歴程 ⅓
そんな駅で降りたくなかった。でもAさんが降りたのでしょうがない。ぼくは厭々降りる。Aさんはさっさと先に歩き、じゃーねと去っていく。ひとりで残されてぼくはどーしたらいいンだ。歩き出す。歩きたくもない。人とぶつかるのも嫌だ。なんてたくさんの人が歩いているのだ! どこに向かったらいい? 海の匂いがする。海は好きだ。好きだけれどもこの海の匂いは生臭くて嫌だ。でもしょうがない。ほかに歩く目標がないので海の匂いに向かって歩く。いくら近づいても匂いばかりで海は見えない。コンクリートの高い塀しか見えず、こんなところ歩いているだけで自己嫌悪に陥る。抜け出したい。抜け出したいのに後ろから続々と人がやってきて身動きが取れない。押されて前に行くしかない。こんなに人がたくさんいるのにちっとも暑くない。変だ。みんな無表情で能面みたいだ。歩き方も歩くというよりも脚をただ前に出しているだけ。気持ち悪い。コンクリート塀はどこまでも続き、果てしなくぼくは歩かされている。不思議と疲れはない。あちこちからつぶやきが聞こえてくる。ほとんどが文句だ。言っている相手はみなそれぞれちがうのだが、内容はほとんど同じ。「どうしてあの時」「どうして俺だけ」「どうしてこんな」自分だけが不幸だと皆思っている。ぼくもそう思っている。抜けられない辛さを嘆いている。そのくせ今の状態は身体的には少しも辛くはない。ただ、気持ちが辛い。理由はわからないのだが辛いという気持ちだけが心の大部分を占めている。ここにいたくない。それなのにここにいなくちゃならない。行列がつぶやいているのはすべてそれだけ。その嘆きに集約される。サイテーの人種の群れだった。自分がその中の一人なのが納得できない。いやよく考えれば納得できる。ここにいるしかない。ここを歩くしかない。橋があってそこを左に曲がる。海なのに橋がある。橋はだから沖に向かってただ伸びている。どこかに渡るための橋ではなく、水平線に向かう橋なのだ。その橋をみんな渡っている。前の方の人たちが見える。ずっと列になっていて先頭はあまりに遠くて見えない。たくさんの人が連なっている。海なのに風がない。波の音もしない。雲があるのに動いていない。絵にかいた雲なのだ。絵じゃないのだけれど絵みたいな雲なのだ。だれも、どれもみな生きているふうではなく、かといって死んでしまったとも思えない。居心地の悪い中途半端さ。それを耐えている。いや耐えてなんかいない。居心地が実はいいのだ。何も考えなくなっている。匂いも気にならなくなった。
Aさんが前の方にいる。いやよく見るとTさんだった。Tさんとは顔を合わせたくない。後ろを歩いていることに気づかれたくない。下を向いて歩く。Tさんとは意見が合わない。必ずぶつかる。いい加減な結論にもっていくのが嫌いだ。話したくない。ちゃんと話すことが彼とはできない。安っぽい結論に相手を無理に同意させようとするのが嫌だ。真実はそんなところにはない、と心の中で言いながら彼のほうが年上なのでしょうがなく同意を強要される。折れる。この人を愛することができない。愛することができないのでTさんといっしょになると自分が辛い。あれ、あの声はSじゃないか? 長いこと連絡を取っていないのにこんなところで会うなんて。Sはぼくの悪い噂話を第三者としたことを知って交際しなくなった。ぼくがその時一番触れられたくなかったことにSは無遠慮に触れた。第三者相手にSはぼくのことを「Iちゃんはお父さんが資産家なんだよね」と評したのだ。それをその第三者から聞いてぼくは腹が立った。それ以来連絡していない。(それをぼくに告げ口するそいつもそいつだが…)。海がのっぺりしてきた。動きがない。人の列も動いているのだが焦点の合わない目で見ていると実はちっとも動いていないようにしか見えない。何も変わらない。AさんもTさんもSも、ほんとうにいたのかいないのか。何がほんとうのことだかわからなくなってくる。「出してくれ」小さくつぶやいた。だれもどうせ聞いていない。「出してくれ」「出してくれ」呪文のように何度も何度もつぶやいた。だんだん風景が薄れていく。それは呪文のせいなのか、ぼくの気持ちがそう望んだのか。わからないが海が見えなくなり、雲が空に溶けていき、橋が消え、人も消えた。ぼくは独りになって部屋の中にいた。狭い部屋だが隣に部屋があることがわかっているので狭さは気にならない。家具は本棚だけで、ぼくを押しつぶすように本棚が迫っている。並んでいる本は日本語だがどれも見覚えがないものばかり。読んだ記憶がない本が高い天井まで詰まっている。哲学書・料理本・育児書・画集。圧迫感だけが本から発散されている。床は畳だ。横になるスペースもない。今にも本がバラバラ落ちてきて押しつぶされそうだ。怖い。本がこんなに怖いとは思ってもみなかった。しかも読んだ本ならまだしも存在さえ知らなかった本ばかりだからなおさら違和感で嫌な気分にさせられる。一冊、テキトーに一冊手に取って開く。これは医学書だ。人体の解剖図が描いてあり、ちょうど胃の内部がリアルに描かれている。絵は絵ではなく、蠢いていて生きている。生きている胃が本の中で動き、消化している。それはさっきぼくが食べたオムレツらしく、黄色くぐちゃぐちゃしている。ぐちゃぐちゃしているオムレツをぼくは見ながら不思議と吐き気はない。要するにまるで当たり前の消化活動を見ているだけなので何の感慨も沸かない。自分を嫌いになることもなく、醜いとも思わない。
思い出というヤツがいけない。思い出がなければいい。記憶などあるからいけない。記憶などなければいい。記憶が積み重なり、現在の気持ちを圧迫する。現在のぼくは生き生きしているのに思い出で押しひしがれてしまっている。これっておかしくないか? 記憶が耐えられないほど重くなるから、支えきれなくなるから、ヒトは物忘れをする、健忘症になる、痴呆症になるのではないか。自然の摂理、自衛反応なのではないか。記憶などロクなものではない。嫌な思いをもって切れたり死んだヤツラのことなど思い出したくもない。捨ててしまえ。捨てれば少しずつ楽になる。本も記憶だ。それは自分の中の記憶で、だから身に覚えのない本の群れは記憶ではないから軽いはずなのに、何故なのだこの本群の圧迫は。逃げ出したい。狭い部屋が嫌だ。隣に部屋がある。隣に行こう。隣の部屋に行こう。これ以上ここはもう嫌だ。宝の山を期待していたのか? 甘い甘い。針の山じゃないだけありがたいと思え。しかし隣の部屋というからそれなりの期待はするに決まってる。それを何だここは。糞だらけじゃないか、とんでもない。オムレツのなれの果てとでもいうわけか。変わりたい出たいと思うたびにどんどん悪くなる。記憶ばかりでなく、希望もロクな結果を招かない。希望など持たないほうがいい。記憶など持たないほうがいいのと同じくらい希望も役に立たない。希望すれば希望するほどひどくなる。今度は糞まみれときた。