セミ
これから話そうと思うことはセミのことである。
玄関の重い扉を開くと命に関わる階段があり、
そこを登り降りするのが、朝夕のリハビリの日課だ。
大抵の場合は妻が付き添いをしてくれる。
ある夏の朝、扉を開き、階段に向かい、いつものように降り始めて
三段をいったところで、
足下に黒い点がシミのように見えた
「ジジ」脚を下ろそうとすると
そのシミからけたたましい音がした
セミ、と思った私はとっさに踏みつぶさないよう左足をそのシミを
避けて下ろした。
「ありがとう」
どこからか声が聞こえた。
「危ないじゃない、転ぶよ」
妻が驚いている。
私は動揺を落ち着けようと
大きく深呼吸をした。
「よく歩いていますよね」
セミは何事もなかったように話を続けた。
数日後
階段をおり妻の押す車椅子で近くの公園に行き
歩行の練習に使っている小径を歩いているとき
ジジという音と羽音が私の頭上でした。
「気をつけてね」
この前階段で聞いた声がする。
「あっ」
妻は近くの木に脱皮しセミの抜け殻があるという。
「頑張れ」
あの「声」だ。
ジジと羽音がした。
私は呼吸を整え左足を一歩前に進めた。
この日はそのままいつもの距離を歩ききり無事妻の押す車椅子に
腰を下ろした。
この日以来数日間この声が聞こえた。
その後1週間はその声を聞きながらの歩行を続いけた。
「さよなら」
ある日
セミがいった。少し弱々しい声。
ジジという羽音もか弱い
「僕は夏の1週間が命なんだ」
「そう、哀しいよね」
「知ってたの」
「うん」
「本当はこの前階段で終わりだったんだ。
青くなった顔をしたセミが、道に黒い影のように転がっている。
「ありがとう」
セミがふりしぼるようにいった。
「こちらこそありがとう楽しかったよ。そういえば名前も聞いていない」
「ないよ」
「わかった、次の夏も楽しみに歩くよ」
「そのときは僕の子供がいるかもしれないから」
「オーケー気をつけることにするよ、君のおかげで、随分歩けた。妻も君の仲間を待ってると思うよ。じゃさよなら。僕は妻のおかげで変わらず元気でいるよ」
ジジ
苦しい音で影が飛び立った。
私は、こうして季節を過ごす。
夏の次に秋が来て
そして来年の夏まで
無事歩けていようと
思う。
今日も
明日もそして
あのセミの子に今度会えることを目標に。
命を踏み潰してしまわないように。
2020/9/9