5.哲学新案

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哲学新案

     自  序

 わが国ひとたび国禁を解き、泰西の文物を輸入せし以来、ここにすでに四十余回の春秋を送り、国運は駸々として世界を風靡し、東洋を圧倒するの勢いなるも、わが哲学界の現状は、今なお西人の驥尾に付し、欧米の糟粕を甘んじ、翻訳受け売りこれ務め、ほとんど未だ一家独立の学説あるを見ざる状態なり。なんぞ意気地なきのはなはだしきや。余不肖かつ浅学といえども、心ひそかに憤慨するところありて、二十年前より独立の見地に立ちて、西人未到の学域に先鞭をつけんと欲し、多年研鑽の末、ようやく一新案を考定するに至れり。すなわち本書所説の輪化説、因心説、相含説等なり。これ西人未発の新見なりと自ら信ずるところなり。そのうち輪化説の一端は、先年『破唯物論』(明治三十一年二月出版)中に開陳したりき。そののち更に精究熟思を凝らして今日に至るも、自信の確固として動かざるを見、今回はからずもその大要を世間に公表するに至れり。ここに多方面より批評を仰ぎ、なお再考の上、修正を加うる心算なり。

 余は近年神経衰弱症にかかり、久しく読書著作を廃し、自ら創立経営せる東洋大学も京北中学も、一時にこれを退隠し、その療養には旅行の最も効力あるを聞き、全国周遊を思い立ち、およそ十カ年間を期し、山隅海陬に至るまで、隈なく一巡し、至る所御詔勅の聖旨を開達し、精神修養、風俗矯正、社会改良の急務を奨諭することに決し、爾来南船北馬、朝講夕話、終年ほとんど寧日なき有様なり。しかるに今秋不幸にして慈母を失い、喪中数旬の間、地方遊説を謝絶し、ひとり幽室に端座し、往事を回想し、母恩を追念するにあまり、余が宇宙観、人生観を世に発表せんとの志を起こし、倉卒筆をとり、本書を起草するに至れり。時日の足らざるがために、所信のままを一気呵成に任せ、記述せるものなれば、考証不十分、論理不精確はもちろん、哲学上の著作としては、あまり殺風景を極め、一見あたかも柱ありて壁なく、骨ありて肉なきがごとき観あるも、自ら認知するところなり。あるいは恐る、これを一読するものの眼には、空想の骸骨、理想の幽霊のごとく感ぜられんことを。かかる理想の幽霊、空想の骸骨なるにもかかわらず、諸家の高批明評を賜るを得ば、本著者の大いに栄誉とするところなり。伏してこいねがわくは一棒を本書の頭上に加えられんことを。もし余の所望を入れ、その批評を雑誌新聞等に発表せられたる場合には一本の恵与はあえて望むところにあらざるも、書名号名を一報せらるるあらば、幸またはなはだし。

 余は今後も余命のあらん限り、この方針をもって研究を継続する予定なれば、ここにずさんながら平素の所信を自白し、哲学上の立脚地を明言し、もって賢明博雅の高教を待たんとす。しかして書中あるいは自ら信ずるところに熱中のあまり、その言自負にわたり、排他に走り、ために古人先輩に対して敬意を欠けることなしとせず。これあらかじめその罪を謝するところなり。読者請うこれを了せよ。

 

  明治四十二年十月上旬               著 者 誌  

   第一章 緒  論

     第一節 学界の現状

 一犬虚を吠えて、万犬実を伝え、一鶏晨を誤りて、百鶏これに和す。哲学界の現状、またこれに類するあり。カント氏ひとたび認識を嘯きて、諸哲これに雷同し、ダーウィン氏ひとたび進化を歌いて、百科これに応和す。爾来五十年ないし百年の星霜を経過したるも、未だ一人のその地平線上に、頭角嶄然たるを見ず。学界の風物おのずから寂寥たるを覚ゆ。もしこの二氏をして九泉の下より現今の実況を目撃するを得しめば、必ず後世笑うべしとの嘆声を発すべきは、実に想するにあまりありというべし。

 更に眼軸を東洋の天地に移せば、一層これよりはなはだしきものあるを見る。その国勢の萎微して振るわざるがごとく、思想界の独立心に乏しきは、有識の士だれか一驚を喫せざるを得んや。その言動たるや一も西洋を写し、二も西洋にならい、三も西洋に擬せんとし、かれ笑えばわれもまた笑い、かれ泣けばわれもまた泣き、一顰、一笑はもちろん、一挙手一投足に至るまで、夙夜孜々、ただかれのいうところを守り、かれのなすところを学ばんとし、これ日も足らざるがごとき状態なり。したがって哲学界の光景は概して凄風蕭雨、満目荒涼の観を呈す、あに長嘆の至りならずや。

 今やわが帝国は、その兵力よく東亜を風靡し、その皇威遠く北洋を光被し、堂々として独立を太平洋上に聳かし、列国をしてその風を望みて仰嘆せしむるの勢いなれば、いやしくもその国の空気を呼吸し、恩波に浴泳するもの、いずくんぞ黙然として座視するを得んや。必ずやわが済々たる学界の多士は、奮然として立つ、猛然として進み、東西の思想界を睥睨するの慨なかるべからず。余や不肖これに加うるに脳力枯痩し、到底その任に当たり難しといえども、ここに痩我慢を張り、いささか独立の見地を攀じ、西人の上に一頭角を抜かんことを試む。いわんや才学共に余輩に超絶せる諸士においてをや、よろしく感奮一番、手に唾して勇進高呼し、猛虎一声山月高の壮観を哲学界に現ぜしむべし。これ余がここに愚案を提出して、先進の諸士に訴え、後学の諸子に謀らんとするところなり。

     第二節 哲学の進歩

 哲学には広義狭義の二様の見解あり。そのうち狭義の哲学すなわち純哲学の目的は、各方面より観察を下し、宇宙の真相を究明開示するにありと解するも、従来の哲学史に徴して、正鵠を失したる定義にあらざるべしと信ず。しかしてその究明の方法過程につきては、ひとり東洋のみならず、西洋においても、近世数百年間はほとんど同一の旧路を左旋右回、東去西来するがごとく、局外に立ちてこれをみれば、その果たして進みたるや否を疑わしむるものあり。ことに最近の哲学のごときは、先輩の旧説にあるいは紅粉を施し、あるいはペンキを塗り、百方潤色して、一家の新見と装うもの多し、あに笑うべきの至りならずや。

 近来日一日より哲学の論歩が、細より細に進み、微より微に入り、人をして哲学は針のごとしと思わしむるほどなるは、今日の進歩と称すべきも、かくのごときは鶏を割くに縫針を用うるの類にして、微細に偏するの弊を免れず。そのはなはだしきに至りては、針小のことを棒大に吹聴して、自ら得意とする児戯に近きもあり、瑣末の点を仰々しくいい触らして、他を排斥せんとする女性に似たるもありて、宇宙の真相を看破すべき大観の力に至りては、かえって日衰月退の状あるを見る。あたかも顕微鏡のみを覗きおる人は、近視眼となりて、望遠の視力を失うと同一般なり。これ今日哲学界に空前斬新の卓見を立つるものなく、東西概して衰運の兆あるゆえんならんか。

     第三節 学海の新航路

 ダーウィン氏ひとたび進化説を呼号してより、甲もこれを唱え、乙もこれに和し、靡然として学界を風化するの勢いなりしも、宇宙の初中後を達観しきたらば、即時に進化はただ一の階段に過ぎざるを知るべし。またカント氏が認識を立証せし以来、諸家みなその轍をふみ、批判哲学の坂路を上下するにとどまり、更にそれ以外に哲学の高嶺あるを悟らず。余、浅学菲才なりといえども、ひそかに西洋哲学の未だ論到せざる学域に進入せんと欲し、積年討尋の末、はるかに渺茫たる学海の一隅に西人未発の新航路あるを認め、進化竿頭に一歩を進め、認識城外に前駆を試むるを得たり。これここに「哲学新案」と題して、この航路の過程を発表するに至るゆえんなり。

     第四節 観察の方面

 いま哲学上宇宙の真相を開示せんとするに当たり、その観察の方面を便宜のため表裏両観に分かち、更にその表観を内外両観に分かち、更にまた外観を縦観横観に分かち、初めに縦観より論歩を起こさんとす。縦観とは客観の世界を古今にわたりて観察する過程をいう。

 余おもえらく従来唯物論、唯心論、独断派、経験派等の互いに相争い、甲論乙駁、今日に至るも未だ決勝を見ざるは、畢竟するにおのおの一方の偏見を固執するによる。唯物も一方の僻見に過ぎず、唯心も一方の偏説のみ。唯物唯心等の各方面より観察せる結果をことごとく総合集成して、始めて宇宙の真相を開達し得るなり。あるいはいう、経験を立脚とせざるべからずと。あるいはいう、思想を論礎とせざるべからずと。これみな井蛙の癡見にして、哲学の本領を知らざるものに外ならず、例えば富士山を観測せんとするに、大宮口よりするもあるべく、吉田口よりするもあるべく、須走口よりするもあるべし。この各方面の所見を集合して、始めて富岳の真相を知了するがごとし。これをもって余は多方面の観察を集合せんために、数重の起点を設くるに至る。これを表示すること左のごとし。

  宇宙観 表 観 外 観 縦 観

              横 観

          内 観

      裏 観

     第五節 論理の自殺

 余が哲学海上に新航路を発見せりというも、その実諸学の報告、諸家の決論を総合集成したるもののみ。これもとより新見にあらず、しかれども従来哲学者が我田引水の弊より、この総合の点に着眼せずして、小径に迷い、窮谷に陥るがごとき状態なれば、これに対して余は総合的大観を哲学界に放つに至る。

 つらつら考うるに、哲学の立脚地を経験の上にとるも、その経験中にすでに物心の両存を予想せざるを得ず、またその起歩点を思想の上に定むるも、思想自体がすでに経験の結果たるを免れず。しかしてその断案に至りあるいは物界を拒絶し、あるいは心界を否定するがごときは、己の刀をもって己を刺すがごとく、論理の自殺たるを免れ難し、これあに哲学上真理探究の道ならんや。故に余の総合は、物界も実在せり、心界も現存せりとし、物心両界を起点として、絶対に向かって進み、その結果絶対の実在を立証し、これと同時に物心両界も現立し、物心の実在するは絶対の現存するゆえん、絶対の実在するは物心の現存するゆえんの断案に到達し得たり。これ論理の自殺にあらずして自活なり。

     第六節 総合の大観

 哲学は総合の学なりとは、先輩すでに主唱しきたり、これまた余の新案にあらざるも、先輩は口に総合を説きながら、実際は局部の偏見を固執せり。かくのごときは決して哲学を完成する法にあらず。これを家屋を造営するに例うれば、柱、礎、屋、壁、棟、梁等を総合して、始めて造家を落成すべきに、あるいは柱のみをもって建てんとし、あるいは壁のみをもって造らんとす。その竣功を見難きは必然なり。故に哲学は名実共に総合の大観によらざるべからず。

 かく古今の諸説を総合しきたらば、自然に前人未発の点に想到するに至る。しかしてその総合は西洋のみをもって限るべきにあらず。また単に収集するにとどむべからず。必ず東洋の所見をも照合参酌し、練って一薬となし、打って一丸となすを要す。余はこの方法によりて、西人の所見の上に先鞭を着けたるを覚ゆ。これ余が自ら許して新見新案と称するゆえんなり。

     第七節 哲学科学の異同

 哲学には形式と実質との二者あり。余案ずるにその形式は数百年ないし数千年間の研究においてすでに考え尽くし、ほとんど余地をとどめずというて可なり。もしその実質においては百般の科学より供給を仰がざるべからず。これにおいて科学は宇宙の一界一域の部位的研究にして、哲学は宇宙の万象万境の総合的研究なるを知るべし。すなわち科学の結果を集大成するものこれ哲学なり。これを大成して得るところのものは、宇宙全体の真相真理いかんにあり、その真相真理は決して科学のごとき一界一域の所見をもってうかがい知るべきにあらず、必ず哲学の総合大成を待たざるべからず。しかるにややもすれば一局部の科学の所見をもって、宇宙の真相を論ぜんとするあり。これ吾人の五官中の一官のみをもって、物界の真相を判ずるにひとしく、だれかその愚を笑わざるものあらんや。

 科学と哲学(純)との別すでに明らかなり。されば両学の今後の関係は、日進の科学より供給しきたる資料をとりて、哲学の内容を充実するに外ならず、哲学の形式すでに一定せり。実質も従来の供給によりて大抵充実し得たれば、今後の供給によりて多少の修正を加うるに過ぎざるべし。ただし東洋哲学と西洋哲学とはひとり実質のみならず、その形式もまた大いに異なるところあり。故によくこの二者を総合結成するに至らば、必ず哲学の舞台において、新演劇を開くを得べし。余のごときはただその三番叟を演ずるのみ。

   第二章 縦観論 一

     第八節 世界の太初

 吾人は耳目等の感官を有す。これすなわち心内より身外をうかがうべき唯一の窓なり。しかしてこの心窓に映じきたる対境を客観という。この客観界の真相を観察するは、余のいわゆる外観なり。もし客観の太初にさかのぼり、いかにして世界の開発せしか、いかにして万物の生起せしかを究明するは、縦観にして、目前の世界を解剖分析し、その体のなにものより成るかを開説するは、横観なり。すなわちこの二観は宇宙外観の二方面なりと知るべし。

 もし吾人が眼を開けば、忽然として森羅の諸象のその前に現立するを見る。海洋の空濶なるあり、山岳の雄大なるあり、あるいは春草の芊々たるあり。あるいは夏木の森々たるあり、水暖かにして魚躍り、露冷ややかにして虫吟じ、蝶舞い鳥歌い、犬走り馬いななく間に立ちて、あるいは笑いあるいは泣き、よく歩しよく談じ、任意に行動し、自由に思慮するものあり、あるいは相集まりて同棲し、あるいは相結びて団居し、家族あり、社会あり、国家あり、これ何人の目にもよく映じきたるところなり。

 これらの千種万類、千態万状は、ようやくさかのぼりて地球の太古に達すれば、皆無の有様にて、一切の植物も動物も、未だその形を現出せざりしときあるを知るべし。けだし太古にありては、地球のごときも高熱の流体にして、生物はもちろん山川海陸すらも未だ成形するに至らず、いわゆる混沌未分なりしときあり。更にその以前にさかのぼれば、地球は太陽の中に存し、共に高熱の気体なりしときありという。これより更に遠く世界の太初にさかのぼれば、日月星辰の未だ全く分立せずして、無限の大虚の中に最も希薄なる気体の浮遊せしことあり、これを星雲と名付く。この星雲がようやく回転運動を起こし、永き時期の間これを継続し、次第次第に減熱と共に球体を形成するに至り、またその回転の際、自然に一球が砕けて数球となり、更に分かれて数塊となり、その極今日のごとき天体の諸象を開現するに至れり。その分化の道理はいちいち物理学器械学の規則によりて説明するを得という。地球成来ののち、その体より同じ規則によりて月球を分出せり。故に太陽は星雲の子、地球は太陽の子、月は地球の子にして、一家相集まり、団欒の楽を営みつつあるはわが太陽系なり。すでにして地球の高熱も永き歳月の間に、漸々冷却して今日の海陸山川の別、草木禽獣の形を分出し、吾人をして天地の美観を楽しましむるに至る。これすでに実験学の証明せるところなれば、ここに煩わしく細論するの必要を認めず。

     第九節 地球の進化

 つぎに既成の地球につきて、その成来の歴史を検するに、ある時代より生物の原体を自発し、その体漸々徐々、派生分来して、今日の千万無量の動物植物となり、人類もその中より分化してきたれりという。これ近世進化論の証示せるところにして、諸学のひとしく是認するところなり。

 更に生物初生の当時にさかのぼり、その原体はいかにして発生せしやを考うるに、造物主を想定せざる限りは、進化のある行程において、地球自体より自然に化生するに至れりと論定せざるを得ず。すなわち無生物の胎内より生物を産出せりといわざるべからず。この説に対しては世に多少の異見なきにあらざるも、これを造物有神説に比するに、いずれに信をおくべきかは、余の判断を下すを待たず。すでに近来はフェヒナー、ヘッケル等の諸氏のごとき、しきりに宇宙活物論、地球活物論を主唱するに至り、その説は諸学の進歩と共に、学界に歓迎せらるるにあらずや。故に余は詳細の説明は諸家の学説に譲り、人類の感覚も知能も理性も、外観上にありては、みな地球進化の結果に帰せんとす。これ決して自己の憶断にあらず、哲学科学の諸説を総合しきたらば、かく論定するより外なかるべし。しかして地球および宇宙の内部に、精神状態がいかように起伏せるかは、余が横観論において説明せんと欲するところなり。これを要するに、太初より今日に至るまでの世界の大化は、全く進化の行程駅路を経由せるものと知るべし。

     第十節 進化の将来

 古往すでにしかり、今来また無限に向かって進化し、無窮に対して向上すべしとは、諸家の異口同音に唱うるところなるも、吾人がこの有限なる地球に棲息して、無限の進化を望むは、星界に移住を望むよりもなお難かるべし。いわんや地球の将来の運命が無限の進化を許さざるにおいてをや。物理学および天文学の報ずるところによるに、地球は幾億万々歳の後には、太陽と衝突して、微塵に破壊し終わるべしといい、地球の熱度もようやく減却して、月球のごとき冷体に化し去るといい、また太陽その物も次第にその熱を放散し、ついに冷却して光熱を失うに至るべしという。果たしてしからば地球の寿命の尽くるときあるは瞭然たり。地球の運命すでにしかりとせば、その周辺に生命を保ちつつある動植人類は、いかで進化を継続するか。地球の滅尽にさきだちて早く絶無に帰すべきは、これまた明々白々、寸毫も疑いをいるる余地なし。人類すでに絶無に帰する以上は、国家社会の永遠の発展を期するがごときは、みな今人の妄想なり迷信なりと評定せざるべからず。つまりわが地球は進化極まりて退化することあるは疑いなし。

 更にこれを世界の上に考うるに、諸惑星は将来ついに太陽に吸引せられてこれと衝突し、またわが太陽と他の太陽と同様に衝突し、いずれも微塵に破壊し粉砕し、今日の天体全く滅尽して、地球も太陽も諸星も、太初の渾然たる状態に帰すべしという。これ世界の退化なり。

     第十一節 進化退化

 以上述ぶるがごとく、永き将来においてひとり地球のみならず、世界にも退化ありとすれば、今日諸家の喋々する無限に向かいて進化し、永遠を期して向上する説のごときは、全く一場の迷夢のみ、囈語のみ。進化をもって宇宙の天則なり、大法なりと公言するがごときは、狂人の妄語に近しというべし。すでに今日の実験学が地球および天体に進化退化あることを吾人に報告しきたれるに、何故に進化のみを取りて、退化を捨つるか。一を許して他をいれざるか。これただ人類社会を鞭撻する一方便、一政略に出づといわば、余あえて詰問せず。しかるにこれを宇宙の大法天則と断言するに至りては、余輩愚なりといえども、決して黙過するを得ず。たとえ実験学の報告なきも、有限の地球、有限の世界において、無限の進化、無限の向上を見ることあたわざるは、事理必然の数にして、古来の経験、世間の俚諺、またすでにこれを警告せり。すなわち始めあるものは必ず終わりあり、生あるものは必ず死あり、盛あるものは必ず衰ありという。これ進化あれば必ず退化あるゆえんを暗示せるものにあらずや。畢竟するに進化は世界大化の一階段に過ぎず、地球大化の半面のみ、進退両化交互するこそ、ひとり宇宙の大法というべけれ。

 地球の破壊、人類の絶滅を説ききたらば、必ず世人をして悲観の淵に投じ、絶望の底に沈ましむべしというものあらん、実にしかり。これ余が決して故意にかくのごとき言を弄するにあらず。学理の指定するところ、天則の命令するところなれば、余輩これをいかんともするあたわず。ああ、人生は無常なり、社会国家も無常なり、天地日月もまた無常なり。その寿これを吾人の五十年ないし百年に比して永遠なるも、一たび必ず絶滅すというに至りては、天地日月といえどもまたたのむに足らず。いわんや子孫をや、国家をや。これを無限の時間に比すれば、みな一瞬一息の境界なり。されば吾人ひとりカゲロウの一生を覆載の間に寓するのみならず、国家社会も電光のみ、天地日月も朝露のみ、瞬息の間に生じて、瞬息の間に死す、なんぞ春花の嵐に散り、秋草の霜につくるるを見て笑うを得んや。いやしくも六合の間に形体をなすもの、一として朝生暮死ならざるなし。果たしてしからば、一身一家のために営々として働き、国家社会のために汲々として労し、功名を争い富強を競うがごときも、すべて蝸牛角上の戦い、蝶夢場中の戯れに比すべきのみ。青年の立志は愚の極なり、志士の尽瘁も癡の至りならずや。それしかり、あにそれしからんや。かくのごときはただ宇宙半面の観察のみ、決してその真相を得たるものにあらず。請う、青年よ落胆するなかれ、絶望するなかれ。請う、志士よ悲観は無用なり、厭世は自棄なり、奮起せよ猛進せよ。宇宙の内面には慰安の光景を漏らすあり、裏面には別途の消息を伝うるありて、吾人をして歓天楽地の間に踊躍せしむ。これ余が後に詳述せんと欲するところなり。

   第三章 縦観論 二

     第十二節 世界始終

 現今の学説によるに、世界の太初は星雲より起こり、世界の終極もまた星雲に帰すという。その理由は地球が太陽と衝突するや、破壊の極、運動は変じて熱力となり、天体の諸星が互いに相衝突して、形体の粉砕と共に、非常の高熱を起こすに至るを見て知るべし。かくして発熱の後は天体ことごとく気体となり、結局再び星雲の状態を現ずるより外なし。これにおいてこの世界は星雲より出で、ひとたびは進化し、ひとたびは退化して、太初の星雲に復するなり。

 以上の所見はすでに諸学の保証するところなるが、未だ一人の星雲の前にさかのぼりて探究し、星雲の後に降りて立論するを聞かず。哲学界にはなんぞかかる勇気を有する猛将なきか、余輩をしてその卑怯を怪しましむるのみ。もとよりその前後は実験の手をもって触知すべからずといえども、吾人には肉眼の外に心眼のあるあり。感覚の顕微鏡にてうかがい知ることあたわざるも、論理の望遠鏡によりて探り見ることを得べし。いわんや今日すでに界前界後に超越すべき思想の飛行器を諸学の実究の結果より供給せられたるをや。その飛行器を空しく胸底に深蔵して、無用の長物に帰せしむるは、いささか遺憾なきあたわず、余は微力といえども進んでこの応用を試みんとす。人これを評して哲学上の冒険というもあえて辞せざるところなり。

     第十三節 星界の前後

 物質は不滅なり、勢力は恒存せり。いかなる変化のその間に起こることあるも、総量は勢力物質共に不増不減、一定不動なり。これを物質不滅、勢力恒存の理法と称して、近世理化学の実験によりて明らかに証示せられ、何人もその間に疑いをはさむことを得ず。これと同時に因あれば必ず果あり、果あれば必ず因あり、因果相続して永久不断なるも、科学の信認するところなるのみならず、この世界におけるすべての実験も論究も、みなこの規則に基づかざるはなし。これ実に諸学研究の根底をなすものなり。故に物質不滅、勢力恒存、因果永続の三大理法こそ、星雲の界外へ渡るべき思想の飛行器にして、界前界後へ架すべき論理の橋梁というべけれ。故に界外の探検は冒険に似て冒険にあらず。おそらくは世に確実安全なること、この飛行器、この橋梁の右に出づるものなかるべし。これ真に万劫不朽、終古不磨の大理法なり。

 そもそも物質すでに不滅かつ不増なれば、星雲の前にも同量の物質あり、星雲の後にも同量の物質なかるべからず。また勢力恒存せる以上は、星雲の前にも同量の勢力あり、星雲の後にも同量の勢力あるべきは必然なり。しかしてその物質と勢力とは互いに連結抱合して、星雲の前後に変化を永続すべく、その変化は徹頭徹尾因果の規則に基づくべきことも、以上の理法に照して明らかなり。果たしてしかりとせば、因果永続の推理によりて、世界の開発するには、必ずその前因なかるべからず、世界の閉合するには、また必ずその後果なかるべからざるゆえんを熟知すべし。これにおいて世界の前にも世界あり、世界の後にも世界あるの理、いよいよ明々白々となるに至る。すなわち前世界の因が今世界の果をきたし、今世界の因が後世界の果を招き、前因後果の理法が、世界の大化の起こるゆえんを証明して、一点の疑雲をとどめざるなり。

 もし星雲の前に世界なく、星雲の後に世界なしと定めんや、たちまち物質不滅、勢力恒存の理法の破綻をきたし、永遠不朽の大法にあらざるに至るべし。これあに諸学の許すゆえんならんや。西人がこの大法の不朽を信じながら、これを星雲の前後に活用するの見識なく勇気なきは、けだし旧来の習慣遺伝により、世界には開端の起元あり、万物には創造の主神ありとの迷夢が心裏に相続し、今日なお醒覚せざるによるならん。余のごときかかる迷夢を有せざるものにありては、この大法を信ずると同時に、星雲前後に世界あることは、いかに疑わんと欲するも疑うあたわず、その実在は目前の世界の実在と同様に明瞭なるものと信ずるなり。

     第十四節 過現来三界

 更にさかのぼりて前世界の前を考うるに、これまた同一の推理をもって世界あるを見るべし。また降りて後世界の後を想するに、同じく世界あるを知るべし。これにおいて世界の前に世界あるのみならず、前世界の前にも前々世界の前にも世界あり、ないし無限の前に無限の世界あるを推知し、これと同時に無限の後に無限の世界あるを想見して疑うべからざるに至る。

 余はここに前界前々界ないしさかのぼりて無始に達するを総じて過界と称し、後界後々界ないし降りて無終に至るを総じて来界と名付け、その中間の現今の世界を現界と呼び、一星雲のときより一星雲のときに至るまでの、世界の一開一合を一界紀間といわんとす。しかしてこの過現来三界を一括していうときは、宇宙と称すべし。これを要するに宇宙は無始の始より無終の終まで、余がいわゆる三大理法に従い、あるいは進化し退化し、あるいは開発し、閉合し、無数回、星雲状態を出没往返し、過現来三界にわたり、一進退一開合を反覆して際涯なきは、実にその縦観の真相なり。余はこれを名付けて宇宙の大化、または世界の大化という。思いてここに至れば、だれが天地に俯仰して無限の感想を起こさざるを得んや。

     第十五節 世界輪化説

 宇宙は上来述ぶるがごとく、進化退化を無限無窮に反覆し、その一大進化、一大退化をもって一世界の大化を完了するなり。すなわち一界紀は星雲より進化して天地万象を開現し、ようやく退化してこれを閉合し、ついに星雲に帰するに至る。果たしてしからば宇宙の大法は、進化にあらず退化にあらず、輪化なりといわざるを得ず。あたかも地球の旋転するがごとく、車輪の回転するがごとく、世界は縦に古今にわたりて輪転するなり。この所見を名付けて輪化説というべし。いやしくも物質勢力の不滅を信ずるものは、この輪化説の確実なるを疑うべけんや。これ余が固くとり深く信ずるところなり。しかるにダーウィン氏は進化あるを知りて退化あるを知らず、スペンサー氏は進化退化あるを説くも、輪化の宇宙の大法たるを説かず。故に余は冒頭にダーウィン氏一たび晨を誤りて、百家これに和すと題したるなり。

 およそ物横にまろやかなれば、縦にもまろやかなるものか。地球のごとき天体のごときは横にまろやかなるものなり、世界の輪化は縦にまろやかなるものなり。その形、球円なるが故に、地球のいずれの点より歩を起こし、前に進むも後に向かうも、無限の時日を経て進行を継続し、無数回の周行を重ぬるも、決してその終極の点に達せざるがごとく、世界の大化もこれと同じく、前にさかのぼるも後に降るも、決してその開端にもその終局にも達すべからず、実に輪転無窮なり。宇宙の広大にしてかつ玄妙なること、あに仰嘆せざるを得んや。

     第十六節 大小の波動

 人あるいは世界の一進一退の波動は事実なりとするも、前界より現界の進化の度、一段高く、現界より後界は更に一階高く、前波は後波よりも漸々向上し、過現来三界にわたりて一界紀の大化ごとに、一段一階ずつ上行昇進するものと考えきたらば、宇宙の大法は進化なりというを得べしと論ずるあらん。しかれども物質不滅、勢力恒存の理法を論礎として推究するときは、到底無限に向かいて進化するの理を発見するあたわず。もとより一局部にありては、前界の進化の度より現界の方、一段高く、現界よりも更に後界の方、一階高きことあるべきも、これと同時に他局部においては、一段一階ずつ低きことあるべきをもって、全体を進化とも退化とも、一方に偏定することあたわざるべし。

 また人ありて各部共に毎界同一の状態を反覆するやと問うことあらんに、因果の理法により推測するときは、毎界各部の変動が過現来にわたりて寸分の差異なき同一の状態を繰り返すべからざるは勢いの免れ難きところなり。前界の因によりて現界の果を招き、現界の因に応じて後界の果をきたす以上は、その因一様ならざる限り、果もまた異ならざるを得ず。しかして宇宙は静止体にあらずして活動体なれば、毎界各部において同一の因を養成し難きは明らかなり。故に過現来三界にわたり、毎界紀間における部位の小波動には、高低大小の差あるべきも、全界の諸波動を統計通算して大観を下すときは、進化にもあらず、退化にもあらず。星雲より出でて星雲に帰るの前後、および前々後々、その変化の状態、千編一律ならざる中に、輪化を反覆して際涯なしと論定せざるべからず。

 更に以上の所論を宇宙の理法に照合するに、物質勢力共にその量一定不変なりとの規程は、毎界紀間の変化の状、波動の形、もとより一様ならざるも、その凹凸出没を通測するにおいては、平行なり輪化なりとの道理を証明するものなり。もしこれに反して世界はますます進化し、その窮極するところを知らずと想定せんか、しかるときはこれと同一の権利をもって、世界は大化するごとにいよいよ退化すべしと主唱するを得ん。故にこの両極の中間に立ちて、双方の中庸をとらば、余のいわゆる輪化説に帰結するより外なし。これを要するに輪化説は、一界紀ごとに進化するというがごとき説に比するに、はるかに妥当にして健全なること明らかなり。これ余が無限進化説をとらずして、無窮輪化説を立つるゆえんなりと知るべし。

 

   第四章 縦観論 三

     第十七節 千古の疑団

 この過現来三界説と輪化無窮説とは、従来宇宙の謎、造化の秘として解明しあたわざる難問を容易に会通するを得べし。例えば運動の開端のごとき、生物の起源のごとき、精神の本源のごとき、先天性先在性の由来のごとき、異説百端、論波滔々、未だいずれの岸に帰着するを知らざるがごとき有様なり。これにおいて造物主宰の旧夢を回想するものあり、一神独裁の圧制を復活せんとするものあり。その懐旧の情はいささか一憫一笑に値するも、もし余の所見をもってこれを照しきたらば、春風の堅氷を解くがごとく、千古の疑団もたちどころに氷解し、大石の小卵を圧するがごとく、久結の迷信も一時に粉砕するに至るべし。

     第十八節 宇宙の活動

 この問題を解決するに当たりては、まず宇宙の活物なるゆえんを説明するを要す。古代は一般に宇宙死物論をとりしも、今日はその論すでに昔時の妄想となり、百科の諸学の供給する材料を総合しきたらば、宇宙活物論を唱えざるを得ざるなり。故をもって学者多くかの旧説の垢衣を脱して、この新調の春服を着くるに至る。余もまた帰するところ活物論者の一人なり。例えばここに一粒の籾米あり、これを櫃底に蔵すること数年の久しきに及ぶ。児童見て必ず死米なりといわん。もしその死米を取りて地に投じ、雨露日光のこれに触るるあらば、必ず生気を発して萌芽を生ずるを見ん。児童おもえらく、死物中より生気を偶発せりと。わが棲息する地球もこれにひとしく、一見死物なるがごときも、ひとたび生物を生ずべき事情に会すれば、必ずその中より生気を外発すべし、その生気は偶然特発せるがごときも、決して死物中より偶発する理なく、また他より注入せらるるはずなく、つまりその体内に包有せるものならざるべからず。この理を推しきたらば、ひとり地球のみならず宇宙自体の活物なるを知るべし。そのしかるゆえんは、請う余が順次を追って述明するところを見よ。

 宇宙すでに活物と定まれば、世界の一進一退、一開一合するは、その体に固有せる活動の力によること論を待たず。もし世界の太初にさかのぼり、いかにして星雲の中に運動を生起せしやといわば、前界の運動の継続なること明らかなり。ただその前後、潜勢顕勢の事情を異にするのみ。すなわち星雲の初めは前界の運動の潜伏するときにして、ようやく開発するに及び、その潜力が次第に顕力となり、新たに世界万有を構成するに至るなり。また因果永続の道理に考うるに、前界の因が現界の果を起こす以上は、本年の四時の気候が前年の気候を反覆し、暖より暑に移り、暑より冷に向かうの順序をとるがごとく、前界が星雲の中より運動を起こし、次第に開発しきたれる順序を現界において反覆すべきは、必然の常理なるべし。けだし前界のひとたび退化閉合して、その極、星雲の状態に帰するや、従来万象を開発せる勢力が、ことごとく星雲胎内に包蔵せられしは疑いなし。かくして更に現界を開発するに当たり、その内包の勢力が漸々外発して、星雲中に再び運動を自生自発するに至りしはまた瞭然たり。換言すれば内包せるものの外発しつつある間は、開発の時代にして、外発せるものが内包せらるるに至るは、閉合の時代なり。これによって内包外発、潜勢顕勢、交互代謝して、一界紀間の大化を現ずるを知るべし。

     第十九節 世界の習慣遺伝性

 物理の原則の示すところによるに、同量の勢力があるいは運動となり、あるいは熱力となり、運動やみて熱力を起こし、熱力減じて運動を増するという。果たしてしからば前界の星雲は、一界紀間の運動の次第に休止して熱力に変現せしときなり。つぎに現界の開発が星雲より漸起せしは、熱力次第に減退して運動を催進せるによる。しかしてかく熱力と運動とが交互に増減生滅するは、世界自然の状勢なりとするも、その実前界において経過せる行程を反覆するものにあらずしてなんぞや。これを世界大化の習慣性と名付く。

 この習慣性を知らんと欲せば、請う天体の運行を見よ。昼夜四時の循環が永遠の間、規律を違わず、反覆継続するは、全く天体運行の怠力、すなわち習慣性の存するによる。これと同じくこの世界が無始の始より無終の終まで、一進一退、一開一合を循環交替、反覆永続するも、世界大化の怠力、すなわち習慣性によること明らかなり。もしまた宇宙を一活物、世界を一生物と見るときは、その習慣はすなわち遺伝なり。この習慣性すなわち遺伝性によりて、星雲胎内より次第に運動を催起し、前界紀間の大化を反覆するは、宇宙の大法のしからしむるところと知るべし。

     第二十節 生物の起源

 つぎに生物はいかにして生起せしかも、同一の道理をもって説明するを得、植物と動物との間に判然たる分界を立つることあたわざるがごとく、生物と無生物との間にも、その発生が最低より漸々徐々最高に及ぼせる順路をとり、最低の生物に至りては、ほとんど無生物と弁別しあたわざるほどに二者の接近するを見る。すべて世界万有そのものには、画然たる分界、または判然たる起点を有するにあらず。あたかも四時の次第に移りて、春夏寒暖の分界の判明せざるがごとし。しかしてその種々の類別分段を設くるは、人為の仮定に過ぎず。故をもって地球進化の力が、ある時代において無生物中より生物を漸生自発せるに相違なかるべしとは、学界の各隅における最近の報告なり、消息なり。

 かくして近来生物と無生物との懸隔ようやく近づき、判然たる分界の立て難きを見るに及び、一切の元素に精神あり、個々の元子に意識ありとの説を喚起するに至り、地球および宇宙の活物説を唱うる論者は曰く、だれかいう地球は死物なりと、またいう耳目なく精神なしと。人類はすなわち地球の感官にして、耳あり目あり、精神あり、意識あるにあらずや。この理を宇宙の上に移せば、吾人は宇宙の感官なり、意識なりと主唱するに至る。その論やや極端に偏するがごときも、この世界以外、造物主宰の実在を立てざる限りは、一切の生物の本源は、世界の自体より自発せりと論定するより外なきは明らかなり。余が籾米の一例を示ししごとく、今日までは吾人の知見が幼稚にして、児童が籾米を死物視せると同様の状態にありしが、今やその知見が進んで内部に生気を包蔵せるの理を発見するに至れるなり。

 この生物が地球の内部より発生するや、その時期のおのずから定まれるありて、いつにても発生するにあらざる理由は地球進化の行程の事情によるは明らかなりといえども、その説明は到底前界の習慣遺伝を考証するにあらざれば、人をして明らかに了解せしむること難し。これ余が逐次述べんとするところなり。

     第二十一節 一神教と汎神教

 従来進化論のために大打撃を受けたる一神教の創造論が、わずかに生物起源の一点において、学界に命脈を持続しつつありしが、今日は世界活物論の起こるに及び、薬石その効を奏せず、ついに絶命のやむをえざるに至れり。これと同時に世界その物すなわち神なりといえる汎神教が、学界に紹介せらるるに至れり。これを例うるに古来学界が一神教と結婚して、久しく同棲せしも、唯物的進化論の賛否のために、図らずも両者の間に不和を起こし、争論を醸し、それ結局学界は一神教に離縁を命ずるに至り、その後妻に汎神教を迎うる場合となりたるがごとし。これにおいて一神教は我を折り節を屈して、復縁をもとめつつあるも、学界の方は到底永く同棲すべからざるを知り、固く執りてその請をいれざるは近時の実況なり。しかるに学界の多数なる家族中には、旧情の忘れ難きために余恋をとどめ、生命、精神、意識の根元のごとき、進化学者の説明に苦しむ難問に会するごとに、なお一神教を迎えんとする傾向あるも、また実に今日の内情なるもののごとし。

 これらの難問は、最近の宇宙活物論にて一応会通することを得るも、なお根底より疑団を氷釈すること難し。しかるに余の前界遺伝説の鏡をもって照見しきたらば、かかる難問はたちまち青天白日に会し、一点の迷雲をとどめざるに至るは必然なり。これ学界より一神教を離縁するのみならず、哲学の理刀をもってその首を断じ得たりというべし。

     第二十二節 生物開発の順序

 すでにこの世界を一大活物と見るときは、ひとり現界のみならず、前界も同じく活物、前々界も同じく活物にして、過現来三界を通じ、大活物が浮沈出没して、際涯なく継続せるを知るべし。これを動物、人類に比すれば、現界は前界の子にして、前界は前々界の子と見るを得べし。またこれを植物に比すれば、前々界の種子が発生して前界の花を開き、前界の種子が更に育成して現界の実を結ぶと解するも可なり。しかるときは星雲は世界の胎児、または種子とみるべし。かく考えきたらば、その間に習慣性すなわち遺伝性を継続すべきの理は、一層明らかに了解するを得るならん。

 草木の種子も人獣の胎児も、みなその親の過程を追い、およそ何日幾年を経れば、萌芽枝葉を生じ、手足鼻口を生じ、言語知識を生ずるの期程あるがごとく、世界の発育にも前界の過程を追い、一界紀間の何々の時代に生物の芽を生じ、感覚の枝を発し、知識の花を開くの遺伝性あるを見る。故に前界紀間の過程の星雲中に内包せらるるは、種子胎児の体内に親の遺伝性を包有せらるると同一なるを知るべし。

     第二十三節 意識理想の本源

 この理をもってひとり生物の起源のみならず、人類の特有と唱えられし意識理想の本源も、説明し尽くすを得べし。けだし草木中春時に開くべき花をして、夏時に開かしむるあたわず、また秋季に開くべき花をして、春季に開かしむるあたわず、気候循環してその時期に達すれば、自然に開花を見る。例えば梅花の春時における、菊花の秋季におけるがごとし。これと同様に精神の花たるべき意識、理想のごときは、地球進化の行程がこれに相応する時期に達せざれば、たとえその力を内包せるも、外部に向かいて開発することあたわず。草木がおのおの開花期を有して、年々その期を誤らざると同じく、世界にも開人期ありて、ひとりこの地球に限らず、すべての星界において、大化の行程が正しくその期に達すれば、意識の花を開き、理想の色を現ずべき理なり。しかしてこれみな前界の遺伝ならざるはなし。見よ今日は動植人類の他の星界にも存在すべきを予想して疑わざるに至れるを。これまた余の輪化遺伝説を助くる一資料となれり。

 

   第五章 縦観論 四

     第二十四節 応化遺伝の分類

 進化学者の一般に唱うるところによるに、今日の人獣がその胎児成形の始めより漸次発育する順序は、生物進化の行程を最急の速力をもって経過するものなり。すなわち長年月の進化の形跡を最短時間をもって繰り返すものなり。故に胎児発育の状態を見て、生物進化の過程を知るを得べしという。これ生物進化の経過を吾人の一代中に遺伝しきたるものなり。しかるにもしこの世界すなわち現界は、前界の経過を遺伝しきたるものとするときは、従来進化説にて唱道せる応化および遺伝を左表のごとく改正せざるべからず。応化とは外界の事情に順応して自体に変化を起こすをいう。

  応 化 個 体 的

      種 族 的

      世 界 的

  遺 伝 個 体 的

      種 族 的

      世 界 的

 

 従来は個体種族の応化遺伝を説きしも、すでに星雲の前後に世界あるを知るに至りては、更に世界的応化遺伝を加うるの当然なるを知るべし。今、個体の遺伝状態を見て、種類進化の経過を知ることを得るときは、更にこれを延長して、世界大化の行程をも推知し得べき理ならずや。吾人は世界の子にして、世界は吾人の父母なり。これと同時に現界は前界の子にして、前界は現界の父母なる理なれば、現界の状態に照して、界前界後の実況を見ることを得るはもちろん、吾人の一生、生物の一代に考えても、界前界後を推測するを得べし。故に過界無限間の経過を生物の一個体に遺伝しきたれりというも、あえて無根の空想ならざるを信ず。

     第二十五節 潜因顕因

 吾人もし目前の現状を見、さかのぼりて世界の大化を考え、更に前界開発の過程を案ずるに、すでにわが地球が、生物なき状態より生物を開現しきたれるは、地球自体に生活の原力を内包せるがごとく、太古の星雲中にも、生活、精神、意識等を内包せりと断定せざるを得ず。これと同時に前界の星雲中にも、同様の内因を包有せることを推測するに足る。

 宇宙は有機的組織を有し、縦横にわたりて統一せられたる完体にして、その中より一塵一分子を除き去るも、全組織の破壊を見るに至るべしとは、諸学の一般に唱うるところなり。しかしてその間に種々の変化を現出するは、一として偶生偶発なるはなく、みな物質と勢力との関係上、因果の大法に従って、秩序を追い漸生漸発せること、これまた何人も疑うあたわず。今にわかに物質分子を集めて、生物を造り出さんとするの不可能なるも、この道理あるに基づく。ただ勢力と物質との関係状態の潜伏せるときと、開顕せるときあれば、吾人の経験にて明らかに原因を知了するを得ざる場合多し。いま仮にその潜伏状態における原因を潜因と名づけ、開顕状態における原因を顕因と名付くべし。

 今日胎生学の報ずるところによるに、動物人類の初胎のときにありては、全く同一にして、なんらの差異を見ず。漸々発育するに従い、次第に異同を生ずるに至るという。これすなわち初めに潜因の状態にありしものが、漸々に顕因となるものなり。世界もこれと同じく、星雲の胎内に今日の一切万類、すなわち生物も無生物も共に包有せらるるも、その当時は潜因の場合なれば、なんらの差別現象を見ることを得ざるのみ。しかるにその潜因が発顕して、今日の万類万境を開示するに至りしを知らば、更に因果永続の理法により、星雲前にさかのぼりて、同一の顕因あることを知るも、決して難事にあらざるなり。

 これを要するに物質不滅、勢力恒存、因果永続の三大理法を根拠とし、現界目前の状態より推測して、界前界後を観察しきたらば、電灯をもって暗夜を照し見るよりも、明々白々なり。故に余はこれを大にしては、現界は実に前界を照す暗夜の灯台にして、後界を示す霧海の磁針なり。これを小にしては、個々の動物も植物も吾人も、界前界後を照示する小灯台、小磁針なりといわんとす。

     第二十六節 前界の人類社会

 かく推究考察するときは、前界において地球の分化もあり、生物の開現もあり、人類の発生もありしを見ることを得、更に進んで細思精慮すれば、前界にも人類相合して社会を組織し、国家を設置せしを知るべく、今日の現状実況を前界において一度開現せしを知るに足る。果たしてしからば吾人も今日始めて世界に生まれたるにあらず、すでに前界において出現せしを想定するを得べし。これに至りてますます世界大化の高妙なると、吾人生命の無窮なるとに驚嘆感動せざるべけんや。

 進化学者曰く、吾人の卵はその直径わずかに一分の十五分の一に過ぎざるも、その中に祖先以来の遺伝性を包有すと。余はこれに対してかくのごとき微小なる卵中に、現界のみならず、過界無始の始より伝えきたれる遺伝性を包有せりといわんとす。実に宇宙の幽玄不可思議なることいよいよ出でて、いよいよ妙なるにあらずや。もし果たして吾人の現在の一生あるを見て、前界を推想し得べしとなさば、なんぞ知らん、前界において日本帝国も、井上円了もひとたび現存せしことあるを。たとえその名その形は現界と大いに異なるにもせよ、これに相当せるものの、ひとたび前界に出現せしは想するに余りあり。例えば昨年開きたる蘂礎に、今年再び花を開かば、その体質は外界より新たに吸収せるにもせよ、その花神花因は昨年の再生再現なりと想定するを得るがごとし。これもとより実験をもって立証すべからざれば、ただ余は世界輪化、因果永続の理を追究して、かく自信するものなり。故に人これを空想と呼ぶも、しばらくその評に一任すべし。

     第二十七節 現界と前界との異同

 現界は前界の経過を反覆したるものにして、現界の天地、山川、動植等の現状を見て、前界にもこれと同様の万象を開現せるときありしを知るとするときは、その両界の万象は同一の形状を反覆するかというに、決してしからず。さきに第十六節において一言せしがごとく、すべて原因異なれば、結果また異なるべき道理にして、前界と現界とはその内外の因、異ならざるを得ず。さればその開発の果においても、多少の異同あるべきは勢いの免れ難きところなり。

 かくして現界の因は前界において定まり、前界の因は前々界において定まるうちに、各界紀間の内外万般の事情が集合して、次界の因となり、果となる以上は、到底寸分も違わざる同一の状態を反覆することあたわざるべし。その有様はあたかも子の形体性質と親の形体性質とが寸分も違わざるを得ざるがごとく、あるいは昨年の気候と今年の気候とが決して同一ならざるがごとく、必然の理数なり。ただ大体において同一の状態を反覆するのみなるべし。

     第二十八節 後界の状態

 今すでに前界の状態を知れば、これを推して前々界の状態を照見すべく、更にさかのぼりて過界、輪化無限の実況をも想定し得べし。これと同時に後界後々界ないし来界、輪化無限の真相をも予知し得べし。現界大化の諸因が相合して、後界開発の果をきたし、現界と大同小異の状態を反覆する道理なれば、後界にも天地万物を開現し、動植人類をも生起すべきは必然なり。すなわち知る後界にも地球あり、吾人あり、社会あり、国家あるべきを。ただしその有様が現界と多少の相違あるは前界と現界との異同あるに考えて察知するを得べし。果たしてしからば日本帝国も井上円了も、その名その形を異にせるにもかかわらず、後界に再生再現することを自信せざるを得ざるに至る。この理を推しきたらば、後々界ないし無限の来界の状態いかんも、予知するに足る。故に国家および吾人の生命は来界無限の輪化の間に反覆無数、出没起伏すべきは、実に想像するに余りありというべし。これにおいて吾人の一生の無始の始より無終の終まで、輪化の波間に流転しつつ、永続不滅なるを知る。ああ、また最大快事ならずや。

     第二十九節 不朽の書籍

 現界より相伝えて後界に継続すべきものは、日月にもあらず、地球にもあらず、山川、草木、動植はいうに及ばず、これらはみな現界の退化の極、星雲に化するまでにことごとくみな破壊絶滅すべし、ただ物質と勢力との二元、および因果の一則だけが、後界後々界を経、無限の輪化を反覆して、来界無限の終まで永続すべきのみ。されば吾人と後界との連絡は、形体をもって伝うべからず、事業をもってつなぐべからず。国家も社会も絶望なり、書籍も石碑も無効なり、ただ吾人の一言一思、一挙一動が、宇宙活動の勢力の中に薫習して、一種の因力を助成し、その力が星雲の中に包有せられて、潜因となり、後界開発の際に、再び成熟してその果を開くに至るのみ。これ現界より後界に伝達すべき唯一の電線なり、無二の郵信なり。故に吾人の一挙一動は、後界を造出する一因に加わるものと知るべし。

 退きて考うるに、吾人はただこの一点において、わずかに一道の光明をはるかに後界の彼岸を望みて認むるを得たり。換言すれば、因果の紙面に吾人の言行の筆墨をもって記載したるもののみが、真に不朽の書籍にして、ひとり後界に伝達し得るなり。その他の計画はすべて水泡のごとく、徒労に属す。しかしこの一道の光明が、道徳の前路を照す一穂の灯光となり、この一片の消息が、吾人に慰安を与うる一条の泉源となることは、後に至りて述ぶべし。

     第三十節 吾人再生の年月

 吾人の現界における一生は、後界に至りて再現し、更に後々界より無限の来界に及ぼし、出没無数回なりというも、その間の年月は幾億万々歳なるを知らず、ほとんど想像しあたわざるほどなり。もししかりとせば、吾人がこの世においてひとたび死し去り、後界の再生を待つは、永久の死を信ずるとなんぞえらばん。これまた絶望の至りならずやと疑問を提出する人あるべし。しかれども時間の長短、空間の広狭は、すべて比較的にして、吾人はカゲロウの一生を瞬息の一生と知り、細虫の一身を微塵の一身と見るも、無限長の世界に比すれば、吾人の一生ははるかに瞬息よりも短く、無限大の宇宙より照せば、吾人の一身は必ず微塵よりも小なるを悟了すべし。井底の蛙は大海の濶大なるを想し難く、腹中の虫は天界の高遠なるを知るべからず。これに反して吾人は寄生虫の胎内に無数の微細虫ありとするも、その状態を観察するを得ず、これみな比較上の沙汰なり。故に吾人が永久と思う年月も、無限長の宇宙の寿命より照しきたらば、これまた一瞬一息に過ぎざるべし。

 およそ吾人の推測は、とかく人間本位にして、この五尺ないし六尺の身体を標準とし、五十年ないし百年の寿命を基址として判断するをもって、永久の事、絶大の物を明知し難きのみ。もし宇宙を本位として考うるときは、現界と後界との間に連続する年月のごとき、これあたかも一夜の長短にひとしかるべし。かつまた吾人が眠息して無意識の状態にあるときは、一時間も一日も二日もその差を覚えず。もしひとたび死して真の眠息の状態に入るときは、一年も百年もないし千万億年も更にその長短を感ずべき理なし。故に吾人が死して現界に永訣を告ぐるときは、長き一夜を眠る心地にて、安息して可なり。しかして他日両眼を開きたる場合には、後界の天地のその前に開現することを予期するにおいては、なんぞ絶望するに足らんや。もしそれ後界を待たず、現界においても吾人の再生復活ありとの説のごときは別問題にして、余が後にそのこともあわせて論明せんと欲するところなり。

     第三十一節 無開端無終極

 上来述べたるがごとく、世界は無始の始より無終の終まで大化を反覆するものと定むれば、必ずその無始の始において、開端の起点なかるべからずと尋問する人あるべきも、これ無意味の疑難なり。なんとなれば、すでに無始といい、無終といい、無限という以上は、もとより開端の起点あるべき理なし、開端なきと共に終極もなき理なり。ただ宇宙の自体が物質、勢力、因果を具有して、始もなく終もなく、無限より無限に向かいて輪化することあるのみ。実際始なきものに、強いて始あらしめんとするの必要はいずれに存するか。ただしこの物質と勢力と因果との関係いかんに至りては、横観の問題に属するをもって、次章に入りて詳述すべし。

 縦観の所見はここに至りて大略述べ尽くしたり。さればその要点を再約するに、宇宙の真相を世界の古今にわたりて縦観しきたり、現界の前後に無数の世界ありて、進化退化、開発閉合を反覆し、無始より無終まで、無限の輪化を継続するを知り、過現来三界、輪化無窮というに外ならざるなり。もしまた一界紀間の大進化大退化の間に、無数の小進化小退化あり、社会の盛衰、吾人の死生、草木の栄枯、山河の成壊等の一進一退あり。また一草一木を組成せる細胞にも、一進一退ありて、輪回反覆窮りなきを知らば、輪化中に輪化ありて、重々無尽なるを見るべし。これを輪化無窮、重々無尽といわんのみ。これ縦観の真相なり。

   第六章 横観論 一

     第三十二節 横観の目的

 縦に宇宙を大観して、過現来三界、輪化無窮なることを説明し終わり、更に横に大観するときは、ここに物心両界の対立並存するを見る。すなわち眼を開きて前に現ずるものは物的現象にして、眼を閉じて内に感ずるものは心的現象なり。物象の現立せる境域を客観界、または外界、または物界と名付け、心象の連起する境域を主観界、または内界、または心界と名付く。しかして物界にも千種万類あり、心界にも千態万状あり、その両界のなにものたる、およびその両象の関係いかんを論究するを横観の目的となす。

 古来この物心相関を究明するに、唯物論、唯心論、もしくは経験論、独断論等の論争ありて、その各派の間は犬猿もただならざる有様なるも、これさきに緒論中に一言せるごとく、余をもってこれをみるに、あまり自己の立脚地に固執する結果なり。すべて経験も認識も、物心相関を離れて成立することあたわず、物心両象の間、いずれの一方を起点とするも、二者相待たざるを得ざるは明々白々なり。されば唯物論も一理あり、唯心論も一理あり、経験論も一長あり、独断論も一長あり。故に物心両界、主客両観より観察したる結果を総合して、宇宙の真相を開説せざるべからずとは余の意見なり。

     第三十三節 物質の分析

 物心両界のうち、まず物界を大観するに、天には日星あり、地には山海あり、あるいは土石草木あり、あるいは鳥獣魚虫あり。その種類千万無量なるが、この万象の開発生起せるゆえんは、すでに縦観論において説明し尽くせり。ただここにこれらの物質はなにものなるやにつきて、余の意見を述ぶべし。

 すべて物質は有機と無機とを問わず、その分析の極、必ず微分子より成るを知る。微分子は化学のいわゆる元素なり。しかしてこの元素はなにものなるや。あるいはいう、元素の元素ありと。余はこれを仮に元子と名付くべし。あるいはいう、数十種の元素は単純の元子より成ると。その説未だ実験にて明示せられたるにあらず。たとえその実在を許すも、更に元子はなにものなるやの問起こるは必然なり。かくのごとく進みきたらば、けだし帰極するところなかるべし。故に余はまず物質の問題を元素にとどめ、元素は分析の極と仮定して説明を試みんとす。

     第三十四節 元素の真相

 元素は形体を有するや、無形体なるや。もし形体あるものとすれば、更に分析分割するを得べき理なり。もし形体なきものとすれば、元素相集まりて形体を生ずるはいかん。無より有を生ずるの理あるべからず。この問に対して余は元素は有形にして、同時に無形なりといわんとす。

 すでに元素は物質最小の極にして、また分析すべからずという以上は、必ず無形ならざるべからず。しかしてその元素相集まりて形体を生じ、元素は有形の基址なりとするときは、必ず有形なるべき理なり。すなわち元素は無形なるが故に更に分析するあたわず、有形なるが故に、諸形これより起こる。しかしてその体一なりという以上は、有形にして同時に無形、有形無形を兼有せる最小体と定めざるべからず。もしこの点より外に一歩を進めれば、単有形となり、内に一歩を進めれば、単無形となり、有形無形のよって分かるる最小極点なりと解して可なり。けだしこの外に解説する道なからん。しかるに吾人は一方の所見のみをもって、終局まで論じ究めんとする癖ありて、それがために論理の衝突を起こし、窮谷に陥るに至る。これを例うるに物質は有形なるが故に、その分析の極たる元素も有形ならざるべからずとの見解を固執するは、地球の表面に東西南北の方位ある以上は、南極北極にも必ず同様の方位あるべしと主唱するに同じ。すなわち元素は物質の極位なり。余おもえらく有形の一方をとるも不可なり、無形の一方をとるも不可なり、よろしく双方を総合しきたり、物質最小の極は有形と無形と相分かるる微妙の点にして、吾人の思想も想像もここに至りてその力を失うほどの妙処なることを自得すべし。

 今ここに元素は有形無形を兼有すといえば、一体両面なるか。すなわち一体の表に有形の面を具し、裏に無形の面を有すと見るべきかと問うものあらんに、余これに対してしからずと答うべし。その故は一体両面の考案は、死物的静止の状態を示すものにして、活物的活動の有様をあらわすものにあらず。しかるに元素は活動せる活物なり、地球も活物、宇宙も活物にして、共に活動作用を有する以上は、元素もとより活物ならざるべからず。また一体両面説は単純の関係を示すのみにて、複雑せる状態をあらわすに足らず。故に余は元素を解して無形中に有形を含み、有形中に無形を含む。すなわち有形無形の相含となす。換言すれば物質性、非物質性の相含なり。もしその非物質性を勢力とすれば、物質と勢力との相含となる。これを余は物力相含説と名付く。

     第三十五節 相含の状態

 この相含説によるときは、従来の論理上の矛盾を一掃し去るを得、何故に元素を分析すべからざるか、その内容は無形なるによる。何故に相集まりて有形を現ずるか。その本質は有形なるによる。故に古来の元素有形説も無形説も、共に一方の偏見にして、これを総合するにあらざれば、元素の真相を知るあたわざるなり。

 もし人ありてこの相含説はなにによりて証見せるやと問わば、余これに答えて、古来諸学諸家の多方面より研究して得たる結果を総合集成したるものなりといわんとす。もしまた人ありてかかる状態は到底吾人の思想にて描き出すことあたわずといわば、余またこれに答えんとす。たとえ描き出すことあたわずとも、実際がかくありと知る以上は、かく定めざるべからず。吾人は元素その物を直接に目撃することあたわざれば、その状態を想見し難きは当然のことにして、例えば学理上の憶説として、物質の延長性に一大、二大、三大の外に、三大以上のものあるべしというも、吾人の経験は三大までにとどまるをもって、それ以上の延長性のごときは、到底想見することあたわざると同一般なり。

     第三十六節 物質と勢力との関係

 上述のごとく余は元素は有形、無形、相含の点にして、物質と勢力との分界線なり。そのいわゆる有形は物質の方面をいい、無形は勢力の方面をいう。この物力二者の相含せる点、すなわち元素にして、二者の界線なり、追分なり。

 物理学の説明するところによれば、物力二者はその体一にして、物を離れて力なく、力を離れて物なしという、これなんぞや。すべての物質が物力相含の元素をもって組織せらるるによる。もし元素が物力相含にあらざれば、これより集成せる物体が勢力を自発し、またその勢力が物形を構成するの理なし。今これを実際に徴するに、勢力よく物質を造り、物質よく勢力を発す。換言すれば物質は勢力を待ちてその形状を保ち、勢力は物質によりてその作用を営む。すなわちこの二者は一体にして、同時に異体なり。この関係を一にして一ならず、二にして二ならず、不一不二という。しかしてその不一不二は余のいわゆる相含の関係を示すものなれば、すべての物質において物力相含の関係を有すと断定するを得、これ畢竟、元素自体が物力相含なるによるや論を待たざるなり。

     第三十七節 元子の説明

 もし今日のいわゆる元素は真の元素にあらずして、別に元素の元素、すなわち余の仮名せる元子ありというものあらば、上来述べきたれる説明を、そのまま元子の上に移して可なり。余の意は物質最小の極点を、ここに元素と定めて解説したるのみ。故にもし元子が真の極点ならば、これを元素と見て、同様の解説を下すべし。

 これを要するに物質と勢力とは、不一不二の関係を有し、その分界点は物質の極小たる元素、もしくは元子にして、その体あるいは物質というべく、あるいは勢力というべく、物中に力を含み、力中に物を包み、互いに相包含するものなり。この相含が宇宙横観の真相なることは後に至りて詳述すべし。

 かかる最小極微の元素もしくは元子が相集まりて、無機物のみならず有機体を構成し、その中より花紅柳緑の美観、光風霽月の真趣を開現するのみならず、精神の花、理想の月を産出するは、これを天帝の深意に帰せんとするも、世界の外にいずれの所に天帝あるや。これを造化の妙工に托せんとするも、万有の外に造化なきをいかんせん。さればその深意も妙工も、みな宇宙間に活動せる無数無量の元素元子中にありといわざるべからず。ああ、この最小極微の中に、かかる深意妙工の存するとは、何人も不可思議の感に打たれざるを得んや。しかしてその元素元子の相集まりて生活作用、精神現象を開現するの理も、また余が後に説明せんと欲するところなり。

   第七章 横観論 二

     第三十八節 勢力の本体

 前章において物質のなにものなるかを説明し終われば、ここに勢力につきて論究するの必要を生ず、勢力にも運動、光熱、電力等の数種ありて、おのおのその作用を異にするは、みな同一勢力の発顕状態の同じからざるによるは明らかなり。もし前述のごとく宇宙その物を活物とするときは、生活力、感覚力等の心力も物力と同体ならざるべからず。この理を推究すれば、勢力一元論に到達し、宇宙は一大勢力の活動にして、物心万境はその力の多方面に発顕せるものなりと論決するに至るべし。

 余も元来はある意味において勢力一元論者の一人なるも、物界を見て直ちに単純なる勢力の発顕というを許さず。すでに力を離れて物なく、物を離れて力なしという以上は、物質と勢力とは相対にして、物を除き去れば無力となり、力を除き去れば無物となるべき理なり。故にもし物質の本体を勢力なりと定めんと欲せば、勢力に絶対と相対との二者を分かち、その絶対的勢力が開発して、一方に物質を示し、他方に勢力(相対的)を開くといわざるべからず。しかしてこの二者を区別するために、絶対的勢力の方を力元と名付け、相対的勢力の方を力象と名付けんとす。

 かくして更に物質の方面を観察しきたれば、物質その物にも物元物象の二者あるを知る。しかして物元にありては、物質と勢力との別なく、物象においてこの別を見る。しからば物元と力元とはつまり一体にして、異体にあらず。その体すなわち物界における絶対的本体なるを知るべし、これを物如という。あるいは物元、あるいは力元と称しても可なり。

 この物元と物象とはその関係いかにというに、不一不二にて互いに相包含せるものと解せざるを得ず、力元力象の関係もまたしかり。ここにおいて物と力との二者が相含なるのみならず、如と象との二者の相含なるを知る。故にその関係は重々の相含なり。

     第三十九節 無始無終の相含

 古来の大問題たる物より力を生ずるか、力より物を生ずるかは、余の物力相含論によりてすでに明らかなりと信ず。しからば宇宙の太初よりこの相含を持続せるかと問うものあらんに、余はこれに答えてしかりといわんとす。すでに縦論において物質不滅、勢力恒存、因果永続の大法により、現界の前後に無限の世界あることを知り、無始の始より無終の終まで輪化窮まりなく、宇宙に開端の起点なく、終結の極点なしと明言せる以上は、物力の相含も無始以来の相含にして、開端の起点なき道理なり。

 現界の初期に物質が星雲の状態を経過しきたりしも、その星雲は物質が勢力に変じたるにもあらず。その開発は勢力が物質に化せしにもあらず、ただ星雲その物が最上希薄なる気体となりしのみ。もとよりその中に物力相含の理を保ちつつ相続したりしは明らかなり、故に物力相含もまた無始無終というべし。しかるに世人はあくまで太初に物質の現ぜざりしときあるがごとく想するは、世界に開端の起源ありとの古説を心中に懐抱し、今日なおその旧夢を撹破することあたわざるによるのみ。

     第四十節 エーテルの説明

 論じてここに至れば、宇宙間に填充せる精気、すなわちエーテルは、物質なるか勢力なるかの問題を解決するの要あり。あるいはエーテルは気体より一層精微なる物質なりといい、あるいはエーテルは物質にあらずして勢力なりといい、あるいはエーテルにはエーテル分子ありといい、あるいはエーテルは物質と互いに反抗する作用を有すといい、種々の解説あれども、余の所見は、これを物質とするも普通の物質と同一視し難く、これを勢力とするも普通の勢力と同等視し難ければ、勢力と物質との中間にありて、物質なると同時に勢力なり、勢力なると共に物質なりといわんとす。しかしてその実在は今日の学説に照して疑うべからず。もしこれを物質とすれば、物元の発顕に二様ありて、可衡的可触的物質と、不可衡的不可触的物質との二種実在し、その後者がエーテルなりと定めんとし、もしこれを勢力とすれば力元の発顕にやはり二様ありて、エーテルはその一種なりと定めんとする意なり。

 聞くところによるに、宇宙には物質の充実せざる所あるも、その空所はエーテルによりて填塞し、分子と分子との間にも、エーテルの充実せるありて、無窮に運動し、交互に抗排し、その結果は宇宙の運動を永続するに至るという。もし物質の意義を広めて、その中にエーテルを包含するものと見るときは、無限の宇宙間に物質の充実せるを知り、物質は宇宙と共に無限なりと断言するを得べし。

     第四十一節 エーテルの相含

 さきに物質と勢力との関係の相含なることを述べしが、エーテルと物力の関係もまた相含なりといわざるべからず。エーテルを物質と見るときは、その体と勢力とは不一不二にして相含なり、エーテルを勢力と見るときは、その体と物質とはまた相含なり。これすなわち余が重々相含説を唱うるゆえんなりと知るべし。もし人ありてその理由を問わば、相含なるが故に相含なりと答えんとす。あたかも一と二とを合して三となるは、何故ぞとの答えに、三となるが故に三なりというに同じ。

 ここに至りてこれをみるに、宇宙は縦観によれば、輪化無窮なり、横観によれば相含無尽なり、これ縦横ともに無限なるを知るべし。玄のまた玄、衆妙の門といわざるを得ず。

     第四十二節 不生不滅、不増不減

 つぎに物質と勢力とエーテルとの三者は、互いにその体を変じて他に化し得るやいかんを解説するを要す。もし前界が退化して星雲となり、星雲が開発して現界となるとせばその大化の間に物質が勢力となり、勢力がエーテルとなり、エーテルが物質となるがごとき変化あるべしと憶想するものあらん。けだしエーテルは最上希薄なる物質、すなわち気体より一層希薄なるものなり。故に気体に更に一段の高熱を加うれば、エーテルに化するやも計り難しと推想する人あれども、かかる憶説は物質不滅、勢力恒存の大法を破るものにして、余のとるところの説にあらず。すでにこの大法に基づきて前界の存在を論定せる以上は、あくまで勢力と物質とは永遠に不増不減、不生不滅なりと信ぜざるを得ず。これと同時にエーテルも不生不滅、不増不減なるべき理なり。

 余の相含説は、物は永く物にして、その中に力を含み、力は永く力にして、その中に物を含むの意にして、双方互いに変体し得るの謂にあらざるなり。もし人ありて曰く、勢力、物質、エーテルの三者は、互いに変体し得る場合全くなしというべからず。その故は吾人が僅々千百年の短日月の間に経験して、物質の総量は一定不変なるを知るも、幾億万々年の永久の歳月の間には、いかなる増減生滅あるやも計り難きにあらずやと唱うることありても、余はこれを否定せんのみ。なんとなれば、かくのごときは物質不滅、勢力恒存の規則を妥当に解せざるものなれば、健全の説というべからざればなり。

     第四十三節 因果と物力との関係

 つぎに因果と物力との関係を考うるに、百般の科学の実験は、全く因果永続の理法に基づくことは前すでに弁明せり。すなわち物質の変化は因果の大法によりて支配せられ、その変化は勢力の発動に外ならざれば、因果法は物力二者に関係すること言を待たず。故にこの二者を離れて別にその大法あるにあらず。またその大法を離れて別に勢力物質の変化あるべからず。けだし宇宙の大化に際し、万象の一変一化、すべて因果法の連鎖によりて結合せらるるなり。しかして物力二者共に不滅にして恒存せる以上は、因果法も無始の始より無終の終まで永続すべしとは、余が縦観論の根拠となすところなり。しかるに古来この因果法を抽象的にみると具体的にみるとの二様の解あり。抽象的にみるときは、数理の規則のごとく、吾人の思想上の先天的形式、概念上の主観的規則となるべく、具体的にみるときは、宇宙自体に固有せる規則にして、その大活動の前後の関係を包括せるものとなるべし。しかるに余はそのうち後者の見解をとり、因果法は抽象的にあらずして具体的なり、主観的にあらずして客観的なり、形式的にあらずして実質的なり、静止的にあらずして活動的なり、すなわち物質勢力相依りて活動する状態を具体するところの因果なり。故に因果よく物象を造り、またよくこれを破るの力ありとなす。その力を名付けて因力という。この因力の状態に潜因顕因あることは前すでに述べしところなり。

   第八章 横観論 三

     第四十四節 心界の観察

 横に宇宙を大観し、物界のなにものたるを説明してここに至れば、更に心界の状態を開示せざるを得ず。精神内部より観察することは、内観論の任ずるところなれば、ただここに外界の方面より精神現象を観察するをもって足れりとす。

 この外部の観察によるに、人類も、動物も、植物も、ひとしくこれ有機体有生物にして、その起源の一なるは、さきに再三弁明せるがごとく、進化論の証明せるところなり。たとえ人類のごときは一種特別の意識作用を有すというも、意識と無意識とはその間に判然たる分界なく、意識の無意識に変じ、無意識の意識に化することあり。かつ動物にも多少の意識作用を有すること明らかなれば、その起源は一切の生物の共有せる生活現象より分化したるものと是認せざるを得ず、ただその進化の程度、発顕の状態の異なるに従って、草木、魚虫、禽獣、人類等の差別を生ずるのみ。故にここに一切の生物を一括してその上に外観を施さんとす。

     第四十五節 有機体の構成

 広く生物を一観するに、その体は分析の極、必ず土石や水雲のごとき無生物を組み立つるところの無機元素より成れるを知る。別に有機元素ありて動植を構成するにあらず、たとえ生物は元素中の主要なる炭、酸、水、窒の四元素、なかんずく最も有力なる炭素をもって主成分となすというも、これらの元素は決して有機体の特有せるものにあらず。ここにおいて古来唯物論を唱うるものありて、吾人の精神作用は神経を組成せる物質分子の振動より起こるとの説をなすに至れり。

 余は唯物論者にあらず、しかもその論の一方の偏見たるを唱うるものなり。しかれどもまたあえて有神論者のとるところの生活作用、精神現象の宇宙以外より入りきたるがごとき古説を信ずるものにあらず。畢竟するにこれらの現象は宇宙自体に有する活動の発現せるものとする説なり。換言すれば宇宙活物論なり。しかしてその論旨は他の活物論者と多少異なるところあれば、今その大要を述ぶべし。

     第四十六節 因力因心の説明

 この問題を解説するに、ここに因果の作用につきて更に一言せざるを得ず。さきに述べしがごとく、余は具体的因果説をとり、万物の変々化々するは因力のしからしむるところなりとなす。天気の晴雨、草木の栄枯、人獣の死生に至るまで、みな因力の招致する結果ならざるなし。しかしてその因力が物質を吸引し招集して、一物一体を結成するに、必ずその中心なかるべからず。これを因心と名付く。この因心に四囲の物質元素を招致して、個々の植物動物はもちろん、山河大地までを結成するに至る。これ天地万物の創造なり。その創造は造物の手より出づるにあらずして、宇宙自体に固有せる因力によるなり。

 この因力はいずれより生ずるかを考うるに宇宙活動の結果というより外なし。例えば宇宙の大海が無始以来波動を自発し、一の波は更に他の波を起こし、漸々誘起して大小高低、千態万状、無量の波形を開現し、その一波一動が因力を養成馴致し、ついに無数の因心を生ず。その因心が相続して、幾回となく波形を作り、その都度内外の事情に応じて、更に新因力を習致し、したがって因心は多少の移動を経つつ永遠に継続するなり。すなわち因力は波を作る原動となり、因心はその中心となり、これによりて生じたる波形は、有機無機、一切万物に比したるものと知るべし。

 宇宙に開端の起源なきをもって、その活動にも起点なく、その因力にも開端なく、畢竟みな無始なり。ただ前因によりて後果を生じ、その果また因となりて更に後果を生ずる間に、内外の事情がこれに薫習して、因力因心の変動を起こし、ために物心万象の変々化々、不断無量なるを見るに至る。これ宇宙活物論を因果法の上より観察したるものなり。

     第四十七節 遠因近因の別

 この因心説を実際に照して考うるに、現界開発進化の、ある時代より生物の原始体を発生し、これより次第に分化派生じて動植人類を開顕せるに至る。その原始体の初生せしは、もとより前界より相続せる因力が、永く潜因となりて現界に伝わり、時機の熟するを待ち、その中心に物質元素を吸引招集して、生物の発現を見るに至るなり。その後動物の派生するも、人類の分化するも、一般の解釈にては父祖数代の遺伝によるというも、その本因はやはり前界より相続せる潜因の開発に帰せざれば、到底説明し尽くし難し。

 吾人の生まるるや、その身心共に父母の体より伝わりきたるに相違なきも、父母自ら造出せるにあらず。造化の妙用によりて受胎するなり。その胎児が男となるか女となるかも、父母はすこしもこれを知らず、みな造化のしからしむところなり。かくして生まれたるものが、あるいは知者となり、あるいは愚人となり、あるいは短命にして夭折し、あるいは長寿を保つも、これまた造化の命ずるところとなすより外なし。しかしてその造化はなんぞやとの問いに対して、けだし前界の潜因を予想する外に解説の道なきは明白なり。ここにおいて吾人のこの世に来生する近因は、父母または祖先より伝来せりとするも、その遠因は前界より相続する潜因にありとの結論に帰着すべし。

 この遠因と近因と相合して因心を習成し、この因心に外界より物質元素を吸引招集して、吾人の形体の構成せらるるを見る。その構造の良否、寿命の長短等は、生後の経験応化の事情によることもちろんなりといえども、因心中に予定せられたる潜力の発顕に関することもまた明らかなり。この理を推して一切の生物の発生を知るべし。

     第四十八節 内因外因の説明

 ここに単に遠因というときは、生物の始祖だけが前界の潜因によりて起こりたるものにして、吾人の今日の一生は近因たる父母の遺伝性を受くるのみなりと速断する人あるべし。故に更に内因につきて一言するを要す。

 縦に因果の作用を見るときは、前界の遠因によりて吾人の一生を催起し、その近因はひとり父母または祖先より受けきたることとなるも、もし横に観察しきたらば、近因中におのずから内因外因の存することを知るべし。その外因は父母の遺伝および外界の経験にして、その内因は前界より相続したるものが宇宙の内部に潜伏して伝来せるものなり。この内因が成熟してひとり生物の起源を見るのみならず、吾人の受胎そのものを促し、終生の出来事、運不運に至るまで、すべて外因の遺伝経験以外にわたる原因は、みなこの内因の発顕ならざるはなし。故に吾人の一生は縦には前界の遠因、横には宇宙の内因より起こるものと見るべし。しかして内因は遠因と同体にして、共に過界より相続してきたるものたるは言を待たず、ただ縦観横観の方面の同じからざるより、その名を異にするのみ。

 以上の所見は古来諸家の説明に苦しみ難問をたやすく氷解するを得べし。しかるに進化論者および宇宙活物論者は、この前界潜因の理を知らざるために、吾人および生物の起源を説明するに当たり、種々苦心の末、今なお五里霧中に彷徨する有様なり。故にもしこの諸氏にしてひとたび遠因内因の理を知了しきたらば、必ず暗雲を排して明月に対するの思いをなすべしと信ず。

     第四十九節 元素の資性

 前界より相続する潜因によりて、動植人類の開発を見るの理は弁明したれども、その因心に物質元素を招集して、ここに精神を開現するにおいては、元素その物に精神を発し得る理を具せざるべからざるゆえん、未だ明らかならず。これを例うるに薪を集めてこれに火を点ずれば、薪の上に火を発現す。しかるときは薪その物に火を発する性を具せざるべからざるがごとし。外より物質元素を招集しきたり、これに精神の火を点ずるは、前述の遠因近因または内因外因の力によるべしといえども、その集合の結果、ここに精神の火を開発するには、元素の薪その物に火を発すべき理を具せざるべからざる道理なり。故に更に元素その物につきて一考するを要す。

 余案ずるに元素各体にみな精神ありとは、あまり憶断に過ぐる考説にして信拠し難く、むしろ元素は適当の配置を得て集合結成したる場合には、生活作用および精神現象を開顕すべき資性を具有すと解するを妥当となす。その理由はすでに遠近内外の諸因により、一定の因心に吸引招集せられたるときに、元素の結合より成れる吾人の身体に精神作用を発現するを見て知るべし。植物に生活作用を発し、動物に感覚作用を現ずるもみなこの理なり。しかしてその組織をしてかかる程度に進ましむるは、因力の作用によることまた疑うべからず。

 この元素相結合して精神を開発しても、元素その物を指して直ちに精神を有すというべからざるの理由は、更に他の比喩を引用して説明すれば、一層明瞭となるべし。例えば柱、礎、屋、壁、相寄りて一家を完成すと定めんか、一柱を指して直ちに家というべからず、一瓦を呼びて直ちに家と名付くべからず。その相結合集成したるものすなわちこれ家なると同一般なり。よろしくこの理に照して考察すべし。

     第五十節 「いろは」の比喩

 何人も無機元素が相合して、精神の妙用を開発するは、不思議に堪えずと考うるならん。これに対して余は左の一例を引きて説明せん。ここに「いろは」四十七文字あり、その中より三十一文字を取りて結びつくれば、和歌となる。しかれどもただみだりに三十一文字を集めたるばかりにては、和歌をなすに至らず。必ず文字の結合が適宜の配置を得るを要す。その配置の最もよろしきを得たるものは名歌となり、よろしきを得ざるものは平凡の歌となり、悪しきものは歌をなさざるなり。もしその名歌に至りては、一字一句の改変もその上に施すことを得ず。一字の移動が全首の歌をして精神を失わしめ、更にその趣味を感ぜざるに至るべし。これに反して凡歌のごときは一字一句を改変するも、歌の生命を傷害するに至らず。これと同じく元素の結合が、最もよろしき状態にて配置を得れば、高等動物または人類となり、さほどよろしきを得ざるものは、下等動物または植物となり、しかして配置の悪しきものは無生物となるべし。なかんずく神経組織のごときは、最も有力なる元素が、最も巧妙なる配置を得たるものにして、名歌中の名歌に比すべし。もしその配置の上に微小の変動を与うるも、たちまち全体の生命を失うに至るは、一字の移動が名歌を殺すと同一般なり。

 かくのごとく和歌に比較して考えきたらば、元素の集合状態によりて、生物無生物の分かるるゆえんを明知すべし。しかして和歌の方にありては、四十七文字を三十一字ずつ取り集め、幾回となく試みれば、自然に任じても歌を成す場合に出会する道理なれども、かかる機会は容易に得難ければ、人の予定意志をもって組み立つるを要するがごとく、世界に充満する無数の元素を偶然集合しても、有機体を組織するがごとき適宜の配置を得ることは、ほとんど不可能に属す。しかるにここに無始より宇宙の大化ありて、それ自体に生物開発する原因を相続しきたれるをもって、世界開発の行程が、適応せる時機に達すれば、たちまち潜因が顕因となりて元素を吸集し、植物も動物も人類も順次に構成造出せらるるに至るべし。決してその原因を造物主宰に帰するの必要を見ず。前界より相続せる潜因こそ、真の造物者なれ。これを余の宇宙活物論、元素活物論の説明となす。

 ここにまた上述の余の所説に対して、一俗問ありて起こらん。すなわち元素相集まりて生物を発生すというも、太初の星雲は非常の高熱なれば、決して生活現象がその中を経て伝来するの理あるべからずというものあらん。余これに答えて曰く、星雲の当時にありては、高熱のために前界におけるすべての固体も液体も蒸発して希薄なる気体となりたるまでにて、そのときに元素自体の破壊せしにあらず。また物質不滅、勢力恒存、因果永続の理法の消滅せしにもあらず。元素は依然として元素となりて存し、理法は厳然として理法となりて行わるる以上は、現界開発のある程度、ある時期に至り、再び元素を吸集する潜因の熟発するにおいては、生物開顕の結果を見るべきはすこしも怪しむに足らざるなり。

   第九章 外 観 論

     第五十一節 縦横両観

 上来論明せる縦観横観両論は、客観界すなわち外界の方面より物心両界にわたりて宇宙を大観したる所見なれば、いずれも余がいわゆる外観なり。更にここに縦横両観を合して一考するを要す。これを単に外観論と名付く。

 そもそも宇宙は自体の活動によりて、縦横無限に大化を継続し、一刻一刹那といえども休止することなし。しかしてその活動には宇宙自体に勢力を固有するを要し、勢力の発顕には物質の実在せるを要す。この各者は互いに関連し、互いに包含せるをもって、宇宙の活動はすなわち勢力の活動なり、勢力の活動はすなわち物質の活動なり。かくして物力相依りて世界の大化を継続し、輪化無窮なることは、実に宇宙の真状なりというべし。ここにおいて宇宙の本体はなんぞやの問題ありて起こる。

     第五十二節 宇宙の本体

 物質と勢力とは宇宙自体の発顕なれば、その二者を指して直ちに宇宙の本体とはいい難し。しからばその本体はいかにというに、物力の二者は共に現象なれば、物質の方を物象と名付け、勢力の方を力象と名付く。しかしてこの二象の本体なかるべからず。すなわち物象に対しては物元、力象に対しては力元なかるべからず。しかるに現象の上にては物力二者の別を見るべきも、本体に入りては力元物元を別置して二体となし難し。故にその体を名付けて物如という。これを物質一元の見地よりみれば物元と名付くべく、これを勢力一元の見解よりみれば力元と名付くべし。すなわち物力一元なり、一如なり、これを宇宙の本体となす(第三十八節参看)。

 この本体と現象との関係につきては、あるいは同体となし、あるいは異体となし、あるいは全然不可知的となし、あるいは一分可知的となし、あるいは象の外に体なし等と論ずるものありて、その諸説ほとんど枚挙にいとまあらず。余をもってこれをみるに、その説おのおの一理一長あるも、いずれも未だ全局を達観せるものにあらず。元来現象と本体とは不一不二の関係を有し、互いに相包含し、象の中に体を含むと同時に、体の中に象を含む。余はこの関係を体象相含、あるいは象如相含、または象元相含説という。その証明は前に横観論下に示せしごとく、数千年来諸家の論究したる結果を見て明らかなれば、余の喋々を要せざるなり。

     第五十三節 宇宙の統一

 今ここに物界万象の変々化々する状態を一観するに、秩序あり規律あり、いかなる変動の起こるあるも決してその規律を破ることなく、その秩序を乱すことなく、自然に一大統一の宇宙の縦横に貫通して存するを見る。生物界を観じても無機界を望みてもみなしかり。これその根底に一大元の存することを示すものにあらずしてなんぞや。

 有機物が草木にあれ禽獣にあれ、みな統一を有する組織体なることは、何人も熟知するところなり。これと同じく地球も太陽系も世界全体も、統一を有する組織体なり。故にこの世界より一塵一毛を除き去るも、その結果は全体の組織を破壊するに至るべしという。宇宙はかくのごとき完全なる組織体なる以上は、万象万化の裏面には一大元の存するゆえんを推知するに至る。

 また因果の理法につきて考うるも、その規則が世界の万象万化を支配し、科学研究の基礎となるがごときも、また余の主唱する過現来三界を通じて輪化無窮なるうちに、因果の大法が永続不断なるがごときも、みな宇宙一元の理を証明して余りあるというべし。

 この一元はすなわち宇宙の本体にして、物力二元の本源なり、実体なり。その体と物心現象との関係を考うるに、吾人が本体あるを知るは、この現象あるによる。しかして現象の理を推せば、本体の実在を知る。本体によらざれば、現象を解し難く、現象を離るれば、本体を知り難し。ここにおいて象と体との不一不二の関係を有する理に到達す。しかしてその関係は単純にあらずして複雑なれば、余はこれを相含というなり。その他は内観論に入りて述ぶべし。

     第五十四節 時方両系

 更に宇宙を外部より観察するときは、物力二象の外に時間空間の存するを見る。これ果たしてなにものなるやは、古来の至難なる問題なり。宇宙の縦に連なりて間断なく、万化をしてその間に継起せしむるものは時間にして、横にわたりて変化なく、万象をしてその間に羅列せしむるものは空間なり。時間の悠久なるや、年月をもって算すべからざるに至れば、これを劫という。空間の広濶なるや、寸尺をもって測るべからざるに至れば、これを大という。劫なおその長きを算し難く、無限劫なり。大なおその広きを測り難く、無限大なり。あるいは無限劫を宙と名付く。宙の前後にも宙ありて、しかも無限宙なり。あるいは無限大を宇と名付く。宇の内外にも宇ありて、しかも無限なり。しかしてその縦横の無限を合したるものをしばらく名づけて宇宙という。到底九万のほど、垂天の翼の企て及ぶところにあらず。余はこの時間を時系といい、この空間を方系といわんとす。

 この時系方系はなにものなるや。物質なるか勢力なるかを考うるに、物的にもあらず、力的にもあらず、またエーテル性にもあらざること明らかにして、しかも物力二元二象に関連して存するなり。古来あるいはこれを物在より派生せる概念とし、あるいは心性に固有せる直観とする等の異説あるも、物質自体がその間に成立し、物質を除き去るも時方両系の滅する理なく、かつ物質は有限なれば、これより無限の両系を派生する理なし。吾人が物力二象の無限を想定するは、全くこの両系の無限より得たる概念に過ぎず。また心界も外観上より見れば、時方両系の間に作用を現示すること明らかなれば、これまた両系を産出するはずなし。しからば何故に時系方系が吾人の感性に固着して、これを吾人の思想より除去しあたわざるかの説明は後に譲る。畢竟するに時系方系は物心二象の後に生ずるにあらずして、先在たらざるを得ざるなり。

     第五十五節 宇宙の形式

 余の考うるところによるに、時系も方系も、共に物的にもあらず、心的にもあらず、また二者より派生せる観念にもあらず。これ宇宙自体に固有せる無限の形式なりといわんとす。これを宇宙に固有せりとなすは、宇宙そのものより離すことあたわざるによる。宇宙間における一切の万象万化はみなこの両系の間に現出することは、何人といえども疑うを得ず。またこれを無限というは、両系共に限界を付することあたわざるによる。時間の前にも時間あり、空間の外にも空間あり。いわゆる宙前に宙あり、宇外に宇あり、かつ吾人が宇宙の無限を知るも、輪化の無窮を想するも、みなこの両系によらざるはなし。物質の無限も勢力の無限も、一として時方両系の無限性に基づかざるなし。しかりしこうして実体を具するにあらず、これを握らんとするも触るるあたわず、これをとどめんとするも抑うるあたわず。故に余は宇宙自体に固有せる無限の形式とするなり。

     第五十六節 時方の総相別相

 ここに時系方系を共に宇宙の形式と定むる以上は、客観の形式にして、これと同時に主観の形式なるべし。これに対して必ず一問ありて起こらん。曰く、客観上にありては、物質そのものは時方両系によりてその実在を現ずるをもって、物質の固有せる形式とはいい難し。しかして、主観上にありては、物質を空じ得るも、時方を空ずるあたわず。しかも外界を認識するには、必ずこの形式によらざるべからず。されば時方両系は客観に固有なる形式にあらずして、ひとり主観に固有せる形式というべしとの一問なり。

 余をもってこれをみるに、時方両系は主観に固有なるがごとく、客観にも固有なり。もし全く客観の実在なかりせば、時系も方系も共に空虚となり、無意味となり、両系の存在をも認識するを得ざるに至らん。故に主観に固有なると同時に、客観に固有なる形式と解せざるべからず。これ畢竟時方両系は宇宙の形式なるによる。もし主客両観を対立して考うれば、時方両系に総相別相の二様あるを見るべし。その総相は主観より生じ、その別相は客観よりきたる。換言すれば仮に形式中に外形と内容とを分かたば、外形は主観の方より出で、内容は客観の方に存すと解して可ならん。

     第五十七節 時方の非先在

 また時方両系は物質よりも勢力よりも先在たらざるべからずとの説あるも、これ世界有始論者の所見にして、物質も勢力も世界も万象も、宇宙全体の無始無終を唱うる余の所見にては、先在というを許さず、これとともに後在というを許さず。とかく従来の学者がその起源の明らかならず、その理由の知り難きものに会すれば、あるいは先天といい、あるいは先在といいてその責を免れんとする風あり。先天先在の名称は不可知不可解の異名となり、その名称の下に一切の難知難解を託せんとするは、すこぶる狡猾なる手段なるがごとし。これつまり前界の因果相続の理を知らざるによる。あに憫笑せざるを得んや。

 すでに物質も勢力も、時系も方系も、みな無始無終無限となす以上は、なんぞ前後を較して生起を定むるの要あらんや。ただ吾人が世界の無限を知了するは、時方両系の無限性によるをもって、これを解して無限の形式というのみ。もしまた人ありて何故にかかる形式ありと問わば、実際かかる形式の存するが故なりと答えんのみ。それ以上の説明は不必要なるべし。あたかも何故に吾人は今存するかの問いに対して、かく存するが故に存すと答えざるを得ざると同様なり。もし時方両系が吾人の思想に固着して、先在性となりたる起源に至りては、過界無限の輪化の間に習成したりし結果によること明らかなり。その理由の説明は内観論に譲る。

 以上外界を縦横にわたりて大観し終わりたれば、これより内観すなわち心界内部の観察に移るべし。

   第十章 内観論 一

     第五十八節 内観の問題

 外観は宇宙の一面の所見にして、全局の大観にあらず。故に更に内界すなわち心内の方面より観察を下さざるべからず。すでに外観論において世界大化の行程に応じ、生物を発生し、人獣を分化し、精神を開顕すといいたるは、古来唯物論および経験説の起来せるゆえんなり。故に外観は唯物経験派の所見に属す。その所見の一理あると共に偏見なることは、さきにすでに弁明せしところなり。故に更に宇宙の他面なる心界より観察するを要す。これ外観論のつぎに内観論を述ぶるゆえんなり。

 内界にてまず心界の内容を考うるに、心界には物界のごとく種々の現象あり、作用あり、これを心的現象、または心的作用という。その作用を普通に知情意の三種に分類す。またその知性につきては感性、悟性、理性の三種に分かつ等の見解あり。これみな心的現象すなわち心象なり。この心象を論究するは心理学の問題にて、その詳細なる解釈は同学において説き尽くして、ほとんど余すところなく、人をして心理学は針理学なりと評せしむるがごとく、微細なる点まで論究の至らざるはなし。故に余の内観の目的は知情意等の諸心象を概括して説明を下すをもって足れりとす。

 心界を観察するにも、縦観横観の二方面あり。横観にありては、心界の現状および物心の関係を論じ、縦観にありては、心界の由来過程を論ずるなり。その名称の外観論と混ずるを恐れ、横観をここに現観とし、縦観をここに過観とすべし。

     第五十九節 心的作用の有限無限

 現観にて心界の現状を見るに、これに意識無意識あり。普通の解釈には意識をもって心界の特性となすも、意識と無意識とは判然界別することあたわざれば、余はこの二者を合して心的現象となす。これに有限無限の両性を有す。有限性によりて有限を感知し、無限性によりて無限を識覚するなり。もとより吾人の心的作用はすべて有限相対にして、絶対にあらず。知情意共に有限なり、相対なりといえども、その中におのずから無限絶対に対向し接触する作用あり、これを心的無限性となす。すなわち吾人の心象中に絶対に接する部分と、相対に関する部分との二様あるなり。普通の知情意はそのいわゆる有限性にしてプラトン氏の理想、カント氏の理性のごときは無限性なり。もしこの有限無限を知情意に配合して分類すれば、知にも有限無限の両性あり、情にも有限無限の両性あり、意にも有限無限の両性ありと定むべし。

     第六十節 心象分類の方法

 この心的無限性を知情意に配合せる分類法によるに、古来知的無限性の方面より絶対を観じて、知的絶対を説くものあり、ヘーゲルのごときこれなり。情的無限性の方面より絶対をうかがい、情的絶対を立つるものあり、ヤコービ氏、シュライェルマッハー氏のごときこれなり。意的無限性の方面より絶対を認め、意的絶対を説くものあり、ショーペンハウアー氏これなり。あるいはまた知意両方面より無意識的絶対を唱うるものあり、ハルトマン氏これなり。その諸家はおのおの特長なきにあらざれども、これと同時に一方に偏する僻見たるを免れず、知も情も意もみな心象の一作用に外ならず。その一方の観察をもって絶対を論定するは、決してその真相を得たるものにあらざるはもちろんにして、知意を合して無意識的絶対を立つるも、客観方面の観察を欠ける偏見に帰するは明らかなり。

 同じく心象中にありても、有限性と無限性とはその性質その作用を異にする以上は、分類の方法および名称も異なるべきは当然にして、余は知情意をもって有限性に限るものとし、別に無限性の資性に応じて二種に分類を定めり。すなわち相対より絶対に進向する方と、絶対より相対に伝達する方との二者なり。一は積極的原動的にして、一は消極的受動的なり。これを知情意に配すれば、前者は知的無限作用にして、後者は情的無限作用と称すべきも、その中に意的無限作用を含む。よって余は従来諸家の用いざる別種の分類をなせるなり。

     第六十一節 心界全図

 かく心的無限作用を積極消極の二種に分かち、積極の方面を理性と名付く。消極の方面を信性と名付け、これを表示すれば上のごとし。

 その図の外圏は心象中の有限性にして、中圏は無限性なり。しかして中圏の理性には、知的無限作用と意的無限作用を具有し、信性には情的無限作用と意的無

限作用とを兼帯するを見る。よって意的作用は理信両性にまたがるものと知るべし。

 前図中の絶対は心界の本体にして、これを心元または心如と名付く、この絶対に対すれば理性信性両ながら相対にして、有限中の無限性となさざるべからず、その表左のごとし。

  心界 相対(心象) 有限性 知

                情

                意

            無限性 理性

                信性

     絶対(心元、心如すなわち心的本体)

 もしこの心象の諸作用をその性質に従い、動静二種に分かつときは左表のごとし。

  心象 有限性 動的(知)

         静的 動的(意)

            静的(情)

     無限性 動的(理性) 動的(意的無限作用)

                静的(知的無限作用)

         静的(信性) 動的(意的無限作用)

                静的(情的無限作用)

 この図表のごとく無限性心象を理性信性の二者に分かつときは、哲学(純哲学)は理性作用に基づき、宗教は信性作用に属するを知るべし。そのつまびらかなるは裏観論を待ちて述べんとす。またこの図表に照らせば、倫理と宗教との異同も一目瞭然たり。倫理は知情意の有限性に属し、宗教は無限性に基づく。たとえ倫理はその根拠を無限性中に有すとするも、理性の所轄にして、信性の所関にあらず。その説明は結論に譲る。

     第六十二節 物心相関論

 つぎに物心の関係につきて一考するに、外界は吾人の感覚上に現立し、感覚を離れて別に存するにあらずと論ずるバークリー氏のごときもあり、また外界は時方両系の間に成立し、その両系共に吾人の直観上の先天的形式に外ならずと断ずるカント氏のごときもあり。また自我を離れて外界の存立する理なければ世界万象はみな吾人の思想より起こるとなせるフィヒテ氏のごときもあり、あるいは物心異体を立つるデカルト氏のごときもあり、あるいは同体を説けるスピノザ氏のごときもあり、また身心の関係につきても、両面説をとるベーン氏のごときもあり、並行説を唱うるヴント氏のごときもあり、実に異説百端なるも、心界の方面より観察するものは、多く唯心論に帰着する傾向あり。しかれども、もし外観の結果を照合して考うるときは、強いて唯心一元に帰せんとするは、理の当を得たるものにあらず。つまり外界より見れば、心界は物界より生ずるがごとくに感じ、内界より観ずれば、物界は心界より出づるがごとくに覚ゆるのみ。

 さてこの内外二種の見解を総合しきたらば、物心両元の互いに包含するゆえんを知了するに至るべし。心界は物界の中にあることは、何人といえどもたやすく了解するところにして、更に深く推究すれば、物界かえって心界の中にあるを見る。例えば吾人の眼は天地の間に点在して、しかも天地が吾人の眼中に現立するがごとし。換言すれば眼は天地の中にありながら、天地また眼中にあり、心界は物界の中にありながら、物界また心界の中にあり、この関係を余は相含と名付けたり。この相含説こそ古来の二元論、両面論、あるいは相制論、並行論等を総合して、その中正を得たるものというべけれ。

   第十一章 内観論 二

     第六十三節 心界の由来

 つぎに過観に移り、心界の由来過程を案ずるに、物界が前界前々界ないし無限の過界より、増減なく生滅なく継続しきたりしがごとく、心界もまた無限より相続しきたれる道理なり。すでに過界無限の世界に無限回、動物も人類も精神意識も出没起伏して今日に至れるを知らば、心界の無始以来の永続を疑うを得ず。ただ星雲の時代には潜伏眠息の状態にありて、現界開発のある行程に至り、自然に外発開顕したりしは物界と同一なるべし。故に吾人の心象、すなわち知情意も理性信性も、現界の人類成形の当初において始めて生起せしにあらず、無始以来の永続なり。また現界の将来において人類滅亡するも、共に絶滅するにあらずして、尽未来際まで永続すべし。ただ大海の水のごとく、浮沈上下の波形を無限に向かいて無限回反覆することあるのみ。

     第六十四節 心理学上の先天性

 この前界および過界相続の理は、従来の心理学において説明し尽くすことあたわざる難点をたやすく会通することを得、例えば心理学上心的作用に後天性先天性を分かち、先天性の起源につきてはその説くところ明らかならず。これを進化論にては父祖の遺伝とするも、現界の遺伝はその力を助長するまでにして、その本源を造り出だすあたわず。すなわち吾人の意識のごときは、現界の遺伝と応化とによりて次第に養成しきたりしに相違なきも、これによりてその本源までを説明し尽くし難し。つまり先天は先天にして、その原因を不明に帰するより外なし。しかるに余の過現来三界説によれば、前界において星雲中に収蔵せし種子が、適応の時機に達するに及びて、現界に発生するものと解説しきたるをもって、先天の起源を明らかに開示することを得るなり。故に従来の先天性は余のいわゆる世界的遺伝にして、前界より相続せる潜因より生ずるものと知るべし。

     第六十五節 悟性および理性の先天性

 カント氏は悟性の中に十二の原則を設け、これを先天性と定めしも、その先天はやはり無限の過界より遺伝しきたるものなること疑いをいれず。すべて必然性普遍性の心的作用は、到底現界の経験または遺伝のみにては説明し難し。必ず過界の世界的応化、世界的遺伝を予想するを要す。

 また理性理想のごときも、生後の経験より習得せるにあらざるはもちろん、父祖の遺伝より成来せるにあらず。父祖の遺伝は有限相対の経験を積集せるものに外ならざれば、これによりて無限的理性理想を化生する理なし。これまた過界の応化遺伝がその性を養成したりしは明らかなり。

 これを要するに以上のごとき先天性は、世界の大化輪転限りなき間に薫習し養成しきたれるをもって、普遍性または無限性を帯ぶるに至るなり。故にすべて心界の先天性とし、先在性としてその起源不明なるもの、すなわち現界の経験にても遺伝にても説明し難き点は、過界の世界的応化、世界的遺伝に照合して解釈を与うれば明白となるべきなり。

     第六十六節 先在的時方両系の起源

 つぎにカント氏の時系方系をもって直観上の先天的形式となしたる理由につきて批判を下さざるべからず。氏は時方両系の観念を吾人の心界より除去することあたわざるをみて、外界の所属にあらずして、内界の感性に固有せる先天的形式とし、かつその無限性を帯ぶるをもって経験の所生にあらずと論定したるも、かかる先天性が何故に吾人の心性に固着せるやの理由を説明せざりき。余をもってこれをみるに、これまた過界の遺伝なること言を待たず。

 前すでに述べたるがごとく、時方両系は宇宙自体に固有せる無限の形式なり。この形式の間に世界は大化輪転を反覆し、無始以来現界まで無限に継続し、その間に吾人の身心は集散離合、出没起伏、無数回を重ねて今日に及べり。故に無始以来時方両系の形式の間に経験を積みたる結果が、この無限性を帯ぶる先天的直観を習得せるに至りしは必然なり。カント氏はこれを心界に入れて唯心論を立証せしも、もしこれを外観の方面よりみれば、物界に帰着せしめざるべからず。心界に固有せると同時に、物界に固有せる形式なることは、さきに外観論(第五十六節)において述明せるところを見るべし。

     第六十七節 先天性の真因

 心界の先天性に感性に属するものあり、悟性に属するものあり、あるいはまた理性に属するものあり。したがっておのおのその状態を異にせるは、その原因いずれも過界における経験遺伝の情況の同じからざるによるは言を待たず。けだし過界において最も反覆すること多く、あるいは最も同一の場合に接したること多ければ多きほど、強き習慣性を養成し、強き先天性となりて遺伝しきたるは明らかなり。例えば時方両系の観念、論理の原則のごときは、最も普遍に、最も必然に、最も多く同一の経験を無限の過界において反覆しきたれる結果なりと知るべし。従来進化論にて現界における父祖の経験応化、習慣遺伝につきて説明せる理由を、過界の上に応用して考察すれば、一層よく先天性由来の真状を了解するを得べし。

 もしその過界の遺伝の本源起点はいかにと尋ぬる人あらば、余は無始の一語をもってこれに答うれば足れりとす。ただしかかる先天性無限性を、過界の遺伝によりて心界中に相続せしむるに至れる真因は、宇宙自体の活動作用によることまた決して否定すべからず、経験も遺伝もつまり外来の他因にして、宇宙自体より内発せる真因すなわち自因にあらず。けだし他因と自因と相依り相待ちて、始めてかかる天性を生育熟成するに至るべし。しかして自因の存するゆえんは、畢竟するに宇宙は死物にあらずして活物なり、冥性にあらずして霊性なるによる。故にその霊性の活動こそ真の自因なれと答えざるを得ず。ここにおいて心界の本体いかんの問題を解決するを要するなり。

     第六十八節 心界の本体

 さきに弁明せしがごとく、心界に発動せる知情意は、現象にして本体にあらず、理性信性も心象なり。しかして理信二性は心象中の絶対に関連せる部分に与えたる名称なれば、相対中の無限性というべきも、これを直ちに無限の本体とはいうべからず。ただその両性の対向接触せる絶対こそ、真に心界の本体なれ。これ余のいわゆる心如と称するものにして、その本体はフィヒテ氏のいわゆる自我の本体、ヘーゲル氏のいわゆる理想の自体と同じく、霊活霊動の本源なり。その霊動が心海に万波を生じ、そのいちいちの波頭に万象を映写するに至る。これ古来哲学界に主観的唯心論、または絶対的唯心論の起こりたるゆえんにして、内観の極、必ずここに到達するなり。余が唯心論を評して一理ありといえるはこの点にあり。しかれども内観の所見のみをもって、宇宙の真相をうかがい得たりとは断じ難し。更に外観の結果をこれに照合しきたりて、公平中正の総合観を下さざるべからず。

   第十二章 内観論 三

     第六十九節 唯心の論証

 内観外観の総合をなす前に、心界の本体の実在を論明せざるべからず。ここにその本体を心元または心如と呼びて、物界の本体たる物元または物如といえるに区別せんとす。

 そもそも外界の万象は一としてわが感覚の所現にあらざるはなし。色も形も声も味香もみな五感の上に成立せる現象なり。視覚なくんば色もまたなく、聴覚なくんば声もまたなく、触覚なくんば形もまたなし。この理を推せば、吾人のいわゆる物界は主観の所現に外ならざるを知るべし。これバークリー氏の唯心論を唱えたるゆえんなり。

 またカント氏は外界は時系方系の上に成立し、その両系は客観的実在にあらずして、主観的先在性なりとの理より推演しきたり、物界の万象は全く心界の所現なることを論断せしは、余これに批評を加えたるも、唯心論の見地に立ちてみれば、これまた有力なる論証なり。

 その他意識思想、なかんずく理想の上より外界を観察しきたらば、主観を離れて客観なく、心界を離れて物界なきを証明することすこぶる容易なり。

     第七十節 意識作用

 吾人はみな意識を有す。意識は吾人の自知自覚にして、感覚も意識作用なり、知情も意識作用なり、意志も意識作用なり。吾人の目前に万象の森然として現立するを見るも、吾人の周囲に衆人相合して社会をなすを知るも、またみな意識のしからしむるところなり。わが生前に父祖ありと思い、わが死後に子孫ありと想するも意識なり。彼我の別も主観の別も、東西の別も古今の別も、すべてわが意識中にあり。世界の太古に星雲ありというも、万象の本源に物如ありというも、またみなわが意識より出でざるなし。かれ死するも、わが意識中にありてかれ死すと感ずるのみ、意識を離れてかれ死するにあらず。人病むも、わが意識中において病むと思うのみ、意識を離れて人病むにあらず。たとえ吾人が無意識ありというも、意識を離れて無意識あるにあらず、意識中の無意識なり。かく論究しきたらば、意識の外に一事一物なきを自覚するに至るべし。

 この理によりて吾人は、哲学にても科学にても、みなその立脚地は意識の実在より起こることを知る。すなわち意識ありて後、彼我あり主客あり物心あり、世界あり時方あり、科学あり哲学あるなり。人これを空想というものあらんも、空想にあらずして事実なり。けだし事実中これより以上の確実なるものはなかるべし、一切の経験はみなこの事実を基礎とすといいて可なり。世に唯心観の起こるも、また道理なるにあらずや。

     第七十一節 理性作用

 かく意識中に世界もあり時方もあり。意識を離れて宇宙もなく絶対もなしと論決するは、畢竟意識中に理想作用ありてここに論到するによる。すなわち理想は吾人の心的作用中の絶対に接触する作用にして、余のいわゆる理性なり。吾人が進んで世界の実在、万象の起源、物心の本体たる物如心如を想出し、宇宙の真相、絶対の本境、無限の極致に論到するは、みなこの理性の作用に基づかざるはなし。

 今ここに理性の妙用を述ぶるに、吾人が茅屋の下に住し、破窓の傍らに座し、その室は両膝をいるるに足らず、その食は一簟を満たずに足らざるも、静座黙思して、理性の心眼を宇宙の上に放ちきたらば、掌中に日月を握るべく、胸底に乾坤を蔵すべく、帽上に六合を載せ、靴下に三界を踏むべく、無限の海底にも出没し得べく、絶対の岸頭にも昇降し得べく、高く宇上に出で、遠く宙外に遊ぶべく、宇宙の内外に雄飛濶歩するを得べし。ああ、快絶壮絶ならずや。しかるときは方丈に足らざる小室中に、天地万象はいうに及ばず、無限の時方も無限の輪化もいるることを得べし。これ実に理性の妙用妙趣にして、その中に真善美の三光をも包蔵し、これによりて絶対の真相をうかがい見ることを得るなり。

     第七十二節 理性と時方両系

 この理性の観察は、まさしく吾人の心的作用の向上して、絶対の本体に接触したる端的なり。そのときの吾人の心状は、東西を握り、古今を呑み、天地を巻き、彼我主客、物心内外のごとき一切の差別観を超絶したる場合なれば、大虚もわが身をいれ難く、永劫もわが寿を算し難く、無限の方系を一寸に縮め、無限の時系を一刻に畳み、無限の宇宙を一念に収めたる最妙極致の境遇なるを自覚すべし。これ真に内観において宇宙の真相に達したるものなり。

 吾人は思いてここに至り、外観にありて過現来三界、輪化無窮と論定せることも、これを内観に移せば、一瞬一息のうちにあるを自知すべく、これと同時に時方両系の無限を感見するは、全く相対の境遇における沙汰にして絶対の方面よりこれを大観すれば、一塵一瞬に過ぎざることを悟了するに至るべし。余が裏観において別途の消息あることを述べんとする曙光は、ここに自然に漏れきたるを覚ゆ。

 ここに至りて、外観と内観との間に論理の衝突あるを見る。必ず外観真ならば内観妄なり、内観実ならば外観虚なりとの論ありて起こるべし。しかるに余は両面の観察を総合したるものにあらざれば、宇宙全体の真相を得たりというべからざる意見なれば、内外両観を総合しきたり、論理の衝突を融和し、それ結局大の極は小となり、小の極は大となり、極大の中に小をいれ、極小の中に大を含み、無限の時方と吾人の理性とは畢竟相含相容せるものとなす、これ余があくまで相含説を主唱するゆえんなり。

     第七十三節 心象心如の関係

 古来内観の所見に基づきて唯心論の起こりたるゆえんは、上述の諸説を見て知るべし。そのうち理性論のごときは、絶対的唯心論の論拠なり。しかれどもただその一方をとるは偏見を免れず。吾人はここに主観ありと知れば、これと同時に客観のその前に現ずるあり、われありと思えば、すでにかれありて存するを見、意識ありと感ずれば、たちまちその対象を喚起す。故に唯心論の真なるを知ると同時に、唯物論の妄ならざるを思わざるべからず。

 しかれども上述の理性の作用によりて、心象以上に心元心如あることは、明らかに知るを得たり。これすなわち内観における絶対なり。その他外観において、客観界の統一を見て物如あるを知りたるがごとく、心界にももとより統一あり。知情意のごときおのおの別々の作用は、常に統一せられて、心的作用をして有功ならしむる以上は、必ずその根底に統一するものなかるべからず。これを自覚の本体とす、すなわち心元なり、心如なり。その体霊妙なる資性を有し、霊妙なる作用を現じ、常に霊動してやすまざるは、あたかも物如が活動してやまざるがごとし。すなわち意識も感覚も情意も理性も、みなその霊動ならざるはなし。ここにおいて心象と心如との関係を述ぶる必要を生ず。

 心如と心象との関係は、物如と物象との関係に異ならず、心如は絶対にして、吾人の知識は相対なれば、相対の鏡面にて絶対を照見し得べき理なけれども、実際上相対性の内面には必ず絶対を含み、絶対性の外面には必ず相対を帯ぶるをもって、心如と心象とは互いに相包含せること明らかなり。その有様はあたかも物如と物象と互いに包含するがごとし、これもとより外界の実験をもって知るべからずといえども、内界の自覚によりて知り得るは、さきの理性作用に照して瞭然たり。かつまた古来の学説を総合して、不偏不党の判断を下すときは、必ずこの相含説に帰着するに至る。故に余は外観における象如の関係も、内観における象如の関係も、共に相含の見解をもって結ばんとす、これを象如相含説と名付く。

   第十三章 表観論 一

     第七十四節 両如相関論

 余は最初に宇宙の真相を開示せんと欲し、表裏両面より大観する必要を感じ、立論の大綱を表観裏観に分かち、その表観を更に外観内観に分かち、逐次論述してここに至り、内外両観を総合して、表観の所見を結ばんとす。

 外観にては世界の本体、すなわち物心両界の本体は、絶対の物如なることを説き、その物如が活動して、世界の大化を無始より無終に継続するを述べたり。つぎに内観に移り、心界の本体は絶対の霊体にして、その霊動によりて心海万象を開現せることを論じたり。余はこの霊体を物如に対して心如と名付くることも、さきに述べたるがごとし。しかしてこの心如と物如とは同体なるや異体なるやは、今より論究せんとする問題なり。これをここに両如相関論と名付く。

 古来諸家の説、多岐に分かれ、これを異体として絶対的二元論を立つるものあり。カント氏のごときこれなり。同体として一元論を立つるものあり、シェリング氏等これなり。しかして余は一元論をとるものなれども、あえて二元の所見を全廃するものにあらず。ただ観察の局面を異にするために、この一元二元の相違を起こすのみ。故に余の所見は一元と二元とは同体不離、互いに相包含せるものとなす。これ余の総合の大観なり。

     第七十五節 如々相含

 さきに物如と物象との相関に対して、二者の相含なるゆえんを述べ、また物心相関につきても、同じく相含の理をもって説明を試み、更にまた心如と心象とに関しても、相含なることを述べたる以上は、物如と心如との関係も相含なること、問わずして明らかなり、これを如々相含と名付く。もしこれを静的本体とすれば、一体両面をもって解説すべけれども、さきにも一言せしごとく、動的本体なれば、両面の語適切ならず、さりとて並行とするも、この錯雑せる関係を明示し難し、故に相含の語を用うるに至る。

 ここに至りて宇宙の真相を約言するに、外観にありても象如相含、内観にありても象如相含、これを総合すれば如々相含となる。更に細分すれば、物象物如相含中にも相含あり、心象心如相含中にも相含ありて重々無尽の相含なり。けだし宇宙の真相はこの外に説明する道なからん。

     第七十六節 一如の真相

 物如と心如との一体相含なるの理は、物界の根底に万象万化を統一するものあり。心界の基址に万想万感を統一するものあるのみならず、物心両界の深底にも、両界を統一するものありて、物心の一致調和を見るの事実に照しても明らかなり。その本体をなんと名付くべきや。余はこれを一如、または如元、または真元といわんとす。その一如の体に万象、万感を具備し懐抱し、兼帯し包含して物心両界を開現すると共に、万象、万感が一如真元を具備し懐抱し、兼帯し包含して、重々無尽なる以上は、一物一分子一元素中にも、一如真元を包有し、一心一感一想中にも、一如真元を含蔵し、これまた重々無尽なり。

 古今の諸家が一方一面の所見を固執すれども、その立脚地がすでに他方他面にまたがれるを知らざるは、灯台基を照らさざるとなんぞえらばんや。請う見よ、経験を起点とするも、思想を立脚とするも、その中にすでに物心両界、主客両観を前定予想しおるにあらずや。しかのみならず、すでに唯物と決定し去れば、たちまち唯心を喚起しきたり、唯心と論断しきたれば、たちどころに唯物を返響しきたり、不可知と定むれば、即時に可知を反応せしめ、相対と断ずれば、忽然絶対を誘発せしめ、一元即多元と判ずれば、多元は一元にあらざるの予想ありて伴い、現象即実在と了すれば、実在は現象の外にありとの観念を起こす。また右に現象の外に実体なしとの懐疑論を唱道するものあれば、左に実体論を歓迎するものあり、表に現実の世界は虚妄なりとの皆空論を提出するものあれば、裏に実有論を招致するものあるを見る。あたかも響の声に応ずるがごとく、影の形に従うがごとし。その状あたかも月球の引力が、地球の一面に高潮を起こしきたれば、まさしくその反面に高潮を見るとやや相似たり。これ吾人の思想自然の性にして、そのしかるゆえんは、帰するところ、象如相含、如々相含、重々無尽なるより起こること明々白々、疑うべからざるなり。

     第七十七節 重々無尽の相含

 前述のごとく両端呼応し、両極反響する有様は、対鏡の互いに相映ずるに比して可なり。ここに二個の鏡面ありて、互いに対向するときは、甲鏡の中に乙鏡を含むを見、これと同時に乙鏡の中に甲鏡を含むを見る。かくしてその相映写すること重々無尽なり。吾人の思想の反応、象如の相含も、これと同じく重々無尽なり。ひとり心象中にこの無尽の相を浮かぶるのみならず、物象中にも無尽の相を具す。鏡面の方は二個異体の相含なれども、宇宙の本体たる一如の方は、一体両象にして、その間に重々無尽の関係を有す。その状態は到底吾人が心頭に写し出すことあたわざれば、これを宇宙真相の妙中の妙、玄中の玄、玄妙の蔵と名付くるより外なし。かかる錯雑せる相含あるを知らずして、一局一面の偏見をもって解説し去らんとするも、その功を奏せざるや明らかなり。総合の大観を放つにあらずんば、いずくんぞよくこの真相を看破せんや。

     第七十八節 真相中の真相

 縦観にありて重々無尽の輪化あるを知り、横観および内観にきたりて重々無尽の相含あるを見る、これ実に縦横にわたれる重々無尽なり。もし理性の無限眼をもってうかがわば、時方両系を一心の所現と体達しきたるべし。しかるときは無限大は一針孔中にはいるべく、無限劫は一電光間に縮むべく、重々無尽の輪化も一瞬一息と化し去るべし。ここにおいて最大の極と最小の極との一致を見、最長の極と最短の極との合体を知る。更にこの理を推して一分子一元素は、宇宙世界の胎内に収蔵せらるると同時に、宇宙世界は一分子一元素の嚢底に包括せらるるがごとき相含あるを知るべきなり。

 笑は喜の発顕、泣は哀の発顕というも、喜窮まりて泣き、哀窮まりて笑うことあり。すなわち知る、喜の極は哀にして、哀の極は喜、喜中に哀を含み、哀中に喜を含むがごとく、物質を増大して無限大に達すれば、ただ空あるのみ、物質を分析して無限小に達すれば、これまた空となるより外なし。無限大と無限小とはここにおいて一致合体す。ただ物界は外部の観察によりてその一致を見、心界は内面の観察によりてその合体を知るの別あるのみ。

 かくのごとく想見しきたらば、重々無尽の輪化と重々無尽の相含との更に相含せるを悟了すべし。一心は開きて無限の時方をあらわし、一念は動きて無限の輪化を営むと同時に、無限の輪化は一念中に帰し、無限の時方は一心中に入る。これ宇宙の真相中の真相にして、玄妙の上に更に玄妙を重ねたるものというべし。

     第七十九節 神秘論の僻見

 この玄妙に基づきて神秘論を唱うる人あれども、その論また神秘に偏し、その中に不神秘を包有するを知らざる僻見となる。元来象如は相含なるが故に、不一にして不二なり、一如の一方に偏して観ずれば、神秘なるがごとくにして、万象の方面に移りて考うれば、神秘にあらず。故に神秘不神秘相待つにあらざれば、宇宙の真相を知り難し。

 ここにおいて知るべし、唯物唯心も一元二元も、相対絶対も本体現象も、経験独断も懐疑常識も、神秘不神秘も可知不可知も、すべて古今の諸説諸論、みな不一不二、相容相含、重々無尽の真相を知らざる偏見に帰するを。これ余が各方面より諸説諸論を総合して、宇宙の真相を大観したる結論なり。

     第八十節 論理矛盾の説明

 従来哲学上、論理の矛盾を除かんと欲して、諸家ことごとく苦心焦思、百方煩悶の結果、わずかに一説を案出しきたりながら、その結果やはり矛盾の渦中に投じて、進退窮谷の状に陥り、ついに論理の自殺をなすに至る。畢竟するにこれみな相含の真理を知らざるに帰す、あわれまざるべけんや。

 すべて物心両界の関係は、一方に起点を定めて一直線に進行すれば、その終極必ず矛盾の障壁に衝突するに至るは、宇宙の真相のすでにしからしむるところなり、例えばここに左図のごとき一圏あり。甲点より出発し、乙丙丁を経て進行すれば、最初の起点に復帰して、なんらの衝突を見ざるも、甲点より一直線に丙点に向かって進行すれば、丙に達してとどまり、また進むことを得ざるに至るがごとし。故にもしひとたび宇宙の真相の相含無尽なるを知りて、唯物の極は唯心となり、唯心の極は唯物となり、一元の極は二元となり、二元の極は一元となり、大の極は小、小の極は大、高の極は低、低の極は高なるを知らば、かかる衝突を免れ、論理の自殺にかかるの恐れなきを得るなり。

 もし人ありて唯物極まりて唯心となり、唯心極まりて唯物となり、いずれの起点より出発するも、ついにその元に帰り、循環するものならば、これ論理のいわゆる循環論法の過失に陥り、論証の効力なきに至るべしと問うものあらん。この過失は進行の途中においていうべきのみ。最極に至ればその本に復するは、論理のもとより許すところならざるべからず。例えば甲の定義に乙を用い、乙の定義に丙を用い、ないし幾千万回に至らば、その終極必ず初点に復せざるを得ず、これ物心両界の本来相含なるによる。故にこの相含の理は、古今数千年間における論争の乱麻を一刀の下に断じ去るを得べし。

   第十四章 表観論 二

     第八十一節 目的論器械論

 古来宇宙を解釈するに、目的論、器械論の二見あり。目的論にては、宇宙の変化は予定の目的に向かいて進行しつつありといい、器械論にては、因果の大法の支配の下に、前因後果相追うて、器械的に起こるのみという。前者は有神論者、理想論者等の唱うるところにして、後者は唯物論者、経験論者等のとるところなり。

 この二種の見解に関連して、自由論、必然論の二派あり。必然論は宇宙万象は因果必然の大法に支配せらるるをもって、真に自由独立に起こる行動のあるべき理なしといい、自由論者は物界は因果必然の支配の下にあるも、心界は物界のごとく、器械的ならずして自由なりという。ここにおいて倫理学上、意志の自由を唱うるものと、必然を唱うるものとの二派あるに至る。しかして目的論は自由論に連帯し、器械論は必然論に関連するなり。

     第八十二節 必然と自由との関係

 以上の両端二派は、いずれも相含の真理を知らざる偏執に外ならず。物心万境の相対界にありては、物界も心界も因果必然の支配の下にあるべきは当然なり。あるいは因果法は科学の基礎となり、認識の根底となるに相違なきも、外界の経験の範囲内に限るべきものにして、主観そのものを支配するにあらずと論ずるものあれども、かく論ずる論拠がすでに因果法に基づきて起こり、知らず知らずの間に、因果法の存することを予定しおるなり。その点につきては心界の霊動も妙用も、すべて必然的、器械的といわざるを得ず、しかりしこうして絶対の一如に至りては、全然自由独立にして、決して他よりなんらの抑制関渉するものあるべからず。その一如より万象を開現し、万象中に一如の理を含む点より見れば、心界はもちろん、物界にも自由行動あるべき理なり。ここに至りて目的論の所見も一理ありというべし。しかれども有神論者のごとく造物者が予定せる目的に従って、世界は進行しつつありといえる目的論は今日すでに陳腐に属し、余がとるところにあらざるなり。

 もし余の相含説の所見に基づき、物心相含、象如相含の理を考えきたらば、必然中におのずから自由あり、自由中におのずから必然あるべき理なり。故に必然論と自由論とは、これまた相含の関係を有し、器械論と目的論も同様の関係あるを知るべし。倫理上の自利利他の二論、主楽直覚の二派の、古往今来相争いてほとんど寧日なきは、やはりこの相含の理を知らざるによることも、これに準じて明知するを得るなり。

     第八十三節 自由行動

 かく論定しきたるときは、物界のごとき全然器械的に変化を継続する事々物々の中に、自由の行動ありというべきか。もしありとすれば、因果の理法の外に出づるものある理なり。果たして因果の例外ありとすれば、科学の実験は不可能なるべきはずにあらずやと、難問を起こす人あるべし。余案ずるに心界と物界とは不一不二にして、全く同一ならざれば、たとえ二者相含とはいえ、おのずからその性を異にするあり。したがって比較的心界の方に、自由行動多くして、物界の方に少なきは、もとより許容せざるべからず。しかれども物界において、すこしも自由行動なしとは断言し難し。一物と他物、一分子と他分子の間の関係は、因果必然なれども、一物一分子の中心に、他物他分子を引く作用あるがごときは、それ自体に固有せる自由行動といわざるべからず。分子元素の互いに相引き相拒む状態を、心理的の語を用いて表示すれば、愛憎二性を有するなり。そのかれを愛してかれに合し、これを憎みてこれに離るるがごときは、分子元素の自由意志より出づるものと解して可なり。また地球が大虚の中に懸かりて、その中心に他物を吸引するがごとき、太陽が周囲の惑星を引きて、その位置を保つがごとき、たとえ外来の制裁なきにあらずとするも、その中におのずから自発自由の行動あるを見る。もしまた物界全体をとりていえば、その活動の自発自由なること論を待たず。これすなわち絶対一如の資性の一部分を、その個々の体内に包含せるによること明らかなり。

     第八十四節 自因他因の解

 さきに縦観論において、現界の万象万化はみな前界の内包的因力によりて支配せられ、吾人の一挙一動まで、ことごとく前界の因果のしからしむるところなりと解説したるは、全く必然一方をとり、寸分も自由を許さざるに似たりといえども、その因に自因と他因との別あり。他によりて抑制せらるる方を他因とし、その体より自発する方を自因とす。前述のごとく現界の一変一化が、現界および前界の遠因近因によりて支配せらるるは他因にして、その点においては全然必然なれども、これと同時に自発独立因、すなわち自因あり。例えば吾人が前界の因によりて、今日の境遇あるをきたせるは他因なれども、吾人の一挙一動が、後界の境遇を造り出す原因となるは自因なり。もし他因のみをもって世界の大化を解するときは、吾人の一挙一動が、後界を造出する親疎の因となることあたわざるに至り、一切の動作はすべて世界の太初に必定せられたりというがごとき宿命論に陥り、象如相含の理に戻ることとなる。これ余がとるところの主義にあらざるなり(第六十七節参照)。

     第八十五節 天運命数の説明

 論じてここに至れば、天運命数運命のなになるをも解説せざるべからず、すべて吾人の現境は因果法の支配の下にありて、不摂生すれば病気を起こし、注意を怠れば災害を招く、これを諺に自業自得という。しかるにいかに摂生しても病気にかかり、なにほど注意しても災害を招くことあり、しかのみならず因なくして特発の病気、偶然の出来事の起こるあり。かくのごときは吾人の知見がその原因を発見せざるのみにて、決して無因偶発のあるべき理なしという。しかれども人寿の長短のごとき、禍福の定まりなきがごとき、あるいは途中において落雷のために震死し、あるいは暗夜に千金を拾得せるがごときは、人をしていかに必然とはいいながら、因果の理外において、冥々のうちにあるいは罰し、あるいは賞するがごとき冥罰冥護あるかを想像せしむる場合あり。これを儒教にては天運命数のしからしむるところとして、あきらめくるも、そのいわゆる天運命数にも必ずしかるべき理由なかるべからず。この点は仏教にて過去の宿因業報となせども、その過去なるものも茫々漠々として、人をして信ぜしむること難し。しかるに余の過現来三界、因果相続の説明によりて、天運も命数も前界前々界ないし無始の過界より相続せる潜因の成熟発現したるものとなさば、始めて解説するを得べし。ここにおいて諸学の説明の未だ吾人に満足を与えざる運命の原因は、明々白々となれり。

     第八十六節 進化原因の分類

 進化論において進化の原因を競争淘汰に帰するも、人為淘汰、自然淘汰、以外に進化の原因となるものあり。例えば偶然機会のごとき、天運のごときものが、助因となる場合なきにあらず。また世界および生物が進化開発するには、必ず競争淘汰のごとき外部の事情の外に、内動自発の原因なかるべからず。これを表示すれば左のごとし。

 この表中の機会天運のごとき、または物的心的内因のごときは、共に従来の進化論にて説明しあたわざるところなり。しかるに余の過現来三界説によれば、その内因のごときは前界の内因の継続にして、天運のごときは前界の外因の再発として解説するを得べし。そのうち、また余がいわゆる自生自発の自因あることも、あわせて考

  進 化 外因 淘汰 人為

            自然

         機会 自作

            天運

      内因 物的

         心的

えざるべからず。

 また進化論のいわゆる競争淘汰も、目前の世界において同種他類の間に行わるるのみならず、広く世界全体に対して、吾人は競争淘汰を実行しつつあるを忘るべからず。もし吾人の一挙一動が後界を造出する原因に加わるものとすれば、吾人は後界に良果を招き、向上果を開かんために、広く現界の万象万類に対して、大いに競争せざるべからず。ここにおいて応化遺伝に世界的応化遺伝の存するがごとく、競争淘汰にも世界的競争淘汰あることを知るべし。

     第八十七節 因果法の分類表

 かくのごとく運命を前界の必定に帰するときは、宿命論に陥るがごときも、余の所見のその論に異なるは、自因を立つるにあり。すでに前界より必定せる運命といえども、吾人の自発的行動によりて、多少の異動を起こさしむることを得るは、自因の存するによる。よって因果の理法を了解するには、左の数種あるを知らざるべからず。

  因果法 自因

      他因 近 因 内因

             外因 親因

                祖因

         遠 因 正因

             助因

         無限因

 この近因中に内因外因の別あることは、横観論(第四十八節)においてすでに述明せり。また現界において吾人の一生間に起こしたる因が果を招くものと、父祖より伝来せる因が果をきたすものとの二様あれば、仮に前者を親因と名付け、後者を祖因と名付く。つぎに近因遠因の説明は、前述のごとく現界に起こしたる因と、前界より継続せる因との相違なり。その中に正因助因を分かちたるは、前界の因が正しく吾人の現界再生を促すに至るを正因とし、その前因が間接に国家社会、または世界万象の再現を助くるに至るを助因とす。つぎに無限因とは、無限の過界より継続してきたるものをいう。もしこれを細論すれば、内因中にもいくぶんの外因を含み、外因中にも多少の内因を含み、自因他因もまた互いに相含み、その関係は重々無尽なり。

   第十五章 表観論 三

     第八十八節 霊魂問題

 表観の最後に霊魂滅不滅の一大問題を解決するの必要を感じたれば、これに対する意見を述ぶべし。その先決問題として、霊魂とは心界の本体、すなわち心如を指すか、心象を指すかを定めざるべからず。もしこれを心如とすれば、その不滅なること論を待たず。心如と物如とは同体にして、いわゆる一如なり、真元なり。その中に万象を包含して、重々無尽なりとは、、余のすでに説明したるところなり。故に霊魂の本体は無始より無終まで、常住不滅なりというべし。たとえ一如の活動によりて、世界の大化を起こし、過現来三界の間に、無数回輪化を反覆することあるも、霊魂の本体に増減変化あるにあらず。しかれどもこの一如は宇宙の本体なれば、これを指して直ちに吾人の霊魂とはいい難し。たとえ吾人の霊魂が死後これに同化すると定むるも、霊魂不滅の問題は、人々個々の霊魂につきて解決せざるべからずとの論ありて起こるべし。

     第八十九節 人々個々の心元

 人々個々の霊魂にも、心象心元の別あり。知情意のごときは心象にして、心面に起こるところの波動に過ぎず。この波動のよりて起こる本体は、心元すなわち心如にして、帰するところ宇宙の本体たる一如と同体なれども、その間におのずから異同ありて、不一不二の関係を有す。すなわち不一なるが故に、吾人の心元は個々差別あり、不二なるが故に、差別の心中に絶対を想見するを得、もしこれを外面より観じきたらば、宇宙の本体、すなわち一如は全然無差別絶対なり。これに反して個々の心元は差別にして、しかも一分絶対を帯ぶるものなり。もし内面より考察を下さば、その間に重々無尽の相含あるを見るべし。

 あるいは人ありて、個々の心元は全く一如と別物なりとせんか。もし果たして別物ならば、吾人の心眼をもって絶対をうかがうことあたわざるはずなり。しかるに何人も理性の作用によりて、無限絶対を想見するにあらずやと尋ぬるあらん。古来唯心論の根拠は全くここにあり、これ吾人の心界中に絶対を帯ぶるによると解するより外なし。しかして吾人が絶対の真情を明知することあたわざるは、その心が差別の境遇にあるによるといわざるべからず。しからば余のいわゆる理性信性は心元心如なるかというに、これ心的無限性にして、心如にあらざることは、内観論の心界全図(第六十一節)を参照すべし。

     第九十節 霊魂の内観外観

 かく心元を解釈して、ここに霊魂は個々の心元なりと定め、その果たして不滅なるかを説明せんとす。その説明にはおのずから内観と外観との二様の見解あり。内観の説明は心界を本拠として、宇宙を観察する方なれば、従来の唯心論の所唱と同じく、霊魂不滅に論到するは言を待たず。これに反して外観の方は、唯物論の起点なれば、霊魂滅亡説に帰着するはずなれども、余は従来の唯物論者、経験論者とその見を異にし、現界の前に世界あり、前界の前にも世界ありて、一進一退、一開一合を反覆するゆえんは、縦観論において詳述せしところなり。また生物人類も現界において始めて現出せるにあらず、前界にも前々界にも数回出没せしことを説き終われり。更にこの理を後界に移して考うるときは、吾人の一生は、来界無窮の間に無数回、出没せざるべからざることを知るべし。果たしてしからば吾人の生命も霊魂も、無限に継続するものと断言して可なり。ただその間に出没起伏の波動あれば、世間これを外観して生死ありというのみ。

     第九十一節 霊魂再現の理由

 吾人が現界に一生を得たるは、前界において一生を営みし原因が、ひとたび潜伏して現界に至り、更にその時期の熟するを待ちて、潜因は顕因に変じたるなり。故に吾人の霊魂にも、世界の大化のごとく一開一合、一動一静あるを知るべし。されば吾人が現界においてひとたび死するも、顕勢の状態にありし霊魂が、潜勢の状態に帰し、動的は静的となり、活動の現状は眠息の姿となりて後界に移り、その内因と時機との成熟するを待ちて、再び現生すべし。その間に吾人の形骸をなせる物質的分子元素は瓦解飛散して、遠き将来には必ず星雲状態に帰するに相違なきも、ひとたび吾人の一生を営みたる原因、すなわち因力は、後界に継続し、その成熟すべき時機に至り、更に物質的分子元素をその中心に吸集して、形骸すなわち吾人の肉体を造り出し、後界の一生を開現するに至るべし。

 今ここに余の所見を明らかにせんために、更に語を換えて弁明すべし。そもそも吾人がこの世に来生するは、肉体より霊魂を産み出せるにあらず、また霊魂より肉体を造り出すにもあらずして、吾人の身心を造出すべき因力の前界より相続しきたるあり。これを仮に生元と名付けん。その生元が外因と共に物質をその中心に吸引招集して、肉体を構成すると同時に、精神霊魂の発現を見る。しかしてその生元とは余のいわゆる因心なり。この因心が星雲胎中に潜伏して今日に伝わり、父祖より受くるところの外因と相合して、吾人一生の結果を招ききたすなり。現界より後界に再生する場合も、これに準じて推知すべし。

 この因心吸集の状態は、これを例うるにあたかも一年草が秋霜のときに枯落して、種子をとどめ、その種子が翌春を待ちて再び発生するがごとく、吾人の霊魂もまたしかり。現界一生間の一言一行が、霊魂の自体に薫習し、過界より伝来せる旧因に、更に新因を付加することとなり、旧新相合して新因心を生じきたるべし、これすなわち種子なり。この種子が大にしては後界開発の助因となり、小にしては吾人再生の正因となりて、後界に継続すべし。

 以上の所説はあまり憶想に過ぎたるがごときも、過現来三界を通じて、因果永続するの理を推究しきたらば、何人も必ずかくのごとく論定せざるを得ざるに至るべし。これ余が外観上、人々個々の霊魂不滅を唱うるゆえんの大要なり。

     第九十二節 霊魂無限の出没

 前述の霊魂は世人の一般に想像するがごとき霊魂にあらずして、吾人の心界に相続する因果の中心点、すなわち因心をいうなり。世人は多く霊魂は他より吾人の肉体中にやどりきたり、その死と共に肉体を離れ去るがごとく信ずれども、これもとより学術の許さざるところにして、唯物論者が無霊魂説を唱うるも、その論旨は主としてこの俗解の霊魂を否定するにあり。この点においては余も唯物論に賛同せんとす。しかれども心界に相続する因心を指して、霊魂不滅を論ずるは、決して俗解と同一視すべからず。したがって唯物論者の立証のこの説に対しては、極めて薄弱なるを覚ゆ。

 唯物論者中の一人が無霊魂説を唱えて曰く、吾人の肉体は薪のごとく、精神は火のごとし、薪滅して火存する理なく、身朽ちて魂残る理なしと。その皮相の浅見たるは一笑せざる得ず。吾人の身心の場合はこれに異なり、身体の薪、さきにありて、霊魂の火、後にこれより生ずるにあらず、身体を造り出だす前に、精神作用を産み出すべき生元あるを要す、これ身心の根元なり。その生元すなわち因心が外因に促されて、身体を造出すると同時に、精神を発現することは、前節に述ぶるがごとし。

 およそ吾人の受胎生育するには、必ず近因遠因、内因外因のごとき原因なかるべからず。その中心点すなわち因心に、外囲より物質成分を吸引招集して、吾人の形体を造出することも、さきにしばしば述べたるところなり。その状態は草木の種子が、外界より物質成分を吸収して生育するに同じ。その近因は父祖の遺伝分身なるべきも、その遠因を推究しきたらば、生物初発の前にさかのぼらざるべからず、その極ついに前界より継続せる潜因なることを知了するに至るべし。故に吾人の生命も霊魂も、その遠因は前界にあり、前界の遠因は前々界にあり、前々界の遠因、すなわち無限因は無限の過界にある理なり。かく論定しきたらば、吾人の霊魂は無限の過界より不断不滅に連続しきたることを知るべし。

 更にこの理を後界後々界ないし無限の来界の上に移しきたらば、霊魂の無限に向かいて永続すべきは明らかなり。ただしその間に世界大化の波動に従い、出没起伏することは決して免るべからず。あるいは大化の大波動の外に、無数の小波動あれば、その小波動の間に、一界紀中といえども、数回の出没起伏あるやも計り難し。この理を約言すれば、霊魂は無数回生滅しつつ、無限の来界に向かいて不生不滅を継続するなり。その生滅の方面のみを見るものは、霊魂滅亡説を唱え、不生滅の方面のみを見るものは、不生滅論をとるのみ。これ余が外観上における霊魂不滅の論旨なり、その他の説明は裏観論に譲る。

   第十六章 裏観論 一

     第九十三節 裏観の義解

 表観論において宇宙を物心内外両面より観察し終われば、その他に観察する道なきがごときも、余のいわゆる表観は、相対の境遇より絶対を観察したるに過ぎず。物界も相対なり、心界も相対なり、吾人の直接に接触する万象万境は、ことごとく相対なり。しかしてこの相対の外に絶対ありとすれば、相対の此岸より絶対の彼岸を望む外に、絶対の彼岸より相対の此岸に通ずる一道なかるべからず。もとより相対絶対は一体不離なれども、不一不二にして、同体なると同時に異体なり。もしこれを異体とすれば、彼岸より此岸を観察し得る道理なり、これを裏観という。

表観にありては、物心相対の此岸より絶対一如の彼岸に及ぼせる方面を観察す。

裏観にありては、絶対一如の彼岸より物心相対の此岸に及ぼせる方面を観察す。

 これ余が表裏二観を分かちたるゆえんなり。

     第九十四節 此岸彼岸の相望

 かく論定するときは、必ず人ありて吾人は相対の境遇にあるものなれば、此岸より彼岸を望見することを得べきも、彼岸より此岸を観察するがごときは、不可能なるべしといわんに、もとより吾人が彼岸の本境に身心を寄寓せるにあらざれども、吾人の理性の力よく絶対一如の端的を想見することを得るをもって、その想見の許す限りは、この身を彼岸に寄せて、此岸を望見することを得る理なり。しかのみならず理性によりて絶対の実在を認知したる以上は、これに直達合体する道あるべきはまた当然の道理ならずや。

 例えその所説が憶想に過ぐとするも、従来のごとく此岸一方の所見は偏執たるを免れず。とかく古今の諸家が吾人は宇宙の大海に浮かべる一微塵と知りながら、なにごとを考うるも人間を本位とし、人知を中心として、世界万象に批評を下す癖あり。ややもすれば世界は人のために造られ、万象は人を楽しましむるために備えられたりとなせるがごとき陳腐説を繰り返すこと多し、これ決して宇宙の真相にも人類の真相にも悟入する道にあらず。故に余は別に絶対一如の彼岸に体達する道を求め、彼岸の方面より物心相対の此岸を一瞥せんとす。

 更に余がとるところの象如相含の理より考うるに、吾人の心底に絶対を包含しおるものなれば、吾人がこの心を絶対の彼岸に寄せて、考察するを得るはもちろんにして、その考察によりて絶対そのものが、吾人の心海にいかなる波動を送りきたるかを感知するを得べし。これすなわち裏観論の期するところなり。

 この観察は他例に照しても考証すること難からず。主観と客観と相対向する以上は、主観の此岸にありて観察するのみにては、世界の真相を開示することあたわず、必ず客観の彼岸よりも観察せざるべからず。これと同様に絶対と相対とはこれまた相対向するものなれば、相対の此岸より観察するのみならず、絶対の彼岸よりも観察する道なかるべからず、これをここに裏観論という。

     第九十五節 絶対性因果法

 あるいは人ありて、吾人の論理は相対性のものたり、因果の推理も相対なり。この相対的推理をもって絶対を測定せんとするは、あたかも寒暖計をもって重量を計らんとするがごとく、不可能に属す、いわんや絶対の彼岸にありて相対を測定せんとするをや。その言ほとんど狂人の所談に近しと評するものあらん、余これに答えていわんとす。相対より絶対を推理し、絶対より相対を測定するは、いずれも因果の規則によらざるべからず。しかして因果の推理は相対性なりといえども、相対中に絶対を包含するがごとく、相対性の因果法にも、いくぶんの絶対性を帯ぶることあるを許さざるべからず。もししからずんば、吾人が絶対そのものにつきて有とも無ともなんともかとも、一言半句を挟むことあたわずして、ただ黙してやむより外なかるべし。

 しかるに古来の諸家が多く絶対を喋々するはなんぞや、不可知的中に一分可知的を含むことを許すにあらずや。見よ絶対相対の関係を説き、絶対の実在等を唱うる論者を。これもとより相対の推理をもって絶対の一端を測定し得べしと自ら許すものたるや明らかなり。果たしてしからば彼岸の一端より此岸を推測し、かつかれよりこれに及ぼせる消息を自覚し得るは当然のことなり。故に余は因果の推理に相対絶対両性を分かち、その絶対性の方は相対より絶対に対向する推理をいう。しかして余のいわゆる理性はこの作用を有するをもって絶対に論到するを得るなり、すなわち左表のごとし。

  因果法 相対性………心象中知力の作用はこれによる

      絶対性………心象中理性の作用はこれによる

     第九十六節 人間と一如との両本位

 かく論定して物心両界の本体たる一如を考うるに、その体活動性なるをもって、世界の大化を開示し、時方両系の無限的形式の間に、無限の輪化を反覆しつつあることは、外観論においてしばしば述べたるところなり。もしこれを内観によりてうかがわば、霊動の原体となるべし。霊動活動を兼ねたるものこれをなんと名付くべきや。余は仮にその作用を妙動または妙用と名付け、その体を妙体と呼ばんとす。その体すでに霊活の妙用あれば、必ず吾人の心界にその妙動の内波を送りきたることなきを得ず。故に表観論においてこの妙体の実在を知りたる上は、その妙用の直接に吾人の心裏に及ぼす状態を述べんとするもの、これすなわち裏観論なり。

 されば表観は向上にして、裏観は向下なり、前者は人間を本位としたる観察にして、後者は一如を本位としたる観察なり。この両面の観察を待ちて、始めて宇宙の真相を人力のできあたう限りにおいて、根底より開示するに至るべし。

     第九十七節 一如の妙動

 ここにまた一論ありて曰く、一如霊動の妙用は世界の開発なり、宇宙の大化なり、その大化の間に物心万境を開現す、この外になんぞその妙用の吾人に及ぼすことを知るを要せんやと。余これに答えていわん。世界の開発、宇宙の大化は、外観にして内観にあらず、表観にして裏観にあらず、表観にありては、宇宙の本体の主として物心両界の外部に発動せる状態を観察し、裏観にありてはひとり吾人の心内に感受する状態を観察するの別あり。ここにおいて宇宙物心の本体たる一如の妙動に、内動外動の二種あることを知らざるべからず。しかして外動はその本体の外に向かいて発動する方にして、内動は内に向かいて発現する方なり。

  一如妙動 外動………表観論の所見のごとし

       内動………裏観論の所見なり

 この内動は日月山河はもちろん、草木禽獣も感知することあたわずして、ひとり吾人人類の心海最も深き所において感見するのみ。これ人類が万物の長たり霊たるゆえんなりと知るべし。

     第九十八節 小宇宙大宇宙

 人は小宇宙なりとは、先輩すでに唱道せるところなり、しからば宇宙は最大の人たるべし。世界を縮小すれば吾人となり、吾人を拡大すれば世界となる理なり。故に吾人をば世界の縮図、宇宙の模型と見て不可なかるべし、あるいはまた吾人は世界の子にして、世界は吾人の親と見るも可ならん。ここにおいて宇宙胎内の神秘を知らんと欲せば、吾人の心底を探るにしかず。草木や禽獣をなにほど解剖し分析しても、宇宙の本体の裏面をうかがうべからず。この点は実に吾人の専売特許にして、自余の生物の決して侵すべからざる天賦の特権なり。余が裏観を吾人の心底に限るゆえん、実にここにあり。

 果たして宇宙を吾人の大なるものと見るときは、吾人に身外の状態と心内の状態とおのずからその別あるために、身外より観察すると心内より観察するとの二様あるがごとく、宇宙自体にもこの二様なかるべからず。しかして心内の情況は身外を探りても知るべからず、必ず自心の上に感知せるところによるを要するがごとく、宇宙内動の真相は、これと直接に連結せる吾人の心底最深の所に、自感自知する消息にあらざれば知り難し。これまた裏観の必要なるゆえんなり。

   第十七章 裏観論 二

     第九十九節 一如妙動と心象

 吾人の心底にいかなる作用ありて、宇宙本体の裏面すなわち一如の神秘的内状を感知するを得るかというに、さきに第六十一節に表示せる心界の全図に照さるべからず。心界には心元すなわち心如と心象との二種ありて、心如は絶対なり。たとえ人々個々おのおの別の心如は差別的絶対にして、宇宙の一如に対すれば真の絶対とはいい難しといえども、心象に対すれば絶対なり、換言すれば相対中の絶対なり。その心象中に絶対に接する方と、相対に関する方との二種を分かち、前者は理性信性にして、後者は知情意なることは、前に表示せるがごとし。この理性信性ともに無限性を帯ぶるをもって、ひとり心如の絶対を感知するのみならず、一如の妙体に接触するを得べし。しかして理信二性の性質作用がいかなる相違あるかは、余がこれより論ぜんとするところなり。

     第百節 一如の能動受動

 理性は有限性知力に対すれば、無限性知力とも名付くべきものにして、知力の向上と見て可なり。吾人はこの理性によりて絶対一如の実在を知了するなり。古来哲学上にて一如を論ずるは、みなこの理性の作用による。しかしてその理性たるや、心界の向上的作用にして、吾人の心地より進んで一如を探知する方なり、決して一如の妙動妙用を吾人の心地に感受する向下的資性のものにあらず。これに反して信性は、一如の妙動妙用を直接に吾人の心底に受納する方なり。つまり吾人の方よりいえば、理性は積極にして能動なり、信性は消極にして受動なり。もし一如の方よりいえば、理性かえって消極にして受動となり、信性ひとり積極にして能動となる。故に裏観は全くこの信性によるものと知るべし。

     第百一節 一如内動の消息

 信性によりて一如内動を感知する状態は、知情意はもちろん、理性といえどもあずかり知るところにあらず。知情意の動波全く静定し、理性の霊動も休止せる場合に、心海最も深き所、あるいは心天最も高き所より一閃の霊光を照受するがごとき自覚あり、あるいは一声の天籟を聴取するがごとき感応あり、これを一如内動の消息という。けだし吾人の有する人々個々おのおの別の意識が、ひとたび無思無念の無意識的状態となり、ここに大意識の新たに開眼せるがごとき自覚ありて、一如の彼岸より向下しきたるもの、これその消息なり。その場合にありては、理性も静止眠息の状態となり、すべて人心本位の思想観念のひとたびその力を失いたるがごとき状態に入るべし。しかしてその味はいわゆる言語道断、心亡慮絶ともいうべく、決して他人に口伝すべきものにあらず。妙のまた妙、玄のまた玄の上に、更に玄妙を開きたる不可得の境遇なり。

 古来の宗教にて、あるいは神秘といい、あるいは天啓と名付けたるものは、この不可得の境遇において受得せる消息に与えたる語なるベし。あるいはまた天人感応、神人冥合と伝うるものも、この消息の外にあるべからず。故に余は真正の宗教は、この裏観に基づき、信性によるものと信ず。

     第百二節 信性上の自感

 砂糖は白きものなり、雪のごときものなり、塩に似たるものなり、水に溶解するものなり、甘蔗より製出せるものなりとは、他人に口伝すべき点なれども、その甘き味のいかんに至りては、到底言語をもって写すべからず、ただ己の心にて感知するより外なし。これ卑近の例なれども、いくぶんか理性信性の別を示すに足る。

 理性上における一如の霊動は他伝すべきも、信性上における一如の妙動はただ自感するあるのみ。故に理性によりて得たる絶対の消息は、門外の風光を伝うるのみにて、未だ関内の真の消息にあらず、信性上に感見するところこそ、一如の直接の啓示なれ。理性は一如に接触するも、なお外観の位置にあり、これに反して信性は一如と合体同化したる場合なれば、その真実の内情はこの信性の消息を待たざるべからず、宗教の高妙幽玄なることこの点に至りて始めて知るべし。しかるに哲学界の諸家が、多く理性の作用をもって宗教の真理をうかがわんとす。これあたかも目をもって味を判ぜんとするの類にして、愚もまたはなはだしといわざるべからず。

     第百三節 理眼と信舌

 人体には眼官と舌官とあるがごとく、人心にも理眼と信舌あり。理性は眼をもって見るがごとく、信性は舌をもって味わうがごとし。絶対一如の外相を望見するは理眼の力にして、内情を感知するは信舌の力なり。一は絶対の真相を認め、一は一如の妙味を感ず。この二者を総合しきたりて、始めて宇宙本体の全相を真実に開示し尽くすこと得べし。

 従来の哲学が、理眼あるを知りて、信舌あるを知らざるために、宇宙の全相を誤認したるがごとく、従来の宗教も、信舌のみによりて、理眼を欠きたるために、絶対の真情を誤解せること多し。これ共に不具の妄見たるを免れず。世のいわゆる迷信はこの妄見より起こる。よって今後の宗教も哲学も、共に吾人の心中に理眼信舌の両官あることを忘るべからず。

     第百四節 歓天楽地

 知情意または理性の上にありては、人力本位なれば、その進行の途次、有限微力を感知し、不自由不如意を自覚して、不安の念を起こし、不満の嘆を発し、あるいは煩悶し、あるいは悲観することあるも、信性の上にありては、絶対本位なれば、一如に同化して、その妙用を感知し、その妙味を受得して、知らず知らず不安の念は安楽の思に変じ、不満の嘆は満足の声に化し、人をして歓天楽地の間に、手の舞い足の踏むを知らざらしむ。これ空想にあらずして事実なり、実験の結果なり、他人の実験にあらずして自心の実験なり。何人も他人の力を待たず、自己の心門を開きて、この状態を実験し得べし。もしこれを疑うのがあらば、自心において実験するにしかず。

 連日連夜目をもって砂糖を熟視しても、その甘味を楽しむことあたわざるが、ひとたび舌をもって味わいきたらば、即時に楽感を起こすがごとく、楽天の真味は信性を待つにあらざれば決して知るべからず、宗教の楽天実にここにあり。しかるに宗教上厭世を説くことあるは、迷前の状態をいうのみ。もし悟後に至らば、厭世全く地を払い、泰然として歓天楽地の間に逍遥し得るは必然なり。世間もし煩悶厭世を病むものあらば、請う自心の上にこれを試みよ。

     第百五節 信性の妄断

 古来信性上にて感受したる一如の妙味より空想を起こし、その本源は宇宙の外にあり、その実体は世界の前にありと誤解し、神は宇宙以外、世界以前の実在のごとく教うる宗教あるも、これもとより迷見なり、妄断なり。その実在を推知するは信性の務めにあらずして、理性の任なり。その点につきては、信性は舌ありて眼なきものなれば、盲者にひとし。もし盲者が自ら外物の実在を想定したるときは、大なる誤解を起こすがごとく、信性の舌のみをもって、一如の実在を判定すれば、妄見迷信に陥るは当然なり。故にこの点は理性を待たざるべからず。しかりしこうして理性の指示するところに従わば、一如の本体はこの宇宙世界と同時同所の実在なるを知る。近来哲学上に汎神教の歓迎せらるはこの理による。ここにおいて宗教は哲学の研究を待たざるべからざるゆえん明らかなり。

     第百六節 古今の宗教

 広く古今の宗教を一観するに、あるいは拝物教あり、あるいは拝人教あり、あるいは拝天教あり、あるいは一神教あり。その数多しといえども、いずれはこの一如の妙動妙味を、信性の上に感受感得したるより起こりしに相違なかるべし。ただその当時哲学の知識に乏しく、理性の心眼の未だ明らかならざりしために、妄想をめぐらし、妄断を下し、その本源実体をあるいは日月に帰し、あるいは山川に帰し、あるいは人祖に帰し、あるいは神は天国にあり、神は耳目を具すと思い、あるいは神は世界を創造し、万有を支配するものと信じ、拝物、拝人、拝天等の諸教を生ずるに至れり。その後哲学ようやく進み、理性ようやく明らかなるに従い、万有神教すなわち汎神教のごときもの起こり、宇宙すなわち神なり、万有ことごとく神なり、宇宙を離れて神あるにあらず、万有を外にして神の存するなしとの説を見るに至れり。これ宗教は哲学と共に進歩するゆえんにして、宗教の進歩に哲学を要するゆえんなり。

 以上のごとき雑多の宗教も、決して哲学者の一部の考うるがごとく、無知の愚民の恐怖心や利己心より起こりたるにあらずして、たとえ理性の眼の未だ開けざるにもせよ、暗裏に一如の内動を自心に感受したるに相違なし、ただ理眼を欠けるために妄断をなせしのみ。一神教のごときは拝物、拝人に比すれば、一段の発展を加えたるものなるも、造物主は宇宙の外、世界の前にありて、己の意志をもって天地万物を造出主宰すというがごときは、妄想迷信を免れ難きも、これまた真正の宗教に進向する途次にあるや疑いをいれず。かくして理性の心眼いよいよ明らかになりたるときは、宇宙の活動、霊動、妙動がすなわち神の作用にして、その体に冥合同化するは信性のうちにもとめざるべからざるを知るに至るべし。

   第十八章 裏観論 三

     第百七節 神秘論の根拠

 古来宗教はもちろん、哲学上においても神秘を説く一派あり。余思うに、神秘もまた一面の所見にして、一理一長あれば、決して迷信妄想として排斥すべからざるも、その一方のみを偏信すれば、僻見たるを免れず。およそ神秘に外観よりここに論到するものと、内観よりここに帰着するものの二種あり、今その別を述ぶべし。

 仰ぎて天体を観ずれば、無限の方系の間に、無限の世界あり、無限の変化あり。その間におのずから整然たる秩序を見、美妙なる光景に接す、これ実に神妙不可思議にあらずや。また俯して大地を観ずるに、山川の美、生物の妙、一として不可思議ならざるはなし。水を分析すれば、水中にも不可思議あり、花を解剖すれば、花中にも不可思議あり、なかんずく人類のごときは不可思議中の不可思議というべし、これ外観上における神秘の観念なり。外界万象の間にかかる神秘あるを忘れて、科学者はこれを排斥せんとす。しかして科学者自身が往々世界に実験の及ばざるところあるを覚知す、これすでに神秘を自白するものにあらずしてなんぞや。

 つぎに内観より心界の無限霊妙を推究して、神秘の存することを証示するものは哲学の理想なり、理性なり。ことに信性の方面にきたりては、徹頭徹尾、神秘不可思議といわざるを得ず。この信性理性によらざるも、さきに内観論(第六十九節)において証明したる唯心説を一考すれば、この世界は感覚の所現なること明らかなり。すなわち吾人の世界は、吾人の感覚上の所現に過ぎざるなり。もしここに吾人に百倍千倍する高等の感官を具するものありと想せんか。その感官の前に現ずる世界は、全然別世界、別天地ならざるべからず。例えば吾人の肉体は可衡的物質より成るも、もし不可衡的エーテル分子より組織せられたる身体ありて、五感のみならず、百感千感の官能を有し、かつその作用極めて精微なるものありと定めんか。その感官の上に現ずる世界は、吾人よりこれを見るに、その甚深微妙不可思議なること、到底吾人の想像しあたわざるところならん。これもとより空想に過ぎざるも、感覚の性質を審査し、下等動物と人類との感覚所現の異同より推測しきたらば、全く架空の妄想にあらざるを知るべし。

 これを要するに神秘論必ずしも迷見にあらず、内外両観のすでに認むるところなること明らかなりといえども、これと同時に神秘の中におのずから神秘ならざるあり、不可知的の中におのずから可知的あることを忘るべからず。

     第百八節 宗教の神秘

 宗教はこれを哲学に比するに、神秘を本領とし、不可知的を根拠とするものにして、さきに余が一如内動の消息は、言思共に泯亡するところよりきたるといいたるはこれなり。この消息を伝うるものが宗教の本領なればその神秘なること当然なり。しかれども無言中に言あり、無思中に思ある道理なれば、宗教の対象は神秘なればとて、全くその形容を外説表示すべからざるにあらず。例えば砂糖の味はいうべからず、告ぐべからざるも、なお比論をもってそのいくぶんを口説言外することを得るがごとし。もしいかなる方法手段によるも、その神秘の消息を漏らすことあたわざるにおいては、宗教の布教伝道のごときも、もとより不可能に属する道理なり。故に余はここにその無言中に言路を探り、無思中に消息を伝えて、その神秘の曙光を開かんとす。

     第百九節 無時方の一点

 宇宙の本体は自体に固有せる活動をもって、時方両系の無限的形式の間に、世界の大化を無限に営みつつあることは、吾人の決して疑うべからざるところなるも、時方両系は形式にして実体にあらず。もしこの形式を除き去らばいかん。宇宙の無限大は一塵となり、無限劫は一刻となるべし。その塵なお延長を有し、その刻なお連続を有す。されば無延長、無連続の一点となりて終わらんのみ。しかるときは天もなく地もなく、物もなく心もなく、古もなく今もなく、真の一点あるのみ。もしその一点なお時方両系に関係ありといわば、余はこれを一無と名付けんとす。この一無に達すれば、吾人の生死去来、彼我自他のごとき一切相対差別の見は迷妄となり、夢幻となり虚無となるべし。世に現実世界をもって大夢となすの説あるも全く一理なきにあらずというべし。

 今この一例につきて考うるも、もし絶対の彼岸にありて相対の此岸を看過しきたらば、吾人の正見がかえって妄見となり、妄見がかえって正見となることなしというべからざるを知るべし、これ宗教上にありて別途の消息を伝うるゆえんなり。しかしてその別途の消息とは、一無の中に有あり、一点の中に動ありて、吾人の信性上に一如の彼岸より、不可言、不可説、不可得の衝動あるを感ずるをいう。そのときの吾人の心状は、前述のごとくすべて人身を中心とし、人知を本位とするところの心機が一転して、無念無想の死的状態を保ち、時方両系を超絶せる境遇に住せざるべからず。

     第百十節 明者と盲者

 動物中には白昼に盲にして、暗夜に明なるものあり。暗夜に盲にして白昼に明なるものあるがごとく、信性は表観に対して盲者なれども、裏観にありては明者なり、理性は表観において明者なれども、裏観に向かいては盲者なり。故に信性の消息を表観に伝うれば妄断となり、理性の観察を裏観に移せば妄見となることあり。これ絶対に対する向背の相違より起こる結果なれば、勢いの免るべからざるところなり。

 しかるに古来の哲学者が多く理性を偏信するの極、信性より得たる宗教上の消息は、一も二もなくことごとく虚妄なりとして排斥せんとす、なんぞ思わざるのはなはだしきや。白昼を見る眼と、暗夜を照す眼と、二者を兼備するにあらざれば、昼夜にわたりて外界を明知することあたわざるがごとく、理性信性の二者相待つにあらざれば、一如の真相を完全に知了することあたわず。よって哲学上においては、信性の上に一如の内情を啓示しきたる宗教の消息もまた一考せざるべからず。

     第百十一節 吾人の再生

 吾人の一生は過界より無数回、浮沈出没を反覆して現界に至り、現界より同じく反覆して、来界無限に向かいて永続するの理は、外観のもたらすところの報告なり。ここにおいて吾人は現界に死するも、真に死するにあらずして、ひとたび眠息の状態に帰し、更に後界に至り永眠より一覚し、外界に向かいて心眼を開くことあるべし、これ吾人の後生なり。後界においてひとたび死するも、更に後々界に至りて再生し、ないし過界無限に向かい、生々死々、輪転窮まりなき道理なり、これ宇宙大化の大波動につきていうのみ。もし星雲より星雲に移る一界紀の間にも、宇宙万境彼此無限の天界において、進化退化の小波動、多々あること明らかなれば、吾人の再生は必ずしも後界を待つを要せず、一界紀間の小波動ごとに幾回となく出没生死を反覆するやもまた計り難し。とにかく、吾人の一生の反覆永続すべきは世界輪化の外観に照して明らかなり、これ表観上の所見のみ。

     第百十二節 一如の光景

 もし裏観上吾人の信性の伝えきたる消息によれば、心海の動波ひとたび平穏に帰し、一念不生、寂静無為のとき、心天最も高き所より返照しきたれる一如の光景に接するときは、一切差別の見地を脱離し、我なく彼なく、自なく他なく、超然として絶対の彼岸に即到融合するを自覚す。理性にありても絶対の光景に接することを得といえども、その光景は人位の此岸より望見するまでなるが、信性はしからず。わが心と絶対と冥合して、吾人の心頭に直接にその光景を浮かぶるなり。これいわゆる神人冥合の境界にして、象如同化の妙境を実現せるものというべし。このときの消息こそ宇宙内面の深秘をもらしきたるものなれ。

 表観にありて吾人は時方両系の間に、世界輪化の波動と共に、無限回、出没生死せざるを得ざれども、もし裏観の消息によれば、その時方を超絶して一如に即到同化する道の別に存することを知るに至る。果たして吾人がこの心を常に彼岸にとどめて、一如と同化するに至らば、時方の間に輪転出没する因心をも一如の中に融合せしむることなしというべからず。余おもえらく宗教において吾人が過現来三界の間に永く流転漂蕩するを説かずして、直ちに相対の此岸より一如の彼岸に即到する別途の消息あるを伝うるは、全くこの道理に基づくものなり。

 人あるいは問わん、一如の彼岸が時系を離れ方系を脱したるところにあることは、理性の観察によりても推知し得るにあらずやと。実にしかり、されども理性は推知するのみにて、合体するに至らず。ことに信性の上に受領したる一如内動の消息は、一種特別にして、時方両系を超絶するのみならず、万象万境は一無に帰し、万感万想は一死に化し、しかも無中に有を見、死中に生を開きたる全く別天地の光景なれば、理性の場合と同一視すべからず。けだし縦観の三界を超出し、横観の因心を脱去するの道は、この消息を離れて外に求むべからずとは、余の深く信ずるところなり。

   第十九章 裏観論 四

     第百十三節 人格的実在

 宗教にては過現来三界を経過するを待たず、絶対の本境に即入直達する一道あるを開示せることは、今すでに一言し終われり。つぎに宗教にて人格的絶対の実在を立つるはいかにとの問題ありて起こるべし。余これよりその問題に対して説明を試みんとす。

 従来の宗教家は大抵みな人格的実在を主唱し、哲学者は多くこれを否定し、ために一大争論のその間に結びて、今日に至るも未だ解けざるなり。余のみるところによれば、これ理性と信性との性質の異なるを知らざるに起因すというべし。理性は論究的なり、分解的なり、信性は構造的なり、総合的なり。換言すれば因果の理法により、絶対を分解してその真相を発見せんとするは、理性の資性にして、かつその職務なり。その結果絶対の人格を破壊するに至る。これに反して絶対を総合して、その真相を感見するは、信性の状態にして、その結果絶対の性格を建設するに至る。すなわち一は論理的破壊性を帯び、一は信念的建設性を帯ぶるの別あり。ここにおいて理性の前には絶対は普遍的実在となりて想見し、信性の前には個体的実在となりて現出するなり。

     第百十四節 積極的消極的実在

 更に一考するに表観の方にありては、理性が動体となり、絶対が受体となり、裏観の方にありては、絶対が動体となり、信性が受体となる。換言すれば理性に対しては絶対が消極的となり、信性に対しては絶対が積極的となる。故に絶対一如が表観の上には消極的実在を示し、裏観の上には積極的成立を示す。これまた一方には普遍的となり、他方には個体的となるゆえんならん。

 これを要するに、表裏両面の観察が異なる以上は、必ずしも一方を偏取し、他方を偏捨するに及ばず。もとより両説を併存して、熟考することなかるべからず、ことに宗教にありては人格的実在の信仰は、欠くべからざる条件たるにおいてをや。余は更に次節においてその理由を説明せんとす。

     第百十五節 人格的宇宙

 およそ人格的すなわち個体的実在に二様あり。通俗の所説はこの世界の外に擬人的神の実在ありて、その知力をもって世界を洞視し、その意力をもって万物を造出すというにあれども、これ旧時の妄見にして、余のとらざるところなり。これに反して人は最小の宇宙にして、宇宙は最大の人なり、宇宙の活物霊体なるは、吾人の活物霊体なるがごとしとの見解をもって立つるところの人格的実在は余の信ずるところなり。

 表観においてすでに宇宙の本体は生命あり精神あり霊性ありて、活動し霊動してやまざる妙体なるを知れり、これすなわち余の人格的実在なり。表観なおしかり、いわんや裏観においてをや。その積極的に建設せられたる実在は、具体的活動霊動をもって吾人の信性の前に現出し、吾人がその体に帰向しその力に依憑して、よく至楽の妙境に安住するを得るなり。余の信ずるところの実在は、かくのごとき人格の状態を具するものをいう。

     第百十六節 無限の向上

 もし更に外観の上に回想しきたらば、論理上別途の人格的実在を証明し得る道あるを見る。すなわち世界の大化は過現来三界を通じて輪転無窮なるうちに、因果の大法の永続するありて、あるいは昇進し、あるいは退降し、あるいは向上し、あるいは向下し、前界の因力によりて現界に人類の果を招きしもの、必ずしも後界に現界と同一なる人類となりて再生するにあらず。もし現界において向上因を修養すれば、後界において人類以上の向上果を得る理なり。かくして向上的因の修養を無限に向かいて継続しきたらば、無限回の輪化を経て、漸次に昇進したる極、無上の向上的果を得る理ならずや。もしかくのごとき無上果を得たるものありとせば、これ相対界における人格的絶対と称せざるを得ず。しかしてその絶対は絶対的一如にあらずして、相対的一如といわざるべからず。なんとなれば表観上において論到せる一如なればなり。

 吾人の現在の身体、現在の感覚が、前界において現界の動物より一段向上因を修めたる結果と見るときは、もし現界においてこれに千百倍する向上因を修めたる場合には、後界において身体の組織も、感覚の機能も、今日に千百倍する結果を得る理ならずや。余はこれを表観上における別途の人格的実在という。これもとより外界の経験に照して知るべきものにあらざるも、因果の論理に考えて、かくのごとき断案を結ぶのみ。

 もしこの表観上より得たる相対的一如の実在を、裏観の信性の上に求めきたらば、絶対的一如の実在となりて吾人の目前に現見するに至るべし。すなわち表面には相対的一如の人格的実在を示し、裏面には絶対的一如の人格的実在を現ずるものと知るべきなり。畢竟するにかくのごときは純宗教の問題なれば、他日宗教論を起草するときを待ちて詳述すべし。

     第百十七節 人生楽天の一道

 この向上的因を修養すれば、向上果を得というにつきて、更に一言を要することあり。吾人は現界において無限に向かいて進化し発展せんとするは、痴人の夢想にひとしきは、さきに縦観論(第十一節)においてすでに述べしところにして、現界の将来は国家も社会も、人類も生物も、ことごとくみな絶滅してその痕跡をとどめず、退化の極、ついに星雲に復するより外なしと知らば、吾人の向上的企望はすべて水泡に属し、人をして落胆の淵に沈ましむべし。かくのごとき説は学理上有効なりとするも、実際上大いに有害なるにあらずやと論ずるものあらん。余これに答えて左のごとく弁明せんとす。

 吾人が現界のみを目的とすれば、到底失望落胆は免れ難し。いかに慨嘆し、なにほど哀訴しても、世界の大法の許さざる限りは、ただその命ずるところに従うより外なし。しかれどももし吾人が来界無限の大化を考えきたらば、絶望は変じて好望となり、厭世は転じて楽天となり、人をしてますます向上発展の大望を抱かしむるに至るべし。なんとなれば現界において向上因を修むれば、後界において向上果を得、後界において更に向上因を養えば、後々界において更に向上果を得、無限に向上し得る理なり。なんぞ落胆悲観するがごとき愚を演ずるを要せんや。

 吾人が国家社会に尽くすもまたしかり。その国家、その社会の必ず絶滅する時節到来すべしといえども、もし現界において国家社会のために正心誠意を尽くすときは、すなわち向上因を修養するものにして、必ず後界において向上果を招致すべし。しかのみならず、現界において完全なる国家社会を造出するに努力したる結果は、因果の理法の吾人を欺かざる限りは、後界においてその因に相当する国家社会を再現せしむべき理なり。故に余は後界において再び自己の再生、国家の再現を信じて疑わず。

 来界は無限なり、吾人の前途また無限なり、あに大いに興奮感起せざるべけんや。ことに吾人は向上因を修めて向上果を得るに、世界万境と競争せざるべからず。ただ地球上の人類のみに対しての競争にあらず。全宇宙、無数の星界の諸生物と競争し、優勝なるものは、後界においてこれに相当する向上果を収得する理なれば、己の力のあらん限りを尽くし、忠孝仁義はいうに及ばず、あらゆる道徳を一身に修めて、後界には現界以上の向上発展を期せざるべからず。いわんやまた信性上には別途の消息を伝えきたるをや。吾人は実に天に舞い地に躍りて可なり。

     第百十八節 現界と後界との精神上の連絡

 現界と後界とはその年月の悠久永遠なりと思うも、永眠状態にある吾人よりみれば長き一夜にひとしきものなりとは、第三十節において弁明したれば、ここに再述するを要せず。しかるに更に一問ありて起こるべし。たとえ吾人が後界に再生しても、現界今日における吾人の境遇と、その間に精神上なんらの連絡を自知自覚することあたわざるは明らかなり。されば現界における吾人の死は、精神上永久の死といわざるべからずとは、何人も疑うところならん。余はこれに対して更に一言を費やさざるを得ざるなり。

 吾人の後界再生は、今日の境遇と外面上精神の連絡なく、ただ因果の連絡あるのみなるは余の信ずるところなり。そもそも吾人が一夜眠息して晨起の後、昨日を回想し、昨日のわれと今朝のわれと同一なるを知るはなんぞや。精神上記憶作用の存するによる。あるいは一年前、あるいは二年前、ないし十年二十年の昔を回想して、同一のわれの連続を知るも、この記憶あるによる。しかるに吾人がその当時の境遇を明らかに心中に再現せんとするときは、必ず記憶を補うに想像推理をもってせざるべからず。ここにおいて記憶が主となり想像推理が従となりて、精神上過去を再現するなり。今、現界と後界との間にこの記憶の連絡なきこと明らかなれども、記憶に代うるに因果の理法の前後を照すあり。この理法が主となり、想像推理が従となり、後界の現状より過界を回想しきたるときは、その間に一種の精神上の消息を伝うることを得べし。故に内面に入りて考うるときは、精神上の連絡ありと称して可なり。

 この連絡は精神状態のいよいよ向上するに従って、いよいよ明瞭となるの理も、因果法に照して知るべし。現界において禽獣のごときは、過去を回想する力なしといえども、吾人は回想することを得るがごとく、吾人よりも意識思想の一層向上発展せる境遇に進まば、一層明瞭に永遠のことをも回想し得る理なり。故にもし吾人が現界において向上因を修養するときは、後界の吾人はこれに相応せる向上果を得て、一段進みたる知見を開発し、更に向上因を積みて界々累進するにおいては、知見の灯台の光が永遠の過果を照すに至るべきは、決して空想というべからず。故にもし吾人が界々向下退降するならば、永遠の死境に向かうとひとしきも、界々向上昇進するときは、現界における吾人の死は永遠の死にあらずして、不朽の生なりと思うべし。

 右は表観上の所見のみ。もし更に裏観の消息をあわせて考えきたらば、吾人の精神中に世界無限の輪化を収めて、無始無終の間を達観洞視し得るの望みあり。しかのみならずいよいよ吾人の信性上において絶対一如と冥合同化するを得るに至らば、三界輪化の因心もこれに転化融合して、時方二系を超絶せる境遇に直入即到するを得べき理を感見するなり。これ信性の消息にして、理性の未だ許さざるところなれども、別途の消息として、吾人の一考すべきところとなす。故に人もし表観の所見をもって満足しあたわざるときは、裏観における信性の消息につき、慰安を求めて可なり。

 ああ、宇宙は高妙なり、人生また高妙なり。この高妙なる天地の間に、高妙なる一生を得たる吾人の幸福は、ほとんど例うるにものなきほどなり。ただ吾人は日夜この天幸に対し、わが良因のここに熟するを喜び、感謝の意をもってますます進んで向上因を修養せんことを努めざるべからず。これ余が平素自信するところの人生観なり。

     第百十九節 自力他力の別

 ここに再び論歩を前点に引き返し、裏観における神人冥合、象如感応を回考するに、その実験は信性の作用によること明らかなるも、心海の妄波を静定するに、おのずから自他の二法あり。元来その動波は外界より誘致せるものにして、感覚より知情意に伝え、知情意より理性に伝え、その余波を信性の上に及ぼし、水動けば月影を浮かべ難きがごとく、心海揺動して、一如の月影を浮かぶることあたわず。ここにおいて心象の波動を鎮静するを要す。これを知情意等の他方面より、自己の努力を用いて鎮静せんとするものと、他方面の努力をすて、信性の一面に精神を集注し、一如の彼岸より伝えきたる妙力に一任して、おのずから静定に帰せしめんとするものあり。前者は自力にして、後者は他力なり。

 自力と他力とはつまり方法手段の相違にして、一如の妙動を感受するは、信性によらざるべからずというに至りては一なり。ああ、理性は冷ややかにして、信性は暖かなり。信性の春風を待つにあらざれば、一如の妙華は開発し難し。今日の人生社会は、北風雪を巻き、天地晦冥なるがごとき状態なれば、信性の暖信を迎うるにあらざれば、煕々たる春光を世海の上に見るべからず、宗教の必要また知るべきなり。

     第百二十節 表裏両面の宇宙観

 以上の所説これを約するに、表観にありては、たとえ理性といえども、時方二系の形式、物心両界の影響を全然超脱すること難し。ひとり裏観の信性の実験せる消息によりて、吾人に時方二系、物心両界を超出したる一如の妙境に即到し、しかも表観の因心を転捨して、一如に融合する別途あることをもらしきたる、これ宗教においてあるいは天啓と説き、あるいは冥合を唱え、宇宙の神秘を伝うるゆえんなり。

 余は決して信性の消息のみを固執して、知性および理性の観察を排去するものにあらずといえども、また知性および理性の観察のみを偏信するものにあらず。さきにしばしば述べたる象如相含、如々相含の理を推演しきたらば、理性信性もまた互いに相包含せる理なり。よって表裏両面の観察を総合するにあらざれば、真正の宇宙観とはいい難し。しかるに世人多くは信性の消息を、一概に妄断迷見として排除せんとする傾向あれば、これに対して余はここに表裏両観の偏廃すべからざるゆえんを述べたるなり。

 水と火とはその性質相反するをもって、ややもすれば甲が建設的となりて、乙が破壊的となることあり。乙が建設的となりて、甲が破壊的となることあれども、この水火相合して共に建設的となる場合すこぶる多し。一切の生物は日光の火と雨露の水と相合して生育するにあらずや。故に人生のことも理性は冷ややかにして水のごとく、信性は暖かにして火のごとく、その性質全く相異なるも、互いに相融和し、共に建設的となりて世間を利することあたわざるにあらざれば、哲学と宗教との相融和する道を講ずるを急務とす。もしこれに反して互いに敵視し互いに破壊するがごときは、両者の本意に背くのみならず、国家社会の不利増しこれより大なるはなかるべし。これ余が哲学宗教に対する意見なり。

 井を作るに地を掘ること浅ければ、雑水これに混じて、清水を得難く、いよいよ深くして始めて純良の水を見るがごとく、信性もその浅き所にありては、雑念のこれに混じて、真正の消息は得難し。宗教の迷信はまたこれより起こる。故に信性の消息を得んと欲するものは、心底最深の所において求むべし。しかしてまた表観に対しては、理性の観察に留意するを要す。

 

   第二十章 結   論

     第百二十一節 宇宙真相の結論

 余は哲学すなわち純哲学を解して、宇宙の真相を内外表裏各方面の観察によりて究明開示するの学なりと定め、外界より縦観横観を試み、内界より過観現観を下し、更に裏面の観察を終了してここに至る。縦観においては輪化説を証明し、横観においては因心説を主唱し、内観においては相含説を論定し、更に裏観にきたりて信性の消息を開示したり。この表裏両面の観察によりて、いよいよ象如相含、如々相含の理を明知するを得たり。一如と万象と互いに包含せる以上は、理性によりてその実在を望見するのみならず、相対の此岸より進んで絶対の彼岸に即到する道なかるべからず。しかしてこの一道は信性の消息によりて明らかにするを得たり。ここにおいて余は宇宙の真相は象如相含、如々相含、重々無尽なることを断言するにすこしも躊躇せざるなり。

 さきに一言せしがごとく、宇宙の本体より時方両系の形式を除き去らば、その体は一点一無に帰するのみ。その一無の中にこの重々無尽の相含の理を具有す。これを開現するには時方の形式によらざるべからず。宇宙は一大幻灯なり。そのひとたび照動して、時方の形式の上に光を送りきたるときは、たちまち森羅万象の開現を見る。しかしてその形式を超絶せる一如の内情は、信性を待つにあらざれば感知することあたわず。ここにおいて表裏両面の観察いよいよ明瞭となる。

     第百二十二節 従来哲学の行路

 従来の哲学は諸家いずれも一方の偏見に固執し、外界を起点とするものは、内界を排除せんとし、内界を根拠とするものは、外界を否定せんとし、唯物唯心、経験独断、一元二元等の諸論互いに相抗争してやまずといえども、数百年間の哲学はほとんど同一の行路を再三再四反覆上下し、一場の円埒中に彷徨して、その外に超出する道あるを知らざるがごとき状態なり。ただ瑣末のこと、微細の点を喋々論争するのみにて、論理を玩弄するがごとき観なきにあらず。しかして全局の大勢に至りては、細論小争のために動かさるるなく、ほとんど確立しおるもののごとし。故にもし偏見を去りて大観を放ち、古今の諸論を総合しきたらば、宇宙の真相を開示することすこぶる容易なり。これ余がとるところの方針にして、物界を起点としたる観察、心界を根拠としたる論証、経験を主眼とせるもの、認識を本位とせるもの等、いずれも一理ありと考定し、これらの諸見を総合集成して、相含無尽説を帰結するに至れり。

     第百二十三節 哲学宗教の本領

 内観にありて心界の分類たる知情意は相対的にして、絶対そのものを対象としてこれに進向するものにあらざるを知り、心象中に有限無限の両性を分かち、知情意、あるいはカント氏のいわゆる感性悟性のごときはこれを有限性とし、その上に理性信性の無限性あることを論定し、この二者は心象中の無限絶対に接触対向する作用とし、哲学(純)はこの理性によりて絶対を究明せんとし、宗教はこの信性によりて一如を感受せんとし、宗教と哲学との本領を異にすることを開示せり。

 吾人が絶対に対する欲望は、ただこれを見るのみならず、これを味わえんとするにあり、望見せんとするのみならず、接合せんとするにあり。しかして見んとする欲望は、哲学の理性をもって満たすべきも、味わえんとする欲望は、宗教の信性にあらざれば達し難し。故に理性を心眼に比し、信性を心舌に比して、哲学と宗教との本領を明らかにし、かつその両存の必要なるゆえんを説明したり。

 哲学は理性を本領とすというも、宇宙の真相を各方面より観察するの目的を達せんとするには、信性の方面の観察を参考対照せざるべからず。しかるに従来の諸家が信性を蔑如したるは、これまた偏僻の見を免れ難し。故に余はここに表裏両面の観察を施したり。しかりしこうして、哲学と宗教との相違は、哲学は知性および理性の作用によりて、表裏両面より宇宙の真相を推究するもの、宗教は信性の上に感受したる一如の妙動を実際に応用する道を開示するものとなすにあり。故に一は理論的、一は実践的なるの異同あり。

 世間ややもすれば、哲学宗教共にこれを無用の長物として排棄せんとするものあり、これ無謀の極といわざるべからず。吾人には生来向上的精神の内に衝動するあり。この衝動に刺激せられて、人格も向上し、社会も向上し、駸々として文明の域にも進むべく、悠々として真理の巷にも遊ぶべく、吾人が万物の霊長たるゆえんも全くここにあり。しかしてこの向上的精神が動機となりて、哲学宗教を喚起しきたり、数千年の久しき、吾人の心界を支配して今日に至れり。しかるにこれを排去し、抑止せんとするは、眼あるものに対して決して物を見るなかれと命ずるがごとく、天下の圧制けだしこれよりはなはだしきはなかるべし。

     第百二十四節 宗教倫理の異同

 つぎに倫理と宗教との異同につきて一言を費やすを要す。倫理は相対的心象の所属にして、無限性を帯ぶるものにあらず。ただし倫理の原理を論定するに至りては、理性の推究を待たざるべからず。故に高等倫理すなわち倫理哲学と称するものは、理性の所轄に属するも、決して宗教のごとく信性の関するところにあらず。たとえ倫理において良心の命令、先天の声あることを説くも、これみな理性より向下して、相対差別の心面に発現せるものなれば、一如より直接に向下せる宗教の消息とは同一視すべからず。ここにおいて宗教と倫理とはその本領を異にするを知るべし。ただその二者の一致する点は、共に応用実践を目的とするにあり。

 もしこの関係を明らかにせんと欲せば、理性信性共に向上向下の二道あることを知るを要す。向上的理性は哲学の本領にして、これを向下して心象の上に実践の一道を開くものは倫理なり。信性の向上は消極的にして、一如の妙動を感受するのみなれども、その向下は宗教の実践となり、人をして安心立命の彼岸に到達せしむ。ここにおいて理性信性共に意的作用を兼有することを知るべし。理性は知的無限性、信性は情的無限性と解して可なるも、その中におのおの意的作用を兼帯せるをもって、余の心界の分類表は諸家とその見を異にするに至れり、よろしく第六十一節を参見すべし。

     第百二十五節 安心立命の解

 宗教はその本領を倫理と異にするも、これを心象上に実践するに当たりては、倫理と共に意的作用によるのみならず、宗教の実践には必ず倫理を兼帯するに至る。故をもって倫理と宗教との同源を説き、あるいは倫理は知的、宗教は情的にして、共に心象の所轄なるがごとくに考え、あるいは宗教は古代迷信の所産、倫理は近時学術の所産なりと定め、今日は宗教に代うるに倫理をもってすべしと呼ぶものあれども、この二者はおのおのその本源を異にするのみならず、目的を異にするものなり。すなわち宗教の目的は一如の妙境に吾人の心体を寄託し、絶対の彼岸に安住せしめ、もって生死浮沈の間に迷わざらしめんとするにあり、安心立命これなり。倫理はこれに反し、理性の命ずるところに従い、吾人の良心に満足を与え、社会の幸福を拡充せんとするに外ならず。たとえ倫理にも安心を説くことあるも、その安心は宗教の所説のごとき絶対的のものにあらず。すなわち宗教の方は絶対的安心立命、倫理の方は相対的安心立命の別あり。しかして宗教にて倫理を実践上必要条件とするは、ただその目的を達する方便として欠くべからざるによるのみ。

     第百二十六節 美学と宗教との別

 つぎに美学の本領はいかにの問題も、また一考するを要す。世間多く美術と宗教とは共に情的作用の所轄となすも、余の所見にては、美学のいわゆる美感は有限性知情意の感情に属するものとなす。宇宙外観の美を感覚の門戸より感受するを自然美とし、吾人の意匠に出づるものを美術とす、二者共に感情の所属なり。換言すれば倫理が内界において理性の命令を意的作用の上に実践しきたるに反し、美学の美感は情的作用の上に感受しきたるものなり。故に信性の直轄たる宗教とは同日の論にあらず。

 今、美そのものにつきて一言するに、宇宙自体の外動内動を活動、霊動、妙動の語にて表示すべし。ここにそれ自体が外界に向かいて発動する方を活動と名付け、内界の理性の上に発動する方を霊動と名付け、信性と一如と冥合する方を妙動と名付く。これにまた真善美妙の四性あり、これ宇宙自体に固有するところの性質なり。しかしてその美性は外界および内界に向かいて発顕し、真善二性はひとり内界の理性の上に発顕す。この三性を兼備し、しかもその未だ分化せざるものを妙性という。この美を研究の目的とするものは美学、この真を目的とするものは論理学、この善を目的とするものは倫理学にして、その三をあわせて研究するものは哲学なり。しかしてその妙は信性が一如に冥合するときに感ずるものにして、よくこれを味わうものは宗教なり。しかして美学を解するにも、あるいは客観的経験的方面によるものあり、あるいは主観的理想的方面に取るものありて、諸説一定せず。たとえ理想的に解しても、理性作用より出づるものにして、信性作用に基づくものにあらず。ただし自然の美または美術の美が、宗教的信性を誘発する媒介となることはすこぶる多しとす。この点において美学は倫理学のごとく、宗教の実践上に必須の条件に加わるといえども、その本領は全く異なるものと知るべし。もし詳細に至りては宗教、倫理、美学共にその間に親密の関係を有し、多少包含するところなきにあらざれば、今はただ大要につきて余の意見を列挙したるのみ。

     第百二十七節 相含論の終極

 上来説き去り論じきたるところ、更に一言にてこれを大括すれば、余のとるところは一元論にあらず、二元論にあらず、多元論にあらず、唯物唯心にもあらず、経験理想にもあらず、懐疑独断にもあらず、これらの諸論諸説を総合集成したる相含論なり、その相含は重々無尽の相含なり。外観において輪化無窮および因心相続を唱えしも、内観にきたりてこれを一瞬一息に包括するに至り、無窮と一瞬との相含あるを見る。ここに至りて輪化説も因心説もやはり相含の一面に過ぎずというに帰着す。故に余は相含の妙理は宇宙大観の真相中の真相なりと信ず。人もしここに相含と断定すれば、必ず相含ならずとの説を返響しきたるべきにあらずやと難ずるものあらば、余はその不相含と相含とが同じく相含なりと答えんとす。これすなわち相含の重々無尽なるゆえんなり。

 余が内外両観にわたりて、物心両界を論明せるところ、更に図をもって表示せば上のごとし。

 この図の右方の分表は、左方に対比するためにしばらくかく開示せるも、物力二元および物質勢力エーテルの関係は、先述の第三十八節および第五十二節の下を通看すべし。しかしてその各部位の間に重々の相含あるは、到底図をもって表示すべからず。

     第百二十八節 所信の自白

 ここに余の所論を結ぶに当たり、平素の所信を自白せんとす。ひそかに案ずるに今後の哲学の研究は、科学の進歩に伴い、その都度多少の修正を加うるをもって足れりとす。なんとなれば古来数百年、否、数千年間の哲学研究は、大体においてその形式を開展し尽くせり。たとえ内容において往々新説卓見の出でしことなきにあらざるも、つまり局部の改造に過ぎず。しかして全局の大勢においては今日ただ従来の諸説を反覆するまでにて、別に昔時建設せるものを根底より改造するがごとき新説の起こるを見ず。しからば哲学の大勢はすでに定まれりというべし。これを議会に例うれば、第一読会は無論、第二読会も経過して、第三読会に移りたるがごとき観あり。これ今日哲学界の蕭寥たるゆえんなり。しかして今後の修正は科学の進歩を待たざるべからざれば、その状況を視察することを怠るべからず。

 哲学すでにしかりとせば、将来吾人のもっぱら尽瘁すべき点は、宗教および倫理の実践的方面にあり。願わくは東西の哲学者よ、哲学の舞台において論理を玩弄するがごとき児戯をやめ、割鶏用針の小刀細工をすてて、実践の舞台にて活劇を演ぜられんことを。もしその言のあるいは侮慢にわたるあらば、余は謝罪することを躊躇せざるべし。

 最後に至り自ら決心するところを述べんとす。余は世界の輪化を信ずると同時に、因心相続を信ずるものなり、輪化因心を信ずると共に、相含無尽を信ずるものなり、また理性の観察の外に信性の消息あることを疑わざるものなり。故に余は現界の一生においては、わが前界より潜有しきたれる内因のいずれの点まで開展し得るやを自身に試み、あわせて後界に対し世界万類と競争して向上因を修養し、もってこれに相応せる向上果を迎えんことを期し、畢生の力をこれに専注せんと欲す。しかして裏観にありてはわが心元を一如の彼岸に寄せて、歓楽の天地に逍遥せんことを望むものなり。厭世はわが敵なり、悲観はわが賊なり。この賊を破り、かの敵を払い、悠々自適の境界を現界において送らんことを期す。いささか所信を自白して、天下公明の士に告ぐ。