5.解説:田村晃祐

P389

     解  説                田 村 晃 祐  

 本巻は井上円了の日本仏教関係の書を収載した。明治二五年五月発行の『真宗哲学序論』(以下『真宗』と略記)、同二六年六月の『禅宗哲学序論』(以下『禅宗』と略記)、同二八年三月の『日宗哲学序論』(以下『日宗』と略記、日宗とは日蓮宗)、および大正元年の『日本仏教』の四点である。

 このうち三宗についての書は、いずれも最初に井上円了の基本的な哲学観および仏教概要が叙述されて入門をなし、ついでそこに叙述された哲学・仏教論との関連において各宗の哲学が記述されていく。ただし『日宗』においてやや形を異にしているが、実質的にはあまり相違がない。そこで、今、簡単に目次を比較対照させてみたい。

    『真 宗』          『禅 宗』            『日 宗』

  第一段  端緒論       第一段   緒論          第一段  緒論

  第二段  哲学原理論     第二段   哲学総論       第二・  純正哲学門第一・

  第三段  仏教原理論     第三段   仏教総論        三段   第二

 第四・  真宗原理論第一・  第四段   禅宗総論       第四・  応用哲学門第一・

  五・六段 第二・第三     第五・六段 禅宗各論第一・第二   五・六段 第二・第三

  第七段  帰結論       第七段   帰結          第七段  結論

 前三点は書名にあるように各宗派ごとの思想的特徴を主として扱ったものであるのに対して、『日本仏教』は倶舎・法相・三論・天台・華厳・真言・禅宗・浄土宗・真宗・融通念仏宗・時宗・日蓮宗の各宗にわたる叙述を行っている。しかも、哲学門と宗教門を立てて、単に思想面だけでなく修行論に及び、更に世間道を含んでいるところに特徴がある。

 以上のような構成に応じて、以下、井上円了の基本的思想を叙述し、ついで各宗観の特徴を考察する、という順序で解説を進めていきたいと思う。

       一 井上円了の日本仏教諸宗観

         1 基本的思想

 井上円了の真理観の基本は仏教の用語を使っていえば「真如」にある。これを哲学総論(『禅宗』)で述べていく。したがって、これは、単に仏教の真理とするだけではなく、真理そのものと考えていくのである。

 『禅宗哲学』においては、宇宙を、われわれが「知ることのできるもの」と「知ることのできないもの」に分けて考える。知ることのできるものは現象の世界であり、これにはすでに知られているものと、まだ知られてはいないが知られ得るものとが含まれる。ところが「知ることのできないもの」とは、有限な人間の智慧では本質的に知ることのできない無限なるものであり、これは物や心の本体をなしていて、物でも心でもなく、本来人間の認識能力を超えたものであるから、名称も付され得ないものであろうが、無理して表現するとすれば、仏教でいう真如であり、儒教でいう「太極」であり、「理想」とも表現される。しかし、これは有限なるもの、知られるものを離れて別に無限なるものが存するのではない。有限を離れて無限が存するとすれば、有限なるものと相対することにおいて、それは有限に堕してしまうであろう。

 無限なるものは、あらゆる有限なるものと一体であり、すべての有限なるものは裏に無限を含んでおり、有限なるものすなわち知られるものと、無限なるものすなわち知られ得ないものとは実は一体のものなのである。そこであらゆる現象、物心はそのまま無限なのである。心についていえば、心象(心の動き)は有限であるが、心体(心の本体)は無限なのであり、心を離れて物はない、という。こうして、すべてのものは、無限なる真如のそれぞれの形でのあらわれなのである。

 このような真如の存在の証明として井上円了は三種の方法を採用する(『日宗』第九節)。消極的証明法二種と積極的証明法一種である。

 消極的証明法は形式的(演繹的)証明法と事実的証明法である。

 第一の消極的形式的証明法とは、一方に万有実有論あり他方に皆空論あれば、その中間に非有非空の体を説かざるを得ない。これはヘーゲルの三断論法(弁証法)であり、仏教の四句百非の論理形式上帰結されるべきもので、これが真如の体である、というものである。

 第二の消極的事実的証明法とは、万象の実体論を転換して唯心論とするとき、外界の事物は虚無となり、事実として存立する理由を証明することができなくなる。そこで、唯心の上に、物と心の本体たる真如を説かざるを得ない、というのである。これは、論理形式または事実上から真如の存在を想定するにとどまり、積極的にその存在を主張するものではない、という。

 これに対して、積極的証明法とは、物も心も常に変化しながら、無限の過去から無限の未来へと永続していくのは、結局永遠なる本体が存するからであることは明らかである、というのである。これが小乗では法体恒有説をとなえ、大乗では心体不滅論をとなえる根源である、と考えるのである。

 それでは、真如を体得した時、悟りが得られるというが、どうして「知ることのできないもの」を体得することができるか。井上円了がわざわざ『日本仏教』の中で引用・言及している『大乗起信論』によれば、心が働くというときは、この心はすでに妄念(迷いの心)なのである。心が働く、たとえば目で物を見る、というときは、見る働きと見られる物、すなわち主観と客観の対立の上で心が働くのである。主観と客観の分裂、これは、主観・客観を含んで、すべての本質となす絶対的な世界ではあり得ない。心が働くことのない世界、これは言葉で表現することもできない世界である。思慮を超え、言語を超えた世界、これは思惟を停止し、思惟を超えた世界に没入することによって体得される世界である。哲学の分野では有限に対して無限を絶対者と考える。しかし、宗教の世界に入ると、この絶対的な世界に実際に生きることができる。これが妄念を超えた世界、すなわち悟りの世界なのである。井上円了が『日本仏教』に引く禅の表現によれば、「不思量底を思量す。不思量底の思量いかんというに非思量なり」ということであり、「一切の心思識量を超過し、悪と思わず善を考えず、迷悟生死の念を脱却し、安住不動の境地に住し、一切の言論思慮を絶したる境界に至るをいう」と述べている。このような境界は、あらゆるものの根底をなしているので、すべての本性は「自性清浄」というのである。

 『真宗哲学』には、これとやや趣を異にして、哲学上の大難問として、理論と実際・主観と客観・思想と感覚・有形と無形・本体と現象・絶対と相対・可知と不可知・有限と無限・単一と雑多・平等と差別と相反することをあげ、この相反することが諸種の哲学説を生み出す根源であると考え、そこでこの相反するものの一致統合を図ることが古今の論題であるとし、その解決を、真如に帰している。真如は、絶対でありながらそのまま相対的な現象と一体なのである。相対を否定して絶対、あるいは絶対を否定して相対なのではなく、相対のままで絶対であり、絶対のままで相対なのであり、両者は一体なのである。これを井上円了は「二様併存、一体両面の真理」と名付けている。

 これを証明するのに、帰納的方法と演繹的方法との二つを用いている。哲学原理論第八節に述べているとおりである。

 『日宗哲学』においても、物と心の一体なることを説き、その基礎に平等無差別の本体を認め、この三つを三大界と称し、真如と仏・心の同体平等なることを説いている。

         2 真実の仏教の基準

 哲学の原理を真如に基づき、二様併存の原理におくとき、二様併存のまま一体である関係を示して中道と呼んでいる。

 相対と絶対という言葉によっていえば、相対は絶対と同一であり、したがって、絶対と相対との中道でありながら相対であり、絶対は、相対と同一であり、したがってその中道でありながら絶対である。いいかえれば、絶対と相対と中道とは、一応は三つに分けて説明されながら、実は一体のものであり、三でありながら一、一でありながら三である、という関係に立っている。

 このことを天台宗では円融三諦と呼んでいる。三諦とは三つの真理という意味で、空・仮・中の三諦をいう。すべてのものは空(くう、無)である。これは大乗仏教を通ずる原理であり、あらゆるものに永遠不変なる実体はない。この空は、言葉を換えていえば真如とも法性とも法身とも表現される。井上円了のいう不可知なる絶対である。ところが、空であることではすべては同一の本質を持つけれども、同時に空でありながら、個々の現象として存在している。人間も山川草木も、すべてが空でありながら、一人一人別な人間として存在し、一木一草それぞれが異なったものとして存在している。このような一つ一つの相違ある現象として存する面を仮(け)と呼んでいる。仮とはいいかえれば有(う、存在)である。空とは無である。こうして、すべては無でありながら有であり、有でありながら無であるという、いわば矛盾する両面を同時に具えている点を「中」というが、有といっても空と中と一体のものであり、無といっても有と中と一体のものである点をさして円融三諦と呼んでいる。円融とは、この空・仮・中の三諦が完全に(円)融け合って一体となっていることを指し、このようにすべてのものをみていくことが、天台の立場からすれば、あらゆるものの真実の姿(諸法実相)をとらえることにほかならない。

 井上円了は、哲学原理論のつぎに仏教原理論(総論)を立て、『真宗哲学』でも『禅宗哲学』でも中道を強調する。天台宗の直系の思想をもつ『日宗哲学』はいうまでもない(第一二・一三節)。

 以上のような観点から仏教をみるときは、仏教の中でも、二様併存、一体両面の真理に立つ仏教は真実なる仏教といい得るのに対し、この立場に及んでいない仏教はいまだ真実の仏教とはいわれない。

 『日本仏教』では仏教の全体を

  日本仏教 出世間道 理論宗 哲学門 小乗

                    大乗 権大乗

                       実大乗

                宗教門 小乗

                    大乗 権大乗

                       実大乗

            実際宗

       世間道

と分類している。

 第一段の出世間道と世間道の分類については、出世間道とは「人間界より進みて向上する道」すなわち悟りに向かう宗教的側面をいい、世間道とはわれわれが「この世界に生存する間に自他のために尽くすべき種々の心得を説く」もので、仏教の倫理的側面を意味する。

 出世間道を理論宗と実際宗に分けるのは、仏教であれば哲学(理論)と宗教(実践)の両面をもっているが、理論的方面に重きを置いているものと、宗教の実際を主とする宗旨に分け、奈良・平安時代の仏教を理論宗、鎌倉時代の仏教を実際宗と分ける(第七節)。更に理論宗を哲学門・宗教門に分けるが、そのおのおのの中に小乗と権大乗・実大乗とに分ける。そして実際宗も実大乗に入れるので(第六九節)、仏教は小乗と権大乗と実大乗の三つに分けられることになる。

 小乗は、「大体において物心二元論にして……客観的二元論なれども、その中におのずから主観論の意を漏らし、主観的二元論の趣向を有」(第九節)するもので、真如による一元論の井上円了の真理観にそぐわない。

 権大乗とは、かりの大乗の意味で、奈良時代仏教諸宗の中で最も栄えた法相宗が該当する。権大乗は相対的唯心論で、あらゆる現象はわれわれの心より開顕されたものの意味で唯心論に属するけれども、真如と現象との関係について、「真如は常住実在せるのみにて自ら世界を開現するにあらずという。これを真如は凝然として諸法を作らず」といっている(三一節)と述べる。すなわち真如と現象の間にまだ間隔を置き、現象は真如から展開されるものでなくて、阿頼耶識という最も根底的な意識より展開されたとみる点に、まだ井上円了の真理観に合一していない点があり、真実なる大乗と認められない理由がある。

 飛鳥時代に導入された三論宗も、空という一方面だけを強調して、有の面を説かないので権大乗の中へ入れられるけれども、真如縁起の説を立てているので、権大乗でありながら、実大乗への端を開いたものとされている(第三七節)。

 さて、こうして最後の、井上円了が真実の大乗仏教であるとする実大乗とは、真如と諸法(現象)との一体を説くもので、実際の宗派としては、奈良仏教の中の華厳宗、平安仏教の天台・真言両宗、そして実際宗として、禅に属する臨済宗・曹洞宗・黄檗宗、浄土教に属する浄土宗・真宗・融通念仏宗・時宗、および日蓮宗が含まれる。

         3 実大乗の理論宗

 実大乗として『日本仏教』が最初にとりあげるのは天台宗である(第三八節・第四三節、第六五節)。

 天台宗では、小乗から実大乗、中でも天台宗がよりどころにする『法華経』に至る、あらゆる仏教の中の教説を、釈尊の説法の五つの時期(五時教判)に当てはめて、それぞれの教説のもつ意味を考える。最後の第五時、すなわち釈尊が悟りを得てから(天台では三〇歳のときと考える)四十余年たって、それまでは聴衆を教育するために、第二・三・四期と徐々に高い教を説いてきたが、その段階をふむことによって聴衆の仏教への理解力が高められてきた結果、最後に真実の教を説いても聴衆に理解されるであろうという段階に達して説かれた真実の法が『法華経』であり、『華厳経』と同じく「三界一心、真如縁起、有空中道の理を説いた」ものとし、しかも、「諸教を網羅し融合したる……絶対的円教」である、としている(第四〇節)。真如は、万法と開顕すべき理を真如自身の中に具している。『大乗起信論』では真如を水にたとえ、無明を風にたとえ、水に風が吹きつけるとき、生滅する現象である波が生ずる、と考える真如縁起説を展開しているが、真如以外の風によって真如が現象を展開するのであれば、真如自身が絶対ではあり得ない。そこで天台では相対的な現象を展開すべき道理自体を真如の中に具えている(本具)と考えるという。

 また一心三観という。一心の中に空・仮・中の三諦の理を観察していく実践法についても、凡夫と仏とは異なるものであるというとらわれた見解を払い去り、すべては空でありながら仮であり、空と仮は一体であるとみていくことにより、絶対の真如の徳が中諦においてあらわされる、とみていく。

 つぎに華厳宗についての井上円了の見解をみてみたい。

 真如縁起についての典型的な教説が『大乗起信論』に記されており、これは華厳宗で大きくとり上げられている。そこで井上円了はまず『起信論』の概要をのべた後、華厳宗の教理を述べ、「万法みな真如よりあらわれきたるを知り、一事一物と真如と融通自在なるを知れば、事々物々、法々塵々が互いに融通自在なるべき道理」(第四六節)と記す。華厳の教理(十玄縁起無礙法門)によれば、あらゆる現象のもつ力(作用)が互いに無限に重複しながら影響し合って、一つの現象の中に宇宙の一切のものの力が具えられ(相入)、そこで、本体について考えても、一つの現象をとればこれが有となり、宇宙の他のすべてのものは空となってその中に一体化せられ(相即)、こうして宇宙のすべてが互いに空・有となって一体となっていると説くが、これが実はあらゆる現象が真如のあらわれであり、真如と一体であることに由来することであると考え、こうして華厳の教理も真如に根拠付けていく。

 以上の諸宗が、真如と万法(現象)との一体であることを説きながらも真如を本とし、万法を末とするのに対し、逆に一体でありながら万法を本とするのが真言宗の教理である。物質(地・水・火・風・空)と精神(識)との六大より宇宙のすべては構成され、その全体がそのまま大日如来の法身であり、そこで国土も山川もすべては大日如来の法身であり、人間も、この身体のままで成仏すると説く。こうしてすべてはみな同一法身であることが説かれる。

 以上のようにして、井上円了が実大乗の中の理論宗であるとする諸宗は、すべて真如の上に成立する宗派であり、そこに井上円了の真実の大乗の意味をみていくのである。

 そればかりでなく、井上円了が実際宗とみていく鎌倉仏教宗派は、つぎに説くようにすべて真如の裏付けをもっている宗派であり、こうして真如の裏付けをもっている意味で、実大乗と呼ばれ、真実の仏教とみられているのである。

         4 真 宗

 『日本仏教』は実際宗を挙げるに当たって、禅・浄土・日蓮宗の順をとっているが、ここでは三宗の哲学の書の発刊の順序に従って、最初に浄土教についての井上円了の考えをみてみたい。この三書では、真如の裏付けをもっている点では平等でありながら、それぞれの宗のもつ特徴(相違)が検討される。

 浄土教とは、最も優れた仏である阿弥陀仏という、過去の誓願と修行の結果として得られた、智慧・慈悲の無量であり、また寿命の無量である仏の救いにまかせて、けがれたこの世からきよらかな浄土へ生まれることを願う宗派で、浄土宗と真宗は釈尊によって説かれた経典(浄土三部経)に基づく法門で、融通念仏宗は開祖自身が直接阿弥陀仏に遇って授かった法門であり、時宗は『阿弥陀経』と宗祖が熊野神社に感得した神勅とによる、という相違がある。その内容も浄土宗は称名念仏を往生の正因とするが、念仏以外の行を修めることをも許す。しかし真宗は称名念仏以外の行を許さず、安心(信心)を中心とする。融通念仏宗は、天台・華厳の教理を念仏に当てはめ、時宗は身も心も放下して、ただひたすら称名することを説くという相違がある。

 井上円了が真如説との関連で重視するのは、阿弥陀仏の性格にある。あらゆる仏は裏面においては真如と同体である限り平等なる仏であるが、その表面ではそれぞれの仏がそれぞれの因縁によって得られた仏であるので不同があり、そこで仏と仏とは平等でありながら相違があり、その相違の点に基づいて、阿弥陀仏を最も優れた仏といっているのである。あらゆる仏は相違がありながら、真如において平等なのである。

 浄土門の思想的特質を、井上円了は三点に分けて説明する。第一は差別論をとり、第二は情感により、第三は啓示を本とする、ということである(『真宗』第一六節)。以下、順次その内容を考察していこう。

 第一は、純正哲学の上からいうと、平等論をとらずして差別論をとる、ということになり、これが真宗哲学の最も根本的な立場である、ということになる。

 仏についていえば、数多い報身仏の中から阿弥陀仏という一仏への信仰により、浄土からいえば、それぞれの仏の世界がそれぞれ浄土であり、したがって無数の浄土の世界の存在が考えられている中で、極楽浄土という阿弥陀仏の世界への往生を求める、という点に差別の意味がある。

 阿弥陀仏は慈悲の仏であり、まだ仏にならないうちにたてた四十八の誓いは、すべて衆生救済の願いから出たものであって、衆生を救う手だてを完成することにおいて、悟りを得て阿弥陀仏となる根源があったのであり、第十八願においてただ阿弥陀仏を信じて念仏を唱える者は必ず浄土に往生させることが誓われている。(何故、念仏といって口で南無阿弥陀仏と唱えるというやさしい行によって浄土へ生まれることができるかについて、法然はつぎのようにいう。阿弥陀仏をまつる寺や塔を造った人や、優れた智慧や才能をもった人、仏教を多く学んだ人、戒律を厳重に守った人などが来世浄土へ生まれることができるという考え方もあるが、実際にはこれに反して、貧窮なる者、愚鈍なる者、少聞少見なる者、破戒無戒の者が人間の多数を占める。あらゆる人に対して平等な慈悲をもつ阿弥陀仏は、このような多数の人々をこそ救おうとするのであり、そのためにこのような人々のだれでもができる、口で念仏を唱える方法によって人を救うのであり、これは阿弥陀仏が選択した方法であるばかりでなく、釈尊も、十方の仏達もこの方法を選択してほめたたえ、これによるべきであるというのである。)

 こうして、多くの仏と浄土の中から阿弥陀仏とその浄土への念仏による往生という方法を選ぶ点は差別であるけれども、その裏面に平等をもつと井上円了はいう。これは阿弥陀仏の本質も、浄土の本質も実は法性であり、真如であり、阿弥陀仏と浄土は、法性より、人々を救済するための手段として展開された世界であり、したがって、その本質は、あらゆる仏に平等なる真如の世界であり、そこで浄土へ往生した人は、涅槃に入ることができるのである。

 こうして、井上円了は、天台と浄土教とを比較して、

  天台 理論・・平等論

     実際・・差別論

  浄土 理論・・差別論

     実際・・平等論

と、理論と実際とで逆の方向をとりながらも、平等と差別という二面をもって成立している点は同じであると考えるのである(第四段、第一八節・第二三節)。

 つぎに真宗の特徴の第二として、心理学上、智力によらずして情感による、とする。

 井上円了は智力と情感を対立させて考える。信にも真如は道理を極めていって、道理の面から生ずる智力による信と、仏の慈悲に信順して、仏の命にそのまましたがう、情感による信とを区別する。

 阿弥陀仏は慈悲の仏であるけれども、その本体は真如法性であり、仏道の究極的な真理を本体とするものであるので道理に基づく仏であるのであり、しかも衆生を救う仏として阿弥陀仏というすがたを表している。人間の信仰・依慿という情感をもって救済する仏である。したがって表に情感を示すが、真如に裏付けられ、裏面に智力を有する仏なのである。

 これを信ずる人間にしても、自己の無限の過去から、迷いの世界に輪廻を繰り返し、到底自己の力をもってしては悟りに至ることのできない自己の事実を見つめることによって、阿弥陀仏の救いによる以外に悟りに至る方法のないことを信じ、こうして仏の誓いを信じ、すべてを阿弥陀仏の誓いによるところ、仏の浄土への呼び声が自分の中に仏への信として生かされ、仏の催しによって念仏を唱えるのであり、信も行も仏の力による、という徹底した他力の信としてあらわれる。しかし、浄土往生とは、涅槃に至ることであり、道理に裏付けられた信なのである。こうして井上円了は聖道門(自分の力の修行により、この世で悟る仏教)と、浄土門(仏の力により浄土へ往生して涅槃を得る)とを比較し、

  聖道門 表面・・智力

      裏面・・情感

  浄土門 表面・・情感

      裏面・・智力

と、表裏の差はあるものの、本質的には表裏一体であって、浄土門と聖道門とはその本質を一にする、とみていくのである(第五段、第二四節・第二七節)。

 浄土門の第三の特徴として、井上円了は宗教学上、道理を本とせずして啓示を本とする、という点を挙げる。

 阿弥陀仏および浄土の存在は、われわれは道理をつきつめることによって直接知る、ということはできない。人智は有限であって絶対の本体を知ることはできない。それなのに仏と浄土を信ずるのは、釈尊が『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』などの経典において阿弥陀仏と浄土について説かれたからにほかならない。釈尊の説法に基づいて、インドの竜樹も天親も、中国の曇鸞・道綽・善導も、そして日本の源信も法然も、そして多くの浄土信仰者が阿弥陀仏を信じ、念仏を唱えて、煩悩を断たないままで涅槃を得ていくことができたのである。親鸞もまた、『涅槃経』に基づいて、信とは、法があると信ずると同時に、その法によって往生を遂げ、涅槃を得ていった人がいる、という二つの信によって信が完全なものになると説いている。こうして浄土の信仰の根本は釈尊の啓示に基づくものなのである。しかし、浄土教の裏には真如・道理があることはすでにみてきたとおりである。

 こうして、

  聖道門 表面・・道理

      裏面・・啓示

  浄土門 表面・・啓示

      裏面・・道理

となる。聖道門も、自らの修道により真理に体達していくものではあるが、その根源は釈尊の悟りに基づくものである以上、裏面には啓示を有するのである(第六段、第二八節・第三三節)。

 このようにみてくるとき、聖道門と浄土門とは表面と裏面を異にしながらも一体のものであり、両者とも真理であり、優劣を加えることはできない、と結論付ける。

         5 禅 宗

 井上円了は、日蓮宗・真宗・禅宗の特徴を考察して、それぞれ智・情・意に当たるとする。真宗が情感的宗教であることはすでに述べた。そして日蓮宗を含んで聖道門諸宗は智力的宗教であるとする(『禅宗』第一三節、第一五節)。哲学と宗教の相違は、哲学は単に知るだけであるが、宗教は真理に到達するにあり、智の無限力を養成して真如と合体することを求めるのが智力的宗教であり、日蓮宗は天台宗の真如万法同体論を受けながら即身成仏を説くので智力的宗教といわれる。

 それに対して禅宗は意志的宗教と規定されている。意志の自由なる力によって理想(真如)に到達するからであり、心理学上は意志の作用により、禅を通じて一人でただちに真如に到達するものとする。

 そこで、不立文字・教外別伝ということがいわれる。悟りそのものは思惟を超え、言葉を超えたものであり、したがって表現することのできないものである。そこで悟りの本質そのものは文字での表現を超えているので、言語で表現されている教学によって伝えられるものではなく、坐禅の中に、師の心から弟子の心へと伝えられるものである。これを「文字を立てず」といい、「教えの外に別に伝」わるものとする。師より弟子へと、以心伝心するものであり、このような師資の相承によって、釈尊以来脈々として伝えられてきたものが悟りであり、禅は釈尊以来の正伝の仏法なのである。

 更に、禅宗では「直指人心見性成仏」という。坐禅において、教えを超えて、直接人心の本質を徹見していくとき、真如も万法もすべて自己の心の中におさめられ、無限の悟りの本性を心にみて成仏するという。

 こうして、直接、自心の真如実相を悟っていく点に禅宗の特質がある。

 自心に仏をみていくとき、一切は仏の世界に転換され、山川草木すべて仏ならざるはない境地の中に住するのが坐禅なのである。これが道元の身心脱落の境地である。身体も心も脱落し去るとき、自己もなく、他人もなく、衆生もなく、仏もなく、あらゆる差別なき空々寂々の境地に住し、坐禅の修行がそのまま悟りであり、万法はそのまま空であり、空でありながら万法は万法として存する、一如の世界に住することができる。無差別中に差別を見、空中に有を存し、真如界中に万法を開く(第三二節)と述べているとおりであり、この悟りは世間的な生活の中に生かされ、法にかなった行動(威儀行相)を貴び、慈悲博愛の念をもって社会に対し、世間を利益して菩薩行を起こし、また懺悔滅罪の功徳を説く。そこで、表裏両面に智情兼備の宗教であると評せられる。

 こうして禅宗は不可思議の霊妙なる真如を意識の内外に感ずる。この点、智・情の上に感得する真宗や浄土宗、日蓮宗、聖道諸宗と相違しながら、また真如に到達する点において共通するものがある、とせられる。

  智 意識内 法相・天台・華厳・真言

    意識外 日蓮宗

  情 意識内 真宗

    意識外 浄土宗

  意 意識内 禅宗

    意識外 禅宗

 このような全体的には意の宗教である禅宗の特徴を、井上円了は智・情・意の三点において認めている。

  第一に、智の上では、高い識見を有し、細かなことに拘泥せず、釈迦なにびとぞ、という思想を有するに至る。

  第二に、情の上では、私欲の心を離れ、俗を超脱するの風あり、風流の趣向に富む。

  第三に、意の上では、胆力を練成し、心を不動の境地に修せしめることができる。

 この長所はまた同時に短所ともなり得る、と井上円了は述べている。

         6 日蓮宗

 鎌倉時代に成立した新しい宗派の開祖は、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といずれも若年の際、比叡山で学問修行した人達である。ただ一人、時宗の開祖一遍上人智真だけは、直接比叡山に入ったことはないと思われるが、しかし、若年の際に就いた師は浄土宗の聖達・華台という僧であり、したがって、鎌倉新仏教はすべて天台から出た、といえる。この点、鎌倉時代のもう一つの大きな仏教の思潮であった奈良時代の仏教諸宗派が真言宗と結びついて復興されたのと対照的である。

 こうした新宗派の中で、最も直接的に天台教学を受容し、天台教学の上に教学体系を樹立していったのが日蓮であり、その思想的特徴は、日本天台の開祖伝教大師最澄の思想を、より徹底させていったものとも評価されよう。

 そこで、井上円了は、『日宗哲学』において、種々の立場から天台と日蓮との対比を行いながら、日蓮宗の特質を説明している。以下、その対比に基づきながら井上円了の日蓮宗観をみていきたい。

 井上円了は日蓮宗を、天台と哲理の根源を同じくするが方向および応用を異にする、という。

  天台・・主観的・理論的・厭世的

  日蓮・・客観的・実際的・世間的

とする。

 その理論面では天台の五時八教判を受けつぎながら、『法華経』の前半迹門と後半本門との関係を考える点では、表裏その考えを異にし、天台が迹門(この世に生まれた釈尊の働きを示す法門)と、本門(釈尊の本地をなす久遠実成の仏についての法門)とが、結局は一つのものであることを示しながらも迹門を中心にするのに対し、日蓮宗は本門を中心とする。

 また、その応用面では日蓮宗は『法華経』の題目を唱えることによって愚者であっても容易に成仏できる道を開いており、天台が実践面で、自己の一瞬の迷った心の働きの中にも、宇宙のあらゆる法を具えている(一念三千)不思議の道理を観じていくのとは対照的な形をもっている(第二節・第四節)と述べる。

 日蓮宗は天台と同じく真如一元論をとり、真如平等の理の中に千差万別の現象を開展する理を具え、真如即現象の一元論の立場に立っている(第二段、第一二・一三節)。

 そこで、釈尊一代の間に説かれた法門には人々を真実の理法を了解するに至るまで教育する段階の教(方便・権)もあれば、聴衆の能力が真実の法を理解するに十分なまでに育てられたところで釈尊が説かれた真実の法である『法華経』・・円教もある。こうして、最高の教と、それを説く前の方便としての教を比較すれば、真実と方便、妙と麁の相違がある。このような見方に立って『法華経』を妙なる教、真実なる教であるとみる見方を相待妙(そうだいみょう)という。しかし、より真実に即してみれば、方便の教は真実の教のための方便であり、したがって方便は方便でありながら、実は真実のための教えであり、広い意味で真実なる教の中に包含せられて、真実なる教の中での方便という位置付けを与えられる。こうして方便も実は真実の一つの働きにほかならないとみる見方を「開権顕実」(かいごんけんじつ・・方便の教の真実の意味をあらわして、それが真実にほかならないとあらわすこと)という。こうして開権顕実された上は、すべては真実であり、真実は方便に対する真実(相待妙)ではなくなる。真実は対立を絶したもので、すべては真実ならざるはない。このような見方を絶待妙(ぜつだいみょう)という。天台は結局は絶待妙の立場であるから、すべては真実であり、一元論の上に立つのである。

 また、『法華経』の前半には、この世に生まれた釈尊の説法の本質が、すべてを平等に見、あるゆるものの成仏を説く一乗の教にあることをあらわしている。生物ばかりでなく、無生物も融合一体していて、生物・無生物とも真如そのものにほかならず、本来仏であるというのが天台の立場である。このような釈尊の本地は久遠実成の仏(永遠なる仏)であることが説かれるのが、『法華経』後半の本門といわれる部分である。本門と迹門との関係について、天台では、本門から迹門があらわれ、迹門によって本門があらわされて、本門と迹門とは別でありながらも一体であるといい、これを「不思議の一なり」と表現している。一つではあるけれども、迹門に重点が置かれる傾向があるのが天台教学である、という。

 真如と万法との関係についても、一体不二であり、そこで無生物も成仏し、この世がそのまま極楽浄土であることを説くけれども、天台宗では真如の理を本体とし、万法(事)をそのはたらき(用)とするのに対して、日蓮宗では現実をより重視し、逆に万法を本体とし、真如をその用とする、という。

 また、応用哲学すなわち実践面でも、日蓮宗は末法思想を採用し、教(釈尊一代の教)、機(教を受ける衆生の力・性質)、時(仏法を弘める時、現在は末法の時)、国(教を弘める国土)、教法流布の前後(教の弘まる順序)という五項目の観点からして、日本の現在は『法華経』の弘まるべき時に当たる、という。

 そして、南無妙法蓮華経と題目を唱える時、題目の五字はそのまま久遠実成の本尊であり(本門本尊)、この題目を唱えることが仏の真実な智慧をあらわし(本門題目)、題目を受けたもつことがそのまま妙法に帰依し、本門の戒法を成就(本門戒壇)することとなり、この題目に三大秘法の功徳が具えられ、唱題するところ、心は妙法であり、身は永遠なる仏であり、住所は常寂光土である、と念じて成仏することができる、という(第五段)。

 このような教理は、現在を重視し、国を平和にし、仏の国と化し、真如一元たるところ男女平等であり(第六段)一切は成仏できる、という。

 こうして、天台との関係をまとめて

  天台 表・・迹門   体・理

     裏・・本門   用・事

  日蓮 表・・本門   体・事

     裏・・迹門   理・用

という関係がみられ、天台の高妙なる哲理を実際に応用して単純で修しやすい宗教を開き、本門の仏をたてて偶像教の風を除き、厭世の風を除いて楽天的な道をたてた、と井上円了は評している。

       二 井上円了の日本仏教観の特色

 以上のようにみてくるとき、井上円了の日本仏教観にはいくつかの大きな特色があることに気付かされる。

 第一。単に仏教ばかりでなく、また西洋の哲学・東洋の哲学という枠組みを超えて、真理そのものの考察を行い、これを理想・真如・太極という東西にまたがる言葉で表現し、この表現観に基づいて仏教諸宗の内容の検討を行っていること。

 第二。したがって、真如説を採用するあらゆる宗派を実大乗として真理性を認め、実大乗を平等に扱っていること。

 ちなみに、特に中国・日本の仏教教理の中には教判論という一部門が設けられ、仏教諸宗の位置付け意義付けを行っている。たとえば天台宗でいえば五時教判で釈尊の一生にわたる説法の時期とそれぞれの時期の説法の意味付けを行って、結局『法華経』で真実の仏教が説かれたとし、また別の観点から、仏教教学の内容を四種類に分けて、『法華経』・天台教学を最高のものとする。またたとえば日本で造られた教判でも、空海の十住心の教判では、真言密教を最高の第一〇の住心としている。このように、自己の宗派を仏教の中でも最高のものと位置付ける。

 これに対して井上円了は実大乗の諸宗すべてに真理性を認め、その間に上下の差別を設けない、という学問的・客観的立場に立っている。

 第三に、そこで実大乗諸宗に真理性を認める結果、それぞれの宗派の特徴を他宗と比較する際、表面と裏面という範疇を用いている。表裏という見方は、その間に価値の上下を認めない。しかも表裏の関係を異にする、ということで、表裏合わせて考えるときは、比較されている二宗は結局同一のものと考えられている。ここに井上円了の真理観に基づく諸宗観の特徴がある。

 第四に、説明に用いる言葉は、従来からの仏教の専門用語に限らず、新しく哲学用語として用いられる西洋哲学風の言葉を多用することによって、内容をできるだけ容易に読者に分からせようとする努力を行っている。そして叙述されている仏教思想への理解は、厳密な言葉の用い方からすれば全く難点がないではないかもしれないが、よく伝統的な仏教思想を広くよく咀嚼している面が認められる。

 井上円了は従来は仏教内部において優劣をきそってきたが、「異教他学の人」に対しては、仏教の真理性をその哲学性に求めざるを得ないことを強調しており(『日宗』第二節)、井上円了の学問的遍歴と時代認識の結果が、その仏教真理観と独特の諸宗観を形成せしめる原動力であったことが理解されよう。このような思想的特色をみてくるとき、井上円了は東本願寺(真宗大谷派)からの留学生として東京大学で哲学を学びながら、卒業後大谷派へ戻ることを求められたとき、日本仏教全体のために尽くすことを理由にこれに応じなかったことの原因が、井上円了の思想自体のあり方にあったことが観取されると思われる。

 また、その研究の学問的であり全体的、統一的な性格をもつことは、村上専精の『仏教統一論』(明治三四年)や斎藤唯信の『仏教学概論』(明治四〇年)にさきだつ井上円了の『真宗哲学序論』(明治二五年)にすでにあらわれているのであり、明治維新後の近代日本における、新しい学問としての仏教研究の地平を開く努力の大きな一つのあらわれとして再評価し、近代仏教学研究史の中に位置付けていく試みがなされなければならないものと思われる。