2.心理療法

P167

  心理療法 

 

 

1. 冊数

   1冊

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   151×223mm

3. ページ

   総数:189

   緒言: 3

   本文:186

(巻頭)

4. 刊行年月日

   初版:   明治37年11月28日

   底本:再版 明治38年2月14日

5. 句読点

   あり

6. その他

  (1) 本書では,緒言に記された趣旨を尊重し,多数に及ぶ引用文も現代表記にした。

       緒  言

 心理療法は余が数年前より唱うるところにして、先年発行の『妖怪学講義録』中に、生理療法はこの療法と相まちて始めて治療の目的を達すべきゆえんを論じたることありき。その後詳細の方法を尋問しきたれるものあるに対し、他日一冊子として別に世に公にせんことを約しおきたれば、ここに本書を起草してその責めをふさぐこととなせり。

 本書中には、心理療法は古今東西に行われおることを証明し、かつ療法の分類を掲げて、その方法に種々あることを示せるのみ。しかしていずれの病症にいずれの方法が適するかは、病者の性質、境遇等の諸事情に関係することなれば、あらかじめ一定し難し。されど、すべての病気に心理療法の必要なることは、ほとんど疑いをいれず。今その理由を広く世人に知らしめんと欲し、文章は平易を旨とし、義理は簡明を主とし、通俗をして読みやすく解しやすからしむることをつとめ、その例証のごときは多く古今の随筆中に出ずるものを取れり。けだし随筆は比較的その当時の事実を伝えたるものなればなり。

 本書中の編目は左〔前出〕のごとし。

 

     第一 総 論

 人の貴ぶところ生命より重きはなし。金銭も貴重なり、衣食も貴重なり、財産も貴重なるも、みな生命の貴重なるに基づく。身を立て道を行い、名を後世に揚げて、もって父母をあらわすところの孝道も、義勇公に奉じて天壌無窮の皇運を扶翼するところの忠道も、またみな生命を待ちて始めてこれを全うすべし。されば諺に「命ありての物種」という。生命の貴重なることかくのごとし。しかしてその生命を人より託せられ、よく死を起こして生をめぐらすものは医術なり、医者なり。医の責任の重大なること推して知るべし。古来、医は仁術なりと称せるが、余おもえらく、医は仁術中の最も大なるものなり。なんとなれば、その術たるや、人生中最も貴重なる生命を救うものなればなり。またこれを司命の職という。司命の職とは死生の命をつかさどる職の意なり。『医家初訓』にこれを解して、「人は万物の霊にして、人の命より重きはなし。その重き命をつかさどる任なれば、凡百の技芸中において医業ほど重きはなかるべし。」と説き、『国語』には「上医は国を医し、そのつぎは人を医し、そのつぎは病を医す。」とあり。余案ずるに、病を医するはすなわち人を医するゆえん、人を医するはすなわち国を医するゆえんなれば、上医と下医とを問わず、医はすべて国を医するものと解して不可なきがごとし。しかるに和漢の学風によるに、古来、医を擯斥して末技となせしは、儒教の弊たること明らかなり。

 医の職の重大にして、その術の至仁なることは、今すでに述ぶるがごとし。されば医たるもの、平素その心得をもって職に当たるべきはもちろんなり。たとえば人に対して仁術を行わんとするには、まずその心に仁慈の至情を有せざるべからず。『論語』に「人にしてつねなくんば、もって巫医となるべからず。」とあるは、このことを戒めたるなり。また医術を施すには学術の熟達を要す。世に学術未熟のために人を薬殺することあり。故に蘇翁〔蘇東坡〕は「書を学ぶものは紙を費やし、医を学ぶものは人を費やす。」といえり。わが俚諺に「薬、人を殺さず、医者、人を殺す。」とあるは、すなわちこれに基づく。『生々堂養生訓』に「古今和漢、人を病ましめ人を殺すものはまた医よりはなはだしきはなし。虎狼の毒も及ぶところにあらず。」とあり。また古人の歌に「世の中に虎おほかみは何ならず、医者のやぶこそなほまさりけれ」とありて、世に虎狼よりなお恐ろしきものは医者なりとは、実に驚かざるを得ず。されば『橘庵漫筆』に「医師どもの不自由な里の賀振舞〔がぶるまい〕」とあるも一理あるに似たり。その意は、世に医者に乏しきために幸いに早死を免れ、長寿を得たるものあるをいうなり。また同書に医を解して「医は衣なり、衣服美ならざれば行われず。医は威なり、威儀敦重ならざれば服せられず。医は異なり、異言異体よく用いらる。医は夷なり、ややもすれば人を夷(そこな)う。医は稲荷(いなり)、よく尾を出さず人を誑(たぶら)かす。」とあるも、医の弊を指摘せる警語というべし。されば『本朝医談』に「医の字読みてクスシというは奇なり。その術の奇効あるをいいしなり。薬石をクスリというもまた奇の義なり。」とあるも、人を活かすべき医にして人を殺すは、これまた奇の義なりと解しても可ならん。

 医に名医と庸医との別あり。『医家初訓』にこれを比較して、「名医の失治は非命に命を隕〔おと〕すに至らず。庸医は眼中に定見なく、胸裏に準縄なし。これ故に病人を診する初めより瞽者〔こしゃ〕の暗夜に土礫を擲〔なげう〕つがごとく、あたるも偶中、またあたらざるも偶中なり。」とす。かくのごとき療法は、卜筮〔ぼくぜい〕に考えて薬方を定むると異なるところなし。『隨意録』に出でたる天道医となんぞ選ばんや。

  江都の市街にかつて一医あり。病人きたりて治療を請えば、すなわちひそかに小薬袋十数を掬〔きく〕し、閉目して南無天道と称してこれを擲散〔てきさん〕し、その仰ぐものを撮(とり)てすなわちこれを配剤し、もってこれに与えり。当時これを天道医と号す。

 著者これを評して、その知らざるところを天に任ずるは、なお薮医の知らずして不中の薬を与うるにまされりとなせり。これ古来、病を医するに卜筮、祈祷、禁厭等の行われしゆえんなり。

 ある人曰く「名医は人を活かし、庸医は人を殺す。しかして庸医の進んで名医となるには、その間に多くの人を殺さざるべからず。」と。この言に従わば、名医はその初めにおいて多くの人を殺したるものとなるべし。西〔洋〕人の言に「人を殺して罰を受けざるものはひとり医師あるのみ。」とありて、人を殺すは医の本職にして世の許すところなりとするも、庸医はもとより人を殺し、名医もまた人を殺すとせば、医は仁術にあらずして不仁のはなはだしきものといわざるべからず。諺に「医者、ボン、カボチャ」と称することあり。ボンとは坊主のことなり。けだしこの三者は、ともに老いたるをよしとするの意なりという。医者の老いたるはすなわち経験に富めるの意にして、経験に富めるは多くの人を殺せる意なり。しかれども医の人を殺すはすなわち人を活かすゆえんにして、人を活かすこと人を殺すよりも多ければ、もとよりこれを称して仁術というを得べし。ただし己の職責を重んぜずして人を殺すに至るものは、これを薮医と称せんより、むしろ賊医と呼ばざるべからず。

 以上は昔時の医につきての言のみ。方今にありては大政維新とともに医術も大いに面目を一新し、昔日のいわゆる薮医なるものほとんど跡を絶つに至り、いやしくも開業医の看板を掛くるものにして医学の一斑を知らざるはなく、また世に瞽者の暗夜に石を投ずるがごときもの一人も見ることあたわざるに至れり。輓近わが国の諸学諸術ことごとく進歩したるも、なかんずく最も発達せるものは医術にして、その勢い欧米の医界を凌駕せんとす、実に盛んなりというべし。しかりしこうして、今日なお医の人を殺すことなしと断言すべからず。これを昔日に比するに五十歩百歩の相違あるも、誤診、失治また少なしとせず。したがって薬殺する場合なきにあらず。しかれども余が今論ぜんと欲する点は、決してかかる薬殺云々を争わんとするにあらず。ただ余が局外よりこれをみるに、今日医術の進歩に伴って自然に起これる一種の弊害あるを知り、ここにいささかそのことを開陳して世の識者に問わんと欲するなり。

 昔日の医学は空想に基づき、今日の医学は実験に基づき、したがって治術の上にも巧拙の大差あるを見るに至るといえども、今日の医道をもっていまだ完全したるものというべからず。余思うに、昔日の諸法中にも一長あり、今日の諸術中にも一短あり。その長を取りてその短を補わば、始めて医術の完成を期すべし。しかるに世間の通弊たるや、昔日の医法は一切これを放棄して、すこしも参考とするに足らざるものとなすがごときは、余のいささか怪しむところなり。古語に「智者千慮必ず一失あり、愚者千慮必ず一得あり。」といえり。もししからば、今日の千術中に一失あり、昔日の千術中に一得ありというを得べき理なり。すなわち余は今日の医術に一失ありて、昔日の方に一得ありといわんとす。今その理由を述ぶるに、昔日は学理いまだ明らかならず、治方いまだくわしからず。これに加うるに医者に乏しく、医薬もその類少なく、たまたま病人あるも軽症は医を頼まず、薬を用いず、ただ自然の勢いに任ずるのみ。もし薬を用うるも、一、二種の売薬をもって万病に応用し、もって平癒を待つは、やはり病運を自然に決するものなり。重病に至りても医者に乏しき山家にありては、日夜平臥して、ただ死生を自然の命運に帰するのみ。もし服薬するも、越中の売薬をもって最後の療方となす。紀州熊野辺のごときは医に乏しく、また薬に乏し。いかなる重症難患も、白米のかゆを食せしむるをもって最上の良薬となせりという。要するに、その時代は治病を人力に待たずして、天運に任ぜしものなり。

 今日はしからず。病気の軽重難易を問わず、ことごとく医診医療の力によりて全癒するものと信じ、一も医者、二も医者、今日も薬、明日も薬といい、やや人力一方に依頼し過ぐる風あり。故をもって医療の力の幸いに効験あるを見れば、病気もますます快方に進むことを得るも、もしその効の予期するがごとく見えざる場合には、疑懼の念を生じ、これがためにかえって病苦を増し、病勢を進ましむることあり。これに加うるに、病者が医診の当否を怪しみ、医薬の適不適を疑い、医師その人を信ぜざるに至り、その結果、病気の回復を妨ぐるに至るべし。ことに近来知識の進歩とともに、一般の人も多少生理の初歩、病理の一端を知り、これがために発病ごとに神経を用い、精神を労すること、その度に過ぐることあり。たとえば口中より血痕の混じたるものを吐出すれば、たちまち不治の肺病にかかりたるがごとく憂慮し、ために自然に治すべきものも、自ら迎えて不治症に陥らしむることなしとせず。これを昔日の天道に一任して自ら安んずるに比すれば、病者の利害得失いかんは識者を待たずして判知すべし。これもとより今日の医学の害にもあらず、医師の罪にもあらざるも、医術の進歩に伴って自然に起これる一種の余弊というべきものなり。

 昔日は医学医術の進歩せざりしために、いちいち生理解剖の実験に考えて診断施術することあたわず。ただ古書に信拠し、古方に信頼して、治療するのみなりき。また病者も医師医薬を信憑し、あるいは神仏を信念して、ただ一心に病気の平癒を祈る風ありき。今日はしからず。一切かかる信仰を打破して、すべて道理と実験とによらんとし、その病理は物質的方面に偏し、その療法は器械的方法に偏し、単に肉体の構造機能の上に耳目を注ぎ、すこしも精神の方面における状態、影響を問わざる風あり。これ医術の本領としては正当の道なるべきも、精神の最も発達せる人体の上に治療を行うに当たりては、精神の方面の観察もまた決して等閑に付すべからず。しかれども医術進歩の結果として、精神の方面を疎んずるに至るは勢いの免れざるところなり。故にこれまた医術の進歩に伴うところの一短なりとす。その理由は後に至りて証明すべし。

 以上述ぶるところ、これを要するに、天運に一任して平癒を待つは、これを名付けて自然療法といい、信頼、祈念によりて平癒を望むは信仰療法という。しかして余が意は、自然療法と信仰療法とは昔日の長所にして、今日この法を採用する必要ありというにあり。しかしてこの二者は、帰するところ肉体の方面にあらずして、精神の方面に属する療法なり。病気の結果を自然に一任するがごときは、畢竟これによりて自ら安んずるに外ならず、すなわち慰安療法なり。すでにこれを慰安とすれば、精神療法なること問わずして知るべし。故に余は自然療法と信仰療法とを合して、ここに心理療法と名付くるなり。

 

     第二 身心二面論

 そもそも宇宙間には森羅の万象の現立するあり、これを指して物という。これに対して万象を見聞覚知する作用を心という。物は所観の体にして、心は能観の体なり。故に前者を客観と名付け、後者を主観と名付く。主は客に対して主となり、客は主に対して客となるがごとく、心は物に対し、物は心に対し、二者両立してしかも相離るべからざるものなり。これを物心相対という。けだし宇宙は物心の相対より成るものとす。この物心の直接に融合する所は吾人の身体なり。その五臓六腑、耳目手足の諸部は物質より成り、これを知覚し意識するものは精神なり。すなわち吾人の体は身心二面より成るを知るべし。いやしくも生命ある間は、身体中いずれの部分といえども、身心二者の相関にあらざるはなし。たとえば耳朶をつねるも、足端をかくも、必ず痛癢を感ぜざるなきは、身心二者の融合を自明するものなり。もしその痛癢を感ぜざるに至らば、肉体上に損所あるか、しからざれば生命を失えるものと断定して可なり。かく身心二者が密接に相合し相関する以上は、一挙一動、一言一語、一笑一泣、みな二者の合同作用に出でざるはなし。

 古語に「思内にあれば色外にあらわる」とありて、心内の思想に異動あれば、その状態を顔色、面貌の上に表顕するを常とす。これに反して外貌に変動あれば、必ず内想に異状あるを知るべし。人身の疾病におけるもまたしかり。疾病は今日の病理学の解するところによるに、生活体の組織機能の変化異状あるより生ずとし、その原因を主として肉体の方に立つるも、肉体と精神とは相まちて離れざるものなれば、精神の方面をもあわせて考えざるべからず。ある病気は肉体の方面より起こるも、他の病気は精神の方面より生ずることあり。しかして精神上より発するものは、必ずその異状を肉体の上に表示すると同じく、肉体上の異状は必ず精神上に影響するなり。たとえば車馬より落下して身体を毀損せる場合のごとき、あるいは不消化物を食して腸胃病を起こせる場合のごときは、肉体上より発する病患なるも、必ず心中に苦痛を感じ、不快を覚ゆるに至る。これに反して精神の過労によりて脳病を起こし、あるいは鬱憂のために諸病を誘発したる場合のごときは、精神上より発するものにして、必ずその結果を身体の組織機関の上に現ずるに至る。これによりてこれをみるに、一切の疾病はみな身心二者に関係せざるはなきを知るべし。

 かくして一切の疾病は身心相関の上に現ぜざるはなしといえども、その原因の身面より生ずるものと、心面より発するものとの別あり。故にこの二者の混同を避けんために、しばらく肉体的、すなわち身的疾病と、精神的、すなわち心的疾病との名称を与うること便なりとす。あるいはこれを単に身病、心病と名付くるも可なり。すでに疾病そのものにこの二者の別ある以上は、これを治療する方法にもまたこの二方面あるべき理なり。その一は肉体の方面より治病を行うもの、これを身的療法と名付くべく、その二は精神の方面より治病を施すもの、これを心的療法というべし。身的療法は今日の医学医術のもっぱら任ずるところにして、生理学、解剖学等の学理に基づき、身体の組織機能の上より治療するものなれば、あるいはこれを生理療法と名付けて可なり。これに対して心的療法はここに心理療法と称するなり。この心理療法は古代医術のいまだ進まざりしときに当たりては、一般の治療中に加わりしといえども、近世医学の開くるに従い、医術はその本領たる生理療法に限ることとなり、心理療法は全く度外におかるるに至れり。しかして心理療法は今日なお宗教の一部において行わるるを見る。おもうに古代心理療法の医法中に加わりしは、医術と宗教とを混同せる故ならん。故に余はその療法は医術の本領にあらざることを知るも、医家の必ずしも排斥すべきものにあらずして、かえって参考として採用すべきものとなす。またその療法は宗教の本旨とするところにあらず、ただ古来宗教の応用上、自然にこれに付帯して行いたりしのみ。すなわち加持祈祷のごとき、これによりて病気を治せんとするはその本意にあらざるなり。されど宗教は元来信仰をもととするものなれば、いやしくも信仰の元素の療法中に加わることあらば、これを宗教の応用の一種と見てもあえて不可なかるべし。ただしこれをもって宗教の本領とはいうべからず。ことに民間に行わるる信仰療法は多く迷信に陥り、今後の心理療法とはなし難し。もしその迷信を避けんと欲せば、高等の宗教によらざるべからず。しからざれば哲学もしくは心理学の道理に考えて、その方法を改定するを要す。余おもえらく、今より後、心理学を治療の方面に応用するに至らば、必ず今日に適応する療法を案出するを得べし。その一例は催眠術なり。この術たるや西洋にて治療に応用せんと欲して、その発明者をもって目せらるるメスマーもすでにこれを試みたりという。わが国にありても近来その試験をなすものあり。余かつてこのことに関し、馬嶋東伯氏の問いに答えたることあれば、左に掲ぐべし。

  馬嶋東伯氏、一日余が駒込の寓居を訪うて曰く、拙者は西洋伝来の催眠術を利用して治療上に施し、これを数十人に試みたるに、みな好成績を得たりと。かつ曰く、本術はいかなる重症難患といえども、薬石を用いず、診断を要せずして、たやすく全治することを得る奇法なり。願わくばこれを心理学の道理に照らして、その理由を示されんことを。余これに答えて曰く、そもそも人は身心の両部より成り、その動作一としてこの両部の結合作用にあらざるはなし。諸病諸患もまたみな二者の関係より起こる。身部より起こる病は必ずその影響を心部の上に及ぼし、心部より生ずる病は必ずその結果を身部の上に及ぼすは、なにびともよく知るところなり。たとえば暴食過飲して腸胃の上に病患を起こし、過度労役して四肢の上に傷害をきたすがごときは、いわゆる身部より生ずる病なり。しかしてその心に病苦を感じ、不快を生ずるは、いわゆる身部の影響が心部の上に及ぼすものなり。これに反して憂苦鬱閉して疾病を発するがごときは、いわゆる心部より生ずる病なり。しかして生理機関の上に損害を見るに至るは、いわゆる心部の結果を身部の上に現ずるものなり。故に病患は身部より生ずるものと、心部より生ずるものの二種あり。かつ身心二者は全く相離れざるをもって、一方の病は必ず他方の病となるを免れず。語を換えていえば、諸病諸患はみな身心の両部に関するものなり。果たしてしからば、人の病患を医するにも、身部より療するものと、心部より治するものの二方なかるべからず。しかるに古来、医家の療法はひとり身部よりの療法にして、いまだ世に心部よりの療法あるを聞かざるは、かえって怪しむべきことなり。今、足下(馬嶋氏)の実験にかかる療法は、全く心部よりの療法なること明らかなり。すでにその法が薬石診断を要せずして、よく医家の治すべからざる重症を治し得るとあるは、身部よりの療法にあらざること言をまたず云々。

 その要旨は前に述べしところに同じ。当時余もこの法を実地に試みんと欲し、馬嶋氏を哲学館に招き、数回病者に施して実験せしめたることあり。そのとき氏の伝を受けて自ら試みしもの数名ありしも、今日まで継続したるものは五十嵐光龍氏一人のみ。同氏は十数年の間において数万人に試みたるに、いずれも効験ありたりといえり。近年はこの術大いに流行し、諸方においてこれを専門の業務となせるものあるがごとし。もとよりその術たるや今日なお試験中に属すといえども、すでに治病に多少の効験ありとすれば、余がいわゆる心理療法なること瞭然たり。

 催眠術の外に仏家にて伝うるところの止観法、坐禅法のごときも、治病に効験あること明らかにして、これまた心理療法の一種なり。神水をもって人を医し、禁厭をもって病を治するがごときも、その効験を神力に帰せずして、信仰作用に帰するときは、もとより心理療法の一種となるべし。ただし神水、禁厭のごときは、愚民のこれを迷信せるより弊害も少なからざれば、余はなるべく害あるものを避けて利あるものを選び、道理なきものを捨てて道理あるものを取らんとす。畢竟するに、今日まで心理療法が信ずべき道理と見るべき効験のありしにもかかわらず、ただ一に医家の排斥するところとなり、ために愚民の迷信中に陥りしはかえって遺憾の次第なり。今、余はこの法を改良振興して、治病衛生の一助となさんとするにあたり、まず医家の反省を促し、世人の注意を請わんと欲するなり。以上述べたるところ、これを約するに、人の身体は身心二面より成り、一切の病患はこの二面相関の上に生ずる以上は、これを治する療法にも身心二方なかるべからず。すなわち生理療法および心理療法なり。しかして今日の医家が生理療法を本領とするは当然なれども、心理療法を排斥せんとするは偏見狭量を免れ難し。されば医家においてもこの法を参考する必要ありというにあり。

 

     第三 内外二科論

 すでに述べしがごとく、医家の療法は自然療法にあらずして人為療法なり、信仰療法にあらずして実験療法なり。換言すれば、心理療法にあらずして生理療法なりというも、その中に自然療法および信仰療法の多く加わりおることは、医家といえども決して否定すべからず。今、医術を内外二科に分かちて考うるに、内科、外科ともに自然、信仰の二療法を待ちて、始めてその効験を見るべし。なかんずく内科にはこの二療法の加わること多し。まず自然療法につきて考うるに、その要旨は病気の回復を自然に一任するの謂〔いい〕にして、太古未開の時代にありては、別に医師もなく医薬もなければ、みなこの自然療法によりたること明らかなり。今日にありても軽症の病気、たとえば風邪のごときは多く自然療法を用う。貧民のごときはことにしかりとす。ただ学術の進歩するに従い、人為療法がようやく進みて自然療法の範囲を減縮するに至るは当然のことなり。もし一切の病気が自然に任じて平癒するものならば、医術医薬の必要なかるべし。すでにこれを名付けて医術という以上は、自然にあらずして人為なることもちろんなり。けだし世の文明の進歩とは、自然を離れて人為に就くの意にして、自然を去ることいよいよ遠きは、社会のいよいよ進みたるを証するに足る。故に療法が日一日より自然をして人為に帰せしむるに至れるは、全く医道の進歩を証し、外科の範囲が年を追って内科の領内に侵入するも、その術の発達を示すものなり。されば医家の療法に自然を加えんとするは、医術の本意にあらざること明らかなりと知るべし。

 しかれども、もし人為そのものを推究するときは、全く自然を離れたるものにあらずして、自然の変態に外ならざるを見るべし。すなわち人為もまた自然の一種なり。今その理由を医家の療法につきて述ぶるに、生あるものは必ず死に帰し、盛んなるものは必ず衰うるは自然の規律にして、人寿に長短の別あるも、およそ一定の命数あれば、医術いかほど進むも到底一〇〇歳の人を二〇〇歳、三〇〇歳に延長せしむることあたわず。しかるに人は種々の原因より天然の命数を全うすることを得ざる場合あり。これ人が自然の法則に違戻するところあるによる。故に医家は衛生の法、生理の学を講じて、人をして自然に準拠せしむるのみ。換言すれば、自然の法則の許す限りにおいて、種々の妨害を除き、でき得るだけ人寿を延長せしむるに過ぎず。また肺患にかかるものあるに、これを治するの法は、大工が家屋の修繕をなすに、朽ちたる柱を除き、新材を取りてこれに代わらしむるがごとく、肺の一部を除き去り、他物をしてこれに代用せしむることあたわず。足を折り手をくじくにおけるもこれに同じ。ただ医療の目的は人身自然の性に従い、種々の妨害を除き、もってそのもとに復せんとする勢いを助成するに過ぎず。換言すれば、自然の媒介となりてその性を助長するの手段を取るに外ならざるなり。故に医術は表面において人為なるも、裏面においては自然に待つところあるを知るべし。果たしてしからば、医家は人為の治療を施しながら、自然の法則に準拠することを記せざるべからざるはもちろん、自然療法の力を要することを忘るべからず。

 人身自然の性がそのもとに復せんとするに当たり、この勢いを妨ぐる事情は身心内外二面より生ずるものにして、今日の医家は外部の妨害を除くことのみをつとめ、内部の妨害を顧みざる風あるは、医家の欠点といわざるを得ず。もしその欠点を補わんと欲せば、内部すなわち精神の方面を考察せざるべからず。これ余が心理療法の必要を唱うるゆえんなり。このことに関し余が先年講述せるものあれば、その一端を左に引用すべし。

  医家の療法はすでに毀損せる部分を、あたかも物品、器具の修繕のごとく、新たに外より補増してもとに復せしむるにあらず、ただ身体発達の自然の勢いに任ずるのみ。すなわち人の身体はその自然の勢い、もとに復せんとするの性ありて、いったん損所をその一部分に生ずるも、これをその性に任じて他よりその発達に妨害を加えざれば、自然の勢い、そのもとに復すべき理なり。今、医家の療法は全くこの理に基づき、妨害を防ぎ、発達を促し、もってそのもとに復する自然の性を助長するに外ならず。かの薬石のごときも、この道理の外に出でず。されば医家の療法は自然助成法と名付くべきなり。しかるにこの自然の性を妨害し、あるいは助長するものに内外の事情あり。しかして内部の事情は精神作用なり。前述のごとくいかなる軽症、微患といえども、身部の諸病は必ずその影響を心部の上に及ぼすをもって、多少の精神作用のこれに加わらざるはなし。世にいわゆる神経を起こすものこれなり。重病、旧痾に至りてはことにはなはだし。かくして他の事情はすべて全快すべき位置にあるも、ひとり精神の作用の内部よりこれを妨ぐるありて、治すべき病のついに不治に陥ることなしとせず。もしかかる場合に治療を施さんと欲せば、心理療法によらざるべからざるは明らかなり云々。

 これを要するに、医家の療法、すなわち余がいわゆる生理療法は、その本領とするところ人為療法にして、自然療法にあらずといえども、人為療法はもと自然療法の助成法に過ぎざれば、人為の裏面に自然の存するを知り、人為の療法を受けながら、その心は自然に安んずるように心掛けざるべからず。今日世間に名医をもって称せらるものの病者に施す術は生理療法によるも、これを助くる手段としては自然に安んぜしむる方法を取ることは、事実に照らして疑いなかるべし。また名医にあらざるも、医家一般に病者に応じて転地旅行、温泉療養等を勧むるは、暗に自然療法の意を含むものなり。その理由は後に述ぶるところを見て知るべし。かく余が自然療法を主唱するも、その意決して生理療法を排して自然療法のみを勧むるにあらず。力の及ぶ限り生理療法を尽くしながら、これと同時にその心内にては、自然に一任するの心掛けあるを要すというにあり。これすなわち余が心理療法の本意なり。

 また病気中には医療を要せずして、自然に平癒すべきものあり。『本朝医談』にこれを自癒と名付けり。その文に曰く「それ聖賢も病なきことあたわず。常業なれば治せず、もしそれ非業なるは、病むといえども天命に委任し、薬せざれどもまた自然にして癒ゆるなり。このこと医家も病人も心得べきことなり。」とあり。この常業と非業とは仏語にして、病気中に自然に任じて治すべきものと、治せざるものとの二種あるをいう。世に簡短なる呪法あるいは奇怪なる禁厭によりて、病気の治することあるは、信仰の力の内より助くることあるべきも、また自癒の病症の存するによる。しかるに今日にありては多少の資産あるものは、自癒と不自癒とを問わず、病気と聞けばすぐに薬石を用い、治療を受けんとする風あり。また医師は己の営業上、みだりに薬石治療を勧むる傾きあり。病者が一日も早く平癒せんことを望むの一念より、みだりに医師を呼び、服薬をもとむるは、勢いの免るべからざるところなれども、これ人為を偏信するより生ずる弊なれば、医術進歩の余弊中にかぞうべきものなり。

 今日医家が心理療法を排斥しながら、なお自ら信仰を利用することは覆うべからざる事実なり。内科の治療において、ことにはなはだしとす。まず病者が医師の治療を受くるに、その人を信ずること最も肝要なり。もし医師を疑わば、その治療の効験を見ること難し。世に名医と庸医との別あるもこれより起こる。すでに名医の評判あれば、人みなこれを信じ、庸医と聞けば、人みなこれを疑う。故をもって、たとえ名医の診断に誤りありて、庸医の処方に正しきことあるも、その効験に至りては、これに反対せる結果を見ることあり。これ全く信仰の作用あり。諺に「医者の玄関」と称することあるはなんぞや。医者にしてその玄関を壮にし、その衣服を美にし、容貌風采、言語挙動等の人の意を引くを要するがごときは、みな信仰を起こさしむる方便に過ぎざるなり。あるいは学士博士の称号のごとき、あるいはドイツ留学の看板のごときは、いくぶんか世人の信仰を釣る一種の魔睡薬なることなきか。ある地方に薮医をもって目せられし医師あり。近隣の者といえども、きたりて診察を請うものなかりき。ここにおいて医師一策をめぐらし、毎日遠方に病家あるがごとく装い、早朝家を出でて晩に入りて帰ること数日に及べり。近隣の者これをみて、遠方にかく病客ある以上は、必ず治療に巧みなるに相違なからんと思い、ようやくきたりて診察を請うものあるに至り、ついに名医となれりという。されば医師の病者を引く手段は、よく人の信仰を利用するにありと断定して可なり。諺に「医者三分、看病七分」という語あり。余はこれに対して「医者三分、信仰七分」といわんとす。

 つぎに病者は医薬を信ずる必要あり。もし疑って服薬するも、効験を見ること難し。もし信じて服すれば、鰯の頭もよく万病に利あるべし。世に薬の功能書と称して、誇大に功能を吹き立つる風あるは、やはり人をして信仰の心を起こさしむるの手段に外ならず。『療治夜話』に「信心の意生ずるときは、服薬せざる前、すでに病勢十中の一を減ずべし。しかして薬を投ずるときは、その効実に速やかなり。」と説けるは、あに名言にあらずや。『技癢録』に医は貴ばざるべからざるゆえんを論じて、後世良医なきは、人のこれを貴ばざるによるとなす。その中あるいは上工の医師なるも、その身卑にあるために人多く威あらず、威あらざれば服せず、服せざれば信ぜずとあるも、医師と信仰との関係を示すもののごとし。故に余は古書に「もし薬、瞑眩せざればその疾瘳えず。」とあるを改変して、「もし薬、信仰を欠かばその病癒えず。」となさんとす。また古人の言に「人の病は薬を軽んずるを病む」とあるも、同じく信仰の意を含む。余が聞くところによるに、東京市内にその名最も高き某病院にて、遠来の病人の自宅に帰りて服する薬品は、病者の濫用を恐れて、なるべく効力の薄きものを選びてこれを与う。しかしてその効験の著しくあらわるるは、薬品の力にあらずして信仰の力なりという。医療服薬に信仰の重要なること、すべてかくのごとし。

 その他、病者は医師の来診に会すれば、いくぶんか苦痛を減ずるがごとくに覚え、医師の来診なきときは、病勢の加わりたるがごとくに感ずるも、みな信仰の作用なり。また医師が病者を診断するに、往々その実を告げざることあり。たとえば医師の診断にては全治の見込みなしと思い、あるいは薬石その効なしと信ずることも、病人に対してはこの薬を服すれば日ならずして必ず全癒すべしというがごとき、あるいはまた医師の心中にては真症の肺病と思うても、病人には、咽喉病もしくは気管病なりと告ぐるがごときは、病者の心に疑懼、不安、憂慮の念を起こさざらしむる一時の方便に過ぎず。その方便たるやもとより生理療法の本意にあらずして、心理療法の問題なること瞭然たり。かくのごとく今日の医家は内科はもちろん、外科といえども自ら信仰作用を利用して、治療の功績を挙げながら、信仰療法を排するは、自家撞着のそしりを免るべからず。今日なお民間に加持祈祷、神水禁厭等の療法の行わるるはなんぞや。前に一言せるごとく、病気中に薬石診察を待たず、自然に平癒すべきものあるによるも、別にまた信仰安慰の治病に効験あるによること、また明らかなり。これを要するに、心理療法は治病に欠くべからざるものなりというにあり。

 古来、医家に内外二科を分かつも、余はこの各科にまた内科外科あるべきを知る。すなわちその外科は身科にして、生理療法をいい、その内科は心科にして、心理療法をいうなり。左にこれを表示すべし。

  療法 外科 身科(生理療法)

        心科(心理療法)

     内科 身科(生理療法)

        心科(心理療法)

 その理由は上来述べたるところによりてすでに了解すべしと信ず。

 

     第四 インド医法論

 これより心理療法の古今東西に行われたるゆえんを示さんとするに、まずインドの療法を述べざるべからず。インドは宗教と医術とを混同し、世界中最も心理療法の行われたる国なり。されど余はここにインド一般の療法を述ぶるにあらず、ただわが国に伝われる仏書につきて、仏教と医術との関係を示すにとどめんとす。そもそも仏教中には身病と心病との別あり。その名称は『法華経』に出ず。すなわち薬王品に曰く、「願わくばわが未来もよく衆生の身心両病を治し、世を挙げて歓喜せん。号して薬王となす。」とあり。また『四諦論』に「病に二種あり、一は身、一は心。」とあり。日蓮宗の録外中に『二病御書』を掲げり。その文に曰く、「それ人に二病あり、一には身の病、二には心の病とありて、身病は耆婆扁鵲〔ぎばへんじゃく〕等の方薬をもって治すべく、心病は仏にあらざれば治し難し。」とあり。『啓蒙』に更にその意を解して、「身病は医方をもってこれを治す、心病は法力にあらざればこれを治するを得ず。」とありて、身心二病の別、判然たり。また『耆域柰女因縁経』をひもとくに、「仏、耆婆に告げていわく、汝まずゆきて身病を治せよ、われ後にゆきて心病を治せん。」とあるを見れば、世間の医方は身病を治する術にして、仏教は心病を治する法となせしこと明らかなり。

 古来インドの学術は五種に大別せられたり。すなわち五明と称するものこれなり。そのうちの医方明は身病を治する法にして、内明は心病を治する法なり。医方明につきてはその書別に伝わらず、ただ仏書中にまれに散見せるのみ。まず『智度論』によるに、病に内病外病の二種ありとす。内病は五臓の不調より起こり、外病は奔車、逸馬、兵刄等より起こると解せり。すなわち医家のいわゆる内科外科なり。またインドにては、病気の種類を総括して四〇四種ありとす。そのもとは地水火風の四大不調より起こるという。地の不調より起こるものに一〇一種あり、水の不調より起こるものに一〇一種あり、火風のおのおのに一〇一種あり、総じて四百四病となる。そのことは『仏説医経』『修行道地経』等に出ず。しかして仏教の自ら任ずるところは身病にあらずして、心病を治するにあり。

 『涅槃経』には現病品あり。『維摩経』には問疾品あり。そのいわゆる疾病は、もとより身病にあらずして心病なり。『維摩経』の病のごときは大悲の病なり。その問疾品に曰く「衆生病めばすなわち菩薩も病む」、また曰く「菩薩の病は大悲をもって起こる」とあり。古来、仏教にて釈迦を大医王となし、法を大良薬となせり。そのこと『智度論』に出ず。同論に曰く「仏は医王のごとく、法は良薬のごとく、僧は瞻病人のごとし。」とあり。また曰く「釈迦牟尼仏の本身のごときは、大医王となり、一切の病を療し名利を求めず、衆生を憐愍するが故に。」とあり。『法華経』薬草喩品には、「如来の一音よく三薬草を生じ、小中大の病を救療す。」とあり。『無量寿経』にも「もろもろの法薬をもって三苦を救療す。」とあり。その他、『本生心地観経』には「薄伽梵大医王善く世間煩悩の苦を治す。」とあり、「涅槃経』には「仏を新医と名付く」とあり、『華厳経』には「もろもろの衆生の病同じからざるに従い、ことごとく法薬をもって対治す。」とあり。これみな仏をもって医王となせるなり。

 また経論中に心病を説きたるもの枚挙にいとまあらず。『涅槃経』には「一切衆生に四の毒箭ありてすなわち病因となる。」とあり。その四とは貪欲、瞋恚、愚痴、憍慢なり。『仁王経』には「仏は衆生に三種の病あることを知る。一には貪病、二には瞋病、三には痴病」という。しかしてこれを治する法は施、慈、慧の三種善根なりとす。『増一阿含経』には「比丘に貪欲、瞋恚、愚痴の三大患あり。」と説き、これを治する良薬には不浄法、慈心法、智慧法の三種ありとなす。『出梵摩喩経』には欲、瞋、愚、憍、愛、痴、利、疑を八病となせり。この八者はよく善をやぶる病なればなりという。また『智度論』にも心病の種類を掲げて、「般若波羅蜜はよく八万四千病の根本を除く。この八万四千はみな四病より起こる。」と説けり。四病とは貪、瞋、痴および三毒等分なり。これを医するには不浄観、慈悲観、因縁観およびこの三観総体をもってすることを出だせり。以上説くところ大同小異ありといえども、心内の妄想迷苦を指して病体とし、また病因とするは一なり。普通これを煩悩という。あるいは単に迷とも惑とも障ともいう。もしその大数を挙ぐるときは、八万四〇〇〇種ありとなす。すなわち身病の方に四〇四種ありて、心病の方に八万四〇〇〇種あるなり。もしまた『四諦論』によらば、身病に縁内起、縁外起の二科を分かち、心病に内門惑、外門惑の二種を分かてり。すなわち心内より自発する煩悩を内門惑とし、身外より誘起する惑障を外門惑となすなり。

 以上の考証によるに、身病を治するは医術にして、心病を治するは仏教となせるなり。心中の煩悩を指して病と名付けたるがごときは譬喩に過ぎず。されば医術と仏教とは、おのずからその別あるを知るべし。しかりしこうして、仏教には心病を医すればその影響を身病の上に及ぼし、四百四病を医するに多少の効験あることを説けり。これ古代医術の開けざりしときにありては当然のことにして、あえて怪しむに足らずといえども、今日にありてもいくぶんの効力あるべきは、道理に考え事実に徴して証明するを得べし。今その証を仏書中に求むるに、『仏医経』に身病のよりて起こる原因を挙げて一〇種となせり。その一〇因中には憂愁、瞋恚等の諸因までも加われり。これすなわち病気の起こるには精神の方面より生ずるものあるゆえんを知るに足る。すでに精神によりて病気を起こすことありとすれば、これを治するにも精神の方面によることを得る理なり。故に仏書中には、心病を医する方法によりて身病を医したる例はなはだ多し。これすなわち余が心理療法なり。今その二、三を挙ぐれば、『中阿含経』に「須達長者病重し。使をして舎利子の訓を請わしめしに、長者のために七勝財法を説きて、怖ることなからしむ。須達悟解し、ひとたびその法を聞きて、ついですなわち病癒ゆ。」とあり。また『国清百録』および『仏祖統記』によるに、智者大師は息法をもって脚気を治したることを記せり。またもろもろの病処に従って、明らかに心をもってこれをとどむること三日を出でずして癒ゆることを示せり。かつ曰く、「心は王のごとく、病は賊のごとくなれば、心を病処に安んずれば、賊すなわち散じ壊る。」とあり。かくのごとき例話は、仏書中の伝記類にはいくたあるを知らず。元来、人の伝記はその人を非凡ならしめんために、殊更に修飾を加えて誇大にしたること多ければ、決してそのいちいちを信拠すべからず。ことに宗教家の伝記をもって最もはなはだしとなす。故に古人は、ことごとく書を信ぜば書なきにしかずと戒められたり。しかれどもこれと同時に、ことごとく書を疑わば書なきにしかずということを得べき理なり。古書に見るところにて事実を伝うるもの少なからず。たとえ妄誕なるも、その中にまたいくぶんの取るべきものあり。いわんや心病を治する方法をもって身病を治するがごときは、信ずべき道理の存するところなるをや。

 『天台小止観』に記するところによるに、

  それ坐禅の法、もしよく心を用うれば、四百四病自然に除差す。もし用心所を失すれば、すなわち四百四病これによりて発生す。

 その方法につきては、

  あるいはいう、心をとどめ、丹田(臍下一寸)を守りて散ぜざれば多く治することありとす。あるいはいう、常に心を足下にとどめて、行住寝臥を問うことなければ、すなわちよく病を治す。

 その理由につきては、

  人は四大の不調なるをもって疾患多し。しかして四大の不調は心識の上縁するによる。故にもし心を安んじて下に置けば、四大自然に調適して衆病除くべし。また一説に、心の憶想四大を鼓作するによりて病の生ずることあり。心をやすめて和悦すれば、衆病すなわち癒ゆ。故に善く止法を修すればよく衆病を治す(止法とは坐禅の法なり)。

 その止観の方法につきては、ここにこれを略す。つぎに『病堂策』と題する書中に、病を治する法に六種ありとし、一には止法、二には気法、三には息法、四には仮想法、五には観心法、六には方術法を掲げり。その説明あまり長ければ、左にその要を摘載すべし。

  一、止法とは、まず衣を解きてへそを豆の大のごとくなりと諦観し、のち目を閉じ口を合わせ、舌をあごに支え、心をへそに置き、気をして調順ならしむ。かくして心を丹田にとどむれば、よく万病を医するを得。もしなお苦痛を感ぜば、心を移して三里に向かえよ。痛なお除かずば、更に心を移して両脚の大拇指のつめの横文の上に向かえよ。もし頭痛み目赤く、口熱し耳聾し、腹痛む等には、心を両足の中間にとどむれば癒ゆることを得べし。また心を足にとどむれば、よく諸病を治するに良効あり。

  二、気法とは、呼吸の気をもって病を治する法にして、もし冷を病むときは吹を用い、熱を病むときは呼を用い、気を病むときは呵を用うる等の規則あり。その法、毎日、子の刻より巳の刻に至るまで、東に向かい静坐して、窓を開かず風を入れず、歯をたたき舌にて口中を撹(か)けば、舌下に水おのずから満つ。これにて数度くちすすぎ、三口に分かちてのみ下し、意をもってこれを丹田に送り至らしめ、徐々に口に嘬(つぐ)んで呵字を念じ、呵して心中の濁気を出だす。そのとき声あることなかれ、声あればかえって心気を損ず。すなわち口を閉じ、鼻に清気を吸い、もって心を補う。吸うときもまた吸う声を聞くことを得ず。ただし呵の出ずるは短く、吸の入るは長からしめよ。かくのごとくすること六度とす。その功を積みて験あるを見るべし。

  三、息法とは、息の強軟を察して身の健病を験する法なり。息に四種の相あり。風、喘、気、息なり。坐するとき、鼻中の息、出入声あるを覚ゆるは風相なり。坐するとき、息声なしといえども、出入結滞して通ぜざるはこれ喘相なり。坐するとき、息声なく結滞せざるも、出入細ならざるはこれ気相なり。以上の三者は不調の相とす。そのよく調和を得たるは息相なり。かくして息を調うるときは衆患生ぜず。

  四、仮想法とは、前の気息の中に兼帯して想を用うるなり。『阿含経』に酥を観ずるがごとき★(火+䎡)〔輭〕酥(なんそ)、頂にあり。滴々として脳に入り、五臓に濺(そそ)ぎ、徧身に流潤するをおもえ、これすなわち労損治すとあるの類なり。もし『雑阿含経』によれば、かえって七十二法ありという。

  五、観心法とは、ただちに心を観じてこの病を推し求むるに、内にあらず外にあらず、中間にあらず心不可得なり。病きたりてだれを責むる、だれか病を受くる者ぞ。かく観力を用いて病を治するをいう。

  六、方術法とは呪法禁厭のことなり。

 以上の六法中、多少身部に関するものなきにあらずといえども、要するに心理療法に属するものと知るべし。その諸法は今日に適用し難く、その法のみによりて諸病を治することあたわざるは明らかなりといえども、その中にいくぶんの参考すべきところあり。かつ仏教は心理療法を唱うると同時に医家の治療法を勧め、身心両面より諸病を平治せんことを期するものなれば、決して今日の生理療法を妨害するがごときことあるべからず。ただ愚俗中にはこれを濫用して迷信に陥らしむることあるも、かくのごときは教育の方面より漸次にその弊を除去するを得べし。もしインド一般の療治に至りては婆羅門の支配するところとなり、その迷信のはなはだしき、仏教徒と同日の論にあらざるなり。

 

     第五 シナ医法論

 仏書の外にわが国伝来の諸書につきて、シナの医道および養生に関する書を閲するに、心気をもととなせる説往々見るところなり。わが国の医法は神代より起これりというも、その実シナより伝われり。しかしてシナの医法は肉体の方面より病を治するを目的とせるも、その中にいくぶんの心理療法を混じ、ことに病因および養生法を論ずるに至りては、心をもととする説多し。今その例証を挙ぐるに『淮南子』に曰く「憂悲多恚は病すなわち積となる」とあり、『管子』に曰く「憂鬱疾を生ず。疾困すればすなわち死す。」とあり、『亢倉子』に曰く「草鬱すればすなわち腐となり、樹鬱すればすなわち蠧〔むし〕となり、人鬱すればすなわち百慝並び起こる。」とあり、『荘子』にも「平易活淡なれば、すなわち憂患入ることあたわず、邪気襲うことあたわず。」とあり、『古今医統』には太史公の言を引きて、病の心より生ずる理を示せり。その言に曰く、

  およそ人の生ずるところのものは神なり。託するところのものは形なり。神大いに用うればすなわち形を傷つけ、大いに労すればすなわちやぶる。形、神離るればすなわち死す。故に聖人これを重んず。これによりてこれをみるに、神は生のもとなり、形は生の具なり。

 また同書には「形は生の気なり、心は形の主なり、神は心の宝なり。故に神静にしてしかして心和し、心和してしかして形全し。神躁なればすなわち心蕩す。心蕩すればすなわち形傷る。」の説明あり。これみな身心の関係を説きて、病気の起こるゆえんを示したるものなり。

 『医方類聚』に『素問内経』を引きて曰く、「憂うるときはすなわち気結び、喜ぶときはすなわち百脈舒和す。」とあり。また『療治夜話』に古経を引きて曰く、「心乱るればすなわち百病生じ、心静にしてしかして万病やすむ。」とあり。また同書に「人常に無我無心なるときは、病も得て生ずることなし。発狂の人、外に病なきをもって知るべし。」とあり。『梨窓随筆』に病の起こるは心によることを示して、

  人病に臥す、多くは心の労役より起こる。善覚僧都曰く、世俗盆池に魚を放つ、その水中に石の山を置くときは魚痩せず。もし置かざるときは魚肥ゆることあたわず。その故は魚の心病なり。小石山に似たるときは、この魚、山をめぐりて水の端なき故に、江河の心をなしてやせず。もし石なきときは水の端を知る。魚、鉢の内にとらわれたる心をなす。この故にその形やせてついに死す。百病は気より生ずとは、ひとり人倫のみにあらず。

 この説明すこぶる奇なりといえども、精神の労役より病を起こすこと多きは疑うべからず。『技癢録』に、心内に守れば病入ることを得ざるゆえんを示して曰く、「平岡某兵術においてその妙を得たり。しかして自ら曰く、われ中年以後兵術大いに進むも、他に証すべきなし。ただ外感の病を得たることなし。」と。著者これを評して曰く、「けだしこの心機内に守りて少しもゆるむところなければなり。素問にいう恬澹虚無なれば真気これに従い、神心内に守り、病いずくよりきたらんやと。これ平岡氏の謂なり」とあり。『医学源流論』に「それ人の精神完固なれば外邪あえて犯さず。ただそのこれをふせぐゆえんの具虧〔か〕くることあれば、すなわちこれを侮るものここに集まる」というも同意なり。

 以上の例証はみな『素問』の精神内守、病安従来の語に基づきたること明らかなり。その他、『素問』中に聖人を解して「外、形を事に労せず、内思想の患いなく、恬愉をもって務めとなし、自得をもって功となす。形体やぶれず、精神散ぜず。」といい、また岐伯の言に「神を得るものはさかえ、神を失うものはほろぶ。」とあるは、みな後人の病因を説明する本拠となれり。かく解説するときは、一切の病患はみな精神より生ずるがごときも、その実しからず。ある医書に病に内外二因あることを示して、外因は寒熱、風湿、内因は喜怒憂思といえり。これを要するに、病因に身部より生ずるものと、心部より発するものあり。しかして今は心的方面の説明のみを掲げしなり。

 病因に身心二種ありとすれば、治病の方法にも身的心的の二面なかるべからず。これを和漢の諸書に考うるに、『朱子文集』には、病気のときに静坐して自療すべき方法を示されたり。その法は、病中は一切を放下してもっぱら存心養気をもって務めとなす。ただし伽趺して静坐し、目に鼻端を視、心を臍腹の下に注ぐ。久しうして自ら温暖すなわちようやく功を見るという。また『本朝医談』には、わが国の医師は医学に長じ、脈経に明らかなる上は、叡山に登りて止観の法を授かりしことを記せり。また『療治夜話』には「坐禅は気を鎮むるの術、養生の道にして、あらかじめ心気病を防ぐの妙法なり。」と説けり。また『素問』には「いにしえの病を治するはただそれ精を移し気を変ず。」との語あり。この移精変気は、余がいわゆる心理療法なること疑いなし。故に『療治夜話』にこれを解説して曰く、

  それ移精変気とは、移は移しかうるなり。すなわち精神を移しかうるなり。変は変え改むるなり。すなわち心気を変え改むるなり。すなわちこれ心に迷いを生じて病を醸しなすことあり。そのときその病の根元を尋ね求めて、その迷いを説き解きてその病を已(いや)すの法なり。医の万病を療治する、必ずこの意を心に含みて療法すべし。中にも心気病のごときはぜひにこの法を行わざれば、ただに服薬のみにてはなかなか治することあたわざるものなり。人は七情によりて病を生ずること最も多きものにて、世に心気病をうれうる人もまた多きものなれば、よくその心気病たるを診し得て、この移精変気の法を行うときは、言外の奇効を得ることあるものなり。

 この心気病とは精神病のことなれども、ひとり精神病に限りてこの法を施すべしというにあらず、万病を医するにこの心得の必要なることを説けり。かつその方法の二、三を示して、

  一、術をもって病者の心を転じて治することあり。

  一、言語をもって病者を説諭して治することあり。

  一、法をもって病者の心を変じて治することあり。

  一、疑惑によりて病を生じ、その疑惑を解きて病治することあり。

 その他、移精変気の法に至りては、古法いちいち枚挙にいとまあらずといえり。これによりてこれをみるに、和漢の医家は従来心理療法を用いたりしこと明らかなり。

 治病法に関連して養生法もまた論ぜざるべからず。和漢にて古来唱うるところの養生法は、主として精神を安静する方法によりたるものなり。これを心理的衛生法というべし。その中には、老荘の虚無恬澹の主義に基づくもの多きがごとし。前に挙げたる『素問』の精神内守、病安従来の語のごとき、また同書の真人は独立して神を守り、至人は精を積みて神を全うす。聖人は恬愉をもって務めとなすの語のごときは、養生法の本拠となりしこと問わずして知るべし。今更に他書の上に考うるに、『孟子』の語に「心を養うは欲をすくなくするより善きはなし。」とあり。『淮南子』に「神清く志平らかに百節みなやすきは性を養うのもとなり。」とあり、『達生録』に「精気神を内の三宝となし、耳目口を外の三宝となし、常に内の三宝をして物を追いて流れず、外の三宝をして中を誘うて擾(みだ)れざらしむ。」とあり、『省心録』に「欲多ければすなわち生をそこなう」とあり、その説くところ大同小異なるのみ。左に養生を詠じたる詩を録す。

  老子は明らかに衆妙の門を開くに、一開一闔は乾坤に応ず。果たせるかな、罔象にして無形の処において、箇の長生、不死の根あり。

  口を爽する物も多ければついには疾を作り、心に快なることも過ぐれば必ずわざわいをなす。その病の後によく薬を求むるよりも、病の前によく自ら防ぐにしかず。

  自身に病あるは自らの心が知れり。身病は還りてまさに心自らが医なり。心境静かなるとき、心もまた静かなり。心生ずれば還りてこれ病生ずるときなり。

 老子明開衆妙門、一開一闔応乾坤、果於罔象無形処、有箇長生不死根、

 爽口物多終作疾、快心事過必為殃、与其病後能求薬、不若病前能自防、

 自身有病自心知、身病還将心自医、心境静時心亦静、心生還是病生時、

 貝原の『養生訓』には、養生の道はまず心気を養うべしと戒め、遊斎の『養生主論』には、養生の道は平生心の持ちよう第一の肝要なりとおしえたり。その他の諸書に見るところ、みなこれに同じく、いずれも心理的衛生を説きたるものなり。

 以上述ぶるところによりて、和漢諸家の病を防ぐの要法は、精神を安静にするにあること瞭然たり。果たしてしからば、これを療するにも精神を安静するを要することは自然の理なり。すなわち和漢の医法中に心理療法を用いたりしこと疑いなし。左に『寿養叢書』の一節を引用してその参考となす。

  臞仙曰く、いにしえの神聖の医はよく人の心を療す。およそこの病をいたすは、みな心にもとづく。調養よろしきを失い、風寒の感ずるところ、酒色の傷むるところなり。七情六欲内に生じ、陰陽二気外に攻む。これを病、心に生じ、害、体を攻むというなり。今ただ人の知りやすく見やすきものをもってこれを論ぜん。人心火を思えば久しうして体熱し、人心氷を思えば久しうして体寒し。悚(おそ)るるときは髪立ち、驚くときは汗出でて、おそるるときは肉おののく。はずるときは面赤く、悲しめば涙生じ、慌つれば心跳り、気はすなわち麻痺す。酸を言えばよだれを垂れ、臭を言えばつばを吐き、喜を言えば笑い、哀を言えば哭し、笑えばすなわち貌妍(うるわ)しく、哭すればすなわち貌妍(みにく)し。また日間見るところあるがごとき、夜に至れば魂夢む。思うところあれば夜間すなわち詀(せん)語す。これみな心によりて生ずるなり。大白真人曰く、その疾を治せんと欲せば、まずその心を治せよと。使者をしてことごとく心中一切の思想を去り身心を放下し、われの天をもってつかえるところの天に合せしむれば、すなわち自然に心君泰寧に、性地平和にして、疾病自然に安く癒ゆ。薬いまだ口に至らずして病すでに忘る。

 この論、自然に余が心理療法の理由を説明せるがごとし。

 

     第六 西洋医法論

 すでに仏書中に見るところのインドの医法と、漢籍中に存するところのシナの医法とにつきて、その中に心理療法の混入せることを証明したれば、これより西洋の医法を考うるに、東洋と大いにその趣を異にするところあり。すなわち東洋は精神の方面に重きを置き、西洋は物質の方面に重きを置くの別あり。西洋文明と東洋文明との異なる点も要するにここにあり。故をもって西洋の医法は全然生理的にして、東洋の医法は一半心理的なり。なかんずくインドおよびエジプトをもって最もはなはだしとす。インドの医法は、さきに挙ぐるところは仏教の方面より観察せるもののみ。もし婆羅門の方面よりみるときは、これを心理的といわんより、むしろ全然宗教的といわざるべからず。けだし仏教中に宗教的医法、あるいは呪術的療法を混入せるは、婆羅門の余波を伝えたるものに過ぎず。かの五明の分類のごときは婆羅門の設くるところなるも、その源は上古の神話より出ず。その伝説は仏書中にも散見せり。『観仏三昧経』によるに、太初に当たりて大梵王、五面を現じて五明を説けり。その東方の所説を医方明となすという。すなわちこれを左面の所説となす。また『南海寄帰伝』によるに、これら医明は帝釈より伝わるという。かくして医法そのものが神話より起こりたれば、医術は僧侶これを兼ね、諸天を礼拝供養して平癒を祈ることとなれり。エジプトもこれと同じく、僧官が医業を兼ね、医法と宗教と相混じおれり。しかるに欧州は近世はもちろん、ギリシアの古代にありても、医術は宗教を離れて発達しきたれり。その上古のことはつまびらかならざるも、ホメロスの詩中に見るところによるに、多少宗教とその道を異にせしもののごとし。ただし全く宗教の外に独立せしにはあらず。その当時アスクレピオス神を医王として崇拝し、病者あれば必ずこれをこの神を祭れる所に送り、神前に平臥せしめ、かくして夢中に見るところに従って治療の方法を定めたりという。もしその法によりて治したるときは、その顛末を記してこれを壁上に掛くるを例となせり。アスクレピオス神はアポロ神の子なりという。この神話によれば、医術と宗教とを混同せしに似たるも、僧侶必ずしも医師を兼ねたるにあらず。医家はようやく宗教家とその業を分かつの傾向ありてヒポクラテスに至れり。ヒポクラテスは神前の壁面に掛ける病者の記事につきて研究し、大いに発見するところありて医祖となるに至れり。また哲学の方面より医術を唱えたるものあり。すなわちピタゴラスなり。その門弟もみな医を兼ねたりというも、その方法に至りてはつまびらかに知ることを得ず。

 ヒポクラテスの医法はひとり理論のみならず、実地につきて医療の方法を示し、実に今日の医術の源を開けり。しかしてその唱うるところは、自然は病気を平治する力を有するをもって、医はただこれを補助するにありとなせり。氏はまた地水火風の四元説を唱え、この四元より血液、粘液、黄胆液、黒胆液を生ずるものとし、疾病はこの四液の変化により起こるものとなせり。そもそも四元説は哲学者エンペドクレスの初めて唱うるところにして、この理を病気の上に当てはめたるものはヒポクラテスなり。これインドの四大不調をもって病因となせる説に同じ。近世、人の性質も多血質、神経質、淋巴質、胆液質の四種に分かつことあるは、この四液説に基づくという。ヒポクラテスの後に医学の進歩に功労ありし人は、プラトンおよびアリストテレスの二大哲学者なりとなす。その後、医学の中興ともいうべきものはガレノスなり。これらの諸家の学説をいちいち詳述するの余地なければこれを略す。これを要するに、ギリシア古代の医術は神話に関連し、宗教と混同するところなきにあらざるも、インド、エジプト諸邦と異にして、宗教を離れて発達せんとする傾向を有し、漸次に発達して今日の生理療法の根源を開くるに至れり。これその東洋と異なるところなり。しかれどもその当時の療法は多少心理療法を含みおりしことは、また疑いをいれず。ヒポクラテスは自然療法の主義を唱え、道理をもって解し難きところはこれを神秘に帰せりという。また哲学者の形而上の哲理をもって病理を説明せるがごときは、生理療法の本意にあらざること明らかなり。けだし当時解剖の学いまだ開けず、ために空想憶断をもって説明を下せるは、勢いのやむべからざるところなり。かくしてローマ時代に移り、医術大いに衰頽をきたすに至れり。その当時の医術は外科の一種にして、内科のごときは神に祈念し供養するをもって回復し得るものと信ぜり。その後ヤソ教の興るに及び、医学は全く宗教の支配するところとなり、僧侶にして医を兼ぬるもの多きに至れり。その当時、信仰療法のもっぱら行われしは言を待たず。この宗教の圧抑を脱して近世医学の勃興をきたせしは、ギリシア文学の再興、アメリカの発見、新教の革命など、その主要なる原因たり。これより後は医術は年を追うて信仰の区域を脱し、心理の療法の範囲を離れ、余がいわゆる純然たる生理療法となるに至れり。

 古代の医術に関して一言せざるを得ざるものは、占星術と錬金術なり。占星術とは天界に羅列せる星の位置によりて、人の運命、未来の吉凶を卜知する方術にして、疾病、災難もまた、この方法によりて鑑定するを得べしとなせり。元来この術はエジプトにおいて最も古く行われ、後にローマに入りて一時大いに流行し、術者四方より集まりきたり、弊害したがって多きをもって、ローマ政府はこれを厳禁したりしも、ついに全くその跡を絶つことあたわざりきという。錬金術もその初めエジプトに起こり、後にローマに伝われり。この術によれば、人命を無限に延長することを得べしと信ぜり。これなおシナの仙術のごとし。その他、欧州中古暗世の間は種々の迷信一般に行われ、神託、魔憑の説、呪術禁厭の法など、世人の信ずるところとなれり。その状態更に東洋諸邦と異なることなし。しかるに近世においては人文大いに開け、学術大いに進み、迷信その跡をとどむる地なきに至れるがごときも、その実しからず。多少の迷信は愚民の間に依然として存するを見る。世間一般に十三の数を忌み、金曜日を不吉の日となすのみにとどまらず、夢判じ、手筋占い等のなお信用せらるるを見る。禁厭呪術のごときも、地方によりて行わるるあり。ヤソ教も旧教奉信の国に至らば、その迷信笑うに堪えたるものあり。ただこれを東洋に比するに、いくぶんかその度を異にするのみ。

 以上述ぶるところは、西洋の古代には生理療法中に心理療法の混入せることありしも、近世においては医家の療法は全く心理療法を離れて独立するに至れり。しかして今日なお迷信の愚民間に存するあるも、かくのごときは中世の遺習を伝うるに過ぎずというにあり。これ西洋と東洋とは治病の状態を異にするゆえんなり。しかりしこうして、余は西洋の近世において心理療法の上下一般に行われおることを立証せんとす。西洋にありては宗教と医術とは全く分離し、二者の間に直接の関係あるを見ずといえども、これただ表面の観察に外ならず。もし裏面に入りてこれをみるに、西洋の医術は全く生理療法に基づき、宗教はもっぱら心理療法をつかさどることを知るべし。ヤソ教は古来その慈善の業務として病院を建て、施薬を設け、もっぱら病人を教誨することを務めり。いずれの病院にても、その中に教会の設備あらざるなく、信徒中に病者あるを聞けば、教師は必ずその家につきて教誨を加え、友人中に病者あるときは、なにびとも神に祈請してその平復を望むは、かの国一般の風習となりおれり。これに対して病者は、病症の平治するとせざるとはこれを神に一任するに至る。これいわゆる自然療法なり。また神に信頼して自ら安んじ、もって病気を心頭に掛けざるに至ることあり。これ信仰療法にあらずや。合してこれをいえば心理療法なり。けだし心理療法はヤソ教の本領とするところにあらざるにもせよ、実際上病人に対して心理療法を施しおることは疑うべからず。果たしてしからば、医術治病の効果は、ヤソ教の裏面より心理療法をもってこれを助くるによること明らかなり。故に余は、西洋にありては生理と心理との二種の療法並び行われ、互いに相助けおるものと断言せんとす。

 宗教の外にもスピリチュアリズムのごとき精神の霊能を研究する学会あり、また催眠術のごときものあり。これらも多少心理療法にわたりて実験せるものなり。またヤソ教の教会の一種にして、もっぱら万病を祈祷によりて治することを唱うるものあり、すなわちクリスチャン・サイエンスなり。これ近年米国に起こりたるものにして、その信者年を追うて増加し、昨今非常の勢力を有するがごとし。その療法はもとより心理療法なり。

 西洋はかくのごとく生理療法と心理療法と並び行われ、身心両方面より病気を治せんことを期するに、わが国はその名は西洋を学ぶと称しながら、ひとり生理療法を取りて、心理療法を排するはなんぞや。わが国には古来神道あり仏教ありて、心理療法を伝えて今日に至れるに、これを排斥してひとり生理療法のみを用うるは、余の大いに惑うところなり。あるいはいわん、わが国伝来の心理療法は迷信に陥るもの多ければ、これを用うるも害ありて益なしと。余これに答えていわん、わが国伝来の療法ことごとく迷信なるにあらず、その迷信の弊はもとよりこれを除きて可なり。ことにわが国は古来、生理療法において欠くるところありしも、心理療法においては大いに長ずるところあり。これに改良を加えて西洋伝来の生理療法と相またしむるに至らば、始めて治病の目的を全うするを得べし。その理由を明らかにせんために、和漢古来の宗教と医道との関係を示さんと欲するなり。

 

     第七 巫医関係論

 更に顧みて東洋諸邦をみるに、前に述べしがごとく、インドにありては医術と宗教と並び行われ、その間に密接の関係ありしといえども、シナにありては仏教の入らざりしまでは、医術ありて宗教なきがごときありさまなりき。儒教に至りては多少宗教に似たるところあるも、これもとより心病を治するをもって目的とするものにあらず。故に宗教の方面より療法に関するものなかりき。ただし当時の医法中に多少心理的療法を混ぜしことあるのみ。しかるに余が考うるところによるに、『論語』の「人にしてしかしてつねなくんば、もって巫医〔ふい〕となるべからず。」といえるは、インドの医術宗教に比すべきものなるがごとし。そのしかるゆえんは、朱子これを注して「巫は鬼神に交わるゆえん、医は死生を寄するゆえん。」とあるを見て明らかなり。すなわち巫なるものは禁厭祈祷の法を行い、もっぱら精神の方面より病を医するをもって本務となせしは疑いをいれず。しかして巫のなすところ、今日よりこれを見るに迷信に過ぎざるも、古代の宗教はいずれの国にありても迷信より成るものなれば、決してシナに限りてしかるにあらず。たとえ迷信なるも、医術のいまだ進まず、人智のいまだ開けざりし当時にありては、医療の上に効験ありしはまた争うべからず。けだし巫法のシナに行われしはすこぶる古きことにて、聖人もなおこれを許せしことは『闇の曙』中に記述しおけり。

  昔、聖人周礼を作る。大医院の中、病を療する正法に四あり。摩、鍼、粂、薬これなり。しかるに官下の属に呪禁あり。そもそも医官正法を病める者に用いて、しかして快起することを得ざるもの、すなわちあるいは呪禁祷禳をもってこれを補助す。百に一験を得るもまた天下の一蒼生を救う。これ聖人仁術の余沢、愛してしかしておかざるなり。

 わが国においても巫医の二法の上古より存せしことは、神代の古伝中に見えたり。すなわち神代史に記するところ左のごとし。

  大己貴命は少彦名命と力を戮〔あわ〕せ、心を一にして天下を経営し、また顕見蒼生および畜産のために、すなわちその療病の方を定め、また鳥獣昆虫の災異を攘〔はら〕わんために、すなわちその禁厭の法を定めり。これをもって百姓、今に至るまで咸〔ことごと〕く恩頼をこうむる云々。

 余案ずるに、この療病の方は医の起源にして、禁厭の法は巫の起源なり。あるいはこの二者をもって医術と宗教との起源と見るも可なり。これより後、巫医の二方相混じて疾患を医したるもののごとし。すでにして医術および仏教のシナより伝わるに及び、巫医の二道ようやく相分かれ、禁厭祈祷の法は仏教の方にてつかさどりたるがごとし。『続日本記』に「僧尼仏道により神呪を持し、病徒を救う云々。」とあるを見ても、そのしかるゆえんを知るべし。

 シナにて儒家は医ですらも、これを末学末技としてけなせしほどなれば、巫を排斥せしは無論のことなり。『史記』に病の六不治を掲げ、その一に巫を信じて医を信ぜざる一事を加えたるがごとき、その一例なり。また医家の方にては、もとより巫を厭忌せり。倉公の言なりとして伝うるところによるに「病みてあえて薬を服せざるは一の死なり。巫を信じて医を信ぜざるは二の死なり。」といえり。しかれどもまた巫を排せざるものあり。『医事集談』に「陶弘景は有名の医にして、なお曰く、病また別に鬼神よりきたるものあり。すなわちよろしく祈祷をもってこれを袪〔ひら〕くべし。袪くべしというといえどもなお薬療によりて癒ゆるをいたす云々。」と記せり。また扁鵲時代には、医よりも巫の方、一般に採用せられしものと見え、『陸賈新語』に左の一話を出だせり。

  昔、扁鵲、宋の国におり、罪をその君に得、出亡して衛国にゆけり。ときに人ありて病みてまさに死せんとせり。扁鵲その家に至り、ためにこれを治せんと欲す。病者の父、扁鵲に向かいて曰く、わが子病はなはだ篤し、霊巫を迎えて治する意なり。足下のよく治するところにあらずと、しりぞけて用いず。しかして巫をして福を求め、命を請わしむ。病者ついに死せり。それ扁鵲は天下の良医にして、巫と用を争うことあたわざるはなんぞや。ただこれを知ると知らざるとによる。

 わが国においても、古代より疾病を医するに加持祈祷等を用うること行われ、典薬療に呪禁博士、呪禁生を置かるるに至れり。故に『嬉遊笑覧』には「いにしえ疾病産育など薬を用うることはつぎにして、むねと祈祷することと見ゆ。」とあり。『南留別志』には「源氏物語をみれば、病に薬用うることはなくて、大形は祈祷をのみしたるようなり。今も田舎のものはかくのごとし。鬼をたっとべる風俗の弊なるべし。」とあり。これひとり古代の弊なるにあらず、近世に至るもなおこの風あり。和漢相同じというべし。故に学識あるものはもっぱらこれを排去せんことをつとめ、つねに医を信じて巫を信ずるなかれといいて世人を戒めたり。『理斎隨筆』に病者一〇慎を掲げたる中にも、巫女山伏の言葉を信ずべからずとの一条を掲げり。

 余思うに、巫もとより信ずべからず、加持祈祷また頼むべからず。この理由をもって心理療法は無用よりと推演するは不可なり。『生々堂養生論』に左の二節あり。

  巫を信じて医を信ぜざるも大不養生なり。祝辞祈祷にて疾の癒ゆる理は決してなきなり。たとえば蛭子、大黒に福を祈り、それを当てにて休みて遊んでいるときは、ついに身上転却するより外なし。この理と同じ。もしまたわが業を出精して勤むる上に、蛭子、大黒の加護を得ば、富貴になること疑いなし。病人もまた医者の薬を用い、その上に祈祷の加護を得ば幸いあるべし。よくよくこの理を知るべし。

  医道も知らぬ素人どもが、病家へ見舞いにきたり、ややもすれば巧者顔して医者を誹謗し、少しばかり医書の端を見たる者、あるいは祈祷祝辞を信ずる者、あるいは攻撃を恐るるもの、これらの類の病家を迷わしむるは、傷寒、疫癘の病毒よりも猛烈にして、軽き病も重くなり、早く治すべき病も長くなり、生くべきも死す。かくのごときものは、世間ひととおり医者の毒よりもはなはだし。世間の医者には偶中もあれども、右等の者には偶中もなし。病家この理を知りて迷うことなきを大養生というべきなり。

 この論いまだ尽くさざるところあり。第一に加持祈祷に依頼して病を医せんとすると、蛭子、大黒に一任して富を得んとすると同一視するは非なり。後者においてはなんらの益するところなきも、前者においては多少の影響あるは必然なり。もし病者がこれを信じて安慰するを得ば、治病の上に効験あるべきは疑いをいれず。ただその効験あるは神仏の冥護によるにあらずして、精神作用の力によるものなり。また医道を知らざるものが病者を惑わしむるは不可なりといえども、もし病者の惑いを解く法あらば、決して不可なるの理あらんや。余が心理療法は、すなわちこの惑いを解き疑心を定むる法なり。

 祈祷禁厭の諸法に対し、これによりて万病を医し得ると信ずるは、迷信のはなはだしきものなりといえども、ある事情の下にては、これによりていくぶんの効験あることは、ほとんど疑うべからざるものあり。古来その法の東西いたるところに行われ、今日なおやまざるは、必ずしかるべき道理なかるべからず。東洋諸国はいうに及ばず、西洋諸邦にても今日なおこの種の療法の行わるるを見る。近年米国において盛んに行わるるクリスチャン・サイエンスのごときは、わが国の天理教に比すべきものにして、万病を医するに祈祷の一方を用うるものなり。これを信ずるものひとり下等社会のみならず、上流社会にも多々これありと聞けり。これなんぞや。もとよりその法たるや万病に効験あるべき理なしといえども、病気の種類と事情とによりては、多少の効力あるや疑いなかるべし。しかしてその効力あるは、精神の方面における信仰安慰の結果なることまた明らかなり。

 わが国にて伝うるところの呪法に、奇々怪々なるもの多し。今二、三例を挙ぐるに、

  『本朝医談』に、鬼病はマジナイにて治することあり。瘧〔おこり〕に鬼あり、痘に神あり。この二病の呪〔まじない〕になるべき和歌あり。

    まくさかる野辺のわかばや道遠き、わが住む里にかへり行くらん

    ほうそうの神はと問へばあともなし、この所にはいもせさらまし

  『蕉窓雑話』に、村落の瘧〔おこり〕を治する法を掲げて曰く「病の分明ならざる間は薬服すれども、瘧と定むれば薬はとどむるなり。四、五発の後は路傍の地蔵を縛り、あるいはタニシを取りて誓うなど、種々の転気をなして自治するなり。」

  『秘伝世宝袋』に、鼻血をとどむる法を示して、「鼻血出ずる人ありといいきたらば、そこへ行くに及ばず。手水をつかい、うがいして心をしずめ、その病人の姓名を心の中にて唱え、鼻血やめ鼻血やめと唱え、両手にてわが陰嚢をきっと強く握るべし。即座にやむなり。右の陰嚢をそろそろ離すべし。急にはなせばまた血出ずるなり。」

  『呪詛重宝記』に「癉(くさ)を治するには、柄杓の柄を癉ある子に持せて、その柄に灸いくつもすえてよし。」

  『妙術智恵海』に「脚気は釜の下の灰にあしかたを取り、その土ふまずへ灸三つすえ、四辻へすてるは治する。」といい、「鼻血は紙に指にて賦の字を書きて、はなかめばよし。」という。

 その他、俗書の呪法中には抱腹に堪えざるもの多し。ことに精神病を療するには古来祭落をもって主となし、薬治これに次ぐと称して、加持祈祷に限るものとし、医薬医療を用いざるもの多し。これらの療法に至りては、もとよりそのいちいちを信拠すべからずといえども、十は十ながらことごとく効験なきにはあらざるべし。もし果たして寸分の効なきにおいては、いかに愚味なる人民にもせよ、かく深く信頼する理あるべからず。これ必ず十中のいくぶんかは効験を見ることあるならん。しかしその効験は愚民の信ずるがごとく、神仏の加護冥助にあらずして、精神作用のいたすところなり。『随意録』に祈祷の応験ある理を述べ、かつ他書を引証して曰く、「土木の像を設け敬してこれにつかうれば、顕応霊感、これ土木の霊にあらずして人心の霊のみ。」とあるは、誠にその意を得たり。けだし祈祷禁厭の治病に応験あるは、

  一は自然に一任するによること。

  一は信仰安慰の力によること。

 さきにも述べしごとく、諸病中には自然に任じても平癒すべきものあり。かくのごとき場合に人為をもって急に治療せんと欲し、種々懸念を起こし、かえって自癒の妨げをなすことあり。この際もし祈祷禁厭に託すれば、その妨げを除き自癒を助くるに至るなり。またこれらの方法により、一心にその霊験を信拠するときは、精神に安慰を与え、大いに病勢を減退せしむるの助けとなるものなり。もしこの二者を合していえば、心理療法の理によりて平癒を見るなり。ただ憂うるところは、これによりて迷信の弊害を生じやすきにあり。

 心理療法そのものはもとより迷信にあらず。祈祷禁厭も必ずしも迷信なるにあらざるも、愚民がこれを妄用して迷信に陥らしめ、したがって種々の弊害を醸すことあり。その弊害の第一は、医療を要する病気に医療を用いず、ために病勢を増長せしめ、あるいは蔓延せしむること。第二は、これによりて衛生の注意をおこたり、知識の進歩を害し、宗教の改良を妨ぐるなどなり。しかれども余は、これらの理由をもって心理療法を排するは大いに方向を誤りたるものとす。いやしくも精神の方面より治病を助け得ることあらば、生理療法に伴って心理療法を奨励せざるべからず。しかしてその療法に付帯せる迷信の弊害のごときは、これを除去する方法を講ずるをもって足れりとす。

 古代、医術のいまだ進まざるに当たりては、巫医相混じ、しかもこの二者ともに宗教の支配するところとなりしは、すこしも怪しむに足らず。その後、医術ようやく明らかになりたるも、なお人民の旧慣を重んずる風あるより、依然として巫を信じて医を信ぜざるは、社会万般の進歩において免れ難きところなり。かかる場合には、医術の改良に伴いて、巫術の改良を施さざるべからず。宗教は心病を治するをもってその本領と定むる以上は、精神の方面より身病を治するがごときは、もとよりその目的とするところにあらずして余波に過ぎざるも、その余波のいやしくも治病に効ある以上は、これまたその方法を改良する必要あり。しかるに世人は今日の文運に応じて、ひとり生理療法たる医術の上に改良を施し、他の方面は古代の未開当時の旧慣に一任しておいて問わず。しかしてただその弊害を責むるは、実に無理なる注文といわざるを得ず。これ余が心理療法の改良をもって今日の急務となすゆえんなり。

 

     第八 身心関係論

 心理療法を講究するには、人体につきて身心の関係を考察せざるべからず。そもそも身心相関の理は、生理学および心理学の一端をうかがうものの熟知せるところにして、ほとんどここに証明の必要を見ざるなり。血液の分量、性質、運行の状態が精神上に影響して、その作用をしてあるいは過敏となり、あるいは遅鈍となり、はなはだしきに至りては全く停止することあるがごとき、食物の栄養、腸胃の消化等のただちに精神に影響するがごとき、手足の労働、身体の健康等の精神に苦楽を感ぜしむるがごときは、なにびとも毎日経験するところなり。これと同じく、精神上の変動はまた必ずその状況を肉体の上に発見し、喜ぶときは笑い、悲しむときは泣き、恥ずるときは満面紅を呈し、おそるるときは全身戦慄するがごときは、みな人の自ら試むるところなり。あるいはまた世の産業を破り、愛子を失い、不幸に陥るがごとき、常に逆境に処するものは、筋肉憔悴して病者のごとく、志立ち功成り、意気揚々たるものは、喜色面貌に現ずるも、だれありて経験せざるものなし。しかれどもこれらの関係はなお間接にして直接にあらず。もし直接の関係を示さば、神経系統、なかんずく脳髄と精神の関係なり。かくのごときはそのいちいちを証明せざるも、多少の学識あるものの熟知するところなればこれを略す。ただここに、特殊の場合における身心相関の例証を示すにとどめんとす。

 生来舟をいとうものは、海を見るごとき嘔吐を催す。そのはなはだしきものに至りては、他人の風波の日に乗船するを聞きても、自ら嘔気を感ずという。また雷を恐るるものは、雷鳴にさきだちて気色悪しく、食事進まず、頭痛を覚ゆという。余が先年聞きたる話に、某生来毛虫を忌むことはなはだし。夏日背をあらわして業を営みおりしに、一人あり、背後よりキビの穂を取りて、その肩を撫して曰く、これ毛虫なりと。某大いに驚き、声を発して戦慄せり。後にその跡を検するに、毛虫に刺されたると同様にはれ上がりおれりという。物嫌いの話につき『想山著聞集』におもしろき例を出だせり。

  物にははなはだしき嫌いのあるものなり。享保のころ、御先手を勤められし鈴木氏は、極めてユリの花を嫌われしが、あるとき茶会にて四、五人集まりし折抦、吸物出でていずれも箸を取りしに、鈴木氏はことの外、心持ちよからず。顔色も悪しく、箸も取りかねて主人に向かい、もしこの吸物にユリの根などはなきやと問うに、主人はかねて嫌いは承知のことなれば、そのようの品は決してなしと挨拶に及びけるが、一座の内に膳の模様にユリの花を画きたるを見、人々驚きて早速その膳を引かせければ、たちまち快くなりしよし、『耳袋』という随筆に出でたり。また土屋能州殿の医師に、樋口某というものの鼠嫌いなることも、同書にくわしく記してあり。また阿波の徳島にナスがいたって嫌いにて、はなはだ恐るるものあり。あるとき余人戯れにその人へナスを打ち付けたるに、左の手首に当たりて、その所大いにはれ上がり、肉腐れ出して、久しく難儀せしことありて、右藩の人よりたしかに聞き留め置きしとて、ある人の話なり。予が知れる人にも、毛虫嫌いありて、もし天井などに一ぴきにても留まりおる席へ入れば、ゾッとさむけして暗に知れ、いかなる酒宴遊興のおもしろき席にても、居堪えかぬるとのことなり。その余、親戚朋友に虫嫌いなるは挙げて数うるにいとまあらず。

  予、童蒙のとき、ある人の示ししに蝶の嫌いなる児童ありしが、常々いましめの鞭打つべき代わりに、蝶を持ちきたるといえば、恐れおののき詫び入ることなりしが、あるとき強情募りて、あまりにいうことを聞き入れざるまま、狭き所へ押し入れて、その中へ蝶を一、二ひき放せしかば、始めは泣き叫びたるに、しばらくありて声やみし故、開きて見れば、いつしか死におりたり。蝶のさわりたる所は紫斑となり、肉色変わりおりしとなり。

 物嫌いの極、致死するに至るとは恐るべきことなり。また世に苦心焦慮の結果が白髪を現ずという。その例にシナの韋誕といえるもの、能書をもってその名高し。魏の明帝、凌雲台を造り、韋誕を篭に入れ、轆轤〔ろくろ〕をもって引き上げ、額を書さしむ。その高さ地を去ること二五丈、実に雲中に遊ぶがごとし。すでに書して下れば、たちまち白髪となれりという。『唐詩選』に「白髪三千丈、愁によりて箇のごとく長し」とあるは、親の喪におりて心を傷めたる形容なれども、苦心の結果が毛髪に影響せる実例あるにつきて言いたるに相違なし。

 また、五官の上に与うる感覚が夢想を呼び起こしし例もまた多し。シナの諺語に「帯をしきて寝ればすなわち蛇を夢む。飛鳥髪を啣〔は〕めばすなわち飛ぶを夢む。」とも、また「はなはだ飽けばすなわち施を夢み、はなはだ飢うればすなわち取を夢む。」ともあるは、感覚と夢想との関係を示せるなり。寒中足を衣衾の外に出し、冷を感ずるに至れば、氷上を行くがごとき夢を結び、火気の顔を照らすを感ずれば、火災を夢みるの類は、西洋の心理書に多く見るところなり。これに似たる例は和漢の書中にも出ず。

  南秋江の『鬼神論』に、「昔、禅僧あり。夜便所に行くに、堂を下りて生物を踏み殺せり。僧自ら思えらく、日中金蟾〔きんせん〕の階下に伏在するを見たり。おもうに踏み殺せしは必ずその蟾ならんと。己、僧にして生あるものを殺せる上は、必ず地獄に入りてその罰を受くべしとて、大いに恐れて寝に就きたるに、果たして夢中閻魔の前に呼び出され、処罰の命ありしを見たり。夢覚めて翌朝階下を見れば、蟾の死せるなく、ただウリの踏み破られしを見るのみという。

  『奇談新編』に、「人あり、居常金を拾わんことをこいねがう。一日家を出でて行くに、たちまち道に遺金あるを見る。時まさに厳冬なれば、財布地に凝着して離れず。よって努力してこれを引く。俄然としてさむれば、すなわち夢にその陰嚢を引きたるを見る。」

 また黄山谷の詩に、「病人多く医を夢み、囚人多く赦を夢みる。」(病人多夢医、囚人多夢赦)とあるは、心に思うものが夢を現ずるに至るを示せるなり。その他、精神作用によりて妄覚を起こし、幻像を浮かぶることあり。『閑際筆記』に著者自ら実験せるところを記して曰く、「余が幼なりしとき、郷人相伝えて某地、某所に夜、鬼物現出すという。余、数回そこを過ぎしも、ついに見たることなかりしが、この言を聞きし後、これを過ぐるに茫然として一物の現ずるがごとくに見えたり。」と。この一例に『霖宵茗談』に出ずる一話を紹介せん。

  昔、某地の百姓の妻、難産にて一命を失えり。その夫深くこれを悲しみ、不憫に思うあまり、夜臥の後も眠ることあたわず。終宵亡妻のことのみ心頭に掛け、目も合わさずにおりしが、かやの外に亡霊の茫然として坐するを見、大いにおそれていよいよねむることできず、息気をもせずにおりたり。夜の明くるに及んで亡霊も出で行きけり。その後は毎夜きたりて枕頭に現出し、夫はますます恐怖を起こし、毎夜不眠なれば、顔色青く身体疲れ、心気も次第に衰うるに至れり。一族のもの怪しみてその次第を尋ぬれども、秘して言わず。されど己の心中にはその苦に堪え難くありける故、ある日菩提寺へ行きて、ひそかに和尚に対面して実際を語り、亡妻は定めて悪趣にもや迷いおらん。願わくば和尚の慈悲にて亡者の霊を救い給わんことをと、涙を流して頼みければ、和尚熟考の上、されば亡者の迷いを転じて再びきたらざるようにすべしとて、かたわらの菓子盆にありし煎豆(いりまめ)をつかんでこの男に与え、これを汝が手の内にシッカリと握りて開くことなかれ、今夜臥してもこのまま握りおるべし。もし亡妻出でてきたらば、おそれずしてこの握りたる手を出だし、亡妻にこれはなんぞと問うべし。そのとき亡妻定めて煎豆なりと答うべし。またその数はなにほどなりやと問うべし。そのとき亡妻定めて答うることできずして必ず去るべしと教えられたれば、その男なんとも心得ずとは思いけれど、和尚の教えなれば、かの煎豆を握りて宅に帰り、夜に入りてシッカリと握りつめて臥しけり。しかるにいつものごとく亡妻きたりてかやの側に立てり。この男もおそろしきを忍びて握りたる手を出だし、これはなにものぞと問いければ、亡妻案のごとく煎豆なりと答う。また数はなにほどと問いければ、亡妻答うることなくして消え失せたり。それより後は毎夜きたることなし。この男不思議に思いて、再び寺に行き、和尚に対面してその始末を語り、おかげをもって毎夜心安く眠り、気分も大いに快くなりたりとて厚く礼を述べ、サテいかなる次第にて煎豆によりて亡妻のきたらざるようになりしや、その子細を承りたしと尋ぬれば、和尚笑いて曰く、別の子細とてはなし。それはみな初めより汝の心より起こりたる迷いなり。全く亡妻のきたりしにはあらず。汝があまり亡妻のことを気にかけ、定めて迷いおるならんと案じけるために、心の鬼が亡妻となりて毎夜きたりしなり。その亡妻と思いしは全く汝が迷いの心なり。故にわれはその理を考えて煎豆をもって問答させたるなり。もとより汝が心に煎豆と知る故、亡妻も煎豆と答え、汝の心にてその数を知らざりし故、亡妻も答うることなきなり。これ汝が心に心を問わせたるなりと。この男も始めて、浅ましき妄情より心の鬼に悩まされしことを悟れりという。

 これ幻視の一例なるも、心理療法の心得ともなるべし。

 また精神作用の重量の感覚の上に影響する例は、豆州修善寺の御伺いの石につきて知ることを得べし。修善寺の村内に源頼家の墓あり。石を二、三個重ねたるものなり。その上石を持ち上げ、軽く上がるときと、重く上がるときとによりて諸事の吉凶を判定するなり。石そのものにはときによりて軽重を異にする理なしといえども、人の意思によりて軽重の不同を生ずるのみ。またインドの刑法に、犯罪者を吟味するに四種の方法あり。その中に、人と石とその重さをひとしくしてこれをはかりにかけ、その人いつわりあれば石の方軽く、いつわりなければ人の方軽しという。人の体重が罪の有無によりて不同を生ずる理なしといえども、その人の心に疑懼するところあるときは、その挙動の静平を保つあたわず、これによりていくぶんか軽重の不同を現ずるがごとくに感ぜらるるなり。また同国の吟味法に熱鉄を抱かしめ、罪あるものは火傷を受け、罪なきものは火傷を免るるというも、わが国にて古代は熱湯を探らしめたると同じく、精神作用の筋肉皮膚上に及ぼせる影響なり。またインドの審判法に、嫌疑者に食を与えてこれを吐かしめ、その中に涎液を含むこと多きものは無罪と判じ、少なきものは有罪と定むという。これ心中恐怖の念あるときは、消化力の上に影響するの結果ならん。あるいはまた精神作用が力量に影響するがごときは、狂人のにわかに腕力の加わることあるを見て知るべし。これを要するに精神と身体、思想と覚官、心理と生理との間に密接の関係あることは、種々の例に徴して明らかなり。これによりてこれを推すに、精神と病気との間に密接の関係あることは決して疑うべからざるなり。

 

     第九 精神起病論

 身心関係論より一歩を進みて、精神によりて病気を起こせし例証を考うるに、先年余が東京にて聞きたる話に、一人の青年あり、たまたま風邪にかかり、某医師の診察を請う。医師曰く、これ肺患なりと。患者大いに驚きしが、その翌日より病勢にわかに加わり、日一日より衰弱はなはだし。もしこの勢いをもって進まば、ついに危篤に陥らんとせり。よって試みに医師を代えて診察を請いたるに、医師曰く、これ肺病にあらず、胃病にあらず、脳病にあらず、心臓病にもあらず、無病なり。自らその無病なるを知らずして重病と思えるのみと。患者また大いに驚き、その日より医師の命に従い、服薬を廃せしに、果たして翌日より病勢とみに減じ、大いに快方に進み、数日を出でずして全快せりという。今一例は、余が加州能美郡において本人より直接に聞きたる話に、同郡某氏、先年二、三月のころ、少々風邪の気味にてときどき咳と痰との出ずることありしも、格別意に留めざりしが、ある朝起きて庭前に向かい、痰を吐き出したるところ、その色赤くなりて見えければ、自ら肺病なりと速断し、急に心臓の動悸大いに高まり、体温も平熱以上に昇りたるがごとく覚え、食事進まず、気分快からず、早速寝室に入り平臥するに、病勢ますます進み、咳も痰もようやく加わり、自ら思うに余命一年を保ち難しと。死後のことなどを想像し、苦悶胸に余るほどなれども、その実を家族に打ち明かしたらば、定めて非常に心配せんことを恐れ、終日秘して人に告げず。ただひとり憂慮しておりしが、とにかく明朝は遠方より名医を聘して診察を請わんとて、まず自分の吐きたる血痰を検するのに必要ありと思い、夕刻庭前に出でてこれを探り見るに、朝時に血痰と認めしは全く誤りにて、己の吐きたる痰が地上に落下せる椿花の断片に付着し、一転して痰の上に花片を浮かぶるに至りたるものを、縁側の上より望みて血痰なりと誤認したるに相違なきことを発見し、自ら全く肺病にあらざることに疑念全く晴れたれば、心臓も体温もともに常態に復し、気分もにわかに爽快になり、食事も急に進み、平時の健康とすこしも異ならざるに至れりといえり。もしその椿花の断片なることを発覚せざるにおいては、多分肺病患者となり、ついに不帰の客となりたるも計り難し。余は、世間にはかくのごとき精神作用より病気を起こしし例、必ず多からんと信ず。

 さきにユリを嫌えるものが、ユリの画を見て心苦を起こせし話を掲げたるが、これに類したる話が『蒙求』中に出ず。

  晋書に楽広、字は彦輔、南陽済陽の人なり。河南庁にうつる。かつて親客あり。ひとたびきたりて酒を飲み、のち久しうしてまたきたらず。楽広その故を問えば、答えて曰く、前に坐にありて酒を賜うことをこうむれり。飲むにあたりて杯中蛇あるを見、心中はなはだこれをにくみしが、すでに飲みおわりて病を発せり。ときに河南庁の壁上に角弓あり。漆画にて蛇を作れり。楽広おもえらく、杯中の蛇はすなわち角弓の影なりと。試みに酒を前所に置き、客にいいて曰く、杯中また見るところありや否やと。客答えて曰く、見るところ始めのごとしと。楽広すなわちその故を告ぐ。客豁然として意解け、沈痾とみにいえたりという。

 これに類したる話は余が友人の実験談なり。

  余が知友に生来ドジョウを嫌忌せるものあり。一日親威の家を訪いしに、その家にては当人のドジョウ嫌いを知るといえども、思うに生まれながら一回もその味を試みたることなきによる。もしひとたびこれを味わわば、必ず喜びて食するに相違なかるべしとて、殊更にドジョウの茶碗蒸しを作り、これをドジョウと明言すれば、本人必ず辞して食せざるを知り、いつわりてウナギと称し、今夕は東京より到来のウナギあれば、茶碗蒸しにして供したりといえり。当人は生まれて後、全くドジョウの味を知らざりし故、現に食せるウナギは通例のものとは少々その味を異にするように感ぜしも、これは他国の品なればさもあるべしと思い、喜びてこれを食し、すでにおわりて茶席に移りしとき、主人は客に向かいて曰く、君は生来ドジョウを食せずというも、これ全く虚妄なり。そのゆえんは先刻の茶碗蒸しはウナギにあらずして、ドジョウなればなりと告げしに、当人はたちまち気色を変じ、腹痛を起こし、嘔吐を催し、煩悶はなはだしく、大病人となれり。急に医師を迎えて薬を給するなど、一家挙げて終夜の看護をなせり。

 これ全く精神作用より起こせる病気なり。病気の精神より起こるはなお怪しむに足らず。無病健全の人が精神によりて致死することすら往々聞くところなり。その一例は、前述の蝶嫌いの児童に蝶を与えて死に至らしめたる事実を見て知るべし。ここに西洋の心理書中にしばしば引用せらるる例話を述べんに、ある人一罪人に精神作用を試みんと欲し、これに命じて曰く、汝は死罪に当たれり。今、余は汝の身体より血液一斗を取り出だすべし。その量一斗に達すれば、汝必ず死せんと。すなわち試みに右罪人の目をおおい、その脚尖より血液を取り、次第に呼びて一升、二升、ないし一斗に至れば、即時に絶息せり。しかるにその実は血液を取りたるにあらずして、ただ口頭にて升量を数えしのみなりという。今一例は、これも西洋の心理書に出でたる例話なるが、英国の一地方に姉妹両人にて一家をなすものあり。日夜相離れず、友情はなはだ相親めり。すでにして妹肺病を患い、療養その効なく、ついに不帰の客となれり。ときに人みなその姉の哀悼の極、死に至らんことを恐れしも、その顔を見るに、更に憂色あるを認めず。かくして二週を経たりしが、にわかに床上に死せるを見出だせり。ときに医師きたりてその体を験するに、更に死すべき病因あるを見ず。これけだし妹と相別れ、悲哀の情に堪えざるを努力してこれを忍び、その情内に鬱積してついに頓死せるならんという。またここに、余が加州の人に聞きし実話を紹介せん。

  加州藩士某の妻、小児の五、六歳なるものを郷里にとどめ、藩主に付随して江戸の藩邸にきたれり。その後、日ならずして病気にかかり、ついに不帰の客となれり。郷里の者、その訃音に接したるも、これを遺孤に告げたらば、定めて大いに号泣失神せんことを恐れ、秘して伝えず。遺孤の尋ぬるごとに、母なお江戸に健在せりというをもって答えり。これより数年を経て、その父この子を携えて江戸に上り、母に面会せしむべきを約し、子も大いに喜びて江戸にきたれり。すでに着するや、子に告げて曰く、今日は母に面会する日なり、これよりともに行かんと。子を携えて墓前に詣り、この墓すなわち汝が母なりといいたれば、子絶叫して地に倒れ、ついにまたたたざるに至れりという。その年齢ときに一〇歳なりしとぞ。

 また近ごろのことなるが、良人が召集せられて従軍せるを深く心頭に掛け、日夜憂慮の結果、急病にて死せし婦人あり。これも余が間接に知るところの人なり。

 これらの例によるに、精神の作用によりて致死することを得るは明らかなり。されば精神には人をして病を起こさしむる力ありというごときは、すこしも怪しむに足らざるなり。しかしてその病は内科に属する病気に限るにあらず、外科的病気を起こすことあり。その一例は心理書に出でたる例話につきて知るべし。ある慈母が己の愛児の手を門扉にはさみて、厳しく叫号せるを傍観し、自ら大いに驚き、後にこれを検するに、愛児と同一の部位において手肉のはれ上がるを見たりという。これ人の一局部にかゆきを感ずるを見れば、己もこれと同部位にかゆきがごとく感ずるも同一理にして、ただその状態の極端に達したるものなるのみ。

 精神作用が病気の原因となるは、種々の事情より起こるものとす。あるいは智力作用のこれが原因となることあり、あるいは感情意思のこれが原因となることあり、なかんずく感情の場合最も多し。すなわち恐怖、驚愕、悲哀の場合のごときこれなり。しかしてその病因となるとならざるとは、その人の身心の生来の事情と、その当時の境遇とによりて一定し難きも、精神の力がある事情の下に、肉体上の病患を起こすことあるは、決して疑うべからず。

 以上挙示せるところは直接に病因となるものなり。これに対してやや間接にわたるものあり。たとえば世間にて、霊山に登るときは、平素悪事を犯せしものは必ず応報によりて発病すと伝うるに、その言を信ずるものは往々病気を起こすことあり。たとえば富士山に登るときのごときこれなり。また信州善光寺の胎内くぐりにも、これにひとしき話あるを聞く。伊予の今治町に吹揚神社あり。その社内に漬物石ほどの重量ある石塊あり。人もしこれを盗み取りて家に帰らば、必ず腹痛を催すと伝うるに、往々そのことありという。左に『新著聞集』に出でたる一話を引かん。

  江戸尾張町一丁目の扇子屋、牛の子を求め、面より足まで虎の皮にて縫いふくみ、堺町の芝居に出だし、大分の価をとりし。しかるに鳴かせじとて口をぬひこめし故に、食物を断ちて六、七日過ぐれば死にけるを、取り替え取り替え五、六匹に及べり。そのころよりかの者心悪くとて悩みし、後にはひたすらに牛のなくまねをして死にしとなん。

 これ己の精神にて牛を殺しし故に、必ずそのたたりあらんと掛念予期せし結果、かく牛鳴病を起こしたるに相違なし。これとひとしき例は『怪談諸国譚』にも出ず。

  ある所に荒廃せる神社あり。一夕暴風雨に倒れしかば、土人その材を携えきたりて洗足湯を温めしに、その人はその夜より発狂して、われは鎮西八郎為朝なりといえり。よって大いに恐怖して、右の神社を再建せしに、狂人は快復することを得たりという。

 これも己の精神よりよび起こしたるものなり。かくのごとき例は民間にいくたあるを知るべからず。鬼門方位を侵せる家屋に住居すれば必ず災害ありと伝うるに、これに住するものに比較的病人の多く出でくるがごとき、妖怪屋敷と称する地に住すれば、比較的多く死するものあるがごとき、ト筮、人相等によりて本年中に発病すべしと判断せらるるときは、往々事実に符合することあるがごとき、あるいは人に神仏のたたり、死霊生霊のたたりなどあらんと告げらるるときは、往々難病にかかるものあるがごとき類例は、実に枚挙にいとまあらず。これもとより己の精神によりて自ら病気を呼び起こすに至るに相違なしといえども、畢竟するに愚民が世間の伝説を信ずるために、疑懼、恐怖、憂慮するのあまり、ここに至れるは明らかなり。その他、狐狸の住すといえる地を過ぎ、あるいはその地に住して狐憑病を発し、犬神流行の村落に至れば、犬神病になるがごときもこれと同一理なり。されば精神作用によりて内外諸病を起こすことは、種々の例証に照らして疑うべからざる事実なりと知るべし。

 

     第一〇 精神治病論 一

 すでに精神作用によりて肉体上の病気を起こすゆえんを知らば、精神作用によりてこれを治するを得るゆえんはおのずから知るべきなり。たとえば精神の情態によりて消化作用を減ずることありとすれば、またこれを進むることを得る理なり。精神のいかんによりて血液の運行を遅緩ならしむるならば、またこれを急速にするを得る理なり。飲中八仙歌に、行く行く麹車に遇いて口涎を流すとあるごとく、魏の武帝がかつて兵卒の渇を訴うるを聞きて、前路に大なる梅林あり、その梅子、酸はなはだし、といいたれば、梅実の酸気を想像して渇を医することを得たりといい、日清戦争のとき、わが軍金州城を攻むるにあたり、兵士みな渇を苦しみて進むを得ざりしかば、一将校号令を下して、金州城内には清泉の湧出するもの多し、早く城内に入りてこれをのむべしといいたれば、これまた渇を減ずるを得たりという。かくのごときも精神の治病に効力ある一端を示すものなり。

 まず精神作用によりて心気病すなわち精神病を治したる例証を挙ぐるに、その一は妄覚幻視を医したる話にして、その適例は『窓のすさみ』と題する書中に出ず。

  小野某なるものの一七、八歳のころ、隣家の猫きたりて飼鳥を取ることたびたびなりしかば、にくきあまり射殺さんと思いおりける折、向こうの築山の陰に猫の戯れ遊ぶを見付けて、いちずにその猫に相違なしと思い、ひそかにねらいて矢を放ちしに、誤たずあたりてそのままたおれぬ。立ち寄りて見れば日ごろの猫にはあらず、外の猫なり。これは誤ったりと後悔すれどそのかいなく、日暮れに及び一室に潜みしに、なんとなく昼間の猫のことが気にかかり、夜ふけて眠らんとすれば寝られもせず、衾をかつぎてつくづく思いつづけておりしに、ほのかに猫の鳴く声すれば、昼間の鳴き声にかわることなし。枕を挙げて聞くに、床の下にて鳴くもののごとし。障子の外に出でて聞けば、縁の下にて鳴くようなり。追いかけるまねをすれば、鳴き声をやめぬ。内に入りて臥せば、また枕の下にて鳴く。終夜このとおりにてすこしも眠ることできず、夜の明くるとともに鳴き声はやみぬ。すでに死したる猫の生きかえるはずなく、いかにも不思議に堪えぬ故、人を命じて築山の辺や床の下を探らせしになにごともなし。かくして夜になりて打ち臥しければ、前夜のごとく鳴き声やまず、終夕眠ることあたわざりき。その翌日よりは昼間といえども鳴き声やむことなし。その夕には床の下にあらずして己の腹の中にて鳴くようになり、これより病人となりて食事もできず、日に憔悴を重ね、一室に閉じこもり、腹をおさえて打ち臥すのみ。ここに伯父の何某は智勇兼備の士なりしが、きたりて申すには、汝は不慮の病をうけ、このままならばほどなく一命を失うに至らん。しかるに少年なりとも武士たるものが獣の類に犯されて病死せんなどは、先祖の名をも汚すことにて、口惜しき次第なり。むしろいさぎよく死せんことこそよけれとありしかば、当人もうなずき、いよいよ決心してその由を親達にも告げ、伯父に約するに明日の夜をもってせり。その夜になりて伯父きたり、湯あびさせ、衣服を改め、父母にまみえていとまごいをなせり。かくて白く清き肌をぬぎ、刀を取りてまさに割腹を行わんとするときに、伯父のいうには、今しばらく待てよ、汝今死ぬるは猫の腹に入りて鳴き声するために煩わされてこのことに及ぶにあらずや、されば今一度猫の声を聞き定めて刀をおし立てよとありければ、刀を持ちながら聞くに、その声せず、いかなることか先刻まで聞こえたるものが聞こえぬはずなし。心を鎮めて聞かんとするも、更になんらの鳴き声もなし。さらば今しばらく待つべし、その声のせざるに自害するは犬死同様なりと伯父も申されたれば、声の聞こゆるときを待ちつつ夜を明かしたれども、ついに声のせぬこととなり、互いにうち笑いて自害をやめぬ。これより後は絶えて心にかかることなかりしという(本文節略)。

 これ精神病を精神の力によりて治したる適例なり。これに類したる話は、余が先年、熱海温泉において聞きたることあり。

  豆州熱海町、山田長助の老母、平素猫を愛することはなはだしく、毎夜猫の棒をかかえて枕頭に立つを幻視し、あるいは数千百頭群集して種々の芸を演ずるを見、終宵眠ることあたわず。かくして日一日より病勢ようやく加わるに至れり。よって自らおもえらく、これ猫のわれを悩ますなり、猫を殺さざればわが病癒えずと。これにおいて家族の者、猫を縛してこれを銃殺せしかば、老母の病気全く癒えたりという。

 今一例を挙ぐれば、『和漢合壁夜話』に鹿の怪と題して左の一話を載せたり。

  加賀の国に一人の士あり。常に猟を好みて多くの鹿を殺せり。その後ふと思いつき、たちまち悔いて考うるに、われ多くの物の命を害せり、罪悪免れ難しと。これより病となりて常に枕下におびただしき鹿を見る。これを追いかくれども去らず。鬱々として日を送るに、飲食進まずしてすでに危うきになんなんとす。ここに一人の老人ありて、錦の袋に刀を入れ、右の病人につたえていうよう、そもそもこの刀は神息とて、天下にかくれもなき名剣なり。これを家内におけばいかなる妖怪でも近づかぬことゆえに、あるお屋敷より借り受け、そこもとへかしまいらするぞ、ずいぶん大切にかけらるべし。もしそこもと病気平癒ならば、最速お返しなさるべしとて貸しければ、右の士これを借り受け、床の間に置きけるに、自然、鹿は一ぴきもきたらず。食もすすみ、気分もだんだん平癒しければ、ひとえにこの名剣のおかげなりと信仰して、かの老人の宿へ至り、右の刀を返し、厚く礼をいいければ、そのとき老人の申さるるには、この刀は神息にてはなし、鞘屋店にて買い取りし数打ちの奈良物なり。すべての祟物、狐魅、邪祟の類というものは、人の虚より入るものなり。そこもとおびただしく鹿を殺せし罪いかがあるらんと恐怖し、心の虚より見えもせぬ鹿が目に遮りしなり。しかるところを狐狸の類がうかがいて邪気の虚に乗ぜるならん。みなわが心の迷いが鹿と見えたり。その心からこの数打ちの奈良物を神息と一心に信仰せられし故、鹿のことをば打ち忘れ、この刀の霊なるに心が移りて、その病癒えたりといえり。

 この猫の幻覚も鹿の幻影もみな疑心より生じたるものなれば、その病因を探り、疑心を定むる方法を授くれば必ず平癒する理なり。そのうち刀によりて医したる話は、八幡太郎鳴弦の故事に同じ。昔、寛治年中、堀川院御悩みのとき、義家勅をこうむり甲胄を着し、弓矢を携え、南庭に立ち、殿上をにらみて高声に、清和帝に四代の孫、多田満仲に三代の後胤、伊予守頼義が嫡男、前の陸奥守源義家、大内を守護し奉る。いかなる悪霊鬼神なりともいかで望みをなすべき、速やかに退けと名乗りかけて、弓の弦を三度ならしければ、殿上も階下も身の毛よだちて覚えけるに、御悩みたちまちに癒えさせ給うと史伝に見ゆ。これもとより心理療法なり。余も一度、人の妄想を医したることあり。さきに日清戦役に良人を失える一婦人あり。爾来毎夜悪魔のきたり襲うありて、通宵夢を結ぶあたわず。したがって精神に異状を呈せんとす。その親戚の一人余が宅にきたり、告ぐるにその事情をもってせり。余はこれを治するは宗教の力によるにしかずと思い、その宗旨を問えば日蓮宗なり。本人の信仰を問えば題目信仰なり。本人の帰服する僧侶を問えば菩提寺の住職なりと聞き、これに方法を授けて曰く、日蓮宗には題目あり、もし一心を凝らして題目を唱うれば、いかなる悪魔も近づくを得ず。故に夜中襲われんとするにさきだち、一心に題目を唱うるにしかず。しかしこのことを拙者の話とするよりも、菩提寺の住職より言わしむるをよしとす。よってそのことを住職に含め、本人に諭さしめよと教えければ、これを実行して平癒するを得たりと聞けり。その他、亡霊現出につきては、両三度方法を授けて疑心を医したることあり。すべて幻覚妄想を治するには心理療法によるを最も効験ありとするは、理論、実際ともに争うべからざるところなり。

 『療治夜話』に、疑惑によりて生じたる病を、疑惑を解きて治したる例を示せること左のごとし。

  宋の朱思彦というもの某夫婦を獄中にとらえしに、獄吏これをゆるして逸せしめ、報ずるに死せりというをもってす。これより某夫妻の髪を被り、たたりをなすを見、病まさに危篤ならんとす。獄吏これを聞き、某夫婦をしてきたり謁せしむ。これにおいてその死せざるを知り、豁然として病たちどころに癒えたり。

  石晋と名付くるもの、酔中に命じて一奴を河に投ぜしむ。投者哀れみてこれを縦(ゆる)す。すでにさめて大いに悔い、ついにやみて奴のたたりをなすを見る。自ら必ず死すべきを期す。すでにして奴がつつがなきを知るに及んで病たちまち癒ゆ。

 また一時精神の異状により幻視を起こせるを、心思を沈静したるためにたちまちに平常に復したることあり。その例は『北窓瑣談』に出ず。

  小堀某公の家中に何の久兵衛といえる人あり。炎暑のころ役所に出でて政事を取りしが、終日の勤労に夏日のことなれば、うみつかれて心地もあしく、夕方ようやく家に帰れり。さらば終日の疲れを休めんと座につきたるに、わが妻の顔牛のごとし。久兵衛大いに驚き、抜き打ちにせんと思いしに、傍らの下女の顔また赤馬のごとし。わが子の顔は鬼のごとし。家内の者一人として異形ならざるはなし。これは大かたならざる怪異なり。かかるときに仕損じて武士の名も恥ずかしと思いかえして、ただちにその座を立ちて奥の居間に入り、襖をさし切りて枕により、目を閉じて物をもいわず休みたり。女房怪しみ、夫の顔色の常ならざるにことばもなく臥したれば、傍らにより心地いかがといろいろ問いしかど、久兵衛眼も開かず、叱り退けて一時ばかり心を鎮め、目を開き見しに、家内の人々の顔、常態に復し、少しも奇怪のことなし。

 これ精神の過労より生じたる幻視なれば、精神を休めて平静に保つときは必ず治すべき理なり。しかるに世間愚俗の輩はかかる場合に疑心を生じ、狐狸、鬼神の所為ならんとて恐怖の念を起こし、種々騒ぎ立つるために、ついに不治の病となるに至るなり。余もこれに類したる病人あるを聞き、『素問』のいわゆる移精変気の法を授けしことあり。

 以上は精神病に属するもののみを掲げり。精神の病気を治するには精神の療法をもってするは当然のことにて、この例のみにてはいまだ心理療法の効験を示すに足らずというものあらん。故に余はこれより他種の病気を挙げて、精神の力よくこれを医したることあるを示さんとす。

 

     第一一 精神治病論 二

  精神病にあらざる諸病が信仰の力によりて全癒したりし例は、西洋の心理書に多く見るところなるが、今ここにカーペンターの心理書により一、二例を挙示せん。

  一女学生ありて涙管瘡の重症にかかり、治療その効を奏せず、ついに医師は鼻骨の腐臭を断たんには烙法を施すより外なしとし、手術の日限をも定むるに至れり。しかるに期にさきだつこと二日のときたまたま祭壇の前を過ぎしに、他の諸尼は女生に勧むるに神霊の宝物をその眼に触れ、かの恐るべき手術の苦難を免れんことを請わんことをもってせり。すなわちその言に従い十分の信任をもって誠実にこれを行いしに、この信仰は数時間にしてたちまち霊験を現じ、いくぶんか快方に趣き、暫時にして医師の手を借らず全癒したりという。

  一外科医某の報に、数年前己の女子の両手におよそ一二個ほどの贅疣〔ぜいゆう〕を生じたるが故に、苛性剤およびその他の諸薬を用いたれどもその効を見ず、ほとんど一八カ月を経たり。しかるに一日ある紳士訪いきたりて彼女に面し、握手の際その手の醜体を見て、その数いくばくなるやと問い、かつ曰く、汝これを数えよ、しからば来日曜日以後はまた贅疣に苦しむことなからんと言いつつ、一紙片を取りて鄭重に女児の計数をいちいち傍らより書記ししが、果たしてその期に至り、贅疣ことごとく消失して、また生ずることなかりきという。

  西暦一六二五年ブレッダ市の囲まれし際、衛兵の間に難症の壊血病流行して、これに倒るるものはなはだ多く、実に非常の惨状を呈し、この市もまさに略奪せられんとす。このときオルレアン皇子はまず書を贈りて、速やかに神効ある霊薬を患者に給与すべきことを告げられ、それより加味列〔カミツレ〕、亜児鮮〔アニス〕および樟脳の煎汁三小びんを各医師の手に渡し、清水一ガロンにその三、四滴を加うるも、よく治効を奏すべきことを特に公表せしめ、しかして将校すらもこの秘薬をかかわり知らしめざりき。しかるに兵士等が皇子の薬効を信じたる結果はもっとも喫驚すべきものにして、この恐るべき病毒の蔓延を防ぎしのみならず、すでに該病にかかり、中には全くたたざりしものといえども、速やかに本復するに至れりという。

 これみな信仰の力によりて平癒したるものなり。これにひとしき例は『晏子』夢卜編に出ず。

  斉の景公病にかかり、一夕二日と闘うて勝たざるを夢む。翌朝晏子朝するに及び、その夢を語りて寡人死するの兆しならんかと尋ねしに、晏子こたえて曰く、これ占夢者に問うべしと。すなわち自ら出でて占夢者を召し、これに公の夢を告げかつ曰く、公の病むところは陰なり、日は陽なり。一陰一陽に勝たざるは、公の病癒えんとする前兆ならん、これをもってこたうべしという。占夢者入りて公にこたうるに、晏子の告ぐるがごとくいえり、公の病果たして大いに癒ゆ。公よりて厚く占夢者に賜わんと欲せしに、占夢者曰く、これ臣の力にあらずして、晏子臣に教ゆるなり。公晏子を召してこれに賜わんとす。晏子曰く、占夢者これを占するの言をもってこたう、故に益あり。臣をしてこれを言わしむるも公信ぜざるなり。故にこれ占夢者の力なり。臣功なしという。

 今一例は『智嚢』に出ず。すなわち左のごとし。

  宋王疾あり、夜河水乾くと夢む。憂色外にあらわる。おもえらく、君は竜なり。河無水は竜その居を失うなり。これ不祥なりとし、宰輔に問うにこのことをもってす。ある一人これに答えて曰く、河無水はすなわち可の字なり、陛下の疾まさに可なるべしと。帝欣然、いくばくならずして病癒ゆ。

 かく人言すらこれを信ずるときは、治病の上に効験あり。いわんや神仏を信ずるにおいてをや。キリストの奇跡、弘法、日蓮等の諸祖師の霊験を示せしは、あえて怪しむに足らず。御礼、御守といえども、これを信仰する人にはその治病に効ある場合少なしとせず。『新著聞集』に左の一話あり。

  京烏丸長者町のサメ屋三郎左衛門という者、代々日蓮宗にてありし。あるとき熱病にかぎりなく煩い、こと大切に及びしころ、本能寺の上人来訪してねんごろに加持し、秘符を与えられしにたちまち熱脳さめ、正気になられし。法力やめんことなしとありがたく貴みて、いかなる無上の種字がおわせるやと、ひそかに秘符をひらき見しに、六字の名号にてありし。これよりふつに思いきわめ、宗旨を改め、誓願寺の旦那になりしとや。

 秘符の内部はなににても差し支えなし。六字名号や七字題目に限るにあらず。よくこれを信じて、己の病気に効験あるに相違なしと固くとりて疑わざるを要するのみ。今一例は『日本霊異記』に出ずる話なり。

  讃岐国山田郡に布敷臣というものの娘に衣女(きぬめ)というものあり。あるとき病を受けて危ぶし。医療その効なし。この故に百味を求め備えて疫神をまつり、命をたすからんことをいのる。ある夜の夢に鬼ありて曰く、汝われを饗〔あえ〕すことねんごろなり。われその恩に報ぜんことを思う。もし同国に同姓同名のものあらば、汝が命にかゆべし。衣女夢中に答えて、同国鵜足郡に同姓同名の女ありという。鬼すなわち衣女を伴い、鵜足郡の衣女が家に行き、緋嚢より一尺ばかりの鑿金〔のみ〕を出し、ひたいにうちたつと思えば、悩み臥して苦しむと覚えて夢さめたり。これより山田の衣女は病いえ、鵜足の衣女は病重なりて死したり。

 もし祈祷を信じ夢想を信ずること固ければ、かかる場合もあるべき理なり。諺に「鰯の頭も信心から」ということあり。『叢桂偶記』に「西土の俗、除日に鰯魚の頭尾を門戸にはさむ。名付けて疫案山子(やくかかし)となす」とあり。また鰯魚に代うるに乾蟹をもってする所あることを記し、かつこれを門に掛くれば、病者ついに癒ゆることを載せたり。けだし鰯の諺はこの風俗に基づきて起こりしか。貝原の『諺草』には『風俗通』の一話を引きて、信仰の効験を示せり。

  汝南鮦陽に田において麏〔のろ〕を得るものあり、その主いまだゆきて取らざるなり。商車十余乗、沢中を経て行く行く望むに、この麏の縄に着くを見る。よりて持ち去りてその不事なるをおもい、一鮑魚〔ひもの〕を持してそこに置く。頃(しばら)くありてその主ゆきて得るところの麏を見ず、ただ鮑魚を見る。沢中は人の道路にあらずして、そのかくのごときを怪しみ、大いにもって神となす。転々相告語して病を治し福を求むるに、多く効験ありという。よってために祀社を起こす。衆巫数十、帷帳、鐘鼓、方数百里、みなきたりて祷礼し、号して鮑君の神となす。その後数年、鮑魚の主きたりて祀の下をへて、その故を尋問して曰く、これわが魚なり。まさになんの神あるべき。堂に上りてこれを取り、ついにこの社を壊〔こぼ〕つ云々。

 右の意は、鮑魚を神なりと信仰して、病を治し得たる話なり。かくのごとく信仰が療病に効験あることは疑うべからず。これ余が信仰療法を唱うるゆえんにして、信仰療法を心理療法のもととなすゆえんなり。

 その他、方便をもって病気を治したる例あり。これもとより心理療法に外ならず。左にその例を示す。

  『北夢瑣言』に曰く、一婦人ありて小虫を食す。爾来これを疑いて疾を発す。名医ありてその病の疑心より生じたるを知り、殊更に薬を与えて吐瀉せしめ、看病婦に教えて吐瀉物の中に一小蝦蟇(がま)ありて飛び出でたりと言わしめければ、病者これを聞きて安心し、病とみに癒えたりという。

  『名医類案』に曰く、人あり、姻家に招かれて大酔し、夜半酒渇に堪えず、石槽に貯うるところの水を傾く。翌朝これを見れば槽中の残水に小紅虫充満す。爾来鬱々として楽しまず。腹中常に蛆物あるがごとく覚え、ついに病を発す。名医呉球と名付くるもの、この病は疑心より生じたるを知り、紅色の結線その状小虫のごときものを取り、これを薬品に加えて数十丸となし、もって病人をして暗室中にありて服せしめ、しばらくありて盆中に水を入れてこの内に瀉出せしむるに、薬中の結線あたかも蛆のごとし。病人をしてこれを見せしめたれば、その病たちどころに全治せりという。

  『北辺随筆』に曰く、有馬良及は近世の名医なり。一紳士が夜中くみ置きの水をくみ、翌朝その水を検するに、赤く小さき虫が多く動きいるを見、たちまち腹痛を催し、ほとんど堪え難きほどなり。良及丸薬を呈してこれをのまば、必ず虫の降るならんといいしに、実にその言のごとく大便に混じて赤き細き虫多く出でたり。良及はあらかじめ赤き細糸をくだきて薬中にまぜおきしとなり(この話は前話と異なるところなし。呉球の例を取りて良及に付会せしものか、あるいは実際類似の場合ありしか、つまびらかならず)。

 これにひとしき例にして余が某医師より聞きたる話あり。

  一婦人のヒステリーを患いて京都病院に入り、治療を受くること数十日に及ぶも、更に病勢の減ずるを見ず。婦人自らいう、わが病は腹中に怪物ありて、昼夜われを苦しむるより起こる。もしこの怪物を退治し去らば、たちどころに全快すべしと。よってその位置を問えば腹中のこの部位にありと答え、その形を問えば自ら筆をとり、その図を画きて示せり。これを一見するに、百足(ムカデ)の形と異なることなし。これにおいて医師は病人に告げて曰く、この怪物を退治すること容易なれども、魔睡剤を用いて腹部を切開せざるを得ず。もし切開しても苦しからずというならば、これより手術を行わんと。病人喜んで施術を求む。医師すなわち魔睡薬を用い腹部の皮膚面を少しばかり切開して出血せしめ、その血を茶碗の中に入れ、別に外よりムカデを捕らえきたりてこの血中に浸し腹部に包帯を施し、婦人の醒覚するを待ち告げて曰く、腹部を切開したれば果たして怪物のその中に住するを見、これを取り出して茶碗の中に置けりと。その茶碗を示せば、婦人曰く、長くわれを苦しめたるはこの怪物に相違なし。すでにこれを取り出だしたる上はわが病全治すべしと。これより一両日を経て退院し、平常の健康に復せりという。

 これ精神作用によりて、病気を起こしまたこれを治し得るの好適例なり。これらの諸例に徴するに、心理療法の効験あるは決して疑うべからず。その法たるや、古代、医術の開けざりしときにおいて応験ありしのみならず、医術の大いに進みたる今日においても効力あり。ただしその効力はある制限内においてあらわるるものにして、万病においてしかるにあらず。故に一方においては生理療法を施し、これと同時に他方において心理療法を用うるをよしとす。しかるに愚民は、心理療法一方によりて諸病を治せんとす。これ一種の迷信といわざるべからず。これに反して医家が心理療法を全然無用視して、これを排去せんとするも僻見にして、畢竟過〔ぎたる〕は不及〔及ばざる〕のごとく、同じく一種の迷信というべし。また愚民が宗教の信仰を妄用して、神仏に祈願すれば一切の病患を除き去るべしと思い、奇々怪々の方法によりて疾病を医せんとするは、もとより迷信のはなはだしきものなり。心理療法は、ややもすれば愚民の妄用よりこの弊に陥らんとする恐れあり。故に余は心理療法を奨励すると同時に、迷信の弊を除去せんことを努むるなり。

 

     第一二 心理療法論 一

 心理療法は宗教の本領とするところにあらざるも、主として信仰に基づくものなれば、宗教と最も密接なる関係を有すること明らかなり。されば宗教と医術との両者に関連するものといいて可なり。またその法たるや精神作用に基づくものなれば、応用哲学、あるいは応用心理学の一種と見るを得べし。もしその療法のいかんにつきては多種多端にて、ほとんど一定の方式を設くること難し。余が先年定めたる分類表は左のごとし。

療法 生理療法 内 科

        外 科

   心理療法 自療法 信仰法 自信法

                他信法

            観察法 自観法

                他観法

        他療法

 これ余が『妖怪学講義録』において表示せるところなり。まず生理療法は内外二科に大別するがごとく、心理療法は自療法、他療法に分類するをよしとす。自療法とは自身の力をもって療するをいい、他療法とは他人の手を経て療するをいう。近年流行の催眠術治療法のごときは、いわゆる他療法の一種なり。元来催眠術にも自他の二法ありて、本人自身にて催眠すると、他人の手を経て催眠するとの別あるも、普通に用うるところは他人の力による方なれば、これを他療法に属するを適当とす。また神官僧侶あるいは巫覡〔ふげき〕に加持祈祷を頼みて病患を医せんとするがごときも他療法なり。これらの療法は直接に治病に効あるべき理なしといえども、実際上応験あるを見るは、本人自らこの法によれば必ず病気の平癒をきたすべしと深く信じて疑わざる故なり。すなわち信仰の力による。信仰の力よく治病の上に効験あるは、さきに挙示せる種々の例証によりて瞭然たり。この信仰の中には、自然もしくは他力に依頼して自ら安慰するの意を有す。しかるときは病気の平癒を妨ぐる諸事情を除去するのみならず、身体自然の勢いをしてそのもとに復せんとする力を助成し、もって回復の期を速やかならしむることを得るなり。さきにも論ぜしごとく、医診医薬もこの信仰安慰の内より助くるにあらざれば、その功を奏し難し。故に他療法の治病に効あるは、ひとり事実においてしかるのみならず、道理のもとより許すところなるを知るべし。

 自療法には単に信仰によるものと、観察、観念によるものとの二種ありて、その各種に自他の別あり。まず自信法とは、自ら病気の上に信仰を置き、この病は必ず平癒すべしと固く信ずるをいう。たとえば昔日も学生中に喀血せしものあり、今日も喀血するものあり。喀血そのことは一にして、今日の方は医し難く、昔日の方は医しやすかりしはなんぞや。昔日は肺患の恐るべきものたるを知らず、自ら必ず平癒すべきを信ぜしにより、真正の肺病にあらざりし喀血は回復の意外に容易なりしなり。また人の資性として病気をあまり心頭に懸けざるものあり。かくのごとき自信の厚き人は、自然に病気の回復の意外に速やかなるを見る。つぎに他信法とは、他事他物の上に信仰を置きて、自身の病はその力によりて必ず平癒すべしと信ずるをいう。たとえば神仏を信じ、禁厭を信じ、守礼を信じ、神水を信じて病気を医したるの類これなり、人の医師を信じ、医薬を信ずるときは、治病に効験あるもまたこの類なり。

 観察法中の自観法とは、自心の上に観念を下し、病気の懸念するに足らざることを究め明らかにして、精神の疑惑を断つの類をいう。仏家の坐禅止観によりて心理療法を施すがごときその一なり。哲学上の道理をもって心内に世界観、人生観を起こし、これによりて安心するがごときも自観法というべし。自信法と自観法との別は、単に信仰によると別に道理に考うるとの異同あり。『本朝医談』に『平家物語』を引用し、重盛病中の語を掲げて曰く。

  漢の高祖黥布をうちしときにきずをこうむれり。呂太后良医を迎えて見せしむるに、高祖のたまわく、運すでにつきぬ、命はすなわち天にあり、扁鵲というともなんの益かあらん。ついに治せざりき。前言耳にあり、今もって甘心す。重盛いやしくも三台にのぼる。その運命天心にあり。なんぞ天心を察せずして愚かに医療をいたわしうせんや。所労もし定業たらば、医療を加うるとも益なからん。また非業たらば療治を加えずとも助かることを得べし。耆婆が医術及ばずして、大覚世尊滅度を跋提河〔ばつだいが〕の辺に唱う。これすなわち定業の病いやさざることを示さんがためなり。治するは仏体なり、療するは耆婆なり。定業もし医療にかかわるべくは、あに釈尊入滅あらんや。定業治するに堪えざる旨明らけし。重盛が身、仏体にあらず。名医あるも耆婆に及ぶべからず。たとえ四部の書をかんがみて、百療に長ずというとも、いかでか有体の壊身を救療せん。五経の説をつまびらかにして衆病を癒やすというとも、あに前世の業病を治せんや云々。

 この語たるや、清盛相国より使をもってシナより来朝せる名医の治療を尋ねられしに答えて、これを辞したる言なり。その意仏説によるといえども、一種の人生観なり。人の世にあるや病なきあたわず。病には治すべきものと治すべからざるものあり。たとえ病なきも、人生限りあれば、いかなる王公貴人も死を免るることあたわず。儒はこれを天に帰して、死生命ありといい、仏はこれを業に帰して、前世の宿因という。いずれも人力の及ばざるところなりとしてあきらめ、もって自ら安んずるものに外ならず。これ病者の決心を定め、疑念を断ち、もって治病を助くるゆえんなり。たとえ死すべきものをして生をめぐらすことあたわざるも、その病苦を減じ、その死期を遅くすることを得べし。戦中にありて死を決するものかえって生を得、死を恐るるものかえって命を失うがごとく、病気にもこの理あり。故に人たるものは常に生死の理を究めて、そのみちに迷わざるを肝要とす。これすなわち自観法なり。また『林間録』に左の一話あり。

  僧元暁は海東の人なり。初め海に航して道を名山に訪わんとす。独り荒波に行きて夜、塚間に宿す。渇することはなはだし。手を延べて水を穴中に得、これを掬するにその味甘涼なり。夜の明くるに及びてこれをみれば髑髏〔どくろ〕なり。にわかに不快を感じことごとく吐き去らんとす。すでにして猛省して曰く、心生ずれば種々の法生じ、心滅すれば髑髏不二なり。仏の三界一心の語あにわれを欺かんや。

 また『膾餘雑録』に羅一峰の語を載せたり。

  羅一峰曰く、一日は子にてしかして亥なり。一歳は春にしてしかして冬なり。一生は少にしてしかして老す。この心を存して独木橋〔まるきばし〕を過ぐるがごとく、逸馬を御するがごとく、懸崖に催すがごとく、大賓を見て上帝に対するがごとく、主心をして常に存し、客気をして命を聴かしむるときは、病根自ら除きて、病証あらわれずと。

 かく観了して病因を退治するに至るは、やはり自観法なり。

 他観法とは、他の事物を観察して病念鬱憂を消散する法なり。その法の自観法と異なるところは、心内の観察と身外の観察とに帰す。たとえば社会人類の情態を観察し、あるいは宇宙天体の現象を観察し、すべて客観的に人生観、宇宙観をなし、もって病苦を消するがごときは他観法の主たるものなり。もしまた旅行あるいは転地して、山河の風景を観察し、もって自然に病憂を散ずるがごときも他観法の一なり。前者は有意的にして、後者は無意的なり。今、無意的他観法の例を挙ぐれば、『塵塚談』に、妻の数月間の病気が、父の死を聞きて武州金沢より江戸へ帰る船中にて一時に平癒したることを記し、西洋の療法に気をかゆるとはこのことなるべしといえり。この地を転じて気をかゆる法は、『素問』のいわゆる移精変気の法にして、医家のいにしえより実行せるところなり。その例は『療治夜話』に多く出でたるが、左にその一を引用すべし。

  耕野村農夫某きたり治を請う曰く、僕の妻、年二十有八歳なるが、五年以前安産せり。産後二七日ばかり悪露下り、いまだに止まずといえども、体壮健にして平常に異なることなきによりて、一日努力して石臼を引きしが、たちまち戦慄して血暈を発し、すでに危篤に至りしを治療によりて鬼録を免るることを得たり。しかれども自後身体振々として動揺し、気分なんとなく悪くして頭を挙ぐることあたわず。強いて頭を挙げんとすれば気絶せんと欲し、飲食するだも頭を挙げずして搏飯(にぎりめし)を食せり。食するときかまんとするに、口を動かせば気絶せんと欲し、休息して漸をもってするにあらざれば、食するあたわず。ときありて心下悸して眩暈し、ときありて故なく悲哀涕泣す。常にねむり、覚むれば精神恍惚として失うところあるがごとく、昼夜も弁ぜざるがごとしというといえども、精神の錯乱せしことなし。かつ明を嫌い暗を好み、戸を閉じ窓をふさぎ、目を閉じ被を覆うて臥す。その病、荏苒〔じんぜん〕痊〔い〕えざるによりて、医祷百計、家産を傾くるに至れども、すこしも効験あることなし。昼夜平臥して草蓐にあることすでに五年、経水きたること一年に一次、あるいは二年に一次、今や食日に三杯ばかり、身枯痩して汗なく、大便秘し、小便自ら可なり。術計窮まりてただ死を待つのみ。上に七〇の老母あり、下に五歳の男児あり。供養、養育ふたつながら全うし難し。願わくば先生憐みてこれを救われんことをと。予行きて診するに、その人、臥床の久しき鬢髪みなすり切れ、短くし蓬頭す。面色青白にして白痴のごとくなれども、もと神脱せず。形体消痩すれども、肌肉しまりあり。言語軽微なれども、その声律をたがえず。腹背に貼するがごとくなれども、軟らかにして力あり。六脈沈めども、緩にして和せり。診し終わりて病室を出で、その夫に語りて曰く、この病もと数々血暈を発せしによりて心気定まらず、久しうして習慣となれり。名付けて心気病という。臥床の積年なる、飲食の微少なる、身体消痩すといえども神元脱却せず。もし予が所為に任ぜば、病得て治すべしと。挙家みないう、願わくばただ命これに従わんと。これにおいて予、移精変気の法を施し、諭説して暗室を出でよと命ず。病婦曰く、少しく頭を動かすすら気絶せんと欲す、いわんや起きて明所に出ずれば、たちまち暈を発して死せん、このことは免ぜよと。予曰く、決して死することはなし。たとえ起きて明所に出ずるとも、暈することなかるべし。万一暈を発すといえども予が懐中に禁暈の妙方あり。この方や起死回生の方にして、いかなるむずかしき血暈といえども、薬のどに下ればたちまちに蘇生す。血暈なんぞ憂うるに足らん。病婦これを聞きて諾す。すこぶる起色あり。予、病婦の手を取りて暗室を出だし、明所におらしめ、頭を挙げしむ、かつ目を開きて一見せよという。初めのほどは気絶せんと欲すといいて、目を開くことをあえてせざりしが、予強いて両眼を開かしむるに、案のごとく暈せず。明所に簷〔えん〕下を一見す。病婦曰く、五年の星霜を経、今日始めて簷外を一見するに、風景大いに異なるを覚ゆと。予大いに笑う。これにおいて老婆、幼児ひとしく出でて、雀躍して活命の恩を謝す。帰るに臨みて病婦に嘱示するに、これ以後は病床に臥すことなかれというをもってす。その後漸々快方に進むに従い、毎日山に入りて柴を刈り、薪を背負うべきをもってす。病婦固くその教えを守りてついに全治することを得たりという(下略)。

 かくのごとき療法を移精変気の法という。すなわち気を移し心を転ぜしむるものにして、その接触するところの境遇を転換するときは、精神を移し病念を動かし、したがって治病に効力あるものなり。

 これに類したる一例は『医方類聚』に出ず。

  人あり、父の賊のために殺されたるを聞き、大いに悲しみかつ哭せしかば、爾来心病日に増しはなはだしく、月余にして塊状杯のごときものを生じ、苦痛忍ぶべからず。薬用みな無功なり。たまたま巫者きたりて狂言諧謔をなすあり。病者これを見て大いに笑い、ほとんど忍びざるがごとく、面をめぐらして壁に向かえり。その後一、二日を過ぎ、心下の結塊みな散ぜり。

 また『雲錦随筆』に「元の太宗疾病にして脈すでに絶えたり。衆医術尽きてなすべきようなし。皇后ながく嘆きたまいて、老臣に問いたまう故、外になすべき術なし。ただ非常の大赦を行うのみと答う。これによりて早速に赦令を出だすべしと皇后の命ぜらるるに従いて、老臣これを奉行す。赦令出ずると同時に太宗の脈復したり」との事実を掲げて、慈仁の徳、天地神人を感動する、その速やかなることかくのごとしと評したるも、これ決して天神地祇の感動にあらず。太宗自ら大赦すれば、天地の感応ありて平癒すべしと信ぜしによる。故にこの一例は他観法というよりも、他信法に属するを適当とす。また『諸経要集』に「耆婆は薬種を集めて童子の形を作り、病人に見するに病たちまち癒ゆ。」とあるがごときも他観法にして、しかも他信法の意を含む。この無意的他観法と他信法とは、判然相分かつこと難しとす。

 

     第一三 心理療法論 二

 以上の分類につきてなお詳細に説明せんとす。まず自療法と他療法とは、他人がその間に立ちて媒介をなすとなさざるとの別あるのみ。もし他療法を再分すれば、自対法と他対法との二者となる。自対法とは、本人の身体に対してその法を施すという。人相家が病者の人相につきて病気の治、不治を判断するがごとき、また巫覡等が神をその体に降して予言せしむるがごとき、またはその人の上に催眠術を行って治療するがごとき、いずれも自対法と名付くべきものなり。他対法とは、その体を離れ、他に向かいて行うの類をいう。たとえば卜筮によりて判断するがごとき、あるいは加持祈祷、御禳願懸〔おはらいがんかけ〕によりて平癒を望むがごときこれなり。禁厭につきても、瘧を治するに地蔵を縛するがごときは他対法の一種なり。また種々の計略を設けて治することあり。前に示せる紅色の結線、その状小虫に似たるものをもって腹痛を医し、ムカデを捕らえきたり血中に浸して鬼病を治したるがごときは、いわゆる計略的治療法にして、他対法の一種なり。あるいはまた説諭によりて治したる例あり。『名医類按』に左の一話を載せたり。

  廓子元というもの心疾を起こし、精神恍惚として夢のごとく、ときどき譫語〔うわごと〕を発す。人ありて、真空寺に老僧あり、符薬を用いずしてよく心疾を治すというを聞き、ゆきてこれをたたく。老僧曰く、貴恙は煩悩より起こり、妄想より成る。妄想に過去、現在、未来の三種あり。三者の妄想忽然として生じ、忽然として滅す。禅家にこれを幻心という。よくその妄を照見して念頭を断絶す。これを覚心という。故に曰く、念の起こるを患わずして、ただ覚の遅きを患う。この心もし大虚に同じくば、煩悩いずれのところに脚をとどめんと。廓子元これを聞きて静坐月余、心疾失うがごとし(執意節略)。

 これ言語説諭をもって治したる一例にして、他対的の一種なりとす。

 つぎに自療法中の第一類たる自信法にも、これを細分すれば、人の生来病気を掛念せずしてその平癒を自信するものと、生後の教育、習慣によりて自信しやすきように修養したるものとの別あれば、余は前者を資性的自信法、後者を修養的自信法と名付けんとす。また病気の恐るべきゆえんを知らず、経験に乏しきために更に心頭に掛けず、自然に治すべきものと信じおるものあり。たとえば昔時肺患の恐るべきを知らざりしために、かえって治しやすかりしがごとし。これに反して学問上および経験上よく病理を明らかにし、病状を知り、自得してかえって病気を意に介せざるものあり。前者を無知的と名付け、後者を経験的と名付けんとす。たとえばコレラ病のごとき、最初そのなんたるを明らかにせざるときは、大いに恐れしも、後に数回の経験上、さほど恐るるに足らざるを知り、自得安心するに至れるがごときは、いわゆる経験的というべく、インド等の年々歳々悪疫の跡を絶たざる地方は、自然習慣となりて、だれも恐るるものなきに至るがごときは修養的と名付くべきなり。

 以上は自信法中の直接なるものなり。もしやや間接にわたるものを挙ぐれば、あるいは身体強壮のため、あるいは衛生に注意せるため、あるいは衣食住そのよろしきを得るため、その結果としてたまたま病気にかかるも、平癒を自信して疑わざるを得ることあり。また平素品行端正にしてよく道義を守り、心中一点のやましきところなきものは、たまたま病気にかかるも、自得安心して平癒を信ずるに至ることあり。余は前者を衛生的と名付け、後者を道徳的と名付けんとす。

 つぎに他信法を再考するに、依神的、依人的、依物的、依事的、依言的、依夢的に類別するを得べし。依神的とは神仏を信念するをいい、依人的とは医者または祖師等の人物に信頼するをいう。依物的とは守礼、神水、薬石等の物品を信拠するをいい、依事的とはマジナイ、魔よけ、やくばらい等の行事を信用するをいい、依信的とは古書、格言等を依言するをいう。なかんずく浄土宗の念仏における、日蓮宗の題目における、真言宗等の陀羅尼におけるがごとき、よく言句を唱えて病の癒ゆることありというは、依言的他信法と称せざるを得ず。『雑談集』に左の理由によりて呪文の効験あるべきゆえんを述ぶるは、一読の価値あり。

  転筋の病には、木瓜(ボケ)をあぶりてさすりなでれば癒ゆ。もし木瓜なければ木瓜木瓜と唱えてなでるも、わが身にその効あり。また犬にくわれたるには、虎の骨をもってなでさすれば痛み癒ゆ。もし骨なければ虎来虎来といいてなでさするも癒ゆ。無心の木の菓、獣の骨なお名の下に用ありて痛みをとどむ。

 これもとより木菓、獣骨の力にあらずして、これを信ずるの功なり。陀羅尼、呪文等の効験あるはみなしかり。余が近著『迷信解』中に掲げたる「油桶ソワカ」の呪文を唱えて、歯痛を医したる一例に考えても、その道理すでに明らかなり。最後の依夢的とは自他を論ぜず、夢中に想見する事項を信じて、あるいは病勢を加え、あるいは減ずることあるの類をいう。これ世間に往々聞くところなり。古代においては占夢官の設けあり。今日にては夢占い、夢判じあるは、すなわち夢想を信ずる人の多きを知るに足る。その他なお類例多かるべきもこれを略す。

 つぎに自観法は、これを大別して人為的、自然的の二類となさんとす。更に人為的を反省的、克制的、想像的、道理的、大悟的の数種となさんとす。まず反省的とは己の心内を反省して、種々の観念をなすをいう。すなわち、あるいは従来の経験を反省し、あるいは現今の境遇を反省し、あるいは日々の行為を反省し、あるいは病中の経過を反省して、自心の上に観察を下すことなり。これ普通の自観法にして、病中なにびとも必ず行うところなり。その結果、あるいは病勢の増長を助くることあるも、またその回復を促すことあり。克制的とはただに反省するのみならず、更に進みて克己制欲のごとき裁制を自心の上に行い、もって病勢の増進を防がんとするをいう。想像的とは心中に種々の想像を描きて、平復を迎うるをいう。これに普通の想像と特殊の想像あり。普通の方は説明するに及ばず、特殊の法につきては一言するを要す。

 『病堂策』の中に二、三の例を引きて仮想観の治病法を示せり。これすなわち特殊想像なり。その例左のごとし。

  高麗国に弁師という人ありて癭(頚疾)を病み、仮想をもって治せり。その法とは仮にこの癭を思うに、蜂の窠〔す〕の内に子あり、しばらくありて蜂の子この窠をうがちて出ずるがごとし。膿ついえ膏流れ、蜂の子にわかに去れば、もろもろの穴婁々として空し。かくのごとく仮に想をなし終わりて、癭の病消し癒えたり。またある人癥〔ちよう〕(腹疾)を病みて腹にあり。仮に金針を作り、腹に入れて刺すと思いてしばらくやまざれば、癥すなわち癒えぬ。しかれども常に痛みてなお全く平復せず。故に他人に問いて曰く、癥癒えてなお痛むはいかん。他人答えて曰く、汝針の想をなして癥を破る。針残りて腹にあり。またその針を除くと想せよという。その言に従い、この針をぬき去る想像をなせばすなわち癒ゆ。

 また同書に『秘蔵記』を引きて「もし身熱せばその上において鑁字(ばんじ)を観ぜよ。まさに治すべし。鑁字は水輪の種字なりという」とあるがごとき、特殊の想像的自観法なり。

 道理的とは、普通の道理をもってあるいは学理上、あるいは経験上、病気に関する種々の推究的観念を自心の上に施し、思慮工夫の力によりて病念を消し、病苦を除くをいう。これ学識あるものの常に行うところなり。大悟的とは道理以上の観念を行い、禅家のいわゆる本来の面目、本地の風光に接して、病苦の境を脱却するの類をいう。『維摩経』に「病は四大を離れず、四大に即(つ)かず。」とあるがごとく、病にあたりてただちに心を観じ、この病因を推し求むるに、内にあらず外にあらず、中間にあらず心不可得なり。病きたりてだれを責むる、だれが病を受くるものぞと観ずるの類は、すなわち大悟的自観法というべし。

 つぎに自然的自観法とは、人の生死病患は人力の動かすべきにあらず、人意の左右すべきにあらずと了達し、自然に一任するの意なり。今しばらくこれを儒仏二教に照らして分類を下さば、天命的、定業的の二法となるべし。儒教にては死生みな天にありとしてあきらめ、仏教にては定業としてあきらむるなり。前に引用せる重盛の語のごときは、この二種の自然的自観法を了得せるものなり。すべて人は病気を観ずる上において、一方に人為をもって治すべしと信ずると同時に、他方において自然に一任するの覚悟なかるべからず。すなわち自然に任ずれば自然の力によりて平癒する理なり。これをあまり人為に偏依するときは、かえって自然の平癒を妨ぐるに至るの恐れあり。故に心理療法の結帰するところは、自然に一任するにあり。余が信仰療法と自然療法とを合して心理療法と名付けしも、この謂〔いい〕に外ならざるなり。

 つぎに他観法は、これを分かちて有意的、無意的の二種とし、更に有意的を分かちて宇宙的、社会的、人身的、事実的の数種とす。目を開きて宇宙空間の広漠なるをみ、天体万象の衆多なるを見て種々の観念を浮かべ、これによりて病苦の意に介するに足らざるを知るは、宇宙的他観法というべく、社会人事の状態につきて観察し、もって自得安心するは社会的他観法というべし。人もし己一人のみ病気に苦しめられ、災害に襲わるると思わば、自ら憂悶に堪え難く感ずるも、広く社会の上に観察を下し、不幸に遇い逆境に処するもの多々あるを知らば、いくぶんか憂苦を減じ、回復を助くるに至るべし。これすなわち社会的他観的の治病に効あるゆえんなり。また人身の上に観察を下し、人寿の限りあるを見、病患の避け難きを知り、もっていくぶんか病苦を減ずるを得るものとす。これ人身的他観法なり。事実的他観法とは己の病気の治し難きを掛念せるに、他にこれと同様の病気にかかりしものにて、すでに平癒したりし事実を見るときは、これによりて大いに安心することがあるがごときをいう。さきに掲げたる『文海披沙』の諸例のごときも事実的の一種なり。

 つぎに無意的とは有意的の反対にして、知識道理をもって推究して得たる結果にあらずして、無意無心の観察によりて効験あるものをいう。その一は風景的他観法にして、旅行あるいは転地して春花秋月をながめ、山光水色に接し、これに心思を移し、ために病苦を忘れ、もって自然に平癒を助くるに至るの類をいう。これ世人の最も多く経験せるところなり。美術的とは自然の風景にあらずして、絵画、音楽のごとき人造の美術を見て同様の結果を得るをいう。また人は新奇の事物に接すれば、思想を一新し、ために治病の助けとなることあり。医薬のごときも同一の効力あるものにして、これを変換せるために効験をあらわすことあるは、いくぶんかこの意を含む。また生来特に嗜好せるもの、たとえば囲碁のごとき遊戯にても、大いに病苦を忘れしむる一助となるものなり。前者はこれを新奇的と名付け、後者はこれを嗜好的と名付く。

 以上の外、精細に考察しきたらば、なおその種類多々あるべしといえども、その主要なるものは大略表示し得たるがごとし。その中には判然たる分界を付し難きものありといえども、ただ関係の近きものにつきて仮に分類を定めたるのみ。これを総じて心理療法という。その療法の今日医家の用うる生理療法中に多く加わりおることは、前述の諸例に考えておのずから明らかなるべし。

 

     第一四 結 論

 上来叙述せる心理療法の詳細なる種目を表示せば左のごとし。

  心理療法 自療法 次表を

           見よ

       他療法 自対法 相術的

               降神的

               催眠的

           他対法 卜筮法

               祈祷法

               計略法

               禁厭法

               説諭法

 

  自療法 信仰法 自信法 直 接 資性的

                  修養的

                  無知的

                  経験的

              間 接 衛生的

                  道徳的

          他信法 依神的

              依人的

              依物的

              依事的

              依言的

              依夢的

      観察法 次表を

          見よ

 

  観察法 自観法 思想的 反省的

              克制的

              想像的

              道理的

              大悟的

          自然的 天命法

              定業法

      他観法 有意的 宇宙的

              社会的

              人身的

              事実的

          無意的 風景的

              美術的

              新奇的

              嗜好的

 これ余が案出せる心理療法の大綱なり。その中には古今の諸法を網羅し尽くせり。もしこの法を今日に行うに当たりては、あるいは迷信妄想に陥り、文運の進歩を害するものなきにあらず。故に余はその中より今日の事情に適するものを取らんとす。しかれども人に賢愚利鈍の別あり。病にも千態万状の差あれば、二、三の方法にてはもとよりその目的を達し難し。これをもって仏教は衆生の病に八万四千の種類あるに対し、これを医する方法にも八万四千の門戸を設けられたりという。まず心理療法を施すに当たり、あらかじめ左の諸項を熟知するを要す。

  一、病者の性質を探ること。

  一、病者の境遇を知ること。

  一、病者の病因を明らかにすること。

 その第一項にありては、性質を探ると同時に、知識、品行、嗜好、習癖等を知るを要し、第二項にありては、境遇とともに年齢、職業、経験、身分、財産、交際等をつまびらかにするを要し、第三項にありては、発病に関する諸事情を明らかにするを要す。かくしてその諸項に相当する方法を選びて、これに施さざるべからず。

 心理療法の種類中、迷信に関する方法はなるべくこれを避けざるべからざるも、いかなる方法が果たして迷信なるかに至りては、これを判別することはなはだ難し。第一に迷信は知識の程度および人々の見解に関することにして、甲の迷信とするところ乙は迷信にあらずとし、一方の迷信は必ずしも他方の迷信と定め難きことあり。ある者は一切の宗教ことごとく迷信なりとし、他の者は宗教は迷信にあらずとす。一人は木像を礼拝するを見て迷信という。なんとなれば、木像中には霊なければなり。一人はこれを迷信にあらずとなす。なんとなれば、木像そのものには霊なきも、仮に宇宙万有の霊体を代表せしむるの意なりと。余思うに、人たるものその知識いかに高きも、多少の迷信は免れ難きものなり。死生の定まりあるを知りながら、定まりなきがごとく思い、天運の動かすべからざるを知りながら、天災を免れんことを願うがごときは、人情の常なり。長く病床にありて百方治療を尽くすも、医療の効を見ることあたわざるときには、愚者よく決心するところありて、智者かえって惑うことあり。また不学無識の輩に至りては、これに向かいて高尚の理想を説きて安心せしめんとするも、馬耳東風にひとしく、なんらの感触を起こさざることあり。もしこれをして安心せしめんとするには、識者のいわゆる迷信を用いざるべからず。これをたとうるに、山里に成長せる農夫には、八百善の料理を与うるも、塩鮎、塩鰯を与うるほどに喜ばざることあると同様なり。更に小児をもって例するに、雷を説明してこれ電気の作用ありというも、小児決して了解せざるべし。その轟々たるは天鼓の声なりといわば、必ず会得すべし。これを同じく愚民にはその智力相当の方法をもってするにあらざれば、効果を見ることあたわず。故にこれに対しては、識者の迷信視するものにても、他に弊害を与えざる限りは、これを用うるも必ずしも不可なりというべからず。

 また人に貧富の別ある以上は、療法にもまたこれに相当するものなかるべからず。今日医家の唱うるところは、貧富の別を問わず、国民みな衣食住に余りあるもののごとく考え、その説くところの医方も、その講ずるところの衛生も、富有者にあらざれば到底なしあたわざること多し。たとえば貧民に向かいて毎日牛乳をのむべし、鶏卵を食すべし、魚類は新鮮なるものに限るべし、土地は高燥を選び、居宅は空気、日光の流通よきものを用うべしと勧め、あるいは病気の感覚あらば、いかに軽症にてもただちに医を呼び薬を服すべしと命ずるがごときは、到底不可能のことなり。かかる不可能のことを実行せしめんとするは、畢竟医師の一大迷信に過ぎざるべし。心理療法の世に必要なるは、この一事に考えても明らかなり。けだし貧民にしてその資力の医師を聘し医薬を購うことあたわざるものに至りては、慈善家の補助を仰ぐの外に、生理療法を施す道なし。これに反して心理療法はあたかも空気、日光のごとく、一銭を費やさずして行うことを得るなり。ただし心理療法のみによりて諸病を治することの難きは、もとより自白せざるを得ずといえども、その法は学識、資産あるものにおけるよりも、愚民貧者に対して効験特に著しきは、事実に照らして明らかなり。たとえその中には多少の迷信の加わるにもせよ、もしこれによりて病気の自癒する効果を見るを得ば、その得失いかんは識者を待たずして知るべし。かつ従来下等の迷信をもって己の不平を医し、病苦を散じ、安心を営みしものをして、にわかにその迷信を脱却して高尚の理想に体達せしめんとするは、ただに不可能なるのみならず、ただますます迷わしむるに至らんのみ。すべてなにごとに限らず、急激の変動は害ありて益なきものなり。故に愚民をして迷信を脱却せしむるには、必ず漸次をもってこれを導かざるべからず。畢竟するに、愚民をして全然迷信を蝉脱せしむる法は、迷信中の深きものより浅きものに及ぼし、害あるものより害なきものに及ぼすの順序を取るに要するなり。これ心理療法の生理療法とともに世に必要あるゆえんにして、また世の進歩に応じて漸次に迷信の改新を要するゆえんなり。

 前述の理由によりて、多少の迷信は今日なお全廃し難きを知るべし。また迷信の種類によりては必ずしも弊害あるにあらざれば、これを用うるもあえて不都合なりと断定するを得ず。かつそれ、今日なお世間に迷信の存するは、必ず存せざるを得ざる事情あるによる。故にもし迷信の跡を絶たんと欲せば、まず国民全体の智力を進め、生計を裕ならしむるを要す。これもとより国家教育および経済の目的とするところなるも、僅々数年の間においてこの目的を達し難きは明らかなり。されば余が心理療法に対して期するところの、迷信の境を脱して理想の域に進むるも、漸進の方針を取らざるを得ざるなり。

 今日世の識者の眼光よりみて、いずれもみな迷信とする中に、必ず理想に近きものと遠きものとの二者あるべし。もしその下等なるものに至りては、これによりて心を定むることを得ずして、かえって疑を重ね、惑を長ぜしむることあり。かくのごときはもとより排斥せざるを得ず。また心理療法にして今日一般に行わるるものの中に、積年の習慣により、すでに今日の事情に適せずしてなお存するものあり。これまた速やかに除去するを要す。また愚民をして高尚の理想に体達せしむるは不可能のことに属すというは、哲学の方面の観察のみ。もし宗教の方面より観察しきたらば、決して不可能にあらざるなり。けだし宗教はこれを解して高等の理想を通俗化せしものとなすも可ならん。すなわち理想の玄門をただちに愚民の心中に向かいて開き、これをしてたやすく理想に体達する捷径を示せるもの、これ宗教なり。これらの事情は迷信の改良を断行し、心理療法を普及するにおいて、大いに参考すべき条件なりとす。

 余はかく心理療法を主唱するも、その意決して医家の生理療法を排斥するにあらず。余もとより生理療法の万病に必要なるを知るも、これと同時に心理療法の欠くべからざるを信ずるものあり。もし二者の上に軽重先後を分かたば、生理療法をさきにし、かつこれに重きを置かざるを得ずといえども、その補助科として心理療法を用いざるべからずというは余が論旨なり。換言すれば、生理療法を医道の正科とすれば、心理療法は傍科の位置にあるものなり。たとえ傍科なるにもせよ、治療の目的を達するには、正傍二科並び行わるるを要す。故に余は人に向かいて貧富の度に応じ、その力の及ぶ限り生理療法を行い、これと同時に心理療法を用い、身心内外より病痕を絶ち、平癒を望まざるべからずというなり。

 かく心理療法を主唱してその帰極するところを述ぶれば、平素において宗教信仰の必要を感ずるなり。いかなる学者、知者にても、生死の関門に向かうときは多少の迷いなきあたわず。しかして愚夫愚婦の中に、心海水平らかにして、一片の迷波を浮かべざるものあるはなんぞや。これその平素において宗教の信仰を有すればなり。禁厭を信じ、神水を信じ、巫覡を信ずるも同じくこれ信仰なるも、かくのごとき信仰は、いわゆる迷信にして一時の気休めに過ぎざれば、到底これによりて死生の決心を定め難く、ややもすればかえって疑懼の念を増さしめ、一時の気休めの役にも立たざること多し。これに反して宗教の道理の根本となる体に己の心を託し、これと相合して離れざるに至らば、人生にありていかなる病気災難の風波に会するも、一点の迷雲を生ずることなかるべし。これを仏教の上にていわば、その教理の本体は不生不滅の真如、霊妙不測の一心、あるいは光寿無量の覚体なり。人もし平素においてその心をこの体の上に安住せしむれば、多苦多患の世界にありて、寂光の浄土のごとくに最楽至安の生涯を送ることを得べし。宗教もここに至れば哲学と相合するを見る。これ実に迷信の幽谷を出でて、理想の高山に達するものなり。けだし愚民をしてよくこの山巓に達せしむるものは、宗教の外に求むべからず。されば世の心理療法に志あるものは、願わくば宗教の船に駕して、この絶妙の域に到達せんことを。これ愚民の迷信を医する唯一の方法なり。しかしてそのいわゆる宗教は、迷信の地平線上に超出せるものをいう。