神楽坂
その日僕は部屋の中で仕事でパソコンのテキストを打っていると、突然ケータイが鳴って出てみたら彼女Mさんの声がして「そろそろ行くでしょう?」と言ったので何のことかと思ったら去年亡くなった知人の女性が「亡くなってちょうど一年が経つのよ」と言って「私お墓を知っているので行くでしょ?」と言うので僕は少し迷ったが、「行くよ」と答えて彼女が伝えた日時に僕はその予定を入れたのだった。
神楽坂の街は相変わらず出版社の匂いかほる穏やかで暮らしの賑いのある花街の匂いの残る坂の多いまちで、僕はなぜMと約束をして今日ここを歩いているのかと不思議な曇り空を見ているような気分だった。今日は鞄に原稿を持っているのでもなく、ただ約束の時間にその場所に着くようにと焦って見当をつけた交差点を右に曲がって歩いている自分が花も持たず数珠も持ってないのをどうしたものかと思って数珠などはそれほどの縁でもないのでせめてコンビニで花でもないかと思いつつ途中で一軒あったコンビニを通り過ぎて神社がある町にお寺の墓所があるという不思議な風景を見ていた。確かあの寒い雨の降り出しそうな夜の街もそんな気持ちだったのを今になって感じてしまう。
声が聞こえた。振り向くとMが小走りにこちらに向かって坂を降りようとしていた。見ると手には二つ花が握られていた、「知らせてくれてありがとう」と僕は言った。彼女は肩で息をしていたので僕はしばらくそこに足を止めようと思ったが彼女は相変わらず小走りで次の坂に向かって行こうとしていたので僕は「花も持たずにきたのにありがとう」とようやく言葉にした。やっと白い壁が見えてきて、墓はここなのかもと思ったとき、スコスコと彼女は当然来るべきところのように歩いて水桶までもすぐに用意して、墓石に僕を連れて行ってくれた。丘の上のせいか風が天上から心地よく吹き降りてくる秋から冬にかけての昼の墓所に僕はいた。僕を誘ってくれたMは手際よく線香をたいて花を活けて僕は墓標に描かれた亡くなった彼女の名前を確認して確かに彼女は生きていたのだと手を合わすことができた。僕たちは静かにその墓所を出てちょうどお昼を過ぎてランチが終わる時間になっていたのに気づいたが、Mは食材の店に行くというので僕は彼女について歩いた。墓所の壁の外に出るとやはり静かな住宅街の道だった。
神楽坂の商店街に戻り、しばらく歩くとフランス風の小綺麗な雑貨屋のような店でオリーブやチーズを並べアイスも売っている店があった。その店で彼女は目指したものをしげしげと見つめ、僕にも推めてくれて僕は一口食べて今日もおいしいものを教わったとそのまま店の前で突っ立って彼女を見ていると店の女主人と手際よく仕入れの商談をしていた、
その店と道を隔てた向かいにちょうどランチを終わりかけた蕎麦屋があったのだが、僕らは昼食を摂る場所を探してしばらく神楽坂の裏道を歩いてみたがやはり適当なところが見つからず、彼女が結局その店に入ろうと言ったので店に入るとランチの多忙な時間が過ぎた閑散とした天井の高い広いテーブルに座り軽いコースを彼女が頼んだので僕らは黙ったまま静かに食事を摂った。
食事が終わると店の人はそそくさと器を下げるとMはちょっと頬を膨らませて「ごちそうさま」とつぶやいた。きちんとした神楽坂ブランドの蕎麦店のその様子に「プロじゃないね」とMは呟いた。Mはすでに飲食の世界に生きているのだった。僕らはそこを出て神楽坂の坂を降り飯田橋の駅で中央線に乗り、新宿で別れ、僕はいつの間にか新宿御苑の脇の道を歩いていた。歩きながら思い出していた。「きれいになったね」と僕は思わず彼女を見て囁き、「まあ」という顔をして彼女は真っ直ぐ前を見ながら歩いていった。そんな日があったことを思い出していた。確かにあの日は子供の声がやけに響いて聞こえていたことを今も思い出してしまう。「当たり前の日だったのよ」とMがそう言っていたのも今も思い出す。
結局彼女はまた遠い海外に気分転換に行って突然電話をかけてきて「つながるんだね」と言って切ってしまうのだろう。ただそれだけのことを思って新宿御苑の脇の道を歩いた。
2022/8/1