7.解説―井上円了の全国巡講:三浦節夫

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解  説

解  説 井上円了の全国巡講 三 浦 節 夫

一 全国巡講の概要

1 円了の生涯における巡講の位置

 井上円了は安政五(一八五八)年に現在の新潟県三島郡越路町の慈光寺で誕生し、大正八(一九一九)年に中国の大連で死去した。その六一年間の生涯の後半生を費やして展開されたのが、のべ二七年間に及ぶ全国巡講である。このように、全国巡講は円了(以下、円了と記す)を物語る上で欠くことができない重要な側面でありながら、これまでほとんど注目されてこなかった。

 明治中期から活躍した円了は、哲学、仏教、妖怪学などを主とする研究者・著述家として、また現在の東洋大学の起源である哲学館の創立者として、そして現在の東京都中野区にある哲学堂公園の創立者としてと、大きく分けて三つの面から歴史的社会的に知られているが、円了が「名も知られない片田舎の寺に生れ、取り立てゝ云ふ程の背景もなく、全く徒手空拳、而も一代にして永く後世に伝ふべき幾多の大事業を計画され、能く其の成果を収めることを得た」(黒田亮「井上円了博士」『長岡中学読本』人物編)のは、各地に自ら赴くという形で巡回講演を行い、それに対して、全国の広範な大衆が支持と寄付を寄せたからであった。

 円了がこの歴史的な全国巡講を始めたのは三二歳のときである。明治一八年に東京大学文学部哲学科を卒業した円了は、ほぼ二年後の二〇年九月に哲学館を創立した。それから三年後に全国巡講に着手したのであるが、その第一日目は明治二三年一一月二日である。以後、哲学館の時代に一時的休止の年はあったが、巡講は基本的には継続された。そして、大正八年六月五日、円了は中国の大連において満州仏教青年会主催の講演中に、会場の大連幼稚園で脳溢血で倒れ、翌六日に死去するが、巡講はその最期まで続けられたのである。

2 その期間と規模

 この全国巡講には前期と後期がある。延べ二七年間を二期に分けているのは、明治三九年の円了の哲学館からの退隠である(このときには哲学館大学になっていた)が、そのことによって、前期は哲学館との関係で、後期は哲学堂との関係でと、その目的は相違している。したがって、二七年間は、前期は明治二三年から三八年まで、後期は三九年から大正八年までと分けられる。また、このことは円了自らが本選集に収録した巡講の記録のタイトルを、前期は「館主巡回日記」と呼び、後期の当初は「紀行」といい、大正と改元されてからは「巡講日誌」と改めたことからも知られる。

 本選集の第一二巻から第一五巻は、この明治二三年から大正八年までの巡講の記録の中から、海外関係を除いて、日本関係のすべてを収録したもので、これによって巡講の正確な期間を知ることができる。年数としては延べで二七年間であるが、それぞれの年間の巡講日数は時期も含めて異なっている。本選集の形にして四巻になるこの記録から、それぞれの巡講の日程を抜き出して、さらに年間日数へと直したのが、文末の表1である(統計はすべて文末にまとめた)。全日程の中で「春期」「秋期」などと時期しか分からない部分もあるが、この不明分を除いてみると、巡講総日数としては三、五八七日以上になる。単純に一年三六五日に換算して、およそ一〇年間に該当する。この数字は東京出発から東京到着までを基本としているが、東京から講演地までと、講演地からの移動日はそれぞれ基本的に一日である。また巡講中に休暇はほとんど取っていない。

 前期と後期にも相違はある。前期は明治二三年から三八年までで、この一六年のうち巡講をしなかったのは三年間であるが、延べで一三年間の巡講日数は九六六日に及ぶ。一年三六五日に換算して二年半余で、この期には年月日不明の巡講があるので、日数はこれ以上と考えられる。後期は三九年から大正八年までで、一〇カ月にわたる長期の海外視察旅行をはさみながらも連続で一四年間行われていて、巡講日数は二、六二一日に達している。一年三六五日に換算して七年間に該当する。このようにして日数でみると、前期と後期との巡講期間の違いがある。三、五八七日以上の巡講総日数は、前期がその四分一、後期がその四分三にと分かれるのである。哲学館の館主として校務との調整をはかりながら巡回した時代と、一社会教育者となって巡回した哲学堂時代との相違などが、この巡講日数の長さに表れている。

 これまで円了の長期にわたる巡回講演を「全国巡講」と呼んできたが、円了自身が「全国」と名付けたのはそれを目標にしたからである。総日数で三、五八七日以上をかけて、実際にはどれほどの市町村で「講演」をしたのであろうか。前期は四四県、三三市・三区・七一七町村(市町村には若干の重複あり、以下同じ)である。後期は国内最期の巡講日誌のうち三九日分(大正八年三月二六日から五月三日まで)は原稿として残されていないので分からないが、判明している分だけで六〇市・三島・二、二四五町村である。前後期を合計すると、九三市・三区・三島・二、九六二町村である。

 しかし、この合計数だけで全国における巡講の規模を知ることはできない。それは明治以降に市町村合併が継続していたからである。日本の行政区は明治維新当時、村は約九万にのぼっていたと言われるが、明治二二年の市制町村制によってそれは大々的に合併が行われ、四一市・一五、八二〇町村に統合された。さらに第一回の国勢調査が実施された大正九年には八三市・一二、一六一町村となり、この間に市町村合併が進行されている。

 このような市町村数の変化が円了の明治二三年から大正八年までの全国巡講の期間にあり、したがって、巡講地としての市町村数(経過したところは含まない)を正確に知ることはできない。歴史的条件の変化を考慮して、当時の市町村名を手がかりに現代(平成七年度)の市町村に置換した結果が表2である。現在に置換すると、市町村合併は当時よりとくに都市部でさらに進んでいるので、一市でみると三町村が包含されるなどのこともあるが、それも一つとして数えると、巡講市町村数は五一九市・一、一九四町村、合計一、七一三市町村となる(巻末の「巡講地図」参照)。平成七年の市町村総数は三、二三四市町村であるから、円了の巡講した市町村はそのうちの五三%に達する。この実際上の数字からみても、円了の巡回講演はその名を「全国巡講」と呼ぶにふさわしいと考えられる。

 ところで、明治・大正の時代に、このような期間と規模で、全国各地に赴いて、しかもそこで講演した人物が存在したのであろうか。例えば、私学の関係者がその創立から拡張のために募金で巡回したが、それは後述のように期間も規模もごく限られたものである。紀行文を残した作家も、そうである。宗教関係では布教のために専従化して巡回する僧侶はいたが、形の上で円了の巡講にやや近いといえる程度であろう。三、六〇〇日に近い日数をかけて、日本全国の半数以上の市町村で講演した人物がいったい円了以外に存在したのであろうか。しかし、これだけの期間を費やして、これだけのところまで、これだけの果てしもない巡講の旅に、なぜ円了が出なければならなかったのであろうか。本選集に収録された膨大な巡講日誌に、そのことへの答えはあまり示されていない。

 膨大なこの日記の内容は、初期の「館主巡回日記」が基本となっている。各地での講演会に関する、年月日、天気、出発・到着時間、行程、市町村名、会場、主催者や協力者の肩書きと名前が几帳面に綴られている。これを基本に、風景・風俗の吟詠、各地の見聞を加えはじめたのは、明治三八年七月から九月までの「関西紀行」からである。以後はこのような内容が連続するのであるが、それでも日誌の基本的な性格は当初から大幅には変わっていない。円了の巡講日誌の記述は記録的客観的ということが基本となっていて、そこに円了個人の日常や心情などは記されていない。長大な巡講をこのような性格の日誌という形でまとめた理由の一つは、この日誌を印刷して各地の開催関係者への御礼としたからであろう。また、そこには円了の基本的な性格も反映されていて、この巡講を理解する一つの手がかりになると考えられる。

 さきに全国巡講の総日数を三、五八七日以上と記したが、このときの日記は、講義録などの雑誌に掲載されたもの、『南船北馬集』として単行本にまとめられたもの、残された原稿の三種類に分かれるが、あわせると巡講のほとんどが記録されていることになる。日記の欠如部分を日数で記すと、明治二九年から三三年までの二二九日分と、死去した大正八年の三月から五月までの三九日分で、合計二六八日分である。全体の九%とわずかである。

 この解説では、この一見平凡でかつ膨大な量の巡講日記に隠された、目的、背景、動機などを中心に、周辺資料もできるだけ紹介しながら述べてみたい。

二 前期の哲学館時代

1 哲学館の創立と「風災」

 東京大学を卒業した円了が、明治二〇(一八七八)年に哲学館を創立したことはすでに述べたとおりである。この哲学専修の私立学校の設立の目的は、哲学の普及、教育の開放の精神にあった。その精神は現在の東洋大学でも「諸学の基礎は哲学にあり」「余資なく優暇なき人のために」という言葉で継承されているが、当時、哲学を専門に学ぶというところは帝国大学文科大学哲学科以外にはなく、また、この学科が独立したのは円了が入学すると同時であったし、学生数も一桁と限られていた。このような状況を踏まえて、円了は関係者の賛同と協力をえて、私立学校・哲学館を設立したのである。その哲学の重視から学校の設立へという営みの中に、のちの巡講に関わる円了自身の問題意識も内在している。明治中期の時代にまだ少数者の学問であった哲学を、この二九歳の青年が学校を開設してまで広めようとした中には、近代日本の抱えていた大きな課題があったからである。

 福沢諭吉は、ペリーの来航にはじまる幕末の開国以来から、哲学館開設の頃までの日本の変化について、この三〇年間の日本の近代化に「意外の世変を来した」のは電信・郵便・鉄道・汽車などの「有形物の文明」の功であって、これに対して、同じく西洋を起源とする学問、教育、政治などの「無形に属する者」はその効果・影響はいまだ不十分であると述べている(「文明の利器に私なきや」)。

 福沢諭吉のこのような見方は、井上円了にとってもまた同じであった。

 「余かつて曰く、わが国明治の維新は一半すでに成りて一半いまだ成らず、有形上、器械上の文明すでにきたりて、無形上、精神上の文明いまだきたらずと」(『井上円了選集』第一二巻、以下『選集』という)。

 円了はこうした「無形」の世界において、哲学こそがもっとも根源的で、かつもっとも最高位の学問であると考えた。そして、西洋の歴史に照らすと、哲学思想の発展こそが文明を開化させてきたものであることも知っていた。それ故に、円了は東本願寺(真宗大谷派)の留学生として東京大学に学びながら、卒業後も教団へ戻らずに、日本の近代化、とりわけ無形上の開発・発展にとって哲学が必要であると考え、私立学校の開設に踏み切ったのである。それはまた、哲学という方法によって、衰退傾向にあった仏教をはじめとする旧来の教学世界を活性化し、文明開化に合致するものへと再生するという、寺に生まれた円了個人の責務をも満たすものであった。

 このような理念から、円了は哲学館を現在の東京都文京区湯島の麟祥院という寺の施設を借りて開設したのであるが、その最初の営みは「固ヨリ無資本ニシテ」、他の団体の保護や援助を受けず、「全ク有志ノ一時ノ寄付」で、二八〇人の賛成者、七八〇円の寄付金に基づいていたのである。それから、一年間で哲学館の教育制度を整えた円了は、明治二一年六月八日に欧米社会の政治と宗教の関係、教育などの実状の視察へと出発する。一年間でアメリカ・カナダ・イギリス・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリアなどを巡行した。この海外視察で円了は、「欧米各国ノ事ハ日本ニ安坐シテ想像スルトハ大ニ差異ナルモノナリ」と実感した。帰国から二カ月後の明治二二年八月に、「哲学館将来ノ目的」を発表して、その結果を反映させた。その目的とは、日本国の独立、日本人の独立、日本学の独立を促進するために、哲学館をその原基となる「独立の精神」を養成する日本主義の大学へと発展させること、そして仮校舎を独立させて新築することであった。この校舎の新築費用を二、〇〇〇円と見積もっていた。計画自体は二〇年一〇月と創立直後に発表されたもので、そのための「哲学館建築資金」の募集広告も出して活動に着手していたのであるが、館主の欧米視察という事情もあってそれがはかばかしく伸展せず、この時点では一、五〇〇円の資金不足があった。

 円了はこのように新計画を発表して、哲学館の大学への発展と校舎の独立という目標を再び掲げると同時に、当時の本郷区蓬莱町の借地への新校舎の建築に着手した。その予算を見直して五、〇〇〇円余とした。講堂(校舎)一棟、寄宿舎一棟、館主の住宅一棟の建設は、九月の授業開始に間に合うように急ピッチで進められた。九月上旬には九分通りが出来上がり、その完成を待っていたが、その直後の一一日に各地に甚大な被害をもたらした暴風雨によって、新校舎は完全に倒壊してしまった。その頃、円了は明治二三年の国会開設・憲法制定を目前にして、仏教公認教運動のために京都を遊説中であった。交通機関(東海道線)なども被害を受けていたので、汽船で東京に戻り、その再建工事に着手した。それは「風災」から九日後のことであった。すばやい対応によって、校舎は一〇月三一日に竣工し、一一月一日より新校舎での授業が開始された。

 一一月一三日には「哲学館移転式」が関係者を招いて行われたが、さきの災害によって哲学館に大きな問題が残った。当時、「創立費および新築費として哲学館に寄せられた寄付金の合計は、三、二二三円三五銭であった。この寄付金は、そのすべてが創立費および新築費として充用された。しかしながら、校舎の建築および諸費だけですでに四千数百円にのぼったので、不足分は哲学館の負債として残ることになった」(『東洋大学百年史』通史編Ⅰ、以下同書を『通史編Ⅰ』『資料編Ⅰ上』と略す)のである。この寄付金には哲学館の発展に大きな理解を示した東西本願寺からの二、〇〇〇円などがすでに含まれていた。

 このような哲学館の窮状に対して、館主の円了を支援・激励したのはのちに「哲学館の三恩人」の一人と言われた勝海舟である。海舟と円了とのはじめての出会いは欧米視察からの帰国後である。哲学館の新しい計画を聞いて賛同した海舟は、即金で一〇〇円を寄付し、またさきの移転式を記念して鎌倉期に制作された文殊菩薩の仏像などを寄贈した。

 明治二三年七月二一日、円了は熱海から海舟に宛てて書簡を送り、哲学館の今後について相談している。「先般御願い申上げ候、宮内省御下賜金の儀は、目下むづかしき趣き拝承仕り候。然るに哲学館も現今の処、維持法相立ち申さず候に付き、今秋より資金募集に着手仕り度く、その方法に付き色々愚考相運び候えども、別に良き手段これなく候」(『資料編Ⅰ上』)というのが、そのときの円了の実情であった。

 「海舟日記」によれば、その後の九月十六日に「井上円了」とあり、さらに一〇月一六日には「井上円了、哲学館寄付金の事」とあるので、その対応法が検討されたことと考えられる。海舟にはすでに学校の維持の困難さについて相談を受けたことがあった。それは明治一一年のことで、慶應義塾の福沢諭吉からであった。当時、海舟が旧幕府の関係者の救済のために、資金の運用をしていたからであった。月謝収入で運営されていた慶應義塾は西南戦争後に学生激減から経営危機に陥り、福沢は融資を受けて国債を購入しその利子で経営しようとして海舟に申し込んだのであった。海舟はこれを断った。福沢はその後に政府関係にまで相談したが打開できず、塾の廃止を決断した福沢を最終的には塾の社中が説得し、社中によってその基金は募集され危機を脱したのであった。

 また、海舟は新島襄が明治一六年に「同志社大学校設立旨趣」を発表して、大学の設立への活動をはじめたときにも、つぎのように忠告している。「新島が大学を建ると言ふて来た時、左様言ふた。お前さんは千両の金でさへ、さう扱つた事のないに、十万と云ふ金を募ると云ふは、迚も出来ないから、およしなさいと言つた。すると、西洋人が大相賛成すると言ふから、それだから尚いけないと言ふた。其の時大相怒つて帰つて仕舞つた」(『海舟座談』)。

 円了と海舟が哲学館の維持についてどのような意見を交換したのか、それを明示する資料はないが、その後の全国巡回に関するものであったことは、巡回の日程と「海舟日記」における円了の訪問日との関係、その多くは巡回から帰京した後に、円了は海舟を訪ねていること(巡回の状況報告か)から、そう考えられる。哲学館も収入は授業料が基本であった。特定の支援者や団体をもたなかったので、他の事業はすべて有志への寄付を依頼する以外に方法はなかった。こうした私学における学校拡張や経営危機打開の問題は、政府がその育成の意図を基本的にもっていなかったので、明治期の私学にとっては創立期にいずれは遭遇しなければならない問題であった。

2 哲学館の拡張と館主巡回

 明治二三年九月、円了は全国巡回に先だって「哲学館ニ専門科ヲ設クル趣意」を発表し、哲学館を将来、日本固有の学(国学、漢学、仏教学)を教授する大学とすることを明らかにした。その資金として一〇万円を募集し、その達成の後に専門科を開設するという計画であった。この計画発表から一カ月後に、二三年一〇月一七日号の哲学館の機関誌『天則』に出された哲学館広告で、館主の全国巡回が公表されたのである。それには「今般当館資金募集ニ付有志勧誘ノ為メ本月下旬ヨリ館主東海道筋ヘ出張」とあり、「尚館主出張ハ一年間ニテ全国巡回ノ予定……一月ヨリ四国九州ヘ巡回、三月ヨリ中国筋、五月ヨリ北国筋、七月ヨリ奥羽北海道地方ヘノ巡回ノ筈ニ候也」と、年間予定が付記されている。さらに、この広告に並んで館主・井上円了の挨拶文が掲載され、静岡から三重までの東海道筋の五県下の巡回への協力依頼を述べ、同時に「又学術教育宗教ニ関シ講義演説等御依頼ノ節ハ小生応分ノ御助力可申候」との一文を添えている。

 当時の私学の創立者たちが有力者や有力団体に援助を依頼する方法とは異なり、円了の巡回は各地の大衆へ直接に依頼するものであった点に特色があった。しかし、なぜ円了が全国を巡回し、各地で進んで講義や演説する方法をとったのかについては分からない。円了は「以無伝為伝」の主義を唱えて自伝を残していない。円了はどのように考えていたのであろうか。当時の円了は東京大学在学中から哲学や仏教関係の論文や単行本を発表して、本選集所収の『哲学要領』『哲学一夕話』『真理金針』などで知られ、とくに『仏教活論序論』はベストセラーとなり、すでに知名の若き知識人となっていた。また、出身の仏教界では東京大学出の学士の第一号でもあった。そういう活動を通して、有力な人脈をもっていたことは創立時の寄付者一覧からもうかがえる。特定の団体や有力者に依頼する道を選択せず、全国巡回という方法を選んだことには円了自身の考え方があったと思われる。

 確かに哲学館にはその維持に危機的状況があって、見通しは立っていなかった。その具体的な危機を縁として、円了は本来の目的である日本の「無形上、精神上」の近代化に直接的に取り組もうとして、その現状と問題を全国各地で講演する絶好の機会ともとらえていたのではないかと考えられる。当時はまだ近代への様々な啓蒙が必要とされた時代である。そのことは哲学館創立の目的に、実際的な指導者の養成が含まれていたことからも分かる。また、二三年一〇月三〇日には教育勅語が発布されたばかりであった。勅語の普及、哲学の普及、哲学館の旨趣の普及などを、円了は巡回の目的に掲げた。首都の東京を中心として展開する近代化は、まだ実質上、日本各地に浸透してはいなかったからである。円了が啓蒙家としての役割を果たさなければならなかった時代状況がそこにはあったし、円了にもその自覚が強かった。明治を維新へと開き、その後の日本の行く末を考えていた海舟も強く支持した計画であったと考えられる。円了の全国巡講はこのような問題意識を内包して始められたのであろう。

 二三年一一月二日、円了は全国巡回に出発した。本選集の「館主巡回日記」でわかるように、北は北海道から南は九州までの全国一巡は、当初予定の一年間では達成できなかった。実際の期間は、二三年一一月二日から二六年二月八日までかかっている。哲学館の校務はこの巡回の間に処置したものと考えられるが、二三年に四四日、二四年に一五三日、二五年に一五四日、二六年に三九日と、延べ四年間に三九〇日、一年一カ月を費やしている。府県で言えば三二県(関東、甲信越、北陸が主に残された県である)、三六市・三区・二三〇町村で講演演説を行った。会場としては寺院がもっとも多くて二〇九カ所(五八%)、学校が八八カ所(二四%)、劇場・役所などのその他が五八カ所(一六%)、個人宅も七カ所(二%)であった。講演の内容は、一つの講演で多岐にわたっている場合をそれぞれに分けて単純にみると、やはり教育がもっとも多くて九八題(四二%)、これ以外はすべて一〇%台で、仏教が四二題(一八%)、学術が三三題(一四%)、宗教が二四題(一〇%)、哲学も同じく二四題(一〇%)、哲学館旨趣のみは一三題(六%)であった。(以上は『通史編Ⅰ』の表からの統計である)。

 このような巡回を支えたのは哲学館で学んだ旧館内員、そして講義録を購読した館外員などであった。哲学館の講義録は法律系の私学以外でははじめてのものであった。その購読者を、「本館ニ通学スルコト能ハサルモノヽ便ヲ計リ館外生ノ制ヲ設ケ毎月三回講義ヲ印刷シテ之ヲ頒ツ」(『資料編Ⅰ上』)として、当初は館外生と呼び、まもなく規定改正によって館外員と改めた。館内員、すなわち在学者は二二年一一月の時点で全国から四〇四名であったが、館外員は二一年には一、八三一名で館内員の四倍以上に達し、県別にはその人数にやや格差はあるが、全国的規模を満たすように存在していた(『通史編Ⅰ』)。このような哲学館の関係者を中心に巡回講演は展開されたのである。

3 巡回の結果

 はじめての全国巡講はどのように受け入れられたのか。円了は『哲学早わかり」(『選集』第二巻)で、その模様を述べている。「世間より哲学の大家をもって目せられ、至る所意外の優待を受け、四方より哲学の演説を頼まれた」が、「所によりては聴衆堂にあふれんとするがごとき非常の盛会を見しこともあり、時によりては傍聴更になく空しく柱相手に演説せしこともありました」、その中で、哲学の一般に未知であること、また誤解されていることを知り、さらに痛感したことは「誤解はなお許してよけれども、百人中九十九人までは哲学が……家を富まし国を強くすることには更に関係なく、世間の実用に最も遠い無用の学問にして、畢竟道楽か物好きの学ぶものに過ぎぬ」と考えられていたことであった。

 このように、全国巡回は教育、学術、哲学の必要性を普及・啓蒙することにおいて大きな役割を果たしたのであるが、各地の人々には「今度東京よりその専門の大家」来たるとして迎えられた。しかし、「哲学者は風骨自ら異容を呈し、髯長く体軽く、仙客隠士のごときものなりと想像し、……その未だ着せざるに旅館の門前市をなすがごとく有様」と、誤解することもあって、哲学を鉄学と考え哲学者を鍛冶屋と見た人や、哲学があらゆる学問に通じているからと、詩文・歌・俳諧の添削を依頼する人、書画骨董の鑑定を依頼する人、また茶の湯、生花の品評、人相、墨色の判断を依頼する人々もいた。

 巡回の講演会としては、桑名町中橋座(二三年一二月五日)での聴衆二、〇〇〇余名、熊本市末広座(二六年一月一一日)の三、五〇〇余名は大規模な例であるが、その模様は雑誌や新聞に残されている。たとえば、哲学館の機関誌『天則』(明治二四年二月一七日号)に当時の人々が円了に期待したことが記されている。二月五日の静岡県中泉町の豊国座での哲学演説会は雨の中で、四〇〇名から五〇〇名の聴衆のもとに行われた。講演は「国家的教育」の必要性と普及であった。講演終了後、五〇余名との懇親会では国家主義、こっくりなどについての質疑応答があり、また午後三時半から九時過ぎまでのこの会の中で、もっとも関心をひいた事項が欧米視察談であったという。

 また、新聞では講演速記が記事となっている。二三年一一月五日の「哲学館拡張の趣旨」を講演した時の『静岡大務新聞』、二四年八月二九日の『東奥日報』などが『通史編Ⅰ』で紹介されているが、このような当時の報道に関する研究は現在まだ進んでいない。

 当時の円了がどのような姿勢でこの巡回に臨んでいたのか、それを対比的に明らかにする随行者(五十嵐光竜)の思い出をここでは紹介しよう。「明治二十五年新潟市北越学院より米国人の宣教師某より先生がお巡回の際新潟市に於て講演の砌学院に於て仏教の講話を願度と申込まれた。……先生か甘諾して北越学院に至り、然も堂々として仏教の他力本願の講演を一時間半程為された。この時外国人七名と他は学院の生徒拾数名なりしが、喜んだのは外国人である。彼等が謝礼の為来て云ふのに、是まで日本に来て仏教の話を聞きたいと思ふても何人も来て呉れません、外国人が仏教者を訪ふても一人も相手にして呉れ無いのでありましたが……と大喜びを得られた。」 

 しかし、同時期に円了の生家・慈光寺と同じ真宗大谷派の「三条別院で大谷派の前途につき優憤の余り警告的演説を為したのが原因で、輪番始め一同のものより殆んど追立て同様の虐待を受けた……其代り三条の裁判所の判検事よりこの警告演説の為大歓迎を受け、三条一の料理席にて山海の珍味ともいふべき懇篤なる馳走の宴を開かれた」(『井上円了先生』)と、正反対のこともあった。講演が普及・啓蒙を目的としていても、その底には円了自身の信念と理念があり、それはこの巡回を行う衝動力を形成していた。その円了の信念や理念に対する理解が、やがて哲学館という新しい私立学校への理解につながると考えられていたのである。

 ところで、円了は巡回を行うにあたり、それ以前の「本館ヲ永遠ニ保存シ本館設立ノ主義ヲ同志ノ間ニ持続スル為ノ館友ノ制」を改めている。「館友ノ制」では、館内員や館外員は一円、それ以外で哲学館の主義に賛同するものは三円以上で館友となり、束脩無料や書籍の実価頒布などの特典があった。新たに二四年六月に制定された「寄付金規則」では寄付金額に応じて、一円以下は寄付者(領収証発送)、一円以上は創立員(創立員証)、三円以上は館友(館友証)、一〇円以上は館賓(館賓証と謝状)、五〇円以上は特別館賓(特別館賓証と特別謝状)を設け、館賓以上の待遇を改め、特に特別館賓には無束脩無保証人でその子弟の入学を許可するようにした。また団体寄付も設け、さらに募金協力者には雑誌書類や書籍などを贈呈するようにした。当時、講義録に掲載された本選集の「館主巡回日記」はこのときの募金協力者への謝意を表すものであった。

 円了はこのように制度も改めて、そして全国各地を巡回し演説を行ったのであるが、それらが哲学館の資金募集に反映されたのかというと、それは当初の予想に反した結果であった。『哲学館専門科廿四年度報告』には、二四年一〇月までの一年間の募金状況が記されている。一九七日をかけて一八県・一一九カ所を巡回しそれぞれ数回の演説・講演を合計四四〇回行っているが、その成果の額は六七六円四〇銭であった。創立時の新聞雑誌の広告のみで最終的に四〇〇人から三千数百円以上が寄付されたことに比べれば、円了の落胆は大きかった。「予定ノ金額未タ予定資本ノ五十分一ニ達セス其既納ノ金額ノ如キハ僅カニ百五十分一ヲ充タス」のみであった。また募金状況は予約金一八九五円一四銭と既納金六七六円四〇銭との差が大きく、一二〇〇円余と既納金の二倍ほどが未払いであったからである。また、「館主巡回日記」にあるように、この資金募集では「各地方に哲学館賛同者を勧誘する「委員」(募金依頼方)を三百名以上置いたが、実際に紹介があったのは、一六地方三七名による四百二十余名の紹介と、一四名による七団体(教育会・青年会など)の紹介であった。そして、納金して証書(創立員・館友・館賓・特別館賓の証書)を送付された者は一七三名で、うち特別館賓は一名、館賓は三名であった。」(『通史編Ⅰ』)。円了がさきの報告書の題言に「全国ノ有志諸君ニ泣請スル」と、記さざるを得ないような結果であった。

 このような円了に対して、その日記に会談の日付けが記されている海舟は叱咤激励したと考えられる。海舟には戊辰戦争時の江戸城の無血開城を代表例として、幕末から幾多の政治的危機を打開してきた経験があり、また福沢諭吉や新島襄などの私学創立者の経験を知る人物であった。はじめて会ったときに、海舟は円了につぎのように忠告している。「翁曰く、哲学館の主義は大賛成なり、宜く精神一到を以て其成功を期すべし、……古人の所謂精神一到の語は一年や二年にして成ると云ふにあらず、蓋し其成功に年月を示さゞるは、無限の義を含むなり、……君も其心得にて哲学館の目的に従事すべしと」(「精神一到何事不成」『円了随筆』)。

 明治二五年一月二一日、円了は再び巡講に出発した。二六年二月まで継続して、二八三三円を募金することができた。第一回の全国巡回は結局、三二県、三六市・三区・二三〇町村で講演演説を行い、三、五〇九円九〇銭の寄付があったが、二七、二八年には巡回を行っていない。その理由は全国の巡回で「館内ノ監督教授モ思ヒナカラ其責ヲ充タス能ハサリシハ実ニ遺憾トスル所ナリ」とし、予定資本の一〇分の一(一万円)に達していないが、二七年九月の新学期より東京にとどまり校務にあたり学科の改正に取り組み、数年先には予定した専門科を開設したいと考えたからであった(「哲学館目的・専門科寄付金報告」(明治二八年)『資料編Ⅰ上』)。

4 哲学館の再拡張と「火災」

 明治二九年一月、円了は「哲学館東洋大学科并東洋図書館新築費募集広告」を、新機関誌『東洋哲学』の同年三月号に発表した。すでにその用地は小石川区原町(現在の白山校地)に、二八年に三、三〇〇坪、二九年に四五〇坪、合計三、七五〇坪を購入していた。その費用は九、九〇八円で、二三年からの寄付金は五、二六三円であったから、五、三〇五円が不足した(『通史編Ⅰ』)。新築費を募集するにあたり、二九年一月に寄付金規則は改正され、新築費と維持金に分けて募集し、その第二条で新築費は五、〇〇〇円を予定し五年間で積み立て、維持金は五万ないし一〇万円と予定し一五年間に積み立て、維持金を資本としその利子を経費に充当する目的であった。

 この募金活動には、七四歳になった勝海舟が「高齢ナルニモ拘ラズ老腕ヲ揮ヒ毎日若干紙ヲ認メ」と、本格的な支援を申し出たのであった。海舟自らはこの行為を「陰ながらの筆奉公」と呼んでいるが、揮毫は寄付金額、五円、一〇円、一五円、二〇円、五〇円、一〇〇円とそれぞれに応じ、郵送方式でも受け付けられた。この頃の海舟は「明治二十六年十月、眼くもり、筆を執る能わず」「二十七年一月十日夜、眩暈を発し、手足麻痺、中風に類す、薬効を奏し、三月下旬に至って軽快」「二十八年八月以来臥病、ほとんど死期の来るごとし、十二月になって病治り気力回復」と日記にあるように、健康状態は決してよくなかった(資料では海舟の「筆奉公」がこれ以前にもあったのか否か、現在のところ不明である)。

 二九年三月、円了は従来のように、全国縦断の巡回方法を一県下で細かく巡回することに転換して甲州地方の巡回に出発した。現地から海舟の執事に宛てた三月三十日付けの書簡には、信州各郡を巡回し、揮毫を切望する人が多く、すでに一〇〇余円の寄付が集まり、持参してきた二、三〇枚の書はほとんどなくなり、御願いしていたものとまた新たに使いの者に持参させた用紙にも御揮毫いただきたくと、円了が新たな展開への喜びに溢れている様子が記されている(『資料編Ⅰ上』。『勝海舟全集』ではこの書簡を二四年として判断しているが、「巡回日記」の日程にはない。甲州地方の巡回という書簡の記述から、二九年が正しいと考えられる。また、同書簡中の「使いの者」とは水島家に嫁いだ円了の妹の子、当時井上家に寄寓していた甥であると、水島家の子孫の方から最近教えていただいた)。この四九日間と少ない巡講ながら、海舟の尽力もあって、この年の新築寄付金は一、三七五円に達している。

 ところが、哲学館は新たな飛躍へと歩み出したこの年に再び災難に遭遇する。一二月一三日午後一〇時三〇分頃、哲学館の構内にあった郁文館(円了の先輩の棚橋一郎が設立した中学校)からの失火である。日曜日のこの日、郁文館では物置小屋で机・椅子などの修理が行われていたので、そのときの煙草の不始末が原因と考えられている。約一時間後の午後一一時四〇分に鎮火したが、この火災によって焼失したのは哲学館では講堂(教室)一棟と寄宿舎一棟であった。免れたのは館主の自宅だけであった。郁文館も教室三棟を焼失した。当時の新聞『時事新報』には、この火災と『妖怪学』を提唱して迷信退治を行う円了とを結びつけた記事がある。「妖怪博士宅の類焼」というタイトルの記事である。「世に鬼門と云うもののあるべきはずなしとて、哲学館は勿論平生居住する自宅まで、いっさい鬼門を撰びて建築」した円了が、今回災難に遭ったと聞いて「中には何ぼ博士でもハイ鬼門には勝たれませぬさと仕たり顔の御幣担ぎも多しとぞ。迷信は得てかかる奇禍より生ずるなり、悪い時に焼けたるかな」という評判も出たほどであった。

 館主の円了は寺を借りて仮教室と仮寄宿舎とし一週間後に授業を再開した。そして、翌三〇年一月二九日に「学校移転願」を届け出て、移転を決意する。校地はすでに購入していた小石川区原町の土地である(現在の白山校地)。新校舎の建設は同年四月にはじまり、教場、生徒控室、事務室および土蔵の施設が七月に完成した。

 火災から一二日後の明治二九年一二月二五日付けで、円了は「哲学館類焼ニ付キ天下ノ志士仁人ニ訴フ」を出して、緊急の支援を求めた。新校舎の工事費として五、〇〇〇円の寄付を工事の関係で二月二八日までに希望した。海舟の揮毫の規定は再び掲げられた。三〇年一月に漢学専修科を新設し、新校舎の建設、一〇月二、三日の「哲学館新築落成式」を終えてから、翌三一年に円了は前年八月の宮内庁からの恩賜金三〇〇円にもとづき新たに「尋常中学校」の設立計画を発表する。そして、この年の秋期から、再び全国巡回を開始したのである。表3はこれまでを含めた募金の計画と実際をまとめたものである。表1の巡講日程・日数をみると、三一年から三五年まで巡回は連続している。春期、秋期など時期しか分からないものを除いても、四五二日に達する。寄付金を表3でみると、三二年からは、それまでの一、〇〇〇円台から三、〇〇〇円以上に飛躍的に伸びている。その理由は、巡回時の講演に館主自身の揮毫が加わったからである。のちに述べる後期の巡講の原型はこの時期に作られたものと考えられる。

 明治三二年一月、哲学館の発展に支援を惜しまなかった海舟は狭心症で逝去する。その海舟に代わって、円了が自ら揮毫することにしたのは、資料によればこの三二年六月からである。それまでの円了は、哲学館の創立に際して愛好していたものを断って禁酒・禁煙の二禁とし、この全国巡回をはじめたときに、これに断筆を加えて揮毫しないことを決め、自ら「三禁居士」と称していた(『円了随筆』)。

5 巡講の原型

 明治三二年六月に哲学館事務所が定めた「館主巡回及招聘心得」(『妖怪学雑誌』三三年六月一〇日)は、各地の有志などからの問い合わせに答えるために巡回の要点をまとめた形になっている。それを簡単に列記しよう。

 「有志の依頼に応じて学術演説・講義を行う」

 「演説・講義の時間は二時間以内とする」

 「演説・講義への謝儀は哲学館の基本金とする」

 「滞在費はなるべく地方の負担を希望する」

 「館主は諸事倹約主義であるから、饗応待遇などは謝絶する」

 「やむなく懇親会開会の場合は茶菓のみとする」

 「巡回は大抵同伴者一名あり、巡回中、午前は次の地方への移動時間とし、午後は演説講義の時間、夜は揮毫の時間とする」

 「巡回の日程は各地調整の上、一週間前に通知する」

 「今回から新築費募集についての支援者・協力者に本人の希望に応じて記念として揮毫を贈呈する」

 この巡回の目的は哲学館および京北中学校の新築費として二四、〇〇〇円を募集する予定であった。揮毫についてはとくに館主の意向を紹介している。その要旨は、これだけの募金は個人の倹約などでは限界があり、たとえば自分の葬儀・墓石については死後必要もなく、それ故に死後の香典も必要ないので、「其代わりに存命中に香典を頂戴し其金を以て今回の新築費に充つる」とし、香典を頂戴する世間への御礼の遺物として「年来の禁を破り拙筆を揮て遺物の代り」にしたいと述べている。揮毫の内規は、寄付金五〇銭以上、一円以上、二~三円以上に分かれている。そして、寄付金の予約は、後日募集の約束の場合にその結果に違約が多いので、できるだけ館主滞在中に申し込むように依頼している。

 円了が哲学館大学を含む哲学館時代に全国巡回を行ったのは、明治二三年から明治三八年までの一三年間である。巡回の日数はすでに述べたように、判明しているだけで九六六日に及ぶ。全国で演説・講演・講義を行い、さらに哲学館への寄付金募集をしたわけであるが、募金の目標はそれぞれ表3の目的に対応させれば、つぎようになる。

  年 目的 募金金額

明治二〇 哲学館校舎新築費 五、〇〇〇円

  二二 哲学館校舎新築費 五、〇〇〇円以上

  二三 哲学館専門科開設資金 一〇万円の資本金

  二八 大蔵経購入費 四五〇円

  二九 東洋大学科・東洋図書館新築費 新築費五、〇〇〇円、維持金五~一〇万円

  二九 哲学館移転再築費 再築費五、〇〇〇円

  三一 哲学館・附属中学校建設費 哲学館一六、〇〇〇円、中学校八、〇〇〇円、合計二四、〇〇〇円

  三四 哲学館拡張・京北中学校新築費 哲学館二一、〇〇〇円、京北中学校二四、〇〇〇円、合計四五、〇〇〇円

 これらの目標はその都度に改訂されている内容なので、合算しても最終的目標額にはならない。表3に寄付金額の総計をまとめたが、専門科開設では四、九五四円、新築部は二五、八八一円、資本部は五、〇一二円、総合計は三五、八四七円である。三二年以降の講演と揮毫という巡回の方法の見直しが大きな成果となった。この間の募金は三七年までの六年間で二六、三五四円と、全体の七割以上を占めているからである。その結果は二三年に手探りで始められた当初からの長い経験の蓄積と巡回への社会的評価などによってもたらされたものであろう。また、前期の哲学館時代の全国巡講は、日本近代化への啓蒙活動を根底の願いにしながら、哲学館の拡張・発展のための寄付を依頼したものであるが、円了自身の講演が哲学館や京北中学校への直接の学生募集の役割を果たした側面も看過してはならないことであろう(「東洋大学第一期生佐々木正★(凞の㔾が己)氏談「井上円了とその時代」」『井上円了研究』二)。

 明治期の私学の創立者が学校の維持・発展に苦心したことは、すでに海舟と円了との関係に関するところで福沢諭吉や新島襄を例としてふれたが、大学への発展や危機の克服の方法は他大学の歴史をみると、有力な個人や団体あるいは校友組織への寄付募集が一般的である。円了や哲学館の場合、それは校友を媒介としながら一般大衆まで拡大されている。私学の創立者が各地を巡回した例をあげると、この全国巡講が特異なものであったことがよく分かる。例えば、同志社の新島襄は前述の海舟との座談以降、大学の設立の困難さを痛感するが、その後には病苦の身体を抱えながら京都府下の郡部への講演などを行った。二一年には「知恩院に京都の名士六〇〇余人を招き、大学設立について支持と理解を求め」「大隈重信外相官邸に政財界の有力者が小集会をもち、約三万円の寄付申し込みを得」「「同志社大学設立の旨意」を『国民之友』はじめ全国の主要新聞・雑誌に発表し」、翌年さらに東京での募金運動のため上京するが、群馬県滞在中に発病して死去している。

 また、早稲田大学の創立者である大隈重信は、その前身の東京専門学校時代の三四年に「早稲田大学設立旨趣」を配布し、この年は大隈らの首脳陣が全国で基金募集のために巡回講演会を開催したが、翌年にはその募金遊説なしで三〇万円の寄付が得られた。しかし、四一年からの理工科復興を含めた整備と拡充の第二期計画では、この計画への三万円の恩賜金があり、基金は一五〇万円を目標に募金活動が展開された。高田早苗学長らの募金のための地方遊説は、同年七月から大正二年まで行われているが、それは地方の主たる都市での開催であり、日程も短時間である。大隈総長の四三年五月一日から一四日までの東海・関西巡回遊説なども日程や対象の限定性があり、募金そのものが目的であった。成果は一五〇万の目標を達成できなかったが、六割以上の九二万円余が寄付された。

 このように同じ創唱者型私学の創立者の活動と比べると、円了の全国巡講は、その期間・規模・内容などにおいて全く異なっている。哲学館時代の全国巡講は日本の近代私学史における特例として位置づけることが必要であると考えられる。

三 後期の哲学堂時代

1 「哲学館事件」

 明治三八年一二月一三日、この日の夜、円了は自ら創立・経営した大学や中学校からの退隠を決意した。年末までに辞任して後継者に引継ぎ、退隠が公式に発表されたのは翌三九年一月八日であった。「学校は一身一家の私有物にあらずして、社会国家の共同物」であるとして、子孫にも世襲させず、名誉学長は引き受けたが、それは行事に出席する程度のことであった(創立間もなかった京北幼稚園からの退隠は四〇年三月であった)。円了は、土地・財産ともに、哲学館大学の分としては資産総額一〇五、二四四円八〇銭、京北中学校の分として三〇、六九〇円八一銭、合計一三五、九三五円六一銭を寄付し、それをもとに財団法人東洋大学・京北財団が組織され、その後の両校が運営されるようになった。

 この退隠が全国巡講の前期と後期を分けるのであるが、後期の原点は前期末に三度目の災難から計画されたものであったと考えられる。ここでは記述の都合上から後期に含めたが、前期末に起こったその事件についてまず簡単に述べたい。

 円了が明治二二年に建設中の新校舎の倒壊という風災、二九年の類火による校舎の全焼という火災、これらの災難を乗り越えて哲学館を発展させようとしたことはすでに述べたとおりである。学校の目的は人間の教育にあるが、哲学館では具体的に宗教者と教育者の養成を目指していた。円了のいう「無形上、精神上」の近代化はこのような人材の育成にかかっていたのである。前記の二つの養成のうち教育者となるには教員資格が必要であった。教育家の養成を哲学館発展の支柱にと考えた円了は、日本の私学としてはじめて教員免許の開放を文部省に願い出た。それが明治二三年三月、全国への巡回を開始した年であった。その後も願書を提出して運動したが、この中等教員無試験検定の許可を得たのは一〇年後で、このときには東京専門学校(のちの早稲田大学)、国学院と共同で申請し、三校とも「許可学校」となった。これにより官立の「指定学校」の卒業生と同一の取り扱いが与えられた。哲学館には教育部倫理科と漢文科の免許が許可された。この制度による第一回の卒業試験で、この事件は起きた。明治三五年一二月に発生した「哲学館事件」である。この事件の詳細については、他の文献(『井上円了の教育理念』、『通史編Ⅰ』)に詳しいので、ここでは退隠後に円了がまとめた文章を紹介するにとどめたい。

 「哲学館事件とは、明治卅五年十二月十三日、文部大臣より、突然、哲学館卒業生無試験検定の認可を取消すとの厳命を下されたる一事なり。蓋し其事たるや、余の洋行不在中に起りしも、仄かに聞く所によるに、同年十一月卒業試験を行ふに当り、文部省視学官隈本有尚氏臨監せられ、倫理科第三年級受持講師中島徳蔵氏が、英人「ミュールヘッド」氏の倫理書を講本とし、其書中の動機編の一節を批評を加へずして教授したりといふを聞き、甚だ不都合なりとの意見を文部大臣に報告せられたる結果なりといふ。其処置の当否如何に就きては、図らずも輿論を喚起し、各新聞雑誌の一問題となりたる事なれば、余が此に論ずるを要せず。唯其累を、毫も中島講師の教授を受けざるものに及ぼし、八十余名の生徒をして一時に方向を失はしめたるは、実に遺憾の至りなり。即ち此等の生徒は、此事件の為に犠牲となりたるものと謂ふべし。且つ其影響に至りては、哲学館創立以来の大打撃にして、大に館運の興廃に関係したることなれば、永く紀念せざるべからず。」(『資料編Ⅰ上』)

 この文章にもあるように、円了は問題が哲学館事件と呼ばれるほどに拡大するとは考えず、認可取り消しの一カ月前に、インド・欧米視察旅行に出発したのであった。この視察の目的の一つは大学の教育・運営の調査である。しかし、事件の発生は三六年の日本の社会問題の一つにまで拡大・発展し、それはまた哲学館の役割を問い直すものとなったので、洋行中の円了は哲学館発展の新計画を立案した。

 明治三六年七月に帰国した円了は、その年に制定された専門学校令にもとづき哲学館を哲学館大学とした。私学の運動によって、新たな制度が作られてはじめて大学の公称が許可されたのであった。哲学館では今後の大学の運営を「独立自活の精神」によると位置づけ、無試験検定の申請は行わなかった。同年一〇月、円了は洋行中に立案したもう一つの計画を実行した。それが全国各地に修身教会を設立することであった。「内務大臣及文部大臣両閣下ニ上ル書」を『修身教会設立旨趣』に掲載し事務所を大学内に設置して、この運動は開始された。哲学館事件で倫理科の教育が問題視されたことと考え合わせれば、この「修身」という国民の倫理・道徳に関する運動には日本社会の歴史的社会的な課題とともに、哲学館の発展、事件で失墜した威信の回復、私学の創立者としての文部省への対応など、いろいろな要素が含まれていたと考えられる。円了は明治三七年一月、さきの旨趣を各府県市町村に配布し、一月一五日から山梨県下を巡回し、二月には『修身教会雑誌』を創刊した。

 しかし、哲学館大学では哲学館事件後の発展の方針として関係者が願ったのは無試験検定の再認可であった。また円了は三八年に中学校に続いて京北幼稚園を設立したが、このような学園の総合化も、大学の発展を中心に考える関係者には理解しにくいことであった。このような方針の違いがやがて「哲学館大学革新事件」と呼ばれるような形で表面化する。この革新事件は大学経営に関わっていた校友間の反目となって、運動の主体となった校友の一部は新聞に学内問題を公表するなどの動きをみせ、円了への直訴を行った。しかし、運動としては未完に終わった(詳しくは『通史編Ⅰ』参照)。このような一連の動向、さらに哲学館事件の影響、日露戦争による学生数の減少などで、円了自身は神経衰弱症にかかり、前記のように学校からの退隠を決意したのであった(「両校退隠の理由」『選集』第一三巻、三九年六月には現在の東洋大学と改称)。

 退隠後、円了個人によって修身教会運動は取り組まれた。その中心拠点となったのが現在の東京都中野区にある哲学堂である。この土地はもともと哲学館移転用地として三五年に通称和田山の田畑と山林一四、四四五坪が購入され、哲学堂(最初の建築物である四聖堂)も大学公称の記念に建設されたものであった。円了退隠にあたって、新学長前田慧雲との相談の結果、移転計画は見合わされ、哲学堂を「井上円了退隠所」とすることになった。円了はこの元価九、九九三円六五銭の土地を、原町の土蔵付私宅と旧宅(元建築費四、二〇〇円)を哲学館大学へ売却し、残りの代金五、七九三円四六銭を大学への負債とした。そして、明治四〇年から毎年五〇〇円ずつ、一〇年間は無利息、一〇年以後は一割の利子をつけて、一二年間で完済することにしたのである。

2 修身教会運動

 このようにして、円了が個人で取り組むこととした修身教会運動については、前記の「修身教会設立旨趣」(『資料編Ⅰ上』)に明らかにされている。第二回の欧米視察旅行で円了が痛感したことは、明治維新からの日本の近代化の進展に関することであった。今回視察した国はインド・イギリス(イングランド・ウェールズ・スコットランド・アイルランド)・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・スイス・アメリカ・カナダなどであったが、その知見からみると、法制、医術、理科(技術)などの分野は欧米とほぼ並んだが、「国勢民力の如何に至りては、之を英米に比するも、仏独に較ぶるも、遥かに其下にあるを見る」、その彼我の差は貧富の差であって、それは日本の国民の道義・徳行が欧米に及ばないことに起因すると、円了は生活規範の問題にあるととらえた。教育勅語の説く「忠孝」は日本のその大本であるが、これまでの説では「其忠たるや多くは戦時の忠にして、平日の忠にあらず、其孝たるや極端の孝にして、通常の孝にあらず、故に国民皆忠孝を知りながら、民力を養ひ国勢を隆んならしむること能はず」とし、円了は忠孝の意義に、倹約、勉強、忍耐、誠実、信義、博愛、自重などの徳目が含有されていると考え、これを養成することが民力の発展につながると考えたのである。

そして、修身教育が学校教育に限られている現状を改め、社会人となってもこれらの道徳を学ぶという家庭教育・社会教育(実業道徳)の場として修身教会の開設を呼びかけたのであった。その具体例は西洋の日曜教会がモデルで、日本では学校と寺院、教育家と宗教家が協力して各地に会を結成して運動を行い、『修身教会雑誌』はそのときの講話の題材を提供するものであった。円了はこのような趣旨とその実際を普及するために、「余は自ら全国を周遊し、各地に於て細説詳述せん」として巡回を行ったのである。

 大学退隠後、円了は一人の社会教育者・教化者となった。そして、全国に修身教会を開設し、哲学堂を拡張することに取り組んだ。各地の修身教会は統一的集権的組織とはせずにそれぞれ独立した活動体とし、哲学堂はその中心の象徴と位置づけ、多数の人々の修養場とした。浅草や上野や日比谷の公園を肉体的公園とすれば、哲学堂は精神修養的私設公園としてさらに施設を整え、修身教会としてまたその本山として建設しようという計画であった。

 退隠して三カ月ほどの休養をとり、明治三九年四月二日、円了は修身教会運動の展開という新たなテーマをもって全国への巡回に再出発した。この日から国内では一〇月二七日まで、表1のように約七カ月間、二一〇日のうち非巡回日は三六日、それを断続的に挟み一七三日間、一三七カ所で三〇五席の講演を行った。翌四〇年は二七五日、四一年は二六二日、四二年は一八五日、四三年は二二六日と、巡回は継続された。

 この間に、各地で修身教会が結成された。明治四〇年に雑誌は『修身』と改題されたが、その九月号に三七カ所の修身教会の結成が報じられている。このうちの七カ所は寺院に、その他は有志や個人が中心になっている。その展開は翌四一年に四カ所などとゆるやかであったが、各地を巡回する円了の活動は『九州日日新聞』『福岡日日新聞』『壱岐一六日報』など地方新聞にとりあげられて、徐々に浸透していったと考えられる(現在では、この各地での報道などに関する研究はほとんど進んでいないので、今後の課題となっている)。

 最近、茅野良男氏より提供された資料として、大分県立竹田中学校での講演記録がある。この学校の『修道会雑誌』(第四号)によれば、明治四〇年記事において、「井上博士来校 兼ねて九州漫遊中なりし井上博士は鹿児島宮崎を経て竹田に来られ五月十六日本校講堂にて一場の講話ありき」と記し、同誌の巻頭に「井上博士講話筆記」と題してその内容は紹介されている。聴衆は中学生であり、学問と地域(風土)の関係、地方と中央の教育関係、外国人と日本人の気質を取り上げ、さらに「誰でも西洋に行つて先づ驚くのは西洋人の能く勉強することである。私が先年英国に行つた時一英人が或時私に問うて曰ふには日本では芝居は何時始まつて何時頃終りますかと、私は日本では朝から始めて夜分まで続けてやりますと答へた、英人は、そんなら芝居見物に往くものは労働する暇はないではないかと不思議がつて居た」などと、それぞれの忍耐勤勉の相違を実例を出して比較し、最後に巡回で得た九州の教育の現状などを話題としている(巡回日記は『選集』第一二巻三四〇頁)。

 一方、現在までの調査では各地の人々がどのように対応したのか、それが少しずつ明らかになっている。円了は四十二年三月十二日より熊本県下を巡回したが、四月二十八日に田浦村(現在の葦北郡田浦町)で講演を行った(『選集』第一二巻四六三頁)。これを迎えた同町収入役の藤崎英一氏の日記がある。「四月二十八日 火 晴。本日朝食後井上円了博士来田(田浦村)に付出迎えの為め向野(地名)まで宮坂(村長)鬼塚(助役)列て行く、前十一時帰着倉本旅館なり、后一時頃より西音寺にて演舌あり旅館にて博士更に怪談あり后六時頃退散、夕食後行く此夜揮毫あり十時過帰り休す。四月二十九日 水 晴。本日朝食して倉本に行く井上博士出立ニ付計算と書の配布をなす」(田中菊次郎「円了と民衆」『井上円了研究』一)

 このようにして巡回は続けられたが、明治から大正への改元にともなって、この巡回に一つの転機があった。四四年四月から四五年一月まで、円了は第三回目の海外視察を行った。南半球周遊である。その視察の国はオーストラリア・イギリス・ノルウェー・スウェーデン・デンマーク・ドイツ・スイス・フランス・スペイン・ポルトガル・ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイ・チリ・ペルー・メキシコ・アメリカ(ハワイ)などであった。この海外の実地見聞は巡講での題材となった。同年七月三〇日、明治は大正と改元される。円了は八月、修身教会を国民道徳普及会に改称する。雑誌の『修身』は四四年五月まで発行されたが、その後は『東洋哲学』の中の「修身欄」となり、これも大正元年一一月二〇日までであった。それまで雑誌の発行所は三九年から「東京市小石川区原町 哲学館大学内」に、修身教会拡張事務所は「東京市本郷区駒込曙町三番地」にあったが、事務所も変更された。

3 国民道徳普及会

 この変動によって、新たに「国民道徳普及会旨趣」(『資料編Ⅰ上』)が作られたと考えられるが、現在見られるものは五年六月の改訂版しかない。これによれば、事務所は「東京市本郷区富士前町五十三番地」という井上家となり、会長は井上円了であるが、「本会は会員を募集せず分会も支部も設けざることに定む」とあり、組織運動ではなくなったのである。そのためか、本書に収録した『南船北馬集』には第六編(明治四五年四月刊)までの「紀行」「巡回」「日記」が、第七編(大正二年六月刊)では「巡講日誌」に改められている。講演の内容は「国民道徳普及の旨趣の外に教育、宗教、倫理道徳、妖怪談、旅行談、等」で、「開会経費を補助し旁ら哲学堂維持金を積立つる見込にて広く揮毫の需に応」じることにした。開会経費の補助とは揮毫の謝儀の合計のうち、半額を会場または町村の教育、慈善公共事業の補助とし、残りの半額を哲学堂の建築費と維持費にあてる計画であった。

 この巡講の中心は講演である。それは予め四〇題ほどが考えられていて、各地ではその中から選び依頼することができた。四〇題は甲種と乙種とそれぞれ二〇題ずつに二分されている。甲種は勅語関係で、明治期の二つの勅語、教育勅語(二三年)、戊申詔書(四一年)が中心で、倫理道徳の項目を国家・社会・家庭・実業などに展開するものある。乙種は宗教、仏教、妖怪、世界視察談と多岐にわたっている。順に列記しよう。

 甲種……国民道徳大綱、教育勅語大意、戊申詔書大意、忠孝為本説、国体精華の説明、公益世務の解釈、義勇奉公談、世界人文の大勢、国運発展の道、戦捷の結果と戦後の経営、勤倹治産論、自彊不息説、実業振興策、公徳養成法、社会教育一斑、家庭教育談、精神修養法、風俗矯正法、青年の心得、婦人の心得

 乙種……教育と宗教との関係、倫理と宗教との異同、哲学と宗教との別、知識と信仰との別、仏教の人生観、安心立命談、仏教の将来、霊魂不滅論、未来有無説、迷信論、妖怪総論、心理的妖怪、幽霊談、西洋最近の実況、南半球周遊談、海外移民の近状、南米視察談、濠洲及南阿旅行談、印度内地旅行談、日本風俗と欧米風俗との相違

 その具体的な内容については、巡講に持参したメモ帳がある。現在までに保存されているのは『旅行必携簿 巻二』と『井上円了[覚書]』である。それぞれ『井上円了センター年報』第四号、第五号に翻刻されている。後者のタイトルの[ ]の部分はすり減ってしまって判読できないので、仮に付けたものである。大きさはともにタテ一五センチ余、ヨコ一一センチ余と二つとも同じで、罫紙の袋とじに表紙を付けて綴じたものである。前者の『旅行必携簿 巻二』は内容から判断して明治四一、二年の頃、後者の『井上円了[覚書]』は大正元年七月の朝見式での勅語が記されているから、それ以後であろう。前者にはさきの四〇題の乙種に似た目次がある。後者にはさきの「国民道徳普及会旨趣」の四〇題に若干の相違があるが、おそらく改訂前かもしれないその印刷物が表紙の裏に添付してあり、目次も別にある。ともに目次から即座に引けるように、見開き頁の左上の欄外に目次の番号を本文と別に書いている。このような講演メモ帳には「文明発展ノ年代」「汽船ノ進歩」「義務教育(世界各国の修学期間の比較)」など事例メモが整理されている。巡講ではこれを用いて、各地の求める話題に対応したと考えられる。後者の『井上円了[覚書]』からいくつか紹介しよう。

 「○聖徳太子ノ十七憲法中 一、和ヲ貴ビ無忤ヲ宗トスヘシ 三、詔ヲ承レハ必ズ謹ムベシ 四、礼ヲ以テ本トスベシ 六、悪ヲ懲ラシ善ヲ勧ムベシ 九、信ハ是レ義ノ本毎事信アルベシ 十、忿ヲ絶チ瞋ヲステヽ人ノ違ヲ怒ラザルベシ」

 「○生死ノ割合 世界ノ人口十四億ト仮定シテ人寿平均三十五年トスレハ 一年ニ四千万人死 一日ニ十一万人 一時間ニ四千六百人 一分ニ七十六人 一秒時ニ一人ト三分一 然ルニ世界ノ人類ハ一秒時ニ六十人ヅヽ生ルトノ説アリ」

 「○東京ノ迷信 両国橋ノ中間ニ北向シテ飛騨国錐大明神ト唱ヘテ錐三本ヅヽ流シテ祈レバ疾病立ロニ平癒スト云フ(以下略)」

 「○忍耐 「ウエブスター」ハ大字典ヲ作ルニ三十六年ヲ費ヤセリト云フ」

 「○南米ニテ日本商店ノ振ハザル理由 一、資本ニ乏シキ事 二、遠距離ナルコト(往復半年ヲ要ス) 三、製品者ガ南米ノ事情ニ通セザルコト 四、客ニ接スルノ不馴ナルコト 五、必需品ニアラサルコト」

 大正元年からの国民道徳普及の巡講は表1のように、改元後の九月からはじまり、同年に八四日、二年は二八四日、三年は二三二日、四年は一九七日、五年は二一四日、六年は二二一日、七年は一七二日と、海外巡講をこれに加算すると膨大な日数となる。この期間の国内巡講の総数は一、四〇四日に及び、四年に二ヶ月ほど足りないだけである。

 円了は「明治三十九年より日本全国、樺太の半より台湾の際涯に至るまで、各郡各郷、出来得るならば村々に至るまで、周遊巡回し」たいと願っていた。巡回のねらいはその活動の趣旨から、都市よりも町村、農村・山村・漁村など僻遠の地に向けられていた。当初は一〇年間でこの目標を実現したいと考えていた。しかし、最初の五年間、すなわち四三年まで巡回したところ、「全国の三分の一に達せざるほど」とわかり、その目標とする年限を一〇年から一五年間にし、前期、中期、後期と五年間ずつに区切ったのである。大正八年半ばで死去したから、この一五年間には達していないが、明治三九年からの年度別の統計がまとめられている。それを合算すると表4のように、大正七年までの一三年間で、六〇市・六島・四七二郡・二一九八町村を巡回して、二、八三一カ所、五、二九一席の講演を行っている。聴衆の人数は合計一、三〇六、八九五人であった(目算による)。

 その主催者については、資料から新たに表5を作成した(前記の円了の年度別統計とは若干の違いがある)。主催者を教育関係、町村有志、諸団体、仏教関係、組織連合(教育会と寺院、町村と団体など)、自治体(市町村、その首長を含む)の六つに分類した。明治四〇年から四一年は町村有志がそれぞれ五五%、四七%と半数を占めている。大正期に入ると、有志の主催が減少する。代わって教育関係(元年が四七%、三年が四一%)が一時多くなったが、それも次第に各主催者ともに平均化される傾向がある。当初、市町村主催は少なかったが(四二年のみ三九%)、大正元年以降は一定の割合(一二%~二五%)となる。仏教関係が主催者となっていた割合は低く、前期の哲学館時代の巡回と異なる点である。このような変化にはそれぞれの巡講地の特色が反映されている。二、六八七カ所の最終的な総計では、教育関係が二七%、町村有志と諸団体がともに一八%、自治体が一六%、組織連合が一一%、仏教関係が一〇%であった。

 会場についても、資料から新たに表6を作成した。寺院、小学校、他の学校、その他の四つに分類した。圧倒的に多いのが寺院と小学校である。二、六八七カ所のうち、この二つで二、二〇〇カ所以上となり、寺院が三七%、小学校が四六%である。しかし、明治四〇年からの傾向に変化がある。明治期は寺院が半数前後の割合で会場であったが、大正に入ると、その役割は小学校へと逆転している。これにはさきにみた主催団体の変化が関係していると考えられる。

 講演の内容については前記の「国民道徳普及会旨趣」の四〇題のように幅広くテーマが設定されていたが、円了はこれを勅語修身、妖怪迷信、哲学宗教、教育、実業、雑題(視察旅行談)に分類して統計表を作成している。これを年度別にまとめた表7によると、明治四二年から大正七年までの間に、年度別の変化はとくにみられないことが特徴である。合計で三、八五七席の結果は、勅語修身が半数に近くて四一%、ついで妖怪迷信が四分の一ほどの二四%、その他は少なく、哲学宗教が一五%、教育が八%、実業が七%、雑題が五%である。

4 哲学堂の建設

 後期の時代のもう一つの目標が哲学堂という精神修養的私設公園の建設にあったことはすでに述べたとおりである。明治三九年の開始のときに四聖堂の建物はすでに完成していたが、その後はどのように進められたのか。哲学堂はその名のとおり、哲学をモチーフに意匠しようと計画されたものである。この点を個性として、円了が哲学界を世界的、東洋的、日本的に三分して、それぞれの建物を建築した。最初の四聖堂は世界的で、東洋が孔子(中国)、釈迦(インド)、西洋がソクラテス(古代)、カント(近世)を祭った。六賢台は東洋的で、日本が聖徳太子(上古)、菅原道真(中古)、中国が荘子(周代)、朱子(宋代)、印度が竜樹(仏教)、迦毘羅仙(仏教外)を祭った。三学亭は日本的で、平田篤胤(神道)、林羅山(儒教)、釈凝然(仏教)を祭ったのである。円了はこれらを宗教的崇拝ではなく、教育的・倫理的・哲学的精神修養の観点から選んだという。この代表的な建物を含めて、各所に哲学の概念を名とし「七十七場」で哲学堂を構成した。「明治年間の著書および講筵」(『選集』第一三巻)に、明治四五年の時点で哲学堂庭園と建物の各所に命名した一覧表がある。その数は五〇カ所である。まだ建設計画中のものも含まれているが、その後に増設されて、最終的には「七十七場」になった。『哲学堂案内』(大正一五年、財団法人哲学堂事務所)からそれを列記しよう。

哲学関 真理界 鑽仰軒 哲理門 一元牆 常識門 髑髏庵 復活廊 鬼神窟 接神室

霊明閣 天狗松 時空岡 百科叢 四聖堂 唱念塔 六賢台 筆 塚 懐疑巷 経験坂

感覚巒 万有林 三祖苑 三字壇 三祖碑 哲史蹊 唯物園 物字壇 客観廬 進化溝

理化潭 博物隄 数理江 観象梁 望遠橋 星界洲 半月台 神秘洞 狸 灯 後天沼

原子橋 自然井 造化㵎 二元衢 学界津 独断峡 唯心庭 心字池 倫理淵 心理崖

理性島 鬼 灯 概念橋 先天泉 主観亭 直覚径 認識路 論理域 演繹観 帰納場

意識駅 絶対城 聖哲碑 観念脚 観察境 記念碑 相対渓 理想橋 理外門 幽霊梅

宇宙館 皇国殿 三学亭 硯 塚 無尽蔵 向上楼 万象庫

 主な建物の落成年は、明治三七年に四聖堂、四二年に哲理門・六賢台・三学亭、大正元年に唯物園、二年に宇宙館、四年に図書館(絶対城)である。そして、面積約四・六ヘクタールの公園を整備して、はじめて公表されたのが図書館の披露を兼ねた大正四年一〇月二三、二四日であった。その頃には現在の哲学堂公園の景況がほぼ出来上がったと言われている。

 当初、円了は哲学堂の建設費および維持費として七五、〇〇〇円を積み立てる計画であった。有志の寄付金に頼らず、全国巡講での揮毫の謝儀の半分で、この目標を達成しようとした。表8は年度別収支決算である。これには海外巡講の分が含まれているが、三九年からの明治期は、収入が毎年四、〇〇〇円から五、〇〇〇円あり、支出が平均で四、〇〇〇円台である。主に国内を巡講した三九年から四三年度までの合計は、収入が二四、一八九円一八銭、支出が二二、八九四円七九銭、差し引き残金が一、二九四円三九銭である。支出には敷地購入費として一〇、三一〇円、家屋、庭園工事費として九、六〇三円六五銭など、建設期であったから残金が少ないのは当然であろう。大正期に入ると、収入は五、〇〇〇円台、六、〇〇〇円台、八、〇〇〇円台、一万円台と増加する。収入の多くは揮毫謝儀で、大正二年を例にとると、揮毫八、八六五円、篤志寄付四一円である。支出は基本的に四、〇〇〇円台であるが、七、〇〇〇円、八、〇〇〇円、一万円台の年は基本金が積み立てられたからである。支出の中に「書籍、報告、規則印刷費」がある。各地で講演会開会に協力した人々へ御礼の意味で、本選集収録の『南船北馬集』や趣意書などが作成されたのである。

 明治三九年から大正七年までの一三年間の収支合計をみよう。収入は七四、九二九円三九銭、支出は六九、四七一円二八銭、差し引き残金は五、四五八円一一銭である。その内訳については、収支は、揮毫謝儀が七三、九一四円〇五銭、篤志寄付が二〇五円五〇銭、銀行利子が八〇九円八四銭である。支出は、基本財産積み立てが二〇、二〇〇円、敷地購入費が一〇、五六一円五八銭、建設・修繕・器具購入費が二三、四七四円〇二銭、贈呈書等・印刷費が二、二九二円四六銭、事務費(俸給・手当・切手代)が八、四九八円八九銭、南半球旅費補助が三、五〇〇円、前年度不足金が九四四円三三銭である。基本財産二万余円と大正七年の差し引き残金の三、二五三円と、翌八年の死去するまで期間のものが、土地、建物、以外に残されたことになる。

 後期の哲学堂時代の全国巡講はこのようにして展開され、全国各市町村での講演とその募金のための揮毫に多くの時間が費やされた。その結果として、現在も全国に円了の書が残っているのであるが、それについては東洋大学の「井上円了先生の書」研究グループによる研究報告書がある。

 円了にとって大正八年は三、六〇〇日近くをかけて展開された全国巡講の終わりの年である。その年のはじめは一月三日の初孫の誕生という喜びから明けた。しかし、元旦から風に冒され「毎夜睡眠中に咳を発し」て安眠できず、一六日から二二日まで神奈川県葉山で静養する。二月一二日、夜一一時に東京を出発して、翌朝に浜松駅に到着し、五月三日までの静岡県巡講が開始された。そして、五月五日からは中国への海外巡講にと向かった。五月二一日付けの漢口からの手紙では、換金での日本貨幣の急落、現地の日本製品不買、日本人排斥の運動に困り、「一日も早く帰国致度候」と、巡講の困難なことを伝えている。六月一日付の円了の葉書でも、その傾向はあまり変わらず、「拙者五月始支那渡航以来、排日と戦ひ物価と戦ひ、炎熱(九十)度と戦ひ言語と戦ひ、南京虫と戦ひ単身にて奮闘を継続し、幸に無事にて天津に安着仕候」という状況であった。六月五日、大連で円了を迎えたのは、哲学館大学の卒業生で東本願寺大連別院の輪番をしていた新田神量である。「井上円了先生御臨終記」(『サティア』二一号、ただし、この稿には当時の日付に誤りがある)によると、朝の列車で大連の先の駅に到着した円了には、疲労の濃さが見受けられたという。

新田が休息を進めたところ「先生は言下に駅から会場に行って講演することに慣れているから休む必要はない、死んでから墓の下でゆっくり休む」といい、「自分は年五十をすぎて運命に順応することにした」とうかがい、私(新田)はそれでは絶対他力主義ですかと聞き直すと、「親鸞聖人は偉い、自分は何処にいても祖師(親鸞)のご命日には謹慎して偉徳を敬慕している」と言って、円了は休息を断ったのである。大連駅着後、直ちに会場の西本願寺別院の幼稚園に向かった。八時四〇分に講演は開始されたが、円了は一五分程で突然よろめき顔色も変わり、休演となった。駆けつけた医師の診断は急性脳溢血であった。翌六日、昏睡状態のまま午前二時四〇分に死去した。延べ二七年間の全国巡講はこのようにして終わった。それはまた、多くの著述、哲学館や哲学堂の創立、そして全国巡講などと、六一年にわたる奮闘の人生が閉じられたときでもあった。

四 全国巡講の評価

1 巡講の基礎的条件

 明治二三年から大正八年までの円了の巡講は三、五八七日以上に及ぶ。これを前期と後期に分けて、それぞれの目的や事情を述べてきたのであるが、この巡講の展開はそれぞれの期に二度ずつ合計で四度の大規模な全国巡講から構成されている。しかし、延べ二七年間にわたり現在の市町村の半数以上に達したこの巡回講演を可能にしたのは、円了個人の意志がまず挙げられなければならないが、さらに基本的な条件がある。それは大きくは三つと考えられる。

 第一はこの巡講の開始の時期と重なるように出された教育勅語である。円了の哲学館創立の目的意識に、日本の近代化における無形・精神の世界があったことはすでに述べたが、維新以来、その世界への対応に方針らしきものはあっても、事実上は大教宣布運動などのように試行錯誤の連続で、その実質内容の形成は破壊と混乱のみで未着手に等しかった。これに対して、二三年一〇月の教育勅語は国民道徳の根源、国民教育の基本理念を明らかにし、はじめて勃興するナショナリズムにその基礎をあたえようとしたものであった。周知のように、学校教育を通して、勅語の形で上からこれを国民に浸透させようとしたのである。

 この教育・道徳を重視する勅語は、精神世界への固有の問題意識をもつ円了にとって、自らと全国各地を結びつける基盤となった。この普及を大義名分の媒介にして、文明開化、哲学、哲学館、『仏教活論』的教学・布教体制などの新たな必要性への理解を求めたのであった。日本の近代化の推進を目的とする円了の行動自体は、すでに見たように、「上から」のものではなく「下から」手探りで進められたが、教育勅語という媒介・背景の出現が巡講を全国的に通用するものとして可能にしたと考えられる。また、中央から地方へと展開する近代化の啓蒙者と自ら位置づけたことが、多くの大衆に迎えられた条件ともなっていた。最初は「東京の専門家の先生」として活躍し、後年は都市を中心とする官学に対し、円了は田舎にあっての田学を提唱して、近代と非近代の狭間に自らを置いたことも、全国巡講を可能とした条件である。このようにみると、円了は時代の認識や感覚に関して固有のものをもっていた人物と考えられる。

 第二は全国巡講において寺院が会場や主催者になって大きな役割を果たしたことである。その範囲はこの巡講の記録にあるように、出自の真宗大谷派だけではなく、仏教界全体に及んでいるが、当時の寺院は単に一宗派の末寺としての機能だけではなく、地域全体の統合的機能を担っていたのである。

 このことは宗教法の確立過程に端的に示されている(以下、高木宏夫「宗教法」『講座日本近代法発達史』第七巻を引用・参考とした)。明治政府は一〇年に教部省を廃止して内務省に社寺局を設置すると、翌一一年九月に「社寺取扱概則」を通達して社寺の創立と廃合に関する規定を定め、さらに一二年六月には「社寺明細帳」の作成を通達して、政府が本山や地方を通さずに全国の社寺の実態を直接把握したのである。そして、さきの概則に関する細則の中で最初に施行したのが、氏子・檀家「総代人選定ニ関スル」規定であった。寺院の僧侶と人民との間に総代を置くというこの法規は、「総代たるの資格に「相応の財産ヲ有シ」という条件をつけることによって、宗教組織が統治組織の重要な役割を果すことになった」のである。総代人は寺院の各種の届出に際し、連署の責めを負い、県や国家に対して責任の一班を担い、それがまた自己の財産と地位を国家・県に確認されたことになって、地方有力者としての資格を証明されたことになったのである。

 このように、円了が着目した「寺院」とは、単なる宗教組織としてではなく、総代などによって地域全体に通じる機能を有する組織であった。政府がこれを国家の第一次の統治組織とみたように、寺院は全国に遍在していたから、円了の巡講はこのような寺院を通して、その影響は地域全体に及び、内容としては一般化・社会化され、規模としては全国化が可能となったのである。この第二の条件は前述の第一の条件と密接な関係をもっている。

 第三はいわゆる社会資本としての交通・通信などの基盤的近代化が急速に進められたことである。幕藩体制から維新へ、そして欧米の技術を積極的に移入したことによって、日本は県・郡・市町村を下部組織とする国家として統一され、それに対応する基盤も整備された。その交通手段の進展の歴史を簡単に紹介しよう(赤塚雄三「社会の発展と技術革新」を参照した)。

 鉄道の開設は明治五年の新橋~横浜間の敷設にはじまる。つぎの神戸~大阪間は明治七年であった。大阪~京都間はその後ほそぼそと進められていたが、西南戦争等のあと京都~大津、敦賀~大垣間の建設があって、明治二二年には新橋~神戸間が完成した。円了の巡講の前年にはこのような基幹が出来ていた。因みに、円了が最初に京都から上京した明治一一年の行程は、京都~神戸まで汽車、神戸から横浜までの汽船の移動は悪天候のため五日間かかり、横浜~東京へは汽車であったと日記に記されている。五年余りでこのような変化があった。一六年からは東京~高崎間など全国での民間資本による建設の時代もあったが、二五年に鉄道敷設法が公布されて、政府の主導権で再び整備が行われ、三三年に北は旭川から熊本までの列島縦貫線が完成した。このようにして全国の鉄道網は建設された。

 道路は明治初期から地方の開発のために国道が、東京を起点に、各開港場(横浜・大阪・神戸・長崎・函館)まで、伊勢神宮や各府県鎮台まで、各府県庁および府県鎮台までと、その整備が重視された。しかし、費用は明治一一年の地方税規制によって、府県・市町村の負担が原則とされたから、国家補助の件数や金額も少なく、鉄道に比べれば地域間の道路整備は遅れた。これには欧米のような馬車による交通手段の発達が江戸時代に見られなかったのが原因の一つと考えられている。

 また、電信の整備は早くも明治元年に国営での架設を決定し、一四年には全国幹線網がほぼ完成した。電話は電信に比べ大幅に遅れた。輸入された一年後の明治一一年に内務省~警視本署間ではじめて実用化し、その後には各官庁、鉄道、大会社などに架設されたが、国営の決定は二一年であった。電話網の発展は進まず、四〇年に拡張計画を立て、ほぼ全国を網羅したのは大正元年であった。

 円了の巡講が全国的に展開された背景にはこのような鉄道などの基盤整備があった。鉄道を基線に町村の講演地に向かったのであるが、円了が当時使用した交通手段をまとめて紹介しよう。それは岩手県巡講日誌(『選集』第一五巻)に主なものが紹介されている。人力車(腕車)、勅任馬車、円太郎馬車、荷車馬車、和船、海汽船、川汽船、石油発動機船、汽車、軽便鉄道、電気鉄道、馬車鉄道、轎(駕籠)、荷鞍つき馬、西洋式鞍馬、自動車である。巡講日誌ではこの他に、脚絆と草鞋での徒歩、土呂車(トロッコ)、人車鉄道(土地の傾斜を利用して、人力で車を軌道上に走らせる)を用いたと記されている。

 このような交通手段を積極的に駆使して全国を巡講したのであるが、その巡講率を現在の都道府県別(表2)にみると、その比率には高低がある。各県下の市町村の七〇%以上を巡講したところは、北から岩手(七一%)、山形(七一%)、新潟(七一%)、富山(八三%)、石川(七一%)、滋賀(八八%)、京都(七三%)、兵庫(七五%)、島根(七八%)、広島(七三%)、山口(七九%)と、一一府県である。逆に二〇%以下ともっとも低い巡講率は、東京(一五%)、高知(一一%)、沖縄(六%)である。、五〇%以上の市町村を巡講した都道府県数は二九で、全国の六割以上となっている。

2 評価の二面

 延べ二七年間の全国巡講を展開した円了を、その家族はどのようにみていたのであろうか。大正六年に長男玄一に嫁いできた信子氏の談話を紹介しよう。父は「見たところは質素で、母も見栄を張ることがありませんでした。……日常生活は質素なんですが、必要なときには思いきって使うんですよ。……旅行から帰ったときは、必ず私たちにご馳走してくれました。一年のうちで父の在宅日数はほんの僅かで、ほとんど表の方が多いらしいんです。子供の頃、妹が「うちは変なのよ、お父様が家にいらっしゃると変な気がするのよ」とよく言ってました。私の結婚後もそうでした。一週間家にいましたらいい方でしょう。二、三日ですね。他の巡講が待っているんですね。よく電話がかかってきました。」(「父 井上円了」『井上円了研究』三)

 没後の追悼集『井上円了先生』(大正八年、東洋大学校友会)には、円了の巡講の姿が記されている。そのいくつかを紹介しよう。

 先生が全国巡講の目的と方法について語った中で、「殊に山奥の田舎の車馬も通ぜざる辺鄙の人々へも、教育勅語の思召を徹底させやうと思へば、車にも乗れぬ、馬にも乗れぬ、旅宿もなし、食物も小言は云へぬ。先づ大抵は小学校にて話をし、そのまゝそこで寝泊りし、時には教室のテーブルを并べてその上に寝るやうな事もあり、食事等もお話にならぬ有様にて、その間に村長、校長等より地方の人情風俗をさながらに聞き取る為には、それ等の衣食住に不足がましきことを言ふどころではなく、且つ進んで彼等と併座し、彼等の呑む村醪一杯をも共にし、彼等の喫する手製の莨をも喫せざる可らず。斯くして始めて漫遊の目的を達するものなることを語られし」(教授・島地大等)。

 「自身経営の学校にしても、哲学堂にしても、寄付金の集つただけづゝ、土地を買ふなり、建物を新築するなり、するといつたやり方で、決して借金などをするといふことはなかつた。全く石橋を叩いて渡るといふ主義であつた。……先生のカバンは、有名なものであつた。縦二尺位の藪医よろしくといつた風のカバンは、何十年来先生と追随、……中には、筆あり、紙あり、墨池あり、手帖あり、切手あり、羊羹あり、先生の七ッ道具ともいふべき程のもの、悉皆備れり。先生はこの七ッ道具を以て、授業の五分間休み、汽車の待合の間等、寸陰と雖も之を利用せられざることなく、手紙の返事、雑誌の原稿、巡回の日記等大率此間に成つたものである」(商議員・鼎義暁)。

 「先生は、自ら奉ずること頗る倹にして、且つ遜。汽車は大抵三等、弁当は大抵握り飯、いつの旅行でも決して見送り出迎ひを歓び給はず。……今年(大正八年)は、先生の還暦に当るので、聊か祝意を表しようといふ話もあつたのだが、先生は、今後数年を経ば、日本全国を周遊し尽すから、その上で、日本全国周遊完了祝賀会とでもいふを催して欲しい、還暦なんぞは問題でないと仰つしやつた」(高嶋米峰)。

 円了の巡講は二、三カ月が普通とかなりの長期にわたっているが、その間に体調の変化は少なかった。予定変更に至ったのは、明治三五年七月三〇日の福井県勝山町において、「当夜一二時後、にわかに発病、胃腸カタルおよびマラリヤ熱を併発」したことである。二カ日間滞在して静養したが、治癒せずに帰京する。東京で二週間の静養をとって、再び福井県に向かっている。延べ二七年間に病気による大幅な変更はこの一度だけである。

 しかし、大幅な日程変更だけで言えば、もう一度あった。明治四二年八月二五日のことで、鳥取県巡講に向かう途中に、静岡県清水町での講演を終えてから入った母危篤の電報によってである。予定していた鳥取県などへ巡回延期を打電して、深夜一時の急行で新潟県浦村へと出発したが、二七日午前一一時に郷里の駅に到着したのは母が死去した二時間後であった。葬儀後、九月上旬に帰京して、哲学堂にこもって『哲学新案』を執筆し、一〇月中も静養している。再出発したのは翌一一月からであった。

 日記をみると、「余、数年来の持病あり。毎年、寒暑相移るの際に発す」「八月の間、半日の休みもなく、炎暑をおかして巡講を継続したれば、心身ともに疲れて綿のごとくなれり」など、その疲労を温泉療法で癒やしている。長期の巡講の中には、夏・冬の悪天候、「途中、馬車顛覆せしも幸い無事なり」と、少なからずの難行であったことが知られる。このような苦労の多い全国巡講がはたして当時はどう評価されていたのであろうか。全国各地町村の多くの人々が歓迎してくれたことは、この日誌で読みとれる。哲学館の関係者の評価は、さきの『井上円了先生』に集められている。同書が死去後に追悼のために編集されたという性格もあり、全国巡講に対しては全般に好意的で高い評価である。ここでは批判的、とくに当時の知識人の評価を紹介しよう。

 「二、三年前、或る機会で知合になつた哲学館出身のさる知名の国学者から、私は、円了博士に就いて、次のやうなことを聞いた。博士は旅行や講演にでかける毎に、人から乞はれるまゝに盛んに筆を呵して揮毫し、差出される染筆料は遠慮なく頂戴するだけでなく、時には高い定価を付けて売出すので、一部の人々から守銭奴として目され、共に齒すべからざる俗学者とまで罵られた。それで、嘗て或る親しい友人が博士に向つて、反省を促すことがあつたけれど、笑つて取合はなかつた」(黒田亮前掲書)。

 また、東京大学文学部哲学科の二年先輩の三宅雪嶺は、円了の青年時代の活躍を知っている人物であるが、『井上円了先生』に掲載した談話で、その著述の能力の高さを惜しみながら、円了の巡講の問題点を指摘している。

 「氏は何事にも眼が利いたが、兎角過去に標準を置き、而も之に依らんとするの性癖があつた。嘗つて弘法大師の遺跡の全国到る所に存在せるのに深く感心し、『都会よりも村落を巡る方寧ろ効果がある』などと言つて……後通俗講演をなしつゝ郡村を巡回したのも……過去の例に依準して為すに過ぎぬ。……事業的経営の才の秀でゝ居り乍ら、主我的になりし点が(あり)……氏が嘗て『大我と掛けて浜の松風と解く、心は音許り……』。と云ふたかに記憶するが、是れ即ち其傾向の表はれたるものと謂ふべきで、氏は大我を考ふる事に困難であつたらしく見えた」とし、円了が哲学館から退隠したときの挨拶文で「独力経営二十年……」と言ったことを、多くの関係者への非礼である(三宅は創立時に講師をつとめた)と批判している。

三宅は円了もその創立に加わった「政教社」の雑誌『日本人』で欧化主義一辺倒の風潮を批判し、日本主義を主張した知識人として社会的に知られ、その後も陸羯南の『日本』、『日本人』を改題した『日本及日本人』、『中央公論』などに評論を発表して、言論で全国的に時代への影響力をもった。そして、昭和一八年に文化勲章を受章している。円了とは対称的な生き方を選んだ人物としてみることができる。

 円了は三宅と同じく東京大学の創立期に学び、当時の四学部の卒業生が五〇人前後の時代の、エリートとして社会に出た。出身の仏教界からの「学士」第一号でもあった。在学中からの著作活動で、若き知識人としても有名であった。それが創立した学校の危機を契機に全国巡回を開始したのであるが、全国各地では社会の啓蒙者(教化者、布教者)としての役割を果たしたと考えられる。それはとくに後期に入り、「かつて福沢翁は平民的学者をもって任ぜられたが、余はそれよりも一段下りて土百姓的学者である」(『奮闘哲学』『選集』第二巻)と自己規定したことからも明らかである。「無位無冠」を標榜して政府からの二度の叙勲も辞退した。生涯にわたり在野で活動した円了は、エリートから降りて大衆の中に入ったとは言え、明治時代固有の位置がある。そこに「下から」の教化者と言っても限界があった。しかし、本選集の全国巡講の記録は、その時代や状況という背景を合わせると、そこには近代日本の知識人が担った課題と、捨て去った課題の二面が表れていると考えられる。

 

付記 最後に円了の全国巡講に関する文献を紹介したい。円了自身が巡講において現地で見聞するという今日のフィールドワークで資料を蓄積したことは、明治二一年四月から記した『実地見聞集』第三編(『井上円了センター年報』三)に「全国旅行日記中ヨリ抜粋ス」とあることから知られる。それを資料として各種の著述にあたり活用したことは、『妖怪学講義』などで確認されるが、巡講の見聞をまとめた著書としては、井上円了『日本周遊奇談』(明治四四年、博文館)がある。現代において全国巡講の足跡を調査した研究としては、田中菊次郎「円了と民衆」、「『南船北馬』現地調査覚書(続編)」(前者は『井上円了研究』一、後者は同誌二)、目良亀久「井上円了博士と壱岐」『(島の科学』二二号)、烏兎沼宏之『山形ふしぎ紀行―井上円了の足跡を辿る―』(法政大学出版局)が専門的である。

全国巡講や哲学堂の創立などの全般に関しては『東洋大学百年史』通史編Ⅰ、資料編Ⅰ上が詳しい。なお、哲学堂は円了死去のあと、その遺言によって井上家は世襲せず財団法人で経営され、理事となった長男玄一氏の努力などで維持されていたが、昭和一九年に戦時下の事情のもとに東京都へ遺言に従って寄付された。昭和六〇年に刊行された『東京の公園一一〇年』(東京都建設局公園緑地部)によれば、寄付された最後の公園となっている。そのことも含めたその後の歴史については、前島康彦『哲学堂公園』((財)東京都公園協会)がある。本稿の資料などについては東洋大学井上円了記念学術センターの山内瑛一氏にご協力をいただいた。記して謝意を表したい。

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解 説

 表1 年別巡講日程日数

 年  年齢  巡 講 日 程  日数 

明治23 32歳 11.2~12.15 44

24 33歳 1.31~4.1 5.11~6.19 7.17~9.6 153

25 34歳 1.21~3.6 4.5~4.9 4.20~6.2 7.19~9.4

12.21~12.31 154

26 35歳 1.1~2.8 39

29 38歳 3.24~5.10 48

30 39歳 7.23~8.7(佐渡の3町村) 16

31 40歳 秋期(2県15町村) 〈不明〉

32 41歳 7月のうち10日間 7.20~9.2 11.7~12.9

月日不詳(3県9町村) 〈88〉

33 42歳 春期(1県39町村) 7.18~9.2 秋期(1県12町村) 11.17~12.31 〈92〉

34 43歳 2.18~3.20 6.23~7.11 7.14~8.13

8.15~9.13 111

35 44歳 2.13~3.27 4.6~6.2 6.19~7.11 7.14~8.3

8.19~9.3

〔11.15~36.7.27,インド・欧米視察旅行〕161

37 46歳 1.15~1.31 7~8月中(2県3町村) 〈17〉

38 47歳 7.24~8.31 9.1~9.4 43

前期の総日数 明治38年までの年月未詳(7府県3市29町村)を除く 〈966〉

39 48歳 4.2~5.23 6.13~6.17 6.23~6.26

7.8~10.27

〔10.28~11.29,満州韓国巡講〕 173

40 49歳 1.27~6.24 7.21~8.23

〔8.24~8.28,樺太巡講〕

8.29~11.28 275

41 50歳 1.29~6.13 6.24~8.2 8.12~11.4 262

42 51歳 1.29~3.30 4.11~8.1 8.25 11.11~11.19

12.24 185

43 52歳 2.10 2.12~3.14 3.20~5.26 6.30~8.18

8.30~10.17 10.22~10.31 11.12,11.13

11.21~12.5 226

44 53歳 〔1.7~2.20,台湾巡講〕

2.21~2.27

〔4.1~45.1.22,南半球周遊〕7

明治45

大正 1 53歳 2.1,2.16,3.10,5.1,5.4,5.5,5.27,6.20

9.27~10.22 10.31~11.19 11.22~12.14

12.15~12.29 92

2 55歳 1.4~1.27 2.14~3.26 3.31~5.18 6.24~9.3

9.9~10.31 11.16~12.30 284

3 56歳 1.16 2.5~3.30 3.31~4.23 6.12~6.25

6.30~9.12 10.18~10.19 10.23~12.3

12.9~12.28 232

4 57歳 2.15~3.22 3.31~5.24 6.21~8.28

9.29~10.14 12.1~12.21 197

5 58歳 2.11~3.29 4.1~5.12 6.19~7.13

7.16~7.22(哲学堂講習会) 7.28~9.8

9.30~10.6

〔10.7~10.20,中国・青島泰山曲阜旅行〕

11.7~12.18 214

6 59歳 1.4 2.15~3.29 4.1~4.6 4.8~4.16

4.21~5.2

6.11,6.12,6.13 6.30~8.15 8.18~9.21

9.26~10.31 11.3~11.4 11.16~12.12 221

7 60歳 1.11~1.16 2.15~3.9 3.11~3.28 4.1~5.21

〔5.24~7.21,朝鮮巡講〕

7.25~9.6 10.14~11.10 11.22~11.23 172

8 61歳 2.12~3.8 3.9~3.25 3.25~5.3

〔5.5~6.6,中国巡講〕81

後期の総日数 2,621

27年間の総日数 〈3,587〉

(1)日程は東京出発から東京到着までを基本とした。

(2)出発直後に休暇を取った場合は再出発日からとした。また,帰京途中で休暇を取った場合は巡講の最終日までとした。

(3)巡講以外の旅行で,講演があった場合はその日のみを数えた。

(4)連続講義は井上円了の統計処理に準じた。

(5)〔 〕はすべて海外での旅行および巡講である。

(6)正確な日数が計算できない年は〈 〉に記した。

(7)年数は延べ27年,前記は13年,後期は14年である。

 表2 都道府県別・巡講市町村数

都道府県 市 町村 巡講市町村

合   計 平成7年度

市町村数 巡講率

北海道 21 36 57 212 26.9

青 森 7 25 32 67 47.8

岩 手 13 29 42 59 71.2

宮 城 7 16 23 71 32.4

秋 田 9 35 44 69 63.8

山 形 13 18 31 44 70.5

福 島 10 51 61 90 67.8

茨 城 17 15 32 86 37.2

栃 木 8 15 23 49 46.9

群 馬 11 35 46 70 65.7

埼 玉 25 24 49 92 53.3

千 葉 13 17 30 80 37.5

東 京 3 3 6 41 14.6

神奈川 6 2 8 37 21.6

新 潟 19 60 79 112 70.5

富 山 9 20 29 35 82.9

石 川 8 21 29 41 70.7

福 井 7 17 24 35 68.6

山 梨 7 10 17 64 26.6

長 野 17 39 56 120 46.7

岐 阜 13 48 61 99 61.6

静 岡 13 27 40 74 54.1

愛 知 24 29 53 88 60.2

三 重 13 35 48 69 69.6

滋 賀 7 37 44 50 88.0

京 都 10 22 32 44 72.7

大 阪 25 2 27 44 61.4

兵 庫 19 49 68 91 74.7

奈 良 8 12 20 47 42.6

和歌山 7 26 33 50 66.0

鳥 取 4 21 25 39 64.1

島 根 8 38 46 59 78.0

岡 山 10 42 52 78 66.7

広 島 13 50 63 86 73.3

山 口 14 30 44 56 78.6

徳 島 4 7 11 50 22.0

香 川 5 16 21 43 48.8

愛 媛 12 31 43 70 61.4

高 知 4 2 6 53 11.3

福 岡 18 40 58 97 59.8

佐 賀 7 18 25 49 51.0

長 崎 8 17 25 79 31.6

熊 本 10 46 56 94 59.6

大 分 10 23 33 58 56.9

宮 崎 9 16 25 44 56.8

鹿児島 11 22 33 96 34.4

沖 縄 3 0 3 53 5.7

合 計 519 1,194 1,713 3,234 53.0

 

(1)旧市町村を平成7年度の市町村に置換した。

(2)東京特別区(23区)は1市とした。

 表3 哲学館時代の年度別寄付金

募集の目的

年月日 目的 発表された計画

明治20.10 哲学館校舎新築費 哲学館築造ニ付有志金募集

  22.8 哲学館校舎新築費 哲学館改良ニ関シテ館内員及館外員諸君ニ御依頼ス

  23.9 哲学館専門科開設資金 哲学館ニ専門科ヲ設クル趣意

  28.6 大蔵経購入費 東洋学振興策并図書館設立案

  29.1 東洋大学科・東洋図書館新築費 哲学館東洋大学科并東洋図書館新築費募集広告

  29.12 哲学館移転再新築費 哲学館類焼ニ付天下ノ志士仁人ニ訴フ

  31.9 哲学館教場等・附属中学校建設費 哲学館新築寄付金募集旨趣

  34.1 哲学館拡張・京北中学校新築費 哲学館拡張及京北中学校開設旨趣

『東洋大学百年史』通史編Ⅰ,P.369~370

 

寄付金額

 年 度  専門科開設  新築部  資本部  合 計 

明治23.11~24 676円40銭   676円40銭

  25 1,730円38銭   1,730円38銭

  26 1,103円21銭   1,103円21銭

  27 773円38銭   773円38銭

  28 294円78銭   294円78銭

  29 325円72銭 1,375円23銭  1,700円95銭

  30(6月) 50円60銭 1,459円99銭  1,510円59銭

  30(7月)~31  1,483円40銭 217円95銭 1,701円35銭

  32  3,450円04銭 188円00銭 3,638円04銭

  33  4,528円18銭 684円65銭 5,212円83銭

  34  5,375円81銭 1,629円85銭 7,005円66銭

  35  6,882円64銭 1,303円76銭 8,186円40銭

  36  534円25銭 196円40銭 730円65銭

  37  91円60銭 791円60銭 1,583円20銭

 合 計 4,954円47銭 25,881円14銭 5,012円21銭 35,847円82銭

『東洋大学百年史』通史編Ⅰ,P.409,411。納金分のみ合算した。

 

 表4 哲学堂時代の年度別巡講状況(市・郡・町村・箇所・席・人数)

年度 市 島 郡 町村 箇所 席 人 数

明治39 6 1 15 83 137 305 61,400

40 6  66 171 283 504 112,445

41 6 45 235 307 576 170,000

42 3 2 28 155 193 363 98,770

43 6  47 190 236 451 112,830

44 1 3 1 8 11 19 5,700

大正 1 321 83 103 192 45,150

2 7  51 260 310 589 173,205

3 5  41 215 259 460 124,420

4 3  34 193 254 440 107,960

5 5  44 206 250 483 117,120

6 5  49 228 272 514 109,995

7 4 30 171 216 395 67,900

合 計 60 6 472 2,198 2,831 5,291 1,306,895

各年度の統計から海外巡講分を除いた。

 

 表7 哲学堂時代の年度別演題類別

(実数)

年度 詔勅修身 妖怪迷信 哲学宗教 教育 実業 雑題 合計

明治42 136 67 42 43 349 331

43 159 122 78 49 45 22 475

44 3 1 2  1  7

大正1 64 44 17 20 15 20 180

  2 243 122 97 54 32 41 589

  3 185 110 79 32 37 26 469

  4 202 99 57 32 24 26 440

  5 204 126 95 32 21 16 494

  6 196 124 78 23 36 32 489

  7 182 96 50 21 16 18 383

 合計 1,574 911 595 306 261 210 3,857

(%)

 

年度 詔勅修身 妖怪迷信 哲学宗教 教育 実業雑題 合計

明治42 41.0 20.2 12.7 13.0 10.3 2.7 100.0

  43 3.5 25.7 16.4 10.3 9.5 4.6 100.0

  44 42.9 14.3 28.6  14.3  100.0

大正1 35.6 24.4 9.4 11.1 8.3 11.1 100.0

  2 41.3 20.7 16.5 9.2 5.4 7.0 100.0

  3 39.5 23.5 16.8 6.8 7.9 5.5 100.0

  4 45.9 22.5 13.0 7.3 5.5 5.9 100.0

  5 41.3 25.5 19.2 6.5 4.3 3.2 100.0

  6 40.1 25.4 16.0 4.7 7.4 6.5 100.0

  7 47.5 25.1 13.1 5.5 4.2 4.7 100.0

 合計 40.8 23.6 15.4 7.9 6.8 5.4 100.0

 

開会一覧に続く「演題類別」より作成した。ただし,大正5年度には「中国山東省巡講」(11席)を含む。

 

 表8 哲学堂時代の年度別収支決算

年度 収入 支出 差し引き

明治39

  40 14,489円42銭

  41  22,894円79銭 1,294円39銭

  42 4,504円72銭

  43 5,195円04銭

  44 2,617円37銭 4,412円31銭 △1,794円94銭

大正1 2,128円80銭 2,572円58銭 △ 443円78銭

  2 8,907円26銭 4,214円71銭 4,692円55銭

  3 6,933円71銭 4,689円46銭 2,244円25銭

  4 5,108円80銭 8,313円05銭 △3,204円25銭

  5 6,293円62銭 4,243円92銭 2,049円70銭

  6 8,365円62銭 10,998円84銭 △2,633円22銭

  7 10,385円03銭 7,131円62銭 3,253円41銭

合 計 74,929円39銭 69,471円28銭 5,458円11銭

哲学堂の収支内訳(明治39~大正7)

 

収入

項目 13年間の合計金額

揮毫謝儀 73,914円05銭

篤志寄付 205円50銭

銀行利子 809円84銭

収入総額 74,929円39銭

支出

項目 13年間の合計金額

基本財産積み立て 20,200円00銭

敷地購入費 10,561円58銭

建設・修繕・器具購入費 23,474円02銭

贈呈書等・印刷費 2,292円46銭

事務費(俸給・手当・切手代) 8,498円89銭

南半球旅費補助 3,500円00銭

前年度不足金 944円33銭

支出総額 69,471円28銭

海外巡講分を含む。