個人的な体験
──ナナハン・ストーリープロジェクト番外編──
馬場先智明
突然の横揺れにコーヒーカップの中身が撥ねて茶色い液体が机の上のゲラに飛び散った。電話中の僕は受話器を耳に当てたまま、息を凝らしてじっと待った。いつもなら数秒程度で収まるはず。ところがその日は違った。次第に揺れは大きくなり、受話器の向こうの相手が小さく叫び声を上げる。「うわっ! 大きいよ、これ」と言ってすぐ、「じゃ、後で」と慌ただしく電話を切った。
4年前のあの日のこと。
地震と津波がもたらした被災地の惨状、そして今もなお続いている厄災はもちろんだが、僕にはそれとは別にもう一つ忘れがたいことがある。それが僕だけのことなのか、それとも多くの人が同じような体験をしたのかはわからない。
極めて個人的なことかもしれないと思い、今まで誰にも言わずに黙ってきたけれど、記憶から消え去る前に書き留めておくことにする。
あの日、長い揺れがいったん収まると、社内に緊急アナウンスが流れた。
「みなさん、パソコンのスイッチを切り、ポットなど電器類の電源を落として、貴重品以外は持たずできるだけ早く社屋から出てください」と緊迫した声が雑音混じりに部屋に響き渡った。
まだ肌寒さの残る3月だったが、ワイシャツ姿のまま、部屋の中の同僚と声を掛け合って、ビル裏手の狭い非常階段を駆け下りた。
誰言うともなく、会社近くの新宿御苑に向かうと、すでに門は開放されていて、続々と付近の勤め人らも緊張した表情で集まっている。
御苑内では同部署の見知った社員同士で固まって、御苑前に建つ細長い会社のビルが、揺れに合わせて左右にしなるのを、呆然と眺めていた。明らかに今まで何度となく経験してきた地震とは違うことに誰もが気付き始めていた。
そうして2時間ほども過ぎ、ようやく揺れも収まった頃、若い総務部の男が、伝令のように各グループの間を駆け回り、いったん会社1階のロビーに集合するように指示して回った。ロビーでは部署ごとに点呼が行われ、全員無事であることが確認されると、総務部長から、今日の業務は中断し、方向が同じ者同士は、集団で帰るようにという指示が出た。
川崎に住んでいた僕と一緒に帰ることになったのは、70歳を過ぎた年配の上司と他部署の若い女性だった。上司は脚が悪く、杖を突きながらしか歩けない。女性は地方出身らしく土地鑑がない。僕に任されたのは、混乱地帯を、安全圏まで彼らを無事に送り届けるという役割だった。戦争中なら、野戦経験豊富な一兵卒が、負傷した上官と従軍看護婦を、味方の宿営地まで戦火をかいくぐって送り届ける、みたいな話だ。
午後5時過ぎ、そんな小隊がいくつも作られると、帰宅難民と渋滞の車列で混雑する会社前の大通りを三三五五散っていった。
僕ら3人の目指す先は川崎北部から横浜方面。鉄道の運転再開を待ちながら、バスを乗り継いでという選択肢を頭に入れ、とにかく、3人の都心脱出行が始まった。
幹線道路沿いを渋谷まで出て、そこから国道246号線を西へ向かっていけば、そのうち交通も復旧するだろう。それまではとにかくこの2人をしっかりガードしようという僕の気分はまさに避難民のリーダー。敵は戦火ではなく地面の下の大ナマズだ。ひとまず大きな揺れは収まったものの、いつ余震が来るかわからなかった。
申し訳ないね、こんな脚の悪い年寄りの面倒を見させちゃって……。どっちみち、この状況じゃ早く歩けませんから。安全第一ですよ、ゆっくり行きましょう。
互いに離れないよう、そんな言葉を掛け合いながら、群集の中を進んでいった。
家路を急ぐ人々の中には、ヘルメットをかぶった集団が何組もいた。会社から支給されたものだろうけれど、上からの落下物も十分気をつけねばならなかった。
小隊長の僕は、目指す方向だけではなく、前後左右、上方、足元、車列……と、全方位に神経をとがらせながら先導していく。
普段、会社から渋谷までなら歩いて30分ほどの距離も、この日は、2時間を過ぎてもまだ渋谷にたどり着けなかった。途中、どこも満席状態だった道沿いのファストフード店にわずかな空きを見つけて、ようやく最初の休息とトイレタイムをとったのは、原宿の少し手前あたりだったろうか。
3人とも携帯は依然として通じない。家にいる家族は大丈夫だろうか。不安は募った。社内では別々のフロアで仕事をする3人だったが、一緒に歩いているうちに、不思議な一体感を感じるようになっていった。短い休憩タイムに、お互いの家族のことを知らずしらず話し込んでいた。
店には休憩場所を求めて、どんどん人が入ってくる。交替してあげましょうか、と言って腰をあげ、僕らは再び群集の流れに戻っていった。
ようやく渋谷駅前にたどり着いたときは、もう午後8時を過ぎていた。鉄道はまだ動いていない。バスターミナルには人の列が何重にも折れ曲がってどこまでも続き最後尾がまるで見えない。どこか、休む場所を見つけましょうか、と提案したものの、この人群れの中、どこへ行っていいものやら見当もつかない。通りに面した大きな商業ビルの1Fフロアにはどこも大勢の人が密集して座り込んでいる。
待っていてもしょうがないか……。歩いていればそのうち交通も復旧するだろうと、僕らは国道246号線を西へ歩き始めた。はるか前方まで延々と連なる人の行列は歩道からはみ出しながら、全く動かない満員のバスを横目に、少しずつ少しずつ動いていた。
頭上の首都高にかかる方向指示板が地震の揺れで破損しかかって傾いたままの池尻大橋交差点を過ぎ、三軒茶屋に着いたのは午後10時過ぎ。僕は2人に待っているように言い残し、地下駅の改札に走った。駅員の話ではもう間もなく復旧するだろうという。この私鉄が動き出せば、2人はそれぞれの自宅近くまで行ける。会社を出てから5時間近くが経過している。2人ともこれ以上歩くのは無理だろう。僕は運転再開が間近なことを知らせ、それを待つように提案した。
僕は方向が違いますので、もう少し歩いてみます。そうか…じゃあ、気をつけて。ここまでありがとう、と言って差し伸べてきた上司の手を僕はぎゅっと握り返した。女性も同じように手を差し出してきた。普段なら気恥ずかしい握手も、この時は違った。一瞬、家族が解散するかような錯覚に襲われた。
このあと、僕は一人で世田谷通りをひらすら西へ歩き続け、多摩川を渡って自宅にたどり着いた時は、もう午前1時を回っていた。
以上が、地震発生以降半日あまりの僕の行動だ。この日、帰宅難民となって徒歩で自宅を目指した多くの人は、皆、似たような体験をしたのだと思う。そして翌日には、テレビや新聞で知らされる被災地の現実に、多くの人と同じように僕も深く打ちのめされた。
でも僕がここで書こうと思ったのは、それとは別の、少し奇妙な経験だ。
実は、あの夜ほど、世界がクリヤーに見えたことはなかった。
すべての感覚が外の世界に向かって全開し、内面と外界がダイレクトに繋がった。
歩きながら見ている世界、群衆、ビル群、車の長い列、頭上の首都高、駅舎、天空、街の明かり……すべてが、キラキラと輝いていた。
普段の暮らしの中では、決して見えない、聞こえない、感じないことを、歩いている7時間の間、ずっと感じ続けていた。神経に覆いかぶさっていた幾重ものフィルターがすべて剥がれ落ちて、感覚が剥き出しになったかのように。
あえて説明するなら、地震のショックで普段は眠っていた動物としての防衛本能が目覚め、どんな微細な危険の兆候も見逃すまいとして、意識が戦闘モードに切り替わってしまったということかもしれない。
不謹慎だけど、はっきり言えば、実に爽快だったのだ。
そんな全身的な記憶が今でも忘れがたく残っている。
でも一瞬の晴れ間のあとには、また日常の曇りがやってきた。だから今となってはどう言葉を繕ってみても、あの時の感覚を言い尽くすことはできないだろうと思う。
次の日、日常からはみ出した気の昂りを持て余したまま、朝を迎え、当然のように会社に向かった。
土曜日だったが、ビルの7階にある編集部の部屋が気になり、バスをいくつか乗り継いで、午後もだいぶ過ぎて会社にたどり着いた。部屋に入ると、予想通り、書棚から落ちた本や書類が散乱してひどいありさまだった。
呆然として部屋の中をボンヤリ眺めていた時、電話の着信音が鳴った。
「もしもし」
「ああ、出社されていたんですね」
昨日、揺れ始めた時、電話で話していたデザイナー氏だった。
お互いの無事を喜び合ったあと、
「ところで……昨日、何の話、してたんだっけ」
地震の直前、何を話していたか全く覚えていないことに気がついた。