5. 解説:菅沼晃

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     解  説                菅  沼   晃  

       一 井上円了の仏教概説書の特色と方法

 『井上円了選集』第五巻に収められた『仏教通観』、『仏教大意』、『大乗哲学』の三編は、いずれも極めて平易な表現で仏教全般にわたって解説した、いわば仏教概論、あるいは仏教入門のための書である。円了の「今日はまさしく仏教哲学を実現すべき時であるが、その説くところは従来高尚にすぎて一般の人々には理解できなかった。これは誠に遺憾である。そこで、仏教の解釈を通俗化して一般に普及させるための道を開くことは実に目下の急務である」(『仏教通観』自序)という問題意識は三編に共通するものであり、従来難解とされていた仏教の諸概念や用語を思い切った譬喩と通俗に過ぎるかとも思われる表現で説いている点に、まず形式上の特色があるといってよいであろう。

 もともと仏教論理学(因明)においては、譬喩(upama 喩)は真理認識の重要な根拠とされ、仏典中には多くの譬喩が用いられている。円了の啓蒙的な仏教解説書においても同様に明喩・暗喩がともども用いられており、一般の人々に仏教を理解させるために重要な働きをしている。たとえば、仏教が一般に種々の点から説かれ理解されているが、その本質はとらえられていないということを説くのに、つぎのような譬喩をあげている。

 信州の一農夫が始めて東京に出て日本橋の一旅館に投宿したところ、たまたま伊豆七島の一漁夫と同室となり、一夕雑談した。その際、信州の農夫が「太陽は山から出て山へ入るものだ」と言うと、伊豆七島の漁夫は、「太陽は海から出て海へ沈む」と言いはる。これを聞いた旅館の女使用人は「お二人の言うことはみなまちがっています。太陽は人家から出て人家に沈むのです」と言った・・。

 円了は仏教の解説を、いわゆる通俗化するために好んでこのような通俗的な譬喩を用いているのであるが、右に挙げたようなだれの目にも明らかな譬喩は別として、極めて重要な概念を譬喩で説明することがしばしば行われていることに注意しなければならない。たとえば、円了の仏教観の中でもっとも重要な観念は、真如と呼ばれる絶対的なものと現象世界はもともと同一であるということであるが、このような極めて難解な説を解説するにあたって、円了はしばしば「水、氷、湯は、名称は異なっていても、もともとすべて水である」という譬喩を用いている。真如と諸存在(万法)が同一であるという主張は円了の仏教書のいずれにも説かれるものであって、正確に理解されなければならず、したがってこの譬喩の意味も重要であり、表面的にとらえてはならないであろう。

 本巻に収められた三編は仏教学上の特定の問題を論じたものではなく、つとめて平易に(円了の言葉でいえば、通俗的に)仏教を説いた仏教概論、仏教入門書であり、それ故にこそ、円了の仏教観がよりティピカルな形で表明されているということができると思われる。古来、日本においては仏教概論といえば凝然の『八宗綱要』が代表的なものとされ、日本の各宗派の教義を並列的に記述し、解説するのが習わしであった。円了は直接的な関心を日本仏教に限定しながらも、このような伝統的な仏教入門の形はとらずに大胆にヨーロッパ哲学の概念をもちこみ、仏教概論にもその方法を用いた。とくに『仏教通観』『仏教大意』の二編には、円了の方法論が明確にあらわされている。

 その中で、ここでは円了が「仏教研究の方法」について述べている部分を紹介しておこう(『仏教通観』第一章、第二節)。円了は、仏教研究の方法を、注釈的研究、達意的研究、批評的研究、歴史的研究、比較的研究とに分け、現在の学者の研究は歴史的研究が主である点を指摘している。さらに、仏教研究の時代的な意義として、かつてインドにおいて仏教が成立したとき、もっぱら宗教的実践を説き、安心立命の境地を主張しながらも、外教諸派との対抗上から仏教の考え方を理論的に整備し、体系化していかざるを得なかったのと同じことだとしている。すなわち、円了はブッダの時代の外教に当たるものとしてキリスト教、および理学・科学などの「実験上の学問」を挙げ、それらが「仏教の学問に食いこんでくる」「理屈の矢や弓で押しこんでくる」から、仏教の側も哲学によって仏教の真理を証明する必要に迫られているのである、と言う。そこで「仏教の存在する上はどこまでも研究し練磨しなければなりません」ということになるのである。

 このようにして新たな仏教研究が提唱されるのであり、これを「発達的学風」と呼んだ。これに対して、古来からの仏教家の「楊子をもって歯をほじくるような研究の仕方」を「注釈的学風」と名付けている。注釈的学風とは仏教を「善も悪も少しも構わずなんでも完全なるものと頭から断定してしまって」一生懸命注釈だけを試みるような仏教研究の方法であり、仏教を完全無欠なものとして固定化した上で一字一句を注釈するという、いわば護教的な立場からの研究をいうのである。円了はこのような研究によって「折角の仏教も全く死んでしまうほか仕方がない」と批評している。

 これに対して発達的学風は「発達的に仏教を研究する学風」であり、仏教経典や仏教思想を固定的にみないで、批判的に扱い、発展史的にみていこうとする研究態度である。円了は注釈的学風は退化であり、発達的学風は進取的であり、開発的であり、批評的であって、仏教を研究しようとする者は仏教を研究するにとどまらないで、仏教以外の諸思想、諸学に対しても自由に討究するような研究方法をとらねばならない、と主張する。

 しかし、従来の注釈的学風と呼ばれる研究法を全面的に否定したのではなく、両学風の調和を図ろうとしている点も見落としてはならないであろう。

 このようにして円了の主張する仏教研究法は、いわゆる発達的学風に基づくものであり、「余はその注釈的の方面には決してくちばしを入れません」という態度は、この巻に収録した三編に共通するものといってよいであろう。

       二 絶対的にして相対的・相対的にして絶対的・・真如と万法

   仏教通観

 自序によれば、本書は円了が哲学館において講述したものを渡辺髯史が筆記し、しばらくしてから平易な表現に書き直したものを円了自身が校閲して整理して出版したものである。そのような事情から文体は「である調」と「あります調」が入り混った形であるが、それが奇妙なリズムをもっていて、知らず識らずのうちに円了の説くところに引きこまれていく感じである。

 本書は通俗的な仏教概論とはいえ、全一九章に及ぶ体系的な仏教解説書である。このうち、まず第一章緒論で「仏教哲学」という場合の仏教と哲学との関係、およびそれに関連する仏教研究法について述べ、第二章総論で仏教の目的・基本的立場を総説する。ついで第三章で仏教の諸宗派を理論宗と実際宗に二分したうちの理論宗について説き、第四章から第五章で仏教思想史上における有・空・中の問題をとりあげ、その思想的発展を論じるという手続きをとった上で、第六章から第一四章において倶舎宗・成実宗・法相宗・三論宗・『起信論』・天台宗・華厳宗を扱っている。第一五章は実際宗とよばれる諸宗派をまとめて論じ、第一六章から第一八章で禅宗・日蓮宗・浄土宗をそれぞれとりあげ、最後に第一九章結論において円了の当時の仏教界への感想を記して結語としている。

 このように本書は序論・方法論・本論・各論のすべてをそなえた仏教概論であるが、さらに注意しなければならないのは、第八章法相宗、第九章三論宗、第一〇章『起信論』、第一一章天台宗、第一二章華厳宗、第一六章禅宗の各章の最後に「批判」という節がおかれていることである。この「批判」とは、それぞれの宗派の主張を円了自身が批判しようとしているのではなく、ヨーロッパの諸哲学者の説をあげて比較しようとしているのであり、いわゆる比較哲学・比較思想論が展開されているのである。

 これらの多岐にわたる円了の仏教論のうち、ここでは最初にとりあげられている仏教と哲学との関係、それと関連する仏教における本体と現象との関係論などを中心に解説し、その時代的な意味、現代的な意義を考えたいと思う。

 円了は仏教哲学とか大乗哲学、あるいは外道哲学というように、「哲学」という言葉を後分とする複合語を好んで用いているが、「哲学」を含むその複合語の意味を解説することは少なく、それらの複合語の意味は自明のこととして用いることが多い。しかし、仏教哲学とか大乗哲学とかいう場合には、その意味を不明確のままにしておくことはできないであろう。その意味で、仏教と哲学との関係を述べる「緒言」は重要である。

 円了はまず一般的な問題の立て方に従って、仏教は哲学であるか、あるいは仏教は元来宗教であるから哲学と呼ばれるような智的なものは含まない悟(さとり)的宗教であるか、という問いを立て、つぎのように述べている。

  「仏教は一部宗教たるに相違ないが、それと同時に一部は哲学より成立しているものと断言してはばからない。故に仏教という一つの塊団はその内容、宗教と哲学との相結合してできたものというのである。」

 それでは、ここでいう宗教と哲学はどのような意味を持っているのであろうか。宗教と哲学はどのような点で異なり、どのような仕方で結合することができるのであろうか。この問題は、円了の哲学観、宗教観の根本となる点を含んでいるといってよいであろう。

 この点を明らかにするに当たって、円了はまず可知的世界と不可知的世界という概念をあげている。可知的世界とは文字どおり、私たちの日常的な知識や認識によって知ることのできる世界ということで、仏教でいう娑婆(しゃば)世界、いわゆるこの世、日常的経験世界のことである(余談にわたるが、この可知的世界を説明するに当たって、円了は、「これはわれわれの力によってどうにでもなる世界であって、人力車ができて便利だといっていたのが馬車ができてさらに便利になり、ついに電車ができたが、この後は『空中飛行器』でもできて世界中自由に歩くことができるかも知れぬ。これはほんの一例であるが、その他どんなことでもほとんど人間の力で左右できぬことはない。これが娑婆世界の常態である」といっているのは興味深い)。

 これに対して、不可知的世界は実体的世界とも真理界ともいい、仏教の説く真如、キリスト教の神もこの不可知的世界の別名であるとされる。人間の知力で測り知ることのできない世界であり、制限を付することのできない絶対界である。仏教では不可知的世界が真如であるのに対して、可知的世界は万法(諸法、より正確にいえば『倶舎論』で五位七十五法という場合の無為の三法を除く七十二法というべきであろう)と呼ばれる。

  世界 可知的・現象・有限・相対・差別∥万法

     不可知的・実体・無限・絶対・平等∥真如

 円了は可知的世界と不可知的世界を右のように図示したのちに、この両者の関係をつぎのような譬喩をあげて説明する。

 本体(実体)界は水のようなものであるのに対し、現象界は波に似ている。波がどうして起こるかというと、風によるのであり、風によって本体界という水が動揺するのであって、水が動揺すれば波という現象界が出現するのである・・。

 この譬喩において現象界の波、実体界の水はただちに理解されるのに対して、風の存在はなにを意味するかは明示されていない。しかし、円了が本体と現象界というときは、必ず『大乗起信論』が予想されていると考えられ、真如が無明の縁によって起動して現象界として展開していくという考え方を受けていることは間違いないであろう。したがって右にあげた譬喩のうちの「風」は三細六麁(さんさいろくそ、根本無明の三相と枝末無明の六相。前者はその相の働きが微細なので三細といわれ、後者は粗大なので六麁といわれる)と呼ばれるものをあらわしていると解すべきであろう。

 さて、このような可知的世界と不可知的世界の性格・関係を述べたのちに、哲学と宗教の根本的な基礎の相異を指摘する。それはまず、

  「哲学は可知的から不可知的に及ぼし、宗教は不可知的より可知的に及ぼすもので、両々相反しているのです」と定義される。哲学は知識(認識)を根拠にして成立するものであり、知識(認識)は「疑う」ということによって獲得される。哲学は可知的世界における「疑い」を出発点として次第に不可知的世界、すなわち絶対的真理に至るのである、と円了はいう。

 これに対して、宗教の立脚点は実体という不可知的なものにあり、その不可知的なものを究めるには「疑い」ではなくて「信じること」、信仰によるのである。円了はそのことを、

  「疑わずして信ずるのですから直覚でしょう。直覚であるからむろん研究ではないのです。しかしその方針は不可知的から可知的に運動するが順序で、一般の宗教はそのようになっております。釈迦が四九年の間、横説縦説したというのも、要するに基礎を信仰に置いた結果であります。」

という。このように哲学と宗教はその進む方向は違うのであるが、共に不可知的なものを認めるという点で、「極密着の関係」をもっているとされるのである。この点は円了の「仏教哲学」を考える場合に重要であると思われる。

 つぎに、心理学の上からみた哲学と宗教の区別が挙げられる。すなわち、人間の哲学に対する心の作用と宗教に対する心の作用という点からすると、両者はどのように区別されるかということである。まず、哲学は智力の作用に基礎を置いて、常に天地間の道理を科学的に追究することを本務とし、宗教はもっぱら感情的なものに基礎を置いて信仰によって実体界に至ろうとするものである、とされる。このようにして神を立てる宗教においては、その窮極が啓示、天啓を心に感ずることである。以上の関係は左のように図示される。

  哲学∥智力・思想・論理・道理

  宗教∥感情・信仰・直覚・天啓

 以上のようにして哲学と宗教との関係が、可知的世界と不可知的世界ということを介して明らかにされたのであるが、それでは仏教については哲学と宗教がどのように関連しているのか。円了が主張したいのは、実はこの問題であったと思われる。仏教は科学的であるか、非科学的であるか。円了のいう科学的とは哲学のことであり、非科学的とは宗教のことである。結論的にいうと、仏教は涅槃の実在を認め、涅槃に至る実践を重視するという点からいえばまさに宗教であり、人々が実践によってどうして涅槃に至ることができるかというこの根拠を、理論の上から明らかにする面は哲学に属するといわなければならない、そして

  「とにかく仏教は理論と実際、すなわち哲学と信仰との二大部分よりできているものでありますことは決して疑うことはできませぬ。故に仏教は哲学に深い深い関係をもっているばかりでない、実に仏教は他の宗教とその根底組織が異なっていることをご承知願いたい。」

と結論されるのである。

 このような観点からすれば、円了が「仏教哲学」とか「大乗哲学」とかいう場合の「哲学」の意味は明らかであろう。故大鹿実秋教授は『大乗哲学』を論ずるに当たって、大乗哲学という複合語を「大乗仏教即哲学」と持業釈(descriptive determinative)で読まるべきことは断るまでもなかろう(「井上円了の『大乗哲学』」『井上円了の学理思想』四五頁)といっておられるが、仏教には哲学的な面と宗教的な面の双方がそなわっているというのが円了の主張であるから、大乗哲学は「大乗仏教の哲学」「大乗仏教のもつ哲学」の意味で、いわゆる依主釈(Tatpurusa)に解するのが適当であろう。しかし、仏教の最終目的は涅槃を得ることであり、涅槃は言語を超えたものであって、それを論証し解説したものが哲学的な面を形成するのであるとすれば、仏教教義はそれ自体が哲学と呼ばれることになり、その意味では大乗仏教即哲学といっても差し支えないことになると思われる。

 さて、仏教の中心が「真如」であることは、円了の著作のいずれにも述べられているところであるが、本書でもそのことが繰り返し主張されており、『仏教通観』はその意味で真如観に基づく仏教概論であるといってもよいであろう。円了によれば、真如とは涅槃の実在であり、不可知的であって、ただ実証すべきものである。しかし、これを解釈、あるいは論理的に説明する場合にはさまざまな表現がとられ、いわゆる仏教哲学が展開される。中国や日本で展開した仏教はすべてこの真如に基づいて成立した宗派であるとして、つぎのように説かれる。

  「法相宗にては唯識といい、三論宗にては八不といい、摂論宗にては菴摩羅識(あまらしき)といい、地論宗にては阿梨耶識(ありやしき)といい、天台宗にては三諦円融といい、華厳宗にては事事無礙といい、真言宗にては阿字本不生といい、また大日如来、六大無礙ともいい、禅宗にては涅槃妙心といい、また正法眼蔵、仏心印といい、日蓮宗にては十界曼陀羅といい、浄土真宗にては極楽、安楽、安養、浄土、または無量光明土、阿弥陀如来と種々の異名がついてありますが、これみな釈迦大悟底の涅槃そのものに対する思想の開展であろう。」

 このように涅槃・真如をいかにとらえるかということが中国・日本の各宗の目的であるとされるのであるが、この場合、真如を真如として説くだけではなく、真如、すなわち本体(不可知界)と現象(可知界)との関係が明らかに理解できたとき、仏教の大要が明らかになるという点に注目しなければならない。釈尊の大悟の境地は私たちにとっては不可知、不可思議のものであって、それは禅宗で教外別伝というように相対的個人が直接的に感応道交し、実証すべきものである。その大悟の内容をさまざまな名称で呼ぶのであるが、その中でも「真如」(tathata)という語がもっとも一般的であるので、ここに用いるだけであり、その主体なるものを真如と呼んだとたんにそれは相対的なものとなってしまう、という。円了はこのような手続きを踏んだ上で真如という言葉を使用しているのである。

 一般に仏教においては本体と現象との関係を説明するに当たって、「縁起」という観念を用いるのが普通である。ただし、この場合の縁起は「因縁によって種々の現象界の事物が生起するという意味で、本体界よりいろいろの現象が生ずるというのである」といわれるように真如より万物が展開すると主張する、いわゆる真如縁起をいうのである。円了の真如観については、すでに西義雄博士の研究があるが(「学祖の建学精神たる真如観と妖怪学」『井上円了の学理思想』五頁以下)、今ここでその真如観の特色を再度確認しておく必要があると思われる。円了の真如縁起観は、第一〇章『起信論』において本覚と始覚について解説するうちに明確に表現されている。今その要旨を挙げれば、つぎのとおりである。

いま、われわれが迷っているというが、その迷いの本源は真如である。真如の水に無明の業風が吹くとたちまち波が起こり、波が起こったとき、すなわち迷いがあるというのである。しかし、迷っているということを始めて覚ったのが始覚である。始めて覚るといっても、本来、不生不滅の覚体がなかったとすれば始めてでも覚ることはできないはずであり、その始めてでも覚るということはこの覚体という本覚があるからである。

 円了の真如論は、真如を本体と呼び、実在と名付けて、それより善悪すべての存在が展開すると表現されることが多く、一見すると唯一絶対なる実在ブラフマンから一切の諸存在が展開すると説くインド正統派の主張と相似すると考えられるかも知れない。しかし、真如を万法展開以上の根源的実在とすれば、それは現在の学界で問題とされているdhatu・vadaに外ならず、そのような立場は空観の立場とはほど遠いものといわねばならない。

 しかしながら、右に挙げた円了の本覚・始覚論をみるとき、真如は実証すべきものであり、実践者が実証するという働きに中心を置いて、実践者が迷いを自覚できる(したがって悟りへの道を進むことができる)根拠として真如を挙げているのであって、ただ一方的に真如が迷いと悟りの両面に展開して行くといっているのではないのである。重要なのは個人が必ず悟れるということを信じ、実践し、自覚するということなのである。円了が実在から現象界が展開するという面のみを強調しているのではないという点に注意すべきであろう。

 このことは仏教全体は理論門と応用門、理論宗と実際宗に大別されるに際して、さらに明らかにされる。仏教を理論と応用の二つに分けて扱うのは円了の仏教論の方法論的特色の一つであるが、一般的に「哲学の方面を理論門と名付け、宗教の部分を応用門と名付く」といわれるように、真如を自分のうちに実現していくのが宗教たる仏教の目的であり、その根拠を追究することが哲学たる仏教の任務である。このような観点から、日本仏教一五宗が二分され、倶舎・成実・法相・三論・天台・華厳・真言の七宗が理論宗に、臨済・曹洞・黄檗・日蓮・融通念仏・時・浄土・真宗の八宗が実際宗に配当される。

 このようにして理論宗たる七宗を概説し終わった結論として、円了はつぎのようにいっている。

  「いずれの宗教も理論の上においてこの世界に不生不滅の本体というものがあると説くが、その不生不滅の体は真如です。そこでこの本体が世界のどこかに存在しているということは理論の上にてはこれを話ししましょうが、果たしてこれに達するの道があるや、否やというに、理論の上から説明すると、真如が開発して森羅の諸象となったものゆえその末たる諸法から進んで、真如に達することができる。たとえば十二因縁を逆に観ずるはひとしきものに相違ない。しかるに理論を離れたる実際の上から説明せんには、よほど困難を感ずるのです。けれどもわれわれが信じて疑わんのは、この迷妄を断ち切ってしまえば必ず真如の霊光に接することもできることと思うのです。その真如に達するのがすなわち応用である。」

 円了の解説の中で「その真如に達するのがすなわち応用である」として、「真如に達する」ことが強調されている点を見落としてはならないであろう。

 『仏教通観』を解説するに当たって、最後に触れておきたいのは仏教各宗を論ずる各章の終わりで、それぞれの宗の立場とヨーロッパ諸思想家とが対比されている点である。

 まず第八章法相宗では法相唯心論と西洋哲学の唯心論が比較され、バークリー、カント、フィヒテの説との比較が行われ、シェリング、ヘーゲルとの比較も可能であることが指摘されている。第九章三論宗ではヒュームとの比較が、第一〇章『起信論』では「『起信論』はフィヒテの唯心論にも似ているし、またシェリングの説にも似ている」とされる。第一一章天台宗、第一二章華厳宗、第一三章真言宗についてはヨーロッパ諸思想との比較こそ行われていないが、それぞれ大乗仏教を代表する哲学をもつ宗派であることが考慮されて、とくに「本体と現象」の問題がとりあげられている。いずれも簡単な指摘にとどまり、深く論究したものではないが、円了の仏教書が比較思想論を含むものであることがよく理解されるであろう。この点については、他書を含めて、今後さらに深く検討する必要があると考えられる。

 

   仏教大意

 本書は明治三二年四月に出版された講義録である。「余が今回の仏教講義は全く仏教の知識なきものに、仏理の一端を指摘せんと欲してその大要を一言したるものなれば、これを題して仏教大意という。その実、大意中の大意なり」というように、わずか五九頁のうちに仏教の大意、すなわち仏教の中心課題を凝縮して述べたものである。したがって、『仏教通観』が序論・方法論・論述・結論を完備したいわば広論であるのに対し、本書は同じ内容を一〇講にまとめたマニュアルのようなものということができるであろう。本書は小冊子であるが故に、かえって円了の仏教観がティピカルな形で述べられているともいえる。『仏教通観』で述べられる事項がいっそう簡潔な形で、ほとんど本書でもとりあげられているのである。『仏教通観』と『仏教大意』のどちらをさきに読んでもよいが、やはり『通観』で方法論や目的を正確に理解し、『大意』でそれを整理して確かめるという読み方が、円了の仏教観を知るためには有効であると思われる。

 古来「仏教には八万四千の法門がある」といわれるように、ブッダに始まる仏教はインド、中国を経て日本に伝えられ、さまざまな宗派として成立し、思想的にも広範囲にわたるものとなった。しかし、時代や国、民族などを超えた、仏教として一貫するものがあるはずである。いわば仏教の真理とでもいうべきものを知ることが、仏教学(円了は仏学と呼んでいる)を学ぶものにとって最も重要なことである。それでは、仏教の八万四千の教えをつらぬく、「要目(かなめ)」あるいは「神髄」はなにか。それは真如とよばれるものである、として円了は真如をつぎのように定義する。

  「真如とは真は真実を義とし、如は如同あるいは如常を義とし、その体、真実にして常住不変なるのいわれなり。もし真如の体はなにものにしていずれに存すやを問わば、わが心すなわち真如なりと答えて足れりとす。換言すれば、わが心の本体すなわち真如にして、この心のほかいずれに向かいて真如を求めんや。故に真如の一名を法性とも唯心とも一心ともいう。これによりてこれをみるに、仏教の第一原理にして根本の道理たるものは、真如の一心なること明らかなり。」

 譬喩的表現の使用を好む円了は、「仏教の真如(もしくは一心)におけるはなおヤソ教の・ゴッド・におけるがごとし」といっているが、この表現は誤ってとらえられないよう注意すべきである。すなわち、円了が仏教の真如とキリスト教の神が同じだといっているのは、真如と神が両教の「要目(かなめ)」であって、それらがなければ両教は成立しえないという意味であって、真如と神の本質が同じだというのではないのである。円了はさらに「キリスト教の神にあたるのはブッダである」という仏者があるが、これは人を惑わすものであると主張する。ブッダはもとより三宝の中心となるべきものであるが、円了はブッダの本質を真如としてとらえていることがよく理解される。

 このようにして仏教の要目は真如であるという点から、仏教は「真如教」であり、「真如為本教」であるとされる。この真如は仏陀そのものであり、成仏ということも真如との関係でとらえられなければならない。

  「成仏そのことは真如に体達同化する意に外ならず。真如を離れ成仏を説くべからず。たとえわれにてもかれにても権助にても三助にても、いやしくもその心に真如の本性を開顕しきたらばみな成仏にして、権助如来もできるべく、三助大菩薩もあるべき理なり。」

 円了の仏教観は右の文に説き尽くされているといってよいであろう。

 『仏教大意』は、以上のような真如を中心にした仏教観が手際よく述べられており、これ以上解説の必要はないと思われるが、最後に「哲学と宗教」の問題に触れておきたい。仏教は哲学か宗教かという問題は『仏教通観』において詳細に論じられたが、本書でも第二回総論において、

  「仏教の一半は哲学にして一半は宗教なり」

  「哲学は原理にして宗教は応用なり」

  「宗教は目的にして哲学は方便なり」

というように明確な定義を行い、「これを要するに仏教は哲学と宗教との両区域にまたがるものなり。しかるにその一方をとりて互いに相争うがごときは、あたかも甲州人は富士山を指して己の国の山なりといい、駿州人は己の山なりといいて、互いに相争うがごとし。これ識者の大いに笑うところなり。」と結論を下している。円了が仏教各宗を理論宗と実際宗に二分し、さらに前者を哲学門と宗教門に分けて扱うのは、右に挙げた宗教と哲学との関係を根拠にしているのである。

 

   大乗哲学

 本書は「哲学館講義録」仏教科第一四輯として刊行されたものである(明治三八年一二月)。第一講 大乗名義論、第二講 大乗仏説論、第三講 万法論、第四講 真如論、第五講 真如万法関係論、第六講 結論、および付講 大乗仏説非仏説の断案の六講、一付講から構成されているが、内容的にみれば第一と第二、および付講が「大乗」という言葉の考察と大乗仏説・非仏説の問題を扱い、他の部分が真如の問題を論じるという形成である。したがって『仏教通観』や『仏教大意』が真如の問題を中心としながらも仏教全体を扱っているのに対し、本書は大乗仏教に範囲を限定していることになるであろう。しかし、二つの問題といっても大乗の名義と仏説非仏説の問題は序論的な役割を持つのであり、本書の主たる目的は大乗仏教の要目としての真如を明らかにすることであるといってよいであろう。

 「大乗哲学」という言葉は、さきにも触れたように「大乗の哲学を解明する書」というほどの意味で、大乗の哲学の中心としての真如論の立場から諸宗の立場を明らかにするのが本書の目的である。

 第一講大乗名義論では、まず大乗とはなにかということが述べられ、あわせて小乗と比較して大乗の意義が説かれる。円了は大乗と小乗を比較するに当たり、インド成立の諸経論、中国成立の諸論を挙げて大乗の優れた点を論証しているが、「これ仏教上、古来唱うるところにつきて大小乗の異同を表示せるのみ。もし哲学上これを較すれば」として、

  小乗∥客観論・多元論・相対論・分析論・現象論

  大乗∥主観論・一元論・絶対論・唯心論・本体論

という対比を行っている。

 しかし、円了の大小乗観の特色はただいたずらに大小乗の間の優劣を論ずるのではなく、

  「小乗と大乗との別はただ表面に存するのみにして、裏面には一味平等、同体不二の理を含む。これをたとうるに一帯の江流を信州にありては千曲川と呼び、越後に入れば信濃川と呼ぶがごとく、同一源より発する仏教の初代に行われしものを小乗と呼び、後代に盛んなりしものを大乗と呼ぶ。」

というように、小乗・大乗を対立するものとはしないで思想発達の段階としてとらえ、仏教思想史の上からみれば大乗仏教の土台となったのが小乗教学であるとする点が重要である。

  「要するに小乗の長所は実践にありて、大乗の長所は理論にあり。なお花は紅にして柳は緑なるがごとし。(中略)それ大乗の理論はすなわち高しといえども、これ小乗の基礎の上にさらに建設せるによるのみ。故にもし大乗中より小乗を除き去らば、大乗自体もたちどころに壊頽せざるを得ず。」

 円了の説く「仏教」とは、このような意味での大乗仏教である点を見落としてはならないであろう。

 第二講大乗仏説論については、故大鹿実秋教授の論考(「井上円了の『大乗哲学』」、『井上円了の学理思想』所収)があり、円了の大乗仏説・非仏説論の特色などについては同論文を参照されたい。

 第三講万法論以下は、円了の仏教観の核心となる真如論である。円了は万法という場合の法(dharma)について論ずる。仏典においては多くの仏教語のうちで法という言葉が最も多く用いられ、しかも実にさまざまな意味で用いられる。たとえば法は(1)仏法というように仏教そのものを指し、(2)法界(dharma・dhatu)、法身(dharma・kaya)、法性(dharma・dhatu)という場合の法、(3)法執、法処(dharma・ayatana)という場合の法、(4)三法印、(5)七十五法、百法という場合の法など、さらには法華、法相、法灯、法門、法味、法楽、法師、法弟というように、仏教経典は「仏書は法字畑、あるいは法字博覧会と異名して可なり」として、『倶舎論』などによってdharmaの意味を考察し、

  「要するに法すなわち達磨には軌範の義と任持の義と両義ありて、軌範は物解を生ずるゆえん、任持は自性を失わざるゆえんをいう。故にその両義を合すれば一切の事物を意味することとなる。これを俗解すれば、なお物柄(ものがら)というがごとし。(中略)もし法の原語は軌範もしくは軌持を義とするならば、シナのいわゆる法度・法則・法律等とその意を同じうするは言を待たず。」

という。ヨーロッパの学界では、マグダレーナ・ガイガー、ヴィルヘルム・ガイガー共著『パーリ聖典のダンマ』(Magdalena und Wilhelm Geiger・Pali Dhamma・Munich1921)において原始経典中のダンマ(法)の研究が発表され、これを批評する形でシチェルバトスコイが『小乗仏教概論』(Th・Stcherbatsky・The Central Conception of Buddhism and meaning of the Word Dharma・Royal Asiatic Society・London1923・金岡秀友訳、理想社、昭和三八年)において試みたことを円了は『大乗哲学』において論究しようとしているのである。もとより『大乗哲学』は講義録であるから全仏教書にわたる完全な論究はみられないが、仏教の諸概念のなかで「法」に注目し、その本質を明らかにしようとした意図はガイガーやシチェルバトスコイに通ずるものがあるといってよいであろう。

 しかし、なんといっても本書の中心となるのは第四講・真如論である。円了はまず真如の名義を論じて、『大般若経』(五三二巻、四四一巻)、『唯識論』(巻二の六、巻九の三)、『唯識述記』(巻九末の四、巻五)、『起信論義記』(巻上の三一)、『起信論浄影疏』『起信論海東疏』(巻上の七)、『大乗止観』(伝通記巻二の三一)の文を挙げた上で、つぎのように定義している。

  「これを要するに、真如とは真実如常の義と解するをもって足れりとす。すなわち世界の本体は真実如常にして、常住実在せるをもってこれを名付けて真如というなり。」

 「真実如常」「常住実在」という表現は一見すると実在的なものを認めるかの印象を与えるかも知れないが、

  「これを真如というはもとより仮名にして、その体の一斑を表示せるに過ぎず。」

と説かれるように、本来は言語道断のブッダの悟りの境地を仮に真如と名付ける、とする点が重要である。円了自身も不思議庵主、護国愛理道人、四聖堂、三聖堂主人、三禁一楽(三禁とは禁酒、禁煙、禁筆、一楽とは古書道楽であると解説されている)、無芸庵拙筆居士、非僧非俗道人、先天学人という名で自らを号し、また世間からは妖怪博士、化物先生などと呼ばれているが、それは仮の名であって異なった内容を示すのではないのと同様であるという。

  「わずかに身長五尺三寸、体重一五貫目を有する拙者すらなおかくのごとし。いわんや世界万有の本源実体たる絶対不二、平等唯一の真如においてをや。これに億万の称号異名を付するも、なおその相状を尽くすべからず。もし万法即真如の理によりこれを推せば、人獣草木はもちろん、日月星辰、国土山川に至るまでことごとくみな真如なり。微花小草も真如なれば、浮雲流水も真如なり。囀々たる鴬語は真如の声にして、姸々たる花容は真如の色なり。木葉の風に飄えるは真如の舞にして、魚の水に泳ぐは真如の踊りなり。かくのごとく解するときは有形の真如、有声の真如、有色の真如、有舞の真如等と次第せざるを得ず。けだし大乗哲学の妙味はここに至るにあらざれば知るべからず。」

 右の文を注意して読めば、円了が「実体」といっても、それはインド正統派の主張するアートマンのような唯一無二の実体、実在をいうのではないことは容易に理解されるであろう。それは諸存在を有為法(samskrta)と無為法(asamskrta)とに分けた場合の無為法に当たるとも説かれるのであるから、アートマン的な存在であるはずがないのである。しかし、円了の真如論においては万法が真如より出て真如に入るといったような表現があり、

  「オームというこの字音は、この一切(の世界)である。その解説は(つぎのようである)。すなわち、かつてあったもの(過去)、現にあるもの(現在)、あるであろうもの(未来)という一切のものはオームという字音にほかならない。また、三世をこえたそれ以外のものもオームという字音にほかならない。」

  om ity etad aksaram idam sarvam tasya upavyakhnyanam bhutam bhavad bhavisyad iti sarvam omkara eva/yac ca anyat trikala・atitam tad apy omkara eva//(Mandaukya・upanisad/Ananda・asrama edition)

というヴェーダーンタ的な表現と極めてよく似ているために、円了が真如をアートマン的にとらえているかのような誤解をうける可能性もなきにしもあらずである。あえて蛇足を加えるゆえんである。

 このような真如を中心とした天台・華厳をはじめとする各宗の教義が組み立てられているというのが円了の仏教観であり、そのような意味で真如の本質は老子の「無名」、易の「大極」、プラトンの「理想」、スピノザの「本質」、カントの「実体」、フィヒテの「主我」、シェリングの「絶対」、シュライエルマッハーの「神体」、スピノザの「不可知的」、キリスト教の「ゴッド」と比較される。ここで注意すべきことは、これらの諸説を統合してまとめあげたのが仏教の真如であるとする点であり、これを「円了の体」というとすることである。円了はこのことを、譬喩によって説明する。

  「円了とは円満完了と熟して、道理の円満し思想の完了せるものを義とすることなれば、宇宙万有の本源実体に与うる名称となして可なり。果たしてしからば魯国に斉魯の魯国と、魯士亜〔ロシア〕の魯国と二様あるがごとく、仏学に仏蘭西〔フランス〕と仏教の学問との二様あるがごとく、円了の体にも哲学館を監督する五尺三寸の円了と、世界万有の本体たる十方遍在の円了との二様ありと知るべし。」

 これによれば、円了という言葉自体も真如をあらわすものにほかならず、円了という個人も真如としての円了と哲学館主という相対的な存在としての円了の二面を兼ねもっているのである。円了によれば、古来仏教家が正しく理解することのできなかった点は、絶対と相対との関係である。

  「すでに真如は一半可知的にして、一半不可知的なるを知れば、絶対にして同時に相対なることを知らざるべからず。すなわち不可知的は絶対にして、可知的は相対なれば、真如は一半絶対にして、一半相対なることを知らざるべからず。換言すれば真如は絶対と相対を兼ねるものなり。これをもって真如の方よりこれをみれば真如万法、絶対即相対と定むることを得るも、万法の方よりこれをみれば、真如は万法にあらず、絶対にあらずして二者不一なり。故に絶対と相対との関係は不一不二といわざるべからず。」

 円了はこのようにして「真如と万法との関係は徹頭徹尾、不一不二として考えざるべからず」と結論し、このような真如観から仏教各宗の立場をみていこうとしているのである。『大乗哲学』は本巻に収録した他の二書に比べて大乗仏説論と真如の問題に限定して論じているために、論述が細部にわたっていてむずかしいという印象を与えるかもしれないが、右のような点に注意して読めば円了の仏教観を読みとることができるであろう