せて喫し終わるや、たちまち四方へ逃げ散るなり。主人はやや多量の飯を与えつつ、はじめの程は遠くより人に言うごとく、「コレ汝ら、飯はいかほどにても与うれば、以後は必ずわが家の物品に害を加うまじきぞ」と諭し、かくのごとくして数日を継続したるに、不思議や、夜中といえども立ち騒がずなりたるが、ただ一匹、茶色なる鼠の絶えず暴れ回るを見受け、憎きことに思いおりしが、奇なるかな、ある日たちまち、かの悪鼠は暴れずなりき。そは、鼠中の最も大いなるもの二匹して噛み殺したるものと見え、血にまみれたるその屍をば、翌日、例の飯椀の辺頭に運搬しきたりたりと。かくて、その後は鼠の害を全く免れたるのみならず、頃日にては毎夜、数匹の鼠は主人の居間に来たりて、炬燵の上などに戯れ明かしおれりと伝う。これ、一つの奇★(譚の正字)というべし。

魚   怪

 世に平家蟹と称する異様の蟹あるごとく、讃岐国の近海には「ぐち」と名づくる怪魚あり。この魚の頭骨を砕き見ると、直径二、三分くらいの丸き骨あり。さらにこれを砕き見れば、小児の歯のごとき小さき二個の骨あり。この骨にあたかも彫刻したるがごとく、葵の形のアリアリとあらわれおるを見る。古老の説には、旧高松藩領内の海に産するものには、その骨に葵の紋あり、丸亀領内に産するものには、四つ目の紋ありと。これまた奇というべし。

神 隠 し

 先ごろ『山梨民報』は、「神隠し」と題して左の事実を掲げぬ。

 今時ありとは思われねども、三、四日前のこと、愛宕町某方にては、積翠寺村より十二、三年になる少女を子守に雇い、今年出産せし小児を負わして遊びに出したるに、夕刻に至りても帰りてきたらざりしとて、家内中の心配一方ならず。近所の人を頼みて八方手分けして終夜探したれども、さらにその手掛かりなく、念のためにとて子守の実家まで人を出してたずねたれども、そこにもおらぬというに、いよいよ神隠しにあったか、さらずば井戸、河に陥りて死したるならんと、易者につきて占いをしてもらうと、易者はしかつめらしく筮竹をひねくり、「この子は巽の方にて五、六里離れた所へゆき、小児も機嫌よく遊んでおるという易の表なれば、そのうちに必ずいずれよりか沙汰があるだろう」とのことに、なおその方向に人を出して探したれどもいささか心当たりのなきに、雲をつかむようのたずねものとて、みなみなむなしく立ちかえりしその日の夕方、東八代郡一桜村神官某方より飛脚にて、昨夕、こちらの子守が漂然迷いきたりしゆえ、ひとまずとどめおきたり。よって、速やかに迎いを遣わされよとの通知を得て、小児の親は死したる子の蘇生せし思いにて、ただちに迎いの人を出して連れ帰りしよし。当人のいうところを聞くと、その日、六十歳ばかりの白髪の老人来たりて、「われと同行してきたれ」というまま後に続きて行きしに、前記一桜村一ノ宮の旧神官某方の前まで赴き、「この家に入りて待ちておれ」といいしまま、老人の姿はかき消すごとく失せたりとて、ぜひなくその夜は件の家に立ち入りて一宿したるなりと聞き、小児の親は薄気味悪き少女なりとて、子守は早速親元へ返したりという。

第十一号(明治三十三年九月十日発行)

妖怪研究会報告

一、人々特殊の食忌みあり。例えば、生来、鰻を食せざるものあり、鶏を食せざるものあり、葱を食せざるものあり。これを食忌みと名づく。この特殊の分を取り調べたし。

一、また、人の生来、大いに厭忌するものあり。例えば、蛇を厭忌し、百足、蜘、蛙のごときを厭忌し、そのはなはだしきは、戦慄して血色を変ずるに至る。かくのごとき特殊の厭忌も取り調べたし。

一、夢の実験、試験につき、本誌「妖怪窟雑話」中に掲げたるがごとき例あらば、これまた御報道を得たし。

一、本会会員章は、全国著名の御守り、御札を集めて縮写したるものなるが、これを懐中して災難を免れたるがごとき例あらば、御報道にあずかりたし。また、これに心を寄せて病気の癒えたるがごとき例あらば、御報告を煩わしたし。これ、御守り、御札の研究上必要なればなり。

一、会費前金尽きんとする場合には、前もって送金ありたし。すでに次号にて満半年に達したるため、会費の尽きたる分すこぶる多きようなれば、なるべく当月中に、左の割合にて引き続き送金ありたし。

    一カ月会費三十五銭  三カ月前金一円  六カ月前金二円

  細則は研究会規則につきて見るべし。

   明治三十三年九月十日 東京市小石川原町哲学館内 妖怪研究会  

論  説

忘 病 術 井上円了述  

 忘憂術の一種に忘病術ありて、忘病術の要は病気そのものを忘るるにあり。けだし、病気の永く癒えずして病勢のますます進むがごときは、多く病者が病気そのものを忘るることあたわずして、朝夕心頭にかくることのはなはだしきによる。世間に、病気を恐れたるために病にかかり、病を懸念せしために重症に陥りたる例ことに多し。これ、世に忘病術の必要あるゆえんなり。

 忘病術の方法は忘憂術と異なることなく、口称のごときも大いに効力あるは言をまたず。その他の方法は、「失念術」および「心理療法」につきて見るべし。今、余がここに一言せんと欲するは、今日一般に行わるる医者の治療法なり。名医の診断および服薬の処方のごときは、病の性質によりて効験あるは疑うべからざることなれども、その効験の中には、自然に忘病術のいくぶんを混じおることは、また決して否定すべからず。そのことは『妖怪学講義』中、「医学部門」の「心理療法」と題したる部分につきて見るべし。今、余は病院の利害を考うるに、病院は忘病の助けとならずして、かえって憂病の助けとなるものなり。病者がひとたび病院に入れば、四面みな病者にして、己より重症なるもの多々あり。朝夕その中にありては、いかなる病者も病気の懸念、苦心をますます高め、その結果、軽症を変じて重体となすに至るは、勢いの免れざるところなり。ゆえに、忘病術の仇敵は病院なりと断言せんとす。これに反して、転地療法は大いに忘病の助けとなりて、病苦の懸念を断たしむるを得。これ、空気、地気、天気の病体に益あるのみならず、病気の懸念を忘れて精神を爽快ならしむるの益あり。ゆえに、忘病術の秘訣は転地にあり。

 伝染病のごとき、あるいは重症にて、他に転ずることあたわざる病者のごときは、万やむをえずとするも、その他はなるべく転地療養を行うべし。病院療法は人為にして、転地療法は自然なり。病気の治するはひとり人為の力にあらず、必ず自然の力をまたざるべからず。近来の弊、自然を忘れて人為に偏するは、大いなる誤謬なりと心得べし。

雑  録

妖怪窟雑話(第十一回) 夢の話 不思議庵主人  

 妖怪の研究中、最も興味あるは夢の研究である。己の夢みし場合にその原因を考えきたれば、いろいろ発明することができます。まず、夢の原因の一つは感覚であるが、一夜火事の夢を見て驚きさむれば、面前にランプありて、その光が眼辺に刺激を与えたりしことが分かり、足に氷を踏みし夢を見れば、夜具の外へ足を出し、寒気に触れたるためなることが分かる。これらの実験から、故意にて他人に夢を結ばしむることができる。例えば、他人の熟眠せるところへろうそくを点じて、その眼前に置けば、必ず大火の夢を結び、鉄瓶の冷ややかなるものを取り、その足に触れしむれば、必ず氷をふむの夢を結ぶに相違ない。その他、古来、夢に霊験不思議を感じたる例がたくさんある。例えば、夢によりて病気を前知し、または未然の出来事を知るをはじめとし、遠方のことが夢の中に現れきたるなどは、世間に多く聞く話である。そのうち、遠方の出来事の符合は実に奇怪と考えます。これ、余が真に不思議と思いて研究しておるところである。

 この夢と事実との符合につきては、差し引き勘定を要することがある。その差し引きとは、人々毎夜夢みるうちには、偶然の暗合もいくぶんかあるはずにて、毎夜の夢の数と事実符合の場合と、その割合いかんを算用しておかねばならぬ。余は日本の国民の数を四千万と定め、各人毎夜平均一回ずつ夢を結ぶと定むれば、一カ年の夢の総数は、

      40,000,000×365=14,600,000,000

 すなわち百四十六億となる。もし、十日に一回の夢ありとすれば、その十分の一すなわち十四億六千万の夢ある割合である。しかして、事実符合の夢は数代の間、まれに聞くところなれば、毎年一回はおぼつかないと存ずれども、仮に一年一回ありと仮定すれば、その割合は、

      十四億六千万分の一

に過ぎませぬ。もし、いよいよ十四億六千万の夢のうちに、わずかに一回の霊夢ありたりとも、決して不思議とは申されませぬ。しかしこのことは、よく霊夢の統計を取りて考えなくてはならぬから、広く霊夢の事実を集めて研究することが必要であります。

雑  報

妖怪屋敷

 『扶桑新聞』の報ずるところによれば、第三師団第三連隊長、河野春庵氏の目下居住する名古屋幅下俵町屋敷は、宅地三反三畝歩ほどありて、裏は昼なおものすごき薮なるが、明治二十四年のころ、ドク北川乙次郎氏住みおりしが、その後間もなく他へ移り、久しく空き家となりしも、二十七年八月ごろに至り、第三師団の弾薬大隊本部となりしも、またまた間もなく戦地へ引き移ることとなりて、もとの空き家となりしが、ついで種々の人住居したるも、なにか変化ありとて二カ月と継続する者なく、他へ引っ越すより、だれいうとなく「妖怪屋敷、妖怪屋敷」ととなえ、噂近辺に隠れなく、しばらく人住まず、邸内荒れて草蓬々と生い茂り、誠に狐狸の巣窟と化しおわりぬ。この由を伝え聞きたる河野中佐は打ち笑い、妖怪ごときもののこの世にあるべきいわれなし、後学のためその家に住居しみんとて、二十九年四月同家へ引き移りしに、聞きしにたがわぬ寂しげなる邸内にて、妖怪さえ出かねまじき光景なるも、中佐はさらに意とせず、それぞれ修繕を加え住みおりしに、ある明月の夜、中佐の北堂、中佐に告げて曰く、「今夜は大変の大雨ならずや」と。中佐は笑いながら、「今夜は月夜にて、なかなか雨どころにあらず。

 察するに、雨樋の水のたまりありしものが、なにかの途端にあふれ出しなるべし」とて行き見れば、なにごともなく月は皓々として冴え、四面寂寥、鬼気胆を寒からしむるのみ。

中佐もいぶかしきことに思い臥床に入りしが、それより幾日も経ずして、ある日下婢来たりて、他人の出入りすべきはずのなき路地に、見知らぬ人の下駄の揃い脱ぎある旨を告ぐ。中佐おもえらく、昼間盗賊の入るべきいわれなけれど、とかく怪しきことなり。「後の証拠にその下駄持ちきたれよ」と命ず。下婢かしこまりて去りしに、以前に発見したるときより、いまだ五分間も経ざるに、その下駄消え失せて影もなかりき。また、一昨年五月ごろ、中佐、官用を帯び伊勢津市へ出張したる留守中の夜、下婢の部屋に狐狸の難を避けんため、堅固に鳥屋をしつらい、鶏を飼いおきしに、夜更けて人静まりしころ、鳥の悲鳴一声聞こえければ、なにごとならんと下婢をはじめ家内の者起き出て見れば、鳥屋にありし鶏は羽一本も落とさず、いずこへかつかみ去られたりき。

 かくのごとき不思議のことの多ければ、中佐もさすがに不審晴れず、逢う人ごとに物語りしに、ある人の曰く、「世は呪いなれば、ためしに好生館裏の崇徳稲荷神社につき神託を受くべし」という。中佐笑いながら、さらばとてそのごとくなしたるに、同社の巫の曰く、「中佐の邸には三、四百年来すまいし狐ありて、春吉大明神とあがめられしが、十数年ごろより祠破れ祀絶え、祭事を行いくるる者なきにより、中佐に頼み再び祀を起こしもらわんとて、種々の不思議をあらわしたるものにて、決して悪意に出でしにあらず。ことに、過ぐる夜の鶏のごときは、邸内西南隅に穴をうがち、そのままに埋めおきたり、云云」中佐は試みに西南隅を探して掘れば、果たして鶏はそのままに埋めありしが、馬丁請いにより与えて食わしめ、ともかくも偶像云云と理屈をならぶる益なきことなれば、日本の風俗、慣例にならわんとて、邸内東北隅に新たに祠を築き春吉大明神を祀りしに、そののち夜三更、門をたたくものあり。下僕出でて見れども、さらに人影もなし。門をとざして内に入れば、またもやはげしく門戸をたたく。出ずればなにごともなし。怪しきこととて、またもや崇徳稲荷神社へ赴きたずぬれば、「そは春吉大明神が中佐の恩に報いんため、変を予知するにあり。一週間中になにごとかあるべければ、注意あるべし」といいしが、のち果たしてその言のごとくなりしと。

死体、異物を吐出す

 越後国岩船郡関村、松田幸之丈氏の実視せるところなりとて報ずるところによれば、今より八、九年前、松田氏の実兄高橋民蔵氏の三女トヨ(年五歳)疳病を患い、身体亀裂を生じ、薬石その効なく、ついに不帰の客となれり。一夕、その死体の沐浴に取り掛かりしに、口より焼き麩半分大のアワを吐出しおりしが、柄杓にて天窓より湯をくみ掛けたれば、そのアワは湯とともに流れて盥の中に落ちたり。すでにして沐浴を終わり死体を棺中に入れしとき、その傍らにありし小児二人盥を指さし、湯の中に美しき花浮かびおれりと、しきりに告ぐるゆえ、みなみな怪しみて盥中を検するに、果たして、さきに死人の口より吐出せるアワが湯の上に広がり、あたかも花の浮きたるがごとく、その形、桜花に似て花ビラ五つに分かれ、花シベ等ことに明瞭なり。その色はニカワのごとくにして光あり。これを細き木の先にてかき回せば、花みな一つ一つに分かれて一層鮮明なれりという。これも一種の妖怪なり。

不植の稲

 羽後に田代山あり、越後に苗場山あり。ともにその山上に田の形ありて、天然稲の生育するを見るという。これと同じく、讃岐国琴平町を去ること東北十町に苗田村あり。ここに石井神社あり。その境内に方形一坪の田あり。毎年だれも種をまかざるに七株の苗を発生し、人工も肥料も与えず自然に発育す。ゆえに、これを名づけて神田と称す。この地の農民は、その稲の良否によりて豊凶を卜すという。

怪   田

 鳥には怪鳥あり、獣には怪獣あり、草木には奇草異木あるがごとく、田には怪田あり。そは勢州桑名、白川の宮という一小祠は、冤死せる士を祀るものなるが、その傍らの田は小作人三年と続くものなし。そのわけは、鍬を入るるごとにコンコンと響きて恐ろしげなればなりと。

厳島の不思議

 厳島の弥山に登りたる人はみな申すことなるが、弥山の絶頂に高さ七、八尺の巨石あり。その石の人の手の届くほどの所に、直径一寸余、深さ四、五寸の小穴あり。その中に絶えず塩水のたたえ、いかなる旱天打ち続くとも、かつて涸渇せしことなく、なにほどかい出だしても見る間に前のごとく満潮し、また海水の干満に応じて増減をなす。高さ十八町も登りたる山巓にかかることあるは、実に不可〔思〕議というべし。これ、物理的妖怪の一種なり。

第十二号(明治三十三年九月二十五日発行)

妖怪研究会報告

一、前号に告示せるごとく、雑誌発行すでに半年に達したるため、会費の尽きたる分多ければ、早速送金あらんことを望む(前金尽きたるときは発送を停止す)。

    一カ月会費三十五銭  三カ月前金一円  六カ月前金二円

  細則は、ときどき中間色紙の上に広告せる「妖怪研究会規則」につきて見るべし。

一、次号より、西洋万国の妖怪談およびわが国将来の卜筮、禁厭等の改良法等につき掲載すべし。

一、次号より、長寿法、無病法、避災法、招福法等につき新案を開示すべし。

一、その後、御守り、御札の御寄贈の諸君は左に。

    (豊後) 小 川 俊 彦   (但馬) 坂 本 尚 義   (安芸) 伊 藤 政之助

一、妖怪事件御報道の諸君は左に。

    (伊予) 熊 本 豊 栄   (尾張) 高 木   協   (因幡) 中 村 富太郎

    (丹後) 永 浜 宇 平   (岩代) 馬 場 易之介   (美濃) 加 藤 掬 水

        (以下次号)

      懸賞問題

一、鳥や獣は毎日多く死するに相違なきも、その死骸を見ることなきはいかん。

一、手あるいは指にて耳をふさぐときは、耳の内部にモーン、モーンの響きを感ずるはいかなる理によるや。

一、日や月が昇るとき大にして、中するとき小なるは、その理いかん。

   明治三十三年九月二十五日 妖怪研究会  

(甲)は江州犬上郡西甲良村、日下豊澄氏の寄送せられたるものにして、今をさること数十年前、その地方に一僧突然来たりて一泊を請い、宿料の代わりにこの書をしたためて去れり。その住所も姓名も告げず、ただ「われは山にすむものなり」といえるのみ。よって、一般に相伝えて天狗なりという。

(乙)は紀伊国粉河なる館外員某氏より寄送せられたるものにして、僧素月、年齢十一歳のとき、すなわち文久元年、泉州牛滝山に遊び本坊に宿す。該夜初更のころ、素月、俄然悶絶転倒し人事を弁ぜず。しばらくありて蹶然として、聖護院宮御座所たりし上段の室に飛び上がり直立して曰く、「われは尊勝陀羅尼を守護するの神霊にして、空海上人存在のとき、われに尊勝大権現の号を付す」と、即座に筆を求めて書きしものなり。これ天狗の憑るところならんという。

(丙)は群馬県下利根郡花咲村、星野謙康氏、山間の温泉へ入浴中、山家にて天狗の筆跡として保存せるものをもらい受けて、寄贈せられたるものなり。

論  説

妖怪研究に書籍を要するゆえん 井上円了述  

 学者の書籍におけるは、なお武人の兵器におけるがごとし。武人にして兵器なくんば、その勇を示すあたわず、学者にして書籍なくんば、その知をあらわすあたわず。ゆえに、図書館を設けて古今の書籍を収集するは、諸学の研究に最も要するところなり。今、妖怪を研究するにも、古今内外の事実、先賢後哲の説明を知らんと欲せば、必ずまず書籍を収集するを要す。ただ、この類の著書、比較的に乏しきは、斯学のために遺憾なきあたわず。古来、妖怪に属する諸説は別に一冊子を成すもの少なく、その多くは随筆、漫筆の中に散見するに過ぎず。しかるに往々、奇説、異聞、怪談のみをあつめたるものあるを見る。余、数年の間、この類の古書を見るごとに資を投じて購求し、今まさに積もりて数百種に達せんとす。本年五月以来、その大半を斯学研究の人に示さんと欲し、図書室を作りて閲覧の便を設く。目下、いまだ広く公衆に閲覧を許すにあらざるも、哲学館学生、京北中学生徒、および哲学館館友、館賓に加入せるものに限り、自由に閲覧することを許す。左に、現今閲覧を許せる書目を掲ぐ。(妖怪研究会員中、館友に加わりたるものは、いつにても登館の上、借覧証請求あれば、自在に閲覧するを得)

      妖怪雑書の部

怪談全書  日本霊異記  鬼神論  古今妖魅考  天狗説  天狗名義考  今昔夜話  新著聞集

想山著聞〔奇〕集  鬼神俚諺鈔  本朝捜神記〔扶桑怪談弁述鈔〕  闇の曙  怪妖故事談  本朝怪談故事  不知〔火〕考  信田白狐伝  本朝奇跡談  北越七奇考  信濃奇談  奇説雑談集後編

〔寒温〕奇談一二草  〔安倍〕晴明物語  管蠡数㤧略  諸説弁断  大和怪談  和漢怪談評林  諸国怪談集  諸国奇談漫遊記〔周遊奇談〕  怪談とのゐ袋  稲生物怪録  怪談〔全書〕  人狐弁惑談

夜窓鬼談  再生記文  勝五郎再生紀聞  復讐奇談  世談雑話  当世両面鏡  僊術狗張子

 (以下次号)

雑  録

妖怪窟雑話(第十二回)不思議庵主人  

 藤井某氏は「妖怪窟」へ向け、左の質問を送られました。

  一、焼け火箸をしごく法

「昔より神の子供が集まりて教えしことは孝行白狐」と三度唱え、「あびらうんけんそわか」と三度唱え、手にほけをかけてしごけば、あつきことなし。右は学理上いかなるものか。

  一、棒寄せの法

両手に棒を乗せさせ、棒の小口に三の字を書くまねをなし、「あびらうんけんそわか」と三度唱え、口の内にて「よれ、よれ」といえば、棒の小口が一所に寄ること、これまたいかなるや。

 この二問は、『妖怪学講義』を読みおわれば、おのずから分かることなれば、ここに答弁するには及びませぬ。まず、第一の火箸を握る法は、物理的、心理的の両面より説明を下さなければならぬ。物理的説明によれば、手の皮膚面にある水気が急に蒸気となりて、手と火箸との間に不導体の層を作り、一時の間、火箸の熱をして手に伝えざらしむるを得るによるという。その理は物理学につきて研究するがよろしい。心理的説明は、『〔妖怪学〕講義』中の「心理学部門」の説明を読めば、十分に分かるはずである。つぎに、第二の棒寄せの法は、『妖怪学講義』に図面まで掲げてくわしく説明してあるから、それを見るがよろしい。ただここに、「あびらうんけんそわか」の呪文につきて、呪文そのものに霊験あるにあらずして、信仰の力よく呪文の効力をあらわさしむる一例を述べましょう。

 ある田舎の寺にて、「あびらうんけん」の呪文を唱えながら、小児の頬を摩すれば、たちまち虫歯の痛みを忘るる秘法を伝え、なにびとに試むるも著しく効験あり。その近村の老婆この秘法の伝授を受け、己の村へ帰り、小児の歯痛を訴うるものあれば、呪文を唱えて試むるに、みな治せざるはなし。しかるに老婆は、「あびらうんけんそわか」を誤り伝えて、「あぶらおけそわか」(油桶そわか)と記憶し、「油桶そわか」を唱えてよく歯痛を治せりという。されば、そのよく治方に効験あるは、呪文そのものの力にあらずして、一心にこれを信ずるの力によること明らかなり。

 この一例につきて、棒寄せの法などに、「あびらうんけん」の呪文を唱えて効力あるゆえんを推知することができましょう。

雑  報

人魂の正体

 近日、府下発行の某新聞に、「人魂の正体」と題して左の誤怪を掲げり。

 四谷区南伊賀町八十四番地、法華宗法蔵寺の墓地内に欅の大樹あり。毎夜、絶頂に青赤の火の玉現るると近傍の取り沙汰に、いずれも恐れおののき評判高くなりしに、四谷署より昨日午前三時ごろ、村田、泉名の両刑事、実否をたださんとて現場へ出張せしに、深更に及びてなにものか欅をねらいて瓦石を投じおるにぞ、こやつ、うろんと引っとらえ、本署へ引致のうえ取り調べしに、この者は赤坂区青山南町三丁目二十一番地、無職業鈴木正司という無頼漢にして、欅に攣じ登り、西瓜に火を点じて竿先に縛り、悪戯をなしたるよし白状したれば、説諭のうえ放免さる。

能州の七不思議

 越後に七不思議あり、遠州に七不思議あり、信州諏訪にも七不思議あり。しかるに、能州にいまだ七不思議あるを聞かず。本年夏期四十五日間、井上哲学館主能州を巡回し、その自ら目撃せるものを集めて、能州の七不思議をなす。

 (一) 灘の人車鉄道(灘村は当時大呑村と称し鹿島郡に属す。能越両国の境にあり。その地、多く石材を出だす。山間より海浜までおよそ二里の間、レールを敷きて石材運搬の便に備う。井上館主、この地に至るや、轎をレールの上に載せ、後ろより人力をもってこれを押す。運転すこぶる軽く、汽車に乗りたるがごとし。これ、いわゆる人車鉄道なり)

 (二) 小木法融寺のランプ(寺院の禁制は「不許葷酒入山門」(葷酒山門に入るを許さず)を常とす。しかるに、法融寺は真宗なれば、葷酒の山門に入るを許す。その代わりに「不許蘭弗入山門」(ランプ山門に入るを許さず)の禁制ありて、山内一個のランプなし。これけだし、失火を恐るる故ならん)

 (三) 兜の蚊(兜村は鳳至郡にありて、内海に突出せる孤村なり。その地、海に接するも、蚊の多きこと能州第一たり。けだし、兜は蚊太と国音相通ず。ゆえに、名実相応の一奇というべし)

 (四) 馬渡浄楽寺の山門(鳳至郡馬渡村浄楽寺には山門なし。住職曰く、「寺をさること数丁、本村に入る所、巨巌、深淵、左右相対して、わずかに一路を通ずるの天険あり。これを浄楽寺の山門となす」と。果たしてしからば、浄楽寺は山門なきをもって山門となす。禅宗のいわゆる無門関に似たり。これ、法融寺のランプと好一対の奇というべし)

 (五) 徳田照明寺の大硯(羽咋郡徳田村照明寺に大硯あり。長さ一尺八寸、幅一尺二寸、男子一人の力よくこれを動かすべからず。ゆえに、硯台に車輪を設けて運転に便にす)

 (六) 大町の人造雨(館主の鹿島郡大町に入るや、当日炎天焼くがごとく、暑気ことにひどし。村内あらかじめ大ポンプ数台を集め、一時間ごとに水を空中に散じ、沛然として驟雨の降るがごとく、地を湿し熱を散ぜしむ。これ、よろしく人造雨と名づくべし。灘の人車鉄道と好一対なり)

 (七) 免田西氏庭内の石〔灯〕篭(羽咋郡免田村、西氏は能州屈指の富有家なり。その庭内狭しといえども、大石前後に起伏し、象の蟠り、牛の臥すがごとき観あり。その間に石〔灯〕篭、大小合して十二基あり。おのおのその形を異にす。夜景すこぶる幽雅なり)

哲学館の妖怪地

 哲学館所在地は現今、小石川原町と称するも、旧来、駒込鶏声ケ窪と称したる地なり。その名称の由来をたずぬるに、『江戸砂子』に曰く、

 むかし、土井大炊頭利勝のおやしきの辺りに鶏の声あり。怪しみて、その声をしたいてその所をもとむるに、利勝のおやしきの内、地中に声あり。その所をうがち見るに、金銀の鶏を掘り出だせり。よって、かく名になりたりという。

 ゆえに、古来その地の雅名を金鶏㵎と称す。目下、哲学館敷地内に古井あり。これ、その古跡なりと伝う。果たしてしからば、これ妖怪地というべし。今日、もし再び金鶏、銀鶏の出ずるあらば、哲学館はたちまち富有の学校とならん。

河童憑き

 先年発行の『東京朝日〔新聞〕』に、対馬の国に河童憑きあることを記せり。左にこれを録す。

 憑き物のうち、最も世に広まりたるは狐憑きなり。このほか、長州には犬神憑きというあり、常陸の国のある地方には犬憑きというもあるとぞ。これらは地方的神経病ともとなうべきか。予が故郷対馬にては狐憑きもあれど、憑き物の多くは河童なりとす。かつて予が家の若徒に、壹岐産の友吉といえる者ありき。一夕、親類のもとに使いして帰る途中、金石橋を過ぎんとするとき、河中に小狗の遊べるあり。折から来かかりし一個の壮夫、石を拾ってうたんとすれば、仏性の友吉、深く小狗をあわれみ、かの壮夫をいさめつつ立ちかえりしが、これよりたちまち河童憑きとはなりぬ。かれが温和にして魯直を表したる顔は、色青ざめ、眥上がり、眼中血走りて、瞳は上下左右を巡り、おそるるがごとく怒るがごとく、嬉々として笑うよと見れば、忡々として悲しみ、たちまち起ち、たちまち座し、精神全く打ち乱れたり。家人ははなはだ驚き怪しみ、まず復命を促ししに、かれ傲然として答うるよう、「われは金石川にすめる、金石河童というものなり。さきに、われ最愛の子河童を橋下に連れ行き、快く遊ばせいたるに、たまたま一人の悪戯者通りかかり、石を投じて子河童の頭部に疵を負わせたり。およそ生きとし生くるもの、だれかわが子を愛せざるべき。ましてや、われは身に代えて最も惜しく思えるものを、傷つけられし恨みの一念、悪戯者が身に憑きまつわり、仇を報いんと思えども、かれにはまもれる神ありて、近づくことのかなわざれば、汝を苦しめんと思うなり。あら恨めしや腹立たしや」と、怒りの顔色すさまじく、ツト起き上がるよと見れば、たちまち七転八倒して、「苦しや許せ」と手足をもがく。家人はかれをねじ伏せて、「いかに金石河童とやら、汝は無類のおおたわけなり。あだをなしたる者にこそ恨みはあれ、友吉は恩をもって、汝ら親子に施したるを、かえって仇せんとはなにごとぞ。いで、われわれは友吉に代わり、汝に報ずるところあらん」と、さんざんに打ち悩ませば、恩怨の分別もなく、弱きに祟るほどの河童、たちまち家人に降伏し、「われ、かばかりの苦痛をいとって、立ちかえるものにはあらねど、当家にはおそろしき薙刀と、菊花の紋を染め抜きたる拝領の皮羽織とあり。われはこれを恐るるがゆえに、もはや金石に帰るべし。ただ願わくは一椀の食を得ん」と。(以下次号)

西洋の妖怪

 東洋のみならず西洋にも怪談、迷信すくなからざれば、次号よりおいおいおもしろき事実を掲げて、比較研究の一助となさん。

第十三号(明治三十三年十月十日発行)

妖怪研究会報告

一、井上会長、本月三日より二十日まで、長野県南北安曇郡、東西筑摩郡を巡回し、十一月中旬より十二月中旬まで、紀州および志州を巡回せらるるにつき、巡回中、妖怪事実にして研究の材料となるものを実地見聞せられたる場合には、必ず本誌に掲載すべし。また、妖怪談話もしくは演説所望の向きは、この際申し込まるべし。

一、本誌「雑録」中に、越後某氏の依頼書を掲げたりしが、これも研究の一材料となることなれば、会員諸君の報道を煩わさんことを望む。

    各自の記憶中に存する最大不幸者の状態

一、世の迷信、妄信のほかに、俗説なるものを彙集せんと欲す。俗説とは、例えば、電線が風に鳴るを聞きて電信の通ずる音なりといい、鴉が低き枝に巣を作るを見て大風の兆しなりというの類なり。かかる俗説につきても報道せられんことを望む。

一、本会支部はなるべく各地に開設いたしたく候えば、左に支部規則を掲ぐ。

 会員五名以上ある場所には、本会支部を設くるを得。支部はあらかじめ幹事一名を設け、その者より会員の姓名を報知し、かつ、毎月各会員の会費を集めて送金すべし。ただし、最初申し込みの節は、会費のほかに各員の入会金を合送するを要す。支部の設ある場所へは、本会よりその幹事へあて各会員の雑誌を合送し、ほかに同会控え本として、毎回一部ずつ無代価にて贈呈すべし。ただし、控え本の郵税は、本会へあて毎月二銭(郵券代用不苦)の割合をもって寄送すべし。支部にして、もしその義務を果たさず、その資格を失いたる場合においては、その設置を取り消し、かつ贈呈の取り扱いをなさざるべし。

   明治三十三年十月十日 妖怪研究会  

論   説

妖怪研究に書籍を要するゆえん(前号の続き)

玉すだれ  玉櫛笥  破柳骨  古今百物語  絵本百物語(桃山人夜話)  諸国怪談実記  本郷怪談実録  怪談実録(近世怪談実録)  新古事談  通俗五雑俎  本朝国語  瑞兎奇談  訓蒙天地弁

明和および宝永神異記〔伊勢太神宮続神異記〕  明和続後神異記  五岳真形図伝  奇説雑談  奇説著聞集  今昔拾遺物語〔近世拾遺物語〕  西国四国中国〔虫〕附損亡風聞集  天地或問珍(秉燭或問珍)

近世奇跡考  妖怪門勝光伝  同契纂異  大和怪異記  怪物輿論  本朝俗諺志  諸国里人談  奇談諸国便覧  虚実雑談集  西播怪談実記  宗祇諸国物語  遠山奇談  遠山奇談後編  怪談録

近世聞見録  今古奇談  奇応記  華鳥百談  玉山画譜  近世百物語  佐渡奇談  信濃奇談

北越奇談  北国巡杖記  東遊奇談  和漢珍書考  本朝奇跡談  怪談弁妄録  和漢合壁夜話

風流俗説弁  怪談旅之曙  怪談藻塩草  化物判取帳  席上怪話雨錦  玉箒〔子〕  御伽厚化粧  席上奇観垣根草  見外白宇瑠璃  英草紙  〔御〕伽婢子  狐講釈  怪談破几帳  御伽空穂猿  双葉草  赤星そうし  鬼情談  庭の落葉  志古草  莠句冊  無名書  盲鉄炮

竃神邪説弁  魔術  珍奇物語  陰陽外伝磐戸開  不思議弁妄  霊獣奇★(譚の正字)

(前号に、館友に加わりたるものには一般に借覧を許すと記せしも、昨今開館、日なお浅く諸事整頓せざれば、当分のうちは館内の生徒に限りこれを許す。追って整頓の上はさらに広告すべし)

 余は、以上の数書の中より多く事実を抜粋して、四百余種の妖怪を得、いちいちこれが説明を与えたるもの、すなわち『妖怪学講義』なり。

雑  録

妖怪窟雑話(第十三回)不思議庵主人  

 余がかつて「失念術」と題して、苦を忘れ、憂を忘れ、病を忘るる方法を説明したることがある。それを聞きて、越後国小千谷町の某氏が、左の書面を余がもとへ寄せられました。

 人生不幸に遭遇せるに当たり、安心の法にいろいろあるも、そのうちにて世間にある最大不幸者の話を伝聞し、あるいは想出して、世間にはわれひとり不幸なるにあらず、われより二倍も三倍も加わりたる不幸者多々あり、わが不幸のごときは不幸中の軽きものなりと思いて安心するは、大いに不幸者を慰するに効力ありと信ず。ゆえに、貴著『妖怪学雑誌』において、世人凡人の死に対する観念等を募集せらるるついでに、あらゆる世間古今の不幸者の話を集められ、もって一部の書冊となし、世間の不幸者に分かち下されなば、安心の効、決して鮮少ならざるは、小生の深く信ずるところなり。よって、右採納あらんことを請う、云云。

 これ、余が失念術中、経験的失念術の一種にして、比較対照より憂苦の度を減ずる法なり。その適例は、病客を訪いてこれを慰するに、「世間にはかくかくの病人あり。これに比するに、君の病のごときは毫も意とするに足らず」と語るは、大いに病者の意を強くするものである。余、自ら経験してその効力を疑いませぬ。よって、妖怪研究会の懸賞問題として、世の中にある最大不幸者につきて聞き込みたる話を募ることにいたしましょう。そのほか、さきにも告知せるがごとく、人々の憂苦を忘れ難き場合に、いかなる方法をもってこれを忘れんとするか、その方法を知らしてもらいたい。ある人は酒によりて憂を忘れんとし、またある人は眠りによりて苦を脱せんとする等、いろいろの方法がある。かかる方法をたくさん集めてみれば、おのずから新案の工夫もできます。余が先年著したる『失念術』に、一とおりその方法を分類して示したれど、いまだその中に加わらざるものもあるから、研究会員諸君に、さらに広く事実の報道を与えられんことを願う次第であります。

雑  報

天   変

 天変と人事とを直接に関係あるものと信ぜしは、ひとり東洋のみならず、西洋も上古はもちろん、中古なおこの迷信を有せり。例えば、第九世紀において日蝕皆虧のことありしが、その後フランス国王の薨去起こりければ、前者は後者の原因なりと信ぜり。彗星の迷信に至りては一層はなはだしく、その現ぜしときは、ヨーロッパ全州恐怖をもってみたされたり。しかれども今日に至りては、またかかる迷信を有するものなし。しかるに、わが国の民間には、なおかかる迷信の後を絶つことあたわざるは、嘆ずべきの至りなり。

狐   談

 和漢古来、狐憑き、狐惑の談最も多し。わが国の狐談は、その源シナより伝わりしは疑いをいれず。しかるに、西洋にはかつてこの談あるを聞かず。その地にて狐を見ること、わが国にて犬馬を見るに異ならず、ただ狐は獣中のやや狡猾なるものとなすのみ。西洋の狐と和漢の狐と、全くその種を異にするの理なし。しかるに、一方にありて霊妙神変の力を有するものとし、他方にありては普通尋常のものとなすは、あに怪しまざるを得んや。わが国にても、佐州には狢憑きの談ありて狐憑きの談なく、四国には狸憑きの談ありて狐憑きの談なし。四国には維新前は狐を見ざりしというも、維新後は狐を見るという。しかして、いまだ狐憑き、狐惑の談を聞かず。これに反して、西洋にては狐憑きも狸憑きも狢憑きも聞かず、ただ、中古以来狼憑きの談を伝う。これによりてこれをみるに、狐憑きは狐の霊の人に憑るにあらずして、一種の精神病なること明らかなり。その病態を見て、和漢多くこれを狐憑きと呼び、四国は狸憑き、佐州は狢憑き、西洋は狼憑きと名づけたるのみ。

吉日凶日

 西洋にも今日なお、民間に日の吉凶を信ずるものあり。通常、毎週金曜日をもって大凶日とし、その日には旅行あるいは儀式等をなすを忌む。その他、一週間にては木曜以前を吉とし、木曜以後を凶とする風あり。これ、みなヤソ教の迷信より起因せるものなり。ただ、わが国のごとく繁雑ならざるのみ。

幽霊、故郷に帰りきたる

 古来伝うるところの幽霊談中には、往々死体の鑑定違いより起こりたる奇談あり。その一例は横浜桜木町の幽霊談なり。本年夏ごろの出来事なりしが、某新聞に左のごとく記せり。

 去月六日午前三時ごろ、横浜桜木町七丁目、第十七号鉄道線路踏切において、無惨の轢死をなしたる男の袂に、千葉県印旛郡成田町仲の町三百八十九番地、庄司見新吉と記せし紙片ありしをもって、同署は原籍地へ照会せしに、親戚の者三人来たり、仮埋めとなしおりしを火葬とし、原籍に持ち帰り葬儀を営みたるが、不思議はそののち真正の新吉ひょっこりと故郷に帰りきたれるに、一時は幽霊が出できたりしものと、家内より村内の騒ぎとなりしが、しょせん轢死者は違った人と分かり、同人は自身横浜に来たり戸部署に右の由を訴え出でしに、以前の轢死者はなにものとも知れずなりしという。

断糸の怪

 世に種々の妖怪あるうち、断糸の怪と名づくべきものあり。断糸の怪とは、人の知らぬうち、見ぬ間に、なにものとも分からず、偶然機糸の切断してあるをいう。その一事は、先年甲州郡内にありしが、本年また福島県に起これり。

 今、左に『福島新聞』の報ずるところを記せん。

 伊達郡青木村字戸ノ入、伊藤作十方はちょっと離れたる一軒家にて、去るころより羽二重、平絹の機台二台を据え、嫁のお何(二十六、七)をして機を織らしめたるに、去る六日より十五日に至る間、なにものの仕業にや、ちょっと機台を離るるとたちまち糸が切れおるより、家内一同不審の眉をよせ、夜中の出来事ならばあえて不思議というほどにあらねど、昼日中、しかも鋭利なる刃物をもて切りしがごとくふっつりと切れおるは、人間の悪戯にはヨモあるまじと薄気味悪く思い、このことを同地の人々に話したれば、輪に輪をかけたる噂はパッと村内に広がり、「それっ、糸切り化け物が出た」と老若男女怖じ恐れ、ほとんど女子のごときは、ひとりにて野に仕事するさえいとうのありさまとなりしより、同村役場の助役その他の人々現場に来たり、決して余人の入ることできぬように四方四面を囲い、これではさすがの変化も手を下すの余地なかるべしと、一同そこをちょっと離れたる後かえりて見れば、相変わらず糸が切れおるにぞ、いずれも呆然として顔を見合わせ、「不思議、不思議」というのほかは他に言葉なく、その日はこれにて立ち散じたるが、ある日のこと、村の人々大勢同家に集まり、この糸切り化け物の話をなしおりたる折しも、囲爐裏に掛けたる鍵の、縄の中途よりふっつりと切れて落ちたれば、人々大いに驚き、屋根の辺りを仰ぎ見たれどなにものもなく、これも例の化け物ならんと、話とりどりのうちに帰りたることあり。また、ある日はちょっと機台を離れたるに、一度〔に〕三弓ほど切れおりたれば、これをつなぎてまたちょっと離れ試みたるに、今度は七弓切れおりたることもあり。

 かくのごときことたびたびに及び、到底満足なる機を織り出だすことあたわざるをもって、今は機を止め、その織り残しの物および機に用うべき座繰り糸を座敷に入れおきしところ、また、たちまちにしてその座繰り糸が切れおりたれば、さらにこれを人手の届かざる高き所に移しおきしも、前同様切らるるなど、重ね重ねの異変に家内は顔青ざめ、目下、変化退散の祈祷をなしおるとのこと。いずれその正体は、「化け物見たり枯れ尾花」の類ならんか。

 先年、甲州の断糸は全く人為なりしこと後に発覚し、その後、東京市内京橋采女町に断糸の怪ありしも、同じく人為なりし等の事実より推考しきたらば、福島の怪もまた人為なること疑いなきがごとし。

力士の妖怪退治

 去るころの『万朝報』の報ずるところによれば、徳島県板野郡長岸の観音寺といえるは名代の古寺にて、堂宇は撫養川にのぞみ、これまで本院には大黄鼬の棲息して、まれには人の目にもかかり、また、川には大鼈のすみ、陸に上がって鳴きしことありしとの怪談などもありしが、このごろに至り、折々堂宇の天井の落つるかと疑うほどの物音の響き、あるいは方丈裏にあたり人の走りしごとき物音のあるなど、不思議のことのみなれば、去る九日の夜、同地にて興行の東京力士、緑川、小岬、小緑、若岬などいえる力自慢の者どもが、妖怪退治に出かけ、庫裏にて回り話に妖怪物語などをなしおりしにぞ、同夜の十二時ごろとも覚しきころ、方丈裏にあたり果たして怪音ありたれば、一同得物を携え本堂の方に至りしに、本堂前の金網戸に眼光烱々、人を射るものあるより、緑川らは妖怪なにほどのことやあると得物をもって打ちてかかり、本堂の中を追い回しおるうち、他に若者数名も駆け集まり、ようようにして生け捕り見れば、その妖怪は一種の獣類にして、目まるく口とがり、牙の鋭きこと狼虎のごとく、爪は長くして熊に類し、全身黒色に灰色を帯び、胸のあたり少しく薄黄色なり。これを見て、黄鼬の年経たるものなりというあり、またコヒと名づくるものなりという者ありて、ともかくも珍しき怪獣なりという。

 かかる怪獣ありて怪を現すは事実なるがごとし。

第十四号(明治三十三年十月二十五日発行)

妖怪研究会報告

一、民間の縁起、「まじない」を取り集めて研究せんと欲す。よって、左の事項に関する例を報道あらんことを望む。

(イ) 正月の祝いにおける各地方特殊の例(飾り物、食べ物、儀式、作法等)

    例えば、正月の食べ物に煮豆を用うるは、マメヤカすなわち健康を祝するためなり。また、地方により元旦の雑煮に芋のカシラを入るるは、人の首領とならんことを祝するためなりとの類をいう。

(ロ) 婚礼における縁起

    例えば、婚礼の贈り物に用うる水引は結びきりにして返さざるは、ひとたび嫁したるものの帰らざるを祈る意なり、客の立ち去るを「お帰り」といわずして「お開き」というも、帰るを避くるの意なりというがごとし。

(ハ) 出産における縁起

(ニ) 死去における縁起

(ホ) 新築における縁起

(ヘ) 旅立ちにおける縁起

(ト) その他、百般のことにおける縁起

 右につき理由の分かりたるものは、その理由を付記せられんことを望む。

一、本誌に載せたるがごとき霊夢感応の実験の例あらば、なるべく詳細に報告あらんことを望む。

一、本会長は本月二十五日、信州南部の巡回を終わり、二十八日より京阪地方へ出張し、来月中旬より十二月へかけて、紀州、勢州、志州を巡回せらるるはず。

   明治三十三年十月二十五日 妖怪研究会  

論  説

天 災 論 井上円了述  

 人の大いにおそれ、かつ最も意のごとくならざるものは天災なり。天災中、地震を第一とす。水災、風災、火災、疫病、飢饉等、その種類はなはだ多し。近来、医術大いに進み、疫病のごときはまた恐るるに及ばずというも、世の開け、交通の頻繁なるに従い、新奇の諸病ようやく入りきたり、疫病のために人命を損ずる割合の年一年より多きは、統計をまたずして知るべし。また、水災、風災は土木工事の進歩にかかわらず、年々その害の加わるは、わが近年の経験に照らして明らかなり。故をもって、下流社会はいうに及ばず、中等以上の人々まで大いに疑懼の念を抱き、百方これを避けんとするも、のがるるに道なく、ついに迷信の淵に沈むに至る。ここにおいて、天災のなんたるを講究して、これに対する決心を定むるを今日の急務となす。

 天災は人力の予知し難きものにして、また、意のごとく左右すべからざるものなり。今後なにほど人知が進み理学が開くるも、今年にありて明年の天災を予知することあたわざるべし。しかるに、数百年間の歴史につきて考うるに、今後の天災はたいてい測定することを得る理なり。例えば、地震のごときは平均五十年ないし六十年に一回起こることあり、飢饉のごときも六十年一回の平均なり、大水災、大風災も五十年間一回の割合に当たる。さすれば、人間一生五十年ないし六十年を寿命とすれば、一生に地震一回、飢饉一回、大水災、大風災各一回ずつ遭遇する割合なり。疫病、戦乱、火災等も、大略これに準じて予知するを得べし。もし、これを人間界の天税とし、先天の約束として、人生の免るべからざるものと最初より覚悟しおらば、一切の苦心憂慮は全く無用なるを知るに足る。もし、人みな、よくこの覚悟を有するにおいては、この世すなわち極楽の境界を営むに至らん。その理由は、余が「純正哲学〔部〕門」の講義を通読して知るべし。

雑  録

妖怪窟雑話(第十四回)不思議庵主人  

 余は、妖怪を分かちて仮怪、真怪の二種と定めたれば、いかなるものを真怪と名づくるやとたずぬる人があります。世間にてよく聞くことなるが、精神の感通感応は真怪なるべしと申すものがあれども、これ果たして真怪なるやいなやは、はなはだ疑わしく思われます。しかし、霊夢の感応にはずいぶん不思議にたえざることが多い。たとい、いまだ真の真怪とすることができぬにもせよ、真怪に近きものということはできましょう。過日も、余が信州南安曇郡に出張したる節、大町にて多田宗次と申す小学教員に面会したれば、当人の実験なりとて、左の話を聞き入れました。

 多田宗次氏は明治十九年以来、北安曇郡美麻村小学校に奉職せられたりしが、その村の豪家中村某氏の子息の教育につきて、一夕霊夢を感じたるところが、まさしく事実と符合したりとのことである。その出来事は明治二十二年七月十七日朝五時ごろ、夢に己の家に棺を安置せるありて、その前に机を置き、机の上にはろうそく、花瓶、線香等あり。その前に中村氏の子息拝伏しておるありさまを見て、多田氏も大いに驚き、中村氏の主人の死したるに相違なしと思い、図らずも自ら涙を含み、いかにも気の毒にたえぬように感じたと申すことであります。そうしてその夢のさめざるに、学校の小使、急に走りきたりて多田氏を呼び起こしました。そこで、多田氏起きてその用をたずぬれば、昨夜、中村主人絶命せられたれば、今朝早く同家を訪問して、弔辞を述べられてはいかがとの注意を与うるためでありました。もっとも、それ以前より中村氏は病気にて、妻子を引き連れ、塩島と申す所へ転地療養に出かけ、その出先にて死去せられたということであります。その報が同氏の宅へ着せしは、まさしく多田氏の夢を感じたる朝であったとのこと。その上に、本人死するとき遺言に、「子息はぜひ多田氏に託して、一人前の人物になるよう教育を願いたい」と申されし由。本人は四十七歳にして、その子息は九歳とのこと。これいわゆる霊夢の感応となすべきも、あるいは偶然の符合ならんかの疑いがあります。その故は、第一に、多田氏は平素比較的多くの夢を見、その中には往々人の死したる夢を見るとのこと、第二に、従来、人の死したる夢を見て、実際と符合したることなきとのこと、その他、本人の死したる時刻、および凶音の転地先よりその家に達したる時刻等は、多田氏においても不明瞭のところあれば、この一例をもって精神感応の的証とはなし難い。むしろ、偶合の一種に加えたきものである。とにかく、この話はいまだ真怪とすることはできにくい。なお多田氏に、研究上取り調べを要する点はいちいち指示しおきたれば、後日分かり次第、さらに述ぶることにいたしましょう。

雑  報

横浜館の幽霊騒ぎ

 過日の『朝野新聞』紙上に、昨年横浜の火災に焼失したる蔦座(伊勢崎町の劇場)の跡へ、横浜館と名づくる勧工場を建てたるも、火災の節、その場所にて両三人焼死したりしゆえ、とかくに世間の風評には、横浜館内には幽霊が出ずるとのことなれば、館内に従事する老爺、ある夜当直にてその中に夜番をなし、なんとなく薄気味わるく思い、恐れ恐れ夜回りをするところ、上図のごとく亡霊の姿、突然として目前に現れたれば、老爺ビックリ仰天し、そのまま倒れて気絶したりという。

 案ずるに、老爺館内巡見の際、己の姿がガラス板にうつりて見えたるを、本人の臆病より誤り認めて、幽霊と見たるならんか。いわゆる己の影にだまされたるものならん。

幽霊画幅

 落語社会の泰斗として推されたる三遊亭円朝は、幽霊の画幅を秘蔵し、その数まさしく百種に及ぶという。アメリカ人フェノロサ氏、かつて円朝をたずねてこの画幅を一覧し、大いに嘆賞せし由。しかるに、その本人すでにこの世を去りて自ら幽霊となる。これを所蔵の百種に加うれば百一種となるべし。ちなみにいう、円朝は晩年深く迷信に陥り、その住宅のごとき、一年中に数回移転せしことあり。これ、方位を迷信せるによる。数回の移転ここに極まりて、ついに冥土に移転するに至れり。

小 僧 火

 信州南安曇郡西穂高村字牧に、俗に小僧火と称して、毎夜灯明の光を空中に見る。秋期より春期の間にはなはだしという。その場所は人家なき所なれば、ランプの火にあらざるは明らかなり。遠くこれを望めば見ることを得るも、近くこれに接すれば見ることを得ず。俗間の言い伝えには、往昔その辺りにて小僧の殺されしものあり、その怨霊が火となりて毎夜現ずるなりという。あるいは夜光石の光なりという。その状態、あたかも上田町にて山口の火ととなうるものに似たり。これ、実験によらざれば、いまだそのなんたるを判知すべからず。

怪   竜

 竜は一種の怪物なり。古来、いずれの国にても竜怪を説かざるはなし。しかして、その形は大蛇より一変しきたれる一種の想像より成る。ただ、国と時とにより、あるいはこれを神霊なるものとし、あるいは悪魔を代表せるものとし、あるいは武勇を表示せるものとするの異同あり。ギリシアおよびローマにては、多く武器、武具の表章に怪竜をえがけるは、勇気を鼓舞する手段なりしは明らかなり。あるいはケルト人種が帝王の記章に竜紋を用い、シナも竜をもって王位を表するがごときは、やや神霊の意を含むを知る。また、西洋中世にありては、竜をもって罪悪を表示せるものとなししがごときは、悪魔の意をとるなり。インドにては、あるいは善竜を説き、あるいは悪竜を説くがごときは、竜に善悪二種を分かつによる。要するに、古今東西符節を合するがごとく、竜の怪談を伝うるは、必ずしかるべき原因なかるべからず。案ずるに、古代にありては東西ともに大蛇の䟦扈して、大いに人類を苦しめしときあり。これより、大蛇は実に恐るべきものなりとの思想を喚起し、あるいはこれを勇気の標本とし、あるいはこれを魔物もしくは霊物とし、一種の想像をもって、その形を作為せるに至りしならん。

狐憑き志願

 狐憑きは一種の精神病なることは疑いなきことなれども、俗間にては深く狐が人に憑るものと信じ、なにほど説明しても悟らざるありさまなり。

 近刊の『東京朝日新聞』には、狐憑きにつきての発狂の話を掲げたり。世の迷信者の惑いを解く一助となるべきをもって、左にこれを転載す。

 なにがおもしろいといって、狐憑きほどおもしろそうなものはない。人間と生まれた冥加には、ぜひ狐憑きになりたいと、ことさらに目をつり上げしうえ、帯を垂らして尻尾と見せ、なおかつ、村の若者が紀伊の国を踊ったとき見覚えおきたる手付きをなし、コンコンチキヤという身振りにて、しきりに狐憑きを志願するは、荏原郡上目黒村の豪農、三輪和吉の長男兼吉という少年なり。家は活計豊かなれば、ずいぶん美食にも飽くほどなるに、好んで油揚げのみを食いつつ永の月日を送るほどに、もうたいがい狐が憑いたはずだと試みに垣根を飛び越え、コンコンと鳴いてみて夏菊の叢に潜み、今の声がなんとなく陰気に聞こえたあんばいでは、望みを遂げたに違いないと、木梟叫ぶ松桂の下に尻を据え両手をつき、狐がること大方ならず。家内の者はこれを気遣い、夜に入るまでなにをするのだと、手に手に取って振り照らすろうそく手ランプの灯影をも、こちらは自分の点す狐火と思い、いよいよますます得意がるにぞ、親たちいたく心配し、加治の祈祷のと立ち騒げど、自称狐憑きの兼吉は露ばかりも驚かず、「鎮守の森の白狐様が守護しておるわれに向かい、加治祈祷とはことおかし」と、去る十日の朝、親の金三十円を取り出だし、「狐の通力では木の葉を金に見せるとともに、真個の金をもハラハラと木の葉のように飛ばすこと、なんの雑作もない話だ」と、いずこともなく飛び去ったり。

 かくと知るより親たちは、近所の若者数十人を駆催し、「掛け罠にでもかからぬ先に早く見つけて下さい」と山林隈なくたずねさすれど、さらに行方も知れざりしところ、同夜十二時ごろ、赤坂区青山南町梅窓院の四万六千日の群集中に、突然兼吉の姿があらわれ、千本の狐六方という形にて、人波の打つ中をかなたへ飛んだり、こなたへ跳ねたり、あまり不思議のありさまに巡査怪しんで拘引し、なにものなるかと取り調ぶれば、握り拳にて鼻面をこすりグシグシ、「われは狐なり」と言葉の尻を早めたり。さては狂人に相違なしと各署へ打電して身もとを調べ、前記三輪の長男なることが分かり、親戚の者へ引き渡せしが、当人はなお異な手つきをやめず、折々コンコンと鳴くもおかし。

 人の狐憑きの中には、かくのごとく自ら好みて狐憑きを装い、他人これを目して狐憑きとなさば、自ら大いに得意として満足するがごときもの、必ず多からん。

第十五号(明治三十三年十一月十日発行)

妖怪研究会報告

一、本会長は、去月二十八日より本月十日まで京阪地方へ出張し、ついで十六日より十二月へかけて、紀州、勢州、志州を巡回せらるるにつき、その節は有志者の依頼に応じて、妖怪学の一端を講述せらるるはず。

一、地方に特殊の物理的妖怪あれば、なるべくその種類を収集せんと欲するにつき、左の種類に属する事実を詳記して報道あらば幸甚。物理的妖怪の種類、大略左のごとし。

(一) 天文的妖怪(彗星、流星の類)

(二) 地質的妖怪(地震、土地の陥落の類)

(三) 植物的妖怪(京都下加茂社内の柊木のごとき類)

(四) 動物的妖怪(尾州熱田社内の牝鶏はみな牡鶏に変性するがごとき類)

(五) 無機的妖怪(竜灯、狐火の類)

 そのうち、無機的妖怪最も多し。風火土金水の変態異容を呈するもの、みなこれに属す。

 彗星、流星、地震、雷電のごときは、今日すでに学理の明らかに証するあれば、また、妖怪とするに足らずといえども、地方の愚俗間には、奇怪の妄説を唱うるものなお多し。よって、その妄説の報道を得んことを望む。

 以上のほか、生理的妖怪の一種を加うるをよしとす。

(六) 生理的妖怪(奇形、不具の類)

 これに関する俗説また多し。その他、死体に関する俗説あり。例えば、死後、筋骨の強直を起こすがごとき、衄血を流すがごとき、また、死者の身体に黒印を付してこれを葬れば、その後、右の印を帯びたる子供の生まるるというがごとき類、枚挙にいとまあらず。かかる俗説もやはり報道を望む。

   明治三十三年十一月十日 妖怪研究会  

論  説

安 心 税 井上円了述  

 人のこの世にあるや、一日も安心なかるべからず。安心、もし求め得ざるときは、生をすてて死につかざるを得ず。故をもって、人の一生中、安心のために金財を投ずることすこぶる多し。これ、これを安心税という。いずれの国にても、宗教のために消費するところ莫大なるは、すなわち安心税なり。安心税はひとり宗教に限るにあらず、日々の生存上、その活計の多分は、みな安心税ならざるはなし。あるいは縁起、あるいは禁厭、あるいは方位、あるいは時日の吉凶を知らんがために、多少の金銭を投ずるは、やはり安心税なり。余かつてこれを聞く、資産あるものが、雷火を避けんために避雷針を屋上に立つるがごときは、その実、雷火を避くるというよりは、むしろ安心を助くるものというべし。実際、雷火にかかるがごときは、万に一つもなき特別の場合にして、毎年これを避くるために多少の経費を要するは、無益なるがごときも、もし、これを安心税として算入するときは、決して冗費にあらざるを知るべしと。

 これによりてこれをみるに、生命保険、あるいは火災保険、あるいは海上保険のごときは、その一部分、みな安心税なることを知るべし。毎夕、夜番を置きて、時間ごとに柝をうちて四隣を一巡せしむるがごときは、多少火災、盗難を防ぐの一助となるべきも、その実、安心税を払うものとなすべし。衛生費のごときも、その多くは安心税なること明らかなり。また、医療および医薬の代金のごときも、その中に安心税の加わることすくなからず。例えば、医師が病者を診断して、「この病は別段服薬するに及ばず」といわるるも、病者は決して安心せざるべし。故をもって、医師自ら無効と知りつつ服薬せしむるがごときことあり。かくのごとき服薬は、安心税なること言をまたず。

 これによりてこれを推すに、諸病の服薬は多少の安心税を含まざるはなし。これを要するに、人間一生中、安心のために費やすもの実に夥多なりとす。しかるに、その方法のいかんによりては、全く無効の安心税を消費することあり。そのはなはだしきに至りては、安心税のために、かえって迷心を増長するがごときものあり。これ、実に憫然たらざるを得ず。ここにおいて、余は妖怪学を講じて世人の惑いを解き、愚民をして無益に安心税を支出するの憂いなからしめんと欲す。これまた、国家経済においても、多少裨益するところあるべしと信ずるなり。

雑  録

妖怪窟雑話(第十五回)不思議庵主人  

 ある人、余にたずねて申すには、「君の妖怪を論ずるや、一も偽怪、二も偽怪として排斥し、世に妖怪なきがごとく唱うるようなれども、また、往々真怪あるがごとく談じ、前後矛盾するように考えられます」と。余はこれに答えて、「貴公のいわるるとおり、局外者は矛盾のごとく思いましょうが、余は畢竟するところ、世間一般の妖怪とするものは多く妖怪にあらずとし、世間一般の非妖怪視するところにおいて、かえって妖怪ありて存すとの意なれば、その矛盾の評はもっとも千万の次第である。老子は、『愚者は道を聞きて大いに笑う、笑わざれば道にあらず』といい、また、『言うものは知らず、知るものは言わず』とも申されました。これ、一応聞きたるところにては矛盾のようなれども、深く詮じきたらば矛盾ならざることが分かります。また、ある禅宗流の狂歌には、『釈迦阿弥陀うそいへばこそ仏なり、まことをいわば凡夫なりけり』と詠みたるものがある。これ、矛盾のはなはだしきようなれども、凡夫と仏とは真偽の標準を異にすることを知らば、その歌の矛盾ならざることが分かります。

 凡夫の心にて真と思うことは、仏の目にては偽りと見、凡夫の偽りは仏の真なりとすれば、釈迦、阿弥陀が嘘を言うとは、凡夫の所見より定めたるものなれば、その嘘は真の嘘にあらず。凡夫の目より見て嘘と思うくらいなればこそ、仏の仏たることが分かる。もし、これに反して凡夫より真と見るくらいならば、仏は凡夫同様のものとなりて、仏の仏たるところが分かりませぬ。かく解釈すれば、矛盾ならざることが分かる。これと同じく、余は世間一般のものが山を見て山なりとして毫も怪しまず、水を見て水なりとしてあえて疑わず、草木は草木なり、人は人なりとして、さらにこれを妖怪視せざるところにおいて、真怪の存するを信ずるものなれば、世間必ず余を矛盾論者と見るは、余の論の矛盾ならざる証拠である。かくして、世人にその理を悟らしめんとするには、あくまで世人の妖怪談を破斥せなければならぬ。破邪ひとたび極まりて、はじめて顕正を生ずるわけである。迷雲を払わざれば真月は見えますまい、塵埃を去らざれば鏡面は明らかになりませぬ。さすれば、余の偽怪退治は、真理の明月を開示せんとする方便、手段なることは必ず分かりましょう。古人は、『道近きにありて、かえってこれを遠きに求む』といわれたが、余は、真怪は近きにありながら、かえってこれを遠きに求むと申します」

雑  報

京都および奈良の妖怪

 京都および奈良のごとき名所には、古来の伝説に怪談を含むもの多し。そのうち宗教的怪談、例えば、京都東山永観堂、横向きの阿弥陀如来は、永観律師を顧みられたるより、一夜の間にその向きを変ずるに至れりと伝うるがごときは、学理上にて説明する限りにあらず。また美術的怪談、例えば、知恩院の方丈脱け雀の伝説のごときは、俗説のはなはだしきものにして、もとより信ずるに足らずといえども、往々、物理的妖怪に属するものあり。その中には説明をまたざるものと、実験を要するものとの二種あり。例えば、奈良の春日神社に蝉の灯篭と名づくるものありて、その灯篭を回転すれば自然に蝉の声を発するがごとき、また、京都大徳寺に利休の茶を沸かす声を聞く所あるがごときは、格別の説明をまたずしてその理を解すべし。しかれども、猿沢の池の池水のにわかに血色に変ずるがごとき、加茂神社の他木のみな柊木に変ずるがごときは、物理的妖怪なるに相違なきも、実験をまたざればその説明を与え難し。

河童憑き(第十二号の続き)

 家人はかれが請いをいれ、「速やかに立ち去らば、汝が願うところに任せ、一椀の食を与えん。さりとて、偽りなきを保し難し。約束の一札、証文書きて渡すべきや」と問うに、河童よろこんで諾い、筆紙を借りてさらさらとしたため、家人に渡して食を求め、手づかみにて食いおわりしが、やがて傍らにありし予を打ちまもり、「われはこの子をとり殺し、いかに親たちが嘆くべきかを試みんと思うなり。口惜しや今はあたわず。かれが十七、二十七、七の数の年において、とり殺さん」と言いしを聞き、家人ははなはだしく無礼を怒り、なげしに掛けたる薙刀おっ取り、かれが目前に差し付くれば、アッと叫んで周章狼狽、そのまま家を駆け出だし、戸端に至りてばったり倒れ、前後も知らで熟睡せしが、およそ二時間ばかりの後、もとの友吉に立ちかえりぬ。家人は多少気味悪がりて、予が七の年を危ぶみしに、平生多病なるにもかかわらず、その年ごとはいと壮健にして、早や三たび七の年を過ぎたり。河童が反対を予言したかと覚えておかし。

 故郷にては、河童憑きと言わるるものに証文書かせたる例、往々あり。友吉、元来文字を知らず。家人、河童の証文とて、かねがね聞きつることありしより、戯れに書かせたるなり。書体なんとなく勢いありて、筆取りしことなき人の手に書かれしとは覚えぬまで、物らしく見ゆれど、もとより字を成したるにはあらず。ただ、その位置は、本文より日付、名あてに至るまで、配りよく整えり。さる人は河童の証文、二つ三つも見くらべて、いずれも書体のよく似たりとて、河童には文字ありと言い触らしたり。

一種の妖怪病

 去るころの『読売新聞』に記するところによるに、長崎県南高来郡諸村にては、古来、「温泉山〔雲仙岳〕に登るときは、必ず摶飯と梅干しとを携うべし。梅干しは霧を払うの妙薬にして、摶飯は『だらし』を予防するがためなり」との言い習わしあり。「だらし」とは一種の妖怪的飢餓病とのみあって、いまだこれを明白に実験したる者あらざりしが、長崎高等学校医学部生徒某氏は自らこれを実験し、また、他人がこの怪病にかかるを見たりという。

 今その話を聞くに、右の学生は、このころ暑中休暇を得て帰村せんとする途次、右の村と小浜村との間なる山中字小田山の頂上、矢筈の下手辻と称する坂路において、一人の男、野に倒れおるを見たり。その男、学生を見るよりかすかな声にて、「『だらし』にかかりて困りおるゆえ、摶飯あらば賜れ」という。学生はかねて「だらし」のことを聞きおるをもって、用意の摶飯を与えけるに、男は喜びてこれを食し終われば、間もなく力付きて馳せ下れり。

 さて、右の学生が実験したるは、去年十二月下旬午後四時ごろの、冬期休業のため帰村せんとて右の山路に来かかりしに、たちまち空腹となり、ひもじさいよいよ増して、身体の疲労尋常ならず。手足しびれて、すくみたるがごとくちょっとも動けず、強いて足をあぐれば、その重さ千鈞をひくがごとく、手を動かせば、縛られたるに似たり。困じ果てて石に腰打ちかくれば別に苦痛も感ぜざるが、立てば身の重さ少しも減ぜず。進退ここにきわまりながら叫べども応ずる人なきに、ぜひなく這うがごとくに坂を攀じ登りはじめたるが、たちまち昏絶倒臥して死生を弁ぜざるもの十数分。その前は時候にも似ず全身すこぶる熱暖なりしが、このときに至り、はじめて野嵐の冷え渡るを覚えて目をさまし、それより千辛万苦して、わずかばかり離れたる横道の茶店にたどりつき、蕎麦数椀食したれば、身心はじめてわれにかえり、寒さも相応に感ずるごとくなりて、まずつつがなく郷里に帰着したり。

 これ、すなわち「だらし」に取りつかれたるものなるが、里俗には、なにか食物を携えおればこの魔にかからずといえど、実際においては、鰯売りの男が鰯の傍らに昏倒したる例あり。その他、数人の同行者が一時におかされたるの例あり。勇怯いかんにかかわらずといえば神経的の山怪にもあらずと見え、結局は空腹に乗じて、人体内に一種強力の麻痺を与うる空気のためなるべしという。

怪火騒ぎ

 『万朝報』の報ずるところによるに、本所には七不思議の名物ありて、とにかく昔は薄気味わるき土地なりしが、ここにまた一昨日の午後四時ごろ、深川区森下町より本所林町二丁目に架かりおる伊予橋上手の水面へ、突然青白き炎の二、三カ所チョロチョロと燃えあがり、風につれて前後左右へうごくさまに人々は胆をつぶし、ただ「不思議、不思議」と騒ぎおるうち、たちまちこの噂は四方へ伝わり、われもわれもと伊予橋付近へ集まりしが、なににしてもあけっ放し木戸銭なしのことなれば、正直者の遠慮なしにドシドシと押し寄せ、見る見るうちこの界隈は人の山を築きて、途方もなき山水のパノラマを描き出だし、人々この怪し火について種々なる評を下すうち、「これは全く深川の元木橋下にて、凶漢のため非業の最期を遂げたる二巡査の亡魂ならん」などと好きなことをいっておるうち、午後六時半ごろに至り、同所につなぎおる肥船、南葛飾郡葛西村の船頭音吉といえるが実否をたださんとて、船をこぎ寄せ水竿にて水面をかき回したれば、そのまま火は消え失せ、これとともに人々四方へ散じて、またもとの伊予橋の光景となりしが、右の怪し火は、同所近傍の溝より腐敗せる水の流れ出だして、ついに水素ガスとなりしならんといえど、一説には、石油船の油が流れ出だしたるを、戯れに火を点じたるものならんともいえり。

西洋の卜筮

 東洋に卜筮あれば、西洋にも卜筮あり、ただその方法異なるのみ。ひとり手相を説くに至りては、東西やや相似たり。

 本講義「純正哲学部門」につきて見るべし。

第十六号(明治三十三年十一月二十五日発行)

妖怪研究会報告 左の諸氏より、守り札あるいは妖怪事実を寄贈せられたり。

矢 野 伊太郎(阿波)  斎 藤 源 作(陸奥)  田 中 種 方(下総)

伊 藤 善 七(岩代)  東海林 助 作(羽前)  中 村 富太郎(因幡)

高 木   協(尾張)  後 藤 新五郎(陸中)  熊 本 豊 栄(伊予)

馬 場 鳥之介(岩代)  加 納 喜代松(武蔵)

 ここに芳名を録してその厚意を謝す。

 矢野伊太郎氏の質問を掲げて答案を求む。

 私、地方で旧来の伝説に、「夜分、熟睡して歯をガリガリとかみ鳴らす(醒覚後、当人は少しもこれを知らぬ一種の癖)者あれば、これを直すには、ある堂宮に飾りおきたる神様の御馬(人造の物)の米を、いただけば早く直る」といいますが、畢竟これはいかなるわけでありますか。そうして、現に私方に右ようの者があるのですが、これを治止する方法を知らぬから、今に毎夜ガリガリと歯をかみ鳴らしておるがゆえに、次第に歯の根がゆるみ、食物も軟らかきものばかりしか食うことができぬので、実に困難を極めておりますから、これを治止する方法あらば、願わくは御教示あらんことを、ひとえに希望いたします。

 地方には市子、巫覡または口寄せと名づくるものあり。右につきくわしく実見せられたるものあらば、その顛末を御報道あらんことを望む。

 会費尽きたる者へは雑誌配布を停止するゆえ、左表に従い速やかに送金ありたし。

  金三十五銭(一カ月分)  金一円(三カ月分)

   明治三十三年十一月二十五日 東京市小石川区原町哲学館内 妖怪研究会  

論  説

養 神 論 井上円了述  

 人生まれて心身を養う道を講ぜざれば、永くその生を保つあたわず。しかして、その身を養うには衛生法あれども、その心を養うにはなんらの方法あるを聞かざるは、余の怪しむところにして、爾来、養神術を研究して、もって今日に至れり。古来、和漢の書中には、往々、養生を論じたるあり。その中には、養神の方法をも混説せるのみならず、身を養うに心を養うの方法を用いき。これに反して、今日の衛生法は生理学の理にもとづき、養身の一方に偏する風あり。この両者、ともにその正を得ず。ゆえに、余は養身的衛生法のほかに、養心的衛生法を講ぜんとす。これをここに養神論という。その一端は、余が「医学部門」心理的治療法、および別著『失念術講義』中に略述したれば、よろしく本編につきて見るべし。ただし、ここに養神術の第一は、余が妖怪学のいわゆる真怪を達観するにあることを一言せんのみ。

 それ、真怪は宇宙万有の内外を一貫して存するものなれば、これを外にしては宇宙の上にその相を現し、これを内にしては一心の上にその体を開く。ゆえに、吾人もし活眼を放ちて宇宙を達観するの際、おのずから美妙の光景に接触することを得。これ、すなわち真怪の光気なり。美術の美も風景の美も、みなこの光気の外に発散せるものにあらざるはなし。ゆえに、もし人、その心神を養わんと欲せば、真怪を達観する方法を講ぜざるべからず。

 この達観法を分かちて、外観法および内観法の二種となす。外観法また分かれて人為的、自然的の二種となり、内観法また知力的、意志的の二種となる。今、そのいちいちを弁明するにいとまあらずといえども、外観法の第一は、天然の好風景を観じて、その美妙を楽しむにあり。春花秋月、夏山の葱々たる、冬雪の皚々たる、これをみるものみな、その好風景に感ぜざるはなし。心神を養うの術、これをもって最も便なりとす。しかるに、風景は常に一様なるあたわず。もし、暴風大雨のときにありては、かえって心神をいたましむるのみなれども、その中におのずから宇宙の勢力の発現するありて、人をして雄壮の情を動かさしむるものなれば、これまた達観の方法いかんによりて、心神を養うの一助となるものなり。

 かくして、すでに天気の不良なるも、なおこれに接見して快楽を感ずる以上は、平常、天気、風景の異状なきときも、これをみて、好風景に接したると同一の愉快を感ずることを得べし。しかして、よくこの地位に達するには、必ず多少の練習を要するなり。内観法の一つは禅学なるが、禅学を修むるには、またすでに一定の方法、階梯あり。果たしてしからば、外観法にも一定の練習法なかるべからず。これ、余がもっぱら講究せんと欲するところなり。

P281

妖怪学雑誌

雑  録

妖怪窟雑話(第十六回)不思議庵主人

 「天保銭をむなしうすることなし、ときに文久なきにしもあらず」というは、一つの滑稽に過ぎませぬ。「一」の字とかけてなんと解く。寺の小僧と説く。その意は、「辛抱(心棒)すれば住持(十字)になる」というは、世のいわゆる謎である。同一の鴬声を聞きながら、法華宗の人は「法華経、法華経」と囀るといい、真宗の人は「法を聞け、法を聞け」と鳴くというも、滑稽に類したる話である。焼き芋を十三里半と呼ぶは、栗(九里)より(四里)うまきの意、よき味噌を天竺味噌というは、唐(辛)過ぎるの意なども、一種の謎と見てよろしい。かかる滑稽も、みな語音の相通より起こることなるが、妖怪の部類中にも、この音通より起こるものがたくさんある。まず、縁起、マジナイなどは、多く音通より起こりております。例えば、数のうちにて四の数を嫌うは、四と死と音相通する故である、婚礼の席に「帰る」といわずして「開く」というは、嫁の帰るを嫌う故である、貸家の張り札を斜めに張りつくるは、立たぬようにとのまじないであるということだ。俗に「茄子を嫌いのものに金貸すな」というは、済す〔返す〕ことを嫌うの意である。また、文字の形より起これる縁起があります。例えば、「湯をのむに十一口にのめば幸いを得らるる」というのは、「吉」の字が「十一口」より組み立てらるる故であると申します。伊豆の妻良港は、その市街の形やや「水」の字の形に類するより、その地の者は「妻良に火災なし」といいて祝しております。すべて世間の縁起、マジナイは、みなこのようのものである。少しく知識あるものの目より見れば、実に抱腹の至りであります。ゆえに、縁起、マジナイは、みな一種の謎または滑稽と見てよろしい。それのみならず、世のことは悟れる目より見れば、すべて滑稽に相違ない。されば、人間は五十年の間、滑稽を演ずるのであります。

雑  報

懸賞問題解答

 会員加納喜代松氏は、本誌第十二号「報告」欄内の懸賞問題につき、左の答案を寄せられたり。

(一) 鳥獣の死骸を見ざるは、共食いするによるならんか。その証拠には、家畜の鳥獣は死骸を見るを得べし。

(二) 耳の、手指によりて響きを感ずるは、肺動脈の音が伝導して、かくのごとき響きを感ずるにはあらざるか。

 その他、会員中に異見あるものは、続々答案を寄送せられんことを請う。

空中の楼閣

 会員矢野伊太郎氏、空中の楼閣すなわち蜃気楼に関する実験談を報道して、左のごとくいえり。

 徳島県板野郡瀬戸村大字堂浦村、矢野伊太郎より御報道いたします。私の朋友徳永亮太郎(三十一歳)という人は、十数年来航海業を営み、現に長栄丸という五人乗りの西洋形船にて筑前通いをしておるが、同人は頃日、妖怪現象につき、私へ左の事実を語りましたから、ここにそのまま御紹介いたします。

 僕は今年で十三年余りも船乗りしているが、これまでのうちに、かれこそ真に不思議であったということが、ただ一度あったよ。それは昨年の五月十二日の夜さ。本船は左舷より東北風をうけ、鯨谷の方へ向かって北泊より一里余りの沖合を間切り(側面より帆に風をうけ、左右へ横切りて漸次風上方面に進航すること)ていたところが、その夜中過ぎごろに、取舵表(左舷船首の方面)にあたって本船からおよそ十町ぐらい先に、十反帆ぐらいの帆姿がいつの間にやら見えてきたから、よくよく見れば船体は少しも見えずに、ただ帆ばかり見えて、そうしてそれが少しも動かぬから合点がゆかいで、はじめて不思議を起こしたが、水夫らは気味悪く思ってか、みななにも得言わず見てばかりいたが、またいつの間にやらその帆姿が消えてしまって、跡にはなんの影形もなかったが、それからにわかに風が強く吹いてきたから、辛抱ができぬようになって、一りゅう(帆を少し下ろすこと)やったのであったが、その前後においてはなにも変わったことはなく、もっともその夜は暗夜であったけれども、さほどに暗くなかったから、周辺どっちを見てもはるか向こうの方まで、船のいるいないはよく分かっているし、ことにほかには小船も見えず、ただ本船ばかりであったから、決して他の物体をその帆姿と見違うようなはずがないので、どむいかに思っても不思議にたえられんから、入船後すぐにこのことを北泊の人々へ話したところが、「あそこにはときどきそれが出るので、ことに雨夜にはよく出るから見届けてやろとて、そこへ船をこぎつけると、すぐにぱっと消えてしまうので、折々、船かと思って欺されたこともあったのじゃ」ということを聞いたが、この話を僕らが前々に一度でも聞いていたなれば、その場に臨んで、あるいは精神が動揺して神経作用自然の結果、そのように感見することがあるかも知れぬが、僕はじめほか四名の水夫、だれもいまだこのことを聞いていぬのに、五人がみな同様に見たのはいかなるわけか、今がいまだに了解せぬが、君が研究している妖怪学では、畢竟、これをなんと解釈するのであろうか、云云。

 ちなみに言います。右、長栄丸が奇異な現象にあった北泊沖というは、鳴門海峡北の口、西方をさる一里余りの所であります。また、私は本文の事項を他の人より聞けば、疑念を抱きて御報道いたさぬのですが、無二の親友徳永亮太郎氏の実見談(異象につきての解釈はともかくも、また、このことはひとり徳永に聞いたばかりではなく、同船の水夫および北泊の人らにも聞き合わしたのであります)ですから、私は全然信じて疑わぬので、あるいは妖怪研究材料の一端とも相成るかと思い、ここに乱筆ながらも、かく御報道いたしたわけでござります。

庭のぬし

 『富士新聞』に「小石川の不思議」と題して、左の記事を掲げぬ。

 「あそこの山には鬼篭り、ここの淵には蛇すみし」とは、秋の夜長の昔ばなしによく聞くことなるが、その昔ばなしを目のあたりに見し不思議の話あり。所は都の中央、山にもあらねば淵にもあらねど、名のみは水に縁のある小石川区久堅町の永井喜炳氏の住邸なり。氏はさきに小石川区長をつとめおりたるが、その庭はあまりに広ければ、このままになしおかんよりは、いちばん十露盤珠と談合して貸家を建てんとて、このほど、出入りの農夫喜平というを呼び寄せそのことを語りしに、喜平は仰せに従い、早速庭の開墾に取りかかりしが、ある夜のこと、宵の寝酒に昼の疲れを忘れてグッスリ寝込みし丑三つごろ、いずこともなく一人の美女現れて喜平に向かい、「貴夫が毎日掘る庭は、みずからが永の歳月住まうところ。あのように掘りさらえられては、これから住まうべき所なければ、この返報にはきっとつらき目見せてくれるぞや」いと恨めしげにいう声の聞こえしと思う間もなく、寝酒の眠りさめはててぱっと目を覚ませば、総身冷や汗に湿りてゾッと寒さを覚ゆるにぞ、なんとなくものすごくなりて、それより眠りもならざりしが、とかくして一夜を明かし、翌朝は例より早く起き出でて夢の次第を話したるも、主人はただ、「頑固なるあまりにかかることをいうよ」と蔑みてあいてにせず、「夢が真という理もなければ、さる心配をせずとも平常のごとく仕事をせよ」というに、夢心地悪くてなんとなく薄気味悪く覚ゆれども、主人の言葉を背くことならねば、ただ相変わらず人夫を指図して土地を開墾してありしに、頃刻して庭の北に当たるやや地面の高き所にて、大なる石に掘り当てたれば、そを取り除けんとて一同周囲を掘りかかり、喜平もまた力をこめて一鍬エイと打ち込みしに、たちまちグザグザと土の崩れ落ちたるにぞ、こは不審と怪しみて前面を見やれば、一つの大蛇ありたり。(未完)

夢の符合

 田中種方氏の報知によるに、氏、ある夜の夢に、実兄と両人にて神社に参拝するを見たり。その社頭の荘厳、境内の清粛なること、尋常の社にあらず。一人ありて曰く、「これは、これ能州一の宮気多神社なり」と。その後数年を経て能州へ遊び、一の宮へ参拝するに、社殿の結構より境内の風致に至るまで、全く先年夢中に見しものに異ならざりしと。

山   男

 古来、山中には山男の怪物ありととなうるが、本誌にその図を掲ぐ。その説明は「理学部門」の講義につきて見るべし。

第十七号(明治三十三年十二月十日発行)

妖怪研究会報告

一、会員東荘甚四郎氏より左の質問を送られたり。広く会員諸氏の意見を問う。

   (呪い文字)  ★(拾+辛) 拾 ★(拾+辛) ★(扌+己+口)

この文字を書写し懐中する人、一切けがなしという。その額は備前瑜伽山蓮台寺に掛けてあり。その読み方いかん。

一、青森県弘前市、海老名大太郎氏より、一種の妖怪病に関し質問を送られたり。右は本号に掲ぐるつもりのところ、余白なければ次号に掲ぐることとなす。

一、本号の口画に掲げたる図は、船幽霊の一種にして西洋にて伝うるものなり。海上まれに、かかる幻影を見ることありという。

一、神社仏閣の縁起中には怪談の混入せるもの多く、その中には妖怪学研究の材料となるものあり。先般来、御札、御守りを募集して、昨今積もりて机上山を成すに至れり。なお、神社仏閣の縁起を募集せんと欲す。幸いに会員諸君、この挙を賛助して寄送の労を取られんことを望む。

一、会長は去月十七日東京出発、その翌日和歌山市に着し、その翌日有田郡箕島に第一回を開き、順次に日高郡、西牟婁郡、東牟婁郡を巡回し、これより三重県下に入り南牟婁〔郡〕を巡回し、本月二十四、五日をもってひとまず帰京し、さらに新年に入り、北牟婁郡、度会郡および志摩郡を巡回すべし。巡回中、各所において妖怪上の講話あり。

   明治三十三年十二月十日 妖怪研究会  

論  説

妖怪学と美術との関係を論ず 井上円了述  

 妖怪の研究は、仮怪の迷雲を払い去りて、真怪の明月を開きあらわすにほかならず。しかして、真怪を開顕するは、人をして歓天楽地の境遇に遊ばしむるにほかならず。それ真怪は、これを外にしては天地の実体、これを内にしては精神の本性にして、天地の美、精神の妙は、すなわち真怪より発するところの光気なり。この光気を実際に応用し、人をしてただちにその風光に接触せしむるものは美術なり。ゆえに、美術は大いに妖怪学と関係し、真怪を開顕するに欠くべからざる用具なり。

 美術に種々あり。目に属するものあり、耳に属するものあり。音楽は聴覚上の美術にして、絵画は視覚上の美術なり。彫刻、彩色、縫い箔、挿花、盆栽、庭づくり、建築等、みな美術なり。詩文、和歌、謡曲、義太夫、発句、俳諧も美術なり。わが国にありては、茶の湯、習字に至るまで美術に属す。もし人、これらの美術に接して高尚の理想を浮かべ、はなはだしきに至りては、憂を忘れ、食を忘れ、年を忘れ、眠を忘れ、手の舞い足の踏むを知らざるに至る。これ、すなわち真怪の光景に接して、歓天楽地の境遇に遊ぶものなり。

 今やわが国、物質的の文明駸々として進み、明治の天地は全く別世界の観を呈するに至りたると同時に、人民一般に物質的快楽あるを知りて、理想的快楽あるを知らざるの弊、日一日よりはなはだしきに至れり。元来、わが国民は理想上の趣味に富みたる人民にして、ややもすれば物質的快楽を厭忌すること、その度に過ぐるがごとき弊なきにあらざりしも、高尚、優美の風致を愛するに至りては、君子国の名に恥じざるところありき。しかるに、今や一般の人情、気風、日に月に卑劣に走り、まさに殺風景の極みに陥らんとするの傾向あるは、実に慨嘆にたえざるなり。けだし、その弊を救うは美術を奨励して、ただちに真怪に接触する方法を講ずるにあり。余が妖怪学研究の目的もまた、この意にほかならず。

 わが国の国体は、国民の高尚、優美なる気風の上に存立することは、余が弁解をまたず。しかるに、もし、人みな物質的快楽のみに走るに至らば、自利私欲に恋々として、国体の基礎たる大義名分を忘るるに至るの恐れあり。その結果、国体の上に及ぼすは必然なり。ゆえに、わが国民に理想上の快楽を知らしめ、もって自利私欲に偏する弊を防ぐは、実に今日の急務なりとす。

 これ、余がここに妖怪学と美術との関係を論ずるゆえんなり。

雑  録

妖怪窟雑話(第十七回)不思議庵主人  

 ある人、一書を不思議庵主人のもとへ寄せて申すには、「余が近隣に三、四カ所、釜鳴りの家があるから取り調べたるところ、これに二種あり。その一は湯釜鳴り、その二は冷え釜鳴りにて、その音はいずれも螺の貝の音よりもすさまじく、遠方の釣り鐘の声よりも明らかに聞こえ、湯釜鳴りの方は蓋を取ればその鳴り音たちまちやむも、冷え釜鳴りは蓋を取りてもやまぬという。これはいかなる道理にて起こるものなるや承りたし」と。主人答えて申すには、「通例、釜鳴りはみな湯釜鳴りの方にて、冷え釜鳴りはいまだ聞きませぬ。この湯釜鳴りの説明は、「理学部門」の講義を見れば分かるはずなれども、ここに一言して申さば、これは物理的妖怪の一種でありて、先年、後藤〔牧太〕氏が『東洋学芸雑誌』にその説明を掲げられしゆえに、その一節を抜き出して余の説明に代えましょう。

 釜の鳴ることは古来人々の見聞するところなれども、いまだこれを説明したるものあるを聞かず。余は冬期において、物を蒸すときにこれを経験したること数回あり。よってその理を考うるに、蒸し物を釜の上に置くときは、蒸し物が冷ややかなるため、釜中の湯よりのぼる蒸気は、急に凝結して消失するがゆえに、蒸気の占めたる場所をみたさんとして、空気が外より蒸し物の中に流れ入るべし。しかるときは、水蒸気の凝結すること減じ、したがって空気の流入やみ、ついで水蒸気は下より蒸し物の中に流通し、再び蒸気の消失は波動を起こし、釜内の気体をして振動せしめ、釜鳴りを起こすなり。浮沈ある水蒸気の凝結がこの振動の原因なれども、オルガン管において、空気がとがりたるかどに衝突して生じたる波動が、管内の空気の振動によりて支配さるるごとく、釜鳴りの場合においても、釜内の気体の振動は水蒸気の凝結の浮沈を支配し、相調和してこの現象を生ずるなり。

 以上の説明を読めば、大略了解することができましょう。この種のごとき妖怪は、すべて物理的妖怪と申します。

雑  報

山中の異人

 大和の吉野および紀州熊野の山中には、今日なお無籍人多く住すという。その中には獣類同様の生活をなすものありて、さらに人間と交わらず、幽谷深林に出没して、果実魚虫を食とし、たまたま人のこれに近づくあれば、隠れてそのおる所を示さず。樵人の深山に入るとき、まれにかかる異人の形を認むることありという。四国伊予の山間にも、これに類したる話あり。前号に載せたる山男とは、かかる異人のことならん。

紀州の怪談

 紀州の怪談の巨魁ともいうべきは、日高郡鐘巻村道成寺、安珍清姫の縁起なり。そのいわゆる鐘巻の由来は、醍醐天皇の御宇、延長六年戊子八月なりしという。これ、もとより一種の小説にして、婦人の執念の深きことを戒めたる譬喩なること疑いなし。

断機の怪

 地方に往々、機の糸を断つの怪事あることを聞くことなるが、福島県伊達郡青木村に、過日来その怪ありて起こる。すなわち、同所の報知にいわく、

 福島県伊達郡青木村字戸の入、伊藤作十氏はちょっと離れたる一軒家にして、旧盆前より羽二重、平絹の機台二台を据え、妻のと{、}よ{、}をして機を織らしめたるに、去る旧八月六日よりなにものの仕業にや、ちょっと台を離るるとたちまち糸が切れおるより、家内一同不思議を感じ、昼日中、しかも鋭利なる刃物をもって切りしがごとくブッツリと切れおり、そはとにかく人間の悪戯にはよもあるまじと、心地悪く思い、このことを同地の人々に話したるに、輪に輪をかけたる噂は、たちまち村内に広まりしより、同村村長、役場助役、および警官その他の人々現場に来たり、余の者、針も入るることできぬよう、四方四面を囲み、これにてはさすがのものどもも手を下す余地なかるべしと、一同その場をちょっと離るるうちにかえりみれば、相変わらず糸が切れおると。いずれもみな呆然として顔を見合わせ、「不思議、不思議」というのほか他に言葉なく、また、ある日はちょっと機台を離れたるに、羽二重十六弓あるもののうち、一度に三弓切れたれば、これをつなぎてまたちょっと離れ試みたるに、一度に七弓切れたることもあり。かくのごときことたびたびに及び、到底、満足なる絹を織り出だすあたわざるをもって、その織り残りの物、および機に用うべき座繰り糸を戸棚に入れしまいおきしも、また、その座繰り糸がもとのごとく切れおり、なんとも致し方なき次第なり。しかし当地においては、機は重要産物にこれあるのみならず、第一、生計上大いに関係する次第、いかんとも機をやめおるわけにはゆかず、もって作十氏は、この家よりおよそ三町ばかり隔ておる親戚の家に来たり営みおりたるところ、今度は親戚の家の機糸切れ落ち、またせんかたなくその家もやめ、さらに五十町も離れたる伊藤平三郎氏の宅に行きて機台を据え、織りはじめたれば、また、そこの機糸前日のごとくに切れたり。最初、糸の切れはじめしより数十回の被害、およそ二カ月にわたりなおやまず。その糸の切るるは誠に一瞬間にして、かく大いなる妨害をなせり。よって、変化退治を行い、あるいは祈祷をなし、あるいは家の中をことごとくみな取り片づけ、端より端まで探索したるも、なにもいたる様子もなく、目下糊口に迫る大怪異なり、云云。

天井の怪物

 茨城市上市小学校の教場の天井の白壁に、手六本、足六本ある妖怪の姿が黒々と現出し、終日、消ゆることなきより、児童らはいずれも恐怖して泣き出だすものあり、飛び出だすものあり、その混雑一方ならず。一時は大評判となりし由なるが、よくよく取り調べてみれば、同校新築の節、左官が壁塗りの際、手足の跡に類したる汚点を天井にとどめたるものありしを、児童が誤りて怪物の手足のごとく言い触らしたるより起これりとぞ。世の妖怪は十中八九みなこの類なり。

感通の一例

 青森県隠仙道人なるもの、霊魂感通の例として左の事実を寄せられたり。

 世人、肉眼にその人の形を見、または夢にその人を見、あるいは夢にその人の死せるを聞き、のち果たしてその人の死去せるにあいしがごとき不思議談は、余のしばしば聞くところなるが、いまだかつて実験せしことなきをもって深くは信をおかざれども、霊魂の物{、}に作用してその音を聴かしむるごとき、すなわち、あるいはボーンと井戸を鳴らし、あるいはカラカラと下駄にて庭を歩む音をなし、あるいはバチーンと樽や桶の竹輪を外し、あるいはノツノツと二階へ梯子をのぼる音するを聴き、果たしてのち死報に接せしがごときは、人の話に聞きしのみならず、余の実験せしこと二度ありたり。されど、余の兄弟、親族、その他知己の死に接したるは一度や二度のことならず、しかも不思議を実験したるはただ二度なりしなり。これ、そのたびごとに不思議ありたりしも、それに気づかざりし故か、または作用せざるものある故か、しからずんばまた偶合か。

 当県下南津軽郡黒石町(青森より八里くらい)に、三浦孫次郎といえる余が母の兄なる人ありけるが、去る明治三十一年一月末方より病にかかり、日を追って癒えず、漸次重くなりて、同年四月下旬危篤の報ありしより、余が母も看病せんと趣きしが、五、六日を経て病勢大いに軽くなり、医師もいまだ心配するには及ばずとのことゆえ、みなみな安堵して五月七日に母もひとまず帰宅せり。しかるに同じく九日、なにごころなくみな家業に従事するうち、午前十時半ごろ、店の方面にてガターンと強く音せるに驚き至り見れば、店棚の上に掛けたる額(幅八寸、長さ七尺くらい)の、しかも両方を二寸釘にて打ちつけたるが、縁も放れて落ちたりける。取り外しさえ容易ならぬを風もなきにと、なにげなくまた打ち直さんとせしところへ、郵丁の「電報」と言い来たりしゆえ、早速ひらき見しところ、黒石町よりにて電文「イマシンダ」という死報にてありき。さては今のはそれなるかと、みなみな不思議と思い合いけり。

 また、余が親族にて蜆貝町に住みける斎藤浅吉といえる人ありけるが、去る明治三十年春のころより胃病にかかり、初秋に至りてなお快癒を見ず。余、一日同氏を見舞いしところ、長々の病床に痩せ衰え、わずかに呼吸あるのみの状態にて、もはやこの世の人とも思われず。家人を慰め、その日は立ちかえりしが(当時、余は一町離れたる博労町に住みき)、同日午後十時ごろ、土蔵の前にパチーンと音して、大なる空き樽の竹輪が切れ外れたり。余も不思議と思いしが、女子どもは同氏の魂なりとて、身震いしておそれける。翌朝、果たして同家より報じて曰く、「父、昨夜瞑せり」と。

 右二つの出来事は、作用か偶合かはともかく、余が実験せしことなれば、参考のため報告す。

 右のごとき実験談は、世間往々伝うるところなるも、いまだこれをもって精神感通となすにたらず、むしろ偶然の暗合というべきのみ。

第十八号(明治三十三年十二月二十五日発行)

妖怪研究会報告

一、年末につき、会費の尽きたる分は、なるべく速やかに送金あらんことを望む。会費は左表のごとし。

    一カ月分 金三十五銭  三カ月分 金一円  半年分 金二円  一カ年分 金四円

 郵便為替は払い渡し局名を東{、}京{、}駒{、}込{、}局{、}とし、受取人を東京市小石川区原町哲学館内妖怪研究会として取り組むべし。

一、一月の初刊には紀元節祝賀会の申込券を挿入するをもって、入会者は必ず本券に会費十銭(郵券代用十一銭)を添えて申し込むべし。

一、会長は紀州巡回のところ、年末に迫れるをもって、きたる二十七、八日中にひとまず帰京し、来年さらに出発、北牟婁郡より度会郡、志摩郡を巡回せらるるはず。

一、会員なるとならざるとを問わず、「妖怪研究」という題にて、詩または歌を作りて寄送せられんことを望む。

一、会員諸氏の一同無事に迎年せられんことを祈る。

   明治三十三年十二月二十五日 妖怪研究会  

論  説

妖怪学上、宗教と哲学との位置 井上円了述  

 妖怪学にて妖怪の道理を窮めていちいち説明するに至らば、今日、世間に行わるるところの宗教は、ことごとく自滅の不幸を見るに至らんというものあれども、余がみるところにては、妖怪に仮怪と真怪との二種あるがごとく、宗教にも真仮の二種あり。仮怪の道理にもとづきて立つるところの宗教は、これを仮教と名づけ、真怪の道理にもとづきて立つるところの宗教は、これを真教と名づく。もし、偽怪、誤怪のごとき虚怪にもとづきて立つる宗教は、妄教と名づくべし。このうち妄教および仮教は、妖怪学の解釈によりて自滅に帰するは勢いの免るべからざるところなるも、真教は全くこれに反して、ますます世に顕揚せらるるに至らん。

 もし、宗教をもって真怪の範囲内に入るるときは、純正哲学と同一の理論に帰し、世のいわゆる宗教、すなわち神仏の冥護等を説くことあたわざるに至らんというものあり。ここにおいて、真怪に二種あることを知らざるべからず。その二種とは理怪と秘怪なり。理怪は真怪門中にありて、絶対の実在および絶対と相対との関係を論明する方をいい、秘怪は神仏と衆生との関係を説示する方をいう。ゆえに、理怪は哲学(純正哲学)の本領にして、秘怪は宗教の本領なり。理怪は道理の究極するところ、秘怪は信仰の淵源するところなり。かくのごとく分類しきたらば、妖怪学上における哲学と宗教との位置、および妖怪学の進歩に伴って真正の宗教の世に興るべきゆえんを知るべし。

雑  録

妖怪窟雑話(第十八回)不思議庵主人  

 世の神仏に祈請するものの中には、全く神仏を誤解して、己の自利私欲をほしいままにする道具に使用せんとするやからがある。例えば、平生なんらの善根を積みたることもなく、功徳を修めたることもなくして、不幸、災難、病気等に際会するときは、にわかに神仏に祈願をかくるがごときは、神仏を愚弄するものと申してよろしい。なぜなれば、神仏は善の巨魁か、悪の巨魁か、もし善の巨魁ならば、善人を保護し善心を愛育するのみにして、決して悪人、悪心を救助するはずはない。しかるに、平素なんらの善を修めずして、百計ここに尽きたるときに、にわかに神に祈りてその保護を仰ぐは、神仏をもって悪人の保護者とすることになる。いずれの国にても、かかる不都合の神仏のあるべき道理はない。むしろ神仏は、かかる心得違いのものを厳罰するに相違ありませぬ。

 近来、民間に一種の迷信教行われ、妄説、詐術をもって愚民を誑惑するため、愚民はますますこれによりて、自己の利欲をたくましくせんと思うようになるが、こは実に教育、道徳の進路を妨ぐること非常である。その害、あるいはヤソ教の害より一層はなはだしいように見ゆるから、決して傍観座視しておることはできませぬ。元来、日本人は自利心に強くして公共心および博愛心に乏しきに、かかる迷信教の行わるるは、大いに国家のために慨嘆すべき至りである。ここにおいて、妖怪退治の必要なることが分かりましょう。余が数年前より妖怪研究に従事したるは、かかる妖教を退治する精神からである。

 ゆえに、余が妖怪学は妖教征伐の連合軍と見てよろしい。その軍は六大隊より成り、すなわち「理学部門」隊、「医学部門」隊、「純正哲学部門」隊、「心理学部門」隊、「宗教学部門」隊、「教育学部門」隊にして、これを総督する大元帥は「総論部門」にして、参謀部は「雑部門」である。かかる正々堂々たる大軍なれば、一挙して敵の本城を抜き得るはずなれども、いかんせん敵は深林幽谷中に潜在して、出没常なきありさまなれば、その功を奏すること意外に困難である。そうこうする間に明治三十三年も尽きんとすることなれば、大進撃は明年をまち、一月早々より始むることにいたしましょう。

 明治三十三年十二月、不思議庵主人、紀州熊野地方を巡遊し、この雑話を筆せられたり。

雑  報

妖   祭

 世間には種々雑多の妖怪あり。なかんずく、祭礼に妖怪的祭礼あるは最も奇というべし。その一例は、紀州御坊町近在における笑い祭りと称するものなり。今、『紀伊名所図絵』に記するところによるに、

 日高郡上和佐村に丹生明神社あり。上下和佐の産土神なり。例祭十月初卯の日は、一同幣をささげて社前に至る。村老発声して「笑え笑え」というに応じて同音に笑う。これによりて笑い祭りと名づく。その笑う由来は、十月は諸神出雲の国に至りたまうに、この神ひとり後れたまいて、得行きたまわざりしを笑いしより起これりといえり。よってこの神に限り、神無月に祭りをなすを例とす。

妖魔の幽言

 東北地方の某氏(姓名は本人の承諾を得ざればこれを秘す)、昨冬十一月より一種の魔病にかかり、身体、精神ともに疲労困苦するも、これを救うの術なし。もし、世によくこれを除く方法あらば教示あらんことを、本会へ向け依頼せられたり。よって、左にその病状の一端を抜録す。その文中、括弧内にある分は幽言、幻影にかかるものなり。

 去歳十一月初旬より身体常ならず、神昏し気ふさがりましたが、日を追っていよいよはなはだしく、夜間眠り難く、日中も起くるにものうく、ぶらぶらと煩いおりました。そのころ、ある日午前十時ごろ寝につきており、その室は店と障子一重を隔つるのみであります。(ときに隣家の母、拙家店頭に来たり、生の母にいうには、「うちの兄さんははなはだつまらぬ人なり。かくのごとき人は、和合講の会計になしおくことあたわずと、その隣家の木村の兄さんがいいておる」といいたること)、確かに生が寝耳に聞こえました。ゆえに、生は木村なる人を恨みました。

 その翌朝も寝耳に、(拙家表にて、木村が生に対したる非常の悪言を吐き、罵詈する言が聞こえました)ゆえに、生はますます木村を恨み、同人と決闘する念を起こしましたが、容易に発せざるに、(同人はすでに生を殺さんと、夜間、戸外に付けねらう体に見えます)ゆえに、ついに生は黙止せず、果然携刃、木村の宅に踏み込んで同人を責めました。

 すでにして生は知己高杉氏の家におりました。そのころ、生が同町内なる(白崎という人現れ、生をもって恋も祈りもかからぬ体となし、「恋も祈りもかからぬ体は人間でない。あれは妲妃だ。汝妲妃、われ安倍晴明の火の祈りをかけて、汝をあらわす」と呼んで、しきりに呪文を唱え合掌して祈りましたが)、忽然として生が背面に熱気かかりました。そのとき生は、炉辺にありあう松葉をたきましたれば、(かの白崎は怒声を発し、「妲妃、火をたいて火の祈りを消すか」と呼んで、ますます精を込めて祈りました)

 (その後、白崎氏の弟中野氏現れ、生をもって炎帝の長子とし、漢の沛公の生まれかわりなりとし、自らもって生が弟なりとし、白崎氏を子房なりとし、樊噲、王陵、陳平の輩、それぞれ人を配しました)このとき、生は欺かれてこれを信じ、漢高気取っておおように胡坐し、同居の高杉は老年なるにかかわらず酒を酌ませ、高声吟詩なにごとも尊大にやったことがあります。(また、白崎は生が親類の人、篠崎氏をもって楚の項羽の再生とし、曰く、「君、彼と決闘せよ。決闘して彼を斃さざれば、君の父母、兄弟、みな彼がために殺されんとす。長剣、なんぞ撫せざるや」と生を励ましました)しかれども、容易に血闘は果たすことあたわずしておりしが、(これより篠崎氏は、夜間、戸外に付けねらう体に見えます。このごろは昼夜となく、白崎およびその弟中野氏、篠崎および生が朋友なる町内の人に及び、その家宅、町内の様子まで、戸を出でずして生に見え、もっともよく現れて言うものは白崎氏である。曰く、「漢高だ、漢高だ。あの所に王気が立っておる」生、これを信じて漢高気取れば、かえってけなし、曰く、「なに漢高、汝は妲妃だね」生、けなされて弱れば、またまた、「漢高だ、漢高だ。あの所に王気が立っておる」)生、南面して座せば、(曰く、「あれは炎帝の長子だ。ゆえに南に向かっておる」)生、火を吹けば、(曰く、「火吹いておる、火吹いておる。あれは炎帝の子だ」)生、その炎帝なるものを考想すれば、(たちまちその炎帝の形像現れ、威容厳然両目爛々、星のごとく、またその前に立って、「相貌笑うがごとく怒るがごときものは、炎帝の夫人」と申しました。その炎帝を想見すれば曰く、「あれは炎帝の子だ。ゆえに炎帝の気を考えておる」)

 (すでにして町中の人および家人も、みな生を憎み怒る様子に見え聞こゆ)よって、高杉もついに頼み難しと思い、旧暦十二月十四日午前十時ごろ、高杉を辞して金木村の叔母に当たる親家に行きました。途中、(白崎は後ろより呼んで、生をアレキサンダー大王とし、はじめは炎帝の長子なりしが、今度は北方に行くによって白帝の精もかかり、炎白二帝の精力を得たるゆえに、一層の偉人となりたるものとす)行くこと二里ばかり、一村を過ぎて野に出でしが、忽然として、しきりに足が軽くなり、疾歩馳行すること二里ばかり、自らとどめんとしてとどむるあたわざりき。

 時、これ厳寒、朔風凛々として身を侵し、飛雪空を巻き、すさまじき光景でありましたが、生はただ肌着綿入れ一つを着し、風雪の中を行くも、さほど困難とも思わず。午後八時ごろ金木村に着し、叔母の家におりましたが、一日運動に出でたるとき、野外において風雪しきりに起こりました。このとき、精神少し奮動したるようでありましたが、覚えず口を開き目を張り、跳躍奮迅して二町ばかり馳せました。

 (そうすると幽言は、「あれは魔だ、あれは魔だ、魔王だ」といいて愚弄しております)

奇   樹

 摂津国川辺郡小浜村に毫摂寺という寺あり。その本堂の前にある老樹は、太くして高さ四間に余り、幹は紛れもなき松の樹なれども、枝の過半は桜の枝にして、少しく松の枝をまじゆ。一幹の樹にして松と桜とを兼ねたるは、実に奇というべし。これ、物理的妖怪中の植物的妖怪なれども、よく実物につきて観察するにあらざれば、なんとも判断を下し難し。

大股の怪

 伊予国宇摩郡新立村字馬立にある仙滝寺の境内に、大股と名づくる怪物あり。古来、だれもその形を見たりしものなけれども、ただ雪の積もりたるときに、その辺りに怪物の歩みたる足跡残れり。その足跡は人の足に似て指なく、長さ三尺、幅一尺ぐらいにて、その両足の距離はおよそ一丈もあるべく、巨人の足跡に相違なしという。これ、おそらくは偶然的妖怪の一種ならん。

人   魚

 和漢、古来、人魚の図を伝う。西洋にも人魚の図あり。本誌巻首に掲ぐるものこれなり。

第十九号(明治三十四年一月十日発行)

妖怪研究会報告

一、会員諸君の無事迎年を賀す。

一、会長は臘末三十一日、紀州より帰京。きたる二月中旬より、さらに三重県へ向け出発のはず。

一、左の諸氏より妖怪報告を寄せられたり。

備前  東 荘 甚治郎    因幡  谷 口 勇 治

大和  豊 原 善 作    摂津  押小路 蓮 秀

丹後  永 浜 宇 平

一、永浜氏の質問に曰く、

 「当地にて死亡を前知する法とて、左手にて咽喉をつかみ、右手にて左手を握り、その脈搏同一なるときは、向こう一昼夜間無事にして、もし互違せるときは、一昼夜のうちに死亡すとて、毎朝面洗のときその動脈をうかがう(これ、守田宝丹翁が災難を前知する法なりとて、しきりに吹聴する法なり)この方法の果たして信拠すべきやいなやは余の惑うところなれば、あえて質問す」と申しきたれり。ここに掲げて会員の一考を煩わす。

一、第十六号「雑報」中、「庭のぬし」と題する一項の続きは原稿紛失したれば、追って見当たるまで掲載を見合わすべし。

一、本会員にして紀元節祝賀会に列せんと欲するものは、本誌巻末に広告せる規則にもとづき、本誌に挿入せる申込券に、必ず会費十銭を添えて送るべし。

   明治三十四年一月十日 妖怪研究会  

論  説

明治三十四年を迎う 井上円了述  

 今や明治三十三年謝し去りて、三十四年ここに来たれり。

 余が初めて東京に出でてより、まさに二十五年に満たんとす。二十五年は人寿の半生とす。その間、なんのなすことなきは、余が遺憾とするところなり。

 今をさること十有五年、独力、哲学館を起こし、爾来汲々、夜をもって日に継ぎ、専心一意その一事に従うといえども、いまだ予定の一半だもみたすあたわず。

 また、世の迷信を一掃せんと欲し、妖怪研究に着手せし以来、早くすでに二十回の星霜を経といえども、これまた余暇なきをもって、これを大成するに至らず。しかれども、前途を望みていささか自ら慰むるを得。

 余、かつてこれを聞く。医師は除夕にありて天象を考えて曰く、「今宵はヤミヤミしたる夜なり」と。もって翌年、病客の多からんことを祝し、僧家は同じく天象をうかがいておもえらく、シンシンしたる夜なりと。もって翌年、葬式の多きをまつという。余は除夕の天象を観察せしに、ハレバレしたる夜なるを見たり。

 ここにおいて、世間の迷信の雲、新年とともにはれ去らんことを祈る。いささか新年を迎うる辞を述べて論説に代う。

雑  録

妖怪窟雑話(第十九回)不思議庵主人  

 主人曰く、世の精神病中に偏狂と名づくる種類があるが、いわゆる潔癖もその一種であります。近日、地方より、潔癖を患うるものありて、その医方を余にもとめました。今、その一、二を左に。

一、食物の上に蝿あるいは夏期に生育する各種の虫類等とまるときは、その食物を食することあたわざる癖あり。もちろん、なにびとといえども、蝿およびその他の虫類の来たるは好まざるところなるべしといえども、普通の人は大抵それを意にとどめざるも、拙者は蝿の糞便等の汚物に集まりやすきものなるがゆえに、あるいはひとたび蝿のとまりたる食物を食するときは、身体に害をなすことあるやも計り難しとの恐怖心より、夏期は蝿を食事中食物に集まらぬよう、団扇にて放逐する者一人を備えて、初めて喫食することを得るのありさまに御座候。いかにして普通人のごとく平気になし得るものに候や。

一、大便所に行くときは、衣服をことごとく脱し便所行きの衣に改め、便所より出ずるときは、さらにまた前の衣服に改むるようになさざれば、精神上安心することあたわざるの癖これあり候。これはすなわち、糞便があるいは衣服に染着するやのように思われ、安心できざる故に御座候。

一、人力車あるいは自転車に乗るときは、車夫の足より路上の馬糞その他の汚物逆飛して、自分の顔面すなわち口辺にも付着するやの観念起こり、乗車中のごときは口を閉じて、その口中の唾を飲み下さざるをもって、わずかに往来することを得るありさまに候。その他、世間普通の人のもって意に介せざる諸事、多く精神の不快、憂鬱の媒介となり、ついに昨今は外出することをいとうの境遇に陥り、終日室内に蟄居いたしおり候、云云。

 大略右ようの状態にて、広く治療法を世間に求めらるる次第なれば、研究会員の大いに研究すべき問題であるから、ここに掲ぐることにいたしました。

雑  報

西 瓜 灯

 大和国、豊原善作氏の報告中に、先年その近村に西瓜灯を作り、あるいは灯火に芋の葉をおおいて、偽人魂を製造し、もって人を驚かしたる悪僧ありし由。これ、人の好奇心より作れる偽怪の一例なり。そのとき同氏の狂句なりとて、

   人魂の正体見たり西瓜灯

蝸牛の祟

 世に種々の祟あれども、蝸牛の祟はいまだ聞かざるところなり。しかるに、丹後国中郡、永浜宇平氏の報ずるところによるに、同郡三重村字谷内、本城某は幼少のとき蝸牛を多く捕らえて食せしが、たちまち左手人〔差し〕指を傷つけ、その爪ぬけたり。その後生え出でたる爪は一種奇怪なるものにて、その両側に蝸牛の角のごとき二爪を生ず。切り去ればまた生ず。これ、蝸牛の祟なりというとあり。

蜘 蛛 火

 野火、狐火、鬼火等、怪火に種々の異名あるうち、豊原氏の報知には、大和国磯城郡纒向村近傍に、蜘蛛火と名づくる怪火ありという。その地方の俗説には、数百の蜘蛛が、一塊の火となりて虚空を飛行し、もし人がこれに近づくときは、たちまちその火に当たりて一命を取らるるといいて、大いに恐るるとのことなり。先年、この火を実視せしものの話なりというを聞くに、ある夏の夕ベ、数名相伴い野外に納涼に出かけたるに、突然、南の空より一塊の火の玉が尾を引き声をなして、非常の速力にてこちらを指して飛びきたるにぞ、一同は大いに驚き、これがいわゆる蜘蛛火ならんと、急ぎて内に入り雨戸を閉じたるに、その火はやがて庭の大樹にあたりて落ちたるがごとく思われしより、戸隙よりうかがい見るに、火の影は絶えてなし。よって一同は庭へ下り、月光をかりてかしこここを捜しみるに、その形橙実ほどの焼け土の一塊が、大樹の根より三、四尺離れたる所に落ちてありしを見いだしたり。これによりて豊原氏は判断して曰く、「そのいわゆる蜘蛛火は隕星なり」と。

易者問答

 また、永浜氏の報道中に、同姓某氏の子息不快なりしが、その母たまたまこれを易者に問う。易者、筮竹をひねりて鑑定して曰く、「この子息の病は地主荒神の祟なり。よろしく宅地を清浄にし、祠を建てて祀るべし」と。主人笑いて曰く、「なんぞ、この宅地に地主荒神のあらんや。地主とは予のことなり。予はこの宅地の所有権を有す。しかして、いまだかつて法律に触れ、公権を剥奪せられたることなく、堂々たる一個の公人なり。地主荒神は宅地所有権を有せず、租税を納めず、なんぞ地主といわんや。ひとり、予は公然たる宅地の地主なり。もし地主を祭るならば、請う、予を祭れ」と。易者一言を発せず、そのままどちらへか逃れ去れりと。

懸賞問題答案

 さきに本誌広告上、懸賞答案を求めたれば、二、三の答案を得。これを検するに、因幡国気高郡大郷村、谷口勇治氏の寄書、最も詳細にわたれるをもって、その全文を左に掲ぐ。

(一)鳥獣は毎日多く死するに相違なきも、その死骸を見ること少なきは、世人の常に不思議とするところなるが、予はこれを左の二因によるものなりと信ず。第一、彼ら鳥獣の死にひんするや、その病躯を隠蔽する性質あるによる。けだし、彼ら弱肉強食の鳥獣は、常に外敵の襲害をおそるることはなはだしく、その巣穴を営むにも、林★(莽の大が犬)の下、断崖の辺り、あるいは老樹の梢上等、本能的巧知をもって、可成的他動物の発見し難く、また近接し難き箇所を選ぶ。その疾病、傷害等に悩むに際して、病弱の体を隠蔽せんとするは当然にして、その多くはこの発見し難き巣穴に避隠す。これ、その死屍の人目に触るること少なきゆえんなり(ゆえに、ひとり死骸のみならず、彼らの巣穴を発見することもまれなり)。しかして、たまたま彼らの巣穴を発見することあるも、その中に死骸を見ることなきは、彼らの高等種族のものは、かの猫の己の糞を嗅いで隠蔽するがごとき観念をもって、同棲の死屍を土の下に埋めて隠蔽する等のこと、なきにしもあらず。また鳥類のごときも、死屍を永く巣中に放置するがごときことなくして、これを巣外に排除するなるべし。されば、人家に飼養する犬猫の死骸の多くは軒下、床下に横たわるを見、やや人家に接近しやすき狐狸の、闘争もしくは過失によりて死せるものは、往々田圃に見ることあり(予はかつて狸の死骸を、一回は圃上に見、一回は農家の肥料だめに陥りて死したるを見しことあり)。また小鳥の、朝夕糢糊のとき電線、白亜等に衝突して死せるあるは、しばしば目撃するところなり。予かつて、動物の死にひんして、その体を隠蔽するものなることを実視せることあり。数年前のことなりしが、一猫来たりて予が愛鶏を害せしをもって、その恨みを報ぜんことを謀り、一日該猫の来たれるをうかがい、長棒をふるって一撃せしに、頭部に命中して猫はその場に倒れ、四肢をもがきて苦悶せしが、予はその惨状を見るに忍びず、自ら惨酷の所為を悔いて他に出で去りしも、数時の後その生死を見んと欲し、再びその場に至りて見るに死屍のあらざるをもって、そのよく死に至らずして逃れ去りたるを怪しみいたりしが、数日を経て、数間をへだたりたる藁芥の下に隠れたる死屍を発見したり。つぎに第二因は、彼らの下等種族のもの、特に鳥類の死屍のごとき、多くは他動物の食餌となり果つるによる。狐、狸、犬、猫、鷹、鳶、梟、烏の族、昼夜間断なく探餌に営々として飽くことを知らず、険をおかし闘を格して貪食を事とす。小動物の死屍、なんぞ人目に触るるのいとまあらん。

(二)掌あるいは指をもって耳をふさぐとき一種の響音を感ずるは、内部動脈の顫動より生ずるものにして、あるいは指掌より起こるものならんかの疑いあれども、指掌をもってふさぐときにおいてのみならず、机上の書籍等に外耳を圧塞するときも同一の響音を感ずるものなれば、決して指掌等、他隔部より生ずるものにあらずして、聴道およびエウスタキオ管の付近より起こるものにほかならざるべし(試みに呼吸を止めて舌根部を強く咽喉に押すがごとくし、少しく仰向してエウスタキオ管をふさぐときは、外耳をふさぐときよりは弱きも、やや同一の微音を感ずるものなり)。その外耳をふさがざるときは、これら微細の波音は外気に通ずるをもってこれを感ぜざれども、指頭その他の物体をもってこれが波及を遮るときは、反響壮大となりて鼓膜を打つこと、あたかも太鼓の反響して、よく大音を発するがごとくなればなり。概言すれば、広原においては大声をなさざれば人に通じ難しといえども、室内にては小語をもってよくその用を弁ずるがごとく、すべて音響は、広所においては寛漫にして、狭所においては緊急なるものなればなり。

(三)日月の昇るときは大にして、中するとき小なるの理はすでに定説ありて、広所にある物体はすべて、狭所におけるよりはその容積浅小に見ゆるものにして、室内にて大なる机も広庭に出だすときは小さく見ゆるがごとく、日月東天にかかり地界に接近して見ゆるときは円大なるも、広邈たる蒼穹にかかるときは小円に見ゆるなりと。これ、あるいはその一因なるべしといえども、日月ようやく中天してすでに小円に変じたる時節、比せる人家等の上に日月のかかれるごとく見ゆる位置に至り、あるいは家屋と家屋との間などを通して日月を見るも、依然としてその形の変ずることなきよりすれば、いやしくもその大小を変覚するに至るまでには、この単因のみにあらずして、必ず他の原因なかるべからずと信ず。よって、試みにその原因を求むるに、日月中天に位して白空にかかるときは、地界の雰囲気すでに明らかにして、あたかも昼間の灯火のごとく、また白液中の白塊のごとく見ゆるも、日月東天にあるときは地界いまだ暗くして、夜間の灯火のごとく、黒液中の白塊のごとく見ゆるものあらん(日月の大に見ゆるは昇るときのみならずして、西没するときも同じく大に見ゆるものにして、西没のときは地界すでに暗し)。また、人の眼球は、強き光線にあうときは眼簾収縮して瞳孔を小ならしめ、したがって眼網膜に映ずる物像小なれども、光線弱きときは瞳孔を大ならしめ、眼網膜の映像大なりとす。ゆえに、太陽の光線直射する所において読書するときは、室内にて読書するよりも文字の小なるを視覚し、物体を灯火に近づくるときは、遠ざくるときよりも小なるを覚ゆるものなり。されば、日月の東西より斜射して光線の微弱なるときと、中天より直射して光線の強きときとは、必ず視覚に差違あるべきはずなり。しかして、暁鴉暗林になくとき、堂塔、竹樹を染めてきたる東天の玉盤か、暮靄、帰帆を追いて至る西海の悠陽か、もしくは山頂の林間に宿息する玉兎か、宛然山巓に座せるがごとく、海上に浮かべるがごとく、これを掬すべく、これを捕らうべし。いかにしても、これを十万里もしくは四千万里をへだてたる天体として見ることを得ず、いかにも近く感ぜらるること、中天にあるときの比にあらず。これまた、おそらくは視神経の変覚を生ずる一因ならんか。

第二十号(明治三十四年一月二十五日発行)

妖怪研究会報告

 左の諸氏より報告を得たり。

斎 藤 源 作(青森)  後 藤 新五郎(陸中)  三 上 啓 司(陸中)

南   郁 三(青森)  本 間 光 和(越後)  加 藤 勉 二(周防)

平 沢 良 造(大阪)  (以下これを略す)

 左の項目につき、地方新聞に事実報道を依頼せり。

(一) 精神上の感通(夢知らせの類)

(二) 天狗の筆跡および狐書、狸画の類

(三) 神童および長寿者の性行

(四) 食忌み(生来厭忌せる特殊の食物)

(五) 偽怪、誤怪にして事実の発見したる例

(六) 精神上より起こせし病気、および精神作用によりて全治せし実例

(七) 幻覚、妄覚の諸例

(八) 地方の物理的妖怪(水、火、木、石、魚、虫等の怪)にして、普通の道理にて解説し難きもの

一、きたる十一日午前九時より、哲学館講堂において紀元節祝賀会を開く。入会申込者は、必ず本号掲載の祝賀会規則に基づき、前号挿入の申込券とともに、会費十銭を添えて申し込むべし。申込期限は二月五日までとす。

   明治三十四年一月二十五日 妖怪研究会  

論  説

論   怪 井上円了述  

 宇宙の中、六合の間、事々物々、おのおの常態、変態の二を具せざるなし。その変態は、妖怪学のいわゆる妖怪とするところなり。ゆえに、事物に万類あれば、妖怪にもまた万類ありて、天地の怪あり、風雨の怪あり、金石の怪あり、水火の怪あり、草木の怪あり、禽獣の怪あり、人類の怪あり、手足の怪あり、耳目の怪あり、言語の怪あり、思想の怪あり。果たしてしからば、輿論の怪、政論の怪なかるべからず。余はこれを名づけて論怪といわんとす。それ、論はすべて論理の規則、思想の法則に従い、因果の大道理にもとづくものにして、もし、これに反するものあらば、これを非論理的と名づけて、道理世界の廃物となす。かかる廃物はすなわち論怪にして、すべて非論理的のものは論怪の部類に入ると知るべし。古代、人知いまだ進まざりしときにありては、人々論ずるところことごとく非論理にして、一切みな論怪なりしも、世の開くるに従い、論怪、日を追いてようやく減ずるに至るも、今日なお世論の妖怪の範囲を脱せざるもの多し。その一例は現今の国字改良論なり。

 国字改良の目的はあえて非とするに及ばざるも、その論点に至りては、怪のまた怪なるものあり。今、その二、三を列すれば、わが国の学業の進まざるは、主として最も不便なる漢字を用うるにありという、その一なり。シナの国勢の振るわざるを見、わが国の漢学者の気力なきを見て、その罪を漢学、漢字に帰する、その二なり。ひとたび漢字の不便を見て、いまだこれに代用すべき文字を定めずして、ただちに漢字廃止を実行せんとする、その三なり。数千年間の歴史、文学、制度等、みな漢字によりて今日に伝わるにかかわらず、一時にこれを廃して思想界を暗黒にせんとする、その四なり。東洋の政略上、ロシアよりもイギリスよりもわが方に多く便利を有するは、漢字、漢学に通ずるにあるにかかわらず、これを全廃してわが唯一の利を失わんとする、その五なり。かかる怪論の世間に行わるるに、だれもこれを怪として怪しむものなきは、これまた一怪なり。今日の世間は、この論怪の迷雲のために青天白日を見ることを得ざるは、誠に嘆ずべきの至りなり。妖怪研究の今日に急要なること、問わずして知るべし。

雑  録

妖怪窟雑話(第二十回)不思議庵主人  

 妖怪にはいろいろの妖怪がある。その中で言葉の妖怪がある。それは、世にいわゆる早言葉であります。例えば、

ミミズニョロニョロミニョロニョロ合わせてニョロニョロムニョロニョロ

カエルピョコピョコミピョコピョコ合わせてピョコピョコムピョコピョコ

隣りの客はよく柿食う客だ

向こうの高塀にちょっと竹たてかけた

向こうの土手を唐人が提灯つけて通る

向こうのお山を坊主が屏風をせおって通る

煮ごまめに生なまこ

たか箒にたばこぼん

かま米かめ、こがまこごめかめ

長持の上に生米生卵

なま金山、大生金山

 かくのごとき妖怪的言葉は、小児の戯れに用いておるけれど、毎日反復するときは、いくぶんか能弁の稽古になります。ゆえに、各地方よりこの早言葉の種類を集めてみたいから、右にかかげたるもののほかに記憶せるものあらば、報道の労を取られんことを望む。

雑  報

妖 怪 歌

 越後国岩船郡村上町、本間光和氏より新年の賀詞に添えて、左の歌を寄せられたり。

世の中にありとあらゆるもののけの

    やとりは人の心なりけり

心だに迷はば花も月かげも

    雪の光りもあやしかるらん

 また、青森市、斎藤源作氏より、

われ人の迷の雲を追はまほし

    真如の月や待ちわぶるらん

 また、岩手県渋民村、三上啓司氏より、

晃晃心鏡写百怪、仮怪偽怪又真怪、日月星辰為天怪、風雲雷雨為気怪、春夏秋冬為時怪、海鳴陸震為地怪、金玉奇石為砿怪、珍草異木為植怪、妖禽霊獣為動怪、誰知本来為仮怪、妖怪淵叢為人怪、人怪更開六根怪、妄荒美色為眼怪、妄耽美音為耳怪、妄泥美香為鼻怪、妄貪美味為舌怪、妄好安逸為触怪、妄恣我見為意怪、六怪変化最可怪、誰知為仮偽雑怪、落落乾坤一心怪、忽焉現十方空怪、時貫三際無限怪、万象蔵形無名怪、古今聖賢究斯怪、千考万思得一怪、真破仮雲偽霧怪、沖天心月是真怪。

(晃々たる心鏡は百怪を写す。仮怪、偽怪また真怪。日月星辰を天怪となし、風雲雷雨を気怪となし、春夏秋冬を時怪となし、海鳴陸震を地怪となし、金玉奇石を砿怪となし、珍草異木を植怪となし、妖禽霊獣を動怪となす。だれか知らん、本来は仮怪たるを。妖怪淵叢なるを人怪となし、人怪さらに六根の怪を開く。妄荒美色を眼怪となし、妄耽美音を耳怪となし、妄泥美香を鼻怪となし、妄貪美味を舌怪となし、妄好安逸を触怪となし、妄恣我見を意怪となし、六怪の変化をもっとも怪とすべし。だれか知らん、仮偽雑怪たるを。落々たる乾坤一心怪。忽焉として十方に空怪を現じ、時は三際を貫き無限の怪、万象は形を蔵し無名の怪、古今の聖賢は斯怪を究め、千考万思して一怪を得て、真は仮雲偽霧の怪を破る。沖天心月、これ真怪なり)

 もし、「妖怪」という題にて詩なり歌なり詠ぜられたる場合には、続々寄送ありたし。

妖怪的祭礼

 さきに妖祭の一例を掲げしが、その後『伊東案内誌』を検するに、やはり一種の妖祭あるを見たり。すなわち左に。

 音無明神は竹内の鎮守にして、音無しの森の中にあり。祭る神豊玉姫命、祭礼は毎年十一月十日の夜、灯火を用いず、暗夜の中にて執り行い、神酒を賜る折も、暗黒無言のうちなれば、尻を摘みて次へ次へと酒杯を回す。ゆえに、里人これを称して尻摘み祭りという。この夜、村内は歌舞音曲を停止し、参詣する者もまた提灯等を用うるを禁ず。これみな、〔源〕頼朝公、八重姫と契りたまいし秘密の遺風にして、音無しの名もこれより起これり。

食 忌 み

 人には往々、生来厭忌せる食物あり。弘前市徒町、傍島黿四郎氏(年十三)は沢庵漬けをみること蛇蝎よりはなはだしく、談たまたまそのことに及べば、顔色を変じ身震いする等、尋常にあらずという。

ランプのホヤに亡者の顔

 会員豊原善作氏より、左の報告を得たり。

 世にはよく似寄りたることもあるものかな。『妖怪学雑誌』第三号に「火屋に人面」と題して、昨年尾州葉栗郡宮田村の栗本福太郎方に、ある夜、ランプの火屋に偶然人面の現れたることを記載ありたるが、ここに、去る十月二十六日刊行の『大和新聞』(第三千五百四号)にも、これに似寄りたる左の記事を掲げたり。今、その記事の分を切り抜きてここに報告す。

 かかる奇怪のことのあるべきはずなきに、さりとはさりとは不思議のいたり。山辺郡朝和村大字兵庫の前川直吉夫婦が、さきごろ夕餉の膳に向かいし折しも、ランプの火のだんだん暗くなりゆきて、ボッボと怪しき音せしと思う間もなく、青き火炎はきりりと舞いあがり、やがて煙おさまり、もとのごとくなりし跡を見れば、ランプのホヤに映りしは、昨年その月その日に、この家にて死亡したる川口竹松の顔そのままなりしとは、チト受け取りかぬる話なり。

 却説、この兵庫というはわが大字より程遠からぬ所ゆえ、余はこの新聞を閲するや迅速駆けつけ、実験のうえ詳細なる報告をいたしたく存ぜしかど、そのころより今に至り、病気のためその意を果たさず。しかるところ、わが大字、中島久七なる者の娘松江というが、同地のある方へ縁付きしてありけるが、この間、実家へ帰りきたれるを幸い、これにつきて詳細なる様子を聞きただせしところ、同人曰く、「元来、右前川直吉といえる者は、去年、今の家へほかより転じきたれる者にて、それまでは彼、川口竹松一家が住みおりて、しかして竹松はその家にて死し、その後都合によりて、その遺族はその家のすぐ西隣の家に移りたることにて、さて右新聞の説によれば、右の怪事の起こりたる夜は、彼、竹松が去年死去したるその月日に当たるようなれども、それは実際と相違せり(これじゃから新聞の説はとんとあてにはならぬなり)。さて、右怪事のありたる夜より、その当分は日々見物人同家の門に市をなし、なにか妾も近所のことゆえ、いち早く見物に行きたり。

これがために巡査の出張もありたるほどなるが、直吉は不思議のことに思い余り、ある占考者を聘して、その原因を占わせしに、占考者曰く、『これは、去年この家にて死したる竹松の遺族が、彼が没後隣家へ転住し、しかしてその弔いをほとんど怠りいたるがごとくなるところへ、足下がその後へ移りきたりて弔いをしてやるゆえ、亡き竹松はそれをうれしく思う余り、かく火屋にその貌をあらわして、その報恩の意を表したるものなり』と。ここにおいて、直吉は亡き竹松の長男宗次にこの由をいい聞かせ、にわかに桐の箱をあつらえ、件の火屋をそのままそこへ納めて、宗次方にて大切に保存させ、懇ろに弔わせおるなり」とのことなり。ここにおいて余は、『妖怪学雑誌』中の、かの尾州に起こりたる「火屋の人面」の図を右の松江に示し、その形の彼此相似たりやいなやをたずねしに、彼は「この図とよく似たり」と答えたり。

余は前述のごとく二豎のために、いまだ実地につきてその火屋の模様のいかんを知る由なけれど、全くはこれも尾州のもののごとく、偶然の出来事に相違なかるべしと想察す。もし、果たして竹松にして、死後その後へ移り越せし直吉に対し、わが弔いをしてくれるのがそれほどうれしく思うくらいの霊あれば、またその遺族に対し、弔いを怠りおる怨みということを、たとい一言にても述べざるべからざるはずなるに、しかるに、倅の宗次方にはなんの怪しきこともなく、しかして、たといどれほど弔いをしてくれるのがうれしいにもせよ、後入りの直吉にかくのごとき怪事を示したるということ、どうも道理に合わぬ話。いわんや、彼、直吉はいかな親切な男かは知らねど、他人のいた後へ転じきたりて、その他人たる先住の霊を祭り弔うような男でもあるまじ。さすれば、このことはどうしても一時偶然の出来事、すなわち、かの尾州のものと同一ならんと想像す。

エジプトの古画

 古代エジプトにて、人死すれば冥土に至り、魔王その善悪を知らんと欲し、良心を秤器にかけて判ずるものと信ぜり。今、その古図を縮写して巻首に掲ぐ。

第二十一号(明治三十四年二月十日発行)

会  報

 先回以来報告を得たる諸氏は、

    斎 藤 儀三郎(甲斐)  坂 本 尚 義(但島)  中 村 富太郎(因幡)

    豊 原 善 作(大和)  平 津 良 造(大阪)

 地方新聞に左の報道を依頼せり。

 昨年以来、地方現時の妖怪事実を収集し、いちいちこれが説明を試みんと欲し、『妖怪学雑誌』を編集し、「論説」「雑録」「雑報」「講義」の数欄を設け毎月二回発行しおるも、地方より報道を得る道なく、したがって「雑報」の材料に乏しく候間、もし貴社にて「雑報」の余白を割愛して、左の数項を掲載くだされ候わば、大幸このことに御座候。

●天変  ●地異  ●奇草  ●異木  ●妖鳥  ●怪獣  ●異人  ●鬼火  ●狐火

●火柱  ●蓑火  ●竜灯  ●奇石  ●毒井  ●奇病  ●奇形  ●仙術  ●妙薬

●食い合わせ    ●食忌み ●前兆  ●予言  ●卜筮  ●察心  ●暗合  ●偶中

●幻覚  ●妄覚  ●奇夢  ●夢告  ●狐惑  ●狐憑き ●狸憑き ●犬神  ●人狐

●天狗  ●狐遣い ●降神  ●口寄せ ●巫覡  ●幽霊  ●禁厭  ●天啓  ●感通

●神通  ●幻影  ●怪音  ●魔法  ●狐術  ●投石  ●鎌鼬  ●再生  ●舟幽霊

●蜃気楼 ●天狗筆跡     ●狐書、狸画    ●誤怪、偽怪

 その他、すべて世間のいわゆる不思議にして、通俗の了解し難き事項は、なんなりとも左の名あてにて事実報道あらんことを望む。

   明治三十四年一月二十日 東京市小石川原町哲学館内 『妖怪学雑誌』発行所 妖怪研究会  

論  説

禁厭は滑稽の一種 井上円了述  

 世のいわゆるマジナイなり縁起なり、その多くは滑稽に類す。例えば、小児の頭上のオデキを治するマジナイは、「馬」という字を三字かさねて書くなり。その理由は、馬が草を食するの意にして、俗に頭のオデキをクサと呼ぶによる。また、足の豆を治するにも、「馬」の字を三字かさねてかくなり。その意、やはり馬が豆を食するを義とすという。土蔵の火よけのマジナイとして、「水」の字をえがくがごとき、人に物を贈るに、四(死に通ず)の数を避くるがごとき、みな一種の滑稽ならざるなし。貸家の張り紙は必ず斜めにはりつけてあるは、立たぬようにとのマジナイなり。土佐にて人の旅立ちを送るときは、家の前に枳殻と松とを立つるという。これ、帰国を待つの意なり。一休が人を招く案内に、菜と銭と小糠とを包みて贈りし話に同じ。菜と銭と小糠とは「なぜに来ぬか」の意なり。婚礼、葬式などには、この類ことに多し。ある地方の浄土宗の寺にて、狐つきを落とすマジナイの秘術を伝え、遠方より来たりて施術を請うもの多し。いずれもよく効験ありという。余、これを奇怪に思い、その秘術を聞きたるに、実に捧腹にたえざるなり。その術は、狐つきの患者あるときは、これをして仏前に座せしめ、住職これに対して『阿弥陀経』中の六方の段と名づくる一節を誦す。六方の段とは、東方にはなになにの仏あり、南方にはなになに、西方にはなになに、北方にはなになに、下方にはなになに、上方にはなになにとある一段なり。これを誦する間に、一方だけを抜かして読むなり。その意、一方をおとしたというわけから、狐をおとす呪法となる。これみな滑稽なり。今一つおもしろき話は、先年インフルエンザのはじめて流行するに当たり、俗にこれを「おそめ風」といえり。当時これを防ぐマジナイとして、各戸の入口に「久松はおらず」とかきて張り出だしおけり。実に一笑を喫せざるを得ず。すべて禁厭は、みなかくのごとき道理なきものにして、しかもよく効験あるはなんぞや。これ、余が毎度述ぶるがごとく、マジナイそのものの力にあらずして、これを信ずる精神の力なり。

雑  録

妖怪窟雑話(第二十一回)不思議庵主人  

 シナは日本の先輩である、教師である、師匠である、恩人である。その中で善きことも教えてもらい、また悪いことも教えてもらいました。悪い方では迷信の一条である。日本人の迷信の十中八九は、みなシナ伝来であります。例えば、狐狸談のごとき、地相、家相、人相のごとき、鬼門、方位のごとき、みなシナの製造物である。ゆえに、シナはわが迷信の教師なるに相違ない。しかるに、余は迷信退治を本職とするものなれば、この点からもシナを征伐せなくてはなりませぬ。しかして、迷信上インドの特産とすべきは魔にして、わが国の特産は天狗であると考えます。古来、諸家の説中に、天狗もシナ伝来というものあれども、余は信じませぬ。迷信のごとき悪い方はこれを除き、とにかくシナはわが先輩、恩人なる縁故ある以上は、今後のシナに対してわが国は教師の位置に立ちて、これを指導する義務を有することと考えます。

雑  報

妄像幻出

 今をさる四十年前、すなわち文久二年七月十八日、東海道三島町、旅店銭屋伊三郎方にて、上総国山辺郡滝村、百姓半次郎倅忠太郎(二十三歳)急病にて死せり。これと同時に、国もとの実家に本人の妄像現出せり。時刻は同日同時、ただわずかに一時間の相違のみ。三島の方にて絶命せしは午後四時ごろにして、国もとに現出せしは五時過ぎなり。本人は京都参詣に出かけ、その帰路三島に至り、霍乱にかかりて死せり。しかるに、国もとにては本人の戸外に無言にて立ちおるを見、「貴様は今帰りしや」とたずねたるに、その答えなく消え失せたり。一家の者大いに驚き、これ必ず途中にて病死せるに相違なしとて、その翌日、老父は急に出発して本人の行方を捜索しつつ、三島駅に至り、その死を聞きて大いに落胆せりという。もしこれを実事とすれば、真怪の一種とすべきか。

鴉 鳴 き

 世に、鴉はよく人の死を前知すという。山梨県甲府、斎藤氏はこのことに関する実験談を挙げて、その説明を請われたり。その一つは、東八代郡南八代村、殺人事件の前に鴉鳴きの前兆ありという。案ずるに、鴉声の常に異なるときは、必ず死人あるべしと人々相迎え、たまたまその近傍に死人あれば、ただちにこれと鴉声とを結び付くるに至るなり。これを予期意向と名づく。

狐なしの国

 四国に狐なく、佐渡に狐なく、隠岐に狐なし。ゆえに、四国にては狐憑きを説かずして狸憑きを説き、佐渡は貉憑き、隠岐は猫憑きを説く。これによりてこれをみるに、狐憑きは一種の精神病なるを知るべし。

神崎の怪異

 近刊の『いはらき』新聞に、「神崎の怪異」と題して左の記事を掲げり。その場所は水戸市神崎町、野牛義長氏方にして、同家の下女の身につきて起これる怪事なり。

△下女の挙動  下女が野牛方へ下女に住み込みしは十日ばかり前なり。その前には裏南町の加藤某方にあり、同家を出でて大工町の芸妓屋若東に三日ばかりおりて、そののち野牛方へ来たりしなり。同家へ来たりしはじめより、同人はいたって足らざる様子あり。用を言い付くれば忘れる、買い物にやれば物を間違うなどは毎日のことにて、さらにハキハキしたるところ見えず。出ださんかと思いいたるやさき、不思議なる音声を示すに至りぬ。

△人前にて食せず  下女は食事をなすに、決して人の前にては食せず、台所の隅にこそこそと食するに、はじめは同家でも、まだ人なれぬ恥ずかしさよりと思いしに、ついには怪しみてのぞき見れば、彼は箸をあげて食するに、いちいちそのにおいを嗅ぎながら、かつ嗅ぎかつ食うようの、いかにも怪しき振る舞いありしといえり。

△子供を負わすれば泣く  こは人見知りしての故なるかも知るべからざれど、同家にては子供をこの女に背負わすれば、はなはだしく泣きてやまざるに、ついには負わするをやめしとぞ。

△最初に口笛のごとき音  を聞きしは五日の前なりしが、表の方に当たりて、だれか呼び出しでもするがごとき口笛の声するに、同家では、これは下女に男でもありて呼び出すならんと、下女をして表へ出だしめたるに、だれもおらずという。しばらくして、また裏の方に聞こゆるに行き見れば、ここにも見えず。かくするうち、この怪しき音響は耳もと近く響きたるに、こは怪しと思いしが、四辺にはだれもおらざるに、必定縁の下と思いて、主人自ら縁の下を捜したれどあらず。再び天井を捜したれど、なにものも見えず。いよいよ怪しむうちに、この怪しき音響はいよいよはげしくなりきたれり。

△口笛の音は鴬の声と変ず  はじめのほどは、だれぞかの悪戯と思いいたるも、かくいずことなく間断なしに笛の音の起こりては、少し同家でも薄気味悪くなり、いよいよそのなにものなるやをたしかめんと捜索するうちに、口笛のごとき音は鴬の笹鳴きのごとき音と変じたるに、同家の主人はおもしろ半分に、口笛にてホウホケキョと吹きしところ、これをまねるがごとく響きの起こりしが、ついには最も巧みに吹き鳴らすに至り、しかもその声や一日一日に上手になりゆきて、ついには五十円、百円の鴬にも劣るまじき妙音を発するに至れり。

△声は下女に従う  さて、その声の方角はいずれなるや判然せず。上なるか下なるか、それさえ聞き分くるあたわざりしが、ただ不思議なるは、下女に伴って方角の変ずるがごとく聞こゆることなり。下女が流しもとへ行けばその方に聞こえ、座敷へ行けば座敷に聞こえ、炬燵へ入れば炬燵の中に聞こゆ。あまり怪しきに下女に注目すれど、下女が吹くものには全くあらざるは、その声の起こるとき口の動かざるにても知らるべし。さては狸の所為にして、下女にでも惚れたるものならんと同家では思い、神崎の車夫を雇いて一大捜索に及びたり。

△捜索の結果  天井はいうまでもなく縁の下より物置まで、残る隈なく捜索したる結果として、なにものが発見せられたるかというに、十日ばかり以前にしたりしとも覚しき干からびたる獣の糞と、抜け落ちたる狸の毛らしきものとなり。されど、どこに潜みしか影も形も見えず、かの怪しき鳴き声は依然として絶えず。

△声の所在  同家においては、かくまで捜索に手を尽くしても、なんらの姿を認めざる以上は、ただその声の所在を確かむるよりほかはなしと、いよいよ耳を澄まして聞けど、ただ下女が居所の辺りに聞こゆるのみにて、空なれば探るに由なくあぐみ果ていたるに、たまたま同家へたずねきたれる一老人某というは、もと行者にて狐落としの経験もある男とて、委細の様子を聞き、これは必ず下女の身体に憑きおるものならんと断定し、そのつもりにて聞くときは、かの怪しき声はたしかに下女の腹部にあたりて聞こゆるにぞ、いよいよそれと決したり。

△腹部の蠢き  その老人はさらに曰く、「狐憑きなどは身体に異常あるものなり。そを見るには管よりして見れば判然すべし」というに、早速、元折り猟銃の管よりして下女をのぞき見しところ、懐中になにか潜めるもののあるらしく、ムグムグと蠢きいたりとは、実際みとめたる主人の談話なり。

△袂より毛が出ずる  また、その老人のいうには、「狐狸に憑かれたる者は、袂にかいずこかに必ず毛があるはずなり」というに、早速下女の袂をあらためしところ、果たして毛が出でたり。しかも、その毛は前に縁の下より出でたるものと同色にて、紛うべくもあらず。これにて、下女にはなにか憑きものがしたるだけはたしかとなれり。

△湯に入るる  この上は裸体にして見るにこすことなしと、昼間大騒ぎにて水を風呂桶にくみ入るるやら、火をたきつくるやらしてようやく湯をわかし、さて下女に入浴せよと勧むれども容易に承知せざるを、総がかりにて帯を解かすやらして、わずかに衣服を脱がせたれど、足袋を脱ぐを非常にいやがりしを、これをもいやおうなしに脱がせて、さて、かの声はいかにと聞くに、今度は下女の身を離れて脱ぎすてし衣類の下あたりにて聞こゆるより、さてこそ衣服に隠れしぞと、みなにて衣服を打つやら踏むやらすれど、鳴き声はとどまらず。あとにて思えば、足袋だけに心づかざりしが残念なりしといえり。

△下女の頭上に空砲を放つ  下女が入浴中、野牛氏は不意に空砲を放って、いかなる様子をなすかを試さんと二発まで続けうちしが、ビクともせずにいたりしと。

△下女空砲に気絶す  一度の発砲はなんの効をもなさざりしが、去る二十四日の朝六時ごろ、今一回試みんと野牛氏は起き出でて、折から下女が台所に味噌をすりおりし後ろより、だしぬけに二発放ちしに、これにはさすがに驚きけん、「ウン」とその場に気絶したるを蘇生せしめたるに、彼ははじめて人心地つきたるごとく、け{、}ろ{、}り{、}としたる風にて、「どうもありがとうございました。おかげで助かりました」と、野牛氏に対して礼をのべたりとか。

△怪しき声やむ  それよりして、かの怪しき声はぱたりとやみて、下女は以前とはまるで人の違えるごとく立ち働きおれり。

△下女の直話  なりというを聞くに、同人が気が妙になりしは、南裏町の加藤方に住み込みし三日ばかり経て、ツクヅクといやな気がしたるより、自分ながら気がおかしくなりしを知りしが、それよりして健忘症となり、昨日のことも今日は忘れるようになり、自分でもなんの故ともわからざりしと。しかして、その四、五日の鴬の音などは、一切下女の耳には入らざりし由。なお、下女は暇をくれと請いおれど、同家にては、この後いかなる挙動をなすかを見極めんがため、そのまま引き留めおけりと。

 この説明は次号に譲る。

エジプト古代拝神図

 本号巻初に掲げたる図は、エジプト古代にありて、神官アニおよびその妻、神前供物台のそばにて神を拝する図なり。帝国大学人類学教室に秘蔵せるものより写し取れり。

第二十二号(明治三十四年二月二十五日発行)

妖怪研究会報告

一、左の両氏より、妖怪事実報道ありたり。

    宗 島 秀之助(上総)  高 橋 平 治(越後)

一、高橋平治氏より、左の早言葉を報知せられたり。

新潟の白山様大馬形小馬形

岡脚袢、田脚袢

御殿様の扇の玉

一、井上会長は、去る十八日東京出発、三重県志摩、度会、多気、北牟婁四郡巡回、来月十八日ごろ帰京の予定なり。四月初めより、さらに越後国頚城三郡巡回、五月初め帰京の予定なり。

一、妖怪〔学〕講義、従来掲載しきたりし分は、三月中にてひとまず完結するはずのところ、紙数の都合にて今一カ月延ばすことに定め、四月中にて完結すべし。よって、昨年四月より一カ年間の会費既納の向きは、さらに一カ月間の会費金三十五銭、三月中に送金すべし。

   明治三十四年二月二十五日 妖怪研究会  

論  説

迷信的動物 井上円了述  

 人類は賢愚利鈍を問わず、一般に多少の迷信を有せざるはなし。ゆえに、妖怪学上よりこれをみれば、人は迷信的動物なりというべし。学者は無知に比すれば迷信なきに似たるも、学者相応の迷信あり。賢人は愚民に比すれば迷信なきがごときも、賢人相応の迷信あり。福沢〔諭吉〕翁は士族の迷信を論じて、愚民よりはなはだしとなせり。旧来の士族は、その主人たる殿様を見ること神様を見るがごとく、崇拝、礼敬至らざるなし。しかして、当時の殿様なるものは、学なく知なく、加うるに不道徳、不品行にして、実にインモラルの標本たり。かかる悪標本を礼拝するは、迷信の極みといわざるべからず。これに反して、愚民は善の標本たる神仏を礼拝するをもって、士族にまさること万々なりといえり。かくのごときは、習慣的迷信と名づくべきものなり。その他に資性的迷信あり。例えば、雷を聞きて身震いするものあり、蛇を見て血色を変ずるものあり。いかに無神経のものといえども、その天性として動かすべからざるものあるは、みな資性的迷信というべし。また、いかなる英雄豪傑といえども、病気、災難等に会すれば、種々の迷信を起こすものなり。学者もまたしかり。ゆえに余は、人間は一般に迷信的動物なりという。ただ、学問、教育によりて、その度を減ずるに過ぎざるなり。

雑  録

妖怪窟雑話(第二十二回)不思議庵主人  

 前号に「神崎の怪異」と題して、水戸市中に起これる怪談を掲げましたが、かかる怪事は東西ともにある話にして、あえて不思議とするまでもない。先年、甲州郡内に起こりし妖怪は、やはりこれと同一でありました。そのとき取り調べたところによれば、全く少女の行為なることが分かり、たちまちその評判が立ち消えとなりました。しかるに、傍人がこれを発見しあたわざりしは、少女の口が動かずに一種の音を聞く故である。この術は西洋に古来よりあることにて、その名をベントリロキズム(腹話術)という。これはギリシア時代より伝わり、口で物を言わずに、腹で話をするという術である。だれでも少々稽古すればできると申します。その名は腹話術なれども、実際腹で話すのではなく、咽喉にて声を発するのである。傍らよりこれを見るに、口が動かずに声が聞こゆるゆえ、本人の体中より発するにあらずして、空中より生ずるように感じます。水戸市の怪談もこれに相違なく、下女の喉部より発する声である。その声の笛のごとくなるは、口舌の間より発せざるゆえ、一種異なれる音となりて聞こゆるからである。それゆえに、神崎怪談も妖怪学の目からみれば、不思議の仲間に入るるだけの価値のないものであります。

雑  報

縮緬の経糸

 『京都日出新聞』に、左の一怪事を記載したり。

 当地方において不思議の一つに数えらるるは、縮緬の経糸が自然的不意に切断することである。古来、これをもって、他人の呪咀するところとして信じきたっておるのである。すなわち、その主人(営業主)または工女に対し、色情あるいは金銭上等につきて怨恨あるものが呪咀するときは、たちまちその霊験を現して、機杼にかけ織りつつある縮緬の経糸の一部分が不意に断つのである。普通、並幅縮緬の経糸は二千ないし二千五百本くらいのものであるが、一時にすくなきも二、三十本、多きはその過半以上も切れることがある。その切れ方というものが、あたかも鋭利な刃物をもって打ちきったごとくに、打ちそろって切れておる。その切れる部分は、おもに機尻の方と鳥居の上下辺りである。ときとしては、その織り口や、あるいはすでに織り上げたる部分が横裂けになることもある。しかして、その切れる時刻はたいがい朝早くか夜分かであるが、最も夕方点灯のころに多きようである。とにかく、この不思議の起こったときは種々加持祈祷をなし、なんでもその呪咀する者に打ち勝つという勢いで、主人も工女も元気をつけて、切れた部分を結び合わせ、終わるやいなや、また切れることもある。まず、少なきは一回くらいでやむこともあるが、はなはだしきに至っては、一日に二、三回ないし四、五回ずつ、一週間くらいもやまぬことがある。このようのときに限って、一回に切れる糸数もまた多きようである。

 余も縮緬を営むものであるが、数年前およそ一週間ほど、この災いをこうむったことがあるが、あまり気持ちのよろしくないもので、当時、余は小学をおえたころであったが、物を呪咀してその効験があるなどいうことはあるべきはずでない、これは畢竟、学理的作用によって起こる現象であると主張し、種々思慮を尽くし、あるいは経糸を緩めておき、あるいは強く緊張しておいても、いずれも同じく切れる。また、一部分だけを緊張しておいても、その部分でなくして他の部分が切れる。なかんずく奇怪に思ったのは、余がその機のそばにおる間は切れずして、二、三歩その場を去るころに忽然と切れたのであった。そういうありさまであるから、いくら考えてもその原因を確かめることを得ない。そこで、ほとんど持て余した結果、姉とその機の織工(女)とが近村の稲荷おろしへ行き、いわゆる生霊を呼び出だしたところが、ある女が、余が家へ織工に雇われたいのを雇い入れなんだ怨みだといったので、姉と工女と両人にて争い負かしたとて帰ってきたが、不思議にもその翌日からやんだので、余が主張はついに打ち破られたけれども、これはやむ時機に投合したからであると弁解してひとり信ぜなかったが、今に同業者中、往々この災いにかかるものあることを耳にするけれども、いまだ学理的にその原因を究めた者がなく、やはり呪咀によるものと信じておるのであるけれども、一方また、その呪咀するものがいかなる方法をもってするやということは、さらに知る者がない。そこで種々憶説をなし、あるいは紙をもって経糸に擬し、怒気をみなぎらし夜叉のごときすごき化相となり、心魂を込めてかみそりをもってこれを断ち切るのだともいい、あるいは三世相などという本性の中の楊柳の本性に当たる者は、別段呪咀するというほどのことをなさずとも、いささか他に対して不平を抱くときは、ただちにこれが先の人に感じて、病気をするとかなんとかなる。ことに縮緬には非常に感じが強いから、ただちにその経糸が切れるのであるという。しかるに、経糸のみで緯糸の切れぬのがまた妙である。

ロンドンの幽霊

 過日の『報知新聞』に、左の怪談を載せたり。

 各国君主の崩御、その他重大の事柄には、必ずなんらかの神秘、なんらかの迷信ありて、とかくの噂に上るは世界を通じてのならいなるが、ここに不思議の物語というは、ロンドンなる宮城中にある、名さえ恐ろしき血染めの塔のことにて、この塔にスコットランドの女皇マリー陛下〔メアリ・ステュアート〕の亡霊現るるときは、必ず君主の崩御を見るべしとて、英国民はだれ知らぬものなきほど、公然の秘密となりおれり。しかるに、去るクリスマス(昨年十二月二十五日)の日、いまだ黎明の明けやらぬころ、宮中衛戍の一士官が、宮中の非常をいましめつつ巡邏して血染めの塔近くに進みしに、ゆくりなくもマリー女皇の亡霊が、足音を響かし悲しき声を出しながら、塔の絶頂に現れたるを見しかど、はじめはなにものかの悪戯ならんと思いしが、現れては消え消えては現るること三度に及びたれば、世の口碑を思い起こし、近々皇室に大事あるにあらずやと、その旨長官に訴えおきしに、そのこと讖をなして、ヴィクトリア陛下には翌一月二十六日をもって、ついに崩御あらせたまえりこと、偶然とは申しながら、いと不思議のことならずや。このマリー女皇と申すは、一五八七年二月八日斬首せられたる方にて、はじめ一五六七年ボスウェルに婚し、のち離婚となりてロード・ダーンリに再婚せしが、ダーンリは前夫ボスウェルの怨みの刃に斃れ、それより一カ月後女皇は捕らわれて、その皇子に位を譲るべしと挑まれしも、ついにスコットランドに逃れしが、英国のエリザベス女皇はただちに女皇をカークスルに幽閉し、それよりついに斬首台に上らしたるが、そのとき女皇は、第一撃にて少し傷つけられたるも、泰然として一語をも出ださず、またおそるる色をも表さず、第三撃にてようやく絶命したりとぞ。エリザベス女皇は、女皇の死後間もなく大病にかかりて崩御ありしが、これより以来、マリー女皇の幽霊、血染めの塔上に現るるごとに、英国君主の崩御を見ざることなかりしとぞ。

誤怪の一例

 会員高橋平治氏より、誤怪の一例として、左の実験談を寄せられたり。

 去る明治二十五年十月ごろなるが、私方にて同村なる某家へ差し置き難き用向きのため、日暮れごろなりしもその家に行き、用を果たして帰りけるが、内に乳児のあることなればとて(主婦でありました)、急ぎ足にて案内知れる近道なる畑道をぞ来たりける。折しも日はすでに西山に落ちて四面薄暗く、ことに小雨の降りければ、ひとしおものすごく覚えけるが、わが家より某家までは道程も遠からず、この畑道の間には別段さびしき所もなけれども、ただ、日蓮宗の宝塔塚およびその近傍に当たり、「ばんげ」の地蔵と通称する所ありき。そのころにて、ここに幽霊が出ずるとか青火がもゆるなどと言い合えりけるが、しかるに二、三町行きしと思うころ、二、三間ほどの前面に当たりて、人の形のごとく六、七尺もあらんと思うほどのものが、長き髪を垂れ、中段以下はおぼろにて分明ならざりしも、少しずつ動きおるがごとくに見えければ、思わずハッと驚き、二、三歩引き去りしまま見向きもやらず身震いして引き返し、さきに行きし家に行き右の由を語りければ、先方にもいと不思議に思い、「しからば、その宅まで送り行かん」と言われしも、これを辞して提灯を借り、本道を回りて帰宅し、右の次第を語りつつ、翌朝さらに該所に至り見しも、さる物とては見当たらざりしが、その場と思う所より四、五間ほどへだたりたる所の木の枝にて、千葉(大根の菜)の二、三連かかりありけるを認めたりと。これ、日ごろ聞き覚えたる怪談のことなどを思い出でて、ものすごく思いし折なるに、かかる物の目に触れければ、恐怖の情一時に激発して、かかる幻覚を起こししなるべし。余輩愚俗の妖怪とするは、おおかたこの類ならんか。

狸の腹鼓

 摂州武庫郡今津村は古来銘酒の産地なるが、同村中の町辺りにときどき、得も言われぬ美妙の音聞こゆることあり。土地の人はこれを狸の腹鼓という。秋より冬へかけて、月のいとよく冴えたる夜の十二時より二時へかけて、夜色沈々たるときに限る。人、その音の出所を探索すれども、さらにこれを突き止めたるものなく、東かと思えば西に響き、北かと思えば南に聞こえ、ついに聞こえずなるを常とすという。東京にては番町の大鼓とか申すもの、これに同じ。夜中一、二時ごろ、番町辺りの方角にて、大鼓のようなる音が聞こゆという。これ、おそらくは誤怪ならん。

人面の火

 明治の初年、淀川の堤に夜々あらわれし火の玉あり。その中に婦人の面ありありと見え、道行く人を驚かしたること往々ありたり。これは八幡の里の百姓の娘が、身貧にして家にともす灯火の油だになければ、男山八幡宮の石灯篭の油を盗みしこと露見し、面目なさのあまり淀川に入水したる、その妄念のなすところなりと伝う。その他、地方にて怪火を見るとき、その中に鼻目の存するを見たりとは、往々唱うるところなれども、これみな、幻覚より生じたるに相違なかるべし。

第二十三号(明治三十四年三月十日発行)

妖怪研究会報告

 従来掲載しきたれる「妖怪学講義」は、当月中にひとまず完結するはずなりしが、紙数の都合にてさらに一カ月間延期することに相成り、四月二十五日、本誌第二十六号をもって各部の講義ことごとくみな結了すべし。よって、来月分会費金三十五銭、至急寄送あらんことを望む。

 会長は本月二十日、三重県志摩郡、度会郡、北牟婁郡、多気郡、巡回ずみのうえ帰京し、さらに四月初めより五月初めまでの間、越後国頚城三郡を巡回せらるるはずにつき、あらかじめその地方の会員諸君に告知す。

 妖怪事実報道せられし諸君の姓名は次号に譲る。

論  説

妖怪学の本尊説 井上円了述  

 妖怪学と宗教との関係はすでに論明しおきたれば、ここにこれを略し、妖怪学にてはなにを本尊と立つるやにつきて一言せんと欲す。その本尊は、妖怪学の目的を明らかにすれば、おのずから知ることを得べし。しかして、その目的は仮怪の迷雲を開きて真怪の明月をあらわすにあれば、真怪そのものはまさしく妖怪学の本尊なり。これ、ひとり妖怪学の本尊たるのみならず、仏教にても、ヤソ教にても、儒教にても、神道にても、みなこれを本尊とするなり。かの哲学者スペンサー氏のいわゆる不可知的も、この真怪に与えし名称にほかならず、老子の無名も、数論の自性も、この真怪を指していうのみ。けだし、その真怪たるや、定まりたる形状なく、定まりたる位地なく、制限なく分量なく、いわゆる無限無量にして、時間を極めて際涯なく、空間を窮めて限界なきものなり。ゆえに、これを絶対不可思議の体となす。これを不可思議とするも、その体全然、吾人の知識、思量のほかにあるにあらず。吾人の言思は、たといその全体を描きあらわすことあたわざるも、その一斑を開示することを得。ゆえにまた、これを相対可知的の体となす。もし、この前後の思想を総合していうときは、絶対にしてかつ相対なり、不可知的にしてかつ可知的なり。換言すれば、真怪そのものは一体両面の関係を具し、相絶両対すなわち一なるものなり。この道理は、到底一朝一夕のよく尽くすところにあらず。要するに、妖怪学の本尊たる真怪は諸教、諸学の本尊にして、仏教信徒もヤソ教信徒も儒者も神官も、ともに崇拝して不可なかるべし。ゆえに、余はこれを諸教、諸学に通ぜしめんと欲し、「真」の一字をもってその体を表出す。

★(真を○で囲んだもの) この「真」の字は、妖怪学にありては真怪を意味し、仏教にありては真如を意味し、ヤソ教にありては真神を意味し、儒教にありては真道を意味し、神道にありては真霊を意味し、老荘にありては真人を意味し、諸学にありては真理を意味し、あるいは真心、真体、真宗、真教等と解するも随意なり。ゆえに、この「真」の一字は諸学、諸教の本尊なること明らかなり。

雑  録

妖怪窟雑話(第二十三回)不思議庵主人  

 ある人曰く、「言語に一種の妖怪あることは、すでにその例を聞くことを得たるが、いまだ議論に一種の妖怪あるは、その例を聞きませぬ」主人答えて曰く、「言語にも議論にもおのおの妖怪ありて、世間一切の事物に妖怪あらざるものはない。すでに事物に常態があれば必ず変態がある、その変態はすなわち妖怪である。今、議論の妖怪を挙ぐれば、非論理的の議論はみな妖怪である、似てしかして非なるものはみな妖怪である。これを論怪と申して、さきにすでに講述したれども、今もし俗間の話につきてその例を示さば、ある人一身の幸福を祈らんと欲して、己の最も好める酒を一カ月間たたんことを誓いました。すでに誓いて再び考うるに、毎日一滴も飲まずにおることはとてもできぬと思い、さらに誓いを立てて申すには、『一カ月間毎日禁酒するを改めて、二カ月間半日ずつ禁酒することにいたしたし』と願いました。これ、道理上差し支えなき理である。しかるに、半日の禁酒も守ることができずして、さらに願い直して申すには、『最初、終日禁酒して一カ月間のきまりのところを、半日ずつ二カ月間に願いおきたれども、さらに二カ月を倍して四カ月にするから、終日酒の飲めるようにいたしたし』と。その理由は、一カ月を延ばして二カ月にすれば、半日だけ酒を飲みて差し支えないなら、さらに二カ月を延ばして四カ月にすれば、終日飲みても差し支えなきはずなりとの論理なれども、その非論理なることは、小学児童といえどもよく知るところである。また、ある甲太郎と申す者の妻が夫に向かい、『妾と貴方とは兄弟なるに相違ない。なぜなれば、妾と乙次郎とは兄弟である、貴方と乙次郎とは同じく兄弟である。さすれば、妾と貴方とは兄弟である』と。これも一理あるようなれども非論理である。世の中にはかかる非論理的議論がたくさんあるが、これらはいずれも妖怪学の方より見れば、論怪と称して妖怪の一種であります。よって、妖怪退治には、かかる論怪までも退治せねばならぬ。もし、これを退治し去らば、法廷の厄介物も日に増し少なくなり、判事や弁護士などの飯の種がなくなるのは少々気の毒なれども、それだけは覚悟してもらわなければなりませぬ」

雑  報

霊汗地蔵

 志州波切村に、霊汗地蔵と名づくる石地蔵あり。村内に変事ある場合には、必ず全身に発汗してこれを予告すると伝えり。石地蔵は死物なり、発汗する道理なし。しかるに、かくのごとく一般に伝うるは、必ず空気中の温度の急変によりて、水蒸気がその体に触れて凝結する故ならん。あたかも、水差しの外面に水蒸気の凝結すると同一理なり。

妖怪巻物

 志州立神村に、古びたる巻物を所持せるものあり。その年代をつまびらかにせざれども、ある農家に数代前より伝来し、「これをひもとかば家内に不幸、災難あるべし」とのいい伝えあるゆえ、だれも恐れて触るるものなし。しかるに、井上会長の志州を巡回せらるるを聞き、その巻物をひもときて鑑定を請わんとて、巡回先へ持ちきたれり。会長これを一見せらるるに、真言宗事相に属する呪文を記したる巻物なり。よって、持ち主に返して曰く、「これをひもとくも、なんらの害も祟もあるべき理なし。ただし、神棚か仏壇の中に置きて、大切に保存すれば可なり」と。

妖   婦

 去るころの『中央新聞』には、「北海道某炭山に一妖婦あり。年五十三、これと婚する者は必ず死し、もしくは不治の難治症にかかると。現に今日まで死せし者九名、難治症中の者十余名あり」と記せり。これを名づけて妖婦となすも、これ果たして妖怪の一種なるやいなやを知るべからず。もし、これを妖怪とすれば、医学部門に入るるべきか。

禿 頭 病

 妖怪中に髪切り病と名づくるものあり。一夜のうちに頭髪ことごとく、かみそりをもって切りたるがごときありさまを呈す。これを一種の病態に帰するも、いまだその真否を決すべからず。近ごろ禿頭病諸方に流行し、一夜のうちに禿頭に変ずるものありという。これ、髪切り病と別種なるも、妖怪の一種に加えて可ならん。すなわち医学的妖怪なり。

怪 行 者

 会員伊東祐三氏より、友人某の直話なりとて、左の報告を寄せられたり。

 かつて大阪口縄坂において、真言秘密の法をもって、いくたの善男善女を迷わせし怪行者演口熊嶽は、ますます害毒をわが三丹地方に及ぼし、客月来、舞鶴を経て宮津に来たり。二名の随行者を従え、旅館荒木の別荘へ投宿し、真言宗の寺院なる同地如願寺を借り入れ、毎朝羽織袴を着用し、寺院に至り僧衣に改め、「いかなる難病にてもたちどころに治癒保証する」などと、おおげさに言い散ぜしかば、日々早天より市中はいうに及ばず、近村近在より出かくる者引きも切れず。毎日二百名を限り、一人二十銭以上との規定を設け、それ以外の者はむなしく翌日回しとなり、不平をいうやら御願いをするものやら、混雑いわん方なきにしろ、怪行者の常として、自分の手に合わぬものは道理をつけて体よく謝絶し、一向これという効験なきものから、早晩尻に帆をかけてほかに飛ぶやも知れずとの噂なりしが、果たせるかな、いずれよりか瞹昧なる電報に接し、ただちに雲か霞とにげ失せたり。しかして、その手術においては一つも取るところなきも、抜歯術およびほくろ、いぼ取りには、非常の妙を得。抜歯術のごときは、患歯に指頭を触るるやいなや、たちまちコロリと抜け出でて、出血はなはだしきときは、例の左の手の無名指を右手にて握り、口に怪文を唱え、右の指頭に触るれば、これまたたちまちやむ。また、ほくろを取るにも、同様はなはだ速やかにして驚くにほかなく、少しの痛みだに感ずるなしと。

 当中郡(丹後国)三重村字三重の住人にして、相当資産を有する糸井某の娘、面部半面は黒痣をもって覆わる。妙齢に至るも、いまだいずこへも嫁するあたわず。たまたま生き仏熊嶽の来たるを幸い、宮津へ出かけ、熊嶽の祈祷を受けしに、熊嶽曰く、「全治を保証す。しかして一週間の日数を要する」と。しかして二日目に至り、突然怪電一片、遁亡したり。また、いずこの若者なりしや聞きもらせしも、跛跋を引きながら、熊嶽の前にあらわる。熊嶽曰く、「本患を全治せしむるは容易なるも、世上の疑惑を醸すにより、医師と弁護士とを立合人として同伴せよ」と、巧みに遁辞を設け、一向取り合わざりしと。もって、秘密法のいかんを知るに足るべし。また、熊嶽は前手段をもって毎日巨額の金円をしぼり上げ、夜は同地遊郭新浜に至り、大散財をなすを例とせりという。

 かくのごとき怪行者の妖術をもって、愚民を誑惑するは大いに不可なりといえども、これに迷わさるるものもまた罪なしというべからず。もし、人知一般に進まば、怪行者もその術を施すところなかるべし。ゆえに、怪行者の生存し得る間は、人知の進まざるものとして、大いに普通教育を奨励せざるべからず。

夫婦の亡霊

 先年の『大阪毎日新聞』に、左の報道を掲載せり。

 今をさる七、八年前のことなりき。鳥取県伯耆国東伯郡赤崎村大字赤崎宿に、津村定吉という人あり。徴兵適齢にて大阪砲兵第四連隊に入営なしたるそのあとにて、父の吉三郎は漁師のことなれば、一日、例のとおり沖合遠く漁に出でたりしに、折あしくもその日は南の風はげしく吹き、山のようなる波立ちて、その船は覆えり、無惨にも吉三郎は溺死したり。その当夜は、定吉は守衛の番に当たり勤務中なりしが、真夜中ともおぼしきころ、練兵場の方よりとぼとぼと、こちらを指して歩みくる人あり。夜目ゆえ確かにはわからねども、どうやら親の吉三郎に相違なきようなり。今時分この辺りを親爺が通るはずなしとは思いながら、われを忘れて声をかけしに、その人は定吉の方を見るかと思えば、そのままかき消すように消え失せたれば、不思議のこともあるものよと思い、その翌日、友達などへも物語りて、不思議なりといい合える間もなく、父の吉三郎が溺死したるよしの報知ありしかば、さては親子の愛情に引かされて姿をあらわせしものならんと、聞く人語り伝えしとぞ。かくて、定吉は実母養育のため免役となり帰国を許されたるが、その帰村の当日の昼ごろ、津村の菩提寺海蔵寺の厨裏に、住職ならびに村内の者集まりて世間話をなしおりしに、吉三郎の妻来たれり。いつもならば、愛想よく住職などに挨拶をするはずなるに、この日に限りて物をもいわず、ただちに本堂に通り、声をあげて良人の名を呼び、泣き立てしと思う間もなく消え失せたり。これは不思議と思うところに村人駆けきたりて、「今、吉三郎の寡婦は、良人に後れて世をはかなみ、息子の顔を見るも情なしとて、雪隠にて首をくくりたり」という。さては、今のはその亡魂でありしかと、一同大いに驚くところへ定吉帰りきたりて、この話を聞きて大いに悲しみ、大阪にてありしことども語り出だして嘆きに嘆きを添え、あとねんごろに弔えり。

 これ、偶然の幻視なるかいなやは一大研究を要するところなるも、その前に、この一話が果たして事実を伝えたるものなるやいなや、審定するを要するなり。

第二十四号(明治三十四年三月二十五日発行)

妖怪研究会報告

 従来掲載しきたれる「妖怪学講義」は、当月中にひとまず完結するはずなりしが、紙数の都合にてさらに一カ月間延期することに相成り、四月二十五日、本誌第二十六号をもって、各部の講義ことごとくみな結了すべし。よって、来月分会費金三十五銭、至急寄送あらんことを望む。

 会長は本月二十日、三重県志摩郡、度会郡、北牟婁郡、多気郡、巡回ずみのうえ帰京し、さらに四月初めより五月初めまでの間、越後国頚城三郡を巡回せらるるはずにつき、あらかじめその地方の会員諸君に告知す。

 妖怪事実報道せられし諸君の姓名は次号に譲る。

論  説

哲学的守り札 井上円了述  

 前号に妖怪学の本尊説を掲げて、妖怪〔学〕の本尊は「真」の字にあることを示したるが、この「真」の字は宗教の何宗たるを問わず、学問の何学なるを問わず、一般に本尊として礼拝して差し支えなし。ゆえに、余はこの文字を特に印刷して会員諸氏にわかち、もって哲学的守り札と定めんと欲す。およそ守り札は、その物もとより神にもあらず仏にもあらざれば、これを礼拝崇敬するも、別になんらの効験、霊能あるべき理なし。ただその用は、一は安心、慰安のためなり、一は注意を呼び起こすためなり、一は信仰を固むるためなり、一は良心を想起せしむるためなり。例えば、子供に怪我よけの守り札を帯ばしむるは、一種の禁厭と同じく気休めに過ぎず。さなければ、子供をして怪我せざるよう注意を起こさしむるものなり。火難よけ、盗難よけ等の守り札を柱の上に張り付けおくも、右同断なり。中には天照皇大神の神符を神棚に納めて朝夕礼拝するがごときは、一は崇敬の意を表し、一は信仰の念を深くし、よってもって良心を喚起するに至るものなり。ゆえに、守り札必ずしも無用なるにあらずといえども、これによりて目前直接の霊験ありと思うは愚民の迷いなり。ただ、良心を集中するに多少の効験あるのみ。換言すれば、守り札は客観的の効験あるにあらずして、主観的の効験あるのみ。

 ゆえに、余は哲学的守り札を設けて、守り札の改良を計らんと欲す。この守り札は、「真」の字をもって宇宙の本体、万有の実体、精神の本性、真理の本源等を代表するものとし、これに対して一向専念に礼拝すれば、わが精神中に宇宙の大観を喚起し、心性の帰向を一にし、良心の集中を促し、たちまち「精神一到何事不<レ>成」(精神一到なにごとか成らざらん)の境遇に至らしむるを得べし。されば、朝夕その守り札を信念礼拝すれば、百魔ことごとく除くと解しても不可なかるべし。その百魔はわが心中の魔にして、心外の魔にあらず。ゆえに、これによりて火難、盗難、天災を免るること難しといえども、もし、わが精神一到して諸事に当たるを得ば、百難ことごとく排して、天災もいくぶんか減ずるを得べし。すなわち、人盛んなれば天に勝つの理により、礼拝の力よく天に勝つを得べし。かくのごとく解しきたらば、間接には外界の百魔もあとを絶つといいて可なり。これ、余がいわゆる守り札の効験なり。

雑  録

妖怪窟雑話(第二十四回)不思議庵主人  

 余、紀北巡回中、某医師の話を聞くに、そのことたるや、先年、京都の病院にて実験せし治療法なりとて、妖怪研究上、精神作用の人体に及ぼせる影響を知るに、最も必要なる実話なれば、ここに余は取り次ぎの労をとりて諸君に紹介いたします。先年、京都病院に入院中なる一婦人に、一種の精神病にかかりおるものが一人ありて、自ら申すには、「私の病気は腹中に一小怪物の住みおるより起こる。その場所も形も己にはよく知れておる」というから、当人にその形をえがかしめたるに、百足の形に似ておるゆえ、医師は工夫をめぐらし、この病を治するには、ぜひとも麻酔薬を用いて腹部を割き、体内より怪物を取り出だすよりほかなしとて、本人に相談したれば、当人が申すには、「麻酔薬を用いても苦しからざれば、早く手術を施してもらいたい」と。よって、医師は早速本人を麻酔せしめ、腹部に少々疵口を開き、包帯して実際手術を行いたるがごとくに装い、別に百足一匹を他より取りきたり、本人の醒覚したるときをまちてこれを示し、「腹内よりこの虫を取り出だせり」と告げたれば、本人も大いに安心し、その後全く快癒し、数日の間に退院したりとのことでありました。また今一例は、豆州巡回中に、ある医師の実験なりとて直接に聞きたる話は、狐憑きを治療したる一事である。このときは医師が、体内に狐のすむといえる場所へ、モルヒネ剤を混和して皮下注射法を行いたれば、全く快癒したりとのことでありました。これはみな、余がいわゆる心理的治療法の好適例である。もし、世間に右のごとき精神作用によりて病気の平癒したる実例あらば報道を願いたいから、ここにその一例として、右ようの話を述べた次第であります。

雑  報

亀山の怪石

 去月五日、勢州亀山町南崎五十番屋敷、医師佐藤純一郎氏邸内へ投石の怪事起これり。巡査出張のうえ数日間探偵したる結果、同家の下女おみつ(年十九)の所為なりしことを発見せり。地方にて往々投石の怪あるも、みな人為的なり。

猫の変化

 去るころの『都新聞』に、猫の変怪を掲載せり。

 麹町区下六番町四十五番地に、北川きよ(六十五)という老婆住めり。生来、猫が大好きとて、先年番で飼いしに子に子を産みて、今では七匹頭をそろえておるを、わが子といとしめば、近所にては流しもとの魚、油断ができぬを厄介にしていたるが、ここにおきよの実子に当たる熊野勝次郎というが相州片瀬にありて、これまで月々食料を仕送りいたるも、だんだん年寄りたる女親を一人で遠方におくは心もとなしとて、さきごろ迎えの者をよこし、同道にて片瀬へ来たれとのことに、倅の所へゆくはうれしけれど、長の歳月寵愛したる猫を振り捨つるも哀れなり。さりとて、片瀬へ連れていって、倅が面倒がりていかなる憂き目を見せんも知れず。ハテどうしたるものかと躊躇するを、迎えの者はさる思いやりもなく、いずれ猫はあとから取りにつかわしますゆえ、おまえさんだけぜひにおいでと荷物を片づけ、いよいよ片瀬へ引っ越してしまいたれば、近所では猫婆の立ち去りしを喜びおる間もなく、取り残されし猫どもは、翌日より薄暗いあき家の中に、七匹ながら目を光らせて歩き回るさまものすごきより、だれとてのぞき見る者もなかりしが、しばらくすると少しも物音のせぬようになりしより、さすが執念深き畜生どもも、あき家におりては食物もなきゆえ、おおかたいずこへか立ち去ったものであろうと、ある人が戸のすきまより様子をうかがえば、こはそもいかに、七匹の猫は同じ枕に饑死をしていたるより、早速、差配に知らせ死骸を片づけてしまうと、ここへ引っ越しきたれる者の夜隠になれば、風もなきに引き窓のおのずとあきて、ハテ不思議やと目をつければ、犬のようなる大猫のにらみつくる目つき恐ろしきより、さてはうえて死したる、かの七匹の猫どもの魂、この家を去らず、かくは障害をなすものならんと、借主はそこそこに他へ引っ越し、三日とそこに住む者のなければ、いつしか猫化け長屋の噂界隈に高く、だれもおじけを立てて寄りつかぬより、今もあき家のままにありという。

 世の化け物屋敷と称するもの、多くはこの類なり。夜中、猫の亡霊を見るがごときは、精神作用なること明らかなり。

座頭の社

 右の妖怪よりは少々こみ入りたる一怪事は、先年『大阪毎日新聞』に掲載ありし座頭社の縁起なり。

 松江藩の老職に乙部九郎兵衛とて、食禄四千五百石を領し、藩中にては最も名望ある門閥家ありしが、この人、別荘を島根郡赤崎という所に構え、四季折々、家族、親類などを連れて遊びに行くを常とすれば、番人、掃除人夫、仲間、下女等、四、五名は、絶えずその留守居をなしおれり。しかるに、この別荘に常に出入りする座頭あり。琵琶、三味線などを弾じて主人が宴酒の興をたすけ、さなきも軽口などいって留守居の人のつれづれを慰め、誠におもしろい座頭さんじゃと、家内中の人々にかわいがられおりしが、ある日のこと、例のとおり杖を力に別荘の門に入りしに、この山内にすむ狐が、なんとかしけん、門の内に寝込みいたる。盲目の身の、それとも知らず杖にてしたたかにその狐を突きしかば、狐は悲鳴の声とともに、いずこともなく逃げ去りたり。さては今のは狐であったか、思わぬ罪を作ったと心中大いに悔やみながら、いつものとおり勝手口より進み行きたり。ここに掃除番と園丁とが三、四人にて庭の掃除をしながら、なにごころなくふと前面を見れば、一匹の古狐、その辺りに散乱せる木の葉を取り集め、しきりに頭へ載せておるは、なにをするのかと怪しみながら、息を殺して見ておると、不思議や、見る間に右の狐は、常に当別荘へ出入りする座頭となり、なにくわぬ顔して勝手口へ入りし様子をとくと見届けて大いに驚き、さては常に来る座頭は全く狐の変化でありしか、憎き畜生の振る舞いかな、知らぬうちはぜひなけれど、今日確かに正体を見届けたれば、今に憂き目を見せてくれんと、ひそかになにか諜し合わせたるとは夢にも知らず、座頭はいつものとおり四方山のはなしをなし、もはやおいとま申さんと勝手口へ立ち出でしに、かくと見るより掃除番らは、互いに目くばせしてうなずき合い、「今日はちょうど庭掃除にて風呂を沸かしたれば、一風呂浴びて帰らっしゃい」と強いて止められて座頭は迷惑し、少し風邪の気味なればといろいろ辞退したれども、掃除番らは耳にもかけず、手取り足取り無理に衣服を脱がせしかば、座頭も今はぜひなしと思い、勧めらるるまにまに湯桶の中へはいると同時に、かねてたくらみしことなれば、ただちに上から蓋を覆い、大いなる石を重量に据え、下よりどんどん火をたき、「これほどに責めたることなれば、いかな畜生もたえるまじ」など語らいつつ、ここを先途と燃やし立てたり。座頭は不意に湯桶の中へ閉じこめられて蒸し立てらるることなれば、苦痛のうめきものすごく、悲鳴をあげて助けを呼ぶ声ものすごきばかりなりしが、ややしばらくあって悲鳴の声もしずまりたれば、もはやさしもの狐めも往生したであろうと、石をおろし蓋を取りのけ見れば、狐とは思いきや正真の座頭が、さながら茹蛸のごとくになりて死しいたれば、一同これはと仰天し、なすところを知らざりしも、このこと表沙汰になりては一大事なればと、ひそかにその死体を裏手の山へ埋めしその夜より、下手人は大熱を発して狂い回り、いずれもあさましき最期を遂げ、また、別荘へは毎夜座頭の幽霊あらわれて人を悩ますとの評判やかましきより、ついにこのこと表沙汰となり、皆無知らざることながら、乙部の主人は取り締まり不行き届きのかどにて、禁足を命ぜられたり。しかるに、これより座頭の怨念永く乙部の家に祟をなし、婚礼、年賀等の喜びごとあるときには、さも憐れなる声屋棟に聞こえ、死亡者あるいは家内に病人等あるときには、床下にはゲラゲラと笑う声聞こゆるなど、なにかにつけて不思議なることのしばしばあるより、後に別荘の山上、稲荷社の傍らに座頭社を設けてその霊を祭るという。

 もし、この記事をして事実ならしむればやや奇怪とすべきも、かかる言い伝え中には、偽怪、誤怪の加わること必ず多かるべし。ただ、今日その実否を審査する道なきを遺憾とす。

重量の感覚

 重量は最も感覚にて判定し難きものにて、精神の予想に従い、あるいは軽く、あるいは重きの異同を生ずるなり。その一例は、大和国大峰山の麓に洞川の弥勒堂あり。その境内に直径五寸ばかりの卵形の石ありて、これをなでさすりたる上にて持てば軽く上がり、打ちたたきてのち上げんとすれば、急に重くなりて容易にあがらずという。これ精神の影響にして、石そのものの重量かく異なるにはあらざるなり。

第二十五号(明治三十四年四月十日発行)

妖怪研究会広告

 本号には、会長地方旅行中につき、「論説」「雑録」の二欄を欠き、「雑報」の一欄のみを掲ぐ。「講義」は二十六号をもってひとまず完結することとなす。

 「講義」完結の上は、「妖怪百種」としてときどき小冊子を発行することとなす。その節は別に広告すべし。

 本会会員にして哲学館高等科講義録、尋常中学科講義録、漢学専修科講義録、漢学普通科講義録、仏教専修科講義録、同普通科講義録の中へ転修するものは、束脩を納むるを要せず(購読料は一種につき、いずれも一カ月三十五銭、三カ月一円、半年二円なり)。

 通読章は来月中に印刷に付し、六月中に郵便をもって配付すべし。

 会長は四月、五月の間は越後国頚城郡を巡回し、六月、七月、八月は越中国全郡を巡回せらるるはずなり。

   明治三十四年四月 東京市小石川原町 妖怪研究会  

雑  報

下野の怪談

 近刊の『下野新聞』に、茂木町の妖怪を紹介して曰く、

 狐狸か猿かの仕業なるべけれど、茂木タバコ専売所の付近に幽霊出ずとの噂起こりたるが、十日ほど以前、茂木町大字神井、浜野千代吉なるものが年始の回礼に出かけ、屠蘇や雑煮で腹詰め込み、小田原提灯に道を照らし、鼻歌まじりの千鳥足にて帰途につき、茂木専売支局を離るる七、八町の烏山街道に差しかかりしに、前方に当たりて朦朧と人影の見ゆるより、夜道にはよき道連れなりと早足にて追いつき、提灯の火に透かし見れば、こはいかに、頬肉落ちたる顔色憔悴の病人らしき、乳児を背負いたる婦人なりしかば、薄気味悪さも酒の勢いにて「今晩は」と声掛けしに、パッとかき消すごとく消えて失せしと物語りしがもとなり。その真偽のほどは知るべくもあらず。また、同町大字桧山の薬師堂は数百年を経し古刹なるが、さきごろより、夕刻に至れば天井裏より種々奇妙の声音を放ち、人々によりてその音が別々に聞こゆるとて騒ぎ出だしたるものあり。夜になれば女、子供はおじ恐れて一歩も戸外に出でざるが、貂か古狸の仕業ならんとの説、まことに近しというものあり。

 以上は心理的妖怪の幻視、幻聴ならん。

化け物話

 近刊の『青森新報』に、

 なんとやらいう土地の百姓家で、夜になると雪隠のそばへ妖怪が出ずる。もっとも姿は見えないが、ときどきギーギーという怪しい声が聞こえるので、家内中の恐怖はもちろん、近隣の者まで驚き怪しんで評判となったが、その原因がおかしい。糸車の古いのを、雪隠の天井へ投げ込んでおいたまま、久しくなって忘れていたのを、鼠めが車の輪へつかまって、南京鼠のように曲芸をやっておもしろがっていたのだ。その都度、油の切れた車がギーギーと音がするのを妖怪と思ったので、ずいぶんばかげたことだが、妖怪などというものは、みなこの類であろう。それから、も一つおかしかったのは、僕が幽霊の代理をつとめたことがある。十五、六年も昔の話であるが、ある寺にしばらくの間滞在していたとき、ある夜十二時過ぎ、よそから帰ってきた。和尚をたたき起こそうと思ったが、待てしばし、この夜ふけに気の毒だと思ったから、本堂の方へ回り、案内の分かっている所の戸締まりを外してやろうと思って、まず、按摩が水泳ぎをするような身振りで、縁側をはい上がり、ここだなと戸へ手をかけてガタガタやっていたところ、どうした拍子か縁を踏み外し、ガタガタドシンと素敵滅法な音をさせて、はいていた高足駄が脱げて戸へ当たる、身体はころころと庭へ転がり出す。その途端、広縁の角で腰骨を打って痛いことおびただしい。あまり外見のよいものでもないから声も出されず、そっと起き上がって手探りで下駄をたずね、一度で懲りたから仕方がない和尚をたたき起こせと、再び勝手もとへ回り、戸のすきまからのぞくと中は大騒ぎ。和尚は手槍を小脇にかい込んで、忍び足に本堂の方へ行く。後には比丘尼の梵妻が手燭を袖におおいながらついている。納所二人も尻はしょり、一人は麺棒、一人は鉄火箸を得物に代えて、威風凛々というありさま、隅々を見回ってから四人、額をあつめひそひそささやき合い、また立ち分かれて見回り歩く。その様子のあまりのおかしさに、咽喉元まで吹き出す笑いを奥歯でかみ殺して、おることおよそ三十分、僕は不思議そうな顔をして、「なにかあったのですか」とたずねると、和尚は眉をひそめて、「ナニ、別になんでもないが、三十分ばかり前に、本堂の方で非常な音がしたから、賊でもはいりはせんかと思って今見回ったが、なにも不思議はないようだ。しかし、あの音はなんであったろうか」というと、比丘尼や納所もよほど驚いたものと見えて、まだ戦競が止まらない。ここで、「その音の原因は僕だ」ともいいにくいから、それは不思議だなどとお茶を濁して寝てしまったが、あに図らんや、これがすなわち幽霊の代理をつとめたこととなったのであった、云云。

狐 狸 談

 さきごろの『読売新聞』の「茶話」欄に、某生の狐狸談見えたり。

 僕の郷里は信州の山中であるが、六、七十戸の小村で、狐狸の類は維新の初めごろまではずいぶん多くすんでいたものと見える。どうかすると、白昼見ることがあったそうである。この村に富士塚という塚があって、その中は穴洞で、狐がすんでいて毎年子を育てていたが、狐の祟が恐ろしさに、なにびともこの穴へ手出しするものがなかった。ところが、村に一人の小力士があって、あるときその力士の飼っている鶏の雛を、狐か狸かが来て残らず捕ってしまった。すると力士は、「必定、これは富士塚の狐めの仕業である」といって、その復讐に、かの穴へなんばんいぶしをかけた。ちょっと説明しておくが、なんばんいぶしというのは、唐辛〔子〕を穴の口でいぶすのである。そうすると、その煙が穴の中へ入って、狐はたまらず飛び出すという計略である。さて、力士は十分なんばんいぶしをかけておいて翌朝見ると、その結果か、一匹の子狐が穴の口の辺りに死んでいた。それから二、三日経つと、その力士が一種奇態な病気にかかった。それは、ただもうむやみに食った物を吐くので、いくら食っても、いくら飲んでも、すぐ吐いてしまう。医者が薬を飲ませてもすぐ吐く。こんなありさまで、ついにその力士は死ぬ。引き続き家族四人とも、同じ病気で死んだそうだ。ここに一つ不思議なのは、その家の親族または隣家の者が、看病やら葬式やらの手伝いにゆき、飲み食いすればすぐ吐く。飲み食いをしなければ、なんのさわりもない。その上ますます分からぬことは、湯でも汁でも、みな唐辛〔子〕を入れたように辛くなる。やむをえずすてて、井や川から改めてくんできても、煮たり沸かしたりすればたちまち辛くなる。なんでもこれは、この家の器物にある毒があって、みんなが中毒したのを、狐の祟のようにいったものらしい。僕の村では、狐がなんばんを入れたと信じておる。こんな次第で、この力士の家はわずか一、二カ月の間に、残らず死に絶えて絶家した。このはなしは、僕が幾度も父や隣家の老人などから聞かされたことで、その家屋は明治七、八年ごろまで住む人なくて、空き屋になっていた。

第二十六号(明治三十四年四月二十五日発行)

妖怪研究会広告

 本号には、会長地方旅行中につき、「論説」「雑録」の二欄を欠き、「雑報」の一欄のみを掲ぐ。「講義」は二十六号をもってひとまず完結することとなす。

 「講義」完結の上は、「妖怪百種」としてときどき小冊子を発行することとなす。その節は別に広告すべし。

 本会会員にして哲学館高等科講義録、尋常中学科講義録、漢学専修科講義録、漢学普通科講義録、仏教専修科講義録、同普通科講義録の中へ転修するものは、束脩を納むるを要せず(購読料は一種につき、いずれも一カ月三十五銭、三カ月一円、半年二円なり)。

 通読章は来月中に印刷に付し、六月中に郵便をもって配付すべし。

 会長は四月、五月の間は越後国頚城郡を巡回し、六月、七月、八月は越中国全郡を巡回せらるるはずなり。

   明治三十四年四月 東京市小石川原町 妖怪研究会  

雑  報

盗人をあらわす法

 会員熊本豊栄氏の報告中に、「盗人をあらわす秘法」と題して、左の方法を示されたり。

 その年の歳徳神へそなえたる昆布を黒焼きにして酒の中へ入れ、その酒を疑わしき人にのませみるべし。盗みたるもの、たちまち頬ふくれ痛むること妙なり。

 これ、盗人が己の良心に責められ、心理的作用によりて苦痛を感ずるものなり。

虫歯を止むる法

 会員耕納安太郎氏の報告に、

 歯痛のとき、歯の虫を取る法とて余が地方に行わるるものは、ごく小さき茶碗を赤く焼き、皿の中に入れ、その茶碗の中に種油を三滴ほど入れ、その油の中へ葱の種実を五十粒ないし百粒を入るるに、たちまちパチパチと音して白き煙のあがるを見る。その上に木椀を図のごとくおおわしめ、その椀の底に竹の管をつけて、葱の煙が管の中より立ちのぼるに、その煙を虫歯の痛む方の耳の中に入れしむ。かくして木椀を取り去るに、その椀の内面に、長さ二分くらいある白き小虫のごときもの付しあるを見る。これを歯の虫が耳より出ずるものとなして、歯痛たちまち止まるという。

 耕納氏の説には、その虫は葱の芽の飛び出だして付着したるものなりというも、これ多分、椀内にある塵埃の付着せしものならん。